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世界史基礎講読(渡辺健哉)                  2021/05/07

第5回:近世中国の食事

【1】近世中国とは?
(1)中国史の時代区分(王朝史ではなく、「時代を形成する内容」〈内藤湖南〉
で把握)
時代区分:古代 →→ 中世 →→近世 →→近代
・古代(春秋・戦国時代~漢代)
・中世(魏晋南北朝時代~唐末五代)
・近世(宋~清〈アヘン戦争〉)
・近代(アヘン戦争以降~)

ここでは、宋代~清代を近世とする。とくにまん中のモンゴル時代に注目。

【2】中国の北と南(華北と江南)
(1)地理的概観
北:黄河流域 乾燥地帯 麦
→→淮水を境に
南:長江流域 多雨、南にいくと高温多雨 米

(2)北からの襲来(遊牧民族の興起)
過酷な北の環境。畑作一本に頼る生産様式→→不安定要因→→流民の発生、その
南下現象→→江南の開発の進展

一方で、北方遊牧民族(モンゴル系・チベット系の異民族)の保護下に逃れる者
も。

(3)中国の北と南(文化面)
春秋戦国期:華北に文武両道に秀でた人物:孔子・孟子・老子・荘子
ところが、華北の人が南に流れると、その重心は南へ。この傾向は現在まで続く。

一例としての科挙合格者
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明代の科挙で洪武4年(1371)~万暦 44 年(1616)のトップ合格者(244 人)の出
身地=南:207 人、北:29 人

(4)中国の北と南(社会経済面)
江南の開発によって、江南は大穀倉地帯へ→収穫された一部は華北へ

【3】麦を食べる
(1)粒食=初めは粒食だった
一般に五穀( 稲 ・ キビ ・ アワ ・ 麦 ・ 豆 ) たとえば、お粥

(2)粉食の登場
「餅」:麦粉を原料とした食品の総称(餅、麪、饅頭)
「餌」:麦以外の穀粉を原料とした食品

「胡餅」:薄くて丸いパン。後漢の劉熙『釈名』巻4に「胡餅…餅、并也。胡餅言
以胡麻著上也。」→現代中国の「芝麻焼餅」

【4】元代=モンゴル時代の食事――『居家必要事類全集』より
(1)モンゴル時代の概論

1 チンギス・カンの登場

 9世紀半ば、遊牧国家ウイグルが崩壊したのち、モンゴル高原では、350 年以上の
長きにわたって統一政権不在の状態が続いていた。そうした混乱のなか、 12 世紀末
から 13 世紀初頭にかけて、モンゴル部族のテムジンが頭角を現し、有力部族を次々
と平らげ、モンゴル高原の統一を果たす。1206 年春、テムジンはオノン河上流の草
原で即位式を挙げ、チンギス・カンと名乗り、国名をモンゴル語で「イェケ・モン
ゴル・ウルス」、すなわち「大モンゴル国」とした。ここにモンゴル帝国が始まる。
 1211 年、チンギス・カン率いるモンゴル軍は金朝への遠征を開始し、金の都であ
る中都(現在の北京)を攻囲した。1214 年春、モンゴル軍は金朝政府に「城下の

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盟」を求めた。金朝側から、莫大な金・銀・財物の提供と、公主(皇女)を人質と
して差し出すことを条件として、モンゴル軍はいったん撤退した。
 ところが、金朝政府は、モンゴルが退くと都を黄河以南の開封に移した。こうし
た金側の行動を背信行為とみなしたチンギス・カンは、契丹を中心とした部隊を再
度派遣し、1215 年 5 月、中都を陥落させた。これによって、黄河以北は、モンゴル
軍と河南から出撃してくる金朝軍との小競り合いが続く、いわば無政府状態におち
いった。
 一方、1218 年、政治的混乱が続いていた西遼(カラ・キタイ)を滅ぼし、中央ア
ジア東部を制圧したチンギス・カンは、さらに翌年、中央アジア西部を支配するホ
ラズム(・シャー)王国への遠征を開始する。
 1226 年、モンゴルヘ帰還したチンギス・カンは西夏に対して自ら軍を率い、1226
年から翌年にかけて、西夏の主要都市を次々と陥落させていったが、1227 年夏、西
夏滅亡の直前、チンギス・カンは六盤山の野営地で急逝した。こののち、チンギ
ス・カンの息子たちが西夏を降し、河西地方(現在の甘粛省)までを掌握する。

2、オゴデイの時代(1229~1241)

 チンギス・カンの死後、その後継者の選定をめぐって大いに紛糾したが、1229 年
になって、オゴデイが即位した。
 オゴデイは、チンギス・カンがやり残した金朝征討に着手する。1234 年、ついに
金朝は滅亡し、モンゴルは華北全域を手中に収めた。翌年にはモンゴル高原の中央
部にカラコルムが建設され、国都としての威容をユーラシアに誇示することとなる。

3、グユクからモンケヘ(1246~1259)

 オゴデイの死後、彼の皇后であったドレゲネが権力を掌握した。彼女の主導のも
と、オゴデイ家とチャガタイ家の諸王はドレゲネの子グユク(1206~1248)を擁立
する。しかし、チンギスの孫世代の実力者バトゥは、グユクの即位に難色を示して
いた。グユクは、バトゥの西征に従った際、バトゥといさかいをおこし、父オゴデ
イに召還を命じられた人物であった。バトゥは、同じく西征に従い、親交の深かっ
たトルイの長子モンケ(1209~1259)を推したが、1246 年、ドレゲネは、グユクの

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即位を強引に決めた。オゴデイの死からすでに 5 年近くがたっていた。
 1248 年、グユクは即位から 2 年足らずで他界し、後継者選定のクリルタイ(モン
ゴル語で「集会」を意味する)は再び紛糾したが、1251 年、バトゥの支持を得たモ
ンケの即位が決まった。
 モンケは即位後、実弟クビライを中国へ、3 番目の弟フレグをイランヘ派遣し、帝
国のさらなる拡大を目指す。クビライに託されたのは、オゴデイ時代に失敗に終
わった南宋攻略であった。彼は正面から南宋を攻略するのを避け、南宋の背後に位
置する雲南地方の大理国に軍を進めていった。クビライ軍は西から迂回し、東チ
ベットを通って雲南に向かい、1253 年冬、大理国を滅ぼした。これにより、クビラ
イはチベットとともに、銀をはじめとする鉱山資源が豊富な雲南地方を手中に収め
た。南宋攻撃の戦略的な拠点とともに経済的基盤を獲得したことは、中国支配を目
指すクビライにとって重要な意味を持つことになる。
 その後、クビライは、副将ウリャンカダイに雲南周辺の経略を任せ、開平府(内
モンゴル自治区正藍旗)に帰還した。しかしながら、南宋攻略を急ぐモンケと、長
期戦に備えたクビライとで方針が対立し、二人の間には徐々に溝が深まっていく。
そのため、モンケはいったんクビライを南宋との戦いからはずし、その代役にチン
ギス諸弟の東方三王家の盟主、オッチギン家の当主タガチャルをあて、さらに自ら
の出陣を決意した。しかし、そのタガチャルがわずか一週間で襄陽の攻略をあきら
めて撤退してしまったため、再びクビライを起用することになった。
 クビライが遠征軍の編成に手間どっているあいだ、四川に進んだモンケの本隊だ
けが前線に突出する形となった。1259 年夏、釣魚山の陣営内で発生した疫病が兵士
の命を次々と奪っていくなか、ついにはモンケも陣中で急逝する。

4、クビライ政権の誕生

 モンケは親征にあたって、末弟アリク・ブケに留守を預けていた。そのため次の
帝位を選ぶクリルタイはアリク・ブケの名で召集された。モンケ政府中枢の人々に
とって、モンケと対立していたクビライの即位は自らの立場を危うくしかねず、か
れらがアリク・ブケを後継者として推すのは必然であった。一方で、長江中流域の
鄂州で南宋軍と対峙していたクビライのもとにモンケ急死の報せが届いたものの、
状況を慎重に見極めるべく、その地にとどまった。

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 そののちクビライは南宋軍と和議を結び、雲南から北上してきたウリャンカダイ
軍と合流し、ともに中都に向かった。クビライは中都近郊で冬を過ごしながら、各
地の勢力が自派に合流するのを待っていた。そして 1260 年 3 月、開平府で自派だけ
のクリルタイを開催し、6 月になって即位を宣言し、「中統」という元号を制定した。
一方、アリク・ブケ側も翌月に即位を宣言したため、二人のカアンが並び立つこと
になる。
 名目上の正当性はアリク・ブケにある。しかし、モンゴル帝国東方の二大勢力と
もいえる、タガチャル率いる東方三王家と左翼五投下などを味方に付け、さらには
中国からの物資の補給路を押さえたクビライ側が軍事的に優位を占めた。これに対
し、アリク・ブケは、帝国内の有力諸王の支持を得たが、軍事面での劣勢はいかん
ともしがたく、クビライ軍に抗しきれなかった。中統 5 年(1264)7 月にアリク・ブ
ケらは投降し、抗争はクビライの勝利に終わった。こうしてクビライは実力で帝位
を奪い、名実ともに唯一のカアンとなった。これを記念して、クビライは「至元」
と改元した。
 一方、この混乱の最中、中統 3 年(1262)2 月に、漢人軍閥の李璮が叛乱を起こす。
アリク・ブケとの戦いが続いているためにクビライは李璮討伐に充分な兵力を割く
ことは出来なかったが、諸王カプチュ(合必赤)や史天沢などの活躍により、叛乱
は七月に鎮圧され、李璮は処刑された。結果として短期間で平定された叛乱では
あったが、この事件をきっかけとして漢人軍閥に対する方針が大きく変わった。つ
まり、彼らの在地での軍事権を取り上げて、行政官として生き残るか、それとも軍
職にとどまるならば南宋との戦線に移るかを選ばせた。これによって、華北の投下
領は、漠人軍閥の間接統治からモンゴル領主たちの直接統治へと転換していくこと
になった。

*本稿は、冨谷至・森田憲司〔編著〕『概説 中国史』(昭和堂、 2016 年)の


「元」にもとづき、渡辺健哉が執筆した。

(2)日用類書
→宋・元時代には、庶民向けの類書(乱暴にまとめると百科事典)が普及した。
1)事文の門別蒐集よりなる類書
2)科挙のための類書
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3)手紙・文書を書くための書式に関する類書
4)詩賦を作るための類書
など

(3)『居家必要事類全集』=元代に編纂された日用類書
「飲食類」(全220品)
蔬食(1~35)、肉食(36~126)、回回食品(127~138)、女直食
品(139~144)、麪食(145~182)、素食(183~211)、煎酥
乳酪品(212~216)、庖厨雑用(217~220)

(4)回回食品と女直食品
ここでは、回回食品の「捲煎餅」を紹介
わかい
【原文】攤薄煎餅。以胡桃仁・松仁・桃仁・榛仁・ 嫩 蓮肉・乾柿・熟藕・銀杏・熟
ばらん
栗・芭攬仁。已上除栗黄片切外皆細切。用蜜糖霜和。加碎羊肉・薑末・塩・葱調和
作餡。捲入煎餅油煠焦。

【訳】
ひろ み
薄く 攤げて煎餅にする。胡桃の 仁・松の仁・桃の仁・榛(はしばみ)の仁・嫩
ほしがき に レンコン に クリ く り
(わかい)蓮の肉・ 乾柿・熟 藕 ・銀杏・熟栗・芭攬の仁。以上栗黃を片に切るほ
にんにく 粉
かはすべて細かく切る。蜜と糖霜を加えて和える。碎いた羊肉・ 薑 末・塩・葱を

加えて味を調えて餡を作る。煎餅に捲いて入れて油で煠げる。

⇒⇒ペルシア料理のサンブーサク(インドではサモサ)。

史料(文献だけではない。あらゆるもの)の読解

【参考文献】
青木正児『華国風味』(岩波文庫、1984)
中村喬『中国の食譜』(平凡社東洋文庫、1995)
森安孝夫『シルクロードと唐帝国』(講談社、2007)

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