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佛教文化学会紀要 第 28 号 令和元年 12 月 127

ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考

児 玉 瑛 子  

1.序

ナーガールジュナ(Nāgārjuna, ca. 150–250)に帰される『廻諍論』(Skt.


Vigrahavyāvartanī, Tib. rTsod pa bzlog pa)は,ニヤーヤ学派をはじめとした実
在論者との論争の書として知られる.実在論者の反論(pūrvapakṣa)にあた
る第 2 偈註では,ニヤーヤ学派と思われる対論者が ṣaṭkoṭiko vādaḥ と称し
1

た空性批判を展開する.この ṣaṭkoṭiko vādaḥ では,空なる言明によるものの


本性の否定が可能か否かをめぐり,3 つの観点から反論が述べられる.
これまで ṣaṭkoṭiko vādaḥ 研究においては,主に(1)Johnston & Kunst 校訂
本(1948–51,以下「JK 本」と略称)による訂正と(2)6 支分からなる議
論形式の解釈をめぐる 2 つの問題が残されていた.筆者は拙稿(児玉 2019,
以下「前稿」とする)において,空性批判としての ṣaṭkoṭiko vādaḥ に関する
一考察を示すとともに,特に(1)の解決を試みた .本稿は,その成果に基
2

づき(2)の問題を再考しようとするものである.
本稿では(2)の問題を扱う先行研究から,特に梶山(1984)によるニ
ヤーヤ学派の ṣaṭpakṣī との比較研究に着目する.梶山は,本来形式の異な
3

る ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī との間に共通点を見いだし,前者から後者への


読みかえを行っている.しかし,JK 本の問題が論じられないままに行われ
た梶山の研究には再考の余地があるといえよう.よって本稿では,前稿で筆
者が提示したテキストに基づいて,ṣaṭkoṭiko vādaḥ から ṣaṭpakṣī への読みか
えの可否を検証する.そして,両議論の比較を通して『廻諍論』とニヤーヤ
学派の交流の一端を明らかにしたい.
以上の目的に対し,
『廻諍論』と『ニヤーヤスートラ』
(Nyāyasūtra, ca. 2 世紀)
および『ニヤーヤバーシュヤ』(Nyāyabhāṣya, ca. 4 世紀後半)の読解に基づ
いて考察を行う.各文献の読解にあたり,底本とするテキストの略号表と凡
例を以下に示しておく.
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略号表
VV 『廻諍論』(Vigrahavyāvartanī)
VVV 『廻諍論』註(Vigrahavyāvartanīvṛtti)
Johnston, Edward Hamilton and Kunst, Arnold. 1948–51.
“The Vigrahavyāvartanī of Nāgārjuna with the author’s commentary”
Mélanges chinois et bouddhiques, 9: 99–152.

NS 『ニヤーヤスートラ』(Nyāyasūtra)
NBh 『ニヤーヤバーシュヤ』(Nyāyabhāṣya)
Nyaya-Tarkatirtha, Taranatha. 1936–44. Nyāyadarśanam with Vātsyāyana’s
Bhāṣya, Uddyotakara’s Vārttika, Vācaspati Miśra’s Tātparyaṭīkā &
Viśvanātha’s Vṛtti, 1–2, The Calcutta Sanskrit Series 18&19.
凡例
・略号はテキストの提示に際してのみ使用し,本文中で文献名に言及する際
には『 』を用いて漢字・カタカナにより表記する.
・略号を使用する際,『廻諍論』(VV)および『ニヤーヤスートラ』(NS)
は,略号の後ろに偈頌番号,スートラ番号を表記する.例)VV 1.,NS 5. 1. 1.
・略号を使用する際,『廻諍論』註(VVV)および『ニヤーヤバーシュヤ』
(NBh)は,略号の後ろに底本とする刊本の巻数・頁数・行数を表記する.例)
VVV 109, 18.,NBh 1-423, 3–9.
・出典の明示されていない和訳は筆者による試訳である.
・試訳中の( )は代名詞などの言いかえ,[ ]は補足を表す.
・プラティーカは『ニヤーヤバーシュヤ』のみ太字で示す.
・試訳では,プラティーカの訳語にあたる箇所は示さず,偈頌およびスート
ラのみ太字で表す.ただし,偈頌およびスートラのみを提示する場合はそ
の限りではない.

2.ニヤーヤ学派の ṣaṭpakṣī

まず,比較対象である ṣaṭpakṣī の構成を確認しておく必要があるだろう.


対論者の一方的な批判に見える ṣaṭkoṭiko vādaḥ とは異なり,ṣaṭpakṣī では立
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 129

論者の主張と対論者の反論が 3 度ずつ繰り返される.第 1 の主張を除いた 5


つの主張は,すべて誤難 ,あるいは敗北の立場 に陥り,無意味な議論と
4 5

して両者敗北の引き分けとなってしまう.
ṣaṭpakṣī は『ニヤーヤスートラ』5. 1. 39–43. において展開される.先行す
る第 24 番目の誤難,結果相似(kāryasama)の議論に続く形をとっているため,
ここでは結果相似の解説にあたる 5. 1. 37. から『ニヤーヤバーシュヤ』の註
釈とともに引用する.ただし,ṣaṭpakṣī は結果相似に限らず,すべての誤難
に伴って起こりうるという点には注意が必要である.

prayatnakāryānekatvāt kāryasamaḥ.(NS 5. 1. 37.)


prayatnānantarīyakatvād nityaḥ śabda iti. yasya prayatnānantaram
ātmalābhaḥ tat khalv abhūtvā bhavati, yathā ghaṭādikāryam. anityam iti ca
bhūtvā na bhavatīty etad vijñāyate. evam avasthite prayatnakāryānekatvād
iti pratiṣedha ucyate. prayatnānantaram ātmalābhaś ca dṛṣṭo ghaṭādīnām,
vyavadhānāpohāc cābhivyaktir vyavahitānām. tat kiṃ prayatnānantaram
ātmalābhaḥ śabdasyāho ’bhivyaktir iti viśeṣo nāsti. kāryāviśeṣeṇa
pratyavasthānaṃ kāryasamaḥ.
asyottaram,
kāryānyatve prayatnāhetutvam anupalabdhikāraṇopapatteḥ.(NS 5.
1. 38.)
sati kāryānyatve anupalabdhikāraṇopapatteḥ prayatnasyāhetutvaṃ
śabdasyābhivyaktau. yatra prayatnānantaram abhivyaktis tatra
anupalabdhikāraṇaṃ vyavadhānam upapadyate, vyavadhānāpohāc ca
prayatnānantarabhāvino ’rthasyopalabdhilakṣaṇā ’bhivyaktir bhavatīti, na tu
śabdasyānupalabdhikāraṇaṃ kiñcid upapadyate, yasya prayatnānantaram
apohāc chabdasyopalabdhilakṣaṇābhivyaktir bhavatīti, tasmād utpadyate śabdo
nābhivyajyata iti.
hetoś ced anaikāntikatvam upapādyate anaikāntikatvād asādhakaḥ syād iti.
yadi cānaikāntikatvād asādhakatvam,
130

pratiṣedhe ’pi samāno doṣaḥ.(NS 5. 1. 39.)


pratiṣedhe ’py anaikāntikaḥ, kiñcit pratiṣedhati kiṃcin neti anaikāntikatvād
asādhaka iti. atha vā śabdasyānityatvapakṣe prayatnānantaram utpādo
nābhivyaktir iti viśeṣahetvabhāvaḥ, nityatvapakṣe ’pi prayatnānantaram
abhivyaktir notpāda iti viśeṣahetvabhāvaḥ. so ’yam ubhayapakṣasamo viśeṣa-
hetvabhāva ity ubhayam apy anaikāntikam iti.
sarvatraivam.(NS 5. 1. 40.)
sarveṣu sādharmyapravṛtiṣu pratiṣedhahetuṣu yatra yatrāviśeṣo dṛśyate
tatra 6 tatrobhayoḥ pakṣayoḥ samaḥ prasajyata iti.
pratiṣedhavipratiṣedhe pratiṣedhadoṣavad doṣaḥ.(NS 5. 1. 41.)
yo ’yaṃ pratiṣedhe ’pi samāno doṣo ’naikāntikatvam āpādyate so
’yaṃ pratiṣedhasya vipratiṣedhe ’pi samānaḥ. tatrānityaḥ śabdaḥ
prayatnānantarīyakatvād iti sādhanavādinaḥ sthāpanā prathamaḥ pakṣaḥ.
prayatnakāryānekatvāt kāryasama iti dūṣaṇavādinaḥ pratiṣedhahetunā dvitīyaḥ
pakṣaḥ. sa ca pratiṣedha ity ucyate. tasyāsya pratiṣedhe ’pi samāno doṣa iti
tṛtīyaḥ pakṣo vipratiṣedha ucyate. tasmin pratiṣedhavipratiṣedhe ’pi samāno
doṣo ’naikāntikatvaṃ caturthaḥ pakṣaḥ.
pratiṣedhaṃ sadoṣam abhyupetya pratiṣedhavipratiṣedhe samāno
doṣaprasaṅgo matānujñā.(NS 5. 1. 42.)
pratiṣedhaṃ dvitīyaṃ pakṣaṃ sadoṣam abhyupetya taduddhāram akṛtvā
’nujñāya pratiṣedhavipratiṣedhe tṛtīyapakṣe samānam anaikāntikatvam iti.
samānaṃ dūṣaṇaṃ prasañjayato dūṣaṇavādino matānujñā prasajyata iti
pañcamaḥ pakṣaḥ.
svapakṣalakṣaṇāpekṣopapattyupasaṃhāre hetunirdeśe parapakṣa-
doṣābhyupagamāt samāno doṣaḥ.(NS 5. 1. 43.)
sthāpanāpakṣe prayatnakāryānekatvād iti doṣaḥ sthāpanāhetuvādinaḥ
svapakṣalakṣaṇo bhavati. kasmāt. svapakṣasamutthatvāt. so ’yaṃ svapakṣa-
lakṣaṇaṃ doṣam apekṣamāṇo ’nuddhṛtyānujñāya pratiṣedhe ’pi samāno doṣa
ity upapadyamānaṃ doṣaṃ parapakṣe upasaṃharati. itthaṃ cānaikāntikaḥ
pratiṣedha iti hetuṃ nirdeśati. tatra svapakṣalakṣaṇāpekṣayopapadyamānado
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 131

ṣopasaṃhāre hetunirdeśe ca saty anena parapakṣadoṣo ’bhyupagato bhavati.


katham kṛtvā. yaḥ pareṇa prayatnakāryānekatvād ityādinā ’naikāntikadoṣa
uktaḥ, tam anuddhṛtya pratiṣedhe ’pi samāno doṣa ity āha. evaṃ sthāpanāṃ
sadoṣām abhyupetya pratiṣedhe ’pi samānaṃ doṣaṃ prasañjayataḥ
parapakṣābhyupagamāt samāno doṣo bhavati. yathā parasya pratiṣedhaṃ
sadoṣam abhyupetya pratiṣedhavipratiṣedhe ’pi samāno doṣaprasaṅgo
matānujñā prasajyata iti, tathā ’syāpi sthāpanāṃ sadoṣām abhyupetya
pratiṣedhe ’pi samānaṃ doṣaṃ prasañjayato matānujñā prasajyata iti. sa khalv
ayaṃ ṣaṣṭaḥ pakṣaḥ.
tatra khalu sthāpanāhetuvādinaḥ prathamatṛtīyapañcamapakṣāḥ, pratiṣedha-
hetuvādinaḥ dvitīyacaturthaṣaṣṭapakṣāḥ. teṣāṃ sādhvasādhutāyāṃ
mīmāṃsyamānāyāṃ caturthaṣaṣṭayor arthāviśeṣāt punaruktadoṣaprasaṅgaḥ.
caturthapakṣe samānadoṣatvaṃ parasyocyate ’pratiṣedhavipratiṣedhe
pratiṣedhadoṣavad doṣa iti. ṣaṣṭe ’pi parapakṣadoṣābhyupagamāt samāno
doṣa iti samānadoṣatvam evocyate, nārthaviśeṣaḥ kaścid asti. samānas
tṛtīyapañcamayoḥ punaruktadoṣaprasaṅgaḥ, tṛtīyapakṣe ’pi pratiṣedhe ’pi
samāno doṣa iti samānatvam abhyupagamyate. pañcamapakṣe ’pi pratiṣedha-
vipratiṣedhe samāno doṣaprasaṅgo ’bhyupagamyate, nārthaviśeṣaḥ kaścid
ucyata iti. tatra pañcamaṣaṣṭapakṣayor arthāviśeṣāt punaruktadoṣaprasaṅgaḥ,
tṛtīyacaturthayor matānujñā, prathamadvitīyayor viśeṣahetvabhāva iti
ṣaṭpakṣyām ubhayor asiddhaḥ.
kadā ṣaṭpakṣī. yadā pratiṣedhe ’pi samāno doṣa ity evaṃ pravarttate,
tadobhayoḥ pakṣayor asiddhaḥ. yadā tu kāryānyatve prayatnāhetutvam
anupalabdhikāraṇopapatter ity anena tṛtīyapakṣo yujyate, tadā viśeṣa-
hetuvacanāt prayatnānantaram ātmalābhaḥ śabdasya, nābhivyaktir iti siddhaḥ
prathamapakṣo na ṣaṭpakṣī pravartata iti. (NBh 2-1150, 4ff.)

努力の結果は 1 つではないから,結果相似になる.(37)
努力の直後にあるから,音声は無常である.あるものが努力の直後
に生起する場合,それは周知の通り,存在しなかった後で存在するよ
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うになる.たとえば,壺などという結果のように.そして,無常であ
るというのは,存在した後で存在しなくなるというように知られる.
このように確定しているとき,努力の結果は 1 つではないから,と否
定が述べられる.努力の直後に生起することが,壺などには見られる.
一方,妨げられたものには,妨げるものの排除に基づいて顕現するこ
とが[見られる].その場合,音声に関しては,努力の直後に生起する
のか,[努力の直後に]顕現するのか,という区別がない.結果に区別
がないことによる反駁が,結果相似である.
これに対する答えは,
結果が他のものであるとき,非認識の原因が妥当するから,努力は
理由にはならない.(38)
結果が他のものであるとき,非認識の原因が妥当するから,努力は
音声の顕現に対する理由にはならない.努力の直後に顕現がある場合,
その場合には非認識の原因である妨げるものが妥当し,妨げるものの
排除に基づいて努力の直後に存在する対象に,認識を特質とする顕現
が生じる.しかし,音声には非認識の原因は何も妥当しない.[もし非
認識の原因が妥当するならば,]それを努力の直後の排除することに基
づいて,音声に認識を特質とする顕現がある[だろう]が.したがって,
音声は生起するのであって,顕現するのではない.
[努力の直後にあるから,音声は無常である.という立論に対して,]
【対論者】「もし理由に不確定性が適用されるならば,不確定だから論
証するものにならないだろう」というならば[立論者が答える].【立
論者】もし,不確定だから論証するものではないならば,
否定にも同じ過失がある.(39)
否定もまた不確定である.あるものは否定し,あるものは[否定]
しないという不確定性があるから,論証するものではない.あるいは,
音声は無常であるという主張について,努力の直後に生じるのであっ
て顕現するのではない,と区別する理由が存在しないというならば,
[音声は]恒常であるという主張についても同様に,努力の直後に顕現
するのであって生じるのではない,と区別する理由が存在しない.こ
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 133

れは両者の主張の相似であって,区別する理由が存在しないのだから,
両者ともに不確定である.
すべて[の誤難]において同様である.(40)
同性質[相似]をはじめとしたすべての否定の理由(誤難)において,
無区別が見られる場合はすべて,両者の主張の相似になってしまう.
【対論者】否定の再否定に,否定の過失と同様に過失がある.(41)
否定にも,この同じ過失[すなわち]不確定性が生じる場合,そ[の
不確定性という過失]が,否定の再否定にも同じ[く生じる].その場合,
「音声は無常である.努力の直後にあるから」という論証を述べる者の
立論が,第 1 の主張である.「努力の結果は 1 つではないから,結果相
似になる」という,反論を述べる者の否定の理由によって,第 2 の主
張がある.そして,それが否定といわれる.他ならぬ彼(立論者)の「否
定にも同じ過失がある」という第 3 の主張が,再否定といわれる.「そ
の否定の再否定にも同じ過失[すなわち]不確定性がある」というのが,
[対論者の]第 4 の主張である.
【立論者】否定に過失があることを認めてから,否定の再否定に対
して同じ過失に陥らせる者 は,他説追認になる.(42)
7

否定[すなわち]第 2 の主張に過失があることを認めてから,それ(過
失)を取り去ることをせずに追認した後には,否定の再否定[すなわ
ち,立論者の]第 3 の主張に同じ不確定性がある,と[対論者は]いう.
同じ反論に陥らせている反論を述べる者には他説追認が起こってしま
う,というのが[立論者の]第 5 の主張である.
【対論者】自身の主張を特質とする[過失]に依拠し,妥当すると
結論づけて理由を示すとき,他者の主張にある過失を認めるのだか
ら同じ過失がある.(43)
立論の主張における,「努力の結果は 1 つでないから」という立論
の理由を述べる者の過失は,自身[立論者]の主張を特質としている.
なぜか.自身の主張より起こるからである.他ならぬ彼(立論者)が,
自身の主張を特質とする過失に依拠しながら,[過失を]取り去らずに
追認して,「否定にも同じ過失がある」と,現に適用されている過失を
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他者の主張に結論づける.そしてこのように,否定は不確定であると
いう理由を示す.そしてその場合,自らの主張を特質とする[過失]
に依拠することによって,現に適用されている過失を結論づけて理由
を示すとき,彼(立論者)によって,他者の主張にある過失が既に認
められたことになる.どのようにしてか.他者によって「努力の結果
は 1 つではないから」云々(NS 5. 1. 37.)によって不確定という過失が
述べられたけれども,その[過失]を取り去らずに,「否定にも同じ過
失がある」と述べる.以上のように,過失がある立論を認めて,否定
も同じ過失に陥らせる者には,他者の主張を認めるのだから,同じ過
失がある.他者の「否定に過失があることを認めてから,否定の再否
定に対しても同じ過失に陥らせる者は,他説追認に陥る」というように,
それと同じように,彼(立論者)にも立論に過失があることを認めて
から,否定に対しても同じ過失に陥らせる者には,他説追認が起こっ
てしまう.それが[立論者の]第 6 の主張である.
その場合,周知の通り,立論の理由を述べる者に第 1 と第 3 と第 5
の主張があって,否定の理由を述べる者に,第 2 と第 4 と第 6 の主張
がある.これらの正否が考究されつつあるとき,第 4 と第 6[の主張]
には意味の違いがないから,同語反復という過失に陥ってしまう.第
4 の主張において,他者に同じ過失があることが「否定の再否定に,否
定の過失と同様の過失がある」と述べられる.第 6[の主張]において
も「他者の主張にある過失を認めるのだから同じ過失がある」と同じ
過失があることだけが述べられており,何の意味の違いもない.同じ
く第 3 と第 5[の主張]には,同語反復という過失が生じてしまう.第
3 の主張においても「否定にも同じ過失がある」と同じであることが認
められる.第 5 の主張においても「否定の再否定に対して同じ過失に
陥らせる者は」と認められており,何の意味の違いも述べられていな
い.その場合,第 5 と第 6[の主張]には[それぞれ第 3,第 4 の主張
と]意味の違いがないから,同語反復という過失が生じてしまう.第 3
と第 4[の主張]には,他説追認[という過失が生じてしまう].第 1
と第 2[の主張]には,区別する理由が存在しない.よって,6 つの主
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 135

張からなる[議論]においては両者[の主張における理由は,]ともに
不成立である.
いつ 6 つの主張からなる[議論が起こる]のか.「否定にも同じ過失
がある」と,このように始められるならば,そのときどちらの主張に
おいても[理由が]不成立となる.しかし,
「結果が他のものであるとき,
非認識の原因が妥当するから,努力は原因にならない」と,彼(立論者)
によって第 3 の主張が適用されるならば,そのとき区別する理由を述
べることによって,努力の直後に音声が生起するのであって顕現する
のではない.よって,第 1 の主張が成立し,6 つの主張からなる[議論]
は起こらないのである.

以上が『ニヤーヤスートラ』および『ニヤーヤバーシュヤ』における
ṣaṭpakṣī である.これを要約すると以下のようになる.A は立論者,B は対
論者を表す.
【A1】 音声は無常である.努力の直後にあるから.(正しい立論)
【B2:否定】 努力の結果には生起と顕現があり 1 つではない.(結果相
似を用いた反論)
【A3:再否定】 否定(B2)にも同じ過失がある.(他説追認)
【B4】 再否定(A3)にも同じ過失がある.(他説追認)
【A5】 否定の再否定に対して同じ過失に陥らせる者(B4)に同じ過失
がある.(同語反復)
【B6】 自身の主張にある過失に依拠して他者の過失を認めるから,A3
に同じ過失がある.(同語反復)
まず立論者 A1 が「音声は無常である.努力の直後にあるから」と正しく
立論を述べる.すると対論者 B2 が,努力の結果は 1 つではないと反論する.
つまり努力の結果には,(1)壺などのように無常なものが「生起」する場合
と,(2)何かに妨げられて見えない恒常なものが,その妨げを排除すること
で「顕現」する場合とがある.この 2 つの結果を区別していないため,立論
者の理由は不確定だと論難する.これが結果相似である.
次に立論者 A3 が,B2 の否定も同じように 2 つの結果を区別していない
136

と再否定する.ここで立論者 A は,対論者 B にも同じ誤りがあると述べる


ことで,対論者 B に指摘された 2 つの結果を区別していないという自身の
誤りを認めてしまう.これは他説追認(matānujñā) という敗北の立場であ
8

る.B4 も A3 の同じ誤りを指摘することで,同様に他説追認に陥る.さらに,
A5 が A3,B6 が B4 というように,自身の 1 つ前の主張と同じことを繰り返
し述べ,同語反復(punarukta) という敗北の立場に陥る.以上のような敗
9

北の立場の適用から,ṣaṭpakṣī の論者は両者ともに敗北となり,議論全体が
無意味なものとなってしまう .
10

梶山(1984: 26.)も指摘する通り,このうち ṣaṭpakṣī の核心は A3 にある.


というのも,本来立論者 A は A3 において,生起と顕現という 2 つの結果を
区別する理由(viśeṣahetu),すなわち「結果が他のもの(顕現)であるとき,
非認識の原因が妥当するから,努力は原因にならない」ということを述べる
べきであった.そうすることで,努力の結果が音声無常の正因であることを
論証し,ṣaṭpakṣī を回避することができる.

3.先行研究による解釈
以上の ṣaṭpakṣī の形式をふまえ,次に先行研究による解釈を確認する.以
下の梶山(1984: 31.)の解釈では,ṣaṭkoṭiko vādaḥ に立論者 A(空性論者),
対論者 B(実在論者)という 2 人の論者を設定し,ṣaṭpakṣī と同形式の議論
へと読みかえている.なお,以下本稿における直接引用においては,著者が
引用者とは異なる訳語を用いている術語の後ろに( )で原語を補うことと
する.

【A1】言葉は空である.空であるすべてのものに含まれるから(理由 a).
【B2】言葉は空でない.すべてのものを否定する作用があるから(理由
b).[それは言葉にある「すべてのものに含まれる」と「否定作用があ
る」との ab 二種の性質に区別をつけていないから,A1 は不定(引用者:
anaikāntika)の誤りである.]
【A3】B2 の,言葉は空でないから否定がありうる,ということも,[ab
のうち b の理由だけをとりあげただけであるから]言葉はすべてのも
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 137

のに含まれるという a の理由と相違する.[だから同じ不定の誤りがあ
る.]
【B4】すべてのものに含まれるから,言葉は空だという[理由 a を採る]
ならば,言葉の否定作用はなくなる.[ab 二種のうち一方の理由だけを
採る誤りは A にもある.]
【A5】[言葉はすべてのものに含まれるから空だ,と認めたうえで]言
葉は「空でありながら」作用を行いうる,という[のは認許他難(引用者:
matānujñā)にほかならない.](A5 は A3 の繰り返し.)
【B6】A は,[言葉が空ならば作用はありえない,という B の非難を認
めたうえで]すべてのものは空であり,かつ作用を行わない,という
のだから,認許他難におちいっている.(B6 は B4 の繰り返し.)

以上のように,梶山は ṣaṭkoṭiko vādaḥ が ṣaṭpakṣī に読みかえ可能であると


解釈し,そのうえで 2 人目の論者,つまり対論者であるニヤーヤ学派が勝利
するとしている.さらに,ナーガールジュナが対論形式の ṣaṭpakṣī では両者
が敗北することを知っていたと推測し,ṣaṭkoṭiko vādaḥ が対論者の主張であ
る pūrvapakṣa に含まれることからも,ṣaṭpakṣī を一方的な対論者の発言に置
きかえたものが ṣaṭkoṭiko vādaḥ であろうと結論づける(梶山 1984: 31–32.).
ṣaṭpakṣī の形式に従うならば,本来は両者が敗北すると見るべきである.し
かし梶山のこの解釈の根拠は,『方便心論』六句論の勝敗判定方法に基づい
ている.
本稿における目的は ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī の比較であるが,そのため
には『方便心論』六句論についても理解しなければならない.なぜならば,
ṣaṭpakṣī はかつて『方便心論』六句論と類似する議論としても比較されたか
らである.さらに,『方便心論』六句論の形式を ṣaṭkoṭiko vādaḥ に適用する
という石飛の見解もあるため,ここではその石飛説とあわせて,ṣaṭpakṣī と
の相違点を中心に確認しよう.
『方便心論』の六句論について,はじめに詳細な研究を行ったのは宇井
(1965)である.それは,『方便心論』「弁正論品第三」における 3 支ずつの
立論と反論からなる議論を 3 か所挙げ,『ニヤーヤスートラ』の ṣaṭpakṣī と
138

比較したものである.石飛(2006)は宇井が見いだした 3 つの六句論のほか
にも「明負処品第二」と「相応品第四」に同様の議論があることを指摘し,
計 5 か所の六句論を数えている.
石飛によれば,『方便心論』では常に 2 人目の論者(『方便心論』著者の
立場)が勝利していることや,「弁正論品第三」の終わりに見られる「この
ようにこれを『正法論』とするのである」
(石飛 2006: 146.)という記述から,
『方便心論』の著者にとって六句論は勝敗を決することのできる正しい論法
であったという .これに対し,先ほど確認した ṣaṭpakṣī ではどちらの論者
11

も敗北することになっており,この点が両議論における最大の相違といえる.
それでは,六句論と ṣaṭpakṣī の相違点を確認したところで,石飛の解釈を
見ていこう.梶山と同様に,立論者 A を空性論者,対論者 B を実在論者と
して以下のように対論式化している.なお,句頭の論者を示す記号は,前掲
の梶山説と統一するため引用者が変更した.

【A1】さて,もし「空であるものは一切のものなのである」とするなら
ば,これによって,あなたの言明も空である,一切のものの中に含ま
れているから.
【B2】この空であるもの(=空論者であるあなたの言明)によって,否
定はありえない.その場合,否定されるのは,「空であるのは一切のも
のなのである」であるが,それはありえない.
【A3】さて,空であるのは一切のものであり,かつ,あなたの言明は空
ではないので否定できるとするならば,これによって,あなたの言明
は一切のものの中には含まれないことになる.この場合,「実例との相
違(引用者:dṛṣṭāntavirodha)」がある.
【B4】しかし,一切に含まれているのがあなたの言明であり,そして,
一切が空であるとすれば,これによって,この(あなたの言明)も空
であることになる.空であるのだから,この(あなたの言明)によっ
て否定は存在しない.
【A5】さて,空なのである,そしてなおかつ,この(言明に)よって「空
であるのは一切である」という否定はある.これによって,空であるが,
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 139

しかし,一切のものは有効な作用があるだろう.
【B6】しかし,このようなことは認められない.
さて,空であるものは一切である,そして,有効な作用はない.「実例
との相違があってはならない」のであるから,空であるあなたの言明
によって,一切のものの本質を否定することは,起こりえないのである.
(石飛 2006: 173–174.)

以 上 の 石 飛 の 解 釈 は,ṣaṭkoṭiko vādaḥ の「 喩 例 の 相 違 / 実 例 と の 相 違
(dṛṣṭāntavirodha)」と『方便心論』「喩相違」 の一致を根拠にしているよう
12

である.また,句の区切りを 2 箇所変更している点にも特徴を指摘できよう.
まず 1 つ目に,本来第 1 句であった箇所を二分し,後半を第 2 句に置いている.
そして 2 つ目に,第 5 句の最後の一文を第 6 句の句頭へ移動している.この
ような句の区切りを変更するという試みは,論者が切り替わる位置を判断す
るうえで重要なポイントとなる.

4.空性をめぐる対論としての ṣaṭkoṭiko vādaḥ


以上,ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī,六句論との比較研究を検討してきた.
梶山(1984: 28–32.)が指摘する通り,わざわざ vāda とついた名称が与えら
れている以上,ṣaṭkoṭiko vādaḥ の対論式化は試みとしてなされるべきである.
しかしながら,前稿で指摘したように,これらの先行研究が参照した JK 本
には意味上の重大な差異をもたらす不要な訂正が見られた.そこで,問題箇
所を適切なテキストに従ったうえで,この読みかえを再考する必要がある.
梶山説・石飛説それぞれに比較対象を設定する根拠があるが,筆者は梶
山説に従い ṣaṭpakṣī との比較を行う.ṣaṭkoṭiko vādaḥ が『廻諍論』の中で実
在論者の反論に位置するという点からいえば,まず検討すべきは思想的に対
立する立場,すなわちニヤーヤ学派の議論との関係であろうと考える.
筆者の解釈では,句頭の語の相違によって各句の区切りと論者の立場を
読みかえる.以下は前稿に示したものと同様のテキストであるが,句の区切
りの変更箇所を明示するため再掲する.X は空性論者,Y はニヤーヤ学派で
ある.
140

【X1】hanta cet punaḥ śūnyāḥ sarvabhāvās, tena tvadvacanaṃ śūnyam


sarvabhāvāntargatatvāt.
【Y2】tena śūnyena pratiṣedhānupapattiḥ. tatra yaḥ pratiṣedhaḥ śūnyāḥ
sarvabhāvā iti, so ’nupapannaḥ.
【X3】upapannaś cet punaḥ śūnyāḥ sarvabhāvā iti pratiṣedhas, tena
tvadvacanaśūnyatvād anena pratiṣedho ’nupapannaḥ.
【Y4】atha śūnyāḥ sarvabhāvās, tvadvacanaṃ cāśūnyaṃ yena pratiṣedhaḥ, tena
tvadvacanaṃ sarvatrāsaṃgṛhītaṃ. tatra dṛṣṭāntavirodhaḥ.
【X5】sarvatra cet punaḥ saṃgṛhītaṃ tvadvacanaṃ sarvabhāvāś ca śūnyās,
tena tad api śūnyaṃ. śūnyatvād anena nāsti pratiṣedhaḥ.
【Y6】atha śūnyam, asti cānena pratiṣedhaḥ śūnyāḥ sarvabhāvā iti, tena śūnyā
api sarvabhāvāḥ kāryakriyāsamarthā bhaveyuḥ. na caitad iṣṭaṃ.
atha śūnyāḥ sarvabhāvā, na ca kāryakriyāsamarthā bhavanti, mā bhūd
dṛṣṭāntavirodha iti kṛtvā, śūnyena tvadvacanena sarvabhāvasvabhāvapratiṣedho
nopapanna iti.                 (VVV 109, 18ff.)

【X1】ああ,しかしもし(cet punaḥ),すべてのものが空であるなら,
したがって,あなたの言明はすべてのものに含まれるから空である.
【Y2】その空なるもの(言明)によっては,否定が妥当しない.その
場合「すべてのものは空である」という否定,それは妥当ではない.
【X3】しかし,もし(cet punaḥ)「すべてのものは空である」という否
定が妥当であるならば,したがって,あなたの言明は空であるから,
これ(言明)による否定は妥当ではない.
【Y4】もし(atha)すべてのものが空であり,かつそれによって否定す
る,あなたの言明が空ではなくなるならば,したがって,あなたの言
明はすべてのものに含まれない.その場合,喩例の相違がある.
【X5】しかし,もし(cet punaḥ)すべてのものにあなたの言明が含まれて,
かつすべてのものが空であるならば,したがって,それ(言明)もま
た空である.空であるから,これ(言明)による否定はありえない.
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 141

【Y6】もし(atha)[あなたの言明が]空で,かつ「すべてのものは空
である」という,これ(言明)による否定が存在するならば,したがっ
て,すべてのものは空であっても,因果効力をもつことになるだろう.
しかし,それは認められない.
もし(atha)喩例の相違があってはならないと考えて,すべての
ものが空であり,因果効力をもたない[という]ならば,空であるあ
なたの言明によって,すべてのものの本性を否定することは妥当では
ない.という[6 つの]ことである.

まず,ṣaṭkoṭiko vādaḥ を対論式として読み解くために,石飛と同様に本来


第 1 句の後半部分であった箇所を独立した句として第 2 句,すなわち Y2 に
置く.そのうえで,以降の各句はそれぞれ次の番号の句と見なしている.た
だし,石飛とは異なる点として,もともとの第 5–6 句は 1 つの句として解釈
した.これは,句頭付近の語 “cet punaḥ” と “atha” の相違に基づいて,共通
の語をもつ句を同一の論者の主張として設定する試みである.それでは,各
句の要点に多少の文を補い ṣaṭpakṣī の形式と対照させてみたい.

【X1:空性論者の主張】すべてのものは空である.すべてのものに含ま
れるから,言明は空である.
【Y2:実在論者の反論】(無区別相似)[すべてのものが空という点で等
しいならば,因果効力をもたないという点でもすべて等しいので]空
なるものによる[ものの本性の]否定はできない.
【X3:他説追認】もし否定が妥当[すなわちすべてが空である]ならば,
実在論者 Y による[ものの空性の]否定もできない.
【Y4:他説追認】すべてが空で,[ものの本性の]否定があるなら,言
明は空でなくなり,空であるすべてのものに含まれないから,喩例の
相違がある.
【X5:同語反復】(X3 と同意味)空ならば,実在論者 Y による否定は
できない.
【Y6:同語反復】(Y4 と同意味)[言明が]空で[ものの本性の]否定
142

もある[すなわち,すべてのものが空]ならば,空なるものに因果効
力があることになるので,喩例の相違がある.すべてが空で因果効力
もないなら,[ものの本性の]否定はできない.

はじめに,立論者 X は空性論者でなければならない.実在論者が「空で
あるなら」と始めた場合,第 1 の立論が他説追認に陥ることになってしまう
からである.次に,X1 に対する Y2 の指摘は無区別相似(aviśeṣasama)で
あると考えられる.ただし,これはニヤーヤ学派からすれば正しい論難にな
ろう.あくまで,空なるものに因果効力を認める空性論者にとっての「誤難」
ということになる.この無区別相似という概念については次項で詳述する.
次に,ṣaṭpakṣī の形式通り X3 と Y4 は他説追認,X5 と Y6 は同語反復と
して理解する.X3 は空性論者が「空ならば否定ができない」と認め,Y4 は
実在論者が「否定がある」と認めている点で他説追認である.X5 は「空な
ら否定できない」という点で X3 と同意味,Y6 は「否定がある」という点
で Y4 と同意味になる.
このように,相互に敵論者の過失を指摘する点までは一致しないものの,
他説追認と同語反復に陥る箇所はよく一致しているのではないだろうか.以
上,完全に同一ではないものの,ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī は多くの共通点
をもつことが明らかになった.ただし ṣaṭkoṭiko vādaḥ の解明に向けては,後
代の議論や文法学的背景も視野に入れ,さらに考察を進めなければならない.

5.空思想と無区別相似(aviśeṣasama)
本項では,ṣaṭkoṭiko vādaḥ の対論式化に際して見られた無区別相似とい
う概念について詳述しよう.まず,無区別相似の定義に基づいて ṣaṭkoṭiko
vādaḥ のケースを検証する.続けて『廻諍論』から無区別相似およびその反
論方法の用例を 3 箇所提示し,ṣaṭkoṭiko vādaḥ と無区別相似,ひいては空思
想と無区別相似との緊密な関係を明らかにしたい.『ニヤーヤスートラ』お
よび『ニヤーヤバーシュヤ』による無区別相似の定義・解説は以下の通りで
ある.
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 143

ekadharmopapatter aviśeṣe sarvāviśeṣaprasaṅgāt sadbhāvopapatter


aviśeṣasamaḥ.(NS 5. 1. 23.)
eko dharmaḥ prayatnānantarīyakatvaṃ śabdaghaṭayor upapadyata
ity aviśeṣe ubhayor anityatve, sarvasyāviśeṣaḥ prasajyate. katham?
sadbhāvopapatteḥ. eko dharmaḥ sadbhāvaḥ sarvasyopapadyata iti
sadbhāvopapatteḥ sarvāviśeṣaprasaṅgāt pratyavasthānam aviśeṣasamaḥ.
asyottaram,
kvacit taddharmopapatteḥ kvacic cānupapatteḥ pratiṣedhābhāvaḥ.
(NS 5. 1. 24.)
yathā sādhyadṛṣṭāntayor ekasya dharmasya prayatnānantarīyakatvas
yopapattāv anityatvaṃ dharmāntaram aviśeṣaḥ, naivaṃ sarvabhāvānāṃ
sadbhāvopapattinimittaṃ dharmāntaram asti, yenāviśeṣaḥ syāt.
atha matam anityatvam eva dharmāntaraṃ sadbhāvopapattinimittaṃ
sarvabhāvānāṃ syād iti. evaṃ khalu vai kalpyamāne anityāḥ sarve bhāvāḥ
sad-bhāvopapatter iti pakṣaḥ prāpnoti. tatra pratijñārthavyatiriktam
anyad udāharaṇaṃ nāsti. anudāhṛtaś ca hetur nāstīti. pratijñaikadeśasya
codāharaṇatvam anupapannam. na hi sādhyam udāharaṇaṃ bhavatīti. sataś
ca nityānityabhāvāt sadbhāvād anityatvānupapattiḥ. tasmāt sadbhāvopapatteḥ
sarvāviśeṣaprasaṅga iti nirabhidheyam etad vākyam iti. sarvabhāvānāṃ
ca sadbhāvopapatter anityatvam iti bruvatānujñātaṃ śabdasyānityatvam.
tatrānupapannaḥ pratiṣedha iti.   (NBh 2-1133, 7ff.)

同一の属性の成立に基づいて区別がないとき,存在性[という同一
の属性]が成立することによってすべてのものが無区別になってし
まうから,無区別相似である.(23)
同一の属性である努力の直後にあるという属性が,音声と壺とに成
立するので,両者にとって無常性という無区別があるとき,すべての
ものが無区別になってしまう.どのようにしてか.存在性が成立する
からである.同一の属性である存在性はすべてのものに成立する.よっ
て,存在性が成立するからすべてのものは無区別になってしまうので,
144

無区別相似という反駁になる.
  これに対する答えは,
あるときはそれ(存在性という同一の属性)によって[無区別であ
る他の]属性(無常性)が成立し,またあるときは成立しないから
否定にならない.
(24)
論証対象(音声)と喩例(壺)について,同一の属性である努力の
直後にあるという属性が成立するから無常性という他の属性は無区別
である,というのとは違って,すべてのものについては存在性の成立
を根拠とする他の属性はない.[もし,そのような属性があれば,]そ
れによって無区別になるであろうが.
あるいは,すべてのものについて,無常性こそが存在性の成立を根
拠とする他の属性であるだろう,と考える[かもしれない].周知の通り,
このように想定されているとき,「すべてのものは無常である.存在性
が成立するから」という主張になる.その場合,1 主張の対象(すべて
のもの)とは区別される他の喩例がない.そして,2 喩例のない理由は
ない.さらに,3 主張の一部が喩例であることは正しくない.なぜなら
ば,4 論証対象は喩例にならないからである.また,1 存在しているも
のには恒常なものも無常なものもあるから,存在性に基づく無常性は
成立しない.したがって,存在性が成立するからすべてが無区別になっ
てしまう,というこの文は述べられるべきではない.また,2 すべての
ものに関して,存在性が成立するから無常であると述べる者は,音声
が無常であることを承認している.その場合,否定は適切ではない.

ここでは論証式を用いて理解しよう.まず,おそらく仏教徒と思われる
誤難論者には,「音声は無常である.努力の直後にあるから.壺のように」
といった論証式を読み取ることができる.以下,上段(NS)に無区別相似
の定義に沿った論証式を,下段(VV)に ṣaṭkoṭiko vādaḥ の無区別相似に当
てはめた論証式を併記して確認する.
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 145

NS 音声:(努力の直後にあるという属性→無常性)
VV 言明:(空性→無因果効力性)

理由「努力の直後にある」という属性が,定義中の「同一の属性」
(ekadharma)
である.そして,その同一の属性から導出される「無常性」が,音声と壺に
とって無区別な「他の属性」(dharmāntara)ということになる.そして,努
力の直後にあるという同一の属性からは,さらにもう 1 つの同一の属性であ
る「存在性」という属性が成立する.

NS あるもの X:(努力の直後にあるという属性→存在性)
VV あるもの X:(空性→非存在性)

次に仏教徒は,この存在性からも無常性という他の属性を成立させる.
つまり,以下の論証式に示すように,「すべてのものは無常である.存在す
るから」ということになる.

NS すべてのもの:(存在性→無常性)
VV すべてのもの:(非存在性→無因果効力性)

ここで存在性から帰結する無常性も他の属性であり,これこそが無区別相似
の指す「無区別」なるものである.以上を整理すると,無区別相似の定義で
は「努力の直後にあるという点で等しいならば,すべては無常という点で等
しい.存在性が成立するから」という誤難が論じられている.そして,これ
を ṣaṭkoṭiko vādaḥ の反論に置きかえると「空という点で等しいならば,すべ
ては因果効力をもたないという点で等しい.非存在性が成立するから」とい
うことになる.
『ニヤーヤスートラ』の記述に戻ろう.上記のような誤難論者の論難に対
してニヤーヤ学派は,音声と壺に同一の属性(努力の直後にある)から他の
属性(無常)が成立するのとは異なり,存在性から無常性を成立させること
はできないとする.その根拠として重要なのはまず下線 1 の「存在している
146

ものには恒常なものも無常なものもある」という箇所である.これは思想的
立場の相違に帰されるものともいえるが,一切の無常を説く思想は,ニヤー
ヤ学派にとって誤難の 1 つに数えられているということになる.
さらにもう 1 つ別の論拠として,下線 2「すべてのものに関して,存在性
が成立するから無常であると述べる者は,音声が無常であることを承認して
いる」ことが挙げられる.これを「無常なる音声によって説かれたものもま
た無常である」というように理解するならば,ṣaṭkoṭiko vādaḥ における「空
なる言明にはものの本性の否定ができない」といった問題と大きく関わって
くるであろう.
また,無区別相似の定義中で一切の無常が例証とされることからも,こ
こで誤難論者として想定されているのは,諸行無常や一切空などすべての
ものを対象とする教義をもつ仏教徒なのではないだろうか.反論方法で指
摘される通り,「主張の対象(すべてのもの)とは区別される他の喩例がな
い」(下線 1),「喩例のない理由はない」(下線 2),「主張の一部が喩例であ
ることは正しくない」(下線 3),「論証対象は喩例にならないから」(下線 4)
などの論証上の欠陥は,仏教徒にとって大きな問題であっただろう.もちろ
ん『廻諍論』著者の立場からすれば,自身たちに論理学の規則の適用を認め
ることはないだろう.しかし,後代の仏教徒たちが解決に努めた一切の論証
における問題点,それに対する問題意識の萌芽が見てとれるのではないだろ
うか.
それでは,『廻諍論』の 1 つ目の用例である第 2 偈註における対論者から
の反論を見てみよう.

atha sasvabhāvam etad vākyaṃ pūrvā hatā pratijñā te |


vaiṣamikatvaṃ tasmin viśeṣahetuś ca vaktavyaḥ ||(VV2)
athāpi manyase mā bhūd eṣa doṣa iti, sasvabhāvam etad vākyaṃ sasva-
bhāvatvāc cāśūnyaṃ tasmād anena sarvabhāvasvabhāvaḥ pratiṣiddha iti, atra
brūmaḥ. yady evam, yā te pūrvā pratijñā śūnyāḥ sarvabhāvā iti, hatā sā.
kiṃ cānyat, sarvabhāvāntargataṃ ca tvadvacanam. kasmāc chūnyeṣu
sarvabhāveṣu tvadvacanam aśūnyam, yenāśūnyatvāt sarvabhāvasvabhāvaḥ
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 147

pratiṣiddhaḥ. evaṃ ṣaṭkoṭiko vādaḥ prasaktaḥ. ......................


kiṃ cānyat, evaṃ tadastitvād vaiṣamikatvaprasaṅgaḥ kiṃcic chūnyaṃ
kiṃcid aśūnyam iti. tasmiṃś ca vaiṣamikatve viśeṣahetur vaktavyo, yena
kiṃcic chūnyaṃ kiṃcid aśūnyaṃ syāt. sa ca nopadiṣṭo hetuḥ. tatra yad uktaṃ
śūnyāḥ sarvabhāvā iti, tan na. (VVV 110, 15ff.)

もしこの言明が本性を伴っているなら,あなたの前の主張は破綻し
ている.それ(言明)には不等性があって,[言明だけを]区別す
る理由が述べられなければならない.(2)
もしあなたが[私に指摘された]この誤りがあってはならないとし
て「この言明は本性を伴っており,本性を伴っているから空ではない.
したがって,これ(言明)によってすべてのものの本性は否定される」
と考えるなら,これについて私たちは言おう.もし以上のようである
ならば,「すべてのものは空である」という前のあなたの主張は破綻し
ている.
さらにまた,あなたの言明もすべてのものに含まれる.すべてのも
のが空であるにも関わらず,どうしてあなたの言明は空ではないのか.
[もし,あなたの言明が空ではないのならば,]空ではないことに基づ
いて,すべてのものの本性は否定されるのであるが.以下のように,6
種からなる議論に帰結してしまう.(中略:ṣaṭkoṭiko vādaḥ)
さらにまた,それ(あなたの言明)がこのように実在することから
「あるものは空で,あるものは空でない」という不等性に帰結してしま
う.また,その不等性について,あるものは空で,あるものは空でな
くなるような[言明だけを]区別する理由が述べられなければならない.
しかし,その理由は示されていない.その場合,「すべてのものは空で
ある」といわれた,そのことは成立しない.

ここで否定される空性論者の見解はもちろん「すべてのものは空である」
であり,一切空の思想はニヤーヤ学派にとって無区別相似に他ならない.そ
して,下線で示した箇所が『ニヤーヤスートラ』および『ニヤーヤバーシュ
148

ヤ』における無区別相似への反論と近似していることが指摘できよう.さら
に,この反論方法は『廻諍論』第 33 偈註の空性論者による認識論批判で逆
用される.

teṣāṃ atha pramāṇair vinā prasiddhir vihīyate vādaḥ |


vaiṣamikatvaṃ tasmin viśeṣahetuś ca vaktavyaḥ ||(VV 33)
atha manyase teṣāṃ pramāṇānāṃ vinā pramāṇaiḥ prasiddhiḥ, prameyāṇāṃ
punar arthānāṃ pramāṇaiḥ prasiddhir iti, evaṃ sati yas te vādaḥ pramāṇaiḥ
prasiddhir arthānām iti sa hīyate. vaiṣamikatvaṃ ca bhavati keṣāṃcid arthānāṃ
pramāṇaiḥ prasiddhiḥ keṣāṃcin neti. viśeṣahetuś ca vaktavyo yena hetunā
keṣāṃcid arthānāṃ pramāṇaiḥ prasiddhiḥ keṣāṃcin neti. sa ca nopadiṣṭaḥ.
tasmād iyam api kalpanā nopapanneti.        (VVV 130, 9ff.)

もしも,それら(認識手段)が認識手段なしに成立するなら,議論
は破綻する.それには不等性があって,区別する理由が述べられな
ければならない.(33)
もしあなたが,
[他の]認識手段なしに,それらの認識手段が成立し,
一方で認識されるべき対象は認識手段によって成立すると考えるなら
ば,こうあるとき,「認識手段によって対象が成立する」というあなた
の議論,それは破綻する.さらに,ある対象は認識手段によって成立し,
ある[対象]は[認識手段によって成立]しない,という不等性が生じる.
そして,その理由によって,ある対象が認識手段によって成立し,あ
る[対象]は[認識手段によって成立]しなくなる[ような],区別す
る理由が述べられなければならない.しかし,それが説明されていない.
よって,この仮説もまた妥当しないということである.

下線で示した箇所は,前掲の『ニヤーヤスートラ』5. 1. 24. における「あ


るときはそれ(存在性という同一の属性)によって[無区別である他の]属
性(無常性)が成立し,またあるときは成立しないから否定にならない」と
いう反論と酷似していることがわかるだろう.
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 149

また,これらの議論で共通してあらわれる「区別する理由」(viśeṣahetu)
という語が重要である.通常,後分から名詞を修飾する “viśeṣa” が前分に
位置する珍しい複合語だが,『廻諍論』およびニヤーヤ典籍の誤難章では頻
出する.『廻諍論』とニヤーヤ学派の議論を理解するにあたっては,無区別
相似の “aviśeṣa” と対立する概念として,さらに誤難の解明に際しては,
と相反する概念として,よく検討する必要がある.
13
“sama”
さらに,反論方法だけではなく『廻諍論』第 28 偈には無区別相似そのも
のの用例も確認できる.

athavā sādhyasamo 14 ’yaṃ hetur na hi vidyate dhvaneḥ sattā |


saṃvyavahāraṃ ca vayaṃ nānabhyupagamya kathayāmaḥ ||(VV 28)
māśabdavad iti sādhyasama evāyaṃ hetuḥ. kasmāt. sarvabhāvānāṃ
naiḥsvābhāvyenāviśiṣṭatvāt. na hi tasya dhvaneḥ pratītyasamutpannatvāt
svabhāvasattā vidyate. tasyāḥ svabhāvasattāyā avidyamānatvād yad uktaṃ
śabdena hy atra satā bhaviṣyato vāraṇaṃ tasyeti tad vyāhanyate…….
(VVV 126, 16ff.)

あるいは,この理由は論証されるべきことに等しい.なぜならば,
声の実在性は存在しないからである.また,私たちは言語的日常活
動を認めずに語るわけではない.(28)
「“mā”(~するな)という音声のように」という[喩例に関する],
この[第 3 偈における]理由は,他ならぬ論証されるべきことに等しい.
なぜか.すべてのものは本性を欠いているという点で区別がないから
である.なぜならば,この声は縁って生じたのだから,[声に]本性の
実在性が存在するわけではないからである.その本性の実在性が存在
していないのだから,「なぜならこの場合,存在している声によって,
これから生じるそれ(声)の禁止がある(3cd).」といわれたことは矛
盾している.(以下略)

下線部に無区別相似の定義および解説との近似が見られる.仮に先ほど
150

と同様の論証式で示すなら,以下のように「縁起するという点で等しいなら
ば,すべては本性をもたないという点で等しい.空性が成立するから」とな
るだろう.

音声:(縁起性→無本性性)
あるもの X:(縁起性→空性)
すべてのもの:(縁起性→無本性性)

以上,『廻諍論』の中にニヤーヤ学派の説く無区別相似と類似した論理が
見られることが明らかになった.ṣaṭkoṭiko vādaḥ で扱われる空をめぐる問題
をはじめ,仏教徒のすべてのものを論証対象とする教義は,ニヤーヤ学派の
誤難論において無区別相似に集約されるといっても過言ではないだろう.

6.『廻諍論』と ṣaṭpakṣī
最後に,ṣaṭpakṣī の最大の特徴である誤難と他説追認の適用箇所という観
点から,『廻諍論』と ṣaṭpakṣī の関係に言及しておこう.『廻諍論』第 20 偈
および註では,実在論者が空性論者による本性の否定に対して,前後同時
の三時いずれの場合にも成り立たないのだと批判する.これは梶山(1984:
35–36.)も指摘する通り,非因相似 15 という誤難と同等の論理である.当該
箇所への空性論者の答論にあたる第 69 偈註では,実在論者によって否定の
存在が認められたと指摘されている.こうした議論の流れは,誤難の使用か
ら他説追認に陥るという点で,ṣaṭpakṣī と同様である.実際に『廻諍論』の
一連の議論を引用して確認しよう.他説追認の指摘にあたる箇所は下線で示
している.

pūrvaṃ cet pratiṣedhaḥ paścāt pratiṣedhyam ity anupapannam |


paścāc cānupapanno yugapac ca yataḥ svabhāvaḥ san ||(VV20)
iha pūrvaṃ cet pratiṣedhaḥ paścāc ca pratiṣedhyam iti nopapannam. asati hi
pratiṣedhye kasya pratiṣedhaḥ. atha paścāt pratiṣedhaḥ pūrvaṃ pratiṣedhyam
iti ca nopapannam. siddhe hi pratiṣedhye kiṃ pratiṣedhaḥ karoti. atha yugapat
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 151

pratiṣedhapratiṣedhya iti tathāpi na pratiṣedhaḥ pratiṣedhyasya arthasya


kāraṇam, pratiṣedhyo na pratiṣedhasya ca, yathā yugapad utpannayoḥ
śaśaviṣāṇayor naiva dakṣiṇaṃ savyasya kāraṇaṃ savyaṃ vā dakṣiṇasya
kāraṇaṃ bhavatīti. tatra yad uktaṃ niḥsvabhāvāḥ sarvabhāvā iti tan na.
 
(VVV 120, 9ff.)

また,否定が先にあり,否定されるものが後にあるというのは妥当
ではない.[否定が]後でも,
[否定と否定されるものが]同時にあっ
ても妥当ではない.それゆえ,本性はある.(20)
この場合,否定が先にあって,かつ否定されるものが後にあるとい
うのは妥当ではない.なぜならば,否定されるものがないとき,何の
否定があるのか.また,否定が後にあって否定されるものが先にある
というのも妥当ではない.なぜならば,否定されるものが既に成立し
ているとき,否定は何を行うのか.また,否定と否定されるものが同
時にある,そのようであったとしても,否定は否定される対象の原因
ではなく,否定されるものは否定の[原因]でもない.たとえば,同
時に生じた 2 つの兎の角のうちで,右[の角]は左[の角]の原因で
はないし,左[の角]は右[の角]の原因ではないように.その場合,
すべてのものは本性を欠いているといわれたことは正しくない.

yas traikālye hetuḥ pratyuktaḥ pūrvam eva sa samatvāt |


traikālyapratihetuś ca śūnyatāvādināṃ prāptaḥ ||(VV69)
ya eva hetus traikālye pratiṣedhavācī sa uktottaraḥ pratyavagantavyaḥ.
kasmāt. sādhyasamatvāt. tathā hi tvadvacanena pratiṣedhas traikālye
’nupapannapratiṣedhavat sa pratiṣedhyo ’pi. tasmāt pratiṣedhapratiṣedhye ’sati
yad bhavān manyate pratiṣedhaḥ pratiṣiddha iti tan na. yas trikālapratiṣedhavācī
hetur eṣa eva śūnyatāvādināṃ prāptaḥ sarvabhāvasvabhāvapratiṣedhakatvān na
bhavataḥ.
athavā katham etad uktottaram,
pratiṣedhayāmi nāhaṃ kiṃcit pratiṣedhyam asti na ca kiṃcit |
152

tasmāt pratiṣedhayasīty adhilaya eṣa tvayā kriyate ||(VV63)


iti pratyuktam. atha manyase triṣv api kāleṣu pratiṣedhaḥ siddhaḥ, dṛṣṭaḥ
pūrvakālīno ’pi hetuḥ, uttarakālīno ’pi, yugapatkālīno ’pi hetuḥ, tatra
pūrvakālīno hetur yathā pitā putrasya, paścātkālīno yathā śiṣya ācāryasya,
yugapatkālīno yathā pradīpaḥ prakāśasyety atra brūmaḥ. na caitad evam. uktā
hy etasmin krame trayaḥ pūrvadoṣāḥ. api ca yady evam, pratiṣedhasadbhāvas
tvayābhyupagamyate pratijñāhāniś ca te bhavati. etena krameṇa svabhāva-
pratiṣedho ’pi siddhaḥ.    (VVV 149, 16ff.)

ちょうど前に答えられた三時に関する理由,それは同じことである
から,三時に反[論]する理由もまた,空性を論じる者たちに相応
しい.(69)
三時に関して否定を述べる[あなたの]理由は既に反論された,と
よく理解されるべきである.なぜか.論証されるべきことに等しいか
らである.なぜならば,あなたがいうように,否定は三時において妥
当ではなく,否定されるものも同様に[妥当ではない].したがって,
否定と否定されるものがないとき,あなたが否定は否定されたと考え
る,そのことは正しくない.三時の否定を述べるこの理由こそ,すべ
てのものの本性を否定するのであるから,空性を論じる者たちに相応
しく,あなたには[相応しく]ない.
あるいは,これはどのようにして答えられたのか.
私は何も否定しないし,また否定されるものは何もない.よって,
「あ
なたは否定する」という異議は,あなたによって作られたのである.
(63)
と既に反論された.また,あなたは考えるだろう.3 つの時間すべてに
おいて否定は成立する.先行する理由も,後続する[理由]も,同時
にある理由も[成立する].その中で,先行する理由は子にとっての父
のようなものであり,後続する[理由]は師にとっての弟子のような
ものであり,同時にある[理由]は,光にとっての灯火のようなもの
である,という[ならば,]これについて私たちはいう.しかし,これ
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 153

はそうではない.なぜならば,この順番について前の 3 つの過失が述
べられるからである.さらに,もし以上のようであれば,否定が本当
に存在するとあなたによって認められ,主張の破棄があなたに起こる
のである.このやり方で,本性の否定もまた成立する.

さらにこれと同様の議論展開が,同じくナーガールジュナに帰される
『ヴァイダルヤ論』(Vaidalyaprakaraṇa)に見られることも梶山(1984: 35.)
によって指摘される.たとえば第 11–14 節では,空性論者が三時における認
識手段を否定することに関して,「空性論者の否定も同様に成立しない」と
いうニヤーヤ学派の反論を挙げ,著者はそれを他説追認であると批判してい
る.
以上のことから,ṣaṭpakṣī が当時空性論者とニヤーヤ学派との間に行わ
れた論争の様相を示している可能性は十分にありうるのではないだろうか.
ṣaṭpakṣī の核心である誤難の使用後に他説追認へ陥るという議論の流れが散
見することから,空性論者とニヤーヤ学派の論争は常に ṣaṭpakṣī のような形
式上無意味な議論になりうる危険性をはらんでいるのだといえる.

7.結論
以上,本稿では ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī の比較を行ってきた.特に,議
論形式の対照,無区別相似,他説追認という 3 点に着目し,両議論の関係,
そして『廻諍論』とニヤーヤ学派の関係について考察した.その考察結果か
らは,以下の 4 つの結論が導かれよう.
(1)誤難と敗北の立場の適用箇所という点に限っていえば,ṣaṭkoṭiko
vādaḥ から ṣaṭpakṣī への読みかえは十分に可能である.
(2)ただし,敵論者への過失の指摘など,細部にわたって一致させるこ
とは不可能である.よって,今後も ṣaṭkoṭiko vādaḥ の解明に向けた検討が必
要である.
(3)ṣaṭkoṭiko vādaḥ の対論式化に際して用いられる無区別相似の定義と,
『廻
諍論』における用例の検討から,ニヤーヤ学派の体系においては空思想が誤
難論の中に位置づけられることが明らかになった.
154

(4)『廻諍論』においては ṣaṭkoṭiko vādaḥ の他にも誤難の使用後に他説追


認へ陥るという議論展開が見られる.これが ṣaṭpakṣī と形式的に一致するこ
とから,ṣaṭpakṣī が当時の空性論者とニヤーヤ学派による論争の様相をあら
わしているともいえる.

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ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 157

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1
同じ ṣaṭkoṭiko vādaḥ を扱う児玉 2019 では,「六句議論」という訳語を用いている.
本稿ではニヤーヤ学派の ṣaṭpakṣī との比較を行うため,両議論の名称を併記する箇
所が頻出する.よって,2 つの議論の混同を避けるために訳語を使用せず原語のま
ま表記する.
2
筆 者 に よ る 空 性 批 判 と し て の ṣaṭkoṭiko vādaḥ 解 釈 は, 本 稿 で は 省 略 す る. ま た
ṣaṭkoṭiko vādaḥ を扱う先行研究およびここに挙げた(1)
(2)の問題の詳細についても,
前稿 : 187–185(第 2 項 六句議論における 2 つの問題)を参照せよ.
3
前稿では ṣaṭpakṣī に「六主張議論」という訳語を用いているが,註 1 と同じ理由か
ら本稿では原語のまま表記する.
4
誤難はニヤーヤ学派の 16 句義(padārtha)における第 15 番目の項目であり,一般
的には正しい立論に対する詭弁的な論難方法,すなわち誤難論として位置づけられ
る.24 種からなるが,全体としては「誤難とは,[喩例との]共通性と相違性に基
づく反駁である(NS 1. 2. 18: sādharmyavaidharmyābhyāṃ pratyavasthānaṃ jātiḥ.)」と
定義され,ヴァーツヤーヤナによれば「[立論者が正しい]理由を述べた時に,[対
論者によって]生じる不都合な帰結(prasaṅga),それが誤難である(NBh 1-401, 8:
prayukte hi hetau yaḥ prasaṅgo jāyate sā jātiḥ.).」と理解される.24 種の各定義とそれ
に対する反論方法は『ニヤーヤスートラ』第 5 課第 2 章において詳説される.
5
16 句義の第 16 番目にあたり,論争に敗北する条件を 22 種挙げたものである.定
義は以下の通りである.「敗北の立場とは,誤解と無理解とである(NS 1. 2. 19:
vipratipattir apratipattiś ca nigrahasthānam.).」
6
直前の yatra yatra との相関のため,tatra を補った(NBh 2-1155, 2.).
『ニヤーヤヴァールティカ』の解説(Tarkatirtha 1936–44: 2-1156, 13–15: pratiṣedhaṃ
7

dvitīyapakṣaṃ sadoṣam abhyupetya tṛtīyapakṣe ’pi pratiṣedhatulyadoṣatām āsañjayan


vipratiṣedhe ’pi samāno doṣa iti bruvan matam anujānāti, seyaṃ matānujñā bhavatīti
pañcamaḥ pakṣaḥ.)に従って,主語を人として解釈した.
8
定義は以下の通りである.「他説追認とは,自身の主張に過失を認めることによって,
158

他者の主張に過失を帰結させることである(NS 5. 2. 20: svapakṣe doṣābhyupagamāt


parapakṣe doṣaprasaṅgo matānujñā.).」
9
定義は以下の通りである.「同語反復とは,再言及以外の場合に語と意味を繰り返す
ことである(NS 5. 2. 14: śabdārthayoḥ punarvacanaṃ punaruktam anyatrānuvādāt.).」
10
後代になると,ウダヤナ(Udayana, ca. 11 世紀)によって十主張を数える議論も認
められるが(小野 2011),『ニヤーヤバーシュヤ』の段階では,以上の六主張をもっ
て両者の敗北で議論が終了することととしている.
11
梶山(1984: 28.)も石飛と同様に解釈しているが,宇井(1965: 567.)は正法論とい
う記述は矛盾していると解釈して「六主張議論の次第を形式的に見て法則とし之を
避ければ正法論となるの意味ではなかったろうか」と述べている.
12
これは『方便心論』における「似因」の分類の 1 つである.似因はニヤーヤ学派の
16 句義の擬似論証因(hetvābhāsa)にあたる.たとえば,「形体をもたない」もの
の喩えに「牛」を用いる場合のように,「喩えに違いがあるもの」とされる(石飛
2006: 123.).
13
誤難の 24 項目すべての名称には “-sama” が附加されている.この sama という語の
機能や正確な意味は完全には明らかにされておらず,誤難の理解をより難しいもの
とする要因にもなっていた.特に『ニヤーヤスートラ』や『ニヤーヤバーシュヤ』
による初期の解釈を読み取ることはほぼ不可能に近く,後代の理解に頼るほかない.
後代における sama の解釈については,室屋(2017: 119ff.)による最新の研究があ
り,その考察は詳細かつ広範にわたる.このほか誤難の sama 解釈に関する研究は
Kang2009, 渡辺 2017 等を参照せよ.
14
誤難に「所証相似(sādhyasama)」という同名の項目があるが,ここで言及されてい
るのは「擬似論証因」の「論証されるべきことに等しいもの(sādhyasama)」である
と考えられる.しかし梶山(1984: 36–37.)はこれを所証相似であるとして,『廻諍
論』,『ニヤーヤスートラ』第 5 課第 1 章(誤難章),『方便心論』の年代的前後関係
の論拠としている.紙幅の都合上本稿では詳述できないが,誤難と擬似論証因にお
ける “sādhyasama” の各定義と『廻諍論』の記述を詳細に比較する必要がある.
15
以下,『ニヤーヤスートラ』および『ニヤーヤバーシュヤ』における非因相似の定
義と反論方法である.誤難論者は理由と対象の前後同時関係をそれぞれ検討し,す
べての場合に過失があることを示している.それに対して立論者は,実際に対象が
理由や原因によって経験されることを指摘し反論する.

 traikālyāsiddher hetor ahetusamaḥ.(NS 5. 1. 18.)


hetuḥ sādhanam, tat sādhyāt pūrvaṃ paścāt saha vā bhavet. yadi pūrvaṃ sādhanam,
ṣaṭkoṭiko vādaḥ と ṣaṭpakṣī 再考 159

asati sādhye kasya sādhanam. atha paścād, asati sādhane kasyedaṃ sādhyam. atha
yugapat sādhyasādhane, dvayor vidyamānayoḥ kiṃ kasya sādhanaṃ kiṃ kasya
sādhyam iti hetur ahetunā na viśiṣyate. ahetunā sādharmyāt pratyavasthānam
ahetusamaḥ.
asyottaram,
 na hetutaḥ sādhyasiddhes traikālyāsiddhiḥ.(NS 5. 1. 19.)
na traikālyāsiddhiḥ. kasmāt. hetutaḥ sādhyasiddheḥ. nirvartanīyasya nirvṛttir
vijñeyasya vijñānam ubhayaṃ kāraṇato dṛśyate, so ’yaṃ mahān pratyakṣaviṣaya
udāharaṇam iti. yat tu khalūktam asati sādhye kasya sādhanam iti. yat tu nirvartyate
yac ca vijñāpyate tasyeti.
 pratiṣedhānupapatteś ca pratiṣeddhavyāpratiṣedhaḥ.(NS 5. 1. 20.)
pūrvaṃ paścād yugapad vā pratiṣedha iti nopapadyate, pratiṣedhānupapatteḥ
sthāpanāhetuḥ siddha iti. (NBh 2-1129, 2ff.)

(18)
 理由が三時において成立しないから,非因相似になる.
理由は論証手段であり,それは論証対象よりも先か,後か,あるいは同時に
あるであろう.もし論証手段が[論証対象より]先にあるならば,論証対象
が存在していないときに,何にとっての論証手段になるのか.もし[論証手
段が論証対象より]後にあるならば,論証手段が存在していないときに,こ
れは何にとっての論証対象になるのか.もし論証対象と論証手段が同時にあ
るならば,両者が存在しているときに,何が何にとっての論証手段となり,
何が何にとっての論証対象となるのか.よって,理由は理由でないものと区
別されない.理由でないものとの共通性に基づく反駁が非因相似である.
これに対する答えは,
 理由によって論証対象が成立するから,三時において成立しないことには
(19)
 ならない.
三時において成立しないことにはならない.なぜか.理由によって論証対象
が成立するからである.完成されるべきものの完成,認識されるべきものの
認識,どちらも原因によって経験される.まさにこの偉大な知覚の対象が実
例なのである.周知の通り,論証対象が存在していないとき,何にとっての
論証手段なのか,と述べられたけれども,完成せしめられるもの,そして認
識せしめられるもの,それにとっての[認識手段]である.
(20)
 しかし,否定は妥当しないから,否定の対象は否定されない.
160

先,後,あるいは同時に否定があるというのは妥当しない.否定が妥当しな
いから,立論の理由が成立するのである.

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