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6-8 世紀 Kapisi-Kabul-Zabul の貨幣と發行者 (6-8 seiki Kapisi-Kabul-Zabul no kahei to hakkōsha Coins and Rulers in the 6th-8th Century Kapisi-Kabul-Ghazni Regions, Afghanistan
6-8 世紀 Kapisi-Kabul-Zabul の貨幣と發行者 (6-8 seiki Kapisi-Kabul-Zabul no kahei to hakkōsha Coins and Rulers in the 6th-8th Century Kapisi-Kabul-Ghazni Regions, Afghanistan
AUTHOR(S):
桑山, 正進
CITATION:
桑山, 正進. 6 - 8世紀Kapisi - Kabul - Zabulの貨幣と發行者. 東方學報
1993, 65: 371-430
ISSUE DATE:
1993-03-30
URL:
https://doi.org/10.14989/66741
RIGHT:
東方学報 京都第6
5析(
199
3):4
30-3
81亘 ・囲版
6I 8世紀K豆pi
畠i-
K豆bu1
- の貨幣 と発行者
Z豆bul
桑 山 正 進
Ⅰ. 貨幣蹄展の再検討
1.蹄展の規準に封する問題
2.昔該地域の歴史に封する理解
3.分類基準 と貨幣の席展
世紀における Hi
Ⅱ.6 ndukus
h 山脈南北の動静
Ⅲ.6-7世紀 における K豆bul河流域支配者の貨幣
1.Khi
ngal王朝
2.K豆pi畠
i-Khl
ngal朝の貨幣
Ⅳ.Kabulの突厭王朝 とその血族
1.突蕨栴坂の出現
2.K豆bulの突廠
3.慧超博の阿邪 と Bi
r屯niの Bar
haTe
gin
4.烏散特勤雇 とRTBYL
v.7
-8世紀 における突蕨王朝の貨幣
1.Kapi
畠i朝下 K豆bulの支配者 Bar
haTe
gin の貨幣
2.初代 K豆bulSh豆h としての Bar
haTegin の貨幣
3.第 2代 K豆bulSh豆h の烏散特勤演時代 (C.728-C.
738
) の貨幣
4.第 2代 K豆bulSh豆h の葛羅達支持勤時代 (
C.6
83-C.7
28)の貨幣
5.第 3代 KabulSh豆h排萩層裟 Fr
om Ke
sar
o(C.
738-C.
745
)の貨幣
6.第 4代 K豆bulSh豆h勃旬準 (
C,7
45-?
)の貨幣
7.RTBYL I世 (?) (
C.6
80-C.
686
/7)馨行の貨幣
Ⅰ.貨幣轟属の再検討
1.蹄 属 の規 準 に封 す る問題
Hi
ndukus
h山脈 南 麓 の Par
aw豆n地 方 か ら K豆bulを経 て Ghaz
n王地 方 に いた る南 北二 百 数 十
キ ロの地 域 はイ ン ドと中央 ア ジアを む す ぶ 中間地 鮎 に位 置 して い る。一 大 遊 牧 国 家 エ フ タル
が 6世 紀 中葉 に勢 力 を失 墜 した の ち, 交 通 路 の遷 移 に従 って K豆pi
畠iを根 接 と し,Khi
ng豆1を
始 祖 とす る土 着 の王 朝 が興 起 した。 7世 紀 後半 に な る と政 標 は K豆pl
畠iの 南 彊 K豆bulを根 按
とす る Tt
irkの KJ
abulShah王 朝 に移 り,南 方 に位 置 す る Zabul
isan (
t 現 Ghaz
nL
l地 方 ) の支
配 者 と深 い関係 を もちっ っ , 9世 紀 に Br
ahmani
sm を奉 じた王 朝 にか わ るまで 存績 した。 時
〔1〕 4
30
東 方 学 報
はあたか も Ar
ab-
Mus
lim の北上す る時代 に嘗 り, これ らの政 権 はか れ らとの抗 撃 を僚 儀 な
くされ たが, イ ン ドと中央 アジア と撃方 か ら動 く遠距離貿易 を背景 に係数 , ヒ ン ドゥ-教 を
護持 し, そ の遮速 は2
0世紀初頭 か ら考古学 の封象 とな って いるo Lか しこの地 域 の 6- 9世
貨幣 の替行者 (
支配者) を同定 して歴 史 に封磨 させ る手磨 きの規準 は嘗 該 の歴 史 を ど う捉
え るか で あ る。 歴 史 の 認 識 が 異 な れ ば貨 幣 の塵 展 や動 向 も巣 な る 。 Robe
rt G8blの
Do
hume
nteZ
urGe
ぶChi
cht
ede
rIr
aZi
isc
henHu
花花e
7ii
nBa
如ri
enu
7%dI
Ti
die
n (Wi
esbad
en,
1
967
) は Hi
ndukus
h南麓地方 の貨幣資 料 を逐一収集 して 3世紀 か ら 8世紀 にわた る支 配者 に
わ りつ け,貨幣蓉行 の歴史 をは じめて明 らか に した。GE
5blの貨幣衆成 と分類 はあま りに も膨
大 かつ詳細 にわた り,飴人 の追 随 を許 さぬ ごと く襲 え る。 しか し筆者 が従 前 検 討 を重 ねて き
た 6世紀 か ら 8世紀 に至 る f
ii h南北 に桶す る歴史 は G6blが貨 幣 分 類 の規 準 にお いた
ndukus
㌔ 特 にエ フタル とその後 に関 す る f
歴 史 とは根底 か ら異 な って いる(
1 iindukus
h南 麓 の歴 史 に
つ いて はいまやおお さな改訂 を要 す る。本論 の主 旨はこの改訂 に沿 った支 配 者 の動 向 に した
改訂 の要鮎 は Ge
schi
cht
ede
rlr
ani
sche
nHunne
nとい う書名 にあ らわれて い る。 7世紀終
末 か ら 9世紀前年 にお け る K瓦bul河 流 域 お よび Zabul
ist
豆nの歴 史 の立 役 者 は G6blの い う
i
Tani
scheHl
lnne
n,つ ま りいわ ゆ るエ フ タルで はな く, す くな くと も突 厳 で あ り,i
ran系
Hunに開聯 した従来 の思 い込 み にG6blが と らわれてい ることで あ る O エ フ タル の動 向 に関
鹿 であ る To
khar
ist
瓦nか ら山脈 を越 えて南方 へ進 出 して Kapi
畠i,kabul
,Z的 ul
ist
豆nな どア
フガニス タン東部 を手中 にお さめ, そ こを足掛 か りにイ ン ド亜大陸北 西部 に侵 入 し, 中部 イ
ン ドを も席捲, さ らに Kas
hmi
rを占接 し, 6世紀後牛 に山脈 の北麓 の主要勢 力 が西実験 の造
出 によ って分解 したのち も,南麓全域 にわた って エ フタル後 衛 は割接 し, 歴 史 の舞 壷 の三 役
で あ った と。
エ フタルが Z豆bt
il
ist
豆nを占擾 したとす る根接 は寮 はそれ ほど しっか り した もので はない。
エ フ タル の あ る種 の貨 幣 に Sahij
auv
la,Sahij
abul
aな ど と謹 み うる Br
盈hm
i 銘 が あ る。
Humbac
h(1
966,5
6-5
7)や Gabl(
196
7)は j
auv
la,j
abu
laを別 に j
av
u kha,j
avi
ikha
,jai
ikha,
4
29 〔2〕
6-8世紀K豆
pl畠
i-
K豆bu1
-Z豆bul
の貨幣 と蓉行者
j
avuvl
aと謹み, エ フタル貨幣 の Bac
tir
a語銘 ALXONANO 鞄ANO ZAOBL [
0] の ZAOB
L[
0]がj
avukha等 に相苦 し, は じめェフタルの種族名 であ った j
auvl
a やj
abul
aが地名 に
蒋北 した と解 した。 したが ってエフタルは Zabulに存在 したと。 しか し貨幣 碑 銘 にみえ る支
配者 の構窮 と して Shahiの後 に地名 が附 され るの は異例であ り, この語 をす ぐさま地名 とみ
1
20.Cl on & Bos
aus wor
th1
965,2
-12)。 す なわ ち これ を1
0世 紀 ころの Z豆bul
ist
豆n南部 に
khal
ajがいるとす るイス ラーム地理書 の記述 に結 び (
Bos
wor
th & Doe
rfe
r19
77), 1
0世紀
以前か らZ豆bul
ist
anにエ フタルが いた とす るのである。 この主 旨に治 った Rahman,A.(
19
7 ) は,本稿 の主題 のひ とつである K豆bulの突蕨 の起源を もこの khal
9,42 ajに求 め, この突
願 は トル コ語 を話 す エ フタルで あ るとす る。 す なわ ち 6世紀 中葉 に遊 牧 国 家 エ フ タルが
Tokh豆r
ist
豆nにお いて分解 した後 もなお, エフタルの後商 は Hi
ndukus
h南部 にお いて勢 力 を
もっていた とい うことにな る。 しか し 「
Khal
ajのテユル クはエ フタル の残 樺 だ」 とい う場
令,相斐穣 (
1991) が Mar
6th,M .(
198
0) を引 いて正 しく疑問を呈す るよ うに, これ は K
hal
ajとェ フタル とが民族上直接関係があることをのべ た もの とは必 ず しも断定 で きな いは
ずであ る。 いまか りにエ フタルが非 Tt
ir
kであった と侶定 した場 合, 北 西 イ ン ドへ進 出 した
エフタルがすべて エ フタル種族 であ った とみるな らば,それはむ しろ不思議 な ことで あ り,
エフタルが突厭 の一派 を組 み込んでいたとみる方 がよ り自然であろう。 また ェ フ タル と名づ
け られた民族が Tt
irkであ った可能性 も考慮 しなければなるまい。 いずれにせ よ ,『大 唐 西域
記』 は K豆pi
喜iと Z豆bul
ist
豆nどの閲 にある K豆bul地方 の王を突厭種 と して いるのに, 隣接 す
る K豆pi
畠iや Z豆bul
ist
豆nの王 は突廠 であるといわない。一万, 8世紀 の 『往 五 天竺 囲侍』 は
これ らの地域 の支配者 を突廟 と明言 している。『
大唐西域記』 にお いて エ フ タル に言 及 す る
箇所 は Hi
mat
豆1a園 (
Tokh豆r
ist
豆n) とTakka 園 (
Pan
j豆b)であ り, しか もそれ らはみな昔
時の現状 について言 うので はな く,前代 の ことか,あるいは侍説 と して語 って い る。 賓 際 に
突厭 を見 た玄英 と慧超 とが ,「突蕨」 をエフタル と混同す る ことは考 え られ な いで あ ろ う。
軌 こ山田明爾 (
196
3,1
989
) がイ ン ドにおける異民族 エフタル と 7-ナを戟 然 と匠別 す る必
要 を論 じ, エフタルは北西地方, フ-ナは中イ ン ドにあ らわれ,両者 の動 向 を一系一 連 の事
件 とみ ることを排除 しているよ うに, いまか りに Z豆bul
ist
豆nにエ フタルが い た と して も,
Z豆bul
ist
豆nか ら北西 イ ン ドへ東進 して中イ ン ド一帯を占接 した政治勢力 は空前絶後 で あ る。
古来遊牧勢力が Hi
ndukus
h南北 を動 く場合 みなその動 き方 は類同 して いたはずであ り, エ フ
タルだけに限 って このよ うな特段 の動 向を設定す るのは不 自然である.Z豆bul
ist
豆nにお ける
エフタルなるものの存在 は疑 わ しい。
〔3〕 4
28
東 ,
l
j 平 場
2
.雷該地域 の歴史 に封す る理解
既 に筆者が別稿で明 らか に したェフタ}
t, 桑山 1
の動向を ここで繰 り返す必要 があろ う( 985,
1
09-
209:
199
08,第2
,3,5
垂)。前代 の Ki
d豆r
aKu写
真naと軌 を一 に して エ フタル は,To
kh盃p-
i
st豆n か ら Hi
ndu
kus
h の東巽,つ まりHi
ndu
kus
h 山脈 とKa
rako
rum L
J
I艦 との開 の み を経
由 して 5世紀7
0年代 に Kas
hm
i rを除 くイ ン ド亜大陸北西地方 (
Gandh豆r
a か ら Pa
njabの一
部J
hel
um過 まで) に進 出 し,そ こで6世紀中葉 まで覇権 を となえ た。 しか しHi
ndukus
hの
西巽 を経て K豆pi
畠i
-K豆bu
トZab
uli
st豆nに入 り,北西 イ ン ドへ向か った謹接 はな い。 6世 紀 5
0
年代 に西笑顔 の進 出によ って エフタル勢力が Tokh豆r
ist
豆n で霧鰭花 す ると北西 イ ン ドのエ フ
タル との聯格 も切れ, そのために北西 イ ン ドのエフタル も急速 に無 力化 す る。 この の ち,
Ga
nd旭r
aか らK豆pi
畠iに至 る K豆bu
l河流域を東方 の G豆r
l
dha
ra で はな く西方 の K豆pi
畠i地
方 に重鮎 をおきつつ,Khi
nga
lを始租 とす るKap
i畠iの王朝が と り しきる こ ととな るo この
王朝を Khi
nga
l(馨肇)朝 とよぶ0
-万 To
khar
ist
瓦n で はエ フタルののち西突蕨系 Tもr
k が有力 な支 配 者 とな った。 か れ ら
は 1-3世紀の Ku等
豆naや 5-6世紀 のエフタル とは異 な って,北西 イ ン ドに は侵 入 せ ず,
Tokh豆T
is豆nに とどま った。 本 論 で のべ る Hi
t ndu
kus
h南麓 の 7- 9世 紀 に お け る支 配者
K盈bu
lSh豆hは突頗であるが,K豆bu
lSh亘h は To
kh豆r
ist
豆nの突廉が南進 した もので はないO
かれ らが Hi
ndu
kus
h南麓 に侵入 した ことを述べ る讃壕 は皆無 だか らであ るO ただ し Kapi
畠i
とは親和関係 にあ った らしい 。To
khar
ist
anの突廠首長 の坦度投が玄英 を K豆pi
畠iを越 えて
大唐大慈恩寺三蔵法師 樽』 活 園 の儀 に
イ ン ドまで護送 せん とす る意志 を もっていたことが 『
みえているか らであ るく
2
)。すなわち従来 To
kh豆r
ist
豆n に凍 った遊牧絢家 の常 習 を この実 験 は
破 ったのであるoKu!
豆na,Ki
d象r
a-Kus
豆na,エフタル とい う具合 に To
k旭r
ist
象n の遊牧緒家
が Hi
ndu
kus
h東窯経 由で北 西イ ン ドに侵入 してそ こを支配 す る とい った,Hi
ndu
kus
h 山鹿
の南北 をめ ぐる支配形態 はこの突蕨 の動向 によ って-愛 したので あ るo 突 庚 以前 の ほぼ6
00
年間に自 って Hi
nduk
ush東翼経 由でイ ン ドを中央 アジアと聯結 し,Ga
ndh豆r
aを中心 とす る
地域 の繁栄 をまね き, この繁栄が Ga
ndhar
a係数 を支持 したが,それがいま岐路にさしかかっ
たわけである。発蕨 はイ ン ドへ向かわずに To
k櫨r
ist
盈nに留 ま ったま まで あ ったか ら, それ
までの交通路であ った Hi
ndu
kti
Sh東窯路 とその ター ミナル G a
nd櫨r
a は凄 絶 せ ざ るをえな
いO そ ういった案廉 の存在 によ り Hi
nd1
1
kus
h西巽路 を通 じて親 和 関係 を もった とお もわれ
(2) 『
大唐大慈厳守三蔵法師侍』食 2I
,吏活図0印葉護可汗長子但度設 設者雷名也 所属之地 O -眼圧設
又病O開法師後高畠来O-囲請 日o弟子兄姉 言明O凝少停息。若差O 自選 師到婆羅門囲。
4
27 L
111
6-8世紀K豆
pl畠
i-
kabul
-Z豆bul
の貨幣と聾行者
る K豆pi
giがかわ って歴 史 の舞毒 に登場 したのである(
3
)。
Hi
ndukus
hを また ぐこの重大 な歴 史 の奨化 によ って繁栄 す る こ とにな った K豆pi
giの あ り
績 高僧侍』 巻 2の閣那 嶋多侍 (
さまは, まず 『 大正 5
0,4
33b-
434C
) と達 摩 笈 多侍 (大 正 5
0,
4
34C
-43
5C) に、 そ う して 『階書』巻 8
3漕囲侍 お よび 『大店西域記』 巻 1迦 畢 試 園 の候 にみ え
る。『大唐西域記』に記述 され た迦畢試 園 はアフガニスタン東部 ,Char
ikar東方 にあ る Be
gr豆m
道連 を中心 とす る限定 された範 囲 で あ るが,支配地域 は西 は この Be
gr豆m 一 帯 の地 域 , 東 は
膏 の Gandhar
aで イ ンダス河 西岸 まで,東南 は Ga
ndh豆r
aの南, い まのパ キ ス タ ンの Bannu
地方 にお よび(
4
),南 は K豆bul地方 ,Hi
ndukus
h 山腹 に蓉す る諸水 がみな東流 して イ ンダ ス に
大唐西域記』 によると kg
至 るほぼ全部 の地域 で あ った。王族 は 『 atyaであ り,『障害』 に よ
r
ると姓 を昭武,名 を順達 とす る王 が いた ことにな って いるが,唐 が安西都督 府 を設 置 した と
6
58年 に も在位 して いた馬堀支 (♯
ghar
ghar
ci> *ghar
-i1
6i)な る人物 がいた ことがわか って い
る (
『析府元亀』外 臣部朝貢 3,永 徴 4年 の候,お よび 『膏唐書』巻 1
98 9,『唐
居合要』 巷9
,『
書』 巻2
21 。K豆pi
上 の腐賓園侍 ) 畠iで はその南蛮 の Khai
rKhana にお いて 6
06年 と6
29年 との
閲 のあ る時鮎で, 畠un豆 神 を奉 じた在 来 の集園 と S正r
ya を奉 じた新来 の集 圏 とがその場 所 を
あ らそ った結果,前者 は追 い出 されて Z豆bul
ist
豆n南責 の山東 に移動 し,後者 はあ らた に Kh
ai
rKh豆naを援鮎 にす る とい う事 件 が あ った。Z豆bul
ist
豆n に移動 した一波 はおそ らく 『大 層
(3) なぜ Ti
i
rkがインド方面に進出しなかったかという疑問に封する解答は本論か ら外れるが, それ は
かれらとクシャーンやエフタルとの出身地が異っていることに原因が求め られるのではないか。Ti
i
rkは
遠 くAl
talに覆して天山北麓の I
ll流域の牧草地からSo
ghd北方に勢力を伸張 したが,5
55年にエフタル
を討ち,5
58年にはすでに Tokhar
lSt
豆nに入 っている。そこでは弱髄化 したエフタルと地域を分か って共
存 し,Hl
ndukus
hを南進することはなかった。この事寅を重税すると, そこか らHl
ndukus
hを越えて
インドに侵入 したクシャーンやエフタルはそのような遠方から移動 してきた遊牧民ではなかったのではあ
るまいか。すなわちクシャーンとェフタルを Tokh豆r
ist
豆nにおいて自生 した遊牧民 と償定する。 この傾
定はすくなくともクシャーンに関する出自問題,大月氏か大夏かという問題に締結 し, クシャーンが大夏
出身であることを支持する。
(4) Bannu地方が Khi
ngal朝の支配下にあった讃接としては,『
大唐大慈恩寺三蔵法師博』巻 5に玄
英が K豆pi
畠i園の東境である烏鐸迦漢茶城からK豆
pii
畠王とともに藍波園 (
Laghman)
,伐刺警固, 阿薄
健固,漕矩確固とまわったらしいこと,『
大唐西域記』金1
1に伐刺挙国が迦畢試園に役属 しているとあるこ
とを掲げる。
(5) 『
惰書』奄8
3の漕園が K豆pi
畠iであることは桑山1
982
B,1
981
,19
90B (第 3章)に述べた。『障害』
が漕国王を昭式服達とするのは,す くなくとも現行の 『
障害』が 「
漕」をソグ ドの 「
曹」 と混同 している
ことに原因があるようにおもえる。一方,敦煙本,石山寺本,中尊寺本 『
大唐西域記』は王族を 「
剃利」
秤 (クシャトリヤ)ではなく,ソグ ドを意味する 「
奉利」種としている。これを採れば 「昭武」姓 とす る
障害』と整合するかにみえる。 しか しHi
『 ndukus
hの南なるK豆
pi王に Am正河のさらに北なるソグ ド出
g
身の王というものは考えがたい。私は 「クシャトリア」を正とする。
LL
r
ll 4
26
東 方 撃 報
4
25 〔6〕
6-8世紀K豆pl
昌i
-K豆
buLZabul
の貨幣と饗行者
この 4群 のはかに,
第 5群 S豆S
豆nあるいは Ar
ab-
S豆S
豆n式貨幣をそ っくり襲 った貨幣 が ある。 したが って王
像はS豆S
豆n貨幣 の王像であ り,王冠 は分類基準 とな らない。ただ し銘文の猿 自性 によ り第 3
群 と密接 な関係を もつ。
この分類 に従 うと各群 に年代 のわ くを組む ことがで きる。第 1群牛頭冠系貨幣 に は銘文 の
退化 によって群の うちの遅 い時期 に属す るとお もわれ る貨幣が存在する。 それ らの貨幣 には
Kawat I世,Hus
rav I世 ,Ohr
maz
d Ⅳ世 ,War
hran Ⅵ世,Hus
rav Ⅱ世 の S豆S
豆n貨幣形
式を襲 った ものがあ る。 この うち前 四着 の襲 用 は多 いが,Hus
rav Ⅱ世 の もので は第 11年
(
602
),第2
6年(
615
/61
6),2
7年(
616/61
7),3
6年(
626
/62
7),37
年(6
27/6
28) 挙行 の貨幣 に
み られ る要素をおそ った ものだけがある。摸倣 の もとになった S豆S
豆n朝貨幣の型式 は第 2群
以下 に較べて多様である。すなわち第 2群三叉戟冠系貨幣では Hus
ray Ⅱ世貨幣 の形式 をお
そった ものだけが存在 し,第 3群狼冠系貨幣では S豆S
豆n朝の後の Ar
ab-
S豆S
豆n貨幣 (
651
-70
2,
後述参照)の出現 をまって は じめ打刻が可能 な貨幣だけが存在す る。第 4群貨幣 の形制 は第
1群貨幣を前提 に しているので第 1群 と年代上亜行か,遅れた ものである。 す なわ ち第 4群
を除 くとそれぞれの群 は S豆S
豆n貨幣 の形制を模倣 した擬 S豆S
豆n貨幣を含んでいることになる。
擬 S豆S
豆n貨幣の もとにな った S豆S
豆n貨幣 にはそれぞれの群 によって年代のずれが認め られる。
このずれが各群 に年代 の大枠をあたえ るのである。 この粗 い枠組 を もとに Sas
豆n朝 の東方 で
S豆S
豆n貨幣 を手本 に しうる年代 の幅を考慮 し,各群 におおまかな絶封年代を輿える.
第 1群 6世紀以後で,Hus
rav I
I世貨幣の摸倣が一般化す る以前。
第 2群 7世紀 は じめの四牛世紀 (
Hus
rav Ⅱ世)以後。
第 3群 7世紀後牛以後。
後述す る本論の支配者系列 とその年代 とにこれを割 り附けると,ひ ととお りの結論 が生 じ
る。
(1)第 1群牛頭冠系貨幣
基本的に K豆pi
畠iのKhi
ngal朝 の貨幣であ り,5
50年代か ら 7世紀 6
0年代 までであ る。王冠
の所在 そのほかによって Ⅰ-Ⅵの 6型式があ り,これ らを通 じて (
A)NpkiMLK-
豆,(
B)Ns
pk
MLD-
sh,(
C)pkiMK といった銘文がみとめ られ, この銘型式 3種 は(
A)か ら順 に年代 の前
後関係をあらわ している。
(2)第 2群三叉戟冠系貨幣
王冠の型式によ り ⅠとⅡの 2型式 を認 める。第 Ⅰ型式 には上記 (
A)(
B)2式 の銘 が あ り,
Khi
nga
l朝下 にとどまっていた時代 の Bar
haTe
gin挙行の貨幣。Ba
rhaTe
ginとは,6
06-
629
年 のある時期に K豆bul地方 にあ らわれた突厭支配者。第Ⅰ
Ⅰ型式 は銘文 は 1種で,Ba
rhaTe
gin
が Khi
nga
l朝を纂奪 して K豆bulSh豆h I世 となったとき最初 に蓉行 した貨幣のひとっである。
〔
7〕 4
24
東 方 学 報
年代 は6
66年 [
t.a.
q.〕か ら6
80年 と6
83年 との閉 まで。
(3)第 3群狼冠系貨幣
纂 奪 によ って K豆bu
lに王朝 を開 いた K豆bulS
h豆h朝 の貨幣 で あ る。K豆bu
lShah I世
Ba
rhaTe
ginは これを もって独 自の貨幣 を豪行 oKabulS
hah Ⅱ世 は烏散 特動 感([
t.a.
q.]
7
28-[
t.
p.q.
]73
8)の栴観 を探 るや, この系統 の貨幣 を潜行 したo
(4)第 4群蛇冠系貨幣
Ba
rhaTe
ginの長子 である Z豆b
uli
st豆n のRTBYL I世 ([
七.a.
q.〕6
83-6
86/6
87) の貨幣
であろうO
(5)第 5群貨幣
K瓦bulShahI
I世が烏散特勅 題 (
Kho
r豆S
豆nTe
ginShah)の稗躯 を採 る以前,葛羅 達文 特
勤 (
Qar
ad6
aiTe
gin) で あ った時代 ([
t.p.
q.]6
83-[
t.p.
q.]7
28) の貨幣 , お よ び K豆bu
l
h豆h正使梯幕腐 婆 Fr
S om Ke
sar
o ([
t.p.
q.]7
38-[
t.p.
q.]7
45),K瓦bulS
hah Ⅳ世勃旬準
([
七,
p.q.
]74
5)等 の貨幣。
K義pi
喜三,K豆b
ul,Z豆b
uli
st豆n地方 の王朝 とその支配者 の交代, その貨 幣 の割 り附 け に至 っ
た詳細 を以下 に記述 する。
Ⅱ.6世 紀 にお け る Hi
ndukus
h山艦 南北 の動 静
5世紀末 に Kid豆r
aを討滅 して北西 イ ン ドに侵入 したエフタル は, 6世紀 にな る と, 東 は
湯薬陀 (
Tas
hku
Tghan
) K豆s
,沙勧 ( hga
r),朱居 (
Yar
kand
)を役廃 させて Khot
anにお いて
柔然 に接 し,西 は Ka
w豆t I世 を塊魔王 として S
豆S瓦nPe
rsi
aを牛耳 り, 北 は Sama
rkandを
役属 させて So
ghdをわが もの とし, また安息 (
Mar
gia
na) を役属 させ, さ らに北 , 東 の脅
威柔然 とは婚姻 を通 して親和関係 を形成 し,商 は牒羅 (
Z豆bul
?),北 は勅 勘 (
ii
T r
k), 東 は干
闇 (
Kho
t,
an)
,西 は波斯 (
S豆S
瓦n朝 Pe
rsi
a)におよぶ4
0線園が朝貢 を して くるほ どの勢 力 と
な ったO北魂孝明希 の図位 と して To
kh豆r
ist
豆nの本接地 にいるエフタル王 を公 式 に訪 問 した
のが宋雲 であ った こと,『
洛陽伽藍記』 食 5によって夙 に知 られ る. それ は殖 亀 2年 1
0月初 め
(
519
年1月初旬末か ら中旬) の ことであ った。 さらに寒雲 は Ga
1 ndh豆r
aの支 配者 (ェ フタル
のテギ ン)の幕庭 へ も図書 を携 えて正光元年 4月中旬 (
520
年 5月中旬) に訪 れ た。 『洛陽伽
藍記』 によるとその間の路上 の園 は,波知 (
Zeba
k), 到着紳亀 2年11
月初 (
519年 1
2月初旬
か ら中旬),姶禰 (
Chi
tr豆D, 到着紳 亀 2年 11月 中 旬 (
519年 1
2月 中旬 か ら下 旬 ), 烏 昆
U弾 y豆p
( a)
,到着紳 亀 2年 1
2月初 (
520
年 1月初旬) で あ る。 到着 月 日によ り宋雲 は この脂
に進んだ ことがわか るO栄雲が To
kh豆Ti
sも豆nのエフタルを訪れたのは11
月初 旬 末 か ら中旬 で
4
23 〔8〕
6-8世紀K-
a
pi畠
i-
K豆bu1
-Z豆
bul
の貨幣 と饗行者
洛陽伽藍記』 によると To
『 kh豆r
ist
豆nのエフタル王 は 「大塊 の使人 を見 て再拝 して脆 づ い
て詔書を受 け」,北魂 の特使 を受 け入れた01
であ り,北魂 と敵封 して いな いのであ るか ら,
エフタルは宋雲を護迭 したであろう。玄英の場合 も多 くの園園 において時 の大勢力 の護送 を
受 けているoGa
ndh豆r
aのエフタルと本接地 To
kh豆r
ist
豆nのエフタル とは嘗然 強 い聯携 の う
ちにあったはずであるか ら,宋雲 が本接地か ら Gand
har
aのエフタルに赴 く場合, エ フタル
治下の地方を護透 されたと考えるのは自然であろう。つまり宋雲 の行程 はエ フタルの領域 内
である。事薫エフタルが Hi
ndu
kus
h乗艦路 を臣従 させていた讃接 は 『
親書』西域侍 にお ける
嘗該地域 の各囲侍 (
朱居,渇磐陀,鉢和,姶摘, 乾陀) にあ き らか で あ る。 これ に封 して
Hi
ndu
kus
h山腹西部 にかかわる地方 は一切 あ らわれない。宋雲 は懇意 と して この路 をっかわ
なか ったのではな く,西部 の園園がェフタル治下 にはなか ったので あ る。 と くに B豆mi
y豆n
は, 8世紀 に To
kh豆r
ist
豆nがすでに Ar
ab-
Mus
lim のもとに入 ってか らも,「至犯 引囲。 此王
是胡。不腐蝕園。兵馬強多。諸国不敢釆侵」 と慧超が侍えるように, なお他国 の侵略 を被 っ
〔9〕 4
22
東 方 撃 報
は5
55年 に To
khar
ist
瓦nのエフタル王庭 に到着 し, そ こで グブ タは 「時難」 に遭遇 した とい
う。 この 「時局 の難難」 とは木杵可汗 によるエフタル攻撃 である。一方 『親 書』 蛾 蟻樽 は正
光 2年 (
521
)12
月の記事 につなげて,柔然 の壬阿那懐 の従父兄婆羅 門の姉妹三人がみなエフタ
古来 To
kh豆r
ist
anに接 った KuS
豆nもェフタル もまった く同 じ侵入パ ター ンで北西 イ ン ドを
牛耳 った と考え られ る。長期 にわた り似 たような政治環境 の下 にあ った うえ, 地理 上 中央 ア
ジアへの門口に位置 した Ga
ndh豆raは豊綾 な大地 とともに遠距離貿畠 によって富裕 で あ り,
その経済 を背景 に宗教 ではとくに傍数 が隆盛 したo Lか し永 年 同 じ環境 にあ った Gand
h豆ra
であ るが,To
khar
ist
融1で エフタルにとって替 わ った突厳が従来 の侵 入 バ ク- ンを破 って北
西イ ン ドへ入 って来 なか った ことに本富 の原因がある。楽厭が従 来 どお り Ga
ndhar
aに侵入
していれば,To
kh豆r
まst
豆nと Ga
ndh夜r
aとの政治,経済上 のむす びっ きに撃化 はなか った は
ずであるo Lか し実験の To
kh象r
ist
盈n侵入 を
ま柔然を討滅せん と した突厳 が柔然 と婚 姻 純係 を
(
6) 貌廟帝2年(
553
)3月科羅(乙息記可汗)遵使戯馬五寓匹。料羅死。弟倹斤豆。親木杵可汗。-乃率兵
牽郡叔子滅之o叡予以美鈴座乗奔。侯斤叉西破厭達。
(7) 婆羅門尋興部衆謀叛投厳達O厭達三妻O麿婆羅門姉妹O
(8) 『
周番』5
0県域博下,貌顧希2年明希2年故遇使束願。後篤実願所破。部落分散O職責途絶」
「 O『階
杏』8
3西域樽,先棒南風。楽蕨遥遠設字詰棄簡其軌O
「
-
1
'
L'
1 〔1
0〕
6-8世紀K豆pl
畠i
-K豆bul
-Z豆bul
の貨幣と曹行者
向 は Hi
ndukus
h南北 の歴 史 にお いて は空前 の事態 で あ り,歴 史 の断絶 で あ る。 この 断 絶 に よ
り Tokhar
ist
豆nと Gandh豆r
aとを なが らくと りむすんで いた Hi
ndukus
h東翼 の交通 路 は不 通
にな り,Gandh豆r
aで は併教 が経 済 上 の支持 を失 い摩滅 す る ことにな った(
)
90Hi
ndu
klユ
Shの 南
麓 の歴 史 にお ける Gandhar
aの役割 は遊 牧園家 のあ りよ うによ って一 撃 したので あ る。
Tokh豆r
ist
豆n に はい った突 厭 は初 め はおそ らく室鮎密 の配下 で あ る 「通設字詰 」 が 支 配 し
た。 つ いで統葉護可汗 が西突 蕨 の大 可汗 と して立 って I
li河流域 か ら Tas
hke
ntに及 ぶ 地 方 に
重 鮎 を移 す と, その長男 「唄度 設」 が派遣 され た。統葉護可汗 は6
28年 夏 ころに暗殺 され, こ
親 貨適薬護」 と栴 して いた。親 貨避 葉 護 は Hi
は 「 ndukus
h南 麓 地 方 の Kapi
畠iを侵 略 Lは し
なか ったが,親 和 関係 を もったので ,Hi
ndukus
h西巽 の横 断路 は南北 をっ な ぐ要 路 と な り,
K豆pi
畠iや B豆mi
yanの活 況 を促 した。一方従来 の Hi
ndukus
h東 部 の交 通 路 は Gandh豆r
aの低
迷 と運命 を共 に した。
〔 11〕 4
20
東 方 学 報
1
.Khi
nga
l王朝
Ga
ndh豆r
aのエフタル分解後,K瓦pi
畠iでは Khi
nga
l 桑山 1
朝が興起する( 990
B,第 2牽参照)
8
K豆bul河 流 域 の東 西 3
00キ ロの両 端 に夏都 (
Kapi
白iの Be
gr豆m) と冬 都 (Gandh豆r
aの
Uda
bh叫da
pur
a/Wa
ihi
nd)を もつ。『大唐西域記』 は 「
迦畢試」 とし,唐史 は 「
厨賓」 とす
る地方であるo廃寮園 は永徹元年 (
653
)11月に朝貢 し,後裾の王があ らたに帥位 した ことを停
えた (
『射府元亀』9
78外臣事朝貢 3)
(i
O)
Oっいで覇慶 3年 (
658
年)に唐 は廃寮 に膝鮮都督府 を
ないとす る。 しか LRa
jat
ar g癖 の St
aT
i ein英諸本第 1巻5
2頁の3
47頚 には h̀i
s〔Go
kar
ha'
S]
S
onNa
rend
r蕊d
ityawhobo
ret
hes
eco
nd nameo
fKhi
hkhi
lac
ons
ecr
ate
dshr
ine
sto
Bhut
e畠va
ra‥='とあって (
Ste
in1
900,1
,52
),Na
rend
r豆di
tyaの別名であ る ことが はっき り
している。Khi
f血hi
laを個人の名前でないとす る積極的なき由 はなか ろ うO エ フタル貨幣 に
みえる Khi
畠gi
laも,同列の王名 T6
Tam豆naや Mi
hir
aku
laなどの名がェフタ]
L/貨幣 に知 られ
(
10) 十m一
月。是月曹囲廃寮国政嗣壬新豆O各遣使朝貢。
(
ll) 『薗唐書』1
98 9は,「細腰3年訪其園俗云。王始組馨費。至今高欄支父子博位巳十二代。
唐禽要』9
,『
真率改其城病後鮮都督府」
O『唐番』2
22下は,「
顧慶3年圃人糞樽O三治蔽日馨牽,至易電文樽十二世O以
其地雷婿鮮都督府」
。
(1
2) 『磯唐書』19
8「其年一顧慶3年一改基城馬借鮮都督府o龍朔初授業王修鮮等十一州渚軍事乗修鮮都
督」 唐音 』4
O『 3 修鮮都督府,以廃寮商議結城置O領州十‥‥」など参照O
下 「
4
19 〔
12〕
6-8世紀K豆pi
岳i
-K豆
bul-
Z豆bul
の貨幣と菅行者
その K豆pi
畠i王が剃利種 (
Ksat
rya
) であることを述べている。刺利種 はイ ン ド四姓 の ひ とっ
であ り,外来 の遊牧族 であ るエ フタルが これに属す るはずがない。 したが って馨車 王統 はエ
フタルではないので ある。 エ フタルの主勢力が分散 したのち もなお Hi
ndukus
h山肱 南方 で そ
の一液が王 な る支配者 で あ った とす る理解 はす くな くとも私 には承服 Lがたい。
唐史 にさきだっ K豆pi
畠iの情報 は 『隔書』西域侍 の漕園である。夙 に論謹 した ことである。
これ は Mar
qua
rt oot(
,J.& J.J.M.deGr 191
5,2
52f
.)が考 えた よ うな Z豆bul
ist
豆nで は
な く,K豆pi
畠iであ り,Khi
ngal朝 の極 く初期 の K豆pi
giに関 す る ま と ま った記 事 で あ る
Kuwayama1
( 976
A,9
3-1
07.桑 山 1
990
B,1
65-
177) 。Ma
rqua
rtの よ うに漕 園 を Zabul
ist
-
an
として貨幣同定 をお こな うと錯誤 をまね く。G6blがそ うであるO漕国王の王冠 は魚頑冠 (あ
るいは牛頭冠)であ ると現行 の 『障害』 は記 しているが, これを Z豆bul
ist
anの ことと したか
れの貨幣分類 が きわめて複雑化 したのは Mar
qua
rtの見解 に依接 したか らである。
一般 に Hi
ndukus
hをめ ぐる地方 にお ける貨幣 の表 には王冠 をっ けた王 の胸像 を描 きだ して
国王戴金魚頭冠」 と記 す ことは,K豆p
いる。『階書』漕園侍 に漕園王 の王冠 を 「 i
畠i最 初 期 の
析府元亀』 巷9
貨幣同定 にとっておお きな鍵輪 で ある。『障害』 を踏襲 した 『 60外 臣部士 風 2
通典』金1
に もこのよ うに記 されてい る。 また 『 92連防典 8に も漕園侍があ り,『
親書』『
周書』
北史』巻 9
『障害』の西域侍を合探 して編纂 された 『 7西域博 に もある。撃方 とも現行 『障害』
魚頭冠」で はな く,「
とほとん ど同文である。 しか し王冠 だけは 「 牛頭冠」 で あ る。 『北 史』
『
通典』 の基 づいた漕園侍資料 は昔 時の 『障害』漕囲侍であるか ら,その 『障害』は 「
牛頭冠」
。 通典』編纂以後,つま りはや くとも 8世紀
とな っていたはずであ る 『障害』 の この部分 は 『
中葉以後,現行の 『障害』 のよ うに変わ って しまった ことになろ う 『
北史』編纂時の 『.
障害』
牛頭冠」 が Ka
ずである。そ うす ると 「 pi
畠i王の王冠であ った ことにな る。
『障害』西域侍 を構成 した情報 は晴代 の中央 アジア情報 で あ り, その よ って きた るべ き資
西蕃記』,6
料 は 『障害』西域博序 にその名 が挙 が っている章節撰 『 02年 ごろで きた勅 撰 (
彦
大階西国博』 (または 『
環撰) 『 大幅西域侍』 『 ,6
大隠西域志』) ,
0
6年前牛 の袈矩撰 『西域 固
記』, これ以後6
10年以前 にで きた彦掠撰 『
天竺記』である(
桑山 1
983,1
73-
17)。
7 『西 蕃記』
通典』 に引用 されたか ぎりで残 って いて,章節 と杜行満 は厨賓や王台城 を訪れて いる(13
は 『 )
。
撰者 の自序 しか残 らない 『西域 囲記』 の基 にな った情報 は6
06年前半 に張液 に来 て いた西蕃
(
13) 惰書』西域侍序に,
『 「
楊帝時遣侍御史章節司隷従事杜行端使於西蕃諸国。至厨賓得鴫磯杯。王舎城
得併経。史園得十舞女師子皮火鼠毛而遠。
」
〔1
3〕 4
18
東 方 学 報
商人 の情報 で あ り (内 田吟 風1
973.桑 山1
982
B,1
080
-iO
81),序 に は清圏 が Hi
ndl
血lS
h山艦 西
巽 の横 断路上 の一 国 と して あ らわれ る。『
大 階西隣 樽 』 は Dhar
magupt
aの情報 を ま とめ た も
のであ り (内 田吟 風1
974,77
3-7
83)
, この西 イ ン ドLa】
a園 出身 僧 は エ フ タル分 散 後 の 5
80年
代 に Panj
abの Takka-
de畠
aか ら K瓦pi
孟i,B豆m
i y豆n,Tokhar
ist
豆n,Wakhk旭nを通 って5
90年
に階 の大興城 に到着 して い る. この よ うに 『障害』漕園侍 の基 づ く資料 は 6世 紀 末 か ら 7世
紀 は じめの K夜pi
畠iに関 す る情報 と して信頼 性 が高 く, そ こに K瓦pi
孟i王 の王冠 が 「牛頭 を飾 っ
た金製 の冠」 とみえ る こと も確賓 な情報 と して受 け とめ る ことがで きる。
『
文献遜考 』巻 3
36以 下 の中央 ア ジア諸 国 の記事 を フ ラ ンス語 に謬 したR6
mtt
sat
,A.紘, そ
の廃寮国庫 にお いて 「拷代 には廃 寮 を酒盛 と呼ん だ」 こと,「
王 は牛頭 冠 を裁 く」 ことを敗 に
R6
知 って いた ( mus
at1
829,i
,21
1)。G6bl(
196
7,1
35) はせ っか くR6mus
atを引用 しなが
ら検討 せず,漕 園 を Z豆bul
isはnとす る Mar
quar
tを信 じて しま った。 したが って牛 頭 冠 を っ
けた王像 を打刻 す る貨幣 も Z瓦bul
ist
豆nの エ フタルお よびその後 商 の もの と して しま ったの で
あ る。 かれ に よ る と一 部 は4
60年以後 6
世紀 中葉 まで Z豆bulにいた とす るエ フ タル の, 一 部 は
51
5年 か ら 7世 紀 まで の K豆pi
畠i-
K盈buiのエ フタルの後 商 の もので あ る とい う。 さ き にふ れ た
よ うに j
auvl
a,j
l
abul
a,j
anbu
ia,3
abuvl
ahを地 名 と断 定 して Z豆bulに あ て , エ フ タル は
Z豆bul
ist
盈nお よび K豆pi
畠iをその支 配下 にお いた と考 え たか らで あ る(
1
4)
0 『機 雷 』 の 漕 園 は精
貨幣 で はな い。 これ は K豆pi
畠iの Khi
ngai朝 の王冠 で あ り,貨幣 で あ る(
1
5)
。
(
14) deMor
gan1
923
-19
36,Ghi
rshman1
948,Bor
nbac
i19
57,A
4まも
chne
r19
75,Wi
nk1
990など
それぞれ見解の相異は若干あるものの,Mar
qua
rt1
901を襲 うものであるO
(
15) ェブタル貨幣と関連 して注意すべき鮎があるO後述のように牛頭冠系貨幣には S豆S
豆n貨幣を模倣 し
たものとそうでないものとがあるが,後者にはエフタル貨幣にみえる構成要素があるO それは貨幣の下部
に王像を下か ら受 けるようにして描かれたふたっに分れる枝のような装飾である。一般 に, 王朝があ らた
に興って貨幣を打刻すると蓮,どのような貨幣を敵範にするかという鮎が考慮されねばな らない。牛頭冠
系貨幣のうちに S豆S
盈n貨幣の型式を襲 ったものがあるように,あるいはキダーラ-クシャ-ン朝の銀貨が
S豆
S瓦n貨幣の形制をまねたように,近隣の有力勢力の有力な貨幣に範をもとめる場合がある。 いわゆる皇
朝十二鏡やソグ ド貨幣,あるいは突騎施鏡が唐鏡に範をとったのもその例である0-万, あ らたに打刻 し
ようとする三朝の地において前代までに蓉行されていた貨幣を租範 とする場合 もあるはずである。 この場
合貨幣の一部を襲用 して打刻 した貨幣は貨幣のみを観察 しただけでは解得を正 しい方向へ導 くことにはな
らない場合がある。牛頭冠系貨幣に前代のエフタル貨幣にあらわれた装飾があるか らといって, この貨幣
の馨行者をェフタルの系統にあるものと断定することははやまった見方であるO もしそ うであるな らば,
S豆S
盈n型式を襲用 した貨幣の尊行者は S豆S
豆n王統の系列にあるといわねばならないからであるO
4
17 〔
14〕
6-8世紀Ka
pi畠
i-
Kabul
-Za
bul
の貨幣と蓉行者
2.K豆pl
畠i-
Khi
ngal朝 の貨幣
牛頭 を冠 の頂上 あ るいは正面 に飾 った貨幣があ る。 それを 「
牛頭冠」貨幣 とよぶ。 順序 は
逆 であるが, まず最初 に王像銘文 ともに整正 なおお くの牛頭冠貨幣以外 の牛頭冠貨幣 につ い
て観察す る。冠な どの細部要素 も貨幣全髄 の形態 も整正 な型式 とは異な って粗 雑簡便化 した
貨幣 は,Gdblの貨幣番競 E.
262,2
63,2
64である (
固版 I
II:l
l-1
4)。 それ らは書 は S豆S
豆n朝
の貨幣型式 な く して は出現 しなか った貨幣 で あ る。S豆S
豆n貨 幣 の うち で も特 に 5種 類 の
an貨幣が租範 とな っているoE.
Sas 262,2
64は表裏両面 (
表面 とは貨幣撃 用語 の obve
rse
,裏
面 とはr
eve
rse
) に軍圏 を描 き,表面 の畢圏の外縁 にそ って三隅 に三 日月状 の弧 をっ け, 三 日
月状 の弧 の うえに一塁 をおいた もので あるo この型式 は Kawat I世が第 1
3年 (
A.D.5
00)
か ら第 1
9年 (
A.D.5
06)にわた って蓉行 し, また Ohr
maz
dⅣ世 (
A.D.5
7915
90) が聾行 し
た貨幣 に限 って存在 す る型式で ある。 また E.
263は畢圏外縁 に三 日月状 の弧 だ けで星 をおか
ない型式であ り,Hus
rav I世 (
A.D.5
311
579
)貨幣 と War
hr豆nⅥ世 (
A.D.5
90-
591
)貨幣
とにだけあ らわれ る型式 であ る。 さ らに,E.2
65,2
66 (
囲版Ⅳ:1
-3)で は三 日月状 の弧 +
星 のかわ りに蓉行者 のマーク らしい ワイ ングラス風 のマークをおいて いて ,S豆S
豆n貨幣 を も
ととすれば上記貨幣か らさ らに一段 と饗形 した ものになっている。
エ フタル勢力が 6世紀 5
0年代 に衰退 してか ら歴史 の舞壷 に登場 して K豆bul河流域 に勃興 した
Khi
ngal朝 にI
とって は KawatI世貨幣 は一時代 も前 の貨幣 であ り,E.
262,2
64が これを租範
と した とみ る ことは不 自然 で あ る とお もうか らで あ る。 いま これ を外 す と残 る手本 は5
31
(
16) Kaw豆tI世の貨幣のうちI I-1型式 (
512
,51
5年寄行)の貨幣は駅西省耀麟寺坪の階仁毒4年 (604
)
銘紳徳寺舎利塔 ( 考古197
4年第2期参照),およびⅢ-2型式 (52
015
30費行)は77ホト城速から出土 して
いて (考古1975第 3期参照),極東へも6世紀末までには侍入 していたことが知られる。詳 しくは桑山1 98
2
C。
HJ
崇E 4
16
東 方 学 報
年か ら5
91年 までの, 6世紀 の中葉か ら末 までの Sas
an貨幣で あ るO この事 蜜 に擦 るな ら,
an貨幣を摂倣 した牛頭冠系貨幣 の年代 は 6世紀 中葉以後 とい うことにな るO
S豆S
-
-方,E,
266の裏面舞火壇守護者 のU字形 に施 された髭 は (
囲版 Ⅳ :3), Hus
rav正使貨幣
年(
第11 6
02)専行貨幣 にのみあ らわれ るO またE.
267
-E,
27 麟版 肌 6-1
1( 0)の表面型 式 は一見
した ところ整正 な タイプの牛頭冠系貨幣 と直別 しに くいので あ るが,Pahl
avi文字 銘 文 が貨
幣表面 で は 「'
p」ふたっ,裏面 で は 「
bg'
」 とあ って,前者 は意味不明, また讐方 ともに字髄
弧の上 に星 をおいた組 み合 わせ」 (
が退化 している。表面 は王 の頭部左右 に 「 「星 + 弧 」 と略
(1
7) S豆S
豆n朝最後の Yazdkart
皿担貨幣後, Àbb蕊S朝の Reform Coi
nage発行以弧 すなわち65ト
8
15年に,信用貨幣であった S 瓦S豆n朝の Husr
avI
I世 や Yaz
dka
r t
Ⅲ世の貨幣の刻蓋をそのまま使い,そ
こにさらにMu s
lまm の表徴であるBi s
mili
ahなどの語を後刻 して,登行 した貨幣が Ar ・
ab-
S瓦S
豆n貨幣で
ある。
41
5 〔1
6〕
6-8世紀K豆pi
-K豆
bul
l 畠 -Z豆bul
の貨幣 と蓉行者
G6blの讃みに擦れば,Pahl
avi文字銘 の表記に 2種 ある。ひとっ は NpkiMLK-
a(E.
198,
2
00,2
01,2
02,2
05。囲版 Ⅰ:
1-8
), ひとつは Ns
pkiMLD-
sh(
E.21
7,2
21,2
22.囲版 Ⅰ:
9-1
2,
固版 Ⅱ:
ト1)である。NpkiMLKや Ns
2 pkiMLD は貨幣の表面 にある王像の右側 に記 され,
aと s
h とは王像 の左側 にあ り,至極明瞭に雨字鰭 は匝別できる。G6blは後者 Ns
pkiMLD-
s
hが基本 となる型式であると し,Npkiは Ns
pkiか らSが滑 えた もので,一層遅 れ た型式 で
あるとする。一方 ,Humbac
h (1
966,Ⅰ
,59)は a,s
hにつ いて は顧慮 せず に前者 を npky
MLK'として n豆f
aks
h豆hと解精 し,後者 を nyc
kyMLDH,あるいは s
sfkyMLDH として前
者か ら形が崩れた もの とみている.G6bl
,Humbac
hともに雨銘文 に年代 のずれが あ ること
を認 めているが, どち らがさきであったかについては見方が異 な っている。
私の観察 によれば,Ns
pkiMLD銘 には n の責 めないもの,書かれていない ものが認 め ら
囲版 Ⅰ:
れる ( E.21
7-1,21
7-5, 囲版 Ⅱ:2
22/ト2
22-Ⅵ)。 また Ns
pkiのs
pは-, ∝, -の
ように書かれ るものがおお く,Sの字髄 をはっきりと意識 して書 いた ものか どうか怪 しくなっ
るべ きであろう。 したが って Ns
pkiMLD-
shは NpkiMLK-
aより遅れて出現 した銘 であ り,
ひいてはこういった銘 を もっ貨幣 自身 も後か ら出現 したものと考えるのである。
一方,NpkiMLK-
a銘型式 において N としがな く,pkiMK-
aとな った もの (
園版 Ⅲ:
1-5.
E.2
03,2
04) があ り, あるいはさきにふれた猪特な裏面を もつ E.2
67-2
71の ごときはそれ
国版 Ⅲ:
す ら讃みに くくな っている ( 1-1
0)。E.2
67-
271の王像左側 の字 を G6blが 「'
p」 と讃
んだのは,それが 「
a」であるのか,「
sh」であるのかが既にはっきりしな くな って いるため
E.
である。 また貨幣裏面 には神像 のような もの ( 2
68,2
69。囲版 Ⅲ:
7-8
) E.
, シンボル ( 2
71.
〔1
7〕 4
14
東 方 学 報
国威 Ⅲ:
10) E.2
,廠 ( 67.国威 虹 :6) などを表 し, ほかの貨幣 の裏面が芹火壇 と守護者 であ
るの とま った く異な っている。 これ らのいわば pkiA
,K式銘 の貨幣 はみな重量 が いち じる し
i
く小 さい? またこれ らに限 って裏 面 にワイングラス風 のマークが打刻 され て いるとい う特徴
が あ るO字鰭の変化 そのはかの鮎で これ らは (
N)s
pkiMLI
〕貨幣 よ りよ りさらに遅 れ る もの
とみ な ければな らない。
したが っていま銘文の退化傾向を基 に年頭冠系貨幣全髄を古 い順 にな らべれば
A)Np
( kiMLK-
a銘貨幣
B)Ns
( pkiMu)-sh銘貨幣
C)pkiMK 銘貨幣 (ワイ ングラス風マ-クが附 く)
(
とな る。 さきにみた冠のあ りさまとこの 3種の銘文 との組み合わせによって第 1群 であ る年
頭冠 系貨幣 にはつ ぎの型式が設定で きる。
第 Ⅰ型式 冠の頂上 に牛頭をおき,冠の前面に三 日月状 の弧を置 くo銘文 によ り型式 は A
とBにわかれ る。 貨幣例 :I
A で は E.
198 (囲版 Ⅰ:
ト 4),I
Bで は E.2
22/トVl
囲版 Ⅱ:
( 1-1
2)0
第 工型式 冠の前 面 に牛東 も三 E
3月 もあって,牛頭 は三E
3月の内部 にあるO 銘文 によ り型
式 は A と Bにわかれ る。貨幣例 :ⅡA ではE.2
00-
203(
園版 Ⅰ:
517;
)(囲版 Ⅱ:
1
14)
,IIBでは E.21
7,2
21(
圃版 エ:
9-1
2)0
第 Ⅲ型式 冠の頂上 に牛頭をおき,三 日月の弧の内には囲盤 を置 き,三 日月 の両端 に小 さ
い珠鮎を附ける。銘文の型式 は Aのみ。貨幣例 :E.
205
0
-
.
11
:; 〔1
8〕
6-8世紀Ka
pii
-Kabul
畠 -Z豆bul
の貨幣と蓉行者
E.
262
-26
4 (囲版 Ⅲ:
ll-1
4)。軍国の外 に弧 +星 をお く型式 は,Hus
ravI世 貨 幣 の
撰倣 で あ る。裏面拝火壇 の火 の左右 にそれぞれ弧 と星 とをお く型 式 は,War
hr豆n
Ⅵ世 (
590
)と Ohr
maz
dⅣ世 (
579
-59
0)の貨幣 の特徴 で あ るか ら, この貨 幣 型 式 は
三者混合式 で あ り,年代 は5
80年代以後 と しか いえない。
さて,『大唐西域記』迦畢試 園 の Ar
ulJ
a 山 とい う Hi
ndu敦 にかか わ る山獄 は,K豆bul市 の
北部 にあ る Khai
rKhana道連 で あ る (
桑 山1
982
B.Kuwayama 1
976
A)。 この比定 の根 接 は,
『
大唐西域記』迦畢試園 の候 にあ る阿路狭 山侍説 に注 目 して そ こにふ たっ の異 な った宗 教 集
層神殿 は SGr
ya神 を まつ った 『大唐 西域記』 の Ar
upa山であ り,下層神殿 は 『晴書』 漕 園侍
順(
にみえ る 「 g
un豆)天神 を まっ る葱嶺 山」であ る。下層 神 殿 は い まで も内壁 に厚 い上 塗 り
が残 るほどで,肥 られ た神像 はす で に存在 しないけれ ども,一 時 にど こか へ移 った状 況 を示
集圏 に腐 す る。新 来 の Sdr
ya紳護持者 たちが葛 乗 Khai
rKh豆naにいた 自una紳護持者 た ち を
6
06年 と6
29年 とのあ る時鮎 で追 い探 って 占接 し,新来者 は葛 の神殿 を埋 め立 て た上 に あ らた
叱園の候 には,
いまの王はとみに信心深 く,代々あとをうけてすぐれた頑をおこすことにつとめ,明敏で学問を
好む。アショーカ王が建てたス トゥ-パは十飴所,非係数の神南は数十あり,非価教徒は[
併教徒]
と入 り雑 じって住んでいるが,かぞえると外道の方が多 く,きわめて盛んであり,白
un豆天 につか
えている。白
un豆天は昔 K豆pi
gi園の Ar
upa山からこの園の南界の g
un豆
sir
a山に移 り住んだO威
厳をなし福徳をもたらし,暴れたり悪行をしたりする。これを信 じるものは願を成就 し, あなどる
ものは災難を招 く。 したがって速さも近善も仰ぎ奉り,上位のひとも下位のひとも恐れ崇める。近
〔1
9〕 4
12
東 方 学 報
隣の園臨,巣俗のひとたち,君臣百僚は,毎年のよき日に期せずして集まり,金銀奇賓をもちより,
羊馬劉藩を競って奉納 し,みな誠の心をあらわす(
1
㌔
補 が なか ろ う.新来 の SGr
ya紳護持者 をのちにのべ るよ うに KT
abulの突厭支配者であるとし,
その貨幣 を 「
三叉戟冠系貨幣」であ るとす ると (
後述参照),三叉戟冠系貨幣 にあ らわれ る細
部 の諸要素 は,Ns
pkMLD-
sh銘貨幣 に もみ られ,両群 の貨幣 は 7世紀 に お い て亜 存 す る こ
とにな るか らであ るO も し清楚花園王 の もの とす ると,抗撃後 の Khi
ngal朝 の貨幣 は何であっ
たか とい う問題 が生 じるO牛頭冠系貨幣銘文 NpklMLK-
aの型式 が抗学以 後 もなお尊行 され
(
18) 今王浮信,果菜承紋O務輿勝藤o敏而好学O無憂王研摩卒堵波十顔所O天寿
司数十O異遷雑居O許多
外道。其徒極盛O宗事機軸句反下同那天。其天紳昔日迦畢試閲阿路狭山徒居此囲南界稗那咽羅山中O作成
作宿。璃暴璃意。信求者逐慮O軽蔑者招殊o故遠近宗櫛。上下砥健。都観実額君臣僚庶。毎歳嘉辰不期而
愈O或資金銀杏賓。或以羊馬馴畜。競輿貢奉O倶申誠索O-
(1
9)( 2
)においては第 Ⅱ型式の銘を Ns
pkMLD とはっきり謹むことができ,第 Ⅰ型式の銘 は B
pk
MLD となっているので,あるいは芯がふるく, Ⅰがあたらしいものであるかもしれない。
1
1
1Ir 〔
20〕
6-8世紀Ka
pi畠
i-
Kab
ul-
Z豆b
ulの貨幣と蓉行者
Ⅳ.K豆bulの突厭王朝 とその血族
1.突蕨栴親の出現
菌唐書』巻 1
『 98 通典』巷1
,『 92連防 8,『
析府元亀』外臣部 の記録,および悟空の行記 で あ
る『 十力経序)によれば,唐朝が記録 した腐賓園の朝貢 は 7世紀
大唐貞元新謬十地等粒記』 (
においては6
19,6
37,6
40,6
47,6
48,6
51,6
53,6
54,6
58,6
70,6
71,6
92の各年 ,8世紀 におい
ては7
10,7
19,7
20,7
38,7
45,7
46,7
48,7
50,7
58の各年 であ る (桑 山 1
990
B, 附録 4,4
32-
4
37 。開元 7年 (
参照) 71)7月の記事 として 『菌唐書』西域侍 は,
9 「廃寮 は俵 を派遣 して来朝
し,天文経-爽,秘要方,蕃薬 などを進奉 してきためで,高宗 は詔 して その王 を葛羅達支特
勤 (
Qar
ada
6iTe
gin
)に研立 した」(
2
0) 唐合要』巻9
と記すo『 9および 『太平宴芋記』 巷1
82は
天文大経 と秘方奇襲 を献 じた年 を開元 7年,筋立 した年 を開元 8年 とす る。 一方, 『新府元
亀』外臣部朝貢 4は,開元 8年 の 2月に天文経一策,秘要方,蕃薬等を進奉 し, 9月 にはま
た腐賓園が善馬 を戯上 し,謝髄園 (
ホzi
a-
ji
ut>*
zha
yul
>*z
hawl
>Z豆
bul
) も朝貢 したと し,外
臣部封射2において は現地 に特使 を派遣 して葛羅達文特勤 を廃案園王 に,葛羅達文頴利蓉
(
Qar
ada
Eie
lta
bar
)誓屈爾 を謝髄国王 に筋立 したとしている。 まず開元 7年 7月か 8年 2月
に頗賓国王の天文経等 の献上があ り, このとき腐賓国王 は葛羅達支特勤 に鼎立 され, さ らに
開元 8年 9月に属賓国王 と謝願国王 とが朝貢 した際,後者があ らたに葛羅達文竃利蓉誓屈爾
に,前者 は再び葛羅達支特勤 として冊立 されたのである。7
19年 は廃寮国王 が T
iir
k系構窮葛
羅達支特勤 (
Qar
ada
EiTe
gin
)の栴親 を とった下限,7
20年 は謝願 国王 が葛羅達支頴利饗
(
Qar
ada
6ie
lta
bar
)の栴髄 をとった下限である。Kh
ing
al朝の王 はクシャ トリヤで あ るか ら
突厭系でないのはいうまで もない。そ うす ると,扇賓園において非突廉系 Kh
ing
al王朝 は突
厭系栴軟を もった王統へ と壁化 した ことになる。 これ以前の厨賓国王 には突厭系 の稀境 はみ
られない。6
61年時鮎 になお在位 していたと考え られるK豆
pi畠
i国王局掘支 は突廠系構戟 を も
(
20) 遣使来朝。進天文経-爽秘要方政蕃薬等物。詔道筋其王薦葛羅達支特勤。
〔
21〕 4
10
東 方 学 報
たず,7
19年 にな ってそれはあ らわれ る。 このような栴嚢の撃化 は6
61年 と7
19年 との間でおこっ
たことになるO
には突厳支配者 か ら Khi
突厳系稀鰻の出現 にはふ たっの場合が考 え られるO第-- ngal朝 の
王 に稀雛があたえ られたこと,第二 には突厳系王朝が非突飲系 の Khi
ngal朝 に とってか わ っ
た ことであ る. 第- の場合,輿 え る側 の突 厭支 配 者 と して この近 隣 で候 補 に な るの は
To
khar
ist
豆nの乗蕨,すなわち吐火羅葉護 To
kh瓦r
aYa
bghuLかいないo Lか し吐火羅葉護
が K豆pi
孟三に射 して このような封臆 を した謹濠 は皆無である。 もっとも 『新府元亀 』外 臣部請
求 によると,吐火羅菜護郡部霧利 によって蔽遷 され,藤龍元年 (
705)に宿衝 に留 め られたまま
1
3年間長安にいた弟の僕羅の開元 6年 (
718
)の上表文 に,吐火羅葉護 は謝鶴,戯賓などのほか
の都督府の猶国王以下 を刺史 に至 るまで管統 しているとある(
2
1)
O安西都護府 設 置 の と きにと
りわけ To
khar
ist
anに王名遠が派遣 され,聖徳碑を立てさせた くらいであるか ら(
2
2)
,To
kh豆r-
i
st豆nと To
kh豆r
aYa
bgh
uが唐 に重税 されてはいたであろうが,上表 の とお りで あ るな らば
月氏都督府設置綿係記事 に吐火従業護 の諸国菅続 に補す る記事が書かれていそ うな ものであ
るo Lか し尊書 は1
6の都督府が並列 されているだけで,その上 下関係 は示 されて いな い。 そ
うすると,上表 の目的である席次向上 を訴えた僕窪が,吐火羅葉護の勢力 を必 要以上 におお
きく述べたとも考え られ る。吐火羅糞護が K豆pi
gi王 に実厳構東 を輿えた可能性 はまずないの
である。
賓 は纂奪の結果扇賓の王統が一撃 したのである .『斬府元亀』 は胸賓 と謝観 (
Z豆bul
ist
豆n)
は景雲元年 (
710
)に唐 に朝責 したとす る摺)
o また 『 謝髄園の中心部 (いまの Gh
肩書』は 「 az
ni
あた り)には突衆人 もいれば,廃案や吐火羅種の人 も入 り交 じって窪 んで居 るO 厨 賓 はかれ
らのわか ものを兵士 に採 り,大 食 (
Arb
-Mt
al
Sli
m) に封 して防衛 している。景 雲年 間 の初 め
に俵 を派遣 して朝貢 して きたが, その後謝鹿 は腐賓に臣従 した」 とい う(
2
4)0 「
農雲の初 め」 の
朝貢 とは 『朋府元亀』 の記事 のことである07
10年の ころ願賓 と謝鶴 とは軍事 上きわめて密接
な関係 にあり,腰賓 は謝願か ら兵力 を集 めて Ar
ab-
Mus
lim軍 に封威 していたが,7
10年以後
のある時鮎で腐賓 は謝鮎 の上 に立っ ことになった。
(
21) 年]十一月丁未O阿史特動機羅上番茶日O僕薙兄吐火羅薬謹啓下管諸国王都督刺史練二百一
開元6
[
十二人。
(
22) 『通典』1
93に,吐火羅置州鱗使玉名遠進西域甑記。邦子闇以西波斯以東十六図分置都督府及 州八
「
十騎-官軍府百二十六o i
iき
於吐火羅園豆碑O以妃聖徳.秀雄之O」
(
23 新府元亀』9
) 『 70朝貢3は,「
十月謝願腐賓麟並遣使貢万物」
O
(
24) 『唐書』2
21下謝馳囲侍。「
国中有賀厳厨賓吐火羅種人雑居。厨賓取其子弟持兵以禦大食O 景雲初。
遣使朝露O後遼臣廃寮」
O
L
.
:
I(
)
I) 〔
22〕
6I8世紀K豆p i
-K豆bul
l 喜 -Z豆bul
の貨幣と蓉行者
往五天 竺 囲侍』 は7
慧超 の 『 26年 時鮎 の属 賓謝髄事情 を述 べて い る(
2
5)。 「廃 寮 と謝 髄 との王
や軍 はみ な突 厭 で, 謝 親 王 は廃 寮 王 の甥 で あ る。 甥 で はあ るが, 厨 賓 王 に は属 して い な
い」(
2
6)と。つ ま り厨 賓 王 と謝髄 王 は突 厳 で あ り,叔父 甥 の血族 関係 に あ った。 さ きに あ げ た
慧超 がや って きた と きに は この主 従 関係 がす で に破 れ て い た こ とに な る。 つ ま り7
26年 以 前
に謝願 は眉賓 か ら離 れ たので あ ろ う。
資治通鑑』 巷2
『 1
2は, 開元 1
2年(
724)1
0月 の謝馳王 の通使 入奏 を記録 し(
2
7)
,謝魔 王 の栴 窮 を
「特勤」 と して い る。謝親 王 は7
20年 , 開元 8年 の 『析府元亀』外 臣部封 筋 の記 事 で は, 葛 達
いて い るの はおか しい。 お そ ら く7
24年 以前 に謝髄 国 王 が腐 賓 国 王 の傘 下 か ら別 れ て, 猿 立
して いた ことを示 唆 す る.腐賓 と謝願 との この よ うな 関 係 を考 慮 す る と,71
0年 に厨 賓 と謝
願 とが共 に朝貢 した時,厨 賓 王 は既 に突 厭 で あ った可能性 が高 い。
2.K豆bulの突蕨
ま り Kapi
畠iの大都 城 は Be
gr豆m で あ るか ら,Be
gr豆m で王統 が Khi
ngal朝 か ら突 厭 朝 へ と交
替 した ことにな る。 しか し,Be
gr豆m にお け る考古学 の成 果 を み る とそ うで は なか った こと
が判 る。Be
gr豆m に は 3時期 の都 市 が上 下 に重 な って い る。Ghi
rshmanが 確 認 した事 賓 で あ
(
25) この7
26年という年次を侍の記事か らまず割 り出してお く.慧超は Gandh瓦r
a,戯賓,謝鶴,犯引
(
B豆mi
y豆n)
,吐火羅 (Tokh豆ri
st豆n)の順に進んで,唐の安西 ( ha)に開元1
Kuc 5年1
1月下旬 (
727
年12
月下旬)に到着 し,Tokh豆r
ist
豆nに滞在 したのは冬であったと記 しているから,安西到着時鮎から逆算す
るとその冬 とはおそ くとも7
26年末か ら7
27年初の冬である。さらにそれ以前の Gandh豆r
aで厨賓王に関す
る記述をしているO慧超によると,厨賓王は夏は厨賓,冬はGandh豆r
aに虚 し,季節移動 してK豆bul
河流
域全能を支配 した王である。 したが って慧超が Gandhar
aの候で廃案王についてのべるのはそこに属賓王
がいたからであり,冬営地に王がいたことがわかる。 これは悟空が Gandh豆r
aにいったときとおなじ状況
天賓1
であった ( 2載 2月2
1日,すなわち7
53年 3月1
7日に Gandh豆r
aに到着)。すなわち慧超は秋から春に
かけて Gandh豆aに滞在 した。おそ くとも7
r 25年秋か ら7
26年春 までのある時鮎である。 そうすると,
Gandh豆r
aとTokh豆r
is豆nとの閲の廟賓や謝願滞在はおそくとも7
t 26年春か らからこの年いっぱいのある
編)1
時鮎 ということになる。なお桑山正進 ( 992
,4f
f.参照。
(
26) 至健駄羅。此王及兵馬惣是突蕨。・
- 其廃寮園。此園土人是胡。王及兵馬突蕨。 ・
・・ 又従此崩賓園
西行七 日。至謝髄園。・
・. 土人是胡O王及兵馬即是突蕨。其王即是腐賓王姪見。自把部落兵馬。住於此園。
不属線図。亦不屠阿叔。
(
27) 冬十月丁酉謝鶴王特勤遣使入奏。稀。去年五月金城公壬遣使詣箇失密園。云欲走蹄汝。箇失密王従
臣国王借兵。共拒吐蕃。王達臣入取進止。上以篤然。賜烏遣之。
〔
23〕 4
08
東 方 撃 簸
Ghi
とき住民が ここを放棄 して終末 をむかえた としている ( rshman 1
946,1
948)。 エ フタJ
L/
が 5世紀末 にHi
nd_
ukus
h山奴 を北か らこえて支配 をのば した ことは確かであるが, それ はそ
の前の Ki
d豆r
aKu!
象naが したように Hi
ndukus
h山艦の乗艦か ら北 西 イ ン ド地方 へ支 配 をひ
ろげたのであ り,Be
gr豆m を含 む K瓦pi
畠i地方 に及んではいない。 この地方 にエ フタル の存在
をいう Ghi
rshmanは貰 っていないo
Be
gr豆m Ⅱ期 は Kapi
畠iの隆盛期であ り, 6世紀後牛か ら 7世紀末 8世紀初頭 に相雷す るO
論叢 は別 に詳 しく述べたので (
Kuwayama 1
975,5
7 8◆Ku
-7 wayama 1
992
A,7
9-1
20.桑 山
1
989,21
-55
), 芯期終末 に関す る要鮎 だけを攻 に記すo
Be
gr豆m Ⅱ期末 には四隅に望楼 をっけた防御 目的の憩い建築が都市の内 と外 に建 ち, また
市門周 遠 に多 くの家屋 が あふ れ ,市壁 が意 味 を もた な くな った。 この 望 楼 の 坤 で は
Ghi
rshmanがⅡ期様式の土器である囲圏押印紋土器 の出土を認 めている。 この土器 は K豆pi
畠i,
K豆bul
,Ghaz
niにいたるまで廉 い磯が りを示 しているが,Kapi
畠iよ りし
酉 にあ る Fonduki
st豆n
では出土 していないo Fo
nduki
st豆nは Gho
rband流域 にある係数 の小寺 院漆 で, ス トゥーパ
を中心 に して円周を泥煉瓦積みの外壁で淘い, ス トゥ-パに向いた壁 には数個の壁轟がある。
轟 Eでは安置 した王族夫妻像の丈高の憂慮の下に骨壷を埋約 して いた。 癌骨器 の中 に689年
尊行 の銀貨が あ ったo Lたが って6
89年以後 に この寺 は完成 したので あ る。 上 限 6
89年 の
Fo
nduki
stan寺院に園圏押印紋土器がないこと,そ して Be
gr毘m Ⅱ期末 の望棲建築 に この土
器が若干存在す ることとか ら,Be
gr豆m の最上層であるXl
期の終末 は 7世紀 末 か 8世紀 もご
くは じめである。Ghi
rshmanが観察 したように破壊や火災を もって終末 をむかえた讃 接 は賓
際にない し,蒋壁を無意味に した住居や望楼の存在か らもB曙丁
豆m は急激 な終末 をむかえた
のではなか った。 7世紀末か ら 8世紀 は じめに漸次 に寒村化 していったので あ るO 上 に述 べ
た漢文資料 をふ りかえれば,崩寮の突厳 はとりわけ 8世紀 には強力 な支配者 と して廃 寮 の歴
史 に登場す る0 7世紀末か ら 8世紀 にか けて寒村化 しつつあった Be
gram が その よ うな突願
の舞義であったはずがない。
廃寮 にお ける突蕨 の饗展 は Be
gram 以外 の地, す な わ ち Be
gr瓦m の南 約 70キ ロ にあ る
K豆buiである。『 2によれば,K豆pi
大唐西域記』食1 畠 唐史の謝鹿,Z豆b
i園 と漕矩確固 ( ul
ist
豆n)
とは地理上南北関係 にあり,その間に弟受持薩僕那園が存在する 『
大唐西域記』巷1 O
2および
4
07 〔
24〕
6-8世紀K豆pi
岳i
-Ka
bul
-Z豆bul
の貨幣と番行者
大唐大慈恩寺三蔵法師侍』巻 5は,弗実情薩償那園の位置を漕矩托固 (
『 Z豆bul
)よ り北 に5
00
飴里 と記すが,迦畢試園 との距離関係 を言 わず,「
弗栗侍 薩償那 園か ら北 東 へ, 山川 をわ た
り,K豆pi
畠i園の連蓮 のまちやむ らおよそ数十所 を経過 して,Hi
ndukus
h山脈 のKhawak峠 に
至 る」(
2
8)とあるのみ で あ る。 この ことは弗乗侍 薩償郡 が Kapi
畠L
l-Ghaz
ni間 にあ る もの の,
Ghaz
n王よりはるか に遠 く,K瓦pi
畠iによ り近接 していることを示 す もので あ ろ う. ちなみ に
K豆pi
畠i-
Begr
豆m と K豆bulとの距離 は約 7
0キ ロ,K豆bulと Ghaz
niとの距離 は約 1
50キロである。
弗栗侍薩償那の園域 は東西2
000
飴里,南北 1
000
飴里。東西 は B豆mi
y豆nと等 しく,南北 はその
3倍 を超 え, また周 囲4
000
飴里 の K豆pi
畠王地方 とは比較すべか らざる康大 な地域 である ことを
指示 している。 これ らの諸鮎 を考慮す ると,K豆pi
畠王と Z豆bulとの閲 に位置す る弗実 情 薩償郡
とは, その原書 の如 何 にか か わ らず(
2
9, 中心 は K豆b
) ul
, 西 南 は War
dak, 東 は Kot
a1-
e
Lat
abandに及ぶ虞大 な地域 であ る。
弗栗侍薩償那 に関す る 『
大唐西域記』 の記事 の全文 は 「
東西二千飴里。 南北千飴里。 歯大
都城競護芯郡。周二十飴里。土宜風俗。同漕矩確固。語言有異。気序寒勤。 人性旗烈。 王突
厭種也。深信三軍。同学遵徳。」 であ る。注 目すべ き事賓 は国王が 「
突蕨」 だ というところで
至 ったと記すのみである(
3
0。 この ことは,玄英 が往路6
) 29年,昇 格6
43年 に訪 れ た と きの弗栗
(
28) 従此固 (
弗栗侍薩償那囲)東北。梅山砂川。越迦畢試国連城小邑凡数十所。至大雪山婆羅犀那大嶺。
(2
9) 原音については以下の4 案がある。( 1)vr
idj
ist
h豆na(?
):Juli
en1
858,I
I,1
90,(2)
Par如sth豆na,
orVardas
th豆
na(
?)・
.
Beal1
888,2
85,(
3)Watter
s1 9
04-5は諸説を引 くのみ,( 4)
Vardas
thana・
.de
Sai
nt-
Marti
n185
8,i
n[Jul
ien1
858,2
51f
f],(
5)Ur
dhas
th豆na:
Cunni
ngham 1
871
,28
。 なお水谷
寅成1 9
71,3
72-3
73を参照のこと。
(30
) 法師輿迦畢試王相随西北行一月飴。至藍攻囲境。- 自此復正南十五日。往伐刺警固。産聖速。又
西北往阿薄健園。又西北往漕矩托園。又北行五百飴里至備棄民薩償那園。従此乗出至迦畢試国境。
〔
25〕 4
06
東 方 学 報
3,慧超僧 の阿邪 と Bi
ran王の Bar
haTe
gin
この推測を裏附 けるのは7
26年 ころの情報ではあるが 『往五天竺 閲樽』 にみえ る腐 蜜 の楽
版王の出自である。『
往五天竺閲停』には 「この園 (
Gand
har
a) はもとは原資王 (
非発願 の
K豆pi
畠王王)が支配 していたので, [
いまの]莱厳重の父親 は軍 と-部落 とを領有 して腐賓王
に投下 していた。 しか し後 に楽廉の軍が強 くなると腐賓王 を殺 して 自分 が国主 にな ったO」
とみえる(
3
1。問題 はこの 「阿部」
) 父」が誰か という-鮎であるO藤 田豊八 (
,すなわち 「 193
1,
3
6b)は 「
此の樽 の阿耶 は殆 ど即ち巴爾喰 (
Bar
ha) な り。…. 何 を以 て 巴爾吟 を稀 して阿
邪 と鵠せ しかを知 らずO細 も翁誤有 らん。但 し事賓 は則 ち符す。」 とし,Ba
rhaを質すつ もり
が誤 って阿耶 とな って しまったと考えているoBa
rhaとは下 に記すように Bi
r屯niが11世紀 に
記録 した,k戻bulS
hah朝っまり実験王朝の始租 Ba
rhaTe
ginである。藤 田 は Bi
rhiと慧超
との所得を短絡 させ,実験王 -阿耶 -Ba
rhaTe
ginとみたのであるO
-方,Fu
chs は 「
Die
sesLa
ndwa
rfr
ii
herunt
erd
en He
rrs
chaf
tse
inf
ユ s(
us 王化)der
K占nま
geYo
nKa
pi畠
a (廃 寮 No
rdos
t-Af
gha
nis
tan);d
eswe
gen unt
erwar
fsi
ck de
r甘at
er
(阿耶) de
sru-
kii
eh-
K6n
igs(
Bar
hat
曙in) ni
tde
n Tr
uppe
nse
ine
sga
nze
n St
amme
s
j
ene
m K6ni
gYo
nKa
pi自
a.」 と謹み, さらに Ba
rhat
egi
nに注を附 して,「
Bar
hat
egi
nwa
r
d
ere
rst
eFi
i
rstde
rne
uent
ii
rki
sche
nI)
yna
sti
einKa
pig
a;We
sha
lbbi
erde
rVa
terYo
n
Ba
rhat
eかnge
nna
ntwi
rd,i
smi
runk
iar
.」 としている (
Fuc
ksl
939,4
447
445,4
45,f
n.i)0
「 父J と讃んだまではよか ったが,「
阿那 」を 「 突厳 王 」をすなわち Ba
rhaTe
ginと考 えたの
で,廃賓王を殺 して国主 となったのは,Ba
rhaTe
gi 父」 にな って しま った。Bi
nの 「 r豆n
iに
よると Bar
haTe
ginは K瓦bulS
hah朝の始組である。Fuc
hsは理解 で きなか ったのである。
上の諾文 に示 したとお り,「
阿耶」 は固有名詞ない し構坂の音駕で はな く, 「父」 の意 であ
り,r 突蕨王Jとは慧超昔時の突厳王である。そ う謹んでは じめて この文賓
父」の前 にある 「
往五天竺囲樽 』 によれば,かれが往訪 したとき K逢
はいきる。『 bt
il河流域 と Z豆bt
il
ist
豆nとの
支配者 な らびに軍隊 はみな突厳であったく
3
㌔ つまり 「いまの楽魔王の父」 が廃案王位 を纂奪
31
( ) 此園薗是厳賓王王化0番此薬療王阿部領一部落兵馬。投彼腐賓王。於後実験兵盛O 便 殺彼昂 資王0
日盛観王O
(
32) 至健駄羅。此王及兵馬絶是発願。- 此王雅量突蕨甚敬信三賓。- 至覚故国。此 園無 王。 有大首
領。亦廃健駄羅薗所管。・
・・ 室崩賓囲o此園亦是健駄羅王所管.・
・・ 此囲土人是胡O王及 兵 馬突 廉 0 .-
萱謝殿図8- 土人是胡O王及兵馬但是薬療O
4
05 〔
26〕
6-8世紀K豆pi
云i
-K豆buトZ豆bul
の貨幣 と饗行者
した. これを Bi
rGniとあわせて讃む と一層 事態 は明瞭 にな る(
3
3)0 Bi
rGniは, Br
ahman王朝
(
HinduSh豆hi
) のす ぐ前 の王朝である突厭王朝 の出自を述べている。Eduar
dSac
hauは以 下
の解樺 を示 している。
TheHi
ndushad kl
ngSr
eSi
dlng l
n Kabul
,Tur
kswho we
res
id t
a o be ofTi
bet
an
or
lgl
n.Thef
irs
toft
hem,Bar
hat
aki
n,C
amei
ntot
hec
ount
ry and e
nte
redac
avei
n
K豆bul
,whi
chnonec
oul
dent
ere
xce
ptbyc
ree
pingonhandsandkne
es. Thec
avehad
wat
er,andbe
side
shede
pos
ite
dthe
irv
ict
ual
sforac
ert
ainnumbe
rofdays.I
tiss
til
l
knownl
nourt
ime,andi
scal
ledVar.Pe
opl
ewhoc
ons
ide
rthenameofBar
hat
akl
n
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nent
ert
hec
aveandbr
ingouts
omeofi
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eatt
roubl
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Ce
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ntr
oopsofpe
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ave. Tr
icksoft
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ybec
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iedoutandbe
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ous,i
fthe
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horhasmadeas
ecr
et
ar
range
mentwi
ths
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lse-i
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t,wi
thc
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es.Now t
hes
ehad i
nduc
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pe
rsonst
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kthe
rec
ont
inual
lydayandni
ghti
ntur
ns,s
othatt
hepl
acewasne
ver
e
mpt
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opl
e./Somedaysaf
terhehade
nte
redt
hec
ave,hebe
gant
ocr
eep outof
l
tint
hepr
ese
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opl
e,who hadl
ooke
d on hi
m asa ne
w-bor
n baby. He
wor
e Tur
klS
hdr
ess,as
hor
ttuni
cope
ninf
ront
,ahi
ghhat
,boot
sand ar
ms. Now
pe
opl
ehonour
edhi
m asa be
ing ofmi
rac
ulousor
lgl
n,Who had be
en de
sti
nedt
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ng,andi
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sunde
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ssway and r
ule
dthe
m unde
r
t
he t
itl
e ofa s
h豆hi
ya of K豆bul
.The r
uler
emai
ned among hi
s de
sce
ndant
sfor
ge
ner
ati
ons,t
henumbe
rofwhl
Chi
ssai
dtobeabouts
ixt
y.(
Sac
hau1
888,Ⅱ,
10).
Sac
hauの この英葦 に して誤 りな しとすれば,Bar
hat
aki
n,つま りBar
haTe
ginはK豆bulの
洞窟 にはい って王 となる資格 を得 る。 ひとびとの前 にあ らわれたときには, まだ K豆bulSh豆h
がで きる.前期 はK豆pi
畠iの Khi
ngal王朝 の下 にあった時代であ り, 後期 はつ いで Khi
ngal王
朝を纂奪 して突廠王朝 の始阻 とな った時代である.
(
33) 「 那」のあやまりとみて,「
耶」を 「 阿耶」を 「
阿 [
史]那」の誤鴛とみることはどうか.この場合
『
往五天竺園侍』原テキストにおいて 「
耶」と 「
那」を明確にかき分けていることが問題である。すべて
「
那」字は,その竃を 「
舟」につくり,その勇の第三妻目を棒にせず,右に十分曲げてとめているのに, こ
この 「
耶」字はあきらかに郡であり,那とは一線を蓋しているのであるから,阿史那ではない。
〔2
7〕 4
04
東 方 学 報
新興)の S
屯rya集蘭,つまりBa
rhaTe
gin一派 との閲で抗学があったOその結果 鮎n豆紳護持
集轡 は 翫r
ya紳護持菜園に追 い出され,漕矩死囲 (
Z豆bu
lis
t象n) に移 ったO玄葵がやって きた
6
29年春 ごろの情勢 として,Be
gT豆m に Khi
ngal王朝の本蔽, そ して K豆bu
lにはその傘 下と し
て Ba
rhaTe
gin一波がいたと解樺するo Lか LKApi
畠i
-Kh
inga
l王朝の園掘支 (Cha
r-i
lEi
)荏
位 を謹す るであろうもっとも遅 い年代である6
61年以後 ,K豆bulで Ba
rhaTe
ginは,Khi
nga
l
朝 を纂奪 して これにとってかわ り,新 しい勢力 となったのである。
Khi
nga
l朝 は K瓦pi
畠i
-K豆bul地方のもっとも北方 に位置す るBe
gr瓦m を根接 に していたか ら,
はずであるO上 にのべた Be
gr豆m遜迩末期である最 期の終末を示 す考古撃 の成果 はこの こと
を樽えるものであるが,一方で文教の謹接 もな くはなく,掛府元亀』 外 臣郎朝 貢 4の開元 7
『
年(
71)4月己卯の記事に,
9 討毘施園」(
「 K豆pi
畠i
)の捺塞なる人物 が吐火羅 の大首領 である羅
摩裟羅 に托 して獅子 と五色の鵬鵡を献上 したということがみえる.突蕨が K夜bulで勢力をもち,
この地方の垂心が K豆b
ulに移 って もなお Be
gr豆m は存縛 し,暫 くはイ ン ドと To
kh豆r
ist
豆nと
をむすぷ遠距 離貿易 の Hi
nduk
ush南麓 における要衝であ りつづ けたで あろ う。 Be
gr豆m は
Hi
ndu h山艦 を北側 の Anda
kus r豆b地 方 か ら Khawa
k峠 を越 え て Panj
shi
r河 を くだ り,
Gho
rband河 と合流する地艶 こ位置す多という南北交通の要衝 にあり,K豆pi
畠主王に護透 された
玄共 はこのル- トによって To
kh豆r
ist
豆nにはいっている。 しか も Pa
njs
hir地方 は有数 の銀鏡
を擁 し, またエメラル ドなど濃石 を産 出す ることで名高 い。 8世紀 に及 んで もなお To
kh瓦r
-
i
st瓦n経由で K豆pi
畠Ⅰか ら朝貢があったことには以上の背景を考慮す る必要があるO
廃案 は唐代史料 に頻繁 にあ らわれ,従来 K豆pi
昌iに比定 されて きた。 しか しこのよ うな王朝
の交替以後 は K豆pi
畠iではな く,K豆bt
1
1を指 していることになるo Lか しいづれ に して もこの
比定 は劇薬を狭 い意味にとった場合のことであ り,震 い意味 では K豆pi
g王地方か ら Ga
ndhar
a
地方 までの K瓦bl
ll河流域をさしていたOすなわち第一に,慧超 は王朝交替事件 を Ga
ndh豆
raの
候で述べていて,突飲まが Ga
ndhar
aまでを支配 していたことを広めか していること. 第二 に
大正1
は,囲照撰 『大唐虚元新謬十地等緩記』( 7,7
15C
-71
7C)にあ審らかである。飼賓が大唐 に
附 くことを願望 して来朝 したのに射 して使節を唐 は厨賓に送 った。随行 した牽奉朝 (
後の悟空)
の行記がそれである。 8世紀中葉,天賓1
2載笑 巳2月2
1Eiに Ga aに到達 し,「乾陀確固
ndh豆r
は原資の東の都城である。王 は冬 はここに住み,夏 は廃寮にいる」(
3
4)とのべ, 西 の都城 の存在
を示唆 しているのである。西の都城は K豆b
ll
lのほかにはないO突厳王朝 もまたその支配領域 と
しては Khi
nga
l王朝 と同 じくインダス西岸までの K豆b
ul河流域を保 っていたのである。
(
34) 至乾陀羅囲。発音正日経駄遊園。此郎厨蜜東都城也O王者冬居此池。憂慮廃案O随其乾涼O以娠其性O
4
03 〔
28〕
6-8世紀K豆pi
畠i
-K豆bu1
-Z豆bulの貨幣 と蓉行者
玄契昔時少数勢力 であ り,Khi
ngal朝 に従属 していた突厭 は, これを墓奪す るまで に成長 し
た。K豆pi
畠iを根城 にす る Khi
ngal王朝 は,65
3年 に即位 したぽっか りの王 Ghar
-i1
6iの時代 に,
南 にあ らわれて北進す る Ar
ab-
Mus
lim 軍 との封鷹を飴儀な くされた。Khai
rKh豆na道連 の上
層神殿,『
大唐西域記』 の阿路探山 は,迦畢試園の山獄 としてそとに記録 された もので あ るが,
が耐えたの も,Panj
shi
rの銀鏡 を確保す ることができたか らであろうが, こうした封鷹 の中で
K豆bul
は次第 に本家 のK豆pi
岳iに封 して蓉言樺 とこれを凌駕す る軍事力 とをつ けて い ったので な
ければな らない。
4‥烏散特勤鹿 とRTBYL
Bar
haTe
ginのあと,突蕨 の王統 はど うな ったか。 『奮唐書』 巷1
98厨賓 図億 は, 開元 27年
(
739
) 「その王烏散特勤濃 は年老 いたので,上表 して子である梯謀扇婆 に王位 を嗣がせ る こと
を請 うたので, これを許可 し, よ って使者 を降 して朋命 した」(
3
5)と。 『腐食要』 巻99厨賓 囲侍
は 「 嫡子」 とす るほか は 『膏唐書』 と同文である。一方, 『析府元亀』 外 臣部封 析 2
子」 を 「
はこの記事を開元26年 (
738)1
0月の候 に掲 げる.年次 は一年早 く, 月 は十 月 と して い る。 年次
はどち らが正 しいかわか らないが, これ らの記事 は,厨賓 において王の交代が7
38/7
39年以前
にあり,烏散特勤濯 なる K豆bulShahが高齢のために退位 し,その嫡男である沸萩眉婆 が登位
した, というのである。抹萩腐婆 は,「 裟」 によみかえて Humbac
婆」 を 「 hが貨幣 の Bac
tri
a
語銘 に蓉見 した栴碗 FRO
MO/KHCO
RO(
From Ke
sar
o-ローマ皇帝)に嘗 る(
3
6)
。烏散特勤濃 は同様
(
35) 「
開元」二十七年。其王烏散特勤濯以年老上表請。以子株茶園婆嗣位。許之.仇降使筋命O
(
36) Humbac
h19
66,2
0ff。Humbac
h19
83,3
03-
39 Fr
0 om Ke
0 s oは 「(
ar 東)ローマ皇帝」の意で
あるが,なにゆえに厨賓王がそのような名をとったかはいま問題からほずれるのでHar
mat
ta1
969,2
97-
4
32,とくに4
12にゆずる。
〔2
9〕 4
02
東 方 学 報
ぐ(
ML壬 Te
ginKh
6ras
豆nMal
ka)に同定 された王であるo とくに高齢だといって いる鮎 を考慮
す ると,烏散特動感の在位 は7
38,9
年 までのだいぶん長期にわたるものであったO
ふ りかえ ってみるに,慧超の時代の突巌王,K豆b
u h豆hといえば7
lS 26年 ころのひとであるO
また烏散特勤塵の高齢による退位の年は7
38/7
39年より若干以前である。 さらに粟蕨腰賓王 の
交 代 に関 す る記事 はこの年次以前 には存在 しない。 これ らを考 えあわせ ると, 慧超時代 の
kabulShahは烏散特勤演であった可能性が高い。一方,慧超 は,謝観閲王 は厨賓囲王 (
Kabul
S
h豆h) の甥であるといっている。いま慧超時代の K豆b
ulS
hahが烏散特勤磯であるとす るな ら
ば,烏散特勤滴 は謝魔観王の叔父 に苦 ることになる。烏散特勤虜 と謝親密王の父 とは兄弟であ
烏散特勤澄)の父 は Ba
る。慧遠雷時の廃寮図三 ( rhaTe
ginであり,Khl
ngal王朝を纂奪 した
者 である。 したが って,K豆bu
lの粟廟王朝は,始租 を Ba
rhaTe
ginと し, その予 であ る属散
特激痛が第 2代である。
次 に,相葉稜 の教示によれば(
3
7)
,廃寮王謝馳王の血縁関係 と以上の腐賓突蕨王統 を念頭 に し
て,K豆bulにおける突願支配の開始年代を Tab
ariとBaはd
hur
iとの解樺 か ら導 くことがで き
る。Tabar
i(i
,27
06)紘, カ リフ Mue yah時代 (
豆wi 66ト6
80)の こととして,K象buiSh豆hと
兄弟 であ る Z象b
lユlの RTBYLの動 きを述 べ ,S
h紬 が RTBYLか ら逃 げて AMLへ 南下 し,
Ar
ab-
Mus
lim 軍 に服従 したと記述 している。慧超か ら導 き出 され る周密謝馳関係 も腰寅王 と
謝馳王の父 とが兄弟であることを述べ,血縁関係に関 しては巣質の史料が奇 しくも同 じことを
示 している。山方 Ba
l豆dh
uriは,I
bmS
amu
ra lを6
hが難攻の K豆bu 65年 に陥落 させたことや6
66
年 に K豆bulS
h豆hが Kabulを奪回 したこと,あるいは RTBYLが Z豆bu
lis
t豆n,a
r-Rukh
kha
j,
Bus 宿業1
tを支配す ることになった事態を述べる ( 992および Mur
got
teni
969,1
46f
f.参照)O
これを Tab
arHこ照 らす と,K豆bu
lを奪r
jした s
"
u h豆hが逃げて しまった ことにな るOMa
rqua
rt
(
1901
,38
) と Rahman (
197
9,6
6)は,Tabar
iにおいて RTBYL と K豆b
ulS
hahとの役割が
逆碑 しているためにこの奇妙 さが生 じたとみるDS
hahと RTBYL との役割 が逆樽 しているの
が事薫であることを確かめたのは相葉穣である。候補 となる支配者をすべて掲 げると,K豆pi
gi-
Khi l朝の王,
nga 『 稽葉 は Z
大唐西域記』漕矩叱園王 ( 瓦b
uli
st瓦nの土着の王 とみる),漢文資料
にあ らわれる廃寮の突厳王 と謝鶴の実験王であり, この 4着のうち Ta
bar
王の s
h豆hに 該富す る
可能性が一等高いのが誰であるかを消去法で逐一検討 したのである。そこで,朽葉 は この記事
と おal
豆dh1
1
rまとを組合 して 7世紀後半における K森b
ul-
Z豆bu
lの歴史を以下のように構成するo
Mu`
豆wi
yahの生前,すなわち6
80年以前, 多分 6
65年のI
bnSamur
ahによる K豆bul攻撃 に
KabulSh豆hはい ったん破 れたが,翌年6
66年 には K豆bul奪回 に成功 した。 その後 ,K豆bul
Sh瓦hと RTBYLとは仲違 い し,RTBYい まK豆bu
lShahか らにげて,S
ist
anにあ った I
slam
(
37) 以下の論述は稽葉穣1
992
および稽業務との検討にもとづくO
-
i
'
()1 〔
30〕
6-8世紀K豆pl
畠i
-K豆bul
-Z豆bul
の貨幣 と蓉行者
勢力である Sa
lm b.Zi
y豆dの下 にはいった。Sal
m b.Zi
yadとい うのは I
bn Samur
ahと交代
した Si
st豆n線菅であり,I
bnSamur
ahは670年 に Bas
raで死ぬ (
Bal
豆dhur
i,1
47)。 したが っ
て総督の交代は6
66年 と6
70年の間の 4年間である。Sal
m の下へ RTBYLが くだ ったのはこの
4年 間以後 であ る。 そ う して Muc
awi
yahの死後 , 680年以 後 に I
sl豆m 勢 力 下 に あ った
RTBYLは自らの土地を Ar
ab-
Mus
llm 軍か ら解放 して衝立 し,Kandah豆r方面 に居座 ったので
あると。
ここで注意 しておかねばな らないことは,Kabulを奪回 した K豆bulS
h豆hと,RTBYL と兄
弟であった KabulShahとを同一人物 とみる謹接はないことである.それどころか, 賓 はこの
繭 KabulSh-
ahは異 な った人 物 で あ り, 奪 回 した KabulShahは Bar
ha Te
ginで あ り,
RTBYL と兄弟 の KabulSh豆hは漢 文資 料 にあ らわれ る烏 散 特 勤 濯 , 貨 幣 銘 の Te
gin
Kho
ras
anSh豆hである。両 K豆bulSh豆hが Tabar
iや Bal
豆dhur
iにあらわれる年代 の狭間 にお
いて,突願王朝 は Bar
haTe
ginか ら烏散特勤痛へ交代するのである。 このことは後に検討する。
Taba
riにあらわれた事柄を詳細 に検討 した Rahman (
197 6,f
9,6 n.2
6) によれば,Taba
ri
の記事における 「
Mu`
豆wi
yah時代」 というのは正 しくはカ リフ Yaz
id時代 (
680
-68
3) である
という。理由は簡単 。Sa
lm b.Zi
yadは Mu`
awi
yah時代ではな く,Yaz
id時代の絶督 だか ら
だというのである。 しか し,相葉 は指摘する。「
Mu`
豆wi
yah時代」の方が正 しく,「
Sal
m b.
Zi
y豆d」の方があやま りである可能性 も嘗然あ り, はかの将軍 と混同 していることも十分考え
られると。そこで,以下の二つの場合が想定 されるあろう。(1)Yaz
id時代 (
680-6
83) とす
るな らば,6
80年 と6
83年 との間の時鮎で RTBYLは K-
abulShahか ら逃 げて Sa
lm b.Zi
y豆dの
下 に降 り,6
83年以降 に RTBYL はそれか ら離脱 して Kanda
h豆r地方 にいすわ った。 (2)
Mu豆̀wi
yah時代 (
661
-680
) とする鮎を活かすな ら,6
61年か ら6
80年の間 に RTBYい まK豆bul
Sh豆hか ら逃亡,680年以後 に RTBYLの離反があった。
Bal
豆dhur
iによれば (
Mur
got
ten1
969,1
49),RTBYLは6
86/6
87年 ころ Àba al
-Àfr
豆'
(
sis
t豆nの wal
i) によ って殺 され た(
3
8。 また Ba
) l
adhur
i(Mu
rgot
ten1
50) は6
93/6
94年 に
RTBYLが ÀbdAl
はhb.Umayyaと戦 っているとす る。殺 された RTBYLが戦 って いるは
ずがないか ら,6
86/6
87年 と6
9 4年 との閲のある時鮎で RTBYLの代替 りがあ った ことに
3/69
なり, この時鮎以前の RTBYLは Ⅰ世,以後 は RTBYLⅡ世である。
さて,Taba
riのいう 7世紀後牛 という時代,K豆bulSh豆hと逃 げた RTBYLI世 とは兄弟 で
あったか ら,オジオイ関係 となるのは RTBYLI
I世 とKabulShahである.一方慧超 のい う7
26
年の時鮎でオジオイ関係 にあったのは眉賓国王 (
K豆bulShah) と謝願園王 (
Z豆bul
ist
豆n王)
である。RTBYLI
I世 は6
86/6
87年 にRTBYLI世の死をうけて RTBYLとなり,イスラーム資
(
38) Yaq̀
dbi[
His
t aeⅡ,3
ori 24]は ÀbdAll
ahb.Umayyaが殺したとする。
〔3
1〕 4
00
東 方 学 報
この穀を基に纂奪以後の事態をみると,Taba
riの記事の,RTBYLI世が K豆b
tilS
h義hの も
とか ら逃 げた原因を稽糞が想定するよう碁
とBa
rhaTe
ginの後塵者率 いに兄が破れたか らともみ
られよ う。 印位 した烏散特勤演が主人 とな った K豆b
ulか ら RTBYLI世 が逃 亡 し, Arb
a -
Ml
lS
lim 軍 に服従 したということは,共同で封 Ar
ab-
Mus
lim 軍 と して戦 った兄弟 に して異常
な事態であり,弟の登位をその原因 とみることは蓋然性が高い。 したが って烏散特動感 の登位
年代 は RTBYLI世の逃亡前後である。すなわち Ra
hma
nの Ta
bar
王解秤 に したがえば Ya
zid
時代を手掛か りに,6
80-
683
年のある時粘以前であるO
3
99 〔
32〕
6-8世紀K豆
pi喜
i-
K豆bu1
-Z豆
bul
の貨幣と蓉行者
Bahr
aTe
gin) は相富 な軍事力 をつ けて きたのであ り, その結果 Khi
ngal朝 にと って か わ る事
態がお こったのである。 したが って,Bar
haTe
ginの墓奪 とそれ以後 の事件 (
Bar
ha Te
ginの
後 継 を め ぐる兄 RTBYL と弟 烏 散 特 勤 癌 との苧 い, お よ び そ の 結 果 で あ る RTBYL の
Z豆bul
ist
-
an向け敗走) を6
66年 と6
83年 との閲 に求 める。Rahmanは6
66年 に K豆bulを奪 回 した
事件 を もって Bar
haTe
ginの纂奪 とみたが, かれ は Be
gr豆m で纂奪事件 が あ った と思 い込 ん
で いて ,K豆bul
で お こ った とい う税 鮎 を もって いな い。K豆pi
喜i-Be
gr豆m に よ って い た の が
Khi
ngal朝 ,K豆bulによ っていたのが T
iir
k(K豆bul
)Sh
,ahで あ り,Be
gr豆m は 7世 紀末 に は
すで に衰退 にむか った謹接が あるか ら, そ こで Ba
rhaTe
ginが纂奪 し, そののちそ こで勢力 を
横大 した とは考 え られない。纂奪 は K豆bulで起 こった事件であ るとみ ることによ って事態 は整
合す る。Rahmanのよ うに Bar
haTe
ginの纂奪 の正確 な年次 を定 め る ことはで きな い。 以上
の諸王統 の関係 (
下表) と歴史認識 に もとづ いてその貨幣 を検討 す る。
[
Kapi
畠i
-Be
gra
m] [
K豆bul
] l
z豆bul
ist
豆n]
Khlngal(馨華)
(
550年代 ころ)
Sかya紳集園 封 自
una神業園 -大唐西域記槽矩托国王
(
606と6
29との閉)
Bar
haTe
gin(
慧超侍 の突蕨王 の阿耶 6
06-
629
-?)
Char
-i1
6i(
馬堀支)
(65
3-661
-?)
- 一 一 二 一
-
弟 Qar
ada己
1Te
gin(
Tegi
nShah) 兄 RTBYL I (
?I 686
/687-69
3/94)
(葛羅達支特勤) 661-6
80または680-6
83:Kabul
か ら逃 亡
Tegi
nKhorasanShah 誓屈
RTBYL Ⅱ ( 爾-誓願-738t.a.q.)
(烏散特勤 渥 68
0 /6
83-138
ta.
q.)
.
l
om Ke
Phr sar
o(7
38t
.a.
q.) RTBYL Ⅱ (如没練達 7
38t
.a.
q.-?
)
(
排春闘裟)
Sr
i箪hiKhlql
g豆1
a-Ud
diy叫aS
豆hi(
745
t.a.
q,)
(畠
riV豆s
ude
va勃旬準)
V.7
-8世 紀 に お け る突 蕨 王 朝 の貨 幣
1. K豆pi
畠i朝下 にあ った K豆bulの Ti
ir
k支配者 Bar
haTe
ginの貨幣
K豆pi
畠i朝下 にあ った時代 の K豆bulの m r
k支配者 Ba
rhaTe
ginの貨幣 を第 2群 の第Ⅰ
型 式,
3〕
〔3 3
98
東 方 学 報
はな しを元にもどすと,王の肖像は Ns
pkiMI
JD-
sh銘牛頭冠系貨幣のものと類似 しているo
牛頭冠のかわ りに三叉戟冠をおいたような ものである。 銘 は Ns
pkiMLD-
sh型式 よ り簡便化
して pkiMKであり, これは牛頭冠系貨幣 pkiMK式緒 と退化 の程度 が同 じとい うことにな
るO字形 は資にいい加減で,流れるように書かれ,すべての文字を刻 まず,Kが目立 っておお
きく書かれる特徴があるO牛頭冠系貨幣の初期の精微なものと比較すると, と くに このK字が
だらしない 。 山方 裏面 (
reve
rse
) をみると, これは Ns
pkMLD-
sh銘貨幣 と繋が る要素を
はっきりもっているo Ns
pkiMLD-
sh銘貨幣には特徴 となるマークがあるO舞火壇の上方左右
Ns
pkMLt
)-s
h銘式の貨幣 (
固版 Ⅰ:
ll,1
2.E.2
21;固版 Ⅱ:
ト12.F
J.
222
) と共有 す ることに
よって年代上 これとほぼ並行する。 しか し銘の退化 を考慮すれば三叉戟冠系貨幣 の銘 は pki
MKであるか ら,Ns
pkMLD-
sh貨幣 と完全に並行関係にあるのではな く, それ よ り若干遅れ
て出現 したのであろうO牛頭冠系貨幣を Kapi
畠iの Khi
ngai朝の貨幣 に同定 して このよ うな南
3
97 〔
34〕
6-8世紀Ka
pi畠
i-
K豆bul
-Za
bul
の貨幣 と蓉行者
した場合,Khi
ngal朝 の貨幣 を組範 と したとみることに不思議 はなかろう。 しか し王冠 だ けは
Khi
ngal朝の牛頭冠 というわけにはいかない。冠 は猪 白の ものでなければな らない。 三叉戟冠
を もった貨幣 は牛頭冠系貨幣 との型式差か らみて もK豆bulの突厭王朝 に頗属 させてお くことが
自然 なのである。
三叉戟冠型式 の貨幣群 には一種類 だ け Sas
豆n貨幣 を摸倣 した ものが あ る (囲版 Ⅴ:
418.
E.
231
)。貨幣の表面裏面 ともに垂圏があ り,重圏の外の四隅に三 日月状弧 +星 をお く。 このや
りかたは Hus
ravⅡ世 の治世第26,27,3
6,37 各々AD 6
年 ( 1
5/61
6,61
6/61
7,6
25/6
26,6
26
/6
27)特別費行 の貨幣 にあるのみ。三叉戟冠系 pkiMK式貨幣 の年代 は Hus
ravⅡ世 の第26年
(
615
/61
6)以後 にな る。 ここで再 び年代 として Khai
rKhana抗雫 (
606
年 と62
9年 との閲 のい
つか)を考慮す ると, この Sas
豆n式 を踏襲 した型式の貨幣 は大約 Khai
rKhana抗雫後 とい っ
てよい。
な く,支配者の違 いである。三叉戟冠系貨幣 は Ba
rhaTe
gin系 K豆bulの突厭 の ものであ るか
ら, この種のマークは突厭 の ものであろう。 マークは一方でエフタルの貨幣, つ ま り G6
blが
い うところの Khi
hgi
la(
E.3
6,3
7,3
9-4
4,4
9-5
3,5
6,5
7,61
,63
165,6
8,7
0-7
4,7
8,8
0,81
,
8
6,9
2,1
05,1
07,1
12),Tor
am豆na(
E.1
13,1
17,1
18),Mi
hir
akul
a(E.
158,1
59,1
61,1
62)
にあ らわれている (
G6bl1
967,Bd.
II
I 。 エフタルの貨幣 と K豆bu
参照) lにあ らわれた突廉 の貨
幣 とにあ らわれた このマークを偶然の出現 とみるわけにはいかないであろう。 そ こになん らか
の意味があるとすれば, エ フタルは しば しばいわれるようなイラー ン系 で はな く T
iir
kとなん
らかの関係を もっているとみることであろう。 しか し本論冒頭で述 べたように K豆bulの突厳を
エ フタルの残樺 とみ ることに梼曙す る立場か らいえば, エフタル印テエル クではな く, エ フタ
〔3
5〕 3
96
東 方 撃 報
第 2群第 Ⅰ型式
(1)表面 :三線は牛頭冠系貨幣のうちで Ns
pkiMLD-
sh緒をもつ-
--
・
群の像 と類同す るO 三
だ冠は
さるO三叉戟の数 に3,2, 1の 3タ
頂上に三日月状の弧を置き,その上に三叉戟をう妄
イプが認められるが三者間に年代差は認められない。
緒はpkiMK であり,牛頭冠系貨幣の pkiMK式銘 (
I
C式) と退化が同程度であるO
字髄はだらしな く,特に淀において著 しいO
(2)裏面 :拝火壇上方左右に珠鮎によってつ くられた囲圏のマークがある (
E.2
25-
229
,23
2,2
34)
O
これは牛頭冠系貨幣のI
B式 と同式であり, これによって両者は年代上並行する。
(3)三E
3月状の弧が脚のある墓にのったようなマ-クがすべての貨幣の表面に認められるO 牛頭
冠系貨幣のF
J.
203
,20
3,2
65,2
66,2
67-
271など後期に展する貨幣に認め られ るワイング
ラス風のマ-クと好封照をなしている。
豆n貨幣を摸倣 した貨幣 緩.
a,S豆S 231
)
表裏南面に二重圏があり,裏面では圏外の四隅に三日月状の弧+崖を置 く。 これは Hus
ravⅡ世の
第2
6(AD 6
15/6
16)
,27,3
6(A‡
)62
5/6
26),3
7年に登行 した貨幣 に認め られ るか ら, この貨
幣の年代は AD 6
15/6
16年以後であるO
版 V:
9-i
l) で は,Bac
tri
a文字 で CⅠ
)i
O 塾ATI
O,E.
237(
国版Ⅴ:
12) で は CPI
O L
hOTI,
あ るいは E.
252(
擦版 V
I:1
-2) で は Br
ahmiで 鮎iS豆hiとな って い るO 臥2
36で は 2種 類 の小
さい c
ount
ermar
kが打刻 され る。一枚 に 2種類 の場合 もあれ ば, ど ち らか 1種 類 の場 合 もあ
るO いずれ も Br
瓦hmi文字 をす くな くとも 2文字 もつ ものであ る。
三叉戟冠式貨幣 におけ る壁化 は単 に銘 が Pahl
avi銘 か らBac
tri
a文字銘や Br
ahm
i 銘 にかわ っ
たのだ とい うだ けで はす まされない問題 で ある。軒 に銘 は pkiMK で はなんの ことか意 味 が通
らな くな って い る。 それを このよ うな明確 な意味 を もつ銘 にかえたので あ る。三叉 戟 冠 貨 幣 を
3
L)
5 〔
36〕
6I8世紀K豆
pi畠
i-
K豆bu1
-Z豆bul
の貨幣と聾行者
Kas
hm
i rを含めた東方,北西イ ン ドを意識 したことを物語 る。 この奨貌 を私 は K豆bulの突厳
の Khi
nga
l朝纂奪 に求める。つま りBar
haTe
glnは Khi
nga
l朝下 にいた昔時 は三叉戟冠式貨
幣に同時代の Khi
ngal朝の貨幣 と同 じ銘をいれて尊行 していたが,Khi
ngal朝を纂奪 す ると,
銘を完全 に入れ替えて 畠r
iSahiとし,あらたに貨幣を専行 した とみ るのである。gr
i串 hi銘
を打刻 した三叉戟冠式貨幣 は B王
rGniのいうK豆bulSh豆hとしての Bar
ha Te
ginの蓉行 にかか
るものである。
纂奪 した Bar
haTe
ginは最初 Khi
ngal朝系 ともいうべき貨幣をっかって銘だけを改 めたが,
狼」(Eme
次 に貨幣型式 自身を改める。突厳を標樺する 「 lEs
in1
972
参照) を冠頂 につ けた貨
幣を蓉行 したと考える。 これ も王 肖像や貨幣の裏面の形制 は pkiMK式貨幣を襲用 したもので
E.
ある ( 2
54.囲版 Ⅵ :
5)O 銘 には Br
豆hm
i を使用 し, gr
iRa/k豆r
王(?) とあ る。 Bar
ha
Te
gin費行の第 2型式である。突蕨王朝 としての Ba
rhaTe
gin貨幣を表 にす ると以下 の とお り
である。
(1)第 2群 (
三叉戟冠系)第Ⅰ 型式貨幣 (
Ⅰ 6
61年と683
年との聞):纂奪以後のBar
haTe
gin (1)
例 :E.2
36,2
37,2
38,2
39,2
52-
253
,2 5
7,2
58
冠 :三叉戟をひとっ附けた冠。
銘 :CPI0 秒ATI
O(-Sri
oShaui
o,Sr
ioShauo
)/g
ri箪hi(
Brahm
i)。
(2)第 3群 (
狼冠系)第 Ⅰ型式 (66
1年と683
年との閲):纂奪以後のBar haTegi
n(2)
例 :E.2
54:
(
1)表面
王像 :Npki
型式。
左右に巽)+ (
冠 :狼 ( 三日月状の弧+光空屋)-烏散特勤虐貨幣に相績される型式。
銘 :白
riRa/k豆r
i(?) (
Br豆hm
i).
(
2)裏面
E.
252と並行ないし以後。
3.第 2代 K豆bulSh豆hの烏散特勤慮時代 (
728
-73
8[t
.a.
q.]
)の貨幣
Bar
haTe
ginの息であ り,RTBYL I世の弟である第 2代 K豆bulSh豆hには葛羅達文特勤 な
る栴鋸をもった時代 と烏散特勤演なる構我をもった時代 (
728
-73
8[t
.a.
q,])がある。前者 につ
いては後述 し,ここでは後者の貨幣を狼冠系貨幣第 Ⅱ型式 (
SriVahiTe
gin/Te
ginKho
ras
an
MLK-K豆bulSh豆h Ⅱ世第 2式)に同定する.同定の手緩 きは以下のとお りである。 なお固版
Ⅵ:
9-1
2と固版Ⅶ:
1-1
2の E,
208,2
09,2
40,2
44,2
46,2
55,2
56を参照 されたい。
烏散特勤濃 は7
38年ない しは7
39年のころ高齢によって退位 したことを前にのべた。 ここで特
に注意せねばな らないのは,G6blが讃んだ E.
208貨幣 (
囲版Ⅵ・
.
9-1
2,囲版Ⅶ:
1-4
) の銘 Va
hi
Te
ginを Humbac
hが Vr
ahiTe
ginあるいは Sa
hiTe
ginと謹み, それを Bar
ha Te
ginに富て
〔3
7〕 3
94
東 方 学 報
たことである (
Humba
ch1
966,6
b)。その貨幣とは表面に重囲をっ くり,内圏と外囲との間に
畠
riHi
ti
vraKha
Tal
豆vaPa
Tame
畠va
Ta/畠r
三Va
hiTe
gir
iユ)
evak豆r
擁rpの Br
弘rn三銘を,内
圏の右にBac
tri
a文字でCPI塾OTO (
SriS
hahi
)銘を入れ, さらに裏面にも重圏をっ くっ
て,内圏の内側右にPah
lav
王文字でt
gyn'hwr"
良"nMLK'(
Tegi
nKh6
r豆S
豆nMal
ka) と,義
にPa
hlav
i文字でh
ptwh
pt"
t(haf
tohaf
t豆d=
=77
)とをいれたものである。貨幣表面 につ く
られた重囲の間に銘を入れる例は,G6
blによると,Ar
ab-
S豆S
豆n式貨幣においてAH6
0年か ら
AH8
3年,すなわちAD6
82からAD7
03にあらわれる型式である。 これに準揺すると, うえの
銘をもつ E.
208貨幣はこの Ar
ab-
S豆S
豆n式にそのまましたがったものであり, さらにE.
209
(
囲版Ⅶ:
5),2
44(
畠r三Va
jaT
a/Va
khu
deva銘)(
囲坂問:
10),2
11-
216(
griVas
tL
deva銘)
(
囲版Ⅷ:
7-1
2),2
47-
251(
For
omoKe
sar
o銘)(
国威Ⅶ:
2-6
)はみなこの例にもれない。 した
がってこれ らはすべてAD6
82を上限 とす る貨幣である。筆者の立嬢 によれば, (
D Ba
rha
Te
ginの纂奪は6
61年と6
83年 との閲である。(
2)その子供たちK豆b
ulS
h豆h(
弟) とRTBYLI
世(
兄)が後継者翠いをし,破れた兄がKa
nda
har方面へ逃れたのは6
83年以後である。 (
3)莱
K豆bⅥlS
h豆hはのちに烏散時勢礎の稀嚢をとることになったひとである。 これにE.
208貨幣の
上限がAD6
82であることを加味すると,年代の鮎でこの貨幣をBa
rhaT曙i
nのものとみるこ
とは不可能である。Va
hiTe
gin
,Vr
ahiTe
ginはBa
rhaTe
ginのことではな く,穣yn'hwr
"
ら
"nMLK'をもって蓉行者とみなければならない。 したがってこれら一連の貨幣は烏散特勤藤
とその後強者のものか,あるいはRTBYLI世とその後継者のものであるo Lか しいまF
J.
208
のTe
ginKh6
ras
豆nMLKはHumbac
hが正しく認めたように烏散特激痛に相嘗するか ら, こ
の一連の貨幣はBa
rhaTe
ginの後強者烏散特勤演とそれ以後のかれの系列に凝する支配者の貨
幣であり,RTBYLI世系列のものではないO
烏散特勤演が Pa
hlav
i貨幣銘 u(
O)r
sanも
egi
nsh豆h,u(
o)s
amt
egi
nsh豆hにあたれば,パク
トリア語でt
egi
nuo
rsa
nsh豆hとあるE.2
40(
圏版Ⅶ:
7-8
) も烏散時勤磯のものにはかならな
い。E.2
40の冠は狼冠ではないが,このシリ-ズ中には右向きの狼頭を刻んだ c
ount
erma
rk
(
KM1
01,G6
blによる)を打ったものがあり,このc
ount
erma
rkを打刻することによって狼冠
をかぶった王像をあらわすことと贋健を同じくしているのである。uo
rsa
nはkh6
T豆S
左nであり,
「
東」を意味する。G8b
lはこれを地名とみてホラサン地方とするが,そうではない。貰時ホラ
サン地方はAr
ab-
Mus
lim のもとにあったし,またK盈bl
l
lSh
豆hがすでにアラブの支配下にあっ
たS
ist
豆nをこえてホラサン地方をわがものとかんがえたわけはない。 これを単に 「
東」 を意
味するものと解すると,Pa
hla
viで 噛yn'h
wr"
S"nMLK"とあるE.2
08も,銘文 はパク トリ
ア語とPa
hla
v王とのちがいはあるものの,やはりE.
240と同一王の静行,つまり烏歓待勤演の
貨幣と考えてよいのである。
ところで互.
208や2
40などのKho
ras
anは馨行者が特に 「
東」を意識 しているのであり,おま
3
93 〔
38〕
6I8世紀K豆p
ii
畠-
K豆bul
-Zabul
の貨幣 と考行者
けに E.
208の表面の銘 は 「
白riSh豆hi
」, および 「
Hit
ivi
raKhar
alava陛下 ,Par
ame
gva
ra,
VahiTe
gin陛下,De
va,により打刻せ られたる」 といった E.2
40にはない一段 ともの もの し
い銘 になっている。 この ことはおそ らく,兄を駆逐 して鋭意即位 した烏散特勤癌の登位 に際 し
た費行か,あるいは 「
東」 を特 に意識すべきなん らかの事件に際 した零行かを示唆す る。 しか
し後 に述べるように,烏散特勤濃が登位 したときの貨幣 は別に定めることが可能であ るか ら,
「
東」を特に意識 した事件を記念 した曹行 と考え られるのである。 その事件がなんであ ったか
をとりわけ示す資料 はないが, ひとつ考え られるのは廟賓が謝髄を臣従 させたという 『唐書』
巻2
21下の謝髄園の候の記事 「
景雲初遣使朝貢。後逐臣厨賓」である. 臣従 させた程度 のほど
はあさらかでないが,それが71
0年以後であったことはまちがいない。 これを もって東方 の支
配者たることを標梼 したのであるな らば,烏散特勤演たる栴弓
鋸まこのとき始 まったのであ り,
それ以前 はこれと異 な った栴親をとっていたということである。すなわち登位のときか ら烏散
特勤演ではな く,71
0年以後 Z豆bul
ist
豆nを臣従 させた時鮎で烏散特勤濃 となったと考える。
これを謹するかのように,kh6
r豆S
豆nを映いた,軍 に S
riTe
gins
hahのみを銘 とす る貨幣が
ある。E.
206(
囲版Ⅷ:
1)である。71
9年あるいは7
20年 に唐 が認知 した厨賓突魔王 の栴窮 は葛
菌唐書』 巻 1
羅達支特勤であって,烏散特勤癌ではなか った。すなわち 『 98と 『析府元亀』外
臣部技術では7
19年 (
開元 7) に厨賓国王葛羅達支持勤を筋立 したとし 『 ,
筋府元亀』 外 臣部封
珊 2と 『
唐合要』巷9
9は7
20 開元 8) のこととしていて,7
年 ( 19/7
20年時鮎では K豆bulShah
は葛羅達文特勤である。葛羅達文特勤 は Qar
ada己
iTe
ginと解され,森安孝夫氏 の教示 に従 う
と トルコ語で qar
ada6
iは 「( 桑山編 1
園を)見 る者」であるという ( 992:
136)。 それが uo
rsan
東方)をふ くんだ ものとみるな らば,烏散特勤鹿 という栴窮をとったのは,7
( 10年以降71
9(ま
たは7
20)
年以前だということになる。一方,わざわざ葛羅達支特勤,烏散特勤演 と異 な った表
現をつかっている鮎を重親 し,両者が異 なった稀親であって,烏散特勤濃淡が葛羅達支持勤 よ
り一層おおさな構競であるとす るな らば, はじめ葛羅達支特勤であったのが,烏散特勤演へ変
わったとみなければな らない。 そうすると,「
景雲の初め」以後 とい う時間帯 は71
9/7
20年 を
こえるひろい時間 とみる必要がある。構嚢の饗化 は71
9(または7
20)
年以後 となろう。
ここで注意すべきことは E.
208の裏面 にあるhpt
whpt
"t(-haft ohaf
tad-7
7) という年
紀である。 この年記の讃みは7
7年 と確定 しているが,紀元 はさまざまであ り,Hi
jra暦 は論外
として もYaz
dkar
t紀元か Pos
t-Yaz
dkar
t紀元かでわかれるo Lか しいま上 にのべた栴東壁化
にかかわる年次があたえ られると,紀元問題 も確定す るのである。 つ ま り7
7年 は,Yaz
dkar
t
紀元であるな らば AD7
08年,Pos
t-Yaz
dkar
t紀元であるならば AD7
28年である。7
08年 は栴軟
撃化 にかかわ るいずれの年次 よ りも以前であるか ら嘗た らない。 7
7年 とはす なわ ち Pos
t-
Yaz
dkar
t紀元7
7年であり,AD 7
28年が正 しい.7
28年に K豆bulShahはその栴窮 を葛羅達支
特勤か ら烏散特勤癌へかえたことになる。 この場合注意せねばな らないのは,『唐書』 謝髄園
〔
39〕 3
92
東 方 学 報
後逮臣廃寮」 の次 に 「開元 8年 (
樽は 「 720
),天子筋葛羅達文竃利驚誓屈爾馬王。 至天資 単数
朝巌」 と記 して謝泉観痔 の記事 を終 わ っていることであるO葛羅達文頚利蓉誓属爾 が謝勉王 に
燃立 されたことを もって廃寮の謝艶支配が終わ ったとみるな らば,廃賓が謝艶 を支 配 したの は
開元 8
年 までのことととれ るO葛羅達文苛利番誓屈爾が謝馳王 に射立 され たか らとい って廃 寮
の支配がおわ ったとす ることはどうであろうか。頚利費が e
ltabarであるな ら, 廃 寮謝鮎 関係
か らみて この種窮が胸賓王以外か らあたえ られた可能性 はまずゼロであ り,腐賓王 か ら授輿 さ
れたのである。烏散特勤磯への改楓 っま り周密が謝鹿を臣従 させたのは7
28年で あ る。E.
208
貨幣 はこのような事件 を記念 して番行 されたといえようO
以上 は同一王 において稀敏が埜化 した場合を想定 した ものであるが,葛羅達文特 勤 と烏散特
勤濃 とが別人である可能性 も-魔かんがえてお く必要があろ う。6
80-68
3年 に K豆bulSh豆hの
兄 RTBYLI世が Kanda
har方面 に逃 げた とす る Taba
riの記事 を歴 史事賓 とみて, 逃亡 を,
Bar
haTe
ginについで K瓦bulの王 とな った烏散特勤涯 と RTBYLI世 との閲の王位継承争 いの
結果 とみた。RTBYLI世 は6
83 (?) 年以 降 あ るい は6
86/6
87年 に Àbd Al
lah b.Uma
yya
(
Yai ,Hi
癖bi sto
riae Ⅱ,3
24 元 Àf
) あるいは Al r豆'(
Bal
豆dhu
r三,1
49) によ って S三
st豆nで暗
殺 され,6
93-
694
年 までには RTBYL
i韮世が Z豆bl
ユl
is夜nで立 ったo Lたが って K豆b
七 ulSh豆hで
ある烏散特助演 と RTBYLⅡ世 は叔父甥 の関係 にあ ったO-方Z豆bul
ist
豆nの王 を廃寮王の甥 で
あるとす る叔父甥関係 は 6
80-
683年か ら7
26年 (
慧超 の時鮎) まではつづいていた。 この閲 に
なお, E.
246(
固版Ⅶ:
9),次 いでE.
255(
固版Ⅶ:
ll) は,E.
208,2
09の形制 をその まま襲 っ
ている鮎か ら見て, これ らに次 いで磯行 された ものであり, また Ar
ab-
S瓦S
豆n式 のE.2
44 (圏
版Ⅶ:
10) もこれ と多分同時期の ものである。両者の銘文 は,Humbac
h(1
966:6
2-6
4) によれ
陛下 ,Va
ば,前者 は 「 z
rab
tidi
, 敵 を打倒 せ しむ る もの, 君主 , 支配者」, 後者 は 「陛下,
Vaz
rabudi
,敦 を打倒す るもの,君主,支配者」 とあ り, はば同文 だか らで あ るO 以上 を表 に
す ると次 のとお りである。
第 3群第 Ⅱ型式 A:
E.2
08
(1)
表面
王像 :牛頭冠系,三叉戟冠系と異なる猪白のもの。
L
-
T
l
L
()
1
6-8世紀K豆pi
畠三一
K豆bul
-Z豆bul
の貨幣と尊行者
冠 :連珠冠帯に三叉戟 ( ,冠頂に狼頭 (
三叉戟冠の三叉と表現が異なる) G6bl
はse
nmur
v
という)
0
銘 :重囲外縁部 に Br
豆hm
i 銘 gr
iHi
ti
vir
a Khar
al豆v
a P豆r
ame
gvar
a 畠r
iVahi
(
vrahi
,or串hi
) Ti
ginDe
vakar
itap (
SriSh豆hi
,Hi
ti
vir
aKhar
al豆v
a陛
下,至高なる主宰者,VahiTe
gin陛下,De
vaによって打刻されたる)
0
重圏内綾部に Bac
tra語緒 CPI鞄 OTO (
i -Sr
iShau0-gr
iSh豆hi
)0
(2)
裏面
Hus
ravⅡ世第2
6,2
7,3
6,3
7年式による。
緒 :Pahl
avi
銘tgyn'hwr"
S'nMLK'(
' -Te
gi
n Kh6r
豆S豆nMl
a k豆)
/hpt
whpt
"t
(
- haf
tohaft
豆d-7
7)。
第 3群第Ⅱ型式 B:E.
240
(1)
表面
王像 :後頭部に狼頑の c
ount
ermar
k.
冠 :二重連珠冠帯,正面に二重の三 日月状の弧+三叉 ?
錯 :Bac
tri
a語銘 t
ogi
nou6
rsanos
hao(
Humbac
h による) - Te
ginKh6
ras
豆n
s
hah
(2)裏面
銘 :Bac
tri 右)ⅩS
a語銘 ( JIONO ToÅ(
G6blは4
74年 -AI
)70
5,Humbac
hおよび
Har
mat t
aはUqd-4 94と謹む)O(
左)CI
P砂 POOO-Si
rShr
ado?
第 3群第Ⅱ型式 C:E.24
6( E.
208,2
09を継承するもの).
(1)
表面
銘 :CPIBOrO OOHBO/gdh/p'
gwl
bgxw'
tp
(2)
裏面
銘 :CPIBOrO OZOPOBOOIrO CONO rOA0】
〕OrOXOOOHO/s
p"Shmr'
t/
Z'
wls
t'n
第 3群第Ⅱ型式 D:
E.2
44.
(1)
表面
銘 :畠r
iVaj
ara/Vakhde
vaCPIBOI
100ZPOBOOIf
lo CONOONOBOrO
XOOOHO
(2)裏面
銘 :p"
Shmr'
t/'
pzwn'CPIBOrOOOHBO BOrOOII
loKOr
10NO CO士BOrI
第 3群第Ⅱ型式 E・
I.
. 2
55,E.
256..
ち非狼冠系 の貨幣)第 Ⅰ式 (
NapkiMLK式) (
SriTe
ginShah/Sr
iShahiTe
gin Sr
i,また
はSr
imadi
v6/par
esr
i-K豆bulSh豆h I
I世第 1式)である。年代 はお そ くも68
3年 か ら7
28年
までであ る。囲版Ⅷ :1の貨幣・
E.2
06お よび2
07を参照 されたい。 なお E.
206の銘 は次 の とお り
である。
〔4
1〕 3
90
東 方 学 報
E.2
06(
1)表面
CP三TOr三NⅠ塾 OYO - S
RⅠTOGr
NOShAuO
(SRITOGI
NI S
vhAUO,SRITAGI
NO ShAUO)
(
2)裏面
畠
R享MAi
jivE/PARE畠
Ri+wys
t(-2
0)
Te
ginS
h豆hの稀淡を銘 とする貨幣にはさらに E.
206
,20
7がある.E.
206の裏面の挿火壇 の右
の Br
ahmi銘 を G6
blは S
rimad
ive
/pa
res
riと讃んでいるが,Humbac
h(1
966,6
0)はS
ri
s
ahit
igi
nas
riとまった く異なった誼みを輿えている。いずれに して も,Te
gin Sh豆hの構淡
烏散特数滴」 に示 された 「
を漢文資料 に照 らす と 「 特勤磯」があるばか りである。 したが って
これ らも(
烏散)特勤液の貨幣である。か くのごとく(
烏散)特勤濃の貨幣 は多岐にわた り, また
豊種類 ともに多いO このこともかれの在位が相雷に永漬 したこととかかわるO
さきに E,
208が (
烏散)特勤演の登位記念貨幣ではないとしたのは,E.
206の存在 を念頭に置
いていたか らである。 この貨幣の表面の王像は牛頭冠型式の E.
201(
園版 Ⅰ:
6) に近似 し, ま
た貨幣 の型式 としては g
riRa/k豆r
i銘をもった E.
254(
囲版 Ⅵ:
5),つま り Ba
rhaTe
ginの も
のを襲 っている。貨幣の王像形式の観鮎か らす ると,E.
206はK豆pi
畠Ⅰの先行王朝の馨行 にかか
る牛頭冠系 か, あ るいは K豆bulの突蕨王の葡行 した三叉戟冠系 を健承 して いる。 ところが
E.
208の三冠 は,二茎の冠帝をっけた低い冠帽の,前面にはおお さな二重 の弧 とその上 に三叉
をお き,側面 には羽のような装飾を置いたものであり,三叉 という細部 において繋が りは認め
られ るものの,全磯には牛頭冠や三叉冠 と違いのである。 この鮎か ら(
烏散)特勤濃が登位 に際
して潜行 した貨幣 は,E.
208であるよりも,E.
206とみるほうが自然である。すなわち銘文か ら
みて も, (
烏散)特勤演 は登位時鮎では 「
烏散時勤磯」の栴親をいまだ探 らず,軍 に 「特動感」
5.第 3代 K豆bulS
hah排藻屑裟 Fr
om Ke
sar
oの貨幣
第 3代 K豆bulS
h瓦hは沸萩厨婆っまりFr
om Ke
sar
oである。 この王の貨幣を第 5群(
非狼冠
系貨幣)第 Ⅱ式 (
Hus
TaVⅡ世式 a
) に同定す る0年代 は7
38 七
年 [.a.
q.]か ら7
45年 [
t.a.
q.]ま
でであ るO圃敬Ⅷ:
206にみえるE,
247
-251を参累 されたいo
K豆bulの突廉の王位は,Ba
rhaTe
gin,葛藤達支特勤 二鳥散特勤塵,沸栽腰婆, 勃旬準 の順
に鹿承 された。 ところで F
J.
247
-E.
251
の銘 は FOPOMO KHOI
POZKOPO [
KHOPOZ
KOPO,
KHCOPO] BOrO XOOOHO (
Kai
servo
nFr
om,S
i曙e
r,He
rrundHe
rrs
che
r[Humbac
h
3
89 〔
42〕
6-8世紀K豆
pi畠
i-
K豆bu1
-Z豆bul
の貨幣 と蓉行者
1
966:6
4-6
5])である。 これが梯萩廟婆蓉行の貨幣であることを確定 したのは Humbac
h(1
966:
21
-22;1
983:3
03f
f.)である。抹藻屑婆の登位 は,烏散特勤慮退位の ところで梱 れたよ うに,
7
38(または7
39)年 よりおそ くはない。 この貨幣 の銘 には Sr
iShahiとか Sr
iTe
gin Shahな
どの栴東をあ らわ していない。唐史上で も,排諜廟婆や勃旬準には軍 に廃寮国王 と前置す るだ
けで,特勤 とか特勤演 といった構故 をつけていない。 この鮎 を考慮 す ると,S
riSh豆hi
,Sr
i
Te
ginSh豆hといった栴坂をもたない貨幣 は,E.
208の系統の E.
246,2
44,2
55(
囲版 Ⅶ:
9-l
l)
を除 くと,葛羅達支特勤/烏散特勤漉以外の王の貨幣にあたることになるわけである。 これに
基づいて Fr
om Ke
sar
o銘を もっ貨幣を梯荘園婆奇行 とする。
6.第 4代 KabulShah勃旬準 (
745 [
t.a.
q.]-?
)の貨幣
第 4代 K豆bulSh豆hは勃葡準である。その貨幣を第 5群 (
非狼冠系貨幣)第 Ⅱ式 (
Hus
ravⅡ
銘 は 自r
世式)( 王Ⅴ豆s
ude
va) に同定す る。年代ははや くとも7
45年以降で ある. この王 の退位
年代 はしられていない。固版Ⅷ:
7-1
2の貨幣 E.
211
-21
6を参照 されたい。
以上のとおりK豆bulSh豆hの貨幣 を割 り嘗てていくと,残 る勃葡準 の貨幣 は 自r
iV豆s
ude
va
銘をもつ一連の貨幣,E.
211
-21
6ということになる。 これ らの貨幣 は Hus
ravⅡ世が第2
6,2
7,
3
6,3
7年 に特別に費行 した貨幣の形制を襲 っている。勃旬準 は 『葛唐書』巻 1
98,『唐合要』金
9
9(又射其子勃旬準薦腐賓及烏長国王。析授左焼衛将軍。「
其」 とはこの前文 を受 け排幕属裟
である.
),『新府元亀』外臣部封射 3 (九月命廟賓国王男勃準襲父位。 筋 目。 維天資四年歳次
乙酉九月乙卯朔二十二 日丙子。皇帝日。‥‥廟賓国王男勃準。宿承信義。 ‥‥ 是用析命襲廟賓
)のいずれも,その筋立記事を天資 4載 (
国王及烏長園王。仇授右焼衛将軍。…. 745)の候 に載
せている。すなわち7
45年 に先立つ登位である。Hus
ravⅡ世の特別費行 にかか る貨幣 に基づい
てこれを摸倣 した 白r
iV豆s
ude
va貨幣 は Hus
ravI
I世の年代をさかのぼ らない。Ⅴ豆s
ude
vaなる
U弾i
銘 は, はじめて烏長園 ( y豆na)王をも兼ねた王がとった構坂 として理解できる。
7.RTBYLI世 (
680[
t.p.
q.ト6
86/6
87[
t.a.
q.]
)の貨幣
K豆bulSh豆hⅡ世のもとか ら別れて Ar
ab-
Mus
lim に投下 し,後 に Kandah豆r方面で再 び猪立
した RTBYLI世 (
680[
t.p.
q.]-6/6
87[
t.a.
q.]) の貨幣があ るとすれば, それ は E.
241
-
2
4 囲版 Ⅵ:
3( 6-8
) ではなかろうか。E.
236,2
37(
囲版 Ⅴ:
10-1
2) と型式上直接繋が る。E.
236,
2
37は Bar
haTe
ginの纂奪を もって蓉行 された三叉戟冠系 gr
iSh豆hi貨幣 であ る。K豆bulか ら
逃れて掲立 した RTBYLI世がはじめて貨幣を蓉行 したとき,王像 は牛頭冠系 あるいは三叉戟
冠系に範 をとるしかなか ったのであろ う。K豆bulS
h豆hは 「狼」 を表徴 と したので (
Eme
l
Es
in1
972,1
4ff
.),逃 げた RTBYLは突厳である謹接を 「
蛇」をもった冠で示 したことになる。
この場合銘文 は Bakt
ria文字 で CHPO などとしているが,纂奪後 の Bar
ha Te
ginは以前 の
〔
43〕 3
88
東 方 学 報
Pahl
avi銘 を Bac
tri
a銘 にかえてい るので,その樽続 といえ るo Lか LG6blもHumbac
hもこ
の錆 は責 めないとい うO この-連 の貨幣 にはワイ ングラスマ-タが打刻 されて いる。 牛 頭冠系
貨幣 のC式 の銘 (
pk(
i)MK 式 の銘) を もつ貨幣 に限 ってワイ ングラスマークを と もな って い
る。両者 の関係 は今後 の問題 である. いま RTBYLの うちで も Ⅰ世 と してお くのは, 貨 幣 の型
E.
24ま
,24
2,2
43.
(
1)表面
冠 :尾を絡ませた蛇を三日月状の弧形にし,左右に頑を置 く。三 日月状の弧形の上に
さらに三日月状の弧+珠穀鳳麹O
-珠鮎囲頗 :Ⅱ-
A-2,卜A-
bと共有。
-三日月状の弧+珠鮎囲圏 :
後の突蕨貨幣の王冠に出現。
(
2)裏面
炎の型式 :G6
blによると,後期 Ns
pk/餌 Shahiの一群の典型。
代 に Br
ahmani
sm が さかんであ り,勃旬準は7
45年 に登位 したの ち, Uddi
y叫 a王 も乗 ね, 大
理石製 Ur
dhva
ret
asGape
畠a像 を奉戯 している (
Kuwayama1
992
B)。突蕨 の諸王 が こ うい っ
た Br
ahmani
sm にかかわ る名 を とってあ らわれ ることは, この鮎 か らきわ めて意 味深 いので
あるO
参考文戯
Al
the
im,F.(
196
9)Ge
schi
cht
ede n,2
rHunne ,Di
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喜i
-K豆
bul
-Z豆bul
の貨幣 と蓉行者
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Yamada,M.(
1989
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13.
相葉 穣 (
1991 ,
) 書評 :桑山正進 『カー ピシー-ガンダーラ史研究』 『オ リエ ン ト』3
4/1,1
18-
124
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相葉 穣 (
1992 」
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内田吟風 (
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33-
152
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国版解読
[
51]-[
58] の囲版 はすべて G6bl1
967,Bd,
Ⅲに基 いて桑山が配列 した ものである。
囲版 I
1.E 1
98-
16 牛頭冠系)第 Ⅰ型式 A (
第 1群 ( K豆pi
畠i-
Khl
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朝)
2.E.1
98-
28 第 1群第 Ⅰ型式 A
3.E.1
98-
29 第 1群第 Ⅰ型式 A
4.E,1
98-
32 第 1群第 Ⅰ型式 A
5.E.2
00-
3 第 1群第 Ⅱ型式 A
6.E 2
01-
1 第 1群第 Ⅱ型式 A
7.E.2
02-
1 第 1群第 Ⅱ型式 A
8.E.2
05-
1 第 1群第 Ⅲ型式 A
9.E.2
17-
1 第 1群第 Ⅱ型式 B
1
0.E.21
7-5 第 1群第 Ⅱ型式 B
l
l.E.2
21-
4 第 1群第 Ⅱ型式 B
1
2.E.2
21-
9 第 1群第 Ⅱ型式 B
〔4
7〕 3
84
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j 学 報
組版 I
I
1.文.2
22/ ト4 第 1群第 Ⅰ型式 B
2.冗.2
22/ ト8 第 1群第 Ⅰ型式 B
3.E.2
22/Ⅱ-
12 第 1群第 Ⅰ型式 B
4.E.2
22/Ⅱj3 第 1群第 三型式 B
5.礼 2
22/Ⅱ-
21 第 1群第 Ⅰ型式 B
6.冗.2
22/Ⅲ-
22 第 1群第 Ⅰ型式 B
7.E.2
22/Ⅳ-
23 第 1群第 1型式 B
8.E,2
22/I
V-2
4 第 1群第 Ⅰ型式 B
9.E.2
22/V-
32 第 1群第 Ⅰ型式 B
1
0.E.2
22/V-
33 第 1群 舞 Ⅰ型式 B
l
l.礼 2
22/V-
37 第 1群第 Ⅰ型式 B
1
2.E.2
22/Ⅵ-
36 第 1群第 Ⅰ型式 B
囲版 Ⅲ
1.E▲2
03-
2 第 1群第 Ⅱ型式 A
2.E.2
83A 第 1群第 二型式 A
3.E.2
03p
6 第 1群第 I
I型式 A
4.m 2
03-
7 第 1群第 Ⅱ型式 A
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6.E.2
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1 第 1群第Ⅳ型式 C
7.E.2
68-
1 第 1群第Ⅳ型式 C
8.I.2
69-
1 第 1群発f
y型式 C
9.E.27
0-1 第 1群第Ⅳ型式 C
1
0.m 2
71-
1 第 1群第Ⅳ型式 C
l
l.E.2
62-
1 第 1群発Ⅵ型式
1
2.E.2
64-
1 第 1群第Ⅵ型式
3.E.2
1 63-
2 第 1群第Ⅵ型式
1
4.E.2
63-
3 第 1群第Ⅵ型式
囲版 Ⅳ
1.E.2
65-
i 第 1群 発 V型式 C
2.F
J.2
65-
2 第 1群発V型式 C
3.E.2
66-
1 第 1群第 Ⅴ型式 C
4.E.2
25-
i 第 2群 (
三叉戟冠系)第 l型式 A (
Khi
ngaユ朝下 のBar
haTe
gin)
5∴E.2
25-
4 第 2群第 Ⅰ型式 A
6.F
J.2
25-
24 第 2群第 Ⅰ型式 A
7.i.2
26-
3 第 2群第 三型式 Å
8.E.2
26A 第 2群第 Ⅰ型式 A
9,E.2
26…
9 第 2群第 Ⅰ型式 A
1
0.E.2
30-
i 第 2群第 Ⅰ型式 Å
3
83 〔
48〕
6-8世紀 K豆pi
畠i-
K豆bu1
-Z豆bulの貨幣 と蓉行者
l
l.I.2
30-
2 第 2群第 Ⅰ型式 A
囲版 v
1
.E.232-
1 第 2群 第 Ⅰ型式A
2.E.2
32-
2 第 2群 第 Ⅰ型式A
3.E.2
32-
3 第 2群 第 Ⅰ型式A
4.E.2
34-
1 第 2群 第 Ⅰ型式A
5.E.2
3ト2 第 2群 第 Ⅰ型式B
6.E.2
31-
8 第 2群 第 Ⅰ型式B
7.E.2
31-
12 第 2群 第 Ⅰ型式B
8.E.2
31-
ll 第 2群 第 Ⅰ型式B
9.E.2
36-
19 第 I型式 (
2群第 I haT egi
Bar n-K豆bul Sh豆h I)
1
0.E.2
36-
24 第 2群 第 Ⅱ型式
l
l.E.2
36-
26 第 2群第 Ⅱ型式
1
2.E.2
37-
2 第 2群第 Ⅱ型 式
固版Ⅵ
1
.E.2
52-
2 第 2群第 Ⅱ型式
2.E.2
52-
5 第 2群第 Ⅱ型式
3.E.2
57_
6 第 2群第 Ⅱ型式
4.E.2
57-
13 第 2群第 Ⅱ型式
5.E.2
54-
1 第 3群 (
狼冠系)第 Ⅰ型式
6.E.2
41-
1 第 4群 (
蛇冠系)
7.E.2
42-
1 第 4群
8.E.2
43-
1 第 4群
9.E.2
08-
4 第 3群第 Ⅱ型式 A (
K豆bulSh豆hⅡ,第 2式-
Tegi
n Khor
asanMal
ka,烏散特勤濯)
1
0.E.2
08-
ll 第 3群第 Ⅱ型式 A
l
l.E.2
08-
23 第 3群第 Ⅱ型式 A
1
2.E.2
08-
29 第 3群第 Ⅱ型式 A
団版 Ⅶ
1
.E∴208-
34 第 3群第 Ⅱ型式 A
2.E.2
08-
3.
9 第 3群第 Ⅱ型式 A
3.E.2
08-
55 第 3群第 Ⅱ型式 A
4.E.2
08-
60 第 3群第 Ⅱ型式 A
5.E.2
091
1 第 3群第 Ⅱ型式 A
6.E.2
40-
1 第 3群第 I
I型式 B (
K豆bulSh豆h Ⅱ,第 3式-
Tegl
n Kh6r
豆S豆nSh豆h,烏散特勤慮)
7.E.2
40-
5 第 3群第 Ⅱ型式 B
8.E.2
40-
2 第 3群第 Ⅱ型式 B
9.E.2
46-
1 第 3群第 Ⅱ型式 C (
K豆bulSh豆h Ⅱ,第 4式)
1
0.E.2
44-
1 第 3群第 I
I型式 D (
K豆bulSh豆h Ⅱ,第 5式)
〔4
9〕 3
82
東 方 学 報
l
l.m 2
55-
1 第 3群第 n型式 E (
K豆bulShah l
I,第 6式)
2.E.2
1 56J 第 3群舞 工型式 F (
K豆bulSh豆h Ⅱ,第 7式)
闘版Ⅷ
1
.E.2
86-
4 第 5群第 Ⅰ型式 (
K豆bulSh亘b 正,第 1式 -Qar
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1 第 5群第 Ⅱ型式 (
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48J 第 5群第 才型式
4.E.2
49-
1 第 5群第 Ⅱ型 式
5.冗.2
50-
1 第 5群第 Ⅱ型式
6.E.2
51J 第 5群第 五型式
7
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1ト1 第 5群第 Ⅲ型式 (
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12J 第 5群第 Ⅱ型式
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13-
1 第 5群第 Xl
型式
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14-
1 第 5群第 m型式
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15-
1 第 5群第 Ⅲ型式
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16-
1 第 5群第 Xf
型式
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0〕
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の貨幣 と蓉行者
東 方 学 報
固版 Ⅱ
〔52〕
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の貨幣 と蓉行者
闘版 Ⅲ
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lの貨幣 と蓉行者
囲版 Ⅴ
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51
東 方 学 報
団版 Ⅵ
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6〕
6-8世紀K互pl
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の貨幣 と蓉行者
囲版 Ⅶ
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東 方 撃 報
国版 Ⅷ
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