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2010 年度 卒業論文

●●●大学●●学部

物質的基盤からみる今日のポピュラー音楽
~『一億年レコード』についての考察~

harakocats2
目次
はじめに------------------------------------------------------------------------------------------------------2

1 複製技術とポピュラー音楽
1.1 音の複製の始まり-------------------------------------------------------------------------------4
1.2 フォノグラフの文字性--------------------------------------------------------------------------7
1.3 反復の実現-----------------------------------------------------------------------------------------9
1.4 電気録音が切り開いた新世界---------------------------------------------------------------10
1.5 自律した音響を作り出す「編集」---------------------------------------------------------12
1.6 デジタル時代におけるデータの自律------------------------------------------------------17
1.7 自宅録音と配信の現代------------------------------------------------------------------------19
1.8 技術の発展の分析の意義---------------------------------------------------------------------20

2 聴取と複製技術 ~「レコードを聴く行為」とは~
2.1 コンサートがなかった時代の聴取---------------------------------------------------------21
2.2 コンサートと自律音楽------------------------------------------------------------------------22
2.3 アウラの喪失------------------------------------------------------------------------------------24
2.4 永遠回帰と複製技術---------------------------------------------------------------------------26
2.5 レコードにおける差異と反復---------------------------------------------------------------27
2.6 レコード聴取とは------------------------------------------------------------------------------29

3 「経験」と化した音楽聴取
3.1 機会性と経験------------------------------------------------------------------------------------30
3.2 レコード聴取における「効果」------------------------------------------------------------31
3.3 経験と「生のアウラ」------------------------------------------------------------------------32

4 『一億年レコード』の美学
4.1「一億年」の意味---------------------------------------------------------------------------------33
4.2 iPod のなかの『一億年レコード』---------------------------------------------------------37
4.3 Ustream とまつきあゆむ 制作編---------------------------------------------------------40
4.4 Ustream とまつきあゆむ ライブ編------------------------------------------------------44
4.5 MP3 配信と資本主義--------------------------------------------------------------------------47
4.6『一億年レコード』におけるポストモダン性--------------------------------------------49

5 おわりに----------------------------------------------------------------------------------------------54
参考文献----------------------------------------------------------------------------------------------------55

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はじめに

本稿はポピュラー音楽に関して、その物質的基盤の影響を出発点として考察したもの
である。ポピュラー音楽についてこの様な視点から考察を行おうと考えたのは、自宅録
音家を自称するまつきあゆむが 2010 年 1 月 1 日に発表した『一億年レコード』
(図 1
参照)が私に与えた、大きなショックに起因する。

図 1『一億年レコード』に関する情報 (http://matsukiayumu.com/1oku/より作成)

まつきあゆむは 2010 年 1 月 1 日、
『一億年レコード』をほぼ一人で宅録機材を駆使
し自宅録音で制作し、発表した。そしてプロモーションだけではなくその流通まで、ダ
ウンロード販売によってレーベルに委託せずに彼自身でおこなった。アルバムは MP3
の音楽ファイルや 28 曲分の歌詞の PDF ファイル、ジャケットや歌詞カード、アート
ワークなどの画像ファイルで構成されている。またこの作品は、まつき本人によるダウ
ンロード販売以外の方法では販売されない。代金は銀行振り込みなどでまつきに直接支
払う。楽曲の著作権も本人が管理している。
またまつきは Ustream を用いて、全国各地でのフリーライブの配信や音楽の制作過
程を配信するなどの活動を行い、注目を集めた。彼は現代的な技術を効果的に用いた

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様々な活動を展開し、音楽業界に影響を与えている。そして変化し続けるポピュラー音
楽の新しい在り方と可能性を提示した。
しかし彼が展開した活動について、経済的な利点について賞賛することやまた反対に
批難するような話題に終始しては、ポピュラー音楽の本質に迫ることはできない。利点
と欠点を並べ立てるだけでは、優秀な資料とはなりえるかもしれないが、まつきの活動
の魅力を考えることにはならない。それでは彼が多くの労力を払って達成した結果を追
随することに終始した、空虚な文章にしかなりえない。『一億年レコード』について論
じ、達成すべき結論は、現代的な音楽産業の閉塞感を打破したひとつのアイディアとし
ての有意性や、その欠点ではない。私の関心は『一億年レコード』やまつきの活動と、
それにまつわる様々な現象から生じる美の論理化である。
『一億年レコード』がもたらしたショックは、「ポピュラー音楽とは何か」という途
方もないテーマを今一度回転させるエネルギーを秘めているのではないか。その命題を
考える為には、ポピュラー音楽がどう発生し、過去から現在に至るまでどういうもので
あったかを把握することが必要である。なぜなら、現代当たり前となっているポピュラ
ー音楽の諸要素が発生したときの外的状況は、その要素の内容に関わるからである。
その為に本稿ではポピュラー音楽と密接に関わってきた物質として、主に複製技術へ
の考察を深めることでポピュラー音楽の美学に迫っていきたい。そしてその論考を『一
億年レコード』という具体例のなかで機能させる。その思考運動が、今日的なポピュラ
ー音楽を論じることに繋がっていくことを目指していく。

第 1 章では、音響の複製技術の歴史を追っていく。レコード音楽やレコード聴取の諸
要素がどのように発生したのか。そして現在当たり前となっているそれらの要素の本質
を歴史に沿って論じていくことで、「レコード音楽の自律」について論じる。
第 2 章ではレコード聴取について論じていく。コンサート以前の聴取スタイルである
共同体的聴取や近代的コンサート聴取と、レコード聴取を比較する。またベンヤミンの
アウラの概念をレコード聴取に当てはめていく。そういった観点から、レコードが生む
同一な音響を反復して聴取することから生じる差異について論じていく。
第 3 章では音楽聴取が「経験」として重視されることについて触れる。機会性や操作
性、直接的効果などの観点から、外的要因が音楽と共存することについて論じていく。
第 4 章では、今日のポピュラー音楽の具体例としてまつきあゆむの『一億年レコード』
やそれにまつわる現象を取り上げて論じていく。複製技術に関する論考を中心に、ポピ
ュラー音楽に関する諸言説を参考にしつつ『一億年レコード』の諸要素に対する考察を
行う。一種過激な例として『一億年レコード』を取り上げ論じる実践を「ポピュラー音
楽とは何か」の再考とし、本稿を終える。

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1 複製技術とポピュラー音楽

山田晴通は「ポピュラー音楽の複雑性」のなかでポピュラー音楽を次のように的確に
定義している。

「ポピュラー音楽」とは、大量生産技術を前提とし、大量生産~流通~消費され
る商品として社会の中で機能する音楽であり、とりわけ、こうした大量複製技術
の登場以降に確立された様式に則った音楽である(山田 2003:12)

ポピュラー音楽は複製技術によって生み出され、大量生産大量消費を前提とした資本
主義的なシステムに則った様式のなかで確立していった。複製技術がポピュラー音楽の
様式を生み出したと解釈できる。複製技術と音楽は、どう関係し合うのだろうか。
この章では、主に細川周平の『レコードの美学』を媒介にして、音楽が複製技術とど
う関わってきたか追っていく。そして複製技術を中心とした技術が生み出した音響世界
の諸要素について考察を深め、レコード音楽の自律性について論じていく。「録音され
た音楽」や「電気で増幅された音楽」、
「編集を前提とする音楽」はどういうものなのか。
それは二次的な模写であり、偽物にすぎないのだろうか。レコードの歴史を詳しく追う
ことで、その問いへの答えを探っていく。

1.1 音の複製の始まり

音を複製し再生する技術の始まりとは、どのようなものだったのか。1877 年 12 月
『サイエンティフィック・アメリカン』Scientific American 誌にエジソンは「話
22 日、
すフォノグラフ」(図 2 参照)を大々的に発表した(エジソンの発明に数ヶ月先駆けて
フランスのシャルル・クロが同様の装置を考案していたが、実物を製作するにはいたっ
ていなかった。)。レコード史はここから始まると考えるのが一般的である。
ではこの「フォノグラフ」の完成にどのような技術的背景があったのだろうか。細川
は、「話すフォノグラフ」の完成の条件となった技術として、以下のような 4 つの背景
をあげている。
ひとつ目に細川があげているその背景は、音が振動であるという認識を視覚化する方
法が試みられていたことである。振動の視覚化は、1807 年にイギリスのトマス・ヤン
グが最初におこなった。彼は音叉のような形の金属の先に円筒を付け、弓で音叉をこす
りながら円筒を回転し、その上にひっかき傷を残す装置をつくった。その後同様の装置
はいくつか作られ、電気によって時間を測定する仕掛けもついてヴィブログラフ

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vibrograph と呼ばれた。これをもとにフランスのレオン・スコットは、1857 年にフォ
ノートグラフ phonautograph を発明し「物体の振動ではなく音」を拾い上げ、記録す
ることを実用化した。しかし、これらの技術に音の再生機能はなかった。
第二に細川が指摘した技術的な条件として、1876 年に A・G・ベルが発明した電話
があげられる。電話が音の空間的な伝達に関わるならば、フォノグラフはその時間的な
横断に関わった。音声の伝達は音の振動を電気的に変換する技術がベルの発明した電話
には応用されていた。
第三に、機械に話をさせる実験が進んでいたこと。18 世紀のウィーンには、管に空
気を送り込むと特殊なフィルターや共鳴体を通した音が「ママ」
「パパ」
「チェス」など
と聴こえる機械があった。こういった技術は今でいうスピーカーの部分の改良に寄与し
た。
第四の技術の系統としてオルゴールや自動演奏機械があげられる。これらはフォノグ
ラフの円筒の回転の維持にまつわる機構に関わるという。
フォノグラフ発明には、以上のような技術的背景があった。では、このような背景がフ
ォノグラフの性質にどう影響したのだろうか。

図2 エジソンのフォノグラフ
(増田聡・谷口文和『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』p.52 より作成)

第一に、音を別の形(視覚的情報、物理的痕跡)に変換していた背景はフォノグラフ
発明の大きなきっかけとなり、フォノグラフの特性を決定づけたとみて間違いはないだ
ろう。フォノートグラフの筆記の技術はフォノグラフに受け継がれている。そしてエジ
ソンの偉大さは、書かれたものとなった音を再生したという点にあるということが確認
できよう。またレコードの元祖といえるフォノグラフがこういった技術的背景から、エ

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クリチュール(書かれたもの)的性格を受け取ったということが理解できる。
次に、フォノグラフに最も影響を与えた電話が「音声言語」に関わる技術であったと
いう点は、非常に重要であると考えられる。フォノグラフの利用法としてエジソンが想
定していたのは、「音響」ではなく「声」や「言葉」
、「音声言語」であった。電話とい
う技術的背景は、蓄音器に対するエジソンの想像力を「言語」に向けたと考えられる。
また音を出す技術としてのスピーカーの開発をする上で「話す機械」の技術を主に参考
にしたということは、エジソンの関心が言語を再生するという方向へ向けられていたこ
とを示唆していると考えられる。オルゴールなど音楽にまつわる技術からは音響に直接
関与する技術を参考にしなかったという事からも、彼が自分の技術を娯楽として使用さ
れる事に関心がなかったと説明できよう。
当時の技術的背景このようにフォノグラフの特性に関与したと指摘しうる。これらは
音の複製技術の発展を追っていく上で、その元祖であるフォノグラフの性格をより正確
に理解する手掛かりになる。では実際のところは、フォノグラフがどう発明され、どの
ような用途を想定されていたのだろうか。
細川によると、ベルが電話を発明した頃には、エジソンにはすでに耳の病の兆候が表
れていた。音を耳で判断することが出来ず、振動盤に針を付け指先で音を感じていた。
このことから指の代わりに紙テープを置き、音を記録できると思い至った。音が空気の
振動である事を聴覚ではなく触覚で認知したのだ。
この発明のエピソードから、蓄音器は音を聴覚以外の別の感覚でとらえなおすことか
ら始まったということを、再確認出来るだろう。
また、エジソンはフォノグラフの利用法の中心に音楽を想定していなかった。エジソ
ンは『ノース・アメリカン・レヴュー』紙に蓄音器の 10 の利用法を投稿した。利用法
として第一に挙げられたのは速記者に代わる「言葉の記録」であり、音楽への利用は「音
の本」「話し言葉の教育」に次ぐ 4 番目となっている。反復性ではなく保存性を念頭に
置いたエジソンの技術的想像力に、音楽の複製がはいる余地はなかった。エジソンのこ
うした発想の原因としては、フォノグラフの音質が極めて悪かった事や、5 から 6 回の
再生で溝が摩耗してしまったことなど、技術的な面も大きい。しかしそれだけでなく、
いままでの議論から浮かび上がってきたフォノグラフと「言語」の密接な関係が、利用
方法の想定におけるエジソンの想像力を規定したと考えられる。
音の保存の元祖であるフォノグラフは主に「音声言語」の保存による音世界の拡大を
想定していた。そしてそれは、レコードの「溝」が視覚的なものであり、文字性を帯び
ているという指摘と関連しあうのではないかという仮説が浮かび上がってきた。複製さ
れた音響の「文字性」は、レコードの始まりであるフォノグラフの時点ですでに概念と
して存在していたという指摘は重要である。ではこの「レコードの溝の文字性」は楽譜
などにおける文字性と、どのような点で異なっているのだろうか。

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1.2 フォノグラフの文字性

細川によると、レコードは当初より音とエクリチュール(=文字性。書かれたもの)を
結びつけるものと考えられていた。19 世紀における自動演奏楽器の金属のツメは、音
を出すための仕掛けであった。それに対してフォノグラフの溝は音の痕跡である。「音
が書いた」痕跡である。それがリプレイされるときは音の「原材料」が音響をその場で
生産するのではない。
細川は自動演奏機械とフォノグラフの違いを詳しく見ていくことでレコードの文字
性を論じていく。自動演奏機械が音を出すまでの過程を追うと、まず原曲の楽譜がある。
次に編曲作業が必要に応じてある。そしてそれを基にしたロール制作作業を経て、ロー
ルが機械に取り付けられて、機械が稼働することで音が出る。音は楽譜によって規定さ
れ、ロールが音を生産する。これはフォノグラフの音の生産過程とは逆の方法をとって
いる。フォノグラフはすでに存在した音に関わり、自動演奏楽器はこれから存在する音
に関わるというところに、決定的な違いを見出せる。
では 1904 年にヴェルテ社が発売したヴェルテ・ミニョン(自動演奏ピアノ)はどうだ
ろうか(図 3 参照)。

図3 スタインウェイ&ヴェルデ製の自動ピアノ
(http://www.shinwamusic.com/blog/183.html より作成)

ヴェルテ・ミニョンは演奏の細かい強弱やペダル操作のニュアンス付けて記録すると
いうこれまでの機械演奏にはない技術を実現した。これはオルゴールやオーケストリオ

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ンの場合と異なり、演奏を記述する性格をもつ。まず作品があり、次に演奏する人間が
いて、演奏がロールに記録される。最後に自動ピアノにかけることで、記録が再現され
る。「原音忠実」という基準から判断すれば、ピアノ自体を鳴らす自動ピアノほど忠実
なものはない。しかしこれは本当に音を複製しているといえるのだろうか。
「ロールに記録された孔」はハンマーの物理特性を基にしたエクリチュールでしかな
く、音は間接的に関わるのみである。音はハンマーが弦を叩いた瞬間に中断され、その
音は自動ピアノによって生産を達成する。音響を別の媒質に変換し、それをまた音とし
て読み取り再生するといったフォノグラフの原理とは性格が異なる。自動ピアノは過去
の音響を再現する装置ではなく、中断されて猶予されていた音を、中断されていた所か
ら出発させる装置である。
細川はさらにアドルノの言説を基に、楽譜と「レコードの溝」の文字性の違いを論じ
ている。アドルノは、楽譜は理念的には音響を作品として同一化するためのものであり、
音符などの音楽記号はそのために表現のフォームを規定されているとした。しかし音楽
言語は、記号とその指示された音響の間に現実的に亀裂が入っている。そのため楽譜の
文字性は、暗号のようにイデア的な音響を解読されなければならないものとして立ち現
れる。いわば「読み取り甲斐のあるもの」としてだ。これに対しレコードの音溝は機械
的に音響を記号に変換し、物象化したものであり、音響がすでにそこに住みついている
ため、読み取るべき真理がない。アドルノはこのように、レコードを物象化された音の
残骸だと批判する。
細川はこうしたアドルノの指摘を、作曲者の思想を高く評価しすぎ、機械的な模写を
ネガティブにとらえてしまっているところに間違いがある、と批判を加える。音溝は音
響を機械的に記号化したものである。楽譜も音溝も、記号化による、生の音に対する差
異の体系であることに違いはない。どちらもそれ自体は鳴り響かず、潜在的に音を含む
のみである。
また細川はウィトゲンシュタインの理論を用いて、起源を求めることが重要ではない
という論考を展開する。物象(楽譜・音溝)は実在(音響)のひな形である一方、それ
自体一つの存在であり事実である。また物象と実在は「描写」という規則の形式で結ば
れ、それは物象から実在へでも、その逆でも行き来できる通路である。よってレコード
も楽譜も、音響を描写するという点においては同格であるといえる。さらに細川による
と、楽譜を演奏する者の身体的規則も、レコードを再生する機械的しくみも、模写の関
係を損ねる要素とはなりえない。録音も演奏も模写であり、録音は演奏に従事せず、同
格な位置にいるといえる。
これらの比較は、レコードが音響と文字性を機械的に結びつけたという意味で新しか
ったことを明らかにする。自動演奏ピアノのロールに記録された孔の物理特性を基にし
た文字性とはまったく異なるという点は、レコードの特性として重要である。楽譜の文
字性とレコードの文字性の同じ部分と違う部分を確認することで、録音が演奏に従事し

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ないということが明らかになり、音響と物象の関係を理解するのに役立った。レコード
の溝は「音響が筆記する文字」であり、それはロールの孔とも、楽譜の音符とも異なる。
しかし「音響を保存すること」しかできなかったフォノグラフは、音響の複製技術と
してはまだまだ原始的であったと言える。現代的なレコードの他の特徴として重要なの
は、「反復可能であること」である。では、同一な音響の反復はどのように可能となっ
たのだろうか。

1.3.反復の実現

細川によると、すでに述べた通りエジソンは音声言語の保存のための装置としてフォ
ノグラフを考案し、音楽の反復はオルゴールのような玩具のすることに過ぎないと考え
ていた。そのような彼の思いとは裏腹に、フォノグラフの性能を示すために再生された
音楽演奏は、聴衆を驚かせた。しかし、フォノグラフの性能上の問題(極度に低い音質、
5,6 回再生で摩滅する円筒)が一向に解決されなかったため、その名声は長く続かなか
った。エジソンは 500 台で、フォノグラフの生産を中止してしまった。
エジソンが実現しなかった「音の複製」はエミール・ベルリナーによって達成された。
ベルリナーが 1887 年に開発した「グラモフォン(gramophone)」の特徴は、録音の媒体
をシリンダー型からディスク型に変えたことで、溝が刻まれたワックス板から金属の型
を取れるようになったことだった(図 4 参照)
。大量生産に必要な「原盤」の誕生であ
る。

図4 ベルリナーのグラモフォン
(増田聡・谷口文和『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』p.57 より作成)

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シリンダー型で大量に同じ音の記録を作るには、その数だけ蓄音機を並べ必要があっ
た。一度に並べることができる台数はせいぜい 20 台ほどであったためそれ以上の本数
を作るには、何度も作業を繰り返さなければいけなかった。それは同じ音響の大量複製
とはいえない記録であった。これに対してグラモフォンは音の振動の物理的な痕跡をコ
ピーし、同一な音響をコピーした。グラモフォンが可能にした音の反復の重要性につい
て、細川は次のように指摘している。

、 、

我々にとって重要なのは、エジソンが音溝のエクリチュール即ち差異という概念
、 、

に到達したならば、ベルリナーは盤自体の複製即ち反復という概念をレコードに持
ち込んだということである。(細川 1990:77)

ここでは、差異と反復はそれぞれ、「音響から音溝へ」の書き換えという意味での差
異、「音溝の複製」という意味での音響の反復を意味している。ここに音の複製技術の
2 概念がその片鱗を見せ始めた。ここでレコードに持ち込まれた「差異」と「反復」の
概念は以後、意味を深化させながらレコードの本質と深くかかわっていくことになる。
それ以降の 30 年は、音質向上と録音時間延長と操作性改善にささげられ、技術史の
観点からは特筆すべき事柄はないと細川はいう。差異と反復の概念がレコードにもたら
された後は、しばらく技術的な観点から特筆すべきことがないという事実。それはこの
2 点がレコードにとってひとつの到達点であったこと裏付ける。この 2 点については 2
章以降で詳しく触れる。
ここからは技術史に沿って、どのような技術が音楽に影響を与えたのかを順に確認し
ていこう。もちろんいうまでもなく、これから取り上げるすべての技術とそれが生んだ
音響や概念も、現代の録音音楽に内在している。次節では、電気録音が「生音」の概念
をどう塗り替えたのかみていく。

1.4.電気録音が切り開いた新世界

細川によると、電気録音はマイクロフォンがその技術的本質を明らかにすることで成
立した。マイクロフォンが音の波形を電気波に変換するようになると、それを再び音に
変換するための増幅装置である電気スピーカーが誕生した。1920 年代になるとヴィク
ター、コロンビアなどの大手レーベルから電気録音盤が発売され始めた。電気録音では
音波を電気的フォームに変換し再び音波にするため、電話の技術が役立った。電気録音
の進歩として 1925 年前後にベルの研究所が、周波数帯の拡張や、電気録音のレンジを
カバーするような再生装置の開発などの成果をあげ、レコードに電気録音の恩恵をもた
らしていたといえる。しかし電気録音されたレコードは全面的に聴衆に受け入れられた

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わけではなかった。古い蓄音機に聞きなれた人はまるでラジオのようなそのサウンドに
反感を覚えたという。
細川はこれを、体性感覚に回収されない所与である新しさのショックであると説明し、
慣れによって自然の一部になるものであるとした。反発は新旧を分ける基準となり、電
気録音はレコード史のひとつのパラダイムとなっている。
増田と谷口もこのことに関して次のように端的に述べている。

この繰り返された歴史が教えてくれることは、「生の音」と「人工的な音」の関係
とは、人が新しいテクノロジーに触れたときに起こる違和感に起因するものであっ
て、「何が人工的か」は時代に応じて入れ替わっていく、相対的なものにすぎない
ということである。(増田・谷口 2005:74)

聴き手が新しい音響に対して覚える違和感は、相対的な価値判断にすぎず、それをも
って批判を行う事は妥当ではないということがわかってくる。聴き手は「慣れ」によっ
て、人口的な物を自然の一部として認識していく。
では電気録音がレコード製作者に与えた影響としてどのようなものがあるのだろう
か。細川によると録音者にとって電気録音の重要なポイントは、録音レベルを調節でき
るようになったことである。マイキングの技術やスタジオ特性の把握、音楽家の並べ方、
レベルの調整といった「技術」が録音に求められ始めた。レコード製作者には、音楽の
知識だけではなくテクノロジーの知識が要求されはじめたのだ。盤の素材の追及の時代
は終わり、マイクロフォンと増幅装置の開発時代へ突入していく。それはつまり、音響
の複製の技術開発の指向が、触覚的変換から電気的変換へ移行したこと意味する。
では電気録音は、演奏者や歌手にどう影響したのだろうか。細川によると、機械録音
で歌を録音することは「劇場用の自然な声」をホーンに向かって吹き込むことであった。
つまりホーンは歌唱のあとからやってくる外部の技術的対象であった。
しかしマイクロフォンは音に対してではなく音に即して存在し、歌手の傍らに立ちと
もに歌うものであると細川はいう。つまりマイクロフォンは単に音を拾い上げるだけで
なく、新しい音響の構築に貢献したのだ。その新しい音響のひとつとして、電気録音に
よって増幅可能となった繊細な音、小音量の音があげられる。甘くささやくような歌声、
、 、 、 、

「クルーナー(crooner)唱法」である。これはもともとマイクロフォンを通した声として
しか存在しない。クルーナー唱法による音響がマイクロフォンに依存しているという事
実は、あるホールが独自の音響特性を持ちどんな演奏もその特性を越えることができな
いことと、同様であるといえる。細川は、あらゆる楽器はテクノロジーの所産でありそ
れを内面化することは非人間的とはいえないどころかむしろ精神を拡大するというオ
ングの論を肯定し、マイクロフォンが広げた音響世界を正当化している。
増田と谷口も同様に、電気録音は単に音楽を記録するためのものではなく、新しい音

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響世界を生み出すための装置としての地位を獲得したと述べている。そしてそういった
新しい音楽世界は PA(public address)装置として生演奏の領域でも実現されていく。ク
ラシック声楽の「ベルカント唱法」が人間とホールを関係付けるための技術だとすれば、
クルーナー唱法もまた人間とマイクを関係付けるための技術であったと述べている(増
田・谷口 2005)。
ここでの論考は「技術がもたらした新しい音響は非人間的であるといえるのではない
か」という、今後幾度も繰り返される議論を考察する上でのヒントをもたらす。今では
電気的に音を増幅するのは当たり前のように行われているが、はじめはそれが不自然と
批判を受けていたのだ。そしてそれは違和感に起因するため、慣れによって自然に感じ
られるようなっていく。よって新しい音響に関する不自然さを非人間的であると批判す
るのは不毛である。
電気録音が完璧なハイファイを可能にしたと思われた矢先に起きた次の革命として
次節では磁気テープによる編集を取り上げる。テープ編集はレコード史上最大の革命を
もたらした。それは一体どんなものだったのだろうか。

1.5.自律した音響を作り出す「編集」

細川によると 1898 年、デンマークのヴォルデマー・ポールセンによって開発されて


いた磁気録音は、ドイツにおいて針金リール録音装置として実用化された。46 年には
アメリカのアンペックス社によって磁気録音テープが商品化され、普及した。そしてオ
ランダのフィリップス社が発表した「コンパクト・カセット」などが普及するにつれ、
レコードからテープへ、家庭でダビング行う時代が到来した。またテープ録音は家庭用
マイクロフォンと組み合わされて、一般の素人が録音しダビングをする機会を作り出し
た。
そしてテープ録音がもたらした効果の中で最も本質的な点は、演奏後に自由に切った
りはり合わせたり重ねたりできる点であった。
増田と谷口によると、ピアニストのグレン・グールドは編集を用いて「演奏」をより
完璧にレコード上に作り上げることを目指した(図 5 参照)。そしてついには 1965 年
に、もう二度とステージ上で演奏しないと宣言した。複数の音楽的時間を編集すること
でより、ステージでの演奏を超えた「理想的な演奏」に近づくと考えたのだ。磁気テー
プ以前の録音スタジオではいいテイクが出るまで何度も演奏しなおしていたが、磁気テ
ープの登場によっていくつものテイクのいいところを切り貼りして一つの演奏として
組み上げる事が可能になった為である(増田・谷口 2005)

細川もテープ編集に関してグールドを取り上げ、グールドはテープ編集をインスピレ
ーションの対象であると考えたと説明している。演奏と編集は、録音された音響に対し
て同等の重要性を持つようになったのだ。編集という操作に関してアドルノは、それを

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音楽の主体性をゆがめ、コンサートにあるべき緊張感の対極に位置するものであると批
判した。しかし、制作過程の事情を知らずに聴くと、グールドのレコードは接合の後を
聴きとることができないものであった。重要なのは編集されたことを知覚できないとい
う点にある。問題は接合するかどうかではなく、レコードのなった音がどのように表れ
るか、聴衆がどう知覚するかにあると細川はいう。

図5 グレン・グールド (1932-1982)
(http://asanagi987.blog27.fc2.com/blog-entry-662.html より作成)

しかし、こういった「理想的な演奏」は従来の意味での演奏と本質的な違いはなかっ
た。技術は「より良い演奏の実現」に従事することになる。ポピュラー音楽の領域から
は、磁気テープの技術的な可能性をよりラディカルに活用したレコードが登場する。
ビーチ・ボーイズが 1966 年に発表した「グッド・ヴァイブレーション」では、ブラ
イアン・ウィルソンが、マルチトラックを用いて一人の声でコーラスを作り上げた。一
人の人間がコーラスするという現実世界ではありえなかった音響が実現したのだ(増
田・谷口 2005)。
さらに、マルチトラック・テープによって可能になった音の世界の全貌を広く知らし
めたのが、ビートルズが 1967 年に発表したアルバム『サージェント・ペパーズ・ロン
リ―・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band)』だった(図
6 参照)。このアルバムが実現した新しい音の世界とはなんだったのだろうか。細川や、
増田と谷口の論考を参考にしながらひも解いていく。

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図6 ビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリ―・ハーツ・クラブ・バンド』
(http://www.amazon.co.jp の商品ページより作成)

細川によるとこの作品は、重ね取り、テープ接合、効果音、逆再生、エコー・チェン
バーなどの技術がポピュラー音楽とは切り離せないことを明らかにした作品であった
という。4 トラックの録音機を 700 時間使って作り上げた 40 分は、演奏不可能な音響
だった。
細川は『サージェント・ペパーズ』でのアプローチを次のようにまとめている。

その前に発売された『リボルバー』Revolver でもテープの逆回転や早回しが使わ
れていたが、
『サージェント・ペパーズ』はコンサートの客席のざわめきやオーケ
ストラの音合わせの「具体音」から始まり、四十二人編成のオーケストラを四回重
ね録どりしテープ速度を変えたりずらしたりしたグリッサンドで終わる。そのあと
に三〇秒ほどの間をおいてテープ操作による人の声がはいっている。曲のインター
バルもレコードの一部として計算されていて、統一感を出すのに役立っている。ま
た昔の遊園地か市場の雰囲気を出すために手回しオルガンのテープをランダムに
刻んではりあわせ、それにハモンド・オルガンをテープの早回しで重ねる部分もあ
れば、曲のエコーも曲ごとに変化をつけている。にわとりの声で終わった曲を切れ
目なく電気ギターで拾って次の曲に続ける箇所もある。レコードの両面に同じ曲が
違うヴァージョンで収められ、一貫性を表現したのもこれが初めてである。レスポ
ール以来の曲の音の操作は曲ではなくアルバムのレベルで押し進められ、テープ音
楽から半世紀前のティンパンアレイの音楽まで、アングロ・アフロ・アメリカの伝
統からインドの伝統までが、
「サイケデリックな」サウンドをベースに折衷されて

14
いる。(細川 1990:100)

『サージェント・ペパーズ』を聴いた事がない人でも、技術が生んだ想像力が音響に
莫大な影響を与えたこの逸話には、圧倒されることだろう。細川は、この作品において
ビートルズやプロデューサーのジョージ・マーチンの哲学が、生の楽器音もオリジナル
ではないし増幅された音もそうではない、というところまで達していたとする。どんな
に原音忠実を追い求めようと、録音が原音ではありえないことが、ここでは欠点ではな
く本質として表現された。スタジオの仕事とホールの仕事は全く別物であり、「オリジ
ナル/コピー」という対立図式自体、レコードを考える上で誤りである事を、制作をも
ってして証明したのだ。
増田と谷口も、『サージェント・ペパーズ』におけるビートルの実践について、それ
は「作曲」、
「演奏」、
「録音」といった作曲者から聴衆にむかう線的なコミュニケーショ
ン過程を前提とした概念を無効にした、と主張する。グールドは「演奏者」と音楽の新
しい関係を切り拓く実践を行った。これはミュージック・コンクレートで行われるよう
な、楽器や和声の枠を超えすべての音を素材に「作曲」することで楽器や「演奏」を排
除し限界を超えようとした機械音楽の発想をラディカルに拡張した実践と比較可能で
あるという。いわば、グールドの実践は「演奏の理想化」でありミュージック・コンク
レートは「作曲の理想化」であると指摘している。(図 7 参照)

図7 録音音楽の基本的な線的構造と、「作曲」の理想化、「演奏」の理想化の比較
(増田聡・谷口文和(2005)『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』p.81
より作成)

また、増田と谷口はミュージック・コンクレートとグールドの編集の違いを、時間の
側面から比較している(図 8 参照)。グールドの作り上げる音響は、素材の段階ではテ

15
イクの数だけ時間の流れが存在しているが、それらを編集によって同じ時間軸上に揃え
ることで生演奏と同じ時間の流れを作り出す。一方ミュージック・コンクレートでは素
材を思うように並べ替え、反復させ、細かく切り刻むことでまったく新しい時間的秩序
を構築することに、作曲家の能力をつぎ込むのだ。これはテープ編集が、ミュージック・
コンクレートでは「作曲」の理想化の為に用いられ、グールドの編集では「演奏」理想
化につぎ込まれたという事を示す。

図 8「時間の編集」の違い
(増田聡・谷口文和(2005)『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』p.78 より
作成)

ところがビートルズの実践に関してこの様な対立図式や概念は意味をなさない。あら
かじめ作曲された作品があり、楽譜がありそれを演奏し録音するという、音楽線的のコ
ミュニケーション過程が崩壊しているのだ。なにが作曲でなにが演奏なのか、どこまで
が編集でどこまでが作曲なのかを定義することができない。よって従来の概念を用いて
ビートルズの実践を記述することが不可能になっているというわけである(増田・谷口

16
2005)。
さらに『サージェント・ペパーズ』は「コンセプト・アルバム」を提起したことでも
重要であると細川はいう。この LP はシングル・ヒットを十数枚集めたものでなく、ま
たコンサート演奏を忠実に収録したものでもなく、ジャケットのデザインも含め、全体
と聴き通して完結する「作品」であると主張する LP で、ここに芸術としての LP は頂
点を極めた。それは、これまでシングル志向であったポピュラー音楽をアルバム志向に
変え、3 分単位では収まりきらない表現を躊躇しなくなった、という次元に留まる革命
ではない。90 周年を迎えていたレコードの歴史を顧みてもこれほどの革命はなく、エ
ジソンがフォノグラフによって「音のエクリチュール」という概念を作り出して以来、
レコード史にとって最も重要な創造の一つであると、細川は強調する。

レコードはこの段階に到達して初めて他のタイプの音楽、具体的には生演奏にも
とづく思索に対抗しうる実践的な概念となった。以前ならば録音の美学は音楽美学
の下位に位置づけられていたかもしれない。しかし録音を考えることは今や音楽を
考えることとは同じではない。そこには音楽の一部が含まれるが、普段はそこに含
まれないノイズや録音に必要なテクノロジーも同時に思考することに他ならない。
、 、

これまでよりよい録音を目指してきたレコードの歴史は、これ以降よりよい概念へ
向けて舵を変える。(細川 1990:102)

増田と谷口は「最初から缶詰として味わうことを目的とした音楽」の誕生と、この時
期に起こった概念の変化を表現する。このように『サージェント・ペパーズ』による革
命は果されたのだ。
磁気テープがレコードにもたらした 2 つの大きな変化は、
「レコードの作品性」と「レ
コード音楽の自律性」に関わる。ビートルズもグールドも、レコード音楽をコンサート
では再現できないとし、脱コンサートを宣言する。これはコンサートより下位に位置す
ると思われていたレコード音楽がその美学的自律性を実践的に獲得したことを示唆す
る。この時期になってようやく、コンサート音楽とレコード音楽は、実践を基に、どち
らがいいでも悪いでもなく、全く別物として自律し始めたのだ。このことに関しては、
第 2 章で詳しく触れていく。ここでは引き続き歴史に沿って、データとしての音楽の自
律に関してみていくことにする。

1.6.デジタル時代におけるデータの自律

増田と谷口によると、録音テクノロジーに歴史における第三の転換点となっているよ
うな現代的なあり方に至るまでに、
「音声のデジタル化」と「録音技術の消費者への普
及」を押さえておく必要があるという。

17
増田と谷口によると、音声のデジタル化の歴史は、1971 年に PCM(Pulse Code
Moduration パルス符号化変調)方式の録音機を使ってマスターを作成した初のレコー
ドが発売されたのが始まりであった。PCM 方式とは音の振動を電気信号に変換した状
態で、ある瞬間の電圧を記録し、数値に置き換えていくシステムである。まるで連続写
真を撮っていくような仕組みといえる。人の耳が聴きとれる音の高さは約 2 万ヘルツ(1
秒間に 2 万往復する振動)とされるため、一秒間に 4 万枚の写真を取れば、理論上は人
間の聴こえる音をすべてカバー出来ることになる。この「写真を撮る」と形容される作
業をサンプリングと呼ぶ(増田・谷口 2005)

細川によると、CD 以前はデジタルで録音したものをアナログでミックスしアナログ
のマスターを作成していたため、そのデジタル化は不完全であった。録音からマスター
までの全ての段階をデジタルで処理するようなり、デジタルサウンドが人々の耳にじか
に感覚されるようになるには、CD の普及を待たねばならない。1979 年に、ソニーと
フィリップスが開発したコンパクト・ディスクはアナログレコードに不可避に付きまと
う再生音の务化を克服した。
増田と谷口はこの技術革新によって、音の記録が物理的な媒介に支えられる必要のな
いデータとして自律したという。デジタル・データは媒体の物理的な特性に依存しない
ため、記録媒体を選ばない。0 と 1 の配列データさえ取り出せれば、音響は完全な状態
を保つことが出来る。またデータが記録媒体を選ばないように、記録媒体もデータの内
容を選ばない。そのため CD のような記録媒体上では、音も映像も文章も同じ次元で扱
うことが出来る。それは PC の普及によって実践的なものとなっていく。すべての音楽
の制作と消費がマイクロプロセッサ上でのデジタル・データの処理へと還元され、音楽
実践は技術的な観点からは制作と消費とに区別できなくなったというのが、増田と谷口
の主張である。CD は曲順を組み替えることやサウンドを加工すること、サンプリング
をも容易とし、音響をより多様な利用法に開いた、と指摘している(増田・谷口 2005)。
また細川も、デジタル化によって音響は完全に自律したデータとなったと指摘する1。
テープ録音でも主体と切りはなられた音響の場がすでに形成されていた。しかし、CD
ではその場は曖昧に広がるのではなく数値データの集積となった。「原音」に対するコ
ピーなどではない。音響とデータの間の情報の損失はなくなった。音楽を物理的な構成
体として解読しきったとも言える。細川は回線を通じて音楽のデータを供給する仕組み
について言及し、その時には音響の機械的な、あるいは電気的な信号も磁場もなく、数
値が音響の「本質」となると指摘する。

1細川が指摘するデータの自律とは、19 世紀的な、社会の中で規範に守られながら独立領域を形成する
ようなイデオロギー的自律とは異なる。イデオロギー的な自律音楽については「2.2 コンサートと自律音楽」
で詳しく触れる。

18
しかしデジタル化された音響は、もともとは芸術的であったかもしれないが、それ
とは無関係の数値に転換され、あとから音響化された数値としていつでも呼び出せ
る。このデータはインプットされた音響以外のなにものにも依存しない。また操作
者にも関わらない。データには全体性という概念も持続という概念もない。完全に
自律的であるため集団的で、適切なネットワークを通じてあらゆる場所・時間に偏
在する。また時間や使用による磨滅がなくあらゆるリプレイの瞬間が同等に「現在」
であるのも、デジタル・テクノロジーの特徴である。それは消去することはできる
が务化することはない。その聴き手は古典的な意味で音を聴くのではなく、むしろ
音を検索し、聴覚器官に翻訳=適合させているのである。(細川 1990:109-110)

デジタル・テクノロジーによって音響は自律性を完全に獲得したという指摘は重要で
ある。細川がインターネット上での音楽配信について、それが実現した時に数値が音響
の本質となるという指摘を行ったが、それはいまや現実となっている。磁場もレーザー
も物体もなく、ただ数値のみが音楽に関わっている。この、データとしての自律の意味
を理解するにはレコードの元祖であるフォノグラフにすでに宿っていた文字性を思い
出す必要があるだろう。私がエジソンのフォノグラフについても触れなければならなか
ったのはこのためである。
細川は、録音技術の歴史を追うことは、音響が主体を離れて自律していく過程を追う
事であるという。またその歴史は、技術が音の内部に浸透し美学の構成要素となってい
く過程であった。デジタル・テクノロジーは音響を損失なく記録し、記録媒体の物質的
側面に依存しないという点で、それまでの技術は異なっている。これはそれまでの技術
の延長線にある技術として認識される事で初めて明らかになってくる特性である。

1.7 自宅録音と配信の現代

録音技術の現代的な特徴として、録音機材がデジタル化され、広くアマチュアの手に
渡っていることがあげられる。それはインターネットと組み合わされ、音楽の制作と発
信の形態は大きく変化している。
望月寛丈は『ウェブ時代の音楽進化論』の中で、音楽の制作機材がデジタル化したこ
とで「使い勝手の向上」と「低価格化」が実現したと指摘している。音楽会社の専売特
許であった高質な録音の敷居は下がり、音楽の質が全体的に向上し、最高点の向上には
貢献しなかったものの、平均点は向上したとしている。そうして作られた音楽はインタ
ーネットを媒介にすることで、多くの人の耳に届けることが可能となったと望月は指摘
している(望月 2010)。
こういった今日的な音楽制作と流通に関しての論考は、4 章で具体例を通じて突き詰
めていくことにする。

19
1.8 技術の発展の分析の意義

この章では、録音・複製技術の発展と、それがもたらした音響や概念の変化について
みてきた。まったく同じ音響が大量に複製可能であることも、マイクロフォンがささや
くような歌声を拾い上げそれをアンプリファーが増幅することも、音の断片を編集して
ひとつの音響にまとめあげることも、現代ではあまりに当然の事として受け止められて
いる。しかし技術が新しい音響を実現するたびに、技術は段階的に音響に浸透し、レコ
ード音楽は段階的に自律性を獲得していったのだ。
それを踏まえずに現代的な視点のみで分析したところで、録音された音楽の自律性を
正確に把握することは不可能である。録音技術に関する現代的な現象を考えるときには、
それを歴史の延長線上にあるものとして見つめなければならない。
ポピュラー音楽は複製技術によって生み出され、複製技術の発展によって自律性を獲
得した。現在当たり前になっているレコード音楽の各要素も、技術の発展と共に段階的
に獲得されたものである。よって音響の複製技術史を考えることは、レコード音楽の自
律性を分解して把握することであり、ポピュラー音楽分析の基礎であるといえる。
次章では 1 章で確認したレコード音楽の自律性について、コンサート音楽との対比を
通して考えていく。

20
2 聴取と複製技術 ~「レコードを聴く行為」とは~

この章では引き続き、細川周平の『レコードの美学』を媒体に「レコードを聴く」と
いう行為自体について考えていく。断わっておきたいのは、レコード音楽を聴くという
経験が聴く者の内面にどう働きかけるのかといった、内的な効果に関してはここでは触
れないということだ。この章では外的にレコード聴取という行為を判断する論考をみて
いく。具体的には、コンサート音楽とレコード音楽の比較を行っていく。
そのためには音楽聴取の形が歴史的にどう変化してきたのかを見ていく必要がある。
ここではまず、コンサート以前の音楽聴取としての共同体的聴取や、コンサートが生ん
だ自律音楽に関して確認する。その後レコードをはじめとする複製技術がもたらした
「芸術のアウラ」の死と、その死によって変化した「生のアウラ」について論じていく。
そしてレコード聴取とコンサート聴取に関して、差異と反復がどのように働いているの
か確認し、レコード聴取の美学を突き詰めていく。

2.1 コンサートがなかった時代の聴取

細川によると、ベッセラーはハイデガーの日常性分析をコンサート成立以前のヨーロ
ッパの音楽生活に応用し、〈共同体的音楽〉Umgangsmusik というタイプを設定する。
それは具体的には労働歌、礼拝の音楽、祝宴の歌、ジャズや、わらべ歌など日常生活と
結びつき、聴き手が積極的に参加するようなものも含んだ。それは演奏会やラジオ、レ
コードのように大衆を相手にする音楽生活でなく、聴き手の生活の必要性と強く結び付
き、聴き手の輪が音楽と共に広がっていくような営みである。社会的なやりとりの手段
としての音楽ともいえる。コンサートでの聴取のように作品を対象化し距離をとって価
値判断を下すという事はない。ベッセラーは、豊かで生命力に富んだ前近代的な音楽共
同体が変化し、19 世紀の音楽生活において人々は疎外されるようになったと主張して
いる。
ベッセラーはハイデガーの影響を受け、日常の構成において「気分」を重視した。
「気
分」は日常性の基本的な事態に属する。白紙状態の現存在に気分という色づけが後から
されるのではなく、それは常に既にその都度気分づけられている。気分は感情とは異な
る。感情は特定の外的対象ないし事態に対してある志向性を持つものであるが、気分は
日常的でありながら対象化しにくく、力の及ばない最下層を形成するものである。ベッ
セラーの考える共同体的音楽はこの「気分づけ」に関わる。

それは対象化しがたいがある共同体のある機会の根本的な色調を決定する音楽で
あり、十分に形式化できないかもしれないが、限定的な生活圏から作り上げられ、

21
人々のまさに日常的な往来・なりわいの欠くことのできない要素と考えられている。
(細川 1990:120)

細川が共同体的音楽を取り上げ、「気分」との関わりを指摘したのは、現代的な聴取
のなかで「気分」に関わる経験が再び浮き上がってきているためであると考えられる。
「気分」とは日常的かつ根源的なものであり、それはレコード音楽が日常的ななりわい
に浸透していくことと関係する。レコード音楽が、人々の日常的な気分に関わることに
ついて論じる前に、演奏会的音楽、いわゆるコンサート音楽について触れなければなら
ない。不特定な聴衆を相手に個人的な表現を伝達しようとする演奏会音楽とは一体何で
あり、コンサートにおける「自律音楽」とは聴衆にとって何であったのか。

2.2 コンサートと自律音楽

細川はベッセラーの指摘を取り上げコンサート音楽について論じ始める。ベッセラー
は演奏会音楽の成立について、近代の始まる宗教改革・反宗教改革の世紀にひとつの変
化がみられ、過渡的な十七世紀を経て十八世紀に完成をみると考える。コンサートの誕
生によって身の回りの気分に関わるものであった音楽が、聴き手の想像力・構成力の能
動的参与を促し、音楽を聴く主体が確立していく。聴き手は統一性をまとめあげる力を
音の流れに働きかけるようになったのだ。共同体的音楽の〈共に〉という接尾語は演奏
会音楽では「後から」に入れ替わる。音楽は純粋に感覚的な対象となり、感覚的な媒介
可能性が目的でありかつ根拠であるような存在となった。
細川は続けてコンサートについて、ハンス=ウェルナー・ハイスターの研究を基に論
じていく。コンサートは一方では美的な理念を実現する場であり、もう一方でその理念
を経済的・社会的に具体化する生々しい場である。そしてコンサートは、「自立音楽」
の現実化の場であるべき、とされた。そのテーゼにおける「現実化」は三つの軸によっ
て理解可能であるという。それは「音楽が鳴り響くこと」、
「受容や生産によって媒介さ
れた主体的な関与によって美的感覚や意味を聴き取ること」、
「経済的背景を揃え、音楽
活動を物質的に遂行すること」と整理できる。
細川はなかでも「聴衆の存在」をコンサートにとって不可避の条件としてあげる。コ
ンサート音楽の自律は聴衆が音楽への没入することによって保証される。そして作曲家
は聴衆の没入に適合した音楽を制作し、コンサートという制度に参加する。またコンサ
ートは理念上、日常生活から距離を保ち自律した一文化領域を形成しており、それは音
楽への没入を促す。ではそういった没入を正当化する思想は、どう説明可能なのか。
細川は没入を正当化する思想を、芸術をその他の人間の活動とは干渉せず感覚によっ
て媒介され昇華された精神的なるものの獲得以外の目的を持たないことで純粋な領域
とみなす思想であるという。しかし、コンサートは、
「政治的・社会的・経済的な次元」

22
と「美的・音楽的・芸術的な次元」とを矛盾なく交わらせながら、後者がより自律して
いるとする場であった。それは没入の理念と矛盾している、と指摘可能だ。またコンサ
ートにおける「純粋な音楽」というイデオロギー的な自律は、聴衆という外的で副次的
な存在によって支えられる。よってコンサートは理念的・意図的な自律性と、一回性と
いう現実的で偶発的な他律性が拮抗する場であると理解できる。
音楽的な感動は、この時代に発見されると細川はさらに続ける。感動が発生するため
にはまず個人が自分と切り離され完結した音楽と接し、そのうえで距離を無にするよう
な働きかけが舞台からなされ、それを受け入れる個人の協力が必要となる。それは日常
的な音楽であったような「音楽と生の一致」とは根本的に異なる。コンサートは演奏者
と聴衆の分離が前提とされ、それが音と心の一体化によって止揚されるという構造が見
出せる。ここに音楽に対する自発的な受動性をみることができよう。
さらにコンサート音楽の聴取に関して細川は、ブルジョワ的時間感覚を基に論じてい
く。歴史学者ドナルド・ロウが「ブルジョワ的知覚」と名づけた感覚が、コンサート適
合性を生んだと細川はいう。ロウは「ブルジョワ的知覚」の根底を、〈空間における表
象〉に変わってその時代に認識の秩序となった〈時間における展開〉とする。認識が空
間的な表象と切り離された線的な〈時間における展開〉を基盤とすることで、空間にお
けるある秩序を別の空間における秩序と時間の展開として結びつけることが可能とな
った。それは、過ぎ去りながら、過去と未来と現在が結びついているような時間を認識
する感覚である。そうした時間感覚は、聴いている現在がこれまでに聴いた、またこれ
から聴くあらゆる音とひとつの総合的な関係を結ぶという「作品」に独自な概念を生み、
それはコンサートにおける集中的聴取と補完しあう。コンサートに適合した音楽はまと
まりのある全体性を持つようになる。
さらに細川は集中的聴取にみられる線的構造を、演説・言説の性格を備えるものに似
た性格を持つと論じる。コンサート音楽は全体性と関わりながら時間の展開に沿って完
結に向けて進行するものとして知覚される。また、音を通して感覚領域から知的領域へ
跳躍をおこなう。演奏者と聴衆が時間の遅れも空間隔たりもなく現前するとき、音楽は
主体の表出であるという意味での「語り」の性格をもつ。コンサートにおいて音楽に対
する理解は、生きられた人間によって行われる為、それは非常に儚く移ろいやすいもの
であると言わざるを得ない。聴衆は簡単に作曲者や演奏者を裏切り、その美的な志向性
を無視、誤解することができる。また、即時的効果によって美的な質が判断されてしま
うという点も重要だ。それは、聴き手と演奏者が内的な時間を共有することと関連する。
音楽への没入を肯定しながら不必要な視覚的要素として、コンサートで演奏者の姿が見
えるようになっていることが多いのはなぜか。それは生きた演奏者を見ることで、内的
な時間を共有するためである。
そうしたコンサートの現実は、その観念的な自律性と相容れない。コンサートにおい
て音楽が自律しているべきとする理念は集中的聴取を要求する。しかしその線的構造は

23
演説的な性格を持っているため、聴衆と内的時間を共有するという側面を切り離す事が
出来ず、コンサート音楽は現実的には他律的であるといえるのだ。
細川はコンサートをめぐる議論を、「作品」概念を取り上げて締めくくる。コンサー
トはあらゆる音楽を無差別に作品化する装置である。それはブルジョワ的知覚の時間感
覚を根底におくというのは、すでに述べたとおりである。では「作品を演奏する」とい
う行為はどう説明可能なのか。それは「無限のポテンシャルを持ちながら同一化された、
抽象的な作品」を「差異を現実化し認めさせる演奏をする」ような行為であると説明で
きる。同じ作品が演奏され反復されることで、それぞれの演奏の差異が浮き彫りなる。
そういった反復を制度化することがコンサートの本質である。演奏の一回性は、線的な
時間の中ではじめて意味をもつ為、この制度はすでに述べたブルジョワ的知覚のひとつ
の帰結であるといえる。
「作品の同一性」と「演奏の差異」を現前するための反復の制度としてのコンサート
という理念がここまで論じられてきた。しかしこうした理念は複製技術によって崩壊す
る。それは一部の前衛などによってなされるものではなく、大衆のレベルで行われたの
だ。それをヴォルター・ベンヤミンは「アウラの喪失」と表現した。

2.3 アウラの喪失

細川はベンヤミンが提起した複製技術論の礎として、アウラについて論じる。細川は、
アウラの概念を整理することからはじめる。細川はアウラを「自然界におけるアウラ」
と「歴史の場にもちこまれたアウラ」をそれぞれ、「生のアウラ」と「芸術のアウラ」
に区別しており、本稿でもこの用語を使用してアウラの概念を区別して扱うことにする。
細川の論考を基に 2 つのアウラについて整理していく。
細川は「生のアウラ」とは、観察・鑑賞といった主体と切り離された行為でなく「呼
吸する」ように対象を取り込みつつ、隔たりを感じ、近づき難さを感じるような感覚を
呼び起こすものと説明する。これは崇高さの矛盾であり、
「聖なるもの」の特質である。
「呼吸する」瞬間は特権的であり神秘的である。その特権的瞬間は遠い過去を呼び覚ま
し、未来への希望を与えるという神学的なトーンを生み出す。「生のアウラ」は時間的
にも空間的にも近さと遠さを同時に体現する。
「生のアウラ」は多様な解釈が可能な概念であるが、私なりの解釈をここで行ってみ
たい。日差しの角度や風のにおいが、ふとした瞬間に過去の映像や感覚を脳裏に呼び覚
ますことがあるだろう。こういった体験を「生のアウラ」の一種として理解しておくこ
とは、これからの論考を理解するうえで助けとなるだろう。
「芸術のアウラ」では重点が、思いがけず訪れる心情ではなく「物に固有な知覚様式」
に移行し、
「一回性」が重視される。このアウラは複製技術時代の大衆を批判する要素
であり、十九世紀の遺産である、と細川はいう。芸術はこのアウラをよりどころに「ほ

24
んもの」として経験を正当化していたともいえる。
しかし技術的な複製においてものは、依って立つべき「ほんもの」や「オリジナル」
はなく、モノはあらかじめ偏在するものとして存在する。例えば映画はそれがあらかじ
め、
「複製し偏在させる」という前提を製作のなかに盛り込んでいることがよくわかる。
複製技術は一回性が保障していた芸術的経験の正当性を崩してしまった。それが「芸術
のアウラ」の崩壊である。
しかし「生のアウラ」は、人が追想にまとわりつく心情を失わない限り決して消え失
せることはない、と細川はいう。さらにこの 2 つのアウラは常に関係しあう為、一方が
「喪失」したときにもう一方の動きは「痕跡」として指示される。痕跡は追想を可能に
する。細川はベンヤミンの課題は「芸術のアウラ」が消失する時代に「生のアウラ」は
いかに痕跡として変貌し、いかに追想され保持されるかを問いただすことにあるとする。
ベンヤミンは作品のなかの自己を沈潜させる、19 世紀的な集中型の接し方に対し、
自己の中に作品を沈潜させる複製技術の散漫な接し方を弁護したと、細川は説明する。
「集中的意識」は自律的な芸術しか認めずに、閉鎖的な自己満足をするだけの態度を生
んだが、「散漫な気晴らし」はそれに、即物的な習慣によって対抗するとした。精神の
緊張より「習慣」が、確固たる全体性より「なんでもない、ふとした印象」が有意義な
こともある。「大衆は気晴らししか求めない」という昔からの嘆きぶしにベンヤミンは
抗議する。芸術に対して散漫な態度をとることで達成される知覚の深刻な変化と深化に
立ち向かうことができるのは、大衆を動員する場においてであるとベンヤミンは主張す
る。細川はベンヤミンが目指した哲学を次のようにまとめる。

ベンヤミンにとって複製技術によるアウラの喪失は、制作に携わる人間にとって
もそれを受容する人間にとっても「革命的」な出来事であった。経験の根源として
、 、 、 、 、 、

のもうひとつのアウラはしかし、こうした知覚変動の反作用でもなければ、避難所
でもないことを確認しておかなくてはならない。決して無垢な幼年期を夢見ること
が経験の源泉というわけではない。あくまで複製技術や都市生活による時空間の編
成の変質の中で、経験の希薄かもしれないが決して無意味ではない根源を問う肯定
的な哲学を作り上げているのである。(細川 1990:156)

ここまでの論考は「ほんもの」が消失し「芸術のアウラ」が崩壊してしまった複製技
術時代に、「芸術のアウラ」の痕跡としての「生のアウラ」が経験を変化させた、とま
とめることができる。これをコンサート音楽や音楽の複製技術にまつわる論考の中に当
てはめてみる。
「芸術のアウラ」は、コンサート音楽の理念と合致する近代的概念であ
る。レコードはコンサート音楽がよりどころにしていた「芸術のアウラ」を喪失させた
といえよう。ベンヤミンは「芸術のアウラ」が消失すると「生のアウラ」が変化すると
論じている。では、レコード音楽の誕生によって変化した「生のアウラ」とは、どう説

25
明できるのだろうか。この疑問に答えるには、複製技術が何をなし、それがわれわれの
内面にどう働きかえるのかを整理する必要がある。

2.4 永遠回帰と複製技術

細川はベンヤミンの断片をヒントに、複製技術と永遠回帰の思想を結びつけ共通の場
を見出していく。複製技術というテクノロジーの産物が、哲学的教義としての永遠回帰
とどう関係し合うのだろうか。
細川は、19 世紀に本格化した「同じ」製品の大量生産という事態が「同じもの」と
いう概念を人々の心に浸透させたという。そしてそれと対比的に「違うもの」や「新し
さ」という概念が「芸術のアウラ」をもって神経症的にたちあらわれたという。「一回
性」という輝きの背後に「同じもの」の無数の氾濫を見出したのだ。
細川によるとベンヤミンは、新しさに取りつかれた時代の症候を別の時間意識の誕生
と理解したという。
「新しさ」は製品の刺激剤として重要となる。その対極にある「古
さ」は陳腐なものとされ、その二つの浮き沈み、すなわち「流行」というモノと時間の
ダイナミズムの循環が成立した。しかし「新しさ」と「古さ」という概念そのものは、
循環しない時間、過ぎ去る時間を前提にしている。
こういった矛盾を細川は、「新しさ」は反復されたものを陳腐なものとして否定する
が「新しさ」は反復を肯定することからしか生まれない、と説明する。さらに細川は、
アドルノの論考を参考にしながら、流行がもつ「新しさが常態化し新しいということ自
体が古くなる」という側面を取り上げる。アドルノはこれを否定的ニュアンスとともに
論じたが、ベンヤミンはそこに希望を見出す。ベンヤミンは仕組まれた新しさとしての
流行に近代の救済を見出したのだ。
細川によると、流行は人々へ「束の間のもの」、
「一回性」という価値を植え付け、
「引
き返せない時間」、
「過ぎ去る時間」という概念を浸透させた。それはそれまで神学や哲
学の文脈で語られてきた「永遠」に新しい意味を与える。「回帰する永遠」である。細
川は永遠回帰の具体的な現れを、大量生産や複製技術のなかに見出す。細川は生活環境
における永遠回帰を、各瞬間の微細な「破局の永続」と説明する。そして各瞬間の存在
は生成の連続として把握され、前進する時間は背後に反復時間を抱える。永遠回帰とは
直線的な近代時間に対する円環的な原初的時間を指さない。

それは近代的な時間の最も根本的な相であり、破局が前進する時間の中で頭を持ち
あげた時に初めて意識される。新しさは先を争って到来する。しかしそれがすでに
あったことの反復であり、その場その場の根拠にしたがって差異が生み出されてい
ることを認識するとき、時間は回帰する。永遠回帰は抽象的な教説である以上に、
、 、 、 、

近代人の日常生活のトーンを決定する実践的な概念なのである。ベンヤミンはボー

26
ドレールが同一なものから得られる新奇なものに重心をおき、ニーチェはむしろ反
復される同一なものに力点を置いたというが、彼らは結局ひとつのコインの裏表に
なっている。差異は反復からしか生産されず、反復は差異なしに認識できないから
である。(細川 1990:182)

複製技術は「新しさ」という価値を生み、流行という現象を生んだ。しかし流行は「新
しさ」自体を常態化し古くするとアドルノは批判した。ところがベンヤミンはそこに救
いを見出した。そして細川はそこに回帰する永遠を見出した。もちろん回帰した時間は
まったく同じものではなく、そこに差異はあるが、反復は差異なしに認識できないと、
細川は主張する。次節ではこういった、複製技術時代の差異と反復がレコード聴取にお
いてどう現れているのかをみていくことにする。

2.5 レコードにおける差異と反復

細川は、レコード知覚の領域での差異と反復について論じる。その為にまず、音楽の
「複製」とは何を再生産するのか説明していく。作曲を生産と考えると演奏が再生産と
なり、演奏を生産と考えるとオーディオ機器による再生が再生産であるといえる。細川
はそれらふたつの再生産に優务はなく、それぞれ聴取における操作の違いを問題にすべ
きとする。コンサート聴取とレコード聴取には、まったく別の特質があるというのが細
川の主張である。
細川によると、コンサートという抽象的な場に適合した音楽としての「絶対音楽」が
生まれたことと、作品の同一性が確保されたこととは関係する。何度も同じ作品を演奏
するということは、コンサートでの演奏が二度と繰り返せない独自性を持つことと表裏
一体である。コンサートという装置は白紙として認識され、そこに立つ音楽に自律性が
イデオロギーとして定着した。しかしその自律性という理想は、コンサート・ホールの
現実的で物理的条件との間で齟齬が生じた。ホールごと、客席ごとの音響の違いはその
理想に反した。また聴衆は身体を消去された純粋に理念的な存在であることが求められ
た。こういった意味で、コンサートにおける「再生産」は作曲の風下に位置し、従属す
るものと認識されることになる。こうした考え方を前提にし、具体的な聴取のあり様を
身体的で感覚的なものであり幼稚と考え、理念の没落しか見いだせなかったのがアドル
ノである。

2.5.1 一回性
コンサートの美学は「一回性」にあり、その根拠は直線的な時間の不可逆性にあると
細川は説明する。それは〈今・ここ〉を、存在の絶対的な高みとしての「同一性」や「抽
象性」に持ち上げる。それは、アドルノが〈今・ここ〉を相対化するレコードをまがい

27
ものとした原因となる。また、その場で過ぎ去りゆく儚さが音楽の根本的な美学の性質
であるという考え方は、作品の同一性、演奏の反復不可能性という表裏一体をなす理論
に基づく。これに加えてコンサート演奏は作品の現実化であり、演奏者と聴衆という二
つの主体性がぶつかり合う事でその都度更新されるべきであるとし、「固定されてはい
けない」というのがアドルノの主張であった。そういった考えを持つアドルノにとって、
レコードは演奏の二次的な還元に過ぎず、束の間であるはずの音楽を物象化するもので
あり、批判の対象であった。
作品の同一性と演奏による差異を核においた美学にとって、〈今・ここ〉が分散され
る偏在化することは付随的かもしれない。しかし差異と反復の思想は逆にそれをすくい
あげる。

2.5.2 操作
さらにコンサートとレコードの聴取の違いとして、聴き手の操作の違いを細川は取り
上げて論じる。コンサートはあらゆる音楽をホールに持ち込むことを可能にしたが、レ
コードはそれをさらに押し進め、あらゆる音楽を生活に自由に持ち込むことを実現した。
時刻や音量、聴く姿勢や態度はすべて聴く人の自由となり、とびとびで聴くことや、
BGM として流す事も可能になった。それはコンサート聴取とまったく異なる実践であ
る。聴衆は持ち合わせの知識と能力、その都度の気分や感情に限定されながら音を操作
する。また無意識的に無視する、聞かないというのもそういった操作の重要な一つであ
る。コンサートでは集中的聴取が理想とされたが、レコードはこうした操作を肯定する
ことで、「聴取モデル」という概念自体を無効にしたと細川はいう。

2.5.3 反復
さらに細川は、レコードを何度でも聴けるということと同じ作品を何度も聴けるとい
うことは区別しなければならないという。レコードの反復可能性は回帰する時間の中で
の差異に基づく。一方、作品の再演可能性は前へと進む時間の中での同一性に基づく。
レコードは回帰によって肯定され、回帰するたびに差異を生むものである。

コンサートにおいて作品は演奏のたびに異なる音響的現実を生むが同一性を固守
し、レコードはプレイのたびに同一の音響的現実を生むが差異性を主張する。作品
は再演されうるが反復されえない。レコードは再演できないが反復されうる。作品
において「再び」現れるのは同一のイデーであり、レコードにおいて「再び」現れ
るのは異なる「回」である。(細川 1990:193)

レコードは再生のたびに差異を生産する。それはレコードが生む音響の同一性がもた
らす差異である。

28
2.5.4 遅れ
さらに細川は、録音されたものの「遅れ」を指摘し、生演奏との違いを説明する。生
演奏は演奏されたものと聴かれたものの同一性・同時性を根拠にする。演奏者と聴衆が
同じ時空間で相手を確かめ合いながら反応することが、生演奏の本質である。一方レコ
ードにおいて聴き手は遅れて登場する。なぜならば録音自体が「原初的に遅れたもの」
であるから。あらゆる痕跡は原初的に遅れている為、差異からしか始まりはないという
デリダのエクリチュール論は、レコードにぴったり当てはまる。「遅れ」とは差異を意
味する。差異が原初的である事柄の上で、「起源」や「オリジナル」の想定は無意味に
なる。「オリジナルがない」ということが起源になっていく。何かがまず存在してそれ
から差異が生まれるのではなく、両者は一気に現れる。録音中の生演奏をオリジナルと
呼び、複製された演奏をコピーと呼ぶことは、間違いである。録音された演奏は全く別
のもとして自律する。このことについては第 1 章で論じた通りである。細川によると、
こうして「オリジナル/コピー」=「主人/奴隷」という、同一なものを本質とし、唯
一なるものに向かう求心的な思考は転倒する。レコードは、差異を保ちながら反復する、
オリジナルという同一性から解放された存在として肯定される、とするのが細川の主張
である。

2.6 レコード聴取とは

ここまでレコードの聴取がコンサート音楽の聴取とどう比較できるのか確認してき
た。そしてレコード聴取における「アウラの喪失」や、
「差異と反復」、
「操作」
、「遅れ」
などについて提起してきた。次章ではそれらの考察を基に、聴取における内的経験に関
する考察を行っていく。2 章で提起してきたキーワードを有機的に結びつけ、レコード
聴取がわれわれの内面に与える影響についてみていく。
その論考は、複製技術によって変化した「生のアウラ」とはどういうものなのかを説
明することに繋がっていく。

29
3 「経験」と化した音楽聴取

3.1 機会性と経験

レコードは音楽をいつでもどこでもなんどでも聴きかえすことができるようにした。
音楽が本来持っていたはずの時空間に対する制約を無視し、あらゆる瞬間あらゆる場所
を音楽の為の機会とした。レコードは、コンサートが行ったあらゆる音楽を純粋な音響
性として平準化する場の創造を、さらに徹底した。
細川はここでガダマーが提起した概念である「機会性」を説明する。例えば肖像画な
どにおいて、機会的な意味は制作時に埋め込まれ、作品に記録・記念品といった性格を
もたらす。そしてこれは演奏や演劇など再生芸術で特に顕著である。機会的な意味が演
奏の本質であり、不可欠な存立条件となる。演奏の機会性に対し、音楽作品の機会性は、
あらゆる機会に開かれた「普遍性」を意味する。機会が普遍化し、普遍性がその都度の
機会によって繰り返される。この位相の転移は、コンサート音楽によくあてはまる。コ
ンサートの時間は具体的な機会性を持たず抽象的と考えられたが、それは作品の客体化
と関係する。コンサートは「機会的な普遍性」を実現し、一回ごとの機会的な演奏を、
普遍的な次元においても同時に実行した。一方レコードは、再生芸術たる音楽をさらに
再生し、音楽を根源的に機会的なものにした。レコードは時空間の制約から音楽を解放
し、あらゆる機会を音楽的にした。コンサートにおいて理念的に普遍化された機会は、
レコードによって現実的に偏在化された。
細川はこういったレコード聴取は作品単位では行われず、そこには作品概念を温存し
たまま実現する、現実的な音楽の存在様態があるという。それは、レコードの聴き手が
恣意によってその作品の一部だけ聴くこと、その場の偶発的出来事などと組み合わせる
こと、聴き流すこと、などを指す。レコードはこうした身勝手な聴取に適合し、部分的・
偶発的に聴くことでしか得られないものを生み出した。また、つまみの調節をはじめと
する「文化的操作」によって聴き手は自分の好みをもてあそび、自身の好みを作品に与
える。このようにして聴き手は作品との関係を「環境的な経験」に変える為、芸術的な
経験は後退する。つまみの調節は音楽を、音響に還元された対象としてのみ関わること
で可能となる。これはレコード音楽が、どんなに断片化されても伝えうる事柄としての
「サウンド」の洗練を実行していくことと関係する。
細川によると、レコードの聴き手は音楽を適合的に聴きとりはせず、音の意味をその
都度並べ替えながら作曲家や演奏者とは違う音響の意味を見出すという。その都度偶発
的要因が混入するが、そういった外的要因を「環境的」な聴き手は受け入れる。

レコードの良き聴取者とはそうした偶然を肯定し、偶然のあらゆる断片を結びつけ、

30
宿命的で必然的な聞こえてくる音の全てを肯定する人間のことである。反復可能性
とは、単に何度も同じ音しかレコードから聞き取らないことではなく、レコードを
かけるたびに、レコードをかけている場をたまたま通り過ぎるときに、宿命的な世
、 、 、 、

界の本性として音を聴き直すことである。(細川 1990:217)

環境的な経験は、日常生活に新しい形態を生み出したときに創造的なものとなる。作
品内の真理内容は重要でなくなる。音楽は真理なしでも生きていける。環境的な経験に
おいて重要なのは真理ではなく、
「効果」であると細川はいう。

3.2 レコード聴取における「効果」

細川はここで、ニーチェの立場である「真理の仮象性(現れたもの(=仮象)のみに
真理が宿るという言説)」を媒介に、「効果2」を説明する。仮象とは非感性的な真理を
映し出す二次的な像にすぎない、という考え方を覆す。感性的なものの肯定が「真理の
仮象性」である。感性的なものは真理に従属するのではなく、現実的で、効力に結びつ
く妥当性を持つ。
聞こえた通りのことが真理であり、それ以上のなにものも存在しない。また細川はド
ゥルーズのいう、効果なしに意味が生成されることがないという論理を発展させ、効果
されたものが既に意味であるという。それを踏まえて、レコードによって消去された演
奏者の身体を細川は持ち出す。そこに演奏者がいないことでレコードは、目の前にいる
人間の視覚性と聞こえてくる音の同時性から派生する身体性ではなく、「音自体が内包
する身体性」を強調することに成功したという。レコードはライブの代理経験ではなく、
まったく別の身体性を聴き取ることを可能にした。
さらに細川は「効果」を次のように説明する。洞窟の中の人間に、洞窟の外の何かが
映し出す影を見せる。洞窟の中の人間には影が虚像だとさとす「外」がないとき、影は
原型を反映するのでなく、壁の凹凸に即して影は凹凸し、影の観察によって見えてくる
のは影の本体ではなく壁の本性である。「効果」とはこの影であるといえる。しかし岩
壁は白紙ではない為、影を変化させる。岩壁は風化も浸食も受け入れる。この岩壁は効
果と共鳴する「環境」である。レコードにおける価値基準は「効果」であり、サウンド
である。それは「環境」と深く関わる。
細川によるとレコードは音楽にとって新たな「潜在態」として機能する。「潜在態」
とは既にある現実の一つでありながら、複数性を現在化する性質をもつものである。リ
プレイされた音は、音響としては同一であるが、環境の差異によって〈多〉となる。レ
コードに収められているのは(磨滅を考慮しない限りにおいて)無限回分の反復が可能
な音響である。録音は回帰する数分という永遠を作り出す。一枚のレコードには永遠性

2「効果」をここでは主体に感覚された感性的なものの生成と定義する。

31
に達する時間が潜在態として刻まれている。n 回分の再演奏はすべて、ひとつの作品と
いう時間に収束するため、レコードのリプレイとは異なる。レコードの永遠は、
「環境」
の差異による〈多〉を基盤に実現される永遠であるといえる。
レコード聴取においては近代的な意味での「作品」は揺らぐ。「作品」に代わって、
現状に即した理念として美的「経験」が浮上する。

3.3 経験と「生のアウラ」

レコードは作品概念を無視し、
〈今・ここ〉の経験に関わると細川は指摘する。作品
概念は無視され、美的経験は質を変える。「作品」というこれまでの芸術理論の基本的
な概念を無視し、聴取という経験に新しいやり方を付け足す。それは音楽作品を分解し、
編集して聴くというやり方である。不適合な聴き方において重要なのは今まで論じてき
たように、機会性と操作性、直接的・経験的な効果(サウンド)である。経験とは作品
ではなくサウンドに依存する。そして美的経験とはあらゆる場・音に潜在する感覚的な
ものを顕在化することである。反復のたびに顕在化する差異を汲み取ることである。
ここに「2.3 アウラの喪失」で置き去りにした問いの答えを見出すことができないだ
ろうか。レコード音楽の誕生によって変化した「生のアウラ」とは、どう説明できるの
だろうか、という問いだ。「生のアウラ」とはまさにこの章で説明してきた、レコード
聴取における「経験」であるといえるだろう。音楽作品という芸術が日常生活に入り込
んで、その作品性は消失したが、
「作品」の痕跡としての「経験」が浮上した。
これはポータブルプレイヤーによる音楽聴取を想像すると分かりやすいのではない
だろうか。いつもの電車のなかで聴くいつもの音楽であっても、その時のさまざまな外
的要因(気分や天気など)が、その音楽による内的影響を左右する。
それは近代的な、集中的聴取と完全に異なる。レコード聴取においては、聴いている
(あるいは聞いている、もしくは聞き流している)音楽に作品性があったとしても、そ
の作品性のみで聴き手の内的影響を説明しきることはできない。様々な外的影響は、反
復される「まったく同じサウンド」と同時に認識されることで、それまでありえなかっ
た形の「差異」を産む。聴き手の美的志向は「作品」でなく、外的要素を内包した聴取
の「経験」として説明される。
聴取における「芸術のアウラ」は複製技術によってその価値を失った。しかし痕跡と
して残った「生のアウラ」は新しい形でわれわれの前に立ち現れたのだ。それは例えば、
あの日あの時あの場所で聴いたレコードをリプレイした時に、傍らにいた人の顔の輪郭
をふと思い出すような経験である。それは「同一」の音響を生み出すレコードによって
のみもたらされる美的差異経験である。これが、複製技術によってもたらされる「生の
アウラ」である。

32
4 『一億年レコード』の美学~ポピュラー音楽の美学を目指して~

この章ではこれまでの論考を基に、
『一億年レコード』やまつきあゆむの実践におけ
る、ポピュラー音楽の美学を論じていく。その為には複製技術が音楽に与えた影響に関
する論考を総動員しなければならない。なぜならまつきが『一億年レコード』で決行し
た革命は、複製技術の発展に関わるからである。そしてポピュラー音楽に関する論考を
適宜参考にしながら、論考を深めていく。
現代的なポピュラー音楽の端的な例としてまつきの実践に対する考察を深めること
で、ポピュラー音楽の今日性を論じていく。

4.1 「一億年」の意味

この節では『一億年レコード』の作品性について「一億年」という言葉の意味を掘り下
げることで考えていく。まつきあゆむは『一億年レコード』について、「※一億年レコ
ードを手に入れた皆様へ」と題したまえがきで次のように語っている。

〈1 億年レコードについての小さな前書き〉

「1 億年レコード」手に入れてくれたみなさん、こんにちは。
まつきです。

「1 億年レコード」という名前は、1 億年分の宇宙の記憶を、全部「録音」
(record)
してしまった!という雰囲気が出るといいなというフィーリングで発表の 2,3 日
前に付けました。
僕らはいつもそのレコードの中にいて、宇宙とか、銀河とか、戦争とか、中国 4000
年の歴史とか、iPhone とか、いつも乗ってる電車とか、隣りに座ってる女の子と
か、とカンケイしている。と思うんですよ。

どうぞ、そういう気分で聞いてください。

いや、やっぱり好きに聞いてください。
この音楽は、もうあなたのものです!

西暦 2010 年 1 月 1 日/まつきあゆむ
(まつき 2010)

33
まつきがいう「一億年分の宇宙の記憶が「録音」(record)されたレコードのなかに
いる」というフィーリングは、『一億年レコード』の作品性のなかでどういった意味を
持ちえるのか。それは、インターネットを通じてデータ配信するという方法が生み出す
「作品全体の永遠性」と関わりを持つのではないだろうか。
そういった問いを検証する前に、「一億年の感覚」について考えてみたい。「一億年」
は永遠を感覚させる言葉であると言えないだろうか。「100 年」でも「1000 年」でも、
「1000000 年」でもない。
「一億年」は無限を想起させる。もちろん、
「一億年」は数え
上げることが出来るという意味では無限ではない。しかし、まつきが言うような「一億
年分の記憶」を感覚することは不可能であり、永遠を想起させるという考えは、あなが
ち的外れではないだろう。尐なくとも、「一億年」という言葉には「永遠」を想起する
「失われた 10 年」といった言葉は有限を感覚させる。こ
効果はある。反対に「365 日」
のことは「一億年=永遠」という我々の仮定を多尐補強するだろう。
ここで、第 1 章で確認した複製技術の発展について再確認したい。細川によるとその
過程は、録音される音と再生される音との「内的な論理」が精密化し音響が自律性を押
し進めてきた歴史であり、技術が音の内部に浸透していく歴史であった。磁気テープに
よって実現した編集は「場のエクリチュール」を実現し、テープ上の音は音響の主体性
を獲得した。そしてついに音響は CD といったデジタル・テクノロジーによって数値化
され、音響としての完全な自律を達成した。データそのものはインプットされた音響以
外のなにものにも依存することがない。また「データそのもの」は時間や使用による磨
滅がない。音の振動を機械的に伝え保存することから始まったレコードは、完全に自律
的なデータとなった。
しかしここで私は、「CD そのもの」は物質的であり、機械的であることを指摘した
い。「CD そのもの」におけるエクリチュールは、いまだ視覚的要素を備えている。デ
ィスクは視覚的に音響を読む事を困難にしたが、完全に不可能にはしていない。例えば、
書き込まれたディスクとそうでないディスクは、ある程度視覚的に判断できる。それは
CD による音響の再生はいまだ物質的な側面に依存し、自律しきっていないことを意味
する。なにより「CD そのもの」の物質的側面は、磨滅を受け入れてしまう。CD は 10
年も聴き続ければどうしても傷だらけになり、読み取りの過程で不具合が生じ始める。
現在、技術はさらに音に浸透している。デジタル化された音響は回線を通じ、「デー
タそのもの」として供給されるようになった。ポータブルオーディオに転送された音響
は物質的な重さを失い、その内部でデータとして数値によって自律し呼び出され、再生
される。デジタル技術が達成した物質からの音響の自律は、音楽配信によってついに聴
衆の手のひらの上においても実現されたと言えるだろう。
自律性が聴衆の手のひらの上で実現されたことはすなわち、磨滅を受け入れない音響
をついに聴衆が手に入れたことを指す。例えポータブルオーディオ自体が壊れたとして

34
も、PC 内にデータのバックアップをしておけば音響はデータとして再び完全に取り出
すことが出来る。CD でも同じようにデータのバックアップを取ることは可能だが、CD
そのものの物質的な要素(アートワークなども含む)は磨滅を免れない。データによっ
て完結する音楽作品は、音響だけでなく「作品全体の永遠」を実現する。
まつきあゆむが「一億年」を「永遠」を意味する言葉として意識的に使ったかは定か
ではない。しかし、まつきは尐なくとも、完全なデジタル音楽配信が達成する「作品全
体の、磨滅から解放」を無意識的に認識していたはずである。それは『一億年レコード』
の最後から 2 曲目に収録されている『ラブソング』という曲の歌詞に表れている。

27/ラブソング

人生は短いから/時間は尐ないから
ねえ、君/ねえ、君

僕らに形のある/永遠はないから
ねえ、君/ねえ、君

あっという間に終わってしまう/あっけない事でなくなってしまう

太陽が昇って降りる間に/いくつの歌を歌えるでしょう

オルタネイティブも/ロックンロールも/上手く騙して味方につけた
だから僕らは/愛を歌っている

「宇宙空間は膨張し続ける」
と、言われている/と、言われている

あんなに前は冷めてたのに/今はとても燃えているんだね

街の様子がざわめきだってる/綺麗な顔でみんなが笑っている
これほど今が輝いてるのに/どうして君は行ってしまうの?
だから僕らは/忘れないように
「愛の歌」を歌う

まつき(2010)

35
形のある永遠がないなら、形のあるものはあっけなくなくなってしまうなら、形を奪
ってしまえばいい。そうして現実的に永遠となった音楽は、宇宙の膨張ように 1 億年で
も広がり続ける可能性を、現実的に帯びていく。まつきあゆむはデジタル音楽配信とい
う手段で、
「一億年」という永遠を現実化した。
さらに「一億年=永遠」について掘り下げて考えていこう。『ラブソング』で歌われ
ているような、近代的な一方向の時間の概念から脱却し永遠を目指す論理について、第
2 章でみた細川の論考にしたがって論じていく。そして「一億年=永遠」の根拠を強固
なものにしていく。
細川は、音楽が社会的に自律する条件となったコンサートにおける集中的な聴取に関
して、歴史学者ドナルド・ロウが提唱した近代的な「ブルジョア的知覚」の一典型とし
て説明できると論じている。
「ブルジョア的知覚」の根底には〈時間における展開〉が
ある。近代的な「時計時間(クロック・タイム)」の概念は線的な時間構造を作り、コン
サート演奏の一回性に意味を与えた。過ぎ去りゆく儚いものとしての美学である。一回
性が〈今・ここ〉という作品の正当性を保証していた。そしてコンサートによって制度
化された演奏による作品の反復が、作品の差異を浮き彫りにしていた。
しかし複製技術の登場によって、知覚の近代化が生んだ一回性に力点を置く美学が崩
壊した。細川はレコードの反復性をコンサートにおけるそれと区別した。そしてニーチ
ェが流行のなかに見出した、回帰する時間のなかでの差異が生む新しさ、すなわち「新
奇なるものの永遠回帰」という論考をレコードに適応する。コンサートは演奏のたびに
異なる音響を生むが作品の同一性を固守する。反対にレコードは同じ音響現実を生むが
経験の差異性を主張する。よって同一な音響を生み出すレコードは、直線的な時間認識
が生む一回性に力点を置く美学の上では否定される。しかしレコードの反復性は回帰の
たびに差異を生むものであることによって存在が構成され、美学的に肯定される。
複製技術の性質は永遠回帰をあまりにわかりやすく現実化する。同一な音響の反復は
時間を回帰させながら、そのたびに差異を生み出す。その差異がレコードをはじめとす
る複製技術が生む美的経験の根幹をなす。一方向に向かう近代的な時間の概念は、時間
を「過ぎ去りゆくもの」とする。レコードはそういった時間の概念における一回を大量
に複製し、反復することで回帰をリアルに実現し、差異を基盤にした美学を生み出した。
こうしたレコードの価値は、反復可能であることに収束すると考えられる。
まつきはデータの配信という手段によって、物質的な摩耗の可能性から脱却したアル
バムを聴衆へ届けた。複製技術時代における芸術の美学の根幹である「反復」は、アル
バム全体をデジタル化することで「それぞれすべてのアルバム」において可能となった。
レコードや CD の永遠回帰性は、ひとつひとつのパッケージに頼り切ることはできな
い。CD は摩耗したら買い換えることでまったく同じデータを取り出せるかもしれない
が、2 枚目の CD は 1 枚目とは異なる。データは同一であっても、違うものであると言
わざるを得ない。その物質的側面が作品性に関与していることを考えると、CD による

36
「作品」はやはり摩耗を受け入れている。摩耗を考慮すると、パッケージひとつひとつ
に「無限回分の数分間」が内在しているとは言えない。
一方、『一億年レコード』は手に入れたすべての人がいくらでも音響を、そしてアル
バム全体を反復しうる。アルバム全体がデータであり非物質であることは、観念的には
アルバム全体がもれなく無限回分の反復が可能であることを意味する。これは「過去の
音楽作品をデジタル・データ化して市場に永遠に残し続ける」といった実践とは異なる。
アルバム全体が、はじめからデジタル・データであることが重要なのだ。
「ラブソング」の歌詞を見直してみると、前半部分では「人生は短い」「時間は尐な
い」「あっという間に終わる」等、近代的な一方向に進む時間の概念を前提とした憂鬱
が歌われている。そして歌の後半では、そういった憂鬱を生み出す価値観である「過ぎ
去りゆく時間」の概念は打ち破ることが出来ると示唆するような内容になっていく。こ
れはデータ化された音響が永遠に近づき、幾度となく反復しえることと関係する。
まつきあゆむは音響の保存を物質から解放することで、「永遠に反復しうる」という
複製技術の根幹をさらに力強く打ち出した。それはタイトルにも楽曲にも反映されてい
る。まつきがいう「一億年分の記憶」とは複製技術が生む作品の「無限回分の反復」で
ある。それは永遠に反復しうる、データ配信という形でより説得力を増しているのであ
る。
そしてすでに論じたように、同一な音響の反復は差異を生み出す。差異が行為の上で
どう生産されるかについては次節、「4.2iPod のなかの『一億年レコード』
」で、デジタ
ルオーディオプレイヤーという具体例の中で詳しく論じていくことにしよう。

4.2 iPod のなかの『一億年レコード』

『一億年レコード』は PC を用いて行われるダウンロード配信という手段を用いて流
『一億年レコード』は PC 内で管理され、PC 内のプレイヤーや iPod をはじ
通された。
めとするデジタルオーディオプレイヤーを用いて再生される事がほとんどであると考
えることが出来る。これは CD 以前の媒体による聴取とは大きく異なる点として指摘し
うる。CD を iPod で聴くには PC に取り込んでデータ化する必要があるが、その行為
はジャケットなどを含む物質的な作品性を、PC の外に置き去りにしてしまう。これは
本来 CD として発売されていた作品のデジタル配信でも、同様である。『一億年レコー
ド』の特性として指摘したいのは、作品全体がデジタル化されているという点であると
いうことはすでに述べたが、その特性を今度は iPod との親和性という文脈で機能させ
ていきたい。そのためには iPod がどのような聴取を実現しているかについて論じなけ
ればなるまい。そして『一億年レコード』がデジタルオーディオプレイヤーとどのよう
な親和性を実現しているのか考えていく。
細川は 19 世紀的なコンサートを前提とした音楽の作品概念が、複製技術によって崩

37
壊したと述べた。それは「芸術のアウラ」の崩壊であったが、新たな「生のアウラ」を
生んだ。そういった論考を前提としながら、コンサートがあらゆる音楽をホールに持ち
込んだように、レコードがあらゆる音を日常に持ち込み、聴き手の自由裁量が大幅に広
がったことを論じている。ミシェル・ド・セルトーの定義する「文化的操作」の概念を
レコード聴取に適応し、レコードの物象化が恣意的音楽聴取を実現したと説明している。
これはコンサートにおいて理想となっている「適合的聴取」とは異なる。
さらに細川はレコードが持つ差異と反復が聴衆の中でどう機能するのかについて述
べる。レコードは本来音楽が持っていたはずの場所・時間の対する特異な関係を破壊し、
あらゆる瞬間あらゆる場を音楽の為の「機会」とした。レコードが音楽を根源的に機会
的なものにし、現実的に偏在化する。そして新たな聴き方として、「作品」という単位
で行われない聴取を生んだ。このいわば身勝手な聴取は、部分的に偶然的に聴くことで
しか得られないものを生んだ。また反対に微細な音響を分析するような聴取の可能性も
生まれた。つまり聴き手は聴き手の個性を作品に与えることが可能となった。そして聴
衆の個性が反映されたときに、聴き手と音楽の関係は「環境的な経験」に変貌する。
ここでいう環境とは「芸術」とは別の操作性をもった領域であると細川は続ける。聴
衆は適合的に音楽を聴きとらず、その都度音響の並べ替えを行い、作曲者や演奏者、エ
ンジニア、さらに聴き手が管理できないような偶発的要因の混入を受け入れる。これは
現代音楽的な偶然性・不確定性の導入により作品化された偶然とは異なり、レコードが
非統一的な音響を聴くのにふさわしいということを指している。そして細川はレコード
の良き聴取者について次のようにまとめている。

レコードの良き聴取者とはそうした偶然性を肯定し、偶然のあらゆる断片を結びつ
け、宿命的で必然的な聞こえてくる音の全てを肯定する人間のことである。(細川
1990:217)

細川はさらに環境的経験において創造的なのは、芸術的経験のように真理を問うこと
ではなく、日常的な生の新しい形態を生み出す限りにおいてであるとした。そして真理
とは別の価値基準として効果を上げ、ポピュラー音楽におけるサウンドの重要性を論じ
ていく。
このような論考を、iPod をはじめとしたデジタルオーディオプレイヤーに適応する
と、細川が論じた機会性の解放や、環境的な経験としての音楽聴取はますます拡大して
いると言えよう。
デジタルオーディオプレイヤーはコンパクトなサイズでありながらあまりに多くの
音楽を記録可能であり、あらゆる場で再生することを可能にする。ひとつのプレイヤー
の中に自分が所有するすべての音楽を詰め込み、いつでもどこでも即時的な気分に合わ
せて再生することが、現実的に可能となっている。また、デジタルオーディオプレイヤ

38
ーは「ながら聴取」を促す。これは部屋のなかでしか聴けないタイプのオーディオに比
べると決定的な違いである。歩きながら、電車に揺られながらなど、生活しながらの聴
取は、外的環境の〈多〉を大幅に拡大する。そしてこれはレコードが達成した機会性の
解放をさらに拡大させた状態と言える。既に見てきたように同一の録音は環境の〈多〉
によって差異を生む。その差異は環境のヴァリエーションが増えれば増えるほどに、そ
のダイナミクスを増していく。
また「iPod シャッフル」に代表されるような機能は偶然性を受け入れるタイプの環
境的聴取経験を手軽に実行できる機能であると言える。iPod の中の曲をすべてシャッ
フルして再生すれば、「アルバム単位」という枠組みは壊される。その「偶然性」はア
ルバムという単位に新しい濃淡を与える。iPod シャッフルはいわば偶然性という名の
DJ であり、それを携帯しうることは、個々人の環境的聴取経験に大きな影響を与えう
る。
そして『一億年レコード』は主な聴取方法として、このような環境的聴取経験をさら
に拡大させたデジタルオーディオプレイヤーのような機器の中で再生される事を前提
としているといえる。これは単に、PC を媒介にした流通方法を取っているという点の
みで十分説明可能だろう。PC に取り込まれた音楽はほとんどの場合、デジタルオーデ
ィオプレイヤーで再生される。そしてそれは不適合な聴取を受け入れる。
デジタルオーディオプレイヤーに寄り添う『一億年レコード』は、環境の〈多〉をひ
たすら肯定していると考えられる。それは集中的聴取も散漫な聴取も受け入れる。付属
する歌詞の画像ファイルは、PC の前で歌詞を見ながら音楽に集中することを促し、肯
定する。一方でデジタルオーディオプレイヤーにインポートされたデータは、あらゆる
場での再生を現実化し、受け入れる。また所有する音楽をすべて持ち歩けるほど大容量
のものとなると、即時的な気分に応じて再生することさえも可能となる。
また、『一億年レコード』という「枠組み自体」も初めからデータ化されているもの
である為、常にすでに不適合な聴取を肯定するとも言えよう。不適合な聴取を肯定する
機器に寄り添う『一億年レコード』の作品性は、もはや壊される為に存在しているとい
『一億年レコード』にはいくつかの画像ファイルが付いてくる。それは CD
ってもいい。
やレコードのような媒体を連想させる。ジャケットやクレジットなどを連想させるその
アートワークは、「イデア的アルバム概念」を起想することを助ける。しかしそれは、
ファイルの移動によって簡単に音響と切り離されてしまうため、壊されるための枠組み
として機能する側面もあると指摘可能だ。このような「壊すことが出来る作品性の枠組
み」を設定しておくことが、むしろ聴衆に創造性をもたらすとはいえないだろうか。例
えば携帯電話の着うたダウンロードのように曲単位で販売の場合、それはすでに常に断
片的である。iPod 内においてアルバムというあまりにもろい「枠組み」は、聴衆がい
つでもどこでも気軽に創造性を達成することを可能にする。
レコード音楽は二次的なものでもなければ、偽物でもない。まつきは複製技術に関し

39
て「アカシックレコード」という曲の中で触れている。

24/アカシックレコード

地球の夕日が暮れて行く/のを映し出しているテレビジョン
無量大数の人の群れが/君も見えるかい?

生まれてくる時代を嘆いている暇があるならこれから歌を歌おう
本当の意味を失った/でも音楽は死んでいなかった
僕は君で、君は彼で、彼は僕で、それは君

(中略)

地球の夕日が暮れて行く/のをみんなで見てるとなんだか
無量大数の人の群れが/涙を流す

(まつき 2010)

「生まれてくる時代を嘆いている暇があるならこれから歌を歌おう/本当の意味を失
った/でも音楽は死んでいなかった」の部分は、複製技術によって消滅した「芸術のア
ウラ」と変化した「生のアウラ」についての論考を想起させる。そして「夕日を映し出
すテレビジョン=複製技術によって遅れが生じた夕日」であっても涙を流すというのが、
この歌の結論である。それは複製技術であっても「生のアウラ」は消失することなく、
美的経験を変容させて我々に感動をもたらすという議論と一致すると指摘可能である。
以上のような観点から、『一億年レコード』における環境的聴取の肯定を指摘する。

4.3 Ustream とまつきあゆむ 制作編

インターネット上でライブ動画配信を行う事が出来る「Ustream」のようなサービス
が、注目されている。2010 年に入ってからはとくに音楽にまつわる配信が活発になっ
てきている。
坂本龍一は Ustream を用いて、北米ツアーでの演奏を生配信した。10 月 30 日のシ
アトル公演から全 4 回にわたって配信され、平日の昼間に行われた配信もある中、多数
の人が視聴していた。私もバンクーバーの回を見ることが出来たのだが、意外にも音質
が良かったことや、一時は一万人に迫る人がアクセスしていたことが印象に残っている。
配信された公演の音源はその後、所謂ライブ盤として iTunes で販売された。

40
また、ロックバンド ASIAN KUNG-FU GENERATION は 11 月 9 日に行われた
SHIBUYA-AX でのライブを Ustream で生中継した。全体の様子がわかるメインチャ
ンネルのほか、メンバーごとの専用のチャンネル、それらすべてが見られるマルチチャ
ンネルの 7 つが用意され、自由に選択できた。ヴォーカルの後藤正文は 2010 年に入っ
たあたりから、Ustream などによるインターネットの動画生配信に非常に興味を示し
ており、レーベルに断りなく自分の歌を弾き語りしたこともあったほどであった。その
後、公式サイト上での生番組配信等を経て、メジャー所属のミュージシャンとしてまっ
とうな方法でのライブ配信を達成した。後藤正文はこのライブ配信について自身の
twitter で次のように語った。

それから、所謂メジャー所属のミュージシャン達がネット配信をどの様に行うのが
良いのか、契約の問題も含めて、そういうことを考えるきっかけを与えてくれたの
は、まつきあゆむ君です。彼の自力配信の様々な番組に敬意と感謝を気持ちを、こ
こに記します。 (後藤 2010) (図 9 参照)

図9 ASIAN KUNG-FU GENERATION の後藤正文の Ustream 中継に関する発言


(2010 年 11 月 9 日の twitter 上での書き込みより作成。)

この章ではメジャーアーティストにも大きな影響を与えた、Ustream を用いたまつ
きあゆむのさまざまな番組について考えていく。
ここでは Usoream を用いた主なまつきの活動として以下の 3 つを上げる。

・2009 年 11 月 2 日:
「時代の壁を飛び越えよう」の制作過程の 11 時間分をすべて
Ustream で配信。

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・2010 年 2 月 19 日:
「2000 人 twitter 公開生録音〜人生はオフ会だ〜 」と題し、100
人ほどの観衆を前にして、ステージ上で作詞・作曲・録音を行った。また、その様子を
Ustream で配信した。視聴者や参加者は twitter を通じて作詞に参加したり、ギターソ
ロを弾いたりすることで曲制作に参加。そうして完成した楽曲はフリーダウンロードさ
れた。
・2010 年 4 月 28 日から 5 月 5 日、5 月 9 日:「旅行」と題した演奏旅行を敢行。全国
さまざまな場所回りながら各地でライブを行い、その様子を Ustream で配信した。

ではまず、音楽の製作過程を中継することが聴き手に与える影響を考えてみたい。
『音
楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』で増田聡と谷口文和は「聴くこと」の多
層化について次のように論じている。コンサートでは作り手の身体の動きという視覚情
報を頼りにその音がどう作られているか確認できる。しかしレコードとしての音楽はそ
れが作られたコンテクストと切り離され、まったく別のコンテクストで再生される。よ
って作り手と別の場所にいる聴き手が、ある音を「音楽」として聴くためには、自分の
「原音」への想像力に頼る必要が生じる。その想像力は、聴き手の経験が基になったも
のとなる。
しかしマイクロフォンを通すことで始めて現れた音は「生の音」とは異なる新しい音
響である。編集を前提とした音楽はそれが「再生」されることによってしか鳴り響かな
い。完成された音の響きとしての生音はどこにも鳴り響いたことがないのである。よっ
て忠実さの基準としての原音は聴き手の想像力の中だけに存在する。原音再生の理念に
おいて、聴き手の想像力は音響の作り手として「演奏」と「レコード」の二つを想像す
る。
さらにオーディオマニアはオーディオが音響を作り出していると想像することがあ
る。クラブにおける聴取では聴き手の想像力はレコードと DJ、サウンドシステムに向
けられ、原音という対象を想定しないことで、「生の音楽」を感じている。このような
論考を経て増田と谷口は、現代的聴取における多彩な想像力の存在を指摘したのである。
以上の論考を踏まえて、音楽制作・録音の過程を生中継することは、聴き手の想像力
にどういった影響を与えるのか考えてみたい。まつきあゆむがおこなった音楽制作過程
の配信は、聴衆が「制作」への想像を行う事を可能にしたと指摘できる。坂本龍一がラ
イブ映像を配信し、その後その音源を販売したのも、原音への想像力が高められた音響
を売るという意味合いがあったと指摘できる。しかしそれは、増田と谷口が論じた「原
音」への想像力とは異なる。音楽の制作過程の閲覧は、視覚的に音の生産過程を確認す
ることが出来る。その過程を聴衆が確認することは、想像力に新たな経験として働いて
いくと考えられる。その経験によって聴き手は「原音」という幻想を破壊されてしまう。
聴衆は、まつきあゆむのように多重録音と編集を前提とした音楽は原音としてどこにも
存在しないという事実を経験するからだ。しかしそのいわば「制作のライブ」によって、

42
まつきあゆむの音楽が「制作」にその本質を置いているということを、聴衆は理解する。
例えば、彼が制作するエフェクティブなヴォーカルのサウンドや、細かく左右に振られ
たギターサウンドを、ライブで再現することは基本的に不可能であろう。彼の音楽は録
音され PC によってミックスされて初めて鳴り響くものなのである。それは音楽を疎外
した作業ではない。それこそが彼が最も得意とする、音楽的で肉体的な作業なのだ。そ
のことを示唆するように、まつきは 2010 年 10 月 14 日に自身の twitter 上で次のよう
に発言している。

ディスト―ションかけて初めてエレキギターに手を振り下ろす事と同じくらい、録
音して mixdown することは夢のように楽しい事なんだよ、と広く伝えて行きたい、
(まつき 2010)
と思う今日この頃。

聴衆は音楽の制作過程を見たり、それに参加したりすることで、
「音楽制作」への想像
力を得る。聴衆の側からみればそれは、現代的な技術がもたらした新しい聴き手の想像
力だと説明できないだろうか。
「2000 人 twitter
さらに、聴衆が音楽制作に関わるということについて考えていく。
公開生録音〜人生はオフ会だ〜 」のような聴衆参加型の企画は、ジョン・ケージの〈4
分 33 秒〉を彷彿とさせる。
「2000 人 twitter」と「無音の音楽」に共通するものとはど
ういったことなのだろうか。
〈4 分 33 秒〉はいわゆる「無音の音楽」の代名詞的作品で、彼の代表作として知ら
れており、1950 年代に彼が傾倒した偶然性の音楽の最も極端な例である。この曲の楽
譜には「3 楽章すべて休み(TACET)」と言った旨の指示しか示されていない。演奏する
楽器の種類の選択や演奏時間の設定は、奏者の自由である。その演奏した合計時間を曲
名にする事になっている。しかしこの音楽のテーマは基本的には「無音」を体験するた
めのものではなく、むしろ無音の不可能性を利用し、様々な音に耳を傾けるきっかけと
するものであるとされている。
小川博司は『音楽する社会』で、ケージの〈4 分 33 秒〉について「完成された作品」
と「生成されつつある過程」との対比を、音楽の分野で最もラディカルな形で提起した
と述べている。その間聴衆は、聴くという行為のみを通して音楽の制作過程に参加し、
それを全身で体験したと論じている。それは音楽が「無」の状態で存在し、それを中心
とした現象すべてを経験するような聴取であったと説明可能だろう。
以上の論考を参考にすると、録音の場にいるだけで、それを目撃するだけで、耳を傾
けるだけで、作品の生成に関わってしまうということが分かってくる。そして生成への
関わりは近年、twitter や Ustream の登場によってより拡大されてきているとみること
が出来よう。それは twitter を媒介にして歌詞の制作に関わることや、音に注文を付け
るというようなことにとどまらない。小川が指摘したような「音楽が生成されつつある

43
過程」を聴く(あるいは見る)という行為のみを通した参加も、もはや音楽的である。
なぜならそれは音楽を中心とした経験のひとつであるからだ。音楽を中心にしたあらゆ
る経験は、無視できないからだ。
そういった行為を支えているテクノロジーに目を配り、技術を制作、聴衆と生産者と
の関係がどう変化しているのかという視点で、このような事例を考察するのは意義深い。
これらの問題はライブ性と深く関わってくる問題でもある為、次の節では Ustream に
よって配信されるライブについて詳しく触れる。

4.4 Ustream とまつきあゆむ 聴取編

まつきあゆむは 2010 年 4 月 29 日に「旅行」と題した演奏旅行を開始した。5 月 9


日まで岡山、神戸、高松、大阪、京都、名古屋を回りながら各地で弾き語りライブを行
い、その様子を Ustream で配信した。それは『一億年レコード』の発売を記念した企
画であった為、演奏される曲は『一億年レコード』からも多く演奏された。最終日は東
京の井の頭公園で夕方にストリート・ライブを行った。ここでは「旅行」における独特
なライブ性について考えていく。それは一般的なコンサートとどう違うのだろうか。
「2.2 コンサートと自律音楽」で触れたように、コンサートの美学において音楽はあ
らゆる外的要素から自律した「絶対音楽」であるべきとされた。コンサート・ホールは
理念的に白紙状態であることが求められ、聴衆も音楽と拮抗する外的要素とみなされ、
できることならあらゆる偶然性は排除すべき対象だった。また、聴衆は想像力と構成力
を能動的に働きかける主体として確立していった。
こうした近代的コンサート聴取の理念は、現代的なライブコンサートに影響を与えて
いると指摘できる。音楽に没入することで、音楽に対する感動が生まれたし、「演奏者
と聴衆」という構造はポピュラー音楽のライブにおいても分けられている。それでいて、
「生演奏」において、演奏するものと聴くものは同じ時間同じ空間のなかにあり、演奏
者と聴き手は相手を確かめ合いながら、反応しあう。そこでは作品の同一性と演奏の反
復不可能性が同時に沸きあがり、
〈今・ここ〉の一回性を高みに持ち上げる。これらは
近代的コンサート聴取とポピュラー音楽のライブとの共通点として指摘可能だろう。
しかし「絶対音楽に対する集中的聴取」という概念は、現代的なポピュラー音楽のラ
イブにおいては重要でなく、ほとんど当てはまらないと考えるべきだろう。ポピュラー
音楽のライブコンサートにおいて聴衆は、体を動かし手を叩き、一緒に歌う。聴衆はひ
たすらに耳を澄ますことなく、照明のエフェクトや演奏者の視覚的パフォーマンスに興
奮を感じる。また、ロックフェスティバルのようなイベントが国内で盛んになって久し
いが、それは音楽以外の環境的付加価値を抜きにして語ることができない。その場全体
の一体感が重要な要素となる。
こういったポピュラー音楽のライブにおける聴衆の態度と「2.1 コンサート以前の聴

44
取」で触れた共同体的音楽への人々の態度の類似性を指摘したい。ポピュラー音楽の聴
衆はライブ空間という非日常的空間のなかで、不可逆の時間が生み出す一回性を感じな
がら音楽を聴取する。しかしそれは絶対音楽への集中を促す装置ではない。ポピュラー
音楽のライブにおいて聴衆は、その時々の空間における規範に従いながら、外的要因と
して積極的に音楽に参加している、という弁証法的な止揚を指摘できる。
こういった論考を踏まえて「旅行」を考察してみよう。まつきは「旅行」でさまざま
な場所からライブ中継を行ったが、これは演奏者や聴衆に何をもたらすのか。
真っ先に指摘したいのは、偶然性をもった外的要素の受け入れである。そのもっとも
極端な例は「まつきあゆむ TOUR2010「旅行」 05/03/10 02:09AM」として中継され
「まつきあゆむ TOUR2010「旅行」05/09/10 01:03AM」
た大阪の扇町公園からの公演や、
として東京の井の頭公園から中継された公演にみることができる。2010 年現在、それ
はアーカイブが残っているので、実際に見て確認することができる。
大阪公演では「12」という曲を演奏中、まつきの後ろを偶然通りかかった小さな女の
(図 10 参照)
子が演奏に興味を示すという出来事があった。

図 10 まつきあゆむ「TOUR2010「旅行」 05/03/10 02:09AM」の様子


(http://www.ustream.tv/recorded/6642526?lang=ja_JP より作成)

サイトの動画ではちょうど 4:00 のあたりで女の子は立ち止まる。母親らしき女性が

45
手を引いても女の子は動こうとしない。女性はあきらめて女の子から手を離す。それに
気がついたまつきは、斜め後ろの女の子のほうをむいて演奏しながら、笑いかける。ま
つきが演奏を中断して女の子に手を振ると、女の子はしばらくまつきの目を見て立ち止
まっていたが、恥ずかしくなったのかそそくさと走りってしまう。
「ふられたー。」とま
つきは元からいた聴衆の笑いを誘う。女の子は 10m くらい離れた先から手を振ってい
て、まつきも手を振る。演奏は再開される。しかし女の子はまた戻ってくる。まつきも
それに気がついて笑うが、演奏を続ける。女の子はちょっと離れたところで、演奏に合
わせて体を動かす。演奏は終盤に差し掛かり、まつきは女の子のほうを向いて、演奏を
締めくくる。まつきが女の子に拍手を促すと、女の子は拍手をし(映像を見る限りでは)
そこで初めて笑顔をみせ、また走り去ってしまう。
また東京公演では「夕暮れのための音楽」を演奏中に、偶然性を持った外的要因が混
入する。サイトの動画では 40:28 あたりになる。曲が終盤に差し掛かりまつきが歌うの
をやめたときにちょうど、それも完璧なタイミングで、夕方 5 時を告げるサイレンが鳴
り響く。
「5 時……、これギターソロね。」といって笑ったのも束の間、サイレンと曲の
キーがあっていないため「……ぜんぜん合わせてくんない。」と言って演奏を尐し中断
する。それからまつきはサイレンの音に合わせてアウトロを締めくくろうと試みる。途
中、終わる気配のないサイレンに「長い長い。」とぼやく。聴衆は笑う。サイレンが鳴
り止んだところでまつきはゆっくり目にコードストロークをして曲を締めくくる。「ち
ょっとね、練習させときます。キーが全然合ってなかった。」とまつきは言う。
この 2 つの事例から、「旅行」で行われたライブが偶然性を受け入れている性質を持
つことが理解できる。そしてこういった偶然性をまつきも聴衆も受け入れている。いや、
むしろ望んでいると考えられる。近代のコンサートは、聴衆が持つ偶然性すら排除した
がった。その他の外的要素なんてもってのほかだった。音楽に偶然性を受け入れるとい
うのは、実験的で奇抜な、音楽観に挑戦するような実践に限られるわけではないという
ことを「旅行」のライブから見ることができるといえないだろうか。
それは一般的なポピュラー音楽のライブより、共同体的音楽実践により近づいたライ
ブであるといえよう。それはまつきが井の頭公園での最後のライブ中、思いのほか多く
聴衆が集まったことで演奏者と聴き手との距離が離れてしまったことを嘆いているこ
とからも説明できる。また twitter 上での 2010 年 4 月 27 日の発言からもそのことがう
かがい知れる。

このツアー「旅行」の一番の狙いは、ステージと客席にある境界線は一回無しにし
て、気の合う大事な友達に聴かせるように親密に自分の音楽を 1 対 1 で届ける、と
いうこと。みなさん明後日からよろしくお願いします。 #ryokoumatsuki(まつ
き 2010)

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まつきは「旅行」において実現したかったのは「自律した音楽」ではなく、世界や人
が混入する空間を多くあけて、世界や人をまとめ上げるような音楽だったのではないか。
また、まつきが「旅行」を始めた理由を「インターネット上で出会った人に会いに行き
たい」と説明していることは、我々の考えを助ける。まつきは音楽を現実のさまざまな
要素と交差させることを楽しんでいるとも言い換えられるかもしれない。
では、Ustream で配信することで生じる演奏者と聴衆への影響についてはどう説明
できるだろうか。ここではアーカイブに残ったライブ映像を視聴する行為に関してでは
なく、Ustream で生中継を見る行為について考えていく。聴衆と演奏者が反応しあう
ことが生演奏の原則であり、Ustream を媒介としたライブは一方的であり理念的に「遅
れ」があるとも指摘できる。そういった意味での欠陥は、生中継が生演奏に対して 2 次
的であるかのような印象を与える。しかしこの表面的な「2 次的」な印象は、むしろ大
きなヒントとなり思考を助けてくれる。それは「レコード音楽は 2 次的である」という
レコードに対する非難を連想させるからだ。
レコードの美学は同一の音響の反復による、差異の創出であった。そしてそれは日常
の中で行われる。私はこの「日常」のなかに芸術が入り込むような性格を Ustream に
よる生ライブの最大の特徴として指摘したい。それはまつきの「旅行」でのライブが共
同体的音楽実践に近かったことと関係する。音楽の生中継によって視聴者の日常に入り
込むことで、視聴者の「気分」という生の根源に関わる可能性が生じる。それは環境的
聴取経験という観点から、大きな価値を見出すことが出来るといえる。そしてそういっ
た影響を視聴者に与えうるということを、演奏者であるまつきが無意識にでも想像する
ことは、まつきの「気分」に影響する。「ライブ性」とは演奏者と聴き手が反応しあう
ことにあったことを思い出そう。するとここに、Ustream によって変化した「ライブ
性」を見出すことが出来るだろう。

4.5 MP3 配信と資本主義

ポピュラー音楽は複製技術が生み出した音楽であり、資本主義的な枠組みの中で発展
してきた。山田晴通によってなされているポピュラー音楽の定義を今一度引用する。

「ポピュラー音楽」とは、大量生産技術を前提とし、大量生産~流通~消費され
る商品として社会の中で機能する音楽であり、とりわけ、こうした大量複製技術
の登場以降に確立された様式に則った音楽である(山田 2003:12)

『一億年レコード』はレーベルを通さずに発売された為、CD販売店に並んでいない。
もちろん Amazon で買う事も出来ない。プロモーションはマスメディアに露出しない。
テレビや新聞はおろか、音楽雑誌で取り上げられることもほとんどない。

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一見、そういった反社会的な販売方法は、ポピュラー音楽を成立させた資本主義的な
様式に背を向けているように見える。もっと言えば、ポピュラー音楽の資本主義的様式
のほころびが垣間見えるここ 20 年ほど動きに対する、単なるリアクションと捉えるこ
ともできるだろう。
『一億年レコード』が従来の資本主義的様式に対抗した「非ポピュ
ラー音楽」的であるという指摘は、こういった文脈上では一定の説得力を持つ。まつき
あゆむの活動は、現代的な技術を駆使した表面的な反抗にすぎないのだろうか。『一億
年レコード』は従来ポピュラー音楽あり方を否定する作品なのだろうか。
毛利嘉孝は『ポピュラー音楽と資本主義』の中でポピュラー音楽の実践について次の
ように述べている。

あらためて確認しなければいけないのは、ポピュラー音楽の実践は、実験的なア
ヴァンギャルドや左翼的な実践とは異なり、資本や権力に対して常に両義的な立場
を取るということです。それは対抗的になると同時に反動的になる可能性を同時に
秘めています。そして、そのことが、しばしば(自称)ラディカルな政治中心主義
ポ ピ ュ ラ ー

者をいらだたせながらも、大衆的なものを動員し、組織化することを可能にしたの
でした。この両義性こそが、むしろ本来の政治を獲得する鍵であり、ポピュラー音
楽の魅力なのです。(毛利 2007:208)

毛利が指摘するポピュラー音楽の両義性とはどういうものなのか。毛利は資本主義と
ポピュラー音楽の関係を歴史の流れに沿って論じた。アドルノはジャズのような大衆音
楽を、資本主義的な体制に服従することを促進し、人間の精神を均一化させる装置であ
ると批判した。しかしその後ポピュラー音楽は、ロックの発展に見られるように、産業
化のプロセスと社会への異議申し立てとしての側面の両方を携えて発展していった。70
年代前後にむけてポピュラー音楽はさらに産業に回収されていく。
さらに毛利はポストモダニズムにおける「資本の外側にはなにも存在しない」という
シニシズムを提示したうえで、さらに資本主義にもそのシニシズムを向けてしまう手法
として「ポップの戦術」について論じた。それはセックスピストルズが「過激さを商品
に変えてしまう資本主義の貪欲さ」を自らの力に変えていった実践などの具体例によっ
て説明された。
こうしたポピュラー音楽の両義性を踏まえて『一億年レコード』の販売方法に目を向
けると、それがポピュラー音楽の魅力を引き出す機能を果たしている事が確認できる。
『一億年レコード』のキャッチフレーズである「MP3 でも全然泣ける」がもつ一種の
過激さも、毛利が指摘した「ポップの戦略」である。MP3 による配信という流通方法
は、まつきにとって一番合理的な手段であった。それは産業音楽の様式を否定するが、
資本主義的合理性に合致する。一見、資本主義的な様式に背を向けたように見える制
作・販売方法は、効率と新しさの原理に基づけば非常に資本主義的であるといえる。そ

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れは、ポピュラー音楽の魅力の体現に真正面から向き合った結果であると言える。なぜ
なら「ポップの戦略」とは資本主義に対する反抗と共犯性どちらも携えた手法を指すか
らである。
『一億年レコード』は、まつきあゆむとのメールやり取りを行い、まつきあゆむの銀
行口座に直接振込みをすることでしか購入できない。ある意味では生々しいほど、「代
金」を意識させられるシステムだ。しかしそれが資本主義的か、産業的かと言えばそう
ではない。メール上に、ATM の画面上に、そして振込み明細書上に並ぶ自分の実名と
「まつきあゆむ」もしくは「マツキ アユム」の文字列。これは銀行振り込みという資
本主義的システムの上で実現する、作り手と受け手の並列を表象する。資本主義的様式
との共犯でもって、代金を CD ショップの店員ではなく作者に直接払うという近代資本
主義への一種の反逆が実現されている。ここに「ポップの戦略」を指摘できるだろう。
それは、『一億年レコード』がその販売様式においてきわめてポピュラー音楽的である
ことを示す。

4.6『一億年レコード』におけるポストモダン性

『一億年レコード』について、『ホワイト・アルバム』との類似性を指摘できる(図
11 参照)。

図 11 ビートルズ『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』
(http://www.amazon.co.jp の商品ページより作成)

まつきあゆむは根っからのビートルズ好きを公言しているし、そのサウンドからもビー
トルズへの憧れと尊敬を垣間見ることができる。また、まつきの過去の作品でファース

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トフルアルバムである『ディストーション』のジャケットデザインがビートルズの『リ
ボルバー』のパロディーのようなコラージュ調になっている一方、『一億年レコード』
のそれは白を基調としており、シンプルである。また、どちらも 2 枚組という形をとっ
ている点、一貫したコンセプトを持たず雑多な楽曲が一種断片的に収録されている点な
どから、『一億年レコード』は『ホワイト・アルバム』を意識していると指摘できる。
そして何より、二つの作品に宿る「ポストモダン」的要素から生じる類似性は興味深い。
『ホワイト・アルバム』のポストモダン性とは一体どういったものなのか。そして『一
億年レコード』はポストモダン的実践をどう展開しているのか。
エド・ホイットリーは「『ホワイト・アルバム』はポストモダン」の中で、
『ホワイト・
アルバム』を有効なポストモダン的テキストであると論じている。『ホワイト・アルバ
ム』とはビートルズが 1968 年に発表した 2 枚組のアルバムである『ザ・ビートルズ』
の俗称である。ファンや評論家たちはそれが『サージェント・ペパーズ』や『アビイ・
ロード』に見られるような、曲同士のつながりや統一感に欠けるとして失敗作のように
みなしがちであるという。それは断片の集まりであり、統一性に欠けている。これは伝
統的な美学の世界から見れば、正当な批判である。しかしポストモダニズムの立場から
見ると、『ホワイト・アルバム』はこれらの「欠点」を持っているが故に重要な作品と
みなしうるとエドはいう。

読者がテキストに対してあらかじめ抱いている期待を混乱させることを狙った
妨害の美学として、ポストモダン芸術は、われわれに芸術とその社会における役割
についてのわれわれの前提を再検討することを要求している。ポストモダン芸術は、
読者とテキストの間で会話を生み出すためにこうした混乱を引き起こす。なぜなら、
あるテキストがその意味を明確に説明しない時、読者が意味の産出に貢献するため
の場所が生まれる。(エド 2005:184)

ポストモダン的実践は、
「いかなるひとつの理論もすべてを覆いつくすことはできな
い」と主張する。「多様な議論を呼び起こす」ことを目指すとも言える。では『ホワイ
ト・アルバム』で実践されているポストモダン的アイディアとはどういったものが認め
られるか。エドはそれを「表象の拒否」、
「ブリコラージュ」、
「断片化」、
「複数のトーン」、
「メタ芸術」などと区別し、説明する。
エドによると、「表象の拒否」は『ホワイト・アルバム』のジャケットに見られるよ
うに「いう事が不可能なことがある」ことを「創造しない」という方法で達成すること
を意味する。全部が白く名前もないそのジャケットは、明確に非表象的である。「ブリ
コラージュ」とは単一作品のなかにさまざまなスタイルを混在させる、ポストモダン芸
術の重要な要素である。これは『ホワイト・アルバム』の最も目立つ特徴のひとつで、
多様な音楽の模倣が見受けられる。それはなにがロックンロールを構成しなにがそれを

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構成しないかという問題を、聴衆が能動的に考える場を与える。「断片化」は、ポスト
モダンが明らかにした「いかなるテキストも厳密に読めば断片的で逆説的で矛盾してい
る」という理論に従った手法である。これは「統一性とは作られた様式である」ことを
暴く。『ホワイト・アルバム』では、ジャケットの内側のアートワークや、脈絡なく並
べられた楽曲などに見受けられる。「複数のトーン」とは複数の方法で解釈されるよう
な場を作り出す表現によって、意味を先延ばしにすることによって受け取り側が能動的
に意味を作り出すよう促すことをいう。『ホワイト・アルバム』に収録されているいく
つかの楽曲は二重の意味を帯びているとエドは的確に指摘している。
「メタ芸術」とは、
作品の起源や構成、トリックに関して自己言及し暴露することで、伝統的手法によって
「だますことを拒否する」ことである。たとえば「へルター・スケルター」の最後に叫
ばれる「指に豆ができてしまった」というリンゴの発言は、テキストがもつ「終わり」
は伝統的な約束事でしかないと暴露し、聴き手に「肉体の限界」という「終わり」の本
当の理由を告白する。

ポストモダン芸術という人を混乱させる美学を用いることによって『ホワイト・
アルバム』は意味の源泉としての存在から注意を逸らさせ、その代わりに何がポピ
ュラー音楽であり、どのような役割をそれは演じているかについての問題に読者が
かかわることが可能な空間を切り開いている。(エド 2005:213)

エドは『ホワイト・アルバム』は「なにも意味しないこと」で「読者が意味を見出す
場」を創出したと主張する。
ここまで『ホワイト・アルバム』における手法についてエドが指摘したポストモダン
性を確認してきた。
『ホワイト・アルバム』に一見似ている『一億年レコード』でもや
はり、ポストモダン的手法が見られる。『ホワイト・アルバム』の分析でエドが用いた
ポストモダン的手法の分類を用いて、『一億年レコード』を分析していく(またここか
らは歌詞引用を多用する上での便宜上、『一億年レコード』内の曲名に関しても 2 重か
ぎかっこを用いて表記する。
)。
まず「表象の拒否」だが、『一億年レコード』においてこれは見受けられない。タイ
トルはしっかりつけられているし、ジャケットはシンプルではあるが「非表象」的であ
るとはいえない。しかし、タイトルをつけずに、なにも描かないジャケットを与えてし
まっては、それが即ち『ホワイト・アルバム』を表象してしまうことを考えると、ここ
にポストモダン的手法が徹底されていないという非難を主張することは適当ではない
といえる。
「ブリコラージュ」的引用に関しては、これが実践されている。『時代の壁を飛び越
えよう』はラップや合いの手など、ヒップホップ的要素を用いている。『伝言掲示板』
は秒針のサンプリング音から始まり、さまざまな効果音を用いて過激なサウンドコラー

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ジュが行われる。『トラディショナル逆再生』では終始、逆再生によるエフェクティブ
『BED TOWN BLUES』はア
な音を強調し、他の曲に比べて極端に非リズム的である。
コースティックギターとハーモニカ、激しく歪ませたエレキギターが印象的なブルース
調の曲である。
『コンプとリミッター』、『OK ソング』や『ツキノワグマ』はまるで子
供のために作られたかのようなやさしさに満ちている。
『教えて!シューゲイザー』はそ
のタイトルもさることながら、シューゲイザー風とは言えないまでもエフェクティブな
ギターサウンドやリヴァーブ深めのスネアサウンドなど、他の曲とは一線を画す音像を
演出している。『アルテマ』は今作中、最も長い楽曲であり、ワンフレーズの反復を基
調としており、まつきのものでない声が入っている点も他の曲とはまったく違う印象を
『2010 年音楽の旅』は映画のタイトルをもじっているし 『Revolution no2010』、
与える。
『チェンジ!/チェンジ!/チェンジ!』
、『マジカルヒストリーアワー』などのタイトルはビ
ートルズのそれだ。十分、パロディーと引用がちりばめられているといえるだろう。
「断片化」に関してもこれを『一億年レコード』に見ることができる。全体的に楽曲
は統一感を出すような順番ではなく、個々を力づけるような順番で並べられている。特
に過激と考えられるのが 4,5,6 曲目である。ボンゴやコンガ、シェイカーなどのパ
ーカッションを用いて、時代の変化をスローテンポで歌い、落ち着いた曲調に仕上げら
れた『チェンジ!/チェンジ!/チェンジ!』。その次の曲として、「太陽太陽太陽太陽 月月
月月月月月月」などおおげさな歌詞と、過激なサウンドコラージュが豪快さを演出して
いる『伝言掲示板』を持ってきている。その次は『ブラインドガール』である。アコギ
とストリングスが醸し出すやさしい雰囲気の中、目が見えない尐女について歌われる。
アルバム序盤の 4、5,6 曲目をこの曲順で並べる。ここに『一億年レコード』の最も
極端な断片化を指摘できる。それはまとまりよりも個々の楽曲の個性を重視するような
態度である。
「複数のトーン」に関しても、
『一億年レコード』の中の楽曲では実践されている。
明らかに複数のトーンをもっている曲として『終末の週末』があげられる。まず、世界
の終わりを歌っている割に、軽さを感じさせる曲調である。ヴォーカルにかかった、な
にかつまみをひょいとひねったようなエフェクトにも、それを感じる。「世界がだんだ
ん終わって行く/部屋の窓からよく見える/僕らの蒼い地球は/永遠/永遠」、
「終末の
週末は/永遠は/終わらない」などの歌詞からは、終わると言いながら終わらないとも
言っている複数性、
「世界」、「終末」という大きな単位と「週末」、「部屋の窓」という
小さな単位の複数性が感じられる。そしてなにより、曲タイトルの「しゅうまつ」とい
う音声のダブルミーニングに、複数のトーンを端的に指摘することができる。
「メタ芸術」的表現や自己言及も多く見られる。『一億年レコード』付属する「ジャ
ケット裏を模した画像」はまつきの自宅の画像である。PC とモニタースピーカーが設
置してあるデスクと、積み上げられた機材の写真である(図 12 参照)
。『時代の壁を飛
び越えよう』の制作風景は中継され、2010 年現在ネット上にデータが残っておりいつ

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でも閲覧できる。これは音楽がトリックであり、つくりものであるということを暴露し、
満喫するような態度である。また『時代の壁を飛び越えよう』の「FeedIn Out/Cut In
Out」「rec start guitar go go」や「You Watch Now Ustream/128k bit 毎秒」など歌
詞からは、自宅録音や Ustream を用いたその中継への自己言及と、それを謳歌する態
度が見受けられる。

図 12『一億年レコード』に添付された、ジャケット裏を模した画像
(まつきあゆむ『一億年レコード』より)

このように、
『一億年レコード』からはポストモダン的アプローチを多く拾い上げる
ことができる。ポストモダン的実践は「大きな物語」からの脱出し、「小さな物語」を
肯定する動き、とも捉えることができる。これを音楽産業にあてはめると、レコード会
社に頼らず売る、メジャーデビューしなくても音楽で食べていくというまつきの活動は
ポストモダン的であると理解できる。Ustream という小さなメディアを用いて、自分
の日常的な活動を個々人の日常の中に生演奏を浸透させることも、「小さな物語」の肯
定ととらえることができる。ポストモダン的実践は、まつきが成し遂げた音楽の産業的
改革と適合する。
このようにまつきあゆむはあらゆる側面からポストモダン的実践を行っている。それ
は、聴き手が音楽の周辺で自由に思考する空間を切り開いている。その思考とはまさに、
この論文で行われた思考運動を指す。

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5 おわりに

本稿では主に、音楽の複製技術に関する論考を基に、『一億年レコード』を巡る考察
を展開することで、ポピュラー音楽の美的聴取経験について論じてきた。まつきあゆむ
は、彼自身が意識しているかどうかはともかく、複製技術との関係を踏まえた音楽活動
を行っていると言えるだろう。そして彼の活動は、我々に「ポピュラー音楽とは何なの
か」を提示すると共に問い直した。そして、そこには思考運動を実践する為の空間がポ
ストモダン的実践によって設けられおり、我々はその空間上で思考を行ったことになる。
そして本稿の論考は、聴取における美学にまで及んだ。我々は時に音楽聴き入って感
動し、時にはその時々の環境と音楽を結びつけて楽しみ、時に聴き流し、時に音を操作
して楽しむ。ある時にはその曲の社会的意義について思考し、時になにも考えずサウン
ドそのものを味わい、自分なりに歌詞解釈を行って楽しむこともある。音楽の内容とま
ったく関係のない個人的な思い出を、音楽に結びつけることも多い。そういった聴き方
は音楽の複製技術の発展が段階的に獲得したレコードの特性がもたらしたものであっ
た。まつきが『一億年レコード』のまえがきで語ったように、音楽は聴衆のものなのだ。
そういった環境的聴取経験のダイナミクスは、個々人の想像力と創造力の大きさに準
じるといえるだろう。本稿での論考が音楽を中心としたあらゆる経験の瞬間を尐しでも
豊かにするものとして機能することがあれば、それはこの上ない幸いである。

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参考文献

・細川 周平 (1990)『レコードの美学』(勁草書房)
・増田聡・谷口文和(2005)『音楽未来形 デジタル時代の音楽文化のゆくえ』(洋泉社)
・山田晴通(2003)「ポピュラー音楽の複雑性」東谷護 編『ポピュラー音楽へのまなざ
し 売る・読む・楽しむ』(勁草書房) (p.3~p.26)
・毛利嘉孝(2007)『ポピュラー音楽と資本主義』(せりか書房)
・小川博司(1988)『音楽する社会』(勁草書房)
・望月寛丈(2010)『ウェブ時代の音楽進化論』(幻冬舎ルネッサンス)
大谷 和利 (2008)『iPod をつくった男 スティーブ・ジョブズの現場介入型ビジネス』
(アスキー新書)
・エド・ホイットリ―(2005)「『ホワイト・アルバム』はポストモダン」イアン・イン
グリス 編 村上 直久・古屋 隆 訳『ビートルズの研究 ポピュラー音楽と社会』(日
本経済評論社) (p.181~p.214)
・小沼 純一 (2000) 『サウンド・エシックス これからの「音楽文化論」入門』(平凡
社)
・Th.W. アドルノ (1998)『不協和音―管理社会における音楽』 (平凡社ライブラリー)
・生見 俊雄 (2004) 『ポピュラー音楽は誰が作るのか 音楽産業の政治学』(勁草書
房)
・増田 聡 (2006)『聴衆をつくる―音楽批評の解体文法』(みすず書房)
・南田 勝也 (2001)『ロックミュージックの社会学』 (青弓社ライブラリー)
・細見 和之 (2005)『ポップミュージックで社会科』 (理想の教室)
・まつきあゆむ(2010) 『一億年レコード』(まつきあゆむによるダウンロード販売によ
り入手)
・まつきあゆむ (2010) 「一億年レコード歌詞一覧」[PDF ファイル] (まつきあゆ
むによるダウンロード販売により入手)
・まつきあゆむ (2010) 「※一億年レコードを手に入れた皆様へ」[PDF ファイル]
(まつきあゆむによるダウンロード販売により入手)

参考 URL

・まつきあゆむ 「ヘッドフォンリスナーズサイクリングクラブ」
http://matsukiayumu.com
・“matsukiayumu’s videos on ustream”
http://www.ustream.tv/user/matsukiayumu/videos
「TOUR2010「旅行」 05/03/10 02:09AM」

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http://www.ustream.tv/recorded/6642526?lang=ja_JP
「TOUR2010「旅行」 05/09/10 01:03AM」
http://www.ustream.tv/recorded/6791417
・まつきあゆむ「まつきあゆむ (matsukiayumu) on Twitter」
http://twitter.com/#!/matsukiayumu/
・後藤正文「Gotch(ゴッサン)(gotch_akg) on Twitter」
http://twitter.com/#!/gotch_akg
・さなぎ日記(個人ブログ)
http://asanagi987.blog27.fc2.com/blog-entry-662.html
・真和楽器HP
http://www.shinwamusic.com/blog/183.html

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