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同総 兵姜襲 とそ の反乱



いう 一武 人 の生 涯 と彼 の抗 清 の蜂 起 を諸 史 料 を通 し て視 る
はじ め に 、
事 に よ って こ の激 動 期 の意 義 を よ り 正確 に考 察 し て み た
周知 のよう に明 末清 初 は中 国史 上 大 き な政 治 ・社 会 的 変 く 思 う。
、 。 、
動 期 に当 り 激 し い戦 乱 が 続 いた 結 局 は満 州 族 の清 朝 が な お全 体 を反 乱 以前 の姜 襲 の動 向 を記 した第 一車 と、 順
北 京 を陥 し て明 を亡ぼ し た 李自 成 を さ ら に駆 逐 す る事 に よ 治 五︱ 六年 の蜂 起 の始 末 を述 べ た第 二章 に二分 し て論 ず る。
り ﹁正統 王 朝﹂ への足 場 を回 め るき っかけ を得 た のであ る ま た史 料 は第 豆 半で は ﹃明 史﹄名 順 治 実 録﹄島 明溝 史 料﹄

- 1 -
、 、
が そ の中 で様 々な階 屑 の人物 と 集 団 が 時 代 の不安 定 な波 を や 心 と し 第 二章 は ﹃順治 実 録﹄・﹃明満 史 料 ﹄ の他 山 西
、 、
にも てあ そば れ つ つ 生 き 延 び るた め の基 盤 を獲 よう と努 及 び旗 西 の 一部 の地方 志 ﹃交 山 平冠 本末 ﹄ 年 を 主 と し た。
。 、 、
め て い った 放 し い時 代 の波 は中 国 全 土 に広 が り 地 域 ・ 小 論 の性格 上 軍 革 行 動 の頭 末 に ついて の記述 が 多 く な り、

時 間 に よ ってさ まざ ま な様 相 を 呈 し て いた 明 末 清 初 の戦 ま た 一々出 所 を記 さ な か った点 を了 承 さ れ た い。
乱 と 聞 けば 誰 も が 思 い浮 かべ る華 中 ・南 に おけ る復 明抗 清
男 王 早 甲 申 年 ︵一六 四 四 ︶ 前 後 の

運 動 も 些 細 にそ の実 態 を祝 ると 多 く の問 題 を含 ん で お り
︵抑 も抗 清 =復 明 と いう 図式 が 全 て に は該 当 しな い点 が 問 出西 の情況 と姜壌
、 。 、
題 であ る︶ そ の詳 細 に ついて の記 録 も厖 大 であ る 一 明王朝下の華要
小 論 で は十 七 世 紀 中葉 の出 西 北 部 に基 盤 を築 いた姜 張 と 妄壊 の伝記史料としては清 の国史館で編察した﹃
逆距伝﹄
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜張とそ の反乱 ︵ 渡辺︶
。 、 。
が ある これ に よ るL 彼 は楡 林 の人 で明朝 末 期 に大 同総 兵 史 ﹄ 巻 二十 四 速 烈 帝 本 紀 にょ る︶
︵原 文 は ﹁主 化 銀 総 兵 ﹂ とす るが 誤︶ に至 った と す る のみ 姜 壌 は十 二月 十 五 日 に発 し た塘 報 ︵甲 ・ 一 ・三九 ﹁鎮 守
。 、 、
であ る ﹃回椎 ﹄ 巻 九 十 八 に よ ると 彼 は崇禎 十 五年 ︵一 大 同 総 兵妾 要 靖 報し に お いて 李 白 成 の年 が 府 谷 を攻 略
六 四 二︶ 六 月戊 辰 ︵三十 日︶ に征 西将 軍 ・都 督京 事 の肩 書 した と知 ら せ、 ﹁賊 の束 犯﹂ に備 え て撫 院 ︵大 同 巡 撫 術 景
で大 同 総 兵 に任 ぜ られ て いる。 これ以 前 の役 に関 す る記 事 、
竣 ︶ と会 同 し 副 将 福 顕 杵 を大 同 の西 の乃 河 ・井 坪 堡 へ派
、 。
は筆 者 の口 に した範 囲 の史 料 で は兄 当 らず 従 って絵 兵 就 た した と報 告 し て いる た だ右 の靖 報 でも 彼 れ ら れ て いる
。 、 、
任 以 前 の経 歴 は不 明 であ る 就 任 以降 の行 動 に ついて は が 当 時 兵 卒 への欠 伽 が 慢 性 化 し て いる た め彼 等 に はこ に
まず ﹃引活 史 料 ﹄ 乙編 六 本五 一七 ︵以 下 ﹁乙 上→ 五 一七 ﹂ 、
戦 意 が なく む し ろ李 自 成 軍 を ﹁ 迎 接 し て入城﹂ さ せ る ヶ
、 u 、 l スが増 し て いた。 これ ら の兵 卒 に対 し 明 の
のよう に記 す ﹁兵 部 題 ︹大 同総 兵 妾 襲 姑 報 ﹄ 稿 ﹂ 崇 禎 十 へ 忠 節 を第 一
、 、こ 、
六年 三 月 十 八 日付 ︶ に よ ると 彼 は当 時 北 直 隷 ︵河 北︶ の と す る官 は ﹁大 義﹂ を
僚 諭 す のであ る が れ の み で腐敗

沿 州 に在 って 前 年 末 よ り長 城 内 に侵 入 した清 軍 への防 衛 し た明朝 を支 持 さ せ る事 は出 来 な か った。 総 兵 と し て一多く
。 、
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に当 って いる ただ し直 ! 接友 戦 し た ので はなく ゲ リ ラ的 の部 下 を持 つ姜 葵 は当 然 か か る状 況 を熟 知 し て いた のであ
、 。
戦 術 と し て糧 単 を焚 いて敵 の兵 的 を欠 乏 さ せ さ ら に毒草 ・ スや
毒 米 ・海 酒 を用 意 す る よう提 議 し て いる のみ であ る。 やが 、 、
崇禎十七年 正月 李自成 は西安 を発 し ま河を渡 って山
。 、
て清 軍 が 引 上げ ると任 地 へ一 反る 西 に入り 二十三 日平陽 に入城 した ︵ ﹃康 熙 ・平陽府志﹄
、 、 、 。
同年 冬 李 白 成 が 河 南 よ り漉 関 を 経 て西 安 を陥 し さ ら 巻 三十 四 兵病︶ 二月 二日 に沿州 に至り ︵ ﹃明史﹄巻 二十
。 、
に映 西 各 地 に派 兵 す る そ の 一部 は楡 林 にも 至 り 激 戦 の 、 、 、
四 荘烈荷本紀︶ ついで七 日 大 原 を陥落 させ巡撫奈愁
。 。
末 十 一月 二十 七 日 これ を陥 落 さ せ た 楡 林 は多 く の式 将 を 徳が死 ぬ 李 は十 五 日大原 より 北上 ︵﹃順治 ・大原府十志﹄
、 、 、 、 、
生 んだ 地 で 妾 張 の故 郷 でも あ るが こ の時 彼 の 一族 が 同 巻 二 災異 寧 武大戦︶ そ して寧 武 にお いて西安 を発 っ

地 に在 った か否 かも 不 明 であ る やが て映 西 企 省 が 李 自 成 てょり始 めて総兵周遇吉 による頑強 な抵抗 を受 け た。 結局

の手 に落 ち 隣 接 す る山 西 も厳 戒 体 制 に入 った。 李 の先 鋒 、
勝利 は得 たも のの多 大な損害 を被 ったた め 一説 によ ると
、 、
は十 二月 中旬 黄 河 を波 り 二十 一日平陽 府 を陥 し た ︵﹃明 李 は軍 を映 西 に引返す事も考 えたが そ の時相次 いで到着
し た のが 総 兵妾 理 と貨 府 給 兵 王 よ 胤 の帰 順 を告 げ る使 。
大 同 へ引 上げ て いる 戦 意 を持 た ぬ兵 卒 への殴 慮 も か ろう
欲洞
。 、
者 であ った が む し ろ大勢 は己 に決 し たL判 断 し、 抵 抗 す る事 で生 ず
ろ彼 自 身 の損害 を恐 れ た のであ る。 た だ姜 本 人 は大同 へ席

二 李 自 成 政 権 下 の宣 府 ,大 同 と華 襲 っても、 一部 の部 下 は寧 武 附 近 で周 と李 白 成 の死 間 を祝 望
働 李自 成 への迎 降 ︱︱ 大 同 し て いた に違 いな い。 そ のた め李 自 成 が 苦 戦 し て辛 う じ て
前 述 のよ う に李 白 成 の軍 は刻 々と 大 同 に近 づ いて い ったっ 、
勝 利 を獲 たそ の日 の夜 姜 の 順 の使 が 到 った のであ る。

これ に対 し て大 間 の明 の地 方 官 の措 に を見 てみ 卜へう。 ﹃明 王承 ︶妾 のそ れ にや や遅 れ て到 り

末 挫 民起 義 史 料 ﹄ の北 行 稿 第 一 一八九 号 ︵四 四 七 頁︶ の ヽこ軸 欺
帥 陣 狂能 姉 嗽 瞭 力 ヤ つW 鵜
﹁兵 部 為 ﹁大 同﹂ 寇 忠 迪 已 切 膚 等 事﹂ に見 え る代 王伝婿 の 大 同 ,宜 府 に帰 降 の意 が あ る のを知 った李 白 成 は軍 を進

交に ょれば 大 同 の人 心が 動 揺 し流 言 も起 こ って いる中、
一 、
め 三 月 一日頃 大 同 に着 いた。 そ し て何 ら の犠 牲 な し に こ

去 斑 が 領 兵 し て出 成 し 恐 らく そ の留 守 中 の二月 十 九 日 に の要 害 の地 を手 に入 れ た のであ る。
巡 撫 術 京 , ・通 虫 朱 家 仕 ・伽 直 ︵戸 部 郎 中 ︶ 王 弘 杵 が代 王 、
李 白 成 が 到着 す る以 前 に 妾 張 は衛 景 竣 が 季 L 8
i じく映


府 で攻 守 々献 し て いる やが て差 と 宜 大給 誉 王継 談 が 大 同

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西 出身 ︵韓 城 の人︶ であ る芋 を吹 張 し て代 王 と の仲 を離 問

へ到 り 開府 に 兵 る 以 上 代 正 の末 ︶。 姜 が 大 同 全灰
は す ︵ し、 一方 で術 の足疾 を 理由 に 守 の権 を自 分 に委 ね さ せ て

った H ほ乙 ・六 ・五九 八 ︵ 討 ︵2︶参 照 ︶ によれば 二十 三 日 。 、
いる ま た兵 卒 に は銀 を与 え て、 峡 衆 に努 め て いるが これ

でぁ り 翌 日改 め て 術 景 成 が 送 った馬 兵 も李 白 成 と の戦 開 も彼 が 大 同 の軍 民 の心が 己 に代 王 や巡 撫 に象 徴 さ れ る明朝
、 。
を 通 け 二十 六 日 に引 返 し イ卓 門 外 に屯 し た ま た大 同 で は 、
を離 れ 李 の軍 を喜 ん で迎 え ようL し て いる点 を察 し て い

政 円 は閉 じ ら れ 文 キ の往 来 も 城 壁 の上 から 組 を使 って行 るた め であ る。 李 の大 同 入城 に ついて は、 二月 二十 九 日と

な ったと す る
す るも の ︵﹃順治 ・妥 中 郡 志﹄ 巻 十 二、 外 志 、 逆 変 ︶ と 三
以 上 に よれば 差 張 は二月十 九 日以 前 に告 撫 の命 に より宇
月 一日と す るも の ︵ ﹃明史 ﹄ 巻 二十 四、 荘 烈帝 本 紀 等 ︶ が
武 総 兵 周逃古 を抜 け るた め西 へ赴 いた。 し か し実 際 に は敵 、
あ るが 恐 らく 到着 が 二月 二十 九 日、 入城 が 三月 一日 であ
L 戦 いも せず 、 ま だ 周 が 生 存 し て いた であ ろう 二 。
十 三 日に ろう ﹃明史 ﹄ 巻 二六 三、 衛 景 壌伝 で は ﹁至 三月 朔、 賊 抵
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︶
大同総兵姜班とその反乱 ︵
渡辺︶
、 、 、 。 、
城 下 襲 押 射 殺 永 座 工 開 円 迦賊 入﹂ L あ り 城 門 に駐 し な い と ころが 挙 の部将 の張 天琳 ︵過 天 星 と も称 さ れ る︶
、 、
て いた彼 が 共 に守 禦 し て いた水 室 の永 度 王 を綾 し て李 を が ﹁首 降 ﹂ を設 す と 以 後 の帰 順 が 期 待 でき ず 京 師 ︵北・京︶
。 。
迎 え 入 れ た のであ る 衛 はほ ぎ を聞 いて衝 円 を出 た と こ ろ を取 る事 も でき な いと諒 めた 年も これ に従 って姜 を釈 放
、 、 し、 張 天琳 に共 同 を餃 守 さ せ た。 妾 が 張 に叩謝 す ると張 は
を捕 え られ 降 版 の勧 告 を拒 み白 縮 し 軍 民 に怨 まれ て い
。 、 、 。
た代 工 以 下 の宗生 はそ の殆ん どが 殺 さ れ た ﹁西家 創 業 招徐 田応如 此 何” 取当 謝 ﹂ と 各 え た と いう
大 同陥 落 の知 ら せ は三 月二 日陽 和 の宜 大 総 な 王 継讃 のも
と に届 いた。 乙 ・六 ・五 九 八 によ ると 正 は 二月 二十 七 日妾 0 李 自成 への迎 降 ︱︱ 陽 和 と宣 府
と 共 に大 同 城 下 に駐 し て いるが、 そ の高 後 陽 和 へ引 た し た 、 。
李 白 成 は大 向 に 六 日間 留 ま った後 束 進 し た ﹃順治 ・
。 、 、 、
のであ ろう こ こ でも 大 同あ 報 が まだ 到 ら な い二 月 一日 に 宴 中 郡志 ﹄ 巻 十 二 外 志 逆 変 によ ると 三 月 六 日李 の兵
、 、 。
城 内 の将 士 ・人 民 が 迎 降 ケ企 て 主が こ の日常 員 た ちと 血 は陽 和 に到 って 一泊 し 耐 総 兵姜 遠 と道 具 手 重華 が 降 る
、 、
盟 し 大声 で ﹁大 義 ﹂ を説t ても ﹁諸 人 は黙 々と虚 応﹂ す 王継誤 の名 が 見 え ぬ のは逃 亡 した た めと 思 わ れ る ︵
﹃明 季
る のみ であ った。 やが て各将 官 も 姿 を消 し、 兵 卒 止倉 F
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︲を
十 。
︱ 北 略﹄ 巻 二十 前 述 のよう な状 況 で は抵 抗 し ても無 駄 であ
。 った ろう︶。 ﹃甲中 伝 信 銀 ﹄ 含草 ハ、 ホ 眉危 略︶ で は ﹁初 八
劫 掠 し た り逃 亡 す るた め の馬 を奪 いあ う 信 標 の将 士が 王
、 、
に対 し李 への降 服 を献 掟 し てく る右 様 で 工 継 談 =明朝 の 日 確 為 前 旺 至陽 和、 陽 和 将 土 悉 降 ﹂ と あ り、 妾 嘆 はま た
成 は全 く 地 に落 ち て いた ︵壬 ・六 ・工九 二 ﹁兵 部 行 ﹃御 前 。
新 た に季 白 成 のた め功 を立 てた のであ る 陽 和 を守 って い
。 、
発 下 生 大結 体 王﹄ 煙 稿 し た差 ■ は去 要 の兄弟 であ り 崇 十 独十 五年 十 一月 甲申 に保 定
前 述 のよ う に妄 嘘 は李 白 成 の大 問無 血 入城 のた め尽力 し 。
浩 兵 に任 ぜ られ て いる ︵ ﹃国権 ﹄ 巻 九 十 八︶ な お同 じ ﹃甲

たが そ の直 後 存 よ り受 け た待 遇 は意 外 な も のであ った。 、 、
中 伝 信 軒﹄ でも巻 二 裏 場表 革 大 同 で は点 と嘆 の上 に長
、 、 、
﹃甲 甲伝 信 録﹄ 巻 二 市 場一 堤+ 大 間 の項 に よ ると ﹁壊 既 兄 の ﹁妾 談 ﹂ と いう者 が 在 っイ︼西安 で李 に降 って お り こ
、 、 、 、 、 、 。
昨 復 入延 間 間 入 即 滞 硬 命 斬 之 而数 共 罪 日 朝 廷 の ﹁差 談 ﹂ が 陽 和 へ赴 いて道 に昨 服 を促 し たと す る ﹁ 談﹂
、 、
以 要 告 五鎮 布 若 若 何 首 降 壌 無 辞 ﹂ と あ り、 間、 す な わ 、
の存 在を示 す のは こ の個 所 のみ であ り 筆 者 は 一応 ﹁ 談﹂
、 、
ち李 白 成 は妾 を機 会 主義 者 と し て そ の迎 降 を評 価 し て い を 仲 祝 し て 撮 和 に駐 した姜 車 が 恐 らく 前 以 て大 同 の妾 硬
と迎降を官約していたものと考えてみた明ゃ 陽和には姜埴卜大同には環天琳がそれぞれ鎮守して大順政

李 白 成 は去 造 を陽 和 に留 あ 自 身 は姜 嘆 の先 導 に よ りさ 権 に よ る統 治 を開 始 し て いた のであ る。
ら に束 しt 府 をも陥 し た ︵ ﹃明史﹄ 巻 二十 四、 荘 烈 帝 本 紀
。 、
で は三月 十 一月 ﹃乾 隆 ・党 化 府 志 ﹄ 巻 三十 四、 世 紀 下 に 二 ﹁偽 官 ﹂ 詠 減 と清 への帰 順
引 く ﹃i典 志﹄ 千〓 。
は十 三 口︶ 生 府 で は巡 撫 朱 之 幅 と 正月 一六 四 四年 ︵明 の崇 禎 十 七 年、 活 の順治 元年 、 手 白 成 の

に任 命 さ れ た結 兵 工 承 胤 さ ら に監視 大 監 杜 勲 が 守 備 に当 永 昌 元年︶ の三 月 ょ り四 月 に かけ、 北 京 で は李 自 成 の入成、
って いた。 し か し王 承 胤 は前 述 のよう に先 に李 白 に 、
大 順 政 権 の正式 発 足 明 の官 僚 よ り の財 物 追 取 等 の 一大 変
成 帰順
、 。
を約 し て お り 朱 之 馬 が 付 良 L 死 守 を哲 っても 人 心 はとう 革 が 見 られ た 四 月 十 三 日 に は山海 関 に駐 し て屈 服 し な い

に散 じ て いた 杜 勲 も 朱 に降 服 を初 め、 拒 絶 さ れ るL笑 っ 兵 三桂 を討 つた め李 白 成 が 北 京 を離 れ た。 実 は これ よ り先
てそ の場 をよ った と いう。 卒 の年 が 近 づ く と 杜 勲 は出 城 し 、
の九 日 清 の摂 政 王 ド ルゴ ンが 大 軍 を率 いて明境 へ向 って
、 、
て これ を迎 え やが てそ の先 導 で部 隊 が 城 下 に若 く と 王 水 いたが 李 白 成 の甲 中 に これ を知 る者 はな か った よう であ
、 。
胤 が 予 定 通 り円 を開 き 軍 民 も ﹁結練 焚 喬﹂ し て帰 服 を表 る 二十 日 にまず 李 自 成 が、 そ の夜 に は浦 軍 が 山海 関 に

―- 5 -―

明 す る。 憤 慧 や る方 な い朱 は、 左 右 が 逃 亡 を勧 め る のも聴 り、 翌 二十 一日 に戦 岡 が 行 な

わ れ 活 と 共 三社 の迪 合 年 に

かず 道 表 をキ し て白 縮 し た ︵﹃明史 ﹄ 巻 二六 三、 朱 之 馬 敗 れ た李 は二十 六 日北 京 に一 。
反 った そ し て二十 九 日皇 帝 を
。 、
伝︶ 称 し 三十 日早朝 西 へ落 ち のび て行 った。
李 白 成 は党 府 に権 将 年 衣 応 選 ・防 禦 使 李 允 桂 を残 し ︵王 山 海 関 の戦 い の結 果 は最 初 ﹁呉 三桂 が李 白 成 を破 って宗

承 胤 ・杜 勲 は挙 に従 い京 師 へ向 かう︶ 彼 等 は 大 順政 権 の 禎 帝 のた め に仇 を復 し た﹂ と いう 内容 で各 地 に伝 わ った。
方 針 ど う り地方 官 や那 紳 から財 物 を ﹁拷 強﹂ したが、 そ の 四 月 中沈 黙 し て いた賃 府 。大 同 の官 紳 も 明朝 の復 興 が今 に
被告 者 の中 に朱 之 馬 の前 任 の巡 無 で退 任 後 も 留 ま って いた も 実 現 さ れ ると感 じ た であ ろう。 李 白 成 が
。 敗 た し てし まえ
李鑑 が いた 彼 は後 李 白 成 が 山海 関 で敗 れ ると、 郷 紳 と 共 、
ば 現地 で統 治 に当 って いる大 順政 権 の官 吏 はご く 少 数 で
。 、
に蜂 起 を行 な う のであ る あ り これ を覆 す のはさ ほど 難 しく はな か った のであ る。
こう し て李 自 成 が 北 京 に入城 し た頃、 生 府 に は黄 応 選、
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜張とそ の反乱 ︵
渡辺︶
働 ﹁偽官 ﹂ 詐 減 ︱︱ 宣府 う が、 李 自 成 の退 去 は彼 等 にと ってそ の不安 を 埋 め て余 り

﹁李 白 成 敗 る﹂ の社 は北 京 から順 次 西 へ流 れ て い っ た あ る安 堵 であ った に違 いな い。

まず 宜 府 の状 況 を児 ると、 ﹁乾隆 ・宣 化 府 志 ﹄ 巻 〓一 十四 後 宣 大 総 さ に昇 進 し た李 鑑 が こ の挙 兵 の際、 功 が あ った

世 紀 下 に ょれば 在 縛 結 兵 王応 暉 ・殉難 総 兵 楊 国柱 の弟 共 ・ 官 紳 の名 を中 央 に報 じ て いる ︵西 ・五 ・四 八三 ﹁宣 大給 督
、 。
原 任 同 如 程 紹 孔 が 紳 士 ・兵 民 と蜂 起 を謀 り 李 鑑 を そ の中 李 鑑 啓 本じ これ に ょ ると ﹁謀 主﹂ は李 鑑、 程 紹 孔 ︵ 後に
。 、 、
心 にま つり上げ た そ し て禁 禎 市 のた め喪 に服 し 自 殺 し 分 守 日北 道 と な る︶ 工応 瞬 及 ひ 塩生李 大 生 等 であ り、 他
、 、
た朱 之 楯 を改 非 し 李 自 成 下 の官 ︵偽 官 ︶ を描 え殺 し た の に懐 来 で は糧 庁 の童 可選 ︵後 巡糞 通︶ 永 寧 で は 知 県 丁之
。 、 、 こ 、 、
であ る ﹃罪 惟 針﹄ 伝 な 十 二 中 失 之 馬 伝 によれば の 竜 保 安 で は張 弘 紀 等 が 起 義 し さ ら に西協 副 将 張 世 耀 等
、 。
時 李 鎌 の得 た兵 は数 千 本 兵 の期 日 は五 月 工 日L す る 彼 が 起 事 後 の鎮 定 に当 った と す る。 ま た起 事 の日を こ こで は
等 が 殺 した のは権 将 軍 黄 応 逆 ・防 禦 使 季 允 柱 等 十 五人 であ 、
二月 八 日L し 翌 日ま で に李 自 成あ 提 いた官 を みな捕 え た
、 、
る から ︵﹃清 史 列 伝 ﹄ 巻 七 十 八 李 鑑伝 ︶ こ の他 に兵 卒 が と す る。 李 鑑 は五 月十 七 日、 改 め て溝 よ り宜 府 巡 撫 に任 命

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いたと し ても数 的 に は李 鑑 等 の勢 力 に及ば な か った であ ろ さ れ そ の山 西 経 略 に賛 画 し て いく のであ る。


う。 李 鑑 は こ の起 事 の経辞 及 び ﹁安 撫 事 住﹂ を北 京 に上奏
し、 ド ルゴ ンは これ に対 し て ﹁意 を加 え て招 集 防 守 ﹂ す る 例 ﹁偽官 ﹂ 詠 減 ︱︱ 大 同
よう命 じ て いる ︵﹃順 治 実 録﹄ 巻 五、 五 月 己 西。 以 下 ﹃支 官 府 にや や遅 れ 大 同 でも蜂 起 が 行 な わ れ、 芸 襲 が 重 要 な
。 。
録 ﹄ と 記 す︶ 役 割 を呆 し た 先 に李 自 成 に随 って北 京 へ赴 いた妾 は、 四

起 卓 は成 功 した も の の 以後 の北 京 の情 報 が 伝 わ ら な い 月 三十 日 の李 の出 京 の際 の混 乱 に紛 れ 単 騎 大 同 へ向 か った。
、 、
た め ﹁手 白 成 の軍 が 来 て復 讐 す る﹂ ﹁敗 れ た李 自 成 が 西 し か し大 同 に は張 天琳 の兵 が 駐 し て いるた め、 彼 は陽 和 へ
た し て宜 府 に来 る﹂ と の流 言 も あ り人 心 は依 然 動 揺 し て い 、
立 寄 り 姜 遠 の部 下 を借 り て から 五月十 日大 同 へ到 着 し 入
。 、 。
た 李 鑑 も 一時 延 度 州 にに れ よう と し たが た ま た ま清 朝 城 を要 求 した 妾 嘆 が 呉 三社 に与 した事 を疑 い開 門 を拒 む
、 、
の撤 が 届 いた た め 者 老 兵 民 は冊 を持 って これ に帰 附 した べ しと の意 見 も あ ったが 張 天琳 は彼 が 一 反 ってき た のは勤
。 。 、
のであ る 束 から の激 が 満 洲 族 のも のと は意 外 であ った ろ 王 のた め であ ると し て入城 を許 し た これが 災 いし て 妾
は入城 直 後 張 を捕 え て斬 り大 同 の主 に返 り咲 く と 共 に、 旧 させ ぬ旨 を強調 した食実録﹄巻 五、エ 。
ハ月壬威︶ また丙 芸十
部 下 と付 近 の李 自 成 の官 を 一掃 し てゆ く。 、 、
四九四 ﹁ 記註残莱﹂ によると 一 妻 は招撫 の際 に 崇禎 の年

例 えば 明 の大 同左 営 副 総 兵 王戯 は姜 壊 と張 天 琳 等 を ﹁
協 号 を記 した倒 を与 え ており この点もド ルゴ ンの不興 を買

問恢 刺 ﹂ し さ ら に妾 の指 示 で宇 武 へ赴 き、 こ の地 の安 撫 った ︵ ﹁記註残美﹂ に ついては後述︶ 。
これ を知 った姜 は七
に当 って いる ︵こ の時 以 前 用 遇吉 が 所 持 した 山 丙 総 兵 官 の 月初 め共啓 して自 から罪 を認 め罷 を め が、 ド ルゴ ン
免 求 た

関 防 を得 る︶ ま た丙 ・五 ・四 六九、 ﹁原に 大 同束 協 副 将 王 は ﹁

洗 心易慮﹂ を命 じ 総兵 の任 に留 めて いる ︵ ﹃実録﹄
大 業 掲 帖 ﹂ に見 え る工 大 業 も妾 の部 下 で、 大 同 の束 の天城 、
巻 六 七月庚 子︶

ら 。
︵天 鮫 ︶ か 清 に投 順 す る こ の他 に妾 に協 力 した者 と し ド ルゴ ンの ︵六月 壬威 の︶報書 を け
受 た姜 は荒 した
壊 廃
て副 将 工進 朝 ・王世 明 ,挑 挙 等 が 挙げ られ る。 大同地方 の民 を撫 す るた め六 ヶ条 の建議 を行 なう ︵丙 ・ 五・
こ のよう に妾疲 が 大 同 総 兵 に 復 す と、 か つ て の部 下 が 周
、 。

四 〇 一 六月 二十 四 日付︶ そ の内容 は①一 星税 ・秋糧 の徴
辺 で起 事 し 年 武 ・代 州 一帯 ︵大 原 府 北 束 部︶ も呼 応 した 。
収 を二割減 とす る ② 府 ・州 ・県 の公費が乏 し いた め中央
、 、
が な 自 っ
お大 原 府 に は李 成 の 部 将 陳 永 福 が 拠 て お り 妾 よ り の等画 ︵約 一〇 八万両︶ を要求、③募兵 の費用と して

十- 7 -
も これ と の企 面 対 決 は控 え て いた よう であ る。 、
の銀 ︵ 約 一一六万両︶ を要求 ④ 戦馬 を充実 さ せるた め の
な お妾 瑛 の起 事 に関 し て注 目す べき は明 の家 室 ︵ 棗 強 王︶ 財政 措置 をも要求、⑤ 人心を知 る郷貢 ・旧臣を起 用 し、 武
を擁 し明確 に明 の復 興 を名 分 と した点 であ る。 李 自 成 は大 官 も 現任 の者 を ﹁照 旧任 用﹂ す る、⑥ 残存 の明 の宗室 に米
同 で明 の代 王府 の宗 室 を多 く 殺 し て いるた め、 そ の生 き 残
を給 し ﹁耕種白食﹂ さ せる、 と いうも のであ る。 八月六 日
り を も り立 て る事 は李 に対 し強 い 感 を いて る 、
反 抱 い 有力 な には 李自成 に占据 されたもと の明 の宗室 の房産 を民 に与
併 紳 の支持 を得 るた め に必要 な 手 段 であ った。
え て耕種 さ せ、 租税 を徴収 す べしとす る ︵ ﹁姜慶為処理被
し か し こ の措 置 は新 た に 一 に り

十 京 乗 込 ん で来 た 清 朝 に は 農民軍査分的 明宗室房産事啓 本﹂、 ﹃ 清代構案史料叢編﹄第
児 逃 しが た い 姜 壊 が 大 同 の恢 復 た浦 への帰 順 を知 ら せ、 、 。
六報 〓三 一 頁︶
同時 に英 強 正 に明 の祀 を嗣 が せ た いと提 案 し た のに対 しド このよう に大同 一帯 は姜較 等 の働き により の版 図 に
清 属
ルゴ ンは これ を 不満 と し、 明 の宗 塩 に は国政 ・軍 務 に千預 した のであ る。清 廷 は周地 への統治 を徹底 さ る 、
せ ため 五
史苑 ︵
第四八巻第 一号︾
大同総兵姜要とその反乱 ︵
渡辺︶
、 。 、
月 二十 二 日呉 惟 華 ︵も と 明 の勲 戚 応襲 恭 順侯 ド ルゴ ン ∧﹃峡陵流遭 始終録 巻﹄ 十 八V は 安府 に在 って 唐 通
︶ 延
が 北 京 に到 った時 に最 も 早 く帰 順︶ に ﹁招 撫 宜 大 山 西 ﹂ の ︵保徳州 ・府谷 に拠 る︶ や高 一功 ︵ 楡林 に拠 る︶ と共 に活
。 、 。
任 務 を与 え た 彼 は六 月十 六 日出 京 し 保 定 ・龍 泉 関 を経 軍 峰備え て いた
。 、 。
て五 台 ・代 州方 面 へ向 かう ま た六 月 十 四 日 清 廷 は回 出 清一廷は前述 のよう に美 臣 に出 を じた そ の軍 はまず
征 命

額 真 掟 臣 に 八放 兵 を本 いてた お李 白 成 の余 党 が 拠 る山 西中 蟻陽 ︵北直隷︶ の土賊掃 地王 を平定す る ︵ ﹃実録﹄巻 五
・高 部 の平 定 を命 じ た。 。
六月 壬午︶ 七月三 日には山束 に出兵 して いた 同山額真 の

賞羅 巴吟 納 ・石廷柱 を移動 さ せ 一棄臣と合 して山西 に向 か
、 。
四 清 の出 西平 定 わす 同時 に宣府 。大同 の兵馬 を呉惟華 の駐す る代 州方面
、 、 、
李 白 成 が 北 京 を起 いた後 清 軍 の 一部 と兵 三様 は これ を に派 し 七月七 日には宣大総督兵 事昌 を 十 七 日には寧 武
。 、 、
通 い慶 都 及 び真 定 で敗 った 李 軍 はさ ら に西走 回 関 よ り 総兵 高勲 を 十九 日には山西巡撫馬国柱 ︵ 漢 軍旗人︶ を任
。 。 、
山 西 に入 った た め清 軍 は追 撃 を止 め北 京 へ引 返 し た 李 白 命 した こう して北京 から多 く の官員が赴任 す るに つれ て
-8-

. 、 。
成 は しば し の休 忠 を得 た のであ るが 彼 が 北 京 へ攻 め のぼ 姜瑛 の権 限も縮 小 せざ るを得 なく な る のは必然 であ る
し っ ・ ・ こ し っ 。
る 際 に は率 先 て 降 た 山 西 の州 県 の 一部 ︵
楡 次 大 谷 れ 等 の新 来 の官 員 は いか に山 西を平定 て い た か

定一装︶ は 今 回敗 た し つ つあ る部 隊 に対 しそ の入城 を拒 ん まず 最も早く到 った呉惟華 は ﹁ 征西五策﹂を上奏 した ︵ ﹃英
。 、 、 。
だ のであ る 怒 った李 白 成 は これ等 の城 を陥 し 拒 守 した 録﹄ 巻七 八月丙辰︶ そ の内容 は①陳永福等 を討 つた め
。 、 、 、
■ 氏 を虐 殺 す る そ の後 李 は大 原 ・平陽 を経 て映 西 に入 り 大兵 の派遣 を求 め 呉惟華 の配 下 の兵 と剃減 に当 る ② 兵

六 月 以 後 は韓 城 に住 留 し て いた ︵ ﹃懐 陵 流寇 始終 録﹄ 巻 十 三桂 ・洪承疇 を して西征軍を統 べさす ③ 李自成 の茨河 の

八 な お ﹃清 代 構 突 史 料 叢 編﹄ 第 六掘 ﹁呉挙 昌 報 険 西 山 西 守備 を破 るた め清 軍 の 一枝 は蒲州 ︵
平陽府南部︶ で これ に
、 、 、 、
軍 情 話 調満 兵 駐 乎 蒲 事 啓 木﹂ ∧ 一三 六 頁 V に ょ ると 李 は 対 し 一枝 は保徳州 より渡河 し 延安 を経 て西安 へ向 か り
こ の年 十 二月頃 にも 様 戎 に在 った よ う であ る︶。 大 原 府 に ④ さら に別軍及び蒙古兵 を辺外 より延安 ・寧夏 の界 を通 っ
、 、
は前 述 のよう に陳 永 福 を留 め ま た甥 の季 過 ︵ 彼 は北 京 か て映 西西部 へ進 ませ敵 の退路 を断 つ ⑤ 李白成軍 は山臨 で
ら 西走 す る際 に山後 即 ち宜 府 。大 同 地方 を経 由 した と いう 、 、
の伏兵 と夜襲 を得意とす る ので 山林 では敵 を捜剰 し 夜
。 。
営 の際 は ﹁分 番 直 更 ﹂ が 必要 と いう も のであ る ド ルゴ ン 待 つ事 とな った 砲が剣 ると十 月三 日清 軍 は城 の北面を破
、 。
は これ に対 し大 軍 が 山 西 に進 ん で いる事 を伝 え 呉 も 共 に 娯 し入城す る 逃 亡す る敵 に対 し各地 で掃討が行 なわれた
。 、
功 を立 て る よう励 ます が 主将陳永福 は束 門 より南 へた り以後 の行方 は不明 であ
、 、
ド ルゴ ンはさ ら に保 徳 州 に拠 って いる店 通 ︵も と 明 の結 つ 翁順治 ・大原府志﹄巻 四 災祥 砲取大原︶。新任 巡撫

、 、
兵 李 白 成 に降 ったが そ の敗走 時 に別 行 動 を と り山 西 西北 馬 国柱 は早速衛門 にて政務 を執 り 呉 惟華 ほ太原総兵 と な
、 。
部 に到 る︶ に白 か ら書 を送 り席 順 を初 めた ︵﹃実 録 ﹄ 巻 七 る ︵後十 一月 二十 六日に回京︶ 溝兵 の主力 は 李白成字を
。 。 。 、
八月 辛 西 苦 簡 の原 文 は ﹃掌 故 差 編 ﹄ に収 め る︶ こ の親 追 って各地 へ赴 く 巴皓 納 ・劉之源等 は粉州 から平陽 へ

荘 を も と に虐 通 と の交 渉 に当 った のが 主 大 総 督 呉 華 昌 と 山 さ ら に平陽府西北 の黒龍 関 へ到 り 平陽府内 の大順軍 は旗

西 ︵年 武︶ 総 兵高 勲 であ る 二人 は八月 十 五 日懐 来 で こ の 西方面 に退却 したため山西 の大半 は清 の版 図 に属 した ので
、 、 、
件 に ついて相 談 し 九 月 三 日 代 州 よ り都 司年 承芳 に高 勲 ある ︵ ﹃突録﹄巻十 一 十 一月壬辰 では 石廷柱 ・巴吟 納が
。 。
の手 紙 を持 た せ保 徳 川 へ進 った 七 日 に着 いた返 信 で唐 の 沿州 ・平陽 の平定 と康 元勲等 の降 服を 知 らせる︶ 清 廷 は
、 、
帰命 の意 が 明 示 さ れ て いた と いう ︵丙 ・五 ・四 三 二 ﹁出 さら に敵 の本拠地西安 を衝く ため十月十 九 日 アジゲを靖

-9-
西 総 兵 高 勲 掲 帖 し 府 通 は八月項 よ り李 過 と戦 岡 をく り返 。
速大将軍 と して出陣 さ せた この軍 は宜府 ・大同を経 て延
し て お り、 ド ルゴ ンが 徒 に帰 順 を勧 めた のも か か る情 勢 を 、
安 へ進 み 十 月 二十 五 日定 国大将 軍とな ったドドと共 に李

禁 知 し 呉 惟率 の ﹁征 西 五策 ﹂ の第 三条 のよう に唐 の勢 力 白成 を次撃 す る のであ る ︵ 後述Y
、 。
下 の保 徳 川 ・府 谷 付 近 よ り技 河 を波 り 映 西 へ兵 を進 め る なお清 の溢安府 ・沢州 への経路 に ついて触 れ ておく こ
。 、 、
た め であ る やが て九 月 十 五 H 店 の帰 訊 の表 文 が 北 京 に の地域 は山西 の東南部 に在 って北直隷 ・河南 と地を接 し
も た らされ た ︵ 。 、
﹃実 録﹄ 巻 八 席 はそ の忠 順 の証 しと し て 李白一成が山西 に進 入した際 はそ の部将 劉芳売が漉安府城 を
、 、 。
清 軍 を準 いて米 脂 を破 り 李 白 成 の父 祖 の墳 墓 を 敗 し そ 陥 した そ の後 同じく劉忠が拠 って いたが出海関 の敗報が
。 。
の親 族 を殺 し た︶ 至 ると撤退 して い った 士氏 は民間 に隆れ て いた明 の通判
先 に出 西 へ向 か った美 臣 ・巴皓 納 等 の清 軍 は大 原 府 を問 、
馬 摯兆 に莫南通 の事務 を委 ね 沢州 より北上 して来 た清軍
、 、
んだ が 攻 城 に伴 な う被 告 を恐 れ て濃 軍 の紅 衣 砲 の到 着 を ︵ 臣 の部隊 か︶ を迎 え 府内 に残 る李自成勢 力 の掃討 に
輩十
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜喫とその反乱 ︵
渡辺︶

当 った し か る に求 に 等 が 大 原 へ向 か った後 、 先 に退 いて 山額 真 全員 が賞 銀 を受 け て いる のは大 原 を攻 略す る に当 っ
いた劉 忠 の兵 が 再 び城 を包 脚 す る。 活 は日 守 し て時 を か せ て の紅 衣 砲 の役 割 を評 価 した た めであ ろう。 ま た布 政 使 以

劉忠 は再 度 遅 却 し て い った G乾
ぎ 十 月 に媛 軍 が 近 づ く と一 下 の地方 官 も 十 一︱ 十 二月 に かけ て揃 い、 清 朝 の民 政 が 開

隆 ・溢 安 府 志﹄ 巻 十 一 紀 事︶。 始され る

さ て アジ ゲ の出 征 に ついて述 べ ると、 北 京 から は巽 規 王

五 ア ジゲ の西 征 マ ンダ ハイ ・謙 郡 エ ワ クダ ・呉 三桂 ・尚 可革 ・李 回輸 等 が
アジ ゲ の西 征 に ついて述 べ る前 に、 これ と 平行 し て行 な これ に従 う。 まず 宜府 に到 ったが、 こ こで アジゲと 巡一 無李
わ れ た山 西 に おけ る清 の施 策 を順 治 元年 末 ま で に ついて 一 。
鑑 の間 に確 執 が あ った 始 め李 鑑 が 赤 城 道 朱 寿 聖 の不法 を

幣 した い 溝 は大 原 府 城 攻取 に よ り同 府 の大 部 分、 平 陽 府 、
弾 劾 し よう と した た め 朱 は旗 人緯 半 泰 ︵ 官 名 ほ不 明︶ を

北 半 粉 州 府 全 域 を ほぼ 手 中 に し た。 ま 河 近 く の大 原 府 西 通 じ アジ ゲ に贈 賄 し て故 いを求 めた。 アジ ゲ は朱 の罪 を宥

―- 10 -―

北 で は膚 通 が一兵先 に帰 順 し 十 一月 十 六 日定 西侯 に対 ぜ ら 、
す ょう圧 力 を かけ 賃 府 に若 いた除 改 め て朱 の釈 放 を要 求

れ る し か し店 の拠 る保 徳 川 周 辺 で は李 自 成 軍 の残 存 勢 力 し たが 李 鑑 は従 わ な か った。 アジ ゲ はな おも緯 キ 本 や
、 柳溝
が ぁ り 満 軍 によ る駆 逐が 必要 であ った。 総 兵 劉 芳 名 を介 し て挙 を屈 服 さ せ よう と し たが、 こ の経 緯
ま た平陽 府 高 部 ︵蒲 州 付 近︶ にも な お大 順 軍が 出 没 し て は北 京 のド ルゴ ンの知 る所 と な り、 幕 理 の結 果 朱 と緯 書 奉

いた 大 原 を獲 た直 後 の清 軍 に は こ の方 面 への徹 底 的 掃 討 が 殺 さ れ劉 芳 名 は革 職 と な る。 こ の事 件 は西 征 と直 接 関 係

を行 な う 余 裕 が 無 か ったが 十 二月 二十 五 日 に は先 に出陣 、
はな いが アジ ゲ の橋 慢 と 李 件一 の忠 良 を 世 に 印象 づ け た
し た アジ ゲ ・ド ド に呼 応 す るた め、 回 山額 真 阿 山等 を蒲 州
︵順 治 二年 正 月 にド ルゴ ンは李 鑑 に賞 賓 を与 え た︶。
。 、
へ送 る こ の兵 はまず 平陽 府 城 に駐 し 発 城 の李 白 成 と 対
主 府 で の アジ ゲ の本 来 の任 務 は当 地 の武官 を従 年 さ せ る
時 し つ つ機 を児 て蒲 州 よ り快 西 へ進 む 手告 と な って いた。 。
事 であ る 丙 ・五 ・四 六九 ﹁ 楡 林総 兵 王 大 業 均 帖 ﹂ にょ る
一方 で莱 匝 等 の武 力 を背 景 に明 の地方 官 紳 や李 自 成 下 の 、
と 宣 府 副 総 兵 康 鎮邦 が 西 征 に参 加 し、 ま た工 大 業 白一身
官 への招 無 も 行 な わ れ て いた。 乗 口 や巴恰 納 に対 し て十 二
︵も と 大 同束 協 副 将 ︶ も 陽 和 で遠 征 軍 に加 わ って、 全 平 は
月 二十 七 日 に論 功 行 貨 が あ ったが、 こ の時 漢 年 の八人 の問 十 二月初 め大 同 に到 った

。 、 、 、
大 同 で は主将 の妾 襲 が 従 年 す る 機 会 主義 者 の妄 は アジ 四 日 清 軍 は常 楽 で高 一功 を敗 り 十 六 日 に峡 遠堡 に入城
ゲ に巧 み に嫌 び た であ ろうが、 L も かく 宜 府 。大 間 の兵 を 姜 はさ ら に波 羅 漠 で敵 軍 を破 った ︵ ﹃乾 隆 ・
峡 遠 県志 ﹄ 米 四

。 。 、 、
合 し た清 年 はさ ら に西 し て保 徳 州 に達 し た こ こで は唐 通 紀 事 ︶ ﹃康 熙 ・延 絞 鎮 志 ﹄ 巻 五之 二 紀 事 志 にょれば 正
、 。 、 。
が アジ ゲ に帰 服 し そ の力 を背 景 に付 近 の招 撫 を開 始 した 月 十 五 日清 軍 が楡 林 に入 り 高 一功 等 は遁 走 す る ま た 丙

甲 ・ 一 ・九 十 九 ﹁定 西侯 唐 連 奨啓 ﹂ で は アジ ゲが 到 った ・五 ・四 七 九 ﹁定 西侯 鎮 守 保 徳 州総 兵 唐 通 啓 本﹂ で は官 兵
時 点 で木 瓜 因 ・鎮 元 ・孤 山 ・永 興 ・神 木 県 ・高 家 堡 ・
大和 ・ ︵アジ ゲが 委 署 し た延 絞 巡 撫 趨 兆隣 を 主 と す る︶ と唐 通 が
、 、
油 柏 林 堡 ・姓 安 堡 が 帰 順 し 清 軍 が 去 った後 も黄 甫 ・清 水 十 四 日夜楡 林 に入城 し 十 六 日 に芸 要 ・康 鎮 邦 ・王 大 業 が
、 、 。 、
埜 が さ ら に十 二月 十 二 日 に はま 州 も降 り 残 る は河 堡 営 到 着 した と す る と も かく楡 林 は清 の手 に落 ち 唐 通 は こ
と唐 家 会 のみと な った。 唐 は活 年 に糧 制 を給 し舟 を 用意 し の後 アジ ゲを追 って延 安 へ向 か った


て衣 河 を渡 ら せ 同 月 二十 日 に こ の任 務 を終 え た。 後 続 が 一方 アジ ゲ は延 安 で李 過 の激 し い抵 抗 を受 け て市 下 が 遅
、 、 、
波 河 す るう ち に前 鋒 は進 み 王 大 業 は同 じ 日米 脂 に 着 き れ そ の間 にド ドが 正 月 十 一日澄 関 を破 り 十 八 日李 白 成
、 。
︵丙 ・五 ・四 六 九︶ 二十 一日 に延 絞 総 兵 を委 署 され る 。
が 逃 亡 した直 後 の西安 に入 る こ の報 が 属 く と挙 過 も 演 走

し、 アジ ゲも これ を追 って西 安 に達 したが そ の日付 は不 明

-11-
技 河 を渡 った清 軍 は二手 に分 かれ アジ ゲ の本隊 は延 安
、 。 。
を 問 み そ の陥 落 後 に南 下 し て西安 へ進 撃 す る事 と な った であ る ド ルゴ ンは二月 八 日 の諭 でド ド を江南 に往 か せ、
他 方 芸 嘘 等 の主 府 ・大 同 の兵 と唐 通 は楡 林 の高 一功 を包 聞 アジ ゲ に は李 自 成追 討 を命 じ たが、 こ の際 アジ ゲ の西 安 到
。 、
す る 楡 林 を四 んだ諸 軍 は妾 を推 し て給 督 L し 王 大 業 着 が 遅 れ た のは オ ルド ス地方 で酪 駐 や馬 の需 索 を行 な った
︵署 延 絞 結 兵︶上[
向勲 ︵ 字 武 結 兵 ︶・康 鎮 邦 ︵宜 府 副 総 丘C た めと す る ︵﹃実 録﹄ 巻 十 四︶。 し か しド ルゴ ンは進 軍 の遅
下 の兵 をも 指 揮 す る事 と な った ︵丙 ・五 ・四 六 九︶。 姜 が 、
延 よ りも アジ ゲが 宜 府 で李 鑑 に圧 力 を かけ た事 を強 く 各
こ の地位 に ついた のは明朝 以 来 総 兵 と し て在 任 が 長 く、 ま 、
め 二月十 日 に は こ の事 件 を末 聞 しな か った宣 大総 督 呉 挙
た楡 林 出 身 で地 の利 に詳 し い点 も 理由 に入 ろう が、 恐 らく 、
呂 を罷 免 し 後 任 に李 鑑 を昇 格 さ せた。 アジ ゲ ヘの降 罰 は
最 終 的 に は法 の姫 び を受 け た アジ ゲ の意 向 が 反 映 し て いる 、
特 に行 な わ れ てな いが 非 が 彼 にあ る事 を こ の処 置 が 明 示

のであ ろう 楡 林 を四 んだ ま ま年 を越 し、 順治 二年 正 月十 し て いる。
史苑 ︵
第四八巻第 一号υ
大同総兵姜要とそ の反乱 ︵ 渡辺︶
ア ジゲ は李 白 成 を追 って湖 広 ま で至 るが、 こ こで はそ の 卜
答 は 彼 が 清 に帰 順 す る以 前 は李 白 成 に対 抗 す る た め 宜
。 、 、
維 維 に は触 れ な い 二月 十 六 日 清 廷 は平 陽 に屯 し て いた 府 ,大 同 ,出 西 の広 い範 囲 を崇 粘あ 年 号 で照 安 し ょう と し

阿 山 等 を ド ド の市 征 に従 わ せ 平 陽 に は漢 軍 の任 徳 功 が 宣 ま た空 名 の割 を与 え て名 前 ・年 ,月 は皆 本 人 に書 か せ て い
。 。
府 ・大 同 の兵 L 留 ま った た 呉 惟 華 が 到 り姜 の管 唯 地 域 が 大 同付 近 に限 られ た た め、
こう し て甲中 の年 ︵明 の妹 禎 十 七年 、 活 の順治 元年 ︶ の 従 前 の劉 を取 り一

反す 事 が でき な か った と す る ② に ついて
正 月 に存 白 成 が 山 西 に入 って から 一年 が 過ぎ た。 そ の間 出 は弁 解 の余 地 も な く ﹁も と弐 心 あ らず ﹂ と言 う のみ であ っ

西 は三 つの政 権 に支 配 さ れ たが 最 終 的 に は清 朝 が 全 域 を掌 た ま た ド ルゴ ンの青 を伝 え た 剛林 等 の言 で は、 アジ ゲが

据 す る そ し て巡 撫 馬 国柱 以 下 の地 方 官 のも と で秩 序 回復 大 間 に到 った際 妾 は明 の朝 服 ︵﹁向 朝 束 帯 じ で出 迎 え た と

が謀 られ る のだが 当 時 商 方 で は明 及 び 李 白 成 の勢 力 が 残 も さ れ る。 た だ大 同 一帯 を平 定 に した美 の働 き は ﹁功 罪 相
って お り、 山 西 でも これ に応 ず るi 賊 や 一部 の郷 紳 の活 動 、
い準﹂ ず るも ので 清 延 と し て は往事 を追 究 しな い、 よ っ
が 継 続 し た事 は ﹃英 録 ﹄ や ﹁明清 史 料 ﹄ 等 から も う かが わ てな お総 兵 の任 に留 め ると の沙 汰そ あ った。
-12-


れ るが そ の概 略 に ついて は後 述 す る。 ① の福 鑑 への贈 賄 も事 実 であ ったが

これ に つ い て は
丙 ・三 ・二七 三 ﹁内 院 大 学 士馬 針 掲 帖 ﹂ に関 連 記 事 が あ る。

六 甲 申 の年 の姜 張 と そ の功 罪 こ の史 料 は御 史 呉 達 に弾 劾 さ れ た馬 が 自 から罷 免 を 求 めた
こ こで は妾 壊 の反 乱 に ついて述 べ る前 に ﹃明満 史 料﹄丙 , も のであ るが、 そ こに列 し た ︵自 分 の︶ 罪 に、 姜 張 が 故 な

五 ・四 九 四 ﹁記 註 残 美 ﹂ に ょ って 甲申 の年 の動 向 に関 す く 贈 物 を した際 馬 は これ を恥 と したが、 呉違 は芸 の贈 を
i 賄
るド ルゴ ン ︵=清 朝︶ の評 イ l
ーに ついて見 て み た い。

馬 の ﹁索 取 ﹂ が 原 因 と し ︵﹃歴 史 桔 案 ﹄ 一九 八 一年 四 期 、
﹁記 註 残 葉 ﹂ は順 治 二年 七 月 二十 一日昭 徳 門 内 に お け る ﹁掩 鑑 被 劾案 ﹂ 中 の ﹁浙 江 道 監奈 御 史 呉 達 題参 馬 針 本﹂ に
姜 要 への ﹁承旨 。 、
伝 問 ﹂ の右 析 を 記 し て いる これ に よれば よれば 馬 は姜 が 帰 順 し た時 ﹁封 拝 ﹂ を 認 め る のを条 件 に
ド ルゴ ンは① 妾 嘆 が 帰 順後 も部 、
下 に崇 禎 の年 号 を書 いた劉 銀 三 万 両 を求 めたが 妾 が 簡 単 な贈 答 です ま せた た め大 い

を与 え て いた点 ② 案 強 工 を擁 立 し た点 、 ③ 大 学 士馬 鑑 ヘ に機 嫌 を損 ね た と す る︶ 弾 劾 を行 な った。 こ のよう に受 け
の贈 賄 の三点 に関 し詰 問 を行 な って いる。 ① に対 す る姜 の
取 られ る のは自 分 の人撃 が睡 いた め であ ると す る。 魏 忠 賢
の党 と し て明代 か ら盛 ん に攻撃 さ れ た馬 であ るが、 こ の掲
帖 で は ﹁た と え魏 党 であ っても そ の罪 は偽 官 よ り は軽 い﹂ 雰 立早 姜張 の反乱 ︵一六四八せ四九︶

と居 直 って いる。
甲 申 の年 の芸 暖 は政 権 末 脊 の変 動 の中 を 巧 み によ いで保 、
一 反 乱 ま で の山 西 の情 況
身に 成 功 し、 同
大 総 兵 の 地 を し の で あ っ 。 しか
位 確 保 た た 前 述 のよう に順 治 二年 初 頭 に山 西 全 域 は清 の版 図 と し て
し そ の め 明 、 。
た に で は 衛 景 装 等 が 大 順 政 権 で は 張 天琳 等が ほぼ 確 定 した し か しそれ 以 酢 順治 五年 十 二月 の美 瑛 の反
。 、
犠 牲 と な って いる 共 に華 ¨ 北 の大勢 が そ れぞ れ李 由 成 清 乱 に至 る ま で 一部 の地 域 で は依 然 反 清 の動 き が 継 続 し て い
、 。
朝 と いう新 政 権 に有 利 であ った と は言 え 一戦 を変 え るよ た こ の点 は ﹃実 録﹄ と 地方 志 より作 成 し た表 I でも 理解
り 迎降 し た り一 巽切 った りす る事 で生 き 延 び よ う と いう姿 勢 。
でき ょう これ に よれば 各 地 の昨起 は いわゆ る土寇 と 邪 教
。 、
に対 し て は文 官 の架 論 が 冷 たく な い告 が な い 姜 理 と し て に大 別 でき るが 実 際 に は起 事 集 画 中 に両 者 が 泥 在 し て お

は最 初 は李 白 成 に降 る のが兵 民 の意 志 に沿 って お り 後 に り、 ま たも と の明 の宗 室 や、 表 I に は見 え な いが 一部 の士

一- 13 -一
は天 命 が 清 に下 って いた か ら帰 順 し た のだ と 言 い逃 れ た か 。
紳 の参 刑も あ ったと 思 われ る ただ これ 等 の反 乱 ほ分 散 的
も しれ な い。 し か し現 在 い 市王朝 の地方 官 の 一人 であ り当 で相 互 の連 携 に欠 け て いた た め官 軍 の個 別 撃破 によ り鎮 定

然 現 王朝 への忠 義 が 最 優 先 され ねば な らな い こ こで問題 さ れ る。 ま た蜂 起 の形 態 も 山集 に拠 る事 が 多 く、 州 県 を政
、 、
にな る のが 自 己保 身 を第 一にし てき た過 去 の行 動 であ り め ろ よ り積 極 的 な行 動 に至 ろも のは少 な い。
こ の ﹁習 性 ﹂ が 果 し て清 の恩 と成 によ り消 除 さ せ る事 が で こ の点 以 下 に述 べ る妾 嘆 の反 乱 は昨起 の範 囲が広 く、 ま
き ると は限 ら な い点 であ る。 こ の点 を十 分 考 慮 し つ つ芸 嘆
た当 初 清 軍 が 大 同方 面 に引 き つけ ら れ た た め、 各 地 の反 乱
を留任 さ せ た清 朝 の立 場 も微 妙 であ り、 中 国統 一への過 程 軍 は積 極 的 に州 県 を攻 め て清 の官 吏 を設 し、 別 に官 を置 い
が な お険 し い段階 で は彼 のよう な武 官 も利 用価 値 が あ った 。 、
た そ の幹 部 は姜 の部 下 一部 の郷 紳 や土 城 等 よ り戊 るが
。 、
のであ る し か しそ の対 策 は南 方 が 略 定 さ れ る に つれ て当 そ の多 く はねば り強 く 抵 抗 し そ の結 果 回復 後 の清 兵 に ょ
然 変 更 が 予 想 され る のであ る。 る虐 殺 もと し か った。 各 地 方 志 は ほぼ 口を揃 え て ﹁姜 逆﹂
の乱 の被 害 が 季 自 成 のそ れ を上 回 った点 を指 摘 す るが、 そ
第四八巻第 一号︺
史苑 ︵
大同総兵姜要 とそ の反乱 ︵
渡辺︾


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≫ れ は清軍 の過酷な弾圧があ った事実を賠示す る
激 一詠 乾 一L・拠 好祝 妖↓ 光 。7
順治 元年若任 した初代巡撫馬 国柱 は土賊 の招撫 に努 め 一
。 、
応 の成果 をあげ た 今 招撫 に応 じた彼等が再 び反す るま

でを交 山 ︵大原府 の西︱北 一帯 の出岳 地帯 順家度 の ﹁呂
梁山区農民起義 軍的抗清 閉争﹂∧﹃中 国農 民起義論集﹄ 五十
、 、
年代出版 社 一九 五四 所収 V に言う所 の呂梁 山区︶ の情
表 I ‖A治 2∼ 4年 の ill西の反 活 の動 き

。 、
況 を例と して述 べる 甲中 の年 の前後 李白成 の部将 王剛
後李 に随 い西安 に去 る︶ と共 に活動 して いた交山 の ﹁土

賊﹂任亮 ・巳山虎 ・王菫英 ・郭彦 ・李叔孔 ・王全等 は順治

二年馬 国柱 の招き に応 じ て撫 に就き 将 兵L し て大原営 に

属 して いたが 馬 の昇任 に伴 な って江南 へと遷 ってい った。

―- 15 -―
行一 、
等 の故郷 の交 山 一帯 は地が疫 せて耕作 に適 さな いた め

住民 は鳥鎗 で鳥 や猷 を捕獲 し 或 は木材 の伐採 ・馬 匹 の放
牧等た より生計 を立 てて いた。 と ころが順治 五年 八月 丁未
十 五日︶ 朝延 から民間 で の者馬及び銃器 の所蔵 を禁ず る

命令 が下され ︵ ﹃ 、
英録﹄巻 四十︶ 交 山 の民 に大き な衝撃 を
与 えた ︵この禁令 は反乱 さな か の六年 三月撤 回さ れ る︶。
加 え て巡寧道 王昌齢棟下 の子総路時避が禁令 に乗 じ財を負
抑仰
一抑初一
瑚的明巾命命 ったた め、 憤 った民 の梁 四 ︵
﹃道光 ・太原県志﹄ 巻十 六
追事 では堡兵 とす る︶ は張継成 ・王顕 明 ・斉 三夏 ・張成志


等 と路 を殺 し 静安堡 の兵 民と造反 に 立 ち上が った ︵
﹃交
山平寇本末﹄ ︵ 本末﹄ と記す V によれば九 月︶。徒等
以下 ﹃
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︶
大同総兵姜要とそ の 乱 渡辺︶
反 ︵
、 、
が さ ら に大 原千 総 温 師 拓 の兵 を も敗 ると 各 地 で これ に同 以 上 の ﹃本 末 ﹄ の記 事 によ り 任 売 ・李 叔 孔 等 か つて李

調す る者 も現 わ れ た ︵ 静 楽 の武 安 宇 ・永 寧 州 の李 崇 孝 ・斐 自 成 と連 合 し た著 名 な土賊 が いなく ても 姜 駿 の反 乱 以 前
。 。
家馬 坊 の武 挙 安 奇 芳 等︶ 三 昌 齢 は 参 将 買 恩 ,守 備 高 成 能 に交 出中 心 に かな り大 き な蜂 起 が あ った事 が わ かる 以 下
。 。
と交 山 を討 ったが ま たも 梁 四 ・張 成 志 等 に退 け られ た に は妾 の反 乱 の原 因 ・経 過 に ついて順 次 記 し て みた い
たび 重 な る官 軍 の敗 戦 に驚 いた時 の巡 撫 祝 世 昌 は満 州旗
。 、
人 の文 松 古 ・遊 撃 高 国盛 等 二千 の兵 を 送 る 反 乱 軍 はゲ リ 二 姜 壊 の反 乱 の原 因

ラ戦 で抵 抗 した た め官 軍 も 長 問 を築 き つ つ各 路 よ り の援 兵 姜 豪 の反 乱 の原 因 に ついて は 不明 な点 が 多 い ﹃実 録直
、 、
寧 武 副 将 李 吉 ・老 営 参 将 羅 映 壇 ・沿 州 参将 寧 献 功 ・撫 標
︵ 巻 四十 一 順治 五年 十 一月 奏 未 に ょ ると ド ルゴ ンは ハル
。 、
遊 撃 李 好 質︶ の到 着 を待 つ 彼 等 が 到 ると十 月 二十 五 日 ハの二楚 虎 繭 が清 の辺界 に向 か って いると 聞 き アジ ゲ ・
、 、
翁本 末 ﹄ に よ る︶ に二路 より出 地 に入 り 李 苦 ・羅 映 壇 が ボ ロ等 に大 同 を威 守 さ せ 十 二月 辛 卯 に は ワクダ年 を これ
一- 16 -一

、 。 、
楽 家 馬 坊 を陥 し て斐 奇 芳 は自 御 王 顕 明 ・武 安宇 は逃 亡 し に加 え た 同 書 巻 四十 一の十 二月 成 威 ︵八 日︶ の記 事 で は
。 、
た 王畠 齢 下 の軍 中 に在 った奇 方 の叔 父斐 四 は これ を聞 い 妾 要 が 十 二月 二 日 に飯 き 清 軍 が 四 口 に大 同 を問 んだ と す
。 。 、
て脱 走 し再 び 馬 坊 で叛 く 一方 寧 献 功 は妾 要 が 送 った遊 撃 る 十 ロド ルゴ ンは妾 に書 を送 り 今 回 の用兵 は蒙 古 に対
、 .
高 販 と龍 王山 の李 崇 孝 の奥 を 敗 し李 を猫 え た ︵こ の後
之 等 す るも ので汝 と は関 係 が な いと し 姜 のか か る行 動 は ﹁姦
。 、 、
灰る︶ さ ら に十 一月 李 好 賢 が 煉 銀出 の
高 之 峡 は大 同 へ一 人 の煽 惑 ﹂ が 原 因 であ ろう と推 測 し も し今 すぐ 帰 誠 す れ
、 。 。 、
出発 を陥 し 梁 四 ・張 成 志 を殺 す 官 軍 が 静 安 堡 へ一 尿ると ば 罪 を有 す と 言 明 す る 後 六年 二 月 ド ルゴ ンが 自 か ら大
。 、
先 に逃 亡 し て いた王 顕 明が 尤 玉 ︵も と 把 総 路 時 運 が 殺 され 同 へ赴 き 使 者 を遣 って降 服 を促 した際 妾 は返 書 の中 で ア
。 、
た際 反 乱 軍 に参 加︶ と濁 州 を攻 撃 中と の報 に接 し た そ こ ジ ゲ及 び 各 官 が ﹁凌 民﹂ した た め 兵 民 が 自 分 を脅 し ィ︼叛
、 、 、
で先 鋒 の兵 を出 発 さ せ 本 隊 も 文 水 に到 った時 祝 世 畠 ょ か せた も のと し ド ルゴ ンが 全城 の民 を ﹁開 誠難 赦 ﹂ す る
り の急 使 が 妾疫 の突 然 の坂 を知 ら せた のであ る。 援 兵 の殆 よう 求 め る。

んど は大 原 に引 返 し 参 将 一買思 が 工 顕 明 に備 え て友 城 と文 妾 礎 が 部 下 や兵 民 に強 いら れ て己 む を得ず 坂 いた と は信
水 に駐 す る事 L な った
。 じ 難 い。 恐 らく 中 国 全 土 にわ た って反 清 復 明 の気 運 が な お

続 いて いる情 勢 を見 た上 で の計 画 的 行 動 であ ろう ド ルゴ

…の
蘇松提督呉勝兆謀坂 。督標 の将官高永義等呉勝兆を締 り洪承時の

総兵劉沢清, 山 東曹県 の賊 と結び不軌を課 る。 弟姪等 と共に伏詠


隆武」 の 年 号 を 使 用
ンも 五年 十 二月 二十 七 日 の内院 への諭 で 姜 は自 分 の不正
実録』巻32)


実録』巻4 1 ) ・
を知 り つ つ訛 言 を ま いて乱 を起 こした のであ り 他 の官 員

実録』巻4 2 ) 平 定

が そ の ﹁煽 惑 ﹂ に乗 じ て罪 を犯 さ ぬ よう訓 戒 し 一度 叛 い

ても帰 降 す れば 許 し て旧業 に復 す と付 け 加 え る ま た 六年

投誠総兵高進忠兵器を蔵に し仮辮を使 う→伏詠 (『



正 月十 六 日 に は大 同城 内 の民 に対 し 官 軍 は決 し て囲 みを

(向上)

広束総兵李成凍坂 し南雄 よ り江西設 州を攻 ( 『


、 、
解 かず 紅 衣 砲 で詠 験 す るとぃ 顔嚇 し 妾 を捕 縛 あ る いは殺

江西総兵金声桓 ・王得仁等南昌に て 叛 。「
実録』巻3 6 ) …… のち 6 年 正月2 3 日 ( 『
し て来 帰 す る よう勧 め て いる。

謀叛
洛 Д∼ 氏年 の と 人 武 官
、 、

実録』巻4 3 ) 平 定
姜 壊 の反 乱 は 彼 の甲 申 の年 の行 動 を熟 知 す る者 に は

王光代

そ の時 と軌 を 一に し た機 会 主義 的 な 行為 と 映 った であ ろう

前 述 の ﹁記 註 残 案 ﹂ か らも一窺わ れ る如 く 清 廷 は姜 を決 し

表陽総兵 光恩有罪逮問,弟

究録』巻31)
て信 用 し てお らず ま た彼 自 身 も そ の事 を十 分 知 って いる

―- 17 -

のであ る さ ら に反 乱 の原 因 は順 治 五年 末 当 時 の清 の政 策

※ 日付 は全 て 『実録』 の記 事 の も の
ち6年 3月25日 (『
呉勝 兆伏詠 (同上)
。 、
にも関 連 す る 彼 が清 に帰 順 し た頃 に は依 然 西 安 の李 自 成

実録』を4 0 )
幕 T 旧

もとへ解 (『

南 京 の福 王 の両政 権 が 存 在 し て いた し か し以 後 数 年 間 に


、 、
李 自 成 ・張 献 忠 は死 亡 し 一 伯王 ・唐 王 の政 府 は減 び 華 中 ・

南 にも清 朝 の勢 力 が 浸 透 し て いく 統 一への最 終 段階 を迎

(『

(『

え た清 にと って いわ ゆ る ﹁弐臣﹂ のう ち 一時 はそ の協 力

4 年 4 月2 0 日

6月18日
6 月2 4 日
を 必要 と し たが今 に至 る ま で必ず しも 心 服 し て いな い官 僚

6 月9 日

4 回
5年2月9日

10月25日

1 1 月
︱︱ 特 に兵 権 を 持 つ武 官 ︱ ︱に対 し徐 々に厳 し い拘 束 を 加

え る必要 が あ った

順 治 四年 以 降 特 に こう した武 官 への圧 力 が 強 ま り そ れ
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜要とその反乱 ︵ 渡辺︶
、 。
に対 し て彼 等 の不満 も増 し そ 地 の復 明勢 力 と の結 託 を図 に城 に拠 った のであ ろう 反乱 の直接 の動機 は結局 ﹁自 己
る ヶ l スも起 こる。 こ の企 てが 発覚 す れば 清 廷 は遠慮 なく 保身﹂ のためと みて良 いのだ ろう

。 、
彼 等 を抹 殺 し た 清 朝 政 権 の確 立 のた め に はた と え 迎降 及 反乱 の原因をまと めると 姜要が異志 を常 に抱 いて いた
、 と いう事 の他 に① なお各地 で止 む事 のな い反清復 明 の動き、
び そ の他 の軍 功 が あ った にせ よ 政 庖 す る漢 人 軍 閥 の存在
。 、
は許 さ れ な い 順治 四年 頃 から妾 壊 の反 乱 ま で の間 に不穂 ② 清廷 による漢人武官 への圧力 さら に③姜襲自身 の機会
な動 き を見 せた漢 人 武官 に つい て は表 工を参 照。 こ のう ち 主義者と し て の心理をも付 け加 えられ よう


五年 の金 声 桓 ・李 成 棟 の復 ・明運 動 への参 加 のま 義 は大 き い 以下 には姜壌 の反乱 の勃 発及び出西 ・朕 西 ︵ 北部︶ への

二人 はそ れ ぞ れ 江 西 と広 束 で反 し 広 西 の桂 王政 権 に臣 事 進 展 に ついて地域ごと にそ の経緯 を記 した い。
した。 やが て 、
棟 の軍 は敗 れ 金 声 桓 も 六年 正月 南 晶 で
静。祝 、
投 水 し て死 んだ 華 中 ・南 のこ の情 況 は当 然 姜 要 にも伝 わ 三 反乱 の動発
―- 18 -―

って お り、 桂 王政 権 ︵別 呼 魯王 も 一隅 に って いる が な 0大同とそ の周辺
拠 ︶

お命 脈 を保 ち な お か つ大 一 同にも 近 い交 山 一帯 で は清 兵 が 姜襲 が飯 いた のは順治 五年十 二月 三 日であ る。 この日彼

頻 民 を相 手 に苦 戦 し て いる か か る現 状 を観 察 した 上 で妾 は宣 大総督欣帰等 の官長が到着 間近 い清軍 の兵程 の検 査 の
は清 への反 抗 に踏 み切 った のであ ろう。 た め出城 した留守 に城門 を開 じて反旗 を ひるが えした。取
、 、
た だ筆 者 が 感 ず る のは 機 会 主義 者 で ソ ッ のな い姜 襲 に 庫 は陽和 へ走 り ︵敢 は革職 され 後山東巡撫 に復 したが負
し て は、 起 事 の際 の措 置 が疎 略 な点 であ る。 後 にも触 れ る 、
官 と して有名 であ った︶ 大同 に向 か って いた アジゲ は報 を

が アジ ゲ を中 心 と す る大 軍 が 大 同 へ近 づ いて いる時 に叛 く 聞 いて馳け つけ 四 日に を囲 。 の
城 む 妾 挙 兵 に対 しそ の部

のは 時 機 を得 てな い ので はな いか。 ま た叛 いた際 清 の総 下が拠 る各城堡 も 一斉 に呼応 し、 十 二月丙午 ︵ 十六 日︶ の
告 欣 庫 等 は アジ ゲを 迎 え に坂 外 に出 て いる。 反清 復 明 の旗 ﹃実録﹄ に載 る アジゲ の奏 では大同付 近 の十 一城が皆坂 い
職 を掲 げ る のな ら取 等 はす ぐ に殺 さ ねば な ら な い管 であ る。 。
たとす る 地方志等 によると左衛 ・右衛 ・海源州 。応州 ・
恐 ら く姜 は清 廷 が 自 分 の秘 か に抱 いて いた異 志 を悟 り、 彼 山陰 ・馬邑 ・朔州 ・平虜 ︵ 魯︶ 術 ・井坪堡等が妾 に応 じた
を捕 え るた め アジ ゲ等 を派 遣 し た と解 釈 し て、 草 率 のう ち 事がわ かる ︵
。 、
表 皿︶ な お ﹃清史列伝﹄巻 五 梁化鳳伝に

よ ると郭 二用 が 陽 和 に拠 り アジ ゲ に従 った梁 が これ を 回

局 世徳拒守す る も守備 高世

復 したと す るが 呉 偉 業 の撰 した ﹁梁官 保 壮 歓 紀﹂ 翁梅 村
家 歳 藁﹄ 巻 二十 五所 収 ︶ に梁 が 復 した のは許 堡 であ ると す

る のが 正 し いであ ろう
回復 の 日付 と様 子

大 同 府 の各 城 堡 で は妾 展 の部 下 が 積 極 的 に反 乱 に加 勢 す

仁納款 帰付

る ヶl ス ︵淳源 州 ・朔 州︶ も あ るが 多 く は勢 に追 ら れ た
遭に応ず


いわ ゆ る脅 従 に属 し て いる 前 者 は表 配 でも わ か る よう に
lB後

帰降


表 III 大 同時各城 の欠陥 と清軍 の 「

満 年 に対 し頑 強 に抵 抗 し た 汗 源 州 で は宝峯 柔 に任 む方 応
『交山平危 本末』に拠れ ば広 昌 ・霊丘 …… 6 年 2 月 空」

、 、
祥 ︵本名 朱 克 灼 も L 明 の宗 室 国変 に適 い男 の姓 を名 の
る︶ が 副 将 の制 を け て起 事 し、 の清 守 備 唐 虎 も同 し て
調
X こ の他陵仁県 ……守城 蔚 州 ・広霊 ……不明


知 州 栄 繭 奇 を傷 つけ ︵ 十 二月 二十 日︶ やが て殺 した ︵﹃ 康

―- 19 -―
、 、 。
熙 ・涯源 州 志 ﹄ 巻 下 叢 紀 志 坂 逆︶ 朔 州 で は妾 の部 下
張祖 z l j ( ? )

被脅」 に よ り反舌L にくみ した州県



挑 挙 か︶ の政 撃 に守 備 張 盈 が 内 応 し 道 具 宋 子 玉 ・
y l i , 4( (1 1フ吻

挑娃 ︵
口 、
通 判 楊 遊 ・知 州 王家 珍 を殺 す ︵ ﹃充 正 ・朔 州 志 ﹄ 巻 八 武
、 。
備 兵 気 ︶ ま た左 衛 で坂 いた姜 建 勲 ︵ ﹃本 末 ﹄ で は妾 建 雄
l


と す る︶ の軍 は こ の後 大 原 ・粉 州 府 へ南 下 し て いく

な お大 同城 の攻 防 は以 後 長 期 にわ た った 当 初清 側 は政
城 に際 し て最 も効 果 的 な武 器 であ る紅 衣 砲 を使 用 せ んと し
、 。
て 十 二月中 旬 邑顔 等 が 北 京 よ り運 ん で い った と こ ろが

井坪 l P A

│十
漠 軍官 僚 の伝 記 を見 ると 紅 衣 砲 は朔 州 ・海 源 州 ・左 衛 の

i ブ
輝源州

山陰 県
才馬 邑県
大 同府

ネ平魯 術
朔 州
左 術
ネ右 衛

率 「

作 戦 に は威 力 を発 揮 し て いるが 大 同 に お いて は城 壁 が 堅


引て



国 な た め かそ の効 果が 現 わ れず 後 に は専 ら包 囲 に ょ って
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︶
大同総兵姜要とその反乱 ︵
渡辺︶
食 糧 補 給 の道 を断 ち つ つ城 内 で の内 応 を って い 、
待 た のであ 阻 兵 買 は敗 れ て降 り割 坪 ︵辮 髪を切 る こと︶ を強 いられ
る。 大 同政 復 後、 ド ルゴ ンの 。
命 令 で城 壁 を 一部 破 装 さ せた た I層 肺 は原 子 を守 ったが、 そ の部 下 の劉 永忠 ・張 十 光
のも こ の包 閉戦 で の教 訓 に よ るも のであ ろう。
が 円応 し て工 を反 乱 軍 に引 渡 し 壮さ せ る。 こ の後 差 建 勲 は
︲ 析 州 と定襲 を取 る ︵ 知 州 劉 竹 友 。知 県 暢 悦 は迎降 ︶っ 反 乱
2大 頌府 北 部 一帯

︲ 軍 が 大 原 に迫 る勢 にな った た め、 祝 世 昌 はた ま た ま柱 防 の
大 同 近 辺 の話 城 4 に抗 き、 年 武 偏 関 一帯 も姜 壊 に じ 。
応 た 任 をそ え映 西 か ら北 京 へ回 る途 中 の回 山額 真 阿頼 ︵ 実 古旗
以 前 交 山 の王孤 明等 を刺 し て いた副 将 李
吉 は刺 の変 を聞 き 人︶ に協 力 を求 め る。 これ を 了 示 した 阿順 次 び李 賢 の年 は、
年 武 へ引 返 し たが、 そ の部 下 で秘 か に妾 の制 を け て 南 下 し てき た妾 建 勲 を 石牧 開 で技 り、 そ の沌 げ る のを通 っ
受 いた
劉 偉 等 は三年 十 二月 十 八 日起 事 し、 李 者 L 道 て析 州 状 下 へ到 った。 ﹃本 末 ﹄ によ ろL 六年 正月十 日夜、
貝 金 元祥 を殺 一
し た上姜 建 勲 の兵 と 合 流 し峰 。
県 を 攻撃 し た こ の他 にも 老 妾 等 候析 州 か ら丁 武 へ走 り、 反 乱 側 に作 った貢 思 ・ 劉徳炎 ・
営参将 羅 映 壇 。 利民参将 劉栞鎖 ・ 偏 閉 平 参 将 張 柱 石等 が妾 に 暢 悦 は再 び清 に投 降 し たが、 後 大 原 で新 首 さ れ る。
- 20 -

帰 付 す る ︵﹃本 末し 。 特 に編 関 で は 明 の兵 部 尚 書
万世 徳 の 一方 太 原 府 東 北 部 の代 州 ・五台 で にも と の明 の参 将 劉 連
係 の万 錬 が 偏 関 通 と称 し、 参 謀 と し て 反 乱 に加 わ る ﹃
︵近 が これ も妾 一援 の制 を け友 の
受 人 郎 勧 ︵
郎 芳 ・ 郎 方 と も 記 す ︶
光 ・偏 関 志 ﹄ 巻 下、 戊 子 己 丑卒 変 考。 これ に ょれ ば と挙 兵 し禁 時 を陥 した。 これ を知 って
万錬 の 五台 県 の民 張 ・
五 桂
要 孫 氏 が確 髪今 に憤 激 し て夫 を し て妾 襲 に挙 兵 を めさ 、
勧 せ 高 冊 霊 丘 の民辞 進 に ・張 新 等 も 反 乱 に参 加 し、 さ ら
に析
た と いう︶。 ま た保 徳 川 で は 妾 に応 じ た 司都 牛 化麟 が知 州 州 で敗 れ た劉 永 思も 合 流 し た た め五台 ・ 霊 ・ 呂
丘 広 等 の州
や士 紳 を殺 し て頒 き ︵﹃康 熙 ・保 徳 川 志 ﹄ 巻 、 、
九 付 記︶ 村 県 が 反 清 軍 の手 に落 ち た のであ る ︵﹃本 末﹄ 及 び ﹃康 ・

嵐 州 で は州 民郭 を 武 が城 に拠 り、 他 に興 県 ・嵐 県 ・河 曲 、
等 五台 県 志 ﹄ 巻 八 祥 異、 兵 革 ︶。 ついで劉 通 ﹂郎 妨 は代 州
が 反 乱 に参 加 し た模 様 であ る。 、
を攻 めたが こ こに は章 京 支 松 古 L遊 撃 古 国 が し、
勝 駐 一
寧 武 の陥 落 を知 った 山 西 巡撫 祝 世 呂 は巡 年 道 王邑 齢 と
参 時 は関 痛 ︵ 外 門︶ にま で荘一 入 し た劉 連 の兵 ︵約 〓万 と いう︶
将 更 恩 を 大 同 へ述 り髪 兵 を 求 めた。 一行 が 県 の
障 南 原 平駅 に対 し よく 域 を 田 守 した ︵ ﹃八放 通 志 初 集﹄ 巻 一六 一、 文

に 至 ると 峰 県 を 囲 ん で いた姜 建 烈 と年 武 の頒 兵 こ を 。
が れ 松 古 の伝 ︶ やが て大 同 から ボ ロの率 いろ
転 軍 が 到着 し 全ハ

年 正 月十 八 日︶ 反 乱 軍 を敗 って 郎 栃 を斬 り代 州 の包 廊 を 0 ド ルゴ ン の親 征
、 、
解 いた ︵甲 ・六 ・五 一六 ﹁山 西 巡 撫 祝 世 昌塘 報﹂ ﹃清 史 列 順 治 六年 二月 十 四 日 ド ルゴ ンは白 から大 軍 を率 いて大
、 。 。
伝﹄ 巻 二 ボ ロ ︵ 障 洛 ︶ の伝 ︶ 以 後 こ の地方 の反 乱 軍 は 同 合円か った 長 期 化 の様 相 を見 せ る大 同 攻 防 戦 に決若 を

山 奨 に拠 る作 戦 を採 り 劉 進 は繁 時 束 南 の黄 呑 案 に、 高 鼎 、
つけ 反 乱 の他 地域 への波 及 を阻 も う と の意 図 であ ろう。

と 永
劉 忠 は 工 台 山 の 曹 家 山 栄だ 入 った ︵な お ﹃本 末 ﹄ で は 彼 ρ 車は三 月 一日桑 乾 河 畔 に到 り こ の日洋源 州 へ、 三 H
代 州 の政 防 を 四︱ 五月 の頃 と す るも︶ 。 、
誤 ﹃実 録﹄ 巻 四十 二 に は応 州 へそ れぞ れ帰 順 を勧 あ る諭 を送 った。 これ に答 え
正月 英 木 の条 に代 州 の囲 が解 け たL の報 告 が あ る︶。 な か った輝 源 州 の敵 に対 しド ルゴ ンは四 日、 衣 砲 に ょ り

、 。 、
次 に清 の 乱
側 反 に対 す る結 置 を述 べ ると まず アジ ゲを 激 し い攻撃 を行 な った こ の様 子 を ﹃突 録 ﹄ ︵巻 四十 三

平 西 大将 年 と し ︵こ の事 は 一 ﹁笑 鉾 ﹄ に は見 え な い ﹃清 史 三 月 英 亥︶ で は単 に ﹁多 南安 抜 渾源 州 ﹂ と記 す のみ であ る
、 、
列 伝 ﹄ や ﹃八旗 通 志 初 集 ﹄ の役 の伝 によ る︶ ボ PL 大 同 を が 地方 志 に よれば 一月 余 り の包 囲 の後、 三 月 四 日 に砲

聞 ま せ ま た ワクダ に涯 源 州 を 囲 ま せ た。 六年 正月、 前 述 が 城 の東 北 隅 を破 波 し溝 兵 が 城 内 に突 入 した。 反 乱 軍 の首
のよ う にボ Pが代 州 を及 援 し、 やが てま た大 同 全尿 る。 ま 領 方 応 祥 は街 巷 で力 戦 し て ﹁乱 刃 のた め探 ﹂ せ られ、 店 虎

- 2 1 -
た ド ルゴ ンは正 月 四 日 に郡 I ニカ ン ︵定 西 大将 軍︶ に大 原 、
は西門 楼 上 で自 焚 余 党 は皆 殺 さ れ た。 ﹁ 、
城 中 黎庶 店 致

を及 わ せ た 子カンは阿 順 L 共 に大 原 ょ り北 上 し、 析 州 ・ 、
八九 婦 女 半 為 仔 獲 一
、 、 、
房合 焚 折 技 尽 郷 村推 掠 一空 兵 焚
、 、
障 県 を維 て年 武 に到 り 劉 偉 の字 を破 って先 に反 乱 軍 に降 之 惨 未 有 甚 子此 者 ﹂ 翁康 熙 ・汗 源 州 志 ﹄ 巻 下、 叢 紀 志、
った羅 映 婚 を清 に寝 返 ら せ た。 そ の後 も し た城 に対 す るド ルゴ ンの報 復 は
年 武 の包 囲 は続 い

たが 二月 下旬 ド ルゴ ンの大 同 への親 征 が 決 行 さ れ ると、 印 舶 オ 陵 弗 悔 映” 邪細

ニカ ンは軍 を撤 し、 ド ルゴ ンに呼 応 し て新 た に朔 州 ・左 荷 これ に驚 いた応 州と山陰 ではそれぞれ参将張祖寿と知県
の包 囲 を担 当 した た め危 機 にあ った反 乱 側 は忠 を つく 事 が 顔 永錫が軍民と投降 した。 たまたま北京 で留守 をして いた

でき た そ し て妾 姓 勲 の軍 は寧 武 よ り市 下、 静 楽 を 経 て友 ドドが危特 と の報が到達 した 、
た めド ルゴ ンは回京 し 大同
山 の王 頭 明等 と 合 す る のであ る。 の包 囲 はアジゲ にょり続行 され る。 四月初 めアジゲ は左衛
、 、
を恢復 したが ﹃ 光緒 ・左雲志稿﹄巻 一 天文志、 祥 異 に
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜要とその反乱 ︵
渡辺︶
、 、 、 、 、
ズ 順 治 ︶ 六年 姜 壊 坂 逆 域 道屠 験 ﹂ と あ る のを見 ると 下 に迫 ると 門 を隔 いて内 したため 王正志 は自緑 し
城 応

汗源 州 と 同 じ運 命 を 迎 った のであ ろう こ の後 アジゲ は北

楡 林道孫 士寧 は ﹁従逆﹂す る ︵
﹃実録﹄巻 四十 三 三月 丁
。 。
京 L 反り代 わ って貝 子呉 進 海 等 が 大 同 を 囲 む 卵 ∧八日∨︶

王永強 は高下 して延安府 へ向 か い 甲 ・三 ・二九 一﹁
延綬
、 、 、
四 反 乱 の発 展 巡撫重宗聖掲帖﹂ にょると 二月 二十 一日府城 に到 り 城
前 述 のよう な大 同 及 び大 原 府 北 部 で の反 乱 の長 期 化 に つ 内 で の王永鎖 ︵王永強 の同族 か?︶ の内応もあ ってこれを
、 、 。
れ そ の近 隣 でも 反治 の動 きが 活 発 と な り 順 治 六年 三︱ 陥 した 同時 に府城以北 の綾徳州 ・府谷 ・安基 ・保安 ・宜
、 。
四月 頃 に は山 西 全域 L陳 西北 部 ︵ほぼ 延 安 府 全 部︶ が 戦 乱 川等 も呼応 し 凄州 には平徳 ︵ 平四とも記す︶ が拠 る 平

の舞 台 にな る 徳 の年 は後黄河 を渡 って二月九 日石楼 を取 り ︵ 黄進禄が拠

る 丙 ・八 ・七 一七 ﹁山西巡撫 祝世昌掲帖し、 臨県 にも到
一- 22 -―

0 険 西北 部 ︵延 安 府 ︶ る ︵丙 ・八 ・七 二五 ﹁山西巡按奏 応桂掲帖し。 王永強 の軍


黄 河 を 挟 ん で大 同 の西 に位 置 す る延 安 府 北 部 で は楡 林 に は南 下を続け郎州 ・宝君 ・中部 。同官等 を陥 した ︵ ﹃実録﹄
、 、 。
駐 す る延 絞 巡 撫 王 正志 が 妾 壊 の兵 の西進 を 阻 む た め 総 兵 巻 四十三 三月 丁卯 ・辛未︶ こ の事態 に清 では漢中 に駐

沈 文 準 と延 安 参 将 王永 強 ︵彊 と も 記 す︶ を黄 河 沿 い の地 に 防 して いた呉 三桂 と李 国翰 に出動 を命 じ 三月 二十 一日蒲
。 。
派 遣 し た こ の頃 神 木 で は廃 将 高 右 才 が 高 家 堡 の回乗 徳 ・ 城 をも手 に入れ た王を迎 え撃 つ事 とな った
、 、 、
張 秀 等 に擁 立 さ れ ︵﹃康 熙 ・延 絞 鎮 志 ﹄ 巻 二十 八 名 官 志︶ 三月 二十 三 日午刻 北上 した清軍 ほ美原鎮 で王永強 軍 に
。 、 。
王 も 秘 か に彼 等 と消 怠 を通 じ て いた 六年 二月 王 は突 然 適遇 した 呉 三桂 ・李 国翰 ・李思忠等 の結鋭 より成 る清一 卒
。 、
楡 林 に向 け 撤 退 を 始 め る これ を 見 てそ の異 志 を悟 った沈 は敵 を大破 し て宜君 ・同官 二県 を復 し ︵﹃実 録﹄巻 四 十 三
、 、
文 率 は後 を通 い 神 木 に到 った と こ ろを高 有 才 に襲 殺 さ れ 二月丙戊︶ 四月 五日には 蒲城 をも回復 してこれを屠 った
。 、 、 、
た 高 は神 木 を陥 し 道 員 夏 廷 印 。同知 楊 大 士 ・知 県 徐 之 G康熙 ・蒲城志﹄巻 二 祥異 屠城。 なお ﹃実録﹄巻 四
。 、 、
能 等 を殺 す 一方 工 永 強 は楡 林 に若 く と ﹁姜 要 の兵 が渡 河 十 三 四月丙申 ∧八日V の記事 では講県 を復 したLす るが
した た め戻 った﹂ と 許 って入城 し、 続 いて高 有 才 の兵 が 城 。
輸城 の誤 まり であ ろう︶ こう し て王永強 の南進 は 阻止 さ

れ たが 彼 等 は黄 河 を挟 んだ 山 西 の反 乱 軍 と も連 絡 を保 っ 王 顕 明 及 び険 西 から来 た平 徳 ︵呉 三桂 等 の圧 迫 を受 け黄 河
。 、
て いた よう であ る 以 上 によ り映 西北 部 の反 乱 の担 い手 も を渡ち た も のか︶ も加 わ って粉 州 府 城 を攻 撃 し 把 総 沈 海

武官 が 中 心 であ った点 が 想像 でき るが こ の地 域 の地方 志 等 の内 応 ︵丙 ・八 ・七 二六 で は守 南 道 中 軍 部 郵 名 標 が 開 城
、 し、 軍 民 と割 辮 したと す る︶ も あ り、 これ を陥 す。 こ こで
の記 述 が 簡 略 な た め そ の他 の反 乱 軍 の構 成 分 子 に ついて
明 ら か にす る に至 ら な か った。 、
論 功 行賞 を行 な い妾 建 勲 は巡 無 劉 乗 戯 は英 南 道 と な り

内 応 し た沈 海 ・徐 虎 山等 は参 将 と称 した。 勢 いに乗 った 反

︲ 、
0 山 西中 部 ︵大 原 ・粉︱

ザ 府︶ 乱 寧 は大 原 府 の祁 県 ・清 源 ・徐 溝 ・太 谷 粉 州 府 の孝 義 ・
山 西中 部 ︵ 大 原 ・沈 州 府 ︶ の反 乱 の発 展 は妾 建 勲 の活 動 永寧 州 ・平逢 等 を支 配 下 に収 め て いく ︵ま た 平 陽 ・淋 安 両
。 。
によ ると こ ろが 大 き い 前 述 のよう にド ルゴ ンが ニカ ンに 府 に お いても後 述 のよう に呼 応 の動 き が 顕著 と な る︶

年 武 の包 四 を解 か せ た た め 余 裕 を得 た妾 の軍 は 静 楽 を経 こう し て交 山 の部 隊 を も含 む姜 建 勲 の軍 が 南 から省 城 に
て交 山 に到 り王 顕 明 を首 領 と す る農 民 軍 と合 流 し た。 ﹃ 本

追 ってき た た め 祝 世 昌 は急 還 大 同 の軍 営 に援 兵 を求 め た

―- 23 -一
末 ﹄ に よれば 妾 は こ こ でそ の幹 部 に割 を与 え ︵王 顕 明← 総 、
そ こでボ ロが 定 西 大将 軍 と な って応援 し 大 同 の包 囲 は 左
、 、 、 。
兵 斉 三夏 ・閣 虎← 副 総 兵 三□ 献 ← 参 将 鐘 明 節← 守 衛 から ニカ ンが 移 って担 当 す る 急 行 し たボ ロは大 原 府 一 城
、 。 。
備 ︶ 彼 等 のう ち精 勇 な者 を選 ん で作 戦 を続 け た こ の時 の南 の苦 両 堡 近 く で反 乱 軍 に遇 った 姜 建 勲 に従 った交 出
、 、
太 原 で は主 な将 領 は皆 大 同 へ動 員 さ れ て いた た め 祝 世 昌 の兵 士 は鳥 鎗 で清 算 を悩 ま せたが ボ ロは厳 しく 部 下 を一 督
、 、
は已 む を得 ず 姜 壊 の義 子 の参 将 呂 継 盛 を交 城 へ派 し反乱 し 苦 戦 の末 敵 を破 る事 が でき た。 清 軍 は晋 祠 堡 内 に退 い
。 、
年 に備 え た 然 る に案 の上 呂 は敵 と 通 じ 、一 二月十 四 日 ︵﹃ 本 た 反 乱 を囲
軍 み 姜 建 勲 が 南 門 より 交 出 方 面 へ走 る のを追
末し 工 父城 は敵 の手 に落 ち る。 姜 建 勲 ・劉 乗 銭 等 は清 の知 って多 く の兵 を駿 波 し た。 こ の戦 間 で王顕 明 ・ 玉が 死 亡


県 を殺 し 交 出 の人燕 化 鵬 を知 県 と した。 続 いて破 った文 し、 一 、
鍾 明節 は交 山 へ 姜 は粉 州 府 へと退 却 し た。 ボ ロは こ
水 でも静 楽 の人蘇 国 化 を知 県 に任 じ、 ついで四 月 十 〓一日 の後 順次 反 乱 軍 の拠 った州 県 を 回 復 す る。
翁本 末 ﹄ 及 び 地方 志 で は四 月 二 日と す るが、 こ こで は丙 ・ こ の晋 祠 の戦 闘 は姜 嘆 の反 乱 の成否 を左 右 す る重 要 な決
八 ・七 二六 ﹁山 西 巡 撫 祝世 昌 掲 帖 ﹂ に よ る︶ に は姜 建 勲、 、
戦 で あ ったが そ の正確 な 日付 は殆 んど の史 料 に記 さ れ て
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︾
大 同総兵姜 援とそ の反乱 ︵
渡辺︾

いな い 前 掲 の呉 偉 業 の ﹁梁 官 保壮 歓 紀 ﹂

復の日

九仙 台 ヘ

(王者佐 逃)

のみが 五月 十 五 日頃 に晋 両 堡 の北 で戦 いが
6 生1 1 月

6年 11月
6年 10月
6年 10月
6年 10月
順治 6年
10月 9目

11月 4日

副総兵 と自称 の ち総兵 と 「自睡」

監軍 道 と自称 の ち巡撫 に 「自酸」


行 な わ れ た と す る た だ し こ の時姜 建 勲 が
参 将 と自称 の ち副将 に 「自睡」

屠城


戦 歿 した と述 べ て いる のは誤 ま り であ る
姜振 (巡南兵備道 )
反 乱軍側 官

0 山 西南 部 ︱︱ 縮 安 府
張国威 油 安 の 「叛兵」滞安 で内応 参 将 (の中軍)と なる
なる

朱原鍛 (知県)
楊乗忠 (知県)
王 者佐 ( 知県)

張風羽 ( 知県)

李師流 ( 知県)

四 月十 三 日 の沿一
胡賃 ( 如県)
胡必 ( 知県)
董弱 ( 知県)

州陥 落 は省 城 ︵大 原︶ L
西南 の平陽 府 及 び束 南 の淋 安 府 ・沢 州 と の

冨J総兵 とな る
※ 『乾隆 滋安府 志 』巻 1 1 紀事 に見 える 「起 事」 の話人
表 Ⅳ 濫 安府 反 乱 の状況


以上 丙 - 8 7 7 2 「 山西巡撫劉弘遇 残 題 本」 に拠 る

通 絡 を遮 断 す る助 果が あ った こ のた め両
武 官 …郭 天新 < 総 兵> 劉 継漢< 守 備 > ( 溢 安府)


地 方 の■賊 の活 動 も 盛 ん にな った のであ る
1

―- 24 -―
劉炎昨 ・劉康胤等

溢 安 ・沢 州︶ で は妾 建 勲
(首謀)者

出 西省東南 部 ︵
李世雄 ・張国威
苗雲峰 ・呉亨福
王永昨 ・李桐等


が 晋 両 に迫 った 四 月 下 旬 頃 まず お 州 一帯
濫安 で 内応

の州 県 に反 乱 軍 の任 じ た官 吏 ︵偽 官︶ が 出
李成喬< 守 備> ( 平 順県 )
避聯芳< 副 将> ( 壷 関県)
郭天統

胡式訓


内 応

現 し てと民 に迎 え られ た のを皮 切 り に 各
迎降

郭天祐 把 総 屯 留 で 内応

地 で起 事 と 内 応 が 続 発 し沖 安 府 の全 州 県 が
沈烈 ( = 沈 海) 映 西 の人

胡 国鼎 微 ( 州 ? ) の 人


反 乱 軍 の手 に落 ち た 今 こ の経 過 を 一々述
1 欠 陥 の 日付

5月27日

6 月1 日

6 月1 周
6 月3 日
6 月4 日
5月 29日

、 、
許守信 映 西 の 人

べ る のは避 け 各 城 の欠 陥 と 回復 の期 日
反 乱 軍 側 の官 吏 の姓 名 等 を表 Ⅳ にま と めた


︵丙 八 ・七 七 二 ﹁山 西巡 撫 劉 弘 過残 題 本﹂
呉享福


に よ る︶ 反 乱 軍 側 の官 吏 の大 半 は 清 よ り
長子 県

喬畑
留県

済城県
黎城県
壷 関県
平順県
地 名


腹 返 った者 で占 めら れ る 彼 等 は十 1 十 一
Iこ

月 に各 州 県 が 清 軍 の手 で回復 さ れ るま で約

半年 間統 治 を続 け た 装陵 等 題 本﹂ 公 六 六百︶ に よ
代 等 為 農 民 軍 攻 克 平陽 府属 一
沈 海 ・郵 天 祐 が こ の地方 の反 乱 側 のリ ーダ ー であ る事 が ると 平陽 府 北 部 で は洪 洞 ・趣 城 ・蒲 県 ・霊 石 ・岳 陽 ・治 西
、 。
表 Ⅳ でも わ か るが ﹃本 末 ﹄ に ょれば 沈 海 は 姜 建 勲 が粉 州 等 バ 反 乱 年 の手 に落 ちた よう であ る
。 、 、
を攻 めた際 に内 応 し た人 物 であ る そ し て晋 両 の戦 閣 で妾 平 陽 府 の西 市 蒲 州 方 面 で は度 胤 が 挙 兵 し て閣 部 と称 し
、 、
が 敗 れ た時 沈 は沿 州 へ戻 らず 平迄 ・お 州 を経 て 張 斗 光 垣山 ・聞喜 で は郭 中傑 が 勢 いを振 い 平陸 で は李 虞 菱 が 城
、 。 、
︵も と 工島 齢 の部 下︶ と 会 し 濫 沢 参将 周認 の守 る屯 県 に拠 った ﹃実 録﹄ 巻 四十 五 八月癸 巳 に よ ると 虞 胤 は桂

捌 。 、
、 工 の永 暦 の年 号 を本 じ て お り 明末 年 夏 巡 撫 であ った李 虞
を攻 略 し た のであ る ︵こ の時 郭 天 祐 が 周 を縛 し迎降 す る︶
、 。
沈海 はさ ら に濫 安 府 城 へ進 み 李 世 雄 等 の内 応 を得 て入城 凌 も 恐 らく 同様 であ った と 思 われ る
、 、 、
し 巡 道 劉 沢薄 ・知 府 楊 致 祥 を殺 し た後 府 内 の州 県 を降 こ のよう に平 陽 府 で は土 賊 と 一部 の郷 紳 が 挙 兵 し 特 に
。 。
し官 を設 け て い った ま た張 斗 光 と 土敗 陳 杜 は沢 州 付 近 で 南 部 ︵縮 州 を中 心 と す る︶ でそ の勢 いが 盛 ん であ った 府

活 動 を続 け た模 様 であ る 城 以 北 の動 乱 は妾 建 勲 の進 出 と陳 西 の蜂 起 年 の渡 河 に よ り

―- 25 -一

引 起 こさ れ たが 高 部 のそ れ は郷 紳 が 中 心 と な り表 面 的に

● 山 西南 部 ︱︱ 平 陽 府 は妾 建 勲 と の接触 はなく む し ろ復 明 のた め桂 正 に応 ずる
。 。 、
海 州 失陥 は平 陽 府 でも 大規 模 な反 乱 を招 いた こ の地方 形 態 を と る 山 西 部 で は武 官 が 反 乱 を指 導 し 郷 紳 と し

、 、
で は土賊 に加 え 有 力 な郷 紳 が 叛 いて いる点 特 長 が あ る て は偏 関 の万針 し か見 当 らず ︵ 彼 自 身 も仕 官 はし て いな い︶

︵李 良 凌 ・李 建 泰 ・劉 〓 元年し こ のう ちヤ陽 府 城 は王永 強 他 は迎 降 し た清 の官 員 が 名 目上 反 乱 側 に加 わ って いる のみ
、 、
に応 じ た平徳 が 五 月 に囲 んだが 城 内 の官 民 が 回 守 し また であ るが こ こで は李建 泰 ,李 虞 凌 のよう な 大 学 士 ・巡 撫

梅 勅 章 京 薄布 が 救援 し た た め落 城 を免 かれ た 府 城 の西方 ク ラ スの有 力 郷 紳 が 頒旗 を 翻 し て いる点 は注 目す べき であ
。 。
及 び 北方 に は王永 強 の部 隊 の進 出 が 日立 つ 例 えば 永 和 県 と


で は映 西 から 至 った雁 武 生 が 城 を 政 め これ に土賊 衛 敏 が
、 、
応ず る ︵こ の他 蒲 県 の劉 嗣 向 限 州 の王 笠賢 が著 名 な土販 五 清軍 による回復
。 。
と し て挙 げ ら れ る︶ な お 尋市代 棺 突 史 料 叢 編 ﹄ 第 六輯 ﹁韓 清 軍 は晋祠 で の勝利 を契機 に各方面 で反撃 に転じた ま
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︶
大同総兵姜要とそ の反乱 ︵
渡辺︶
ず 大 原 府 の話 州 県 ︵大 谷 ・徐 満 ・交 城 ・文 水 ・清 源 ・祁 県 ︶ 。
朔 州 で籠 城 が 続 いた こ の間 戦 火 が 山 西 全省 に拡 大 し清 軍
は六年 五月 内 に回復 さ れ、 これ によ り 一時 粉 州 ︱ 大 原府 南 が そ の対 応 に追 わ れ た た め、 こ の方 面 で は大き な動 き はな
部 ︱ お 州 ・濫 安 府 北 部 にわ た って いた反 乱 算 の ﹁領 域 ﹂ は 。
い た だ ﹃実 録 ﹄ 巻 四十 三、 三 月 丙威 の条 で は、 祖 馬 路 ・
束 西 に三分 さ れ る。 ボ Pを中 心 と す る清 軍 は沿 州 府 の姜 建 得 勝 路 よ り の五千 の兵 が 大 同救 援 のた め到 り、 妾 壊 も城 内
勲 の打 倒 を優 先 さ せ た た め、 溢 安 ・沢 州 地方 の沈 海 等 はし から撃 つて出 たが、 当 時 アジ ゲと 共 に大 同 を 囲 ん で いた ボ
ば し余 命 を保 つ事 が でき た。 ま た平 陽 府 南 部 の反 乱 軍 に対 ロ等 が 奮戦 し て援 軍 は敗 れ、 姜 も 内 に いて いる。
城 退 やが
す る険 西 から の孟 喬 芳 の攻撃 ︵ 後 述 ︶ も 七 月 下旬 ︱ 八月 上 て粉 州 が 陥 落 す ると ボ ロは南 下 し、 一 一カ ンが交 代 す る 翁実
旬 ま で実 行 さ れ な か った。 、
録 ﹄ 巻 四十 三 四月 乙卯 ︶。 ﹃実 録﹄ の同 日 の条 に よ ると北
清 側 で最 も 早 く 反 乱 軍 を破 り戦 局 逆 転 を導 いた のは延安 京 L 反 った アジゲ は ﹁姜 壊 に帰 誠 の意 志 が あ る﹂ と進 言 し
府 で の呉 三桂 ・李 国翰 軍 であ る。 彼 等 は前 述 のよう に三月 、
た た め ド ルゴ ンは改 め て赦宥 の を り投 降 を促 し た。
、 諭 送
二十 三 日 美 原 鎮 の戦 いで ■永 強 を敗 ってそ の南 下 を く い し か し姜 壊 は依 然 降 ら ぬ た め、 六 月
- 2 6 -

二十 九 日ド ルゴ ンは
と め ︵そ の後 王 は競 城 ∧ 丙 ・九 ・八〇 五 ﹁
延絞 巡撫董 家聖 再 び 親 征 を決 し ︵七 月 十日出 発︶、 ま た規 王 マンダ ハイ﹂
題 本﹂Vも しく は生 君 A﹃道 光 ・郎 州 志 ﹄ 巻 一、 輿 地志、 紀 郡 エ ワクダ の兄弟 に朔 州 と寧 に る 。
、 武 拠 坂 徒 の対伐 を命 じ た
事 ∨ で戦 歿 ︶ 勢 いに乗 じ て北 上 し、 五 月 に延 安 府 城、 六 も っと も ド ルゴ ンは七 月 十 四 日、 遠 征半 ば で 同 き
、 大 行 を中
月 に緩 徳 州 七 月 に楡 林 を一 。 、
奪回 した 呉 三権 と 李 国翰 は六 止 し て帰 京 し 一部 の兵 を護 軍 統 領 索 洪 ・署 護 軍統 領 希 商
年 冬 ま で に映 北 の反 乱 軍 Q疑部 を ほぼ 蕩 平 し たが、 高 有 才 根 と 共 に マンダ ハイ のも と へ派 遣 す る に止 った。 新 手 の清
の拠 る府 谷 と これ と黄 河 を挟 ん で対 す る保 徳 州 ︵牛 化 が
麟 軍 の攻撃 を受 け た朔 州 はまも なく 陥 落 し、 そ の報 はド ルゴ
拠 る︶ の二城 が 回守 し た た め、 清 兵 は これ を包 囲 し孤 立 さ ンが 北 京 へ着 いた翌 日 の八月 七 日 に届 い 。﹃
。 た 死正・ 朔 州 志﹄
せ て い った 、 、
巻 八 武備 兵気 に よ ると、 ﹁〓師 ﹂ が 至 った時、 州 民 は

帰 順 を望 んだが 進 反 の首 謀 者 張 盈が 従 わず、 民 を脅 し て
0 大 同 と そ の周 辺 、
田 守 した た め 砲 によ って城 が 破 れ た後 ﹁悉 く居 験 に っ

大同府では四月にアジゲが左衛を陥してよりなお大同 ・ た﹂ のであ る ︵ ﹃清 史 列 伝 ﹄ 巻 三 の ワクダ の伝 で 偽
は 総兵
、 。 、
妾 之 券 偽 兵 道 孫 乾 ・高 奎 が 遁 走 し たと 記 す︶ 清 兵 の殺 兵 道 造 夢 龍 は寧 武 関 城 を焚 いて西 へ走 ったが 妾 褒 の死 を
、 、 、 、
験 を見 て馬 邑 は降 服 し 井 坪 堡 ・右 衛 ・平虜 ︵ 魯︶ 衛 も 阿 聞 く と抵 抗 を止 め 将 官 五十 余 人 兵 五千 と 来 降 し 静
。 。
様 に帰 付 し た 楽 ・寧 化 所 も これ に倣 った
、 、 、
八月 二十 五 日 アジ ゲ は卓 び 北 京 ょ り 大 同 へ赴 き ニカ こう し て大 同 ・寧 武 は平定 さ れ たが 万 錬 の拠 る偏 関 及
。 、 。
ンと 共 に包 囲 に当 る と ころが 二 日前 の二十 三 日 兵 ・食 び 河由 ・寺嵐 州 等 太 原 府 西北 部 で は抵 抗 が 続 く し か しカ
、 、 、
と も 尽 き た大 同 城 内 から妾 壊 の偽 総 兵 楊 振 威 が 部 下 の劉 宝 州 を陥 し ︵ 九 月 後 述 ︶ さ ら に溢安 ・沢州 平 陽 府 南 部
。 、
を秘 か に送 り清 への帰 順 を約 し た こ の時 の言 に ﹁我 等 原 を銀 圧 し てす っかり大勢 を挽 回 し た清 軍 の攻 撃 にょ り 十
。 、 、 ・ ・
係 良 民 為 逆危 妾 瑛 迫 脅 而 反 大 軍 来 囲 大 同 即 欲 斬 逆瑛 一月 から十 二月 に かけ て皆 降 った ︵丙 八 七 四 一 ﹁宜 大
。 、 。 、 、 。
帰 順 奈 力 右 不及 故 繭 遅 遅 今 兵 民 畿 餓 死 亡 殆 尽 余 総 督 倭 養 量靖 報し 中 でも 偏 関 で は ﹁偽 総 兵 ﹂ 賀 国柱 が 内
。 、 、 、 、
兵 無 幾 我 等 問計 於 各 官 斐 季 中 等 二十 二 人 与 我 等 合謀 応 し て ︵丙 ・八 ・七 四 一︶ 城 内 で戦 間が 起 こり 万 錬 と そ

約 斬 妾嘆 帰 順 ﹂ 翁実 録 ﹄ 巻 四十 六 九 月戊 午 ∧ 二 日と と の 一族 は ﹁満 清 の為 に後 痔 さ れ ぬ こと を誓 って﹂ Q道 光 ・

―- 27 -一
。 、
あ る アジ ゲと ニカ ンが ﹁姜 要 を斬 って降 れば 恩養 す る﹂ 偏 関志﹄巻 下 ﹁ 戊 子 己 丑事 変 考じ 父祖 以 来 の邸宅 に火 を
、 、 。
と答 え ると 楊 振 威 等 は二十 八 日 に妾 壊 とそ の兄 の琳 弟 つけ自 焚 し た のであ る ま た残 る保 徳 州 も呉 三桂 等 の長 期
。 、
の有 光 の首 級 を持 ち来 献 した そ し て翌 二十 九 日清 軍 は大 にわ た る包 囲 のた め内 変 が 起 き 州 民桂 耀 等 が 定 国公 と 号
。 し た牛 化麟 を斬 って 浦 の軍 営 に降 った のであ る ︵ ﹃実 録 ﹄
同 へ入城 した のであ る ド ルゴ ンは楊 振 威 等 二十 三 人 と そ
、 、 、 、 。
の家 族 ・部 下計 六 百 人 を来 京 さ せ 残 り の ﹁従 逆 ﹂の官吏
・ 巻 四十 九 七年 六 月 乙酉 ﹃康 熙 ・保 徳 州 志 ﹄ 巻 九 付 記 ︶

兵 民 は皆 殺 致 し さ ら に大 同 の城 垣 を城 探 よ り 五尺 低 く さ 先 に代 州 を 囲 んだ劉 遷 はそ の後 清 軍 に追 わ れ て出 中 に入


せた これ を見 ても妄 張 の八 ヶ月 以 上 の籠 城 ︵順 治 五年 十 り黄 呑案 に拠 ったが、 清 兵 は彼 を 出頂 へと追 い詰 め、 七

二月t 六年 八月︶ は堅 固 な城 壁 が あ って始 め て可能 であ っ 八月 頃 これ を殺 し た ま た劉 永 忠 ・高 鼎 は五台 ・孟 県 ・定
。 、
た事 が わ か る 裏 の境 の曹 家 山案 に立 て籠 ったが 清 軍 が迫 ると まず 劉 永
。 ミ 、
同 じ頃 マンダ ハイ等 は朔 川 よ り移 動 し て寧 武 を攻 め た 忠 カ逃 亡 し 高 鼎 も 山 伝 いに北 直 隷 の要 定 府 方 面 へ走 り っ
、 、
﹃清 史 列 伝 ﹄ 巻 三 の ヮ クダ の伝 に ょ ると 偽 総 兵 劉 偉 と偽 つな おゲ リ ラ戦 を続 行 し て いたが 後 に直 束 詠 総督 李 蔭 祖
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大同総兵姜理とその反乱 ︵
渡辺︾
が 非 座 道 険 安 田 を 進 って従 を招 降 さ せ た ︵順 治 十 一年 六月 。 、
に当 る やが てボ ロ自 身 は北 京 ︿凱 た し、 残 った清 軍 ぶ 臨

頃 丙 ・九 ・八六 四 ﹁宜 大 終 告 馬 鳴 珊 題 本じ 。 県 ・平迄 ・お 州 ・遼 州 等 を 回復 し、 武 郷 ・楡 社 も 迎降 し て
山 西省中部 ︵ 大 原 ・沿 州 府︶ 一帯 の反 乱 軍 は ほぼ 跡 を絶 っ
0 沈州 。
た のであ る

滑 州 は六年 四 月十 三 日 去 建 勲 と交 山 提 民 軍 に よ り陥 落

し 制 辮 し た反 乱 年 に統 治 され る。 ついで大 原 攻 略 を 日精
0 淋 安 ・沢州 地 方
し た反 乱 年 の主力 は苦 祠 で敗 れ、 粉 州 L 反 って
守 備 を固 め 灘 安 府 に は六 月 以来 沈 海 と そ の 一党 が 拠 って いた。 そ の

る 大 原 府 の川 県 を復 し たボ ロは、 一時 平徳 の兵 が 囲 んだ 政 権 に は土賊 や降 服 した清 の官 員、 も と の明 の宗生 も 加 わ

平陽 府 の救 援 に寧 を割 いたが やが て粉 州 府 内 に入 り、 七 って いるが、 有 力 郷 紳 の参 加 は記 められ な い。
汚 州 に駐 し
月 十 八 日 ︵﹁梁宮 保 壮 歓 紀し に考 義 県 を恢 復 した。 ボ ロの て いたボ ロは溢 安 の北 に当 る遼 州 ,お 州 に官 兵 を送 ったが、
年 は こ の後 も 一部 が 束 の楡 社 ・武 郷 ︵と も に四、 五 月 頃失 こ のう ちたび たび包 四 を受 け て いた遼 州 に は韓 岱 が り、
- 28 -一

、 到
陥 ︶ に派 さ れ 大 原 府 の寿 陽 、 粉 州 府 の平通 の反 乱 年 の討 。
反 乱 軍 を剰 殺 す る ま た知 州姜 振 と 士 民 が 明 の衣 冠 を着 て、

平 に当 るな ど しば らく は姜 建 勲 の居 ろ濁 州 府 城 を政 め る 活 の官 長 を反 乱 側 に引 渡 し たお 州 に は十 月 八 日、 清 兵 が 到
。 、 、
余 裕 が な か った よ う であ る ド ルゴ ンは朔 州 ・馬 邑 を平定 着 ﹁ 焚験 山 原 楽 谷 蕩 然 ﹂ 翁乾 隆 ・お 州 志 ﹄ 巻 九、 災 共︶
し た マンダ ハイ を湾 州 へ辻 り、ボ ロを助 け て 平 さす と称 さ れ る兵 禍 を受 け た。 そ の兵一
剰 翁実 が さ ら に南 下 す ると知 っ

録﹄ を 四十 五 八月 丁西︶。 マンダ ハイ は寧 武 を下 し た後 た流 海 は九 日城 を捨 て て沢 州 へ井イ 。 そ の後 府 蚊 を守 った
。 、 、
沿州 に る到 九 月 日
十 三 清 年 は 紅 衣 砲 で北 の城 壁 を破 壊 し 偽 道 長 胡 国 鼎 も 包 囲 さ れ ると 夜 逃 亡 を謀 ったが、 清 兵 は
十 四 H朝 八旗 兵 が 突 入す る。 逃 亡 し た偽 巡 撫 姜 建 勲 と偽布 これ を通 い胡 はじ め多 く の敵 兵 を殺 し た ︵ 。
十 月 十 日︶ 十
政 劉 畑 業 等 は待 ち伏 せ て いた兵 に殺 され た。 嵐 県 ・永 寧 州 、
六 日清 軍 は鴻 安 へ入城 反 乱 側 に協 力 し た官 民 を独 日 に わ
は こ の直 後 。
る ま じ
帰 順 す た 同 頃 ボ ロ の軍 の 一部 は抱 仏 岩 た り属 験 す る ︵﹃乾 隆 ・溢 安 府 志 ﹄ 巻 十 一、 紀 事︶。 付 近 の
に拠 った侯 和 尚 ︵も と 明 の結 兵。 一時介 休 県 を陥 す︶ の軍 、
屯 留 上装垣 も降 り こ の報 が 北 京 に至 るL、 ド ルゴ ンは十

を敗 り 済 州 回復 後 はそ の部将 が 各 地 に派 さ れ余 党 の剰 滅 、
月 二十 五 日 ボ ロと マンダ ハイ を、 北 京 へ帰 ら せ フクダ に
。 、 。
沈 海 の追撃 を命 じ る 残 る州 県 の多 く は降 服 し たが 長 子 前 述 の如 く 平 陽 府 市 部 で は郷 紳 と 土賊 の挙 兵 が 相 次 いだ
県 で は先 に清 の知 県 李 允 昇 を沈 海 に引 渡 し た土 販 衛 銀 ・常 これ に対 し平陽 府 城 で は自 身 の保 全 を 図 る のが粘 一杯 で、

持 等 が 既守 し た た め 十 一月 四 日清 軍 が 政 め陥 す と ﹁無卒 官 兵 を こ の地 に送 って反 乱 を鎮 圧 す る余 裕 はな か った ので
の赤 子 ﹂ も 合 め ﹁波致 の惨 な る ことと し﹂ と いう構 景 が く 。
あ る そ こ で実 行 さ れ た のが 映 西 浩ほ 孟 喬 芳 L 西安 駐 防 の

り広げ ら れ た ︵ ﹃康 県 ・長 子県 志 ﹄ 巻 一 兵 革 ︶。 八旗 兵 によ る北 征 であ る

さ ら に 南 下 し た活 年 は 十う 、
三 日陵 川県 を 下 し ︵﹁ 偽 知 県﹂ 順 治 六年 八月 孟 喬 方 は苦 理糧 儲 戸 部 侍 郎 頼 色 ・協 領 棋
。 、 、
方 洲 が 投 順 丙 ・八 ・七 四 二 ﹁山 西巡 撫 祝世 呂 掲 帖し さ 特 ・キ 棟 副将 池 光 瑞 等 た女 河 を漫 り 先 に底 胤 が 陥 した読
ら に沈 海 ・劉 継 漢 ︵ 、 。
偽 守 備 後 に偽 総 兵 と称 す︶・郭 天祐 州 を役 し多 く の敵 を殺 し た ︵長 胤 ほ 遅 城 へ走 る︶ さ ら に

等 を九 仙 台 ︵ 陵 川 県 西南 の九 仙 山 か︶ に囲 み投 降 を促 す 臨 音 に進 んだ孟 の騎兵 ほ県 の東 の令 狐 村 で行共 の軍 八百 を
も はや逃 げ 路 を失 った反 乱 軍 の首 領 沈 海 は家 族 ・兵 丁件 二 強減 し ︵ ﹃康 熙 ・臨 苫県 志 ﹄ 七 六、 災 祥、 兵 択 ︶、 つ いで一河
、 、
十 七 人 と薬 より降 ったが 劉 ・郭 は これ に同 詞 せず 清 軍 津 も後 す ︵ ﹃実 録 ﹄ 巻 四十 五、 八月楽 巳︶。 ま た栄 河 で 止根

―- 29 -一
、 、
の火 器 に よ る政 撃 と半 月 間 の包 剛 の後 千 ,把 総 の割 を持 特 ・避 光 瑞 が偽 師白 持 を斬 り 始 氏 へ赴 ′ヽ 途 中 で偽 胎 年 通

つ魏 家 祥 ・張 希 舜 守 が 二人 の高 級 を たず さ え投 降 し た ︵な 術 強 万 を捕 え偽 師 張 万 全 を殺 した 章 京 杜 敏 下 の満 兵 L解
、 、
お ﹁梁 官 保 壮 献 紀 ﹂ で は九 仙 台 の平定 を十 二月 二 日と し 州 を復 し 流 氏 から聞 喜 へ向 か った根 特 は偽 都 書 邦 中 作 を
。 、 、
郭 天 祐 等 が 死 亡 し て始 め て 沈 海 が 降 ったと す る︶ こ の他 敗 り 八千 の敵 兵 を殺 す ︵﹃実 録﹄ 巻 四十 五 八月英 丑 ・

沢 州 で は偽 部 院 陳 社 ・偽 幣 算 道 何守 忠 が 柔 堡 を攻 撃 し て い 甲賞 ︶ 等 八月中 に蒲 州 一帯 の川 県 は西安 の活 軍 の猛 攻 に
、 、
たが 回 山 額真 石延 柱 に より捕 殺 さ れ 陽 成 に拠 った偽 総 よ って今 回 さ れ、 こ の後 反 乱 側 は険 に拠 って抵 抗 す る事 と
。 。
兵 張 斗 光 ︵本県 の人︶ L許 守 信 も韓 岱 年 に剰 減 さ れ た こ なる
う し て順治 六年 内 に溝 安 府 周 辺 の反乱 軍 も ま た跡 を絶 つ事 清 年 が 次 に 日精 し た の ほ虞 胤 と此,
昭宜 ︵
偽 元師 ︶ の机一る
と な る。 。
運 域 であ った 九 月 二十 二 日根 特 ・社 敏 ・避 光 瑞 が これ を

陥し 成 内 で韓 を斬 ったが ︵丙 ・八 ・七 三 五 ﹁山 西 巡 核 禁
、 。
仰平陽府 応 桂掲帖も 長 胤 の行 方 は不明 であ った ま た遅 城 包 囲 が
史苑 ︵
第四八巻第 一号︶
大 同総兵姜 理 とそ の反乱 ︵
渡辺︶
、 、
行 な わ れ て いた頃 反 乱 軍 が 維 州 を 田 み 岳 陽 を陥 したが う。 菱 壌 と 同様 に、 明← 李 自 戊← 清 と保 身 の目的 で接 替 し
、 、
3文 録 ﹄ な 四十 六 九 月 甲 威 ︶ 後 官 兵 に撃 退 さ れ て いる。 、
てき た彼 にと って 清 年 と互 角 に戦 って いる反 乱 軍 と 接 触
平 陽 府 の反 活 の動 き に関 連 し てぜ ひと も触 れ なけ れば な を保 つ事 も保 身 に必要 と考 え た のであ ろう か。 か か る両 端
ら な い のは李 建 本 の動 向 であ る。 手 の起 こり は浦 の巽 城 知 を持 す る行 為 は結 局 そ の身 を 亡ぼ す 事 と な る。
県 何 斯 美 が 曲 次 に住 む 李 姓 本 が 侶 乱 を計 画 し て いるL 祝世 こ の点 明 の年 夏 巡 撫 の李 長 凌 は辰 胤 等 の挙 兵 と ほぼ 同 時
呂 へ挙 首 し た事 に始 ま る ︵ ﹃実 録 ﹄ 巻 四十 六 、九 月 壬威︶、妥 、
に干 陸 で起 義 し 子 の李 弘 と蒲 州 ・解 州 へ進 攻 し て い る

城 で は数 年 前 から ﹁吟 々教 ﹂ 徒 が 蔓 延 し てお り、 六年 に は 、
合 小 限 紀 伝 ﹄ 巻 四十 六 列 伝 三十 九 ∧義 師 V︶。 李 虞 凌 父
そ の余 党 安 定 口が 郭 中 傑 等 と 合 し て城 を攻 め、 ま た 工永 強 子 の後 明 の意 識 は かな り強 いと いえ よう。
下 の兵 が 城 下 に押 寄 せ た事 もあ った ︵﹃光 緒 ・翼 城 県 志 ﹄ 運 城 回復 後 しば らく は戦 局 に大 き な変 化 はなく、 孟 喬 芳
、 、 。 、
巻 二十 六 祥 異 兵 焚 ︶ これ等 の戦 脚 の間 に李 建 泰 の謀 等 は西安 に引 返 し 余 党 平定 は ワクダ に委 ね られ た。 彼 は

頒 の嘩 が 広 ま った のであ ろう 事 実 山 次 に は平陽 府 城 を政 十 一月末 頃 ま で淋 安 ・沢 川 の鎮 圧 に当 り、 後 兵 を 西 へ向 け
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撃 し た平 徳 の部 下 が 進 入 し て いた ︵﹃光 緒 ・曲 次 県 志 ﹄ 巻 。
る そ し て六年 内 に平陸 ・内 城 が清 に復 し、 李 虞 唆 は河 南
、 、 。 、
三十 二 雑 余 志 祥 共︶ へ出 奔 追 い詰 められ た李 弘 は崖 よ り身 を投 じ て死 ぬ。 さ
李 建 本 は共 枚 末 に大 学 士 ・督 師 と な ったが 何 等 の功 を立 ら に彊 県 ・聞喜 も降 り、 偽 総 兵 康 姫 廷 が 投 順 し た ︵﹃実 録﹄
て る事 も なく保 定 で李 白 成 に降 った。 そ の後 清 に来 帰 し改 、 。
巻 四十 六 十 二月 辛 亥 ︶ こう し て年 末 に は反 乱勢 力 は李
、 、
め て大 学 士 と な ったが 順 治 二年 十 二月罪 に より擢 免 さ れ 姓 奉 の拠 る太 平 を中 心 に 吉 州 ・隈 州 ・郷 年 方 面 の衛 敏 ・
。 、
郷 里 に一尿 る 使 か 一年 半 と は いえ清 の文 官 の最 高 位 に在 っ 工 務憲 等 さ ら に反山 一帯 の郭 中傑 等 を残 す のみと な る。
た彼 の ﹁起 事 ﹂ は純 粋 な復 明運 動 と は みな しが た い。 ﹃逆 順 治 七 年 初 頭 に は偽 結 兵 中 亥 ・郭 中傑 ・魏 閲 ︵ 術 敏 か︶ が
臣 伝 ﹄ で は彼 が 山 次 に入 った土賊 に対 し通 謀 の書 を送 り、 、
帰 順 し 二十 余 日間 包 囲 さ て いれ た大 平 の李 建 本 も 清 に降
さ ら に何 期 業 を も 同 調 さ せ よう と し た と す る。 彼 はやが て った。 ド ルゴ ンは李 を殺 し そ の家 産 を没 収 し
た ︵﹃実 録﹄
、 、
土賊 と 共 に大 平 に移 るが そ の行 動 は反 乱 に呼 応 す ると い 。
巻 四十 七 二月 甲午 ︶ こ の結 果 平陽 府 全 川 県 が清 の版 図
う ょ りむ し ろそ れ を自 分 のた め利 し よう と し 。
用 た のであ ろ に復 帰 し た のであ る
さき に亡命 し た李 底 凌 は七年 六 月、 河 南 陳 州 で猫 えら れ

た ︵丙 ・八 ・七 五 六 ﹁山 西巡 撫 劉 弘 過掲 帖し た だ 虞 胤 おわ り に
︵映 西 の人︶ や平 込 で姜 建 勲 の軍 に内 応 ︵六年 四 月︶ し た

劉 三 元 ︵平 逢 の人 明 の率 人 よ り兵 部 主事 と な る︶ は依 然 こう し て明 ・清 交 者 の激 動 期 を 泳ぎ 切 った姜 壌 も白 から
行 方 知 れず であ った ︵甲 ・四 ・三 九 二 ﹁山 西 巡 撫 白 如 梅 題 が 首 謀 者 と な った反 乱 の失 敗 で逆 臣 と し て詠 減 さ れ た。 十
本 ﹂ に よ ると順 治 十 三年 にも 二人 の消 忠 は判 明 し て い な 七 世 紀 中莱 の政 治 。社 会 的 変 動 の中 で身 を 全 う す る事 は大
。 、
い︶ ま た順治 六年 五月 郭 中 傑 L 共 に垣曲 を臨 し た張 五 小 の官 長 にと ってき 難 の連 続 であ った。 あ る者 は 一王朝に

翁乾 隆 ・虹曲 県 志 ﹄ 巻 四 兵 防 ︶ は ﹁辺 王﹂ と 号 し章 京 、
殉 ず る事 に よ り ﹁名 ﹂ を准 たが 多 く は従 来 の政 権 を見 捨

杜 敏 の兵 と解 州 で戦 う ︵﹃実 録 ﹄ 巻 四十 五 八月 奈 丑︶。 そ て て新 政 権 に協 力 す る事 で ﹁実 ﹂ を求 めた。 も っと も新 政
し て郵 中傑 が 降 服 し た後 も 平 陽 府 南 部 の山 中 に拠 って いた ミ
権 カ直 ち に正統 王朝 L し て安 定 す る訳 はなく、 初 期 に は政
、 、
が 十 二年 正月 十 九 日清 軍 に よ り射 殺 され る ︵丙 ・九 ・八 治 の大勢 も そ れ に伴 な う ﹁実 ﹂ も変 化 ・流 動 しが ち であ
。 。
八三 ﹁山 西 巡 撫 陳 応 泰 掲 帖し る 大勢 はど う移 る のか、 如 何 にす れば ﹁実 ﹂ が 得 られ る

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こう し て 一時 は山 丙 の過 半 数 の州 県 を陥 した 一連 の反乱
か は官 僚 群 の垂 大 な関 心 の的 であ る。
も 平定 さ れ、 残 る は高 有 才 の拠 る府 谷 のみL な った。 こ こ
姜 壊 も ま た ﹁実 ﹂ を得 よう と し た官 僚 の 一人︱ ︱ と いう
も 七年 六 月 の保 徳 川 の陥 落 以 降 孤 立 し、 同年 十 月 呉 三桂 等 ょ り他 人 の犠 牲 は考 慮 せず ひ たす ら自分 の ﹁実 ﹂ と ﹁利 ﹂
によ り 回復 さ れ偽 経 時高 有 才 と先 に反 乱 年 に降 った孫 ■年
を求 め て己 ま な か った付 僚 の 一人 であ る。 機 会 主義 ,利 己
等 が 斬 られ た ︵﹃夫 録﹄ 巻 五十 一、 七 月 十 一月 乙卯︶。 そ の
主義 者 の彼 は 一政 権 下 の 一地 方 官 僚 ︵大 同 総 兵 ︶ に甘 んぜ

一ヶ月後 かね て よ り ﹁右 疾 ﹂ であ った清 の摂 政 王ド ルゴ 、
ず そ のた め自 己 の生 き た時 代 に存 在 し た 全 て の政 権 を一 業
ンも 略 卿 城 で忠 を引 取 った ︵三十 九 才 ︶。 。
切 った のであ る そ し て彼 の ﹁利 ﹂ への欲望 を満 足 さ せ る
政 権忘 ついに実 現 しな か った。 し かし彼 は か か る政 権 の実
現 に向 け プ ラ ンを練 って いた であ ろう。 こ のプ ラ ンは つき
つめれば 彼 自 身 を首 班 と す る政 権 を 目的 と し て いた と いえ
史苑 ︵
第 四八巻第 一号︶
大 同総兵姜理とそ の反乱 ︵
渡辺︶

よ う
始 め て官 僚 層 に支 え ら れ た 皇 帝 専 制 支
配 が 可能 と な る ので
彼 は目的達 成 に至 る過 程 で利 用 でき るも のは全 て利 し 。
用 ぁる
て いく。 清 の入関 は彼 を李 白 成 の束 から
縛 解 放 した点 で大

いに役 立 ち 交 山 提 民 軍 の奮 戦 は彼 の
反溝 の行 動 に少 な か 註
ら ぬ援 助 と な った。 た だ 入関 、
直 後 L 異 な り 已 に華 北 ・華 ︵1︾ ﹃清 史 列 伝 ﹄ 巻 八十 にも収 め る。
中 及 び率 市 の 一部 を略 定 し て いた 順治 、 ︵2︶ 寧 武 陥 落 の日付 ︵そ れ は姜 襲 の帰 の
五年 頃 の清 胡 は 姜 順 意 が 李 自 成 に伝 わ っ
を始 めL す る山 西付 近 の反 抗 勢 力あ み で
は覆 えす 手 はでき
な か った。 彼 の起 事 はそ の日的 に お い て時
機 が や や遅 き に
失 し た嫌 いが あ る。
結 局妾 壌 が頻 いた棄 に は彼 の個 人 と し て の野望 が き く


影 響 し て いようo そ の野望 の最 終 日棟 が 姜 氏
正胡 であ る か



- 32 -

否 か はと も かく いわ ゆ る復 明 のた め の行 動 でな い
辞製雛” 一
約裸鞠押ぱ
点 は確
実 であ ると 思 う。 こ の点 頼家 度 氏 が ﹁姜 嘆 的
反清 是謀利 的
、︺

→ ︶ ﹁
是 取 巧的 を 和 農 民 軍 的 発 於 民 族 自 衛 堅持 階 問
級 争是根 本

不同 ﹂ と評 し て いる ︵﹁呂梁 山 区 農 民 義 的
軍 抗市 闘 争 ﹂ ﹃中
国挫 民 起 義 論 集﹄ 所 収︶ のは青 定 でき る。
姜 襲 の自 立 への試 み は失 敗 したが、 同様 な 乱 が
反 約 二十 守
中諭
中中

功中
非︻

者申
中ぃ
中巾

ネ貯
拘︺

嘩い
一弛 ﹂事央き
年 後 呉 三桂 に よ って起 こさ れ て いる。 彼 の
意 識 ︱︱ ﹁利 ﹂
訂型﹂
弊殺味評沖し F2ぅ
が煩強F

の通 求 ・自 立 への野望 ︱︱ は異 にも 。
共 通 し て いる 明 ・清
︵6︾

交 若 の混 乱 期 に お い て、 大き な兵 権 と 力 を の 章
実 持 つ武 人 はか
つて の唐 代 の藩 鎮 のよう に ﹁自 立﹂ と いう に っ
夢 を見 やす か っ .
た のであ ろう。 そ し て これ等 武 人 の 巾帥申印二中 中車的
成 屋 ・横 行 を制 し得 て 中れ”中いい中的 を中 ﹃い抑中 中中中+

︵7︶ 輝源州の抵抗 の様子については古鴻飛 ・要子理編 ﹃雁北史 た のであ った そ の後 中 国 で註 ︵4︶o︵7︶で徹 れ た ﹃雁北
、 。 、 、
話﹄︵山西人民出版社 一九八五︶ の ﹁方三起義﹂ に詳しい 史 話 ﹄ ﹃清 代 人物 伝 稿 ﹄ 上 編 第 四巻 が 出版 さ れ 姜 自 身

また同書 には ﹁李自成在大同﹂・﹁姜壊抗清﹂ の項もあり 明 。
。 に ついて の記 述 も増 加 し て いる
末治初 の去 の動向及び反乱 の大概を記しており参考 になる 、
、 今 後 は妾 壌 以外 の渋 人 武 官 ︵特 に第 二芋 の二 で触 れ た
︵8︶ 王永強については不明な点が多 いが 明末延安付近 に駐し 、

た武将 で アジゲの西征 の除清 に帰付しそのまま原任 に留ま 金 声 桓 ・李 成 棟 ︶ の明末 清 初 に おけ る動 向 に ついて 他 の
ったようである。 。
復 明勢 力 L の関 わ り を も視 野 に入れ つ つ考 え た い そ の作
︵9︶ なお ﹁梁宮保壮歓紀﹂では沈海が溢安方面 へ向 か ったのは 業 に より改 め て清 初 ︵主 に順 治 年 間︶ の中 国唯 定 の経 過 と

粉州が清 の手 に落ちてより以降 ︵ 九月以降︶ の事とする 意 義 を 明 ら か にし たく 思 う次 第 であ る

︵元立 教 大学 工学 部 非常 勤 誰 師︶
補記

小 論 は筆 者 が 昭 和 五十 六年 度 後 期 課 程 研 究 報 告 書 と し て
五十 七年 ︵一九 八 二︶ 二月 に提 出 し た も のに若 子手 を加 え

-33-一

た も のであ る 当 時 姜 張 の反 乱 に つ いて の研 究 と し て は本


文 でも 触 れ た頼 家 度 氏 の ﹁呂梁 山 区 農 民起 義 的 抗 清 聞争 ﹂

翁 中 国農 民 起 義 論 集 ﹄ 所 収 ︶ が唯 一で 他 に謝 国禎 氏 の
﹃ 、 、
南 明 史 略 ﹄ ︵上 海 人 民 出 板 社 一九 五 七 一九 〇 頁 以 下︶
、 、
や ﹃清 初 農 民起 義 資 料 輯 録﹄ ︵新 知 識 出 版 社 一九 五六

三十 頁 以 下︶ に概 説 的 な記 述 が あ る位 であ った ま た頼 ・
謝 二氏 の視 点 は目 梁 山 区 ︵
交 山︶ 農 民 軍 の動 向 を中 心 に据
、 、
え て お り 姜 はむ し ろ脇 役 であ るが 前 掲 の報 告 書 で は姜
と いう 一武 人 の動 勢 が 大規 模 な反 乱 への拡 大 を も た ら した
と解 し て小 論 と同 じく ﹁大 同 総 兵 姜 要 と そ の反 乱 ﹂ と題 し
史苑 ︵
第四八巻第 一号︾

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