You are on page 1of 6

朝日カルチャーセンター「ベルクソン哲学総検証―生誕150周年を前に」

2008 年 12 月 12 日(金) 第 5 回「ベルクソンにおける生命・技術・言語」

言葉の暴力
ベルクソン哲学における言語の問題

藤田尚志(一橋大学)

「けれどもこれは本題とは関係のないことです。どうしてそんなことを言うのかです
って。私のペンに尋ねてください。私がペンを支配しているわけではなく、ペンが私
を支配しているのです」(『トリストラム・シャンディ』)

0. 名文家の言葉嫌い(欺かれぬ者たちは彷徨う Les non‐dupes errent.)


20世紀フランスを代表する哲学者の一人アンリ・ベルクソンと言えば優雅で流麗な文体で
有名だが、その魅力を構成しているものの一つに卓抜な比喩やイメージの使用がある。

1) 持続/砂糖水 : 「一杯の砂糖水をつくろうとする場合、ともかくも砂糖が溶けるのを待たねばなら
ない。この小さな事実の教えるところは大きい。けだし、私が待たねばならぬ時間は、もはやあの数学
的な時間ではない[…]。それは、私の待ち遠しさに、つまり私に固有な、勝手に伸ばしも縮めも出来な
い持続のある一齣[portion]に合致する」 (『創造的進化』)。

2) 記憶・意識の諸平面/逆円錐 : (『物質と記憶』)

3) エラン・ヴィタル/騎行 : 「一切の生物は互いに係わり合い、いずれも同じ烈しい推力に押しまく
られている。動物は植物によって立ち、人間は動物界に馬乗りになり、そして全人類は時空の中を大
軍となって私たち一人一人の前後左右を疾駆する。その天晴れな襲撃ぶりは一切の抵抗を排し幾多
の障害に克ち、たぶん死さえも躍りこえることができよう」(『創造的進化』)。
4) 情動/ダンス : 「音楽が泣くとき、人類が、自然全体がともに泣いているのである。実のところ、
音楽が私たちの内にこの感情を導き入れるのではない。むしろ、ちょうど通りすがりの人が、街角のダ
ンスへ否応なく引き入れられるのにも似て、音楽が私たちをその感情の内へと導き入れるのである」
(『道徳と宗教の二源泉』)。
しかし、他方で、これもまたよく知られていることだが、これらの言葉の綾、さらには記号一般に対す
るベルクソンの評価は、むしろ厳しいものである。「形而上学とはそれゆえ象徴記号なしで済まそうとす
る学である」(「形而上学入門」)。逆説的なこの事態をどう理解すべきか?

1
1. 二つの言葉の暴力
「知性作用にせよ直観にせよ、思考は疑いもなく常に言語を利用する」(『思考と動くもの』)

A.言葉がふるう暴力(象徴的抽象 abstraction symbolique):日常言語・科学言語


「要するに、はっきり定まった輪郭をもった語、人間の印象のうちで安定し、共通で、したがって非
人格的なものを蓄えておく荒っぽい(brutal)語が、私たちの個人的な意識のデリケートで捉えが
たい印象を押し潰すか、少なくとも覆い隠してしまう」(『時間と自由』)。

B.言葉にふるわれる暴力(隠喩的魅力 attraction métaphorique):哲学・文学言語


「この方法の本質は、知性的、社会的な面を去って魂のある一点へ、つまり創造の衝迫が発してく
るその元の点へまで遡ることにある。[…]この要求を完全に満たそうとすれば、新たな言葉を鋳
造し、観念を創造しなければならない。だが、それはもはや伝達ではない。したがってまた著述で
もない。それでも著述家は、実現不可能を実現しようと試みるだろう。[…]そのためには、言葉に
暴力を加えねばならない(violenter les mots)」(『二源泉』)

2. 二つの明晰さ この二つの言語は、それぞれ異なる明晰さをもつ。
「我々の知性はその際、新しいものの中に古いものしか認めないので、よく知った国にいる気にな
り、楽な気持ちになり、「理解する」。ところが別の明晰さがあって、我々はそれを受け取ることに
はなるが、長い間かからないと我々に重みを感じさせない。それは根本的に新しく絶対的に単純
な観念の明晰さで、多かれ少なかれいつの間にか直観を取り入れている。[…]これらの観念に
はそれだけの時間を与えなければならない」(『思考と動くもの』)。

3. 直観のエクリチュール――隠喩の速度学(dromologie de la métaphore)
本義・字義性は時間を消去し、転義・比喩性は「時間を食う」。「言葉にふるわれる暴力」は、
意味が通る道筋にあり、それにかけられる時間にある。

「直喩や隠喩は、ここ[精神の領域]では通常の言葉で表現しきれないものを示唆してくれよう。そ
れは回り道ではない。目標にまっすぐ向かっているにすぎないのである。もし私たちが自称「科学
的」な抽象言語をいつも語っていたら、精神については物質によるその模造しか与えられないだ
ろう[…]。つまりこの場合、抽象的な観念だけに頼ると、私たちは物質を手本として精神を表象し、
置換、すなわち言葉の厳密な意味にとった隠喩によって、精神を考えたくなるのである。見かけに
欺かれないようにしよう。イメージに満ちた言語のほうが意識的に本来の意味でものを言い、抽象
的な言語のほうが無意識的に隠喩的な意味でものを言う場合もある」(『思考と動くもの』)。

遅れとしての比喩:「時間とはすべてが一挙に与えられるのを妨げる(empêche)ものである。時
間は遅らせる、いやむしろ時間とは遅れである」(『思考と動くもの』)。

2
「哲学者の唯一の目的はこの場合、大部分の人間の実生活において有利な心の習慣がとかく阻
んでいる一種の働きを想い起こさせることである。ところで、イメージは少なくとも我々を具体的な
もののうちにとどめおくという長所をもつ。どんなイメージも、一つでは持続の直観にとって代わる
ことはできないが、非常に違う種類の事物から借りてきたさまざまなイメージをたくさんもってくれ
ば、それらのものの作用を集中することによって、意識をある一定の直観が捉えられる点に正確
に向けることが出来る。できるだけまちまちなイメージを選ぶことによって、そのなかのどれか一つ
がその呼び出すはずの直観の地位を奪うのを妨げる(empêchera)ことになる。もしもその地位を
奪えば、すぐさまその競争相手のイメージに追い出されるからである」(『思考と動くもの』)。

4. 根源的類比 cf. リクールの『生きた隠喩』


日常言語はBにとって単に否定されるべき存在なのか。その根底には類比の根源的可動性が
ある。関係の一般性を認識させるアナロジーvs存在の特異性をイメージで示唆するメタファー。も
はや「個人の創造性vs言語の習慣性」ではない。類比は隠喩とは異なる創造的暴力である。
「このように符号が一つの対象から他へ移動しうる傾向を持つことが人間の言語の特徴をなして
いる。この傾向は幼児が喋り始めるその日から観察される。幼児は言葉の意味を覚えると直ちに、
そして巧まずにそれを拡張する。人がその児の前である対象につけて見せた符号を、きわめて偶
然的な近似や、甚だ遠いアナロジーを頼りに、それから引き離して他の対象に移す。[…]人間言
語の符号を特徴づけているのは、その一般性よりもむしろ可動性である。[…]言語は知性の解
放に非常な貢献をしたわけである。実際、言葉はあるものから別のものへ動けるように出来てい
て、その本質から言って転位しうる自由なものである」(『創造的進化』)。

5. 否定的転義学(tropologie négative)あるいはtransports amoureux Cf. 「白けた神話」


Bにとって言語は存在の住まう家ではなく、持続・記憶・生命の乗り物である。
「もし今ここに誰か型破りな小説家がいて、私たちの因襲的自我が器用に織り上げた布を引き裂
き、[…]この単純な諸状態の併置の下に、名づけられる瞬間にすでに存在しなくなったさまざまな
印象の無限の浸透を示してくれる[montrer]なら[…]。だが、決してそうはならない。[…]その諸
要素を言葉で表現するというまさにそのことによって、彼のほうも私たちに感情の一つの影を提示
しているだけなのである。ただ彼は、影を投影する対象の異常で非論理的な本性を私たちに推察
させてくれる[faire soupçonner]ような仕方で、この影を処理した」(『時間と自由』)

「具体的な直観の単純さとそれを翻訳する抽象概念の複雑さとの中間にあるイメージ、おそらく意
識されないながらもその哲学者の心に執り憑き、その思想のさまざまな回り道を通じてこの人の
影のように従っていく、逃げやすく消え去りそうなイメージ、直観そのものではないにしても、直観
が「説明」を与えるためにはどうしても頼らなければならない、必然的に記号的な概念表現に比べ
ると、はるかに直観に近づいているイメージです。この影をよく観察しましょう。私たちはその影を
投射している物体の姿を推測することが出来るでしょう(『思考と動くもの』)。

3
言 語 の 手 前、 言 語 の 彼方 : 「私たちがここで直観と呼ぶのは、対象の内部に身を移す( se
transporte)ための「共感」のことであって、それによって私たちはその物の独特な、したがって表
現できないところと一致するのです」(『思考と動くもの』)。

空也上人立像(京都・六波羅蜜寺)

6. 間奏曲:リズムと意味
冒頭で引いた『トリストラム・シャンディ』の「ペンが私を支配する」は二通りに理解されうる。
a. ペンとは「シニフィアンの連鎖」のこと。つまり「私が言葉を話す」のではなく「言葉が話す」。
b. ペンとは文字通り「ペンの重み」のこと。物質的次元が言語に直接介入する。

フランスにおける文系教育の欠陥:「偉大な作家の作品を論じる前に、まず子供がある点まで作
家の着想を我が物としていなければならない。声を出して正しく読むことはまさにそれに当たる。
本来の意味における知的作用よりも前に、構造および運動の知覚がある」(『思考と動くもの』)。

『新フランス語入門』第 59 課「ベルグソン」286‐287 頁(別紙参照)


《丸山熊雄(1907‐1984)が前田陽一とともに編纂した岩波書店の『新フランス語入門』は、発表から半
世紀以上経つが、ハイブラウな内容の異色ある入門書として、丸山と松原秀治共編になる白水社の
「フランス語学文庫」の「作文」の巻とともに復刊を望む声が高い。》(Wikipedia)

7. 言語の物質性と非物質性:意味・イメージ・図式 Cf. ドゥルーズ『意味の論理学』


Cf. ジャン=ジャック・ルセルクル、『言葉の暴力―「よけいなもの」の言語学』、法政大学出版局。
「要するに、言葉は物体と精神とを結びつける環である。言葉だけが音声からなる物体と非物体
的な lekta[表示されうるもの]との二元的形態を保つからだ。言葉は自身の内にラングと「よけいな
もの」[言葉遊び・隠喩・洒落・誤用]との境界を含み持つ。[…]言葉の物質性と非物質性との不
可分性[「『戦車』と言えば戦車が口から出ていく」というストア派のパラドックス]は、世界を構成す
る堅固な物質性と、抽象化や表象ではなく介入し働きかける非物質性である。[…]言葉が物体の
内でまた物体に対して行使する文字通りの暴力と、事態への言語的介入という非物質的暴力」。

4
「言語は知性に腕を振るう畠を広げてくれたが、それ自身としては物を指し、物しか指さぬようにで
きている。ただ言葉は動くことができ、一つの物から他へと移っていくので、それでどうしても遅か
れ早かれ移る途中の、まだ何物にも固定されていないところを知性に捉えられることになった。知
性は闇から光へ出ようとその時までひそかに言葉の助けを待っていたある事物ならぬ対象にそ
の言葉を適用するのである。しかし言葉はこの対象を蔽うことによってふたたびそれを事物に転
ずる」(『創造的進化』)。

この問題を考える際に、『精神のエネルギー』第6論文「知的な努力」は決定的に重要。
A. 運動図式(schème moteur):学校で暗記させられた一篇の詩を唱えてみると、語が語を呼ぶ
のであって、意味を考えると想起のメカニズムに役立つよりもかえって邪魔になる。この場合、
記憶は常に運動的であり、意識の同じ面を水平に動く。→根源的アナロジー
B. 動的図式(schéma dynamique):創造的な知的努力とは、知覚やイメージとそれらの意味作
用との間の精神の往復運動に始まり、そこで与えられた図式が、意識の複数の面を通って、
具体的で豊かなイメージに転換される垂直的行程。→隠喩的魅力

「図式は決して不動ではない。自らをそれによって満たそうとしているイメージ自体によって変更さ
れる。時には最初の図式が最終的なイメージの中に何も残っていない場合がある。[…]努力とい
うのは、遅れたり、時間に間に合わないことである。[…]そしてこの特別な遅れは、試行錯誤、多
かれ少なかれ結果をもたらす試み、イメージを図式に、図式をイメージに適応させること、イメージ
相互の干渉または重なりから生じる」(「知的努力」)。

8. 生命の二つの意味=方向 言葉はルセルクルの言うように精神と物質を結びつける唯一
の存在ではない。広く技術一般がそうである。だとすれば、「技術の暴力」にも、以上見てきた
生命の二つの意味=方向があるに違いない。

参考 Bergson Project in Japan(法政大学安孫子信教授による科研費研究):


http://www.cms.k.hosei.ac.jp/project‐Bergson‐Japan/index.html

Bibliographie
加賀野井秀一、
「言語の二つの斜面」
、『現代思想』臨時増刊「ベルクソン」、106-116 頁。
久米博、
「ベルクソンにおける言語問題─習慣の言語と創造の言語」、
『ベルクソン読本』

佐藤信夫、
『レトリックの意味論』
(1986)、講談社学術文庫、1996 年。
谷川渥、第 VI 章「直観と表現―ベルクソン美学の構造」、
『美学の逆説』所収、ちくま
学芸文庫、2003 年。
Cf. Patrick Wald Lasowski, Le Traité du transport amoureux, éd. Gallimard, coll. « Le cabinet des
lettres », 2004.

You might also like