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偏屈剣蟇ノ舌

[#5字下げ]一 家老屋敷の奥の間で、男が二人話していた。一人は屋敷の主、間崎新左エ門で、間崎は三人いる 家老の中で上席を占めている。 もう一人は客で、番頭《ばんがしら》の遠藤久米次だった。家老が自分の家で話すのに遠慮もい らないようなものだが、遠藤との話声が小さいのは、二人が人の耳をはばかる密談に耽《ふけ》っ ているせいだった。 遠藤が来てから一|刻《とき》(二時間)近く経っているが、二人の間にはからになった茶碗が 置かれているだけだった。 「それで? 植村はいつ来る?」 「四月のはじめ、桜の花が終ったころでございましょう。殿のご帰国に先んじてということでござ いました」 「ふむ、弱ったのう」 間崎は腕組みをして、額の皺《しわ》を深くした。遠藤は黙然《もくねん》と口をつぐんだまま、 家老の顔を見まもっている。 間崎は顔をあげて、ひょいと遠藤の眼をのぞきこんだ。しばらくにらめっこをするように眼をあ わせてから、ぱたりと膝《ひざ》を打った。 「やむを得んのう。植村の大目付就任をはばむ手はないわ」 「ありませんか」 「ない。加賀がバカなことをやりおったから、こっちには打つ手がない。山内の手の内は見えてい るが、眺めておるしかないわ」 「当分押されますな」 「当分どころではない。やつはわが派を、根こそぎしりぞけるつもりでかかって来たぞ。植村弥吉 郎の大目付就任がその手はじめじゃ」 間崎は遠藤から眼を離して、廊下の障子の方に目をやった。 山内というのは、去年の秋に組頭《くみがしら》から中老にすすんだ山内|糺《ただす》兼次の ことである。十二年前、間崎は当時首席家老だった山内の父をはげしく批判し、ついに執政の座か ら追い落とした。 そのあとの十二年は間崎と、間崎に与《くみ》する者の天下だった。思うとおりに藩政を動かし、 唐物町の間崎の屋敷は、土産物《みやげもの》をたずさえておとずれる家中《かちゆう》、城下の 富商、領内の豪農でにぎわった。間崎は栄華をきわめた思いをした。 しかし山内の伜《せがれ》糺兼次は、その間にじっくりと派閥を養い、二年ほど前からついに二 人の家老平塚五太夫、大世古喜内を抱き込んで、巻き返しに転じて来たのである。糺は自派の取り まとめでは、父の山内市郎左エ門を上回る手腕家だと噂《うわさ》されていた。 糺は小姓勤めのころはむろん、父の跡を襲って組頭に就任してからも、あたかも藩政などには興 味がない者のように振る舞った。染川町の料理茶屋にも足繁く顔を出し、ひところは遊蕩児《ゆう とうじ》という評判をとったこともある。 だが間崎は、そういう評判を聞いても決して油断しなかった。 藩では家老三人、中老二人を置いて、藩政を執行させる。この五名の執政に、重要な議事があれ ばさらに補佐する組頭若干名を加えて協議させ、形は合議の形式を踏むが、中味はそうではなかっ た。 古くから、家中には唐泉並び立たずという言い方があった。唐物町にある間崎家と、和泉町に広 大な屋敷を持つ山内家を指すことは言うまでもない。

その言い方は、藩草創のはじめから今日まで、両家のどちらかが藩政の主導権を握って来たこと を指していたが、より正確には、両家が、和してともに藩政に参画したということがたえてなく、 ときには一方が栄えている時期に、一方は閉門、蟄居《ちつきよ》といった処分のもとに呻吟《し んぎん》したという、両家抗争の長い歴史を指していた。 ほかにも家老、中老はいて、それぞれに家柄、禄高ともに間崎、山内に見劣りしない家から出て いる。にもかかわらず、その中から、かつて両家の間に割って入って、藩政を左右するほどの器量 を示した人物は出なかった。彼らは両家のどちらかにつくのが常だった。そうしたことも、両家の ときにははげしい、ときにはひそかな対立を藩内に温存したままにしてきた原因のひとつだといえ る。 いつかは出て来るぞ、と間崎は山内の伜を見て来たのである。油断はしていなかったつもりだが、 昨年間崎派は大目付の加賀権平が、不正を取調べに行った先で、当の調べられる側の人間と茶屋に あがって遊興するという不祥事を起こした。 藩では、城下から十里の海岸にある鳥見の港町に陣屋《じんや》を置いた。陣屋は昔からのしき たりで中老の一人の支配下に置かれていたが、担当の中老が陣屋に行くのは年に二、三回、政務は 常駐の代官にゆだねられているのが実情だった。 不正は代官の服部惣兵衛が、地元の富商数名から賄賂をうけて、藩庫に繰り入れらるべき上納金 の額をみだりに加減したというものだった。藩ではこの不正を重く見て、大目付の加賀と勘定方 《かんじようがた》の人間一名を鳥見に派遣したのである。しかし加賀は、数日鳥見に滞在して帰 城したものの、取調べたところ不正の事実は見当らなかったという報告を提出した。 何ぞ知らん、実情は取調べにあたった当の加賀と勘定方の者が、服部と富商たちの饗応《きよう おう》をうけ、女を抱かされて、真相を覆《おお》った報告を出したのであった。 この事実は秋になって判明し、加賀と代官の服部は職を停められて謹慎の処分をうけた。つづい て担当の中老が引責辞職し、その空席に山内糺がすべりこんで来たのである。山内を中老に、とい う平塚、大世古両家老の要請を、間崎はしりぞけることが出来なかった。間崎は在府の藩主にうか がいを立て、自分で手続きして、山内を中老に据えるしかなかったのである。 加賀の不正を好機に、山内糺が執政の座に乗りこんで来たのだということは、首席家老として、 そういう一連の人事をすすめる間に十分に気づいていたことである。それははっきり山内の側につ いたとわかる平塚、大世古の態度からもわかったが、空席のままだった大目付の職に植村弥吉郎を、 と山内が提案して来たときにいよいよはっきりしたようだった。 植村は父祖以来|定府《じようふ》勤めの藩士で、国元とはかかわり合いのうすい人間である。 しかし江戸藩邸では若年ながら留守居役として働き、すぐれた才幹は国元にも聞こえていた。 植村の上司は、江戸家老の末次孫兵衛である。その末次が、むかし山内市郎左エ門に目をかけら れて江戸家老に転じた人物だったことを間崎はひさしく忘れていた。山内派が失脚したとき、末次 は遠くにいたために生き残ったが、その後国元に呼び返されて執政に加わるという機会もなかった 非力な家老だったので、間崎は末次を、どことなく島流しにでもした人物のように、意識の外に放 置して来た。 しかもいま、植村という人物が眼の前にあらわれて来ると、染川町あたりに出没しながら、山内 の伜は一方で、ぬかりなく江戸の末次とも連絡をとっていたことが読めて来るようだった。 ──唐泉並び立たずか。 植村弥吉郎は三十二だという。頭が切れるだけでなく、無外流の奥儀をきわめた剣の達者だとい うことは、たったいま遠藤から聞いたことである。植村の大目付就任を持ち出して来た山内糺は、 三十五である。二人とも若い。間崎は、自分がはっきり守勢に回ったことを感じないでいられなか った。 十年余も藩政を意のままに動かして来ると、その間に垢《あか》がたまるようだった。加賀権平 の一件は、たまたまその一部が露呈したに過ぎず、間崎自身にも似たような失策がなかったとは言 えない。権力の座にいる者の、意識しない驕《おご》りがもたらした失策だった。賄賂も取ったし、 赤石郡の開墾地で竿《さお》を打ち直したときには、地主側に有利にはからった。

山内は、いずれ間崎のそういう古い失策にも、調べを入れて来るかも知れなかった。国元にひっ かかりを持たない植村を大目付に推して来たのも、思い切った手腕をふるわせるのが狙《ねら》い だと考えられなくもない。 加賀の失策は、間崎の泣きどころだった。植村に対抗して自派の誰かを推すというわけにはいか ない。山内は正確に、その弱味をついて来ていた。 中老に就任して、まだ半年しか経っていない男の、ややつめたい感じがする横顔を、ほの暗い障 子のあたりに思い描いたあとで、間崎は眼を遠藤にもどした。それがくせで、またぱたりと両手で 膝を打った。 「ま、連中の出方を見るしかあるまい。しかし植村が大目付になったら、まずわれらも無傷では済 むまい。そなたも覚悟しておく方がいいぞ」 「存外にお気弱なことを申される」 遠藤久米次は苦笑した。そしてその笑いをひっこめると、しばらく考えこむ表情になったが、や がて声をひそめるだけでは足りないというふうに、茶碗を押しのけるとひと膝前にすすんだ。 遠藤はささやいた。 「しかし植村の大目付就任は、わが派の命取りになりますぞ」 「だから苦慮しておる」 「防ぐ手がないわけではありますまい」 「………」 「ひそかに片づけてはいかがですか」 「片づける?」 「これです」 遠藤は片手で物を斬るしぐさをした。遠藤はそろそろ四十に手がとどく年配だが、若いころに、 城下の不伝流を指南する堀川道場に学び、いささか剣名を知られた時期がある。 遠藤の顔には、ひさしぶりにそういう昔を思い出したというような、殺伐な表情があらわれてい たが、その提案は間崎には気にいらなかった。にがい顔をした。 「バカを申せ。そんなことをやれば、山内の思うつぼにはまるぞ。われから墓穴を掘るようなもの だ」 「いや、わが派の人間にやらせるわけではありません。といって、山内の側の者を使うことも出来 ませんが……」 と遠藤は言って薄笑いした。 「馬飼庄蔵という男をご存じですか。いや、ご存じないでしょうな」 「知らんな。むかし御槍《おやり》奉行に馬飼源六という男がいたが、その家の者かの」 「よくご存じで。庄蔵はその馬飼の血縁にあたります。ただいまは七十石で御旗組に勤めておりま すが、家中に聞こえた偏屈者でござります」 「思い出した」 と間崎は言った。 「馬飼源六も偏屈な男であった。しじゅう上役と諍《いさか》い、なかなか役につけなかったが、 御槍奉行になると、今度はしきりに下役と諍い、二年ほど勤めて隠居したはずじゃ」 「偏屈は、かの一族の病いでござりますかな」 遠藤は失笑した。そして自分の高笑いにびっくりしたふうに、また声をひそめた。 「馬飼庄蔵は、それがしには道場の後輩にあたります。この男にうまく持ちかければ、あるいは江 戸者を片づけてくれるかも知れません」 「軽がると言うが、植村は無外流の遣い手だと申したではないか」 「たしかに、そのように聞いております。しかし庄蔵も、偏屈者ゆえ誰も相手にしませぬが、知る ひとぞ知る不伝流の名手でござります。そのうえ、先日師匠の堀川に会ったときに笑っておりまし たが、庄蔵は五年かかって、ついに蟇《ひき》ノ舌という秘剣を習得した由《よし》にござります」 「何じゃ、蟇ノ舌というのは?」

「さて、それがしにも中味は分明でござりませんが、堀川の話では、いつからか流派の奥許しの中 に数えられて来た剣だが、堀川自身も伝授をうけたことがなく、試してみたところ、うまく遣えな んだということでござりました。坐ったまま、人を斬るそうです」 「ふーむ」 間崎は妙な顔をした。 「偏屈者には似合いの剣じゃな」 「堀川もそう申しておりました」 「そういう男なら、植村にぶつけてみるのも面白いかも知れんの」 間崎はしばし沈黙して考えこんだが、やがて腕組みをとくと、決心したようにぱたりと膝を打っ た。 「よし、まかせる。ただしわれらが仕かけたことだと、先方にさとられてはならんぞ。それが出来 るなら、やってみてもよろしいが、くれぐれも隠密《おんみつ》にな」 「うまく行くかどうかは、保証いたしかねます」 やってみろと言われて、遠藤はかえって慎重になったようだった。いくぶん控えめな口調で言っ た。 「しかし、何もやらんでみすみす山内のなすがままになるよりは、ましでござりましょうか」 [#5字下げ]二 馬飼庄蔵の家に行くと、庄蔵はまだもどっておらず、妻女が出て来て、今日は稽古《けいこ》日 で遅くなりますと言った。 遠藤久米次は、それですぐに庄蔵の家を出て、初音《はつね》町裏にある堀川道場に向かった。 ──嫁して五年ぐらいか。いくらか見ばえがするようになったかな。 遠藤は、ひさしぶりに顔をあわせた庄蔵の妻の顔を頭に描きながらそう思った。妻女は御供目付 を勤めている樋口茂兵衛の娘で、遠藤はやはり道場の同門というかかわり合いから、樋口とは懇意 にしている。素世《もとよ》という名の庄蔵の妻女のことも、十五、六のころから知っていた。 素世は、ひと口に言って醜女《しこめ》だった。下ぶくれの顔で、鼻は指先でつまめるほどに低 く、唇が厚い。肌の色が白ければ、それはそれで愛嬌《あいきよう》にもなる顔だろうが、素世は 浅黒い顔をしている。 樋口茂兵衛には、娘が二人いた。姉の友野はまわりでも評判の美人で、妹の素世とくらべると、 これが同じ腹から出た姉妹かと思うほどの娘だったが、内実は友野は母親に似、妹の方は不運にも 父親に似たというに過ぎなかった。 馬飼庄蔵の偏屈ぶりが、ひろく家中に知られたのは、素世との縁組みがまとまったときだったか も知れない。 そのころのある日、庄蔵は樋口家を訪ねた。人を介して樋口家との縁組みがすすんでいて、樋口 が気をきかせて庄蔵を屋敷に呼んだのである。樋口は酒を出して庄蔵をもてなした。風采《ふうさ い》はぱっとしないが、堀川道場の俊才と呼ばれている若者を、樋口は気に入っていた。樋口自身 が、先代の堀川弥次右エ門に剣を学んだという親しみもあった。 ころあいをみて、樋口は二人の娘を酒席に呼んで言った。 「娘は二人いるが、どっちでも気に入った方をやるぞ」 むろん冗談だった。娘二人も、その冗談を聞いてくすくすと笑ったが、樋口も娘たちも、当然庄 蔵が姉の友野をもらうつもりで来ていると思っていたのである。 ところが庄蔵は、娘たちがさがったあとで、それでは素世どのを頂戴《ちようだい》つかまつり ます、と言った。樋口の方が唖然《あぜん》とした。 「こっちに坐った見目《みめ》良い方が、姉の友野、こっちにいたのが素世で、わしそっくりの顔 をした娘だぞ」

それでいいのか、と樋口はいくらかあわて気味に念を押したが、庄蔵はむろんそのつもりでお願 いしております、と言った。庄蔵の家と樋口家の縁組みというのは、まだ二人の娘のうち、どちら かをといった程度のものでしかなかったので、庄蔵のその言葉で縁組みはそのまますすみ、素世が 馬飼家のひとになったのである。 人が右と言えば左という馬飼庄蔵の性癖に、人びとが思いあたるようになったのは、そのころか らだったろうと、遠藤は思っている。 姉の友野はそのあとすぐに、百二十石の瀬川という家にかたづき、子供も生まれてしあわせに暮 らしているところをみれば、庄蔵が格別に容貌《ようぼう》は悪いが心ばえを見込んで、素世をと ったということでもなさそうだった。 要するにそのとき、庄蔵は樋口の冗談口の中に、醜女の妹の方をとるわけはないという口吻《く ちぶり》があるのに反発して、妹に決めてしまっただけのことだったろうと、いまなら遠藤にも納 得出来るのである。 庄蔵のそういう性癖は、城勤めの間にも、また道場でもだんだんにはっきりして来て、いまでは どこに行っても変人扱いされていた。はじめ近習《きんじゆう》組にいたのが、御《お》納戸《な んど》組に、次いで普請《ふしん》組に出され、いまは城中でもっともひまな部署とされる御旗組 にいるのも、勤めの先ざきで、庄蔵のその性癖が、上役にも同僚にも忌み嫌われたせいである。 蟇ノ舌などという、師匠もよく遣わない剣を、絵図面をたよりにものにしたというのも、いかに も馬飼庄蔵らしいと遠藤は思っている。 たそがれて来た堀川道場の門を、遠藤はくぐった。母屋の方には向かわず、じかに道場に入る入 口に行くと、ちょうどそこから二人の若者が出て来たのに会った。 二人は、突然にあらわれた人間が、番頭の遠藤だとみて、あわてて道をあけ、頭をさげた。遠藤 は、道場で稽古することはもうなくなったが、道場の先輩格で、紅白試合のときに祝い酒を持参し たりするので、門人たちには顔を知られている。 「中に、まだ人がいるのか?」 と遠藤は聞いた。 「馬飼どのが、おひとり」 と、若者の一人が答えた。そなたらも、よく精が出るの、と遠藤は世辞めいた言葉を投げて道場 に入った。 道場の入口に立つと、床の真中あたりで、木刀を振っている馬飼庄蔵の姿が見えた。遠藤の方に、 ちらと眼を流したようである。だが庄蔵は、それで手を休めるということもなく、黙黙と木刀を振 っている。 見ていると、庄蔵がある撃ちこみを想定し、体をひらいて受け流したあと、瞬時に反撃に転じる 型を反覆しているのがわかった。反撃するとき、下段から木刀を回して、さながら円を描くように して肩を打つのは、青嵐という剣である。 庄蔵の無声の動きには凄味《すごみ》があった。薄暗い道場の中で、庄蔵は音もなく体を転じ、 眼にもとまらぬ速業で、見えない敵を斬る所作をつづけている。 「馬飼」 遠藤が声をかけると、庄蔵はようやく木刀の手を休めて、遠藤の方をじっと見た。 「こっちへ来い。話がある」 うながされて、庄蔵はようやく遠藤のそばに来た。強い汗の匂《にお》いが、遠藤の顔にかぶさ って来た。 庄蔵は顔面に汗をしたたらせていた。汗はおそらく全身に噴き出しているに違いなかった。さな がら真剣で敵と斬り合ったあとのように、庄蔵は荒い息をついている。 頬《ほお》がこけた貧相な顔をし、身体《からだ》も痩《や》せてみえるが、庄蔵は鋭い眼をし、 そばでよくみると、厚く引きしまった胸を持っていた。 「失礼しました」 ふっと眼の光を消して、庄蔵が言った。

「おひさしぶりです」 「身体を洗って来い。話は飲みながらにしよう」 と遠藤は言った。 [#5字下げ]三 「こういうわけで、わが派はいま窮地に立たされている」 遠藤は言いながら酒をつごうとしたが、庄蔵は手を振ってことわった。あまり酒を飲まなかった。 遠藤たちが注目していた植村弥吉郎が、国元に来て大目付に就任してから二《ふた》月近く経っ ている。その間に、植村がはやくも鳥見の陣屋と、赤石郡の増川村ほか三カ村、つまり五年前の新 竿打ち直しの時に、百姓が暴発しかけた村村に下僚を派遣したことを、間崎派ではつかんでいる。 間崎派が受身に立っているそういう状況を、遠藤は、ありのままに庄蔵に話していた。庄蔵はい くぶん迷惑そうな顔をして聞いていたが、遠藤がひととおり話し終ると、顔をあげてぽつりと言っ た。 「それがしは、どちらの派にも与《くみ》しておりません」 「それはむろんわかっておる。なに、貴公に向かって、こっちに与して植村をどうこうしろなどと いうつもりは毛頭ない。ただ今日は、同門のよしみでちょっと愚痴を聞いてもらおうかとな。ふっ と思いついて道場に立ち寄ってみただけの話よ」 「………」 「ただわれわれが解《げ》せんのは、だ。山内が、代代定府でいわばよそ者の植村を、大目付とい う重職に招いたことだな。植村は、祖父が江戸藩邸に雇われたのがはじめで、藩士とは言いながら、 国元とは血のつながりが何もない。そういうやつは、冷酷なことをやるぞ。いずれ藩内にひと騒動 起きることは眼に見えているが、今度は、これまでのようには行くまい」 「………」 「死んだ親爺《おやじ》どのに聞いているかどうか知らんが、間崎どのが、山内の親爺を家老の座 から追い落としたのは本当のことだ。山内派に落度があったからだが、その処分はといえば、職を とめ、一年の謹慎だけだった。むろん組頭の家柄はそのままだ」 「………」 「だから、間崎どのがその跡を襲って首席家老になったといっても、藩という立場からみれば、い わば禅譲といったものでな。血の雨も降らんし、誰が腹切ったわけでもない。だがよそ者の植村に は、このほどよい加減がわかるとは思えん。いまにひどいことが起こる」 「………」 「やあ、政治向きの話はこれぐらいにするか。退屈したろう」 遠藤は笑って、庄蔵の盃に酒をつごうとしたが、気がついて手酌で自分の盃を満たした。 「ところで、植村弥吉郎が無外流の達人だという話を知っておるかの?」 「いえ」 庄蔵はうつむいていた顔をあげた。むっつりした顔に、はじめて興味あることを聞いたという表 情が動いた。 「いや、そのことは以前から耳にしていたのだが、わしは話半分に聞いておった。世の中にはよく 自称の達人というのがおるからの。ところが、これがまことらしい」 「………」 「つい十日ほど前のことだが、植村は三好町に行って、稽古というか、試合というか、あそこの連 中と手合わせをしたというのだ」 三好町というのは、五間川の岸にある一刀流の神部道場のことである。不伝流の堀川道場と、城 下を二分する大きな道場だった。 「その始末を聞きたいか」

遠藤はただの剣談好きという顔になって、酔いに赤くなった顔を笑わせながら、庄蔵をのぞきこ んだ。 「滝井千八郎は負けた。三本勝負で二本立てつづけに取られて、竹刀《しない》を投げたそうだ。 藤野勝弥は、はじめ一本入れたが、あと二本をとられてやはり負けた。押されはしたが、辛《か ろ》うじて分けたのが一人いる。誰だと思うな?」 「猪谷忠八。それとも今泉藤次郎ですか?」 「今泉だ。猪谷はその日道場を休んだということだった」 庄蔵は黙ってうなずいた。酒を飲まなかったのに、かすかに眼がうるんでいるのは、心の中に動 揺があるからである。 馬飼庄蔵が、植村の剣に強い興味をそそられているのは確かなようだった。その心の揺れに手を そえてひと押しするように、遠藤は言った。 「秋の三好町との恒例試合で、馬飼はたしか今泉と分けたと申しておったな」 「はあ」 「植村という男は、すると貴公とほぼ互角の剣を遣うということかの。頭が切れて、腕が立つ恐る べき男が、われわれの敵に回ったことになる」 「………」 「わしの恥を話して聞かせようか」 遠藤は、盃を飲み干すとつるりと額を撫《な》でた。 「じつを申すとな。植村がこちらに来て半月ぐらいも経ったころかな。数日、夜分に植村の様子を さぐったことがある」 ちょっと待て、と言って遠藤は立って行くと襖《ふすま》をあけて廊下をのぞいた。 二人がいるのは、染川町の料理茶屋小花の離れ座敷である。間崎や遠藤たちがしじゅう使ってい る部屋で、さっきおかみに人払いを命じたから、誰も来るはずはないのだが、遠藤はこれからする 話にもったいをつけたのであった。 「植村は代官町に屋敷をもらって、そこで執務しておるが、毎晩和泉町の山内の家に行く」 もどって来て坐り直すと、遠藤は声をひそめてそう言った。 「毎晩だぞ。連中の意気ごみがそれでわかった。わしは、これはいかんと思ったな。間崎どのは、 まあやりたいようにやらせておけ、と鷹揚《おうよう》にかまえておられるが、そんなことでは済 むまいと思ったのはそのときよ。わしは、よし、隙《すき》あらば斬ってくれようかという気にな った」 「………」 「ところが、そのつもりでつけ回してみると、どうして植村という男は隙のない人間でな。わしは 何にもしないであきらめてしまったという次第だ。それも道理、今度の三好町の試合の模様を聞く と、わしに斬れるような相手ではなかったらしいわ」 「番頭」 庄蔵が顔をあげた。眼の光が据わっている。 「つまり、それがしにやれというお話ですか?」 「おい、おい」 遠藤は、狼狽《ろうばい》したように手を振った。 「勘ちがいしては困るぞ、馬飼。愚痴話だとはじめからことわっておる。貴公が政治向きのことに はうとい人間だとわかっているから、気楽に話したことでな。変に気を回したりするのはやめろ」 「………」 「あの男を斬ろうかと思ったというのは、あくまで内緒話よ。斬れば斬ったで、また騒動が起きる。 誰も貴公に、植村を斬れなどと頼んだりはせん。つまらんことを考えずに一杯やれ。さっきから少 しも飲んでおらんではないか」 しかし馬飼庄蔵は、やはり飲まずに間もなく先に帰った。 ──女を呼んで、飲み直すか。

遠藤は、渡り廊下を遠ざかって母屋の方に消える庄蔵を見送ってから、暗い庭に眼を投げて、そ う思った。 手をひらくと、じっとりと汗ばんでいた。遠藤は酔ってはいなかった。 馬飼庄蔵の耳に吹きこんだいろいろな話が、はたして植村弥吉郎の暗殺につながるかどうかはわ からなかった。庄蔵がその気にならなければそれまでの話である。 だが庄蔵は偏屈者である。どんなに事わけて話して聞かせたところで、だからやれなどといえば そっぽを向く男である。だが今夜は、事わけて話したうえで、やってはならんと言ったのだ。 うまくいけばひっかかって来るかも知れなかった。もっともそれは、庄蔵がおれがした話にどれ だけ興味を持ち、なかでも植村弥吉郎という人物に、どういう印象を抱いたかにかかっている、と 遠藤は思った。 女を呼ぼうかと思った気持をひとまず措《お》いて、遠藤は灯のそばにもどった。そして皿に残 っていた鯛《たい》の刺身を指でつまむと、醤油《しようゆ》をつけて口の中にほうりこんだ。 一人の男を罠《わな》にかけた後味はよくなかった。遠藤は、庄蔵の妻女の顔を思い出している。 醜女だとばかり思っていたが、顔の造作はともかく、素世は肌にしっとりと脂がのり、人妻らしく なまめいて見えた。子供がないと聞いていたが、庄蔵との仲はうまくいっているのだろう。もし庄 蔵が話に乗って、植村を斬るようなことになれば、一人の平凡な女に、不意の嘆きをみせることに なるかも知れないなと遠藤は思った。 しかし馬飼庄蔵ほど、暗殺者に適した人間はいない、とも思うのだ。剣だけのことを言えば、古 巣の堀川道場に、庄蔵より技倆《ぎりよう》は上とされている人間がまだ二人いる。正木駿之助と 飯塚甚五郎である。遠藤はこの二人とも懇意にしている。 だが正木にしろ飯塚にしろ、いわゆる世間並みの分別をそなえた大人だった。かりに二人を暗殺 に同意させようとすれば、説き伏せてその分別を捨てさせるむつかしさがあるだろう。その点馬飼 庄蔵は、つねに世間的な分別にさからい、平気で踏みにじって来た男である。 ──それに、斬れと命じたわけではない。 遠藤は、今度の話を庄蔵に持ちかける気になったそのときから、ずっと心の底に隠してきた、狡 猾《こうかつ》と呼ばれても仕方ないこの考えを、ふっと思いうかべ、すぐに揉《も》み消した。 植村を斬るとすれば、庄蔵は誰に命ぜられたのでもない。自分の意志で斬るのである。 かりに事が露《あら》われて糾問をうけるようなことになっても、庄蔵はそう述べるしかなかろ う。間崎も、遠藤も、暗殺をすすめたわけではないのだ。かりに山内が乗り出しても、糾明はそこ で行きづまるだろう。馬飼庄蔵ほど、暗殺者に適した男が、またとあろうか。 やましい気持がないわけではなかった。だが間崎も、そして遠藤も追いつめられていた。そのや ましさに耐《た》えるように、遠藤はもう一度刺身を口にほうりこみ、冷えた酒を乱暴に喉《の ど》に流しこんだ。 [#5字下げ]四 馬飼庄蔵は、中老屋敷の門内に消えた植村を見送ると、そのまま道の反対側にある寺門の下に入 ってうずくまった。寺は蓮泉寺という曹洞《そうとう》宗の寺院で、藩から十石の黒印状をうけて いる古い寺である。門扉のうちは静まりかえって、檐下《のきした》の闇《やみ》にうずくまった 庄蔵をとがめる者はいなかった。 今夜で三晩、庄蔵は植村弥吉郎をつけ回していた。だが斬ると心を決めたわけではない。気持が まだ、そこまでは踏みこんでいなかった。 遠藤から話を聞いて、遠藤が与している間崎派が、新しい大目付の出現に周章している事情はわ かったが、庄蔵はおれにはかかわりがないことだと思っていた。悪いことをしているからあわてて いるわけだろうと思うだけである。 遠藤久米次にも、味方して人を斬るほどの義理があるわけではない。城中で役を持つと、例外な く道場から足が遠のくものだが、遠藤はその中でめずらしく時どき顔をみせ、先輩顔で小まめに世

話をやいて行く。二年ほど前、道場を建て増ししたときにも、遠藤は古い門人の間に奉加帳を回し て寄附をつのってくれた。そんなことで顔を見知っているというに過ぎない。 だが遠藤が、料理茶屋の小花でした話の中には、いくつか庄蔵の気持をそそるものがあった。 たとえば植村が、神部道場を訪ねて今泉と引きわけたということである。かなり剣に自信がある 男らしいな、と庄蔵は思う。植村の無外流の剣に興味をそそられる。また遠藤がしきりに口にした よそ者という言葉にも、庄蔵は気持がひっかかった。 遠藤の話を聞いてから、庄蔵は登城して来る植村を注意深く待ちうけた。大目付は毎日登城する ということもなく、登城の時刻も一定ではない。だがそのつもりで見張っていたので、一度だけ城 内で間近に植村を見ることが出来た。一度見ただけで十分だった。 ──なるほど、よそ者だの。 馬飼庄蔵が抱いた感想はそういうものだった。植村弥吉郎はさっそうとしていた。長身|白皙 《はくせき》の、それだけでも目立つ男だったが、植村にはもっとはっきり、家中の者とは異質の 水ぎわ立った印象があった。服装にも、威厳があるがやや取り澄ました感じの顔にも、さっそうと した歩きぶりにも、隙というものがなかった。これが江戸風というものかと、庄蔵は納得した。 家中にも風采の立派な男はいるが、植村とならべたら、やはり見劣りするに違いなかった。しか し、それで植村に好意を持ったわけではない。その男が庄蔵の気持の中に残したのは、むしろ淡い 反感だった。 ──これで剣が強いと来ては、かなわんわけだ。 庄蔵は、取調べられてはまずいことがあるらしく、あわてている間崎家老や、番頭に同情した。 植村に対する反感は、起用した中老の山内に対する反感も呼び起こすようだった。庄蔵には興味 がないことだが、遠藤の話を聞いたかぎりでは、山内は間崎につながる一派を藩政からしめ出して、 自派で藩政の実権を握りたいと考えているらしかった。 旧弊を一掃して、清新な藩政を敷こうという意気ごみだろうが、それも一ときの話よ、と庄蔵は 思う。年月経れば、その山内も汚れて来る。同じことの繰り返しで、どっちにころぼうと、それで わが家の扶持《ふち》が一俵でもふえるわけではない。 政治に対するその嘲《あざけ》りが、庄蔵に植村をつけ回すことを思いつかせたようだった。神 部道場はまずいことをしたものだ、と庄蔵は思っていた。 今泉藤次郎は、植村弥吉郎を打ちのめして、国元にも人がいることを示すべきだったのだ。そう すれば、あの立派すぎて鼻もちならない男が、城中人もなげに肩で風切って歩くこともなかったろ うに。 今泉が出来なかったのなら、おれがやってもいい、と庄蔵は思っている。だが、斬ることはなか ろう。斬れば、遠藤の思うつぼにはまる。遠藤は、植村を斬らせたくてうずうずしていたが、言え ばおれがそっぽを向くから言いかねたのだ。 馬飼庄蔵は、寺門の檐下にうずくまったまま、声を出さずに笑った。そして立ち上がると手をあ げてのびをし、ついでに疲れた足を屈伸した。 一度、やつが肝《きも》をつぶすようなことを仕かけてやろう。それとも植村の剣は、おれが歯 も立たないようなものなのか。 庄蔵の関心は、最後にはそこに落ちつく。植村の無外流の剣を見たかった。こちらが歯も立たな いような剣客なら、キザな男だが、のさばらしておくしかない。遠藤も間崎家老も、気の毒だがあ きらめるしかないというものだ。 山内の屋敷に灯のいろが動いた。庄蔵は檐下にいる身体をちぢめて、灯の動きを追った。灯のい ろは、木陰にでも入ったらしく、一たんうすれたが、今度は門の潜《くぐ》り戸が開いて、提灯 《ちようちん》をさげた男が路に出て来た。植村だった。植村は外に出ると、後も見ずに足ばやに 歩きだした。 よほど腕に自信があるらしく、植村はいつも一人だった。その黒い背を見送り、中老屋敷の潜り 戸が、軋《きし》る音を立てて閉まったのを見きわめてから、馬飼庄蔵も路に出た。

庄蔵は、十間ほど先を行く植村のあとを、黙黙とつけて行った。もう四ツ(午後十時)を回った はずで、町は人通りもなく暗かった。ただ星あかりで、足もとはわずかに白い。 遠くに小さく灯のいろが見えて来た。代官町の手前にある三ノ曲輪《くるわ》入口の木戸の明か りらしかった。庄蔵は少しずつ、前を行く植村との間隔をつめて行った。 突然植村が立ち止まった。振りむくと提灯をかかげ、足をとめた庄蔵の顔を確かめるように見た。 「間崎の刺客か」 と植村が言った。おだやかな声だったが、眼は鋭く庄蔵を注視している。 「いや、違う」 と庄蔵は言った。植村は低い笑い声を洩《も》らした。 「違うと! しかし貴公、わしのあとをつけるのは、たしか今夜で三晩になるだろうが……」 「そうだが、刺客ではない」 「おかしなことを言う男だ」 植村は目の前にいるのが、城中に聞こえた偏屈者だということを知らなかった。不用意に嘲る笑 い声を立てた。 「見え透いた言いのがれはやめろ。刺客でもないものが、深夜に何でわしのあとをつけるか? み ればれっきとした家中のようだ。まさか物盗りというわけではあるまい」 「………」 「わしは間崎の刺客など恐れてはおらん。いつでも受けて立つぞ」 傲然《ごうぜん》とした口調だった。庄蔵は胸の中に、いつもの馴染《なじ》み深いものが動く のを感じた。動くものは、庄蔵の胸の中をゆっくり移って行って、ふだんの在り場所とは違う、し かし元来はそこにあるのが本当ではないかと思われる居心地のいい場所に、しっくりと納まった。 履物をぬぎ捨てて、庄蔵は言った。こういうとき、庄蔵の声は滑らかに口を出る。 「では、お言葉どおり刺客ということにしていただこうか」 「ふむ」 植村は庄蔵の足くばりにじっと眼をとめた。それから不意に驚愕《きようがく》した表情で、庄 蔵の顔を見直したが、すぐに自分も履物をぬぎ、灯を消して提灯を捨てた。 ほとんど同時に、二人は刀を抜いた。しばらく動かなかったが、やがて星あかりにおぼろにうか ぶ相手を確かめるように、二人は少しずつにじり寄って行った。 [#5字下げ]五 草履《ぞうり》を片方、さがしても見つからず置いて来たが、家に帰りつくまで人には会わなか った。植村の剣はさすがに鋭く、あちこちに手傷を負ったが、素世に手当てさせて医者は呼ばずに 済ませた。城にも休まずに行った。御旗組は詰所にじっと坐っていればよい。昼過ぎになって熱が 出たが、同僚には風邪だと偽った。熱は一夜でさがった。 ひょっとしたら露われずに済むかも知れない、と馬飼庄蔵は思ったのである。 だが期待をかけた大目付を暗殺された山内派の調べは、執拗《しつよう》できびしかった。中老 の山内は、自派の物頭《ものがしら》三宅《みやけ》勘十郎を大目付に推し、強引に間崎以下の家 老たちの承諾をとりつけると、大目付、町奉行の両役職を動かして、植村弥吉郎暗殺の一件を洗い はじめた。 植村は無外流の剣士でもあった。山内は、その植村を暗殺するほどの腕を持つ家中の氏名を残ら ず書き出したらしく、庄蔵も一度大目付屋敷に呼ばれて取調べをうけた。 そのときの調べで、山内が城下の医者、薬種屋にのこらず手を回し、また残っていた草履片足を 持たせて、履物屋を回らせていることがわかったが、庄蔵はそういう調べが自分におよんで来るこ とはあるまいと思っていた。履物は、ふだんは下駄履きである。草履は、二年ほど前に素世が外か ら買って来たものだが、庭の草花を手入れするときなどに使い、古くなっていた。

だが調べは意外な方角から来た。二月ほど経ったころ、庄蔵はもう一度大目付の屋敷に呼ばれた。 呼び入れられた部屋に、年若い小坊主がいた。 「よくみろ。この男か」 と大目付の三宅は小坊主に言った。庄蔵は小坊主の顔を見返した。そしてあることを思い出して、 少し顔色が変った。 植村を斬った夜ではなく、その前の夜、庄蔵はやはり蓮泉寺の寺門の下にうずくまって、植村が 中老屋敷から出て来るのを待っていた。そのとき突然に路上を明かりが近づいて来るのに気づいて、 庄蔵は寺門の一番深いところ、潜り戸のそばにへばりつくように身体を寄せた。 寺の門は、通りから二間ほど奥にひっこんでいて、浅い石段で道より高くなっている。路を通り すぎる人間を、そこでやり過ごそうとしたのだが、明かりは急に曲って寺門に入って来た。 提灯の明かりに照らされて、庄蔵は避ける間もなく、灯を持った人間と顔をあわせた。それがい ま大目付のそばにいる小坊主だったのだ。そのとき庄蔵は、さりげなく門をはなれて路に出たのだ が、小坊主は庄蔵の顔をおぼえていたらしかった。 顔色が変った庄蔵をみながら、小坊主は少しおびえた表情で、このおひとに間違いありませんと 言った。三宅は小坊主を部屋の外に出し、かわりに配下の者を二人部屋に呼び入れた。 屈強な身体つきの配下二人は、逃亡をふせぐように庄蔵のうしろに回って坐った。万事休したと 庄蔵は思った。 「貴様にやられる前の晩にだ。植村どのは屋敷にもどると、家の方に今夜も刺客につきまとわれた と話したそうだ」 「………」 「しかし何だな。わしは植村どのの傷を改めたのだが、馬飼の不伝流は大したものだの」 三宅は感心したように言ったが、すぐに顔色を改めた。 「さあて、少し問いたださねばならんぞ。その刺客というやつだが、誰に頼まれた?」 三宅勘十郎の訊問は峻烈《しゆんれつ》をきわめたが、庄蔵は自分の一存でやったと答えるしか なかった。事実誰に頼まれたわけでもなかったのだ。三宅はきびしく問いつめて来たが、強いて庄 蔵と間崎派を結びつけるようなことはしなかった。 庄蔵は一たん家にもどされ、即日、追って沙汰《さた》があるまで閉門という処分をうけた。屋 敷の周りには藩の手で竹矢来《たけやらい》がめぐらされた。喰い物をもとめるために、妻の素世 だけが見張りにことわって外に出ることを許されたが、外とのつながりはそれだけで、夏が終ろう とする日日を、夫婦は鶏のように竹矢来に隠された家の中で暮らした。 ある日素世が、声をひそめて言った。 「わたくしから申しあげるのはさし控えて参りましたが、間崎さまのお助けは、あてにはなりませ んのですか?」 「それは、あてに出来ん」 「なぜでございます?」 素世は、膝頭がくっつくほど夫につめ寄った。 「植村というおひとのことは、間崎さまと山内さまのお争いから起きたことだと、このあたりでは もっぱらの噂でした。わたくしはお前さまが間崎さまにお味方したものとばかり思っていましたが、 違いますか?」 「世間ではそう申すが、実情は違う。わし一人でやったことよ」 「なぜ、そのような……」 と言ったが、素世はそこで絶句した。考えてみれば夫はこれまで、ずっと理屈に合わないことば かりやって来たのである。 近習組、御納戸と城内の勤めがつづいていたのに、まわりと合わず、ついに外勤めの多い普請組 に回されたとき、上役があわれんで庄蔵を役につけようとした。小頭《こがしら》になれば手当て がつく。だが庄蔵は家にもどってその話をし、あわれみはうけぬとことわったと、得得と話したの

をおぼえている。塀ぎわの白木蓮が見事だと、近所の者がほめたと言ったら、庄蔵は夜の間に、残 らず花をむしり取って捨てた。 そもそもが美しい姉をめとらずに、自分のように醜貌の女をえらんだ夫である。その夫が、今度 だけは理屈にかなったことをやったと考えた自分の方がおかしい。素世はそう思いながら、ひげが のびて物乞いのようにやつれている夫の顔をじっと見つめた。 [#5字下げ]六 追って沙汰すると言った、城中からの沙汰がもたらされたのは、秋も半ばにさしかかった九月中 旬の夜だった。 使者は徒目付《かちめつけ》の田原勝右エ門と、馬廻《うままわり》組の奥富|初之丞《はつの じよう》の二人だった。田原は一刀流をおさめて若いころ名を知られた人物で、奥富は城下で去水 流を指南する小さな道場で、師範代を勤めている。まだ二十二の若者ながら、精妙な剣を遣う剣士 として知られている。この二人を使者にむけて来たところに、馬飼庄蔵に対する城側の用意があら われていた。 田原は、四十を過ぎている温厚な藩士である。髪を束ね、口をすすぎ、衣服を改めて二人の前に 出た庄蔵に、田原は沙汰が遅れたのは、庄蔵の一件と藩内の派閥争いの間に、かかわりがないかど うかを究明するのに手間どったためだが、その事実はない旨判明したと言った。淡淡とした口調だ った。 田原が話している間、奥富は無言のまま庄蔵を凝視していた。刀は左膝わきに置かれている。い つでも抜ける支度をしておる、と庄蔵は思った。 田原は、やがて形を改めると、懐から沙汰書を取り出して、庄蔵に示した。 「お上よりご沙汰がくだった。うけたまわれ」 田原は、世間話をするようだったさっきの口調とは声音も変って、きびしくそう言うと、沙汰書 をひらいて読み上げた。 閉門を解き、切腹を命じるという申し渡しだった。 「相わかったな。介錯《かいしやく》は奥富がつとめる。いさぎよくうけたまわれ」 「いや」 と庄蔵は言った。庄蔵は頭をあげると尻をわずかに動かして、足の指を内側に曲げた。手をつか えたままだったので、庄蔵の姿は蟇が這《は》いつくばっているようにみえる。 「その前に、いま一度お取調べを願いたい。植村どのを斬った一件は、間崎家老にかかわりがござ る。それがしを、いま一度大目付の前に引き出して頂きたい。申しあげることがある」 「何を申すか」 田原は鋭い眼を庄蔵にそそいだ。 「そのことはさきほど申し聞かせたとおり、かかわりなしと判明しておる。さきに行なわれた大目 付の調べに、貴様も同様に答弁しておるではないか」 「………」 「見苦しい真似《まね》をいたすでないぞ、馬飼。お上のご沙汰じゃ。神妙にうけたまわれ」 「いや、このままはうけたまわらぬ」 「うけたまわれ、馬飼」 田原は叱咤《しつた》すると同時に、肩衣《かたぎぬ》をうしろにはねた。だが庄蔵に斬りかか ったのは奥富初之丞の方がはやかった。 奥富は、上意とひと言告げると、片膝を立てて抜き打ちに庄蔵に斬りかかった。坐ったまま、庄 蔵は捩《よじ》るように上体をかたむけて、奥富の迅《はや》い剣をかわした。そしてかわされて 前に傾いた奥富の胸を、眼にもとまらぬ小刀の動きで刺していた。蟇は死んで動かない虫は食さな いという。庄蔵も、奥富初之丞が動きを起こすのを待っていたのである。庄蔵の剣は、さながら鈍 重な蟇が一閃《いつせん》の舌先で翔《と》ぶ虫を捕えたのに似ていた。

奥富の身体が音立てて前にのめった。次の瞬間、庄蔵と田原ははじかれたように立って、剣を構 えていた。 素世は台所に坐ったまま、座敷の方から夫と城から来た使者が高声に争う声を聞いた。うけたま われ、うけたまわらぬと言ったようである。つづいて何ごとかはげしい物音がつづき、その間に、 玄関から座敷まで、人が駆け抜けて行った足音も耳にした。 そして、やがて静寂がおとずれた。その静けさは、素世の心を凍らせた。素世は顫《ふる》える 足をはげまして立ち上がると、台所を出て座敷に行った。 行燈《あんどん》の光の中に、血刀をさげた夫が立っていた。死体が三つ、部屋の中と廊下の板 敷にころがっていた。二人はさっき城から来た使者で、一人はいつも門前にいる見張りの男だった。 立ちこめている血の匂いに、素世は身体が顫えた。すると夫が振りむいて、素世に言った。 「わしを罠にかけたやつがおる。これから打ち果しに行く」 夢見るような表情をうかべていた夫の顔に、そう言ったとき、これまでついぞ見たことがなかっ た、悲しげないろがうかんだのを素世は見た。素世は黙ってうなずいた。うなずくことぐらいしか、 夫にしてやることがないのを感じていた。 夫は部屋を出ようとしたが、戻って来ると素世の肩にそっと手を置いた。 「そなたを嫁にもらったのも、わしの偏屈のせいだと言う者がいたが、あれはちがうぞ。わしはそ なたが気に入って、夫婦《めおと》になったのだ」 達者ですごせ、というと馬飼庄蔵は足ばやに部屋を出て行った。 素世は座敷の灯を消して、台所にもどった。ほの暗い台所の板敷に坐ると、とめどもなく涙があ ふれて来た。

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