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「顕示的」な労働

今村仁司は、近代の労働観を古代のそれを転倒する形で生じたものだとみる。108古代の労働観では、
手仕事などの肉体的行為、職人的なあるいは芸術家の制作までが格の低い行為とされ、モノを作ること
ではなくモノを使うことが価値が高く格の高い行為とみなされた。近代以前は、余暇、自由時間の文明
であった。余暇による無為は公共的世界(議会などの討論の場)を生み、その中で活動的に生きること
が価値のあるものとされる。一方労働は、宗教的、道徳的な評価によって支えられた。
しかし近代の産業社会は、時間に服従して行動する「機械的身体」を必要とする。これを用意したの
がプロテスタンティズムの職業倫理、そして強制的禁欲政策と救貧院制度等の国家による社会政策であ
る。一方ではブルジョア階層における自己規制的な職業労働が確立し、もう一方では救貧制度が怠惰な
人間を収容所に監禁し強制労働を通じた禁欲的生活を学習させることによって下層労働者の労働心性を
近代化した。今村は、この強制労働と強制禁欲によって民衆の身体を変換させることなしには「近代資
本主義はとうてい再生産軌道に乗ることはできなかったであろう」とみる。
また強制労働は「労働の喜び」論という主張を生み、これが後に強制なき共同労働の「喜び」を期待
する社会主義思想を生む。しかし実際には、
「労働の喜び」は内在的に湧き上がるものではなく、他人の
承認欲求をよりどころとしたものである。承認欲望のメカニズムにはつぎのような三つのタイプがある
とする。第一に、下位の他人からの承認によって自分が「偉い」と感じることである。また、現実的な
下位の他人がいない場合には、けっして下位でも劣等でもない他人に対して「下位の他人」というレッ
テルを貼る。これは、異質なものの排除という力学につながることになる。第二に、同等者としての他
人による承認である。これは、生産目標の達成のために、企業によって競争が支援・強制されることも
ある。これはときに、労働の成果、出来映えを争点とした「労働ポトラッチ」によって、上位の威信、
権威を獲得するための際限なき競争を生むことがある。第三に、上位の他人からの承認である。この場
合、自分から率先して上位の他人(上司など)に服従することになる。
内在的な労働の喜びというものは虚構であり、その価値は、実際にはその社会的な評価の中にある。
労働の質や仕事の内容と関係なく「ブランド」
、「名声」が重視され、上司や同僚から評価されることが
その動機となるのである。

近代の労働観では、労働は「顕示的消費」の対象である。ティボール・シトフスキーによれば、仕事
は、経済学者が考えるように必ずしも不快なものではない。109相対的に所得水準が高く創造的な職業(大
学教授など)では、豊かさが増すにつれて労働時間は増加する。人間の欲望は社会的地位を追い求め、
その地位の目印となるものへの支出、すなわち「顕示的消費」
(ソースタイン・ヴェブレン)を拡大させ
る。さらに習慣が形成されると、地位を喪失することは苦痛を生むようになる。仕事や地位の上昇など
に関わる欲望は「快楽」への欲望である。心理学では「快楽」と「安楽」を異なるものとして捉えてい
る。これらは、興奮のさまざまな水準であり、脳波によって測定することができる「覚醒」をキーワー
ドとして整理される。安楽は覚醒の水準に関係しそれが最適水準にあるかどうかに依存するのに対し、
快楽は覚醒の水準の変化が引き起こす「新奇さ」に依存する。満足が高まるにつれ安楽への欲望は飽和

108
今村仁司『近代の労働観』

109
ティボール・シトフスキー(斉藤精一郎訳)
『人間の喜びと経済的価値 経済学と心理学の接点を求
めて』

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するが、快楽への欲望は飽和することがない。

近代は労働の文明であり、万人は必然的労働に拘束される。必然的労働が生活のすべてを包摂し、無
為と自由な時間は消滅し、それによって公共的空間、言説による共同の事物の思考と討議はしだいに成
り立たなくなる。すべてが労働となることは万人が奴隷的になることである。労働の中の自由とは、自
発的隷属の別のいい回しに過ぎない。労働の喜びが虚構であるとすれば、仕事や地位を得ることの喜び
もまた、それに対する社会的な評価に付随するものということになる。労働が有する価値とは、顕示的
なものに過ぎないのであり、労働の内容や行為そのものが人間に喜びを与えてくれるわけではない。
このような労働に対する否定的な見方は、その対極にある余暇の時間こそが人間にとってほんらい的
な価値をもつものだとする見方につながる。武田晴人は、近代の労働観の本質を労働と余暇の二分法の
中にみる。110労働とは、賃金を得るためにやむを得ず行わざるを得ないものであり、人間にとっては、
余暇のように自発的に行動できる時間を増加させることが望ましい。このような二分法は、主流派の経
済学をはじめとして、広く受け入れられている観念である。
日本では、勤勉、勤励などの言葉は仕事や勉強に精を出してはげむことを意味し、プラスのイメージ
をもつ。欧州においても、一生懸命に働き、浪費を抑えて貯蓄をし、それを再投資して経営を拡大して
いくことは、資本主義の精神(ウェーバー)そのものであるとされる。しかし武田は、日本の近世の農
民には貯蓄という観念は希薄であって、労働の投入それ自体がおおいことが重視されていたことを指摘
している。資本主義の精神を代表する働き方は企業家のそれであり、骨折り仕事や肉体労働は観念とし
てはむしろ奴隷労働に共通するという。近代の労働は分業と協業による労働であり、仕切られた時間と
空間の中で、指揮命令系統の中で働くことを余儀なくされる。特に日本の雇用システムは、それぞれの
労働者が行う仕事(職務)に明確な仕切りがなく、これはときに無限定的な残業を要請されることにも
つながるものとなる。
このようなマイナスのイメージがつきまとう労働について、労働そのものの価値を救い出すための術
として、武田は「働くことの復権」を提唱する。これは、労働に対して余暇の時間をおおくすることを
意図するものではなく、むしろ、労働と余暇の垣根を取り払うことを意図しており、それによって労働
と余暇の二分法という近代の労働観をも超えることを意図している。またこれは、賃金を得るための職
業的労働だけに価値をおくのではなく、家事労働、ボランティア活動などにも同等の評価を与え得る仕
組みを目指すものである。
武田が目指す近代の労働観の超克は、労働そのものが、その社会的な評価とは異なる本質に内在した
喜びをもたらすものであることを要請する。現実の労働では、賃金の多寡が労働そのものの価値を表現
するものとなっている。日本の年功的な賃金制度のもとで、労働者はその微妙な差に敏感となり、働き
方や仕事の内容よりも、賃金の支給額が労働に対する評価の基準となる。しかし、人間は知識と経験を
仕事の中に注ぎ込み、よりよいものを作り出そうという「制作者本能」
(ヴェブレン)をもっている。こ
の本能を営利的な動機付けから救い出すことによって、ほんらいの労働の価値を見出そうとする。
しかし、そのような労働は、個々人それぞれにとって異なった使用価値をもつ財・サービスを個々人
それぞれが制作するようなものであって、労働の中に報酬とは異なる一律の評価の基準を見出すことが
できるものとはならない。その意味で、この労働はマルクスが見出した「一般的抽象的労働」という一
般性を有する価値へとつながるものにはならない。またそれは、市場経済そのものをこれまでとは異な

110
武田晴人『仕事と日本人』

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ったものとし、分業と協業という特徴をもつ現代の労働そのものを見直すことにもつながる。こうした
方向性は、産業的効率を犠牲にし、かつての太古的な労働観に時計の針をもどすことによってしか得ら
れるものではない。
もし、報酬とは異なった一律の基準というものを労働の中に見出すことができたとしても、それが顕
示的な意味をもち、それによって労働そのものの価値付けが行われるという現実が変わることにはなら
ない。あるいは、そうした顕示的な価値は、報酬がなくとも労働を求める一群の人々を生み出すことで、
いわば「やりがいの搾取」とよばれるような現象を生むことにもなる。このような労働の仕方には、ワ
ーカホリックとなって、無報酬の残業を含めての長時間労働をいとわない企業労働者の働き方にも共通
する特徴がある。先にみたように、産業的効率の増大は、それによって労働を軽減することなく「顕示
的消費」を満たすため生産高の増加へと向かいがちである。労働のもつ顕示性もまた、産業的効率を生
産高の増加へと向かわせる誘因となるものである。
一方、今村の場合は、
「多忙と増殖の原理」である勤勉労働の時間を可能な限り縮小し、
「よさと正し
さ」を考える余裕としての自由な時間を創造しなくてはならないという結論に行き着く。今村は近代の
労働文明における禁欲と勤勉という心性を乗り越えることを提起する。今村にとって、禁欲と勤勉を乗
り越えるための目的とされるのは「公共性」の回復である。しかし禁欲と勤勉という心性を乗り越える
道義性に関して、今村とは異なる別の視点もあり得る。すなわち禁欲と勤勉、あるいはこれらを別の相
から眺めたときに見出される蓄積欲、貨幣愛などは、マクロ経済の変調や経済のデフレ基調に密接に関
わる。こうした人間の性向は「デフレ心性」とよぶこともできよう。
先にみたように、不況の時期には貨幣流通速度(一定期間に貨幣が取引に使用される回数)は大きく
低下する(前章 Fig.11)。貨幣愛の高まりは、景気循環と密接に関係している。そもそも 1990 年代以降、
経済全体に供給されている貨幣の総量であるマネーストックの伸びは低い水準が継続している。中央銀
行による貨幣の発行によってもマネーストックの伸びを高めることは難しく、マクロ経済は久しい期間
にわたり「流動性の罠」に陥っている。こうした中で、不況下の急速な貨幣愛の高まりに対するマクロ
経済の脆弱性は、高まることになる。

所得の増加が実質消費を増やし、それが雇用の安定にもつながるという好循環によってこそ、人間の
幸福を可能にする経済が実現される。貨幣愛の向かい側には商品や労働の価値を高める見方があり、勤
勉さの向かい側には労働時間以外の生活時間をより重視する見方(ワークシェアリングなど)がある。
しかし経済全体のバランスがひとたび失われると、貨幣愛は高まり、商品や労働の価値は低下する。ワ
ークシェアリングはむしろ賃下げや「企業内失業者」のようなイメージを想起させる。職業訓練は勤勉
さを要請する規律の強化にあい重なり、人間の改造を意図するもののごとく受けとられる。積極的な就
労化はそもそもパターナルな政策であるが、個人の価値観を社会のそれに合わせようと意志する仕方と
親和的なものとなる。
雇用システムを経済に従属させるのではなく、
「マクロ・レベルの成果の改善」によって労働のための
経済を実現することが必要である。これが「デフレ心性」とは異なる、新しい労働の倫理が生じるプラ
ットフォームとなる。仕事と生活の調和のとれた人間の生活が可能となり、職業訓練などの積極的な就
労化政策は、経済全体の効率を高めるという新たな目的をもつことにつながる。

現在、日本経済の将来に対して、1990 年以前のような成長を期待することはできないとする悲観的な
見方は、まれにみられるものではなく、もはや一般的な通念ともなりつつある。こうした通念は、日本

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の雇用システムはいずれどこかで変革を迫られるものだという結論を導く。このような日本の雇用シス
テムに対する批判と相前後して論じられることに「働きたくない」自由を積極的に認めること、いいか
えれば職業の貴賎を積極的に認めやりたくない仕事はしないという考え方を権利として認めるというも
のをあげることができる。こうした傾向を有する議論には、いわゆるベーシック・インカム(すべての
人に対しその所得や世帯構成にかかわりなく無条件に給付される生活費)政策への支持も含まれる。日
本の雇用システムは、新規学卒者の定期採用と配置転換による長期安定雇用を特徴としているため、新
規学卒時の景気が悪く希望にかなう就職ができなかった者は、後代にわたってその影響をこうむる可能
性が高くな。このいわゆる「世代効果」によって、就職氷河期世代は生じる。このため、こうした傾向
を有する議論もまた、この世代の論者におおくみられるようにみえる。
見方を変えれば、就職氷河期においても仕事がなかったわけではない。リーマン・ショック以前には、
「団塊の世代」の引退にあわせ企業には技能労働者の育成に積極的に取り組む姿勢もみられた。だがこ
うした主張も、職業の貴賎を積極的に認め、やりたくない仕事はしないとの考え方を権利として認める
ことを核心とする議論を行う論者には、心を打つものにはならない。現実に中小企業に入社し、日本の
雇用システムの慣行にしたがいその企業の中で自身の職業人生を終えることになれば、先に述べたよう
に、平均的には大企業との大きな賃金格差をその後も容認せざるを得ない。
「働きたくない」自由について少し突き詰めて考えてみることにしよう。自由貿易体制があらゆる国
にとって有利なものとなることは、経済学では「比較優位」という概念によって説明される。ある国の
生産性があらゆる商品の生産において最も高いものだとしても、国際貿易の中でその国の商品がすべて
を占めてしまうことにはならない。国内の土地や資本、労働力には限りがあり、自由貿易体制のもとで、
それらをその国の中で相対的に生産性の高い商品の生産にあてることが結果的にどの国にとっても最大
の消費を可能にする選択となる。
つまりあらゆる商品の生産において生産性が低い国があったとしても、
その国の中には生産を特化させるべき商品が存在し、その商品の生産に特化することで自由貿易体制が
もっとも高い効率をもたらすことになるのである。
この考え方は人間のもつ技能(スキル)の違いにも応用して考えることができるだろう。石川経夫は、
財の生産に必要な二つの仕事A、Bがあり、それぞれの仕事にもっともよく適合する能力(円周上の原
点Oとして示される)が原点から離れる際の能率の低下の仕方に差があり、Bの方のそれが小さくなる
という二部門モデルによってこの比較優位の考え方が成立することを説明している。111もしAとBの仕
事にもっともよく適合する能力が同一のものであれば112、原点からの距離に応じてきまる労働者の能率
は、二つの仕事のうち原点から離れる際の能率の低下の仕方が小さいBの方がどの労働者にとっても大
きくなるが、相対的にBの能率がより高くなる労働者がBを選択することとなる。いずれにしても、あ
らゆる労働者には自由な市場経済の枠組みの中でその比較優位性を発揮することのできる仕事があるは
ずである。仕事の継続を意図しない家計補助的な働き方や学生アルバイトの場合には、非正規雇用は有
利な働き方となるが、そうでない場合は、みずからに開かれた働く機会の中から比較優位性を発揮する
ことのできる仕事を探し出すことがもっとも利にかなう選択となる。
しかし人間はときに《実》よりも《名》をとることがある。顕示性を求める人間の心性は飽和するこ
とがない。またそれは比較優位性の含意が示す最大の「効率」をもたらす地位に就くことを人々に躊躇

111
石川経夫『所得と富』 第3章。
112
「一般的能力」が支配的なケースであり、このほかに、能力の広がりに対応して異なる能力を活かす
仕事が用意されているケースについて分析がされている。なお前者のケースの方が、所得の格差は大き
くなる。

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させ、むしろ「高貴な」地位を永遠に求め続ける方向へと人を向かわせるものとなる。現代の市場経済
はそこに参加する人間に対し他者との比較という無限の運動を強いるものであり、自らの地位を失うこ
とへの不安にさいなまれることを余儀なくする。そしてそれが現代の市場経済の自律的でかつ自己完結
的な動きを支える誘因であり原動力でもある。
《実》よりも《名》を求める人間の習性は、自らにとって本当に得になる選択をすることを我々に躊
躇させ、結果的に働くことの目的を見失わせる。

ジョン・メイナード・ケインズは『孫の世代の経済的可能性』113において、労働生産性の向上によっ
て「百年後」の 2030 年には先進国の生活水準が平均して8倍になると想定する。ケインズは人間のニー
ズを、生活を営むうえで絶対的に必要なニーズと、他人より優位に立ち優越感を持ちたい欲求を満たす
ために必要な相対的なニーズにわける。後者のニーズ(相対的ニーズ)は、顕示性を求める人間の心性
によってけっして飽和することはないが、前者のニーズ(絶対的ニーズ)には限りがないとはいえない。
労働生産性の向上が絶対的ニーズを満たすための労働量を縮減し、その結果、人間が経済以外の目的に
よりおおくのエネルギーを使うことになれば、仮に大きな戦争がなく人口の極端な増加がないものとし
たとき、あらゆる経済的な問題は解決し「経済的至福」
(”economic bliss”)が訪れる可能性があるとい
っている。
経済的至福は、社会に大きな変化をもたらすことになる。労働時間は限られたものとなる。仕事の義
務をおおくのひとでわけ合うようにするため、
「1日3時間勤務、週 15 時間勤務」とすることが必要に
なる。富の蓄積は社会にとってもはや必要なものではなくなり、よって貨幣愛は弱まり、貨幣はあくま
で交換の手段にとどまるものとなる。

したがってわたしたちは、宗教と伝統的な徳の原則のなかでとくに確実なものに戻る自由を手に
入れられると思う。貧欲は悪徳だという原則、高利は悪だという原則、金銭愛は憎むべきものだと
いう原則、明日のことはほとんど考えない人こそ徳と英知の道を確実に歩んでいるという原則に戻
ることができるのである。昔に戻って、手段よりも目的を高く評価し、効用より善を選ぶようにな
る。一時間を、一日を高潔に、有意義に過ごす方法を教えてくれる人、ものごとを直接に楽しめる
陽気な人、労せず紡がざる野の百合を尊敬するようになる。

しかし現実をみれば、経済的至福はいまだ訪れる兆しはみられない。経済成長のペースはケインズが
想定した以上に速いものであったものの、主要国には経済的格差が広がり、主要国と途上国との間の経
済的格差も広がっている。労働時間についていえば、例えば日本の労働時間は長期的には大きく削減さ
れてきたが、
(経済危機時における製造業を中心とした大きな生産調整による低下を除いて考えれば)削
減のペースは停滞している。失業者は増加し、短時間労働者が増える中で、正社員には長時間労働がい
まだにみられる。
しかも、もし経済的至福が本当に訪れれば、果たして「働かない」自由は実現することになるのだろ
うか。経済的至福では、限られた働く機会をおおくの人の間でわけあうことが必要になる。相対的ニー
ズは飽和しない。また働く機会そのものが相対的ニーズに相当している。この意味での労働は、マルク
スのいう労働とは意味合いを異にするものであり、仕事や地位そのものが喜びにつながるものとなる。

113
ジョン・メイナード・ケインズ(山岡洋一訳)
『説得論集』に収録。

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こうして経済的至福のもとでは、労働と余暇の区別は曖昧なものとなるだろう。このように考えると、
経済的至福によって「働かない」自由が実現することはなく、人間は顕示的なものを永遠に求め続ける
ことになるのではないかと思えてくる。
経済的至福が、徳と英知を高めるもの、あるいは「公共」への貢献を生み出すものとなる保証もない
であろう。いまはまだ人間は余暇よりも豪奢なぜいたくを得るためによりおおくの貨幣を求めているよ
うにみえる。経済的至福が訪れるまでの間、我々はケインズがいうように、経済的な問題を過大評価せ
ず、生活を楽しむ術を奨励し実験する必要があるのかも知れない。そしてそれは、顕示的なものに必要
以上にとらわれず、
「実利」
(それは将来的には充実した余暇を過ごすことができるようになることであ
り、労働生産性が十分に高くない時代には自らの比較優位に相当する仕事を行い自らに相応な消費生活
を行うことである)を真に求めることにも相通じるものである。
アダム・スミスは『道徳感情論』において、富と地位の快楽という人類の勤労をかき立て継続的な運
動をさせるものを「欺瞞」とよんだ。富裕な人々は「見えざる手」に導かれることによって、自分たち
だけの便宜以上の生産物や構築物、科学技術の進歩などを生み出す。しかしその「欺瞞」は、貨幣愛や
勤勉そのものへの欲求へとつながるものともなる。そしてそれは結果としてデフレ下における豊かさの
喪失とゼロ・サム的な利害対立とを生じさせるものとなるのである。

mailto: kuma_asset@livedoor.com

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