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人間文化概論Ⅰ 期末レポート     学籍番号 A21LA084 名前土居英樹

授業の中で、私たちが「神」と聞くと、単数形でかつ男性で、天上にいる神を思い浮かべる傾向
があり、それはキリスト教の影響だという話がありました。しかも、日本人のクリスチャンはそれほど
いる訳でもないのに、そのように連想してしまうという話もありました。これはなぜなのかと考えてみ
ると、もちろん明治時代以来の西洋文化の影響であるのは間違いないのですが、日本伝統の八百
万の神がいるにも関わらずなぜ?という疑問も浮かびます。これは、おそらくキリスト教の神と、八百
万の神のそれぞれの特徴に原因があると思います。キリスト教は一神教ですが、神道は多神教で
す。つまり、前者はイメージしやすいが、後者は神がたくさんいて代表的なものが人によって変わる
ため、一つに定まらず、イメージしにくいということです。また、キリスト教においては、イエスは十字
架にかけられた姿という有名な構図がすぐ思い浮かびますし、さらにイコンという形でイエスの定
まったイメージが千年以上にわたり作られてきました。現在それらの画像は、インターネットやテレビ
など様々な媒体で容易に見ることができます。一方で日本の神は、そもそも目には見えない形で、山
や森のなかにいるという形でしたから、神を単体でイメージすることは難しいのではないでしょうか。
その他に原因として考えられるのは、現代の私たちの考え方です。私たちは、自由主義や民主主
義こそが最も善い国家体制であり、個人の自由は奪われてはならないといった考え方に馴染んで
います。それゆえに、神に対して自分の身を捧げるという在り方を忌み嫌う傾向があると思われます。
個人の意思で信仰を続ける人々に対しても、騙されて自分の時間を無駄に使っていると見る人々も
います。また現代人の周りには、ゲームやアニメ、映画などの多くのインドアな娯楽がありますが、そ
の中でもドラゴンクエストなどの人気 RPG ではよくキリスト教的な神が出てくる傾向にあります。ア
ニメでもゲームでも、ファンタジーものは、そのような傾向が全体的に見られます。子どもたちは、そ
のような娯楽を介して神や教会という概念に触れることで、神とはこういうものだという固定観念を
作ってしまうのではないでしょうか。すなわち、人々が同じ娯楽に触れることによって、同じ認識を
もった人々が再生産されているといえるのではないでしょうか。
さて、ソクラテスはなぜ死を恐れなかったのかという疑問に対して、授業内で見えた答えは、死を
恐れることは死が絶対悪だと判明していることを意味するが、死後どうなるのか知っている者は存
在しないのだから、それは死を知らないのに知っていることを意味し、無知の知に反するからという
ものだったと思います。しかし、死を恐れることは、現代人から見れば、本能的に種を残そうとする生
物としては、当然のことだと思われます。しかしそれでもソクラテスが死を恐れないのは、彼が本能
よりも理性を重視していたからだと考えられます。そして死を恐れる本能を退けて、死後どうなるか
分からないという思考に従って実際に死んだことは、彼を偉大な哲学者たらしめる要素と言えるの
ではないでしょうか。これに加えて、彼が死を恐れなかった原因の一つとして、自分の命を犠牲にし
て自分の考えを人々に知らしめる戦略的な意図があったかもしれないという話がありました。すな
わち、彼が死ぬという衝撃によって自分の意図を人々に伝えられる上に、実際に死んでもどうなる
かは分からないという、ある意味での希望があったと言えるでしょう。余談ですが、これは三島由紀
夫の自衛隊駐屯地での演説の後の切腹自殺に似ていると感じました。単純な比較はできないとは
いえ、両者の決定的な違いは、ソクラテスの行動は哲学の発展を導いたが、三島の行動は直接的
に何かを変えたわけではない点にあると思います。また、その哲学の発展は、ソクラテスの弟子達
やプラトンのおかげですが、プラトンの晩年の著作にはプラトン自身の哲学が含まれているという
話がありました。その中でも、『パイドン』の中で肉体より高次元のものとして魂を位置づけ、清浄な
状態で魂を肉体から離すために哲学を学ぶという内容がありましたが、これは、キリスト教と非常
に親和性の高い考え方なのではないでしょうか?なぜなら、肉体から魂を離す練習として、哲学や
儀式があるということですから、それは最後の審判の時に魂が清められた状態でいるために、教会
で懺悔したり、死の直前に洗礼を受けたりすることと非常に似ていると考えられます。プラトン哲学
は、古代ギリシアの遺産の一つとして、ビザンツ帝国の知識人達の間で保護され、ビザンツ帝国滅
亡後、その知識人達が西欧に移住した際に、古代ギリシア文化と共に伝えられました。これらのこと
を考慮すると、プラトン哲学の後世への影響は非常に大きいといえるのではないでしょうか?その
意味では、ソクラテスが意図していたかもしれない、命を犠牲にして主張を訴える戦略は、功を奏し
たといえるのかもしれません。
最後に、人間はなぜ、首尾一貫していることを善いことだと見なす傾向があるのかということにつ
いて考えました。これは、論理と行動のどちらにも当てはまると思います。例えば、ある人が昨日主
張していたことと、今日主張していることが全く逆のものだったなら、私たちはそれを筋が通ってお
らず、違和感のあるものとして見なすでしょう。行動の場合も同じくそのように見るでしょう。この原
因は論理が一貫している方が、理解しやすいからでしょう。しかしこれは極端な例です。一年前と、
一年後の主張が変わっている場合ならどうでしょう?これなら、違和感を覚えることは少ないのでは
ないでしょうか?
最後に、人間はなぜ、首尾一貫していることを善いことだと見なす傾向があるのかという疑問に
ついて考えたことを述べます。まず前提として、最初から何かの主義主張をもって生まれてくる者は
いませんから、主義主張とは、既存の知識や考えの影響を受けることで、徐々に発達するものであり
常に変わっていくものだと思います。ある人が昨日主張していたことと、今日主張していることが全
く逆のものだったなら、私たちはそれを筋が通っておらず、違和感のあるものとして見なすでしょう。
行動の場合も同じことが言えるでしょう。しかしこれは極端な例です。一年前と、一年後の主張が変
わっている場合ならどうでしょう?これなら、違和感を覚えることは少ないのではないでしょうか?短
期間の間に主義主張の変化があると違和感を覚えやすいが、長期間の間の変化では違和感を覚
えることは少ないということです。ですが、短期間のある経験によって何か劇的な変化が自身の中
で起こることは珍しいことではありません。しかし、事情を知らない人々からすれば、いきなりどうした
のだろうと違和感を覚えることもあるでしょう。つまり、論理が首尾一貫している主張や行動は、人
間にとって理解しやすいから善いものである。そしてそうでないものは理解しにくいから善いもので
はないといったように、理解しやすいかどうかを、価値判断の基準に結びつけてしまっているのでは
ないでしょうか?わかりやすさを価値判断の基準におくということは、やはり危険なことだと思いま
す。複雑な物事を、複雑なまま理解しようとせず、簡略化することによって理解した気になるといっ
た事例は多く見られます。例えば「~時間で分かる~の歴史」だったり、YouTube の解説動画など
です。この原因は、インターネットなどが発達した現代においては、情報が溢れかえり、情報を検証
して取捨選択する手間が以前よりもかかるようになったからだと考えられます。つまり、最低限の労
力で、情報を手に入れたいと思う人々が増えたと言えます。このような姿勢がなぜ危険なのかとい
えば、情報を消費するものとしてしか見ておらず、思考の材料とはなっていないからです。自ら考え
る姿勢がなければ、他人の思考や嘘の上で踊らされるだけです。そう考えると、現代を生きる上で
最も必要なことは、まさに哲学という考える姿勢そのものなのではないでしょうか?

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