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ジャーナリストとしてのスウィフト

―『ガリヴァー旅行記』誕生秘話―

林   直 樹

 本稿は,2019 年 11 月 4 日(月)
,尾道市立大学サテライトスタジオにお
いて開催された尾道文学談話会の席でお話しさせていただいた内容の要約で
ある。当日ご清聴くださったすべての方々にこの場を借りて感謝申し上げま
す。ありがとうございました。

1.『ガリヴァー旅行記』改竄問題

 本稿で引用する『ガリヴァー旅行記』の日本語訳は,原田範行・服部典之・
武田将明による『『ガリヴァー旅行記』徹底注釈[注釈篇]』(2013 年)が本
文篇として参照している,富山太佳夫訳である。世情風刺,いや人間そのも
のの風刺に満ちた『ガリヴァー旅行記』の読み解きに際しては,上記注釈篇
を構成する原田・服部・武田による詳細な解説に
大いに助けられていることを,最初にお断りして
おく。
 さて,いわゆる『ガリヴァー旅行記』は 1726
年 10 月,ロンドンの出版業者モット(Benjamin
Motte, 1693-1738)の手で出版された。正式なタイ
トルは「諸国渡航記(世界の遠方諸国への旅)」で
あり,
「リリパット渡航記」「ブロブディンナグ渡
航記」「ラピュタ,バルニバービ,ラグナグ,グ
ラブダブドリッブ及び日本渡航記」「フウイヌム
ガリヴァー肖像
国渡航記」の全四篇構成だった。著者欄には「レ
(モット版)

(43)
ミュエル・ガリヴァー(Lemuel Gulliver)」と記され,
「レッドリフ(Redriff)
在住の船長」を名乗るこの架空の人物の肖像画まで,まことしやかに掲載
されていた。言い換えれば,実在の著者であるスウィフト(Jonathan Swift,
1667-1745)の名は伏せられていた。これは,本書に先んじること七年半の
デフォー(Daniel Defoe, c.1660-1731)著『ロビンソン・クルーソー』
(1719
年 4 月刊)が架空の主人公自身の筆になるものとして世に出されたことと,
共通する。
 1735 年には,出版業者フォークナー(George Faulkner, 1703?-75)がスウィ
フト全集の第三巻に『ガリヴァー旅行記』を収録するかたちで本書を再版す
る。したがって本書の真の著者がスウィフトであることは,初版のモット版
ではなく,このフォークナー版で初めて明かされたことになる。フォークナー
版には「立派な嘘つき」であることが明白な「ガリヴァー船長」の肖像画が
相変わらず掲げられていたが,描像に改変が加えられたほか,本文にも異同
があった。すなわち,モット版にはなかった「告」および「ガリヴァー船長
から従兄シンプソンへの手紙」が新たに書き添えられただけでなく,後述す
るように,重大な修正が第四篇「フウイヌム国渡航記」に施されるなど,ス
ウィフトは随所に朱を入れているのである。ここではまず,新たに追加され
た「告」の全文を引用しておこう。

本書にはシンプソン氏のガリヴァー船長宛の書簡が収録してあるので,
長々しい広告などは蛇足であろう。船長が非難している挿入部分の責任を
負うべき人物はすでに故人であるが,出版する側はこの人物の判断力を信
頼して,必要な変更を託した。しかし当該人物は,原作者の構想を正しく
把握しなかったばかりか,その平易簡潔なる文体を模倣する力に欠け,数
多の改変,挿入をなすうちに,今は亡き女王陛下を讃えんとするあまり,
陛下は宰相の援けなきままに統治された(That she governed without a Chief
Minister)と書いてしまったのである。確言できるのは,ロンドンの書籍
販売人の手元に届けられたのは原稿を筆写したものであり,その原稿はロ
ンドン在住の高邁なるジェントルマンにして,原作者たちの刎頸の友でも
ある人物の手中にあるということ。氏は製本前のものを入手され,原稿と
照合の上,白紙を挟んで,そこに訂正を記入されたが,本書ではそれを援

(44)
用した。その訂正箇所の転写を御許可戴いた氏に,深甚の感謝を捧げたい。
(富山訳 5)

冒頭にある「シンプソン氏のガリヴァー船長宛の書簡」は明らかな間違いで,
「ガリヴァー船長のシンプソン宛の書簡」が正しい。ここの「シンプソン氏」は,
モット版にもフォークナー版にも収録された「刊行の言葉」を書いたとされ
る,ガリヴァーの「年来の親友」にして「母方の親戚」でもある「編者リ
チャード・シンプソン」を指す。もちろん架空の人物である。しかし実のと
ころ,ここには虚構と事実とが入り混じっている。というのは,モット版に
は無断の改変箇所が多数存在し,それに不満を抱いた著者スウィフトが,モッ
ト版の刊行後まもなく,同書の修正作業を実際に始めていたからである。自
身は遠隔地のダブリンに居を構えている都合上,彼はロンドンの友人フォー
ド(Charles Ford, 1682-1741)に指示を送って新版の刊行準備を進めた。その
結果,およそ九年後に世に送り出されたのがフォークナー版だった。スウィ
フトの修正指示をフォードが手書きで記入したモット版の現物がいまもロン
ドンの博物館(Victoria and Albert Museum)に収蔵されていることから(原田・
服部・武田 12)
,「ロンドン在住の高邁なるジェントルマン」
(フォード)の
仕事ぶりは本物だったことが分かる。
 続いて「ガリヴァー船長から従兄シンプソンへの手紙」の劈頭部分を引用
する。「手紙」に付記された日付によると「1727 年 4 月 2 日」に記されたこ
とになっており,スウィフトが日付に関して嘘をついていなければ,モット
版の出た早くも翌年の筆の産物になる。

未だ散漫で不正確なままであった私の旅行記を,かつて従兄ダンピアが私
の忠告を容れて『世界周航記』の出版に踏み切ったときのように,オック
スフォードかケンブリッジかいずれかの大学の若いジェントルマンに頼ん
で原稿の整理と文体の手直しを行ない,出版してはどうかと貴方が幾度も
慫慂して下さったということは,必要とあれば,いつ公表なさっても構い
ません。しかしながら,いずれかの内容の省略,ましてや挿入に同意する
権限を貴方に認めた記憶はありませんし,とりわけ今も敬虔なる記憶の中
に燦然と輝く故アン女王陛下に関わる一節は,私の敬慕と崇敬の念が他の

(45)
誰に対するよりも強いとしても,いっさい私の関知するところではありま
せん。我が主フウイヌムを前にして我等の如き動物を誉めるなど,私の本
意でないばかりか,不穏当であることを,貴方にせよ,挿入者にせよ,勘
案してしかるべきでしたし,しかも,事実が間違っている。陛下の治世の
ある期間は私もイングランドにおりましたが,その私の知るかぎりでは,
陛下の治世には宰相がおられました,一人どころか,続けて二人も,つま
り最初がゴドルフィン卿で,次がオックスフォード卿であり,従って貴方
は私にありもしないことを言わせた(say the thing that was not)ことになる。
(富山訳 7)

引用中,原語を付した箇所は,富山訳では傍点によって強調されている。「告」
についても同様である。これら二箇所は同じ事柄を別様に述べているにすぎ
ない。つまり「告」に「陛下は宰相の援けなきままに統治された」と誤って「書
いてしまった」とあるように,スウィフトはガリヴァーの口を借りて,自ら
の与り知らないところで勝手に文章が書き換えられ,読者の前で「ありもし
ないこと」を述べることになってしまった,それは自分の本意ではなかった
と弁明しているわけである。
 では,その「ありもしないこと」とは何か。すでに明らかな通り,ステュアー
ト朝最後の王であるアン女王(在位 1702 年 3 月~ 14 年 8 月)が「宰相の援
けなきまま」独力によって統治したこと,これであろう。実際には二人の宰
相によって女王は支えられたが,モット版には何者かの手で偽りが書き込ま
れた。実際に書き込んだのは,
「告」で「挿入部分の責任を負うべき人物」と,
また「手紙」で「挿入者」と呼ばれている人物であり,
「手紙」を読めば分
かる通り,
「貴方」すなわちシンプソンと「挿入者」は別人ということになっ
ている。編者シンプソンが,
「編集」という,それ自体間違いの起こりやす
い作業を擬人化した存在だとすれば,挿入者とは誰であろうか。実在した人
格なのか。
 「告」によると,フォークナー版の出た 1735 年の時点でこの人物はすでに
「故人」である。その八年前に書かれたとされる「手紙」にそのような記載
はない。したがって,彼は 1727 年から 35 年までの間に亡くなったことにな
る。ここから現代の研究者たちは推測を行い,ロンドンのグレシャム・カレッ

(46)
ジ教授トゥック(Andrew Tooke, 1673-1732)こそが改竄者だろうと見ている。
トゥックは確かにフォークナー版公刊の三年前に亡くなっているし,実はス
ウィフト自身が,私信でトゥックを名指しして疑念を表明していたからであ
る(原田・服部・武田 11)
。1733 年 10 月 9 日にスウィフトがダブリンからフォー
ドに宛てた書簡には,
「この街の印刷業者」すなわちフォークナーがスウィ
フト著作集を公刊したいと言ってきたが,とにかく著者の述べていないこと
を印刷して著者を困らせないでくれればそれでよいと返答しておいた,と近
況報告がなされた後に続いて,こうある。

モットが,彼の友人の誰か(故トゥック師だろうと思いますが)の好きな
ように,その彼が問題になるかもしれないと考えた箇所を削除させたばか
りか,著者の文体や意図と真逆の多数のがらくたを挿入させたことに対し
て,私がどれほど不平を述べたかを思い出し,あなたは可笑しくお思いに
なるかもしれませんね。(Swift 2012, IV, 197-98)

挿入者はほぼ間違いなく実在したのである。
 スウィフトがそれほどにまで問題にした「ありもしないこと」の中身をモッ
ト版で確認しておく。この部分はモット版では第四篇のフウイヌム国渡航記
に現れるが,フォークナー版ではカットされている。富山訳はフォークナー
版に依拠しているため,原田・服部・武田の注釈篇がモット版から訳出した
当該部分の全文を以下に転載する(ただしモット版の原文 Swift 1726, 90-91
の文脈に照らして林が一部改訳)。挿入の様子がよく分かるようにするため,
その前後の箇所も富山訳から引用しておこう。当該部分は下線部である。

私はそれまでも折りにふれて,政治の性質一般をめぐって,当然のことな
がら,とりわけ全世界の驚異と羨望の的となっているわが祖国の卓越した
憲政の性質をめぐって,わが主殿と議論してきた。しかし,ここでたまた
ま国の大臣に話が及んだために,少しの間を置いて,その名称でとくにい
かなる種類のヤフーをさしているのか説明せよとの御達示が下った。
 私は主人に次のように説明した。わが国の女性の統治者である女王陛下
にあっては,おのが野心を満たしたり,隣人を傷つけてまで権力を拡げよ

(47)
うとしたりする気持ちはまったくなく,臣下に対する偏見もないので,悪
事を企ててこれを実行するための腐敗した大臣などは不要,ひたすら国民
に良かれと思うことを指示し,その指示によって民を導き,ただ国の法の
定める範囲に民の行動を制限するばかりです。国事に関して女王陛下が特
に信頼を置く人々の振る舞いや行動もすべて会議の判断に委ね,法が定め
る罰則に従わせておりますので,特定の臣下を信用して国事のすべてを任
せるというようなことはございません。ただわが国の以前の国王や,現在
のヨーロッパの他の多くの宮廷では,王が快楽を求めるあまり国事をさぼ
り,あるいはぞんざいに処理したりすることもありまして,そういうとこ
ろでは,以前説明しましたように,「首席大臣」とか「宰相」とかいう称
号の政治家を用いております。その様子についての私の描写は,たんに彼
らの行動だけからではなく,彼ら自身が刊行した書簡や回想録,著作など
を集めたものでして,その信憑性についてはこれまで誰も疑いをはさんだ
者はいませんが,その人物像とは次のようなものです。私が説明しようと
しました国の首席大臣,宰相と言いますのは,喜びも悲しみも,愛も憎し
みも,憐みも怒りもまったく感じない生き物で,富と権力と肩書きに対す
る強欲以外にはいかなる感情にも用がなく,本心が現われない限りは如何
ようにも言葉を操り,真実を語るときにはそれを嘘ととらせようとし,嘘
をつくときにはそれを真実ととらせようと目論見,彼が蔭でこっぴどくこ
きおろす人物は必ず出世し,彼が他人に向って誉めてくれる,面と向って
誉めてくれるようになると,こちらはもうその日のうちに破滅,という生
き物なのです。最悪の兆候は彼に約束をしてもらうこと,とりわけ誓約の
おまけつきだと,賢者は退いていっさいの希望を捨ててしまいます。
(富
山訳 269-70 +原田・服部・武田 473)

厳密に述べると,下線部の直後の箇所は,モット版では「彼は喜びも悲し
みも,愛も憎しみも,憐みも怒りもまったく感じない人物(Person)で,
」と
書かれており,下線部にすでに一度登場した言い回しである「首席大臣,宰
相」の代わりに,ごく簡略な「彼」という代名詞が用いられ,かつ,
「生き物
(creature)
」という表現は用いられていない。おそらくスウィフトは修正に
際して,
「ヤフー」を「人物」と表現するよりも「生き物」とするほうが風刺

(48)
の目的により適うと考えたのだろう。ヤフーが人の姿をしていること,フウ
イヌム国を支配する「わが主殿」ないし「主人」が馬の姿をしていることは,
絵本などで頻繁に描かれる小人国・大人国の物語ほどではないにしろ,よく
知られている劇中設定だろう。それはともかく,
モット版に存在した下線部は,
アン女王が「特定の臣下を信用して国事のすべてを任せる」ことなど決して
なかったと伝えることで,
「腐敗した大臣」に頼らない王の親政ぶりを強調す
る内容となっているが,スウィフトはこれを「ありもしないこと」の挿入で
あり,改竄だとして,フォークナー版のガリヴァーに非難させたわけである。
 スウィフトはなぜ,ここまで激しく下線部の叙述に反応したのだろうか。
この問いの答えを探るには,上記の引用の続きまで読んでみる必要がある。
以下は「希望を捨ててしまいます。」の直後に続く部分である。

宰相に登りつめるには三つの方法がありまして,その第一は,妻,娘,姉
妹を賢く利用するすべを心得ること,その第二は前任者を裏切るか,その
足を引っぱること,第三は公の集まりで宮廷の腐敗を激烈に糾弾すること。
もっとも賢明な君主なら,この最後の方法をとる者を選ぶでしょうね,そ
ういう熱血屋ほど主人の意志と感情にいちばん卑屈に従うものですから。
こういう大臣どもは,いったんすべての任用権を握ってしまうと元老院や
ら重要会議やらの多数を賄賂でたらし込んで,権力にしがみつき,しかも
最後には免責法なる逃げ道を使って(その性格の説明もさせられた),後々
の罰を先に喰い止め,あたかも国からの分捕り品を抱えたまま,公の場か
ら引退してしまうのです。
 宰相の大邸宅なんて,同じ商売の者を育てる養成所。小姓も従僕も門番
もみなそれぞれに御主人様を猿真似し,それぞれの持ち場で大臣になり
切って,倨傲(きょごう),嘘つき,袖の下の三大条件の腕をしっかり磨
いてしまう。挙句の果てに,最高の地位にある人々からもことのついでに
機嫌をとってもらい,ときにはその抜目のなさと図々しさで段を幾つもの
し上り,ついにはご主人様の後継者となる者もでる始末。
 宰相は堕落した妾か,お気に入りの従僕の言うことを聞くのが通例で,
彼らこそ恩恵の伝わる秘密の通路,つまるところ王国の統治者と呼んでい
いでしょう。(富山訳 270)

(49)
以上でガリヴァーの宰相論は終わる。前掲の下線部を含めて,引用したこの
一連の叙述全体が,宰相ないし首相に対する毒舌であることは間違いない。
ここで考えてみたいのは,下線部の有無で,読者の受け取る印象がどう変わ
るかである。モット版のように下線部がありさえすれば,読者はここの発言
を,「特定の臣下を信用して国事のすべてを任せるというようなこと」のな
かったアン女王時代「以外」の時代に向けられた風刺として素直に承認する
だろうか。むしろその反対に,正しくは「ゴドルフィン卿」と「オックスフォー
ド卿」という宰相がいたはずの時代(1720 年代の世間の記憶にはまだ新しい)
に偽りの讃辞を送ることによる当てこすりだと,皮肉な解釈をするのではな
いだろうか。そうなれば,アン女王時代の虚像が逆に目立つ格好になってし
まうというわけだ。だが,下線部の叙述さえなければ,どの時代にも共通す
る一般的な風刺として受け取られるに違いない。
 ガリヴァーがフウイヌム国に向けて旅をした時期は 1710 年 9 月から 1715
年 12 月までとされている(他の三篇にもそれぞれ時代背景が設定されてい
る)。したがってガリヴァーが話題に上げた「国の大臣」には 1702 年に始ま
るアン女王時代の大臣ももちろん含まれるわけだが,あえて「アン女王」と
明言さえしなければ,読者側の印象はずいぶん穏当な,あるいは曖昧なもの
に止まるだろう。しかもガリヴァーは,上記の通り,アン治世最後の四年間
にはイギリスに居住していなかったことになっている。よってこの期間に宰
相を務めた「ヤフー」は,フウイヌム国の「主人」に求められて彼が論評し
た対象からは完全に外れることになる。その宰相とは誰だろうか。先の「ガ
リヴァー船長から従兄シンプソンへの手紙」で名前の挙がった二人目,すな
わち「オックスフォード卿」である。

2.フリムナップとムノーディ

  ス ウ ィ フ ト は「 オ ッ ク ス フ ォ ー ド 卿 」 こ と ハ ー リ(Robert Harley,
1661-1724)をかばった節がある。モット版が出た 1720 年代,そしてフォー
クナー版が出た 1730 年代に首相を務めていたのは周知のウォルポール
(Robert Walpole, 1676-1745)で,ウィッグ長期政権の立役者であるこの人物
に向けて,スウィフトは恐れるどころか容赦なく批判を浴びせたが,これに

(50)
対してハーリには,のちに述べる事情ゆえに,玉虫色の評価をせざるを得な
かったと言える。参考までに,ウォルポールとハーリにそれぞれ擬せられる
人物の描かれ方を,以下で対比しておこう。

ウォルポール:フリムナップ(Flimnap)
 第一篇のリリパット渡航記に登場する。フリムナップは「大蔵大臣」とさ
れるが,イギリスの首相(Prime Minister)は大蔵卿(Lord High Treasurer or
First Lord of the Treasury)を名乗る中世来の地位からの近代的派生物である
から,事実上の首相と考えてよい。フリムナップに次ぐ芸の腕前とされるレ
ルドレサルは,同じウィッグ党に属し,しかも閣僚級でありながら,ウォル
ポールと対立したカータレット(John Carteret, 1690-1763)を指すと目されて
いる。彼がガリヴァーの「友人」なのは,フリムナップの墜落を救った「国
王のクッションのひとつ」つまり王の愛人のケンダル公爵夫人(1717 年に
大蔵卿の職を追われたウォルポールは彼女の後押しもあって 1721 年に返り
咲いた)に取り入ってウォルポールを抱き込み,アイルランドへの銅貨供給
事業の特許を得たウッド(William Wood, 1671-1730)に対し,スウィフトが『ド
レイピア書簡』
(1724 年)を著して猛烈な反対世論喚起運動を展開した際に,
カータレットがアイルランド総督の立場にありながらスウィフトと暗黙の共
闘を繰り広げた事実を反映している(拙稿「「ウッドの半ペンス」再考」『マ
ルサス学会年報』第 28 号,2019 年も参照されたい)。結局,首相の側が追
い詰められ,ウッドの特許状は撤回された(1725 年)。

そんなある日のこと,皇帝はこの国の見せ物を幾つか見せて楽しませてや
ろうと思し召しになった(その芸の巧みさ,スケールの大きさにかけては
はるかに他国を凌ぐ)
。ことに面白かったのは綱渡りで,床から十二イン
チの高さに長さ二フィートほどの細い白糸を張って,その上でやる。ここ
は読者にご辛抱をいただくことにして,少し詳しく説明してみたい。
 この気晴らし芸を許されるのは,皇帝の寵愛と宮廷での高位を志願でき
る者に限られる。この芸の訓練はまだ若い頃から始まるが,貴族の出自と
高い教育の有無は必須の条件ではない。重要な地位が,死もしくは失寵(こ
れがよく起こる)によって空席になってしまうと,五,六人の候補者が綱

(51)
渡りの芸をもって皇帝ならびに宮廷の方々にお愉しみいただきたいと申し
出,綱の上で最高点までピョンと跳び上り,しかも下に墜落しない者がそ
の地位を我が手にするというわけである。大臣たちが皇帝の御前でその技
を披露して,能力が錆ついていないことを証明してみせるように命じられ
ることもよくある。大蔵大臣のフリムナップなどは細い綱の上で,帝国中
の他のどの貴族よりも少なくとも一インチは高く跳びはねることができる
とされる。私もこの眼で彼がイングランドで言えば荷造り用の細紐くらい
の太さの綱の上に皿を置いて,その上でトンボ返りをうつのを何度か目撃
したことがある。依怙贔屓をするわけではないが,私見によれば,この大
蔵大臣につぐのが私の友人で宮内大臣のレルドレサル,他の高官たちはど
んぐりの背くらべというところか。
 この気晴らし芸には命にかかわる事故がつきもので,記録にも多々残っ
ている。私が見ていたときも,手足を骨折した志願者が二,三あった。し
かし,大臣たちに腕前披露の命令が出た場合,昔よりもうまく,同僚より
もうまくと力むあまり,一度は墜落しない者はまずいないし,二度,三度
という者もいて,危険ははるかに増大する。私が到着する一,二年前の話
らしいが,フリムナップが墜落したことがあって,もし国王のクッション
のひとつが床にあり,その衝撃を弱めるということがなかったら,間違い
なく頸の骨を折っていただろうとのことであった。(富山訳 37-38)

ハーリ:ムノーディ卿(Lord Munodi)
 第三篇のバルニバービ渡航記に登場する。
バルニバービは国王の起居する「飛ぶ島」
ラピュタの支配下に置かれている領土であ
る。首都は「ラガード」と呼ばれる。

このムノーディ卿というのはこの国の第
ラピュタとバルニバービの図
一級の人物で,何年かラガードの総督を (モット版)
つとめたこともあったが,大臣たちの陰
謀のために,無能という汚名を着せられてその地位を追われていた。もっ
とも国王は彼を理解力がどうにも低いだけ,善意の人物であるとして,冷

(52)
遇なさるようなことはなかった。
 この国と住民について私が遠慮のない批判をすると,彼の方は,そんな
に慌わてて判断なさることもないでしょう,この世界では国が変われば習
俗も変わりますよというような差し障りのない話題に終始して,それ以上
の返事はしなかった。ところが彼の邸宅に帰って来ると,この建て物をど
う思うか,どういうところが馬鹿げていると見えるか,使用人の服装や顔
つきのどこが嫌かと訊いてきた。平然とこういう質問ができるのは,彼の
周囲はすべて豪華,端正,上品であったからでもある。私の答えは,思慮
深さ,家柄,財産から致しましても,愚行と貧困ゆえに他の人々にこびり
ついておりますような欠陥が閣下には見当たりません,というものであっ
た。彼は,二十マイルほど離れたところに自分の領地があって,そこに屋
敷があるから,そこに来てもらえばもっとゆっくりとこういう話ができる
だろうと言う。私は閣下に,異存はございませんと答えて,翌朝一緒に出
発した。
 その途中彼は,農家の土地の耕し方をよくご覧なさいと言ったが,確か
に私にはまったく不可解なもので,ごくわずかの場所を除いて,麦の穂の
一本,草の葉一枚眼に入らないのだ。ところが三時間も行くと風景は一変
して,実に美しい田園風景となり,そこかしこに並ぶ農家もきちんとした
造りで,田野も囲い込まれて葡萄畑,麦畑,草地になっていた。これほど
までに心地よい風景はまず記憶にない。閣下は私の顔が晴れやかになるの
をご覧になって,溜息をついて,そこからがわしの領地です。屋敷に着く
までずっとこうですよ,と仰有った。国の人々はこの管理の仕方はなんだ,
王国にとって悪い手本にしかならんと申して私を物笑いの種にして馬鹿に
しますが,この真似をする者なんてまずおりませんな,わしのような頑固
で,弱い年寄り以外には。
 とうとう屋敷に到着したが,これはまた古代の建築の最良の造り方に
従った気品の漂う建物であった。泉,庭園,散歩道,並木道,木立の配置
は適格な判断と趣味によっていた。私は眼に入るもののすべてを褒めたた
えるのに,閣下のほうは意に介されない様子であったが,夕食が終わって,
他に誰もいなくなると,憂鬱そのものといった顔つきとなり,町の邸宅も
田舎のこの屋敷も取り壊して,現代風に建て直し,農園もすべて破壊して,

(53)
他のものも今風に作り直し,小作人たちにも同じ指示を出さなきゃならん
でしょう,そうせんと,やれ,傲慢だ,変人だ,気取っている,ものを知
らない,気紛れだとののしられた上に,陛下の不興まで買うということに
なるやもしれん,と仰有った。
 あなたはしきりと感心しておられるようだが,恐らくあの宮廷では耳に
なさったこともない事情を少しお話したら,その感心も消えてしまうか,
しぼんでしまうか,ともかくあそこの人たちは瞑想にのめり込みすぎて,
この下の世界で起きていることに気が回らんのですよ。(富山訳 185-86)

 一方は冒険的な跳躍で地位を競い,他方は伝統に沿って地道に生計を立て
る。スウィフトの好みは明らかに後者にあるが,同時に,ムノーディの「憂
鬱」を通して,すでに時代がウィッグ優勢へとシフトし,新しい段階に入っ
たことを,哀愁を込めて伝えてもいる。トーリに与し,ハーリのもとで論陣
を張り,結局はアン女王の薨去とハノーヴァー朝の始まりによってロンドン
での栄達の夢を閉ざされたスウィフトにとって,この憂鬱はまさに拭い去り
ようのないものであっただろう。

3.スウィフトとハーリ

 最後に,スウィフトとハーリの関係に触れることで,本稿の主題でもある
「ジャーナリストとしてのスウィフト」の素顔に対してアプローチを試みる
こととしたい。
 前述のように,アン女王時代にはまずゴドルフィン(Sidney Godolphin,
1645-1712),続いてハーリが宰相を務めた。2019 年初めに日本でも公開され
(原題は The Favourite)には両者がそろっ
た映画『女王陛下のお気に入り』
て登場し,ゴドルフィンと結んで対フランス戦争(スペイン継承戦争)を推
進してきたマールバラ将軍(John Churchill, Duke of Marlborough, 1650-1722)
とその妻サラ(Sarah Churchill, 1660-1744)が凋落していく反面,対フランス
講和を唱えるハーリが首班指名を受けて満面の笑みを浮かべたところで終幕
を迎える。時系列を確認しておくと,ゴドルフィン更迭が 1710 年 8 月(同
時にハーリが財務大臣に就任),ハーリの大蔵卿就任が 1711 年 5 月,マール

(54)
バラ追放は同年 12 月である。
 映画には「私たちの手紙がスウィフトの明日の新聞に載ったら,あなたは
終わりよ」とサラがアン女王に告げる場面がある。スウィフトへの言及はこ
こだけだが,
「ジャーナリストとしてのスウィフト」の存在感の大きさをひ
と言で表現した台詞として,十分に効果的だろう。映画自体はフィクション
であるから,この台詞をめぐるニュアンスは省くが,ゴドルフィン=マール
バラ政権の代弁者として女王側近を務めたサラ(ウィッグ支持)が,政権の
立場を危うくする危険な存在としてスウィフトを意識し,スウィフトの筆か
ら発せられる新聞記事や小冊子を脅威に感じていた事実は確認できる。
 実際スウィフトは,地方ジェントルマンの支持を固めたトーリの指導者
ハーリへと政権が移った 1710 年秋に国務大臣シンジョン(Henry St John,
1678-1751)が立ち上げた新聞『エグザミナー(The Examiner)
』の編著者を
務めており,ゴドルフィンの前政権は対フランス戦争で稼げるだけ稼ごうと
する一部の貨幣利害に操られていたとする一種の陰謀理論を率先して普及さ
せた。戦費調達のための重税は地方が負担し,都市の少数者が甘い汁を吸う
だけの,この愚かな戦争などさっさと終わらせよ,と説いた彼の論調は尋
常ならざる人気を博したのである。スウィフトが『エグザミナー』の編集
を一時中断して書いた小冊子『同盟諸国の行状(The Conduct of the Allies)

(1711 年 11月 )は飛ぶように売れ,初版一千部はわずか二日で,二版はたっ
た五時間(!)で売り切れた(Nokes 1985, 137-39)。この小冊子は翌年 1 月
末までの二か月間で七版までが刷られ,計一万一千部売れたという(Downie
1979, 143)。大陸で輝かしい戦果を上げてきたマールバラの評判はこれによっ
て決定的に堕ち,
政権追放につながる。まさに「ペンは剣よりも強し」であっ
たが,そのペンの力を全面的に活用して世論操作の強力な手段に仕立ててい
たのが,スウィフトの雇い主で,自身も十分な筆力を有し,スウィフトの新
聞記事や小冊子に自ら加筆した新宰相ハーリだった。彼の政権によるプロパ
ガンダにはかのデフォーも協力を惜しまなかった。ハーリ恐るべしといった
ところか。
 そのハーリがしかし,ぎりぎりのところで一命を取り留める事件が起きた。
1711 年 3 月 8 日,スウィフトがダブリン首席主教のキング(William King,
1650-1729)に宛ててロンドンから送った書簡には,切迫した様子で次のよ

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うに記されている。

本日の午後に私が食事をとっておりますと,一人の紳士がやって来まして,
ハーリ氏が刺されたと告げました。詳細は錯綜しており,私はただちにシ
ンジョン大臣のところに向かいました。しかし邸宅には誰の姿もありませ
んでした。椅子駕籠に乗ったシンジョン夫人に出会いましたが要領を得ず,
夫人はただ,夫が殺人犯に殺されたと聞いたそうで,大臣のことで胸を痛
めておられました。私はその足で,大勢が詰めかけていたハーリ氏のもと
に向かい,ハーリ氏の子息[Edward Harley, 1689-1741]を見かけました。
彼によれば父は眠っており,心配はないようだとのことでした。そのうえ
で事実を教えてくださいましたので,それを貴方にお伝えしようと思いま
す。まさに本日,ド・ギスカール侯爵(Marquis De Guiscard)がシンジョ
ン氏の令状により大逆罪で逮捕され,シンジョン氏の執務室において開か
れた枢密委員会で取調べを受けました。出席者はオーモンド(Ormond)公,
バッキンガム(Buckingham)公,シュルーズベリ(Shrewsbury)公,ポー
レット(Poulett)伯,
ハーリ氏,シンジョン氏らでした。取調べの最中,ハー
リ氏はギスカールが後方とはいえ自分のすぐそばに立って悪態をついたの
を見とがめ,大逆罪で取り調べているのだから振舞いに気をつけたほうが
よいと伝えたところ,ギスカールはいきなりポケットからどこかの執務室
で盗んできたペンナイフを取り出し,振り回して,ハーリ氏のちょうど胸
の下,少し右寄りの辺りを突き刺しました。ですが幸いなことに肋骨で止
まり,半インチほどの浅さで済みました。(Swift 2012, I, 213)

ギスカールはフランス出身の亡命者で,ゴドルフィン=マールバラ政権に軍
人として雇用された際に約束された年金がハーリ政権の手で減額されたこと
を恨み, (Swift 2012, I, 213n)
故国に通じた 。この日は女王の戴冠記念日で,
ハー
リは礼服として花柄の刺繍の施された厚手のチョッキを着ており,そのおか
げでギスカールの凶刃がつけた傷は致命傷とならずに済んだ(McInnes 1970,
151)。これもまた「国王のクッション」と呼べるのが皮肉である。スウィフ
トはこの事件をただちに次号の『エグザミナー』
(1711 年 3 月 15 日付)で
大きく報じ,ハーリ英雄伝の形成に貢献する。ただ,事件後ギスカールが監

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獄において「主たる狙いはシンジョン大臣だったが,容疑者を取り調べるの
に都合がよいという理由でたまたまハーリ氏と席を代わった」おかげで大臣
は襲撃を免れたのであり,単に座席の関係で「シンジョン氏が最も愛してい
るはずの人物」を狙った,と証言した旨を併せて記したせいで(Swift 1801,
159)
,英雄伝に水を差したと批判を浴びる(ただしシンジョンは喜んだ)。
スウィフトは片腕だった女流著述家マンリー(Delarivier Manley, c.1670-1724)
に依頼して小冊子『ギスカール侯爵の取調べをめぐる真実の物語』
(1711 年
4 月)を別途公刊させ,傷つきながらも無闇に援けを求めなかったハーリの
泰然自若を称揚することで事態の収拾を図る(Carnell 2008, 207-09)。ハーリ
は事件報道を通じてさらに支持者を増やし,先述の通り同年 5 月に大蔵卿に
指名されて,名実ともに宰相となった。喜び勇んだデフォーがスコットラン
ド貴族の第九代バハン伯(David Erskine, 9th Earl of Buchan, 1672-1745)に宛
てた 5 月 29 日付の書簡には,次の通り記されている。

木曜[5 月 24 日]夕刻,女王陛下は彼をモーティマー(Mortimer)伯オッ
クスフォード伯およびウィグモア(Wigmore)のハーリ卿に叙しました
ので,明日には枢密院で,女王より手ずから白杖を渡され,大蔵卿(Ld
High Treasurer)と宣せられることでしょう。
上記は昨日書きました。本日 5 月 29 日,彼はブリテンの大蔵卿に任じ
られ,午前中に女王の御前で白杖を携えて礼拝堂へ向かいます。(Defoe
1955, 328-39)

 スウィフトとハーリの関係は,ムノーディよろしく「大臣たちの陰謀」の
せいか否か,少なくとも後釜を狙うシンジョン大臣との微妙な緊張関係のも
とに置かれ続けたハーリが 1714 年 7 月に失脚し,翌月の国王代替わりによっ
て政治生命を絶たれるまで続いた。スウィフトはシンジョン改めボリングブ
ルック(Bolingbroke)子爵とも親密であり,ハノーヴァー朝創始後にこの親
友が大陸のステュアート亡命宮廷のもとへ逃れたせいでジャコバイトの嫌疑
を共にかけられ,しばしの間,監視下での故郷隠棲を余儀なくされる。
スウィフトは政治の深部を知り尽くしていたぶん,あまりに紳士然とした
ムノーディの描かれ方が滑稽に見えなくもない。かつて岩波文庫版『ガリ

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ヴァー旅行記』の訳者である平井正穂がぽつりとつぶやいたように(平井訳
451)
,また現代の注釈者たちが口をそろえて強調するように(原田・服部・
武田 xii),スウィフトには「韜晦趣味」がある。彼が最も親しくする者も,
そして彼自身すら皮肉な描像を免れることはできないが,同時に,彼の素顔
はつねに仮面で覆われている。

主要参考文献
Carnell, R. 2008. A Political Biography of Delarivier Manley. Pickering and Chatto.
Defoe, D. 1955. The Letters of Daniel Defoe, ed. G. H. Healey. Clarendon Press.
Downie, J. A. 1979. Robert Harley and the Press. Cambridge University Press.
McInnes, A. 1970. Robert Harley, Puritan Politician. Victor Gollancz.
Nokes, D. 1985. Jonathan Swift, a Hypocrite Reversed. Oxford University Press.
Swift, J. 1726. Travels into Several Remote Nations of the World. London.
――. [1735] 2008. Gulliver’s Travels, ed. C. Rawson and I. Higgins. Oxford
University Press.
――. 1801. The Works of the Rev. Jonathan Swift, D. D., vol. 3. London.
――. [1963-65] 2012. The Correspondence of Jonathan Swift, 5 vols. Clarendon
Press.
スウィフト 1980.『ガリヴァー旅行記』平井正穂訳,岩波文庫 .
スウィフト 2013.『『ガリヴァー旅行記』徹底注釈[本文篇]』富山太佳夫訳,
岩波書店 .
原田範行・服部典之・武田将明 2013.『同上[注釈篇]』岩波書店 .
田中祐子 2019.『公共的知識人の誕生:スウィフトとその時代』昭和堂 .

-はやし・なおき 経済情報学科准教授-

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