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Exposición y seminario
Ruinas de la Iglesia de San Agustín de El pueblo viejo de Belchite (Zaragoza) スペイン内戦で破壊されたサラゴサ県ベルチテ
destruidas en la Guerra Civil española. 旧市街のサン・アグスティン修道院跡
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物事をどのように伝えるのか
シズム、共産主義、民族社会主義か ボ リンや ゴンサロ・アギレラの 検 閲
は、コンスエロ・デ・ラ・モ ラ が 当 強いられました。そして共和国派の
ドリードでは局長として作家そして にな り ま し た。彼 が 主 催 す る 会 見
ていきました。
て、言 葉 を 支 配 す るこ と か ら 始 ま です。一方、ファシズムが猪突猛進し
ら挟み撃ちにされている合憲の民主 命令を受けた一人でした。それでも、
が 選 任 さ れ、1 9 3 7 年に 政 府 の のような名称で言及することが禁じ
前 まで迫っていた 世 界 大 戦 を リハー
状態にあった世界は、ヨーロッパの門
二十 世 紀の三十 年 代に一触 即 発の
主義政府の現状を指していました。 ソビエトと公然と衝突して、ますま
ためでした。事実とはすなわち、
界が事実を知ることにかかっている﹂ 日 本 も 自 国の 特 派 員 として 坂 井
なぜならば、﹁共 和 国の勝 利は、世
及 び 多 くの 情 報 を 提 供 し ま し た。 す。
局 を 指 揮 す るこ と にな り ま し た。 ことは﹁
組 織 がバレンシア に 移 さ れ た 際 に られ、
ジャーナリストのアルトゥロ・バレア では、記者たちが反乱軍のことをそ
国 報 道 宣 伝 局 を 設 置 し ま し た。マ う彼の言葉が後世に記憶されること
最 初 の 混 乱 状 態 を 経 て すぐに、外 は、銃殺以上の処刑に値する﹂とい
戦争が勃発すると共和国政府は、 たが、
理的関与を支える強力な武器になっ 軍 も 独 自の 報 道 宣 伝 事 務 所 を 設 置
う 活 動 家 な る 彼 ら は、政 治 的・倫 蜂起の序幕の瞬間から、クーデター
伝えながら形容詞や名詞をもって闘 そして、その目的のために、武装
を 放 棄してし まったのです。事 実 を
り、大半は真実と相容れない客観性 たのです。
ど ち ら か一方 の 陣 営 の 隊 列 に 加 わ るジャーナリストをスペインに派遣し
ジャーナ リスト たち は、﹁知 的 に﹂ う 考 え を 承 認 して 釈 明 し よ う と す
ま し た。世 界 の 隅 々か ら 集 まった らスペインを 何 としても 救 う﹂とい
をかけ た 大 き な 集 団 的 偉 業 と な り 身 が語ったよ う に﹁マルクス主 義 か
対 す る、人々の 理 想 と 人 間 の 尊 厳 米国記者ジェイ・アレンにフランコ自
切った瞬間から、差し迫る残虐性に ろ、
戦争は言葉から始まります。そし は常に共和国の保護下に置かれたの
Contenido 目次
1
「物事をどのように伝えるのか」
ルイス・ガルシア・モンテロ
2
ファ 米夫を派遣しましたが、彼もルイス・
「スペインと日本の戦争:その残響と定義」
フロレンティーノ・ロダオ
にこそ、軍事クーデターの進展を意
に関して得られる 軍 事 情 報が一番の
興 味 だったのです。このよう な背 景
帝国にとって、何よりも戦略と兵器
すナチスの立場に接近していた日本
としてルイス・ボリンが指揮しまし
な 新 聞 を 除いて︶
たが、ほとんどの場合︵最も保守的
米 国 は 自 国の 特 派 員 を 派 遣 し ま し
﹁お前たちジャーナリストども
﹁スペイン国軍﹂という名称が
︵祖国に︶忠誠﹂や﹁政府側﹂
「スペイン内戦と日本人」
川成 洋
﹂という定義だけが
日本の新聞に見るスペイン内戦記事
の 直 接 の 証 人 として 報 じ る 国 際 的
アナキズムの複数の分派の間の﹁戦
インスティトゥト・セルバンテス
ト・セルバンテス本 部で開 始 され た
での 事 件︵共 和 国 政 府 がこれ 以 上
したが、それでも、まもなく第二次
に有名な日本人知識人はいませんで
かにされました。一つ一つの言葉を、
がら、容赦のない世界大戦に備える
その後の両陣営間の戦いが報じられ
会長 ルイス・ガルシア・モンテロ
慎重に選びながら。
ための国際紛争であったことが明ら
過 激 主 義 が 相 互 に 己の 力 を 測 り な
戦 と は、実 は 異 なる 旗 印 を 掲 げ る
録や歴代の特派員の記事等を集め、
時 代 と さ れる 内 戦 当 時 の 重 要 な 記
展 覧 会 では 既 に、記 者 活 動の 黄 金
くるものになります。2006 年の
展覧会から続く一連の行事を締めく
聞に見るスペイン内 戦﹂は、2 0 0
ター を 務 める 本 展 覧 会﹁日 本 の 新
川成洋教授と木下登教授がキュレ
た。
特 別 な 関 心 を 寄せ て 報 じ ら れ ま し
なく悔やむことになった出来事︶に
争内の戦争﹂が勃発したカタルニア
ま し た。そ の 中 でも、共 産 主 義 と
ける共和国に対するクーデターと、
件 以 上の記 事 を 通じてスペインにお
日 新 聞や 読 売 新 聞で合 計 1 4 0 0
本 国 では、東 京 朝 日 新 聞 や 東 京 日
世 界 大 戦 に 突 入 す るこ と に な る 日
たフラトリサイド︵兄弟殺し︶闘争
アルバート・カミュやサン=テグジュ
機関の沈黙が理解できます。
な 無 差 別 爆 撃 に 対 す る 日 本の 報 道
隠そうとした︶ゲルニカの非人道的
6 年 にマド リ ード の インスティトゥ
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あとがき 木下登
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2019 https://tokio.cervantes.es
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て 見せた 極 端 な 政 治 色 と、各 国 内戦を見ても前例のない動きだっ ル・ネルーは、娘の インディラ と としての参 戦が唯一確 実 と されて はニュージーランドだった。それに ンウェルスの 体 制 が確 立し、過 渡
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がスペインという 国に対し 以 前か た。国際旅団の存在は、グローバ と もにスペインを 訪 れ、リステル いるのは、1936 年にアメリカ 続くのがオーストラリアだ。アミ 期 を 迎 えた ばかり だったフィリピ
ら 抱いていた一定の イメージが 瞬 ル化が始まる以前に実現された、 大 将 や アメリ カ 合 衆 国の ジョン・ 合 衆 国 からスペインへと 向 かい、 ラ・イングリスは、スペインに ンは、アジアの中で最も内戦の影
80
時に一致したためである。例えば、 世 界 でも 著 しい﹁国 境 を 越 え た ケ ネディ大 使 といった 重 要 人 物 と 1 9 3 7 年 7 月 日 に ブル ネテ 名のオーストラリア人が渡ったと 響 を 大 き く 受 け た 国 だ ろ う。最
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イギ リスにおいては、カト リック 連 帯﹂の 例 である。ファシズムと 会談を行ったほか、第二共和政を の戦いで命を落としたジャック白 断言している。英国の大隊も含め も 決 然 と 反 政 府 側 を 支 持 してい
スペインと日本の戦争:
マドリード・コンプルテンセ大学情報科学学部
14
民の 九 割 以 上 が第二共 和 政 を 支 ンにかかっている﹂という 共 通の てもスペイン内戦の影響が見られ 1 9 3 8 年4 月にペルピニャン経 亡 し た が、 名 は 看 護 師 で も は じ め と す る 様 々な 企 業 を 経 営
14
持するようになった。 思いにより生まれた繋りだ。スペ た。その理由としては、フランス 由でスペインに渡った 松 尾 邦 之 助 あった 。 看 護 師 の一部 は 、 資 金 し、国 内 で 最 も 裕 福 な 人 物 と さ
国際関係グローバル歴史学科教授
化すと、内戦についての議論が繰 数ヵ月 後 に 第二次 世 界 大 戦 が 勃 アントニオ・ハエン・モレンテがス 文 学 を 専 門 とし 報 知 新 聞の 欧 州 International Comitee for Aid to 氏、そして何 百 人 ものスペイン人
り 広 げ ら れ た 末、武 器 や 戦 闘 員 発したが、内戦に赴かなかった者 ペイン 共 和 国 極 東 地 域 特 命 全 権 特 派 員 であった 小 松 清 も 共 和 国 ︵スペイン支援国際委員会︶ 従 業 員 を 抱 え、国 で 最 も 重 要 な
Spain
世界中に影響を及ぼしたスペイ たち が 姿 を 現 し た。多 くの 国々 の 多 く が、参 戦 して 全 体 主 義 の 大使としてインドシナ半島に招か 側での参戦を望んでいたが、実現 か ら 派 遣 さ れてい た。派 遣 さ れ 企 業であったフィリピン煙 草 会 社
から武器や装備が届き、スペイン 繁栄を押しとどめるべきだったと れていたことが挙げられる。さら し な かったよ うであ る。ナショナ た 人 数の 合 計 を 見 る と 少 ないよ も、積極的に支援を行っていた。
その残響と定義
ン内戦。これをテーマとした書物
が、他のどの紛 争について記し た 人同士での殺戮が次から次へと行 悔 や ん だ。第二 次 世 界 大 戦 は イ に、シャム王国も影響を受けた国 リスト 派︵フランコ派︶では、オ うに思えるが、スペインとの地 理 同社はフランコ政権に貸付を行っ
も の よ り 数 多いこ と は 周 知 の 事 わ れ た。不 介 入 政 策 が 採 用 さ れ タリアのアビシニア侵略が発端だ 家の一つだ。民族統一主義が高まっ ランダ領 東インドにおいては、華 的 な 距 離 が 遥 かに 長いこ と や、 ただけでなく、フランコと戦うた
実 だ ろ う。第二 次 世 界 大 戦 が 勃 ていたにもかかわらず、戦車や大 という説が存在するが、ダビッド・ た末に国名がタイに変更され、イ 人 の 医 者 であ る ティオ・オエン・ 国の人口が比較的に少ないことを めのスペインへの渡航費を出資し、
発 す る 前、イベリ ア 半 島 に 世 界 砲、爆弾、銃といった武器の大半 ホ ル ヘ 氏 は 著 作﹃ Inseguridad ギ リスやフランスによって奪 われ ビック︵ビ・ダオ ウェン︶が 義 勇 考 慮 す る と、か な りの 数 字 だと さらには義勇兵が戦線で戦ってい
が 注 目 し た だ けでな く、世 界 各 がドイツ、イ タリ ア、ソビエト 連 ︵集 団 的 不 安︶﹄に て た 領 土の 回 復 を 目 指 す 動 き を 開
Colectiva 兵 と し て 参 戦 し たこ と が 最 も よ 言えるのではないか。これらの地 る 間 も、フィリピンで本 来 得るは
邦 か ら 届 き、他 にも ポ ーランド 1 9 3 6 年7 月 日 が始 ま りで 始し たためである。バンコクと 東 く知られるケースだろう。韓国で 域 からスぺインに 渡ったのは、移 ずの給料を支払い続けていたので
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地から武器や戦闘員が集まったの
だ。国 外のスペイン人コミュニティ やペルーなど様々な市場から送ら あると指摘し、実際に、スペイン 京の友好関係により、タイは反政 は、多 くの 国 家 主 義 者 たち が 第 民の子どもたちだった。また、 フィ ある。最終的には、紛争はフラン
が紛争を拡大し、スペイン人同士 れて き たの だ。こ れ ら の 供 給 物 内 戦 を 最 も 適 切 に 表 すのであ れ 府側のフランコ派を支持する立場 二 共 和 政 を 支 持 し てい たこ と か リピンか ら も 国 際 旅 団 員 として コ派 同 士 の 間 で 繰 り 広 げ ら れる
は、事 前・事 後 に 代 金 が 支 払 わ ば、国 内 に 限 定 し た﹁内 戦﹂と にあった が、スペインに 対 し 治 外 ら、共 鳴 団 を 創 立 して 独 立 運 動 約 名 が 派 遣 さ れ た が、1 8 9 ようになっていた。伝統主義者、
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の 対 立 を 生 み 出 し たこ と が、世
界 各 地 でも 政 争 を 広 げること と れていたものもあれば、無料で供 いう 言い方ではなく﹁スペイン戦 法権廃止を求めたことにより、タ を率いていたアン・チャンナムのス 8 年の時 点でフィリピン共 和 国の 反動主義者、カルロス支持派など
なった。こ の 現 象 は、ヨーロッパ 給されるものもあった。殺戮の手 争﹂とするべきだと主張している。 イの 支 持 的 な 立 場 が 公 になるこ ペイン渡 航が日 本の警 察によって 大 統 領であったエミリオ・アギナ が集 まる 従 来 からの 団 体 を 支 持
諸 国に限ら ず、ラテンアメリカ諸 段 は 十 分 す ぎ るほど で、死 を 覚 スペイン内 戦の残 響はアジアで と は な かった。他 のヨーロッパ諸 把握・通知されていたとヘ・スン・ ルド が 当 初 派 遣 を 約 束 してい た していた 寡 頭 集 団の 因 習 的 な 指
国において特に著しく見られた。 悟で参戦する者も後を絶たなかっ も 感 じ ら れ た。距 離 的 に 遠 く、 国が廃止を受け入れていたにもか チェの研究で主張されている。 十 万 人 という 数 字 を 大 き く 下 回 導体制に嫌気がさしていたファラ
世 界の国々が、スペイン国 内で争 た。ま た、何 十ヵ国 も の 国 々か スペイン人コミュニティも少なかった かわら ず、フランコ派はそれ を 認 アジア の 中 でも 特 に 内 戦 に 大 る もの だった。他 方で、フランコ ンヘ党との同盟を求める、社会的
いを繰り広げていた﹁共和国側﹂ ら 自 ら の 意 思 でスペインへやって ことから影響は比較的小さかった めなかったのだ。 き く 関 与 し た 地 域 は、恐 らく 西 側 で 戦 う ために 派 遣 され た 義 勇 闘争のようなものと化していたの
と﹁フランコ側﹂をそれぞれ支持 来て、敵に立 ち 向 かい、スペイン が、常に何らかの影響があったこ アジア か ら も 数 多 くの 戦 闘 員 アジアだろう。イベリア半島に派 兵 の 数 は 百 名 を 超 え、二 番 目 に だ。過 去 に 植 民 地 支 配の 時 代 が
する二派に分かれたのだ。という の 地 で 命 を 落 と す 国 際 旅 団の 義 と は 確 かであ る。国 民 会 議 派 で が 国 際 旅 団 員 として 参 戦 してい 遣 さ れ た 義 勇 兵の 人 数の、人 口 人数の多い団体となった。 あったこと から、争いはスペイン
の も、対 立 す る二 派 が 突 如 とし 勇 兵 もい た。こ れ は、世 界 中 の 議 長 を 務 めていた ジャワハルラー た。日 本 人 に 関 して は、義 勇 兵 に対する割合が最も大きかったの 独 立 に 向 けてフィリピン・コモ 国内に収まるものではなくなって
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いた。共 和 政 を 支 持 す る 反 教 権 二つの紛争は、互いに助長し合う 生まれた有名な﹁ No Pasarán ︵奴 を 利 用し、 Diario de Burgos
︵ブ スペインとの 並 行 的 状 況 を プロパ られているが、これが世界規模で いたが、最 終 的には唯一開 戦に至 つくことになる。一つ目は、ブリュッ
主義派とフランコに賛同する教権 も の と なった。な ぜ な ら、日 中 ら を 通 す な︶﹂のスロー ガン が、 ルゴス新聞︶に﹁東洋の共産主義 ガンダに利用するのは都合が良い の 対 立の 重 要 な 引 き 金 と な り、 らなかった紛争となった。さらに セル国際会議において国際連盟の
主 義 派の 間 に、明 確 な 分 裂 が 生 戦 争︵ま た は、宣 戦 布 告 は 行 わ 中 国 国 民 党の 国 家 主 義 派 との 同 は日本によって滅ぼされ、西洋に ことではなかったのだ。青年将校 以 後の 世 界 を 決 定 付 け る ものに は、1939 年にナチス・ドイツ 影 響 力 を 弱 めることに 成 功 し、
じていたためだ。さらに、スペイ れなかったため﹁事変﹂とも言え 盟 を 促 す 目 的 で、当 時の 中 華 民 おいても、スペインや その 他の 全 たち が何 日 もの 間 東 京の 街 を 占 なったという認識は薄いだろう。 と独ソ不可侵条約を締結した後、 日本が中国侵略について明白な非
ン社会に対し、暴力的かつ時代遅 るだろう︶は、もっとも第二次世 国の首都であった武漢市の共産主 体 主 義 国 家の 力 によ り 崩 壊の 道 拠 し た が、天 皇 の 反 対 を 受 けて その 理 由の一つとして、この二つ 翌 年の 1 9 4 0 年 には 協 定 違 反 難を受けなかったこと。そして二
れで柔軟性に欠けるという新しい 界 大 戦 の 始 ま り だったか ら で あ 義者たちによって複製された。さ を 辿っている。﹂とい う 見 出 し の 失 敗 と なった。し か し、体 制 は の紛争の同時勃発がきっかけとな を 起こ す という 急 激 な 動 き を 見 つ目は、大日本帝国がフランコ政
イメージが定着したことから、メ る。この世界規模での争いは、1 らに、スペイン内 戦 で 働いたヨー 記事を寄せている。イタリアがフ ま す ま す 過 激 さ を 増 し、拡 張 主 り、全 体 主 義 の 高 ま りに 立 ち 向 せたの だ。し かし、スペインと 中 権を支持していたために、フラン
キシコやスペイン、アルゼンチンと 931年9 月、第一次世界大戦後 ロッパ人 医 師 たち が数 多 く 中 国へ ランコ派に影響を及ぼしていたこ 義 的 な ものへと 変 化していった。 かう 必 要 性 が広 く 認 識 され たこ 国 で 起 き ていた 紛 争 を 背 景 に、 コ側が、1932 年に建国されて
いったスペイン語 圏 諸 国より も、 に日本がヴェルサイユ条約を破り、 渡 り、そ の 豊 富 な 経 験 に よ り、 と から も 主 戦 論 が 白 熱 し、侍 や 日 本 政 府 は、並 行 的 関 係 と は 異 と が 挙 げ ら れる。そ の 明 白 な 例 モスクワが民主主義側の立場であ 以 来エルサルバドル とバチカン市
特にアメリカ合衆国を中心とする 国 際 連 盟 の 加 盟 国 であった 中 華 多 くの 人 命 を 救った。中 でも 最 芸 者 な ど、従 来 か ら あった 日 本 なる別の視点からスペイン内戦を が、アメリカ合 衆 国のフランクリ ること が明 ら かになっていった。 国が唯一承認していた満州国の存
アングロ・サクソン諸国との繋が 民国を侵略したことが発端になっ もよく知られていたカナダ人医師 に対するイメージの軍国主義的側 見ようとしていた。フランコ側と、 ン・ルーズベルト 大 統 領 だ。スペ また、イタリアのナチス・ドイツ 在 を 認 める という 宣 言 を 余 儀 な
りが強化されるようになった。ス たという一説も存在する。しかし、 のノーマン・ベチューンは、現 在、 面 が 積 極 的 に 利 用 さ れる よ う に その 味 方 であ る イ タリ アの 勝 利 イン内戦が勃発した際、アメリカ と の 同 盟 関 係 も 不 明 瞭 だった。 くされたという点が挙げられる。
ペイン語は家庭内で話されること 1 9 4 5 年 まで 続いた 世 界 大 戦 中国に立てられている銅像の数が なった。実際、この時代に出版さ が大 英 帝 国 に 及 ぼし 得る 打 撃 に 合衆国は英国と同じ対応をとって 英 国は外 交 上、ムッソリーニとヒ こ の 流 れ か ら、突 如 と し て イ タ
が 多い 言 語 と な り、1 9 3 9 年 の 始 ま りは、1 9 3 7 年7 月7 最 も 多い外 国 人 だ。一方、スペイ れていた和伊辞典の特徴として、 目 を 向 け たの だ。この 打 撃 は 特 い た。し か し、中 国 で 紛 争 が 起 ト ラーの 関 係の 緊 迫 を 強 く 望 ん リアが日本を支持する側についた
に実施された国勢調査によると、 日、日 本 軍 が中 国 を 侵 略 し た 盧 ンの 共 和 国 側 は、日 本 と 戦 う 中 軍 事 用 語 を 集 め た 付 録 を 備 え て に 地 中 海 地 域 で 著 し くなること きると、タイムズ誌の創立者であ でいた が、イ タリア がスペインに のである。1937 年 月にロー
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就 学 前の 5 歳 以 下の 子 供 たちに 溝 橋 事 件 だったの だ。スペインに 国の味方についたが、興味深いこ いたことが挙げられる。さらに、 が 想 定 さ れ、大 英 帝 国 が 占 領 し るヘンリー・ルースが蒋 介 石 夫 妻 協 力 してい たこ と が 主 な 理 由 と マが 満 州 国 承 認の 意 思 を 宣 言 す
おいては英語よりも話者が多いと は 1 9 3 9 年 以 降、戦 闘 を 続 け とに無 政 府 主 義 者より 称 賛 を 得 日本について記した小説の中で当 ていたジブラルタル海峡での勢力 と の 親 密 な 関 係 が あったこ と か な り、ドイ ツ や 枢 軸 国 と 接 近 す る と、その 翌 日 に 日 本 と 満 州 国
いう結果が出ていた。しかし、 ちょ る 力 が残っていな かった が、日 本 ていた 蒋 介 石 という 人 物について 時最もよく知られていたのは、イ を脅かすに至りかねないものだっ ら、対 立の 必 要 性 を 認 識 す る よ ることとなった。 がフランコ政 権 を 承 認し、フラン
う どこの 時 期 に 国 内 で 政 治 的 紛 は 1 9 4 5 年 ま で、そして 中 国 はほぼ何も知られていなかった。 タリア語からスペイン語に訳され た。ジブラルタル海峡は、当時日 うになったのだ。そして1937 全 体 主 義 を 掲 げ る ドイツ と イ コ側も満州国の承認に至った。こ
争 が 発 生 し たこ と で、特 に 不 都 は 1 9 4 9 年 ま で 引 き 続 き 戦い 特 に 共 和 国 側 は 日 本の 脅 威 を プ た ﹃ Yu-ri-san. La pintora de 本で使用されていた地図の中で、 年 月、アメリカ軍はついに断 固 タリ ア は、中 国 軍 や 中 国 国 民 党 れは、1931 年に満州でヴェル
12
合な時期に国が分裂してしまった を続けた。 ロパガンダに利 用しており、共 和 ︵菊の画家、ユリさ 唯一イベリア 半 島に示 されていた
Crisantemos. とし た 決 断 を 下 し、1 9 3 8 年 を 含 め 蒋 介 石 が 率いる 中 国 と 強 サイユ条 約への違 反が侵 され たこ
の だ。そこに、1 9 3 5 年 月 当時言われていたように、 ﹁ユー 国の 捕 虜 と なった 日 本 人 義 勇 兵 ん。︶ ﹄であった が、ここでは、プ 地 点 だった。ソビエト 連 邦 がイベ には、実現はしなかったもののルー 固な関係を築いていたことから、 と を、当 時の大 国であったファシ
11
に始まった独立に向けての過渡期 ラシア大陸の両極端で二つの紛争 の名を発表していた。さらには、 ロパガンディストのマリオ・アペル リア 半 島 に 武 器の 供 給 を 始 める ズベルト 自 身 もアメリカ合 衆 国か 日 本 との 同 盟 関 係 は 予 測 し がた ズムのイタリアが初めて認識した
が 重 な り、問 題 が さ ら に 増 大 し が 同 時 に 勃 発﹂していた が、一つ 三千人もの日本人がフランコを支 スが 自 身 の 言 葉 で﹁愛 や 幸 福 を と、日本軍は、後に張鼓峰事件︵1 らスペインへの 軍 用 機 供 給 を 試み いことだった。実際、1936 年 とい う 歴 史 的 な 決 定 事 項 と なっ
たのである。 の 紛 争の 交 戦 国 が、も う一つの 紛 持するべくカディスへやってきたな 犠 牲 にしても 支 配 的 な 習 慣 に 従 938年夏・別称ハサン湖事件︶ た。別 の 理 由 として 挙 げ ら れる 月 にドイツ と 日 本 が 防 共 協 定 た。こ れ を 受 け、ヒ ト ラ ー が 1
11
争の交戦国を味方につけるという ど、写 真 も 含 め な がら 世 界 に 向 う、東 洋 世 界の 女 性 像 と 伝 説 的 とノモンハン事件︵1939 年夏・ の が、1 9 3 6 年の 時 点 で は 1 を 締 結 し たこと で 中 国 との 良 好 9 3 8 年 4 月、中 国 と 対 立 する
状 況が生じていた。スペイン内 戦 け て 虚 偽 の 報 道 を 行ってい た の な善﹂を書き表そうとしている。 別称ハルハ河の戦闘︶での対決相 9 3 9 年の 大 戦 にお け る 各 国の な関係が損なわれることはなく、 日本の完全な支持を決めたのだ。
日中戦争 の利用に最も固執していたのは、 だ。 軍 国 主 義 者の 考 え 方 は、よ り 手 と なるソ連の 武 器の 進 歩 度 合 立場の境界が曖昧だったことだ。 日中戦争が勃発すると、ナチス・ 日 本 とスペインが関 与 する二つの
中 国 の 共 産 党 員 たち だった。共 他方では、反政府側のフランコ 堅実なものだった。数ヵ月前に東 い を 把 握 す る ため、直 ちに 使 節 ソビエト連邦に関しては、その立 ドイツとイ タリアのファシスト 党 紛 争 が 同 時 に 起 き てい たこ と か
さ らに、アジア においては、スペ 和政に賛同するスローガンを掲げ 派 と、軍 国 主 義 の 日 本 が 互いに 京 でも二・二 六 事 件 と 呼 ば れ る 団を派遣した。 ち 位 置 が 明 ら かになること は 決 は中立的な立場を宣言した。数ヵ ら、第二 次 世 界 大 戦 にお け る 連
2019 インで起きていた紛争が日中間の な がら デモが行 わ れ、ファシズム 拍車をかけ合っていた。特にフラ クーデターが起きたが、未遂に終 二つの 紛 争 がスペインと 中 国で してなかった。日本との戦争が起 月 経つと、イ タリアのファシスト 合 国 側・枢 軸 国 側の 境 界 が明 確
争いに影響を及ぼしていた。この からマドリードを守るものとして ンコ派の方は度々この並行的状況 わっていたため、これに言 及して 同時に勃発していたことはよく知 きるだろうという考えは広まって 党は主に二つの理由から日本側に になったのである。
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贈 フランコ将軍
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日 新 聞﹄と 記 す︶、
﹃東 京 日 日 新 ①比較的公平な報道︵193 土にも 波及﹂ ︿ジブラルタル 日 事件﹂ ︵1936年2月 日、陸 を 惹 起した﹁叛 軍﹂が、何 故か、 務に従う﹂ る。
スペイン内戦と
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https://tokio.cervantes.es
聞 現・毎日新聞 ﹄) 以
( ( 下、
﹃毎 6年7月 日∼7月 日︶ 発同盟﹀であり、記事は﹁モロツコ 軍青年将校団に率いられた14 初めて﹁革 命 軍﹂と 呼 称 され た また翌 日付けの ﹃朝日新聞﹄ これらの﹁叛 乱 軍﹂ないし﹁革
31
26
19
日 新 聞﹄と 記 す 、
﹃) 読 売 新 聞﹄ スペイン内戦の第一報が載ったのは、 における叛乱派スペイン全土に波 85人の兵 士が、東 京の中 枢 部 のは、 ﹃朝日 新聞﹄では7月 日 の﹁新 政 府 樹 立 ――モラ将 軍 宣 命軍﹂の紹介自体は﹃ 、毎日新聞﹄
24
によると、スペイン内戦関係の記 1936年7月 日付けであり、 及し、スペイン南 東の要 港カタル で武装蜂起し、首相官邸や大臣 付けの﹁革命軍首都に迫り/政 言﹂︿ブルゴス︵北スペイン︶ 日 や﹃読 売 新 聞﹄も 同 様に決して
24
18
24
を別とすれば、今日想像する以 聞﹄と 見 出 し が異 なる ものの、 の海港フエロールの陸軍部隊も し、政府高官・軍高官を殺害し、 難準備︿ ﹂マドリツド特電 日発﹀ 命 軍の樹 立を 宣言し﹂の記事に 出来 事の報 道に過ぎないようで
23
18
22
ちなみに、内戦勃発 1(936年 ﹃朝 日 新 聞﹄の 見 出 し は、
﹁西 伝えられる。またコルーニヤ 州に せた事件︶の﹁決起部隊﹂から﹁叛 日 付の﹁スペイン革 命 軍、首 都に 表した。 一方、スペイン共和国政府側、あ
7月 日から終 結 1(939 年 領モロツコの叛乱拡大/叛軍、全 隣 接 するオレンセ州でも 暴 動 勃 乱 部 隊﹂に 転 落し、軍 事 裁 判で 肉薄/ラジヲで政府に勧降﹂ ︿マ ﹁スペインの領 土の 分の8は るいは﹁政 府 軍﹂に 関 す る 記 事
日本人
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4月1日 ま ) でに、三紙とも、ほ 要地を占拠﹂ ︿タンジエ︵仏領モロ 発の報 あり、地方モロツコの叛 軍 極刑に処せられた青年将校の顛 ド リツド 日 発 同 盟﹀である。 既に手中に帰し、左翼 政 府は倒 は﹁狼狽﹂ と
﹁大敗﹂ の真っ只中で、
法政大学名誉教授
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ほ1400篇におよぶ。しかもそ ツコ︶ 日 発 同 盟﹀ 、ち なみに記 は地中 海 を 渡って本 土へ上陸、 マ 末をにおわせているようである。 ちなみに、 フランコ将軍声明が﹃朝 壊した。革 命 軍はここに愛 国 者 首 都マド リード 落 城 寸 前 といっ
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の内 容は、さまざま外 信と我が 事は、 ﹁元メリラ駐屯軍司 令 官エ ドリツドヘ向かつて進軍の計画あ ところで、 ﹃読売 新聞﹄の第1報 日 新 聞﹄に 登 場 するのは、7 月 ミゲル・カバネラ 将 軍 を 首 班 と た、反政府側寄りの報道が多かっ
川成 洋
国の同盟通信に依 存していたた リテラ中佐 を中心とするスペイ ると伝えられる﹂ 。 は、少 し 遅 れて、7 月 日 であ 日付けの﹁独裁制の樹立や復 する臨時共和政府を組織する﹂ たが、このスペイン内戦 勃発時点
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1
めに、途方もなく多岐にわたって ン領モロツコのメリラ 方 面におけ ちなみに、 ﹃毎日新聞﹄の第一報 る。﹁革 命の 国スペイン ―― 年 中 辟 を 企 画せず﹂ ︿ラバツド︵仏 領 さらに、 ﹃朝日新聞﹄7月 日 での新聞報道は、皮相的であって
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いて、その極め付きとしてのスペ る叛乱は果然拡大の勢いをしめ の見 出しは、 ﹁モロツコ︵西 領︶叛 行事ながら、今回は意味深刻 ― モロツコ︶ 日 発 同 盟﹀という 記 付けから始まった前スペイン公使 も、われわれの想 像 以 上にかな
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イン内戦を特集に組んだ号外は、 し、 日正午現在タンジエに達し 乱/軍事要衝を占拠/本国にも ―左翼 陣 営 侮 り 難し﹂は、新 聞 事である。以 下、フランコ将 軍の 青 木 新の﹁革 命の 西 班 牙﹂の三 り公平に事実を報 道していたと
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18
第1章 新聞報道 936年8月 日付︵オリンピッ 領モロツコの軍事的要地を全部占 日同盟﹀である。 取 材 し た 記 事 で あ る。そ の 他
﹁革 命 軍の軍 事工作は万 事 作 指 導 官ドン・フランシスコ・フラン ②活発な戦況報道から国威発
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ク合併号︶ 、同年9月6日付、同 拠するに至ったと報ぜられる。叛 この ﹃朝日新聞﹄ と﹃毎日新聞﹄ は、﹁海 を 渡 り 本 土上 陸! スペ 戦通り順調に進捗し特別な困難 コ将 軍は、本 年 1月 まで参 謀 総 揚を意図した内容︵1936 年
当時の我が国のスペイン内戦関
年 月 日付、 同年 月8日付、 乱はすでに全西領モロツコに拡大 の記 事において、ま ず 第一に目に イン反軍首都進撃/政府軍と猛 は少しもない。唯海軍の態度には 長の重職にあった男で、カナリア 8月1日∼ 月 日︶
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係の新 聞 報 道は﹁国 民ヲシテ見
1937 年1月 日付、と合計 し、目下ジブラルタル港対岸スー 留 まるのは、選 挙で合 法 的に樹 戦闘展開﹂ ︿ジブラルタル本社特 些 か諒 解 に 苦しんでいる。共 産 島軍司令官の身を革命軍の陣地 8月になると、欧米のジャーナリ
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セマイ、聴カセマイ﹂式の 全 面 的
5回も発行されたという刮目に タに波及し、さらにモロツコ警 察 立しているスペイン共和国政府に 電、 日 発﹀ 、
﹁飛 行 将 校 反 軍に 党の宣伝がかなり渡っているよう に 進 め た。当 年 歳、堂々たる ズムの動きも一段 と 活発 となり、
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言 論 統 制のために、きわめて乏
値する事実も含めて、情報不足 機関も叛軍に降伏したと伝えら 対して、軍事クーデターを起こし 加担、首都爆撃を通牒/スペイン す だが、海 軍の幹部将 校は革 命 体躯で一見非凡なるを思わせる軍 三紙とも同盟通信社や外国の通
しく、国 民の大 部分は埒 外にお
という﹁事実﹂は、完膚なきまで れ、事 態 猶 悪 化したために本 国 て部 隊 を﹁叛 軍﹂と 呼 称し、
﹁叛 暴動北部守備隊も呼応﹂ ︿リスボ 軍 を 支 持している と 確 信 する。 人である。その 落ち 着いた 言 語 信 社からの記事 だけではなく、
かれていた、というまことしやか
に否定せざるをえないのである。 部隊へ増派するため、 日スータ 軍﹂の首謀者であるフランコ将軍 ン本 社 特 電、 日 発﹀ 、
﹁首 都 占 革 命 軍 は 王 制の 復 古 を 企 画せ 動作からは何ら奇矯過激なもの スペイン国 境のフランス側で取 材
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な﹁事実﹂が定着している。
スペイン内 戦の 推 移に従って、 軍用船二艘を本国のアルゼシラス をはじめとする陸軍将官ではな 拠 説﹂︿ロンドン 日 発 同 盟﹀な ず、かつ徹底的な独裁制もスペイ は 感じ ら れ ない。彼はま た 極 東 した特派員の記事など、目白押
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しかし ながら、我が国の代 表
大 雑 把に時期 を四 期に区 切って 港においても本国部隊を港載、モ く、﹁エリテラ中佐 ﹂と明言して どであるが、この 事 件 を﹁スペイ ンの国民性とは相容れない。革命 日本に対し深い理解を 有してお しに紙面を埋めている。
2
的な日刊の全国三紙﹃東京朝日
述べてみたい。 ロツコに輸送するはずである﹂ 。 いる点である。この時点では、我 ン内乱﹂と表記している。 軍は完全に勝利を収めるととも ると言われている﹂︿7月 日付﹀ 8月 1日 付 けの﹃朝 日 新 聞﹄
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新聞︵現・朝日新聞︶ ﹄
︵以下、﹃朝
***** さらにもう一篇の見出しは、 ﹁本 が国での記憶も新しい﹁2・26 それにしても、軍事クーデター に原隊に帰還して、 一意本来の任 といったフランコ像 を 提 示してい の﹁大 動 乱の西 班 牙 を 聴 く﹂
︿ロ
6
ンドン特 派 員 日 発﹀は、 ﹁事 変 出 現している。アサーニャ大 統 領 勝った側の反対者だ﹂ の上原虎重外信部長の スペイン 立、アストゥリアス 月革命、人 調印され、 月 日に本調印が 班 牙 文 豪 逝 く﹂
︿サラマンカ2日 問題﹂など在日スペイン人外交官
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勃発以来世界最初の国際電話﹂ に真の愛国心があるならば自決 その他の記事は、三紙ともスペ 動乱と欧州 というタイトルの8 民戦線と国民戦線の総選挙、人 行われた。この防 共 協 定 締 結が 発同発﹀が載っている。記事は﹁ス のフランコ叛 乱 軍 支 持 をめぐる一
と 銘 打って、ロンドンの古 垣特 派 して責任を取るべきであろう。全 イン各 地の戦 線、ロンドンに本部 月 日から 日までの都合7回 民戦線内閣の樹立、といった内戦 契 機となって、一挙にスペイン内 戦 ペインの国 民 的 文 豪、サラマンカ 連の騒動記事が載っている。
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員が矢野スペイン公使との電話取 スペイン人はあくまで極端に走ら を 置 くスペイン内 戦 不 干 渉 委 員 の連載記事は、 ﹁宿命の虐殺、動 前 史 を 説 明している。それに 内 関係の記事が、 ﹁反政 府 軍﹂側に 大学総長ミフェル・デ・ウナムノ氏 4月 日午後4時 分、叛乱
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材の 内 容 を 伝 えている。8 月 んとしている。スペイン時の血の中 会 の 動 向、ドイ ツ と イ タ リ ア 乱へ点 火 / 左、右 今や 死の 抗 争 戦がもたら すヨーロッパの国々の 傾いたとは思えない。まだその時 は、先月 日サラマンカに於いて 軍傘下のドイツ・コンドル飛行軍
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日付けの﹁スペイン血の渦中の大 にはムーア人、バスク人 ばかりで の﹁叛 軍﹂ への軍 事 援 助、国 際 間 /惨・流血に彩る革命史﹂ ︵8月 政治的な地殻変動の危険を示唆 点では、スペイン各 地の戦 況は、 病 気の ため 急 逝し た。享 年 ﹂ 団がバスクの無防備な聖都ゲルニ
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和 魂﹂と、 日 付 けの﹁スペイン はなく、ジプシーの血も流れてい の 外 交 上のやり 取 り、などの同 日︶、
﹁勝 利 から 自 潰へ/ 共 産 している。勿論﹃ 、朝日新聞﹄や﹃読 最終 的に決 着をつけるには流動 と 説 明し、﹁ウナムノ氏は186 カに襲い掛かった。史上初の無差
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に大 和 魂又一つ﹂は、スペイン内 戦 る。 盟通信社からの配信記事である。 党人民戦線を蝕む/迷宮裡の革 売 新 聞﹄には 言 う に及 ば ず、書 的であ り、 月 7日 付 けの﹃朝 4 年ビルバオで生 ま れ 1924 別絨毯爆撃であった。この4月
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の争点など微塵もなく、国威発 マド リードの病 的 な戦 乱にま 8 月 日 付 け の﹃朝 日 新 聞﹄ 命点火者﹂ 8(月 日 。 ﹁) 政府軍 籍であってもこれほど実証的で詳 日新聞﹄の﹁政府軍優勢/スペイ 年故プリモ・デ・リベラ将軍の独 日付けの﹃タイムズ﹄と﹃ニ ューヨー
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揚を意図した忠臣愛国的な内容 かり間違えば、 一大戦争を惹起す の﹁秘 め たる 戦 慄﹂という 大 見 陣 営の 華 / 時 を 得 顔の
〝直 接 行 しい内戦前史関係書は出版され ン戦況﹂︵ビルバオ6日発同盟︶と 裁政治を痛烈に攻撃したためカ クタイムズ﹄の同時掲載され、﹁世
になっている。 るかもしれぬが、もしそんなこと 出しの﹁独紙が素破抜いた/7・ 動娘〟 ﹂
︵8月 日︶ 、﹁勝敗孰れに ていなかった。これらの七篇の記 いった記 事が載っているほどであ ナリー島に流 刑に処せられ た、 界中の新聞の第1面を独占した
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8月 日 付 けの﹃読 売 新 聞﹄ なれば人類の精神的水準は著し 叛 乱 事 件 /マド リツド・血の 帰すも/左右の死闘激化/今や 事は、さらに﹁スペイン内 乱 をめ る。 以 来 ウナムノ氏は帰国に肯んぜ ゲルニカ 絨 毯 爆 撃﹂を、﹃朝 日 新
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は、サラマンカ大 学 終 身 総長ミー く 低 下 するであろ う、彼 らはこ 発端﹂はマドリードの兵舎での軍 地 を 払 ふ 中 間 勢 力﹂︵8 月 ぐ る 欧 州 政 局﹂﹁緩 慢 な る 爆 ③フランコ叛乱軍への支持を明確 ずパリに亡 命、哲 学 と 文 学の研 聞﹄にはゲルニカ爆撃の記事は全
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ゲル・デ・ウ ナムノへの インター れを称して自由な共和国と呼ん 事 蜂 起 を﹁赤 色 平 民﹂が鎮 圧し 日︶、﹁不 干 渉は名のみ / 赤 と黒 発﹂﹁スペイン内乱日誌抄﹂を加え 化︵1937 年1 月1日∼ 月 究に沈潜1930年初めて独裁 く 見 当 たら ない。当 時の 同 盟 通
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ビュー記事﹁悲しき血の宿 命、繰 でいるが、信仰上の自由すら許し たさ ま を 伝 えている。8 月 日 の外援競争/勝敗全欧を変形せ て、﹃欧 州の危 機 を孕む/スペイ 日︶ 政 府と 和 解成って帰国、サラマン
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り返す狂気の沙汰/内乱を嘆く ていないの だ、自 分の 村について の﹃毎日新聞﹄の﹁何故勃発すい ん﹂︵8月 日︶ 、
﹁全土赤 化に合 内乱/第二次世界大戦一歩前﹄︵大 1937 年の幕 開けは、前 年 カ大学総長として返り 咲き﹁學
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スペインの碩 学﹂ ︿サラマンカ本 社 は何にも分 り もしない農民が大 たか?/スペイン動乱/左右相克 流す/獰猛な極左双生児/林立 阪毎日新聞社編、大阪毎日新聞 末からの膠 着 状 態のマド リード の独立と自由﹂のため闘った。ウ
特 電、 ニツカ ボ―ツカー 日発﹀ 声でロシアとか何とか言っている 全欧に延焼﹂の大型記事には﹁ 、左 果 て な き 政 党 分 野﹂︵8 月 社・東 京 毎 日 新 聞 社、1911 戦線、スペイン共和国の戦列で戦 ナムノ氏は無政府主義的思想を
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を載せている。以下に転載する。 始末 だ。猫が七匹の子 猫を生ん 右 国 家 対 立 / 第二大 戦 呼 ぶ 日︶、﹁軍隊共和化のメスへ/ 〝特殊 年9月8日︶として上梓されてい う外国人義勇兵の問題、スペイン 抱き著作、特に小説は独 自の心
﹁バカ騒ぎに夢中になっているス で三匹を食い殺して四匹だけ育 か﹂﹁繰 返 す 反 革 命 / 右 翼 戦 線 階級〟 血の反対/革命敢行・好個 る。 共 和国の領 海における﹁反 政 府 理解剖を以てしられる﹂と述べて
同人物の存在を確認することはできないため、
首謀者には存在しないことがわかりました。
当時の新聞記事に掲載されたこの人物は、
検証の結 果、実際にクーデターに関与した
ペイン人は今 回の 内 乱は自 由 主 てるという話があるが、人間もこ 増 大﹂﹁本 春の 総 選 挙 / 中 間 派 の口実﹂︵8月 日︶などである。 9月頃から徐々に﹁反政府軍﹂ 軍﹂による外国 籍 船 舶の拿 捕 事 いる。
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義とフアシズムとのあいだの戦争 れと変わりない。この前の大戦の を 掃 討﹂﹁人 民 戦 線 勝 利 / 極 左 この連 載 記 事は、1900 年 頃 に 関 する 記 事 が 多 くな り、
マド 件などに関する、スペイン内戦不 その 後、我 が国では、スペイン
ではなくして、文 明 と 文 字 通 り 惨禍で目覚めてよさそうなもの 策 動 誘 致﹂﹁俄 然 軍 部 蹶 起 / 侮 からの内戦に至るスペインの歴史 リード 防 衛 戦 あたりから、戦局 干渉委員会を中心とする国際的 内 戦の推 移 状 況 を 反 映してか、
の無秩 序とのあいだの闘 争であ だが、またしても懲りずに新しい れぬ 義 勇 軍﹂ ﹁軍 独 裁 布 告 か/ を丁寧にたどっている。具体的に は常に防衛に専念せざるをえな な外交上の駆け引きが主な記事 在 日スペイン公 使 ら 外 交 官の 動
現文のまま掲載しています。
ることを知るべきである。今や全 戦 争 を 始 めよ う としている。自 欧州危機深化﹂など 編 6 にわた は、泥沼化した唯一 の植民地モロッ かった﹁政 府 軍﹂には、不 利 だと と なっている。この 年の 記 事は、 きが活発になり、 ﹃朝日新聞﹄3
スペインに展開されていることは、 分は右が勝っても 左が勝ってもマ り、通 常の 新 聞 記 事 とは思えな コ独立をめぐる戦争、プリモ・デ・ 判 断したためか、 ﹁反政 府 軍﹂優 三紙 とも、非 常に多く、スペイン 月 日付の﹁戦乱のスペイン非常
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全く狂気の沙汰というよりほか ドリードの狂気は止むとは思え いよう な情 勢分 析 を開示してい リベラ独 裁 政 治、統一地方選挙の 勢の印象を与えている。 内戦期の記事全体の約3分の2 時使臣﹂ 、4月 日付の﹁東京に 〝
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注 1 参照。
2019 はなく、最 も 悲しい形 容 詞で説 ない。事 件が終 わ り を 告 げ た 後 る。 結果による国王の亡命と共和制 当時、我が国では、 コミンテルンに を占めている。1月3日の﹃朝日 スペイン 内 乱〟 勃 発﹂
、翌 日 付
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明される無政府状態が至る所に では、自分はいつものことながら さらに、 この時期の ﹃毎日新聞﹄ 樹 立、左 右 政 治 勢 力の厳しい対 対する防共協定が 月 日に仮 新聞﹄には、瞠目すべき記事﹁西 の﹁慎 重に対 策/ 〝二つの公 使 館〟
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1
信のパリ 支 局 記 者、または朝 日 それにしても、写 真 も ない小 さ ところで、共和国陣営において れでは﹁赤色テロ﹂に怯える共和 盟﹀、﹁アナキスト﹂などであった。 ヴィザ を もらってスペイン共 和 国 ランコ政権の承認﹂によって﹃朝日 換 を もたらした 年である。当 時
https://tokio.cervantes.es
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方 針の も とで、少 な くと も﹁反 阪 朝 日 新 聞﹄はほんの 数 行、し 共 和 国に兵 器・軍 指 導 部・戦 ゴン戦線に従軍していたのだが、 城明け渡し交渉/敵味方に分か めに好意的なジャーナリストを厚 月 日 付の﹃タイムズ﹄に﹁日本 活字よりも大きな活字が使われ
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政 府 軍﹂側 を 貶めないようにす かも 間 接 的 な 報 道 をしている。 闘 員 などの援 助 をしていたソ連 偶 然 にも 休 暇 でバルセロナに 戻 れ た 旧 友 に / 和 解の 日 遠 か ら 遇するが、それでいて絶えずスパ と ブラッセル宣言﹂ ︿東 京特派員 て読 者に注 意 を 喚 起している。
るという意図もとでスペイン内戦 ﹃大阪毎日新聞﹄にも、同様な記 をバックに政 治 的発 言 力 を 強め り、そこで市街戦と遭遇し、その じ﹂の記事が載り、 七月にかけて、 イかもしれ ないと 疑いの目 を 離 日発﹀ という記事がある。以下、 また、7月7日の﹁支那事変﹂の
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関係の記事が作られていたと判 事 が 見 受 け ら れる。さ らに、6 てき た 共 産 党の﹁内 戦 勝 利﹂の 後カタルーニャ共産党系の秘密警 各国のフランコ政権承認に関する さ なかった。両 陣 営 と も 取 材 記 引用する。 端 緒が開かれて以 来、まさしく
断せざるをえない。こうしたゲル 月 日 付けの﹃大 阪 朝日 新 聞﹄ 路線と、反スターリズムを標榜す 察に追われる 身 と なり、命から 記事が続いている。 事には厳重な検閲体 制で臨み、 ﹁フランコ政権の承認 緒の日 軍 国 調の 修 飾 語がつけ られてい
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ニカ爆 撃の対 応は、 ﹃朝 日 新 聞﹄ には、叛乱 軍の﹁観 戦 武 官﹂だっ るPOUMやアナキストのCNT がらスペインから脱 出したのだっ 月 4日 付の﹃朝日 新 聞﹂ 時として逮捕、拘留もあったよう 付 けは、ま だ 決 まっていない。日 る。
11
だけではなく、 ﹃毎日新聞﹄も同 た西 浦 進陸軍大尉の﹁人命には の﹁社 会 革 命の 達 成、次いで 内 た。帰 国して、自 らのスペイン内 に社として初めての現地スペイン だ。ち な み に、NANA ︵北 米 通 本の世 論は、このように急 を 要 一方、 ﹁フランコ政府﹂側には、例
様に、ゲルニカの惨事には一切触れ 想像するほどの脅威ではない﹂と 戦勝利﹂の路線の対立であった。 戦体験を書いた ﹃カタルニア讃歌﹄ からの取材記事が載った。この記 信︶の 特 派 員 で、共 和 国の ため する承 認には全く 興 味 を 持って えば、前 述したように、ゲルニカ
てい ない。し か し、﹃読 売 新 聞﹄ いう談話を載せている。しかし、 こうした対立が論戦の段階で収 ︵1938年︶を出版した。死者 事 を 書いたのは 朝 日 新 聞 特 派 に多大な援助をしていたヘミング いない。そして、新聞 社の論 説 委 爆撃のような前代未聞の非人道
は﹁反軍飛行機数台、ビルバオ空 西浦大尉がスペインに滞在してい まらず、5月3日、バルセロナにお と負傷者合わせて1000人ほ 員、坂井米夫。彼は最初フランコ ウェイですら、 ﹁いろいろ分子がい 員 たち も、日 本が承 認 すること 的事件に沈黙を守るほどの好意
襲、死者千名、近郊全滅に瀕す﹂ たのは、1936 年 月から いて、市 街 戦 として 勃 発し たの ど出したと言われるバルセロナの 陣営を取材し、その後、アメリカ て気がたっているから、用心する によって得られるであろうさまざ 的な操作は否めないであろう。そ
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︿ロンドン本 社 特 電、 日 発﹀に 月 までであ り、翌1937 年1 だった。バレンシアのスペイン中 央 市 街 戦は、共 和 国 陣 営で戦った 人記者団とともに、ゲルニカの取 ように﹂と坂 井に小 声で漏らし まな利点を読者に知らせようと して、日 本 政 府は、フランコ政 権
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ゲルニカの爆 撃を報 道している。 月から陸 軍 省 軍 事課勤 務となっ 政府から共和国軍がPOUMや 者にとっては許しがたい﹁内戦の 材が許され、そこからイルン経由 たほど、味 方に対しても 神 経 質 しなかった。 ﹃朝日新聞﹄はタイミ 承 認問 題が抬 頭すると、これ を
ている。従っ CNT陣営を武力鎮圧するため 中の内 戦﹂であった。これほど重 で出国しようとしたが、サンセバ にならざるをえなかったようであ ングよく 偶 然にそのことに気 づ 契 機に積 極 的にフランコ政 権 賛
て、彼 は ゲ にバルセロナ入 り するに及んで、 大な事件を我が国の三紙はどう スティアンでフランコ軍当局から数 る。 き、反コミンテルン強化の一手段と 美と承認のキャンペーンを開始し
ルニカ の 惨 5 月 8 日、
CNTは 武 装 放 棄 と 報道したのだろうか ﹃
。読売新聞﹄ 日間足止めを食らい、同行したア 月 になる と、にわ かに、日 して、フランコ政権の承認を評価 たのである。この時期の﹃毎日新
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事を目撃 市 街 戦の停 戦 を 訴えることで、 が最 も 多 く 報 道していた。5月 メリカの保守系新聞社の記者の 本 政 府の 代 弁 者 的 な 紙 面 に 代 している。さらに興味深いことに、 聞﹄のフランコ政 権 承 認の 記 事
したわけで この市街戦は終息した。その後、 6日付けの﹁スペイン人民戦線内 強 引 な 交 渉 でよ う や く 解 放 さ わってくる。これは、 ﹃朝日新聞﹄ ﹃朝日新聞﹄は、 日本の新し対ヨー ︵ 月1日の﹁けふ正式に通告/
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は な く、単 共和国内閣を牛耳った共産党が、 輪割れ/突如・カタロニアで無政 れ、イルンを通りフランスに入国 が際立っているようだ。 月 日 ロッパ政 策が、イギ リスの対 外 方 フランコ政権承認﹂ 、﹁初代代理公
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なる能天気 共産党寄りのフアン・ネグリン博 府主義者蜂起す/惨!市街戦随 した。彼はいったんパリに戻って、 付の﹁フランコ政権を帝国近く承 針の変更を促すかもしれないと 使 / 高 岡 書 記 官 を 起 用﹂ ︶と 比
な推測を 士を 首 相に据え、ソ連の秘 密 部 所に展開﹂ ︿ペルピニアン4日発同 そこで今までのパスポートを破棄 認せん/ 国 際 防 共 網 強 化へ﹂を 指摘し、日本政府の政策を弁護 較すると、 ﹃朝日新聞﹄の方がそ
述べた 過 ぎ NKVDの 援 助 を 得 て、宿 敵P 盟﹀ 、﹁血の戦慄/目撃者語る﹂ ︿ペ してパリの日 本 大 使 館で新パス 皮切りに、日本政府がフランコ政 している﹂ の扱い方と絶対量において、格段
ないので あ OUMの 非 合 法 化 と 粉 砕、次い ルピニアン5日発同盟﹀ 、
﹁カタルニ ポート を 再 交 付してもらい、スペ 権を正式承認する 月1日まで 1937 年は、 ﹃朝日新聞﹄の の違いがあったのである。
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る。 でCNTの 壊 滅 と 専 念 し た。こ ア 鎮 静﹂
︿ペル ピニア ン 5 日 同 イン大 使 館 で 期 限 付 きの 取 材 続いた。 月 日付けの社説﹁フ スペイン内 戦 報 道の姿 勢に一大 転 ④フランコ賛美のキャンペーン ︵1
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プ させてい な見 出しの﹁防 共の友 邦に寄せ リ ード 本 社 特 電、 日 発 至 急 かせると言っているが、しかしいず ①1 9 3 8 年 1 月 日 付 け わずか半年のうちに、東京のスペ 双 葉、大 妻 両 高 女 の 生 徒 ら
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る。 る /フランコ将 軍 感 謝﹂ 、7月 報﹀、︿マドリード本社特電、 日 れも札付きの共産党員だ、火に の﹁筆 を 競 うて〝ご返 事〟 /スペイ イン公使館に送っていた。 が﹁滅 共﹂の 文 字 を 千 人 針で縫
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1月 日 日付けの﹁西班牙でも 〝日の丸弁 発﹀な ど であ る。さ らに 3 月 油 注 ぐよう なもので、直ちに国 ン勇士に贈る乙女達﹂ ④同 年6月 日付の﹁ 〝美しい い上 げ、これに小 笠 原 長 生子 海
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から本格的 31 当〟﹂という 大 き な 見 出しの﹁困 日付の﹃読売新聞﹄の常設のコラ 内 秩 序の破 綻が考 えられる。こ 麹町カトリック教会処女会 ﹁聖 日本の乙女/優しい手紙を〟 /ス 軍中将の﹁贈フランコ将軍﹂と揮
な フ ランコ 苦欠乏の大試練/節約一皿デー/ ム﹁風塵録﹂はこう述べている。 れ以上の貧乏籤はあるまい﹂ テレジア会﹂の独身女性 人がス ペインの戦線、憧れる兵士﹂ 毫したものを帰国するスペイン代
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支持の運動 赤誠辛苦を超えて国庫へ﹂という ﹁マドリード陥落で二年有半に 4 月 1 日の﹃読 売 新 聞﹄の 最 ペインの防共戦 線で戦っている兵 カタルーニャ戦線に従軍中のフ 理 公 使 に 託してフランコ将 軍 に
が全国的規 記事だけである。 およぶスペイン戦 争にもいよいよ 後の記事は﹁ 、王制か全体主義か、 士に慰問の手紙を書き、東京スペ ランコ軍 将 兵から 慰 問の手 紙 を 贈った
模で繰り広 1939 年3 月 日、2年9 大団円となる。形はスペインの内 スペイン今 後の 国 家 形 態﹂︿アン イン公 使 館 経 由で送 り、近 く 同 要請する一枚の軍用 絵葉書がスペ
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げ ら れてい カ月の抵 抗 を続けたマドリード 紛に終 始したが、質 的には赤 禍 デー本 社 特 電、 日 発﹀ 、﹁沸 騰 教会委員長の国民使節山本新次 イン公使館に届いた。 以上、﹃朝日新聞﹄ ﹃毎日新聞﹄
30
た。具 体 的 がついに陥落し、フランコ軍のマド 駆逐の国 際 戦であり、灰 色国 家 する防共の感激、神聖スペイン視 郎 少 将がフランコ将 軍 を 表 敬 訪 ⑤同年6月 日付けの﹁スペイ ﹃読 売 新 聞﹄の三紙のスペイン内
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な 事 例 は、 リード 入 城 を もって、スペイン内 の首鼠両端主義等も介入して解 察行﹂︿アヴィラにて松尾特派員、 問するが、全国のカトリック教会 ンの戦線でも/わが千人針礼讃 戦関係の記事を検討してきたが、
938年1月1日∼1939 年 次 章﹁市 井の 国 民の 反 応﹂で紹 戦は終結した。3月 日付の ﹃朝 決至難を思わせるものがあった。 日発﹀などである。 の信徒にスペイン兵士に慰問の手 / 防 共 軍 将 兵 が更 に 本 社 に 懇 1938 年になる と、4月1日
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3月 日︶ 介し たいと 思 う。若い女 性 たち 日 新 聞﹄には﹁人 戦 派 続々降 伏 し かし 結 局、イベリア 半 島 か このように、全国三紙のスペイン 紙を書くことを呼びかけている。 望﹂ に国家総動員法の公布︵5月5
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1938年1月になり、 ﹃朝日 がこぞってこのフランコ支持、ある /フランコ軍躍進す﹂ ︿マドリツド ら赤 禍は一掃されたのである。人 内戦に関する報道は終了する。 ②同年2月7日付けの﹁スペイ スペインの地方紙が日本独特の 日 施 行︶により、新 聞 社 も 本 格
新 聞﹄に は、﹁反 共﹂、
﹁滅 共﹂を いはフランコ賛 美の運動に加わっ 日 発 同 盟﹀ 、
﹁ヴアレンシア、無 民 戦 線 派 の 敗 退の 後 ろ に はソ ンにも千人針 沖縄にも/ 〝防共 千人 針の由来を解 説し、その掲 的な﹁言 論 統 制﹂を 自ら徹 底 化
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全面に掲げたフランコ支持のキャ ているの だ。彼 女 たちの 過 熱 気 抵 抗 屈 服か﹂ ︿ベルリン 日発同 ヴィエト、フランスの後退があり、 の乙女〟 ﹂ 載紙が在京スペイン公使館に届い せざるをえなかった。それこそ、
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ンペーンの一環として、フランコ軍の 味というべきか、付和雷同的とい 盟﹀、﹁米・フランコ政 権 承 認か/ 同 時に独 伊の進 出 となったわけ 第2章 沖 縄の那 覇 市のタイピスト 嬢 た。 来るべき 第二次 世 界 大 戦におけ
連戦 連勝の記事が続き、さらに うべきか、 ﹁防共﹂精神ないし、 ﹁聖 まず武器禁輸を解除﹂ ︿ワシント だ。 たち が 千 人 針、神 社のお 守 り、 ⑥同 年7月 日付けの﹁美し るマス・メディアによる 国 民 総 動
市井の日本人の反応
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1月 日から、前スペイン公使青 戦﹂意 識 が、 ﹃朝 日 新 聞﹄に 巧み ン 日発同盟﹀ 、
﹁フランコ政府放 惨憺たる憂き目を見たのはフ 慰 問の手 紙 など を 贈った。彼 女 き戦争の乙女/我荒鷲を激励/ 員 体 制の実 質 的 先 駆けであった
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木 新の﹁西 班 牙の 国 民 性﹂とい に利用されたのだろう。 送﹂︿ブルゴス 日発同盟﹀ 、3月 ランスであろう。国境不安の増大 ここで扱 うのは、﹃朝 日 新 聞﹄ たちの手紙が紹介されている。 スペインから可憐なる手紙﹂ ろ う。同 時に﹁真 実 を 公 明 敏 速
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う 4回 連 載が載った。その 最 終 この時期の﹃毎日新聞﹄には、 日 付けの﹁伊 帝、フランコに祝 もさることながら、ピレネーを越 独自のフランコ将軍支援および讃 ③同年2月 日付けの﹁響く 今 度は今までとは逆に、 スペ に報道し﹂ ︵朝日新聞社綱領︶と
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篇の﹁フランコ将軍の至言﹂は﹁フ この種の記事は全く見当たらな 電﹂︿ローマ 日発同盟﹀ ﹁マドリー えて潮のごとく雪崩れ込んだ 美キャンペーン期︵1938 年1 日本の女性の情熱/スペイン慰 イン国民政府のブルゴス内務省新 い本 来の理念、す なわち 新 聞 記
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ランコ将 軍が全体 主 義によって、 ド陥落﹂ 社
いこと からして、新 聞 社 自 ら が ( 説 、﹁マ
) ドリッド﹂︵豆 万におよぶ国際赤軍をどう始末 月∼9月︶に掲 載された市 井の 問袋の山﹂ 聞局に勤務している若い女性が、 事は真 実 を もって書かれ うると
統一国家を目指すと同時に、地方 作 り 上 げ た﹃朝日 新 聞﹄独 自の 解説︶などであった。 するか、このお荷 物 が直 接 頭 痛 無邪気な日本人女性の動きであ 沖縄、香川、島根、新潟、兵庫、 日 本の空 軍 将 校への慰問の手 紙 いう基本的な理念そのものを完
の伝統は尊重すべきも国家の統一 イベントである。ちなみにこの時 3月 日 付 けの﹃読 売 新 聞﹄ の種となっている。 る。これは、政府の国策遂行のい 鹿 児 島、宮 城、北 海 道 などの女 を、東京のスペイン公使館へ送って 全に放逐しているさまが、当時の
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を破るを許さずと宣言したのは 期の﹃毎日新聞﹄における、日本 には、﹁マドリード総攻撃、フラン この 中、5 万は 自 国 民、 万 わばスポークスマン的役割を率先 性たちが、慰問の手紙、千人針、 きた。 我が国にとって対 岸の火 事 と 思
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大いに味わうべき節がある﹂と結 とスペインとの関係で目立った報 コ軍肉薄﹂ ︿ブルゴス本社特電、2 はど うやらおのおのの故 国に送 して先回 りし、市 井の国 民 まで 慰問袋、日本趣味の兜の飾りも ⑦同年9月 日付の﹁海を越 われた、スペイン内戦関係の報道
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2019 んでいる。これらも、当時の日本 道としては、1月 日付けの﹁ス 7日発﹀ 、
﹁マド リードついに開 城 還できそ う だが、残 りの5万の もその中に組み込ませていった実 の、マッチ、ペーパアルバム、美 しい えて呼 び合 う /﹁滅 共﹂千 人 針 姿勢の中に如実に見い出される
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の国体維持の論理とオーバーラッ ペインの 〝日 本 讃 美〟﹂という 大 き / すでに 市 内 は 防 共一色﹂ ︿マド 処置がつかない。政府は農業に就 例だったのである。 風呂敷包み入りの贈り物など、 /スペインへ乙女の真心﹂ のである。
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東京朝日新聞 1936 年 7 月 19 日
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£ 東京朝日新聞 1936 年 7 月 21 日
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東京朝日新聞 1936 年 7 月 29 日
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東京朝日新聞 1936 年 7 月 25 日
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¤ 東京朝日新聞
1936 年 9 月 1 日
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東京朝日新聞 1936 年 11 月 8 日
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東京朝日新聞 1937 年 1 月 3 日
§ 東京朝日新聞 号外 1936 年 11 月 8 日
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東京朝日新聞 1937 年 1 月 20 日
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東京朝日新聞 1937 年 2 月 3 日
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£ 東京朝日新聞 1937 年 6 月 5 日
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東京朝日新聞 1938 年 1 月 29 日
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東京朝日新聞 1938 年 2 月 13 日
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東京朝日新聞 1938 年 4 月 18 日
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¤ 東京朝日新聞 1938 年 7 月 10 日
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東京朝日新聞 1938 年 9 月 11 日
§ 東京朝日新聞
1939 年 3 月 29 日
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東京朝日新聞 1939 年 3 月 30 日 «
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る。ちなみに、一九三三年から三四 測による実態の伴わない情報に過ぎ に向かう。翌日、フランコ軍の最高 陸軍のキャプテンだ、と大使に直接 靴掻痒の感は否めなかった。これは、 一九三七年一二月一日、日本政府は
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一九三五年には一七四件起こった。一 このよ う な 情 報 ではソ連 軍の 実 にされ なかった。日 本はフランコの りと面会できた。ドイツ大使のファ る わけで。参 謀 本 部 としては、完 する。日本は、ドイツとイタリア、
九三六年三月一六日に設置された、 態を判断不可能だったために、参謀 サラマンカ政権を正式政府として承 ウベル将軍の仲介により、二日後に 璧な情報収集のために、﹁観戦武官﹂ サラザール政権のポルトガル、バチ
駐ソ大 使 太 田 為 吉による 満ソ国 境 本 部は、同 年一〇月 下 旬、フランス 認していなかったからである。そこ フランコ軍の総司令部に出向くと、 から、作 戦 部 に 直 接 関 与 する﹁作 カン、に次いで五番目の承認国であ
画 定の ための﹁混 合 委 員 会﹂は、 大使館付陸軍武官西浦進大尉に、 で西浦は、フランコ政権の外務大臣 副官、フランス語のできる少尉、そ 戦武官﹂への進展を考えなければな る。
同 年一一月二五日に成 立し た﹁日 独 スペイン共和国陣営を軍事援助して に 会い、日 本 陸 軍 参 謀 本 部 から 命 れに自動車一台、戦線通過許可証な らなかった。そのための前提要件と これは、 ﹁日独防共協定﹂にイタ
防 共 協 定﹂の ためにソ連 側 から 中 いるソ連 軍の 兵 器や 戦 法 な ど を 調 令を受けてきた本官にたいしてこの どが用意されていた。つまり、かれ しては、日本政府がフランコ政権を リアが参加した︵三七年一 一月六日︶
断 されてし まい、いわば日ソ間の一 査 し、報 告せよ という 命 令 を 下 達 ような無礼な対応をすると後に怖 は日本人武官として初めてフランコ 正式承認することであった。こうし 直後でもあり、当時のイギリスの保
触 即 発 的 状 況が続いた。日 本 政 府 する。 いことが起こるかもしれないと半分 軍 の﹁観 戦 武 官﹂待 遇 と なった。 た 思 惑は、軍 当 局や 在 欧 駐 在 武 官 守系の﹃タイムズ﹄紙が、日本とフ
としては 対ソ政 略 を 凍 結 し、対ソ 西浦は、 スペインに入国を探るが、 脅しをかけるが、外相にとっては馬 彼の任務は﹁マドリード戦線、ドイ だけでなく、矢野眞スペイン公使の ランコ政権との関係について執拗に
戦略に切り替えざるをえなくなって スペインの国境はほぼすべて閉ざさ 耳東風というべきか、西浦は何ら有 ツ、イ タリ ア の 飛 行 機 部 隊、政 府 有田外相宛の極秘電報︵一九三六年 追いかけていた。ちなみに、見出し
法政大学名誉教授
いた。 れていた。ピレネー側は政府陣営が 効な手段を入手できぬまま外相執 軍の 反 日 意 識、ソ連 軍の 兵 器﹂の 一一月一八 日 付 け︶、武 者 小 路ドイツ だけをあげると、 ﹁日本とスペイン﹂
とこ ろ で、一九 三 六 年一〇月二三 押さえていて、わずかにサン・セバ 務室から退出するとき丁重に外套 調査であった。 大使の外相あての極秘電報︵同年一 ︵三 七 年一月一一日、東 京 特 派 員
川成 洋
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るが、それ を 証 明 できる 外 務 省 関 ンドル軍団が実践する﹁ブリッツ・ する。関 東 軍 が参 謀 本 部に打 電し 医部調べ︶ 。 クライ ナ での 大 凶 作 に 際 して、穀
係の資料は確認できない。そうはいっ クリーグ︵電撃戦︶ ﹂を指揮したの た極秘電報は﹁鶏頭ヲ射ルニ牛刀ヲ それにしてもソ連軍の評価が異常 物の輸入をゴールドで支払ったが、
ても、満 州 国 はイ タリ ア 政 府︵三 だった。彼の作戦は﹁オペラチオン・ 以ツテ﹂ であった。言わずもがな、﹁鶏 なほど低かったのは何故だろうか。 ソ 連 で 金 塊 が 発 見 さ れ た とい う
七年一 一月三〇日︶ 、フランコ政権︵三 モリヤ︵守屋作戦︶ ﹂と命名されフ 頭﹂はソ連軍、﹁牛刀﹂が日本軍だっ たしかに、スペイン内戦は﹁新兵 ニュース が 大 々 的 に 喧 伝 さ れ た の
七年一二月三日︶ 、ドイツ政府︵三八 ランコ陣営の新聞に華々しく称賛さ た。果たして戦争の実態はどうだっ 器の 実 験 場﹂と 言 わ れ た くらい、 だった。西側を欺くためである。ス
年二 月二五 日︶か ら、矢 継 ぎ 早 に れ た。四 月一五日、フランコ叛 乱 軍 たろうか。 ドイツ 軍はさ ながら 演 習 と 実 験 を ペイン銀行の金塊はオデッサ港に運
承認されたことから、 ﹁交換条件﹂ は地中海の町、 ビナロスに到着した。 七 月二三 日、関 東 軍 はさら なる かねて新兵器を持ち込み、スペイン ばれ、金 塊 を 積 み 込 んでき たスペ
と映ったのも故なしとしないであろ 聖週間のハイライトである聖金曜日 攻 撃 を 仕 掛 けるが失 敗し、第 六 軍 共 和 派 や 市 井 の 民 衆 を そ の ター インの 輸 送 船 と 船 員 はここで 消 え
う。﹁交換条件﹂であろうとなかろ だった。その二日後のイースターに を編成し、第三次攻撃を開始する。 ゲットにしたのだった。ところが、 てしまった。殺されてしまったのだ。
うと、ドイツとイタリアが満州国の 従 軍 司 祭による 復 活 祭のミサ が挙 八 月 二〇日、ノモンハン で、ソ・ ソ連の場合、T 26型戦車を例外中 スターリンにとってこんなおいしい
正 式 承 認 することで、満 州 問 題で げ ら れ た。この 作 戦の 功 労 者であ 外 蒙 軍が総 攻 撃 を 開 始 する。関 東 の例外として、例えば、ロマノフ王 軍事援助はなかったろう。しかも、
日 中 戦 争 を 泥 沼 化 させ、国 際 連 盟 る守屋中佐はフランコ叛乱軍が捕獲 軍 第二三師 団、壊 滅 的 損 害 を 受 け 朝 末 期の 紋 章 を 削 り 取った 小 銃 と スペインで待ち受けていた日本の公
からの脱 退 など、国 際 的 な孤 立 を し たソ連 製の 銃 器や 戦 車 な ど、多 る。 か、第一次世界大戦の塹壕壊しの大 使 館 付 陸 軍 武 官 たちは、捕 獲 され
強いられていた日本にとって、これ くの未 見の兵 器 類 を 無 料で譲 渡 さ 九月三日、大本営、関東軍にノモ 型戦車などは、 ドイツ軍の ﹁電撃戦﹂ たソ連の古い兵器類を確認して、一
こ そ 思いも よら ないチャンスであっ れる。 ンハン事件の停止を命令する。 や ゲルニカ 絨 毯 爆 撃 に 投 入 さ れ た 息 愁 眉 を 開いて、嬉々として 参 謀
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あとがき
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木下 登
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日本スペイン協会理事長、南山大学名誉教授、
インスティトゥト・セルバンテス アカデミックフォーラム カテドラ 名誉顧問
ペイン語に翻 訳 するにあ たってはま 聞 をスペイン語に正 確に訳 出 するこ
て培われてきた絆によって達成され で 報 じ ら れ た 件 数 は 1 4 0 0 件 に
し て、ここに 学 術 的 な 価 値 を 誇 り や 軍 人 だ けで は な く、市 井 の 人 々
ている。そこから読み取れるように、 一方、スペインの 側 から も 日 本 文 学
な 確 認 作 業 が 必 要 と さ れ た。こ う 内戦に強い関心を寄せたのは外交官
事用語等が登場していて一つ一つ丁寧 を 通 して、わ が 国 においてスペイン
くさんの固有名詞や地名、そして軍 今 回の 展 覧 会 では、感 動 的 な 紙 面
必 要 と さ れ た。ま た 各 記 事 にはた たいとの強い意図があった。
ず第一に日本語文を読み解く作業が とによって貴重な研究資料を提供し
ものとは多々大きな違いがあり、ス 覧会の企画にあたっては、日本の新
と表現においては今日使われている ころが大きかった。そのため、本展
と 年前の新聞に使われていた漢字 によってそのアクセスが阻 ま れる と
訳が付 されている。いまから 遡るこ が示されてきたが、日本語の高い壁
日本語文にはスペイン語の忠実な翻 に報 道 されていたのかについて関 心
側 を 支 持 す る 中 で 情 勢 を 伝 えた。 国 においてスペイン内 戦 はどのよ う
観 的 に 時 代の 雰 囲 気 を 伝 え、終 り 優れた研究者の増加があった。こう
新聞報道は戦争が始まった当初は客 や文化について関心の深まりと共に
写 真 と と もに 報 じ た 事 柄 を 再 現 し 歴史についての研究の深化があった。
あった時に、日本の代表的な新聞が 言 語や 文 化 研 究があ り、スペインの
ここに収録された新聞の紙面は、 わが国におけるスペイン内 戦 研 究
1 9 3 6 年から 1 9 3 9 年 にか け は 1 9 7 0 年 代 半 ばから 本 格 化 し
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NIPO
110-19-056-8
日本の新聞に見るスペイン内戦
主催 インスティトゥト・セルバンテス東京
キュレーター 川成洋 木下登
ン国 営インスティトゥト・セルバンテ
スのスタッフ、そして声援とともにそ
ストス元 桜 花 学 園 大 学 教 授、スペイ
ムを 率いてく ださったナザ リオ・ブ
の 時 代の 新 聞 記 事 を 現 代 語 に 書 き
の 方々に 多 大 な ご 尽 力 と ご 協 力 を
れていたことは、川成洋教授の指摘
次第である。
様 方 に 心 からの 感 謝 を 申 し 上 げ る
直す作業をしてくださった多くの皆
成 洋 法 政 大 学 名 誉 教 授、翻 訳 チー
賜った。特に、内戦研究の泰斗、川
本 展 覧 会 の 実 現 に 際 して、多 く
するところである。
状況が比較的多量かつ自由に報じら
ものの、わが国ではスペイン内 戦の
も 上った。政 府からの制 約はあった
協力 フロレンティーノ・ロダオ
インスティトゥト・セルバンテス
会長 ルイス・ガルシア・モンテロ
事務局長 カルメン・ノゲロ・ガリレア
文化部副部長 ラケル・カレヤ・カニャ
インスティトゥト・セルバンテス東京
館長 ビクトル・ウガルテ・ファレロンス
図書館長 ダビ・カリオン・サンチェス
文化部コーディネーター 大窪美和
文化部 田部井美雪
La Casa de Juntas y
el Árbol de Guernica 編集
en la actualidad.
資料考証・監修:佐藤泰
現在のバスク議事堂と空爆を逃れたことで デザイン:江口信之
象徴となったゲルニカの木。
翻訳:ナサリオ・ブストス、
ヴィルジーリオ 麗奈、
ダニエル・オロスコ、シアン・カルロ・ブストス、
木下智統
校正:カルメン・グラウ
主催
協賛
キョーイク
ホールディングス
日本スペイン協会
謝辞
朝日新聞
国立国会図書館
スペイン海軍博物館
マリア・デル・ピラール・デル・カンポ
ラモン・ベガ・ピ二エリャ
マルシアル・カストロ・サンチェス
協力
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