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8 女神の死、または九相図を読み解く (上)

赤坂憲雄

女神の死、または……(上)
性と死が妖しい交歓を果たすとき 
もし許されるならば、あなたは誰から、どんな講義を受けてみたいで
すか。そんな問いかけがなされたら、わたしはきっと迷わずに、
「宮沢

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賢治の性教育講座」と答えるだろう。宮沢賢治が弟子たちに、浮世絵の
春画をテクストにして性教育を行なっていた、という話がひそかに語り

1
継がれてきた。だから、
「宮沢賢治の性教育講座」はけっして妄想の所

2
産ではないし、むしろタイムマシンがあれば実際に立ち会うことができ

(第 8 回)
るはずのものなのだ。
く そうず
しかし、わたしはふと、もしそれが春画ではなく、いわゆる九相図で

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
あったならば、とさらに想像をたくましくする。賢治の禁欲主義を思え
ば、その方がしっくり来る。ところが、どうやら賢治はみずからには結
核ゆえに禁欲を厳しく課しながら、弟子たちには春画を見せて、いわば
性を肯定的に語っていたらしい。だとすれば、美女が死んで腐敗し土に
還ってゆく九相図では、ふさわしい教材とはならない。九相図が必要で
あったのは、賢治自身であったか。
いわゆる九相図とは、死体が腐敗し白骨となるまでのプロセスを九つ
の相で表わす、東洋的な絵画である。これについて、山本聡美は『九相
図をよむ』 の「序」に、
(角川選書) 「死体の変化を九段階に分けて観想(い
することによって自他の肉体への執着を滅却
わばイメージトレーニング)

(上)
する、九相観(九想観)
という仏教の修行に由来する」ものだと説いてい

女神の死、または……
る。そこには、相/眼で見たイメージの世界と、想/心で観じたイマジ
ネーションの世界とが交錯している、ともいう。
仏教の修行のひとつに、不浄観がある。山本によれば、出家者が「自
分 自 身 や 他 者 の 肉 体 に 対 す る 執 着 を 断 ち 切 る た め に、 皮 膚・ 筋 肉・ 内
臓・体液・骨、そして死体などの不浄の様子を観想する」ことだ。この

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不浄観によって、六欲(色欲・形容欲・威儀欲・言声欲・細滑欲・人相欲)

え し
除かれ、とりわけ壊屍つまり腐乱死体を観想すればすべての欲を取り除

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くことができる、とされる。こうした不浄観のなかで、死体を九段階に

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分けて観想することを、特に九相観と呼んでいる。この九相観を行なう

(第 8 回)
ことで、「どんなに美しい容姿も汚物の上を仮の姿で覆い隠しているよ
うなものであると知り、淫欲を防ぐことができる」と説かれているので

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
ある。いわばそれは、
「脳内に記憶した死体のイメージに基づいて行う
べき修行」であって、そのイメージ喚起のための補助具として九相図は
描かれたらしい。
仏教の教義に根ざした詩歌や説話文学がある。そこでは「九相図をめ
ぐる生と死、聖と俗、美と醜、男と女の物語が重なりあって大きな森を
つくっている」ことを、山本は指摘している。この『九相図をよむ』は、
そうした九相図に源をもつ大きな物語の森に踏み迷いながらなされた、
すぐれた読み解きの書といっていい。
『九相図資料集成』
(山本・西山美香
をかたわらに、わたしはこの著書を読んでいる。
編、岩田書院)
山本も触れているのだが、ここではやはり、
『古事記』のイザナキに

(上)
よる黄泉国訪問譚を想起しておきたい。イザナキは亡くなったイザナミ

女神の死、または……
恋しさに、黄泉の国を訪ねるが、そこで「うじたかれころろきて」いる
イザナミの姿を見て、驚き、逃走をはかる。西郷信綱は『古事記注釈』
のなかで、
(ちくま学芸文庫) 「宇士多加礼許呂呂岐弖」と一字一音の仮名

で表記されているところに、この語への執着を認めながら、
「死体の糜
らん
爛をずばりいいあらわしており、その臭気まで感じさせる語だ」と評し

8
ている。そして、
「この一語の発する肉体的嘔吐感と臭気は、黄泉の国
の話がモガリと不可分であること」を示している、という。

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ウミ ワ ウジ タカ
『日本書紀』では、ここは「膿沸き蟲流る」と記されている。いずれ

6
みかしこ
にせよ、イザナミの蛆がたかる腐乱死体を前にして、イザナキは「見畏

(第 8 回)
みて逃げ還る」のである。山本はいう、
「死後の肉体の不浄な様を見て
男神が女神への執着を捨てるという物語構造は、仏典を通じた不浄観の

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
思想と結びつくことで、中世には九相観説話へと展開する」と。思いが
けず、九相図をめぐって生と死・聖と俗・美と醜・男と女、さらに浄と
不浄・永遠と無常・罪と救済などが交歓を果たす物語の森の源流に、日
本神話の黄泉国訪問譚が見いだされていたということか。それはまた、
「日本文化の根底に一貫して存在していた、死体の美術と文学の水脈」
はじまり
(『九相図資料集成』の山本による「序」の源流でもあったはずだ。

そもそも、九相図とは男性出家者の煩悩滅却を目的として用いられる
図像である。だからこそ、ほとんどの場合、そこには女性の死体が描か
れている。しかも、九相図においては、肌の色の変化を丹念に描くため
に、起点となる新たな死相として描かれる死体はわざわざ肌をさらし、

(上)
やがて醜く変貌してゆく乳房や手足を露わにしている。「女性の身体を

女神の死、または……
思うがまま眺めることのできるポルノグラフィックな絵画」としての側
面がつきまとうことになる。これから滅却されようとしている性的な欲
望を、ひとたび顕在化させる役割も託されていたのかもしれない。絵巻
をひもといた男の視線は、むき出しにされた乳房や脛や足首に惹きつけ
られずにはいない。そうして、九相図には、生から死へと移りゆくあわ

8
いに、思いがけず性が露出し、性と死とのグロテスクにして奇妙な戯れ
がくり広げられるのである。

7
山本は終章にいたって、以下のように述べている。

8
 

(第 8 回)
伝統的に、日本の九相図には女性の死体が描かれてきた。九相観
を行う主体である男性出家者にとって、性的煩悩の対象は主として

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
女性である。九相図に女性が描かれる理由も、まずはこの点に求め
られる。高貴な、あるいは美しい女性の肉体が、徐々に腐敗し醜悪
な姿に変化していくからこそ、九相図は煩悩を退ける図像として力
を発揮したものであろう。さらによく見ると、描かれた女性たちの
死体は大層なまめかしく魅力的でもある。生命が消え去った後のぬ
けがら、自我を失った空虚な肉体が無造作に野に置かれ、観想とい
う一方的な眼差しの対象とされている。九相図は、女性のあられも
ない姿(死体)
を、臆面もなく眺めることのできる格好の主題でもあ
った。中・近世を通じて、九相図は男から女への、複雑な眼差しの
先に横たわっている。

女神の死、または……(上)
とても深いところに届いている気配がある。生と死とは、たやすく二
元論的な構図のなかに摂り込まれるが、そこに性を介在させた途端に、
なにやら風景は一瞬にして根底からの変貌を遂げずにはいない。まるで
ダリの絵画のなかの時計のように、輪郭が曖昧に溶けて、妖しく歪みは
じめる。高貴な美しい女性の肉体が、しだいに腐敗し、醜悪な姿へと変

8
じてゆく。中世的な観念からすれば、「どんなに美しい容姿も汚物の上
を仮の姿で覆い隠している」ことがむき出しになるのである。あるいは、

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ヌード
女性のもっとも究極的なあられもない姿態が、まさしく死体であったこ

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とが露顕する、といってもいい。性と死とが交わるとき、男の女への眼

(第 8 回)
差しは幾重にも屈折を強いられる。
先の引用に続けて、山本はこう説いていた。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
しかしいっぽうで、九相観説話の中の女性たちは、自らの強い意
志と自己犠牲の精神によって不浄の肉体を曝し、他者の発心を助け
た者として尊ばれてもいる。死体を曝すことが、女性にとって信仰
心の表明であるとみなされる土壌もあった。近世初頭には、絵解き
じょせいきょうげ
などを通じて、九相図が直接的に女性教化の役割を担うこととなる。
九相図の中に自己を見出していた者たちの存在を見過ごすわけには
いかない。
たしかに、中世の女性たちにとっては、「死体を曝すことが……信仰

(上)
心の表明である」ような宗教的回路が存在したのかもしれない。しかし、

女神の死、または……
それが「女性教化の役割」を果たすというのは、どうにも救いがない。
細 川 涼 一 が「 小 野 小 町 説 話 の 展 開 」
(『女の中世』日本エディタースクール出
という論考のなかで、これについて、
版 部、 所 収 ) 「女性の側にとっては、
自己の肉体と精神に対する自己疎外、身体感覚レベルでの自らの性とし
ての存立に対する自己嫌悪以外の何ものももたらさなかったのではなか

8
ろうか」と指摘していたことを想起しなければならない。
細川はそこで、円地文子のこんな言葉を枕に引いていた。すなわち、

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「 小 町 の 晩 年 の 悲 惨 な 放 浪 生 活 を 語 る 者 は 常 に 男 性 で あ っ て、 彼 ら の 中

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には家を持たぬ美女、夫や子を持たぬ美女に対する恐怖心の入り交じっ

(第 8 回)
たあくどい憎悪が貯えられているように思う」
(『小町変相』という言葉だ。

中世には、絶世の美女であった小野小町は、みずからの美貌と歌の才に

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
溺れて、懸想してくる男たちを翻弄したが、年老いてからは、容色が衰
さまよ
え、貧窮し、乞食となってあちこち彷徨いあるいた、といった小町零落
譚が広まっていた。小町はしばしば、九相図の美女と重ねあわせにされ
ている。こうした小野小町伝承が九相図と交叉する地点に、眼を凝らす
必要がある。
この『九相詩絵巻』にみられる観想で問題なのは、男性の中に淫心
が生じる原因が一方的に女性の側に投影され、女性をその全体的な
人間存在から切り離して不浄な性的存在とみなしてその屍を醜悪に
描き、女性の宗教参加を忌避することによって男女の間に性的関係

(上)
が生じることの問題の解決を計ろうとしていることである。これは、

女神の死、または……
男性の側に淫心=性的空想が生じることの問題を主体としての男性
自身の問題として考えようとするのではなく、その肉欲を促す原因
を客体としての女性の側に転化し、その肉体と性を罪深い存在とし
て否定することによって問題の解決を計るものといわざるを得ない
であろう。

8
いささか回りくどい物言いが選ばれているが、その言わんとするとこ

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ろには共感を覚える。いわば、男のなかの淫心=性的な欲望がそれとし

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て意識化されずに、女の側に投影され、女という性やその肉体を罪深い、

(第 8 回)
穢れたものと見なし否定する心的なメカニズムを産み出しているといっ
たところか。それはおそらく、男のなかに潜在している「女に対する無

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
限な恐怖心」 を、ひそかな起動力としているにちがいない。
(円地文子)
現代の画家たちのなかにも、九相図は主題として受け継がれている。
山口晃の「九相圖」や松井冬子の「浄相の持続」に触れて、山本は以下
のように述べていた。
清潔に整えられた社会に生きる、私たちから遠ざかりつつあるもの。
肉体の存在感、手触り、におい、痛い、冷たい、寒い、暑い、食べ
る事、排泄すること、与えられた生の時間に対する敬虔な気持ち、
喜び、規則的に鼓動する心臓の奇跡、そして言葉で捉えきれないた
くさんの感情が、現代の九相図を見ているとあふれてくる。なんと

(上)
あやうい容器に、私たちの命は入っているのだろう。

女神の死、または……
肉体というつかの間の容器に、やがて死すべき運命とどうにも制御し
がたい性とをごった煮に詰めて、われわれの儚い生はあやうく営まれて
いるのではないか。
「野に打ち棄てられた死体」が喚起するイマジネー
ションの普遍性、という魅惑にみちたつぶやきの言葉を、山本聡美はそ

8
の書の終わり近くに書き留めていた。九相図から立ちのぼってくるエロ
スのさざめきの、なんと妖しくかぐわしいことか。

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それにしても、わたしには、中世人のなかにはあったらしい、
「死体

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の絵の奥にある清浄なる世界への憧れ」というものが、どうにもわから

(第 8 回)
ない。そして、美女の死と腐敗という映像的なイメージによって、エロ
ス的な欲動を無化・消散させようとする九相図の漂わせる、なにか途方

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
もなく的外れの情けない表情にも、心疼くものがある。男という性こそ
が、滑稽きわまりない原罪を背負わされているのかもしれない、といっ
た留保もまた必要だろう。
腐敗と恐怖をめぐる形而上的な問いへ 
夢野久作の『ドグラ・マグラ』
(『夢野久作全集 の一節、
』ちくま文庫)

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まさしく核心をなす一節には、ある絵巻物が登場してくる。中国は、玄
宗皇帝と楊貴妃の時代、呉青秀という若き秀才の絵描きが宮廷に仕えて
いた。その未完の作品である。十一月のある日のこと、呉は美しい妻と
幽界で巡り会う約束を固めてから、別離の盃を交わし、哀傷の涙を流す。

(上)
やがて斎戒沐浴して化粧を凝らした黛夫人が香煙のなか、白衣をまとい

女神の死、または……
寝台に横たわると、呉は乗りかかって絞め殺す。それから、死骸を丸裸
し き
にして肢体を整え、香華を散じ神符を焼き、屍鬼を祓い去ってから、紙
をのべ、畢生の心血を注いで極彩色の写生を始めた、という。
ごと
……呉青秀は、こうして十日目毎にかわって行く夫人の姿を、白骨

8
とど
になるまで約二十枚ほどこの絵巻物に写し止めて、玄宗皇帝に献上
は か
し、その真に迫った筆の力で、人間の肉体の果敢なさ、人生の無常

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さを目の前に見せてゾッとさせる計劃であったという。ところが何

18
ふゆぶん
しろ防腐剤なぞいうものが無い頃なので、冬分ではあったが、腐る

(第 8 回)
のがだんだん早くなって、一つの絵の写し初めと写し終りとは丸で

姿が違うようになった。とうとう予定の半分も描き上げないうちに

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
屍体は白骨と毛髪ばかりになってしまった……というのだ。
当然とはいえ、極彩色のリアリズムでなければいけない。美しい女が
死んで、腐敗し白骨になるまでの姿を克明に写生し、それを眺めること
によって、皇帝が人間の肉体のはかなさや人生の無常に目覚めることが
期待されている。女の屍体はあらかじめ丸裸にされている。女への肉欲
に縛られることへの戒めだ。九相図の思想と変わらない。女の肉体が美
から醜へと避けがたく変容してゆく場面に立ち会うことが、いったい何
をもたらすというのか。ここにはきっと、何かが周到に隠蔽されている、
そんな気配が漂う。

(上)
いずれであれ、そうして六枚の色鮮やかな絵が残された。

女神の死、または……
せっぱく
◦第一の絵/「死んでから間もないらしい雪白の肌で、頬や耳には
えんじ
臙脂の色がなまめかしく浮かんでいる。その切れ目の長い眼と、濃
まつげ おとな
い睫毛を伏せて、口紅で青光りする唇を軽く閉じた、温柔しそうな
0 0 0 0 0
みめかたちを凝視していると、夫のために死んだ神々しい喜びの色

8
が、一パイにかがやき出しているかのように見えて来る」
は だ
◦第二の絵/「皮膚の色がやや赤味がかった紫色に変じて、全体に

19
は 0 0
いくらか腫れぼったく見える上に、眼のふちのまわりに暗い色が泛

20
ただよ やや
み漂い、唇も稍黒ずんで、全体の感じがどことなく重々しく無気味

(第 8 回)
にかわっている」
うしろ
◦第三の絵/「もう顔面の中で、額と、耳の背後と、腹部の皮膚の

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
ただ
処々が赤く、又は白く爛れはじめて、眼はウッスリと輝き開き、白
い歯がすこし見え出し、全体がものものしい暗紫色にかわって、腹
ふく
が太鼓のように膨らんで光っている」
◦第四の絵/「総身が青黒とも形容すべき深刻な色に沈みかわり、
まじ すべ あばらぼね
爛れた処は茶褐色、又は卵白色が入り交り、乳が辷り流れて肋骨が
あら ほころ
青白く露われ、腹は下側の腰骨の近くから破れ綻びて、臓腑の一部
がコバルト色に重なり合って見え、顔は眼球が全部露出している上
に、唇が流れて白い歯を噛み出しているために鬼のような表情に見
かみのけ
えるばかりでなく、ベトベトに濡れて脱け落ちた髪毛の中からは、
美しい櫛や珠玉の類がバラバラと落ち散っている」

(上)
つい
◦第五の絵/「今一歩進んで、眼球が潰え縮み、歯の全部が耳のつ

女神の死、または……
け根まで露われて冷笑したような表情をしている。一方に臓腑は腹
ぼ ろ き
の皮と一緒に襤褸切れを見るように黒ずみ縮んでピシャンコになっ

てしまい、肋骨や、手足の骨が白々と露われて、毛の粘り付いた恥
こつ
骨のみが高やかに、男女の区別さえ出来なくなっている」
◦第六の絵/「唯、青茶色の骨格に、黒い肉が海藻のように固まり

8
附いた、難破船みたようなガランドウになって、猿とも人ともつか
ぬ頭が、全然こっち向きに傾き落ちているのに、歯だけが白く、ガ

21
ックリと開いたままくっ付いている」

22 (第 8 回)
たとえば、『大智度論』などに示されている九相観には、以下のよう
な九つの屍体が腐敗してゆくプロセスが記されている(山本聡美「日本に

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ

おける九相図の成立と展開」『九相図資料集成』所収)
ちょうそう
一、脹相/顔色は黒ずみ、身体が硬直して手足があちこちを向く。
革袋に風を盛ったように膨張し、体中の穴から汚物が流れ出す。
かいそう
二、壊相/風に吹かれ日に曝されて皮肉が破れ、身体は裂け変形し
識別できない。
けちず そう
三、血塗相/皮膚の裂け目から血が溢れ所々を斑に染め、地にしみ
込んで異臭を放つ。
のうらんそう
四、膿爛相/膿み爛れ腐った肉が、火を得た蝋のように流れる。
しょうおそう
五、青瘀相/残った皮膚や肉が風日で乾き黒変する、一部は青く一

(上)
部は傷んで痩せて皮膚がたるむ。

女神の死、または……
たんそう とび
六、噉相/狐・狼・鴟・鷲などに噉食される、禽獣が争って手足を
引き裂く。
さんそう
七、散相/頭と手と五臓が異なる所に散らばり、もはや収斂しない。
こっそう
八、骨相/二種あり、一種は膿膏を帯びた一具の骨、一種は純白の
清浄色でばらばらになった骨。

8
しょうそう
九、焼相/焼かれた骨。

23
九相観とは、死体の変化を九つのプロセスに分けて観想する、いわば

24
イメージトレーニングによって肉体への執着を滅却することをめざす仏

(第 8 回)
教の修行のひとつである。おそらく、ここに示した『大智度論』の九相
観なども、実際に屍体を前にして、その腐敗と白骨化のプロセスを執拗

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
に観察したうえで、しかもそれを、イメージトレーニングに利用しやす
い形に簡潔にまとめたものであったにちがいない。
それと比べてみれば、
『ドグラ・マグラ』の絵巻物は、観想=イメー
ジトレーニングに適したものとはいえない。あまりに細密な極彩色のリ
アリズムであり、逆に、イメージの自由な飛翔が阻害される。第一の絵
は当然のように、男のなかに性的な欲望をもっとも鋭利に顕在化させね
ばならず、それゆえに、いやおうもなく「女性の身体を思うがまま眺め
ることのできるポルノグラフィックな絵画」 に
(前掲書・山本聡美による)
近接することになる。男の視線は、雪白の肌、臙脂の色がなまめかしい
頬や耳、切れ長の眼、濃い睫毛、口紅で青光りする唇といったものに吸

(上)
い 寄 せ ら れ る。 そ こ に は い ま だ、
「夫のために死んだ神々しい喜びの

女神の死、または……
色 」 が 浮 か ん で い る。 そ れ は し か し、 時 の 経 過 と と も に、 す み や か に
「鬼のような表情」
「冷笑したような表情」に変わり、
「毛の 粘り付いた
恥骨のみが高やかに」男女の区別すらわからなくなり、ついには、「猿
とも人ともつかぬ頭」に成り果てるのである。
東洋的な屍体愛といったところか。深入りはしない。ただ、ここには、

8
見る者に肉欲のはかなさや人生の無常に目覚めさせる、といった建て前
の理由ではどうにも収まりがつかぬ、何かが見え隠れしている。それを

25
否定するのはむずかしい、とだけ言っておく。

26
さ て、 こ こ で は、 た と え ば ジ ョ ル ジ ュ・ バ タ イ ユ の『 エ ロ テ ィ シ ズ

(第 8 回)
ム』 の「第一部第四章 生殖と死との類縁」のな
( 澁 澤 龍 彦 訳、 二 見 書 房 )
かに見いだされる、腐敗にまつわる形而上的な考察に眼を転じてゆく。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
バタイユによれば、もっとも基本的な禁止は、死と生殖という相対立
する二つの領域に根ざしている。しかも、それらは対立しながら還元可
能なものだ。ある者の死は、生殖に仲立ちされて、ほかの誰かの誕生と
相関的である。死はたいてい誕生を予告し、誕生の前提条件でもある。
生はまず、「生のために場所を残しておく死に従属し、次いで、死に続
く腐敗に従属する」が、この腐敗は「新たな存在をたえず産み出すため
に必要な養分を循環させる」という役割を託されている。とはいえ、生
はやはり死の否定、死の断罪であり、また死の排除である。
こうした死に対する反応は、人類において最も強く、死の恐怖は単

(上)
に存在の消滅に結びつけられるばかりでなく、また死者の肉体を生

女神の死、または……
の普遍的な醗酵に返す腐敗にも結びつけられる。(略)
直接的な恐怖
が、死の恐怖させる面と、その悪臭を放つ腐敗と、あの胸をむかつ
かせる生の基本的な条件との同一化の意識を─ 少なくとも漠然と

ながら 維持していたのだ。古代の民族にとっては、臨終の苦悶
の瞬間も、解体の過程に結びつけられているだけである。白骨には、

8
蛆に食い荒らされた腐肉の堪えがたい外観はすでにない。(略)
生き
残った者たちは、白骨を眺めて、この死者の憎悪が慰撫されたもの

27
と考える。彼らにとって尊敬すべきもののように見えるこの骨は、

28
死の上品な ─ 荘厳な、堪えられる ─ 最初の面貌をあらわしてい

(第 8 回)
るのであり、この面貌はまだ不安をあたえはするが、少なくとも腐
敗の激しい毒性を失っているのである。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
たしかに、死の恐怖は肉体が腐敗するという事実と強く結ばれている。
『 古 事 記 』 の 物 語 り す る イ ザ ナ キ の 黄 泉 国 訪 問 譚 の な か で は、 ま さ に
「うじたかれころろきて」いるイザナミの姿を見たことが、恐慌状態を
ウミワ
ひき起こし、ただちに逃走を促したのである。
『日本書紀』では、「 膿沸
ウジタカ
き蟲流る」と表現されていた。ここに顕われた「肉体的嘔吐感と臭気」
こそは、生が肉体の腐敗とともに不可逆に死の領域へと移行
(西郷信綱)
することを示唆しているはずだ。腐敗の激しい毒性としての、膿みと蛆
虫。だから、腐敗ののちに訪れる白骨化は、死者の憎悪/生者の畏怖が
ともに解消される契機となるだろう。白骨はもはや生き残った者たちに、

(上)
嫌 悪 や 恐 怖 を 感 じ さ せ る こ と は な い。 そ れ は「 死 と 解 体 の 基 本 的 な 和

女神の死、または……
解」をもたらすのだ。九相図のフィナーレが骨相で閉じられるのはむろ
ん、そのためである。
さらに、バタイユによれば、腐敗から生命を発生させる力はひとつの
素朴な信仰であり、腐敗によって「私たちの内部に呼び起される魅惑の
混った恐怖の感情」と対応している。腐敗は魅惑と恐怖を呼び覚ます。

8
腐敗はまさに、われわれが「そこから出てきて、そこへ帰ってゆく」世
界そのものの要約であり、引き裂かれた両義性をはらんでいる。「活気

29
にみち、悪臭を放ち、生温かく、恐ろしい面貌をしたこれらの物質、そ

30
のなかで生命が醗酵し、卵と胚と蛆がうごめいているこれらの物質こそ、

(第 8 回)
0 0 0 0 0 0
私たちが嘔気とか悪感とか悪心とか呼んでいる、あの決定的な反応の根
源にあるもの」だ、そう、バタイユは述べている。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
あるいは、恐怖と恥辱とは、われわれの誕生と死に同時に結びついて
いた、ともいう。ここでのバタイユはとりわけ明晰であった。
屍体に対していだく恐怖は、人間の源泉としての下腹部の排泄に対
して私たちがいだく感情に近いのだ。恐怖の感情は、私たちが猥褻
と呼ぶ肉欲的なものを眺めた場合のそれに似ているだけに、この二
つの比較にはますます意味があろう。性器の導管は排泄する。私た
ちはこれを「恥部」と呼び、肛門をもこれに結びつけている。聖ア
ウグスティヌスは、生殖器官と生殖機能の猥褻さについて苦しげに
主 張 し た。
「私たちは糞と尿のあいだから生まれるのだ」と彼は述

(上)
べている。私たちの糞便は、屍体や月経の血に対する規則に似た、

女神の死、または……
細心な社会的規則によって条文化された禁止の対象となってはいな
い。しかし全体的に眺めれば、汚物と腐敗と性欲の領域は、ずれな
がらも一つの領域を形づくっており、その関連はきわめてはっきり
しているのである。

8
九相図がなにゆえに、あのように妖しく、ときに艶かしくポルノグラ
フィに近接するのか、その謎の一端がほどかれている。屍体への恐怖は

31
どこかで排泄に繋がっている、という。そう言えば、九相図はいったい、

32
死による肉体の弛緩がもたらさずにはいない糞尿を描いたか。いずれで

(第 8 回)
あれ、性器の導管は精液ばかりでなく尿や経血を、肛門は糞便を排泄す
る。生殖から新たな命の誕生へと、思えばそれは、「糞と尿のあいだ」

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ
にくり広げられる出来事ではなかったか。こうして、まさに「汚物と腐
敗と性欲の領域」は恐怖と恥辱にまみれながら、ひとつの領域として再
発見されねばならない。それゆえにであったか、猥褻と呼ばれる肉欲的
なカテゴリーとも無縁ではありえない。
さらに、バタイユは次のようにも述べていた。
もし私たちが本質的な禁止のなかに、激しいエネルギーの放蕩、
オ ル ギ ア
消滅の大饗宴と見なされた自然に対する存在の拒否を見るならば、
私たちはもはや死と性欲とを区別することができなくなる。死と性
欲は、自然が存在の底知れぬ豊饒を祝う祭の極期でしかなく、両者

(上)
とも、存在それぞれに固有な持続の欲望に逆らって、自然が行う無

女神の死、または……
制限の浪費の意味をもつものだからである。
死と性欲とは、
「自然が存在の底知れぬ豊饒を祝う祭の極期」でしか
なく、それはまた、持続の欲望を切断するような「自然が行う無制限の
浪費」でもあった、という。そうした意味合いでは、もはや死と性欲と

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を区別することさえ困難となる。九相図を仏教的な、あるいは中世的な
文脈からひとたび切り離して、考察の対象にすることが必要なのかもし

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れない。たとえば、祝祭と蕩尽といった視座から、死と性とがあやかし

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の交歓を果たす九相図に向けて、新しい光を射しかけてみたい、という

(第 8 回)
ことだ。

赤坂憲雄/歴史と民俗のあいだ

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