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5.18 世紀初頭ロシアの強制的正教改宗政策
背景:17 世紀末からのロシアの近代化 ピョートル大帝の即位、中央集権の促進
→現実的な必要のために宗教的な必要性を犠牲にする時期の終焉→征服地の同化へ
1710 年代:改宗を拒否する軍務タタールに対するさらに徹底した領地没収令
軍務タタールの新しい義務として森林伐採→海軍の創設、新しい町や要塞の建設
軍務タタールからの人頭税の徴収→領地没収と合わせて貴族的な特権の剥奪
6.18世紀ロシアにおける正教宣教
1730 年代から大規模な一般住民に対する改宗政策:沿ヴォルガ地方を対象
*1731 年カザンのすぐ北側のスヴィヤシスクに新受洗者事務所の設立
褒賞金と免税によって正教受容を迫る
1742 年 沿ヴォルガ地方のモスク破壊令
*正教化政策実行時の正教会と地方行政府との対立
⇒アニミストによる正教受容の一方、ムスリムの改宗者は少数
*1743 年から 1749 年まで 278,283 人の新受洗者のうち、タタール人は 4067 人
*バシキール人の特殊な地位
7.タタール人の東方移住
1552 年のカザン征服直後から沿ヴォルガ地方に大量のロシア人の流入
⇒1710 年には沿ヴォルガ地方のロシア人と非ロシア人の人口はほぼ同数
1747 年にはカザン県の全住民のうち、非ロシア人は 30%を下回る
⇐タタール人、チュヴァシ人、チェレミス人等のウラル地域への移住
18 世紀の最初の 15 年間に沿ヴォルガ地方では諸税の負担が 2 倍から 3 倍に跳ね上がる
→さらなる人口流出
18 世紀初頭の南ウラル:タタール人の人口は 8.7%
→1745 年には 20%まで増加
⇒南ウラル地方におけるイスラームの影響の強化、バシキール人の「再イスラーム化」
1
8.オレンブルクの建設とタタール商人
ピョートル 1 世の東方への関心
ex. ヒヴァにベコヴィチ・チェルカスキーを派遣、イランの領地の一部を占領
「ピョートルの巣の雛たち」イヴァン・キリーロフによるオレンブルク建設計画
ロシアの東部地域開発と東方諸国との貿易の拠点
→移住者を集めるのが困難→移住者への特権の付与
☆タタール人商人の村カルガル(カルガラ)をオレンブルク近郊に設立
→カザフ人との交易
中央アジア商人とロシア商人との仲介役
中央アジアへのキャラバン貿易
*東方諸国での貿易では、ムスリムのタタール人がロシア人商人より圧倒的に有利
(言語、関税率)
★1745 年のカルガル成立と同時に石造モスクの建設が許可される
⇔沿ヴォルガ地方でのモスク破壊令
⇒カルガルはイスラーム教育の中心的な存在に
○ロシア帝国における地域間の政策の違いが明らかに
宇山智彦「個別主義の帝国」 ロマニエッロ「とらえどころのない帝国」
参考文献
宇山智彦「「個別主義の帝国」ロシアの中央アジア政策 : 正教化と 兵役の問題を中心に 」『スラヴ研究』53,
pp. 27-59, 2006 年
土肥恒之『ピョートル大帝:西欧に憑かれたツァーリ』世界史リブレット人 57、山川出版社、2013 年
Matthew P. Romaniello, The Elusive Empire. Kazan and the Creation of Russia, 1552-1671. Madison : The
エカチェリーナ 2 世のムスリム政策
1.宗教的寛容の復活
2
エカチェリーナ 2 世:1762 年即位 フランスの啓蒙主義思想家ヴォルテールの感化を受けた
啓蒙専制君主。ヴォルテールと同様、イスラームを進んだ啓示宗教として評価。
宗教的寛容政策の目的:ロシア領内のムスリムの地位に関心をもつオスマン帝国に配慮、ま
た、東方領土の安定と東方貿易の侵攻とをはかる見地から。
●正教宣教活動の中止:1764 年 新受洗者事務所廃止
1789 年 緩やかに続いていた正教宣教活動が南ウラル地域での蜂起の兆しをきっかけに
禁止
1800 年 非ロシア人新受洗者学校の閉鎖→宣教活動の終了
●宗教寛容令(1773 年)→非正教徒の宗教施設の建設を許可
「至高至善の神が地上においてあらゆる信仰、言語、宗教を許したように、女帝陛下も至
聖の神の意志に従い、このような原則で行動なさる。女帝陛下の臣民の間に永遠に愛
と同和が支配するようにと願ってのことである。」
→官製モスクの建築 ウファとトボリスクの選ばれた場所に官製モスクを 4 年の間に作るよう
命令。2 万ルーブルの予算。オレンブルク防衛線、シベリア防衛線にも(1783 年)
●タタール貴族にロシア貴族と同様の特権を認める(1784 年)
「タタール人の出自の、いわゆる公とミールザー kniazi i murzy のすべては、祖先から
受け継いだいかなる信仰を奉じていようとも、不動産に対して与えられた君主の証書や
それに類する、自分の高貴な出自を証明する文書を、自分がその家系から生まれたと
いうはっきりした証拠とともに提出すれば、もとの状態に復せられる… .[中略]…ただし、
キリストの信仰を奉じる農奴や家人を購入・獲得・所有する権利は除外する。朕の帝国
においてはキリスト教徒に非ずば何人もこの権利を行使することはできない。」
←伝統的な政策である非正教徒による正教徒従僕所有制限は継続
2.クリミア・ハン国併合
第一次露土戦争(1768-74)→1774 年 キュチュク・カイナルジャ条約
・オスマン帝国はロシアのツァーリによるオスマン帝国内のギリシア正教徒への庇護権を認め
る
→その後、ロシアがオスマン帝国の内政に干渉するときの口実として利用
・黒海の制海権も事実上手放す
・クリミア・ハン国に対する政治的保護権の放棄
⇒1783 年 ロシア帝国によるクリミア併合
旧クリミア・ハン国領のムスリムに信仰の自由を認める。宗教指導者の存在も認められた
*ロシア人の入植の開始→クリミア・タタール人は沿ヴォルガ・ウラル地方のように、ロシア国
内に移住するのではなく、オスマン帝国に大量に移住
3.ムスリム宗務協議会の設立
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1788 年に創設が決定
・ロシア領内のムスリム共同体をイスラームの宗教者を通して統合するはじめての合法的
な組織
・オスマン帝国の制度を参考に作られた。クリミアでの経験を生かす。
宗務協議会の業務:イマームなどのムスリム聖職者の資格審査と監督、モスクの建設や修理、
戸籍の管理、イスラーム法による裁判業務
⇒ロシア・ムスリムの社会は、シャリーアが執行される「イスラームの家」
構成員:ムフティー(協議会議長)が 3 人にカーディー(委員)により補佐されて機能
*ムフティーは政府により選出。カーディーの選出はカザンの市会に委ねられた
*議長を選ぶ基準:ロシア政府に対する忠誠
設置場所:南ウラル地方にあるウファ
*なぜウファに設置?
管轄範囲:当初はクリミア半島を除く当時の帝国全域のムスリム聖職者を管轄
ムスリム地域にロシア正教会の教区にならって金曜モスクを中心とする教区(マハッラ)設
定
各教区のイマームを協議会が監督
*1831 年にタヴリダ宗務協議会が設置。1872 年にグルジアのトビリシにザカフカース・ム
スリム宗務理事会が開設。
⇒ソ連時代を経て現在も中央ユーラシア各地で機能
4.中央アジアとの絆
エカチェリーナ 2 世によるタタール人の利用:東方との貿易とカザフ人の文明化
タタール人による東方貿易:1743 年のオレンブルク創設がロシアの東方貿易を活性化
ロシア政府は東方貿易にタタール人を利用。
カルガル(セイトフスキー・ポサード)の創設。
アストラハン経由の貿易が低迷
→中央アジアとの貿易がオレンブルクを中心としたものに移っていく
*すでに 1750 年代には中央アジアとオレンブルクの間でタタール人の隊商が行き来
★エカチェリーナ 2 世時代以降、タタール人はロシア政府と一層緊密な協力関係に入り、ロシ
ア・中央アジア貿易を活発化させる。
→オレンブルク・中央アジア貿易路によるムスリム知識人の往来
→沿ヴォルガ・ウラル地方のイスラーム復興
カザフとの関係:
・国境地域でのモスクの建設の奨励
・カザフ人のためのコーランの出版が国費で賄われる
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←イスラームをカザフ人を通じて文明化。ロシアの文明を広める役割
・カザフに、カザン県のムッラーの供給を決定(1787 年)
「彼ら(カザフの小ジュズのスルタンやその他の指導者)の必要とする数のムッラーを、カザン
県の、行動が立派で、忠誠が確かな人々の中から、カザン県の総督に諮った上で供給するこ
と」
←タタール人の宗教者には「無知蒙昧な遊牧民」にロシア臣民としての意識を扶植する
役割が期待された。
*タタール人のロシアの東方進出の先兵としての役割 中央アジアに赴いて様々な情報をロ
シア政府に提供
参考文献
田中良英『エカチェリーナ 2 世とその時代』(ユーラシア・ブックレット)東洋書店、2009 年
長縄宜博「ロシア帝国のムスリムにとっての制度・地域・越境:タタール人の場合」宇山智彦編『地域認識論:多民
族空間の構造と表象』(講座スラヴ・ユーラシア学2)講談社、2010 年
長縄宜博「近代帝国の統治とイスラームの相互連関:ロシア帝国の場合」秋田茂他編『グローバルヒストリーと帝
国』大阪大学出版会