You are on page 1of 177

2016年3月25日~6月7日

狩人
玉藻 力

はじめに
陸軍遺伝子研究所のテトラへドロンで、調整者プロジェクトの実験体No.0こと、玲
は生を受けました。玲はDNAの塩基配列を5%操作されています。小脳は肥大化し、筋
力も瞬間的に増強できます。
幼いころから殺戮兵器となるべく、ブルーベレーの隊長に育てられます。試練とも言
える訓練で白兵戦にめっぽう強くなります。言語に長け、策士でもあります。兵器や武器、
毒物に通じています。
代理母は日系人と聞かされたころから生活に疑問を感じはじめ、隊長以下を気絶させ
て軍から脱走します。玲はルーツを訪ねるため、日本へ飛びます。いつしか「サイコパス
ハンター」と恐れられるように。
日本では、精神障害者に良心のかけらもない精神病質、いわゆるサイコパスが含めら
れています。精神に障害は起きません。不安定になるだけです。精神病では断じてなく、
脳の病であります。確かに、どのような病気にも軽い、重いがあります。国やこころない
医師によって精神障害者の烙印を押しつけられた方々のうち、世の中で立派に働いていら
っしゃる人を挙げればよいでしょう。
それでも、納得できないのであれば、「精神とは何か」についてお考えになってみてく
ださい。
サイコパスの定義はあいまいです。
しかしサイコパスとは、

『健康な体で生まれながら、自らの欲にまかせ、ひとりよがりでわがままな考え方をゆが
ませ続けたもののことをいう』

と私は考えています。

- 1 -
サイコパスとかかわらないのは難しいかもしれません。
(1)近づかない。
(2)冴えわたる勘で弾く。
(3)なるべく一人にならない。
(4)悪意や偽りの善意に敏感になる。
(5)そして肝心なのは、周りの人が兆しを逃さないこと。
が大切だと思います。

カントの教えるように、健やかな精神は生き抜こうとする力である。と私は信じていま
す。それを支えるのは、ものやことを大切にする気持ちだと思います。
おわりに、はありません。

常備軍は、時とともに全廃されなければならない(カント)

少女迷妄
裁判所の帰り道に、守は公園のベンチで休んでいた。
「離婚裁判と相続争いばかりだ」
学生で司法試験に受かり、意気揚々と法曹界に入ったが、勉強に盗られた時間、事務所
の設立金、運転資金、裁判官や検察官の接待交際費、法人化のごたごた、法科大学院出の
再教育費、中途採用の広告費などで、赤字を防ぐのがやっとだった。
「元取れなかったな」
「今さら独立したところで。結婚も」
毬が足元に転がってくる。
「はい。どうぞ」
「笑。おじさん、ありがとう」
ぱたぱたと走り去るお下げの少女。
「おじさんか」
可憐で強い瞳の子だ。若いころは男女の区別のないうるさい子どもくらいにしか思わな
かった。老いか。俺にもあのくらいの娘がいるはずだったのに。クライアントにFAXし

- 2 -
て電話しなければ。
東京簡易裁判所と東京家庭裁判所、たまに東京地方裁判所を遊牧する毎日で一年が瞬く
間に過ぎる。
「ジプシー顔負けだな」
法の正義の下、無実の人々や冤罪の人間を国家権力たる裁判官や検察官と真剣勝負で勝
訴を勝ち取る。なんて思っていたが、書類の作成と雑用の日々。弁論なんて年に数回あれ
ばいい。裁判官や検察官に睨まれたらおしまいだ。
「理想と現実か」
(お仕事は)(弁護士です)
(まあ、それじゃ優雅な生活なんでしょうね。うらやましいわ)(いえ、そんなことはあ
りません)
(ご謙遜を)(本当です)
否定できなかったのか、しなかったのか。
「面倒くさかったのかもな」
小さなサッカーボールが来た。
(あの娘は!)
忘れもしない去年の女の子だ。
「サッカーかい。はい」
「ありがとう。フットサルだよ」
なでしこはすご、って東京学術大学附属小泉小学校か。どおりで。よし。金曜日の夜、
事務所の共同経営者の会議で守は提案する。
「法律はどうしても敷居が高く、敬遠されがちだ。いろいろなやり方があると思うんだが。
無料で教育関係を攻めてみるのはどうだろう」
「学校か」
「そう。自治体で無料相談もしているが、いかんせん待ち伏せだ。言葉は悪いが客を狩る
んだ」
「そうは言ってもな。時間がかかるんじゃないか」
「損して元取れだ。PTAにも顔を出すのさ」
「俺たちは忙しいから」
「お前たちに迷惑はかけない。事務所の名前だけ使わせてほしい。初めはすべて俺がやる

- 3 -
から」
「まあ、そういうことなら」
「広告塔と言ったところか」
「ありがとう二人とも」
「ただし、仕事に穴をあけるなよ」
「どこから狙う気だ」
「小中高とそろってる学校だ。まずは練馬区長を落とす」
首尾よく区長、そして教育委員会にも話が通る。一年間の期限つきではあるが、月に1
回、東京学術大学附属小泉小学校の6年生に守が講演することになった。もちろんPTA
への参加にも抜け目はない。
「この時間は道徳ですが。前にもお話ししたように、今日から月に一度、法律のお話を聞
いてもらいます。先生も勉強するから、みなさんもきちんと聞いてくださいね」
「虎ノ門の国際法律特許事務所からいらっしゃった弁護士の宅地守先生です」
「はじめまして。みなさん、こんにちは。弁護士の宅地守です」
「法律なんて聞くとむずかしく思うかもしれませんが、みなさんの暮らしで誰もが自然に
守るきまり。くらいに考えてください」
「今日は1回目なので、憲法と法律のおはなしをします」
「わー。むずかしそう」
「えー」
「やだー」
(眠い)(つまんない)(おなかすいた)(帰りたい)(体育がいい)(音楽やりたい)(鬼ご
っこしたい)(道徳の方がいい)
「はは。すぐ終わりますよ」
(反対するのは男の子の方が多いな)
「法律は、国がみなさんに守ることを義務づけているルールです。ここで勉強できるのも
法律のおかげですよ」
「憲法はちょー法規で」
「ちょー、だって」
「えーと。スーパー法律です。権力である国を縛るものです」
「すごい法律ってこと」

- 4 -
(男の子はいちいち絡むな)
「まあ、そうですけど。方向が違います。みなさんは憲法を守るのではなく、憲法に守ら
れているのです。最近は憲法の改正ですったもんだしていますが」
「ふぅーん」
「へぇー」
「日本は憲法で戦争を放棄していますから、軍隊をもっていません」
「自衛隊は軍隊じゃないんですか」
「軍隊ではありません。自衛隊は国民を守る組織ではないのです」
「パパは、お国と国民のみなさまを守るためには、外国で働くのも辞さない覚悟でありま
す。っていつも言ってるけど」
「え?ごめんね。この辺りは少しむずかしいので、いずれお話ししたいと思います」
(お父さんに言わないでくれよ)
娑婆の人前で説明することに慣れていない守は、滝のように汗をかき、腹の中で飲み水
の波打つ声が押しては返す。
「はーい、みなさん。宅地先生に質問のある人はいますか」
終わった。思っていたよりしんどい。子どもたちの反応を見ながら話すなんてとても無
理だ。あの子が見ている!このクラスだったのか。芯のあるいい目をしている。こいつは
幸運だ。俺の話はどうだったのだろうか。ちょっとでも興味を
「宅地先生。先生」
「は、はい」
「あの子から質問ですけど」
「ああ、すみません」
「さっき自衛隊の話があったんですけど」
「自衛隊?」
「警察はどうなんですか」
(なんだ警察か)
「警察は都道府県の地方公務員です。みなさんがよく誤解していますけれど。警察は国民
の安全を守るのではなく、国を守る団体です。凶悪な事件の犯人を捕まえますが、犯人を
野放しにすると国が乱れるからです。被害者をなおざりにするのがその証拠です」
「ぼくのおじいちゃんは警部庁の警察官だったけど」

- 5 -
(しまった。軽いパニックで、つい)
「あ、あのう」
「それ、法律にあるんですか」
「い、いや。僕の仮説みたいなもので」
「なあんだ」
(冷や冷やさせやがる。女の子みたいに大人しくまじめに聞いていればいいのに。男の子
は嫌いだ。ずうずうしいから)
「弁護士は弁理士も税理士もできるって聞いたんですけど、本当ですか」
「はい。本当です」
「私も弁理士の仕事をしています」
「先生は理系ですか、文系ですか」
「私は法学部を卒業しているので、文系です」
「特許は先端の技術の書類をつくる仕事だから、文系には無理。ってお父さんが言ってま
したけど」
「え。えーと」
(しまった。研究者か技術者なの)
「理系の所員に明細書を作成させ、私が監督しています」
「先生は社長なの」
「3人の共同で経営しています」
「社長ならいいんだ」
「まあ、そんなところです」
「宅地先生」
「はい」
(ようやく女の子。どうぞ)
「法律事務所は国民年金だから、ママに働くのはやめなさい。って言われたんですけど」
(よりによって同業者か)
「は、はい。おっしゃる通りです。ですが、会社にする場合は厚生年金に入らなければな
りません。私のところも今年からはじめました。これからは増えてくると思います」
「先生のバッジはなんですか」
(ほっ)

- 6 -
「これは、ひまわりの中に天秤をデザインしたものです。エジプト神話からとっています。
『法』『真理』『正義』を司る女神マアトの真実の羽と、死者の心臓をこの天秤にかけ、学
問の神トートがつり合いを見ます。正しい行いをしてきたか、そうでないかを調べるわけ
です。まあ、公正とか公平に裁判をしましょうということですね」
「パパは裁判なんかしたくなかったって。最高裁まで頑張ったのに」
(まずい。父娘家庭か)
「えー。私たちにも限界がありまして」
「ふーん。そうなんだ」
(空気が重い)
「はい、みなさん。そろそろ時間ですよ。お礼を言いましょう」
(助かった)
「ありがとうございました!」(大合唱)
「いいえ。どういたしまして」
「宅地先生。お忙しいところお疲れさまでした。私もたいへん勉強になりました。ありが
とうございます。ほかのクラスもよろしくお願いします」
「いえ。私もまだまだ勉強不足で」
「私はサッカー部の顧問もしているんですよ。もし時間があれば、クラブ活動でも見学し
ませんか」
「はい」
「どうですか」
「ええ。みんな真剣なまなざしでひとつのボールを夢中で追っていて」
(やっぱりサッカー部)
「そうなんです」
「まぶしい。接触プレーができるなんて、うらやましい限りです」
(汗がきらめいて美しく、なによりかわいい)
「は?」
「あ、いや。私は運動が苦手でして。中学を出てからなにもしていないので」
「そうでしたか。でも、それはよくありませんね。こんど子どもたちと一緒にサッカーを
しませんか」
「はい。喜んで!」

- 7 -
「え?」
「女の子の指導で悩んでいましてね。私も子どものころ男の子に混じって練習するしかな
くて。サッカー人口が増えたといっても、まだまだですから。女の子サッカーと競技の板
挟みといったところかしら」
「そうなんですか」
(艶と張りが雲泥の差だ。だが我慢しよう)
「どうだった」
「なんとか」
「頑張ってくれよ。サンドイッチマン」
「からかわないでくれよ」

入念に準備したこともあり、2回目からの講義は順調だった。
「死刑を廃止するために裁判を利用する弁護士がいるんですけど」
「前橋におじさんが相談に行ったら、1回目の1時間は無料なのに、2回目は30分で切
られて1万円も盗られたんですけど」
「無駄な訴訟は人生の無駄だからって断られたんですけど。人生に無駄なんてあるんです
か」
「無料法律相談は相談じゃなくて宣伝ですよね。ネットもそうだし。ここもそうですか」
お茶を濁した。どうせ来月には忘れているさ。男はよけいな質問ばかりしてくる。
「先生。私、サッカーは体育の授業以来」
「大丈夫ですよ。相手は小学生ですから」
みんな動きが速い。体力の衰えというよりは、運動の能力とか反射神経の問題だな。で
も、あの娘が見ているし、不様な姿は見せたくない。無我夢中のタックル。
「先生ナイスカット」
あの娘は見ていてくれたかな。
「宅地先生」
「は、はい」
「こんどはPKの練習をするので、キーパーをしてくれませんか。先生は体が大きいです
から」
「わかりました」

- 8 -
はあはあ。少し休ませてくれよ。でも、あと少しだ。守の山は当たり、好セーブを連発
する。あの娘が蹴る。
「うわあ。まいった。ナイスシュート」
少し大げさだったかな。あ。はにかみながら素敵な笑顔をくれた。俺は弁護士になって
よかったのかもしれない。
(手抜きじゃねえか)
「え」
あいつは。いつもつまらないことを俺に聞く生意気なガキ。ここでも、また。邪魔をす
るのか。
「はーい。みんな時間よ。後片づけしてください」
「先生、あいつのこと好きなの」
「な、なにを言ってるんだ」
「だって、さっき」
「そんなわけないだろう」
「もしかして独身」
「そんなことは君に関係ない」
「ふーん」
ませた奴だ。だが、言いふらされたりするとまずい。うわさは速い。
たまにはパチンコでもするか。どこにするかな。車も乗らないとバッテリーが上がるし。
練馬に来てしまった。あの娘は練馬なのだろうか。あそこに入ってみよう。
「うーん。調子悪いな」
ん。あのガキは。見ないふりをしよう。
「宅地先生」
「ねえ、先生」
「あ、ああ。君か」
「休みの日にさみしくパチンコなんて、やっぱり独身じゃん。先生この辺なの」
「ま、まあね」
こいつ。ここからいなくなれ。
「だからうちの学校に来たんだ」
「あのこと誰にも言ってないよ」

- 9 -
「あのこと」
「やだな、先生」
「おこづかいなくなっちゃってさ。ゲームソフト欲しいんだよね」
「とりあえずアイスでもごちそうしてよ」
小学生のくせにたかりか。待てよ。本当にいなくなってもらおう。
「わかったよ。せっかくだから、おいしいところにしよう。車で来てるし」
「やった」
トランクにビニールのガムテープがあるはず。
「うわっ。やめろ」
「おとなしくしろ」
男の涙は汚いな。口と手足は縛ったから、後ろの座席の足元に。土地勘のないところが
いい。高速だとナンバーを撮られる。五日市街道と青海街道と新青梅街道。休みだから混
んでいるな。でも、混んでいる方が都合のいいときもある。消す方法は、そして屍の処分
は。道すがら考えるか。計画的な犯行は筋が通っているから明るみになりやすい。非論理
的で理由のない事件や事故を装う。そのために。酒屋と模型店のどちらがいいかな。暗く
なる前に山に入らないと。念には念を入れてホームセンターにも寄るか。焦るな。明日も
休み。
「ほのかな殺意。どこ」
「だめだ。まだ慣れていない」
玲は守の車とすれ違ったが、相対速度が速く、思念のエネルギーも弱かったので、特定
できなかった。
「なんか臭いな」
「ちっ。小便もらしやがって」
服を着替えさせるとまずい。どうする、冷静になれ。条文を読み上げるんだ。よし、少
し遠いが奥多摩湖を越えて多摩川の源流を目指そう。この辺りでいいな。
「ここどこ。おうちに帰りたい」
「飲め。脱水症状を起こされると困るからな」
「変な味」
「黙って飲むんだ」
コーラにスピリタスのお子さまカクテルさ。自分でも驚くくらいの静かで低い声が出た。

- 10 -
5分くらいか。
「もう縛らないから。悪かったな。少し経ったら帰ろう」
「ほんと」
「本当だ。ただし、このことを言ったら」
「誰にも言わないよ」
一応、口紅とマニキュア、香水でもつけておくか。あと針刺しの髪の毛も。守は川にふ
らつく子を流した。この水温なら10分ともつまい。
「いつも俺の邪魔しやがって!」

あの娘と二人っきりの時間がほしい。なにかいい方法は。あいつがいなくなったのがわ
かる前に。一緒にいられるだけでいいけれど。お話をしてみたい。微笑みを独り占めした
い。もしも夢なら、養子にだって。
あれ。居残りの練習するのか。みんなは片づけているのに。感心な子だ。一か八か。
「まだ練習するなんて偉いね」
「うん。あたし控えのFWなのに、シュート下手っぴだから。中学は部活ないからクラブ
チームに入るの」
「そうなんだ。キーパーしようか」
「本当。お仕事は」
「大丈夫」
(この娘のためなら、残業なんて惜しくない)
ほんの10分だったろうか。こんなにも一つのことを一心不乱にしたことはない。晴れ
晴れとした気持ちになる。守は本気だった。
「やっぱりあたしセンスないかも」
「なにを言ってるんだい。たまたまさ。僕も精一杯。センスなんて関係ないと思う。練習
だよ」
「先生もずいぶんうまくなったよ」
「言ったなー」
笑。
薄汚い欲が頭をもたげる。
「今日は遅いから終わりにしよう」

- 11 -
「うん。ありがとう」
「いいえ。こちらこそ」
「ねえ」
「ん」
「おうちまで送ってあげようか。車で来てるから」
「え。いいです」
「もうすぐ暗くなるし。危ないよ」
「いやです」
意外に冷たく刺す視線を放つな。なんだよ。人が誠心誠意の好意で言っているのに。俺
の誘いを断る気か。
ちょっと、いきなり車の前に。危ないじゃない。
「奥さん、危ないですよ。困ります」
「すみません。急いでるんです。東京学術大学付属小泉小学校へ」
「わかりました」

「僕は仮にも先生だから、君の安全を守る義務があるんだ」
「痛い。離して」
「ぼくのはなしをじっと聞いてくれたじゃないか。その瞳で」
「え。時計見てただけ」
「おもしろくなかった」
「うん。サッカーやりたかった」
「こいつ!ぼくを裏切ったな」
「う。ん、んー」
この思念のエネルギーはきのうの。校庭か。間に合って。
「く、苦しい」
「君は。きみはぼくだけの物なんだ、そんなこと言うな」
「なにをしている。その子から離れろ」
「だ、誰だ」
「弁護士」
「タクシーのお嬢さんごときがよく知ってるな」

- 12 -
「私はお前のようなものを滅却する人間だ」
なんだこいつ。瞳が紅に。
「わーん」
「よしよし。怖かったね。遅くなってごめんなさい。もう大丈夫だから」
「自負はないのか」
「自負でメシは食えんさ」
美人でかわいいな。見られたからにはきのうのこともあるし。消すか。
「ゆかいに興奮しているな」
「それがどうした」
「私は読唇術を心得ている。表情、仕草、口調でこころも読める」
まさか。
「お前、男の子を殺めたな。きのう私はお前とすれ違っているぞ」
「嘘を言うな」
「量子もつれ。と言ってもわからないか。この国には、さとりとかやまびこがいるそうだ
な。そんなものだ」
「漁師ほつれ?日本人じゃないのか」
「生粋ではない」
「女一人でよく歌う。そのなりで身の危険を感じないのか。ひとりも二人も同じこと」
「いい女だ」
「時間の無駄だったな。お前は幻の娘を独占したかっただけさ」
「これでお前の生き方は終わりだ。青い閃光で砕けろ」
守が気づくと玲が目の前に。青白い龍が旋回する精神波が守の額に照射される。
「お姉ちゃん。大丈夫」
「大丈夫よ。ちょっと目まいが。さあ、お母さんが待ってるわ」
「うん。ありがとう」
「あ。そちらのお嬢さん。ぼくは弁護士だけどサッカーしませんか」
「おっ。あちらのお嬢ちゃん。ぼくと刑法についておはなししませんか。だめなの。ぷー
っ。せっかくこのぼくが声かけてあげてるのに」
「ちょっと、ちょっと。どこのおじょうちゃん。パパとママがきみを捨てたからぼくが養
子にして飼ってあげる・・・ふふ・・・・・大学出たら・・・・・・・いや高校卒業した

- 13 -
ら・・・・・・・・・いっしょになろう・・・・・・・・・・・はははは」
「楽しいなあ。条文読もう」
「うれしいなあ。憲法が」
「し・あ・わ・」

少年倒錯
「こんな計算もできないの。あなたうちに来て何年。私には信じられないわ」
まったく。最近の男は草食系だかなんだか知らないけれど。色白で細面、華奢でなよな
よしているのよね。脱毛や化粧しているのもいるし。やる気はあるの。結婚も二の足を踏
むみたいだし。目に光がないのよね。なんのために男として生まれてきたのかしら。仕事
はね。どれだけお金を集められるか。これだけ。狩りよ。少しはオスらしいところを見せ
てほしいわ。
だいたい税金の計算なんて電卓はたくだけじゃない。税法は、財務省と国税庁が内閣法
制局に命令し、荒唐無稽な税法用語を駆使して庶民にわざわざわかりにくく捏造してくれ
たのよ。大蔵省の官僚が書いた『超なんちゃって法』は読んでるの?上司は部下に通勤電
車の日本の車窓から税金盗れるところを研究させているのよ。見習ってほしいわ。
座右の書は『税務六法』じゃないわよ。絶対に『官僚階級学』です。そんな日本語はな
いけれど。うっかり口にしないでね。官僚にあるのは、終身雇用制度論、年功序列論、サ
ービス精神皆無論、たらい回し方法論なんて。世の中では古いとか。
「先生」
「麗子先生」
「え?なにかしら」
(同姓の小娘が入ってきてから名で呼ばれるようになったわ。なんか癪に障るわね。税務
署の立て看板だと私が後ろだし)
「京妖銀行の行得支店からお電話です」
「来客中だから、かけ直すと言いなさい」
「先ほどは失礼しました。お得意さまでして」
「白田先生。こちらこそお忙しいところ申し訳ありませんでした」
「ご用件は」

- 14 -
「例の相続の件ですが。わが銀行に預金と財テクの紹介をしていただきたく。その暁には」
「わかっています。お任せください」
「先生。いつもいつもありがとうございます。私もノルマがありまして。先生には本当に
感謝しております」
「いいえ。お互いさまですから。気になさらないでください」
「では、先生。失礼いたします」
「失礼します」
ふん。金の亡者め。経済界では銀行がいちばん偉いと思っているくせに。その傲慢がバ
ブル経済を弾けさせたのもそ知らぬふり。法人税だって不良債権の処理が終わるまでなか
ったわよね。貧乏な高校生のとき、不採用にした恨み。忘れるものか。利用するだけして
やる。本当は都市銀行がいいのだけれど。もっと販路を広げて金づるを。貧しさは敵。今
は私が完全に上。先生。先生先生。先生は。先生こそ。先生のおっしゃる通りです。先生
のおかげです。やっぱりいい気分ね。先生は未来に向かって客を導くの。
「あのう。すみません。先生」
「ん?」
「これなんですけど」
(法改正を適用する案件)
「あら、いけない。金美先生」
「はい」
「これ見てあげてくれないかしら。これから神谷町の特許事務所へ出張なの」
「わかりました」
こういうときは役に立つか。東京はいいのだけれど。あの所長は所内に愛人を囲ってい
るのよね。まあ、特許事務所は理系の掃き溜めだから。たまに科学の気持ち悪い話をする
し。自然法則を利用した技術的思想の創作とか。なんでもこなす便利屋さんじゃないの。
中身なんて知らなくてもいいじゃない。うちと違って特許事務所は大手がつかないと悲惨
だわ。でも、あの所長がいなかったら、薬の使い方とあの部屋の仕掛けが。
税理士にして正解だったわ。税金を払わない人はいないし。開業している税理士の平
均年収は都市銀行の3倍。国家資格では群を抜いてトップ。小原専門学校では資料を配っ
ているけれど、やめてほしいわ。動きにくくなるじゃない。
消費税は一律。なんて思っている子羊がたくさんいるし。地方に行くと、これ見よが

- 15 -
しにすごい事務所です。みたいな御殿が建っているけれど。バカ丸出しね。事務所はこぎ
れいな中古ビル。車もそこそこの中古車がいいのよ。うちも困っています。だけど、私の
税金も洒落にならないのよね。税理士が脱税するわけにはいかないし。税金が天から降る
とでも思っているの。税務署上がりの税理士は役立たずだし。大学校卒でしょうに。
ここのところ、はらはら、どきどきがないわ。ホストクラブもそろそろ飽きてきたし、
お金がかかる一方だし。けちと吝嗇と倹約はちがうのよ。市河や浦高の不動産もめぼしい
ところは押さえているからなあ。やっぱり、あれかな。麗子は浮き立つ。
「この前と同じ思念。弱すぎる」
なぜ、東京はこんなにも殺意が多いのだろうか。玲は悲しくなる。
「白田先生」
「はい」
「今日はちょっと相談がありまして。よろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「お客さまのネットワーク関係が好調なので、仕事が増えてきました」
「おめでとうございます」
「ありがとうございます。そこで、うちもその拠点の近くに支店を出す予定なのですが。
少し問題がありまして」
「どんな」
「どの技術もそうですが、ネットワークの技術は1年ほどで使われなくなってしまうもの
が多いのです。かといって出さないわけにもいかず。かなり似ている技術も多く、どうし
ても書類がかさばるのです。うちはほぼ均一の料金なので、仕事をこなせるかどうか」
「先生は印字代を加算していますか」
「いいえ。図面を外注に頼むとき以外は」
「でしたら、やってみてはいかがでしょう」
「そうすると、料金がかなり割高に」
「大手の事務所はしていますよね。私の知っている零細の事務所もなに食わぬ顔でやって
ますわ」
「そうなんですが」
「お金に見合う仕事をするのがプロだと思います。特許の濫発は製造業、消費者、特許業
界にとってもよくないと私は考えます。まずはお客さまと腹を割ってお話しするのがよい

- 16 -
かと」
「そうですよね。さすが麗子先生。ありがとうございました」
「どういたしまして」
いい年をした男のくせに。よくそれで先生とか言われているわね。少年を卒業すると男
はろくなのがいないわ。いい男でも大人になるまでそれから12年はかかるし。さて。ま
だちょっと早いわね。あそこに寄ってから帰ろうかな。腕がなまるから。
「それでは、私はこれで失礼します」
「来月もよろしくお願いします。お気をつけて」
このゲームセンターのトイレは、男子の手前に女子トイレがあるので、やりやすいのよ
ね。派手すぎず、地味すぎない私服へ。
「よし。100円玉のタワーとキャラクターカードのタワー完成」
久しぶりだから、なまったかな。
「おばさん、すごいね」
「そう。ありがとう」
(誰がおばさんじゃ!なかなかいい目ね)
「ぼく」
「ん」
「口の利き方には気をつけようね」
「なにが」
そろそろ頃合いね。
「あら、お化粧が」
「坊や。それ私のお金じゃないの」
いとも簡単に引っかかるわね。バカなのかしら。馬鹿はあんまり好きじゃないのよね。
この前は女子トイレ前で峰打ちのおんぶ戦法をしてちょっと危なかったわ。すごむ戦術に
しようかしら。
「えっ」
「お店の人に告げ口しようかな。補導されるわよ」
「ごめんなさい。返します」
「そうね。おごってあげてもいいけど。条件があるわ」
「なんですか」

- 17 -
「私は君くらいの子を亡くしていてね。少しお話してくれないかしら」
「は、はい」
「心配しなくても、小一時間ぐらいで送ってあげるわ。おいしいコーヒーでも飲まない」
「うん」
「国税庁に媚びを売ってくるから直帰するわ。じゃ」
「すげー。おばさんのうちってでっかいんだね」
(おばさんじゃないっ。かわいいから我慢するか)
「そんなことないのよ。パパの遺産でね。でも、まだ借金だらけ」
(この子はおとなしく飼われてくれるかしら。まあ、だめでも)
「ねえ、おばさん」
(おばさん、おばさんって。この小僧)
「うちは共働きで。親がずっとけんかしてて。少しここにいてもいい」
(ラッキー。ゲームセンターの一人っ子は確率が高い)
「どうぞ。息子の部屋もそのままにしてあるから、好きにしていいわ。学校へは私が電話
してあげる」
「おばさん、ごめんね。ありがとう」
(お姉さまって呼ばせようかしら)
「うおっ!マンガとゲーム機と高そうなノートパソコンが」
(ちょろいもんね。反抗したら)
「ごはんができましたよ」
「わー、ごちそうだ。いただきます」
「たくさん召し上がれ」
「すげーうめえ」
「そう。よかったわ」
「おばさん、料理もうまいんだね。声も若く見えるし」
(おばさん。も。はよけいよ。若くじゃなくて、きれいの間違いじゃないの)
言葉づかいや柄が悪いと程度が知れるわ。できが悪いのもいいのかしらね。あまり悪
態をつくと予定を早めるわよ。
「ねえ、おばさん。おばさんって言うとよそよそしいから、おばちゃんって呼んでもいい」
「どうぞ」

- 18 -
ちゃん、としたら馴れ馴れしいだけじゃないの。ちょっとやさしくすると調子づいて。
私はあなたのママではありません。顔と肌はすべすべしてきれいなんだけどねえ。美少年
はお金と学がないの。対話を楽しむのは無理ね。いつものことだけど。飼育費がもったい
ないから決行ね。どの服にしようかしら。一糸まとわぬ姿も捨てがたいのよね。完全体に
するか。ダダやシュルレアリスムの前衛もいいわね。できあがりを見てからにしようか。
「おばちゃん。おばちゃんって、ばあ」
「なあに」
(このガキ。今バアさんと)
「お風呂入りたい」
「沸かしてくるからテレビでも見てて。すぐに入れるわ」
飛んで火にいる夏の虫。
「沸いたわよ。どうぞ」
「このうちすごすぎる。風呂も木と石のがある」
粗野で大きな声ね。予想はしていたけれど。そいつらはボクの棺桶よ。さあ、風呂場を
すべて施錠。換気扇の停止。排水よし。冷凍機を-30℃で作動。本当は凍るまでのとこ
ろを見たいのだけれど。よけいな部品をつけるとお金がかかるし。部品が多いからくりは、
湿度、寒暖、気密のバランスをとるのが難しい。とあの所長が教えてくれたから。私はサ
ドじゃないし。あとは週末ね。
フランスのジル・ド・レはおめでたいわ。凌辱と虐殺を楽しむなんて。仕事と同じく、
結果がすべて。過程なんてどうでもいいのよ。足がついたら目も当てられないわ。なにご
とも静かに素早く。
玲は都心におり、知る由もなかった。
「よりによって今月の打ち上げか」
飲み会でごちそうしないと所員の士気が下がるもの。痛い出費だけれど。仕方がないわ。
よい所長を演じ続けるのも疲れるのよね。最近は厚生年金の風当たりも強いし。早くあの
子に会いたい。
「麗子先生。ごあいさつをお願いします」
「みなさん。いつもお疲れさまです。来月からいよいよ確定申告シーズンです。私たちは
季節労働者。このへりくだった気持ちを忘れずに、うまく説明してください。税金がある
ことをお国に感謝して頑張りましょう」

- 19 -
「ただし、理系の人にe-Taxをすすめるのは注意してください。ノーベル賞の話題な
どで必ず確認するように。ご年配の方には積極的に。もちろん、わが事務所のお客さまの
周辺機器もそれとなく宣伝してください」
ただいま。毛布を1つ入れておいてよかったわ。前に失敗したから。ただ冷凍すると苦
悶の表情になりやすいのよね。顔がきれいに紅潮するから一酸化炭素も使いたいのだけど。
春以降ね。さて、ここからが本番。その前に、赤ワインとチェダーチーズね。大したお酒
がなかったから。
「ここがいちばん神経を使うわね。でも、そこがいいの」
ワイングラスを左手で舐め回しながら、麗子は解凍のアイコンを選びかねる。
「来週の天気予報はどうかしら。日時は合ってるわね」
電磁式冷凍解凍乾燥機に機械式送風排気圧力殺菌機を組み合わせて電子制御を盛り込ん
だ簡易型標本作製装置こと、フリーズドライマシンは、継ぎ接ぎのみすぼらしい機械だが、
少しずつ改良が加えられ、洗練されていた。客や業者をだまし、某国で技術兵だった元夫
と共同でつくり上げたパッチワーク。むろん家のノートパソコンや麗子の携帯電話に接続
されている。フランスに弱い麗子は、ラピエサージュと呼んで悦に入っていた。
「明日の夜くらいでいいか。圧力を気持ち低くして酸化を防ぎましょう」
市河・浦高経営者の集いも年齢層が高くなってきたからかしら。長い。まとまらない。
酒癖が悪い。の三重苦。四十路前は私だけだし。
「ボクちゃん、どうかしら」
「大丈夫みたいね」
体温くらいにして送風をやや強く、排気は中ぐらいで。12時間後に強制乾燥。くさや
もたくさん買ってきたから、面倒くさいけれど焼き魚で目くらまし。いいえ、嗅覚を麻痺
させるのよ。無駄に近所へお中元、お歳暮、税理士会の研修という名の温泉めぐりでおみ
やげをばらまいていないの。
「うまくいったわ。美しいミイラ」
この前は首が取れて骸になったから、喜びもひとしお。我ながらうまく考えたものね。
凍死はもっとも楽な死に方だし、人道的だわ。桐とアクリル板でつくった衣装ケースに入
れなくちゃ。
「もっと改善すれば趣味だけじゃなく、野菜の長期保存だって夢じゃない」
商業ベースに乗せるといっても、家庭に置けるものにしなければ。特許の明細書は。そ

- 20 -
うね、あそこは零細だからやっぱり大手よね。なんだかんだ言っても、1件で婚約指輪が
買えるほど手数料が高いし。

「まあ。なんてかわいくて利発そうで大人しそうな男の子なの。さすが新浦高!」
腐っても鯛ね。液状化に負けていないわ。2月になったばかりだから、まだだめね。ま
あ、ここはたまに通るので通学路と自宅、それから一人になるタイミングを図ろう。催涙
スプレーなんていいかも。
「おーい、停まってくれ」
「どちらまで」
「女性の運転手さんか。こいつは珍しい。新浦高まで頼むよ」
「かしこまりました。お客さま、上を使ってもよろしいですか」
「この時間なら混んでないだろう。湾岸道路で行ってくれないか」
「湾岸道路で工事をしていまして。料金には加えません。私たちは回転を大切にしますか
ら」
「わかった。タクシーも大変だね。僕もあの地震でローンだけ残っちゃってね。マンショ
ンの抽選には当たったんだけど、運が悪かったかな」
「そうですか。生き抜いてゆく気持ちがあればいいと思いますよ」
「若いのに感心だね」
「いえ」
「なんだって。まだ帰って来てないのか。友だちの家じゃないのか。もうすぐ着くから」
この冷たい喜々とした殺意。ここだったのか。あと5kmだ。
「お客さま、葛西で下ります」
「君、困るよ。うちは旧江戸川を渡ってもらわないと」
「弊社の車が事故に遭いまして。私がいちばん近いのです。会社から補償金をお支払いし
ます」
「まあ、そういうことなら」
浦高駅の近くで玲の車は急停車した。
「事故じゃないのか。おい、君」
「少々お待ちを」
防犯システムか。かなり厳重だな。体力をとられるが仕方ない。玲は

- 21 -
脳と神経に流れる電流を局所的に集め、自分の周りに電磁場をつくってレンズを壊す。警
備会社が着くまで10分。
「お目覚めかしら」
「ここはどこ」
「私の家よ」
「ぼくにスプレーをかけたのはあなたですね」
「そうよ。その後にねむり薬もね」
「これは誘拐です」
「そうね。でも、私は身代金を要求したりしないわ」
「お金は関係ないと思います。ぼくを家に返してください」
「だめよ」
「どうしてですか。お金が目的じゃないなら」
「魂のない君のなきがら。しかばねでもいいけれど」
「なにを言っているのですか。そんなこと。ぼくは税理士になってお母さんとお父さんに
恩返しするのです」
「あら、立派ね」
「日本の厳しい税に苦しむ人たちを助けたいのです。野球とホルンをしながら算数と理科
だってしっかり勉強しています。塾には通っていません。公立でも大丈夫だと思っていま
す」
「若いって、すてき。おとなしいかと思ったら、弁が立つのね。楽しいわ。でも、そんな
税理士はいないのよ」
「うそをつかないでください。ぼくのおばさんも税理士だけど」
「私もこの辺りでは有名な税理士よ」
「えっ?まさか」
「確定申告でなければ飼育してあげたのだけれど」
「ぼくをペットに?」
「明日も忙しいから、ごめんなさいね」
「あら。監視カメラの故障かしら」
「待て」
「あなたはだあれ」

- 22 -
「あなたのような化け猫の皮を剥がす者だ」
「ふぅーん。言っていることと恰好がちがうのね」
「なにっ!何人の子どもを手にかけた。それも少年ばかり」
「へえー。読唇術や読心術かしら。目が赤いわよ。泣いているの」
「お前には関係ない。答えなさい」
「どうしようかな。でも、人聞きが悪いわ。殺したなんて」
「殺人ではないと言うのか」
「魂から解き放たれた永遠の肉体を授けたのよ」
「狂っている」
「人間も腐っているのか。質問に答えろ」
「昔のことは覚えていないわ。それに、女は男性の経験を話さないものよ。ね?お嬢さん。
あなた生娘ね」
「ふざけたことを」
「今が盛りの小娘は大嫌いだけれど。あなたもラピエサージュでミイラにしてあげる。さ
ようなら」
玲のすきをついて麗子は部屋の外に出た。
「逃がすか」
「ここも気密室」
天井の一部が開き、2種類の液体が混ざりながら降ってきた。
「塩素」
ほかの仕掛けのことも考えると、体力を使いたくない。でも、この子が危ない。四の五
の言っていられない。脆いのは天井のあいたところ。玲はすーっ、と息を大きく吸って止
める。目を閉じた刹那、床を両足で蹴り、左の手のひらで天井を破壊した。
「すごい」
「ほら、行くわよ」
「お父さん」
「お前、どうしてこんなところに」
「お父さん。こいつは凶悪犯です。警察には伝えました。危ないので、その子と車の中へ」
「危ないって、君は」
「いいから早く」

- 23 -
「は、はい」
玲の黒い瞳に気圧されて親子は去った。
「ど、どうやってあそこから」
「お前が死ぬまで幻想もできない理由さ」
「そう。あなた、どこかの軍人ね」
「なぜそれを」
「前の夫と同じ臭い。研究や技術かな。女の勘かしら。社会でもまれてるからね」
「世の中で悪いことしか学ばなかったようだな」
「それはどうかな」
「ひとつ聞くわ。いちばん大切なものってなに」
「金だよ、金!」
「不動産にしようかな。不動産は裏切らないから。あ、でも風評被害が」
「つまらないプライドと自己愛。少年をストレスのはけ口に」
「あなたのような人がいるなんてね。ミイラ取りがミイラに。運も実力のうちか。まあ、
面白かったから」
「これでお前の生き方は終わりだ。青龍の閃光で生きながら奈落の底へゆけ」
「今回はちょっとしんどかったかな」
「運転手さん。蛇行してるよ」
「すみません」
「運転変わろうか」
「大丈夫です」
「お父さん。さっきお姉ちゃんね、かっこよかったんだよ」
「しーっ。ぼく、女の人に男前とか言わないの」
「白田麗子先生、お宅を調べますよ」
「どうぞ、どうぞ。なにかお召し上がりになりますか」
「結構です」
「おじさまたちは素敵ですね。あちらの若い人は頼りないけれど」
「行方不明だった多数の少年のミイラを発見しました」
「どういうことですか」
「大切なものだった気がするのですけれど。少年は趣味ではありません」

- 24 -
「なぜここにあるのかを聞いているのです」
「さあ?なぜでしょう。確かに私がつくったのですけれど。この世はつらい。死にたい。
と少年が訴えるので、慈悲のこころで無料相談をしました」
「署で詳しい話を聞きましょう」
「もしかして男性とお話しできるのですか。うれしい。それでしたら、期待して確実に必
ず絶対にしかとおじさまを希望切望熱望します。男の子はお尻が青いから」
「演技しても無駄です」
「あら。自分を超えて演じることはできませんわ」
「垂れ込みがありましてね。事務所も捜査します」

未熟性向
浩二は悩む。防衛大学校から幹部候補生として防衛省に入って23年。地方協力局労務
管理課の一等空尉にはなった。
「せめて三等空佐までは」
浪人までして大学校に入ったのだ。学生時代に給料をもらっていたといっても、貯金す
る者などいない。同期のほとんどは民間人になって久しい。天然記念物みたいな生え抜き
だから、もう少し優遇してくれてもいいのに。あの上司が目の上のたんこぶなのだ。浩二
は内に激しく、外には静かにごねる。
「特殊法人に鞍替えもありかな。あそこも公務員だから」
「金田くん」
「はい。本官にどのような命令でありますか」
「そんなに肩ひじ張らなくてもよろしい。戦争でもはじまらない限り、われわれに仕事な
どないのだから」
「はっ。しかしながら、三佐殿。自分は民間人の方々のために、いついかなるときも自己
犠牲の精神を厭わない覚悟であります」
「おいおい。そんなのマスコミの取材だけにしてくれよ。軍隊じゃないんだからさ」
「わかっております」
殿は目下の人間に使う言葉だよ。官公庁だけさ。わかっていないのはお前だ。
「ところで、金田くん。珍しく忙しくなる年度末が近いので、異動の会議がある。事なか

- 25 -
れ主義でことが運べば、私も二佐に」
「上官殿。此の度は御昇進おめでとうございます」
(これで俺にも運が向いてきた。これだから年功序列制は)
「まだ気が早いよ。それで、君のことも会議で話題にしようと思っているんだ」
「身に余る光栄でございます。私めごときが」
「まあ、軍では規律と縦の関係を重んじるからな。上層部では評価されているみたいだ。
地方の仕事ばかりではつまらんだろう」
「とんでもないことでございます」
「まあ、楽しみにしていてくれ。悪いようにはせんよ。君は学生のとき、横須賀海軍施設
でアルバイトをしていたそうだね。英語ができるのは武器だよ」
「はい。ありがとうございます。どうか、よろしくお願いいたします」
(しめた)
「ちょっと金田くん」
「はい。何でありますか」
「この前のことだが」
(ついにこの日が来た)
「来年度はお流れになった」
「え」
「私は推したのだが」
「海上自衛隊と折り合いの悪い人間が何人か反対してね」
「そんな」
「君の階級は維持したから、来年度もよろしく頼むよ」
「は、はい」
(くそっ。こいつ、自分だけ出世して。お前なんか仕事していないだろう。いちばん反対
したのはお前だな。媚びへつらうことだけは空将並みだ)

辞令が出た。
「防衛政策局訓練課」
前よりはましか。特車をつくる四菱重工業や練習機を納入する富山重工業との仕事はあ
るだろうか。せっかく横須賀で働いていたのだから、ハイパーホーネットの輸入の契約で

- 26 -
通訳とかはできないだろうか。
もともと俺は奴とちがって田母髪空将の派閥ではないからな。ここは一つ、空将宛てに
嘆願書を書いてみるか。題名は
「大日本帝国新憲法9条改正に基づいた集団的自衛権における侵略戦争及び南京大虐殺に
関する非核三原則を再利用した東北地方太平洋沖地震のあおりを受けた人災を考慮した原
子力空母から離着陸する戦闘機の電子制御について」
だ。空将は鷹派で電気工学士だからな。どこかの国から英語の論文を引っ張って英語力も
宣伝しよう。あ、俺は文系だ。「コストパフォーマンスについて」にするか。
短い方が伝わりやすい。が、省内では軽んじられる。タイトルだってわざわざ長くした
のだ。文語体や雅文体を織り交ぜて品と格を高くして書かなければなるまい。官庁用語も
美しく使おう。できの悪い秘書にもわからないところがないように。
「うーん。これは大仕事になりそうだ」
どちらにしても時間はあり余っている。任務中にも進められるさ。しばらく国立国会図
書館に通おう。
「こらこら。霞が関でそんなシュプレヒコールするなよ」
3月もボーナスが出るって民間人にばれるじゃないか。自分で自分の首を絞めてどうす
る。万が一、賞与3回廃止論の機運が高まっても、人のうわさも七十五日。必ず復活する
のだから。
「さすが国立。でも、軍事技術は過去のもの以外、あまりないな。特許はどうだろう」
「なんだよ。国家間の条約で非公開。国家機密だからか」
「これだとインターネットの方がいいな」
あいつは。ここは人目につく。同業者が多すぎる。次からはほかの図書館だな。
「23区の図書館は近所とちがって品ぞろえがいい」
「ん。中学生」
バブル親にゆとり姫と言われて久しいが、まじめな生徒もいる。かわいいじゃないか。
もうすぐ夏休みだから期末試験の勉強かな。中学生のくせに教科書とノートを広げてべた
べたしているのも多いけれど。
浩二が時間を見つけて論文を書いているときだった。
「金田一尉」
「はい」

- 27 -
「この翻訳した書類」
「なんでしょう」
「君は英語が得意だと聞いていたのだが、もう少しなんとかならんかね」
「と言いますと」
「漢字が多すぎる。漢字とひらがなは3:7だよ。です・ますとだ・であるがごっちゃ。
段落分けも短かったり、長かったり。時間軸もおかしい。ものごとには自然な流れの順序
がある。立て板に水だよ。文は人なり。は知ってるかね。こう言ってはなんだが、人柄が
知れるよ。翻訳文も日本語だ。日本語のわからない人間に和訳はできない」
「はあ」
こいつ、前のよりひどいな。神経質だし。文学かぶれなのか。そんなことくらい知って
るよ。
「だいたい君は勤務態度がなっていない。客、締め切り、ノルマがないからは言い訳にす
ぎない。それに」
「以後、気をつけます」
(自分は棚に上げて)
「わかればよろしい」
「おや今夜も」
感心な娘だ。もう夏休みに入るのに。お下げが可憐だ。中学1年生かな。児童から少女
へ。さなぎを出て羽化を待つ。華麗なる変身で完全変態の途上。完熟していない。完成し
たら崩れるだけ。陽明門の逆柱だって、そうじゃないか。
「金田くん、こっちへ」
「はい」
「前よりはよくなったよ」
「ありがとうございます」
「でもねえ。なんと言えばいいかな。内容はわかるんだけど。あれだ。いや、決して君を
否定するわけではない。しかし、なんだ」
「言いたいなら、早く言えよ!」
「ん?なにか言ったかね」
「いいえ」
(お前は女か。いつもねちねちして。それしか仕事がないんだろ)

- 28 -
「句読点の使い方とか、難しい漢字とか、カタカナが多いとか。誤字もあるしね。読みに
くいし。要するに面白くないんだ」
「は、はあ」
(お前の趣味に合わせていたら仕事にならんわ)
「早速やり直してくれ給え」
「直ちに書き直します」
(ちっ。なら、お前が書いてみろ。よく読み直せ)
こんな調子では評論に差し障りが出る。まあ、お互いまだ手探りの段階だから、しばし
の辛抱だな。執筆は夜と休日にするか。
「あの娘はいつもいるな。中学は部活もあるのに」
ちょっとのぞいてみるか。おっ、数学と理科か。俺も苦手だったな。兵器を調べるつい
でに数学と物理の本もぱらぱらめくってみたが。理系は3割、物理は10人に1人しか勉
強しないそうだ。学ぶことが多いからな。気持ちはわかる。ほほがほんのりと赤い。お嬢
ちゃん、頑張ってね。
「おい、金田くん」
「はい。三佐殿」
「きのうの書類」
(また書き直しかよ)
「私は英語がよくわからない。が、日本語にできない英語があることぐらい知っている。
逐語訳はよくないし、意訳もだめだよ。なにより君の文章は翻訳調なんだよね。合ってる
とは思うけど、やまとのこころが感じられないというか」
「はあ。すみません」
(公文書に文学が必要とでも。こういうやつに限ってSFは文学じゃない。とか言い出す。
物語や随筆もバカにするのさ。ショート・ショートやスラップスティックなど理解できま
い。純文学ってなんですか?なんでしょう?)
「俺は論文を文学の域にまで高める努力を日々惜しんでいない」
「なにか聞こえたかな。それに君はひとりごとが多いといううわさがある。みんなの仕事
を邪魔してはいかんよ。輪をもって尊しとなす。美しいな」
「滅相もございません。はい、三佐殿。美しゅうございます」
「今回はこんなものかな。まあ、いいでしょう」

- 29 -
「ありがとうございます。ご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」
(やっと終わった。これで今夜から本格的に)
「あ、これね。来週中に」
(そんな大量の文書の翻訳かよ。あと1年。1年だ)
「今晩はいないのか」
いや、いや。今宵は資料集めに集中するのだ。あいつのせいで予定よりずいぶん遅れて
いる。本気で書いて、本物に仕上げなければ誰にも伝わらない。

「金田くん」
「課長、おはようございます」
「時季外れだが、わが課に配属された山本くんだ。山本くんはあの山本大将の遠縁でね。
まあ、そういうことだ。後輩を見るのも仕事だよ」
「はい」
(お荷物が増えた)
「金田一尉。自分は防衛大学校女性自衛官一期生の山本であります。不束者ではあります
が、どうぞよろしくお願いいたします」
「さん、でいい」
「しかし」
「堅苦しいのは困る」
「わかりました」
「金田一尉。あ、申し訳ありません。金田さん」
「なんだい」
「四菱重工業に対空兵器脱着型自走式装甲車両を発注する件ですが」
「あのさ。ここは省内だからいいけど。特車って呼んでくれよ。気をつけないとくせにな
るから」
「自分が軽率でありました」
「鷹派と鳩派がいるのは知ってるね。自衛隊を災害救助隊にしろという声もある。僕はど
ちらでもない。人事権もないから、丁寧語でかまわないよ」
「は、はい」
「航空自衛隊に特車というのは」

- 30 -
「時代の流れかな。ぼくたちも垣根を取り払おうということだろうね。まあ、昔から空母
があるし」
「理解しました。勉強してきます」
「金田さんは9条とか核武装にも興味があるんですね」
「読んだのか」
「いいえ。この前、ちらっと見えただけです。上申書かなにかですか」
「盗み見はよくないな」
「うまく遊んでいる男の人は仕事ができると思っています」
「これは遊びじゃないし、上申書でもない」
「はい。わかっています。私、誰にも言いませんから」
うかつだった。あの女の教育のせいで注意力が散漫に。口止めしておかないと。
山本三尉の歓迎会は17時からだった。三佐の命令で幹事は浩二だった。場もしらけ始
めたころ。
「金田さん」
「なんだ」
「私のために幹事されるなんて、ありがとうございます」
「いや」
「ご謙遜されなくてもいいです」
「だから」
(酔っ払ってるのか。いい気なものだ)
「お酒、強いんですね」
(お前はピッチが速いんだよ)
「隣で仕事してると、金田さんの仕事される姿に刺激されます」
「あのさ。無礼講だからいいんだけど。されるじゃなくて、なさるが正しい尊敬語だよ」
「私は関西の生まれだから、いいと思います。だいたい男女雇用機会均等法とかいってる
くせに、私は一度も昇進できないし。お肌の曲がり角はとうに過ぎてるし。もう薹が立っ
てるし。私は日本に恋してるし。それに」
(なんだよ、面倒くさいな。からみ酒かよ)
「金田さん。今日は私だけのために、ありがとうございました。失礼します」
「ああ、さよなら」

- 31 -
(こちらこそ。ようやくいなくなってくれてありがとう。お前は好みじゃない。適当にあ
しらえば口をふさぐ必要もないかな)
「おっ。久しぶりだね」
元気でいた?山本は黒いダイヤだけど、君はダイアモンドの原石だね。今日は向かい側
に座って心ゆくまで宵の口を楽しもう。
「金田くん。これの直しとそれとあれを早く頼む」
「金田さんは三佐とのコミュニケーションも上手ですよね。私はしゃっちょこ張ってるか
らいけないのかしら」
「そんなことないよ」
「そうですよね」
(おだてに乗りやすいやつだ。単純で助かる)
「金田くん、君は。ほら、あれだ。なんだ、つまり仕事が遅くないかね」
(上と下の援護庇護保護介護でてんてこ舞いなんだよ。公務員なのに。歩合制にしてくれ
ないと割に合わない。要望書も遅々として進まないじゃないか)
「金田さん、私。聞いてほしいことがあります」
「どうした。いきり立って。君らしくない」
「私だって怒るべきときは怒ります」
「まあ、落ち着きなよ」
(ご機嫌斜めなのか。それとも、また見られたか)
「今朝、週刊誌の記事を読んだんです」
(なんだ週刊誌か。脅かすなよ)
「真珠湾攻撃は日本男児の風上にも置けない卑怯者の所業である。核分裂兵器は抑止力に
ならない。9条改正は国民を馬鹿にしている」
「おい、声が大きいよ。政治屋だけじゃなくて、ここにも派閥があるんだから」
「山本大将は遠すぎるけど、私と血がつながってるし」
「うん、うん。それは知ってる。記者なんてろくなのいないんだからさ」
「書けばいいってものじゃないと思います。文書とは、発表したら書き手の意志とは関係
なく、独り歩きして成長し、巣立っていくものであります!そうではありませんか。金田
一尉殿」
「だから大きな声はまずいって」

- 32 -
(軍人のDNAは強烈に遺伝するのか)
「ですが」
「あのう。できあがったら僕の論文見せてあげるよ」
「え、本当ですか?」
「私ったら。えへへ。取り乱してすみませんでした」
やれやれ。微笑んでもかわいくないよ。花も恥じらう乙女。透明感。天衣無縫とか天真
爛漫。いったいいつからいつまでなのだろう。鬼も十八番茶も出花なんて言うけれど、最
近の女子高生は怖いからなあ。やはり、小学校5年生から中学1年生までかな。男だって
同じだ。
「金田くん」
「おい、金田くん!」
「はい。なんでしょうか」
「電話だ」
「すぐに取ります」
「ぼーっとしてると上に上がれんよ。男だから幻想はいいが、妄想なら問題ありだ」
「くそっ。お盆休み前に忙しいなんて民間企業みたいじゃないか」
「なんだ。忙しい人がいるのか」
(地獄耳め。お前のせいだ)
「金田一尉」
「どうしたの」
(わかりやすい奴だ)
「そうなんです。あの戦争法案が通って我々も動きやすくなったと」
「君の言う通りかもしれないね」
(なんの動きだよ)
「ちがうんです。こんなことしてたら、わが航空自衛隊と私の栄転先の海上自衛隊が核融
合しても核分裂する羽目に。期せずして日本が核武装の」
「うん。そうなるかもしれない」
(なだめて聞き流すことにしよう。しんどいが)

夏休みだ。

- 33 -
「旅に出たいところだが、禊をするためにもあの図書館に通いつめよう。心が穏やかでな
ければ、いいものは書けない」
「今日もいないのかな」
あの娘の席に男の子。中学生には見えるが、少し幼い感じがする。男にしてはかわいら
しい。中性的な、いや女の子の格好をさせたらわからないくらいだ。この図書館は勉強熱
心な子が多いのかな。ゆとり教育が終わったからかしら。まだ景気が悪いし、上の方は時
代には関係ないからな。
「またあの男の子」
部活の大会や家族旅行だろうか。あの娘はいない。
「お盆休みは終わったか」
まだ夏休みだし。休み前に頑張ったから、秋口までは暇なはずだ。浩二の胸は期待でと
きめく。
「金田くん。休み前のあれね。金田さん、自民党の憲法改正案についてなんですけど。金
田くんの文章は、あれだ。原子力発電所が合法なら、わが航空自衛隊も原子力戦闘機の開
発とか。そうですよね?金田くんは日本語の力が。だって、四菱重工とHHHに発注した
国産ステルス戦闘機をつくるならまだしも、実証機の開発に400億円も無駄づかいして
るんですよ。金田くんの文法は大胆不敵な仮説だね。金田さんの防衛論を教えてください。
私、友だち以外には口外しません」
(うるさい!)
浩二には彼女の存在だけが救いだった。
「やっと来てくれた。今日も対面に」
あいつは!楽しそうにお話ししてやがる。君もそんなにきらめく笑顔を見せなくてもい
いのに。今日は勉強なんてしていないじゃないか。まさか、この図書館で密会。俺だけが
知らなかったのか。もう21時を過ぎている。ここが隠れ蓑。
「君。危ないじゃないか」
「え」
「私はこの町の自警団の者だが、こんな時間に夜歩きとは感心しないね」
「いや、図書館で勉強していたんで」
「そういう言い訳をする子が多いんだ」
「東中学の1年生だな。親に言っても仕方がないから、先生に告げ口するよ」

- 34 -
「ごめんなさい。もうしません」
「夏休みの対策本部で少しお話ししようか。その代わり、先生には黙っててあげるさ」
「もう帰らないと」
「いいから、乗るんだ!」
中学に入ったばかりだというのに色気づいて。勉強も部活もしていないな。子どもが子
づくりしてどうする。
「君は好きな子がいるかい」
「まだ着かないんですか」
「話を聞け」
「い、います」
「どんな娘だ」
「なぜそんなこと」
「不純異性交遊は不良のはじまりだ」
「僕たちは純粋です。愛し合っています」
こいつ!やっぱり。なにが愛だ。憎しみも親の愛もわからないくせに。
「もう街から。どこに行くんですか」
「さあ」
「飛び降りてやる」
「無駄なことはやめるんだ」
「どうして。助けて」
「ここはどこ」
「富山の演習場だ。お前はここで死ぬんだ」
「殺される?なぜ僕が」
「自分の胸に聞くんだな。中学生らしく暮らしていればよかったのに。ふ」
「ひっ!」
浩二にとって、赤子の手をひねるよりやさしく、鶏を絞めるのと変わりはなかった。
「あっけないものだな」
とりあえずここに埋めておくか。浩二に興奮が沸き起こる。
「きれいな顔だ。体温のあるうちに少し味見するか」
「うーん。まあ」

- 35 -
「おや。不安で心配そうな顔もそそる」
もうあいつは来ないよ。今夜は軽く祝杯を挙げながら論文といこう。
「おっと。居眠りしたら朝になっちまった」
たまには駅前の商店街をぶらつくのも悪くない。
「あの娘は!それに隣の」
夜通し遊んで早朝のデートとは恐れ入る。ぼくのこころを踏みにじったな。八方美人だ
なんて。夜遊びかどうかも怪しいものだ。マンガ喫茶で不貞行為の学生だって珍しくない。
「ぼくの。彼女は。ぼくだけのものだ。誰にも邪魔はさせない。邪魔する奴には容赦しな
い。無慈悲さ」
夜勤明けの玲は微かな殺意を受けた。金曜日の疲れにより、巷に入り乱れてあふれる「消
す」「消えろ」「殺す」「殺したいわ」「死ね」「いっそ死んでくれたら」「早く死なないかし
ら」の念と区別がつかなかった。
「またね。まったく、もう」
「お願い。今日は眠らせて」
「そうか。もう阿波おどりの祭」
一人歩きは様にならないが。今晩は夜風に当たるのも悪くないな。図書館で暇つぶしを
するか。
「やはりいた。青が咲き乱れる浴衣が艶めかしい。すてきだ」
さすがに今日は女の子同士だろう。どんな友だちなのかな。
「朝の小僧。俺の田舎は高校生だって交際に二の足を踏む。なのに」
見た目だけは人一倍だな。まあ、こいつも紅花の浴衣だったらかわいいかもしれないな。
一人になる時間まで我慢。
「お嬢さん。巾着のアクセサリーが落ちましたよ」
「えっ」
「おい。図書館のガキは俺が埋めた。一緒に来てもらう」
「・・・・・」
「声を出すな。俺は軍人さ。親子のふりをするんだ」
少女はうなずくしかなかった。
「君さ。勉強に困ってるだろう」

- 36 -
「困ってません」
「うそはよくないな。僕と暮らさないか」
「い、いやです」
「流行には乗らないと。勉強も見てあげるよ。防衛大くらいなら」
「きもい。好きでもない人と生活できません」
「ははは。かわいいね。君のことは嫌いと言ってたな」
「彼がそんなこと言うはずありません。私は彼を愛しています」
愛?愛。愛だと。子どもが一丁前に。大人をなめるな。
「把握した。この波は。今朝と同じ」
朝から被害者は出ていないと思いたい。間に合うか。
「あの男の子はどうなんだい」
「彼は好きだけど」
「好きと愛はちがうか」
困った顔もかわいい。
「そんなに気が多いなら」
「私はオジサンがきらいです。降ろしてください」
車で移動したな。お祭りなの。みんな道を開けてください。早くしないとなんの罪もな
い人たちが。
飼うのが無理なのは百も承知。同じ場所に埋めるのはまずい。活き〆も捨てがたい。が、
血がな。もう暗いから広めの公園だ。
「やめて。触らないで」
「少しくらい、いいじゃないか」
「いや、離して」
「初めてじゃないんだろう」
「ちがう」
「あんたなんか大嫌い。やめろ」
「男はそんなことばっかり」
「ふ。女はみんな気が強いんだ」
とはいえ、ずいぶんと抵抗するな。動いている躍動と止まった静寂の違いを楽しもうと
思ったのだが。あまり変わらないか。面倒だ。

- 37 -
「んーっ、んー。うっ」
「事切れたな」
浩二に前よりも甘く黒い欲が突沸する。
「未熟な女の子かあ。硬くなる前に」
「貴様!その子に何をした」
「なんだ。瞳が朱色」
「出てこい」
こういうときはだんまりだ。ガシャーン!
「フロントガラスが」
玲は浩二の首根っこをつかんで車外に放り投げた。浩二は放物線を描いて地面に背中を
打った。
「くっ。女のタクシー運転手だと」
「貴様、受け身をとったな」
「お前こそ、同じ穴の狢だろう。伊達に働いていない」
「貴様のようなものと話す気はない。来い」
「まあ、そう言うな。軍に長くいると壊れるものさ」
「他人のせいにして。問答無用」
「なんだよ。お前が来ないってことは、俺が間合いに入っていないな。武道はそれなりに
修めている」
「わかっていないな。私が知っているだけでも貴様は2人の中学生を殺めた。貴様に良心
があるかどうかを確かめようと」
「良心?良心で出世できればな」
「子ども返りと大人への恐怖」
「完全に変態のくせに、人の完全変態は怖い。ちがうか」
「否定はしないよ」
「消えた?」
「これで貴様の生き方は終わりだ。よじれる青い龍に飲まれてこの世から消えろ」
「みんな。遅くなって本当にごめんなさい。許して」
私はまだまだ未熟だわ。悲惨な事件を1つでも少なくできればいいのだけれど。どう
したらいいのかしら。

- 38 -
「私は武器を振り回しているだけなの」
「私もある意味で人殺しなのかな」
もしかしたら、今までのものたちと私はそれほど変わらないのかもしれない。ひどい貧
血から覚めたばかりのような意識の中、玲は営業所に向かう。
「あれ、寝ちゃった。よだれが」
「助手席に雪のようなお人形さんがいる。ママが買ってくれたのかな」
「あっ。今日はお祭りだ。早く行かなきゃ」
「わー。おっきいステージだあ。そうだ」
「みんなー。小学校5年生から中学1年生までのあたしとぼく!おいでおいで」
「なんだこいつは」
「あのねー。ぼくと戦争ごっこしようよ!」
「取り押さえろ。うわっ。ものすごいばか力」
「じゃまするなー!」
「警察を呼べ」
「誰もいないの。じゃあ、図書館で勉強していちゃいちゃしようよ!ママもいいってゆっ
てたから」
「静かでいいよ!まじめな子がいっぱいいるし」
「早くマイクを切れ」

幼女幻夢
会社には勤めていた勤は26歳のとき、引きこもっていた。自宅警備員である。小さい
ころも暗かったからなのか、よくいじめられた。名のある高校を出て、そこそこの学校を
卒業した。
「よく遅刻するねえ。学生気分が抜けてないんじゃないか。月に3日遅刻したら減給だよ」
「すいません」
「9時すぎにいきなり電話かけてきてもね。無断欠勤と思われてもしょうがないなあ」
「かぜで寝坊しました」
「本当かね」
「おいおい。メモしないで頭に書き込んでくれよ。ここは学校じゃないし、仕事なんだか

- 39 -
らさ」
「はあ」
「君はあいさつどころか、言葉づかいもだめだね。ほかの人のまねをするんだ。誰も教え
てくれないよ。お客さまに失礼だ。そんなの常識だろう。育ちがわかるよ」
「気をつけます」
「鈍臭いねえ。君にはなにか売りはないの。まじめさがまったく感じられんし」
「頑張ります」
「もう1年だぜ。いつまでも新人の気分でいられちゃ困る。商売上がったりだ」
(人が下手に出てりゃ、つけ上がりやがって。ぼくだって一生懸命やってるんだよ)
「辞めます」
「おい。ちょっと君」
「ママ、会社辞めたよ」
「そう。あんな小さい会社は勤にふさわしくないもの」
「そうだな。しばらく家でゆっくりして、それから決めればいい」
「うん、パパ」
「ビデオテープが増えてきたな。仲間みたいな嫌味なやつを利用して皮肉を言われながら
苦労に苦労を重ねて集めたんだ。ぼくの大切な宝物。囲まれてるとしあわせ」
「ホラーやスプラッタものも面白いなあ。最近はあほな事件のせいで規制がかかっちゃっ
て面倒だけど。ネットは無敵だ」
「フィギュアも欲しいけど。こいつは現物を見ないと買えないな。ここからだと聖地は遠
いし」
「うーん。しょせんはつくりもの。初めの感動がない。やっぱり、自分で撮らないといけ
ないな。どうするか。ぶつぶつぶつぶつ」
「お父さん」
「今は忙しい」
「あの子、最近ひとりごとが多いような気がするの。心配だわ」
「なんだ。そんなことぐらいで。誰だって言うさ」
「でも。○○ちゃんとか、××ちゃんなんて」
「アイドルじゃないのか。ゲームでもしてるんだろう。印刷機の調子が悪いんだ。後にし
てくれ」

- 40 -
「パパ」
「どうした」
「ぼく、写真や映画の勉強がしたい」
「そうか。やりたいことが見つかったようだな。よかった。専門学校でも行くか」
「ぼくは大学を出てるんだ。まずはその知識を生かしてやってみるよ」
「お前はまだ若いからな」
「ビデオテープで貯金使っちゃったんだ。だから、ディジタルカメラとビデオカメラを買
って」
「いいだろう」
「本当はこいつらを合体させたいところだけど。ぼくは中身よくわかんないし。知り合い
もいないし。くそっ。ぶつぶつもぐもぐ」

「右肩のバッグにビデオカメラ。ごくごく。ゲップ。左肩からディジタルカメラ。パリパ
リもぐもぐ」
案ずるより産むが易し。とりあえず実験だ。近所の公園へ。逃走は便利な車。春になる
と、跳んだり跳ねたり舞ったり踊ったり躍ったりする危ないやつが増えるから。赤いバン
ダナ、薄いサングラス、無精ひげの三種の神器を忘れないように、バッグには三脚もしの
ばせよう。外堀を少しずつ埋めるのだ。幼女を射んと欲すれば先ずママを射よ。
「あの娘なかなかいいな。桜が五分咲きだし。桜の花の撮影でごまかせ」
よーし。こっちに来た。ママはあさっての方向だ。とりあえずカメラで。背後から声を
かけられた。
「カメラマンの方ですか」
「え?あ、は、はい」
「娘の写真撮るのやめてくれませんか」
「いえ、そんな」
「近ごろは物騒ですから。報道の自由があるのも知ってますけど。迷惑防止条例もありま
すので」
「はい」
ちっ。やりにくい住みにくい世の中になった。やれ児童ポルノだリベンジポルノだとう
るさいからな。インターネットの弊害だな。悪いやつが増えるとこれだから困る。そもそ

- 41 -
も、その程度のお嬢ちゃんじゃあアップロードされることもないよ。わが子かわいさかね
え。
「別の戦法にするか。バリバリぶつぶつむしゃむしゃ」
パチンコ店にしよう。この辺りもパチンコ銀座だからな。北関東では誘拐の王道かつ定
番だし。ごった返す土日に。
今はパチスロが流行っているから。台の前に写真を立てて、よし。待ち伏せだ。すぐに
狩るのは頭の悪い輩がすること。当たりがないな。辛抱強く。まだだ。まだ午前中。素通
り。男は話しかけてくるな。スロットに集中しろ。あの娘は、だめか。コンビニでコーヒ
ーとおにぎりでも買ってくるか。
おや、一匹目。
「お花好きなの」
「うん」
「ぼくは青い花が好きだけど」
「あたしは赤」
「赤いお花の写真もあるよ。見る」
「あ、見たい」
「かわいい花でしょう」
「きれい。おじさんが撮ったの」
「この辺でね」
(俺はまだ若い!見た目以外)
「なんていうお花」
「皐月だよ。今はお庭で咲くけど、渓流で開く花なんだ」
「さつき?けいりゅう?」
「ははは。そこで咲いてるよ。見てみるかい」
「でも、パパとママが」
(育児を放棄してるのに?)
「ここの駐車場さ。さあ」
「う、うん」
(もらった。素直でかわいい)
「乗れ」

- 42 -
「えっ?」
「親を怨むんだな」
「どこに行くの」
「花がたくさんあるところだ」
(どこに行こう?)
「お話ししようか」
「いや。帰りたい。帰して、おうちに帰る」
「泣くな!」
「ひ。はい」
まったく、幼いと泣けばいいと思っている。まあ、泣き顔もいいけれど。人が多いと目
立つが、逆に目立たないこともある。観光地の高尾山にするか。
「降りろ。約束通りの花見だ」
「どこ?」
「どこでもいいだろう。ここからは俺をパパと呼ぶんだ」
「え。うん」
「おい。黙ってないでなにか話せ」
「おじさ、パパ」
「なんだい」
・・・・。
恐怖を植えつけるのはよくないな。対話を楽しめない。本当の気持ちがわからないし。
大人しい子どもは嫌いだけれど、この娘はおとなしくても十分にかわいい。運がよかった。
美人と醜女は1:20くらいか。かわいいべべも着ている。剥いたらどんな。
「もしもし、お父さん」
「えっ?」
「お母さんはどこですか」
「え、えーと。とれー」
「は?」
「あのう。トレーの昼ご飯を」
「ああ、あそこのおみやげ屋さんですか。失礼しました。最近、都内で誘拐が多発してま
してね。春の治安維持運動で声をかけているんですよ」

- 43 -
「どうも」
よけいなことを言うなよ。勤は幼女の手を力いっぱい握った。寿命が縮むかと思ったぜ。
目の前にトイレがあるのに。無能な警官で助かった。警察官なんてみな。
「それでは、よい週末を」
「パパ、お花まだ。足が痛い」
「うるさいな。まだだよ。さっさと歩け」
「もう疲れた。う、うっ」
幼女はしくしく泣き出す。
ごねるとかわいくないな。機嫌を損ねたり、大声を出されたりするとまずい。この先で
も職務質問が。
「しょうがねえなあ。乗れ」
「おんぶ?」
おんぶにだっこか。幼さはある意味で罪だ。俺は一体なにをしているのだろう。ぶつぶ
つぶつ。ここのところ、ずっと家の中にいたからな。山道はしんどい。チョコを食べさせ
ておけばよかった。んぐんぐ。だんだん面倒になってきた。寝顔は言葉にできないほど美
しい。だが、しかし。これは醒めることのない酔いにも似たぼくだけの夢なのだ。夢なら。
「起きろ」
「ん。お花畑?」
「ただの林道、いやけもの道だ」
「顔が怖い。パパママ、助けて」
「悪く思うな」
「く、くるし」
「なんだ。実物大のフィギュアになった」
ここはよくないな。登ってくるときに古いトンネルがあった。その上に埋めれば。頑張
って運ぼう。
「あー。しんど」
少し硬くなったな。興奮が勤を再び襲う。
「服を脱がせよう」
なかなか脱がせられない。ならば強引に。
「きれいだなあ」

- 44 -
写真を撮っておこう。うーん。写真は保存したり、眺めたりするのに便利だけれど、動
かないからなあ。ちょっとだけ触りながら撮影しよう。その後は。うちに帰ったら、あれ
だ。

二人目。
山は思ったよりも疲れる。多摩川だと近すぎるから。
「都と県の境を流れる川がいい」
ぼくと仲好し子好しでいてくれればよいのに。けんかはきらいだ。お互いに傷つくから。
パチンコ店ばかりだと足が着くし、芸がない。今度は練習を積んだ公園にしよう。狭い公
園にはママの目が冷たく光る。ママ友とのおしゃべりで気が緩み、安心感が増す広い公園
がうってつけだ。
「おじさん、なにしてるの」
(ほら、引っかかった)
「アリさんを見てるんだよ」
「アリを?」
「アリはとても力持ちで丈夫なんだよ」
「ふぅーん」
「ほら」
勤は自分の目の高さからアリを地面に落とした。
「ね?人間なら死んじゃうよ」
「へぇー。なんで?」
「え?」
勤の知識は極めて浅い。なにか気を引くおはなしを。そうだ。
「アリさんはね。毒も持ってるんだ」
「毒?どうして?」
しまった。同じ轍を踏んだ。焦るな。
「どうしてだろうね。こうやって持つと大丈夫だよ。つかんでごらん」
「うん。アリ好き」
アリ好きで助かった。アリにまごついている今だ。勤はあらかじめ切りそろえていた二
重のガムテープを幼女の口に巻きつけ、幼女とともに公園を立ち去った。

- 45 -
「うー、うー。ひっく、ひっく。ずっ、ずー」
「なんだよ。泣きながら鼻水垂らして。汚ねえな」
美少女でも洟は見苦しいな。洟も引っ掛けないぞ。騒がれると困るけれど、車の中だか
らな。チャイルドロックよし。
「そら、もう泣くな。泣いたらひどいぞ」
「は、はい」
「なんでぼくが鼻水拭かなくちゃいけないんだ!」
「ひっ」
「ああ、悪い悪い」
また会話できないかな。この子は少し大きいから分別があるし、色気も気持ちある。少
し遊んでみるか。
「おもちゃ屋さん」
「そうだ。好きなのを買ってあげるよ」
「いらない」
「いいから入れ」
親子に見えているかい。非番の警官がいたらおかしいな。ぼくを馬鹿にするなよ。
「決まったか」
「ま、まだです」
「早くしろよ!」
「ま、待って。これがいい」
よけいな出費だったかな。かわいいけれど、無言で無表情だと程度が落ちる。もういい
や。川原でいたずらだ。
「真っ暗でこわい」
「荒ぶる川だ」
「川?どこの?」
「さあ?これを知ってるかい。パパの会社からくすねてきたクロロホルムだ」
「知らない。なにそれ。なんに使うの?」
質問ばかりうるさい子だねえ。口封じ。
「こうやって使うのさ」
「む、むー。うー、うっ」

- 46 -
時間がかかるけれど、眠ったな。生け贄にしてしまおう。
「薬品はよくわかんないけど、いつ目が覚めるかわからない」
ちょっと触れて撮って録画しよう。得がたい時間。
「これはスリルがある」
さて。まず目張り、ホースでマフラーと車内をつないで。さよならだ。
「おやすみ」
明け方に車を再び訪れた勤は歓喜する。
「美しすぎる。眠り姫」
紅をさした少女は夢の中とは思えないほどの美しさだった。勤の夢か少女の夢か。
「一酸化炭素はすごい」
姫の処分は荒ぶる川の恵みに任せるか。ぼくがいつでもわかるように浅く埋めておこう。
氾濫すれば川の流れのままに。時間稼ぎくらいにはなるさ。
「ぼくの大好きなおじいちゃんへ」
午前2時すぎ、机に祖父の遺影を設け、その手前に4本のろうそくと9本のロウソクを
並列に配置し、部屋の明かりを落とす。勤は白装束に身を包み、黒いはちまきを巻き、1
本ずつ1本のマッチで火を灯す。虚空と虚無と虚妄の中、呪文と呪詛を織り交ぜながら、
両手を大げさに揺らめかせて魔術ともつかない滑稽な儀式を行う。勤の前には被害者の一
部があった。
「おじいちゃん。待っててね。まだ2回目だから。最後まで見つからなければ、おじいち
ゃんは必ず還ってくる」

三人目。
「小学生は少し生意気だ。園児の方がいい」
二度あることは三度ある。三度目の正直。ちがう方法で連れ去ることにして。シリーズ
キラーの称号は魅力的だ。でも、同一の犯人であることわかるとつまらない。ぼくは一体
どうしたものか。警部庁はどこかの県とちがってまぬけばかりとは限らないし。捜査の撹
乱とマスコミの混乱、市民の擾乱と騒乱、屍と亡骸の腐乱、ぼくの不乱と惑乱。さまよう。
ためらう。たゆたう。ぼくは悩んでいる。波乱に向かって。無神論者だけれど、懺悔しま
す。私はトリックや駆け引き、工作が苦手です。迷っています。これは!告白の哲学。
「あー、めんど」

- 47 -
やはり、今どきの女子中学生や女子高生のつもりでしてみよう。大型百貨店のおもちゃ
売り場へ。いや、スーパーマーケットのお菓子売り場はどうか。監視カメラを潜り抜ける
には。ごくごく。ぶつぶつ。げほっ。
「スーツ、かつら、キャリーバッグの三点セットにするか。脱脂綿とおっきなあめ玉も」
「お嬢ちゃん」
「ん?だれ」
「お店のひとです」
「なあに」
「向こうでお母さんが探してますよ」
「ママが」
「おいで」
「うん」
あれ。勤はその子の手を引きながら、あまりにも素直なふるまいに驚愕する。策士策に
溺れるとはな。でも、用意周到にことを進めるのはなんにつけても必要だ。捕まりたくな
い。捕まるわけがない。今回ももらった。たまたまかもしれないが、要は確率の問題だ。
「ママ、どこ?」
「さっき、ここでぼくとお話ししてたんだけどね」
「駐車場の方に行ってみようか」
「歩って来た」
「え」
なんだ近所か。目撃者が増えるとまずい。
「あめ食べる」
「ママが知らない人からなんかもらっちゃだめって」
「いいから飲め」
「おえ」
「綿もだ」
日原川に行ってみるか。素直なのはいい。正直なのもいいだろう。なにごとも分相応
でほどほどならばな。なんだよ。あめもチョコも食べて口から糸も吐いたのに。無口な子
だ。せっかくぼくとドライブしているのに。つまらない。撮影の機械が動かせればいいけ
れど。原生林だ。

- 48 -
「着いたぞ。寒いか」
「さむい。こわい」
「脱げ」
「いや。雨がさむい。帰る。帰りたい」
「こいつ。ぼくに逆らったら帰れないんだぞ」
「手をどかせ」
「ちっ。漏らしたのか。臭うだろう」
少女は大どころか小もしないはずだ。なぜ?どうして。なぜだ。おかしい。大量の汗で
もかいたのだろうか。水風船を隠していたとでも。あの女優は少女を卒業してもしていな
いことで有名だ。こいつは美少女ではないのか。ぼくのお眼鏡に陰りが。脈と鼓動が速い。
落ち着け。深呼吸だ。互いに無言なのは息がつまる。
「葉たちの擦れ合う音がぼくを笑っている」
ほんの一瞬、勤を恐怖が襲った。その場から逃げるより先に、勤は我を忘れて生まれた
ままの幼女を手にかけた。
帰宅した勤は、幼稚な画策を図る。トンネルの上に埋めた幼女のなきがらを使おうと考
えたのだ。悪いことをしている意識などない。警察が恐ろしかったのだ。ビデオテープを
没収されるかもしれないと。
そのなきがらは、無残にも灯油をかけられ、軽油で湿らされ、ガソリンの業火によって
半ば滅却されていた。勤はなきがらの断片を後生大事に抱いていた。
「今琴鈴子がいいな」
被害者の親になきがらの部分と犯行声明を送り、同じ欠片と告白文を荒ぶる川の遺族に
送った。まさかぼくがやったとは思わないだろう。ずっと無視され続けてきたから、注目
されるのも。

四人目。
「ほら、わかんなかった」
ひとりほくそ笑む勤。
「習うより慣れろ」
だよね。迷子を狙うのはどうだろう。競馬場もいいけれど、子どもの絶対数が少ない。
しかも、農林水産省の公務員でごった返している。やはり、あきるのこどもの国かな。こ

- 49 -
こなら小細工もいらないし、ぼくのださい格好も風景に溶け込む。なにより、多摩地区は
子どもがよく集まってくれていいところだなあ。
「うろうろしてる迷子見っけ」
「ママはどうしたの」
「いなくなっちゃった。ひっく」
「泣きべそかかなくていいよ。あそこにいる駐車場のガードマンがママを探してくれるか
ら」
「ほんと?ぐすっ」
「いっしょに行こう」
(多摩川の上流までだけどね)
「う、うん」
「わっ」
バタンと後部席のドアを閉め、勤の車は子どもの国を後にした。
「この思念!今までとは違う」
「積年のゆがんだエネルギーの悪しき結晶」
子どもが遊び半分で虫をもてあまし、誤って殺すときのような。子どもには罪悪感が
芽生える。だが、こいつにはまるでない。近いけど山間か。
「なあに?ガソリンが。急いでスタンドへ」
お願い。お願いだから早く入れて。あ、もう。だめよ。早く。この辺りにはあまり来な
いし。配置の転換を希望すると時間がかかるし。どうしよう。
「なんだって?明日から有休がほしい」
「はい」
「今は書き入れ時なんだけどねえ」
「そこをなんとかお願いします」
「みんな忙しいから、困るなあ。理由はなんだい」
「ちょっと申し上げられません。秘密です」
「ね?所長さん」
「んっ。まあ、春霞さんはよく働いてくれるから、みなでカバーしよう」
(ちょっと笑えばこっちのものね)
「いちばん楽だったな」

- 50 -
この子もだんまり。恐怖を感じさせずにもらってくる方法はないものか。まあ、いつも
のことだ。ここのところ動画を見て高揚しているから。ホームセンターめぐりも終わった
しな。
「おい。これが見えるな。言う通りにしろ」
「・・・・。うん」
陽光にきらめく金属の光沢に幼女はひとこと発するのが精一杯だ。
「お前を帰すと、今までの苦労が水の泡になる。じゃあな」
「きゃ。い」
「刃物は便利だけど。後が」
経験したことすらないどす黒い狂気が勤の中で発火する。穢れのない若い娘には魔力が
備わっている。中世の昔からそうじゃないか。まだだ。まだ大丈夫だよ。
「ノンデミタイ」
「タベテミタイ」
幼女を糸のこぎりで理路整然とばらばらにし、ビニール袋に塊を入れる。袋の中で乱流
の音を立てる血を勤は飲んだ。勤は美しさを思い出したように幼女の指を再確認し、1本
を持ち帰る。祖父の黄泉帰りの儀式の前に、勤はむらさきで味を調えた指を口にした。

数々の成功を収め、勤はより大胆かつ散漫になっていた。
「あの美人姉妹。いいな。あのときはぶつぶつ。この前がごく。それで」
「うちから近いけれど。うまくやれるさ。近」
「痛え!なんだ、石?」
「貴様でも痛いのか」
「なんだ。女か。興味ないんだよ」
「わ。頭の後ろから血が出てるじゃないか!」
「まったく。ぶつぶつぶつ。あれがそれで。ぐちぐち。トンネルの。そしたら、燃やした。
どれを食べて。もぐもぐ。やっべ、送ったやつが」
「貴様。貴様という奴は!自分の欲のまま勝手気ままに」
「女は高慢で高飛車だ。生意気だし。鼻っ柱が。でも、こいつもぼくの夢だから。なんか
目がねずみ人間みたいに、いやハツカネズミのように。アルビノだっけ」
「カメラに映った逆さの幼女の夢。幻想ならまだしも、ペドロフィリアの薄汚い妄想。禁

- 51 -
忌の逆さ柱」
「ちがう。ぼくの夢はほんもの。ぼく以外はにせもの」
「戯れ言は聞き飽きた」
「いっしょに遊びたかった。いっしょにビデオ見たかった。いっしょになりたかった。い
っしょにいたかった。いっしょに食べたかっただけ」
「恐怖の本能くらいはあるようだな。もういい」
「あ。お願いだから助けてください。なんでもします。もう二度としません。まじでまじ
めにするから。死ぬのは怖い。恐ろしいよ」
「4人の幼女を惨殺しておいて、よく吠える」
「これでお前の生き方は終わりだ。貴様には死すら惜しい。青龍と白竜の撚り合わされた
焔で生き地獄を彷徨え」
玲は精神波の照射による反動ではなく、なんとも言い難い嫌悪感と吐き気を催し、体が
参ってしまう。
「幼い子は小さくてか弱いから、本能で守ってあげたくなるはずだわ」
「母性本能はあっても父性本能はないとでも言うの。どうして」
「あー、うれしい。楽しい。すてきな美しい夢だなあ」
「うーん。なんだ夢か。でも、まだ夢かも」
「あ、お父さーん」
「こちらの美人姉妹のお父さんですね」
「私は4人の幼女を殺してこの娘たちも殺めるつもりです」
「まだ捕まってないので、ぜんぜん大丈夫です」
「きもいとか、うざいとか、興味ないとか。え?ありえないです」
「それでね。やっぱパチンコ店や大きな公園やらスーパーとかデパートなんて遊園地もね。
気をつけないとね。だめだよね」
「お父さん。ひとり遊びなんてもってのほかであります」
「一人っ子が多いからこれまで以上に注意しないといけませんよ」
「バブル景気とかゆとり教育もありますし。親も子も甘やかしてはいけません!」
裁判で勤は礼節を尽くした。その告白は素直で論理的でさえあった。検察官と精神鑑定
をした医師と裁判官の不手際により、勤の余罪は迷宮に入ったままである。

- 52 -
屍体愛好
智大が東北から上京して警察学校を卒業し、警視庁で働くようになったのには理由があ
った。銃を携えて撃てるからである。幼いころから弱肉強食の世界にあこがれていた。い
じめっ子への果てることなき恨みと怒り、東京の人間に対する負い目や都落ちした者に向
けた蔑みであろうか。
県内で屈指の進学校を卒業したが、車に熱中していたこともあり、智大は大学に進ま
ず、専門学校に通う。自動車整備士の資格を取って世の中に出たが、温暖な地を中心とし
て職を転々とすることになる。
そんな中、母の期待に応えられないもどかしさ、母への反抗、名門校OBの誇り、自
分への評価の低さ、人生のただ一つの意味とは何か、文明の利器のふしぎさなどが複雑に
絡み合ったのだろう。智大は自動車には興味を持ち続けたものの、仮想現実の世界、銃器、
黒魔術にも少しずつ魅かれてゆく。
「ようやく居場所が見つかった」
智大は警部にまで登りつめていたが、30歳を超えていた。昇級すれば現場の仕事が減
り、パトカーに乗ることも少なくなる。いわゆる国家権力を振るう機会も激減する。智
大を支えていたのは、銃という名の正義を振り回す欲に他ならない。すでに射撃場の的
では満たされず、休暇を利用して海外で実地の訓練を積んでいた。
「銃はやはりいい。だが、しょせん相手は無機物」
「苦手な柔術を努力と根性で克服して得た地位だ。とはいえ無鉄砲な発砲は」
「管轄では発砲事件があまりないし」
「ニューナンブとS&W44は自由だ。弾薬が」
あの国の陸軍とのパイプも細いけれどできた。ネットワークの暗号技術も基本は押さ
えた。重機や大型車は鈍重で機動性に欠く。レンタカーでは稚拙だ。バイクは身軽でも道
のりが短い。高速バスや新幹線、飛行機を使ってみるのも。
「川藤警部」
「なんだ。演習中だぞ」
「失礼しました。足立区でモデルガンの改造銃が大量に見つかりました。銃器に詳しい警
部に捜査の協力をお願いしたいそうです」
「すぐに行く」

- 53 -
(好機到来か)
「状況は」
「先月、市河市の埠頭で外国人による発砲事件があり、内偵で捜査していたのですが」
「それはもう聞いた」
「はい。先ほど容疑者の自宅で3人の捜査員が職務質問したところ、裸足で逃げられまし
た」
「武器を持った大の男が揃いもそろってなにをしている」
「申し訳ありません」
「君が謝らなくてもいい。若い連中だな。最近は柔道も剣道もしていないそうじゃないか」
「はあ。まあ、女性も増えたからではないでしょうか。滅多矢鱈に撃つと都民が」
「そんな悠長なことを言ってるから長官や交番が襲撃されるんだ」
「しかし、警部」
「しかしもかかしもない。ここは日本の首都都市東京だ」
「警部、お忙しく遠いところご苦労様であります!」
最敬礼の大合唱で智大は出世してよかったと心の底から思う。
「粗悪な改造銃ばかりだな。これでは射程が数mか。組織から頼まれたのではなく、おこ
づかい稼ぎ。ごろつきやひも、マニアがいいところだ」
「と言いますと」
「インターネットや千葉の港で売りさばいていたんだろう。遠くには逃げられないはずだ
が、都外に出られると面倒だ。行得警察署の失態もある。羽田空港と成田空港にも非常
線を張れ」
「はい」
女はいるな。車はないようだから電車、バス、自転車、徒歩でしか動けまい。部屋の様
子では20代だろう。仲間と合流することも考えられるが、それほど金はないはずだ。
どこから当たるか。
「警部はどうなさいますか」
「私は繁華街を調べてみる」
「灯台下暗しですね。これが容疑者の写真です。何人かお供させましょう」
「いや。目立ちたくない」
「わかりました。よろしくお願いします。では、失礼いたします」

- 54 -
(邪魔者はいなくなった。逃げなければ、殺されなかったのに)
「いた」
小料理店か飲み屋だと思っていたぞ。そう。びくびく逃げ回るよりいつもと同じように
生活する方が賢しい。だが、隅の席で飲んでいるとよく目立つ。頃合い。
「ママさん」
「はい」
「警察です。捜査の」
「あんた、逃げて!」
「そうはさせん。この辺りの地理はもう把握した」
「駅方面を固めろ!」「国道4号だ!」
「西新井橋に向かった!」
「止まれ。撃つぞ」
「止まれと言われて停まるバカがいるか」
パーン!
「止まれと言った」
「まじか、この野郎。ポリ公が撃ったら問題に」
「ならんさ。お前が先に発砲したからな」
「俺は丸腰だ。それに目撃者が」
「ほら、周りをよくご覧」
「なにっ?誰もいない」
「闇雲に逃がしたわけじゃない」
「サツがこんなこと」
「お前のようなゴミはここからいなくなれ」
パン、パン。智大の放った弾は男の左右の胸にめり込んだ。ふつふつと沸き起こる初め
ての快感に智大は佇む。
「これが生身の人間の感触」
「いかんいかん」
智大は盗んだ改造銃で自らの服を貫き、それを屍の手に。
「マスコミがうるさいが、どうにでもなる」
「ニッポンにいるだと。やはりそうか」
「ジェネラル。ただし」

- 55 -
「なんだ」
「研究所では見られなかった能力を発揮しているそうです。まだ調査中ですが」
「ふん。小賢しい小娘め。徹底的に調べろ。日本のポリスやアーミーも利用しろ」
「イエス・サー」
智大は1か月の謹慎と2か月の減給になった。
「体裁さえ整っていればいい」

せっかく休みをもらったのだ。目ぼしい繁華街でもぶらつくか。夜なら問題ない。池
袋、大塚、鶯谷、上野、秋葉原、銀座、品川、五反田、渋谷の辺りだな。止めは不夜城の
新宿だ。智大は休暇を境にして、電子掲示板にハンドルネームで投稿を始める。大学院の
留学生が語る日本の文化として。場所はむろんインターネットカフェだ。空白を埋め、自
分を鼓舞でもしたかったのか。ネット上では炎上することもあったが、概ね人気があった。

ニッポンの風俗はすごいとワタシ考える。どこもLEDこうこうと輝くです。サブカルチ
ャー世界一ある。わーたしの国では人気となる感じだし。でも、わたくしちと悲しみ。女
子学生キャバクラ、メイド、ピンサロ、デリヘルで粗い稼ぎ。今に事件起きる。朝おこさ
れる。2回目も私が起こす。日本語漢字ひらがなカタカナむずかしい。お許しくださいま
せ。(さつき1回目のTOM)

「川藤くん」
「警視殿。先日はわたくしの不徳の致すところ、大変申し訳ありませんでした」
「うん、うん」
「今後はこれまで以上に精進し、都民ひいては道民府民県民を守るために職務を遂行して
ゆく所存であります」
「わかってるよ。君はノンキャリアの生え抜きだから。上層部からも通達があってね。う
まく伝えておいたから。まあ、最近はマスコミや世間がヒステリーみたいにうるさいか
らね。私は誤射だと思ってる。私の考えでは誤射だ。私が見解したからには誤射だよ。
そうに決まってる。私は誤射だ。と信じている」
「ありがとうございます。警視殿あってのわたくしです」
(ごしゃごしゃ、ごちゃごちゃ五月蝿いやつだな。命令の丸写しもできないくせに。誤写

- 56 -
じゃないか)
「それでね」
「はい」
「射撃場の訓練を控えてくれんかね」
「え?は、はい」
ならば。実践あるのみ。人を合法的に的にするには。
「川藤警部」
「どうした」
「池袋付近の風俗街で銃や刀を隠し持っているという通報がありまして」
「そんなことは日常茶飯事だ」
「それがあの団体の関係らしいのです」
(愚か者じゃあるまいし。あそこの社長はそんなことはせんよ)
「わかった」
「どの店だ」
「ここです」
店舗に併設型のデリバリーヘルスだと。まるで地方、それも千葉県みたいだな。公共
の賃貸マンションの一室が受け付け、ほかの部屋で荒稼ぎ。外国人もいるようだな。資金
源の一つとは考えられるが。あの取締役から上納金をもらっている。とすれば。
「警部。川藤警部」
「ん。ああ」
「住民を不安にするのはまずい。私と君で確認してからだ。突入は23時ごろ。残りの者
はここと非常階段で待機。くれぐれも都民と犯罪者を誤らないように」
「はい」
「いらっしゃいませ。先ほどの電話の方ですか。お二人ですね」
「ああ」
「当店のサービスは」
「警察だ」
「えっ」
「上にいい顔するのも程度の問題だ。同業者や部下も大切にするんだな」
「くそっ!右肩上がりだったのに」

- 57 -
「マンションの周りは押さえてある。部屋の番号を教えてもらおう。とりあえず都の条例
違反で現行犯逮捕する」
「さほど多くないから二手に分かれて調べるぞ。君は下の3階で私が5階を当たる」
「わかりました」
なんだ。武器庫などないじゃないか。ガセネタも多いからな。逮捕者もかなりいるし、
この前の汚名返上の役には立つか。つまらない仕事だ。時間の無駄。最後の一つ。
「動くな」
「きゃっ」
「わっ」
「法に触れているのはわかるな。逮捕する」
「服を着るんだ。この部屋に銃があるらしいんでな。その間に調べる」
「うそ」
「まさか」
「しょうちゃんは苦学生なんだ。継母にいじめられて。手にガラスで切られた痕もあるし。
ぼくが援助交際してただけだ。しょうちゃんは悪くない。ぼくはあんな会社クビになった
って」
「裁判所で語るんだな」
まったく近ごろの若いサラリーマンは。夜の女は金だよ、金!ん?程度の低い女はそう
かな。金の切れ目は縁の切れ目。
「隠し扉とか押し入れの上の天井とかは」
ズッ。サバイバルナイフが智大の背中に食い込む。
「うう。なんだと」
「しょうちゃん、一緒に逃げよう」
「そうはさせん」
着の身着のままの男女が駆け出したとき、逆上した智大の銃が暴発した。二人とも即死
だった。
「よけいなことさせやがって」
三人の血とみだらな女の肢体が智大を深淵から呼ぶ。
「スタイルのいいなかなかの女じゃないか」
智大のもう一つのピストルで三本目の足が頭をもたげ、果てた。

- 58 -
「これが屍姦。なるほど」
そろそろ援護射撃をしてもらうか。
「警部、大丈夫ですか」
「私としたことが。そんなことよりこの部屋を調べてくれ」
「警部。警部、しっかりしてください」
「ここは」
「東京警察病院だよ。川藤くん」
「警視殿」
「とんでもないことをしてくれたね。正当防衛とは言っても3人だからね。君は有名人な
んだよ。警視総監の進退も危ういどころか、私の顔に泥をわたしの輝かしき経歴に傷を僕
のエリート街道を邪魔。ん、んっ。無期限の謹慎が決まった。降格、いや懲戒免職もあり
だ。まあ、腎臓は1つあればいいから。楽しみにしていてくれ給え」
「水の泡か」
このときから智大はこの世との孤立感をより深めてゆく。電脳世界の掲示板が智大のた
った一つの拠り所だった。

「外人は生まれながらにして外国人なのです。これを受け入れましょう」ガイジンは差別
だ。でも、差別語にも生き抜く権利があるデス。あたしの義務は日本のサブカルチャーの
いいとこどり。根性努力うそはったりして外国人を勝ち取るのよ。日本語は文法を毅然と
寛容できるわたし思う。眠れない傾奇町の方ご用心。黒塗りのタクシー。スポーツカー。
どっちですか?ご静聴サンクスフレンズ。(かんなづき110回目のTOM)

そんな中。
「川藤さん、宅急便です」
「珍しいな」
「警視庁の川藤智大警部だな」
「誰だ」
「君の味方だ。我が陸軍はある女を追っている。玲というタクシー運転手だ。君に協力を
求めたい。捕獲が目的だが、やむを得ない場合は射殺もある」
「そんな話を信用しろと」

- 59 -
「君も警視庁のデータベースに侵入したことがあるな」
「見返りは」
「君の地位と射撃技術の向上だ」
「断れないようだな。引き受けよう」
「これが玲の資料だ」

「川藤くん」
「はい」
「謹慎が解けてなにより。あの、まあ、なんだ、その。現状維持ということで。個人では
どうしようもないことがあってね。マスコミには政府が、政府には、えーと。では、そう
いうことだ」
下には高圧的で上にはやたらに弱い。さすが、やりっぱなしのずさんな流れ作業がお仕
事の中間管理職。
「謹慎が長かったからな。ずいぶんストレスがたまった」
現実と理想の乖離を減らすには。世の中と仮想現実の世界の溶け合い。社会と電脳世界
の融合。俺の抗議の表明を賢明に。有言実行だ。

元気でいますか?私のこと小心者って思ってるの。確かに負け組よ。でも、根性で努力し
ても負け犬の遠吠えだった。努力や苦労は報われないいいことも多いわ。だからって、し
ないよりはいいの。いやな思い挫折修羅場経験の数かしら。勉強も運動も。やさしくなれ
るはずよ。きよしこの夜が更けて私の実力を見せるわ。眠り姫の消えた新しい宿で眠り姫
を取り戻すのよ。グッドバイマイラヴァー。(しわす555回目のTOM)

「大型のRVがいいだろう。時間は暦が変わるころ。白昼なら都心で休んでいるタクシー
だがな」
まずは鍵のかかっていない車。防犯装置のついていないもの。ピッキングしてもいいが。
バールを使えばあっという間だが、証拠が残る。目撃されやすい。運転手を脅迫すると中
身が知れる。本当は女だけを。いや、ぜいたくと貧乏は敵だ。もう酔っ払いだらけのはず。
コンビニエンスストアに行ってみるか。
「あった」

- 60 -
最後の交差点を右折し、アクセルを踏み込みながら智大は奇声を上げる。
「ひゃあ。ははぁ。ふうー。あーあ、おうおう」
柔道の受け身の再特訓を続けている。厚手の服を着て皮の手袋までし、河川敷で愛車か
ら飛び降りる鍛錬を夜ごとした。
「今こそ、肉を切らせて骨を断つ」
智大は車のドアを開け、開口部の角を両足で強く蹴り、後方に跳んだ。慣れとは恐ろし
いものである。ちょっとした打撲だった。そそくさとその場を立ち去った。終電でディジ
タルニュースを見ると、男女2組のカップルが死亡していた。
「2人だけか」
躯は鑑賞できなかった。少し心残りだが、インターネットと警視庁のスーパーコンピュ
ーターがある。ハッキングもできるし。なあに。想像で補ってもいいさ。
新橋や銀座を流していた玲は、AMラジオでそれを知る。
「クリスマス・イヴなのに。なんということをするの」

「さて、掲示板を」
「なんだこれは!」

いつも俺を見てくれてありがとう。今日は年末出血サービス。新宿の事件の詳しい話を知
りたい君たちに。本名も発表するぜ。イェイ。恋人たちを憎み、平和を愛する独身の星。
つづく。(師走に777回目の投稿。TOMこと知己)

「次も、ここも。どこまで続くんだ」
「一人じゃないな。俺の新しいすみかを荒らしやがって」
「くそっ。著作権だってあるのに」
やられたらやり返す。依頼のこともあるしな。一度でいいからとびきりの美人が嫌がっ
たり困ったりする顔を前から正面より近くにて見たかった。
「なかなかのべっぴんだ」
「すみません。道を」
・・・。
「あのう。道に迷って」

- 61 -
・・・・・。
「まあ、東京だし。つまらない事件が多いからな」
「お忙しいところすみません。警察です。先日の事件の目撃者を探しているのですが」
「はい」
「事件の日、どこにいましたか」
「家です」
「そうでしたか。申し訳あ」
「助手席に乗れ」
「け、拳銃?」
「本物だ。声を出すなよ。早くしろ」
「は、はい」
拉致したものの、これからどうするか。こんな美女にめぐりあうこともあまりないしな。
ドライブと洒落込むのも。海がいいかな。鎌倉とか海ほたるとか。若い娘はお台場や葛西
臨海公園が。
「あの」
「あのう」
「なんだ」
「どこへ行くのですか」
「君をそのままいただくか射殺してから食べるかを考えている」
(この人は大学で学んだ精神病質者。早く逃げないと)
「ちょっといいですか」
「静かにしてくれ」
「あの。その」
「言いたいことがあるならさっさと言え」
「それが私、月のものが。どこかでお化粧室に」
「仕方ないな。コンビニでいいな」
「はい」
「携帯電話をよこせ」
「どうぞ」
「スマホが1つということはないな。ガラケーとかあるだろう」

- 62 -
「これもどうぞ」
「俺もついていく」
「タブレット端末は気づかなかったわ。落ち着いて。友だちと女性被害者を守る会に一斉
送信。みんな気づいて」
「着いたぞ」
「どこですか」
「大塚だ」
「そこまでだ」
「ん?」
「あなたは逃げて。ありがとう」
「あの。は、はい」
「お前は警察官だな」
「ほう。どうしてわかった」
「ポケットたちから硝煙の臭いがする。お前は新宿で」
「そうだ」
「覚悟はいいか」
「君がサイコパスハンターか」
「なにを言っている」
「警察の情報網はコンピューターや書類だけじゃない。街には情報屋がいる。それなりの
取り引きが必要だがな。巷には電子掲示板もあふれている」
「名に固執していない」
「君が現われたということは、私もサイコパスかな。どうしてここがわかった。私の殺意
は弱いはずだ」
「おかげで手間取った。お前にそれ以上話す気はない」
「人間は有機物でできた機械だ。壊れて修理して部品を取り換えても動かなくなれば、捨
てればいい。俺が屠った者たちは生きていてはいけないのさ。壊れるのが少し早くなった
だけだ」
「すべてのいきものや言葉には意味がある。すばらしいことなんだ。お前にはわかるまい」
「俺は博愛主義者じゃないんでね。血塗られた憲兵の英霊に憑かれたのかもな。まあ、君
には銃の悪魔と契約した、と言った方がわかりやすいかもしれない。警察官も30万人。

- 63 -
みんながみんなプロ意識で働いていない。不祥事も後を絶たない。武器を持ちながら使わ
ないのは宝の持ち腐れだ」
「ぺらぺらとよくしゃべる。国家権力の濫用と弱きを挫く性根」
「むしろ、世の中から弾かれたひとりぼっちの独身男。真のネクロフィリアとなる前に」
「何とでも言え」
「かわいいお嬢さんが手ぶらでどう闘うか。とある筋から頼まれていてね。容赦はしない」
「ごたくはいい。抜け」
「お手並み拝見」
パン、パン。智大の両手が火を噴いた。
「なんだ。両脚に命中しているはず」
パン、パン。パン。パン。
「当たらない。なぜだ」
パン、パン。
「あと2発。お前が見ているのは私の残像だ」
「この女、一体。聞いてないぞ。うわあ。く、来るな!撃つぞ」
「お前の生き方はこれで終わりだ。黒龍と見紛う蒼い竜の慟哭を聞け」
プシュ。
精神波の照射の直後。数百mの彼方より、玲の真後ろから頭上をかすめたスナイパーラ
イフルの弾が智大の眉間を撃ち抜いた。
「私を狙った?いや」
「そう。私が獲物になったのね」
「殺すことはないのに。でも、私も精神的には殺してきたのね」
「やはり人間では話にならんな」
「准将。こやつも資料集めくらいは役に立っていたのですが。実戦の経験が不足していた
のでしょうか」
「師団長か。次元のちがいだな。我々の科学と極東の地方権力」
「そうですか。速やかに死体を処理し、本国に脳とともにミス・レイのデータを輸送する。
ヨコスカに再集結せよ」
「ラジャー」
下水や木立ち、茂みやら雑踏、会社員はたまた作業員に紛れた特殊兵らが現われ、消え

- 64 -
てゆく。
「勝てると思うな。裏切り者のナンバー・ゼロ」
「お前は国家機密の兵器。BIAとEBIをなめるなよ」
「NO.7は失敗作だったな。研究を急がせろ」
「はっ」

動物殺人
「それでは、みなさん。太田市新市民会館おおたBITO(売名未登録商標)落成記念催
事日本文化の部も宴たけなわとなりました。神戸からいらっしゃいました麻耶の語り部で
綾瀬の大嫗。斉藤あささんです」
パチパチぱちぱち。パチ、ぱち。パチ。ぱち。
「みなさん、お初にお目にかかります。私は足立区から来ました綾瀬のあさ。こんど米寿
ですじゃ。おらっちは嫁入り前まで神戸で過ごしたもので。厚木の地主に見染められて東
京府の綾瀬に来たじゃ。神戸は大都会だで、東京の田舎もんには負けはせん。と関西弁を
押し殺して働いて働いて娘を2人、息子を1人こさえましたじゃ。上の娘のゆきんこは忍
に通って不忍池で一高さんに声かけられて袖にしたとじゃ。第苺銀行ではずれを引いて。
まあ、宝くじは銀座で買っても太田で買っても当たる確率は同じですじゃ」
「下のみっちーは野山証券で下総行ったり遠州灘でピアノ弾いてから小岩に来たり。孫の
りきにいじめられて姉ちゃんち二度と来ない!って啖呵切ったり」
「あのう。あささん」
「末っ子のやっつけは、あちきも人の子だで、甘え過保護猫かわいがりごろごろ猫伸びみ
ゃあで。おらが草葉の陰で見てると、俺が。俺が斉藤家の当主だ!っていう予定が未定で
想定で」
「あささん」
「なんじゃ。うるさいわ!」
「本日は麻耶の民話のおはなしということで」
「おお。堪忍や」
「それから少々早口のようですから、できればもう少しゆっくりお願いします」
「お安い御用です」

- 65 -
「こーれーかーら。おーらーがー、ちいーさいーころー。北足立郡ではー。あわと呼ばれ
るおっ母がー。きーかーせーてーくーれーたー」
「あささん。それですと単語が間延びしてるだけで、かえってわからないです。普通でお
願いします」
「うむ。今、お主に質そう。普通とは何か?」
「えっ?それは。万人向けと申しましょうか、誰にでもわかると言いますか。趣味に走り
すぎないとか、専門なんて本当はないとか」
「なんじゃ、煮え切らないのう。上州の殿方は。からっ風は吹かないと聞いとるよ。かか
あの独壇場じゃのう」
「返す言葉もありません」
「さて。では、『見えないひとり舞台』を行きますじゃ」
「今となっては昔の話となってしもうたが。麻耶の山に少年が住んでおった。名は聖斗、
齢が十と四。勉強も運動も家の手伝いもしない三重苦の生活で、妄想ばかりして遊んでい
たそうな。聖斗には弟もいたのじゃが、母は聖斗に甘く、弟に厳しかったと近所でもっぱ
らのうわさだったとさ」
「・・・・・」
「市長さん」
「私は司会です」
「おらは海千山千だども。この語り口だとおらもみなも疲れると思うだで。それに、おら
っちは緊張すると関西弁と北足立弁が混じっちまう」
「はあ」
「標準語でもいいべか」
「どうぞ」
「あるとき、聖斗はユスリカの大群を払おうとして手を振ると、モンシロチョウに当たっ
てしまいました。悪いと思ったその瞬間、影を翻すきれいな蝶がたった今。自分だけのも
のになったような気がしたのです」
「この辺でもうだいたい頭がおかしくなりました。ふつうは罪の意識や罪悪感です。蝶は
人間がいつも口にするものではないのですから。本人が気づかないなら、親兄姉弟妹、親
戚、友だち、ご近所、遊び仲間や仕事仲間、良識常識ある大人が敏感過敏過剰に冗長性を
もって応えるべきです」

- 66 -
「あささん」
「なんばしよっとね。日本男児のくせに細かいのう。見づれえ」
「民話なので、寓話のような訓戒とか、現代のおはなしは控えてもらえますか」
「では、聞こう。民話とはむかしばなしとは。寓話とはなんと心得る」
「それは。えーと」
「みなまで言うな」
「はい」
「です・ますの丁寧語だと時間がかかるのに情報が少ないから、だ・であるで時と金を節
約してもよいか。いらない情報は捨てろと乳母に教えられておる」
「ご自由になさってください」
(誰だ。このおばあさん呼んだの。とぼけてるのかわざとなのか。また清川市長のテレビ
に出たい病だよ。大丈夫ですか?大丈夫じゃないね。この人はいつもどこのくにの言葉を
しゃべってるんだろう)
「なにか言ったかね」
「いいえ」
(低い声は聞こえる年寄り特有の地獄耳)
「それからというもの聖斗は、あらゆる虫を手にかけ続けました。虫を殺しても誰にもと
がめられません。和尚さんからは一寸の虫にも五分の魂ですよ。転生して虫になることも
あるのです。とたしなめられましたが、馬の耳に念仏です。聖斗は、そうこうしているう
ちに虫では飽き足らないと悟りを開きます」
(です・ます調じゃないか。裏声なら聞こえないはず)
「境界性パーソナリティ障害の走りです。自嘲とか自虐で終わればいいんですけど。落ち
ぶれた旧家のぼんぼんに多いですね。あら、ごめんなさい」
「天翔る節足動物を卒業した聖斗は地に下ります。そう、爬虫類です。魚は水場に行くの
が面倒ですし、両生類も探すのに骨が折れます。へびは怖くて恐ろしくて大の苦手でした。
初めこそ、とかけやかなへび、やもりのしっぽで遊んでいるだけでした。血沸き肉躍る興
奮がつま先から前頭葉に達しました。次々に押し寄せる高波のように。津波だったかもし
れません。いきものを殺めるどころか、切り刻んでばらばらにして見せたのです」
「ここで改心して供養すれば播磨でも敏腕の外科医になったことでしょう。こちらの上州
にもたくさん人を殺しながら藪の中に隠れている医者が。おや、失礼」

- 67 -
「桔梗のつぼみが風船になるころ、村に町かられいという娘が嫁いできました。村の男は
未婚既婚問わず、れいに夢中になりました。れいは、見た目こそ見目麗しく清楚でしたが、
どことなく妖しい美しさを内に秘めた女でした。夫はもちろん、村中の男たちがれいを侵
さざるべき神聖な存在に祭り上げてゆきました。まつろわぬのは聖斗ただ一人です」
「おい!そこで突っ立っとるあんちゃん」
「私ですか」
「おら、耳が遠いんだぎゃども、もともと声が大きいし。おらっちの得意な落語みたいに
身振り手振りしたいから、マイク使わんでもええか」
「あささんの仕方で結構です」
「あと、地の文ばかりだとお客さまが眠とうなる。話の腰をおっかいてもなんだし。会話
の文を組み合わせてええだんべ」
「お好きにしてください」
(その群馬弁はどこで覚えたの)
「そげなこと言うても、おらっちが話すんだからすべて会話だっしょ。がっはっは」
(もう勘弁してください)
「こう見えても言文一致体のことで夜も眠れないんよ。兄ちゃんは囚人のジレンマとか知
っとるけ」
「し、知らないです。勉強してきます」
「そうなん?」
(脱線の名手ですか)
「ああ。すみませんでしたな。あれ?進行役さん、どこまで話しましたかな」
「狐の嫁入りまでです」
「おのれ!あれほどみなまでと!」
「興奮したときはあれあれ。あれじゃ。ひー。ふー。ひっ、ひっ。ふうー」
「まあよいわ」

「ママ、これ誰」
「あら。これはママが結婚したときの写真よ」
「れいなんかより全然きれい」
「そう。ありがとう」

- 68 -
「ぼく、大きくなったらママの」
「なあに」
「ううん。なんでもない」
「ママ。こんどおじいちゃんと狩りに行きたい」
「だめよ。危ないから」
「でも」
「もっと大きくなってからね。好きなことしていいから。いつまでもいつまでもママが守
ってあげる」
「なら哺乳類だ」
まずは野良猫だな。野良犬は強いから。エサはパパのするめをくすねればいい。ホーム
センター、いやよろづ屋で道具を買おう。ママとパパは忙しいの言い訳だから、おじいち
ゃんにおねだりだ。棚をつくるとかうそついて金づちを。うちの包丁はまずい。版画した
いとかごねて彫刻刀を。版木を整えたいからとか言いふらして小刀を。糸のこぎりも木工
細工とかなんとか。ひもは何とかなるさ。
「見つけたぞ。疲れたじゃないか。思ったより警戒心が強く、素早いやつめ。念のためま
たたびだってある」
「そら」
振り下ろされたた金づちで黒い猫は脳天を唐竹割され、断末魔を上げるいとまもなかっ
た。
「黒猫は魔物か。その割にはあっけない。呪われるかな」
「虫よりはいいけど。しょせんは野良。少し鑑賞するか。ぼくの処女作を」
この調子で聖斗は猫を次々に動けなくしていった。聖斗はいきものの生死に鈍感になり、
なきがらを弄ぶようになる。糸のこぎりが登場する。
「木でずいぶん練習したんだけどな。うまく切れない。切れないとぼくがキレるぞ」
いのちを知らず、生物の構造、骨や筋肉、細胞どころか血液についても無能かつ無感覚
で惨めな聖斗。サイコパスの萌芽時代である。野良猫では飽きてしまい、鶏に手を出そう
とした聖斗は、村人に見つかる。
「うちの鶏よ。黙って持って行かないで」
(くそっ!こいつは、女狐のれい。放し飼いだったから)
「ちょっと遊んでただけ」

- 69 -
「じゃあ、どうして首根っこを持ってるの」
「あ、あの」
「あなた西さんところの長男ね。来世があるとしたら真一郎くんかな。生まれ変われると
いいわね」
「な、なにを」
「今日は見逃してあげる。早くしないと手遅れになるわよ」
「ばーか」
このときの憂さを晴らすように、聖斗は野良猫に傾倒してゆく。聖斗には健やかな人が
持つ五感が麻痺していた。
「ちっ、つまらない。同じことのくり返しだ。まるでお役人」
小さな子は親が監視してるから、十に満たない子どもだ。男の子は強いやつもいるし。
女の子がいた。ぼくにたまたま見つかった君がいけないのだよ。
「あのう。のどが渇いたんだけど、水が飲めるところ知ってる」
「うん。こっち」
「ありがとう。お礼がしたいので名前を」
聖斗は言い終わらないうち、少女の左側頭部にハンマーを力いっぱい打ちつけた。間も
なく少女はこの世を去る。逃げながら聖斗はお祭り騒ぎだ。
「やった!」
「これが人間の感触。反動で反作用。あの子、あの子は。俺が俺が。オレオレの詐欺でぼ
くのものになった。だってさ、ぼくとめぐりあい。そうしなけりゃ、今ここで。この場所
で遊んでいるから!」

男の子も捨てがたいな。こんどは慎重に行こう。絶対に勝てる男の子と言えば。肉食獣
だって大人の健康なオスを狩ることはない。少し山奥に誘い出して。撒き餌は銭亀だ。
「君、カメ好きだろう」
「うん」
「この前、苦労して銭亀を捕まえて池につないであるから、見に行かない」
「いく」
よし、いいぞ。道具はあるかな。しまった。小刀がない。後で考えよう。
「ここだよ」

- 70 -
「どこ」
「いないよ。どこなの」
「潜ってるんじゃないかな。ひもで括ってあるから。ほら、あそこにひもが」
「えっ」
今だ。聖斗は男の子の後ろに回り込み、男の子の首に右の前腕を回し、左肩の上に左の
ひじを立て、その内側に右手を置いて渾身の力で締め上げてみる。運動嫌いな聖斗の筋力
では目的を達成できない。男の子をうつ伏せにしてエビ反りさせて試みるが無駄だった。
「腕が痛い」
「ぼくにこんな苦労かけさせやがって。重労働じゃないか」
男の子の顔、頭、腹を殴り、強かに蹴る。男の子の悲鳴は聖斗の意味のない激昂の火に
油を注ぐだけだった。ふと石が目に入る。非力で無知な聖斗にはどうすることもできない。
「なんでお前は騒いでぼくを困らせるんだ!」
取りつく島もない。そもそも聖斗には自分と母以外、ないのだ。小刀は忘れたし。こい
つと好機を逃がしたら大変だ。どうすれば。
「靴ひも」
これで。頭どころか体の使い方もわからない聖斗。悪戦苦闘でよくわからない興奮に惑
わされながら欲望を果たした。
「お兄ちゃん」
「えっ?見られた」
「ぼくだよ。ぼく」
「まだ生きてるのか」
「よくも殺したね。ぼくはなにも悪くないのに。痛かった。苦しかった」
「ぼくと鉢合わせした君の不幸を呪うんだな」
魂はすぐに抜けないのか。せっかく人がしあわせに満ち満ちているのに。邪魔なのだよ。
「見紛う方なき幻聴じゃった。聖斗の法螺とも言いますのう。あいすみません。物語の世
界観は大切に」
「ぼくを呪ったな。人を呪わば、穴二つだよ。絶対に仕返しして」
「じゃあな」
男の子を木の葉で隠し、聖斗は家に帰った。明日の朝早くに処理をしよう。今日は働き
すぎた。

- 71 -
「ずっとしゃべってるのかよ。小刀と糸のこぎりと宣誓書の登場だ。ほかの女の子と猫で
切れ味の確認は済んでいる」
口封じのために口の両端を耳まで切り裂く。目を十字にその格子を形成して両目の光を
強奪する。
「ふう。静かな生活に戻った。ひと安心」
宣誓書はどうするか。まだ早いから小憎らしい頭を切り離し、村長の家の前に置いてや
れ。わくわく。どきどき。聖斗は狂い喜び、失笑する。くっくくっ。赤い小鳥。金切り声
を上げようとしたが、ひやひやとした風が吹き、そうさせなかった。少しの間、体が凍っ
て四肢が麻痺した。大変な道のりだった。この黒い合成樹脂の袋に入れて。
「血だ。もしかしたらあの力が手に入る」
舐めて、飲む。
「うへっ。金属の味」
記念に舌切り雀。はい、行こう。
「なんだ。硬くてうまくいかない。じゃあ、ここに宣誓書をくわえさせよう」
「村を舞台にしたぼくの個展。出世となる作品だ。ほおら、よく見給え。うふふ」
言い知れぬ興奮と快感が聖斗を包む。全身が脈打っていた。

「でもなあ。やっぱ女の子っしょ」
この前よりもかわいい子。こんどは。
「ぼく、もうやめようね」
「お前は」
「こんどとおばけは出たことないのよ」
「いきなり現われやがって」
「わかったから。いい子にしようね」
「俺を子ども扱いするな」
「うん、うん。子どもの法律が非公開でママみたいに甘えさせてくれるから。よしよし」
「おれは別に少年法なんか。あいつらは畑でとれた野菜だ。野菜を粉砕したジュースの前
では法など無意味さ」
「お野菜も畑では生を謳歌していたのよ。虫さんとともに舞っていたの」
「野菜はきらいだ!味がしないくせに、ごはんのときずうずうしくぼくを睨みつけるか

- 72 -
ら!」
「野菜だって虫だって砕いてすりつぶして絞っていいんだ。ママが毎朝やってくれるもん。
お砂糖とかはちみつ入れてくれるもん」
「ピーマンとナスなんかぼくの食べ物じゃない!ニンジンだって」
「ジュースとか言って血を飲んだのね。金属の味だって。ふふふ、なんだかねえ」
「なにがおかしい」
「血はだいたいたんぱく質なのよ。生き抜いてゆくのに必要なごくごく少ない金属も流れ
てるけど。ボクはお野菜キライなものばっかり。だから亜鉛が足りないんじゃないの」
「そんなこと知らなくたっていい」
「まあね。でも、血を飲むとあれになれるなんて。お子さまなのね」
「ぼくを愚弄するな」
「漢字も書けないのに?血液は半分が赤血球だわ。赤血球はだいたいヘモグロビンという
赤いたんぱく質。このたんぱく質は、αの鎖とβの鎖が2対で形成される4次構造であり、
それぞれの鎖にヘムがあってこのヘムに2価の鉄イオンがあるのよ。この鉄イオンに酸素
がくっつくの。肺では酸素の分圧が高いから結合し、組織では分圧が低いから解き放たれ
るわ」
「ヘモグロビンは分子量が64500もあるのよ。鉄の味もしないわ。血は血の味ね。お
っぱいの味ならわかるわ。まだママのおっぱい飲んでるのかな?一緒にお風呂入ってたり
して。私の甥っ子はママとお風呂入ってるときに同級生の女の子が2人遊びに来て、『や
だ、玉藻くん。小学校3年生なのにママとお風呂入ってるの?』ってひそひそ大合唱され
たの。それから入ってないわ」
「やめろ。呪文と呪術でぼくを惑わすな」
「ぼく、パパのたばこ盗み飲みしてるわね」
「してないから」
「たばこを10本いっぺんに吸うと、一酸化炭素できれいな眠り坊やのできあがり」
「新しい術だな。そうはいかないぞ」
「お腹すいたね。お姉ちゃんとお子さまランチ食べようか。おいでおいで」
「ぼくはいつも特上の寿司だ」
「絶対に勝てる弱い者いじめと露出狂なのね。坊やだからよ」
「ぼくは坊やじゃない!」

- 73 -
「声明文を読んだわ。背伸びして色気づいちゃって。むずかしい言葉は子どものしるしね。
いらない造語もあるし。幼い筋道よ。字も下手っぴねえ」
「ぼくはもう大人だ。むかしは14歳で人を斬りに行ったんだ」
「ボクちゃんが落書きしたマークも拝見したわ。卍崩し」
「貴様!あれはぼくが丹精込めて大切に育てた紋章だ。国際商標出願してブランドを確立
する。それを」
「なあに。聖斗ちゃん。ちっちゃいヒトラー気取りなの。ヘモグロビンも卍形だし。夢と
現をごっちゃにしちゃ、だめ」
「お前は存在自体が虚構のくせに」
「まあ、小説だからね」
「詭弁を語る魔女め」
「魔性の女は妖艶だから、ほめ言葉かな」
「やっぱり妖怪」
「存在が耐えられないほど透明なの?聖斗ちゃん」
「もしも妄想の中、許される透明人間ならなーんにも見えないわね。もののことわりはま
だむずかしい!かな」
「人の世で中学生なりに耐え忍べないのかしら。修業と修行を積んで仙人の世界にでも行
ったらどう」
「やだ。そんなとこぜーったい行かない。ぼくは六甲のお山が好きだもん。もう黒魔術を
かけた小学生たちの血判状で契約した悪魔が憑いてるし。ぼくのはチクチクジクジク痛い
から」
「その黒魔術はさっき私の妖術で解いたわ。悪魔も古い友だちよ」
「うそつけ」
「さっきから金木犀の臭いがすると思ったら。お前からだな」
「やっと気づいたの。嗅覚はまだあるみたいね。キンモクセイの薫りよ」
「見えない誘惑の術」
「あら、まだボクちゃんですわ。誘惑なんて」
「片頭痛がする」
「大人とか言うくせにこそこそして卑怯なのね。あ、でもボク犯人です。なんてさわやか
に選手宣誓して犯行を破壊工作してる。ふふ。証拠を増やすなんて。計略のつもりなのか

- 74 -
しら。なんだかねえ。計る謀る図る測る量るは知ってる?」
「こいつ!ぼくを謀るな」
「たばかる、よ。今どき流行らないわ」
「う、うるさい。黙れ。静かにしないとお前もこの小刀で」
「そんな勇気ないのに。大人が恐ろしいの。ぜーんぶ、ちっちゃいくせに」
「ぼくは小さくなんかない!」
「あなたはママの人生の分も更生しないと、ここでは生きてゆけないの。人格の障害の域
を超えてるわ。わかる」
「ままはデベソじゃない。きれいな花嫁さんなんだ。ぼくの。ぼくだけの!」
「日記をつけてるのね。どこかの前科者のお役人さんみたいに『獄中日記』を書いても、
残された方やものを書いている人、ふつう人々を見下すだけだわ。およしなさい。いい子
だから。ね?」
「化け狐め!皮を剥がすぞ」
「となりの国を傾かせたな」
「あら、傾国の美人だなんて。私ごとき賤しい人間が」
「お前は人じゃない」
「そのままお返しするわ」
「お前!なんのために来たんだよ。ここよ!」
(もう壊れそうだからいいかしら。でも、出所してから同じことされると迷惑だわ。親子
で優雅に印税生活されると困るし)
「これでボクの生き方は終わりなの。タツノオトシゴのめおとが奏でる舞の旋回流で目を
覚ますのよ」
(いちばん低い周波数と最小の振幅だから、大丈夫だと思うけど。どう?)
「お姉さん。ぼくこ巡りさんのところに行く」
(うまくいったかしら)
「お巡りさん、大変です!はあはあ」
「どうしたんだい。駆け込んで来て。まあ、落ち着いて」
「あの事件の犯人はぼくです」
「なにを言ってるんだい。その体操着。君はそこの中学生じゃないか」
「はい。2年生です」

- 75 -
「大人をからかっちゃいけないよ。お母さんとけんかでもしたかな」
「証拠ならあります」
「!」
学生カバンから金づち、小刀、靴ひも、黒い合成樹脂の袋、糸のこぎり、声明文の極彩
色の紙がべったりした血とともにばらばらこぼれた。聖斗は警察ではありのままを話して
いた。
家庭裁判所にて。聖斗は手をひらめかせながら朗らかに応える。
「みなさん。ようこそ、ぼくのお庭の劇場へ。正面のあなたが指揮者ですね。右手は弦楽
器の方。左は管楽器を奏でるのですか。はてさて、歌手の方がいらっしゃらないようです
が。まだ早かったみたいですね。では、大好物の小動物を肥やしにして育てた野菜ミック
スジュースに舌鼓を打ちながら待ちましょう。ぼくの処女作を演奏してくれるのですから。
あ、調書で大恐って書いて、ごめんなさい」
「最後はちと、おらっちの創作を入れましたじゃ。まあ、民話なんて時とともに尾ひれが
つくものですじゃ」
「聖斗は、酒呑童子と薔薇十字団と一斗缶に入った清酒をないまぜにしていたようじゃっ
たそうな。あなたの後ろにいるかもしれないだんべ」
(こんなの前例がありませんよ、市長。でも、事故が起きなくてよかった)

妄想逃避
孝行「ミケ。僕はママをかばったのに。あいつ。僕を殴る蹴る叩く水かけるジュースかけ
る牛乳かける酒かける消毒する浴びせかける畳みかける。聖剣エクスカリバーちゃぶ台返
し。みたいな」
猫からくり「まあ、孝行くん。落ち着きなよ。パパが悪いんだけどさ」
孝行「落ち着いてなんかいられないよ。家庭内暴力じゃないか!」
猫からくり「うん、うん。お酒入ってたよね」
孝行「いくらママが天然自然ぼけトンチンカンでねじ飛んでるからって。ひどいじゃない
か」
猫からくり「そうだね。孝行くんのゆう通り。でも、夫婦げんかは犬も食わないって言う
じゃない」

- 76 -
孝行「え。そうなの?」
猫からくり「未来ではちょっとちがうけどね。男女雇用婚姻完全機械均等法があるから」
孝行「ふうん」
猫からくり「法律だから、きちんと守られてるわけじゃないけどね」
孝行「でもさあ、あいつ。50℃の熱湯風呂で練習してテレビ出ろ!とか言ってくるし。
漫画家だって2本撮りでサラリーマンの月給を超える時代だとかの無茶ぶりだし。自分で
稼げよ」
猫からくり「じゃあ、孝行くん。これはどうだろう」
孝行「なになに」
猫からくり「熱収縮氷衣キット!」
孝行「わあ」
「孝行、ごはんよ」
「はーい、ママ」
「孝行。学校の勉強だけじゃなく、宿題もきちんとやらないといかんぞ。家庭科や音楽、
図画工作、道徳もだ。とりわけ大切なのが体育」
「返事くらいしろ!沈黙は金じゃない」
「う、うん」
「あなた。孝行はまだ小学生だし、義務教育だから。中学になって義務教育じゃなくなっ
てから厳しくしてもいいと思うの。部活は義務だけど、いじめがあるのでやめますとか。
勉強しなくても大学には入れるわ」
「お前がそんな能天気でいるから、孝行がだめになるんだ」
「あら、あなただって禁煙と禁酒を何回始めたの」
「ま、まあごはん食べてるし、今日は飲んでないし。ニュースでも見るか」
「それとも、たまには必殺パワー、ライトニングブレイクでも。な、孝行」
「ニュースでいいよ」
後でぶたれたらたまらない。まあ、四六時中暴力を振るうわけじゃないけれど。暴力に
すがる男は変に優しかったりする。自分の暴力を正当化するかのように。それは本当のや
さしさじゃないはずだ。ママは騙されているんだよ。早く気がついて。ぼくは弱い。弱す
ぎる。強くなりたい。どうしたらいのだろう。筋力トレーニングとかがいいのかな。やり
方がわからない。

- 77 -
「お前は暗いな」
「そ、そんなことない」
「ほら、明るく派手にしてやるよ」
孝行のポケットに火のついたねずみ花火が贈られた。
「うわっ」
暗いというだけでいじめられるのなら。明るくさわやかに振る舞ってやる。いじめは減
っていったが、見えないストレスがたまり続けていることを孝行は知らない。

母が自ら命を絶った。
孝行「ミケ。ママが。ままが死んじゃったよ!ぼくを残して。なぜだ!」
猫からくり「孝行くん・・・悲しみが・・・・・涙が止まらないよ」
孝行「ミケ、なんかないの。いつもみたいなやつ」
猫からくり「ドキサプラムを改良したドキドキサプライズっていう蘇生薬があるけど」
孝行「あるじゃないか。ミケ、ありがとう!」
猫からくり「でも」
孝行「早く使おう」
猫からくり「なきがらの遺伝子の解析が必要なんだ。それに合わせて蘇生前駆液を混ぜな
いと。未来では家電製品としてどこの家でもできるけど。その間に―40℃以下で凍らせ
て壊死を防がなくちゃいけないし」
孝行「手遅れなの」
猫からくり「役に立てなくてごめんね」
孝行「なんだよ!あいつがママを殺したんだ」
猫からくり「きっと立ち直れるから」
中学生になったこともあり、腕力でかなわなくなってきた父の暴力は少なくなった。そ
れと呼応するように孝行の闇は深くなる。聖書と腕立て伏せがオアシスだった。
中学では顔見知りが多く、やはりいじめはあった。高校は父の勧めで越境したので、暗
めの高校生と言ったところであった。小学校時代からのストレスを発散する方法を知らな
い孝行は、流行り出したインターネットの世界に迷い込むことで、かろうじて自分を保っ
ている。と本人が妄想していた。就職活動が思うようにいかないある日。
「孝行。これは俺のひとりごとだと思って聞いてくれ」

- 78 -
「うるせえなあ」
「日本の景気がよくなることはないと思う。悪い時代に送り出してしまった。苦しくて辛
いだろう。自分なりに頑張ってくれ。もし、仕事が見つからなくても、しばらくは家にい
ていいから。18歳で会社なら見つかるかもしれない。だが、職業は一生かけて探せばい
い。言いつけじゃなくて希望だ」
孝行の中でなにかが弾けた。切れたのかもしれない。短絡とも言えるだろう。かつて絶
対ともいえる存在の父に。
「勝った!」
のだ。
孝行「ミケ。ねえ、ミケ。聞いてったら」
猫からくり「どうしたの。そんなにはしゃいで」
孝行「あいつ、ついにひれ伏した」
ミケ「お父さんのことかい」
孝行「ほかに誰がいるんだよ」
ミケ「孝行くん。お父さんはお母さんがいなくなってから変わったよ。それに自分の名前
のことを」
孝行「僕は解き放たれた。自由なんだ。誰からも」
猫からくり「あのね。孝行くん」

「就活なんてどうでもよくなったぜ」
学校は好きではないけれど。あいつらと一緒にいた方が使い走りだとしても都合がいい。
おこぼれで女だって。大学生や社会人だって酒を使ってしているとネットに書いてあった。
働くと命令とかありえない指示が飛んでくるからな。まずは青春を謳歌する。ひとりぼっ
ちならゲームセンターやマンガ喫茶だ。ファーストフードやスーパーのフードコートだっ
てある。18になったら即免許。バイクは嫌いだ。濡れるし倒れるから。
「孝行。お前、あの女に声かけろ」
「わかったよ」
「お前のせいで逃げられたじゃないか」
「今日は失敗するなよ。行け」
「お前はなんの役にも立たないな」

- 79 -
「夏休み最後の日だから、絶対に失敗するなよ」
「おう。やればできるじゃん」
日が茜色に染まるころには帰され、孝行はおこぼれにはあずかれなかった。
「俺が引っかけたのに。あいつら今ごろ」
いきり立つものを抑えかねて眠れなかった。孝行の技術は向上し、捕まえる確率が高く
なった。見返りは特になかったので、下半身の欲求不満は募ってゆき、はけ口を求めてあ
ふれそうだった。
孝行「ミケ、聞いてくれよ。あいつらときたらさ!」
猫からくり「どうしたの、孝行くん。君らしくないじゃない」
孝行「ぼくの手柄でいい思いしてるのに、おすそ分けしてくれないんだ」
猫からくり「でも、孝行くん」
孝行「なに」
猫からくり「だったら一人でやればいいんじゃない」
孝行「さすがミケ。やってみるよ」
猫からくり「どうするの」
孝行「女子中学生や女子高生は子どもだからつまんない。お姉ちゃんがいい」
猫からくり「ナンパだと難しいよ。ゲームセンターにはいないし。宅配業者はどう」
孝行「ばかだな。地域も社員も固定だからだめだよ」
猫からくり「やっぱり無理かな」
孝行「ひらめいた!作業服を着て水道メーターの点検とか」
猫からくり「すごい。孝行くんもたまには頭を使うんだね」
孝行「こいつ」
「孝行、ごはんできたぞ。降りてきなさい」
「わかったよ。うっぜ」
(この俺に命令するな)

孝行は都営団地の公園で、コンビニエンスストアのからあげ弁当を食べながら缶コーヒ
ーを飲んでいた。11時30分から13時分までを物色に当てた。帽子を目深に被り、薄
い色レンズのサングラス、ひげの拙い変装も忘れていない。3日目だった。
(いたぞ。後はフロアを確認すれば。決行は明日)

- 80 -
「はい」
「こんにちは。光の国の水道局です。メーターの点検を」
開いた。右足を滑り込ませ、部屋の中に素早く入れ。
「きゃあ!」
「騒ぐな」
押し倒すことはできたが、思わぬ激しい抵抗に怯む。と同時に顔や両腕のひっかき傷の
じくじくひりひりした激しくもない痛みが、孝行を妄想にいざなう。いやよ嫌よも好きの
うちではないのか。お姉ちゃんは弟にやさしいはずだ。母性本能があるのだから。
「赤ん坊がいるな」
「赤ちゃんには手を出さないで!」
「赤ん坊の命が惜しいなら」
「わかりました」
なんだ。嫌がる女だと大したことはないな。よく泣く赤ん坊だ。うるさいなあ。でも、
拒まない女なら。
「きゃ。ぐっ。く、苦しい。やめて」
やっと動き出さなくなった。なんだよ。まだ泣いているのか。うざい。
「では」
あまり変わらないな。復活の儀式とか環境のせいだとかにすればいいさ。18歳だから。
あの娘、邪魔ばかりして。孝行は赤子を床に叩きつける。自分は身も心も痛くなどない。
より激しい乳飲み子の轟音に孝行は感情が爆発し、赤子の首をひもでひねった。お金も頂
戴だ。ゲームセンターへ行こう。

「あら、ここにいたの」
「なんだ。お前は」
「子どものくせに。ありえない憎悪と殺意を燃費の悪い車みたいにばらまくのね。すぐに
わかったわ」
「君は日本語の麻痺。日本人には言霊の魂と五・七の律動や拍があるの」
「妄想と幻想の無分別もあるわね」
「あまつさえ弱い者が弱い者いじめ」
「高校だって中退とそんなに変わらないんじゃないかしら。勉強はおろか運動もしていな

- 81 -
いし。筋力トレーニングも運動の一部だけど。動機が不純だわ」
「大人になるとなかなか勉強できないのよ」
「わけのわかんないことをぽんぽんと」
「聞こえたわ」
「なんのことだ」
「塀の中で暮らせるといいわね」
「もしも妄想の中、努力していたのなら。君の愛読している旧約聖書だって新約聖書だっ
て、原文で読めていたわ。マンガの本当の意味だって。大人が描いているのだから」
「そうしていたら、君はね」
「君を悪用して名を上げようとたばかる卑劣の極みを申し出る弁護士や、本業を疎かにし
て売名に勤しむ本末転倒の弁護士に利用されることもなかったでしょうに」
「どうしてお前にそんなことがわかる」
「女の勘よ」
「ふざけるな。だったら。努力していたら僕は未遂だったとでも言いたいのか」
「そうね。時間跳躍して平行宇宙を旅できるから。ならどうかしら」
「な、なにを」
「あら、タイムマシン知らないの」
「馬鹿にするな」
「うふふ。残念ながら過去には行けないけどね。今のところ時間順序保護仮説があるから。
未来はどうかな」
「なにを言ってる」
「私ばかりがおはなししてもね。『神魔転生』のはなし、聞きたいな」
「どうして俺がお前にそんなことを」
「別に言わなくてもいいけど。玉藻が最初で最後の長篇として書くみたいだから」
「誰だよ」
「超つくりばなしに囚われた惨めな男友だちよ。君は女友だちいないのね」
「う、うるさい。人が猫かぶってりゃ、調子づいて」
「君は12歳のとき、ママに先立たれてるわね」
「昔の話だ」
「それはどうかな」

- 82 -
「どういう意味だ」
「玉藻も13のとき、大嫌いだった父親に自殺されてるわ。12でいじめられた」
「暴力は受けていないだろう」
「そうね。そこは君とちがうかもしれない。でもね、玉藻は18で不治の病に侵され、差
別を受け続けているわ。それでも三文文士に」
「俺とそいつは違う。そんなに聞きたいなら教えてやる」
「そうそう。演技できるほど世の中で揉まれてないから」
「ふん。小生意気な女だ」
「天才剣豪で天剣抜刀流の使い手の智力が冥界に乗り込む。さらわれた従妹の千里を助け
るために。冥界の神はハーデスを倒したベルゼブブ。いわれのない理由で天から堕とされ
たバアルだ。智力は悪魔を斬るが、説得して仲間にもしてゆく。悪魔の協力で千里が幽閉
された場所を突き止め、千里を救 う。そして、千里とともにベルゼブブの迷宮に向かう。
まあ、智力は剣を変え、千里は白系の魔法を覚えていくのだが。千里は、迷宮の四天王に
大けがを負わされた智力を捨て身の回復術で治し、息絶える。涙も枯れ果てた智力は、悪
魔から禁断の秘術を教わるが決断できない。千里との媾合だからだ」
「あら、やだ。まぐあい」
「茶化すな。禁術で甦った千里と手を取り合って、ベルゼブブを倒す。ただし、ある条件
でバアルと闘うことになる。智力は寿命が半分になったことを明かさない。千里はアマテ
ラスの、智力はヒノカグツチの転生だ」
「どこかで聞いたようなおはなしね」
「文学は組み合わせの妙だろう」
「ねえ」
「なんだ」
「禁断の果実のところだけど」
「禁術だ」
「そこに智力の血がいるんじゃないの」
「なぜそんなことを」
「君はあのとき、『神魔転生』を自分の都合がいいように書き換えた。痛いから」
「それは」
「私も詳しく知らないけれど。男の人は大変な努力をして女の人を探しているのよ」

- 83 -
「もてる奴もいるじゃないか」
「もてる人にはもてる理由がきちんとあるの。見た目だけの人は薄く浅いわ」
「力だけや想いだけだっていいじゃないか!」
「時と場所によるわ。それでも、両方が必要だって私は信じている」
「それは建前だ」
「建前と本音をたゆたい、たしなむのが大人なのよ」
「野生の動物だって実力のあるオスにしかメスはなびかないわ。そのオスだってメスのご
機嫌をとっているのよ」
「犬同士が自由に好き嫌いでしてるんだ。僕だって」
「この国には『時代』というすばらしい歌があるわ。勧善懲悪のおはなしもすてきだけど、
今の『神魔転生』や耐え忍ぶ忍びのマンガだってあるのよ」
「そんな古い歌、知るか。完全ちょうあい?」
「そうね。ママと自分で君を愛しすぎたのかもしれないわ」
「自分がかわいくてなにが悪い!」
「大人はね。不条理を少しずつ受け入れながら生きてゆくの」
「むずかしいことばっか言うな!」
「なんだかこの前の坊やといっしょね。本当はほかの人の痛みが誰よりもわかるはずなの
に」
「俺の生い立ちがそうさせたんだ!俺は悪くない!誰も裁けない!神や仏だってな!」
「残された方やふつうの人びとが睨まれると困るし。死刑制度は犯罪が減らないからよく
ないとは思うけど」
「君の生き方はこれで終わり。後光にはかなわない瑠璃のような龍の閃きで真の礼節を」
「ふう。壊れた子どもの相手は楽じゃないわ」
「でも。本当にこれでよかったのかしら」

裁判長「被告人の手紙にはミケという固有名詞が頻繁に出てきます。あれは一体なんです
か。ミケに支えられて生きてきた、というように読めるのですが」
被告人「はい。間違いありません。ミケは未来からこの世に輪廻転生して神出鬼没するネ
コ型自動からくり人形です。詳しく言えば、ミケが僕で僕がミケであり、腹話術の類いの
ような二重人格とは異なる理想と現実のすばらしき混然一体です。そう習いました」

- 84 -
裁判長「誰に習ったのですか」
孝行「男と老人の約束なので、言えません」
(こら!しゃべりすぎだ)
安川弁護士「裁判長、ちょっと待ってください。被告人と私が話したときはそんなことを
言っていません。今の話ですと彼が極刑になって、どちらかと言えば私に有。いや不利に」
橋上弁護士「安川さんこそ、勘弁してください。約束と違うではありませんか。大きな声
では言えませんが、神楽坂の料亭の密約では私の名声が」
安川弁護士「ごにょごにょ。橋上くん、困るよ。法廷なんだから。万が一、君の声を拾わ
れたりしたら」
裁判長「静粛に」
安川弁護士「申し訳ありません。裁判長、被告人と話をさせてください」
裁判長「いいでしょう」
安川弁護士「緊張してるんだよね。ほら、孝行くん。この前、面会のときに熱っぽく教え
てくれたじゃないか。思わず私ものめり込んで意気投合した。あれだよ、あれ」
(頼むよ。まだあの手段があるけど)
被告人「ああ!」
被告人「裁判長。この前の司法取引の件ですが」
裁判長「我が国ではありません。では、説明してください」
被告人「はい。ミケが助けてくれるからです。大丈夫だよ。少年法は幼稚だし、家庭裁判
所は全体的に程度が低いから。幻聴でママに甘えろ。今だ!神魔転生の禁断の果実を思い
出せ!でも、常識と礼節を重んじるから小説が成り立つんですよね?とりあえず、赤子の
首にひもをおったち結び方結び蝶々結びリボン結びネクタイ結び縁結び養子縁組結びであ
やすことを忘れるな。押し入れと天袋の未来でやり過ごせ。さらには」
裁判長「落ち着きなさい。もう少しわかりやすく話してください」
安川弁護士「裁判長」
(ちっ。これじゃ、水の泡だ。まあ、俺の踏み台にはなった。最後の手段)
裁判長「私は被告人と対話しています」
安川弁護士「承知しております。ですが、裁判長殿。彼は緊張と疲れ、罪悪感のあまり少
々ご興奮気味かとお見受けいたします。つきましては、5分ほどのトイレ休憩でリラック
スもよろしいかと存じます」

- 85 -
裁判長「それもそうですね。5分ほど休廷します」
(ほら、最終兵器のあれだ。日本人は泣き落としとお涙頂戴に弱いから。両手を大きく挙
げて猫伸び。みゃあ!はい、行こう)
被告人「ああ、あれをやるんですね」
被告人「ご遺族の方。傍聴席のみなさん。裁判長。検察官殿。大変申し訳ございませんで
した。私はなんという罪を犯したのでしょう」
くる、くる、くる、くる。と風見鶏のように、孝行は法廷の床に額をすり減らしながら
人生で初の謝罪の形をこしらえた。
(よし、いいぞ。そら)
あ然とする小部屋をよそに、孝行に泣きが入る。分速12回ほど回転した孝行はすっと
立ち上がり、三半規管に流れるリンパ液の慣性で千鳥足。
被告人「取り乱してすみません。18歳になったら大人なのに。高校生になったら自分の
責任なのに。甘えていました。なにもかも。私は僕はぼくはボクは。う、ううっ」
(そうだ。夕べは寝てないはずだから、効果はてきめん。一滴でいい)
孝行の目に涙はなかった。玲に遭遇しなければ泣けたかもしれない。薄笑みさえ浮かべ
ていた。滑稽でも喜劇でもなかった。

「トランプ大将」
「忙しい」
「レイの件ですが」
「なんだ」
「研究所からトモヒロの脳の解析結果の報告がありました」
「手短に話せ」
「はい。レイのサイコウェーヴは、標的の脳のうち前頭葉、海馬、扁桃体を損傷させる電
磁波と考えられる。損壊が大きいのは前頭葉で、脳神経細胞のDNAを攻撃する兵器であ
る。仮説だが、どちらか言えばイントロンに多く照射され、A,T,G,Cの塩基配列を
切断し、自然治癒力を利用して再配列すると思われる。ヒトゲノムの領域を超えて攻撃し
ているきらいもないではない。そうであれば、50種類以上と言われている神経伝達物質
のうち、少なくともアドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニンに影響を与えることは
確実だ。さらには、ATPの生産工場であるミトコンドリアにも波及し、ミトコンドリア

- 86 -
DNAを改変してカルシウムシグナリングの」
「おい、貴様」
「はっ」
「中学生にもわかるように説明しろと言った。私は不動産収入が専門だ。わかっているの
か」
「はい、理学士ですから」
「そうではない。私がわからんのか」
「はあ。えー。レイの精神波は紫外線に近く、脳を見えないレベルで壊します。ですが、
射程はおよそ1m。照射後、レイはしばらく戦闘不能であります」
「わかった。下がれ」
「はい。ただし」
「分析中ではありますが、サイコパスとの接触でレイの脳にストレスがかかり、研究所で
は幻想もできない能力を発現するおそれがあるそうです」
「なんだと」
「机上の空論では、テレパシー、サイコキネシス、テレポーテーション、タイムリープの
おそれありです」
「馬鹿げている。SFじゃあるまいし」
「蛇足ですが、今回の解析中に研究者がナチュラルに論文を投稿しようとしました」
「なに」
「私の独断で消しました。申し訳ありません」
「そうか」
(長官と元帥に報告せねばならん)

植物傷害
就職活動や卒業研究、これらと並行して国家試験の勉強をしなければならない。アルバ
イトも続ける必要がある。6年生の翠は目が回るほど忙しかった。
「あなたの大学とこの成績ですと、製薬の仕事は難しいですね。まあ、博士号があれば別
ですが」
「そうですか」

- 87 -
「青井さん。就活もいいけど、研究が遅れてるんじゃないかな。君は本末転倒だね」
「午前中のゼミで寝るなんて私には信じられないよ。そんなことじゃ、会社で働けないね」
「すみません」
「青井さんの論文なかなかいいから」
「教授。ありがとうございます」
「私が筆頭で君はいちばん後ろね」
「え?は、はい」
教授に逆らうわけにはいかない。教授の推薦であの製薬会社の枠が1つある。こんなこ
とくらい。私には意気地があるの。どこかの明示大学では、それとなく体を求める教授だ
っているのだから。ましな方だわ。でも、京王大学が薬科大学を吸収合併したせいで、西
京理科大学は分が悪いのよねえ。こんなのだったら、2本目の修士論文は一字も書かなく
て大丈夫かも。
「卒業おめでとう。私は君のようなきれいでかわいくて優秀な学生は初めてだったよ」
「ありがとうございます。お世話になりました」
これだから男は。ちょっと笑うとこれね。夏の突き刺す視線を覚えいてるわ。結局、先
生にすがったけれど。研究と開発はだめなのよね。船堀駅の近くの会社が理想だった。病
院や薬局で奴隷のように働くことも考えておかないと。まったく、なんのために6年。
「それとね、青井さん」
「え」
「君にその気があるのなら、いつでもここに帰っておいで」
「はい」
うれしかった。とは言え、それは体の奉仕であることを翠は知っている。いわゆる愛人
だ。好みでもない男と仕事を天秤に。当てがないよりはましかな。この研究室では、目が
飛び出るような価格で悪名高いがんの分子標的薬の研究もしているし。やはり最先端の医
療は魅力的だ。
翠は国立大学医学部教授の父と、付属病院の看護長である母の間に生まれ、なに一つ不
自由することなく育った。運よく母の美貌も受け継ぎ、幼いころから近所でも評判の美少
女だった。運動はかわいくないからという理由でやめ、フルートやホルンなどの管楽器に
夢中だった。むろんピアノもたしなむ。
平日の両親は忙しく、いつもは祖父母が翠を甘えさせてくれた。日曜日の夕方になると、

- 88 -
父母は仕事の話をすることが多かった。翠はものをねだることをあまりしなかった。その
せいなのか、それとも父や母は忙しさの後ろめたさからなのか、翠の欲しがるものは糸目
をつけずに買い与えた。両親がけんかをした週末には、翠は決まっておもちゃを欲しがっ
た。
「月曜日はきらいよ」
理由はない。
園児のとき、野原で男の子と遊び、男の子がぶつかったはずみで虫を踏み潰したこと
があった。かわいそうなことをしたと思うとともに、しかばねの異様さからにじみ出る昆
虫の異形さがこころに残り、昆虫が嫌いになる。翠は小学生になるとひとりで遊ぶことが
多くなった。虫には近づかないようにしていた。よく虫の夢を見るからだ。テレビでは自
然や動物の番組を見ていたが、現実のいきもの、特にヒトを含む動物には興味が薄かった。
大学に入るころ、翠は菜食主義者になっていた。学生時代に数人の男に言い寄られ、
映画や食事、ドライブくらいはつきあってあげたが、異性としてそれ以上の興味は持てず、
特定の彼氏はつくらなかった。青いプライドや自尊心か。自己愛だろうか。
「青井さんって高嶺の花だった。デートしてくれてありがとう」
「そんな。私もこの映画見たかったから」
(そう言いながら軽薄に誘ってきたくせに)
「翠ちゃんって、なんか近づきがたかったんだけど。意外に気さくだね」
「先輩の誤解です。この多国籍料理おいしいですね」
(馴れ馴れしい)
「翠さんとドライブできるなんて夢のようだよ。僕はしあわせだ」
(あら、現だと思ってるの。お台場くらいで)
「私もそろそろお肌の曲がり角。髪も肌も艶と張りが老いはじめてきたわ。水も弾かない
ところが増えてきたし」
「18のような初々しさには、もう無理なのね」
「でも、人工的で強引な見栄を張った美しさはごめんだわ」
「結婚かあ。これを前提におつき合いするのは堅苦しくてエゴが出ていやなのよね」
「お見合いも選択肢に入れようかしら。相談所や出会い系はちょっとね」
「まずはおしごと、仕事よ」

- 89 -
一年目。翠は耐えた。
「青井さんは評価試験も満足にできないのね。大学で一体なにをしてきたの」
「えーと。ノックアウトマウスやラットを使って、医薬品の薬効と副作用、それに解明さ
れていない薬理を少しずつ明らかにしようと」
「卒業論文と修士論文は」
「はい。『プラセボにおける西洋医学の薬と東洋医学及び牧野氏から見た漢方薬、特に葛
根芍薬甘草に接触して』です」
「それから『木村氏の分子進化の中立説から見た進化論に着目したがん治療薬について~
放射線と分子標的系統並びにビフィズス菌などの免疫系の抗がん剤の将来1,2』です」
「題名だけは大きく出たわね。ま、しょせん学生が書いたんだし」
「はあ」
「ここはね。研究や開発する部署じゃないのよ。もっと効率よく仕事してくれないと」
「すみません」
「料理するとき、お鍋に火をかけながら切ったり、刻んだり。解凍もするしお魚も焼くし。
ついでに洗いものもするでしょ」
「あ、私は料理できないので」
「まさか。もしかして、りんごの皮も剥いたことないの」
「サークルの仲間が遊びに来たときに1回だけ。時間かかりすぎって笑われました」
「だから料理のできる男がもてるのかしら。主夫もいるしね?」
「よく知らないです」
(私に振らないでよ)
「実験器具もだいたい同じよ」
「そうなんですか」
「見た目とちがって。あなた、意外と鈍臭いのね。それとも箱入り娘とか深窓のご令嬢か
しら」
「気をつけて勉強します」
(自分だってずっと実家暮らし。料理も怪しいものだわ)
「会社は勉強するところじゃないわ。勉強は自分でするもの」
「わかりました」
(ねちねちぐちぐちと小うるさいお局さまね)

- 90 -
「私は絶対にそうならないわ」
「なあに」
「いえ、なんでもありません」
(先輩風もいいとこね)
寝入る前、くやしくて涙をぽっとり、と落とすこともあった。

二年目の春、翠に転機が訪れる。お局さまが辞めたのだ。さらに。
「はじめまして。華岡烈といいます。一生の仕事にしたいと考えていますので、よろしく
お願いします」
翠に深い衝撃が走る。男の人を好きになったことはあるが、ただ好きというだけだった。
似非科学や疑似科学、占いとか運命などのまやかしも信じていない。
「でも、縁ならあるかも」
一目ぼれだった。告白したことはない。やり方がわからない。彼が視界に入ると動けな
くなり、時の立つのが早い。視界から消えたり、会社を後にしたりすると気が遠くなるほ
ど時間が長い。気持ちを伝えたい。どうしたらいいの。
「きゃっ」
翠は論文と文献、特許の明細書の束を落とした。
「大丈夫ですか」
「はい」
華岡くん!神のお導き。この機会を逃すと。
「はい、どうぞ。青井さんって、おっちょこちょいでかわいいとこあるんですね」
「やだ」
(このお。年下のくせに。今しかない)
「あのう。お礼にお昼をごちそうさせて」
「え?は、はい」
と言っても社員食堂だ。
「え。青井さん納豆定食で足りるんですか」
「ダイエット中なの」
「そうなんですか」
「でも、青井さんはふくよかで健康的というか。なんか、いいですよね」

- 91 -
デブってこと?デリカシーがないというよりも、彼は素直な人だし。だったら、本当に
やせて見せるわ。
「あのね」
「はい」
「友だちとジャズのコンサートに行く予定だったんだけど。都合悪くなったって断られて。
よかったら私と行きませんか」
「喜んで」
「忙しかったらいいし、いきなりコンサートとか、ふつうは映画よね」
「だから。いいですよ」
「え?ほんとう?ありがとう」
翠は拍子抜けした。あそこならお酒も飲めるし。頑張ってチケットを取るわ。段取りは
どうしたらいいのかしら。明るく元気にさわやかにいきたいけれど。跳ねたり躍ったりす
る年じゃないし。飾るのも飾らないのも。私を伝えたい。売り込みたい。自然がいいわよ
ね。流れるのも立ち止まるのも流れに逆らうのだって。女の武器。そんなのあるのかしら。
私はなにをして何を考えているの。こんなことならあっさり袖にしてこなければよかった
わ。
「すてきな曲ですね」
「そうね」
「よく来るんですか」
「初めてよ。私は田舎者だから」
「僕も田舎から出てきたんですよ」
「え。私は群馬だけど」
「新潟です」
「あら、おとなりさん。あまり知らないけど」
「青井さんはどうして薬剤師に」
「翠でいいです」
「じゃあ、翠さんは」
「父が医学部の教授、母が婦長なの」
「へー、すごいですね」
「仕事、お仕事って。嫌だったわ。華岡くんは」

- 92 -
「僕はしつけてくれた祖父を結核で亡くしまして。それで」
「そう。立派なのね」
「そんなことないです。うちは古い一族のしきたりもあって」
「もしかして華岡家の」
「いえ。まあ、遠縁ではありますけど」
「すごいのね」
「すごかったのはご先祖です」
「また、つきあってくれるかしら」
「なにを言ってるんです。僕がお誘いします」
「ありがとう」
「今夜は楽しかったです。さようなら。お気をつけて」
「さようなら。烈くんこそ」
言っちゃった。やったわ。真冬なのに、街が道を行き交う人々が華やいで浮足立って。
しあわせに見えるわ。私は恋に恋しているのかもしれない。この後、片思いになってもい
い。彼を好きでいる時間こそがしあわせな時なのだから。

大豆、お豆腐、高野豆腐、小豆、空豆、牛乳、ヨーグルト、チーズ、シリアル、パン、
お米、もち米、うどん、そうめん、冷や麦、冷麺、お野菜、くだもの、サプリメント、海
苔、寒天、下仁田こんにゃく、木の実、すいとん、けんちん汁、御御御付け、緑茶、紅茶、
烏龍茶。
「これらをしっかり食べながら体重を落とす。けっこうしんどいわあ。草だけでも生きて
ゆけるけど、2t車が2台は必要ね」
「食べなければ必ずやせる。やせたいけど食べたい。そうなのね」
「まあ、お金かけて太ってお金かけてやせてリバウンドして」
「おいしさはカロリー」「お金かけて太ったのに、やせるなんてもったいない」
って教えてくれた東大生もいたな。
「翠さん、ちょっとやせたんじゃない」
「え。そう」
(気づいてくれた)
さらなる減量に勤しむ翠は拒食症になった。交際は順調そのものに見えた。萌える癒し

- 93 -
の緑と烈しく情熱的な赤。翠はひとりでそう感じていた。宿命とさえ思っていたのだ。
「翠さん。まじめな話をしていい」
「なあに。烈くんはいつも真摯で紳士じゃない」
「僕は翠さんの重荷になってる」
「え?なに言ってるの」
「やせてゆく翠さんをこれ以上見たくない」
「こ、これは。えーと、烈くん色に染まろうと」
「僕は。ぽっちゃりした健康的な翠さんが好きだった。僕のせいで僕がストレスかけたか
ら」
「ち、ちがうのよ」
「翠さんに似合わないことくらい、知ってた。さようなら」
「ちょ。ちょっと待って。そしたら。お願い」
烈を追いかけることはできなかった。そう。ふさわしくないのは私なの。身を引くわ。
これが失恋。
「私、ふられたのね」
虚無という名の色が翠を包む。やけ食いはしなかったが、拒食症はすぐに治った。分
相応が大切ということなのだろうか。
「部長。おはようございます」
「おはよう。青井さん」
「これをお願いします」
「おい、青井さん。これは。ちょっと待ちなさい」

彼の姿を見るのも、同じ空気に包まれるのも辛すぎた。もともと仕事に未練はなかった。
ほかの会社や病院、薬局やドラッグストアの名義貸しも大して変わらないわ。薬剤師は医
師の奴隷みたいなもの。男女平等なんてまだまだ理想。公務員はまだ間に合うけれど。戦
って闘って狩りをする女は資格よ。嫁に行き遅れるかもしれない。でも、私はベジタリア
ンだし、樹木医なんてどうかしら。
樹木医になった。三十路を超えたが、翠の美しさは変わらなかった。母からもらった遺
伝子の力によるのだろう。
「少し回り道したけど。いきなり開業は無理か」

- 94 -
「東京の郊外で修業しようかしら。それとも群馬で現場の経験を積んだ方が早いの」
開業の見込みがないので、しばらく群馬の実家で暮らすことにした。どうせ医者になれ
なかった自分に父は無関心だ。家の外ではよき父を装う。私は世間体など気にしない。
「翠、お前もそろそろ結婚しないか。お見合いならパパの知り合いの医者が」
「お医者さんと一緒になるのはいやだわ」
「お前だって植物の医者だろう。どうしてもか」
「どうしてもよ」
(ママの苦労は知っている。二の舞はごめんだわ)
「母さん、翠だが」
「そうね。あなたに似たのかしら」
「もう。あいかわらずほとんど家にいないくせして。私の顔を見ると口ぐせみたいに。で
も、お金も貯まってきたわ」
「どこで開業しようかな」
川口市にした。
「税理士ならすぐもうかるんだけどなあ」
「やっぱり植木業者さんを接待しないと」
「枕営業もあるかしら。大学もそうだしね」
コンパスでひとり五目並べ。
「はあ。なにしてるの、私」
「広告費もバカにならないし」

地球科学。化学。生物学。植物の起源。ファーブル植物記。牧野富太郎先生。ミドリム
シ。微生物学。土壌学。生態学。薬学。漢方薬。薬理学。物理化学。農薬。林業。水産業。
ホームセンター。大泥棒の七つ道具、それから・・・。
「そうだわ。仕事がないならつくればいい」
「植物には私を拒食症に陥らせた恨みもあるし」
「器用貧乏はよくないわ。松竹梅を中心に。まずは松かな。飛び込みならお金もかからな
い」
「わたくしは樹医の青井と申しま」
「押し売りはお断りだ」

- 95 -
「こんにちは。青井樹木クリニックから来ました」
「あほなシュモクザメクリーニング?うちはダスギンだから」
「樹医の青井といいます。お宅のクロマツの無料診断を」
「ジュエリー?宝石などいらん。いかず後家がいるって聞いてきたのか。はいって言え、
うんって言え」
「ちがいます」
「うそをつくな」
「出直してきます」
「ふう」
営業も大変ね。少しお金がいるけど、名簿を買って高齢者の裕福な家を狙おう。まずは
カミキリムシの飼育ね。ばらまくと事件になるから、朽ち木の収集と卵の養殖。線虫の扱
いには慣れているわ。キノコの胞子も採りにいかないと。顕微鏡とシャーレに恒温装置、
それからカラープリンターくらいは仕方ないか。インク代が高いのよねえ。
「仕込みは早朝がいいわ。ジョギングかウォーキングを装って、成金の枝ぶりの飛び出た
マツ」
「けっこうあるわ。時間と経路、ご老体通りを市場調査」
手始めに樹医の平均年収を目指して。どのくらいやればいいの。これぐらいかな。カミ
キリムシと線虫の入ったシャーレを1つずつ、線虫のカラーコピーを携え、週末の午前中
に翠は意欲満々で乗り込む。
「こんにちは」
「はい」
「この近くで木の病院を開きました樹木医の青井と申します。先日お宅を通りかかったと
ころ、マツに異変が見られました」
「はあ」
「勝手とは存じましたが、通りに落ちていた木のかけらを調べさせていただきました」
「そうですか」
「残念ですが、松くい虫がおります。ご覧ください」
クリアファイルに入れたA4用紙に、インクジェットプリンターでカラー印刷したおび
ただしい数の線虫たちの写真。翠はそれをハンドバッグから出し、夫人に手渡す。もちろ
ん線虫群は紅に染められている。

- 96 -
「きゃあ。水虫。あなた、あなた大変ですよ」
「どう」
「樹医さんと聞きましたが、我が家の門の黒松は先祖代々守り続けてきた大切な家族です。
詳しく説明してください」
「かしこまりました」
「こちらのクロマツはマツ材線虫病に感染するおそれが高いです」
「あの松くい虫か。毛虫とかカミキリムシの」
「広い意味では入りますが、先ほどお渡ししたマツノザイセンチュウが引き起こす病気で
す。発見が遅れると手の施しようがなく、松枯れします」
「聞いたことのない虫だな」
「厳密に言うと虫ではなく、線形動物です。体長は1mmくらいです」
「この前、ノーベル賞をもらった大村先生のフィラリアとかかね」
「おっしゃる通りです」
「どうしてそんな線虫が」
「マツ材線虫病はまだ解明されておりません。ですが、このマツノマダラカミキリという
昆虫が線虫を媒介します。枯れ木に髪切りが産卵し、幼虫がさなぎになると線虫が気門か
ら侵入し、成虫になって大空をめぐり、健やかなマツを食べて線虫をばらまき、松を枯ら
します。北アメリカ原産の線虫で、日本のマツはまだ耐性が低いのです」
生活のためよ。えい。シャーレを開いた。
「この虫、不気味な声で鳴くのね」
「生き抜く術ですから」
「負のスパイラルというわけだ」
「はい。線虫や髪切りにも存在する意味があると思うのですが」
「君の持論はいい。で、うちの黒松は」
「失礼しました。がんで言えば初期だと考えます。今なら薬剤で感染の拡大を防げると思
います。私は薬剤師でもあります」
「ほう。手数料はいかほどだね」
「クロマツだけでしたら」
翠はプラグマティズムの応用例である電卓を弾いた。
「そのくらいなら。いつやってくれるのかな」

- 97 -
「ただ国からは注意報レベルなのですが、関東の山地でマツ材線虫病が増加しているとの
統計がありまして」
「危ないのか」
「国有林にはカミキリを駆除する農薬を散布しています。線虫の根絶やしは難しいので、
枯れた松を燻蒸したり焼却したり。天翔るカミキリやいい髪切りの生息は把握できません
から、予防や定期健診も大切です」
「うちの雄松、雌松、五葉松でいくらだ」
「私どもは開業したばかりですので、春夏秋冬の定期健診とメンテナンス代を3年分サー
ビスいたします。もっともよく使われる薬を使うとしまして。こちらになります」
「む。うーん」
「念には念を入れた方がよろしいかと」
「わかった。頼むよ」
「ありがとうございます。では、午後に出戻りいたします」
(当たりだわ。ぽっと出の金持ちだと楽だけど、けち。だめもとでよかったわ)
「ツチクラゲとかナラタケはどうしようかな。カビもあるけど」
翠は、治療とは言えないまじないやまやかしを駆使した挙句、松を枯死させることすら
あった。業者と手を組み、植木の売買のみならず土壌改良にも手を染めることすらあった。
翠に生態系を壊している自覚はない。

戦略にはるかに及ばない戦術だったが、翠の稼ぎは都市銀行の銀行員の平均年収を超え
ていた。
「ふふ。ははは。あはは。このままいけば、行け行け翠ね。まだよ。樹医の後輩からだっ
て。我らの才媛翠先輩。頑張って頑張ってがん・ばっ・て」
「マツは5対の線虫で枯れるのよ。これだから素人は」
笑いが止まらないわ。ちょろいもんね。もっと早く気づけばよかった。でも、そろそろ
慎重に。民間には調査力、分析力、洞察力に長けた人間がいるわ。なんとか公園とか公の
仕事を勝ち取るの。
とある鳥がさえずりはじめようとする時刻。玲は夜勤明けだ。
「こんな時間になにをしてるの」
「あら、お嬢さん。こんばんは。飲み会の帰りでね。運動公園の赤松は立派だなあって。

- 98 -
タクシーは呼んでないわよ」
「右手とポケットのものはなんだ」
「もしかして刑事さんなの」
「答えてもらう。あなたからは殺意があふれている」
「殺意ですって?私は人を殺そうとしたことはないわ。殺したいと思ったことくらいなら
あるけど」
「植物ならいいのか。樹医のくせに」
「あなたの目。赤松の彩り。常夜灯の反射率かな」
「赤松の恨み。と言ってもわからないな。植物にだって痛みはある」
「あるわけないじゃない。いくらまだまだわらからないと言っても」
「それはあなたの傲慢だ。生きとし生けるものにこころがあると私は信じている」
「夢見る少女か。そろそろ卒業したらどう」
「あなたは確かに人を殺めてはいない。だが、詐欺をしている」
「だまされる方が悪いのよ。お嬢ちゃん」
「ベジタリアンはバランスのいい食事をする人を殺人者と呼ぶ。植物のいのちをありがた
く頂戴することで、生かされているにもかかわらず。乳製品も同じ」
「そういう考え方もあるわね」
「あなたはいのち知らず。いずれ動物や人へと移ってゆく。理由のない殺意が強すぎる。
それに自らの美貌に酔っている。他人の痛みがわからない」
「そうね。あなたもとてもきれいよ。私にはかなわないけどね」
「どうしようかと思ったけれど。やっぱり私は未熟だけど。新しい方法で」
「なにを言ってるの」
「これで姫のようなあなたの生き方は終わり。海馬を砕く翡翠の一閃を受けなさい」
千鳥足で車に戻り、しばしの眠り姫になった玲にタクシー無線は届かない。
「もしもし。こんなところで寝ないでください」
「え?」
「危ないですよ。しっかり立ってください。飲みすぎです」
「お酒は飲んでません。いや、飲んだのかな」
「みなさんそう言いますよ。歩いてきたのですか」
「いえ、自転車です」

- 99 -
「自転車は軽車両です。乗ってはいけませんよ」
「だからお酒は。飲んだかしら」
「困りましたね。家はどこですか」
「西矢島町です」
「そんなに遠くないですね。うーん、交番で自転車を預かりましょう。自転車のある場所
まで案内してください」
「わかりました。えーと。あれっ?どっちだっけ」
「しっかりしてください」
卵や線虫を仕掛けた場所を忘れた翠は、樹木医と薬剤師以外の道を歩む。伴侶がいるか
どうかを知る者はいない。

秘露使徒
「これが金錯銘鉄剣・・・・・」
透き通るアクリルのケースに不活性ガスの窒素を満たし、古の剣を現代の技術で守る。
もっと古い剣はあるけれど、万葉仮名が記されたものではこれが最古。115文字も。表
と裏では金合金の組成がちがう。自分のことは飾りたかったのかな。
「常用漢字はなんとか覚えたけど」
知っているのと使えるのは別だわ。使わないと忘れるし。漢字検定でも受けてみようか
しら。中学生の内申書に響きわたるみたいね。悪用している塾も多いし。最近は生粋の日
本人も漢字が書けないのかしら。まさか。古事記と万葉集はまだ積ん読ね。対話は大丈夫
だけれど。「たおやか」とか「たゆたう」とか「みなまで言うな」とか。今一つよくわか
らないのよね。私には日本人のDNAが染み込んでいないのかしら。
稲荷山古墳の出土品がまとめて国宝に。糸魚川の翡翠でつくられた勾玉や銅鏡もすて
き。1500年もの悠久のときの流れ。遥かで大きい。流行り廃りがあるとはいえ、よく
ぞこれだけの古墳たちが。古墳群の草木を伐採していなければね。行田市は足袋の街だか
ら市街地に足を伸ばすのもいいけれど。
「熊谷に行ってみようかな。日本一の猛暑の町。帰りは北陸新幹線で大宮までだけびゅー
っ」
熊谷市は西が日本一の深谷ねぎ、南に荒川が北端に利根川が流れているのね。

- 100 -
「あら。めぬまカップってなに」
急いで降車ボタンを押す。
「なんだ。ただの横断幕」
なになに。3月の春休みに催される高校女子サッカーの全国大会。ふんふん。ここの熊
谷スポーツ文化公園と利根川総合運動公園が会場なの。私もサッカーはできるけれど、あ
くまで身体を強化する訓練の一環だった。
「さすがに陽が肌を刺すように暑いわ。東京のヒートアイランド現象と秩父山地からのフ
ェーン現象の大渋滞」
「熊谷にも国宝があったわ。象頭の双身神ガネーシャを祀る歓喜院へ。路線バスの旅と行
きましょう」
ここがかの有名な熊谷地方気象台に近い熊谷駅。妻沼聖天山、東京スカイツリー(登
録商標)で飛ぶ鳥を落とす勢いの太田駅や西小泉駅行のどれかね。太田とか西小泉はあま
りないわ。まあ、急ぐ旅でもないし。
「あっ。ムサシトミヨがとんぼ返りする元荒川を忘れてたわ」
そんなに遠くないから、歩いていこう。余力があれば荒川放水路にすげ替えられた暴れ
龍の元隅田川にも。元荒川もその昔は荒川の本流だったけれど、悪名高き綾瀬川といっし
ょに中川に注ぐのよね。古利根川も利根川の本流だったし、利根川と荒川は利根大関を介
して武蔵用水でつながってるし。利根川はサケの滝登りが見られる南限なのよね。
「埼玉県に見習って群馬県も魚道をつくりなさい!」
あら、はしたない。それから江戸川をつくって鬼怒川をくっつけて利根運河を掘って
銚子に流す。まあ、治水と政治は表裏一体だもの。
「この辺りが水源だと思うけど」
「まさか!あのセンターの中なの」
「見られないじゃない。どういうこと」
むーっ。水源が枯れたのでポンプで水揚げ。ないよりはいいけれど。それじゃあ、源流
とか清流とか言われても。夏の小川はとくとくゆくよ。みたいな雰囲気はあるわね。ムサ
シトミヨにとってはいいのかしら。トゲウオの仲間は世界でも10種類ほどだし。
「いるかな」
「今の影は」
「魚って側面からの写真しかないから。上面図とか、『カワセミから見た魚図鑑』とかな

- 101 -
いのかしら」
「売れないか。カワセミはフェルマーの最小時間の原理を地で行くけど、人間は頭でわか
ってるだけだもの」
速くて小さいからよくわからないわ。泳ぐために生まれてきたような感じなのね?紡錘
形。住宅もあって人工的な感じがするけれど。自然と人が共生して償いながら生きている、
と考えれば悪くないかも。なんか私も罪悪感を感じちゃう。
「そろそろ駅に戻ろう」
田園と用水路、小川がのどかな武蔵路。バスは心地よい揺れで眠りにいざないながら、
低く力強いうなりを不規則に発する。左後方に一都四県で見え隠れする秩父の山並みが霞
む。
「どれが甲武信岳かしら」
荒川の水源で分水嶺の向こうに千曲川が生まれる。河は2000mくらいの山から流れ
てくるのね。雲の高さと関係があるのかな。確か真冬には真西に穂高岳や槍ヶ岳が望める
はずだわ。関東平野って広いのね。
「しょうでんざん。ちょっと日光と被るわ」
「ここからなら、そう遠くない。妻沼をぶらりと北へ向かって」
「日本最大の坂東太郎ね。流れが速い。ぼんやり眺められるのは赤城山かしら」
「さっき見えた秩父の山たちと荒川、この利根川と『雪国』で著名な三国山脈が関東平野
をつくり、東京湾と九十九里浜や鹿島灘、銚子を育んできたのね」
「新幹線が来るまでかなり時間があるなあ。寄り道しよう。407号線でタクシーを拾わ
なきゃね」
「利根川総合運動公園までお願いします」
「運動公園は川沿いに細長く、かなり広いですよ。どこですか」
「え?あの、めぬまカップの会場へ」
「わかりました」
本当だ。グライダー場も挟んでいるのね。かなり走るわ。
「広い。けど」
一面ずつが少し狭い気がする。試合時間も短めだし。地元の高校は選ばれやすいみたい
ね。でも、全国トップクラスも参加するし、男女差別が甚だしい女子サッカー界にとって
は福音かもね。

- 102 -
「赤城山が左斜め前方に見えるから、太田市はあっちの方か」
「太田からも国宝の埴輪 挂甲の武人が出土しているわ。落としものだから東京国立博物
館に盗られちゃったみたいだけど。群馬県や太田市はやる気あるの?ないの?どっちかし
ら」
「私は試験管ベビーみたいなものだから。ルーツに魅かれるのかな。ご先祖さまは日本の
どこに住んでいたの」
あら。めぬまカップに太田から2校も出場しているわ。太田女子高校と中・高一貫に生
まれ変わった市立太田高校。女子サッカーが盛んなのね。お手合わせしてみたいわ。春に
点を取るから碧の風をまとう春香る姫がきらめいたり、私の名前みたいなお嬢さまが琥珀
のように躍ったりしていたら楽しいわね。ふだんは銀色に輝くなでしこたち、か。
「これは!・・・・・また・・・」
シリアルキラーと呼ばれる殺人鬼でも殺意の周波数と振幅はそれほど変わらなかった。
「10kmほど。日本人ではない。人格などないが、精神は壊れていないようね」
バス停の時刻表は。あまりないわ。タクシーも呼ぼう。早く来て。どっちもどっちかな。

「准将。よろしいですか」
「なんだ」
「レイの件で」
「進展はあるか」
「はっ。極東方面軍横山飛行場の志願兵で」
「一兵卒など、どうでもいい」
「はい。極東にも兵器の開発チームがおり、ビッグ・ナカダという二等兵の精密な身体検
査をしました」
「それで」
「ナカダは特殊体質でありまして」
「数学と物理を毛嫌いしてるのはよいな」
「承知しております」
「ナカダの頭の骨の内側、脳を覆う硬膜とくも膜で電気や磁石のシールドないし鏡をつく
っていることがわかりました」
「役に立つのか」

- 103 -
「ええ。先日もお話しましたように、レイは紫外線を使って相手の脳を壊します。その紫
外線を防げるかもしれないというのです」
「ほう」
「ただし、ナカダのシールドはざるでした。開発チームはシールドを強化するべく、多額
の報酬を見返りにしてナカダに脳外科手術を施しました」
「結果は」
「膜に流れる金属、特に磁性体のイオンの濃度を高め、網の目を細かくすることに成功し
ました」
「戦力になるのか」
「術後は絶対安静でしたが、徐々に帰巣本能が強くなりました」
「ホームシックか」
「いえ。ハトやサケが備えるいきものの磁石、つまり生体磁石の磁束密度が跳ね上がりま
した」
「使えるのか」
「手術の副作用と言っていいのでしょうか。精神操作されたことになったようです。ナカ
ダに埋め込んだ生体チップの発信機つきのGPS受信機によると、病院を脱走し、貨物室
で密航してペルーに戻りました。先日の25人殺しで死神の使徒がこやつです」
「なんだよ」
「可能性があるという報告でありました」
「我々の栄光のGPSはあれか。グレイト・プレッシャー・アーミー・サービスか」
「いや、ちがいます」
(アーミーのAはないです)
「ちがうのか」
「3~10個の人工衛星の送信機と地球上の受信機を使い、地球規模で位置を決めるしく
みであります」
「カーナビとかスマホにもあるな」
「おっしゃる通りであります」
「なら簡単じゃないか」
「地球は回転楕円体であり、遠心力や月の魔力の影響も受けるので、場所によって重力加
速度がちがいます。長さを測るためには精密な時計が必要で、その時計を調整しなければ

- 104 -
なりません」
「時刻など117でよいではないか」
「そうは問屋が卸しません」
「なぜ?だ」
「はっ。よい質問であります!ミスター・トモナガも科学の芽として推奨です」
「誰だ」
「量子電磁力学をファインマンと共にくりこんだ者です。核分裂兵器は恐怖の連鎖反応に
よる産物だと」
「ふん!日本の政治屋など、いまだに核兵器を抑止力と見なしておるではないか。知恵を
つけてやった憲法も改正するようだ」
「は。はあ」
「続けろ」
「准将もご存じのように、特殊相対性理論はガリレイの相対性原理と光速度不変の原理が
柱です」
「え?う、うむ」
「人工衛星は高速で移動するため、特殊相対論による時計の遅れを補正しなければなりま
せん。さらに、狭いところで重力加速度と加速度を区別できない等価原理を柱にした現在
までは正しい一般相対性理論があります。この一般相対論により、重力が強いとさらに時
計が遅れるため、さらに補正が必要です」
「特殊の方が難しいのか」
「とんでもないことであります。一般相対性理論は非ユークリッド幾何学であるリーマン
幾何学を用い、その中核をなすアインシュタイン方程式は非線形2階テンソル偏微分方程
式であり、厳密に解いた人間はごくわずかです」
「わかった、わかった」
「人工衛星にも我が軍で使っている原子時計を搭載しています」
「兵器になるのか」
「いいえ。原子力ではありませんから」
(原子しか合ってないよ。原始的な人だ。絶対服従とは何か)
「セシウム、ルビジウム、イッテルビウムなどの放射性同位体から高い周波数のマイクロ
波をつくり、1秒の基準にします。セシウムですと91億[Hz]です」

- 105 -
「インテリビームはなんだ。レーザー光線とか先輩風とかか」
「希土類元素です」
「わからんな」
「失礼しました。レアアースのひとつです。光増幅器にエルビウムとともに添加されるの
で、ナカダのデータもイッテルビウムのおかげと言えるかもしれません」
「まだまだわからないことが多いものだな」
「はい。勉強してきます」

「兄貴は俺を残して旅だった。なぜだ。あんなにやさしかったのに」
「リトル・ナカダ」
「なあに。お兄ちゃん」
「俺は来年、日本に行く」
「ニッポン?」
「アジアのエルドラドでジパングだ」
「黄金の国なの」
「ああ。5年だけの期間従業員だ」
5年も待てない。俺は兄貴の生き写しと近所で評判なのだ。俺も日本に行く。日本で働
けば1年でここの10~20年分の稼ぎになる。元は同じ人種じゃないか。なぜ俺たちだ
けが貧しい。母さんひもじいよ。南アメリカの資源がなければ日本の繁栄も怪しいものだ。
俺にもその分け前をもらう権利がある。インカ帝国の二の舞はごめんだ。日本人に滅ぼさ
れたりはしない。フジバヤシも近ごろうさんくさい。
「金があれば愛さえ買える。欲しがります。勝つまでも。貧乏人だって米を食べる!バカ
ヤロー!」
兄の行き先も知らず、日本がどこにあるかもわからない。中田は友だちの携帯電話や街
のインターネットで情報を集める。古くから日本人の移民や渡日者の多いブラジルのサイ
トが参考になった。英語は拙く、ポルトガル語も知らなかったが、スペイン語とそれほど
変わらない。
「北関東工業地域が躍進中か」
「スバルサンヨーパナソニックタイヨウユウデンサンデンペヤングヒノジドウシャトミオ
カセイシジョウ・フルカワコウギョウアシオコウドクジュウミンヲイマダコバカタナカシ

- 106 -
ョウゾウ」
「ナニヲシテイルノカ」
「月給が高いところは」
サラダ工場にした。仕事は野菜の洗浄、簡単な皮むき、機械への野菜投入、伐採後のポ
リプロピレン袋や箱の荷作り。近くの自動車工場のような3交代制ではないのがいい。コ
ンビニエンスストアやスーパーマーケットに出荷する。加工すれば中国産の野菜も使える
が、ここは使用しない。良心がある。
「兄貴が捕まった。兄貴に両親はある。良心は」
「俺に良心はあるか?兄貴にあるならあるはずだ」
「コンビニとかスーパーとかスマホとかガラケー」
なぜ日本人は短くしたがるのか。意味わかんない。
「中田くん」
「はい、社長」
「うちは給料を手渡しするしきたりでね。感謝の気持ちだよ」
(まあ、振り込みだと私のありがたみが薄くなるのもあるけど)
どのくらいなのか。20枚だから・・・・・!
「これはすごい」
金の魔力に負け、祖国を捨て、日本を知ろうともしない中田。直接員にあぐらをかき、
周りとの接触も断っていた。ストレスは酒や外国人の仲間との電話で発散していたかに見
えた。
「リトル・ナカダ」
「オニイチャン?」
「俺は死刑になる。助けてくれ。俺はなにも悪くない。死神が降誕しただけだ」
「そんなこと急に言われても。お給料は送金しちゃったし」
「地獄の沙汰もあれだ。俺のために金を使ってほしい」
「うん、わかった。でもすぐには無理だよ」
「強制送還がある」
「キョウシセイトカン?」
「群馬県警と埼玉県警にお願いすれいい」
中田の夢か、白昼夢か。空想想像創造幻想幻影妄想幻聴なのか。それとも神や悪魔降ろ

- 107 -
しだったのか。きっかけは兄の逮捕だったが、中田の育ちとそれに抗い続けなかった本人
の怠慢だったことは間違いない。

残暑厳しいある日、中田に兄が乗り移った紛う方なき錯覚が訪れる。熊谷駅にほど近い
閑静な住宅街に中田は侵入する。
「警察が道に迷いました。私は外国から来た。サイフ落としたよ。カナガワデ金沢のお姉
ちゃんとこ。北陸新幹線きっぷはいずこ。警察軽薄」
「110番すればいいのかしら」
「うん。ううん。OK」
「通報があったので、取り調べをします。あなたはいつ、どこで、誰が、どうして、どの
ように」
「ワタシ日本語ちょっと」
「困りましたね。通訳は呼べるかな」
「ワタシも弱り目に祟り目」
「お前は幼いな。これじゃあだめだ。一服しろ」
「わかった、お兄ちゃん」
「たばこ吸いたい」
「それでは我々も休憩しますか」
「そら、一匹しか張りついていない。今だ!」
「アディオス。ポリス」
中田はすきでもないのに全力で走って熊谷警察署を置いてけ掘り。
「お前は俺だ。しっかり頼むぞ。日本にサイレンサーはいらんさ。押し入ったところで調
達しろ」
「任せといて。お兄ちゃん」
「誰だ」
「あなたどうしたの」
「ポリスポリス。ケイサツケイサツ。マッポマッポ。ハトポッポ。オマワリコマワリ。ポ
リコウコウボク30マンヒマツブシ」
「・・・・・」
「あなた・・・」

- 108 -
「カネ、オカネ、キン、キンイップウ。クレ、オクレ、オクッテオクレ、ヨコセ、ダセ」
「ペルー、ペルシア、インカ、マヤに帰る変える寝返る帰せ返せ」
「日本語ってホントむずかしいネ」
「なんだこいつは」
「早口でわからないわ」
中田はそのすきに台所に走り、夫婦を殺め、血で宣戦布告する。さらに母と小学生の姉
妹、一人も手にかけた。
「飲み食いしろ。その服を着ろ。金を盗れ。偽装工作も」
「警察が来たらお前の腕を浅く切れ。飛び込みの練習だ。水しぶきを立てるな」
「こう?」
「よしよし。さすが俺の弟。あとは公務員の鑑定医がよくしてくれるさ」
「うん」

遅かった。なんということを。
「おい、そこのガイジン」
「女?日本人じゃない。瞳がトマト」
「貴様は外国人ではない。罪のない人を6人も。外道」
「わからんな。俺はペルー人だ」
「なぜだ。答えろ!」
「人を殺すのに理由はない」
「もう一度言ってみろ」
「殺したいから、殺したのさ」
「貴様にも信仰があるだろう」
「日本人は無神論者が多いからな。神の与えた試練ではだめかな」
「日本は多神教と仏教の国だ」
「お前、後悔しているのか。なんの力があるか知らんが」
「な、なにを」
「お前だけで、くっくっく。たった一人で運命や宿命をどうこうできるわけないだろう。
のぼせ上がるな。俺が変えたんだ」
「大量虐殺で厚顔無恥のスペイン人と微妙な政治家のフジバヤシ。この闇は深いな」

- 109 -
「小便臭い娘がしゃしゃり出て来やがって!ナニヲイウ。アルノハヤミノエン。カネダケ
ダ。ダマシタフジバヤシダッテ」
「都合の悪いときだけ片言の日本語か。貴様にも私と同じ血が流れているのに」
「ふざけるな。女だからといって容赦しない」
「祖国愛の欠如と文化の無知。風土のみならず、古代文明と神話の無自覚」
「ウルサイ。ダマレ。コノアマ」
「失業率66%とインフレ率8000%の苦しみ、フジバヤシの禁固25年の恨み」
「俺の原点。アンデス、アマゾン、チチカカ、じゃがいも、とうもろこし、とまとイタリ
ア救う、ナスカの地上絵、インカ、マチュピチュ、マヤ、アンチョビー、銀、鉱毒、足尾
銅山、ちがったエルニーニョ、南方振動、ラニーニャ」
「ラテンアメリカ文学とノーベル文学賞をなめるな。小娘!」
「すてきな国じゃないの」
「スキデココニイルワケジャナイ。兄貴の生霊が教えてくれたんだ。ニイサンハシズカナ
ルシトナノダ。俺の心を見透かす小悪魔リリムめ。水晶体が泣いているぞ。オレハガラス
タイナノダ」
「またそれか。こころのない恥知らず」
「お前も食べてやるよ。小さくて犯しがいが」
「ン。イナクナッタ?」
「これで腐乱臭をばらまく貴様らの生き方は終わりだ。黄金と翡翠がきりもみする閃きで
アンデスに還れ」
「ナンダ?キュウニ」
血がまとわりついて滴る包丁が中田の両手からはらり、と落ちた。
「オニイチャン」
「17号と407号の交差点に戻らなければ」
「でも、俺は伊勢崎銘仙と華蔵寺公園と共学の振興で名高い伊勢崎にいたはず」
「行方不明になった兄さんを探して五千里」
「なんか子どものころに見たような気がする」
「はじめは工場出荷額が浜松、京都、北九州を超えた太田だった。車とか冷蔵庫は楽しか
った。ポルトガル語を話すやつにいじめられた。利根川の河川敷から神々たる山を眺めて
耐えた」

- 110 -
「太田より文化の香り高い伊勢崎で。いや、金木犀の薫り。トイレのかおり・・・思い出
せない」
「包丁たちがトマトを食べておいしそうに笑っている!」
「・・・・・そうか。こいつたちと重なり、解け合って」
出頭した中田は、神奈川県から策略と観光に来た姉との面会を断り、拘置所で手記を書
く許しを得た。スペイン語の書き言葉ならと思っていた。自白の資料にしてよいとの司法
取引だった。大失態を自作自演した熊谷警察署の面目躍如だろうか。
現実は甘くない。作文の書き方を教えてくれる人などいない。本を乱読したり、精読し
たり、くり返し読んだり、体験や経験、資料集めや取材も、それらの昇華がドライアイス
やタンスの防虫剤のように必要不可欠なのだ。具体と抽象や、おたくとふつうをたゆたう
力もいるし、一字一句にも人となりが出る。まねして練習して自分で失敗する。読んでも
らうにはどうすればよいか?考え続ける。とにかく書く。夢も利用する。クスリは絶対に
ダメ。ことばには、民族が生き抜いてくる中で獲得してきた魂がある。中田の耳には念仏
で、中田に真珠であった。
とりあえずおざなりでなおざりの通訳はいたが、一定の時間内に一定量の文章を一定
の品質でこなす翻訳家が見つからない。そもそも話し言葉でさえ、観念や概念とずれるの
だ。そんなことも知らない中田は、早々と書くのをあきらめ、ベルト・コンベヤのような
瞬く風呂で録音機を用いた口述筆記を思いついた。その場で水しぶきを乱射しながら小躍
りする。
中田の饒舌、弁護士の流れ作業、通訳の浅い日本語の三位一体により、しばらくして
ようやく本が完成した。『秘露からの手紙』は聖斗の著書を出版した恥も外聞もない会社
から発売された。死刑囚としては空前絶後のベストセラーである。
当初、タレントが幽霊作家に書かせたものと変わらず、かつ極めて読みにくいとの酷
評だった。写し間違いや三重苦、トリプルカウントによる文殊の知恵か、はたまたもんじ
ゅの問題との相互作用か。犯罪心理学、期間従業員、契約社員、派遣社員、アルバイト、
労使の力関係、国際問題を知る貴重な資料としてひそかに売れ続ける。フジバヤシ側は事
実無根で名誉毀損に当たるとして、出版社と中田を訴えた。印税は遺族には支払われず、
すべてペルーに送金された。自責の念や謝罪はない。

- 111 -
似非怨恨
土佐は見知らぬ男から文をもらった。
「なにこれ」
夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも楽しくありけれ
(大和守の6つ下 陸奥男)
「万葉集の盗作じゃない。しかもこれは女の歌」
嬉しいが楽しいになっているのはせめてもの救いね。うれしいは馬のはなむけをもら
ったときのようなその場の感動だから。
「大和の任官の下僕で安定してるし、本名みたいだし。名前だけは気に留めてあげようか
しら」
「もし」
「はい」
「どんな人だったの」
「一応は若者で、顔立ちもふつうで十人並みくらいでしょうか。しもぶくれなので、平安
美人なら。失礼しました。身なりはおしゃれではなく、まあまあでございます。それなり
の家柄かと存じます。姫さまが十と七でございますから、十ばかり上とお見受けしました。
それから」
「もういいわ」
「それから、これを忘れていきました。菩提寺の近くで見つけたそうでございます」
「山ゆり」
雅は少しあるのね。期せずしてわたくしの名。ゆり子。
「これを」
「誰から」
「昨年の男でございます」
「去年の」
「姫さまのお名前の花を」
「ああ。また来たのね。一年も放っておくなんていいご身分ね」
夕ぐれはいづれの百合のなごりとてゆりの根召しませ美容によかれと
(大和守の5つ下 陸奥男)
「ちょっと。失礼しちゃう!冗談になってないわ」

- 112 -
「これは新古今和歌集の模倣。よりによって私の敬愛する定家さまの」
知らないとでも言うの。作者の死後から70年、本歌取りしてはいけないわ。そのう
ち映画会社がベルヌ条約をお金で買った著作権法のお触れが。古歌からは二句まで、過去
の歌とはちがう主題よ。テーマはすれすれかな。
「なんか。百合、ゆりって。まさか私の名を漏らしてないでしょうね」
「滅相もございません」
「私は文や歌でしか情報をもらえないんだから。敵を知って己を知るの。すでに情報の世
の中よ」
「あら昇進したの。でも、やっぱり品や格、礼節とか素養が足りないかしら」
「今度うちに来たらあれを」
「はい」
「あの男が来ました。姫さまの文を狂喜して受け取り、脱兎のごとく帰りました」
「ふうん。今週は2回目ね」
君がゆり夏の山ゆり胸に秘め鬼も十八わがゆりかごに
(睦まじいをとことをむなへ)
「ゆりゆりゆりってうっとうしい。鬼ってどういうこと!」
でも、初めての原物。鬼もゆり子にすれば。好かれるのは悪くないわ。売れ残ると値引
きされるし。そろそろ。
「姫さま。姫様」
「え?ああ」
「父上と母上にお伝えするわ」
「よろしいかと」
「ならぬ」
「どうしてでございますか。私も年ごろです」
「あなた」
「ここは我が一族より卑しい」
「そんな」
「よく聞きなさい」
「なんでしょうか」
「親は子に意味のある名をつけるものだ」

- 113 -
「よくわかりませんが」
「一族が左遷されることもある」
「まさか」
「私の知り合いにもいた。今はどうしていることやら。不条理な理由。それが摂関政治、
いや世の常だ」
「でも。だからといってあの人が」
「ゆりよ。娘の親はな。いつの時代も娘を近くに住まわせ、しあわせが続くことを願うも
のだ。なあ、母さん」
「そうですねえ」
「それは」
「悪いことは言わぬ」
「わ、わかりました」
求婚したすべての女から断られた陸奥男は、身の上を呪い、自暴自棄になって物と祖霊
に当たり、疱瘡神に祟られ、天然痘で顔面が崩壊するほどのあばた面に変わり果て、この
世を去った。やり場のない怒りと恨みを引き連れて。土佐は知る由もない。

「東京都の最高峰。雲取山か。さあ、登るわよ」
「2か月ちょっと前は寒風が吹きすさんでいたけど。もう新緑が燃えているのね。冬の間、
エネルギーを静かに蓄えていたように」
最近ながめた『土左日記』のあれをやってみようかな。
「ご隠居もすなる山男といふものを、女もしてみむとてするなり。さつきのはつかに江戸
川区を出て。なんちゃって」
「ららら。山娘にはほれ直すなよ。ふんふん」
「お嬢ちゃんは健脚だねえ」
「あなた、やめてくださいよ」
「声かけるくらいいいだろう」
「今は物騒ですから」
「ふふ。いやだわ、おじいさま。私はそんなに脚やふくらはぎが太くありません」
「見てるだけならいいのか」
「それも時と場所によります。つきまといとかストーカーとか」

- 114 -
「ん、あれか。給炭機とか『ドラキュラ』書いたやつか」
「ちがいますよ。ボイラー職人は昔のはなし。横文字に弱いのに外国文学は詳しいんだか
ら。明示大学とか百葉大学です」
「ああ、それね」
「気をつけてください」
「なんだよ。けちくさい」
「仲がおよろしいんですね。まるで仲好し小好し」
「べらんめえ。こちとら神田岩本町の生まれよ。ちゃきちゃきの江戸っ子でいっ。空気み
たいな」
「行ってしまいましたよ」
「なにっ。さては玉藻前」
「馬鹿なこと言わないの。あなたは腰痛、半月板損傷、瘭疽の病歴があってリウマチの疑
いもあるんです。手をつないでゆっくり進みましょう」
「お、おう。すまねえな」
玉藻も千代田区生まれと言っていたけれど。私は研究所。母さんは日系人だと聞かされ
たわ。でも、純血なのか二世や三世なのか。思い込まされているだけなの。父さんのこと
は知らされていないわ。日本人の血は流れている。と信じていたい。どのくらい流れてい
るの。武器にも重荷にもなる私のこの力。
「私はどう生きてゆけばいいのだろう」
でも、こうして歩いているとこころが洗われるようだわ。日本は四季、山と川に恵ま
れている。
「あら、せせらぎ」
「こっちは小さな滝だわ」
私は沙漠みたいなところで育ったから、水に魅かれるのかしら。すべて火山だから温
泉も豊か。地震や津波が恐ろしいけれど、そういう風土で日本人は生きてきたのね。
「東京は広いわあ」
この山が多摩川の大きな支流の水源。近くの大菩薩嶺に多摩川の源が。大菩薩峠にか
つての青梅街道。今も中央自動車道の迂回路で塩山を通って甲州街道に続く。山に生き、
海に生きる。山の恵みと海の幸。世界一の漁法。捕鯨も文化だと思う。私はかつて肉にま
みれた食生活を送っていたし。大学生の反対運動が炎上しただけ。よその文化を敬わなけ

- 115 -
ればいさかいになる。戦争は定義できない。戦争の原因もわからないけれど。
「文化の衝突は戦争を招くわ」
「山歩きはいろいろなことを考えちゃうのね」
海産物が豊かだから港もいいけれど。今度は南にも行ってみたいわ。まずは椿が咲き
誇る伊豆大島ね。小笠原諸島にだって。悲しきアホウドリの繁栄も祈りたい。硫黄島も見
られるといいのにな。

睦雄は早くに父母をなくし、祖母に育てられていた。山間の村で人口も100人ほどだ
ったが、睦雄の家は多少の財産があり、生活に困っているわけではなかった。畑では新鮮
な野菜が育つ。渓流では岩魚や山女も捕った。春と秋には山菜が手に入り、きのこもよく
採れた。
養蚕は毎年というわけにはいかなかった。しかし、桑の木がよく育つからなのか村人
の愛情なのか、輸入物に押されがちな近年にもかかわらず、繭は高値で取り引きされた。
お蚕さまを産んだ食物神であるオオゲツヒメノカミは村でもっとも篤く信仰される神であ
る。
睦雄は小さいころからどどめと呼ばれる桑の実が大好きだった。たまに業者が子どもの
おみやげにと持ってきてくれたカイコガの蛹も好物だった。村には猟師があまりおらず、
鶏を飼っている家も今では2軒だった。熊や猪や鹿は町にすぐ売られてしまう。動物性の
たんぱく質が不足しがちな伏し目がちの少年、睦雄は甲虫の幼虫やさなぎを焼いて腹を満
たしていた。
「ごほ。ごほっ。ん、んーっ。げほげほ」
おかしいな。もうかぜは治ったと思うけれど。うがいをしよう。
「がらがら。ぺっ、ぺっ」
「なんだ。つばに血が」
「睦雄や」
「なんだい、ばあちゃん」
「お前は小さいときから体が弱い。親のせいかもしれん。運動すればよくなるだろうが、
都会のようにはいかん。高校はあきらめてくれ」
「そんな!ちょっと待ってくれよ。俺は麓の」
「お前の言いたいことはわかる。うちは生活には困っとらんが、大学への学業は高くつく。

- 116 -
あたしもそう長くない。代々の土地を守ってくれんかのう」
「で、でも」
「実業高校なら農業の役に立つ。どうじゃ」
「わかったよ」
望まない学校に通い続けられるはずもない。シスコンもあり、姉の結婚をきっかけにし
て家にひきこもるようになる。初めこそ祖母の勧めもあり、野良仕事を手伝った。こらえ
性のない意気地なしで軟弱者の睦雄に、風雨と戦う重労働の畑仕事ができるはずもない。
「睦雄」
「なんだよ、ばあちゃん」
「あたしが寺泊さんとこの養鶏場のアルバイトを見つけてきた。お金はまあまあだけど、
商品にならない卵をたまにくれるそうじゃ」
「なら、やってみる」
養鶏の仕事をなめ、不純な動機ではじめた仕事。怠慢な睦雄は、寺泊家との確執を築き
つつあった。寺泊の看板娘のさゆりを除いて。
「ふしぎな感じのする女だ。辞めるから関係ないけど」
高校に行かなくなってまだ3か月だった。このころ、睦雄は日記や自分の歴史などを書
いていた。不平や不満も多かったが、ものを書くことがうれしく、なにより楽しかった。
不安定なこころを癒す泉だったのかもしれない。そんな中、幼児の体験や山のこと、笑い
話、ありえない話、むかしばなしを回りめぐり、小説の種を書き留めることを思いつく。
俺に詩歌の才能はないし、長篇は無理だから。

・自然と古にいざなわれ、言霊の碧く光る翡翠の森で戯れてゆく
・文章の理想は、運動と音楽と絵の核のような融合
・ふしぎと笑いをふりまく

なる大胆な不文律を課す。
これが功を奏したのか、祖母の手伝いをよくするようになった。体を動かさないと頭
も働かないものである。村では睦雄の姿が見えないと不気味がられていたが、悪いうわさ
も2か月半で霧散していた。

- 117 -
残暑の厳しい折、睦雄は畑の脇を歩く同年代くらいの少年たちの会話を耳にする。
「あそこの行かず後家さ」
「ああ、知っとる」
「さびしいのかどうか知らんけど、いつでもだ」
「俺も下ろしてもらった」
睦雄は世間知らずだが、鈍くはない。村には平安時代の貴族では華やかに認められてい
た夜這いが続く。紆余曲折して曲がり、ゆがみ、ひずんで。奥まった村落に娯楽がない、
子宝に恵まれないからというのは言い訳であろう。ヒト以外の動物にも自然の掟があるの
だから。
「そうか。俺も16だ。もういいだろう。毎晩、いきり立つものを抑えかねているんだ。
今夜」
「あんた、村井さんとこの」
「そうだ。早く、速くしてくれ」
「せっかちね。若いからかしら。いいよ」
しきたり、きまり、暗黙の了解。いずれでもなかった。村人は1000年以上ものとし
つき、なにも考えずに鍵を開けて夜を生きてきたのだ。相手の案内もあってどうにか果て
たが、想像ほどではなく、数多ある経験の一つだった。ただ、ひとりぼっちよりはよかっ
た。女との対話もうれしかった。
「女はやわらかい」
男は硬くて固い。思いの外、慈悲深い女たちにおかしな性教育で導かれ、睦雄は老若か
まわず関係を広げてゆく。殺虫灯という名の火に誘われ、自らのいのちを削るように。む
ろん、無理やり力任せ強引ゆすりたかりも幼いながらにしてみた。
三大欲の一つが昇華されたからであろうか。睦雄の創作する意欲も高まる一方だった。
なにごとも始めるには大きなエネルギーがいる。だが、はじめてしまえばその慣性でそれ
なりの仕事ができる。
「なにが書かれているか。どう書くか。アイデアも文体も」
随筆、私小説、短篇、ショートショート、物語、連作、怪談、SF、幻想・・・。ミ
ステリーや恋愛。長篇にも挑戦し、純文学だって。
「ただのつくり話じゃだめだ。超つくりばなしを」
「だが、読み手がいないと自己満足」

- 118 -
「現代の文学とはなにか?」
「発明だって今ある技術のちょっとした改良だ。集中して制御して組み合わせる。スポー
ツも仕事もだいたい同じ」
「人間性がすべてを左右する。でも、芸のためならなんでもこやしに」
悩むのは辛い。でも、そこには生の実感があった。人は必ず言葉で考えている。睦雄は
人生に一筋の光が見えていた。応募する前に、子どもたちに発表してみよう。子どもにわ
からなければ、大人にわかるわけがない。
睦雄は夜這いした女にちらしやビラを配り、大気都比売神社で朗読会を開く。麓で手に
入れた金平糖は撒き餌だ。
「さあ、みんな寄っといで」
「あんちゃん、なにやんの」
「まだまだ暑いからお化けのはなしだ。みんなお菓子もらったか」
「うん」「もらった」「もうない」「妹と弟にもおくれ」「もっとちょうだい」「今どきお化
けだって」
(うるさいのが玉にきずだな)
「わかった、わかった。はなしが終わったらあめ玉やるから。あと幼虫」
「わーい」「やった」「あたし虫きらい」「おらはちのこがいい」「あたしダイエットしてる
から甘くないの」
「怪談『大豆洗い』のはじまりはじまりー」
「怪談ってなに」
「こわいはなしだよ」
「怖いと恐いと恐ろしいのちがいがわかんない」「そうそう。怪しいと妖しいと妖とか妖
怪とか」
「うーん、なんだ。まあ、いいじゃないか。細かいことを気にしてると大人になれんぞ」
「ふうん」「へえー」「ふ」「ふぅーん」
「うふふ」「わかんないから、ごまかしたよ」
「昔むかし、あるところに猟師がいました。猟師は山鳥や電線に止まってた雀を撃って暮
らしていました。あるとき、沢の近くで獲物を探していると、せせらぎの音に混じって甲
高い規則的な音色を耳にします。農婦が野菜でも洗っているのだと思いましたが、そのま
ま深山に分け入りました。運よくキジの巣を見つけた猟師は、巣立つ前の若鳥をすべて撃
ち殺し、背中にしょって山を下ります。さっきの小川に来ると、まだ女が豆を洗っていま

- 119 -
す。
♪シャリシャリ♪コロシュコロシトリゴロシコロス♪プシュプシュ♪
ずいぶん大きな音が出るなあ。と思ったとたん、女は大豆を投げつけてきました。散弾の
ような大豆の雨あられは、猟師の顔に深く食い込みます。女は若い雉たちを連れて見えな
くなりました。猟師は顔が崩壊し、片目も見えなくなりましたとさ」
境内は水を打ったようにしーん。
(ちょっと難しかったかな)
「あんちゃん。まあまあ面白かった」「あたし、こわいのきらいだけど。あんまりこわく
なかったからよかった」「ママに教える」「おとうに」「じいちゃんとばあちゃんに言う」
概ね好評だと思いたかった。お菓子目当ての子らはわからなかったが、村人の評判はよ
くなっていった。子らは睦雄が夜な夜な女どもと交じわることをつゆ知らず、睦雄にはそ
の間隙を挟んだ紙芝居のようなお遊びが愉快でならなかった。
「寺泊の末娘はまだだったな」
「あら。あなたはうちにいた語り部さん」
「ああ」
たいていは少しの抵抗があるのだが、今宵は立て板に水だった。行為が最高潮に達した
とき、睦雄とさゆりは得も言われぬ親近感に包まれ、星を駆けてくぐるような触覚に陥る。
「これは・・・・・古傷?」
「呼び覚まされるようなこの感覚はなにかしら」
「やはり、若いのはいい」
(私には好きな人がいるのよね。こころと体は別よ)
翌朝、喀血した睦雄は祖母と八王子の病院に来ていた。
「結核です」
「えっ?」
「顔が蒼いですよ。結核が死の病だったのは昔のはなしです。今は抗生物質がありますか
ら」
「そうなんですか」
「ストレプトマイシン、イソニアジド、リファンピシン、ピラジナミド、エタンプトール
を出しておきます」
「そんなに飲むんですか」

- 120 -
「念のためですよ。万が一ということもありますから」
「はあ」
「必ず治りますよ」
「はい」
「嘔吐、食欲不振、難聴があるので気をつけてください」
「よかったね、睦雄」
「うん、ばあちゃん」
(聞いてないな)
人のうわさ、特に不幸な話は速い。
「村井んとこでまた死病だ」「結核だよ」「くしゃみで伝染する。せきなんて」「絶対に嫁
に出すな」「絶体絶命か」「あの晩、あたしに感染させてないでしょうね」「闇夜のばい菌
配達人だったのね」「あんちゃん死ぬんだ」「早死にするといい人なの。ママ」「薬ないん
だと」「話しかけるな」「近づくな」「太陽に弱い。日が暮れたら戸締まりしろ」
ちがう!違うんだ。治るんだよ。今は薬を飲んで安静なんだ。またお話しようよ。おは
なし聞いてよ。契り合おうよ!
村八分である。さゆりは親の反対もあって他家に嫁いでいた。傷口に塩を塗るように、
筆が止まり、副作用が襲ってきた。吐き気、頭痛、耳鳴り、食欲の低下で睡眠どころか考
えることもままならない。
「睦雄や。あまりイライラすると体に障るよ」
「うるせー!俺はもう病人だ」
村人への憎悪を募らせる睦雄。
「やられたら、必ずやり返す。俺は常勝思考」
隣の村の猟友会に入って猟銃を手に入れ、土地を担保に町で弾薬、日本刀や短刀をも仕
入れた。
こんな効くのか効かないのかよくわからない薬。止めてやる。
「おっ、ずいぶん調子よくなったぜ」
「ばあちゃんには苦労かけたから、たまには昼ごはんつくるか」
「睦雄、お昼ならあたしが。それはツキヨタケ!」
「ばあちゃん。これは山菜うどんで椎茸の天ぷら」
祖母に通報された睦雄は、すべての武器を押収された。闇の力で挫けない睦雄は、数少

- 121 -
ない知人をそそのかし、数か月後には増強された武器たちを隠し持つ。その間、昼夜を問
わず山ごもりで鍛錬する。2丁の猟銃を4連式と9連発に改造していたが、帰り道で暴発
し、ご神木や桑の木を傷つけた。
「ちっ、まだ調整が甘い」
銃器を知るなら自衛隊がいいな。と安直に思ったが健康診断で不合格になり、これも
村中にすぐ広まる。
「あいつ国も守れないのか」「国の検査は信頼できる」「余命は」「村の恥さらし」「生き恥
とか知らないの」「武士は桜」「赤穂浪士の腹切りの最中」
雪解けのころ、睦雄は血を大量に吐き、意識を失って又隣にある医院に運ばれた。
「あなたは結核ですね。薬をきちんと飲んでいますか」
「いや、最近は調子よかったんで」
「いけませんね。結核菌が薬に耐性を獲得しているおそれがあります。一日も早く八王子
で検査してください」
「え」
「残念ですが、耐性結核です。すぐに隔離病棟へ」
「なんだと!俺は忙しいんだ」
「ちょっと、待ってください。あなたを脱獄させると私の地位が」

決行の日。
獲物の巣食う穴倉の下調べと狩り損ねた猿の逃げ道の確認は万全だ。しかしながら、も
っとも大切なこと。

壱式 闇討ち
弐式 鍵の種類と壊し方
参式 日本刀の使いどころ

あらかじめ和紙に筆でしたためておいた。毛筆は女の髪だ。睦雄は夕方に電気を止め、
停電に慣れた村民を深夜に襲撃するつもりだった。だが、携帯電話で連絡されて失敗する
蓋然性がある。これを防ぎ、いつもの夜を過ごさせ、寛容やあきらめの中で早めに一日を
終わらせた方が面白い。送電線群はネットワーク化が進み、短い時間で復旧することも忘

- 122 -
れてはならない。
「有史以来、人は闇を恐れてきたのだから。しくじるはずはない」
22時に村の電線の元を切った。懐中電灯を照らし、しばしの散策に耽った睦雄は家に
戻る。祖母は寝ていた。睦雄は、進学するはずの高校の校章をつけた学生服に身を包み、
旭日旗でつくった鉢巻きを巻き、最後に鑑とした和紙の三か条を胸に抱いて床に入った。
改造銃は弾薬とともに大切に抱えた。体の右側には日本刀を一振り、両側にはどすを沿え
た。布団の両脇にはすね当て、大型の懐中電灯があった。睦雄の枕元には鯨蝋のろうそく
が3本置かれ、足元には登山靴がそろえられていた。古墳や儀式のつもりでもあったのだ
ろうか。仮眠もできない睦雄の薄汚れた士気は高まってゆく。仮想現実感とともに。
「あら、停電。珍しい」
いいえ、ちがうわ。道のりは15kmも。こんなに遠くまで殺意たちが。これほどま
でによこしまで積年の恨みのような波動の重ね合わせは初めて。危なすぎる。
「温泉に入ったばかりなのに。着替えなくちゃ、もう」
道路どころか獣道もだめね。事件が起きるのは時間の問題。今日は疲れているけれど、
筋力を増強させて最短経路で行くわ。月がとっても明るいからなんとかなるでしょう。
「植物に気をつけながら跳んで跳ねて」
さゆりは里帰りしているはず。翌日の未明をとうに過ぎ、身なりを整えて睦雄はお礼参
りをする。腰の両脇にくくりつけた懐中電灯、旭日にゆらめく3本のろうそく、脇に差し
た日本刀の三点セットがもっとも異形だったのかもしれない。学徒動員されて炭鉱で不慮
の死を遂げ、化けて黄泉から出た英霊が丑の時参りするちくはぐさ。
「ばあちゃん、ありがとう」
睦雄の斧が祖母の首をはねた。やはり斧はいかん。返り血を浴びすぎる。
「ああ。はじまってしまったわ」
気が散る。同じ村で薄笑いしているな。たった一つの物体。集団の私刑なのかと思った
けれど。四国にはサイコパスどもが蠢く土地があるから。脳膜に思念をさえぎるシールド
を張って・・・・・。飛ばすわよ。
「よし。あいつのとこからだ」
順序などどうでもよかった。隣の村との出入りがしやすいところから、標高の低いとこ
ろ、これ見よがしに悪口を言いふらしたところ、寺泊と仲のよいところ、自宅を中心にし
て睦雄の殺意の球面波が広がる波面に沿って。睦雄の興奮と気分である。

- 123 -
「日本刀は人型のわら人形で失敗している。試し斬りが必要だ」
「うん。この感じ。あいつはこれで」
だがしかし。斧より返り血が多い。それに、俺の腕だと血や脂も考えて3回までだな。
まだ半分もやってないのに、興奮と冷静のせめぎ合い。落ち着くんだ。深呼吸しろ。刀で
こそ本懐が遂げられる。銃ではあの反動と満足感が得られない。あせれば刀身が曲がる。
どすでは半減だ。
「じゃあな、寺泊」
命乞いなどさせるものか。しまった。つい、怒声が。静かに素早くしなければいけない
のに!
「さゆりめ。逃がすか!」
くそっ。頑丈な家に隠れやがって。お前をいの一番に斬り捨てるべきだった。俺を切り
捨てやがって。待てよ。俺はさゆりを。
「えーい。後回しだ」
断末魔が静かに木魂する阿鼻叫喚の地獄。修羅まがいの徘徊した丑三つ時までに、28
人が即死する。間もなく2人も死亡した。幼い者も5名含まれていた。雲取三十人殺し。
「止まれ!はあはあはあはあ」
「なんだお前は。村の者じゃないな」
「こんな。はあはあ。こんなことがあっていいの」
「倒れそうだな。そんな女もいい」
「む。常夜灯が」
「観念しろ」
「俺を見て動じないとはな。女の刑事か。丸腰にしか見えないが」
「その娘を放せ」
「断る。まだ討つべき女がいるんでな。こいつはその友だちで餌だ」
「多剤耐性結核を言い訳にして。時代錯誤の夜這いの文化をも都合よく利用した。ちがう
か」
「どこかで聞いてきたのか。凡人がつける理由はそんなものだ。お前らが死んでもわから
ないだろう」
「貴様は理解されない自分の研鑽を怠った。周りの人々との切磋琢磨すらせずに」
「お前らみたいな健やかな人間に俺のなにがわかる!」

- 124 -
「村の子につくり直した小説を読み聞かせていたじゃないの」
「なぜそれを。はじめだけ素直に面白がっていたのさ。子どもは嫌いだ。残酷だから。子
どもが素直で幼いなんて大人の幻想よ」
「曲がったり、ゆがんだりしている子どももいるわ。でも、それを少年や少女の間は見守
るのが大人よ。いろいろなものをもらったんじゃないの」
「そ、それは」
「答えられないのは図星」
「うるさい!そんな昔のことは覚えていない」
「そうやって貴様はほかの人に刃を向けた。子どもにさえも」
「ははは。理由のない報復だよ。復讐さ。怨恨?馬鹿言っちゃいけない」
「逆恨みのくせに。私怨」
「正当怨恨防衛なら、お気に召すか」
「腐ったり、くよくよめそめそしたりするから。男なら外に行きなさい。親がいないから
と言って。女性にも村の人にも甘えて」
「なにも知らない部外者がぬけぬけと」
「貴様は性根が腐りきっている。結核菌でな。闘うことを忘れた。ほめ言葉になるかしら。
女の腐った役に立たない澱」
「誹謗と中傷には慣れた。慣れとは恐ろしいものだ」
「喜劇の主人公とお村の大将」
「一生言ってろ。気が変わった。殺してからお前を楽しむことにする」
「そらよ」
「なにっ!散弾銃が当たらない。ならば、日本刀の突きで」
「これで貴様の生き方は終わりだ。大地の緑と空の青さが溶け合う登龍門の試練を受けろ」
「大丈夫だか」
「ええ」
と玲は膝から崩れ落ちた。
「しょうのねえおな子だ。おらが診療所までおんぶすっか。村でも評判の怪力娘は、伊達
じゃない」
「おろ。見た目より重いずら」
(ひどい。ひどすぎる)

- 125 -
「こいつは呆けたからいいか。さゆりにしつこく迫るくせしておらには夜這いせんし。乙
女のはにかみをなんとするべ」
「俺は。遺書を書いた後、銃をくわえるつもりが」
睦雄は本人だけが信じる文才で『夜這いの文化略史(上・下)』を書いた。世論の圧力
が恐ろしく、怯んだ出版社は尻込みした。代わりと言ってはなんだが、続いて『伝染病~
わたしも生きてゆく』をまとめようとした。これは、弁護士が情状酌量を求めるなけなし
の手段にしたので、明るみになる。結核患者を守る会から捏造との激しい非難を受け、医
療関係者からも誤りを指摘された。漱石の評論では著名で、理系のりの字も知らない評論
家の柄山氏は、無意味な狂気の文学だとこき下ろした。先の会社は乗り気だったが、未完
成である。
睦雄は汚名挽回、いや汚名返上をもくろむ。被害者と残された者の一人ひとりに宛て、
睦雄しか知りえない情報を盛り込み、こころからの謝罪を記した手記『雲取の風土』を著
した。雲取の人びとのこころは慰められただろうか。むろん、出版されていない。
これらは現在、国立国会図書館とインターネットで閲覧できる。

堕天聖女
「なーんか、中学の勉強って簡単。小学校の入試の方が難しかったわ」
「学校ってなんだろう?子どもとはなにか」
コンコン。
「万里亜。入るわよ」
「今日も遅くまでお勉強なの。偉いわねえ」
「選抜クラスはみんな部活してるのに頭いいから。置いてけ掘りにならないように。あた
し、運動系の部活って苦手なの」
「さすが私の娘。やめてよかったのよ」
「でも、運動しないと。甘いの好きだから。食べた分だけ消費すれば太らない。エネルギ
ー保存の法則。運動で躍動する肉体も芸術だしね」
「やっぱり、おじいちゃんが国立大学の物理学者で、おばあちゃんが絵描きだからかしら。
パパも杜の都大学の農学博士なのに、不動産収入ののどかさだし。血は争えないわね」
「俺様、それほどでもあるよ」

- 126 -
「言うわねえ」
「えへへ」
「群馬のどこかの小・中・高一貫校とちがって、ウルトラ学院は歴史と伝統があるミッシ
ョン系だものね」
「人間性も育むって教えられてるわ」
「そう。あっちは売名のため、市長が空から降る税金で造った半私立。こっちは伊達政宗
公ゆかりの敷地に創った杜の都一の私立」
「ママ、言いすぎ」
「あら、私ったら。疲れてるのかしら」
「学校では、できるだけ相手の身もこころも傷つけないようにって」
「名は体を表すのね。私は画数が気になって反対したんだけど。女の子の姓はだいたい嫁
ぐまでだから、パパがどうしてもって。ウルトラにしてよかったわ」
「もう少しやるわ」
「あまり無理しないでね。お夜食ここに置いとくわ。おやすみなさい」
「ありがとう。いい夢を見てね」
自分で汚した部屋は自分で掃除する。と言って正解だったわ。二架の本棚のずれ。ママ
は気づかなかったみたいね。片方の裏にはお年玉が華麗に化けた手斧。くっついているの。
さてと、殺鼠剤の勉強の続き。この家を買うための貯金に利用した中古のおんぼろ家。
古いからなのか、隣が夜逃げで更地になったからなのか知らないけれど。いっぱいクマネ
ズミが出たのよねえ。
退治するってネズミだんごを置くから、食べちゃったわ。砂糖、でんぷん、グリセリ
ンに硫酸タリウムを混ぜて水でこねただんご。吐き気、下痢、続いてひどい口内炎。あれ
が精神的な外傷になって毒舌と毒蝮と毒島、醜男とブスがトラウマに早変わりしたのかな。
俺様は男前、男らしい、雄々しい、猛々しいなんてよくほめられるし。髪もさわやかなぼ
さぼさの短髪だしね。俺様が口ぐせになったのもあの頃だったような気がする。
ひもじいときはだんごも買えないから、小学校でくすねたせっけんにママの除毛剤と
脱毛剤を塗ったなあ。俺様もうぶ毛じゃなくて剛毛なので使ったけれど、食べなくてよか
ったわ。甘くなかったしね。今はスーパーでもとりもちが主流だから、薬局で試薬として
買うしかないなあ。
「あ。でも、今年はスマホ買ってもらえたし、調べるのに便利だし、海外もあるし」

- 127 -
まずは標的を知るべし。人類の祖先は、白亜紀と大量絶滅をげっ歯類で柳に風のごとく
幸運にやり過ごした。人間にいちばん身近な動物はネズミ。マウスやラットは均一な個体
が安くつくれ、遺伝子の操作も簡単。実験動物の救世主よ。ハツカネズミはマウスで、ク
マネズミやドブネズミはラット。クマネズミは垂直の移動が得意で知能が高い。
「夜中にたまたま目を覚ましたら、柱の上から畳まで滑り台。テレビの後ろまで見えて電
気つけたわ。そしたら、呼んでないのに飛び出て右往左往」
「大黒柱と襖の3cmの隙間にびっくり人間の関節外しで脱出し、身の毛もよだつ俺様を
置いてけ掘りの十二の冬」
どういう体の構造をしているのかしら。ヤモリとかアオダイショウとかに近いの。ドブ
ネズミはもっと大きくて、平面の移動が十八番であまり学習しない。クマネズミはとりも
ちをジャンプしてよけるけれど、ドブネズミは無理。ただし、戦闘力が高く、同じ檻に入
れたクマネズミをあっという間に狩る。
「そういえば、三毛猫の轢死体が十三の春、真夜中の4号線で見たひき逃げ事故のはらわ
たが十四の夏、おじいちゃまの葬儀が八つの秋か」
土葬と火葬。おじいちゃまはクリスチャンになってたから土葬なの。日本は火葬にしな
いといけないの。火葬なら復活が。
「ふわあ、眠い」
「おはよう。万里亜、今日から学年末テストだね。あたしこたつ。いや、電気じゅうたん
で寝ちゃってさあ」
「俺様もぜんぜんやってないよ。もう山勘」
「うそだー。ねえねえ。どれが出そう」
「これとこれ。あとあれも」
勘なんて当てにならないわ。どうせ授業でやった問題しか出ないのだから。一夜漬けで
も多いくらい。
「記憶は入力と出力のバランスで、使い方よ。理由は後で考え、とりあえず丸暗記」
「なんか言った?急いで覚えなきゃ」
万里亜は男子と触れ合うことがそうなかった。万里亜のやまは少ない女友だちを介して
できの悪い男子に広がり、彼らからだけは一目置かれていた。
「来月から高等部か。って学校の数学と理科は高校の内容なのよね。初等幾何は難しいか
らまだ授業があるけど」

- 128 -
せっかく花のブランドなんちゃって女子高生になるのだから。なにかやろう。体育会
系はない。応援団のマネージャーとかあるのかな。文化部よね。中等部の理科室にはろく
なのないけれど、高等部なら。法人化かどうかわからないけれど、国立大学も利益と学生
集めに躍起になっている。化学部で杜の都新報賞やみちのく銀河賞なんかをもらったら推
薦で有利に。
「男子は学生服で応援できていいなあ」
窓から見え隠れする応援団の蛮カラを尻目に、万里亜は高校生に許された研究ではなく、
来るべき実験に向けて毒物道の修行をしていた。
「大外さん」
「なに」
「中間テストのやり直しなんだけど、わかんなくて」
「これは順序を見つけてちょっと変形すると等差数列の問題だから、この式と反対に並べ
た式を足して2で割ると、答え」
「すごい」
「小学校でもやったっしょ。ガウスもね」
「大外さんって何番だったの」
「総合でだいたいひと桁かな」
「すごい。大外さんと同じ部活でよかったわ。またよろしくね」
(めんどくさいなあ。でも、さすが俺様)

高校の化学もだいたい終わったわね。今までの授業はどれもこれもつまらなかったけれ
ど、化学だけは別ね。学校は大したことしてくれない。参考書ならば大学の教養レベルま
で説明してくれるものがある。旧帝国大学の入試には出るものね。
「化学物質より薬。薬よりも毒。薬にも毒にもなる。生物も化学の応用よ」
「みんな、起きてるかい。今宵は毒が最高!」
「歴史を学ぶのは大切だわ」
まずは鉛か。近ごろは鉛フリーはんだとか、EUのRoHS指令とかで重金属はうるさ
いものね。でも、車のバッテリーは鉛蓄電池じゃない。電池はかなり難しいのね。セラミ
ックスに鉛を使わなくなったのも最近だし。ローマ帝国が滅亡した原因の一つは鉛らしい
けれど。ふうん、酢酸鉛(II)三水和物を水に溶かすと鉛糖に。ローマ人はこれを甘味料

- 129 -
にしたの。
「鉛の隣がタリウム!」
電子の配置があまり変わらないから似ているのかも。こいつはひとまず置いといて。そ
の隣に水銀。チッソクが垂れ流したメチル水銀は水俣病で有名ね。公害だとスーパーカミ
オカンデの前身で、イタイイタイ病の猛威を振るった神岡鉱山のカドミウム。スマホでも
問題になっているヒ化ガリウムもあるわ。和歌山のヒ素カレーをふるまう秋の日にいい汗
流そう運動会事件。深海でヒ素を使う生物が見つかったみたいね。他人の家に土足で上が
り、いまだに田舎を見下す古皮鉱業が配給する亜硫酸ガスと鉱毒もあるし。詳しくは太田
市中央図書館にて、か。王子様製紙も旧江戸川にリグニンをおしっこしてアサリを駆除す
る黒歴史。
「いやあねえ。大会社が大きな顔してするんだから、俺様だって」
おっと。やっぱり顔の見えない無差別テロはよくないわ。それに比べて睦雄様、勤様、
聖斗様、守様、智大様、孝行様、浩二様、中田様はかっこいい!
「いやん。頬が紅潮してきちゃった」
えーと。殺鼠剤の具体的な成分ね。今日は謎の楽しさあふれるホームセンターを見学し
てきたから。先生だって税金で温泉観光、もとい視察旅行に行くみたいだし。確か積算型
と急性型があったわ。積算型は誤食しても安全だし、臆病で生き抜く術を知るクマネズミ
にもよく効く。急性型は食べてくれれば素早く駆除できるけれど、まちがって食べたり、
死んだ仲間を見たほかのネズミの警戒心を強めたりする。
積算型はクマテトラリルなどのクマリン系、ワルファリンが代表で、急性型は黄リン、
リン化亜鉛、硫酸タリウムなどか。ワルファリンを下手に使うと抵抗性のスーパーラット
の誕生。なんか結核菌みたいだな。リン化亜鉛ならスーパーラットも駆逐できるが、撒き
餌の使いどころが難しい。でも、リン化亜鉛は胃酸と反応してホスフィンガスを発生する。
「これは!空中浮遊したあの方が授けてくれたサリンと同類。有機リン化合物の神経ガ
ス!」
「それだけで神聖じゃないか!」
スマホの発光ダイオードとかネットワーク機器の半導体レーザーをつくるるときにも
使うのか。ホームセンターで売っている殺鼠剤は成分の含有量が低いのよね。学校に大量
に持って行って精製するわけにもいかないし。やっぱり薬局。なんか誰かに話したくなっ
てきた。俺様の高説を隣の男にしてやろう。

- 130 -
「ねえ。化学好き」
「え。い、いや。俺は文系だから」
「ちょっと聞いてよ」
「化学苦手だったし」
「面白いと思うけどなあ」
「次の授業がはじまるまででいいから。あのね。うちにクマネズミがいてさ。殺鼠剤の累
積毒タイプと急性毒タイプがあってね」
「ネズミきらい。気持ち悪い。トイレ」
あいつ、俺様の毒講義を。今に見ていろ。これだから文系は。
「この長い夜は天然の毒から人工の毒までね」
天然毒は最強のボツリヌストキシン。筋肉を麻痺させる。薬や美容にも使うわね。ソー
セージとかハムにいるボツリヌス菌がつくる。いるかいないかを調べる方法がわからない
わ。トラフグのテトラドトキシンも有名ね。意識がはっきりしたまま麻痺から呼吸の停止
へ。千葉の店の生け簀にいたけれど。一人では入れないし、ちょっと無理かな。ドクツル
タケの天ぷらそばはどう。きのこは見分けるのが難しいか。植物はどうかしら。スイセン
やシャクヤクは弱いかな。昔から活躍中のトリカブト、麻酔薬の誉れ高いチョウセンアサ
ガオだと山歩きが面倒くさいわね。
手に入れやすい人工毒ならば。模型店のシンナー、トルエン、めっき工場の青酸カリ、
青酸ソーダ、印刷工場なら塩酸、濃硫酸、ジクロロメタン。メンタルクリニックの睡眠導
入剤、おフランスの美しい眠りことスボレキサント。工場に押し入るのはか弱き俺様の柄
に合わないし、手に入れやすさは危なくないことだもの。
もし、実験体があの世行きになったときは、隠すために固形アルコール、ゴムのり、ラ
ッカーパテ、燃料もいるかも。
「やっぱりタリウム!」
「興奮してきちゃった。寝られるかしら」

「ちょっと夜更かししちゃったわ」
硫酸タリウムをどうやって。目の覚め切らない朝の通学、疲れてきた帰り道なのね。考
えがまとまるのは。

- 131 -
「実は娘が私のクレジットカードでお金を引き出し、妻の実家の町でこれを」
「なんですか」
「硫酸タリウムという試薬です。殺鼠剤に使うことが多いですが。農薬にも」
「君はこの2つのビンでなにをするつもりだったの」
「おれ、ちがった。私は高校の化学部で重金属イオンの分離と、害獣の関係をチームで研
究しています。中間発表で仲間にアイデアを提案しようと思いまして」
「そうなのか」
「ほお。さすがウルトラ学院ですね」
「でも、劇薬なので」
「お父さん。薬も劇薬ばかりじゃないですか」
「それはそうですが」
「大丈夫ですよ。君、決して危ない実験しないように」
「は、はい」
ふう。冷や冷やさせるぜ。補導はないと思うけれど。怖いじゃないか。県警はどこも程
度が低い。パソコンたちもケーブルでつながっているだけ。情報の共有は夢のまた夢ね。
さすが地方。
「これで心おきなく人体実験だ」
なにに混ぜるか。ジュースね。まずはうちのハムスターで。よし。
「でも、ハムスターもネズミだし、お金かかるわ」
あいつ、いつもペットボトルでお茶を飲んでいるから。同じものに硫酸タリウムを溶
かして。ぼけぼけっとしているとき、おしゃべりしているとき、トイレで留守のとき、体
育で仮病を使って俺様が抜け出しているとき。
「はい。交換」
男子生徒は視力や筋力の低下により、学院を去る。警察が捜査に来て大ごとになったけ
れど。危ない危ない。男だけだと片手落ち。女にも。この前より量を少なくしよう。ほう
ら、やっぱり大丈夫。
でもさあ、硫酸タリウムは紺青で解毒できるんだよね。プルシアンブルーやベルリンブ
ルー。理科室で見た濃いー青。葛飾北斎も『富岳三十六景』で使った。時の長たるセシウ
ムも毒抜きできる。錯体が取り込むのだろうか。硫酸タリウムと紺青の一式。俺様の家宝
にしよう。

- 132 -
「それだけで魔神じゃないか!」
これらの事件と万里亜の育ちを除き、杜の都は穏やかであった。と道徳のある人びとは
思いたい。
「まあ、ランク落としたから当然ね」
旧濃尾帝国大学理学部化学科に現役で合格した。

万里亜は初め、杜の都大学に進むつもりだった。父の反対と親心、模擬試験での好成績、
ウルトラ学院へのゆがんだ恩返し、ひとり暮らしでの薬部屋の拡充、東京京都大阪がだめ
なら名古屋という安直な展開が不幸にも重なった。
「おはようございます。自分は大杜の都から参りました大外万里亜であります」
「おはよう」
「こちらは女でも入部できるとうかがいました。本当でありますか」
「ようこそ。大外さん。うちは部員が少ないけどよろしくね」
「私ごときつまらないものに、恐縮であります。今後ともよろしくお願いいたします」
このくらい言えば、実験がしやすいわ。俺様が他人の応援をするだって。
「俺様を俺様が応援するのさ」
1年坊主は面倒だが、目立つのは賢くない。大人しく寡黙でいるわ。講義でなにか発見
があるかもしれないし。
「教養だから実験が少なくて理論ばっか。まあ、国立は専門前の教育が厳しいから。物理
化学は面白くないのよね」
「ストレスたまるなあ」
「こんにちは」
「なんですか」
「私は統合協会の者です。近くの公民館で講演がありますので、よかったら」
「はあ」
「では失礼します」
「これってチャンス?」
「大学生なんてどうせ暇だし。忙しいのは国立の濃尾工業大学と私立の西京理科大学。そ
れだって、ほかと比べたらって話でしょ」
「大外さんは若いのに感心です」

- 133 -
「そんなことありません」
「名前はかわいいからかしら」
「よく言われます」
(そこは「が」だろ。おい)
「今日のおはなしはね」
「ええ」
「いつも熱心に聞いているのね」
「やっぱり少し興味があって」
(興味ない。あるのはあんただよ)
「大外さんは学院を出てるのね。それで」
「まあ、一応」
「でも、学院とうちは」
(ああ。うざい!)
「あのう。うちでおかきを食べながら、お茶を飲んでいきませんか。実家から送られてき
たんですけど。私はあまり」
「あら。悪いわ」
「今、入れますね。宝の持ち腐れだった」
「え」
「手斧を」
「ひーっ。誰か」
下手だった、いや力がなかった、それとも狙いを外したのか。うまくいかなかったので、
万里亜はマフラーで会員を絞殺した。
「早くさえずらないと!」

オオソト
@thallium345
ウルトラ学院→濃尾大学理学部1年(今ここ)→濃尾大学大学院→自宅警備員→刑務所→
拘置所(←順番まちがえた)
ついにやった!(俺様の降誕日)
濃尾大に通った死刑囚はいない(3日前)。

- 134 -
硫酸タリウムの半数致死量は成人で1gほど。市販の硫酸タリウムビンには、25gで1
3人分の化学兵器が入っているわけだ。
「それだけで神秘じゃないか!」
神さまが悪ふざけで自分を製造し、不良品を出荷したとしか思えない。高校を出たら育ち
は俺様の責任かい。
「あ、女です・・・」←もう慣れたよ。何度も聞くな。
逮捕される夢を見た。こわかった。俺様はまだまだ小市民。

浴室に隠して、杜の都に高飛び。年明けに万里亜は警察に職務質問されるも、中学にと
った杵柄で警察官2人を連続大外刈りに。
「なんだよ。投げられるとは思わなかったのに。今は武道やってないからじゃないの」
逃走後、放火する悪あがきを見せた万里亜だが、ほどなく逮捕された。反省と真面目そ
うな言動、雄弁、鑑定ミス、少年法の援護射撃もあり、万里亜は数年で娑婆に出る。

「あーんな、しょぼいプログラムで更生するわけないだぎゃあ」
「裁判所とか拘置所とか刑務所とか都道府県に巣食う精神科医って、仕事を知らない税金
泥棒。そりゃそっか。敏腕の医者は民間だしね」
「俺様も年取ったなあ。今さら大学行きたくないし。高卒だとなあ」
「愛読書の『魔女狩りの白魔術』はまずかったかなあ」
医者や薬剤師、看護師にはなろうかなと思ったことがあるし、まだ看護師になら。専門
学校に行きながら放射線技師の資格も取った。首尾よく放射線技師つきの看護婦として病
院で働きだした。
「ちょろいもんね。世の中なんて」
万里亜は命令ときまりに耐えられず、点滴と注射の二重束縛を解き放ち、高齢者を用意
周到に殺し始める。
「おばあさん。私につかまってください」
「すみませんねえ。ちょっと転んじゃいまして。骨には問題ないと思うんですけど。骨粗
しょう症とかがねえ」
「墨東西病院でよろしいですか」
「ええ。私はなにかあると昔からそこにしてるんですよ」

- 135 -
「すぐ着きますからねえ」
「では、お大事に」
「助かりました」
「いいえ。!」
抑圧された殺意が息急き切って放たれる感じ。なのに、なにかに満たされていない。
「病室か」
「あなた、そこでなにをしてるの」
「お注射と点滴です。面会時間は決まっていますので」
「あなたはこころに良心がないどころか、科学にも良心がいることをわかっていないわ」
「いきなりなにを言っているの」
「偽名を使って整形してもわかるわ。私も調査力には自信があるの」
「へえー。あなたの言い分だと、私が科学を正論みたいに振りかざしているってことかし
ら」
「そうね」
「じゃあ、原爆はどうするのよ。世界中にいっぱいぱいぱいじゃない。与党だって戦後か
らずっと武器にしかねない勢いだし。非核三原則は法律じゃないもんね」
「確かに第二次世界大戦の産物よ。戦争で科学が発達することも事実だわ」
「ほうら」
「でも、原子力発電所やインターネットがないと不便だわ。ちがって」
「ちがうわ。使用済み核燃料はガラスで固めてみちのくに隠してるし。地震とか津波が恐
ろしいし。火力発電所と太陽光発電とトウモロコシのバイオマス発電でなんとかなるし。
性犯罪も誘発してるし。きゃはは」
「使い方だと思うわ。現代の便利な生活を続ける以上、原発は必要悪じゃないかしら。江
戸時代に戻れば別だけど」
「時代遅れ。おっくれてるー!」
「あのね。ずるいやり方だけど、原子力工学は未熟で若い世代に期待してるとか。核融合
までの架け橋とか。二酸化炭素を増やさない、食料を確保する、原因がわからない地球温
暖化を減速させる。やらなくてはいけないことは、たくさんあるの」
「俺様のやりたいことはただ一つ。毒と人体の裏を極めること!」
「自然のエネルギーを電力にするのは、まだ効率が悪いのよ。八ッ場ダムはいらないし。

- 136 -
技術の中身も少しは知っていないとね。ブラックボックスにしていいところ、してはいけ
ないところ」
「化学反応も俺様の脳もブラックボックスじゃねえか。家電製品と関数だってfunction!」
「そういうのも分別じゃない」
「人間がいなきゃいいの。だから俺が、俺様が。団体つくって裏の世界から。きゃっほー!」
「大きな声を出さないで。人間も地球から生まれたのよ。って本性を現わしたわね」
「俺様はいつも本気」
「勉強できると頭がいいをごっちゃにした小娘」
「なにがちがうのさ」
「人と歴史が織りなす科学の文化で天を思い出せ」
「なあに、それ」
「俺。あたしはここで」
つまらない失敗を多発する万里亜は病院を解雇される。再逮捕された後、看護師だった
経験を生かした模範囚へ。仮出所したときに科学の知識をすべて失い、みちのくへひとり
旅立ったという。都市対抗野球の応援団の一員として応援している姿を見たという人もい
る。
「いたぞ。学ランを着た男だ」

上州紅白
「この夏は1週間も休みもらっちゃった。仕事ばかりじゃ息がつまるわ。よく働き、よく
遊ばないと」
(デートとかはないの)
「それは言わない約束よ」
渋川駅まで特急で来て、レンタカーにしようと思ったけれど。路線バスにしてよかった
わ。のんびり走ってくれるし。昔は軽便鉄道があったみたいね。残念。榛名富士はどうし
ようかしら。榛名神社も捨てがたいのよねえ。今日は忘れずに『不如帰』も忍ばせてきた
のだから。文学館だって。宿で涙がまた落ちるかも。欲張りになっちゃう。女だもの。世
田谷の蘆花恒春園も23区とは思えないほどすてきなのよね。
「あら、ぼけっとしてるうちに伊香保温泉」

- 137 -
「降ります。降りまーす」
玉藻も群馬に住んでいるけれど、山の方じゃないのよね。私は山が好きだ。平野の辺り
はあまり知らないわ。だいたいメールか電話で済ませちゃうし、会うときは東京だから。
「たまには群馬で会ってあげようかしら」
「まあ、予定のない8泊9日だけど。時間があったらね」
やっぱり、石段よね。お湯の量が少ない気がするけれど、ゆっくり上ると当時の面影と
情緒が甦る気がするわ。
「あっ、射的のお店」
日本は平和な国ね。この辺りで振り返ろう。
「わあ。眼下に広がる上州の山と緑、それに伊香保の旅館街」

伊香保風吹く日吹かぬ日ありといえど吾が恋のみし時なかりけり
(万葉集)
伊香保にもからっ風は吹くのかしら。歌はまだよくわからないけれど。万葉集は素朴で
力強くて直線的だったはず。時間を忘れるとか、恋に燃えているとか。そんな意味なの。
「仕事してるんだか、してないんだかわからない玉藻に電話してみようかな。最終日に高
崎駅まで迎えに来させちゃったりして」
「もしもし、玉藻。玲よ」
「え?その日は東京にいるの」
「私がお茶に誘ってあげてるのに?」
「ごめんごめんって。本当に仕事なの。また女の子」
「切ったわねえ」
「なに。殺意のような」
「故意、ではないの。いいえ、弱いけどきわめてわざとらしい。南東の方かしら。消えて
しまったわ。山の陰に」
「もう。誰かアナログ信号をディジタル信号に変換する生体チップでも開発してくれない
かな。どうせ私はもう人間に」
今夜は伊香保温泉を堪能することにして。時間には余裕があるし、宿も決めていないし、
群馬は温泉も豊かだから。草津、鬼押し出し、キャベツキムチ、下仁田のねぎとこんにゃ
く、妙義山、群馬県立自然史博物館、安中市が埋め戻した縄文の円環遺跡、上越線のルー

- 138 -
プは外せないわ。すべて回れるかしら。
「あっ。という間に最終日。残すは萩原朔太郎記念館ね」
「あら、メールだわ。玉藻じゃない。なあに」
仕事が早く終わったから、迎えに行くよ
「ふふ。もう少しうまいうそをつけばいいのに。またふられたのね」

「おい、須納」
「なんだよ」
「お前はどこ受けるんだ」
「上野大学医学部」
「模試の成績が悪いから百葉大学はあきらめたんだ。俺は受けるぜ」
「うるせえよ。大学なんて出てからが勝負だ」
「大きく出たな。俺も負けないぜ。誰からも好かれる脳外科医になる」
「俺だって外科医にはなる」
「不器用なお前がか。字も汚いし」
「あと8年はある」
大学に入ると一年が瞬く間に過ぎる。春から念願だったような外科医。それも上野大
学で内視鏡外科学、かつ附属病院第二外科の助教の座を射止めた。助手とは名前がちがう
だけである。
「本当に大変だったなあ」
学生だから金は使わなかったけれど。お中元とお歳暮は欠かさず、教授室と研究室の掃
除、学会や研修旅行の宿と切符の手配、歓楽街の案内、ホステスへの根回し、第二外科長
と第一外科長と医学部長のパイプ役、密告、貶め。教授は色男嫌いで、既婚のお嬢さんだ
ったのがせめてもの救いだった。まだ序の口。
「俺、群馬嫌いだしな。暑くて寒くて風が冷たい」
「第一は旧帝大出身が多い。だがしかし。第二なら一発もあるし奇病難病の手術が多い」
腹腔鏡手術は開腹手術よりも俺に合っているはずだ。腹部に開けた3~15mmの複数
個の穴から内視鏡器具を腹腔内に挿入して手術する。カメラの直径が1cmだから、内臓
脂肪やがんがあると面倒だが。合併症もよく起こるし。触覚と3次元の感覚がないんだよ
な。上野大学は3Dを導入する気ないし。開腹手術は切ったり、開いたり、つかんだり、

- 139 -
引っかいたり、止めたり、縫ったり、生理食塩水で洗ったり、術後にX線を当てたり、面
倒くさい。
「さあ、記念すべき病院勤務第1号の実験体、いや出世の踏み台、おっと患者と家族に説
明しなければ」
だいたい、なんでチームのただの一員でしかない俺が。我慢我慢。ストレスが溜まらな
いように。
「はじめまして。手術を担当する須納です。みなさん不安だと思いますが、安心してくだ
さい。手術は切除する、形成する、移植する、検査することを目的に行います。今日は開
腹せず、腹腔鏡を使いますので、患者さんの負担も少なく、すぐに退院できます」
「危険はないんですか」
「我が病院の腹腔鏡手術の実績は、馬群を抜き去るくらい群を抜いています。麻酔医や看
護師との会議も滞りなく終わっています」
「よろしくお願いします」
「任せてください」
手術は短い時間で終わったが、患者は間もなく亡くなった。
「妻は。妻は肝硬変の手前だと。どうして死ななきゃならんのですか」
「落ち着いてください」
(ちっ。これも立身出世のため)
「腹腔鏡手術をしたのですが。手術中に検査でわからなかった病変が見つかりました」
「検査でわからなかったって」
「検査は100%ではありません。手術前にも説明しましたが。CTやMRIでもわから
ないものがたくさんあります」
「ではなぜ」
「すい臓に小さな腫瘍が見つかりましたので、開腹手術に切り替えました」
「でも手術の時間は」
「ええ。すぐに切除できました。ただ」
「ただ」
「肝臓に肝硬変が進んだ肝臓がんがありまして」
「え」
「これもすぐに取り除いたのですが。高齢ゆえの体力の低下もあり、予後が悪かったので

- 140 -
はないかと。合併症を起こした可能性もあります。なんとも言えませんが」
「そんな」
「お気の毒です」
(あいつ。いやなことをさせやがる)
外科なので、開腹だけの手術もある。豊は祈るばかりだ。
「私は腹腔鏡で問題ないと思います」
「須納先生。画像ですと、肝臓の中ほどで体積の1/10くらいの腫瘍が見られます。開
腹が安全だと考えます」
麻酔医や看護師も同意し、豊は四面楚歌。
「わ、わかりました。患者の体力を優先したのですが、開腹で行きましょう」
「メス」
「はい」
「いや、電気メス」
「はい」
「やっぱりメス」
「先生、どっちですか。どっちかにしてください」
「すまない」
「ハサミ」
「先生、そんなに切るんですか」
「え。ああ」
「開創器」
「癒着しますよ」
「そうだったね」
「ピンセット」
「もう少し丁寧につまんでください」
「すまんすまん」
「えーと。あ、なんて言うんだったかな。あの感じ」
「はい、鉗子」
「先生、その位置だとつかんで持てません」
「そうだったかな」

- 141 -
「鍵」
「やだ。鍵なんて渡しません。私、そんなに軽くないもの」
「いや、そうではなくて」
「ここが鍵ですよね。はい、鉤」
「針」
「はい。って針だけでどうするんですか。持針器と糸。私は先生の古女房じゃありません
よ」
「ちょっと疲れていてね」
(看護婦なんて俺たちの下僕でいいんだ。いちいちうるさい。最近はおだてられて高給取
り気取りか)
「ふう。汗もかかなかったな。これだから開腹手術は」
「ああ!まだ手術記録とカルテがあったよ!」
どちらも三下り半でいいな。病名?病名なんて、後からいくらでも書き替えられるさ。

教授や大学、病院をさまよい続け、教授の実績を向上させる手術と雑用も順調にこなし、
豊は講師になっていた。
「須納くん」
「竹刀教授。おはようございます」
(こいつ手術は2桁だし、午後から出勤だし、根暗だし、陰険だし。睨まれないようにし
ないと。お前は名前と同じく、真剣さが足りないんだ)
「今度の教授会で君を助教授に推薦しようと思うんだ」
「え?私を。ありがとうございます。これも先生のご指導の賜物です」
「だが、紀要論文が1本足りん」
「はい。必ず書き上げます」
「今月中に」
「は。いえ、全身全霊をもちまして」
(お前の分の手術とアルバイト、学会もあるのに。他人のことはおかまいなしか)
「では、次の方。お願いします」
「国立大学法人上野大学医学部で講師をしております須納豊です」
「本日は『内視鏡外科学に密着した平面と立体をゆき交うレンズ眼から技術の目までの錯

- 142 -
視における現代の腹腔鏡手術が開く未来の栄光』につきまして、お話させていただきます」
ざわざわさわさわ。
(よし。つかみは大丈夫だ。今日は再生医療の権威もいらっしゃる)
「我が病院における腹腔鏡手術は完璧であります!」
「今、申し上げました完璧というのは、お年を召された方や幼い方、ならびに慢性的な持
病のある方、さらには体力のなかったと思われる方を除いてです。完璧な手術は妄想です
から」
「まず、マニュピュレーターですが。えー、これは原子爆弾もとい、原子力発電所や文殊
菩薩におけるメンテナンスや使用済み核燃料の処理、ひいては廃炉にあたって遠隔で操作
することにより、執刀医の安全保身責任転嫁。いや」
がやがやぱくぱくごくごく。
(危ない。地方の俺だからあまり聞いていない)
発表はさんざんだったが、論文は竹刀教授の連名の後押しもあり、大学内だけでは及第
で認められた。
「先生、本当にありがとうございました!」
「いやいや、須納くん。まあ、君が助教授になれたのはほとんど私のおかげだけどね」
「はいっ」
「ゆくゆくは私の後釜にと」
「もったいないお言葉です」
「なぜうちは准教授と呼ばないか知ってるかね」
「いえ」
「あくまでも、いつまでも教授を信じて助け抜くからだよ。私が生きている限り。これか
らも手術の実績づくりを頼むよ。ははは」
(くっ。この世から消えてなくなれ。耐えろ、耐えるんだ。俺は群馬が大嫌いだ!)
研究室から廊下へと足音かつ笑い声高く響きわたる竹刀教授であった。それからの豊は、
白亜の象牙の塔に降りた辻斬りの亡者を信仰しつつ、腹腔鏡手術で8人、開腹手術で10
人を闇に葬った。
「あいつさあ、器具の持ち方とか握りがなってないんだよね」
「草書体と楔形文字をないまぜにしたカルテだから、読めないしな」
「論文も読んだけど、日本語ちょっとだな。やっぱ地方の医大だ。竹刀教授の」

- 143 -
「おい、口を慎め。いくら第二と仲悪いと言っても、相手は教授」
「黙っててくれよ」
キャンパスや病院内で陰口を叩かれていることを豊は知っている。聞こえるような声で
話しかける輩さえいるのだ。
「それはもう慣れた」
強靭な、と豊が勘違いしている精神力がなければ、日本の大学では生き残れない。

大学も病院もひた隠しにしてきたあれが明るみになった。
「須納くん。まずいよ。よくないよ。悪いね。有名になるのはいいが、マスコミとか弁護
士とか謝罪文とか私の栄転とか日本人の医師初の生理学・医学賞とか。困るねえ」
「先生、わかっております。すべてはわたくしにお任せください」
「だ、大丈夫かね」
「はい。今をときめくThe Great Internetの時代ではありますが、先生のお名前は決して。
弁護士は金でなんとかなりますし、示談金もありますし。新前橋はいざ知らず、高崎や前
橋の事務所なら口も堅いと」
「ほ、ほんとう?」
「忠治に誓いまして」
「君を部下にもって私はしあわせだ」
「大きな声では申し上げられませんが、その代わり私の」
「うんうん」
珍しく忙しい豊は画策に奔走する。証拠の隠滅を図ろう。計画は着実に。
「カルテと手術記録を燃やして。電子カルテは面倒だが、とりあえず暗号化。持つべきは
よい友」
「謝罪文は36文字29行のA4で1枚。えーい、面倒だ。三下り半の倍で十分。7行に
しよう。公文書がだいたいそうだから、いや、やたら長いだけだっけ」
「ちっ、労力が惜しい。同じ文面をFAXで一斉送信」
「須納助教授」
「先生、おはようございます」
「もう私では君をかばいきれない。少し旅に出てくれ給え」
「はい、竹刀教授。あの件、よしなに」

- 144 -
「ああ」
(もう二度と会うこともあるまい。須納)

「もう執刀はおやめなさい」
「なんだね、君は。これから腹腔鏡のオペがあります。ご家族でしたら廊下でお待ちくだ
さい」
「上野大学を辞めればいいとでも。灯台下暗しで前橋に潜伏とは恐れ入るわ」
「誰のことですか。身なりを整え、ご家族にもう一度説明しなければならないのでね。失
礼」
「19人目はないわ。そんなこと、ずいぶんしてないのにね。血にまみれた白衣で飾る上
州の十八人殺し」
「なんのことですか」
「とぼけないで。自分の胸に聞きなさい」
「すでに弁護士を通して話がついているし、群馬県警の事情聴取すらない。言いがかりも
いいところですね」
「医師の誇りはないの」
「教授へ贈る手術には無用の長物ですね。もう教授は無理かな。きわめて閉鎖的な世界で
してね」
「暗渠の方が明るいみたいね。なら、さっさと足を洗ったら」
「私はこれが専門ですからね。専門外は肌に合わないというか」
「専門外という日本語はないわ。どこの世界も上に行くほど知識と知恵がいるの」
「素人のくせにうるさいですね。そこをどいてください」
「医学の父を忘れたの」
「ああ、ヒポクラテスですか。超古代文明の」
「病は全体の気持ちからよ。患部はいつも体のすべて、病は一つ」
「そんな時代もありましたねえ。現代は西洋医学ですから。診断して病気を決め、治療や
人工の薬物を投与します」
「欧米では西洋離れが進んでいるわ」
「ここは日本ですから」
「顔色、脈、熱、痛み、動作、排泄、食欲、睡眠の記録や規則正しい生活、適切な運動で

- 145 -
自然治癒力を高める。あなたはカルテや記録もずさんの極み。治療の基本はなめて治すこ
とよね」
「理想ですけれどね」
「あなたの得意な内視鏡もヒポクラテスが」
「うっ。それは。あんな古い人間、単位を取るための通過儀礼に過ぎん」
豊はまだ染まっていない白衣のポケットに手を入れ、部屋を出ていこうとした。
(くらえ)
「あら、なにするの。そんな運動神経の鈍い動き。かわいらしい針で眠らそうとでも。久
遠に」
「こいつ、一体」
「このブローチね。カメラがついてるの。殺人未遂くらいにはなるかしら」
「ゆすりたかりか」
「いやだわ。人聞きの悪い」
「もう立証はできまい」
「それはどうかな。あなた、国立の医学部出てるからね」
「それがどうした」
「ヒポクラテスの逆賊。神の使いを気取る自己正当化の権化」
「密室の医療行為の前で、すべては無力だよ。殺人には故意がいるからな。殺そうと思っ
て手術するやつはいない。ビデオカメラがあっても同じ」
「そうね。お前は裁かれないだろう」
「ふ」
「これでひも医者のお前の生き方は終わりだ。紅白と違える二重らせんで古の英知を呼び
覚ませ」
玲の精神波は、豊の額の直前で解かれる。ある波が海馬とその周りを照らし、別の波が
前頭葉に広く当たった。玲は電磁波が見えないので、女の本能でしたのだ。
「もしもし、テレビ落日です」
「須納豊というものです」
「ご用件は」
「ヒポクラテスへ帰れ!ひもになることなかれ。です」
「は?」

- 146 -
「失礼いたしました。私は国立大学法人上野大学医学部附属病院の第二外科で助教授をし
ていました。大学の組織の実態とともに、私が引き起こした事件につきまして、御社に独
占インタビューをしていただきたく」
「えっ?は、はい。少々お待ちください」
報道特別番組の制作が進む中、豊は18人の亡くなった方と残された方に宛て、手術と
その前後の詳細な記録を含めた謝罪文を送った。医療ミスを立証できる資料を添付して。
お墓参りをしたい旨の文章も書かれていたが、ご遺族にはすべて断られた。放送後、群
馬県警はようやく重い腰を上げたが、捜査は遅々として進んでいない。
風の便りが聞こえてきた。特別介護老人ホームである介護士が働いているらしい。
「若いのに物知りなんだねえ」
「いやあ、みなさんのお役に立てればと思いまして。本を読むのが好きだから、医療とか
薬とか。ぼくなんか下手の横好きですよお」
名を素能世豊。半世紀を生きてきた。

「失礼します。トランプ大将」
「なんだ、ポーカー准将」
「研究所の活動報告であります」
「レイか」
「おっしゃる通りであります」
「どのくらいだ」
「はい、来年の予算として」
「そうではない。レイを捕らえる算段だ。レイは極秘。レイのデータの流出を防ぎ、これ
を使って次世代の兵器開発に生かすのだ」
「はっ。研究所の開発は実験体No.7こと、アヤナまで終わりました」
「アヤナ。ホワット?あれからずいぶん経っているな。もっとまめに報告しろ」
「申し訳ありません。雑用も下級士官の仕事であると考えまして」
「うむ」
「レイが精神波を1発しか出せないのに対し、アヤナは同時に7発も撃てます。扇を広げ
たように。研究所ではこれを七色の虹になぞらえ、カラー・セヴンで彩七と名づけました。
日本人の血を引く女の子としてかわいらしく育って立派な兵器になってほしかった親の願

- 147 -
いです」
「おい」
「はい。なんでしょう、か」
「俺はその手の話を好かない」
「失礼しました。ただし」
「問題があるのか」
「アヤナの放つ7つの光線は、レイの射程と同じですが1/7の強さです。前頭葉で1条
の精神波を分波するため、唱えてから照射するまでの速さにも問題があります」
「使えんな」
「ごもっともです」
「どうでもよいが」
「は」
「レイを生け捕りにするのはそんなに難しいのか。消してもよいぞ」
「まず、日本に潜んでいることが問題です。派手なことはできません。身体能力や精神力
もずば抜けています。ただの優秀な兵士では歯が立ちません」
「それに」
「それに、なんだ」
「実験体というのは最初がもっとも優れているものです。レイは成長しています。なんと
してでも、捕らえた方がお国のためかと」
「むう。そうか。では、よい結果報告だけでいいだろう」
「かしこまりました」

ふたなり
「吉梅院長」
「なんだ」
「次は双極性障害の新患です」
(一応、電子カルテに既往歴が載ってますけど。年だからねえ。パソコンは人差し指だし)
「今、統合失調双極性感情障害でてんてこまいだ。待たせておけ。うちは早い者勝ちだか
ら」

- 148 -
これ、むずかしいけれど面白いなあ。なんかうつ状態でも、本を読むくらいなら。ここ
は2時間、3時間待ちも自然だしな。
「あんた。呼ばれたわよ」
「ああ」
「こんにちは」
和哉はちらと患者の手元を見た。
「ヴィトゲンシュタインはな、分裂病だって言われてるんだ!そんなの読んでるからよく
ならないんだよ!」
(うつ状態で反論できないことをいいことに。関係ないよ!クレッチュマーが『天才の心
理学』(岩波文庫)で「天才は狭義の精神病だ」って書いてるから。蚊の鳴くような声だ
な、俺。元気ない)
朝布高校から第一高等学校に入り、東京帝国大学医学部をご卒業した後、東大で邪険
にされて信濃大学では教授にまで登りつめ、数々の精神医学会の理事を歴任しておるわし
じゃ。市河市にそびえるこの弐場病院はな。小僧!裸一貫の切り絵貼り絵で財をなしたあ
の天才を飼育した伝説があるのじゃ。わしが見て診るのだ。まちがいなどない。
「わしの一言一句を丸暗記せよ」
「え」
「は?」
(この老いぼれ)
おっと、無理な相談じゃったかな。わしとしたことが。下々の者に対して。完全無欠
のわし。どうせお前らはただのキ○ガイ。特に、お前のような理系かぶれは知識だけをひ
けらかしてどうもいかん。医学を医療を、治療となけなしの投薬をなんと心得ておる。医
学は科学ではないのじゃ。と群馬の院長も教えてくれたじゃろう。わしは薬を選択してお
るのではない。選抜して厳選しておるのじゃ。ふぉふぉ。お前の程度になると、やれ医療
もサービスとか、医者は傲慢不遜だとか。五月蝿よのお。見よ。さつきの陽がきらめいて
おるのに。平日も土曜日も来る日も来る日も。都立癲狂院は土日が休みだというのに。え
えい、気が狂いそうじゃわい!ギリギリキリキリむぐむぐもぐもぐ。いかんいかん。持病
の歯ぎしりと口の老人性ジスキネジアが。ついでに胃も。
「そうかいそうかい。会社に復帰ですね。あなたは22年間も検査も心理療法もしていな
いⅠ型ですから。SSRIを使うわけにはいきません。三環系の抗うつ薬なんてもってのほか

- 149 -
です。この街の塩田辺りでは、近くに教養部がある大卒の医師が処方しますから、注意し
てください。躁転する毒薬ですからねえ。大学の名前が長くなると程度が低くなるもので
す。SNRIはどうでしょう。飲み心地が少しマイルドですよ」
「夫の会社が」
(もうだめだよ。1年も待ってもらえたんだ。お客さまの間でも著名な影の所長こと、お
ばあちゃまからは最後通告だし。でも、このマイナス思考)
「なるほど。では、去年出たミルタザピンはどうでしょう」
「どんな薬ですか」
(ど素人にはカタカナと横文字と相場は決まっておる。あと漢字の濫用だな。ありがたみ
とか舶来品の崇拝もあるしのう)
「ちょっと待ってね。えーと、『今の治療薬昨年版解説と便覧』(北江堂)を読むからね」
「うん・・・・・・・ふむ・・・・・やはり・・・」
「・・・・・」
「!・・・」(なんだよ。知らないんじゃん。太田の理事長はパソコン使えるけど、液晶
ディスプレイに釘づけ。帝国大学ってなんだろう?)
「日本では商品名がリフレックス(登録商標)です」
(普通名詞じゃん。また特許庁。阪神優勝(取り消し登録商標)もあったなあ)
「あのダイアナ妃もご寵愛なさったDuran Duranの名曲『The Reflex』から取ったんでし
ょうねえ。ロマンがありますね?生物学では反射とか条件反射くらいの意味です。劇的に
効くといいですね?ところで冬のオリンピックは見ましたか」
「はい」
「はあ?」
「妖艶でしたねぇ!石波書店から本を出している私が解説するのです。まちがいありませ
ん」
(こいつ勉強ばっかで運動したことないな。練習に鍛錬を重ね、筋肉を必要最小限に鍛え、
バランスよくミスなしで滑らかに舞う躍動感、です。あの本は捨てよう)
「ん、んっ。失礼」
(自分の話ばっかり。うつ状態をなんだと思っている。でも、この辺にいい病院ないんだ
よなあ)
「ミルタザピンはオランダで開発された四環系抗うつ薬です。まあヘキサゴンが4つです。

- 150 -
面白い薬でしてね」
(この世におもしろい薬なんてないよ)
「ノルアドレナリン作動性特異的セロトニン作動性抗うつ薬で、いわゆるNaSSAです。副
作用もなく、持ち上げてくれる縁の下の力持ちというところでしょうか」
(早く帰りたい。横になりたい。精神科医が臓器を見たことない、薬理学を知らない、血
液検査をしない、光トポグラフィー(日昇グループの開放登録商標)は高いんだよ!って
逃げ回ることは、もう知っている)
「世界中で絶賛されている抗うつ薬ですから」
(俺は不治の病、波に任せつつさらわれないようにする躁うつ病だよ。どうせ脳神経細胞
の間隙をいじくる間に合わせの人工有機化合物)
「ああ、光ポトですか。私も研究していたんですよ」
(あなたは最高学府で研究じゃなくて勉強や研修です。数十年前の分光技術を使ってよう
やくできたんです。医療機器も使わないし、検査もしないし、めぶんりょうだし。経験と
勘ですか。精神科医が闇に蠢いているから!)
「ありがとうございました」
「はい。じゃ、また来週ね」
(あの青二才。いやな目をしおるわ。ま、わしが直々に見るんだ。安心せい。羅針盤じゃ
よ)
(これだから治る教育の家父長制世代は。闇から闇への深淵か。ノルアドレナリンが増え
ると興奮するから、まずいんじゃないの?スマホで調べよう。泥船じゃないといいけど)
「会社はだめでした」
「そう。じゃあ、薬やめましょう。炭酸リチウムとバルプロ酸ナトリウムで」
(それしかないからのう)
「今後ともよろしくお願いします」
(いきなり断薬はまずいんじゃないの。はあ、言いたくない)
(この餓鬼、その目だ。眼)
「精神とはなにか。と考えたことはおありですかな」
「いいえ、あたしは」
(ずっとわからないと思うけど。犬の気持ちも猫の気まぐれも、女の気分だってわかんな
いから!)

- 151 -
「それでいいと思います」
(わしさえわからんからな。ふぉ。もぐもぐ)
(じゃあ聞くなよ。心理科学医とかの方がかっこいいと思う。百葉大学ではドアに再教育
指導試験室って書いてあるし。データを取るの?日本はまだまだ心理療法を無視してるん
だよなあ)
「あんた」
「なんだよ」
「こーんなかわいい娘がいるのに!無限の遠くを見る目。貧乏ゆすりで地響き家鳴り海鳴
り。おまけに口がこうよ」
(えっ?下あごのピストン運動で上あごとすり減る歯で奏でる調べなの)
男は離脱症状と遅発性ジスキネジアにしばらく悩まされる。
(みじめだな)

「近ごろの若いもんときたら、計算機を使って小生意気な口を利きよる。しょせんは生兵
法よ」
「院長先生」
「なんじゃ」
「そろそろ入院している患者の診察と回診のお時間です」
「うむ」
ここがわしの本領を発揮するところじゃ。群馬では日本初の完全開放病棟も完全閉鎖の
時代じゃし。やはり、この世の沙汰も金よのう。我が病院は薔薇一族が見守る部分開放病
棟を併設しておる。ちと割高じゃがの。シングルルームだと居心地がよかろうて。どこに
収監するかはわしの気分じゃ。警察官や軍人、裁判官さえも。
「ぐっ。入れ歯が」
「むうっ。なんたることよ。差し歯を飲んじまったわい。前歯は保険が効かんし。まった
く」
この世界で思うようにならんだのは、母校の教授職と車の運転ぐらいなんだに。
「それが口惜しいわ」
ギリギリ。こわい。危ないな、押すなよ。崖は嫌いだ。夢で見るから!んぐんぐ。まあ、
なんだ。美少年の運転手がいるからな。

- 152 -
それにつけても、憎まれっ子世にはばかるじゃ。くっくっふぉっふおっ。ぐむっ。心の
臓物が。ニトロ錠とAED、いやABCであろうか。速く持て。善人は早く死ぬ。やはり、
欲絶倫出世名声名誉権利。はて、いつになったら勲章を賜るのか。
「どうですか」
「先生」
「安定してますね」
「院長のおかげです」
「顔色が悪いようですが」
「そんなことありません。私は院長先生に診てもらっていますから」
現場の臨場感・・・・・。言葉にならんわ。一国の城主、でも生ぬるい。次はあのお嬢
さんのお部屋。
「こんにちは。いかがですか」
「あ、吉梅くん。この頃、見なかったから。心配で」
「そうですか。元気そうでなによりです」
「枕を涙で濡らすことも多いの」
「わかりました。クエチアピンとアリピプラゾールを目いっぱいにしましょう」
「うん。でも」
「どうしたのですか」
「私、食べ過ぎている気がして。それに、自分を抑えすぎてストレスが。寂しくて、さみ
しいの」
「いけませんね。でも、安心してください。アリピプラゾールはやせ薬、DVの促進、だ
液を増やしてフェロモンの感受性を高める愛の効果もあります。薬価も高いですから、病
院も僕も懐が貧しさとは無縁の」
(おっと。使い慣れない言葉で、つい。若造どもは医者の言葉づかいがなってないとか小
生意気な視線を放つから)
「ほんとう」
「本当だよ。また、土曜日に」
(この系統は性的倒錯行為がままあるからな。男はそもそも色き○がいだがら、ならない
がのう)
「うん、はい」

- 153 -
よしよし。堕ちるのは時間の問題じゃな。さて、開放病棟は終わった。完全閉鎖病棟へ。
「気が重い。じゃが、あそこには」
「うん。はい。そうか。それはね。増やしとこう。注射。睡眠薬。そうかい。そうかいそ
うかい。いけないねえ。・・・・・ふう」
「かず兄ちゃん。会いたかった!」
「こら。そんなに急に動いたら、手足縛り首2年の刑が長くなるだろう」
「ごめんなさい」
「どうだい」
「うん、元気」
「そうか。よかった」
「でも」
「どうした」
「かず兄ちゃん、あの年増のこと考えてるから」
「な、なにを言い出すんだ」
「ぼくだけにはわかる」
「疲れているんだよ。お薬もらってきてあげるからね」
(今夜の当直で手込めは無理か)
「そうやって、いつもぼくを子ども扱いして」
「そんなことはないよ。俺はお前をいつも見ている」
「本当」
「ああ、本当だよ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
(こっち系は女性的な自己愛とエレクトラ・コンプレックスじゃ。青いときが狂ったわし
のくだもの)

「先生、先ほど娘と話したのですが」
「はい」
「ここのところ、ずいぶん落ち着いていると思います」
「そうですね。お義父さんのおっしゃる通りです。ただ」

- 154 -
「ただ」
「人間の脳や精神、魂というものは、単純でもあり複雑なものでもあります」
「はあ」
「緻密と言ってもいいかもしれません」
「どういうことでしょうか。私にはさっぱり」
「失礼しました」
「お嬢さんは、少し隔離された環境、すなわち刺激の少ない中で生活しています。規則正
しい生活をし、一日三食、バラ園の散歩、読書などです。私どもは患者さんの人間関係に
も重きを置いていますので、看護師をはじめ、精神衛生保健福祉士、事務員、ベンダー業
者、もちろん医師も一枚岩となって対応しています。薬も適当な。ん、んっ。これは2つ
の意味になってしまいますじゃ。もとい、適切なものを飲んでいただいております。それ
はもう、電子式の秤量計を凌ぐほどに」
「ええ」
「今がいちばん大切なときです」
「と言いますと」
「もうしばらく。そうですね、あと2週間ほど」
「そ、そんな。いいえ、よろしくお願いします」
「お任せください」
(もう少しなのじゃ。誰にも邪魔はさせん)
「院長先生」
「はい、お義母さん」
「あの子の拘束を解いてくれないでしょうか」
「まだ難しいかと」
「もう1年半も。夫が浮気してよその女と逃げて、離婚訴訟しても弁護士がだめで養育費
ももらえず、私の稼ぎでは私立高校どころか大学にも行かせてやれず、よくわからない病
気になって、私がたまに来てもろくに話してくれないし、お兄ちゃんおにいちゃんって、
それにとってもしあわせだとか意味がわからないし。う、ううっ」
「落ち着いてください。あまり感情的にならないで」
「でも、でも。ひっ、ひっく」
「私たちは理由もなく、保護室に息子さんを入れているのではありません。まだ興奮しや

- 155 -
すいときがあります。ですから、手を変え品を変えながら投薬をし、必要なときにだけ光
速で拘束させていただいております。近ごろはインターネットや週刊誌、本などで人件費
の節約のため、手抜きだから、面倒くさいから、医師の越権などとまことしやかに書かれ
ています。すべて根拠のない資料に基づく誤解です。ほかの患者さん、医療スタッフに危
険が及ぶ可能性が高いときに。であります。わたくしたちも断腸の思いなのです」
「それはわかっています。で、でも」
「大丈夫です。ここ数か月でずいぶんよくなったと思います。ご安心ください。必ず退院
できますよ。大船に乗った気持ちで」
「本当ですか!院長先生、どうか。どうかよろしくお願いいたします」
「はい」
(退院などさせるものか。まだ蜜月と甘露が)

「こんにちは」
「和哉、遅刻よ」
「ごめん」
(若い女のため口はいつも至福の響き)
「もう、いつまでたっても子どもなんだから。やっぱり和哉は私みたいなしっかりした姉
さん女房が好きなのね」
「えっ?う、うん」
大げさに滑稽に驚いて見せる和哉。
「うふふ。やっぱり。年下の男の子かあ」
「ぼくはもう大人だ」
「色気づいちゃって。かわいいとこあるのね」
「そ、そんなんじゃないよ」
「うん。わかってるわ」
「わかってない」
「そんなにぷーっ、と膨れないの。ね?和哉」
(今夜はもらった)
「もう帰ってきたの。かず兄ちゃん。お仕事は」
「今日はお前が心配で早く上がってきた」

- 156 -
「男は仕事だから、ちゃんとしてね」
「ああ。ってお前、泣いているのか」
「え?ぼくが。あっ。かず兄ちゃんのこと考えて疲れて眠くなって、それから。どうした
んだろう」
「悪い夢でも見たんじゃないか」
「うん。そうかもしれない」
「でも、夢を見ることはいいことなんだよ。癒してくれることもある。泣きたいときは素
直に泣けばいい」
「そうだよね。ぼく。かず兄ちゃんのこと、大好き」
「おいおい。身が軽くなったからって、抱きつくやつがあるか」
(今宵は連戦連勝。ふぉふぉっ。むっ。いや、わしの心臓よ今少し。常勝思考を貫くのじ
ゃ)
「当直じゃし。焦ることはない」

「院長、どちらに」
「君たちだけに夜警させるわけにはいかん。睡眠がとれているかどうか、見てくるよ」
「そんな。院長先生のお手を煩わせるには及びません。私たちはそのために21~6時の
間、3人で防衛しているのです」
「いいんじゃよ。たまには休みなさい。仕事ばかりではいい男になれんよ」
「はいっ」
(愚かで鈍いとはよく言ったものよ。無能だからさ)
「さて、どっちにしよう。どっちでも」
「和哉、好きにして」
やはり若いおなごは、いい。わしをも弾くやわらかさ。
「かず兄ちゃん。初めてだから」
「わかってる」
みなぎる筋肉の躍動感。この直腸が。少年はいい。
「どちらまで」
「百葉の弐場病院までお願いします」
「え、料金がかなりかかりますよ。それにまだ朝の6時」

- 157 -
「あそこは先着順なんでね」
「わかりました」
娘さんの調子がよくないのね。娘さんには薄墨が。大都会の東京にもいい病院がないの
かしら。
「申し訳ありません。渋滞で私が思っていたよりも高く」
「いいんだよ。ありがとう。気をつけて帰ってください」
「ありがとうございました」
玲が国道14号の市河橋を渡っているとき、木枯らしに吹かれて黒い狂気の悪意が水面
を駆け抜けてきた。
「急いで引き返さないと」
「はじめまして。院長の吉梅です」
「おはようございます。はじめまして。娘が」
「ふむ。そうですか、ではすぐに入院しましょう」
「ちょっと待ってください。そんなに不安定ではありません」
「精神病と神経症とノイローゼと脳科学と精神障害者と精神科医を甘く見てはいけません」
「はあ」
「今が大切なときだと考えます。今日こちらでお会いできてよかったと思います」
(こんな絶世の白痴美のべっぴんとのめぐりあい。逃すか!)
「お義父さんがご心配なさるのも、ごもっともです。ですがしかし。1週間ほどお借りし
た大切な宝物にしていただけませんか」
「は」
「いえ。この病院は一部ではありますが、開放病棟です。バラに包まれながら転地療法を
試してみるというのは。きっとよくなります」
「まあ、そういうことでしたら」
「いいかい」
「うん」
(お預かりします。最後まで)
「ああ、君。お義父さんへの説明が終わったら、私の携帯電話に」
「はい」
(はてさて、どの展開で行こうかのう)

- 158 -
「院長先生」
「なんだ。忙しい」
「春霞です。お父さまがお帰りになりました」
「わかった」
いつになっても、ときめくのはいいものよ。
「院長の吉梅です。入りますよ」
「この1週間の治療の計画をお話します」
「そうは問屋が卸さないわ」
「誰だ、お前は」
「あら、さっき電話したけど」
「看護婦の姿」
「読者サービスです」
「あ。お姉ちゃん。迎えに来てくれたのね。なんか、怖かった。このおじいさん」
「そうよ。遅くなってごめんなさい。もう大丈夫よ」
「あたし、お姉ちゃんのこと。ずっとずっと大好き」
「むう、まずい。エディプス・コンプレックスとの混交」
「自分の心配をしたら、どう」
「サイコパスハンターじゃな」
「なぜそれを」
「わしはプロ。精神医学の業界をなめるな。小娘」
むぐむぐもごもごぐちぐち。
「貴様。おびただしい数の患者さんを」
「まあ、いやとは言っていなかったからのう。って、どうしてそんなことを」
「それだけ口が動いていればな」
「なにが?」
「なら、話は早いわ」
「それはこちらのセリフよ」
「じゃ、おじいちゃま。お手並み拝見ね」
「おいで、お嬢ちゃん」

- 159 -
「貴様は学歴を盾にした卑屈もの。躁をはるかに超えて燥ぐ癇癪持ちのぎりぎりで崖っぷ
ちの院長」
「すがすがしい響きじゃのう」
「そこまでよ。陰陽道を踏み外す両性具有の妄想癖め。脳の病に悩める人びとの不倶戴天
として、桃色と藍色が絡むいきものの愛を思い出せ」
「ふお」
玲は少女に歩み寄ろうとした。
「効いていない?」
「ふぉふぉふお。ぬふふ。ちとあったかいかのう」
ぐっ、こんなときに。
「どうして」
「ふしぎかな。お嬢さん」
「なにをした。私の動体視力は」
「教えてほしいか。三つ指をついてかしずけば。なあ」
「誰が貴様などに」
まさか。脳の構造がふつうとちがう特異体質。
「ここ暑いわ。そうだ」
(年寄りはしばれるからのう。脱がせやすいしな)
と少女は窓を開けた。一陣の風がふっ、と毛玉をさらう。
「いかん」
「なんだ。そういうこと」
「わしの。わしの電磁シールドかつらがあ」
「さようなら。この世から」
「副院長、これを頼む」
「はい。これは辞表じゃないですか」
いたこに弟子入りして修行と修業を揺れ動いていたご高齢の男性は、数年後に恐山の硫
化水素に飲み込まれたという。

紅蓮囚人

- 160 -
「東京家庭裁判所までお願いします」
「はい」
このお客さま、よく私と顔を合わすわ。小さなマンション暮らしだから離婚の裁判かし
らね。聞いちゃえ。
「裁判は大変ですよね」
「ああ」
「裁判なんてやりたくないですよね」
「ああ」
「離婚とか慰謝料とか」
「ああ」
「財産分与とか養育費とか」
「ああ」
「弁護士もお父さん手立てがないんですよとか」
「うーむ」
「依頼費も慰謝料も養育費も腕次第だし」
「くっ」
「弁護士も世の中もお金ですものね」
「本当にそうだ!」
いけない。怒らせちゃったかしら。やせていて神経質そうだし。
「申し訳ありません」
「いや、いいんだ。すまない」
なんだかんだ言っても、人はひとりでは生きてゆけない。人間関係は大切よね。辛そう
だわ。平日だし。土曜日に開いて月曜日は閉めればいいのに。
「親方日の丸だからね。憲法で保障されてるし」
「そうですよねえ」
って、私も陸軍の出身なのよね。足を洗ってよかったわ。
「ありがとうございました。お気をつけて(いろんな意味で)」
「ああ。早く着けたよ、ありがとう。君は美人さんだね」
「そんなことありませんわ」
やだ。それほどでもあります。なんてね。頑張って!パパ。

- 161 -
「おっ、知子。忙しいのに悪いな」
「そうよ、忙しいのよ。なにお兄ちゃん。そのだっさいスーツ」
「なんだと。これは俺の一張羅だ。デインヒル製だぞ」
(薄墨色の風をまとっているようだ)
「ふぅーん」
「デインヒルは北の踊り子の最高傑作たる古都ダンチヒの愛息子。現代の三大始祖たるサ
ドラーズウェルズ劇場、ガリレオ変換とともに25回の英愛リーディングサイアーだ。そ
れにデインヒルはスペースシャトルとして豪でも3回のチャンピオンに。府中では白い稲
妻と白い閃光はどちらが早いのか。光と電気だからだいたい同じ。驚異の斑を受け継ぐ空
飛ぶ牝馬は。仏の旋風ならどうか。雷電は宝塚で馬群に沈んだ。鉄の女の一閃や真珠を探
して落雷を受けた娘とか、少子化の極みの末裔で異次元から侵入した鬼娘の幅広いピッチ
走法の上告とか」
「朝から物理のはなししないでよ。気持ち悪い」
「首の痛みは大丈夫」
「ああ、なんとかな」
「お兄ちゃん、すぐかっとするから。気をつけてね。怒ったら負けよ」
「わかってる」
「紅威良秀裁判官と調停委員会の機械部品を構成します調停委員の男女ペアです」
「よろしくお願いします。お名前は」
「あたしたちは名前を教えてあげられません。恨みとか怒りはごめんです。あなたは精神
障害者ですけど、なんの病気ですか。どんなキ○ガイで半端者なの」
「順番があるので。先に呼ばれた元妻の話を聞かせてください」
(おばあさんが死んでもわからない理由で病になってるよ)
「では、私が説明します」
「はい。ええ。それで。そんなことを。そうですか。根も葉もないのに。そういう拙い戦
術ですか」
「あたし、前から聞きたかったんですけど。どんな薬を飲んでるの」
「いや、今(おじいさんから)説明を受けてるので。待ってください」
(携帯電話で調べるとかはないの。おばあさんに双極性障害I~V型とか、炭酸リチウム
とか言ってもわからないでしょ。ミトコンドリア、DNA、カルシウムシグナリングも聞

- 162 -
く?分子生物学もあるけど)
「私も質問があるんですけど」
「どうぞ」
「離婚して娘の面会に至る経緯を話してください」
「前もって書類を送りましたけど。読んでないんですか」
「はい。まったく(大合唱)」
「今、ここで!ここで読んでください」
「君は私の連れ合いにも失礼だが」
「はあ?」
「なんて口の利き方するんだ!」
(ちょっとでも期待した俺がバカだった。こんどミックスダブルスの大会を紹介してあげ
るよ。どうせ定年後はNPO法人『裁判所OB・OGの専門家が守る離婚と残された子ど
も』だろう)
「次回は3か月後です」
「どうしてですか。1か月に1回じゃ」
「節電の影響で」
「地震が言い訳ですか。あれは国と西京電力の人災ですよね。貞観地震と神社を知りなが
ら。民間は働いていますよ」
「私たちに言われても。専門じゃないんで。私は話を聞くのも苦手なの。井戸端会議でい
いって言われたから。エレベーターでもみんな和やかだったでしょ」
「上に上げてください。希望として」
「アンケートはやってないのよ」
「お兄ちゃん、どうだった」
「話にならないよ」
「まあ、女側が有利だからね」
「まだまだ男女不平等さ」
「控室でもみんなブウブウぶうぶうブヒブヒ言ってるわ」
「みんな大変なんだな」
調停者のいない調停が終わる日。
「医学的根拠が記された書類を提出してください」

- 163 -
(ど素人が書いた書類など信用ならんわ。最低でも司法試験に合格していなければな。し
ょせん、お前は色きちが○、鉄道キチ○イ、物理き○がい、馬○チガイ、テニスバカよ。
要するに気が違っているのさ)
「そんな。病気の原因もわからない、薬もほとんどない、通院や薬を飲んでも30%はど
うにも止まらないんですよ。治療も確立されていない、医療機器も使っていない。厚生労
働省へ『血液検査のガイドラインはないんですか?』と電話したら、40分後に同じ女の
人が『先ほどお電話なさった方ですか?』という進んだ時代です」
「権威のある書類を」
「西京大学ですか」
「自分で調べてください。私は医学が専門外です」
(理科系が。だろう)
「やれやれ審判か。確か初日はメンバーの確認だけ」
やる気はあるのだろうか。西京大学で、男は研修医に高校と大学の第1志望を聞かれ
たが、権威ある書類はもらえなかった。ほの暗い不忍池で男のほほを涙が伝う。
「つまらん」
つまらんつまらん。実につまらん。くだらない。馬鹿らしい。アホか。どいつもこいつ
も。俺が、この俺が、俺様が裁くのだ。良秀はガキ大将に食べさせられた青虫を思い出し、
苦虫をかみつぶした。
「紅威裁判官、顔色が悪いのでは」
「いや、大丈夫だ」
まったく、調査官も俺の顔色ばかりうかがいやがって。仕事をしろ!家庭の審判、調停、
少年の審判。家事審判法と少年法だけ。
「改名、性別の変更、養子の審判など、雑用に等しい」
「どうしました」
腰だけは軽いようだな。ここを辞めてもサービス業が拾ってくれるよ。まあ、なんだ。
離婚訴訟などの人事訴訟以外は非公開。よって、やりっぱなしのずさんな流れ作業。これ
でいい。
「なんだこれは!『当分の間は娘に会わせない』だと!おまけに『職を転々としてるごろ
つきだから』だってさ。何様のつもりだ」
「お兄ちゃん。うすうすそんなことだと。私もまさか日本語ちょっとだとは思わなかった

- 164 -
わ。法律を知ってるだけなのね。世間知らずかあ」
「条文や判例は悪文の見本市だからな。上告してやるさ」
東京高等裁判所や最高裁判所で事態がよくなるわけはない。名前がちがうだけなのだか
ら。最高裁は家裁の文章をそのまま認め、審理しなかった。
「給料と偉さがちがうだけか。国民審査ってなんだろう」
偉そうに上告などして。新前橋の所長に『私は無駄なことはしません。悪いことは言い
ません。やめましょう。みなさん、私に説得されて納得しました』と諭された。腹の虫が
治まらないお前は草津温泉でごまかした。そんなことをしているから、初めは1時間無料
なのに2回目は30分で1万円も払う羽目になるのだ。
「我ら裁判官に睨まれたら法律家を名乗れないからさ。ど田舎で依頼した自分の不幸を呪
え」
調査官も絶対に電話を回すなと再教育してあるからな。常識だよ。お勉強が足りなかっ
たな。高校や大学にでも戻るがいい。大人にこそ必要な再教育だ。百葉大学でしてもらっ
ただろう。
「ストレスが溜まる」
なにかいい解消法は。このところ百葉大学の女子中学生飼育事件とか、地下アイドルめ
った刺し事件とか、伊勢崎の車いすテニス選手盗撮事件とか、女子高生自転車盗聴器おん
ぶにだっこ事件とか、明示大学と弘崎大学のおっぱい事件とか。小童が姦しいからな。物
騒な世の中だ。
「地味で派手なのがい」
「火と炎とほむら」
「ばれたら大罪人。だが、罪は重いほどスリルがある」
自分の手を汚すのは賢くない。あやつり人形や傀儡女を使おう。小便横丁とか風俗街、
場末や溜まり場もいい。公園、河川敷、埠頭も広くて捨てがたい。
「おかえりなさい。遅かったのね。もう19時よ」
「ああ、少年法のことで内閣法制局に呼ばれてね」
「いやな事件が多いわね」
「まだ帰って来てないのか」
「どこかで道草してるんでしょう。暗いからちょっと心配だわ。明日から期末試験なのに」
「東京は明るいから、インターネットの方が心配だ。フィルターをかけたいがよくわから

- 165 -
ん。テストは一夜漬けでもいいんだろう。高校の入試も大学入試も推薦ばかりじゃないか」
「ネットワークは子どもの方が詳しいわ。勉強だけできてもねえ。あなた、家裁で終わら
ないでよ」
(ん?火災)
「なにも知らんくせに」
「なにか言いました」
年ごろの娘は遺伝子が父を嫌うという。娘に恋したのも昔の話だ。花も恥じらう乙女
か。恥の文化を忘れた今の日本では、空しく響きわたるな。せめて嫁入り前までは、厚顔
無恥にならないように祈ろう。女房なんて、どう言ったらいいものやら。
「ゆっくりお酒飲まないでよ。後片づけがあるんだから」
「ああ、今いいところでな」
「つまらない番組ばかりじゃないの」
「いや、法の」
「家に帰って来てまでお仕事ですか」
「風呂に入る」
「そうしてくれると助かります」
口げんかは離婚のはじまりだ。
「そのくらい知っている」
「がちゃがちゃ入れないでくださいよ。割れちゃうから」
「ああ、すまない」
壊すのは誰にでもできる。風呂を出てから寝るまでの2時間は、良秀が書斎にひきこも
って無為な思索に耽る静かなとき。5架の本棚には法律書が積ん読だ。
「懐かしの紙とインクの香り。陽の薫りとともに。あと30年もするとこいつらも分解す
る。老い、老いないもの、賢者の石」
酒もたばこもやらない。胴元だけがもうかるギャンブルなんてもっての外だ。実りのな
い刺激もない日々。金だけはあった。
「墓場に金は持っていけない。有効に使うには」
「ストレスと金の真の融合」
不意にきのうニュースで見た事件を思い出す。家事火事、証紙焼死、愛宕山ヒノカグツ
チ、『宇治拾遺物語』と『地獄変』、娘は燃やせない。人間以外の動物を燃やすのは苦労の

- 166 -
割に面倒だ。
少年の審判でいくつか担当した。まぬけなことをと思ったが。その手があった。理想は
高いほどいい。
「完全完璧連続放火殺人事件。しかも警視庁で迷宮入り」
植物と動物をいっしょに焼却できる。夕暮れどき、当てもなく江戸をさまよった。火事
とけんかは東京の華じゃないか。どうしてこんなに簡単なことが。物乞いと河川敷の組み
合わせからなら。

「君きみ、ここは国土交通省が管理する荒川放水路の河川敷だよ」
「なんだ、警察かよ」
「いや、私はこの辺りを管轄する裁判官だ」
「なんの用だ」
「近いうちに川狩りがはじまる」
「そんなの知ってるよ」
「そうではない。お前たちの逮捕だ」
「なにっ。どういうことだ」
「見逃してやろう。小菅や府中には行きたくあるまい」
「取り引きってことか」
「察しが早い」
「なにをやればいい」
「放火だ」
「そんなのごめんだね。人様に迷惑かけないように生きてきたつもりだ」
「世の中の寄生虫がか」
「悪いことはしてない」
「こんど法律が変わることは知ってるな。庶民がうるさいんでね」
「そんなの知るか」
「一億躁活躍社会だ。原発もあるしな。人力発電とかな」
「それじゃ強制労働」
「形さえあればいいのさ」
「くそっ!やればいいんだろう」

- 167 -
「お前の名前を覚えておこう。ただとは言わん」
「こんなに。わかったぜ」
「交通費も入っている。使い込むなよ」
西新井橋の近くで一軒家が半焼した。
「対岸の火事じゃないか。あの乞食め。北千住で飲み食いしたな。大して放送されないし。
とんだ無駄づかいだ」
やはり浮浪者はだめだ。社会から離れすぎている。時間と場所を指定しないと。それか
ら道具の手渡し。東京の次は同じ国だった埼玉県。公園で溜まる不良少年たちに良秀は声
をかける。
「君たちは学校に行ってるかな」
「うるせえ、じじい。金なさそうだな。オヤジ狩りされたくなかったら、あっち行け」
「まあ、噛みつかないで。私は調査官だよ」
「やべえ、補導される。逃げろ」
「待ちなさい。警察じゃないよ」
「なんだよ」
「裁判所で更生プログラムをつくっているんだが。現場の調査も必要だからね。インタビ
ューといったところかな」
「教えてやれるものなんてないぜ」
「だから、持ってきた」
良秀が開いたキャリーケースに、少年には大金、燃料、ヒドラジン、黄リンが入ってい
た。日時、場所、火のつけ方を書いた取り扱い説明書とともに。
「おっさん、もしかして組の」
「いや、裁判所というのは本当だ。私も君たちと同じようにむしゃくしゃしていてね」
「大人のくせに。面白えじゃねえか。なあ」
一斉にうなずく残りの札つきら。
「大人はバカ正直ではやれないよ」
「あのガキども。大宮でやれと言ったのに。しかもボヤ騒ぎ」
もっとまともな人間を派遣しよう。同時に。法律家志望、絵描き志望、モデル志望、小
説家志望の波状攻撃だ。時計回りの時間差で千葉、茨城、栃木、群馬、神奈川。あれ、ひ
とり足りないな。不法入国者でも使うか。今回はすべてガソリンにしよう。発煙筒で空蝉

- 168 -
の術だ。
「よし、よし。いいぞ。みんな金に困ってるからな」
全焼の確率が3/5か。上々だ。幸運にも焼死体が7つ。苦しかっただろう。でも、ほ
とんどが一酸化炭素中毒だからな。そうでもあるまい。焼かれるよりも意識を失う方が早
い。近ごろは生きたまま焼く斎場もあるらしいし。それに比べたらかわいいいものだ。死
に顔も紅くて美しい。
「奇人と変人ならどうなるか」
シャブ中は火薬か花火。職業病でおあつらえ向きだろう。アル中にはアルコールランプ。
火力は弱いが、アルコールとの葛藤と手の入りやすさが見ものだ。万引き老人に火遊びは
無理だから、原始的に新聞紙と凸レンズ。見つかったところでボケればいい。認知症って
認知する病だよな。医学者もいいかげんだ。精神障害者なら刃物以外の全部。やもめは追
い詰められているし、よきに計らって一つ裁いてやろう。ロリコンとかショタコンとかD
V妻とはキ○ガイと変わらないからすべて渡せば問題ない。どちらにしろき○がいに刃物
さ。だいたい少年犯罪と犬も食わない夫婦げんかなんて、精神障害者が起こすようなもの
だ。精神に障害があると国が認めておるのだ。障がいなんて書いたって、意味はない。精
神に障害とは。聞いても見ても恐ろしいじゃないか。国民のために病院で蓋をし、年金を
ばらまいて社会で働けないようにしておるのだ。野放しにすると危ないから!
「おっと、忘れていた。興奮するのはよくない」
「人間科学がまやかしの調査官」
俺を慕うしもべだからな。こいつらには金をやらない代わりに好きにやらせよう。
これまでの好成績に気をよくした良秀は、さらに時限発火装置、リチウムイオン電池、
ナトリウム、木製の火おこし器を仕込んだ。
「少し強引すぎたかな。だが、反時計回り同時多発九重放火テロ」
「でもなあ。現場の臨場感が足りないんだよな」

学習と模擬試験を終えた良秀は前線に赴く。
「煙→ボヤ→半焼→全焼→殺人の順だな。慎重に行こう」
発煙筒の煙だけで上を下への大騒ぎ。地下鉄だったからな。まだあの悪夢の中。物置き
のボヤ。これはご近所だけだな。続いて当たり障りのない灯油を隠れ蓑にしたガソリンで。
半焼だと真に迫っていない。苦労して手に入れた改良型時限発火装置のご登場だ。いきな

- 169 -
り核心をつくのは芸がない。ゴミ屋敷の空き家を狙おう。火を灯す。熱と光が飛び火する。
燃え上がった。ゆらゆらめらめらバチバチぱちぱちバリバリ。いかん。盗み見に切り替え
ないと。野次馬が群がるまであの建物に。どおんドーン。柱が倒れた。もうすぐ屋根が。
通報したな。もう遅いぞ。備えあれば憂いなし。消防車のドップラー効果。
「これほどとは」
「鎌倉の絵師が乗り移ったようだ」
「こんなに赤く紅く朱く燃えるのか」
「さながら、紅蓮地獄!」
「よぢり不動産!」
軽い気持ちだったが、良秀は喜悦して嗚咽した。
「う、うっ。うう。これは運がいい。もうけものだ。神はいる、存在を証明したやつもい
た。おうおう。おっ。はは。ふ。ふははははは」
こんなにうれしくて楽しいのは生まれて初めてだ。
「この地球は。まだまだ俺の知らないことで満ち満ちている」

「この金曜日から連続放火殺人犯の見参」
「ここだ。成金だからけちでセキュリティシステムが甘い。近くに見晴らし小屋。昼間で
も逃げて隠れやすい。見つけ出すのは大変だった。懸念は冬ではないこと」
この茂みで和紙にマジックで黒丸を描き、これを超古代時限火おこし器に。日時と緯度
経度、黄道の軌道を入力して。温度センサー付き。火力が弱かったときのためにニトログ
リセリンも積んであるからな。主人が留守でも使用人が複数いるさ。駅でコーヒーブレイ
クするか。
まさかそんなことをするはずがない。トリックなどない。単純さ。証拠?物はないし、
目撃もされていない。ふ。殺めると、なきがらやしかばねを隠すのが難しい。刻んでゴミ
に出すと発覚しやすい。燃えてしまえば。
「完全や完璧は幻影よ」
「はて、君は誰かな」
「仮病で仕事を休む貴様と話をする暇などない」
「そんなに集中してやるものではないよ」
「貴様。下に黒い服を着ているな。儀式のつもりか」

- 170 -
「誇りが高いと言ってもらおう。人間に裁判など無理なのだ」
「驕り高ぶりを隠し損ねた卑劣の極み。法の下の正義はどうした」
「正義か。正義や正論をふりかざすと」
「戦争になるわ」
「だから歴史を踏まえた現代で最良の法律を制定しているのだ」
「絶対じゃないわね」
「そうだ。法の網をすり抜ける?私がそうはさせん」
「ずいぶんお偉いさんなのね」
「だってそうだろう。法の整備?完備?寝言は寝てから言い給え。私がいなければはじま
らないのだ」
「あなたがいなくなっても、すべての人に裁判を受ける権利がある」
「私は憲法で保障された超法規の存在でね。法律はざるなのだ。生活を文字にすることな
どできんよ。法改正がその証拠だ」
「だから、外堀を埋めたり、当てずっぽうからはじめたりして生活と真実に近づこうとす
るんじゃないの。なんでも同じだわ」
「そんな必要はない。あえて言おう。私は法の、いや日本人の番人である。神の所業をも
許された存在なのだ」
「今の三権分立こそ幻想なんじゃない。内閣法制局が法をつくり、国会をすり抜け、お役
所が実行し、裁判官がしたり顔で罪を犯して冤罪を捏造する」
「だったらどうだというのだ」
「生ごみにも劣る。ウイルス未満だとウイルスに悪いし」
「おのれ。人間の分際で!」
「言葉すら惜しいわ。私も成長している。受けなさい」
玲の碧い焔は良秀の八咫鏡をも砕いた。
「なんだ、バッジが。脅かしやがって」
調査官の内部告発から事件の全容が解明される。良秀は逮捕され、裁判官を罷免された
後、医療刑務所に収監された。半年は健康な人間、もう半年は精神崩壊であった。
後に死刑制度が廃止され、良秀は正常なまま獄死する。被害者や遺族を守る会の署名
運動が実を結び、法改正で遺族と被害者は殺人犯の見学が可能になった。箱をガラスでつ
くるか、アクリル製の牢屋にするかの議論は続いている。所内で軽作業や職業訓練するた

- 171 -
めの敷居も高くなり、いくつかの刑務所では小型の人力発電所の建設が始まった。精神保
健福祉法からサイコパスが外されるのも時間の問題である。

刺客少年
夜勤明けの玲は、まぶたの重くなった体を駅から自宅まで運ぶ。
「なかなか慣れないわ。時差ぼけってよくないのよね」
鎮守の森まで来ればもう少し。ここらで最も古い社の篠崎浅間神社。富士宮の総本山で
ある浅間大社の分社だ。祭神はコノハナノサクヤヒメこと富士山とされている。
日本は興味深い。唯一絶対神も悪くないけど。精霊崇拝とか八百万の神々とか付喪神。
なんか、そっちの方が私に合っているかもしれない。

「鳥取県とか遠野には妖怪もいるらしいし。見てみたいわあ」
「美容と健康のために駅まで歩きよ。さすがに梅雨と梅雨明けはね」
汗ばむ風となまあたたかい空気が玲を包む。
「早歩きしてシャワー浴びなきゃ」
「サイコパスハンター。レイ」
冷たい人差し指と中指が首に触れた。たまらず飛び退く玲。私の後ろを取った。気配が
ないのではない。存在が感じられない。この稀薄感。
「あなた、刺客ね」
「くくく。なんだよ。もっと驚いてくれないと。感銘しろよ。このめぐりあいに。張り合
いがないじゃないか。大したことなさそうだし、弱そうだし。こんなユーラシアの辺境
まで来たんだ。少しは楽しませてくれよ。といっても無理かな」
「男のくせによく謳うのね」
「男が黙る時代は終わった。沈黙は金なんて女の夢さ」
「君、精神をいじられているの」
「得意の話術か。俺は若輩だ。だが、修羅場の数がちがう」
「ふふ。高校生が修羅場ねえ」
「閉所暗所高圧低圧高温低温高山深海沙漠砂漠薬物不眠言葉責め諜報失恋挫折いじめ。ほ
んの一部だ」

- 172 -
「ふぅーん」
「日本語が流暢なのね。漢字ばっかだからちがうかしら。勉強はあんまりしてないみたい
ね。そんなにじーっ、と見ないの。ね?陸軍の少年さん」
「無意味だと言った。俺はNo.9の九竜。失敗作の彩七の遺伝子も組み込んでいる」
「それで」
「電磁波が見える。可視光線の外もな」
「!」
「研究所で見たが、お前は構造色のようだな。ラピスラズリやウルトラマリンがやや強い。
プレゼントはプルシアンブルーの安物が似合うか。この国では碧い」
「私のが」
「射程が短いから、強度を増すために撚りがいる。コットンを額で仮撚りして綿の糸に。
引っ張ると切れそうだな。kittenは子猫。猛虎にはなれんさ。トラになったところで、
俺は龍だがな」
「私は『猫町』も好きよ。猫みみタオルも愛用してるわ」
「そんな年じゃないだろう」
「猫は女の象徴。子どもにはわかんないか」
「まだあるぞ。日本で得た能力。お前の精度もわかっている」
「軍の研究とこそ泥の成果ね」
「お前は精神波を振りかざす人殺しだ。弱きを挫く弱い者いじめ」
「ちがう。私は、ただ」
「サイコパスは人間のくずや生ごみとでも言いたいのか」
「少なくとも良心や愛はないわ」
「親もいないお前が愛を語るとはな。だったら精神を崩壊させてもいいのか。精神が壊れ
たら死んだも同然だ」
「私にはそれしか手立てがなくて。せめて平和な世の中をと」
「言い逃れだな。平和なんて人類が誕生したそのときから幻想なんだよ。歴史が証明して
いる。お前も兵器なんだぜ」
「それでも。なにもしないよりは」
「人類は数多の種を根絶やし、絶滅させてきた。地球を滅亡させる気なのさ」
「それは・・・・・。で、でも。みんなも私もまだ幼くて未熟なだけだと思うわ」

- 173 -
「だから、俺のように調整された完全な人間が必要になった」
「ちょーっと、研究が進んだからって。とんだ思い上がりのピエロね」
「貴様、なにが言いたい」
「世の中は自然そのもの。人を含めたいきものも地球なの。と私は信じている」
「理想と夢で生きてはいけない」
「自然や地球を愛してゆかなければいけないの」
「また愛か。愛ほど意味のないものはない。愛などいらない。愛があるから憎しみがある。
愛を葬り去ることで、俺は強くなった」
「あら、君こそ逃げて隠れる卑怯者ね」
「裏切り者、いやできそこないめ!生け捕りにしろという命令だからな」
「やだ。小生意気なお口」
「お前は情報を持っていないからな。ハンデをやろう」
「どんな」
「声をかけてやる」
「いやん。ナンパってこと」
「そんな余裕はないぞ」
「そらよ」
「なにかやばいわ。木陰へ飛ぶ」
「ほうら」
「!!」
「大樹を貫通」
「はっはっは。レーザーかサンダーか。それともライトニングかな。雷電神社にお参りは
どうだ」
「これはご神木よ。罰当たりね」
「神などいないさ。人がつくった。なにもしてくれない。罪と罰は小説のおはなしだ。そ
うだろう」
見えない。わからないけれど、一つではないわ。逃げながら考える。止める方法を。
「気配を消しても無駄ムダ。お前の生体電気信号が見え見えさ」
次々となぎ倒される木々の林。速い。早すぎる。
「なんだよ。神さまの降臨するところがなくなるぜ」

- 174 -
「まずい。これ以上は体力が」
「都合が悪くなると逃げ出す。なかなかの人格者だな」
逃げていては勝てない。相手に合わせてもだめ。ならば。私の得意技で、自信をもって
挑むしかない。ミスは極力しないわ。
「お遊びはここまでだ」
「彼の精神波も電磁波なら」
「頭も尻も隠さずに出てくるとはな。覚悟はできたか」
「私の精神波は近接用の兵器。でも、筋力に優れる君との格闘は分が悪いわ」
「二律背反。なにをたくらんでいるか知らんが、窮鼠猫を噛む」
「あら、さっきは子猫ちゃんとトラ。筋が通らないわ」
「全力で行く」
「来なさい」
勘で。女の感じで弾くの。人のつくりだす電磁波。機械のようにはいかないはずよ。い
ちばん強い彼の波に絞って。照射された後に撃つの。速さではなく、高い精度で。
「私の精神力。もって、お願い!」
「九頭竜の倶利伽羅に飲まれろ」
「見えた」
気がする。今よ。
彼の精神波を碧の電子の脈動で斥け、碧い電子の鼓動で彼を救って。私はどうでもい
いから。こんな兵器がいる世界なら、私なんかいっそ。
霧のような白が二人を包む。玲が立ち上がり、仰向けの九竜に酔歩で歩み寄る。
どこが精神操作されているのかはわからないわ。精神の崩壊だけは。古い脳や海馬と
扁桃体には当たってないはず。
「あ」
「姉さん?」
「え?」
「僕は軍のスーパーコンピューターに侵入したことがある。ハッカーとしても超のつく一
流なんだ」
「まあ」
「僕たちは腹ちがいの姉弟。隊長が親父さ」

- 175 -
「え。えっ?」
「近ければ脳波を送り込んでハッキングもできる。あれはまだ未完成だから、そんな必要
もなかったよ。セキュリティを破る基本は脅すことだけどね」
「どこで覚えたの」
「理工科大学に忍び込んで読んだ『ハッカーの講義』さ。プロジェクトの一環でもあった
し。もっとも、姉さんのことは精神力の向上とか言われて、後で隊長から教えられたけ
どね」
「九竜は私とちがって科学や技術に明るいのね」
「僕の戦闘能力は一個師団。姉さんといっしょなら陸軍だって」
「それは傲慢よ。向こうも進化してるわ。口が達者になる遺伝子とかあるのかしら」
「ごめんなさい」
「うん、うん」
「でもさ。後ろを向かないのは若さだよね」
「まったく、もう。うふふ」
「あはは」
玲は九竜とともに東京で暮らすことにした。もちろん、軍は黙っていない。
「姉さん、遊びに行ってもいい」
「え、えーと」
「なんだよ。彼氏でも寝てるの」
「彼はいないけど」
「じゃあ、いいじゃん」
「う、うん」
「どうぞ」
「おじゃましまーす、って。うへっ。なんてきたねえ部屋」
「・・・・・」
「しょうがねえなあ。整理整頓も完全無欠の俺が掃除してあげるよ」
「あ、それ捨てないで」
「そこには下」
「色気もなにもないね。姉ちゃん」

- 176 -
(参考文献)
1 家族八景(筒井康隆・新潮文庫)
2 眠れる美女(川端康成・新潮文庫)
3 佇むひと(筒井康隆・角川文庫)
4 黒魔術の手帖(澁澤瀧彦・河出文庫)
5 新古今和歌集(佐佐木信綱校訂・岩波文庫)
6 宇治拾遺物語(角川ソフィア文庫)
7 画図百鬼夜行全画集(鳥山石燕・角川ソフィア文庫)
8 永遠平和のために(カント・岩波文庫)
9 道徳形而上学原論(カント・岩波文庫)
10 地球惑星科学入門 第2版(北海道大学出版会)

- 177 -

You might also like