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清 代 の北 京 におけ る

菓 子 屋 ギ ル ド及 び 点 心 舗 に つ い て
尾 上 葉 子
に、 仁 井 田 氏 の 一九 四 二年 と 四 三年 の北 京 で のギ ルド 調 査
は じ め に
に同 行 し て お ら れ る。
中 国 のギ ル ド に つ いて は、 西 洋 では ギ ャムブ ル、 バ ー ジ こ の論 文 で は 、第 一章 で 、こ れら 先 行 の研 究 を 参 考 と さ せ
ェ ス両 氏 の研 究 が有 名 で あ り 、 わ が 国 に お い て は根 岸 倍 、 て い ただ き なが ら 、 清 代 北 京 に存 在 し た ﹁糖 餅 行 ﹂ と いう

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(1 )
加 藤 繁 、 仁 井 田陞 、 今 堀 誠 二 の各 氏 の研 究 が 有 名 で あ る。 菓 子 屋 お よ び菓 子 職 人 達 のギ ルド に つ い て取 り 上げ て み た
(3 )
中 でも 仁 井 田 氏 は、一九 四 二年 か ら 一九 四 四年 に至 る毎 年 、 い と 考 え る 。 糖 餅 行 を 特 に 取 り 上 げ る 理 由 は 、 一っ に は 、
実 際 に北 京 でギ ル ド の調 査 を 行 って お ら れ る。 こ の調 査 に ﹃資 料 集 ﹄ に こ の ギ ル ド に 関 し て多 く の資 料 が 集 め ら れ て
基 づ い て仁 井 田 氏 は ﹃中 国 の社 会 と ギ ルド ﹄(岩 波 書 店 、 一 い なが ら 、 そ れ自 体 を 主 題 と す る 研究 が これ ま で さ れ て い
九 五 一)を著 さ れ 、ま た 、調 査 さ れ た石 刻 の内 容 や 、実 際 に な い こ と で あ る 。 も う 一つ に は 、 一つ の ギ ル ド の な か に 北
ギ ル ド の人 々 と の間 で行 わ れ た質 疑 応 答 の内 容 は 、 東 京 大 京 出 身 の菓 子 屋 グ ルー。
フ で あ る ﹁北 案 ﹂(
﹁京 案 ﹂ と も い う )
学 東 洋 文 化 研 究 所 付 属 東 洋 学 文 献 セ ンタ ー か ら ﹃仁 井 田 陞 と 、南 京 を 中 心 と し た 南 方 出 身 の 菓 子 屋 グ ル ー 。
フ で あ る ﹁南
博 士 輯 北 京 工商 ギ ル ド資 料 集 ﹄ (以 下 ﹃資 料 集 ﹄と 略 ) と し 案 ﹂ の 二 つ の グ ル ー プ が 存 在 し た と いう 点 に 興 味 を 持 った
て出 版 さ れ て い る。 ま た、 今 堀 氏 は、 張 家 口 ・包 頭 な ど の た め で も あ る 。 一つ の ギ ル ド の中 に 二 っ の グ ル ー プ が 存 在
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内 蒙 古 の 都 市 に お け るギ ル ド の 研 究 が 有 名 で あ ると と も し た と い う 例 は あ ま り な く 、北 京 の 他 の ギ ル ド で は 、茶 商 、
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豆 腐 屋 、 刻 字 行 、 筆 墨 商 な ど が あ るだ け であ る。 ま た、 第 菓 子 屋 と 菓 子 職 人 が 共 同 で加 入 し て いた ので あ る が、 バ ー
二 章 で は、 北 京 の菓 子 屋 お よ び そ こ で売 ら れ て い た菓 子 に ジ ェス氏 の調 査 デ ー タ で は菓 子 製 造 人 のギ ルド と菓 子 商 の
つ い て考 え る こ と に より 、 清 代 か ら 民 国 の初 め に北 京 で生 ギ ル ドが 分 け ら れ、 質 問 に解 答 し て いるギ ルド員 も別 人 で
活 し て い た人 々 の暮 ら し の 一端 に触 れ て みた い と考 え て い あ る。
る。 な お、 中 国 に お け るギ ルド に つ い て の 一般 的 な問 題 に これ ら の点 から 明 代 に創 立 さ れ た菓 子製 造人 のギ ルド と
つい て は、 前 述 の方 々 の研 究 を 参 照 し て い ただ く こ と と し 糖 餅 行 を イ コー ル で結 び つけ る こと は甚 だ疑 問 で あり 、 結
て、 こ こ で は省 略 す る 。 果 と し て不 明 と いう 以 外 にな い。
糖餅行 二 馬神廟 の起源
一 糖 餅 行 の起 源 糖 餅 行 は 、 北 京 外 城 の崇 文 門 外 臥 仏寺 西南 の ﹁馬 神 廟 ﹂

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糖 餅 行 の起 源 に つ いて は、 バ ー ジ ェス氏 が 著 し た ﹃北 京 に お い て、 守 護 神 で あ る雷 祖 ・観 音 菩 薩 ・関 帝 を祀 って い
のギ ル ド生 活 ﹄ に よ る と、 菓 子製 造 人 のギ ル ド は、 明 代 に た。 こ の馬 神 廟 の起 源 に つ いて、 仁 井 田陞 氏 は次 の よう に
     (6 )
創 立 さ れ た と いう こ と で あ る。 述 べて いる 。
これ は バ ー ジ ェ ス氏 が 一九 二六 年 か ら 一九 二 七年 に か け 廟 内 の嘉 慶 及 び 道 光 の碑 によ る と、 康 煕 中 す で に、 外
て 北 京 及 び そ の接 続 地 帯 のギ ルド を 調 査 し た時 のデ ータ に 城 沙 窩 門 (広 渠 門 ) 内 に馬 神 廟 を建 設 し、 こ れ に観 音
よ るも の で あ る。 こ の時 のデ ー タ は、 各 ギ ル ド のギ ル ド員 菩 薩 及 び関 帝 と 共 に、 雷 祖 即 ち封 神 伝 に いう殿 の紺 王
を直 接 訪 問 し て行 わ れ た質 問 への答 によ るも の で、 菓 子 製 の武 将 の聞 仲 を 祀 って いた。
造 人 のギ ル ド は、 楊 と いう 六 十歳 の古 参 組 合 員 に よ って解 以上 の文 か ら み ると 馬 神 廟 は糖 餅 行 の人 々 に よ って建 設 さ
答 さ れ て い る。し か し 、﹃資 料 集 ﹄に集 め ら れ た 糖 餅 行 の碑 れ た と いう こと にな る。 し か し な が ら、 文 中 に あ る ﹁廟 内
の中 には 、明代 に創 立 さ れ た と いう記 事 は な く 、糖 餅 行 は 、 の嘉 慶 及 び 道 光 の碑 ﹂ の馬 神 廟 に つ いて述 べら れ て いる箇
所 を あ げ る と次 の よう に な る。 大 興 楼 が 火 事 に な って、 そ の時 に 契 紙 も 全 部 焼 け て しま
藪因都城沙窩門大内道傍、向有糖 餅行馬神廟。歴来、 い、 又 、 殿 宇 や廟 房 を しば しば 建 て直 し た が、 そ の こ と に
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舗 戸 櫃 案 人 等 、於 康 煕 四 十 八 年 、公 掲 銀 八 十 余 両 。(中 関 す る 記 録 も 焼 け て し ま った と い う こ と で あ る 。
略)馬神廟原係糖餅行雷祖勝会。 乃先人所置、遺留至
三 糖餅行 の祭祀
今。 (雷 祖 会 碑 )
鋪 戸櫃 案 人 等 、 向 於 康 煕 年 間 、 即 在 沙 窩 門内 道 左 之 馬 ギ ル ド に と って最 も重 要 と さ れ る、 祭 祀 に つい て であ る
神 廟 、 掲 助 銀 両 、 井 置 墳 地 、 為 供 奉 香 火 之費 。 が、 馬 神 廟 の祭神 は先 にも 述 べ た通 り 雷 祖 ・関 帝 ・観 音 菩
(聖 会 碑) 薩 で あ り、 こ の三神 の中 で主 と な る神 は雷 祖 であ る。 雷 祖
以 上 の 二 つ の碑 か ら み ると 、 康 煕 四 八年 (一七 〇 九 )に銀 八 は、 仁 井 田 氏 によ る と、 先 ほど の引 用 にも 見 え ると う り、
十 両 余 り を馬 神 廟 に寄 附 し、 あ わ せ て墳 地 す な わ ち義 地 を 殿 の紺 王 の忠 臣 で あ った聞 仲 で あ る と いう こ と であ る。 聞
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置 い た と いう こと は わ か るが、 し か し、 糖 餅 行 の人 々 が馬 仲 は、 木 嶋 清 道氏 訳 の ﹃封 神 演 義 ﹄ に よ る と、 聞 太師 と も
神 廟 を建 設 し た と いう こと は 確 認 でき な い。 呼 ば れ、 三 っ の目 を持 ち 、 中 央 の目 から は 白光 を発 し た と
馬 神 廟 が い つ建 設 さ れ た か と いう こ と に つい て は、 仁 井 い わ れ る。 五行 の大 道 を 修 業 し 、 海 を 倒 し、 山 を移 し、 風
田 氏 が 昭 和 一九年 (一九 四 四)に馬 神 廟 を 調 査 し た時 に は、 を聞 いて勝 敗 を知 り 、 土 を 嗅 い で軍 情 を定 め る と いう術 を
康 煕 三 二年 (一六 九 三)重 修 時 の ﹁古 刹 馬 神 廟 ﹂ と刻 され た 心 得 て い た、 と あ る。 雷 祖 の誕 生 日 は、 六月 二 四 日 と さ れ
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随 額 が 残 って い た と いう こ と で あ る か ら、 少 な く とも 康 煕 て お り 、 糖 餅 行 で も 六 月 二 四 日 は 休 日 と な って い た 。 し か
三 二年 に は馬 神 廟 は建 設 さ れ て いた と いう こと が でき る。 し 、 聞 仲 が なぜ 菓 子 屋 ギ ルド の祖師 と し て祀 ら れ る よう に
﹁雷 祖 会 碑 ﹂ に よれ ば 、 も とも と馬 神 廟 及 び義 地 な ど に な った の か は 不 明 で あ る 。 あ る い は 、 馬 神 廟 に 祀 ら れ て い
関 す る契 紙 が 、 前 門 外 鮮 魚 口内 大 興 楼 の劉 徳 全 と いう 人物 る 雷 祖 は 聞 仲 で は な く 、 ま った く 別 の 人 物 を 雷 祖 と し て 祀
に よ って 保 管 さ れ て いた のだ が 、 乾 隆 五 五年 (一七九 〇 )、 って い た と い う こ と も 考 え ら れ る 。
神 の恵 み に感 謝 す る文 や そ の神 を祀 る廟 を建 て直 し た と ら れ よ う。 ま た、 祭 典 の時 に は糖 餅 行 の人 々が 馬 神 廟 に詣
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いう 記 事 は、 多 く のギ ル ド の碑 の中 に見 え る が、 糖 餅 行 に で た。
お い ても こ れ ら に関 す る記 事 が碑 の中 に出 て く る。 これ ら ﹁雷 祖 会碑 ﹂ に は ﹁所 有廟 内 閑 住 吾 行 親 友 ﹂ と いう 表 現
の碑 に よ る と道 光 年 間 (一八 二 一ー 一八 五 〇)に特 に多 く 行 が み え る こと か ら、 馬 神 廟 内 に住 ん で いたギ ル ド員 が い た
な わ れ て いた こ と が わ か る。 道光 年 間 に行 な わ れ た 修 理 は と いう こと が わ か る。 そ し て、 こ の廟 に住 ん で い るギ ルド
以 下 の と おり で あ る。 員 が 酒 を 飲 ん で 暴 れ た り す ると、 糖 餅 行 より 追 放 さ れ た の
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道光 二年 雷 祖 聖 殿 ・馬 神 聖 殿 ・関 帝 聖 殿 重 修 。 で あ る。
(12 )
道光 七年 山門 週 囲 岸 界 修 理 。 馬 神 廟 に住 ん で いた ギ ル ド員 と は 別 に、 廟 を管 理 す る道
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道 光 一六 年 大殿重修。 士 (碑 の 中 で は "住 持 " と 書 か れ て い る ) が い た 。 道 士 は
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道 光 二 一年 炉 竈修 理 。 神 を 祀 り、 廟 を 管[
理 す る こ と を 怠 った り す る と 、 ギ ル ド

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5) (21 )
道光 二六年 群 矯重脩。 の役 員 か ら 呼 び 出 さ れ た 。 な お、 追 放 さ れ たギ ル ド員 が廟
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6)
道光 二七年 群 臆修理。 内 に留 ま って いた り す る と、 管 理 者 であ る 道 士 も 罰 せ ら れ

ま た、 同 治 元 年 (一八 六 二)に は胎 垣 ・前 後 大 殿 ・東 西 配 房 ナ
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・山 門 内 外 脚 門 を修 理 し て い る。 馬 神 廟 に つ いて糖 餅 行 の
四 糖餅行 の行規
人 々 は、 廟 が 荒 れ て い る の に修 理 も し な いで お く の は糖 餅
行 の 蓋 で あ り、 神 に仕 え 、 恩 恵 に答 え る 心 が な いた め だ、 ギ ル ド の行 規 に つ いて は根 岸 ・仁 井 田 ・今 堀 諸 氏 の研究
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と い って い る。 これ ら の こ と から 、 守 護 神 を祀 る廟 を美 し を は じ め と し て様 々 な研 究 が な さ れ て おり 、 こ の節 の主 題
く、 り っぱ に維 持 し て いく こ とも ギ ル ド に と って重 要 な仕 で あ る糖 餅 行 の行 規 に つ いて は、 仁 井 田 氏 の ﹃中 国 の社 会
事 で あ った こと が わ か る。 従 って、 廟 が よ く修 理 さ れ て い とギ ルド﹄ の中 で取 り 上 げ ら れ て い る。 こ の節 では 、 主 に
る道 光 年 間 が 最 も 糖 餅 行 の栄 え て いた時 期 で あ った と考 え 仁 井 田氏 の研 究 を参 考 と さ せ て いただ き なが ら 、 糖 餅 行 の
行 規 に つい て考 え て いき た い。 北 案 の 活 動 に 入 っ て く る こ と を 許 さ ず 、 も し 、 入 って
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糖 餅 行 の 行 規 に は、 職 人 に 関 す る も のが 多 く みら れ る く る者 が あ れば 、罰 金 を 納 め さ せ た。 (これ も北 案 に の
が、 次 に ど のよ う な 行 規 が 決 め ら れ て いた のか あ げ て み み関 係 し た行 規 で あ る) (
糖 餅行 碑 記 )
る。 以 上 が 行 規 の主 な 内 容 であ る が 、行 規 を 決 め ると 、しば し
(
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徒 弟 の採 用 を しば らく 停 止 す る こ と を決 め た 。 ば 祭 神 に芝 居 を奉 納 し た と いう文 が 、 碑 の中 に み え る。 例
(行 規 碑 ) えば 、 ﹁行 規 碑 ﹂ に は、行 規 に つ いて述 べ た後 、 ﹁演 戯 祭 神 、
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賃 金 の値 上 げ を 行 った。 (
閤 行工価碑) 在 漸 慈 会 館 ﹂ と あり 、 ﹁閤 行 工 価碑 ﹂ に は、 ﹁六 月 十 五 日、
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こ の十 一年 後 、 再 び 賃 金 の値 上 げ を行 った。 在 文 昌 会 館 献 神 戯 壱台 ﹂ と あ る。 ま た、 ﹁北 案 行 規 碑﹂ で
(工 価 碑 ) は 、 芝 居 を奉 納 す る と いう 文 と 共 に薩 額 二塊 、 神 抱 一堂、
季 節 に よ って労 働 時 間 が 決 め ら れ、 終 業 時 間 が 決 め ら 囲 巣 慢 帳 一分 を献 じ た とあ り 、 ﹁糖 餅 行 碑 記 ﹂ に は、 ﹁以後

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れ て いた 。 ま た、 決 め ら れ た賃 金 を支 払 わ な い者 は罰 閤 行 人 等 、 呈 献 香 燭 供 品、 立 刻碑 文 、 以垂 永 慶 ﹂ と あ る。
(27 )
と し て 祭 神 に 芝 居 を 奉 納 し な け れ ば な ら な か った。 行規 を 刻 ん だ 碑 を 立 てる と いう こ と は、 守 護 神 に行 規 の内
(ただ し、 こ れ は北 案 に の み関 係 し た行 規 で あ る) 容 を 報 告 し た と いう こ とだ と 考 え ら れ、 芝 居 を 奉 納 し た
(
北案 行規碑) り 、 匝 額 、 神 抱、 囲 巣 慢 帳 を献 じ たり す る こ と によ り、 ギ
光 緒 三 二 年 の冬 に 物 価 が 高 く なり 、 今 ま で の賃 金 で は ルド の行 規 を 守 る こ と を守 護 神 に対 し て誓 った の であ る と
暮 ら し て 行 け な く な った の で、 職 人 たち の賃 金 を値 上 考 え ら れ る。 ゆ え に、 行 規 に違 反 し た場 合 は、 守 護 神 に対
(28 )
げ し た。 ま た、 光 緒 三 四 年 か ら 三 年 間 徒 弟 を採 用 し な し ても 芝 居 を奉 納 す る こ と によ り償 な った ので あ ろ う。
い。 三年 後 に採 用 す る のも 一人 だ け で あ る。 も し、 三
五 糖餅行 の衰退
年 た た な いう ち に徒 弟 を採 用 す れば 、 罰 と し て祭 神 に
芝 居 を 奉 納 し な け れば な ら な い。 そ し て、 南 案 の人 が 糖 餅 行 に お い ても そ の衰 退 のあ ら わ れ と取 れ る よう な文
が 碑 の中 に しだ い に見 ら れ る よ う に な って く る。 道光 二八 屋 の方 が 旧来 か ら の菓 子 屋 よ り賃 金 そ の他 の待 遇が 勝 って
(33 )
年 立 の ﹁行 規 碑 ﹂、 同 じ く 道光 二八 年 立 の ﹁聖 会 碑 ﹂、 同 治 いた た め、 優 秀 な人 材 が 新 式 の菓 子 屋 へ流 れ た と いう こ と
元 年 立 の ﹁万 古 流 芳 碑 ﹂ に は行 規 が 乱 れ て いる こと を 示 す も 旧来 か ら の菓 子 屋 が 衰 退 し て い った要 因 の 一つに あげ ら
(30 )
文 が み ら れ、 光 緒 年 間 に定 め ら れ た行 規 に は、 芝 居 を奉 納 れるであろう。
(31 )
す る、 罰 金 を 支 払 う と いう よ う な罰 則 が 設 け ら れ て いた 。 新 し い菓 子 屋 は、 経 営 方 法 を 外 国 の商 人 か ら学 び 、 そ の
最 初 は 罰則 に つ い て は触 れら れ て い な か った の に、 光 緒 年 時 々 の流 行 に適 合 した 菓 子 を つく ってそ の販 路 を拡 大 し て
(鈎)
間 に な って 罰 則 が 設 け ら れ る よう に な った と いう こと は、 い った のに 対 し、 古 く か ら の菓 子 屋 も時 代 の流 れ に合 せ て
罰 則 が な け れば 行 規 は守 ら れ なく な って き た と いう こと を 西 洋 式 の菓 子 を つく る よう にな った と は いえ、 や はり 時 代
あ ら わす の で は な いか と 考 えら れ る。 こ の よ う に、 ギ ルド の流 れ に乗 れず に廃 業 せざ る を得 な く な った店 も 多 く 存 在
員 の結 合 の象 徴 であ る守 護 神 に対 し て守 る こ と を誓 った 行 し た と考 え ら れ る。

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規 が 乱 れ、 守 ら れ な く な った と いう こ と は、 糖 餅 行 の人 々 こ のよ う に、 旧 来 か ら の菓 子 屋 が閉 店 に追 い込 ま れ る と
相 互 の結 び付 き が 崩 れ だ し た こ と の あ ら わ れ で あ ろ う。 いう こと にな ると、 糖 餅 行 も何 ら か の打 撃 を受 け た で あ ろ
そ の理 由 を 考 え て み る と、 西 洋 人 が 北 京 に在 住 す る よ う う と考 え ら れ る。
に な る と、 そ れ に伴 って西 洋 の菓 子 が 入 って き た が、 西洋 糖 餅 行 は い つ結 成 さ れ た のか と いう こと が 不明 で あ る の
の菓 子 が 広 ま る に つれ 、 次 第 に中 国 風 の菓 子 は押 さ れ る よ と同 時 に、 い つ滅 亡 し た のか と いう こと も わ か ら な い。 し
う に なり 、 旧来 の菓 子 屋 も時 代 の流 れ に合 せ る た め、 餅 乾 か し、 馬 神 廟 の碑 の中 では、 光 緒 三 四年 (一九 〇 八 )に立 て
(ビ スケ ット)や 西 式 蛋 粍 (カ ステ ラ のよ う な も の)を つく ら れ た碑 が 最 も新 し く 、 一方 、 民国 二 五年 (一九 三 六 )に出
る よ う に な った 。 し か し 、 西 洋 式 の菓 子 を売 る店 が増 加 し 版 さ れ た 許 道齢 編 ﹃北 平廟 宇 通検 ﹄ に は、 ﹁馬 神 廟 は も と
てく る に従 って 、古 く か ら の菓 子 屋 にも 、 閉 店 を余 儀 な く は京 師 糖 餅 商 の会 所 で あ ったが 、 今 はす で に壊 れ て しま っ
(23 ) (お)
さ れ た店 が で て き た ので あ る。 ま た 、 新 しく 開 業 し た菓 子 て い る﹂ と あ る こ と か ら、 糖 餅 行 は光 緒 三 四年 から 民 国 二
五 年 ま で のお よ そ 三 十 年 の間 に滅 亡 し た と い う こ とが で き 菓 子 を 売 る店 と とも に、 新 し く 西洋 か ら 入 って き た菓 子 を
る。 売 る店 であ る と考 え ら れ る徳 利 面 包 房 や回 教 徒 の菓 子 屋 で
あ る祥 聚 公 など の店 が、 民国 二 八 年 (一九 三 九 )に は加 入 し
六 様点業 同業 公会
て いた。
糖 餅 行 のあ とを 受 け るも の と し て樵 点 業 同業 公会 が成 立
二 点 心 と北 京 の人 々
す る。 こ の公 会 は 民 国 一七 年 (一九 二八 )に成 立 し た と いう
(36 ) 一 点 心 舗
こ と で あ る 。 は じ め は 正 明 斎 ・慶 雲 斎 と い う よ う な糖 餅 行
の碑 の中 に名 前 ので て こな い菓 子 屋 が 加 入 し て いた の で あ こ の章 で は、 糖 餅 行 の 人 々 が 生 活 の 糧 と し て い た 菓 子
るが 、 様 点 業 同 業 公 会 が 成 立 し て 四 年 後 の民 国 二 一年 (一 (こ の章 では 点 心 と書 く) と北 京 の人 々 と のか か わ り に つ
九 三 二)ま で に は、旧来 か ら の菓 子 屋 が 七十 軒 余 り も 加 入 し い て み て いき た い。

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て いた と いう こと であ る。 そ し て、 成 立 し て か ら 十 一年 後 北 京 にお け る菓 子 屋 す な わ ち点 心舗 は、 清 代 に お い て満
の民 国 二 八 年 (一九 三 九)には糖 餅 行 の碑 の中 に出 て く る菓 州鮮 艀 舗 と 南 果舗 の二種 類 に大 別 す る こ とが でき た (西洋
子 屋 のう ち、 銃 美 斎 ・慶 福 斎 ・蘭 華 斎 ・文 美 斎 ・慶 蘭 斎 ・ 人 が北 京 に居 住 す る よ う に な る と、 西 式 点 心 舗 が 加 わ り、

  
瑞 芳 斎 ・裕 順 斎 ・桂 蘭 斎 ・惹 蘭 斎 ・天 福 斎 ・金 蘭 斎 .瑞 興 三種 類 と な った)。
(38 )
斎 ・徳 豊斎 の十 三 軒 が 繰 点 業 同 業 公 会 に加 入 し て い た。 こ 満 州 艀 艀 舗 は、 主 に満 州 簿 艀 す なわ ち 満 州族 の点 心 を売
(40 )
の中 で、 天 福 斎 と瑞 興 斎 は糖 餅 行 の中 でも 最 も 古 い嘉 慶 五 って いた店 で、 北 京 の内 城 で多 く 開 業 し て いた。 北 方 の 民
年 (一八 〇 〇 )に 立 て ら れ た 碑 の中 に名 前 が み え る こ と か ら 族 の点 心 を扱 って い た こ と から 、 糖 餅 行 で は北 京 出 身 者 の
少 なく とも 百 四十 年 以上 の歴 史 を持 った菓 子 屋 であ った と グ ル ー。
フで あ る北 案 に属 し て いた と 考 え ら れ る。
いう こ とが わ か る。 一方 、 南 果 舗 は、 南 方 の点 心 を 主 と し て売 って い た店 で
(41 )
ま た、 こ の粍 点 業 同 業 公 会 に は、 旧来 か ら あ る中 国 式 の あり 、 北 京 で は外 城 で多 く 開業 し て いた。 糖 餅 行 で は南 京
を中 心 と し た南 方 出 身 の人 々 のグ ル ープ で あ る南 案 に属 し 月 の経 過 し て いな い、 比較 的 新 し い店 であ ろう と 考 え ら れ
て い た と考 え ら れ る。 る) は、 三十 七軒 あ る。 こ のう ち 、 内 城 で開業 し て いる店
満 州 艀 醇 舗 は内 城 で、 南 果 舗 は外 城 で開 業 し て い た と述 は 二十 二軒 、 外 城 で開 業 し て い る店 は十 五 軒 で あ り、 内 城
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べ たが 、 こ の こと は、 清 代 に は、 内 城 は主 に満 州 八旗 を は の方 が 多 い。 こ の こ と か ら時 代 が 新 しく な る に つれ、 南 方
じ め と す る満 州 族 の居 住 地 で あ った の に対 し、 外 城 は主 に 系 の点 心舗 も 内 城 で開 業 す る よう に な って い った と いう こ
漢 民 族 の居 住 地 であ った こ と と深 く 関 係 し て い た と考 え ら とが わ か る。 ま た、 内 城 で も東 安 市 場 ・西 単 牌 楼 ・東 四 牌
れ る。 し か し、 満 州 簿 醇 舗 は内 城 、 南 果 舗 は外 城 で開 業 と 楼 と い った市 場 あ る いは 古 く か ら の繁 華 街 で多 く 開 業 さ れ
い う パ タ ー ンは、 中 華 民 国 に な る と崩 れ てく る。 次 に こ の て い た。
こ と に つ い て、 民 国 一二年 (一九 二三 )に出 版 さ れ た ﹃増 訂 清 か ら中 華 民国 に か け て、 北 京 に お け る有 名 な点 心 舗 と
実 用 北 京 指 南﹄ (
註 (42)参 照 ) に 掲 載 さ れ て い る 点 心舗 の し て金 蘭 斎 ・合 芳 楼 ・瑞 芳斎 ・正 明 斎 など の名 前 が あ げ ら

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所 在 地 を も と に し なが ら 述 べ て み た い。 れ る。 次 に こ れ ら の点 心舗 に つ いて み て い き た い。
まず 、 糖 餅 行 の北 案 に属 し て い た点 心舗 の う ち、 十 三軒 金 蘭 斎 は、 崇 文 門内 蘇 州胡 同 に あり 、 崇 舞 の ﹃道 威 以 来
の所 在 地 が ﹃増 訂 実 用 北 京 指 南 ﹄ に あげ ら れ て いる。 こ の 朝 野 雑 記 ﹄ に よ る と、 宮中 に点 心 を納 め て い た点 心 舗 で あ
繍ゲ 糖 餅 行 、 繰 点 業 同 業 公 会 の両 方 に加 入 し て おり 、 古 く
十 三軒 のう ち 、 内 城 に あ る店 は十 一軒 、 外 城 に あ る店 は わ
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ず か に 二軒 であ る。 糖 餅 行 の北 案 に属 し て い た と いう こ と は道 光 二 八年 (一八 四 八)立 の ﹁聖会 碑 ﹂ に そ の名 が 見 え、
は、 清 代 か ら 開 業 し て い た満 州 鮮 醇 舗 と いう こ と で あり 、 民 国 二 八 年 (一九 三 九)には繰 点 業 同 業 公会 に加 入 し て い た
清 代 か ら 開業 し て いた 満 州 鮮 餌 舗 は、 や はり 内 城 に多 く存 の で、 少 な く と も 九 十 年 以 上 の歴史 を有 し た点 心舗 で あ っ
在 し て いた と いう こと が でき る。 と こ ろが 、 南 貨 点 心店 と た こ とが わ か る。
し て そ の所 在 地 が 記 さ れ て い る店 (これ ら の店 は、﹃増 訂 実 糖 餅 行 の碑 の中 で、 金 蘭 斎 の名 前 は 、﹁聖会 碑 ﹂、﹁万 古 流
用 北 京 指 南 ﹄ が出 版 さ れ た時 点 で、 開 業 し て か ら あ まり 年 芳 碑 ﹂、 ﹁糖 餅 行 碑 記 碑 陰﹂ に み え るが 、 こ の中 で ﹁万 古 流
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芳 碑 ﹂ に は馬 神 廟 に寄 附 を 行 った 点 心 舗 の名 前 と寄 附 の金 正 明 斎 は、 同 治 三 年 (一八 六 四)に前 門 外 煤 市 街 南 頭 路 に
額 が 記 さ れ て いる。 こ こ に記 さ れ て い る点 心 舗 の中 で、 金 お い て孫 学 仁 と いう 人物 に よ って開 業 さ れ、 金 蘭 斎 に代 っ
蘭 斎 は店 が 行 った寄 附 、 店 の店 員 及 び 職 人 達 が 行 った寄 附 て宮 中 へ点 心 を納 め る よ う に な った。 衰 世 凱 ・曹 錫 ・呉 偏 孚
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の両 方 とも 、 他 の店 よ り 目 立 って多 い。 こ の よう に他 より ・張 作 森 な ど が こ の点 心舗 の顧 客 と し て あげ ら れ て い る。
目 立 って多 く の寄 附 が で き た と いう こと は 、 店 員 ・職 人 の 正 明 斎 は、 繍 点 業 同 業 公 会 には 加 入 し て いた が、 糖 餅 行
数 も 他 の点 心舗 より 多 く、 店 も 繁 盛 し て いた の で あ ろう と の碑 の中 に は こ の点 心 舗 の名 前 は みえ な い。 な ぜ宮 中 に点
考 えら れ る。 寄 附 金 の額 の高 低 は、 糖 餅 行 内 に お け る勢 力 心 を 納 め る ほど の点 心 舗 が糖 餅 行 に 入 って いな か った の か
の大 小 とも 結 び 付 く と考 え ら れ る ので、 金 蘭 斎 の糖 餅 行 内 疑 問 が残 る 。 次 に こ の疑 問 に つい て の筆 者 の考 えを 述 べ て
で の勢 力 は大 き か った と いえ る で あ ろ う 。 み た い。
合 芳楼 (
東 四牌 楼 南 路 東 )・瑞 芳 斎 (
東 四牌 楼 北 大 街 )は 、 正 明 斎 で は、 職 人 を引 き つけ る た め毎 月 の決 めら れ た 賃

一66一
光 緒 三 三 年 立 の ﹁北 案 行規 碑 ﹂ 及 び光 緒 三 四 年 立 の ﹁糖 餅 金 以 外 に 年 末 にな る と そ の年 の売 上 げ に よ って得 ら れ た利
行 碑 記 碑 陰 ﹂ の 二 つ の碑 に名 前 が み え る。 や はり ﹃道 威 以 潤 を職 人 た ち にも分 配 し て い た。 こ の よ う な こ と は、 職 人
来 朝 野 雑 記 ﹄ に よ る と、 合 芳 楼 は道 光 年間 に開 業 し、 義 和 の賃 金 な ど に つい ても 細 か く 行 規 を定 め て いた糖 餅 行 に加
団 の乱 (一八 九 九 i 一九 〇 一)後 に廃 業 し、 合 芳 楼 の職 人 や 入 し て いれ ば でき な い こと で は な いか と考 え る 。様 々 な 規
(46 )
財 産 は瑞 芳斎 に移 った と あ る。 し か し、 義 和 団 の乱 後 の光 制 を 受 け る糖 餅 行 へ加 入す る より 、 自 分 たち 独 自 の経 営 方
緒 三 三 年 (一九 〇 七)と光 緒 三 四年 (一九 〇 八 )に 立 てら れ た 法 で質 の高 い職 人 た ち を引 き つけ、 品 質 の高 い点 心 を 製 造
碑 や、 民 国 二三 年 (一九 三 四)に出 版 され た ﹃増 訂 実 用 北 京 す る こと によ り、 同 治 三 年 に開 業 し て以 来 、 短 期 間 で宮 中
(47 )
指 南 ﹄ にも 合 芳 楼 の名 前 が み え る 。これ ら の こ と か ら、﹃道 に点 心 を 納 め得 るま で に成 長 し た の で あ ろ う。
威 以 来 朝 野 雑 記 ﹄ にみ ら れ るよ う に義 和 団 の乱 後 に合 芳 楼 糖 餅 行 へ加 入 せず に独 自 の経 営 方 法 で発 展 し て いく 点 心
が 廃 業 し た と み る こ と は難 し い。 舗 が あ れ ば 、 糖 餅 行 は 何 ら か の圧 力 を そ の店 に対 し て加 え
る はず で あ る が、 し か し 、 正 明 斎 は糖 餅 行 に加 入 し て いた 常 雇 い の職 人 より 臨 時 工 の方 が 賃 金 が高 い。 そ れも 三 ケ月
金 蘭 斎 に代 って宮 中 に点 心 を 納 め る よ う に な る。 こ の こ と か ら 半 年 働 く と 毎 月 の賃 金 は銀 四両 、 一ケ月 から 八 十 日 働
は 、 正 明 斎 が開 業 し た 同 治 三 年 以 降 に お い て、 糖 餅 行 は正 く と毎 月 の賃 金 は 銀 五 両 と、 同 じ 臨時 工 でも 働 く 期 間 が 短
(49 ) (50 )
明 斎 に圧 力 を加 え る だ け の勢 力 を す で に失 って い た と いう か い方 が賃 金 が高 い。ま た 、碑 の中 で ﹁浮摺 忙 節 人 ﹂と いわ
こと の あ ら わ れ で あ る と 考 え る。 ま た、 余 談 と な るが 、 こ れ て いる臨 時 工 の賃 金 が最 も高 く 、一ケ 月銀 九両 で あ った。
の正 明 斎 は 現在 で も 北 京 の前 門 大 街 に お い て営 業 し て いる 菓 子 職 人 に は点 心舗 で働 く職 人 ば かり で はな く 、 王 公貴
と いう (ただ し、 一九 八 九 年 三 月 に現 地 を訪 れ た友 人 の話 族 の邸 に催 わ れ て菓 子 を つく る者 も いた 。 ﹃紅 楼夢 ﹄ に は
で は 、 工事 現 場 と な って い て、 店 は存 在 し な か った と いう 新 し く 催 い入 れ た 菓 子 専 門 の料 理 人 に試 し に月 餅 を つく ら
(51 )
こと で あ る)。 せ た ら 非 常 にお いし か った 、 と いう場 面 が出 て く る。 こ の
次 に、 点 心舗 に と って不 可 欠 な も の の 一つで あ る菓 子 職 場 面 か ら ﹃紅 楼 夢﹄ に登 場 す る 頁 家 のよ う な大 貴 族 の邸 で

一67一
人 に つい て述 べて み る。 は菓 子 職 人 を 催 い、 自 分 達 独 自 の菓 子 を つくり 、 楽 し ん で
菓 子 職 人 に は、 点 心舗 に 長 期 的 に雇 わ れ て い る常 雇 い の い た と いう こ と が わ か る 。
(52 )
職 人 以 外 に、 一年 のう ち 決 ま った時 期 だ け雇 わ れ る臨 時 工 点 心舗 の営 業 的 な面 で は、 月 餅 会 ・蜜 供 会 を つく って い
が いた 。 正 明 斎 の場 合 は 一般 の点 心 を つく る臨 時 工 と は別 (53 )
た店 も あ った。 こ の月 餅 会 ・蜜 供 会 と は会 員 か ら毎 月 会 費
に、 蜜 供 (蜜 供 に つ いて は次 節 で 述 べ る) を 専 門 に つく る を納 め て も ら い、 そ の会 費 で月 餅 で あ れば 仲 秋 節 、 蜜 供 で
臨 時 工 が いた と いう こ と で あり 、 ま た、 常 雇 い の職 人 よ り あ れば 年末 が 近 づ く と 月 餅 あ る いは蜜 供 を つくり 、 各 々 の
臨 時 工 の方 が 毎 月 の賃 金 が 高 か った。 臨時 工 の方 が 毎 月 の 会 員 に分 配 す る と いう も ので あ る。
賃 金 が 高 いと いう こと は 、 正 明 斎 だ け で は な く、 他 の点 心
二 点心 について
舗 に つ いて も いえ る こと であ った 。 糖 餅 行 の職 人 の賃 金 に
つ い て定 め た 行規 が刻 ま れ て い る ﹁糖 餅 行 碑 記 ﹂ を み て も 点 心 は 清 代 には 艀 艀 、 点 心舗 は 艀 鮭 舗 と も 呼 ば れ て い
(
54)
た。 笹 の葉 で 三 角 形 に 包 ん で蒸 し たも の で、 食 べ る時 は 笹 の葉
点 心 はど の よ う な時 に ど のよ う に し て用 いら れ て い た の を む いて砂 糖 を つけ る。 一方 、 五毒 餅 は鯉 鈍 粉 を 練 り、 煎
か と いう と、 神 仏 に供 え る、 節 句 な ど の時 に親 戚 ・友 人 等 餅 形 に 切 って 中 に 砂 糖 の 紹 を包 み 茄 でた も ので、 蛇 ・蝦
(59 )
と贈 答 し あ う、 宴 会 に出 す な ど の こ とが あげ ら れ る。 次 に 墓 ・娯 舩 ・蜴∵ 蜥 蜴 の絵 が 描 い て あ る。 こ の蛇 ・蝦 墓 ・蝦
実 際 に は ど の よ う な点 心 が 、 ど の よう な時 に用 い ら れ て い 舩 ・蜴 ・蜥 蜴 のこ と を 五毒 と い い、 これ ら の毒 よ け の意 味
た の か を あげ て み た い。 で食 べた と いう こ と で あ る。 端 陽 の節 句 には 綜 子 ・五 毒 餅
旧 暦 の 一月 十 五 日 (こ の節 で出 てく る月 日 はす べて旧 暦 の他 に 桜 桃 ・桑 椹 ・苧 蕎 ・桃 ・杏 や攻 魂 餅 な ど が 贈 ら れ
で あ る) の元 脊 節 に食 べる 元 宵 は、 糀 の粉 の中 に喪 ・山 植 た。 ま た、 祖 先 を ま つる 時 や 神 仏 に供 え る 時 は 綜 子 ・桜
子 ・胡 桃 な ど の乾果 と 砂 糖 を 練 って つく った紹 を 入 れ た 団 桃 ・桑 椹 を季 節 の食 物 を薦 め る と いう 意 味 で供 え た の であ
(
60)
子 を茄 で た も ので、 元 脊 節 に食 べ る の で こ の名 が つ いた と る。
(55 )

.:
い う こ と で あ る 。 し か し 、 元 管 と い う 呼 び 方 は 主 と し て北 中 秋 節 には月 餅 が贈 答 さ れ たが 、 月 餅 は小 麦 粉 を こね て
(56 )
方 で 用 いら れ、 南 方 で は円 子 と呼 ば れ て いた。 ま た、 元 脊 皮 と し、 中 に胡 桃 ・干 葡萄 や豚 肉 ・牛 肉 な ど 様 々な 鯛 を 入
を食 べる頃 に な る と、 元 脊 を売 る点 心舗 で は竹 を細 く割 い れ、 油 で あ げ た 円 形 の点 心 で あ る。 月 餅 は満 月 にあ や か っ
て つく った特 別 な 看 板 を 掲 げ て元 脊 を売 って いる こと を 人 て 一家 団 簗 を願 い、 中 秋 に食 べた こ と から 団 円 餅 とも いわ
(57 )
々 に 示 し た。 れ、 中 秋 節 は 団 円 節 と も いわ れ た。 ま た、 中 秋 節 の宴 会 で
初 夏 に な る と、 薔 薇 や藤 の花 の花 弁 を漬 け た蜂 蜜 を砂 糖 は テ ーブ ルや 椅 子 も ﹁団 円﹂ に ち な ん で円 形 のも のが 使 わ
(61 )
と鯉 饒 粉 を合 わ せ た も の の中 に 入 れ た攻 魂 餅 や藤 薙 餅 と い れ た と いう こ と であ る 。 そ し て 十 五夜 に な る と庭 に瓜 や果
(58 ) (62 )
う点 心が 売 り に出 さ れ た 。 物、 枝 豆 、 鶏 頭 花 を 並 べ月 を ま つ った の で あ る。 大 貴 族 が
五月 の端 陽 の節 句 の時 、 王 公 貴 族 など の間 で贈 答 さ れ た 月 を ま つ る時 の華 や か な 様 子 は ﹃紅 楼 夢 ﹄ の中 にも 描 か れ
(3
6)
点 心が 綜 子 ・五毒 餅 で あ る 。綜 子 は 儒 米 に喪 な ど を混 ぜ 、 て い る 。 ま た 、 月 餅 の中 で 最 も 高 級 な も の は 広 東 月 餅 で 、
季 節 が 近 づ く と職 人 を広 東 か ら呼 寄 せ て つく ると いう こ と 無 標 旗 者、 亦 無 迎 女 来 食 者 。 蓋 風向 之 不 同 也 。﹂ と あ り、
(倒)
で あ る。 反 対 に最 も 庶 民的 な月 餅 と し て は 自 来 紅 ・自 来 白 ﹃帝 京 景 物 略 ﹄ が 記 さ れ た明 末 に は行 わ れ て い た花 様 旗 を
が あ げ ら れ る。 自 来 紅 は油 の色 で あ る 茶褐 色 を し て おり 、 あげ る こ と や嫁 に行 った 娘 を 迎 え て 一緒 に花 繰 を食 べ る習
自 来 白 は粉 本 来 の 色 で あ る白 色 を し て い る と いう こ と で あ 慣 が 、 ﹃燕 京 歳 時 記 ﹄ が 書 かれ た 清 末 には す で に 行 わ れ な
る。 小 型 の パ イ式 の内 部 は 空 洞 で、 そ の底 に少 し喪 や砂 糖 く な って いた と いう こと が わ か る。 そ し て、 明 代 に は宮 中
(69 )
の餌 が 入 って いる 。 な お 、 北 京 に お い て月 餅 が 有 名 で あ っ に お いて花 粍 を 用 い て宴 会 が催 さ れ て いた。
た の は前 門 外 の致 美 斎 であ った 。 ま た、 点 心 舗 で は中 秋 節 十 二月 二三 日 には 竈 神 を ま つるが 、 こ の時 南 糖 ・糖 餅 な
(70 )
の頃 に な る と ﹁中 秋 月 餅 ﹂と書 い た赤 く て丸 い木 製 の看 板 を ど を 竈神 に献 上 し、 竈 神 の馬 には清 水 と草 ・豆 を供 え た。
出 し た。 こ の看 板 は月 餅 を売 って い る こ と を 示 し て お り、 南 糖 は 飴 と 胡 麻 を原 料 と した 飴菓 子 の 一種 で、 糖 餅 は白 玉
(65 )
そ の円 形 は月 を あ ら わ し て い る と いう。 飴 で つく った も の で切 餅 の よう な 形 を し て い る。 な ぜ、 こ

一69一
九月 九 日 の重 陽 の節 句 に な る と、 人 々 は花 樵 を 贈 答 し あ のよ う に竈 神 に飴 を献 上 す る の か と いう と、 十 二月 二三 日
い、 ま た 高 所 へ登 り 花 樵 を食 べ、 詩 を つく る な ど の こ と を に竈 神 は天 に昇 り 玉皇 天 帝 の と こ ろ へ行 き 、 各 家 の 一年 間
(66 )
行 った 。 花 樵 に は 二種 類 あり 、 砂 糖 と鯉 餉 粉 を 混 ぜ たも の の善 悪 を報 告 し、 そ の内 容 に よ って玉 皇 天 帝 は各 家 に対 す
の間 に木 の実 や干 し た果 物 を 挾 ん で 二層 、 三 層 に重 ね たも る賞 罰 を決 め る と いう 俗 信 が あ る。 こ の た め人 々 は竈 神 の
のが 上 等 な花 繰 で、 蒸 餅 の上 に喪 や栗 など を星 の よ う に飾 口 を粘 ば ら せ て 家内 の 悪 口 を 報 告 でき な い よう に す る た
(67 ) (71 )
ったも の が 二流 品 であ る。 ﹃帝 京 景 物 略 ﹄ に よ る と、 花 繰 め、 飴 を 献 上 し た と いう こ と であ る。 ま た、 竈 神 は男 性 が
を売 る店 は花 樵 旗 と いう 特 別 な旗 を あげ て目 印 と し、 父 母 ま つり 、 女 性 が ま つる こ と は禁 じ ら れ て いる 。 も し家 内 に
(72 )
は嫁 に 行 った 娘 を 迎 え て 一緒 に花 繰 を食 べ た と いう こと で 男 性 が い な い場 合 は、 近 所 の男 性 が 代 ってま つ った。
あ る。 ま た 、 嫁 に行 った娘 を 迎 え る こと か ら 重 陽 節 は女 児 大 晦 日 に な る と、 中 庭 で百 分 と いう 諸 々 の神 様 の図 (道

お 
節 と も い わ れ た。 し か し 、﹃燕 京 歳時 記 ﹄に よ る と ﹁今 樵 騨 教 的 な神 様 の他 に如 来 や菩 薩 も あ ら わ さ れ て い る) を ま つ
(79 )
る の で あ るが 、 こ の時 乾 果 ・饅 頭 ・林 檎 ・精 進料 理 、濡 米 美 味 で は な い と いう こと であ る。
の粉 を こね て蒸 し て つく った年 樵 と共 に蜜 供 を 供 え た 。 蜜 以 上 、 代 表 的 な点 心 を あ げ た が、 これ ら の点 心 は主 と し
供 は 小 麦 粉 を 練 って小 指 形 に し た も の を 油 で あ げ、 砂 糖 と て王 公 貴 族 を はじ め と し た経 済的 余 裕 のあ る人 々 と の か か
蜂 蜜 を 混 ぜ た も の を塗 り 、 ピ ラ ミ ッド の形 な ど に積 み上 げ わ り が より 深 か った と 考 え ら れ る。 次 節 で は 一般 の庶 民 と
(73 ) (74 )
た も の で あ る。 百 分 は接 神 の時 に焼 い てし ま う が 、 供 物 は 点 心 と のか か わ り に つ いて見 て いき た い。
(75 )
年 を 越 し て燈 節 の時 ま で そ の ま ま に し てお き 、 百 分 を 焼 い
三 点心 と庶民
た後 も焼 香 な ど が 行 わ れ た。
以 上 が 季 節 ご と に行 わ れ た行 事 に関 係 し た 点 心 であ る。 こ の節 で は 、ギ ャムブ ル著 ﹃北 京 の支 那家 族 生活 ﹄(
福武
次 に これ ら 以 外 の点 心 に つ いて述 べて み た い。 直 訳 、 生 活 社 、 一九 四〇 ) に記 さ れ て い る、 同 氏 に よ って
薩 其 馬 は 満 州 艀 艀 の 代 表 的 な も の で、 "サ チ マ" と いう 一九 二 六年 か ら 二 七年 にか け て の 一年 間 行 わ れ た、 北 京 の

一70一
名 称 は 満 州 語 で あ る。 薩 其 馬 に は沙 其 馬 、 實 利馬 な ど 複 数 様 々 な所 得 の 家 族 の 生 活 状 態 に つ い て の 調 査 の 結 果 を も
の書 き方 が あ るが 、 これ は満 州 語 の音 を漢 字 に あ て直 し た と に し て、 庶 民 と点 心 と のか か わ り に つ い て述 べて いき た
(76 )
た め で あ る。 薩 其 馬 の作 り 方 は、 鶏 卵 ・バ タ ー ・砂 糖 と小 い。 な お、 こ の節 で述 べ る内 容 に つ い ては、 参 考 と す る資
麦 粉 を 混 ぜ て糊 状 にし た も の を鍋 の上 に細 長 く 流 し、 型 の 料 が 主 に中 華 民 国 にな ってか ら のも の であ る た め、 前 節 ま
中 へ入 れ蜂 蜜 で形 を 整 え 、 蒸 し た後 、 上 面 を胡 麻 な ど で飾 で見 てき た清 代 よ り時 代 が下 が る 。
(77 )
り 、 蜘 方 形 に切 って でき あ が り であ る。 ま た、 薩 其 馬 が 有 ギ ャ ムブ ル氏 の調 査 は、 北 京 の内 外 城 及 び城 外 に居 住 し
名 な点 心 舗 と し て前 門 外 の正 明斎 な ど が あ げ ら れ る。 て い た 二 八 三家 族 に対 し て行 わ れ た。 う ち わ け は漢 民 族 の
芙 蓉 様 は薩 其 馬 と同 じも の で、 表 面 に赤 い砂 糖 が の って 家 族 二 五 六、 満 州 族 の家 族 二三、 回教 徒 の家 族 四 で あ った
(78 )
い るた め 芙 蓉 の よう に見 え る の で こ の名 前 が つ いた 。 薩 其 が 、 こ れら の家 族 の職 業 は、 男 性 の場 合 は、 書 記 ・簿 記 係
馬 よ り 少 し安 価 で あり 、 甘 す ぎ る上 に堅 い ので薩 其 馬 ほ ど ・人 力 車 夫 ・行 商 人 ・電 気会 社 の従 業 員 ・教 師 ・店 主 ・召
使 な ど 五 五 種 類 、 女 性 の場 合 は裁 縫 や洗 濯 な ど の内 職 を し 例 えば 、 ﹁生 活 程 度 の低 い 農 民 間 では 饅 頭 と麺 、 韮 と 蒜 が
(82 )
たり 、 乳 母 ・教 師 な ど = 二種 類 あ った。 調 査 は こ れ ら の家 殆 ど 唯 一の常 食 ﹂、 ﹁苦 力 な ど は 大餅 子 一つに生 葱 の 一二本
(83 )
族 が 一年 間 家 計 簿 を つけ る こ と に よ って行 わ れ た。 も あ れば 一食 分 ﹂ と いう こと であ り、 老舎 の ﹃酪 駝 祥 子 ﹄
家 計 簿 の中 で "点 心 " と し て支 出 額 が 記 入 さ れ て いた も の中 にも 食 事 の時 に焼 餅 や饅 頭 を 食 べる場 面 が 登場 す る。
の と し て麺 包、 饅 頭 、 焼 餅 、 窩 窩 頭 、 油 条 、 烙 餅 な ど が あ ま た 、 ギ ャムブ ル氏 の調 査 と は関 係 な いが、 後 藤 朝 太郎 氏
(84 )
げ ら れ る 。 麺 包 は焼 き 固 め た麺 パ ンと いう こと で、 現 在 の は ﹃支 那 の下 層 民 ﹄ の中 で江 西 ・安 徽 と い った南 方 の人 々
パ ンと 同 じ も の であ る と考 えら れ る。 ただ し、 こ の麺 包 は が ど のよ う な も の を点 心 と見 て いた のか と いう こと に つ い
調 査 の対 象 と な った 家 族 の中 でも 高 額 の所 得 を有 す る 家族 て次 のよ う に述 べ て い る。
が 利 用 し て いた 。 饅 頭 は、 小 麦 粉 を発 酵 さ せ て蒸 し た も の 安 徽 の田 舎 山 村 に ま ゐ つて見 る と お菓 子 (
点 心) の代
(80 )
で、 中 にな にも 入 って い な い。 焼 餅 は小 麦 粉 を発 酵 さ せ て り に大 根 の輪 切 り に し た の を出 した り 又 ラ ッキ ョの生

一71一
塩 や胡 麻 油 を 入 れ、 円 形 に し て胡 麻 を ま ぶ し て焼 いた も の ま を 皿 に盛 つて出 し て く れ たり した こと を 記憶 し てゐ
で あ る 。 窩 窩 頭 は とう も ろ こ し の粉 で つく った も の で、 大 る。 江 西 、 盧 山 の山 寺 、 黄 龍 寺 で は和 尚 が蕨 の塩 漬 を
餅 子 の 一種 で あ る。 大 餅 子 と は と う も ろ こし の粉 に水 を 加 お菓 子 の つも り で出 し て く れ た こと が あ る。
え こね て蒸 し たも の で、 こ れ を食 事代 り にす るよ う に な る こ の節 と前 節 の点 心 を材 料 の面 から 見 る と、 こ の節 であ
(81 )
と 貧 乏 の ド ン底 生 活 と いわ れ て いた 。 油 条 は 牛 乳 ・鶏 卵 ・ げ た焼 餅 や饅 頭 な ど は北 方 の人 々 の間 で は最 も 一般 的 に食
小 麦 粉 を 混 ぜ たも の を長 く引 き のば し て油 であ げ た も の。 べら れ て いた小 麦 粉 に塩 や胡 麻 油 を 入 れ た簡 単 な も の であ
ま た 、 烙 餅 は小 麦 粉 に胡 麻 油 と 塩 を 入 れ てよ く ね り 円 形 に った の に対 し、 前 節 で あげ た点 心 は小 麦 粉 を 原 料 と し て い
鉄 板 で焼 い たも の で あ る。 るが 、 北 京 で は 高 価 で あ った 砂 糖 あ る いは 蜂 蜜 な ど を 用
以 上 の よう に庶 民 が "点 心 " と し て家計 簿 に記 入 し たも い、 喪 など の果 物 や干 果 を使 い点 心 を飾 る など 材 料 も 豊 富
のは 、 実 際 に食 事 の際 に主 食 と し て食 べる も の であ った 。 で あ った。 前 節 で は月 餅 に は紹 と し て豚 肉 や牛 肉 な ど を 用
い た と述 べ た が、 一方 で 農 民 な ど 普 通 は 正 月 ぐ ら い し か肉 の は、 一般 の庶 民 たち で はな く 、 王 公 貴 族 や 豪 商 と い った
 あ 
類 を 食 べ る こ とが で き な か った と いう こと であ る か ら、 肉 よ う な家 の人 々 で あ った と いう こと が わ か る 。
入 り の月 餅 を仲 秋 節 に食 べら れ る と いう 家 族 は限 ら れ て い 正 月 ・端 陽 ・仲 秋 に点 心 を 買 った と 家計 簿 に 記 入 し て い
た であ ろう と考 え ら れ る。 る の は 二 八 三家 族 中 六 三 家 族 で、 全体 のお よ そ 二 ニ パ ー セ
で は、 庶 民 と前 節 で あ げ た よ う な 点 心 は ま ったく か か わ ント であ り 、 三節 句 と も 点 心 を買 った と記 入 し て いる の は
り が な か った の か と いう と そ う では な く 、 ギ ャ ムブ ル氏 の た った 二家 族 だ け であ った 。 他 の点 心 を買 わ な か った家 族
調 査 で は 前 節 で あげ た よ う な 点 心 は 紙 銭 や 香 な ど と 共 に は 自 分 た ち で点 心 を つく り、 神 仏 に供 え た の で あ る。 こ の
家 計 簿 の "宗 教 費 " と いう 項 目 に そ の支 出 が 記 入 さ れ て い よ う に三 度 の節 句 のう ち 一度 で も点 心 を買 った と いう 家 族
た。 が 二 ニ パ ー セ ント と 全 体 の四分 の 一にも 達 し な い こ と から
ど のよ う な 点 心 が 記 入 さ れ て いた のか と いう と 、 中 国 で み て も 、 点 心 舗 で点 心 を買 う と いう こ と は庶 民 に と って気

一72一
は三 大 節 と い わ れ、 最 も 重 要 な 節 句 と さ れ る正 月 ・端 陽 節 軽 に で き ると いう こと で は な か った と いう こ とが でき る。
・仲 秋 節 の点 心 で あ る 年 繰 ・元 脊 、綜 子 ・五毒 餅 、 それ に月 米 田祐 太郎 氏 が ﹃生 活習 慣 ﹄ の中 の北 方 の農 民 の生 活 の様
餅 であ る。 これ ら の点 心 は庶 民 に と って は 自 分 達 が 食 べ る 子 に つ いて の箇 所 で 、﹁菓 子 など は贅 沢 の骨 頂 だ か ら 、そ ん
(86 )
も の、 あ る い は 親 戚 ・友 人 に 贈 るも の と いう より 、 "宗 教 な費 用 の支 出 な ど は夢 にも 考 へて な い家 が多 い﹂ と 述 べて
費 " と いう 項 目 に 入 れ ら れ て いた こ と か ら み て も 、 紙 銭 や いる の も う な ず け る。
香 な ど と共 に神 仏 に献 上 す る た め の供 物 で あ った と 考 え ら
お わ り に
れ る。 前 節 の註 (60 )・(62)に あ げ た ﹃燕 京 歳時 記 ﹄ や ﹃清
稗 類 紗 ﹄ にも 端 陽 や 仲 秋 の節 句 が 来 る と ﹁世 家 大 族 ﹂ や こ の論 文 で は、 糖 餅 行 や点 心 舗 ・点 心 を み て いく こと に
﹁府 第 朱 門 ﹂ で は点 心 や果 物 を贈 った と あ る こと か ら も 、 より 、 清 代 北 京 に暮 ら し て い た人 々 の生 活 の 一端 に触 れ て
節 句 が 来 る ご と に点 心 を贈 答 す る と いう こと を 行 って いた み た い と いう こ とが 主 な目 的 であ った。
し か し 、 考 察 し て いく う ち に糖 餅 行 に加 入 し て いた よ う ︹註 ︺
な点 心 舗 や そ こ で売 ら れ て いた点 心 と 深 く か か わ って いた (
1 ) 各 氏 の主 な 研 究 と し て は、 根 岸 氏 は ﹃中 国 のギ ル ド﹄ (

のは 、 王 公 貴 族 を中 心 と す る経 済 的 に 豊 か な 人 々 であ り 、 本 評 論 社 、 一九 五 三 )
、 ﹃上海 のギ ルド﹄ (
日 本 評論 社 、 一九 五
一) が あげ ら れ 、 加 藤 氏 は ﹁唐 宋時 代 の商 人 組 合 ﹁行 ﹂ を 論 じ
一般 庶 民 と の か か わり は限 ら れ た も ので あ った と考 え る よ
て清 代 の会 館 に及 ぶ﹂ (
史 学 雑 誌 一四- 一)、 ﹁
清 代 に於 け る北
う に な った 。 文 中 にも 引 用 し た 通り 、 安 徽 や 江 西 な ど の山 京 の商 人 会 館 に つ いて ﹂ (
史 学 雑 誌 五三 - 二) など が あ げ ら れ
村 に 暮 ら す 人 々 に と って は大 根 の輪 切 り ゃ蕨 の塩 漬 など が る。
(2) 今 堀 誠 二氏 の調 査 は、 ﹃中 国 の 社会 構 造 ﹄ (
有 斐閣 、 一九 五
身 近 な 点 心 だ った ので あ ろ う。
三)
、﹃中 国 封 建 社 会 の 機構 ﹄(
日 本 学術 振 興 会 、 一九 五 五)、 ﹃中
文 中 でも 老舎 の小 説 ﹃騎 駝 祥 子﹄ に つい て触 れ たが 、 こ
国 封建 社 会 の構 造 ﹄ (日 本学 術 振 興 会 、 一九 七 八)な ど にま と め
の話 に登 場 す る人 力車 夫 や そ の家 族 たち の よう な そ の 日暮 ら れ て いる。
ら し の生 活 の人 々 にと って、 いく ら 北 京 と いう 大 都 市 に住 (3) 以下 、 ﹃資 料 集 ﹄ に集 め ら れた 糖 餅行 関 係 の碑 文 を、 李 華
編 ﹃明 清 以来 北 京 工商 会 館碑 刻 選 編 ﹄ (
文物 出 版 社 、 一九 八〇 、

一73一
ん で いる と は いえ、 節 句 ご と に手 の こ んだ 点 心 を贈 答 し、
以 下 ﹃碑 刻 選 編﹄ と略 ) 所 収 のも のを 参 照 し つ つ、 史料 と し て
神 仏 に点 心 を供 え、 果 物 や花 な ど を供 え て優 雅 に節 句 の行 利 用 す るが 、 句 読 に つい ては 、改 め た箇 所 が あ る。 な お、 引用
事 を行 う と いう こ と は別 世 界 の出 来 事 で あ った と 言 え る で の際 、 碑 刻 の題 を 次 の よう に 略 す る こ とと す る 。
嘉 慶 五年 立 糖 餅行 雷 祖 会 碑- 雷 祖 会 碑
あろう。
道 光 七年 立 重修 馬 神 廟 碑 ー 重修 碑
先 行 の研 究 を引 用 さ せ て いた だ く だ け で、 何 ら 結 論 を 得
道 光 二 八年 立 馬 神廟 糖 餅 行 規 碑ー 行 規 碑
ら れ な いま ま筆 を置 く こと に な ってし ま った こ と は残 念 で 道光 二 八年 立 糖 餅 行雷 祖 聖 会 碑- 聖会 碑
あ るが 、 も し御 批 評 いた だ け れば 幸 い で あ る。 威 豊 九年 立閤 行 増 長 工価 碑 1 閤 行 工価 碑
同 治元 年 立糖 餅 行 萬古 流 芳 碑 ー 萬 古流 芳 碑
最 後 に、 こ の論 文 を書 く にあ た り 、 い ろ い ろ と御 指 導 下
同 治 元年 立糖 餅 行 萬善 同帰 碑 1 萬 善同 帰 碑
さ った菅 野 正 ・森 田 憲 司 両 先 生 に心 か ら 感 謝 の意 を表 し た 同 治 十 年 立同 行 公 議 増 長 工価 碑 ー 工 価 碑
い。 光 緒 三 二年 立糖 餅 行 北 案 重整 行 規 碑 - 北案 行 規 碑
光 緒 三四 年 立 馬 神廟 糖 餅 行 碑 記 ー 糖 餅 行 碑 記 (14) ﹁聖 会 碑 ﹂
(4 ) 仁 井 田 陞 著 ﹃中国 の社 会 とギ ル ド﹄ 九 五 頁 。 道 光 二十 一年 三 月 初 四 日、 修 理 櫨 壮 。 (
中 略 ) 道 光 二十
(5) バ ージ ェス著 ﹃
北 京 のギ ルド生 活 ﹄ (
申 鎮 均 訳、生活社、 七年 二月 十 九 日 、修 理塁 塙 。
一九 四 二) 九 二頁。 (15) 註 (
13 )参照 。
(6) ﹃中 国 の社 会 と ギ ルド﹄ 一三 五頁 。 (16) 註 (
14 )
参照。
(7) ﹃資 料 集 ﹄ (五) 一〇 一五 頁 。 (17) ﹁萬古 流 芳 碑 ﹂
(8) ﹁雷 祖会 碑 ﹂ 同 治元 年 三月 初 二日、修 立 週塙 垣 、前 後 大 殿 、東 西 配 房 、
原 有契 紙並 西 南 墳 地 契 紙 、 共 計 八 張 。又 東 角 門 外 院 地契 山 門 内 外 脚 門、 共 用 銭 弐 肝 弐百 陸 拾 弐 吊 捌 拾文 。 南 案 添
紙 、 倶 交前 門外 鮮 魚 口内 大 興 楼 劉 徳 全 収 存 。 不 意 大興 置 慢 帳 囲 菓、 共 用 銭 拾 騨 吊 零騨 拾 文 。
楼 、於 乾 隆 五十 五年 十 二月 、 被 天災 焼 綴 。 (
中略) 以 最後 の、 ﹁饅 帳 囲卓 ﹂ は、 お そ ら く周 囲 に 帳 を はり め ぐ ら し
来 、 翻蓋 大 殿 、 前 後 殿 宇 、 以 及両 廟 房 、 屡 次 重 修 。 倶有 た卓 の こ と であ ろ う。 これ は 、南 案 の み によ って寄 付 さ れ て い
賑 目、 皆 被 天 災 綴 化 。 る 。 な お、 ﹃碑 刻 選編 ﹄ 引 用 の ﹁
萬 善 同 帰 碑﹂ にも 、 修 理 の記
(
9 ) 木 嶋清 道訳 ﹃封 神 演 義 ﹄ (
謙 光社 、 一九 七 七) 参 照 。 へ
事 が あり 、 同 治 六年 の年 記 を 有 す ると され る が、 干 支 が 壬戌 と

一74一
(
10 ) 休 日 は、 雷 祖 の誕 生 日 以外 で は端 午 ・仲 秋 ・大 晦 日 の 三回 な って おり 、 元年 を移 録 の際 に 誤 ったも ので あ ろう 。
で あ った 。﹁北 案 行 規 碑 ﹂ は 次 の よ う に出 て いる 。 (18) ﹁重 修 碑 ﹂
五月 初 五日 、 六月 二十 四 日、 八月 十 五日 、 十 二月 三十 日 、 時 祭 之頻 藻 無 文 、 廟 貌 之 丹 青漸 落 。 不 有 以 掃 除 而修 葺
放 官 工 四天 。
之 、 壼 独胎 吾 行 蓋 。 而亦 非 明 硬 対 越 之精 心 、 姐 豆声 香 之
(11) ﹁重修 碑 ﹂ 通義也。
於 道光 壬 午 (二年 )春 重修 雷 祖 聖 殿 、 馬 神 聖 殿、 関 帝 聖
(
19) ﹁聖 会 碑 ﹂及 び ﹁萬古 流 芳 碑 ﹂に は次 の よう に記 さ れ て い る。
殿 、 度 材 鳩 工 、 共銭 壱 千 弐 百 余 千 。 越 丁 亥 (
七年 ) 夏 、 内 敬 祀 雷祖 大 帝 。 毎 届会 期 、 恭 詣廟 所 拮 香 、 以 昭誠 恪 、
又 籍 公 掲 修 理 山門 週囲 岸 界 。 而 酬 霊 既。
(
12) 註 (11)参 照 。 (20) ﹁雷 祖 会 碑﹂
(13) ﹁行 規 碑 ﹂ 所 有廟 内 閑 住 吾 行 親友 、 澗 有 在廟 内 兇 酒 不 法等 事 、 許 住
十 六年 重修 大 殿 一座 、 京 南 両案 合 行共 掲 資 銭 二千 三 百 二 持 通知 総 理 値 年、 問 明縁 由 。 告知 吾 行 衆 善、 将此 不 法 之
十 一吊 。 (
中 略 ) 二十 六年 重 脩群 塙、 合 行 共 掲 資 銭 八百 人 逐出 吾 行 、 永 遠 場許 存 留 。
二十 吊 整 。 (21) ﹁雷 祖 会碑 ﹂
伺住 持視 廟 中 香 火 淡薄 、 住 持 不 力、 許 値 年 会 首 通 知 総 理 ヒ月 十 四 日、 四点 鐘 止 活。 如 四 点 鐘倣 至 八点 鐘 止、 毎 位
会 首、 公議 男召 住 持 。 加 銭 照前 。由 七 月 十 五 至 十 二月 二十九 日 、 均 九点 鐘 止
(22 ) ﹁雷 祖会 碑 ﹂ 活 。如 由 九点 鐘 倣 至 一点 鐘止 者 、加 銭 亦 照 前 。 八謄 月 讐
是 逐出 之後 、傍 然 留 住 、一被 査 出 、将舗 家 住 持 倶 各 受 罰 、 開 照 旧 。 八膳 月 墾 姻 銭 九吊 六百 文 。常 人 送 銭 照 旧。 常 人
決 不循 情 。 節 人 零銭 照例 。 永 遠 不 起早 倣 活 、 起料 子 早 銭 一吊文 。 如
こ の文 より 、 追 放 さ れ たギ ル ド員 が 廟内 に留 ま って いた り す る 有 帯案 、焼 儘 、散 去 、 徒弟 半 角 接 倣者 、 工価 送 銭 一律 照
と 、 住 持 だ け で は な く、 そ のギ ルド 員 が属 し て い た店 (
碑中で 旧 。 如 不照 旧 瞭 者 、 罰 該桓 神 戯 一台 。
は 舗 家) も 共 に罰 せら れ た こと が わ か る。 (28) ﹁糖 餅 行碑 記﹂
(23) 行 規 に関 し て は、 根 岸 氏 は ﹃中 国 のギ ルド﹄、 今 堀 氏 は ﹃中 矯 思 京 城北 案 糖 餅 行 、 遁先 輩 所 遺 。 奈現 在 顛 難 、 無法 刑
国 の社 会構 造﹄ 等 の著 書 に そ の研 究 を 発表 さ れ て い る。 改 。 弦 因於 光 緒 三十 三 年 冬間 銀 価 日 涯、 糧 米 昂 貴 、 毎月
(24) ﹁行規 碑 ﹂ 工 価 、 不 敷 醐 口。 (
中 略 )鄙 行 、 由 十 一月 十 五日 起、 各
本行 今 因劉 凱 同 衆 会 首 、 拘 説 公 議、 係 事 先 人 遺 留 。 今 因 号 鵜 案 焼 燈 人、 毎 月 工 価 銀 四両 。 副 蓄案 摺焼 燈 工 価 銀 三
劉 凱 習学 先 人 勤 労 、 暫 行 停 止 徒弟 。 五年 斉 満 、 合 行 通 全 両 九 銭 。 福 禄 角等 工価 銀 三両 八銭 。 節 人 三月 至 半 年、 毎

一75一
衆 儀、 具 帖 相 請 開 舗 親 友 、 停 止 徒弟 、 演 戯 祭 神 。 月 工 価 銀 四 両 正 。 一個 月 至 八十 天 、 毎月 工価 銀 五両 正 。
(25) ﹁閤 行 工価 碑 ﹂ 浮 幕 忙 節 人 、 毎 天 工価 銀 三銭 、 至 一個月 、 算 賑 九 両 正 。
威 豊 九年 五月 廿 四 日、 閤 行 増 長 工 価 五吊 文 。 六月 拾 五 (
中 略 ) 以 後 閤 行 人等 、 呈献 香 燭 供 品 、 立刻 碑 文 、 以 垂
日、 在 文 昌 会 館 献 神 戯 壱 台 。 永慶。
(26) ﹁工 価 碑 ﹂ (29) 註 (28)の碑 の碑 陰 には、 ﹁
由 光 緒 三十 四 年 新 正初 一日 起 、
同 治 九年 六月 初 十 日、 闊 行 増 長 工 価 。 止徒 弟 三年 。 収 徒 弟 者、 等 光 緒 三 十 七年 、 各 家 櫨房 、 収 徒 弟 一
(27) ﹁北 案 行規 碑 ﹂ 名。 (
中 略 ) 具 収 徒 弟者 、 永 遠 三年 後 、 各 家 収 徒弟 一名 。 如 要
光 緒 三 十 二年 十 二月 初 一日 、 斉 行衆 等 立碑 、 規 例 於 後 。 各 家 不 到 三年 後 収 徒 弟 者、 閤 行 諸 位 霧 友 立 罰 拒 上掌 案 神 戯 一
舷 因北 京 北 案 合 行 公 議 、重 整 行規 、
増 長 工価 銭 。 常 人 長 十 台。
﹂ とあ り 、 こ の後 に 菓 子 屋 の名 前 及 び 各 々の 菓子 屋 に属 す
吊文 、 三月 至 半 年 節 、 毎月 増 長 工価 銭 十 二吊 文 。 一個月 る 人物 の氏 名 が あ げ ら れ、 そ の後 に ﹁
光 緒 三 十 四年 、 京 都 北 案
至 八 十天 、増 長 工価 銭 十 五 吊文 。 毎天 倣 活 、由 下 門 起 手 。 閤行 衆 等 、 重 整 行 規 。京 城 内 外 大 小 董素 南 案 茶 館、 不 許 半 角 徒
時 刻 、由 正 月 至 三 月 、七 点 鐘 止。 由 七点 鐘 至 十 一点 倣 活 、 弟 入北 案 倣 活 。 如 要 入 北案 倣 活、 怨 原 数 工 価 銀 三両 八銭 。﹂ と
毎位 加 銭 七百 文 。 如 二十 吊 以 下者 、 加 銭 四百 文 。 四 月 至 記 さ れ て い る。
(
30 ) ﹁行 規 碑 ﹂ には 、 ﹁近者 、 衆 等 恐日 久 生 解 、 不 守 成規 ﹂ と あ 旧 式樵 点 鋪 、 己 入 公 会者 有 七十 余 家、 以 正 明 斎、 慶 雲 斎
り 、 ﹁聖会 碑 ﹂ に は、 ﹁造 去 年 、 行規 素 乱 、 漸 改 旧 章 ﹂ と あ る 。 為較早。
な お、 ﹁萬 古 流 芳 碑 ﹂ にも 、 ﹁聖 会碑 ﹂ と同 じ表 現 が あ る。 (38) ﹃北 京 工 商名 鑑 ﹄ (
昭 和 十 四年 版 ) 四 五 七1 八頁 参 照 。
(31) 註 (
27 )及 び 註 (29)参 照 。 (39) 周 簡 段 著 ﹃
京 華 感 旧 録掌 故 篇 ﹄ (
南 男 出 版 社 、 一九 八 七)
(32) 郭 立誠 著 ﹃
故都憶往﹄ (
台 湾 学 生書 局 、 一九 七 五)九 七 頁 に には 、 次 の よ う にあ る 。
は 次 の よ う に出 て い る。 北 京 旧時 点 心 鋪 ・大 約 分 三 種 : 一種 叫 徹 "満 洲艀 醇 鋪 "
後 来 西式 点 心 流 行 、旧 式 餌鮮 舗漸 漸 衰 微 、為 了 迎 合 時 尚 、 ・多 在 内 城 ; 一種 叫 倣 "南 果 鋪 "・ 多 在 南 城 ;後 来 又 有
也 曽 彷作 餅 乾 、西 式 蛋 樵 之類 、不 過 半 路 出家 、終 是 不 行 、 一種 西式 点 心 鋪 ・也 叫 麺 包 房 ・売 西式 樵点 , 北京 叫 "洋
後 来 麺 包 西点 舗 越 来 越 多、 百 八 十年 的 老 店 、 先 後 関 閉、 点 心 "・(== 八 頁)
南 方 人看 到 ﹁鮭 艀 ﹂ 這 個名 詞 都覚 得 新 奇 了 。 (40) 註 (
39 )参照 。
(33) ﹃北 平 市 工商 業 概 況 ﹄ (
池 澤 匪 ・婁 学 煕 ・陳 問 威 同 編、 北 平 (41) 註 (
39 )参照 。
市 社 会局 、 一九 三 二) 三 六 二頁 に は、 ﹁工資 旧 式 毎 人 毎 (42) この 十 三軒 の点 心舗 を 、 民 国 一二年 版 の ﹃増訂 実 用 北 京 指
月 自 五角 至十 元 、 新 式 則 待 遇 較 優 ﹂ と あ る 。 南﹄ (
徐 珂 編、 商 務 印書 館 )の第 七篇 実 業 の ﹁艀鯨 鋪﹂ の項 (一

一76一
(
34 ) ﹃北平 市 工商 業 概 況 ﹄ 三 六 一
二頁 に は次 の よう に出 て いる 。 四 〇 i 一頁) によ って、 内 城 と 外 城 と に分 ける と、 次 の よう に
細 査平 市 樵 点 営 業 情 形、 旧 者 故 歩 自 封 、 不 肯 傭 用 芸 術較 なる。
優 之 人 、 改 良 製 品 、 致有 日 帰衰 退 之 勢 。 新 者 経 理 商店 之 内城
人 、 多 由 外 商 伝 習 而来 、 毎 自 招 致 学 徒 、 率 同 工作 、 製 品 合芳櫻 東四牌楼南路東
求 合 於 時 尚 、 其 錆 路 自広 。 東 聚興 安定 門内路西
(
35 ) 許 道齢 編 ﹃北 平 廟 宇 通 検 上編 ﹄ (国 立 北 平 研 究 院史 学 研究 桂茂齋 阜成門内路南
会 、 一九 三 六) = 二五 頁 には 次 の よ う に出 て い る。 祥順齋 新街口南大街
馬 神 廟 牛 角 湾 南 馬 神 廟 三号 、 旧 為 京 師 糖 餅 商 会 所、 今 已 瑞芳齋 東四牌楼北大街
破敗不堪。 聚興齋 地安 門内大街東
(
36 ) 澤崎 堅造 著 ﹁北 京 回 教徒 の職 業 ﹂ (
﹃東 亜 経 済 論 叢 ﹄第 一巻 聚聲齋 新街口西街
第 三号 、 一九 四 一) には、 ﹁樵点 (
菓 子 )舗 は 、 同 業 公会 が民 国 銃明齋 西単牌楼北路東
十 七年 に組 織 さ れ た が ﹂ と あ る。 銃美齋 西単牌楼北路東
(
37 ) ﹃
北 平 市 工商 業 概 況 ﹄ 三 六 二頁 には 、 次 のよ う に あ る 。 銃慶齋 新街口南大街西
徳 豊齋 安定門内路西 稲香春 東牌楼北街
外城 稲香春元記 地安門外大街
桂蘭齋 東珠市口 稲香春生記 西単牌楼北
慶福齋 (
慶 福 齋 に つ いて は、 ﹃
増 訂 実 用 北 京 指 南 ﹄に ﹁慶 稲香春替記 西 四牌楼北
福 齋 ﹂ と いう店 が 二軒 載 って いる の で、 ど ち ら にあ た る 稲郷村 地安門外大街
か わ か ら な いが 、 所 在 地 は 花 市 街 と広 安 門 大 街 で、 ど ち 慶長玉 西単牌楼北
ら も 外 城 に あ た る の で、 外 城 の方 へ入 れ て お い た。) 穀香村 西四牌楼南
以 上 の点 心 舗 は、 ﹁北案 行 規 碑 ﹂ に 名 前 が み え る の で、 北 案 興記 東安市場
に属 し て いる と 判 断 でき る。
興盛 崇文 門内大街
(43) やは り 民 国 一二年 版 の ﹃
増 訂 実 用 北 京 指南 ﹄ の ﹁南 貨 点 心
外城
店 ﹂ の項 (一四 一- 二頁) に挙 げ ら れ て いる店 を、 内 城 と外 城
三陽泰 虎坊橋路北
と に分 け て みる と 次 の よ う に な る。
大新號 煤市街
内城
采芝齋 螺馬市

77一
天益食品公司 東 四牌櫻
鼎香村 螺馬市
天益公司 西四南大街
鼎香春 螺馬市大街
正吉祥 新 街口南大街
東利順 崇文門外大街
東 亜公司 東単北大街路西
桂香村 観音寺
珍海齋 東安市場
盆華 虎坊橋
桂香村西號 西単牌楼北
華美春 崇文門外大街
森春陽 東四牌楼
第 一春振記 西河沿東
聚慶奎 東安門外 稲香村 正陽門外観音寺
稲香村 東安市場 稲香村錦記 廊房頭条
稲香村 東四牌楼北 稲香軒 香廠万明路
稲香村 西単牌楼北 廣正隆 正陽門大街
稲香村 地安門外 錦記 廊房頭条
稲香春 東安市場 (44) 金 蘭 齋 亦 供宮 中 所 需 、較諸合芳 ・瑞芳為精細、淳厚之味梢
遜 。 (52) 村 上 知 行 著 ﹁北京 の お菓 子 ﹂ (
中 央 公 論 五 四⋮ 一、 一九 三
(45) こ の時、 金蘭 齋 が 行 った 寄 附 に つ いて、 ﹁金 蘭 齋 共 助 銭 一 九 ) に は、 月 餅 会 に つい て次 の よ う に述 べら れ て い る。
百 吊 文 、 又桓 案 上 人等 共 助 銭 一百 十 九 吊文 ﹂ と あり 、 金 蘭 齋 の 月 餅 は 八月 十 五夜 の点 景物 で あ る。 だ か ら そ の季 節 が 近づ
次 に多 いの は 慶 蘭 齋 で、 ﹁慶 蘭 齋共 助 銭 五十 二吊 文 、 又 拒案 上 く と、 自 家 に山 の如 く 用 意 す る の みな ら ず、 親 類 、 縁者 、 朋
人 等 共 助 銭 八 十 八吊 文 ﹂ と あ る。 こ の 二軒 の点 心 舗 を 比 べ てみ 友 など にそ れぞ れ つか ひ 物 と し て配 る 。 と こ ろが 中 国 は例 の
ても 、 金蘭 齋 の寄 附 額 は、 慶 蘭 齋 を大 き く上 回 って いる 。 そ の 通 り の大 家族 制 の社 会 だ 。少 々 の月 餅 で は間 に合 は ず、 少 し
他 の点 心 舗 の 寄 附金 に つい て は、 ﹃碑 刻 選 編 ﹄ 一三 六ー 九 頁 参 大 き な 家 庭 に な ると 、 百 圓 二百 圓 は 何 でも なく 支 出 し て仕 舞
照。 はな く ては なら な い。 そ れ を 一時 に支 払 ふ のは ち ょ っと苦 痛
(
46) 当 年 以 東 四南 大 街 合 楼為 最佳 。 此 店 始 於 道 光 中、 至光 緒 庚 だ と い ふと こ ろ から 一年 中 、 毎 月 に割 って金 を 菓 子 屋 に納 め
子後 漱 業 、 全 部 工 人 及 貨 色、 皆 移於 東 四北 瑞 芳 斎 、東 城 惟 此 独 る 。 恰 かも 貯 金 帳 に似 た帳 面 が あ って、 菓 子 屋 の方 で は金 を
勝。 受 取 る た び に判 を 捺 す 。謄 て季 節 にな ると 、 納 め た金 の総 額
(47) ﹃増 訂 実 用 北 京 指 南 ﹄第 七編 一四〇 頁 。 に値 す る月 餅 を 届 け て 寄 越 す の だ 。 ま る で月 餅 の掛 講 であ
(48) 正 明 斎 に つ い ては ﹃
馳名京華的老字号﹄ (
中 国 人 民政治協 る。
(53) ﹃
北 平 市 工商 業 概 況﹄ 三 六 一頁 に は、 ﹁各 鯨館 鋪毎 発 起 月 餅

78
商 会 議 北 京 市委 員 会文 史 資 料 研 究 会 編 、 文 史資 料 出 版 社 、 一九
八 六) 一四 六 - 一五 五頁 に、 正 明 斎 の経 営 者孫 益 増 氏 夫 人 張 蕪 会 蜜 供会 、 填 発 会 単、 中 小 戸 入 此 会者 、 按 月 交 二 角 或 三 角之
芳 女 史 が 、 正 明斎 の起 源 や経 営 方 法 、 点 心 に つい て書 い てお ら 歓、 十個 月 満 期 、 可取 月 餅 或 蜜供 若 干 斤 ﹂ と あ る。 ﹃中 国 の社
れ る のを 、 参 考 に さ せ て い ただ いた 。 会 と ギ ルド﹄ = 二頁 も 合 せ て参 照。
(49) 碑 の内容 に つい て は 註 (
28 )参 照 。 碑 中 に あ る "帯 案焼 櫨 (
54 ) 小 野 勝 年 訳 註 ﹃
北 京 年 中 行事 記 ﹄ (
岩波 文 庫 、一九 四 一)は、
人 " や "副 幕案 焼 蓄 " は 常 傭 い の 職 人 の こと であ り、 "節 人 " 清 代 の敦 崇 の ﹃燕京 歳 時 記 ﹄ の訳 注 であ る が、 そ の 二五頁 の訳
と あ る のは 一年 のう ち 決 ま った 季 節 (
あ る い は例 え ば 三 ケ月 で 注 に ﹁醇 醇 と は満 洲 語 か ら 来 た と云 は れ、 饒 鈍 粉 を こね て蒸 し
あ れ ば 三 ケ月 と いう 決 ま った 期 間 ) だ け働 く 職 人 を 指 す の で は て つく った 菓 子 を指 し、 醇 醇鋪 と云 へば 菓子 屋 の義 であ るが ﹂
な いか と私 は考 え る。 と あ る。
(50 ) "
浮 摺 忙 節 人 " と は 忙 しく な った時 だ け 雇 う 日雇 いの職 人 (55) 元 宵 に つ いて は ﹃北 京年 中 行 事 記 ﹄ の 四〇 頁 の訳 注 に、 次
を指 す の で は な いか と 考 え る 。 の よう に記 さ れ て い る。
(51 ) ﹃紅 楼 夢 ﹄ の 第 七五 回 に は ﹁月 餅 是 新 来 的 一個 醇 館 厨 子 、 元 宵 は 儒 の粉 で外 を裏 み、 中 に餓 を 入 れ た団 子 で あ る。 館
我試 了試 果 然 好 、 繊 敢 倣 了孝 敬来 的 ﹂ とあ る 。 は炎 .山 柾 子 ・胡 桃 其 他 の乾 果 と 砂 糖 を練 って作 る。 これ を
茄 で で食 べ る。 大 概 寒 い季節 を通 じ て造 る様 で あ る が此 時 が 之鱈 。
最 も 盛 んだ 。 元 宵 と 云 ふの は上 元 の夜 の祭 に 食 べるも の であ 攻魂花作飼
る と こ ろ から 附 け ら れ た の で あら う 。 去 攻 塊 花 豪 蕊 、 並 白色 者 。 取 純紫 花 辮 、 揚 成 膏、 以 白 梅 水
(56 ) 李 家 瑞 著 ﹃北 平 風 俗 類徴 ﹄ (
商 務 印 書 館、 一九 三 七) に は 浸少 時 。 研 細 。 細 布絞 去 滴 汁、 加 白 糖 。 再 研極 勾 、 甕 器 収
次 の よ う にあ る。 貯 。 最 香 甜 。 可 為 点 心之 飼 。
妨 皮 元 宵 、 南 方 呼 為 圓 子、 京 師 惟 正 月 盛 行、 凡米 粉 圓 子 、 通 ま た、 藤 の花 を 食 べる と いう こと に つ い て、村 上 知 行 氏 は ﹁

名 元 宵 Q (二 一三 頁 ) 京 の お菓 子 ﹂ の中 で 次 の よう に 述 べ て いる 。
ま た、 徐 珂 撰 ﹃清 稗 類 砂 ﹄巻 四 八 ・飲 食 類 に も 藤 の花 を 喰 ふの は、 決 し て貴 族 や、富 豪 の厨 房 で考 へら れ
湯 圓 、 一日 湯 欄 。 北 人 謂之 日 元 宵 。 以 上 元 之 夕 必食 之 也 。 然 た こと で は あ る ま い。 餓 ゑ た る民 が 、 腹 ペ コペ コの苦 し さ紛
実常年有之。 れ に 、何 でも 彼 でも 手 当り 次 第 、 口に詰 め 込ん で ゐる う ち に
とあ り 、 これ に よ り 元 宵 は湯 圓 あ る いは 湯 欄 と も いわ れ て いた 偶 然 発 見 さ れ たも の であ ら う。
こと が わ か る 。 薔 薇 や藤 の花 を食 べ ると いう こ と は、 一見 優雅 な こと のよ う に
(57) ルイ ー ズ ・ク レー ン著 ﹃
支 那 の幌 子 と 風 習 ﹄ (
井上胤信訳、 思 え る が、 し か し、 攻 魂 餅 や 藤 薙 餅 と い う よう な点 心 の起 源
大 阪 朝 日 新 聞 社 、 一九 四 〇) に は元 宵 の看 板 に つい て次 の よう

79
は、 庶 民 が生 活 し て いく う え で必 要 に か ら れ て つく りだ し たも
に記 さ れ て いる 。 ので あ った とも 考 えら れ る 。
元 宵 団 子 の幌 子 の 意 匠 は依 然 と し て不 可解 のも の と し て残 (59 ) ﹃
北 京 年 中 行 事 記 ﹄ 一〇 七頁 の 訳 注 に よる と 蜥 蜴 の代 り に
さ れ てあ る 、 竹 を細 く割 い て酸 漿 のや う なも の で、 先 づ 開 い 蛸 艇 と す る場 合も あ ると いう こ と であ る 。
た 竹 糸 の先 端 に は綿 珠 が鈴 生 り と な つて ゐ る 。 こ の幌 子 は燈 (60) ﹃清 稗 類鋤 ﹄ 巻 一 ・時 令類 に は次 のよ う に あ る。
節 が 終 る と共 に取 払 は れ てし ま ふの で あ る。 (五 一頁 ) 京 師 謂 端 午為 五月 節 。初 五 日為 五月 単 五。 蓋 端 字 之 転 音
元 宵 の看 板 の形状 に つい て は林 岩 ・黄 燕 生 ・肖 薙 如 ・翼 連 芝 ・ 也 。 端午 以前 、 世 家 大族 、 皆 以 綜 相醜 胎 。 副 以 桜 桃桑 椹 學
呂 瑞 珍 編 ﹃老 北京 店 鋪 的 招 幌 ﹄ (
博 文 書 社 、 一九 八 七) の図 版 齊 桃杏 及 五毒 餅 攻 魂 餅 。其 供 仏 祀 先者 、 則 以 綜 桜 桃 桑椹 為
六六 参 照 。 正 供 。亦 薦其 時 食 之 義 也 。
(58) ﹃清 稗 類砂 ﹄ 巻 四 八 ・飲 食 類 に は 薔 薇 や 藤 の 花 弁 を 使 い館 (61) ﹃紅 楼 夢 ﹄第 七 五回 には 中 秋節 の 宴 会 の 場 面 に ﹁凡稟 椅 形
を つく る 作 り 方 に つい て次 の よう に 記 さ れ て い る。 式 皆 是 圓 的、 特取 団 圓 之 意 ﹂ と あ る。
藤 花作 鱈 (62) ﹃燕 京 歳 時記 ﹄ の中 秋 の条 に は次 のよ う に あ る。
採 藤 花 洗 浄、 洒 以 盛 湯 。 絆 勾 、 入甑 、 蒸 熟 鷹乾 。 可 作 点 心 京 師 之 日 八月 節 者 、 即 中 秋 也。 毎 届 中 秋、 府 第 朱 門 、皆 以
月 餅 果 品 相 醜贈 、 至十 五 月 圓 時 、 陳 瓜果 於 庭 、 以 供月 。 並 (67) ﹃燕 京 歳時 記 ﹄ の花樵 の条 に は次 の よ う にあ る。
祀 以 毛 豆、 鶏 冠花 。 (
中 略 ) 惟 供月 時 、 男 子 多 不 叩 拝 。故 花 樵 有 二種 。 其 一以糖 弼為 之 、 中 爽細 果 。 両 層、 一
.一層、不
京 師 諺 日、 男 不 拝 月 、 女 不祭 竈 。 同 。 乃花 樵之 美 者 。其 一蒸 餅 之 上、 星 星 然 綴 以喪 栗 、 乃 花
(63) ﹃紅 楼 夢﹄ 第 七 五回 には 次 の よ う に あ る。 樵 之 次者 也 。
嘉 蔭 堂月 台 上 、 焚 着 斗 香 、乗 着 燭 、 陳 設 着 瓜 菓 月 餅等 物 。 (68) 明 劉伺 ・干 突 正 撰 ﹃
帝 京 景 物 略 ﹄ に は次 のよ う に あ る。
邪 夫 人等 皆 在 裏 面 久 候 。 真 是月 明燈 彩 、 人 気 香 姻、 晶 鑑 気 樵 騨 標 紙練 旗 、 日花 樵 旗 。 父 母 家 必 迎女 来 食花 樵 。 或 不 得
盆、 不 可名 状 。 地 下 鋪 着 拝藍 錦 褥 。 費 母 盟 手 上 香、 拝 畢 、 迎、 母 則 詣 、 女 則怨 詫 。 小 妹 則 泣望 其 姉 嬢 。亦 日 女 児 節 。
於是大家皆拝過。 (69) 清 子中 等 編 ﹃日下 旧 聞 考 ﹄ 巻 一四 八 に よる と、 明 孫 国 荘 撰
(
64 ) ﹁
北 京 の お菓 子 ﹂ に は 次 の よう に述 べら れ て いる 。 ﹃燕 都 遊覧 志 ﹄に は ﹁重 九 日、 勅 賜 百 官 花樵 宴 ﹂と あ ると あ り 、
も っとも 高 級 な のは広 東 月 餅 だ が 、 これ は 北京 で は季 節 明 代 に は 宮 中 に お い て 花 樵 の 宴 会 が 催 さ れ て いた こと が わ か
の前 後 しか な い。値 段 が高 い の で、 普 段 は さ う売 れ さう も る。
な い し、 第 一職 人 が ゐ な い。 北 京 の菓 子 屋 で は季 節 が 近 づ (70 ) ﹃燕 京 歳 時 記﹄ に は次 のよ う に あ る。
くと とも に 態 々 広 東 から 職 人 を呼 び 寄 せ て大 量 に製 造 さ せ 民間 祭 竈 、 惟用 南 糖 ・関 東 糖 ・糖 餅 、 清 水 ・草 ・豆 而 巳 。

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る。 糖 者 所 以 祀神 也、 清 水 草 豆者 、 所 以 祀 神馬 也 。
(65) ﹃老 北 京 店 鋪 的 招幌 ﹄ 図 版 説 明 に は次 のよ う に あ る。 (71) ﹃北 京 年 中 行事 記 ﹄ 二〇 〇頁 ∼ 二〇 一頁 訳注 参 照 。
月 餅 是 我 国 農 暦 八月 十 五日 中 秋 節 民 間食 用的 節 令 食 品 。其 (72) ﹃日 下 旧 聞 考﹄ に は、 ﹁
京 師 居 民 祀 竈 猶 傍 旧 俗 、禁 婦 女 主
幌 子 是 将 圓 木 牌漆 成 紅 色 、 上 題 "中 秋月 餅 " 四字 、 既 是月 祭 。 家 無 男 子、 或 迎鄭 里 代 焉 。
﹂ とあ る 。
児 圓 的 象 徴、 又 是売 月 餅 的 標 記 、 属 干形 象 幌 子 。 (73) ﹃燕 京 歳時 記﹄ 天 地 卓 の条 に は、 次 のよ う にあ る 。
な お、 看 板 の形状 に つ い ては 同 書 の図 版 六 七参 照 。 毎 届 除 夕、 列 長 案 於中 庭 、 供 以 百 分 。百 分 者 、 乃諸 天 神 聖
(66) ﹃燕 京 歳 時 記﹄ の九 月 九 の条 に は 次 の よ う にあ る。 之 全 図 也。 百 分 之 前、 陳 設 密 供 一層、 平 果 ・乾果 ・饅 頭 ・
京 師 謂 重 陽為 九 月 九 、 毎 届 九月 九 日、 則 都 人 士 提 壺 捲櫨 、 素 菜 ・年粍 各 一層 、謂 之 全 供 。 供 上籔 以 通 草 ・八仙 及 石 榴
出 郭 登高 。南 則 在 天 密 寺 ・陶然 亭 ・龍 爪 塊 等 処 。北 則葡 門 ・元 寳 等、 謂 之 供 仏花 。 及 接 神時 、 将 百 分 焚化 、 接 逓 焼
姻 樹 ・清 浄 化 城 等 処 。 遠 則南 山 八刹 等 。 賦 詩 飲 酒、 姥 肉 分 香 、 至 燈節 而 止 、 謂之 天 地 稟 。
樵 、 洵 一時 之 快 事 也 。 ま た 、蜜供 に つ いて ﹃道 威 以来 朝 野 雑 記 ﹄に は次 の よう にあ る 。
重 陽節 に な る と人 々は 酒 や花 樵 を携 え て郊 外 へ出 か け、 秋 の 一 蜜 供、 素 食 也 。 為 歳 終 供 仏 之 用 。 以 麩 条 為碑 、 醐 成 浮屠
日 を楽 し ん で いた こと が わ か る。 形、 或方 或 圓 、 或 八角 式 。 大 者高 数 尺 、 小者 数 寸 、 外 以 蜜
軍 勾 、 大都 梶 様 子 者 、 不 可 食 。 (
80 ) ﹃清 稗 類 砂 ﹄ 巻 四 八 ・飲 食 類 。
蜜 供 に は 仏 像、 方 形 、 円 形 、 八角 形 の形 を し た様 々な 大 き さ の 饅 頭 、 一日 饅 首 。 屑 劉発 酵 、 蒸熟 隆 起 成 圓形 者 。 無 飼 、食
も のが あ り 、 供 え るだ け で食 べな い点 心 で あ る。 時必以肴佐之。
(74) 接 神 に つ いて は ﹃
北 京 年 中 行 事 記 ﹄ 二四頁 訳 注 参 照 。 接 神 (
81 ) 米 田 祐 太 郎 著 ﹃生 活 習慣 北 支那 篇 ﹄一六 一頁 参照 。
は十 二月 二一
二日 に 竈神 が 一家 の善 悪 を 玉 皇 上帝 に報 告 す る た め ま た 、同 書 には 窩 窩 頭 に つい て次 のよ う に記 さ れ て い る。
天 に昇 るが 、 評定 が終 り 大 晦 日 の夜 半 に再 び下 界 に降 る 。 そ の 大 餅 子 の 一種 で、 真 中 の凹 ん で いる と ころ へ喪 など いれ て
時 、 天 上 天 下 八 百 万 の神 々が 共 に下 界 に 降 り てく る の で、 これ あ る のが 窩 窩 頭 と 云 ひ、 これ も下 層 民 の常 食 に な って ゐる
ら の神 々を お 迎 えす る儀 式 を 接 神 と いう 。 (一六 一頁 )。
(75) 一月 十 三 日 か ら 十 七 日 ま で を燈 節 と いう が、 十 五日 は特 に (82 ) 小 倉 章 宏 著 ﹃北 支 の新 生 活 案 内 ﹄ (
生 活 社 、 一九 三 七) 一六
正 燈 と いう 。 燈 節 に な る と宮 廷 で は宴 会 を 催 し、 市 で は燈 籠 を 七頁 参 照 。
吊す。くわしくは ﹃
燕 京 歳 時 記 ﹄ の燈 節 の条 参照 。 (83) ﹃生 活 習 慣 北 支 那篇 ﹄ 一六 二頁 参照 。
(76) 石 橋 崇 雄 著 ﹁s a ci m aの こと ﹂ (
﹃東 天紅 ﹄ 第 二 二回 、 (84 ) 後 藤 朝 太 郎 著 ﹃
支 那 の下 層 民 ﹄ (
高 山 書 院 、 一九 三九 )六六
一九 八 六 ) 参 照 。 頁参照。
(77) ﹃京 華 感 旧 録掌 故 篇 ﹄ 三 一七頁 には 薩 其 馬 の 作 り 方 に つ い

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(85) ﹃生 活 習 慣 北 支 那篇 ﹄  六 七頁 参 照 。
て、 次 のよ う に 述 べ ら れ て い る。 (86) ﹃生 活 習 慣 北支 那篇 ﹄ 一六 七頁 参 照。 な お、 同 書 の同 頁
按 "薩 其 馬 "的 作 法 是 以 鶏 蛋 清 、 和 妨、 糖 調 麺 粉 成 糊 状 、 前 後 に は、 民 国 当時 の農 民 の生 活 に つい てく わ し く述 べら れ て
用 漏 勺 架在 油 鍋 上 、 将 麺 糊 炸 成 粉 条 一様 的 東 西 、 然 後 在 模 い る。
子 中 以 蜂 蜜 勧 堅成 型 、 稻 蒸 之 後 、 上 面 漉熟 芝 蘇 或 瓜 子 仁 、
青 紅 練 、用 刀切 成 長 方 塊 即 成 。
(78) ﹃燕 京 歳時 記﹄ に よ ると ﹁芙 蓉 樵 与 薩 斉 焉 同、 但 面 有 紅 糖 、
鑑 如 芙 蓉 耳 ﹂ と あ る。
(79) ﹃京 華 感 旧 録掌 故 篇 ﹄ 三 一七- 八頁 に は 、
次 の よう に あ る。
如 果 "薩其 馬 "的 表 面 舗 一層 染 成 桃 紅 色的 綿 白 糖 、 様 子 十
分 好 看 、 名 字 也 十分 好 聴、 謂 之 "芙 蓉 樵 "、 価 銭 比 "薩 其
馬 " 略 微便 宜 些、 但 是 並 不 如 "薩 其 馬 "好 吃、 一来 太 甜 、
二来 綿 白 糖 墜 緊 之後 、 吃起 来 也 不 殉霧 軟 。

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