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を築いた人々

15 曰 !^ 4 - 5 9 3 - 5 3 4 2 8 - 3
ガ『ロ が』白 土 三 平 さ ん の ヵ 「ム ィ 伝 を
」柱 に 、 ま ん が 家 登 竜 門 の
月 刊 誌 と し て 創 刊 さ れ た の は 、 一九六 四年七 月、 著 者 は 当 時 、 大 学
た 。す で に 熱 烈 な る 白 土 三 平 フ ア ン だ っ た 著
を山年業したばかりだつ
者 が 、 ガ『ロ の』版 元 .青林堂社主長井勝一さんを半ば脅迫し、 ガ『
ロ 』
編 集 部 に 入 っ た の は そ の一一年後、 以 後 あ し か け 五 年 勤 め て
いる。
本 書 に は 一 九 七 〇 年前 後 、著 者 と と も に ガ『 ロ 』 に情熱を傾け、
時 を 経 ず し て 中 堅 作 家 と 認 め ら れ て い っ た 作 家 た ち の 若姿
きを 、出
会 い か ら始 ま り 、個 々 の 作 家 の作 風 、 日 常 の エ ピ ソ ド 、 そ し て 性
I
癖 や 人 と な り ま で 、表 現 豊 か に 、肌 理細 か く 描 い てい る 。
ヵバーの ガ「
ロ 表
」紙写真は青林堂提供
0

マン ガ 年 私 史
3

を築いた人々
佐々 木 マ キ 「
版画集軽気球」(
亜里馬々工房,1971^ 10,限定50部)
林静ー「
美人画」
^||| 1
1 ^6^*1
: : 納酬两

湊谷夢吉「
銀河探偵局事件帳」(
「モ ー ニ ン グ 」 臨時増刊, 1987〉
氺口絵原画はいずれも著者蔵
ガロ を 築いた人々



マンガ卻年私史
鋭さとやさしさをあわせもつ作家
1白土三平!
豪快さと繊細さがないまぜに
2 水木しげる
寡 黙 ^寡 作 、 天 才 肌 の 純 マ ン ガ 作 家
3っ げ義春 I
苦 闘の 末 の一 八〇 度の転換
4淹田ゅぅ I
時代の暗部を照らした作品群
5 っげ忠男 --
----
----
----
白 土 三 平 さ ん革
の「命 的 宣 言に
」応 え る 劇 画 正 統 派 作 家
6 池 上逢 一I
豊かな知性と戦闘的諧謔の精神
7 佐々木マキ -
---
---
---
---
--
人間の哀しみや不安の極北を暗示しつつ
8林 靜 ー -
一、 ニ 、 三 、 の 吉 祥 寺 グ ル 彳 プ1プ ラ ス
9 鈴


ニ と三橋乙揶 —
雄弁家石子順造さんと編集部の人々
扔 ガ
『ロ のぅちそと
』 ー
自虐的で孤独な女〃名美〃の世界に浸る
石井隆“ -
---
---
-
不遇にして創作欲旺盛な天才肌の少年
2 菅野修 ----
シ ャ ープ で な お 軟 ら か 、 洗 練 さ れ た 都 会 風 の 画 像
伊藤重夫
3

--------
1

焦 燥 感 と 孤 立 感 に 苛 ま れ つ つ 、 志 半 ば…
に…
して
-
羽鳥
ョシユ

4
I
1
湊谷夢吉
邠年代、 マンガ界でもっとも期待された作家

「と が きに
」か え て-----------
装丁小林健三
鋭さとやさしさをあわせもつ作家
忍『
伝説化した安保闘争下 者 武 芸 帳』

メモ帳を片手に、 友人と 私は 、沈みかけ た太 陽を 背に、大根畑の中をウロ ウロし てい
緩やかな傾斜地にひろがる畑
則1地
にしを て 、私 た ち は 、ち ょ つ と オ ー バ
ま「ー
るにでこ
、こ

」冗 談 を と ば し た 。 そ し て 、 都 内 に は ま だ こ ん な 広 々 と し た 景 色 が 残 っ
は北海道だねえ
ているのだとしきりに感心していたのである。
1 白土三平

友人と私は、もちろん大根畑の観察にやってきたわけではない。 メモ帳のはしには、
馬区春日町 番地と 住所 だけ が記し てあ った 。 この住所こそ、私たちがいま訪ねょぅと
X X
している白土
一一一平さんの住まあ
いの ころだつた。

9
る と
私 が 白 土 三 平 さ ん忍の
『者 武 芸 帳に
』触 れ た の は 、 一九 六 一 年 の 終 わ り か 翌 年 の は じ め
頃 で は な か っ た か と 思 、っ。 ま だ 玉 電 が 走 っ て い る 頃 の 三 軒
近〖茶
く屋のの
古交本叉
屋占をの
ぞくと、歩道に 置か れた 一 〇〇円均 一の段 ボー ル箱の中にその本があった。 私は、 胸と
め か せ な が ら忍
、『者 武 芸 帳』
ー五卷目を買い求めた。
そ の 頃 す で に忍
、『者武芸帳
に』対 し て 、
2ハ〇 年 安 保 闘 争 時 、学 生 の あ い だ で 読 み つ が れ
た々といった噂を耳にしな いで はな かった が、 それは、 やはり噂の域を出るものではな
よ 、っ に 思 え た 。 と い ぅ の も 、 私"
六自〇
身年、安 保 闘 争 "の 渦 の 近 く に 身 を お い て い た の だ
が、 た だ の 一 度忍
も者 武 芸 帳の 話 題 に 接 し た こ と は な か っ た か ら だ 。
『 』
一九六〇 年 の 四 月 か ら 六 月 に か け て 、 国 会 に 向 け て"
安連保日阻連止夜"のの デ モ が 展
開され、学生たち は、議 事 堂 や 葛 官 邸 の 前 で 座 り 込 み を つ づ け て い た 。 その何時間も
あいだ、 たちは、意外
0可にあ い あ い と 雑 談 に 興 じ て い た 。 あ ち こ ち で 笑 い が は じ け 、
労働歌や革命歌にまじって旧制高校の寮歌や民謡までが退屈をまぎらわすかのよぅに歌
れ て い た 。 私 た ち の よ 、っ な 学 生 大 衆 に と っダ
ては
ー た
ー、ちリ
の政治的深刻さは遠い存在
であった。 し た が っ て 、 広 場 や 道 路 を 埋 め つ く し た 数 十 万 の 群 衆 の 中 に 悲 憤 感 は ほ と ん
感じられなかった。もしかり
あにる重、さ や 深 刻 さ が 押 し 寄きせたてと
す れ ば 、 それは六
月 一 五 日 の 夕 刻 を す ぎ て か ら だ ろ 、っ。 と も か く 、 ア ン ポ の 熱 気 の 中 に あ っ て 、 私 は 、 白
三平の名も、
忍『者 武 芸 帳』
の名も一度も聞くことはなかった。
藤川治水の
白「土 三 平 論」
藤 川 治 水 さ ん思 が『想 の 科 学誌』 上 に白「土 三 平 論を
」発 表 し た の は 、 安 保 の 嵐 が 去 っ
忍『
て 一 年 が す ぎ た 頃 だ っ た ろ ぅ か 。私 は 、藤 川 論 文 を 読 ん で 大 変 者感
に 武動
芸し帳た』。
を 六 〇 年 安 保 の ア ナ ロとジ見 る こ と に つ い て は 首 を 傾 げ た か っ
ー 忍た者が
『 武、芸 帳の ド

ラ マ ツ ル ギ ー を 説 く 場 面 で は 、 心 動 か さ れ る も の が 多 々 あ っ忍た
『者。武そ芸し帳
をて
』、
知らなかつたことを不に思つた。
たしかに、 忍『者武芸帳 は』、 あ た か も 安 保 闘 争 と 重 な る ょ ぅ に 、 五 九 年 の 暮 れ に 第 一 巻
が出 たあと 、 六 〇年 、 六 一 年 と 一 六 巻 ま で が つ づ い た 。 だが 、 この本は、 貸 本 屋 以外 に
ま わ る こ と は な か っ た 。 多分、 この頃、 貸 本 屋 に 群 が っ た の は 、 小 中 学 生 と 、 六 〇年安
1 白土三平

と は 無 縁 の 未 組 織 の 青 年 労 働 者 た ち で あ っ た忍
。『者
そ武れ芸が帳周
』辺 の 現 実 で あ っ た
と田っ。
^'
私は、三軒茶屋で古本を手に入れて間もなく、熱烈な白土三平ファンとなっていった
古本屋、貸本屋をくまなく探
忍『し
者、武 芸 帳だ
』け で な く 、 白 土 マ ン ガ の 収 集 に の り だ し
ていた。
白「土 さ ん に 会 い に 行 こ」

やがて私は、大、
ぎ 出 る と 小 さ な 新 聞 社 に 就 職 し た 。 編 集 部 員 の 中 に 、 同 じ ょ 、っ に マ
ガに熱中していた先輩の八がいた。 八とは年がわずかしか離れていなかったので話が合っ
た 。 八 は 、 ハ ィ デ ヵ ー だ と か 、 キ ル ケ ゴ ー ル だ と か 、 サ ル ト ル だ と^か!
目を年口 に す る 哲
で あ っ た が 、 こ と マ ン ガ に 関 し て は た だ の ミ ー ハ ー で あ っ た 。白 土少
三『年
平サのことが、
ンデー に 』連載中の サ「ス ヶ 」
のことが繰り返し繰り返し話題にのぼった。
あ る 日 、 一一人は、 白 土 三 平 に 会 い に 行 こ う 、 と 決 意 し た 。
白「土一一平 は 誰 に も 会 わ な い そ う」だ
と い う 噂を聞 くにお ょび、 私 た ち は ま す ま す 白 土さん の実像 を知り たくなっ た。 八方手
をつくして住所だけ
なはん と わ
か かった。土曜日の午後、仕事を終えると、池袋に出て、
西 武 線 に 乗 り !!
震園で下車した。
私たちは心細くなっていた。夕閨が迫っていた。白菜畑の向こうに新興の建売住宅が並
んでいた。 近づいて表札を見るとメモ帳に記した番地と少しの違いだ。 だが、白土さんが
真 新 し い 家 に 住 ん で い る と は 思 え な か っ た 。 あ た り が ま っ 暗 に な っ た 頃 、 私 た ち は 、櫸 並
木の続くいかにも古そうな道に出た。裸電球を^
つり^屋下
がげ目た
の 前 に あ っ た 。 店の
ア「
お じ さ ん に メ モ 帳 を 開 げ 、住 所 の 場 所 を た ず ね た 。す る と お じ さ ん は 、 住所だけみて、
ア 、 白 土 さ ん と こ ね 、 す ぐ そ こ 右 に 入 つ た とIト
このの一
ア番パ右 ネ !

」、 簡 単 に 教 え
てくれたのである。拍子抜けした感じだ 白「土た
っ 三。平は秘密主義だからと な
」いあ 、っ、
誰 か の こ と ば が 噓 の ょ 、っ に 思 わ れ た 。
木造 二階建 ての ア パ ー ト は 、 いつ 頃建て られたものか想像もつかなかったが、 老朽化が
め だ っ て い た 。 一 番 右 の 部 屋 の 前 に 立 っ て 、 白 土 さ ん の 名 を 呼 ん だ 。 ド ア が 開 い て 、 女の
人が顔を出した。私たちは、すっかり緊張して、
白「土 さ ん の フ ア ン で す 。 お 会 い で き ま」すか?
白土三平

と だ け 言 っ た 。 そ れ 以 外 の 理 由 は な か っ た の で 、 こ 、っ い う い い 方 し か で き な か っ た 。 女
の人は怪詠そうに私たちの
ま顔じを
ま じ とて見い た 。
とうのたった白土ファン
そ の と き 、 私 た ち は ニ 〇代 の 半 ば に さ し か か っ て お り 、 マ ン ガ の フ ア ン とし ては だ いぶ
と う が 立 ち す ぎ て い た 。 女 の 人 は 、 二 階 を上
指「に
さいしま
、す か ら
と」い っ た 。 二 階 に は
別階段から通じるょうになっていた。 二階の部屋の前で、再び、
こ「ん ば ん わ」
と 声 を か け た 。 す ぐ に ド ア が 開 い て 、 目 の 前 に 白 土 さ ん が 立 っ て い た 。 私 た ち は 、 白土
さんを似顔絵くらいでしか知らなかったが、 目の前の陽焼けした精悍な感じの青年が白土
さんだということは一目でわかった。

「ア ン で す」
と言っ たあと 、 あ や し い 者 で は な い と い う 証 拠に お互いの 名刺を 差し出し た。 白土さん
は、 フ
「ーン 」
と言 つ て 、し ば ら く し て 、
そ「れ で ? 」
とその銳い目で聞き返した。あわてた私たちは、
色「紙 に サ ィ ン も ら え ま す か
」?
とだけしか言えなかった。
ち「よ つ と ま つ て」
と 言 、っ と 白 土 さ ん は 一 度 ド ア を 閉 じ 、 そ し^ナ

― ー
、トの上
レにジヤンハーを 着 こ むと、
裏「へ 行 こ う か」
と言った。 そっくりなア ト
ーパがもう一棟後ろに建っていた。白土さんはサンダルをひ
っ か け る と 足 早 に 歩 き 、 裏 手 の-アの
^バ一丨
一 階 へ の 階 段 を 忍 者 の よ う に 飛 ぶ よ 、っ に 登 っ た 。
ドアを開けると一〇畳ほどの広さの仕事部屋だった。 三人ほどの人が、座り机で原稿用
紙に向かって黙々とペンを走らせていた。まん中にちゃぶ台があり、白土さんが、
ど「う ぞ 」
と 、っ な が し た 。 仕 事 を し て い る 人 た ち が チ ラ ッ と 振 り 向 い た 。 私 た ち は 、 あ い 変 わ ら ず
緊張したままである。
想像どおりのやさしい作家
白土三平
八 が よ 、っ や く 、 キ ノ コ の 話 や ら 動 物 の 話 や ら 、 白 土 作 品 に 関 連 す る 話 を つ づ け た 。 白 土
1 さ ん は 、 風 貌 に 似 合 わ ず 、 次 第 に 目 を 細 め 、 楽 し そ 、っ に 耳 を 傾 け て い た 。 私 は 、 想 像 し て
い た と お り の や さ人
しだい 、と そ の と き 思 つ た 。

16
サ「ス ヶ が か わ い い


「貫 目 が カ ッ コ ィ 」

〇 〇 の術は難しそぅです
「 」ね
蛍「火 は じ つ に 魅 力 的」

と 、 私 た ち は 年 が い も な く ミ的
ー態ハ度 を 臆 面 も な く あ ら わ に し て い た 、 仕 事 を し て

いた若い人がお茶を出してくれた。 他の人たちも、私たちのあまりに幼い発言に爆笑し
いた。 白 土 さ ん に と っ て も 、 ま わ り の 人 た ち に と つ て も 、
り し て 二人は、小-
学生と変わら
な い 白 土 フ ア ン と 映 っ た だ ろ 、っ。
最後に白土さんは、私たちの要望にこたえてくれた。色紙を手にして、
何「を 描 け ば い い の か な」

と言った。 即座に八が、
四「貫 目 」
と 答 え た 。 白 土 さ ん は 、 い っ き に 四 貫 目 を 描 き あ げ 、 も 、っ 一 枚 に 、 木 々 の 間 を 飛 ぶ サ
ヶの姿を描いた。
そ れ か ら 数 週 間 し て 、 私 た ち は 、 再 度 、 白 土 さ ん の ア パ ー則ト
1回を
の訪おね
礼たを。

ねて、 八が東 北旅行 の土産のこけしをたずさえていた。
白「
土さんのマンガに出てくる子どもたちに似ているのが見つかつた
」も の で す か ら
と差し出すと、白土さんは、
ホ「ン ト に よ く 似 て い る ね
」え
と嬉しそうだつた。
前 回 と 同 じ よ 、っ に ア シ ス タ ン ト た ち が な ご や か な 雰 囲 気 の な か で し き り と ぺ ン を 動 か
ていた。 そこには、 零細工
1 場所
のに み う け ら れ る ぬ く も り み た い な も の が 感 じ ら れ た 。
白土さんも、他の人も無駄口をきくわけではない。 かといつて無愛想なわけでもない。
ま に 手^ :め 、 人 の 話 に 耳 を 傾 け 、 そ し て 、 お か し な 話 に 微 笑 み 、 時 に ド ッ と 笑 う と い つ
たごくごく庶民的な光景がそこにはあつた。
許 初めての原稿依頼

白 こ の 頃 、 ベトナム戦争が泥沼化し、 アメ リカ軍による北爆は激しさを増していた。 そ
1 て、 私 の 勤 め る 新 聞 で も 北 爆
1 へをのこ め た 記 事 を 構 成 す る こ と に な つ た 。 よ り 広 範 囲
の 人 々 か ら の 意 見 を 掲 載こすとると
し、 そのひと りに私 は、白 土三平 さ ん を 推 挙 し た 。
三 た び 白 土 さんの アパート を訪ね ることに なった 。 裏 の 仕 事 部屋にお もむき 、 用件を
えると、 困惑気味ではあったが、部屋に招き入れた。 私は、さらに詳しく説明して、原
の. 依頼をした。白土さんは、 ニコリともせず黙って聞いていたが、私の話を聞き終わ
ると、 私 の 顔 を ジ ッ と見つめ ながら ロを開い た。
それは、自分だけが特別扱いされないこと、自分の名を利用しないこと、あらゆる職
の 人 び と の 意 見 も の せ て 欲 し い こ と 、 と い 、っ 内 容 だ っ た 。 一 党 一 派 に 偏 ら な い 、 ひ ら か
たものにして欲しいという要望も加えられた。私たちも同意見であったので、白土さん
の間で混乱や行き違いが生じることはなかった。
一〇 日 ほ ど し て 仕 事 場 を 訪 ね る と 、 白 土 さ ん は 、 向 か い の 自 分 の 部 屋 に い こ う と 言 っ
六 畳 く ら い の 部 屋 だ っ た ろ 、っか。 陽 の 当 た る 畳 の 上 に 原 稿 用 紙 を 広 げ る と 、 読 ん だ 感 想
聞かせて欲しいと言った。 そこには、 いかにも白
^ 土
さ作せ品
るをょ;
、っ な ダ ィ ナ ミ ッ ク
な 内 容 がつまっ ていた 。 六 〇年安保を 想起さ せるほ どの正 義 感 が あ ふ れ て い た の だ っ た
そ う ^^え る と 白 土 さ ん は
さ「っ き も み ん な に 読 ん で も ら っ た ん だ け ど ね 、 少 し は げ し す ぎ る ん じ や な い か 、 ア
キ す ぎ る ん じ や な い か 、 と い 、っ 意 見 も あ つ て ね 。 ぼ く も じ つ く り 考 え な い で 書 い ち
— ー
や つ た の で 、 も 、っ 一 日 考 え る こ と に」
するよ
と言つた。
翌々日に同じ部屋を訪ねた。前 の原稿に比べると、 いくぶんトーンダウンしているよ
に読めたが、全体の骨子は少しも変わってはいなかった。 そのときの白土さんの文章は
のごとくである。
自「由 と い 、っ も の は 自 国 の 国 民 が 章 主 心 と 力 で か く と く す る も の だ 。 他 人 が あ た え て く
たものに自由はない 中(
。略 )
今、 日本はアメリカと一緒になって、自由のために闘っているヴェトナム人の戦士
殺すことに参加しているのであ中(

略 。)
今やいつ第一一一次大戦に転化しかねないヴヱトナム戦争に全日本人が反対し、 アメリ
軍 のI 活 動 即 時 停 止 の た め に 行 動 を 起 さ な け れ ば な ら な い と き だ 。
白土三平

ゼネストを中心に、 老人から子供に至るまで、連続的なデモをふくめ、あらゆる新
への投書、 ホ ワ ィ ト ハ ウ ス
^1文

1を: 送 る こ と だ 。 そ し て 、 こ の 闘 い は 休 み な く 、 ヴェ
トナム戦争が終るまで続けなければならない。
1
よく蜜蜂の巣を数倍もあるすずめ蜂が襲ぅ。数匹以上のすずめ蜂によって蜜蜂を全
させることができる。 だが、大きな巣をもった蜜蜂は団結し強敵の全身にかみつき、
子のよぅになってついには侵略者をげきたいするといわれている。われわれは蜜蜂に
ろ 、っ 」わ
(「れわれは発言す
I る 日 本 読 書 新 聞一 九 六 五
『 』 .四 .ニ 六 )
ガ『ロ 編
』集 者 と し て
主 冃 林 堂 に 入 社 しガ
、『ロ の
』編 集 に 参 加 す る よ 、っ に な っ た の は 、 翌 年 の 六 六 年 九 月 か ら で
ある。さ っ そ く カ「ム ィ 伝 連
」載 中 の 白 土 さ ん を 訪 ね る こ と に な る の だ が 、 赤 目 プ ロ は 、
以前のところから一キロほど離れた西武線の中村橋の近くへと引っ越していた。
白土さんは、
そ 、っ な ん だ っ て ね え 、 長 井 さ ん か ら 相 談 さ れ た則
「 ん1の
だとけこ
ど辞、め ち ゃ っ た の 、
なんかおしいよねえ 」
と言った。
そ れ か ら と い 、っ も の 、 マ ン ガ のセ
ネ(ーフ
リ ムや
)原稿を受けとるために月にニ、三度
の割合で会社と、赤目プロの間を往復することになった。 ただ、 この頃になると、白土
「ガロ」 1964年 12月号)
白 土 三 平 「カムイ伝」 (
ん は ワ「タ リ と
」 カ「ム イ 外 伝を
」大 手 の 雑 誌 に 連 載 中 で あ り 、 多 忙 を き わ め て い た 。 し
たがって、 赤目プロで白土さんとゆっくり 話をす る暇もなか った。会っても挨拶ていど
あ と は 、 短 い 時 間カに
「ム イ 伝 」
の 校 正 刷 り に 目 を 通 し て も ら わ ね ば な ら な か っ た 。 それ
で も 、カ「ム イ 伝は」五 年 に 及 ぶ 連 載 だ っ た の だ か ら 、 白 土 さ ん に お 会 い し た 回 数 は 相 当 な
ものかもしれない。
六 六 年 の 暮 れ に 上 中 里 の 滝 野 川"

会本館マ
でン ガ 大 会 々 が 開 か れ た と き 、 白 土 さ ん や
長井 さんに くっついて行った。会場には、 ニ〇〇丄ニ〇〇人
|の1っ

^た中。
学演生壇

に は 、 手 塚 治 虫 、 さ い と ぅ た か を 、 小 島 剛 夕 、 楳 図 か ず お 、 佐 藤 ま さ あ き 、 南波健一一
十数名に白土さんが横一列に腰かけ 重、
中:の小
! 質 疑 に 答 え て い た 。 そのとき、白土さん
が 、 小 学 生 の 質 問 に 答 え"
野てぐ
、そ"の 快 感 に つ い て 楽 し そ 、っ に 話 し 、 子 ど も た ち の 爆 笑
をさそっ ていた 。 それは サ
「ス、ケ や」 ワ「タ リ な
」ど の 少 年 向 け の 作 品 を 発 表 し つ づ け る
子ども好き白の土 さ ん を 费 感 姿だった。
さ せ る
虚「無 的 す ぎ る と
わ;
^ れ て ね え」
白土さんと仕事以外の話をしなくなって、 チョッピリさみしい気持ちがしていた六八
頃 の こ と だ 。 白 土 さ んカ
は「ム
、 イ 外 伝の
」感 想 を 突 然 求 め て き カ
た「ム
。 イ 外 伝に
」登 場 す
る 抜 忍 カ ム イ 像 はカ
、「ム イ 伝の
」カ ム イ 像 と 少 し 異 な っ て い た 。 前 者 の カ ム イ は 、 侍 も 農
民も、もちろん仲間の忍者も、さらに、犬や鳥も、 いや植物に対してまで不信感をつの
せていた。追っ手から逃れるためにはカムイを慕う少女や愛らしい子どもをまで犠牲に
た 。 た ぶ ん 、 白 土 さ ん は 、 そ 、っ し た カ ム イ 像 を ど う 思 、っか、 と 問 わ れ た の だ と 思 、っ。
し か し 、 正 直 に 答 え て い い も の か ど う か 迷 っ た 。 が、 迷 っ た あ げ く に 、
カ『ム イ 伝 』
「 のカムイより
外『伝 』
の方のカムイに魅かれま
」す
と ^え
! た。白土さんは、
そ 、っ な ん だ よ な あ 、 し か し 、 た し か に 、 外 伝 は 救 い よ う が な い と い え ば な い ん だ よ ね

みんなに虚無的すぎるといわれて 」ね え
と、苦笑した。
私 が 、外「伝 の
」カ ム イ に 魅 了 さ れ た の は 、 彼 の忍
姿『者
に武、芸 帳の
』影 丸 や 蛍 火 や 、 林
白土三平

崎甚介の影が感じられたからかもしれない。白土さんにおけるロマンティシズムの極点
そ の よ 、っに、 じ つ に ス ト イ ッ ク に 表 さ れ る の だ っ た 。
水木 し げ 5 ^
1 ------------------------ #
豪快さと繊細さがないまぜに
河『
童の三平 の
』世界を彷徨う
私が、水木しげるさんの作品に魅せられていったのは、 シラミつぶしに貸本屋をまわっ
て 白 土 作 品 を や っ き に な っ て 探 し 出 し て い る 最 中 だ っ た 。 勤 め の 帰 り や 、 日 曜 .祭 日 に 未
知の貸本屋を訪ねては、 一冊でも多くの白土作品に出合いたいと願っていた。
そ う や っ て 足 繁 く 貸 本 屋 を 訪 ね る う ち に 、 白 土 さ ん 以 外 の マ ン ガ 家 に も 目 を 向 け る ょ 、っ
になっていた。親しくしている友人たちとの雑談においても次第にマンガについて時間を
費 や すこ 多くなっていった。 そのなかで、手塚治虫や白土三平についで話題をさらっ
と が
たのが水木しげるだった。
水木さんの
鬼『太 郎 夜 話は
』、 白 土 さ ん 忍
の『者 武 芸 帳に
』遅 れ る こ と 数 か 月 し て 、 刊
行 さ れ つ づ け た 。 し か し 、 む し ろ 私 は 、 そ れ か ら し ば ら く し河て
『童発の表三さ平れ
』た
の 世 界 を 彷 徨 っ た河。
『童の三平 か』ら は 、 牧 歌 的 な 理 想 郷 が 感 受 さ れ 、 ま た 、 画 像 を 通 し
て 、リ リ シ ズ ム と 哀 感 が 受 け と め ら亜
れ 魔
たく。んが
『 』発 表 さ れ た の は 、 さ ら に
あそとの
であった。 亜『慶くん 』 の終末論的なペシミズムもまた胸に迫るものがあった。
六四年頃から、白 土 さ ん と 水 木 さ んの作 品を 忍『掲
法載秘し話たが
』続 々 と 刊 行 さ れ る 。
水木さんは、 忍「者 無 芸 帳」「
忍 者 は 一 度 勝 負 す 」「

忍 法 屁 話と」い っ た 、 白 土 さ ん を 一 見
皮 肉 っ た よ 、っ な タ ィ ト ル の 作 品 を 発 表 し た 。 も ち ろ ん 、 そ れ ら は 、 白 土 批 判 で あ ろ う は
が な い 。 水 木 さ ん は 、 そ う い う オ ド ケ タ 姿 勢 を ま と い つ つ 、 池 田 高 度 成 長 政 策 下 に 〃毒
ス 々 をま き散 ら し た 。
現「実 は キ ビ シ ィだの! フ ハ ッ ! と
」 。
勤め先で、同 僚 の 山 根現 貞(男映 画 評 論 家と
.
) 三日とおかずに白土論や水木論をたた

かわせたのは、 一 九 六 〇 羡 も 半 ば で あ っ た 。私 ハち
た ッは
丄、を 連 発 す る 、っす汚い
2 水木しげる


ネズミ男に連 ることで、
I I 自由の味々への接近をこころみていた。
"
その少し前から、水木さん
怪は奇、幻 想 ロ マ 、
" / と称する作品を貸本マンガに発表して
い た 。 そ れ は ひ と ロ で い う と 、 時3代
?剝とと
幻 想 注 を ミ ッ ク ス し た よ 、っな、 既 成 の 貸 本
マ ン ガ に は け っ し て み ら れ な い 分 野 だ っ た 。 山 根 と 私 は鬼、
『太そ郎ぅ
夜し話や
た 河『

童の三平 にはじま る水木しげるの六〇ま前半の活動に大きな意味づけをしていた。私

た ち 一 一 人 だ け で は な い 。 先 輩 の 八 も 、 彼?も
のま友た
人、の水 木 マ ン ガ の 熱 烈 な フ ァ ン で
あった。
悪『魔 く ん に
』心 酔 し て
ある日、 ?に誘われて、某政 治団 体の再 建大 会に 出かけ たこと があ った。会 場には 、
旗 が 林 立 し 、 演 壇 で は 、 大 学 の 先"
世生界
が資、本 主 義
を,
/ 説 き、 近い将来、革命が現実の
も の と な る と 予 言 し て い た 。 八 とオ
私「ィ
はオ、ィ 、 こ こ は 日 本とだ」に
ぜや つ い て い た の
だが、隣 り の を見ると、壇上を真剣に見すえ、 おしみない拍手をおくっていた。
'
?
あ ま り の 熱 気 に 疲 れ き っ た 八 と―私 は
の、終 わ っ た あ と 、 い ま だ 興 奮 さ め や ら ぬ ?を
つれ出し、 神 保 町 近 く の 噢 茶 店 に 入 っ た 。
ド は 、 ボ ー ッ と し て コ-ー ヒ^
--- ッ- フ を 手 に す る 八 や 私 を 前 に ひ と り ご と の ょ ぅ に ロ を 開
---
ぃた。
昔「
から 心あ る人 は、病人、 不具の人、年 老いた 人、 それからさまざま不幸な人も同
よ ぅ に 生 活 で き る 世 界 を 作 ろ 、っ と し た 。 キ リ ス ト 、 シ ャ 力 、 マ ル ク ス 、 亜 簾 く ん 。 み
それぞれ方法は違っているが、 その根本にある考えは同じだ。 世界が一つになり、貧
人や不幸のない世界を作ることは、 おそかれ早かれ誰かが手をつけなければならない
類の宿題ではないか、亜簾くんはそれをやろぅとし と
」た。の だ !
こ れ は 、亜『
魔 く んの
』ラ ス ト 近 く1で 隊 に 射 殺 さ れ た 悪 魔 く ん を 追 憶 す る 蛙 男 の こ と
ば だ 。亜『
賡 く んに
』登 場 す る キ リ ヒ ト 君 に 似 た 端 正 な 顔
はだ、ち
暝の目 し て 、 も 、っ 一 度

'
?
つぶやいた。

「ロ ィ ム^エ ッ サ ィ ム 我 は 求 め 訴 え た り 、 地 上 に 天 国 の 来 た ら
」ん こ と を
こ れ も亜『 簾くん に 』しばし ば出て くる呪文である。 八と私は、 あっけに とられて顔を
見 合 わ せ た の で あ っ た が 、 ド の そ の 熱 き 想 い を 知 れ ば 知 る ほ ど 、 笑 、っ わ け に は い か な か
た。
楽天性を武器に
2 水木しげる

… …
六 〇 羡 半 ば 、貧乏はまだ死語ではなかった。同じ頃、私は、水木マンガを求めて出版
元の佐藤プロを訪ねたことがある。 早稲田の面影橋付近は、 そのロマンチックな地名と
裏腹にクズ鉄工場や
1解の 零 細 会 社 が,密 る さ び つ い た 街 だ っ た 。 そ の 一 角 に 佐 藤 プ
ロはあった。 部 屋 の 片 隅 で は 机 に 向 か っ て 佐 藤 ま さ あ き さ ん や 楳 図 か ず お さ ん が 懸 命 に
ンをはしらせていた。 反対側の台所 では、松森正さんが電 気コン ロで サンマ を焼い てい
貸「本 マ ン ガ も も 、っ 終 わ り じ ゃ な い ん で
」す か ?
と 私 が た ず ね る と 、 も 、っも、っ た る 煙 の 中 で 、 仕 事 の 手まをさ休あめさ
きたん佐が藤

そ「ん な こ と は な い よ 。 水 木 の オ ッ サ ン の よ 、っ な ヘ ン な マ ン ガ は 売 れ な い け れ ど も 、 青
春 も の は こ れ か ら だ か ら ね 、 ね え 楳」
ちゃん
と相つちを求めると、棋図 かずおさん も、
そ「う で す よ 、 こ れ か ら で す よ 、 も 、っ 一度、 貸 本 マ ン ガ に 陽 の 当 た る 」
日がきますから
とニコニコした顔で言った。
じ っ さ い に は 、 貸 本 マ ン ガ は 、 私 の 予 想 通 り 、 半 年 か ら 一 年 も た た ぬ う ち に 、 終 息期を
迎えた。ただ、佐藤まさあきさんや 楳図か ずおさん、 そしてサンマを焼いていた松森正
んたちは、貸本マンガがすっか り亡び た六七年頃から 商業雑誌に登場 し、 予想外の脚光
浴び るこ とになったのである。 私は その とき 、佐藤さんや楳 図さ んの ように 、楽天的で
いと厳しい時代をのり越えていけないのかもしれない、 と思った。
い き な り は じ め貧
た「乏 物 語 」
私は、佐藤プロで水木マンガをしこたま買い求め、水木さんの住所と電話番号を聞い
一週間もたたずに、 私 は 、 調 布 の 水 木 さ ん の お 宅 を 訪 問 し た 。 水 木 さ ん は 、 よ う や く 不
の年に入ったばかりであった。
ま「
さあきは元気でしたか」?
と言って、 水木さんはワッハッ ハと笑った 。 そして、水木 さんは一面識もなかった私
前に 、 いきなり貧乏物語をはじめたのであった。 水木宅はご く普通 の木造 二階 建て であ
外観上 、経済的にそう困窮しているよう には感じられなかっ た。 だが、

「ン ボ ー は つ ら い で す
」!
と繰 り 返 し たそ。し て 、 貧 乏 物 語 の 多 く が 貸 本 マ ン ガ 時 代 の こ と で あ る こ と が 次 第 に わ
かった。
2 水木しげる

鬼『太 郎 夜 話も
』 河『 童 の 三 平も』 悪『 魔 く んも』す ば ら し い マ ン ガ だ と 感 想 を の べ て
も 、 そ れ ほ ど 嬉 し そ 、っ で は な か っ た 。 水 木 さ ん は 、

29
そ「れ が 売 れ ん の でよす! 」
「ガロ 」 1966
水 木 し げ る 「鬼太郎の誕生」 ( ^ 3〉

30
と、 ち よ っ と い た ず ら っ ぽ く 険 し い 表 情 を し て み せ た 。
鬼「太 郎 は み ん な 気 持 ち 悪 い と い う し 、 河 童 の 三 平 は わ か ら ん と い う し 、 亜簾くんにい
た っ て は 売 れ ん か ら 、 と 五 巻 のI予 定
一が一一巻で終わらせて欲しいと泣きつかれたんで
すわ。 だから亜魔くんを突然死なせなくてはならなかった。 ホントに貸本マンガなん
ム チ ャ ク チ ャ で す わ 。 頭 の 悪 い 連 中 が 読 む ん だ か ら 何 で も い い と い 、暴 え な ん で す よ
じ っ さ い そ う か も わ か ら ん で す よ 。 鬼一
太1平
郎もも読
ーま れ ん の で す か
」ら
と 話 し つ づ け た 。 画 い て も 画 い て も 収 入 は 少 し も 増 え な か っ た と い 、っ。 原 稿 料 が 未 払
で あ っ た り 、 版 元 が 倒 産ししまて
った さんざんな目にあったようだ。
り と
働「
いても働いても苦労するたけで
」す わ
と い 、っ こ と ば に は 実 感 が こ も っ て
現「い実たは。キ ビ シ ィ のを

」連 発 す る
忍『法秘話 』
に発表されたシニカルな作品群も、生活実感に根ざしているのがよくわかった。
2 水木しげる

ほほえましい師弟
当時の水木さんの仕事部屋は、六畳一間くらいだった。仕事机の前の窓のさんには、
ニチユアの日本海軍の軍嗌が数隻飾ってあった。 ラバウルの戦闘で左腕を失った水木さ
は 六 〇 ま の は じ め に 戦 記 マ ン ガ を 数 多 く 画 い た 。 そのときモデルとして使用したもの
ろ 、っ。 私 の 父 も ラ バ ウ ル で 小 艦 艇 に 乗 っ て い た と き 、 ア メ リ カ の 潜 水 艦 。
に撃3 沈させられ
おかげで両耳が難聴となり、敗戦後の生活に大きな障害となった。 そんなこともあって
水木さんの貧乏話には他人事とは思えない親近感がわいた。
隣 り の 机 で は 、 唯 一 の ア シ ス タXン
君トがの
、私たちの会話を背に黙々と原稿用紙に向
かっていた。
こ「ん な も の し か あ り ま せ ん
」が
と言って、水
^ ;人 が 現 れ 、 テブ
ー ル の 上 に 腐 り か け て 黒 ず ん だ バ ナ ナ を 置 い た 。 べつ
に驚くにあたいしなかった。 たぶん、その頃の水杰豕の経済状態と私の家の経済状態は
じ水準にあった。くさりかけたバナナとはいえ、私にとっても大変なごち
- そぅだったの
ある。
X君 が ト ィ レ に 行 っ た す き に 、 水 木 さ ん は 、
彼「は 、 ち ょ っ と で も 徹 夜 す る と 、 死 ヌ ーー

、と死オ
ヌー バ ー に 騒 ぐ ん で す
」わ
と言つたあと、
ヒ「
ヒヒッ 」
と 声 を お と し て 笑 っ た 。 そ れ は 、 い か に も ほ ほ え ま し い 師 弟 の 結 び つ き を 伝 え る ょ 、っ
もあった。
テ「
レビくん 顚
」末記
そ れ か ら た い し た 月 日 は た っ て い な か っ た と 思 、っ。 水 木 さ ん は 、 大
テ「手の商業誌に

ビくん と 」い 、っ 作 品 を 発 表 し た 。 こ れ を 機 に 、 水 木 マ ン ガ に も っ と 光 が 当 た れ ば と の 願 い
を こ め て 、 山 根 と私 は 、相 談 し て 小 さ な 新 聞 記 事 を 書 く こ と に し た 。 私 は 、 山根を同行
て、 再 び 水 杰 豕 を 訪 問 し た 。
と こ ろ が 、 そ の 翌 日 、文 京 区 の 大 曲 に あ っ た 勤 務 先 に 水 木 さ ん が 現 れ た の で あ る 。受
の女性の呼び声で玄関先に出てみると、 肩から布製のパッグをさげた水木さんがニコニ
顔で立っていた。 山根にも声をかけ、近くの喫茶店に入った。
水木さんは不安になってやってきたのだった。昨日は、 思い余って出版社や編集者の
2 水木しげる

ロ を 言 って しま った が 、 そ れ が 記 事 に で も さ れ る と 、 こ れ から 仕 事 が こ な く な り 、 もと
貸本マンガの世界にもどらなければならない、 と深刻な顔をつくってみせた。私たちは
水木さんのその姿にまたまた 笑い ころげ てし まっ たので あった が、 私た ちは、水木ワー
ドに関心をもっているだけで、
こ 他
と の
に い
は っさい触れるつもりはこなとい強調した。

それを聞くと一安心したのか、水木さんは、前にも増した強い調子で、大3
手出版社の
を指弾したのであった。
ところで、 話はここで終わったわけではない。 その三日後、浜松町の印刷工場で校正
精 を 出 し て いた 私 たち の 前に 、水 木の さ
」前んとはす’っ か り 同 じ い で た ち で 立 っ た の で あ
る 。 が、 今 回 は 破 顔 一 笑 と い う わ け に は い か な か っ た 。 片 方 の ま ゆ 毛 を 逆 立 て 、
自「分 の 記 事 、 見 せ て 下 さ
」い
と言った。当の記事がまだ組み上がっていないと伝えると、

「ち ま す 」
とつ め寄 って 、校 正室 の片 隅 に 腰 を 下タ
ろバしコ
て口、に し た 。

理 由 を た ず ね る とテ
、「レ ビ く んが
」講 談 社 の 児 童 漫 画 賞 の 候 補 に の ぼ っ た と い 、っ。 万 が
一 、私 た ち の 書 い た 記 事 が 講 談 社 を 刺 激 し 、 候 補 か ら はどずうさしれょたうら気とが き

でならないょうだ。 私たちは、水木さんのそのオーバーとも思える不安な表情にこんど
笑いころげてしまったのであったが、水木さんは、
笑「
い ご と で は あ り ま せ」

と言つたあと、
じ「つ は 、 咋 夜 、 夢 を 見 た ん で す わ 。 漫 画 賞 か ら は ず さ れ る 夢 を 。 ど 、っ も 現 実 に な り
、っ な 気 が し て で す な」

と続けたので、私たちは、 やはり笑う以外になかったのである。
組み上がった校正刷りを読んだ水木さんは、安心したようであった。私は、五〇〇メ
トル先の浜松町の駅まで見送ったのであったが、歩きながら、水木さんは、
ホ「ン ト に 大 丈 夫 で し よ 、っ」
なあ
と繰り返していた。 水木さんは、 駅前の暗いガード下で最敬礼をすると、 改札口に消
た。
水 木 さ ん の 心 配 を よ そテ
に「レ
、ビ く ん
は」第 六 回 講 談 社 児 童 漫 画 賞 に 輝 い た 。 椿 山 荘 で
の授賞式に私も出席した。 式には、 水木さんをはじめ、すでに顔見知りの白土三平さん
青林堂の長井勝一さん、佐藤まさあきさん、楳図かずおさん、東考社の桜井昌一さんら
2 水木しげる

姿があった。 カメラを持参していた私は、水木さんを真ん中に、両わきに白土さん、長
さん、 そのまわりに佐藤さんや楳図さんらを配して記念撮影をおこなつたのであったが

35
フラッシュがうまく連動していなかつたらしく、後日、冷や汗をかくことになつた。あ
日、 青 林 堂 を 訪 ね た 私 に 、 長 井 さ ん か ら 、

3^
あ「の 日 の 写 真 は 出 来 ま し た 」
か?
と問われたので、
ま「だ 現 像 に 出 し て ま せ ん の で
……」
ばをにごした。
と こ と
お「た く も ア タ マ お か し い 」
ですナ
そのあと水木宅を訪問したの
ガ『は
ロ、に
』 つ げ 義 春 さ ん沼
の「や
」 チ「ー コ や
」 初「茸
がり が
」発表されたあとであった。私が、水木さんと白土さんの貸本マンガをかなりの数
所持している と告 げ る と 、
お「た く は 正 し い で す」

と喜んだ。 他に誰かと聞かれたので、 これからつげさんの貸本マンガを集めょぅと思
沼「
ていることや、最 近 作 のや
」 チ「ー コ 」
のすばらしさを述べると水木さんは、
「た く も ア タ マ お かでしすいナ
お 」
と 言 っ て 、 ワ ッ ハ ッ ハ と 大 声 で 笑 っ た 。 水 木初さ
「背んがはり、
は」童 話 風 で 雰 囲 気 も い
い が 、沼「 は
」さ っ ぱ り わ か ら な い 、 と 語 っ た 。
それから半年
も し な ぅ
い ち に 、 私 は 前 の 職 場 を 辞ガ
め『ロて 』
の発行元である青林堂の
社員となった。 入社して何日目かに水木宅に原稿を受けとりに行った。水木さんは、さ
ど驚く様子もなかった。水木さ
1 ん
しはて広げた仕事部屋の隣りの応接間に私をよぶと、
ア シ ス タ ン トX
の君のわきで仕事をしている浅黒い青年を指さしながら、わざとらしくさ
さやいた。
あ「れ が 、 オ タ ク と 同 じ 頭 の 才 力 シ な つ げ さ ん で す よ 、 と
ヒ。
」 ッヒッヒ
水 木 さ ん は 、 つ げ さ ん に 声 を か け 応 接 間 に よ ぶ と 、 私 に つ げ さ ん を 紹 介 し た 。 つげさん
は 、 ひ と こ とつ
「げ で す と
」言 っ て 頭 を 下 げ た 。 そ の あ と 、 水 木 さ ん は い つ も っ と同じよ、
に、 大 手 出 版 社 の 強 引 な 振 る 舞 い に つ い て 憤 滿 心 や る 方 な い と い っ た 調 子 で 、 少 々 ォ ー バ
に、 た だ し ユ ー モ ア を 交 え つ つ 話 し つ づ け た の で あ っ た が 、 つ げ さ ん は 水 木 さ ん の か た
ら で 、フ
「フ フ と
」 静 か に 笑 、っ だ け で あ っ た 。 そ し て 、 私 は 、 こ の 陽 と 陰 の 水 木 .つ げ コ ン
水木しげる

ビは、 な か な か の も のだ なあと 感じ入 った。


つげ義舂

38
1 ---------------------------------#
-----------------------
寡黙.
寡 作 、天 才 肌 の 純 マ ン ガ 作 家
沼「 」「
チ ー コ 」「
初茸がりの
」衝 撃
つげ義春
さ ん と 出
の 会いは、先に記したとおりであったが ガ、
『ロ私 』

が発 行 元 で あ
る青林堂への入社を希望したのは、 じつは、 さつ
んげゆ義っ春く り 話 が し て み た い 、 と

思ったからである。
ガ ロ 誌 上 に沼 や チ ー コ が 発 表 さ れ る ま で 、 私 は 、 つ げ 義 需 品 に こ と さ ら
『 』 「 」 「 」
目 を 注 ぐ と い ぅ こ と は な か っ た 。 白 土忍さ
『者ん
武の芸 帳を
』読 ん だ あ と で あ っ た か ら 一
九六一一年ぐらいだろぅか。 大 学 生 の 知 り 白土
「合三
い平にょ り 残 酷 な マ ン ガ を 描 く 人 が い
る と
」教 え ら れ て 読 ん だ の が 、 つ げ さ
忍『者
ん秘の帳 だ
』っ た 。
つげ義春

「ガ ロ 」1966
つ げ 義 春 「沼 丨 ( ‘ 2〉

39
だが、 そのとき、私は、 つげ義春といぅマンガ家を白土さんの亜流としかみなかった
つ ま り 、忍『者 秘 帳は』、 マ ィ ナ ス ィ メ ー ジ を 植 え つ け る だ け だ っ た の だ 。 し
ガ『たがって、
ロ に 西 瓜 酒 と か 運「命 と
』 「 」 」 い っ た シ ョ ー.シ
ト ョ ^風 の 妙 味 の あ る 作 品 で 登 場 し
たときも、 忍『者 秘 帳 』
の読後感から自由でありえなかったのである。
し か し そ
、 の直後に発表し沼た チ ー コ 」「
初 茸 が りは
「 」「 」、 大 変 な 衝 ^ ^ 与 え ず に は お
かなかった。 それらの作 品には 、作 者の心 象風 景 が み ご と に 投 影 さ れ て い た 。 孤独や絶
や断念といつた精神的
1 な
が、 こ と ば に 依 拠 す る こ と な く 、 マ ン ガ 特 有 の コ マ 割 り と ぺ
ンに よ る 描 写 力も
のと で
見事に表現されていた。
そのとき、 マンガも絵画や文学や音楽と同じよぅに、表現行為のひとつとして認められ
て も い い の で は な い か 、 と 思 っ た 。沼だ
「や」、チ「ー コ に
が 」大 さ わ ぎ し て い る の は 、 山
根を はじめ、 私 の 周 辺 の一握 りの人 々にす ぎなかっ た。 私は、 マンガ界に属する何人か
感 想 を 求 め て み た が 、 い ち よ 、っ に 否 定 的 で あ っ た 。
マ「あンるガ人かはら、
逸 脱 し て い」

とまで言いきった。 であるから、水木さんが、
オ「タ ク も 頭 が 才 力 シ ィ」

と言ったのは、当時のマンガ界の最大公約数的な判断だったといっていいのかもしれ
社「員 に し て く れ な き ゃ 火 を つ け」る !
それでも私は、 つげ作品にこだわることにした。 一九六六年の八月のはじめ、私は、
林堂を 訪れ 、 入社を希望した。 それまでにも青林堂には 何度 も遊び に行っ て、 社長の長
さ ん と 白 土 さ ん や 水 木 さ ん の こ と を 話 題 に し て 楽 し ん だ り し て い た 。 だ が 、当 日 、 長井
んは留守だった。長井さんの良きパートナーである香田さんに、
社「
員にして くれ ない と社屋 に火 をつ けます からと 長井 さん に」
お伝え下さい
と言って帰った。
そ れ か ら 三 週 間 ぐ ら い し て か ら だ ろ ぅ か 、 勤 め 先 に 長 井 さ ん か ら 電 話 が あ っ た 。 長井
ん は 、 障 子 の 破 け た よ 、っ水な
(木声
さ ん の 命 名 に よで
る、
)
あ「さ っ て の 月 曜 か ら 来 て 下」
さい
3 つげ義春

と だけ 言 っ た 。 無 理 を 承 知 で お 願 い し た の で あ る 以 上 、 ち よ っ と 待 っ て 下 さ い 、 と言
るわけがない。

41
は「
い、大丈 夫です

とこたえた。 翌日の土曜日に同僚に仕事の引き継ぎを説明した。事務の人に#^、 退
す る むねをつ げた。 突 然すぎ るとい ぅ理由で 退 職 金 は 出 な か っ た 。 私は、 翌々日の月曜
朝九時に青林堂に出社していた。
己のロべたを呪ぅ
ガ『ロ 』
の 編 集 を 手 伝 、っ こ と に な っ て 、 白 土 さ ん や 水 木 さ ん に こ1れ ま
すでる以上に
, が も て る こ と は こ の 、っ え な い 喜 び で あ っ た が 、 つ げ さ ん に つ い て は 、 そ れ 以 上 で あ
たといつてもいい。
誤 解 を 恐 れ ず に 言 え ば 、 つ げ さ沼
ん「は」「
チ、ー コ 」「
初 茸 が りを
」発 表 し た と き か ら す
でに、読 者 で あ る 私 の 片 想 いの対象 であっ た。 私が、前 の職 場 に 何 の 未 練 も な か っ た の
つ げ 作 品 の 魅 力 の な せ る わ ざ と い っ て い い だ ろ 、っ。
私が、水木プロダクションを訪ねると、水木さんは、ょもやま話を繰り広げたあと、
ずといっていいほど、仕事中のつげさんに声をかけた。 つげさんが応接間に来ると、水
さんは気をきかしてか自分の仕事机に向かった。
つげさんがいつ頃から水木さんのアシスタントとして働いているのか知らなかった。
だ、 つげさんはその頃
ガ『、
ロ に
』は新 作を発 表していなかった。 私は、 つげさんに、
新「作 は 画 か な い の で す か
」?
とたずねて みた。する と 、 つげさんは、
ぼ「く の 画 く マ ン ガ は あ ま り 評 判 は 良 く なもいっ
、のマでン、ガ は や め よ 、っ か な
ってと思
い る んで す 」
と、弱々しく言った。沈黙がしばらく続いたようであった。私は、 たいへんな口下手で
あるが、沼「 や
」 チ「ー コ や
」 初「茸 が り は
」 、 マンガ表現の可能性を開示した作品だと思
、っ、と い う う
よ な意味の 述べた。
こ と を つ げ さ ん は 、 た い し て う れ し そ う で も な く 、 うつ
む い た ま ま 聞 い て い た 。 私 は 、 そ の と き 、 も っ と 、っ ま く し や ベ れ た ら い い の に な あ 、 と
んだ。
と も か く 、 つ げは
さ作ん 品をと お し 相
て 徵し た と お り人のだ っ た 。
低 く 、 ゆ っ く り と し
た話し方は、相手を落ちつかせた。 丁寧なことば遣いは、自意識過剰な作家に特有な神
つげ義春

質 な 態 度 と は 正 反 対 の あ る 格 調 さ え 感 じ さ せ た 。 少 し や せ 気 味 で は あ っ た が 、 一八〇 セ
チ 近 い長 身 の 体 形 は 意 外 に ガ
シ ッ
リ し い
て た 。ま こ と 寡
に 黙 で あ っ た がそ、の こ が
と 逆に
3 信 頼 度 を 高 めい
てる と い っ ていも
い 。 "沈 黙 は 金りな

" は 、つ げ さ の
ん ために
あ る よ 、っ な
格言である。

44
っ げ 義 春 の 世"界へ
" 歩
I 近づく
つげさんはその頃、 水 木 さ ん の 家 か ら 一 〇 〇 メ ートルほ どしか離れていないラーメン
と 棟 続 き の ボ ロ ボ ロ の 木 造トーの
ア パ 四 畳 半 に 起 居 し て い た 。 私 は 、 毎 月 の ょ 、っ に 水 木 宅
に 足 を 運 ん だ 。 多 い と き は 、 月 に 二 度 、 三 度 の こ と も あ っ た 。 そ の た び に 、 つげさんと
言、三言、言葉を交わした。
早「く ガ『ロ 』
に 新 作 を 画 い て 下 さ」

と 繰 り 返 し た の だ が 、 つ げ さフ
「んフは
フ …
…と
」ほ ほ え む だ け だ っ た 。
五時をすぎると、水木さんは私を気遣ってか、

「げ さ ん 今 日 は も 、っ い い で」
すょ
と声 をかけた 。 つげさんは、 私 に、
部「屋 に 寄 っ て い き ま す か」?
と 聞 い た 。 願 っ て も な い こ と だ っ た 。 こ 、っ し て 、 つ げ さ ん の 四 畳 半 の 部 屋 で 私 は 、 "つ
"へと一歩一歩近づいていくことになったのである。
義春の世界
た ぶ ん そ れ は通、 夜 や 李 さ ん 一 家が 発 表 さ れ て か ら だ っ た と 思 、っ。 私 は 、 傾 き か
「 」 「 」
け た 夕 日 を 背 に つ げ さ ん岭
か「の
ら犬 に
」は じ ま っ て 紅
、「い 花 」「
海 辺 の 叙 景」「ねじ式 」
ゲ「ン セ ン カ ン 主 人も っ き り 屋 の 少等
」「 女」々 の 物 語 を 聞#く^を も っ た 。 つ げ さ ん の 語
り ロ は じ つ に 朴 訥 で あ っ た 。 だ が 、 私 は 、 つ げ さ ん は 一 級 の 話 し 上 手 で あ る と 思 、っ。 こ
は 、 も ち ろ ん 独 断 で あもるしかれ
な い 。 な ぜ な ら"
立、板 に 水"の 語 り 口 の 人 を 私 は 、 話 し
下 手 を み る か ら だ 。 そ 、っい、っ 人 に 限 っ て 、 相 手 の 態 度 に 想 い を 寄 せ る こ と は な い 。 多
そ の 人 は 傲 慢 な だ け だ 。 つ げ さ ん は ま っ た く 違 、っ。
少「女 は そ の と き 何 を 思 っ て い た ん で し よ」
うかね
と、首 を 傾 げな がら、 話 し 手 が 同 時 に 聞 き 手であ るかのよ うに物 語を重 ねていく のだ
つまり、 つ げ さ ん 自 身 が 一 番 目 の 読 者 な の だ 。 一 番 目 の 読 者 であ る つ げさ ん が 、 二番目
読 者 で あ る 私 に 、 間 違 う こ と の な い よ う に 物 語 を 伝 え よ 、っ と し て い る 。 そ の よ 、っ な 真
態度をみて、話し上手と判断したのである。
つげ義春

その頃のつげさんは ガ『
、ロと 』い 、っ 発 表 場 所 を 得 て 、 何 も の に も 束 縛 さ れ ず に 自 ら の 世
界 を 表 す こ と が 可 能 だ っ た 。 そ の 結 果 と^し思て欲、が創日:ご と に 高 ま っ て い っ た の グ か も
3
しれない。 次か ら次へと ストー リー が 沸 き 出 た に 違 い な い 。 つげさんと会うたびに新作
ストーリーを聞いた。 そのなかには、 ついに陽の目をみることのないものもあったが、
七 年 か ら 八 年 にわた る一年 半に、 一四作も手がけたというのは、寡作な 作 家
4 としては、
よつと考えられないことであつた。 しか も、 そ のいずれもが、 内 容的 に も 、 描出力にお
ても群を抜いていたことに驚かざるを得ない。
怪 作 ね「じ 式 」
つげさんは、 アパ ト
ーか ら 水 木 プ ロ に 毎 日 通 い 、 水 木 さ ん の 作 品 を 手 伝 っ て い た 。 し た
が っ て 、 深 夜 が 、 自 分 の 作 品 に 手 を つ け る 時 間 で あ る 。 こ 、っ し て 、 毎 月 の よ う に 完 成 度
高 い 作 品 を描き つづけな がら、 友 人 と の 旅 行 を 繰り返 している のであ る。 つげさんは、
だ 三 〇 歳 に 達 し て は い な か つ た 。 若 い 、 と い う こ と は そ 、っ い う こ と な の か も し れ な い 。
怪 作 ね「じ 式 が 」発表されたのは、 一九六八年の四月である。 その前 年あた りから 、大
学 生 や 青 年 労 働 者 の あ い だ で ベ ト ナ ム 戦 争 に 反 対 す る 運 動 が 高 ま っ て い た 。〃 ベ ト ナ ム 反
直 接 行 動 委 員"
会を 名 の る 若 者 た ち が 、 田 無 の 軍 需 工1場0を
へ起讓こ し た の は 前 年 の
こ と で あ る 。 こ起
と こ
を し た 若 者 た ち は 全 員 逮 捕 さ れあ、とそ裁
、の判 所 の 被 告 席 に 並 ん
だ 。あ る日 、 ガ『ロ 誌
』上 に 、 竹 久 夢 ニ に つ い て の 連 載 を 詩 人 の 秋 山 清 氏 にっお
と願 い し よ 、
思 い 、 明 治 大 学1の 会
、館 を 訪 ね た 。 植 疋 さ れ た 部 屋 に は ま だ 秋 山 さ ん の 姿 が な か っ た 。
そ し て そ
、 の 部 屋 で は 、 〃 ベ"
反の委被 告 た ち が 、 裁 判 闘 争 に つ い て の 討 議 を 重 ね て い た 。
私は、秋山さんがみえるまで、隅の方の椅子に腰かけ、 討論の様子をながめていた。
一人の若者が、 テ ー ブ ル か ら 少 し 椅 子 を ず ら し 、 椅 子 を 斜 め に 傾 け 、 足 を ブ ラ ブ ラ さ
ながら雑誌を読んでいた。後ろに倒れるのではないかと心配しながらみていたのだが、
は 、っ ま く バ ラ ン ス を と り な が ら 前 へ 後 へ と 身 体 を ゆ ら し て い た 。 討 論 に 加 わ る 気 配 は な
った。 ひ た す ら 雑 誌 に 釘 づ け に な っ て い る 風 に み え た 。 若 者 が 手 に し て い た の は 、 前 日
発売されたね「じ 式 」
の掲載された
ガ『ロ ,増 刊 つ げ#義 ^ だ
』っ た 。 そ の 若 者 が 自 殺
したのを秋山清さんから知らされたのは、それから三か月がすぎた頃だったろぅか。
ゲ「ン セ ン カ ン 主 人

」映 画 化
こ ん ど 、 高 倉 健 主 演網「
の走 番 外 地」
の 映 画 監 督 と し て 有 名 な 石 井 輝 男 さ ん が 、 つげさ
つげ義春

ん の ゲンセンカン主人
「 を 映 画 化 す る と い ぅ の で 話 題 に な っ た 。 こ の 映 画 に は 、 二人の

男 が 街 中 の 小 公 園ゲ
で「ン セ ン カ ン 主 人
について会話を重ねるシーンがあるのだが、 そ

こは石井監督のまったくの創作である。 シナリオにょれば次のごとくである。
3
津 部 はじめてやって来た处なのに、絶対に来たことがある
「 … で
っも
… て、
感以じ前 に
来 た は ず が な い…
…」中(
略 ) ‘
津 部 人 間 の 魂 っ て 、 寝 て い る 間 に 、 そ 、っ っ と ぬ け 出 し て
「 さほまう
よぼ歩
いういへ
てい
る よ う な 気 が す る ん で」

高 山 そ 、っ い う 話 な ん で す か ? こ ん ど 考 え て い る 作 品 と い
「 」う の は ?
津 部 は「っ き り ま と ま っ て は い な い ん で す け
…正
…ど体
ねも 目 的 も 不 明 な 男 が 、 あ る 街
に ぶ ら り と 現 れ る ん で……」

こ こ で 、ゲ ン セ ン カ ン 主 の
「 人出 自 に ふ れ て お く の も 一 興 か も し れ な い 。 一 九 六 八 年 の

正 月 に^ ^の 湯 宿 温 泉 か ら 帰 る と 、 私 は 、 つ げあ
さ「な
んたにに ピ ッ タ リ の 温 泉 が 見 つ か
り ま し たと
」 報 告 に 及 ん だそ。し て 、
つ げ さ ん は 、 翌ー一月に湯宿を訪ねる。 そ の と き の 感
想 を つ げさん は、後 日 、次 のよ う に 綴 っ て い る 。
私「が 初 め て 湯 宿 を 訪 れ た の は 十 七 、 八 年 前 だ っ た で し ょ注
う(著
か者、さ
高ん野が 、
)
諸 国 諸 人 御 宿 な ど の 看 板 も 残 り 、 昔 の 街 道 の 面 影 も"あ
" とり報ま
告すによ
来たので、
私は飛んで行ったのでした。
真冬の小雪のパラつく日でした。当時の湯宿は、現在よりもっと鄙びて時代からとり
残 さ れ た よ 、っ に 侘 し い も の で し た 。 そ の 頃 の 私 の 心 持 ち に 感 応 し て 、 来 て み て 良 か っ
と 思 っ た の で す が 、 現 在 は ど う 変るっ
こてとい
でしよ う か 。
そ の 時 は 大 滝 屋 に 泊 り ま し た 。 ひ ど く 貧 し げ な 雰 囲 気 が 私 の 心 を 惹 い た の で す 。 泊っ
た部屋の畳は傾き、襖越しの隣室から老婆の唱えるお教が陰ゥツに聴こえ、宿泊も老
ばかりで、 そういう所に来ている自分が、人生の落ちこぼれ、敗残者のように思え、
た そ れ が 自 分 に 似 合 っ て い る よ 、っで、 せ つ な い 気 持 ち で し た 。
大 滝 屋 の 湯 は ぬ る か っ た よ 、っ に 記 憶 し て い ま す 。 混 浴 に 入 る の を た め ら い 、 人 の 気
の な く な っ た の を 見 は か ら い 、 一人で入ると、
い脱る衣
きし
と 、て
中年のぽってりした
体 の 婦人 が入って 来て、 手早く衣 服を 脱 ぎ 全 裸 に な り 、 どうした ことか 、 カゴに入れ
自分の衣服をごそごそ、何か探し物でもしているようにしているのです。体を二つに
つげ義春

り腰を高く私の方に向けているので、 モロ
…:
.に
.が例
見のえてしまい、まだ独身で若か
っ た 私 は 、 大 変 シ ョ ッ ク で し た 。 二 人 で 無 言 で 湯いにてつ、
私かは
っ体てが ゾ ク ゾ ク 震

49
え て い た の を 韋 足 て いそ
ま(れ
すで 湯 が ぬ る か っ た 記 憶 が 残 っ て い る の で。)し五よ う か
3
つ げ 義 春 「夏の思い出」 (
「夜行」り0 2 , 1972
. ^ 9〉

50
分ほどすると、 そ の 婦 人 の 夫 が 入 っ て 来 て 私 は 救 わ れ た の で す が 、 そのときのシ
ョ ッ ク がゲ『ン セ ン カ ン 主 人
の 入 浴 シ ー ン を 発 想 さ せ た の で』
し夜 た
行 他
』 より )

5
1
』 『
(
このとき、 つげさんは、湯宿 か ら 新 潟 の 十 日 町 に 出 て 、 そのあと、 信州の麻績や下諷訪
を 訪 ね て い る 。帰 京 し て 間 も な く の つ げ さ ん と 会 っ た と きゲ
に「ン
、セすン
でカにン
、主 人

のモチーフを口にしていた。
だが、 はじめて口にした物語は、作 ゲ「品
ンセのンカン主人 と
」はまったく似て非なる
も の で あ っ た 。 いや、 物 語 性 は ま だ そ れ ほ ど 練 ら れ て は い な か っ た よ う で 、 ィ メ ー ジ が
行していたといえばいいのだろうか。

「げ世界 の
」妄想の虞に
宿「湯 の よ う な 湯 宿 の 通 り は 本 当 に さ み し い で す ね 。 夜 に な っ て 、 宿 屋 の 外 に で て 歩 い
つげ義春

てみたんですけど、物音 ひ と つ し な く て ね 、 格子のみすぼらしい 家 が 続 い て い て 、 まる
で映画のセットみたいなんですよね。どの家からも障子を通してあかりがともっている
3 のがみえるんですけど、人がいないみたいな感じがしてね。裏へまわってみたら、部屋
なんかなくて、映画のセットみたいにつっかえ棒がしてあるんじゃないか、なんて妄
しちゃったんですょね。 そう思ったら、 そんなマンガを描けないかなって。表の通り
は実際の生活があるんですけど、裏はノッぺラボーで何もな いというか
……」
と言って、 つげさんは、 そこら にあった 紙きれ に、 鈴 筆で簡単 な俯瞰 図をスケ ッチし
そ れ は な ん と もシ、
ユール な 置 足 で あ っ た西。
「部 田 村 事 件」「 ニ 岐渓谷 を
長 八 の 宿 」「 」発
表した直後であった ね「
。じ 式を」発 表 す る 四 か 月 も 前 の こ と で あ る 。 と い 、っ こ と は 、 す で
に こ の 頃 か ら"
、 も の"と は 異 質 の 観 念 的 な 作 品 を 頭 に 描 い て い た と い う こ と で も あ る 。

私は、すっかり湯宿を舞ムロにしたつげさんの妄想の虜になってしまった。 湯宿 の路地
や 駄 菓 子 屋 や 共 同 浴 場 の 話 を 聞 く う ち に 、 私 が 現 実 に 目 に し た 湯 宿 の 遺 足 か ら "つ げ 義
の 世 界"へ と 変 貌 を 遂 げ て い た 。 湯 宿 は 、 も は や 、 "つ げタさリん"にどピこッ
でろは な く
なっていた。
妄 想 の 湯 宿 々 と 化 し て い た 。 で あ る か ら 、 私 は 、 そ の す ぐ あ と に 、 も 、っ 一 度
"
つ げ 義 春 の 世"界
" としての湯宿をたしかめるために上州に向かったのである。
以来、私は、大滝屋に何度、宿泊したことだろう。 四度か、五度のはずである。 それ
作 品 ゲ「ン セ ン カ ン 主 人を
」 読 み 返 す こ と に ょ っ て 、 つ げ さ ん の !^ 心 の 世 界 に ひ た り た か
っ た か ら で も あ っ た ろ 、っ。
休筆中の出来事
つ げ さ ん は 、 六 八 年ガ『
のロ 八
』 月 号 にも「っ き り 屋 の 少 女

」発 表 す る と 、 半 年 以 上
も 作 品を 手がけ ょうと しなかっ た。 大き な理由 を 私 は 知 ら な い 。 知りたいとも思わなか
た。 ただ、 ど こ か 遠 い と こ ろ で 暮 ら しと
「 た眩
」 いい た つ げ さ ん の こ と ば が 、 妙 に ひ っ か か
った 。 や が て 、 つ げ さ ん は 、 短 期
蒸間
" 発"
のを決行する。 そして、九州からもどってき
て 間 も な く 、 評 論 家 の 石 子 順 造 さ ん の は か ら い で 、 新宿の西口公園の隣りの十一一社温泉
近くのアパートに越してきたのである。 つげさんが住みつくことになったアパートと石
さ ん の ア パト
ーと は 一 一 〇 〇|メ
トル ほど離れ ていた 。 そして、 私 の 住まい もまた 、 石子さ
んとつげさんのところから一一〇〇メートルほどの距離にあった。
つげさんは、 そ の ア パ ー ト か ら 調 布 の 水 木 さ ん の と こ ろ へ 通 う こ と に な っ た わ け だ が
わ り と暇 なと き は 、
私 の 住 ま い に や っ て き た 。 す で に マ ン ガ を 中 断 し て い た の で 、 新作の
つ げ義春

スト リ ー にーつ い て 語 る と い う こ と は な か っ た 一。一新丁宿目
のだ か 三 丁 目 だ か の ヌ ー ド ス
タ ジ オ に 行 っ た と き の 様 子 な ど を 話 し て い た ょ う に 思 、っ。 あ る と き は 、 石 子 さ ん と 連 れ
3 っ て三 人 で 、 和 風 喫 茶 に 行 っ た 。 畳 敷 き の 部 屋 で コ ー ヒ ー の お か わ り を し な が ら 、 夜 遅
までしやべりつつけたこともあったが、石子さんの独演会であることはいうまでもない
その当の石子さんか
お「、
まえさまは、 べらべらとよくしや

」、べる
つげさんの
ほ「ん や

54
ら 洞 の べ ん さ ん」
に登場するおやじサマのセリフを真似たかと思うと、 おやじサマと同じ
ようにゴロンと横になった。 つげさ — んそ
もべ私っ た ま ま 、 さ ら に つ づ く 石 子 さ ん の お
しゃべりを楽しんだ。 この頃、 石子さんも、 そして私も、 つげさんと一緒にいることで
ら ぎ を 感 じ て い た の だ ろ 、っ。
六 八 年 の 晦 日 近 く だ っ た と 思 、っ。 つ げ さ ん が 夜 遅 く に や っ て き て 、 正 月 は ど 、っ す る の
と た ず ね た の で 、 一一、 三 日 旅 行 に で よ う とえ
田る
放!
!心、
とっ、とつ げ さ ん は 、
じ「ゃ あ ぼ く は 静 岡 の 石 子 さ ん の と こ ろ に で も 行」
こうかな
と言った。さっそくそのことを石子さんに伝えると、狂喜せんばかりだった。正月の
曰か五日だったか、旅行から帰ったばかりのところに石子さんが訪ねてきた。
昨「日 も 、 一 昨 日 も 電 話 し た ん だ よ 。 ど こ 行 っ て
」た の よ
と言った。何か、大事なことでもあったのか、 と気をもんでいたら、なんのことはな

「げ 君 が 暮 れ の う ち か ら ぼ く の 静 岡 の 家 に 来 て ね 、 し ば ら く
」い た ん だ よ
と い う こ と な の だ 。 つまり、 石 子 さ ん は 、 そ の こ と だ け を 話 し た く て 、 ウ ズ ウ ズ し て
たのである。紙袋から何枚かのザラ紙をとりだした。 そこには、 鉛筆でちよっとシユー
な絵がスケッチしてあった。
人柄に惚れこむ
石子さん曰く、
こ「れ ね 静 岡 の 家 に い る と き 、 つ げ 君 が 見 た 夢 の ス ケ ッ チ を し た ん だ 。 す ば ら し い 絵
よ ね 。 君 に は あ げ な い か ら ね 。 家 宝 と し て と っ て」
おくんだ
と言って、見せびらかした。 そこには、硬派の美術評論家、険しい顔をした論客の姿
も 、っ な か っ た 。 私 と 同 じ よ 、っな 、 た だ の ミ ー ハ ー の つ げ フ ア ン の 姿 で し か な か っ た 。 か
てのマルクス
.レ ー ニ ン 主 義 者 で あ り 、 か つ て の 武 装 共 産 党 時 代 の 党 員 で も あ っ た 石 子 さ
ん を こ こ ま で 魅 き つ け て し ま ぅ つ げ さ ん と い ぅ の は 、 な ん な の だ ろ 、っ、 と そ の と き 思 っ
やはり、 それは、 つげさんの物静かな態度と、 心やさしさのなせるわざだったのだろ、
つげ義春

そ れ に し て も 、 作 品 か ら 受 け る 印渠
象〖とが
人 作こ れ ほ ど 一 致 し て い る 人 も 珍 し い の で
は な い の だ ろ 、っか。 私 も 石 子 さ ん も 、 は じ め は 、 つ げ 作 品 に 触 発 さ れ た の だ っ た が 、 最

55
3
的には、 つげさんの人柄に惚れこんだのだといってもいい。 そのことはなにも、 石子さ
や 私 だ け で は な か っ た と 思 、っ。 私 た ち の 友 人 で あ る 山 根 貞 男 や 梶 井 純 も ま た 同 じ 思 い だ
たのである。
〃つげ 派 " 四 人 の 漫 画 同 人 誌
この四人が同人となっ漫『
画主義と
て 』い う マ ン ガ の 批 評 誌 を 出 し た の は 、 一九六七年
の初春であった。 つげさん通が
「夜、に
」は じ ま っ て 毎 月 の よ う に 秀 作 を 発 表 す る 直 前 で あ
った。 創 刊 号 で"つ 、げ 義 春"を 1 し た 。沼 チ ー コ 」「
「 」「 初茸がりに 」出 合っ た 私 た ち
は 、 未 知 数 の つ げ 義 春 と い 、っ 作 家 を バ ッ ク ア ッ プ し た か っ た の だ 。 二 号 、 三 号 、 四 号 と
後 、"つ げ 論 ,は 毎 号 掲 載 さ れ た 。 石 子 さ ん や 私 だ け で な く 、 山 根 、 梶 井 も 、 や が て つ げ
ん と少 し ず つ で は あ る が 交 流 を 深 め て い っ た 。
だ か ら と い っ て 、 無 遠 慮 に 、 つ げ さ ん の 私 的 なこ
領と域をよ
にし入と
るし な か っ た 。 の
ちのちに梶井が つ
『げ 義 春 選 集』の解説で、遠くの方からつげさんをながめて、 元気そう
で よ か っ た 、 と 思 え る 距 離 に い た い 、 と い う よ 、っ な こ と を 書 い て い た 。 そ れ が 、 つ げ
に 対 す る^:で あ る と で も い う か の よ う に 。 思 い は 、 石 子 さ ん や 私 と て 同 じ だ っ た 。 つげ
さんから連絡がないかぎり、私たちは、仕事以外のことでつげさんに電話をすることも
かった。 そのことに関していえば、 つげさんも私たちも想像を絶するほどの神経を使って
いたと言つてもいい。
漫 画 主 義 は、 つ げ 作 品 論 を 中 心 に 、 林 静 一 、 佐 々 木 マ キ 、 滝 田 ゆ ぅ 、 つげ忠男とい
『 』
っ た ガ『ロ の
』 作 家 た ち を 多 く と り あ げ た 。 そ の こ と で 、 漫 画 主"

義ロ同派人"はだ、と
か 、 内 容 の 傾 向 か ら 、 ク 反 代"々
な木ど系 と 0『0 誌 』やその周辺の人たちに評された。

1^
こ の ょ 、っ な レ ッ テ ル 貼 り に 対 し 私 た ち は な ん の 関 心 も な く 、 い ち い ち 反 論 す る 気 も 起 こ
な か っ た が 、 正 確 に い え ば 、 私 た"つ
ちげは派
、々 だ っ た の だ 。 こ
つの
" げ 派"と は 、 も っ
と くわ し く い え ば 、
"つ げ 義 春 .つ げ 忠 男 派 々 って い い 。
と い つ ま り 、 つ げ 義 奮 品 、 つげ
忠男作品を高く評価することにおいて、同人のあいだに異論はまったくなかったからであ
る。 ま さ に 、 つ げ 作 品 の 自 律 性 を 断 固 と し て 擁 護 す る た め に 、 同 人 た ち は 、 つげさん本人
への無闇矢鳕の接近を拒否したのだといえる。
旅から旅の日々
つげ義春
さ て 、 つ げ さ ん"
旅の好 き"は 、 貧 困 旅 行 記を
『 』は じ め と す る エ ッ セ ィ で 多 く の 人 に 知
3 られている。 つげさんが、 旅 ^に-る熱の は 、 六 七 年 頃 か ら で あ る が 、 と く に マ ン ガ を 中
断していた頃は、旅から旅の毎日であったように思う。
ア『サ ヒ グ ラ フ』
での取材を兼ね ての旅 もあった ようで あるが、 つげさんは、 旅から帰
ると、 必 ず 私 の ところに やって きて、 全 行 程 を つ ぶ さ に 話して 聞かせ てくれた 。 秋田の
の 湯 、 御 生 掛 温 泉 、 会 律 の 岩 瀬 湯 本 、 一ー岐温泉、 秋 田 の 黒 湯 、 孫 六 湯 、 岩 手 の 夏 油 、 定
温泉、
栃' 木 の 北 温 泉 等 々 の 鄙 びIた 温
の様子を例によって、低い落ちついた口調で聞か
せてくれた。細部までわたっての説明は、まるでつげさんの作品を読むようであったし
またィメージを浮かべながらの旅を楽しむ感があった。私が、 それから間もなくして、
の 湯 や 岩 瀬 湯 本 や 北 温 泉 に 出 か け る よ 、っ に な っ た の は 、 い わ ば 、 つ げ さ ん の 語 り 口 に 魅
られたからに他ならない。
その後、 つげさんは、商 人 宿 の 旅 と か 、宿 場 の 旅 、 港町の 旅と、旅のエキスパートとし
て、 私 に か ず か ず の 土 地 を 案 内 し た 。 奈 良 や 京 都 、 そ し て 信 州 ぐ ら い に し か 関 心 の な か っ
た 私 は 、 次 第 に 、 つ げ さ ん が 紹 介 す る 土 地 を 訪 れ る よ う に な っ た 。 そ し て 、 いまでは、
場や旧街道については、 つげさんより詳しくなった。 このごろでは、旅にでる回数もつ
さんよりはるかに多い。 これもまた、旅の師であるつげさんになんとか追いつきたいと
った結果なのである。
淹田め、

苦闘の末の一八〇度の転換
傑 作 カ「ッ ク ン 親 父」
滝田ゆぅさんの作品 ガ『
がロ 誌』上 に 登 場 し た の は 、 一 九 六 七 年 四 月 号 で あ る 。 そ れ ま
で の 滝 田 さ ん の 活 躍 の 場 は 、 多 く の 場 合 、 貸 本 マ ン ガ で あ っ た 。 一 九力六
「〇 ま 中 頃 の
シ リ ー ズ は 、 貸 本 時 代 の 滝 田 さ ん の 代 表 作 で あ っ た ろ ぅ と 思 、っ。 滝 田 さ ん は
ッ ク ン 親 父」
かつて田河水泡さんに師事したことがあるが、プロの道に進んでからは、 不運に近かっ
4 滝田ゆう

といってもいいすぎではない。
カ「ッ ク ン 親 父
たとえば、 は」、 貸 本 マ ン ガ の な か で 、 突 出 し た ユ ー モ ア マ ン ガ と し て 評
価 し て い い と は 思 、っ の だ が 、 貸 本 屋 に 群 が る 町 工 場 で 働 く 青 少 年 に と っ て 、 小 市 民 的 な
すぐりなどなんの薬にもならなかった。彼ら若者にとって、 切実だったのは、鬱屈した
神 を 解 放 し て く れ る 劇 画っだた 。 广
それは、さいとうたかをや佐藤まさあきらのハードボィルドタッチのアクションもの
あ ったのだ。 後 年 、 滝田さ んが、劇画にた いして 不信 感 を 抱 き つ づ け た の は 、 この頃の
念をひきずっていたからにちがいない。
太った体を固くして評価を待つ
六七年の正月頃だった。東考社の桜井昌一さんが、滝田ゆうさんと連れだって青林堂
訪れた。
桜井さんは、長井さんとは昔から懇意のようで、私が青林堂に入社
っもしのて、か ら と い 、
桜井さんとはよく顔を合わせた。
あ る 日 、 国 分 寺^の#社 に 遊 び に 行 っ た と き に 、 桜 井 さ ん が 、 ぜ ひ 滝 田 さ ん を 紹 介 し た
いと言った。 できれば ガ『、
ロに 』滝 田 作 品 を 載 せ ら れ な い で す か ね 、 と も 言 っ た 。 わ た し
の 一 存 で は な ん と も い え な い 、 と 言 、っと、 こ ん ど 青 林 堂 に 一 緒 に 、っ か が い ま す 、 と 言 っ
いたのである。
そのとき、 滝田 さ ん は 、 六、 七 篇のマン ガをた ずさえて いた。 長井さんがー篇ー篇をゆ
っくりと読んでいた。ず んぐり と太っ た 滝 田 さ ん は 、身を固くして小さな椅 子に腰か けて
いた。 長 井 さ ん は 、 一 篇 を 読 み 終 え る ご と に 、 私 に 手 渡 し た 。 全 篇 を 読 み 終 え る と 、 長
さんは、
ど「う で す か ?」
と、 わたしにたずねた。
と「て も い い ん じ や な い で す
」か
と こ た え る と 、 長 井 さ ん は 、
そ「う ね 、 ホ ン ト に 笑 っ ち や う よ ね 。 ど う ? み ん な 預 か っ て も い
」い か し ら ?
と、嬉しそ う に 滝 田 さ ん の 顔 を み た 。 滝 田さんも 、 そ して桜井さんもホットした様子だ
った。 そ れ ら は 、 す べ て 一 〇 ぺ ー ジ 前 後 の.シ ョ ー
ートトじ み た 作 品 で あ っ た が 、 ユ
丨モアが絶妙だった。落語の小噺じみた構成は、長井さん好みであったといえるかもし
4 滝田ゆう

ない。

61
若者に理解されなかった諧謔

62
以 後 、ガ『ロ に
』は 、 毎 号 、 滝 田 作 品 が 掲 載 さ れ る こ と と な っ た 。
あ「四
し月がる
号」の
に は じ ま っ てし
、 ず く 風 法 師 」「
「 」「 ぅ わ さ の 系 譜」「
死 に 急 ぎ の 記 録」「
浪曲師ベトナムに
死 す 」「
ラ ラ ラ の 恋 人」「
あいつ と 」 ^ :が な ら ん だ 。
し か し 、ガ『ロ の
』読 者 に と っ て は 、 滝 田 作 品 は 、 未 消 化 に 終 わ っ た か も し れ な い 。 白 土
三平、水木しげる、 つげ義春のフアンにとって、滝田作品は、 異質にみえたのだろぅか
読者欄には、滝田フアンの声はなかなか届かなかった。 理由は、簡単である。滝田作品
主目少 年 向 け で は な か つ た か ら で あし「る
ず 。
く に
」し て も 、
あ「し が る に
」し て も 、
ラ「ラ ラ
の恋人 」 に し て も 、 滝 田 流 の ユ ー モ ア 、 いや、 諧 謔 や 反 語 を 理 解 す る に は 、 ニ 〇 歳 前 後 の
若 者 に は 、 不 得 手 で あ っ た ろ 、っ。 老 獪 さ を 知 , る 年 齢 に 達 し な い と 理 解 し に く い 作 品
あったことはたしかなのだ。
だ が 、ガ『ロ の
』読 者 が あ と 一 〇 歳 と し を と る の を 待 つ わ け に は い か な か っ た 。 私 は 、 石
子順造さんに ガ ロ の読 者 向 け に
『 』 滝 田 ゆっ
" 、論々を書いて欲しいと頼んだ。石子さんは、
ガ『ロ 六
』八年四月号に モ 大^^ 」
「ラ リ ス ト の のタ ィ ト ル で 滝 田 論 を 飾 っ た 。 ち な み に 、
この号は、白 土 三 平 、 水 木 し げ る 、 つげ義春、 滝 田 ゆ う 、 池 上 僚 一 、 林 静 ー 、 佐々木 マ
の 豪 華I メ ン バ で
ーあ っ た 。
石子さんは次のように書いた。
彼「が 視 覚 化 し て み せ る ユ ー モ ア は 、 ど ち ら か と い え ば 、 歯 切 れ が 悪 く 、 み み っ ち く て
お よ そ 洗 練 さ れ た 感 じ が し な い 。 だ が 、 で あ れ ば こ そ 、 し ば し ば 彼 の ユ ー モ ア は 、 もっ
とも日本人的な、 というより日本的な大衆とでもいえる人たちの、 いつわりのない保守
性と進歩性の自己撞着を、的確に浮き出させて見せるのでは
」な か ろ う か
彼の画像がどこかユーモラスなのは、 その表情や動作の多様さ以前に、彼の描線が、

近代的な大衆の巧利的、 即物的な合理感を、反作用的に非実用的、 非打^^、
篇的な不合理感でつきかえす弾性を獲得しているから
」だ と 思 、っ
ブ ラ ッ ク ,ユ ー モ ア 的 逆 説
4 滝田ゆう

石子さんは、
図式的な渋滞
" に と も す れ ば 踏 み 込 み か ね な い 淹 田 作 品 に 対 し 、 あたたか
"
い目でエールを送った。 石子さんの淹田論は以上のごとく、 多少の硬さをともないなが
も、滝 田 作 品 の 本 質 を 理 論 的 に 解く
析れし
たて。そ の こ と
によって、若 い 読 者 の 接 近 の 道
を つ く っ た と い え る だ ろ 、っ。 そラしラ
「 てラ、の 恋 人や あ い つ で 、 滝 田 さ ん が 、 現 代
」 「 」
風 俗 と し て の 恋 人 た ち や 、 篇 隊 と 対 決 す る ヘ ル メ ッ ト^に^た
ゲちバを
棒登の場 さ せ て 、
従 来 の シ ョ ー.
トシ ョ ー ト 的 な オ チ と は 離 反 す る ブ.ラ
ユッーク
モア的な逆説、あるいは
反 語 を こ こ ろ み た の も 、 石 子 さ ん"

の己い撞
う着 " か ら の 脱 却 を 図 ろ う と し た の か も し
れない。
一九六九年のいつだったか、もうたしかな記憶 はな い け れ ど も、 滝田さんの住まいに近
い国立駅前の ロ「ジーナ と 」い うレストランでのことだ。 滝 田 さんから、 これからは今ま
で と は ま っ た く 方 向 の 違 う マ ン ガ を 描 い て い き た い け れ ど も ど ん な も の だ ろ 、っ、 と の 相 談
を受けた。 それ以前から、滝田さんは、 つげさんが発表する〃旅もの" に大きな関心を寄
せていた。
オ「ン ド ル 小 屋や
」 長「八 の 宿 が」 と く に お 気 に 入 り の ょ 、っ
オ「で
ン、ド ル 小 屋」
の中にでてくど る「ち ら も ど っ ち も ど っ ち
と」も
か 、長「八 の 宿 の」 お「め 、 ハ ィ ラ ィ ト す
うか と
」い っ た セ リ フ を 常 日 頃 口 に し て は 楽 し ん で い た 。
ガ『ロ
そしの
』て読、
者欄でつげ
評価が次第に高まるにつれ、滝田さんにとっては羨ましく思えたのかもしれない。また、
そ の 頃 は 、 石 子 さ ん 、 山 根 貞 男 、 梶 井 純 、 そ し て 私漫
の『画
四主人義
がと、
』いう評論誌で
"つ げ 義 春 論 み を 展 開 し て い た 。 滝 田 さ ん の 胸 中 が お だ や か な ら ざ る も の が あ っ た と し て
も不田心議ではない。
ぼ「く と し て は 、も っ と 大 人 の 読 め る マ ン ガ が あ っ て い い と 思 、
小っ
『説ん現
で代す』
よね。
と か 小 説 新 潮 の よ 、っな、 い わ ゆ る 中 間 小 説 誌 に 掲 載 で き る よ 、っ な マ ン ガ が で て こ な
『 』
く て は い け な い と 思 、っ ん で す よ 。 つ げ
旅さ
" もん
の"の
なんかは、どっちかっていうと
中間小説雑誌向きですよね。 ぼくも、 そんな傾向のマンカを描こうと思っているんで
けど、 いけないですかね。 ガ
ま『ロ
ずに』描いてみて、うまくいくかどうか、自分なり
にすすめてみたいんですけ ど
……」
運『東 綺 譚 の
』向こうをはって
… …
私に反対する理由はどこにもない。どんな作品か見てみたいですね、 と賛意を表明す
と、もう滝田さんの語りはとどまるところを知らなかった。滝田さんの少年時代の家族
成から環境まで、 こと細かに話しだした。 ことに母親像については、執糊をきわめた。
4 滝田ゆう

こ「の 母 親 が 、 ま た と ん で も な い や つ で ね 、 あ る と き 、 ぼ く が 学 校 か」ら 帰 っ た ら ね
と、 ま る で 聞 き ように よって 母は
「親、への他 ^心 を ぶ ち ま け て い る よ う だ っ た 。

途 中 でつ「ま り 、 そ の 頃 の こ と を 描 き た い と い う こ とと
で問
」 す、かっ?と、
そ「う そ う 、 そ う い う こ と 、 こ の 母 親 を 登 場 さ せ て 少 年 の 家 族 の 葛 藤 が 描 け れ ば い い
あ 、 と 。 、っ ま く い き ま す か」
ね?
と言った。 私は、 このとき、
、っ
「ま く い く か ど う か 心 配 す る 必 要 は な い と 思 い ま す 。 描 き た い 作 品 を 描 く 、 そ れ で
い ん じ や な い しでよ うか 」
と 、 こ た え る し な か っ た 。 し か し 、 そ れ か ら と い 、っ も の は 、 意 外 に 大 変 だ っ た 。 無 論
にとつてではない。滝田さんにとつて"

生あみる
の。苦しみ
と い う の は 、 こ う い 、っこと
"
か、 と そ の と き 感 じ た 。 滝 田 さ ん は 、 第 一 話 の 話 が ま と ま っ た の で 、 国 立 ま で 来 ま せ ん
と青林堂に電話してきた。わたし ロ「はジ
ー、ナ に
」向かった。
カ レ ー ラ ィ ス を ご ち そ う に な り 、^デ

^ザバ丨
ニラがでてくるあいだ、滝田さんは、

「島 町 奇 譚
" "と い う タ ィ ト ル は ど う で し よ う か ね 。 ^
ま!あ

:、 の永濯『東 綺 譚を』
意 識 し た の は い う ま で も な い け ど 、 と い う よ り 、 こ 、っ な っ た ら 荷 風 に 対 抗 し よ 、っ か
大それたことを考えたりして、 ハ 」ハ ハ
と 、 楽 し そ う た っ た 。 そ し て 、 第 一 話 に^当
リ- た
ーるをス
最後のぺー ジまでもらさず
に語り終えた。 私は、作 品も見 ずにス トーリー を 聞 く だ け で 半 ば 感 動 し て い た 。 する と
滝田さんは、
ア「ッ 、 誤 解 さ れ る と 困 る ん で す け ど 、 い ま ま で の マ ン ガ の 絵 柄 と は」
違 、っ ん で す よ
と言つた。
意味がよくのみこめなかった。なぜなら、 フヤフヤした滝田さん独特の描線は、変え
ぅ と思 っ て も 変 え よ 、ない で は な い か 、 と 思 え る か ら で あ る 。
っ が
疑「っ て い る ん で し よ 、 あ の 絵 じ や い ま の 話 が 描 け る わ け な い っ て 思 っ て い る ん で し
や だ な あ 。 でも、 い ま ま で の 絵 じ や な い か ら ご 心 配 な く 。 勉 強 し て い る ん で す よ 、毎
毎日、 つげさんの作品みながら。 だって、寺島町の話を思いついたのもつげさんの作
のおかげですからね
迅。
" 速に迅速に
"の 西『部 田 村 事 件な
』ん か も 、 た だ 笑 わ せ る だ け
じ や な い で す よ ね 。 ジ ー ン と 胸 に 、っ つ た え る も の が あ り」ま す か ら ね
そんな話を聞いていると、滝田さんの今回の作品への思い入れの大きさが理解できる
ぅであった。
4 滝田ゆう
ついに会得した描線
それから数日して、国立市富士見台の都営団地の滝田宅を訪ねた。机の前で滝田さん
ぺンを動かしていた。
ホ「ラ 、 こ の と お り つ げ さ ん の マ ン カ を 見 な か ら 画 い て い る」
んですから
と 言 っ た 。 机 の 横 にガ『
、ロ 増 刊 号
.つげ義が広げたままだった。 寺島町

「譚 」
をのぞいてみた。 そこには、淹田さんが断言したごとく、 いままでの滝田さんのマンガ
らは相複もつかない画像が浮かび上がっていた。なんとも頼りないフヤフヤした描線が
ったく影をひそめたわけではない。相変わらず、人物や家屋の輪郭はフヤフヤの描線の
まだ。
しかし今度は、人物に、家屋に、板塀に、電柱に、陰影をつけるための描線が加えら
たのだ。 かつて、滝 田 さ ん マ ン
カ「ガ
ッはク ン 親 父」
の 頃 か らラ「ラ ラ の 恋 人ま
」で、 フ
ヤ フ ヤ の 輪 郭 だ け の 線 で ぁ っ た 。 つまり、 白 っ ぽ か っ た 。
そ れ が 、 一八 〇 度 転 換 し てっ 、ぽ里
〖 い画像を定着させた。 マンガから劇画への転換など
と 評 し た ら 、 滝 田 さ ん に し か ら れ る だ ろ 、っ。 情 感 が 、 下 町 の 風 情 と 人 情 が 、 に じ み 出 る

、っ な 画 像 と い え ば い い の だ ろ 、っ か 。 戦 前 の 玉 の 井 遊 郭 が 、
ーリもア
っリてテ
、ィそして
ノスタルジックな雰囲気をぁわせもって、再現されていた。 ストーリーが画像を選択し
のか、 画 像 が ス ト ー リ ー を 選 択 し た の か 知 ら な い け
寺「れ
島ど町も
奇、譚の
」絵 と ス ト ー リ
4 滝田ゆう
丨は、 見 事 な融 合につ つまれて いたの である 。

70
闘いの末の苦肉の策
寺「島 町 奇 譚の
長井さんも、 」誕 生 に は 大 喜 び だ っ た 。 青 林 堂 に 原 稿 を も っ て き た 滝 田 さ
んに向かって、

「つ と ど ん ど ん 画 い て 下 さ い よ

と 言 っ た 。 滝 田 さ ん は 、 嬉 し そ う に 第 一 一リ
話 のを
ー ース手
ト短 か に 長 井 さ ん に 語 っ た り
していた。
だ が 、寺「島 町 奇 譚」
が好調だったのも、第 三話 くらいま で だ っ た ろ う か 。 だ ん だ ん と 、
スト リ ー づーく り が 困 難 を き わ め て い っ た よ う だ 。 そ れ は 、 家 族 の 関 係 だ け を 画 く だ け に
終 始 し て し ま 、っ 惧 れ が あ っ た か ら だ 。滝 田 さ ん 自 身 の 少 年 時 代 を 回 想 す る だ け で は 、"回
趣 味 " か ら 一も歩
出 る も の で は な か っ た 、 と の 思 い が 走も
っしたれの
なかい 。 作 中 に "主
義 者 々 を 登 場 さ せ て 、 ド ラ マ に な ん と か 深 み を つ け よ う と 苦た肉この
とも策あ
をつ練た

ようだ。
電柱本
一に 細 心 の 注 意
それよりも、 私としては、締切に間に合わないことのほうが大問題だった。 滝田さん
電話すると、
あ「と 五 、 六 ぺ ー ジ で す か ら 午 後 か ら 来 て」下 さ い
と の 返 事 な の で 国 立 の 滝 田 家 に お も む く と 、 残 り 一 五 、 六 ぺ ー ジ と い 、っ の は 日 常 茶 飯
だった。 滝田さんの奥さんにおやつをごちそうになり、 夕飯をごちそうになり、 それで
ま だ 仕 上 が ら な か っ た 。 し か し 、 こ 、っ い う と き は 、 必 ず 翌 日 に
ロ「は
ー仕ジ上
ナでが
」り 、
一一人で気持ちよく昼食のカレーラィスをたべた。
そのうち、 セリフだけは出来上がっても、絵がなかなかはかどらないことがあった。
今「回 は 無 理 そ う で す か ら 、 次 号 に ま わ し ま し よ う か 。 空 い た ぺ ー ジ は な ん と か 新 人 の
4 滝田ゆう

作家でうめますから心配しないで下 」さ い
と 、 冷 た く 言 い 放 っ た こ と も 一 度 や 一 一 度 で は な か っ た よ 、っ に 思 、っ。 滝 田 さ ん は 、
困「っ た な あ 、 あ と 一 日 侍 っ て 下 さ い よ お 、 生 活 が か か っ て い る
」ん で す か ら
と、懇願した。 このときも、なんとか締切に間に合った。
だ が 、 そ ぅ は い か ぬ と き も あ っ た 。 滝 田 さ ん は 仕 事 部 屋 と し て 近 所 に 平 屋‘を 借 り た 。 家
族の於音から離れ仕事に打ちこみたいがためだった。雑木林に囲まれ、縁側のついた家
は、広 く は な か っ た が 、 い か に も 滝 田さ ん の 仕事 場 に ふさ わし か った 。 私 は 、 この風趣
あ る 部 屋 を 訪 れ る こ と を 楽 し み に し て い た 。 が、 な か な か 楽 し め な か っ た の が 滝 田 さ ん
あ る 。 ネ ジ リ 鉢 巻 き ま で し て 机 に 向 か っ た り しバ
たス
ー がに
、なナっ て い た 。 そ の 原 因 は 、
常に前作以上の作品を画かなければならないといぅ強迫観念を抱いていたからかもしれ
い。 そ 、っ な る と 、 電 信 柱 一 本 、 板 塀 の 貼 り 紙 一 枚 に 神 経 を と が ら せ た 。
締切破りの術
あ と ー 〇 枚 も 残 っ て ま す か ら 、 そ こ で 昼 寝 で も し て い」て 下 さ い
「 一
と 言 っ た 。 あ た た か な 日 ざ し だ っ た 。 わロたリしと
横はにゴな る と 本 当 に 眠 っ て し ま っ
た。 一時間ほどして起きたが、 滝 田 さ
ゥ「ん
ーはン、
と」、っ な っ た き り で 、 ペ ン 先 が サ ラ サ
ラと運んでいる様子はなかった。私は諦めて帰ることにした。 翌日、私は、 別の作家の
稿とりがあるので、代 わりにI
同君僚にの滝 田 さ ん の も と に 行 っ て も ら っ た 。 と こ ろ が 、
こ れ が 大 失 敗 だ っ た 。 以I下
君はの証言である。
滝田さんは、
I君 が み え る と 、 気 分 転 換 の た め と 称 し て コ ー ヒ ー を 飲 み に 国 立 駅 前 に 出
た の だ と い 、っ。 コ ー ヒ ー を 飲 み 終 え る と 、 い い 知 恵 が 浮 か ぶ か も し れ な い と 、 駅 前 の 映
館に二人して入った
I君。は 仕 方 な く 滝 田 さ ん の 隣 り で 映 画 に 見 入 っ て い た と い 、っ。 ニ 本
立ての映画を見終わって外に出ると、滝田さんは、
ア「ッ そ う だ 、 夕 方 か ら 新 宿 で 編 集 者 と 打 ち 合 わ せ す る 約 束 が あ っ た の を 思 い 出 し た
新宿まで一緒に行きましよ」う
と言われて、 そのとおりにした。 けっきよく、 その日は一枚の原稿も書かなかったの
I君 の 話 を 聞 き な が ら
ズ、
" ラかりの滝田々を自称する姿が目に浮かぶようで、大笑いし
た。
編「集 者 と 会 う 約 束 と い う の も ど 、っ かな。 新 宿 で 飲 み た か っ た だ け な ん じ ゃ な い か な
ま あ 、 滝 田 さ ん も ぼ く や 君 の よ 、っに、 一 滴 も 飲 め な い の が 相 手 で は つ ま ら な い だ ろ う
4 滝田ゆう

らね 」
と、 ふ て く さ れ て いI君るを な だ め た 。

滝 田 さ ん は 、 私 の 新 宿 の 住 ま い に 、 何 度 か 電 話 を し て き た こ と が あ っ た 。 いつも、 夜
八時とか九時頃だった。

「げ さ ん か 、 林 さ ん を つ れ て 新 宿 駅 ま で 出 て き ま」せ ん か ?
との誘いだった。
石「子 さ ん 元 気 で す か ? い や い や 、 こ の あ い だ は も っ と 話 し た か 」
ったんだけど
と ブ ツ ブ ツ と 電 話 口 で 言 っ て い た 。 石 子 さ ん や 、 つげさん、 林 さ ん 、 そ し て 、 山 根や赤
瀬 川 さ ん ら が 、 し ょ っ ち ゅ 、っ 真 夜 中 の 新 宿 で 楽 し そ 、っ に 集 ま っ て い る 、 と 決 め つ け て い
ょ 、っ に 聞 こ え た 。 滝 田 さ ん も 、 そ の 仲 間 に 入 り た か っ た の だ ろ ぅ か 。 石 子 さ ん も 、 つ げ
んも酒を好まない。
Iヒコ ー
のおかわりで何時間もすごしていたのだ。 その様子を私は滝
田さんに伝えたことがあった。
もしかすると、滝田さんもたまにはコーヒーのおかわりをしてみたかつたのかもしれな
つげ患煲
5 --------------------
#- - - - -
時代の暗部を照らした作品群
ス リ リ ン グ な 作む
品「し 」
一九六八年の五月に、桜 井 昌 一 さ ん が 経 営 す る 東
白『考
い社液か
体らと
』 い 、っ短
I が
刊行された。
桜井さんは、貸本マンガ全盛時代に結成された大阪のマンガ 家工
劇「画 グ房
ル」ー
のプ
一員だった。 劇「画 工 房 に
」は、 さ い と たかを、佐藤まさあき、辰己ヨシヒロらが属して
.
つげ忠男

いた。 や が て 彼 ら は 上 京 し 、 貸 本 マ ン ガ を 舞 台 に 頭 角 を 現 し て い く の で あ る が 、 桜 井 さ
は 、 水 木 し げ る さ ん や い ば ら 美 喜 さ ん 、 滝 田 ゆ 、っ さ ん ら を 中 心 と し た 貸 本 マ ン ガ の 出 版
5 を国分寺の片隅に興した。
短 讓 白『い 液 体 』
には、池上遼一さんが同名の書 き 下 ろ し 作 品 を 発 表 し た が 、同時に
掲 載 さ れ た の が 、 つ げ 義 春 さ ん.
のつ実げ弟忠男さんの む「し と」い ぅ 作 品 だ っ た 。 池上
さんの作品は、 ガ『ロ に
』発 表 す る の と は だ い ぶ 傾 向 の 異 な る 不 気 味 な 内 容 で あ っ た が 、 つ
げ忠男さんの作品もまた、池上さんに劣らぬスリリングな劇性を示していた。
当 時 、ガ『ロ は
』、 白 土 さ ん 、 水 木 さ ん 、 つ げ さ ん の 三 大 作 家 が 大 活 躍 し て い る 時 代 で あ
っ た の だ が 、 あ と に 続 く 若 い 作 家 に め ぐ ま れ て は いカ
な「ム
かィっ伝
たが。年 に 一 、 二 回

休 載 す るこ と が あ っ て そ
、 のとき他の作家で休載〇

1〇の ぺージを埋めるのは至難の業
で あ つた 。 白 土 、 水 木 、 つ
さげん らに 匹 ^ ^ る ま で は い か なもく、読
と者の心を
と ら え る
力 量 のあ る作 家 を 揃 え る
こ と 霧
が# だった。
八年の沈黙のなかから
水 木 プ ロ で つ げ 義さ春
ん と雑 談 し て きに、 つげさんが、
い る と
弟「の 作 品 を ど ぅ 思 い ま す か
」?
と 1 さ れ た 。 忠 男 さ んむ がし を 発 表 さ れ た 直 後 だ っ た と 思 、っ。 私 は 、
「 」
あ「の 作 品 は な か な か 読 ま せ ま」すね
と だ け 答 え た 。 隣 り の 机 で 仕 事 を し白て
「いい液た
体」の作者である池上遼一さんがふ
り向いて、
忠「男 さ ん は す ご い で す ょ 。 貸 本 時
体『の
代なのく な る 話

』 い 、っ 短 篇 は 、 い ま で も 頭
に 焼 き つ い て ま すガ。
『ロ に
』 描 か な い で す か ね」

と言 った 。 つげさんは、 そ れ 以上 、 忠 男 さ ん に は ふ れ な か っ た 。 つげさんは、池上さ
と 同 じ ょ 、っに、 忠 男 さ ん の 作
ガ『品
ロ がに
』発 表 さ れ な い か と 念 じ て い た の か も し れ な い 。
私は、 つ げ 忠 男 さ ん ガ『
がロ に』 登 場 す る とぅいこ とを ま っ た く 念 頭 に お い たがな
こ と
か っ た 。 私 も ま た 、 貸 本 時あ代
「るの彫 像 」「
第 三 坑 道 」「
不思議な話 と」い っ た 短 篇 が 忘 れ
られないでいた。 だが、忠男さんが作品を発表しなくなってから八年がすぎていた。
白『
い液体に
』収められた
む「し も
」、 桜 井 さ ん と つ げ 義 春 さ ん と の 信 頼 関 係 か ら 掲 載
されたものだと判断していた。 であるから、 お二人の間に割り込んでいって、勝手につ
忠 男 さ ん の 作 品ガ
を『ロ に
』掲載 す るの は 、 ほ め ら れ た こ と で はな い と思 っ て い たの で あ
5 つげ忠男
兄に優るとも劣らぬ筆力

78
義春さんや池上さんと先の会話を交わした数週間後、水木さんの貸本マンガを求めるた
めに国分寺の東考社に桜井さんを訪ねた。 その折に、 つげ忠男さんの未完成の原稿を見せ
てもらった。 まだべンは入っていなかったが、 铅筆で丁寧に下画きされた蒸気機関車の迫
力 あ る画 像 が 目 に 映 っ た 。 ス ト ー リ ー を 追 わ ず と も 、 申 し 分 の な い 作 品 に 思 え た 。 一緒に
見ていた桜井さんは、

「ま の 劇 画 界 で こ れ だ け の 絵 を か け る 人 は い ま せ ん ね 。 つ げ 義 春 さ ん よ り 上 手 だ と 自
分 は 思 、っ ん で す け ど ね
」え
と言った。 義春さん以上
" とは思われなかったが、 たしかに、陰影の深いタッチは他の
"
劇画家を大きく引き離しているよぅにみえた。
翌日、出社すると、 つげ忠男さんに原稿依頼の手紙を書いた。もし新作が無理なよぅだ
っ た ら 、 東 考 社 に あ っ た 未 完 成 原 稿 に ぺ ン を 入 れ て 仕 上 げ て 欲 し い 、 と い 、っ 意 味 の 内 容
った。
手 紙 を 出 し て か ら 、 一、 ニ か 月 し か た っ て い な か っ た と 思 、っ。 六 八 年 の 九 月 の 夕 暮 れ 時
つ げ 忠 男 さ ん は丘
、「の 上 で ビ ン セ ン.ヴ
トァ ン.ゴ ッ ホ は と
」 い 、っ 中 篇 の 作 品 を た ず さ え
て青林堂に現れた。ちょぅど佐々木マキさんが遊びに来ていて、長井さんとお茶を飲み
が ら 歓 談 し てる
いと きだ っ た 。
期待をはるかにしのぐ力作
はじめてみるつげ忠男さんは、義春さんほどの背丈はなかった
チがリ、
し そ
体の ガ ッ

躯 は 、 一〇 〇 パ

ーン ト の 労 働 者 を 感 じ さ せ た 。 そ れ も そ の は ず で 、 忠 男 さ ん は 、 この頃
葛飾の採血工場に勤務していたのだ。 いかにも沈黙思考タィプと見受けられる忠男さん
はにかみながら原稿を差し出すその姿は、義春さんにそっくりだった。
再起第一作ともいえ丘「
るの 上 で ビ ン セ ン.ヴ
トァ ン.ゴ ッ ホ は は
」、 期 侍 を は る か に
しのぐ作品だった。主人公である青年の独白からはじまる筋立ては、作者のゴッホに寄
る深い思い を証す と同時 に、作 者 の ヒ ユ ー マンな姿を映しだしていた。
つげ忠男

も ち ろ ん そ れ は 、 使 い 古 さ"
人れ間
た賛 歌"と は 、 一八〇 度 方 向 を 別 に す る も の だ 。 こ
の 作 品 に 狂 言 ま わ し 役 と し て 登 場 す る 主 人^五
公郎のさ
友ん人は 、 い わ ゆ る 過 激 派 の 青 年
である。 五 郎 さ んと 主人公 は、狭 い部屋 で当意即 妙 の や り と り を 展 開 す る 。 そのあとで
5
五 郎 さ ん は 警 察 に 逮 捕 さ れ る 。 主 人 公 の 青 年 は 、 ゴ ッ ホ の 生 涯 を 想 い 遣 り な が ら 、 静か
タバコに火をつける。外は 、大雨 であ る。
最後に読み終えた佐々木マキさんの、
ば「かにわびし気な作品です 」ね
と言ったことばに表象されるょぅに、 静かで重い内容だった。
丘「の 上 で
^ ^ で感銘した私は、 つげ忠男さんに、 以後、 つづけて画いて欲しいとお
願いした。約束どおり、忠男さんは、 懐「

か月し、
のメロディ を
」発 表 し た 。 こ の 作 品
も、前作 に劣 らず、 静か で重い作品だった。前 作に もい える ことだ が、 敗戦 後のある時
の 風!
!通 し て 、 作 者 の 思 想 や 認.識と
II が ,ろ」な く 描 き だ さ れ て い た 。
っ、も の 忠 男 さ ん は
そ れ か ら と い 青、岸良吉の敗走
「 昭 和 ご 詠 歌」「
」「 雨季 ど ぶ 街 」「
」「 力
夜ょゆるやかに
マ の 底 」「 無 頼 の 街と
」「 」、 四 年 間 に わ た っ て ほ と ん ど
ガ『ロ
毎月に
』作 品
を発表した。
採血工場労働者としての闘い
新作の原稿を受けとると、忠男さんと私は、青 林 堂 か ら ほ ど 近 いら
神「ど
保町の喫茶店
1〉 ‘ 「ガロ」1969
懐かしのメロデイ」 (
性質の悪ぃ
与太者がただ
5 つげ忠男

食 い し よ ぅ と

つげ忠男「
す る 時 ぁんた

1

の 々ィ印
を 出 すと
と た ん に あ や ま
.
るのさ

81
りお に 」おも む いて 一、 ニ 時 間 の 雑 談 で と き を す ご し た 。 忠 男さん も義春さ ん にま け ない
く ら い寡 黙 で あ っ た が 、義 春の
さとんきよ り は 会 話 は す す ん だ 。そ"

れ世は代
、 の よ し"み
が 原 因 し て い るもかし れな い 。 私 は 一 九 四 〇 年 生 ま れ 、 忠 男 さ ん は 四 一 年 生 ま れ だ っ た 。
葛飾と目黒と、出生地こそ多少の違いはあったが、 お 互 い 莖 足 生 ま れ の 莖 眷 ち で あ っ た
子ども時代や、少年期の遊びや関心に共通のものが認められた。同じ片岡千恵蔵の映画、
同 じラ ンド ル フ ^ス コ 映 画 を 見 て 育 っ た一七
ットの 。
八のと
き ミ ッ キ ー^力 ー チ ス や 山
下 敬 一 一 郎 の ロ カ ビ リ ー に 酔 っ て い た 。 い や 、 そ"
六れ〇
よ年り安
も保、"と い う 共 通 項 が あ
った。
つ げ 忠 男 さ ん は^中 :
1 す る と 同 時 に 採 血 工 場 に 就 職 し た 。 六 〇 年 安 保 の と き 、 一八
歳の忠男さんは、労働組含貝のひとりとして
1 国デ
会モへに
の参 加 す る 。
連「
日のように 行きま したか らね。 でも何のために行ったんですかね。誰しもどうでも
いいやといった気分じゃなかったんでしようか。会 社の 連中だ って、 安保がどうのなん
知 り ま せ ん か ら ね 。 み ん な ブ ッ 壊まわえれ
てく わ し く ってち言ってましたから 」
と 、自 己 を も 揶 揄 す る 調 子 で 回 想 し た り し て い た が 、そ れ は 本 心 で
雨「は
季な」い だ ろ 、っ。
に み ら れ る ご と くど、
「ぶ街や」 カ「マ の 底に」み ら れ る ご と く 、 そ し屑ての
「、市 に」み ら
れ る ご と く 、 多 感 な 一 八 歳 の 若"

者〇は年
、安 保
"の な か で 、 採 血 工 場 の 労 働 の な か で 、
戦後思想と向き合い、自立への道を模索していたに相違ない。
そういえば忠男さんは、 組合の 文芸部にいた頃、 いくつかの小説を機関誌に発表した

っだ。丘「の 上 で — も 、小 説 の 形 で 発 表 す る つ も り で 構 想 を 練 っ て い た も の だ と あ と で
^
聞 い た 。 話 を 聞 い て い る と 、 忠 男 さ ん は 、 ど 、っ も 小 説 塞 心 望 だ っ た の で は な い か 、 と
れた。大江 健三郎 、 安部公房 、 開高健 の名がロをついて出た。 山ロ瞳や高橋和巳の名が
もあつた。忠男さんは、 か ね て
た こ と 釣か
" りら
の哲、

"を 堅 持 し て い るそ。 もあ
の こ と
っ て か 、オ「ー パ ー を
」著 し た 開 高 健 か ら は 多 大 の 感 化 を 受 け た ら し い 。
と こ ろ で 、 つ げ 忠 男 さガん『ロ
が に』作 品 を 発 表 し つ づ け た ニ ー 年 間 は 、 ベ ト ナ ム 反 戦 運
動 や 七 〇年 安 保 で 社 会 が 騒 然 と し て い た 季 節 だ 。 だが 、 忠 男 さ ん は 、 大 学 生 や 青 年 労 働
の過激な動向にいっさいの沈黙を守った。支持 す る気配 も、批判のことばも 発し なか っ
社会的な情勢にまったく関心がないわけがないことは、先の作品を一読すれば了解でき
5 つげ忠男

たぶん、忠男 さんは、 安易な妥協や軽薄な付和雷 同に組 することを よしと しなかった の


むしろ、自らの作品で状況の 全体と 対決 しよ うと した。 換言す れば 、 それは、 甘いこ
ばですベてを解決しようとする戦後思想への全的否定であるとみていいのかもしれない
暮 ら し を 守 る 、 生 活 を#
持 ^る と い う こ と は 、 そ う い う こ と だ 、 と 言 つ て い る よ 、っ に 受 け
と れ た 。 ま さ に 、 状 況 全"

体じを伏 せ る
"ベ く 、 つ げ 忠 男 さ ん は 、 四 年 に 及 ん で 全 力 投
球 を つ づ け た 。 つまり、 つ げ忠 男 作 品は 、 あ る 意 味 で あ ま り に 挑 戦 的 だ っ た 。
静 か で 、 暗 く 、 重 い 作 品 は 、 読 み 手 に 緊 張 感 を 強 い た顔。
「の次ア第ッにプ、ば か り だ 、
も 一 ぺ ー ジ に 八 コ マ 割 る だ け で 、 あ と は 文 章 が や た ら と 長 い 、 も 、っ あ れ で は マ ン
コ マ 割 り

ガじゃない!」い っ た 批 判 を 耳 に す る よ う に な本
っ「当
たに。暗 い 話 ば か り で す よ ね 、 世
の中には明るい話だってたくさんある。 マンガというのは読む人に夢を与えるものなのだ

から、 もっとほ のぼの した作品 を 画 く べ き じ ゃ な い
」で言す
っかたね
、的外れの非難も
聞いた。
そのとき、私には、 つげ忠男作品を支持し、擁護することこそ、水木しげるやつげ義春
や林静ーや佐々木マキの作品をも擁護することにつながるのだとの考えがあった。さらに
つげ忠男作品に全幅の信頼をおくことが、私たちの世代の倫理であるようにも思えた。 だ
が、 そ ん な 杞 憂 も 必 要 な か っ た 。
マンガ界の一部でどんなに非難されよ、
ガっ
『ロとの

』読、者からは、熱い共感をもって
受けとめられていたからだ。彼ら、若い読者は、忠男さんより一まわりも下の世代であっ
た。 状 況 と ま っ こ う か ら た ち 向かお うとす る作者の 姿勢は 、 彼 ら若者 の姿で もあっ た。
う し た 、 頑 な な 若 者 た ち の 拠 り ど こ ろ が 、 つげ義# ^ 品 で あ る よ り も つ げ 忠 男 作 品 で あ
たところに、 この時代の暗部が照射されている。
や「っ ぱ り 田 端 義 夫 で す よ
」ね
つげ忠男さんが精力的に作品を描きついでいる頃、実兄のつげ義春さんとの交流は、
外 に 少 な か っ た 。 忠 男 さ ん は 、 私 と 会 、っ た び に 、
兄「
也貝はど、っ し て い ま す 」
か?
とた ずねた。 簡 単 に 義 春 さ ん に つ いての近 況報告 を終える と、忠 男 さ ん は 、 いくらか
堵し だ っ た 。 そ ん な 様 子 を み て い る と 、 "不 肖 の 兄 々 を も っ た 弟 も 気 苦 労 が た え な い
た よ う
で大変だなあと思った。
忠男さんは、勤めをやめマンガで生活を支えるべく、 ほとんど休
. みしなたく。作 品 に
つげ忠男

私は、 千 葉 の 柏 市 の は ず れ に ある忠 男さんの 住まい に何度 も足を運 んだ。 二人ともおし


ベ り は 苦 手 で あ っ た け れ ど も 、 忠 男 さ ん を 前 に す る と 気 持 ち が 落 ち つ く よ 、っ で あ っ た 。
5 男さんが、唐突に、 、
最「
近 の歌 は み ん な 駄 目 だ な あ 、森 進 一 ぐ ら い
」だ な あ
と言つた。 しばらく、歌謡曲談義になつた。
上「海 帰 り の リ ル
が」巷で歌われた昭和一一八年ぐらいまでの歌しか関心がなさそうだっ
た。春日八郎、 そして三波春夫あたりがでてきてから、流行歌もおもしろくなくなった
言い切った。
や「っ ぱ り 田 端 義 夫 で す ょ
」ね
とも言つた。
忠 男 さ ん と 話 しいてる と 、 い つ昭
も 和 ニ〇ま のことばかりであった。ニ 〇うま
と い
のは、 私 た ち の 小 中 学 生 時 代 に あ た る 。 敗 戦 後 の 貧 し い 時 代 で あ っ た 。 焼 け 跡 が ま だ い
ら も残 っ て い た 。 で も 、 私 たとちっに
て その頃が、
は 、 ユートピアに思えたのかもしれな
い。 い や 、ユ ト
ー ピ ア とい う と語 弊 があ る 。誰 にと つ て も 、
つまりは、
子 ど も に と つ て も 、
大 人 にと 敗 戦 後 の 混 乱 期 は 、 そ れ な り に 充い実たし
っ て も 、 といてう こ と だ ろ う 。
ニ匕 リ ス テ ィ ッ ク に
時に
つ げ 忠 男 さ ん が 、 創 作 の 過 程 で 繰 り 返 し 繰"
戦り後
返"へ
し遡、行 す る の は 、 ノ ス タ ル ジ
ア を 求 め て で は な い よ う に 思 、っ。 い わ ば 、 忠 男 さ ん に と っ て 、 戦 後 の 風 景 な り 、 戦 後 の
ら し なり が 、 思 考 の 上 で の 原 点 な の
懐「だ
か。しのメロディ 昭 和 ご 詠 歌」「
あ る 風 景を
」「 」
貫くのは、まさに 戦、後 思 想 々 を ど う と ら え る か と い う 課 題 に 他 な ら な い 。
"
森「進 一 の"
港 町 ブ ル ー ス 々 は い い 歌 で す よ ね 。 あ の へ 背 の び し てと

〜 い
るう海峡を
ところは、グッときますよね 」
と、 その くらいし か語ら ないでは いるが 、 そ
との ""グ
く る とッい、
っあ た り に 、 す で に 、
戦〈後 論 が
〉 形 成 さ れ て い る よ う に 感 じ ら れ る の は 、 私 だ け だ ろ う か 。 そ 、っ か と 思 え ば 、
忠 男さ ん は 、 いたずらっぽく、
ど「、っ な っ た っ て い い ん じ や な い で す か ね 。 守 る も の は 何 も な い ん だ し 、 大 事 な も の
ん て 何 も な い ん で す か ら ね 。 み ん な ブ ッ 壊 れ ち1やっ文た句っはて言 わ な い と 思 、っん
で す け ど ね え」
と、なんともニヒリスティックなことばをはいたりもしたのである。
つげ忠男

少 し 飛 躍 し て い っ て し ま え ば 、則
七1後
〇の年忠 男 さ ん は 、 何 も の か に 向 け て 憎 悪 を は げ
し く し て い た憎
。 悪の対象となったものが、なんであったのか、作品を読めば明らかであ
5 る。 一 部 の
ガ『ロ 』
の 若 い 読 者 が 、 つ げ 忠 男 作 品 に 一 体 感 を 抱 い た の は 、 つげ忠男さんの
生 活 者 と し て の 生 の 声 を 信 頼 し た か ら で あ る の か も し れ な い 。だ が 、忠
ガ『男さん自身は、
ロ 』
の読者に迎合する気はかけらもなかった。
「 か れ も グ グ ッ と や つ つ け ち ま い ま し ょ」
1 ぅかね
などと、本気だか冗談だか知れないが、もらしたことがあった。
精神 的余裕 、 画像に磨きがかかる
一 九 七 一 年 の ニ 一 月 にガ
私ロ
『は を去った。 翌年、あ ら た
』 疼『仃
に を
』刊 行 す る こ と
にした。 つげ忠男さんは、協 お力 をなか っ た 。
し ま
夜『
行に』は 、屑「
の 市 」「
潮 騒 」「
遠 い 夏 の 風 景」「
狼 の 伝 説 」「
夜 太 郎 犬 」「
カラスかんざ
ぶ ろ 、っ等 の 作 品 を 発 表 し た 。 こ れ ら は 、 六 九 年 か ら 画
」 ガ『き
ロ出』

し作た品 群 に 少 し
も 劣 ら ぬ 内 容 で あ っ た 。 いや、 表 現 的 ガ『
にロは時』
、代の三年間をはるかにしのぐ出来栄
え をみ せ て い た 。 簡 単 に い っ て し ま え ば 、 画 像 に 磨 き が か か っ て い た 。
劇性もまた精神的 な余裕 に支 えら れて いた。 さきにあげ た五、 六作は、 どれも劇画史
残 る 名 作 と い っ て ょ い 。 つ げ 義 春紅
さ「い
ん花のや
」 海「
辺 の 叙 景」「
西部田村事件
等」々
の名作に少しもひけをとりはしない。 たぶん、 それは、 つげ忠男さんが、作 品の 対象 化
ひいては、戦 後 の 対 象 化 を 見 事 に な し え た 結 果 だ ろ 、っ。
〈 〉
しかし、 それからの忠男さんは、 以前のよぅに ^ 作る品こにと!は
!な く な っ た 。 彼 は
再び金物店に勤め出し、さらに数年して、自らジーパン屋を開業した。 江戸川台のジー
ズ シ ョ ッ プ を 訪 れ る と 、 忠 男 さ ん は 、 い つ も て れ く さ そ 、っ に 出 迎 え た 。
ち「よ っ と お 茶 で も 飲 み ま す 」
か?
と、隣りの喫茶店にさそった。 しかし、 お互い話がはずまなかった。 八〇ま に 入 っ て
化々が叫ばれ、私たちは、 その流れのなかで取り残されていた。 焼け跡時代の話で
も し よ ぅ も の な ら 、 そ れ"

こ古そ趣 味
"と 侮 蔑 さ れ か ね な い 時 代 の 到 来 だ っ た 。
利「根 川 の 風 景 は い い で す よ 。 こ の あ い だ 筑 波 の ふ も と ま で 釣 り に 出 か け て ね 、 別 に た
い し て 釣 れ る わ け じ や な い け ど 、 あ の^辺い
のい風な!!
あ。 ダ ー ッ と 葦 が 生 え て い て 、
あとはなにもなくて、 それだけでいいですよね。来週も、&^沼かあそこら辺へ行って
み よ 、っ か な あ っ て 思 っ て い る ん で
」す よ
つげ忠男

無名ミュージシャンのつげ忠男評


1〇年近くも前に小さなラィブハウ
ねス
" じで
式、コ ン サ ー~ト
大 場 電 ^ ^ 工業所コン
サ I ト "齊 仃コ ンサ ト
"
ー "の タ イ ト ル で 、 ひ き 語 り を つ づ け る 無 名ー

のシミヤ
ユン が い
た。ある日、突然、 一面識もない彼女からりんごが一箱送られてきた。

「つ も お 世 話 に な っ て い ま す 。 勝 手 に タ イ ト ル を 使 わ せ て も ら っ て 申 し わ け あ り ま せ
ん。 おわびのしるしです。 つげ義春さんにも宜しくお伝 」え 下 さ い
と 書 か れ た 丁 寧 な 手 紙 が 添 え ら れ て あ っ た 。 も ち ろ ん 、 彼 女 は 何 の 断 り も な し に 、 つげ
さんの作品のタイトルを使用したわけではない。前もって連絡が
そあのっ
こ た
をの で 、

つげさんに伝えると、 つげさんからは、

「つ に か ま わ な い よ 、 自 由 に 使 っ て い い か ら 、 お 金 の こ と も 気 に 」
しないよぅに
との返事だったので、彼女側に伝えた。 りんごは、そのことのお礼の意味だったのかも
しれない。
しかし、 それから数年にして、彼女の名を聞かなくなった。再度、彼女の名を認めたの
は 、 八 〇 羡 の 半 ば で あ っ た 。 彼 女 は 、 つ げ 忠 男 さ懐
ん『か
のし作の
品メ集ロ デ ィ ー

』(
冬書房 )
にふれて、次のよぅに綴った。

「げ 忠 男 が 、 絶 望 と 孤 独 の 風 景 の 中 に 遊 び 、 自 ら 少 し づ つ 絶 望 と 孤 独 の 風 景 を 愛 し 始
め た こ と を 語 り 、よ り 深 い 暗 い 絶 望 と 孤 独 を 愛 し て ゆ く こ と を は っ き或
り『決 意 し た こ の
る風景 は
』、 私 の 独 断 と 偏 見 で 、 つ げ 忠 男 の 代 表 作 で あ る と 、 決 め つ け て い る の で す 。
中(略 )
朝 、 妻 の 外 出 の 後私、
『が』昨 夜 の 不 安 な 夢 の 記 憶 を た ど っ て ゆ く コ マ の 進 め 方 は 、 ま
さ に 、 つ げ 忠 男 自 身 の 孤 独 癖 の ひ と り 遊 び を 楽 し む 様 子 を 知 る ょ 、っ な 気 が し て 不 思 議
説 得 力 を も つ 優 れ た 描 写 で中す
(略。 )
か『ら す.か ん ざ ぶ ろ ぅは』、 誠 実 過 ぎ る 故 に 、 地 味 で 不 器 用 に 思 わ れ る つ げ 忠 男 の 作
品 に 、 実 に 、っ ま 味 の あ る 軽 妙 さ を 垣^
間:見
でせすた
。 そして、私の一番好きな作品で
もあるのです。
或『る風景以 』後 の つ げ 忠 男 は 、 つ げ 義 春 を 越 え る 唯 一 の 私 小 説 的 劇 画 家 と し て 、 内心
私 は 、 つ げ 忠 男 に 興 味 を 持 ち 、 古 本 屋 の 立 読 み で 、0パ
つンげの
忠店男を
が始 め た こ と
で 驚 き 、そ の
6パ ン 店 が
— し て い る こ と を 知 っ て 、 ひ と り 喜 ん で い る日
」の
(『で読
本 す
書新聞 』 一九八四 ^三丨五 )
5 つげ忠男

彼 女 は 、 こ の—文 発 表 し た き り 、 視 界 か ら 消 え た 。 彼 女 の 名 を 森 田 童 子 と い 、っ。
迪上遼
6

I
--------------------
#- - - - -
白土三平さんの 革「
命的宣言 に
」応える劇画正統派作家
罪「の
人間の原罪を問ぅた入選 作意識 」
池上遼一さん罪のの意識 が ガロ に入選作品として発表されたのは一九六六年九
「 」 『 』
月号だった。池 上 さ ん の こ の 作
人品
" 間は
の原罪
"を 問 、っヒユーマンタッチにあふれてい
た。 この頃、私 ガ
は『ロ 』
の一読者にすぎなかったけれども、池上作品に接したときの感
触はいまでも忘れがたい。
池 上 作 品 だ け で は な い 。 つ げ 義 春運
さ「命
んのや
」、 や は り 当 時 の 入 選 作 だ っ た 渡 二 十
四さんや三橋誠さん、星川てっぶさんらの作品は、 ヒユーマニズムの卷振い傾向を示して
い た と い っ て い い 。 そ し て 、 そガ『
れロがと
』 い 、っ 雑 誌 の # ^ い を き わ だ た せ て い た の だ
ともいえる。 たぶん、白 土 三 平
赤(さ
目んプロ )
の 強 い 影 響 の も と に あ っ た か ら だ ろ 、っ。
つ げ 義 春 さ ん 、 連 絡 乞と
「 、っガ ロ に 尋 ね 人 が 出 た の も 、 白 土 さガん
」 『 』 『ロがに
』つげ
作 品 の 掲 載 を 強 く 望 ん だ 結 果 だ と い 、っ。 当 時
^ の^新
品人のの
入^ ^ のままも自土さん
や赤目プロの意向が働いたということだった。
白土さんは
ガロ 誌上に若き作家に向けて次のように檄をとばした。
『 』
い 私は手紙等により、
「ま ま で マンガ塞心望の人々に反対してきた。 それは失敗すれば
マンガ家はッブシがきかないからである。 だが、 いまや世の中は高度成長政策のヒズミ
か ら- 企 業 の 倒 産 、 物 価
上の昇 と貧 富 の 差 は ま す し
まく なっ て き て い る 。 や が て
失業者が激増し、殳 難 か ら 求 職 難 へ と 反 転 す る 過 程 で 、とうぜん自由業への移行もま
た激 で あ ろ 、っ。 自 由 業 が す な わ ち マ ン ガ 家 で は も ち ろ ん な い が 、 世 の 中 の 不 満
し く な る
をマンガにたくして訴えてゆく必要性は充分存在する。
いままでは、 新 人 マ ン ガ 家 誕生 の空白 時代とい ってよ かった 。 この世界に新風をそそ
6 池上遼ー

ぐ 、っ え で も 、 ま た 既 成 の マ ン
プネ
. ロリ
:豕 に 刺 激 を 与 え る 意 味 でそもろ、
^ そ ろ新 人 誕
生 に よ る 新 陳 代 謝 が あ っ て も よ い 時 期 で あ る 。 ひ と り で 似 顔 絵 を 画 い て い て も 、 マンガ

93
家には育たない。また有名な作家に弟子入りしてもマンガは上達しない。まず独創的な
ス ^-丨 リ ーお
をの れ の 技 法 で 臆 せ ず に 画
てきるた である。
こ と
こ の 雑 誌ガ『
ロ を
』土 台 に し て 新 人 マ ン ガ 家 が ぞ く ぞ く 誕 生 す る こ と を 期 待 す る 。 ま
ず、 おのれの実験を発表してみなければおのれを知ることはできない。 また他の者の実
験 は 、 他 の 者 へ の 刺 激 と な る で あ ろ 、っ。 そ の 実 験 と 刺 激 の 中 で こ そ 成 長 が あ る 。 そ う し
た意味からも、既成雑誌にないおのれの実験の場とし
ガ『て
ロ、を
』こ大の
いに利用し
ていただきたい。 白土三平 」
批 判 的 ,否 定 的 評 価 の な か で
一 九 六 五 年 の 段 階 で 、 白 土 さ ん の 〃 革"
命が的、宣ど言れ だ け マ ン ガ 家 を 志 す 若 者 に 届
いたか、 大 い に 疑 問 だ 。 た し か に 前 述 の よ う に 、 ひ と り 、 ふ た り と 注 目 す べ き 新 人 が 登 場
してはいたのだが、 コンスタントに作品を発表することはなかった。 それは、もしかする
と 、 読 者 側 の 責 任 で あ っ た の か も し れ な い 。 いや、 新 し い マ ン ガ の 領 域 を 開 拓 し つ つ あ っ
た 新 人 作 品 に 対 し て 好 意 的 な 感 想 が 読 者 欄 に 登 場 す る こ と"
独も善
あ的っ"だ
たとがか
、、
ひとりよがり
" "だ と か 、 "実験的々だということばによる否定的意見の方が上回ってい
つまり読者も、白 土 宣 言 を 理 解 し え て い な か っ た の で あ る 。白 土 さ ん 自 身 が 、 独創的で
実験的な新しい作品を望んだにもかかわらず、若い読者は、 既成のマンガ観から一歩も出
ようとはしなかった。読者は、貸本時代の劇画観から、あるいは、大手出版社の少年誌の
マ ン ガ 観 か ら 、 少 し も 自 由 で は な か っ た 。 いや、 私 に い わ せ れ ば 、 そ れ は 、 六 五 年 の 段 階
で は な く 、 七 〇 年 前 後 に あ っ て も 、 いや、 今 曰 に あ っ て も 、 独 創 的 、 実 験 的 な 表 現 は 、
ンガ表現に限っては強く否定されるものと思っている。 したがって、 六五年時での白土さ
んの熱を込めた宣言には、 いまでも胸迫るものを感じるのである。
白 土 宣 言 に 強 く 応 え よ 、っ と し た の が 、 池 上 作 品 で は な い
罪「か
のと意思
識うの。
」 画調
は、 正 統 派 劇 画 そ の も の で し か な か っ た け れ ど も 、 作 家 性 は 群 を 抜 い て い た 。
水 木 プ ロ の員
Iに
阪足の
私 の 青 林 堂 の 入 社 は 、 そ の 直 後 で あ る 。 あ る 日 、 長 井 さ ん が 、 大1 に池 上 さ ん を
6 池上遼ー

呼び寄せたいのだが、 と言った。 水木しげる 罪「さのん


意が識、
を」読 ん で 是 非 と も 水 木 プ
ロ の ア シ ス タ ン ト と し て 採 用 し た い の だ と い 、っ。 そ れ ら の 理 由 を し た た め て 池 上 さ ん に
紙を送 っ た 。 一週間もしないうちに電話があり、 そ れ か ら 何 日 も し な い う ち に 、 池上さん
池上遼ー「
風太郎」(
「ガロ」1968,4 〉

9^
は、 ボ ス ト ン バ ッ グ ひ と つ を も っ て 青 林 堂 に 現 れ た 。
長 井 さ ん は 、 水 木 さ ん が 評 し た"

ょ子ぅの
に破 れ た
"声 を し て い る 。 池 上 さ ん の 声 も
長 井 さ ん の 声 に 似 て い る が 、 も っ と 管 が つ ま っ て い る 感 じ な の だ 。 目の前で一一人が談笑し
て い る と 、 壊 れ^た^が ガ シ ャ ガ シ ャ 動 い て い る ょ ぅ で お か し か っ た 。 二 人 し て 、 さ っ そ
く 水 木 宅 に 向 か っ た 。 途中、京 王 線 の な^
かで^後
、、中大
:阪 で 看 板 屋 に 勤 め て い た 経
歴などを聞いた。
池上さんが水木プロの一員となると同時に、私の水木プロ詣でも回を重ねていった。と
ガ『ロ 』
い、っ の も 、 で水木さんの
鬼「太 郎 夜 話」
の 連 載 が は じ ま っ た か ら で あ る 。 いわば、
池上さんの水木プロへの導入 鬼「も
太、郎 夜 話」の連載が前提となっていたのかもしれな
い。 私 は 、 毎 日 、 締 切 近 く に 水 木 プ ロ を 訪 ね た 。 水 木 さ ん は 、 一 日 も 遅 れ ず に 締 切 を 守 っ
た の で 、 原 稿 と り で 苦 労 し た 憶 え は 一 度 も な い 。 む し ろ 、 水 木 プ ロ 訪 問 は 、 一番の楽しみ
でさえあった。 水 木 さんをは じめ、 つげ義春さん、 池 上 さん、 そして最古参の北川さんと
池上遼ー

の会話が待っていたからだ。
水木さんの愛情ある冗談

98
鬼「太 郎夜話 」
が完全に仕上がってくるあいだの一
ニ時 間 を
、水 木 語 録 で 笑 い 転 げ
た。 ときに、 秘密の小部屋々に案内してくれたり、 数十の日本海軍の軍艦のプラモデルが
"
飾 っ てあ る部 屋 で 、じ「つ は つ げ さ ん は で す…
ね…と
」内緒話に興じたりした。

「げ さ ん が 死 ん だ ら マ ン ガ で 画 き た い こ と が 盛 り 沢 山 あ る の で す が 、 ま だ 死 に そ う に
ないですか? つげさんこの前かなり憂鬱そうな表情してましたが、どうしたんです
か? 自 殺 さ れる とか !
も 、っ じ き

な ど と 、 冗 談 に も ほ ど が あ る 、 と い 、っ 内 容 で あ っ た が 、 階 下 で 仕 事 に 精 を 出 し て い る
げ さ ん の 姿 を 想 像 す る ほ ど に 、 水 木 さ ん の つ げ さ ん へ の 想 い が し の ば れ る ょ 、っ だ っ た 。
そういえば、 この頃、 つげさんはょく旅に出ていた。水木プロに顔を見せないだけでな
く 、 つ げ さ ん の 部 屋 に 寄 っ て もこ
留と守が多
のか っ た 。 水 木 さ ん は 、
女「に ふ ら れ て 、 傷 心 の 旅 に で も 出 た ん で す」か ね え
と喜んでいた。 つげさんが留守のときは、 つげさんの隣り部屋に住んでいた北川さんの
ところに寄って、 つげさんの作品の話などした。 北 川 さんにとって、 つげさんは水木さ
とは違った意味での恩師だったのかもしれない。
現代文字を情熱的に語る
そ の 点 に 関 し て は 、池 上 さ ん も ま け て は い な い 。 ロ か ら
つ「で
げるさの
んは、、つげさ」 ん
である 。 貸 本 マ ン ガ 時 代 の つ げ 作 品 に ま で さ か の ぼ っ て 、 ロ を き わ め て 論 じ た 。 つげ作品
に つ いてだけではなかった。池 上 さ ん は 、大 江 健 三 郎 、横 光 利 一 、 安 部公房 、 椎名麟三と
次 々 と 文 学 の話を も展開 した。 私 が 接 したマン ガ家の なかでは 、 つげさんについで池上さ
ん が 文 学 の 話 に 熱 を 込 め た 。 大 江 健死三者
「 郎のの奢 りや 芽 む り 仔 撃 ち セ ブ ン テ ィ
」 「 」「
丨ン 」 の各場面を思い出しては絶賛していた。安部公房の観念的な作風 1 は、自分とは
は 違 、っ も の だ け ど 、 魅 か れ る 、 一 度 で い い か ら あ ん な 抽 象 的 な 作 品 を マ ン ガ で 画 い て み た
い、 と 語 っ た 。
沼「
そのときであったかどぅか忘れたが、 つ げ さや
んの
」 チ「ー コ に
」ついて議論した
6 池上遼ー

沼「
こ と が あ っ た 。池 上 さ ん は 、 つ げ 作 品 を 称 え る こ と で は 誰 に も ひ け を と ら」
なかったが、
や チ「ー コ 」には抵抗を示した。私が、 これらを断固として擁護すればするほどに、彼は、
で「も 貸 本 時 代 の つ げ 作 品 は も っ と 衝 撃 的一で し た ょ
とゆずらなかった。池上さん自身の画調は、最も正統的な劇画のそれを受け継ぐもの
あったけれども、作蜜思識は、 つげさんについでマンガ界の最 先 端 を 走 っ て い た と い
い い の で は な い だ ろ 、っか。
またしても評論家たちの苦言
ガ『ロ 八
一九六七年の 』 月 号 に夏「 」
が発表された。
そ「の 日 は う だ る よ 、っ に 暑 く い い 知 れ ぬ 臭 い が 人 々 を 支……」
配していた
というプロローグのことばで進展していくこの作品は、腐臭に群がる蝇の存在をはさ
での若い男と女の物語である。 わずかニ〇 ぺージの作品だが、饒舌なまでの男のセリフ
画 像 を も 覆 う か の よ う だ 。狂 気 へ と 向 か う 男 の こ と ば は 、カ フ カ の 実 存 .
的 世 界 や 、ア ン
ロマンにみられる不条理劇を想起させないではおかない。 セリフの多用にもかかわらず
こ と ば に よ る 説 明 と い 、っ 感
— じ フ
モと
だはつ た 。 そ れ は 、 確 固 と し たー チ、 構 成 力 の た
くみさの証でもあった。 だが、案の定というべきか、
セリフは多すぎるし、何を描きたいのかよくわからない
「 」
と い っ た 苦 言 が 寄 せ ら れ た り も し た 。 と は いガっ
『ロて誌
』も上、に は 読 者 の 好 意 的 な 感
想が綴られた。
石「原 慎 太 郎 君 が ほ ざ く よ 、っに、 今 日 ぼ く ら は ベ ト ナ ム の 血 を す す っ て 生 き る こ と を
し つ け ら れ 、 そ れ を 受 容 し て い ま す 。 僕 ら の 数 々 の 平 和 運 動 に も か か わ ら ず 、 ベトナ
の 殺戮 を止 め得ません 。 ベトナ ムは 僕ら の無 恥 、怯 懦 、 腐 敗の . 的な現われとして
こにあ ります。 このよ、 っな現実を心夏 に『
おをい読てめ ば 、 そ暑のさ と 、僕 ら の 外 部

に わ き 、 そ し て 飛 ぶ 蝇 ば か り でまなさくに僕
、ら の 内 部 か ら 発 生 し 、 僕 と 少 女 と の 愛 を
も不可能にする蝇の意味は、深く日重思識を根底からひっくり返すものとしてのしか
って くる の で は な いしでょっ
、か 」
が、 以 上 の よ ぅ な 池 上 作 品 を 理 解 し よ ぅ と す る 姿 勢 は 、 マ ン ガ 界 に あ っ て は 望 む べ く
なかった。
なによりもつげさんの支持を喜ぶ
6 池上遼ー

翌 月 ガ ロ 九 月 号 に地 球 儀 が 発 表 さ れ る 。 病 院 に 入 院 し て い る 少 年 は 、 ベ ッ ド の
『 』 「 」
横 の 鳥 か ご の な か に 院 長 か ら プ レ ゼ ン ト さ れ た 地 球 儀 を 飼 っ て い る 。 深 夜I
、天 眼 鏡 を
出 し た 少 年 は1地 を の ぞ き 込 む 。 レ ン ズ の 向 こ ぅ 側 の 太 平 洋 上 に 类
4ジエェ
軍ッのト

0
1
戦闘機が編体で飛行するのが見えた。少
1 年
手はに鉛
するとコッンと戦闘機を突っつい
た。戦闘機は、太平洋上へ炎をふいて落下していく。
こ れ は 地「球 儀 」
の一部分でしかないが、少年の不安定な心理をとり出すことにょって、
彼を覆っている全体の、あるいは世界全体の現実の重さを描こうとした。作品を発表す
前 に 、こ「ん な ス トリ
ー ー を 考 え た ん だ けと
」ど言 っ て 話 し て く れ た の が 、 さ き の シ ー ン で
ある。
フダ
1 みたいな、 妄 想 み た い な シ ー ン だ け ど 、 そ こ を リ ア ル に 描 い て み た い 、 た だ の 空
に は 終 わ ら し た く な い ん で す 。 い い で す」
かね?
と問われた。 一シーンを耳にしたにすぎなかったが、置足はヴィヴィドに伝えられた
早く読みたいのですぐ作品にかかって欲しいと言うと、

「え 、 つ げ さ ん も す ご く 面 白 が っ て く れ ま し
」た
と 嬉 しそ っ
、 だった。
作 品 は 、 一か月後には完成した。 想 像 し ていた以上の力作だった。 ところが、 ちょう
青林堂を訪れていた一一、 三 の 人 が 池 上 さ 地
ん「球
の儀前を

」読 ん で 否 定 的 な 見 解 を 述 べ
たのであった。 その中には、 かつて貸本マンガで活躍した作家の顔も認められた。
少年は、 母親に三階の病室から鳥ヵゴの中の地球儀を落とすょうに依願する。 緊張の
まりに身を震わす少年 バ。
" ラ バ ラ バ々
〜 と病室にラジオ音楽が流れる。 夜もふけた病棟の
窓 の 下には、前 日少年 が自ら落 と し た 牛 乳 ビ ン が 粉 々 に 散 っ て い る 。
ま「っ た く な ん の こ と だ か さ っ は り わ か ら な い 。 ス ト ー リ ー の 起 承 転 結 が つ か め な い
セリフを読んでも、何がどうしたのか説明がない。 ラストぺージは、まったく意味不
な の で と っ て し ま っ た 方 が い い の で は」
ないか
大「人 の 人 に は わ か ら な い
」!
批判の内容はおおょそそんなところだった。
そうではないか、と矛先は私に向けられた。 ことばで説明してしまったらこの作品の
値はない、劇画の第一の要件は画像表現にぁる、 つ 沼 げも
「 義じ春つのは こ 、っ こ う と 説

明 し て し ま つ た ら 面 白 く も な ん と も な い 、^こす
とるばの
にな;ら 文 にまかせればいい、
^^
6 池上遼ー

と ボ ソ リ ボ ソ リ と 弁 解 す る沼と
「の、
」ど こ が そ ん な に い い の か わ か ら な い と—ま す ま す
の矢が放たれた。

10ヌ
やりとりを黙って聞いていた隣
I君りがの、
感「覚 的 な も の っ て あ る じ ゃ な い で す か ! ラストぺージがない方がいいなんてムチヤ
ク チ ヤ で すよ ! 」
と反撃に転じた。
ぼ「く に は こ の 作 品 よ く わ か り ま す 。 池 上 さ ん が こ こ で 描 き た か っ た こ と は 、 大 人 の 人
に は わ か ら な い ん で す よ」
ー.
と い き まい た 。
尻馬に乗ったかたちで私はさら
忍『に
法、秘 話に
』発 表 し た 白 土 三 平 さ 目
ん「無
のし を

は じ め 、こ 依 拠 し な い 感 覚 的 な 表と
と ば に 現りをこ ん だ
作 品 に ま で ふ れ た の だま
がわ、り
の そ「ん な 作 品 と い う こ と ば聞
あ り ま し た っ け ?」 を いて、それ以上の話し合いをやめた。
その場の雰囲気では多勢に無勢でお蔵入りしそうな気配が感じられもしたが、なんとか
事 に ガ『ロ 』
に掲載することができたのだった。
私 は 、 こ の と き も白、
土三平さんが
宣 言 々 をガ『ロ 』
" につづけて掲げながらなかなか
認められないものなのだなあと強く思った。ただ 夏「そや
の後
」 地「
、球儀 が
」、 白 土 さ ん
の 目 にと ま り 、 面 白読
く んだとい、っ 感 想 を 人 伝 え に 聞ヨい
カてッ、
タ ヨカ ッタ と思 っ た 。
ま さ に 、夏「 や
」 地「球 儀 」
こそ白土宣言に応えようとした作品であったからだ。
同 プ
| ロのよきラィバル
ところで、 夏「 や
」 地「球 儀 が」発 表 さ れ る よ り 少 し 前 に 、 つ げ 義 春 通さ「夜
ん は」「
山、
李さん一家
椒 魚 」「 を」発 表 し て い た 。 池 上 さ ん が こ れ ら の つ げ 作 品 に 触 発 さ れ な い は ず は
なかった。 夏「は 」 山「椒 魚 の
」影 響 下 に あ っ た と も と れ る 。 つ げ さ
沼「んや
が山
」 、「椒 魚 」
や 李「さ ん 一 家の
」よ 、っ な 突 出 し た 作 品 を 発 表 し て い な夏
け「れや
」ば地、「球 儀 も
」生 ま
れることはなかったかもしれな 夏「いは。 時「の 犬 と
」 」同 じ 号 に 、地「球 儀 は
」 海「 辺の叙
景 と
」同 じ 号 に 掲 載 さ れ た 。 つ げ
に さ
とっんて も 、 池 上 さにんとつ て も 、 水 木 。
フ ロに籍を
置く一一人は、 良 き ラ ィ バ ル で あ っ た と い い う る か も し れ な い 。
その後、 しばらく池上さんは新作を発表しな "地
か「球
っ儀た事。
」件 ,,が 原 因 し て い る の
か ど う か は 聞 か な か っ た 。 仕 方 な く と い う の も お か し い が 、 私 た ち は 会 、っ た び に 文 学 の
6 池上遼ー

を し て い た 。私 の 戦 後 文 学 に つ い て の 知 識 は お ざ な り だ っ た"

。し上た
文が学っ
学て校
" 、
の 講 義 に 真 剣 に と り 組 ん"
椎だ名
。麟 三 の 世"界
は 、 私 を 興 奮 さ せ た 。 私 は ど ち ら か5と い え
ば 梅 崎 春 生 好 み で 、 椎 名 文深
学「夜はの 酒 宴」
のほか一一、 三 篇 に ふ れ た に す ぎ な か っ た 。
池上さんは、
永遠なる序章
「『 を読まないといけません。人 間 の ド ロ ド ロ と し た 深 い 内 面
』 I をとらえて
ます。是 非 、読んで下さ
」い
と言われ
る と読 ま な い わ け に は い か な か つ た 。
横「
光 利 一 も い い で す よ ね 。 多喜一一や徳永直なんかもむかし読んだんですけど、 体質
合 わ な い の か な あ 。 い い 小 説 だ と は 思 う ん で」
すけどね
と、池上さんは文学の 話にな ると夢中に なつた 。 もちろん、 文学だけではない。
日「常 の な か の 不 安

」こ だ わ る
以「前 ガ『
ロ に
』 渡 二 十 四 と い 、っ 新 人 の 作 品 が 載 つ て ま し た よ ね 。 ニ ヒ リ ス テ ィ ッ ク と
いうか、 読 ん で い て 戦 慄 を お ぼ え ま す よ ね 。 貸 本 時 代 の つ げ 忠 男 さ ん の 作 品 も す ご か
た な あ 。体『の な く な るな話』ん て 、 い ま 読 ん で も ド キ リ と し ま す よ ね 。 ぼ く は 、 小 説 で
も マ ン ガ で も そ う で す け ど 、 シ ョ ッ ク を 与 え ら れ る と い う か 、 ハ ッ と す る と い 、っか、
実生活のなかにくい込んでくる作品が好きなんです 」
と い う よ 、っ な 意 味 の こ と を 述 べ た 。 池 上 さ ん が 、 紅
つ「い
げ花さや
んの
」 旅もの"よ
"
り、貸 本 時 代 迷
の「路 や 残 酷 帳 シ リ ー"
」 " ズ作 品 に 心 魅 か れ る の は 、 渡一一十四やつげ忠
男さ ん らの 作 品 の 例 か ら も 知 れ る ょ ぅ に 、 大 江 健 三 郎 や 安 部 公 房
こを 愛ら読
と か も理する
解 さ れ る ょ 、っに、ク 日 常 の な か の 不 安 々 ク 日 常 の な か の 危 機 々 に こ だ わ り つ づ け て い た か ら
ろ 、っ。 椎 名 麟 一 ニ へ の こ だ わ り’と
も」と
その無関係ではない。
椎 名 麟 三 へ の 想 い に 出 自 す る 作 品 が 、ガ
そ し て 、 六ロ八 二
『 年月 号 か ら 登 場 し風
』 た 「
太郎 シ
」リ ズ
ーで は な い か 、 と 私 は 確 信 し て い る 。 と も か く 、 ッ池上文学学校々は、 調 布 の
布田、吉祥寺、三鷹台とアパートを転々としたのだったが、 いずれの教場での講義もい
では楽しい思い出である。
佐々木マキ
豊かな知性と戦闘的諧謔の精神
〃大学生が注目する雑誌 "
私 が ガ『ロ 』
の 編 集 部 に 在 籍 し た 足 か^け^、
五誌上をキラ星の如きマンガ家が名作、
豸 を 飾 っ た 。 白 土 三 平 さカ
ん「ム
のイ 伝、」水 木 し げ る さ ん鬼の
「太 郎 秘 話の
」一一大連載
のほかに 、 つげ義春、 滝 田 ゆ ぅ 、 つげ忠男、 池 上 遼 一 、 楠 勝 平 、 勝 又 進 、 佐 々 木 マ キ 、
静 ー 、つ り た く に こ さ んが
ら コ ン ス タ ン ト作
に 品を発表した。
たしかに、
ガ『ロ は
』、 全 体 の 三 分 の 一 か ら 一 一 分 の 一 ほ ど のカ
ぺ「ム
ーイジ伝
をが」占 め
て い て 、カ「ム イ 伝を」柱 と す る 雑 誌 の 色 合 い が 濃 厚 で あ っ た が 、 読 者 は 、 他 の 作 家 の 作 品
をたんなる付 としてみてはいなかつた。
^ !
一 九 六 七 年 か ら年七
一に か け て の 読 者 欄 に 目 を と お す と 理 解 さ れ ょ 、っが、 そ こ で は 、 白
土 、 水^ :品 だ け で な く 、 つ げ 、 滝 田 、 林 、 つ り た 、 池 上 作 品 群 へ の 感 想 が 綴 ら れ た 。 い
や 、 六 八 、 九 年 頃 は 、 白 土 、 水 木 作 品 に 言 及 す る 投 書 は 少 な く な り 、 つげ、 滝 田 を 中 心
して、 それ 以下の 若い作 家へと関心が移っていった。
当 時 のガ ロ の読 者 層 は 、 高校一一年
『 』 ら生
いぐ 大 学 ニ 、 三 年 生らぐい ま で が
か ら 圧倒的
ぼしれ ば 、
一八、 九 歳 が 中 心 を い
だ っ た と 思 わ れ る 。 も っ と なたしとてみ ら れ る 創
。 刊時
の ガロ の 表 紙 に は
『 』 ジ ユ ニ ア.マ ガ ジ ン
" "と 銘 ぅ た れ て い た が 、 読 者 の 年 齢 層 が 高 く
な る に し た が い 、少 年 誌 と し て のと体
り裁はは 大
ら わ れ た"。 学 生 が 注 目 す る マ ン ガ"雑 誌
と マ ス コミ で は
面白半分に
と り あ げ た り し て い た け れ ど も 、 あ な噓がで か った 。
ちは な
繰 り 返 す け れ ど も 、 六 七 年 か ら 七 〇 年 初 頭 に か け て 、 社 会 の 動 向 は 揺 れ 動 き 、 いわゆ
激 動 の 時 代 だ っ た 。 そ し て 、 こガの
『ロ間は、
』、 も っ と も 充 実 し た 作 品 群 を 世 に 送 り だ し
た 。 だ が 、 そ れ を 、 作 家 個 々 の 力 量 の 問 題 に 還 元 し た く は な い と 思 、っ。
7 佐々木マキ
いずれ劣らぬ作家たちの銳い認識力

109
ガ『
ロ 』
の作家は、 並 は ず れ た 力 量 を そ な え て は い た 。 常 に 意 識 的 で あ り 、 鋭 い認 識力
に 支 え ら れ て い た 。 作 家のた
鋭いち認識
力 、そ し て 豊 か な 感 性 が 、 充 分 に 発 揮 で き た の は 、
そ れ ら を 支 持 し た 読 者 の 存 在 に 負 、っ と こ ろ が 大 き い と 思 、っ。 石 子 順 造 の 評
X 言ではない
ど も 、 メ デ ィとアし て の ガ ロ の 位 相 を
『 』 はならない
無 視 し て だ。 極 論 す れ ば 、
と い ぅ こ と
ガ『ロ の』読 者 を 排 除 しガ て『ロ の
』価 値 も 、 そ の 方 向 性 も 考 え ら れ な い 。 なガ
ぜ『な ら 、
ロ は』、 当 時 の 若 者 の 実 在 を 映 す 鏡 と し て 位 置 し て い た か ら だ 。
読者 によ る投童 攝が 、 マンガ作品と同等に興味深く読まれたのは、 それが、 現在を解く
あ る い は 現 在 を#思^る 際 の 確 か な ひ と つ
1の源の役割をになつていたからに他ならな
い。 だ か ら と い つ て
ガ『、ロ を
』、 そ し て ガ『ロ 』
の読者を過大に評価する必要を認めな
い。 プ ラ ス.マ イ ナ ス の 両 極 を 合 わ せ も つ も のガ
と『ロし を
て客 体 化 す る の が い い だ ろ

ぅ。
居並ぶ若き作家群
それにしても、読者の若さに 注目する前 に、作家の 若さに い
— ます
さるら。
なこがら
の頃、 一 番 年 長 の 水 木 し げ る さ ん が 四 〇 歳 を こ え た ば か り 、 白 土 さ ん と 滝 田 さ ん が 、 三
五 歳 、 つ げ義 春 さ んがー一九歳、 忠 男 さ ん が ニ 六 歳 だ っ た 。 楠 勝 平 、 勝 又 進 、 池 上 遼 ー 、
静 ー 、 佐 々 木 マ キ 、 つ り た く に こ さ ん ら は 、 全 員 一 九 か ニ 〇歳 そ こ そ こ だ っ た 。 つまり
楠さん以下はみな読者とほぼ同年齢だったわけ ガ『で
ロあの』る読。者 欄 が 、 こ れ ら 若 い 作
家 の 作 品 に 向 け て 肯 否 の 大 論 争 が 延 々 と 展 開 さ れ た の は 、 そ れ ぞ れ の 作 品 が 、 一〇 代 の
者 の 心 情 を 代 弁 す る も の と 受 け と ら れ た か らカだ
「ムろィ、っ
伝。に
」つ い で 多 く 語 ら れ た の
が 、 つ げ 義 春 や 滝 田 ゆ 、っ の 作 品 で は な く 、 佐 々 木 マ キ 作 品 で あ っ た と こ
ガ『ろ に 、 当 時 の
ロ 』
の一面が如実に表されている。
ア「ン リ と ア ン ヌ の バ ラ ーの
」ド戦闘性
佐 々 木 マ キ さ ん は 、 一 九 六 六ガ『
年ロの』
一一月号に入選作が掲載され、 六七年二月号
に 見「知 ら ぬ 星 でが」発表された。 いずれもギャグの要素の濃い風刺マンガであったが、
す で に 最 初 か ら 知 性 の 豊 か さ と 、 諧 謔 の 精 神 を 余 す と こ ろ な く 伝 え て い た 。 いってみれ
ば、くすぐり的なただの社会風刺などではなく、社会常識の転倒を試みていたのだとい
7 佐々木マキ

ぅ る 。 そ し て 、 六 八 年 四 月ア
号 のリ と ア ン ヌ の バ ラ ー
「ン は」ド
、佐々木マキさんの表現
としての、もちろんマンガとしての戦闘性を開示した作品 ア「ンあ
で リっとたア。ンIヌ
には、 ィ ラ ス ト タ ッ チ の コ マ 絵 が 並 ぶ 。 各 コ マ の 連 続 性 は 希 薄 だ 。 ア ンリとアンヌと
」 I
いう若い男女の物語も、 そう具体的ではない。 この場合、西洋風な、 といえばいいのか
モダンな、といえばいいのか知らないが、
そ れ と も その画像は、じつに新鮮だった。
太「陽 の な い 夢 と 永 遠 の 日 々 を と じ こ め た こ の 壁 が沈

」「黙
が者住の
居黒 い 孤 独 は 無
意 味 だ け ど 、 こ の 場 違 い の 広 場 か ら 何 が 見 つ か」るのか?
い く つ も の メ タ フ ィ ジ カ ル な こ と ば と 画 像 が 、 こ の 作 品 の 内 面 的 な 重 さ を 伝 え る 。 たし
かにアンリとアンヌの物語は、ポップな画像も多少加味さ れ て メ ル へ ン 風 な 甘 さ を ひ き
ってはいたが、 青 春 期 の 絶 望 を的確に表現していた。
暁「の 女 神 よ ! 新 し き 道 を 1 示せ 囲いの牢獄とそとに 」
囚人服を着た ア ン リ と ア ン ヌ は高
、 い コ ン クリ ト 壁 に 佇 む 。 ア フ ォ リ ズ ム を 駆 使 し た

この作品は、さながら、 ラン ーのポ詩 集地『獄 の 季 節を』読 む よ う で あ っ た 。 多 くを語る
必 要 は な い と 思 、っ け れ ど も 、 佐 々 木 マ キ 作 品 は 、 出 発 時 か ら 、 反 逆 .反 抗 の 炎 を 裡 に 秘
ていたのである。あるいは、権威や, への全否定を意味していたといっていいのかもし
れない。
表現そのものに〃反抗〃姿勢
……が
ア「ン リ と ア ン ^
ヌ 以後、佐々
^ ^品 は 、 い っ き に 、 "青春の苦悩々を作品の上にぶ
つけていく。 セ「ブ ン テ ィ ー ン」「
ぼ う や か わ い い ぼ う」「
やま ち の 、っまと」つ づ け て 発 表 す
る 。 セ「ブ ン テ ィ ー ン
で」は 、 独 特 の 画 像 を ぺ ー ジ を 埋 め つ く す だ け で 、 一 行 の セ リ フ と て
な い 。け ! と 、 こ と ば を 発 す
「 」 才る才力ミ の 存 在 に 象 徴 さ れ る よ 、っ に 、 こ
ものま作
た品、
社会や体制に向かっ 毒〈
てを〉投 げ つ け よ う と す る 。 そ し て 、 マ キ さ ん の 反 抗 は 、 タ イト
ルのない作品の登場で極限に達する。
ガ『ロ 六』八 年 一 一 一 月 号 に 掲 載 さ れ た 佐 々 木 マ キ 作 品 に タ イ ト ル は な い 。 扉 に 大 き な フ
キ 出 し は あ る が 、何 も 記 入 さ れ て は い な い 。 いやタイトルだけではない。 ニ〇 ぺージの
かには、 それまでと同じように画像が並ぶ。 しかしこの作品には、どのコマにもフキダ
が画き込まれていた。 そのフキダシすべてにことばが記入されていない。空白のフキダ
7 佐々木マキ

が あ る だ け だ 。 そ れ は 、 劇 性 の 否 定 を 意 味 す る の だ ろ 、っか。
私は、内心、
ヤ「ッ 夕 !と
」思 っ た 。 マ キ さ ん だ け が 、 こ う い う こ と を 可 能 に す3る だ ろ 、っ
と 思 っ て い た か ら で あ る 。 と い っ て も 驚 く に は あ た い し な い 。 半 年 も 前 に 、 つげ義春さ
の ね「じ 式 は
」発 表 さ れ て い た か ら で あ る 。 し た が つ て 、 佐 々 冑 品 の 前 衛 性 も 、 池 上さ
ん の 蝇「 や
」 地「球 儀、」つ げ さ ん の
ね「じ 式、」林 さ ん の 冚 姥 子 守等
唄々 の 先 駆 的 作 品 :

の延長線上に位置していたとみなしていいのかもしれない。
深い懐疑に彩られて
翌月、 九
一六 八 年 一 月 号 ベ

「ト ナ ム 討 論で
」は、 一 転し てフ キダシの 中に、 これで も
かといわんばかりに
,文連ねた。
歴史屈辱銃鞭吸抗民俗悲哀支配軍隊侵攻戦場
「 」
反「
戦要系本質的戦争認識政治的歴史的思想的経済
」的
というようにである。
ラストは舌をだしてア カ
ン ベーをする中年男の顔のアップである。
佐 々 木 マ キ 作 品 はガ『
、ロの 』読 者 の 圧 倒 的 共 感 を 得 た と い う 事 実 は な い 。 む し ろ 、 "難 解
す ぎ る 々 と い 、っ 投 書 が 目 立 っ た 。 だ が 、 し か し 、 そ れ を 上 回 る 無 言 の 支 持 が あ っ た の は
しかなことだ。
佐 々^ :品 は 、 深 い 懐 疑 に ふ ち ど ら れ て い た 。 そ れ は 、 当 時 の 若 者 の 心 情 を 確 実 に と ら
7 佐々木マキ


.. :

!!

佐々木マキ「
ベトナム討論」 (
「ガロ」1969 ‘

^5
え た に 違 い な い 。 こ と ば に 対 す る 懐 疑 、 と い い か え て も い い 。 そ の1あ0た
にり が 、 直 接
はしる若者たちの姿勢に通底することになったのかもしれない。 I
神戸から上京したマキさんは、三河島近くの安アパートが密, る地区に住まいをみ
ア「
けた。若い奥さんと一緒だっ ン。
た リ と ア ン^
ヌ は、 マ キ さ ん 夫 婦 自 身 が モ デ ル な
ん だ 、 と 思 っ た 。 そ れ に し て も マ キ さ ん の 知 識 は た い へ ん な も の だ っ た 。 マンガ家のな
で の 一 番 の 知 識 人 が マ キ さ ん だ ろ 、っ。
たし か に 、 マキさんは 青、
" 白き知識人 "と い っ た 面 影 が あ っ た 。 何 か も の を 口 に す る
と 、 す ぐ さ ま 批 判 や 反 論 が か え っ て き そ 、っ だ っ た 。 い や 、 じ っ さ い 、 私 が 勝 手 な 理 屈 を
ねまわしていると、
ア「ッ 、 そ れ 文 化 人 の 発 想 で す」
ょね
と言ったことが何度もあった。私自身は、 ことばを重ねるタチではなく、相手の話を
く側にいつもあるのだが、たまの発言にも鋭い批判がとんでくるので、身構えてしま、
と も し ば し ば だ っ た 。 べつに、 マ キ さ ん は 悪 意 が あ る わ け で は な い 。 マキさんにと って
五歳年長の私は、 やはり否定すべき, 、権威であったのかもしれない。
外 見 に こ だ わ ら匹

I 狼的作家
マキさんひとりが、 孤 高 の 精 神 を保っ ていた のではな かった 。 反権威、 反, 的な姿勢
白 土 さ ん に 発 し て い た 。 白 土 さ ん は け っ し て マ ス コ ミ に 登 場まし な か っ た 。
は、 そ も そ も
た 水 木 さ ん も 、 権 威 あ る も の に 対 し 、 罵 倒 を 繰 り 返ガ
し『ロ
て誌』上
い たで
。は ^ ^ 一郎の
ペンネームで、 縦 横無尽 に活躍 した。 け っ ガ『き
ロ ょ』
のく作 家た ち は 、 一人残らず一匹
狼的な存在であったといっていい。
水木 プロ以外 を 除 い て 、作家 同士の 交流 は ほ と ん ど な か っ た 。 マィぺースをくずさぬ
め に は 、 孤 高 を 保 つ し か な い の か も し れ な い 。 いや、 も し か す る と 、 多 く の 作 家 が 酒 を
まなかった結果だったのかもしれない。
白 土 さ ん 、 水 木 さ ん 、 つげさん、 池 上 さ ん 、 忠 男 さ ん 、 楠 さ ん と 、 酒 に 縁 が な か っ た
漫『
ア ル コ ー ル 好 き は 、 滝 田 、勝 又 、佐 々 木 マ キ 、林 さ ん ら だ け だ っ た 。 つ いでに記すと、
7 佐々木マキ

画主義 』 の石子、 山根 、 梶 井 、 そ し て 私 の 四 人 も ア ル コ ー ル と は 縁 遠 か っ た 。 山 根や梶井


は か な り い け る ら し い の だ が 、酒 の 席 を 嫌 悪 し て い る 風 だ っ た 。
漫『し
画た主が
義っ』て 、

7ロ
の メ ン バ ー を 加 えガた
『ロ 』
の忘 は、 けっして楽し
^ - ^ 盛くり といぅことにはなら
上 が る
なかった。忘
^ ^と い え ど も 、 石 子 さ ん を 中 心 と^
し^た
に討終始したのである。
佐 々 木 マ キ さ ん の 作 品 が 、 六 〇 集ガ『
末ロ のを
』 象 徴 し て い た と い う の は 、 私 個I 人 の
見解かもしれないが、若い作家たちの出で立ちもまた孤高の精神を物語るものであった
マキさん、 楠 さ ん 、 勝 又 さ ん は 、 青 林 堂 を 訪 れ る と き 、 い つ も ゴ ム の サ ン ダ ル 履 き だ っ
ョ レ ョ レ の ジ ャ ン パ ー 以 外 の 衣 服 は な か っ た 。 いや、 白 土 さ ん も 水 木 さ ん も ま っ た く 若
と変わりがなかった。私は、白土さんや水木さんが背広を着たり、靴をはいた姿を知ら
い。 滝 野 川 で 行 わ れ た 作 家 を 集 め た マ ン ガ 大 会 の と き も 、 手 塚 さ ん や 佐 藤 ま さ あ き さ ん
さ い と う た か を さ ん ら は み な 磨 き ぬ か れ た 靴 を は い て い た の に 白 土 さ んー
だけはジヤンパ
にサンダルだった。 つげさんは、 冬 はサン ダル、夏は 雪 駄 だ っ た 。 そ の雪駄も、 グサダ
でいまにもくずれそうだった。
で「も 、 夏 は こ れ が 一 番 涼 し く て い い で
」すょ
とはつげさんの説明である。 つりたくにこさんは、歯の平たくなったチビた下駄をは
てやってきた。作家だけではない。長井社長も常日頃下駄を愛用していた。 そして、私
といえば、晴れた日にもゴム長を履いて通勤していた。
ま「る で 東 北 か ら の 出 稼 ぎ 労 働 者 み た 」
いだね
と は 、 九 州 の 山 奥 か ら や っ て き た オ シ ャ レ^な
ボ モィ
ーダ大ン山 学 さ ん の 評 言 だ っ た 。
ひとロでいってしまえば ガ『、
ロの 』周 辺 は 、
"世 間 の 目 を 気 に し な い "と い う こ と だ っ た の
だ ろ 、っ。 あ り て い に 言 え ば 余 計 な プ ラ ィ ド が 働 か な か っ た の だ と も い え る 。
っげさんの折り紙付き支持を得て
そういう諸々のことをひっくるめて、佐々木マキさんの作品は ガ『、
ロも的』っなと も
存 在 だ っ た と い 、っ 気 が すガ
る『ロ
。の』メ ッ セ ー ジ を も っ と も 端 的 に 表 し た の が 、 マ キ 作 品
だ っ た の で は な い か 、 と 私 は 思 、っ。 そ れ は 、 あ
スま りに
ト レ トで
ー、あ り 、 ア ジ
テ ショ

ンの形態を垣間見せはしたが、白 土 さ ん が 希 求 し た ガ 自『ロ
由奔 』放
を 代な
表していたの
で は な い だ ろ 、っ か 。 た し か に 、 佐 々 木 マ キ 作 品 と つ げ 義 # ^ 品 の あ い だ に は 大 き な 差 異
認められるかもしれない。
ある日、私は、 つげさんにマキ作品についてたずねた。あまりおもわしく思っていない
7 佐々木マキ

かもしれないと心配してだ。 だが、 つげさんは、


ゥ「ー ン 、 ぼ く の と は 違 う し 、 ぼ く に も 難 解 に 映 る 作 品 だ け ど 、 こ う い う
9作 品 が あ っ
も い い と 思 、っ ん で す よ ね 。 マ キ さ ん み た い な 作 品 が な い と 、 自 分 も 自 由 に 画 け な く な
からね 」 。
と、 擁 護 し たのには 、本 当のと こ ろ 驚
ね「い
じた式。
を」発 表 し て い る つ げ さ ん が 、 マ
I キ
作品を否定するはずもなかったのであるが、私は、 つげさんから折り紙付きのことばを
ら い 、 さ ら に"

、 土 宣 言"を 裏 切 ら な い よ 、っ 意 を 決 し た 次 第 な の だ 。
事件にならなかった事件
アンリとアンヌのバラー
「 やドセ ブ ン テ ィ ー ンぼ う や か わ い い ぼ うが
」 「 」「 や発 表 さ

れ た 少 しあ と だ った ろ う か 。 一 九 六 八 年 八 月 ニ 〇"

日間にの
、 顔 を し た 社 会 主 義 "を 唱 え
た チ ヱコの ドプ チ ヱ ク 政 , 圧 双 す べ く ブ ラ ハに ソ連軍 の戦車が 侵入し た。 青林堂のロッ
ヵーの中には六本の発煙筒がおいてあった。 八月ニニ日、佐々木マキ作品に呼応してと
うわけではないのだろうが、 ニ本の発煙筒が、狸穴のソ連大使館横の一の橋へ通じる路
裏 か ら 深 豸 げ こ ま れ た と い 、っ。 発 煙 装 置 に ミ ス が あ っ た の か 、 そ れ と も 邸 内 の 池 の 中
で も 落 ち て し ま っ た の か 、"

幸件い" に は な ら ず に 済とんいだうこ と で あ っ た 。
8 -
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人間の哀しみや不安の極北を暗示しつつ
群を抜いていた投稿作品
林静ーの处女作
マ「グ マ と 息 子 と 食 え な い」
が魂 ガ『ロ 』
に 掲 載 さ れ た の は 、 一九六七
年一一月号である。だが、 この作品が、林さんの一作目ではない。夏に入る前のことだっ
た か ら 、 五 月 か 六 月 の こ と だ っ た ろ 、っ。 多 く の 投 潭 品 の な か に 、 キ ラ ッ と 光 っ た 作 品 が
目にとびこんできた。画像が、他
, の品投に は み ら れ な い 新 鮮 さ を 放 っ て い た 。
こ の 頃 、ガ『ロ の
』編 集 部 あ て に は 、 一 か 月 に 一 〇 丄 ー 〇 作 品 に 及 ぶ 投 稿 が あ っ た 。 け れ
林静ー
ど も 、 大 半 は 、 旧 来 の 劇 画 調 で あ っ て 、 胸 を 、っ つ 作 品 は 皆 無 に ひ と し か っ た 。
8
か つ て 、ガ『ロ の
』創 刊 時 に 、 白 土 ニ 苹 さ ん が 既 成 の マ ン ガ に な い 世 界 の 創 出 を と ぅ た っ
た の で あ る け れ ど も 、 白 土 宣 言 に 応 え よ 、っ と す る 新 人 作 家 は 、 少 な か っ た も の と 思 わ れ
ま だ こ の 時 代 に あ っ て は 貸 本 劇 画 の 流 れ が 命 脈 を 保 っ て い た の だ とガい
『ロえ 』
るだI ろ、っ。
に向けて、 ア ク シ ョン ものや 忍者もの が投稿 されるの はめず らしい ことでは なかっ た。
林静ーさんが郵送してきた一番最初の作品のストーリーはいまではすっかり忘れてし
ったけれども、 そ う 長 い 作 品 で は な か っ た よ う な 気 が す
0ぺるン
。で極描
太かのれ た ポ ッ
プアート風の作品からは、 それこそ既成のマンガには望めないオリジナルな世界が現出
ていた。 一見アメリカンコミック風ではあるが、 な ぜ か 情 感 を ゆさ ぶるもの があっ た。
だ、 画 き 慣 れ ていな いせいか 、 ペンタッチが乱雑であった。
入 社 し て 間 も なIい
君が、
こ「ん な 作 品 い ま ま で 見 た
こ ともないですよね!

と賛同を求めてきた。私も、
ウ「ン 、 鋭 い 感 覚 し て い る よ ね 。 で も 、 も う 少 し 画 に 力 を」
入れないと
と言 、
っと、 I 君 は 、
そ「ん な こ と い っ て ち ゃ 駄 目 で」
すよ
と 不 満 そ ,っ だ っ た 。
結局、長井編集長の、
マ「ン ガ は 丁 寧 に 画 か な い と な
」あ
の ひ と 言 で 当 の 作 品 は 見 送 り と なIっ
君たと。
私は、長井さんの決定をしぶしぶ認める
し か な か っ た 。 そ う こ 、っ す る う ち に 、 第 二 弾 が 送 ら れ て き た の で あ る 。 こ ん ど は 三 〇 ぺ
ジをこえた作品だった。 この作品をめぐって、青林堂内はしばし紛糾した。
ひそかに政治的策を弄す
長井さんは、 ひとこと、
長「す ぎ る な あ」
とだけ言ったI
。君 は 、
こ「の 作 品 をガ『ロ 』
に載せないのは
ガ『ロ 』
らしくないですよ!

と言うやいなや、プィッと横を向いてしまった。 そして、誰に聞かせるでもなく、
こ う い 、っ 作 品 を 認 め な い と 、 一 生 懸 命 画 い て い る 新 人 は 浮 か ば
」れ な い よ ね
林静ー


とひとりごちした。私 I君もの 気 持 ち が 手 に と る よ う に わ か っ た 。 だ が 、 罾 品3は 、 あ
まりに既成の作品から離れていた。
8
1
戦後、長い間、貸本マンガを手がけてきた長井さんの感覚にフィットしなかったのも
なずけないではない。 だが、 そうは思っても、 この才能あふれた新人をこのまま埋没さ
てしまうわけにはいかない。私は一計を案じて、政治的に策を弄したのである。
長井さんにも I君 に も ま っ た く 内 緒 で 林 静 一 さ ん に 手 紙 を今「
書回いのた作。
品もなかな
か す ば ら し い 内 容 だ が 、 画 き 改 め て 欲 し い ぺ ー ジ も あ る の で 、 一度、 編 集 部 に 足 を 運 ば
た し と い う よ 、っ内
」 な 容だった。 その三日後に林さんは現れた。作品から想像していたと
お り の 、 お だ や か で や さ し そ 、っ な 青 年 だ っ た 。 当 時 と し て は め ず ら し い 革 の ブ ー ツ を 履
ていた。 私は 、 林 さ
の静んか な も の 腰 か ら 、 も
あ、あ
大丈夫だ、
っ と き確信した。長
そ の と
井さんは誰しも認める大の人情家だったからである。
長井さんに、
こ「の あ い だ 作 品 を 送 っ て こ ら れ た 林 さ」
んです
と紹介すると、 長井さんは、

「 っ
、 少し丁寧に画かな
といね 」
と笑顔で言った。当時、林さんは東映動画に 夕
ーアとニし
— メて 勤 め て い た の だ が 、 同
僚 も よ くガ『ロ に
』投 稿 し て い る と い う 話 に な り 、 そ の 中 に は 、 長 井 さ ん も 顔 見 知 り の 若
者もいて、 話がはずんだ。 そのあと、 近くの喫茶店に林さんを誘った。 そして、 預かっ
いる作品を画き直す前に、短篇をいくつか画いてみないか、 と聞いてみた。
林さんは、 に、
は「い 、 や っ て み ま す

と言った。 これで一安心だった。短篇ならまずボツになることはあるまいという計算だ
った。
東 大 卒 ,哲学の徒を走らす
翌 月 、ア「グ マ と 息 子 と 食 え な い
が」魂
届 け ら れ た 。 さ ら に 一 か^月
たもず に 、お「お 、 暁
の光に 」
が届けられた。
ア「グ マ^ ^ は 、 一 九 六 七 年ガ
の『ロ 』
一一月号に掲載された
が、 形 の う え で は 、 私 か ら 依 頼 し た 作 品 で あ っ た の で 、 新 人 と は い え 入 選 作 扱 い は し な
っ た 。 私 個 人 の 気 持 ち と し てガ『
はロ、の』レ ギ ユ ラ ー 作 家 と し て 充 分 に 通 用 す る と 判 断 し
て い た か ら で あ る 。 し かIし
君、 の 援 護^; が な け れ ば 、 こ こ ま で 強 引 に も の ご と を す す
8 林静ー
められたかどうかはあやしい。

125
と も か く 、ア「グ マ^ ^が 発 表 さ れ る と 、 読 者 の 一 人 が 青 林 堂 に 飛 び こ ん で き た 。 彼は
林 静 一 「アグマと息子と食えない魂」 (
「ガロ」 1 9 6 7 - 11〉

120
東 大 の 哲 学 科 を1女し た ば か り だ っ た 。 あ ま りア「
にグ、マ^ ^を 絶 賛 す る の で 、 長 井 さ
んも ビックリしていた。 彼は左右 田本多のペンネ ームで、 それまでにニ冊ばかりの論文
自費出版していた 。 一埴
冊『谷
は雄 高 ノ ー ト

』 あ り 、 も 、っ 一 冊
水『が
木しげるノート

である。
こ の 水「 木論 は」 四 〇 〇 字詰で一一〇 〇 枚 近 く あ っ た の で は な い か と 思 う 。 貸 本 マ ン ガ 時
代 の 水^ :品 や 水 木 語 録 に 焦 点 を 当 て た 、 そ れ は 、 格 調 の 高 い 劇 画 表 現 論 で あ っ た 。 今 日
ま で に 、 数 十 と い う 水 木 論 が 世 に 出 た け れ ど も 、 私水
は『木
いしまげ
たるにノ — の水
準をこえ た評 論は ないと 判断 して いる。 それはまた、哲学の徒であった左右田氏の無私
情熱のたまものであつたといいうる。
幸 運 だ っ た ス タ ー 卜
私は、 このアナキストがかったマルクス主義者
ア「の
グ目マ^
から^はど、っ読めるの
か 興 味 が あ っ た の で 、読 後 感 を 寄 せ て 欲 し い と 訴 え た 。 彼 は 、
わ「ひ
れとら月にと後っに、
8 林静ー
て地獄とはなにか と い うタ ィ ト ル の
」 ア「グ マ^ ^ 論 を 持 参 し た 。
地「獄 外 の 光 源 と 作 家 の 直 接 的 な ィ メ ー ジ と 地 獄 内 の 論 理 の 三 つ の 面 か ら 表 現 世 界 の
覚化が試みられ、 それはアクションとィメージのからみ合いの中で得意な描画を形づ
っていく 」 X
と い 、っ、 私 の よ う な 並 み の 頭 で は 理 解 で き な い 難 解 な 論 評 が 展 開 さ れ て い た 。 い や 、
この作家のきびしく、 やさしい心根には、 サ ヴ ィ
「 蒼『ン
ざコめフた馬
のや
』 ロ
『シ ア
秘密結社 』
の 作 中 人 物 と 相 通 ず る も の が あ る か も し」れ な い
と 評 し た 箇 所 に は"
異、義 ナ ン"と 声 を か け た く も な っ た 。 四 〇 〇 字 で 六 枚 ア

「あ っ た
グ マ ^ ^ 論 は 、ガ『ロ 』一 九 六 八 年 一 月 号読の「者 欄 を」埋 め つ く し た 。 左 右 田 論 文 も 、
@ 品にとつては、頼りになる援軍だつたといえるだろ、 っ。
そ う い 、っ 意 味 で は 、 林 さ ん は1、
-^ス
のタ当初からめぐまれていた、 といえるのかもし
吾「
れない。 ニ 六 ぺ ー ジ に 画 き 直 さ がた
れ 母はは」 ガ『 ロ 四』月 号 に 堂 々 と 掲 載 さ れ た 。
I君 や 左 右 田 氏 や 私 た ち が 、 罾
品 に 惚 れ こ ん だ の は 、形態の目新しさだけではなかっ
むしろ、私たちは、新しがり屋としてのモダニズムを嫌悪する。箱 品 の 新 し さ は 、 認
においてであった。常識的な観念、通有的な倫理観をひっくり返そうとするところにダ
ナミズムが感じられたのである。 既成の価値観を破碎するところの魅力であったといえ
だ ろ 、っか。
赤「と ん ぼ で
」本 質 を 明 る み に
翌 々 月 の 六 月 号赤
に「と ん ぼ を
」発 表 。 日 本 的 情 感 を ふ ま え つ つ 、 林 静 一 と い 、っ 作 家 の
本質を明るみに出した
赤。
「と ん ぼに は 林 さ ん の 美 意 識 や 生 理 感 覚 が 凝 縮 さ れ た か た ち で

表されていたのである。九 月 号 に は 三 五 山 ぺ「姥
ー子ジ守の唄を」発 表 。 林 静 ー の ! ^ と
據心の世界から誰しも目が離せなくなっていた。
こ の 頃 、ガ『
ロ で
』は 、 つ げ 義 春 さ ん が 、 ク 旅 も の
ね「,
じや式 」「
ゲンセンカン主人


の 話 題作 を 画 き つ い で い た 。木佐マ々キ さ ん も 、
ア ア ン ヌ の バー
「ン リ と ラド や
」 ま「ちの
、っ ま と
」いった名作を発表していた。池 上 遼 一 さ ん が " ー風ズ太"を
郎手シがリけ て い た 。
油断のできない時代であった。 一作として手の抜けない時代であった。
そのことは誰しも同じであつたに違いない。結果的に競作をまねいたといつてもいい
だ ろ 、っ。 林 さ ん が わ ず か 一 年 で 自 他 と も に 認 め る 作 家 と し て 成 長 し た の も 、 ラ ィ バ ル で
る 佐 々 木 マ キ さ ん や 、つ げ 義 春 、滝 田 ゆ 、っ、池 上 遼 一 さ ん ら の 先 導 者 の お か げ か も し れ な
8 林静ー
六 九 年 に な る と 、 林 さ ん"
赤はシ、リ ズー"と い 、っ 作 品 で 、^-
ス1リ ー を 排 し た 作 品 をタ 手
が け る 。 も ち ろ ん 、 そ こ で 物 語 性 を 全 藤 し た わ け で は な か っ た 。 いわば、 物 語 性 の 抽 象
を 試 み た の で あ る 。則
そ1衛
の的 な 試 み は 、 評 論 家 の 石 子 順 造 さ ん を し
ア(て
ン、チヶ

)反
ン ガ"と い わ し め た 。
そ の 少 し 前 か ら 、 林 さ ん は 、 淀 橋 近 く の 私 の 住 ま い に 毎 週 の よ 、っ に 遊 び に 来 て い た 。
れ は 、 一ーキロほど離れた青梅街道沿いの新中野に
メ新シ
しョ
ー くン
アのニ事 務 所 を か ま え
ていたからだ。当時私の住まいの 近くに 石子 順造 さんや つげ義 春さ ん I君
が住んでいた。
に い わ せ る と"

、の 三 角 地 帯
といぅわけだけれど、なんと
" I君そも
のま た 、 三 角 地 帯 か
らわずか一キロ離れたところのアパート住まいだった。林さんが訪ね
I君てくるときに、
も よ く 一 緒 に な っ た 。 丁 さ ん と 仲 よ く 新 宿 か ら 歩もいしててい
きたた。
り界 さ ん に 私 を 加
えて、 いつも夜明け近くまで日本茶とコーヒーのおかわりで石子さんやつげさんをさか
に話に興じた。
抒情性の究極にまで迫る絵画作品
あるとき 、私は 、林さんに画集のた めの 一枚絵 を画い てみ ないか とたず ねた 。 彼は即
に承諾し、 制作 にかかった。 だが、 ことはスムーズには運ばなかった。 それは、 たんに
理 的 な 障害 に よっ た。 三 か 月 ほ ど し て 、 最 初 の 十 数 枚 が 出 来 上 が っ た と き 、 私は正直い
て戦慄した。
林さんの描く少女像は、あまりにはかなげであった。 それは、竹久夢ニの描く甘美さ
は異質のものだった。 呪詛を含んでいるといっていいのか、 の究極にまで迫ろうか
というほどに鋭くつきささつてくるものが感じられた。
私は、 かねてから夢ニフアンであった。 だから、寡貝的に共通する林さんに画集を依
し た の で あ る 。 そ ので
時〖占驚くべきことに、林さんは、夢ニの絵も存在も知らなかった。

したがって、林さんの美意識や感覚は、母親ゆずりのものなのかもしれない。
そ れ は と も か く 、 林 さ ん は 半 年 近 く か け て 百 点 近 い 絵 を 画 き 上 げ た 。 そ れ ら は 、 私に
わ せ れ ば 、 す で に一
夢も 及 ば な い 地 平 へ と 突 出 し て い た 。 林 静 ー の 世 界 に は 、 夢 ニ に な い

緊張感がみなぎっていた。 その緊張感は、 " ひ
情況と論 つ"のだ と い い き る こ と も で き る
だ ろ 、っ。 林 さ ん の 画 集 は 、 一 九 六 九 年 と い 、っ 時 代 を 刻 印 し た の だ と い っ て も い い 。 あ
は 、 六 九 年 と い う 時 代 に 対 峙 し ょ う と し た の が 、 林 静 一 の 先 鋭 的 な 美 意 識 な の だ 、 とい
てもいい。
8 林静ー
つげ忠男の
ガ『ロ 時
』 代 の 劇 画 と 、 林 さ ん の 作 品 は 、 七 〇 年 前 夜 の 象 徴 だ とIい っ て も 過
言 で は な い 、 と 思 、っ。
林 さ ん の 画 き 上 げ た 作 品紅
は犯
『、花 の 書 名 で 墀 さ ん と 共 同 で つ く っ た 幻 燈 社 の 第 一 一 弾

と し て七 〇 年 三 月 に 刊 行 し た 。
つ い で に い ぅ と 第つ一『げ
弾義は、 春初期短籠 で
』あり、
第 三 弾 は 片 山 健 さ ん の美
画『し
集い日 々 、』
第 四 弾 が加『
藤泰の映画世界

』な っ て い た 。
最初に企画したときには、青林堂で出せればそれにこしたことはないと思っていたのだ
長井さんが青林堂は ガ、
『ロ の マ ン ガ だ け を 主 軸 に 運 営 し た い 、と 難 色 を 示 さ れ た の で 、

や む な く 、 そ れ ま で た め こ ん だ 預 金 を す べ て は^
たい# て
に本充の
てたのである。
預 金 だ け で は 足 り ず に小、
-:!
^ 小 遣 い を た めコ
の と き か ら てッ コ ッ と コ レ クョ
シ ンし た
日本切手も ^分 し た 。 四 谷 の 切 手 商 に も ち こ ん だ と き 、 店 の 主 人 が 、
本「
当に处分されるんですか
」?
と歓びをかくしきれないでいた。 つくりたい本をつくると思えば少しも惜しくはなか
た し 、 い ま で は 楽 し い 思 い 出 で もつ
あ『げ
る義。春初期短籠

』、 紅『
犯花も
』、 美『
しい
日々 も
』、 好 評 だ っ た 。
このとき、 紅『犯花 に 』触れて、 詩 人 の 吉 増 剛 造 さ ん が次のょぅな感想を寄せられた。

「『犯花 は』 ル ィ ス.キャロルの 不『思議の国のアリにス
』も似て いる 。 ま た 大正 の 抒
叙 画 家1竹 久 夢 ー 一 の 世 界 に も 似 て い る 。
タ『ケ ヒ サ ユ メ ジ 、 何 と い 、っ 快 い 響 き を も っ た 天 使 の 名 前と
』だ三っ好
た達ろ治
、っは書
いているが、 わがハヤシセィィチには夢ニの甘味や快い響きはなく、 天使の映像も湧か
ず 、 そ れ ゆ え に 夢 ニ よ り も は る か に 胸 を つ く 新—
し^
いんもとのい お 、っ か 、 陰 画 の な
か をさ 歩 く 少 女 の 実 在 感 と い お 、っ か 、 少 女 礼 賛 と 少 女 ベ
ま よ い 恐き怖
混の清恐
とるい

ぅか、ともかく夢ニの主題偏重による退屈、 それがない。 この微妙な、 そして説明しが
たい割れ目のなかに、恐ろしいほどの情感が、そして時代感情の負の総量がひしめいて
小原 流 挿 花 よ り
い る よ 、っ だ」(『 』 )

I 、檜舞台に
林 さ ん の 評 判 を さ ら に 高 め た の は 、 そ のガ『
あロと』

で連 載 し た 赤「色 エ レ ジ ーだ

った。 若 い 男 女 の 恋 愛 を 鋭 い タ ッ チ で 描 い た こ の 作 品 は 、 若 い 読 者 の 心 を つ か ん で 離 さ
かった。寺山修司さんが注目し、まだ無名だったあがた森魚さんがレコードを企画した
林 さ ん も 、あ ち こ ち の 雑 誌 で ひ っ ぱ り だ こ だ っ た 。再 び 無 い 金 を は た い傻て
『林 さ ん の 画 集
8 林静ー

? を 幻 燈 社 か ら 出 し た 。 こ の 頃 の 林 さ ん―の 絵
とはか、リ リ シ ズ ム と い 、っ 観 念 を こ え


3
て 、 哀 し み や 不 安 の 極 北 を 暗 示 す る^え
ほをどみ
の せ て い た よ 、っに田心、っ。
ところで、私自身は
ガ『、
ロの』行 方 に 一 抹 の 不 安 を 抱 い て い た 。 と い う の も 、 白 土 さ ん
の カ「ム ィ 伝 」の第一部の終了と同時に、私 に と っ て は 未 知 の 雰 囲 気 が 漂 いI はじめたから
だ。 それは、 七 〇 年"が 終 わ っ た と い う こ と を 意 味 し て い た の か も し れ な い 。 緊 張 惑 が 後
"
退し、なごやかムードの出現でぁる。
ヤル気を失くしていた七一年の終わり
ガ『近
ロくの
』、編 集 上 の 不 注 意 で 、 ぁ る 作 家 を 激
怒させた。私は、不手際を詫びたが、
大「手 出 版 社 の 編 集 者 だ っ た ら 首 に す る と こ ろ だ
」け ど ね
と い 、っ 本 気 か 冗 談 か 判 断 に 苦 し む こ と ば が 気 に か か っ た 。 数 日 後 、 長 井 さ ん に 退 職 を
い出た。 一か月後の一一一月末日で青林堂を退職した。
新たな雑誌への夢
の制作にとりかかっている頃、林さんが、
新「し い マ ン ガ 雑 誌 出 し た い ね 。 ぼ く ら に と"つ
っげて義
は春、以 後 ,と い う の が ひ と つ
の 課題で す か ら ね 。 鈴木翁一一さんにしたって安部慎一さんにしたって、 新 し く マ ン ガ
画こうとする人というのは、 つげさんの作品が原点なんですょね。 ぼくやつげさんは
塚 さ ん だ っ た け ど 、 も 、っ 状 況 は 違 、っ ん で す ょ 。 そ う い う 状 況 の な か で な ん か も っ と 新
い も の が 出 て こ な い か な あ 、 と 思 う ん」ですょ
と 語 っ て い た 。 私 も 同 感 だ っ た 。 林 さ ん に し て も 、 つげ忠男さん に し て も 、 マンガの
点 は 手 塚 マ ン ガ で あ っ た か も し れ な い が 、 自 己 表 現 と し て マ ン ガ を と ら え た の は 、 つげ
品 に 出 合 っ て か ら だ 。 私 は 、 か つ て の 白 土 三既平
「成さのんマのン ガ の ワ ク
とにら れ
ずに と
」 い うガ『ロ 出 』発 宣 言 を 思 い 起 こ し 、 林 さ ん の 企 画 を 実 行 に 移 す こ と に し た 。
一 九 七 一 一 年 四夜
月『行 が
』 創 刊 さ れ た 。 つ げ 義 春 、 林 静 一 、 つ げ 忠 男 、 鈴木翁一一、 古 川
益三さんらが画き下ろしの力作を寄せてくれた。 夢 つ「の
げ散さ歩ん の
、」林さんの 酔「蝶
花 、 つ げ 忠 男 さ ん層
」 のの 市 は 、 後 退 し か け た 劇 画 表 現 に カ ツ を 入 れ た 。 同 年 の ニ 号 に
「 」
発 表 し た 林 さ ん桃「園 ト ル コ
の 、」翌 年 三 号 に 発 表 し鱗「
た粉 も」、 林 静 一 作 品 の な か で 、
いや、 劇 画 史 の な か!^でさ れ る べ き
作品だった。
疼『仃 が』 、 い ま も 、 細 々 と で は あ"つ
るげが義 春 以 後 " の 表 現 に 向 か っ て 研 鑽 を つ ん
で い る 。 七 一 年1の 、 中 野 坂 上 の 喫 茶 店 で 林 さ ん が 頭 に 描 い た 雑 誌 と 同 じ か ど う か は 保
8 林静ー
障 の か ぎ り で は な い け れ ど も 、 私 と し て は 、 そ れ ほ ど 間 違 っ た コ ー ス は 歩5ん で い な い
りである。
林静ー「
酔蝶花」(
「夜行」叱 1 ,197
鈴木翁ニと三撟乙揶
一、一一、三 の 吉 祥 寺 グ ル ー プ プ ラ 1ス
今「後 に 期 待し
」新 人 賞 授 賞 へ
鈴 木 翁 一 一 さ んガが
『ロ 』に 投 稿 し て き た の は 一 九 七 一 年 の こ と だ 。 その頃の翁一一さんの
私 的 な 事 柄 に つ い て は 詳 ら か で な い 。 先 頃 、 他 界 さ れ た 中 上 健 次 さジ「
んャら
ズと 新 宿 の
鈴木翁ニと三橋こ揶

ビレッジ 」
にたむろしていたといぅのも、 かなりあとになって知った。
一投稿者であった翁一一さんの絵の技量は、 目 を 奪 わ れ る ほ ど の も の で は な か っ た 。 投
者 の 中 に は 、 も っ と 技 量 的 に し っ か り し た 人 は ほ か に い く ら で も い た 。 だ が 、 翁 一 一作品
は心に響くものが少なからずあった。余韻を残す作風がつげ作品の影響下にあることを

37

じ さ せ た 。 と も か く 、 不 採 用 に す る に は 惜 し い 、 と い 、っ 気 持 ち を 抱 か せ た の は 、 わ び し
9
な作風に起因していた。
正「
助 あ た り でを
」入 選 作 と し て 掲 載 す る こ と を 決 定 し た の も 、 い っ て み れXば 、 芥 川 賞
で は な い け れ ど も今、
「後に 期待 すとる」い 、っ 意 味 を 込 め て だ っ た 。 掲 載 決 定 を 手 紙 に 書 い
て 送 つ た 。 もとつて い ね い 画
な き方を いけない、
し な い と と い う ょ 、っ な こ と書もき そ え た 。
原稿用紙一六枚を同封した記憶はもうない。
水木さんを嘆かせたアシスタン卜
最 近 、 翁一一さんに会った際、
こ「の 人 は ひ ど い 人 で す 。 頑 張 っ て ど ん ど ん 画 い て 下 さ い と 手 紙 を く れ な が ら 一 六 枚
か原稿用紙くれないんだから。 一枚も失敗するなということなんだろうけど、俺は新
だ し 画 き そ ん じ す る の 当 た り 前 じ や な い 。 新 人 に は 冷」
たい人です
と多くの人の前で暴露した。弁解するわけではないが、私の頭の中にあったのはつげ
春 さ ん の1 態 度 で あ る 。 つ げ さ ん は わ ず か 一 枚 の 原 稿 用 紙 を も 大 切 に し た 。 下 絵 の 段 階
で納得のいくまでヶシゴムで消して直し、無駄遣いするこ とがなかった。
だいたい翁ニさんは、 しっかり下画きもせ ずに墨 を入 れる 。 ペンで画き上げてから、
9 鈴木翁ニと三橋こ揶

^39
ン こ れ は 良 く な い と 捨 て る 、 無 駄 遣 い 、 と い わ れ て も 仕 方 な い と 思、、っ。 翁 ニ
’ さんは
つ げ さ ん は 貸 本 時 代 か ら 何 十 年 も や っ て い る ん で す か ら も と も と 上 手 いIん で す 。 俺 と

比 較 す る な ん て ひ ど い じ や な い ! い つ も 、 つ げ さ ん を ひ き あ い に」 出すんだから
と 憤 既す 」し き りだ つ た 。
る 、と
翁 一 一 さ ん が 上 京 し 、 親 し く な っ た の は 一 九む
七こ一、っ
「 年ののラ ム ネあ庵た り か ら だ

ろ、
っか。 翁ニさんはなかなか人なつっこいと みこせろ
、ほをん の 少 し ド モ リ
ちがに、
こ「ん ど 出 た 現 代 思 潮 社 の 夕 、 タ ル ホ の
#揃本え
、た全方 が い い で す か」

と す り寄 つ て き た 。
その頃、水木しげるさんからアシスタントの要望のあることを知らされたので翁一一さん
に連絡した。定職についていなかった翁一一さんはさっそく水木プロに行く決心をした。定
収入が目的ではない。水木プロの一員であるつげ義春さんに会えるからに他ならない。
水木プロに出かけてみると、水木さんが片隅に私を呼んでボヤきはじめた。
翁「ニ さ ん は 仕 事 を せ ん の で す ょ 。 一 日 中 ボ ー ッ と し て お る わ け で す ょ 。 ア レ 、 何 を 考
えと る んです かね。 つげさんは、 いくら なまけ者でも与えられた仕事はするんです。翁
一 一 さ ん は 大 作 家 の つ も り な ん で す」
かねえ
主「従 関 係 な ど 気 に し な」

翁 一 一 さ ん に 連 絡 を と つ た 当 事 者 と し て は 恐 縮 し て し ま つ た 。 そ 、っ い え ば 、 古 川 益 三 さ
を水木プロに紹介したのも私だった。古 川 ガ『ロん
さ に
』は野「風 呂 で」登場した。当 時
一 八 歳 の 古 川 さ ん に 注 目"
天し才
、少 年 現 る"

!実 感 し た の も 噓 で は な い 。 悠 久 的 、 幻想
的な農山村を彷徨する孤独な少年をリリカルに描いた作 品ではも、
も の な誰いの
独自の世
界を表出していた。
風 物 の 描 写 で は 水 ま 品 に 通 じ る と こ ろ が あ っ た の で 紹 介 し た の だ が 、水木画調とは
い入れなかったのかもしれない。古川さんは一年も水木プロにはとどまらなかった。 そ
古 川 さ ん と い い 、 翁一一 さ ん とい い 、 水 木 プ ロ も ユ ニ ー ク な 若 者 を 入 れ た も の だ
に し て も
9 鈴木翁ニと三橋乙揶

つげさんや池上遼一さんは、古い道徳観念をもっていて、真面目に仕事に従事したが、
後生まれの翁一一さんらは、 主 従 関 係 な ど 気 に し な い 世 代 で あ る 。
水木さんがつづけた。
お「た く が 連 れ て く る 人 は み ん な 頭 お か し な 人 ば か り で す ょ 。 か な わ ん で す 。 ア シ ス

141
で頭がいっぱいで仕
ン ト の こ と も手事に つ か ん の で す ょ 。 ホ ラ
一一、先翁
生は、 あ あ し て
古川益三「
紫の伝説」(
「ガロ」1971 ‘ ア)

142
腕 組 み し た ま ま 、夕 、
、ハ コ を ふ か し つ づ け て い る ん で す な あ 。文 学 し て い」る ん で す か な
私は笑いを押さえるのに必死だった。隣りの仕事部屋で翁ニ先生は、 たしかに水木さ
の 言 、っ と お り 、 曝 想 に ふ け つ て い る よ う で あ つ た 。
水木さん、アシスタン卜の奇人ぶりを楽しむ
あ「の 右 は し の 山 ロ 君 ネ 、 彼 は 朝 五 時 に お き て 、 庭 で ^-丨 ッ ト ー ッ て 空 手 の 練 習 す る
ですわ。 彼 ら は 夕 方 の六時に は仕事 終わり ですから ね。自分は 夜遅くまで起きてスト
リ ー 考 え て る ん で す わ 。 水 木 先 生 が 一 番 仕 事 を し て い る わ け で す よ 。 も 、っ 死 ぬ ん じ や
い か と 思 、っ ぐ ら い に 働 い て い る の に 。 そ れ を 朝丨早ッくトかー
^- ッ
らで す わ 。 翁一一先生
昼 間 か ら一一階で … 」
と き た ら ま つ
9 鈴木翁ニと三橋乙揶

しかし、どうみても水木さん本人がアシスタントの振る舞いを一番楽しんでいるよう
思 え て な ら な い 。 と も か く 、 水 木 プ"
奇ロ人が.
変、人 "集 団 で あ つ た こ と は た し か だ 。 は
じめからい た北川 さんも、 つげさんも、池上 さ ん も 、翁二さ んらに 比べれ ば常識人 では
るけれども、世間一般人と比べれば、
変〃
. 人奇
々人の部類に入るのは否定できない。

^3
七 三 年 か 四 年 の こ と だ っ"
奇た人
。 .変 人 " グ ル ー プ に も う 一 人 追 加 し て も ら え な い か
と、 菅野 修さんを 水木プ ロに 紹 介 し た こ と が あ る 。 水 木 さん は、 私の 紹介といぅ理由だ
で 断 っ た 。 水 木 さにん
とっ て は 賢 明 な 処 置 で あ っ た と 思 、っが 、 私 は 残 念 で な
。ら な
Iか っ た
話はだいぶ横道にそれたょぅだ。古川益三、鈴木翁ニの戦後世代の仲間入りしたのが
部慎一さんだ。
ほのみえるデカダンスの世界
安 部 さ ん は 九 州 の 果 て か ら 投 稿 し1た 。
一投作 や「さ し い 人が
」入選作となった。画
調は、林 静一に近 似した 描線に ふ ち ど ら れ て い た が 、 ベタを多用し、 デカダンスの世界
ほ の 見 え て い た 。 ま た 、 毅 然 と し た 姿 勢 が 作 品 上 に き わ だ っ て お り 、 ヶ 太 宰 好 み "を 連 想
せないではおかなかった。
と こ ろ が 、 ニ 作 目 、 三 作 目"
青が春、の 甘 え 々 に 横 す べ り し て い た 。 遠 慮 な く 不 採 用 に し
た。 上 京 し て き た 安 部 さ ん は 不 満 を 表 明 し た 。 私 は 、 安 部 さ ん の 画 風 に 好 感 を も っ て は
た が 、 ク 青 春 の 甘 さ 々 は 願 い 下 げ た か っ た 。し 美
た「代
が子っ阿
て佐、谷 気 分

」い 、っ^ ; も
条件つきの採用である。安部さんは、自分の作品ょり見劣り ガロ
『するに作
』 掲品載がさ
れているではないか
と、こ とば を 荒 げ て 言た
つこ とも あ る 。色「々 と 事 情 が あ る の で
と」ね
9 鈴木翁ニと三橋こ揶

安部慎一「
美代子阿佐谷気分」 (
「ガロ」1971 ^ 3 〕

^45
言っても納得してくれそぅになかった。
あ る 日 、 私 は 、 阿 佐 谷 の 安 部 さ ん の ア パ ー ト を 訪 ね た 。 美 代 子 さ ん が おI茶 を 出 し て く
た。 彼 女 の し な や か で や さ し 気 な 姿 を な が め青て
" 春いのて甘、
さ〃も止むを得ないか、 と
思った。 私 は 、 安 部 さ ん が 非 難 す る 作 品 な ど ど ぅ で も い い ん じ ゃ な い か 、 安部さ
し か し 、
ん の 世 界 だ け が 問 題 で あ っやて
「さ、し い 人
か」ら も っ と 先 に 突 き 進 め る 力 量 を も っ て い る
のだから、 い ま 以 上に 表現 力 にこ だ わっ て欲 しい 、 と 訴 えた 。
す る と 安 部 さ ん は 、
俺「
ば か り 追 い 込 ん で さ」

と 言 、っ の で 、
そ「れ だ け 期 待 し て い る 証 拠 」
です
な ど と 応 え る と 、
そ「
れは跪弁たょ丨」.
と反論した。 これ以上討論すると危ないと悟ったのか、安部さんは、
咋「
日 は 翁 一 一 が こ こ に 遊 び に 来 て 、三 人 で 飲 ん で ば か り い た 。翁 一 一 は 本 当 に い い や つ
なあ 」
と言った。 その安部さんのハンサムな憂い顔は、太宰にうり二つだった。
アルコール派の言い分
翁 一 一 さ ん も 安 部 さ ん も 良 く アルルをコ口 に し た 。 当 時 は 一 滴 も 飲 め な か っ た 私 を 、

だ「か ら 俺 た ち の こ と が わ か ら な い ん 」だ !
と毒づいていた。
義「春 さ ん も 忠 男 さ ん も 飲 ま な い し な あ 。 飲 ま な い と い う
4なこん
^ とだ
がよ、な
其あ 。
俺たちなんて本当は眼中にないんだ」か ら
といつまでも愚痴が出た。 そうかもしれない、私には無頼派の気持ちがまったく理解
きない、安部さんたちの非難は的を射ているのかもしれない、とそのとき思った。
9 鈴木翁ニと三橋乙揶

七三年だ ったろうか。 安部さ んが九 州の 故 郷 へ 帰 る 前 日 に 、会 いたいと 電 話 を し て き


新宿の喫茶店に出むいた。
ヤ『ン グコ ミ ッ ク 』
に発表した短篇群のすばらしさを口にした。すると安部さんは、
俺「が画いているときにそういうことばを聞きたかった。 ひどいよ、九州にもどるい

^7
頃 にな っ て 。俺 う れ し く な い よ 。 つらいだ
」け だ よ
と憮 然 と し た 。 二 の 句 が 出 な か っ た 。 い や 、 私 は 、 硬と
質らなえ:
^きっ を
た ヤング

コミック 』 の短篇群にふれて二度ほど表現力の自律とはかくありなん、と 書 い I た こ と が
ったのだ。 安 部 さ ん の 目 に は ふ れ な か っ た だ け だ 。
そして、 一
0歳 も 年 下 の 安 部 さ ん は 生 来 の や さ し さ を と り も ど し て 私 を 励 ま す ょ ぅ に 言
った。
ま あ し ょ 、っ が な い か な
「 ガ。
『ロをやめられる頃、 ぜんぜん元気がなかったみたいです

か ら ね 。 だ い た いとの 俺なりに理解していましたか
こ ろ は 夜『
ら行。頑
』張って下さい。
い い 作 品 で き た ら 送 り ま」す
フ ォ Iク ソ ン
グ全盛期に
古 川 益 三 、 鈴 木 翁 ニ 、 安 部 慎"一
一、のニ 、 ニ
/,コンビを俗に吉祥寺グループと称した。
彼らは井の頭公園の周辺で馬鹿騒ぎの日々をすごしていた。 このグループに途中から參
したのが、 シ、
、ハ、 つ ま り 三 橋 こ 揶 で あ る 。
こ の な か で 、 三 橋 さ ん が も っ と も マ ン ガ 歴ガ
が 古の
『ロ い
』一。九六六年に入選作が掲載
さ れ て い る く ら い で あ る 。 そ の 後 、 彼 は 永 島 慎 一 一 さ ん のとアしシて数
ス年タを
ント過ごす。
9 鈴木翁ニと三橋こ揶

三 橋 こ 揶 「ピ才ロンの鳴る窓」 (
「夜行」吣15,1987 ‘ ア)

^9
私も永島宅で何度も三橋さんと顔を合わせては
コ「い
ンるニが
チ、ワ
と」あ い さ つ す る だ け
だから印象はない。 I
六九年に新宿西口のフォークゲリラの群衆の中に同じ永島さんのアシスタントである
後つぐおさんがいて、
シ「バ が い な い か と 思 っ て き た ん だ け
」ど ね
と言っていた。数年後、三橋さんにただすと、西口にはいっていない、もっぱら井の
公園の野外音楽堂で歌っていたと言った。
い ま や 伝 説 と な っ た 中 津 川 のク
フジ
ー ォャ ン ボ リに
ーは 高 田 渡 と 一 緒 に 参 加 し た ょ ぅ だ 。
私が、三橋さんを確認したのは、 七一年にお茶の水の全電通会館で開かれたフォーク大
のときだ。
;
幻 燈 社 で^ し た あ が た さ ん と 林 さ ん の、っ

「た作 絵 本 .赤 色 エ レ ジ 丄 を 販 売 す る た
めに会 場に足を運んだ。 あ がたさ んは も ち ろ ん 、 はっ ぴいえんど、 遠藤賢 ニ、 その他数
れずのフォークシンガーが出演した。会場は超満員だった。 三橋さんは、 山本コータロ
らの武蔵野たんぽぽ団の右はしでハモニカを吹いていた。 その後の三橋さんの姿を私は
らない。
一 九 七 七 年 に 、 突 然孤
、達 の 夜と』い う 三 橋 さ ん の 私 家 版 の 詩 集 が 送 ら れ て き た 。 そ

れまで一一一橋さんとは私的なつながりは皆無であったので、 簡 単 な 礼 状 を 出 し た に す ぎ な
時代は常に不運であったあるときサンドィッチマンがやってきて両手をひろげてこ
う 言 っ た好「
き な 物 を お 取 り な さ」

で僕はその両手に僕の心臓をのせ彼をそこに釘づけにする事で僕は朝を手に入れ
ること が でき た
街角ではしあわせの影法師が座りこんでいる百科辞典をたずさえ女達がスヵ丨
トをひるかえす
まるで悪意の無い街が僕を失望させる万華鏡に映っているしあわせの色には時代の
臭いしかせず拉声器に録音された
こ「声
れぞが 歴 史 だと
」言 う
9 鈴木翁ニと三橋こ揶

大道では補聴器の修理屋が大安売りで真実を売り歩く
ある時僕は彼の所に出かけて行き両手を広げてこ好「
うき言
なっ物を
たお 取 り な
さ い 」す る と 彼 は 僕 の 両 手
永「に

ま 出て行ったを
」 の せド ア を開 け たま

(「の 無 駄 ょ
」り )
三橋さんの 詩は、 どれ もわ びし気であった。 それが、 心を引き止めた。
その直後から ガロ 誌上に三橋作品がポッポッと現れはじめた。抽象的なストーリー
『 』
展 開 だ っ た が 、 ィ ラ ス ト1風 の な い 絵 が 心 地 よ か っ た 。 つ げ 忠 男 さ ん に 会
、っ た
Iと き
三「橋 さ ん の 絵 柄 は 抜 群 で す ね 。 い
ガ『ま
ロののなかでは、 一番いい絵を画きますね。

期待していいんじやないですかね 」
忠 男 さ ん に は 珍 し く ほ め ち ぎ っ て い た 。 だもがう少
、し私様
は 子 を 見い
てよ う と思 っ た 。
夏「の 終 り と
」 い 、っ 極 め て 私 小 説 風 の 作
ガ『品
ロをに』 発 表 し た あ と で 、 マンガ^ ^ 誌
に短い三橋こ揶論を書き、三橋さんあ 夜『
て行にに、
』作品を画かないか打診した。 折り返
し 快 諾 の 返 事 が あ っ た 。 こ 、っ し て 、 三 橋 こ疼
揶『仃
作品』一は二号ニ九八ニ年 か
) ら掲
載 さ れる こ と に な
つた。夜『
行 掲』載 の 作 品 は 、 ミ ジ

ー シ ャ ン と し て趣のを伝 え 、 他 の 劇
画作 家 の 表 現 性 と は 本 質 を 異 に
とす るに特 色 が あ る の だ が 、 三 橋 さ ん の も う 一 方 の 特
こ ろ
色 は 、本 人 の
キ ャ ーにある。
ラ ク タ
研究会変じて演芸会に
三橋さんが、 夜 行 に出 入 り す る よ
『 』 っ、にな っ て 、つ げ 義 春 研 究"会な るも の が 発 足 し
"
た 。 ゲ「ン セ ン カ ン 主 人

」 祥 の 地.
湯 宿 温 泉 、 つ げ さ ん ご 推 薦 の 栃 木 の 北 温 泉 、 ひなびた
鉱 泉 宿1深 沢 温 泉 、
1 の 白 根 温 泉 と 一 年 に 一"

度究の旅 行 々 が あ っ た 。 甲 州 の 桃 の 木
温泉にはつげさんも同行した。
このときの宴会部長が三橋さんである。納豆の正しい食べ方、 バナナの正しい皮のむき
方 を 見 事 に 演 じ る 。 高 橋 和憂
巳『鬱のな る 党 派』
に対抗してと言っては、跋折羅の宫岡蓮
一 一 や 評 論 家 の 千 田 潔 、 喇 嘛 舎 の 長 田ガ「
崚チー
ョとン 派を
」結 成 し て 大 騒 ぎ し て い た 。 そ
れをなんとも困った人たちだと横目でにらんでいたつげさんも三橋さんらの奇声につられ
て笑いを押さえるのに必死の様子だった。三橋さんは、

「げ さ ん は つ げ さ ん と い ぅ ょ り 田 ロ さ ん則
と1の
い方、っ
が名似合っていますょ 」ね
と 言 っ て 、 そ の 日 は 一 日田
中「ロ
、さ ん 、 田 ロ さとん
」つ げ さ ん の こ と を 呼 ん で い た 。 つ
げさんもそぅ呼ばれて 、
ウ「ン な」ど と 返 事 を し て い た 。
9 鈴木翁ニと三橋こ揶

ゥ「ー ム 、 一一一橋さんの
」のす
,ぐ れ た ユ ー モ ア 感 覚 が 作 品 の 上 に 影 を お と す と ず っ と 拡 が
りをもつのだがなあ 」
と 、 評 し て い た の は 、 北 温 泉 旅 行 に 同 行 し た 評 論 家 の 梶 井 純 で あ る 。 最 近 で は 、 "つ げ 義
春 研 究 会"も "
三 橋 こ 揶 演 芸"
会に変わりつつある。
ガ『口 の』、フ ち そ ヒ
雄弁家石子順造さんと編集部の人々
新進気鋭の美術評論家
私 が ガ『
ロ の
』編 集 部 に 在 籍 し た 四 年 と 少 し の あ
ガ『い
ロだ誌
、上 に 作 品 を 発 表 し つ づ

けた作 家たち を陰 にな り日向 になって応援をおしまなかったのが、 評論家の石子順造さ
だ っ た 。 石 子 さ ん の 知 遇 を 得 た の は 、 一九六四年頃、 私 が 、 小 さ な 新 聞 社 に 勤 め て い る
き だ っ た 。 こ の と き も 、 一 編^集!者#と
の間柄だった。 石子さんは新進気鋭の美術評論
家といぅ肩童曰きだった。 い ま で も 、 初 対 面 の 日 の こ と を ょ く 憶 え て い る 。
新 宿 ^歌 舞 伎 町 の コ マ 劇 場 の蘭 と
裏「に」い ぅ 名 の 喫 茶 店 が あ っ た 。 戦 前 か ら あ っ た ら
しく、 い わ ゆ "

る歩 的 文 化 人 々 が ょ く 顔 を み せ て い た 。 石 子 さ ん は 、 席 に つ く な り 、
「、っ し て ぼ く の こ知と っを
ど て い る ん だ

と 、 詰 問 口 調 で 言 っ た 。 私 は 、 創 刊 間現も
『代な美い術誌 上の 石 子 さ ん の 美 術 評 論 の

連 載 を 愛 読 し て い る こ と を 伝 え た 。静 岡 か ら 上 京 し た ば か り の 石 子現さ
代ん
『 美に と っ て 、
術 は
』、 唯 一 の 発 表 場 所 だ っ た 。 は じ め の 険 し い 表 情 は 消 え 、
そ「れ で 、 ぼ く に な に を 書 け っ て い う
」の ?
と 、 こ と ば は ぶ っ き ら ぼ う に 、 いや、 声 自 体 も ダ ミ 声 に 近 い ち ょ っ と ス ゴ ミ の あ る も
だ っ た が 、 次 々簡
とIし て き た 。 ま る で 、 敵 か 味 方 か を 識 別 す る か の ょ う に で あ る 。
それ以来、私は、 石子さんと一緒に、銀座の 画廊でひらかれる数々の個展に何度も足
運 ん だ 。 当 然 、 そ れ ら の 個 展 評 を お 願 い し た 。 美術書の童曰評もすベて石子さんに担っ
らった。 頻繁に石子さんの
出名るがと まいず
の で 、 匿 名こ
のともしばしばだった
そ。う こ
う す る う ち 、 美 術 の 話 だ け で な^く
の'、
話文へ、 政 治 の 話 へ と 転 じ て い っ た 。
1 0 『ガロ』のうちそと

何百億かの資産には目もくれず
六本木の画廊での石子さんの企画展のときだった。画廊主でもある和菓子屋のご主人


刊 行 さ れ た ば か り の 高 橋 和憂巳
懲の
『 な る 党 派に
』ふ れ て 、

「 つ は私 も 、 あ の時 代 の 体 験 者 なでん
すがね 」

150
と話しかけてきた。 それを石子さんに伝えると、

「 つ は 、 ぼくも ― ^
と い う こ と に な っ た 。 石 子 さ ん は 、 か つ て 東 大 の 経 済 学 部 に 籍 を お い て い た 。 戦後の
ル ク ス 主 義 運 動 の 盛 ん な 頃 だ っ た 。 例 に も れ ず 、重
石運
# 子動
さにん参
は 加 し た 。 日本共
産党員でもあった。 石子さんは、 そのころ、実家から絶縁を言いわたされた。 石子さん
青山生まれの青山育ちということから推察されるとおり、白山一帯に広大な土地を持つ
産家の長男だった。戦前に大臣まで務めたリベラリストの父親はすでに亡くなっていた
石 子 さ ん の マ ル ク ス 主 義 運 動 は 、 実 家 の 逆 鱗 に ふ れ た の だ ろ 、っ。 そ し て 、 石 子 さ ん は 、
くなるまでついに実家にもどる意志をまったくもたなかった。何十億だか、何百億だか
らないが、資産にはなんの未練も抱かず、貧しい評論家の道を選んだのである。
ま「い っ ち や う ょ ね 。 こ の あ い だ 祖 母 の 見 舞 い に 病 院 に 行 っ た ら 、 ま わ り の 親 戚 の 連
が、 お
" ぼっちやま々なんていうんだからね。冗談じやないょね

とケッケッと笑つた。 そして、火炎ビン時代の^ 新
! 宿

# 交
時番のことなどを話した。
それでも、 私が、 さらにくわしく聞きだそうとすると、
ま「あ い い じ や な い か 、 古 い こ と な
」ん だ か ら
とことばをにごした。 つまり日本共産党の五〇年問題や六全協についての石子さんの
場は明らかにされなかった。
時間のゆるす限りマンガ論を独演
と も か く 、 不 思 議 な 人 物 だ っ た 。 いや、 愛 す べ き 人 物 だ っ た と い っ た 方 が 正 し い 。 私
ガ『ロ 編』集 部 に 移 っ て 間 も な く 、 石 子 さ ん と 、 山 根 貞 男 と 梶 井
漫『純
画の主四
義人』で
と い う マ ン ガ 批 評 の 同 人 誌 を つ く っ た 。 この頃、 石 子 さ ん は 三 六 歳 で 、 残りの私 たちが
六 、 七 歳 だ っ た 。 か な り1のが
年あ っ た が 、 石 子 さ ん は 、 私 た ち と 行 動 を と も に し た 。
ォ ー ル ナ ィ ト で ヤ ク ザ 映 画 を 見 に 行 き 、 赤 瀬 川 原 平 さ ん や 林 静 一 さ ん を 加 え て 、 深夜の
リ ^丨
^ ドで明け方まで遊んでいた。 そして、なにょり 、 マンガに関してのべつまくなし
1 0 『ガロ』のうちそと

語り合った。
語 り 合 、っ と い う 言 い 方 は ま ず い 。 石 子 さ ん は 、 五 時 間 も 六 時 間 も 、 時 間 の あ る か ぎ り
方 的 に マ ン ガ 論 を 展 開 し た 。 白 土 三 平 論 、 水 木 し げ る 論 、 つげ義春論、 滝 田 ゆ う 論 、 佐

”7
木マキ論、林静ー論
ととど ま る と こ知ろらをな か つ た 。 語 り 終 わ る と 、 山 根 や 梶 井 に 向 か
つて、

”8
い「ま の 間 違 っ て い る か な ? 感 想 聞 か 」せ て
と 必 ず 迫 っ た 。 そ し て 、 そ れ ら の 作 家 論 、 作ガ品
『ロ論 や
は 、漫『
』 画主義を
』中 心 に 、
発表された。
そ れ は 、私 にと っ て 、 あ り が た い後 ろ 盾 で
も あ っ た 。も ち ろ ん 、 石 子 さ
と私ん とで は 、
批 評 の基 軸 が同 一で は な か っ た け れ ど も 、大 問 題 に な ほ
るど で は な か っ た 。 な ぜ な ら 、差
異の原因は、
け っ き ょ く の と こ ろ 、"生 ま れ 育 ちに
々あ っ たの だ ろ ぅ か ら だ 。
一九六八年の終わりか六九年のはじめの頃のことだ。あるマンガ家に、 かつて数寄屋
の あ っ た 西 銀 座 デ パ ー ト 地ブ下
「リのッ ジ と
」 い ぅ 喫 茶 店 に 来 て 欲 し い と い わ れ た 。 いつ
もは、自宅に原稿を受けとりに行っていたので、なぜなのか、 理解に苦しんだ。すでに
丨 ブ ル で 待 っ て い た 某 氏ガ『ロ
は 、の』編 I 針 に 対 し て 疑 問 を 投 げ か け た 。 佐 々 木 マ キ や
林 静 ー の 作 品 は な に が な ん だ か さ っ ぱ り わ か ら な い 、ね
つ げ式
「じ 義や春の
」 ゲ「ン セ ン
カ ン 主 人も
」マ ン ガ の あ る べ き 道 か ら は ず れ てガい
『ロるは、、 一 部 の 読 者 だ け に 向 け て

編集されているのではないか、 マンガはもっと 開べかきれ
ある もてので、楽しいもの、 心
寺「
あたたまる内容でなくてはいけない、滝田 島、
ゆ 町
っ奇の譚や
」 つ げ 義 春 の "旅もの々
までがマンガの領域だ、白土三平や水木しげるによって広範の読者を
ガ『つ
ロ か』み か け た
が、 一 部 の 評 論 家 の 考 え に よ っ て 左 右 さ れ る の は ど ん な も の か 、 つ げ 忠 男 の 作 品 も そ の
た ち に 支 持 さ れ て い る よ ぅ だ が 、 彼 の マ ン ガ は 作 品 以 前 の も の だ 、 と い 、っ 内 容 だ っ た 。
若手を理解し励ました石子さん
氏は、 ニコニコしていた。 口調も、 おだやかであった。 だが、 ニ時間近くも同じ内容の
繰 り 返 し で あ っ た 。 私 は 、 黙 っ て 聞ひい
とた 。も 反 論 し な か っ た 。 険 し い 表 情 に な ら
こと
外「
ぬ よ 、っ に つ と め た 。 氏 は 、 言 い す ぎ た と で も 思 っ た の か 、 話 し 終 わ る と 、元 気 な 声 で 、
で 立 ち 食 い の ラ ー メ ン で も 食 べ なと
」い言?
った。
そのときのことを全部ではないが、石子さんにもらした。石子さんは、
気「に し な い 方 が い い 」

1 0 『ガロ』のうちそと

とだけ言った。 私は 、気に し て い る わ け で も な か っ た の だ が 、 石 子さんの援護^ ^ 多


少 は 期 待 し て い た の か も し れ な い 。 そ の 後 、 石 子 さ ん が 、 ど こ作
"か品の以
雑前誌"
での、
つげ忠男作品について熱を込めて評論しているのを読んだときは、やはり嬉しかった。

^9
私 は 、 いまでも、 つげ義春、 滝田ゆ ぅ 、 佐 々 木 マ キ 、 林 静 一 、 つげ忠男さんらの作品
当 時 ガ『ロ 周 』辺 の ニ 〇 歳 前 後 の 若 者 の 心 を と ら え た の は 、 も ち ろ ん 作 品 そ れ 自 体 の 力 も
あ る が 、 石 子 さ ん の 驚 く べ き マ ン ガ へ の 情 熱 に 負 、っ と こ ろ が 大 き い の で はI な い か と 思
だ。 である か ら 、 石 子 さ ん に は 、 も っ と も っ と 長 生 き し て 欲 し か っ た 。 菅 野 修 、 湊 谷 夢
伊藤重夫さんらの作品について、 石子さんに論理的に分析してもらえば、 いま以上の読
を獲得するに違いないからだ。石子さんを失ったのは、 マンガ表現にとって大きな痛手
ったといわねばならない。
青林堂のマスコット嬢
さ て 、 青 林 堂 の 室 に 目 を 転 じ て み よ 、っ。 私 が 、 入 社 し た 一 九 六 六 年 の 九 月 の 段 階 で は
私 の 他 に は 長 井 社 長 とトパナ ー の 香 田 明 子 さ ん の 一 一 人 だ け だ
ー ガ『っ
ロたが
』。創 刊 さ れ て
ちょぅど一一年がすぎていた 重
#。の大あ い だ で 、 白 土 さ ん や 水 木 さ ん の 作 品 が 話 題 に の ぼ
ガロ も徐々に発行部数をのばしていた。
りつつあり、『 』
入社した当初は、編集
1 の
より、倉 庫 整 理 や 、直 接 購 読 者 へ の 発 送 に 多 く の 時 間 を 費
や し た 。 翌 年 、 四 月 に 、 高.校し
をた 静 岡 産 の
I君 が 入 社 し た 。 と き を 同 じ く し て 、 か
つて私が勤めた新聞社で原稿取りの雑用などをしていた丁嬢が、 アルバィトとしてやっ
きた。 彼女は、高校を出て、新聞社に一年勤めてみて、大学で学んでみたくなったのだ
いう。 彼 女 の 家 は 裕 福 で は な か っ た の で 、 青 林 堂 で ア ル バ イ ト を つ づ け な が ら 、 大 学 受
に そ な え よ う と し た のだ 。
ともかく彼女はよく働いた。 元気いっぱい働いた。勝又さんや林さん、佐々木マキさ
をは じめ青 林堂を訪 れる同 世代の若 い マ ン ガ 家 の 人 た ち に や さ し く 接 し た 結 果 、青林堂
マ ス コ ッ ト の よ 、っ な 存 在 に な っ た 。 石 子 さ ん や 山 根 貞 男 と も 新 聞 社 時 代 か ら の 顔 見 知 り
漫『
あったので、 画主義 』
の同人が新宿で落ち合うとき下さんがー緒のときが多かった。
石 子 さ ん の 最 初 の 著マ
『書ン ガ 芸 術 論』
の出版記念会が、新宿の画廊で行われたとき、
水木しげるさんが同行したつげ義春さんを見て、

「ァ 、 つ げ さ ん て カ ッ コ イ 」
イな
とはしゃいでいた。 背丈のあるつげさんは、 そのとき、 二八歳の寡黙な好青年だった
1 0 『ガロ』のうちそと

丁さんの働きをみて、長井さんが、
正「式 な 社 員 に な ら な い で す か
」ね
と、 たしかな意向を聞いてくれるよう頼まれた。 丁さんは、

101
す「
ご く う れ し い け ど 、 や っ ぱ り 大 学 へ 行」
きます
と き ぱ
つ り こ え
た た。
ベトナム反戦運動、大字闘争のなかで
翌年、 四月、 彼女は 京都の尺大に入学した。 彼女は、板 橋の生 まれ だっ たが、 なぜか
京 か ら離 れたが ってい た。 それでも、霍 み 、夏休 み、 冬休みの 間、青林堂にアルバィ
に や っ て き た 。 長 井 さ ん も 、 香 田 さ ん も 心 よ く む か え た 。 社 員 旅 行 に も 、 いつも一緒だ
た 。 だ が 、 い つ の 頃 か ら だ ろ 、っ。 長 い 休 み の は ず な の に 顔 を 出 す 日 が 少 な く な っ て い た
ベトナム反戦運動、大学闘争がはげし くな って いった のと同 じ時 期だ。
あ る と き 、 奥 多 摩 へ の 一 泊 の 社 員 旅 行 が あ っ た 。 勝 又 進 さ ん や 佐 々 木 マ キ さ ん 、 向後
ぐお さ も
ん 一 緒 だ っ た 。 そ の 一 週 間 ほ ど 前 に 、 京 都 の 丁 さ ん か ら 電X話
示がにあ
帰っ た 。
つ て く るいと
、 貝!
っ の で 、社!旅行にさそつたが、
その日はダメなの。 それより旅行に出かけるのなら部屋空いているんでしよ。女の

三 人 で 上 ^ ^ る か ら 泊もめらて
ってもいいかしら

といぅことだった。 目的は聞かなくてもわかった。旅行の前日に新宿で彼女に会った
三「
人とも無事だったら三日 後に 必ず 青林堂 に電話 を入 れます から。 心配しないで下
い。 長 井 さ ん に 会 え な い け ど 宜 し く 言 っ て お い て ね 。 ア 、 い や 車 示 に い る こ と 言 わ な
で。 長 井 さ ん に 心 配 か け ち ゃ い け な」
いから
一泊旅行が終わって、 三 日 待 っ て も つ い に 丁 さ ん か ら の 連 絡 は な か っ た 。 そ う いえ ば
旅行の帰途、 八王子をすぎた頃だったろうか、電
I君車がの
、中 で
蒲「田 に こ れ か ら 間 に 合 い ま す か」ね ?
とポソポソと聞いた。私は、
時「
間 は 充 分 に 間 に 合 、っ ん じ ゃ な い」
かなぁ
とだけこたえた。
丁 さ ん が# ^堂 に 姿 を 現 し た の は 、 そ れ か ら 半 年 以 上 す ぎ て だ ろ う か 。 い つ も の 元 気 い
っぱいの声で、
長「
井さんごぶさたしてます
」ー .
1 0 『ガロ』のうちそと

とニコニコしていた。 だが、左目のまわりが大きく黒いアザになっていた。 長井さん


心配して、
ど「う し た の 」

I勾
とたずねると、
ウ「チ の 階 段 踏 み 外 し ち ゃ っ た ん で す 。 ボ ロ 屋 だ か ら ガ タ ガ 夕 し て 危
」な い ん で す よ
と明るくこたえた。
そ「
、っ、 そ れ な ら よ か っ
」た
と長井さんも安心したよぅだった。 帰りがけ、 丁さんに、
さ「っ き の 噓 だ よ ね 」

と念を押すと、
い「や あ 、 だ ま せ た か な あ と 思 っ て た ん で す」け ど ね
と 笑 い こ ろ げ た 。 一 か 月 前 に 京 都 で 逮 捕 さ^れ^隊
た員とか
きら 受 け た 傷 だ っ た よ 、っだ。
再 会 、 ニ〇 年 前 の 少 女 の 輝 き み せ て
私 が 、 青 林 堂 を 辞 め て か ら 丁 さ ん と 会 、っ 繁 は 少 な く な っ Xた
さ。んそ
がの、後
ケ、ニ
ヤやフランスで暮らしていると風の便りに聞いた。 それからまたたく間に十数年がすぎ
湾岸戦争の折、住まいに近い公園でノンセクトの反& ^ が開かれていたので家族と出
け て み た 。 多 く の 私 服 刑1事隊
やに 囲 ま れ て 、 一一〇 〇 〇 人 ほ ど の お じ さ ん 、 お ば さ ん が
参加していた。 その中に見覚えのある横顔がチラッと見えた。 背後から、

「さ ん ?」
と声をかけてみた。振り返った彼女は、
ヮ「ア ッ 」
と 言 っ て い っ ぺ ん に 顔 が ほ こ ろ ん だ 。 一一児の母となった丁さんの髪にはすでに白いも
がまじってはいたが、 一
則一1

の年少女の輝きを少しも失ってはいなかった。
新宿放火事件にまき込まれたー君
同 僚 のI君 も 了 さ ん に ま け な い ほ ど の 正 義 感 の 強 い 少 年 だ っI君
たの。素
た朴だな
、正
義感は、石子さんや山根からょくからかわれたりもした。私も、
オ「
ッ 、 ア メ リ カ 帝 国 主 義 を 攻 撃 し て お いラ
ーてな、
んコか飲んでいいのかな
」あ
などと冗談をとばした I君。は 、
1 0 『ガロ』のうちそと

大「
人 っ て1 じ や な い ん で す ね 。 斜 に か ま え て 力 ッ コ つ け た り す る
」ん だ か ら
とムキになって反論していた。
君の本心は、プロの劇画家になることだった。 それまでの間、青林堂に勤めながら
I
技 術 の 勉 強 に は げ も ぅ と い 、っ こ と だ っ た 。 だ が 、 時 代 が 時 代 で あ るI君
。に正義感の強い
とって、社会の動き が気 になっ た。 主霖堂 の仕事を終えると、
王「
子 に 行 き ま せ ん か」

と私に声をかけた。

" 戦 病 院 " の 前 ま で 二 人 し てみ
行たっ
がて、デ モ 隊 の 影 も 、
1 隊の影もなく 、あたり
は ま っ暗 闇 だ っ た 。
今「
日 は 見 事 に 空 振 り だ」

と 、 ス ゴ ス ゴ と 帰 つ た 。 あ る と き 、 彼 は 、
安「
田講堂に入ってはいけないです 」か ね
とた ずねるので、 二人で話し合って、 とにかく会社の仕事や長井さんには絶対に迷惑
か か ら な い ょ 、っに、 と き め た 。 お 互 い の 行 動 に 干 渉 す る こ と は な か っ た の で 、 彼 の 実
知らない。 ところがあるとき、退社時間になると、

「緒 に 帰 っ て 下 さ 」

と、 元気なくいぅので、

「ぅ し た の ?」
と た ず ね る と 、 前 日^の
の 新 宿 デ モ の 際 、 新 宿 駅 南放
"口火の事 件 " に ま き 込 ま れ

1
10

2
た と いっ
、。騒 乱 罪 が 適 用 さ れ 、 翌 日 か ら は 、 新 宿 の 隅 々 に 私 服 刑 事 が 張。りIこ ん で い た
君 と ょ く 寄 っ た 三 越 裏 の 喫ロ

「ー店レ ルを
」の ぞ い て
み る とそ
、れ ら し き 人 物 が 奥 の 方
か ら入 り 口う
をか が つ て い た 。
ホ「ラ ね 、 ヤ バ ィ で す」ね
と I君 は ソ デ を ひ っ ば っ て 足 早 に 立 ち 去 ろ う と し た 。
青林堂労働組合組合旗たなびく
一九六九年の五月一日のメーデーの日、青 林堂に入社して初めて代々木公園のメーデ
会 場 にI君 と い っ て み た 。 前 日 に 片 面 黒 地 、 片 面 赤 地 の 大 き な 旗 を つ く
^ っ た。両面の
- ^
に黄色地でガ「
ロ 」
のロゴと同じ形を大きく切りとって貼りつけた。意外に派 手で、 遠く
からもょくみえた。 その旗は、 メーデ ー会場の築山の上に高く掲げられた。 これが、最
1 0 『ガロ』のうちそと

に し て 最 後 の わ が 青 林 堂 ヶ 労 働 組0 合
の々意?
思表示だった。
I君は、 やは り劇画 家になる夢をたちがたく、 しばらくして青林堂
I君をが退 社 し た 。
い ま ど う し て い る か と小
い海う線
との、野 辺 山 駅 前 で 手 作 り の ア ク セ サ リ ー 店 を 開 い て い

167
る。
君と入れかわるよぅに入社した
1 2子のさがん で あ る 。 彼 女 は 、 入 社 以 前 、1高 校 を
す る と 音 楽 雑 誌 に 半 年 ば か り 関 わ っ て い た よ 、っだ。フ
.ビアーントだルっズ
たガ ロ に
。『 』 I
のった佐々木マキさんと林静一ビ さ丨
「 ル
ん -の^ ズ対談 か ら ガロ に関心をもったよ
」 『 』
ぅ だ 。 いわば、 一 番 若 ガ『ロ 』
い フ ア ン と い っ て も よ か っ2た
子。さ ん も 真 面 目 に働
よく
いた。 真 面 目 す ぎ る ほ ど 真 面 目 だ っ た 。 後 年 彼 女 は 、
あ「の 真 面 目 さ が 自 分 で 一 番 嫌 い な ん だ
」よね
と回想していた。
倉庫に色とりどりのヘルメッ卜
私は、 七一年の暮れに青林堂を離れたので、 只子さんとは一年半ばかり一緒に仕事をし
たにすぎない。
2子 さ ん が 入 社 す る 以 前 か ら 何 人 か の 男 の 大 学 生 が ア ル バ ィ ト に 来 てガい
『た 。倉 庫 の
の返品の山の間に赤 や白や緑 や黒の へルメッ トが積 み重ね られてい た。 アルバィトの
ロ 』
たちがかくしていたのかもしれない。
彼 ら は 、七
" 〇 年"
がすぎると、ある者は出版社に就職し、ある者は公替貝となり見事に
転 進 を は か つ た2。
子さんがあるとき、
冗「談 じ ゃ な い わ ょ ネ
自"、
己 否 定"や ,大 学 解 体 々 を 叫 ぶ 一 方 で 、 あ た し た ち の こ と を
意識が低いの、 、 バカだのと差別的な態度をとっておきながら、 いまじゃマイホーム主
だものね。 でもまあ、 彼 ら に 、
、ハカにされたおかげで私も視野を広げることができたし
本 も 読 む ょ ぅ に な っ た ん だ か ら 許 し て」
やるか
と、大笑いした。
2子さんは青林堂を離れたあと、大出版社の編集の瞩託についた。 その間、個人新聞
発行して、女性差別を糾弾しつづけた。
フま
" ヱだ
ミ、ニ ズ ム "と い ぅ こ と ば が 流 行 す る 以
前である。
天安門事件に怒りの涙
1 0 『ガロ』のうちそと

何年か前、彼女はイギリスに渡った。イギリスのリバプールで老人ホームのボランテ
ア活動をするためにである。渡って間もなく手紙が届いた。
天安門事件をテレビニユースでみた。涙が出てしかたがなかった。まわりの老人た

109
が、 君 が 悪 い ん じ ゃ な い 、 元 気 だ せ と 言 っ て 慰 め て く れ た け ど 、 一 日
」中 悲 し か っ た
と書いてあった。次にきた手紙には、

1ク0
壁「が こ わ れ た ! ヤ ッ タ せ
」":
と記してあった。 そして、 その次には、
ヒ「ヤ リ ン グ が い ま い ち だ 、 早 口 の ニ ユ ー ス が 聞 き と れ な い 。 何 が ど 、っ な っ て い る の
東 欧 が ど 、っ な っ て い る の ? チ ャ ウ シ ヱ ス ク が ど ぅ の こ ぅ の ら し い ん だ け ど 、 近 く に
る の に も ど か し い.ー
日 本 の 新 聞 を 早 く 送 っ て」
ー.
とあつた。
ロック狂いの
2子 さ ん は 日 本 に も ど っ て 、 相 変 わ ら ず 大 出 版 社 の 編 集 の 仕 事 に 精 を 出 し
ている。 わ が
つげ義春研究会
" の レ ッ キ と し た メ ン バ ー で あ り 、 先 日 も 、 伊ゲ
" 豆「へ 映 画

」撮影見学に同行し、 現地でつげ義春一家と談笑していた。
ンセンカン主人
戦 前 の ^! ^ 豊 か な小 学 唱 歌 I ょ り も 好 む 彼 女 は 、 決 然 と 口 に す る 。
「 」
日「本 な ん て 大 嫌 い だ 。 お 金 た め た ら ィ ギ リ ス か オ ー ス ト ラ リ ア に 永 住
」し ょ 、っ か な あ
と0
恐るべき中学生の読者
ここで読者のことにもちょっとふれたい。青林
ガ『堂
ロにを』
は直、
接求めにくる人や投
1 稿を持ち込 む 人 が 平 均 し て 毎 日 、 三、 四人 はいた。 みな、高校生 から大学 生く らいの
年齢だった。
長井さんは、自らお茶を入れ、訪ねて来る人たちとの雑談を楽しんでいた。 そのなか
両親が都内で豆腐屋をしているという和光学園の中学生がいた。 私が、 入社以前に主霖
に遊びに行っている頃からの顔なじみだった。 入社後に会ったとき、 彼は、
ア「レ 、 新 聞 社 の お 兄 さ ん 青 林 堂 に 入 っ ち ゃ っ た の ? 趣味と仕事を混同するのは問題
ですなあ 」
と茶化した。 しかし、 こんなのは序の口で、彼は、最近の白土さんや水木さんの作品
1 0 『ガロ』のうちそと

傾向をどう田心、っ か し つ こ く 聞 く の で 、 仕 方 な く 放 口 え る と 、
ゥム、なかなか鋭いところを衝きますなあ。まあ、合格かな
「 」
という始末なのだ。頭デッカ1 チなの中 学 生 で は あ っ た が 、 彼 の大卒
(学論
でもある
ま い に 卒 論 が あ る のが
だ、 な ん と 1「 の 研 究 だ
) 」っ た 。
優もらいましたから、悪くはないんじやない
「 」で す か
とすました顔でい、恐

" 、
るべき中学生
"だ っ た 。
小菅刑務所の直接購読者
そのほかにも、埼玉じ高
?高や
の才女とかが訪ねてきた。
つ り たく に こ さにんこ ん ど い っ ぱやいり ま し っ
「 ょ、、と 伝 え て お い て 下 さ い 。 つ げ さ ん
にもあたしのために頑張って、といぅの忘れな 」いでね
と ニ ヤ ニ ヤ し て 言 、っ。 私 が 、

" 良少女
「 "な ん か や っ て な い で 、 少 し は 社 会 に 目 を 向 け な い と

と お 説 教 で も し よ 、っ も の な ら 、
高「
一 一 の と き さ ん ざ ん デ モ や っ た ョ 、 い ま は 静 か に お 勉」
強中なの!
と適当にあしらわれてしまつた。
同じ頃、長靴はいて、手拭いを頭にかぶったままのガッシリした体格の青年が毎月のよ
ぅに顔を出していた。川崎の労働者街でセツルメント活動をしているとのことだった。
今「日 は 、 子 ど も た ち に 紙 芝 居 を 見 せ て
」きた
と I んだ。
彼がまったく姿をみせなくなってしばらくして、長井さんが、

「つ も 来 て い た 今 井 さ ん が こ こ に 出 て」
いるよ
と叫んだ。
新 聞 の 記 事 の な か東に
「大 全 共 闘 副 議.今
長井 澄 氏 と
」あ り 、 見 覚 え の あ る 顔 写 真 が で
ていた。 以 後 、 東 大 闘 争 は 激 し さ を 増 し て い っ た 。 一九六九年 1 一
隊月に一よ九っ日 、
て安田講堂の封鎖は解除された。あの最後 の有名な時計台放送の声は今井さんだったと
と で 知 っ た 。 そ の 後 、今 井 さ ん は 、小
ガ『菅
ロかの
』ら定期購読の代金を送りつづけてきた。
今井さんの名を再び聞いたのは、家人の故郷である長野の八ヶ岳の麓を訪ねたときだ
地元の新聞だかに、厳しい山間の無医村を訪ねまわる今井医師の話がでていた。やがて
三十数歳で茅野病院の副 院長 とな り、 その後、 諷 訪 丨 病 院 の 名 誉 院 長 と な っ た 。
1 0 『ガロ』のうちそと

今「
井 先 生 は や さ し い か ら ね 、 院 長 さ ん に な っ て も 診 て く」
れるからね
と は 、近 所 の 老 人 た ち の 今 井 評 で あ る 。 昨 年 、今 井 澄 氏 は 参 院 選こ
に「の
立へ候補した。
ん じ ゃ あ 何 党 支 持 の 人 だ ろ ぅ と 今 井 先 生 にと
」の
入 れ前
る評よ判通り、 長野でのトップ当

173
選だった。

并隆
-
-----------------------------------------------------------------------
I I

自虐的で孤独な女〃名美" の世界に浸る
関 心 の 方 向 が ビ タ致

I
石 井 隆 さ ん と は じ め て 会 っ た の は 、 一九七ニ年の暮れ近く、新 宿 昭 和 館 に 近 い喫 茶 店
っ た。
その数日前に石井さんから電話があった。未知の人だったので用件をたずねると、

「度、 ぼ く の 画 い た 絵 を 見 て く れ ま 」
せんか
と い ぅ こだと
つた。
そ の き
と 、 石井さんは、 堀切直人さんの友だちだと自己紹介した。 堀切さんは当時はま
だ 自 著 を も た な か っ た が 、映 画 や 文 学 に 関 す る 論 文 を い く つ も 発 表 し て い た 。"つげ義春

" 木清順論,など私の関心をひく評論もあり、 石井さんの電話をもらぅ一年以上も前
堀切さんとはお茶の水あたりで何度か顔を合わせていたのである。過去に私と堀切さん
の交流を知っていたために、 それほどの緊張もせずに連絡ができたのかもしれない。私
方も、 堀切さんの友人とのことで気持ちが楽になった。
それでも喫茶店に腰を下ろし、何から話はじめればょいのか迷った。 だが、 そんな心
はまたたく間に氷解した。 石井さんは、 つげ義春のマンガを語り、加藤泰の映画を語り
林静ーの絵本を語り、鈴木清順の映画を語り、 そして、片山健の絵本について語った。
か つ て 、七 〇 年 の は じ め に ポ ケ ッ ト
のマ
ー すネ
べ て を 注 ぎ 込 ん で 、幻 燈 社つ

『げで義

春 初 期 短I 、』林 静 一 の 紅『犯 花、』片 山 健 の 美『しい日々 、』加『 藤泰の世界 と
』数 冊 の 本
を 出 版 し た こ と が あ っ た 。 さ ら に 、 七 ニ 年 、 石 井 さ ん に 会 、っ 直 前 に 、 鈴 木 清 順 エ ッ セ ィ
花『地 獄 を
』出 し た ば か り だ っ た 。 そ こ で 、

「ま 話 さ れ た 人 た ち の 本 を 出 し た こ と が あ る
」ん で す
1 1 石 井 隆

と、 言 い かけ ると、 石井さんは、 待 つ て ま し たとば かりに 、


ぼ「く 、 そ の 本 全 部 も っ て い る ん で
」す !

175
と強調した。
そ 、っ な る と 話 は 早 い 。 も は や 、人旧とい
知つのた 感 じ で あ る 。 と こ ろ で 、 石 井
目さん の
的は、 つげ義春や加藤泰を語るためにやってきたわけではない。 盤ハ奮気味の会話が一
す る と石
、井 さ ん は 、 や お ら 七 、 八 〇 セ ン チ も あ ろ ぅ か と 思 わ れ る 横 長 の バ ッ グ か ら 数 十
枚 の 画 用 紙 を と り 出 し た 。 一枚一枚に描かれた絵は、 喫 茶 店 で 大 っ び ら に 広 げ ら れ な い
材ばかりだった。
暗く、哀しい光景ばかり
葦が繁る湖沼 にぅ つぶ せにな った半 裸の 女性 、激し い風が 吹きつけるビルの屋上にこ
がされた女性、手足を縛られたま ま月あかり の下に 横たわる女性、 それらが濃密なペン
で表されていた。 全裸 であったり、 半裸で あっ たりする彼女らは、 例外なく死者であ っ
そ れは、 印 象 風 に 記 せ ば 、 暗 く 、 哀 し い 光 景 ば か り だ っ た 。 で きれば、 目を そ むけ たく
る ょ 、っな1
足31であつた。
だが、私は、 石井さんの絵に思わずひきずり込 まれた 。 たしかに彼の表現力は第一級
は な い 。 す ぐ れ た 画 家 や 手 な れ た マ ン ガ 家 の 画 く ょ 、っ な 描 線 で は な い 。 未 熟 さ の 残 る 、
さの目につく画 像であつた。 にもかかわらず、 石井さんの絵 に
さはさ、

えあじた
らた か
れた。 それは、描かれた彼女らへの石井さん の想 いを物 語る のか もしれ ない。 男たちに
って凌辱されたに違いない女性への鎮魂歌を意味していたに違いないのだ。
石井さんは、 それら の絵を画集にまとめたい、 と意向をもらした。 私が、林静一さん
片山健さんの画集を出した経験を評価しての希望だったと思われた。
結局、 話し合 いを重ねるぅちに、 少部数ではあるが、 お互いの負担にならないかたち
出 版 に こ ぎ つ け る こ と が で き た 。童
死曰
『名所
場 は、
、石 井 さ ん の 処 女 出 版 で あ る 。三 〇 〇 部

限定出版であった本書は、現在では古本屋で数万円の高値がつけられているといぅこと
が、 い ま で も 昭 和 館 わ き の 喫 茶 店 の 前 を 通 る と き な ど 、 ペ ン 画 を 一 枚 ず つ 見 て い っ た と
の印象を鮮やかに思い起こす。
劇画表現に向けて鬼気迫る努力
隆 詳 ら か で は な い の だ が 、 石 井 さ死
ん『場
は所、を』出 す 前 後 か ら 風 俗 雑 誌 に 犯 罪 事 件 を 扱
井 っ た 劇 画 を 発 表 し て い た 。 が、 劇 画 特 有 の タ ッ チ に 慣 れ る た め に は 、 い ま 少 し の 時 間 が
石 要 だ っ た 。 その後、七 四 年 に 出 し た 蒼『い篇
短 馬誌 北(冬 童 晨に
』 )再録した 埋「葬 の 海 」7
1が 、 ヤ『ン グ コ ミ ッ 誌
ク』の 編 集 者 の 目 に と ま り 、 同 誌 へ の 登 場 が ひ と つ の き っ か け と な っ
て 、 石 井 さ ん は 表 舞 台 に 次 々と 作 品 を 発 表 し て い く こ と に な る 。
こ の 間 の 石 井 さ ん の マ劇
ン(画
ガ表) 現に向けての努力というか精進には、鬼 々I 迫 る も
の さ 感
え じさせた。 風俗雑誌に画いていた頃の作品とは雲泥の差があった。もちろん、
部に目を転じれば、 不満がないわけではなかったが、主人公である女性たちの姿体や、
のアップ、 目の 表 情 に は 、す で に 独 特 の 雰 囲 気 、 い わば 重 厚 な劇 性 が 漂い はじ め てい た
石 井作品は、例 外 な く 若 い 女性が主人公である。 彼 女たちの名は、名美 。 どんな筋立
ど、
で あ ろ う と ん な シ チ ユィエシ ョ ン で あ ろ う
名美と以
、外の主人公は登場しない。女子
高 生 、ラ ー メン 屋 の 出 前 持 ち 、 女 教 師 、 ス トーリ
、ッ主パ
婦、 探偵、すべて名美である。
い う ま で も な彼く女、た ち
の性 格 は 、 作 品 に よ っ て ま ち ま ち で あ る 。 し た が つ て 、 名 美 と
い、っ 特 定 の キ ャ ラ ク タ ー が 、 あ ら ゆ る 役 を 演 じ て い る の と は 違 、っ。 た ぶ ん 、 そ れ ぞ れ
美 が 一 堂 に 会 し た と す れ ば 、 そ こ に は 、 十 人 十 色 の 名 美 が 存 在 す る だ ろ 、っ。 と す れ ば 、
美は、女性一般の代名詞とみればいいのだろうか。
ど 、っ も そ 、っ で は な い よ う な 気 が す る 。 石 井 さ ん の 本 意 が ど こ に あ る の か は 知 ら な い が
どの名美も、なぜかいつも孤独だ。 彼女が、 レィプされたいまわしい過去を背負ってい
からだけではないような気がする。 たぶん、名美が孤独なのは、 過去のいきがかりに関
なく、寡貝そのものにも関係なく、対男性の関係においてなのだ。

ひたすら男の位相を暴く
男 た ち は 、 一 方 的 な 幻 想 を 名 美 に 押 し つ け よ 、っ と す る 。 一見、 や さ し そ う に 見 え る
いえども、 意 外 に 己 の 幻 想 か ら 自 由 で は な い 。 石 井 さ ん は 、 そ うし た 女 性 性 を 無 視 し
勝 手 な 男 性 と 名 美 と の 間 に 生 ま れ る 亀 裂 や 齟 酷 を 丁 寧 に 捉 え よ う死
と『場
す所る。
』そ れ は 、
で表そうとしたモチーフと同じものなのかもしれない。

「じ め な い で」「
お ん な の 顔」「
緋 の あ え ぎ」「
街 の 底 で 」「
真夜中のナイフ闇に抱か
」「
れ て 」「
淋 し い 女 た ち」「
堕ちてゆく と」、石 井 作 品 の タ イ ト ル を 並 べ て も あ ま り 意 味 は な い
が、 い ず れ の 場 合 に お い て も 、 名 美 は た い へ ん に 自 虐 的 で あ る 。
例えば 、ある作品の 名美 は、 レイプした男の目前で腹部に刃をあて自死する。 それは
隆 名美に傷をおわせた男に対する単
!純
^ 心
! な
か!らではなかった。名美 の自虐 は、 性差別に
井 対するひとつの決意であり、彼女の慎ましさの表れであった。男は、名美のその無限
石律性の前でほとん
こどと ば失
を、 か な い だ ろ 、っ。 男 性 作あ家る石
っ し で井 さ ん が な
、ぜ こ う 仍
1 まで男の位相を執糊
暴にこ うす
とる の か 、 深 い 理 由 を 知 ら な い 。 た だ 、 作 品 上 の 名 美 の い
石井隆「
水銀灯」 (
「名美リ夕一ンズ」 ワイズ出版)

180
ちずな行動を見渡しながら、作者の純朴さを思った。
へタウマ" 路 線 の流 行
"
ヤ『ン グ コ ミ ッ を
』は じ め 、
ク エ『ロ トピ ア 等
』に石 井作 品 が 掲 載 さ れ て い
七た四年 頃 か
ら 劇 画界は 、低 迷 状 態にあ った。 つげ義春さんは年間を通して一、 ニ作しか発表しなか
弟 の つ げ 忠 男 さ ん に い た っ て は も っ と 少 な か っ た 。 林1 静に
た し 、 一近さか
んっもた 。
か わ ぐ ち ,か い じ 、 鈴木翁一一、 安 部 慎 一 さ ん ら も 、 以 前 に 比 べ る と 少 し 疲 れ が み え て い
感じがあった。 その全体的な低迷は、時代の反映であったのかもしれない。
リ ア リ ス テ ィ ッ 画
ク 像
な を主体とする劇画が、もはや多くと
のら読え
者るを こ と難はし
か っ た 。ガ『ロ や
』そ の 他 の 若 者 た ち の 雑 誌 で は 、 ペ タ ウ ア 路 線 が 流 行 し て い た 。 ダ ラ ダ
線 と いっ
ラ し た 、か 、 フ ャ
ニ フ ニャ し た つ か み ど こ ろ の な い 線 で 描 か れ た 作 品 が モ ダ ン と 思

われた
。急浮上してきた階級 出の若者たちにとって、暗い画調をともなった劇画
"
井 は 、 嫌 悪 の 対 象 以 外 の な に も の で も な面

" 白
っ主た義
。々 が 、 文 化 全 般 を 脾 睨 し て い る 観
石 が な き に しあ
もら ず
であった。
1 名 美 は 、 そ 、っ い っ た 楽 天 的 で 面

" 白
気主な義 々 的 状 況 に 、 刃 を 突 き つ け ょ ぅ と し た の
だ と も い え る 。 す べ て の 現 象 を 面 白 が っ てまハわシる

ヤはギ勝 手 で あ る け れ ど も 、 名 美
の 存 在 を 忘 れ て は い ま せ ん か 、と 。私 は 、そ の 頃 、石 井 さ ん の 作

"況品へに
の逆ふ
:れ て 、
襲 , と 題 し て 短 い#文^書 い た こ と が あ る 。
デモの恐怖体験語る
1

2#
2

そんな時代のある夏の夜、石井さんと新宿の小田急デパートの屋上にあるビヤガーデ
に 足 を 運 ん だ 。 も と も と 私 は ア ル コ ー ル 類 は 受 け つ け な か っ た の で 、 オ レ ン ジ .ジ ユ ー
を注文し、 石井さんの大ジョッキと乾杯した。 目の前では、超満員の客を相手にストリ
プが演じられていた。
ところが、大音響と拍手喝采の興奮のあ
渦っのて中
、に石 井 さ んの 話 は ま っ た く 別 の と
こ ろ に 展 開 しい
てつ た 。石 井 さ ん は 、屋 上 の ま わ り張
にり め ぐ ら て
さいれるフェンスから
斜め下を指さして、
ぼ「く 、 あ の へ ん で つ か ま っ ち や っ た ん で」
すょね
と 、 突 然 き り 出 し た 。 一エ

「ッ、?な(ん の こ と ?と
)」聞 き 返 そ ぅ と し た の だ が 、 彼 の
さす方角をみて、意味を了解した。 そこは、新宿の大ガードのすぐ近くだったのだ。
そ れ 以則1に 何 度 か 顔 を 合 わ せ て い る と き 、 石 井 さ ん は 、
ど「う せ ぼ く は 前 科 者 で す か ら
」ね
と、 おどけたように言ったことがあった。性犯罪を題材とした作品を風俗雑誌に発表
て い る 頃 た っ た の で 、 そ ん な 言さい れ
方をる 婦
と ま る 女暴行犯"
" で のように聞こえない
でもなかったが、 いつも駄洒落をとばしているおだやかな性格からは、単なる冗談とし
思えなかった。
「^ の と きで すか ?
0

1
1


とたずねると、石井さんは、 ジョッキをロにもつていきながら、照れくさそうに、 い
ずらっぽく語った。
あ「の と き 新 宿 東 映 で 中 島 貞日夫『本の暗 殺 秘 録を
』見 た あ と 、 南 口 へ 向 か っ た ら す ご
い 1 隊 の 数 で ね 。 仕 方 な い か ら 西 口 の 方 へ ま わ っ た ら 攻 防 戦 の 最 中 で 、 いつの間にか
ぼくもデモ隊の中にいたわけです。 そうしたら大ガード付近で機動隊につかまって、
1 1 石井 隆

錠かけられて、 ジュラルミンの盾の前に僕を立たせるんですよ。 デモ隊の投げる石が


ぼ く を め か け るっ
ま る で よに、
飛んでくる。 隊員が後ろで叫んでま お『
し前たら。、俺

I幻
た ち が ど ん な に 怖 い か わ か っ た』
っかて
!。 で も 、 ぼ く に は ジ ュ ラ ル ミ ン の 盾 も な い 。
体は押さえられたま
だしま、手 も 動 か せ な い 。投 光 器 で 照 さたれ
デモ隊の中からまっく
^
ろ な 塊 が 飛 ん で く る ん で す 。 彼 ら は 玉 よ け と し て 遊 び 半 分 で ぼ く を 利 用Iし て い る だ
ん で す よ ね」
石井さんの
恐" 怖の体験
"を 聞 き な が ら 、 石 井 さ ん の 体 験 し た 日 か ら 一 一 週 間 ほ ど 前 の こ
とを想い出していた。

" 流エロ劇画"と対決
そ の 日 、 新 宿 駅1の 口 広 場 で はベ
" ト ナ ム 戦 争 反"対
の 1 が 開 か れ て い た 。 数万の
大学生と青年労働者が広場を埋めつくしていた。
そ の な か の 一 団 がジ
"、ェ ッ ト 燃 料 輸 送 実 力を
阻叫
" 止ん で 、 線 路 上 を 駅 構 内 深 く へ と 突
進 し た 。 そ れ を あ た か も 待 ち 、っ け て い た よ 、っ に 讓 隊 が 物 陰 か ら 現 れ デ モ 隊 を 制 圧 し た
なんとか広場にたどりついた私は一
1 一隊人員のに つ か ま り 、 連
^ 続
! 受
^ け た 。 眼鏡が
われ、 時 計 が 粉 々 に な り 、 靴 が ど こ か に と ん だ 。 ひ と し き り の 暴 行 が 終 わ る と 、 彼 らは
の獲物を求めて去った。 頭に 手をや るとべ タリと血がついたがたいした傷ではなさそぅ
った。
ヤレヤレ、 これで翌日に予定していたつげ義春さんと鈴杰心郎康さんとの対談も無事
実現できそぅだな、とョッコラショッと立ち上がりかけたところに、三四、五歳のサラ
丨マン風の三人がかけ寄って、再びコンクリートの上に転がされた。最初は私服かなと
つていたら、 彼 ら は 、
国「民 の 迷 惑 を な ん だ と 思 っ て い る ん
」だ !
と言って革靴でけり続けた。なかの一人は私の背広をひき裂いた。機動隊員の憎悪の
情 とく ら べ ると 、 サ ラ リ ー マ ン 諸 氏 の ニ ヤ つ きのな
暴が行ら
が、 かえって不気味に思えた。
石井さんは運悪く逮捕されてしまったが、似た

" ょ
怖、の
っ体な験 々 を も っ た た め に 、
石井作品に
ひ と一 倍 の 想 い 入 れ が 働 か な か っ た と は 言 い 切 れ な い 。 と い っ て も 、 表 現 の 完
成 度 と い ぅ 面 かみら
る と 、私 の 評 価 は 辛 か っ た 。 そ の へ ん は 、 石 井 さ ん も 不他
満「ら し く 、
の 作 家 に は 甘 い の に 、 な ぜ 、 ぼ く だ け 点 が き つ いと
」のもからなしあた こ と も 、 一 度 や ニ
隆度ではなかった。
井 し か し 、七 〇 ま 後 半 期 の 石 井 さ ん は き わ め て 順 調 だ っ た 。 心 な い 評 論 家 や 編 集 者 は 、
石 石 井 さ ん に "三 流 エ ロ 劇"画
の家レッテルを貼って、 からかい半分で遊んでい
、 たの
5 だが
1 名美のまなざしは、そ
三" の
流 エ ロ 劇 画 々 の 概 念 や 本 質 と 対 決 し た 。 "三 流 エ ロ 劇 画 ム ー ブ
メ ン ト"な ど と ハ シ ャ い だ 若 い 評 論 家 た ち は 、 そ の こ と で 名 美 の 実 存 に 想 い を 馳 せ る こ と
は露ほどもなかった。
外国で認められた石井監督作品
や が て 、 石 井 さ ん の 作 品 は 、 日 活 ポ ル ノ でー
"名ズ美
"シとリし
映画て 化 された 。 石井
さ ん も 脚 本 家 と し て 活 躍 す る よ う に な っ た 。 そ の 結 果 と し て 、 八 八 年 に 最 後 の "日 活 ポ
ノ "で 赤 い 眩 暈 を
「 」初 監 督 し た 。 原.脚
作 本 .監 督 、 石 井 隆 と い う わ け で ぁ る 。 早 稲 田
大、
— &
-映
に画 研 究 会 に 属 し て い た 石 井 さ ん に す れ ば 、 念 願 が か な っ た と い う こ と に な
ろう。
そして、映 画 赤「い 眩 暈は」、 水" を得た魚 "の ご と く 、 自 在 な 映 像 の 働 き を 開 示 し て い
た。 や は り 石 井 さ ん は 、 劇 画 家 で ぁ る 以 前 に 映 画 作 家 な の だ と 、 そ の とき 思 っ た 。 試 写
見終わって、石井さんに電話を入れた。
こ「れ か ら は 、 映 画 監 督 と し て や っ て い っ た 方 が い い で す よ 。 劇 画 よ り 完 成 度 が 高 い と
思います 」
と言つたところ、石井さんは、
劇「画 か い て ほ め ら れ た こ と っ て 一 度 も な い で す よ ね 。 い く ら 映 画 を ほ め て く れ て も 、
映 画 で は く っ て い け な い ん で す か」ら ね
と 苦 笑ま じ り 表
の 情 が 伝 わ っ てるくよ な
う 話 し 方 だ っ たじ。っ
さ い 、赤「い 眩 暈は
」、 1
部の映画評論家に認められただけだった。石井さんは、再びマンガ雑誌で新作を手がけ
ぃった。
そ し て 一
、 九 九 ニ 年 、 大 竹 し の ぶ 主死演
「んでで も い いを」監 督 し 、 耳 目 を あ つ め た 。
大 竹 し の ぶ が 人 ^名
妻美 を 演 じ た の で あ る 。 石 井 作 品 と い う こ と で 色 メ ガ ネ を は ず せ ず に
躊 躇 し てい る我 がマ ス コ ミ.ジ ャ ー ナリ ズ ム尻
を目 に 、 当 の 映 画 は 、 ギ リ.シ
テ ャ
ッ サ ロ
一キ国 際 映 画 祭 最 優 秀 監 督 賞 を 受 ィ
一 賞しタ、 ジョバン
リ ア. 一国一際 映 画 祭 審 査特員別賞 準(
グ ラ ン プ リを
) 受賞してしまった。
石井さん曰く、
隆 日「本 じ や 、 結 局 、 ぼ く な 三
ん流
" てエ ロ 劇 画 家 々 ど ま り な ん で す よ 。 外 国 じ や あ ぼ く
井 のレッテルの方は知らないものだから、 一本の映画作品として見てしまったのかもし
な い で す よ ね」
1 たいして嬉しそうでもなく、淡々とした口調だった。
露 修
1 :: ^
I 不遇にして創作欲旺盛な天才肌の少年
ずば抜けているデッサン
国 道 一 一 四 六 号 線 に 面 し た 北 冬1書 房
の編入り口にまっくろいコートをはおった紅顔の
青 年 が 佇 ん で い た の は 、 一九七三年の二月、 北 風 が ガ ラ ス 戸 を た た い て い た 季 節 だ っ た 。
青年といぅ ょり 、 いまだ少年の匂いを残していた彼は、 ガラス戸を 一〇 センチほど明け
る と 、
入「っ て も い い で す か」

と、少し不安げに こと ばを 発し た。 即刻招き入れると、 彼は事務机の 上に、 ドサリと大
きな布製のバツ グを 置い た。 そして、

「て も ら え ま す か
」?
と言って、 バッグの中からマンガの原稿をとりだした。 そこには、 短篇が六、 七篇つ
れた。
私は、上から順番に読み出した。童画風のタッチの作品、粟津潔のデザィン風の作品
鈴木翁一一風等々、 ど の 作 品 も 画 像 を 異 に し て い た 。 だ が 、 画 力 の き わ だ っ て い る こ と は
目 で 理 解 さ れ た 。 デ ッ サ ン 力 が ず ば 抜 け て い る 、 と導いっう。

のっとと
は本 質 な
と こ ろ
の、 表 現 者 と し て の 寡 貝 を す で に 開 示 し て い る よ う に み え た 。 し た が っ て 、 誰 々 風 、 何
風 と い っ た 画 像 は 、 ほ と ん ど 問 題 に な ら な か っ た 。 つまり、 繊 細 で 、 銳 角 的 な ペ ン の タ
チが、 独自の世界を模索しているように受けとれたのである。
ォ「ッ 、 こ れ は な か な か の 天 才 肌 で す
」ね !
と、 下を向いたまま黙って立っている青年に声をかけたのも、 ただの冗談やユーモア
つもりではなかった。小さなひとコマひとコマに描かれた
^ -画 像- は
- - -リ
-、
-ースを 説 明 す る
-
1 2 菅 野 修

た め の 流 れ の 中 の コ マ 絵 で あ る よ り も 、 独 立 し画
たに
ー タ近
ブかロっ た 。 そ れ ら の 画 像 は 、
多く風景画であったが、そのひとつひとつが深々とした作者の心象を伝えるようでもあ

189
た。 その心象とは、
^ 咸
^な とい っ て も い い 、 暗 い 、 悲 哀 の 感 情 を 意
い味るしいて
と える
だ ろ 、っ。 私 は 、 そ の と き 、 関 根 正 一 一 や 村 山 槐 多 、 そ し て 田 中 恭 吉 ら 夭 折 し た 画 家 に 共
る詩精神と同質のものをコマ絵の中にのぞき見ていた。
劇「画 以 上 の 表 現 形 態 は な
」い
少し緊張感のほどけた菅野修さんは、

「『ロ 』
に も っ て い っ た の で す け夜
ど『行
、向』 き だ と い わ れ た の……」

と言った。疼打 は
『 』一 年 に一冊出るだけだけれどもと説明すると、菅 野 さ ん は 、
全「
部おいてき いま す」
と こ た え た 。 そあのとも 、 私 が天「才 ! 、 天 才 !

」連 発 す る も の だ か ら 、 菅 野 さ ん は 、
画きかけのもあるんです
「 」
と 、 タィトルだけを画きこん^ だ
や一
! 、 ニ、 三 ぺ ー ジ 画ま
いたま な
に っている作品など
一〇 篇 近 く を 先 の 作 品 の 上 に 重 ね た 。
このとき、菅野さんは、まだ一八歳だった。 タブロー画家かデザィナーを志して盛
ら 上 京 し て 半 年 ぐ ら い だ っ た の だ ろ 、っ。 デ ザ ィ ン 学 校 に 通 っ て 絵 の 勉 強 を し て い た ら
ガ『ロ を
が、 偶 然 、 街 で 』み つ け た ら し い 。 鈴 木 翁 一 一 や 安 部 慎 一 作 品 に は じ め て 触 れ て 大
き な シ ョ ッ ク を 受 け た よ う だ 。 さガ『
らロ に』
のバックナンバーをさがし、 つげ義春や林
静ーの作品群を読むにいたって、画家やィラストレーターになることを放棄した。菅野
ん の 言 に よ れ ば劇
、「画 以 上 の 表 現 形 態 は なと
」いそ の と き に 確 信 し た の だ と い 、っ。
初めの出会いから一か月半ほどして、菅野さんは新作をもって現れた。預かっている作
品 の ど れ も が す ぐ れ て い る の だ か ら 、 あ わ て て 新 作 を か か な く て も い い と 言 、っ と 、

「番 新 し い 作 品夜
を『行 』
に載せて下さい。 いま画いている作品が、 いまの自分なの
ですから 」
と応じた。
菅野さんの創
^思:欲 は 、 相 当 な も の だ っ た 。 も う じ っ と し て お れ な い 、 と い う の が 本 当
のところだろう。 頭脳は、全面展開状態にあったのかもしれない。 それは、 明らかに、
げ 義 春 や 林 静 一 、 鈴 木 翁 一 一 作 品 を 射 程 距 離 に お い一
"た一結年果
遅だれ。
,の 菅 野 さ ん に と っ
て 、 一 日 も 早 く 、 ニ 年 を 埋 め な け れ ば な ら な か っ た の だ ろ 、っ。 間 も な く し て 、 菅 野 さ ん
1 2 菅 野 修

一か月に四篇も完成させた。もちろん、 細部をみわたせば、劇画の完成度は不足してい
画 調 は 従 来 通 り の 見 事 な栄出え半
を示 し て い て も 、 コ マ 運 び は 乱 雑 だ っ た 。 次 々 と 浮 か ん
で くる 全ジ
ィ メー ジ を ぺ ー 体につなぎとめるだけ で精いっぱいだ
読 っ
者たへ。

の慮 、 あ
るいは、作 品のも つ 論 理 性 や 説 得 力 は 、 二の次 であったといっていい。
に も か か わ ら菅ず野、作 品 は 、 独 特 の 統 一 性 を 保 っ て い た 。 そ れ は 、 菅 野 さ ん が 、 文 学
性 を 強 く そ な え た 人 だかっら
た違に い な い 。 そか
のぎ りお
にい て は 、 つげ義春さんに似て
いる。 た だ 、 つ げ 作 品 は き わ め て 散 文 的 で あ っ た が ニ 官

" 野
的作ィ品
メはジ
ー、"を 重 要
視していた。
劇画を認めぬ世間を憤る
一九七ニ年から三年にかけて、 菅野 さんは武 蔵野の 片隅よ り 数 多 く の 手 紙 を 寄 せ た 。
丨モアに富んだ楽しい内容が大半であったが、ところどころに、焦燥感や孤立感の深さ
感じられた。ある日の夜半、突然のよぅに菅野さんが訪ねてきた。わずかに酔っている
ぅ で あ っ た が 、 畳 の上に 座ると 、太 宰 や 安 吾 の こ と 、 梶井基 次郎や 宮 沢 賢 治 の こ と 、 つ
義春や林静ーのことなど、とりとめもなく語りつづけた。劇画は、表現行為として絵画
文 学 や 音 楽 の よ 、っ に も っ と 認 め ら れ て い い の で は な い か 、 と 不 満 を も ら し た 。
み「ん な 劇 画 を 馬 鹿 に し て い る ん じ ゃ な い で
」す か ね
と憤適やる方ないといった調子だった。 語り終わると、麻袋の中から荒縄をとり出し
こ「れ は す ぐ そ こ の 道 端 に 落 ち て い た ん で す が 、 実 は マ リ フ ァ ナ で は な い で す か ね 。
ったいないから一一人ですいま
」す か
とまで言ったのには驚いてしまった。 しかし、 どうみても荒縄以外にはみえない。
そ「、っ か な あ 、 誰 か が や ば い と 思 っ て 捨 て て い っ た ん じ ゃ な
」い で す か ?
と、 真 剣 な 顔 つ き に な っ て 言 っ た 。 やは り、 天 才 と い う の は 我 々 凡 人 と は 、 いうこと
す こ と が 違 、っ な あ 、 と そ の と き 思 っ た 。
七三年の暮れ、菅野さんの実父が急死された。菅
1 野
、さ盛ん
岡はへ 帰 っ た が 、 その
後 上 ^ ^る こ と は な か っ た 。 だ か ら と い っ
^思て欲創が:衰 え る こ と は 少 し も な か っ た 。 長
い手紙もこれまで以上のぺースで寄せられた。 手紙には、身辺雑記からはじまって、新
のタィトルと若干の内容、 そして、文学論から芸術論が綴られていた。 ときに、 心象風
を刻んだ詩がそえられていたこともあった。
修 逃れられない自己破壊の衝動

菅 そ れ ら の 劇 画 や 詩 や 手 紙 を ふ く め た 菅 野 作 品 の 全 体 を み わ た し な が ら 、小出植重や藤
1 嗣治や竹久夢一一らの画家たちのことを連想した。 彼 ら も ま た 、絵 画 だけ に 表 現 行 為 を 終
ら せ は し な か つ た 。 エツセィを童曰いたり、 詩 作 を し た り 、 オ モ チ ヤ づ く り に 専 今 心 し た
趣 味 的 と も 思 え る 創 作 行 為 を 連 続 さ せ た 。^多
思分欲、
の創旺:
盛な作家は、 ひ と つ の も の り
にとどまる
こ と 嫌
を、っのかもしれない。菅 野 さ ん の 乱 反 射 を 繰 り 返 し な が ら の 表 現 行 為 も
そぅした画家の気質に相通ずるところがあった。
ところが、菅野さんからの便りや作品が、自凝に減少していった。作品の内容が以前
も増して難解になった。 タッチの繊細さや銳さに後退はみられなかったが、各コマの画
全 体 を 堪 能 す る 余 裕 は 失 わ れ て い た 。 あ ら ゆ る 画.風 が
し一、作 に
品に分裂を招いた。
自 己 と の 葛 藤 が 全 体 を 支 配 し て い た 。 いわば、 ス ト レ ー ト な 心 象 暴 露 で あ っ て 、 作 品 と
て の 完成度は 欠如して いた。 この間、菅 野 さ ん は 、作 家 に 特 徴 的 な 自 己 破 壊 の 衝 動 か ら
れられなかったのかもしれない。
完成度高い作品次々と
しかし、菅野さんは、 七 〇 冑 の 終 わ り か ら 八 〇 ま の は じ め に か け て 、再び精力的に
ガる
作 品 を 発 表 す る よ 、っ に な ロ。に
『 』は 毎 月 の よ ぅ に夜、
『行に
』は 同 時 に 何 作 も 発 表 さ れ
た。 そこには、 以前とは大きく異なり、統一感のある、完成度の高い作風が示された。
内容的にも、悲哀の感情だけに依拠することなく、 ユーモアやナンセンス、 ギャグま
が と り 入 れ ら れ 、 そ れ ら は 従4官来野の
芸術" にみ が きをか けた とい っても 過言で はな い
ほどだった。
天「狗 に な っ た 少 年
笛「 」「
」 鬼 」「
魚の顔 」
剣「 」
ロ「ー ヵ ル 線 の 午 後
牛「の い る 風 景」
」 中「
華包丁を持ち歩く男
三 国 峰 」「
」「 ブ ラ ン コ 」「
黒 猫 」「
郵 便 ポ ス ト 生 活等
者」、 タ ィ ト ル を ぁ
げていったらきりがないが、 この時期、菅野さんは、想像力を無限なまでにはばたかせ
つげ義春さんや林静一さんが拓り開いた劇画表現の頂点にまで到達した感がなきにしも
ら ず だ っ た 。 押 し も 押 さ れ も せ ぬ 作 家 と し て 存 在 し た と い っ て も い い だ ろ 、っ。
だ が 、そ れ も 、結 局 は 一 部 の 評 価 に す ぎ な か
^ っ
^のた梶。井
評純 や 山 根 貞 男
跋『、
折羅 』
同人の宫岡達一一や伊藤重夫さんらと雑談しているときなど、菅 野 修 作 品 が い ま 一 番 銳 い
を放っていると話題になったりはしたけれども、 へタウマ大流行の陰にかくれて菅野評
修 はまったく表に出ることはなかった。 つげ義春さんや三橋こ揶さんも菅野作品から目を
野 す こ と は な か っ た の だ が 、 そぅした動きが読者に伝わることはなかった。

遅れて来た青年に
… …

1^0
それは、菅野さんにとってというか、菅野作品にとってというか、 不幸な状況だった
思 、っ。 つ げ さ ん や 、 林 さ ん 、 忠 男 さガ『

ロらや』が 夜『行 に』続けざまに名作、― を
発 表 し て い た 七 〇年 前 後 に 菅 野 作 品 が 現 れ た な ら ば 、 同 じ よ う に 忘 れ ら れ な い ほ ど の 衝
を読者に与えたはずなのだ。
し か し七
、〇 ま 後 半 期 に 入 っ て 、菅野作品を
よ理う解とし
るす読 者 は ほ ん の ひ と に ぎ
りであった。冬『哭 』『ローヵル線の午後 娼 婦 』『
』『 象 を 見 た 男』『
犬 泥 棒 の 夜と』、 今 日 ま
での一〇年 の あ い だ に 五 冊 の 作 品 集 が 刊 行 さ れ て い る け れ ど も 、 いず れも 多く の読者 を
得するにはいたらない。
菅野さん自身も、 ときおり想像以上の絶望感を味わったようだ。 八 〇 ま に 入 っ て 、
い 読 者 は ま す ま す 硬 質 な 作 品 を 好 ま な く な っ て い た か ら だ 。 菅 野 さ ん の 作 品 に 、 ユーモ
やギャグやナンセンスが加味されても、 その本質は、文学的であり、表現主義的であっ
菅野作品には、 しばしば太宰治の姿が登場した。 それは、 ほとんどギャグの要素として
め ら れ て い た の だ が 、 太 宰 が オ ー バ ー に 嘆 き 悲 し む ほ ど に 、 "暗 い 作 品 々 と 受 け と ら れ て
1 2 菅野修

、わたし
悪い人ぐらいなら

目が見えないけど
わかるわ

いい人か

卜アび
4 ;
' パ".'1山く,僧々11
ノい/ ' “ 1"‘ リ: … 1 ^ 1| 1 ||^ |11
く1\ノ!1 ハ1 、い , . 、、
ふ" '、
〉I I、1い.' 1.'

菅野修「
銀河物語」 ( 犬泥棒の夜」 1990 ,4 〕
作品集「

!9 7
まったのであった。

1^8
そ れ で も 実 験 作 ^冒 険 作 に 意 欲
ガ『
菅野作品が掲載され ロ 』
る の 投書 欄に作 品を支持する声は皆無だった。盛岡からと
どく電話に向かって、
い「つ の 時 代 で も 、 本 質 的 に す ぐ れ た 作 品 と い 、っ も の は 、 時 代 風 潮 の な か で 見 向 き も
れ な い こ と に き ま っ て い る の た か ら 何 も 心 配 す る こ」と は な い
と 励 ま し た が 、 本 人 に と っ て 少 し も 心 の な ぐ さ め に は な ら な か っ た と 思 、っ。 菅 野 作 品
は、確実に 千人の 読者に は 伝 わ っ た の だ か ら 、 こ の時代 においては満足すべき結果だと
、っ、 と い つ て も 、
え「え 、 そ ぅ で す ょ ね

と力 のない 声がかえ ってき た。 つげさ 沼「んやが、
」 チ「ー コ や」 初「茸 が り を」発 表 し
た六六年、 通「夜 や
」 海「辺 の 叙 景を
」発 表 し た 六 七 年 頃 も 、 つ げ フ ア ン は ま だ ほ ん の ひ と
にぎりだったのだし、やはり時間をかけないと個性の強い作品は現解されないのじゃな
か 、と い ぅ と菅、野 さ ん は 、
み「ん な マ ン ガ を ま じ め に 読 も 、っ と し て な い ん じ や なジ『
いャでンすプか
や』。マ
『ガ ジ
ン に』載っているものだけがマンガと思っているんじやな 」い で す か
と 、 い く ぶ ん 憤 っ た ょ 、っ に 眩 い た 。
それ でも菅野 さんは 挫けなか った。 八〇年 か ら 九 〇年 に か け て 、作品 が や や 減 少 し た
実 験 作 、 冒 険 作 の 発 表 に も 意 欲 を み せ た 。 いわば、 そ れ は 開 き 直 り に も 似 た 態 度 で あ っ
わかる人だけがわかってくれるだけでいい、
マ現
" ン今
ガ状の況 " に 迎 合 す る の を 拒 否 す
る意思表示ともとれた。
だ か ら と い っ て 、 完 成目
度ざを
す 作 品 を な い が し ろ にこすとも
るな か っ た 。 分 裂 し た 姿
勢は菅野さんの生来の持ち味といってもいいのだけれども、俳句や短歌にみられるきわ
て日本的な詠嘆の深い作品を試みる一方で、怪作、奇作といってもいいシユールレアリ
ム傾向の作品をも目ざした。 私見では、 この二十余年の劇画の歴史のなかで、劇画表現
修向かって一番の苦労を強いられたのが菅野さんなのだと思ぅ。菅野さんの全作品を読み
野 し て み る と 、そ の 苦 闘 の
さ ま があ り あ り と 浮 か ぶ ょ ぅ だ 。
死「ん で か ら で は 浮 か ば れ な
」い
も 、っ 一 〇 年 以 上 も 前 の こ と で あ っ た ろ う か 。 つ げ 義 春 さ ん の 住 ま い で 梶 井 純 を 交 え て
談したことがあった。 つげさんが、
な「ぜ 忠 男 の 作 品 は 、 一 般 的 な 評 価 が 低 い ん で
」す か ね
と も ら し た 。
すると梶井は、
やはり忠男さんの作品というのは、 理解しにくいですからね。本質的にすぐれている

作 品 と い 、っ の は 、 作 者 が 死 ん で か ら 、 ょ り 評 価 が 高 ま る ん じ ゃ な」
いでしょうか
と 述 べ る と 、 つげさんは、
死「ん で か ら じ ゃ 本 人 は 浮 か ば れ な」い ね
と 嘆 い た 。 そ う い 、っ 意 味 で は 、 菅 野 さ ん の 作 品 も 忠 男 さ ん の 作 品 と 同 じ 境 遇 に お か れ
いるのかもしれない。 これでは、菅野さんでなくてもやりきれない思いである。
滕重夫


II

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
シ ヤ ー プ で な お 軟 ら か 、洗 練 さ れ た 都 会 風 の 画 像
ガ『ロ 系
』マ ン ガ 同 人 誌
跋『折 羅 と
』 書 く 不 思 議 な 誌 名 の マ ン ガ 同 人 誌 が あ っ た 。 バ サ ラ と 読 む の だ が 、 一見 し
て 、 マ ン ガ 家 予 備 軍 た ち の 同 人 誌 で な い こ と が わ か る 。 た し か に 、 一五〇 ぺ ー ジ の ぅ ち
七、 八 割 を マ ン ガ 作 品 が 占 め て い る の で あ る が 、 残 り の ぺ ー ジ に は ギ ッ シ リ と 文 章 が 詰
込まれていた。
1 3 伊藤重夫

そ の 評 論 を 中 心 と し た 文 章 群 が 、 こ れ 以 上 硬 い も の は な い と い 、っ 傾 向 を 、っ か が わ せ る
各 文 章 の レ ィ ア ウ ト や 見 出 し も じ つ に 凝 つ て お り 、 漫 然 と マ ン ガ 作 品 を 並 べIる だ け の マ ニ
アたちの同人誌から大きく離い
反たし。て
そ れ は 、大 雑 把 に く く っ て
ましえば、 ガ『ロ 系

同人誌を意味していた。
七 〇 砠 の 中 頃 で あ っ た ろ 、跋
っ『
か折。
羅同』人 の 三 宅 政 吉 さ ん か ら 石 子 順 造 さ ん を 囲 ん
での雑談会を開きたいので出席して欲しいと連絡があった。結局、代々木八幡での雑談会
の 当 日 、 石 子 さ ん は 都 合 で 現 れ な か っ た の だ跋
が『折
、羅同同
じ人 の 三 宅 政 吉 さ ん や 宮

岡蓮一一さん、 伊 藤 重 夫 さ ん ら と 対 面 し た 。 伊 藤 さ ん と は も ぅ 少 し 前 か ら 面 識 が あ っ た が 、
彼 ら 三 人 は 、 当 時 、 ニ 三 、 四 歳 で は な か っ た か と 思 、っ。
跋『
折羅 同
』人 の 若 者 は 、 と き に ア ル コ ー ル 類 を 口 に す る こ と も あ る に は あ っ た が 、 あ
ま り 生
に 真 面 目 で あ っ た 。 声し
高やにる
べ ことはなく、常にポソポソ
っ感とじ
いで、あ っ て 、
ま わ り かみら
れば、 な ん と も 暗 い 若 者 だ な あ 、 と 映 っ た に ち が い な い 。
彼 ら に と っ て はド、ス ト エ フ スと
ーキ、 埴 谷 雄 高 と 、 高 橋 和 巳 の 存 在 が す
あ べ
るてよで
ぅ だ っ た 。 いや、 真 実 は 、 そ ん な こ と は な く 、 読 書 家 で あ
3?るか彼
らら動は
植、物に関
する 童 !
^ま で ^ ^ く 向けてはいたが、
目 を
あ「
のスタブローギンのことばのなか
」に ね
とか、
こ「ん ど 新 し く 書 か れ
死『た
霊 』
の 第 五 章 の こ と だ け ど」

とか、

「『宗門 』
の教団主の存在というの
」は
ということばに接すると、 彼らの熱病が何に原因しているのか即座に判断できた。伊藤
重 夫 さ ん だ っ た と 思 、っが、

「度 で い い か ら ソ ー ニ ャ に 会 い た か
」っ た
と言われたときには、もう開いたロが塞がらなかった。
跋『
折 羅の
』内 容 も 、 彼 ら の 姿 を そ の ま ま 投 影 し て い た 。 ど の 作 品 を と死り
〈だ〉し て も 、
の観念から自由ではなかった。
つ ま り 、死〈 が
〉唯 一 の テ ー マ で あ っ た 。死
そ〈の

〉、 彼 ら に と っ て も っ と も 身 近 か な
問題であったのかもしれない。伊藤重夫や片桐慎ニが追求したのは自殺であったし、 朋
ニが触れなんとしたのは、内ゲバ死であった。 そのことは、当時の彼らの置かれた状況
の も の を 物 語 っ て い た の だ ろ う 。 いわば、 彼 ら は 、 劇 画 表 現 に ょ っ て 、 自 ら の 哲 学 的 諸
1 3 伊藤重夫

題を突破しょうとしていたの
跋『だ
折。羅が
』、 凡 百 の マ ン ガ の 同 人 誌 と へ だ た っ て い た の
は、 そ ん な と こ ろ に 理 由 は 求 め ら れ る 。
暗「け れ ば な べ よてし ! 」
私 も 跋折羅 誌上に短い文章を綴るなどして、同人たちと親しくなった頃、
『 』
へ「タ ウ マ 路 線 の は や っ て い る い
跋『ま
折、羅の
』よ 、っ な 暗 い 雑 誌 は 見 向 き も さ れ な い だ
ろぅね 」
と チ ヤ チ ヤ を 入 れ る と 、 宮岡蓮一一は、
暗「け れ な
ばべ てよ し ! さ
暗 にこ そ
価 値 があ る ど
。 ん な 時 代 に な ろ ぅ と 、 その時代の
な か で も っ と暗もく表 現 さ れ た も の が 真 実番に近
一く 現
、実 の 深 い こ
とろ と
を らえきっ
ているはずなのだ 」
と い 、っ 意 味 の こ と を 主 張 し た 。 そ れ は 、 マ ン ガ 表 現 に つ い て の 話 題 の と き で あ っ た 。
げ義 春、 つげ忠男、 菅 野 修 等 の 作 品 を め ぐ っ て だ っ た と 記 憶 す る が 、 私 自 身 は 、 その と
そ「れ は あ ま り に#性^ぎ る 結 論 で あ る 。 理 論 家 .宮 岡 蓮 一 一 の 意 見 と し て は あ ま り 科 学
的ではないなあ 」
と 批 判 を 加 え た の で あ る け れ ど も 、 あ と に な っ て跋
反『折
省羅しの

』テ。ー ゼ と い っ て
も い い 、暗「
け れ ば な べ て よはし
」、 ま さ に 意 識 の は び こと
^ ^ る
" らえどころのない現 " 代
において真理を衝いているのではないか、 と考え直したからだ。
彼 ら が全 " 共闘々の最後の世代であったこ 死と
〈はの
〉、観念に強く支配されていたとい
う こ と で も 充 分 に 理 解 さ れ る だ ろ う 。 彼 らは 、 七 〇年 が す ぎ 、 八〇年 が す ぎ 、 九 〇 ま に
はいつても、 その頑なさを棄てょうとはしない。 といつて、 彼らが毎日を深刻にすごして
い る の か と い う と 、 そ 、っ で は な い 。 彼 ら は 、 生 真 面 目 さ と 同 時 に 質 の 高 い ユ ー モ ア を 堅
している。
彼 ら と 話 し て い て 楽 し い の は 、 つ げ 義ニ「
品岐渓
の谷 や
」 長「八 の 宿 に
」みられる
純 度 の 高 い ユモ
ー ア と ま つ た く 同 じ 性 向 を も つこてとい
だ。る そ の ユ ー モアとは、 屁理屈
をつければ、 凡々とした日常の暮らしそのもののなかに存在するものだ。
彼らのひとり伊藤重夫さんと知りあったのは、 七四年くらいだった。 彼は、当時、北冬
書房に近い富ヶ谷のデザィン会社に勤めるデザィナーだった。佐々木マキさんと同じ美
高校出身の伊藤さんは、神戸生まれの神戸育ちであったが転勤で上京したばかりであっ
1 3 伊藤重夫

勤 務 先 が 近 か っ た た め に 次 第 に 往 来 が 激 し く な っ た夜
。『行やに
』も
が て作
、品 を 発 表 す る
ょうになる。
生 硬 さ が う す完
れ「成 に
」迫 る

200
伊 藤 さ ん の 初 期 作 品 は 、 生 硬 な と い 、っ 感 触 が 大1で の
あなっい
た、。洗 練 さ れ た 都 会
風の画像が、 いかにも神戸育ちという経歴を納得させるに充分であったが、 それでも、プ
ロのマンガ家の描線と比べるならば、 そこには雲泥の差が感じら れる ほどだ った。
だ が 、疼『
打に』発 表 す る ょ 、っ に な っ て か ら 、 描 線 の 硬 さ が 、っ す れ て プ

ーでった。 シャ
やわ らかな曲線が多 く用いられるょうになった。 それは、 たとえば、都会の風景や女性像
を 定 着 さ せ る と き に み ご と な 形 象 化 を は た し た と い え る だ ろ 、っ。
七 〇 ま 後 半 、 伊 藤 さ ん と 私 は 、 下 北 沢 の 町 を と き ど き 歩 い た 。 いまほど、 若者でごっ
た返す様相を圼してはいなかった。あちこちに、五 〇 ま の 雰 囲 気 が ま だ 漂 っ て い た 。私
は、 中 学 や 高 校 の 頃 に 、 駅 前 の グ リ ー ン 座 に 洋 画 の 二 本 立 て を 見 に 来 て い た の で 、 伊藤さ
んと、 下北沢の路地や坂 道を 歩くた びに、懐かしい感 傷に おそ われて なら なか った。
駅 の 裏 手 の 坂 道 の 途 中 に あ る マ サ コ と い う 喫 茶 店 で 、 一一一時間も四時間も劇画論を展開し
た。 # 品、 各 作 家 を め ぐ っ て 討 論 し た の は 、作 家 で は 伊 藤 さ ん と 一 番 多 く の 時 間 を 費 や
し た の で は な い か と 思 、っ。
白 土 三 平 、 つげ義春、 つげ忠男、 水 木 し げ る 、 滝 田 ゆ う 、楠 勝 平 、 林 静 一 、 佐 々 木 マ
鈴木翁一一、 安 部 慎 一 、 菅 野 修 の 作 品 に 対 し て お 互 い の 批 評 を ぶ つ け て い っ た 。 そ れ は ま
で、 石 子 さ ん が 元 気 な 漫
頃『画
の主 義 』
の討論会の趣さえうかがわせた。 あるとき、宮岡
蓮一一に会ったとき、
伊「
藤 君 は 裏 切 者 で す よ ね 。 いまじゃ、 跋 折 羅 派 か ら 疼 仃 派 に 寝 返 っ た
」わ け で す か ら
と 、 ニ ヤ ニ ヤ し て い た が 、多 少 の 嫉 妬 心 は あ っ た か も し れ な い 跋
。『と
折い羅う』よ り 、
と 夜『行 は』 、 あ る 意 味 で 、 同 一 方 向 性 を 内 包 し て い た と い え る だ ろ 、っ。
っげ忠男作品が精神的支柱に
た だ 、跋『 折 羅の』メ ン バ ー に と っ て は 、 鈴 木 翁 ニ や 安 部 慎 一 さ ん の 作 品 が も っ と も 身 近
か に 映 っ て い た よ う だ 。 そ れ は 、 彼 ら の 年 齢 と 関 わ っ て い る の か も し れ な い 。 つまり、
ら が ガ『ロ を』読 み 出 し た と き 、 す で に つ げ 義 春 さ ん や 林 静 一 さ ん は 創 作 を 中 断 し て い た
1 3 伊藤重夫

い っ て み れ ば 、 つ げ 作#品^や
品: の評価とはべつに、遠い存在に映ったろ、 っ。 ま さ に 、 同
世 代 感 覚 と い 、っ 点 に お い て 、 翁 一 一 作 品 や 安 部 作 品 に 親 近 感 を お ぼ え た に 違 い な い 。 と こ

207
が、 つ げ 忠 男 作 品 だ け は 別 格 だ っ た よ う だ 。
彼 ら は 、 七 〇 ま 末 に つ げ 忠 男 さ長!
ん!の

^: ど「ぶ 街 と
」 無「類 の 街 を
」自 費 出 版 し

208
たのである。 それは、 つげ忠男作品こそが、跋折羅グループの精神的支柱であったことを
示 す だ ろ 、っ。 さ ら に 、 宫岡蓮一 跋一折
『は羅、 と 夜 行 に 、 長 文 の"つ げ 忠 男 論 " を 書 き
』 『 』
ついだ。 そ れ こ そ 、暗「け れ ばな べ て よ しと
」 い う跋『折 羅 の
』 テー ゼ を守 り き ろ う とるす
結果にほかならなかった。

" 蠻なる党派
"を 連 想 さ せ ず に は お か な い 、 サ ン グ ラ ス を か け た 、 、っつ向きかげんの
宫 岡 蓮 ニ の 姿 態 と は 対 照 的 に 、 伊 藤 重 夫 さ ん は 、 ヌ ー ボ ー と し て い て 、 一見好人物にみえ
る の だ が 、 外 見 に だ ま さ れ て は い け な い 。 伊 藤 さ ん の ロ か ら 発 せ ら れ る の も 、 ソーニヤへ
の愛であり、
死「霊 第
」七 章 へ の 期 待 で あ り 、 高 橋 和 巳 へ の 哀 悼 で あ っ た 。
関係性のただ中に立ちつくす女性
こ「ん ど ド ス ト エ フ ス
ーキの未 発 表 の 文 章 が は じ め て 翻 訳 さ
そっ
、れで
るす よ ー

と、 ただそれだけを伝えるために会いに来たこともあった。 彼らはみな若かったのだか
ら、 ガールフレンドの一人や二人いてもよさそうな
い( も
やの実際
だにがは い た の か も し
れ な い が、)彼 ら か ら 軟 ら か い 話 題 が も ち 上 が る こ と は 、 一 度 も な か っ た と い っ て い い 。 い
や、 一度だけあった。 国 分 寺 の 居 酒 屋 で あ っ た か 、 宮 岡 蓮 ニ が 、 女 性 と の 対 し 方 に つ い
ポソボソ吱いていた。 耳をそばだててみ

" る
同と幻、
想 と 対 幻"想
と い 、っ 問 題 に つ い て 、
自問自答を繰り返しているょぅであった。 私は、 ますます跋折羅グループに好感を抱い
といっても、伊藤さんの作品のすべては、男と女の関^ ^ それを恋愛といいかえ
い い の だ ろ 、っ^が ^ 主 題 と し た も の で あ る 。 だ が 、 伊 藤 さ ん の 作 品 も 、 石 井 隆 作 品 同 様
に女性が主人公である。 ただ、伊藤作品に登場する女性は、名美のょぅに挑戦的ではな
可憐であり、なんとも涼し気である。
そ の 伊 藤 さ ん の 描 く 都 会 風 の 美だ少ま女
さにれて は い け な い 。 彼 女 は 、 あ く ま で も 頑 な
であり、凜
と し たも のさ え感 じ さ せ る 。 彼 女 は 、 ど ん な 場 合 で も け っ し て 男 に 従 属 す る こ
とはない。 伊藤さんの描く女性は、高校生から二三、 四歳までであるが、男性との関係
ど ん な に ね じ れ 、 最 終 的 な 断 絶 が 訪 れ て も 泣 き ご と を 言 わ な い 。 彼1女 は
の、 常 に 、 関
まっただ中で立ちつくすだけである。
1 3 伊藤重夫

そして、伊藤作品のもっとも特徴的なことのひとつは、 ドラマの背景として描かれる
景、 公園の ち や 海 岸 の 岩 肌 や 、 ビ ル の 谷 間 や 街 角 の 看 板 、 も っ と い え ば 、9電 柱 の 一
^ !
一本が、 き っ ち り と 存 在 感 を も っ て 描 か れ る こ と だ 。
か つ て 、 私 は 、 そ れ意
"を志をもつ風景
"と 評 し た こ と が あ る 。 自 立 す る 女 性 た ち と 同
じく、 風景そ のものが自立しているのだ、 といっ たらおかしいだろうか。も はや、 伊
んの描く風景は、確かな思想の投影である。 その女たちのなかで、 その風景のなかで
たちは、まるで狂言まわしのごと モく
ー ラユ
スに、軽 快に、愛すべき 人物 として 登場す る。
べ つ に 、非 難 が ま し い 目 で み て い る わ け で は な い 。 ズ ッ コ ケ る し か な い
跋『男たちの姿は、
折羅 同
』人 の 分 身 で あ り 、 凜 と し た 女 性 は 彼 ら の 理 想 像 な の だ ろ う 。
画きたい作品だけを画く
伊藤さんは、 跋『折羅や 』 夜『行 に
』作 品 を 発 表 し た あ と
ヤ『、
ングマガジン 誌』上 に 数 篇
を 発 表 す る 。 し か し、 こ こでも、 伊 藤 さ ん は 、 画 き た い 作 品 だ け を 画 く と い う 姿 勢 を
も崩さなかった。 彼 は 大 手 出 版 社 の 要 に は 受 け な か っ た 。もう少し読者にわか
よ う に 説 明 を つ け 加 え て 欲 し い と 念 を 押 さ れ て も 手 直 し す る よ 、っ な こ と は な か つ た し
丨ジ数 も出版 社の要望をはるかにこえていた。 その結果、数篇がオクラ入りになつて
った。 だ か ら と い っ て 伊 藤 さ ん は 少 し も 不 服 そ う で は な か っ た 。 大 手 出 版 社 に は 、 そ
りのドグマがあるのだし、 それを受け入れない自分が悪いのだ、 と顔色も変えずに言
伊藤 さ ん は 、 チヤメッ気と いうか 、ィジ ワルな面 も あ っ た 。 いつだっ

ーた か 、 四 〇 ぺ
前後の力のこもった作品を画いた。彼は、 ひ ガ『ロ
とりに
』で投獲品として持ちこんだ。
結果は不採用だった。

「『ロ は
』、 ぼ く の 作 品 を 認 め な か っ た と い う こ と で
」す よ ね
と、ばかに満足そうだった。
そ「の へ ん の こ と は は っ き り さ せ て お か な い と い け な い で
ガ『す
ロかが
』らぼね
く。のを
採 用 し た と な る とガ
、『ロ の
』主 体 性 は ど こ に あ る の か 、 と な る か ら 、 こ れ で い い わ け で
すよ 」
と 、不 採 用 に な っ た こ と で 落 胆 す るか
ど、こ
そろの事 実 を 冷 静 に 受 け といめたて。不 採
用 と な っ た 伊 藤 さ ん の 作 品 は 、 あ り夜
が『行
た』く
で頂戴した。
劇画表現上における極北の作
1 3 伊藤重夫

八〇年 に 入って 、 神 戸 に も ど った伊藤 さ


塔ん
「をは
め、ぐ っ て よと
りい う お そ ろ し く 観

念的な作品を発表した。 この作品を私は、劇画表現の極北に位置するものと I みたい。
沼「
ん、 それは、 つ げ 作 品 のや
」 ね「じ 式、」林 静 一 さ ん の 々赤 シ リ ー ズ " の 延 長 線 上 に 結
伊藤重夫「
塔をめぐってより」 (
「夜行」吣 12, 1982 ^ 12〕

212
実 し た も の だ と い 、っ 気 が す る 。 そ の す ぐ あ と に 、 伊
夜『藤
行さに
んは
』 踊「
、る ミ シ ンの

第 一 部 を 発 表 。 やがて第一一部が画き下ろされ、 上 下 が ま と め ら れ 単 行 本 と し て 刊 行 さ
のは 一九八 〇年で あ る 。
踊「る ミ シ ンは
」伊 藤 マ ン ガ の
^ !
成ともいえるものだ。神戸の街を舞台に展開される
若い男女の物語は、読みごたえがあった。 それは、 たんなる恋愛物語ではない。 たん
青春物でもなかった。たしか 踊に「る、
ミ シ ンに
」は 、 十 代 後 半 の 若 者 が た く さ ん 登 場 す
る。 彼 ら は 、 彼女 ら は 、 神 戸 の
- 街の浜辺をさわやかに走りまわる。 ところが、 伊藤
さん独特の作劇法における飛躍が、物語を孤独な、 静謐な世界へとひっぱり上げる。
リ ス テ ィ ッ ク な 描 法 と シ ユ ー ル な 展 開 が 、っ ま く と け あ っ て 、 シ ャ ー プ な 劇 性 を 実 ら せ
人 間 の 関— の— とらえょうとした深刻で、 難解なテーマにとりくんだ作品であっ

たが、画像の魅力にょって、予想を上まわる若い読者の目にふれた。 六本木あたりの
で 一〇 〇 冊 近 く
も読 者 に わ た っと
たい う
事 実 は 、踊 る ミ シ ンに ふ ち ど ら れ た 孤 独 が 、 現
「 」
1 3 伊藤重夫

代 の 若 者と(い っ て も そ の 多 く は 女 性 な の だ ろ
にう
) 受が
けとめられたことを意味するの
だ ろ 、っか。 こ の 作 品 は 、 そ の 後 、 俊 英 の複.映戸画耕監史
督さ ん の 目 に と ま っふた「た。り り
ぼっち で 」新人監督賞を受賞した愎戸監 踊「督
るはミ シ ン」 の 映 画 ヒ を 望 ん で い る と い う
ことであるが、伊藤さんのあの飛躍したコマ割りをどぅ处理するのか興味深い。
それにしても混 、 迷 を 続 け る 劇 画 界 の 闇 深 く 、 清 冽 な 光 を 放 っ て 流 れ ゆ、く 地 下 水 脈

1

2
今 、 星 の 輝 き に も 似 て 登 場 す る 作と
」品謳
群っ た跋『折 羅 』が 休 刊 し て か ら も ぅ 一 〇年に
なろぅか。
農 ョ 、ン ユ ア
53

4 ―

^ ^ | ^ ! | | | | | ^ ! |
I 焦 燥 感 と 孤 立 感 に 苛 ま れ つ つ 、志 半 ば に し-て
ど「
れでもいいから買ってくれ」
羽鳥ヨシユアさんがはじめてわが北冬書房に姿を見せたのは、 一九七七年のことであ
季節がいつであったかまったく記憶にないが、白いワィシャツ姿が印象深く、 にこやか
表情をしていた。 そのとき羽鳥さんは、 五、 六篇の作品をこわきにかかえ、 どれでもい
1 4 羽鳥ヨシュア

から買ってくれないか、と申し出た。私は、彼の突然の申し出にあぜんとしてしまった
であったが、持ち込まれた作品すべてに目を通した。 そして、
夜『現
行段』
に階掲で
載は
できないむねを伝えた。

2巧
彼は多少の落胆の色をみせ、 ではどぅいぅ傾向の作品なら載せてく
1 れしる の か 、 と
て き た 。 わ た し は 、 傾 向 の 問 題 で は な く構
、成
(表力
現と力描 出 力
の) 問題であるとこたえ
た。 そして、傾 向の問 題 と し て み る な ら 、 そ れ ら 夜『
行作向
の 』品きはで あ る こ と 、 し か
し 、 表 現 と し て の 画 力 が き わ めこ
てと弱を

い摘 し た 。
羽鳥さんの画像は、新人としてみれば合格点に達してはいた。技法的には、もっと下手
なプロの劇画家はいくらでもいる。 だが、彼の画調は、あまりに古色蒼然としていた。
九 五 〇 集 後 半 の 貸 本 劇 画 の 情 調 に 通 じ て い た と い っ て も い い 。 それは、 たいへん暗い印
象 を 与 え な い で は お か な か っ た 。 も ち ろ ん 、 表 面 上 の 画 像 の 暗 さ は内、
(容ス)
トーリー
か ら 導 き 出 さ れ た も の で あ る 。 ^た
な^だ
の残は、 それ以上ではなか
とっいたことである。

内容の暗さと画像の暗さだけでは表現の質を保証することにはならなかった。
彼 は 、 以 前 に 何 度ガか
『ロ 誌
』に 投 稿 し た 様 子 で あ っ た 。 だ
ガ『が
ロ、誌
』の 担 当 者 か ら
は こ ん な 暗 い 作 品 ば か り 画 い て い て も し ょ 、っ が な い 。 北 冬 書 房 に で も も
「 」っ て い っ た ら
と評されてやってきたので、 そ れ夜 以『行
前は の存在など知らなかったそぅだ。従って、

五篇の作品はガ
、ロ 誌 用 に 画 か れ た の で あ る 。 そし て 、
『 』 ガも
『ロし
誌に採用された

ら、それを踏み台にプロの劇画家としてやっていくつもりだったらしい 。帰 り が け に
夜『
行 』
のバックナンバーを手渡した。
コンプレックス克服のためにモーレツ読書
三か月ほど して再 び姿を 現した。 私 にすれば 、前 回かなり厳 しい作 品批判を やった の
二度と訪ねてくることはないと思っていた。 しかし、 こんどは、 ただ単にお茶を飲みに
た の だ と い 、っ。
お茶をすすりながら私たちは文学の話をした。 ともかく、彼の小説好きに、 私は歯が
たなかった。漱石、酿外にはじまり、椎名、梅崎、武田の戦後派の作家のすべての作品
通じていた。 そして、思想家としては埴谷雄高が最も好きな人だと語り、大江以降の作
や無頼派には何の興味もないこと、 ことに三島と太宰が大嫌いなことなど口早に語った
さ ら に 、 プ ラ ト ン 、 デ カ ル ト 、 カ ン ト 、 ニーチヱ、
ルキ
ー 等ル
々ケとゴ
いった西洋哲学や
ドストエフスキーをはじめとするロシヤ文学に興味をもってそれぞれの童杨を読んでい
1 4 羽鳥ヨシュア

ょうであった。 私 は 、 ニ〇歳 を少 し越ぇ た ば か り の 彼 が 、 なぜそのょうな読童攝向をも


にいたったかに関心を抱かざるを得なかった。
そ し て 、 そ れ は 彼 の 経 歴 を 知 る こ と で 了 解 で き た 。 彼 は 出 生 地 の 大 1阪 市 内 の 中 学 を

2 ^7
と~代
すると同時に町工場へと働きに出た。彼の世 いでう-
の^は極めて少なかったに違い
夜『
行 』
恥 7に は じ め て鳥
羽作 品 は 発 表 さ れ た 。 そべ「
のん き 屋 の と子し と
」 いっ
、作品
中 に 何 が だ 、 学 歴 の 無 い 者 の 青 春 っ て 奴 は 、 一年に一度か、 そ れ ぐ ら い 風 呂 に 入 れ る か

入れない心境なんと だ
」い う 青 年 の 声 に な ら な い 叫 び が 出 て く る 。 こ の 甘 納 豆 売 り の 青 年
が羽鳥氏 自 身 の 過 去 を 語 っ て い る の か ど う か は 知 ら ぬ が 、 店 へ
「え
員 のー
娘、か栄らち ゃ
ん て 本 読 む のと 軽 蔑 的 な こ と ば を か け ら れ た と き の 青 年 の 心 境 は や は り 作 者 自 身 を 投 影

し て い た も の と み て い い だ ろ 、っ。 あ夜る
『行い 』
恥は 8に 発 表 さ れ た
あ「ち こ ち 」に主人
公の青年が大卒といつわって新聞拉張員になってい ドる
ー なエ
どピもソ 、彼の体験とは無
縁 で は な い ょ う に 思 わ れ る 。 そ し て 、 丨 と い う コ ン プ レ^ッ-る
クベスく
を、克彼 は 数
多くの童楊を読みあさったのだ。
しかし、 文 学 や哲 学への傾 斜は、 同 時 に 宗 教 へ の 接近で もあった 。 いや次のょうにいう
べきだろうか。 文 学 や 哲 学 と い え ど も 彼 自 身 を 暗黒 から救 済してく れなか ったのだ と。
局 、 彼 に と っ て の 自 己 救 済 は 宗 教 に 求 め ら れ た 。 "ヨ シ ユ ア 々 が 洗 礼 名 で あ る こ と を し ば
くして教えられたのだが、羽鳥さんがある教団に属していたのもそう長い期間ではなかっ
誰「か に 監 視 さ れ て い」

そのうち羽鳥さんは三か月に一度のわりあいで姿をみせた。教団を去り、 みずから結成
した人形劇団の仲間とも絶縁し、毎日をひとりですごしている風であった。ある会社に
め て い た の で 経 済 的 に は 何 の 不 満 も な か っ た ょ 、っ だ が 、 こ と ば の は し ば し に 孤 立 感 へ の
れ が 感 じ ら れ た 。 と き どキ
きヤ
" 、バ レ ー 遊 び 〃 や "ソ ー プ ラ ン ド 遊 び 々 を お ど け た 調 子 で
楽 し そ 、っ に 語 っ て は い た が 、 そ こ に は 何 か 無 理 を し て い る そ ぶ り が み え た 。
そ し て 、 現 れ る た び に 、 彼 は 、 つげ義春や 、 つげ忠男、 林 静 一 、 か わ ぐ ち か い じ 、 菅 野
修 ら の作品 に ふ れ 、 近 代 文 学 や 戦 後 文学と の比較 におい て論じた りして いた。 ことに、
げ忠男には羨望を禁じ得ないょうであった。
そ し て 、 一日も早く、 い や 明 日 に で も 彼 ら の 表 現 の 領 域 へ 近 づ き た い と い う 衝 動 に か ら
1 4 羽鳥ヨシュア

れ て い た に 違 い な い 。 焦 る こ と は な い 、 つ げ 義紅「
春いさ
花んや」が 李「さ ん 一 家を
」発
表 し た の は ニ 〇代 後 半 で あ っ た の だ か ら 、 と 説 明 し た の で あ る 。 や が て 、 三 か 月 に 一 度
訪問 が、 いつしか一か月に一度になり、 一か月に二度になってい 疼『
打。』
た :そ して、
1 8

219
に あ「ち こ ち が
」掲載されて間もなく、精神の変調が目につき出した。彼は、住まいのァ
羽鳥ヨシ ュ ア 「
すきま風」(
「夜行」叱13, 1984
. ^ 3〕
パートの屋根裏から誰かが自分を監視している、勤めに出ている間に部屋に入って画きか
け の 原 稿 を 盗 み 見 し て い る 、と い ぅこょと、を
っばな
ロ し る ょ ぅ に な っ て いべ
た「ん
。き 屋 の
とし子 も 」 あ「ち こ ち も
」自 分 の オ リ ジ ナ ル の 作 品 で あ る こ と を 何 度 も 強 調 し た 。 盗 作 な
ど と は1 疑 つ て い な い と い つ て も 、 彼 の 被 害 妄 想 は や ま な か っ た 。
だが、彼の創作行為は心の病が重くなるにつれ中断されるどころか、加速度を増し、 一
か月に五、 六作をたずさえて訪れることすらあった。 彼は、
日記のつもりで画いているんです
「 」
と 言 っ た 。 当 然 、 画 像 は 荒 れ 、リ
ース ト

ー開 に 余 裕 は な く な っ て い た 。
羽鳥 さ んが 原 稿 を も っ て き た 同 じ 日 に 、 つ げ が
義、春つさげ
『ん義 春 選 集
に署名するた

めに訪れたつ 。げ さ んに 羽鳥 さ んを 紹 介 す る と 、 お 互 い 黙 っ 下
てげ頭た
を。 つ げ さ ん
の署
名が終わる と 、 一 時 間 ば か り 雑 談 を し た 。 そ の鳥間さ、
ん羽は 、タ バ コ 手
を にする
だけで、
1 4 羽鳥ヨシュア

ひ と こ とロ
もを開かなかつた。 そして、 つげさんが帰ったあとに、 やつと言葉を発した。
つげさんに会えるなんて思ってもみなかった。本当にあんな人がこの世の中にいるん

で すね 。 あ ん な に 、 や さ し い 人 が い る な ん て 信 じ ら れ」
ないですね
民芸館、文学館で気分転換
彼の焦燥感の原因がどこにあるのかはわからなかった。
私はある日、 彼を誘って駒場の日本民芸館を訪ねた。富本憲吉や浜田庄司の作品を前に
して、
美意識のテストでもしょ、
「 っか

と問 い か け 、 彼
が「れ と こ れと
こ 」指 さ す の をてみ、
羽「鳥 作 品 に く ら べ る と な か な か い い 感 受 性 を し」
ているね
などと言っては一一人で大笑いし、 他 に 入 観 者 な ど 見 ら れ ぬ 静 ま り 返 っ た 休 雖 璧 で タ パ コ
をふ か し あ
た と、 裏手にある旧前田邸の日本文学館へとまわった。 羽鳥さんはその西洋館
の一一階のバルコニーから広々とした芝生でボール投げをして遊んでいる家族つれをみて、
1足にはこんなところがあるんですね、大阪なんてゴミみたいなもんだ
「 」
と言い放った。館内で彼は、近 代文学や戦後文学の作家の初罾をいつまでも見続けて
いた。 さ ら に 私 た ち は 、 外 に 出 る と 、 閑 静 な 住 宅 街 の な か ほ ど に あ る 小 さ な 喫 茶 店 に 入 り
薄暗くなるまで、武田泰淳や埴谷雄高の作品について語りあったのであった。 その日の彼
は常ににこやかで、どこにも変調はみられなかったのである。
ところが、 帰りがけに、うかつにも、
こ「の 次 に は 上 野 の 国 立 博 物#館^学
にと 仏 教 美 術 の 勉 強 に 行 こ
」う
と告げた。 す る と 彼 は 一 週間も たたず に現れた 。 民 芸館、文学 館 行 き が 、 羽鳥さんにと
って私が想像する以上に楽しかったことをそのとき知った。だが、
今「日 は 予 定 が あ っ て 無 理
」だ
と 伝 え る と 、
じ「
ゃあ 」
とだけ言って話もせずに帰っていった。
失敗した古本屋開店
1 4 羽鳥ヨシュア

ゎ が 編 集 机 に は 彼 の 作 品 が ニ ー 〇 篇 、 四 〇 篇 と 積 み 上 げ ら夜
れ『行
ては』年
い っ一
た冊。く
らいしか出ないのだから他の出版社にもっていってみてはどうか、 といっても耳を貸さ
かった。 そしてある日、
今「日 、 大 阪 に 帰 り ま」

と い う 電 話 が 入 っ た 。 大 阪 に 帰 っ て か ら ^も 月
らにい一
は:作品を送ってきた。 だが、
大阪滞在は長くは なかっ た。 再び上 京して 、 いくつかの会社に面接に行ったがすべて断
れたという。
皮は、
四「万 円 あ れ ば 一 か 月 す ご せ る の で 、 自 分 を 使 っ」
て欲しい
と訴えた。当書房で は、 出版に従事している 私たちは、出版の収入からは一円も得て
いない。 わ ず か 四 万 で あ れ 出 費 と な れ ば 、 出 版 の 赤 字 は さ ら に か さ む 。 そ こ で 、 彼 に 編
室を改造して古本屋をやってみないか、 と提案した。家賃はいらない、古本仕入れの元
は当方が負担する、努力次第では四万円以上の収入になるのではないか、 ともちかけた
彼 は 大 喜 び で 受 け 入 れ た 。 自 分 で 看 板 も つそくしってた
は、。
じめの頃は、 はりきって古
本の買い入れにも精を出した。
しかし、彼は、売買ょりも、古本屋
こでとい
安る
に 堵してしまった。 次第に客は減って
いった。 彼 は 失 望 を 深 く し た 。 私 た ち は 、 週 に 一 、 二 度 、 店 を 閉 め た あ と 、 近 く の 喫 茶
に行って、 夜 中 の 一 時 頃 ま で 話 し 合 っ た 。 いつしか、 話 は、 政 治 、 経済の 問題 に 発展 し
いた。 豸 意 識 が は び こ っ て い る 高 度 資 本 主 義 の 現 在 、 羽 鳥 さ ん が 望 む ょ う な 古 本 屋 の
営は不可能ではないか
1 と
した。 だが、彼は、 他人がどうであ ろう が、 椎名や武田ら第
一次戦後文学派の生活を目ざそうとしていたのである。
彼の焦燥感と孤立 感は、基本的に経済 的問題を根底におい ていた、 と私は思う。 だが
高度資本主義下における羽鳥さ
^ ん
をの自:
身は認め たがらなかった 。すべての会社から
就職を拒否されても、 そ差
こ〈別
にが〉顕 在 し て い る こ と を 認 め な か っ た 。 彼 は 、
日本に差別はない、自由 に金持 ちにも なれ るし、 自由に貧 乏に もなれ る、 自分は好

で 貧 乏 し て い る だ け」

と言い続けていた。
ますます異常をきたした言動
あ る と き ポ ツ リ と 眩 い た 。
1 4 羽鳥ヨシュア

「しぼ く が 死 ぬ
も 誰 に も 知 ら れ ず に 、 名 前 も 変 名 を 使 っ て 死 に ま す か ら 。 でもい
と き は
ち おっ
、は 北 冬 書 房 の 社 員 で あこっとたに しお
てき ま す 。 死 亡 記 事 が 新 聞 に 出 れ ば 、 北 冬
晝 房 も 有 名 に な り 、 本 が 売 れ る ょ 、っ に な る で し
」ょ う か ら

225
と。 そ の と き す で に た だ の 冗 談 で は な い と 気 付 い て い た が 、 私 は 、有 名 に な る 必 要 は
い、 そ れ よ り鳥
羽さ んに 死 な れ て は 香 典 代
かさがむか ら 、 貧 乏 の 北 冬 書 房 に そ う い う 迷 惑
だけはかけてくれるなとまぜっ返して、笑い合った。さらにかつてクリス
、 チ2ヤンでもあ
太宰やー
一一 自死を批判しつづけてい
島の 鳥たさ羽
んら し く も な い 考 え でい
はかな、と い う こ
とも加えておいた。
その後、古 本 屋 は 諦 め 、 スーパー マーケットに勤めだした。 だが、 そこも長続きはし
か っ た 。 間 も な く し て ビ ジ ネ ス ホ テ ル に 正 社 員 と し て 勤 務 す る よ 、っ に な り 、 そ の か た わ
週に一一、 三 度 、 気 晴 ら し の つ も り で か 、 夕 方 か ら 古 本 屋 を 開 け た 。 だ が す で に 彼 の 言 動
従 来 に も 増 し て 異 常 を 感 じ さ せ て い た 。 専 門 の 病 院 で み て も ら う よ 、っ に す す め た の だ が
かたくなに拒否した。
自「分 の 兄 は 精 神 病 院 に 入 れ ら れ た ま ま だ 。 一生、 囚 人 の よ う に 鉄 格 子 の な か で す ご
のなら死んだほうがまし 」だ
と表情を変えることなく語つた。
私 のま わ り 人
の たちが精神科に通って、良い方向にすすんでいることを説明しても無駄
であった。 いつしか、 あ の人なつ っこ い 笑 顔 は 消 え 、 ただぼんやりしている姿が多くな
た 。そ し てあ
、る は っ て い る よ う で あ っ た 。 や が て 、 か つ て は 彼 が 敬夜
と き憤 愛『し て い た
行 』
の作家たち
を 多が
批 判 す る こ と くなっていた。
追「
いかけても無駄を
」悟る
ある日、私が仕事で出かけた留守に、
今「日 で や め ま す 。 本 当 に あ り が と う ご ざ い
」ま し た
とだけ書かれた紙切れが机の上においてあった。 それから半年、年賀状のやりとりが
った以外、 近 況 報 告 の ひ と つ も な か っ た 。作 品 が 送 ら れ て く る こ と も な か っ た 。 そ し て
一九八三年六月の終わり頃、 めずらしく手 紙が届 いた。 近 い う ち 遊びに 行きます 、 とい
短い内容であった。 その四日後、電話があった。友人と新聞を出すのでエッセィを書い
欲しいというので、私は承諾し、暇のときは遊びに来るようにというと、
行「っ て も い い で す か

1 4 羽鳥ヨシュア

とはずんだような声がかえってきた。
電 話 が あ っ て 四 日 後 の八七日月
、三 時 頃 、 羽 鳥 さ ん が 編 集 至 の ガ ラ ス 窓 を た た い て い た 。
妙に真剣な顔をしていた。 入るように合図すると、 入つてくるなり、
明「日 、 死 に ま す

と ^ の形相で言った。私はとっさに、本心なのかもしれないと思った。 友人と一緒に
^
新 聞 を 出 す と 言 っ て い た け ど 、 ど 、っ な っ た の ? 友だちのところには行ってないの?
話を変えると、
行「った こ と は あ り ま せ ん

と答え、続けて何か言いたそぅであった。 だがそのとき私の店には電気工事の人が入
ており、 私 は そ ち ら の 応 対 も し な け れ ば な ら な か っ た 。 羽 鳥 さ ん は 、 いま言ったことは
当 の こ と な の だ と 評 え た か っ た の か も し れ な い 。だ が 、彼 は 、状 況じ
を「ゃ判あ断」
すると、
と だ け 言 っ て 出 て い っ て し ま っ た 。 私 は 、 追 い か け ょ 、っ か と 迷 っ た が 、 や め た 。 も 、っ
れなのだと悟った。
それから 一 一 時 間 後谷
、警渋察 署 か ら 電 話
あがっ た 。羽鳥 さ んが 渋 谷 の ビ ル か ら 投 身 自 殺
を さ れ た の で 遺 族 の 連 絡 先 を 知 ら せ て 欲 し い 、 と い 、っ 問 い 合 わ せ だ っ た 。 羽 鳥 ョ シ ュ
んは、 そのときニ九歳だった。
湊谷夢吉
5 -
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-#
I 即年代、マンガ界でもっとも期待された作家
見 事 な 出 来 栄 え銀
の『河 画 報 』
一九七五年の五月か六月、 私 の 手
銀『河
元画に報 と
』 い う3 5判 の 同 人 誌 が 居 ら れ た 。
差し出し人は、銀河画報社の湊谷夢吉という未知の人だつた。
銀河画 報社 の所在地は札幌だつた。 誌名の銀河画報という文字は昭和初期に流行した
ゴで飾られていたが、羅針盤やブレリオ複葉機でデザィンされた
1 表
け紙たは
感、 実 に
1 5 湊谷夢吉

じであつた。
マ ン ガ 同 人 誌 に よ く み う け ら れ る 幼 稚 な 匂 い は 少 し も な か つ跋た
『折。羅そ
と』趣は 、

229
を同じにしたものと 解し てもよ かつ た。 そう した 先入観 が働いたものだから、表紙をな
めた瞬間に好意以上の何かを寄せていたかもしれない。
同 誌 に は漫「我 駄 」「
惜 夏 記 」「
紅 燈 夜 曲 」「
懐 し い 日 々と」い っ た 短 篇 が 収 め ら れ て い り
た。 ペン タッチやコマ割り、 あ る い は 、劇 性 に は、 それ ぞ れ独 特の世 界が 描出さ れていた
’ろ
のだが、 ど の 作 品 に も 共 通 す 」が
る と多 く 認 め ら れ た の で あ っ た 。
もし か し た ら 、 四 作 と も 同 一人物が描きわけているのではないか、 という疑いさえ抱い
た。 たぶんそれは、 四作ともが、きわめて古い時代、 昭和初期の情感を漂わせているから
だ ろ 、っ。 そ の 古 い 時 代 の 情 感 と は 、 も っ と わ か り や す く い え ば 微 音 も な い 静 ま り 返 っ た 雰
囲 気 と い え ば い い の だ ろ う惜か
「夏。記 」「
紅 燈 夜 曲 」「
懐 し い 日 々と
」い っ た タ ィ ト ル が 、
そ も そ も静
、け さ を 予 感 さ せ
とたいつ て い い だ ろ 、っ。
ひとすじ縄ではいかぬドタパタ喜劇
ただ、 四 作 の 中 で も っ と も 注 意 を ひ い
漫「た
我の駄は
と」 い 、っ 二 八 ぺ ー ジ の 作 品 だ っ た 。
この作 品の 舞 台は 、 〃大阪市ウラナリ区オヵマガサキ々である。 昭 和 五 〇 年 、憲 法 改 正
徴兵制原案通過を前にして、 むし風呂のごとき真夏の才力マガサ
-1 キ
とで1労 働 者 や
隊や自衛隊との大乱戦が繰り広げられる。 いうまでもなく、 タィトルからも推察されるよ
、っに、 こ の 作 品 は 、 ス ラ ッ プ ス テ ィ ッ ク 風 な 内 容 だ 。 た ん な る 駄 洒 落 と み て も い い だ ろ
登場人物たちも、 ギャグ的な風貌をしたままだ。 それは、 いわばドタバタ喜劇の見本と
え い い う る 。 だ が 、 こ の 作 品 は 、 ひ と す じ 縄 で は い か な い 、 と い 、っ 感 触 を 与 え る に 充 分
った。
ラ ス ト シ ー ンま
で「す ま す 大 変 な 時 代 に 突 入 し
あつるつ
いうわけですなあ
と と
」、 妙 に
シニカルな風をよそおうサングラスをかけた少年は、 焼け野原と化した才力マガサキを
に 、イ「ッ チ レ ツ ダ ン パ ン ハ レ ツ シ テ ー 、 し か し こ れ は 何 の
と」教
眩訓いや
たろあか
とア、

ン夕 ど う 思 い な
… は る ? と、額から汗をたらしながら、真剣に、 正面を、 ということは、

読者を見す え るの で あ る 。 た だ の 、 ス ラ ッ プ ス テ ィ ッ ク 、 た だ の劇ド
I
Iでタなバいタこ宜と
をこれ以上説明する必要はないと思う。
ともかく、各ぺージに散りばめられたエスプリには舌を巻いた。 近代史に関して、新
翼 諸 党 派 に 関 し て 、 芸 能 界 に 関 し て1 、界
航に空関 し て 、 と に か く こ の 作 者 は な ん で も
1 5 湊谷夢吉

かんでも知っている、 と受けとれた。 さらに、全体を貫く、 正面きってのシニカルな視


に関心がわいた。 I
さ っ そ く 、 銀 河 画 報 社 の 湊 谷 夢 吉 氏 宛 て に 、 雑 誌 寄 贈 の お疼
礼『とへ
仃 と
』のも1に 、
依頼の手紙を書いた。 だが、何の返事もなかった。
用 心 深 く夜『行 に
』接 近
しばらくして、 銀『河 画 報の
』次 号 が 居 ら れ た 。 前 の 号 は コ ピ ー 誌 で あ っ た が 、 こ ん ど は
本 格 的 な オ フ セット印 刷であ る。 そこには、夢 吉 作 続「品.惜
と夏し記て」が掲載されて
いた。 再 び 、 手 紙 を 書 い た 。 原 稿 依 頼 と い う よ り は 、 夢 吉 作 品 へ の 想 い の た け を 綴 っ た も
の だ っ た か も し れ な い 。 新 作 を 画 い て も ら え な い よ う漫「
だ我っ駄たや
」ら続
、「惜
. 夏記

を転載したい、 と願い出た。すると、ようやくにして、返事が届いた。転載の件を了承す
る 、 い ず れ 新 作 を 送 る 、 と い 、っ 短 い 文 面 だ っ た 。
そ の 後 、 ニ、 三 の 手 紙 の や り と り は あ っ た が 、 湊 谷 夢 吉 像 は 、 鮮 や か に 浮 か び 上 が っ て
は こ な か っ た 。 彼 が 、 事 務 的 な 手 続 き 以 上 の こ と に は 触 れ な か っ た か ら だ 。 そ れ は 、 夢士ロ
さ ん の 用 心 深 さ の 表 れ で あ る と い っ て も い い だ ろ 、っか。
毎度の事ながら、返事遅くなりまして申し訳ないです。三月頃より続いておりました
ハ ー ド で且 つシ ビ ア な 世 間並 生 活 も 、
よ う や く一
段 落 し編(集 者 と 広 告 屋セとール スマ
ン を 兼 ね た ョ ー な 訳 の 分 ら ん 仕、
事)再
でびす個 別 的 .非 生 産 的 な 時 間 に 埋 没 出 来 る 瞬 間
を持てる様になりました。
あと忉枚 …
が…大 き な 壁 で あ っ た 漫 画 も 、 何 と か 先 週 あ た1り
コマょ 1り
コ、マと確
実 に 進 歩 し て 居 り ま す 。 夏 に は 、 ま ず 間 違 い の な…

と…見
思通いし
ます。
た だ 問 題 な の は 、 そ の 中 味 で あ り ま し て 、 何 し ろ…

惜…代
夏物記で
の1 篇 と い う
事 で 、 小 生 な り の1新を 打 ち 出 し て は 居 る の で す が 、 果 た し て ィ カ な る も の に あ い 成
りましょうか
...........高
...野 注
... .(著
." 者
... .. サ
)ンのおロに合いますかどうか? ま、小生として
精一杯やつておりますので、 可成面白いモノが出来つつ有るという自負は有るのです
然し、 我ながら自分の寡作ぶりにアキレます。描いてみたい題材は山程あるにもか
わらず、 時間が無いといぅのは口実に過ぎないのかも知れません。資料集めにヒマが
かるのは仕方ないにしても、 これでは到底漫画では食ってィケナィ! ハツハツハツ
1 5 湊谷夢吉

い や 、 一 と き は 血 迷 っ て そ の 辺 を 少 し 本 気 で 考 え た 事 も あ り 、 実 際 一 ケ 月 、 一体何
くらいの生産が可能なのだろぅかと真剣に計算今
し(の
た仕と事
こをろや め て^、 1

3
9

3
る と
: して ま ず枚。 それが必ずしも売れるとは限らな
..い か ら も ..、
.っ お ..分
. りでしょ

0
?
) ... .. . ...

2
、っ。 実 は そ ん な 計 算 な ぞ 出 来 る 害 も 無 く 、 最 後 は 笑 っ て 胡 麻 可 し ま し た が 、 ま 、 そ ん
所 で す 。 何 の 事 や..ら
......................我
..な が
... ..ら
..オ ヵ
... ..シ
..ィ 。
... ......
さ て 、 大 友 克 洋 は 、 あ ま り そ ち ら で は 好 ま れ て な い 様 で す が 、 小 生 も 確 か に 、 ときに
軽 過 ぎ る ペ ン タ ッアチ
(レ は ロ ッ ト リ ン グ で す かに
ね不
) え満 を 覚 え つ つ も 、 そ の 軽 味
が良い効果となって多角的に、趣味的な題材のときなぞ特に、上手くある種のリアルさ
を 持 っ て 表 現 さ れ た 場 合 、 や は り 、 あ観
あ察
" 良"し
くて い る な あ と 、 感 心 す る 事 が 有
るのです。 それは言えるのではありませんか?
要 す る に 今 、 話 題 に 出 来 る 面 白 い 漫 画 、 乃 至 は 漫 画 家 が あ ま り に 少 な い 故 に 、 彼とか
が 目 立 っ て し ま 、っ の で は な い か と 思 い ま す 。
遅まきながら小生もかの一一一流エロマンガがどーのこーのとかまびすしい辺りを聞き
じり、 実際に 見てみま したが、 三流とか古 典とかエ ロだとか可 能性がど ぅかと言 、
っ前
あの手抜きのいい加減さ、無 意 背味(景にさコピーを使用するのは少なくとも石井隆に
於 て は 完 全 に 味 に な っ て い る と 思 、っ の

)で居す
直がる 事に居直っている様で、 どーも
I に楽しめません。 他に 見逃 した人 で、 面 白い人 は居る かもしれ ませんが 、 全体に何
か漫画以外の場所で屈折し過ぎているとい、っ
本感
…… 当じ
にで楽しんで描いているのだ
ろうか? いや仕事だからそれは無理か、などと思いつつ小生だったらもっとィヤら
く描けるのに、女が股を開ければそれが即エロでもあるまいに、小生なら裸や劣情を
め る 単 語 な ぞ 一 切 使 わ ず に 人ワ
起 せ し をィし
セてツ な 感 情 を 抱 か し め る 画…
面と
を、

暫し根本的 な問題 を考 え込 む夜ふ けも 有っ た訳 でした 。 ソレならお前描いてみろと言
れ れ ば そ れ ま で で す…
が…何(が ソ レ ま で な の か 分 り ま せ
。)ん何が
はともあれ描いて面
白くなくなれば、も 終、
わっり い
と うか、 仕 様 も な い と 言 、 っか
描 くの、を 止 め る し か 無 い
と小生は思いたい!
ま、脳天気な事をクドクド書きましたが、貴社の発展
..を
..祈 り
....と
.まいす
.. う
....こ
. ろで。

夢。
以上は、 その後、夢吉さんから送 られて きた手紙の文面 である。 私が最初の礼状を出
てから一年がすぎていた。 ようやく、互いの意思を 伝える までに進展して はいたけれど
湊谷夢吉

文面から推しはかれるように、夢吉さん
たは(ち、)
私態 度 に 半 信 半 疑 で あ っ た 。

文「
久ニ年の爆裂弾 と
」まどうばかりの見事さ

230
たとえば、大友克洋云々の件に関していえば、 ひとつ前の手紙で夢吉さんは大友作
高く評価していたのであるが、 それに対して、私は、大友作品より夢吉作品の方がは
にすぐれている、と断定を下したのであった。大友作品の人間観、あるいは世界観に
義を感ずる、
惜「夏 記 や
」 続「惜
. 夏記 の よ う な 人間 の 関屋 を深 いと こ ろで 捉え よ うと

した夢吉さんが、なにゆえ、 いっさいの人間性を排除した大友作品を支持するのか理
きない、というのが私の書いた内容だった。 そして、もしかすると、夢吉さんは、 そ
き 私 と の 認 識 の ズ レ を 感 受 し た の か も しお
れ「ロ
なにい合
。い ま す か ど う
と」か
いういい方
は 、 ま さ に 、 あ る 種 の 不 信 感 の 表 明 と と っ て も い い だ ろ 、っ。
と こ ろ が届
、けられた
文「久 一 一 年 の 爆 裂は
弾、 彼 のこ と ば と 裏
は腹 に 、 そ れ こ そ 、 私

のロに見事なまでに合ってしまった。 この作品は、 明治維新前夜の若者たちの姿を描
いるが、 そ れ が 、 七 〇年 前 後 の 政 治 青 年 た ち の ア ナ ロ ジ ー で あ る こ と は 一 読 す れ ば 理
れる。
だが、 七〇年 前 後 の 動 き を 明 治 維 新 前 夜 に置 きかえた だけで はなか った。夢 吉 さ ん
文「久一一年の爆裂に 弾登 場 す る 過 激 派 の 青 年 た ち を と お し て 、 "思 想 と 行 動 々 の 局 面 を 極

力 冷 徹 に み つ め よ 、っ と し た 。 作 者 は 、 変 革 を 志 す 青 年 た ち に 安 易 な 反 感 や 同 情 を 示 そ ぅ
は し な か つ た 。 そ し て 、 そ の こ と が 、 か え つ て 、 作 者 の や さ し さ を 物 語 っ て い る よ 、っ
た。 ま た 、 こ の作 品 によ って 、夢 吉 さ ん の 状 況 認 識 や 歴 史 意 識 の た し か さ が 、前 にも ま
て強くとどいた。
折 り 返 し 、 続 け て 作 品 を 描 い て 欲 し い と 訴 え る 手 紙 を 書 い た 。万
大『延
江元健年三 郎 の
のフットボール を
』も じ っ た と 想 像 さ れ
文「久
る一一年の爆裂は
弾一 九 八 〇 年 四 月 発 行 の

夜『
行 恥
』 9に 発 表 さ れ た 。
寺 山 修 司 氏 激 賞8の
ミリ映画
や が て 、手 紙 や 電 話 で の 交 信 が 増 し て い っ た 。 そ こ で わ か文っ
久た
「 一こ一と年はの爆、裂
弾 が
」 発 表 さ れ る ま で の 四 年 の あ い だ 、 夢 吉 さ ん^はに
:、力映を画入!れ て い た と い 、っ事
1 5 湊谷夢吉

実であった。 彼は、 札幌在住の山田勇男さんと 8ミ


とリ も映
に画 、に こ だ わ り 続 け て お り 、
銀 河 画 報 が、 そ の 後 、 続 刊 さ れ な か っ た の も そ こ の と こ ろ に 起 因 し て い た 。
『 』

237
そ の 結 果 、私 と の 交 信
8ミ 銀「
もリ 映 画^ :に 関 す る こ と が 多 く 河画報社
、 映
. 画倶楽部

の作品を四谷のィメージフォーラムや渋谷の公園通りで上映するので見に行かれたし、と
い、っ も の だ っ た 。 も ち ろ ん 、 私 は 、 夢 ^吉 :さ
をん送が
ってくれた作品は、 一 本 残 ら
2 ず 見
に行った。
ぴ『あ 誌
』上 で 寺 山 修 司 氏 ら に ょ っ て 激 賞 さ れ た そ れ ら の 作 品 に は 、 目 を 見 張 る
技巧が全篇に感じられはしたのだが、湊谷夢吉の存在を感じるには物足りなかった。
夢 吉 さ ん と の 初 対 面 は 、そ れ か ら 数 か 月 後 の 一 九 八 一 年 の 正 月 で
夜「あ
行る
『 の
』。彼 は 、
編 1 な る も の を 一 度 の ぞ い て みと
た、
」 い渋 谷 近 く で 営 業 し て い る 私 の 店 に 現 れ た 。 大
きなリュックを背負って、顔中ヒゲだらけの夢吉さんは、 しきりと、五坪ほどの文具を並
ベた店内をながめまわして、
こ「こ が 本 当 に 編
I なのか?」
と解せぬといぅ面持ちでたずねた。
や が て 、 連 れ だ っ て 外 に 出 て 、 歩 い て 道パ玄ル坂コ
前かの
ら公 園 通 りまにわ る
と、 彼は
一軒の焼肉屋に私を案内した。 私 は 、 四〇年 以 上 も 前 か ら 渋 谷 の 街 の 隅 々 に 詳 し い つ も り
であったが、 若者が行き交ぅ通りの横町に関西風のホルモン焼きの看板をかかげた店が存
在 する こ と な知
どら な か つ た 。 夢 吉 さ ん は 、
こ「の へ ん は く わ し い ん で す ょ 。 ホ ル モ ン 嫌 い」
ですか?
と言 っ た 。
煙との た ち こ め る 店 内 に 腰 を 下 ろ す と 益 ダ 吉 さ ん は 、フ
も ,っ も ,っ と
「フきフ
どッき
と」、

い を も ら し な が ら 話 を は じ め た 。 話 題 の 大^半^は
に映つ画い て だ っ た 。 一段落したとき、
唐突にたずねた。
「ま り あ
つ 、 の頃、ど ぅ さ て
れ いたのですか?

」。
全共闘世代"とのかかわり
"
漫「我 駄 や
」 惜「夏 記 」「
文 久 一 一 年 の 爆 裂を
弾読 ん で き て 、 胸 に ひ っ か か る も の が あ っ

た。作品をとおして 全
"、共闘世代々のィメージがついてまわっていたからだ。 だが、 そぅ
し た 事 柄 を ス ト レ ー ト に 問 、っ こ と に 、 た め ら い が あ つ た 。 と こ ろ が 、 夢 吉 さ ん は 、 意 外
いやがる風もなく淡々と話をすすめた。
「る と き 、大
あ 某学 に ア ジ ビ ラ刷をり に
行ったんですね。 ベ
連も平、 赤 い の も 、 モヒカ
1 5 湊谷夢吉

ン も 、 い ろ ん な の が 自 治 会 室 に い て ま し て 、 ぼ く ら 外 の 者 は 隅 の 方襻でっゴ ソ ゴ ソ 印 刷
ご か し て ま す と 、 ま ん 中 で は 赤 軍 の 連 中 が ヒ ソ ヒ ソ 会 議 し て る ん で す わ 。9 ぼ く ら は 、
中 の 話 を コ チ ョ コ チ ョ 耳 に は さ み な が ら 手 を 動 か し て い る あ」ん ば い で ね
ユ ー モ ラ ス な 語 り 口 を 耳 に し な文
が「久
ら一、一年の—^の 続 篇 を 読 ん で い る ょ 、っ な 気 分
になっていた。
ぼ「く ら は 、
学生で もない し、 ハンパ者ですから、 黒 へ ルかぶ ってあ っちをウ ロウロ 、 こ
ちらをウロウロするだけでして 」
と '多 少 自 嘲 気 味 に 語 る こ と も あ っ た が 、#高し
校たをば
女か り の 夢 吉 さ ん に と っ て 、
漫「我 駄 」
に取 り組んでいた七〇年当時の状況がどのょうに映っ たかを 正直に 口にする こ
とはなかった。
後年 、 彼は 、作 品マ

『ル ク ウ 兵 器 始 末
の自作解説のところで、当時の自分の姿を明

らかにした。
小「生 は 、 別 に そ ん な に 熱 心 な 漫 画 青 年 と い う わ け で も な く 、 半 端 な 学
. 生を ド ロッ プ
ア ウ ト し 後た は 、 一 週 間 の 半 分 を ア ル バ イ ト に 、 残 り の 半 分 を 読 書 .映 画 鑑 賞 と シ ン ガ
丨ソ ン グラ イ タ と
ー ス ト リ ー ト フ ア イ ン
テ グ
ィ にあけくれ、少しでも金か溜まるとフラ
丨 と 旅 に 出 て し ま う と い 、っ、 実 に 絵 に 描 い た 様 な ヒ ッ ピ ー 風 の ユ ー ガ な 生 活 の ス タ イ ル
を繰り返していた

考「古 学 者 に な ろ ぅ かと
なも 思 っ た

自らを多少戯画化して楽しんではいるが、夢吉さんのおおよその風体を伝えていると
われる。 とはいえ、 それ以上のことを語ることを欲しなかつた。

「ルク ウ 兵 器 始 末が
」発表 されたの は、 それ から約一年後である。 この作品は、科学
兵 器 の 開 発 を 任 命 さ れ た 科 学 者 の 姿 を と お し て 一 五 年 戦 争 の 不 条 理 を 描 い て い る よ 、っ に
け と れ が
る 、 則1作 よ り自
も己 抑 制 が き い て い て 、 内 容 的 に も い ち だ ん と 深 ま り が 感 じ ら れ
た 。 湊 谷 夢 吉 と い 、っ 作 家 の す ぐ れ て 思 想 的 な 認 識 が 表 現 と し て 結 実 し た と 言 い 替 え て い
の かも ない。
し れ

「ル ク ウ^ ^ が、 単 細 胞 的 戦

" 争批判"に 終 わ ら な か っ た こ と は 、 夢 吉 さ ん の 鋭
さの証でもある。 かつて、 彼がこの時期の作品にふれて、
全「体 の 狙 い と し て は 、 そ れ ぞ れ に な か な か 銳 い 所 を 突 い て い る な ア」と 思 、っ の で す
1 5 湊谷夢吉

と冗談半分に綴っているのだが、 そのことばのなかにある強い自負が読みとれないこ

,
もないのである 。 ‘

2令

「ル ク ウ^ ^ が発 表さ れ た 半 年 後 に 夢 吉 さ ん と 再 会 し た 。 いつしか、第 二 次 大 戦 時
2^2
1981‘ 6 〕
夜行」議
「 ,
(
广 タ メ
流 れ 流 れ厂

落 ち ゆ く 先 Vは
北 は シ ベ リ ア』
南 は ジ ャ パ か1
- I;
い ず れ は コ ヤ シ よ
热 の エ サ 丨 ^ と
の戦闘機の話へと発展してい
零「た
戦。よ り は 、 四 式 戦 、紫 電 改 よ り は 彩 雲 、雷電よりは一
〇 〇 式 司 偵な
」ど と 好 み を 告 げ る と 、 彼 は 、 ニ ヤ リ と 笑 っ て 、
な「か な か の 渋 好 み で す な あ 。 た し か に 飛 行 機 は フ ォ ル ム が だ い じ 、 し か し 、なんと
っても究極は複葉機に限ります丨

と零っ始末であった。次には、本棚に
# 並
^学
!ん関だ係 の 童 杨 に チ ラ ッ と 目 を や り 、
自「分 も 、 じ つ は 、
#4^^ に?な ろ 、っ か な 、 と 一 時 期 考 え た こ と が あ る ん で す わ 。 耶 馬
台 国 の 所 在 地 も 自 分 な り に あ り ま し て 、こ の へ ん の こ と も い ず れ は 作 品 に し た い な あ
と 」
や が て 、3? 小 説 か ら
3? 映 画 へ と 話 は と ど ま る と こ ろ な く 広 が っ て い っ た 。 私 は 、 彼
の 関心 に 追 いつ く の がや っ と だっ た 。 いったい、 夢 吉 さ んの 頭 脳 には ど れ だけ の 知 識 が
め こ ま れ て い る の か 、 不田心議に思えてならなかった。
1 5 湊谷夢吉

真実がぼやけはじめる
そのぅち、
あ「
のですね、 じつはですね、 ぼくはひよっとすると、 日本人ではないのかもしれん
ですよ 」

244
と言い出したのである。
骨「格 と か 皮 膚 の 色 か ら 判 断 し て ロ シ ア 系 で は な い か と 。祖 先 が 新 潟 の 出 で す か ら 、何
世代か前に大陸から漂流して来たのか、それとも亡命ロシア人ということも考えられな
いではない 」
と 言 つ た あ と 、 ま た しフ
「てフフッと
」ふくみ笑いをした。
いや、 た し か に 彼 の 言 葉 の ご と く 色 白 で あ り 、 目 の 色 も 日 本 人 離 れ し て い る 。 ま じ ま じ
と 見 つ め る と 、 ほ ん の 少 し や せ れ ば.レ オツン
ト ロ キーそ っ く り で あ る 。 だ い たトい
ロ、
ツキーがかけていたのと同じ型の丸い眼鏡をかけているのがなんともまぎらわしい。 い
ひ よ つ とす る と 、 夢 吉 さ ん は
そ、っみ ら れ る
、 こ と を意 識 し てロや ア ゴ に ヒ ゲ を は や し て い
たのかもしれない。 それもまた、彼一流の箱晦ぶりを示すことになる。 ともかく、夢吉
ん を 前 に す る と 、す べ て の 真 実 が ぼ や け 出 し て く る の で あ る 。 そ う い っ た 意 味 で は 、 "危
な人物々の範疇に入るといっても過言ではない。 つかみどころのない人物なのではなく
つかみどころのない人物に見せようと必死になって造形していると言ってもいい。
政治的立場を 満「
州バニシング に

マ「ル ク ウ —^を 発 表 し て 間 も な く 、 自 信 を つ け た 夢 吉満
さ「州
んバは亍
、ン ン グ
を」
発 表 し た 。 発 表 場 所夜『

行 と』い う マイナ ーな誌面 にもか かわらず 、 この作品は、 きわ
めてエンターテインメントな方向を開示した努力作であった。
そ の 頃 で あ っ た ろ う か 、 私が宫岡蓮
夜『一
行一』

と対 談 し た と き 、 宫 岡 蓮 ニ が 夢 吉 作 品
にふ れ て 、 そ の エ ン タ ー テ イ ナ ー の 側 面 に 危 惧 を 表 明 し たマ 。
「ル私クもウま
-また 、
で は 評 価 で き る が満、
「州 、
、ハ ニ シ ンあ
」グた り に な る と 夢 吉 的 世 界 の 曲 が り 角 が 感 じ ら れ る
と対応し、さらに、 そういえ 惜「ば
夏、記で 」、 中 津 川 の フIォ
クジ ャ ン ボ リ ー に参加した
わ け だ か ら 、 いわば、 彼 の 自 在 性 に は プ ラ ス マ イ ナ ス の 両 極 面 が 内 在 し て い る の か も し
な い と 指 摘 し た 。 宮岡 蓮 一 一 も 、
ぼ「く は や は り フ ォ ー ク ジ ャ ン ボ リ ー に は 行 け な い で
」す か ら ね
1 5 湊谷夢吉

と、 硬 派 の 姿勢を主 張した 。
と こ ろ が で あ る 。 対 談 が 発 表 さ れ る と 、 す ぐ さ ま 札 幌 の 夢 吉 さ ん か ら 電 話5 が 入 っ た 。
だやかな口調ではあったが、
あ「の 作 品 に 登 場 す る 場 所 は 中 津 川 で は な い ん で す ね 。 た し か に 、 ぼ く は 中 山 ラ ビ さ
や豊田勇造さんらと旅をしてプロテストフォークを歌つたことはあります 2けど、中 津
に行 っ て い ま せ ん惜
。『夏記 』
の 場 所 は 、 三 里 塚 で」

と き っ ぱ り 言 い き っ た 。
そ の と き 、 は じ め て 、 私 は 夢 吉 さ政
ん治
" は的
、立 場 々 と い 、っ も の を は っ き り さ せ て お き
たい人なのかなあ、と思った。 一 九 八
漫「六
我年 惜「
駄に」 夏記 」「
続 惜
. 夏 文久ニ年
記 」「
の 爆 裂 弾 」「
マ ル ク ウ 兵 器 始を
末」収 録 し た 作 品 集 を 刊 行 し た の だ が 、 こ の と き 、 夢 吉 さ ん
は、 先 に も 引 用 し た よ ぅ な 自 伝あ「風
とのがきを 」加 え た 。 そ れ は 、 も し か す る と 、 私 や
宮 岡 の よ 、っ な 誤 読 を 防 ぎ た か っ た か ら か も し れ な い 。
細部の細部にまで力を注ぐ
刖1に も 述 べ た と お り 、 そ れ ま で の 典 ダ 吉 さ ん
思"は
想自とら行の動 " を 隠 蔽 し よ ぅ と し て
い た の だ 。だ が魔、
「都 の 群 盲」
活「動 屋 番 外 地」
ラ「ィ プ ニ ッ ッ の 買
ア「ヤ カ シ の 大 連」
」 虹「
龍 異 歷 と 夜 行 だ け で な く 、エ
『 』 『ロトピア デラックス 』 銀 星 倶 楽 部 漫 画 ゴ ラク
『 』『 』コ

ミ ッ クば く へ と 次 々 と 新 作 を 発 表 し 、 多 く の 読 者 の 注こ目ろす
となるつとた 。

やっぱり
お礼を云わんと
いかんです
かね …
1 5 湊谷夢吉

247
八四、 五年の段階で、夢吉さんは、 マンガ界で一番期待された作家だったに違いない。
い か に 一 般 の 娯 楽 誌 で あ る と い っ て も 、 夢 吉 作 品 に つ め こ ま れ た 知 識 は 、 ど2 の マ ン ガ 家
足元に及ばなかった。戦時下の上海、昭和初期の撮影所、満州国を背景とした作品は、細
部の細部にまで力を注いだ。夢吉さん曰く、
上 海 の 路 地 の ひ と つ 、 レ ン ガ 壁 の ひ と つ ま で 資 料 を さ が」
「 しました!
し か し 、夢 吉 さ ん は 、デ ィ テ ー ル にさ完
を希璧い な が ら も 、 他 方 で は 、 説 明 の つ か な い
不 満 がわ き お こ って い た のか も し れな か っ た 。 た だエのロマ ン ガ じ や な い 、 た だ の 歴 史 マ
ン ガ じや な い 、 た だ メ
のカマ ン ガ じ や な い 、 といった思いが広がっていたのだろうか。
自ら記述した な「か な か 銳 い 所 を 突 い て い る 」

ないア、っ 気 持 ち は 、 そ こ に 発 す る 。 そ
して、自 伝 風
あ「と が きの
」別 の 箇 所 で はダ 、
「ブ ル ヘ ッ ダ ー の ス ト リ
-フ^丨ァ イ テ ィ ン グ」

( ま り市 街 戦 、 あ る い は 街 頭 闘
つ 者注
—争 )に 参 加 し た こ と 、 さ ら に 、 自 ア
ら「ナをキ
ス ト が か っ た イ ッ ピと
」ー規 定 し 、 八 ケ 岳 の コ ン ミ ユ ー ン に 立 ち 寄 っ た こ と ま で を も 詳 述
し た 。 夢 吉 さ ん が 一 五 年 を す ぎ て 、 一九、 ニ 〇 歳 の 頃 の 体 験 を 、 明 ら か に し ょ う と し た の
は な ぜ な の だ ろ う か 、 と 思 、っ。
大陸風のおおらかさ
夢 吉 さ ん は 、 一 九 八 〇 年 か ら 毎 年 の よ う に 正 月# に
至わに現
がれ編た 。 あ る と き は 、 パ
ン パ ン に 大 き く な っ た リ ユ ッ ク を 背 負 っ て い た 。 開 け よ 、っ と す る と 、 中 か ら 洋 書 の 画 集 が
ド サ ッ と 床 の 上 に 積 み 重 な っ た 。 銀 座 の 洋 書 店 ィ ェ ナ か ら の 帰 り だ と い 、っ。 す べ て マ ン ガ
の 資 料 に す る の だ と 説 明 し た が 、 金 額 も ま た 大 変 な も の だ っ た ろ 、っ。
その洋書を広げながら、夢吉さんも趣味が悪いね、美意識が疑われるね、 だから画いて
い る マ ン ガ の 絵 が も 、っ ひ と つ 情 感 に 欠 け る ん で す よ 、 と 家 人 を 交 え な が ら 批 判 に つ ぐ 批 判
を加えても、彼は、
ほ「ほ う 、 そ う で も な い ん じ ゃ な い で す か ? ま 、 そ の 、っ ち に ボ チ ボ チ と 情 感 の 研 究 も
ね! 」
と 言 っ て は 、 お 得 意フ
のフ フ ッ を
「 」連 発 す る の だ っ た 。
1 5 湊谷夢吉

レ「ィ ダー ス や」 フ「レード ラ ン ナ ーそ
」し て 、風「の 谷 の ナ ウ シ カス ^ ------力
」「 --ー
---に
- つ

い て 時 の た つ の も 忘 れ て 深 夜 遅 く ま で 語 り 合 、っ の が 、 夢 吉 さ ん と 私 た ち の 恒 例 の 正 月 行 事

249
であった。 そのときの、 人一倍神経質なくせにけっして神経質なところを見せようとしな
い態度は、大 陸 風 と い う か 、大人風と い う か 、 スヶールの大きな人柄を感じさせないでは
おかなかった。
一 九 八 八 年 の 一 月 六 日 、 夜 一 〇 時 近 く な っ てど
、「う
突も然お
、と」言 っ て 店 の 前 に 現 れ
た。

「 ょつと風邪をこじらせてしまつて 」
と言いながらも、 いつものようにニコヤ力に話しは 疼『じ
仃め用』た
の。新 作 は 八 〇 ぺー
ジ の 長 篇 だ が 、 三 月 末 に は 渡 せ そ う だ と い 、っ。 あ と は 、 お 互 い の 近 況 報 告 と 、 毎 度 お な じ
み の 夢 吉 作 品 に つ い て の ッ 批 判 と "反
の批展判
開だ。
尾を引くような別れ
午前一時をまわって、夢吉さんは妻子が宿泊している中野のホテルに帰ることになった。
環状六号線でタクシーを待つあいだ、
ぇ「ー と 、 何 か も 、っ ひ と つ 話 す こ と が あ っ た ん で す わ 、 思 い 出 し た ら 札 幌 か ら 電 話 し ま
す 」と言っているうちにタクシーが止まった。座席に乗りこんだ彼は、
ぇ「ー と 、 話 し て お く こ と が あ っ た ん で す が 忘 れ ま し た 。 う ん 、 で は 今 日 は こ ん な と こ
ろですか 」
と言つてドアは閉まった。
な ん と な く 尾 を 引 く ょ ぅ な 別 れ 方 だ っ た 。 が、 そ れ は い つ も の
夢Iこ
吉とさだ
んっにた 。
とっては、毎回、言い残して
こといがる
多々あったのかもしれない。札幌から電話はなく、
そ の ま ま時 は す ぎ た 。 新 作 が 仕 上 が る 予 定 の 三 月 の あ る 日 、 夢 吉 夫 人 の 雪 子 さ ん か ら 、 夢
吉さんが札幌医大に緊急入院したとの連絡があった。夢吉さんは、 それからわずか三か
後の六月七日、他界した。三八歳の若さだった。
死 後 、 彼 の 机 の 中 か ら 何 篇 か の 画 き か け の 原 稿 が 見疼
つ『仃
かのっ
』たため。に 準 備 さ れ
た 作 品 は 、古 代 国 家 の 闘 争 を 描 い て い た 。主 人 公 は 火 見 呼 と い ぅ 名 のォ
女「ブ性 で あ っ た 。
ジ ェ を 持 っ た 無 産 者と
」達仮 の タ ィ ト ル を つ け ら れ た 作 文
品「久
は一、一 年 の 爆 裂の
弾続 篇

と も い え る も の で 、 夢 吉 さ ん の 生 前 の こ と ば に な ら え ば 、 "運 動 の 総 括 々 を 試 み た か っ た
1 5 湊谷夢吉

か も し れ な い午
。「後 の 機 関 車
と」題 さ れ た ー 篇 は 、 敗 戦 間 近 の 北 陸 を 舞 台 と し た 一 五 、 六
歳の男女のドラマであり、残 り の 黄「金回
一 篇廊 」には北一輝が登場する。夢吉さんは、
最 後 ま で歴〈史 と
〉 い 、っ も の に 執 着 し て い た 。

「ど が き 」
にかえて

2^2
私 が 青 林 堂 に 入 社 しガ『
てロ 』
の 編 集 に た ず さ わ っ た の は 、 一九六六年九月から四年と
少 し に す ぎ な いガ
。ロ が 創 刊 さ れ た の一は
『 』 九六 四 年 の 九 月 号 で あ る か今ら日、
ま で三 〇
年近い歴史をもつことになる。したがって、私が在籍し ガ『
たロ歳全』
月体はの、歴史をふ
り返るならば、 じつに短期間に他ならないのだが、 六〇年代後半期から七〇年代初頭にか
け て の 数 年 間 は 、 ここ一 〇年 、 あ る い は 一 五 年 の 社 会 の 動 き や 流 れ と く ら べ る な ら ば 、
張 を 強 い ら れ た 時 代 で あとっいた
っ て もい い 。 そ れ は 、 た だ に 、 ベ ト ナ ム 反 戦 運 動 、 学 園
闘 争 、 七 〇年 安 保 問 題 、沖 縄 返 還 闘 争 、 三 里 塚 闘 争
スと
" チい
ュっーたデント パヮ ー
. "
に象徴された大叛乱が続発していたからでは、もちろんな中 い
" 流
。階こ級の"
頃は、未 だ
登 場 し て お ら ず 、 〃 中 流が
"意ど
識の ょ ぅ な 代 物 か 不 可 解 で あ っ た 。 高 度 経 済 成 長 の 名 の 下
で、 生 活 者 大 衆 は 、 未 来 へ の 展 望 を ま っ た く 抱 け ず に 、 揺 れ 動 く 状 況 下 で 右 往 左 往 す る し
かなかった。当時、私が暮らしていた新宿の淀橋の周辺には、薄汚れた貸本屋が六軒、
然 と機 能 し て い た のあでる 。いわば、 生 活 現 実 的 な 苛 立 ち や 、 戸 惑 い は 、 日常茶飯事であ
った。 多 分 、 そ の こ と は 、 当 時 の 若 者 に と っ て も 無 関 係 で は な か っ た は ず だ 。
ガロ が 創 刊 さ れ て ニ年して、 飛躍的に発行部数をのばした
『 』 一、 ガの
『ロは誌
、上 に

読 者 で あ る 若 者 た ち の 鬱 屈 し た 心 情 が 投 影 さ れ た 結 果 で あ る 、ガと
『ロ私の
は』先
思駆う。
的な作品群が、苦闘する若者たちの心
チを ガとッら え ては な さ な か っ た か ら だ 。 そ れ
リと
は、偶然であると同時に必然だった。
た し か に 、ガ『ロ の
』作 家 の 多 く は 、 未 知 の 読 者 に 向 け て 何 ら か の メ ッ セ ー ジ を 伝 え ょ う
と し て作品を手がけていたわけではない。孤独と寡黙を愛する孤高の彼らは、自らの内的
世界を表したかったにすぎない。 彼らは、読者に迎合することはなかったし、意識の上に
も置かなかった。 そして、まさに、 その姿勢こそが、若者を魅きつけたのだ。今日では、
白土三平、 水木しげる、 つげ義春、 滝田ゆう、池上遼 一 、 佐々木マキ、 林静一氏らの作品
は、 数 万 、 数 十 万 の 読 者 に 支 持 さ れ て い る の だ ろ う が 、 三 十 数 年 前 、 彼ら の 作 品 を 支 持 し
たのは、 ひと握りの若者にすぎなかった。 七〇年前後 は 、 そういう時代であった、 という
「あとか’き」 にかえて

にすぎない。
かつて、 そ の 頃ガ
の『ロ を
』評 し て 、黄
" 金 時 代"と 称 さ れ た こ と が あ っ た が 、 は た し て
そうだろうか、という疑念が拭いきれない。なぜなら、当時 に
ガ『ロお』
い存
の て在
、な
ど、社会的には、何ほどの価値もなかった、 と思えるからだ。同じ頃、続々と発刊された

253
大 出 版 社 の コ ミ ッ ク 誌 は 、 数 十 万 の 発 行 部 数 を 誇 っ て い たガ『
。ロや
は』は
、り社、
会の片
隅で細々と続いていた、というのがいつわらざる実感である。 細々とではあったが、作 家
リ 作 品 と 読 者 と の 接 合 部 で は 、 想 像 も 及 ば な い エ ネ ル ギ ー が 蓄 積 さ れ て。い た2は ず で あ る
ガロ の 読 者 の 投 稿 ぺ ー ジ で あ
『 』 読「る
者 サ ロ ン」は、 蓄積されたエネルギーの結晶の
場と見做してもいい かの
も し れな い 。 そ こ で は 、 ニ 〇 歳 前 の 若 者 た ち が 、 真 剣 に 、 実 直 に 、
自 ら の 気 持 ち を こ と ば に 換 え た 。 そ の読「
結者果サ、ロ ン」
は、毎 月 、 論 争 の 場と化した。
カ「ム ィ 伝 」への批判と反批判、 つげ義春作品への否定と肯定、滝田作品への非難と絶賛、
佐々木マキ作品への罵倒と反駁、読者同士の全身全霊をかけガ『
たロ討
の』論
魅は力、
のひ
とつであったといってもいいだろう。 七〇年前後といえども、 これだけ言いたいことが言
える開かれた雑誌は、他に例をみなかったのではないか、と思える。
それらの若者に愛された作家に楠勝平さん、勝又進さん、 つりたくにこさんを加えない
の は 、 片 手 落 ち と い う べ き で あ る 。 彼 ら はガ『
、ロ私 』

がた ず さ わ る 前 か ら す で に 充 分
な才能を発揮していた。
楠勝平さんは、 ガ『ロ の』前 身 で あ る忍『法 秘 話か 』ら の 常 連 の 執 筆 メ ン バ ー だ っ
忍『た。
法秘話時
』代 の 楠 作 品 は 、 そ れ ほ ど 目 立 つ 存 在 で は な か っ た
ガ『の
ロだが
』が登、
場してか
らの楠作品は、渋味を増した。江戸町人の暮らしぶりが的確に表現されているようであっ
私 が 時 ど き 青 林 堂 を 訪 ね る と 、 長 井 さ ん は い つ も 目 を 細 め て 、 楠 作 品 を 賞 賛 し た 。 それ
はまるで、自分の息子を照れながら自慢している風でもあった。
そ の あ と 楠 さ ん と は 何 度 も 顔 を 合 わ せ る よ ぅ に な る 。 一一人でつげ義春作品をめぐって小
さな論争を展開したこともある。あるいは、楠作品を厳しく批判し、 そのあげくに大反撃
を く ら っ た こ と も あ る 。 と こ ろ が 、 そ れ が 、 喧 嘩 に 発 展 し た こ と は 一 度 も な か っ た 。 私た
ちのあいだにルールが設けられていたからではない。江
お戸
" 互っ
い子が"
、の 末 裔 だ か ら
でもない。
最「初 に 白 土 先 生 の と こ ろ に 来 ら れ た と き 、 俺 い た ん で す よ 。 憶 え て な い で し よ 。 あ の
と き 、 お 茶 い れ た の 俺 な ん で す」
から
楠さんは、赤目プロのアシスタントだったのである。楠さんは、白土作品の信奉者であ
「あとか’き」 にかえて

ると同時に、 つげ義春作品の支持者であった。楠さんと私が、どんなに激論を交わしても
最後に互いにニコニコしてお茶を飲んだのは、白土さんとつげさんをまん中にはさんでい
たからかもしれない。
そ ぅ い え ば 、 楠 さ ん は 、 一 度 、 白 土 さワ
「ん の」
タリ を 執 拗 に 批 判 しこたと が あっ た 。

255

「タ リ 」
は 、 楠 さ ん が 主 要 な メ ンー
とバし て 協 力 し て い た ら し い の だ が 、 彼 は 、 そ の 御
都 合 主 義 の ス ト ー リ ー 展 開 に つ い て い け な か っ た よ う だ 。 こ う い う と き 、 、私 6た ち は 、 共 に

「タ リ 」
批 判 に 情 熱 を も や し た の だ っ た 。 いや、 次 第 に 、 私 が 白 土 擁 護 に ま
2 わ ら な け れ
ばならなくなっていた。楠さんが笑いながら言った。
な「ん か 立 場 が 逆 じ ゃ な い で す
」か
初期のつりたくにこさん
3?の風 の 作 品 を 読 ん で 、 一 瞬 、 背 筋 の 凍 る よ う な 思 い を し た
ことがある。長井さんは、楠さんのときと同じように、

「ん ど の つ り た さ ん の マ ン ガ す ご い で し ょ う ? 天才少女だと思い
」ま せ ん か ?
と、 こんどは娘自慢 とに
き を費 し た 。
つ り た さ ん に は 、 青 林 堂 入 社 後 に 会 う こ と に な る"天の才だ少が
女、と
" い う よ り は 、 "へ
ン な 女 の 子" だ っ た 。
長 井 さ ん の こ と をお
、「じ さ ん 、 お じ さと

」よ ん で い た 。 長 井 さ ん も 、 本 当 の 娘 の よ う
に、 な に か ら な に ま で 気 遣 っ て い る 様 子 だ っ た 。
そ の 後 つ り た さ ん は悪「
、徳 の 栄 」
を は じ め 、ガ『ロ 』誌上に連載をはじめた。 これらを、
サ ド に 触 発 さ れ た 作 品 と 解 す る の は 間 違 い で 、 つ り た さ ん は 、 サ ドアも
モ、ンもロ、ー ト レ

ー、ギャグの要素のひとつとして適用したにすぎなかった。
マラルメも、 ランポ
そ し て 、 つ り た 作 品 で は 、 マ.ダ
ハルムコ や 、 姫 子 や 、 ロ ク ロ ー や 、 ジ ン ロ ク が 社 会 な
り体制なりからはみだしたところで、馬鹿さわぎを繰り返すのである。彼らにとって、乙
8 もマリファナも夕ハコや酒と同じょうに日常において不可欠のものであった。
0
そう し た つ り た 作 品を強力に支持したのは、 压倒的に 女 子 高 校 生 だ っ た 。 この頃、女子
高生の人気を二分したのガ『が
ロ の
』 つ り た く に こ さ ん で あ り『
0 、0^ の
』岡田史子さん
だった。ただし、 二分された彼女らの性向には大きな隔たりがあった。簡単にくくってし
ま え ば 、 岡 田 史 子 フ ァ ン は 、 非 社 会 的 な 腺 病 質 の 文 学 少 女 で あ っ た 。 そ し て 、 つりたファ
ンは、 政 治 少 女 で あ っ た の で あ る 。
たぶん、 つりたファンである政治少女たちは、作品からうける反体制的気分に酔ってい
た のだ ろ う 。 ロクロ
やジンロクの自由奔放な生き様に恋こがれたのも無理はなかった。

つりたさん自身は、政治活動からは縁遠かったし、 ふだんの行動も、 それほど常軌を逸し
「あとか々き」 にかえて

ていたわけではない。 つりたファンが抱いたのは勝手な幻想でしかなかった。
ある日、 つりたファンの可愛い女子高生が一升ビンをかかえてやってきた。彼女は、

「れ か ら つ り た さ ん の と こ ろ へ 行 こ う と 思 う の 。 住 所 教 え て」
くれない?
と言つて、 ニコッとした。

25 7
オ「ィ オ ィ 、 未 青 年 か 」

とと力めると

2パ
大「丈 夫 ョ 、 乙
3 だけはやらないから
0

と 、 も う 一度、 ニ コ ッ と し た 。 そ し て 、 こ ん な こ と も い つ て の け た 。

「の 前 、 私 た ち の 女 子 高 に 中 核 派 の 〇 〇 さ ん を 呼 ん で 勉 強 会 を 開 い た の 。 こ ん ど は
日大の全共闘議長秋田明大さん呼びたいんだけど、 どう思う。 彼、 カッ 」コ ィ ィ ょ ネ ?
次にやってきた つ り た フ ァ ン も 生 意 気 な 女 子 高 生 だ っ た 。倉 橋 由 美 子 が 、 溢澤龍彦が
夢野久作が、吉增剛造が、 とハシャいでいるうちは、 いかにも高校生らしく、なかなか
い子だなあと、感心していたら、
や「っ ぱ り 、 北 一 輝日
の『本 改 造 法 案 大 綱

』らいは読んでおかないと話にならないわ
ょネ? 」
と言われ、 ガク然とした。 そして続けて、
東「京 で 革 命 が は じ ま り そ う だ っ て 聞 い た の で 、 み ん な で や っ て き た ら そ ん な 雰 囲 気 ど
こにもないじやない? 明日、 つりたさんとこでも寄って田舎へ
」帰 ろ う か な
と、 適当にあしらわれているょうなので少々腹が立ち、真面目に相手するのも馬鹿ら
くなって、

「ル メ ッ ト か ぶ っ て デ モ な ん か や っ て な い で 、 親 孝 行 し
」な さ い !
と言おうものなら、

「ッ 、 古 い わ ネ 。 い ま は ね 、 お 金 持 ち の 愛 人 が 一 番 ョ 、 ホ ン ト に
」な ろ う か な
とうそぶく始末であった。

「ま つ げ さ ん 暇 な ん で し ょ 。 ガ
最『ロ
近』に描いてないじやない。会ってもいいかな
あ 」
そうなのだ。 つりたファンの女子高生の多くが、 つげ義春ファンでもあったのだ。 そ
因果関係はわからない。 ただ、 つりたファンである政治少女たちの憧れの的は、吉行淳
介、野坂昭如、 そしてつげ義春であった。頭デッカチの彼女らは、反体制卩不良性と理
していたのかもしれない。 つりたくにこさんも、 とんだ女子高生たちに囲まれたもので
「あとが' き」 にかえて

楠勝平さんもつりたくにこさんも、すでにこの世を去った。

259
北冬書房)、共著
ら、北冬書房を興す。つげ義春、つげ忠男、林静一、伊藤

つげ義春全作品を語る』 (ともに
重夫、菅野修、湊谷夢吉、鈴木清順、加藤泰、秋山清諸氏
夜行』続刊中。著書に
本名高野慎三。1940年、東京生まれ。文具店を営むかたわ

ガ『
ロ 』
を築いた人々

0
I マ ンガ 年私史

3
著 者 ”権 藤 晋 @
旧街道』 (

一九九三年四月ニ五日第一刷
一九九三年六月一五日第一一刷
の著作を刊行。書き下ろし作品集『

1
発行所“東
株京式都
会文社京
ほ区る本
ぷ郷出三
版丨一五 ニ 〒 3
喇嘛舎)、『
ごんどうすすむ)


西河克巳映画修業』、『 発行者"池 邊 光 六
ねじ式」夜話』 ( 印 刷 “藤原印刷株式会社
製 本 “大口製本印刷株式会社

ワイズ出版)。
権 藤 晋 (


138 4-593-53428-3
本書を無断で複写 コ
(ピー す
)ることは、著作権法上
認められている場合を除き、禁じられています。複

に『

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