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日本住宅史
日本住宅史
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学界展望
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日本住宅史
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本誌は毎号﹁学界展望 L欄を設けて、建築史学界の各領域におけ
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る業績、研究の動向、方法の展開などについて論ずることにしてい
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智
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る。領域の区分はかなり便宜的なものであるが、現在の学界の動向
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を把握するのに適切と考えられる区分に従うことになろう。第一号
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では寺院建築・神社建築を、第二号では西洋・日本の近代建築につ 付はじめに
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と工匠・発掘・西洋・東洋・建築論などについて順次とりあげてゆ 七年までの研究史が総括されているので、ここではそれ以降発表された主要
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く予定である。単に客観的な業績の記述と紹介にとどまらず、評者 な論考を紹介する︵下限は昭和五八年末までとする︶。
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による自由な評価と展望を展開していただくことを期待している。 ただしここでまず本稿で扱った範囲が日本住宅史研究の全てではないこと
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今回も各領域で扱う時間的範囲として、日本建築学会編﹃近代日 とを断わらなくてはならない。つまり本稿では民家・近代以降め住宅につい
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本建築学発達史﹄︵昭四七丸善﹀以降を対象とすることを原則とし てはふれていない。また近年住宅史研究に大きく影響を与える発掘報告の知
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たが、必要に応じ遡及してとりあげた研究も少なくない。次号以降 見についても簡単な紹介に止めている。これは以上の分野の展望が他に用意
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も、ひと通り各領域が一巡するまではこれにならうこととする。 されていること、および筆者の非力によるためである。
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文中敬称はすべて省略する。また次の出版物は略称を用いた。 住宅史に関連する範囲は広く、またその境界も暖味である。本稿では従来
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日本建築学会大会学術講演梗概集建大会梗概 た論考は尼大な数にのぼる。重要な論考の見落し、あるいは内容に関する理
” l11
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日本建築学会北海道支部研究発表論文集建北海道支部研 解の不足も多々あると思うが何卒ご容赦願いたい。
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︵日本建築学会各支部の研究報告、研究報告集、研究発表梗概集、
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史
通
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研究発表論文集は右のように支部研と略す︶ まず通史について論じた文献から紹介しよう。
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l 戦前より田辺泰﹃日本住宅史﹄︵昭一 O 雄山閣︶をはじめとして関野克﹃日
本住宅小史﹄︵昭一七相模書房﹀、藤原義一﹃日本住宅史﹄︵昭一八 弘文堂 説的な通史として出版されているが、図版を多用し具体的な形で住宅史の流
書店︶の通史があった。しかし、これらは一部にそれまでの研究成果をふま れを追うことができるようになったのも研究成果の蓄積によるものであると
えてはいたが、多くは江戸時代末期の故実書﹃家屋雑考﹄などの説をそのま いえよう。
ま踏襲するか、あるいは修正を加える程度にとどまっていた。 日本住宅史の流れに関する太田の主張に対して新たな見解が示されたのは
住宅史通史における実証的な体系化をはじめて行なった論考は戦後間もな 平井聖﹃日本住宅の歴史﹄︵昭四九日本放送出版協会﹀によってである。平
く出版された太田博太郎﹃図説日本住宅史﹄︿昭二三彰国社︶であろう。こ 井は住宅平面とその機能の対応関係という太田の示した方法をさらに進め
れは図版を多数交えた一般向けの小論ではあるが、それまでの研究成果を集 て、婚姻・相続形態の変化、接客形式の変化など社会的要因を重視し住宅平
成し、住宅の変遷を住む人の生活との関連において論ずるという明確な視点 面の変遷を辿った。そして住宅内に固有の﹁場﹂を形成する要因として、﹁公
をもった注目すべき好著である。そしてこれをさらに発展させたものが﹁日 的 L・﹁私的表向 L・﹁私的内向﹂という三つの生活概念を規定し、これと各時
本住宅史﹂︵﹃建築学大系1 住 居 論 ﹄ 所 収 昭 二 九 彰 国 社 ︶ で あ る 。 住 宅 代の住宅平面との対応形式を考察、各時代の住宅様式の特徴を分析した。こ
史研究の方法論を規定し、日本住宅の系譜を整理し、また問題点を明確にし れによって提示された結論は太田が日本住宅の様式を古代の寝殿造、中世・
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たという点でこの論考の重要性は特筆すべきで、これによって日本住宅の系 近世の書院造と二分したのに対し、古代、中世、近世それぞれに生活様式と
統的な体系が一応の実証的論拠の背景をもって成立したといえる。 対応する特徴的な住様式が見出せるとして、古代l寝殿造、中世l主殿造、
近世1書院造という様式区分を提示した。また先史住居の床の問題に注目し、
ゆか
太田はここで先史住居の問題から説き始め、日本の住宅が高床住居に端を
発する支配階級の住宅と、竪穴住居から発展する庶民階級住宅の二系統に分 日本住宅の特徴である床が竪穴住居に発生した床の系譜をもち、日本住宅が
割できるとした。また古代寝殿造から中世書院造への推移を重視し、寝殿造 基本的には竪穴住居から平地住居へ移行、発展したものとして、系譜の問題
に対して書院造の大きな特徴として接客空間の独立をあげ、その変遷を中心 に関しても太田とは異なる見解を示した。
に日本住宅の流れを語っている。 平井はその後、﹃図説日本住宅の歴史﹄︵昭五五学芸出版社﹀を著した。
これ以降住宅史研究は戦後建築史の中心分野となり、各部門、各時代別に 基本的な論旨は前書と同様であるが、前書が厳密に平面の変遷を中心に論を
飛躍的に研究が深化した。﹃建築学大系41I 日本建築史﹄︵昭三二彰国 進めているのに対し、後者では多数の図版を用いて建築の具体的な姿・意匠
社﹀や﹃世界建築全集﹄日本I古代、 H中世、凹近世︵昭三六、三五、一二四 を明ら,かにすることにより重点をおき、各時代の住宅形式の特徴を概観して
平凡社︶の住宅に関する解説などは各時代毎に専門の研究者が分担し、その いる。
後の研究成果を吸収した詳しい考察を集成しており、全体としてすぐれた通
先
史
同
史といえる。また住宅史研究会編﹃日本住宅史図集﹄︵昭三四理工図書﹀、 先史住居の考究は当然のことながら発掘調査の知見によるものが大半であ
伊藤延男﹃住居︵すまいと︵﹃日本の美術﹄
昭三四八
四至 文 堂 ︶ な ど が 概 る。ここ十数年来の国土開発事業の進捗にともない先史住居の発掘調査件数
は大幅に増加し、年々出版される発掘調査報告書の数は彪大な数にのぼる。 る試みとして、石野博信﹁考古学から見た古代日本の住居 L ︵前掲﹃古代日本
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しかしこれらは、いずれも個別例の報告に止まり未だ体系化には至っていな 文化の探究家﹄所収︶をあげることができる。石野は竪穴住居の規模・平
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いというのが現状である。その中で宮本長二郎﹁古代の住居と集落﹂︵﹃講座・ 面型︵円型・方型︶および主柱・炉・竃・貯蔵穴の配置を指標として分類し、
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日本技術の社会史﹄第七巻建築昭五八日本評論社︶は、現時点での発 各時代各地域について特徴を抽出している。古墳時代にほぼ全国的に方型平
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掘調査の成果を建築史の分野から総合的に整理したものといえる。ここでは 面四本柱住居に統一されるという全体的な傾向、弥生時代後期に近畿地方に
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住居遺跡に関する発掘資料を全国的に収集し、竪穴、平地、高床のそれぞれ 限ってみられる正円形住居、あるいは縄文時代中期の東北地方南部にみられ
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の住居についてその構造、材料、平面形式、炉の配置などの諸点を検討し、 る三主柱住居などのきわだった分布をみせる特定住居型の存在、また弥生時
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また遺跡数の分布について数量的分析を試み住居、集落の時代的推移を考察 代に九州地方を中心に分布していた円型平面の竪穴住居がしだいに近畿地方
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に移動することを示し、各期にみられる住居形式の特徴と自然条件・社会構
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している。そしてさらに当時の社会状況の変化、発展過程にこれら住居形式
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の推移を重ね合わせその変化の要因をも把握しようと試みる。そのほか宮本 成などとの関連に言及している。
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は﹃日本考古学を学ぶ﹄凶︵昭五固有斐閣︶の中でも先史住居について概 宮本長二郎﹁関東地方の縄文時代竪穴住居の変遷﹂︵奈良国立文化財研究所
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説し、発掘数の豊富な関東地方を例に竪穴住居祉の規模、形式の時代的推移 ﹃文化財論叢﹄昭五八同朋舎所収︶は前掲石野の方法と同様であるが、
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を述べ、また建築遺材、出土品などの資料から高床、平地住居の上部構造に 地域的な遺構数の偏向、平面型式の地域性を考慮して、より鍛密に変化の相
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ついて論じている。 を追うことをめざし、関東地方の縄文時代発掘例に限定して整理を行なって
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大林太良編﹃日本古代文化の探究家﹄︵昭五O 社会思想社︶は、建築史
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いる。まず各時期ごとに特徴となる平面形式を抽出し、平面形式から建築構
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のほか考古学、民族学、地理学など多方面から先史住居に関する論考を集成 造を想定する。そしてこれらの変化をみることにより、竪穴住居が縄文時代
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したもので、家屋の諸形式、構造、あるいは用材など主として住居の建築技 前期から中期へ、および後期から晩期への時間的推移の中では、前期時代か
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らの自立的な発展段階にあるのに対し、早期から前期、中期から後期にかけ
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術的な問題を扱った論考が収録されている。
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そのほか﹃日本の考古学﹄ I l刊︵昭四01四二
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河出書房﹀、﹃新版考古 ては建築構造に大きな変換があることを指摘し、その要因を気候の寒冷化に
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学講座﹄六遺跡・遺構︵昭四五雄山閣﹀などに先史住居・集落について ともなう社会発展の停滞に求めている。先史社会の盛衰と自然現象との関連
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の概説があるが、これら考古学の分野からの論述は住居祉を集落としてとら を住居の変遷から類推した興味深い論考といえる。
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え、先史・古代の社会構造を分析する資料としてその分布・配置などを考察 竪穴住居の平面、建築構造にもとずくこれらの論考の他に、住居施設とし
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て炉・竃・炊飯器具の変遷を考察した﹃風俗﹄第幻巻、第1号 ︵ 昭 五 七 風
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するものが多い。
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次に個々の論点に関する主要な論考を紹介する。 俗史学会︶所収の宮本・鈴木の論考がある。宮本﹁日本古代の炉と竃|関東
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1 発掘の大多数を占める竪穴住居の変遷・地域性を体系的に把慢しようとす 地方を中心に は関東地方竪穴住居の発掘例について屋外炉から屋内炉へ、
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炉から竃への推移、またこれら施設の形式の変遷を編年、整理したものであ 特筆すべきものとして木村徳固による上代語棄の分析を通じての先史住居に
る。鈴木解雄﹁遺跡と文書にみる古代の厨|古墳時代から平安時代まで﹂は、 関する一連の考究がある。
竪穴住居における炉から竃への移行が米の常食という生活様態の変化に対応 研究内容は二つに大別され、一つは記紀・万葉集・風土記など上代文献に
する現象であると推定し、竃の使用によりそれを中心とした﹁厨﹂施設が成 みられる建築に関わる語およびそれを含む文節を分析し、各語棄によって表
立、竪穴住居内での機能分化が生じたことを指摘している。 わされる建築の具体的イメージを抽出して初源的な住宅建築像の復原を試み
以上は主に従来からの報告が蓄積された平面形式に関する知見をもとにし るものである。﹁トノ・オホトノ・ミアラカ﹂︵﹃建築史研究﹄第三九号昭四
た論考である。これに対し建築の上部構造についての資料は従来ごく限られ、 八﹀、﹁七・八世紀におけるタカドノ・タカヤの建築的イメージ﹂、﹁七・八世
わずかな発掘出土資料および民族学的資料を参考に考察が行なわれたにすぎ 紀におけるイホ・カリホ・イホリ﹂、寸ムロについてL 1・2 ︵建論報二四二・
ず、そこにはおのずと一定の限界があった。このようななかで近年遺材・出 二四八・二五0 ・二五一二一七0 ・二七一昭五一 1五一二︶がそれに相当し、
土品あるいは上部構造を残した遺構の報告が増加しつつあり、先史住居の建 これによって各建築の歴史的・社会的な位置づけをも明らかにしようとして
築構造を知るうえで今後この方面での成果が期待されている。 いる。
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高床建築の部材は近年では古照︵香川県︶、湯納︵福岡県︶、萱生︵千葉県﹀、 もう一つは上記四文献にみられる﹁イヘ﹂・﹁ヤド﹂というこ語に注目し、
百関川︵岡山県︶などで相次いで発掘されている。中でも湯納遺跡は他に比 七・八世紀の上代人の住居観を掘り起こそうとするものである︵A ﹁ イ へ 語
して出土材の点数も多く、小屋材と推定される材も含まれる点で他に例を見 の非建造物説を中心に﹂﹃日本建築の特質﹄太田博太郎博士還暦記念論文集
ない。沢村仁﹁湯納遺跡出土材による建築復原﹂︵福岡県教育委員会﹃今宿バ 所 収 昭 五 一 中 央 公 論 美 術 出 版 、 B ・C ﹁わがヤド|花鳥風月的住宅観の
イパス関係埋蔵文化財調査報告﹄第五集所収昭五二︶はこれらの資料を 成立L 1・2 建論報二七0 ・二七一昭五三︶。
用いて行なった復原を詳細に報告している。 すなわちAではまず﹁イへ﹂という語が示す意味内容の変化を考慮して、
また秋田県脇本遺跡・胡桃館遺跡からは埋没家屋の出土が報告されている これが建造物を限定的に示すのではなく、初源的には住居全体を表示したこ
︵秋田県教育委員会﹃脇本埋没家屋調査概報﹄一・二・三昭五0 ・五一 とを明らかにし、建築的なものを﹁場﹂あるいは﹁環境﹂として把握する日
五二、同﹃胡桃館埋没建物発掘調査概報﹄一・二・三昭四三・四四・四 本人の特性を示唆している。
五﹀。前者は不完全ながら竪穴住居の上部構造を残すものとして注目され、ま 次にB ・Cでは住まいについての呼称として﹁イへ﹂に換わって出現する
た後者は比較的残存状況のよい校倉形式の平地建築が確認され、復原的考察 ﹁ヤド L の語用に注目し、この語の成立過程と意味を考察する。そして自然
も行なわれている︵細見啓三寸胡桃館埋没建物の復原﹂奈良国立文化財研究 の風物に深く関わって使用される寸ヤド﹂という語によって確立された住ま
所年報昭四五︶。 いに対する概念の中に、日本人特有の﹁花鳥風月的住宅観﹂の成立を見るこ
以上は遺跡・遺構の発掘成果に基づく論考である。これに対し近年の最も とができると結んでいる。
﹃古代建築のイメージ﹄︵昭五四日本放送出版協会︶は、以上一連の古代住 端を発したものであると論じている。
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居に関する研究の要旨を簡潔に総括したものである。
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代
古
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帥
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その他近年の先史住居に関する論考の中で注目されるものとして、池浩三 この時代も前代と同様に近年の発掘調査の進展はめざましいものがあり、
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像を単に建築物だけでなくその他樹木・雷文・鳥などの文様についても象徴 古墳時代に属する集落遺跡の発掘が相次ぎ、従来家形埴輸によってしか知
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内容の解釈を試み、この鏡を古代王権の祭儀に関する資料と推定する。そし られなかったこの期の住居あるいは住居構成について知見を与えている。特
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に群馬県三ッ寺I遺跡は豪族の居宅として注目され、外部と隔絶した領域を
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てここに描かれた四種の建築は新嘗のための祭杷建築群であり、大嘗祭の原
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型的施設である室・高倉・酒殴・高殿に対応し、鏡が祭儀の儀式書に相当す 作り、正殿以下の多くの建築を配し、さらに祭杷の場もとり込んでいたこと
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るとしている。従来あまりふれられることのなかった建築周辺に描かれた図 など興味深い報告がなされている。
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像の意味・象徴内容を解読し、大嘗祭施設という実体との対応を指摘した点 平安時代以前の住宅に関しては関野克の藤原豊成殿、あるいは浅野清の法
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は、従来より多くある本鏡の解釈の中にあって一つの有力な試論といえよう。 隆寺伝法堂の復原などにより貴重な実証史料が提示されていた。しかし文献
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太田博太郎は﹁日本住宅史﹂︵﹃建築学大系1 住居論﹄前掲︶以来、日本
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のを例にあげて語られるにすぎず、ほとんど進展はみられなかった。ょうや
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住宅の二系統説をしばしば主張している。すなわち太田は日本住宅には元来、 く昭和四十年代に入り平城京跡を中心とした古代都城内街区ゐ発掘が増加
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l 土間︶、屋根形式︵平行垂木|放射状垂木︶、屋根架構︿束立て|叉
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床︵板敷 し、京内より多くの住宅遺構が発見されるようになった。特に平城京ではそ
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の成果はめざましく、左京五条二坊十四坪の正殿を中心に東西に脇殿をもち、
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首︶それぞれに相対立する二つの構法があり、これが貴族住宅と庶民住宅を
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それぞれ特徴。つける要素となっているとする。そしてこれらの系譜を先史住 左右対称型の配置をとる寝殿造の祖型ともいえる邸宅︵﹃奈良市埋蔵文化財調
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居にまで遡り、前者が高床住居、後者が竪穴住居の系統をもつものであった 査報告﹄昭五四︶、あるいは左京三条二坊六坪からは坪の中心に園池を穿ちそ
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とする。 の周囲に規則的に諸施設を配した遺跡︵奈良国立文化財研究所﹃平城京左京
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このような太田の説に対して平井聖﹁古代住居の床について﹂︵﹃日本古代 三条二坊六坪発掘調査概報﹄昭五一︶などが発掘され、従来ほとんど知られ
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l 家﹄前掲︶がある。ここでは日本建築の床組構造にみられる構
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ていなかった奈良時代の上層階級邸宅の実態が急速に明らかになりつつあ
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文化の探究
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る
。
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法的特色を分析し、これが主要構造からは独立した付随的なもので、床組が
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建築の基本構造として不可欠な高床住居のそれとは異なるとした。そして竪 平安京跡では、右京一条三坊九町︵現山城高校︶で平安時代初期の遺構が
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穴住居発掘例に散見される床の存在に注目し、日本建築の床が竪穴住居に発 発掘された。これは正殿を中心に左右に二棟ずつの脇殿・後殿をもっ寝殿造
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の初期的形態を示すもので、これまで空白であった平安京住宅遺構について
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生した床の系譜をもっとし、これから日本住宅の系譜が基本的に竪穴住居に
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の知見を一挙に埋めるものとして大いに注目されている︵京都府教育委員会 最も重要なものであった東三条殿の用法を検討し、これが日常生活の場とい
﹃埋蔵文化財発掘調査概報一九八O﹄一二昭五五︶。 うより摂関家の公的な儀式場としての性格を強く有していたことを指摘し、
このように発掘調査による初期寝殴造の解明は近年大きく進みつつあり、 寝殿造との密接な関連を示唆する。
特に従来の文献資料による考究では得られなかった平安時代初期に遡る状況 ﹁寝殿造の典型像とその成立をめぐって﹂凶︵建論報一一一一六昭五七︶は、
を知り得ることは、寝殿造の成立過程を論ずる上で特に重要で、今後この方 従来左右対称の殿舎配置をもっと考えられていた﹁如法一町家﹂と呼ばれた
面の成果が大いに期待される。現状でこれら発掘成果を集成した論考はない 邸宅について考察を加え、これらが必ずしも左右対称な殿舎配置をもつもの
が、寸古代邸宅遺跡の調査と研究﹂︵﹃月刊文化財﹄二四二号昭五八︶には近 ではなかったことを指摘する。そして最も形式が整ったと考えられる平安後
年各京内での邸宅遺構の発掘成果の概要が報告されている。また福山敏男﹁寝 期の標準的な邸宅がいずれも非対称の殿舎配置をもつことを重視し、このよ
殿造の祖形と中国住宅﹂︵﹃月刊文化財﹄一二 O号 昭 五 六 ﹀ は 、 平 安 京 内 の うな非対称な殿舎配置こそ完成された寝殿造の様式的特徴であると主張す
発掘調査から得られた正殴・後殿・両脇殿から構成される形式が、中国古代 る
。
宮殿建築様式であった四合院とよばれた建築配置とよく一致することを指摘 ﹁寝殿造の典型像とその成立をめぐって﹂問︵建論報三二三号 昭五八︶は、
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し、これが飛鳥、奈良、平安前期と流伝し、平安後期に至り日本独自の寝殿 寝殿造が非対称な配置として完成する要因は儀式という平安貴族に固有な行
造が成立した、と推定している。これは従来漠然と考えられていた中国建築 為への機能的対応にあるとして、儀式の際の寝殿・対屋の使用法を考察する。
の影響について具体的な例を示して述べ、その伝統と日本化の時期などにつ そして寝殴造住宅内に礼と衰の分化が生じ儀式の際の住宅使用法が非対称と
いて言及した興味深い問題提起である。 なること、また対屋に固有の儀式空聞が成立することを指摘し、礼側一方の
寝殿造についての文献史料による論考は戦前・戦後を通じて日本住宅史研 対屋およびそれに付属する諸施設が整備・拡張されて成立したのが平安後期
究の中心分野として数多くあり、太田静六・関野克らにより、平安時代中i後 にみられる典型的な寝殿造であるとしている。
期の邸宅の解明を中心に精力的に行なわれていた。太田は、﹁宇治関白藤原頼 しかし、このような川本の論考に対して太田静六から反論が提示され、両
通の邸宅高陽院﹂・﹁藤原道長の上東門第三﹁上東門第と枇杷殿﹂︵建論報三O 者の聞に質疑応答がかわされている︵建論報三二二二二三三昭五七・五八︶。
七・一一一一二・二一二七昭五六・五七・五八︶など近年も引続き個別的な研究 太田は、非対称の建築配置をもっ平安後期の邸宅例をもって寝殿造の典型
を発表し、これら平安盛期貴族邸宅の殿舎規模・配置の復原を試みている。 とした川本の様式規定に関する見解に対して異議を唱え、また川本が土御門
一方、このような従来の平面・殿舎構成の解明に主眼をおいた研究に対し 殿、枇杷殿を正殿・対屋・対代からなる非対称な寝殿配置としたのに対し、
て、寝殿造の成立・変遷の過程およびその要因について論じた川本重雄の論 これらが東西に対屋を配する対称形の配置であったと主張し、川本の論拠に
考がある。 ついて疑問を投げかけた。
﹁東三条肢と儀式﹂︵建論報二八六 昭五四﹀は平安後期の貴族住宅の中でも これに対し川本は、これらの邸宅を対称形の配置とする太田の史料解釈を
I
不適切であるとしてその反論を斥け、寝殿造の成立過程に関する全体的な展 施設の建築について多くの知見を与えている。
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望について述べながら自説を補強している。 近年特に東院地域の発掘が進められ、公的な性格をもっと推定される東苑
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川本の論考は寝殿造研究の新たな展開を示すものとして注目され、また太 が確認され、また宮北部の後苑の発掘調査にも着手されている。このような
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田との討論も寝殿造の様式規定に関する重要な問題に関わる興味深いもので 宮内の遊興的施設の発掘調査が進めば、当時の宮廷貴族の生活がより一層鮮
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ある。しかし現状での両者の見解の相異は対称、非対称の論拠となる対屋・ 明となるであろう。
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対代の実態、寝殿造の変遷過程に関する解釈の相異に起因するものであり、 一方古代宮殿建築に関する文献考証による研究として鈴木亘の一連の論考
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これらの問題の解決がまず必要であろう。 がある。
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古代宮殿については、従来より進められてきた各宮城内の発掘調査の成果 号昭四九︶は、平安初期の内裏修造の歴史を文献史料より集成し、その結
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が着実に蓄積され、研究はこれらを踏まえた新たな段階を迎えつつある。現 果﹁大内裏図考証﹂に考定された平安宮内裏の建築が九世紀中葉以降のもの
1
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1
状の調査成果を概観するには連載中の﹁都城発掘史﹂①12月刊文化財﹄二
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であると推定している。
1
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二六1 昭五七1︶が便利である。またこれらをもとに総括的な論考を行なっ
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﹁平安宮仁寿殿の建築について﹂ 1 ・2 ︵建論報二五七・二五八昭五三︶、
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1
たものとして、八木充﹃古代日本の都﹄︵昭四九講談社︶、上田正昭編﹃日 および﹁平安宮常寧殿の建築について﹂︵建論報二五九昭五二︶では、内裏
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本古代文化の探究都城﹄︵昭五一社会思想社︶がある。前者は戦後の発掘
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御在所であった仁寿殿、皇后・皇太后の御在所であった常寧殿の規模・形態
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デ l タl の整理と文献考証を総合して古代宮城の造営、変遷を考察している。 について各造営毎にその変遷を追ったものである。また﹁古代宮殿建築にお
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ける前殿之朝堂﹂ 1 1 6 ︵建論報三三了三二ハ・三一九・三二八・三三0 ・
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後者は各都城について研究成果をまとめ、朝鮮・中国の都城制や都城の思想
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的背景についてもふれている。 三 三 七 昭 五 七1五九︶は、六国史などの記録をもとに飛鳥浄御原宮から平
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発掘は特に平城宮においては全貌がほぼ明らかになるまでに進行してい 安守口に至る各宮殿について、天皇の御在所である禁省と政務・朝儀の場であ
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る。これらの発掘調査成果は文献史料と総合した考察が加えられ、﹃平城宮発 る朝堂について主要殿舎の建築構成・機能を検証、各宮の場合を比較検討し
1
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m
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掘調査報告H
1
− ﹄︵奈良国立文化財研究所学報第十五・十六冊昭三七・三 これらの建築的性格とその変遷を考察しようとするものである。いずれも文
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八︶、阿部義平﹁平城宮の内裏・中宮・西宮考﹂︵向学報第二二冊研究論集 献史料を精読・整理した成果であるが、研究はまだ途上にあり真の成果は今
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H 所収昭四九﹀などに集成されている。
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後に期待される。また近年、平城宮を中心に発掘調査の成果をもとにした古
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また、﹃平城宮発掘調査報告氾﹄︵奈良国立文化財研究所三十周年記念学報 代宮殿に関する論考が多くあるが、一部鈴木が行なっているようにこれらと
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第四十冊昭五七︶は、このうち第一次大極殿地域について発掘成果を集大 の比較・総合も今後の大きな課題である。
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成したもので、三期にわたる造営各期の詳細な復原図も掲載され、宮内中心 田中世
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考察している。近年、太田は﹃床の間﹄︵昭五三岩波新書︶で、床の発生を
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中世住宅の本格的な研究は堀口捨己により開始された。堀口は書院造の成
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1n
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追いながら再度中世住宅について論じている。基本的には前書と同様である
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立過程を追うために室町将軍邸などの復原的考察を行なったが、その方法は
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それ以前には全く取上げられなかった扉風絵・御飾書などを用い、史料の厳 が、ここでは書院造の成立時期を室町時代と明記するなど、前書にみられな
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密な批判を行ない、中世住宅研究の水準を一挙に高めるものであった。一連 い新たな見解を示す部分もある。
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の論考は全て戦前に発表されているが、近年﹃書院造りと数寄屋造りの研究﹄ 太田はこれら二書の中で日本住宅の様式区分の問題にふれている。
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︵昭五三鹿島出版会︶として集成された。これには巻末に稲垣栄三による 太田は日本住宅史の流れを、住生活の発展・分化と、平面・空間の変遷と
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堀口論文をめぐってその後行なわれた論議についての詳しい解説があり、書 の関連という視点から考察し、寝殿造に対して書院造の大きな特徴として接
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客空間の独立・発展をあげ、この二様式の差異を強調し、書院造を中世住宅・
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院造研究あるいは中世住宅史研究の現状での成果とその問題点を知る上で非
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常に参考になる。 近世住宅を包括する様式として古代寝殿造に対立して捉えることを主張す
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堀口以降中世住宅に関する論考は、書院造を特徴づける様式条件の発生と る。太田は平安時代を過ぎ漸時変化をとげた寝殿造が、室町時代に至り新し
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その展開の問題に限定されていたといえる。時代的には室町中期以降を対象 い住様式としての諸要素を具備するようになり、ここに書院造が一応の完成
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とし、それ以前の時代の住宅についての考察はなされていなかった。 をみると説く。そして﹃匠明﹄に記載された主殿・広間の図にみられる平面
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これに対し中世住宅研究の空白を埋めたのは、川上貢の大きな業績である。 形式をもって書院造の典型として提示する。
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このような太田の主張に対して、書院造をあくまで近世住宅の様式とし、
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川上は鎌倉時代から室町時代までの上層階級住宅の具体例を文献より発掘
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し、寝殿造から書院造への変遷を通時的にあとづけた。その成果は昭和一一一一一一 中世住宅は主殿造とよぶ異なる一様式が成立したとみなすべきとするのが平
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年に学位論文としてまとめられ、さらに﹃日本中世住宅の研究﹄︵昭四二墨 井聖の説である。平井は主に近世住宅研究の成果から、中世住宅と近世住宅
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水書房︶として刊行されている。 では平面と機能との対応関係、座敷飾・室内装飾などにおいて明確な相違が
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川上の総括的な研究以後、中世住宅に関する論考は必ずしも多くはない。 あり、明暦大火以降定形化する住宅形式をもって書院造と呼び、それ以前の
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しかし中で、太田博太郎﹃書院造﹄︵昭四一東京大学出版会︶は、中世住宅 中世末において確立した形式を主殿造とよぶことを提唱する。そして太田が
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書院造の典型とした﹃匠明﹄の図にみられる形式は、主殿造が書院造へ移行
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史研究の基本文献として重要である。内容は近世にまでまたがるものである
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する過渡的状況を示すものと位置づける︵﹁書院造について﹂﹃日本建築の特
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が、その前半部分は書院造の成立を述べながら中世住宅史を総括したものと
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w
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11
昭
所
収
五
同で上段・床・棚・付書院・帳台構という座敷飾の個別の発生について記し、 以上のような太田、平井による様式区分の問題は中世住宅をめぐる主要な
学会展望
問では平面・構造が寝殿造から発展・変化してゆく過程を母屋・庇構成の崩 論点であり、両者の見解の相違は単なる名義上の問題ではなく、その背景に
壊、柱聞の縮小化、日常生活の場の北庇への移行という現象を例証しながら ある形態や成立過程に関する歴史把握が反映されているといえるだろう。
1I
中世住宅に関する近年の個別の論考に目を移そう。 めぐって従来より盛んに論議されてきた。しかし鈴木充﹁御飾書の考察 L︵
﹃建
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川上は中世住宅研究について一応の体系化を行った後、妙心寺・大徳寺な 築史研究﹄三三昭三八﹀によってなされた整理以来、その史料的価置につ
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ど禅宗寺院の調査研究を端緒として、中世禅院建築について論考し、この中 いての評価はほぼ定まったといえる。近年、同史料に関連する論考としては、
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で僧房施設である方丈・客殿・庭園施設の考察を行なっている。既に学位論 佐藤豊三﹁将軍御成について﹂同・同つ金続叢書﹄第二・三輯所収昭五
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0 ・五一︶がある。このうち伺では、徳川美術館所蔵の室町時代将軍邸飾付
1
文に中世から近世にかけての禅院客殿・書院の詳しい論考はあったが、その
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後の個別寺院に関する研究も集成して、その成果は﹃禅院の建築﹄︵昭四三河 の史料︵﹃小河御所・東山殿御筋図﹄︶の紹介をしながら、従来より既知の君
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原書店︶に概説されている。﹁概説﹂︵﹃日本建築史基礎資料集成﹄書院I 所 台観左右帳記の諸本について比較・再検討を加え、その成立過程と後世の合
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収昭四六中央公論美術出版︶は、この一連の研究により得た中世禅宗寺 本の経緯などを考察している。佐藤の論考は御飾書・御成記などの検討によ
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1
院の住宅施設の特質を、現存遺構の解説に即して整理したもので、方丈形式 り室町時代将軍御成規式の成立過程を論じたもので、∞では新出の﹁室町殿
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の成立、金閣・銀閣にみられる禅宗文化の影響を強く受けた中世庭園建築の 行幸御飾記﹂︵徳川美術館蔵﹀について考察し、これによって君台観左右帳記
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特質について概説している。 や御飾書にみえる殿舎構成や舗設の方式が永享年間に遡って成立していたこ
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-154-
また川上寸古絵図にみる禅寺の建築﹂︵﹃古絵図特別展覧会図録﹄所収
1
と、義政東山文化の特徴が既に義教の時代に出現していたことを示した。こ
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昭
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四四京都国立博物館︶は、室町時代に描かれた等持寺・明月院・普広院の の論考は以上のような諸点を明らかとするともに、中世住宅研究上重要な史
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境内図を紹介したものである。これらは禅院境内図といっても、いずれも住 料を紹介するものとして貴重である。
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宅的要素の強いもので、中世盛期の禅寺・塔頭の住宅施設の状況を知るうえ 中世住宅の中で特徴ある存在として注目される建築に会所がある。会所は
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の貴重な資料であり、川上は絵図の成立事情にふれながら、描写されている 種々の社交・遊芸の場であり、座敷飾の発達を促すなど寝殿造が書院造へ移
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諸建築の構成・建築的性格について解説している。 行する過程で重要な役割をはたしたとされており、これに関する論考も従来
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同寸信州文永寺密乗院指図について﹂︵﹃仏教芸術﹄五九昭四O︶も中世
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より多くあった。
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川本重雄﹁弘御所について﹂︵建論報三二O 昭五七︶は、川本の一連の寝
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禅院僧房を描く史料の紹介である。ここでは中世住宅の特徴的な形式である
1
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主殿形式の平面について、遺構、絵図から知ることができる類例との比較に 殿造研究の中に位置づけられる論考だが、ここでは鎌倉時代後半の院御所に
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より、時代的・様式的特徴を論じている。 あった弘御所に注目し、これが中世の会所的な施設の端緒となるものであり、
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一方中世住宅研究の大きな焦点であった君台観左右帳記・御飾書について 弘御所をもっ鎌倉時代院御所の中に中世住宅独自の特色を見出せるとしてい
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も引続き論考が提出されている。堀口によって中世住宅研究の重要史料とし る。川本はまず弘御所の平面構成およびここで行なわれた行事を通覧し、弘
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て提示された本書には種々の異本があり、また本来別種の原本が合併されて 御所が院政の舞台として、また中世貴族の文芸的生活の場として利用され、
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1
後世に伝えられたという錯綜した成立事情もあり、その真贋、成立の経緯を その重要度が高まるにつれ廊形式の仮設的な場から独立性の高い部屋に変化
1
することを指摘する。また文机・置厨子による室内の飾付や上段と考えられ 会所などに相当する建築をもっ典型的な中世武家城館の実体を把握すること
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U
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る施設の存在が、後世の座敷飾につながるものとして注目している。 が可能となった︵福井県足羽町教育委員会﹃一乗谷朝倉氏遺跡H﹄発掘調査
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史﹄二九五号昭四七﹀は、会所における上段の発生を考察して、接客・対 を中心とした一画、充実した庭園などは中世住宅の特徴をよく伝えていて興
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面の封建性の扇芽・発展を辿り、書院造成立の一つの契機をここに見ょうと 味深い。また出土品を通じて当時の日常生活の様子を伺うことができること
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するものである。ここでは南北朝i室町時代を通じて会所の使用法と舗設の
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も重要である。
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関係を論じ、泉殿が会所に継承されたこと、はじめ文芸を中心とした寄合い 中世城館遺跡は全国に尼大な数が分布してはいるが、発掘調査はようやく
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の場であった会所が次第に接客・対面の場となり上段が導入され、その後の 端緒についたばかりである。館遺跡で現在完掘されているのは、朝倉氏遺跡
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使用形態が封建的身分制に規制される形式へと移行してゆくことをあとづけ の他では勝沼氏館︵山梨県﹀、江馬氏館︵岐阜県︶、正法寺山荘・浜の館︵熊
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ている。
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本県︶など数例にすぎない。しかし今後の発掘調査の進展によりこの方面か
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L
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-155-
l
昭四九︶も中世の会所的な施設についての論考といえるだろう。ここで
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近
号
世
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は中世の大谷・山科・石山など本願寺諸坊に散見された亭に注目して、その 近年の近世住宅研究は書院造の様式性に関する問題がまずある。
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使用法を考察し、これが遊興と仏事の場というこ面的な機能をもっていたこ 近世住宅は書院造によって代表されると考えられてきたが、中世の項でも
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とを明らかにしている。本論文は本願寺において飛雲閣にみられるような趣 述べたように、書院造に関しては必ずしも一致した様式概念が定まっていた
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味性の強い形式の建築が出現する要因を採ることを目的としており、このよ
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わけではなく、前述したように太田博太郎・平井聖による二つの見解がある。
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川ll
ll
うな近世の数寄屋風建築の系譜を考えるうえでも興味深い論考である。 太田の説に対して平井の見解が提示されたのは、近世住宅に関する研究が
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この他、西和夫コ炉を囲む風流の世界﹂︵﹃風俗﹄第一三巻第一 O 二 号 前
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進展したことにより、住形式の変遷をより明確にとらえることが可能となっ
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掲︶は、炉・焼火の間などの施設をめぐる中世貴族の風流生活について多く たためである。
1
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の例をあげて紹介したものである。 文献史料から近世武家住宅について考察した平井の論考は、﹃日本近世住宅
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1
以上のような文献的な論考の他に、近年の中世住宅研究の成果として発掘 の股舎平面と配置に関する研究﹄︵昭三六私家版︶にまとめられ、﹃日本の
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調査による中世城館遺跡の解明をあげることができる。 近世住宅﹄︵昭四三鹿島出版会︶にその要旨がみられる。
1
1
多くの発掘例が報告されているが、現在まで最も発掘が進み、かつ成果が 平井は近世住宅の殿舎構成を多くの史料を用いて考察して、対面・接客の
学会展望
あがっているのは、一乗谷朝倉氏遺跡︵福井県︶である。朝倉氏館跡では主 際の用法を詳しく検討、近世住宅の特色を一殿舎一機能の対応にあるとし、
要殿舎・付属屋・庭園・井戸・塀など全容がほとんど明らかとなり、主政・ このような対応形式から生まれた一列型の平面をもっ新しい住宅が明暦大火
I
1I
を契機として定着したことを明らかにした。そしてこの平面形式をもっ殿舎 他の絵図史料の描写年代を考定するとともに、秀吉築城伏見城の殿舎構成が
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が、定型化した座敷飾を備え書院と称されていることから、この様式をもっ 江戸期書院造の先駆となる役割を担ったことを指摘している。
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て書院造と名付けることを主張した。平井﹃日本住宅の歴史﹄︵前掲︶ではさ 宮上茂隆﹁豊臣秀吉築造大坂城の復原的研究﹂︵﹃建築史研究﹄三七
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昭
四
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らに、近世住宅の特徴として、定形化した座敷飾の成立、新しい対面作法の 二︶は同じく秀吉築造の大坂城に関する論考で、新出の絵図をもとに発掘調
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成立、室内意匠の発達、玄関の成立などをあげ、平面形式以外の諸要素につ
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査結果を参照して本丸地形の復原を試みる。本丸御般についてもその規模・
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いても中世住宅から近世住宅への脱皮を明らかにしている。 平面形式の考察を行ない、徳川氏築城大坂城との差を指摘し、近世最初期に
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このような平井の総括的な研究以来、書院造の様式規定に関わるような大 位置する武家住宅の時代的特徴を抽出している。少ない資料を駆使して精綾
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きな問題にふれる論考はみられない。近年の近世住宅研究はむしろ個別の実 な論考を行なっているが、本丸天守台の復原について導かれた結論はその後
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証的研究の深化に力が注、がれているといえよう。またそこには従来なかった の発掘調査の結果とは一致せずなお検討が必要である。
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後藤久太郎﹁近世住宅における小壁・天井意匠について﹂ l ・2 ︵建論報
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新たな研究の方向がみられる。
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.
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1
一
1
一
一
一
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近代住宅はそれ以前の時代とは異り比較的豊富に遺構が残存し、また史料 昭四九︶は近世住宅の特徴である装飾空間の発生・発展を
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も造営文書・指図が多く残されている。このような研究条件により近世住宅 追求したものである。ここでは、造営文書によって系統的に把握しうる近世
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FO
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に関する論考は他の時代に比して数も多く、また内容も多様化している。特 京都御所諸殿舎の小壁・天井仕様について注目し、当初無装飾であったこれ
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Rd
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に注目されるのは、従来住宅史研究の基本的な方法であった住宅の平面と機 らの部分に障壁画などの装飾が及ぶ過程を明らかにしている。近世住宅の室
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内意匠の発展過程に関する全体的な総括は、﹁近世初期の武家住宅における小
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能の分析という手法から完全に脱して、建築構成や意匠に関する論考へと移
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次に個別の論考について紹介しよう。 集﹄第四四号︶に述べられており、このような装飾化の手法が元和期に幕府
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まず日本建築学会論文報告集等学術誌に掲載された論文を概観する。 殿館の表向き部分に蔚芽し、寛、氷期に至り大成され、さらにそれ以降武家住
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内藤田閏﹁緊楽第|武家地の建築 L・﹁伏見城|武家地の建築﹂︵I︶
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・︵H︶︵建 宅の内向き殿舎の中に変質した形で継承されてゆくと指摘している。
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論報一八Oi一八二昭四六︶は、秀吉築城緊楽第・伏見城について考察を
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斎藤英俊﹁近世内裏常御殿の南側列三室の形態について﹂・﹁近世以前の内
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加えたもので、内藤の都市図扉風を用いた一連の研究の主要な成果である。 裏における清涼殿内常御所の形態について﹂︵建論報二四コ一・二四四昭五一︶
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これらの殿館は中世住宅が近世書院造へと移行する過渡的な時期に造営され は、書院造の特徴的要素の一つである、上段の成立過程について考察したも
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た例であり、その具体的な姿の一端が明らかとなることは、書院造の成立過 のである。ここでは、上段の起源を寝殿造の身舎・庇構成にあった床段差に
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程について重要な知見を与えるものである。特に伏見城に関する論考では、
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求め、これが格式表現の手段として近世に踏襲されてゆく変質の過程を、内
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1 豊臣氏・徳川氏による五期の造営についてその建築構成を整理し、扉風その
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裏常御殿南側三室構成の成立過程、およびこれら三室の室内意匠の変遷を例
1II
にとり論じている。従来上段の発生については太田博太郎などによって住宅 内藤田回寸江戸の都市と建築﹂︵諏訪春雄・内藤昌編﹃江戸図扉風﹄所収
昭
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への格式性の導入として語られていたのに対し、日常生活の場でその変化を 四七毎日新聞社︶は尼大な収集史料を駆使して、江戸の都市と建築の全貌
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追おうとするところに特色がある。 を明らかにしようとするものである。特に江戸城各部・大名江戸藩邸につい
1
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北野隆は江戸時代初期の公家・武家住宅を例に、数寄屋風書院に関する一 ては詳細な論考を行ない、これら武家住宅の歴史・建築構成を克明に論じて
1
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連の考察を行なっている。 いる。江戸の建築に関する基本史料はほとんどここに網羅されているといっ
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O 昭四八︶は、肥後藩における殿舎・庭園の造営に携った﹁茶道役 L に注
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森趨﹃小堀遠州﹄︵昭四九創元社﹀は、江戸時代初期幕府の作事奉行とし
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目し、その活動を追うことにより数寄屋風書院の普及状況を考察しようとす て多くの造営工事に関与し、また一方で当時の茶の湯の世界でも主導的立場
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るものである。また寸近世武家住宅における数寄屋風書院について﹂一・二、 にあった小堀遠州に関する事蹟を集成したものである。単に作事関係の資料
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L
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昭五三 1五四︶は、近世初期の武家屋敷・公家屋敷
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六七・二七四・二七五 分についてのものも収録しており、近世住宅特に数寄屋風建築に関する文献
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』1
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にみられる数寄屋風書院について、その殴舎内に占める位置・平面の特徴・ として欠かせない。
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機能などに注目し、それらの時代的推移を考察したものである。 佐藤巧﹃近世武士住宅﹄︵昭五四叢文社﹀は、佐藤の学位論文﹁近世武士
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理子﹁棚雛形の成立過程について﹂︵建論報=二八昭五七︶がある。ここで 殿舎・伊達家江戸落邸などの大型居館、後編は仙台藩・盛岡藩の中・下級武
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は雛形本の分類・系譜の整理にとどまるが、これは明治期までに現われた雛
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士の住宅について、平面構成とその機能を論じたものである。この他平井聖
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編﹃中井家文書の研究﹄一 1九︵昭五一 1五 人 中 央 公 論 美 術 出 版 ︶ は 、 幕
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形本を史料として、近世から明治に至る臼本住宅の室内意匠の推移を読取ろ
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うとする試みの一端である。 府御大工頭中井家旧蔵︵現宮内庁書陵部所蔵︶の御所造営に関わる図面を網
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次に調査や研究の成果が刊行された例のうち主要なものを掲げる。 羅し、解説を加えたもので、近世の御所・公家住宅の研究に必須の文献であ
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新出の江戸図扉風をめぐって江戸の建築について論じたこ編の論考があ
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る
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る
。 次に個々の遺構に関する論考をあげる。
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平井聖﹁江戸図扉風に於ける建築﹂︵鈴木進編﹃江戸図扉風﹄昭四六 遺構を中心とした実証的な研究は藤岡通夫の一連の研究を端緒としている
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凡
平
社︶は、扉風に描かれた慶長から寛永にかけての江戸城・諸大名藩邸の建築 といってよい。藤岡は、近世住宅史研究上重要な遺構である南禅寺大方丈、
学会展望
について論じ、書院造が大成されつつあった重要な時期の武家住宅の建築構 西本願寺対面所、桂離宮、臨春闘などに関して、創建年代・造営の経緯の詳
成・意匠の特徴を要領よく整理している戸。 しい論考を行なっており、これらは﹃近世建築史論集﹄︵昭四四 中央公論美
術出版︶に集成されている。また﹃書院﹄ I ・H ︵昭四五創元社︶は、こ 住宅遺構研究に新たな方向を示したものといえる。この後、同様の方法によ
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11I
1 I
る論考として川本桂子﹁正伝寺方丈障壁画の復原的考察﹂︵﹃美術史﹄一 O
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れらのほか全国に散在する近世書院造遺構についての解説を集成したもの
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一
一
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で、現存する主要遺構をほぼ網羅しているといってよいだろう。平井聖﹁概 号昭五二︶などがある。ここでは資料調査および現存襖絵の復原的考察を
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説﹂︵﹃日本建築史基礎資料集成﹄書院H所 収 昭 四 九 中 央 公 論 美 術 出 版 ︶
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通じて、現正伝寺本堂が伏見城︵徳川氏造営︶の遺構であることが明らかに
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は、現存遺構について意匠的な特質を主に概説したもので、発展過程の異な されている。
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西本願寺書院の由緒に関する考察も藤岡の主要な論考の一つである。この
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る武家・公家・寺院の三型それぞれの特徴を要約している。
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藤岡の論考を契機として個々の近世住宅遺構に関する究明はさらに大きく 建築については従来豪楽第あるいは伏見城の遺構と伝えられていたが、藤岡
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進展した。以下それらを順に紹介する。 はこの所伝に疑問を呈し、これが寛永十一年の将軍御成に備えて本願寺で創
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藤岡の論考以来、多くの論議が重ねられているものに、南禅寺大方丈の前 建されたものとした。そしてこれによって、近世初期の豪壮華麗な住宅建築
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身建物の問題がある。 の成立が、従来言われていたような桃山時代ではなくさらに時代が下がるも
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南禅寺大方丈は、御所旧殿を下賜されたものとされているが、その前身に のであり、従来の様式観に修正の必要があることを主張した。
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ついては天正十四年造営正親町院対面所か、天正十九年造営の内裏清涼殿か、 西和夫﹁本願寺書院︵対面所及び白書院︶﹂︵﹃日本建築史基礎資料集成﹄書
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只U
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今なお議論が分かれている。本建物は狩野永徳筆と伝えられた障壁画がまず 院H 前掲︶は、新資料を用いて造営の経緯を再検討し、藤岡の論考に修正・
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1
RU
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美術史学界で注目され、その作者に関する所伝の真偽をめぐっての論争が 補足を加えたものである。すなわちここでは、現対面所はそれ以前に存在し
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あった。藤岡はこの論争にそれまで等閑視されていた建築の様式的な見地か た対面所︵元和四年造営︶を寛永十年に改造したものであること、改造の際
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ら考察を加え、美術史の分野で主流を占めていた正親町院対面所︵新上東門 対面所の方位を九十度回転していること、現在一つの建築に接合されている
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院御所︶移建説を否定し、天正度内裏清涼殿移建説を主張した。しかしその 対面所・白書院が当初は別棟の建築であったことなどを明らかにしている。
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L
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第五号、第六号昭四二︶で、藤岡が自説の有力な論拠とした史料の推定年 が、﹃元離宮二篠城﹄︵昭四九小学館︶は、歴史、建築、美術、庭園の各方
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紀を訂正し、現存する障壁画の復原作業を通じて藤岡説に疑問を塁じた。こ 面からの論考が集成され、現状での二条城研究の到達点を示すものである。
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れに対し藤岡は、従来不明であった正親町院御所を描くと考定する指図を紹 建築史の分野からは藤岡﹁城郭史からみた二条城の規模と建築の変遷﹂、川上
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介し、再び院御所対面所移建説を斥け自説を擁護している。 貢﹁二条城の規模と建築の変遷﹂が掲載されている。後者は二条城創建、修
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このように南徴寺大方丈の前身建物については未だ結論を出すには至つて 造の歴史を豊富な史料をもとに総括したもので、江戸時代を通じて変遷過程
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はいない。しかし、この論争は、近世住宅遺構に関して建築史、美術史双方 を詳細に考察している。二条城は慶長初年創建、覚、永元1三年増改築によっ
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から研究が進められた初めての例であり、障壁画が重要な位置を占める近世 て全容が整えられたことが明らかにされているが、このような造営の歴史で
最も問題とされるのが、現存二の丸殿舎の寛永期改築の程度についてである。 る建築の中には異なるこつの系譜をもつものが見出せるとした。そして一方
川上貢は前掲論文でこの点にふれ、現二の丸殿舎がこのとき新築に近い改修 を中世貴族住宅にみられた﹁御茶屋﹂の建築様式を継承した﹁草庵風書院﹂、
を受けたとした。 もう一方を書院造が貴族住宅に導入されその意匠が洗練されて成立した﹁締
これに対し平井聖・斉藤英俊﹁二条城二の丸御殿大広間・黒書院 L ︵﹃日本 麗座敷 L、と呼ぶ二つの様式を規定した。そして特に前者の﹁草庵風書院﹂に
建築史基礎資料集成﹄書院H 前掲﹀は、寛永期の改修は慶長期創建の御殿 影響を与えた﹁御茶屋﹂の源流には中世の文芸的隠遁者の住居︵草庵︶があ
を基本に装いを改めた程度であるとして、川上とは若干異なる見解を示して るとし、歌道の教養に深く根ざした美意識と住居との関連に注目している。
いる。改造の程度は現二の丸殿舎の完成時期、ひいては書院造の発展過程と これらの論考はいずれも、近世初期貴族階級住宅あるいは彼らの遊芸生活
いう重要な問題に関わるものであるが、委細は解体修理の機会を得なければ に注目し、ここに貴族文化の所産として数寄屋風書院の成立をみようとする
明らかにならないであろう。このような現状で、西和夫﹃姫路城と二条城﹄ もので、従来の視点とは大きく異なるものである。
︵﹃名宝日本の美術﹄一五昭五六小学館︶は痕跡調査にもとずき、慶長創 一方このような系譜を模索する研究とは別の観点から数寄屋風書院に注目
建時では現二の丸大広間表側二室が三室構成であったことなど、改造の程度 するものとして、内藤昌﹁数寄屋造|様式の座標 L︵﹃桂離宮﹄所収昭五二
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に示唆を与える具体的な事例を示しており興味深い。 講談社インターナショナル︶がある。内藤は﹁数寄屋造﹂のもつ意匠趣向は、
近世住宅研究のもう一つの焦点として数寄屋風書院に関する論考があり、 日本の建築設計理念にみられる独特な造形意識が表出したものであると規定
系譜の問題を中心に再検討が行なわれている。 する。すなわち、中世に成立した﹁数寄﹂の美意識の中には、利休によって
従来数寄屋風書院は、書院造に草庵茶室の意匠が導入されて成立したとす 大成された日本的な側面と、それに対峠する舶載文化﹁唐風﹂への指向が同
るのが一般的な見解であった。これに対し平井聖は、江戸時代初期貴族住宅 時に内包されていたとする。そして伝統的、日本的なものに根ざしながらも
に茶の湯・振舞の施設として存在した﹁御茶屋﹂と呼ばれた数寄屋風建築に 常に﹁唐風﹂を意識してデザインするという日本人の様式観を背景に生まれ
注目し、これが草庵茶室とは異なる系譜をもっ建築であること、また貴族住 たのが﹁数寄屋﹂であるとし、近世に隆盛した﹁数寄屋造 Lが﹁日本人の根
宅においては草庵茶室が流行する以前より既に盛んに建築されていたことを 元ともいえる︵和漢の︶折衷様式の様式意識にもとずいて︵中略︶意識して
例証し、数寄屋風書院がこのような﹁御茶屋 L を中心として貴族住宅の中か 書院造からの様式議離﹂をはかつて造形されたものと規定している。
ら生まれたものと推定した︵﹁堂上茶の世界﹂﹃月刊太陽﹄四 日本人のここ 数寄屋風書院に関する研究は近年では以上のようなその系譜あるいは様式
ろW茶 昭四八 平凡社︶。 概念などの論考が感んに行なわれている。しかし従来は主要な遺構に関する
収
所
この平井の見解を踏まえてさらに中世に遡ぼってその発生を考察したもの 個別的な研究が主流であった。中でも最も関心を集めていたのは桂離宮であ
が、斉藤英俊﹁桂離宮の建築様式の系譜﹂︵﹃桂離宮﹄名宝日本の美術一一一所 り、これまで史料渉猟・遺構調査を通じて数多くの論考がなされてきた。主
昭五七 小学館︶である。斉藤は現在数寄屋風書院と一括して分類され 要なものだけでも森菰﹃桂離宮﹄︵昭三O 東都出版︶、久恒秀治﹃桂御所﹄
収
新潮社︶、藤岡通夫﹃桂離宮﹄︵昭四O 中央公論美術出版、後に
I
︵昭三七 これらの住居については既に佐藤巧・西川幸治らによって考察されたもの
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補筆書替して﹁桂離宮の成立に関する一考察﹂﹃近世建築史論集﹄所収前掲︶、 もあるが、いずれも個別事例の報告に止まっていた。それに対して大河直弱
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川上貢﹃桂離宮と茶室﹄︵昭四一小学館︶、内藤昌﹃新桂離宮論﹄︵昭四二鹿 ﹁江戸時代の中・下級武士住居と近代都市住居﹂︵﹃日本建築の特質﹄所収前
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島出版会︶、同﹃桂離宮﹄︵前掲︶など枚挙に暇がない。しかしこれだけ多く 掲︶は、近代との関連という明確な視点をもっ注目すべき論考である。ここ
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の論考があったにもかかわらず、決定的な史料を欠いたために各御殿の造営 では江戸時代後期飯田藩の武士住居を例に、平面構成・使用法・増改築の歴
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経緯などに一致した見解は得られなかった。このようななかで昭和五十一年 史などを詳細に考察し、ハレ・ケの中間に位置する部分の発達という特徴を
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の
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より主要御殿の解体修理工事が開始され大きな注目を浴びることとなる。修 抽出する。そしてこれが明治以降の中流都市住宅に用いられた﹁応接間
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理工事は昭和五七年に完了し、解体にともなう調査の概要は﹃桂離宮御殿整 性格と類似することを指摘し、使用法や間取りに在来都市住居との関連が見
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備工事概報﹄︵昭五七宮内庁︶にまとめられている。 られるとした。
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これによれば各御殴は古書院、中書院、新御殿の順に増築されたこと、発 大河はこの考察から、江戸時代末から明治へかけての日本住宅の変遷を、
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見墨書から新御殿の造営が後水尾院桂御幸の寛文三年頃に限定されることな 単に西洋住宅の影響という観点からだけでなく、伝統的様式の継承という視
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どが明らかとなり、また各増築による平面・外部建具などの変遷、技法的な 点で考察する必要のあることを強調している。
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特徴にも新たな知見が報告されている。 従来の確立された方法論による研究の深化とともに、今後このような新た
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修理工事後出版されたもののうち、﹃桂離宮﹄︵昭五七毎日新聞社︶は工 な問題意識をもっ論考が増加して近世住宅史の欠を埋め、また次代の住宅と
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事経過の報告が多く収めてあり、修理工事報告書の未刊の現在その成果を知 の関連がより鮮明になることが近世住宅ひいては日本住宅の理解にもつなが
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るであろう。 さとし
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以上通覧したように、近世住宅史研究は上層階級住宅をその対象の中心と
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して論究が行なわれてきた。時代としては書院造の完成期である江戸初期に
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限定されていたといってよい。これは研究の主たる関心が書院造の様式的成
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立の問題に集中していたためである。
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しかし、近年、これまで研究の進んでいなかった江戸時代中期以降の中・
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下級武士住居への関心も高まりつつある。これは従来の研究の偏向を是正し、
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近世住宅の全体的な把握をめざすとともに、これら中・下級武士住居が明治
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以降の近代都市住居へと直接継承された住居として見徹されているからであ
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る。
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