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Chiếc gương xứ tuyết
Chiếc gương xứ tuyết
川端康成 ﹃ 鏡﹂ の世界をめぐって││
音B
民
河
村
現実をも非現実と見ょうとするが、その不誠実さを思い知ら
序
され、目覚める 。 そ の こ と を 描 い た の が 、 こ れ ら の 川 端 の 文
創 作 と は 、 い わ ば 、 非 現 実 の 視 線 で も って 、 現 実 世 界 を 映 学作品である 。
し 出 す 試 み で あ る と い え よ う。 映 し 出 さ れ た 世 界 は 、 し た 本 論 で は 、 川 端 の 代 表 作 で あ り 、 ノ ー ベル賞受賞の対象と
河村
が っ て 、 非 現 実 の 、 鏡 の な か の 様 相 を 帯 び る に 至 る 。 この創 なった名作﹁雪園﹄を取り上げ、なぜこの小説が﹁名作﹂と
雪園j読解試論
作の非現実の眼の作用を、写された現実世界が破り、存続不 い わ れ 、 推 薦 す べ き 国 際 的 評 価 を 得 る 川端 の 小 説 と な り え た
能にするまでになると、創作者は、己の作り出した世界を立 のか、その謎の解明に挑戦するとともに、伊藤整をはじめ、 にJ
PhU
ち 退 く こ と を 余 儀 な く さ れ る 。島 村 が 雪 国 の 世 界 を 最 終 的 に 竹 西 寛 子 、 そ し て こ の 小 説 の 翻 訳 者 サ イ デ ン ス テ イ ツカ 1等
川端康成 『
立ち退くのは、こうした理由による 。 が 、 そ ろ って こ の 小 説 を 川 端 に 特 徴 的 な ﹁ 愛 の 拒 絶 ﹂
山
(
日頃から空想・非現実の世界に生きている人間は、自分で 号巴巳えZ 5) を具現した作品と見倣す従来の読みへの修正
空想・非現実の世界だと思うところに来て、はじめて、逆に を求める試論である 。 l)
( この作品には、完全な﹁愛の拒絶﹂
現 実 を 思 い 知 ら さ れ る 。 川端の ﹁
伊 豆 の 踊 子﹂ および﹃雪 ではなく、その受容と再生への予兆が示唆されていると筆者
園﹄ も 、 ト ン ネ ル を 抜 け た 世 界 こ そ が 、 空 想 ・ 非 現 実 の 世 界 は見る 。 以 下 こ の こ と の 論 証 を 試 み た い 。
ではなく、逆に現実の世界であり、主人公は、それを思い知
ら さ れ る 。﹃伊 豆 の 踊 子 ﹄ で 学 生 が 踊 子 に よ っ て 孤 児 根 性 を
浄 化 さ れ た よ う に 、 言 ヨ 園﹂ では非現実・空想を好む島村は、
駒子や葉子の住む生の色濃い現実に直面するのを避け、生の
の関わりを否定しているが、これが偽りであることは、すで
号&
本
日間
こ だかまつえ
に モ デ ル と な った 芸 者 の 小 高 キ ク ( 芸 名 松 栄 、 一 九 一 五 ・
の夫久雄氏の証言 で
(2)
九
明らかとなっている 。 九
作者の川端は、﹃雪園 ﹂ が 昭 和 九 年 か ら 書 き 始 め ら れて、 川端がこの芸者松栄に出会ったのは、越後湯沢の旅館
たかはん
最 初 一 回 の 短 編 で 終 え よ う と 思 ったものが、書き継がれて、 高半 ﹂ で 、 昭 和 九 年 の こ と で 、 そ れ か ら 川 端 は 十 二年まで
一
文化/第 25巻第 1号 /2013 9
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ついての発言では、 よくあることで、さほど 驚 かなくてもい
いことかもしれないが、肝心の作品解釈においては、支障を
きたしかねないこともある 。
作品解釈上役に立つこととは、川端が登場人物の配置につ
芸術
いて、島村を中心に、両脇に駒子と葉子を配置したのではな
円
子
文
くて、駒子を中心にして、彼女を浮き立たせるために島村と
葉子を配置したとい っていることである 。 これは追々述べる
理由から、も っともな発 言 である 。他方、川端が、駒子につ
いて、駒子のモデルは旅館の芸者であるが、小説中の駒子と
その芸者は似てはいないといい、また作者自身は島村ではな
い し 、 駒 子 と は 何 の 関 わ り も な い と し て 、 作 者 と 芸 者 の 現実
り上げるのは、これがなければ、この小説の解釈ができない スに女の顔が映し出された時、島村は仰天したのであるが、
と思われるからである 。 それほどまでに、男女の情交が生々 それもただ左手の人差指に残る濡れた感触の作用によるだけ
しい 。も と に 深 い 交 わ り の 体 験 が な け れ ば 、 こ の よ う な 小 説 であった 。 その極めつけのところを引用してみよう 。
は、書けるものではない。
ただし、断っておくが、これはあく ま で情交の暗示であっ も う 三 時 間 も 前 の こ と 、 島 村 は 退 屈 まぎ れ に 左 手 の 人 差
て 、 情 交 の 現 場 面 の 赤 裸 々 な 描 写 で は な い 。だ が 、 現 場 面 の 指をいろいろに動かして眺めては、結局この指だけが、こ
実写よりも暗示の方が生々しいこともある 。 川端がやってい れから曾ひに行く女をなまなましく覚えてゐる、はっきり
る の は 、 こ の よ う な 暗 示 の 生 々 し さ で あ る 。 まずこの場面の 思ひ出さうとあせればあせるほど、 つかみどころなくぼや
河村
解釈から始める 。 けてゆく記憶の頼りなきのうちに、この指だけは女の鰯感
雪園』読解試論
そ れ は ﹃ 雪 園 ﹄ と い う 小 説 の な か で 、 最 も 注 目 される最初 で今も濡れてゐて、自分を遠くの女へ引き寄せるかのやう
7-
鏡 ﹂ の 映 像 の 場 面 で あ る 。 小説が始まってから清水トン
の ﹁ だと、不思議に思ひながら、鼻につけて匂ひを嘆いでみた
-6
ネルを抜けて、いわゆる﹁夜の底が白くなった ﹂夕暮れの雪 りしてゐたが、ふとその指で窓ガラスに線を引くと、そこ
川端康成 『
て、島村の想像世界では、駒子と二重写しとなって姿を現す れ 行 き な が ら 、 絶 命 す る 。 このことは、﹃雪圃﹄の最後の火
まゆ くら
ことから物語が始まるところが、川端の小説家としての天才 事と天の川の降下の場面で、繭蔵の二階から落下する葉子と
を証拠立てている 。 いわば葉子は、こうして小説の冒頭か 深く関わっているのではないかと思われる 。 これについては
ら、駒子の分身として登場してくる 。 最後に述べる 。
しかも病人をかいがいしく看病している鏡のなかの葉子の そもそも、小説とは、作者の想像力の産む世界であるか o
o
phu
姿は、島村にとっては、﹁夢のからくりを眺めてゐるやうな思 ら、現実そのものというよりは、﹁非現実的な﹂夢のような
ひ﹂であり﹁不思議な鏡のなかのこと﹂のように思えたとあ 世界、 つまり鏡のなかの世界と呼ぶのが最もふさわしいので
る。 ここにこれから始まる物語の性質が、的確に暗示されて はないだろうか 。 川 端 は 物 語 の 冒 頭 に 、 こ の よ う な 鏡 の な か
芸術
いる 。すなわち、これからの島村と駒子および葉子の間で展 の世界を演出しておいて、小説の本質を暗示したともいえ
文学
開する世界は、まさに﹁不思議な鏡のなか﹂の出来事として、 る。尤も、最初にも述べたが、この小説は現実の作者の体験
視点的人物の島村には映っていくということの暗示である 。 に基づいた創造の世界であるから、鏡のなかの世界は現実と
これはまるでテニソン (﹀]同門の(円吋 ロロ。
可 ωP 同∞。。bN) の
詩⋮ 非現実を合わせて映し出していることになり、その鏡のなか
ru 身 え ∞}5-2FJ∞
m
u
﹁シャロット女﹂(ベ ωN) の生きる世界 を覗く読者には、そこに映る世界が、現実とも非現実ともつ
のようである 。 シャロットの女は、窓から外を見ると命を落 かないようにぼやけて見えたとしても不思議ではない 。 ﹃
雪
あわい
とすという呪いをかけられているので、窓の外におこる出来 園﹄はまさにそのような現実・非現実の聞を行く﹁夢のやう
な﹂世界なのである 。 ながら、舞踊と違って、女は生物である為、さう行かなかっ
川端の短編﹁水 月﹂でも同じことが 言え よう。寝たきりに たことを、説明を用ひずして、微妙に現はしている﹂ (
3)と
なって二階のベッドの上から手鏡を窮してのみ、庭で作業を 早くからこの小説の核心部分を指摘している 。
する妻の姿を見ることができる夫の姿を描いているが、この また、川端を師と仰ぐ三島由紀夫も、さすが作家らしく、
夫は、まさに非現実のなかに、現実よりも生き生きとした妻 ﹃雪園﹄という小説の本質をずばりと見抜いている 。 つまり
の姿を思い描き、鏡のなかで生きている 。まさに小説の世 界 この小説の世界は﹁鏡のなか﹂にあるという点である 。筆者
にふさわしい人物である 。 そ し て こ の こ と と の 比 較 で い う の論を補う上 でも引用に値する 。
と
、 ﹃
雪園﹄ の島村を、作者川端は、女を心から愛すること
河村
のできない自らを冷淡な男と思う自意識の持ち主と位置づ -:汽車の場面は、全篇の序曲のようなもので、女主人公
雪園』読解試論
け、やや突き放した人物像として造ったというが、小説にお ともいうべき駒子はまだ登場しないが、この小説のなかの
ける視点的人物としての役割を担っているからには、このよ ﹁人物﹂とは何か、﹁風景﹂とは何か、﹁自然﹂とは何か、
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うな距離感が必然的に必要になる 。 そうした意味で、島村は 事 件 ﹂とは何か、とい う聞があらかじめ提示され、ひそ
﹁
川端康成 『
男女関係の行方をすでに予知しているが、このようなきわめ
といい、さらに、 て敏感な、研、ぎ澄まされた感性の持ち主が視点的人物の島村
という男である 。物語の冒頭近くで、すでに島村はこのこと
定めない人 間 のいのちの各瞬間の純粋持続にのみ賭けら を見抜いている 。
0-
れた ようなこの小説に、もし主題があるとすれば、(中略)
-7
それは女の ﹁
内 生 命 の 変 形 ﹂ の微妙な記録であり、焔が 指で島見
えてゐる女と眼にともし火をつけてゐた女との聞
文化/第
移り目﹂の瞬間のデ ッサン
すっと穂を伸ばす ようなその ﹁ に、なにがあるのかなにが起るのか、島村はなぜかそれが
の集成である 。(中略)作中に何度かあらわれる﹁徒労﹂ 心のどこかで見えるような気持もする 。まだ夕景色の鏡か
芸術
情交の承認でもある 。 見たときも、女をこのような﹁空想﹂上の﹁幻影﹂の踊り手
雪国』読解試論
芸者が気にいらなくて追い返した島村に気分をよくした駒 島村を呼ぶ声は、この﹁清潔﹂の印象を裏切るかのように、
子の姿は、最初から駒子が気にいっていて、欲しかったこと ﹁それはもうま、ぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ撃で
をごまかしていた厭な自分との対比で、﹁よけい美しく ﹂
﹁な あ っ た ﹂ ( 三 二 と い う。 ﹁清潔﹂の内にひそんでいた﹁性﹂
にかすっと抜けたやうに涼しい姿﹂に見えてくる 。 このあた がその姿を現した瞬間である 。 こうして二人は交わりを持つ
りが島村の感性のよさである 。 そして﹁清潔﹂という印象の ことになった 。すると駒子の﹁清潔﹂は変わらないが、﹁蛭
2
7
細部を島村の敏感な眼は次のように捉える 。 の輪﹂のような﹁美しい唇﹂が島村に与える印象が、変化す
る。 それはこうして二度目に温泉宿を訪れて、駒子と再会し
細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼ て情交を重ねたのちのことである 。 その﹁唇﹂の変化に到る
芸術
んだ唇はまことに美しい蛭の輪のように伸 、
ひる
び縮みがなめら までの二人の問の揺れ動く感情の交錯を、順を追って検討す
文学
かで、黙ってゐる時も動いてゐるかのやうな感じ、だから、 ることにする 。
もし敏があったり色が悪かったりすると、不潔に見えるは 再訪したはじめに島村の部屋に入って来た駒子は、矩爆に
ずだが、そうではなく濡れ光ってゐた 。 目尻が上がりも下 入りながら島村の差し出した左手の握り拳を広げ、それを顔
がりもせず、わざと真直ぐに描いたやうな眼はどこかおか に押しあてながら、﹁あの時﹂を思い浮かべて、身体を赤く
しいやうながら、短い毛の生えつまった下がり気味の眉 染めていくのが見えるが、島村にはそれが﹁なまなましく濡
が、それをほどよくっつんでゐた。少し中高の園顔はまあ 二五)な印象を与えている 。先
れた裸を剥き出したゃう﹂(一
にも言ったように、過去の情交の再確認である 。昨年の五月 一つでもあるが、 川端は単に自然の光景をそれ自体のために
二十三日のことで、その日から今日で百九十九日目だと駒子 描いているのではなく、それを見たり聞いたりするその光景
は指折り数える 。 さらに ﹁
あの時﹂のことは駒子の付けてい のなかにいる人物の心理・感性の動きと連動させて描く 。 た
る日記にも﹁なんでも隠さずその通りに書いてある ﹂といっ とえば、再会の最初の夜の交わりの前のひと コ マに、駒子が
て、さらに自ら告白をしてみせる 。 凍てつくような寒さのなか、わざと窓を開けて、夜中の零時
二人の関係を進展させたのは、こうした性に絡む確認のみ に通り過ぎる上りの汽車の響きを聞く場面がある 。月はない
ではない 。駒子が読んだ小説の簡単なメモを取っているとい があざやかに浮き出た星空を眺めながら、島村はこう思う 。
うのを聞いて、島村は、そんなことをしても何の役にも立た
河村
﹁不思議な哀れ ﹂ を感じ、自分の生き方が ﹁
徒 勢 ﹂ であるこ った 。
とを意識している島村自身、自己感傷に落ち入りそうになる 島村が近づくのを知ると、 女は手摺に胸を突っ伏せた 。
が、女は都会へのあこがれも﹁今はもう率直なあきらめにつ それは弱々しさではなく、かういふ夜を背景にして、これ
つまれ ﹂ た世界に力強く生きている 。島村はそうした女の存 より頑固なものはないといふ 姿であった。島村はまたかと
純粋﹂に、改めて惹かれる 。最初出会 ったときもこう
在の ﹁ 思った 。
した話に 夢 中になって、駒子は島村に自ら身を投げかけてい しかし、山々の色は黒いにかかは らず、どうしたはずみ
くはずみとなったのだが、再会の今もまた自分の話に酔うこ かそれがまざまざと白雪の色に見えた 。 さうすると山々が
とで、﹁僅まで温まって来る ﹂ (三八)女である 。 透明で寂しいものであるかのやうに感じられて来た 。空と
川端の自然描写の特徴を明らかにするのが、本論の目的の 山とは調和などしてゐない 。 (三九)
、.‘
・
・?・
これはどういう光景であろうか 。 ここに映し出されている夜 きの姿であり、空とは調和しない別の実態を駒子の山は内に
の空と山の自然の光景と見えるものは、単に自然の光景と読 隠し持っている 。 ﹁夜の色を深め﹂る空といい、﹁厚さがあり
むと、音 さうないぶした黒﹂い山というのは、島村の意識のなかで
の解釈する駒子の内面の心理的光景であると思われる 駒子
O
は、駒子の﹁なにか黒い鍍物の重ったいやうな光﹂を発する
は安っぽい芸者と思われたくないので、 一瞬そちらの方に傾 重量感のある黒髪と連動しているのかもしれない 。 そしてま
斜しそうになった雰囲気を立て直そうと、寒い夜に窓を開け たこの﹁夜の色を深め﹂る空は、島村を含む男の存在をも意
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れはこの後も繰り返し表現される 。 そらく、葉子の存在が島村にとっては単独で存在するもので
先ほど空と山の関係を述べたが、交わりの後の朝、島村が はなくて、つねに駒子の存在と密接に結び付いたものであ
5
-7
空はまだ夜の色なのに、 山 はもう朝であっ
目を覚ますと、 ﹁ り、そしてその存在は、島村にとっては ﹁
非現実﹂ の﹁遠い
日│端康成 『
いく 。 かつて﹁慧﹂の部屋であった屋根裏部屋に住んでいる はあるからであろう 。
まゆ
駒子も、島村の想像の眼には、﹁震のやうに透明な龍でここ こうした意識のもと、暮れていく冬の夕景色の﹁虚しい切
に住んでゐる﹂(四六)ように思えてくる 。 このように﹁自 なさ﹂に心を冷やしていると、﹁温い明りのついたやうに駒
然のもの﹂である﹁鏡﹂のなかの世界が島村の﹁急所﹂に 子が入って﹂(五二)来る 。 そして矩爆に入ると、これから
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あって、もう一つ別の﹁人工のもの﹂の世界、つまり意識の 宴会に呼ばれていくといいながら、島村の頬を撫でまわし、
世界がある 。放心状態から我に立ち返った時の島村は、後者 ﹁今夜は白いわ 。愛だわ﹂(五二)という。宴会を終えて帰つ
の世界の住人となる 。島村は、いわば、このように﹁自然﹂ てきたときは、﹁知らん 。もう知らん 。 頭痛い 。 頭痛い 。あ
の世界(無意識の世界)と﹁人工﹂の世界(意識の世界)を あ、難儀だわ、難儀﹂(五二)という。 この駒子の言葉は、
芸術
往来している 。 宴会に出るということが嫌になったというようにも聞こえる
文学
道で出くわした女按摩から駒子の事情ーーーかつての踊りと が、そうでないことは、少し酔いがさめてから駒子が次のよ
三味線の師匠の息子のいいなずけとして、芸者に出て金を稼 うに島村にいうことからもわかる 。
いで、東京にいる病気のその息子のために金を送ってやった この八月中﹁神経衰弱﹂にかかって、﹁気ちがひになるの
が、今はその息子の恋人として葉子がこの温泉地に連れてき かと心配だったわ 。
﹂(五一二)何かを思いつめているが、それ
て看病しているが、息子は死にかけているというl ーを知ら が何かわからず、寝られないし、食べられないで、夢を見た
された島村は、駒子の住まいの屋根裏部屋が象徴している り、畳に針を突き刺してみたりしていたというのである 。駒
子は何を思い煩って、﹁気ちがひ﹂になりそうに思ったのか 実を駒子が 言 ったにすぎないことが、サイデンステイツカ 1
わからないといいながらも、その原因らしきものとして、浜 訳でも、映画﹃雪 国﹄(池部良と岸恵子主演 ) でも確認で
(6)
松の男に求婚されて、その男が好きになれないで悩んだこと きる 。 そのとき駒子が島村の頬をなで回しながらこう言うコ
を 話 す。 島村が、好きでもない男であるのに、悩むとは、 ンテクストを考慮すると、訳者や映画の解釈のほうが、単純
﹁結婚て、そんな力があるかな﹂というと、﹁いやらしい 。 さ ではあるが、この場合には、適切だと思われる 。島村がその
うじゃないけれど、私は身のまはりがきちんとかたづいてい とき酒を飲まなかったのは、しかし、純粋な駒子を自分が弄
ないと、 ゐられないの﹂(五 二一)という。 この島村の言葉は、 んでいるという意識に駆られて、﹁虚しい切なさに曝されて﹂
結婚による社会的安定に 言 及していると思われるが、駒子の いたからである 。
河村
返事の﹁いやらしい﹂は、島村が性的なことへ言及したと解 五
駒子が宴会から帰って来たときに言う、﹁知らん 。も う 知
雪国』読解試論
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云々は、 他に男がいることを示唆しているように読める 。 そ う解釈したらよいのだろうか 。単なる酒の飲みすぎとも、芸
者がいやになっただけとも思われない 。 これに続いて駒子が
一
の男の存在を匂わすように、駒子は、﹁私妊娠してゐると思
川端康成 『
っ て た の よ 。 ふ ふ 、 今 考 え る と お か しくって、ふふふ﹂ この 夏 のことに言及することからして、浜松の男の求婚、
ユ
し
(五四)含み笑いをするが、﹁妊娠﹂の相手は、島村というこ いなずけの行男のためにこの夏芸者になったこと、さらには
とであろう。だから浜松にはお嫁に行きたくなかった 。 これ 後ほどわかるように、駒子の年来のパトロンとの関係をどう
が原因で、 八月には﹁神経衰弱﹂になり、﹁気ちがひになる したらよいかの内的煩悶に言及していると思われる 。 その元
のかと心配﹂することになったと理解される 。 には島村への一途な思いがある 。 それゆえ﹁妊娠﹂云々を口
ここまで読んでくると、駒子の言葉、﹁ムユ伎は白いわ 。愛 にした後すぐさま、駒子は﹁両の握り拳で島村の襟を子供み
だわ﹂というのは、﹁神経衰弱﹂あるいは﹁気ちがひ﹂の原 たいに掴んだ﹂とあり、次の行ではすでに﹁閉ぢ合はした濃
因と深い関係があるのではないかと疑われる 。だが 、単にこ い捷毛がまた、黒い日を半ば聞いてゐるやうに見えた﹂
れは島村が今夜は酒を飲んでいないので、顔が白いという事 (五四)と結んでいるが、この行聞に、再会後の 二回目の交
わりがすでに完了したことが示唆されている 。 この後者の引 素が追加されていることがわかる 。
用文句は一回目のとき同様に、交わりの後の駒子の顔の表情
に関するリフレインの文句となるからである 。 細く高い鼻は少し寂しいはずだけれども、頬が生き生き
さて、 いよいよ駒子の﹁唇﹂の表情を島村が再びとらえる と上気してゐるので、私はここにゐますという鴫きのやう
場面である 。翌朝のこと、いつものようには家に帰らずに、 に見えた 。あ の 美 し く 血 の [ 美 し い 血 の 蛭 の 輪 の よ う に
葉子に着替えと三味線を持ってくるように依頼した駒子につ (岩波文庫版での変更)]滑らかな唇は、小さくつぼめた時
文化/第 25巻第 1号 / 2013 9
いての島村の印象が、すでに述べた一清潔﹂を強調する調子 も、そこに映る光をぬめぬめ動かしてゐるやうで、そのく
に、新たに性をあからさまにする表現が加えられ、変化して せ唄につれて大きく聞いても、また可憐に直ぐ縮まるとい
いるのが見られるのはこの時である 。最初駒子の三味線は ふ風に、彼女の龍の魅力そっくりであった 。下がり気味の
﹁勧進帳﹂で、﹁山峡の大きい自然﹂を前に孤独の中で稽古を 眉の下に、日尻が上がりもせず下がりもせず、わざと真直
するとこれほどまでに強くなるものかと、その援の音の強さ ぐ描いたやうな眼は、[どこかおかしいようながら、(岩波
78
に圧倒される島村は、その音に芯の強い駒子の本性、﹁野生 文庫版での付加)]今は濡れ輝いて、幼なげだった 。白粉
の意力﹂、﹁虚しい徒勢とも思はれる、遠い憧僚とも哀れまれ はなく、都合の水商貰で透き通ったところで山の色が染
る、駒子の生き方﹂(六O) を見、それに﹁叩きのめされて めたとでもいふ、百合か玉葱みたいな球根を剥いた新しさ
芸術
しま﹂う 。 つ ま り 駒 子 を 自 然 の 子 と し て 見 直 し た 瞬 間 で あ の皮膚は、首までほんのり血の色が上がってゐて、なによ
学
文
りも清潔だった 。 (六O│六一)
る
だが、三味線が﹁都鳥﹂に差し掛かると、突然駒子の様子
が柔らかく変化し、﹁肉健の親しみが感じられ﹂るまでにな 前の引用では、同じく唇を﹁まことに美しい蛭の輪﹂とい
る。すると駒子の肉体の﹁清潔﹂という側面のみならず、そ い、その伸び縮みにも言及してはいるが、そこまでで終わっ
の核にある性の魅力が島村をとらえる 。 一見すると、すでに ていた 。だが今の場合はどうであろう。さらに蛭の伸び縮み
引用した文言の繰り返しかと怪しまれる表現だが、新たな要 の動きが強調され、﹁彼女の龍の魅力そっくり﹂というおま
けまでついている 。 つまりぬめぬめとうごめく蛭の唇こそ、 よ﹂といって突然島村の首に鎚り付き、
表に現れた駒子のセックスそのものだというわけである 。
そしてこれ以降島村の部屋に泊まる駒子は、最初の日のよ ﹁あんた、 そんなことを言ふのがいけないのよ 。起きな
うに夜明け前に帰ろうとはしなくなる 。物語では、以降何度 さい 。起 き な さ い っ て ば 。
﹂と口走りつつ自分が倒れて、
か駒子が島村を訪れて泊ったであろうが、その都度の様子は 物狂はしさに龍のことも忘れてしまった 。(六五)
書かれないで、島村が東京に帰る月の最後の夜に駒子を呼
ぶ、その時の様子が描写されている 。 島村が駒子を気遣うような中途半端な物言いをするから、
駒子は島村に対して、早く東京に帰るようにせかしなが 駒子が男への気持ちを吹っ切ることができない 。 その結果、
河村
こにいるから、駒子は﹁つらい 。
﹂それで夜中でも、今から もの狂わしさに駆られて、自らからだを島村に与える結果と
家に帰るといってみたり、交わりは﹁難儀﹂といってみた なる 。男と女の切るに切れない情の絡まりの典型的な一場面 J
ハ月i
同
り、﹁帰らない﹂といってみたりする 。 こうした駒子の様子 であるが、おそらく川端と松栄との間に交わされたやり取り
川端康成 「
を見ていた島村は、駒子が相当深く自分に惚れこみかけてい の 一節であろう 。
ることを知る 。 ﹁つらいとは、旅の人に深填りしてゆきさう
はま
な心細きであろうか 。またはこういふ時に、 じっとこらへる それから温かく潤んだ眼を開くと、
やるせなきであろうか 。女の心はそんなにまで来てゐるのか ﹁ほんたうに明日時りなさいね 。﹂と、静かに言って、髪
と、島村はしばらく黙り込んだ 。﹂(六五 ) の毛を拾った 。(六五)
駒子のこうした気持ちを察知した島村は、﹁いつまでゐた
って、君をどうしてあげることも、僕には出来ないぢゃない 交わり(その場面は省略されている)がすんだことを締め
か﹂(六五 ) といって明日帰るというと、駒子は突然激しい くくる一文である 。翌日午後三時の列車で帰る島村が駒子と
さんぱく
口調で、﹁それがいけないのよ 。あんた、それがいけないの 駅に行って列車を待っていると、山袴を穿いた葉子が看病し
ている行男が危篤状態にあることを知らせに駆けつけてく る。だから駒子がどうあっても行男の死に目に会いに行く必
る。葉子がやって来る直前に駒子は﹁気持ちの悪い烏が鳴い 要はない 。 それよりも、二度と会えないかもしれない、今愛
ている 。 どこかで鳴いている。寒いわ﹂(六七)と、葉子の している島村との別れの方が、駒子には大切なのであろう。
知 ら せ を 予 感 し た よ う な こ と を 言 う 。だが、早く帰ってくれ それを島村は推しはかろうとはしないで、頑強に抵抗する駒
と急き立てる葉子に、駒子は頑としてこれを拒み、島村がも 子に﹁肉躍的な憎悪﹂さえ感じてしまう 。
う二度と来ないかもしれないから見送るというのである 。 い 逆に駒子は、幼馴染であった行男の死に目を見届けるのが
文化/第 25巻第 1号 / 2013 9
いなずけの死に目にも会おうとしない頑強な駒子に、島村は 人の情であるかのごとく島村がいうのを、﹁素直﹂と解釈す
駒 子 の 付 け て い る 日 記 の 最 初 の ペ lジ に 東 京 に 行 く 駒 子 を る。 そ う し て 駒 子 に ﹁ 素 直 ﹂ と い わ れ る と 、 島 村 は 自 分 が
送ってくれた行男のことを書いてあるのだから、今度は行男 ﹁素直﹂な人間だと思い、感動してしまうのは、 ﹃伊豆の踊
の命の最後のペ lジに彼女のことを書きに行って来いという 子﹄において、踊り子に﹁いい人ね﹂ といわれて感動す
(7)
る学生の素直さを思い起こさせる。だがそこには同時に﹁美 ハU
と
00
しい空虚な気持﹂ (8)
があったように、ここでも島村の感動
﹁ねえ、あんた素直な人ね 。素 直 な 人 な ら 、 私 の 日 記 を には﹁美しい徒労﹂が潜んでいる点について、竹西寛子は、
すっかり送ってあげてもいいわ 。あんた私を笑わないわ この島村の体現している﹁生存への恋﹂とそれへの﹁陶酔の
芸術
ね。あんた素直な人だと思ふけれど 。
﹂ 拒否﹂と いう 二 律 背 反 を 、 川 端 文 学 の 特 質 と 見 て い る 。 (9)
文学
島村はわけ分らぬ感動に打たれて、さうだ、自分ほど素 だが、﹃伊豆の踊子﹂における﹁美しい空虚な気持﹂には、
直な人聞はいないのだといふ気がして来ると、もう駒子に 竹西の二一日うような二律背反があるのではなくて、﹁孤児根性﹂
強ひて蹄れとは言はなかった 。駒子も黙ってしまった 。 を払拭した﹁素直﹂な全面的な生存肯定があるのみだという
七 O)
( ことは、踊子との別れに際して学生の感じる﹁清々しい満足
m)
の中に眠っているよう﹂ ( な反応や、﹁美しい空虚な気持﹂
駒子は行男とはいいなずけではないと島村に話したことがあ の前に置かれた﹁どんなに親切にされても、それをたいへん
自然に受け入れられるような﹂ (
日)という文言がこれを示唆 とみており、﹁命をかけて生き、命をかけて男を愛している
している 。 女を理解はするが、日の前にいなければ、その女はたちまち
同様に、﹃雪園 ﹂ に お い て も 、 駒 子 の ﹁ 素 直 ﹂ に す ぐ さ ま 無に帰する 。島村はその感覚する ﹁
美﹂ の一点においてしか
反応してしまう島村のなかには、竹西のニ一一口うような﹁陶酔の 生活していない 。生活の継続という汚れと無意味さと退屈さ
拒否﹂ではなく、生存の受容と再生への予兆が示唆されてい と繰り返しとに彼は耐えられない 。 そ し て 、 い つ か そ の 島 村
ると見るべきであろう 。 こ の ﹁ 生 存 の 受 容 と 再 生 ﹂ を 示 唆 す の生き方が駒子に理解され、駒子を絶望に陥れる﹂ (
ロ)と
、
る場面へのさらなる言及については、順を追って述べる 。 ﹁非現実﹂に生きる島村の特質を小説家らしく、的確に述べ
続いて東京に帰る島村が駒子を置き去りにする場面を見ょ ている 。だが、この伊藤の解釈についても、上述した竹西の
河村
う 。待合室の窓のなかに件む駒子の姿を汽車のなかから眺め 場合同様、筆者は異論がある 。
雪国j読解試論
る島村の眼には、駒子は﹁うらぶれた寒村の果物屋の煤けた 確かに、汽車のなかの人となった島村は、非現実の世界を
ガラス箱に、不思議な果物がただ一つ置き忘れられたかのや 再生し、﹁鋭﹂のなかの住人となり、竹西寛子や伊藤整の指 11ム
00
う 七O) に映る 。す で に 島 村 は 駒 子 を 一 枚 の 絵 の な か の
﹂ ( 摘を肯定するような態度をとる 。
川端康成 『
女に仕立てて、現実から立ち退こうとしている 。待合室のガ
ラスに浮かぶ駒子の顔は、﹁あの朝雪の鏡の時と同じに鼻、赤 窓はスチイムの温気に目指
一式りはじめ、外を流れる野のほの
な頬であった 。またしても島村にとっては、現賓といふもの 暗くなるにつれて、またしても乗客がガラスへ半ば透明に
との別れ際の色であった 。
﹂(七 O) こうして島村は、駒子を 寝るのだった 。あの夕景色の鏡の戯れであった 。 (略)
現実の世界のなかに置き去りにしていく 。 そのようにしない 島村はなにか非現賓的なものに乗って、時間や距離の思
と、駒子を切り離すことができないからであろう。 ひも消え、虚しく地胞を運ばれて行くやうな放心状態に落ち
伊藤整は、島村の思念の限界を、﹁美にその存在を賭して ると、軍調な車輪の響きが、女の言葉に聞えはじめて来
はいるが、それは抽象され、燃えあがり、変化する瞬間の美 た。
であり、 その瞬間が過ぎると空白になるという性質にある﹂ それらの言葉はきれぎれに短いながら、女が精いっぱい
に生きてゐるしるしで、彼は聞くのがつらかったほどだか ││つまり﹁非現実﹂ への逃避ーーを破る作者の意志表明と
ら 忘 れ ず に ゐ る も の だ っ た が 、 か う して遠ざかっていく今 見ることができる 。
の島村には、旅愁を添へるに過ぎないやうな、もう遠い撃
であった 。 (
七 一)
現実を非現実の世界に仮託して置き去りにしてきた島村に 島村の温泉宿への三度目の訪問は、秋である 。自然は夏の
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とっては、過酷な運命を生きる者たちの声は、旅人に郷愁を 終わりから晩秋、そして冬へ向かって移行していくが、それ
添える﹁遠い撃﹂のようにしか聞こえない 。 とパラレルをなして島村と駒子の関係も終罵へと移行してい
だが車中で出くわした五十過ぎの行商の男と赤い顔の娘 くという巧みな物語構成をなす 。 これからの季節の移行を象
の、まるで長い旅を行く二人のような親密な会話の姿を見て 徴するものとして、特に作者は鳴きしきる虫、蛾の氾濫と卵
かや
いた島村は、途中の駅で男が﹁まあぢゃあ、御縁でもってま の産み付け、とんぼの群れの乱舞、銀色に咲き乱れる萱の
2
8
たいっしょになろう﹂といって降りて行ったのを見て、﹁ふ 穂、まっ赤に熟した柿の実というように、虫、植物という生
っと涙が出さうになって、われながらびっくり﹂(七二)す 命体を選ぴ、それらの命の一瞬の輝きと凋落を人間の命の推
るが、突然非現実の世界から過酷な現実に引き戻された瞬間 移の聞に点描しながら、両者の生命の輝きと凋落を読者に印
芸術
なかったのである 。
﹂偶然乗り合わせた人間の別れの過酷さ 口一葉の自然描写 (
日)を努霧させるのが、川端の自然描写の
に涙をそそられる島村は、当然自分が置き去りにしてきた親 特徴である 。温泉地に到着した島村を待っていたのは、これ
しんだ女とその現実を振り返って見ずにはいられない 。 こう らの虫と植物であった。その典型を一つ、菅一の穂の描写に見
して非現実と見える中に突如作者は現実をのぞかせ、その夢 ておこ、っ。
を破るという過酷なことを島村と自らに課している 。 これは 島村が白萩の花と見間違える萱の描写はこのようである 。
安西や伊藤が言うような﹁生存への愛﹂ への﹁陶酔の拒絶﹂
島村が汽車から降りて員先に目についたのは、この山の た。菊勇は菊村という小料理屋をこの 町で出させても らい妾
白い花だった 。急傾斜の山腹の頂上近く、 一面に咲き乱れ になる予定であったが、夢中になった男に逃げられて、それ
て銀色に光ってゐる 。 それは山に降りそそぐ秋の日光その で妾になるのを潔く思わないで、立ち去ることになったと駒
もののやうで、ああと彼は感情を染められたのだった 。そ 子は語る 。菊勇も﹁弱い人だった﹂から男を何人も持ってい
れを白萩と思ったのだった 。 たが、﹁好かれたって、なんですか﹂と駒子は、我が身に引
しかし近くに見る萱の猛々しきは、遠い山に仰ぐ感傷の き比べて、反論する 。好かれたって、生涯連添ってくれるわ
花とはまるでちがってゐた 。大きい束はそれを背負ふ女達 けでもなし、捨てられるが落ちだということを、駒子は観念
の姿をすっかり隠して、坂路の雨側の石崖にがさがさ鳴っ している 。だから、会うや否や、駒子は島村に﹁あんた私の
河村
すっぽかして来なかった島村を詰り、﹁悲しいわ 。 私が馬
遠くに見る萱の穂を島村は白萩だと思い、それを﹁感傷の 鹿。あんたもう明日蹄んなさい﹂(八三)というのである 。 、
qu
o
o
花﹂として見たが、自の前で見るそれは﹁逗しい穂﹂であっ そう言いながら駒子は、﹁私愛つてない?﹂といい、
つ
ユ
し
川端康成 『
た。 ここには現実との直面を避けて非現実に逃れる性癖の持 たん田舎の港町に帰って、師匠の看病をしていたのをやめ
ち主の島村の心が典型的に表れているが、同時に島村の非現 て、鳥追いの祭りにはここに来て待っていたといい、島村へ
実への逃避の性癖は、現実(の過酷さ)によって、修正を強 の未練を吐き出して見せ、島村を誘うふりをするが、例の
要されてもいる 。菅
一は 刈り取られて 後は屋根葺きに使われて 美しい蛭の輪 ﹂のような 唇にキッスをされると、 ﹁いや、蹄
﹁
命を永らえていくという逗しい生命体であるが、これは駒子 して﹂とこれを拒む 。それで﹁私愛つてない?﹂ への答えと
の姉さん格にあたる芸者菊勇の生きざまにも、そしてもちろ して、島村は﹁相愛わらずだね﹂という。 つまり、十七でこ
ん駒子のそれにも当てはまる 。 こに来たときから駒子は自分が﹁ちっとも愛わらない﹂と信
島村が旅館に到着したとき、帳場に挨拶に見えていたの じている 。性的潔癖症とでもいえる信念である 。未練と信念
が、年期があけて生まれた町へ帰る年増芸者の菊勇であっ との自己分裂を駒子は繰り返す 。
だから、﹁あんたもう明日蹄んなさい﹂とい った直後に、 に、二人の交わりが、例によ って、無言の内に進行する 。そ
島村が駒子の未練を感じてくれているのを 察 知すると、﹁一 してその成就のインデ ックスとして、作者はいつものリフレ
年に一度でいいからいらっしゃいね 。 私のここにいる聞は、 インを挿入する 。 一
黒 い眼を 薄 く聞いてゐると見えるのは濃
一年に 一度、きっといらっしゃいね﹂というのである 。 い捷毛をとぢ合はせたのだと、島村はもう知ってゐながら、
駒子がこの温泉地に来てから五年が経ち、島村が来てから やはり近々とのぞきこんでみた 。
﹂(八四)
三年 過 ぎ た が 、 そ の 間 三 度 来 る 度 毎 に 駒 子 の 境 遇 が 変 わ っ この情交の後の 二人の会話は理解できるであろうか?
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た。今は師匠の息子にも死なれ、看病していた師匠にも死な
れ、師匠の 家を出て、葉子とも別れ、子どもの多い雑貨屋の 離れてゐてはとらへ難いものも、かうしてみると忽ちそ
置屋に寝起きするようになった 。駒子の年期はまだ四年残つ の親しみが還って来る 。
ている 。 駒子はそっと掌を胸へやって、
-84-
近づいてきた駒子を島村は抱き上げて、その温かさを味 ﹁片方が大きくなったの 。
﹂
馬鹿 。 その人の癖だね、 一方ばかり 。
くつわむし
わ っていたが、 轡 最が 急 に鳴き出すと、﹁ぃゃねえ﹂とい っ ﹁ ﹂
て、駒子は島村の膝から立ち上がる 。 これは、駅で 島村に別 、 いやな人 。
あら 。 いやだわ 。嘘
﹁ ﹂ と、駒子は 急 に愛
れるときに、烏が鳴くのを聞いたときと同様の駒子の反応で った 。 これであったと島村は思ひ出した 。
芸術
さの復活に言及したものではないかと思ったが、ここでも訳 であろ、っ。
の方の解釈を取りたい 。というのは、同じような言い方を駒 駒子は自分の生理の話までして、それが正確に二日ずつ早 Fhd
o
o
子が、前にしているからである 。それは駒子が浜松の男に求 くなるというと、島村は、生理でも﹁お座敷へ出るのに困る
川端康成 『
婚されたときに、﹁結婚て、そんな力があるかな﹂と島村が というやうなことはないだろう﹂というが、駒子は﹁ええ、
言ったのに対して駒子が、 ﹁いやらしい・:あんた、 いい加減 そんなこと分るの?﹂と不思議がる 。島村の知っている駒子
な人ね﹂(五一二)と言ったが、サイデンステイツカーはこれ の生理の性質とは何か?それは駒子の芸者としての体型に起
、 60ロ
を バ gq:問。己ザのロ O片 釦 ︿R
ロ UNg
tω 守5m 句
。50P 因しているようだ 。島村の感想に、﹁嚢者などにありがちの
σ
M
1cc
-s。
ョ・ 宏)と訳している 。
3( 少うし腰窄まりだった 。横に狭くて縦に厚い 。そのくせ島村
この交わりに続く暮の鳴くという描写の意味は何か? が遠く惹かれてくるやうな女であることなのは、哀れ深いも
のがあった﹂(八五)とある 。﹁横に狭くて縦に 厚い﹂という
がま
この部屋は二階であるが、家のぐるりを墓が鳴いて廻つ 体型は、つまり、子どもができにくい体型ということであろ
た。 一匹ではなく、 二匹も三匹も歩いてゐるらしい 。長い う。だが女としての感性がよいので、島村は通ってくる、そ
の体型と性とのギャップに、島村は深い﹁哀れ﹂を感じる 。 ている姿は、作者には、﹁秋﹂そのものの景色であり、古風
駒子もそれを知ってか知らずにか、﹁私のやうなのは子ど な作りの家の軒端にたれた萱の簾、土坂の上に植えられた桑
もが出来ないのかしらね﹂といい、このとき十七歳から五年 染色の花盛りの糸すすき、道端の日向に藁席を敷いて小豆を
間付き合っている一人の男のあることを初めて明かす 。 つま
まめ がら
打っている葉子の姿、乾いた豆幹から小一旦が小粒の光のよう
りこの温泉に駒子が来てから今日まで、駒子はその男との交 におどり出てくる様子、そして秋の童謡を﹁悲しいほど澄み
わりで、避妊もしないで子どもができなかったのだと推測す 通って木魂しさうな撃で﹂葉子が歌う秋の歌、これらはすべ
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る島村は、だから(自分に対しても)﹁駒子の無知で無警戒 て秋の明るい光景の点描である 。
なのはそれで分った﹂(八五)と思うのだが、それにしては、 だが秋は明るさのみではない 。作者の眼は夕暮れの婿齢の
駒子がその付き合っている人を﹁親切な人だのに、 一度も生 群れの遊泳に向けられている 。山案内書にあるような、無心
き身をゆるす気になれないのは、悲しい﹂というのは、どう に飛び、帽子や人の手や眼鏡にさえ止まるのどかな夏の赤騎
いう意味か?ここでもサイデンステイツカ!の訳は参考にな 蛤ではなくて、﹁目の前の鯖蛤の群れは、なにかに追ひつめ
-86
る。 それは普通の交わりをしたことがないという意味ではな られたもののやうに見える 。暮れるに先立って黒ずむ杉林の
文化/第
く、本気で自らを与える気になれないということのようであ 色にその 姿 を 消 さ れ ま い と あ せ っ て ゐ る も の の よ う に 見 え
る。訳は、メ:ωZg己己ロ。仲間守 σ F O門司Z
-o
ω 巳同 ZEB--- る。
﹂(八八)ここには冬の予兆の歌がある 。
芸術
学
(
-81
0吋)とわかりやすい。 こうした秋の明暗の姿への繊細な川端の反応は、イギリス
文
翌朝早く窓際に持ち出した駒子の鏡には、すでに紅葉の山 の ロ マ ン 派 の 詩 人 ジ ョ ン ・ キ 1 ツ ﹁。﹃口問σωZ・回一 -AVω'∞
H NH)
ト(
が写り、秋の明るい日ざしが映えていることを川端は述べ、 の﹁秋に寄せる﹂(斗。﹀ECB ∞NC) と い う オ l ド を 努
3H
もう夏は終わったことを告げているのである 。季節の区切り 第させる 。後者に は、収穫のブ・
ロ
ドウのうま酒に畑の畔道で眠
のみならず、人の生の区切りである 。島村は、駒子が帰ると りこける酒神もいれば、丸々と肥え太った子羊の鳴き声に屠
村に散歩に出るが、鏡のなかの秋は外の世界にも実在する 。 殺による命の終罵の予兆も歌い込まれている 。
白壁の軒下で朱色の山袴をはいて、女の子がゴム鞠を突い 西日を 受けて紅葉 している遠い山を眺めている 島村は、 春
新緑の燃える山を歩いた自分の足跡の残る山を思い出し、 島村と駒子との間で、駒子の亡きいいなずけ行男と師匠の
﹁今は秋の登山の季節であるから、山に心が誘はれて行く 。
﹂ 眠っている 墓参 り を め ぐ ってひと悶着ののち、杉林を抜け
(八九)山歩きは、無為徒食の 島 村には、﹁徒労の見本﹂で て、線路伝いに行くと 墓場に出る 。そこにいる葉子に挨拶を
あったが、﹁それゆゑにまた非現賓的な魅力もあった﹂ する途端、貨物列車が轟音を立ててそばを通った 。鉄道に勤
(八九)という 。そしてこの ﹁
山 に誘はれる思ひ﹂は、﹁同じ める葉子の弟が黒い貨車の扉から ﹁
姉 さあん﹂と呼ぶと、葉
夢﹂として駒子のなつかしい思いの﹁人肌﹂へと連動してい 子は例の ﹁
悲しいほど美しい撃で﹂﹁佐一郎、っ、佐一郎、つ﹂
き、今朝帰 って行 ったばかりの駒子をすでに待ちわびる気持 と呼ぴ返す 。墓場で葉子と駒子が出会う気まずさを貨物列車
ちを助長する 。 このようにして、この小説のテ l マでもある が﹁吹き梯って行ってしま ﹂ い、あとに残ったのは、葉子の
河村
山のトポスが ︿﹁非現実的な魅力﹂ H (
女の)人肌 ﹀として確 弟を思う﹁純潔な愛情の木魂 ﹂と、﹁目隠しを取ったやうに、
雪園』読解試論
定 さ れ 、 ﹁ 夢 ﹂ の 世 界 が 紡 が れ て い く の で あ る 。﹁山 ﹂が 線路向う﹂に見えた ﹁
鮮か﹂で、 ﹁
赤い室の上に咲き揃って
﹁
女 ﹂を象徴するということについては、すでに﹁先己との 賓に静か﹂な﹁蕎麦の花 ﹂ (九六)であった 。駒子と葉子と i
o
o
円
関係においても述べておいた 。 島村という 三者の間のわだかまりを 一挙に払拭してしまう、
川端康成 『
そ の 夜 駒 子 は 来 な い が 、 翌 朝 六 時 半 に 裏 山 か ら や って来 何と見事な動の列車と静の風景の対照的描出であろう!
て、女中に内緒で押し入れに隠れ、湯に行って帰って来る島 同じ日の夜中の三時に、約束通り、駒子は髪を洗いにやっ
村を待って、忍んできた裏庭に誘い出す 。畑に沿って川岸に て来たが、 ひどく酔っていた 。﹁ここへ来る道、見えん 。見
出ると、﹁向岸の急傾斜の山腹には、菅一
の穂が一面に咲き揃 えん 。 ふう、苦しい ﹂といい、また﹁知らん 。もう知らん﹂
って、肢しい銀色に揺れてゐた 。肱しい色と 言 っても、それ と 言 つてのけぞ って転がった 。 この物言いは、前に酔っぱ
は秋空を飛んでゐる透明な惨さのやうであった 。﹂(九二 乙 こ ら ってやって来たときの物 言 いと同じであることがわかる 。
こでは山の萱の穂は、﹁透明な傍さ﹂に変質したものとして 知らん 。知らん 。頭痛い 。頭痛い 。ああ、難儀だわ、難儀 ﹂
﹁
島村の眼には映じている点に注音山したい 。秋は 一段とその と い う 謎 の よ う な 言 葉 で あ る 。 この解釈はすでにおこなっ
﹁惨さ﹂を強めてくる 。 た。まるで神がかりに遭った亙女のような言い草であるが、
かんふう き ゃく
一途に島村を求める気持ちの表れである。 が、観楓客の歓迎のための飾り立てに、門口で紅葉の枝にあ
火のように熱い駒子のからだに頭を載っけた島村は、﹁ぢ けびの実の付いた蔓を結び付けているのを見て、島村は﹁あ
かに生きてゐる思い﹂がして、﹁駒子の激しい呼吸につれて、 けぴの冷たい賓を握ってみながら、ふと帳場の方を見ると、
現賓といふものが停はって来た 。それはなつかしい悔恨に似 葉子が燈端に坐ってゐた 。
﹂(一O 二)何気ない偶然の ように
て、ただもう安らかになにかの復讐を待つ心のやうであっ 書いてあるが、そうではない 。葉子はまさに﹁冷たいあけぴ
た﹂(九九)とある 。非現実への逃避を続けていることへの の賓﹂そのものだからである 。葉子は人手が足りないので、
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﹁悔恨﹂とそのことへの﹁復讐こを受けることの欲求が島村 勝手働きに来ていた 。
にはあることを示唆する文句である。だがこの ﹁悔恨﹂と 島村は駒子の彼に対する﹁美しい徒勢﹂のような愛情を哀
﹁復讐一己は、川端が亡き母から受けるような、﹁なつかし﹂さ れに思いながらも、自分がそれに応えてやれないので、自ら
と﹁安らか﹂さが付随している点も見逃すことができない 。 をも哀れむが、﹁そのやうなありさまを無心に刺し透す光に
-88-
この駒子への﹁悔恨﹂と﹁復讐﹂の気持ちは、繰り返し島 似た目が、葉子にありさうな気がして、島村はこの女にも惹
村を襲う 。それはこの後葉子が駒子の代理で島村を訪れると かれるのだった 。
﹂(一O二一
)あけぴの実は女のセックスのシ
きに、葉子と駆け落ちでもすれば、﹁駒子への激しい謝罪﹂ ンボルでもあるが、葉子のそれは﹁冷たい﹂もので、駒子の
(一O九)になるのでは、また﹁なにかしら刑罰﹂(一 O九) ﹁熱い﹂(九九)それとはまさに対照的であるから、非現実を
芸術
を受けることになるのではと思う場面があるが、﹁謝罪﹂と 好む島村は、対照的な二つのものが対立していて、しかも結
文学
も 日 毎 に あ っ た の だ 。翼の堅い虫は、 ひつくりかへると、 凶)
﹁生き物の寂しさ﹂ ( を感じる志賀直哉の姿勢を思わせる
雪園』読解試論
もう起き直れなかった。蜂は少し歩いて韓ぴ、また歩いて が、死んだ蛾の美しさに感嘆する島村は、むしろ本質的には
9-
倒れた 。季節の移るやうに自然と亡びてゆく、静かな死で 審美主義者である。 ﹃
雪園 ﹂ に お い て 確 立 さ れ た 川 端 の 感 覚
-8
あったけれども、近づいて見ると脚や鰯貨を顛はせて悶え の力の多様な表現の仕方の 一例として、竹西寛子も、この蜂
川端康成 『
なずけではないと葉子は否定しているから、この点で葉子は のではないか?八月には﹁神経衰弱﹂になって、﹁気ちがひ
駒子と行男を取り合っているという三角関係ではないことが になるのではと心配だったわ﹂と言ったことがある 。
わかる 。葉子が駒子を﹁憎い﹂と思うのは、恐らく行男は駒 葉子が駒子のことを﹁可哀想なんですから、 よくしてあげ
子のことをずっと思っていたのに、駒子はこれを無視してき て下さい﹂というのは、葉子の精神的な愛とは対照的なエロ
たことによるのではないか 。島村が東京に帰るときに駅まで スを媒体とする駒子の愛し方にも、それに報いられないと崩
-90
見送りに来ていた駒子を、行男が危篤だからすぐ来るように 壊するという、自分と同じ危険が潜んでいることを、葉子は
呼びに来たときも、駒子は頑としてこれを拒絶した 。 そして 察知しているのであろう。、だから、島村が、﹁僕はなんにも
行男の死に目にも会わなかった 。 こうしたことが葉子の駒子 してやれないんだよ﹂(一二一)というと、﹁葉子の目頭に涙
芸術
を憎く思う気持ちのもとを作っているのではないかと思われ が溢れて来﹂ て 、 畳 に 落 ち て い た 蛾 を つ か ん で 殺 し て し ま
文学
る。 う 。 この小さい蛾というのは、葉子自身の姿ではないか 。 そ
だが 一方では、葉子は島村にもう看護婦の勉強はしないと うして葉子が部屋を出ていくと、﹁島村は寒気がした﹂とい
いう。看護は行男ひとりだけで、もう終わったのである 。葉 うが 、す でに 島村は葉子が﹁気ちがひ﹂になる予兆を ここで
子の生き方がここに表れている 。何でも葉子は一つのことに 察知しているからだと思われる。
集中して、それ以外のことができない 。だから人を見る日 駒子は島村に、﹁あの子を見てると、行末私のつらい荷物
も、刺し貫くような視線となって、島村を驚かせ、﹁彼女の になりさうな気がするの﹂(一 一四)といい、葉子の未来を
むざん
予見するようなことをいうが、同時に﹁あんたみたいな人の ﹁無断﹂(一 一七) に捨て置かれているのを点描する作者は、
手にかかったら、あの子は気ちがひにならずにすむかもしれ ここにあと三年半年期があけるまで住む駒子の身の上に思い
ないわ 。私の荷を持って行っちやってくれない?﹂(一一五) を寄せている 。 ここにも、一方的に非現実の世界にとどまる
ともいう 。 これはどういう意味であろうか?一途な葉子であ のではなくて、そこから現実へと移行する可能性を秘めた島
るからこのままいくと気が狂うことが予想されるが、遊び人 村の姿が示唆されている 。
の島村が相手であれば、むしろ気休めになるのではないかと 下宿から再び島村を宿にまで送ってきた駒子は、冷酒を調
いう意味にも受け取れる 。島村は駒子のこの言葉を酔った上 達してきで島村にも飲ませるが、これで気分を悪くして伏せ
でのいい加減なものと思うが、駒子の言葉は案外的を射たも る島村に、駒子は、まるで子どもをあやす母のようにしてそ
河村
の息子行男との縁で結ぼれた、切り離し得ない存在としての いったことであろう)のを引き合いに出して、これまで黙っ
葉子のみならず、自分の精神的分身でもある葉子というお荷 ていたが、﹁女にこんなことを言はせるやうになったらおし
物を、島村に預けて肩の荷を下ろせる自分の軽やかさを想像 まひぢゃないの﹂(一一九)と迫るが、このわざとらしい言
して言ったものと思える。 い方は駒子が島村を思い切ろうとする気持の表れである 。
酔った駒子を下宿先の雑貨屋に送って行って、下の部屋で 問題は﹁君はいい子だね﹂を島村が少し 言 い換えて、﹁君
夫婦と五六人の子どもが煎餅布団で体を寄せ合って寝ている は い い 女 だ ね ﹂ 二 二 O) と言ったときに駒子がした反応で
姿を点描し、二階に上がって駒子の﹁狐狸の棲家﹂(一一ムハ) ある 。 これを駒子はセックスのうまい女と解釈して、島村が
のような、荒れた、だだっ広い古畳の部屋に、東京暮らしの 彼女を芸者として﹁笑ってた﹂と受け取り、突然怒り出した
名残りの﹁柾目のみごとな箪笥や朱塗の賛津な裁縫箱﹂が のである 。そうして駒子は悔しがり、﹁悲しいわ﹂と言って、
突っ伏して泣く 。 この﹁悲しいわ﹂は、二度目に島村が駒子 駒子の肌は洗ひ立てのやうに清潔で、島村のふとした言
に会いに来たときに交わった際にも、駒子が 口にした言葉 で 葉もあんな風に聞きちがへねばならぬ女とは到底思へない
ある 。女 で あ る こ と の 自 覚 が 、 こ の よ う に 駒 子 を 悔 し が ら ところに、反って逆らい難い悲しみがあるかと見えた 。
せ、悲しませる 。だが、島村も、駒子に言われてみて、はじ 二 二 O l二一)
めて自分の無意識のもの言いのなかに、﹁十分に心疾しいも
の が あ っ た ﹂ ご 二 O) ことを意識せずにはいられない 。 こ 鏡の中の駒子は﹁清潔﹂そのものであるが、それを裏切る性
文化/第 25巻第 1号 / 2013 9
れも、島村の非現実への執着の修正を促す一コマである 。 を持つ女であることの﹁悲しみ﹂を島村は、正確に見抜いて
だがふいに出ていった駒子は﹁考へ直して来た﹂と言っ いる 。
て、島村を湯に誘い、うつむき加減に先に立って廊下を歩く ﹂うして雪となり、秋は終わった 。
が、その姿は、一罪をあばかれて曳かれて行く人に似た姿で
あった﹂(一一一一)という。 ﹁罪﹂とは、彼女が女で、セ ック 紅葉の鋳色が日毎に暗くなってゐた遠い山は、初雪であ
2
-9
ス好きに生まれついているということであり、これを自覚す ざやかに生きかへった 。
るがゆえの悲しみの姿である 。 この駒子の﹁罪﹂を購うの 薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ 一つがくっきりと
が、雪中火事で身を犠牲にする葉子である 。 これについては 目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った 。(一 二二)
芸術
最後に検討する 。
文学
ちじみ
の別れの契機は、麻の縮の産地見物であり、駒子にとっての 与えてやることができない自分に良心の苛責を覚え、﹁駒子
雪園』読解試論
別れの契機は、繭小屋の雪中火事である 。 が虚しい壁に突き当たる木霊に似た音を、自分の胸の底に雪
島村が縮を愛好するのは、 一途に彼が自らを清めたいと思 が降りつむやうに聞﹂(一二五)く 。 d
円︿
n吋d
う 衝 動 と 深 く 関 係 し て い る 。縮の晒し方について、島村は 胸 の底に雪が降りつむ ﹂音を聞く島村の感性は、部屋で
﹁
川端康成 『
くれない
﹁深い雪の上に晒した白麻に朝日が照って、雪か布かが紅に 沸かしている古い鉄瓶の立てる﹁やはらかい松風の音﹂のさ
染まるありさまを考へるだけでも、夏のよごれが取れさうだ らに奥にかすかに鳴りつづける﹁小さい鈴の音﹂をも捉える
し、わが身をさらされるやうに気持よかった﹂(一二三)と ほどに鋭くなっている 。﹁一人旅の温泉で駒子と舎ひつづけ
いう 。 この朝日に染まり白麻が紅に変わる色彩の変化、つま るうちに妙に鋭くなって来﹂(一一一七) たというが、その遠
り﹁白﹂と﹁紅﹂(赤)のコントラスは、駒子の白粉を塗つ くに鳴りしきる鈴の 音 は﹁小刻みに歩いて来る駒子の小さい
た顔の﹁白﹂とそれを洗いおとした後の顔の﹁赤﹂とのコン 足﹂を連想させないではおかない 。﹁島村は 驚いて、最早こ
トラストと、島村の意識の上では、深く関連している 。自ら こを去らねばならぬと心立った 。
﹂ (一二五)この ような駒子
の心を﹁晒し﹂、清めたいが故に、縮を好む島村だからこそ、 の幻想・幻聴を見たり聞いたりするようになれば、 一途に島
朝日に﹁晒し﹂、清められた駒子の赤い顔に特に執着するの 村を追う駒子のみならず、気が狂うのは、島村も同様であろ
う。 それで島村は﹁この温泉場から離れるはずみをつける﹂ ろう 。早くに孤児となった川端にとっての母性回帰の衝動の
(一二五)ために、縮の産地に行こうと思い立つ 。 表明でもあろう。
﹁先祖代々雪に埋もれた欝陶しい家﹂の中で、﹁ 雪の底で手 そして旅館の前で止まった車から降りた二人が耳にするの
すり、はんしよう
仕事に根をつめた織子達の暮しは、その製作品の縮のやうに が、擦半鐘の音であり、見るのが下の村のまんなかにあがる
火の手である 。映画を上映していた繭蔵で、フ ィルムから火
まゆくら
爽やかで明るいものではなかった﹂と想像する島村は、そう
した織子の﹁一心こめた﹂﹁ぜいたくな着物﹂を着ている自 が出たというのを聞く 。駒子と島村は火事場めがけて坂道を
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たれたのは島村だけではないのであろう 。作者の川端がこの :裸の天の河は夜の大地を素肌で巻かうとして、直ぐ
た
小説を書いたのは、罪滅ぼしのためであったともいえるので そ こ に 降 り て 来 て ゐ る。 恐 ろ し い 艶 め か し さ だ。
﹂
はないだろうか 。
一
一
一
一
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一
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暮れてゆく雪催ひの白い山を後に、島村は温泉場に一戻って
芸術
学
来ると、﹁寒気が星を磨きだすやうに冴えて来﹂(一一一八)る 島村が裸の艶めかしい天の河に抱きしめられるような錯覚を
文
なかを、車で小料理屋の菊村の前を通りかかると、門口で立 抱くが、この後起こる葉子の二階桟敷からの地上への落下の
ち話をしている芸者のなかに駒子がいる 。車が徐行すると駒 場面の解釈にとって重要なイメージである 。 この天の、河が垂
子 が い き な り車に飛びつき、 ﹁窓を抱くやうに片腕をあげ れ下がっている暗い山へ向かって、駒子と島村が走って行
た。﹂(一 二 八)﹁島村はふわりと温いものに寄り添はれたや く。火事場に到着するまでの聞にも、駒子は島村との最後の
う﹂に感じるが、この感覚は、冷酒を飲んで気分を悪くした 別れを予感して、道行の場面のような最後の睦言を繰り返
ときの島村が感じる駒子の母が子に寄り添う感覚の再現であ す。島村が駒子のことを一いい女﹂と言ったことである 。 こ
の﹁女の程の底まで食ひ入った言葉﹂のために、駒子は﹁あ い。 それは駒子の分身で、駒子の燃える女の生賢となって、
んたと離れるのこはいわ﹂(一三四)とさえ言う 。 駒子の炎を消してやる葉子である 。葉子は駒子という性の炎
﹁あんたが行ったら、私は箕面白に暮らすの﹂(一三五)と が焼き尽くした残骸、つまり燃え落ちた繭蔵(繭蔵そのもの
言いながらも、﹁女の匂ひのする﹂のが不思議な駒子である が駒子の棲家の象徴として用いられている)の犠牲者であ
が、この駒子の二面性を具現しているのが、島村の見る天の る。 これは、葉子が二階桟敷から地上に落ちる聞の出来事で
河である 。 天の河は﹁しいんと冷える寂しさでありながら、 ある 。失神したままの葉子は、﹁人形じみた、不思議な落ち
なにか艶めかしい驚き﹂でもある 。 方﹂をする 。そしてそれを島村は、﹁非現{貫的な世界の幻影﹂
空が暗い山を抱くという﹁空﹂と﹁山﹂ の 交 わ り の 場 面 のように見る 。 こ う し て 小 説 は 最 後 ま で ﹁ 非 現 実 の 鏡 の 世
河村
は、すでに島村と駒子の交わりの場面で、詳しく論じた 。 こ 界﹂を踏襲している 。
雪園 j 読解試論
こはその時の場面の再現である 。火の粉が天の河に吹き上げ
て散り広がるのを受けて、天の河が流れ降りて来る 。昇って 女 の 龍 は 空 中 で 水 平 だ っ た 。島 村 は ど き っ と し た け れ ど
5
9
行く火と、上から降りて来る河との交わりである 。 この天に も、とっさに危倹も恐怖も感じなかった 。非現賓の世界の
川端康成 『
感じなかったが、葉子の内生命が愛形する、その移り目の 駆け寄る瞬間の描写である 。
やうなものを感じた 。 (一三九 i四 O)
水を浴びて黒い焼屑が落ち散らばったなかに、駒子は雲
仰向けにされて、裾をまくられ、府民撃させられ、失神してい 者の長い裾を曳いてよろけた 。葉子を胸に抱へて戻らうと
る と な る と 、 こ れ は 明 ら か に 、 性 交 の 描 写 で あ ろ う 。 ﹁葉子 した 。 その必死に踏ん張った顔の下に、葉子の昇天しさう
6
9
の内生命が愛形する﹂というのは、このことを指すと思われ にうつろな顔が垂れてゐた 。駒子は自分の犠牲か刑罰かを
る。 それを島村は感じて、﹁足先まで冷たい痘撃が走﹂り、 抱いてゐるやうに見えた 。 (一四O)
﹁なにかせつない苦痛と悲哀に打たれ﹂るが、これは天の河
芸術
に愛撫された葉子の姿に、駒子に対する自分の冷たい態度の 熱いからだの中心を持つ駒子を﹁まじめ﹂に立ち返らせるた
文学
反 映 を 見 た か ら で あ ろ う 。 このとき島村が思い出すのは、列 めに、自らのからだを天の河に捧げた葉子は、いわば十字架
車の中で葉子の顔に野山の火が灯ったときのことで、この葉 にかかったキリスト的存在と言ってもよいだろう 。少なくと
子の眼に灯る火を思い出すたびに、島村はそこに重ねられて も島村の眼には、葉子を救出する駒子の姿が、引用にあるよ
きた駒子との歳月を二重写しにして見てきたが、この瞬間に うに、﹁自分の犠牲か刑罰かを抱いてゐるやうに見えた﹂か
も葉子と駒子は島村の心の鏡のなかで、二重写しになって再 らである 。
現される 。 そしてまた﹁なにかせつない苦痛と悲哀﹂が再び 抱きしめた葉子に対して駒子が﹁この子、気がちがふわ 。
気がちがふわ﹂というが、これはすでに何度か駒子が葉子の けであるから、ここでも﹁天の河﹂という空の役割を再現し
張りつめた生き方への警告として口にしてきた言葉であり、 ていても不思議ではない 。だが、今は葉子の前に噴罪してい
己を駒子の犠牲にして 天の河に捧げることをやってのけた葉 る駒子がいるのを島村は見ている 。 そうすると、﹁天の河が
子の姿は、そうした葉子の生き方の行きつく先であったとい 島村のなかへ流れ落ちる﹂というのは、葉子を抱いた天の河
うことができ よう。 ﹁葉子の内生命が愛形する﹂と島村が見 としての島村が感じるエクスタシーというよりは、葉子を媒
たものを、駒子はこのように表現したものと思える 。 体として駒子が感じたのと同様の、島村自身の腫罪と見るこ
では、このような駒子による葉子救出の姿を見て、島村が とができるのではないか 。 こうして作者は、駒子と島村の再
最後に感じる﹁さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ 生への予兆を示唆して物語を閉じているように思える 。
河村
ように解釈すればよいのであろうか?葉子が身を捧げた天の
び
結
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河は、島村自身でもあるといえるのではないか 。島村は火事
の現場に急ぐ聞に、何度か天の河に掬い上げられたり、身を 伊藤整は﹁生きることに切羽つまっている女と、その切羽
川端康成 『
おのの
浸されたりする興奮を味わっている 。 たとえば、﹁天の河の 詰りかたの美しさに触れて戦いている島村の感覚との対立
なかへ龍がふうと浮き上ってゆくやうだつた﹂(一一
一一一一)と が、次第に悲劇的な結末をこの作品の進行過程に生んで行
か、﹁大きい極光のやうでもある天の河は島村の身を浸して く﹂といい、﹁そしてその過程が美の抽出に耐えられない暗
流れて:・﹂(一三五)とか、﹁島村はまた天の河へ掬ひ上げら さになる前でこの作品は終わらねばならぬ運命を持っている
れてゆくやうだつた﹂(一三八)ともある 。 のである﹂ E と 結 論 付 け て い る 。 的 を 射 た 言 い 方 で はあ
このように島村は最後に﹁暗い山の底に吸はれて行く﹂ る。そして筆者も駒子と島村の別れの必然性については、論
(二二六)駒子とは対照的に、空へと上昇し、天の河と一体 じてきたように、異論はない 。だが、最後の結末の解釈につ
化していることが見て取れるが、もともと島村は駒子との交 いては、根本的に違う 。伊藤整の結論や、すでに言及した竹
わりで、﹁山﹂としての駒子に対して﹁空﹂を演じてきたわ 西寛子やサイデンステイツカーによる島村解釈には、筆者が
これまで折に触れて指摘してきたような駒子と島村の贈罪の 物語には﹁回復や救済﹂はないとした後に、﹁ただ﹁なにか
意識と再生の予兆についての考慮は、残念ながら、ない 。 艶めかしい驚き﹂が付加されている﹂というだけで、これの
また、勝原晴希は﹁ ﹃雪国﹄、その苦痛と悲哀 ﹂という作品 解釈も放棄している 。見るべき論点の多い作品論だけに、こ
国)
論の中で、 ( 島村が駒子と一緒にいては﹁死か狂気﹂の世 うした点の説明が放棄されているのが惜しまれる 。
界への旅立ちしかない、だから葉子は駒子の身代わりとなっ 筆者同様に、﹃雪園﹂が死からの再生を示唆しているとい
て落下し、﹁昇天﹂するのだというが、これは筆者も異論が う点では、高橋英夫の次の文句が注意を惹く 。高橋は川端の
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結末にあるのは﹁美による救済のドラマ﹂で、救済されるの て川端は、﹁﹃死﹄の底に一旦は降りた人聞が、その場所から
は作者の川端康成であるとする結論を否定することにも、異 もう一度﹁生﹂を眼で確認しようとするかのように、新しい
-98-
論はない 。 段階が始まった﹂といい、﹁それが具体的には ﹃雪国﹄ の開
だが、勝原が、天の河にその身を浸して﹁地の果てに立つ 始である﹂ (
凹)とするのは、適切な指摘である 。
ている﹂かのように感じる島村の心には﹁しいんと冷える寂 ﹃雪園﹄ は、これまでに述べてきたように、﹃伊豆の踊子﹂
しさ﹂しかないことを理由に、﹁作品の最後に回復や救済が の学生の感じる﹁美しい空虚な気持ち﹂を継承しながら、そ
芸術
あるわけではない﹂と結論、づけることについては、これは、 れをさらに一層深い生の現実に移し変えて、深化発展させた
学
文
筆者がこれ までに論じてきたように、短絡的にすぎる結論で 物語として読むことができるのではないかというのが、筆者
はないかと思える 。勝原は、葉子のことを﹁この子、気が違 の解釈である 。
うわ﹂と叫ぶときの﹁駒子には、駒子の理由がある﹂という (平成二五年四月三日完)
だけで、その理由については﹁語り手は駒子の内面には立ち
入らない﹂から読み手もそれをする必要がないとでもいうか
のように、なされるべき解釈を回避しているし、さらにこの
二羽の黄蝶は、島村と駒子との象徴と考えていいだろう﹂
エ
+
ロ
=
﹁﹃
( 雪 国﹄における自然﹂(長谷川泉・鶴田欣也編著﹃﹁雪国﹂
本論文中の﹃雪園﹄ からの引用は、すべて ﹃
川端康成全集 の分析研究﹄ 教育出版センタ ー、 一九六五)という指摘をして
第
十
雪園 ﹄ に拠る 。 ﹁あとがき﹂は
巻﹄(新潮社、平成十 一年)所収 ﹃ いる点を註に取り上げているが、筆者の ような 解釈の展開はな
﹃
雪 国﹄(岩波文庫、 一九九八年版 )に拠る 。
)
D
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豊田四郎監督 ﹃
雪 国﹄ (池部良と岸恵子主演、東宝映画
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七
と作品﹂(﹁ 雪 国﹄ 新潮文庫、平成十年)、 一五九 六六頁、 庫
、 一五五頁。
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雪園』読解試論
よび 同書、 一六一一百合
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-99-
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HE5E色。ロ(寸三件FEz-ωFEm・5U3・-
M-を参照 。また本論 前掲書 竹西寛子﹁川端康成 人と作品 二ハニ ー六三頁 。
九
、﹂
文中で引用した英訳は、サイデンステ イ)
H
ツカ 1訳によるもので 伊 豆 の 踊 子 ・ 骨 拾 い │ │ 川 端 康 成 初 期 作 品 集 ﹄、
前掲書 ﹃
O
川端康成 『
あり、論文中の引用には頁数のみを記す 。 一六二百九
﹁墓碑銘﹃ 雪 国﹄駒子のモデル 小高キクさんの晩年﹂ ﹃
週刊新 同書、 一六 二百
九
潮﹂(一九九九・二・一八・七号)、 一二三頁参照 。 前掲書 伊藤整﹁﹃雪国﹄について﹂ 一七O i七一頁 。
正宗白鳥評(﹃東京朝日新聞﹄)、﹁﹃雪国﹂批評集(抄)﹂﹃群像 幸田文は、コ葉の季感﹂﹁群像 日本の作家三 樋口 一葉
﹄
日本 の作家 二二 川端康成﹄小学館、七二頁。 (小学館、 一九九四 ) の中で、 一葉の小説の﹁事件人物はほと
解説﹂ ﹃日本の文学三八
三島由紀夫 ﹁ 川端康成集﹄(中央公論 んどみな季節にくるま ってゐる﹂、季感が人物に﹁纏ひついて﹂
四
にて﹄、 十一 頁。
一五 前掲書 竹西寛子﹁川端康成 人と作品 一ム
ハ ハ
14
、
﹂ 一一
頁 D
独歩および花袋の自然描写については、拙著﹃﹁岬﹂ の比較
ノ¥
.-L.
前掲書 伊藤整﹁ ﹃
雪 国﹄について﹂、 一七 二頁。
七
以下の論点に関しては、前掲書 勝原晴希 ﹁﹁
雪 国﹄、その苦
に
ノー
痛と悲哀 ﹂ ﹁
川端康成の 世界 その発展﹂ 二六 l三三頁を参
照されたい 。
-100-
高橋英夫 ﹁
解説﹃死﹄ の存在論﹂﹃ 川端康成 水晶幻想・禽
九
学
文