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太宰治生誕百年

太宰治
朗読の楽しみ
微苦笑を誘う太宰治
微苦笑を誘う太宰治のエピソード

平成22年1月

定武禮久
teabreak

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太宰治生誕百年 太宰治 朗読 のののの楽楽楽楽 しみ
目目目目 次次次次
●●●● はじめに 4
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●●●●太宰治 波乱 のののの三十九年 のののの生涯


誕生 から弘前高校 で の自殺未遂 ま で 6
東京帝大時代 の自殺未遂や芥 川賞落 選 8
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パビナー ル中毒 から 回復 し、結 婚と生家 と の和解 ま で


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終戦後 の 「
斜 陽」 「
人間失格」 の執筆 から 玉川心中ま で
●●●●かくも人間的なななな太宰治
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太宰治 は、大食漢 !
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太宰治 は、犬が怖 く てたまらな い!

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太宰 は、 三十 二歳 にして総 入れ歯 で、 豆腐 が大好き !

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太宰 は自 己愛が強 く て、似顔絵 が大好き !

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隣 人と天気 の挨拶 も できず、突然 の押 し売 りに動転す る太宰

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多額 の税金通知を前 に、 メソメソ泣き周章狼狽す る太宰

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壇 一雄を人質 にして遁走 した 「
熱海事件」が、 『
走 れ メ ロス』 のヒント ?

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三島由紀夫ら に嫌 われ、中原中也 に毒 づ かれた太宰

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芥 川賞 受賞 を懇 願 し、落 選 して恨 み節 を垂れ逆上す る太宰

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大御 所 の志賀直哉 に噛 み付 いた太宰

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四回 の心中、自殺未遂事件 の後 の玉川心中
はじめに
昨年― 平成 二十 一年 は、太宰治生 誕百年と いう節 目 の年 でした。太宰治 は、昭和 二
十三年 (一九 四八年)六月 に玉川上水 で入水自殺 し、そ の後半世紀 が経過 しま したが、
そ の根強 い人気 は衰え る様 子があ りま せん。 誕生 日でもあ り遺体 発見 の日でもあ る六
月十九 日 の桜桃忌 には、 三鷹 の禅林寺 の墓前 に花を手向け る方 々が多 く集 まります。
はこ
そ のような太宰 人気 ですが、生 誕百年を記念 して、昨年 は、 「
斜 陽」 「
パ ンドラ の匣」

ヴ ィ ヨンの妻 」が相次 いで映画化さ れま した。 特 に 「
ヴ ィ ヨンの妻 」 は、松た か子
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らが主演 し、第 三十三回 モントリオー ル世界映画祭 で監督賞 を受賞 す るな ど、大 きな


話題を呼びま した。そして今年 は、 「
人間失格」が春 の公開 に向け て準備が進 められ て
います。書店 でも、太宰治 の コーナーが設けら れ て いると ころも多 く、新書版 でも新
し い装 丁にしたり、横書 き にしたり、さら には漫 画本 ま で登場 して います。 これら の
動き に刺激さ れ て、改 め て太宰 の作 品を読 み返 し、 あ る いは新 た に触 れ、 そ の魅 力を
再認識さ れ る方 も多 いこと でし ょう。
他方、太宰治 の作品 の朗読 も、多 く の方が取 り組 ん でおら れます。 私 のほう で、皆
さ んが朗読ブ ログ にア ップさ れ ておられ る朗読 を作家 ・作品ご と に集約 して、『日本名
作 文学 朗読 選』 の形 でア ップ して いますが、 そ こでは、や はり太宰治 の作 品が圧倒的
多 数 とな って います。今 も毎 月 のよう に新 し い朗読 が加わ って います。 それだけ、今
も人を惹き つけ るも のがあ る のでし ょう。
そ こで、今 回、太宰治 のさ まざ まな エピ ソードを各種 の本 から集 め て、 まとめ てみ
ま した。参考 文献 は巻末 にまとめ てあ りますが、微苦笑を誘う エピ ソードば かり です。
友 人、知 人とな ると大変 でし ょうが、 「
し ょうもな いな ぁ ・・・」と最後 は思 ってしま
します。太宰治を身 近 に感 じ、 そ の魅力が い っそう増す お役 に立 てば幸 いです。

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な お、冒頭 には、太宰治 の三十九年 の生 涯を簡単 にご 紹介 して います ので、参考 に
して いただければ幸 いです。
太宰治 波乱 のののの三十九年 のののの生涯
太宰治 の人生 に ついては、 よく知ら れ て いると は思 いますが、さまざ まな エピ ソー
ド の背景 にもな ります ので、改 め て簡単 に振 り返 っておきま し ょう。
●●●● 誕生から弘前高校 での自殺未遂ま で
太宰治 の本名 は、津島修治。 一九〇六年 (
明治 四 二年)、青森 県津軽 の有数 の素封家
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であ る 「
津島家 」 の六男 と して誕生 しま した。 六男 と い っても、 十 一人 の子供 の十番
目 です。 ただ、 一番上 の二人 の兄が 早く に亡くな りま した ので、 八人兄弟 姉妹 の中 で
育 ち ま した。 父親 は、婿養 子 でしたが、県会議員、衆 議院議員、多額納税 による貴族
院議員等 を つと めた地 元 の名 士 でした。 父親 が亡くな ってから は、長 兄 の文治、次 兄
の英治が、実質的 に津島家 を取 り仕切 る こととな りま した。
太宰 は、 小さ い頃 は、 母親 が病 弱 で政治家 の妻 と して多 忙だ った せ いでし ょう か、
叔 母 に預けら れ て育ちま した。 父にも母 にも 兄にも似 て いな いと思 い、自 分 は叔 母 の
子 ではな いかと本気 で信 じたときもあ ったよう です。叔 母 から は、数多 く の昔噺な ど
を聞 かさ れ て育ちま した。
また、 三歳 から は、 子守 のたけ ・・・と い っても、 小学校 を卒業 したば かり の十 四
歳 ですが― が ついて、文字 を教えら れたり、本を読 まさ れたり しま した。太宰 は、 文
字 に異常 な興味 を持 って いたら しく、 尋常 小学校 入学前な のに、 たけが与え た教科書
の二巻 ま でを暗 誦 してしまう ほど でした。特別 に小学校 に机 と椅 子を与えら れたと い
います から、や はり幼 い頃 から 人と は違 って いたよう です。 こ のたけ のこと は、後 々

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ま で懐 かしみ、後 の長編 小説 『
津軽』 で描 かれた感動 の再会場面は有名 です。
小中学校 は優秀な成績 を収 め て卒業 し、 十八歳 のとき に弘前高校 に入学 します。 こ
の時代 の空気 もあ り、プ ロレタリ ア文学 運動 にも影響さ れ、創 刊 した同人誌 で、生家
を告 発す る小説 を発表 します。 二十歳 で、自ら の地主 と いう 出身階級 に悩 んだと いう
ことら し いですが、 カ ルモチ ンを大量 に服用 して最初 の自殺未遂 を起 こします。
心酔 して いた芥 川龍 之介 が 「
ぼ んや り した不安 」 により自殺 した こと に シ ョックを
受け て いたと いいます から、 それも頭 にあ ったと いう見方 もあ ります。
●●●● 東京帝大時代 のののの自殺未遂 やややや芥 川賞落選
二十 一歳 にして、東京帝 国大学仏文科 に入学。こ の頃 は英語、ドイ ツ語が はや り で、
仏文科 は定員割 れ でした から、無試験 入学 でした。初 めから卒業す る つも りはな か っ
たと いいます。大学 では共産党 のシンパ活動 に従事。芸妓 の小山初代と の結 婚を望 み、
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家 出をさ せた こと で芸妓 の置屋と の関係 でこじれますが、長 兄文治が収 め てくれ て結


婚 は認められま した。 ただ し、津島家 から は分家除籍す る、大学卒業 ま では仕送 りを
す ると いう条件 でした。 これ は昭和 五年 (一九 三〇年)秋 ですが、直後 にカ フ ェの女
給 田部 あ つみと鎌倉 心中未遂事件を起 こします。太宰 は生き残 りあ つみは死亡。太宰
は自 殺幇 助罪 で取 り調 べを受 け、新 聞 にも大きく取 り上げ ら れま した。 こ の自殺未遂
事件 は、そ の後も、芥 川賞 受賞 を狙 った 「
道 化 の華」 「
虚構 の春」あ る いは、そ の後 の
代表作 「
人間失格」 でも繰 り返 し取 り上げ られ て います。
そ の心中未遂事件 の三 ヶ月後、芸者 から解放さ れた初代 と 正式 に結 婚 し、 五反 田で
暮らす よう にな ります。 共産党 のシンパ活動 から はや が て離脱。 二十 四歳 から太宰治
の筆名 で作品を発表す るよう にな りま した。 「
思 い出」 「
魚 服記」 「
葉」などよく知られ
る作品 は こ の頃 のも のです。
そ の後 二十六歳 で都新聞 の入社試験 に失敗 し、鎌倉 の山 で首 を 吊 って自 殺未遂。息
を吹 き返 した のも つか の間、急 性盲 腸炎 で入院、重態 に陥 ります。 そ して手術 で使 っ
た鎮痛 薬 のパ ビナー ルが習慣化 し中毒 にな ります。 一ヵ月 の薬代 は、平均初任給 の七

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倍 の四百円 にも達 したと いいます。武蔵 野病院 に入退院を繰 り返 しますが、そ の間、「

行」が芥 川賞候補 とな りますが、次席 に。 そ の後 も同賞 を狙 って佐藤春夫や 川端康成
に懇 願 しますが、あえなく落 選。東京帝大 は遂 に除籍処分とな りま した (
昭和十 一年。
二十七歳)

●●●● パビ ナー ル中毒から回復 しししし、、、、結婚とととと生家と の和解ま で
三度 にわ た る芥 川賞 受賞 の夢 も潰 え て、太宰 は、 パ ビナー ル中毒 が悪 化。全治 せぬ
まま入退院を繰 り返 します。 そ の間、内縁 の妻 の初代 が、美術学校 の学 生 と姦 通事件
を起 こし、翌昭和十 二年、水上 温泉 で初代と心中を図 るも未遂 に終わ り、初代と離 別。
初代 は中国 に渡 り、後 に亡くな ったそう です。
昭和十三年、 二十九歳 で、気 が進 まな いながら も周囲 から頼 まれ て太宰 の後見役的
存在 とな って いた井伏鱒 二 の紹介 で、富 士山に近 い御坂峠 の天下茶屋 に投宿。 井伏 の
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伝 で、東京女高師 (
現 ・御 茶 ノ水女 子大)卒 で高等女学校 の教師 を して いた美知 子夫
人と見合 い。 生家 から の直接 の支援 はな か ったも のの、 そ の旨 正直 に話 して婚約 に至
りま した。 こ の間 の天下茶屋 で の滞在 が、名作 『富嶽 百景』と して結実 します。
昭和十 四年 の 一月 に井伏夫妻 の媒酌 で結 婚式 を上げ 、 甲府 に新居を定 めます。 これ
で太宰 の生活も心身 とも に安定 し、翌年 にかけ て、「
富嶽 百景」「
女生徒」「
黄金 風景」

そ して 「
走 れ メ ロス」 「
思 い出」など の代表作を次 々と発表。居所も、終 の棲家 とな る
三鷹 に転居 します。 これが三十歳 のとき でした。
昭和十六年 は、 日米戦争 が始 ま った年 ですが、長女 の園 子が 誕生。 母 の見舞 いに実
に十年ぶ りに津軽 の生家 に帰郷 します。戦 局も厳 しくな り文士徴用もあ りま したが、
胸部疾患 により免 れま した。翌十七年 には、母危篤 のため、初 め て妻 子同伴 で帰郷 し、
以降、法要や疎開など でたびたび帰郷す る こと にな ります。
戦時中 は、放蕩 少年 の保険金殺 人をもと に書 いた 「
花 火」 (
そ の後、 「
日 の出前 」と
改題)が全 文削除 を命 じられた こともあ り、古典 に発想を得 た 「
右大臣実朝」 「
新 釈諸
国話」 「
お伽草 子」を相次 いで発表。昭和十九年 には、書店 から の依頼 により津軽地方

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を旅行 し、 これを 「
津軽」と して刊行。津軽 に疎開中 に終戦 を迎え ま した。
●●●● 終戦後 のののの 「「「「 人間失格」」」」 のののの執筆から 玉川心中ま で
斜陽」 「
終戦後 から、執筆 に専念。坂 口安 吾や織 田作 之助ととも に、無頼派作家 と して注 目
さ れ るよう にな ります。印税収 入も急速 に伸 び て いきます。
他方、生家 は、農 地改革 により土地 の没収等 で斜 陽 にな ったも のの、 昭和 二十 一年
には長 兄 の文治が衆議院議員 に当選 しま した。 一家 は三鷹 に戻り、 「
斜 陽」 の構想を練
ります。 これ は、 昭和十六年 に友 人らととも に訪ね てきた太 田静 子 の日記がもと にな
ったも のです。
昭和 二十 二年 には、さ まざ まな身 辺変 化が生 じます。 二月 に小 田原 の太 田静 子 の別
荘 を訪ね、ここで受胎 して十 一月 に太 田治 子が誕生 します。認知 の求 めに応 じ て、 「

の子は、 私 の可愛 い子 で、 父を い つでも誇 ってす こや かに育 つことを念 じ て いる」と
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いう 「
證」を書 いて います。 三月 には後 に玉川 で心中す る山崎富栄と三鷹 駅前 の屋台
で知 り合 った ほか、次女 の里 子が誕生 しま した。 こ の間、 「
トカト ント ン」 「
ヴ ィ ヨン
の妻 」など の作品も発表さ れ て います。
そして昭和 二十三年 (一九 四八年)に入ります。春 以降、「
人間失格」の第 一回、「

桃 」を発表。 不眠症 に悩まさ れ、喀血 したりしま した。 文壇 の大御 所だ った志賀直哉
を批判 ・罵倒 す るに至 る 「
如是我聞」を連載 した のも こ の頃 です。 そ して いよ いよ六
月十三 日、 「
グ ッドバイ」 の連載 原稿を残 したまま、山崎富栄ととも に雨降 りしき る玉
川上水 で入水自 殺 してこ の世を去 ります。遺体 は十九 日にな ってや っと発見さ れ、豊
島与志雄 を葬儀委員長と して告 別式 が行われた のち、 三鷹 の禅林寺 に葬 ら れま した。
死後、『人間失格』や 『桜桃』が刊行さ れま した。 以降、 これ にちな ん で、誕生 日でも
あ る六月十九 日を 「
桜桃 忌」と して太宰 を偲ぶ会 が開 かれ るよう にな りま した。享 年
三十九歳。美知 子夫 人と の結 婚生活 は九年間 でした。
そ の後、美知 子夫 人は平成九年 (一九九七年)ま で生き、『回想 の太宰治』を刊行 し
て います。享年 八十五歳 でした。また、 「
斜 陽」 のモデ ルとな った太 田静 子は、井伏ら

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に、太宰 の名誉 ・作品 に関す る 一切 の言動を慎 む ことを誓約さ せられ るも、 これを破
って 『
斜 陽 日記』 を刊行 し、波紋を呼びま した。 そ の後、 一九 八 二年 ま で生き、 六九
歳 で死去 します。
ちな みに、美知 子夫 人と の間 の次女 の里子が、後 の作家 の津島佑 子。太 田静 子と の
間 の娘 の太 田治 子も作家 とな ります。 長女 の園 子 の夫 とな った のが、自 民党 の重鎮 の
津島雄 二です。
((((
注)太宰治が書 いたまとま った自伝的作品と しては、 「
思 い出」 「
東京八景」 「
十五年
間」があ り、参考 にな ります。
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かくも人間的なななな太宰治 !!!!
それ では次 に、太宰治 の極 め て身 近 で人間的な側 面を感 じさ せる エピ ソードを、 い
く つか の太宰本 の中 から ピ ックア ップ してご 紹介 しま し ょう。
● 太宰治 はははは、、、、大食漢 !!!!
まず は、身 近なと ころから、食 べ物 の話 から です。

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あくじき
嵐 山光 三郎さ ん の 『文 人悪食』 の太宰治 の項 目を みると、次 のよう に書 いてあ りま
す。

太宰治 は、大食漢 であ り、人 一倍食 い意 地が は って いた。・・・東京 に出 てきたと
き は、 下宿用 の棚 の奥 にカ ニや みかん の缶詰 ほか保存食 を宝 物 のよう にし こたま しま
いこみ、客 の接待用と してサ イダ ーも保管 してあ った。客用と しながら も実 は自 分用
で、思 いた てば ひたすらガ ツガ ツと食 べた。 そ の食 い散ら かしかた はな にかに復讐 す
るような異常さ で、訪問 した高校時代 の友 人は、見 て いるだけ で つらくな ったと いう。」
昭和十 二年 に、 井伏鱒 二らと三宅島 旅行 に行 ったとき には、味噌 汁を い つも六杯 も
飲 ん で いた由。
嵐 山さ んは、太宰 が かな り の大食 ら いでも太らな か った のは、左側肺結核症 と、 パ
ピナー ル注射 による慢性麻薬中毒症、神経質な性格 と不眠症 によるも のと書 いた上 で、

太宰が太 ってしま ったら、さぞ読者 は幻滅 しただ ろう。」と して いますが、ま ったく
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同感 です (
笑)。
『文 人悪食』 には、太宰 と交遊 のあ った壇 一雄 の思 い出話 も紹介 さ れ て います。 た
とえば、太宰 と新宿 を飲 み歩 いて いるとき、太宰 は夜店 にうず たかく積 みあげ た カ ニ
の山 から、 一匹 のカ ニを 手掴 みに選びと り、歩 きながら カ ニを 手 でむ し ってム シャム
シャと食 ったと いう話。あ る いは、太宰 は味 の素 の大 の愛好家 で、 「
ぼ くが絶 対 に確信
が持 てる のは味 の素だけだ」と言 い、鮭 缶を丼 のな かに空け、 そ の上 に無 闇と味 の素
を振 りかけ て食 ったと いう話。栄寿 司と いう店 で太宰 が鶏 の丸焼きを指 でむ し って裂
きながら、ム シャム シャと食 っては飲 んだ狂乱 の姿 を見 て、「
大きく開く 口のな かから、
太宰 の金歯 が隠 見 して、頭髪 をふり乱 して鶏を む しり裂 く姿 は悪鬼 のようだ った」と
いう話などなど ・・・。
美知 子夫 人 の 『回想 の太宰治』によると、 「
太宰 には鶏 の解体 と いう隠 れた趣味 があ
り、頼 ん でもや りそう にな い人な のに、 これば かりは自分 の仕事 と決 め て いる。肉 は
骨付き のままぶ つ切りにして、内臓 は捨 てる べきも のを取 り去 るだけ で、「
こ のとき は
必ず、『トリは食 ってもドリ食うな』と言 ってね」と いう せりふが出 る (
ドリは臓物 の

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一部)
。私 のカ ッポウ着 を着 てそ の仕事 を楽 しん で いる最中、来客があ って (
居留守 を
使 った)」 のだ そう で、解体 した鶏 は、水たき か鍋 にして、書生流 に豪快 に飲 みか つ喰
う のだ そう です。
これだ け の食欲 と神経症、 心中と い った話と は、 あまりイ メージが結 び つきま せん
が、微苦笑を誘われます。
● 太宰治 はははは、、、、犬犬犬犬がががが怖怖怖怖く てたまらな い!!!!
太宰 の作品 に、 「
畜犬談」と いう ユー モラ スな作品があ ります。

私 は、犬 に ついては自信 があ る。 い つの日か、 かならず喰 い つかれ る であ ろう と い
う自信 であ る。」と いう のが冒頭 の出だ しですが、犬 が嫌 いで怖 いので、 「
私 は、 ま じ
め に、真剣 に、 対策 を考え た。 私 はまず犬 の心理を研究 した。 人間 に ついては、 私も
いささ か心得 があ り、 たま には的確 に、 あや またず指定 できた ことな どもあ った ので
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あ るが、犬 の心理 は、な かな かむず かし い。 人 の言葉 が、犬 と 人と の感情 交流 にどれ


だ け役立 つも のか、 それが第 一の難問 であ る。 言葉 が役 に立 たぬとす れば、 お互 いの
素振 り、表情 を読 み取 るより ほかにな い。 し っぽ の動きな ど は、重大 であ る。 けれど
も、 こ の、 し っぽ の動きも、 注意 して見 て いるとな かな かに複 雑 で、容易 に読 みきれ
るも のではな い。 私 は、 ほと んど絶 望 した。 そう して、 はな はだ拙劣 な、無能きわま
る 一法を案 出 した。 あわ れな窮余 の 一策 であ る。 私 は、と にかく、犬 に出逢 うと、満
面 に微笑 を湛え て、 いささ かも害 心 のな いことを示す こと にした。夜 は、 そ の微笑が
見えな いかも しれな いから、無 邪気 に童謡を 口ずさ み、や さ し い人間 であ る ことを知
ら せようと努 めた。・・・犬 の傍を通 る時 は、どんな に恐 ろ しく ても、絶 対 に走 っては
なら ぬ。 に こに こ卑 し い追従笑 いを浮 べて、無 心 そう に首 を振 り、 ゆ っく り、 ゆ っく
り、内 心、背中 に毛虫が十匹這 って いるような窒息 せんば かり の悪寒 にや ら れながら
も、 ゆ っくりゆ っくり通 る のであ る。」と書 かれ て います。
そ して 「
むや みや たら に御機嫌 と って いるうち に、 ここに意 外 の現象 が現わ れた。
私 は、犬 に好 かれ てしま った のであ る。尾を振 って、ぞろぞろ後 に ついてく る。私 は、

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じだ んだ踏 んだ。 じ つに皮肉 であ る。」とあ り、読者 を笑わ せます。
これ は、 小説 の上 で のフィク シ ョンかと思うと そう で、実話 に近 いよう です。太宰
の美知 子夫 人 の 『回想 の太宰治』 には、新 婚時代 を過ご した甲府 の御崎 町 で のことが
書 かれ て いて、 そ の中 に、犬 のことが書 かれ て います。

犬 のこと では驚 いた。 そ の頃甲府 では犬 はた いて い放 し飼 いで、街 には野犬 が横
行 して いた。 一緒 に歩 いて いた太宰 が突如、路傍 の汚 れた残雪 の山、 と い っても せ い
ぜ い五十 セ ンチくら いの山 にかけ上が った。前方 で犬 の喧 嘩 が始 まりそうな形勢 な の
を逸 早く察 して、難を避けた つもりだ った のであ る。 それ ほど犬嫌 いの彼があ る日、
後 に ついてきた仔犬 に 『卵をや れ』 と いう。愛情 から ではな い。怖 ろ しく て、 手なづ
け るため の軟 弱外交な のであ る。」
ちな みに、美知 子夫 人は、 「
彼 のこ の後 の人間関係を みると、や はり 『仔犬 に卵』式
のよう に思われ る」と振 り返 って います。
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● 太宰はははは、、、、 三十 二歳 にして総 入れれれれ歯歯歯歯 でででで、、、、 豆腐がががが大好きききき !!!!
太宰 は、新 婚 の甲府時代 には、 八畳と三畳 の二間だ け の庵 のような家 に落ち着 きま
したが、 近く に酒屋、煙草 屋、 豆腐 屋 の三 つの 「
彼 に不可欠 の店」があ った ので、便
利だ ったと いいます。美知 子夫 人 の 『回想 の太宰治』 には、次 のよう にあ ります。

酒 の肴 はも っぱら湯豆腐 で、『
津島さ ん ではふたりきりな のに、何 丁も豆腐 を買 っ
てどうす るんだ ろう』と近隣 で噂さ れ て いると いう ことが、廻り廻 って私 の耳 に入り、
呆れた ことがあ る。太宰 の説 によると、『豆腐 は酒 の毒 を消す。味噌 汁 は煙草 の毒 を消
す』 と いう のだが、 じ つは歯 がわ る いのと、何 丁平らげ ても高 が しれ て いると ころ か
ら 豆腐 を好 む のであ る。」
同書 では、 「
昭和十六年 の夏 ま で の太宰治 の歯 は、俗 に 『みそ っ歯』と いうが、小さ
い三角形 の歯 の残欠ば かり で、歯ら し い歯 は 一本 も見えな い上、 そ のみそ っ歯 が、 日

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おはぐろ
本 の昔 の女 性 の鉄漿 のよう に黒く て、彼 の容貌 の大 きな特徴 にな って いた。 あ るとき
太宰 が両 手 の親指 を唇 の両端 にかけ、残 る四本 の指 を左右 のこめかみに当 てて唇を つ
り上げ て見せた。 口の避けた恐 ろ し い般若が現れた。・・・むき出さ れた黒 い尖 った歯
が機器を増す上 で大変効果的 で、彼自身 それを承知 でや って いるよう に思わ れた。鏡
に向 か って、 いろ いろな表情 を作 ってみた ことあ るに違 いな い」と書 かれ て います。
入れ歯 にす る ことを勧 めた のは、長女 誕生前 後 のことだ そう で、渋 る太宰 を説 き伏
せ て、 井 の頭 公園近く の有 田医院 に通う こと にな った由。有 田氏 によれば、職業 は聞
かな い場合 が多 いが、 そ の 一風変わ った風体 と いい、年 のわ りに悪 い歯 と いい、 つい
職業 を聞 いてしま ったそう です。 それ で初診 の日から悪 い歯 を抜き始 め て、 三十 二歳
と いう若さ で総 入れ歯 に近くな ってしま った由。
美知 子夫 人 は、 「
長 い間通 って義歯 が できあが り、男ぶ りが数 段増す かと思 いの外、
白 いに ょき に ょき した義歯 が顔 にな じまなく て、 見な れた黒 い歯 のとき の方 が数 段 よ
か ったような気が した」と回想 して います。
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● 太宰はははは自 己愛がががが強強強強く て、、、、似顔絵がががが大好きききき !!!!


太宰 の代表作品、『人間失格』 では、お道 化 で人を笑わす姿 が出 てき て、どうや った
ら 人を笑わす ことが でき るかに意 を払 って います。『思 い出』では、次 のよう に書 かれ
て います。

私 は顔 に興味 を持 って いた のであ る。読書 にあき ると手鏡 をとり出 し、微笑 んだ り
眉を ひそめたり頬杖 ついて思案 にくれたりして、 そ の表情 をあ かず眺 めた。 私 は必ず
人を笑わ せる こと のでき る表情 を会得 した。 目を細 く して鼻 を皺 め、 口を 小さく尖 ら
すと、小熊 のよう で可愛 か った のであ る。・・・私 のすぐ の姉 はそ のじぶ ん、まち の県
立病院 の内科 へ入院 して いたが、私 は姉を見舞 いに行 ってそ の顔を して見 せると、姉
は腹を おさえ て寝台 の上を ころげ 廻 った。」

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手鏡 には驚 きますが、太宰 の似顔絵 好きも、 そ の延長 でし ょう。似顔絵 と い っても
自分 の似顔絵ば かり です。美知 子夫 人 の 『回想 の太宰治』 には、

高校 三年 のとき の英語 のテキ ストが 一冊遺 って いる。・・・そ の表紙裏や本分 の余白
に、 いく つも のいく つも自 分 の顔が いたずら描 き してあ り、 ペ ンで描 いた自 分 の顔 の
間 に、本名と 『瀬 川銀 十郎』『大藤 若太』『小菅 銀吉』等 の筆名 ?が交 じ って書 いてあ
る。・・・
中学、高校時代 の教科書や ノートにも多 く の顔が書き こまれ て いるら し い。・・・

自分 の寝顔さえ スケ ッチ でき る』 のは事実だ った のだ。
こ のような性癖 は、 つま りは太宰 が い つも自 分を み つめ て いる人だ った ことを表 し
て いる。 風景 にもすれ違 う 人 にも目を奪 われず、自 分 の姿 を絶 えず意 識 しながら歩 い


てゆく人だ った。 こ の人は、『見 る人』 でなく、『見られ る人』だと思 った。近視眼


であ ったが、精神的 にも近視 のような感 じを受けた。」
と書 かれ て います。太宰 は、昭和 二十 一年 の座談会 で、 「
ぼ く はね、今 ま で人 の事 を
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書 けな か ったん です よ」と発言 して いるそう ですが、 た しかに、太宰 の独白 風 の作 品


群 を読 むとそ の感を強 く します。美知 子夫 人は、 「
画家 が画 で遺す自 画像 を、彼 は文字
で書 いて遺 した。」と書 いて います。
そ して、太宰 は、自然 の への関心が薄 か ったと振 り返 って います。 甲府時代、 八十
八夜 のとき に信 州 に二泊 の旅 に出 かけ、 諏訪 に泊 ま ったとき のこと。夫 人 は以前 来 た
とき のよう に、高 原 の自然 を満喫 した いと思 い、太宰 を散歩 に誘 いますが、蛇が怖 い
と い って、宿 に着 いたきり、籠 も って酒、酒だ った由。 「
これ では、蓼科 に来た甲斐が
な い。 こ の人 にと って 『
自然』 あ る いは 『風景』 は、何な のだ ろう。 お のれ の心象 風
景 の中 に のみ生き て いる のだ ろう か―― 私 は盲 目 の人と連 れ立 って旅 して いるような
寂 しさを感 じた。」と夫 人は嘆息 して います。
美知 子夫 人 の観察 眼、表現力 の高さ には驚 くば かり ですが、例えば、次 のような表
現があ ります。
つい

こ の人は自分 で自分を啄ば ん で いるようだ」

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太宰 の自 己愛 は、時 と して僻 み っぽさ にも つなが ります。美知 子夫 人が 回想す るに
は、 「
当時 A氏 の 『F』と いう長編 小説が評判 で、私 は太宰 に会 ったとき の 『F』 のこ
とを話題 にした。 話題 にしただ けな のだが、 これ はよくな か った。 そ のとき は何 も言
わな か ったが、あとあとま で、『お前 は Aの 「
F」を言 いな ん て言 ったね』と いう言 い
廻 しで、太宰 と いう作家 を前 にお いて、他 の現存作家 の名や作 品を 口にした ことを詰
った。」
自 分 は他 の多 数 の女性と付 き合 って いながら、 よくもまあ ・・・と呆れ てしま いま
す。
● 隣人とととと 天気 のののの挨拶も できず、、、、突然 のののの押押押押 しししし売売売売りに動転する太宰
『人間失格』 の手記 に、 「
自分 には、人間 の営 みと いうも のが いまだ に何 もわ か って
いな い」 「
自分 ひとり変わ って いるような、不安 と恐怖 に襲 われ るば かりな のです。自
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分 は隣 人と、 ほと んど会 話 できません。何を、 どう い ったら いいのか、わ からな いの


です。」とあ ります。
現実 の太宰 もそうだ ったよう です。美知 子夫 人は、 「
来客と の話 は文学 か、美術 の話
に限られ て いて、隣 人と天気 の挨拶を交す ことも不得 手な のであ る。」と し、三鷹時代
に、突然 の行商 人に動転 したとき の様 子を紹介 して います。

まだ こ の新 開地 の環境 にも家 にもな じまな い引越 し早 々、・・・あ るとき花 の苗を売
り歩 く男 が庭 に入 ってきた。 生 垣がざ っと境界 にな って いるだ け で誰 でも何時 でも庭
に入 ってこれ る。 これ は郊外 でよく見 かけ る行商 人 で、 別 に贋 百姓と いうわけ ではな
いが、特有 の強 引さ で売 り つけ て、 まご まご して いるとそ こら に植え てしま いそうな
勢 いであ る。太宰 はまだ こ の 一種 の押 し売 りを相 手 にした ことがな か った のだ ろう。
机 に向 か って余念 がな いとき、突然鼻先 に、 見知ら ぬ男が現れた ので動転 して、喧 嘩
を売ら れたような応答を した ので先方 もや り返 し、険悪な空気 にな った。結 局六本 の
バラ の苗を植え て男 は立ち去 り、 こ の苗 はち ゃんと根付 いた のであ るが、 こ のとき私

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は太宰と いう 人 の、新 し い 一面を見たと思 った。・・・こ のような行商 人と の応酬など
は 一番苦 手 で、 出会 いのはじめから平静 を失 って いる。 こ のとき不意打ちだ った のも



まず か った。 気 の弱 い人 の常 で、人に先 手を取られ る ことをきらう。それ で い つも
人に先 廻りば かりして取越苦労す ると いう損な性分 であ る。」
美知 子夫 人は、「
こ の 一件 の 一部始終を見聞き して いた のに、太宰が小説 で書 いた内
容と の食 い違 いに驚 いた」と いいます。こ の薔薇 の押 し売 り の話 は、『
善蔵を思う』『

井喧争』 に描 かれ て います。前者 では、 不愉快 に思 い つつも、 丁寧 に応 対 したか のよ
う に描 かれ て います し、後者 では、相 手が絡 む のに恐怖、 困惑 し つつも 丁 々発止や り
あ ったか のよう に描 かれ て います。
い つわ り
美知 子夫 人 曰く、 「(
こ の食 い違 いは) これ はどう いう ことな のだ ろう。 偽 かま こ
と かと いう 人だ―― と私 は思 った。」
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● 多額 のののの税金通知をををを前前前前 にににに、、、、 メ ソメ ソ泣泣泣泣きききき周章狼狽する太宰


太宰 の生活無能 力的な様 子は、多 額 の納税通知 を受 け取 った経過 から も伺 い知 る こ
とが できます。
太宰 は結 婚後 もず っと、津軽 の国許 から、 月額九十円 の仕送 りを受 け て いま した。
作家 と して の収 入 はまだ 不安だ ったも のの、太宰 はそれを生活費 に充 てると いう より
は、全部自分 で遣 ってよ い小遣 いだ と考え て いたよう です。裕福な地主 の家 に生 まれ
育 ったがために身 に ついた経済観念だ ったと、美知 子夫 人は言 って います。
や が て、太宰 の作品も売 れ るよう にな り、全集 も発刊さ れ、終戦後 に印税収 入が急
増す るよう にな って仕送 りは辞退 したと のこと。 そ の頃、 ひど いイ ンフレを抑え るた
め の金融緊急措 置と して預金封鎖がなさ れま した。 いくら銀行預金があ っても自 由 に
払 い戻 しはできず、税務 署 が証明 した所得 の金額 によ って払 い戻 し額が決 められたと
いいます。 そ して、 そ の所得 の金額 の証明依頼 は、本 人 の申告 で行う仕組 みだ った の
だ そう です。 人気作家 の列 に加 わ り、 原稿依頼、 出版申 し込みも急増 した こと から、

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やや 控え めに、 それ でも 「
五千 円」と の所得 (
昭和 二十年分) の証明依頼を武蔵 野税
務署 にし、得意 にな って いたと のこと。
太宰 とす ると、 そ の先 の納税 のこと はあまり念頭 になく、 これ で毎 月 五百円ず つ銀
行 から引き出す ことが でき るよう にな り、闇 の高価なウ ィ スキーや 外国煙草 を買 い入
れ るため の十分な 小遣 いが確保 でき る、と踏 ん で いたよう でした。
と ころが、 翌年 の所得 の申告 は行わず、翌 々年 の昭和 二十三年 二月末 にな って、前
年 の所得金額を 二十 一万円と決定 し、納税額十 一万七千円とす る告知書が届きま した。
イ ンフレを考慮 して、 二十 二年 の所得 を、 五千 円 の四十倍 に査定さ れ、 そ の半分 近 い
納税 を迫られた のです から焦 る のはわ かります。 しかも、納税期限 は、 一月後 の三月
下旬 です から、太宰 は納税 通知書を前 に周章狼 狽 し、泣 いた由。美知 子夫 人が言う に
は、泣き方が形容 どおり メソメソ、 と いう泣き方 で、坊ち ゃんが外 で腕白 ども に いじ
められ て泣 いて訴え て いる のと同じだ ったそう です。
そ こから の対応 がまた信 じら れな いのですが、美知 子夫 人が相談 しよう にも来客 対
応 で話 し合 いも できず、結 局、審査請求 が でき るとあ る のに、 それを放置 して熱海 に
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行 ってしま ったと のこと。帰京 したとき には、審査請求期限が切れ て いて、 「


自分 のよ
うな毎 日、酒と煙草 で莫大な税金を納 め て いる者 が、 こ の上、税金を納 め る こと はな
い」と駄 々 っ子 のよう に言うば かり。
美知 子夫 人がや っと のこと で、期限切れ後 の審 査請求書 を書 かせ持参 し、 国税 局と
の折衝 も始 ま りますが、 日頃 から収 入 のことを 一切知らさ れ ておらず事情 がわ からな
い美知 子夫 人 では窮す るば かり です。 そ して六月 二日にな って、国税 局 の人が太宰 を
訪ね て来ますが、 そ の数 日後 の六月十四日にな って太宰 は入水心中を しま した。
美知 子夫 人は、「
こ の税金 のことが死 の原因 にな って いると は思われな い」と書 いて
いますが、太宰 が 一般 の生活 人と して の能力を いささ か欠 いて いた ことを示す エピ ソ
ード のひと つに思われます。
な お、 三鷹 では、当時 はガ スや 水道 もな か ったため、煮炊 き、 井戸水 の汲 み上げ も
大変だ ったそう ですが、力仕事や大 工仕事など女 手に余 る雑用が次 々と出 て来 る のに、
太宰 は い っさ い手をださな か ったと のこと。美知 子夫 人は、「
隣 近所 のまめな 旦那さ ん
を羨 ま しく思う こともあ った」と回想 して います (
以上 は、美知 子夫 人 の 『回想 の太

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宰治』 によります。)
●●●● 壇 一雄をををを人質 にして遁走 した 「「「「
熱海事件」」」」がががが、『
走走走走れ メ ロス』』』』 のヒント ????
嵐 山光 三郎さ ん の 『文 人悪食』や、猪瀬直樹さ ん の 『ピカ レ スク― 太宰治伝』 に、
壇 一雄を人質 にして遁走 した 「
熱海事件」 のことが紹介 さ れ て います。
時 期 は、太宰 はパビナ -ル中毒 で入院 して いた武蔵 野病院 から退院 した後 にな りま
す。家 に いると気 が塞 ぐ から、 と い って師 の井伏鱒 二 の紹介 で、熱海 の旅館 に移 りま
す。 と ころが 一ヵ月た って連絡 が途絶 え た ので、 不安 にな った内妻 の初代さ んから、
壇 一雄 が、太宰 が熱海 に行 ったまま帰 ってこな いので、金 がな いので困 って いるだ ろ
う から届け てくれと頼まれた のだ そう です。初代さ んから預 か った七十数 円を持 って
熱海 に行 ったら、太宰 は壇 を 小料 理屋 に連 れ出 し、高級 天ぷら屋 で上等な 天ぷらを講
釈 を垂 れながら食 べたそう です。勘定 を聞くと、 二十八円七十銭 と いう べらぼ うな額
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で、 「
太宰 は血 の気がう せ て いくようだ った」と のこと。
支 払 った のち、 そ のまま三 日間飲 ん で遊女 と遊 び、金 が無 くな ったと ころ で、太宰
が菊 池寛 のと ころ に行 って金 を借 り てく ると言 い出 し、壇 を 人質 に残 して、東京 に戻
りま した。 そ の時点 で の熱海 で の遊 興 による借金 は、 三百円 にも のぼ ったそう です。
壇 は、旅館 で軟禁 状態 にな ったも のの、 十 日た っても帰 ってきません。業 を煮や した
料 理屋 の主 人が見張 り役とな り壇を伴 って、太宰 を捜 しに東京 に来ま した。 井伏鱒 二
のと ころ に行 ったら、太宰 は井伏と将棋 を指 して いた ので、壇 は激怒 して、大声 を上
げ ると太宰 は狼狽 し つつも、低 い声 で、「
待 つ身 が辛 いかね、待 たせる身 が つら いかね」
と言 ったそう です。
太宰 は、東京 に戻 ってから永 井龍男 に会 って、菊 池寛 への借金を申 し込んだも のの
永 井が取 り合 わな か った のだ そう です。 井伏鱒 二が 羽織袴 を質 入してくれたり、佐藤
春夫が用立 てしてくれ て何 と か収ま ったそう です。 パピナー ル中毒 で入退院 を繰 り返
して いた時期な ので、 そ の影響 もあ った のかも しれま せんが、 それ にしても、すご い
話 です。

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こ の四年後 に 『走 れ メ ロス』 が書 かれ て いますが、 そ こでは、処刑さ れ る運命 にあ
るメ ロスは、自 分 の身代わ りと して友 人 セリ ヌンテ ィウ スを 人質 と して置き、妹 の婚
礼 に出 るため三 日間 の猶 予をもら います。幾多 の難儀 を潜 り抜け、信 頼さ れ て いる こ
と に力づけら れ て走 って刑場 に急ぎ ます。 もう間 に合 わな いから走 る のをや めるよう
に いう弟 子に、「
信 じられ て いるから走 る のだ。間 に合う間 に合わな いは問題 ではな い」
と叫 びます。
友 人を 人質 にしたり、 戻 るために焦 って いる、 と いう パター ンは同 じ です。嵐 山さ
んは、 「
壇 一雄 は、『おそら く、自分 の熱海行きが こ の小説 の発端 じゃな いかな』 とえ
び天を食 べながら言 ったも のだ」と書 いて いますが、 日本中 の児童生徒 を感動さ せる
『走 れ メ ロス』 が、太宰 によ る熱海 で の壇 一雄 人質遁走事件 を ヒントと して いると思
うと、思わず噴 き出 してしま います。そんな ことを、 「
え び天を食 いながら」語 る壇 一
雄 の姿 も傑作 です。
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● 三島由紀夫らに嫌嫌嫌嫌われ、、、、中原中也 にににに毒毒毒毒づ かれた太宰


割腹自殺を図 ったか の三島由紀夫 は、太宰治を嫌 って いたとさ れ て います。
には、次 によう に紹介 さ れ て います。
Wikipedia
「 1947
年 (
昭和 年) 月
22 1 、太宰治、亀 井勝 一郎を囲む集 いに参加。 こ の時、 三島
は太宰 に対 して面と向 か って 『
僕 は太宰さ ん の文学 は嫌 いな ん です』 と言 い切 った。
こ のとき の顛 末 に ついて、後 の三島自身 の解説 によれば、 こ の三島 の発言 に対 して太
宰 は虚 を衝 かれたような表情 を して誰 へ言うともな く 『そんな ことを言 った って、 こ
う して来 てるんだ から、や っぱ り好きな んだ よな。 なあ、や っぱ り好きな んだ』 と答
え た、と解説さ れ て いる。しかし、そ の場 に居合わ せた編集者 の野原 一夫 によれば、『き
ら いなら、来な け りゃ いいじゃねえ か』 と吐き捨 てるよう に言 って顔を そむけた、 と
いう。」

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三島 は、 こ の当時、東京帝 国大学 の学 生 で、卒業直前 でした。 そ の後、太宰が 入水
自 殺 した後 の、 昭和三十年 に発刊さ れた 『小説家 の休 暇』 では、次 のよう に批判 して
います。

私が太宰治 の文学 に対 して抱 いて いる嫌悪 は、 一種 猛烈な も のだ。第 一私 は こ の人
の顔がきら いだ。第 二に こ の人 の田舎者 の ハイカラ趣味 がきら いだ。第 三に こ の人が、
自 分 に適 しな い役を演 じた のがきら いだ。女 と心中 したりす る小説家 は、 もう少 し厳
粛な風貌 を して いなければならな い。
私と て、作家 にと っては、 弱点だ けが最大 の強 みにな る ことぐら い知 って いる。 し
かし弱点 をそ のまま強 み へも ってゆ こう とす る操作 は、私 には自 己欺瞞 に思われ る。
どう にもならな い自分を信 じると いう こと は、 あら ゆる点 で、 人間と して僭越な こと
だ。 ま してそれを人に押 し つけ るに いた っては !
太宰 のも って いた性格的 欠点 は、 少な くともそ の半分が、冷 水摩擦や 器械体操や 規
則的な生活 で治さ れ る筈だ った。生活 で解決す べき こと に芸術 を煩わ してはならな い
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のだ。 いささ か逆説を弄す ると、治 りたがらな い病 人など には本当 の病 人 の資格 がな


い。」
しんら つ
な かな か辛辣 ですが、最後 ま で嫌 い抜 いたと いうわけ でもなく、晩年 には、太宰と
共通す ると ころを感 じ て いたとも言われます。
そ して、太宰 を嫌 って取 っ組 み合 いの喧嘩 ま でした のが、詩 人 の中 原中也 でした。
嵐 山光三郎さ ん の 『文人悪食』によれば、中 原中也 は、 「
破滅的攻撃的性癖 で、酒癖が
異常 に悪 か った」と言 います。永井龍雄 は、中也を評 して 「(
相 手が弱 いと見 ると)傍
で見 て いても辛 くな るほど の扱 いを臆 せず にした。ネ コが獲物 のネズ ミをも てあ そぶ
よう に、前 から後 から相 手を翻 弄す る」性格だ ったと のこと。 文芸評論家 と して脚光
を浴び る中村 光夫 を、初 対面 でそ の頭を ビー ル瓶 で殴 ったり、銀座 の酒場 で飲 ん で い
る坂 口安吾相 手に飛びかか って、 「
髪 ふり乱 してピ スト ンの連続、 スト レート、ア ッパ
ーカ ット、スイ ング、フ ック、息をきら して陰 にむか って乱闘 して いる」
。こ の酒場 は、
中原が喧嘩ば かりす る ので誰も寄 り付 かなくな り、 つぶれ てしま った由。

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そ の中 原が、気 が弱 い太宰治 に絡 んだ のだ そう です。草 野新 平と壇 一雄、太宰 と で
飲 みに行き、酔 いが回るに つれ て、太宰 に、 「
何だ、おめえ は。青 鯖が空 に浮 かんだ よ
うな顔を しや が って。全体、 おめえ は何 の花が好きな んだ い」

太宰 は閉 口して泣き出 しそうな顔 で 口ご もり、思 い つめた声 で、 「モ、 モ、 ノ、 ハナ」
と答え たと ころ、薄笑 いを浮 か べながら、 「
チ ェッ、だ から おめえ は」と言 って、あと
は壇らと乱闘 にな った由。壇 一雄 は丸太 を振 り回 したとあ ります。太宰 は い つの間 に
か消え たよう です。
二回目に飲 んだ とき は、中也 の絡 みに閉 口して先 に帰 った太宰 の家 に、中也が押 し
かけ、勝 手に 二階 に入り込ん で、狂態 を演 じたと ころを、壇 に雪 の上 に投げ つけら れ
た由。 中也 は、例 の 「
汚 れち ま った悲 しみに 今 日も小雪 の降 りかかる」と いう詩 を
低吟 しながら去 って い ったそう です。
太宰 は、 百七十 五セ ンチ の大男 でした し、意 外と肉体 屈強だ ったそう です から、 そ
の気 にな れば勝 てた こと でし ょう。太宰 は大酒飲 むけれども、絡 まな い酒だ ったそう
です。 中也 のし つこ い絡 み、毒 づき に困惑す る太宰 の様 子が 目に浮 かん でき て、気 の
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毒 にな ってきます。
●●●● 芥 川賞受賞をををを懇願しししし、、、、落選して恨恨恨恨 みみみみ節節節節をををを垂垂垂垂れれれれ逆上する太宰
太宰治 は、芥 川龍 之介 に心酔 し、敬愛 して いま した。 弘前高校 の 一年生 のとき に、
そ の芥 川が 「
ただぼ んや り した不安 」と いう遺書 を残 して自 殺 しま した。 しばら く は
そ のシ ョック で下宿 に籠 もり っぱな しだ ったと いいます。
それ ほど敬愛 した芥 川 でした から、 そ の名前 を関 した芥 川賞 が昭和十年 に創 設さ れ
ると聞 いた時、太宰 は是が非 でも受賞 した いと熱望 しま した。
『文藝春秋』 一月号 に、 「
芥 川 ・直木賞宣言」と いうも のが載 り、賞金 は五百円、 「

賞者 には広 く各新聞雑誌 へ引き続き作品紹介 の労をと る」とあ りま したから尚更 です。
以下、猪瀬直樹 『ピカ レ スク― 太宰治伝』をもと にして、落 選をめぐ る動きを紹介 し
ます。

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芥 川賞 の選考委員 は、菊 池寛 のほか、佐藤春夫、 谷崎潤 一郎、室生犀星、 川端康成
ら十名強 でした。 「
逆行」と 「
道 化 の華」が対象 とな りえ ま したが、文学仲 間 の山岸外
史 が佐藤春夫 に、 「
道 化 の華 」 の 一読 を勧 めたと ころ、 「
甚だ おも しろく存 じ候。無 論
及第点 を つけ申 し候」と の返事 が返 ってきま した。 こ の作 品 は、 そ の直前 に書 いた鎌
倉 で の田部あ つみと の心中事件 を テー マにし、担ぎ 込まれた病院 で の入院生活 の回想
にな って います。また、都新聞が消息 通が語 ると ころによれば、と して、 「
お鉢 は太宰
に回 る のではな いか」と下馬評を書 いたため、太宰 は得意満 面 で、す っかりそ の気 に
な ってしま いま した。弟 分 の画家 の卵を相 手に、 「
僕、芥 川賞 ら し い」と言 い つつ、説
教を垂れ て います。
と ころが、 ふたを開け てみれば、受賞 した のは石川達 三 の 「
蒼 氓」 でした。 選考会
では、本命 の 「
道 化 の華 」 は外 れ、最終候補作 に残 った のは 「
逆行」 のほう でした。
太宰 は、落 胆 し、 「
対象 は全 く無名 の作家 と いう方針ら し い。僕 は有名だ から、他 の二
流、 三流 の薄 汚 い候補者 と並 べられ る のは不愉 快だ」と強 が ってみせたり、 山岸 には

も っと売 り込ん でくれたら、絶 対保 証す ると い ってくれたら よか った のだ」と喰 っ
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てかかり、あげ く 「
石川達 三 のど こが偉 いんだ。俺 のほうがず っと ・・・」と 口走 っ
てしま い、 「
君 のは文壇 への執念 であ って、文学 への執念 じゃな い」とた しな められま
す。遠 浅 の海 を沖 に向 か って歩 き出 して、内縁 の妻 の初代 が泣きながら引き戻 した こ
ともあ りま した。
『文藝春秋』に載 った選評が、太宰を逆上さ せます。それ は、川端康成 の評 で、 「

るほど 『
道 化 の華』の方が作者 の生活や 文学観 を 一杯 に盛 った いるが、私見 によれば、
作者 目下 の生活 に厭な雲 あ り て、才能 の素直 に発 せざ る憾 みがあ った」とあ りま した
憤怒 に燃え た太宰 は、『文藝 通信』 に川端 への反論を載 せます (
「川端康成 へ」
)。

おたが いに下手な嘘 は つかな いこと にしよう。 私 はあなた の文章 を本屋 の店頭 で
読 み、 た い へん不愉快 であ った。 これ でみると、 ま る であな た ひとり で芥 川賞 をき め
たよう に思わ れます。 これ は、 あな た の文章 ではな い。 き っと誰 かに書 かさ れた文章
にちが いな い。」 「
小鳥 を飼 い、舞踏 を見 る のが そんな に立 派な生活な のか。 刺す。 そ
うも思 った。大悪党だと思 った。」等 々。

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しかし、川端 は翌月 の 『文藝春秋』 で選考経 過を紹介 し、石川達 三 の圧勝 で、 「
あっ
けな い程簡単 明瞭な決定だ った」とば っさ り切り捨 てます。
そ の後、第 二回目 の芥 川賞 に向け、佐藤春夫宛 に歳暮を贈 ります。そ の返事 には、「

め て厳粛な る三十枚を完成さ れよ。金 五百円 は君がも のた る べしとぞ」とあ った のに
意 を強 く して、 選考会 の頃 に、 切 々と した手紙を したためます。

佐藤さ ん 一人がた のみでござ います。私 は、恩を知 っております。・・・芥 川賞 を
もらえば、私 は人 の情 に泣 く でし ょう。 そう して、 ど んな苦 しみとも戦 って、生き て
行けます。 元気が出ます。 お笑 いにならず に、私を、助け てくださ い。・・・」
しかし、結 果 は候補作 にも のぼ らず、 「
受賞作な し」でした。第 三回目に向け、友 人
や師 らと の私信 のや りと りや、鎌倉 で の心中未遂事件 の生 々し い現場 の描写 も盛 り込
んだ 「
虚 構 の春 」を、佐藤春夫 に伝 を頼 ん で発表 に こぎ つけます。処女 出版 『晩年』
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も何 と か刊行 できま した。 それを川端康成 に送 って礼状が届 いた のを幸 い、 川端 にも


懇 願 の手紙を したためます。

厳粛 の御 手翰 に接 し、わが 一片 の誠実、 いま余分 に報 いら れた心地 に て、鬼 千 匹
の中 には、仏千体 も負 わす のだ と、生き て在 る こと の尊さ、今宵 しみじみ教えら れま
した。・・・第 二回目 の芥 川賞、く るしからず、生まれ てはじめ て の賞金、わが半年分
の旅費、 あわ てず、あ せらず、充分 の精進、静養 も はじめ て可能、労作、生 涯 いち ど
報 いら れ てよ しと、客観数学的な る正確さ、 一点う たが い申 しませぬ。何卒、私 に与



え てくださ い。 私 に希望 を与え て下さ い。老 母、愚妻 を、 いちど限 り、喜ば せ て


下さ い。 私 に名誉 を与え てくださ い。」
川端を 「
大悪党 」と難詰 して 一年 も経 って いな いうち に、臆 面もな く こ のような 手
紙を したためられ ると いう のは、普 通 の人間 では考えられな いこと でし ょう。しかし、
結 果 は落 選 でした。 川端 は評価 してくれた のですが、 ルー ルが突然変 わ って、前 回ま

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でに候補 とな った作家 は除外さ れ る こと にな った のです。
太宰 は脱 力 し、 パピナー ル中毒 の治療 のため武蔵 野病院 に入院 します。 そ の間、妻 の
初代が画学生と間違 いを犯 し、翌年、水上 温泉 で心中未遂 を起 こす に至りま した。
● 大御所 のののの志賀直哉 にににに噛噛噛噛 みみみみ付付付付 いた太宰
佐藤春夫や 川端康成 には、臆 面もな い懇 願 の手紙 を送 った太宰 ですが、 文壇 の大御
に ょぜ が も ん
所 の志賀直哉 には、批判 の飛礫を投げ つけ て います。それが、 「
如是我聞」と題す る連
載評論 でした。志賀直哉 は、当時 の文学青 年 から崇拝さ れ、 「
小説 の神様」と呼ば れ て
いま した。 こ の評論 は、 入水 心中 で亡くな る昭和 二十三年 の二月 から連載 を開始 して
います。直接 のき っかけ は、太宰 の 『津軽』 でけなさ れた志賀 が気分を害 し、文士と
の座談会 で、 「
『斜 陽』 に登場す る貴族 の娘 の言葉遣 いが山出 し の女中 のよう で閉 口し
た、 もう 少 し真 面目にや ったら よかろう」と批判さ れた こと でした。志賀 は旧制学 習
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院 出身 で、貴族社会 をよく知 って いた のです。 これ に太宰 が 反発 し エスカ レート した


も ので、良 く言えば、権威主義 への反発、既成 文学 に対す る本質的批判。悪く言えば、
罵詈雑言。読 む人によ って、受け止め方 はかな り違 ってく る こと でし ょう。
後半 では、志賀直哉 を相 手に、 「
おまえ」と か 「
あ い つ」と いう調子 で、酒 でも飲 ん
で いるか のよう に、ぼ ろくそに叩 いて います。
・ 或る 「
老大家 」は、私 の作品をとぼ け て いて いやだと言 って いるそうだが、そ の 「

大家 」 の作品 は、何だ。正直を誇 って いる のか。何を誇 って いる のか。そ の 「
老大
家 」は、た い へん男振 りが自慢ら しく、 い つかそ の人 の選集 を開 いてみたら、も の
の見事 に横顔 のお写真、しかも いささ かも照れ て いな い。ま るで無神経な 人だと思
った。
・ 何処 (
ど こ) に 「
暗夜」があ る のだ ろう か。ご自身 が人を、許す許さ ぬ で、 てん て
こ舞 いして いるだけ ではな いか。許す許さ ぬなどと いう そんな大 それた権利が、ご

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自身 にあ ると思 って いら っしゃる。 い った い、ご自身 はどうな のか。人を審 判出来
るがら でもな かろう。
志賀直哉 と いう作家 があ る。 ア マチ ュアであ る。 六大学 リーグ戦 であ る。 小説
が、 も し、絵 だとす るならば、 そ の人 の発表 して いるも のは、書 であ る、 と知 人
も言 って いたが、 あ の 「
立 派さ」 みた いな も のは、 つま り、あ の人 のう ぬぼ れ に
過ぎな い。腕力 の自信 に過ぎな い。本質的な 「
不良性」或 いは、 「
道楽者」を私 は
そ の人 の作 品 に感 じるだ け であ る。高貴 性と は、 弱 いも のであ る。 へどもどまご
つき、赤 面 しがち のも のであ る。 所詮あ の人は、成金 に過ぎな い。
と いう ような 調 子 ですが、 まだ これ でも、 こ の後 のトー ンと 比 べれば おとな し いも
のです。座談会 で の太宰批判を読 ん でから は、 「
おまえ」と呼ん で、 ヒート ア ップ して
いきます。
・ い った い、 あれ は、何だ ってあ んな にえば ったも のの言 い方 を して いる のか。普
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通 の小説 と いう も のが、 将棋だ とす るならば、 あ い つの書 くも のなど は、詰 将棋 で


あ る。 王手、 王手 で、 そう して詰 むにきま って いる将棋 であ る。 旦那芸 の典型 であ
みじん
る。勝 つか負 け るか のお ののきな ど は、微塵 もな い。 そう して、 そ のの っぺら棒 が
ご自慢ら し いのだ から おそれ入る。
どだ い、 こ の作家な ど は、思索 が粗 雑だ し、教養 はな し、 ただ乱暴なだ け で、 そ
う して己れ ひと り得意 でたまらず、文壇 の片 隅 に いて、 一部 の物好き のひと から愛
さ れ るくら いが関 の山 であ る のに、 い つの間 にや ら、 ひさ しを借 り て、 図 々しくも
母屋 に乗 り込み、何やら巨匠 のような構え を つく って来 た のだ から失笑 せざ るを得
な い。
・ こ の者 は人間 の弱さ を軽蔑 して いる。自 分 に金 のあ る のを誇 って いる。 「
小僧 の神
様」と いう短篇 があ るようだが、そ の貧 しき者 への残酷さ に自身気が ついて いるだ
ろう かどう か。 ひと にも のを食 わ せると いう のは、電車 でひと に席 を譲 る以上 に、
苦痛なも のであ る。何が神様だ。そ の神経 は、ま るで新興成金 そ っくり ではな いか。

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またあ る座談会 で (
おまえ はまた、 どう して僕 を そんな に気 にす る のかね。 み っ
ともな い。)太宰君 の 「
斜 陽」な ん て いう のも読 んだけど、閉 口したな。な ん て言 っ
て いるようだが、 「
閉 口したな」などと いう卑屈な言葉遣 いには、 こ っち のほう であ
きれた。
どう もあれ には閉 口、 ま い ったよ、 そう いう言 い方 は、 ヒ ステリ ック で無学 な、
そう して意味な く昂ぶ って いる道楽者 の言う 口調 であ る。 あ る座談会 の速 記を読 ん
だら、 そ の頭 の悪 い作家 が、 私 のことを、 もう 少 し真 面目にや ったら よかろう と い
う気 がす るね、 と言 って いたが、 唖然 と した。 おまえ こそ、 もう 少 しどう にかなら
ぬも のか。
・ おまえ は い った い、貴族だ と思 って いる のか。ブ ルジ ョアでさえな いじゃな いか。
おまえ の弟 に対 して、おまえがどんな態度 をと ったか、よかれあ しかれ、てん で書
けな いじゃな いか。家内中が、流行性感冒 にかか った ことなど 一大事 の如 く書 いて、
それが作家 の本道 だと信 じ て疑わな いおまえ の馬面が み っともな い。
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強 いと いう こと、自信 のあ ると いう こと、 それ は何 も作家 た るも のの重要な条件


ではな いのだ。
・ も少 し弱くなれ。文学者ならば 弱くなれ。柔軟 になれ。おまえ の流儀 以外 のも のを、
いや、そ の苦 しさを解 るよう に努力 せよ。どう しても、解らぬならば、だま って い
ろ。むや みに座談会な んかに出 て、恥をさらすな。無学 のくせに、カ ンだ の何だ の
頼 りにもク ソにもならな いも のだけ に、すが って、十年 一日 の如 く、ひと の蔭 口を
き いて、笑 って、 いい気 にな って いるようなや つら は、私 のほう でも 「
閉 口」であ
る。勝 つために、実 に卑劣 な 手段を用 いる。 そう して、俗世 に於 て、 「
あ れ は いい
ひとだ、潔癖な立 派な ひと であ る」な どと言わ れ る こと に成功 して いる。 殆 んど、
悪 人 であ る。
君たち の得 たも のは、 (
所謂文壇生活何年 か知ら ぬが、)世間的信頼だ け であ る。
志賀直哉 を愛読 して います、 と言えば それ は、 おとな しく、 よ い趣味 人 の証拠と い
う こと にな って いるら し いが、恥 しくな いか。そ の作家 の生前 に於 て、 「
良 風俗」と

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マッチす る作家 と は、どんな種類 の作家 か知 って いるだ ろう。

おまえ の流儀 以外 のも のを、 いや、 そ の苦 しさ を解 るよう に努力 せよ。」・・・あ
れだ け家族や 周囲 に迷惑 を かけ続け て、自 己 の流儀 を貫き通 した太宰 に言わ れ ると、
苦笑 したくな りますが、長年 にわたり何 かに つけ て批判さ れ てきた被害者意 識 によ る
鬱屈が、 一気 に噴 き出 した形な のでし ょう。
そ して、猪瀬直樹さ ん の 『ピカ レ スク― 太宰治伝』 の描 くと ころによれば、 こ の烈
し い評論も、新潮社 の野平健 一に強 く言われ て 口述筆記さ れたも ので、
公表前 提 で 口述 を始 めるには、 かな り躊躇 したよう です (
ただ、 それも 一時的な も の
だ ったよう ですが)

志賀 も、太宰 の死後 の八月 に 「
太宰治 の死」と題す る 一文を著 し、 「
私 は太宰君が私
に反感を持 つて いる事 を知 つて いたから、自然、多 少 は悪意 を持 つた言葉 にな つた」「

宰 君が心身 共 に、 それ程衰 へて いる人だ と いふ事 を知 つて いれば、 もう 少 し云ひよう
があ つたと、今 は残念 に思 つて いる」と して います。
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な お、 こ の評論 も最初 は、師 でもあ り、恩 人 でもあ る井伏鱒 二 への批判 も 込めら れ


て いたよう です。井伏が か つて、 「
時代屋 の雛女房」と いう短編を書き、それがパピナ
ー ル中毒 で狂 った亭主が借金 を重ね、 そ の妻 が泣 いて いると いう、太宰 と初代 の姿 を
露骨 に描 いて いる ことを知 った こと、あ る いは、 「
斜 陽」が当た った後、井伏宅 で飲 ん
で寝 て いる際、隣室 で 「
太宰君 にも困 ったも のだな」と の井伏 の声 に続き、 「
人気が出
て いい気 にな って いるけど、 つまりはピ エロさ」と いう応答 が続き、皆 ど っと笑 った
と いう 出来事 があ った こと。 井伏鱒 二全集編纂 に力を 尽く して いる のに、 それ への感
謝 がな く、摂 生を呼びかけ る手紙ば かりが来た こと、 と い ったような こともき っかけ
とな ったよう です。 井伏全集 の解説 でも、 かな り の批判と皮肉 を滲 ま せ て書 いて いま
す し、玉川心中 に当たり残 した遺書 に、 「
井伏さ んは悪 人 です」と いう フレーズを書 い
た ことも、 そ の流 れ でし ょう。
● 四回 のののの心中、、、、自殺未遂事件 のののの後後後後 のののの玉川心中

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太宰治 は、 昭和 二十三年 六月十三 日に、 三鷹 の玉川上水 で、 山崎富栄 と 入水心中す
るま でに、 四回 の心中未遂、自殺未遂 を起 こして います。
先 の紹介 したよう に、最初 が弘前高校 の三年生 の時 で、 地主階級 の自 分 に悩 んだ の
か、 あ る いは芥 川龍 之介 の自 殺 に触 発さ れた のか、 カ ルモチ ンを多 量 に服用 して いま
す。 そ の次が、東京帝大 の学 生時代 に、芸妓 の小山初代と の結 婚を実家 にしぶ しぶ 認
めら れた直後、 カ フ ェ 『ホリウ ッド』 の女給 田部 あ つみと鎌倉 心中未遂事件 を起 こし
ます。太宰 は生き残 り 田部 は死亡 しま した。太宰 は自 殺幇 助罪 で取 り調 べを受け、 兄
が青森 県議だ った こともあ り、新聞 にも大きく取 り上げ ら れま した。芥 川賞 狙 いで書
いた 「
虚構 の春」には、 「
突然、くす りがき いてき て、女 は、 ひゅう、 ひゅう、と草笛
の音 に似 た声 を発 して、 く るし い、 く るし い、 と水 のような も のを吐 いて、岩 のうえ
を這 いず りまわ って いた様 子 で ・・・」と生 々しく書 いたり、末期 の 「
人間失格 」 で
は、取 り調 べ の検事 の発言と して、「
おう、いい男だ。これあ、お前 が悪 いんじゃな い。
こんな、 いい男 に産 んだ お前 のおふくろが悪 いんだ」と書 いたりして います。
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心中 の理由と して、多 額 のツケ払 いを 田部あ つみが負担 してくれ て いて限界を越え


て いたと いう事情 はあ りますが、 不可解 な のは、自 分 から望 んだ はず の小山初代 と結
婚 でき る こと にな ったそ の直後 に、なぜ 心中 しな ければならな いのかと いう点 です。
猪瀬直樹さ んは、本気 で死ぬ つもりだ ったら致 死量を飲 む はずだ し、作 品と は異な り
実際 には入水 して いな いことなど から、偽装心中だと推定 して います。
太宰 は、 小山初代 に対す る気持ち と して、自分が これだ け実家 と の関係 で苦 しん で
いる のに、初代 は青森 に戻 ったらす っかり のんびり してしま って、自 分 の苦境 (
分家
除籍 のことな ど)など知らな い様 子に苛立ちを隠 して いま せん。分家除籍 は太宰 にと
っては大きな シ ョック でした。こ のような事情 から、「
も し別 の女 と事件を起 こしたら、
小山初代 は怒 り心頭 で婚約破棄 を申 し出 るに違 いな い。 そうな れば分家除籍 も取 り消
しにな る。津島家 と して、『ホリウ ッド』に借金などあ ってはならぬ、とすぐ に支 払う
だ ろう。 左翼 運動 とも縁 が切れ るかも しれな い。 不可抗力とす れば自 分 への言 い訳が
でき る。」と推測 し、計算 外 の事態 とな ってしま って、悲惨な結末とな り、消 し去 る こ
と のできな い記憶とな ってしま ったと して います。

53
そ の後、東京帝 大除籍直前 の鎌倉 で の首 吊り自 殺未遂、武蔵 野病院 入院中 の初代 と
画学 生 と の姦 通事件後 に、水上 温泉 に て初代と の心中未遂 があ りま した。 こ の心中未
遂 が昭和十 二年、太宰が 二十八歳 のとき です。 そ の後 十年を経 て最後 に実際 に死を遂
げ る のが、昭和 二十三年 の玉川上水 で の山崎富栄と の心中 でした。
昭和 二十 二年 三月 に、 山崎富栄と三鷹 駅前 の屋台 で知 り合 い、 同棲 す るよう にな り
ます。 彼女 は、容姿 に優 れた美容師 で、進駐軍専 用 の施 設内 の美容室 に で勤 め て いた
関係 で、高級ウ ィスキーや高級煙草を入手 でき る立場 に いま した。
や が て彼女 の部 屋が応接 の場 のよう にな り、彼女 は身 の回り の世話係兼 マネ ージ ャー
のような存在 とな りま した。太宰 の自虐的 でわが身 を苛 むような酒 の飲 み方 と接待ぶ
りを心配 し、来客をブ ロックす るよう にな り恨まれたりも したよう です。 「
斜 陽」 の モ
デ ルであ る太 田静 子と のや り取 りを、太宰 の代 理と して仕切 った のも、彼女 でした。
最後、彼女 と の心中 に至 った要因 はは っきりと して いま せんが、周囲 から いじめら
れ て いると いう被害者意 識、摂 生を ひたすら勧 め る井伏 への微妙な 反発、志賀直哉 ら
文壇 から の批判、 か つて の鎌倉 七里ガ 浜 で の心中 で女 性を 死な せ てしま った悔恨、 山
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崎富栄 と の別れ の難 しさ、肺結核 で溜 ま った水 によ る胸 の痛 み等 々、 いろ いろな 見方


があ るよう です。 死 の直前 の六月 に入 ってから は、富栄 によ る 「
幽閉」 により暴飲 は
なくな ったよう ですが、仕事場 のあ った飲 み屋 の 「
『千草』 の夫婦 は、夜半 に富栄 の部
屋 から、道 を隔 てた自分 たち の家 ま で響 いてく る、 吠え るような太宰 の呻 き声を、何
度 も耳 にした。それ は 一分間 ほど つづき、あと は森 閑と して何 も気配もな い」 (
長部 日
出雄 『桜桃 とキリ スト― もう ひと つの太宰治伝』)と いう状態だ ったそう です。
○ 妻妻妻妻 にににに宛宛宛宛 てた太宰 のののの遺書 (
抜粋)

永居す るだけ みんなを苦 しめ こちらも苦 しく、堪忍 して下さ れたく」

皆、 子供 はあま り出来な いよう です けど陽気 に育 てて下さ い。 あな たを嫌 いにな っ
た から 死ぬ のでは無 いのです。 小説を書 く のが いや にな った から です。 みんな、 い
や し い欲張 りば かり。 井伏さ んは悪 人 です」

美 知様 誰 よりもお前 を愛 して いま した」

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※ 反故とな った文章 から の断片 ですが、 一九九 八年 に正式 の遺書 が 公開さ れ、 同
趣旨 のし っかりした筆跡 のも のであ る由。非 公開部分もあ る のだ そう です。
※ こ の他 に、そ の二階が仕事場 であ った飲 み屋 の 「
千草」 の夫婦あ てに、 「
永 いあ
いだ、 いろ いろと身 近く親 切 にして下さ いま した。忘 れま せん。 おや じにも世
話 にな った」と の遺書を残 して います。
○ 山崎富栄 のののの当 日 のののの遺書 (
抜粋)

六月十三 日
遺書を お書き にな り 御 一緒 に連 れ て行 って いただく
みなさ ん さ ようなら

中略)
奥様す みません
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修治さ んは肺結核 で左 の胸 に 二度 め の水が溜ま り、 こ のご ろ では痛 い痛 いと仰 言 る


の、 もうだ めな のです。
みんな して いじめ殺す のです。 い つも泣 いて いま した。
豊島 先 生 (
注 :作家 の豊島与志雄)を 一番尊 敬 して愛 しておられま した。
野平さ ん、石井さ ん、亀島さ ん (
注 :いず れも編集者)、太宰さ ん のおうち のこと見
てあげ てくださ い。
園 子ち ゃん (
注 :太宰 の七歳 の長女)ご めんなさ いね。
太宰 は本当 に死ぬ つもりだ った のか、と いう指摘 は根強 くあ ったよう です。
太宰治 の東京 で の不始末な ど の世話をず っと してきた津島家 出 入り の商 人 であ る中畑
慶吉氏 の証言を、嵐 山光三郎さ んが紹介 して います。
中畑氏 は、太宰 の自殺を心配 した津島家 から頼 まれ て、 三鷹警察署 に警戒 を依頼 し
て います。 証言 では、

57
「(
心中場所 は)見 ると下駄を思 いきり突 っ張 ったあとがあ ります。しかも手を ついて
滑 り落ち る のを止めよう と した跡 もく っきりと ついておりま した。 一週間もたち、 雨
も降 って いると いう のに歴然 と した痕跡 が残 って いる のです から、 よ ほど強 く 『イ ヤ
イヤ』を した のではな いでし ょう か」 (
『文人悪食』)
山崎富栄 によ る無 理心中 ではな いか、 と の指摘 もあ ったよう です。 他方 で、遺書 の
内容、肺結核が悪 化 して いた こと、 不眠症 で悩 ん で いた こと、 二人は腰 のと ころ で紐
で結ば れ て いた ことなど から、若 い時 の心中未遂 のような も のと は違 い、 死ぬ覚 悟 は
確 かだ ったと いう見方が 一般的 です。
* * * * * * * * * * * * * * *
こう して見 てく ると、知 人、身内 にしたら大変 だ と は思う も のの、太宰治 が何 とも
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人間的 で、愛ら しく感 じ てきます から 不思議 です。 「


シ ョー モナイな ぁ ・・・」と微苦
笑を誘われます。
しかし、太宰が作品を生 み出すとき の迫力 は、美知 子夫 人も 「
人が変わ ったような」
と形容 して いるよう に、凄 いも のがあ ったそう です。美知 子夫 人にしろ、新 潮社 の編
集者 の野平健 一氏 にしろ、太宰 が 口述す ると、 それが そ のまま作品 にな ると、驚嘆 の
思 いで回想 して います。
また、太宰 は、作品が出来上が ると、 それを美知 子夫 人ら に朗読 して聴 かせたと の
こと です。独白 風 の 一人称 の語 り の作 品が多 いだ け に、 それら の朗読 を聴 く こと は、
太宰治 にと っても意 に沿 った読 まれ方 ではな いかと思 います。
太宰治 が生 み出 したそ のような作 品を、朗読 でじ っくり味 わ って いただき、 そ の魅
力 に浸 って いただければ幸 いです。

59
((((
主主主主なななな参考文献))))
・ 津島美知 子 『回想 の太宰治』 (
講談社 文芸文庫)
・ 猪瀬直樹 『ピカ レスク― 太宰治伝』 (
文春 文庫)
・ 長部 日出雄 『辻音楽師 の唄― もう ひと つの太宰治伝』 (
文春 文庫)
・ 同 『桜桃 とキリ スト― もう 一つの太宰治伝』 (
文春 文庫)
・ 嵐 山光三郎 『文人悪食』 (
新潮文庫)
・ 臼井吉 見 「
太宰治伝」 (
現代 日本文学館 『太宰治』所収) (
文春 文庫)
60

・ (
注)他 にも、壇 一雄 『小説太宰治』 (
岩波 現代 文庫)、奥 野健男 『太宰治論』 (

潮文庫))、 野原 一夫 『太宰治 生涯と文学』 (
ち くま文庫)な どがあ りますが、全
部 は参照 しきれ て いません。ただ、壇 一雄 の著書 に記さ れた エピ ソードは、嵐 山光
三郎氏 の 『文人悪食』中 で言及さ れ て いるよう です。

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