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18-19 世紀ロシアのアジアへの領土拡大

1.カフカース併合 
1.3.カフカース戦争へ 
●カフカース征服がロシアに与えた影響 
  ex. トルストイ『ハジ・ムラト』、 『コーカサスの虜』
    レールモントフ『現代の英雄』『アシク・ケリブ』 
 
2.カザフ草原の併合 
カザフ・ハン国→小ジュズ、中ジュズ、大ジュズ  
ジュンガルとの争い→1730 年小ジュズのアブルハイル・ハン(位 1716-1748)がロシアに臣従 
*中ジュズのアブライ・ハンは 1757 年、清朝にも服属 
 
1820 年代 小ジュズと中ジュズを直轄統治←新興のコーカンド・ハン国の脅威 
 アクモリンスク、セミパラチンスク、セミレチエ、ウラリスク、トルガイ、シルダリアの6州に区分 
 
カザフの反乱←ロシアによる土地の収奪、遊牧民の季節的な移動ルートの切断、カザークの活
動 
 *1837-47 年 ケネサルとその子サドゥクによる反乱 →カザフ人には兵役を課さず 
 
●カザフ草原の変容 
・カザフ人のイスラーム化→1860 年代からカザフ人の文化的な自立が支援される 
・19 世紀末からロシア・ウクライナ人農民の草原への入植→1911 年にはステップ諸州の人口の
4 割に 
 
3.西トルキスタン征服 
19 世紀の西トルキスタン:ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国、新興のコーカンド・ハン国 
1839 年 ロシア軍がヒヴァ・ハン国を攻撃、失敗 
1853 年 シル川下流のコーカンド領アク・メスジド要塞を占領 
1854 年 ヴェルノエ要塞(アルマトゥ)建設 
1864 年 コーカンド・ハン国に対する本格的な軍事行動開始 
1865 年 タシュケント占領 
*イギリスとのグレートゲーム 
*クリミア戦争(1853-56)敗北の雪辱 
*アメリカ南北戦争(1861-65)による、トルキスタンの原料綿花の重要性急増 
☆ロシアによる征服は「文明化の使命」の大義のもとに正当化 
コーカンド・ハン国滅亡(1876 年) 

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ロシア軍によるサマルカンド(1868 年)ヒヴァ(1873 年)占領→保護国化 
*1881 年ギョクテペの戦い、1 万 5 千人のトルクメン人を虐殺 
*1867 年タシュケントにトルキスタン総督府 初代総督カウフマンの「放置政策」 
 
●トルキスタンの植民地化 
・綿花生産の拡大(中央アジア鉄道の建設(1881-1906))→飢饉頻発 
・セミレチエ地方やクルグズ人地域へのスラヴ系農民の入植 
 →フェルガナのアンディジャンで 1898 年に反乱 
・奴隷の廃止と医療・衛生面での貢献 

参考文献
小松久男編『中央ユーラシア史』(新版世界各国史 4)山川出版社、2000 年
山内昌之『近代イスラームの挑戦』(世界の歴史 20)中央公論社、1996 年
A. Kappeler, The Russian Empire: A Multiethnic History, London, New York et al. 2001
(原著 Rußland als Vielvölkerreich : Entstehung, Geschichte, Zerfall , München 1992)

多民族帝国ロシアの近代化 
 
1.ロシア帝国の近代化 
ロシアの後進性:専制と農奴制→1825 年 デカブリストの乱 
ニコライ 1 世(位 1825-1855 年) 「最も暗い時代」 
 ○西欧諸国との経済格差の拡大←農奴制 
クリミア戦争(1853-56 年)でロシアの後進性が明白に→アレクサンドル 2 世の大改革へ 

1861 年 農奴解放令発布 
 ○大改革時にも専制には触れられず→専制打倒・革命の動き 
1881 年 アレクサンドル 2 世暗殺→アレクサンドル 3 世による超保守的政策 
 ○1877-78 年 露土戦争 プレヴェン(プレヴナ)陥落により勝利、
サン・ステファノ条約 
 →ベルリン会議によりロシアの南下政策がとん挫 
 

2.19 世紀前半~半ばの宗教政策 

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ムスリム宗務協議会を通したムスリム統治制度の緻密化・体系化 
→宗務協議会は、ムスリムの生活になくてはならないものとなる。 
正教改宗者の棄教:1820 年代後半 18 世紀に正教を受容した新受洗者による棄教の波 
    *新受洗者による正教棄教の嘆願書:皇帝の代替わりの時期に集中 

★棄教の原因 
・外面的な正教改宗 
・教区民のお布施に依存していた正教聖職者による新受洗者の搾取 
・正教改宗者と以前の同宗者との混住 
・勢力を盛り返したムスリムによる宣教 
・ロシア人コミュニティーによる正教改宗者の受容拒否→同化は起こらない 
 →経済的にも教育の面でも、新受洗者にとってはムスリムになったほうが有利 

再び正教化政策へ 
*ニコライ1世時代の「正教・専制・国民性」:宗教的寛容から、多様な国民の一層の統合を目
指す国民国家化政策への移行期 
正教宣教の再開→1828 年以降宗務院による正教の宣教と強化を図る活動の開始 
→タタール人の正教改宗者ではなくチェレミス、ウドムルトの棄教を防ぐため。ムスリムに対す

る宣教は禁止 
各地のムスリムが宣教政策開始に対して不穏な動きを見せたため宣教活動は中断 
*宣教団による、教区聖職者の現地語習得の調査、アニミストの聖所の破壊も。聖書の現地
語への翻訳の試み(単語レベルの翻訳で文法無視) 
→1830-40 年代に年平均 200 人ほどのアニミストの新受洗者が出たのみ。19 世紀半ばに宣
教団はほとんどなくなる。 
⇒新たな正教宣教の方法の模索 
★19 世紀の正教化政策は、18 世紀のものと異なり正教会が主導。それを政府が抑える形に

なっている。それでも、反イスラームの傾向は明らか。 

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