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[1]中世社会の成立

p.56-59
1 院政と荘園

●荘園の発達と公領
 11 世紀になると,地方豪族や有力田堵は,現地での権限を強め,開発領主へと成長した。広い地域を支配す
る開発領主は,国衙の干渉に備え,所領を中央の有力者に荘園として寄進するとともに,その権威を利用し,
自らは荘官(多くは下司)となり,所領を実質的に支配した。こうして 11 世紀半ばに,寄進地系荘園が各地に
広まった。
 年貢の上納を受ける中央の有力者は,領家とよばれた。さらに領家が,年貢の一部を皇室・大貴族・大寺社
に寄進して,本家①とあおぐこともあった。
 荘園は,初めは租税を免除されていなかったが,やがて本家・領家の権威を利用して,政府から租税の免除
(不輸)の特権や,国衙の検田使の立ち入り拒否(不入)の特権を獲得する荘園もあらわれた。12 世紀ごろか
らは,不入の特権は拡大され,国衙に対し,警察権の介入までも拒否するようになった。
 一方国司も地方豪族と協力し,荘園以外の土地を公領(国衙領)として経営するようになった。こうして一
国内の耕地は,荘園と公領からなることになった。
 11 世紀ごろから,国衙は,農民を指導して徴税や農作業などにあたってきた郡司の権限を吸収し,機能の充
実をはかった。国司のかわりをつとめる目代は,権限を広げた国衙の役人(在庁官人②)を指揮するかたわら,
国内の有力武士を国衙の軍事力として組織し,地方の治安の維持にあたった。
 田堵は,名田耕作の請負契約をくりかえすうちに耕地への権利を強め,名田の持ち主という意味で,名主と
よばれるようになった③。名主は,国衙や荘園領主に対しては,名田単位に課せられた年貢・公事・夫役④を
おさめる責任者であった。また,名田をさらに下請け耕作させている小農民に対しては,彼らを指導する農村
の有力者でもあった。

① 本家と領家のうち,より大きな影響力を荘園に行使する者を本所といった。ほとんどの荘園では,本家が本所
であった。
② おもに現地の豪族から選ばれた役人。
③ このころには,公領ばかりか荘園内でも,耕地は農民の名をつけた名田に細分されるようになった。
④ 荘園制のもとでは,律令制下の租や出挙(強制貸付米)に相当するものが年貢,調・庸に相当するものが公事,
雑徭に相当するものが夫役となる。

〈史料〉
鹿子木(肥後国の鹿子木荘)の事
一、当寺の相承は、開発領主の沙弥(在俗の僧)寿妙嫡々相伝なり①。
一、寿妙の末流高方の時、権威を借らんが為めに、実政卿(藤原実政)を以て領家と号し、年貢四百石を以て
割き分ち、高方は庄家領掌進退の預所職②となる。
一、実政の末流の願西(曾孫の藤原隆通の法名)微力の間、国衙の乱妨を防げず。是の故に願西、領家の得分
(収益)二百石を以て、高陽院内親王(鳥羽天皇の皇女)に寄進す。……是れ則ち本家の始なり。
(東寺百合文書)

① 代々伝えてきたもの(寿妙→高方→親貞)
② 現地を管理支配する荘官

●院政の始まり
 1068(治暦 4)年,後三条天皇が即位した。宇多天皇以来 170 年ぶりの,藤原氏を外戚としない天皇であっ
た。後三条天皇は,荘園の増加が公領を圧迫し朝廷の税収の減少をまねいていると判断し,1069(延久元)年
に厳しい内容の荘園整理令を発した。記録荘園券契所(記録所)が設けられ,そこでの審査の結果,基準にあ
わない荘園は停止⑤された。摂関家もこれによって,大きく経済力をそがれた。
 後三条天皇の皇子である白河天皇は,1086(応徳 3)年に退位して上皇となり,幼い皇子・皇孫を次々に皇
位につけ,43 年間も上皇の御所で政治を行った。天皇家の家長である上皇が,子や孫である天皇にかわって政
治を行う体制を院政という。こののち院政は鳥羽上皇,後白河上皇,後鳥羽上皇によって継承されていった。
 上皇は,院庁⑥を設けて多数の院司を置いたが,彼らは家政の処理を仕事とした。国政は,上皇の権威のも
とで太政官に指示して,実行させた。白河上皇のとき,直属の軍事力を組織するため,上皇の御所に北面の武
士が置かれ,平氏などの武士が登用された。
 院政のもとでは,旧来の秩序や慣習が軽視された。上皇のお気にいりの中小貴族,僧侶,武士,財力のある
受領などが,上皇との個人的な関係をもとに院近臣となり,政治に活躍し始めた。その代表は,鳥羽上皇や後
白河上皇の信任をえた藤原通憲(信西)⑦であった。

⑤ 有力な神社,石清水八幡宮においては,34 か所の荘園のうち,13 か所の権利をとめられた。


⑥ 上皇のぼう大な土地・財産を管理する役所が院庁で,貴族たちが院司となって奉仕した。
⑦ 出家して信西を名のった。

〈史料〉後三条天皇の荘園整理
〔延久元(一〇六九)年二月〕廿三日、寛徳二(一〇四五)年以後の新立荘園を停止すべし、たとひ彼の年以
往(寛徳二年以前)と雖も、立券分明ならず①して、国務に妨げあるものは、同じく停止の由、宣下す。閏二
月十一日、始めて記録荘園券契所を置き、寄人(係官)等を定む。
(『百錬抄』)
 コノ後三条院位ノ御時、……延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ、宣旨・官符
(天皇の命令・太政官の指令)モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケル
②ハ、スナハチ宇治殿(関白藤原頼通)ノ時、一ノ所(摂関家)ノ御領御領トノミ云テ、荘園諸国ニミチテ、
受領ノツトメタヘガタシナド云ヲキコシメシ、モチタリケルニコソ③。
(『愚管抄』)

① 荘園設置の証拠文書が不確かなもの
② 大害だと即位前からお聞きになっていたから 
③ 記録所新設を採用されたものである

●院政期の知行国と荘園
 上皇は仏教をあつく信仰し,大寺院①をつくって盛大な法会をもよおし,何度も紀伊の熊野詣や高野参詣に
出かけた。また豪華な離宮②が建てられ,上皇の権威の象徴となった。
 上皇たちの帰依を受けた大寺院は,地方の寺院を支配下に置き,多くの荘園をたくわえ,僧兵を組織した。
僧兵は国司や荘園領主と争い,神木や神輿を先頭に立てて朝廷に強訴③を行った。なかでも興福寺と延暦寺の
僧兵は強力で,両寺は南都・北嶺とよばれた。京都で乱暴をはたらく僧兵に対処するため,朝廷は武士の整備
につとめた。
 12 世紀になると,高位の貴族が知行国主に任命され,一国の行政を支配し,国衙領から収益をえるようにな
った。これが知行国の制度④である。公領は,知行国主の私領へと変わっていった。全国の田地,すなわち荘
園と公領とをあたかも私領であるかのようにあつかうこの状態を,荘園公領制とよぶ。知行国主たちは,豊か
な財産をたくわえて上皇に奉仕し,それが院政の経済的な基盤となった。
 院政をささえたもう一つの基盤は,多くの荘園であった。上皇のもとには大量の荘園が寄進され,これらは
近親の女性や寺院にあたえられた。鳥羽上皇が皇女の八条院にあたえた八条院領荘園群,後白河上皇が長講堂
に寄進した長講堂領荘園群はその代表である。

① 八角九重塔を擁する法勝寺など,「勝」の字のつく六つの大寺院が建てられ,六勝寺と称された。
② その代表は,白河や鳥羽の地に建てられた,白河殿・鳥羽殿などであった。
③ 武装した僧兵などが,暴力を背景に,寺院や神社の要求をききいれるよう,朝廷に迫った行為を強訴といった。
神仏の権威を前面におし立ててくるので,朝廷は対処に苦しんだ。
④ 知行国主は,子弟や家人を国司に任命できた。

〈コラム〉僧兵の威力
 白河上皇は,賀茂川の水(洪水),双六のさい(とばくの横行),山法師(延暦寺の僧兵)をさして,自分
の意のごとくならない三つ(三大不如意)となげいたという。
 当時の寺院は,寺領の荘園をめぐって国衙とのあいだに争いがおこると,紛争解決のため,しばしば多数の
僧兵を動員して朝廷に訴えた。たとえば,興福寺の僧兵が春日社(藤原氏の氏神)の神木をかつぎ,延暦寺の
僧兵が日吉社(国家鎮護の神)の神輿をかついで入京すると,貴族たちは,その神威をおそれて外出しなかっ
たため,朝廷の行事はとどこおった。やがて,ほかの寺院も,これにならうようになった。

●院政期の文化
 この時代には,貴族の全盛期をなつかしみ,藤原道長の栄華とそこにいたるまでの藤原氏の発展を叙述した
『栄花(華)物語』や『大鏡』などの歴史物語⑤が書かれた。また,地方武士や庶民なども活躍する新しい文
学として,インド・中国・日本の説話を集めた『今昔物語集』などの説話集や,地方の合戦に取材した『将門
記』・『陸奥話記』などの軍記物もつくられた。
 奥州藤原三代の栄華を示す中尊寺金色堂や,豊後の豪族が修復した富貴寺大堂などは,現存する代表的な阿
弥陀堂建築として,当時の流行を示している。
 絵巻物が発達し,『源氏物語絵巻』や『伴大納言絵巻』,動物を擬人化してえがいたことで有名な『鳥獣戯
画』などの傑作が生まれた。これら
の絵巻の背景や『扇面古写経』の下絵の描写からは,庶民の生活や地方のようすをうかがうことができる。ま
た『平家納経』にえがかれた唐絵・大和絵も,代表的な絵画である。
 当時の民間の歌謡は今様とよばれ,農村に発生した田楽や,大陸の民間音楽劇の流れを受けた散楽(猿楽)
などとともに,貴族のあいだでも親しまれた。特に後白河法皇⑥は今様を好み,自ら『梁塵秘抄』を編集した。

⑤ 歴史物語は歴史に取材した文学である。『栄花(華)物語』には『源氏物語』に影響を受けたフィクションが
多いが,『大鏡』には,事実を客観的に叙述しようとしているという特色がある。
⑥ 出家した上皇を法皇という。後白河上皇は 1169(嘉応元)年に出家して法皇となった。

〈問い〉院政を行った上皇は,なぜ大量の荘園を所有できたのだろうか。

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2 平氏政権の登場

●清和源氏と武士団
 東国の国司を歴任した源満仲は,のちに摂津に土着して勢いをのばした。満仲の子の頼光と頼信は,警備を
つとめるなどして摂関家に接近し,その保護を受けて名声を高めた。特に頼信は,房総地方でおこった平忠常
の乱を平定し,清和源氏が東国に勢力を広めるもとをつくった。
 源氏と東国との結びつきは,前九年合戦①で強まった。当時,陸奥では豪族の安倍氏が勢力をもち,しばし
ば国司と争っていた。頼信の子の頼義が陸奥守・鎮守府将軍として現地にくだると,安倍氏は乱をおこした。
頼義は子の義家とともに,東国の武士をひきいて戦い,出羽の豪族清原氏の援助をえて,安倍氏をほろぼした。
 こののち,安倍氏にかわって勢力をえた清原氏一族の争いがおきると,陸奥守・鎮守府将軍であった義家は
これに介入し,清原氏一族のうち藤原清衡を助けて,争いを平定した(後三年合戦②)。これらの戦いを通じ
て,源氏は東国の武士と主従の関係を結び,武家の棟梁とあおがれるようになった。各地の領主として成長し
つつあった武士たちは,私領の拡大や保護を必要とした。その求めに応じることで,義家は彼らを家人③とし
て組織したのである。
 義家の去った東北地方では,藤原清衡の力が強大になった。清衡は平泉に根拠をかまえ,陸奥と出羽の 2 国
に勢力をのばした。清衡は,金と馬に代表される奥州の富を用いて摂関家や上皇たちとの関係を築き,都の文
化を移入した。それによって,奥州藤原氏は,子の基衡,孫の秀衡と 3 代 100 年にわたってさかえた。

①1051 年から 1062 年まで,戦いは長期にわたった。


②1083 年から 1087 年。義家の行為は私の合戦とみなされ,朝廷からの恩賞はあたえられなかった。
③ 家来のことを家人,従者といった。

●保元の乱
 源義家の子の義親が出雲で反乱をおこし,討伐されると,これにかわって,上皇の信任を受けて台頭してき
たのが,伊賀や伊勢を地盤とする桓武平氏の一族であった。
 平正盛は,伊賀国の荘園を白河上皇に寄進して政界進出の足がかりとし,源義親を討って武名をあげた。正
盛の子の忠盛も瀬戸内海の海賊を討つなどして,鳥羽上皇の信頼を獲得した。忠盛は,上皇の近臣の地位をえ
て西国の受領を歴任し,貴族社会の仲間入りをはたした。この平氏の勢力をさらに飛躍的に向上させたのが,
忠盛の子の清盛であった。
 源氏は,義親の死に加え,一族内部のはげしい争いによって衰退していたが,義親の子の為義は,摂関家と
結びついて少しずつ力をもりかえした。また,為義の子の義朝は,東国の武士団を統率することにより,ふた
たび棟梁の地位をかためていった。
 1156(保元元)年に鳥羽法皇がなくなると,かわって院政を行おうとした崇徳上皇は,弟の後白河天皇と対
立した。崇徳上皇は,摂関家の継承をめざして兄の忠通と争っていた左大臣藤原頼長と結び,源為義や平忠正
らの武士を集めた。これに対して後白河天皇は,藤原通憲(信西)と相談し,平清盛や源義朝らを味方につけ
た。天皇方は先制攻撃をしかけて④,上皇方を打ちやぶった(保元の乱⑤)。
 京都を舞台に合戦が行われたことや,政治の争いの行方が武士の力で決定づけられたことは,この保元の乱
が初めてのことであった。そのため,この乱は貴族たちに大きな衝撃をあたえた⑥。

④ 清盛の兵力は 300 騎,義朝は 200 騎と貴族の日記に記されている。


⑤ 頼長は合戦のなかで死亡し,上皇は讃岐に流された。為義ら武士たちは処刑された。
⑥ 摂関家出身の僧慈円は,その著書『愚管抄』に,「これ以後,武者の世になった」と記した。
〈コラム〉貴族社会の秩序
 平安時代以来,貴族は大まかに二つに分けられた。天皇の居処である清涼殿にあがることのできる「殿上
人」と,地面にかしこまらねばならない「地下人」である。これに加え,平安時代末期から鎌倉時代にかけて,
貴族社会では「家」が成立し,同時に家の格が定まっていった。
 貴族社会では,生まれがその人物の将来に,決定的な影響をあたえた。地下人の家に生まれた人は,いかに
努力をしても,殿上人になることはほとんど不可能であった。父を殿上人にもち,家をつぐべき人ならば,よ
ほどの失敗をおかさないかぎり,殿上人になれた。また大臣や大・中納言などの嫡子は,父のあとを追って,
高い官職に任じられた。
 このような貴族社会において,異例の昇進をとげたのが,平清盛である。彼は国司から出世を始め,太政大
臣にまでのぼりつめた。そのため『平家物語』は,清盛が実は白河上皇の子であったと述べている。だが,そ
うした特殊な事情を想定することなく,なぜ武士である清盛が重く用いられたかを考えることによって,当時
の政治状況を理解することが大切であろう。

●平治の乱と平氏の栄華
 保元の乱ののち,政治の主導権をにぎったのは,平清盛と協力した藤原通憲であった。通憲は次々と政策①
を打ち出したが,その積極的な姿勢は多くの政敵をつくった。その一人である藤原信頼は,源義朝を味方にひ
きいれ,1159(平治元)年,清盛が熊野詣に出かけた留守に挙兵した。信頼と義朝は,通憲を殺害するも,そ
の後京都に帰った清盛と戦い,やぶれた。信頼と義朝は殺害され,義朝の嫡男の頼朝は伊豆に流された(平治
の乱)。
 保元・平治の二つの乱の結果,武士の力は貴族社会に浸透した。その結果,武家をたばねる棟梁となった平
清盛の地位と権力は,急速に上昇することになった。
 平治の乱後,平清盛は,後白河法皇の信任をえて高位高官にのぼり,1167(仁安 2)年,武士として初めて
太政大臣となった。その子重盛以下の一門も昇進し,娘たちは天皇や摂関家にとついで,平氏の栄華が始まっ
た。
 代々西国の受領を歴任した平氏は,西国の多くの武士を家人としており,彼らを国衙領や荘園の地頭②に任
命した。清盛はまた,宋や高麗の商船が来航しやすいように,瀬戸内海の航路の整備や港の改修③を行い,民
間貿易の拡大につとめた。貿易でもたらされた宋銭や書籍・経典は,わが国の経済や文化の発達に大きな影響
をあたえた。

① 荘園の整理や僧兵の取り締まりを強化するとともに,大内裏の再建にもとりくんだ。
② 地頭を初めて置いたのは,平氏政権といわれる。
③ 大輪田泊(現在の神戸港)。

●平氏政権の誕生
 平清盛は,娘を天皇の妃とし,その子の安徳天皇が即位すると,外戚としてほかとは異なる政治的な発言権
を入手した。また,平氏の経済基盤としては,数多くの知行国とともに,500 あまりの荘園があった④。清盛
は京都の六波羅に居宅をかまえたので,この政権を六波羅政権ともよぶ。六波羅政権は,武力を基盤とする政
権でありながら,貴族的な性格も強くおびていた。
 後白河法皇と清盛は当初は協調していたが,やがて政治的に対立するようになった。1177(治承元)年,後
白河法皇の近臣らによる平氏打倒の計画(鹿ヶ谷の陰謀)が発覚すると,清盛は強い態度で法皇に抗議した。
さらに 1179(治承 3)年になると,法皇を中心とする反平氏の動きが表面化したため,清盛はついに法皇を御
所に閉じこめ,関白以下多くの貴族の官職をうばうという強硬手段に出た。ここに,日本で初めて,武家が主
導する政権が誕生した。
 清盛の高圧的な姿勢は,一時的には平氏に利益をもたらした。全国の半分近くの国が平氏一門の知行国にな
るなど,平氏は思うままにふるまえた。しかし,そのやり方への批判は日に日に増大していき,それが平氏の
急速な没落をもたらした。

④ そのありようは摂関家によく似ている。

〈問い〉平氏政権の性格について,摂関政治と比較して考えてみよう。

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3 鎌倉幕府の誕生

●源平の争乱
 1180(治承 4)年,源頼政は後白河法皇の子の以仁王を擁して平氏打倒の兵をあげた。頼政と以仁王は敗死
したが,以仁王のよびかけを受けて伊豆の源頼朝や木曽の源義仲などが挙兵した。彼らは,自己の所領の支配
権を強化しようとする武士(在地領主)の勢力にささえられていた。戦いは全国に広がり,これ以降 5 年にわ
たってつづけられた(治承・寿永の内乱)。
 平清盛は,頼朝を攻めるために大軍を送ったが,富士川の戦いで敗北した。戦いに勝利した頼朝は,周囲の
武士のすすめで京都には向かわず,関東の平定を優先した。平氏は建設中の福原京(摂津)を放棄して京都に
帰るとともに,畿内の鎮定をはかり,以仁王に味方した南都に出兵し東大寺大仏殿を焼き払うなどした。しか
し,このころ清盛がなくなるとともに,折からの大飢饉(養和の飢饉)が発生したことで,平氏は深刻な打撃
を受けた。そして,1183(寿永 2)年に信濃から北陸道を進んだ源義仲が平氏を西国にしりぞかせ,都を占拠
した。義仲が後白河法皇と対立すると,頼朝は弟の範頼と義経を大将とする軍を派遣し,義仲をほろぼした。
 つづいて範頼と義経の軍勢は,平氏を一の谷で打ちやぶった。こののち,頼朝は各地に武士を派遣し,平氏
や義仲軍の残党を討たせた。さらに,1185(文治元)年 2 月,義経は屋島を急襲し,壇の浦に平氏を追いつめ
た。同年 3 月の壇の浦での海戦でやぶれた平氏一門は,安徳天皇とともにほろびた。

●鎌倉殿と守護・地頭
 富士川の戦いのあと,鎌倉には侍所が設けられ,武士たちを統制した。つづいて公文所と問注所が開かれた。
公文所(のちに政所と改称)は,大江広元が長官に任じられ,政務や財政をとりあつかった。問注所は,三善
康信が長官に就任し,裁判に関与した①。
 鎌倉に拠点をかまえた頼朝は,鎌倉殿とよばれ実力で関東の荘園・公領を支配していたが,1183(寿永 2)
年 10 月に義仲と対立する後白河法皇との交渉によって,東海道・東山道諸国に対する支配権の公的な承認(寿
永二年十月宣旨)をえた。平氏滅亡後,法皇は義経を用いて頼朝の追討を画策したが,頼朝はこれに強く抗議
し,1185(文治元)年 11 月に追討令を撤回させ,守護と地頭を任命する権利を獲得した②。
 守護は,各国に 1 名ずつ,主として東国出身の有力御家人が任命され,その任務は大犯三か条(大番催促・
謀叛人の逮捕・殺害人の逮捕)にかぎられていた③。荘園や公領に置かれた地頭の任務は,年貢を徴収して荘
園領主や国衙に納入することや,土地を管理すること,治安を維持することなどであった。収益には一定の決
まりがなく,各地における先例の遵守が原則であった。それまで多くは下司の地位にあった武士(在地領主・
荘官)は,頼朝に臣従することで,あらためて地頭に任じられた。しかし,荘園領主たちはこの事態にはげし
く反対したので,地頭の設置範囲は当面平氏などから没収した所領にかぎられた。

① 大江広元も三善康信も朝廷の下級官人だった。
② 頼朝の支配権が全国におよぶことになったため,最近では,これをもって鎌倉幕府の成立と考える向きが多い。
③ 実際は治安を維持するために警察権を行使し,戦時には武士たちのリーダーとなった。また地方行政にも関与
し,国司の権限をうばっていった。

●幕府の成立
 頼朝の追討に失敗した義経は,奥州平泉の藤原秀衡にかくまわれたが,秀衡の死後,その子の泰衡によって
殺害された。一方頼朝は,1189(文治 5)年自ら大軍をひきいて奥州に進み,奥州藤原氏をほろぼした。これ
によって,武家の棟梁としての頼朝の地位は確固たるものになった。
 1192(建久 3)年,後白河法皇がなくなり,頼朝は征夷大将軍に任じられた。これ以後,この職は江戸時代
の末にいたるまで長く武士の長の指標となり,ここに鎌倉幕府が名実ともに成立した。

〈コラム〉鎌倉幕府の成立時期
 鎌倉幕府の成立時期をいつと考えるかについて,これまで以下の 6 説が主張されてきた。それぞれの見解の
対立は,論者の幕府観の相違によってもたらされている。
① 1180(治承 4)年末……頼朝が鎌倉に居をかまえ,侍所を設け,南関東と東海道東部の実質的支配に成功し
たとき
② 1183(寿永 2)年 10 月……頼朝の東国支配権が朝廷から事実上の承認を受けたとき
③ 1184(元暦元)年 10 月……鎌倉に公文所(政所)と問注所が設けられたとき
④ 1185(文治元)年 11 月……頼朝が守護・地頭の任命権などを獲得したとき
⑤ 1190(建久元)年 11 月……頼朝が右近衛大将に任命されたとき
⑥ 1192(建久 3)年 7 月……頼朝が征夷大将軍に任命されたとき
 ⑤と⑥の説,特に⑥の説は,幕府という語の意味(将軍の政府)に着目した解釈であり,古くから主張され
ている。これに対して,ほかの 4 説は軍事政権としての幕府が成立してくる過程を問題にしており,このなか
では④が最も重要な時点であるとして,現在ではこれを支持する学者が多い。しかし,幕府の基盤は東国にあ
り,東国の支配政権としての性格を強調すべきだとすれば②の説が有力になり,軍事力による実力支配を重く
みれば①の説が主張されることになるなど,幕府をどうとらえるかによって,これが成立した時期も変わって
くるのである。
●将軍と御家人
 頼朝は,武士の所領支配を保証したり(本領安堵),戦功に応じて所領をあたえたりする(新恩給与)こと
によって,彼らと主従関係を結んで家来とした。将軍(鎌倉殿)の家来を特に御家人とよび,御家人は将軍の
御恩に報いるために,戦があれば戦場におもむき命がけで戦った。
 平時での御家人の奉公は番役で,それぞれ一定の期間,朝廷の警護にあたる京都大番役と幕府を警護する鎌
倉番役があった。御家人は家子や郎党らの従者をひきい,何年か(不定期)に一度京都や鎌倉に滞在した。こ
れらの費用はすべて自弁で,経済的にも過酷なつとめだった。
 御恩と奉公からなる「将軍−御家人」の緊密な主従関係は,それまでの貴族社会にはみられなかった。所領で
つながる主従関係を基礎とした,このような社会の制度を封建制度といい,鎌倉幕府は封建制度にもとづく初
めての政権だった。

●武士の生活
 東国の武士は,交通に便利な小高い場所に屋敷(館)をかまえた。館は板葺きの簡素な建物を中心としたも
ので,空堀や土塁に柵をめぐらすなど,敵を防ぐための備えがあった。どの館にも,笠懸,流鏑馬,犬追物の
練習のため,広い馬場があった。武士は,ふだんは家子や郎党とともに領地に住み,下人,所従とよばれる農
民を使って農業を行い,所領の経営につとめた。
 鎌倉時代の武士は,一族が血縁によって団結し,一族の長である惣領を中心に,武士団を組織していた。惣
領は,氏神や祖先をまつり,一族の武士(庶子)を統率して軍役や番役をつとめた。また,祖先伝来の本領は
惣領が相続するが,新しく開発した所領は,庶子に分割相続させるのが建て前であった。このような武士の結
合を惣領制という。

〈問い〉鎌倉幕府が「封建制度にもとづく初めての政権」といわれるのはなぜだろうか。

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4 執権による政治

●北条氏の台頭
 1199(正治元)年に頼朝がなくなると,その子の若い頼家が将軍になったが,御家人の信望をえることがで
きなかった。ここで台頭してきたのが,頼朝の妻政子の実家である北条氏であった。1203(建仁 3)年,北条
時政は政子とはかり,頼家の妻の実家である比企氏をほろぼして頼家を引退させた①。そして,頼家の弟の実
朝が将軍となった。時政は大江広元とならんで政所の長官になり,政治の実権をにぎった。将軍を補佐する時
政の地位は執権とよばれ,代々北条氏にひきつがれていった。
 1219(承久元)年,実朝は右大臣就任を祝う式典の途中,頼家の遺児の公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺され
た。その後,公暁も殺された②ため,源氏の正統は 3 代 27 年で断絶した。時政の子義時は摂関家の幼い藤原頼
経を迎え,将軍の地位にすえた。頼経とその子頼嗣を摂家将軍(藤原将軍)というが,幕府の実権は執権であ
る北条氏の手中にあった。

① 頼家は伊豆の修禅寺におしこめられ,のちに暗殺された。
② 公暁の行動には謎が多い。北条氏にあやつられていた,という説が古くからとなえられているが,定かではな
い。

〈コラム〉幕府内での暗闘
 1205(元久 2)年,北条時政は娘婿である平賀朝雅を将軍にしようとはかった。朝雅は,源氏一門で,京都
の守護に任じられていた。しかし,このくわだては政子らの反対にあい,朝雅は京都で殺され,時政は引退し
た。時政のあとは,その子の義時がこれを受けついだ。
 1213(建保元)年に義時は,侍所の長官であった和田義盛とその一族を,鎌倉を戦火にまきこんだ和田合戦
の末にほろぼした。これによって,義時は政所とあわせて侍所の長官をもかね,執権の地位を不動のものとし
た。

●承久の乱
 このころ京都では,幕府の台頭をきらい,朝廷権力の復興をめざす後鳥羽上皇が院政を行っていた。上皇は,
新しく西面の武士を置き,軍事力を強化した。1221(承久 3)年 5 月,上皇は北条義時追討の命令を諸国の武
士に発したが,これに対し幕府はただちに軍勢を送り③,1 か月足らずのあいだに京都を占拠した(承久の乱)。
 乱後,後鳥羽上皇は隠岐島に流され,朝廷の威信はいちじるしく落ちた。また,上皇方についた貴族や武士
の所領は没収された。先の平氏の遺領が 500 か所余りであったのに対して,このときの所領は 3000 か所にの
ぼった。幕府は功績のあった御家人に対し,これらの所領の地頭に任じた。
 乱のあとも北条泰時と時房は京都に残り,市中の警備にあたった。こうした彼らの職務は六波羅探題とよば
れ,こののち探題は執権につぐ重要な役職となり,北条氏一門の有力者が任命された④。探題は尾張より西の
西国御家人を統轄し,幕府と連絡をとりながら西国の行政・司法をとりあつかった。

③ 義時は,短期決戦策をとり,長男の泰時を大将,弟の時房を副将として,東海・東山・北陸の 3 道から大軍を
京都に進ませた。
④ 六波羅探題は通常 2 名であったが,1 名のこともあった。

●執権政治の確立
 1225(嘉禄元)年,3 代執権北条泰時は,執権を補佐する連署を設置し,ついで,御家人のなかから評定衆
十余名を選び,執権,連署を加えた合議(評定)により,政治の決定と裁判の判決を行った。合議における判
断の基準としては,頼朝以来の先例と武家社会の慣習とが重んじられた。
 1232(貞永元)年,泰時はこれらの基準を成文化して,最初の武家法典である貞永式目(御成敗式目)51 か
条を制定した。この法令は,幕府の勢力範囲でのみ用いられた①。だが,幕府の力が強くなるにつれ,その内
容は全国に知られていった。他者の意見や客観的な法典を尊重する泰時の政治姿勢は御家人に支持され,ここ
に執権政治が確立した。
 1249(建長元)年,5 代執権北条時頼は裁判を公平かつ迅速に進めるため,引付衆②を設けた。これによっ
て幕府の裁判制度は完成し,この制度と式目は,のちの室町幕府にもひきつがれていった。また,時頼のころ
からは,北条氏の本家(得宗)の勢いが特に強くなった。

① 朝廷の支配下では律令の系統をひく公家法が,荘園領主の支配下ではその地に根ざした本所法が,依然として
効力をもっていた。
② 評定衆の評定に先立って,引付衆が細部の審理にあたった。

〈史料〉貞永式目
一、諸国守護人奉行の事①
右、右大将家(源頼朝)の御時定め置かるる所は②、大番催促、謀叛・殺害人 付たり、夜討、強盗、山賊、
海賊 等の事なり。……(第三条)
一、諸国地頭、年貢所当(年貢と雑税)を抑留せしむる事……(第五条)
一、国司領家の成敗(訴訟の採決)は、関東(幕府)御口入③に及ばざる事
右、国衙庄園神社仏寺領、本所の進止④たり。沙汰(訴訟)出来に於ては、今更御口入に及ばず。……(第六
条)
一、女人養子の事
右、法意(律令の解釈)の如くばこれを許さずと雖も、右大将家の御時以来当世に至るまで、其の子無きの女
人等、所領を養子に譲り与ふる事、不易の法勝計すべからず⑤。加之、都鄙(一般)の例、先蹤(先例)惟れ
多し。評議の処もっとも信用に足るか。(第二十三条)

① 守護が職務として行うべきこと
② この条文が頼朝時代の先例によることを示す
③ 幕府が介入すること
④ 強力な支配権
⑤ 先例は数えきれない

●武士の土地支配
 地頭の収入はその土地の慣例によっていたが,新補率法という基準によって,おおよそは定められていた③。
しかし,地頭のなかには国衙や領主におさめるべき年貢を横領したり,荘園領主の代官④を追放したりする者
があらわれ,荘園領主や農民が地頭の不法を幕府に訴えても,なかなか解決しなかった。
 地頭の荘園侵略がはげしくなると,荘園領主は地頭に現地の管理を一任し,そのかわりに一定額の年貢の納
入を義務づける契約(地頭請)を結んだ。また,地頭が実力で荘園全部を支配してしまうのを防ぐため,荘園
を分割して片方を地頭の支配に任せ,たがいに干渉せずに土地と農民とを支配する契約(下地中分)を結んだ。
 幕府も,荘園領主が地頭の横暴を訴えると,下地中分をすすめるようになった。こうした地頭請や下地中分
が行われることにより,地頭は,現地を支配する在地領主としての性格をいっそう強くしていった。

③ 田畠 11 町ごとに 1 町ずつを地頭の収入とする,田畠 1 段ごとに米 5 升ずつを加徴米として徴収する,山野や


河海からの収益は半分をえる,というものであった。
④ 貴族や大寺社などの荘園領主は、役人である代官を現地に派遣し,支配を行っていた。

〈コラム〉地頭の横暴
 1275(建治元)年に紀伊国(和歌山県)の阿氐河荘上村の百姓たちが,地頭(湯浅宗親)の数々の非法を,
13 か条にわたって訴えた訴状の一部である。このなかで百姓たちは,地頭が「妻たちを牢にいれるぞ,耳を切
るぞ,鼻を削ぐぞ,髪を切って尼のようにするぞ,縄でしばって痛めつけるぞ」と責め立てる,と訴えており,
地頭の横暴を生々しく伝えている。また,当時の有力農民たちが,かな文字を使っていたこともわかる。

阿テ河ノ上村百姓ラツゝシテ言上
一、ヲンサイモクノコト①、アルイワチトウノキヤウシヤウ②、アルイワチカフト③マウシ、カクノコトクノ
人フヲ、チトウノカタエセメツカワレ候ヘハ、ヲマヒマ候ワス候④。ソノノコリ、ワツカニモレノコリテ候人
フヲ、サイモクノヤマイタシエイテタテ候エハ⑤、テウマウノアトノムキマケト候テ⑥、ヲイモトシ候イヌ。
ヲレラカ(お前らが)コノムキマカヌモノナラハ、メコトモヲヲイコメ、ミゝヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキ
リテアマニナシテ、ナワホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ、セメセンカウセラレ候アイタ⑦、ヲンサイモ
クイヨイヨヲソナワリ候イヌ⑧。ソノウエ、百姓ノサイケイチウ⑨、チトウトノエコホチトリ⑩候イヌ。
ケンチカンネン十月廿八日 百姓ラカ上 (高野山文書)

① 荘園領主におさめる年貢の材木
②③ いずれも百姓の夫役の一種
④ まったく暇がない
⑤ 残った百姓を材木の切り出しに山へ行かせること
⑥ 逃亡した百姓の耕地に麦の種をまく
⑦ 縄でしばって拷問するぞとおどされるので
⑧ おくれてしまう
⑨ 逃亡した百姓の家一軒
⑩ 壊してもっていく

〈問い〉最初の武家法である貞永式目(御成敗式目)は,なぜ制定されたのだろうか。

p.74-77
5 元寇と社会の変貌

●モンゴル帝国
 10 世紀ごろから,中国大陸北方の遊牧狩猟民族の活動が活発になっていった。内蒙古の契丹がリョウという国
を建て,ついで北満州の女真が金を建国し,さらにモンゴル帝国が出現する①。
 1125 年にリョウをほろぼした金は,つづいて 1127 年,南下して宋の都開封を占領した。宋は江南にのがれて
臨安を都とした(南宋)。日本とのあいだに正式な国交は開かれなかったが,南宋との私貿易は平安時代末期
からさかんに行われた②。大量の宋銭が日本にもたらされ,それによって貨幣経済が国内各地に急速に浸透し
ていった。
 モンゴル部族のテムジンは,1206 年に帝位についてチンギス・ハンを称した。モンゴルは急速に勢力を拡大
し,中央アジアから北西インド,南ロシアにまたがる広大な帝国をつくった。東方では 1234 年に金をほろぼし,
高麗に出兵した。西方ではポーランドとドイツの連合軍を打ちやぶり,帝国の西半分はいくつかの国に分かれ
た。
 チンギス・ハンの孫にあたる 5 代目のフビライ・ハンは,都を大都(北京)に移し,1271 年に国号を元と称
した。フビライは,南宋の討滅をおしすすめ,南宋と通商関係をもつ地域(カンボジア,ミャンマーなど)を
支配下に置き,日本にも国書を送ってきた。

① 彼らの成長の要因の一つは,新たな製鉄技術の獲得にあった。鉄の生産力の増大は,優秀な武器や蹄鉄をもた
らした。
② 南宋から輸入された品は,陶磁器,絹織物,香料,薬品,書籍,銭などだった。香料,薬品は東南アジア原産
の品で,南宋を経由して流入していた。日本はアジアの通商圏に組みこまれていたのである。

●元寇
 1268(文永 5)年,フビライは日本に朝貢を求めてきたが,幕府は返書を送らないことに決め,8 代執権北
条時宗は「蒙古への用心」を指令した。フビライは,ふたたび国書と使者を送ってきたが,時宗はこうした元
の動きを黙殺した。
 1274(文永 11)年 10 月,元兵 2 万と高麗兵 1 万が対馬・壱岐・松浦をおそい,博多湾に侵入した。幕府は
九州の御家人たちを動員して,これを迎え討った。御家人たちは,元軍の集団戦法③に苦戦しながらも,多く
の損害をあたえ,そのため元軍は退却した(文永の役)。
 翌 1275(建治元)年もフビライは使者を送ってきたが,時宗は使者を鎌倉で斬り,異国警固番役④を設け,
博多湾沿いには石造の防塁を構築するなどして元の襲来に備えた。また,荘園領主にしたがう,御家人でない
武士も幕府の指揮下に置いた。
 南宋をほろぼしたフビライは,1281(弘安 4)年に 14 万の兵力による 2 度目の日本遠征軍を送った。しかし,
武士たちの奮戦によって上陸は阻止された。さらに海上に停泊している元軍を暴風雨がおそい,元船の大半は
しずみ,兵たちの多くが溺死した。これを弘安の役といい,2 度の襲来をあわせて元寇という。
 元軍には,モンゴルに降伏した高麗人⑤や南宋の人がふくまれていた。彼らの士気は低く,それが戦闘に大
きな影響をあたえた。フビライは第 3 回の遠征も計画したが,元の支配に対する中国民衆の反乱や,コーチ
(ベトナム)の抵抗があって,これが実現することはなかった。

③「てつはう」とよばれる火器も用いられた。
④ 博多湾岸などを御家人に警備させるもの。
⑤ 高麗人は高麗本土でもねばり強く元に抵抗していた。

●農業と商品流通の発達
 武士が所領経営に力をいれたため,この時代は農業技術が進歩した。肥料①が利用され,畿内や中国地方で
は,二毛作②も行われた。鉄を使った農耕具③が発達し,牛馬も農耕に使われ,能率をあげた。
 また,鎌倉中期になると,生産力の向上にともなって,名主に隷属していた下人のなかから小農民に,さら
に小農民のなかから名主に成長する者があらわれた。
 農業や手工業の技術が進歩すると,生産物が商品として売買されて商業が発達し,交通の便利なところや寺
社の門前などには市が立った。鎌倉中期以後は,月 3 回の定期市(三斎市)も開かれた。
 平安末期以来,商工業者は同業者同士で座を結成し,朝廷や荘園領主の保護を受け,仕入れ・製造・販売の
独占権を認められて,各地で活躍した。
 年貢の納入や商取り引きには,中国の銭(宋銭・元銭)が用いられた。さらに貨幣の流通にともない,はな
れた土地での決済のためには為替④が使われるようになり,銭を貸して利子をとる専門の金融業者(借上)が
あらわれた。水運の発達によって,港町が発達し,問(問丸)とよばれる運送業者も生まれた。

① 刈敷・草木灰・厩肥などが用いられた。
② 稲の裏作として麦を植えて,年に 2 回耕作をした。
③ 鋤・鍬・犂・馬鍬などがこれにあたる。
④ 遠隔地間の代金決済の方法。金銭輸送を手形で代用する制度。

●御家人社会の変化
 御家人の家では,子どもたちが親の所領を分割して受けつぐ,分割相続が行われていた。しかし,鎌倉後期
になると,家督をついだ嫡子が,所領をまとめて単独相続するようになった⑤。このため,庶子のなかには嫡
子の家来になるほか,独立して本家からはなれていく者も出るようになった。これによって,血縁ではなく地
縁で結びつく,新しい武士団が生まれた。
 また,元軍と戦った武士は,重い負担にもかかわらず,じゅうぶんな恩賞をもらえず苦しんだ。小さな所領
の武士のなかには,所領を質にいれたり売ったりする者があらわれるようになった。幕府は,困窮した御家人
を救済するために,1297(永仁 5)年に徳政令を出し,質入れや売却した所領は,無償で御家人にかえすよう
命じた。
 元寇前後から,幕府内では得宗の力が格段に強くなった。得宗家の家臣(御内人)が幕府の政治を動かし,
評定衆による合議は中身を失ったため,幕府は御家人から批判を受けるようになった。
 一方朝廷では,13 世紀末に天皇家が持明院統と大覚寺統⑥とに分かれ,対立するようになった。両統は,幕
府を味方につけようとはたらきかけたため,朝廷に対する幕府の影響力は増大していった。

⑤ 分割相続では,代を重ねると,所領が小さくなりすぎたためである。
⑥ 後嵯峨天皇の皇子の後深草天皇系が持明院統,亀山天皇系が大覚寺統。

〈史料〉御家人の救済(永仁の徳政令)
関東御事書の法①
永仁五(一二九七)年三月六日
一、質券・売買地②の事、
 右、地頭御家人の買得地に於ては、本条③を守り、廿箇年を過ぎれば、本主(もとの持ち主)、取返すに及
ばず。非御家人並びに凡下の輩(庶民)の買得地に至りては、年紀の遠近を謂はず④、本主、これを取返すべ
し。
(東寺百合文書)
① 六波羅探題へ通達された鎌倉幕府の箇条書きの法
② 質入れ、および売買された土地
③ 貞永式目。第八条に、二十箇年の年紀(年紀法)が規定されている
④ 経過した年数に関係なく

〈コラム〉悪党
 13 世紀なかごろから,実力をたくわえた名主層のなかに,荘園領主や地頭の支配をはなれて,小作人に土地
を貸し,武士化して地侍になる者があらわれてきた。領地を失った御家人や,荘園領主に仕える非御家人,そ
れにこうした地侍などが徒党を組み,50 騎,100 騎で行動する大きな武力集団となることがあった。彼らは年
貢の納入をこばむだけでなく,武装して荘園に乱入したので,悪党とよばれ,おそれられた。悪党の活動は,
畿内を中心として全国へと広がっていった。なかでも,鎌倉幕府と戦った楠木正成は有名であるが,南北朝の
内乱に参加した者ばかりでなく,のちには,守護大名の家臣になる者もあった。

〈問い〉鎌倉時代後期,御家人の社会はどのように変化したのか。

p.78-80
6 鎌倉の仏教と文化

●新しい仏教
 保元の乱以降の戦乱や飢饉に苦しんだ人々は,心のささえをえたいと願った。そして,人々の願いにこたえ,
これまでのような戒律や学問を中心とした仏教にかわって内面的な信仰を重視した,新しい仏教(鎌倉仏教)
がおこった①。
 鎌倉初期,法然(源空)は,浄土の教えを発展させて,一心に念仏(南無阿弥陀仏)をとなえれば,阿弥陀
仏の極楽浄土に往生できると説いた(浄土宗)。法然の教えは,貴族から庶民まで,広く信仰された。弟子の
一人親鸞は,阿弥陀如来の救いを信じる心を強調し,悪人正機説②を説いて東国の武士や農民に受けいれられ
た(浄土真宗,または一向宗)。鎌倉中期に,一遍(智真,法然の孫弟子に学ぶ)は,諸国を遊行しながら,
踊念仏③を通じて民衆や武士に教えを広めた(時宗)。
 元寇のころ活躍した日レンは,天台宗の根本教典である法華経には,釈迦の最もすぐれた教えが説かれている
とし,法華経にすがって題目(南無妙法レン華経)をとなえることで救いがもたらされると説いた(法華宗,ま
たは日レン宗)。
 宋に渡った栄西は,帰国して禅の教えを紹介した。それは,坐禅を組んで精神統一をはかり,自らの力で悟
りをえようとするものであった。禅はその後,おもに上流武士のあいだに広まった(臨済宗)。また,道元も
禅を学ぶために宋に渡り,独自の悟りの境地を開き,帰国後は都をはなれ,地方武士に教えを広めた(曹洞
宗)。
 朝廷に学んで伝統仏教(天台宗・真言宗)を受容していた鎌倉幕府は,やがて臨済宗を手厚く保護するよう
になる。鎌倉には南宋の僧侶がまねかれ,建長寺・円覚寺などの大寺院が建てられた。彼らは大陸の文化も日
本に紹介した④。

① これらの多くは,たくさんの教理ではなく一つを,自分の力(自力)ではなく絶対者への帰依(他力)を,困
難な修行(苦行)ではなくやさしい修行(易行)を,と人々にすすめた。
② 煩悩を捨てきれない悪人こそ,仏が救おうとする人間であるとするもの。
③ 阿弥陀仏に救われる喜びを,踊りによってあらわそうとした。
④ 封建社会の基本思想となった朱子学(宋学)や,喫茶の風習も,僧侶によって伝えられた。

●伝統的な仏教
 一方朝廷では,依然として天台宗・真言宗が権威を保っていた。皇族や貴族出身の両宗の僧侶は高い地位⑤
をさずけられ,両宗の寺院は多くの荘園をもち,経済的にも富裕であった。
 南都の諸宗のなかからは,宗派の改革をめざす動きも生まれてきた。華厳宗の高弁(明恵)は東大寺を出て
京都栂尾に高山寺を建て,法相宗の貞慶(解脱)は興福寺から山城の笠置山に移住した。両者はともに戒律を
重んじ,南都仏教の刷新につとめた。西大寺の叡尊(思円)は戒律の尊重を説き,律宗を再興した。また,叡
尊と弟子の忍性(良観)は,貧しい人々や病人の救済,架橋工事などの社会事業にも尽力した。忍性は奈良に
病人救済施設の北山十八間戸を,鎌倉に悲田院をつくった。
 古来の神々に対する信仰では,神仏習合が深まる一方で,独自の宗教として,神道の教理をつくろうとする
動きがあらわれてきた(伊勢神道)。

⑤ 僧正や,僧都などがあった。
●建築工芸の新傾向
 寺院建築や陶器など,各方面に宋の文化の影響があらわれた。建築では,僧重源が宋の建築技術をとりいれ
て,東大寺の再建を進めた。また,鎌倉中期以降,禅宗がさかんになると,宋の禅宗寺院の建築様式が伝えら
れ,伝統的な和様建築様式にも影響をあたえた。
 新しい時代の精神を反映して,写実性と躍動的な力強さにみちた仏像彫刻が,運慶とその弟子快慶らによっ
てつくられた。武家社会の到来とともに,甲冑や刀剣に名工があらわれて優秀な作品をつくり,日宋貿易の重
要な輸出品ともなった。また,宋のすぐれた製陶技術の影響を受けて,尾張で瀬戸焼が始められた。

●文化の新気運
 鎌倉時代,伝統文化の担い手は貴族や伝統寺院であった。しかし武士も,大番役などで上京した機会に伝統
文化にふれ,これを地方に伝えていった。
 和歌では,後鳥羽上皇を中心に『新古今和歌集』が編集され,藤原定家らが技巧をこらした歌風(新古今
調)をつくった。貴族文化にあこがれた将軍源実朝は,『金槐和歌集』を残した。随筆としては,世俗をする
どくみつめた鴨長明の『方丈記』や吉田兼好の『徒然草』がある。天台座主慈円の『愚管抄』は,武家政治の
出現を肯定した歴史論である。
 軍記物は,簡潔な文体で,戦乱における武士の活躍をえがいた。仏教の無常観を基調にして,平氏の興亡を
えがいた『平家物語』は中世文学を代表する傑作で,琵琶法師によって語り伝えられた。
 戦乱で失われる文化を惜しみ,これを保存しようとする気運が貴族のあいだで高まり,古典の書写や朝廷の
儀式・先例(有職故実)の研究がさかんになった。また,金沢文庫①にみられるように,武士のあいだにも学
問を尊重する気運が生まれた。
 絵巻物もさかんにつくられた②。大和絵でえがいた似絵(肖像画)には藤原隆信・信実父子による名品があ
る。また,写実を尊ぶ頂相③にも,名作が多い。尊円法親王によって大成された青レン院流の書道は,江戸時代
の御家流書道の起源となった。

① 金沢(北条)実時が多くの書籍を書写して集めたもので,横浜市にある。
② 寺社の縁起や,戦乱に題材をとったものが多くかかれた。
③ 禅僧が尊敬する師の僧の肖像画をかかせた。

〈問い〉鎌倉時代に仏教の新たな宗派がおこったのは,なぜだろうか。

p.81
〈歴史を探る〉東大寺再建と重源
◆東大寺の焼失と勧進上人・重源
 1180(治承 4)年,南都の僧兵の鎮圧にあたった平重衡は,東大寺や興福寺を焼いた。焼失したこれらの寺
院の再建は,当初ほとんど不可能にみえた。
 しかし焼失の翌年,造寺にあたる勧進職がおかれ,法然らの推薦で僧の重源がこれに任命された。源頼朝も
ばく大な米と砂金を送って,重源を支援した。また重源は,奥州藤原氏の一族にあたる僧の西行を派遣して,
藤原秀衡からの支援もえたという。

◆大仏の修造と大仏殿の造営
 損傷のはなはだしい大仏の修理には,重源に来日を要請された宋の工人・陳和卿らがあたった。中国に渡る
こと 3 度といわれる重源は,すぐれた大陸の技術をよく知っていた。大仏の開眼供養は 1185(文治元)年に行
われた。運慶・快慶とその一門(慶派)は,写実性と躍動的な力強さにみちた仏像をつぎつぎと作成し,重源
の事業を助けた。
 後白河法皇が周防国を造営料所にあてると,重源は建築資材を求めて同国をたずね,この国の巨木を使って
大仏殿を再建した。1195(建久 6)年の落成供養には,頼朝も妻政子とともに参列した。
 建築の技法は,堅牢で質実なものが採用された。1203(建仁 3)年に完成した南大門にみられるこの技法は,
大仏様とよばれる宋の様式であった。伊行末らの宋の石工も,再建事業に活躍した。

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