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中公文庫

若 い読 者のための世界史(上)
原始から現代まで

エルンスト.H.ゴ ンブリ ッチ
中 山 典夫訳

中央公論新社
1 歴史とい う川 の流れ。はるか遠く地平線近くに約 5 0
00年前に築か
れたエジプトのピ ラミ γ ド。 それから流れに沿 ってバベノレの塔、ア テ
ナイのアタロポリス、中国の万里の長城、ロー 7 の凱旋門、騎士の城、
大砲、 トノレコ寧に包囲されたウィーン、ポツダムのフリードリヒ大王
の城、最初の鉄道、そしてすぐ自の前に近代の摩天楼。
イルゼに
﹁きみはいつも耳をかたむけてくれたね
そのとおり書くよ﹂
ウィ ー ン に て 、 一九三五年一 O 月 ロンドンにて、 一九八五年 九月

昔、むか し﹂

7
1

過 去 と 思 い 出 人 間 のあらわれる 前l 恐竜 い の ち の な い 地球 │太陽
のない宇宙 │ 歴史とは 何 か
偉 大 な 発 明 者たち

3
2
ハ イ デ ル ベ ル ク の 下 顎 │ ネ ア ン デ ル タ │ ルの 頭 蓋 骨 歴 史以前火
道具 洞穴 人 こ と ば 描くこ と 魔 術 氷 河 期 と 旧 石器 時 代 │ 新 石
器時 代│ 杭 の上の家│青銅 器 時 代 │ わたしたちと 同 じ人 間
ナイル 川 のほとり

3
3
メネス王エジプトナ イ ル へ の 賛 歌 │ フ ァ ラ オl ピ ラ ミ ッ ド 古 代
エジプトの宗教スフィンクスミイラ l ヒ エ ロ グ リ フ │ パピ ル ス │
古 王 朝 で の 革 命│ イ ク ナ1 ト ン の 改 革
日月火水木金土
4

メ ソ ポ タ ミ ア ウ ル の 発 掘 │粘 土 板 と く さ び 形 文 字│ ハ ン ム ラ ビ の 法
典 │ 星 の 信 仰 │ 目、月、火、水、木、 金
、 土│ バ ベ ル の 塔 ネ ブ カ ド
ネザル
唯 一の 神
6

5
パレスティナ │ ウ ル の ア ブ ラ ハ ム 洪 水 エ ジ プ ト の ユ ダ ヤ 人 │ モ │
セ と エ ジ プト 脱 出│ 王 国 の 建 設 王 国 の 分 裂 イ ス ラ エ ル の 滅 亡 │ 預
言 者 │ パ ピ ロ ン の 捕 囚│ 帰 国 1 旧 約 聖 書 と メ シ ア 信 仰
だれもが読める文字
ノ¥

3
6
ーム

ア ル フ ァ ベ ッ ト │ フ ェ ニ キ ア 人 と 彼 ら の 交 易都 市
英 雄 た ち の ギ リ シア

6

6
ホ メ ロ ス の う た ! シュ リ ! ? ン の 発 椀 │ 海 賊 の 王 た ち │ タ レ タ と 迷 宮
ドーリア人の移住英雄のうたギリシアの諸部族
けたちがいの戦争

75

ベ ル シ ア 人 の 信 仰 │ キ ュロスのパ ピ ロ ン 占 領 カ ンビュ セ ス の エ ジ プ
ト 侵 攻 ダ レ イ オ スの 帝 国 イ オ ニ ア の 反 乱 │ 第 一 次 ギ リ シ ア 遠 征l
第 二 次 ギ リ シ ア 遠征 と マ ラ ト ン の 戦 い │ ク セ ル タ セ ス の 行 軍 │ テ ル モ
ピ ュ レ ! の 戦 い │ サ ラ ミ ス の 海戦
小 さな国のふたつの 小さ な都市

5

8
オ リ ン ピ ア の 競 技 会 │ デ ル フ ォ イ の 神 託 │ ス パ ル タ と ス パ ル タ 教 育l
ア テ ナ イ と 民 主 主 義 │ ペ リ ク レ ス の 時 代│ 哲 学│ 彫 刻 と 絵 画 建 築 │
演劇
照ら さ れ た 者 と 彼 の 国
O

6
9
イ ン ド ウ ル の 時 代 の 都 市モ ヘンジョダロー1 イ ン ド 人 の 移 住 イ ン ド ・
ゲ ル マ ン 語 │ カl ス ト │ 最 高 神 ブ ラ フ マ 王 子 ゴ i タマーさとり 苦
悩からの解放浬繋仏教
o
大 き な 民 族 の 偉 大 な 教師 〆
n
u
キ リ ス ト 誕 生 前 の 中 国 中 国 の 皇 帝 と 豪 族│ 中 国 の 文 字 孔 子 と 儒 教
│ 礼i 家 族 │ 君 主 と 臣 下 │ 老 子│ 道
偉大なる官険 ︽ノ
ベロポネソス戦争│デルフォイの戦争マケドニアのフィリッポス │
カ イ ロ ネ イ ア の 戦 い │ ベ ル シ ア 帝 国 の 衰 退│ ア レ タ サ ン ド ロ ス 大 王 │
テl ベの 破 壊 ! ア リ ス ト テ レ ス と 彼 の 学 問 │ デ ィ オ ゲ ネ ス │小 アジア
の 征 服│ ゴ ル デ ィ オ ス の 結 び 目 イ ッ ソ ス の 戦 い │ テ イ ル ス と エ ジ プ
ト の 占 領 │ ア レ ク サ ン ド リ ア │ ガ ウ ガ メ ラ の 戦 い │ イン ド へ の 遠 征 │
ポロス王東方の支配者としてのアレクサンドロス│アレクサンドロ
ス の 死 と 彼 の 後 継 者 た ち│ ヘレニズム│アレタサンドリアの図書館
新しい戦 い

32
1
イタリアロ 1 7と 建 国 伝 説 身 分 闘 争 十 二銅 版 法 │ ロ! ?人 の性
格 ガ リ ア 人 に よ る ロ 1 7占 領 イ タリア 征 服l ピ ュ ロ ス │ カ ル タ ゴ
ハンニパル │ ア ル プ ス 越 え ス キ ピ オ の 勝 利 ギリシア 征 服 カ ト
l カルタゴの破壊
歴史の破壊者 今
勾 d

秦 の 始 皇 帝 │ 焚 書│ 万 里 の 長 城 │ 漠 王 朝 1 学 者 役 人
一五 西方世界の支配者 ,4A
ロ1 7の 属 州 道 路 と 上 水 道l ロ! ? 軍 団 │ グ ラ ックス 兄 弟 │ パ ン と
サー カ ス │ マ リ ウ ス │ キ ン ブ リ 族 と テ ウ ト ニ 族 ス ラ 奴 隷 の 反 乱
ユリウス ・カ エ サ ル │ ガ リ ア で の 戦 いl 内 戦 ク レ オ パ ト ラl 暦 の 改
革 ! ア ウ グ ス ト ゥ ス と 帝政 │ 芸 術
よろこばしい知らせ

61

1

イエス ・キ リ ス ト │ 山 上 の 教 え 十 字 架l コリ ン ト 人 へ の 手 紙 皇帝
崇 拝 │ ネロ ! ロ1 7の 大 火 │ キ リ ス ト 教 徒 へ の 迫 害 ー ー カ タ コ ン ペ エ
ルサレムの破壊ユダヤ人の離散
帝政のロ l マ ny
r
o

集合住宅と別荘浴場コロッセウム │ゲ ル 7ン 民族トイトブルク
の 戦 い │ リ メ ス │ 辺 境 の 異 教 徒 │ ト ラ ヤ ヌ ス 1 マルクス ・ア ウ レ リ ウ
ス │ 軍 人 皇 帝│ イ タ リ ア の 荒 廃 │ キ リ ス ト 教 の 拡 大 │ デ ィ オ ク レ テ ィ
アヌス最後のキリスト教迫害│コンスタンティヌス大帝│コンスタ
ン テ ィ ノl プ ル 帝 国 の 分 裂 国 家 宗 教 と し て の キ リ ス ト 教
嵐の時代

79

1
フ ン 族 │ 西 ゴ i ト 族 民 族 移 動 i ア ッ テ イ ラ ー レ オ 大 教 皇│ ロ ム ル ス ・
ア ウ グ ス ト ゥ ル ス │ 東 ゴl ト 族 と テ オ ド リ ッター ユ ス テ ィ ニ ア ヌ ス │
ロ1 7法 大 全 と ハ ギ ア ・ソ フ ィ ア ゴ l ト 人 の 最 期│ ラ ン ゴ パ ル ド 族
星夜のはじまり

89

1
中世は暗聞か信仰と迷信柱頭行者 │ ベ ネ デ ィ ク ト ゥ ス 古 代遺産
の救 出 北 方 のキリス ト教 メロヴィング朝の聖職者ボニファティ

O
二 ア ッ ラl の神 と 預 言 者 ム ハ ン マ ド

97
1
砂 漠 の 国 ア ラ ビ ア │ メ ッ カ と カ │ パ│ ムハンマド │ ﹁ ヒジュラ ﹂ │ メ
デ ィ ナ ー メ ッカの 戦 い 最 後 の 説 教 │ パ レ ス テ ィ ナ 、 ベ ル シ ア 、 エジ
プ ト の 占 領 │ ア レ ク サ ン ド リ ア の 図 書 館 の 火 災l コ ン ス タ ン テ ィ ノ l
プ ル の 包 囲 │ 北 ア フリ カ と ス ペ イ ン の 占 領l トゥ l ル と ポ ワ テ ィ エ の
戦 いi ア ラ ビ ア 人 の 文 化l ア ラ ビ ア 数 字
統 治 も で き る 征 服者 4

メ ロ ヴ ィ ン グ 朝 1 フ ラ ン ク 王 国l カl ル 大 帝 │ ガ リ ア 、 イ タ リ ア 、 ス
ペ イ ン で の 戦 い ア ヴ ァ l ル人 ザ タ セ ン 族 と の 戦 い │ 英 雄 詩l 皇 帝
戴 冠 │ ハルン ・アル ・ラ シ ド の 使 節 カ ロ リ ン グ 王 国 の 分 割 と 衰 退 │
ス ヴ ァ ト プ ル タ │ ヴア イ キ ン グ │ ノ ル マ ン 人 の 国
221

キリスト教の支配者
カ ロ リ ン グ 朝 時 代 の 東 と 西l 中 国 で の 文 化 の 華 │ マ ジ ャ 1 ル 人 の 侵 攻
ハ イ ン リ ヒ 王 オ ッ ト ! 大 王 オ ー ストリアとバ l ベ ン ベ ル グ 家
封 建 制 ユ l グ ・カ ベ ││ イ ン グ ラ ン ド の デ ン マ ー ク 人 │ 聖 職 者 へ の
封土l 叙 任 権 闘 争 │ グ レ ゴ リ ウ ス 七 世 と ハ イ ン リ ヒ 四 世 カ ノ ッ サ の
道 行 き│ ロベ ー ル ・ギ ス カ ー ル と ウ ィ リ ア ム 征 服 王


気 高く 勇 敢 な 騎 士

4

騎 士 と 乗 馬 者 │ 城│ 農 奴 侍 童 、 従 士 、 騎 士 叙 任 騎 士 の 役 目l 貴婦
人 へ の 奉 仕 │ トー ナ メ ン ト │ 騎 士 の う た ﹃ ニ │ ベ ル ン ゲ ン の 歌 ﹄
最 初 の 十 字 軍 │ エ ル サ レ ム 入 城│ 十 字 軍 遠 征 の 意 味
f
o
騎士の時代の 皇 帝

フリl ド リ ヒ ・パ ル パ ロ ッ サ 物 々交 換 と 貨 幣 経 済 │イ タ リ ア の 都 市
皇 帝 の 国 家 │ ミ ラ ノ の 抵 抗 と 破 壊17 イ ン ツ の 大 祝 賀 祭 │ 第 三 回 十
字 軍 │ フ リ l ド リ ヒ 二 世 │ ゲ ル フ 党 と ギ ベ リ ン 党│ イ ン ノ ケ ン テ ィウ
ス = 一 世 マ グ ナ ・ カ ル タ │シ チ リ ア の 政 府l ホl エ ン シ ュ タ ウ フ ェ ン
家 の 終 鷲 1 ジ ン ギ ス ・カ│ンとモ ン ゴ ル の 襲 来 │ 皇 帝 空 位 時 代 と ﹁ こ
ぶ し の 正 義 ﹂ キ ュ フ ホ イ ゼ ル 伝 説 │ ルドルフ ・フォン ・ ハプスブル
クボヘミア占領ハプスブルク家の権力把握
下巻目次
新しい都市と市民の誕生
¥七六五
新しい時代
新しい世界
新しい信仰

ブL /
戦う教会
おぞましい時代

O
不幸な王としあわせな王




その聞に東欧で起こったこと

ほんとうの新しい時代
暴力による革命
九 /¥ 七 六 五 四

最後の征服者
人間と機械
海の向こう
ヨーロッパに生まれたふたつの国
世界の分配
五O 年 後 の あ と 、
がきーその 聞に私が体験したこと、学んだこ と
エルンスト ・ゴ ン ブ リ ッ チ の 略 歴 と 代 表 的 著書
二O O五 年 版 の た め の 序 言
訳者あとがき
文庫版訳者あとがき
若 い 読 者 の た め の 世 界 史 l ー原始から現代まで 上巻
﹁北目

むか し﹂
すべての物語は 、 ﹁ 昔、むかしあるところに ﹂に はじまる 。 わたしたちのこの 世界の歴
昔 、 むか し﹂ あ ったこと の物語である 。 きみにも 、 立ち上が って もお母さんの手
史も、 ﹁
にとどかない、小さいときがあ った。 思い 出すことができるね 。 だか らきみだ って、 ﹁ 昔

むかし 、 ぼくがまだ 小 さ い子どものころ﹂と、歴史を語ることができるのだ 。 そしてさら
にその昔 、 きみはオムツにくるまった赤ん 坊 だった 。 それはきみも思い 出す ことができな
い。 しかしそのようなとき、があ ったことは 、 きみも知 っている 。 そしてきみのお父さんや
があ った。 そしてお祖父さん や お祖母さんにも、 小 さいときがあ
じいばあ
お母さんにも小さいとき 、
った。 それは 、 たしかに遠い昔のことだ 。 それでもきみはそのことを知 っている 。 わたし
たちは 、 お祖 父さんお 祖 母 さ ん は と し を と っ て い る と い う 。 そのお 祖 父さんやお 祖 母さ
んにもお 祖 父さんやお 祖 母 さ ん が お り 、 そのお 祖 父さんお 祖母 さんを昔の人と いう 。 ﹁ 昔、
むか し﹂ は、 どこまで も さかのぼることができる 。 ひとつの﹁昔、むかし ﹂ のうしろには、
7
1
いつも 別 の ﹁昔、 むか し﹂ があるのだ 。 ところできみは、ふたつの鏡の聞に自分の身を置
いたことがあるかな。まだないのなら、ぜひ
2 ふたつの鏡の聞に立 ったきみ。そこにうつるきみは、無限の連続
8
1

や ってみてごらん。鏡にうつるきみの姿がど
こまでも、どこまでもつづくのだ 。 だんだん
小さくなりな 、
か ら 、 し か し け っし て な く な
ることなく。 たとえ見えなくなったとしても 、
きみも気づいているだろうが、それでもなお
その向こうに、まだ鏡の姿はつ つ
e
いているは

図2︺
ずなのだ ︹

昔 、 む か し ﹂ は、これとまったく同じこと
なのだ 。 それがおわることは考えられないの
だ。 お祖父さんのお祖父さんのそのまたお祖
父さんのお祖父さんの ・頭がくらくらして
くるね 。 しかしもう一度、ゆ っくりい ってみ

を教えてくれる 。
てごらん。時聞をかければ、空想の力がはた
らくかもしれない。そしてもう一度いってみ
たら古い時代が、そしてさらにもう一度いっ
てみたら、もっと古い時代が、空想のなかに
浮かんでくるかもしれない。ちょうど鏡のなかの像のように。しかし﹁はじまり﹂にとど
くことはけっしてない 。 どの ﹁はじまり ﹂ のうしろにも、 ﹁
昔、むかし﹂が立っているの
だからね 。
それは、まるで底のない穴のようだ。きみには、深いそのような穴をのぞき込んで、頭
がく ら くらした経験はないかね 。 わたしにはある 。 そのような深い穴に、火のついた紙を
落としてみよう 。 下へ下へと、ゆっくりゆっくり、周囲の壁を照らしながら落ちてゆく 。
そしてやがて、暗閣のなかの小さな星となり、最後にとうとう見えなくなる 。
思い出は、それと似ている 。 思い 出も、わたしたちの遠い過去への道のりを照らす 。ま
ず自分の歩んできた道を思い出す。つぎに、自分よりとし上の人にその思い出をたずねる。
そのつぎには、すでに死んでしまった人の手紙をさがす。 このようにしてわたしたちは、
過去へ過去へと光をあてる 。 古いメモや書類だけをおさめた建物がある 。 公文書館とよば
昔、むかし」

れるその建物には、何百年も前に書一かれた手紙などがとってある。かつてわたしはそのよ
うな公文書館のひとつで、ただ ﹁ヴィルヘルムよりお母さんへ 。 きのうの食事にはすばら
しようろ
しい松露が出ました とだけ書かれた手紙を見たことがある 。 それは、四O O年前のあ

﹂。
るイタリアの小さな王子の手紙であった。松露(きのこの一種、トリュフ)はじっさい、す
ばらしい食べ物だ。
9
1
しかし 、 光が照らすのは瞬間にすぎない。思い出の光も、すごい速さで落ちてゆく。千
年 前、 五 千 年 前
、 一万年前。 そしてそのころにも 、 おいしいものが好きな少年はいた 。 し
0

。 二万年前、五万年前。 そのころでも人びとは 、
2

かし 、彼は 手紙を書くことはできなか った
昔、むかし ﹂ とい っていた 。 わたしたちの思い 出 の光は、もうす っかり小さくな ってし

ま った。 やがて視界か ら消える 。 だがわたしたちは 、 それがなお落ちつ づ けることを知 っ
ている 。 人聞がまだあらわれない大昔へと。まだ、 山がいまとはちが ったよ うすをしてい
たころへと 。 多くの山は、いまより高か った。長 い長い時聞をかけて、雨がけずり、丘に
した 。 多くの 山は、 まだなか った。 それらは、何百万年の時聞をかけて、海からもり上が
ってきたのだ 。
しかし、まだ山が海からもり上がる前にも、生き物はいた 。 今日とはま ったくちがう生
き 物 で あ った。 途 方 も な く 大 き く 、ト カ ゲ の よ う な 生 き 物 だ った。 ど う し て わ か る か つ
て ? 地中 の深いところで、その骨が見つかったのだ 。 たとえばウィ ー ンの自然歴史博物
館できみは、ディ プ ロドクスを見たこと、があるだろう 。ディプロドクスとは変わ った名前
だが 、じ っさい変な動物なのだ 。 ひとつの 部 屋には入りきれず、ふたつの部屋でも足りな
いのだ。背丈は高い樹ぐらいあり 、 尾の長さはサッカー場の半分ぐらい 。 このような巨大
なトカゲ 、 │ │そうディプロドクスは巨大な トカ ゲなのだ 1 1これが大昔の森をはいまわ
れば 、それ だけでき っとすごい音がしただろうね ︹ 。
図3︺
しかし、こ れも ﹁はじまり ﹂ ではない。さらに 十億 年さかのぼってみよう。 十億年と口
でいうのはかんたんだが 、 いったいどのくらの 時間 だろう
3 人間、いや、いまわたしたちが見る山なみが登場する前の地上に

か。ちょっと考えてみよう。きみは 、 一秒と いう時間 の長


さを考えたことがあるかね。﹁イチ、ニ 、 サン ﹂ といっき
にとなえる長さだね。十億秒って、どのくらいの長さだろ
うか。それは 、 三二 年間のことな のだ。さてこ れで、十億
年がどのくらいの長さの時聞か想像できただろうか。そし
てその十億年も前のころ、まだあの巨大な生き物はいなか
った。ただ カタツムリや貝が生きていた 。もっ とさかのぼ
ると、植物もなかった。あたりいちめん 、 まさに ﹁不毛の
棲 んでいた恐竜ディプロドタス 。
荒野﹂ だった 。 木も 、 草も、花も 、 いや 、 いっさいの緑が
なかった。ただただ岩の陸と 、魚も 、 貝も 、 いや汚れさえ
「昔、むかし J

もない海。たとえ波の音は聞こえても、それは﹁昔、 むか
し﹂と 、何 かを語 っただろうか 。さらにその 昔の 地球は 、
いまわたしたちがも っと大きなものを望遠鏡で見るような 、
ただひとかたまりのガスの雲だった。その雲は 、何十 億年
も、何百億年も、岩も水も、ひとつのいのちものせること
1
2
なく、太陽のまわりをまわっていたのだ。そしてさらにそ
昔、 むかし﹂は ? その昔には、太陽、 わたしたちの大好きなあの太陽さえもなかっ
の ﹁
2

た。 どこまでも 、 どこまでも果てのない宇宙で 、 ガスの雲の聞をただ巨大な星や 小さな天


2

体が渦巻いていたのだ。
﹁菅、 むかし﹂とさらにさらにさかのぼってゆくと 、頭がおかしくなってしまう。さあ、
いそいで太陽へ 、地球 へ、美しい海 、植物、 貝、わたしたちが恐竜とよんでいる巨大なト
、 そして人間たちのと ころへもどろう 。 まるでわが家へもどるよ
カゲ 、 わたしたもの 山
昔、 むかし ﹂ と、底 なしの穴に吸い込まれないために 、 これからはつねに
うに 。 そして ﹁
﹁ちょ っとま って、 それはいつのことなの ﹂ と、 ﹁いつ ﹂を問うことにしよう。
そのとき、 ﹁どうして ﹂ を問えば 、 それは歴史を問 う ことになる 。 それは 何 かひとつの
歴史ではなく、わたしたちが世界の歴史とよ ぶ、あの歴史である 。 さあ、それではその歴
史をいまから語ることにしよ う

偉大な発明者たち
ドイツのハイデルベルクで地下室を掘っていたとき、深い土のなかに一個の骨、人間の
同{円が発見された 。 下顎の同{円だ った。 しかし今日、そ のような 下顎をも っ人 聞はいない 。 堅
レa 舎
' の 4 ﹄
く が ん じ よ う で 、 つ い て い た 歯 も 力 強 い も の だ っ た 。 このような顎をもっ人聞はたぶん、
ものをしっかりと噛むこと、ができたにちがいない。そして、土のなかの深いところにあっ
たのだから 、 大 昔 のものにちがいない。
ドイツの 別 の場所 、 デ ュ ッ セ ル ド ル フ 近 く の ネ ア ン デ ル タ l ルで 、 奇 妙 な頭蓋骨が発見
ずがいこっ
された。人間の顕だった 。 気味わるがってはいけない、二度とない貴重な発見だったのだ
ひたいま
から 。 そ の 頭 に は 額 と い う も の が な く 、 眉 の上には大きなこぶが突き出ていた。わたした

ちは額の 奥 で 考 え る の だ か ら 、 も し 額 が な け れ ば 、 そ の 頭 の 持 ち 主 は 考 え る こ と が で き な
いのではないだろうか 。 少 な く と も そ の 人 聞 に と っ て 、 考 え る と い う こ と は わ た し た ち 以
上 に つ ら い 作 業 で あ った に ち が い な い 。 い ず れ に し て も 、あま り考えることはできな いが、
3
2
わ た し た ち よ り よ く 噛 む こ と が で き る 人聞がいたのだ 。
まってください 、 約 束 とちがいます。 そのような 人聞 は、い ついたのですか 、 どんな人

4

間で、どんな生活をしていたのですか ﹂ と、きみはたずねるだろう 。
2

そう 聞 かれると、こたえにつま ってわたしの顔は赤くなってしまうのだ 。 じつは、それ


がよくわか つてはいないのだ 。 しかしそれがわかるのは速い先のことではなく 、き っとき
みたちの 仕事だろうね 。 よくわからない理 由 は、 もちろんその人 間 たちが書いたものを 何
ものこしていないこと 、 それに 、 わたしたちの記憶がそれほど遠くまでさかのぼれないか
らだ 。 しかし、わたしが顔を赤くすることはない 。 というのは 、 ま ったく正 確 とは いい き
れないが 、 それでも少なくとも最初の人 聞 がいつごろ生きていたのか 、 すこし 推測 はでき
るからだ。それは 、多く の物質、たとえば木や 植物繊維、それ に火山 の噴 火 でできた岩石
はゆっくりと 、し かし規 則 正しく変化する、ということを発見した自然科学のおかげなの
だ。 それによ って、最 初 の人 聞 がいつごろあらわれ 、 生きていたのか 、 計算することがで
きる 。 もちろんそれと 同時に 、 研究者たちはけんめいに人間ののこしたものをきがしつづ
け、 とくにア フリカと中国で、少なくともハイデル ベ ルクの 下顎と同じくらい古い骨を発
見した 。 その持ち主たちは 、 こぶ のような額と 小 さな脳をもち 、 おそらく 二OO万年 前 に
はすでに道具として石を使いはじめた、わたしたちの 祖先であったのだ 。 そしてネアンデ
ルタl ル人は約十万年 前 にあらわれ 、約七 万 年 の 問、 この 地上に住んでいたと考えられる 。
わたしは 、 彼 らにあやまらなければならな い。 というのは 、 彼 らの額はたしかにまだこぶ
のようなものであった。 しかし彼 らの 脳は、今日の多くの人間のそれよりかならずしも小
さいとはいえないのだ。つづいて、わた したちにも っとも近 い親類となる人間 (
いわゆる
新人 ) は、おそらく約三万年前にあらわれたと思われる 。
﹁しか しこれまでのことはみな、名前もなく正確な年代もないだいたいのことであり、そ
れは歴史ではない﹂と、きみはいうかも しれない 。 そう、そのとおりだ 。 これらは、歴史
﹁以前 ﹂ のことなのだ 。 だからこれまで述べてきたのは、﹁歴史以前﹂ 、 すなわち﹁先史時
代 ﹂の ことなのだ 。﹁ いつ ﹂ のことであ ったか、ばくぜんとしかいえないのだからね 。 そ
れでもわた したちは、このいわ ゆる﹁原 人﹂ とよばれる人聞について、いくつかのことを
想像はできる 。 というのは 、 ほんとうの歴史がはじまったとき (
これについては次の章で
ふれる)、 す で に 人 聞 は 、 今 日 わたしたちがもっているもの 、たとえば衣服、住まい、道
偉大な発明者た ち

具など、すべてを手に入れていたのだからね。 耕すため のくわ 、 穀物 、 焼いたパン、乳を


しぼる牛 、毛を刈る 羊、狩りのた めや友だちと して の犬、武器として の弓と矢、身を守る
ための兜や盾。これらすべては、天から降ってきたのではなく 、 あるとき、だれか が発 明
かぶとたて
したのだ。思ってもみたまえ。すばらしいことではないか。たとえばあるとき 、 ひとりの
原人が 、 獲 ってきた 動物の肉を火の上で焼くと噛みくだきゃすくなることを知った 。それ
は女性であ ったかもしれない 。 そしてまたあるときひとりの原人が 、 どうすれば 火がおこ
5
2
るかを 知 った。 火を自分の手で つくる 、 これは大変なことだ 。 きみにできるかな。マッチ
を 使 つ て は い け な い 。 そ ん な も の は な か っ た の だ か ら 。 ふたつの木片を使い 、 それを熱く
6

なり 、 赤く火となるまで、こすりつ手つけるのだ。ためしてごらん 。 いかに大変かわかるか
2

り。

道具もまた 、 だれかが発 明し たのだ 。 人間以外の動物は、道具を知らない。最初の道具
は、 ただの 小 枝 、 あ るいは石であ っただろう 。 しかし、人聞はやがてこの石を尖ったハ ン
マーとなるよう 、 うまい具合に砕くことをはじめた 。 このよ う につごうよく 砕かれた石 が、
土 の な か か ら た く さ ん 発 見 さ れ て い る 。 そのころのほとんどの道具は石でつくられていた
ので 、 その 時 代 をわたしたちは石器 時代とよん でいる 。 この時代の人聞は 、 まだ家をつく
ることを 知 らなかった。生きることは楽ではなかった 。 そのころは非常に寒い日がつづい
たからだ。今日よりも冬が長く、夏が短かった 。 谷は下のほうまで一年 中雪におおわ れ、
巨 大 な 氷 河 が 平 野 のなかにまで 押 し 出 し てきていた 。 それゆえ、石器時 代 の前半 (
旧石器
時代) はまだ氷河期であ ったともいえる 。 原人たちは、寒さにふるえなければならなか っ
どうけ っ
た。 いくらかでも風や寒さをしのげる洞穴を見つけたとき、 彼らはよろこんだにちがいな
い。 このことから 、 け っしていつも 洞 穴に住んでいたわけでもないのだが 、 彼 らを﹁ 澗穴
人﹂とよぶこともある。
この洞穴人は、きみの想像をはるかにこえる大変な発明をした 。 ことばである。ほんと
うの意味でのことばなのだ 。 動物だ って 、 痛いときはうな り、危険がせまればほえるだろ
ぅ。 しかし動物は 、 ことばで何かを名づけることはできない。それができるのは、ただ人
間だけ。原人は、それができた最初の生き物なのだ。
彼 ら は ま た 、 別 の す ば ら し い こ と も 発 明 し た 。 も の を 描いたり刻んだりすることだ 。 今
日わたしたちは、洞穴の壁に彼らが刻み、色を塗 った多くの 絵を見ることができる 。これ
ほど美しく 描 ける画家は、今日でもいないかもしれない。そこには 、 いまではもう見られ
ない動物を見る こともできる。それほど遠い時代なのだ。長 い毛と大 きく曲がった牙をも
っ象、すなわち マンモスや、その 他 の氷河 期 の動物たちだ︹図 4

ところできみは 、 な ぜ 原 人 た ち は 彼 ら の 洞 穴 の 壁 に そ の よ う な︺動物の絵を 描いたの だろ
うかと 、疑問に思 うだろうね。たんなる 飾りだろ うか。しか し、洞穴のなかは真 っ暗なの
だよ。たしかなことはわからないけど、彼らは魔術を使おうとしたのではないだろうか 。
偉大な発明者たち

動物の絵を壁に描けば 、 その動物が手に入ると信じていたのではないだろうか 。﹁う わさ


を す れ ば か げ が さ す ﹂ と わ た し た ち も い う が 、 それと似たことではなかっただろうか。そ
こに描かれた動物たちは 、 それなしでは飢えてしまう、彼らの貴重な狩りの獲物だ ったの
だ。 すなわち彼らは、魔術を発明しようとしていたのだ 。 それが実現されていれば、すば
らしかっただろうね。残念ながらわたしたちも、 それに成功していない 。
氷河 期 は、想像できないほど長くつづいた 。 何 万年もつづ いたのだが、それはいいこと
7
2
でもあった。というのは 、 考えることがまだ非常な苦しみであった人聞にとって 、 これま
2
8

4 7'/モス 、水牛、野生馬、 ト ナ カ イ ー 石 *
il
時代の人びとは彼らの
洞穴の鐙に幸福な狩りの夢を描いた。
でみてきたような発明には長い時聞が必要とされただろうからね。しかしやがて、ゆっく
りと大 地 は 暖 か く な っ た 。 氷 河 は 、 夏 に な る と 高 い 山 の 上 へ と ひ い て ゆ き、 わ た し た ち と
新人 ) は 、 暖 か さ の な か で 、 草 原 に 穀 物 を 値 え、 そ の突を粉にし 、 こ
まったく 似 た 人 間 (
ね、 火 で 焼 く こ と を ま な ん だ 。 パ ン の 発 明 だ

やがて彼らは 、 テントを建てること 、 野 生 の 動 物 を な らすことをまなんだ。そのように
して人 聞 は 、 た と え ば 今 日 のラ ッ。ブランドの 住 民 のように 、 彼 ら の 家 畜 と と も に 移 動 す る
たけだ 付
暮らしをはじめた。しかし、そのころ森には多くの猛々しいけもの、狼や熊などがいた
か ら 、 発 明 の 才 に す ぐ れ た 一 群 の 人 間たちは、 そ の 危 険 か ら 身 を 守 る す ば ら し い 工 夫 を 思
いついた。彼らは、湖のなかに杭を打ち込み、その上に家を建てたのだ︹図5︺。これが 、
じ よ う か 必く こうじようかおく
考 古 学 で ﹁ 湖 上 家 屋 ﹂ あ る い は ﹁杭 上 家 屋 ﹂ と よ ば れ て い る も の だ 。 こ の こ ろ の 石 の 道
偉大 な発明者たち

具は 、 よ り い っ そ う 目 的 に ふ さ わ し く 砕 か れ 、 さ ら に 磨 か れ て い た 。 石 の 斧 に は 、 よ り 硬
おの
い石を使って 柄 の た め の{八が穿たれた。これ は 、 大 変 な 仕 事 で あ ったにちがいない 。 おそ
え うが
ら く ひ と 冬 は か か っ た だ ろ う。 完 成 間 近 に 斧 が ふ た つ に 割 れ る こ と も あ っ た に ち が い な い 。
す る と す べ て は 、 やり直しなのだ。
それから彼らは、粘土を火のなかで焼くことを発明し、まもなく、文様で飾られた美し
い 陶 器 を つ く り は じ め た 。 し か し 、 新 石 器 時 代 と よ ば れ る こ の こ ろ 、 人 聞 は動物の絵を 描
9
2
く こ と を や め た。 こ の 時 代 の お わ り こ ろ 、 お そ ら く キ リ ストが生まれる六千年から 四千年
30

回 冨 宇 民芸 三 F ー


5 新石器時代あるいは青銅器時代、すなわちいまから約 8000年前の
水上の村。
前 の こ ろ 、 人 聞 は 道 具 を つ く る 新 し い 、 そ し て 便 利 な 方 法 を 思 い つ い た 。 金属を発見した
のだ。もちろんすべての金属がいちどに発見されたわけではない。最初に知ったのは、 火
で 焼 く と 銅 に な る 緑 色 の 石 で あ っ た 。 こ の 銅 は 美 し く 輝 き 、 人びとはそれで矢じりや斧を
つくった。しかし、それはやわらかく 、 硬い石よりかんたんににぶくな った。
そ れ で も 人 聞は、よりい っそうの工夫をすることができた。 銅をより硬くするために、
すず
ま れ に し か 見 つ か ら な い 別 の 金 属 、 す な わ ち 錫 を 加 えることを思いついたのだ。銅と錫の
青銅)とよばれる 。 そ れ ゆ え 、 人 聞 が 彼 ら の 兜 や 剣 、 斧 や 釜 、 それに腕
かま
合金はブロンズ (
輪や首飾りをブロンズでつくった時代をわたしたちは、青銅器時代とよんでいる。
ここでもういちど 、 湖の上の 家に 向か って丸 木舟をこぐ、毛皮を身 にまとった当 時の人
びとの暮らしぶ りを思い描いてみよ う。 彼らの舟には、麦や 山 で採掘した塩が積まれてい
偉大な発明者たち

た。 人 び と は 、 美 し い 焼 き 物 の 聾 か ら 水 を く み 、 女性たちは光り輝く石、いや、すでに金
かめ
で身を飾っていた。きみは、そのころからいままでに、何かが変わったと思うかね。彼ら
はすでに、わたしたちと同じ人間なのだ。ときには憎しみ合い、残酷であり 、 だますこと
ざんこく
も あ っ た 。 残 念 な が ら 、 わたしたちもそうだ。そしてそのころでも、母親が子どものため
に自分の身を投げ出すことはあっただろう。そのころでも、友だちのために死んでいった
者はいただろう。今日ほどしばしばではなかったかもしれない。しかし珍しいことでもな
1
3
かっただろう。なぜだろう。それから一万年を超える年月がたつているというのに。わた
したちを変えるには、この時間でも足りないのだろうか。
2
3

ときおり、わたしたちがことばで話すとき、あるいはパンを食べるとき、あるいは道具
を使 うとき 、 あ るいは火のそばでからだを温めるとき、それができることを感謝しながら 、
その偉大な発明者である原人たちのことを思い出すことは必要かもしれない。
ナイル 川 のほとり
こ こ か ら は 、 き み と 約 束 し た よ う に 、 ﹁い つ ﹂ で も っ て 物 語 を は じ め る こ と に し よう

OO年 前 、 す な わ ちキ リ スト が 生 ま れ る =二 OO年 前 ーー と わ た し た ち は 考
いまから五 一
え て い る の だ が │ │、 エ ジ プ ト で は メ ネ ス と い う 王 が 支 配し ていた。エジプ ト への道を知
り た い な ら 、 き み は ツ バ メ に 聞 くとい い。 彼 ら は 毎 年 秩 、 あたりが涼 しくなると、南へ向
か っ て 飛 び 立 つ 。 ま ず ア ル プ ス を 越 え て イ タ リ ア へ 。 そ れ か ら 少 しばかり海をわた ってア
フリカ へ。そ れもヨ ー ロ ッ パ に も っ と も 近 い ア フ リ カ へ と 向 か う 。 そ こ が エ ジ プ ト な の だ 。
アフリカは暑く、 何 ヶ月 も 雨 が 降 ら な い 。 だ か ら 土 地 の多くは、ほとんど 何 も 育たない
砂 漠 な の だ 。 エ ジ プ ト の ま わ り も そ う だ 。 エ ジ プ ト で も 、雨 はあまり降らな い。 しかしそ
こでは、 雨 は必要でない 。ナ イ ル が ま ん な か を 流 れ て い る の だ 。 年 に 二 度、 水 源 地 域 に 大
量の 雨 が 降 る と 、 ナ イ ルがエジプ ト全土にはん ら ん す る 。 こ の と き 人 び と は 、 家 や シュ ロ
の木の 間 を舟 で行 か な け れ ば な ら な い の だ 。 そ し て 水 がひくと 、 そこに は水をた っぷ り吸
3
3
い、肥 え た や わ ら か い 泥 で お お わ れ た 大 地 が の こ さ れ る 。 その上に熱い太陽が照りつけ、
穀 物 は 他 の ど こ よ り も み ご と に 育 つ 。 そ れ ゆ え 、 エ ジ プ ト 人 は 大 昔 よ り、 彼 ら の ナ イ ル を
4

あ た か も 愛 す る 神 の よ う に 崇 め て き た 。 きみに、四千年前のエ ジプ ト人がナイル のために


あが
3

う た っ た 歌 を 紹 介 しよ う



ナ イ ル よ 、 地 の 底 か ら 湧 き き た り 、 わ れ ら エ ジプ トの民にゆたかな食べ物をさずけたま
う あ な た を た た え ま す 。 あ な た は 、 平野に水をしみこませ 、 すべての家畜に草をあたえま
す 。 あ な た は 、 遠 く は な れ た 砂 漠 に 水 を お く り 、 大麦や 小麦を育てます。あなたは 、 倉を
満 たし 、 麦 打 つ庭をひろくし 、 貧 し い 人 び と に も 分 け あ た え ま す 。 あ な た の た め に わ れ ら
たてどと
は、竪琴を弾き、あなたのためにうたいます
﹂。
このように、古代 の エ ジ プ ト 人 は う た っ た 。 そ の と お り だ っ た 。 ナ イ ル に よ っ て 彼 らの
国 は ゆ た か に な り 、 力 を つ け た の だ か ら ね 。すべ てのエジ プ ト人をひとりの王が支配した
のであり 、 は じ め て 全 土 を 支 配 し た 王 が メ ネ ス だ っ た の だ 。 そ れ が い つ の こ と だ っ た か 、
も う き み は 知 っ て い る ね 。 そ う 、 キリストが生まれる=二 OO年 前 だ 。 き み た ち が 読 む 聖
書のなかで 、 エジプ ト の 王 が フ ァ ラ オ と よ ば れ て い る こ と も 、 聞 いたことがあるだろう。
そのファラオは 、 途 方 も な い 力 を も っ て い た 。 彼 は 、 太い 円柱と多くの中庭をもっ大きな
石の宮殿に住み 、 彼がい ったん 口にしたことは、すべて実現されねばならなか った。 国の
す べ て の 住 民 は 、 彼 の 命 ず る ま ま に 働 か ね ば な ら な か った。 そ して彼は 、 多くを 命じた 。
た と え ば 、 メ ネ ス 王 か ら 約 六 世 紀 の ち 、 すなわちキリス ト誕 生の二五OO年 前こ ろに生
6 数万の人びとが数年かけて王の基を築いた。牛が石を引いてきた。

きたフ ァラ オのクフは、すべての国
民に彼の墓をつくるために働くよう
命じた 。そ れは 、 山 のような建物 で
なければならなかった。そして、事
実そうなった。今 日にのこる有名な

しかしその石は人間の力によって積み上げられた。
クフのピラミッドだ。写真で は、き
みも見たことがあるかもしれない。
しかしそ の大きさは 、 おそらくきみ
の想像をこえるだろうね。どんなに
大きな教会でも 、 そのなかに入って
ナイル川のほ とり

かたまり
しまうのだ。巨大な石の塊をった
わって登ることもできるが 、 それは
まさに登 山なのだ 。 もちろんそれら
巨大な石の 塊 を運び 、積み上げたの
は人間なのだ。そのころ機械は なか
った︹図 6 使えたのは、せいぜ
5
3
い﹁ころ﹂。

と﹁てこ﹂であった。す
べてをただ手で引き、 押 すしかなかった 。 あのアフリカの暑さのなかでだ。そのようにし
6

ておそらく十万の人が、三0年 間 、 畑 仕 事 の あ い ま の 数 ヶ 月 間 、 ファラオのためにせっせ
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と働いたのだ 。 そ し て 疲 れ て 立 ち 止 ま る と 、 王 の 監 督 者 は 、 ふだんは河馬を追うむちで打
ちす え、 前 へとすすませた 。 人 び と は 、 想 像 も で き な い 苦 し み に 耐 え ね ば な ら な か ったの
だ。 す べ ては 王 の墓 のために 。
お そ ら く き み は、なぜ王はそのよ う な 巨 大 な 墓 を つく ろう としたのかと疑問に思うだろ
う。 それは、エ ジプ ト 人 の 宗 教 と 関 係 が あ る の だ 。 エジプ ト人 は多神教、すなわち多くの
神 を 信 じ て い た 。 その神々の多くは │ │と 彼 ら は信じていたのだが │ │、たとえばオ シリ
スやその 妻 イ シ スのように 、 か つて 王 と し て 地 上 を 支 配 し て い た 。 また太陽も │ │と彼ら
、 そ れ 自 体 ア モ ンと よ ば れ る 神 で あ った。 地下 の国は │ │と彼ら
は信じていたのだが 11 1
は信じていたのだが ││ 、アヌピ スとよばれる、 ジ ャ ッカルの頭をもっ神が支配していた 。
そして、 ファラ オ は 太 陽 神 の 息 子 と 信 じ ら れていた のだ。 だから人びとは、フ ァラオをお
そ れ 、 そ の 命 じ る こ と に し た が ったのだ 。 神 々 の た め に 彼 ら は 、 巨 大 な 、 な か に は 五 階 建
てのビルディ ング に も く ら べられる、堂 々たる石の像をつくり、ひとつの都市ほどの大き
かこうがん
さの 神 殿 を建てた 。 神殿の前には、花山間岩のひとつの塊から彫り出された、高い、先の尖
った柱が立 っていた 。 こ れ は オ ベ リ ス ク と よ ば れ て い る が 、 そ れ は ﹁
尖ったもの﹂といっ
た意味のギリ シア語である 。 き み も 、 今 日 な お 多 く の 都 市 で そ の よ う な オ ベ リ ス ク を 見 る
だろうが、それらは後の時代にエジプトから運ばれてきたものなのだ 。
エ ジ プ ト 人 の 宗 教 で は 、 た と え ば 猫 と い っ た 動 物 も ま た 、 聖なる存在であった 。 多くの
神 は 動 物 の 姿 で 想 像 さ れ 、 事 実 そ の よ う な 形 で あ ら わ さ れ た 。 わ た し た ち が ﹁スフィンク
ス﹂ とよんでいる、ライオ ンの 胴 体 に 人 聞 の 頭 を も っ た 怪 物 は 、 古 代 の エ ジ プ ト 人 に と っ
ても っと も 権 威 の あ る 神 で あ った。 その巨大な像がいまでもピラミ ッドのかたわらに横た
わ って お り 、 そ の 大 き さ は 、 内 部 に ひ と つ の 神 殿 が そ っくりおさまるほどなのだ 。 この神
の 像 は 、 と き に は 砂 漠 の 砂 に 埋 も れ た こ と も あ ったが、もう五千年以上もフ ァラオの墓を
守 っているのだ 。 しかし、これから先どのくらい長く守りつ つ e
けることができるか、それ
はまさにきみたちの問題だ 。
エジプト人の宗教には、多くの不思議がある。なかでもとくべつ不思議なのは、彼らが、
ナイル川のほとり

人 は 死 ぬ と そ の 魂 は 肉 体 を は な れ る 、 し か し い つ の 日 かその魂はふたたび肉体を必要と
する、と信じていたことだ 。 エジプト人は、死んだあと亡骸が土にもどってしまうと、魂
が行く先を見うしなってしまうと考えたのだ。
そ こ で 彼 ら は 、 死 者 の 亡 骸 を 保 存 す る じ つ に 巧 妙 な 方 法 を 発 明 し た 。 まず亡骸に 、 香油
と あ る 種 の 植 物 の 汁 を す り こ む 。 つづいて 、 長 い 布 で い く え に も ぐ る ぐ る 巻 く 。 このよう
に し て 腐 る こ と の な く 保 存 さ れ た 亡 骸 は 、 今 日 ミ イ ラ と よ ば れ て い る 。 それは、崩れるこ
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となく、何千年もたつた今日にものこされている。ミイラはまず木製の棺によこたえられ 、
ひつぎ
つぎにその木の絡は石の棺に入れられ 、 そしてその石の棺は、地のなかでなく 、岩 をえぐ
8
3

った墓室におさめられた。たとえば﹁太陽の息 子﹂クフのように 、強 く力のある者であれ


ば、その亡骸のために石の山を築くこともできた。そのような石の山の奥底ならばミイラ
は安全だと考えたのだ 。 し か し 、 ク フ 王 の こ こ ろ づ か い も 努 力 も す べ て む だ に な っ た 。 そ
のピラミッドは 、今日空 になっている。
しかし 他 の王たちゃ多くの古代エ ジプ ト人のミイラが、墓のなかに発見されている 。 墓
は、魂が肉体をもとめてやってきたときの住まいであ った。 それゆえそこには 、 食 べ物

着る物、 その 他 の死者が生活するのに必要なものが 描 かれていた 。 そこにはまた 、 魂 がた
ず ね て き た と き 、 容 易 に 自 分 の 墓 を 見 つ け ら れ る よ う に と 、 死者の肖像もすえられていた
図7
︹ それゆえ今日でもわたしたちは 、 石の大きな彫像や、美しくあざやかな顔料で拙
かれ。 ︺絵に、当時のエジプト人の暮らしぶりをみることができる 。 もちろんすべてが正し

く 、 あ り の ま ま に 捕 か れ て い た わ け で は な い 。 じ っさいには横に前後してつづくことがら
が、多くの場合上下に重ねられている 。 人物像は、 胴体 は正面から、手と脚は横からたい
らに拙かれ、まるでアイロンを当てたかのように見える 。 それでも、古代のエ ジプ ト人が
描こ うと したことは十分に ったわる。 細部は 、 じ つに正 確に摘かれているのだ 。 ナイル 川
eb柄リ
で大きな網で大きな水鳥をつかまえる、船をあやつる、長い銘で魚をとるようす。 畑 の水
路 に 水 を く み 上 げ る 、 牛 や 羊 を 草 原 に 追 う よ う す。麦を 打つ、粉を挽く、 パンを 焼く 、 く

っ、 着 物 を つ く る よ う す。 ガ ラ ス を
7 死んだエ ジプト 人の亡骸は彼の最後の住まいに逮ばれる 。壁の絵

このことを彼らはすでに知 って い
吹く (
、レ ン ガ を つ く る 、 家 を 建 て る
た!)
ようす。 少女たちがボ l ルで遊ぶ 、笛
を吹くようす。 男たちが戦いに出かけ、

淡い、使節、職人、死者の船で運ばれる魂を描く 。
黒 人 を 捕 虜 に し 、 戦 利 品 とともに引き
立てるようす。 王 族 の墓では 、 宝もの
をたずさえた異国の使者の来訪、家臣
にほうびを与える王のようすを知るこ
とができる 。 また、神々の像の前で両
ナイル川のほとり

手をあげて祈る死者の生前のすがた、
pyヲ
歌うたいが竪琴にあわせてうたい、道
化 が曲芸をする宴のようすも見られる 。
けうたげ
これらの色あざやかな絵のかたわら
には多くの場合 、 フクロウ 、人間、旗、
花、テ ント、コ ガネムシ 、 うつわなど

はl
9
3
の小さな絵、さらにはぎざぎざ線ゃう
ずまき線が 、横 や縦に整然と並んでいるのが見 られる 。 これはい った い 何 だ ろ う ? 絵 で
0

、ヒ エログリ フなのだ 。 エジプ ト人は、 ﹁


4

はなく、彼ら の﹁ 聖なる文字﹂ 書く ﹂ とい う彼 ら
の新しい技術を非常にほこりにし、 ﹁書くこと ﹂ を聖なる技とみなし、 ﹁
書 く人 ﹂ は、あ ら
ゆる職業のなかでも っとも尊敬された 。
聖なる文字﹂ はど のように書かれたのか、きみも知りたいだろ うね。 それは、じ っさい

なぞなぞの 判 じ絵に似て 、 やさしいものではなか った。 たとえば、ォ シリ スという神 の名
ヴォ シリ﹂ とよばれていたのだが 、 まず
はどう書くのかみてみよう。 ほんらいこの 神は ﹁
玉座の絵t 、 つついて目の絵 デ
e
エジプト語では玉座は ﹁ヴォ ス﹂ 、目は ﹁イリ ﹂、 ふたつ
の絵で ﹁ ヴォ シリ﹂ となる。しかし﹁玉座自﹂と読む人がいては因るので 、 多くの場合そ
れに 小 さ な 旗 ﹁ が加えられる 。 これは神のしるし 。 ちょうどわたしたちが、人の名前に、
それが故人であればその名の横にTをつけるのと同じだ 。 このようにしてきみも、 ﹁オ シ
リス﹂とヒエログリフで書くことができるのだ 。 しかし 、 いまから約二OO年前、ヒエロ
グリフとふたたび取り組んだ人びとが、そのすべてを読み解くのにどんなに苦労したか考
えてごらん。解読は、同じ内容をギリシア語とヒエログリフで - 記した石碑が発見されて、
はじめて可 能と な ったのだ 。 それでもそれは 、偉 大な学者たちが生涯をかけた大変な仕事
だ った。
今 日わたしたちは 、 のこされたヒエログ リ フのほとんどすべてを解読することができる 。
壁に書かれたものだけでなく、本にあるものも。しかし、本のなかのあまり鮮明でない絵
文字を読み解くには 、ずいぶん時聞がかかった。たしかに古代のエジプト人は、すでに本

の1ν
を も っ て い た 。 も ち ろ ん き み の 使 う 紙 で は な く 、 そ れ は 、 ナ イ ル 川 に生える葦の 一種、ギ
ラテン語でパピルス )とよばれるものからつくられていた。 ﹁
リシア語でパピロス ( 紙﹂を
意 味 す る 英 語 の ﹁ ベ イ パ l﹂、ドイツ語の ﹁パピ│ル ﹂ は、このパピルスからきているの
だ。
パピルスは、長い帯状に加工され 、 人びとはその上にものを書き、それを筒状に巻いた 。
そのような巻き本が大量にのこされており、それらを読めば読むほどわたしたちは、古代
のエジプト人がいかに賢い人間であったかを知る。きみに、五千年前に書かれたひとつの
格 言 を 教 え て あ げ よ う 。﹁ 賢 い こ と ば は 緑 の 宝 石 よ り 珍 し い 。 し か し そ れ を ひ と は 、 石 う
ナイル川のほと り

すをひく貧しい少女の口からも聞くことができる。﹂よくかみしめてごらん 。
エジプト人は 、 このように賢くすぐれた能力をもっていたから、彼らの王国は長くつ守つ
いた 。 他のどの国よりも長く、三千年以上もつやついたのだ 。 そして彼らは、亡骸を朽ちる
こ と の な い よ う 注 意 深 く 保 存 し た よ う に 、 古 い 儀 式 や 習 慣 を 何 千年もの問、きびしく守り
つづけた 。 神 官 は 、 息 子 た ち が 父 親 の し た こ と 以 外 の こ と を し な い よ う 、 き び し く 監 視 し
た。 エ ジ プ ト 人 に と っ て は 、 古 い こ と は す な わ ち 神 聖 な こ と で あ っ た 。
1
4
長い歴史をとおしてたった二度ほど、人びとは、この厳格な単調さをやぶることをここ
ろみた。その一度目は、クフ王からまだそれほど遠くない紀元前一二 OO年ころ、支配さ
2

むほん
4

れていた者たちが、すべてを変えようとこころみた。彼らは謀反を起こし、ファラオの代
官を殺し、ミイラを墓から引きずり出した。﹁きのうまではサンダルもはかなかった者が
今日は宝ものを身につけ、きのうまでははなやかな衣を身につけていた者が今日はぼろを
着ている。国は、ろくろのようにまわった﹂と、ある古いパピルスの巻き物はったえてい
る。しかしそれは長くはつづかず、やがてすべてはもとにもどった。いや、以前よりもな
おいっそうきびしくなった。
二度 目は、フ ァラオ自身がすべてを変えようと した 。このファラォ 、 す な わ ち 紀 元 前 一
三七O年ころに 生きたイ クナl トンは、不思議な男であった。彼は、多くの神々となぞに
満 ち た し き た り を も っ エ ジ プ ト 人 の 宗 教 に 不 信 を いだいたのだ 。﹁ 神はただひとつ、その
光 が す べ て を つ く り 、 す べ て を 養 う 太 陽、 た だ こ の 太 陽 の み を 拝 め ﹂ と 、 彼 は 民 衆 に 説 い
おが

古 い 神 殿 は 閉 じ ら れ 、 王 イ ク ナ l ト ンは、妃をつれて新しい宮殿に移った。彼はすべて
すうとう
の古いものに反対し、新しい、崇高な理念に燃えていたから、その宮殿を飾る絵も、まっ
たく新しいやり方で描かせた。それは、もはや以前のように堅くも、きびしく儀式ばって
もおらず、まったく自然でのびのびとしていた。しかしこれらすべてが、人びとに受け入
れられたのではなかった。人びとは 、 何 千年ものあいだ見てきたように、ものを見たいと
ねがった。そして、イクナ 1 トンの死後まもなく彼らはふたたび古いしきたり、古い芸術
にもどり、すべてはエジプト王国が滅びるまで 、 その古いままにのこった。ほとんど三五
00年 の あ い だ 人 び と は 、 メ ネ ス 王 の 時 代 と 同 じ よ う に ミ イ ラ と し て 葬 ら れ 、 ヒ エ ロ グ リ
フで書き、変わらぬ神々を崇拝したのだ。猫は、あいかわらず聖なる動物として崇められ
た。もしきみがわたしに訊くならば、その点では古代エジプト人は少なくとも正しかった
とわたしは答えるだろう。
ナイル川のほ とり
3
4
4
4

日月火水木 金 土

一週 間 は七日である 。 それが、日 、 月、 火、 水 、 木、 金 、 土 と よ ば れ て い る こ と は 、 き
みも知っているね 。 しかしきみは、 一日 一日とすぎてゆく 日が い つ か ら 順 に並べられ 、 名
前 を も つ よ う に な ったか 、 知 ら な い の で は な い だ ろ う か 。 い ったいだれが日を 一週間にま
とめ 、 そ れ ぞ れ に 名 前 を あ た え た の だ ろ う か 。 それは 、 エジプ トではなく、 別 の国での 出
来事だ った。 そこも暑か った。 そ し て そ こ に は 、 ナ イ ル と い う 一本の 川 でなく 、 ユl フラ
テ ス と テ ィ グ リ ス と いう 、 ふ た つ の 川 が 流 れ て い た 。 だ か ら 人 び と は 、 そ の 地 を ﹁ふた
つの 川 の地﹂ と よ ん で い た 。 また 、 その中 心 となる 地域がふたつの 川 の間にあ ったから、
﹁川 にはさまれた 地﹂、 すなわちギリ シア語で ﹁メ ソポタミア ﹂ とよんだ 。 このメ ソポタミ
アは 、 アフ リ カではなくア ジ ア、 だがヨ ー ロ ッパ から はあまり遠くない 、 すなわち近東の
アジアにあるのだ 。 ユl フラテスとティグリスのふたつの 川 は、 ペルシア湾に流れ込む 。
このふたつの 川 が 流 れるのは 、 ひろい 、 お そ ら く き み の 想 像 も お よ ば な いであろう 、 ひ
ろ い ひろ い平 原 な の だ 。 暑く 、 沼 地 が 多 く
、 ときには水、浸 し にもなる 。 今 日
、 この平原の
あちこちに大きな丘が見える。しかしそれは、ほんとうの丘ではない。そこを掘ると、ま
けん﹂ご
ず こ わ れ た 大 量 の レ ン ガ の 層 に ぶ つ か る 。 や が て そ の な か か ら 、 高 い、堅固な壁が出てく
る。 丘 は 、 崩 れ 落 ち た 都 市 、 す な わ ち 長 く ま っ す ぐ に の び た 街 路 、 階 を 重 ね た 家 並 み 、 宮
殿 、 神 慣 を も っ 、 大 き な 都 市 の 廃 嘘 だ っ た の だ 。 そ れ ら は、エジプトのように石ではなく
レンガでつくられていたから 、 長い時の流れ 、 熱い太陽の下でしだいに崩れ 、巨大な瓦礁
がれき
の山 となっていた。
今 日 パ ビ ロ ン と よ ば れ る 地も、そのよ う な 砂 漠 の な か の 瓦 礁 の 山 のひとつであり、それ
は か つ て 、 品 物 を 持 ち 込 み 交 換 す る あ ら ゆ る 国 々 か ら 人 の あ つ ま る 、世界最大の都市パピ
ロ ン で あ っ た 。 そ し て 川 の 上 流 、 山 な み の ふ も と に の こ る 瓦 礁 の 山 が、二番目の大都市ニ
ネヴェであった。パビロンは、パビロニア人の首都であった。それはきみにもすぐに 想像
で き る だ ろ う 。 だ が ニ ネ ヴ ェ は 、 アッシリア人の首都であった。
日月火水木金土

メソポタミアでは 、 エ ジ プ ト の よ う に 、 た っ た ひ と り の 王 が 全 土 を 支配 す る こ と は ほ と
んどなかった 。 定 ま っ た 国 境 を も ち 、 長 く つ づ い た 王 国 と い う も の も な か っ た 。 多 く の 民
族と多くの王がこの地に生きて、かわるがわるに支配した。なかでも勢いをもったのが、
シュメ l ル 人 、 パ ビ ロ ニ ア 人 、 ア ッ シ リ ア 人 で あ っ た 。ご く 最 近 ま で は 、 文 化 と よ べ る も

の、すなわち職人、豪族と王、 神 殿 と神 官 、 役 人 と 芸 術 家 を か か え た 都 市 、 文 字や技術を
5
4
も っ た も っ と も 古 い 民 族 は 、エ ジプト人と信じられてきたのだ。
数 年 前 か ら わ た し た ち は 、 こ れ ら の 多 く の 点 で は シ ュ メ l ル人がエジプト人に先んじて
6

いたことを知っている 。 ベルシア湾近くの平原にそびえたついくつかの瓦礁の 山 の発掘は、


4

そ こ に 住 ん で い た 人 び と が す で に 紀 元 前 =二 OO年 以 前 に 、 粘 土 か ら レ ン ガ を つ く り 、 そ
れ で 家 や 神 殿 を 建 て て い た こ と を 明 ら か に し た 。 その大きな瓦礁の山のひとつには、アブ
ラ ハ ム の 先 祖 の 地 と 聖 書 の 語 る 都 市 ウ ル の 廃 櫨 も ね む っていた 。 そこでは 、 エジプトのク
フ王 の ピ ラ ミ ッ ド と 同 じ 時 代 の も の と 思 わ れ る 多 く の 墓 が 発 見 さ れ た 。 彼のピラミ ッドは
す で に 空 で あ った、か 、 こ れ ら の 墓 か ら は 、 ま ったくすばらしい、おどろくべき品々が出て
きた 。 女 性 た ち を 飾 った は な や か な 装 身 具 、 儀 式 の た め の 黄 金 の う つ わ 、 黄 金 の 兜 、 金 と
おうし
宝石で飾られた短剣、さらには牡牛の頭の飾りをつけた豪華な竪琴、それになんと、細か
くあざやかに象附敵された市松もょうの盤までも出土したのだ 。
ぞうがん
こ れ ら の 墓 か ら は 、 文 字 を 刻 ん だ 石 の 印 章 や 粘 土 の 板 も 発 見 さ れ た 。 しかしその文字は、
いんしよう
ヒエログリフではなく、も っと 解 読 の む ず か し い 、 種 類 の ま ったく異なるものであ った。
す な わ ち 絵 で は な く 、 三 角 形 ゃ く さ び に 見 え る 尖 った線を組み合わせた、いわゆる ﹁
くさ
び形文字﹂ と よ ば れ る も の で あ る 。 メソポタミアでは、 パ ピルスの本は知られていなかっ
た。人びとは、その文字をやわらかい粘土の板に刻み、火で焼いた。このようにしてつく
ら れ た 堅 い 素 焼 き の 粘 土 板 が 、 こ れ ま で に 莫 大 な 量 で 発 見 さ れ て い る 。 そのなかには 、 竜
ばくだい
やさまざまなおそろしい怪物と戦う英雄ギルガメシュの長大な冒険物語をつたえるものも
ある。また王たちが、自分の行ないを記録し、永遠なる神々のために巨大な神殿を建てた、
あるいは多くの異民族を征服したと、みずからの業績をたたえる大量の刻文も見つかって

可。

し か し 多 く は 、 契 約 、 保 証 、 在 庫 目 録 な ど 、 はるか遠いむか し の商業にかかわる 内容を
記 録 し た も の で あ っ た 。 こ の こ と か ら わ た し た ち は 、 太古のシュメ l ル人 、 それに後のパ
ピ ロ ニ ア 人 や ア ッ シ リ ア 人 が 、 計 算 と い う こ と を よ く 心得 た 、 そ し て 正 し い こ と と 不 正 を
見きわめることのできた、偉大なる交易の民であったことを知る 。
全土を支配した早い 時代 のパピロニア王のひとりハンムラピについての、石に彫られた
貴 重 な 銘 文 が の こ さ れ て い る 。 そ れ は 、 世 界 で も っとも古い法律書、 すなわち﹁ハンムラ
ビ法 典 ﹂ と よ ば れ て い る も の だ 。 王の名は 、 まるで童話の主人公のように聞こえるが 、 そ
の 法 律 は 、 と て も 理 性的 で き び し く 公 正 な も の な の だ 。 し か も こ の ハ ン ム ラ ビ が 生 き た の
日月火水木金土

は、キリスト誕生の約一七OO年 前 、 す な わ ち 今 か ら 三 七OO年 前 のことなのだ 。


パ ピ ロ ニ ア 人、 そ し て 後 の ア ッ シ リ ア 人 も、 き び し く 勤 勉 な 民 族 で あ っ た 。 し か し彼 ら
の美 術 は、 エジプト人のように、多くのものを色彩ゆたかに 錨 く も の で は な か っ た 。 彼 ら
が 描いた のは 、 ほ と ん ど の 場 合 王 そ の 人 で あ り 、 狩 りをする王 、 自 の前に縛られた 捕 虜 を

とりで
ひ ざ ま ず か せ る 王 、 異 民 族 を 追 って戦車を走ら せる王、敵の砦を攻める戦士としての王の
7
4
姿 で あ っ た 。 そ の 王 は 、く ろ ぐ ろ と し た ひ げ と 巻 き 毛 の 髪 を 長 く の ば し、いか めしく 、い
つも不機嫌そうにみえる。そのような王はときおり 、神 々、たとえば太陽神パ l ルや月の
8

t にえ
4

女神イシュタルあるいはアスタルテに、生け賛をささげている︹図8
というのは、パビロニア人やア ッシリア 人は、太陽や月、それに星。

々を神として崇めて
いたからなのだ 。 彼 ら は 、 そ の 地 の 明 る く 暖 か い 夜 に 、 何 十 年 も 何 百 年 も の あ い だ 、 天
空 の 星 た ち の よ う す を 観 察 し つ づ け た 。 や が て 賢 明 であった彼らは、星たちをのせた天
が、規則正しく弧を描いて回転していることに気づいた 。 そしてやがて彼らは、それらの
星があたかも天空に張りついたように、毎夜きまった位置にあらわれることを知った。彼
らは、それらの星が天につくる図像に 、たと えば﹁大熊座﹂、﹁天秤座﹂と い った名前をつ
けた 。 しかし彼 らの い っそうの注意 は、あるときは ﹁
大熊座﹂の 近く、あるときは﹁天秤
座﹂の 近くにあ らわれて 、 天空を移ろい歩く星たちに向けられた。当 時 の人びとは 、大地
は固定した円盤であり、星空は、鉢のように大地にかぶさ って、一日に一回転する中空の
球であると考えていた 。 それゆえいっそう人びとには、いくつかの星が天に張りつくこと
なく、いわばゆるやかに縛られた状態で、天を自由に動くのが不思議に思えた 。
今 日 の わ た し た ち は 、 そ れ が 地 球 と と も に 太 陽 の ま わりをまわる星、すなわち惑星とよ
ばれるものであることを知 って いる 。 しかし古代のパピロニア人やア ッシ リア人は、それ
を知らなか った。 それゆえ彼らは、そこに何か魔法が隠されていると考えた 。 彼らは、そ
れらの星に固有の名をあたえ、それぞれの動きを目をこらして追 った。 彼らは、それらの
4
9 四 日月火水木金土

B ライオン狩りに 出かけるアッシリ 7 の王。アーチ 門の壁面に見え


るのは、アッシリア人の聖なる獣、人間の頭をもっ有翼獣。
¥

星が不思議な力をもち、そのときどきの位置が人間の運命にとって 何 らかの意味をもっと
0
5

考えたのだ。すなわち彼らは、それらの星の位置から未来を予見しようとしたのだ。これ
は、ギリシア語でアス ト ロロギィ、すなわち﹁星占い ﹂ とよばれた 。
ある惑星は幸運、ある惑星は不幸をもたらすと信じられた。 7ルス ( 火星 ) は戦争、 ヴ
金星 ) は愛を意味した。それぞれの惑星の 神 に、聖なる一日があたえられた 。
ィー ナス (
それに太陽と月をくわえて七になるので、今日の七躍が生まれた 。 太陽日 ( 日曜)と月日
月曜 )は 、 今 日 で も 使 わ れ る 。 当 時知られていた五つの惑星は、マル ス、 71 キ ュリー
(
( 、ジ ュピタ ー (
水星) 、ヴィ ー ナス、サタ │ ン (
木星 ) 土星 ) であった。わたしたちのドイ
ツ語の曜日では、これらの惑星を知ることはできない。しかしたとえばフランス語では、
、メル
マルディ (マルスの日 ) クレディ(マ │キュリーの日 、 ジュデイ(ジュピタ ー の日)
) 、
ヴエンドレディ (ヴィ ー ナスの日)である。土 曜日は英語でサタ サタ l ンの日 ) で
1デイ (
ある 。ドイツ語では 、 ギリシア ・ロl マの神々の名が 、 それと代わる古いドイツの 神 の名
に替えられているので、やっかいなのだ。ディウは古代ドイツの戦いの神であり、それゆ
ディウスの日﹂ 855g開)となり、同じように、古代ドイツでジュ
え﹁マルスの日﹂は ﹁
ピタ ー に似 て 崇 め ら れ た 神 ド ナ ウ か ら ﹁ ド ナ ウ の 日﹂6855g加)がつくられた。これ
で今日の七曜日が、神とかかわりのある、意味の深い、何千年もの歴史をもっ事柄である
ことがわかったのではないかな 。
5
1 四 日月火水木金土

一 一
一一
一 一


一 一

一一
一一

9 パピロンの人びとは高い階段状の塔から星 の動きを観嫁した。
天の星にいっそう近づくために、いや、湿気の多い風土のなかで天の星たちをいっそう
2
5

よく見るために、すでにシュメ l ル人は、そしてバビロニア人もまた、風変わりな構造物
を築いた。厚く堅固な外壁に守られた巨大な建物が、それぞれに付属するひろいテラスに
か こ ま れ 、 せ ま く 急 な 階 段 で つ な が れ て 、 上 へ 上 へ と 高 く 重 な る 塔 で あ る ︹ 図 9︺。聖書
がったえるバベルの塔もその一つであったろう。それらの塔の最上段は、月あるいは惑星
にささげられた神般であった。その神殿の神官に星から運命を予言させようと、はるか遠
方からも人びとは、高価なささげ物をもって訪ねてきた。今日でもこれらのテラスを重ね
た塔は、崩れ、廃櫨となりながらも、砂漠のなかに高くそびえ立っている。そしてその瓦
礁のなかからは、それらを建てた、あるいは改築した王たちの功績をたたえる粘土板が発
見されている。この地域をおさめたもっとも早い時代の王たちが生きたのは、おそらくキ
リ ス ト が 生 ま れ る 約 三 千 年 前 、 そ し て 最 後 の 王 朝 が 閉 じ た の は 、 紀 元 前 五 五O年頃であっ

そ の 最 後 の 勢 力 を ほ こ っ た 王 が 、 紀 元 前 六O O年 頃 に 生 き た ネ ブ カ ド ネ ザ ル で あ る 。 こ
の王を有名に し た の は 、 彼 の 大 が か り な 遠 征 で あ っ た ︹
図 叩︺。彼は、エジプト人と戦い、
多くの民を奴隷としてバビロンに連れ帰った。しかしそのような軍事行動だけが、彼の業
かんがい
績ではない。もっと偉大な業績は、濯瓶、すなわち国土をみのりゆたかな地とするために
ためいけ
彼 が 築 い た 大 規 模 な 水 路 や 溜 池 で あ った 。 や が て こ れ ら の 水 路 が ふ さ が り 、 溜 池 が 埋 ま っ
たとき、この地はふたたび荒涼とした、ただところどころに砂におおわれた丘のみがそび
える、砂漠と化したのであった 。
これからのきみたちは、週がめぐり、ふたたび日曜日が近づくのをよろこぶとき、とき
には暑く荒涼とした平原にそびえ立つ瓦礁の丘、黒く長いひげのいかめしい王たちのこと
おも
を 想 う の で は な い だ ろ う か 。 いまやきみは、それ ら の す べ て が 関 係 の あ る こ と を 知 っ た の
だから 。
日月火水木金土

3
5
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一干

アラビア砂漠

血 なまぐさい戦 いと フェ ニキア 人の大胆な航海ではじま った。


5
5 四 日月火水木金土

小アジア

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サハラ砂漠

1
0 メ ソ ポ タ ミ ア と エ ジ プ ト に は さ ま れ た こ の地 で は、 歴 史 は
6
5




ア フ リ カ の エ ジ プ ト と ア ジ ア の メ ソ ポ タ ミ ア の 聞 に 、 いく筋もの深い谷を刻むひろい高
原の 地 が よ こ た わ っ て い る 。 そ こ で は 、 何 千 年 に わ た って 遊牧の民が、家畜の群れを追い、
ブ ド ウ の 樹 を 植 え 、 穀 物 の 種 を ま き 、 タ ベ に 歌 を う た っ て 暮 ら し て い た 。 その 地 は、 エジ
プ ト と パ ピ ロ ニ ア の 間 に あ っ た が ゆ え に 、 あ る と き は エ ジ プ ト 人 に 、 またあるときはパピ
ロニア人に征服され 、 そ の 住 民 は 、 あ る と き は エ ジ プ ト に 、 ま た あ る と き は パ ピ ロ ニ ア に
連 れ 去 ら れ た 。 彼 ら も 、 城 壁 で 守 ら れ た 都 市 や 砦 を も ってい た。しかし 、 大 国 の 隣 人 に 抵
抗 で き る 力 は な か った。
﹁かわ い そ う だ が 、 そ れ だ け で は 歴 史 に の こ ら な い 。 そ の よ う な 弱 小 の民族は、かぞえき
れないほど存在したのだから﹂ときみはいうだろう。そう、そのとおりだ。しかしこの民
族 は 、 小 さ く 、 力 は な く と も、 た だ 歴 史 に の こ る だ け で な く 、 歴 史 そ の も の を つ く る 、 す
なわち以後のあらゆる歴史の運命をきめる、あるとくべつなものをもっていた。彼らの宗
、 他 の す べ て の 民 族 は 多 く の 神 々 に 祈 っていた。きみも 、 エジプト人のイシス
教だ 。 当 時
や オ シ リ ス 、 パ ピ ロ ニ ア 人 の 太 陽 神 パl ルや月の女神アスタルテのことをおぼえているね。
だがこの地の牧人たちは、ただひとりの神、自分たちをとくべつに守り導いてくれると信

じた、彼らのたったひとりの神にだけ、祈ったのだ。 日が 沈 み 、 野 営 の 焚 き 火 の か た わ ら
で、みずからの行ないや戦いをうたうとき、そのうたで彼らは、唯一の神の行ない、唯 一
の神の戦いをうたったのだ。そのうたのなかで彼らの神は、異教の多くの神々のすべてよ
りもつよく、正しく、そして高貴であった。そう、長いときの流れのなかで、多くのうた
のなかで、そのようにうたいつがれていったのだ。彼らの神はたったひとりと。この唯
一の神が、天と地、太陽と月、水と 士 、 植 物 と 動 物 、 そ し て 人 聞 を 創 造 し た と 。 こ の 神 は

嵐のなかでおそろしく怒ることもあるが、エジプト人におさえつけられ、パピロニア人に
連 れ 去 ら れ た と き も 、 自 分 た ち を け っ し て 見 す て な か っ た と 。 自 分 た ち は 彼 の 民、 彼 は自
分たちの神と信じ、それをほこりにしたのだ。
も う き み は 、 こ の 不 思 議 な 、 無 力 な 遊 牧 の 民 が だ れ か 、 わかっているね。そう、ユダヤ
佐ーの神

人だ。そして 、 神 の 行 な い と さ れ た 彼 ら の 行 な い を う た っ た う た と は 、 聖 書 の な か の 旧約
の書のことだ。
1

ま だ 少 し 待 た ね ば な ら な い だ ろ う が 、 き み が 聖 書 を 正 し く 読 む 日がくれば、そこには、

他 のどこにもないほどに古代の多くの出来事が、いきいきと語られていることを知るだろ
7
5
う。でもいまきみはすでに 、 聖書の話をこれまで以上に理解することはできるね。アブラ
ハ ム が ど こ か ら き た か 、 思い 出 し て ご ら ん 。﹃創 世 紀﹄ 第 十 二単には 、 カ ル デ ア の ウ ル と
8

書かれて いる。 ウルは 、 ベ ル シ ア 湾 沿 い の 瓦 礁 の山 で、 そ こ か ら 近 年、 竪 琴 や 将棋盤、 武


5

器 や装 身 具など 、 多 く の も の が 発 掘 さ れ た の だ っ た ね 。 しか し アブラハムがその 地 にいた


のは 、 そ れ ら の 発 掘 品 の時 代 ほ ど 大 む か し で は な く 、 お そ ら く あ の 偉 大 な 立 法 者 ハ ン ム ラ
ピと 同 じ こ ろ で あ ったと思われる 。 それは 、 キ リ ス ト が 生 ま れ る 約 一七OO年 前 の こ と だ
っ ね 。 ハンムラピのきびしく公正な提の多くは 、 聖書のなかにもったえられているのだ 。
おきて

しか し古 代 の パ ピ ロ ニ ア に つ い て 聖 書 が 語 って いることは 、 それだけではない 。 パ ベ ル
の搭の話は 知 っているね 。パ ベルとは パ ピ ロ ン の こ と な の だ 。 そ し て こ の 話 を い ま き み は 、
以 前 よ り も よ く 理 解 で き る だ ろ う 。 パビロニ ア人はじ っさいに 、 太 陽 や 月 や 星 に い っそう
近づこ う と、 ﹁そ の 頂 が 天 に と ど く ﹂ お そ ろ し く 高 い 塔 を 建 て た の だ ったね 。
いただき
ノアと洪 水 の話も、 舞 台 は メ ソ ポ タ ミ アであ った。 そ こ で 発 掘 さ れ た く さ び 形 文 字 を も
っ粘 土 板 に は 、 聖 書 に あ る の と よ く 似 た 話 も 語 ら れ て い る の だ 。
聖 書 に よ る と 、 ウル 出身のア ブ ラ ハ ム の 子 孫 の ひ と り に 、 ヤコブの子ヨセ フがいた 。 兄
た ち に エ ジ プ ト に売られ 、 そこで ファ ラ オ の 宰 相 にな ったあのヨセ フだ。 この話のつづ
さいしよう
きも 知 って いるね 。 国が 飢 鐘 にみまわれ 、 ヨセフの兄たちがゆたかなエ ジプ ト に 穀物 を買
きをん
いに 行 っ た の だ ったね 。 そ の こ ろ す で に 、 ピラミ yド は 築 か れ て 千 年 以 上がた つて いたの
だ から、 そ れ を 見 た と き ヨ セ フ や 彼 の兄 たちは 、 いまのわた し たちと 同じ くら いにおどろ
いたことだろうね。
ヤ コ ブ の 息 子 た ち と さ ら に 彼 ら の 子 ど も た ち は 、エ ジ プ ト に 住 む こ と に な っ た 。 そ して
彼 ら は 、 ピ ラ ミ ッ ド 時 代 の エ ジ プ ト 人 と 同 じ く 、 フ ァ ラ オ の た め に 奴 隷 の よ う に 働かねば
ならなかった。﹃出エジプト記﹄第一章には 、 そのようすが次のように語られている。﹁エ
ジ プ ト 人 は イ ス ラ エ ル の 人 び と を 苛 酷 に あ っ か い 、 つ ら い 仕 事 で 彼 ら を 苦 し め た 。すなわ
ち、壁土をこね、レ ンガをつくり 、 田 や 畑 の あ ら ゆ る 仕 事 に あ た ら せ た が 、 そのすべての
労 働 は き び し か っ た ﹂ と 。 そ し て つ い に そ l セが、彼らをエジプトから砂漠へと連れ出し
た。 そ れ は お そ ら く 、 キ リ ス ト の 生 ま れ る 約 一 二 五O 年 前 の こ と で あ っ た ろ う 。 そ こ か ら
彼らは、神が彼らに約束した地、アブラハム以来かつて彼らの祖先たちが住んでいた 地を
目ざして、長い旅をつづけた。そしてついに 、 くりかえされた血なまぐさい戦いのすえ、
パレスティナ ) に た ど り 着 く こ と に 成 功 し た 。 そしてそこに彼らは、
その約束の 地 カナン (
エルサレムを首都とする自分たちの 小 さ な 王 国 を 建 設 し た 。 その初代の王サウルは、とな
佳ーの神

りの民族アイリスティア ( ベリシテ ) 人 と の 戦 い に た お れ た 。
つづく王たち 、 ダ ヴ ィ デ や ソ ロ モ ン に つ い て 、 聖 書 は も っ と 多 く の 美 し い物語を つたえ
1

ている 。 賢 明 で 公 正 な 王 ソ ロ モ ン が 国 を お さ め た の は 、 紀元前一 000年を過ぎて間もな


い こ ろ 、 す な わ ち ハ ン ム ラ ピ 王 か ら 約 七O O年 後、 メネス王からは一二 OO年後であった
9
5
ろう。王ソロモンは、首都エルサレムに 、豪華さや大きさではエジプトやパビロンのそれ
に も 負 け な い 、 最 初 の 神 殿 を 建 て た 。 その建築にたずさわったのは、ユダヤ人ではなく、
0

隣 国 か ら や って き た 技 術 者 た ち で あ った。 しかし、ょうすはちがっていた 。 異教の 神 殿の


6

内部には、エ ジプ トの ジ ャ ッカ ル の 頭 を も っ ア ヌ ピ ス 、 人 間 の 生 け 賛 を も と め る パビロン
のバ l ルなど、神 々の 像 を 欠 く こ と は で き な か っ た 。 しかしユダヤ人の神殿の中心部、も
っ と も 神 聖 と さ れ た と こ ろ に 、 像 はなかった 。 自 分 た ち を 歴 史 上 最 初 の 民 族 と み な す ユ ダ
ヤ人、そのユダヤ人に偉大なる唯一の神としてあらわれた神からは、いかなる像をつくる
こともできなか った。 またゆるされなか った。 そこにはただ、十の戒めを刻んだ石の板が
置 か れ て い た 。 神は、その板にあらわれていたのだ。
ソロモンのあと 、ユ ダ ヤ 人 の 状 況 は 悪 化した 。 国 は 、イ スラエル王国とユダ王国に分裂
した 。 多 く の 戦 い が あ り 、 結 局 紀 元 前七 二二年、 半 分 を 占 めたイスラエル主国はア ッ シリ
ア人に征服され 、 消 え て 行 った。
不思議なことだが、このうちつ 守
ついた不幸が 、 生 き のびた 小さな ユダヤ民族をはじめて、
真 に 敬 慶 な 民 に し た の だ 。 ひ と む れ の 男 た ち が 、 民 衆 の な か か ら あ ら わ れ 出 た 。 彼らは、
けいけん
神 に 仕 え る 者 た ち で は な か った。 神 が 自 分 の な か で 語 る か ら そ れ を 民 衆 に 語 ら ね ば な ら な
い と 感 じ た 、 素 朴 な ひ と た ち で あ った。 彼らの語ることはいつも、 ﹁ すべての不幸はみな
おまえたち自身のせいだ 。 神 は お ま え た ち の 罪 を 罰 し て い る の だ ﹂ であった 。 ュ、ダヤの民
は、これら預言者のことばの う ちに 、 す べ て の 苦 し み は た だ 罰 と 試 練 で あ る こ と 、 そして
ょげんしゃ
いつの日か大いなる救い、この民に
1 燃 える エ ルサレムを見 下 ろす ヰプカドネザノレ。 ユ ダヤ 人 は 捕 虜 と
かつての力をふたたびあたえ、さら
に永遠の幸福をさずける救世主 、 メ
シアのあらわれることを聞いたので
あった。
しかし、苦しみと不幸は長く つ つ
e
いた 。 きみは、 パピロ ニア人の勇将
ネブ カドネザ ルのことをおぼえてい
るね 。 エジプ ト遠征の際、彼は ﹁

束の地﹂をとおり 、紀元前五八 六年

して パピ ロンへ述れ去ら れた。
エルサレムを破壊し、王ゼデキアの
自をえぐり、ユ ダ ヤ人を 捕 虜 として
唯一の神

パピロンに連れ去 ったのだ ︹ 図日
連れ去られたユダヤ人はパピロ。 ︺

に、紀元 前 五三八年パピロニア帝国

が隣国ベル シアに破壊されるまで 、
1

1
6
約五0年間とどめられた。故郷に帰
ったとき、彼らは変わっていた。周囲のすべての民族とは、ちがうものになっていた。彼
2

ぐうぞう
6

らは、自分たちを 他の民族か ら離れさせた。彼らには 他 の民族が、真の 神 を知らない 偶像


崇拝者に見えたのだ。このころに聖書ははじめて 、 二四OO年後の今日のわたしたちの知
るかたちを得た。一方 他 の民族には 、 つねにだれにも見えないたったひとりの神について
諮問り、きびしくむずかしい提や習慣を 、 ただ見えない神がそう命じるからといってかたく
な に 守 る ユ ダ ヤ 人 は 、 し だ い に お か し く 、 不気味に思えてくるのだった。そして、おそら
く先にユダヤ人がみずから他から孤立したのであろうが、やがて周囲の民族もまた、自分
たちを ﹁
えらばれた民族﹂とし、昼も夜も聖なる書物に向かい、なにゆえに唯一なる 神 は
彼 の 民 を こ れ ほ ど ま で に 苦 し め る の か 、 と 考 え つ づ け る ユ ダ ヤ 人、 こ の 小 さ な 民 族 と の 聞
に、距離をおくようになった。
だれもが読める文字

」一


書くこと 、 読 め る こ と が で き る か で す っ て ? 学 校 に 行 っ た 者 な ら だ れ で も で き ま す 。
文字をつづればいいのですから。たとえば、 戸 戸 国 とつづれば、 -
n同 (わたし)になりま
す 。 こ の よ う に 二 六 個 の 文 字 を 使 え ば 、 あらゆることを書き、読むことができます。﹂
そうなのだ、あらゆること、あらゆることばを書き、そして読むことができるのだ !
これは素晴らしいことだ 。 数 本 の 線 か ら な る た った二六個のかんたんな記号で、あらゆ
る こ と ば で あ ら ゆ る 内 容 を 書 き と め 、 読 む こ と が で き る 。 賢いことも愚かなことも。聖な
おろ
る 真 理 も た わ い な い 世 間 話 も 。 そ れ は 、 エジプトのヒエログリフ、メソポタミアのくさび
形文字では、かんたんにできることではなかった。ひとつの記号でひとつの音をあらわし、
二六の音であらゆることばを組み立てる。それは、まったく新しいことであった 。 それは、
多 く を 警 か ね ば な ら な い 、 聖 な る 章 句 や 歌 だ け で な く 、 多 く の 手 紙 、 契 約 書 、 証 明 書を書
かねばならない人間の発明であった。
3
6
その発 明者 は 、 商 人 で あ っ た 。 大 海 に 漕 ぎ 出 し、遠い国から遠い国へと品物を運び、交
換し、売買する商人であった。その商
4
6

人たちは、ユダヤ人のすぐ近くに住ん
でいた 。 エ ル サ レ ム よ り は る か に 大 き

2 平和な遠征。交易の品々を船に積み込む フェニ キ7人。


な都市、にぎわいはおそらくパピロン
に 似 て い た で あ ろ う 港 町 テイルスや シ
ド ンの 住 民 で あ った。 彼 ら の こ と ば や
宗教は、メソポタミアの諸民族のそれ
に近か った。 し か し フ ェ ニ キ ア 人 │ │
テイルスや シド ン の 住 民 は そ う よ ば れ
ていた ーー は、 戦 い を 好 む 民 族 で は な
か った。 彼 ら は 、 別 の や り 方 で 征 服 を
した 。 海 を 越 え 、 見 知 ら ぬ 岸 辺 へ と 航
海 し 、 そ こ で 商 い を し た 。 未聞の民の
毛皮と 宝 石 を 、 自 分 た ち の 道 具、 うつ
わ、 色 と り ど り の 布 と 交 換 し た 。 フ ェ
ニキア人は、エルサレムのソ ロモ ンの

1
神殿 の 建 設 を も て が け た 、 世 界 に 名 を
は せ た 職 人 で も あ っ た の だ 。 彼 ら は あ ら ゆ る も の を 世 界 の 各 地 に運んだが 、 なかでもっと
も 名 が 知 ら れ 、 も っ と も 所 望 さ れ た の は 、 彼 らが染めた布、とりわけ紫の布であった。彼
ら の 多 く は 異 国 に と ど ま り 、 そ こ に 交 易 の 基 地 を 築 い た 。 珍しい品物を運んでくるフェニ
キア人は 、 アフリカ 、 スペイン 、 南 イ タ リ ア の各 地でよ ろこんで受け入れられたのだ︹ 図


︺彼 ら と て 、 故 郷 を 忘 れ た わ け で は な か った。 彼 ら は 、 テ イ ル ス や シ ド ン の 友 人 に 、 手 紙
を書くことができたのだ。彼らが発明したあのおどろくほどかんたんな文字で。そしてそ
れと 同じ 文字で 、 今 日 の わ た し た ち も 書 く こ と が で き る の だ 。 信 じ ら れ な い こ と だ が 、 う
そ で は な い 。 こ こ に B と 書 い て ご ら ん 。 そ れ は 、 三 千 年 前 のフェニキア人が異国の岸辺か
ら 、 活 気 に あ ふ れ る 故 郷 の 港 町 の 家 族 に お く つ た 手 紙 の 文 字 と 、 ほとんど変わってはいな
だれもが読める文字

いのだ 。この こ と を 知 れ ば 、 き み は も う フ ェ ニ キ ア 人 の こ と を 忘 れ な い だ ろ う 。



5
6
6
6

英雄たちのギリシア

こ と ば に 、 耳 を す ま し て ご ら ん 。 ひ と つ の こ と ば に 次 の こ と ば が 、 拍 子 を と ってつづ
い て い る だ ろ う。
大 き な 声 で 、 本 を よ ん で ご ら ん 。 拍 子 が 生 ま れ て く る だ ろ う。
その 拍 子 に 気 づ い た ら 、 トンネルの 、 な か の 列 車 の ひ び き の よ う に 、 そ れ は 、 き み の
な か で い つ ま で も、 ひびくことになるだろう。
古代のギリシアの詩人も、列車のひびきに似たへクサメーター ( 六 脚韻)と よ ば れ た 拍
子 に の せ て 、 遠 い む か し の 英 雄 た ち の 苦 し み ゃ 戦 い を う た った。 名 誉 を か け、 勇 気 を ほ
こ り 、 海 を わ た り 、 野 を す す み 、 自 分 の 力 で 、 あ る い は す べ て を 知 る 神 々にたすけられて 、
都 市 を 攻 め 、 敵 を た お し た 英 雄 た ち を 。 き み も よ く 知 る ト ロ イ ア 戦 争 は 、 羊を飼うパリス
が 、 黄 金 の リ ン ゴ を ア フ ロ デ ィ テ に あ た え た こ と か ら は じ ま った。 オリンポスの女 神 のな
か で ア フ ロ デ ィ テ を 、 も っと も 美 し い と し た か ら だ 。 この女 神 のたすけでパリスは 、 ギリ
シアの王 、 将 兵 の 首 領 メ ネ ラ オスの妻、 美 しい へレ l ナをうばった 。 ギリ シア軍は 、 へレ
l ナを 取 りもどそうとトロイ ア に向 か って船 出 した。 えりすぐりの英 雄 たちの箪隊が 。ア
キ レウス 、 アガメ ムノ 1 ン、 オデュッ セウ ス、 アイ アス、か、 トロイアの老王 プ リ ア モ スの
息 子 た ち、 ヘクト l ルやパリス と 戦 った。 そし て、 ま る一 O 年 包 囲 にたえたトロイア の
城 は 落 ち 、 焼 かれ 、 破 壊 さ れ た 。 賢 く 、 すば ら しく弁の立 つオデュッセウス の冒険に つい
。 長く海の 上 をあちこちとさまよい 、 魔女たちの妖し い誘
あや
ても、 聞い た こ と が あ る だ ろ う
惑 を し り ぞ け、 お そ ろ し い 巨 人 た ち を た お し、 ついにはた ったひとり で不思議な魔法の船
にのり 、 貞 淑 な 妻 の 待 つ 故 郷 に帰 り つ く 、 あのオデュ ッセウスの冒険の 物 語だ 。 これ ら
ていしゅ︿
は す べ て ギ リ シ ア の 詩 人 た ち が 、 貴 人 た ち の宴の 席 で、 竪琴にあわせて歌っ たものなのだ 。
その 報 酬 には 、 脂 のし たたる焼 肉 の塊 も あ った だろう 。 後 にこれらの歌は書 き取 られ 、 ひ
あぷら
七 英雄たちのギリシア

と り の 詩 人、 ホメロスがつづ ったものと信 じ られ 、 ったえられて き た。 これが 、 今 日なお


よまれ 、 き み も い つ か よ む こ と に な る 、 活 力 と 知 恵 に満 ち、 いまも 、 そ し てこれからも世
界の つづ く か ぎ り 、 生 き る 楽 し み を 教 え て く れ る 、 あの ﹃イリア ス ﹄ と ﹃オデ ュッ セイ
μ
νbA
-wν トeeLM
﹄ の 二大 叙 事 詩 な のだ ︹
ア 図日

、 こ れ は 物 語 であ って︺歴史ではない 、 知 りた い のは ﹁い つ、 どこで ﹂ だとき み は
しか し

OO年 前、 ひとりの ド イ ツの商人も考えた 。 彼は 、


いうだろう 。 ま った く 同 じ こ と を 約 一
7
6
ホ メ ロ ス を く り か え し 読 み 、 そこに語られて い る美 しい風 景を自分の目で 見
、 かの英 雄 た
ちが手にした武器を 自 分の手にとってみ
8
6

ること、ただそれだけをのぞんだ。そし
て彼は、それをやってのけたのだ 。 すべ
てが本当にあったことであると証明した
3 戦 うホメロ λ の英雄たち。ギリシ 7初期の陶器画。
のだ。もちろん 、 名 を あ げ ら れ た 英 雄 た
ちが実在したわけではない 。 巨人や魔女
も空想だ 。 し か し 、 ホ メ ロ ス が 語 る 情 景 、
酒 杯 や 武 器 、 建 物 や 船、 羊 飼 い で も あ っ
た王子、海賊でもあ った英雄、これらは
つくり話ではない 。シュ リl マン││こ
れ が そ の ド イ ツ の 商 人 の 名 で あ ったーー
がそういうと 、 まわりの人たちは笑 った。
しかし彼はめげなか った。彼は 、 ギリシ
ア を 旅 行 す る た め に 生 涯 倹 約 し た 。 資金
がたまると、労働者を雇い 、 ホメロスに
登 場 す る す べ て の 都 市 にくわを入れた。

1
そしてミケl ネで、ホメロスがうたうと
かっちゅう
お り の 王 の 宮 殿 と 墓、 甲 胃 や 盾 を 見 つ け た 。 彼 は ト ロ イ ア も 掘 っ た 。 そ し て 事 実 こ の 都
市 が 、 か つ て 火 に 燃 え 落 ち た こ と を 明 ら か に し た 。 しかし 墓 に も 宮 殿 に も 文 字 の 記 録 は 見
つからず、 長 い 間 、 そ れ が い つ の も の で あ っ た か 知 ら れ な か った。 だがミケl ネで 偶 然に 、
ミケl ネ で な い と こ ろ で つ く ら れ た 指 輪 が 発 見 さ れ た 。 そ れ に は ヒ エ ロ グ リ フ で 、 紀 元前
一四OO年 こ ろ に 生 き た エ ジ プ ト の 王 の 名 が 彫 られていた。それは 、 偉大な改革者イクナ
│ トンの先任者であった 。
そのころ 、 ギ リ シ ア 本 土 と ま わ り の 島 々 、 そ れ に 向 か い の 岸 辺 に は 、 ゆ た か さ を ほ こ る
ひとつの民族が住んでいた 。 といってもひとつの統一した国家があったわけではない 。 王
の住む宮般を中 心 と し た 要 塞 都 市 が 、 あ ち こ ち に 並 び 立 っ て い た の だ 。 おそらく彼らも、
ょうさい
フェニキア 人 と 同 様 、 海 に 生 き る 民 族 で あ ったと考えられる。ただ 彼らは、交易よりも戦
ヒ 英雄たちのギリシア

いをえらんだ 。 仲 間 同 士 で 戦 う こ と も あ っ た が 、 ときには 、 ともに他の岸辺を 略奪するた


めに 、 同 盟 を む す ぶ こ と も あ っ た 。 そ の よ う に し て 彼 ら は 、 金 銀 財 宝 で ゆ た か に な り 、 ま
た 勇 敢 に も な っ た 。 海 賊 に は 、 勇 敢 さ と 絞 狗 さ は 欠 か せ な い か ら ね 。 だ がこれは 、要塞の
なかの貴族の 仕 事で 、 その 他 の者たちは 、 素 朴 な農民や牧人であった 。
この且民族たちは、エジプト人あるいはバビロニア人やア ッシ リア人のように 、 ﹁
古きを

守る﹂ことに 価 値 をおかなかった 。 他 のさまざまな民族へのたびかさなる略奪や戦争の遠


9
6
征 で 、 彼 ら は 、 何 も の に も と ら わ れ な い 目 、 変 化 す る こ と の よ ろ こ び を 身 に つ け た 。 以来、
/
こ の 地 域 で 世 界 史 は 、 こ れ ま で に な い 速 さ で 進 展 す る こ と に な る 。 すなわちこのころから、
0
7

こ の 地 域 に 生 き る 人 聞 は 、 も は や ﹁いまあることがも っともよいことではない﹂と思うよ
う に な っ た の だ 。 す べ て は 常 に 変 化 す る 。 今 日のわたした ちは、ギリシアまたはヨ ーロ ッ
パのどこかで 、こ の地 で つ く ら れ た 陶 器 が た と え 破 片 で あ っても見つかれば、それが﹁こ
れこれの時代につくられた﹂と断言することさえできる。この地でつくられた陶器は 、 一
OO年たてばすでにま ったく時代遅れのものとされ 、もはやだれにも見向きされなくな っ
たからだ 。
今 日 で は 、 シ ュ リ17 ン が 発 掘 し た ギ リ シ ア の 諸 都 市 の 王 た ち は 、 彼 ら の 使 った すばら
しい品 々のすべてを自分で発 明 し た の で は な い と 考 え ら れ て い る 。 うつくしい容器、狩り
の 図 の あ る 短 剣 、 金 の 兜 や 盾 、 装 身 具、 広聞の壁に 描か れた色あざやかな絵、それらは、
少なくともはじめのうちは、ギリシア本土またトロイアでもなく、あまり遠くないひとつ
の 島 、 す な わ ち ク レ タ で 生 ま れ た の だ 。 こ の 島 に は 、 す で に ハ ン ム ラ ピ 王 の 時 代 │ │いつ
で あ っ た か 、 き み は 知 っ て い る ね │ │いくつもの階段を昇ったり降りたりしてようやくた
どりつく 、 かぞえきれない円柱、広問、寝室、中庭、廊下、 地 下 室のある、巨大で豪華な、
まったく迷宮とよぶにふさわしい宮殿、がつくられていた。
ひとみごくう
迷 宮 に す む と い わ れ た 、 上 半 身 が 人 間 下 半 身 が 牡 牛 、 ギ リ シ ア 人 が 人 身 御 供 を お く つた
おそろしい怪物、ミノタウロスの伝説を聞いたことがあるね。その舞台が、このクレタな
のだ。ということは、この伝説にも
4 ?レタ烏の Fノッソスの宮殿。天井は下に向かつて細くなる木の

真実の核がかくされていると思える
のだ。おそらくクレタの王は、かつ
てギリシアの諸都市を支配下に入れ
みつg もの
で お り、 ギ リ シ ア 人 は 彼 に 貢 物 を

円柱でささえられ、壁の絵は生き生きと拙かれている。
おくらねばならなかったのであろう。
このクレタの住民については、今日
なお多くが知られていない 、 不思議
な民族であったと思われる。巨大な
宮殿を飾っていた絵も、同じころに
英雄たちのギリシア

エジプトやパピロニアで描かれたも
のとはまったくちがっている 。 おぼ
えているかい 、 エジプトの絵はすば
らしくうつくしくはあったが 、彼ら
の神官のように 、 きびしく儀式ばっ

たものであったね。クレタのそれは 、
1

1
7

まったくちがう。ここに描かれてい
図M
るのはすべて、すばやく動く人間や動物なのだ ︹ イノシシを追う猟犬、牡牛を跳
72


︺う も の は な か っ
び越える少年、クレタ人には、描くのがむずかしいとい たのだ 。 これらの
ことをギリシア本土の王たちは、自分たちで発明したのではなく、クレタ人からまなんだ
のだ 。
しかしこのはな や か さ も 長 く は つ づ か ず 、 紀 元 前 二一OO年までには消えた 。 当 時 ーー
す な わ ち ま だ ソ ロ モ ン 王 の 前 │ │、 北 よ り 新 し い 民 族 が 南 下 し て き た 。 彼らが、前からギ
リ シアに住みミケl ネ を 建 設 し た 民 族 と 親 戚 で あ ったかどうか 、たしかな ことはわからな
い。 し か し 大 い に あ り う る こ と だ 。 い ず れ に しても、彼らは 王たちを 追い払い、 それにと
って 代 わ っ た 。 ク レ タ は 、 そ の 前 に す で に ほ ろ ん で い た 。 けれどそのはなや かな繁栄は 、
新 た に 都 市 を 築 き 、 独 自 の 聖 域 を 設 け た 新 参 者 に も 、 記 憶 と し て の こ った。 何百年ととき
、がたつうちに、彼らは、自分たちの征服や戦いの歴史に、ミケ 1 ネの王たちの古い歴史を
溶かし込んだのだ 。
こ の 新 参 者 が ギ リ シ ア 人 で あ り 、 彼 ら の 貴 人 の 館 で う た わ れ た の が 、 わたしたちがはじ
め に 触 れ た ホ メ ロ ス の 叙 事 詩 で あ っ た 。 そ れ は 、 す で に 紀 元 前 八OO年ころにはうたわれ
ていたと考えられる。
ギ リ シ ア 人 が ギ リ シ ア に 移 って き た と き 、 彼 ら は ま だ ギ リ シ ア 人 で は な か っ た 。 奇妙に
聞 こ え る ね 。しかし本当なのだ。すなわち、 北 よ り 南 下 し て こ の 地 に 落 ち 着 い た と き 、 彼
らはまだ、後にギリシア人とよばれる、統一した民族ではなかったということだ。彼らは、
それぞれ異なる方言を話し、異なる首領にしたがっていたのだ。アメリカ先住民の物語に
部 族 ﹂ だ っ た の だ 。 ド l リア
登場するス !族 や モ ヒ カ ン 族 と 同様 、 そ れ ぞ れ が 異 な っ た ﹁
人、イオニア人、アイオリス人などとよばれたそれらの部族は、アメリカ先住民と同じよ
う に 、 勇 敢 で 戦 い を 好 ん だ 。 し か し 多 く の 点 で 、 ア メ リ カ 先 住 民 と は ち が っ て い た 。 ミケ
│ネ人やクレタ人は、ホメロスの詩のなかにあるように守ブロンズの武器しか使わなかった
が、この新参者は、すでに鉄を知っていた 。 そして彼らは、妻や子どもをつれて移動して
きた 。 先 頭 を き っ た の は ド l リ ア 人 で 、 楓 の 葉 に 似 た ギ リ シ ア の 南 端 、 ベ ロ ポ ネ ソ ス 半 島
かえで
に ま で 到 達 し た 彼 ら は 、 先 住 民 を 征 服 し て 奴 隷 と し 、 農事につかせた。そして自分たちは、
ど れい
スパ ル タ と よ ば れ た 都 市 に 住 ん だ 。
英雄たちのギリ シア

あとにつづいたイオニア人は、もはやギリシアに十分な土地を見つけることができなか
った 。 彼 ら の 多 く は 、 楓 の 葉 の 柄 に あ た る と こ ろ 、 す な わ ち ア ッ テ ィ カ 半 島 を 自 分 た ち の
領 地 と し 、 そ の 海 岸 近 く に 住 み 、 ブ ド ウ 、 麦 、 オ リl ヴ を 栽 培 し た 。 彼 ら は ま た 、 ひ と つ
の 都 市 を 築 き 、 そ れ を 女 神 ア テ ナ 、 叙事 詩 で 海 を さ ま よ う オ デ ュ ッ セ ウ ス を つ ね に た す け
る女神にささげた。この都市はアテナイ ( アテネ )と よ ば れ た 。

アテナイの住民は 、 すべてのイオニア人がそうであったように、偉大な航海者であった。
3
7
やがて彼らは、近隣の 小 さな島々をも占拠し、以後それらは、イオニア諸島とよばれるよ
う に な っ た 。 さ ら に 彼 ら は 先 へ と す す み 、 ギ リ シ ア の 対 岸、 多 く の 湾 の 入 り く む 小 アジア
4

の肥沃な岸辺に 、 多 く の 都 市 を 築 い た 。 フ ェ ニ キ ア 人 は 、 こ れ ら 都 市 の こ と を 知 る や す ぐ
ひ ょ︿
7

に 、 交 易 を も と め て や ってきた 。 ギリ シア人は、彼らにオリ 1 ヴ 泊 や 麦、 その地に産する


銀や 他 の 鉱 物 を 売 り 、 彼 ら か ら は 、 さ ら に 遠 く へ の 航 海 術 や 、 そ の 遠 い 地 で の 植 民 都 市 の
建 設 の 方 法 を ま な ん だ 。 またギリ シア人が、アルフ ァベ ットで書くというあのすばらしい
技 術 を フ ェ ニ キ ア 人 か ら ま な び と っ た の も 、 そ の こ ろ の こ と で あ った。 きみは以下の章で、
ギ リ シ ア 人 が こ の 技 術 を ど の よ う に 使 っ た か 知 る だ ろ う。
¥

けたちがいの戦争
/

キ リ ス ト 誕 生 の 五 五O 年か ら五OO年 前 の あ い だ に 、 ひ と つ の 不 思 議 な こ と が 起 こ った。
わたしにも、そのはじまりはわからないのだが 、 とにかく胸をわくわくさせることなのだ 。
メ ソ ポ タ ミ ア の 北 方 に 連 な る ア ジ ア の 高 地 に は 古 く か ら 、 ひ とつの荒々しい 山 岳 民族が住
ん で い た 。 彼 ら は 、 光 、 な か で も 太 陽 の 光 を 崇 拝 し 、 そ れ が つ ね に 闇 、 すなわち暗い悪の
力 と 戦 っているという 、 す ば ら し い 信 仰 をもっていた。
この 山岳 民 族 が 、 ペ ル シ ア 人 で あ っ た 。 彼 らは 、 何 百 年 も の あ い だ ア ッ シ リ ア 人、 そし
て パ ビ ロ ニ ア 人 の 支 配 下 に お か れ て い た 。 あ る 日 、 彼 ら の 堪 忍 袋 の 緒 が 切 れ た 。 キュロ
かんにんぷくろお
ス と い う 名 の 勇敢 で 賢 明 な首領が 、 民 族 の独 立 を さ け び 、 騎 馬 軍 を ひ き い て パビロンの平
原 に下 り て き た の だ 。 パ ピ ロ ニ ア 人 は 、 彼 ら の 巨 大 な 城 壁 の 上か ら、 自 分 た ち の 都 市 に 攻
め 入 ろ う と す る ち っ ぽ け な 軍 団 を 見 下 ろ し て 笑 っ た 。 し か し勝利した のは 、 知 恵 と勇気に
す ぐ れ た キ ュ ロ ス の ひ き い る ペ ル シ ア 人 で あ っ た 。 こ の よ う に し て 大 国 の 支配 者 と な っ た
5
7

キ ュ ロ ス が 最 初 に し た こ と は 、 パ ピ ロ ニ ア 人 に 囚 われて いた 多 く の 民 族 を 解 放 す る こ と で
あ っ た 。 そ の と き 、 ユ ダ ヤ 人 も 故 郷 の エ ル サ レ ム に 帰 っ た の だ 。 き み は 、 それがキリスト
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誕生の五 三 八 年 前 で あ ったことを知っているね 。 しかし、この大国の支配にもなお満足し


7

な か っ た キ ュ ロ ス は 、 さ ら に エ ジ プ ト へ も 軍 を す す め た 。 その途中で彼は死んだが、息子
カンピュセスはエジ プ ト を 征 服 し 、 フ ァ ラ オ を 退 位 さ せ た 。 こ れ が 、 ほ ぼ 三 千 年 つ づ い た
エジプ ト王国の終 わ り で あ っ た 。 こ の よ う に し て
、 小 さな民族であったペルシア人は 、 そ
の こ ろ 知 ら れ て い た 世 界 の ほ と ん ど を 手 に 入 れ た 。 だが﹁ほとんど﹂であって、すべてで
はなかった。まだギリシアがのこっていた 。
カンビ ュセスの死後、 ペルシアの王 位 に つ い た ダレイオスは 、 偉大な支配者であった 。
い ま や エ ジ プ ト か ら イ ン ド の 国 境 に い た る 巨 大 な 帝 国 の 王 と な った彼は、すべてが彼の意
のままになることをのぞんだ 。 彼 の命 令 は た だ ち に 帝 国 のすみずみまでとどかねばならず 、
そ の た め に 道 路 が 整 備 さ れ た 。 そ し て ﹁サトラ ップ﹂(地方総督 )と よ ば れ た 高 級 の 役 人
さえも、﹁王の耳と目 ﹂ と よ ば れ た 彼 の ス パ イ に 見 張 ら せ た 。 このダレイオスの帝国はい
ま や 、 そ の 海 岸 沿 い に す で に ギ リ シア 人 が 植 民 都 市 を 築 い て い た 小 アジアへとひろがって
Lた
しかしギリシア人は、大きな帝国の一部になること、すべてを意のままにする独裁者に
した が う こ と に 慣 れ て い な か っ た 。 ギ リ シ ア 植 民 地 の 住 民 は 、 多 く が ゆ た か な 商 人 で あ り 、
自 分 た ち の 都 市 を 自 分 た ち で 運 営 す る こ と を つ ね と し て い た 。 彼 ら は 、 支配されることも、
ペルシアの王に 税 金 を 納 めることものぞまなかっ た。 そ れ ゆ え 彼 ら は 反 乱を起こし、


、。


J
シアの役 人 を追い 払 った 。
かつてこれら植民都市を築いた母国のギリシア人、とくにアテナイ人は、反乱を支援し 、
戦 般 を お く つた。 ダレイオ スにとって 、 ち っぽけな民族が、 ペ ル シアの大王 、 ﹁
王のなか
世 界 の支配 者 である自分にさからうなど 、 ありえ
の王 ﹂ │ │これが彼の 称 号 で あ った 1 11
な いことであ った。 彼 は、 小 アジ アのイオニア 都 市 をただちにかたづけた 。 しかし それだ
け で は お さ ま ら な か っ た 。 彼 に は 、 自 分 た ち の 事 柄 に 手 を 出 し た ア テ ナ イ人がゆるせなか
った 。 王 は 、 ア テ ナ イ を 破 壊 し 、 ギ リ シ ア を 征 服 す べ く 、 大般隊をつくらせた。しかしこ
の艦 隊 は 嵐 に 巻 き 込 ま れ 、 岩 礁 に の り あ げ、 海 に沈んだ 。 当然の ことなが ら、 王 は 怒 り
がんしよう
狂 った。 彼 は 奴 隷 に 命 じ て 食 事 の た び に 、 ﹁
ご 主 人 さ ま 、 アテナイ人のことをお忘れなく﹂
¥ けたちがいの戦争

と 三度 と な え さ せ た と い う 。
そ し て 彼 は 、 巨 大 な 艦 隊 と と も に 娘 の む こ を ア テ ナ イ に お く つ た 。 途中で彼らは多くの
島を占領 し 、 多くの 都 市 を破壊し 、 そしてアテナイの 近く、 7ラトンとよば れる地 に上 陸
した 。 そ こ か ら ベ ル シ ア の 大 軍 は 、 陸 路 を ア テ ナ イ に 向 け てすすもうと した のだ ︹
図日


その兵力は 十 万といわれ て おり、 そ れ は ア テ ナ イ の 全 住 民 の数をこえていた。アテナ イ寧
J

は約 一万、 すなわち 十 分 の 一 で あ った。 運 命 は 、 は じ め か ら き ま っていたかに見えた 。 し


7
7

かし、そうではなかった 。 アテナイ軍 は、 勇敢で賢く、長くベルシア人のあいだで暮らし、



••
-
‘‘

• • •••

エーゲ海


オリンピア

ミルトス海

イオニア海

1
5 ギ リ シ ア に 攻 め 込 む ペ ル ν 7軍

彼 らの 戦 い 方 を 熟 知 し て い た ミ ル ティアデスと いう司令官をもっていた。 しかもア テナイ
人 は み な 、 自 分 た ち が 何 の た め に 戦 う の か 知 って いた 。 自 由 、 生 き 方 、 妻 や 子 の た め で あ
る。彼らは 、 整 然 と 隊 を 組 み 、 面 食 ら っ て 混 乱 す る ペ ル シ ア 軍 に 立 ち 向 かった。アテナイ
軍 は 勝 っ た 。 ペ ル シ ア 軍 の 多 く が た お れ た 。 の こ っ た 者 は ふ た た び 船 に の り 、 沖 へ漕ぎ 出
した。
は る か に 優 勢 な 敵 に 勝 利したい ま、 アテナイ軍は 、 す べ て を 忘 れ て よ ろ こ び に ひ た っ た
は ず で あ る 。 だ が ミ ル テ ィ ア デ ス は 、 勇 敢 で あ る だ け で な く、 聡 明 でもあった。彼は 、 ベ
そうめい
ルシアの 船 隊 は 逃 げ 去 っ た の で は な く 、い まは守るひとりの兵もなく、容易に襲与えるであ
ろ う ア テ ナ イ に 向 か っ た と 見 た 。 さ い わ い に も 、 マ ラ ト ン か ら の 海 路 は 、 陸 路 よ り もはる
かに遠かった。船は 、 足 で 横 切 れ る 長 く 突 き 出 た 岬 をまわらねばならなかった。ミルティ
¥ けたちがいの戦争

アデスは 、 ア テ ナ イ に 急 を 知 ら せ る 使 者 を 出 し 、 彼 に
、 可能 な 限 り 速 く 走 れ と 命じた 。 使
者 は 走 り つ づ け 、 任 務 を 果 た し 、 そ の 場 に た お れ た 。 これが有名な 、 マラトンの競走(マ
ラソン)のはじまりだ。
、、、ルティアデスも全軍とともに 、 同 じ 道 を お そ ろ し い 速 さ で す す ん だ 。 正しか った。 彼
らがアテナ イの港に立 ったとき 、まさに ペルシアの 船 団 が 水 平 線 に あ ら わ れ た。 そ れ は 、
/

ペルシア寧の予 期し な い こ と で あ っ た 。 彼 ら は 、 この勇敢 な 軍 隊 と 戦 う 気 を う しなった。


9
7
ペルシア箪は 故 郷 へ と 船 を 向 け 、 ア テ ナ イ だ け で な く 、 全 ギ リ シ ア は 救 わ れ た 。 そ れ は 、
キ リ ス ト 誕 生 の 四 九O 年 前 の こ と で あ っ た 。
0
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マラトンでの敗北を聞いた大王ダレイオスの怒りのすさまじさは、容易に想像できる。
しかし、そのときエ ジプ ト に 反 乱 が 起 こ り 、 そ れ に 軍 隊 を お く ら ね ば な ら な か った 彼は、
ギリシアに対して、 何 の 新 し い 手 段 を こ う じ る こ と も で き な か っ た 。 間 も な く 大 王 は 世 を
去り 、 ギ リ シ ア へ の 徹 底 的 な 復 警 は 、 後 継 者 ク セ ル ク セ ス に 遺 言 さ れ た 。
ふ︿しゅう
けんせいよ く
権 勢 欲 の つ よ い 、 冷 酷 な 男 で あ っ た ク セ ル ク セ ス は 、 い っ き ょ に 事 を は こ ん だ 。 彼は、
ベ ル シ ア が 支 配 下 に お く す べ て の 民 族、エ ジ プ ト 人 、 パピロニア人 、 ベルシア人、 小 アジ
ア 人 か ら 、 ひ と つ の 大 軍 を つ く り あ げ た 。 人 び と は 、そ れ ぞ れ の 民 族 の 衣 装 を ま と い 、 そ
ながやり
れ ぞ れ の 武 器 、 弓 と 矢 、 盾 と 剣 、 長 槍 、 戦 車 、 あ る い は 投 石 器 を も って 、 あ つ ま ってきた。
それは、ものすごい数の色あざやかな群集であり、 一 OO万人をこえたともったえられる 。
そ し て 、 こ の 大 軍 に 襲 わ れ れ ば 、 も は や ギ リ シ ア 人 は 何 もできないだろうとうわさされた。
こ の た び は 、 ク セ ル ク セ ス 自 身 も と も に 進 軍 し た 。 今 日 の イ ス タ ン プ │ ルがある海峡に達
し 、 船 を つ な い だ 橋 を わ た ろ うと し た と き 、 高 い 波 が 押 し 寄 せ 、 橋 を 大 き く 揺 ら し た 。ク
セルクセ スは怒り 、 海 を 鉄 の 鎖 で 打 った。 し か し そ れ が 、 海 を し ず め る こ と は な か っ た 。
巨 大 軍 団 の 一 部 は 、 今 回 も 船 で ギ リ シ ア に 向 か っ た が 、 一部は 、 陸 路 を す す ん だ 。 北ギ
リ シ ア の 海 と 険 し い 山 に は さ ま れ た テ ル モ ピ ュレ ー には 、 彼 ら を せ き と め よ う と ス パ ル タ
人 の 一 軍 が 陣 を し い て い た 。ベ ル シ ア 軍 は ス パ ル タ 人 に 、 降 伏 し 、 武 器 を 引 き 渡 す こ と を
要求した。﹁自分で取りに来い ﹂、 こ れ が 返 事 で あ っ た 。 ﹁われわれの矢は 、 太 陽 を隠すほ
ならば 、 お れ た ち は 影 の な か で 戦 う﹂とス
ど 多 い の だ ぞ ﹂ と ペ ル シ ア 側 はおどかした。 ﹁
パルタ 人はいった 。 し か し ひ と り の 裏 切 っ た ギ リ シ ア 人 が ペ ル シ ア 軍 に 、 スパルタ軍の背
後 を ま わ り 、 彼 らを 取 り か こ む こ と のできる 山 のなかの道を教えた 。三OO人のス パルタ
人と七OO人 の 同 盟 軍 の 兵 士 が 、 この戦 いでたおれた 。 しかし逃げた者は 、 ひとりもいな
かった。それが 、 彼 らの 旋 であった。のちにその 地 に、 有 名 な 墓 碑 銘 が 刻 ま れ た 。
ぽひめい
道 ゆ く ひ と よ 、 スパルタに伝えてくれ 、
提 を ま も っ た お れ た ち は 、こ こに 眠 ると。
、けたちがいの戦争

アテナイでは 、 マラトンの大勝 利 以 後、 無 為 の 時 聞 がすぎていたわけではな い。 とくに



賢く先見の 明 の あ る 指 導 者 テ ミ ス ト ク レ ス は 、 マラトンの奇 跡 が 起 こることは二度となく 、
ベルシア に い つ ま で も 抵 抗 し よ う と す る な ら ば ア テ ナ イ は 艦 隊 を も た ね ば な ら な い 、 と 市
民 に く り 返 し い い つ づ け て い た 。 そして 、 紙 隊 は 建 造 さ れ た 。
テミス トクレ スは 、 市 民 のすべてをアテナ イから避難させ、アテナイ近くの小さな島サ
1
)

ラ ミ ス に か く し た。 ー ー と い う こ と は 、 当 時 の 人 口は あ ま り 多 く な か っ た と 考 え ら れ る
1
8
││。 この島の近くに 、 アテナイの艦隊は 配 置 に つ い た 。ペ ルシアの陸軍が 到着 し た と き、
アテナイはもぬけのからであり、彼らは建物に火をつけ、都市を完全に破壊した。島の上
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の ア テ ナ イ 人 は 遠 く に 燃 え る 故 郷 を 見 な が ら 、 何 の 手 だ し も で き な か った。そ して ベルシ
ア の 大 艦 隊 が 近 づ き 、 サラミスを取りかこもうとしていた。
おけ
怖 じ 気 づ い た 同 盟 者 た ち は 、 ア テ ナ イ の こ と は ア テ ナ イ 人 に ま か せ て 、 船 で 立 ち 去 ろう
とした。そのときテミストクレスが、すぐれた知恵と大胆さを示した。もはや説得もきか
みってい
ず、同盟国阜が明日は漕ぎ出すときめたとき、彼はその夜、ひそかにひとりの密偵をクセル
クセスのもとにもぐりこませた。その任務は、ただちに攻撃をしかけないと、アテナイの
同 盟 寧 を 取 り 逃 が し て し ま うと 、 ク セ ル ク セ ス に 思 い 込 ま せ る こ と で あ った。クセルクセ
スはまんまと計略にはまった。そして負けた。ギリシア 側 の船は小さかったが、それだけ
にこまわりがきいた。島の多い海域では、それは有利であった。それにアテナイ軍はここ
でも、彼らの自由をかけて、死にもの狂いで戦った。彼らには、一 O年前のマラトンの勝
利 が あ た え た 自 信 が あ っ た 。 小 高 い 丘 の 高 み か ら ク セ ル ク セ ス は 、 彼の重装備のガレ l船
が、ギリシア軍の小さくすばやい船に横腹を撃たれ、海に沈んでゆくようすを見つめなけ
れ ば な ら な か っ た 。 打 ち の め さ れ て 彼 は 、 撤 退 を 命 令 し た 。 ア テ ナ イ は ま た も や 、 勝利し
た 。 し か も 、 ペ ル シ ア 世 界 帝 国 の 以 前 を こ え る 力 に 。 そ れ は 、 キリスト誕生の四人O 年 前
のことであった。
それからまもなくギリシアの連合軍は、プラタイアイでベルシアの陸軍をやぶった。以
後ペルシアは 、 二度とギリシアに攻め入らなかった。このことは大きな意味がある。ベル
シア人が 、 ギ リ シ ア 人 よ り 劣 っ た 、 あ る い は 悪 い 人 間 なのではない。けっしてそうではな
い。 し か し す で に わ た し も く り か え し 触 れ た よ う に 、 それは 、 ギリシア人自身の 問題であ
った。オ リ エ ン ト の 巨 大 帝 国 が 、 伝 来 の 風 習 や 教 え に 、 と き に は 凝 り 固 ま る ま で に 執 着 し
た の に 対 し 、 ギ リ シ ア 人 、 と く に ア テ ナ イ 人 は 、ま さ に そ の 反 対 で あ っ た 。 彼 ら に あ っ て
は 、 ほ と ん ど 毎 年 の ご と く 、 何 か 新 し い こ と が 起 こ った。 ど ん な 制 度 も 、 そ し て ど ん な 指
導 者 も 、 長 く つ づ く こ と は な か っ た 。 ミ ル テ ィ ア デ ス 、 テ ミ ス ト ク レ ス と い っ た 、 ペルシ
ア戦争の偉大な英 雄とて、同じ で あ る 。 は じ め の う ち こ そ 人 び と は 、 彼らを称え 、尊敬し、
たた
彼らのために-記念碑さえ建てた 。 し か し し ば ら く す る と 、 彼 ら を そ し り 、 訴え 、追放 さえ
した 。 た し か に 、 ほ め ら れ た こ と で は な い か も し れ な い 。 しかし、アテナイ人の生まれつ
、 けたちがいの戦争

き の 性 格 な の だ 。 つ ね に 新 し さ を も と め 、 つ ね に こ こ ろ み 、 けっして満足すること 、 落ち
着 く こ と が な い の だ 。 だ か ら こ そ 、ペル シア 戦 争 後 の 数 百 年 のあいだに 、 小 さな 都市 アテ
ナイの人間の精 神 のなかで 、 東 方 の 大 帝 国 で 数 千 年 間 に 起 き た よ り も 多 く の こ と が 起 こ り
えたのだ。この 時 代 に 彼 ら が 考 え た こ と 、 描 いたこと 、 詩でうた ったこと、若者たちが広
場で 、 老 い た 者 た ち が 市 庁 舎 で 、 語 り 合 い 、 討 論 し た こ と 、 そ れ を わ た し た ち は 今 日なお、
ノl

こ こ ろ の 栄 養 と し て 生 き て い る の だ 。 おかしなことかもしれない 。 だが、事実そうなのだ 。
3
8
そして 、 もしキリス ト誕 生の四九O 年 前 にマラトンで 、 あるいは四八O 年前にサラミスで、
ペルシア軍が勝っていたならわた したちは、 いま 何 を栄養として生きているだろうか。そ
4

れは、わたしにはわからない 。
8
小 さな国のふたつの 小 さ な 都 市

前の章で触れたように、ペルシアという世界帝国の国土にくらべれば、ギリシアは、熱
はげやま
心に商売にはげむいくつかの小さな都市と、限られた人口しか養えない、禿山と石ころだ
ら け の 平 地 からなる 、 小さな半島にすぎない 。 しかもその住民は 、 きみもおぼえているだ
ろうが、たとえば南のド l リア人 、 北 のイオニア人やアイオリス人といった 、 さまざまな
部 族 か ら な っていた 。 これら部 族 は 、 こ と ば や 姿 で は た が い に 大 き な ち が い は な く 、 話す
ことばは 、 耳 を か た む け れ ば た が い に 理 解 で き る 、 同 じ 言 語 の な か の 方 言 で あ っ た 。 しか
し彼らは、しばしば 、 たがいに 耳 を か た む け る こ と を し な か った。 そうであれば 、近い隣
しっと
人 で あ れ ば い っ そ う の こ と 、 いさかいも生まれた。嫉妬し、皮肉をいい合うこともあった。
事 実 、全ギリ シアが共通の王 、 共 通 の 政府 をもつことは いちどもなく、それぞれの都市が
それ自体、ひとつの国家を形成していた 。
ギ リ シ ア 人 を む す び つ け る も の 、 そ れ は た だ 共 通 の 信仰 と共通のスポ ー ツであった 。 し
5
8
か も、 奇 妙 に聞こえるかもしれないが 、 このふたつは 別 々でなく 、 ほんらい密接にからみ
合 っ て い た 。 た と え ば 父神 ゼ ウ ス を 崇 め る た め に 、 こ の 神 の 聖 域 で 四 年 ご と に 大 き な ス ポ
6
8

ー ツの競技会が聞かれた。オリンピアとよばれたその聖域には、大きなゼウスの神殿とな
ら ん で ス ポ ー ツ の 競 技 場 が あ り 、 こ こ に 、 す べ て の ギ リ シ ア 人 、ド l リア人やイオニア

、 スパ ルタ市民やア テナイ 市 民 が 、 競 走 、 円 盤 投 げ 、 鎗 投 げ 、 格 闘 、 競 馬 でみずからの
技を示すために、 や っ て き た の だ 。 こ こ で 勝 つこと 、 そ れ は 、 ひ と り の人 聞が つかみえる
最 高 の 栄 誉 で あ っ た 。 賞 品 は 、 た ん な る オ リl ヴ の 枝 で 作 った冠であった。しかし 勝者は、
別 のすばらしい方法で称えられた。最高の詩人が 、 美しいことばでその戦いぶりをうたい 、
最 高 の 彫 刻 家 が 、 聖 域 に さ さ げ る た め に そ の 間 像 を つ く ったのだ。オリンピアには 、 競 走
馬 車 を あ や つ る 御 者 、 あ る い は 円盤 を 投 げ る 人 、 そ し て と き に は 、 戦 い の 前 に 身 体 に 香 油
ぎよしゃ
を塗る絡闘技選手の像などが立ち並んでいた ︹図 日 このような勝利者像は今日にもの
こされており、あるいはきみたちの住む地の美術館で 。
︺も 、 見 る こ と が で き る か も し れ な い 。
四 年 ご と に 開 か れ る オ リ ン ピ ア で の 競 技 会 、 す な わ ち オ リ ン ピ ア l ドには、ギリシアの
各 地 か ら 人 び と が あ つ ま っ た 。 そ れ ゆ え こ の 競 技 会 は 、 全ギリシアに共通の麿をつくるに
こよみ
都 合 が よ く 、 し だ い に 公 の 場 で も ギ リ シ ア 人 は 、 たとえば今日わたしたちが ﹁
キ リ スト誕
生後(紀元後)何 年﹂というように、 ﹁ 第 何回 目 の オ リ ン ピ ア l ドの何年目﹂といったの
である。最初のオリンピア 1 ドは 、 キリスト誕生 前七七 六年であった 。 ただし、この競技
会は 四 年 ご と に 聞 か れ た こ と を 忘 れ な いよ うに。
すべてのギリシア人が共有して
6 オリンピアの競技場をとりまく優勝者の彫像。前景に立つ人物の
肩で留めたマント 、円形の帽子、手にもつ杖は、典型的なギリシアの いたのは 、 オリンピアの競技会だ
けではない 。 そのひとつは 、別 の
聖域
、 すなわち太陽の 神 アポロン
の聖域デルフォイを舞台としてい
た。この聖 域は、風変わりなもの
であった。デルフォイには 、 火山
九 小さな国のふたつの小さな都市

地帯によくあるように、蒸気を噴
き出す大 地 の割れ目があった。こ
の蒸気を吸った者は 、 ﹁
もや
頭に寵が
かかる﹂、すなわちその蒸気で 、
酔 っ払いや熱病者のように 、 とり

旅人の様子を示す。
とめのないことばをしゃべるよう
になるのだ。
まさに問いただけでは意味のな
いこのおしゃべりが 、 ギリシア人
7
8

1
には 、 非 常 に神 秘 的 に 思 え た の
だ。すなわち 、 神 が人間の口を借りて語っていると見えたのだ 。それゆえ 、そ の地の割 れ
8
8

目 の 上 に 三 脚 の 鍋 を す え 、 そ の 上 に ひ と り の 女 神 官 ││﹁ピュティア﹂とよばれたーーを
座らせ、 別 の神官 に 、 彼 女 が 酔 った 状態でつぶやいたことばを解釈させた 。 そのようにし
て、 未 来 が 予 言されたのだ。これがデルフォ イ の オ ラ ク ル (神託)で 、 苦し い境過に立 っ
と人びとは、ギリシアの各地からアポロンをたずねてこの地にや ってきた 。 もちろんその
予言はときには理 解できず、ちが って解釈されるとともあ った。 それゆえ今日でも、は っ
きりしな い、秘 密 め い た 答 え の こ と を ﹁オラクルのようだ﹂という 。
ギリシアの 都 市 のなかから 、 ここでは二つの重要な都市 、 スパルタとアテナイ(アテネ)
を取り上げることにしよう 。スパ ルタについては、わたしたちはすでに触れた 。 その住民
一 O O年頃にギリシアの南部に移 住し てきたド
は、 キリストの 誕 生 前 、 す な わ ち 紀 元 前 一
l リア人であり、先住民を力ずくでしたがわせ、野で働かせていたのだ ったね 。 しかしこ
の奴隷たちは 、 数 のうえでは主人、 すなわちスパルタ人をこえていた 。 それゆえスパルタ
人 は 、 こ ん ど は 自 分 た ち が 追 い 払 わ れ な い よ う 、 つねに瞥戒していなければならなかった 。
彼らは 、 奴 隷 た ち ゃ ま だ 自 由 で あ った周囲 の諸民族をおさえるために、ただみずからをつ
よく 、戦闘的 にきたえることしか考えなか った。
事 実、 彼 らは 何よ りもそれについて考えた。すでに彼らの伝説的な法律家リュクルゴス
にと っても、それが最大の関心事であ った。 生まれた子どもが弱く 、兵役に使えないと見

hvL

、 そ の 子 は た だ ち に 捨 て ら れ た 。 強ければ 、 さらに強くなる べく 、 朝 か ら 晩 まできた
えられた。痛み 、 飢 え、 寒 さ に 耐 え る こ と を 教 えられ 、 食事は少なく 、 いかなる楽 し みか
ら も 遠 ざ け ら れた 。 若 者 は と き ど き 、 理 由 も な く 殴 ら れ た 。 ただ 、 歯 を 食 い し ば って 痛み
に耐 えるこ と に慣 れ る た め に 。 ひ と は 、 こ の よ う な き び し い 教 育 を 今 日 でも﹁スパルタ
的 ﹂ と よ ん で い る 。 そ れ が ど の よ う な 成 果 を も っ た か 、 き み は す で に 知 っ て い る ね 。 紀元
前四人O 年のテルモピ ュレ│ の戦いで 、 スパルタ 人はひ とりのこらず 、 彼 らの 綻 が 命ずる
ままに 、 ペ ル シ ア 軍 に 虐 殺 さ れ た 。 そ の よ う に 武 に か け て 死 ね ることは 、 小 さ な こ と で
ぎや︿さつ
九 小さな国のふたつの小さな都市

はない。 しかし 真に 生 き ることは 、 おそらくもっとむずかしい 。アテ ナイ人がえらんだの


は、 こ の よ り む ず か し い 道 で あ った。楽 しく 、 快 適に生きることではない 。 意 味 をもっ生
き 方 で あ る 。 死 ん だ と き に 何 かがの こるように生きること 、 後のひとが 何 かを 得 る生 き方
である。 彼 ら が そ れ を い か に やり遂げたか 、 き み は 後 に 知 るだろう。
スパルタ人は 、 も と も と お そ れ 、 彼 ら自 身 の 奴 隷 に 対 す る お そ れ か ら 、 強く 、 勇敢にな
った。アテ ナイには 、 おそれる理 由はあまりなか った。 ょうすはま った く異なり、そのよ
う な 圧 力 を 感 じ な か っ た の だ 。 ア テ ナ イ で も 、 スパルタと 同じ く、 か つ て は 貴 族 が 支 配
していた 。 ド ラコンというアテナイ 人が定めた 、 き び し い 提 も あ った。 それは 、 今 日 でも
﹁ド ラ コ ン の よ う な き び し さ ﹂ と いわれるほど 、 厳 格 な も のであった。 しかし 、 船 で遠く
9
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を旅し 、 多 く を 見、 多 く を 知 ったアテ ナイの 市 民は 、 いつまでもそれにがまんすることは
できなかった。
0
9

貴 族 のなかにも 、 小 さ な 国 家 に ま っ た く 新 し い 秩 序 を こ こ ろ み る 賢 人 が い た 。 そ の ひ と
りはソロンといい 、 彼が紀元前五九四年、 すなわちネブカドネザルの時代に 、 アテナイで
定めた提は 、 ﹁ソロンの 改 革﹂と し て 知 ら れ て い る 。それに よると、民衆、 すなわち都市
の市民は 、 なす べきこ とをつねに自分で決定しなければならない 。アテナイの 広場にあ つ
まり 、 そこで投票しなければならない。多数決がとられ、経験ゆたかな男たちから 、 きめ
ら れ た こ と を 実 行 す る た め の 代 議 人 が え ら ば れ な け れ ば な ら な い 。 こ の よ う な 制 度は、民
主主義、 ギリシア語で﹁デモクラティア﹂とよばれる。もちろん 、 アテナイに住む者すべ
てが 、集会で 投票できるわけではない 。 個 人の 財産による差別が存在した 。 したがってア
テナイの多くの 市 民は 、 この 制 度 に 参 加 できなかった 。 し か し 市 民 の だ れ も が 、 それを
目指すことはできた 。 それゆえ市民のだれもが 、 都 市のことがらに関心をよせた 。﹁ 都市﹂
はギリ シア 語でポリス 、 ﹁
都市のことがら﹂はポリティ ッ ク (政治)と いう 。
しばらくのあいだ、民衆の歓心を買ったひとりの貴族が、支配者の 地位についたことも
あ った。この ような 独裁者は、テ ュラノスとよ ばれた 。 しかしこの独裁者もふたたび民衆
に追われ 、 民 衆 自 身 に よ る 統 治 の 気 運 は い っ そ う 強 ま った。 前にも 触 れたように 、 アテナ
イ人は落ち着きのない人間であ った。 だから彼らは 、 また自 由 をうしなうのではないかと
いう 純 粋 なおそれから 、 ついには 、 民衆のあいだに大きな人気をあつめ 、 いつかは独裁者
に な る か も し れ な い す べ て の 政 治 家 を 都 市 か ら 追 放 す る こ と ま で し た 。 ペルシア軍を負か
したのはたしかにアテナイ人だが、その同じアテナイ人が恩知らずにも、ペルシア戦争の
英 雄 ミ ル テ ィ ア デ ス や テ ミ ス ト クレスを追放したのだ。
ただひとりだけ、そのような扱いを受けなかった人物がいた。ベリクレスという名の政
治家である。彼は、実際には自分できめた方向を、あたかもアテナイ市民がみずからえら
んだかのように民衆議会を導く術を身につけていた 。 彼が何か新しい役職、あるいはとく
べつな権能 を も って いたか ら で は な い 。 た だ 、 才 知 に す ぐ れ て い た か らだ。そのようにし
L 小さな国のふたつの小さな都市

て 彼 は 最 高 の 位 置 に の ぼ り つ め 、 キ リ ス ト 誕 生 の 四 四 四 年 前 │ │このおぼえやすい数字は
ぜ ひ 胸 の う ち に し ま っ て お い て く れ た ま え ーー か ら は 、 実 際 に は ひ と り で 国 家 を 支 配 し た 。
彼がもっとも気をくばったのは、アテナイの海上での力を維持することであった。これを
彼 は 、 イ オ ニ ア の 諸 都 市 と 同 盟 を む す ぶ こ と で 成 功 さ せ た 。 そして強くなったアテナイは
イオニア諸都市を守り 、 その代償に彼らは 、 アテナイに税金をおさめた 。 このようにして
アテナイの 市民はゆたか になり 、その 天分を思うぞんぶんに発揮しはじめた。
き み は 待 ち く た び れ 、 一 刻 も 早 く 知 り た い よ う だ ね 。 ﹁アテ ナ イ 人 が や っ た こ と っ て 何
あ ら ゆ る こ と す べ て ﹂、とい うのがわたしの答えだが 、なかでも
ですか ﹂ というのだね。 ﹁

彼 ら は こ つ の こ と に 、 と く べ つ な 関 心 を ょ せ た 。﹁真 理 ﹂ と ﹁
美﹂である。
1
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民 会 ) に お い て ア テ ナ イ の 市 民 は 、 あ ら ゆ る こ と が ら に つ い て 、 賛成に
全市民の会議 (
し ろ 反 対 に し ろ 、 そ の 理 由 を は っきりとひとまえで示す 訓 練 を し て き た 。 そ れ は 、 思 想 を
2

きたえるのに大いに役立った。やがて彼らは 、 そのような賛成あるいは反対理由をただ、
9

税 金 の 引 き 上 げ は 必 要 か 否 か と い っ た 、 身 近 な 問題にもとめるだけでなく 、 その論法でも
って自然のあらゆることがらに取り組むことをはじめた。このことでは 、 いくつかの点で
は 、 小 ア ジ ア や 各 地 の 他 民 都 市 の イ オ ニ ア 人 が 、 ア テ ナ イ 人 に 先 行 し て い た 。 彼らは早く
から 、世界は何か らできているのか 、 現 象 や出来事の原因は何か 、 といったことを思索し
ていたのだ。
このような思索は 、 ﹁智を愛すること﹂ 、 哲学とよばれる。アテナイでは 、 その 他 にいろ
負 J
いろなことがらが思索、 すなわち哲学の対象とされた。そこでは 、 人聞は 何 をすべきか、
何が善で何が悪か、正、不正とは何かなど、人間の生きる目的、ことがらの本質が追究さ
れたのだ。もちろんすべての人が、このような 問題に取り組んだわけではない。さまざま
な 考 え 方、 さ ま ざ ま な 方 向 が あ り 、 人 び と は 、 民 会 に お け る と 同 様 、 た が い に そ れ ぞ れ の
根 拠 を あ げ て 討 論 し た の で あ っ た 。 そ し て 、 こ の 時 代 以 後 今 日 に い た る ま で 、 こ の 思 索、
この根拠をあげての論争、すなわち哲学は、やむことなくつづけられているのだ。
しかしア テナイの 市 民 は 、 世 界 の本質は 何 か、ひとはそれをどのように認識するか 、 そ
れは人間の生き方に いかなる関係をもつか、それを討論するためにのみ 、広 場の柱 廊 や競
技場を行ったり来たりしたのではない。彼らは、世界をただ頭で考えただけでなく 、目 で
も 見 た の だ 。 ギリ シアの美 術家 の よ う に 世 界 を単 純 に、 うつくしく見た者が 、い ったいそ
れまでに いただろうか 。 オリンピアの 勝 利 者 像 については 、 す でに 触 れ た 。 そこではうつ
く し い 人 間 たちが 、 あ たかも 世 界 のもっとも自 明 なことのように 、伺の 気 取 りもなく形に
され て いた 。 そしてまさ にこのも っとも自 明 であること 、 それがも っともうつくしいもの
であ ったのだ 。
その ころ彼 ら は、 この う つく し さ、こ の人 間 ら し さ で も って、 神 々をも形に した 。 も っ
と も 名 の 知 れ た 神 像 作 家 は 、 フ ェ イ デ ィ プ ス と よ ば れ た 。 彼 は、エジプトの広大な 神 殿に
L 小 さな 国のふたつの小 さな都市

あ る よう な、 神 秘 に満 ちた 、 超 自 然 的 な 像 は つ く ら な か っ た 。 た しか に彼の 礼 拝 像 のいく
つかは 、 巨 大 で、 象 牙 や黄金とい った、高価 で輝く 材 料 でつくられていた 。 それにもかか
ぞうげ
わら ず そ れ ら 神 像 は 、 大 味 で も 、 派手でもない 。 ただ 、 人 間 の信頼にこたえる単 純 なうつ
くしさ、気高さ 、 自然な優しさをもっていたのだ 。 同じことは、アテナイ人の絵画や建築
につ いてもい え る。 だ が 彼 ら の 柱 廊 や 会 堂 を 飾 っていた絵画は 、 何 も のこ って いない 。 わ
た し た ち に の こ さ れ て い る の は 、 飲 食 や納 骨 に 使 わ れ た 土 器 の 上 の 小 さ な 絵 だ け で あ る 。
し か し そ れ ら で さ え 、 わた し た ち に う し な わ れ た も の を 想 像 させる 十 分なうつく しさと高
貴 さ を そ な え ているのだ 。
7

神殿はのこ って いる。 アテナイの 山城、 す な わ ち ア ク ロ ポ リ ス の 上 に は 、 今 日なお立 っ


3
9

図げ
ている ︹ そこには、古いすべての建物がペルシア軍によって破壊されたあと 、 ベ


リクレスの時代 に新しい大理石のい
J ロポリスの建物は 4キロメートル離れたピレウス
4
9

くつかの神殿、か築かれていた。その
なかのひとつ 、 パルテノンとよばれ
る神般は、わたしたちが建築という
もので知る最高の美である。とくべ
つに大きなもの、とくべつに豪華な
ものではない。それは、単純で、う
つく しいのだ 。 個 々の 細 部 は 、 他 に
ありょうがないほど、明快で単純に
形づくられている 。ギ リシア人がこ
こにもちいた形は、以後いかなる時

いて見えた。
代にも、建築にくりかえし使われる

7 7 テナイの 7!
ことになる。たとえばギリシア式円

の港からも世Ji
柱。そのさまざまな形式は、もしき
み が 注 意 す れ ば 、 今日のほとんどの
都市の建物に見ることができる。 も

1
ちろんそのうつくしさは、アテナイ
のアクロポリスのそれにとうていおよばな いけれど ね。そこでは 、 円柱はけっして 付属物
でも 飾 りでもなく 、 ただ屋根のうつくしく 形づくられた支えとして考えられて いたのだ 。
以上の二つ、 ﹁ 形 の う つ く し さ ﹂ を ア テ ナ イ 人 は 、 も う ひ と つ の 芸 術、
思索の深さ﹂と ﹁
す な わ ち 文 学 で む す び つ け た 。 そ う し て 生 ま れ た の が 、 演 劇 で あ った。 彼 ら の 演 劇 もま
た、スポ ー ツと同様、 信仰、 バッ カ スともよばれた 神 ディオニ ュソス の祭 典 とむすびつい
ていた 。 それは 、 この 神 の祭日に野 外 で、 ほとんど丸 一日をとおして演じられた 。演技者
は、 遠 く か ら も よ く 見 え る よ う に と 、 大きな 仮面 をつけ、かかとの高いサンダルを履いた 。
九 小 さな国のふたつ の小さな都市

当時演じられた作品の 一部 が 、 今 日 に つ た え ら れ て い る 。 そのなかのあるものは 、壮 大で
お ご そ か な 内 容 を も ち 、 今 日 ﹁ ギ リ シ ア 悲劇 ﹂ と よ ば れ て い る 。 ま た ﹁ ギ リ シ ア 喜 劇 ﹂ と
よばれるゆかいな演劇もあり 、 それは 、 アテナイ市民の個人を辛妹に 、しかし機知に 富ん
しんらっ さち
だことばでからか ったものであ った。 このほかにも 、 アテナイの歴史家や医者、 詩人、思
想 家 、 美 術 家 に つ い て き み に 話 し て お き た い こ と は 山 ほどある 。 しかしきみがいつの日か、
彼 ら の仕事を自分 の回で見 るの を待つことにしよう 。 そのときき み は、 わたしの話がけ っ
し て大げさ でなか ったことを知るだろ う 。
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6
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照らされた者と彼の国
O

世界の向こ う側、イ ンドと 中 国 を み て み よ う 。 ベ ル シ ア 戦 争 の こ ろ 、この 二つの巨大な


国 で は 、 ど ん な こ と が 起 こ っ て い た の だ ろ う 。 インドにも、メソポタミアと同じように、
遠いむかしからひとつの文明が存在した。都市ウルのシュメ│ル人が権勢をふるっていた
時代、 すなわちキ リ スト 誕 生 の二五O O年 前こ ろ、イ ンドを流れる大 河のひと つインダス
川 の 流 域 に 、 上 下 水 道 を そ な え 、 神 殿 、 住 居 、 自 舗 を つ ら ね た 大 き な 都 が あ っ た 。 モヘン
ジョ ダ ロ と よ ば れ る こ の 古 代 都 市 は 、 ご く 最 近 ま で だ れ に も そ の 存 在 を 予 想 さ れ て い な か
った。 し か し 数 年 前
がれき
九二二年 ) に 発 見 さ れ 、 そ の 瓦 礁 の な か か ら は 、 ウ ル の 場 合 に 似

(
て、多くの貴重な品々が出土した。そこにどんな人たちが住んでいたのか、いまでもよく
わからない 。 た だわか って い る の は 、 後 に な っ て は じ め て こ の 地 に 、 今 日 な お イ ン ド に す
む 民 族 が 移 住 し て き た と い う こ と で あ る 。 彼 ら は 、 ベ ル シ ア 人 や ギ リ シ ア 人、 さらにはロ
1 7人 や グ ル マ ン 人 の そ れ に 似 た こ と ば を 話 し て い た 。 父 親 ( ド イ ツ 語 で フ ア│テル )は 、
古 代 の イ ン ド 語 で は ピ タ ル 、 ギ リ シ ア 語 で は パ テl ル、ラテン語ではパ│テルである。
こ の 種 の こ と ば を 話 す 民 族 の な か で は 、 インド人とゲルマン人がもっとも遠くにいるこ
と か ら 、 こ の 民 族 集 団 は イ ン ド ・ゲ ル マ ン 語 族 と よ ば れ て い る 。 し か し こ と ば だ け が 似 て
いるのか 、 あ る い は 遠 い な が ら も 血のつなが りがあるのか 、は っきりしたことはわからな
い の だ 。 い ず れ に し て も 、 イ ン ド ・ゲルマン語のひとつを話すこのインド人は、ギリシア
のド │リ ア人と 似 たやり方で 、 インドに侵入してきた 。 彼 らもまた 、 同じように先住民を
制 圧 し な け れ ば な ら な か っ た 。 た だ こ こ で は 、 人 の 数 が 多 く 、 それゆえ受けもつ仕事が分
け ら れ た 。 一 部 は 戦 士とされたが 、 彼 ら は い つ ま で も 戦 士 で あ ら ね ば な ら ず 、 彼らの息子
戦士のカl ス卜﹂ である 。 この他にも、同じ
も 戦 士 に な ら ね ば な ら な か った。 す な わ ち ﹁
く 厳 格 に 規 制 さ れ た 多 く の カ l スト、たとえば職人のカ 1 スト、農民のカ │ ストがあ った。
照らされた者と彼の国

あるカ l ス ト に 属 す 者 は 、 け っ し て そ こ か ら 出 る こ と が ゆ る さ れ な か っ た 。 職 人 が 農 民 に
な る こ と 、 ま た そ の 逆 も ゆ る さ れ な か っ た の だ 。 彼 ら の 息 子 た ち も 同 様 で あ る 。 いや、彼
ら は他 のカ 1 ストの娘と結婚することもゆるされず、 他 のカ l ストの者と同じテ ーブルで
食 事 を す る こ と 、 同 じ 車 に 乗 る こ と さ え ゆ る さ れ な か っ た 。 インドのいくつかの地方では、
今 でもそれはつづいている 。
-0

最 高 は 、 聖 職 者 の カl スト、 す な わ ち バ ラ モ ン で あ った。 戦士の上にさえ位置する彼ら


の 受 け も ち は 、 エ ジ プ ト に お け る と 同 様 、 生 け 費 や神 の住ま いの世話であ ったが 、学問も
7
9
また彼らの仕事であった。彼らは、祈りのことばや聖なる歌を暗記し、それらが書きと
められるまで 何 千 年 に も わ た っ て 、 ま っ た く 変 わ る こ と な く っ た え な け れ ば な ら な か っ た 。
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このように 四 つの カ │ストがあったのだが 、 それらはまた 、 たがいにきび しく 規 制 された


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無数のカ 1 ストに 細 分 さ れ て い た 。
さらには、いかなるカ 1 ストにも属すこと、がゆるされない少数の人たちがいた。パリア
である。 彼 ら は 、 も っ と も 汚 い、 不 快 な 仕 事 に 従 事 し た 。 だれも、 下位のカ l ストの構成
員 さ え も 、 彼 ら と 同 居 す る こ と は ゆ る さ れ な か っ た 。 彼 ら に 触 れることが 、 す で に け が れ
ふかしょ︿みん
で あ っ た 。 そ れ ゆ え 彼 ら は 、 不 可 触 民 と よ ば れ た 。 彼 ら に は 、 他 のインド人と同じ井戸
か ら 水 を 波 む こ と も ゆ る さ れ ず、 イ ン ド 人 の 上 に 自 分 た ち の 影 が お ち な い よ う に 、 つ ね に
注 意 し な け れ ば な ら な か っ た 。 影 す ら 、 け が ら わ しい とされたのである。これほどまでに
人聞は 、 残 酷 に な れ る の だ 。
しかしその 他 の点では 、 イン ド人 は け っ し て 残 酷 な 民 族 で は な か っ た 。 いや 、 逆である 。
インドの聖職者たちは 、 完 全 な 静 寂 の う ち に も っ と も む ず か しい問 題について熟考するこ
とができるようにと 、 人 気 の な い 深 い 森 の な か に 隠 遁 す る 、 他 に例 のな いほど真面 目 で考
ひとけいんとん
え深い 人間 であった 。 彼 ら は 、 彼 ら の 多 く の 荒 々 し い 神 々につ いて、 最 高 神 ブラフマにつ
。 彼 ら は、自 然 の す べ て の 生 き物、 人 間 も 神 々も 、 植 物 も動 物 も、 この 最 高 の
いて考 え た
存 在 ブ ラ フ マ の 息 吹 によって生かされて いるのだと 、 感じて いた。この最高の存在は 、 す
いぷき
べてのなかで 、 太 陽 の 光 の な か で 、 野の芽ぐみのなかで 、 成長と死のなかで 、 ひと しく 作
用するのだと ︹
図凶 神 は、世界の

︺たとえば 、きみ
いたるところにいる 。
がひとつまみの塩を水のなかに落とし
てみよう 。 その塩は水のなかのいたる
ところにあり 、 どの一滴もひとしく塩
からい 。 わたしたちが自然のなかに見
るちがいのすべて 、 循 環 と 変 転 の す
じゅんかん

8 巨大で異様なかたちをしたインドの神殿。
べては 、たんなる表面的なものにす ぎ
ない 。 ひとつの魂は 、 あるときたまた
照らされた者と彼の国

ま人聞になり、その死後同じ魂は 、 も
しそれが神とひとつになるまでに浄
化 されていなかったら 、ト ラ、あるい
はメガネヘビになる。なぜなら 、 すべ
てのなかで作用する本質的なもの、最
-0

高 神 ブラフマの息吹は 、 永遠に存在し
つつ
e
けるのであるから。インドの聖職
9

1
9
者は 、弟子たちに正しく教えるために、
ひとつのすばらしいきまり文句を考えついた。きみも考えてごらん。それは 、 ただ﹁それ
00

がおまえだ﹂というのだ。きみが見るものすべて、動物も値物もきみの 仲間の人間 も、す


1

べてそこにいるきみと同じ 神の息吹 であるというのだ。


せつり
インドの聖職者は 、 こ の 偉 大 な る 摂 理 を 正 し く 感 じ 取 る た め に 、 ひとつの変わった方法
を考え 出し た。インドの深い原生林のひとところに座り 、何時間 も、何日も、 何週間 も

何 ヶ月も、何年も、ただそれについてのみ考えつづけること 。 彼 らは 、両脚を交 差させ 、
視 線 を 下 に 向 け 、 背 筋 を 伸ばし、静 かに、いつまでも座りつづけた。できるだけ呼吸を少
なく、できるだけ食べ物を少なくして。多くの者は、けがれをきよめるために、いっそう
神の息吹を感じるために、さらにさまざまな方法で自分を苦しめた 。
そ の よ う な 聖 者 、 け が れ を き よ め る 者、 修 行 す る 者 は 、 イ ン ド に は 三 千 年 も 前 か ら た く
さん存在した。いまも存在する。しかし彼らのうちのひとりは 、 他 の多くの者たちとちが
った。 それが、キリスト誕生前五OO年ころに生きた王子ゴ l タ マであった。
、 す な わ ち ブッダとよばれる王子ゴ l タマは、東方 風 のあらゆる
後に﹁照らされた者 ﹂
賛 沢、 あ ら ゆ る は な や か さ に か こ ま れ て 育 っ た 。 夏 の た め 、 冬のため、雨季のための三つ
ぜいた︿
の宮 殿をもち、そこではつねにうつくしい音楽が流れ、彼はその宮殿を出ることはなか っ
た 。 あ ら ゆ る 悲 し み を 遠 ざ け よ う と し た 両 親 は 、 彼 が バ ル コ ニ ー から降りることさえのぞ
まなかった。それゆえ、 彼の近く には悩みをもっ者はひとりもいなかった。だが 、あ ると
き宮殿から車で 外 に出 たゴ l タマは 、 腰 のまがった老人にであった 。 彼は、供の御者 にあ
れは 何 かとたずねた 。 御 者 は 、 そ れ に 答 え な け れ ば な らなかった。王子は 、思い に沈ん で
宮 殿 に 帰 っ た 。 次 の と き 、 彼 は ひ と り の 病 人 に で あ った。病気についても 、 彼 は何も聞か
されていなか った。さらに 思いに沈んで 、 彼は、 妻と息子のもとに帰った。三度目のとき、
彼は死者にであ った。 彼は、もはや宮殿に帰ることをのぞまなか った。 そして最後に、ひ
と り の 修 行 者 に で あ っ た と き 、 彼 は自分もまた荒野に行き、老、病、死にあらわれていた
この 地上の苦し みについて考えることを決 心した 。
後に彼は 、 説 教 の ひ と つ の な か で 語 っている 。﹁ そ し て い ま だ 咲 き ほ こ る 花
、 黒くかが
やく髪、しあわせな若さを楽 しむ人生の春にあ ったわたしは 、 泣いて訴える 両親 ののぞみ
-0 照らされた者と彼の国

に逆らい 、髪とひげをそり落と し、うすずみ色の衣をまと い、家を出て荒野に向か った




六年のあいだ彼は、けがれをきよめる 修 行 者 と し て 生 きた。彼は 、他のだれより も深く
考えた。これまでのだれよりもきびしく 、 自 分 を 苦 し め た 。もはや 息の消えるまでに座り
つづけ、 お そ ろ し い 痛 み に も 耐 えた。たおれるまでにわずかしか食べなかった。しかしこ
のような 年 月 を 重 ね て も 、 彼は、こころの安らぎを見出すことは できな か った。なぜなら 、
彼は、 世界とは何か、神の息吹とは 何 か、とだけ考えていた ので はなか ったからだ 。 彼は、
この 世 の不幸のすべてについて考えて いたのだ 。 人間の苦しみと悩みのすべてについて 。
0
11
老、病、 死について 。 しかし、いかなる苦行も役には立たなかった 。
そこで彼はふたたび 、 ゆ っくりと食事をとり、体力を回復し、他の人間と同じように息
2

をすることをはじめた 。 それゆえ 、 それまでおどろきの自で見ていた 他 の修行者た ちは 、


0
1

彼をあざけ った。 しかし 、彼 のこころはゆるがなか った。 そしてある日 、明 る い森 の空き


地 に立つイチ ジ クの 樹 の下に座 っているとき 、 彼 にさとりが訪れた ︹
図四︺
。とつ、ぜん彼は、
何年もかけて 問 いつづけてきたものを理解した 。 とつぜん彼は 、 こころに差 し込 む一筋の
光を見た 。 このとき彼は 、 ﹁
照らされた者﹂、ブ ッダとな った。 そして 彼は、 その 偉大 なこ
ころの発見をすべての人聞につたえるため、歩き出した 。
きみは いま、 ゴl タマが ﹁ さとりの 樹﹂ の下で 、 あらゆる疑いからの 解放とし て ﹁
きと
ったもの ﹂ がい ったい 何 であ ったか、ぜひ知りたいと思うだろうね 。 い っしょに 考えてみ
よう。 ゴl タマも六年のあいだ 、 結 局はただそれだけを考えつ づ けたのだからね 。偉大な
るさとり、苦悩からの偉大なる解放、それはすなわち、苦悩か ら解放されたいと願うなら
わたしたち自身の 側 ではじめなければならない﹂という考えなのだ 。 たとえば、こうい

うことではないだろうか 。 もし いまきみが 、 欲 しくてたまらない本が手に入らな いと悲し
んでいたら 、 きみがとるべき道はふたつある 。 ひとつは、それをなんとしてでも手に入れ
ること 。 ふたつは、それを欲しがることをやめること 。 もしきみが 、こ のふ た つのどちら
かに成 功 すれば 、 きみの悲 しみは 消 えるわけだ 。 すなわちブ ッダは 、もしもう つくし いも
かわ
の、ここちよいも のを欲するこ とをやめ れば、も しも 幸福、満足、 評 判、優しさに渇く こ
1
03 - 0 照らされた者と彼の国

1
9 イチクタの樹 の下でさとりを得たゴ -!l7 。ブッ ダの彫像の多く
はこの姿勢であらわされる。
とがなければ、たとえそれが手に入らなくても悲しがることはない 、 というのだ 。 何も欲
4

しない者は悲しまない 。 渇 き を 克 服 す れ ば 、 悩 み も 克 服 で き る の だ 。
0
1

そ れ で も 、 欲 し い も の は ど う し て も 欲 し い ﹂ と 、 き み は 思 う か も し れ な い 。ブッダは 、

そうは思わなか った。 ひとは、長年の努力でも って、 ほんらい欲す べきものを欲し な いま
でに自分自身をきたえることができる、と彼は説いた 。象使いが象の 主 人 であるよ うに 、
欲望の主人になれと 。 そして、ひとがこの世で到達できるものが最高な ので あり、 それ 以
上 を の ぞ ん で は な ら な い と も 。 これが、彼のいうところの ﹁こころの凪 ﹂
なぎ
、地上 で何 も欲
しない人間の 、 偉大で静かな至福である。だれに対してもひとしく親切 であること、 だれ
しふ︿
からも 何 ももとめないこと 。 このように し て、あらゆる欲望の主人になりえた者は、 その
死後二度とこの 世 に来ることはない、とブッダは説く 。 インド人のほんらいの考え によれ
しゅ・ヲちゃ︿
ば、魂は 、 地 上 の 生 に 執 着 す る ゆ え に 、 ふ た た び 地 上 に 生 ま れ る 。 生に執着し な い者 は、
出生の循環﹂に強いられることはない 。彼は、空のなか に入る 。 イ ンドの
死後、もはや ﹁
浬鈴)とよばれる、欲望のない、悩みのない空に 。
ね はん
ことばで ﹁ニル ヴア │ナ ﹂ (
これが 、 イチ ジ クの樹の下でのブ ッダのさとり、いかに人はみたすことなく欲望か ら解
放されるか、いかに癒やすことなく渇きを除くことができるかの彼の教えである 。 ここ に
いたる道は 、 きみが想像するとおり 、 けっしてかんたんではない 。 ブ ッダは 、 それを ﹁

ん な か の 道 ﹂ とよんだ 。 な ぜ な ら そ れ は 、 役 に 立 た な い 自 虐 の 苦 行 と 怠 惰 な 甘 い 生 活 の
じ ぎキ︿た い だ
あいだを抜けて真の救済へと向かう道だからである。大切なのは、正しい信仰、正しい決
断、正しいことば、正しい行ない、正しい生、正しい死、正しい意識、正しい没頭である 。
以上 が 、 ブ ッ ダ の 教 え の も っ と も 重 要 な こ と で あ る 。 そ し て こ の 教 え は 、 人 びとのここ
ろに深く 刻 みこまれ 、 多くのひとが 彼 のあとを追い、 彼 を神 のようにうやまった。今日 世
界 に は 、 な か で も イ ン ド シナ 、セイ ロン (いまはス リ ランカとよばれる)、 チベット 、中 園

日本 に、 ほとんどキリスト教徒と 同 じ く らい多くの 仏 教 徒 がいる。 しかし、 ブッダの教え
にしたがって生き、こころの凪に到達できる人は少ない。
照らされた者と彼の国
-0
0
15
06

大きな民族の偉大な教師
1

わたしがフオルクスシュ l レ (
初等 学校)にかよって いたころ、わたしたち子どもにと
って中国は、いわば ﹁
世 界 の果て﹂であった。わたしたちの知識のみなもとは 、せいぜい
ぺんばっ
食器や花瓶の上のいく つかの 絵であり、それ らからわ たしたちは、その国では弁髪を下げ、
ぎこちなく動く小さな人問 、
か、虹のような橋や小さな鐘をつけた洞のある庭園に住んでい
ると想像していた 。
もちろん、そのようなおとぎの国がじっさいに存在するはずはない 。 しかし、中国人が
約三00年間、 一九 一二 年 ま で 、 弁 髪 を 義 務 づ け られ ていたことや、彼 らの ようすが、わ
たしたちヨ l ロ yパの国々には 何 よ り もまず、 かの 地 のすぐれた名工たちの手になる磁器
や象牙の かわ いい製品 によって紹 介 されたことは、た しかな 事実である。もちろんそのよ
うな 製品が、こ こで語ろうとする 時 代 、 す なわちいまから 約 二四OO年前に、存在したわ
けではない 。 しかし、そ のころすでに中国は 、古い歴史をもっ巨大な国であ った。 いや、
あまりにも古く、あまりにも巨大であったため、いまや瓦解しようとしていた 。 そこには、
米 や 麦 を 栽 培 す る 何 百 万 の 勤 勉 な 農 民 が お り 、 はなやかな絹の衣をまとう人びとがおごそ
かに行き交う大きな都市があ った。 そ し てすでに千年以上も前から皇帝たちが、首都の宮
殿 か ら 中 国 全 土 に 号 令 し て い た 。﹁ 太 陽 の 息 子 ﹂ のエ ジプ トの ファ ラオに似て 、 みずから
天の息子 ﹂ と名の ったあ の有名な中国の 皇 帝たち であ る
を ﹁ 。
しかしこの 皇 帝の下には、広大な国のそれぞれの地方の統治をまかされた多くの豪族が
いた 。 なにしろこの国は、エ ジプ トより大きく 、 ア ッシリアと パピロニアを合わせたより
も大きかったのだ 。 やがてこれ ら豪族たちは 、皇帝は﹁中国の皇帝﹂ でありつづけたにも
かかわらず、もはや皇帝が自分たちに命令することをゆるさないまでに力をつけた 。 彼ら
大きな民族の偉大な教師

天の息子 ﹂ を大切にしなくな った。 しかも国は、その両端の住


はたがいに争い、あまり ﹁
民がたがいにま ったく異なることばを話すまでに広か ったので、もし彼らにひとつの共通
するものがなか ったら、き っと完全にばらばらにな っていた にちがいない。その共通のも
のとは、彼らの文字であ った。
ことばがちが う のに共通 の文字というものが役に立つ のか。 それで 書 かれたも のを、た
がいに異なることばを話す人たちが理解できる のか。 き み は疑問に思 う だろう 。 それが、
中国の文字ではできる のだ。 手品だ って? いや 、 け っしてそ う ではない 。 そんなに不思
議なものではないのだ 。 その文字は 、 ﹁ことば ﹂ ではなく、 ﹁ことがら ﹂ を書きとめるのだ 。
0
17 太陽 ﹂ を書きとめたいならば 、き みは 日 といった記号をつくる 。 そして
たとえばきみが ﹁
、あるいは中
きみはそれを﹁タイヨウ﹂(日本一諮)、﹁サン﹂(英語)、﹁ゾンネ﹂(ドイツ語)
08

国風 に﹁ジョエ﹂と 、 好 きなことばで読むことができる。そしてこの記号を知る者は、だ
1

れでもその意味を理解する。こんどは﹁木﹂と書 いて みよう。ここでもきみは 、 ただ数本


の線でかんたんに 木 と 書 け ば よ い 。 こ れ を 中 国 語 で は ﹁ ム ﹂ と 声 を 出し て読むが、この
木﹂を意味することを知るために 、 その発音を知る必要はない。
記号が ﹁
するときみはいうだろう。その形が頭に思い浮かぶことがらならば、それはかんたんに
記号にできる。しかし、﹁白 ﹂ と書きたいとき、わたしたちはただ白い色を塗ればよいの
か。﹁東﹂と書きたいとき、それをどのように記号にできるのか。ところが、これも筋の
とお った約束に したが って行なうことができるのだ。﹁シロ﹂を書くには 、何か白いも の
日 である。こ
を 記 号 で 示 せ ば よ い 。 す な わ ち 、 太 陽 の 光 線 、 太 陽 か ら 出 て く る 一本の線 '
れをたとえば ﹁ パイ﹂ 中国語)
( 、 ﹁ヴアイス﹂(ドイツ語叩)、 ﹁ホワイ ト﹂(英語)、 でフラン﹂
、 あるいは ﹁
(フランス 語) シ ロ﹂(日本語)と よ ん で も か ま わ な い 。 東 は ど う な る か つ て ?
東は、木の後方に太陽が昇るところ、木の記号のうしろに太陽の記号を描けば @小 になる
のだ。
便利だろう。だけど、物事にはすべて両面がある。世界にはどのくらい多くのことば、
どのくらい多くのことがらがあるか、考えてもみてごらん。そしてそのひとつひとつのこ
とがらに、ひとつひとつの記号が必要とされるのだ。今日すでに中国には四万の文字があ
り 、 多 く の 文 字 は 非 常 に 複 雑に なり 、 む ず か し く な っている 。 だからこそいっそうわたし
たちは 、 フェニキア 人と 二六の文字に 感謝しなければならない 。 しかし中国人はすでに何
千年もそのように書いてきたのであり、アジアの大部分でも、たとえ中国語をひとことも
知 ら な い 者 に も 、 そ の 文 字 は 読 ま れ て き た の だ 。 それゆえ 、 中 国 の 偉 大 な 人 物 た ち の 思 想
や原 理 は す み や か に 広 が り 、 人 び と の こ こ ろ に 深 く 入 り 込 ん で い ったのだ。
というのは 、イ ンド で ブ ッ ダ が 人 び と を 苦 悩 か ら 解 放 し よ う と 努 力 し て い た の と 同 じこ
ろ │ │き み は そ れ が キ リ ス ト 誕 生 前 五OO年 こ ろ で あ った こ と を お ぼ え て い る ね │
│ 、中
国 に も 、 そ の 教 え で 人 び と を し あ わ せ に し よ う と し て い た ひ と り の 偉 大 な 人 物がい たのだ 。
大きな民族の偉大な教師

し か し彼は、いく つかの 点 で プ ッ ダ と は ち が っ て い た 。 彼は王子ではなく、軍人の息子で


あ っ た 。 彼 は 修 行 者 で は な く 、 役 人 、 そ し て 教 師 になった。ブッダは 、 何 も も と め な け れ
ば 苦 し む こ と は な い と 説 いた 。 い っぽう彼は 、 も っと も 大 切 なことは、人びとが平和にと
も に 暮 ら す こ と で あ る と 説 い た 。 彼 が 目 指 し たのは 、 よ り よ い 集 団 生 活 で あ った。 そ し
て彼自身 、 この目標に達した 。 彼の教えによ って中国の大きな民族は 、 何 千 年 も のあいだ 、
世 界 の 他 の ど の 民 族 よ り も 平 和 に 、 そ し て 静 か に 、 と も に 暮 ら す こ と が で き た の だ 。 だか
こうし
ら こ そ き み は い っそう 、 こ の 偉 大 な教 師 、 孔 子 の教えがどんなものであ ったか知りたくな
るだろう 。 それは 、 守るに け っし てむずか しい ものではない 。 だからこそ、大きな成果を
0
19 得ることができたのだ 。
孔子が指し示した道は、かんたんであ った。すぐにはきみにも見えな いかもしれないが、
0

そこには奥の深い多くの知恵が隠されているのだ。彼は、日常の表面的なしきたり 、 たと
1
1

えば目上の人にあえば頭を下げ、わきによって道をゆずり、けっして座ったまま話しかけ
ないこと、これらは、人間の生活にあってはわたしたちが考える以上に大切なことだと教
える。日常の表面的なしきたりに対しては、中国人はわたしたち以上に多くのきまりをも
ち、それを﹁礼﹂とよんで重んじたのだ。孔子は、それらはけっして偶然に生まれたもの
ではなく、もともと何かとくべつな意味 、し かも何かすばらしい意味をもっていたと考え
た。﹁ わたしは古いものを信じ、それを愛さなければならない ﹂、と彼はいう。すなわち彼
は、何千年もつづいた習慣やしきたりの深い意味を信じ、それを守るよう 、人 びとにくり
かえし説いたのだ 。 多 く を 考 え る 必 要 は な い 。 た だ そ れ を 行 な え ば 、 す べ て は お の ず か ら
うまく行く、というのが 彼の考えであ った。 人聞は、たしかに ﹁
礼﹂によっていまより普
くなることはないかもしれない。しかし今のまま在りつ つ e
けることはできるというのだ 。
孔 子 は 、 人 聞 に た い し て 非 常 な 善 意 を い だ い て い た 。 彼は、すべての人聞は生まれつき
品があり、善良な存在であるという 。 幼い子、か水辺で遊ぶのを見ればだれもが、落ちはし
ないかと心配するではないか︹図却 隣の人へのこのようなこころくばり、こまってい
る者に対しての同情、それは人 聞 に。

とって生まれつきのものである。したがって、それが
う し な わ れ な い よ う 注 意 す る 以外、何も する必要はない。そしてまた、家族というものが
I
II 一一 大きな民族の偉大な教師

2
0 水辺の幼児に手をさしのべる 孔子。
ある 。 両親を愛し 、 両親に し たが い、 両 親 に こ こ ろ を く ば る 者 ーー そのようにわた し たち
12

、 また 、 父親 にし たがう
は生まれついている ーー は、 他 人 に対してもそうであるだろう し
1

よ う に 国 家 の 綻 に も し た が う で あ ろ う 。 そ れ ゆ え 彼 に と っ て は 、 家 族 、 兄弟姉 妹 のあいだ
の愛、 両 親 に 対 す る お そ れ と 敬 慕、それが 、 生 き る 上 でもっとも大 切 なことである。それ
すいぽ
を彼は 、 ﹁
人 間 性の根源﹂とよんだのだ。
し か し そ れ は 、 た だ 臣 下 は 君 主 に だ ま っ て し た が う べ き と い う 意味 ではな い。まったく
逆である 。 孔 子 と 彼 の 弟 子 た ち は 、 わ が ま ま な 領 主 の も と に も 多 く 滞 在 し、 彼 らにさかん
に 進 言 し た 。 な ぜ な ら 、 領 主 は 礼 を 重 ん じ る 、 父 親 ら し い 愛、 配 慮 、 正 義 を 実 行 す る 最 初
の人であらねばならないからである。もし支配する人聞がそれをせず、下にいる者をむや
み に 苦 し め る な ら ば 、 民 衆 は と う ぜ ん 彼 を 権 力 の 座 か ら 追 わ ね ば な ら な い 、 と 孔 子や彼の
弟子たちは説いた 。 な ぜ な ら 、 支配 す る 者 の 第 一 の っ と め は 、 そ の 領 地 に住む者の手本に
なることであったからだ。
おそらくきみは、 孔 子 は た だ あ た り ま え の こ と を い っ た に す ぎ な い と 思 う だ ろ う 。 彼が
の ぞ ん だ の は 、 ま さ に そ れ な の だ 。 彼 は 、 だ れ も が お の ず か ら 理 解 す る こ と 、 正しいと思
う こ と 、 そ れ を の ぞ ん だ の だ 。 そ し て そ の の ぞ み が 達 せ ら れ た と き、 人 聞 が と も に 暮 ら す
ことは容易になるのだと。 前 に い ったように 、 彼 は そ れ に 成 功 し た。だからこそ 、 多くの
周 辺 国 を し た が え た 巨 大 な 国 家 は 、 結 局 ば ら ば ら に な る こ と な く 、 長 く ありつ守つけること
ができたのだ。
し か し き み は 、 中 国 に は 別 の 考 え を も っ た 人、 ブ ッ ダ の よ う な 生 き 方 を の ぞ む 人 、 共 同
生 活 や し き た り よ り も 、 世 界 の偉大な神秘を大切にする人がいなかったと思つてはいけな
い。 孔子か ら しば らくのち 、中国 にもそのようなひとりの賢人があらわれた。その人は 、
老子とよばれた 。 彼 は 役 人 で あ ったが 、 日 常 生活のわずらわしさをきらい 、 臓 をすて、隠
ろうし
遁者となる べく国境の人気のない山中へ向か った。
ひとけ
国 境 の 税 関 の ひ と り の 素朴 な役人が 、 人間の世界をはなれる前にその考えを書きとめて
くれるよう 、老子にた のんだという。 彼は、そののぞみにこたえた 。 税関の役人にそれが
大きな民族の偉大な教師

理解できたかどうか、わたしは知らない 。 というのは、それはあまりにも神秘的でむずか
しいものだからだ 。 だいたいの意味はこうなのだ。全 世 界 には 、雨 にも風にも、動物 にも
植物にも、昼と夜の交替にも、星、月、太陽の運行にも、ひとつの偉大な錠が作用してい
る。 彼は 、 それを ﹁
道 ﹂ と 名 づ け た 。 そ し て 、 落 ち 着 き と い う も の を も た な い 者 、 右往左
うおうさ
往 す る 者 、 多 く の は か り ご と や 考 え を こ こ ろ に い だ く 者、 神 に 生 け 費 を さ さ げ 祈 る 者 、 彼
b
aう
らはけっしてこの綻に近づくことができず 、 その力を知らず、 またその作用をさまたげる、
というのだ 。
人聞がしなければならないた ったひとつのこと 、 それは何もしないことである 、 と老子
13
1
はいう 。 ただこころを静かにたもつこと 。 あたりを見ることなく、聞き耳を立てることな
く、 何 も の ぞ ま ず、 何 も 考 え な い こ と 。 木 のように 、 花 の よ う に 、 目 的 もなく 、 意思も
4

なく 、 その域に達した者だけに 、 工 を 回転させ 、 春をもたらすあの偉大な字 宙の提、 ﹁


1

大 道﹂
1

は、 作 用をおよぼしはじめる。きみも気づいたと思うが、この教えを理解することはむず
かしく 、 そ れを実行する ことはい っそうむずかしい 。 たぶん 老子は 、遠くはなれた 山中 の

孤独のなかで 、 彼 のいうとおり 、 無 の境 地 でその提を 作用させ ることができたにちがいな
い。 しかしわたしには、老子でなく孔子こそが、あの国のも っとも偉大な教師であ ったと
思えるのだが、ど う だろうか 。
偉大なる冒険
ギリ シア のう つくしい時代は、 長 く は つ づ か な か った。 ギリ シア 人 は 、 あ ら ゆ る ことを
な し た 。 し か し 、 静 か に暮 ら す こ と は で き な か った。 な か で も ア テ ナ イ人と スパル タ人は、
仲 良 く す ご す こ と が で き な か った。 そ し て 紀 元 前 四 三O 年 こ ろ 、 こ の 二 つの都市のあいだ
に 長 い 、 激 し い 戦 い が は じ ま った。ベ ロ ポ ネ ソ ス 戦 争 と よ ば れ る も の で あ る 。 スパ ルタ軍
は ア テ ナ イ の 城 壁 近 く ま で 押 し 寄 せ 、 周 囲 の 土 地 を ひ ど い や り か た で 荒 ら し た 。 オリl ヴ
の樹を切り倒したのだ。 それは、住民にとっては大変な不幸であった。新たに植えたオリ
l ヴは 、 実 を つ け る ま で 長 い 年 月 を 必 要 と す る の だ 。 つ ぎ は ア テ ナ イ 軍 が 、 ス パ ル タ の 植
民 地 、 イ タ リ ア の 南 、 シ チ リ ア の シ ラ クl サを攻めた。たがいの攻防は、長いあいだっづ
いた 。 そ し て ア テ ナ イ に 疫 病 が は や り 、 そ れ に か か っ て ベ リ ク レ ス は 世 を 去 り 、 つ い に
えき びょ う
アテナイは戦いに負け、城壁はとりこわされた 。 戦争とはそういうものだが、負けた側だ
け で な く 、 勝 った側 の 国 土 も 荒 れ は て た 。 さ ら に 悪 い こ と に は 、 デ ル フ ォ イ の 神 官 た ち に
1
15
挑 発 さ れ た 周 囲 の 住 民 が 、 こ の ア ポ ロ ン の 聖 域 を 占 領 し 、 略 奪 す る 事 件 が つ づ い た 。 ギリ
シアは、乱れに乱れた。
6

この混乱に 、 よ そ か ら の 一 民 族 が 介 入 し た 。 ま っ た く の よ そ 者 で も な い 。 ギリシアの
1
1

北 方の 山 地 に住む 、 マ ケ ド ニ ア 人 で あ る 。 マ ケ ド ニ ア 人 は 、 ギ リ シ ア 人 の 親 戚 で あ っ た 。
し か し 荒 々 し く 戦 い に 長 け 、 フ ィ リ ッ ポ ス と い う 非 常 に 賢 明 な 王 を い た だ い て い た 。 この
マケドニアのフィリ ッポスは 、 み ご と な ギ リ シ ア 語 を 話 し 、 ギ リ シ ア の 風 習 、 ギ リ シ ア の
文 化 に 精 通 し て い た 。 彼 の 野 心 は 、 全 ギ リ シ ア の 王 に な る こ と で あ っ た 。 その彼にとって、
宗教を同じにするギリシア人すべてにかかわる聖域デルフォイをめぐる戦いは、またとな
い 機 会 で あ っ た 。 た し か に ア テ ナ イ の 民 会 で は 、 ひ と り の 政 治 家 が マ ケ ド ニア王フィリッ
ポスのこの計画に異をとなえ、激しい抗議の演説をくりかえしていた。 デモステネスであ
ゅうぺんじゅつ
る。 彼 の 演 説 は 、 後 代 、 雄 弁 術 の 手 本 と さ れ た 。 し か し ギ リ シ ア は 、 自 分 た ち を 守 る た
めに 一致 す る こ と は な か った。
カイロネイアの戦いでは、わずか百年たらず前にあの途方もなく巨大なペルシア軍から
自 国 を 守 り ぬ い た 同 じ ギ リ シ ア 軍 が 、 フ ィ リ ッポス王の 小 さ な マ ケ ド ニ ア 軍 に や ぶ れ た 。
らん よう
こ の と き 、 す な わ ち 紀 元 前 三 三 八 年 、 ギ リ シ ア 人 が あ ま り に も 濫 用 し た 自 由 は、おわりを
告げたのだ。 しかし王フィリッポスは、ギリシアを完全に屈従させ、身ぐるみを剥ぎ取る
こ と は し な か った。 彼 は 、 ま っ た く 別 の こ と を 考 え て い た 。 ギ リ シ ア 人 と 7ケドニア人か
ら、 ひ と つ の 大 き な 軍 隊 を 編 成 し 、 そ れ で ペ ル シ ア 征 服 の 遠 征 に 向 か う こ と で あ っ た 。
それはもはや、ベルシア戦争の時代とはちがって、不可能なことではなかった。そのこ
ろのペルシアの大王たちは、かつてのダレイオス一世ほど有能でなく、またクセルクセス
ほど強くもなか った。 も は や 彼 ら は 、 自 身 で 全 国 土 を 支 配 す る こ と な く 、 地 方 の 総 督 ( サ
トラ ップ ) が そ の 領 地 か ら 可 能 な 限 り の 多 く の 金 を お く れ ば 、 す で に そ れ で 満 足 し て い た 。
その金でもって歴代の大王は、豪華な宮殿を築き、黄金の食器とはなやかに着飾った多く
の 奴 隷 に か こ ま れ た 、 賛沢 な 宮 廷 生 活 を お く つ て い た 。 珍味をさがし、うまい酒をもとめ
て い た 。 そ し て 地方 の総督もまた 、 そ れ を ま ね て い た 。 そ の よ う な 国 を 征 服 す る こ と は む
ず か し い こ と で は な い 、 と フ ィ リ ッ ポ ス 王 は 考 え た 。 し か し彼は、この遠征の準備 をお与え
る前に暗殺された 。
この王から、全ギリシアと故郷のマケドニアを引き継いだ彼の息子アレクサンドロスは、
このときまだ二O歳 に な っ た ば か り で あ っ た 。 す ぐ に も 自 由 に な れ る 、 と ギ リ シ ア 人 は 考
偉大なる 冒険

え た 。 彼 ら に は 、 そ ん な 若 僧 は か んたんに 片づ け ら れ る と 思 え た の だ 。 し か し 、 アレクサ
ン ド ロ ス は た だ の 若 者 で は な か っ た 。 む しろ彼は、も っと早くに 王座につきた いとさ え考
えて いたのだ 。 ったえるところによると、子どものときの彼は、父親、すなわち王フィリ
ツポ ス が ギ リ シ ア の 新 し い 都 市 を 占 領 す る た び に 、 ﹁ 王 に な っ て も 取 る も の が な い ﹂ と い
って泣いたという 。 し か し 彼 に 、 取 る も の が の こ さ れ た 。 自由をさけんだギリシアのひと
1
17

つの 都市テl ベ が 見 せ し め の た め に 破 壊 さ れ 、その住民が奴隷として 売られた。つづいて


アレクサンドロスは 、 ペルシア遠 征 について話し合うため 、 ギ リ シ ア の 都 市 コリ ントスに
18

ギリシアのすべての指導者をあつめた 。
1

ところで、きみにはぜひとも知っておいてもらいたいことがある。若い王アレクサンド
ロスは 、 ただ勇敢で野心にもえる戦士であっただけでなく、長い巻き毛をもっうつくしい、
そして 、 当 時 人 が 知 る こ と の で き た こ と す べ て を 知 る 若 者 で あ っ た と い う こ と だ 。 そ し て
彼の先生は、 当時の 世 界 が 知 る も っともすぐれた人 物、ギリ シアの哲学者ア リ スト テレス
であった。それが何を意味するか。アリストテレスは、たんにアレクサンドロスの先生で
あっただけでなく、その後の二千年のあいだ人間の教師でありつづけたと聞けば、きみに
もだいたいの想像はつくだろう。二千年をとおして、ひとは何かの点で一致しないと、そ
の答えをアリストテレスの書物のなかにきがしてきたのだ。そこに書いてあることが、真
実 と さ れ た の だ 。 彼 は 、 当時人聞が知り得ることすべてをあつめた。自然のあらゆること、
星、 動 物 、 植 物 に つ い て 書 き の こ し た 。 歴 史 に つ い て 、 人 聞 が 集 団 で 生 き る 方 法 す な わ ち
政 治 に つ い て 、 正 し い も の の 考 え 方 す な わ ち 論 理 学 に つ い て 、 また正しい生き方すなわち
倫 理 学 に つ い て 書 き の こ し た 。 詩 に つ い て も、 ま た 詩 を う つ く し く す る も の に つ い て も、
さらには星空の上で動くことな く
、 見えることなくただよう神についての彼の考えも書き
のこした。
アリストテレスは 、 こ れ ら す べ て の こ と を 教 え た 。 そ し て ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 まちが
いなく良き生徒であ った。 彼 が も っと も 好 ん で 読 ん だ の は 、 ホ メ ロ ス の 英 雄 物 語 で あ っ た 。
寝 る と き で さ え も 、こ の書を 枕 の下 にお いたとい う 。 しかし彼は、け っして本の 虫 ではな
く 、 す ぐ れ た 運 動 選 手 で も あ った。と く に 乗 馬 は 得 意 で 、 だ れ に も 負 け な か っ た 。 あると
き 彼 の 父 親 は 、 とくべつにうつくしい 、 し か し だ れ も 手 な ず け る こ と の で き な い荒馬を手
に入 れた 。 ブ ケ フ ァ ロ ス と 名 づ け ら れ た そ の 馬 は 、 乗 ろ う と す る 者 を み な 振 り 落 と し た 。
ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 そ の わ け を 知 っ た 。 馬 は 、 自 分自身の影におびえていたのだ。そこ
でアレク サンドロ スは 、 地 上 の 影 を 見 な い よ う 馬 を 太 陽 に 向 け 、 や さ し く な で 、 す ば や く
飛 び 乗 り 、 そ の 背 に ま た が り 、 宮 廷 び と の 歓 呼 の な か を 駆 け ま わ った。 以後、 ブケフアロ
スは 、 彼 の 愛 馬 と なった。
コリントスの集会で、このようなアレクサンドロスがギリシアの指導者の前にあらわれ
た と き 、 人 び と は ひ き つ け ら れ 、 彼 に 親 し い こ と ば を 投 げ か け た 。 例外が、ひとりいた 。
偉大なる冒険

そ れ は 、 デ ィ オ ゲ ネ ス と い う 名 の 、 奇 人 と し て 知 ら れ て い た 哲 学 者 で あ っ た 。 彼は、 ブッ
ダ の 教 え と 似 た 考 えをもっていた。 何 か を 所 有 し 、 何 か を 必 要 と す る こ と は 、 考 え る こ と
を 邪 魔 し 、 安 ら か に 生 き る こ と を さ ま た げ る 、とい うのである。それゆえ彼は 、 す べてを
たる
投げすて、コリントスの広場の樽のなかで、ほとんど裸で、あたかも野良犬のように、だ
れ に も か ま わ れ ず 、 自 由 に 暮 ら し て い た 。ア レクサンドロスは、この不思議な変人を知ろ
1
19
うと彼の住まいを訪ねた。 彼は、豪華なよろいをつけ、みごとな羽飾りのついた兜をか
ぶり 、樽の前に立った 。﹁わた しはおまえが気に入った 。 何でものぞむ ものをかなえてあ
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ひなた
2

げよう﹂と彼はいった。そのとき、気持ちよく日向に寝ていたディオゲネスは、﹁主さま、
1

ひとつのお願いがあります﹂と答えた。﹁伺だ?﹂││﹁王さま、あなたのせいで陰にな
ります 。 少しばかりよけてくださいませんか﹂。このことは、アレクサンドロスに強い感
銘をあたえたとみえ、彼は ﹁ もしアレクサンドロスでなければ、わたしはディオゲネスで
ありたい﹂といったという 。
このような王に、軍隊のなかのマケドニア人だけでなくギワ シア人もまた、こころをひ
きつけられた。彼らは 、よ ろこんで彼のために戦おうとした 。 それゆえ、ベルシアに向か
ったときのアレクサンドロスは 、自信 に満ちていた。彼は 、自 分の持ち物すべてを友人た
ちにあたえた。おどろいて﹁あなたには何ものこらないではないか﹂と問うと、彼らに王
、 ﹁いや 、 未 来 が あ る﹂と答えたという。その未来は、彼をうらぎらなかった。彼の軍

隊は、小アジアに向かった 。 そこではじめて、ペルシア箪と遭遇した 。 それは、彼の軍隊
そうぐう
よりはるかに大きか ったが、まともな司令官をもたない 、規 律のない 、 ただの群衆にす 、

なかった。ペルシア軍は、ただちに逃走をはじめた。なぜなら 、 アレクサンドロス軍の士
気は高く、しかもアレクサンドロス自身がもっとも勇敢に、先頭に立って戦ったからであ
る。
有名な﹁ゴルディオスの結び目﹂ の物語が演じられたのは 、こ の小アジアでの戦いのと
き で あ っ た 。 ゴ ル デ イ オ ン の 町 のある 神 殿 に ひ と つ の 古 い 戦 車 が 奉 納 さ れ て お り 、 それに
は 騒 が 紐 で む す び つ け ら れ て い た の だ が 、 その結び 目 は巨大で非常に複雑であった。かつ
ながえひも
て神 のお告げがあり 、 それによると 、 この結び目をほどいた者が世界の支配者になるとの
こ と で あ っ た 。 ア レ ク サ ン ド ロ ス に と っ て そ れ は 、 急いでいるときの 靴 紐 にできた結び目
よ り い ら だ つ も の で あ っ た に ち が い な い 。 彼 は 、 そ の 結 び 目 を ほ ど く こ と に 、 時 間 をかけ
よ う と は し な か っ た 。 彼 は 、 母 が わ た し に は け っし てゆるさないことをやった。 剣 を抜き、
ま っ ぷ た つ に 切 っ た の で あ る 。 そ れ は 、 ﹁わた し は 剣 で 世 界 を 征 服 し 、 神 のお告げを 成 就
する﹂との宣言でもあった。そして彼は 、 それを実行した 。
と いうのは 、 ア
あと
彼 の 征 服 の 跡 を た ど る に は 、地 図 を 見 る ほ う が わ か り や す い ︹
図幻
レクサンドロスは 、 ま っすぐにはベルシアに 向 か わ なかったからである。

。 彼は、 ペルシア
偉大なる冒険

の属 州 フェニキアとエジプトを 服従させ ないまま 、 そ れ らに背を 向けることを望ま なかっ


た。ペルシア 軍は 、 南に向か うアレク サンドロスの軍をイ ッソスと いう 町 の近く で止 めよ
うと した 。この 戦 い に 勝 利 し た ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 ペルシア王の豪華な天 幕と宝ものを
手 に 入 れ た 。 王 の 妻 や 姉 妹 たちも彼の手に落ちたが 、 彼 女たちは 、 手厚く、 礼儀正 しくあ
っかわれ た。こ れ は 、 紀 元 前 三三三年のこ と で あ った。 き み も 学 校で、 ﹁サン 、 サン 、 サ
ン、 イッソスの殴り合い﹂とおぼえたのではないかな。
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フェニキアの占 領は、 か ん た ん で は な か っ た 。 テ イ ル ス の 町を滋とすには 、 七ヶ月を要
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スキタイ人の国

インドの海
1
23 一二偉大なる冒険

六・
コトウ

アラビア
工ジプト

21 7 レクサンドロスの行軍。それは世界のほぼ半分をめぐった。
した。そのこともあって彼は、この 町をむごいまでに破壊した。エジプトでは、ことは容
24

易にはこんだ。エジプト人は、ベルシアからの解放をよろこび、みずからすすんで降伏し
1

てきた。 敵 の 敵 は 味 方 な の で あ る 。 ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 エ ジ プ ト 人 の 思 う と お り の 、 す
な わ ち 真 の エ ジ プ ト の 支 配 者 に な る こ と を 望 ん だ 。 そ れ ゆ え 彼 は 、 砂 漠 を と お ってエジプ
ト の 太 陽 神 の 神 殿 に 向 か い 、 そ こ の 神 官 に 、 自 分 が 太 陽 神 の 息 子 、 す な わ ち 正 統 な ファラ
オ で あ る と 宣 言 さ ぜ た 。 エ ジ プ ト を は な れ る 前 に 彼 は 、 海 沿 い に ひ と つの都 市 を築いた 。
そ れ は 彼 の 名 を と っ て 、 ア レ ク サ ン ド リ ア と 名 づ け ら れ た 。 このアレクサンドリアは、世
界 で も っ と も 繁 栄 す る 都 市 の ひ と つ と し て、今日なお存続している。
こ こ で は じ め て ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 軍 を ペ ル シ ア に 向 け た 。ペ ル シ ア の 王 は 、 そ の 聞
に 巨 大 な 軍 隊 を つ く り あ げ、か つ て の ニ ネ ヴ ェ の 近 く 、 ガ ウ ガ メ ラ の 地 で、 アレタ サ ンド
ロスを 待 ち 受 け て い た 。 そ の 前 に ペ ル シ ア 王 は 、 ア レ ク サ ン ド ロ ス に 使 者 を お く り 、 も し
彼 が そ れ で よ し と す る な ら ば 、 王 国 の 半 分 と 自 ら の 娘 を 妻 と し て 差 し 出 す ことを申し出て
いた 。 ア レ ク サ ン ド ロ ス の 友 人 パ ル メ ニ オ ン は そ の と き 、 ﹁ もしわたしがアレクサンドロ
スならば 、 こ の 申 し 出 を 受 け る だ ろ う ﹂ と い っ た 。 ア レ ク サ ン ドロスは、 ﹁
わたしもそう
するだろう、 もしわたしがパルメニオンであったら﹂と答えた。彼は、半分よりも全部を
望んだのだ。そして、最後にもっとも巨大なペルシアの軍団を打ち破った。ベルシア王は
山 のなかに逃げたが、暗殺された。
ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 暗 殺 者 を 罰 し た 。 彼 は 、 い ま や ベ ル シ ア 全 土 の 王 に な っ た 。 彼の
国にはいまや、ギリシア、エジプト、パレスティナをふくむフェニキア、パビロニア、ァ
ッシリア 、小ア ジア 、ペル シアが属した。 彼 は 、 こ の す べ て に新 し い 秩 序 を あ た え よ う と
した 。 彼 の 命 令 は 、 い ま や ナ イ ル か ら 、 は る か 今 日 の シ ベ リ ア に ま で と ど い た 。
き み や わ た し な ら ば 、 これで 十分 で あ ろ う 。 し か し ア レ ク サ ン ド ロ ス に は 、 ま だ ま だ 十
分 で は な か っ た 。 彼 に は 、 新 し い 未 知 の 国 々 を 支 配 す る 欲 望 が あ った。彼は、東方からベ
ル シア へ 珍 し い 品 々 を は こ ん で く る 商 人 た ち が と き お り 語 る 、 は る か 遠 く の、なぞに満ち
た 民 族 を 見 て み た いと思 った 。 太 陽 の 燃 え る イ ン ド に ま で 遠 征 し 、 そ の 地 で 崇 拝 さ れ た と
いうギリシア神話のパッコス 神に な る こ と を 望 ん だ の だ 。 そ れ ゆ え 彼 は 、 ペ ル シ ア の 首 都
に 長 く と ど ま る こ と な く 、 紀 元 前 三 二七年、 軍 を ひき い て 、 歴 史 上 比 類 のな い冒険へと旅
立 った。 危 険 を 覚 悟 し 、 だ れ も 知 ら な い 、 人 の足跡のない高い 山 な み を 越 え 、 イ ン ダ ス 川
偉大なる 冒険

の谷へと 下り、イ ンドへと向かった 。 しかしイ ンド人は、かんたんには彼の 前に屈しなか


った。 い や 、 森 の な か の 隠 者 た ち は 、 西 の か な た か ら や ってきた 征 服 者 に彼らの真理を説
こうとさえした 。 アレクサンドロスは 、 戦 士のカ ! ストに属する イ ンド軍がいのちをかけ
て守る砦を、ひとつ、ずつ攻囲し 、 占 領 し て い か ね ば な ら な か っ た 。
アレクサンドロスも、勇敢に戦った。インダス 川 の支流のひとつでは、歩兵と戦いに訓
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練された象の大群をひきいたインドの王ポロスが、彼を待ち受けていた。アレクサンドロ
スは兵たちとともに、敵の目にさらされながら河をわたらねばならなかった。この作戦の
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成功は、彼の偉大な行為のひとつにかぞえられている。しかしもっと注目すべきは、彼が、
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太陽の照りつける、蒸し暑いインドで、その地の軍隊を破ったことであった。彼の前に、
縄にかけられたポロスがつれてこられた。﹁何か望みはないか﹂、アレクサンドロスはたず
ねた。﹁わたしを王としてあっかいなさい﹂ ll ﹁ほ か に 何 か ? ﹂ ││ ﹁ ない。それがす
べてだ。﹂この答えに感銘を受 けた アレクサンドロスは 、 ポ ロ ス に 彼 の 国 を 返 し た と い う

図辺


アレクサンドロスは 、 さ ら に 東 へ 、 よ り 未 知 で 神 秘 的 な 地 、 ガ ン ジ ス の 谷 へ 軍 を す す め
よ う と し た 。 し か し 兵 士 た ち は 、 そ れ を 望 ま な か っ た 。 彼 ら は 、 ど こ ま で も 世 界の果てを
こんがん
目指すことがもはやいや になり、 故 郷 に 帰 る ことをねがった。アレクサンドロスは懇願 し

ひとりでも行くとおどかし、三日間もだだをこねて自分の天幕を出なかった。結局兵士た
ちが勝ち 、 彼 は帰ることに同意した。
しかし、ひとつのわがままを彼はつ らぬ いた 。きたのと同じ道をもどらないことであっ
た。すでに征服した道をもどることは、たしかに容易なことであった。しかし新しいもの
を見ること、新しい 地を征服 することを望んだアレクサンドロスは 、イ ンダス 川 の流れに
沿 っ て 海 辺 に 出 た 。 そこから、軍の 一部 は 船 で 故 郷 に 向 か った が 、 彼 自 身 は 、 荒 涼 と し
た石の砂漠をこえて行軍をつづけた。彼は、兵と苦しみを分かち、けっして彼らより多く
1
27 一二 偉大なる冒険

2
2 しばられてアレクサ γ ドロス大王の前 に引 き出されるインドの王
ポロ λ 。
の水や 休 息 を も と め る こ と は な か っ た 。 そ し て戦いではつねに先頭に立った 。 彼が死をま
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ぬ か れ 得 た の は 奇 跡 で あ った。
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あ る 砦 の 攻 閣 の と き 、 ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 城 壁 に 立 て か け た 梯 子 を い つ も の よ う に真
っ先 に 駆 け 上 った。 彼が昇りおえたとき、梯子は、後につづいた兵士たちの重みで折れ、
彼 ひ と り が 壁 の 上 に 取 り の こ さ れ た 。 人 び と は 早 く こ ち ら へ と 叫 んだが 、 彼 は砦のなかに
飛 び 降 り 、 壁 に 背 を あ て 、 盾 で と り か こ む 敵 か ら 身 を 守 った。 ようやく味方の者たちが壁
を こ え て き た と き 、 す で に 一 本 の 矢 が 彼 を 傷 つ け て い た 。 この出来事は 、 人びとをおおい
に奮い立たせた 。
ふる
よ う や く 彼 ら は 、 ふ た た び ペ ル シ ア の 首 都 に た ど り 着 く こ と が で き た 。 しかしこの都を
アレクサンドロスは 、 占 領 の 際 に 焼 き つ く し て い た 。 そこで彼は 、 パピロ ンを彼の王宮の
地 とした。いまやエ ジプ ト人にと っては太陽の息子 、 ベ ル シア人にと っては王のなか の王一 、
そ し て イ ン ド に も ア テ ナ イ に も 軍 隊 を 置 く ア レ ク サ ンドロ スは、まさに真の世界の支配者
で あ り 、 彼 は そ れ に ふさ わ し く 振 る 舞 う こ と を 考 え た 。
それは 、 う ぬ ぼ れ か ら で は な い 。 アリ λト テ レ ス の 弟 子 と し て 人 間 と い う も の を よ く 理
解し、権力はただ豪華さと威厳とむすびついてこそ人びとにその正しい印象をあたえる、
と 知 る が ゆ え の 振 る 舞 い で あ った。 彼は、パピロンやペル シアの支配者がその宮廷で、何
,hp、
けてきた、豪華で厳かな儀式をみずからの宮廷にも取り入れた 。 人
h 山w
千 年 に も わ た ってつ つ e
びとは、彼の前ではひざまずき、あたかも神に接するように、話しかけねばならなかった。
彼は、オリエントの王がそうするように、多くの女性と結婚した。そのなかには、正統な
ペ ル シ ア 王 ダ レ イ オ ス の 後 継 者 と な る た め に 、 そ の 娘 た ち も ふ く ま れ て い た 。 彼は、たん
なる異国の征服者でありつづけることを望まず、東方の知恵と富にギリシアの明快さと機
知 を 溶 け こ ま せ 、 ま った く 新 し い も の 、 奇 跡 的 な る も の を つ く り だ そ う と し た 。
し か し こ れ ら の こ と は 、 ギリ シア 人 に は 気 に 入 ら な か っ た 。 第 一 に 彼 ら は、征服者、唯
一の 支 配 者 で あ り つ つ
e
けることを望んだ 。 第 二 に 彼 ら は 、 自 由 で あ る こ と に 慣 れ た 人 間 と
し て 、 人 の 前 に 身 を 投 げ 出 す こ と を 望 ま な か った。 それを、 ﹁ 犬 に な る ﹂ とい ってきらっ
たのだ 。 し だ い に ギ リ シ ア の 友 人 や 兵 士 た ち の あ い だ に は 不 満 が た ま り 、 や む を え ず ア レ
クサンドロスは、彼らを故郷におくりかえすことになった。ペルシアの女性と結婚した一
偉大なる冒険

万人のマケドニアとギリシアの兵士に気前よく支度金をあたえ、彼らのために盛大な儀式
もよおとんゅう
を 催 し た に も か か わ ら ず、 二つの民族の種融という彼の偉大な仕事は、結局成功すること
な く お わ った。
ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 胸 に 多 く の 偉 大 な 計 画 を い だ い て い た 。 エジ プ トの ア レクサンド
リ ア の よ う な 都 市 は 、 な お 多 く 建 設 さ れ る 予 定 で あ った。 道 路 も つ く られ、ギリ シア人の
反 対 に も か か わ ら ず さ ら に 遠 征 を つ づ け 、 世 界 を 変 え る つ も り で あ った。 当 時 イ ン ド か ら
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ア テ ナ イ ま で の 郵 便 制 度 が す で に あ った と し た ら ど う だ ろ う 。 し か し 、 こ の よ う な 計 画 の
さ な か に ア レ ク サ ン ド ロ ス は 、 か つ て の ネ ブ カ ド ネ ザ ル の 夏 の 離 宮 で 病 に た お れ た 。 それ
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は、紀元前三 二三 年 の こ と で 、 彼 は そ の と き 三 二 歳 、 ふ つ う の 人 間 な ら ば よ う や く 一 人 前
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になる年 齢 であ った。
だ れ を 後 継 者 に す べ き か と の 聞 いに 、 熱にうなされていた彼はただ、 ﹁
も っとも品位の
あ る 者 を ﹂ と 答 え た だ け で あ った。 そ の よ う な 者 は 、 いなか った。 彼 の ま わ り に い た 軍 人
や 政 治 家 は み な 、 名 誉 欲 に 燃 え た 、 あ る い は 賛 沢 の 好 き な 、 品 位 の な い 人 間 た ち で あ った。
彼 ら は 、 た が い に 世 界 帝 国 を か け て 戦 い 、 結 局 そ れ を 崩 壊 さ せ て し ま った。 そしてエ ジプ
トはプ ト レ マ イ オ ス 、 メ ソ ポ タ ミ ア は セ レ ウ コ ス 、 小 アジ アはア ッタロ 久と、それぞれ 、 か
かっての将軍の 一族 に 占 有 さ れ た 。 イ ン ド は 、 完 全 に う し な わ れ た 。
しかし世界帝国は瓦解しても、アレクサンドロスの計画は、ゆっくりと実現されてい っ
た。 ギ リ シ ア の 芸 術 と 精 神
、 すなわちヘレニ ズ ム (
ギリ シア 的なもの ) は ペ ル シ ア へ し み
込 み 、 さ ら に は イ ン ド へ 、 またさらに 中 国 へ と つ た え ら れ て い っ た 。 ギリ シア 人もまた 、
ア テ ナ イ と ス パ ル タ だ け が 世 界 で な い こ と を ま な び 、 ドl リ ア 人 と イ オ ニ ア 人 の あ い だ の
永遠の争い 以 上 に 大 切 な 問 題 が あ る こ と を 知 っ た 。 そして彼らが 、 そ の ち っ ぽ け な 政 治 的
力をうしなったとき、まさにそのときからギリシア人は、かつて彼らが生んだあの比類の
な い精神的力、人 びとがギリシア 的 教養 と よ ぶ あ の 力 の 担 い 手 と な っ た 。 きみは、この力
の砦が 何 で あ っ た か わ か る か ね 。 図 書 館 だ 。 た と え ば 、 アレクサンドリアには 、 約 七O 万
の 巻 き 物 を お さ め る ギ リ シ ア の 図 書 館 が あ っ た 。 この七O 万巻の本が、世界を征服したギ
リシアの兵士だったのだ 。 そ し て こ の 世 界 帝 国 は 、 今 日 な お 存 続 し て い る の だ 。
偉大なる冒険
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11
32

新しい戦い
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アレクサンドロスは、ただ東方をめざした。﹁ただ﹂とは、完全には正確でないかもし
れ な い 。 し か し 彼 が 、 ギ リ シ ア の 西 側 に魅力を感じなかったのは事実であろう。そこには、
貧しい、けれどがんこで戦いを好む農耕民の住むいくつかの緑濃い半島と、その海岸に散
らばるいくつかのフェニキア人とギリシア人の植民都市があった。その半島のひとつがイ
タ リ ア で 、 好 戦 的 な 農 耕 民 族 の ひ と つ が ロ 1 7人であった。アレクサンドロス大主の時代、
国としてのロ 17は ま だ 、 イ タ リ ア の 中 央 部 の 小 さ な ﹁ 点 ﹂ に す ぎ な か っ た 。 の ち の 大 都
市 ロ ! ? は 、 堅 固 な 壁 に か こ ま れ て は い た が 、 路 地 の 多 い 小 さ な 集 落 に す ぎ な か った。し
かしその住民は、自分たちの偉大な歴史を好んで語り、また自分たちの偉大な未来を信じ
る、 ほ こ り 高 い 民 族 で あ っ た 。 そ の 歴 史 は 、 太 古 の ト ロ イ ア 人 に ま で さ か の ぼ る も の で あ
っ た 。 彼 ら の 語 る と こ ろ に よ れ ば 、 ト ロ イ ア か ら 脱 出し た 英 雄 ア エ ネ ア ス が 、 イ タ リ ア に
めすおおかみ
た ど り 着 い た の だ と い う 。 そ の 子 孫 が 、 戦 い の 神 マ ル ス を 父 親 と し 、 荒 々しい 牝 狼 の乳
をもらい、森のなかで育てられた双子の兄弟、ロムルスとレムスであった。そして、双子
のひとりのロムルスが、ロ 1 7を建国したのだという。しかも 、 それが紀元前七五三年の
ことであったとし、この年をロ 1 7人は元年として ﹁ロ17建国後何年目﹂という彼らの
麿をつくったのだ 。 ちょうど 、 ギ リ シ ア 人 が ﹁ 第何 回 オリンピア lド の何年目 ﹂ とかぞえ
たように 。 たとえば ﹁ロ1 7建国後一 OO年 ﹂ は、わたしたちの暦の紀元前六五三年にな
るのだ 。
ロ1 7人は、この 小 さな 国 のはじめのころに国を支 配した、 すぐれた、あるいは極悪な
王たち 、 あるいはとなりの国 ( むし ろとなりの村とい ったほうが 正確だと わたしは思う のだが )
と の 戦 い に つ い て 、 多 く の す ば ら し い 話 を つ た え て い る 。 七番目の、そして最後となる王

ス ペル ブ ス (
思い上 がっ た者 と あ だ 名 さ れ た タ ル ク イ ニ ウ ス は 、 貴 族 の ひ と り ブ ルー
ト ゥ スに暗殺されたという 。﹂
)
以 後 ロ ー マ は 、 パ ト リ キ 都市の父親 ﹂ の意 ) と よ ば れ た 貴
族によ って支配されるようにな った。 しかしきみは、こ ﹁
(のパトリキをのちの時代の ﹁ 都市
淡い

貴族﹂と考えてはいけな い。 むしろ彼らは 、 広 大 な牧草地と 耕地を所 有 す る 大 地主農民で


こうち
新し いI

あ った。
ロ!?の最高位の役人は 、 執 政 官 (コンスル)とよばれた 。 これは、つねにふたりおり 、
任期は 一年 か ぎ り で あ った。 もちろんロ 1 7人は パ トリキだけではなか った。 しかし有名
な先 祖を もたないロ 1 7人は所有 する土 地も少 なく 、した がって貴族ではなかった 。 プレ
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平民 )と よ ば れ た 彼 ら は 、 イ ン ド に お け る よ う に 、 ほ と ん ど 独 自 の カ l ストを形成
ブス (
し て い た 。 プ レ ブ ス の 男 性 は パ ト リ キ の 女 性 と 結婚することをゆるされず、とう、ぜんコン
34

ス ル に な る こ と も で き な か っ た 。 城 壁 の 外 のカンプス ・マルティウス(練兵場)で 聞 かれ
1

る 民 会 に 参加 し 、 票 を 投 ず る こ と も ゆ る さ れ な か っ た 。 し か し数 の う え で ま さ り 、 パ ト リ
キと同じくがんこで鉄の意志をもっプレブスは、やさしいインド人のようにすべてをかん
たんには受け入れなかった。彼らはくりかえし、自分たちに対するあっかいを変えること
を要求し、パトリキだけと決められていた隣国からの新たな占領地の分配に自分たちを加
えなければ 、 ロ ! ? を 出 て ゆ く と お ど し た 。 数 百 年 も つ づ い た 激 し い 争 い の す え 、 結局プ
レブス は 主 張 を つ ら ぬ き、 彼 ら は 、 ロ1 7国 家 に お い て パ ト リ キ と ま った く同じ権 利 を得
る こ と に 成 功 し た (十 二銅版法)。ふたりのコンスルは 、 プレブスとパトリキに分けられた。
こ の 長 い 、 込 み 入 っ た 争 い が お わ り を 告 げ た の は 、 アレクサンドロス大王の活躍の時代と
ほぼ 同 じ こ ろ で あ っ た 。
きみは 、 こ の 争 い か ら す で に 、 ロ1 7人 が ど ん な 人 間 で あ る か 想 像 で き る の で は な い か
ね。 彼 ら は 、 アテナイ人のように 物 事 を す ば や く 判 断し 、 多 く を 新 し く 発 明する民族では
なかった。彼らはまた 、建築、彫像、詩歌など、うつくしいことがらにあまりよろこびを
感 じ る こ と な く 、 人 生 と か 宇 宙 に つ い て 、 深 く 考 え る こ と に も 興 味をもたなかっ た。しか
し彼らは 、 いちど 何 か に と り か か る と 、 そ れ を 最 後 ま で や り と げ た 。 たとえ二OO年かか
っても。もともと彼らは、アテナ イ人 の よ う に 機 敏な 航 海者 で は な く 、 ひとところに 腰 を
据 え た 、 保 守 的 な 農 民 で あ った。 彼 ら の 何 よ り の 関 心 事 は 、 財 産 、 家 畜、 土地であった 。
したが って外の広 い世界 に思いを 馳せ ることもなく 、植民地 を築くこともなか った。ただ
ふるさとの 地 、 故 郷 の都市を 愛 し た。 そ れ を 強 く す る こ と が 彼 ら の ね が い で あ り 、 そのた
めに彼らはすべてをかけた。戦いも、死もおそれなかった。彼らにとって、ふるさと以外
に、大切なものがもうひとつあった 。 提 で あ る 。 あ ら ゆ る 人 間 の 平 等をうたうこ ころの提
ではなく 、 し き た り を こ と ば に し た 法 律 で あ る 。 彼 ら は 、 そ の 法 律 を 十 二 の銅板に 刻 み、
市 の 広 場 に 立 て た 。 そこに簡潔 で厳 格 な こ と ば で 刻 まれた提は 、 簡 潔 に厳格に実行された 。
ょうしぞじ
例 外 は な く 、 容 赦 も 慈 悲 も な く 。 それは 、 彼 らのふるさとの しきた りであり 、 それゆえに
ひ 、
犯すことのゆるされないものであった 。
ロー マ人の郷 土愛、 法 律へ の忠誠 を語る 古い、 すばら しい話はたく さん伝えられ ている 。
裁 判 官 と し て 眉 ひ と つ 動 か さ ず 、 法 律 が 命 じ る が ゆ え に 息 子 に 死 刑 を 宣 告 す る 父 親 。 戦場
まゆ
新しい戦い

で、 あ る い は 捕 虜 と な って、 同 胞 の た め に み ず か ら のいのちを 何 のため ら いもなく投げ 出


す兵土 。 これらの伝説のすべてが 真 実 ではないかもしれない 。 しかしそれ ら は、 人 闘 を 判
断するさい、ロ 1 7人 に と っ て 何 が い ち ば ん 大 切 に さ れ た か を 語 っ て い る 。 ひとは 、 こと
が 提 、 あ る い は 祖 国 に か か わ る と き に は 、 お の れ に 対 し て も 、ま た他 人 に対しても 、 強く
厳 し く あ ら ね ば な ら な い 、 というのである。いかなる災いも、このようなロ 1 7人をおじ
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け さ せ る こ と は で き な か っ た 。 紀 元 前 三九O年ロ 1 7が、 北 方 の 異 民 族 ガ リ ア人に占領さ
れ焼かれたときも、彼らはあきらめなかった。彼らは 、都 市 をふたたび築き、新たな城壁
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でかこみ、そして 周囲 の小 さ な 都 市 を つ ぎ つ ぎ と 服 従させていった。
1

アレクサンドロス大王の時代、がおわったころ 、 ロ1 7人もまた、 小 さな都市との 小 さな


戦 争 で は も は や満 足 し な く な った。 彼 ら は 本 気 で 、 半 島 の 全 部 を 占 領 す る こ と に と り か か
った。 しかし アレクサンド ロスのよ う に た っ た いちどの大遠征によ ってではなく 、じゅう
いってつ
ぶん時聞をかけてゆっくりと、彼ら固有の性格である粘り強さと一徹さでもって、近隣の
都 市 の ひ と つ ひ と つ を 攻 略 していった 。 そしてロ 1 7が 威 を ふ る う 大 都 市 になると 、 イタ
リアの 他 の都市はロ 1 7と 同 盟 を む す ぶ こ と を 望 ん だ 。 ロ 1 7人 は よ ろ こ ん で 受 け 入 れ た 。
しかし 、 同盟の仲間がロ 1 7とち、がう考えをいだき、した、かうことをやめると、戦争にな
った。 レギオンとよばれたロ 1 7の 軍 団 は 、 た い て い の 場 合 勝 利 した 。 あ る と き、南イタ
たず
リアのある都市がロ 1 7と の 戦 い に 、 ギ リ シ ア の 将 軍 ピ ュ ロ ス に 援 け を も と め た 。 ピ ュ ロ
スは 、 ギ リ シ ア 人 が イ ン ド で 知 っ た 戦 闘 用 に 訓 練 さ れ た 象 の 群 れ を つ れ て や っ て き た 。 こ
の象の軍団で彼は、ロ ー マ の レ ギ オ ン を 破 っ た 。 し か し 味 方 の 戦 死 者 も あ ま り に 多 く 、 彼
は ﹁ た と え 勝 っ て も 、 こ の よ う な 戦 争 は 二 度 と し た く な い ﹂ と い っ た と い う 。こ のことか
ら今 日 でも 、 犠牲の多い 勝 利 のことを ﹁ピ ュ ロ ス の 勝 利﹂ という。
ぎせい
や が て ピ ュ ロ ス は イ タ リ ア か ら 退 却 し 、 ロー マ 人 は イ タ リ ア 全 土 の 支 配 者 に な っ た 。 し
かし彼らは、これで満足しなかった 。 次の狙いは、みのりゆたかなシチリア島であった 。
ねら
土 地 の肥 え た こ の 島 で は 、 み ご と な 穀 物が 育ち 、 ギリシア人の 植 民 都 市 が き か え て いた 。
し か し そ の こ ろ 、 こ の 烏 を 支配 し て い た のは 、 も は や ギ リ シ ア 人 で は な く フェニキア 人 で
あった 。
き み は 、 ギ リ シ ア 人 が 現 わ れ る 以前、 す で に フ ェ ニ キ ア 人 が 地 中 海 の沿岸各 地、とく に
スペインと 北 アフリカに 、 交 易 の た め の 港 を 聞 き 、 植 民 都 市 を 築 い て い た ことをお ぼえて
いるね 。 北 ア フ リ カ の フ ェ ニ キ ア 人 の 都 市 カルタゴは 、 ちょうどシチリアの 向 か い 側 に位
置して いた。 当 時 こ の カ ル タ ゴ は 、 地 中 海 で も っ と も さ か え た 、 も っ と も 強い都市 であっ
た。 ロ1 7で は 、 そ の 地 の 住 民 で あ る フ ェ ニ キ ア 人 を ポ エ ニ と よ ん で い た 。 ポエニ人の船
は、 遠 く 海 を わ た っ て 、 あ ら ゆ る 国か らあらゆる国へと品物を運んでいた。 また シチリア
の近くに 住 ん で い た 彼 ら は 、 こ の 島 か ら 穀 物 を 輸 入 し て い た 。
ローマ人がはじめて 出会 っ た 強 力 な敵は、 こ の カ ル タ ゴ の 住 民 で あ っ た 。 事 実 彼 らは 、
虫い

強く 、 危 険 な相 手 で あ った。 た し かに彼らは、ロ 1 7人 の よ う に 自 分 で 戦 うことはなか っ


'
新しい1

やと
た。 金 持 ち で あ る 彼 ら は 、戦い に 必 要 な じ ゅ う ぶ ん の 兵 士 を 傭 う こ と が で き た 。シ チリア
ぽつぽつ
島 で 勃 発 し た 戦 争 で は 、 は じ め は カ ル タ ゴ が 、 船 を も た な い 、 そ れ ゆ え 海 をわたることに
も海 の上 で 戦 う こ と に も 不 慣 れ な ロ 1 7を 負 か し た 。 ロー マ人は 、 船 の つ く り 方 さ え 知 ら
な か っ た の だ 。 し か し あ る と き 、 一般 の カ ル タ ゴ の 船 が イ タ リ ア で 座 礁 し た 。この 船を
診とつ
3
17
手本としてロ 1 7人 は 、 あ り った け の 資 金 を つ ぎ 込 ん で 、 は や く も 二 ヶ 月 の う ち に 、 それ
に 似 た 多 く の 船 を つ く り あ げ た 。 そしてできたばかりのこの艦隊でカルタゴを破り、 ローー
38

マ 人 は シ チ リ ア を 手 に 入 れ た 。 そ れ は 、 紀 元 前 二四一年のこ と で あ った。
1

し か し こ れ は 、 両 都 市 の 戦 争 の は じ ま り に す ぎ な か っ た 。 カ ル タ ゴ は 、 シチリアをとら
れ た の な ら ス ペ イ ン を と ろ う と 考 え た 。 も と も と そ こ に は ロ 1 7人はおらず、ただいくつ
か の あ ら あ ら し い 民 族 が 住 ん で い た 。 だがそこでも、ロ 1 7との争いがはじまった。スペ
インのカル夕、ゴ人には、すぐれた指導者がいた 。 ハンノとそのあとを継いだハンニパルで、
と く に ハ ン ニ パ ル は 偉 大 な 将 軍 で あ っ た 。 彼 は 兵 士 の な か で 育 ち、 だれよりも戦争という
ものを知っていた 。飢えと寒さ、暑さと渇き、夜昼とおしての行軍、これらすべてに彼は
慣 れ て い た 。 敵 を あ ざ む く と き は 賢 く 、 待 つ と き は だ れ よ り も 忍 耐づよく、勇敢であり、
だ れ も が 彼 の 命 令 に し た が っ た 。けっ し て た だ の 向 こ う 見 ず の 男 で は な く 、 戦 場 に あ っ て
は、すぐれた棋士のように、あらゆる可能性を熟慮する人間であった。
き っすい
そ の う え ハ ン ニ パ ル は 、 祖 国 を し た が わ せ よ う と す る ロ 1 7人 を こ こ ろ か ら 憎 む 、 生 粋
の カ ル タ ゴ 人 で あ っ た 。 そ し て い ま 、 スペインにも手を 出そ うとするロ ! ?人がゆるせな
かった 。 彼 は 、 大 軍 を ひ き い て ス ペ イ ン を 出 発 し た 。 こ の と き の 彼 も 、 戦 闘 用 の 象 を つ れ
ていた 。 こ れ は 、 当 時 も っ と も お そ れ ら れ た 武 器 で あ っ た 。 こ の 巨 大 な 生 き 物 と と も に 彼
は 、 フ ラ ン ス の 平 野 を 抜 け 、 河 を わ た り 、 山 を 越 え 、 東 へ 東 へ と 軍 を す す め た 。 そ して彼
の前に、アルプスが立ちふさ、が った。 お そ ら く 彼 は 、 今 日 の モ ン ス ニ の 峠 を 越 え た に ち が
いない 。わたしも 、 この 峠 を越えた
の戦いはつづき、ハンニパルはアルプスを越え
ことがある。今 日そこには、ひろ
い、まがりくね った道がつづいてい
る。しかし当時その道はなく、深い
谷、切り立った岩壁、すベる草の斜
面のこの険しい山をどのように越え
たのか、想像もできない。わたしな
らばここを、象をつれて、しかも四
O 頭の象をつれて 、 越 え る こ と な ど
-
.
:
人)¥1のイヲリア蓮t

できない。ときは九月で、高いとこ


中 ろにはすでに雪があった。しかしハ
新しい戦い

てイタリアに攻め入った。
ンニパルはすすみ 、 イタリアに入っ

カノレタゴとロー 7

北アフリカ
た ︹
図幻 待 ち 受 け た ロ 1 7軍 と
ガリア

の最初の。

戦いは 、 まさに 血 にまみれ
〆'
/
'

J
るものであったが 、 ハンニパルは勝
った。そのあとでロ ! ?軍は 、真夜
39

3
1

2

中に彼の陣営をおそ った。 しかしハ
ちつの
ンニバルは 、 ひ と つ の 策 で 窮 地 を 切 り 抜 け た 。 彼は 、 角に
40

燃 え る た い ま つ を ゆ わ え た 牛 の 群 れ を 、 陣 を か ま え る 山 の上
1

から追い落とした。閣のなかでそれを、たいまつをかざして
突進するハンニパルの兵士と見まちがえたロ 17軍は、その
あとを追った 。 追 い つ く と 、 牛 で あった。ずいぶんおどろい
たことだろうね︹図担︺。
ロ ー 7 寧に包囲されたノ、ンニパノレの策略。

ロ1 7側にも、 す ぐ れ た 将 軍 が い た 。 クイントゥス ・フア


ピウス ・マキシムスで 、 彼 の戦 術 は、攻撃をしかけないこと
であ った。 彼 は 、 異 国 の 地 でハンニパルが しだいにい らだち 、
馬鹿な行動にでるにちがいない 、 と考えたのだ 。 しかしただ
待 つ こ と に 我 慢 で き な く な った ロ17人は、クイントゥ ス ・
ファピウス ・マキシムスを ﹁クンクタ トル ﹂(ぐずおとこ )と
よんであざけり、紀元前一二 七年カンネl の地でハンニパル
に攻撃を しかけた 。 結 果 は さ ん た ん た る も の で 、ロ 1 7側 の
死 者 は 四 万 人 に 達 し た と い う 。こ のカンネ ! の大勝 利 にもか
かわらずハンニパルは、軍をロ 1 7にすすめなかった。慎重

4
2
に彼は 、 故 郷 か ら の 援 軍 を 待 った。 しかし 、 これが 彼の 不幸
だった 。 故 国は 、 彼 に援軍をおくらなかっ た。 そ し て彼 の軍隊は 、イ タリ アの 各地 で略奪 、
暴 行 を か さ ね 、し だ い に す さ ん で い った 。 それでもロ 1 7人はその 力 を お そ れ て 、 彼 に攻
撃をしか け なかった 。 他 方でロ ! ?は 、 すべての 人 び と を 兵 役 に つ け よ う と してい た。 そ
れは、 少 年 も、 奴 隷 す ら も ふ く む 、 文 字 ど お り す べ て の 人 び と で 、 イ タ リ ア 中 の 男 はみな
兵 士 に な った。 し か も 彼 ら は、 ハンニパルのそれとはちが って、 傭 わ れ た 兵 で は な く 、 ロ
やと
ー マ人であ った。 それが 何 を 意味 するか 、 き み に は わ か る ね 。 彼らは 、 シチリアとス ペイ
ンでカルタゴ軍と 戦 った。 そ し て ハ ン ニ パ ル が 相 手 ではないところで 、 勝 ち つ づ け た 。
一四年た ってハンニパルは 、 故 郷 の要 請 にこた えて 、 イタ リ アを引 き 上げ 、 アフ リ カに
帰 る こ と になっ た。ロ 1 7軍は 、 将 軍 スキピ オにひきい られて カ ルタゴ に向か った。 そし
て こ こで 、 ハンニパルは負けた 。 紀 元前 二O 二年ロ 1 7は、 カルタゴに 勝 利 し た のだ。 ヵ
ルタゴは 、 す べ て の 艦 隊 を 焼 き 払 い 、 さ ら に 莫 大 な 賠 償 を 払 わ ね ば な ら な か っ た 。 ハン
ばいしょう
新し い戦い

ニパルは 逃げたが 、 のちにロ 1 7の捕 虜 に な る こ と を 拒 否して 、 毒 を 飲 ん だ 。


この 勝 利 によってロ ! ?の 力 は強 大 と な り 、 そ の こ ろ な お マ ケ ド ニ ア の 支配 下 にあ り、
しか し例 に よ っ て 一 致 す る こ と な く 反 目 し あ っ て いたギリ シアの諸 都 市 を も 征 服 するまで
にな った。 そのときロ 1 7人は 、 都 市 コリ ント スを 焼 き払い 、 そこにあ ったうつ くしい 美
術 品 をうば って故 郷 へと持ち帰 った。
4
11
北 へも勢力 を 広 げ た ロ1 7は、 二OO年 前 には自 分たちの 都 を破 壊 し たガ リ ア人の地、
今 日 の北 イ タ リ ア を も 支 配 下 に 入 れ た 。 しかしロ 1 7の人たちにと っては、それでも 十 分
2

ではなか った。 彼 ら に は 、 カ ル タ ゴ が い ま だ 存 在 す る こ と が 我 慢 で き な か った。 とくに パ


4
1

ト リ キ の ひ と り 、 正 義 を つ ら ぬ く が ん こ 者 と し て 知 ら れ た カ ト l は、 元 老 院 (ロ1 7の国
会) での 彼 の 演 説 を つ ね に 、 話の内容にかかわらず、 ﹁
と こ ろ で 諸 君、 カ ル タ ゴ は ほ ろ ぼ
。 結局ロ l マ人は 、 いいがかりをつけ て
さねばならない ﹂ とい う ことばでむすんだとい う
カルタゴを攻めた 。 カルタゴ人は必死に 防い だ。 ロ! ?軍は、都 市 を占領した後もなお六
日 のあいだ 、 そ れ ぞ れ の 路 地
、 ひとつひとつの家で 戦わ ねばならなかった 。 しかし最後に
は、 ほ と ん ど す べ て の ポ エ ニ 人 は 殺 さ れ 、 生 き の こ っ た 者 も 奴 隷 と し て 売 ら れ た 。 家 は す
すき
ベてこわされ 、 かつてのカルタゴの 地 は 鋤 でならされた 。 紀 元 前 一 四 六 年 の こ と で あ った。
これが 、 ハンニバルの国の最期であ った。 ロ!?は、世界最強の固にな った。
歴史の破壊者

さてここまできて 、 きみは歴史にたいくつしたかね 。 もしそうなら、ここでの話にきみ


はきっと大よろこびするだろう。
すなわち 、ハ ンニパルがイタリアにいた 紀 元前 二OO年ころ、正確には紀元 前 二二ニ年、
中国にすべて歴史とい うものがきらいで 、そ れゆえにありとあらゆる歴史書 、い やすべて
の記録、報告 書、 そればかりか詩の本、孔子や老子の教えなど、すべての書き 物 を燃やし
てしまえと命令したひとりの皇帝がいたのだ。ただ、農作にかんするものなどじっさいに
役立つ書 物 だけがのこされた 。 それ 以外 の書物を所有する者は 、 死刑とされたのだ 。
歴 史 上 最 強 の 戦 士 の ひ と り に か ぞ え ら れ 、 始皇帝とよばれたこの皇帝は、皇子として生
しこうて H
まれたのではなく 、 ある豪族の出であ った。その豪族がおさめていた 地は ﹁ 秦 ﹂ とよばれ 、
しん
彼 の家 系もまたそ の名でよばれた 。 今 日中国をわたしたち は ﹁ヒl ナ﹂ とよぶが 、 これも
秦 ﹂ に由来す ると思われる 。﹁ ヒl ナ﹂ と ﹁シン ﹂ はちがうときみは思うかも
またこの ﹁
4
13
しれないが、以前はドイ ツ語でも中国人を﹁ ヒネl ゼ ン﹂でなく ﹁シネl ゼン﹂とよんで
いたのだ。
4

中国を秦という一豪族の名でよぶには、 十分な理 由 があるのだ 。 というのは 、 この豪族


4
1

の息子は全中国を征服しただけでなく 、 他 の豪族をす べてほろぼしてひとつの巨大な帝国


を築き、 そこにま ったく新しい秩序を持ち込んだからだ 。 まさにそれゆえに 、 すなわちす
べてを最初からはじめるために 、 彼 は 始 皇 帝 を な の り 、 それまでの記憶を根こそぎに消そ
うとしたのだ 。 中国は、彼による無からの創造品であらねばならなか ったのだ 。 そして彼
は、 国をつらぬく道路をつくり、さらに途方もない事業をはじめた 。 万里の長城の建設で
あ る 。 そ れ は 、 の こ ぎ り 状 の 胸 壁 と 塔 を つ ら ね 、 平 原 や 谷 を ぬ け 、 山 や 丘 を越えて延々
と、今 日なお二 千 キロメートル以上にわたってつづく、長くて高い 壮 大な国境の防壁であ
る。 始皇帝は、中央ア ジ アの広大な平原をさまよい 、 すきあらば中国に侵入し、殺致、 略
さつりく
奪 を く り か え し て い た 好 戦 的 で 荒 々 し い 騎 馬 民 族 か ら 、 勤 勉でおだやかな中国の市民や農
民 を 守 る た め に 、 こ の 長 城 を 築 く こ と を は じ め た の だ 。 そして事実、みごとにその役割を
は た し た 長 滅 は 、 も ち ろ ん 折 々 に 修 理 さ れ な が ら も、 二 千 年 以 上 に わ た っ て 中 国 を 外 の 敵
から守 ってきたのであり 、 今日なおその威容をほこ っているのだ ︹ 図お
始皇帝の統治は、長くつづかなかった。彼のあと間もなく、別の家系 。︺
が ﹁ 天 の 息 子﹂ の
玉座についた 。 すなわち漢王 朝 であり、始皇帝の統治のよい面を受け継いだこの王 朝 の下
でも中国は 、 堅固に統一された国家でありつづけた。新しい王朝は 、 もはや歴史の敵では
1
45 一四 歴 史 の 破 壊 者

2
5 山や谷を越えてえんえんとつづく中国の万里の長城。
なかった。いや反対に 、 人びとは中国が孔子の教えに多くを負ってい ることを思い 出した 。
46

各地で古い書物の探索がはじまり、そして、それらを燃やさなかった勇気ある人びとが多
1

くいたことが明らかにされた。あらためて古い書き物があつめられ、これまでに倍して尊
重された。そして、それらの書物をよく知る人だけが、役人になることができた。
中国は、何千年 にもわたって 、貴族でも武人でも聖職者でもなく、学者が政治を行な っ
てきた世界でただひとつの固なのである。貴族であるか、身分の低い卑しい出であるか、
それは問題ではない。試験に合格した者が、役人になったのである。むずかしい試験にも
っともよい成績で合格した者が、最高の職についた のだ。た しか に、この試験はけっして
やさしいものではなかった。何千という文字を書くことができなければならなかった。中
国ではそれがかんたんでないことを、きみは知 っているね 。 それだけではない 。でき るだ
け多くの古い書物を記憶し、孔子や他の古代の賢人の教えをそらんじていなければならな
かった。
ふんしょ
このように、秦の始皇帝の焚書は、何の役にも立たなかった。ということは、きみがそ
れをいくらよろこんでも、むだなのだ。たとえだれかがわたしたちゃきみたちに歴史を禁
じても、それは何の益にもならないのだ。何か新しいものをつくろうとする者こそ 、古い
ことを根底から知らなければならないのだ。
一五 西方世界の支配者
アレクサンドロスは 、 征 服 し た国々から 、 そ の 住 民 が す べ て 同 じ 権 利 を も つ ひ と つ の 大
帝 国 を 建 設 し よ う と 考 え て い た 。 ロ!?人に 、 そのよ う な 考 え は無縁であ った。 それどこ
ろか 、 他 国をつぎつぎと征服したロ 1 7人は 、 みずからの国は急速に 一大帝国へと成長さ
せたが 、 他方 そ の 軍 団 が 征 服した 国 々は、みなロ 1 7の属 州 とした 。 すなわち 、 そ れぞれ
の都市にはロ 1 7軍 が 駐 屯し、ロ 1 7か ら 役 人 が お く り こ ま れ た の だ 。 そのロ 1 7人た
ち ゅうと ん
ちは 、 た と え そ の 地 の 住 民 が フ ェ ニ キ ア 人 、 ユダヤ人、 あ る い は ギ リ シ ア 人 の よ う に 、 す
J
ぐ れ た 古 い 文化 を も っ 民 族 で あ っ て も、彼 らよりも自分たちのほうが上であるようにふる
まった 。 ロ1 7人の自には 、 他 の民族はロ 1 7に奉 仕 す る 人 間 と し か う つ ら な か っ だ の だ 。
ロl 7人 は た だ 、 彼 ら か ら で き る だ け 多 く の 税 金 を し ぼ り と る こ と 、 で き る だ け 多 く の 穀
物をロ 1 7におくら せ ることしか考えなか った。
しかし属 州 の住民には 、 そ の 役 目 さ え 果 た せ ば か な り の 自 由 が ゆ る さ れ た 。 彼らは、自
47
1
分 た ち の 信 仰 を守り 、 自 分 た ち の こ と ば を 話 す こ と が で き た 。 いや 、 彼らにとって便利な
ことも、ロ 1 7人はしてくれた 。 なかでも、 道路の建設である 。 平野をぬけ、 はるかな 山
8

ほ そう
4

なみを越えて 、 舗 装 さ れ た す ば ら し い道 路 が ロ !?から各 地 へとのびていった。もちろん


1

ロ! ?人がそれをしたのは、け っして辺 地 の住 民のためではない 。 ただ 、い ち早く自分た


ちの軍隊 と情報 を帝国のすみずみにまでおくりとどけるためにしたにすぎな い。 道路だけ
でなく、実利 的 な建築にロ ! ?人はすぐれた才能を示した 。 とりわけ 上水道。 山なみを越
え 、 谷 を わ た っ て 引 か れ た 堂 々 た る 水 道 は 、 都 市 の 泉 に 絶 え ず 澄 ん だ 水 を 湧 か せ 、 大浴場
へんび
の水槽 を満 たした 。 そのおかげでロ 17の役 人 は、辺部 な地にあっても故 郷と同じ生活を
おくることができたのだ 。
しか し 、 ロ ! ?の市 民 と先住民のあいだに は、厳然た る違いがあった。 ロ1 7の市民は、
ロ1 7の法律にしたが って生きた 。 偉大なロ ! ?帝国のなかにいるかぎり 、い つでもどこ
でも 彼は、ロ 1 7の役人にたすけをもとめることができた。 ﹁ロ1 7の市民である ﹂ とい
うことは 、 一種の 呪文 で あ った。 たとえそれまで見 下 されていた者でも、 その 呪文 をとな
じゅもん
え る こ と が で き れ ば 、 た だ ち に 丁 重 に 扱 われたのだ 。
てい ちょう
しかし当時、 世 界のほんとうの支配者は 、 ローマの兵士であった 。 彼 らこそが 、 反抗 的
な先住民をおさえ、手 向 かう者すべてをむごく罰して 、 この巨大 化 した帝国をまとめて い
た。勇敢で 、 戦 いに慣れ、 出世 欲に燃えた彼らは 、 ほとんど一 O年にひとつの割合で、北 、
南、東の新しい国を征服していた 。 金属を 上張 りした革のよろい 、剣、 盾 、槍、いしゆ み、
投石器で武装し、きたえぬかれたこの兵士の集団が、歩調をあわせて整然と進軍してくれ
ば、それに立ち 向 かうことはもはや絶望 的 であった。戦うこと 、そ れがロ l マ兵士の唯一
の 仕 事 で あ っ た 。 敵 を 破 る と 彼 ら は 、 将 軍 を 先 頭 に 、 捕 虜 を 引 き 連 れ 、 山 のような戦利
品をたずさえて、故国ロ 1 7 へと向かった 。 そして民衆の歓呼にむかえられた兵士たちは、
おごそかなトランペットの音にともなわれ、自分たちの勝利のようすを描く板絵をかかげ、
はなやかに飾られた凱旋門をくぐった。戦車の上に立つ将軍は、星の刺繍をほどこした
がい せ ん も ん し し ゅ う
制 色 の 衣 を ま と い 、 頭 に は 月 桂 樹 の 冠 を の せ て い た 。 それは、父なる神ユピテルの 礼 拝 像
ひ いろ
が身につける聖なる衣装であ った。 このように将軍は、第 二のユピテルとして、ロ 1 7の
やまし ろ
山城カピト l ルの丘の 神 殿 へ と 、 坂 道 を 上 っていった ︹ 図お そして、丘の上で神への

︺の将軍の首がはねられた 。
西方 世界の支配者

感 謝 の 生 け 賛 が さ さ げ ら れ て い る と き、丘 の下では、敗れた敵
司令官として 敵 に多く勝 利 し た 者 、 部 下 のために多くの戦 利品を奪い取 った者 、老いて
引退した部下に恩賞として多くの土地をあたえる者、そのような指揮官に兵士たちは、あ
たかも真の父親に対するように、忠誠を誓った 。 彼のためなら、兵士たちは何でもした 。
ちか
五 敵 地 に あ る と き だ け で な く 、 故 国 に あ っても 。 戦場ですぐれた指揮のできる者は、故国の
秩序も正しく守ることもできる、と信じたか ら である 。 そして、このことはまたしばしば
必要 とされたことでもあ った。というのは 、 ロ1 7ではすべてがいつも 順調 にいっている
4
19
わけではなか ったからである。都市ロ!?はあまりにも巨大化し、生きる手段を欠く多く
1
50

2
6 敵を打ち破 ったローマの将軍は四頭立て馬車を駆り、凱旋門をく
ぐってカピ卜ーノレの上のユピテルの神殿に向かう。
の 貧 し い 人 た ち を か か え る 大 都 会 に な っ て い た 。 属 州 からの穀物の流入が絶えれば 、 ロ 11
マはたちまち飢えに襲われたのだ。
いちど、紀元前一 三O 年 ご ろ 、 と い う の は カ ル タ ゴ の 崩 壊 か ら 一 六 年 後 の こ と だ が 、 ひ
と 組 の 兄 弟 が 、 貧 し く 、 飢 え た 大 勢 の 人 び と を 引 き 受 け 、 農 民 と し て 海 の 向 こ うのアフリ
カ に 移 住 さ せ る こ と を 考 え た 。 しかしこ のグラックス家の兄弟は 、政治的争い のなかで殺
されてしまった。
兵士だけでなく、このような大衆もまた、自分たちに都合のよい人物にすべてをかけよ
う としていた 。 都 合 の よ い 人 物 、 そ れ は 彼 ら に 食 糧 と 楽 し み を あ た え る 人 で あ った。ロ ー
マ人にとって最大の楽しみ 、 そ れ は 祭 典 で あ る 。 も ち ろ ん そ れ は 、 高 貴 な 市 民 が 自 身 で ス
ポ ー ツや 詩 歌 の 技 を 神 々 の ほ ま れ に か け て き そ う ギ リ シア 人の祭典とはちが って いた 。 厳
西方世界の支配者

しゅくきまじめ
粛 で 生 真 面目なロ 1 7人 に と っ て は 、 他 人 の 前 で 詩 を 朗 読 し た り 、 お も お も し く ひ だ を
かさねた立派な衣(ト │ガ)を 脱 ぎ 、 槍 を 投 げ て み せ る な ど と ん で も な い こ と に 思 え た に
ちがいない。それは 、 奴 隷 が す る こ と で あ っ た 。 事 実、 奴 隷 た ち は 劇 場 の何 千 何 万 人 の目
五 の前で 、 格 闘 し た り 、 剣 を 交 えたり 、 猛 獣 と 戦 っ た り 、 戦 場を再現したりしなければなら
なかった︹図 幻 これこそが 、 ロ1 7人 を も っと も 興 奮 さ せ た 見 世 物 で 、 人 び と は 、訓


練 を つ ん だ 剣 闘 土 を 戦 わ せ る だ け で な く 、 死 刑 を宣告された人聞をライオン、熊、トラ、
5
11
象の前に 投げ 出し たりしたのであった。
1
52

2
7 ローマのコロ ッセウムで猛獣と戦う奴隷の剣闘士。 巨大な空間に
は、燃える太陽と群集の熱気が うずまく 。
このような 催 し物 を で き る だ け 多 く 大 衆 に提 供 できた者、 で き る だ け 多 く の 穀 物 を分 け
あ た え る こ と が で き た 者、 それが 、 何 を や っ て も ゆ る さ れ る 、 世 間 でもっとも 好 かれた 人
気 者 で あ っ た 。 な ら ば 、 多 く の 人 闘 が そ う し ようと し たことは 、 き み に も 想像 できるね。
あ る 者 た ち は 、 軍 人 や身分の高い 市 民 を味 方に し ようと し たし 、 あ る 者 た ち は 、路地 うら
の 民 衆 や 貧 し い 農 民 を 味 方 に つ け よ う と し た。 そしてこの 両派は 権 力 を め ぐ っ て 長 い あ い
だ争い 、 あ る と き は そ の 一 派 が 、 ま た あ る と き は 他 の派 が優 位 に 立 っ た 。 その ようにして
争ったの、が 、 マ リ ウ ス と ス ラ で あ っ た 。 ア フ リ カ で ロ 1 7のために戦ったマ リ ウスは 、 の
ち に も う い ち ど 、 ロl マ帝国をおそろし い危 機 か ら 救 った。 紀 元 前 一一一二年、 かつてギ リ
、 あ る い は 七OO年後のロ 1 7におけるガリア人の ように 、 イ タ
シアにおけるド 1 リア 人
リ アに 北方 か ら 荒 々し い戦 闘 的 な民族が 南 下 してきた 。キン ブ リ 族 と テ ウ ト ニ 族 で 、 今 日
西方世界の支配者

py 一
のドイツ人の親戚である。 彼 らは 、 ロ1 7の 軍 団 で さ え お そ れ て 逃げ 出 したほど袴一ヲ猛ヲ守であ
eb
った。 彼 ら を よ う や く 押 しとどめ 、 追 い 返 し たのが 、 マリウスと 彼 の軍隊であった 。
か く し て マ リ ウ ス は 、 ロ! ? で も っ と も 喝 采 を あ び る 男 と な っ た 。 他 方 、 アフリカで 戦
五 い を つ づ け て い た ス ラ も 勝 利 を お さ め 、 は な ば な し く 凱 旋 し て き た 。 そして 、両 者 の あ い
だ に 争 いが は じ ま った。 マリウスは 、 スラの 仲 間 を み な 殺 し に し た 。スラ もまけじと 、 7
リウスを支持するロ 1 7市 民 の 膨 大 な 名 簿 を つ く ら せ、 そ れ を つ ぎ つ ぎ と 消し ていった。
5
13
そ し て そ の 犠 牲 者の 財産 を 彼 は、 気 前 よく
、 すべて 国家に 献 納 し た。 この ように し て権力
を に ぎ っ た ス ラ は 、 彼 の 兵 士 た ち と と も に 、 紀 元 前 七 九 年 ま で ロ 1 7帝国を支配した 。
4

このすさまじい 混乱のなかで 、 ロ 11 7市 民はみずからを変えた。もはや農民ではなかっ


5
1

た。 数 少 な い 富 裕 な 人 た ち は 、 弱 小 農 民 の 農 地 を 買 い あ つ め 、 広 大 と な っ た そ の 農 園 を 多
く の 奴 隷 を 使 って経営した 。 もともとロ!?人は、 何 ごとにも奴隷を使うことに慣れてい
た。 鉱 山 や 石 切 り 場 の 労 働 者 だ け で な く 、 身 分 の 高 い 子 ど も の 家 庭 教 師 す ら 、 奴隷であっ
た。 これ ら奴隷は、戦争で の捕 虜 、 あ る い は そ の 捕 虜 の 子 孫 だ った。 彼らは 、 品物のよう
にあっかわれた 。 牛 や 羊 の よ う に 売 買 さ れ た 。 買い取 った者が、その奴隷の主人にな った。
主 人 は 、 彼 を 意 の ま ま に あ っ か い 、 殺 す こ と さ え で き た 。 奴 隷 に 権 利 などなかった 。 主
人 の な か に は 、 彼 ら の 肉 体 を き た え 、 劇 場 で 猛 獣 と 戦 わ せ る 者 も い た 。 このような奴隷は、
剣闘士 ﹂ (グ ラデ ィア l ト ル、剣を使 う者)とよばれた 。 あ る と き、 この剣闘士たちが反乱

をおこした 。 スパ ルタ ク ス と い う 名 の 剣 闘 土 が 仲 間 に 戦 う こ と を よ び か け、 農園の多くの
奴 隷 が そ れ に 加 わ っ た 。 彼 ら は 必 死 に 戦 い 、 ロ ー マ 軍 は 、 ようやくのことでこの奴隷の箪
ちんあっ
団 を 鎮 圧 す る の に 成 功 し た 。 も ち ろ ん そ の 報 復 は 、 残 酷 で あ った。 紀元前七 一年のことで
あ った。
ロ1 7の 民 衆 は 、 新 し い 指 導 者 の あ ら わ れ る こ と を 欲 し た 。 そのひとりと し て登場した
のが 、 ガイウス ・ユリウ ス ・カエサル (シ│ザ l) であ った。 彼は 、 民衆に穀物と楽しい
催し物をあた与えるために 、 莫 大 な 金 を 工 面 した 。 しかしこのことだけなら、 他 の者たちに
も で き た 。 彼には 、 別 の才能があ った。 彼は 、 歴 史 上 ま れ に み る 偉 大 な 軍 人 で あ っ た 。 彼
が 遠 征 に 出 か け る 。 すると二 、 三日後に彼からロ 1 7に手 紙 がとどく 。 そこには 、 たった
三 つ の ラ テ ン 語 が な ら ぶ だ け で あ っ た 。 ﹁ ヴ ェ ニ 、 ヴィディ 、 ヴィキ ﹂(来た 、見た、勝っ
た それほど彼にあっては 、 ことはすみやかに運んだのであった 。

) 、
彼は そ の こ ろ ガ リ ア と よ ば れ た フ ラ ン ス を 征 服 し、 それをロ!?帝国の属 州 にした 。
これは小さなことではない 。 そ の 地 に 住 ん で い た の は 、 けっしてかんたんには屈しない、
お そ ろ し く 勇 敢 で 好 戦 的 な 民 族 だ ったからである 。 カエサルはその地で、紀元 前 五八年か
ら 五 一年 ま で の 七 年 間、 当 時 へル ヴ ェ テ ィ ア 人 と よ ば れ た ス イ ス 人 、 ガ リ ア 人 、 ゲルマ ン
人 と 戦 った。 二度彼はライン 川 を わ た っ て ド イ ツ に 、 二 度 海 を わ た っ て 、 当 時 ロ! ?人が
ブ リ タ ニ ア と よ ん で い た イ ギ リ ス に 攻 め 入 っ た 。 これらの戦いは 、 近隣の諸民族にロ 1 7
凶方世界の支配者

人 に 対 す る お そ れ の 念 を 吹 き 込 む た め の も の で あ っ た 。 ガリアの住民は 、 数年にわたって
必死 の反 抗 を く り か え し た が 、 カ エ サ ル は そ れ ら を こ と ご と く 鎮 圧 し 、 そのあと各 地 に彼
の 軍 隊 を 駐 留 さ せ た 。 こ の と き 以 来、 ガリアはロ 1 7の属 州 にな ったのだ 。 やがてその
ちゅう仇リゅう
五 住民たちは、ラテン語を話すことにも慣れた 。 λベインでも 、 事 情 は 同 じ で あ っ た 。 この
よ う に フ ラ ン ス 語 も ス ペ イ ン 語 も ロ 1 7人 の こ と ば に 由 来 す る か ら 、 それらを今 日わたし
た ち は ロ マ ン ス 語 (ロ17風のことば ) とよんでいる 。
5
15
ガリアの 地 を 征 服 し た の ち カ エ サ ル と 彼 の 軍 隊 は 、 イタリア全土をも手に入れ 、 いまや
1
56

サルマティア

黒海

屯 した。ラインとドナウの聞には壁も築かれた。
1
57 一五 凶方世界の支配者

海 ¥ ガリア

サハラ砂漠

2
8 広大なロー 7 帝国の国境のいたるところにローマ軍団は駐
彼は世界でもっとも権勢をほこる人物となった。かつて同盟をむすんでいた他の将軍たち
8

と も 戦 い 、 そ れ を 破 っ た 。 うつくしいエジプトの女王クレオパ ト ラとも 仲 良 くし、エジプ


5
1

トを世界帝国ロ 1 7の一部にした︹図羽︺。つづく 仕 事 は 、 秩 序 の確立であった。このこ


と に も 彼 は す ぐ れ た 才 能 を 示 し た 。 彼 は 頭 の な か に も 秩 序 を も っ て い た 。 彼は、同時に 二
つの手紙を頭のなかを混乱させることなく口述したという。 きみにできるかな。
カ エ サ ル は 帝 国 の 秩 序 を 確 立 し た だ け で は な い 。 時 聞 にも、 秩 序 を あ た えた。どうい
うことかつて ? 新しい麿を 制定したのだ。それは、今日わたしたちが使っているのによ
く似て 十 二ヶ月とうるう年をもち 、 彼の名、すなわちガイウス ・ユリウス ・カエサルから、
﹁ユリウス麿﹂とよばれている 。 そ し て そ の 月 の ひ と つ は 、 偉 大 な 彼 の 名 を と っ て ﹁ユリ
ウス﹂と名づけられた 。 す な わ ち 七 月 (
げつ付いかん
ドイツ語でユリ、英語でジュライ ) は、金の月桂冠
きょうじんめい
を毛のない頭にのせることを好み、いつも病みあがりの弱々しい肉体に強靭な意志と明
断 な悟性をかくした、禿頭のやせたひとりの男の名をつたえているのだ 。
せきごせいと︿とう
カ エ サ ル は 、 世 界 で も っ と も 権 勢 の あ る 人 間 で あ っ た 。 世界帝国ロ 1 7の ﹁
王﹂ になる
こともできた 。 い や 、 彼 は そ う な る こ と を 望 ん で い た か の よ う で あ る 。 しかしロ 1 7人は
嫉 妬 ぶ かい人間であ った。 カエサルの親友 フ e
ル ー トゥスもそうであ った。 彼 らは 、カエサ
ルの下につくことを好まなかった。カエサルが自分たちを服従させることをおそれた彼ら
は、彼の暗殺をはか った。ロ ! ? の 国 会 (
元老院)のなかで、とつぜん彼らはカエサルを
取りかこみ 、 短剣 を突き 刺し た。カエサルは 抵抗し た。しかしブル l ト ゥスを認めた 彼 は、
でフル ー トゥス 、 おまえもか ﹂ とつぶやいて 、 抵 抗 をやめ 、暗殺者のなすままにしたとい
う 。 紀 元 前 四四年のことであった 。
﹁ユリウス 月 七月)のあとには﹁アウグス ト ゥス月﹂(八月)がくる。カエサル ・オク
﹂ (
おい
タヴィアヌス ・アウグストゥスは、カエサルの甥で、彼の養子となった。多くの将軍たち
と の 海 上 や 陸 上 で の 長 い 戦 い の す え 、紀 元 前 三 一 年 よ う や く 彼 は 、 帝国全体を文字どおり
ひとりで支配することに成功した。ロ 17帝国の最初の皇帝になったのだ。きみは、﹁皇
帝﹂(カイゼル)と いう 称 号 が ど こ か ら き た か 知 っ て い る か な 。 も う 気 が つ い た だ ろ う が 、
﹁カエサル ﹂ からなのだ 。
ユリウス ・カエサルからひとつの月の名がつけられたよう に、 アウグス トゥスからもひ
四方世界の支配者

とつの月が名づけられたのだ 。 彼は 、 それにふさわしい人間であった。あるいは 、 カエサ


ルほどとびぬけた 人 間 で は な か っ た か も し れ な い。 しかし彼は、自分をよく 抑 えることの
できる、それゆえ 他 人 も よ く 抑 え る こ と の で き る 、 思 慮 ぶ か い 、 公 正 な 人 間 で あ っ た 。 彼
五 は、こころがたかぶっているあいだは 、 け っして 何 かをきめたり 、命令したりすることは
なかったという。もし 何 かに興奮したときは 、 静かにこころのなかでアル ファベッ トをと
なえたという。その短い時聞に 、 明 断 な頭脳にもどることができたのだ 。 事 実彼は 、 広大
5
19
な帝国領土を正しく公平に管理する 、 明断 な頭 脳 の持 ち主であ った。 彼は 、 軍人としてい
ちども戦場に 出 た こ と が な く 、 剣 闘 士 の 見 世 物 を い ち ど も の ぞ い た こ と が な か っ た 。 生 活
0

は ま っ た く 質 素 で 、 う つ く し い 彫 像 や う つ く し い 詩 歌 に 対 す る 感 性 を も っ て い た 。 そして
6
1

ロ1 7人 は 、 か つ て の ギ リ シ ア 人 の よ う に 、 す ば ら し い彫像 や 詩 歌 を つ く る こ と が で き な
かったから、ギリシア人のうつくしい美術作品の複製をつくらせ、それらで彼の宮殿や庭
園 を 飾 った。 彼 の 時 代 の ロ 1 7の詩人たちもまた(彼らはロ ! ?時代をとおしてもっともす
ぐれた詩人たちであったてできるだけギリシアの詩人のまねをしようとした 。 ギリシア人
は、 彼 ら の 手 本 と さ れ た の だ 。 当 時 す で に 、 ギ リ シ ア 的 な る も の は ﹁もっ ともう つくしい
もの ﹂ とされた 。 それゆえロ 1 7で は 、 ギ リ シ ア 語 を 話 す こ と 、古い ギリシアの詩をよむ
こと、ギリシアの美術作品をあつめることが、もっとも気高い趣味とされたのである。 そ
し て こ の こ と は 、 わ た し た ち に も し あ わ せ な こ と で あ った。 なぜなら、もしロ 1 7人がそ
れ を し な か っ た ら 、 わ た し た ち は 今 日 、 そ れ ら に つ い て ほ と ん ど 何 も 知 る こ とができなか
った と 思 わ れ る か ら だ 。
よろこばしい知 ら せ

アウグストゥスは 、 紀 元 前 二七年から紀元後一 四年まで皇帝の地位にいた 。 ということ


は、 き み にはわかるね、彼の時代 にイエ ス ・キリストは生まれたのだ 。 それは 、 そのこ ろ
ロ1 7の属 州 になっていたパレスティナでのことだ った。 聖書に書かれているのは 、イ エ
ス ・キリ ストが 体験し たこと 、 語 ったことなのだ 。 人聞にと って大切なことは 何 か。 金持
ち で あ る か 貧 乏 で あ る か 、 身 分 が 高 い か 低 い か 、主人で あ る か 奴 隷 で あ る か 、 知 識 が あ る
かないか 、 そ れは 問題ではない 。 すべての人聞は 神 の子である 。 そ し てその父 親の愛には
かぎりがない 。 神 の前 では 、 罪のない人聞はいない 。 しかし神は、この罪ある者をいつく
しむ 。 大切なのは 、 正 義 で な く 恩 寵 で あ る 。
おんちょう
恩 寵 と は 何か、 き み は 知 っているね 。 そう 、 ﹁
ゆるし、あた え る神 の偉大な愛﹂ のこと
だ。 そしてわたしたちは 、 父である神がわたしたちを愛するように 、 隣にいるひとを愛さ
なければならない 。 イエスはいう 。﹁ あ な た の 敵 を 愛 し な さ い 、 あなたを憎む者に善いこ
6
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とをしなさい 、 あ な た を 呪 う 者 に 祝 福 を あ た え な さ い 、 あ な た の 悪 口 を い う 者 の た め に 祈
のろ
りなさ い。 右 の 頬 を 打 つ者にもう一 方 の頬 を 向 け なさい 、 下 着 を 取 ろうとす る者に 上着も
62

あたえなさい 。 も と め る 者 に は あ た え 、 借 りようとする者をことわ ってはいけない


1

﹂。
イ エ ス が 各 地 を 歩 き 、 教 え を 説 き、 病 人 を 癒 し 、 貧 し い ひ と を な ぐ さ め た の は 、 ほ ん の
短 い あ いだ で あ った。 彼は 、 ユダヤ人の王になろうとしているとして訴えられた 。 そして
ロ1 7の役人ポ ンテ ィウ ス ・ピラトゥス(ピラト)のもとで 、 ユダヤ人の謀反人として十
むほんにん
字 架 に か け ら れ た 。 このおそろしい 刑 罰は 、 ただ奴隷、 強 盗 、 征 服 された敵だけに行なわ
れ た も の で あ り、 途 方 も な い 辱 し め で あ った。 しかしキリストは、痛みはそれだけで意味
はずか
をもち 、 貧 しい 者 、 悲 し ん で い る 者、 迫 害 さ れ て い る 者、 苦 し んでいる者は 、 不幸である
こ と で き い わ いで あ る と 教 え て い た の で ( 、 初 期 の キ リ ス ト 教徒にとって 、 ま
山上の教え )
さに苦しみ 、 辱しめられたこの 神 の息子キ リ ストは 、 その教えの象徴とな った。これが 何
を意 味 していたか 、 今 日 のわたしたちには 想 像 することがむずかしい 。 十字架は 、 絞首台
こうしゆだい
よりけがらわ し いものであ った。 そ してこのけがらわしい十字架が 、 新しい教えの徴とな
った。
も う い ち ど 、 い っし ょ に よ く 考 え て み よ う 。 ロー マの役人、あるいは兵士 、 あるいは 、
知恵や 知 識 、 芸 術 や 雄 弁 術 を ほ こ る ギ リ シ ア の 教 養 を 身 に つ け た だ れ か が 、 偉 大 な 説 教 者 、
たと えば 使 徒 パウロが 、 アテナイ (アテネ)ある い はロ 1 7でキリストの 教 えにつ いて語
るのを 聞い たら 、 はたしてどう思っただろうか 。パ ウロはきっと 、 いまわたしたちが 彼 の
﹃コリント人への第一の手紙﹄の十三章に見るように 、 次のように語ったにちが いない。
﹁わた し は、もっ とも す ぐ れ た 道 を あ な た が た に 示 そ う 。 人 びとのことばや御使い たちの
みつか
ことばを語っても 、 もし愛がなければ 、 わたしは 、 やかま し い金属板やさわがし い釣鐘と
つりがね
同じである 。 たとえまた 、 わ た し に 預 言 を す る 力 が あ り 、 あらゆる奥義とあらゆる知識と
よげんおうぎ
に通じていても 、 また、 山を 移 す ほ ど の つ よ い 信 仰 が あ っても 、 もし愛がなければ、わた
しは無にひとしい 。 たとえいま、わたしが自分の全財産を人にほどこしても 、 また 、 自分
のからだを焼かれるためにささげても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は
寛 容 で あ り 、 愛は情け深い 。 またねたむことをしない 。 愛 はたかぶらない 、 ほこらない 、
かんよう
不作法をしない 、 自分の 利益をもとめない 、 いらだたない 、恨みをいだかない。不義をよ
よろこばしい知らせ

ろ こ ば な い で 真 理 を よ ろ こ ぶ 。 そ し て 、 す べ て を 忍 び 、 す べ て を 信 じ 、 すべてを望み 、 す
べてを 耐 える。愛はいつまでも絶えることがない。﹂
パウロがこう説 いたならば 、 なによりも正義をおもんじるロ l 7の貴人は 、 頭をふった
ことだろう。しかし 、貧 し い ひ と や 悩 ん で い る ひ と は 、 そこに 何 か新しいものを感じとつ

たにちがいない 。 正義よりもたいせつな 神 の恩寵の 知 らせ 、偉大なる ﹁
善 き知らせ﹂を。
~
ーノ、

﹁善き 知らせ﹂、あるいは ﹁よろこば しい知らせ ﹂ とは 、 ギリシア語のエウーアンゲリオン 、


-

ラテン語でエヴァンゲリウムのことなのだ。キリス トがそのなかで生活し 、 教えを説いた


6
13
ユダヤ人の 神 とおなじく 、 彼 の 父 な る 神 も た だ ひ と り で 、 ひとの自には見えなかった 。 そ
の 神 の 恩 寵 に つ い て の よ ろ こ ば し い 善 き 知 ら せ は 、 ま ず 彼 の 弟 子 た ち の 口でったえられた 。
64

しかしまもなく、ロ 1 7の帝国じゅうにひろまっていった。
1

ロ1 7の役人たちも、放 っておけなくな った。 彼らは、いつもならば宗教のことがらに


は口をはさまなかった 。 し か し こ の 場 合 は 、 こ れ ま で と は ち が っていた 。 た ったひとりの
神 を 信 じ る キ リ ス ト 教 徒 は 、 皇 帝 の 像 の 前 で 香 を た く こ と を し な か っ た 。 これは、ロ 1 7
に皇帝が登場して 以来 、 かな らず 行 な わ れ て き た こ と で あ った。 歴代の皇帝は、エ ジプト
や 中 園 、 バ ビ ロ ン や ペ ル シ ア の 支 配 者 た ち が し た よ う に 、 自 分 た ち を 神 として崇拝させて
いたのだ 。 国 じ ゅ う に 彼 ら の 彫 像 が あ り 、 善 良 な 市 民 で あ ろ う と す る 者 は ど こ に あ っ て も 、
皇 帝 像 の 前 で 香 を た い た の だ 。 キリ スト教徒はしかし、それをしなか った。 そして権力者
は、彼らにそれを強要した 。
キ リ ス ト が 十 字 架 で 死 ん で か ら 約 三O 年 後 、 すなわちキリスト誕生から約六O年後、ひ
とりの残忍な皇帝がロ 1 7を 支 配 した。ネロである 。 今 日 き み た ち も 、 悪者の代表として
その名を 聞く の で は な い か ね 。 真 に き ら わ れ る の は 、 彼 が た だ 思 い や り と い う も の を 知 ら
な い 、 む ご い 人 間 で あ った か ら で は な く 、 意 志 の 弱 い 、 う ぬ ぼ れ の 強 い 、 ひ と を 信 用で き
ない 、 だ ら し の な い 人 間 で あ ったからなのだ 。 詩 を つ く り 、 歌 をうたい 、 えらびぬかれた
きぜん
ものだけを食す、いやくらう、品位とか毅然というものをまったく知らない人間だったか
らなのだ。 口もとに満ち足りた残酷な笑みをうかべる、無気力な、しかしけっしてみに
く い と は い え な い 顔 を も っ こ の 男 は 、 実 の 母 、 正 妻 、 師 、 友 人 、 親戚の多くを殺させたが、
おくびょうであったから、自分自身も殺されるのではないかといつもおそれていた。
そのころ、住民が一 OO 万 を こ え た 大 都 会ロ 1 7に、何日間にもわた って燃えつづ け

何 十 万 人 か ら 住 ま い を う ば う 大 火 事 が あ っ た 。 そ の と き ネ ロ は 伺 を し た だ ろ う 。 彼は、豪
華 な 宮 殿 の バ ル コ ニ ー に 立 ち 、 竪 琴 を か か え 、 自 分 で つ く ったトロイア落城の歌をうた っ
ていた 。 彼 は 、 そ れ が こ の 瞬 間 に も っと も ふ さ わ し い こ と と 思 ったのだ 。 それを知 って民
衆 は 激 怒 し た 。 そ れ ま で 民 衆 は 、 彼 を そ れ ほ ど 憎 ん で は い な か った。 というのは 、彼は た
だ 近 い 縁 者 や 友 人 に 対 し て の み 残 忍 で あ り 、 民 衆 のためには 、しばしば たのしい祭典 を 催
し て い た か ら だ 。 し か し い ま 人 び と は 、 ロ ー マ に 火 を つ け た の は ネ ロ 自 身 だ と 、 うわさす
一 ノ、 よろ こばしい知らせ

る よ う に な っ た 。 そ れ が ほ ん と う か ど う か 、 今日でもわからない 。 いずれにしてもネロは、
信 用 を 取 り も ど さ ね ば な ら な か っ た 。 人 び と の 憎 し み を そ ら す た め の 身 代 わ り 、 ス ケi プ
ゴl トを探さねばならなか った。 そ れ を 彼 は 、 キ リ ス ト 教 徒 に 見 つ け た 。 キリスト教 徒 は、
かねがね、よりよい世界が生まれるためにはこの世界がこわれなければならないといって
いた 。 それが 何 を 意 味し ていたか 、 も ち ろ ん き み は 知 っているね 。 しかしふつう人聞は、
一一

う わ ベ の こ と ば だ け 聞 く も のであるから 、 たちまちロ 17には 、キ リスト教徒は 世界の破


滅 を 望 ん で お り 、 人 聞 を 憎 ん で い る 、 と い う う わ さ が 流 れ た 。 き み に も 、 こ の 非 難 が 見当
6
15
ちがいであることはわかるね。
ネロは 、 キ リ ス ト 教 徒 を 見 つ け し だ い 逮 捕 し、 残酷な方法で 処刑し た
。 劇場 で野獣 に食
6

いち、ぎらせただけでなく 、 彼の庭園でのはなやかな夜会のさいには、明かりとして 、 彼 ら
6
1

を 生 き た ま ま 焼 い た と い う 。 しかしキリスト教徒は、この迫害にも、またひきつ つ
e
いて起
こった迫害にあっても 、 おどろくべき勇気でもってあらゆる苦 しみを 耐えた。彼らは、新
殉教者 )ということばは、
しい信 仰 の 力 の 証 人 に な る こ と を ほ こ り に し た 。 メ ル テ ュ レ ル (
ほんらい ﹁ 証 人 ﹂ を意味するギリ シア語なのだが、のちに人び と は、これらの殉 教者を最
初 の 聖 人 と し て う や ま い 、 彼 ら の 墓 に も う で 、 祈 りをささげるようになったのだ 。 キリス
ト教徒は 、 昼 間
、 おおやけの場で集会をも つことができず、ひそかに彼らの墓 地 にあつま
った。 それは、カタコ ンベとよばれた、郊外の街道からはなれた 地下 に掘られた 通路 や小
部 屋 で あ り 、 その壁には聖書に取材した、 ︽ライオ ンの洞穴のなかのダニエル ︾、︽燃える
、︽岩から泉をわかせるそ
炉のなかに投げ込まれた 三人 の 男︾ った、 キリスト教
1 セ︾ とい
徒に神の力、永遠のいのちを想い起こさせる物語が、素朴な絵でえがかれていた ︹
図却︺0
夜になるとキリス ト教徒 はこの 地下 の通路 にあつまり 、 キリストの教えにつ いて語り、
聖なる 晩 餐 を 行 な い 、 新 た な 迫 害 が せ ま る と た が い に は げ ま しあ った 。 そしてあらゆる迫
ばんさん
害にもかかわらず、つづく一 O O年のあいだにロ 17全域で、善き知らせを信じ 、 そのた
めに 、 かつてキリストが 耐 えた苦しみをすすんで受けようとする者たちの 数は ふえていっ


見え、左の壁画は 《燃える炉のなかに投げ込まれた三人の男》を描く 。
そのころ、権力のむごさを感じて
29 地下の墓地 (カタコンベ)にあつ まるキリ スト 教徒。奥には墓が
いたのはキリスト教徒だけでなか
った。 ユ ダ ヤ 人 も ま た 同 じ で あ っ
た。 ネロの数年後 、 エルサレムでは
ロ17人にたいする謀反が起こった。
おさえられていたでダヤ人が 、 自由
を叫んだのだ 。 彼らの諸都市は 、 ロ
!?軍団の攻撃をはねかえし 、 攻囲
に長く 耐 え、信じがたいしぶとさと
よろこばしい知らせ

勇敢さで戦った。エルサレムは 、 当
時のロ 1 7皇帝ヴェスパシアヌスの
息子ティトゥスによる二年の攻囲で
みじめに飢え、逃げ出した者は 町 の
外で十字架にかけられた 。キ リスト
ー ノ、

の誕生後七O年、エルサレムは 陥 落
した。ティトゥスは 、 た だ 唯 一 の 見
6
17
えない 神 の 聖 域 を 傷 つ け な い よ う
命 じ た と い う 。 し か し 神 殿 は兵士たちに放火され、 略奪 さ れ た 。 ロ ! ? へ の 凱 旋 の さ い に
8

は、 奪 い 取 った聖なる祭具が誇示された。そのようすをきみは今日なお 、 そのときロ │ マ
6
1

に 建 て ら れ た テ ィ ト ゥ ス の 凱 旋 門 の浮き彫りに見るだろう。エルサレムは破壊され 、 ユダ
ヤ人はちりぢりになった。それ以前から彼らは、多くの都市に商人として住みついていた 。
し か し こ の と き 以 来 ユ ダ ヤ 人 は 、 ア レ ク サ ン ド リ ア 、 ロ l て あ る い は 他 の異国の 都 市 で

自 分 た ち だ け の 祈 り の 場 に 結 集 す る 、 故 郷 を も た な い 民 族 と な っ た 。 しかも彼らは、異教
徒のなかにあってもなお古いしきたりをかたくなに守り、聖窪田を読み 、 救 い に あ ら わ れ る
ののし
であろうメシアを待ちつやつけるがゆえに 、 他 の 民 族 に 笑 わ れ 、 罵 ら れ る の で あ った

帝政のロ ー マ

キ リ ス ト 教 徒 で な く、 ユダヤ人でなく、皇帝の近い親戚でなければ、ロ!?帝国内で人
び と は お だ や か に 、 の び の び と 暮 ら す こ と が で き た 。 ロー マの街道は、 スペ インからユ │
フラテス 、ドナ ウ か ら ナ イ ル ま で み ご と に 整 備 さ れ 、 公 営 の 駅 伝 は 定 期 的 に 国 境 の 町 ま で
かよ っていた 。 アレクサンドリアやロ 1 7な ど の 大 都 市 には、 快 適 な 暮 ら し の た め の あ ら
ゆる施設が 用意 されていた 。 貧 し い 人 た ち の 、 粗 末 で は あ る が 高 層 の 集 合 住 宅 が た ち な ら
ぶ ひ ろ い 区 域 も あ った。 し か し 個 人 の 邸 宅 は 、 え ら び ぬ か れ た ギ リ シアの美術品や豪華な
家 具 、 す ず し げ に 水 を 飛 ば す 噴 水 の あ る う つくしい庭園で飾られ、冬には、床下に埋めら
れ た 素 焼 き の 管 に 、 熱 せ ら れ た 風 が お く ら れ た 。 また 田舎には 、 多 く の 場 合 、 海辺におお
ぜい の奴 隷 や 使 用 人 を か か え、 ギ リ シア 語 や ラ テン 語の 書 物 を そ ろ え た 立 派 な 図書 館 、 最
良の ブ ド ウ 澗 を あ つ め た 酒 蔵 、 さ ら に は 専 用 の 体 育 場 ま で そ な え た 別 荘 が 建 て ら れ た 。 家
にいるこ とにた い く つ す る と 人 び と は 、 市 場 、 裁 判 所 、 浴 場 の あ る 広 場 に 出 か け た 。 テル
6
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メとよばれた浴場は 、 温 浴 お よ び 冷 浴 の た め の 広 問 、 蒸 し風巨 室 、 身 体 を き た え る 道 具 も
そ な え た 、 豪 壮 な 施 設 で あ った。この巨大な浴場 、 す な わ
30 ゆたかなロー 7 人の田舎の別荘。 切る く、風通 しの よい大理石の
70

ちテルメの遺構は、今日なお各地で見ることができる。そ
1

こ に は 、 訪 れ る 者 を 圧 倒 す る 丸 天 井、 さ ま ざ ま な 色 の 大 理
石 の 円 柱、 高 価 な 石 で つ く ら れ た 水 槽 な ど が あ り 、 き み は
き っと 、 童 話 の な か の 王 宮 を 見 る 思 い が す る に ち が い な い
図 却 ︺。

も っと 大 き く 、 も っとおどろくのは、 劇 場である 。 コロ
ッセ ウ ム と よ ば れ た ロ ! ? で 最 大 の 劇 場 は 、 約 五 万 人 の 観
客 に 席 を 用 意 し て い た 。 今 日 の大都会の競技場でも、これ
ほ ど 多 く の 観 客 を 収 容 で き るものは多くないだろう。ここ

建物での苦労を知らない生活。
での主たる見 世 物 は、 人 間 どうしの 、 あるいは人間と猛獣
のいのちをかけた戦いであり、きみもキリスト教徒が 、 こ
のような劇場で死んでい ったことは知 っているね 。 楕 円 形
だえん
の演技場をめぐる観客席は勾配が急で 、 あたかも巨大なす
り鉢のよ う であ った。 五万人の観客がいちどに歓声をあげ
ごう必ん しゅひんせき
たら、ものすごい轟音となっただろうね。下段の主賓席
ほ ぬの
には、 日陰 を つ く る 色 あ ざ や か な 帆布 の下に 皇帝が座をし
めた 。 彼 が ア リ ー ナ 、 す な わ ち 演 技 場 に ハ ン カ チ を 落 と す と 、 演技がはじまる。剣闘士は、
登場するとまず主賓席の前に立ち、﹁皇帝万歳 ! 死 ぬ と き め た 者 が あ な た に あ い さ つ し
ま す ﹂ とさけんだ 。
しかしきみは、ロ 1 7の皇帝とは劇場に座る以外何もすることのない 、 ましてや 、 みな
が ネ ロ の よ う に 賛 沢 ざ ん ま い に 明 け 暮 れ る 、 な ら ず 者 と 思 っ て は い け な い 。 ま っ た く 逆な
のだよ。 彼 ら は 、 帝 国 を 平 和 に た も つ た め に け ん め い だ ったのだ 。というの は、遠い国境
の向こうの あ ち こ ち で 、 野 蛮 で 戦 い を 好 む 異 民 族 が 、 すきあらばロ 1 7のゆたかな属州に
やばん
は い り こ み 、 略 奪 し よ う と う か が っ て い た か ら だ 。 北 で は 、 ドナウ 川 とライン 川 の岸辺で、
その向こうに住むゲルマン人がロ ! ?人をなやましていた。すでにカエサルも 、 フランス
を 征 服 し た さ い 、 彼 ら と 戦 わ ね ば な ら な か っ た 。 ゲ ル マ ン 人 は 、 背 の高い 、 筋骨のたくま
しい人間で 、 そ の 巨 大 な 身 体 に ロ 1 7人はおそれをいだいた。また彼らの国は、 (
帝政のローマ

すなわ
ちいまのドイツだが ) ロ1 7の 軍 聞 を 迷 わ す 深 い 森 と 暗 い 沼 に お お わ れ て い た の だ 。 し か
し何といってもゲルマン人は、暖房された邸宅での寝起きに慣れた人間ではなかった 。 か
つてのロ!?人のように農業民であった彼らはつねに移動し、たがいに遠く散らばり、 立
一七

ち木を組んだ 小 屋を住まいとしていた。
大都会に生活し 、 ラ テ ン 語 で ゲ ル マ ン 人 に つ い て 書 き の こ し た ロ ! ? 人 は 、 くりかえし、
7
11
ゲ ル マ ン 人 の 質 素 な 暮 ら し ぶ り 、 素 朴 で 厳 格 な 風 紀、 戦場での勇敢さ、部族の首領への忠
誠 心 に つ い て 報 告 し て い る 。 彼ら ? 1 7の 知 識 人 は 、 速 く の 森 の な か で の 単 純 で 無 垢 な 自
む ︿
72

どうぼう
然 の 暮 ら し と 、 限 り な く 洗 練 さ れ た 軟 弱 な ロ 1 7人 の 生 活 の ち が い を 同 胞 に つ き つ け て い
1

たのだ。
ゲルマン 人 は 、 ほ ん と う に 危 険 な 戦 土 で あ った。このことをロ ! ?人は 、 すでにアウグ
ス ト ゥ ス の 時 代 に 身 を も って 体 験 し て い た 。 そ の こ ろ 、 ゲ ル マ ソ 部 族 の ひ と つ ケ ル ス キ 人
の 首 領 に 、 ア ル ミ ニ ウ ス あ る い は へ ル マ ン と よ ば れ た 者 が い た 。 ロ17で育った彼は、ロ
ー マ人の戦 いぶ り を 知 っ て いた 。 そ れ ゆ え 、 ロ1 7の 軍 隊 が ド イ ツ の ト イ ト ブ ル ク の 森 を
抜 け て す す ん で い た と き 、 そ れ を 急 襲 し 全 滅 さ せ た 。 以来ロ 1 7軍は、 ド イ ツ に 深 く 入 り
込 む こ と を や め た 。 し か し だ か ら こ そ い っ そ う 、 ロ!?人にとっては、ゲル 7 ン人を国境
で く い と め る こ と が 重 要 で あ った 。 そ こ で 移 動 す る ゲ ル マ ン 人 か ら 帝 国 を 守 る た め 、 すで
しん
に紀元後一 世紀 に ロ ! ? 人 は 、 ラ イ ン か ら ド ナ ウ ま で の 国 境 に 沿 って 、 秦 の 始 皇 帝 の 長 城
に似た 、 壕 と 物 見 や ぐ ら を そ な え た 防 塁 、 す な わ ち リ メ ス を 築 い た 。 ロ 1 7人にと って何
担うるい
よ り の 気 が か り は 、 ゲ ル マ ン 人 が ひ と つ と こ ろ に 落 ち 着 く こ と な く 、 猟 場 あ る い は 耕 地を
変 え て 動 き 出 す こ と で あ った。 彼 ら は す ば や く 、 お ん な や 子 ど も を 牛 車 に乗 せ、新しい居
住 地 を も と め て 旅 に 出 るのであった 。
このように、ロ 1 7人 は 帝 国 を 守 る た め に つ ね に 、 軍 隊 を 国 境 に 駐 屯 さ せ な け れ ば な ら
なか った ︹
図引 そ の 結 果 あ ら ゆ る 属 州 の軍隊が 、 ライ ン河 、 ド ナ ウ 河 の 岸 辺 に お く ら


れた 。 ウィ ー ンの近くに はエ ジプ ト
31 森のなかのローマ軍の見張り塔。帝国を守るローマ工事は、速く離
の 軍 隊 が 駐 屯 し 、 ド ナウの 河 畔 にエ
ジ プ ト の 女 神 イ シ スの聖 域 を 築 い た 。
そ れ が 今 日 の 町 イ ブ ス で あ り 、 この
名にエジプトの女神は生きつづけて
いる 。 異 国 の 軍 隊 は 、 は る か 遠 く の
神 々を国境の辺 地 にまではこんでき
た の だ 。 そ の な か に は 、 たとえばベ
ル シ ア の 太 陽 神 ミ ト ラ ス 、 そしての

れたさびしい地にもおくられた。
ち に は 、 キリス ト教 徒 の 自 に 見 え な
帝政のローマ

い唯一 神 も 含 ま れ て い た 。 遠 く は な
ようさい
れ た 国 境 の 要 塞都 市 の 生 活 も 、 都 市
ロ17の 生 活 と あ ま り 変 わ ら な か っ
た 。 今 日 のケルン 、 トリ ー ル、 アウ
一七

グ ス ブ ル ク 、 レl ゲ ン ス ブ ル ク 、 ザ
ルツブルク 、 ウィ ー ン、フランスの
7
13
ア ル ル 、 あ る いは イ ギ リ ス の パ │
スには 、 劇 場 や 大 浴 場 、 役 人 の 豪 壮 な 邸 宅、 兵 士 の た め の 広 大 な 宿 舎 が 築 か れ て い た 。 退
4

役した兵士の多くは駐屯地の近くに土地を貰いもとめ、その地の女性と結婚して定住した。
7
1

そ の よ う に し て 国 境 周 辺 の 住 民 た ち も ま た 、 し だ い に ロ ! ?の風習に親しんで い った。し
か し ド ナ ウ や ラ イ ン の 向 こ う 側 の ゲ ル マ ン 人 が 落 ち 着 く こ と は な く 、 ロ 1 7の皇帝たちは
やがて 、 首 都 の 宮 般 に い る よ り は 指 揮 官 と し て 、 国 境 の 陣 営 に 滞 在 す る 時 閣 の ほ う が 多 く
な っ た 。 彼 ら の な か に は 、 た と え ば 皇 帝 ト ラ ヤ ヌ ス の よ う に 、 す ば ら し い 人 間もい た。キ
リスト誕生後一 O O年 ご ろ に 生 き た こ の 皇 帝 は 、 そ の こ こ ろ の ひ ろ さ と 公 正 さ で 、 人 び と
に長く語りつがれた。
トラヤヌスは 、 川 の向 こうもロ l マ の 支 配 下 に 入 れ 、 帝 国 の 守 り を か た め よ う と ド ナ ウ
を わ た り 、 今 日 の ハ ン ガ リ ー やル ー マ ニ ア ま で 軍 を す す め た 。 そ の 地 は 当 時 ダ キ ア と よ ば
れていたが 、 やがてロ 1 7の 属 州 と な り 、 住 民 が ラ テ ン 語 を 話 す よ う に な っ て か ら は ル ー
マ ニ ア と な っ た 。 ト ラ ヤ ヌ ス は 、 軍 を す す め た だ け で は な か っ た 。 都 市 ロ 1 7を立派な広
場で飾ることもした。いくつかの丘がけずられ、まねかれたギリシアの建築家によって神
殿 や 庖 舗、裁判所、柱廊、 さ ま ざ ま な 記 念碑 が 築 か れ た 。 い ま で も き み は 、 その遺跡をロ
ー マに見ることができる。
トラヤヌ スにつ つ
e
い た 皇 帝 た ち も 、 帝 国 の 統 治 と 国 境 の 守 り に 気 を く ば った。なかでも
キリス ト誕 生 後 一 六 一 年 か ら 一 八O 年 ま で 皇 帝 で あ っ た マ ル ク ス ・アウレリウスは 、 国境
の カ ル ヌ ン ト ゥ ム や ヴ イ ン ド ボナ(今日のウィーン)の砦に滞 在 す る こ と が 多 か っ た 。 だ
からと い って 、 マルクス ・ア ウ レ リ ウ ス は 戦 争 が 好 き だ っ た わ け で は な い 。 彼 は、 なによ
り も 読 む こ と 書 く こ と を 愛 す る 、 お だ や か な 、 し ず か な 人 問 、 哲学 者 で あ っ た 。 そ の 大 部
分を 陣 中 で 書 い た 彼 の 日記 が 、 今 日 に の こ さ れ て い る 。 そ の な か で 彼 は 、 自 分 自 身 に か つ
こと 、 ひ ろ い こ こ ろ を も つ こ と 、 苦 しみゃ 痛 み に耐えること 、 考 え る 人 聞 は勇 敢 であるこ
となどにつ いて 、 彼 の 深 い 思 索 を 書 き の こ し ている 。 そ れは 、 ブ ッダ が 知 ったらよろこん
だにちがいないものであった。
しかし 7ルクス ・アウレ リウ ス に は 、 た だ 森 に 隠 れ 、 思 索の 日を お く る こ と は ゆ る さ れ
なかった。 彼 は、 ウ ィ ー ン の 近 く で そ の こ ろ 激 し い 動 き を し て い た ゲ ル マ ン の 諸 族 と 戦 わ
ね ば な ら な か っ た 。 そのときロ 1 7人は 、 連 れ て き た ラ イ オ ン で 敵 を ド ナ ウ の 向 こうに追
い 立 て よ う と し た と い う 。 し か し 、 ラ イ オ ン を 見 た こ と が な か ったゲルマン 人 はそれをこ
帝政のローマ

わ が る こ と も な く 、 この ﹁ 大 き な 犬 ﹂ を か ん た ん に や っ つ け て し ま った。 この戦いのさな
かマルクス ・ア ウ レ リ ウ ス は 、 ウ ィ ー ンで 世 を 去 っ た 。 そ れ は 、 キ リ ス ト 誕 生 後 一 八O 年
のことであった 。
一七

つづく皇 帝 た ち は 、 も は や 帝 国 を 守 っ て 国 境 に 滞 在 す る こ と は な く 、 と い っ て 首 都ロ 1
7に い る こ と も ほ と ん ど な か った。 彼 ら は生粋の軍人であり、仲間の兵士たちにえらばれ、
7
15
そ し て 退 位 さ せ ら れ る 、 い や 殺 さ れ る こ と さ え あ る 皇 帝 で あ っ た 。 と き に は 、 ロ1 7人で
な く 呉 邦 人 が そ の 地位 に つ く こ と さ え あ っ た 。 と いうのは 、 そのころロ 17軍団のなかで
76

ロ1 7人 の し め る 割 合 は 小 さ く な っ て い た か ら だ 。 か つ て 兵 士 と し て 世 界 を 征 服 したイタ
1

リアの農民は 、 も は や ほ と ん ど い な く な っ て い た の だ 。 農 民 の 土 地 は 、 異 国 の 奴 隷 た ち が
はたらく富裕階級の広大な領地となっていた。軍隊もまた異邦人からなっていた。(ドナ
ウ河 畔のエ ジプト人については 、も うきみも知っているね。)なかでも、 す ぐ れ た 戦 士 である
ゲ ル マ ン 人 は 多 か っ た 。 そ し て 呉 邦 人 か ら な る 軍隊は、いま や途方もなく巨大化した帝国
の 東 部 と 西 部 、 ゲ ル マ ニ ア あ る い は ベ ル シ ア と の 国 境、 スペイン 、ブリタニア、 北 アフリ
カ、エジプト 、 小ア ジア 、 ル ー マ ニ ア で 、 そ れ ぞ れ 自 分 た ち の 将 軍 を 皇 帝 の 地位につけ、
そしてその皇帝たちは、かつてのマリウスやスラの時代のように、権力をめぐってたがい
に 戦 い 殺 し あ っ た 。 こ の よ う に 、 キ リ ス ト 誕 生 後 の 二00年 代 は 、 混 乱 と 悲 惨 の 時 代 で あ
った。 ロ1 7帝 国 に は い ま や 、 こ と ば も た が い に 理 解 で き な い 、 奴 隷 と 異 邦 人 の 軍 隊 が あ
るだけだった。属州 の 良 民 は 税 金 を お さ め る こ と な く 、 領 主 に 対 し て 反 乱 を 起 こ し た 。 さ
らには 、 伝 染 病 や 盗 賊 が 国 を 荒 ら し た 。 こ の 悲惨 な 時 代 に 、多くの人びとは﹁善き 知 らせ﹂、
エヴアンゲリウムの教えになぐさめを見 出 そうとした。自白人も奴隷もしだいにキリスト
教 徒 と な り 、 皇帝を崇拝することを拒否した。
ロ1 7帝 国 の 危 機 が 頂 点 に 達 し た と き、 あ る 貧 し い 家 庭 の 息 子 が 帝 国 の 支 配 を か ち と っ
た。 キ リ ス ト 誕 生 後 二 八 四 年 に 権 力 の 座 に つ い た 皇 帝、 デ ィ オ ク レ テ ィ ア ヌ ス で あ る 。 彼
は 、 い ま に も 滅 び よ う と す る 帝 国 を 新 し く 立 て 直 そ う と し た 。 まず全国をおそっていた 飢
僅のために、あらゆる食料品の最高値段を定めた。もはや帝国をたったひとつの首都から
おさめることはできないと考え、また帝国を四分してあらたに四つの都市を首都とし、そ
こ に 四 人 の 副 帝 を お い た 。 皇 帝のいか め し さ と 信 頼 を と り も ど す た め 、 おごそかな宮廷儀
式 を 創 設 し 、 皇 族 や 役 人 に 金 糸 銀 糸 で 刺 繍 し た 豪 華 な 衣 装 を つ け さ せ た 。 もちろん皇帝崇
拝をとくにきびしく守らせ 、 そのために国じゅうのキリスト教徒を激しく迫害した。それ
は 最 後 の 、 そ し て も っ と も 苛 酷 な 迫 害 で あ っ た 。二0 年 間 の 治 世 の の ち 、 デ ィ オ ク レ テ ィ
ア ヌ ス は み ず か ら 皇 帝 の 地 位 を す て 、 疲 れ た 、 病 弱 なひとりの 私 人 と し て、ダルマ ツイア
の宮殿に隠居した。そこで老いた彼は、キリスト教徒との彼の戦いがまったく意味のない
ものであったことを知らされた。
彼 の 後 継 者 、 皇 帝 コ ン スタンティヌスはキリス ト 教 徒 と の 戦 い を 放 棄 し た 。 いい伝えに
帝政のローマ

よるとコンスタンティヌスはディオクレティアヌスのかつての副帝のひとり 7クセンテ
望。ーし


イウス と の 決 戦 の 前 夜 、 夢 に 十 字 の 標 を 見 、 ﹁ こ の 標 の 下 で お ま え は 勝 つ で あ ろ う ﹂ とい
う お 告 げ を 聞いたとい う 。 そ し て 勝 っ て 帝 国 を 統 一 し た 彼は 三 二 二 年 、もは やキリスト 教
一七

徒を迫害しないことにきめた。しかし彼自身は、その後も長く異教徒でありつづけ、死の
直 前 に な っ て は じ め て 洗 礼 を う け た 。コンスタンティヌスは 、ローマで政治をとることを
7
17 や め た 。 そ の こ ろ 帝 国の東部は 、 ふ た た び 勢 い を も り か え し て い た ベ ル シ ア 人 に お び や か
されて いた。そこで 彼 は、 鹿市 海 のほとりの か つてのギ リ シアの植民都 市 ピザンツを政治の
8

場 に え ら んだ。 この 地 は以後、
7

コンスタンティヌスの 都
、 コンスタンティノポ リ ス(コン
1

スタンティノ lプル)とよばれるようになった。
やがて 紀 元後三 九 五年 には 、 二つの首 都 を も っ 一 つ の 国 で は な く 、 東ロ ! ?と西ロ ! ?
の二つの 国家 に わ か れ た 。 住 民 が ラ テ ン語を話す西ロ 1 7帝 国 に は イ タリア 、 ガリア 、 ブ
リタニア 、 スペイン 、 北 アフ リ カが 、 ギ リ シア語が話される東ロ 1 7帝 国 に は エ ジ プ ト 、
パ レスティナ 、 小 アジア 、 ギ リ シ ア 、 マ ケ ド ニ ア が そ れ ぞ れ 属 し た 。 そ し て こ の 二 つ の 国
、 キリス ト誕 生 後 三 八O 年 以 降 キリスト 教 が 国 家 の 宗 教 と な っ た 。 それぞれの
にお いて は
国で 、 司教 や 大 司教 が 大 き な 影 響 力 をもっ 、 権 威 あ る 職 と な っ た 。 キリス ト教 徒 はもはや
地 下 のカタコ ンベで な く 、 円 柱 で 飾 ら れ た 豪 華 な 教 会 堂 に あ つ ま り 、 そ し て 救 済 と 受 難 の
象 徴 である 十字 は 、い まやロ ! ?軍団の旗印 とな った。
嵐の時代

き み は 夏 の 暑 い 日 、 近 づ く 嵐 を 体 験 し た こ と は な い か ね 。 それは 、 とくに 山 のなかでは


す ご い も の だ よ 。 は じ め は 何 も 変 わ っ た も の は 見 え な い の だ が 、 そ れ で も 、 空気中にただ
よう何か奇妙なけだるさを感じるのだ 。 それから遠くどこか ら か、雷鳴が聞こえる 。 そし
て山なみが 、 おどろくほど近くに見えてくる 。 大気は 何 も動かないのに、雲がもくもくと
わく 。 山 なみが 、 もやの壁の 向 こうに消える 。 雲は四方から近づくのだが、風はまったく
ない 。 雷鳴の間隔はしだいにせばまり、不気味な気配があたりをしめる 。 ひとは息をひそ
めて、ただ待つ 。 そして突然はじまる 。 あたかも神の出現のように、嵐が谷に落ちる 。 稲
いな
妻 が 走 り 、 蔽 音 が ひ び き 、 太 く 、 重 い し ず く の 雨 が 音 を 立 て て 降 る 。 せまい峡谷に閉じ込
づまごう おん
めら れた嵐は、断崖にこだまする雷鳴をさらにつよめ 、 方向をさだめぬ風が吹く 。ーー や
だん がい
がて、嵐は去り 、晴れたしずかな星夜がくる 。 もはやきみは、どこにあの嵐の雲があ った
のか、どの雷が 、 どの稲妻のあとに鳴ったのか、思い 出すことはできない 。
7
19
これからわたしが話そうとする 時 代 も、 これとよく 似 ていた 。 そのとき、 世界帝国ロ │
7を 吹 き と ば す 嵐 が お そ い か か っ た の だ 。 遠 い雷 鳴 は す で に 聞 こ え て い た 。 そ れ は
、 国境
0

地帯 を う ろ つ く ゲ ル マ ン 民 族、 な か で も キ ン ブ リ 人 や テ ウ ト ニ 人 の 鳴 ら す 武 具 の 音、 それ
8
1

と戦うカエサル 、 ア ウ グ ス ト ゥ ス 、 ト ラ ヤ ヌ ス 、 マルクス ・アウレリウス 、 さらにそれに


つづいた皇帝軍のおたけびであった。
しかし 、 い ま や 嵐 そ の も の が や ってき た。 その嵐は 、 はるか遠くの 、 歴史の 破 壊者秦の
始 皇 帝 が 築 い た 長 城 の 近 く で 生 ま れ た 。 も は や 中 国 へ 侵 攻 で き な く な った ア ジ ア 草 原 の 騎
馬 民 族 は 、 あ た ら し い 獲 物 を も と め て 西 へ と 向 き を 変 え た 。フン 族である 。 西方 の 人 び と
ル-
つ, 一
は、 いまだそのような民族を見たことがなかった。 切 れ 長 の 目 と 顔 に お そ ろ しい 痘癒をも
ヲ a
っ小 さな黄 色 の人 間。 彼 ら は 、 ま さ に 半 人 半馬の 怪 物 であった 。 彼らのすば しこい小 さな
馬 か ら け っ し て 下 り る こ と は な く 、 馬 の 上 で 食 事 を し 、 馬 の 上 で 眠 る こ と さ え あ り 、 食べ
る生 肉 を鞍 の下 で や わ ら か く す る た め に 馬 を 走 ら せ る 。 おそろしい 叫 び 声 を あ げ、 疾駆し
な が ら つ か み か か り 、 矢 を 吹 雪 の よ う に 射 かけ 、 突 然 向 き を 変 え 、 風となって 逃げるかに
ふぶき
見 せ る 。 追 い か け る と 、 鞍 の 上 で 振 り か え り 、 後 方 の 追 っ手 を 正 確 に 射 と め る 。 いかなる
民 族 よ り も 敏 捷 で 、 校 猪 で 、 第 猛 で あ り 、 も っと も 勇 敢 な ゲ ル マン 人 と い え ど も敵 では
びんしようこうかつ
なかった 。
東 方 か ら の 敵 に 追 わ れ た ゲ ル マ ン の 一 種 族 西 ゴ l ト人は 、 より安全なロ 1 7帝 国 領 内 に
逃げ 込 も う と し た 。 ロー マは彼らを受け入れたが 、 やがてこの客人との 戦 争 が は じ ま った。
西ゴ l 卜族の 一部 は ア テ ナ イ を 攻 め 、 略 奪 し 、 さ ら に コ ンスタンティノ1プルに 向か った

そして結局部族全体が移動をはじめ、四一 O 年 、 王アラリックにひきいられてイタリアへ
向 か い 、 こ の 王 の 死 後 は ス ペ イ ン へ と す す み 、 そ こ にとどまった。自分たちの軍隊を守る
ためにロ ! ?人は、ガリアやブリタニア 、 ラ イ ン や ド ナ ウ の 国 境 か ら 多 く の 軍 隊 を よ び も
ど さ ね ば な ら な か っ た 。 その結果、各地の国境をこえて、 何 百 年 も こ の と き を 待 ち 望 ん で
いた ゲ ル マ ン の 諸 族 が 侵 入 し て き た 。
これらの諸族のいくつかの名をいまでもきみは、ドイツの地図の上に見つけることがで
き る は ず だ 。 たとえば シュ ヴ ア│ ベン 、 フランク 、 ア ラ マ ン な ど 。 彼 ら は 女 性や子どもた
ち 、 そ れ に 全 財 産 を 積 ん だ 牛 車 を き し ら せ 、 ラ イ ン 河 を 越 え て 南 下 し 、 戦い 、 そして勝利
した 。 た と え 負 け て も 、 す ぐ う し ろ に 次 の 部 族 が つ づ き 、 そ し て 勝 っ た 。 伺 千 人 殺 さ れ て
も 問題ではない 。 そ の あ と に 何 万 人 が つ づ い た 。 こ の 時 代 を 歴 史 は 、 民 族 大 移 動 の 時 代 と
よんでいる 。 そ れ は 、 ロ ! ? 帝 国 を 巻 き 上 げ 、 そ し て た た き つ け た 嵐 の 時 代 で あ っ た 。グ
嵐の時代

ル 7ンの諸族は 、 フ ラ ン ス や ス ペ イ ン に と ど ま っ た だ け で は な か っ た 。 ヴ ア ン ダ ル 族 は イ
タリ アを 抜 け 、 シチリアを 通 り 、 か つ て の カ ル タ ゴ に 向 か った。そこに 彼 ら は 海 賊 国 家 を
一八

築 き 、 船 を し た て て 各 地 の 海 岸 都 市 を お そ い 、 略 奪 し 、 火をつけた 。 ロl 7も ま た 、 彼 ら
に よ っ て む ざ ん に 荒 ら さ れ た 。 ヴ ア ン ダ ル 人が 他 の部族 以 上 に ひ ど い わ け で はなか ったの
81
1
蛮行) と い う こ と ば が つ か わ れ る 。
だが、今日でもヴアンダリズム (
そ し て 、 フ ン 族 そ の も の が や っ て き た 。 彼 ら は さ ら に ひ ど か っ た 。 新 し い 王 、 アッティ
2

ラがひきいていた 。 彼 は 、 キ リ ス ト 誕 生 後 四 四 四 年 に 権 力 を に ぎ っ た 。 キ リ ス ト誕 生前の
8
1

四 四 四 年 に は 、 だ れ が 権 力 の 座 に つ い た か お ぼ え て い る か ね 。 そ う 、 アテナイのペリクレ
スだ。それはすばらしい時 代だ った。だがアッティラは 、 ま さ に あ らゆる点でベ リ クレス
の反対だった 。 彼 が 通 っ た あ と に は 草 も 生 え な い と い わ れ た 。 す べ て を 奪 い 、 す べ て を 焼
きつくしたからだ ︹
図幻 たしかにフン族は 、多くの金銀宝 物 を奪い、彼らの首領たち
は そ れ で 身 を 飾 っ た 。 し。

か し ア ッ テ ィ ラ 自 身 は 、 つねに質素であった。 彼は木のうつわ で
食事をし、粗末なテントに寝起きし、金や銀には興味を示さなかった。ただ権力にのみ、
楽 し み を も と め た 。 彼はけっして笑わなかった。おそろしい支配者であった。 世 界 の半分
を征服した 。 彼 が 殺 さ な か っ た 民 族 は 、 彼 と と も に戦わねばならなかった。 彼の軍隊は巨
大 と な っ た 。 そ の な か に は 多 く の グ ル マ ン 人 、 なかでも東ゴ l ト族 が 加 わって いた 。 (
西
ゴl ト族はスペインに逃げていた 。)ハンガ リー の 陣 営 か ら ア ッ テ ィ ラ は 、 西 ロ ! ? 帝 国 の
皇 帝 に 使 節 を お く り 、 ﹁お ま え の 主 人 ア ッ テ ィ ラ は 、 お ま え の 国 の 半 分 と お ま え の 娘 を 彼
の妻として差し 出 せ と 命 じ た ﹂ と 伝 え さ せ た 。 皇 帝 が こ れ を 拒 む と ア ッ テ ィ ラ は 、 皇 帝 を
罰し 、 拒 ま れ た も の を 奪 う た め に 彼 の 大 軍 を 出 発させた。 四 五一年、 ガリアのカタラウヌ
シ ャロン ) の 平 原 で 大 き な 戦い が は じ ま っ た 。 ロ ー マ 帝 国 の 軍 団 と ゲ ル マ ン の 諸 部 隊
ム (
は、 アッティラの野蛮な大軍と戦うために手をむすんだ。 戦いは決着が つかず 、ア ッティ
1
83 一八嵐の時代

3
2 戦い、勝利、略奪、荒廃に向かつて騎馬軍団を率いる 7 ン族の王
アッティラ。
ラはロ 1 7 へと向かった。人びとはおそれおののいた。 フン 族 の 大 軍 は 近 づ いたが



84

撃つ軍隊は足りなかった。
1

ロ ! ? の 司 教 が 司 祭 た ち を 連 れ 、 教 会 の 旗 を か して彼らに立ち向か った。大 教皇とよ




ばれたレオである。だれもが 、 フン族にかんたんにひねりつぶされると思った。しかし 、
ア ッ テ ィ ラ は 反 転 し た の だ 。 彼 は イ タ リ ア を 離 れ 、 ロ! ?は救われた。それからまもなく、
すなわち四五三年、あるグルマンの王女との結婚の日にアッティラは死んだ。
このとき、 教 皇 の は た ら き が な か っ た ら 西 口 1 7帝 国 は ほ ろ ん で い た に ち が い な い 。 皇
帝はすでに 、 そ の 力 を ま っ た く う し な っ て い た の だ 。 い ま や 権 力 を に ぎ っ て い た の は 軍 で
あり 、 その軍を構成するのはほとんどがゲルマン人であった。結局ゲルマンの戦士たちは、
皇 帝 は い な く て も よ い と し、 彼を退位させることをきめた。最後のロ!?皇帝の名はロム
ルス ・ア ウ グ ス ト ゥ ル ス と い っ た 。 き み も お ぼ え て い る だ ろ う 。 ロ ー マ を 建 国 し た 最 初 の
王 は ロ ム ル ス と よ ば れ 、 最 初 の ロ 17皇 帝 は ア ウ グ ス ト ヮ ス だ っ た ね 。 最 後 の 皇 帝 ロ ム ル
ス ・ア ウ グ ス ト ゥ ル ス の 退 位 は 、 キリスト誕生後四七六年のことであった。
彼 の あ と 、 ゲ ル マ ン 人 の 将 軍 オ ド ア ケ ル が イ タ リ ア に お け る グ ル マ ン人の王を名のった。
これが西ロ 1 7 ・ラ テ ン 帝 国 の 最 期 で あ り 、 ﹁
古 代﹂ と よ ば れ る 長 い 時 代 のおわりであっ

四 七 六 年 と と も に 、 た だ 古 代 と 近 世 の 中 間 で あ る か ら﹁ 中世 ﹂ と よ ば れ る 、 新 し い 時 代
が は じ ま る 。 し か し 当 時 、 新 し い時 代 が は じ ま ったとはだれも思 っていなかった 。 すべて
が、これまでと同様、混乱したままにつ 守 ついていた 。 か つ て フ ン 族 と と も に 南 下 し た 東 ゴ
│ト 人は、東ロ 1 7内 に 定 住 し て い た 。 彼 ら を 引 き 離 そ う と 望 む 東 ロ 1 7の皇帝は、彼ら
に西ロ 1 7帝 国 に 向 か い 、イ タ リ ア を 征 服 す る こ と を す す め た 。 事実、東ゴ l ト人 は四九
三 年 、 大 王 テ オ ド リ ック に ひ き い ら れ て イ タ リ ア に 向 か った 。 戦 い に 慣 れ た 彼 ら は 難 な く 、
すでに略奪されつ つ
e
け て い た 貧 し い 国 を 征 服 した 。 テオドリックは 、 王 オ ド ア ケ ル を 逮捕
した 。 彼 は い の ち を 保 障 し た に も か か わ ら ず 、 あ る 宴 の さ い に オ ド ア ケ ル を 殺 し た 。
うたげ
わたしには 、 テ オドリ ック が そ の よ う な ひ ど い こ と を し た こ と が 不 思 議 で な ら な い の だ 。
というのは 、こ のことをのぞけば 彼 は 、 教 養 の ゆ た か な 、 歴 史 的 に も 意 味 を も っ 、 ま さ に
偉 大 な 支 配 者 で あ っ た か ら だ 。 彼は、ゴ l ト 人 が イ タ リ ア 人 と 平 和 に 暮 ら す こ と を 望 み 、
彼 の 兵 士 に は た だ 自 給 の た め の わ ず か な 耕 地 を 分 け あ た え た に す ぎ な か った。 首都として
彼は、上部イタリアの港町ラヴェンナをえらんだ。
嵐の時代

そ こ に 彼 は 、 色 あ ざ や か な モ ザ イ ク で 飾 ら れ た 豪 華 な い く つ か の 教 会 を 建 て た 。 それは、
東ロ 1 7帝 国 の 皇 帝 す ら 考 え の お よ ば な い こ と で あ っ た 。 追い払った東ゴ l ト人がイタリ
一八

ア で 、 コ ン ス タ ン テ ィ ノ lプ ル の 支 配 者 の 脅 威 と な る 強 力 で 文 化 の 花 咲 く 国家を築くなど、
だ れ も 予 想 し な い こ と で あ った。
8
15
同じころ、すなわち五二七年以来、 コンスタンティノ l プ ル で は 派 手 好 き で 名 誉 欲 の つ
よい、力のある支配者が政権の座についていた。ユスティニアヌスである。彼の求めるも
6

のとは 、 かつてのロ l マ帝 国 の全 域 を い ま い ち ど 自 分 の 支 配 下 に お く こ と で あ っ た 。 彼 の
8
1

宮 廷 に は 、 東 方 の 賀 沢 が あ ふ れ て い た 。 彼 と 、 かつてサ ー カスの 踊り子で あった 彼 の 妻 テ


オド l ラは 、 絹 で つ く ら れ 、 宝 石 を ち り ば め 、 金 や 真珠 の鎖をつけた 、 歩くとザワザワ 、
ガ ラ ガ ラ 音 を た て る 、 おもおもしい衣を身につけていた︹図お︺。
ユスティニアヌスは 、コ ンスタンティノ 1 。フルに途方もなく大きな 丸 屋 棋 を の せ る 教会
堂ハギア ・ソフィアを建て 、か つての大ロ 1 7のすたれた栄 光 を ふ た た び と り も ど そ う と
した 。 同 じ 理 由 から彼は 、か つてのロ 1 7の 法 律 を あ つ め 、 す ぐ れ た 学 者 や 法 律 家 に よ る
注 釈 を 加 え て 大 規 模 な 法 律 書 を 編 集 し た 。ラテン 語で ﹃コルプス ・ユリス ・キヴィリス ・
ユスティニアニ﹄(ユスティニアヌスの口 1 7法 大 全 ) と よ ば れ る も の だ 。 こ れ は 、 ほとん
どすべての法律の基本をふくむがゆえに今日でも、裁判官や弁護士をめざすひとの必読書
とされている 。
ユスティニアヌスは 、 テオドリックの死後ゴ 1 ト人 をイタ リ アから 追 放 し 、 そ の国を自
分のものにしようとした。 し かしゴ l ト人は 、 も と は と い え ば 異 国 で あ る こ の 地 で東 ロ1
7箪と 英 雄 的 に戦 い 、 数 十 年 に わ た っ て も ち こ た え た 。 こ れ はけ っし て や さ し い こ と で は
なか った。 と いうのは 、 彼 らはイタ リ ア人をも敵に しなけ れば な らな か ったからだ。だが
事態 を い っ そ う 混 乱 さ せ た事実もあった。ゴ l ト人はたし かにキリス ト教徒 であ ったが 、
1
87 一八嵐の時代

33 コンスタ γ ティノープノレの宮殿のテラスで使節をむかえる 東 ロ ー
7 帝国皇帝ユスティニアヌスと彼の妃テオドーラ 。
彼 ら の 信 じ る と こ ろ が ロ17人や ユスティニ ア ヌスの 部 下 の そ れ と は ち が っ て い た こ と で
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ある 。ゴ l ト人は 、 三位一 体 を 信 じ な か った。 そ れ ゆ え 彼 ら は 不 信 心者 と 非 難 さ れ 、 迫害


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も さ れ た の だ 。こ の戦いで 、 ほとんどのゴ 1 ト人は 戦 死した 。 のこ ったのはわずか千人の


軍隊で 、 彼 ら は 最 後 の 戦 い の あ と み ず か ら の 意 思 で 退 却 し、 北 方 の森へと消えていった。
これが、偉大な民族東ゴ ! ト 人 の 最 期 で あ った。 ユスティニアヌスは 、 いまはラヴェンナ
も 支 配 下 におき 、 そ こ に 彼 と 彼 の 妃 テ オ ド 1 ラのおごそかな山門像で飾る立派な教会を建て
た。
東ロ 1 7の支 配 者が 、 イ タ リ ア を 支 配 した期 間 は 長 く は な か っ た 。 五 六 八年、新しい ゲ
ルマンの民族が 北 か ら や っ て き た 。 ラ ン ゴ パ ル ド 人 で あ る 。 ふたたびこ の地を征 服 した彼
ら の 名 は 、 今 日なおイタリアの一 地方ロ ンパル ディアにの こ る。 これが、すさまじい嵐の
終 幕 で あ る 。 そ し て嵐はゆっくりと 、 中 世 の星夜の空へと晴れていった 。
星夜のはじまり

民 族 大 移 動 が 嵐 で あ れ ば 、 そ れ が や ん だ 中 世 は 澄 ん だ 星 夜 の は ず 、 ときみは思うだろう
ね。だが 、 そ うではないと考えられたのだ。おそらくきみも、﹁ 階 閣 の 中 世 ﹂ということ
ばを聞いたことがあるだろう 。 というのは 、ロ 1 7帝国が崩壊したあとでは、字を読めた
り書けたりする人聞は少なく、人びとはもはや 世 界 で何 が起こっているのか 知 ることもな
く、 知 っているのはただ奇 跡やおとぎ話の世界で、ありとあらゆる迷信を信じていたと思
われたのだ。そのころの家は 小 さくて暗く 、 道 路 や、ロ 11 7人が築いたあのすばらしい街
道は荒れて崩れ 、 かつての大都市や国境の要塞は 、草におおわれて廃櫨と化していたとい
う。さらに 、 ロ1 7の偉大な法律は忘れられ 、 ギリシアのうつくしい彫像はこわされたと
も考えられた 。 たしかに 、 そ れはそのとおりであった。民族大移動期の荒れ狂った戦争の
時代のあとであれば、それもやむをえないことだ った 。
しかし、それがすべてではなか った。けっ して真 っ暗 な夜ではなく 、 いや星の 明 るい夜
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であった。というのは 、こ の暗閣の上に 、人び とが 暗 閣 のなかの子どものように魔法や 魔
女、 悪 魔 や 悪 霊 に お び え る 不 気 味 で 不 安 な 空 気 の 上 に 、 新 し い 信 仰 の星の空が燦然と輝き、
さんぜん
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人 び と に ゆ く べ き 道 を 指 し 示 し て い た の だ か ら 。 た と え 暗 い 森 の な か で も、 大 熊 座 や 北 極
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星 が 見 え れ ば 人 は か ん た ん に は 道 に 迷 わ な い。 同 じ よ う に 当 時 の人びとも 、 たとえ暗くて
つまずくことはあっても 、 ま っ た く 道 に 迷 っ て し ま っ た わ け で は な か っ た の だ 。 す べ て の
人 聞 は 、 乞 食 も 王 様 も 、 ひ と し く 神 からいのちをいただいたのであり、 品物のように売り
買 い さ れ る 奴 隷 な ど あ り え な い 、 と 人 び と は 知 っ て い た 。 世界を創造し 、 偉 大 な る 愛、 因u
おん
つb
e
寵,

・で も っ て 人 聞 を 救 済 す る 自 に 見 え な い 唯 一 の 神、 彼 が わ れ わ れ に 望むのは 、われわれ
が善き人間であることなのだと人びとは知っていた。もちろん当時にも、善い人間だけが
いたわけではない 。イタ リアにも 、 ゲ ル マ ン 人 の 地 域 に も 、 お そ ろ し く 残 忍 で 、 野蛮で、
礼 儀 も な さ け も 知 らない 兵 士 、 ず る く て 、 冷酷で 、 容赦のない商人もいたであろう。しか
し彼らは 、 いまはロ 17時 代 以 上 に良心にさいなまれて生きているのだ 。 なぜなら、いま
ふくしゅう
や彼らは 神 の 復 讐 を お そ れ て い る の だ か ら 。
あ る 人 た ち は 、 た だ 神 の 意 思 の み に し た が って生きることを ねが った。 彼らは、なにか
不 正 を お か す 危 険 の あ る 都 会 や 人 び と の 聞 に 生 き る こ と を 望 ま な か っ た 。 インドの隠者の
ように、祈り 、 ざ ん げ の た め に 砂 漠 へ 向 か っ た 。 修 道 士 で あ る 。 そ の よ う な 修 道 土 は 、 ま
ず 東 方 の エ ジ プ ト や パ レ ス テ ィ ナ に あ ら わ れ た 。 彼 ら の 多 く は 、 何 よりもざんげを大切に
した 。 この考え方を、少なくともその 一部 を 彼 ら は 、 き み も す で に 知 っ て い る よ う に 、 自
分を苦しめるインドの行者からまなんだ 。 またある人たち
4 柱頭行者。東 ローマ の都会の雑踏を越 えた高 い住の上で何年も悔

、 町 の な か に 立 つ 古 代 建 築 の 高 い 柱 の 上 に 身 を 置 き、 そ

こでほとんど動くことなく、ただ人聞の汚さについて考え
ることで 一生をおくつた 。 必要とされるわずかな食料は、
か ご で 引 き 上 げ ら れ た の だ 。 そのようにして彼らは座りつ
づ け 、 町 の雑 踏 を 見 下 ろし、神に近づくことをねが ったの
だった 。 人は 、 彼 ら を 柱 頭 行 者 と よ ん だ ︹
ちゅうとうぎょうじ守
図加
しかし西方のイタリアには、聖者とされたひと 。
︺りの修道
士がまったくブッダと同じように、孤独なざんげだけでは
こ こ ろ の 平 和 は 得 ら れ な い と 考 え て い た 。 彼はベネディク
星夜のは じまり

トゥス、﹁祝福された者 ﹂ とよばれた 。 彼は 、 ざ ん げ だ け

い改め の行をつづけた。
ではキリストの教えにこたえることはできないと考えたの
だ。 ひとは、自分が善い人聞になるだけでなく、普い行な
いをしなければならない 。 善 い 行 な い を す る た め に は 柱 の
一九

上に座る だけではだめで 、働 かなければならない 。 このよ


うにして 、 ﹁
祈 れ 、 そ し て働け﹂というモット ーは生ま れ
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た。 同じ考えをもっ他のいく人かの修道士とともに彼は、
このモット ーを め ざ す ひ と つ の 修 道 会 を 創 設 し た 。 それは、彼の名をとってベネディク ト
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修道会とよばれた。そしてこのような修道士の住むところが、修道院であった。修道会の
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会 員 と し て 一 生 を す ご す た め に 修 道 院 に 入 り た い と ね が う 者 は 、 三つのことを堅く約束し
なければならなかった 。 一、自分のために 何 ももたないこと 。 二、 結婚しないこと。三、
修道院長にはつねに 、 そして無条件にしたがうこと。
修道士にとってもちろん 祈 りは非常に大 切 なものであり 、 ミサも 日 に何度かささげられ
た。 しかし修道院では 、 ただ祈るだけではなかった 。 普いことを ﹁行なう﹂ことが望まれ
たのだ 。 そ の た め に は 、 知 識 を つ み 、 何 か が で き な け れ ば な ら な い 。 それゆえ、ベネデ
イクト修道会の修道土は 、 そのころ古代から何かをまなぼうとする 唯 一の人たちとな った。
彼らは、まなぼうとするものが見つかるかもしれない古い巻き物をあつめた。そしてそれ
らをひろめるために書き写した。 何年もかけて彼らは、明確で勢いのある独自の文字を厚
い羊皮紙の上にえがいた。彼らは、聖書や聖人の伝記だけでなく、古いラテン語やギリシ
ア語の詩も書き写した 。 もし修道士たちのこの骨折りがなか ったらわたしたちはきっと 、
それらの古代の詩のひとつも知ることができなか ったかもしれないのだ。なかでも彼らは、
古代の自然科学や農業の書をくりかえし、そして可能なかぎり忠実に書き写した。という
のは 、 彼ら に と っ て は 聖 書 と な ら ん で 、 自 分たちだけのためでなく貧し い人た ちのために
穀 物 や パ ン を 確 保 す る こ と は 、 大 切 な 仕 事 だ っ た か ら で あ る 。 そのころ、もはや農家もな
い荒れはてた 地域があった 。 旅をする
5 本を書き写し、子どもたちに教え、森、畑、庭で働く修道土たち。
者は 、 修道院に泊まらなければならな
かった。そこでは 、親切 にもてなされ
た。 そこでは 、静 寂、勤勉、 膜想が支
めい そう
配していた 。修道士たちは 、近 くに住
む子どもたちの教育にも手をかし、彼
らに読み書きを教え 、 ラテン語で話す
こと 、 聖書一を理解することを教えた。
したがってそのころ修道院は 、古代ギ
リシア ・ロ17が生きのび、教養と礼
一九 星夜のはじまり

儀作法を身につける 唯 一の場でもあっ
たのだ ︹
図お
そのような。
︺修道院はイタリアだけに
あったのではない。むしろ修道士にと
っては 、 ﹁善き知らせ﹂を伝えるため
に 、 民 衆 を 教 化 す る た め に 、道 の な
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い森を切り開くために、遠い未聞の地
に 修 道 院 を 建 て る こと が 何 よりも大 切 で あ っ た 。 と く に ア イ ル ラ ン ド と イ ン グ ラ ン ド に は 、
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多 く の 修 道 院 が 建 て ら れ た 。 こ れ ら の 地方は 、 島 で あ っ た が ゆ え に 民 族 大 移 動 の 嵐 に 根 元
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か ら ゆ さ ぶ ら れ る こ と は な か っ た 。 し か し こ れ ら の 地 の一部にも、アングル族およびザク
セン族とよばれ 、 は や く か ら キ リ ス ト 教 を 受 け 入 れ て い た ゲ ル 7ン人が移住していた。
アイルランドおよびイングランドから修道士たちは、説教し、教えながらガリア人やゲ
ルマン人の国々へと移っていった。ゲルマン人はそのころ、すべてがキリスト教徒になっ
て い た わ け で は な か っ た 。 そ れ で も、 彼 ら の も っ と も 力 の あ る 頭 目 ク ロ l ヴ ィ ス は 、 名 ば
か り と い え ど も キ リ ス ト 教 徒 を 名 の っ て い た 。 メ ロ ヴ ィ ン グ 家 の 出 で あ る 彼 は 、王とし て
フ ラ ン ク 族 の 上 に 立 ち 、 勇 気 と 校 知 、 殺 人 と 謀 略 で 、 ド イ ツ の 半 分 と 今 日 のフランスの
こうちぼうり字︿
大 部 分 を 支配下 に お い て い た 。 今 日 の フ ラ ン ス と い う 国 名 は 、 クロ l ヴィス王のフラ ンク
族のなどりなのだ。
四九六年、クロ ヴ ィ ス と 彼 の 部 下 は 洗礼 を う け た 。 お そ ら く 彼 は キ リ ス ト 教 の 神 を
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彼 に 勝 利 を も た ら す 強 い 鬼 神 と 考 え て い た の で あ ろ う 。 い ず れ に し て も ク ロ │ヴィスは 、
けい付ん
敬 度 な 信 徒 で は な か った。ゲルマン人の国で は 、 修 道 士 た ち が し な け れ ば な ら な い 仕 事 は
たくさんあった。そして、彼らは多くをなした。修道院を建て、フランク人あるいはアラ
マ ン 人 に 、 果 物 や ブ ド ウ の 栽 培 を 教 え 、 荒 々 し い 戦 士 に 、 世 のなかには身 体 の強 さや戦場
での勇気 以 外 にも大 切 な も の が あ る こ と を 説 いた 。 キ リ ス ト 教 徒 と な っ て い た メ ロヴィン
グ 朝 の フ ラ ン ク 人 王 た ち の 相 談 相 手 に も な っ た 。 彼 ら は 、 だ れ よ り も す ぐ れ た 読 み 手、 書
き 手 で あ っ た か ら 、 法 律 の 文 案 を つ く り、 王 の あ ら ゆ る 面 で の 書 記 の 役 を は た し た 。 王 個
人 だ け で な く 、 国 家 の 書 記 の 役 も っ と め た 。 す な わ ち 、 他 の王たちへの手 紙 を 書 き 、 ロー
マの教皇との聞に連絡をつけた。彼らの質素で目立たない僧衣の下には 、 まだ完全には整
っていなかったフランク王国のほん と う の 支配 者 が 隠 れ て い た の だ 。
ア イ ル ラ ン ド や イ ン グ ラ ン ド の 修 道 士 の な か に は 、 住 民 が キ リ ス ト の 名 さ え 知 ら な い北
部 ド イ ツ や 今 日 のオランダの 、 さ び し い 荒 野 や 深 い 森 に わ け 入 る 者 も い た 。 そ こ で ﹁ 普 き
知 ら せ ﹂ を 説 く こ と は 、 身 の 危 険 さ え と も な っ て い た 。 そ の 地 の 農 民 や 戦 士 た ち は 、 先祖
の 信 仰 を か た く 守 っ て い た 。 彼 ら が 崇 拝 し て い た の は 暴 風 の 神 ヴォ l タンであり、その 神
は 神 殿 の な か で な く 野 外 、 し ば し ば 彼 ら が 聖 な る も の と み な し た 古 い 樹 木 の 下 にまつられ
星夜のはじまり

て い た 。 あ る と き そ の よ う な 一 本 の 木 の 下 に 、 キ リ ス ト 教 の 修 道 士 で司教であったボニ
ファティウス(ボニフアス)が 、 教 え を 説 く た め に や っ て き た 。 彼は 北 方のゲル 7ン人に、
ヴォ l タ ン な ど た ん な る お と ぎ 話 に す ぎ な い こ と を 示 す た め 、 聖 な る 木 を 切 り た お そ う と
九 斧を手にとった 。 周囲の者たちは 、 彼がただちに天からの雷にうたれるだろうと息をのん
で 見 つ め た 。 し か し 木 は た お れ た が 、 何 ご と も 起 こ ら な か っ た 。 こ の あ と 、 ヴォ l タンや
その他の 神 々に対する信 仰 を う し な っ た 多 く の 者 が 、 ボ ニ フ ァ テ ィ ウ ス か ら 洗 礼 をうけた。
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だ が 彼 を 悪 く い う 者 も お り 、 ボニファティウスは七五四年に殺された。
しかし、ドイツの異教の時代はおわった 。や がてほとんどみなが、修道院のかたわらに
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建 て ら れ た 質 素 な 木 の 教 会 を 訪 ね る よ う に な っ た 。 彼 ら は ミ サ の あ と 、 病気になった牛を
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どうあっかうか 、リ ン ゴ の 木 を 毛 虫 か ら ど う ま も る か 、 修 道 士 た ち の 意 見 を も と め た 。 国
で 力 の あ る 者 た ち も 、 修 道 士 の と こ ろ に や っ て き た 。 そ し て な か で も と く べ つ に 乱 暴な者
たちが 、 自 分 か ら す す ん で ひ ろ い 土 地 を 寄 進 し た 。 そ う す れ ば 、 神 をなだめることができ
ると思ったのだ。修道院はゆたかに 、 そして力をもつようになった。しかし修道士たち自
そうぽう
身は、せまく質素な僧房にあって、あいかわらず貧しく、聖者ベネディクトゥスが命じた
ように 、 祈 り、働い ていた。
二O アッラ ! の神と預 言者ムハン マド
きみは 、 砂 漠 が ど ん な も の か 想 像 で き る か ね 。 珍 し い 品 々 を 背 に 積 ん だ ラ ク ダ の 長 い 行
列 が と お り 抜 け て ゆ く 、 熱 い 砂 が ど こ ま で も つ づ く 荒 野 な の だ 。 ただ遠くはなれてところ
どころに 、空に 向 かって数本のナツメヤ シの木がそびえ立つ 。 わずかな泥まじりの 水 の湧

くオアシスだ 。 さらにゆくと 、 大きなオアシスにたどりつく 。 そこには 、白い四角形 の家
が立ちならぶ 都 市 があり、 黒い髪、 おなじ く黒 くか がやく 瞳をもっ 、褐色 の肌 に白 い衣を
ひとみ
まとう人たちが 住 む ︹
図お︺ 0
彼らは 、戦うことに 慣 れた人 間 だ。 おどろくほど早く駆ける馬にまたがり 、 砂 漠をぬけ
て狩りを し、 隊商 を襲い、 オア シスとオア シ ス、 都 市 と都市、 部族と部族がたがいに 戦 い
あう 。 アラ ビ アで は数千年 も前 も、今 日もそう な のだ 。 そして、 いまからわた しが話そ う
とする興 味 ぶかい 出来 事の 舞 台も 、数の少ない 、 けんかばや い人たちの 住 む、 そのような
砂漠の 都 市 のことだ 。
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それは 、 ドイツで は修 道士たちが素 朴 な農 民 たちの 相談にの っていたころ 、 メ ロ ヴ ィ ン
グ 朝 の 王 た ち が フ ラ ン ク 族 を 支 配 し て い た こ ろ 、 すなわち
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キ リ ス ト 誕 生 後 六OO年ころのことで、ヨ ー ロ ッパではま
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だ だ れ も ア ラ ビ ア 人 の こ と を 知 ら な い 時 代 で あ っ た 。 馬で
砂 漠 を 駆 け め ぐ り 、 天 幕 を 住 ま い と し 、 たがいに戦ってい
た 彼 ら は 、 あ ま り 深 く は 考 え な い 、 素 朴 な 信 仰 をもってい
た。 古 代 の パ ピ ロ ニ ア 人 と 同 じ く 彼 ら も ま た 星 に 祈 り 、 と
り わ け 天 か ら 降 っ て き た と 彼 ら が 信 じ た 、 ひとつの石をあ
が め た 。 こ の 石 は 、 オ ア シ ス 都 市 メ ッ カ に あ る カl パとよ
ばれた神殿に安置されており、それに祈りをささげるため
にアラビア人は、しばしば砂漠をこえて、その地への巡礼
の旅をした。
そ の こ ろ メ ッカ に 、 ア ブ ダ ラ l (アブド ・アッラフ)の
息 子 、 ムハンマド (
マ ホメ ット) と よ ば れ た ひ と り の 男 が
住 ん で い た 。 父 親はメ ッカのカl パの聖職者で、身分は 古向
かったがゆたかではなかった 。 早くに世を去った彼が息子
ムハンマドにのこしたのは、五頭のラクダだけだった 。 そ
れはあまりにも少なく、ムハンマドは、他の身分の高い
家 の 子 ど も た ち の よ う に 砂 漠 の 天 幕 に 住 む こ と が で き ず 、 裕福な家の 山 羊 の 番 人 と し て 働
ゃぎ
か ね ば な ら な か っ た 。 の ち に 彼 は 、 かなり年上の金もちの女性にラクダ使いとして雇われ、
隊商に 加 わ っ て 大 き な 旅 に 出 る よ う に な っ た 。 や が て こ の 女 主 人 と 結 婚 し た 彼 は 、 しあわ
いとこ
せ な 家 庭 生 活 を お く つ た 。 五 人 の 子 ど も に め ぐ ま れ 、 そ の う え 幼 い 従 兄 弟 アリを養子にむ
かえた。
メッカの 町 で 、 黒 い 髪 と 黒 い ひ げ 、 そ れ に 立 派 な 鷲 鼻 を も ち 、 お も お も し く 般 を ふ って
わしぱ会
アッラーの神と預言者ムハンマド

歩 く ム ハ ン マ ド は 、 力 の 強 い 活 発 な 男 と し て 大 い に 尊 敬 さ れ た 。 人 び と は 、 彼を ﹁
公正な
男 ﹂ と よ ん だ 。 早 く か ら 信 仰 に 対 し て つ よ い 関 心 を い だ い て い た 彼 は 、 それについて 、 メ
ッカの カi パ を 訪 れ る ア ラ ビ ア 人 の 巡 礼 者 だ け で な く 、 近 く の ア ベ ッ シ ニ ア の キ リ ス ト 教
徒 や 、 各 地 の ア ラ ビ ア の オ ア シ ス 都 市 に 多 く 住 ん で い た ユ ダ ヤ 人 と も 、 好 んで議論した 。
ユダヤ 人とキリ スト教徒の話の中で 、 と く に 彼 の こ こ ろ に つ よ い 印 象 を あ た え た こ と が あ
J
った。 す な わ ち 、 唯 一 の 、 目 に 見 え な い 万 能 の 神 のことである。
夕 方 に な る と ム ハ ン マ ド は 、 泉 の ほ と り に 座 り、 彼 らの語るアブラハムやヨセフ、キリ
ストや 7リ ア の 物 語 に 耳 を か た む け た 。 あ る 日旅 の途中
、 ムハンマドはひとつの幻覚をも
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った。幻覚って 何 か知っているかね 。 そ れ は 、 眠 っ て い な い と き に 見 る 夢 な の だ 。 ムハン


マドの前に 、 大天使ガブリエル(ジ守フリル)があらわれ 、 彼 に 向 か っ て 大 き な 声 で ﹁ 読 み
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な さ い ﹂ と さ け ん だ の だ 。﹁ わ た し は 字 が 読 め な い の で す ﹂ と 、 ム ハ ン マ ド は 小 さな声で
答えた。﹁読みなさ い﹂ と 天 使 は さ け び 、 そ れ を 二 度 、 三 度 と く り か え し 、 さらに 彼 の神
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の名でもって 祈 る こ と を 命 じ た 。 こ の 幻 覚 に つ よ い 衝 撃 を う け た ム ハ ン マ ド は 、 故 郷 に帰
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りついてからも、そのことがこころから離れなかった。
三年のあいだムハンマドは 、 この体験について考えつづけた。そして三年が過ぎたある
日、ムハンマドをあらたな幻覚がおそった。またもや大天使ガブリエルが、このたびは天
の 栄 光 に つ つ ま れ て 、 彼 の 前 に あ ら わ れ た 。 わ れ を わ す れ 、 震えながらムハンマ ド は 家 の
な か に 駆 け 込 み 、 ベ yドに身を 投 げ て う め い た 。妻が 、その彼をマ ントでおおった。その
よ う に し て 身 を よ こ た え て い る と 、 またもや声が聞こえた。﹁起きてみなに警告せよ 、 そ
し て 、 お ま え の 主 な る 神 を た た え よ ﹂ と 、 そ の 声 は 彼に命じた 。ムハンマドは 、こ れが 神
の お 告 げ で あ る こ と を 知 っ た 。 神 は 、 地 獄のおそろしさを警告し、目に見えない 唯 一の神
の偉大さを人聞に知らせていたのだ。そのときからムハンマドは、みずからの使命を預言
者、その口をとおして 神 が人聞にその意思をつたえる仲介者と自覚した。ムハンマドはメ
ッカで 、 彼 を 使 者 に さ だ め た 唯 一で万 能 の神 、 も っとも高きにいます審 判 者 の教えを説く
ことをはじめた。だが 、 人びとは彼をあざ笑った。事官と家族と友人の何人かだけが 、 彼 の
ことばを信じた。
し か も メ ッ カ の 神 殿 に 仕 え る 聖 職者たち 、 町 の身分の高い者たちは、ただあざ笑うだけ
でなく 、 ム ハ ン マ ド を 危 険 な 敵 と み な し た 。 彼 ら は メ ッ カ の 住 民 に 、 ムハンマドの家族と
つきあうこと 、 彼 の こ と ば を 信 じ る 者 と の 商 売 を 禁 じ た 。 こ の 禁 止 の 命 令 は 、ヵ l パ に公
示された。 打 撃 は 大 き く、 預 言 者 の 家 族 と 友 人 は 何 年 も の あ い だ 、 飢えの苦しみに 耐 えね
ばならなかった 。 しかしムハンマドは、外からメッカを訪れる巡礼者たち、とりわけ以前
か ら メ ッ カ に 敵 対 し て い た ひ と つ の オ ア シ ス 都 市 からの巡 礼 者 たちと知り合いになった 。
その都 市 に は ユ ダ ヤ 人 が 多 く 住 ん で お り 、 それゆえその 地 のアラビア人は 、 唯 一の神 の教
え を 知 っていた 。 彼 ら に は 、 ム ハ ン マ ド の 説 く 教 え は よ く 理 解 で き た 。
二 0 アア ラー の神と 預言者ムハンマド

しかしムハンマドが、敵である部族のあいだで教えを説くこと、仲良くすることは 、 メ
ッカの身分の高い者たち、カl パ の聖職者たちをい っそうおこ ら せた 。 彼らは 、 ムハ ン マ
ド を 裏 切 り 者 と し て 殺 す こ と に き め た 。 ムハンマドは、自分に味方する者たちをメッカか
ら出し 、 自 分 を 支 持 し て く れ る 砂 漠 の 町 へ と 逃 が した 。 そして暗殺者が押し込んできたと
き 、 家 の 裏 窓 か ら 抜 け 出 し 、 他 の 者 た ち が 待 つ 町 へと向かった 。 それは、六二二年 七月 一
六日のことであった 。 以後ムハンマドの信奉者は、この ﹁
逃亡 ﹂(ア ラビア語でヒジュラ )
を、ギリシア人がオリ ンピア l ドを 、 ロー 、 キリス ト教徒 がキ
7人がロ 1 7の建国の日を
リ スト誕生の日をそ う す る よ う に 、 彼 ら の麿の紀元とした 。
のちにその名誉をたたえて ﹁メディナ ﹂(預言者の 町) とよばれたこの都市でムハンマド
は、熱狂 的 に迎 えられた 。 人 び と は 彼 に か け よ り 、 み な が 彼 に 宿 を あ た え よ う と し た 。 だ
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れ の こ こ ろ も 傷 つ け た く な い ム ハ ン マ ド は 、 彼のラクダが勝手に向か ったところに住むこ
とをもうしでて 、 事 実 そ う し た 。 メ デ ィ ナ で ム ハ ン マ ド は 、 す す ん で 耳 を か た む け る 者 た
2

ちに彼の教えを説いた 。 彼は 、 神 がユ 、
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ダヤ人のためにアブラハムやモ │ セの前にあらわれ
2

たこと 、 キ リ ス ト の 口 を 借 り て 人 聞 に 生 き 方 を 教 え た こ と 、 自分を預言者としてえらんだ
ことなどを話した 。
彼は 、 アラビア語でア ッラ! と よ ぶ 神 だ け を お そ れ 、 そ れ 以 外 の 何 も 、 だ れ も お そ れ で
は な ら な い と 教 え た 。 お そ れ る こ と 、 よ ろ こ ぶ こ と は 何 の 意 味 も も た な い 。 なぜなら、わ
たしたち人聞の運命は 神 に よ っ て あ ら か じ め 定 め ら れ て お り 、 す で に ひ と つ の 大 き な 本 に
書かれているのであるから。 来るものはいずれにしても来るのであり、死のときはすでに
は じ め か ら き め ら れ て い る の で あ る 。 わ た し たちは 、 わたしたちの運命を 神 の手にゆだね
な け れ ば な ら な い 。 ゆ だ ね る こ と を ﹁ イ ス ラ ム ﹂ と い い 、 ム ハ ン マ ド は 、 彼の教えをイス
ラムと名づけた。彼は人びとに説いた 。 彼を信じる者はこの教えのために戦い、勝たねば
ならない 。 彼 を 信 じ な い 者 を 殺 し て も 、 罪にはならない 。 この信仰のため 、 アッラ !と預
言 者 の た め 戦 い に た お れ た 勇 敢 な 戦 士 は 、 ただちに天国へ昇る 。 しかしア ッラー を信じな
い者 、 卑 怯 な 者 は 地 獄 へ 落 ち る 。 こ の 天 国 を ム ハ ン マ ド は 、 彼 の 信 奉 者 の た め に 、 説 教 、
ひ き ょう
幻 視、 啓 示 ( ﹂ とよぶ ) のなかで 、 と く べ つ に う つ く し い こ と
これらをまとめて ﹁コl ラ ン
ばで 描 いている。
﹁そこでは信ずる者たちが 、 ふ く よ か な ク ッ シ ョ ン に 身 を も た せ て 向 か い 合 い
、 死を知ら
ぬ若者が 、 大 き な 水 差 し に 満 ち た 最 良 の ブ ド ウ 酒 を つ い で ま わ る 。 頭 が い た く な る 者 、 酔
い し れ る 者 は い な い 。 す ば ら し い 果 物 は 山 と 積 ま れ 、 鳥 の 肉 は の ぞ む だ け あ る 。 それらを
取り分けてくれるのは、真珠のようにうつくしい、自の大きな少女たち。また他の者たち
が 身 を よ こ た え る の は 、 ほ と ば し る 泉 の か た わ ら 、 イ バ ラのない蓮華や花の咲くバ シ ョウ
れんげ
さ かず会

の 樹 の つ く る 大 き な 日 陰 の 下。 彼 ら の 頭 の 上 に は ブ ド ウの 房 が 垂 れ 、 銀 の 盃 は 絶 え る こ
となくめぐる 。 身にまとうのは、銀の飾りをつけた、金の刺繍のある緑色の網の織物
アッラーの神と預言者ムハンマド

しゃく ね っ ﹂

すでにこのような天国のイメージが 、 灼 熱 の砂漠に生きる貧しい民にとっては、死を
か け た 戦 い に あ た い す る 約 束 で あ る 。 これは、きみにも想像できるね 。
かくしてメディナの人びとは、預言者への仕打ちに対する復讐と、その隊商を略奪する
た め に メ ッ カ に 向 か っ た 。 い ち ど は 彼 ら が 勝 利 し 、 莫 大 な 戦 利 品 を 手 に 入 れ た が 、 次 には
やぶれ 、 す べ て を う し な っ た 。 つぎにメ ッカ の 住 民 が メ デ ィ ナ に 向 か い 町 を と り か こ ん だ
O 日後 に は 引 き 返 さ ね ば な ら な か った。 そのあとムハンマドは、 一五OO人の武装
が、 一
した仲間を連れてメ ッカ へ の 巡 礼 に 出 か け た 。 いまや メッ カ の 人 び と の 前 に あ ら わ れ た の
は、 か つ て の 貧 し い 、 あ ざ け ら れ た ム ハ ン マ ド で は な く 、 権威 あ る 預 言 者 で あ っ た 。 多く
二0

が 彼 の 側に ま わ り 、 や が て ム ハンマドの軍隊はメ ッカ 全 体 を 手 中 に し た が 、 彼 は 神 殿 の
偶 像 を な げ す て た だ け で 、 住 民 に は 寛 大 に 接 し た 。 ムハ ン マドの権威はますますつよまり、
0
23
各 地 の オ ア シ ス や 天 幕 地 か ら 使 い が 訪 れ 、 彼 に 忠 誠 を 誓 った。 死 が 近 づ い た と き 、 彼 は四
おきてたた
万 の 信 者 を 前 に し て 説 教 し 、 最 後 の 力 で 彼 ら の こ こ ろ に 大 事 な 提 を 叩 き 込 ん だ 。 アッラ
04

ー のほかに神のないこと、 ムハンマドが 預 言 者 で あ る こ と 、 そ れ を 信 じ な い 者 を 服 従 さ せ
2

る こ と を 。 さ ら に 彼 は 人 び と に 、日 に五度メッカに 向 かって 祈 ること 、 酒 を飲まないこと 、


勇 敢 で あ る こ と を 誓 わ せ た 。 そ し て ま も な く 息 を ひ き と っ た 。六三二 年 の こ と で あ った。
コl ランには 、 ﹁
信 心 のな い者 とは 、 す べての 抵 抗 がな く なるまで 戦 え﹂と書かれて い
る。また 別 のところには 、 ﹁
偶 像 を崇拝する者は 、 見つけしだい、あらゆるところで待ち
伏 せ し 、 と り か こ み、 捕 ら え 、 殺せ 。 し か し 信 仰 を 変 え た と き に は 、 そ の ま ま に し て お
け﹂とある。
アラビア人は 、 預 言 者 の こ の こ と ば を 忠 実 に ま も っ た 。 そ し て 砂漠 の す べ て の 民 が 改
宗 し た と き 、 または殺されたとき、彼らは、 ﹁カリフ ﹂ と よ ば れ た ム ハ ン マ ド の 後 継 者 ア
ブ ・パケル(アブ 1 ・パクル)やオマル(ウマル)にひきいられ、近隣諸国の征 服 へと 向 か
った。 そ れ ら 諸 国 は 、 あ ら あ ら し い 信 仰 の熱狂者を前にしてふるえあが った。 そしてムハ
ンマ ド の死 から 六 年 後、 は やくもアラ ビ アの 戦 士集団は 、血 なまぐさい戦いのすえパレス
かくとく
ティナとペルシアを 占領し、 莫 大 な 戦 利 品 を 獲 得 した 。エジプ トに 向 かった 別 の集 団は、
当 時 な お 東 ロ ! ? 帝 国 に 属 し て い た が す で に貧 し く 弱 体 化 し て い た こ の 国 を 、 つ づ く 四 年
のあい だに 占領し た。大 都 市 アレクサン ドリ アも 、 彼 ら の 手 中 に落ちた。そのとき 、か つ
て ギ リ シ ア の 詩 人 、 文 人 、 哲 学者の七O 万巻の 本を おさめ ていたあの壮大 な 図書 館をどう
す る か と 聞 か れ た オ マ ル は 、 ﹁それらの本に 、 コl ラ ン に あ る こ と が 書 か れ て い る の な ら 、
も は や 必 要 は な い 。 そ れ 以 外 のことが書かれているのなら、必要はない ﹂ と答えたという 。
それが事実かどうか、わたしたちは知らない。しかしそのように考える人たちがいたこと
は事実である。いずれにしてもそのとき、 他 に類のない大切で貴重な本の収集が、戦いと
混乱のなかで 、 永遠にうしなわれたのである。
アラビア帝国は 、 も の す ご い 勢 い で 拡 大 し て い っ た 。 それは 、 あ たかもムハンマドが 地
1と預言者ム ハ ンマ ド

図 の 上 に 投 じ た 火 が 、 メ ッ カ か ら 四 方 に 燃 え ひ ろ が っ た か の よ う で あ っ た 。 ベルシアから
インドへ 、 エジ プ ト か ら 北 ア フ リ カ 全 土 へ 、 火 の 手 は 燃 え さ か っ た 。 その際、アラビア人
が ま っ た く 統 一 さ れ て い た わ け で は な い 。 オマルの死後、何人かのカリフ 、 あるいは指導
者 が え ら ば れ た が 、 彼 ら は た が い に 、 残酷な 血 で 血 を あ ら う 争 い を つ づ け た 。 六 七O年こ
'

ろアラビア軍は、東ロ 17帝 国 の首 都 コンスタンティノ lプルさえも占領しようとこころ


二 0 アッ ラーのネ

みた。しかしこの古い 都 の 住 民 は 、 七 年 のあ いだ 必 死 に 防 戦 し 、つい にとりかこむ敵を追


い払った 。 矛 先 を 転 じ た ア ラ ビ ア 箪 は 、 ア フ リ カからシチリアにわたりこの島を手中にし
た。 そ れ で 終 わ っ た わ け で は な か っ た 。 彼 ら は さ ら に 海 を わ た り 、 き み も お ぼ え て い る だ
ろうが 、 あ の 民 族 大 移 動 以後西 ゴl ト族が支配していたイベリア半島を攻めた。七日間つ
づ い た 戦い で将軍タリクは 勝 利 を お さ め 、 い ま や ス ペ イ ン も ま た イ ス ラ ム 教 徒 の 支配下 に
0
25
入った。
そこからさらにアラビア軍は、
37 フランク 族 の農民兵士は、ト ヮーん とポワティ エで イスラム 教 ア


06

ロヴィング朝の王たちのおさめるフ
2

ラビ ア箪の進路を絶 った。キ リλ ト教 ヨーロ ッパの運命の瞬間。


ラ ン ク 族 の 国 フ ラ ン ス へ と 向 かった。
彼 ら の 前 に 立 ち は だ か ったのは、キ
リスト教化したゲルマン民族の農民
兵 士 で あ った。 この農民兵士を指揮
したのは、敵を勇敢に 叩きつぶすこ
とからハ ン マー (マル テル) とあだ
名されたカl ル ( シ ャルル ) であ っ
た。 そ し て 事 実 彼 は 、 七 三 二年、す
なわち預言者の死からちょうど一 O
O年 後、 南フランスのトゥ│ルとポ
ワティエで、アラビア軍をやぶ った

図幻 このときカ ー ル ・マル テ ル


が負けていたら、フランスとドイ
ツはアラビア 人 に支 配 さ れ 、 そ の地
の修道院も破壊されたにちがいない。
そしてわたしたちはおそらくみな、今日のペルシア人や多くのインド人、メソポタミアや
パ レ スティナのアラ ビア人、エ ジプト 人 や そ の 他 の 北 ア フ リ カ の住民のよ うに 、イス ラム
教徒になっていただろう。
アラビア人は 、 ムハンマドの時 代 のように 、い つまでもあらあらしい 砂 漠の戦士ではな
かった。いや 、 ま っ た く そ の 反 対 で あ っ た 。 は じ め の こ ろ の 宗 教 的 熱 気 が し ず ま る と 彼 ら
は、 占領した国々で 、 服 従 させ改宗させたその 地 の住 民 からまなぶことをはじめた 。ペ ル
二 0 アアラーの神と預言者ムハンマド

けんらん じゅ・ヲ一たん
シア人から彼らは 絢 欄 た る 械 盤 や 布地、 豪 華 な 建 物 や す ば ら し い 庭 園、 き ら び や か な 文
様 で 飾 ら れ た 高価 な 家 具 な ど 、 東 方 の 華 や か さ 、 う つ く し い も の に 対 す る よ ろ こ び を ま な
んだ。
偶 像 の崇 拝 を認めな い イスラム教徒には 、 人 間 や動 物 の像をつくることは禁じられて い
た。 そ れ ゆ え 彼 ら は 、 宮 殿 や 寺 院 (モスタ) を 、 か ら み あ う 、色 あざやかな、うつくしい
線 の 模 様 で 飾 っ た 。 このよ うな模様は 、 アラビア人のものであるから ﹁アラベスク﹂ とよ
ばれる︹図お︺。 彼 らは 、 東ロ 1 7帝 国 の 占 領 し た い く つ か の 都 市 に 住 ん で い た ギ リ シア
人から、ベル シア 人以上 に 多 く の こ と を ま な ん だ 。 い つ し か 彼 ら は 、 本を焼くことをやめ 、
それらを集め 、 読 む よ う に な っ て い た 。 な か で も 彼 ら は 、 ア レ ク サ ン ド ロ ス 大 王 の 偉 大 な
教 師 、 ア リ ス ト テ レ ス の 書 物 を 好 ん で 読 み 、 そ れ ら を ア ラ ビ ア 語 に 翻 訳 し た 。ア リストテ
0
27
レスから彼らは 何よ りも 、 自 然 界 の こ と が ら に 関 心 を も つ こ と 、 あ ら ゆ る こ と が ら の 原 因
2
08

3
8 グラナダのアノレハ γ ブラ宮殿。レースのような刻みのある尖頭ア
ーチとアラベスク模様はアラビ 7 建築の特徴。
をさぐることをまなんだ 。 そ し て彼らは 、 それらに真 剣 にとりくんだ 。 きみが学校で 耳 に
する学 問 の多くの名 前 は、 アラビア語からきているのだ。たとえば化学(ドイツ語でへミ l、
英語でケミストリ l)や代 数 学 (アルゲブラ)など だ。きみが手にもつ本は、 紙 からできて
いる。この紙もまた 、 アラビア人が 戦争で 捕 虜とした中国人からまなんだものから 、 わた
したちに伝えられたのだ 。
しかしとくにふたつのことに関して 、 わたしはアラビア人に感謝したい。そのひとつ
1と預言者ムハンマド

千夜一夜 物 語﹄ のなかで読むことのできる 、 彼らが語りつぎ 、 そして書きの


は、 きみが ﹃
こしたあの楽しいおとぎ話だ。もうひとつは 、 きみにはすぐにはそうは思えないかもしれ
ないが 、 そのおとぎ話以 上 におとぎ話的なものだ。ここに﹁ ロ﹂ という数字がある 。 これ
が﹁ジュウ一こであり、﹁イチ 、 一こある いは ﹁イチとニ ﹂すな わち ﹁サン ﹂で ないこと
は、 きみ も知 っているね。す な わち﹁ ロ﹂の 1 は﹁ イ チ﹂ではなく﹁ジュウ﹂なのだ 。 と
1
アッラーの干1

ころできみは 、 ロ1 7人が ﹁ M
J
ジュウニ ﹂を 臣 、 戸 を の臣、 ENJ
を 去の自 と書いたこ
とも 知 っているね。ならばこのようなローマ数字で 、 足 し算や 掛 け算を しなければならな
いとしたらどうだろう 。 だがきみも 知 るとおり 、 わたしたちのアラビア数字では、それは
二0

容易にできるね 。 このアラビア数字は 、 かんたんにうつく しく書けるだけでなく 、 桁 とい


けた
う、 ま っ た く 新 し い 考 え 方 を も た ら し た の だ 。 たとえば 、
同 の右横に 別 のふたつの数字が
0
29
ならべば 、 その Hは50 という 価 値 をもっ 。 そして 50 は、 ふたつの O の左 側 に Hを書
けばよいのだ 。
0

こ の よ う な 実 用的 な 発 明 を 、 き み は で き る だ ろ う か 。 わ た し に は で き な い 。 こ の 数 字 の
1
2

発 明 と ﹁桁 ﹂ と いう考え方は 、 アラビア人がわたしたちに教えてくれたものだが 、 彼らは 、


そ れ を イ ン ド 人 か ら ま な ん だ の だ 。 こ れ が 、 わ た し が お と ぎ 話 以 上 に お と ぎ 話 的 といった、
す ば ら し い こ と な の だ 。 七 三 二 年 に カ │ ル ・マルテルがアラビア人に勝ったことは、わた
したちにと ってよかった ことかもしれない 。しか し彼らが巨大な帝国を築き、 ベルシア人、
ギ リ シ ア 人 、 インド入、 それに 中 国 人 の 考 え 方 、 形、 発 明 を自分のものとし 、 それを伝え
てくれたことは、けっして悪いことではなかった。
統 治 もできる 征 服 者
この歴 史 を読むきみは 、 世 界 を征 服 す る こ と 、 大 帝国を築くこ とは 、と てもかんたんで
あ っ た と 思 う か も し れ な い 。 こ こ ま で の 世 界 史 では 、 そ れ が く り か え し行なわれてきたか
らね 。 事 実 古 い 時 代 にあ っては、征 服 は そ れ ほ ど む ず か し い こ と で は な か ったのだ 。 どう
してだろう。
考えてごらん 。 新聞も郵便もなかった時代の人びとにとっては、歩いて数日以上かかる
ところでの 出来 事 な ど 、 正 確 に知 ることはできなかっ た。 谷 や 森 に 住 み 、 まわりの土地を
た が や す 人 び と が 知 る も っ と も 遠 く の 人 聞 は 、 せいぜい隣の 部 族 であった。 しかし多くの
場合彼らは 、こ の隣の部族とは 敵 対 し 、 向 こうの草 原か ら 家 畜 を う ば つ で き た り 、ときに
は家屋敷に 火 を つ け た り 、 あ ら ゆ る こ と で た が い に 争 っ て いた 。 彼 ら の あ い だ で は 、 略 奪、
復 盤 、 戦 闘 は、 日 常 の 出 来 事 で あ っ た 。
自 分 た ち の 住 む せ ま い 地 域 の 外 で 起 こ る こ と は 、 た だ う わ さ で 知 る だ け で あ っ た 。 たと
1
21
え ひ と つ の 谷 や 森 が 数 千 の 武 装 集 団 に お そ わ れ た と し て も 、 他 の谷や森の住民にとってそ
れは、たいしたことではなかった 。 むしろ敵対する部族が殺されたことはうれしいことで
12

あ り 、 次は自分たちの番、だとは考えなかった。そうであるから、殺されることなく、隣の
2

部 族 と の 戦 い に か り だ さ れ る こ と に な れ ば 、 よ ろ こ ん で そ れ に し た が っ た 。このように し
て、 はじめは 小 さ な 武 装 集 団 で あ っ た も の が 、し だいに強力な軍隊へと成長し 、 もはやひ
と つ ひ と つ の 部 族 が 、 い か に 彼 ら が 勇 敢 で あ っ た と し て も、 そ れ を 打 ち 負 か す こ と は で
き な く な っ た 。 お そ ら く ア ラ ビ ア 人 の 大 遠 征 も 、 このように し てなされたのにちがいない 。
そ し て 、 い ま か ら わ た し が 話 そ う と す る フ ラ ン ク 族 の 偉 大 な 玉 、 カール大帝 (
シ ャルルマ
│ ニュ)の場合も 、 似 た よ う な も の で あ っ た に ち が い な い 。
し か し 征 服 と い う こ と が 、 た と え 今 日 ほ ど む ず か し い こ と で は な か ったとしても、統治

ん び
することは 、 は る か に む ず か し か っ た 。 な ぜ な ら 、 命 令 は 遠 く は な れ た 辺 部 な 地 までとど
けられねばならず、反目や 血族の復盤以上に大切なものがあることをわからせるために 、
た が い に 争 う 民 族 や 部 族 を 和 解 さ せ 、 む す び つ け な け れ ば な ら な い か ら だ 。 よき統治者で
あるためには、貧しさにあえぐ農民をたすけなければならない。人びとがまなべるように
しなければならない 。 人聞 が こ れ ま で 考 え た こ と 、 書きのこ した ことを大事に守らなけれ
ば な ら な い。 よ い 統 治 者 は 、 す べてを 自 分 で き め な け れ ば な ら な い 、 まさに民族という大
きな家族の父親であらねばならないのだ 。
カー ル大帝は 、 ま さ に そ の よ う な 人 物 で あ っ た 。 だ か ら こ そ わ た し た ち は 、 彼 を ﹁ 大
帝 ﹂ と よ ぶ の だ 。 彼は 、 ア ラ ビ ア 人 を フ ラ ン ク 族 の 土 地 に 入 れ な か っ た メ ロ ヴ ィ ン グ 王 朝
の 将 軍 、 カール ・マ ル テ ル の 子 孫 で あ っ た 。 メ ロヴ ィング王 朝 は 、 け っし て 品 位 を お も ん
じ る 王 の 一 族 と は い え な か っ た 。 歴 代 の王は 、 た だ 長 い 髪 と 波 う つ ひ げ を も っ て 支 配 の 座
に つ く 者 で あ り 、 彼 ら が す る 演 説 も 、 大 臣 た ち が 用 意 し た も の で あ った。 旅 を す る と き も
馬にまたがることなく、農夫のように牛車をきしらせ、部族の集会にも、それに乗って出
か け た 。 し か し 、 ヵl ル ・マ ル テ ル を 生 ん だ 家 系 は 、 統 治 と い う こ と に す ぐ れ た 才 能 を 示
した 。 カー ル 大 帝 の 父 親 ピ ピ ン も 、 こ の 家 系 の 出 で あ っ た 。 だ が ピ ピ ン は 、 も は や 大 臣 の
用 意 し た 演 説 を 読 み あ げ る だ け で は 満 足 せ ず 、 す で についていた王の座に 、 それにふさわ
し い 支 配 の 力 を も つ こ と を の ぞ ん だ 。 メロヴィ ング王 朝 に か わ る カ ロ リ ン グ 王 朝 の 登 場 で
統治もできる征服者

あ る 。 そ し て ピ ピ ン は 、 ほ ほ 今 日 の フ ラ ン ス 東 部 と ド イ ツの西 側 半 分 と を 占 め る、 フラン
ク王国の支配者となった。
かんりょう
し か し 王 国 と い っ て も き み は 、 官 僚 制 を そ な えた 、 ま し て や 警 察 制 度 を と と のえた 、
ひ と つ の 確 固 と し た 国 家 を 想 像 し て は い け な い 。 また、以前のロ 1 7帝 国 と く ら べ て も い
け な い 。 かつてロ 1 7人 た ち は 、 自 分 た ち と は 異 な る も の 、 北 方 の 国 境 の 向 こ う が わ に 住
む 野 蛮 な 異 民 族 と し て 、 ド イ ツ人とい う も の を 考 え て いた 。 しかしこの フランク 王 国 時 代
に、 そ の よ う な ひ と つ の ド イ ツ 民 族 と い う も の は 存 在 せ ず 、 そ れ は 、 そ れ ぞ れ に 異 な る 方
1
23 言 を 話 し、 異 な る 習 慣 や 習 俗 を も ち 、 か つ て の ギ リ シアにおけるド 1 リ ア 人 と イ オ ニ ア 人
のように 、 けっしてたが い にと け こむことのない 別 々の 部 族 か ら な って いた

4

これら 部 族 の 首 領 は 、 ﹁ヘルツォ l ク﹂(公)とよばれた。﹁へ │ ル﹂(軍団)を先頭に立


1
2

って﹁ツォ l ク﹂(引っ張った)からである。このへんツォ l クがおさめる領域を﹁ヘルツ


ォ1 クトゥム﹂(公園)とよび 、ド イ ツ に は バ イ エ ル ン 人、 シュヴ 71 ベン人、アラマン
人 な ど の 公 国 が あ った。 しかしも っとも 力 の あ る 部 族 は フランク 族 で、 これに他の部族は
従 属 し 、 戦 い の と き に は フ ラ ンク族の 側 につかねばならなかった。このようにして戦争の
主 導 権 を に ぎ り 、 最 高の 地 位 に つ い た の が カl ル大帝の父親ピピンであった。七六八年そ
のあとを 継い だカ l ル大帝もまた 、 その 力 を大いに利用した。
カールは 、 ま ず フ ラ ン ス 全 土 を 手 中 に し 、 つ守ついてアルプスを 越 え、 きみもおぼえてい
るだろうが 、 民 族 大 移 動 期 の お わ り ご ろ に ラ ン ゴ パ ル ド 族 が 移 住 し て い た イ タ リ ア に 向 か
っ た 。 ラ ン ゴ パ ル ド 人 の 王 を 追 い 払 ったカ l ルは 、 この 地 の支 配 権 を 、 彼 が 生 涯 を と お
し て そ の 保 護 者 を 自 任 し て い た ロ ! ? の 教 皇 にわたした。つ手つ いて彼はス ペインに 向 かい 、
その 地 のアラビア人と戦ったが、まもなくしてフランスに帰った。
いまや勢力を 南 と 西 に ひ ろ げ た カl ル大帝が、つぎに目を 向 けたのは東方であった。東
方 、 す な わ ち 今 日 のオ ー ストリアにはその ころ、か つてのフン族のように 、ア ジアの騎 馬
民 族 が 侵 入 し て い た 。 た だ 、 アヴア │ ル人 と よ ば れ た こ の 民 族 の 首 領 は 、 あのアッティラ
ほどあらあら しい人間 で は な か っ た 。 そ れ で も 彼 らは 、 自 分 た ち の陣 営 を つ ね に 環 状 の塁
壁 で か こ み 、 容 易 に 敵 を 寄 せ つ け な か っ た 。 カ ー ル と 彼 の 軍 隊 は 、 八 年 間 オ ー ストリ アの
こん せ さ せ んめつ
アヴア │ ル人と戦い 、 何 の痕 跡 も の こ さ な い ま で に 、 徹 底 的 に激 減 し た 。 しかしこの アヴ
71 ル人も、か つ て の フ ン 族 の 場 合 と 同 様 、 そ の 侵 入 の さ い に 他 の民族を 前 方 へ押 し 出 し
ていた 。 す な わ ち ス ラ ヴ 人 で 、 こ の ス ラ ヴ 人 も ま た 、 も ち ろ ん そ の 統 治 は フ ラ ン ク 王 国 よ
り は る か に ゆ る く 、 あ ら い も の で は あ ったが 、 一種 の 王 国 を 築 い て い た 。 カl ルは 、 スラ
ヴ人に 対し て も 軍 を す す め 、 そ の 一 部 を み ず か ら の支 配 下 に入れ 、 また 他 の地 域 からも毎
年 の 税 を お さ め さ せた。 し か し こ れ ら の戦 いの あ い だ に も 、 つね に 彼 は ひ と つ の こ と を こ
ころにかけていた 。 それは、ドイツのすべての公国とすべての部族を彼の完全な支配下に
置くこと 、 すなわち﹁ひとつの国民﹂をつくることであった。
統治もできる征服者

当 時、 ド イ ツ の 東 半 分 は ま だ フ ラ ン ク 王 国 に 属 し て い な か っ た 。 そ こ に は 、 ロ ー マ 時 代
の ゲ ル マ ン 人 の よ う に 、 あ ら あ ら し く 好 戦 的 な ザ ク セ ン族が住んでいた 。 彼 ら は い ま だ 異
教 を 信 じ 、 キ リ ス ト 教 を 拒 否 し て い た 。 しかしキリ スト 教 の最高の 保 護 者 を 任 じ て い た カ
ー ル大 帝は、 ム ハ ン マ ド の 信 奉 者 と あ ま り か わ る こ と な く 、 人 間 の 信 仰 は力 で変えること
が で き る と 信 じ て いた。 そ れ ゆ え カ 1 ルは 、 ザ ク セ ン 族 の 首 領 ヴ ィト ゥキ ン ド と 長 年 に わ
た って倦 む ことなく 戦 った。 ザ ク セ ン 族 は 降 服 し た が 、 ま た す ぐ に 反 旗 を ひ る が え し た 。
カ│ ルは 取 って返 し 、 彼 ら の 国 を 荒 ら し た 。 しかしカl ルが去ると 、 ザ ク セ ン 族 は ま た も
1
25
や ひ そ かに独 立 を ね ら った。 彼 ら は 、 カ ー ル の 命 に し た が って戦 争 に 参 加したが、 突 然 向
きをかえ、ヵl ルの軍隊におそいかかった。ついに大王は、彼らにおそろしい罰をくだし、
6

四OOO人 を 超 え る ザ ク セ ン 人 を 処 刑 し た 。 そ の 後 生 き の こ った 者たちは洗礼を受けたが、
1
2

彼らが愛の宗教をこころから愛するようになるには、長い時聞を必要とした 。
いまや、ヵl ル 大 帝 の 権 勢 は 強 大 に な っ た 。 と こ ろ で 先 に わ た し は き み に 、 彼 は た だ 征
服 だ け で な く 、 統 治 も で き る 人 物 で あ る と い ったね。事実彼は 、 民 衆 の た め に も つ く し
たのだ。とくに彼は 、 学 校 と い う も の を 大 事 に し 、彼自身 も 生 涯 を と お し て よ く 勉 強 し
た 。 彼 は 、 ド イ ツ 語 と 同 じ く ら いラテン語が話せたし 、 ギリシア一部聞を理解することもでき
た。 も と も と 彼 は 話 す こ と が 好 き で 、 こ と あ る ご と に 、 透 き と お っ た 明 る い 声 で 演 説 を し
たという。古代のあらゆる学 問や芸術につよい関心をいだき、イギリスやイタリアからよ
びょせた学 問僧 に つ い て 雄 弁 術 や 天 文 学 を ま な ん だ と も い う 。 しかし、 書くこ とはにがて
で あ っ た と い う 。 お そ ら く 彼 の 手 は 、 ベ ン で う つ く し く 曲 線 をえ、かく文字をならべるより
も、剣をにぎることに慣れていたのだろう。
あま
馬 で の 狩 り 、 また 水 泳 を た い へ ん 好 ん だ 。 服 装 は 質 素 で 、 ふ だ ん は 、 亜 麻布 の 下 着のう
え に 絹 の あ ざ や か な 縦 じ まの 上着 を は お り 、 ゲ ー ト ル の つ い た 長 いズボンをはいていた。
冬には毛皮の胴着をつけ、そのうえに青色の 7ントを着た 。 腰 に は い つ も 、 柄 に金あるい
は銀の飾りのある剣をさしていた。ただ儀式のおりには 、金を織り込んだ衣をまとい、宝
石 を ち り ば め た 靴 を は き 、 そ し て マ ン ト に は 大 き な 金 の ブ ロ ー チ を つ け 、 頭 に 金 と 宝 石で
飾られた冠をのせた。このようないでたちで、背の高い、たくましい堂々たる王が、お気
に入りのア 1 へ ン の 宮 殿 に 使 節 を む か え る 。 そ の よ う す は 、 き っ と す ば ら し か っ た だ ろ う
ね。 使 節 た ち は 、 フ ラ ン ス 、 イ タ リ ア 、 ド イ ツ の 各 地 か ら だ け で な く 、 オ ー ス ト リ ア や ス
ラヴ人の国からもやってきたのだ。
大 帝 は 、 各 地 か ら 正 確 な 情 報 を あ つ め 、 国 中 の あ ら ゆ る こ と に 気 を く ば った。 裁判官を
へんさん
任命し、法律を編纂し、司教になるべき人物をえらび、さらには食料品の値段まできめた。
しかし彼にと っても っと も 大 切 な こ と は 、 ドイ ツ人 を 統 一する こと であった。 彼は 、 いく
つ か の 部 族 公 園 を 支 配 す る の で は な く 、 そ れ ら か ら 、 ひ と つの確固たる帝国を築こうと し
たのだ 。 そ れ ゆ え 、 た と え ば バ イ エ ル ン の タ ッシ ロのよ うに 、 気 に 食 わ な い 公 が い れ ば 、
統治もできる征服者

そ れ を た だ ち に 退 位 さ せ た 。 そ し て ま さ に こ の こ ろ 、 そ れ ま で フランク 語、バイエルン語、
ア ラ マ ン 語 、 ザ ク セ ン 語 を 話 し て い た ゲ ル マンの諸部族のあいだに、はじめて共通するこ
とば ﹁ティウディスク ﹂、 す なわちドイツ語が生まれたのだ。
ド イ ツ 民 族 に か ん す る こ と す べ て に 関 心 を も っ た カ │ ル大帝は、おそらく民族大移動期
の 戦 い の な か で 生 ま れ 、 古 く か ら 彼 ら の あ い だ で う た い継 が れ て き た さ ま ざ ま な 英 雄詩を、
文 字 に 書 き と め る こ と を は じ め た 。 そ こ に 登 場 す る の は 、の ち に ﹁ ベ ル ン の デ ィ l トリ
ヒ﹂とよばれたテオドリ ック 、 フン族の王アッティラあるいはエツェル 、 竜 を 退 治 し、ハ
1
27
i グンに 闘討 ちされたジ l クフリl トな ど で あ る 。 し か し 大 帝 の 時 代 に記録された詩のほ ω
と ん ど は う し な わ れ て し ま い 、 わ た し た ち に の こ さ れ て い る の は 、 それから約四OO年 後
8
21

に書きとめられた物語である。
す で に 触 れ た よ う に 、 カー ル大帝はただドイツ 人 の王 、 フランク王 国の支配者だけでは
なく 、 全キリス ト 教 徒 の 守護 者 を 自 任 し て いた 。 そ して、いくどとなくイ タリアのランゴ
パルド 族 か ら 守 ってもらった ロ !?の教皇もまた 、 そ のように 感 じ て い た 。 それゆえ入O
O年 のクリスマスの夜、カ ー ルがロ 1 7最 大 の 教 会 、 す な わ ち 聖 ペテロの教会に足を 踏 み
入れたとき、とつ、ぜん教皇は王に近づき 、 彼 の頭に冠をのせた 。 そ し て 教 皇 と す べ て の ひ
とたちはカl ル の 前 に ひ ざ ま ず き、 彼 を ロ1 7帝 国 の 平 和 を守る 、 神 が 定 め た 新 し い 皇 帝
と し て う や ま っ た 。 お そ ら く 教 皇 の 思 惑 を 知 ら な か っ た で あ ろ う カ │ ル大帝は 、 大いにお
どろ いた にちが いな い 。 し か し い ま や 彼 は 冠 を い た だ き 、 のち に人 びとが神聖ロ 1 7帝国
とよぶことになるドイツ国家の初代の皇帝になったのだ。
古代ロ 1 7帝 国 の 力 と 栄 光 を 復 活 さ せ る こ と 、 こ れ が カl ルだけでなく、彼につづく皇
帝た ち に 諜 せ ら れ た つ と め で あ っ た 。 し か も こ の た び は 、 異 教 徒 の ロ 1 7人ではなく 、 キ
リ ス ト 教 徒 の ゲ ル マ ン 人 の 支 配 者 と し て で あ っ た 。 キリスト教徒の先頭に立つこと、これ
はカl ル 大 帝 の 意 図 で あ っ た が 、 またつづ く 長 い あ い だ の ド イ ツ 人皇帝の目標でもあった。
し か し そ れ が 実 現 さ れ た の は 、 た だ カl ル の 時 代 に お い て の み で あ った。 彼の宮廷には、
彼 をうやまって 世 界 の各 地 から 使 者 が お く ら れ て き た 。 大帝と 親しい ま じ わ り を む す ぼ う
と し たのは 、 コンスタンティノ lプ ル で 権 勢 を ほ こ っ て
39 カーノレ大帝に東方の贈り物をささげるアラピアの支配者ハノレン ・

いた 東ロ 1 7の 皇 帝 だ け で は な か っ た 。 はるか遠くメソ
ポ タ ミ ア の ア ラ ビ ア 人 の 支 配 者、 古 代 の 都 市 ニ ネ ヴ ェ の
近く バ ク ダ ッ ト に 夢 の よ う な 宮 殿 を も っ 偉 大 な お と ぎ の
国の領主 、 ハルン ・アル ・ラシドさえもが 、絢欄た る衣
装、 め ず ら し い 香 料 、 そ れ に 一 頭 の 象 な ど 、 高 価 な 宝 物
を献 上してきた ︹ 図羽 そ の な か に は 、 フランク王国


71レ・ラシドのパ F ダットからの使節。 では見たこともない 、 豪 華 な し か け を も っ 水時 計もあっ
た。 さらにハルン ・アル ・ラシドは 、 この強大な皇帝の
統治もできる征服者

好 意 を 得 ょ うとして 、 キリスト 教 徒 が だ れ に も じ ゃ ま さ
れることなく、エルサレムのキリストの聖なる墓に巡 礼
することさえもゆるした 。 きみもおぼえているだろうが 、
そ の こ ろ エ ル サ レ ム は 、 アラブ 人 の 支 配 下 に あ ったのだ。
こ れ ら す べ て は 、 新 し い 皇 帝 の 賢 明 さ、 意志の強さ、
何も の も お そ れ ぬ 勇 気 の お か げ で あ っ た 。 八 一四年に彼
が世 を 去 っ た あ と 、 このことを人びとは 明確 に知らされ
1
29
た 。 そ の と き、 悲 し い ま で に は か な く 、 す べ て が 消 え て
い った。 帝 国 は 、 ま も な く 彼 の三 人 の 孫 に 分 け て ゆ ず ら れ 、 やがてドイツ、 フ-フンス 、


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夕日アの三国へと瓦解していった。
2

かつてロ 17帝 国 に 属 し て い た 地 帯 で は 、 ひきつづきロ ! ?風のことば(ロマン語)、


す な わ ち フ ラ ン ス 語 、 イ タ リ ア 語 が 使 われた。だが 、こ の と き 分 割 さ れ た 三 国 が ふ た た び
統 一 さ れ る こ と は 、 二 度 と な か った。ド イ ツ の 諸 部 族 公 園 も 揺 れ う ど き 、 そ れ ぞ れ が ふ た
た び 独 立 を は じ め た 。 ス ラ ヴ 人は、ヵl ル の 死 後 た だ ち に つ な が り を 断 ち、最 初 の 偉 大 な
王スヴ ァト プ ル ク の 下 で 強 力 な 国 家 を 築 い た 。 ま た 、カー ルがドイツ各地に建てた学校は
荒れはて 、 や が て 読 み 書 き の 学 習 は 、 遠 く に 散 ら ば る い く つ か の 修 道 院 で の み 引 き継 が
れた 。 北 方 のゲルマン 部族、 デンマ ー ク人 、 およびヴァイキングとよばれたノルマン人は 、
大 胆 で 不 敵 な 海 賊 と し て 、 海 沿 い の 諸 都 市 を 荒 ら し た 。まさに 向かうところ敵なしの彼ら
は 、 東 方 で は 今 日 のロシアのスラヴ人のあいだに、また西では今日のフランスの海岸に、
い く つ も の 国 家 を 築 い た 。 今 日 で も フ ラ ン ス の 半 島 の ひ と つ は 、 このノルマン人からノル
マンディ ! と よ ば れ る 。
カー ル 大 帝 の 偉 大 な 作 品 で あ る ﹁ ド イ ツ 民 族 の 神 聖ロ 1 7帝 国 ﹂は 、 次の 世 紀 にはまっ
たくただの名前だけの存在になった。
キリス ト教 の支配 者
残 念 な が ら 、 歴 史は詩や小説ではない 。 気晴らしとして 、楽しませるものではない。反
対 に 、 楽 し く な い こ と は た び た び く り か え さ れ る の だ 。 たとえば 、 カ│ ル大帝の死後百年
も た た な い と き 、 す な わ ち ヨ ー ロ ッパ が 悲 惨 な 混 乱 の 状 態 に あ る と き、 またもやア ジ アか
ら 、 か つ て の フ ン 族 や ア ヴ 71 ル人のように 、 騎 馬 民 族 が 侵 入 し て き た 。 ほんらいこれは、
不 思 議 な こ と で は な い の だ 。 アジアの草原か ら ヨー ロ ッパ へ 向 か う 旅 は 、 東方の 中 国への
遠 征 に く ら べ れ ば 楽 で あ り 、 ま た 魅 惑 的 で も あ ったのだ 。 当 時 の 中 国 は 、 あ の 秦 の 始 皇
み わく て き
帝 の 堅 固 な 長 城 で 守 ら れ て いた だ け で な く 、 外 か ら の 敵 を 寄 せ つ け ぬ 、 強 大 で 整 然 と 秩 序
づ け ら れ た 国 家 で あ り 、 そ の 広 大 な 国 土 の 各 地 に華やかな大都会がさかえ、 皇 帝をはじめ、
学 者 で も あ る 高 級 役 人 の 生 活 は 、 高 度 に 洗 練 さ れ た 趣 味 でいろどられていたのであった 。
ドイツで 古 い戦 い の 歌 が あ つ め ら れ 、 や が て 異 教 的 だ と い う 理由 か ら 焼 か れ て い た こ ろ 、
いん
またヨ ー ロッ パ で 修 道 士 た ち が お ず お ず と 聖 書 の 物 語 を ド イ ツ 語 あ る い は イ タ リ ア 語 の 韻
21
2

ぷん
、中国には、おそらく歴史上 他
すなわち八O O年前後)
文で書きなおそうとしていたころ (
に 類 を み な い 偉 大 な 詩 人 た ち が 生 き て い た 。 彼 ら は 、 墨 を ふ く ま せ た 毛 筆 で 絹布 の 上 に 勢
けんぷ
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い の あ る 文 字 で 、 ぎ り ぎ り に 縮 め ら れ た 簡 潔 な 詩 を 書 い て い た 。 しかし 、 いちど読めば二
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2

度と頭からはなれないほど簡潔なそれらの詩は、おどろくほど多くのことを語っていた。
中国の帝国は、健全に運営され、堅く守られていた。 それゆえ騎馬民族の軍団は、いつも
む し ろ 東 よ り も 西 に 向 か っ た の だ 。 こ の た び は 、 マ ジ ャ l ル人であった。待ちうけたのは
レ オ 大 教 皇 で も カl ル 大 帝 で も な か っ た か ら 、 略奪 と 殺 裁 を ほ し い ま ま に し 、 た ち ま ち 今
日 の ハ ン ガ リ ー と オ ー ス ト リ ア を 占 領 し 、 さ ら に ド イ ツ に 侵 入 し よ うと した 。
そこでやむをえず、それぞれ独立を主張していた部族公園は、ひとりの指導者をえらば
な け れ ば な ら な か っ た 。 九 一 九 年 彼 ら は 、 マ ジ ャ l ル人を最終的に追い払い、ドイツから
遠 ざ け た ザ ク セ ン 公 ハイ ン リ ヒ を ゲ ル マ ソ 人 全 体 の 王 に 選 出 し た 。 彼 の 息 子 で の ち に ﹁

王 ﹂ と あ だ 名 さ れ た オ ッ ト l 一世は 、 アヴァ l ル人に対するカl ル 大 帝 の よ う に マ ジ ャ ー
ル 人 を 完 全 に 激 減 す る こ と は で き な か っ た が 、 九 四 五 年 の 戦 い で の 大 勝 利 の あ と 、 マジャ
ー ル 人 を ハ ン ガ リ ー に 封 じ 込 め る こ と に 成 功 し た 。そこに はマ ジ ャl ル人の子孫、いまの
ハンガリー人が今日なお住んでいる。
オット ー は、 マジャ │ ル 人 か ら 奪 っ た 土 地 を 王 と し て 自 分 の も の と せ ず 、 そ れ を ひ と り
の領主に貸しあたえた。これは 、 当時にあってはふつうのことであった。同じようなやり
方で 、 オット l大 王 の 息 子 の オ ッ ト │ 二世 は 、 今 日 の オ ー ス ト リ ア 北 東 部 の 州 ニ l ダl エ
スタl ライヒの 一部、 ドナウ川のヴアハウ渓谷一帯を、パ
0 貴族に土地を貸しあたえる王。王の前にひざまずき 、合わせた手

l ベンベルグ家出身のドイツの貴族レオボルドに貸しあた
を王の両手の 聞に置くことは、家臣であることのしるしであっ た。

図刊
えた ︹ このような貴族たちは、王が貸しあたえた
土地に城を。 ︺築き、その地を領主のごとく支配した 。 したが
って 彼 らは 、 王の通常の役人ではなく 、 それ以上の存在 、
王がゆるすかぎり、その地の支配者であった 。
その地に住む農民は、多くの場合、 もはやかつてのゲル
マンの農民がそうであったような自 由 の民ではなかった。
彼らは、 王が 貸しあたえた、あるいは貴族の領主がもとも
キリス ト教の支配者

と所有していた土地の ご 部﹂であ った。 その地の草を食


む羊や山羊のように 、 森にすむ鹿、熊、猪のように 、 河

森、 草 原 、 畑 のように 、 彼 ら人間もまた彼らがたがやす土
地に、その 一部として属していたのだ 。 彼らは、農地に仕
のうど
えていたのだから﹁農奴﹂とよばれた。国家の 市民 でなか
った 彼 らは 、その国のなか にあっても 、のぞむところ に行
くこと、のぞむ耕地をたがやすこと、そこに家をたてるこ
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4
2
ともゆるされなか った。 彼らは、自由な人間ではなか った。
﹁では 、 彼 らは 古 代 に お け る よ う に 奴 隷 だ っ た の ﹂ と、 き み は き く だ ろ う ね 。 答 え は 、
4

いう こ と に な る だ ろ う 。 き み も っているとおり、 奴 隷 制は、 キリス


2


そ う で は な い ﹂ と 知
2

ト教にな って以来わたしたち の国では廃 止されているのだ 。 山 炭奴は、奴隷ではない。なぜ


なら 、 彼 らは土 地 に属しているのであり 、 その土 地 は、 たとえ貴族に貸しあたえられてい
るにせよ 、 王のものなのだ 。 それゆえ貴族、 あ るいは領主には、かつて主人が奴隷をそう
したように 、 彼 ら を 売 っ た り 殺 し た り す る こ と は ゆ る さ れ な か っ た 。 しかしそれ以外では、
のぞむことすべてを命令することができた。農奴は、貴族のために 働き、貴族のために土
地 をたがやし 、 貴 族 が 命 ず る ま ま に 、 城 に パ ン や 肉 を と ど け な け れ ば な ら な か っ た 。 貴 族
たちは 、 自 身 が野 で働くことはなかった 。 せいぜい楽しみ のために 狩りに出かけるくらい
であった。ほんらい王が貸しあたえた土 地は、 やがて自身の土 地 となった 。 王にさからう
ことがなければ 、 それは殺から子に相続された 。 領主は、貸しあた えられた 土地 ││﹁封

土﹂ とよばれた ーー に対して、いざ戦争というとき 、 農民を 引 き連れて駆けつける以外、
何 も王に負うことはなか った。 しかし 、 戦 争 は た び た び あ った。
そのころドイツ全 体 は、 そのように王から 個 々の貴族へ貸しあたえられた土 地 からなっ
ていた 。 王自身の所領は 、 ただわずかにすぎなかった。ドイツだけでなく 、 フランスにお
いても、 またイ ングランドにおいても 、事情は似てい た。 フランスでは 九八七年、有力な
O 一六年、 航海の民デンマ ー ク人
公ユ lグ ・カ ペーが 王になっていた。 イ ングラン ドは 一
のカヌ l ト に よ っ て 占 領 さ れ た 。 彼は 、 ノルウェーやスウェーデンの一部も支配下に入れ、
有力な領主たちにその封土をおさめさせた。
た び か さ な る 7ジ ャ │ ル 人 と の 戦 い に 勝 利 す る こ と で 、 ド イ ツ の 歴 代 の 王 の 権 勢 は ま す
ま す 高 ま っ て い っ た 。 ハンガリ ー 人 (マジ ャ│ル人 ) を 撃 退 し た オ ットl大 王 自 身 、 ス ラ
ヴ 人、 ボ ヘ ミ ア 人、 ポ ー ラ ン ド 人 を 支 配 下 に 入 れ 、 被 ら の 領 主 に 、 そ れ ぞ れ の 国 土 を 王 の
封土として認めさせた。 ということは、彼らは、自国をドイツ王から貸しあたえられた土
地 と み な し 、 王 が の ぞ む と き に は 、 そ の 軍 列 に 加 わ ったのだ 。
こ の よ う に 強 力 な 支 配 者 と な っ た オ ッ ト !大 王 は 、 ラ ン ゴ パル ド 人 の 下 で 大 混 乱 に お ち
いり 、 激 し い 戦 い の 場 と な って い た イ タ リ ア に 軍 を す す め た 。 そしてオ ットl は、イタリ
キリスト教の支配者

ア を も ド イ ツ の 封 土 と し 、 そ れ を ラ ン ゴ バ ル ド 人 の 領 主 に 貸 し あ た え た 。 教 皇 は 、 オ ット
ぼう い
ー が そ の 力 で も って ラ ン ゴ パ ル ド 人 の 暴 威 を 少 し で も 抑 え て く れ た こ と に 感 謝 し 、 か つ て
八O O年 に カl ル 大 帝 の 頭 に 冠 が の せ ら れ た よ う に 、 九 六 二年、オ ットーにロ │ マ皇帝の
冠をさずけた 。
こ の よ う に し て 、 ふ た た び ド イ ツの 歴 代 の 王 は ロ │マ帝国の 皇 帝 と な り 、 キリスト教の
保 護 者 と な っ た 。 そ し て 南 は イ タ リアから 北 は 北 海、 西は ライン 川 から東はエルベ 川 をは
るかに越えて 、 スラヴ人の農民がドイツ人貴族の農奴にされた地にいたるまで 、 農民たち
2
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の た が や す 土 地 は ド イ ツ の 王 た ち の も の と な った。 皇 帝 が 、 そ れ ら の 土 地 を 貸 し あ た え た
のは、ただ世俗の貴族だけでなか った。 そ れ ら を と き に は 司 祭、司教、大司教にも貸し あ
6

たえた 。 彼 ら は 、 い ま や た ん な る 教 会 の聖 職 者 であるだけでなく 、 貴 族 たちと同様 、広 大


2
2

な土 地 を支配し 、 戦争 と な れ ば 自 分 に 属 す る 農 民 の 先 頭 に 立 って戦う領主とな っていた 。


はじめのうちは 、 これは教皇にと っても 都 合 の よ い こ と で あ った。 教皇と 、 武 力 で も 政
治 の 面 で も 彼 を 守 り 、 ま た み な が 敬 皮 な キ リ ス ト 教 徒 で あ ったドイツ皇帝との関係は 、 非
常にうまくい っていたのだ 。
し か し 、 や が て 事 情 は 変 わ った。 教 皇 に は 、 マ イ ン ッ 、 ト リ ー ル 、 ケ ル ン 、 パ ッサウ
の司教が 、 皇 帝 の 都 合 だ け で 皇 帝 の 司 祭 の な か か ら え ら ば れ る こ と が ゆ る せ な く な っ た 。
﹁ 彼 ら は 教 会 に 属 す る 聖 職 者 で あ り 、 そ の 職 は 、 教 会 の 最 高 責 任 者 である自分がきめるべ
き で あ る ﹂ というのが 、 教 皇 の 主 張 で あ っ た 。 し か し 司 教 は 、 ま さ に た ん な る 教 会 の 聖 職
者 で は な か っ た 。 た と え ば ケ ル ン の 大 司 教 は 、 魂 の世 話 人 で あ る と 同 時 に 、 こ の 地 方 の 領
主 で あ り、 軍 隊 の 指 揮 官 で あ った。 皇帝の 土 地 の 領主 で あ り 軍 隊 の 指揮 官になる者は、と
うぜん白手帝によ って 任 命 さ れ る べ き で あ る 。 さて 、 きみはどう思う 。 皇 帝 も 教 皇 も、 両 者
が そ れ ぞ れ の 立 場 か ら み れ ば 完 全 に 正 し いと、き みにも思われるのではないかね 。 聖職者
に土 地 を 貸 し あ た え た こ と が 、 人 び と を 窮 地 に追い 込むことにな ったのだ 。 すべての聖職
者 の 最 高 の 支 配 者 は 、 教 皇 で あ る 。 す べ て の 土 地 の最高の支配者は 、 皇 帝である 。 ここに
じょに んけん とうそう
争いが起こるのはとうぜんであり、事実起こったのだ。それが ﹁
叙任権闘争﹂とよばれる
ものなのだ。
O 七三年ロ 17で は 、 教 会 に ほ ん ら い の っ と め と 権 威 を と り も ど そ う と 、 長 い あ い だ

けんめ いに努力し てきた 、 だ れ よ り も 信 心 深 く 情 熱 的 な ひとりの修道士が 、 教 皇の座につ
いた 。 かつてはヒルデ守プラン ト と よ ば れ た そ の 人 物 は 、 教 皇になって からはグレゴリウス
七世と名の った。
同 じ こ ろ ド イ ツ で は 、 ひ と り の フ ラ ン ク 人 が 王 に な り 、 ハ イ ン リ ヒ 四 世 を 名 の った。こ
こ で き み に も 注 意 し て も ら い た い の だ が 、グレ ゴ リ ウ ス 七 世は、 み ず か ら を も は や た ん な
る最高の聖職者としてだけでなく 、神によって定められた地上のすべてのキリスト教徒の
支 配 者 と 感 じ て い た の だ 。 そ し て 他 方 で は ま っ た く 同 じ よ う に 、 古 代 ロ ! ?皇帝およびカ
キリスト教の支配者

ー ル大帝の後継者であるドイツの皇帝は 、 みずからをキリスト教世界の守護者、最高の命
令者として感じていたのだ 。 たしかに当時はまだ、ハインリヒ四世は皇帝の冠を戴いては
いただ
たいかん
いなかった 。 だ が 彼 は 、 ド イ ツ の 王 と し て 、 と う ぜ ん 戴 冠 さ れ る 権 利 を も っ と 信 じ て い た 。
両 者 は 、 た が い に あ と に は ひ け な く な っていたのだ 。
両 者 の あ い だ に 争 い が 起 こ ったとき 、 世 界 は ま さ に 騒 然 と な った。 人 び と は 、 ハ イ ン リ
ヒ四世につくものとグレゴリウス七 世 につくものとに二分された。当時王の味方あるいは
敵が、 王 を 守 る た め に あ る い は 王 を 攻 撃 す る た め に 書 い た 文 書 が 、 今 日 な お 一五五通のこ
2
27
さ れ て い る 。 このように、じつに多くの人びと、がこの争いに参加していたのだ。これらの
文書のいくつかでは、ハインリヒ王がかんしゃくもちの悪人として、また他の文書では、
28

教皇が冷酷で権勢欲のつよい人物としてえがかれている。
2

思 う に 、 わ た し た ち は 両 方 と も 信 じ て は い け な い の で は な い だ ろ う か 。ハ インリヒ王は
妃 を 不 当 に あ つ か った(と 、王の敵は 書 い て い る て あ る いは、 グレゴリウス 七 世 は 正 統 な
手 続 き を ふ ま ず に 教 皇 に 選 出 された ( と、教皇の敵は書いている 両者は、それぞれの立

)とっては、これらのこと
場 か ら す れ ば た し か に 正 し い の で あ り、 したがってわたしたちに
の 正 否 は 、 あ ま り 問 題 で は な い の だ 。 わたしたちは、過去に旅することはできないのだし、
真実がどうであったか 、 教皇、 あるいは皇帝のどちらがいわれなく誹誘されているのか 、
ひぼう
そ の 場 で 調 べ る こ と は で き な い の だ 。お そ ら く 誹 詩 は 、 両 者 に と って いわれのないもので
あ っ た に ち が い な い 。 な ぜ な ら 、 人 間 の 争 い に 不 法 は っ き も の だ か ら 。 ただわたしはきみ
に、九OO年たつと真実の姿は見えなくなる、という例を示したいだけだ。
王ハインリヒにとって、土地を貸しあたえている貴族たち (
すなわちドイツの領主たち )
が 敵 に ま わ る こ と 、 そ れ が い ち ば ん こ わ か っ た 。 彼らは、王があまりにも強大になること、
彼 ら に さ え 命 令 で き る よ う に な る こ と を の ぞ ま な か っ た 。 教 皇 グ レゴリウスは、王ハイ ン
リヒを教会から締め 出 す こ と 、 す な わ ち 、 す べ て の 聖 職 者 に 王 の た め に ミ サ を 行 な う こ と
を 禁 じ る こ と で も っ て 、 王 へ の 敵 意 を あ ら わ に した 。 王 を 破 門 し た の だ 。 領 主 た ち は 、 破
門さ れた王とはかかわりたくないとして、 他 の者を王にえらぼうとした。ハインリヒは 、
教 皇 に こ の お そ ろ し い 破 門 を 撤 回 さ せ よ う と 、 け ん め い に 努 力 し た 。 それは、彼にとって
何 よ り も 重 要 な こ と で あ っ た 。 それができなければ、彼は王の座を去らなければならなか
った。 そ こ で 彼 は 、 教 皇 に 会 い 、 破 門 の 取 り 下 げ を ね が う た め に 、 軍 隊 を 連 れ ず ひ と り で
イタリアに向か った。
と き は 冬 で 、 王 が 教 皇 と 仲 直 り す る こ と を の ぞ ま な い ド イ ツの領主たちは、す べて の街
道を封鎖していた 。 ハインリヒは、妃とともに大きなまわり道をしなければならず、凍り
つく冬のさなか、かつてイタリアに攻め入るハンニバルも越えたであろうモンスニの峠を
越えた 。
教 皇 は そ の と き 、 王 の 敵 た ち と 話 し 合 う た め に ド イ ツ に 向 かう途中であった 。 ハインリ
キリスト教の支配者

ヒがくる知らせを聞いた教皇は 、 北 イ タ リ ア の カ ノ ッ サ の 城 に 逃 げ こ ん だ 。 彼は 、 ハイン
リ ヒ が 軍 隊 と と も に あ ら わ れ る と 思 っ た の だ 。 し か し 、 ハ イ ン リ ヒ が 破 門 から解かれるた
めに 、 ひ と り で や っ て き た こ と を 知 る と 、 教 皇 は お ど ろ き、 そしてよろこんだ 。 当時のい
く つ か の 記 録 は 、 王 は そ の と き 罪 の ゆ る し を 乞 う 者 の 着 物、 す な わ ち 自 の 粗 い 修 道 服 を 身
に つ け て あ ら わ れ た と い う 。 そ し て 教 皇 は 、 最 後 に 王 を あ わ れ み 破 門 を 取 り 消 す ま で の三
日間、ひどい冬の寒さのなか、城の前庭の雪のなかを裸足で立ったまま待たせたという。
はだし
同時代のあるひとたちは、王は教皇の前で慈悲を乞うてすすり泣き、それに同情した教皇
2
29
は結局彼をゆるしたと書いている 。
今 日な お 人 び と は 、 ひとりの人 聞 が 寛 大 な 処 置 を ね が っ て へ り く だ ら な け れ ば な ら な
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いとき、 ﹁カノッサへの道行き﹂という。 しかしここでわたしはきみに、同じ出来事につ


2

い て 王 の 友 人 の ひ と り が 伝 え る こ と を 教えよ う 。 そ こ に は 、 次 の よ う に 書 い て あ る の だ 。

自 分 の 立 場 が い か に 不 利 であるかさとったハ イ ンリヒは、ひそかにかしこい 画を考え

-
ついた 。 そ してとっ 、 ぜん 、 人びとの予想に反して、教皇のもとをめざして旅立った。この
旅で彼は、い っきょにふたつの 利益を得ょうと したのだ。ひとつは、破 門 から解かれるこ
と。ふたつは 、 自 分が教皇の前に姿をあらわすことでもって、彼がもっともおそれた教皇
と敵との同盟を妨害することであ った。﹂
このように、教皇の側に立つ者は、 ﹁カノッ サへの道行き ﹂ を教皇の偉大な成果とみな
し、王の支持者は 、 それを自分たちにとっての大きな 利益とみなしたのだ。
このように 、 ふたつのあい争う勢力につ いて判断しよ うとするとき、わたしたちは注意
し な け れ ば な ら な い の だ 。しか しこの争いは、 ﹁カノッサへの道行き ﹂で終わったわけで
はなかった。それは 、 やがてほんとうの皇 帝 になった王ハインリヒの死でもっても、 また
教皇グレゴリウスの死でも っても 、 なお終わらなかった。たしかにハインリヒは 、 グレゴ
リウスを退位させることには成功した 。 しかし この偉大な教皇の意志は 、 ときとともに実
現されてい ったのだ。司教は教会によっ てえらばれ、皇帝はただ、その選出に同意するか
否かをたずねられるだけにな った。皇 帝ではなく、教皇がキリスト教世界の指導者にな っ
たのである。
41 ノノレ 7 γ 人の冊目ぎ手はつねに盾をたずさえていた。彼らの航海は

きみは、 北 方 の 航 海 の 民 ノ ル マ ン 人 が 、 フ ラ ン ク 王 国 の
海岸の 一部 を 占 領 し 、 そ の 地 が 今 日 な お 彼 ら の 名 を と っ て
ノルマンディ ! と よ ば れ て い る 、とい う こ と を お ぼ え て い
る ね 。 や が て こ の 地 の ノ ル マ ン 人 は 、 周 囲 に同化してフラ
ンス語を話すことには慣れたが 、 大 胆 な 航 海 や 不 敵 な 占 領
の楽しみをわすれることはなかった ︹
図引 彼らのなか
。︺
の あ る 者 は 、 シ チ リ ア ま で 出 か け、 そ こ の ア ラ ビ ア 人 と
戦 い 、 南 イ タ リ ア を 占 領 し た 。 そしてそこを拠点として、
キリスト教の支配者

偉大な指導者ロベール ・ギスカールのもとで)教皇グレゴリ
(

いつも戦いのためであった。
ウ ス 七 世 を 守 っ て ハ イ ン リ ヒ 回 世 と 戦 っ た 。 他 の者たちは 、
フ ラ ン ス と イ ギ リ ス の 聞 の せ ま い海峡を こえて 、 彼 ら の 王
ウィリアムのもと(これ以後﹁ウィリアム征服王 ﹂とよばれ
る)、 あ のデンマ ー ク 人 の 王 カ ヌ │ト の イ ン グ ラ ン ド で の
子孫のひとりであるイングランド王をやぶった。それは一
O 六 六 年 の こ と で あ り 、 い ま で も ほとんどのイギリス人は
3
21
こ の こ と を 知 っ て い る 。 伺 と な れ ば 、 これが、異国の軍隊
がイギリスに足場をかためた最後の年だからだ。
32

ウ ィ リ ア ム は 、 彼 の 役 人 た ち に命 じ て す べての 村 、 す べ て の 農 場 の 正 確 な リ ス ト を つ く
2

らせ 、 そ の な か の 多 く を 、 と も に 戦 っ た 仲 間 に 封 土 と し て あ た え た 。 そ れ ゆ え 、 イ ン グ ラ
ンド の 貴 族 は ノ ル マ ン 人 な の だ 。 ま た ノ ル マ ン デ ィ ー からや ってきたこれらノルマン 人は
フ ラ ン ス 語 を 話 し た か ら 、 こ の と き 古 代 ゲ ル マ ン 語 と ロ マ ン 語 の 混 合 で あ る 今 日 の英語が
生まれた 。
気 高 く 勇敢な騎士




きみは 、 かつて騎士の時代というものがあり、そのころの騎士とい うものについてき っ


とどこかで聞いたことがあるだろうね 。 いや、おそらくすでに本で読んだことがあ るだ ろ
う。 そ こ に は 、 き ら め く 鎖 の 鎧 、 色 あ ざ や か な 大 き な 羽 飾 り の つ い た 兜 、 う い う いしい
よろいかぶと
若 武 者 の 従 士 、いな な く 駿 馬 、あざ や か な 紋 章 、 難 攻 不 落 の城、 名 誉をかけた 一騎打ち 、
じゅうししゅんめ もんしよう
貴 婦 人 に さ さ げ た 馬 上 試 合 、 冒 険 に み ち た 遠 征 、 人 里 は な れ た 孤 城 の 姫 君 、 吟 遊詩人 、 聖
ぎ んゅう
地 への巡 礼者 な ど が 登 場 し て い た こ と だ ろ う 。 そして何とい ってもすばらしいのは、これ
らすべてがほんとうにあったということだ。それらひとつひとつの胸おどらせることがら
は、 けっ し てつくり 話で はなかったのだ 。 かつて世界は、いまよりはるかに色彩に富み、
波 欄 に 富 ん で い た の で あ り 、 人びとは騎士とい った偉大で不思議な、そしてときには非常
はらん
に厳粛でもあ った存在に 、 おおいに共鳴し、その生き方によろこんで参加していたのだ 。
しか し、騎士 の時代 とはいつごろのことで 、騎士とはじ っさい 、 どんなものだ ったのだ
3
23 ろうか 。
騎士とは、ほんらい馬に乗る人のことであり、騎士という制度もそこからはじま った。
34

戦争に乗って 出 か け る た め の 、 す ば ら し い 馬 を 手 に 入 れ る こ と の で き る 者 、 そ れ が 騎 士 で
2

あった 。 そ れ が で き な い 者 、 自 分 の 足 で 戦 争 に 出 か け な け れ ば な ら な い 者 、 そ れ は 騎 士 で
はなかった 。 それゆえ 、 王が土 地を貸しあたえた貴族、彼らが騎士であ った。 貴族に属す
る農民は 、 その馬の飼い葉を 用意する者であった 。 しかし貴族に 仕 える役人たち、すなわ
ち領主からその封土の一部をまた貸しされた大農場の管理人たちもまた、たとえ大きな力
はなくとも、り っぱ な 馬 を 飼 う に は 十 分 な 財 産 を も っていた 。 したが って、王が彼 ら の主
人を戦場によびだせば 、 彼 ら も ま た 主 人 と と も に 馬 に 乗 って出かけなければならなか った。
それゆえ 、 彼 ら も ま た 騎 士 で あ っ た 。 ただ農民と 、 戦場において徒歩で戦わねばならなか
った貧しい使用人、下男たちは 、 続土ではなか った。
このようなことは、すでにハイ ンリヒ四世の時代、すなわち 一 OOO年ころにはじまり、
その後の数百年のあいだっ 守 ついた 。 それは、ドイ ツだけでなく 、 フラ ンスでも同じであ っ
た。
し か し 、 た だ 馬 に 乗 って 戦 う 戦 士 と い う だ け で は、 ま だ 今 日 わ た し た ち が 考 え る ﹁

士﹂ではない 。 そのころ 、 領主や貴族たちは 、 わたしたちが、今日なおわたしたちの 山岳
地で見るような 、 大 き く 堅 固 で 堂 々 と し た 城 を 築 く こ と を は じ め た 。 彼 ら が 主 人 と な る 城
である 。 も ち ろ ん そ こ に も 訪 ね て 来 る 者 、 攻めて来る者はいた 。 これらの城は 、多くの場
合ただ一方からだけ、 しかもひとすじ
42 近寄りがたく岩山の上にそびえる堅固 で飾りのない騎士の城。
のせまい馬道をたどって登ることので
きる 、 けわしく切り立った岩 山 の上に
そびえていた ︹
図叫

︺いていの場合 、幅
城門の前には 、 た
のひろい 、 ときには水をたたえた壌が
あ った。 この壕を渡すのはた った 一本
の橋で、それを鎖で引きあげれば 、 城
は閉ざされ 、 もはやだれも入る ことが
できなかった 。 というのは 、壊の 内側
気高く 勇敢な騎士

には 、 矢を射かける小さな穴と 、 煮え
たぎる油を敵の頭上にそそぐ隙聞をも
っ厚い、堅固な壁がそびえ立っていた
から だ。 この壁の上には 、 そのうしろ
に隠れて敵を見下ろす突起が並んでい
た。 ときには同じ壁が二重、 あるいは
3
25
三重にかさなり 、 それをぬけると 中庭
があり 、その向こ うにようやく 、 騎 士 た ち の 住 む建物があった 。 そこの、暖炉に火が燃え
6

る暖かい広聞は 、 男たちほどには鍛えられていない女性たちのためのものであ った。


きた
3
2

それでも、このような城のなかでの生活はけ っして快適といえるものではなか った。 台


︿し
所は、黒くすすけた部屋であり、そこで 人び とは、串に刺した肉をはじけて燃える太いた
きぎの上で焼いていた。 下男や騎士たちのための建物のほかに、なお種類の異なる ふた
つの建物があった 。 そのひとつは、城つきの助任司祭が ミ サを行なう 礼拝 堂、もうひと つ
は、 ﹁天守 閣﹂である 。 この ﹁
天守閣﹂は、多くの場合城の中央にそびえたつ塔で、その
なかには 通常は食糧 がたくわえられ 、敵が壕をこ え、 橋 を渡り、 煮 えたぎる油の下をくぐ
り、 一一一重の壁をやぶって近づいたとき、騎士たち が最後に立てこもるところであ った。 押
し寄せた敵はしばしば、援軍の到着を待って騎士たちが守るこの難攻不落の塔の前 で、立
ちすくまなければならなか った。
ち か ろう
忘れてはならないものがある 。 地下牢だ。それは、騎土たちが捕らえた敵を投げ こむ深
い、せまい、暗い、冷たい地下の穴であり、そこで捕虜たちは、高額な身代金をまち つづ
け、それがとどかなければ 、 ただ飢え死にしてい った。
きみはおそらく、このような城をすでにどこかで見たことがあるだろうね 。 しかしこれ
からも見ることがあったら 、 きみは 、そのなかを 行き来していた鎖の鎧を身につけた騎士
た ち の こ と だ け を 想 つ て は い け な い 。 ま わ り の 壁 や 塔 に も 目 を 向け、そ れ ら を 積 み 上 げ
た人たちのことも考えなければならない 。 切 り 立 った岩山に立つ塔、断崖に阻まれた城壁 。
それらはすべて 、 自 由 を う ば わ れ た 農 民、 農 奴 と よ ば れ た 人 た ち が っ く り あ げ た も の な の
だ。 彼らは、石を切り、引きずり 、 滑車で巻き上げ 、 積み重ねなければならなかった 。 力
が足りなければ 、 彼らの妻や子どもが手伝わなければならなかった 。 騎士は 、 すべての人
たちに命令することができたからだ 。 農奴よりも、騎士であることのほうがよかった 。
しかし、騎 士 の子どもが騎士になり、農奴の息子は農奴になった。それは 、 いくつかの
カl ストに分かれた古代 のインドと似ていた。
騎士の息子は 、七 歳になるとはやくも騎士としての生き方をならうために 、 よその城へ
じ戸守つ
行かされた 。 そこで彼は パー ジュ (
侍童 )とよばれ、その城の貴婦人に仕えた。彼女たち
すZ吃
気高く勇敢な騎士

の衣の長い裾をかかげも ったり、あるいはおそらく、彼女たちのために本を朗読すること
も あ ったにちがいない 。 というのは、当 時読み 書 きのできる女性は少なく 、 他方、身分の
高 い 男 性は、 ふ つ う そ れ を ま な ん で い た か ら だ 。一 四歳で パージ ュはクナッベ (
従土 ) に
昇格した。彼らは 、 も は や 城 の な か で 暖 炉 の か た わ ら に 座 る こ と な く 、 狩 り や 戦 に 馬 に 乗
って出かけ ることがゆるされた 。 盾や槍をもって主君たる騎士にしたがい 、 戦 のさなかに
騎士の 槍が折れた ら、 ただちに次の槍をわたすのが彼らの仕事であった 。 主君には 、絶対
に服 従 し な け れ ば な ら な かった 。 クナッペ と し て 勇 敢 で 恭 順 で あ っ た 者 は 、 二 一 歳 で 騎
きょうじゅん
3
27 士に叙任された。それは 、 おごそかな儀式でなされた 。 まず長いあいだ食を 絶 ち、 城の礼
拝堂で 祈 りをささげ 、 司祭 か ら 聖 な る 晩 餐 を 受 け ね ば な ら な か っ た 。 そ し て完全な武 人 の
ばんさん
8

姿で 、 しかし兜、 剣、 盾 は つ け ず 、 ふ たりの証人のあいだにひ ざ まずく 。 彼 を騎 士に叙任


3
2

する主 人 は、 彼の 両方 の 肩 を そ れ ぞ れ い ち ど 、 つ守
ついてうなじをいちど 、 剣 の横面 で打 つ。
そのとき、 次 の こ と ば を 唱 えた 。
神 と 聖 母 マ リ ア の 名 誉 のために
ここに汝を 打 つ。
なんじ
気 高く 、 いさおし く、 正 し く 、
奴隷でなく、騎士として生きよ 。
つづ いて彼は立ち上がるのだが 、 そ の彼 は も は や ク ナ ッべ ではない 。 いまや彼は騎士で
あり 、 盾 に 自 分 で さ だ め た ラ イ オ ン 、 ヒョウ 、 ある いは花 の紋章 をの せ ること 、 一生をか
けて 目標 とするモ ットー を自 分で え らぶこと 、 そ して自 分がクナ ッペを 騎士 に叙 任 するこ
と が ゆ る さ れ る の で あ る 。 厳 粛 な 儀 式 に な らっ て剣 と兜を受け取 り、 金をかぶせた鐙をつ
あぷみ
け、 盾を 腕 にとおし 、 いまやまがうことなき騎士の 身 分を誇示するために 、 鎖 よろいの 上
に緋 色 のマ ントをはおり 、 さ っそ う と 馬 に ま た が り 、 兜 の色あ ざ やかな毛 飾 りを 風 になび
かせ 、 大 き な 槍 を 振 りかざ し
、 ひとりの ク ナ ッべ をしたがえて 、 駆 け 去 る の で あ った。
このおごそかで 晴 れや かな儀 式 の光 景 を 思 い う か べ れ ば 、 も は や き み も 、 騎 士が た んな
る馬に 乗 った戦士ではな い ことを 知 るだろう 。 騎士 は 、 ま さ に 修 道 士 と 同 じく 、 修道会の
一員 ともいえるのだ 。 事実良き騎土は 、 ただ勇敢な戦士であるだけでなく、修道士と同じ
く祈りと慈善の行為でも神に仕える者であった 。 騎士は、弱い者、力 で自分を守ることの
じぜん
できない者、 女 性 、 貧 者 、 未 亡 人 、 孤 児 を 守 らなければならなかった。騎士は 、 ただ正義
のためにのみ剣を抜くのであり 、 彼 の行ないのすべては 紳 への奉 仕 であらねばならなかっ
た。 主君、領主には無条件でしたがい 、 その命令とあれば、火のなかにも入らねばならな
か った。 無作法であ ってはならず、 といって卑怯なふるまいはゆるされなかった 。戦場で
は、 ひと りの敵にふたりでかかることはゆるされず 、 つねにひとりにはひとりで立ち向か
わねばならない 。 負 か し た 敵 を 辱 し め て は な ら な い の だ 。 これらのことを守る人は 、今 日
はずか
騎士的 ﹂ とよばれる 。 そのひとは 、 騎 士の理想にしたがって行動しているからだ 。
でも ﹁
気高く勇敢な騎士

騎士がひとりの女性を愛すると、彼はその女性にふさわしくあることをこ ころに誓って
戦場に出かけ、その愛する女性の名を高めるためには、いかなる冒険をもおそれなか った。
その女性には 、 ただ畏敬の念をもって近づき、彼女の 命ず ることすべてを実行した 。 これ
もまた、 騎 士 道 に 生 き る も ののっとめであっ た。 そ して 今 日たとえばきみが 、ド アを聞け
てまず女性をとおす こと、あるいは、女性が何かを落とした らすぐさまそれをひろってあ
げ る こ と 、 こ れ ら を ご く 自 然 に す る こ と が で き た な ら 、 きみのなかにも、真の男は弱い者
を 守 り 、 女 性 に は 敬 意 を 払 う べ き と い う 、 かつての騎士道のかけらがまだのこっているの
3
29 だ。
平 和 な と き で も 騎 士 は 、 ト ー ナ メン ト (
馬上試合 )とよばれた騎士にふさわ しい技 くら
0

べで 、 彼 らの勇気と身のこなしのすばやさをほこった 。 この技くらべには 、各地 から多く


4
2

の騎 士 た ち が 、 み ず か ら の 力 を た め そ う と あ つ ま っ た 。 彼 ら は 、 完 全 な 武 装 姿 で 馬 に 乗
って向かい合い 、 先をにぶらせた槍をかまえて突進し、相手を馬から突き落とすことをき
ほうび
そ った。 勝者には、城主の妻か ら褒美がさずけられたが 、それは多く の場合 花輪であ った
図時
︹ 貴 婦 人 た ち の 愛 を 得 る た め に 騎 士 た ち は 、 ただ武技をみがくだけでなく、そのふ

︺は 、 節 度 を 守 り 、 気 品をもたねばならなか っ 。 荒くれの戦士にありがちな相手を
るまい た
罵 る こ と 、 悪 態 を つ く こ と は 、 げ ん に つ つ し ま ね ば な ら ず、 チ ェ ス と か 詩 作 と か 、 諸 種
ののし
の平和な 技 にも長けていなければならなかった 。
あ九
事 実 騎 士 は し ば し ば 、 愛 す る 女 性 の う つ く し さ 、 徳の高さを う た う す ぐ れ た 詩 人 で あ っ
た。 また人びとはよろこんで 、 かつての立派な騎士たちの行ないについてもうたい 、 耳 を
傾けた 。 そのようにしてこのころには 、 パ ルチフ ァル、 キリ ストが最後の 晩餐に 使 った聖
なる 杯 (グラ ル)を 守 る 騎 士 た ち 、 アル トゥ ス(ア │ サ │)王、ロ l エング リン 、 不幸な
恋に苦しむトリスタン 、 いやそればかりか 、 はるか遠いむかしのアレクサンドロス大王や
トロイア戦争さえもうた う、長大な叙事詩が つくられた。
国から園、城から城へと旅する吟遊詩人は 、 竜を殺す ジ1 クフリ 1 ト、 ベルンのデイ │
トリヒ、ゴ l ト族の王テオドリ ック の古い伝説をふたたびよみがえらせ 、 うたった 。 これ
2
41 二三 気高く勇敢な騎士

43 豪華な武具をまとった騎士 の勇 敢な競技にみとれる 貴婦人た ち。


ぎんゅうしじん
ら 吟 遊 詩人 の 作 品 か ら は じ め て わ た し た ち は 、 か つ て カ │ ル大帝が書き取 ら せ 、 そ し て う
42

し な わ れ て し ま った 古 い 物 語 が 、 ド ナ ウ 川 沿 い の オ ー ストリ ア地方でい かにうたわれてい


2

た か を 知 る こ と が で き る の だ 。 そ し て ﹃ ニ l ベルンゲンの 歌 ﹄(ジ 1F フリ lトに ついての


叙事詩はこの名でよばれた)を読めばきみは 、 ここでは 、か つ て の ゲ ル マ ン の 農 民 兵 士 が す
べて由 緒 正 し い 騎 士 に変えられ 、 あ の お そ ろ し い フ ン 族 の 王 ア ッ テ ィ ラ さ え も が 、 ジ ーク
フリl ト の 未 亡 人 ク リ ム ヒ ル ト と 、 ウ ィ ー ン で 華 燭 の 典 を あ げ る 勇 敢 で 気 高 い 騎 士 の 王
エツェルとしてうたわれていることを知るだろう。
き み も知 る よ う に 、 騎 士 の も っ と も 大 切 な つ と め は 、 神 と キ リ ス ト 教 徒 の た め に 戦 う こ
とであった。そして彼らは、 そのすばらしい機会を見つけた。エルサレムのキリストの墓
は、パレスティナ全域と同様アラビア人の、すなわち異教徒の手のなかにあった。そのこ
とを 、フ ラ ン ス の あ る 熱 狂 的 な 説 教 師 が 騎 士 た ち に 思 い出させ た 。 そ し て ド イ ツ の 王 た ち
を負か してキ リ ス ト 教 徒 の 強 力 な 支 配 者 と な っ て い た 教 皇 が 、 キ リ ス ト の墓の解放をねが
ったとき、 何 千 、 何 万 という騎士が﹁神のお召し﹂にこた与えて馳せ参じた。
O 九 六 年、 彼 ら は 、 フ ラ ン ス 人 の 領 主 ゴ ド フ ロ ア
一 ・ド ・ブ イ ヨ ン の 指 揮 の も と 、 ド ナ
ウ川 に 沿 っ て コ ン ス タ ン テ ィ ノ lプ ル へ 、 そ し て 小ア ジ ア を ぬ け て パ レ ス テ ィ ナ へ と 向 か
った。 騎 士 と 彼 らの 従 者 は 、 彼 ら の 衣 に 赤 い 布 の 十 字 を は り つ け て い た 。 彼 ら は 、 十 字 の
軍 隊 と よ ば れ た 。 か つ て キ リ ス トの十 字 架 が 立 っ て い た 地 の 解 放 を 目 指 し て い た の だ 。 た
4 長い、危険 と胃険にみちた行軍の目的地エルサレムを前にして敬 びかさなる苦難に 耐 え、 数 年に
わたる各 地 での戦 闘 ののち 、 よ
う や く エ ル サ レ ム の 城外にたど
り 着 い た と き 彼 ら は 、 聖書から
多くを知るこの聖なる都をいま
自の前にして 、 感 激 のあまり一仮
にくれ、大地にひれ伏し、それ
せ っぷん
に 接 吻 し た と い う 。 そして彼ら

皮な祈りをささげる十字軍の兵士たち。
は、 アラビア軍が勇敢 に守る城
を攻め 、 それをつ い に占領した
気高く勇敢な騎士

︹図 判 ︺

しかしそのエルサレムでの彼
ら の ふ る ま い は 、 けっして騎士 、
いやキリスト教徒らしいもので
はなかった 。 彼らは、すべての
イスラム教徒を虐殺し、ありと
43

4
2
あらゆる残酷な行為をした 。 そ
の あ と で 彼 ら は 罪 を 悔 い 、 裸 足 に な り 、 旧 約 聖 書 の ﹃ 詩 篇 ﹄ を く ち ず さ み な が ら 、 キリス
44

トの聖なる墓へと行進した。
2

十字 軍 は 、 キ リ ス ト 教 国 家 エ ル サ レ ム を 建 て 、 ゴ ド フ ロ ア ・ド ・守ブイヨンをその 統 治 者
と し た 。 し か し ヨ ー ロ ッ パ か ら 遠 く 離 れ 、 イ ス ラ ム 教 徒 に か こ ま れ た こ の 小 さな国は 、 絶
え ず ア ラ ビ ア 箪 に お び や か さ れ て い た 。 そ れ ゆ え フ ラ ン ス や ド イ ツ の 聖職者は、騎士たち
に く り か え し 新 し い 十 字 箪 の 遠 征 を う な が し た 。 そ の 遠征 軍 が 、 い つ も 成 果 を あ げ た わ け
ではなかった。
しかし十字軍の遠征は、騎士自身はけっしてのぞまなかった、ひとつの利益をもたらし
た 。 遠 い オ リ エ ン ト で キ リ ス ト 教 徒 は 、 ア ラ ビ ア 人 の 文 化 、 彼 ら の 建 築 、 彼 らの美の意識、
彼 ら の 学 聞 を 知 っ た の だ 。 そ して最初の十字軍からまだ一 OO年 も た た な い う ち に 、 は や
く も ア レ ク サ ン ド ロ ス 大 王 の 師、 ア リ ス ト テ レ ス の 書 物 は 、 ア ラ ビ ア 語 か ら ラ テ ン 語 に 翻
訳 さ れ 、 イ タ リ ア 、 フ ラ ン ス 、 ド イ ツ で 多 く の 人 に 読 ま れ 、 熱 心 に研究されはじめた 。 そ
して人びとは、 アリストテレスの理論がいかに教会の神学と一致するかを深く考え、この
問 題 に か ん す る 途 方 も な く 難 解 な 思 想 を つ め こ ん だ 分 厚 い ラ テ ン 語 の 書物 が 、 何 冊 も 世 に
出 た 。 か つ て ア ラ ビ ア 人 が 世 界 を 占 領 し た と き ま な び 経 験 し た こ と す べ て が 、 い ま 十字 軍
に よ っ て フ ラ ン ス や ド イ ツ に も た ら さ れ た の だ 。 敵 と さ れ て 戦 ったアラビア 人 が 手 木 と し
た も の 、 そ れ が 多 く の 点 で 、 馬 に ま た が る ヨ ー ロ ッパの荒くれの 戦 士 を い ま や 真 に 騎 士 ら
2
45 二三 気高く勇敢な騎士

しい騎 士に したのだ 。
46

騎士の 時 代 の皇 帝
2

この華やかな 、 冒険 にみちたおとぎ話の 時代、 ドイ ツでは 、 その居城からホ l エンシュ


タウフ ェンとよばれた 新 しい騎士の家系が 力 を つ け て い た 。 この家系から 出 たのが 、 赤み
を おび たう つ く し いブ ロンドのひげをもち 、 それ ゆ え に ﹁ 赤 ひげ のフリ ー ドリ ヒ﹂ とよば
れ た皇 帝 フリ ー ドリ ヒ 一世 である 。 イタ リ ア人 は、 彼 を ﹁フリ ー ド リヒ ・パルパロッサ ﹂
とよんだ 。 パル パ ロ ッサはイタ リ ア 語 で 赤 ひ げ で あ り 、 き み た ち も こ の 名 前 を 聞 いたこと
だろう 。 ドイツ 人 の皇帝である彼が 、 な ぜ ひ ろ く イ タ リ ア語のあだ名でよばれたの
がある 、
だ ろ う か 。 そ れ は 、 彼 が しば しばイタリア に滞 在 し
、 この 地 でも っともはなばなしく 活 躍
し たからなのだ 。 ドイツの王にロ 1 7皇 帝 の 冠 を さ ず け る 教 皇 の 力 だけが 、 パルパロ ッサ
を イタリ アにひきつ けた ので はない 。 じっ さ い 彼 は、イ タリア全 土を 支 配 しようと した の
だ。 彼は 、 ﹁お金﹂ が ほ し かっ た のだ 。﹁ ドイツ ではお金を 手 に入れるこ とがで き な か った
の?﹂ と、 き み は 疑 問 に思 う、だろう 。 そう 、 できなかっ たのだ 。 ドイ ツにはそのころ 、 貨
幣 と いう も のがまだなか ったのだ 。
き み は 、 な ぜ ひ と は 貨 幣 を 必 要 と す る の か 、 考えたことがあるかね。﹁もちろん生きる
ために﹂ときみは答えるだろう 。 しかしそれでは 、 正しい答えにはならない 。 きみだって、
金 貨 を 食 べ た こ と は な い だ ろ う。 も ち ろんひとは 、 パンやその 他 の食べ物で生きて いるの
であり、ただパンのための麦を自分で栽培する者が 、 ロビンソン ・クル │ ソーがそうであ
ったように、貨幣を必要としなくてすむのだ。もちろん、パンをただで得ることができる
者 も、 貨幣を必要としない 。 まさにこれが、当時のドイツにおける状況だった。土 地 にし
ばられた農民は土 地をたがやし、その土 地 の持ち主である騎士や修道院に、彼らの 収穫の
十分の一を税としておさめていたのだ 。
と こ ろ で 農 民 た ち は 、 彼 ら の 農 具、 仕 事 着、 馬 具 な ど を 、 ど こ か ら 手 に 入 れ た の だ ろ う
か。彼らは 、多くの場合それらを物々交換したのだ。たとえば 、 一頭の牡牛をもっ農夫が 、
おうし
騎士の時代の皇帝

仕 事 着 の た め の 羊 毛 を 得 る た め に 六 頭 の 羊 を 必 要 と す る と し よ う 。その とき 彼 は、 その
牡牛を隣人の羊と交換する 。 そ してこの隣人がその牡牛を食料に換え、その二本の角から、
長い冬の夜を使ってうつくしい角杯をつくったとする。そして彼はその角杯をさらに隣人
の畑でとれた亜麻と交換し、彼の妻はそれでマントを織ることができる。これが 、物 々 交
二四

換のしくみである。このように当時のドイツでは、貨幣がなくともすべてがうまく行って
いたのだ 。 な ぜなら、その住民のほとんどが農民か土 地所有者であ った からだ 。 修道院も
4
27
また、信 仰 のあつい人びとが寄付した多くの土 地をもっていた。
当時、ひろいド イ ツには 、 大きな森、 小 さ な 農 地 、 点 在 す る 村 落 、 城、 修道院以外、ほ
8

と ん ど 何 も な か っ た 。 都 市 と い う も の は 、 ほ と ん ど な か っ た 。 そして貨幣は 、 都 市 で の み
4
2

必要とされたのだ 。 靴 屋 、 織 物 商 人 、 物書 き は 、もちろん革、布、イ ンクで 飢 えや渇きを


癒 す こ と は で き な い 。 彼 ら は 、 パ ン を 必 要 と す る 。 靴 屋 に 行 ったきみが彼に 、 きみの靴の
か わ り に 彼 が 必 要 と す る パ ン を あ た え る こ と は で き な い 。 農夫でないきみは、 パンをどこ
から手に入れることができる 、
だろうか 。 も ち ろ ん 、 パ ン 屋 か ら だ 。 しかしその代わりにき
みは、 何 を パ ン 屋 に あ た え る こ と が で き る か ね ? も し か し た ら 、 彼の手伝いをすること
はできるかもしれない。しかし、彼がそれを必要としなかったらどうする?あるいはす
でにきみは 、八 百 屋 の 手 伝 い を しなければな ら な か っ た か も しれ ない。このように、もし
都 市 の 住 民 が 物 々交換 で 生 活 し よ う と し た な ら ば 、 そ れ は 想 像 がつかな いほどめんどうな
ことになるのだ。
そ こ で 人 び と は 、 交 換 の た め に 何 か特 別 なもの、だれもがもつこと、受け取ることをの
ぞみ、身に着けて運ぶこと、容易に分けることができるものを使うことで一致したのだ 。
しかもそれは 、 た く わ え て お い て も 腐 ら な い も の で な け れ ば な ら な い 。こ れらの条件にも
っとも適 合 す るもの 、 そ れ は 金 属 、 な か で も 金 と 銀 で あ っ た 。 は じ め の う ち す べ て の 貨 幣
は金属製で 、 金持ちといわれる人たちはつねに、金貨の入った袋を帯にぶらさげていた。
今日きみは、靴屋さんに靴の代わりにお金を払う。靴屋さんはそのお金でパンを買い、パ
ン屋さん はさら にそれを粉の 代 わりにお百 姓 さ ん に わ た す 。 そ し てお百姓さんは 、 もしか
したらきみのお金で 、 隣 の人とは 物 では交 換 できなかった新し い農 具 を 買 う ことができる
かもしれない 。
騎土の 時 代の ド イツには 、 都 市 と いう も の が ほ と ん ど な く 、し たがって人びとは 、 貨 幣
を 必 要 と し な か っ た 。 し か し イ タ リ ア で は 、 貨幣はロ 1 7時代 から 知 られていた。そこに
は 、 い く つ も の 大 き な 都 市 が あ り 、 多 く の 貨幣 を腰の袋に 、 ある いは頑丈で大きな長持に
しまう、ゆたかな商人たちがいた 。
多くの 都 市 は、 たとえば 、 も と も と は海 に固 まれた 、 かつてフン族に追われた人びとが
住 み つ い た 島 々 か ら な る ヴ ェ ネ ツ ィ ア の よ う に 、 海 に 面 し て 築 か れ て い た 。 このヴェネツ
ィアのほかにもジェノヴァ 、 ピサなど 、 いくつかのゆたかな港湾 都市 があり 、 市民とよば
騎士の時代の皇帝

れたその住民の 船 は、 はるか遠くにまで 出 か け 、 東 方 の 国 々 か ら う つ く し い 布 地 をはじめ、


、 高 価 な武器などを運んで いた。 そしてそれらの港で売買された品物は 、
めずらし い香 料
さらに 内 陸の 、 た と え ば フ ィ レ ン ツ で あ る い は ヴ エ ロ l ナ、あるいはミラノなどの諸都
市に運ばれ 、 そこで 布 地 からは衣 服 、 ある いは旗、ある いは天幕がつくられた 。 そ れ ら は

二四

そこからさらに 、 当 時 す で に そ の 首 都 パリの住民が一 O 万を超えていたフランス、あるい


はイングランド 、 あ る いはドイツへと売ら れ ていった。 し かしドイツに 向 かうものは多く
4
29
な か っ た 。 そ こ に は 、 それらの品 物 に支 払 う 貨幣 が ほ と ん ど な か っ た か ら だ 。
都 市 の住民は 、 ますますゆたかになってい った。そしてだれも彼らに命令できなか った。
0

なぜなら 、 彼 ら は 農 民 で は な く 、 土 地 に し ば ら れ て い な か ったからだ 。 また彼らは 、 だれ


5
2

にも土 地 を 貸 す こ と も な か った か ら 、 彼 ら の な か に 真 の 支 配 者 が あ ら わ れ る こ と も な か っ
た。 彼 ら は 、 ま さ に 古 代 の 場 合 と よ く 似 て 、 自 分 た ち で 政 治 、 裁 判 を 行 な い 、 彼 ら の 都 市
のなかにあ って は 、 修 道 士 や 騎 士 た ち と 同 じ く 、 だれにも支配されず自 由 であ った。 それ
ゆ え 都 市 の 住 民 、 す な わ ち 市 民 は 、 修 道 士 、 騎 士 と な ら ん で 、 第 三 身 分 と よ ば れ た 。 農民
は数えられなかったのだ 。
ここでようやく 、 貨 幣 を 必 要 と し た 皇 帝 フ リ ー ドリヒ ・パ ルパ ロ ッサの話にもどること
ができる 。 神 聖 ロ ! ? 帝 国 の 皇 帝 と し て 、 イタリアをもじ っさいに支配することをのぞん
だ彼は 、 イタリアの 都 市 の 住 民 か ら も 税 を 取 り 立 て よ う と し た 。 しかしイタリアの 市 民は
承知しなか った。 自 由 に 慣 れ た 市 民 は 、 自 由 の ま ま で あ る こ と を の ぞ ん だ 。 そこでパル パ
ロ ッサは 、 ア ル プ ス を 越 え て イ タ リ ア に 進 軍 し 、 一一五八年、 高 名 な 法 律 家 を 手 も と に あ
つめ 、 神 聖ロ 1 7帝国の皇帝は、古代ロ 1 7帝国皇帝の後継者として 、 彼 らが一 OOO年
前にも っていたす べ ての権利 を も っ 者 で あ る と 、 麗 々しくおおやけに宣言させた 。
れいれい
し か し イ タ リ ア の 諸 都 市 は 、 そ れ を 問 題 に せ ず 、 税 を 払 お う と し な か った。 そこで皇帝
は、 そ れ ら 諸 都 市、 と り わ け 反 抗 の 首 謀 格 で あ る ミ ラ ノ に 向 け て 軍 隊 を す す め た 。 そのと
しゅぼう
きのパルパロ ッサの怒りは激しく 、 彼 は 、 ミ ラ ノ が 征服 されるまでは皇帝の冠を頭にのせ
な い と 誓 っ た と い う 。 そ し て 彼 は 、 そ の 普 い を 守 っ た 。 ミラノが陥落し 、 完 全 に 破 媛 さ れ
うたげ
たとき、はじめて彼は盛大な宴を催し、その席に彼と彼の妻は、頭に冠をのせてあらわれ
たという。
たしかに 、 パルパロ ッサ の 軍 事 上 の 成 果 は は な ば な し い も の で あ った。 しかし、彼がイ
タリアを背にして 故 郷 に向 かうと 、 たちまちイタリアは大混乱におちい った。 ミラノの市
民 は 都 市 を 建 て な お し 、 ま た も や ド イ ツ 皇 帝 を 無 視 し た 。パ ルパ ロ ッサは 、 生涯で六度イ
タ リ ア に 軍 を す す め る こ と に な ったが、結局彼は 、 軍 事 的 名 声 以 上 の 成 果 を あ げ る こ と は
できなか った。
彼は 、 騎 士 の か が み と い わ れ た 。 体 力 だ け で な く 、 すべての面でぬきん で ていた 。 気前
がよく 、 祭 典 に は 賛 を 尽 く す こ と を 惜 し ま な か っ た 。 今日のわたしたちは 、 当時の真の祭
ぜい
騎士の時代の皇帝

典 が ど ん な も の で あ った か も は や 知 る こ と が で き な い 。 そのころ、日々の生活はいまにく
ら べ れ ば 貧 し く 、 単 調 な も の で あ っ た 。 だ か ら こ そ 祭 典 は 、 ことばにならないほど賛沢で
活 気 に み ち 、 ま さ に お と ぎ 話 の 世 界 の そ れ で あ った。 たとえば一一八 一年 フリー ドリヒ ・
パ ルパ ロ ッサが 、 息 子 た ち の 騎 士 叙 任 に さ い し て マ イ ン ツで 催 し た 祭 典 。 この祭典には
二凹

客として 、 四 万 の 騎 士 が そ の 家 来 や 下 僕 を ひ き つ れ て 参 加 し た ︹図必 彼らは色とりど




りの天幕を張り 、 そ の 宿 営 地 の中央に張 ら れ た も っとも大きな絹製の天幕に、 皇 帝は息子
5
21
た ち と と も に 陣取 った 。 か が り 火 は い た る と こ ろ に 燃 え 、 その上で牛やイノ シシ が丸ごと、
2
52

45 <'インツのトーナメント。皇帝パルパロッサが息子たちの騎士叙
任を祝 って催した。
数 え 切 れ な い 鶏 が 串 に 刺 さ れ て 、 焼 か れ た 。 そ し て 人 び と は 、 世 界 の あ り と あ ら ゆ る 地域
の 民 族 衣 装 で 着 飾 り 、 奇 術 師 や曲 芸 師 は 得 意 な 技 を き そ い 、 毎 夜 の 宴 の 席 で は 、 放 浪 の詩
人 た ち が う つ く し い 古 い 伝 説 を う た っ て き か せ た 。 そのようすは 、 じつにすばらしいもの
で あ っ た に ち が い な い 。 皇 帝 自 身 は 、 息 子 た ち と と も に 馬 上 試 合 で そ の 力 を 示 し 、 それを
帝 国 じ ゅ う の 貴 人 た ち が 見 物 し た 。 こ の 祭 典 は 何 回 も つ づ き、 そ れ は の ち の ち ま で 歌 謡 の
なかでうたわれた 。
真 の 騎 士 と し て 、 フ リ ー ドリヒ ・パ ルパ ロ ッサ も 十 字 軍 の 遠 征 に 加 わ る こ と に な った。
それは 、 一 一 八 九 年 の 第 三 回 十 字 軍 で あ った。 これには 、 イ ング ラ ンドのリチャ lド獅子
王と フラ ンス の王 フ ィリ ップ も参 加 し た 。 後 の 両 者 は 海 路 を と ったが、 パ ルバ ロ ッサは陸
路 を す す み 、 そ の 途 中 に小ア ジ ア の あ る 川 で 溺 死 し た 。
できし
時代の皇帝

同じく フリー ド リ ヒ と よ ば れ た パ ルパ ロ ッサの孫、 すなわちホ l エ ンシュ タウ フェ ン家


のフリードリヒ二 世 は 、 祖 父 以 上 に 風 変 わ り で 偉 大 で 感 嘆 に あ た い す る 人 物 で あ った。 彼
騎士のl

は シチリアで育 った が 、 彼 が ま だ 幼 く 自 分 で 政 治 を 執 れ な い と き 、 ドイ ツでは有力な家族
の あ い だ で 権 力 を め ぐ る 争 い が あ い つ い だ 。 彼らの 一派は 、 パルパ ロ ッサと 血 のつながり
二四

のあるフ ィリ ップ を 王 に え ら び 、 他 の 一派は 、 ヴ ェルフ ェン 家のオ ットーを頭領に 抑 し立


てた 。 そして 、 た が い に あ い ゆ ず ら な い 彼 ら は、 こ と あ る ご と に 争 い を く り か え し て い た 。
5
23
あ る 者 が フ ィリ ップ に 味 方 す る と 、 ま さ に そ の 理 由 が た め に 、 そ の 隣 人 は オ ットl 側 に
ついた 。 こ の イ タ リ ア で ゲ ル フ 党、 ギ ペ リ ン 党 と よ ば れ た 両 派 の 奇 妙 な 争 い の な ら わ し は 、
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フィリップとオット ー が い な く な っ て か ら も 長 い あ い だ つ づ い た 。
2

そ の 聞 に 、 フ リ ー ド リ ヒ は シチ リ ア で 成 長 し て い た 。 い や 、 姿 か た ち だ け で な く 、 精 神
的 に も 大 い に成 長 し ていた 。 彼 の 後 見 人 は 、 歴 史 上 も っと も 注 目 す べ き 人 物 の ひ と り で
こうけんにん
あ る 教 皇 イ ンノケ ンティウ ス三 世 であ った。 か つ て ド イ ツ 王 ハ イ ン リ ヒ 四世 の偉大な 敵 対
者 で あ っ た グ レ ゴ リ ウ ス 七 世 が の ぞ ん だ こ と 、 目 指 したことを 、 このインノケンティウス
三世 は つ い に 成 し と げ た 。 文 字 ど お り 、 全 キ リ ス ト 教 徒 の 最 高 の 権 威 に の ぼ り つ め た の だ 。
た ぐ い の な い ほ ど 賢 明 で 教 養 の あ る こ の 教 皇 は 、 聖 職 者 だ け で な く 、 全ヨーロ ッパ の君主
を も 支配 し た の だ 。 そ の 権 勢 は イ ン グ ラ ン ド に ま で お よ び 、 イ ング ランド王 ジ ョンが彼の
意 に し た が わ な か った と き に は 、 教 皇 は 王 を 破 門し、 すべての 司祭 に イ ン グ ラ ンドでのミ
サを禁じた 。 このことでイ ング ラ ンド の 貴 族 た ち は 王 に 対 す る 怒 り を 爆 発 さ せ 、 王からほ
と ん ど す べ て の 権 力 を 取 り 上 げ た 。 そ こ で 二 二 五 年、 王 ジ ョンは 、 以後 は 貴 族 た ち の 意
に 反 し た こ と は 行 な わ な い こ と を お ご そ か な 儀 式 で も って 約 束 し な け れ ば な ら な か った。
これが 、イ ン グ ラ ン ド 王 が 貴 族 や 騎 土 と 交 わ し た ﹁
大いなる約束﹂あるいは﹁大いなる手
紙﹂(ラテン 語で ﹁7グナ ・カルタ 乙 である 。 そ こ に は 、 王 が 貴 族 た ち に 多 く の 権 利 を 永 遠
に ゆ ず り わ た す こ と が 書 か れ て お り 、 そ し て そ の 権 利 は、 今 日な お イ ギ リ ス の 市 民 が 有 す
る も の と な って いる。 し か し こ れ 以 後 イ ン グ ラ ン ド は 、 教 皇 イ ン ノ ケ ン テ ィウス 三世 に税
と 貢 物 を お さ め る 義 務 を 負 う こ と に な っ た 。 教 皇 の 力 は 、 それほどまでにつよかったのだ。
しかし、ホ l エ ン シ ュ タ ウ フ ェ ン 家 の 若 い フ リ l ド リ ヒ 二 世 も ま た 、 た ぐ い の な い ほ ど
賢 明 で 、 し か も 魅 力 あ る 人 物 で あ っ た 。 ド イ ツ の 王 と な る た め に 彼 は 、 ほとんど供を連れ
ず シ チ リ ア を 出 て 、 い く た の 危 険 に あ い な が ら も 馬 を す す め 、 イタリアをぬけ、スイスの
山 な み を こ え 、 コ ン ス タ ン ツ に 向 か っ た 。 彼 の 敵、 ヴ ェ ル フ ェ ン 家 の オ ッ ト l も ま た 、 彼
を 迎 え う つ た め に 軍 を す す め た 。 フ リ 1 ド リ ヒ に 勝 ち 目 は ほ と ん ど な か った。 しかしコン
ス タ ン ツ の 市 民 を は じ め 、 フ リ ー ド リ ヒ に 会 い 、 彼 を 知 った す べ て の ひ と は 、 そ の 人 間 性
に魅了さ れ 、 彼 の 味 方 に つ き 、 コ ン ス タ ン ツ の す べ て の 城 門 を 閉 じ た 。 そ れ ゆ え 、 一時 間
お く れ て 到 着 し た オ ット ! 軍 は 、 や む を え ず 引 き 返 さ ね ば な ら な か っ た 。
結 局 フ リ l ド リ ヒ は 、 ド イ ツ の す べ て の 大 公 を 味 方 に つ け 、 い っ き ょ に 強 力 な 支配 者 と
騎士の時代の皇帝

な った。 ド イ ツ と イ タ リ ア の 封 建 君 主 の 上 に 立 った の で あ る 。 こ こ に ま た も や 、 かつての
教皇グレゴリウス七世とハインリヒ四世と同じく、ふたつの勢力のあいだの戦いがはじま
った。 しかし フリ ー ド リ ヒ は 、 ハ イ ン リ ヒ 四 世 で は な か っ た 。 彼 は 、 カ ノ ッサに向かうこ
と な く 、 教 皇 の 前 で 悔 い あ ら た め る こ と も な か った。 イ ン ノ ケ ン テ ィ ウ ス 三 世 が 信 じ て い
二凹

たように、彼もまた、世界を支配することが自分に課せられた任務であるとかたく信じて
いた 。 イ ン ノ ケ ン テ ィ ウ ス は 彼 の 後 見 人 で あ っ た か ら 、 彼は 、 イ ン ノ ケ ン テ ィ ウ ス が 知 っ
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25
ていることすべてを知っていた 。 家系はドイツ人であったから彼は、ドイツ人が知ってい
る こ と す べ て を 知 っていた 。 そしてさらに、 シチ リ ア に 育 っ た の で あ る か ら 、 シチリアの
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ア ラ ビ ア 人 が 知 っ て いることすべて を 知 っ て い た 。 王 に な っ た の ち も 彼は、 シチ リ アを 彼
2

の根拠 地 と し た 。 そ し て そ こ で 彼 は、 世 界 の他 の ど こ よ り も 多 く の こ と を まなぶことがで
きた。
シチリアは 、 そ れ ま で に多 く の 民 族 、 フ ェ ニ キア人、 ギリシア 人、 カルタ ゴ人 、 ロ17
人、 ア ラ ビ ア 人 、 ノルマン人、イ タ リ ア 人、 ド イ ツ 人 に 支 配 さ れ て き た 。 そ し て こ の 後、
フランス人もやってくる。まさに諸言語のるつぼ 、 バベルの塔である。ただちがうのは 、
パベルの 人 び と は た が い の こ と ば を 理 解 す る こ と が で き な か ったが 、 フ リ ー ド リ ヒ は ほ と
んどすべてのことばを理解することができた。ことばだけではない。彼は詩をつくること
も で き 、 ま た 狩 り に も 並 は ず れ た 技 を 示 し た 。 当 時 は 院 を 使 っ て 狩 り を し た が 、 彼 には臆
たか
狩 り に 関 する著述もあった。
し か し 彼 の 関 心 は 、 と り わ け 宗 教 に 向 け ら れ た 。なぜひとはたえず争うの か、それが彼
にはわからなかった。彼は敬虚なキリスト教徒であったが、イスラム教徒の学者と好んで
討 論 し た 。 そ れ を 知 っ た 教 皇、 と く に イ ン ノ ケ ン テ ィ ウ ス の 後 を 継い だクレゴ リウス九 世
は、彼に対する敵意をますますつよめた 。 この教皇もまた強い力をもっていたが、前任者
ほど賢 明 で は な か っ た と 思 われる。 彼 は、 く り か え し フ リ ー ド リ ヒ に 十 字 軍 の 遠 征 を せ ま
った。 そ し て 結 局 フ リ ー ドリ ヒ二世 も 遠 征 に 向 かったが 、 彼 の十字 軍 は 、 そ れ ま で の 遠 征
が 莫 大 な 犠 牲 の も と で よ う や く 勝 ち 取 っ た も の を 戦 うことなく手に入れた。キリスト教の
巡 礼 者 が じ ゃ ま さ れ る こ と な く 聖 な る 墓 に 参 拝 で き る こ と 、 エルサレム周辺のすべての国
が キ リ ス ト 教 徒 の 支 配 下 に 置 か れ る こ と が 約 束 さ れ た の で あ る 。 フ リ ー ドリヒは、その地
のカリフやスルタンと話し合い 、 協 約 をむすぶことで 、 この成果を得たのであった 。
両 者 は 、 戦 う こ と な く こ と が 運 ん だ こ と を よ ろ こ ん だ 。 しかし、相談を う けなか ったエ
ルサレムの司教は 、 不愉快に思い 、 皇 帝 と ア ラ ビ ア 人 の あ い だ が あ ま り に 良 す ぎ る と 、 教
皇 に訴えた 。 つ い に 教 皇 は 、 皇 帝 が ほ ん と う に イ ス ラ ム 教 徒 に な った と 思 い 彼 を 破 門し た。
しかし皇帝フリ ードリヒ 二世にとって 、 そ れ は た い し た 問 題 で は な か っ た 。 自分がキリス
ト 教 徒 の た め に こ れ ま で に な い 利 益 を も た ら し た と 確 信 し て い た 彼 は 、 エルサレム王の冠
を 自 分 の 手 で 頭 に の せ た 。 フリ l ドリヒ は、 教 皇 の 意 に さ か ら う 勇 気 を も っ 司 祭 を 見 つ け
騎士の時代の皇帝

ることができなか ったのだ 。
皇 帝 は 、 海 路 を 故 郷 に 向 か ったが 、 その船には 、 狩 り 用 の ヒ ョ ウ 、 ラクダ 、 色 とりどり
の宝 石、その 他 あ り と あ ら ゆ る 珍 し い 品 々 が 、 ス ル タ ンか ら の 贈 り 物 と し て 積 み 込 ま れ て
いた 。 フリ ー ドリヒは 、 そ れ ら の 品 々 を シチリアにあつめ 、 ま た す ぐ れ た 芸 術家 た ち を ま
二四

ねき 、 政 治 に 疲 れ た こ こ ろ を 珍 し い も の 、 う つ く し い も の で な ぐ さ め た 。 彼は 、 文字どお
り政 治にはげんだ。 封土 の制 度 は、 彼 に は 気 に 入 ら な か っ た 。 そ れ に 代 わ っ て 彼 は 、 役人
5
27
を 登 用 し た 。 役 人 に は 、 土 地 で は な く 給 金 が 払 わ れ た 。 きみは 、 こ れ が す で に 貨幣 の存在
し た イ タ リ ア で の こ と で あ る こ と を 忘 れ て は な ら な い 。 フリ ー ドリ ヒ二世 は 、 非 常 に公平
8

であったが 、 また厳 格 でもあった。


5
2

フリ ー ド リ ヒ は 、 当 時 の人 間 と は あ ま り に も ちがって いたため 、 彼 が 何 を の ぞ ん でいる


のか 、 そ れ を 正 し く 理 解 す る 者 は い な か った。 も ち ろ ん 教 皇 は 、 理 解 できなか った。 そし
て、 遠く 離 れ た ド イ ツ で は 、 人 び と の こ こ ろ は し だ い に 、 あ ま り に も 奇 抜 な 思 い つ き を す
るこの 風変 わ り な 皇 帝 か ら 離 れてい った。 だ れ に も 理 解 さ れ な い の で あ る か ら 、 彼 の生活
は つ ら い も の と な った。 ド イ ツ で は 、 息 子 ま で が 彼 への謀反をあおり、 シチ リアでは 、 も
むほん
っと も 信 頼 し て い た 側 近 が 教 皇 側 に寝返 った。フ リー ド リ ヒ は 、 ま ったく孤独にな った。
彼は、世界を革新しよ うとする 、 その多くは真にすばらしい理念をもはや実行にうっすこ
とができなか った。 境 遇 は ま す ま す 悪 く な り 、 彼 は し だ い に 気むずかしい男になっていっ
た。 そして彼は、 二一五O 年に 世 を去 った。
彼の息子マ ンフレ yドは 、 若 く し て 権 力 を め ぐ る 争 い の な か で 死 ん だ 。 そしてフリ ード
リヒの孫コ ンラディンは 、 あ ろ う こ と か 敵 に 捕 らえられ 、 二四歳でナポリ で首をはねられ
た。 これが 、 偉 大 な る 騎 士 の 王 家 ホl エ ン シ ュ タ ウ フ ェ ン の 悲 し い 終 鷲 で あ っ た 。
しゅうえん
はけん
まだフリl ド リ ヒ 二 世 が シ チ リ ア で 統 治 に は げ み 、 教 皇 と 覇 権 を 争 って いたころ、とつ
ぜ ん 、 た が い に い が み 合 う 両 者 に は 対 抗 も し よ うのない 、 おそろしい不幸がヨ ー ロ ッパ に
お そ い か か っ た 。 ま た も や ア ジ ア か ら 、 騎 馬 軍 団 が 侵 攻 し て き た の だ 。 それは 、 これまで
以 上 に 強 力 な 軍 団 で あ っ た 。 秦 の 始 皇 帝 の 長 城 で す ら 、 彼 ら を せ き 止めることはできなか
った 。 王ジンギス ・カl ン (チンギス ・ハl ン) に ひ き い ら れ た 彼 らは 、 ま ず 中 国 におそ
いかかり 、 その 地 を 残 酷 な ま で に 略奪し た。つづいてペルシアが 、 同 じ 運 命 にあった。そ
れ か ら 彼 ら は 、 か つ て フ ン 族、 アヴァ l ル 人 、 マ ジ ャ │ ル 人 が た ど った道をとり、ヨ ー
ロ ッパへ 向か った。 彼 らは 、 ハンガリ ー、 そ し て ポ ー ラ ン ド を す さ ま じ い ま で に 荒 ら し
た。 ついに二一四一年、 ド イ ツ と の 境 プ レ ス ラ ウ に い た り 、町 を占領し焼き 払 った ︹ 図必


彼 ら が 通 っ た と こ ろ で は 、 す べ て の 人 聞 が 殺 さ れ た 。 だれも、生きのびることはできなか
った。 彼 ら の 帝 国 は す で に 、 世 界 が 知 る 最 大 の も の と な っていた 。 考えてもごらん 、 東は
北京、西 はプレスラウまでだ。しかも彼らの軍隊は、けっしてたんなる荒くれどもの集団
ではなく 、 戦 術 に た け た 指 揮 者 を も っ、 訓 練 のゆきとどいた戦士団であった 。 彼らの前に
騎士の時代の皇帝

あ っては 、 キ リ ス ト 教 徒 は ま っ た く 無 力 で あ っ た 。 あ る ひ と つ の 大 き な 騎 士 団 も、 あ え な
く打ち負かされてしまった 。 もはやこれまでと思われたまさにそのとき、彼らの首領がシ
ベリアのどこかで死に 、 モ ン ゴ ル の 戦 士 た ち は 引 き 返 し て い っ た 。 し か し 彼 ら の 通 過 し た
国 々は、 荒 廃 のままのこされた 。
二四

ドイツでは 、 ホl エンシュタウフェン家の終駕 以 後 、 こ れ ま でにない混乱が起こ ってい


た。 だ れ も が 、 そ れ ぞ れ ち が う 人 物 を 王 に し よ う と し 、 そ の た め 、 だれもが王になれなか
5
29
った 。 王 あ る い は 皇 帝 の 位 が 空 で 、 統 治 す る 者 が い な い の で あ る か ら 、 ま っ た く 無 秩 序 の
2
60

シベリア

中国
アトラスの海

表インド
(
インド)

モ ンゴ ノレの大 帝 国。
2
61 二四騎士の時代の皇帝

アフリカ

インドの海

4
6 プレスラウの破壊後、 全ヨーロッパを恐怖 におとしいれた
混 乱 が 生 じ た の だ 。 た だ 強 い 者 が 、 弱 い 者 か ら す べ て を 奪 うので ある 。 こ れ を人は 、 ﹁

62

者の正義﹂あるいは﹁こぶしの正義﹂とよんだ。人びとはたがいに、ただこぶし(武力)
2

で つ か み 合 い を す る か ら だ 。 し か し き み も 知 る よ う に 、 ﹁こぶ し の 正 義 ﹂はけっして 正 義
ではない。反対に不正である。
そのことは 、 当 時 の 人 び と も よ く 知 っ て い た 。 彼 ら は 悲 し み 、 絶 望 し 、 む か し が よ み が
え る こ と を 願 った 。 し か し 願 い は と き ど き 、 夢 に あ ら わ れ る 。 そ し て 人 は 、 つ い に は そ れ
が 真 実 だ と 思 い こ ん で し ま う 。 そ の よ う に して人びとは、ホ l エンシュタウフェン家の皇
帝 フリー ド リ ヒ は 死 ん だ の で は な く 、 た だ 魔 法 に か け られ 、 山 の な か に 座 し 、 待 って いる
の だ と 信 じ る よ う に な っ た 。 そ の さ い 、 奇 妙 な こ と が 起 こ っ た 。 お そ ら く き み も、 夢のな
か で ひ と り の 人 聞 が と つ ぜ ん 他 の 人 間 と 入 れ 替 わ る 、 あ る い は ふたりの人 聞がい っしょ に
な る 、 と い っ た こ と を 経 験 し た こ と が あ る の で は な い か ね。当時の人びとにも、同じこ
とが起こったのだ。彼らは、ウンテルスペルクあるいはキュフホイゼルの山のなかに座し、
人びとが彼ののぞむことを理解したときふたたび世にあらわれる偉大で賢明で公平な支配
者 (すなわちシチ リアのフリ lドリヒ二世)を夢に見た。しかし同時に彼らの夢のなかでは、
ごうけっ
そ の 支 配 者 は 武 勇 に す ぐ れ た 豪 傑 で 立 派 な ひ げ を も ち (すなわちパルパ ロッサとよばれたフ
リードリヒ一世)、 あ ら ゆ る 敵 を 打 ち 負 か し 、 偉 大 な 、 そしてあのマインツの祝賀祭のよう
に 華 や か な 帝 国 を 築 く の で あ った。
状 況 が 悪 く な れ ば な る ほ ど 、 人 び と は 奇 跡 を 期 待 し た 。 彼 ら は 、 山 のなかに座す皇帝を
こころにえがいた 。 皇帝の 眠 り は あ ま り に も 長 く 、 そ の 赤 い 、 燃 えるようなひげは 、 すで
OO年ごとに彼はめざめ、従土たちにカラス
に石のテ ー ブ ルを突き抜けてのびている 。 一
はまだ 山 の ま わ り を 飛 ん で い る か と き く 。﹁ いいえご主人さま、 一羽 も 見 え ま せ ん ﹂ と従
土 が 答 え た と き 、 は じ め て 彼 は 起 き あ が り 、 ひげが突き抜けてのびていたテ ーブ ルを剣で
割り、閉じ込められていた山を砕き、みごとな武百六で身をかため 、 家 来 を 引 き 連 れ 馬 で 駆
け 下 り て く る の だ 。 ー !と こ ろ で き み は 、 彼 が 今 日 、 目 を さ ま す と は 思 わ な い か ね 。
しかし結局、 世界に ふ た た び 秩 序 を も た ら し た の は 、 そ の よ う な 奇 跡 で は な く 、 活力に
みち 、 世 事 に 長 け、 先 見 の 明 の あ る ひ と り の 騎 士 、 ハ プ ス ブ ル ク の ル ド ル フであ った。 彼
の スイ スの城は 、 ペフスブルク (
鷹の滅 ) と よ ば れ て い た 。 一二七三年 、 大公たちは彼を
騎士の時代の皇帝

王 に え ら ん だ 。 貧 し く 無 名 の 騎 土 で あ る 彼 が 、 自 分 た ち の や る こ と に 口出しすることは な
いだろ うと考えたのだ。 しかし大公たちは、 ルド ルフの 賢 さ と す ぐ れ た 政 治 力 を 見 あ や ま
った 。 たしかにルドルフは 、はじめ のうちこそ 所 有 す る 土 地 は 少 なく、 した が って力もな
すべ
か った。 しかし彼は 、 彼 の土 地 をふや し
、 それとともに 彼 の力を大きくする術を知 ってい
二四

た。
反 抗 的 なボヘミアの王オ ット カルに対して戦争を しかけ、打 ち破ったときルドルフは 、
6
23
その領土の一部をうばい、王の当然の権利としてそれを自分のものとした。二一八二年、
彼はその土地を自分の息子たちに封土し
7 中世の都市は外に向か つて堅固な壁で守られていた。中央部分の
4

γ λ のそンサンミッ
6

た。オ ー ストリアである。このようにし
2

て、 ス イ ス の 城 か ら ハ プ ス ブ ル ク と よ ば
れ た 彼 の 家 系 は 、 大 き な 力 を 得 た 。 そし
てこのハプスブルク家は、 血族へのさら
なる封土 、 結 婚、 遺 産 相 続 な ど に よ っ て

高みには巨大な聖堂がそびえた って いた。(フラ
ま す ま す 勢 力 を 大 き く し 、 やがてヨ ー ロ
ッパでもっとも有力で影響力をもっ大公
家 の ひ と つ に な っ た 。 この家系からはド
イ ツ の 王 や 皇 帝 が 生 ま れ た が 、 それでも
彼 ら の 支配が、彼らの家族の領土、すな
わちオース ト リアの範囲を超えてドイツ
帝 国 に お よ ぶ こ と は な か っ た 。 そこでは
他 の貴族や司教などが、やがてほとんど
りょうほう︿ん
絶対的な力をもっ領土の主人 (
領 邦君

シェノレ)
主)として 、 そ れ ぞ れ の 領 地 を 統 治 し て

4
いた ︹
図幻 し か し 真 の 騎 士 の 時 代 は、


ホー エンシュタウフェン家とともに終わっていたのだ。
下巻につづく )
(
騎士の時代の皇帝
二四
6
25
本位は『若い読者のため の 世界史~ (
200
4年1
2月、中央公論美術出版)
を上下 に分冊 したも のです。

本文挿絵 フ ラ ソ ツ ・カ ッ ツ ア ー

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byErn stGomb r
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Copyright@DuMontBuc hve
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.Koln.
1985
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tioncopyrigh
t@2012byChuokoron-
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年 4月25日 初版発行
2012

著 エルンスト. H. ゴンブ リッチ


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訳 者 中山典夫
発行者 小 林 敬和
発行所 中央公論新社
干I似 8
320 東京都中央区京橋2-8-7
電 話 販 売 03-3563 -1431 編集 03-3563
-3692
URLhttp://www.chuko.co.jp/

DTP ハンス ーミケ


印刷 凸 版 印 刷 (本文)
三晃印刷 (
カバー )
製 本 小泉製本

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