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令和2年度 哲学演習 水曜日3限 学期末レポート

技術時代の危険への応え
-人間〈と〉世界-

課題担当:酒井 潔教授
学部学科:文学部哲学科
学籍番号:18031008
氏名:鹿 伝宇

はじめに
原子時代と名付けられた現代をハイデッガーは技術時代と呼んでいた。それは技術が
現代においてかつてない進歩を遂げたからではない。現代技術の本質に帯びている不気
味さが精密科学の発展とともにようやく具現化され、技術の本質がこの時代に生み入れ
られた我々に危険をもたらしたからである 1。技術時代における危険への応えとして、世
界に住む我々の有り方、及び場所としての物に宿る世界そのものの有り方について、ハ
イデッガーは異なった位相から論じてきた(「技術への問い」、「建てる、住む、思索
する」、「放下」、「物」など)。様々な技術に育まれてきた我々はハイデッガーを批
判するにしろ、擁護するにしろ、「技術時代の危険への応え」というテーマに据えた以
上、我々の議論は上述の講演群を通過しなければならないだろう。
本レポートの第一部は「技術時代の危険への応え」というテーマを、講演「技術への
問い」を概観することによって輪郭付ける。第二部では、そのテーマに含意されている
「人間〈と〉世界」の問題を、さらに講演「建てる、住む、思索する」、「放下」、
「物」に出てくる諸概念を手掛かりに際立たせる。

第一部 技術時代の危険への応え
1.技術時代の危険
ハイデッガーによれば、第三次世界大戦よりも遥かに大きな危険が技術時代において、
我々を脅かしつつ迫って来ている 2。しかし、危険なのは個々の技術的なものではなく、
技術というものの本質である。さらに言えば、 現代技術の本質となっている「立て組
Ge-stell」3が支配している技術の本質は危険である 4。現代技術の成り立ちを根底から
統べている「立て組」は決して人工的に作られた技術的なものではない。「立て組」と
は、古代ギリシア語のアレーテイア(=真理)に含蓄されている力動的な意味としての
「顕わにすること Entbergen」の一つの仕方である。そして顕わにすることとは、覆い
隠されているものが覆い隠されていないものに至ることである5。
通常芸術創作と訳されるポイエーシスもまた顕わにすることの一つではあるが、ポイ
エーシスにあって現代技術にない働きがある。それは、「本質に即していない非現前の
もの Nicht-Anwesende」を「本質に即している現前 Anwesen」へ向けて、非現前のものを
それの本質〔Wesen〕に即する〔an〕ことにさせる〔lassen〕、つまり「誘い出す〔ver-
an-lassen〕」という働きである 6 。古代ギリシア人からすれば、テクネー(技術、技
芸)はポイエーシスと同じく、「誘い出す」という働きを有していた。しかしながら、
テクネーの「誘い出す」と全く異なった働きが現代技術に帰属している。その働きとは
覆 い 隠 さ れ て い る も の を 「 手 元 の と こ ろ へ 〔 zur Stelle 〕 」 「 用 立 て て
〔bestellen〕」、「即座に使える〔auf Stelle〕」ような「用象〔Bestand〕」として
制御し調達する「挑発〔Herausforderung〕」のことである7。
あらゆるものは制御し調達する思惟(=計算する思惟 8)の中でそれの用途へ向けて用

1
原子爆弾は危機をはらんでいる技術時代の幕開けではなく、その前景にある目立った
一つの目印にすぎない(『放下』17頁を参照)。しかし、技術時代の危険それ自体が
なおも覆い隠されている以上(Vgl. TuK,S.34)、人間は直ちに危険を回避できると
期待することはできないだろう。
2
『放下』29頁を参照。
3
Vgl. TuK, S.20, S.23
4
Vgl. TuK, S.28
5
Vgl. TuK, S.11
6
Vgl. TuK, S.10-11.通常「現前」と訳される Anwesen は an と Wesen という2つの要素
において「誘い出す」と訳される ver-an-lassen と連動している点に注目せよ。言葉の
解釈に力点を置くハイデッガーはハイフンをわざわざ入れた以上、彼の言葉を公共的解
釈の呪縛を超えたところに置く=訳す〔über-setzen〕べきだろう。
7
Vgl. TuK, S.16
8
計算する思惟は有るといえることがら〔alles, was ist〕について思慮しない点にお
立てられ、そのものは一体何で有るか、いかに有るかという問いへ向かう思索が、現代
技術の働きを支配している立てること〔Stellen〕の集約、即ち「立て組」という連関に
おいて一向に覆い隠されている 9。さらに恐ろしいことに、人間は今や用象の一つとして
「立て組」の連関に組み込まれ、自分自身の本質に決して出会えないという危険な運命
へ送り出されている。

2.救うものと応えとしての思索
ハイデッガーは上述の技術時代の精神的状況を「土着性〔 Bodenständigkeit〕」の喪
失、または故郷喪失(思慮喪失もそれに伴う)と性格づけた 10。それが意味するのは、
あらゆるものを制御しようとする有り方それ自体は決して人力によって制御されうるよ
うなものではない。人間は不本意ながらも己に固有の本質から疎外されている 11。では、
そのような危険から我々を救うものは果たしてあるだろうか。
制御し調達する思惟が帰属する「立て組」という技術の本質の有り方は決して我々へ
向けて技術の本質を告げ知らせてはいない。むしろ制御や調達といった働きでもって
「顕わにする」という技術の「根本動向〔Grundzug〕」(即ち本質に固有な動向)を
「塞ぎ立て、偽装〔verstellen〕」してしまう(根本動向を「塞ぎ立て、偽装する」こ
ともまた「立て組」の一環だろう) 12。しかし、この事態はむしろ「救うもの」の在り
処を次のように示唆している。つまり、危険のただ中から技術の本質を、それの「本質
のうちへ向けて取り戻す」「救うもの〔Rettende〕」はまさに当の危険のうちに匿われ
ている、と 13。従って、技術とは何か、危険なる「立て組」とは何か、と問いを発し、
それについて思索すること自体は既に救うものの開花を待ち望むことであり、技術時代
の危険への応えとなっているのだ14。
最も、「技術への問い」の最後に、ハイデッガーは挑発する現代技術の代わりに、顕
わにすることのもう一つの仕方であるポイエーシスを、技術の本質にかなった技術=テ
クネーとして提示したが 15、その言説自体は直ちに時代を安全な動向に修正できるよう
な救済ではない。技術時代の危険への応えはただ技術批判の言説に従うのではなく、全
てが己自身の思索に懸かっている。以上をまとめると、人力で除去することのできない
技術時代の危険には「顕わにすること」の別の可能性を秘めており、それを看取し思索
することで、制御や調達といった偽装から救うものを輝きのもとへ来たらすことができ
るということである。

第二部 人間〈と〉世界
1.故郷喪失の世界と思索

いて、無思慮あるいは思慮喪失とも言われる(『放下』8-11頁を参照)
9
Vgl. TuK, S.16, 19, 27
10
『放下』15頁、Vgl. VuA, S.162.故郷喪失は存在忘却のしるしとして、伝統的形而
上学に覆い隠されてきた存在の歴史に即して思索されなければならないが、ここでは技
術という「存在の歴史に即した一つの運命」にだけ焦点を絞る(『ヒューマニズムにつ
いて』78、81頁を参照)
11
マルクス『経済学・哲学手稿』(101-104頁)で論じられる「自然の疎外」、
「人間の精神的・人間の的本質の疎外」などは、ハイデッガーによれば故郷喪失が位置
する歴史の本質的次元に到達している(『ヒューマニズムについて』80頁を参照)。
12
Vgl. TuK, S.27
13
Vgl. TuK, S.28
14
Vgl. TuK, S.32
15
Vgl. TuK, S.35
「故郷喪失が世界の運命となる」16。ハイデッガーから見れば、技術時代の危険は人
間だけでなく、世界そのものをも脅かしている。しかし、世界が陥る危険は決して「地
球規模の気候システムの変調」や「資源の最終的枯渇」17、あるいは強大な権力が今や
「技術システムの支配者」によって行使されている18といった類のものではない。むし
ろそういった事態を世界の危険とみなす思惟それ自体が、世界を危険にさらしている。
なぜなら、世界と技術はそのような思惟において、計算し制御されるところの対象と
なっているからだ19。技術進化のプロセスを加速し、自己批判と自己管理を含んだ集団
的な自己制御という未来へ移行するにせよ20(左派加速主義)、技術に民主的な「公共
空間」21を開き、そこで技術を合理化するにせよ(社会構成主義)、たとえ技術の独占
が解消され、構造的な経済・権力格差が抹消された資本主義のアウトサイドに到達した
としても、「立て組」に組み込まれた制御し調達する思惟自体がそれの意味から省察
〔Besinnung〕22されない限りでは、技術時代の危険からは脱却しえないだろう。世界も
依然として故郷喪失の運命にとどまるだろう。
それに対し、技術時代の危険への応えとしての思索は、思索する人間を別の仕方で世
界と関与させる。講演「放下」ではハイデッガーは次のように述べた。我々へ向かって
到来してくる「技術的世界の意味〔Sinn〕は、それ自身を覆蔵してをります」23。その
ような動向を示している事柄が秘密〔Geheimnis〕と名付けられる。その名前には次のこ
とが含意されている。「技術的世界の意味」へ向かっての開け〔Offenheit〕としての思
索は、喪失した故郷を追思において再び取り戻す仕方で、新たな故郷〔Heim〕に帰還す
るということである24。つまり、故郷喪失という世界の運命を変容するためには、匿わ
れる秘密を度外視し、世界を人力で制御するのではなく、技術的世界の意味に対して己
自身の思索を開くことが要求される。しかし、ハイデッガーのいう世界は決して公共的
解釈において自明視されるような概念ではない。思索と関連付けられた世界というハイ
デッガー独自の概念について、さらに吟味する必要があるだろう。

2.「〈間〉に存する反照的関係」としての世界
前節で述べられた思索はむろん主観による表象〔Vorstellung〕ではない。それは死す
べき者としての我々〈と〉世界の有り方全般に関わる本質的な働きである。「立て組」
に規定される制御し調達する思惟はあらゆるものの本質を覆い隠すどころか、そのよう
な覆い隠しの事態でさえ、現前できずに覆い隠されてしまう。技術時代の危険への応え
となる思索はまずそのような現前していない技術の本質を、それの「本質〔Wesen〕に即
する〔an〕ことにさせる〔lassen〕」、つまり現前へと誘い出すことによって性格づけ
られる。本質に働きかけるという性格において、思索は非現前のものを誘い出すポイ
エーシス・テクネーと同様の働きをしているだけでなく、技術の本質を、それの本質の
うちへ向けて取り戻す「救うもの」の働きとも酷似している。しかし、「救うもの」は
決して人間によってもたらされるものではないため、両者の類似性は、人間的な思索と

16
『ヒューマニズムについて』80頁を参照。
17
「加速派政治宣言」1章2節を参照。
18
「民主的な合理化」1節を参照。
19
『放下』19頁。
20
「加速派政治宣言」3章22節
21
「技術哲学の展望」4節。
22
Vgl. Tuk, S.34. これから出てくる「技術時代の意味〔sinn〕」との連動が示唆され
ている。
23
『放下』27頁、28頁。
24
『放下』28頁を参照。
非人間的な「救うもの」との〈間〉に存する反照的関係25を表明していると考えられる。
思索と同じ働きを有する古代ギリシアのテクネーは「人間と〔非人間的な〕神々との
運 命 の 対 話 を 明 る み に も た ら し た 」 26 と ハ イ デ ッ ガ ー は 述 べ る 。 こ こ で い う 対 話
〔 Zwiesprache 〕 は 、 異 な る 次 元 に あ る 人 間 と 神 々 を 結 び つ け 、 ま さ し く 「 〈 間
〔zwieschen〕〉に存する反照的関係」に当たるだろう。四方域〔Geviert〕を論じた講
演「物」「住む、建てる、思索する」において、人間と併置される非人間的なものは
神々以外に、天空と大地も加えられた。ハイデッガーによれば、本質に即する人間は死
すべき者という有り方において、天空、大地、神々とともに四方域を成している。その
洞察を踏まえ、「〈間〉に存する反照的関係」をさらに際立たせたのは講演「物」にお
いてである。この関係自体が、四方 域を仲介し、統一する働きとしての反照-遊戯
〔Spiegel-Spiel〕と名付けられ、世界の本質を発揮する世界(=世界化する〔welten〕
世界27)そのものと見なされた 28。ここまで来ると、ハイデッガーのいう世界 29はもはや
宇宙や自然でもなければ、事物の集合でもないということが明白になる。世界は、人間
と併置される天空、大地、神々のようなものではなく、むしろ力動的に働いている
「〈間〉に存する反照的関係」そのものとなった。

おわりに:思索の道と目標
さて我々の考察は、技術時代の危険への応えにおける人間と世界を、ハイデッガーの
議論に沿って際立たせるという目標に辿り着く。人間と「救うもの」を結びけるものは
他ではなく、「〈間〉に存する反照的関係」としての世界そのものである。そして技術
時代の危険への応えとしての思索は、たとえ直に「救うもの」を生み出すことができな
くても、「救うもの」と関係を結んだ世界に帰郷することはできる。
ハイデッガーは自ら自分の思索を「道」という意味深い言葉で性格づけた。それを根
拠に、道そのものである思索に目標を持ち込む必要はないという指摘がある。しかし、
目-標は必ずしも完結を意味する終点や目的-手段-図式〔Zweck-Mittel-Schema〕30に
組み込まれるものではない。ハイデッガーの文脈では、時として道標や向かい先、ある
いは(神からの)合図〔Wink〕と解されるべきである 31。目標があっても、道に迷うこ
ともあれば、その道がいきなり途絶することもある 32。その道は、思索される当のもの

25
人間的な思索と「救うもの」は異なる次元にあるが、その働きは互いに関係し、対応
しているため、両者の関係を「反照的関係」と名付けた。「現-存在は人間と神々の
〈間〉である(GA65, 311)」と述べられたように、ハイデッガーは異なる次元にある
〈間〉の関係にも注目した。
26
Vgl. TuK, S.34
27
無の無化(Nichten)、本質の本質現成(Wesung)と同様に、ハイデッガーの言う世界
も一つの力動的な概念である。
28
「物」45頁を参照。ハイデッガーは「四方界を「世界」とも言い換えている(GA79,
19)」という指摘もあるが(『ハイデガーの超政治』319頁)、ここではその論述に
立ち入って考察することはしない。
29
ハイデッガーの世界論は彼の初期思想から見るとかなり変遷していたように思われる。
本レポートではその生成史に触れずに、上述の講演群にだけ焦点を絞る。
30
Vgl,VuA, S.146
31
『存在と時間』の冒頭にも「目標〔Ziel〕」(SuZ,1)が出てくる。解釈学的循環と
「存在からの(=について)その意味への問い〔die Frage nach dem Sinn von
Sein〕」を語るハイデッガーの初期思想は決して後期思想における「道」としての思索
とは矛盾しないだろう。目標についてのさらなる考察は古代ギリシア語のテロスに遡っ
て思索する必要があるが、本レポートでは立ち入って展開することはできない。思索の
手掛かりとなる有名な聖書の言葉をここで提示する。「私はアルファであり、オメガで
ある。アルケーであり、テロスである〔Ἐγώ εἰμι τὸ Α καὶ τὸ Ω, ἀρχὴ καὶ τέλος〕」(聖
書黙示録1:8)
32
ハイデッガー『杣道』の題字を参照。
から贈与され、我々は運命によってその道へ送り出されている。世界=〈間
〔zwieschen〕〉に存する反照的関係=対話〔 Zwiesprache〕において、死すべき者たち
はまさにそのような、神に合図を贈り入れられた33思索の杣道に歩んでいるだろう。

(約6000文字)

参考文献
著書
Martin Heidegger, Die Technik und die Kehre, Neske, 1962
Martin Heidegger, Bauen Wohnen Denken, Vortäge und Aufsätze, Neske, 1954
M.ハイデッガー『放下』辻村公一訳、理想社、1963年
M.ハイデッガー『「ヒューマニズム」について』渡邉二郎訳、筑摩書房、1997年
M.ハイデッガー「物」『技術とは何か』森一郎訳、講談社、2019年
M.ハイデッガー『哲学への寄与論考』大橋・秋冨訳、創文社、2005年
轟孝夫『ハイデガーの超-政治』明石書店、2020年
K.マルクス『経済学・哲学手稿』長谷川宏訳、光文社、2010年

論文
A.フィーンバーグ「民主的な合理化-技術、権力、自由」『思想』No.926(「技術の哲
学」)直江清隆訳、岩波書店、2001年7月
村田純一「技術哲学の展望」『思想』No.926(「技術の哲学」)岩波書店、2001年
7月
ニック・スルニチェク、アレックス・ウィリアムズ「加速派政治宣言」『現代思想』青
木社、2018年1月

「この対話〔Zwiesprache〕の内へ、最後の神が合図を贈り入れる」(『哲学への寄与
33

論考』416頁)

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