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ファウスト第一部、第二部を読んで

ワーグナー『ファウスト序曲』、シューマン『ファウストからの情景』、ベ
ルリオーズ『ファウストの劫罰』、マーラー『交響曲8番第2部』…。これら
のようにゲーテのファウストを霊感の源とする芸術作品はいくつも存在する。
なぜこれほどまで後世の芸術家に絶大な影響を与えるのか、私は今改めてファ
ウストを読むことでその意味が感じられたように思う。必ずしもプラトン哲学
に則るわけではないが、ファウストという作品からは芸術家が理想とする芸術
あるいは真理のイデアの光明が漏れているのではないだろうか。だからこそこ
れだけ長い間多くの芸術作品の源として聳え得るのであろう。この時重要なの
は「イデアの光明が漏れている」のであって、「イデアの完全な表象」では無
いという事だ。全ての芸術は満たされざる憧憬に支配され、その憧憬の具現化
に等しいのである。

ファウストは真理を求めあらゆる学問を修めても結局真理に辿り着くことは
できなかった。故に真理に到達するためならば魔術に縋ることもメフィスト
フェレスに身を委ねることも厭わなかったのである。その結果、ファウストは
あらゆるものを手に入れた。若さ、愛、地位。さらには最高の美女ヘレネとそ
の間の子供までも。しかしメフィストフェレスが「貪婪な唇の前に、飲み物や
食べ物を見せびらかしてやる。あいつがどんなに哀訴嘆願しようとも己はなに
もやらぬつもりだ。(高橋義考訳。以下引用文も同様)」と言うように、ファ
ウストが手に入れたものは全て掌から落ちてゆく。愛を得ても、時空を超えた
旅をしても結局手には虚無しか残らない。あまつさえ挙句の果てには盲目とな
り世界の光から遮断される。しかしファウストの真理の探究心は決して止まず
前進と努力の精神は絶えず撓まなかった。そうしたファウストが現世において
最後に辿りついたものは生命のあるべき生き方である。ファウストは叡智の最
終的な帰結を「日々に自由と生活とを闘いとらねばならぬ者こそ、自由と生活
を享くるに値する」としている。つまり生きるために生きる精神、生を至高の
目的とする思想である。これは一見当然のように思えるが人間が長らく忘れて
顧みなかったものである。
文明の発達により人間の生は確約されていった。いつの間にか人間は「今日
を生きる」という感覚ではなく「これからどう生きる」という感覚を持ってい
た。つまり今日生きている事を当たり前とし、いかにこの先を生きるかという
ことに思考が向いているのである。ファウストのような知識人は特にもその傾
向が強い。こうしたことは「生の質」という観点から見れば重要なことであろ
う。目標を持ち人生を設計し、現在を全て未来の糧とする。このような生き方
は現在を生きることに手いっぱいの人よりも遥かに質の高い生であろう。多く
の人が憧れ尊敬する生き方である。しかし「生の質」というような考えは「生
の本質」から反れたものではないかと思う。現在を生きることに手いっぱいの
人間、明日生きているかも知れぬものにとって生は瞬間的なものである。瞬間
に命を懸けて生きているのだ。未来を見据えて生きているもののように総体的
な生はそこに無い。あるのは今、目前のこの時なのだ。しかし生とはそもそも
このようなものではないか。現代社会の人間だとしても常に命の保証がされて
いるわけではない。今はあっても次の瞬間があるかは誰にもわからないのだ。
そうした生の中を我々は生きている。故に思う。存在する現在において命の光
を輝かすことこそが生の本質なのではないかと。我々は明日に生きているので
は無い。未来に生きているのでは無い。今に生きているのだ。現在において生
きているのだ。私たちも原始にはこのような感覚の中に生きていたはずである
しかし文明の代償に失ってしまった。
現在の一瞬に過去と未来が集約された生の全てが注ぎ込まれる時、真に「生
きている」という感覚を獲得できるのだと思う。ファウストが「止れ。おまえ
はあまりに美しい」と言った時こそ正にこの感覚だったのではないだろうか。
ファウストは消えゆく瞬間に生の全てを見た。その瞬間こそが自分の憧憬の対
象だと知ったのである。そこに自らの生全てを捧げた時、何をしても満たされ
ることの無かった生の渇きが癒え、そして天上へと昇華していくのである。
しかし、恐らく憧憬の対象を知ったとしてもこの作品中ではそれが完全に実
現されない。私は天への昇華について、ゲーテは個の存在意識を越えた普遍的
世界への到達、すなわちファウスト個人の体験を通して天上の真理へ至ろうと
したのだと考えている。いわば真理たるイデアを炙りだそうとしたのだと思う
のだ。なぜならば現世においてファウストが兼ねてから求めていた時を獲得し
たにも関わらずその先にまだ続くということは、完結した世界の上で更に世界
を発展させようとしていると見られるからである。しばしばファウスト二部の
終結部はデウス・エクス・マキナ的であると言われる。メフィストのものに
なったはずのファウストが突然現れた天使たちの力で救われる様は確かにそう
映ってもおかしくない。しかしこれはゲーテから言わせれば継続的な世界の発
展を描いただけなのであろう。世界を飛躍させる際に、その契機として天使が
必要だったのだ。(折に触れて言うと、こうした飛躍的な展開はゲーテが敬愛
していたモーツァルトのオペラ『ドンジョバンニ』や『魔笛』の影響があるの
かもしれないと私は思う。)そして目的である天上の世界においてゲーテはグ
レートヒェンに導かれて遥か高く昇っていくのだが、二人は結局再会しない。
ファウストも神の下までは登っていかない。話の展開的に望まれる結末は無い
のである。神秘の合唱による啓示的な言葉で全編は締めくくられるのだ。この
神秘の合唱の中にゲーテの行き着いた真理があるのだろうが、あまりに詩的な
のであらゆる解釈が存在するように思われる。つまりこの言葉だけでは天上に
ある真理は一元化できないのだ。
しかしこのような、ややもすれば不完全とも言える結末に私が冒頭で述べた
『全ての芸術は満たされざる憧憬に支配され、その憧憬の具現化に等しい』と
いう芸術の本質における思想の根拠がある。正しくファウストも、現世から昇
華した天上の真理に憧憬しそこに向かって昇っていくものの、道半ばで話は打
ち切られ、憧憬は満たされていないのだ。ただし忘れてはならないのは天上の
世界に行き着いた時点で真理の光は照っているということだ。その光の実態を
完全に捉えることはできなくとも、光の中にあり光を浴びている点でこの作品
には憧憬の対象である真理の光が差し込み、光を感じることができるのだ。真
理のイデアの光明が作品から漏れているのである。

いかにワーグナー、シューマン、ベルリオーズ、マーラー、という名だたる
芸術家といえども、このファウストから漏れる真理の光を完全に捉えることは
できていないだろう。しかし芸術家に限らず絶えず真理を探究する者、そう、
ファウストのような憧憬を持つ者にとって、この作品は真理のイデアの世界の
扉を開ける鍵となる。ファウストの精神を継ぐ者に対して天は開かれ光は照る
のである。

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