Professional Documents
Culture Documents
3.ロシア・ムスリムの改革の思想
3.2.新しいムスリム知識人層の形成
ロシア人知識人とムスリム知識人の間の断絶
*1870 年からのマクタブ、マドラサでのロシア語教育普及の試みは進展せず
19 世紀後半 ムスリムの子弟のロシア人学校入学→ムスリム知識人層の形成
*ムスリム知識人層とウラマーとの接点の欠如
*メルジャーニーのロシア文化受容
4. ロシア政府による対ムスリム臣民教育政策
1860 年 大改革 → 1870 年 異族人教育規則
・キリル文字表記の「タタール方言」を媒介にロシア語を勉強
・ロシア語で教える一般教育機関で勉強することも可
・イスラームの教義をロシア語の教育機関で受講できる
・マクタブやマドラサにロシア語クラスを併設
*イリミンスキー・システム
⇒ロシア・異族人学校
1874 年 国民皆兵制 →ムスリムたちはロシア語習得の必要性を痛感
1876 年 カザン・タタール師範学校
1888 年 モスクの宗教指導者にロシア語の試験通過の義務
5.ガスプリンスキーの新方式教育
5.1.ガスプリンスキーの生い立ちと『ロシアのムスリム』
イスマイル・ガスプリンスキー:クリミア・タタールの貴族出身、マドラサで教育を受けたのちに
ロシア語教育を受け、1871 年には渡仏、その後オスマン帝国に滞在して帰国。クリミアでロシ
ア語の教師ののち、バフチサライの市長に。論説『ロシアのムスリム』で、ムスリムとロシア人と
の道徳的・精神的同化を説く。ロシア・異族人学校は「死産で生まれた施設」として否定
5.2.新方式教育
マクタブの改革によって実践。教師:生徒=1:30~40、学年制、二学期制、複数の教科を並行的
に教授・学習
*「発音方式」による識字教育←オスマン帝国での教育改革の影響
5.3.ヴォルガ・ウラル地域における新方式教育の展開
1874 年 マドラサとマクタブの管轄が、内務省から国民教育省に移る
1
*ゼムストヴォがマドラサ・マクタブを含めたムスリムの教育に介入
→ロシア・異族人学校と新方式のマクタブ、マドラサの融合へ
*新方式のマクタブでは、ムスリムの生徒に、祖国ロシア対する忠誠と愛を持つように教育
5.4. ジャディード運動
ガスプリンスキーが実行した新方式、ウスーリ・ジャディードの学校の開設を軸とした 19 世紀末の
ロシア帝国領内のムスリム知識人による、教育改革を軸とした改革運動
○新方式学校は、トルキスタンや新疆にも広がる *カザフではロシア学校のほうが影響大
○マドラサの改革、ロシア・ムスリムの留学生を先進地域に送り出す運動、言論・啓蒙活動
5.5. 共通トルコ語
1883 年 新聞『翻訳者(テルジュマン)』創刊
共通トルコ語によってロシアのムスリム臣民の統一をめざした
*ジャディード運動の機関紙的な地位
*『翻訳者』は同時代のテュルク系ムスリムの啓蒙と覚醒に大きく貢献
5.6. 汎テュルク主義と汎イスラーム主義
汎テュルク主義:ロシア・ムスリムのなかから出てきた動きとオスマン帝国での動きが 1907 年以降
に合流、オスマン帝国の指導的なイデオロギーへ
汎イスラーム主義:ロシア・ムスリム大会に影響
諸民族の挑戦とロシア革命
1. 社会主義革命とソ連邦の成立
社会主義:平等で公正な社会を目指す思想、運動、体制。共産主義や社会民主主義を含む。
共産主義:財産を共同所有することで平等な社会をめざす思想(マルクス、エンゲルス)
1.1.ロシア革命
・第一次世界大戦による多大な人的損失
・ラスプーチンによるロシア政界の混乱
・1916 年から 17 年冬の豪雪による食糧難
→1917 年 2 月、ペトログラードでのデモから二月革命に発展(メンシェヴィキ主導)
国会では立憲民主党による臨時政府が成立←官僚・軍の将校が支持
2
⇒臨時政府によるソヴィエトの取り込み→戦争続行
1917 年 7 月、ボリシェヴィキと反戦の兵士たちが大規模デモ
→臨時政府によるボリシェヴィキ弾圧
1917 年 10 月 ボリシェヴィキによる十月革命、ソヴィエト政権が成立
*1918 年、ブレスト=リトフスク条約
・ボリシェヴィキ→ロシア共産党と改称
・首都をモスクワへ
2.ロシア共和国からソヴィエト連邦へ
・赤衛軍と白衛軍の間の内戦→赤衛軍勝利、中央アジア・グルジアなどでもソヴィエト
政権樹立
*1918 年 7 月 皇帝の廃位、銃殺
・フィンランド、ポーランド、バルト三国の独立
・ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、アルメニア等々の各共和国を主権国家として形式的に独立さ
せる。
*実際には、各共和国の共産党機構(政府)はモスクワのロシア共産党中央委員会の地方委
員会
・1922 年 12 月 独立した各共和国の上に、連邦政府と中央機構
○ソ連初期の経済政策
戦時共産主義:内戦・干渉戦争への総動員体制
・中小工場の国有化 ・穀物の強制挑発 ・食料配給制 ・賃金の現物給与
→生産意欲減退→食糧不足
ネップ(新経済政策):穀物挑発の廃止、小農経営・小規模私企業の容認→生産力回復
○ソ連初期の宗教政策
ロシア皇帝=事実上のロシア正教会の首長
ニコライ 2 世の廃位後、総主教位復活
1918 年、ソヴィエト政府による新たな宗教政策(政教分離、教育と宗教の分離)
→総主教によるソヴィエト政権の破門
1921 年から 22 年の大飢饉時の教会財産供出令
→ソヴィエト政権と教会の対立→8 千人以上の聖職者の殺害・処刑
3.ロシア革命とムスリム
3.1. ロシア・ムスリム大会からムスリム連盟・ムスリム会派へ
3
1905 年のロシア第一次革命(血の日曜日事件を発端とする)以降のロシア・ムスリムの政治運
動が活発化
→第一回・第二回・第三回ロシア・ムスリム大会(ニジニ・ノヴゴロドにて)
→開かれた理由は、国際定期市が開かれて世界中の民族商人が集まるのがニジニ・ノヴゴロド
であり、便利だったから。
〇ムスリムの政治運動のあり方をめぐる討論を行った
→全ロシア規模で民族にかかわらずイスラームの下に団結する汎イスラーム主義に基づいて知
識人たちが話し合った。
→ロシア・ムスリム連盟の結成 に繋がる。
○ドゥーマではムスリム会派を結成
→ムスリム知識人が支援し政治活動を行う。
3.2.二月革命後の動き
1917 年 5 月 1-11 日 第一回全ロシア・ムスリム大会
→ここでは上と対照的に、民族ごとにまとまっていくナショナリズムを主張
→全ロシア規模のムスリム政治運動が分解
(各民族で国を作りその上位の存在として連邦を置く連邦案が可決される>自治案)
※ロシアの多民族性が完全に損なわれたわけではない。
1917 年 7 月 第二回全ロシア・ムスリム大会
→クリミア、ザカフカース、カザフ草原、トルキスタンからは代表者が参加せず
→タタール人主導のムスリムの民族的文化自治の宣言⇔バシキール人の自治・連邦の主張
※バシキール人は汎イスラーム主義の場合、ムスリムの代表はタタール人になってしまうことか
ら各民族の自治を唱えた
3.3.ソヴィエト政権との対峙
10 月革命によるソヴィエト政権成立後、民族運動の側は自分たちの構想を示してソヴィエト政
権と対峙した。
バシキール人ゼキ・ヴェリディ・トガン
→早々にバシキール人の自治を宣言→内戦の発生
*内戦終了の過程で、1920 年にこの地域の諸民族に自治と領域が確定される。
→個別の自治共和国と自治州の枠内で共産党=ソヴィエトの支配体制成立
4
*確定された自治領に不満を持つバシキール人は 1920 年初夏に内乱を起こす
トガン、トルキスタンへ
3.4. 中央アジアとロシア革命
2 月革命後:臨時政府が掌握
→中央アジアのロシア・ムスリム(カザフ知識人)たちは連邦制を支持した
→同時期に中央アジア各地ではロシア人を中心としたソヴィエトの形成が進む
→このような状況の中で 10 月革命が起こる
○トルキスタンの場合
10 月革命後:ロシア人労働者、兵士を中心にソヴィエト政府が成立
→ジャディード知識人たちはトルキスタン自治政府を宣言したが、それを反革命と決めつけたタ
シュケントのソヴィエトによって打倒された
→中央アジアでは反ソヴィエトを掲げるバスマチ運動が生じて、内戦に突入
*中央アジアのソヴィエト政権はロシア人を中心としており、現地民からすれば帝国時代と変わらない
1918 年 トルキスタン自治共和国成立、ロシア連邦に加盟
1919 年 トルキスタン委員会到着、ソヴィエト体制が徐々に固まる
○カザフ草原の場合
1917 年 12 月 カザフ人が自らアラシュ・オルダ自治政府形成
→ソヴィエト政権の勝利の後、カザフ自治共和国が成立
○ヒヴァ・ハン国とブハラ・アミール国の場合
1920 年 青年ヒヴァ人と青年ブハラ人が、赤軍の支援のもとに旧体制の支配者を駆逐して、ホラ
ズム人民ソヴィエト共和国、ブハラ人民ソヴィエト共和国が成立
補足
→ソヴィエト政権は共産主義に染めたムスリム知識人を各地域の代表にしていく
参考文献
磯貝真澄「ロシア帝国ヴォルガ・ウラル地域ムスリム社会の「新方式」の教育課程」『近代・イスラームの教育社会
史 : オスマン帝国からの展望』昭和堂、2014 年
5
奥村庸一「19 世紀ロシア民衆教育改革の性格について―対東方民族『異族人教育規則』( 1870)の検討―」 『日
本の教育史学』第 39 集、1996 年
奥村庸一「イリミンスキー・システムの誕生―カザン学区での「異族人」教育の実験―」『ロシア・イスラム世界への
いざない』(スラブ研究センター研究報告シリーズ No.74)、2000 年
奥村庸一「十九世紀ロシアの帝国的編成と東方「異族人」教育― H・И・イリミンスキーの活動から見えてくるもの
―」『ロシア史研究』no. 76、2005 年
西山克典「洗礼タタール、「棄教」タタール、そして正教会―19 世紀中葉ヴォルガ中流域における宗教・文化的対抗
について―」『ロシア・イスラム世界へのいざない』(スラブ研究センター研究報告シリーズ No.74)、2000 年
西山克典『ロシア革命と東方辺境地域:「帝国」秩序からの自立を求めて』北海道大学図書刊行会、2002 年