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オスマン帝国における地方の意味

一一 16""17世紀の中央政府、軍政官、力一ディーを中心として一一

教科・領域教育専攻
社会系コース 指導教官小浜正予
中章訓

序章 問題の所在と研究の目的 て封土を得る封土所有者とが存在しており、司

オスマン帝国の地方についての研究は最近に 法・文教・地方行政部門には、シャリーアに基づ

なり、かなり進行してきた。しかしながら、オ いて任務を行うカーディーと、メドレセのミュ
スマン帝国全体を通して、地方がどのように位 デッリスが主に存在していた。
置づけられたかという問題は研究の余地を残す。 第 2章 中央政府の地方支配状況
本論文では、ティマール制に基づいた税収に 中央政府が地方支配に用いた行政単位の考察

注目し、中央政府による地方支配構造を明らか の結果、オスマン帝国の地方行政単位を、ティ
にする。さらに、オスマン帝国の中央政府にと マール制を基盤として封土を得る軍政官の管轄

っての地方の意味と、中央から地方に派遣され する軍管区と、シャリーアに基づいて任務を行

た軍政官、カーディーにとっての地方の意味を い、国庫から給与を得るカーディーの管轄する

考察する。以上より、オスマン帝国における地 カザーとに分けた。さらに、軍管区とカザーを、

方の意味を明らかにする。 軍政官とカーディーの命令系統・出身階層・地方

1
6世紀末期は、オスマン帝国の過渡期であり、 における任務の違いを根拠として、それぞれ独

この時期以降、オスマン帝国の支配体制は大き 立したものとした。
く変化する。本論文ではこの時期を変容期と捉 また、ティマール制の施行過程を考察し、テ
え、変容期の構造を理解するために 1
6--
17世 ィマール制はオスマン帝国の軍事制度、徴税制
紀を研究対象とする。 度、地方行政制度の根幹をなす政治・社会体制と

第 1章 オスマン帝国の統治理念と変容過程 なっていたことがわかった。

オスマン帝国はシャリーア(イスラム法)を統 第 3章 オスマン帝国の国家財政
治理念としており、これは国法より上位に置か オスマン帝国の地方は 1
6世紀を通して、納
れ、社会生活を総括するものであった。 税人口の拡大、市場の拡大がおこり、税収入は

オスマン帝国の 1
6世 紀 -
-17世紀は、領土面 増加したと考えられる。しかしながら、オスマ

では、拡張から停滞に向かった画期であった。 ン帝国の 1
6世紀の国庫収入を考察した結果、
また、統治構造面では、支配組織が分化し、宮 国庫収入の増加は見られなかった。オスマン帝
廷部門、軍部門、司法・文教・地方行政部門、中 国の地方には、ティマール制によって、封土所
央の行政実務部門が確立された時期であった。 有者の収入となる土地と国庫収入となる土地が
このうち軍部門には、国庫から給与を得る常 混在していた。したがって、地方における税収
備軍団と、ティマール制に基づいて、給与とし が増加したにもかかわらず、国庫収入が増加し
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なかったことから、増加した税収が封土所有者 たことによって、中央行政職出身者の軍政官職

に流出したと推論できる。 への就任が促進された。
また、国庫収入が横ばいであるにもかかわら さらに、 1
6世紀後半以降には軍政官職の在職
ず、国家財政が 1
6世紀末期に悪化した理由は 期間の短期化と在職外期間の長期化の傾向が見

新大陸からの安価な銀の流入によるインフレー られた。これは軍政官職の需要超過を解消させ

ションの発生というオスマン帝国外部からの要 る政策と推測できるが、在職期間の短期化は、

因と、常備軍の増加による給与増加の影響とい 中央行政職出身の地方に不慣れな軍政官の増加

うオスマン帝国内部からの要因とした。 を生み出し、在職外期間の延長は、軍政官に在

第 4章 軍政官職と力一ディー職の位置づけ 職中地方を自分自身の収入を確保する財源とさ
軍政官職に関しては、中央政府の要職である せた可能性を示唆した。
宰相職・大宰相職のキャリア・パターンを考察す カーディーも在職期間は短期化しているが、
ることにより、一般に、軍政官職を経ることが、 軍政官と異なり在職外期間にも収入を国庫で保

宰相職・大宰相職に昇進する条件であったこと 証されていた。このことより、カーディーが地
がわかった。このことより、軍政官職を中央行 方を財源と考えた可能性は低く、シャリーアに

政職出身者の昇進のための地方行政体験職であ 基づいた任務を行うことによって、地方をイス
ると考えた。 ラム支配の確立の実践の場所とした可能性を示

カーディー職に関しては、ウラマー(イスラム 唆した。

法学者)のヒエラルヒーを考察した結果、カーデ 終章
イー職はシャリーアにより任務を行うもので、 オスマン帝国の中央政府は、地方の軍政官職
そこにはエリート職である大都市のカーディー に中央行政職出身者を、カーディー職にメドレ

職と非エリート職である小都市のカーディー職 セを卒業したウラマーを派遣した。つまり、中

が存在することがわかった。 央政府は、中央関係者を地方に派遣し、中央政

第 5章 軍政宮と力一ディーの地方の意味 府の地方における影響力を強化した。しかしな
中央行政職出身者の軍政官職への就任状況を がら、軍政官は軍政官職の需要の超過から、在
考察すると、 1
6世紀後半以降、中央行政職出身 職期間を短縮され、在職外期間を延長された結

者は地方行政職出身者を徐々に押しのけ、より 果、地方を自分自身の収入を確保するための財
多く軍政官職に就任するようになったことがわ 源とした可能性があった。また、カーディーは、

かった。そして、このことを推進したのは、地 地方をシャリーアによるイスラム支配確立の実
方における税収増加の恩恵を得ることができる 践の場所した可能性があった。したがって、中

軍政官職への需要の増加であったと考えられる。 央政府にとっての地方の意味と、軍政官および
これに乗じて中央政府は、地方に中央政府の影 カーディーにとっての地方の意味は異なってお
響力を強化するために、中央行政職出身者が就 り、オスマン帝国における地方の意味は多様で
任することの多いポストを増やす行政単位の再 あった。とはいえ結果的に、 1
6世紀後半以降、
編成を行った。また中央政府の宰相職・大宰相職 オスマン帝国の中央政府の地方への影響力が強
へのキャリア・パターンに軍政官職が位置づ、い 化された可能性は否定できない。


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