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WASEDA RILAS JOURNAL NO.

10 アンドレ・マッソンにおける東方

アンドレ・マッソンにおける東方
── シュルレアリスムのオートマティスムと東洋絵画との交差 ──

古 屋 詩 織

The Orient in André Masson:


An intersection of Surrealist Automatism and Oriental Painting

Shiori FURUYA

Abstract
 This study explores how André Masson (1896-1987), a Surrealist painter who attempted automatic creation in
drawing and painting, developed his theory of painting through Oriental art. The first half of the study traces his
gradual reception of Oriental art by referring to the background at the time, such as Surrealist activities and art
trends in France. The second half analyzes the references to Oriental art found in Masson's writings.
 When Masson made drawings and sand paintings as practices of automatism in the 1920s, he was probably not
yet well versed in Oriental art, and later, he gained knowledge of it in stages. In the mid-1930s, he discovered Zen
philosophy, and during his exile in the United States due to World War II, he was fascinated by ink and wash
paintings by Chinese Zen monks housed at the Museum of Fine Arts Boston.
 By understanding the concepts of Chinese painting, notably "chi" and "world in flux," Masson developed his
theory of painting using the term "Infinir (never-end)." Notably, it is in opposition to the immobility found in tra-
ditional Western paintings, that is, still-life paintings or other mimesis representations based on the perspective
method. Masson considered Paul Cézanne and Paul Klee as explorers toward a free and open pictorial space based
on a “world in flux.” In such a pictorial space, the potential formative forces are more crucial than contoured
shapes. Masson found a confluence with Chinese Zen monk painters in these European painters and praised them.
 This study reveals that Masson's acceptance of Oriental art contributed to the theorization of his creative works,
including his automatic practices in the 1920s. It also demonstrates that Masson differs from the abstract painters
in the Occident in the 1950s who approached Oriental art at the time.

はじめに

 本稿は、シュルレアリスムに参加し、オートマティスムと呼ばれる造形実践を行ったフランスの画家アンド
レ・マッソン(1896-1987)がどのように東方の芸術を受容し、みずからの絵画論で語ったかを検討するもの
である。ただし西洋人の画家に東方の芸術がもたらした影響に焦点をあて、東方の芸術の価値を称揚する意図
はない。中国・宋代を中心とする水墨画がもつ特性や禅の思想が、マッソン固有の絵画論の構築にどのように
寄与したかを探るものである。
 シュルレアリスムの造形分野の主要画家であるサルバドール・ダリやマックス・エルンストがみずからの絵
画論を 1930 年代に展開したのに比べ、マッソンが絵画論を書き始めるのはやや遅く 1940 年にさしかかる頃
である⑴。アンドレ・ブルトンから励ましを受け⑵、書くことに取り組み始めたマッソンはそれ以来、講演や
雑誌執筆の機会を得るたびに短い論考を発表し、1950 年には『描く喜び⑶』、1956 年には『画家の変容⑷』と

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題した書籍にまとめている。その後も 1970 年代後半までに執筆、講演、対談などをまとめた数冊の書籍が出


版されている。それらのテクストから、マッソンが自負するオートマティスムの制作実践について、また、彼
が敬愛する歴史的な画家たちについて、彼の考えを知ることができる。同時に気づくのは、それらのテクスト
のなかに、中国や日本を含めた東方の絵画や画家にかんする言及が散見されることである。これらの言及は、
マッソンの芸術的思想を探るために導きの光を与えてくれるようにみえる。
 そこで本稿では、マッソンが描いた作品の分析よりも彼の書いたテクストの分析に重心を置きながら検討を
進める方法を採る。前半では、マッソンによるオートマティスムの実践を確認するとともに、彼が東方の芸術
を受容する経緯を る。後半では、マッソンの絵画論における東方の言及がどのような意味をもつかを探るた
め、彼のテクストを具体的に検討する。

1.マッソンと東方の芸術

 最初に、1920 年代半ばにマッソンが実践したオートマティスムについて確認し、次に、3 つの時期──


1925 年、1930 年、そして 1942 年──に着目しながら、彼が東方の芸術や思想を受容する経緯をみていこう。

 マッソンは初期のシュルレアリスムに参加し、ブルトンの提唱するオートマティスム(自動記述)を造形領
域に適用したとされているふたつの成果を生み出している。ひとつめの成果は、1923 年頃から始めたデッサ
ン・オートマティックである〔図 1〕。理性のコントロールをはず
から
した状態で──「自己のなかを空にしなければならない⑸」とマッ
ソンは言う──スピードに任せてペンを紙上に走らせ、殴り書きの
ような様相のなかに何らかの形を見いだす試みである。ふたつめの
成果は、1926 年後半に考案した砂絵である〔図 2〕。水平に寝かせ
たカンヴァスの上に液体糊と砂を撒き、偶発的にできた染みの様相
から造形を発展させる試みである⑹。
 以上の成果を、絵画におけるふたつの基本的な制作行為に当ては
めることもできる。すなわちデッサン・オートマティックを「線」
による造形、砂絵を「染み」による造形と位置づけることである。
ここで東方の芸術、特に中国の書画と比較するならば、前者は書を
想起させるカリグラフィックな性質をもち、後者は唐代後期の潑墨
(筆を用いずに、墨を支持体にぶちまける)という技法⑺との親縁
性、そして身ぶりを伴なうという性質をもつ、とも換言できるだろ
う。実際マッソンは後年、以下のように書いている。「周知のとお
り彼ら[=禅宗の仏教画家たち]は、── 9 世紀以来、染みによる
図 1 マッソン《デッサン・オートマ
絵画の偉大な達人たちである──『墨を口から吐きつける』ことも、 ティック》1925 年、紙にインク、
さらには絵の具を吸い込んだ帽子を紙や絹の表面に投げつけること 43.5 × 31.5 cm、個人蔵

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⑴ マッソンの最初の絵画論は、1941 年 3 月『レ・カイエ・デュ・シュド』誌に掲載された「描くことは けである」« Pein-
dre est une gageure » である。このテクストの大部分は 1939 年 11 月頃執筆されたが、既に「極東の精神」について言及がある。
Cf. André Masson, Le rebelle du surréalisme, Écrits, éd. par Françoise Will-Levaillant, Hermann, 1976, p. 17.
⑵ Ibid., p. 43. フランソワーズ・ルヴァイアンによる注解。
⑶ André Masson, Le plaisir de peindre, La Diane Française, 1950.
⑷ André Masson, Métamorphose de l’artiste, t.Ⅰ-Ⅱ, Genève, Pierre Cailler, 1956.
⑸ André Masson, « Propos sur le Surréalisme », Le rebelle du surréalisme, op. cit., p. 37.
⑹ Camille Morando, André Masson Biographie, 1896-1941, ArtAcatos, 2010, p. 52, 82.
⑺ 宇佐美文理『中国絵画入門』岩波書店、2014、p. 71. 本稿における中国絵画の造形的特質についての理解は、 「気」と「形」
と「絵画」を中心に論じられているこの著書にもとづく。

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さえも、厭わなかった⑻」。禅僧による墨絵の技法を、砂絵を制作する
ときに採ったみずからの方法論に投影している。
 だが、マッソンがオートマティスムという方法を制作に取り入れた当
時、彼が東方の芸術の影響下にあったとは考えにくい。画家本人の言葉
によると、極東の絵画、具体的には水墨画に初めて接するのは 1925 年
頃である。当時のパリではこのジャンルはほとんど扱われておらず、オ
リジナルの作品を身近に見ることはかなわなかった。彼はドイツやスカ
ンジナビア諸国からの書籍に掲載された図版を見ていたという⑼。

1)1925 年、水墨画との出会い
 マッソンが水墨画の図版に接した 1925 年におけるシュルレアリスム
の動向を簡単に確認しておこう。この年、シュルレアリスムは政治的活
オリエント
動へと転換する。同時に「東 方」という語が用いられるようになる。
1925 年 4 月に発行された『シュルレアリスム革命』誌の第 3 号では、
オリエント
表紙に「キリスト紀元の終焉」と記され、「東方」への呼びかけが表明
されている。当時シュルレアリスムに参加する若き詩人たちと画家たち
オリエント 図 2 マッソン《人物》1927 年、カン
は西欧社会に幻滅し、ヨーロッパに対立するものとして「東方」を設定 ヴァスに砂、油彩、46 × 33 cm、
したのである。同年 10 月同誌の第 5 号では、フランスのモロッコ支配 ニューヨーク近代美術館
に起因するリフ戦争への抗議として、共産党系雑誌『クラルテ』など左
オリエント
派雑誌との共同声明「まず革命,そして常に革命!」が掲載されるが、ここにも「東方はいたるところにある」
オリエント
という言及がみられる⑽。この時期のシュルレアリスムの「東方」について、鈴木雅雄は「現実の東洋ではな
いが」「いつでもすぐそこにあり、西欧の考え方や生き方を掘り崩そうとする力」と述べている。そして、こ
オリエント
の時期のシュルレアリスムにとっての「東方」は多義的かつ象徴的な神話であり、「現実の革命と主体のナマ
の反抗とを一つにまとめることのできる、連結器だった」と指摘している⑾。
 1925 年頃のマッソンは、この運動の組織である「イデオロギー委員会」に参加しているし、上記の共同声
オリエント
明にも名を連ねている。ただし、ブルトンにとっての「東方」がイデオロギーを表明するための象徴的価値に
オリエント
すぎない⑿のに対して、マッソンは「東方」の芸術の具体的な姿を探し求め、書籍の図版を発見するに至った
と考えられる。
 1925 年にかんしてもうひとつ押さえておくべき点は、「シュルレアリスムの絵画は存在するか否か」という
議論の顕在化である。『シュルレアリスム革命』誌の創刊号(1924 年 12 月)に掲載されたマッソンのデッサ
ン・オートマティックは、詩作の方法論であるオートマティスム(自動記述)を絵画に適用したものであるよ
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

うに見える。しかし、第 3 号でピエール・ナヴィルが「シュルレアリスム絵画が存在しないことを知らない者
はいない⒀」と問題提起する。ほどなくメンバーの関心はエルンストが実践するコラージュに移行していき、
マッソンのオートマティスムはデッサンも砂絵も、シュルレアリスムのなかで中心的な位置を与えられないこ
ととなる。やがてマッソンは、他にも理由があったにせよ、1920 年代の終わりにシュルレアリスムを離れて
いく。

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⑻ André Masson, Métamorphose de l’artiste, t. Ⅱ, op. cit,. p. 125.
⑼ André Masson, « Une peinture de l’essentiel », Quadrum, no 1, 1956, p. 37.
⑽ « La révolution d’abord et toujours ! », La Révolution Surréaliste, Éditions Jean-Michel Place, 1975, no 5 (15 oct. 1925), pp. 31-32.
⑾ 鈴木雅雄「『東方』よ、勝ち誇れる『東方』よ─シュルレアリスムと反=地中海の神話─」、蓮實重彥、山内昌之編『地中海
終末論の誘惑』、東京大学出版会、1996、pp. 201, 205.
⑿ André Breton, « Introduction au discours sur le peu de réalité », Œuvres complètes Ⅱ, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade »,
1992, p. 280(『アンドレ・ブルトン集成 第 6 巻』、巖谷國士、生田耕作、田村俶訳、人文書院、1974、pp. 220-221).
⒀ Pierre Naville, « Beaux-Arts », La Révolution surréaliste, op. cit., no 3 (15 avril 1925), p. 27.

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2)1930 年、禅の手ほどき
 かくしてマッソンは、みずからの動的なオートマティスムにシュルレアリスムのコラージュを対置し、その
静止的・固定的な性質を批判するようになる。1931 年 5 月 25 日付『ラントランジジャン』紙では美術批評家
のテリアードがマッソンにインタビューし、その発言を次のように要約している。「私は静止的なやり方では
創作できない。私にとって絵画は、一瞬ではなく状態の続きを表現するものだ。絵画を描くとき、その絵画の
ある場所で形態が生まれ、私がその跡を見失う別の地点では、それらの形態は死んでいく⒁ 」。このインタ
ビューには「静物画から生きた自然へ」というタイトルが付けられているが、言うまでもなくフランス語で「静
物画」を意味するとき、 「自然」という語があてがわれる。マッソンは 1961 年に行った講演の原稿
「死んだ」
でも「欧米の人々はなぜ死んだ魚を描くのか?」という中国人の問いを挙げ、西洋絵画の伝統が静止的・固定
的な調和であることを述べている⒂。だが、30 年 った 1931 年におけるこのインタビューの時点で既に、マッ
ソンにとって動的なものと東方とが結びついていた可能性がある。というのは、このインタビューの前年、つ
まり 1930 年に、マッソンは松尾邦之助という日本人記者・評論家と出会い、禅を教えられた経緯があるから
である。マッソンは、松尾とエミール・シュタイニルベル = オーベルランの共著『日本仏教諸宗派⒃』を読み、
さらに鈴木大拙やアーサー・ウェイリーの著作へと手をのばし、禅についての理解を深めていく⒄。1925 年
に書籍の図版で視覚的に出会った水墨画に、1930 年以降は禅の知識が伴っていくのである。
 マッソンの研究者であるフランソワーズ・ルヴァイアンによると、西欧において中国絵画が一般化していく
歴史的言説の大部分は、日本の百科事典的解説を土台に築かれている。そして禅仏教と、それぞれの画家に固
有の墨絵技術を混同する傾向があり、マッソンの言説も同じ傾向にあるという⒅。つまり、マッソンが「禅」
の語で示そうとする範囲はかなり広く、中国の北宋、南宋を中心として前後の時代の画僧たち(マッソンは五
代末の石恪、南宋の梁楷や牧谿、清初の石濤などの名を挙げている)
、さらには明の時代に中国に渡り水墨画
を学んだ日本人画家の雪舟までを含んでいる。ときには「禅」の代わりに「極東」や「中国」という語で総称
することもある。またルヴァイアンは、1930 年代のフランスで入手可能であったと思われる東方関連の書籍
を特定しているが、特にオズワルド・シレンの『中国初期絵画の歴史⒆』(1933)が 1934-1935 年に仏訳され
たこと、そしてマッソンと親しい美術批評家ジョルジュ・デュテュイが『中国神秘思想と近代絵画⒇』(1936)
を出版したことが、その当時に東方の絵画を受容するうえで重要な継起であったことを指摘している㉑。おそ
らくマッソンもまたこの時期にこれらの書籍から禅の思想や中国絵画の知識を得たと考えられる。ルヴァイア
ンはさらに、当時のパリでは中国絵画の展覧会が依然として珍しいものに留まっていたことを指摘している。
マッソンが極東の水墨画のオリジナルを間近で見るのは、アメリカ亡命期を待つことになる。

3)1942 年、ボストン美術館の東洋美術コレクション
 第二次世界大戦下、アメリカ亡命中の 1942 年に、マッソンはボストン美術館にて東洋絵画と対峙する。
「受
けた衝撃と同時に──とても強く──精神的かつ芸術的な距離を覚えたこと」を彼は後に記している。その距
離とは、「本質なるもの l’essentiel」をめぐる禅の画家と西洋人画家との違いである。牧谿や雪舟にとっては、
「存在の仕方が問題」なのであり、それは「普遍的な生のなかに溶け込む方法」すなわち「生にかかわる決断」
である。他方、自分を含めた西洋の画家たちは、「作り方が問題」であり、「美的態度」として「要約し総括す

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⒁ E. Tériade, « Destin de la peinture ̶ De la nature morte à la nature vive », L’Intransigeant, 25 mai 1931, p. 6.
⒂ André Masson, « Propos sur le Surréalisme », op. cit., p. 38.
⒃ Emile Steinilber-Oberlin et Kuni Matsuo, Les Sectes bouddhiques japonaises, G. Crès, 1930.
⒄ Dialogue in art. Japan and the West, ed. by Chisaburoh F. Yamada, Tokyo, Kodansha International, 1976, p. 297(『日本と西洋─
美術における対話』、山田智三郎責任編集、ユネスコ監修、講談社、1979、p.295) .
⒅ Françoise Will-Levaillant, « La Chine d’André Masson », Revue de l'art, no 12, Flammarion, 1971, p. 66.
⒆ Oswald Sirèn, A history of early chiniese painting, vol. 1-2, London, Medici Society, 1933.
⒇ Georges Duthuit, Mystique chinoise et peinture moderne, Chroniques du Jour, 1936.
㉑ André Masson, Le rebelle du surréalisme, op. cit., p. 209. ルヴァイアンによる注解。

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る方法」を採る。こうした違いを認識するがゆえに、マッソンはこう述べている。「私は敬意をこめて高貴な

系譜をもつ巨匠たちを愛し、遠くから崇敬したが、近づくのを禁じられているように感じた」 。また、晩年
のインタビューでも、結局のところ西洋人が平静な禅の境地に留まり続けるのは難しいと考え、自分は乱暴で
粗野なやり方に戻ったのだと発言している㉓。
 確かに、マッソンは東方の芸術から受けた衝撃と距離を熟考し消化する時間を取りつつ、段階的に創作に取
り入れたとみられる。なぜなら、中国の書画の影響を感じさせる油彩の作品群は、主に 1950 年代以降に創作
されているためである。彼の創作における展開を見てみよう。まず 1943-44 年ごろに、流れるような躍動感の
《嵐のなかの楓》〔図 3〕では、太さに強弱をつけた線が集積し、雨風に
ある曲線によるデッサンがみられる。
翻弄される楓の枝や葉を表現しているが、枝や幹を示す輪郭線の内外を埋めるように点や短い線、小さな渦巻
きなどが置かれている。中国・六朝時代の石刻線画あるいは墓室磚画のいきいきとした線㉔を想わせると同時
に、山水画にもみられる中国特有の技法である皴法(輪郭線のなかに「線を引く」描き方)㉕の実践のように
も見える。1950 年代になると、漢字を想起させる油彩が描かれる〔図 4〕。マッソンによるこの種の作品をロ
ラン・バルトは「セミオグラフィ」と呼び、「絵画のテクスト(絵画的実践、動作、用具の絡み合い)」と「(局
地的な)中国の表意文字のテクスト」との間を循環する相互テクスト性を指摘した㉖。並行して同時期に、水
や風などが流動する自然現象を捕らえたような、まさに北宋の山水画の影響をうかがわせる油彩も描かれる
〔図 5〕。マッソンはこうした 1940-50 年代の作品群をオートマティスムとは呼んでいないが、これらの作品群
は 1920 年代に彼が実践したオートマティスムと無関係とは言えないだろう。東方の芸術を受容したことによ
り、さらに確信をもって、線や染みの探究がなされているようにみえる。かつてデッサン・オートマティック
で試された線描表現はうねり、繁殖する線の集積となっている。砂絵で試された染みの表現もまた、身ぶりか
ら発せられた躍動する痕跡に集約された油彩へと発展している。

図 3 マッソン《嵐のなかの楓》1943-44 年、 図 4 マッソン《中国の(天上の)曲芸師》
紙に墨、76.5 × 56.8 cm、ポンピドゥー・ 1957 年、木板に油彩、24 × 18 cm、
センター リュイス・マッソン夫妻蔵

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㉒ André Masson, « Une peinture de l’essentiel », art. cit., pp. 37-38.
㉓ Dialogue in art. Japan and the West, op. cit., p. 298(『日本と西洋─美術における対話』
、前掲書、p. 296)
.
㉔ 宇佐美文理、前掲書、pp. 43-44.
㉕ 同書、pp. 65-66.
㉖ Roland Barthes, « Sémiographie d’André Masson », Œuvres complètes, t. Ⅳ, Éditions du Seuil, 2002, p. 345.

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 以上のように、マッソンが東方の芸術とどのように出会い、受容
したかを、3 つの年を手掛かりとして ってきた。ここでもう一度、
マッソンがオートマティスムと呼ぶ実践に立ち戻ってみたい。マッ
ソンが 1920 年代に行ったオートマティックな造形実践は、シュル
レアリスムの内部では微妙な位置に甘んじたが、1940 年代後半、
アメリカ抽象表現主義の形成過程において重要性をもつことが指摘
されるようになる。クレメント・グリーンバーグは第二次世界大戦
の時期にマッソンが亡命先として米国に滞在したことを「はかり知
れない恩恵㉗」と述べているし、ウィリアム・ルービンは 1959 年
の論考でマッソンとジャクソン・ポロックの類縁を論じている㉘。
以来、アメリカ抽象表現主義、とりわけポロックの発展の歴史にお
いて、マッソンの実践がしばしば参照される㉙。
 1950 年代には、ヨーロッパでもアンフォルメルや抒情的抽象と
呼ばれる絵画の潮流が台頭する。アメリカ抽象表現主義と同様に、
それらの画家たちの何名かの抽象表現は、東方の書画と比較し得る
ように見える。したがって美術批評においても、欧米の最前線の抽
図 5 マッソン《凍てついた滝》1951 年、
象絵画を、中国や日本の伝統的な書画と比較する傾向がみられる。 カンヴァスに油彩、81 × 53.5 cm、
ブルトンも例外ではない。彼は 1955 年、抒情的抽象の画家ルネ・ 個人蔵
デュヴィリエやジャン・ドゴテクスの展覧会カタログの序文を書い
ている。特にドゴテクスを語るときには、「自動記述(エクリチュール・オートマティック)」に言及しながら、
『極東の水墨画』という専門書を参照し、中国の概念である「気韻(画家の内なる魂の表現であり、画家の筆
さばきが第一にそれを示す)」や「生動(生命の動き、生気)」に触れている㉚。「気韻生動」は、まさしく南
北朝時代の南斉で活躍した謝赫の理念「画の六法」における第一の法である。
 ここに至って、マッソンのオートマティスムが 1950 年代欧米における抽象絵画の時勢に合流するように見
えるかもしれない。しかし、マッソンは抽象表現を追い求めて東方の芸術へ向かったのではなかった。抽象表
現の純粋性を極めようとするよりはむしろ、具象に留まることを選ぶ場合さえある。それでは、マッソンにとっ
て東洋絵画へ接近することはどのような意味をもつのか。この点についてルヴァイアンは重要な指摘をしてい
る。「マッソンは教条主義的ではない。彼が自分の考えに合うように思想を選択するのを見ても驚くにはあた
らない。ニーチェやヘラクレイトスが割って入り、荘子やドイツ・ロマン主義者たちと混ざり合うのだ㉛」。
つまりマッソンにおいて注視すべきなのは、作品における見かけ上の技法の模倣や類似ではなく、彼がどのよ
うに東方の芸術を西欧の芸術に接続させ、みずからの絵画論の構築に用いたのか、である。

2.マッソンの絵画論における東方の芸術

 この節では、マッソンの絵画論における東方の言及がどのような意味をもつかを探るため、彼のテクストを
具体的に検討していく。

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㉗ Clement Greenberg, « Symposium : Is the French Avant-Garde Overrated ? », The collected essays and criticism, Vol. 3, ed. by
John O’Brian, The University of Chicago Press, 1993, p. 157.(初出は Art Digest, 15 Sep. 1953).
㉘ William Rubin, « Notes on Masson and Pollock », Arts, Vol. 34 (Nov. 1959), pp. 36-43.
㉙ この点にかんする主要な文献を以下に挙げる。Cf. Martica Sawin, Surrealism in Exile and the Beginning of the New York
School, The MIT Press, 1995;藤枝晃雄『新版 ジャクソン・ポロック』、東信堂、2007;谷川渥『シュルレアリスムのアメリカ』、
みすず書房、2009.
㉚ André Breton, « L’Épée dans les nuages, Degottex », Écrit sur l’art et autres textes, Œuvres complètes Ⅳ, Gallimard, « Biblio-
thèque de la Pléiade », 2008, p. 764.
㉛ Françoise Will-Levaillant, « La Chine d’André Masson », op. cit., p. 68.

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アンドレ・マッソンにおける東方

 前節でみたように、マッソンは静止的・固定的なものと動的なものを対立させ、西洋絵画を(シュルレアリ
スムのコラージュを含めて)前者に、東洋絵画を後者に関連づけている。だが、西洋世界における動的なもの
にもしばしば言及し、同意を示している。たとえば、流転する世界観を表したいときにはヘラクレイトスの名
を、「ディオニュソス的なもの」を表したいときにはニーチェの名を挙げながら、みずからの論を進めている。
ときには、東洋と西洋それぞれの動的なもの──たとえば「宋の画家がこよなく愛した、奔流のようにまばゆ
い菊」と「レオナルド・ダ・ヴィンチが見つめた、いきいきとした水流の編み目模様㉜」──を並列して語る
こともある。確かにレオナルドは水を考察し、大洪水のデッサンを残しており、菊の花びらを想わせるような
渦巻く線の集積によって水や風の動きを表した。また別の例として、晩年のセザンヌが現実を模倣することか
ら離れ、より自由な描き方になることと、禅宗の画僧たちが「無骨なやり方」で自由に描くことを並列して語っ
ている㉝。
「無骨なやり方」とは、前節でも触れたように墨を吐いたり投げつけたりというやり方を指している。
セザンヌの筆触と禅僧画家の身ぶりから発せられた痕跡を接続したマッソンは、両者に共通した自由のあり方
を「至上の自由」と呼び、「終わりのないものへの捧げもの」と述べている。

1)「終わらせない infinir」という欲望:固定性からの解放
 「終わりのないもの」というマッソンの考えは、1946 年『フォンテーヌ』誌に掲載されたテクスト「パウル・
クレーへの賛辞」にもみられる。
 クレーを論じたこのテクストのなかでマッソンは、キュビスムの絵画では、ほんの 3 メートル程度の限定さ
れた空間しか表現されない、と述べる。そして、クレーの絵画空間がキュビスムのそれとは異なる点を以下の
ように主張する。

まったく反対に、クレーが探究するのは無限である。1912 年以来、中国人たちの、そして彼の起源が結
4 4 4 4 4 4

びつくある種の北方ロマン主義者たちの終わらせないという欲望に独自のやり方で合流しながら、彼は、
あまりに合理的な水平線を阻止したいのである。コガネムシの軽やかな触覚は砂漠を測るのに十分だし、
花粉の航跡は天の川を屈服させるだろう㉞。

4 4 4 4 4 4

 マッソンは、動詞の「終える/終わる finir」に否定の接頭辞 in- をくわえた「終わらせない infinir」という


造語を用いて、クレーが無限の絵画空間を探究していることを述べている。1912 年とは、クレーが「青騎士」
のメンバーに参加した年、あるいはクレーが与することのなかった総合的キュビスムの確立を示す年とも考え
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られるだろう。そして、「終わらせないという欲望」をもつ者として「中国人たち」と「北方ロマン主義者たち」
を並列している。クレーは彼らの欲望に合流しながら「合理的な水平線を阻止したい」、つまり、合理的な表
象システムである遠近法空間を失墜させたいのだ、というのがマッソンの主張である。
 ここでマッソンが特定した「北方ロマン主義者たち」は、スイスに生まれドイツで活動したクレーの立ち位
置を示すと同時に、非フランス的あるいは非ラテン的なものを示すと考えられる。さらに「中国人たち」とな
れば、非ヨーロッパ的なものを示すことになる。マッソンがこの語に託したのは、どのような内容だろうか。
 それを理解するために、中国絵画の概念を手掛かりにしてみよう。まず、中国絵画は「気」を表現するもの
とされている。しかし「気」は実際に形が決まっているわけではなく、基本的には不可視の存在である。した
がって気を表現するためには、描かれた人物や事物などの対象が放つ霊気のようなものを形象化したり、画家
自身が放つ線や墨によって「気」を表そうとしたりする㉟。次に、中国絵画では「世界にはもともと形がある

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㉜ André Masson, Anatomie de mon univers, André Dimanche Éditeur, Marseille, 1988, (PrologueⅤ). 初版は英語で出版された。
Cf. Anatomy of My Universe, New York, Curt Valentin, 1943.
㉝ André Masson, « Moralités esthétiques – Feuillets dans le vent », La Nouvelle Revue Française, no 77 (mai 1959), p. 785.
㉞ André Masson, « Éloge de Paul Klee », Le rebelle du surréalisme, op. cit., pp. 125-126. 初出は Fontaine, no 53 (juin 1946),
pp. 105-108.
㉟ 宇佐美文理、前掲書、pp. 2-8.

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WASEDA RILAS JOURNAL NO. 10

わけではない」とされている。「線を閉じることによって、人は『形』を獲得する」。たとえば眼に見えている
山は「固定的な形」をもつわけではない。山は「流動する世界の一部」である。「世界は気からできており、

気は形をとって現れようとする存在である。世界には造形力をもった気が充満している」 。「形」に対して
「(造形)力」を優先させるこの考えは、西洋人たちに受け入れられないものではないだろう。例えば、クレー
およびマッソンの画商であり、彼らの理解者であるダニエル=アンリ・カーンワイラーは、次に示すとおり同
「クレーが扱うのは、形ではなくむしろ力である㊲」。さらに彼は、ロマン主義をクレー
様の考えをもっている。
とマッソンに結びつけて次のように述べている。

 自分が見る世界に現実の存在を与えて描いているものの、彼[=クレー]はそれを「全世界で唯一のも
の」とは考えていない。彼にとって、この世界は、絶え間ない流動である。ロマン主義者クレーはここで、
ロマン主義者アンドレ・マッソンと一致する。マッソンは 1939 年《自然の神話》というデッサンのシリー
ズの一枚に「完成した世界はない」という題をつけている㊳。
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 カーンワイラーは、絵画に描かれた世界が唯一のものではなく流動するととらえる点において、クレーと
マッソンに共通性を見いだしており、「ロマン主義者」という語句を用いて両者をつないでいる。重要なのは、
ここで語られている内容が中国絵画の概念と重なることである。こうして、マッソンがクレーを語るときに「中
国人たち」を「北方ロマン主義者たち」と並列した意味が見えてくる。
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 マッソンのクレー論の「終わらせないという欲望」の意味を改めて検討してみよう。世界を流動し、完成す
ることのないものとして捉えるマッソンは、絵画においても形式の固定や、静止した形態を否定したい。絵画
を流動・変容するものにしたいのである。自分の眼が見ている世界において、そして絵画空間のなかで、「形
を固定させない」ということは、模倣的・再現的な表象を行う意味を失わせる。つまり、眼に見える三次元を
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二次元の絵画空間に置き換えるシステムである遠近法もまた、必要ではなくなる。すなわちマッソンが「終わ
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らせないという欲望」の語で伝えようとするのは、西洋絵画が依拠してきた表象のあり方を棄却することであ
る。そして、ある場所からの視点とある時間で「世界を切り取る」という絵画の特質㊴さえも棄て、空間的・
時間的制約から解放された絵画を希求することとも言える。
 マッソンは、1956 年『クァドラム』誌で東洋絵画の本質を論じたとき、以下のように述べている。

 ── 一般の人々にとって、空間は固定性の象徴である。窓や 穴や模範となるテーブルを置く習慣を


守り続ける多くの西洋画家たちにとっても、同様だ。西洋画家たちは、もっとも冒険を恐れない者たちで
あっても、演劇的空間から少しも離れようとしない。彼らはあらゆる深遠なものを恐れている。彼らはい
まだルネサンスの遠近法に依存しているのだ。一方、別の西洋画家たちは、もはやイリュージョニスムに
従わないつもりであり、
「抽象画家」を自称する。彼らが隷属しているのは、フレームに支えられること
である。ここで、私たちは窓、つまりは単眼的な視点を再発見することになる。[…]考慮すべきことは、
それは固定性への受動的な執着だということである。[…]
 ──中国の画家は、無限というものに親しんでいて、固定するロープを断ち切る。上昇への変速、連続、
流体、コスモス的な呼吸、すなわちあらゆる拡張の場であり、「開け」の聖域である㊵。

 この部分でマッソンは、西洋の具象画家たちが、絵画を窓や 穴越しに見る風景とみなしたり、テーブルに
モチーフを置いて写生したりする習慣を挙げ、彼らが模倣にもとづく再現的・具象的表象に甘んじていること
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㊱ 同書、pp. 12-13
㊲ Daniel-Henry Kahnweiler, « A propos d’une conférence de Paul Klee », Les Temps Modernes, no 16 (jan. 1947), p. 759.
㊳ Ibid., pp. 762-763.
㊴ 宇佐美文理、前掲書、p. 94.
㊵ André Masson, « Une peinture de l’essentiel », op. cit., p. 41.

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アンドレ・マッソンにおける東方

を指摘している。一方で、西洋の抽象画家たちもまた、フレームという固定性に支配されているのだと批判し
ている。マッソンは具象絵画、抽象絵画のどちらの側にも批判的であるから、ここでは具象と抽象との二項対
立は保留されている。具象絵画、抽象絵画にかかわらず西洋画家が拠りどころとする固定性にマッソンが対立
させるのは、中国画家のもつ「開け」の空間概念である。

2)形と空隙のエネルギー論:「閉じた形」からの脱却
 同じテクストをさらに読み進めてみよう。マッソンは東洋の画家における空間概念について、エネルギーや
力といった言葉を用いて説明している。

 ──アジアの画家にとって空間は、外側でも内側でもない。それはエネルギーの戯れ──純粋な出現で
ある。位置づけ得ないものである。[…]
 ──[…]それは空間と呼ぶにふさわしいものを、力が出会い、もつれあう磁場とみなすことだ──航
跡や軌道が飛び回る場である。そして、ひとつだけの発生源を棄てることである㊶。

 東洋の画家にとって空間とは、エネルギーの戯れであり、出現をもたらす。外側でも内側でもなく、位置づ
けられないものである。また空間は、力が出会い、もつれあう磁場であり、そこでは事物が活発に運動し、多
様な道筋を描く。その空間のなかでは、発生源はひとつだけではなく、複数あることも考えられる。以上がマッ
ソンの主張である。
 彼の主張をより明確に理解するために、マッソンがエネルギーという語を用いている別な例を取り上げてみ
よう。マッソンは、クレーを論じた際にもエネルギーという語を用いている。クレーが描いたサイズの小さな
作品を「郵便切手にすぎない」と揶揄する者たちに反論して、「彼
[=クレー]は、[…]エネルギーは大きさとほとんど関係がないと
考える人々のひとりである㊷」と述べている。たとえ作品が小さく
ても、クレーの絵画空間は十分なエネルギーで満たされていると
マッソンは主張する。ここで挙げられているクレーの作品は、縦
14.4cm、横 9.6cm のエッチング《小さな世界》(1914)である〔図
6〕。人間や小動物や植物と思しき形が絵画空間いっぱいにひしめい
ているが、それぞれの形は未発達、あるいは欠損しているように見
える。
 エネルギーという概念は、アクション・ペインティングと呼ばれ
る絵画において語られることが多い。画家の身体的な動作から発せ
られた線や色彩の染みなどの痕跡と関連して語られる。しかし、
マッソンはここで、「線」や「色彩の染み」といった画家の身ぶり
が支持体に残した痕跡だけではなく、それ以外の部分も含めた絵画
空間を問題としている。それは、
「偉大な絵画とは、空間的な間 が、
それらを決定している形象と同じようにエネルギーに満ちている絵
画である㊸」というマッソンの発言からも読み取れる。彼にとって
図 6 クレー《小さな世界》1914 年、エッ
絵画とは、形として決定されている部分がエネルギーに満ちている チング(亜鉛 板)
、14.4 × 9.6 cm、
だけでなく、空 もまたエネルギーに満ちていなくてはならない。 パウル・クレー財団、ベルン美術館
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㊶ Idem.
㊷ André Masson, « Éloge de Paul Klee », op. cit., p. 125.
㊸ Pierre Assouline, L’homme de l’art, D.-H. Kahnweiler 1884-1979, Éditions Ballard, 1988, pp. 277-278 ; Patrick-Gilles Persin,
Daniel-Henry Kahnweiler. L’aventure d’un grand marchand, Solange Thierry Éditeur, 1990, p.141. カーンワイラーが自分の意見を
代弁するものとしてしばしば引用したマッソンの言葉である。

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WASEDA RILAS JOURNAL NO. 10

造形力を内包する絵画空間では、空 にも形が生まれる潜在性がある。つまり、形となったものだけでなく形
には至っていない部分にもエネルギーが満ちるべきとマッソンは考えている。ここで、絵画における「図」と
「地」という見方を取り入れて説明することもできるだろう。「図」が「地」に対して優位とされる一般的な見
方とは異なり、マッソンは両者に優劣をつけてはいないのである。
 中国絵画における「形」の概念を参照しながら、さらに検討を進めよう。既にみたように、中国絵画におい
ては「世界にはもともと形があるわけではな」く、
「線を閉じることによって、人は『形』を獲得する」のであっ
た㊹。1958 年『メルキュール・ドゥ・フランス』誌に掲載されたマッソンのテクストには、閉じた形と開い
た形の対立が示されている。

草の葉と星座、川の流れと潮のリズムを一閃において結びつけ、男と女の結合、天と地の融合をなすこの
原初の歌を、彼[=ヨーロッパ人]はこれからもずっと無視したいのだろう。西洋は、この宇宙的な酩酊
──つまり、この眼もくらむほどの汎神論的態度──に関与することを常に拒み続けてきた。そして西洋
の芸術家たちは(彼らの多数は鈍重なままである)、閉じた形の美徳を信じ続けている。無限の出現に捧
げられた柔軟かつ開いた形の美徳よりもむしろ、最短の解釈で対象から形を取り出すことを信じている㊺。

 西洋の画家は、眼に見える対象から「最短の解釈で」形を取り出し、輪郭線を閉じて形をつくる。一方、東
洋の画家は、形ではなく気を表そうとするのであるから、対象を眼の前にしていたとしてもその対象は、画家
の想像力や創意を喚起するスプリングボードにすぎない。そして、形は必ずしも閉じられるとは限らない。絵
画空間は造形力に満ちた場であり、その場はあちこちに形を出現させる潜在性を秘めている。マッソンはそう
考えて、「開いた形の美徳」をもつ東洋の画家に「宇宙的な酩酊」「眼もくらむ汎神論的態度」を見たに違いな
い。
 それでは「開いた形」とはどのようなものか。北宋の山水画家である郭煕の言を参照して考えてみよう。郭
煕は「自分の描くのは固定した形象ではなく、混成した形象である㊻」との言を残している。混成とは、「形
あるものが生じるときの、まだ形のない状態」であり、混成した形象とは、「形をもたぬ気が形をとってあら
われようとする、その時に、明確な形をとっていない形」すなわち「形をとりつつある形」である㊼。郭煕が
示した「混成した形象」すなわち「形をとりつつある形」と、マッソンの言う「開いた形」は、極めて近いと
考えられる。マッソンは、クレーの絵画空間のいたるところに「開いた形」を見いだし、エネルギーの充満を
感じ取ったのである。
 マッソンが示す「閉じた形」と「開いた形」の対立は、これまでにみた静止的・固定的なものと動的なもの
の対立、そして、西洋絵画と東洋絵画の対立を換言するものとも考えられる。ただし、抽象と具象の対立には
当たらない。マッソンの言う「開いた形」は、観者にとって、全く抽象的なものとして知覚されるのではなく、
何らかの具体的な対象を想起させるからである。禅の画家たちは、自然の風景を眼前にしながらも、西洋画家
たちのようにそれを模写し形を取り出そうとするのではない。眼前の風景をスプリングボードとして想像力を
呼び起し、身ぶりを用いた自由な手法、つまり荒々しく「無骨なやり方」で、支持体に「開いた形」を置いて
いく。観者は、絵画のなかに置かれた「開いた形」に、山や水や風を見いだす。そうした東洋絵画のあり方に
こそ、マッソンは賛同したのである。
 だからこそマッソンは、東方の芸術概念にもとづく絵画のあり方を、西欧の画家に見いだしたときには称賛
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を惜しまない。既にみたように、マッソンはセザンヌについて「終わりのない… A n’en plus finir…」という


見出しをつけたうえで、こう述べている。
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㊹ 宇佐美文理、前掲書、pp. 12-13
㊺ André Masson, « Des nouveaux rapports entre Peinture et Regardant », Mercure de France, t. 334 (sep.-déc. 1958), p. 203 (no
1142, 1er oct. 1958).
㊻ 宇佐美文理、前掲書、p. 14.
㊼ 同書、p. 86.

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アンドレ・マッソンにおける東方

 セザンヌは、発生という言葉の意味で絵画を作り上げた最初の画家である。それは非常に驚くべき逆説
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による。つまり、写生して[=自然に倣って]描いたのだ。彼の独創的な想像力は「ちょっとした感覚」
と呼ばれるもので作動した。外界への愛着と同じほど、画家の超然があった。こうした自我の制御がつね
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に彼を、より模倣ではないものへと向かわせた。
 晩年には、彼の集中は爆発するほどだった(セザンヌ的世界が爆発し、同時に再構築された)。それは
未来の現象である。
 自分の視覚の豊かさを虚しく盲目的世界にささげるのに疲れ、彼はもはや自分のなかにいる話し相手と
しか対話しない。その結果は、至上の自由、ベートーヴェンの四重奏の究極の自由、禅宗の僧侶たちの「無
骨なやり方」の自由である。終わりのないものへの捧げものである㊽。

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 マッソンは、セザンヌが東方の画家と同じ自由のもとに絵画を描いたと指摘し、「終わらせない infinir」と
いう彼の概念と関連させて称賛している。ここに、東方の芸術を西欧の芸術に接続させるマッソン独自の視点
を見いだすことができる。

おわりに

 本稿では、マッソンの絵画論に東方の芸術がどのように寄与したかを検討した。前半ではマッソンのオート
マティスムの実践を確認し、彼が東方の芸術を受容する経緯を追った。後半ではマッソンの絵画論を検討し、
東方にかんする言及の意味を探った。
 前半部分では、まず、マッソンが東方の絵画を動的なものと位置づけたことを明らかにした。シュルレアリ
スムの画家たちは、伝統的な西洋絵画を乗り越えるために絵筆を持たずに造形するコラージュに取り組んだ
が、他方マッソンは、伝統的な西洋絵画だけでなくシュルレアリスムのコラージュもまた静止的・固定的であ
るとみなし、東洋絵画の動的な概念を対置した。次に、マッソンの東方の受容は、アジアの地でなされたもの
ではないことを示した。この点において、中国や日本に赴いて東方を体験した画家たち、たとえばアメリカ抽
象表現主義と関連して語られるマーク・トビーや、マッソンと同様にシュルレアリスムに参加したジョアン・
ミロとの違いがある。マッソンは、東方の芸術に魅了され接近するものの、自分を含め西洋人は禅の境地に留
まり得ないと考えた。東方への同化の不可能性を認識しつつ、みずからの絵画論に東洋絵画の概念を持ち込ん
だと言える。
 後半部分では、レオナルド、クレー、セザンヌといった画家にかんするマッソンの言説の例を取り上げなが
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ら、「終わらせないという欲望」、続いて「形と空 のエネルギー」および「開いた形」というマッソンの概念
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を考察した。「終わらせないという欲望」については、西洋絵画が伝統的に依拠してきた模倣的・再現的な表
象に抗う概念であることを示した。「形と空 のエネルギー」については、形と形には至っていない部分とに
優劣をつけず、双方にエネルギーが満ちるべきとする考えであることを示した。また、「閉じた形」に対置さ
れる「開いた形」とは、静止的・固定的なものに対する動的なもの、そして西洋絵画に対する東洋絵画を示す
が、抽象と具象の対立ではない。マッソンの言う「開いた形」は、指し示すものを持たない抽象的なものでは
なく、何らかの具体的な対象を観者に想起させるものへと帰着することを示した。
 以上の検討を踏まえて、いくつかの点を提示する。第一に、西欧の画家における東方の芸術の受容や影響を
みる場合、「線」や「染み」という絵画の構成要素の性質を問題にすることが多いとみられる。しかしマッソ
ンの場合は、「線」や「染み」以上に、絵画空間の探究が問題となっている。第二に、マッソンは 1920 年代
後半に集中的にオートマティスムと呼ばれる実践を行っているが、絵画にかんするテクストは後年になって書
かれている。とはいえ、画家が時間をかけて理解した東方の芸術は、彼のオートマティスムを含めた絵画実践
の正当性に寄与していると言える。第三に、マッソンの美術史的な評価は概ね、彼の 1920 年代のオートマティ
スム実践を重視し、アメリカ抽象表現主義の形成と関係づけることでなされてきた。その際、彼が抽象絵画の

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㊽ André Masson, « Moralités esthétiques – Feuillets dans le vent », art. cit., p. 785.

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WASEDA RILAS JOURNAL NO. 10

純粋性を極めなかったことが批判的に語られる場合がある㊾。しかし本稿の検討により、具象から抽象へとい
うモダニズム的歴史観にマッソンが与しない理由のひとつを提示できたのではないかと考える。
 今後の課題を以下のとおり述べておく。
 まず、マッソンの作品にみられる東方の芸術の反映を検討することである。特に 1920 年代のデッサン・オー
トマティックや砂絵は、伝統的な西洋絵画から飛躍した方法で作られている。形が閉じられていないという印
象を与えながらも、人間や鳥や魚など具体的な事物の断片を見いだすことができる。線や染みといった絵画上
の構成要素をマッソンの言う「開いた形」と照合する作業となる。
 次に、本稿でみたマッソンの形についての考えと、ブルトンの率いるシュルレアリスムの諸概念との関係を
検討することである。ブルトンとマッソンは、亡命に際して寄港したマルティニーク島にて、混沌とした大自
然を前に、形にかんする対話を行っている。両者の形をめぐる考えを比較することが具体的な作業となる。

図版出典
図 1, 3 André Masson, ed. by William Rubin and Carolyn Lanchner, exh. cat., The Museum of Modern Art, 1976, p. 19, 168.
図2 André Masson, Catalogue raisonné de l'œuvre peint, 1919-1941, v.1. éd. par Guite et Martin Masson, Catherine LŒWER,
ArtAcatos, 2010, p. 360.
図4 André Masson Nîmes Été 85, cat. exp., Musée des Beaux-Arts de Nîmes, 1985, p. 112.
図5 『アンドレ・マッソン&ロベルト・マッタ──それぞれの宇宙』 、横浜美術館編集・発行、1994、p. 67.
図6 Paul Klee in Jena 1924, die Ausstellung, Jenoptik AG; Kunsthistorisches Seminar; Druckhaus Gera, 1999, p. 125.

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㊾ William Rubin, « André Masson and twentieth-century painting », André Masson, ed. by William Rubin and Carolyn Lanchner,
exh. cat., The Museum of Modern Art, 1976, pp. 71-73.

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