You are on page 1of 5

― ―

カズオ・イシグロ「家族の夕餉」が仕掛ける大きな罠

岩 崎 雅 之

る。本稿では、「夕餉」の持つ物語の構造に注目しなが
.序論
ら、そこで扱われる日本文化の歴史的問題を考察してみ
「家族の夕餉」( A Family Supper )(以下「夕餉」
) たい。 年代のイギリスにおいて重要であったと考え
は、 年に『クアルト』( )に発表された、
「日 られるこの主題が、作品の中でどのように構造化されて
本」を主題としたカズオ・イシグロ(Kazuo Ishiguro) いるのかを読み解くことで、イシグロの作品を貫く記憶
の短編小説である。作品の形式(form)および主題の と良心の呵責の連絡の一端を理解することができるだろ
特殊性から、マルコム・ブラッドベリ(Malcolm Brad- う。
bury)が編者を務めた『現代イギリス短編小説集』(
, )に

「夕餉」における恥と自殺
も収録されている。「序文」を書いたブラッドベリによ
れば、新たな社会および歴史的意識の誕生とともに、 物語はまず、次のような書き出しで始まる。
∼ 年代にかけて、イギリスの短編小説はめざましい形
式上の発展を遂げた。イシグロは、イアン・マキューア Fugu is a fish caught off the Pacific shores of Japan.
ン(Ian McEwan)
、アンジェラ・カーター(Angela Car- The fish has held a special significance for me ever
ter)、サルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)
、クラ since my mother died through eating one. The poi-
イブ・シンクレア(Clive Sinclair)とともに、新たな時 son resides in the sexual glands of the fish, inside
代を代表する小説家の一人として数えられ、同書におい two fragile bags. When preparing the fish, these
ては「夕餉」がその代表作に選ばれている( ‐ )
。 bags must be removed with caution, for any clumsi-
では、イシグロの「夕餉」とは、一体どのような作品 ness will result in the poison leaking into the veins.
なのだろうか。あらすじは以下の通りである。舞台は戦 Regrettably, it is not easy to tell whether or not this
後の鎌倉で、主人公の「私」はアメリカ帰りの若者であ operation has been carried out successfully. The
る。「私」は長らく両親とは音信不通になっていたが、 proof is, as it were, in the eating.( )
母がフグの毒のために他界してから 年が経過し、日本
に帰国する。空港に迎えに来てくれた父親との会話は弾 物語の冒頭で、語り手の「私」は、日本料理で使われる
まず、気まずい沈黙が流れる。実家に到着すると、まも 食材のフグについて語っている。ここでは詳細には述べ
なく妹のキクコがやって来る。兄妹の仲は良かったが、 られていないが、フグにはテトロドトキシンという猛毒
妹もまた、父親の前では息苦しさを覚えている。ふと があり、それを口にすればほぼ確実に死に至ることは、
「私」は庭にある井戸を目にし、古い記憶がまざまざま 日本では周知の事実である。「私」の言に従えば、戦後、
と蘇ってくるのを感じる。小さい頃に井戸のそばで白い 素人が自らフグを調理して命を落とすという事故が多発
着物を着た、幽霊のような老婆を見たことがあったの し、そのために厳しく規制された。 「私」の母は、他
だった。やがて「私」は、父と妹を通じ、父の会社の同 ならぬこのフグを口にして亡くなっている。元来、母は
僚であったワタナベが一家心中を遂げ、また、母も自殺 フグを好んで食べる人ではなかったが、昔馴染みの同窓
した可能性があることを知らされる。しばらくして 人 生に食事に招かれ、相手の気分を害することがないよう
は食卓を囲み、夕餉を取る。食卓に供された鍋の中身は にと、その日だけは特別に口にしたのであった。当初、
わからないまま、食事が終えられる。食後、父がキクコ 母の身に起こった悲劇は、単にフグ料理による事故死と
に茶の用意をさせるところで物語は幕を閉じる。 して読者に伝えられるが、父は後ほど、彼女が自ら命を
あらすじが示す通り、この作品では特に大きな事件は 絶ち、その理由の一端が他ならぬ「私」にあったのだと
起こらず、「私」によって淡々と出来事が語られるだけ いうことを告げる( )

である。だが、本作は後のイシグロの作品に繰り返し登 母は「私」を「正しく」(correctly)育てることがで
場する記憶と良心の呵責という重要な主題を扱ってい きなかったと終生悔やんでいた( )
。両親にしてみれ

( )
― ― 福岡大学研究部論集 A ( )

ば、「私」は、第二次世界大戦の敵国であったアメリカ ている老女が誰なのかを尋ねる。すると、父が「あそこ
に行くという、日本人にとっての「禁忌」を犯した背信 に写っているのはお前の母親だ」と厳しい声で言う。立
者であった。作中ではなぜ「私」がアメリカに渡ったの ち上がったキクコが写真を「私」のところに持って来て
かに関しては、明確な理由は述べられていない――今と くれるが、「私」の目には母が大分年を取っているよう
なっては別れてしまったアメリカ人の恋人ヴィッキー に見えた。父はその写真を見て、他界する数日前に撮ら
(Vicki)のためだったかもしれないし、はたまた家業 れたものだと告げる。「私」は暗くてよく見えなかった
を継ぎたくなかったというためであったかもしれない― のだという言い訳を繰り返すが、そのことに対して父は
―が、「私」の背信行為を許せなかった両親の反応から 無言で応じる( ‐ )
。幼き日の「私」は、やがて年
するに、「正しく」育てられなかったというのは、親と 老い、幽霊のようになっていく、死を目前に控えた母の
国に忠孝を尽くす「正しい」日本人には育てられなかっ 姿をそこに認めていたのだろうか。自分のせいで、いず
たという意味であることがうかがえる。 れ母親が惨めに死んでいくことを予見していたことがほ
両親の言う「正しさ」は、彼らの世代の恥の感覚と裏 のめかされている。
腹の関係にある。父は侍の末裔を自認し、「私」が幼かっ この時まで、食卓の上にはまだ手付かずの鍋が載って
た頃は特に厳格で、「老婆のようにべらべらとしゃべり いた。父が蓋を取り上げると、湯気がさっと立ち昇り、
おって」と折檻を加えることもあった( )
。 ところ ちょうちん型ランプの明かりを包んだ。鍋を「私」の方
が、第二次世界大戦が終わると、父の会社は倒産し、同 に押しやり、空港からの車中と同じように、父は「私」
僚のワタナベが一家心中を遂げる。ビジネスは戦前とは の長旅の労をねぎらって、「お前はお腹を空かせている
大きく変わり、外国人――その多くはおそらくアメリカ だろう」と勧める。この時の「私」の心理は明らかにさ
人であろう――を相手に商取引をしなければならなくな れない。自分のことを気遣う父に対し、感謝の言葉を述
り、「高潔な人物」であったワタナベは、戦後社会で生 べるだけである。だが、鍋の中身が気になる「私」は、
き長らえることを恥とし、自ら命を絶ったの だ っ た 父に具材が何であるのかを尋ねる。彼はただ「魚だ」と
( )
。戦時中には父も、ワタナベと同じように、自ら だけ答える( )
。鍋の中では魚の切り身が丸まってお
命を絶つことを名誉と考えていた節がある。父の案内で り、何の魚であるのかは判別できない。「私」は、父に
家の中を見て回っていた時、「私」はある部屋で父の作っ 勧められる通りに数切れ取り、それから鍋を父の方に近
たプラモデルの戦艦を見つける。その戦艦を見ながら、 付け、自分と同じように取るのを見届ける。同様にキク
彼は自分が帝国海軍の所属だったが空軍に憧れており、 コも自分の分を取る。それから、まず父が食べ始め、次
いざとなればカミカゼ特攻も辞さない決意があったこと いで「私」も口にする。身は柔らかく、弾力がある。ふ
をほのめかす。そして、自分の作った戦艦に、もっとしっ たたび、「私」は何の魚であるのかと聞いてみるが、先
かりと 隻の小型砲艦を付けるべきだったろうかと、 ほどと同じように、父は「魚だ」とのみ答える。ただ、
「私」に尋ねる( )
。ここでの小型砲艦が、「私」と 三人で食べるには十分な量があるのだから、遠慮せずに
キクコを意味していることは明らかである。「私」によっ 食べなさい、とだけ付け加える( )

て、父もまた、新たな時代を生きることに失敗した、恥 その後、何か大きな出来事が起こるわけでもなく、食
と負い目を抱えた人物として語られているのである。 事は終わる。父は食後のお茶の用意をキクコにさせ、
ところで、物語は途中から怪談話の調子を帯び始め 「私」と二人きりになる。この時を待っていたかのよう
る。 茶の間は庭に面していて、そこに古井戸があるの に、「私」はワタナベの一家心中が間違っていたと思う
だが、幼かった「私」は、この井戸に幽霊が棲みついて かと父に聞く。父は、もちろん間違った行為ではあった
いると考えていた。一度、老女が古井戸のそばに立って が、彼には仕事の外にもいろいろと悩みがあったのだと
いるのを目撃したのだが、家族は近所の八百屋のおかみ 説明する。この曖昧とも取れる回答のために、父が無理
さんだろうと考えて、相手にはしなかった。だが、なぜ 心中を図っているかは、最後まで「私」にも読者にも判
か「私」はその説明に納得できずにいた。物語の現在に 然としない。物語は今後の予定について「私」と父が語
おいて、「私」たち 人は夕食を取り始める。薄明かり るところで終わりを迎える。
のために、父の顔は生気を失っているように見える。重 引用した冒頭部分で、フグの毒が作用を及ぼすのは睡
苦しい沈黙が訪れ、得も言われぬ緊張感の中で黙々と食 眠時ということになっているので、実際に三人に中毒症
事が進められていく。その時、ふとした拍子に、「私」 状が出るかどうかは作中では明らかにされない。だが、
は壁に掛けられた一葉の写真に目を奪われる。まるで死 もし仮に一家心中が起こると考えるならば、それは何を
に装束とでも言えるかのような、白い着物を着た老婆が 根拠にした主張になるのだろうか。また、そうはならな
そこに写っており、他ならぬこの人物こそ、幼い日に いと考える場合、その理由は一体何であろうか。本作の
「私」が井戸の側で見た女性の姿であったのだった。驚 主題から推測するに、この点には「日本」にまつわる問
いた私は、箸を持っていた手を思わず止め、写真に写っ 題が関わっているように思われる。次節では、イシグロ

( )
カズオ・イシグロ「家族の夕餉」が仕掛ける大きな罠(岩崎) ― ―

が本作を著した時代を参照しながら、少なくともこのよ 発動すれば、人種偏見の問題を浮き彫りにするという構
うに二通りに解釈できる結末を持つ本作の構造に関し 造が存在していることが示唆される。
て、日本文化論の観点から考察を加えたい。 実際に、先行研究において、イシグロの初期の作品が
日本人に対する人種偏見をあえて利用しているというの
はしばしば論じられているところのもので、その際に、
.アングロ=アメリカ文化というブランケット
英米の日本文化論における恥と自殺の理解のあり方によ
イシグロが小説家として作品を発表し始めたのは く言及される。なかでもルース・ベネディクト(Ruth
年からである。その直前の 年代は、本人の言葉を借 Benedict)の『菊と刀』(
りれば、イギリス小説の主題が地方的になり、「つまら , )は、その影響力の大きさから、繰り返し
なくなって」いた時代であった(「カズオ・イシグロ」 引き合いに出されてきた研究書である(Wai-chew Sim
‐ )
。当時のイギリス小説は、一様に中産階級の人々 )
。『菊と刀』は、戦後まもない 年に、戦勝国アメ
の結婚や仕事の問題を扱っていたが、読者は画一的に描 リカの立場から日本文化に人類学的観点から分析を加え
かれる中産階級の人々の姿ではなく、様々な人種によっ た論考である。ベネディクト自身は来日の経験もなく、
て社会が構成されるようになった状況にこそ強い関心を また日本語を操っていたわけでもなかったが、日系アメ
抱いていた。この流れにおいて、イシグロは日本を舞台 リカ人にインタビューし、その「フィールドワーク」か
にした長短編小説を著す。彼は出自のために、三島由紀 ら得た結果と、欧米の研究者たちの手による先行研究を
夫のような日本人作家と比べられることが多かったと言 議論の土台に据え、日本文化の根底には「恥」(shame)
うが、本人はあくまでも西洋文学の伝統、特にドフトエ の文化があると結論づける。カミカゼやハラキリは、汚
フスキー(Dostoevsky)
、チェーホフ(Chekhov)
、シャー 名をそそぎ、恥辱を免れるための、日本文化に特有の行
ロット・ブロンテ(Charlotte Bronte)
、チャールズ・ディ 為とされる。戦後の GHQ による統治は、世界における
ケンズ(Charles Dickens)といった西欧の作家たちの 日本の位置付けと、国際社会の価値観を国民に理解さ
系譜に自分自身を位置づけたいと思っている素振りがあ せ、この恥の文化から「罪」(guilt)の文化への移行を
る( An Interview with Kazuo Ishiguro. )。また、谷 促すことにあったと、ベネディクトは主張するのである
崎潤一郎、川端康成、井伏鱒二、夏目漱石といった作家 ( ‐ )

からも多少の影響を受けてはいるが、それ以上に感銘を 東西の文化的差異に基づいて日本文化を議論する『菊
受けたのが、小津安二郎と成瀬巳喜男の映画だったこと と刀』
には、これまでにも様々な批判が加えられてきた。
を告白している。彼らの撮る戦後の日本の家族像は、イ 例 え ば、チ ャ ー ル ズ・ダ グ ラ ス・ラ ミ ス(Charles
シグロが記憶する日本の家族像と重なるのだと言う Douglas Lummis)は、本来、日本社会は無数の階層か
( )
。事実、本稿においてすでに見てきたように、「夕 ら成る複雑な社会構造を持っていたはずだが、ベネディ
餉」の淡々とした物語の調子は、小津や成瀬の庶民劇を クトはそれを、あたかも一つの均質的、かつ画一的な
思わせるところがなくもない。イギリス小説の主題が地 「型」から作られた社会であるのように誤謬していると
方的なものに収束していく一方で、イシグロは日本映画 批判する。そもそも、恥や恩、義理、忠、孝といった概
の物語性を意識しながら、イギリス社会における「日本」 念は、日本の歴史において、
ベネディクトが言うように、
の問題を独自の視点から描こうとしたのである。 民衆文化や慣習から自然発生的に近代国家全体に広まっ
さて、このように西洋文学と日本映画に多大な影響を たものなのだろうか。仮に、これらの概念が、明治時代
受けたというイシグロだが、 年に行われたデイビッ 以降、国家権力によって上意下達で国民に押し付けられ
ド・セクストン(David Sexton)によるインタビューの たものであったとしたならば、その性質に対する理解は
中では、イギリス人たちがカミカゼやハラキリを好む傾 大きく変わるはずであり、一つの型を通して一様に日本
向にあり、そのためか、日本人のことを自殺を偏愛する 人を理解することは甚だ困難になる。だが、ベネディク
民族であると考えるきらいがあるという見解を述べてい トはその点を深く考察もせずに、単純に日本文化を恥の
る( Interview )
。前年のグレゴリー・メーソン(Gre- 文化と結論づけるという誤りを犯していると言う( ‐
gory Mason)によるインタビューでは、「夕餉」におい )

て、作中人物が自殺に及ぶかもしれないという兆候をあ 紙幅の関係上、詳細は別稿に譲りたいが、ラミスがベ
えて描くことで、西洋の読者の期待(expectation)を ネディクトを批判する際に議論の中心に据えているの
逆手に取るという「大胆なたくらみ」(a big trick)があっ が、明治維新による国家建設のあり方である。江戸時代
たことを明らかにしている( An Interview with Kazuo までの地方主義を脱し、近代的資本主義国家を樹立する
Ishiguro ‐ )
。イシグロの発言を踏まえるのであれ ために、新政府は法律の下に社会全体を組織しなければ
ば、本作には予め存在していた、日本に対するステレオ ならなくなった。その目的を達成するために、明治の指
タイプが「罠」として仕掛けられており、その仕掛けが 導者たちは新たな国家イデオロギーを求めた。彼らが範

( )
― ― 福岡大学研究部論集 A ( )

としたのは軍隊組織であり、義務教育と兵役制を導入 はキクコが大学卒業後に自分の元に戻って来てくること
し、家族を社会の最小単位として組織することで、中央 を期待しているし、息子の「私」にも、できる限り長く
集権的な民族国家の完成を図ったのだった。なかでも重 自分のもとに留まってくれることを望んでいる。つま
要な役割を果たしたとされるのが、穂積八束という人物 り、たとえそれがどれだけ実現の望みが薄いものだとし
である。ドイツで教育を受けた穂積は、 年以降の国 ても、物語の最後の時点でもなお父は今後の人生に対す
民道徳教育の教科書を改正し、「家族国家」イデオロギー る展望を述べており、前者のような解釈を成立させるほ
という新たな倫理体系を打ち立て、国家と家族の紐帯を どの悲壮感と決意は持ち合わせていないということにな
人工的に生み出しそうとした。この重要な点を無視して る。このように、「夕餉」は、自殺を偏愛する民族とい
いるために、ベネディクトの議論には大きな瑕疵がある う、日本人に対する人種偏見に従って読めば、父親が無
とラミスは言う( ‐ )
。さて、いま一度要約すれば、 理心中を遂げるという結論の導出を促し、一方、その偏
家族や近隣住民たちに感じる恩義や忠孝と、中央集権国 見を退けるならば、実際には無理心中は起こらないとい
家が公式の教義とする、資本主義的国家へのそれとの間 う結論を提示する、正反対の結末を成立させる二重構造
には、本来、純然たる差異が横たわっている。だが、そ を有しているのである。
れを無視して、現実には存在し得ない一つの文化的な型 後者の立場からすると、テクストに仕掛けられた巧妙
を作り出し、恥の文化という心像を日本に押し付けると な罠がはっきりと見える。事実、ワナタベ家の一家心中
いうことは、明治時代の公式の教義を反復する、つまり にせよ、「私」の母親の死にせよ、そこに日本人らしい
は明治政府の国家イデオロギーによりながら、日本文化 行為としての文化的意味を読み取ろうとした瞬間に、テ
を論じるに過ぎない、ということになる。 クストをアングロ=アメリカ、および、イシグロがイン
もちろん、ここでベネディクトの著作だけを批判の対 タビューで述べているような、アングロ=サクソン文化
象とするべきではないし、また、『菊と刀』のみを議論 のブランケットで覆うになるのである。彼らが自ら命を
の対象として、アングロ=アメリカ文化の日本人像を理 絶ったという個別の事実から、安易に日本人全員に当て
解することにも大きな問題があるだろう。しかし、本稿 はまるような普遍的真理を導き出し、それを父にも当て
において重要なのは、大江健三郎との対談で、イシグロ はめようとすれば、『菊と刀』のようなオリエンタリズ
が「アングロ=アメリカ文化と呼ばれるこの退屈で色の ムに加担する危険性がある。アングロ=アメリカ、サク
ない、巨大なブランケット」(荘中 )と呼ぶ文化至上 ソン文化のレンズを通してみれば、収差が生まれ、実像
主義によって、現実と乖離した日本文化の心像が正当化 とは異なる歪んだ像が現れるのである。そもそも、この
される状況が実在し、また、その状況を二重写しにして 作品で述べられている出来事の大部分は、最後まで曖昧
いるかのような構造を「夕餉」が有しているという点で なままに残されている。例えば、「私」が両親と不仲に
ある。だとすれば、日本文化に対する固定観念が「夕餉」 なりアメリカに渡った理由や、井戸に現れた女性の幽霊
をどのような読解に導くのか、また、読者には少なくと の正体(もちろん、「私」にしか見られない非現実的な
もそれとは別の結論に辿り着く道が残されているとし 存在だからなのだが)には、明確な答えが与えられてい
て、それが固定観念による読解の問題点をどのように明 ない。そのため、父の無理心中だけを確実な出来事とす
らかにするのかという問いに対しては、ブラッドベリが ることは、物語の理屈に合わないだろう。作中の主要な
! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! ! !
論じているように、この物語の構造と主題との特殊な連 出来事はすべて、そうであるかもしれないし、そうでな
! ! ! ! ! ! !
関を探らなければ答えを得ることはできない、というこ いかもしれないのであり、その可能性は常に開かれてい
とになるだろう。 る。ただ、注意しなければならないのは、一家心中を否
定する立場に立った時にだけ初めて、この揺れ動きが見
られるのである。英米の文化言説を読解の手引きとして

「夕餉」の持つ二重構造
いる限りは、「夕餉」の持つ二重構造には気付くことが
それでは、ベネディクトの型を「夕餉」に当てはめ、 できない。
父、母、ワタナベの行動と信条を解釈した場合と、その 同様に重要であるのは、「夕餉」の二重構造に気付い
ような人種偏見を退けて読解した場合では、それぞれど てもなお、もう一つ重要な主題がこの作品には隠されて
のような結論に至るのだろうか。まず、恥の文化によっ いるということである。それは、日常生活の次元におい
て解釈すれば、「私」たちが口にする鍋にはフグが入っ て、歴史問題が人々の心理にどのような影響を与えうる
ており、その後中毒死すると主張することができる。こ か、というものである。
非常に抑制された語りのために、
の場合、父親は戦後史を生きる苦悩に耐えられず、日本 「私」の心理は最後まで判然とせず、また、父の真情も
の外に飛び出して行く息子と娘を道連れにしてこの世を 読者には測りかねる。しかし、「私」は、たとえ相手が
去ろうとしたという結論になる。だが、恥の文化を退け 間違っていることがわかっていたとしても、母の死に立
! ! ! ! ! ! !
た場合は、何も起こらないという結末が導出される。父 ち会わなかったことなどに対し、少なからぬ良心の呵責

( )
カズオ・イシグロ「家族の夕餉」が仕掛ける大きな罠(岩崎) ― ―

を覚えているのだろうか。そうして、新たな時代におい 合致しているものの、日本の食文化に対しては誤解で
て、父との和解を図ろうとしているのだろうか。一方、 ある( )

父は、心のどこかでこれまでの誤った行動を後悔してい だが実は、「私」の目からすると、父は中国の政治
ないだろうか。「私」は、『日の名残り』( 家である周恩来に似ていた( )

, )における信頼できない語り手のス 戦後、男やもめになると、
父はみずから台所に立ち、
ティーブンスのように、自己正当化や自己弁護を行わな 包丁を握るようになる。この点を、喫煙者となり、少
いために、どれだけの呵責を覚えているのかはわかりか しずつアメリカナイズされていくキクコの変化と合わ
ねる。しかし、一つだけ確実に言えることは、彼も父親 せて見ると、「去勢」が行われたと読み取ることもで
と同じように、過去をそのままにし、戦争の記憶を忘却 きる。
することで、関係の修復を図ろうとしている節があると この点は海外の研究者も注目する点で、例えばバ
いうことだ。実家に到着してから、父は「私」に今後の リー・ルイス(Barry Lewis)は、「夕餉」に関する解
予定について尋ね、できるならば長く滞在するように促 説の箇所で、日本の伝説や神話、怪談、歌舞伎にはよ
すという場面がある。 く幽霊が登場する点を指摘しており、「天の羽衣」や
「柳女」
、「東海道四谷怪談」
を紹介している。同様に、
I for one am prepared to forget the past. Your 仏教の盆の習慣にも言及し、「夕餉」で描かれる幽霊
mother too was always ready to welcome you back と日本文化の接点を探っている( ‐ )

­ upset as she was by your behavior.
I appreciate your sympathy. As I say, I m not
引用文献
sure what plans are.
I ve come to believe now that there were no evil Benedict, Ruth.
intentions in your mind, my father continued. You . Cleveland: World Pub-
were swayed by certain ­ influences. Like so many lishing, 1967. Print.
others. Bradbury, Malcolm. Introduction.
Perhaps we should forget it, as you suggest. . Ed. Malcolm Brad-
As you will. More tea?( ) bury. London: Penguin, 2011. 11-14. Print.
Ishiguro, Kazuo. A Family Supper.
両者は、過去と向き合わないままに、ともに現在を生き . Ed. Malcolm Brad-
ようとしている。「私」に対する気遣いのためとはいえ、 bury. London: Penguin, 2011. 434-42. Print.
過去の問題をはっきりと言表することのできない父の口 ­­­. An Interview with Kazuo Ishiguro.
ぶりからもわかるように、両者の間には容易には解決を . Ed. Brian W. Shaffer and Cyn-
図ることのできない、歴史的な問題が依然として横た thia F. Wong. Jackson: UP of Mississippi. 2008. 3-14.
わっている。 Print.
すでに見てきたように、この会話の後には何も起こら ­­­. Interview: David Sexton Meets Kazuo Ishiguro.
ないために、両者の関係には何ら実質的な進展は見られ . Ed. Brian W.
ない。オリエンタリズムを排してもなお残る、過去を封 Shaffer and Cynthia F. Wong. Jackson: UP of Missis-
印しようとする彼らの態度にも、歴史と記憶の複雑な絡 sippi. 2008. 27-34. Print.
まり合いが生み出す問題の、日常における実際的な姿を Sim, Wai-chew. . Routledge: London, 2010.
認めることはできないか。このように「夕餉」は、オリ Print.
エンタリズムの言説を罠として使用する二重構造を通じ カズオ・イシグロ「カズオ・イシグロ 英国文学の若き
て、第二次世界大戦という忌まわしい過去を忘却、もし 旗手」『中央公論』第 巻 号、中央公論社、
くは封印しようとする人間の人生の問題を描く作品でも 年、 ‐ 頁。
あるのだ。 遠藤不比人「カズオ・イシグロと『不気味な』日本をめ
ぐる断章」『ユリイカ』第 巻 号。青土社、 、
‐ 頁。

荘中孝之「日本語、英語、カズオ・イシグロ」『ユリイ
フグが獲れるのは何も太平洋側だけではないのだ カ』第 巻 号。青土社、 、 ‐ 頁。
が、作中ではこの魚がまるでアメリカと日本の間に横 C・ダグラス・ラミス『内なる外国 「菊と刀」再考』
たわる海洋でしか獲れないかのような言い方がなされ 加地永都子訳、時事通信社、 年。
ている。遠藤が言うように、この点は作中の論理には

( )

You might also like