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ロ ン ヴ ェ ー ク お よ び ウ ド ン調 査 報 告
北 川 香子
は じ め に
フ ラ ン ス 保 護 領 期 以 来, カ ン ボ ジ ア 史 研 究 は ア ン コ ー ルAngkorに 集 中 し, ア ン コ
ー ル 放 棄 後 の 時 代 で あ る ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 に 関 す る 系 統 だ つ た 研 究 は ほ と ん ど行
わ れ て い な い。 そ の 理 由 は次 の 二 点 に 求 め ら れ る。 第 一 に ポ ス ト ・ア ン コー ル 期 は カ
ン ボ ジ ア史 上, 衰 退 期 と評 価 さ れ, ナ シ ョナ リ ズ ム 下 の 歴 史 学 界 で は 関 心 を 集 め な か
っ た。 第 二 に こ の 時 期 に 関 す る 文 献 資 料 は, 19世 紀 編 纂 の 王 朝 年 代 記 と15世 紀 末 以 降
の 若 干 の碑 文 以 外 に は乏 し く, 碑 文 の 分 析 に よ る従 来 の ア ン コ ー ル 史 研 究 の 手 法 で は
扱 い に くか つ た。
ア ン コ ー ル 期 王 都 の 一 つ と さ れ る ウ ド ンOudong地 域 に お い て, 航 空 写 真(1)の 踏 査
等 を 確 認 し, ロ ン ヴ ェ ー ク ー ウ ド ン王 朝 の 基 礎 資 料 を 作 成 し た。 本 論 は こ の 調 査 報 告
で あ る。
I ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 王 都 の 立 地
1 文 献 資 料 に 現 れ るカ ン ボ ジ ア 王 都 の 変 遷
従 来 の ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 史 で は, 王 朝 年 代 記 の 記 述 を根 拠 に, バ サ ン→プ ノ ン ペ
ン→ロ ン ヴ ェ ー ク →ウ ド ン と王 都 が 移 動 し た と理 解 され て い る。
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ポス ト ・ア ンコールの王城
イ・
サ ン トーSrei Santhor 郡 バ サ ンBasanに 遷 都 し た。 こ のバ サ ン に 関 し て は, 中
国 の 『大 明 実 録 』1372年 と1373年 に, 真 臓 国 の 「巴 山 王 」 に よ る 中 国 遣 使 の 記 事 が あ
る。 しか し 『
大 明 実 録 』 に は, 1377年, 1380年 に真 臓 国 王 が 中 国 に遣 使 し た と い う記
事 が 別 に あ り, 14世 紀 末 に, ア ン コ ー ル の 他 に 「
バ サ ン の王 」 が 中 国 と外 交 関 係 を結
ん で い た こ と が 分 か る。現 在 の バ サ ン に は ア ン コ ー ル 期 の プ ラ サ ー トPrasat(4)が 残
り, この 地 に何 ら か の 権 力 が 存 在 し た こ と を物 語 る。 従 つ て, バ サ ン は ア ン コー ル 王
権 の 避 難 先 と して15世 紀 に興 っ た 王 権 で は な く, 14世 紀 末 に は既 に存 在 し て い た と考
え ら れ る。
次 に ポ ニ ェ ・ヤ ー ト王 は, バ サ ン が 洪 水 に弱 い こ とを 理 由 に, 現 在 の プ ノ ンペ ン に
遷 都 した とい わ れ て い る。 この プ ノ ンペ ン時 代 に は, バ サ ン勢 力 と正 統 王 勢 力 の抗 争
が 続 い た。 そ の 最 終, 最 大 の も の が, バ サ ン の ス ダ チ ・コ ー ンSdach Kanの 王位 寡
Kampong Thom州)の 砦 で 殺 さ れ た。 ス ダ チ ・コ ー ン はバ サ ンで 王 位 に 就 き, 同 じ
く メ コ ン東 岸, トボ ー ン ・ク モ ムThbaung Khmumの バ ン テ ィ エ イ ・プ レ イ ・ノ コ
ーBanteay Prei Nokor(コ ム ポ ン ・チ ャ ー ム 州)(5)に 建 都 し た。 こ の後, シ ャムか
サ ー ブ 湖 南 岸 の ポ ー サ ッ トPursatを 根 拠 地 に ス ダ チ ・コ ー ン と戦 い, 1525年 に勝 利
して ポ ー サ ッ トで 即 位 した。 こ の チ ャ ン リエ チ エ 王 は, 1529年 に ロ ン ヴ ェー ク を建 設
した。
ロ ン ヴ ェ ー ク 時 代 に関 し て は, チ ャ ン リエ チ エ 王 治 世 に カ ン ボ ジ ア に進 出 して き た
ポ ル トガ ル 人 の 記 述 が あ る。1555年 に カ ン ボ ジ ア を 訪 れ た ガ ス パ ー ル ・ダ ・ク ル ス
Gasparda Cruzは, 当時 の王 が先 王 治世 中 の 反 乱 を平 定 し て王 位 に就 い た こ と
市 が あ っ た[p. 76]こ と を記 述 す る。 こ の ロ エ ク は ロ ン ヴ ェ ー ク に あ た り, シ ス トル
は ス レ イ ・サ ン トー に あ た る。1594年, シ ャ ム 軍 の 侵 入 に よ っ て ロ ン ヴ ェ ー ク は落 城
し た が, ア ン トニ オ ・デ ・モ ル ガAntoniode Morgaの 『フ ィ リ ピ ン 諸 島 誌 』 に も そ
に 自立 し た と記 述 して い る。 バ サ ン近 隣 の 河 川 港 ス レ イ ・サ ン トー が, 16世 紀 に は ロ
ン ヴ ェ ー ク に 匹 敵 す る都 市 で あ り, ロ ン ヴ ェ ー クが 崩 壊 す る や これ に 取 つ て 代 わ つ た
こ とが 分 か る。
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を建 設 し た。 この ウ ド ン は1865年 の プ ノ ン ペ ン遷 都 ま で 継 続 し た と い わ れ て い る。 し
か し, 17世 紀 の オ ラ ン ダ 資 料 は 当 時 の 王 都 の 名 を ロ ン ヴ ェ ー ク に 相 当 す るLeweeck,
に籠 も っ て い た が, 形 勢 が 不 利 に な つ て 城 に火 を 放 ち, 南 門 か ら逃 れ た と記 さ れ て い
る。 こ の 「
羅 壁 城 」 は 「ロ ン ヴ ェ ー ク 」 の 音 訳 で あ ろ う。 す な わ ち 外 国 の 資 料 に よ る
と, 17∼18世 紀 の 王 都 の 呼 称 は, 前 代 に 引 き続 き ロ ン ヴ ェ ー クで あ っ た こ とに な る。
を 訪 れ た ヨ ー ロ ッ パ 人 の 記 述 中 に 関 連 記 事 が 複 数 見 ら れ る。 こ こ で は, Udong,
Oodong, Oudonな ど と綴 られ て い る が, い ず れ も 「ウ ド ン」 の 音 に 一 致 す る。 後 述
す る よ う に, これ ら の記 述 と現 在 の ウ ド ン市 域 に 残 る 遺 構 の 間 に は一 致 が 見 られ る。
従 っ て文 献 資 料 か ら は, チ ェ イ チ ェ ッ タII世 王 の ロ ン ヴ ェー クー ウ ド ン と, 現 在 の ウ
ド ン市 域 の も と に な つ た ア ン ・ ド ゥ オ ン王 の ウ ド ン が 連 続 しな い 可 能 性 が 示 唆 さ れ る。
2国 内 ネ ッ トワー ク と王 都
上 述 の 王 都 は, そ の 所 属 す る水 系 お よ び 主 宰 す る 陸 路 網 か ら次 の よ う に整 理 さ れ る。
(1)バサ ンー ス レ イ ・サ ン トー は メ コ ン水 系 の 要 衝 を 占 め, メ コ ン東 岸 の 南 ラ オ ス
か らサ イ ゴ ンSaigonま で を 接 続 す る 陸 路 網 を 主 宰 す る。
(2)ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン は トン レ ・サ ー ブ 水 系 の 要 衝 を 占 め, トン レ ・サ ー ブ 南
岸, 西 岸 の 陸 路 を支 配 す る[北 川: p. 93]。
(3)両水 系 の 合 流 点 の 南 岸 に 位 置 し, (1)(2)を南 シ ナ 海 に結 ぶ の が, ポ ス ト ・ア ン コ
ー ル 期 カ ン ボ ジ ア 最 大 の 商 都 プ ノ ンペ ン で あ る。
ブ 水 系 の ロ ン ヴ ェ ー ク ー ウ ド ン と対 立 を繰 り返 し, ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン が 衰 退 した
際 に は 独 立 し た 勢 力 を 形 成 して い る。 す な わ ち, ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 の カ ン ボ ジ ァ
に お い て は, 両 水 系 は 別 個 の 勢 力 と し て 並 立 し, 対 抗 して い た と推 定 さ れ る。
本 論 で 扱 う ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン に 関 わ る ト ン レ ・サ ー ブ 西 南 岸 ネ ッ トワ ー ク に は,
次 の3つ が 挙 げ られ る。
(1)ト ン レ ・サ ー ブ 系 列: ト ン レ ・サ ー ブ 水 系 を 通 じて トン レ ・サ ー ブ湖 北 岸 か ら
ダ ン レ ー クDangrek山 脈 に至 る ア ン コ ー ル 地 域 と メ コ ン水 系 を 結 ぶ。
(2)ポー サ ッ トー ウ ド ン系 列: ア ラ ン ヤ プ ラ テ ー トAranyaprathet-メ コ ン, カ ル
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ポス ト・ア ンコール の王城
ダ モ ン 山脈 一 メ コ ン を ウ ド ン経 由 の 陸 路 と トン レ ・サ ー ブ水 系 を 通 じて 結 ぶ。
(3)コム ポ ー トKampot-ウ ドン 系 列; メ コ ン水 系 と トン レ ・サ ー ブ 水 系 を, ウ ド
ン 経 由 の 陸 路 を通 じ て シ ャム 湾 岸 の コ ム ポ ー トに結 ぶ。
し て確 認 で き る。 ま た, (3)は 従 来 の メ コ ン水 系 ー シ ャ ム 湾 ル ー トで あ つ た ハ ー テ ィ エ
して の 意 味 を 持 ち, ア ン ・ド ゥ オ ン ・ネ ッ ト ワー ク の形 成 に お い て 中 心 的 な位 置 を 占
II チ ェ イ チ ェ ッ タ建 都 以 前 の 王 城 に つ い て
1ア ン コ ー ル 期 の ロ ン ヴ ェ →ク ー ウ ド ン 地 域
ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン地 域 は ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 の 王 都 の所 在 地 との み認 識 され
て き た た め, こ の 地 域 の ア ン コー ル 期, プ レ ・ア ン コ ー ル 期 に 関 わ る 歴 史 ・考 古 学 的
研 究 は 未 だ 行 わ れ て い な い。 しか し, 今 回 の 調 査 に お い て, 表1の 寺 院 旧跡 に ア ンコ
ー ル 期 の プ ラ サ ー トの 礎 石, 壁 面 に 特 徴 的 な ラ テ ラ イ ト石 材 等 が 分 布 し て い る の を 発
見 し た。 地 図1と 対 照 す れ ば こ の分 布 域 は 明 確 に, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 壁 の 中 心 寺 院 ワ ッ
ア ン コ ー ル 期 遺 構 の 濃 密 な 分 布 は, ア ン コ ー ル期 に お け る トン レ ・サ ー ブ 西 岸 陸 路 の
存 在 と, 聖 山 を基 軸 と し て 南 北 に連 な る寺 院 コ ン プ レ ク ス の 存 在 を 示 唆 す る。
2 ロ ン ヴ ェ ー ク城 趾
現 在, ウ ド ン市 域 北 方7kmの 地 点 に あ る ロ ン ヴ ェ ー ク の低 平 な 台 地 上 に は, 東 西
れ を ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 と呼 ぶ)。 こ の 土 城 壁 に 関 す る 記 述 と思 わ れ る もの に, 前 述 した
ガ ス パ ー ル ・ダ ・クル ス が, ロエ ク にお いて 「
野 原 の 中 の 非 常 に 高 い 盛 り土 humuy
りが 現 在 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 壮 に あ た る と考 え ら れ る。 従 っ て, こ の 城 肚 は チ ャ ン リエ
チ エ 王 が 建 設 した とい う ロ ン ヴ ェー ク城 に該 当 し, チ ャ ン リエ チ エ 王 は 旧 ア ン コ ー ル
期 寺 院 群 の北 半 に王 城 を 設 定 した こ と に な る。 年 代 記 に よれ ば, チ ャ ン リエ チ エ 王 旧
来 の 勢 力 基 盤 は, トン レ ・サ ー ブ 西 南 岸 ル ー トの 要 地 ポ ー サ ッ トに あ っ た。 基 本 的 に
こ の ロ ン ヴ ェー ク城 の 立 地 は, ポ ー サ ッ ト と トン レ ・サ ー ブ水 系 を 結 ぶ ア ン コ ー ル 期
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以 来 の トン レ ・サ ー ブ 西 岸 ル ー トに依 拠 した も の で あ ろ う と思 わ れ る。
III チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐
1 17世 紀 の 歴 史 空 間
表2に 見 られ る よ う に, ウ ドン 地 域 に お い て 採 集 さ れ た 陶 器 片 で 最 も特 徴 的 な の は,
れ は, トン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 全 遺 跡, 国 道5号 線 に沿 っ て 現 ウ ド ン市 域 に 至 る地 域
の 遺 跡 の 大 半 に 見 ら れ る。 この 他 に トゥ オ ル ・ヴ ォ リエ チTuol Voreachか ら, 恐 ら
が 発 見 され た が, 少 数, 例 外 的 で 伝 世 され た 逸 品 と見 る べ き で あ ろ う。 ま た, 18∼19
世 紀 の 陶 磁 器 片 は ク レ ア ン ・プ ラ ムKhleang Pramに 分 布 中 心 が あ り, 一 部 は 聖 山 付
近, コ ム ポ ン ・ル オ ンKampong Luong港 に発 見 さ れ た。
す な わ ち, ア ン コ ー ル 期 の 歴 史 空 間 が 現 ロ ン ヴ ェ ー ク の 台 地 か ら聖 山 に か け て 南 北
サ ー ブ河 沿 い に北 上 し, 国 道5号 線 の南 に 沿 つ て 分 布 し, 19世 紀 以 降 の 歴 史 空 間 は 現
ウ ド ン市 域 を 中 心 に 展 開 す る と考 え られ る。
2オ ラ ンダ 資 料 の 分 析
(1)『南 洋 日 本 町 の 研 究 』
岩 生 成 一 は 『南 洋 日本 町 の研 究 』 に お い て, カ ン ボ ジ ア に あ っ た 日本 町 の 立 地 を 明
ら か に す る た め に, 日本 町 の位 置 に 関 わ る オ ラ ン ダ 資 料 の 記 述 を紹 介 して い る。
泊 港 或 い は 国 王 が 其 の 王 宮 を 営 ん で い る所 を チ ュ ル レ ム ッ ク(Tjurremock)お よび レ
市 で は な く, 唯>河 岸 に村 落 の よ う に建 っ て い る。」と記 さ れ て い る。 チ ュ ル レ ム ッ ク
と は, プ ノ ンペ ン の別 名 チ ャ ト・モ ッ クCatumukhaの 音 訳 で あ る。 レ ウ ェ ク は ロ ン
ヴ ェ ー クの こ とで あ るが, 岩 生 は ウ ド ン の 誤 記 で あ る と解 釈 し て い る。
1637年3月26日 にバ タ ビ ヤ を 出 航 した オ ラ ン ダ 船 ハ リヤ スdeGaleas号 の湖 航 日
人, ポ ル トガ ル 人, シ ナ 人, コー チ シ ナ 人 と カ ン ボ ジ ア 人 の 町 に 沿 つ て 河 を 進 み, 狭
い 小 川 を 約 半 哩 上 っ て 上 陸 し, 無 牙 の 巨 象1匹 と3, 4台 の 車 に 分 乗 して 王 宮 に 至 っ
た。
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ポス ト・アンコールの王城
官 た ち も私 宅 を 構 え て い た。 こ こか ら シ ャ ム人, シ ナ 人, マ レ イ人 な ど の 町 の 側 を 航
行 し, 陸 地 の 浸 水 し た 部 分 は舟, そ の 他 の 部 分 は 車, 象 や 馬 に 乗 っ て 王 宮 に赴 い た。
こ の3資 料 に よ る と, 17世 紀 の 王 城 に は, 外 国 人 居 留 地 の あ る ポ ニ ェ ・ル ー か ら数
世 紀 の 王 城 は, ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 湿 地 最 初 の微 高 地 前 面 に 位 置 し た こ と に な る。
(2)オラ ン ダ 絵 地 図 に現 れ る ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ドン
こ こ で, オ ラ ン ダ に よ る17世 紀 の ロ ン ヴ ェ ー ク の 絵 地 図[Mullier] を詳 細 に 検 討 し
て み る。 この 絵 地 図 は, 聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ を 正 面 に 見 て, トン
レ ・サ ー ブ 河 の 東 岸 か ら傭 轍 す る 形 で 描 か れ て い る。 ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 自然 堤
防 上 に は5∼8列 の 家 並 が 並 び, 水 路 を 隔 て て 同 規 模 の 家 並 が3段 に な っ て 続 く。 絵
図 中 央 に は堀 と垣 根 を 巡 らせ た 建 物 が あ り, 王 宮 と思 わ れ る。 絵 図 右 端 の や や 高 台 に
は, 堅 固 な城 壁 を巡 ら せ た建 造 物 が 見 ら れ る。 こ れ は 位 置 的 に, チ ャ ン リエ チ エ 王 の
ロ ン ヴ ェー ク城 吐 に あ た る。 こ の城 壁 と王 宮 の 中 間 に は川 が あ り, ス トゥ ン ・ク ラ ン ・
サ ー ブ 河 岸 一 段 目 の 家 並 み ま で 大 路 が 延 び て い る。 さ ら に, 王 宮 の 奥 か ら右 上 へ, 絵
図 の 最 奥 に 描 か れ た 山 地 の 麓 に 道 が あ る。 こ の 道 は, ポ ー サ ッ ト, バ ッ タ ン バ ン
Battambang経 由 で シ ャ ム に 向 か う, 現 在 の 国 道5号 線 の 原 型 と な る 街 道 で あ ろ う。
こ の絵 地 図 で は, 聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ と ロ ン ヴ ェ ー ク の 城 壁 を
結 ぶ 南 北 の線 よ り も東 側 に 王 城 が 描 か れ て い る。 従 つ て, チ ェ イ チ ェ ッ タII世 王 の 王
城 の 位 置 は, チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 と も, 現 在 の ウ ド ン市 域 あ る い は
後 述 す る ア ン ・ ド ゥ オ ン王 の 王 城 趾 と も 異 な っ て い た こ とが 分 か る。
3 航空 写真の分 析
を示 す。 本 調査 で は, 航 空 写真 上 に発 見 され た土 塁群 を実 測 し, 2000分 の1の 地 図 を
作成 した(地 図2参 照)。 それ に よ る と, これ らの 土塁, 土 壇 の分布 は, や や不 整形 な
が ら, 東 西 約400m, 南 北約650mの 巨大 な矩形 の連 続 的 な土壁 を形 作 り, 19世 紀前 半
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の ベ トナ ム ・シ ャ ム 戦 争 の 砲 台 や 砦 な ど, 孤 立 的, 分 散 的 な軍 事 施 設 群 の遺 跡 と は 全
く企 画 を異 に す る。 こ の 土 壁 列 は後 世 の 軍 事 施 設 よ り は は る か に大 き く, ま た ロ ン ヴ
ェ ー ク の都 城 吐 よ り は る か に小 さ い。 そ の規 模 か ら 見 て 宮 殿 遺 跡 とす べ きで あー
ろ う。
ベ トナ ム ・シ ャム 戦 争 の 軍 事 施 設 は, この 宮 殿 土 壁 の 残 吐 を利 用 し て構 築 され た もの
と思 わ れ る。 こ の 宮 殿 遺 跡 の 位 置 は, 先 に検 討 し た オ ラ ン ダ 資 料 の 王 城 に 一 致 す る。
また 表2に 見 られ る よ う に 本 調 査 で は, こ の 王 宮 内 部 に お い て17世 紀 潭 州 窯 の 陶 磁 器
片 を大 量 に 表 面 採 取 で き た が, 19世 紀 以 降 の 陶 磁 器 片 は採 取 で きな か っ た。 す な わ ち,
この 王 宮 は17∼18世 紀 に居 住 さ れ, そ の 後 の 時 期 に放 棄 され た 可 能 性 が 高 い。 お そ ら
く, 17世 紀 オ ラ ン ダ 資 料 に い う ロ ン ヴ ェ ー クの 王 宮 は, こ の 土 壁 肚 を さす と して 誤 り
な か ろ う。 以 後, こ の 王 宮 を チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と呼 ぶ。
4伝 承 の分布
次 に, ウ ド ン地 域 で 採 集 し た 伝 承 の分 析 を 試 み る。 ウ ドン地 区 で 採 集 し た 伝 承 は,
ア ン ・ ド ゥオ ン時 代 か ら フ ラ ンス 保 護 領 時 代 前 後 に か け て の 年 代 が は っ き り して い る
伝 承 と, そ れ 以 前 の 時 代 に 関 わ る と思 わ れ る, 年 代 が 不 明 確 な 伝 承 の2つ に大 別 され
る。 この 節 で は, ア ン ・ド ゥ オ ン王 以 前 の 時 代 に 関 わ る伝 承 の グ ル ー プ の 分 析 を行 う。
表3に 整 理 し た よ う に, ア ン ・ ド ゥ オ ン王 以 前 の 伝 承 は3種 類 に 分 類 され る。
(1)ソヴ ァ ンナ 系 列 の 王 の 伝 承
聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ と ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 を 結 ぶ 南 北 の 線 を軸 と
寺 院 と関 連 し て, 「黄 金 」 を意 味 す る 「ソ ヴ ァ ンナSovanna」 を 冠 した 王 の 伝 承 が 採
集 さ れ た。 こ れ らの 王 名 は 現 存 す る い か な る年 代 記 に も存 在 し な い。 つ ま りウ ド ン地
区 に お け る伝 承 上 の 王 系 で あ り, 実 在 の 王 と直 接 結 び つ け る こ と は で き な い。
ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム で は, ソ ヴ ァ ン ナ カ オ トSovannakaot王 が 同 寺 院 の建
wat)を 許 可 し た 人 物 で も あ る と い う伝 承 を 得 た。 ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イWat
チKomorreac王 の遺 骨 を納 め る た め, チ ェ デ イ を 同 寺 に建 立 した とい う。 ワ ッ ト・
籠 に 入 れ られ て ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ北 東 の プ ン ・プ ロ マ ー に沈 め られ た と い う
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ポス ト・アンコールの王城
伝 承 を得 た。 この ソ ヴ ァ ン ナ コ マ 王 の伝 承 に類 似 し た 逸 話 に は, マ ッ ク ・プ ア ン訳 の
Cand王(1641-1659)が ベ トナ ム と の戦 い に敗 れ, 鉄 籠 に 入 れ ら れ て ベ トナ ム に護 送
され, 死 亡 し た と い う記 述 が あ る。
ソ ヴ ァ ン ナ 系 列 の 王 の 伝 承 は, 16世 紀 の ロ ン ヴ ェー ク城 吐 の 南 か らほ ぼ 直 線 に南 下
し, 17世 紀 の チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と結 び, さ ら に チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 の 南 側 を め ぐ っ
て 分 布 して い る。 お そ ら く こ の伝 承 上 の 王 系 は 本 来, こ の線 に 沿 っ た寺 院 の 由 来 説 話
と し て 創 作 さ れ た もの で あ ろ う が, 同 時 に こ れ ら の 寺 院 の 歴 史 上 の 建 立 者 で あ っ た 王
の 記 憶 を と どめ る もの で も あ つ た ろ う。 な れ ば こ そ, 年 代 記 編 者 は チ ェ イ チ ェ ッ タII
と, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 吐 一 チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 の建 設 者 で あ る チ ャ ン リエ チ エ 王-チ ェ
イ チ ェ ッ タ 王 の 事 跡 の 分 布 との 相 関 関 係 を想 定 す る こ とが で き よ う。
(2)中 国 と の 交 渉 伝 承
プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ へ の 南 北 軸 上 に は, 中 国 と の 交 渉 を 示 す 伝 承 が 分 布 し て い
で は, 中 国 王 が, そ の 前 世 で あ る 犬 の 遺 骨 を 探 す た め に 使 節 を カ ン ボ ジ ア に 送 り, 発
見 され た 遺 骨 を聖 山 頂 上 の チ ェ デ イ に 祭 らせ た と い う伝 承 が 採 集 さ れ た。 こ の伝 承 は
る 中 国 王 一 犬 を モ チ ー フ とす る伝 承 が 採 集 さ れ, 17世 紀 の 歴 史 事 実 と し て 年 代 記 中 に
採 録 さ れ た も の で あ ろ う が, 中 国 王, 中 国 人 の 使 節, 聖 山 に よ っ て 象 徴 され る イ メ ー
ジ が17世 紀 に投 影 され た こ と に は意 味 が あ ろ う。
ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ソ ム ノ ー で 採 集 し た 伝 承 で は, 同 寺 院 は も と も と 島 で あ り, 此
で は, 中 国 船 が 到 着 し た ワ ッ ト ・ヴ ィ ピ ア ・ソム ノ ー の 丘 に 隣 接 す る ワ ッ ト ・ス バ エ
ン に は, 中 国 の軍 隊 が 駐 屯 し て い た とい う。 ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐
を結 ぶ 線 と, チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 吐 と ト ン レ ・サ ー ブ 河 を結 ぶ 国 道5号 線 の 交 点 に は,
中 国 人 渡 来 の イ メ ー ジ が 色 濃 く残 っ て い る。
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(3)道 作 り伝 承
ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム(F-15)周 辺 に は, ロ ン ヴ ェ ー ク 城 趾 か ら同 寺 院 に か け
て 道 を作 る王 の 伝 承 が, テ ー プ ・プ ロ ノ ム とい う地 名 の 起 こ り を説 明 す る もの と し て
残 つ て い る。 ロ ン ヴ ェ ー ク に居 た 王 が, ウ ド ン の 長 者 タ ー ・ド ン ・ミエ ン ・チ ェ イTa
Dong Mien Cheyの 娘 に求 婚 し, 長 者 は娘 を与 え る 条 件 と して, 一夜 の 内 に ロ ン ヴ ェ
ー ク か ら長 者 の 家 まで 道 を 作 る こ と を条 件 に 出 した。 道 は 完 成 せ ず, 夜 が 明 け か か っ
た の で, 王 は神 に祈 っ た。 こ の た め 同 寺 院 周 辺 の 村 を テ ー プ ・プ ロ ノ ム(テ ー プ=神,
プ ロ ノ ム=合 掌 す る)と い う。 ま た, 王 は求 婚 す る た め に 這 っ て 行 っ た の で, 寺 院 北
とい う地 名 が あ り, 王 が 作 っ た道 の途 絶 え て い る 地 点 を トゥ ノ ル ・ダ チThnal Dach
初 め に ワ ッ ト ・テ ー プ ・プ ロ ノ ム の 調 査 を行 っ た プ ノ ンペ ン芸 術 大 学 考 古 学 部 学 生 に
は 中 国 人 で あ っ た こ とに な っ て い る。 こ の 伝 承 は, ロ ン ヴ ェー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ
タ城 吐 を結 ぶ 線 の 存 在 を 示 唆 し, ア ン ・ ドゥ オ ン 王 以 前 の伝 承 に 於 い て, 両 者 が 切 り
離 され て い な か っ た こ と を示 す。 こ の こ と は, ロ ン ヴ ェー ク城 吐 とチ ェ イ チ ェ ッ タ 城
を 含 め た 地 域 を ロ ン ヴ ェ ー ク王 都 と す る前 述 の オ ラ ン ダ 絵 地 図 の 考 え方 と も一 致 す る。
5 小 括
オ ラ ン ダ 資 料 ・絵 地 図 の 分 析, 航 空 写 真 の 分 析 お よ び 実 測 か ら, 現 在 ワ ッ ト ・チ ェ
デ イ ・トメ イ(L-14)近 南 方 に残 る土 塁 群 が チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 の 王 城 吐 で あ る と推 定
さ れ た。 チ ェ イ チ ェ ッ タII世 の 王 城 は チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク城 吐 か ら南 に
移 動 し, 王 都 の 中 心 が 南 に移 動 した こ と に な る。 この 移 動 が, 年 代 記 に お け る1620年
の ウ ド ン遷 都 で あ ろ う。 しか し, 外 国 人 は依 然 と して この 新 城 を も ロ ン ヴ ェ ー ク と呼
び, そ の た め に前 述 の ベ トナ ム 資 料 も こ の城 を 羅 壁 城 と呼 ん だ。 オ ラ ン ダ 人 の レ ウ ェ
ク も ま た ウ ドン の 誤 記 で は な く, 当 時 の 呼 び 名 に従 っ た も の で あ ろ う。
この 新 し い チ ェ イ チ ェ ッ タ城 と古 い ロ ン ヴ ェ ー ク 城 と を結 ぶ 線 と, ト ン レ ・サ ー ブ
水 系 とポ ー サ ッ トを 結 ぶ 線 との 交 点 に は, 海 と中 国 人 に 関 わ る伝 承 が 色 濃 く残 さ れ て
い る。 そ し て, 年 代 記 編 者 は そ の 中 国 人 伝 承 を17世 紀 前 半 に 比 定 し て い る。 これ か ら
新 城 へ の 移 動 は トン レ ・サ ー ブ 水 系 へ の 近 接, 特 に 新 た に港 と して 発 展 して い っ た ト
ン レ ・サ ー ブ 河 川 港 ポ ニ ェ ・ル ー へ の ア プ ロ ー チ が 事 由 と して 考 え られ る。 ポ ニ ェ ・
ル ー は聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・リエ チ ・ トロ ア プ の 真 東, チ ェ イ チ ェ ッタ 城 吐 の 南 東,
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ポス ト・ア ンコールの王城
ト ン レ ・サ ー ブ 河 西 岸 の 自然 堤 防 上 に 位 置 し, 狭 窄 な ピ エ ム ・ロ ン ヴ ェ ー クPeam
Longvekに 代 わ っ て, オ ラ ンダ 船 の接 岸 に有 利 な 港 と して 発 展 し た と推 定 さ れ る。
ト と結 ば れ て い る。 す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ 城 肚 は, カ ン ボ ジ ア 内 陸 の 産 物 を収 集 し,
ポ ニ ェ ・ル ー に供 給 す る た め の 絶 好 の 位 置 に あ っ た。 ソ ヴ ァ ン ナ 系 列 王 の建 寺 伝 承 の
分 布 は, 東 西 の 広 が りが17世 紀 陶 磁 器 片 の 分 布 す る 空 間 に等 し く, 南 北 は ア ン コ ー ル
期 寺 院 コ ン プ レ ク ス の 範 囲 に ほ ぼ 等 し い。 つ ま り東 西 線 に代 表 さ れ る17世 紀 的 海 洋 的
商 業 的 な 世 界 と, 南 北 線 に代 表 され る ア ン コー ル 的 内 陸 的 な 世 界 が, チ ェイ チ ェ ッタ
城 趾 を交 点 と し て 交 差 して い る の で あ る。
IV ア ン ・ ド ウオ ン城 吐
1 シ ャ ム ・ベ トナ ム 戦 争 の 遺 構
ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・トメ イ(L-14)の 近 辺 に は, 河 か ら攻 め て 来 た ベ トナ ム 軍 と戦
つ た と き の砦 と砲 台 跡 で あ る と言 わ れ る 遺 構 が あ る。 ま た, 年 代 記 に よ る と[pp. 194
-204], ア ン ・チ ャ ン 王 治 世(1806-1834)以 来 続 い た, カ ン ボ ジ ア 支 配 を巡 る シ ャ ム ・
ベ トナ ム 戦 争 の 最 後 の 戦 い は, 1845年 に ウ ド ン地 域 で2回 に 渡 っ て 行 わ れ た。 そ の 結
果, シ ャ ム とベ トナ ム の 間 で 和 平 が 成 立 し, 1847年 に ア ン ・ ド ゥ オ ン 王 の 即 位 式 が 行
わ れ た。 即 位 後 の ア ン ・ ド ゥオ ン王 は, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ に 沿 っ て 砦 を 作
ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ の 近 辺 す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 が, シ ャ ム ・ベ トナ ム
戦 争 の 最 後 の 戦 場 に な っ た こ とが 確 認 で き る。 陸 路 か ら進 軍 した シ ャ ム 軍 と, 水 路 を
進 軍 し た ベ トナ ム 軍 が 対 峙 す る戦 場 と な っ た こ とか ら も, チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 の 立 地
は ま さ に 陸 と海 の 接 点 で あ つ た と い え よ う。
2貝 入 り漆 喰 の 分 布
ア ン ・ ド ゥオ ン王 時 代 の 遺 構 を特 徴 付 け る もの に, 貝 入 り漆 喰 で 固 め ら れ た 石 組 が
あ る。 こ の 貝 入 り漆 喰 の 分 布 は表5に 整 理 し た。 そ の う ち, コ ム ポ ン ・ル オ ン の 港 跡
徴 を 持 ち, 連 続 す る も の で あ る。 ア ン ・ ド ゥオ ン王 が 石 を購 入 し, 港 か らバ ン テ ィエ
う。 従 っ て, こ の 石 組 と同 様 の 貝 入 り漆 喰 か ら成 る ヴ ェ ア ン ・チ ャ スVeang Chasの
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東 南ア ジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998
堀 の 石 組 も, ア ン ・ ド ゥ オ ン王 時 代 の も の と考 え られ る。 この ア ン ・ ド ゥオ ン王 時 代
の石 組 の 分 布 は, 先 に検 討 し た 陶 磁 器 片 に よ る19世 紀 以 降 の 歴 史 空 間 に一 致 す る。
3 ウ ドン王 城 趾
年 代 記 に よ れ ば, ア ン ・ ド ゥオ ン王 は最 初 バ ン テ ィ エ イ ・ウ ド ン ・ル ー ・チ ェ イ 王
宮 に 居 り, シ ャ ム に 居 た 王 子 ノ ロ ドム と シ ソ ワ ッ トSisowathを1856年 に 帰 国 させ た
が 北 と 東 を 囲 む 土 地 に, 新 王 宮 ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト を 建 て て 移 り 住 ん だ
[p. 230]。 こ の 時, 旧 王 宮 は ノ ロ ドム 王 子 に 譲 り渡 さ れ た。
この 王 宮 の 移 動 は, 同 時 代 の ヨ ー ロ ッパ 人 の旅 行 記 か ら も確 認 で き る。1851年 にウ
ドン に ア ン ・ ド ゥ オ ン王 を訪 ね た ボ ニ ー マ ンBonnymanは, 王 宮 は 塔 門 を持 つ 城 壁
た 旅 行 記 で も, 王 宮 の 周 囲 に は, 塔 門 を 持 つ12フ ィ ー ト高, 2フ ィ ー ト厚 の 土 城 壁 と
記 に 記 さ れ た 王 宮 は 年 代 記 の バ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ 王 宮 で あ ろ う。1858
部 に あ る の は 第 二 王 の 王 宮 で あ り, 第 一 王 の 王 宮 は, 板 塀 で 囲 ま れ, 湖 の端 に 広 が っ
王 宮 に あ た る。
現 在 の ウ ド ン市 域 に 接 し て, 土 城 壁 の 内 部 に 囲 ま れ た ク レ ア ン ・プ ラ ム と呼 ば れ る
地 区 と, 堀 に 囲 まれ た ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス と呼 ば れ る地 区 が 存 在 し て い る。 ク レ ア ン ・
プ ラ ム と は5つ の 倉 の 意 味 で あ り, 伝 承 で は, この 地 区 は倉 庫 で あ っ た こ と に な っ て
い る。 現 在 で は, 旧王 宮 を意 味 す る ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス が ア ン ・ ド ゥオ ン王 城 吐 と さ れ
て い るが, これ は ア ン ・ ド ゥオ ン第 二 王 城 吐 で あ る ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト新 王 宮
で あ り, ア ン ・ ド ゥオ ン 第 一 王 城 吐 で あ るバ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ 王 宮
に は, ク レ ア ン ・プ ラ ム が あ た る。
(1)ア ン ・ ド ゥ オ ン第 一 王 城 趾 バ ン テ ィ エ イ ・ウ ドン ・ル ー ・チ ェ イ
ボ ニ ー マ ン の 記 述 に よ る と, 王 宮 壁 の 中 の構 造 物 と し て, 庭 園 と こ れ を巡 る謁 見 ホ
ー ル, 王 の 私 室, 細 長 い 木 造 の 建 物 が あ っ た[p. 437]。1854年 の 旅 行 記 で も, 石 畳 の
中 庭 の 周 りに 謁 見 ホ ー ル, 後 宮, 王 の 寝 室, 細 長 い 二 階 建 て の建 物, こ の他 に機 械 室
が あ り, ア ン ・ド ゥ オ ン 王 が バ ー ミ ンガ ム のJ. イ ン グ ラ ム 社 製 の コ イ ン鋳 造 機 を 買 っ
て 設 置 して い た こ とが 記 さ れ て い る[pp. 308-312]。
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ポス ト・アンコールの王城
地 図3に 示 し た 現 在 の ク レ ア ン ・プ ラ ム の 測 量 の 結 果, 旅 行 記 に記 さ れ た煉 瓦 の 内
城 壁 の 遺 構 が 発 見 され, 当 時 の 内 城 の 構 造 が 同 定 で き た。 この 煉 瓦 の 内 城 壁 付 近 に は
現 在 も鋼 鉄 製 の 銀 プ レ ス 機 が 放 置 さ れ(D-16), こ こ が 倉 庫 で あ っ た とす る伝 承 の 根 拠
に な つ て い る。 ア ン ・ ド ゥオ ン 王 が 銀 貨 を鋳 造 した こ と は年 代 記 に も記 述 さ れ て お り,
現 在 も ア ン ・ ド ゥオ ン 銀 貨3種 が 知 ら れ て い る。 こ の 他, 前 述 した よ う に 大 量 の 陶 磁
器 片 が こ の 内城 壁 内 部(D-16)で 表 面 採 取 さ れ, チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 と共 通 す る17世
紀 潭 州 窯 の 陶 磁 器 片 の 他 に, よ り後 代 の 潭 州 窯 の 陶 磁 器 片 が 含 ま れ て い る と鑑 定 され
た。
(2)アン ・ ドゥ オ ン 第 二 王 城 吐 ス ラ ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ ト
年 代 記 に よ る と, ア ン ・ド ゥ オ ン 王 は北, 西, 東 の3方 を池 に 囲 ま れ た 地 に, 板 張
りの 王 宮, 草 葺 き, 漆 喰 壁, 煉 瓦 の 張 出 付 きの 王 族 の 住 居, 王 の 執 務 室, 種 々 の 平 屋,
水 上 倉 庫 な ど を 建 て させ た[p. 230]。1858年 に ウ ドン を訪 れ た ム オ に よ る と, 第 一 王
の 王 宮 す な わ ち こ の 第 二 王 城 の 内 部 に は, 王 の 妻 た ち の 住 居 で あ る100戸 ほ ど の 粘 土
壁, 草 葺 きの 小 さ な コ テ ー ジ, 湖 畔 に 広 が る石 灰 塗 り ま た は竹 造 り の建 物, ア ンナム
の ウ ド ン王 城 の 地 で あ る ヴ ェ ア ン ・チ ャ ス は, 3方 を堀 に 囲 ま れ た 広 場 で あ り, 内 部
に は寺 院, 築 山 が あ る(E-17)。 前 述 し た よ う に, こ こが ア ン ・ド ゥオ ン第 二 王 城 ス ラ
ッ ・サ ー ラ プ ー ユ ッ トに あ た る。
4ア ン ・ ドゥ オ ン 王 以 降 の 伝 承 分 布
(1)アン ・ ドゥ オ ン王 の 百 寺 伝 承
百 寺 を建 立 し た とい う伝 承 を得 た。 ア ン ・ ド ゥオ ン 王 の 百 寺 に属 す る寺 院 の グ ル ー プ
は, ワ ッ ト ・チ ュ ー ク ・ソ ー を 最 西 端 と し, ワ ッ ト ・チ ェ デ イ ・ トメ イ(1-14)を 最東
端 と し て, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ と聖 山 プ ノ ム ・プ レ ア ・ リエ チ ・ トロ ア プ の
間 を, 東 西 に 分 布 し て い る。 さ ら に 時 代 が 不 明 で あ るが, 処 刑 場 伝 承 も採 集 し た。 処
刑 場 伝 承 は, ア ン ・ド ゥ オ ン王 の 百 寺 の 東 と西 の 端 に分 布 して い る。
(2)龍 の 地 脈 伝 承
ア ン ・ド ゥオ ン王 の 王 宮 の位 置 を説 明 す る伝 承 と し て, ワ ッ ト ・プ ラ ン(E-17)に
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東南 アジア ー 歴史 と文化 ーNo. 27, 1998
は, 龍 の地 脈 伝 承 が あ る。 ワ ッ ト ・プ ラ ン と は, 塔 の 寺 を意 味 す る。 そ の 名 の とお り
ワ ッ ト ・プ ラ ン に は, 一 辺40m, 高 さ50mの 巨 大 な チ ェ デ イ が 在 っ た と言 わ れ, 現 在
は 上 部 が 崩 壊 し た チ ェ デ イ が 残 つ て い る。 伝 承 に よ る と, こ の チ ェ デ イ の 地 下 に は ク
メ ー ル の 威 力 を司 る龍 が お り, こ こに 王 宮 を 建 て る と ク メ ー ル の 栄 光 が 蘇 る。 シ ャ ム
は こ の 地 に 王 宮 が 建 て ら れ な い よ う に, チ ェ デ イ を建 て て 寺 院 と し た。 こ の チ ェ デ イ
に は不 思 議 な 力 が あ り, こ れ に触 れ た 者 に は激 し く崇 る。 年 代 記 で は, ア ン ・ ドゥ オ
ン 王 が 最 初 に建 て た の が, ワ ッ ト ・プ ラ ン で あ り, シ ソ ワ ッ ト王 子 と ワ ッ タ ー 王 子 が
こ こ で 出 家 した[p. 222]。 こ の こ と か ら, ワ ッ ト ・プ ラ ン が ア ン ・ ド ゥオ ン王 の 王 宮
寺 院 で あ つ た と考 え られ る。
(3)チ ャ ウ ・ク ン伝 承
に は王 田 ス ラ エ ・ル オ ンsrae luongが 存 在 し て い た こ と が 分 か っ た。 ス ラ エ ・ル オ
る 役 人 が 農 民 か ら籾 を 徴 収 した。 この 他 土 地 が 痩 せ て い る と こ ろで は銀 納 も あ つ た と
い う。 こ れ ら の 役 人 は 自分 で は耕 作 せ ず, 農 民 が 納 め る 税 か ら分 け 前 を 取 っ て い た。
こ の ス ラ エ ・ル オ ン は, ス ト ゥ ン ・ク ラ ン ・ポ ン レ イ の 北, ワ ッ ト ・チ ュ ー ク ・ソ
ー(C-17)西 の プ レ ア ・ス ラ エPreah Srae(聖 な る 田)地 区, ワ ッ ト ・チ ャ ド ・ ト
た。 ワ ッ ト ・プ サ ー ・ダ エ ク(F-20)の 聞 き取 りで は, こ こ の ス ラ エ ・ル オ ン の 所 有
者 は シ ソ ワ ッ ト王 の 王 女 ソ ム ダ チ ・マ リカ ーSomdec Malikaで あ っ た。 ワ ッ ト ・ヴ
ィ ピ ア ・ク ボ ス(D-18)で の 聞 き取 りで は, チ ャ ウ ・ク ン王 子 の 子 が プ レ ア ・ア ン ・
Tra王 子 で あ り, 妻 が ソ ム ダ チ ・マ リカ ー 王 女 で あ る。 この チ ャ ウ ・ク ン伝 承 は, ス
ラ エ ・ル オ ン と寺 院 の 建 立 に 関 係 し て, ア ン ・ ドゥ オ ン 王 城 吐 の 南 西 に分 布 し て い る。
5 小 括
ア ン ・ド ゥ オ ン 王 城 吐 は チ ェ イ チ ェ ッ タ王 城 吐 よ り も さ ら に4km西 に 後 退 した 地
点 に あ る。 王 城 が 内 陸 に退 い た 事 由 に は, チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 近 辺 が, シ ャ ム ・ベ ト
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ポス ト・アンコールの王城
ナ ム 戦 争 の戦 場 に な つ た こ とが 挙 げ られ る。 しか し, よ り積 極 的 な 事 由 と し て, コ ム
ポ ー ト, ポ ー サ ッ トへ の ア プ ロ ー チ が 考 え られ る。 ポ ー サ ッ トは19世 紀 カ ン ボ ジ ア の
主 要 産 物 で あ る カ ル ダ モ ンや 雌 黄 の 産 地, カ ル ダ モ ン 山 地 か ら トン レ ・サ ー ブ 湖 へ の
出 口 で あ る。 ま た, コ ム ポ ー トは, 19世 紀 にハ ー テ ィ エ ン を 院 氏 ベ トナ ム に 奪 わ れ た
後 の カ ン ボ ジ ア王 権 に とつ て 唯 一 の 海 へ の 出 口 で あ り, 事 実 ア ン ・ ド ゥオ ン王 は, コ
ム ポ ー トに倉 庫 や 宿 舎 を建 て, ウ ド ン か ら コ ム ポ ー トに至 る陸 路 を 整 備 し, 自 ら も度 々
行 幸 す る な ど積 極 的 に コ ム ポ ー ト港 の経 営 を行 っ て い る。 王 は こ の コ ム ポ ー トか ら ウ
ド ン に 向 け て 陸 路 を建 設 し, ま た トン レ ・サ ー ブ 河 港 コ ム ポ ン ・ル オ ン とウ ド ンの あ
い だ に も陸 路 を建 設 し た[北 川]。 ウ ド ン に 集 中 す る 陸 路 網 を 完 成 す る こ とに よ つ て,
王 は 内 陸, シ ャ ム 湾 岸, トン レ ・サ ー ブ 水 系 を連 絡 し た の で あ っ た。
結 論
第2章 で 述 べ た よ う に, ポ ス ト ・ア ン コ ー ル 期 を通 じ て, ロ ン ヴ ェ ー クー ウ ド ン地
域 は トン レ ・サ ー ブ 水 系 の 要 衝 を 占 め, メ コ ン水 系 の バ サ ンー ス レ イ ・サ ン トー 勢 力
と は 並 立 し対 抗 す る関 係 に あ っ た。
今 回 の 調 査 の 結 果, こ の ロ ン ヴ ェ ー ク お よ び ウ ドン 地 域 に お い て, (1)アン コー ル 期
世 紀 の ア ン ・ ド ゥオ ン城 吐 の 位 置 が 確 認 さ れ た。(1)は(2)の ロ ン ヴ ェ ー ク 城 吐 か ら聖 山
に か け て の 南 北 軸 上 に 分 布 し, (3)は こ の 南 北 軸 と現 在 の 国 道5号 線 の 交 点, トン レ ・
サ ー ブ 河 西 岸 湿 地 第 一 の 微 高 地 前 面 に位 置 した。(4)の ア ン ・ド ゥオ ン城 肚 は, (3)の チ
ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 よ り も4km内 陸, 現 在 の ウ ド ン市 域 付 近 に在 る。
こ の よ う な王 城 の 位 置 の 変 遷 の 意 味 は, 年 代 記 等 の 文 献 資 料 か ら, 以 下 の よ う に 理
解 で き る。
年 代 記 に よ る と, ロ ン ヴ ェー ク王 都 の建 設 者 チ ャ ン リエ チ エ王 は, ポ ー サ ッ ト を根
拠 地 に し て バ サ ン ー ス レ イ ・サ ン トー 勢 力 を 軍 事 力 で 圧 倒 し, ロ ン ヴ ェ ー ク に 遷 都 し
た。16世 紀 を通 じ て ロ ン ヴ ェー ク王 城 は, メ コ ン水 系 の 要 衝 バ サ ン ー ス レ イ ・サ ン ト
ー と対 抗 関 係 に あ っ た。 チ ャ ン リエ チ エ 王 の ロ ン ヴ ェ ー ク建 都 は, 14世 紀 以 来 の メ コ
ン 水 系 ネ ッ トワ ー ク に対 抗 して, 商 都 プ ノ ン ペ ン と ト ン レ ・サ ー ブ湖 沿 岸 を結 ぶ 中 継
点 を作 ろ う とす る, カ ン ボ ジ ア 内 陸 勢 力 の 積 極 的 な 意 思 に よ る もの で あ ろ う と考 え ら
れ る。 但 し, この 仮 説 を 裏 付 け る た め に は, ポ ー サ ッ トお よ び ロ ン ヴ ェ ー ク北 方 の コ
ム ポ ン ・チ ナ ン に お け る 調 査 を待 た ね ば な ら な い。
オ ラ ン ダ 資 料 と伝 承 の 語 る17世 紀 の チ ェ イ チ ェ ッ タ王 城 は, トン レ ・サ ー ブ 河 川 港
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東 南ア ジア ー 歴史 と文化 一No. 27, 1998
ポ ニ ェ ・ル ー を 介 して, トン レ ・サ ー ブ河 一 プ ノ ンペ ンー メ コ ン 河 一 南 シ ナ 海 と連 絡
し て い る。 さ ら に チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 か ら は, ポ ー サ ッ トに 向 か う陸 路 が 発 す る。 こ
れ は 商 業 の 時 代 に お け る国 際 勢 力 の 進 出, そ れ に と もな う商 都 プ ノ ン ペ ンの 発 展 に際
し て, 伝 統 的 な 徴 税 シ ス テ ム を 主 管 す る王 権 が, 内 陸 の 出 口 で あ る ウ ド ン渓 谷 に 王 都
を建 設 し, オ ラ ン ダ, 日本 お よ び 中 国 な どの 国 際 商 人 団 が 南 シ ナ海 一 メ コ ン 河 一 ト ン
レ ・サ ー ブ 河 ル ー トの終 点 と し て ポ ニ ェ ・ル ー を建 設 し た と見 る こ とが で き る。 チ ェ
イ チ ェ ッ タ 王 城 は ポ ニ ェ ・ル ー に 拠 つ た 新 興 勢 力 日本, オ ラ ンダ との関係 保持 に よつ
て, 中 国 人, マ レ ー 人 お よ び チ ャ ー ム 人 に 支 持 さ れ る メ コ ン水 系 の バ サ ンー ス レ イ ・
サ ン トー に対 抗 し た。
17世 紀 末 の 商 業 の 時 代 の 衰 退, 18世 紀 以 降 の ベ トナ ム に よ る サ イ ゴ ン支 配 は, チ ェ
イ チ ェ ッ タ 王 城 の 拠 っ て 立 つ 南 シ ナ 海 一 メ コ ン河 一 トン レ ・サ ー ブ 河 ル ー ト構 想 を破
壊 した。 さ ら に18世 紀 末 に は トン レ ・サ ー ブ湖 周 辺 地 域 は シ ャ ム の 領 域 と な り, バ ン
コ ク を 中 心 と す る ネ ッ トワ ー ク に組 み 込 まれ た。 プ ノ ンペ ン はベ トナ ム に 占領 さ れ,
そ の ト ン レ ・サ ー ブ 水 系 進 出 の 拠 点 と さ れ た。19世 紀 前 半 に チ ェ イ チ ェ ッ タ城 吐 を 中
心 に 軍 事 施 設 遺 構 が 分 布 す る の は, この 地 域 が トン レ ・サ ー ブ 湖 に拠 る シ ャ ム 勢 力 と,
プ ノ ンペ ン に 拠 るベ トナ ム 勢 力 の 境 界 線 に な っ た こ と を意 味 す る。
ト港 と王 都 ウ ド ン を 陸 路 で 接 続 し, メ コ ン 河 に 拠 ら な い 南 方 ル ー トを 開 発 し た こ とが
あ る。 王 は こ の ル ー ト と, 以 前 か ら存 在 した ポ ー サ ッ トに 向 か う 陸 路 を接 続 させ た。
ア ン ・ ド ゥ オ ン王 城 は コ ム ポ ー トー ウ ドン, ポ ー サ ッ トー ウ ドン の2つ の ル ー トが 交
わ る 地 点, す な わ ち チ ェ イ チ ェ ッ タ 王 城 よ り も4km西 方 に建 設 さ れ た。 王 は さ ら に
ウ ド ン王 城 か ら トン レ ・サ ー ブ 河 川 港 コ ム ポ ン ・ル オ ン まで の 陸 路 を建 設 し て, トン
レ ・サ ー ブ河 一 プ ノ ンペ ン ー メ コ ン河 と ウ ド ン を接 続 させ た。 ア ン ・ ド ゥオ ン王 は全
土 を トン レ ・サ ー ブ 水 系 の ウ ド ン に 集 中 す る ネ ッ トワ ー ク 構 想 を完 成 させ, 王 城 を そ
の 要 に置 い た の で あ っ た。
注
(1) 本 調 査 で は, FINNMAP Oy/IMC CAMBODIA 1:25000 DECEMBER-92, ROLL
32 STRIP 77 7841お よび7843を 利 用 し た。
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ポス ト・アンコールの王城
参 考文献
1. 日本 語
ア ン トニ オ ・デ ・モ ル ガ著, 神 吉 敬三 ・箭 内健 次 訳。1966。 『フ ィ リピ ン諸 島誌 』 大航 海
時代 叢 書VII岩 波書 店。
岩 生 成一。1939。 『
南 洋 日本 町 の研 究 』 南 亜 細 亜文 化 研 究 所。
ガ ス パ ール ・ダ ・クル ス著, 日埜 博 司 訳。1987。 『
十 六 世 紀華 南 事 物 誌 』 明 石 書店。
3. ク メー ル語
カ ン ボ ジ ア 王 朝 年 代 記 タ イ 国 立 図 書 館 所 蔵 写 本。
表1 ア ン コー ル期 遺構 の分 布
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東 南 ア ジア ー 歴 史 と文 化 一No. 27, 1998
表2 陶 磁 器 片 の分 布
表3 ア ン ・ ドゥオ ン以 前 の伝 承 の 分 布
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ポ ス ト ・ア ン コー ル の王 城
表4 シャ ム ・ベ トナ ム戦 争 伝 承 と年代 記 の 記 述
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表5 貝 入 り漆 喰 の分 布
表6 ア ン ・ ドゥオ ン以 降 の伝 承 の 分 布
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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の 王 城
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地 図2 チ ェイ チ ェ ッタ城 壮実 測 図
作図: 桜井 由躬雄
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ポ ス ト ・ア ン コ ー ル の 王 城
KITAGAWA Takako
This paper sets out to investigate the transfer of the royal palace's location in the post
-Angkor period, and will at the same time consider the change of character of the
Longvek-Oudong dynasty.
Since the French Protectorate era, a considerable number of studies have been made
on Angkor period. However, little attention has been given to the post-Angkor period.
Reasons were that it was deemed a "Dark-Age" and an iota of historical materials. As
such, we attempted a research on the Longvek-Oudong region, about 30km north of
Phnom-Penh. We had examined some aerial photographs, measured the royal palace's
sites, made maps, picked up fragments of pottery, and lastly compiled information
relating to the beginnings of villages and temples.
There was a saying that in the post-Angkor period, the capial of Cambodia was
Oudong, were in close proximity. They held a strategic point on the west bank of the
Tonle-Sap River. The second and the present capital, Phnom-Pemh is situated on the
confluence of the Mekong River and the Tonle-Sap River. Based on the royal chronicle
of Cambodia and some foreign sources, we knew that Basan and Longvek-Oudong were
rivals.
3) We found that the royal palace of Oudong in the 17th century was on the first
latter was also his first palace, situated 4km west to the royal palace in the 17th
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東 南 ア ジ ア ー 歴 史 と文 化 一No. 27, 1998
century.
Therefore, we concluded that:
A) The capital Longvek-Oudong kept close relations with Pursat, south of the
Tonle-Sap Lake.
B) The transfer from Longvek to Oudong during the 17th century came from the
development of Ponhea-Lu as a river port in the "Age of Commerce".
C) However, with the end of the "Age of Commerce" and the control of Saigon by the
Vietnamese, this situation was changed. King Ang-Duong tried to build a new
network which could connect Pursat and Kampot via Oudong. In doing so, he built
his palace 4km inland.
D) Under the French Protectorate, Phnom-Penh became the capital of Cambodia and
the network which centered on Phnom-Penh and the Mekong River was completed
for the first time.
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