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高校講座学習メモ

とんかつ
第 17 回〜 20 回

み うら てつ お
三浦哲郎
す がい
  須貝はるよ。三十八歳。主婦。
なお た ろう
  同
  直太郎。十五歳(今春中学卒業)。
さんの へ
  宿泊カードにはやせた女文字でそう書いてあった。住所は、青森県 三 戸郡下の
村。番地の下に、光林寺内とある。
  近くに景勝地を控えた北陸の城下町でも、裏通りにある目立たない和風の宿だ
から、こういう遠来の客は珍しい。

−−
  日が暮れてまもなく、女中が二人連れの客だというので、出てみると、地味な
和装の四十年配の女が一人、戸口にひっそり立っている。連れの姿は見えない。
  女は、空きがあれば二泊したいのだが、といった。言葉に、日ごろ聞きなれな
現代文・小説

なまり
い 訛 があった。
  「お一人さまで?」
  「いえ、二人ですけんど。」
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  女は振り返って、半分開けたままの戸の外へ鋭く声をかけた。ちゃんづけで名
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を呼んだのが、なおちゃ、と聞こえた。青白い顔の、ひょろりとした、ひよわそ
国語総合

うな少年が戸の陰からあらわれて、はにかみ笑いを浮かべながらぺこりと頭を下
げた。両手に膨らんだボストンバッグを提げている。もう三月も下旬だというの
ふゆがいとう
に、まだ重そうな冬外套のままで、襟元から黒い学生服がのぞいている。そうい
えば、女のほうも厚ぼったい防寒コートで、首にスカーフまで巻いていた。
  「これ、息子でやんして……。」

  女もはにかむように笑いながら、ひっつめ髪のほつれ毛を耳のうしろへかき上
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げた。
第 17 回〜 20 回

  初めは、近在から市内の高校へ受験に出てきた親子かと思ったが、女中によれ
ば、高校の入学試験は半月も前にすんだという。そんなら、進学準備の買い物だ
ろうか。下宿探しだろうか。それとも、卒業記念の観光旅行だろうか ─ いずれ
にしても、二泊三日とは豪勢な、と思っていたが、書いてもらった宿泊カードを
見ると、なんと北のはずれからきた人たちである。
もの み ゆ さん
  これは、ただの物見遊山の旅ではあるまい。宿泊カードの職業欄に、主婦、と
か、今春中学卒業、などと書き入れるところを見ると、あまり旅なれている人と
も思えないが、どうしたのだろう。
  「まさか、厄介なお客じゃないでしょうね。」
と女中が声をひそめていった。
  「厄介な、というと?」

−−
しんじゆう
  「たとえば、親子心 中 しにきたなんて……。」
  「あほらしい。

  「だけど、あの二人、なんだか陰気で、湿っぽいじゃありませんか。めったに
現代文・小説

笑顔を見せないし、口数も妙にすくないし……。」
  「それは田舎の人たちで、こんなところに泊まるのになれてないから。だいいち、
心中なんかするつもりなら、なんでわざわざこんなとこまで遠出してくるのよ。」
とうじんぼう えちぜん
  「ここなら、近くに東尋坊もあるし、越前岬も……。」
  「景色のいい死に場所なら、東北にだっていくらもあるわ。それに、心中する
国語総合

人たちが二晩も道草食う?」
  「 案 外、 道 草 じ ゃ な い か も、 奥 さ ん。 ま ず、 明 日 は 一 日、 死 に 場 所 を 探 し て、
あさつて
明後日はいよいよ……。

  「よしてよ、薄気味悪い。」
  もちろん、冗談のつもりだったが、翌朝、親子が、食事をすませるとまもなく

外出の支度をして降りてきた時は、ぎくりとした。母親は手ぶらで、息子のほう
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がしぼんだボストンバッグを一つだけ手に提げている。
第 17 回〜 20 回

  「お出かけですか。

  「はい……。

  こ の 親 子 は、 な に を 話 す と き で も、 き ま っ て は に か む よ う な 笑 い を 浮 か べ る。
せんさく
客のことでよけいな穿鑿はしないのがならわしなのだが、つい、さりげなく、
  「今日は朝から穏やかな日和で……どちらまで?」
と尋ねないではいられなかった。
  「え……あちこち、いろいろと……。」
  母親はそう答えただけであった。あやうく、東尋坊、と口に出かかったが、
  「もし、郊外の方へお出かけでしたら、私鉄やバスの時間を調べてさしあげま
すが。

といって顔色をうかがうと、

−−

  「 い え、 け っ こ う で …… 交 通 の 便 は 発 つ 前 に だ い た い 聞 い て き ま し た す け に。
日暮れまでには戻ります。

  母 親 は、 べ つ だ ん 動 じ た ふ う も な く そ う い う と、 ん だ ら、 い っ て ま い り ま す、
現代文・小説

と丁寧に頭を下げた。
  親子は、約束どおり日暮れ前に帰ってきたが、それを玄関に出迎えて、思わず、
あ、と驚きの声をもらしてしまった。母親は出かけた時のままだったが、息子の
うんすい
ほうは、髪を短く伸ばしていた頭がすっかり丸められて、雲水のように青々とし
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ていたからである。
  あまりの思いがけなさに、ただ目をみはっていると、
  「まんず、こういうことになりゃんして……やっぱし風がしみると見えて、く
しゃみを、はや三度もしました。」
  母親は、仕方なさそうに笑って息子をかえりみた。息子のほうはにこりともせ

ずにうつむいて、これまた仕方がないというふうに青い頭をゆるく左右に振って
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ていはつ
いる。どうやら、どちらも納得ずくの剃髪らしく、
第 17 回〜 20 回

  「なんとまあ、涼しげな頭におなりで。」
と、ようやく声を上げてから、ふと、宿泊カードに光林寺内とあったのを思い出
した。
  「それじゃ、こちらがお坊さんに……?」
  「へえ、雲水になりますんで。明日から、ここの大本山に入門するんでやんす。」
  母親は目をしばたたきながらそういった。
なぞ
  それで、この親子にまつわる謎がいちどに解けた。大本山、というのは、ここ
そう とう しゆう こ さつ
からバスで半時間ほどの山中にある曹洞 宗 の名高い古刹で、毎年春先になると、
ころもすがた
そこへ入門を志す若い雲水たちが墨染めの 衣 姿 で集まってくる。この少年もそ
のひとりで、北のはずれから母親に付き添われてはるばる修行にきたのである。
か れん
  それにしても、頭を丸めた少年は、前にも増してなにか痛々しいほど可憐に見

−−
えた。さっき青々とした頭に気づいた時、まるで雲水のような、とは思ったもの
の、本物の雲水になるための剃髪だとは思いも及ばなかったのは、そのせいだが、
とく ど
母親によると、得度さえすませていれば中学卒で入門が許されるという。
現代文・小説

しゆんれつ
  けれども、ここの大本山での修行は 峻 烈を極めると聞いている。果たしてこの
ひ と ごと
幼い少年に耐えられるだろうかと、他人事ながらはらはらして、
  「でも……お母さんとしてはなにかとご心配でしょうねえ。」
というと、
しん
  「なに、こう見えても芯の強い子ですからに、なんとかこらえてくれましょう。
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父親も見守ってくれてます。」
  母親は珍しく力んだ口調で、息子にも、自分にもいい聞かせるようにそういった。

  息子が湯を使っている間、帳場で母親に茶を出すと、問わず語りにこんな
と がた
ぼんさい
ことを話してくれた。自分は寺の梵妻だが、おととしの暮れ近くに、夫の住職が
だん か
交通事故で亡くなった。夫は、四、五年前から、遠い檀家の法事に出かける時は

自転車を使っていたが、町のセールスマンの口車に乗せられてスクーターに乗り
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換えたのがまずかった。凍てついた峠道で、スリップしたところを大型トラック
第 17 回〜 20 回

にはねられてしまった。
  跡継ぎの息子は既に得度をすませていたが、まだ中学二年生である。仕方なく、
町にあるおなじ宗派の寺に応援を仰いでなんとか急場をしのいできたが、出費も
かさむし、いつまでも住職のいない寺では困るという檀家の声も高まって、一刻
も早く息子を住職に仕立てないわけにはいかなくなった。住職になるには、大本
山で三年以上、ほかに本科一年間の修行を積まねばならない。ゆくゆくは高校か
らしかるべき大学へ進学させるつもりだったが、もはやそんな悠長なことはいっ
ていられない。十五で修行に出すのはかわいそうだが、仕方がなかった。
  自 分 は 明 日、 息 子 が 入 門 す る の を 見 届 け た ら、 す ぐ 帰 郷 す る。 入 門 後 は 百 日、
面会はできないというが、里心がつくといけないから面会などせずに、郷里で寺
を守りながら、息子がおよそ五年間の修行を終えて帰ってくるのを待つつもりで

−−
いる……。
しや ば
  「それじゃ、息子さんは今夜で娑婆とは当分のお別れですね。お夕食はうんと
ごちそうしましょう。なにがお好きかしら。」
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  そう訊くと、母親は即座に、
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  「んだら、とんかつにしていただきゃんす。」
といった。
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  「とんかつ……そんなものでよろしいんですか?」
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  「へえ。あの子は、寺育ちのくせに、どういうものかとんかつが大好物でやん
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して……。

  母親は、はにかむように笑いながらそういった。
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  だから、夕食には、これまででいちばん厚いとんかつをじっくりと揚げて出し
た。しばらくすると、給仕の女中が降りてきて、
  「お二人は、しんみり食べてますよ。いまのぞいてみたら、お母さんの皿はも

はし
う空っぽで、お子さんのほうはまだ食べてます。お母さんは箸を置いて、お子さ
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んがせっせと食べるのを黙って見てるんです。」
第 17 回〜 20 回

といった。
  それから一年近くたった翌年の二月、母親だけが一人でひょっこり訪ねてきた。
面会などしないと強気でいても、やはり、いちど顔を見ずにはいられなくなった
ゆき ざ む
のだろうと思ったが、そうではなかった。修行中の息子が、雪作務のとき僧坊の
屋根から雪といっしょに転落し、右脚を骨折して、いまは市内の病院に入院して
いるのだという。
  「もう歩けるふうでやんすが、どういうことになっているやらと思いましてな
あ。

こ びん
  相変わらず地味な和装の、小鬢に白いものが目につくようになった母親は、決
して面会ではなく、ただちょっと見舞いにきただけだといった。

−−
  息子の手紙には、病院にきてはいけない、夕方六時に去年の宿で待っているよ
うにとあったというから、
  「じゃ、お夕食はごいっしょですね。でも、去年とは違いますから、なにをお
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出しすればいいのかしら。

  「さあ……修行中の身ですからになあ。したが、やっぱし……。」
  「わかりました。お任せください。」
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と引き下がって、女中にとんかつの用意をいいつけた。
  夕方六時きっかりに、衣姿の雲水が玄関に立った。びっくりした。わずか一年
国語総合

足らずの間に、顔からも体つきからも可憐さがすっかり消えて、見違えるような
りん
凛とした僧になっている。去年、人前では口をつぐんだままだった彼は、思いが

けなく錬れた太い声で、
  「おひさしぶりです。その節はお世話になりました。」
といった。それから、調理場から漂ってくる好物のにおいに気づいたらしく、ふ

と目を和ませて、こちらを見た。
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  「……よろしかったでしょうか。」
第 17 回〜 20 回

  彼は無言で合掌の礼をすると、右脚をすこし引きずるようにしながら、母親の
待つ二階へゆっくり階段を昇っていった。

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現代文・小説
国語総合
三浦哲郎(みうら・てつお)1931年〜。青森県生まれ。小説家。

作者紹介
けんじゆう たんぺん さん か
  主な作品に、『忍ぶ川』『海の道』『拳銃と十五の短篇』『少年讃歌』
など。
「とんかつ」は、1988年、
『三浦哲郎自選全集』の月報に発表。本
文は『短篇集モザイクⅠ
  みちづれ』
(1991年刊)より。

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