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余姿慧
京都大學大學院教育學研究科碩士
摘要
本 論 文 藉 由 檢 討 戰 後 初 期 的 台 灣 報 紙 『 民 報 』 的 評 論 與 記 事 ,分
析 了 在 戰 後 初 期 , 也 就 是 1945 年 10 月到 228 事 件 前 的 這 段 時 期 , 在
中 華 民 國 政 府 統 治 下 的 台 灣 人 的 對 日 觀 。 要 探 討 台 灣 人 的 對 日 觀 ,必
須 先 了 解 到 台 灣 的 脫 殖 民 地 化 是 由 國 民 政 府 所 主 導 的 這 件 事 實 , 再從
中 找 出 以 台 灣 人 為 主 體 , 對 日 本 殖 民 地 統 治 評 論 批 判 的 可 能 性 。 而用
『 民 報 』 作 為 分 析 史 料 , 則 是 因 為 『 民 報 』 是 日 治 時 期 以 台 灣 人 為主
體 的 報 紙 『 台 灣 民 報 』 所 傳 承 下 來 的 報 紙 。 研 究 方 法 是 以①關 於 在台
日 本 人 的 報 導 、 ② 對 日 治 時 代 的 天 皇 制 的 批 判 、③ 對 日 治 時 代 的 教育
與 影 響 的 評 價,這 三 點 為 重 點,計 算 它 們 在『 民 報 』中 被 刊 登 的 次 數 ,
同時分析其代表的意義。
分 析 的 結 果 是,
『 民 報 』非 常 痛 恨 日 本 人 藉 由 優 越 感 而 歧 視 虐 待 台
灣 人 。 而 『 民 報 』 認 為 此 優 越 感 來 自 於 日 本 的 天 皇 制 , 於 是 對 於 天皇
制 也 嚴 厲 批 判 。 不 過 隨 著 時 間 推 移 , 1946 年 夏 天 以 後 ,『 民 報 』 開 始
把批評的對象轉移到跟日本人一樣歧視台灣人的國民政府上。
關 鍵 字 : 民 報 台 灣 中華 民 國 日 本 天 皇 制
23
Understanding Taiwanese’s attitude towards Japan through Min Pao
Yu, Zi-hui
Graduate School of Education, Kyoto University, Japan
Abstract
24
『民報』における台湾人の対日観
余姿慧
京都大学大学院教育学研究科修士
要旨
本論文の課題は、中華民国国民政府による戦後初期の統治期、す
な わ ち 1945 年 10 月 か ら 228 事件 に い た る 時 期 の 台 湾 人 の 対 日 観 を
新 聞 『 民 報 』 の 記 事 に 即 し て 検 討 す る こ と で あ る 。 対 日 観 を 問 うの
は 、 台 湾 に お け る 脱 植 民 地 化 が 国 民 政 府 の 主 導 に よ る も の で あ った
と い う 事 実 を ふ ま え な が ら 、 台 湾 人 を 主 体 と す る 日 本 の 植 民 地 統治
批 判 の 可 能 性 を 見 出 す べ き と い う 問 題 意 識 に よ る も の で あ る 。『 民
報 』 を 資 料 と し た の は 、 日 本 統 治 期 の 『 台 湾 民 報 』 の 系 譜 を 引 きな
が ら 台 湾 人 が 主 体 と な っ て 刊 行 し た 新 聞 と い う 性 格 に よ る 。 方 法と
し て は 、① 在 台 日 本 人 を め ぐ る 論 調 、② 日 本 時 代 の 天 皇 制 へ の 批 判 、
③日本時代の教育およびその影響にかかわる評価をポイントとして、
紙 面 へ の 登 場 頻 度 を 示 す と と も に 典 型 的 な 論 調 を と り あ げ て 、 その
論理構造を分析した。
分 析 の 結 果 と し て 、『 民 報 』 に お い て 、 植 民 地 期 の 日 本 人 に よ る
差 別 と 虐 待 、 そ の 根 底 に あ る 優 越 感 へ の 反 発 ・ 憤 り が 顕 著 で あ るこ
と 、 ま た 、 日 本 人 の 優 越 感 に 満 ち た 態 度 の 源 泉 た る 天 皇 制 へ の 鋭い
批 判 が 見 ら れ る こ と を 指 摘 す る と と もに 、1946 年夏 以 降 は 、日 本 人
と 同 様 な 差 別 を す る 国 民 政 府 批 判 に 次 第 に 比 重 が 移 っ て い っ た こと
を解明した。
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『民報』における台湾人の対日観
余姿慧
京都大学大学院教育学研究科修士
1.はじめに
本論文の課題は、中華民国国民政府による戦後初期の統治期、す
な わ ち 1945 年 10 月 か ら 228 事件 に い た る 時 期 の 台 湾 人 の 対 日 観 を
新 聞 『 民 報 』 の 記 事 に 即 し て 検 討 す る こ と で あ る 。 こ の 時 期 の 台湾
に か か わ る 従 来 の 歴 史 研 究 は 、 228 事 件 が な ぜ 、 ま た 、 い か に し て
生 じ た の か と い う 観 点 か ら 、 台 湾 社 会 と 国 民 政 府 と の 関 係 に 焦 点を
あ て て き た 。日 本 語 に よ る 代 表 的 な 研 究 業 績 と し て 何 義 麟( 2003 年)
を 挙 げ る こ と が で き る ほ か 、 中 国 語 に よ る 228 事 件 研 究 は 枚 挙 に い
と ま が な い 。 こ れ ら の 研 究 は 重 要 で あ る も の の 、 そ こ に 「 日 本 」と
い う 要 素 が い か に 介 在 し て い た の か と い う 観 点 は 希 薄 で あ る 。 実際
に は 統 治 者 は 台 湾 総 督 か ら 台 湾 省 行 政 長 官 に 変 わ っ た も の の 、 当時
の 台 湾 に は 日 本 人 が 大 量 に 居 住 し 、 日 本 語 も 使 わ れ て い た 。 日 本に
よ る 植 民 地 支 配 を ど の よ う に 評 価 し 、 批 判 し 、 克 服 す る か と い う、
脱 植 民 地 化 を め ぐ る 課 題 は 、 台 湾 に お け る 新 し い 国 家 を ど の よ うな
も の と し て 希 求 す る か と い う 課 題 と も 裏 腹 の は ず で あ っ た 。 台 湾に
お け る 対 日 観 を 検 討 し た 黃 智 慧 は 、 植 民 地 支 配 に よ る 政 治 体 制 から
の 脱 却 後 に 続 く 段 階 に つ い て 、 被 植 民 者 が 植 民 地 時 代 に 抑 圧 さ れた
主 体 性 を 回 復 さ せ る と い う 一 般 的 過 程 に 反 し て 、 台 湾 の 場 合 は 脱植
民 地 化 が 中 華 民 国 政 府 の 主 導 に よ る も の で あ り 、 被 植 民 者 自 身 の主
導 で は な か っ た と い う 問 題 を 指 摘 し て い る 。 黃 に よ れ ば 、 実 質 的に
台 湾 の 被 植 民 者 が 、 自 身 の 日 本 植 民 時 期 の 経 験 を 主 体 的 に 論 じ るこ
と が 可 能 に な っ た の は 、1980 年代 末 の 戒 厳 令 解 除 以 降 だ っ た 。その
時 ま で 、 台 湾 社 会 に お け る 日 本 に 関 す る 評 論 は 、 ほ と ん ど 外 省 人が
中 国 大 陸 で 体 験 し た 日 中 戦 争 ( 八 年 抗 戦 ) に 基 づ い た 対 日 観 で あっ
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た 1。
黃 の指摘は総じて的を射たものだが、日本の敗戦直後の時期に関
し て は さ ら な る 検 討 の 余 地 が あ る よ う に 思 わ れ る 。 こ の 時 期 に は台
湾 人 主 導 の 脱 植 民 地 化 へ の 試 み を 見 出 し う る か ら で あ る 。 特 に 着目
すべきは新聞の動向である。
敗戦後、国民政府による新聞出版に関する統制も当初は緩かった
た めに 、 台湾の 新 聞・出 版 業 が 爆 発 的 に 盛 ん に な っ た 。 1945 年 10
月 以 降 、 各 種 の 新 聞 ・ 雑 誌 は 次 か ら 次 へ と 創 刊 さ れ た 。 228 事 件 ま
で に 、 全 台 湾 の 新 聞 社 は 20 社 以 上 に 存 在 し て い た 2 。 そ の 中 で 、 国
民 政 府 へ の 批 判 と 同 時 に 、 以 前 の 統 治 者 で あ る 日 本 に 対 す る 評 論も
ありえたはずだと思われる。
研究の資料としては、戦後に創刊された民営新聞である『民報』
を 中 心 的 に 取 り 上 げ る 。官 営 の『 台 湾 新 生 報 』に 対 し て 、
『 民 報 』は、
『 人 民 導 報 』、『 大 明 報 』 と と も に 民 営 の 三 大 新 聞 と い わ れ た 3 。『 人
民 導 報 』 は 、 創 社 時 の 社 員 の 大 部 分 が 「 半 山 」 ― 台 湾 出 身 だ が 日本
統 治 時 代 に 中 国 へ 行 き 、 戦 後 国 民 政 府 と 共 に 台 湾 へ 戻 っ て き た 人―
で あ り 、全 体 的 に 政 治 的 な 左 翼 色 が 濃 い と 言 わ れ て い る 4 。
『 大 明 報』
は 当 時 唯 一 の 夕 刊 紙 で あ り 、 地 方 の 有 力 者 か ら 出 資 を 受 け 、 や はり
「 半 山 」 が 中 心 と な っ て 運 営 し て い た 5 。 そ の 中 で 、『 民 報 』 だ け は
社 員 の 大 部 分 が 台 湾 生 ま れ の 本 省 知 識 人 で あ っ た 。 し か も 、 何 義麟
の 研 究 が 指 摘 し て い る よ う に 、 創 社 時 の 社 員 の 大 部 分 が 日 本 時 代の
1
黄 智 慧「 台 湾 に お け る 日 本 観 の 交 錯 - 族 群 と 歴 史 の 複 雑 性 の 視 角 か ら 」『 地 域
発展のための日本研究-中国、東アジアにおける人文交流を中心に』、法政大
学 国 際 日 本 学 研 究 セ ン タ ー 、 2006 年 ) p.45
2
何 義 麟『 跨 越 國 境 線 - 近 代 台 灣 去 殖 民 化 之 歴 程 』 ( 稻 鄉 出 版 社 、 2006 年 )p.141
3
何 義 麟「 豈 止 是 喪 失 新 聞 自 由 而 已 ─談 二 二 八 事 件 前 後 的 新 聞 管 制 」(『 無 界 之
島 』 電 子 報 、 2007 年 )
4
Kerr, George H., Formosa betrayed, New York: Da Capo Press, 1976, c1965,
p.223
5
何 義 麟「 戰 後 初 期 臺 灣 報 紙 之 保 存 現 況 與 史 料 價 值 」
(『 臺 灣 史 料 研 究 』第 八 號 、
1996 年 )
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『 台 湾 民 報 』 6 の 関 係 者 で あ る 。 例 え ば 、『 民 報 』 社 長 の 林 茂 生 、 編
集 長 の 許 乃 昌 、主 筆 の 黄 旺 成 、発行 人 の 呉 春 霖( 兼 総 務 部 長 )、営業
部 の 林 佛 樹 な ど が い た 。 彼 ら は 日 本 統 治 時 代 を 経 験 し た エ リ ー トで
あ り 、 そ の 中 で も 林 茂 生 、 許 乃 昌 、 黄 旺 成 な ど は 日 本 統 治 時 代 の社
会 運 動 団 体 の 重 要 メ ン バ ー だ っ た 。す な わ ち 、
『 民 報 』は 日 本 統 治 時
代 に お け る 反 植 民 地 主 義 の 系 譜 を 引 き 継 い だ 新 聞 で あ り 、 そ う であ
る が ゆ え に 、 台 湾 人 を 主 体 と し た 脱 植 民 地 化 の 可 能 性 を 探 る 上 で重
要な資料といえる。
戦 後 の 台 湾 社 会 を 研 究 す る た め の 貴 重 な 史 料 と し て 、『 民 報 』 を
用 い た 先 行 研 究 は い く つ か あ る 7 。し か し 、こ れ ら は 当 時 の 経 済・社
会 状 況 と 本 省 人 ・ 外 省 人 の 衝 突 、 あ る い は そ の 結 果 と し て 228 事件
に 至 る ま で の 過 程 を 論 じ た も の で あ り 、 日 本 に 対 す る 認 識 と 感 情を
主 眼 と し て 研 究 し た も の で は な い 。こ の 論 文 で は 、
『 民 報 』に 掲 載 さ
れ た 社 説 ・ 評 論 ・ 記 事 ・ 投 書 、 お よ び 関 連 す る 資 料 に 基 づ い て 、戦
後 初 期 の 台 湾 人 の 対 日 観 を 考 え る こ と と す る 。 ま ず 他 の 新 聞 と の対
比 で 『 民 報 』 の 紙 面 の 特 徴 を 概 観 し た う え で 、 次 い で ① 在 台 日 本人
を め ぐ る 論 調 、 ② 日 本 時 代 の 天 皇 制 へ の 批 判 、 ③ 日 本 時 代 の 教 育と
日 本 語 の 影 響 に か か わ る 評 価 に つ い て 論 じ る 。 対 日 観 と い う 点 から
す る な ら ば 、 同 時 代 の 日 本 に お け る 民 主 化 の 動 向 へ の 評 価 な ど も重
要 な 意 味 を も つ も の の 、 本 論 文 の 課 題 は 日 本 統 治 期 の 社 会 構 造 や価
値 観 を い か に 払 拭 し よ う と し た か と い う 脱 植 民 地 化 の 観 点 か ら 対日
観 に つ い て 検 討 す る こ と で あ る た め 、 か つ て の 植 民 者 た る 在 台 日本
人 へ の 評 価 、植 民 地 統 治 を 肯 定 し 正 当 化 す る 価 値 観 と し て の 天 皇 制、
6
1923 年 4 月 15 日 、 東 京 で『 台 湾 民 報 』が 創 刊 さ れ た 。 そ の 前 身 と な る 雑 誌『 台
湾青年』や『台湾』が日文と漢文を混用しているのに対し、『台湾民報』では
原則的に漢文が用いられた。
7
李 筱 峰「 從 民 報 看 戰 後 初 期 臺 灣 的 政 經 社 會 」『 林 茂 生 ‧陳 炘 和 他 們 的 時 代 』( 台
北 : 玉 山 社 出 版 事 業 股 份 有 限 公 司 、 1996 年 ) 、 陳 恕 「 從 『 民 報 』 觀 點 看 戰 後 初
期( 1945-1947 )台 灣 的 政 治 與 社 會 」( 東 海 大 學 歷 史 研 究 所 碩 士 論 文 、 2002 年 )、
何 義 麟「『 民 報 』― 台 灣 戰 後 初 期 最 珍 貴 的 史 料 」(『 台 灣 風 物 』第 53 卷 第 三 期 、
2003 年 ) な ど が 挙 げ ら れ る 。
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お よ び そ の 宣 伝 媒 体 で も あ る 教 育 と 日 本 語 へ の 評 価 に 着 目 す る こと
とした。
2 .『 民 報 』 の 特 徴
『民 報 』 は 、 1945 年 10 月 10 日に 創 刊 さ れ た 。 そ の 創 刊 の 辞 は 、
「我が 国 5000 年 来 の民族 精 神 を 復 興 す る 。国 父 で あ る 孫 中 山 が 残 し
た 三 民 主 義 の 精 神 は 、新 た な 台 湾 を 建 設 す る 基 準 で あ る 」8 というも
の で あ っ た 。 強 烈 な 民 族 精 神 と 「 祖 国 」 中 国 へ の 期 待 が 込 め ら れて
い た こ と が 窺 え る 。 こ の よ う な 「 祖 国 」 中 国 へ の 期 待 に 対 応 す るよ
う に 、 台 湾 在 来 の 言 語 ( 閩 南 語 、 客 家 語 ) は 戦 前 中 国 大 陸 で 形 成さ
れ た 中 国 語 の「普 通 話 」と は 大 き く 異 な っ て い た が 、
『 民 報 』に 日 文
欄 は な く 、記 事 は す べ て 中 国 語 で 記 さ れ た 。こ れ に 関 連 し て 、
『民報』
主 筆 の 黄 旺 成 が 、 戦 前 に 『 台 湾 民 報 』 の 漢 文 版 を 編 集 し た 経 験 を持
っ て い た こ と も 着 目 さ れ る 9。
『民報』の性格は、報道記事ばかりでなく、報道記事に対する評
論 が 比 較 的 多 か っ た 点 で ユ ニ ー ク だ と 言 わ れ て い る 。 特 に 主 筆 の黄
旺 成 が 執 筆 し た 「 冷 語 」 と い う コ ラ ム は 、 急 所 を ズ バ リ と 突 く よう
な 論 調 が 特 徴 的 で あ り 、 当 時 の 台 湾 省 行 政 長 官 公 署 長 官 陳 儀 の 機嫌
を 損 ね た た め に 、 1945 年 11 月 か ら 「 熱 言 」 に 変 え た と 指 摘 さ れ て
い る 10 。「 熱 情 的 な 提 言 」を意 味 す る「 熱 言 」の 露 骨 で 容 赦 の な い 内
容は、台湾社会で大好評を博したという。
『民報』の発行部数について、客観的な統計が不十分のため、把
握 す る の が 非 常 に 難 し い 。 何 義 麟 の 研 究 で は 、 当 時 も う 一 つ の 新聞
『大明報』の発行部数は 3 万部、民間口述歴史によると、当時『民
報 』 は 、『 大 明 報 』 よ り 台 湾 の 人 々 に 好 ん で 読 ま れ て い る こ と か ら、
そ の 読 者 数 は 少 な く と も 3 万 以 上 だ と 推 測 し て い る 11 。 1946 年 当 時
8
『 民 報 』 1945 年 10 月 10 日 、 社 説 「 創 刊 詞 」
9
何 義 麟『 跨 越 國 境 線 - 近 代 台 灣 去 殖 民 化 之 歷 程 』( 稻 鄉 出 版 社、2006 年 )p.168
10
同 13 注
11
同 13 注 p.165
29
台湾駐 在 米国副 領 事だっ た George Kerr は、
「 日 本 が 投 降 し た 後 、台
湾 島 で 約 10 社 の 新 聞 が 創 刊 さ れ た 。過 去 の『 台 湾 新 報 』は 政 府 に 接
収 さ せ ら れ 、『 台 湾 新 生 報 』 に 改 名 し た が 、 販 売 部 数 は 17 万部 か ら
5 万 数 部 ま で 落 ち て し ま っ た 。一 方 、
『 台 湾 新 生 報 』と 対 立 し て い る
『 民 報 』 は 、 林 茂 生 の 指 導 で 、 た だ ち に 台 湾 人 の 利 益 の た め に 奮闘
する十字軍となった。
『 民 報 』と 同 一 戦 線 を 張 る の は『 人 民 導 報 』で
ある 。中 国に住 ん でいた 人 が 台 湾 に 復 帰 し た 後 、1946 年 1 月 1 日 に
創 立 し た 。 新 聞 の 立 場 は 左 翼 的 な 傾 向 が あ る 。 初 期 は 不 人 気 だ った
が 、 破 産 直 前 に 王 添 灯 が 宋 斐 如 か ら 引 き 継 ぎ 、 陳 儀 政 府 に 対 し て鋭
い 批 判 を 行 っ た た め 、 人 気 が 一 気 に 沸 騰 し た 。」 と 述 べ て い る 12 。
す で に 指 摘 し た よ う に 、『 民 報 』 で は 報 道 言 語 に す べ て 中 国 語 が
用 い ら れ 、 日 本 語 欄 が 設 け ら れ な か っ た 。 初 期 に は 『 民 報 』 の 用語
は 難 し す ぎ て 分 か り に く い と い う 投 書 も あ っ た 。 し か し 『 民 報 』は
台 湾 人 が 努 力 し て 「 国 語 」 を 学 ぶ こ と を 望 み 、 も う 日 本 語 を 使 わな
い よ う に と 呼 び か け た 13 。 こ の 点 か ら 『 民 報 』 が 中 国 文 化 を 回 復 す
る こ と へ 強 い 意 志 を 持 っ て い た こ と が わ か る 。実 際 、1946 年 1 月 10
日 の 社 説 で は 、「 民 報 精 神 と は い わ ゆ る 革 命 精 神 、 中 国 精 神 で あ る 。
そ の 精 神 で す べ て の 害 悪 を 一 掃 し 、 台 湾 を 明 る く す る 。 更 に は 民族
の 正 気 の 原 動 力 と な る 。 新 た な 憲 法 の 下 で 民 主 国 家 を 創 ろ う 」 14 と
述 べ て い る 。 こ の こ と か ら も 、 三 民 主 義 と 「 中 国 精 神 」 の 濃 厚 さが
鮮 明 に 窺 え る 。 そ も そ も 『 民 報 』 と い い う 名 称 に つ い て も 、 か つて
孫 文 が 東 京 で 革 命 思 想 を 喚 起 す る た め に 創 刊 し た 新 聞 と 同 じ で ある
ことに留意する必要がある。
た だ し 、「 中 国 精 神 」 と い う 点 で は 国 民 政 府 と 歩 調 を 揃 え る よ う
で あ り な が ら も 、 弱 い 者 、 貧 し い 者 の 立 場 か ら 政 府 批 判 を 展 開 した
こ と が 、 も う ひ と つ の 重 要 な 特 徴 で あ っ た 。 1947 年 2 月 28 日 、 す
な わ ち 228 事 件 の 発 端 と す る 大 規 模 な デ モ が 行 わ れ た 際 に 、
「 民 報精
12
Kerr, George H., op. cit., p.222- 223
13
『 民 報 』 1945 年 10 月 18 日 、 冷 語
14
『 民 報 』 1946 年 1 月 10 日 、 社 説 「 民 報 精 神 」
30
神 を 再 度 重 ね て 語 る 」 の 社 説 は 以 下 の よ う に 述 べ て い る 15 。
「 民 報 」 と い う 名 前 の よ う に 、『 民 報 』 は 人 民 の 立 場 に 立 つ 新 聞
で あ る 。『 民 報 』 の 日 本 語 発 音 は 「 貧 乏 」 に 近 い と 人 々 に よ く 揶
揄された。しかし、我々はそれを恥じとしていなく、逆に光栄に
感じている。全国あるいは台湾を見ろ!貧乏な人が大多数を占め
ているじゃないか?大多数の民衆と同じ貧しい立場にいること
のどこが恥辱だろうか?我々は今厳しい難関にぶつかったけれ
ども、落ち込まず、むしろ『民報』の使命の重大さを改めてより
いっそう感じた。民報精神は民族意識が発揚し、人民の生活を重
視し、同胞達の幸福を追求するのだ。
三 民 主 義 、 中 華 主 義 を 奉 じ る こ と と 、「 貧 乏 」 な 「 人 民 」 の 立 場
か ら 、活 発 な 政 府 批 判 を 繰 り 広 げ る こ と は 、
『 民 報 』関 係 者 の 自 覚 と
し て は 矛 盾 す る も の で は な か っ た の だ ろ う が 、国 民 政 府 か ら す れ ば、
そ の 論 調 は 「 三 民 主 義 」 を 逸 脱 す る も の で あ っ た と 考 え ら れ る 。実
際 、 国 民 政 府 に 対 す る 台 湾 人 の 憤 り が 爆 発 し た 228 事 件 の さ な か 、
『 民 報 』は 、3 月 8 日 に 国 民 政 府 に よ っ て 強 制 的 に 廃 刊 さ せ ら れ た 。
台 北 に あ っ た 新 聞 本 社 も 軍 人 に よ り 破 壊 さ れ 、 新 聞 社 の 社 員 は 逃亡
し 、一 部 は 指 名 手 配 さ れ た 。社 長 の 林 茂 生 16 も 逮 捕 さ れ 、失 踪 し た 。
『 民 報 』 の 最 終 号 は 3 月 7 日 刊 行 の 605 号 で あ っ た 。
以上のように『民報』の特徴を抑えた上で、脱植民地化という観
点 か ら 本 論 で 着 目 す る ト ピ ッ ク が ど の 程 度 の 頻 度 で 登 場 す る の かを
確認しておきたい。
15
『 民 報 』 1947 年 2 月 28 日 、 社 説 「 再 提 民 報 精 神 」
16
林 茂 生 : 1887 年 に 生 ま れ 、 台 湾 史 上 初 め て の 東 京 帝 大 を 卒 業 し た 学 士 で あ り 、
全 島 的 に よ く 知 ら れ た 知 識 人 で あ っ た 。 228 事 件 を め ぐ る 鎮 圧 さ な か の 3 月 11
日、特務機関に連行されて殺害された。林茂生における脱植民地化の思想につ
い て 、駒 込 武『 世 界 史 の な か の 台 湾 植 民 地 支 配 ― 台 南 長 老 教 中 学 校 か ら の 視 座 』
( 岩 波 書 店 、 2015 年 ) を 参 照 。
31
年月 在台日本人 天皇制 教育 日本語
1945 年 10 月 11 0 0 1
1945 年 11 月 8 6 3 1
1945 年 12 月 20 9 5 0
1946 年 1 月 24 2 6 1
1946 年 2 月 21 0 2 1
1946 年 3 月 24 2 1 0
1946 年 4 月 18 0 0 0
1946 年 5 月 2 3 2 0
1946 年 6 月 7 10 0 0
1946 年 7 月 3 6 1 3
1946 年 8 月 5 5 0 3
1946 年 9 月 7 6 1 2
1946 年 10 月 16 4 3 2
1946 年 11 月 11 4 0 0
1946 年 12 月 13 1 2 1
1947 年 1 月 3 0 1 1
1947 年 2 月 5 4 1 1
合計 198 62 28 17
表1 『民報』における日本観にかかわるキーワード登場頻度
表 1 は 1945 年 10 月 10 日 か ら 1947 年 2 月 28 日 ま で の 『 民 報 』
紙 面 を 対 象 と し て 、① 在 台 日 本 人 関 連( 日 僑 、日 人 、日 警 、日 職 員 )、
② 天 皇 制 関 連 ( 日 天 皇 、 天 皇 制 度 、 皇 室 、 皇 族 、 裕 仁 、 能 久 親 王 )、
③ 日 本 統 治 期 の 教 育 関 連( 帝 大 、台 大 、学 校 )と 日 本 語 関 連( 日 語 、
日 文 、 国 語 ) の キ ー ワ ー ド が ど の 程 度 の 頻 度 で 登 場 す る か を 示 した
も の で あ る 。 キ ー ワ ー ド は 見 出 し の み を 対 象 と し て 拾 い 、 ひ と つの
紙 面 に 複 数 登 場 す る 場 合 に も 1 件 と し て カ ウ ン ト し た 。 ① 在 台 日本
人 関連 の キーワ ー ドは 1946 年 4 月 ま で の 第 1 期 の 日 僑 送 還 に 特 に 多
32
く 、 第 2 期 の 日 僑 送 還 が 行 わ れ る 、 46 年 10 月 に 再 び 上 昇 す る 。 ②
天皇制 関 連のキ ー ワード は 1945 年 12 月 、お よ び 1946 年 6 月 前 後に
多い。③日本時代の教育関連、および日本語関連のキーワードは、
「 学 校 」 や 「 国 語 」 な ど 一 般 的 な 用 語 で も 文 脈 か ら 日 本 時 代 の こと
を指す場合にはカウントした。しかし全体として少ない。
『民報』が世論形成のゲートキーパーとしてどのような方向性を
備 え て い た の か と い う こ と を 実 証 的 に 解 明 す る に は 、 対 日 観 関 連の
キ ー ワ ー ド を 網 羅 的 に 拾 う と 同 時 に 、 他 の 新 聞 に お け る キ ー ワ ード
の 登 場 頻 度 と の 比 較 が 不 可 欠 と な る 。紙 数 の 関 係 も あ っ て 本 論 文 は、
そ う し た よ り 包 括 的 な 分 析 の た め の 予 備 的 作 業 に 止 ま る 。 た だ し、
天 皇 制 の 是 非 を め ぐ る 問 題 が 戦 後 直 後 の 台 湾 で 論 じ ら れ て い た こと
ひ と つ を と っ て も 、 管 見 の 限 で は こ れ ま で の 研 究 で は ま っ た く 指摘
さ れ て こ な か っ た こ と で あ り 、 脱 植 民 地 化 と い う 観 点 か ら 対 日 観を
問題にするにあたって着眼点の所在を示すことになると考えられる。
3.在台日本人をめぐる報道
戦争 に 負 け た 日 本 人 は 、 か つ て の 「 植 民 者 」 と し て 一 体 ど の よう
な 生 活 を 送 り 、 ど の よ う な 気 持 ち を 抱 い て い た の か ? 台 湾 人 は こう
した人びとにどのような態度を取り、
『 民 報 』は ど の よ う に 報 道 し て
いたのか?
戦後 初 期 、 在 台 日 本 人 は 、 か な ら ず し も か つ て の 優 越 感 を 払 拭し
た わ け で は な か っ た 。む し ろ『民報』の 紙 面 か ら 浮 か び 上 が る の は 、
相 変 わ ら ず 優 越 的 な 地 位 を 前 提 と し た 日 本 人 の 言 動 で あ る 。 た とえ
ば 、 1945 年 11 月 9 日 、 嘉 義 の 国 民 学 校 で は 、 台 湾 人 教 師 が 中 国 語
で 授 業 を し た り 、 校 費 の 支 出 を 監 視 し た り し た た め に 、 思 い が けず
日 本 人 校 長 の 恨 み を 招 き 、 校 長 に 寮 ま で 呼 び 出 さ れ 、 ひ ど く 殴 られ
て 重 傷 を 負 っ た と い う 17 。 さ ら に 、 日 本 人 官 吏 が 引 継 ぎ を 少 し も 重
視 せ ず 、 重 要 な 水 利 資 料 を 焼 却 し 、 事 実 を 覆 い 隠 す た め に 嘘 を つい
17
『 民 報 』 1945 年 11 月 09 日 、 教 員 用 中 文 授 課 , 被 日 人 校 長 毆 打
33
た と い う 事 件 も 報 じ ら れ て い る 18 。
1945 年 12 月 11 日 の『民 報 』で は 、社 説 を 通 じ て 以 下 の よ う に 在
台 日 本 人 を 批 判 し た 19 。
〔日本人の傲慢な態度は〕我々の政府が日本人の行動を制限
せず、さらに彼らを保護すると声明したことによるものだ。
日本人はこのような処置に対して感謝の念を抱くべきである。
しかし、驚くべきことに、大部分の日本人はだんだんと昔の
傲慢で尊大な態度に戻ってしまった。彼らは我々が寛容であ
る原因は、自分たちがいないと台湾の政治と文化が発展でき
ないからだと思っている。これは全くの誤解である。
台湾人は、在台日本人が起こした事件と、植民地期同様の「傲慢
で 尊 大 な 態 度 」 に 反 感 を 抱 い て い た 。 台 湾 人 が 在 台 日 本 人 に 暴 行を
加 え る 事 件 に つ い て も 『 民 報 』 は 報 じ て い る 。「 台 中 市 で こ こ 数 日、
日 本 人 を 殴 る 事 件 が 毎 夜 起 き 、 日 本 人 は 怖 く て 家 か ら 出 ら れ な くな
っ て し ま っ た 。 原 因 を 調 べ る と 、 海 外 か ら 帰 省 し た 台 湾 同 胞 は 、外
で 日 本 人 か ら 様 々 な 虐 待 を 受 け て い た た め 、 同 じ 民 族 に 向 っ て 八つ
当 た り を し な い で は い ら れ な か っ た の だ 」 20 。 こ こ で は 、 日 本 人 に
よ る 「 虐 待 」 の 事 実 に 注 意 を 促 す と と も に 、 在 台 日 本 人 へ の 「 八つ
当 た り 」 を 戒 め て い る 。 ま た 、 そ の よ う な 態 度 は 国 府 の い う 「 日本
人 に 対 し て 徳 を も っ て 怨 み に 報 い る 」 と い う 方 針 と 異 な る と 批 判し
て い る 。『 民 報 』 の 「 熱 言 」 と 題 す る コ ラ ム で も 、「 今 や 、 日 本 人 は
昔 の 我 々 よ り 悲 惨 な 事 態 に 陥 っ て し ま っ た 。 だ か ら 我 々 は 昔 の こと
は 大 目 に 見 て 、彼 ら に 同 情 し よ う 」21 と い う 姿 勢 を 表 明 し た 。当 時、
国 民 政 府 が 社 会 情 勢 を 安 定 さ せ る た め 「 日 本 人 に 対 し て 徳 を も って
18
『 民 報 』 1945 年 12 月 24 日、日官燒毀重要資料
19
『 民 報 』 1945 年 11 月 12 日、社説「為在台的日人設想」
20
『 民 報 』 1945 年 12 月 29 日、海外歸胞恨毆日人 此不是以德報怨
21
『 民 報 』 1945 年 12 月 29 日、熱言
34
怨 み に 報 い る 」 と い う 方 針 を 打 ち 出 し て い た こ と を 考 え れ ば 、 在台
日本人への寛容を説く議論それ自体は政府の方針とも一致していた。
ただし、
「 我 々 の 政 府 」が 在 台 日 本 人 を 保 護 し よ う と し て い る た めに
日 本 人 は 増 長 し て い る の だ と い う 認 識 は 、 政 府 と の 対 立 的 な 姿 勢を
う か が わ せ る 。 在 台 日 本 人 の 引 き 揚 げ が 本 格 的 に 始 め ら れ た 1946
年 3 月には、
『 民 報 』の 社 説 は 在 台 日 本 人 へ の 感 想 を 以 下 の よ う にま
と め た 22 。
あなた達の中には良い人もいたが、日本政府の権力により優
越感を持っている人の方が多かった。あなた達は我々の中華
民族の文化と言語を消滅させた。しかし今、現実的で残酷な
「 応 報 」が あ な た 達 の 目 の 前 で 起 こ っ て い る ! あ な た 達 が「大
和民族」として何よりも強い優越感を抱いて暴力に訴えてい
た時こそ、今日の「悲劇」の種を蒔いた時だ。自分で蒔いた
種は自分で刈り取るべきだ。それについて、自省しているだ
ろうか?あなた達は間もなく台湾を離れ、自分達の国に帰っ
て行く。あなた達を待っている日本の現実は、戦前のように
平和ではない、過酷な環境に違いない。とはいえ、この朦朧
とした混乱の中にも、少しだけ朝の光が見える。それは民主
主義の旗幟だ。頑張りなさい!近いうちに、平和な民主主義
の大道であなた達の前進する姿が見えるように望んでいる。
こ の 社 説 に 見 ら れ る 対 日 観 は 、 複 雑 で あ る 。「 良 い 人 」 も い た こ
と は 否 定 し な い 。し か し 、
「 優 越 感 」と「 暴 力 」に 満 た さ れ た 日 本人
の 行 動 に 対 し て 、 強 い 憤 り が み な ぎ っ て い る 。 た だ し 、 だ か ら 報復
しようというわけでもない。日本帝国主義の下で理不尽なことを
散 々 受 け て き た が 、 今 戦 争 は も う 終 わ っ た と し て 、 台 湾 人 が あ えて
報 復 す る こ と は な い 、 日 本 人 は 自 ら 「 自 省 」 す べ き だ 、 と 論 じ てい
22
『 民 報 』 1946 年 3 月 5 日 、 社 説 「 送 歸 國 的 日 僑 」
35
る の で あ る 。 こ れ か ら の 平 和 な 新 時 代 で 、 た だ 日 本 が 過 去 の 過 ちを
悔 い 改 め 、 民 主 主 義 的 な 国 家 に な っ て ほ し い と い う 望 み を 表 明 して
いた。
「 大 和 民 族 」と し て 何 よ り も 強 い 優 越 感 を 抱 い て 暴 力 に 訴 え て
い た 」 と い う よ う に 日 本 に よ る 植 民 地 統 治 を 明 確 に 批 判 の 俎 上 に載
せ な が ら 、 自 分 た ち 台 湾 人 も 、 日 本 に 帰 っ た 日 本 人 も 平 和 で 民 主的
な 国 家 を つ く っ て い く べ き だ と い う 脱 植 民 地 化 へ の 志 向 が 明 確 に示
されている。
4.天皇制に対する批判
『民報』における日本批判は、在台日本人の個別具体的な行動に
対してだけ向けられていたわけではなかった。
「 大 和 民 族 」と し ての
優 越 感 と い う 表 現 に も 見 ら れ る よ う に 、 日 本 の 政 治 ・ 文 化 の 中 心に
位置した天皇制にも批判の鉾先を向けていた。
第 二 次 世 界 大 戦 の 敗 戦 後 、戦 時 中 の 日 本 の 指 導 者 は「 戦 争 犯 罪 人 」
と し て 、 極 東 軍 事 裁 判 で 裁 判 を 受 け た 。 た だ し 、 日 本 国 内 で は 、天
皇 の 戦 争 責 任 を 問 う 声 、 す な わ ち 、 天 皇 制 こ そ が 今 回 の 戦 争 の 主因
で は な い か と い う 議 論 は 弱 か っ た 。 ア メ リ カ で は 「 天 皇 戦 犯 論 」も
存 在 し て い た が 、 GHQ は 日 本 占 領 を ス ム ー ズ に 進 め る た め に 天 皇 制
を 属 さ せ 、 利 用 す る 方 針 を と っ た 23 。 こ れ に 対 し て 『 民 報 』 で は 、
1946 年 1 月 10 日に 「日本 天 皇 制 の 問 題 」 と 題 し た 社 説 で 以 下 の よ
う に 述 べ て い る 24 。 日 本 で 「 天 皇 人 間 宣 言 」 が 出 さ れ た 直 後 の こ と
であった。
日本天皇制の存廃とその本質についていろいろな議論がある。
こ こ で は 我 々 自 身 の 経 験 を 述 べ て み よ う 。台 湾 が 占 領 さ れ た 50
年間は、ちょうど日本「天皇」の「神性」が発揮された時期で
あ っ た 。我 々 は 日 本 天 皇 の「御 恩 」を 散 々 受 け と っ て し ま っ た 。
23
詳 細 は 、山 極 晃 ・ 中 村 政 則 編『 資 料 日 本 占 領 1 天 皇 制 』( 大 月 書 店 、 1990 年 )
を参照。
24
『 民 報 』 1946 年 1 月 10 日 、 社 説 「 日 本 天 皇 制 的 問 題 」
36
〔 中 略 〕 ま た 、「 台 湾 改 進 党 」 の 「 建 白 書 」 で は 、「 皇 族 」 の 北
白 川 宮 能 久 親 王 が 台 湾 で 病 死 し た こ と を「 絶 対 の 理 由 」と し て 、
この歴史の痛切な出来事を無視し、強硬に日本と台湾の「一視
同仁」政策を実施すると、親王の「御英霊」に合わせる顔がな
い と 主 張 し て い る 。日 本 の 帝 国 主 義 者 は 台 湾 を 侵 略 す る た め に 、
どれほどの日本人を犠牲にし、どれほどの台湾人を殺しただろ
うか。それにもかかわらず、自分たちの無恥と卑劣さを隠し、
ただ一人の「皇族」の病死を口実として、私達を統治する政策
を左右できるなんて。
「 皇 族 」で あ る だ け で こ れ ほ ど の こ と が で
きるのだ。まして「天皇」であればなおさらだろう!
よ く 知 ら れ て い る よ う に 、 1936 年 以 後 の 「 皇 民 化 政 策 」 に よ り 、
新 聞 漢 文 欄 廃 止・改 姓 名・神 社 参 拝・
「正庁改善」
・「 国 語 家 庭 」創設 ・
皇 民 奉 公 会 へ の 動 員 な ど 、 台 湾 に お い て そ れ ぞ れ の 民 族 の 伝 統 や文
化 を 無 視 し 、破壊 す る 政 策 が 展 開 さ れ た 25 。そ の 結 果 、台 湾 の 文 化 ・
歴 史 及 び 民 族 的 ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー は 危 う く な っ た 。そ の た め 、
『民
報 』 で は 「 皇 民 化 」 の 元 凶 と し て 「 天 皇 」「 皇 族 」 の 存 在 を 挙 げ て 、
天 皇 制 は 廃 止 す る 方 が よ い 、 と 強 く 主 張 し て い た の で あ る 。 日 本の
天 皇 ・ 皇 族 を 崇 拝 す る 文 化 は 、 台 湾 人 か ら す れ ば 、 日 本 人 が 「 自分
た ち の 無 恥 と 卑 劣 さ を 隠 す 」 た め の 手 段 に ほ か な ら な か っ た 。 それ
は 、 ま さ に 天 皇 制 の 「 本 質 」 に か か わ る 問 題 提 起 と な っ て い る とい
え る だ ろ う 。こ の 社 説 に お い て 、
「 台 湾 改 進 党 」の「 建 白 書 」に 言及
し て い る こ と も 着 目 さ れ る 。 在 台 日 本 人 の 構 成 し た 団 体 「 台 湾 改進
党」の中には弁護士、医師、議員、新聞記者など様々な人がおり、
『 民 報』が 指 摘 す る よ う に 日 本 人「 一 般 民 衆 」を 構 成 員 と し て い た 。
こ の 社 説 よ り も 少 し 前 、1945 年 12 月 1 日 に 、
「治台五十年事蹟調
査 會 」 と い う 台 湾 人 団 体 が 『 植 民 地 政 策 上 ヨ リ 観 タ ル 台 湾 統 治 ニ関
25
台湾における「皇民化」について、近藤正己『総力戦と台湾―日本植民地崩
壊 の 研 究 』 ( 刀 水 書 房 、 1996) を 参 照 。
37
ス ル 建 白 』と い う 本 を 出 版 し た 。そ の 本 は 実 は 、1934 年 に「 台 湾 改
進 党 」 が 日 本 当 局 に 提 出 し た 建 白 書 の 復 刻 版 で あ っ た 。 林 獻 堂 の日
記 26 に よ る と 、『 台 湾 新 生 報 』 台 中 支 社 の 主 任 で あ っ た 呉 天 賞 27 がこ
の 建 白 書 を 入 手 し て 、五 千 部 を 発 行 し た と い う 。内 容 は 戸 籍・兵 役・
経 済 ・ 教 育 な ど 色 々 な 方 面 か ら 「 皇 民 化 教 育 」 の 必 要 性 を 主 張 し、
総 督 府 は 台 湾 人 に 迎 合 し て い る と 批 判 し な が ら 、「 内 地 人 第 一 主 義」
を 強 く 主 張 す る も の で あ っ た 28 。 こ の 文 書 に お け る 台 湾 人 へ の 差 別
意 識 は 露 骨 だ っ た た め 、 出 版 後 に 台 湾 人 の 中 で 小 さ か ら ぬ 反 響 を巻
き 起 こ し た 。1945 年 末 に は 、憤 慨 し た 市 民 た ち が「台 湾 改 進 党 」の
日本人メンバーを監禁する事態まで生じた。
『 民 報 』の 社 説 も 、こ う
し た 台 湾 人 一 般 市 民 の 怒 り を 背 景 と し て 書 か れ た も の と み る こ とが
できる。
『民報』は、日本の植民地支配の根底にある、日本人の優越感や
差 別 意 識 に か か わ る も の と し て 、 天 皇 制 の 問 題 を 批 判 し 続 け た 。再
び 天 皇 制 の 問 題 が 大 き く ク ロ ー ズ ア ッ プ さ れ る の は 、1946 年 6 月 か
ら 9 月 に か け て の こ と 、 日 本 の 国 会 の 憲 法 改 正 案 特 別 委 員 会 に おけ
る金森徳次郎国務大臣らの発言が台湾でも着目を集めた。
『 民 報 』の
報 道 に よ れ ば 、 天 皇 制 の 「 本 質 」 に つ い て 、 日 本 の 憲 法 改 正 案 特別
定 委 員 会 の 一 人 が 「 天 皇 と は 一 体 何 な の だ ろ う か ? 」 と 質 問 し たの
に 対 し て 、 金 森 徳 次 郎 は 「 血 筋 を 受 け 継 ぐ 自 然 人 だ 」 と 答 弁 し た。
それに対しても、
『 民 報 』は 金 森 の 答 弁 の 意 図 的 な 曖 昧 さ を 鋭 く 指 摘
した。
「 全 く わ け が わ か ら な い 理 屈 だ 。世 の 中 に は 血 筋 を 受 け 継 いで
26
灌 園 先 生 日 記 1945-12-08
http://taco.ith.sinica.edu.tw/tdk/%E7%81%8C%E5%9C%92%E5%85%88%E7%94%9F
%E6%97%A5%E8%A8%98/1945-12-08#cite_ref-3
27
呉 天 賞( 1909 年 - 1947 年 )ペ ン ネ ー ム は 呉 勞 三 。 台 中 生 ま れ 。 日 本 青 山 学 院
英米文学科に留学。台湾芸術研究会、台湾文芸連盟東京支部に参加していた。
帰台後、『台湾新民報』の編集を担当した。戦後『台湾新生報』の台中支社の
主 任 を 務 め て い た 。 1947 年 に 病 死 。
28
治 臺 五 十 年 事 蹟 調 查 會『 植 民 地 政 策 上 ヨ リ 観 タ ル 台 湾 統 治 ニ 関 ス ル 建 白 』( 臺
中 : 金 星 堂 印 書 局 、 1945)
38
い な い 人 間 が い る だ ろ う か ? そ の 話 は『 天 照 大 神 の 血 筋 受 け 継 ぐ 人 』
と い う 意 味 だ ろ う 。 多 く の 日 本 人 が ま だ こ の よ う な 神 秘 的 な 思 想を
持 っ て い る 以 上 、 民 主 へ の 道 は ま だ 長 い 」 29 と 論 じ 、 さ ら に 次 の よ
う に 続 け た 30 。
日本の天皇神聖観は、ヨーロッパの王権神授説と比べても、倫理
の根拠づけが足りない、全くの盲信である。日本人軍閥はさらに
神話に基づき、世界制覇の思想を捏造した。我々は日本人の天皇
思想に干渉するつもりはないが、ただ彼らが再び天皇思想で捲土
重来することをもっとも怖れているだけだ。
台 湾 人 は 日 本 統 治 時 代 、日 本 人 に 強 要 さ れ た た め 表 面 上 は「 皇 民 」
の ふ り を し て い た が 、 民 族 と 文 化 の 根 本 的 違 い の た め に 心 の 底 から
「 天 皇 制 」 を 受 け 入 れ る こ と は で き な か っ た と 指 摘 す る 研 究 も ある
31
。天皇 制 を「 盲 信 」
「神話」
「 世 界 制 覇 の 思 想 」と し て 批 判 す る『 民
報 』 の 論 調 は 、 台 湾 人 の 対 日 観 が 決 し て 単 純 な も の で は な く 、 日本
の 政 治 ・ 社 会 の 根 底 に か か わ る 批 判 的 観 点 も 提 示 し て い た こ と を示
し て い る 。 し か も 、 単 に 天 皇 制 に つ い て 当 時 の 日 本 に お け る 批 判的
な 論 調 を 紹 介 す る に 止 ま ら ず 、 台 湾 人 と し て 被 植 民 地 化 の 経 験 に基
づきながら、
「 台 湾 改 進 党 」の「 建 白 書 」に 端 的 に 見 出 さ れ る よ う な
日 本 人 の 「 盲 信 」 的 な 優 越 感 の 根 源 と し て 天 皇 制 の 問 題 性 を 指 摘し
ている点が着目に値する。
5.日本時代の教育と日本語への評価
29
『 民 報 』 1946 年 7 月 10 日 、 熱 言
30
『 民 報 』 1946 年 9 月 22 日 、 熱 言
31
陳煒翰の研究によれば、日治時代における台湾学生の日本の「皇族奉迎」に
関する綴方の内容は、一見すれば賛美と幸福の気持ちに溢れていたが、内地と
差別された部分も見えるという。陳煒翰「日本皇族的殖民地臺灣視察」(國立
臺 灣 師 範 大 學 台 灣 史 研 究 所 碩 士 論 文 、 2011 年 ) を 参 照 。
39
日本統治時代に天皇崇拝の思想が広められる媒体となったのは、
学 校 教 育 で あ っ た 。そ れ で は 、
『 民 報 』は 、日 本 時 代 の 教 育 に つ い て
ど の よ う に 評 価 し て い た の だ ろ う か ? こ の 問 題 に か か わ る 見 解 は天
皇 制 を め ぐ る 問 題 ほ ど に 明 確 で は な い も の の 、 総 じ て 言 え ば 、 教育
を 普 及 し た こ と へ の 評 価 よ り も 、 教 育 制 度 上 に お け る 差 別 へ の 憤り
が支配的であった。
日本統治時代に日本人の抱いていた優越意識や差別への憤りは、
国 民 政 府 が 台 湾 総 督 府 と 同 様 の 態 度 を と っ た た め に 改 め て 思 い 起こ
さ れ る こ と も あ っ た 。た と え ば 、初 等 教 育 に お け る 別 学 原 則 で あ る 。
戦 後 国 民 政 府 が 実 施 し た 教 育 政 策 の た め に 、 日 本 統 治 時 代 の 教 育政
策を振り返る議論が再燃した。
1946 年 4 月、台湾 省行政 長 官 公 署 教 育 処 は 、以 前 の 末 廣 国 民 学 校
を 「 特 種 国 民 学 校 」 に 改 変 し よ う と し た 。 そ の 「 省 立 国 民 学 校 」は
外 省 人 し か 通 わ な い 特 別 な 学 校 と さ れ た 。 当 時 の 范 壽 康 教 育 処 長は
その理由として、
「 国 民 学 校 を 設 立 す る の は 教 育 方 法 を 試 し 、現 地 の
各 学 校 を 指 導 し 、模 範 を 示 す た め だ 」と 台 北 市 参 議 会 で 説 明 し た 32 。
し か し 、 か つ て 日 本 人 の た め の 特 別 な 学 校 が 存 在 し た こ と を 知 って
い る 台 湾 人 に と っ て 、 こ の よ う に 外 省 人 の た め に 特 別 な 学 校 を つく
る と い う 措 置 は 差 別 的 と み な さ れ た 。 台 湾 人 議 員 は 次 の よ う に 論じ
た 。 以 前 の 支 配 者 た る 日 本 人 が 異 な る 民 族 で あ る の に 対 し 、 今 や皆
が 同 じ 中 国 人 で あ る は ず で あ る 。 そ れ に も か か わ ら ず 、 外 省 人 は何
の 権 利 が あ っ て 台 湾 人 よ り 自 ら を 優 越 し た も の と み な す の か ? どの
よ う な 立 場 で 特 別 な 待 遇 を 享 受 し よ う と す る の か ? 台 北 市 参 議 会の
場 で 、 台 湾 人 の 議 員 は こ の よ う に 反 論 し 、 全 員 一 致 で 反 対 し た 33 。
従 来 教 育 問 題 に つ い て 関 心 を 払 っ て き た『 民 報 』も こ れ に 対 し て 、
「 昔 の 日 本 統 治 時 代 の 差 別 教 育 の 下 で 、 教 育 の 均 等 な 機 会 を 得 るた
め に 、 ま た 教 育 的 優 越 感 を 打 ち 破 る た め に 、 我 々 台 湾 人 は ど れ ほど
32
『 民 報 』 1946 年 4 月 16 日 、 「 反 對 設 立 特 種 國 民 學 校 異 口 同 音 無 一 贊 成 」
33
同上
40
の 努 力 を し た だ ろ う か 」と 論 じ た 34 。さ ら に 、次 の よ う に 批 判 した 35 。
特種国民学校は日本統治時代にすでに先例があった。まず、小学
校と公学校の差別である。台湾の子供と日本の子供が同じ学校で
授業を受けるのを許さなかった。それから一斉に国民学校に改称
しても、第一と第二という名称上の差別を設けた。終始、教育の
均等な機会は得られなかった。差別教育の根本的な目的は、彼ら
の優越感を維持するためだ。しかし彼らは本当のことを言わず、
表面上ではただ日本語が話せないことを口実としていた。今回の
特種国民学校の件も、きっと台湾人が国語(中国語)を話せない
という同じ口実であろう。人心を得られず、日本人の方法をまね
するなんて、本当に笑うべきことだ!
日本 時 代 の 植 民 地 教 育 は 、 と も す れ ば 「 同 化 教 育 」 と い う 言 葉だ
け で イ メ ー ジ さ れ が ち だ が 、 資 源 配 分 の 不 平 等 を 前 提 と し て い る点
で 差 別 的 で も あ っ た 。『 民 報 』 の 社 長 で あ る 林 茂 生 が 1929 年 に コ ロ
ン ビ ア 大 学 に 提 出 し た 学 位 論 文 で は 日 本 統 治 時 代 の 教 育 に つ い て論
じ て 、日 本 人 の 子 供 が 通 う「 小 学 校 」に 与 え ら れ た 教 育 上 の 資 源(予
算 や 教 員 の 資 格 ) は 、 台 湾 の 子 供 が 通 う 「 公 学 校 」 よ り は る か に良
い も の で あ っ た と い う 問 題 点 を 指 摘 し て い る 36 。
結 局 、国 民 政 府 が 外 省 人 向 け「 特 種 国 民 学 校 」を 設 立 す る 政 策 は 、
圧 倒 的 な 民 意 に 抵 抗 し き れ ず 、5 月 19 日 に 取 消 と な っ た 37 。こ れ は 、
些 細 な 出 来 事 の よ う で あ る が 、 台 湾 人 の 側 で は 日 本 統 治 時 代 の 差別
教 育 と 同 様 の こ と が 国 民 政 府 に よ り 行 わ れ よ う と し て い る と 理 解し
て い た こ と が わ か る 点 で 重 要 な 出 来 事 と い え る 。 日 本 時 代 の 教 育を
34
『 民 報 』 1946 年 5 月 10 日 、 社 説 「 反 對 設 立 省 立 國 民 學 校 」
35
『 民 報 』 1946 年 4 月 18 日 、 熱 言
36
林茂生「日本統治下台灣的學校教育-其發展及有關文化之歷 史分析及探討」
( 新 自 然 主 義 、 2000 年 ) p.183
37
『 民 報 』 1946 年 5 月 19 日 、 「 省 立 國 民 學 校 決 定 撤 銷 」
41
め ぐ る 評 価 は 、 さ ら な る 論 争 を 引 き 起 こ し た 。 そ の 中 で 一 番 有 名な
事 件 は 范 壽 康 教 育 処 長 に よ る 「 奴 隷 化 」 発 言 騒 動 で あ る 。 こ の 「奴
隷 化 」 を め ぐ る 論 争 に つ い て は 、 何 義 麟 の 研 究 な ど で と り あ げ られ
て い る も の の 、あ ら た め て『民報』の 論 争 に 着 目 す る こ と に し た い 。
『 民 報 』は 、5 月 26 日 に「 奴 隷 化 教 育 と 民 族 意 識 」と 題 す る 社 説
を 通 じ て 、 以 下 の よ う に 范 壽 康 教 育 処 長 の 「 奴 隷 化 」 論 に 強 く 反論
し た 38 。
台湾人は形式上、日本の服を着たり日本語を喋ったりするけれど
も、精神上ではずっと黄帝の子孫である中国人精神を持ち、ちっ
とも奴隷化されていないのだ!〔中略〕台湾人の子供が通ってい
た公学校、日本人の子供が通っていた小学校、その内容には優劣
が大きくつけられた。しかし台湾人は民族の誇りを守るために、
「公」が「小」より意義があるとして、小学校の日本人学生に対
して遠慮せず、しょっちゅう喧嘩が起こった。台湾人が奴隷化さ
れていない根拠はそこにある。
以 上 の 内 容 を 見 れ ば 、『 民 報 』 は 日 本 が 与 え た 植 民 地 教 育 の 意 図
が 「 奴 隷 化 教 育 」 で あ っ た こ と を 認 め て は い る が 、 台 湾 人 は そ のよ
う な 教 育 に 甘 ん じ る こ と な く 、 反 発 し て い た 点 を 強 調 し た こ と がわ
かる。
『 民 報 』に よ る と 、台 湾 人 は 中 国 人 と し て の 民 族 意 識 を 強 く 持
ち 、自 分 が 中 国 人 だ と 信 じ て い た 。ま た 、自 分 た ち が「 民 族 の 誇 り 」
を 守 ろ う と し て き た と い う 自 負 が あ っ た 。 台 湾 人 が 最 も 耐 え ら れな
い の は 、 そ れ に も か か わ ら ず 、 光 復 後 に 同 胞 か ら 民 族 精 神 を 持 って
い な い 、 す で に 「 奴 隷 化 」 さ れ た と 一 方 的 に 断 言 さ れ た こ と で あっ
た。
このような状況において、一部の台湾人にあえて日本語を用いる
と い う 反 動 が 現 れ 始 め た 。表 1 に 示 し た よ う に 、1946 年 7 月 か ら 10
38
『 民 報 』 1946 年 5 月 26 日 、 星 期 專 論 「 奴 化 教 育 與 民 族 意 識 」
42
月 に か け て 、 決 し て は 数 は 多 く な い も の の 、 日 本 語 に か か わ る 記事
が 登 場 す る 。 た と え ば 、 年 8 月 に は 「 熱 言 」 で 以 下 の よ う な 状 況が
報 じ ら れ た 39 。
最近日本語を使う人が光復の時よりも多くなったと感じる。そし
て豪快にやりたい放題、日本語でしゃべっている。日本降伏の知
らせが伝わってきたとき、台湾人はみんな喜んで、もう日本語を
話さなくていいぞ!と叫んだのに。その後祖国から来た人の多数
が品行の悪い者であるのを見て、親愛の感情が嫌悪へと変わった。
国語を学ぶ情熱も冷め、必要のない場合でも、わざと日本語を使
う事態も見られる。
台湾人は日本人によって「奴隷化」されたと外省人から言われる
こ と に 怒 り を 覚 え て い た 。 そ の 怒 り の 中 に 生 じ た 対 抗 心 か ら 、 あえ
て 日 本 語 を 話 そ う と し た 人 が い る こ と が わ か る 。た だ し 『
、 民 報 』は 、
このような人びとに批判的だった。
『 民 報 』の 論 調 は 台 湾 人 と し て の
固 有 の 歴 史 的 経 験 を 重 視 し て い た が 、 そ れ で も 、 台 湾 人 は 中 国 人の
一 部 で あ り 、 三 民 主 義 を 報 じ る べ き と い う 方 針 は 変 更 し て い な かっ
たからである。
よ く 知 ら れ て い る よ う に 、1946 年 10 月 25 日 に は 、新 聞 雑 誌 に お
い て 全 面 的 に 日 本 語 版 を 廃 止 す る と い う 政 策 が 行 わ れ た 。 そ れ に対
し て 、『 民 報 』 は 賛 成 の 意 を 表 し た 40 。
台湾は中国の一部分、台湾人は中国民族の一部分、中文はもちろ
ん我々の国文、もう日文を使う必要はない。日本人が中文を禁止
したのは反動的な暴虐の政策であり、我々が日文を禁止するのは
当 然 で 、進 歩 的 な 措 置 で あ る 。両 者 に は 明 ら か な 違 い が あ る 。我々
39
『 民 報 』 1946 年 8 月 2 日 、 熱 言
40
『 民 報 』 1946 年 8 月 27 日 、 社 説 「 關 於 禁 止 日 文 版 」
43
は日文の刊行物を廃止することに賛成する。
『民報』は、このように外省人への反発からあえて日本語を用い
る 民 衆 の 対 応 に 一 定 の 理 解 を 示 し な が ら も 、 日 本 語 を 禁 止 す る のは
当 然 だ と 主 張 し て い た 。日 本 語 に か か わ る 記 事 も 、1946 年 7 月 か ら
10 月 に 月 2.3 件 と な っ て い る も の の 、決 し て 多 く は な い 。特種 国 民
学 校 に か か わ る 記 述 を 思 い 起 こ し て も 、 国 語 ( 中 国 語 ) が で き ない
ことが差別の口実とされることを恐れていたと思われる。
このような論調は、従来の研究では軽視されてきた。たとえば、
菅 野 敦 志 の 研 究 に よ れ ば 、 当 時 新 聞 雑 誌 に 設 け ら れ て い た 日 本 語欄
は 、 台 湾 人 が 最 新 の 情 報 を 入 手 し 、 時 事 を 把 握 し 、 ま た 一 方 で は外
省 人 や 政 府 に 対 す る 不 満 を 訴 え る 、 重 要 な メ デ ィ ア 空 間 で あ り 、そ
の た め 、 日 本 語 欄 廃 止 に 強 い 反 対 が あ っ た と さ れ る 41 。 し か し 『 民
報 』は、
「 良 薬 は 口 に 苦 し 」と い う 言 葉 を あ げ て 、一 時 的 な 苦 痛 を 辛
抱 し て 、 す ぐ に で も 日 本 語 を 廃 止 せ よ と い う 姿 勢 を と り 続 け た 。そ
こ に は 、 台 湾 人 と し て 主 体 的 に 脱 植 民 地 化 を 追 求 す る た め に 、 まず
日本的なるものを払拭することが必要だという判断がうかがわれる。
6.終わりに
『民報』の記事では、植民地期の日本人による差別と虐待、その
根 底 に あ る 優 越 感 へ の 反 発 ・ 憤 り が よ り 顕 著 で あ る 。 在 台 日 本 人を
め ぐ る 報 道 で は 、 日 本 人 が 過 去 を 反 省 し て 、 民 主 主 義 に 向 け て 更生
す る こ と へ の 期 待 を 表 し て い た 。 ま た 、 日 本 人 の イ メ ー ジ は ネ ガテ
ィ ブ な も の 一 色 で は な か っ た も の の 、 日 本 人 の 優 越 感 に 満 ち た 態度
の 根 源 と し て 、 天 皇 制 へ の 鋭 い 批 判 も 見 ら れ た 。 こ れ ら の 事 実 は、
これまでの研究では見過ごされてきたものといえる。
『民報』は、植民地支配にかかわる日本の過去と現在を批判する
と 同 時 に 、日 本 人 と 同 様 な 差 別 を す る 国 民 政 府 も 批 判 し て い た 。
「奴
41
菅 野 敦 志 「 台 湾 の 言 語 と 文 字 」 ( 勁 草 書 房 、 2012 年 )
44
隷 化 」を め ぐ る 論 争 に も 明 ら か な よ う に 、1946 年 夏 以 降 は 、日 本 批
判 よ り も 、国 民 政 府 批 判 に 次 第 に 比 重 が 移 っ て い っ た と 考 え ら れ る。
た だ し 、 そ の 場 合 に で も 、 国 民 政 府 が 日 本 時 代 と 同 じ よ う に 外 省人
向 け の 特 権 的 な 小 学 校 を つ く ろ う と し て い る 問 題 な ど 、 日 本 時 代の
ネ ガ テ ィ ブ な 事 態 の 再 発 を 防 ご う と す る 意 味 合 い を 備 え て い た こと
に留意する必要がある。
台湾人の対日観に関する先行研究では、日本時代の教育、特に修
身 と い う 科 目 が 与 え た 「 日 本 の 良 い 習 慣 」 は 身 に 付 け る 価 値 の ある
も の で あ る と い う 、 台 湾 の 老 人 た ち の 口 述 歴 史 に 依 拠 し た 指 摘 もな
さ れ て き た 42 。
『 民 報 』に も 日 本 人 が 残 し た 清 潔 さ と 礼 儀 な ど の 良 い
習 慣 を 失 わ な い で 、 外 省 人 の 悪 い 習 慣 に 同 化 し な い で と 呼 び か けた
記 事 は 確 か に 存 在 し た 43 。 し か し 、 台 湾 人 と し て 主 体 的 に 脱 植 民 地
化 を 図 る こ と が 必 要 と い う 観 点 か ら 、 日 本 植 民 地 統 治 期 の 差 別 的な
教 育 制 度 や 暴 力 に 対 す る 批 判 こ そ が 前 面 に 押 し 出 さ れ て い た 。 口述
歴 史 は そ れ 自 体 と し て 重 要 で あ る も の の 、 口 述 し た 時 点 の 見 解 が、
そ の ま ま 戦 争 直 後 の 感 想 で あ っ た と は 限 ら な い 。本 論 の 内 容 は 、228
事 件 後 の 体 験 を ふ ま え て な さ れ る 回 想 を そ の ま ま 戦 後 直 後 の 時 期に
投影してはならないことを教えている。
228 事 件 の さ な か に 、
『 民 報 』は 強 制 的 に 廃 刊 さ せ ら れ た 。仮 説 的
な 見 通 し を 述 べ る な ら ば 、 台 湾 人 と し て の 主 体 的 な 脱 植 民 地 化 が困
難 と な っ た 状 況 の 中 で 、 あ え て 日 本 へ の 好 意 を 表 明 し 、 日 本 語 を用
い る よ う な 態 度 ―『 民 報 』 が 批 判 し た 態 度― が 台 湾 社 会 の 底 辺
で 徐 々 に 広 が っ て い っ た と 考 え ら れ る 。 228 事 件 を 通 じ て 、 台 湾 人
は 日 本 統 治 時 代 か ら 50 年 以 上 に わ た り 育 ま れ た「 祖 国 の 夢 」か ら 醒
め 、 改 め て 「 台 湾 人 」 と し て の 歴 史 的 定 位 を 探 し 始 め た 。 台 湾 の多
元 的 で 複 雑 な 民 族 と 文 化 背 景 の た め 、 台 湾 人 の 対 日 観 も ま た 矛 盾に
満 ち た も の と な ら ざ る え な か っ た 。 日 本 時 代 に 漢 文 教 育 を 受 け るこ
42
蔡錦堂「日本統治時代と国民党統治時代に跨って生きた台湾人の日本観」五
十 嵐 真 子 他 編 『 戦 後 台 湾 に お け る < 日 本 > 』 、 風 響 社 、 2006 年
43
『 民 報 』 1946 年 9 月 11 日 、 社 説 「 中 國 化 的 真 精 神 」
45
と の で き な か っ た 世 代 と 、 そ れ 以 前 の 世 代 で は 『 民 報 』 の 受 け とめ
方も異なっていたと思われる。
『 民 報 』の 論 調 を 受 容 し た の は ど のよ
うな人々であったのか、
『 民 報 』以 外 の 新 聞 で は ど の よ う な 対 日 観が
見 出 せ る の か 、 ま た 『 民 報 』 に あ ら わ れ た 論 調 が 、 そ の 後 、 台 湾社
会 で ど の よ う に 継 承 さ れ た の か 、 継 承 さ れ な か っ た の か 。 こ れ らの
問題は重要な課題として機会を改めて取り組みたい。
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※2016 年 4 月 30 日 受理 2016 年 6 月 30 日審 査 通過
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