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多文化主義という暴力

カナダ先住民サーニッチにとっての
言語復興、アート復興、そして格差

渥美 一弥 Kazuya Atsumi

自治医科大学 Jichi Medical University

 本稿では、カナダにおける多文化主義政策の先住民への影響について、カナダのブリティッ
シュ・コロンビア州の先住民族、サーニッチを事例として検討する。そして、現時点において「多
文化主義」がカナダ先住民にとって、社会的地位や経済的状態の改善に寄与している状況を評価す
る立場をとりつつ、先住民集団内においても、その受け取り方は複数存在することを指摘する。
サーニッチの場合、多文化主義の政策を活用して経済的な自立をめざす人々と、従来の社会福祉政
策に依存した暮らしを望む人々に大きく二分されているように筆者のような部外者には見える。
 多文化主義は、
「言語」あるいは「アート」を守ってきた先住民に対し経済的後押しをしている。独立し
た学校区が生み出され、学校が建設され、教員や職員としての雇用が生まれた。トーテム・ポール等の先
住民アートは、非先住民の地域住民を対象に含む市場を創造し、その作品に対する注文は増加し続けて
いる。このような先住民の経済的自立の背景にカナダの多文化主義が存在する。しかし、それは同時に、
「言語」や「アート」を身につけた人々と、そうでない人々との間に経済的な「格差」を生む結果となった。
 かつて「白人」から銃火器などの「武器」を手に入れた集団と手に入れなかった集団との間で格
差が生まれたように、サーニッチの間で「多文化主義」の恩恵を受けることができる人々と受けら
れない人々の間に格差が生じている。多文化主義においても、結果として主流社会との関係が先住
民の運命を左右する決定的要素となっている。
 本稿はまずカナダの多文化主義を歴史的に確認する。次に多文化主義が先住民にとって持つ意味
を考察する。そして、具体例として、筆者が調査を行っているサーニッチの事例を紹介しながら、
多文化主義政策が先住民の人々の間に「格差」を生じさせている状況があることを指摘する。しか
し同時に、現在のサーニッチはその「格差」を乗り越えて結束している。最後に、その彼らを結び
つけているのは同化教育という名の暴力に対する「記憶」であることを明示する。

[多文化主義、先住民、格差、言語教育、カナダ]

Ⅰ はじめに Ⅳ 多文化主義がサーニッチに与えたもの
Ⅱ カナダ多文化主義の源流とその歴史的背景  1言語復興運動と先住民の学校
  ――二言語二文化と多文化主義の現在  2センチョッセン教師の新たな世代
 1カナダ多文化主義の原点  3先住民アートの復興
 2多文化主義というイデオロギーの持つ政治的意味 Ⅴ 多文化主義の裏面
 3多文化主義と先住民政策――「亡霊」の抹殺   ――多文化主義によって拡大される格差
Ⅲ 多文化主義の背景  1格差の背景――階層意識の現在
  ――ジェノサイドと同化教育の時代  2新たな格差
 1ブリティッシュ・コロンビア州における先住民同化  3格差と結束
教育 Ⅵ おわりに
 2サーニッチにとっての「多文化主義」の背景

『文化人類学』81 巻 3 号 504 〜 521 頁(2016 年 12 月)


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ある経済格差を言う。
Ⅰ はじめに
 さらに、主流社会における多文化主義に対する
   我 々 の 敵 だ っ た ハ イ ダ(Haida)1) や ク ヮ 考え方も一様ではない。多文化主義の推進派と反
ギュース(Kwagiulth) は、毛皮交易で銃を手
2)
対派のせめぎあいが、カナダ経済の動向のなかで
に入れていた。奴らはこっちの方(カナダ西岸 浮かび上がる。経済が安定している間は多文化主
南部)へ下りてきて我々の家や村を攻撃した。 義政策が推進され、補助金が支出される。しかし、
奴らは我々の村人を奴隷として連れ去った。 不況になると、多文化主義政策実現のための補助
サーニッチ 3)
の近くに住んでいたラミ 金等が緊縮政策の最初のターゲットとなるのみな
(Lummi)はハイダやクヮギュースからの攻撃 らず、その政策そのものの変更・中止もあり得る。
に閉口して、この地域からアメリカ側へ村を挙 この点で、主流社会と先住民社会の関係における
げて移っていったのだ[渥美 2012:176]。 要諦の一つは経済である。
   本稿ではまず、カナダの多文化主義の歴史を概
 本稿はカナダにおける多文化主義政策がサー 観し、その歴史に先住民を位置づけながら、先住
ニッチに与える影響を検討する。「多文化主義」 民にとっての多文化主義の意味を考察する。その
が先住民の社会的地位や経済的状態の改善に寄与 うえで、具体例としてサーニッチの事例を紹介し、
している状況を積極的に認める立場をとりつつ、 多文化主義政策がサーニッチの人々の間に格差を
先住民集団内においてもその受け取り方は複数あ 生じさせている状況を報告する。さらに、そうし
ることを提示する。サーニッチの場合、多文化主 た分断状況において、何がサーニッチを先住民族
義の政策を活用して経済的な自立をめざす人々と、 として結びつけているのかを検討する。
従来の福祉政策に依存する暮らしを続けるしかな
Ⅱ カナダ多文化主義の源流と
いと考える人々に大きく二分されている。
その歴史的背景
 多文化主義政策により、先住民言語や「伝統
――二言語二文化と多文化主義の現在
的」アートを守ってきた人々を経済的に支える学
校が建設された。先住民を対象とする独立した学 1 カナダ多文化主義の原点
校区が生まれ、先住民言語を教える教員の雇用が  1755年から1763年の北米大陸におけるフレン
生まれた。先住民アートの分野では、非先住民を チ・インディアン戦争の結果4)、イギリスがカナ
対象とする市場が生まれ、北米全土に広がり、今 ダを植民地化し、その覇権を握ることとなった。
や国外からの注文も増え続けている。そうした経 しかし、ケベックは、フランス語を母語として堅
済的自立の背景にはカナダの多文化主義がある。 持する地域であり続けた。そのため、カナダの国
 しかし、それは同時に、「言語」や「アート」を 家としての体制を維持する根底的な基盤は、イギ
身につけた人々と、そうでない人々との間に格差 リス系とフランス系の対等性の容認であり、その
を生む結果となった。様々に異なる点はあるとは 後の移民はこの建国の二民族の文化のいずれかに
いえ、主流社会との関係が先住民の運命を左右す 同化することがカナダの国家的イデオロギーと
る決定的要素となっているという意味では、サー なった[古谷 2005]。
ニッチから見た多文化主義は、かつて先住民が  カナダは二言語二文化のイデオロギーを国家ア
「白人」から手に入れた武器(銃火器や鉄製の武 イデンティティとし、隣国アメリカとの違いを強
器)に似ている。カナダ西部地域において、武器 調してきた。これに対してアメリカでは、建国当
にアクセスが可能となった集団と、不可能な集団 初のイギリス文化優位の時代から、移民に対し強
との間に格差が生じたように、サーニッチという 烈な愛国心を求め、アメリカ化(メルティング・
同じ集団の内部ではあるが、「多文化主義」の恩 ポット)の理念が強要された[初瀬(編)2003]

恵を受けることができる人々とできない人々の間  カナダへの初期移民は、イギリス・フランス系
に格差が生まれているのである。本稿で「格差」 の主流社会の下に労働者階級として迎え入れられ
という語を用いる場合、カナダ西岸先住民の伝統 た。
「頑健な妻と半ダースの子を連れた屈強な農
的階層制度を背景に現在の先住民の間に生じつつ 夫」[Stoffman 2002:23;内田 2004]が歓迎さ

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れた。そして、荒地だったカナダ内陸の平原地方 (1995年も僅差で否決)されたものの、その後も
に、ウクライナ、ポーランド、イタリアなどから ケベックでの独立運動は続いている。そこで、
の「屈強な農夫とその家族たち」が住みついた。 1988年に多文化主義法を成立させたトルドーは、
カナダでは国民をアメリカから文化的に隔離しよ カナダには公式の言語があるが、公式の文化は存
うとし、それが多様な移民のエスニック・コミュ 在しないと明言し、エスニック集団間の文化的平
ニティを存続させる一因となった[倉田 1997:9]
。 等を主張した。そして、階層移動率の低さや、経
  こ う し た 積 極 的 な 移 民 政 策 の 結 果 と し て、 済的不均衡を是正するために公用語習得の奨励や
1871年には350万人だった人口が、1971年には エスニック集団相互の交流を促進するなどの具体
2,150万人に増大した。そのなかで、1960年代の 的な目標を掲げた。これらの結果として、エス
移民法の改正により、70年代後半にはアジアか ニック集団のアイデンティティの保持が国家に
らの移民が最大グループとなっていた。アジア系 よって認識され始めた。
が増加したこと、そして折しも不景気が重なり、  その後、多文化主義はエスニック・マイノリ
ヨーロッパ系住民の間に、新しい移民はカナダ社 ティに対するアファーマティブ・アクション等を
会に統合されるのか、失業は新しい移民が原因で 通してすべてのエスニック集団に機会的平等を与
はないのかなどの疑念が浮上した。初期のアメリ える政策に発展した。その政策実現の原動力と
カン・ドリームが「白人」に限定されていたよう なった運動を支持したのが、ウクライナ、ポーラ
に、カナダ社会にもヴィジブル・マイノリティー ンド、イタリア等からの移民の子孫であった。し
(非白人)5)への偏見が根強いという事実が、アジ かし、カナダの多文化主義は、1974年の第一次
ア系の移民の増加によって浮き彫りにされた[浦 オイルショック以降の経済的停滞期のなかで徐々
田 2000]
。 に主流社会の保守派から批判されるようになった。
 この時代を背景として、1970年にケベック解 多文化主義政策は多言語文書の印刷、多言語教育、
放戦線(Front de Libération du Québec、FLQ)の 多言語の放送や新聞の発行等のために多大な費用
テロリストによる2件の政府要人拉致事件、所謂 を要するため、主流社会の一部は被害者意識を持
「10月危機」が勃発した。急進的な分離派のケ つようになり、排他的な動きをみせるようになっ
ベック解放戦線がイギリス商務官を誘拐し、ケ た[関根 2000:58;古谷 2005:19]のである。
ベック州の大臣を殺害したのである。当時の首相  また、多文化主義を支える自由主義についても、
トルドーは、彼自身フランス系でありながら、同 先住民社会には、植民地政策の延長上で物理的強
年10月に戦時措置法を発動し、それに従って警 制力をもって押しつけられてきたという経緯があ
察は分離主義者と判断した者を保釈無しで留置し る。多文化主義の論者であるキムリッカは以下の
た。翌年の1971年、トルドーはカナダの統合理 ように指摘している。
念として、また、一部のフランス系住民の過激派  
の暴走を抑止する目的で、多文化主義の導入を議  自由主義の諸原理を力ずくで押しつけようとす
会で宣言した。 る試みは、植民地主義の一形態として受け止め
られている。自由主義の諸制度は、社会内部か
2 多文化主義というイデオロギーの持つ らの政治的改革ではなく、外部からの押しつけ
政治的意味 の結果として生まれたものである時、不安定で
 以上の経緯から、カナダにおける多文化主義は、 一過性のものになってしまいやすい。自由主義
リベラルなイデオロギーの開化というよりも、ケ の諸制度が本当に機能することが可能なのは、
ベックのフランス系住民も後発のカナダ移民であ 自治を行なっている社会の成員の間に自由主義
るウクライナ系やポーランド系やアジア系の住民 的な信念が内面化されている場合に限られる
も同じ権利を持つと主張することでフランス系住 [キムリッカ 1998:250]。
民の暴走を封じ込めようとした政治戦略であると  
考えることもできる。  階層の緩やかなカナダ内陸部の先住民に比べ、
 1980年にケベック独立を問う州民投票が否決 サーニッチが属する西岸地域の先住民社会は明確

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な階層社会であった。彼らの「伝統文化」による 土地の大部分が連邦政府の手に渡ることになり、
行事の多くは、社会階層によって分担された役割 先住民は恣意的に設定された居留地で連邦政府か
に基づいていた。しかし、後述する同化教育に らの生活保護を受けて生活することになった9)。
よって、ヨーロッパ人との接触以前の階層はほぼ さらに、1874年に始まった同化政策の一環とし
消滅した。カナダ西岸地域の先住民社会は、かつ て先住民15万人が寄宿学校に強制的に入学させ
て、個人的自由を制限された奴隷という階層を有 られた。
していた。サーニッチの場合には、この階層制度  カナダ政府は1876年にインディアン法を制定
という自由主義に反する側面を国家の暴力によっ し、インディアン問題・北方開発省を設置して先
て矯正されたという事実が存在する。 住民社会を完全に政府の支配下に置いた。イン
ディアン法によって、「インディアン」の定義、
3 多文化主義と先住民政策――「亡霊」の抹殺 バンドの資金、部族選挙などが定められ、ポト
 カナダ先住民 6)
は、現在のカナダのマイノリ ラッチ、パウワウ、サンダンスなどの伝統的儀礼
ティ集団のなかでも社会的・経済的最下層に位置 や伝統的生業形態が禁止された[古谷 2005:21]。
づけられる。その背景には主流社会と先住民の矛  先住民は産業構造の変化に伴って受け入れられ
盾した関係がある。市民革命を経た後のヨーロッ た移民と異なり、政府にとって必要とされる集団
パ人にとって、所有のプロセスにある所謂「first ではなく、排除されるべき集団として扱われてき
come, first served」のルールからすれば、先住民 た。カナダ自治領成立後、先住民は政府統制下で
の権利は最大限に尊重されるべきどころか、英仏 経済的社会的最下層に位置づけられ、集団的独自
系移民の権利よりも優位にある。主流社会が後発 性を奪われていった。
の移民に対して自らの優位性を主張できる根拠も  先住民は土地と引き換えに年金や居留地の提供
実は先住性なのである。 を受け、多くが生活保護を財源に生活するように
 このルールを無視した建国は論理的パラドック なった。この状態が一般市民からの差別と偏見を
スを抱えることになる。そこで、北米の主流社会 生むとして、1969年、トルドー首相が「インディ
は先住民を「存在しなかったことにする」ための アン白書」を出し、連邦政府から先住民へのサー
政策、いわば、
「抹消政策」に拘泥するように ビスを廃止すると宣言した。先住民側はインディ
なった。北米の内国植民地経営には、このパラ アン白書に対して「シチズン・プラス」という概
ドックスが亡霊のようにつきまとい、政策の底流 念を提示し10)、先住民には一般市民としての権利
に常に存在していた。「高度な技術と文明を持っ 以上のものがあると訴えた。
た英仏人」は先住民の土地を奪い、条約の一部を  1970年代に入ると、先住民の土地権運動が開
破棄し、その内容を無視、または操作することに 始される。「1982年憲法」において11)、条約上の
よって先住民を裏切った。そのうえで、社会生活 権利や定義、憲法会議開催等、先住民の権利が明
上差別し、先住民の社会システムの変換を迫って 文化された。また、多文化主義はエスニック集団
きたのである。こうした矛盾をはらんだ歴史的経 の多様性をカナダ社会の文化的遺産と見做し、エ
緯から、英仏系カナダ人は、他のエスニック集団 スニック集団間の経済的、政治的、社会的平等を
とは異なる存在としての先住民の権利を意識的に 目標とするようになった。先住民には1982年憲
看過し続けた。 法でエスニック集団としての権利が正式に認めら
 1867年にカナダはイギリスの自治領として独 れた。
立し、同年に制定された「英領北アメリカ法」に  2008年6月11日、当時の首相スティーブン・
おいて、先住民の生活はすべて連邦政府に委ねら ハーパーは、連邦政府は先住民をインディアン寄
れた。前述の理由により、カナダ政府は、先住民 宿学校に強制入学させて「深く傷つけてきた」と
から土地を奪う必要があった。1871年から1921 して先住民に公式謝罪した。さらに2015年に、
年に「番号付きインディアン条約」と呼ばれる一 カナダ最高裁判所判事の一人が政府の先住民文化
連の条約が様々な先住民と結ばれ7)、先住民たち に対する「文化的ジェノサイド」を認めると正式
の言うところの『伝統文化』 が展開されてきた
8)
に発表した12)。同化政策に失敗した主流社会が新

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たにカナダ社会の独自性を提示するために多文化 アン学校では英語の使用が強制され、先住民の言
主義を掲げるようになり、その過程で過去の事実 葉で話をすると教師に石鹸で口を洗われたという。
を捉える主流社会の姿勢に変化が見られるように また、子どもたちには教師たちと全く異なる粗末
なってきている点は重要である。しかし、先住民 な食事しか与えられなかった。寄宿学校生活を送
からは、先住民が受けたのは「文化的ジェノサイ るうちに、子どもたちのなかに先住民文化をヨー
ド」ではなく、
「ジェノサイドそのもの」だと認め ロッパ人の視点からとらえるイメージが浸透して
るべきだとして、判事の認識の皮相性を批判する いった。
動きもある 。この点については後述する。
13)
 そうした状況のなかで、同化教育以前の階層意
識は次第に薄れ、喧嘩の強い者がリーダーとなり、
Ⅲ 多文化主義の背景
新たな序列が子どもたちの間に形成されていった。
――ジェノサイドと同化教育の時代
腕力があり、教員たちに対して無言で抵抗する者
1 ブリティッシュ・コロンビア州における が一目置かれた。ヨーロッパ人との接触以前の先
先住民同化教育 住民社会にあった階層意識は、同化教育の下、イ
 ブリティッシュ・コロンビア(BC)州政府は、 ンディアン寄宿学校の増加とともに力を弱めて
1870年代、先住民の指定居留地に宣教師たちを いった。
配置し、同化教育を開始した。1880年代まで州  先住民とインディアン局との間で教育改善に関
全域で宣教師の住居内で同化教育が行われた。そ す る 交 渉 が 開 始 さ れ た の は1970年 代 で あ る。
の目的は子どもたちの使用言語の英語化の徹底と 1870年代から1970年代半ばに至るインディアン
キリスト教徒化促進であり、生活様式の西洋化を 学校では、授業について行けない中途退学者が多
推進することであった。1880年代になると、子 数にのぼり、同化教育は明らかに失敗であった。
どもたちを親元から引き離して教育する寄宿制の 同化教育の失敗が明らかになるにつれて、先住民
インディアン寄宿学校(Indian Residential School) に無理解な者がその管理と運営に携わったという
が全カナダに建設された。1920年にインディア 認識が主流社会に生まれていった。この認識の広
ン法が修正され、1930年代以降になると、カナ がりが先住民による教育自治権獲得運動を後押し
ダ各州における同化教育の運営は宣教師の手から する。
政府に移った。その当初、その直接の担い手には  特にBC州北部に居住するニスガ(Nisga’a)の
教師としての資質が特に求められなかった。 人々の場合、その子どもたちは隣のアルバータ州
 当時、ヨーロッパ人との接触を通して蔓延した のインディアン寄宿学校 14) に収容されたため、
疾病によって先住民人口が激減するなか、イン その子どもたちから地域集団としてのアイデン
ディアン局は先住民の各指定居留地に一人ずつ看 ティティが失われるおそれがあった。中途退学者
護師を派遣し、その状況に対応した。多くの場合、 を減らすためにも、子どもたちが固有の言語や生
その看護師の夫が無条件で教師として採用された。 活様式を伝承するためにも、子どもたちが親元で
 1940年代になると、同化教育の場はインディ 生活することが不可欠だからである。交渉を重ね
アン寄宿学校になる。学校に強制的に収容された た結果、1976年にニスガの人々はBC州の先住民
1年生から8年生までの子どもたちは寄宿学校で ではじめて教育自治権を獲得した。1980年代に
生活を送った。ほとんどの子どもたちはそうした 入ると、BC州の各地で先住民が教育自治権を持
「白人」の学校を「教育の場」ではなく、「職業訓 つ学校区が誕生し、1989年には教育自治権を整
練所」と捉えていた。身体的に十分成長した9年 備するための「独立学校法」が制定された15)。
生になると、女子は「白人」家庭に小間使いとし
て雇われ、男子は「白人」の経営する工場で重労 2 サーニッチにとっての「多文化主義」の背景
働を強いられた。  筆者は1991年以来、サーニッチの調査を継続
 1960年代にカナダ先住民は参政権を得たが、 してきた。その筆者が2012年に書いた報告のな
それ以降も10年間にわたって同化教育は続行さ かに長老Eの語りがある。調査を始めてから2、
れた。サーニッチのある長老の話では、インディ 3年経った時の語りであったが、そこではサー

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ニッチがカナダ人であることを明確に拒否する理 ス、ベラクーラといった人々だった。
由が述べられている。  1862年、その先住民の居住区に天然痘が発生
  した。
「ヨーロッパ人との接触が原因でBC州の多
 私は祖父や父がやっていた方法でサケを捕るこ くの先住民が疫病で死亡した」
[Muckle 1998:
とも禁じられている。我々はイギリス人が我々 60]。疫病流行時にヨーロッパ人がどのような対
にしたことを決して忘れない。第一、この国が 応をしたのかを知る者は少ない。以下の第二の語
カナダになるずっと前から我々はここにいるの りでは、当時の「白人」政府が先住民をどのよう
だ[渥美 2012:174]。 に扱っていたのかを知ることができる。
   
 本節では、サーニッチの人々がカナダの主流社  天然痘がインディアン・キャンプで発生すると、
会をいかに捉えてきたかについて検討する。サー 政府はキャンプを焼き払う命令を出した。人々
ニッチがヨーロッパ人と初めて接触したのは18 はすでに病気にかかっていたのに、その避難場
世紀末とされる。その接触以来の「白人」の対応 所を焼き討ちにしたのだ。彼らはインディア
と植民地化についてサーニッチがいかに伝えてき ン・キャンプを焼き払う命令を出し、インディ
たかを知る資料として、サーニッチの長老ペナー アン・キャンプに火を放ったのだ。これは私の
チ(英語名Dave Elliott、1910-1985年)がテープ 作り話ではない。これはブリティッシュ・コロ
に残した語りがあり、それを基に本が作られた ンビア州の歴史だ。インディアンたちはそこを
[Elliott 1983]。そこでは、ペナーチが幼少期に 去らなければならなくなった。海峡の島々に逃
聞いた話や実際に体験した事柄を通して、先住民 げた者もあれば、故郷に帰ろうとした者もあっ
が「白人」から強いられた変化、その強要に対し た。島々に逃げた者たちは病気を感染させ、広
て無力な先住民社会への「白人の暴力」が語られ げ、故郷に帰ろうとした者たちはほとんど途中
ている。 で死んでしまった。どこにとどまっても、そこ
 そのペナーチの証言から代表的エピソードを二 で病気を広げてしまうことになった。何千人も
例紹介する。第一は本稿冒頭にあげた語りである。 の人々が死んだ[Elliott 1983:66]。
1670年にハドソン湾会社が設立されて以来、北  
極圏の先住民だけでなく、BC州北部先住民も毛  この主流社会による攻撃は先住民に対する抹消
皮交易による利益で経済力を蓄えた。その経済力 政策を明確に示す一例である。前述の主流社会の
で銃等の強力な武器を手に入れた。それに対して、 認める「文化的ジェノサイド」と、先住民が主張
「白人」との接触以後に相対的に貧しくなった南 する「ジェノサイドそのもの」という見解の相違
部先住民には武器と交換する物がなく、武器を入 はここにある。先住民は、「文化的ジェノサイド」
手できなかった。やがて、北部先住民はサーニッ 以前に殺戮を前提とした「物理的ジェノサイド」
チ等の南部先住民に恐怖を与えるほどの圧倒的強 があり、先住民抹消政策、即ち「ジェノサイドそ
さを示すようになった。それ以来、ヨーロッパ人 のもの」はかたちを変えて一貫して行われている
との関係が先住民の運命を左右する決定的要素と と主張するのである。
なった。それが本論文冒頭の語りの背景である。  物理的ジェノサイドは結局失敗に終わるが、そ
 政府の介入によって先住民間の紛争が平定され の後、先住民に対する所謂「文化的ジェノサイ
ると、BC州北部の先住民たちは州都ビクトリア ド」に移行する。その最たるものが同化教育であ
に転居し始めた。ビクトリアでは簡単に銃や弾薬 る。前述のように、1940年代まで子どもたちは
を買うことができた。先住民は徐々に日常食化し 同化政策のための「インディアン学校」に入れら
ていた「白人の食べ物」や日用品を買った。ダラ れたが、そこで落ちこぼれた子どもたちがいた。
ス通りのオグデン・ポイントには約1万人の先住 彼らは寄宿舎を脱走して居留地に逃げ帰る。そし
民がキャンプをしていた。アラスカからのトリン て、生存を目的に先住民の伝統的な生活様式をあ
ギット、クィーン・シャーロット島からのハイダ、 らためて身につける必要があった。逃げ帰った者
スキナ川からのツィムシャン、その他クワギュー 以外にも、帰省を強制させられた生徒もいた。通

多文化主義という暴力 509
常の先住民の子どもが8年かけるところを4年で 年代に、多文化主義政策の具体的な成果として先
終えてしまう優秀な子どもは家に戻されたのであ 住民の学校が設立されることになり、先住民の雇
る。長老Eがその一人であった。後にサーニッチ 用が倍増する。サーニッチの学校でも彼らの母語
の学校教育の根幹をなす母語教育システムを作り であるセンチョッセンの話者の長老たちが補助教
上げた優秀な人物だった。以下は長老Eから聞い 員として採用された。生きがいを見つけ、経済的
た話である。 に安定した生活と自らの誇りを取り戻す機会が開
  けてきたことで、先住民は慢性的にアルコールを
 私は居住学校(Residential School)に行くこと 摂取する生活に終止符を打つ契機を与えられた。
になった。法律ができたのだ。思い出すのも嫌 その一例を先の長老Eから聞いたことがある。
な年月だった。ところが、家を離れて4年、小  
学校4年生になった時、白人の教師から「お前  1986年のサーニッチの学校設立とともに、セ
は明日から学校に来なくていい」と言われた。 ンチョッセンの教師となった。私は居留地に
私は成績が良かったのだが、インディアンにこ 戻って子どもたちにセンチョッセンを教える仕
れ以上何かを覚えさせる必要はないと白人の教 事について以来、一滴も酒を飲んでいない[渥
師たちは考えたのだと思う。そこで、私は家に 美 2015c:126]。
戻された[渥美 2015c:118]。  
    長老Eと同世代の人たちは、2016年現在の子
 家に戻ると少年時代の長老Eにはさらなる試練 どもたちにとっては曾祖父と曾祖母の世代にあた
が待っていた。そこでは、成年者たちに「伝統的 る。筆者は長老Eの世代とそれ以前の世代を言語
生活様式」を禁じる様々な法律が施行されていた 復興運動の第一世代と呼んでいる。また、母語と
のである。 してセンチョッセンを学んだ経験のない最初の世
  代で現在50代以上の人々を第二世代、その子ど
 家に帰ると、父親の変貌ぶりに驚いた。昼間か もたちの世代で現在40代以下の人々を第三世代、
ら酒を飲んでいるのだ。リーフネット漁が禁じ 現在のサーニッチの学校の生徒たちを第四世代と
られ、もう以前のように自由にサケが捕れなく 呼ぶ。
なったという。あんなに立派な漁師だった父親  母語や生活の知恵として言語や文化を生活のな
が漁を禁じられ、生きていけるぎりぎりの金を かで学んだ第一世代とは異なり、第三世代以降の
最も自尊心を失わせる方法で政府から与えられ 人々にはサーニッチの言語と文化は学校の科目と
て生活していかなければならなくなった[渥美 して教えられている。そのため、学業成績の優秀
2015c:119]。 な者ほど、自らの言語を話すことができ、自らの
  文化に関する知識も豊富である。1990年代の初
 尊敬していた父親の変化を目の前にして育つこ 頭、筆者がサーニッチの学校で会ったある小学生
とになった長老Eは、後に仕事の挫折等の人生の の少女は、簡単なことばであれば、自分の曾祖父
難局にぶつかると、アルコールを大量に摂取する や曾祖母が話すセンチョッセンを祖父母や両親の
ようになってしまった。多くの先住民がアルコー ために英語で訳してあげることができるまでに
ルに耽溺する日々を送るようになる原因の一つに なっていた。
は、当時の先住民政策が何らかのかたちで関与し   こ れ と は 対 照 的 に、1980 年 代 当 時、 セ ン
ている。やがて、それが幼い頃に彼らが経験した チョッセンの学習に熱心に取り組めない子どもた
「飲酒の原風景」
[渥美 2015c:118]となっていく。 ちの間に新たな問題が生じ始める。テレビ、雑誌、
インターネットを通じて様々な情報が氾濫し、裏
Ⅳ 多文化主義がサーニッチに与えたもの
社会に容易にアクセスできる時代になり、サー
1 言語復興運動と先住民の学校 ニッチの子どものなかに10代で飲酒やドラッグ
 皮肉なことに、彼らをアルコール漬けの日々か を始める者が出てきたのである。筆者が早朝にイ
ら解放したのも主流社会の政策であった。1980 ンタビューを予定していたある人は、約束の時刻

510 『文化人類学』81/3 2016.12
に1時間以上も遅れてきて、中学生の息子が朝早 先住民の教員のオフィスでは安価な筆記用具も購
くに酒に酔って帰ってきたことから息子と口論に 入できない状況になっていた。
なったと言っていた。この少年の親世代である第  第二はサーニッチ教育委員会の委員長がオラン
二世代の多くの人々はサーニッチの言語をほとん ダ系カナダ人になったことである。初代の有能な
ど話すことができない。彼らは主流社会から周辺 指導者の死後、様々なサーニッチ出身者が委員長
に追いやられただけでなく、先住民文化からも周 になったが、部下を統率できず、政府との交渉を
辺化されてきた。アルコールに逃げる者の多くは、 進めることもできない者が後を絶たなかった。そ
主流社会と先住民社会の双方から周辺化された して、ついに1998年、
「白人」に先住民の学校を
人々である。 任せるという先住民にとって屈辱的な決定を下す
 この状況を解決する目的で、1980年代、長老 ことになった。以来2005年までオランダ系カナ
たちを指導者として第二世代にセンチョッセンを ダ人が委員長を務めていた。この委員長は徹底し
教える講座が開かれていた。第二世代は子ども時 た合理主義者で、無駄をすべて廃止した。筆者が
代、
「白人」のカトリック神父が校長をしている 1992年に参加した大人のためのセンチョッセン
小学校に通っていた。第一世代であるサーニッチ 講 座 も1999年 に 廃 止 さ れ、 当 時 の 筆 者 は サ ー
の長老ペナーチは、当時、用務員をしていたが、 ニッチの言語復興運動の将来を悲観していた。
放課後、希望する子どもたちにセンチョッセンを
教えていた。1978年までセンチョッセンの発音 2 センチョッセン教師の新たな世代
表記にはIPA(国際音声記号)と独自の記号が併  ところが、カナダ経済が上昇し始めた2001年
用されていたため、ペナーチも初めはIPAを用い 以降、センチョッセン講座は再び活気を取り戻し
ていたが、学習者にわかりやすくするために、な た。先住民自治の強化をはじめ、障碍児教育や言
じみのあるアルファベットに様々な記号を加えて 語・文化学習の指導方法の改善を目的に利用でき
独自の発音記号を作り上げた。第二世代で数少な る 総 額4,000万 ド ル の 基 金、 先 住 民 癒 し 基 金
いセンチョッセンが話せる人々は、この当時、ペ (Aboriginal Healing Foundation)
16)
がカナダ政府
ナーチから薫陶を受けている。 によって2000年度から実施された。その影響も
 1981年、ペナーチは、センチョッセンを母語 あって、センチョッセン学習を支援するための
とする最年少の長老アール・クラックストンの協 ホームページが作成され始め、2004年には、長
力を得て、簡易印刷によるセンチョッセンのテキ 老たちによるセンチョッセンの発音を聴くことが
ストを完成させた。以来、サーニッチの学校では、 で き る ホ ー ム ペ ー ジ が 完 成 し た。 ま た、First
ペナーチ考案の発音記号がすべての教材に用いら Voices というカナダ先住民の言語を扱うホーム
れている。1986年にサーニッチの居留地にトラ ページにも、センチョッセンのコーナーが創設さ
イバル・スクールが設立された。そして、ペナー れた。その始動時には、センチョッセンの2,311
チの死の3年後の1988年に必修科目としてセン 語の登録単語のうち164語を長老たちの声で聞く
チョッセンの授業が導入された。そして1993年 ことができたが、以降、その語彙数は毎年増え続
以降、センチョッセンの神話を扱った教科書や伝 けている。
統的漁法を説明した教科書等がセンチョッセンの  このような経済の好調に後押しされた多文化主
授業用に出版された。 義政策のもとでは、サーニッチに対する教育補助
 こうした状況のなかで1991年から数年の間は、 金も増額された。先住民の言語と文化の維持・強
サーニッチの言語と文化を復興させる雰囲気が学 化を目的とした様々なプロジェクトへの資金援助
校全体に漲っていた。しかし、カナダ経済が下降 の た め に、BC州 政 府 は1991年 か ら2003年 に わ
気味だった1997年から1999年の間に、この状況 たっておよそ1,400万ドルを先住民教育に支給す
は二つの点で大きく変化した。その一つは、2年 ることを決定したが17)、それが実際に安定して支
間に校長が3人交代したことである。その結果、 給されるようになったのは2001年以降であった。
皆で朝食をとるという初代校長が提案した行事は  センチョッセン教育に関するさらなる変化は、
廃止され、センチョッセンの授業予算も削られ、 2014年の時点で若き4人の先住民教師が正規の

多文化主義という暴力 511
教員資格を取ったことである。ペナーチ(PENÁĆ、  しかし、彼らは同時に、1990年代の長老たち
33歳、英語名David Underwood、Dave Elliottの孫 と同じように、
「白人」の文明や経済システムに
の一人でペナーチを襲名した)、パネーフォン 適応していかなければ、先住民として生き残れな
(PENÁW_EN、35 歳、 英 語 名 Pene Elliott)、ス いとも語る。事実、先住民が多文化主義の効用を
コットリーシア(SX_EDŦELISIYE、31歳、英語名 実感するには、主流社会の経済システムと何らか
Renee Sampson)
、シオルトナット(SI, OLTENOT、 のあり方でつき合ってゆくしかない。現在、サー
30歳、英語名Madeline Bartleman)の4人である ニッチ社会と主流社会の経済的関係のなかにあっ
[渥美 2015a]
。 てこそ、長老たちが守ってきた言語と世界観が若
 多文化主義政策の下、センチョッセンの言語と い世代にとって経済的に安定した生活実現の源泉
文化の教育を専攻して学位取得が可能になった。 となる。次節で述べるように、言語と世界観が先
先住民の言語と文化の教育は学位取得が可能な研 住民アートを支えているからである。
究分野の言語に位置づけられたのである。第三世
代の教師の一人、スコットリーシアは、2014年 3 先住民アートの復興
8月にサーニッチ初の言語学修士となった。彼女  1970年代以前の欧米の人類学者の一部は、ボ
の学位審査はサーニッチのトライバルハウスで行 アズが「最も単純な部族社会でも美的な喜びを与
われた。司会進行はペナーチがすべてセンチョッ えてくれる作品を生み出している」[Boas 1955:
センで行った。試験場にはビクトリア大学から言 9]と述べているように、アートが普遍的なカテ
語学と教育学の教授3名が試験官として招かれ、 ゴリーであることを積極的に認めた。しかし、展
1時間に及ぶスコットリーシアのプレゼンテー 覧会を開いて先住民や非西洋のアートを外部世界
ションの後、その教授たちによる公開の口頭試問 に紹介していくことには反対した[Ames 1992]

が30分間行われた。その後教授たちは退席し、 先住民アートを文化的コンテクストから切り離し
30分後に合格が言い渡された。その後、筆者は、 て展示することは、誤解を招く原因となるという
長年学校を見守ってきた外部者として証人 理由からであった。この見解は表面的に捉えれば
(witness)の役目を与えられ、彼女の学位授与式 正しいように思われる。しかし、その立場は、先
に参列した。 住民アートとその集団の生活の関係を固定的に捉
 「言語・文化復興」運動は、先住民に先住民とし える観点を基盤としており、ボアズの主張する
て生きることの確固たる基盤を与えてきた。第三 アートの普遍性と異なる。このような一部の人類
世代の教師たちもセンチョッセンを学ぶことに喜 学者の考え方は主流社会の一部にも強い影響を与
びを感じ、自らの母語であるべきセンチョッセン えた。カナダ先住民アートは先住民の儀式や儀礼
とその独自の世界観に自らのアイデンティティの システムと分かちがたく密接な関係にあり、部族
基盤を見出しているように見える。 的文化複合の一側面であるというわけである。
 第三世代は、自らの言語と文化を奪われて、飢  この捉え方は、アートを支えている社会的条件
えと寒さと戦いながら寄宿学校生活を送った祖父 が消滅したときにはアートも消滅するという結論
母の苦難を引き受け、その後継者としてその苦難 を導くことになる。事実、BC州内の博物館や画
を語り継いでいくと決意している。筆者は第三世 廊の職員のなかには、北西海岸先住民アートにお
代の人々へのインタビューで、彼らが祖父母から いて「良い芸術は死んでしまった芸術だけだ」と
伝承した「インディアン寄宿学校」のイメージを 考える者が少なからずいた[Ames 1992:73]。
聞き取っている。同化教育を通してカナダ政府が 先住民の現代アーティストたちは新たな素材を採
先住民に与えた飢えと寒さと自尊心の喪失の明確 用したり、新たなメディアに自らの作品を載せた
なイメージを若者たちは祖父母と共有している。 りしているが、主流社会の一部にはこの姿勢を
二十数年前に筆者が調査を始めた当時の長老たち 「伝統」を捨てたとして非難する者が現れる。
の語りと同様な語り方で、寄宿学校は明らかにカ  しかし、エイムズは先住民アートの作品につい
ナダ政府による「ジェノサイド」であったと第三 て、「その根源的な強靭さにより普遍的な意味を
世代は語る[渥美 2015a]。 はっきりと獲得することができる。そして、芸術

512 『文化人類学』81/3 2016.12
作品はその周囲にあるものすべてが変化したり、 ティストの作品でも、彼らが子どものころに祖父
生まれた土地から離れた場所で吟味されたりした 母から聞いたサーニッチの神話や伝統的行動規範
としても意義あるものとして存在し続けることが がモチーフとして使われている。評価が高まり、
できる」[Ames 1992:76]とする。この指摘に 注文が増えれば、地域の美術館や商業ギャラリー、
は、現在のカナダで先住民として生活し、カナダ 水族館、スーパー・マーケットはもちろん、BC州
のみならずアメリカ合衆国の主流社会にも活躍の を超えてカナダ全体へ、さらにはカナダ国外へと
場を広げつつあるサーニッチのアーティストたち 活動の範囲を拡げ、より多様な表現手段で作品を
の作品の動向からも同意することができる。 発表する機会が得られるようになる。
 カナダの主流社会が先住民アートの存在を地域  この動向を象徴する施設が2009年6月20日に
社会との関係で初めて認識したのは1970年代で BC州バンクーバー島のシドニー市に誕生する。
ある。ここで重要なのは、当時、主流社会には先 ま さ に 多 文 化 共 生 を 目 的 と す る 水 族 館、Shaw
住民アートに匹敵するような固有のシンボリック Ocean Discovery Center(SODC)が開館したのだ。
な体系が存在しなかったことである。例えば、州 この水族館は来訪者にバンクーバー島の自然と海
都ビクトリアの中心部には、植民地時代に建設さ 洋生物の解説をするとともに、多文化主義のカナ
れた州議事堂や高級ホテルが立ち並ぶ。これらは ダにある施設として、地域の先住民サーニッチの
重厚かつ優雅な英国風建築であるが、来訪者は所 自然観や海洋生物に対する考え方も紹介する。科
詮英国のミニチュアを見るにすぎない。1970年 学的知識だけではなく、先住民の自然観も学べる
と71年に英国のエリザベス女王がBC州を訪問し 施設である。それは、西洋起源の科学と先住民の
た時、ビクトリアではカナダの固有性を演出する 世界観の共存こそバンクーバー島の地域的なアイ
ための方策について議論された。その過程で、ビ デンティティの柱になりうるとする考えに基づい
クトリア地域のシンボルとして先住民のトーテ ている。
ム・ポールやアートの作品が注目されるように  1990年代までの先住民アートと主流社会の関
なっていった[渥美 2008]。 係は、2009年以降のSODCにおける先住民アート
 BC州では、1970年代のトーテム・ポール・ブー と主流社会との関係と大きく異なる。かつて先住
ム以来、サーニッチ出身のチャールズ・エリオッ 民アートの作品は主流社会におけるエキゾチック
ト(Charles Elliott)をはじめとする先住民アー な見せ物の地位に置かれていた[渥美 1996]。そ
ティストの作品が、空港や公園や市民センター等 れはBCロイヤル博物館の展示方法にも窺えた。
の公的施設、スーパー・マーケットやレストラン 先住民の「文化」展示階を暗くし、そこでの音声
等の民間商業施設に展示されるようになった。 による解説は悠然と先住民の精神世界を語ってい
2013年以来、新進気鋭のサーニッチのアーティ た。一方、主流社会の展示階は明るく、経済的に
スト、クリス・ポール(Chris Paul)制作の巨大な 豊かで楽しい世界を提示していた。先住民の「伝
ガラス工芸作品は、サーニッチの居留地付近で最 統社会」を現在から切り離して過去に固定し、現
大の町、シドニーの高級ホテルのロビーで、ホテ 在の主流社会の生活と強引に一本の線上で結びつ
ルの顔として人々を迎えている。彼のデザインは けようとしていた[渥美 1997]。ロイヤルBC博
カナダ東部の有名デパートの包装紙にも採用され、 物館の展示の仕方では、先住民アートを称えつつ、
またアメリカのテレビ番組のセットとしても採用 過去に無理やり押し込めてしまうことになる。
されるなど、北米全土の規模で注目されている  SODCには、その種の権力性は存在せず、むし
[渥美 2008]
。 ろ先住民アーティスト、特に多くの若手アーティ
 1990年以降、各地で工房を構えるようになっ ストに制作の機会が与えられ、主流社会の科学と
た先駆者たちに弟子入りし、多くの若者たちが経 民俗知識の共生がテーマとして打ち出されている
済的自立の手段としてアーティストをめざすよう [渥美 2015b]。そこでは、たしかに科学と対照
になった。2008年以降、サーニッチでは学校教 化された民俗知識という固定化はあるものの、先
育に先住民アートの授業が新時間割に大幅に導入 住民の自然観や海洋に関する知識を学ぶ道標とし
された。これらの結果として生まれた新人アー て先住民アートが機能している。入口では、サー

多文化主義という暴力 513
ニッチのアーティストの第一人者であるエリオッ 変化には、サーニッチ社会の内部に新たな経済的
トによるコースト・セイリッシュ風のデザインが 格差を生んでいるという否定的側面もある。多文
施された魚群のオブジェが人々を歓迎している。 化主義以前の政策は先住民を指定居留地に縛り付
館内に入ると、その中央には再びエリオット制作 け、保護するものであった。それに対して、多文
のもう一つのシンボルマークが描かれている。壁 化主義政策のもとでは、「伝統文化」継承が職業
にはサーニッチの「伝統的」デザインで海洋生物 として成立するようになり、そのことが先住民の
が描かれ、土産物コーナーではコースト・セイ 経済的自立を助けることになった。しかし、現時
リッシュのデザインが施されたパーカーやトレー 点での多文化主義政策が経済的自立の助けとなる
ナーが売られている。もちろん、科学的な知識に のは言語と伝統的アートに限られている。例えば、
基づく展示解説と並んで、先住民の民俗知識に基 儀礼のスピリット・ダンス等、言語とアート以外
づく解説が設置されている。 の「伝統文化」は先住民の生活に密着しているも
 主流社会が描く科学的世界と先住民アートが提 のの、それを受け入れる市場が主流社会にはない。
示する民俗知識が共存するSODCは、先住民と非 そのため、その継承は経済的自立に直接結びつい
先住民の両者を含む地域の人々が未来に向けて新 ていない。
たなアイデンティティを形成するための場となっ  さらに、ヨーロッパ人との接触以前の伝統社会
ている。また、著名な先住民アーティストのデザ の階層が「伝統文化」を継承する資格の問題とし
インは高い価値を与えられ、アートとして壁に描 て残存しており、それが多文化主義政策の影響下
かれている。若手アーティストの作品は、サー の経済的格差を生み出している可能性がある。部
ニッチの伝統的な暦や海洋生物のセンチョッセン 外者が一律に「先住民」と考える人々のなかにも、
名を学ぶ教材に使われている。 「伝統文化」継承の資格が問われてしまう人々も
 SODCには、その地域の先住民や非先住民の子 いるからである。サーニッチの「伝統文化」を継
どもだけでなく、外国からの観光客も多数訪れて 承するためには、それを継承する権利を持つ系譜
いる。2011年に筆者が訪れた際には、地元の子 に連なる必要があるのである。
どもや観光客がサーニッチの海洋観を解説する
コーナーを熱心に見入っている光景が見られた。 1 格差の背景――階層意識の現在
現在の先住民アートはカナダの主流社会が先住民  前述のように、ヨーロッパ人との接触以前、
を過去に押し込めるために政治的に利用するもの サーニッチをはじめ、BC州沿岸地域に居住する
ではなく、その地域の人々が同じ地域の住民とし 先住民は階層制度を有していた。例えば、サー
て地元の先住民の世界を知るための装置となって ニッチ社会はスィーエム・エルタルノフ(貴族)
いる。また、SODCは観光産業と結びつくことで、 とスクヮィアス(奴隷)に分かれていた。サー
先住民社会の内側からその世界観に触れる場を世 ニッチにおける階層制度の終焉期について、生前
界中の人々に向けて提供している。 の1991年から1997年までの調査中、長老Eは一
 これらの動向は、カナダの主流社会が先住民 連の語りを次のように始めた。
アートの力を借りてそれぞれの地域の新たなアイ
デンティティを創出しようとしていることを示し  白人の役人が初めてサーニッチの村にやって来
ており[渥美 2015b]、主流社会と先住民社会が た時、サーニッチの人々の家々を回って家族は
地域のシンボルを生み出すという共通目的のもと 何人か調べて歩いた。すべてのスィーエム・エ
で協力関係を築きつつあるという多文化主義政策の ルタルノフはスクヮィアスを持っていた。しか
肯定的側面をそこに垣間見ることができるだろう。 し、 ス ィ ー エ ム・ エ ル タ ル ノ フ た ち は、 ス
クヮィアスたちを自分たちの家族だということ
Ⅴ 多文化主義の裏面
にした。白人にとってスィーエム・エルタルノ
――多文化主義によって拡大される格差
フもスクヮィアスも同じに見えたのだ。
 ところが、こうした多文化主義政策のもとでの  
サーニッチ社会とカナダ主流社会の関係をめぐる  行政官による調査以降、サーニッチは階層制度

514 『文化人類学』81/3 2016.12
を破壊され、先住民という単一カテゴリーに押し スィーエム・エルタルノフが継承し、スクヮィア
込められた。皮肉なことに、暴力から生まれた平 スはその継承から除外されていたことを暗示して
等であったが、自由主義の観点からすれば望まし いる。こうした状況のもとで、長老Eはサーニッ
いものであった。彼らは先住民というカテゴリー チの将来を考え、スィーエム・エルタルノフとス
に入れられ、階層的差異は消滅するはずであった。 クヮィアスの詳しい差異について次世代に語らな
また、主流社会に対抗するために先住民は結束す いことにしたという。彼は、伝統的階層制度が表
る必要があり、平等化によって先住民は結束が容 面上、消滅していくプロセスを見てきた。しかし、
易になるはずであった。 そうであるにもかかわらず、長老Eはスクヮィア
 たしかに、長老たちの話によれば、当初、ス スに対する自らの見解を以下のように述べていた。
クヮィアスはヨーロッパ人を自分たちの解放者と  
考えていた。事実、スクヮィアスの子どもは階層  スクヮィアスたちは、自分たちの祖先が奴隷で
にこだわらないインディアン寄宿学校に自主的に あったことを知らない者がほとんどだが、老人
集まったという話を聞いたことがある。ところが、 たちは今でも誰がスクヮィアスの階層出身なの
彼らも結局、ヨーロッパ人も自分たちを低い身分 かわかる。階層で人を見ることはなくならなけ
に留まらせていると認識するに至った。さらに、 ればならないことだ。だが、正直なところ、も
政府から認定される首長は、伝統的な階層の系譜 ちろんスィーエム・エルタルノフ階層出身のア
に基づく者ではなく、行政官と論理的なやり取り ル コ ー ル 依 存 症 の 者 も た く さ ん い る が、 ス
ができる者が選出された。教育自治獲得運動も土 クヮィアスの人々の生活は今でもひどく荒れて
地権運動も、かつての階層の差を乗り越えて先住 いる場合が多い。
民が一体となって運動を起こしたことで、主流社  
会にも影響を及ぼすようになったのである。  先住民とヨーロッパ系カナダ人の住居の違いは
 しかし、筆者が調査を始めた1990年代の初頭、 明らかである。先住民の家の回りには、古くて動
一部の長老には階層差が外見からわかるというこ かなくなった自動車や冷蔵庫、古い家具などが乱
とであった。長老たちの語りによれば、母語修得 雑に放置され、ヨーロッパ系カナダ人の家の回り
の努力を途中で止めてしまう者のほとんどがス は、英国式の庭があって生け垣や花壇などがあり、
クヮィアス階層の人々であるという。スィーエ きれいに手入れされている[渥美 1996]。
ム・エルタルノフとスクヮィアスの相違について  しかし、これはあくまでも一般的な目安である。
長老たちは具体的説明を避けたものの、スィーエ 先住民の居留地でも、家の周囲がきちんと片付け
ム・エルタルノフ出身者のなかには、現在の先住 られ、清潔な雰囲気の住居を見つけることがある。
民が抱えている様々な問題はスクヮィアス出身の 長老たちがよく言及するのは、大抵それはスィー
人々が原因であると考えている人々がいる。 エム・エルタルノフの家系の人々のものだという
  ことである。また庭にごみを山のように積み上げ
 スィーエム・エルタルノフとスクヮィアスの違 ている住居を時々見かけ、その住居の持ち主が誰
いはすぐにわかる、スィーエム・エルタルノフ か を 尋 ね る と、 小 声 で、 そ の フ ァ ミ リ ー は ス
は、子どもの頃から親にスナパナク(行動規 クヮィアスの家系だという説明をしばしば受けた。
範)を教えられる。『自殺してはいけない』とか、
『昼は働かなければならない、そうしないと体 2 新たな格差
が死ぬ』といったことを教えられるのだ。スピ  多文化主義政策と並行してカナダ先住民の言語
リットとの関係も我々は子どもの頃から教えら 復興運動が起きて30年以上が過ぎた。この間、
れる。でも、スクヮィアスはそれらを教えても BC州においてサーニッチは一丸となって独自の
らわないので、大人になっても、どうしたらい 学校を建設し、ニスガの人々と並んで文化復興運
いのかわからないのだ。 動の先頭に立ってきた。しかし、筆者のような部
  外者には、言語復興や文化復興に関して人々が分
  長 老 E に よ る こ の 語 り は、「伝統文化」は 断されているように見える時がある。言語復興運

多文化主義という暴力 515
動の中心的な推進者のほとんどがサーニッチの四 る。婚姻や葬儀や命名などの儀礼の時に行われる
つの居留地のなかでもツァートリップ居留地に居 「伝統的」なダンスの踊り手がもはや本来の母語
住しており、他の居留地の長老のなかには、その である言語を操ることができない。
動きに批判的な人もいるからである。  例えば、多くの儀礼時に踊られるスピリット・
 現在の言語復興運動に批判的なある長老は、言 ダンスは「伝統的」だが、この踊りを経済的資源
語復興運動が祖先から受け継いだ言語を売り物に に変換する市場は今のところ存在しない。ゆえに、
してしまったという。この長老は政府によって首 階層制度のもとでは高い地位にいたはずのロン
長に選出された人物であり、「伝統的」首長では グ・ハウスのメンバーの多くは現在定職に就けず、
ない。居留地に住む人々の多くから慕われており、 福祉に依存することになる。他方で、センチョッ
礼儀正しい人である。彼はインディアン寄宿学校 センに習熟すれば、教師になることで、公務員並
に収容されていたときに母語を失ってしまったと みの安定した収入を得ることができる。また、シ
筆者に語った。しかし、彼の話はインディアン寄 ルクスクリーンと呼ばれる比較的安価(1枚50ド
宿学校についての典型的な事例ばかりであった。 ルから300ドル以上)な孔版画や小さな彫刻は収
さらに、彼の部下の女性たちから、彼はしばしば 入が安定し、さらにトーテム・ポールなどの作品
朝からアルコールの臭いがするという指摘があっ が有名になれば、かなりの高収入(大きなものに
た。 なれば1体3万ドル以上)を得ることができる。
 第二言語の修得には継続的努力が強いられる。  多文化主義政策のもとで、主流社会が嗜好する
この30年間における多くのサーニッチの人々と 「伝統文化」を習得すれば、現在の先住民は中流
の対話を通して、サーニッチの成人たちがそれを のヨーロッパ系のカナダ人に相当する安定した生
強く感じていることに筆者は気がついた。現在の 活を送り、将来に希望を抱くことも可能となった。
生活条件のなかで言語習得の努力を続けていくに しかし、そうでない場合、以前同様の生活保護を
は強靭な意志が必要である。また、福祉政策のお 受ける他に選択肢がなく、カナダ社会の最底辺の
かげで多くのサーニッチは仕事をして賃金を得ず 生活が運命づけられている。事実、成功したある
とも一定の生活保護費が与えられるため、言語を アーティストは子どもたちを私立学校へ通わせ、
修得するために継続的に努力する動機が弱くなっ 末娘を医学部に入学させることもできたが、ロン
てしまうと考えるサーニッチの人々もいる。この グ・ハウスの成員の多くは無収入のままである。
ように、同胞が労働の意欲を失っている現状を憂
う人々と、労働せずとも生活できる現状維持を求 3 格差と結束
める人々とに、サーニッチの人々は分断されてい  このように格差は生まれたが、それを乗り越え
るのである。また、たしかに多文化主義政策は たサーニッチの人々の結びつきを象徴する事例も
「伝統文化」の復興を通して経済的自立を可能に ある。筆者が、スィーエム・エルタルノフ階層出
する状況を生み出したが、その「伝統文化」は主 身でセンチョッセン教師をしているJのところに
流社会が評価する分野に限定されている。 下宿していた時のことだった。ある真夜中、2時
 スィーエム・エルタルノフ階層出身の長老たち ごろだったと思う、Jに警察から電話が入った。
が問題だと考えるのは、センチョッセンの習得を 公園にいるBを引き取りに来てくれという。Jは
やめてしまう者の多くがスクヮィアス階層出身者 地下室で寝ていた筆者を起こし、今から公園に友
だけでなく、
「伝統文化」の一つであるスピリッ 人を引き取りに行くという。筆者はトラックの助
ト・ダンスの踊り手たちも同様だということであ 手席に乗り、公園に向かった。公園に着くと、目
る。主流社会の影響を受ける以前は、「伝統的」 を閉じてベンチに座らされている70歳代の老人
組織であるロング・ハウス 18)
の成員であった彼ら Bが見えた。両脇に「白人」の警官が立っていた。
のほとんどが、現在では、儀礼の時に最も重要な その一人がJに近づき、Bが引き渡された。
言語であるセンチョッセンを話すことができない。  警官が去ったあと、Jは失禁して脱糞している
そこで、成員ではないが、センチョッセンの話者 Bを公園のトイレに連れて行き、持参したポット
である長老に、ロング・ハウスでの司会を依頼す のお湯を水道の水と混ぜながら体を洗い、毛布を

516 『文化人類学』81/3 2016.12
与えた。その後、筆者はトラックの荷台にBを乗 たことは事実である。この運動によって独立した
せるのを手伝った。悪臭がするズボンとシャツを 学校区が生まれ、校舎が建設され、センチョッセ
着替えさせたBをトラックの荷台に敷かれたマッ ンの教員をはじめ多くの人々に職が与えられた。
トの上に載せた。筆者はあまりの悪臭に公園の隅 さらに、
「文化」としての先住民アートに対する
で嘔吐した。その後、JのトラックでBを家まで 評価の高まりは、トーテム・ポールをはじめとす
送った。 る先住民アートの作品の社会的評価を高め、その
 後に筆者がある長老に尋ねて判明したことだが、 アーティストに高い社会的地位や安定した経済力
Bはスクヮィアス出身だった。インディアン寄宿 を与えた。そして、先住民アートは、サーニッチ
学校を出ると、彼はすぐに都市部に出て仕事を探 が主流社会と共同作業のもと、地域の象徴を創造
した。しかし、結局、仕事は見つからず、都会の することを可能にしている。
なかの先住民の集まる居住区(「ゲットー」と呼ば  しかし、それらはあくまで主流社会の先導によ
れる)で中年になるまで過ごし、居留地に戻って り展開されたものであり、しかも主流社会にも多
きた時は60歳をすぎていた。 様な主張がある。カナダ経済が不調になれば、反
 Bは本当に心の優しい男だとJをはじめ多くの 対者の意向が取り入れられ、多文化主義に基づく
人たちは言う。だからインディアン寄宿学校で身 政策への経済的分配は幾度となく延期あるいは中
も心も立ち直れないほど傷ついたのだというのが 止された。この状況は、多文化主義を具体的政策
筆者のインタビューに答えた皆の説明である。酒、 として社会に還元していく立場にあるのは相変わ
暴力、差別、英語。インディアン寄宿学校でイン らず主流社会であることを示している。さらに、
ディアンが覚えたのはそれだけだと寄宿学校経験 先住民社会全体が活気づいているわけではなく、
者は繰り返し言及する。筆者にJは語った。 多文化主義政策によって主流社会と関係を持ちえ
  た分野にのみ、経済的向上が見られることも指摘
 我々は一人で幸せになることはできない。皆が しておかなければならない。
幸せでなければならないのだ。それがサーニッ  カナダ先住民サーニッチの視点からすれば、多
チにとっての「生き残るための知恵(wisdom for 文化主義政策も、それが、先住民が勝ち取ったも
survival)」だ。私がBの世話をするのは、「白 のと表現されようが、主流社会の「善意」から生
人」がインディアンに行ったことを決して忘れ まれたものと説明されようが、国家権力を背景に
ないためかもしれない。 政策や価値観や言語を先住民に押しつけていると
  いう点で、それ以前の抹消政策や同化政策の延長
 多文化主義は、等しく極貧状態にあった先住民 線上に存在しているのである。本稿では、それを
の一部に経済的自立の機会を与えた。同時に、そ 「暴力」と呼んだ。サーニッチにおいては、この
れは経済的に自立する者と自立できない者に、新 「暴力」を資源に変換できる人々とできない人々
たな格差をもたらした。それでもなお、現在の先 の間に新たな格差が生まれている。しかし、同化
住民サーニッチを結びつけているのは、インディ 教育の記憶の共有に象徴されるように、結局のと
アン寄宿学校の悲劇的な経験、さらに、その生活 ころサーニッチの誰もが主流社会からの「暴力」
の「イメージ」の共有である。この悲劇の記憶と から逃れることができないという現実があるがた
「イメージ」の共有と、相変わらず続く主流社会 めに、サーニッチの間に先住民族としての連帯が
の支配的政治状況こそ、格差を乗り越え、サー 維持されていくことになる。これがサーニッチを
ニッチを結びつける強固な連帯の源泉である。 一例としたカナダ先住民社会と主流社会の現状で
ある。この現実と、より大局的見地に立って対峙
Ⅵ おわりに
することによってはじめて、先住民社会と主流社
 本稿はカナダにおける多文化主義政策が先住民 会の真の共存への議論が可能となるのではないだ
に与える影響について先住民サーニッチの視点か ろうか。
ら見てきた。多文化主義がサーニッチの言語復興
運動や文化復興運動の経済的な後押しとなってき

多文化主義という暴力 517
注 8)本稿では、先住民たちが先祖から伝えられてきた
1)カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の太平洋 と主観的に捉える伝統文化を『伝統文化』と表記し、
岸沖群島に居住する先住民集団。北のグレアム島、 研究者側から客観的に捉えられる「伝統文化」と区
南のモレスビー島の二つの大きな島をはじめとし 別する[渥美 1996]

て、大小約150の島々からなるハイダ・グワイに居 9)2014年の聞き取り調査の時点で月額約600ドル
住する。 (以降本文中はすべてカナダドル)。
2)以前の人類学では、Kwakiutl(クワキウトル)と 10)アルバータ州の先住民が提示した新しい概念。先
表示されていた。現在は民族が自称するKwakwa- 住民として生きるか、もしくはこれらの権利を受
ka’wakwと呼ぶ傾向にある。北アメリカ大陸北西海 けずにその他のカナダ人と全く同様の扱いを受け
岸地域(バンクーバー島東岸北部から対岸の大陸側 て生きていくかどうかを選択する権利は、先住民
沿岸地域)に居住する先住民の総称。 自らにあるとする考え方である[加藤 1997:252]。
3)バンクーバー島のサーニッチ半島に居住する先住 11)1982年憲法法(Constitution Act, 1982)は、カナ
民集団。サーニッチ半島は、バンクーバー島南部 ダ憲法典の一部である。1982年憲法の制定に伴い、
の東側にあり、州都ビクトリアから北に約40キロ カナダのイギリスからの独立が完全なものとなり、
に位置する。サーニッチ半島には四つの居留地が イギリス自治領としてのカナダの歴史は終了した。
ある。各居留地の人口は、①Tsartlip(ツァート 12)http://aptn.ca/news/2015/05/29/canadas-top-
リップ)に700人、②Tsawout(ツァワウト)に600 judge-says-country-committed-cultural-genocide-
人、 ③ Pauguachin( パ ウ ガ チ ン ) に 300 人、 ④ indigenous-peoples/(2016年5月8日閲覧)
Tseycum(ツァイカム)に170人、合計約2,000人で 13)https://www.thestar.com/opinion/commentary
あ る。 さ ら に、1852年 の ダ グ ラ ス 条 約 に よ っ て /2015/06/10/cultural-genocide-no-canada-
サーニッチに含まれるマラハットの人々やガルフ committed-regular-genocide.html(2016年5月8日
諸島やサンホワン諸島に住む人々を含めると、約 閲覧)
2,800人 が サ ー ニ ッ チ と い う 自 称 を 用 い て い る 14)インディアン寄宿学校が完全に閉校となったのは、
(2005年)。 1986年である[Milloy 1999;渥美 2012]

4)北米大陸の領土支配権をめぐる最後の英仏植民地 15)先住民独立学校が助成を受ける条件として、州規
戦争であり、先住民を巻き込んで戦った。フラン 定カリキュラムの完全遵守、資格のある教員雇用、
ス側は毛皮交易路の確保と拡大のためセント・ロー 定期的な監査等を受け入れる必要があるが、認定
レンス川と五大湖からオハイオ川流域を経てミシ 校には最大50%の学校運営費が補助される[小川
シッピ川河口につながる地域確保をめざし、イギ 2003]。
リス側は農業地拡大のためアレゲニー山脈を越え 16)http://www.ahf.ca/announcements(2016年5月5
てオハイオ川流域を確保しようとした。 日閲覧)
5)カナダでは、非白人という意味でヴィジブル・マ 17)CCPR/C/CANI2004/5, para 693, November 18,
イノリティーが用いられる。雇用均等法では、「先 2004.
住民を除く、非白人系人種または肌の色が白くな 18)同化教育がなされる以前に、秘密結社(secret
い人々」と定義されている。 society)と呼ばれた組織を引き継いだと考えられる
6)カナダ先住民は、「登録インディアン(registered 組織で、成員であることがスピリット・ダンスの踊
(status)Indian)」と「非登録インディアン(non- り手となることができる条件である。その成員は
status Indian)」に分類されている。前者には居留地 秘密結社成員の家系に生まれた者でなければなら
での労働収入に対する所得税や消費税が免除され、 ない。
補助金が支給される。経済的な基盤が保障される
地位に就いた場合、もしくはカナダの市民権を獲 参照文献
得した場合、登録は抹消される[Muckle 1998: Ames, Michael
3-4]
。 1992 C a n n i b a l T o u r s a n d G l a s s B o x e s : T h e
7)番号付きインディアン条約(Numbered Treaties) Anthropology of Museums. University of British
は、1871年から1921年にかけて、カナダ先住民と、 Colombia Press.
カナダ君主であるイギリスのビクトリア女王、エ 渥美 一弥
ドワード7世、ジョージ5世との間で調印された。 1996 「『伝統文化』を『名乗る』こと――カナダ・

518 『文化人類学』81/3 2016.12
サーニッチ族の神話、地名、人名の今日的 加藤 普章
意味について」『民族學研究』61(1):105- 1997 「カナダの多文化主義の意味するもの――歴
125。 史と政治的ダイナミズム」『多文化主義・多
1997 「復興される過去――スピリチュアルなイ 言語主義の現在』西川長夫、渡辺公三、ガバ
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2008 「『資源』としての民族誌的『情報』――カナ 1998 『多文化時代の市民権――マイノリティの権
ダ・ブリティッシュ・コロンビア州先住民 利と自由主義』角田猛之、石山文彦、山崎康
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教アメリカン・スタディーズ』30:37-76。 倉田 和四生 
2012 「〈植民地〉という状況――カナダ先住民サー 1997 『北米都市におけるエスニック・マイノリ
ニッチが〈インディアン〉として現代を生き ティ――多民族社会の構造と変動』ミネル
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とってのアルコールとそのサファリングと (編)
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そして先住民――先住民の帰属意識の考察」 『経営研究』14(36):33-140。
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初瀬 龍平(編) (2016年9月30日採択決定)
2003 『エスニシティと多文化主義』同文舘。

多文化主義という暴力 519
The Violence Known as Multiculturalism
The Resurgence of Language and Art among the Saanich,
a Canadian First Nation, and Resulting Disparities

Kazuya Atsumi
[multiculturalism, indigenous peoples(First Nations), disparity, language education, Canada]

 This paper discusses how multiculturalism policy influences indigenous people in Canada, especially
focusing on the case of the Saanich tribe located in British Columbia. While multiculturalism has
contributed to the financial improvement and rising social status of indigenous people in Canada, disparate
opinions have emerged about its contributions. The feelings of the Saanich are divided as well: some aim for
economic independence through multiculturalism policy, while others prefer to keep the previous social
welfare policy.
 Multiculturalism provides economic support in the preservation of indigenous languages and art. In the
case of the Saanich, an independent school district was established and school buildings built, providing
employment to teachers and staff. Meanwhile, art, such as totem poles, has found a market among local
nonindigenous residents, and the demand for such art is growing. Therefore, Canadian multiculturalism
undergirds economic independence among some indigenous people. However, that situation has also
resulted in disparity between those who are able to display such marketable language and art and those who
are not.
 Multiculturalism, in that context, is comparable to violence from an earlier era. Firearms, the white man’s
weapon, were acquired by indigenous peoples in northern British Columbia through the fur trade
immediately after their contact with the Europeans through the Hudson Bay Company, established in 1670.
Northern tribes gained relatively overwhelming strength, dominating those from the south, including the
Saanich, through fear. Therefore, a remarkable difference in power emerged between those groups that
were able to obtain powerful weapons through their contact with the Europeans and those which could not.
In other words, the weapons and violence introduced to Canada also created a disparity among the
indigenous groups living along the Canadian West Coast.
 Similar to the aforementioned case of weapons, multiculturalism has created disparity between those
Saanich who can avail themselves of its benefits and those who cannot. Multiculturalism reflects the
preference of the dominant society of Canada, which has a different attitude toward it as well: it is promoted
or criticized depending on the state of the Canadian economy. When the economy is stable, the
multiculturalism policy systematically progresses through subsidies. But during times of recession,
subsidies are the first target of retrenchment, with the policy subject to cancellation. Symbiotically, thus,
the economy ties the dominant society to that of the indigenous people.
 The paper is structured as follows. First, it outlines the history of multiculturalism in Canada. After the
French and Indian War from 1755 to 1763, Britain colonized Canada, although Quebec remained
Francophone. Therefore, to maintain Canada as a nation-state, creating equality between subjects of British
and French ancestry became an urgent issue. Immigrants to Canada were required to assimilate themselves
into one of the two dominant cultures, and that became the ideological foundation of the state through the

520 『文化人類学』81/3 2016.12
20th century. However, in 1970, during the so-called October Crisis, terrorists from the Front de Libération
du Québec kidnapped two government functionaries. The next year, Prime Minister Pierre Trudeau
introduced multiculturalism in the national parliament as a philosophy of national integration. From the
above, one can see that Canadian multiculturalism can be defined as a political strategy rather than a piece
of liberal ideological enlightenment.
 Secondly, the paper discusses the way in which some Saanich have been able to partake of the benefits of
multiculturalism extended by the dominant society. One is the Shaw Centre for the Salish Sea(formerly the
Shaw Ocean Discovery Centre), opened in the city of Sidney, British Columbia, on June 20, 2009, as an
aquarium for the purpose of “multicultural symbiosis.” The aquarium displays Vancouver Island’s nature to
visitors, while also showing them the Saanich outlook on nature and marine life. Teaching materials at the
facility utilize the traditional Saanich calendar and marine life terminology from the local language, known
as Senchothen. Artworks produced by young Saanich artists are also used. With exhibits from the scientific
viewpoint of dominant society placed side by side with the art of indigenous people, the aquarium has
become a place of identity formation for the local area.
 Thirdly, the paper discusses several effects resulting from those phenomena. New social disparities have
been produced by the government’s policy of multiculturalism. While the former government policy used to
bind indigenous society using the concept of welfare, after multiculturalism, traditional native culture has
been established as a gainful occupation, bringing economic independence to one segment of the
population. On the other hand, those maintaining other cultural elements besides native language and art—
such as those performing the spirit dance in traditional rites—have not been able to access the dominant
society’s market. Carrying on those rites has thus not bestowed economic independence upon them.
 Lastly, the paper discusses difficulties currently experienced by Saanich society. While multiculturalism
has extended economic independence to some, lifting them out of extreme poverty, it has also resulted in
new disparities. In spite of that, the memories of persecution—namely, the tragic experiences of Indian
residential schools and the lasting images of the white man’s weapon—are still strong, and continue to unite
all the Saanich today.

多文化主義という暴力 521

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