You are on page 1of 20

202

近世中後期における朱印地管理と祭礼
―下総国葛飾郡葛飾八幡宮を事例に―
菅  野  洋  介
はじめに
 本稿は、下総国葛飾八幡宮を事例に、江戸近郊における朱印地を有する神社の別当(天台宗)と神主(禰宜)の動向を
( )

1
中心に取り上げ、当該期の朱印地における祭礼のあり方を分析するものである。主な論点は、朱印地境内における祭礼執
行のあり方になるが、それに関連した幕府代官の裁定指針について注目する。これらの分析を通じて、近年の宗教と社会
( )

2
研究の成果に位置づけていきたい。
( )

3
 さて、かつて筆者は、当該期の宗教編成を総体で捉える視角として、輪王寺宮の存在を強調した。当該期の宗教者(修
験や陰陽師など)についての研究史は各本所の動向を軸に進められてきたが、筆者は天台系の宗教者を中心に輪王寺宮が
各宗派の寺院を横断的に編成したことが宗教者を捉える上で重要であることを述べた。また輪王寺宮が寛永寺や日光東照
宮に関わることを重視すれば、その権威性は注目されよう。本稿の事例では、別当が寛永寺直末寺院であり、神社を位置
づけるにあたっても輪王寺宮の動静に注意をはらうことが求められる。また、江戸近郊の場合、徳川将軍の動静と関連し、
( )

4
「葵の紋」の使用や御膳所に指定された事例も明らかになっている。江戸近郊の寺社は徳川将軍の御成場所になる例もあり、
それぞれの事例を在地側の動向とあわせた事例研究が必要な段階と考えられる。
 一方、これらの研究動向とは違いがあるものの、朱印地を有する各寺社の動向についての研究史も蓄積されている。松
本和明氏は、徳川将軍の寺社に対する朱印状受給のあり方について、徳川氏を中心とした政治情勢をふまえつつ、その地
( )
5

帯的な特徴を示されている。特に、慶長期までに関東や東海地方の寺社に朱印状が重点的に発給されていることを明らか
にしている。当該期の寺社を概況的に理解する上でも同氏の示された見解は重要な指針となる。また、寺社領の研究を進
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

( )

6
める保垣孝幸氏は、朱印地の土地制度上における問題に注意を払いながら寺社領研究を進めている。同氏の成果は、朱印
地の分析から石高制の理解を深めるものとなっており、土地制度史との関係でも注目される。
 また朱印状をめぐっては幕府の儀礼整備のあり方ともあわせて考えておきたい。廣瀬史彦氏は、朱印改めの分析を通じ
( )

7
て、寛政二年に各地で境内絵図が作成されることを述べている。分析対象は三河の事例となるが、同氏の成果を積極的に
ふまえれば、寛政期段階において幕府側が朱印地の具体的な把握を進展、あるいは、そもそも朱印地の範囲が不分明であっ
た事例があることも朱印改めを捉える上で留意される。なお、近年では寛政期に作成された「諸国御宮在之寺院記」につ
( )

8
いての紹介がなされ、やはり寛政期段階での朱印地把握の進展も想定される。
 このような研究史に留意しつつ、本稿では冒頭の課題に迫るが、以下の分析視角に沿っていきたい。①輪王寺宮や徳川
将軍との関係に注目しながら本所吉田家との関係性を問い直す。②領主(代官)の朱印地管理への指針について注目する。
③朱印地で開催された祭礼市をめぐる在地社会における取り決めに注目する。概して、祭礼市をめぐる先例を重視した秩
序と新たな時代機運のあり方に論点を定めたい。
 次に、本稿の対象地について成田参詣記(安政五年刊行)を中心に参照したい。まず所在地は葛飾郡八幡村(千葉県市
川 市 ) に あ た り、 村 高 四 二 五 石 余( 元 禄 期 ) に な る。 主 に 本 稿 で 取 り 上 げ る 葛 飾 八 幡 宮 は 社 領 五 十 二 石 と な る。 社 領
五十二石は、「天正十九年辛卯十一月」と記載され、徳川家康の関与が示される。また宇多天皇の勅願とされ、正月十五
203
( )
9

日に筒粥神事、八月十五日の放生会では神輿出御や「つく舞」が実施され、多くの人々が訪れる旨を記載している。この
204

ような状況は、当社の祭礼市が「祭礼番付」に記載される背景とみられる。
 また別当は法漸寺で「寛永寺末寺」とあり、「祠官」として鈴木主馬が記載される。鈴木主馬については、「五石配当あ
り」と記載される。なお、この「五石配当あり」の問題は、本文中で一つの論点となることを断っておきたい。この他、
寛文三年、法漸寺仙営が「堂社再造」し、寛政五年秋に「古鐘一口」が発見されたともある。この「古鐘」には元享元年
の記載もある。当地における歴史認識の深まりをうかがわせる内容である。さらに「八幡不知森」が南に位置し、この場
( )
10

所は「法漸寺持」とある。
 以上の基本情報を整理すると、①朱印五十二石が確認できること、②寛永寺末寺法漸寺が別当であり、鈴木家が「祠官」
駒沢史学89号(2017)

であったこと、③八月十五日に神事が催されること、④寛政五年「古鐘」が発見されたこと、以上の四点を再確認したい。
これらの基本情報とともに、次に取り上げる朱印状写しの内容もあわせて確認する。
一 元禄十四年の朱印状写と輪王寺宮
( )

11
 まず取り上げる史料は、元禄期に作成された徳川家康以下の朱印状写し及び朱印状に付された「書付」である。表装さ
れて当地(八幡宿)に伝来したもので、史料作成の経緯が「書付」に記されている。
 朱印状の内容は、たとえば天正十九年十一月、葛飾八幡宮が徳川家康より五十二石を「寄進」されていること、さらに
秀忠・家光・家綱の代に朱印地が認定されていることが示されている。家綱段階までの朱印状が一装にまとめられている。
 【史料一】
   寄進   八幡宮
  下総国葛飾郡八幡郷内五拾弐石事
 右如先規令寄附之訖、弥守此旨抽武運長久之精誠殊可専祭礼之状如件
   天正十九年辛卯十一月日 大納言源朝臣 御書判
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

  八幡領下総国葛飾郡八幡郷之内五拾弐石事、任去天正十九年十一月先判之旨永可不有相違之状如件
   元和三年四月六日 台徳院様 御朱印
  八幡領下総国葛飾郡八幡郷之内五拾弐石事、任去天正十九年十一月元和三年四月六日両先判之旨永可不有相違之状如

   寛永十三年十一月九日 大猷院様御朱印
  八幡領下総国葛飾郡八幡郷之内五拾弐石事、任去天正十九年十一月元和三年四月六日寛永十三年十一月九日先判之旨
永可不有相違者也如件
   寛文五年七月十一日
    厳有院様御朱印
 右御朱印 御代々被成下東叡山宝蔵入置之処、元禄十一年九月炎上之節御朱印悉焼失候、就夫日光御門跡依御願当御
代々之御朱印者御書直被下之候、御代々之御朱印茂為後証写之可相渡旨被 仰出付而書記之各加判形下置之者也
  元禄十四年十二月九日
                       阿部飛騨守正喬 書判
205                        永井伊賀守直敬 書判
                       松平日向守重賢 書判
206

                       青山播磨守幸督 書判
 
 この史料で注目したいのは、巻末の「書付」部分である(傍線部)。これによると、家康以来の朱印状が東叡山(寛永寺)
宝蔵で管理され、元禄十一年に宝蔵炎上の際に朱印状が焼失したことが記されている。さらに今回、日光門跡、つまり輪
王寺宮が朱印状を「御書直」し、代々の朱印状写を渡される旨も示されている。最後に「書判」している人物に当時幕閣
の阿部飛騨守以下が確認されるが、宛名はみえない。なお、元禄十一年は「勅額火事」とされる火災が寛永寺で生じてお
り、史料内容と合致する。史料にあるような朱印状焼失の傍証になる。
駒沢史学89号(2017)

 ここでは、朱印状を東叡山寛永寺で管理するという記載内容を取り上げる。一般に朱印状は在地の寺社で管理されよう
が、当該例にあるように寛永寺管理となれば、それ自体が注目される。また阿部飛騨守らが朱印状の「書直」を輪王寺宮
に許したものと考えれば、輪王寺宮の権威性に改めて注意を払うべき問題である。この問題については、他事例で寛永寺
との関連がないかなど、今後の課題となるが、朱印状管理を捉える上で留意されよう。
 以上、ここでは①朱印状写しが一装で伝来していること、②元禄期に朱印状が焼失し、輪王寺宮の「書直」がうかがえ
ること、以上の二点が確認できる。そして、この朱印状をめぐって寛永寺の管理がうかがえ、このことは当該事例の葛飾
八幡宮の別当法漸寺や神主(禰宜)のあり方に関係するとみられる。朱印状自体が在地社会で、いかに認識され受容され
ていくかも注目されるが、それを留保しつつ、次に朱印地自体のあり方に迫っていく。先述したように主に八幡宮祭礼を
めぐる別当と禰宜のあり方を取り上げる。
二 別当と禰宜の対立~八幡宮祭礼の実施をめぐって~
(一)寛政三年から同五年の事例
 まず、ここで取り上げる三点の史料を掲げる。寛政三年、八幡宮禰宜鈴木若狭による代官伊奈右近将監宛の申上書、同
年別当法漸寺から同代官宛の願書、寛政五年には禰宜側から別当宛の「出入引合人禰宜鈴木若狭済口之事」である。この
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

( )

12
内容については、既に紹介を試みたことがあるので、主な要点と注目点を述べる。なお、別当と禰宜の対立は、寛政期か
ら享和期にかけて集中的に確認できる。
 まず、禰宜側の主張点は、八月十五日の「つく舞」神事に伴う勧化方法をめぐるもので、神事への主導性を示したもの
である。それに対して、別当側は禰宜の主導的な関与を問題視する。最終的に、概ね別当側の主張が容認されている。概
して、八幡宮祭礼の実施方法をめぐって対立が生じ、別当優位の形で決着している。
 このような推移を確認すると、まずは別当から「自立」しようとする禰宜のあり方が浮上する。そこで禰宜の立場が、
どのように位置づけられていくかに注目すると、次のような記事が重要となる。たとえば「済口」作成にあたって「享保
廿乙卯九月廿五日親豊前代さし出候書付ニ吉田より御免許状申請候得共、吉田之御支配ニ而者無御座」とある。つまり禰
宜鈴木若狭は、親の代にあたる享保二十年に吉田家より「御免許」を受けたが、矛盾するようだが吉田家支配を受けてい
ないことを示すのである。そして、この後の記事では、法漸寺支配を容認している。つまり、享保二十年時点で吉田家の
神道裁許状を受給するものの、その文書の効力より法漸寺支配のあり方を強調する形をとった。
 以上を整理してみると、寛政五年時点で禰宜鈴木家は世襲され、吉田家との関係を結ぶなど、一定度在地社会で容認さ
れる立場になっていたことと、一方で別当の法漸寺支配を甘受していることが判明する。また、法漸寺が寛永寺直末寺院
である性格を重視すれば、天台系の寺院下に八幡宮管理が担われていたことになる。しかし、後述するように、別当と神
207
主(禰宜)の対立は継続していく。次に寛政七年から同八年にかけての史料を取り上げながら詳細にみていきたい。
208

(二)寛政七年から同八年の事例~祭礼執行を中心に~
 次の口上書控(乍恐口上書を以奉申上候)は、寛政七卯年十二月作成の法漸寺から寺社奉行所宛ての願書である。主な
主張点や認識を整理しておきたい。まず、史料冒頭で別当から次の主張が認められる(史料冒頭の中略部分)。
 先住の仙栄の時代に、門前百姓の勘次郎倅の勘兵衛を抱え置き、禰宜に取りたてた。田畑五石ならびに屋敷の二ヶ所を
預け、拙寺の代にいたっても「田畑収納役」なども勤めていた。勘兵衛の倅若狭の段階でも「召抱之禰宜」として、「古
来より呼捨」していたが、大膳の代に入ると「呼捨」に不服を申し立てた。別当と同格の旨も主張するようになったとす
駒沢史学89号(2017)

る。以上を整理すると、禰宜側の先例を破る動きが判明する。そして、中略以外の部分に以下の記事が続く。
 【史料二】
    乍恐口上書を以奉申上候
     〈中略〉
一、当社祭礼之儀者、年々八月十五日ニ御座候処、同十四日之夜半過、別当拝殿江致出仕神輿之前ニおいて法楽祈念相始
候前禰宜神楽之太鼓打切禰宜ハ種々文を唱候先格ニ而御座候、①然ル所去八月祭礼之節、例之通別当法楽相始候得者
神楽之太鼓打切不申候故衆僧同音之法楽之差支ニ罷成、殊ニ去夏中永々之間大膳宅ニ而昼夜中ニ数度大太鼓打候ニ付
拙僧方より申聞候者、②当所者御拳場ニ候得ハ、昼夜共数度大太鼓を打物騒敷義ハ不宜旨申聞差留候得共、太鼓者職
分故勝手次第ニ打候等与不法之挨拶仕候もの方へ祭礼之節も拙僧方より彼是申候ハヽ、大切之祭礼の不敬ニ相成可申
哉与存相招罷在候、殊其節六角ニ而縁りニ模様有之候薄縁取拵腹付ニ相用先規無之義仕候事
(ママ)
(ママ)
一、同十五日鳥井先迄神輿出御有之候節、供奉之次第法式之儀ハ③一番ニ別当供奉仕、次ニ禰宜幣帛壱本所持仕、鳥井先
(ママ)
道供奉いたし、鳥井先ニおいて別当御膳献備之作法相済、禰宜方より右之幣帛壱本差出別当受取之執行仕、其旨趣祈
念相済直ニ禰宜方江相戻シ、神輿入御之作法ハ別当本社ニおいて執行仕、年来相済来候ニ付、④去八月祭礼之節も例
之通相心得、拝殿之前ニ而神輿出御之作法供奉揃仕候節、省法式禰宜近出奉幣執行仕候ニ付、拙僧即時ニはぎ取出御
之作法致執行供法仕候処、禰宜即刻真先江相立鳥居先迄供奉仕候段、先格を破り不法之至り仕候事
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

一、鳥居先ニおいて別当御膳献備法式執行仕候先格之処、右執行も未仕候内、大膳進出奉幣執行仕候ニ付気之毒ながら又
候即時ニはぎ取り所々置候御膳献備之作法祈念等古例之通り執行仕、祭礼無滞相済申候、然ル処右体之儀如何相心得
候哉、当社修復建立之義、古来より禰宜方ニ而ハ不仕別当方ニ而仕来候処、⑤大膳代ニ相成り古例を破心得違仕候儀
ハ、畢竟官名称号仕、是又祭礼之節賽銭二ツ割ニ仕、合力いたし候故先祖之成立を忘却仕、既ニ前書ニ申上候通、大
膳養父若狭代ニも氏子之村々江配り候祈祷之札神家鈴木若狭守与判木新規ニ彫刻仕、寛政三亥年正月村々江相配り、
其上同年四月若狭返答書ニも八幡宮神主鈴木若狭守与相記候処、尚又家事六ヶ敷罷成候者、畢竟別当同様ニ此度存心
より事起り候ニ付、已来ハ先祖勘兵衛之通、官名称号不仕候様被為仰付被下置度奉願上候
一、⑥禰宜当時居屋敷之儀ハ、別当境内ニ紛無御座候、若已来別当方ニ而入用之節ハ代金又ハ代地差遣し可申候間、入用
程遣し候様御吟味之上被為 仰付被下置度奉願上候
     〈中略〉
    寛政七卯年十二月                下総国葛飾郡八幡郷
                                八幡宮別当 法漸寺
     寺社御奉行所
209
 この中で注目したいのは、法漸寺の次の主張である。祭礼の際に、先例通りに神主が神楽の太鼓を打ち鳴らさないとす
210

る(傍線部①)。また昼夜に太鼓を打ち鳴らすと主張し、傍線部②では太鼓が拳場(鷹場)の論理に抵触するということ
( )
13

である。いずれにしても、祭礼における別当と神主の競合性を読み取っておくべきである。
 傍線部③④では、祭礼時の神輿出御についての記事がみえる。出御にあたっては、まず先頭に別当が「供奉」し、次に
禰宜が「幣帛壱本所持仕」とある。そして鳥居先で別当が「御膳献備」することを「作法」とし、そこで禰宜から別当が
幣帛を受取ることが示されている。また去る八月の時点では先例の通り実施しようとしたが、そこでも混乱があった旨が
記されている(傍線部④)。
 さらに傍線部⑤でも、禰宜が大膳代になり先例を破る旨が強調される。たとえば、官名を名乗り、賽銭を別当・禰宜に
駒沢史学89号(2017)

割ること、さらに若狭の代には祈祷札に「鈴木若狭守」と新たに「彫刻」し、寛政三年段階でそれを氏子へ配った旨など
を問題視している。特に別当側は官名使用について拒絶し、先祖の「勘兵衛」を使用する旨を願っている。つまり百姓名
の使用を主張している。傍線部⑥では、禰宜屋敷が「別当境内」である旨も示されている。
 以上、祭礼時において別当は、禰宜に対する主導性を確認しつつ、禰宜と本所吉田家の関係を別当主導の論理で相対化
させようとしている。
 次に願書の後に追記された代官宛ての内容を確認する。主な特徴は、元文以来の年次をおった経緯の認識が示されてい
ることである。注目点は境内管理の内容になっており、朱印地内における禰宜屋敷(五石分)の記載がみられる。
 そのなかで次の記事にあるように、「尤禰宜ニ預ヶ置候屋敷之反歩者、寛永廿年社領田畑帳面ニ弐反八畝廿四歩屋敷本
屋敷共ニ者有之、然共右屋敷者禰宜ニ預ヶ置候田畑五石之外ニ御座候、」とあり、預け置いた屋敷は配当分(田畑五石)
に該当しないことが主張される。留意されるのは、「寛永廿年社領田畑帳面」の内容と言える。現状で、同史料が伝来せ
ず詳細は不明だが、結局、これまでの禰宜の屋敷地が既に配当された五石分に該当したかどうかが争点化している。
 はたして、朱印地内における屋敷の問題は、いかに対処すべきなのか。この問題は次に述べるように寛政十年の代官指
針から考察を加えたい。
三 朱印地の管理方法と祭礼市
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

(一)寛政十年における代官菅沼安十郎の裁定
( )

14
 朱印地の境内をめぐる別当と禰宜の対立は、次の代官(菅沼安十郎)裁定により解決が図られる。史料は冊形式であり、
表紙に「御裁許書写」とある。続けて「私共出入被為遂御吟味御伺之上、今般左之通被仰渡候」と代官の指示が示されて
いる。そして、別当・禰宜・社領百姓、八幡村名主が連名しており、関係者が関わった裁定であることが判明する。そし
て十一項目により問題の解決が示され、表にその内容をまとめた。以下、表を参照としつつ、分析を試みる。
 まずは稿論の都合上、表№ から№ についてみておきたい。表中の№ では禰宜鈴木大膳は「押込」となっている。

12
8

8
同様に法漸寺尭雄は「逼塞」(№ )、半平・代右衛門は「急度御叱」(№ ・ )と記されている。最後に「右之外御吟

10

11
9
味ニ付被召出候者共者、不埒之筋も不相聞候間、無御構旨被仰渡候」とあり、四者以外の者について問題視されることは
なかった。概して、禰宜・別当及び半平・代右衛門が罰せられた。
 そこで、これらの人物の何が問題とされたのか。要点は朱印地内の屋敷譲渡のあり方である。鈴木大膳(禰宜)は朱印
地において法漸寺や半兵衛・親丈左衛門に屋敷を譲り渡したこと、法漸寺については鈴木若狭や半平・丈右衛門から屋敷
を譲り受け、さらに「年貢」として一年に金壱分を徴収していたことが示されている。史料中には、「御朱印社領屋敷者
譲請不成儀ニ候処、若狭所持之屋敷を譲請」とあり、概して朱印地のなかでの屋敷譲渡自体が問題視される。なお半平も
朱印地のなかで屋敷を譲り受けた当事者であるため問題視された。
211
 結局、当社境内の空間を、いかに管理・運用するかが争点となり、屋敷譲渡に関与した人物は代官裁定のなかで問題視
212

された。朱印地の定義を考える上で注目される代官の裁定である。次に表中の№ から№ について史料を引用して取り

7
上げる。
【表】 寛政十年訴訟概要
№ 主な項目 主な問題点 代官裁定
相手方(法漸寺)について 禰宜屋敷2反余りの対処。 寛永期の配当分に該当しない。
1

明 和 年 中、 禰 宜 若 狭 か ら 丈 右 衛 門 に 譲 り 渡 し た 地 所 か ら
相手方(同上)について 地代金の返金。
別当が「地代金」をとること。
2

訴訟方(鈴木若狭)について 八幡宮の鍵管理。 別当に主導性を認める。


5 4 3
駒沢史学89号(2017)

相手方(法漸寺)について つく舞の入用方法。 均等割りとする。


相手方(法漸寺)について 正月 ・ 日の八幡宮への「散物」方法。 禰宜へ認める。
14

15
人 別 帳( 宗 門 人 別 帳 ) の 肩 書 き に「 八 幡 社 号 」 を 記 載 し
訴訟方(禰宜)について 仕来りで名乗らない。
ないこと。
6

訴訟方(禰宜)について 禰宜は別当の「家来」とすべきか。 「家来」でなく「支配」とする。


7

人別帳の名前肩書きに八幡社号を記さない仕来りである。
そ れ で 印 形 を し な い と い う の は「 心 得 違 」 で あ る。 ま た
若 狭 の 代 の こ と で あ っ た と し て も、 屋 敷 は 朱 印 地 に 該 当
神主鈴木大膳について 押込。
し、 譲 り 渡 す こ と は 筋 に 違 う。 法 漸 寺 な ど が 年 来 譲 り 渡
8

し て き た こ と に 注 意 を は ら わ ず、 今 更、 か れ こ れ 申 し 立
てるのでは不埒であり押込とする。
朱 印 地 で の 屋 敷 は 譲 り 受 け は で き な い。 若 狭 所 持 の 屋 敷
を 譲 り 受 け て、 さ ら に 先 住 の 雄 詮 が 取 り 計 ら っ た こ と で
法漸寺尭雄について あ る が、 若 狭 か ら 半 平 の 親 丈 右 衛 門 が 譲 り 受 け た 土 地 か 逼塞。
9

ら 年 貢 と し て 金 壱 分 宛、 年 々 受 取 っ て い た こ と は 不 埒 で
ある。逼塞とする。
の 内 容 と 同 様 で、 御 叱 り と な る。 た と え ば 年 貢 を 払 っ
半平について 御叱。

9
10
ていたことが問題視される。
朱 印 地 で の 屋 敷 は 譲 り 渡 す こ と は で き な い。 し か し 若 狭
代右衛門について か ら 依 頼 が あ り、 証 文 へ 印 を お し、 不 束 の こ と で あ る の 御叱。

11
で御叱りとなった。
 【史料三】
 一、初ヶ条ニ申立候相手方之儀、禰宜屋敷弐反八畝廿四歩之義者  御朱印地社領之内、禰宜所持いたし候高五石之外
ニ而禰宜豊前代より右之趣書付取置候共、寛永二十未年仕立候田畑改帳ニ田畑合壱町弐畝拾九歩禰宜分ト有之、上
畑弐反八畝廿四歩屋敷本屋敷共と記有之上者、弐反八畝廿四歩之地所高五石之外之由者、御信用難成八幡宮地境ニ
境堀有之、元文二巳年同三午年先住亮晃仕立置候帳面ニ認有之候共、禰宜屋敷境ニ堀有之段者、右書物ニ而不相分
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

候ニ付、禰宜屋敷境前々堀敷之由ニ者難御取用、右屋敷内長廿七間横壱間半之地所者大膳養父若狭存生之内、金三
分弐朱差出し地所請取候処、去ル寅年出入之節右地所可相返由ニて内済いたし、右金子も請取候上者改を請、地広
ニ候ハヽ、難相返由之申分難相立、然ル上者右地所者早々大膳方江相返し可申旨被仰渡候
 一、二ヶ条目相手方之義、明和年中若狭より百姓丈右衛門江譲渡候地所之儀、別当江地代金請取候者筋違ニ付取極置候
共、禰宜所持之地内と兼而心付候ハヽ、其段丈右衛門江も申聞、地代之儀者禰宜方江為相納可申所、年々金壱歩ツヽ
請取置、拾四ヶ年分金三両弐分難相渡由者難立、且半平儀親丈右衛門より金七両差置、若狭より屋敷地譲受候義者
不存儀ニ候共、大膳より懸合有之候ハヽ、可及対談処、無其儀傍申口難立、然ル上者右地面者大膳方江差戻し若狭
方江請取金子七両者此度大膳方より是又相返、是迄之通半平住居いたし候儀者相対之義ニ而、金三両弐分之儀尭雄
請取候者筋違ニ付、半平方江差戻し同人より大膳方江相渡可申旨被仰渡候
 一、三ヶ条目訴訟方申立候八幡宮鍵之儀、臨時入用之節者別当江懸合受取候筈、去ル寅年出入内済之節、済口証文ニも
認有之、年来別当方ニ所持いたし候鍵之儀ニ付新規ニ鍵拵所持いたし度由之儀者難立、且相手方之義も不時湯立之
儀旧例無之由者申口達ニ而、既ニ例年二月初卯之日湯立修行いたし来候上者、不時湯立ニ候迚修行難為致由之申分
難立、然ル上者右鍵之儀、是迄之通別当方ニ而所持いたし禰宜方ニ而入用之節者、別当江懸合受取仕来之通取計、
湯立之義者二月初卯之外信心之もの有之臨時湯立頼来候節者御支配御役所江其趣御届之上致修行可申旨被仰渡候
213
 まず「初ヶ条」(表№ )から内容を確認したい。ここでは、禰宜の屋敷が寛永二十年の「田畑改帳」のなかで、配当
214

されていた五石分に該当しないとする。また元文二年時点の記録では、「禰宜屋敷境ニ堀有之」とあり、その地を法漸寺
が「金三分二朱差出し地所請取」っていたが、禰宜大膳に戻すことが指示された。
 「二ヶ条」(№ )は、明和期に禰宜若狭から丈右衛門に譲り渡した地所から別当が「地代金」を取っていた。これにつ
2

いては返金の旨が指示された。
 「三ヶ条」(№ )は、八幡宮の鍵管理についての内容になる。禰宜が必要な場合は別当に取り計らう。特に、臨時の湯
3

立は役所に届ける旨が定められている。
 以下、四ヶ条から七ヶ条目は史料を引用しながら述べる。「四ヶ条」は、
「つく舞」(神事)の金銭負担について記され、
駒沢史学89号(2017)

氏子の負担や別当・禰宜の均等折半などが示さている。史料では「然ル上者、前々之通銭弐貫弐百文之内氏子より壱貫弐
百文差出し、壱貫文者五百文ツヽ別当禰宜より可差出旨被仰渡候」とある。氏子から壱貫弐百文、別当・禰宜が五百文ず
つ出資することが指示されている。「五ヶ条」では、正月十四日から十五日にかけて賽銭などに添えられて金銀などにつ
いての指針であり、これを禰宜に納めると示される。史料では「然ル上者、正月十四日宵より十五日朝五ツ時迄八幡本社
散物并奉納之品ニ添候金銀米銭初穂之義者禰宜方江取納、且禰宜義病気差合之節者名代之者差出神事相勤可申旨被仰渡候」
とある。そして、禰宜が病気の場合は「名代」が差しだされることが記されている。
 「六ヶ条」は、禰宜の人別帳の肩書や八幡宮の「社木」に関する指針が示されている。まず人別帳の肩書には、「八幡社
号」をいれないのは「仕来」とする。史料には「人別帳名前肩書ニ八幡社号不認儀者仕来之儀ニ付」とある。また八幡社
の社木は別当がみだりに伐採せず、風折立枯木の場合は代官所の指示を仰ぎ、それらの「木品」は別当持ちであるとされ
ている。「且御朱印地社領之内、高五石所持之地面相分候上者社木ニ候共、右高五石外之地所ニ付、立枯風折木有之節伐採、
別当之分来り候由之義者無証拠申口迄ニ付難御取用」とある。社木は高五石以外であることが示されている。別当の権限
( )
15

が社木に及ぶことは不明確になっている。
 「七ヶ条」は別当と禰宜の関係性が確認されている。象徴的な記事が次の部分である。たとえば「神職相続いたし候上者、
別当家来ニ者無之候得共、去ル寅年差出候済口証文ニも禰宜者別当之支配ニ相決候儀ニ付、支配難請由者難御取用」とあ
る。禰宜は別当の「家来」でなく、「支配」であると表記される。この点は、禰宜側の主張が代官に容認されたとみるべ
きであろう。また神輿渡御については、禰宜が先に立ち別当が続く。たとえば「且相手方之儀、神事勤方之儀者無証拠申
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

争ニ付、双方難御取用候得共」とあり、神事勤方には証拠がなく双方の主張が認められないが、最終的に「然ル上者神輿
渡御節禰宜者先江相立引続別当罷出、祭礼之節他之社人相雇候儀者別当方ニ而不差障、其外神事勤方之義者双方申合相勤
及争論間敷、且禰宜義別当家来之由者筋違之義ニ付、向後支配と相心得可申旨被仰渡候」とある。ここで神輿御渡に伴い、
禰宜が先に立つことが述べられ、注目される。また祭礼の際に、禰宜が他の社人を雇うことは別当に関係がなく、双方の
申し合わせの必要性が述べられる。つまり、禰宜と社人の参集もうかがわせ興味深い。さらに、今後も吉田家から免許を
受けることが確認されている。
 以上、改めて代官裁定を整理してみると、以下の点に注目したい。№ ・ にある朱印地内の運用は改編される。№ ・

1
2

3
№ ・№ では禰宜の立場を認めつつ、神事での金銭負担も求めている(№ )。但し、社木については別当の権限が一
5

4
部認められる(№ )。概して、祭礼のあり方には禰宜の立場を認めつつ、朱印地五石の範囲を明確化させている。
6
(二)別当と八幡宿~享和二年の事例~
 最後に享和二年の例を取り上げる。この例では、二点の史料が確認できる。「上」(法漸寺の対処がわかるもの)と「済
口証文」(済口証文取替)である。ここでは後者の「済口証文」を中心に取り上げるが、まずは「上」の内容を一部確認
する。
215
 内容の要点は、八幡宮祭礼時の商人の「見世賃」の納入先への対処である。つまり商人の「見世賃」の納入先が、別当
216

か禰宜側かに争点が求められた。また、寛政十二年、別当が交代しており、八幡宮祭礼時の対処が不分明であったことが
うかがえる。
 さて、この内容をふまえつつ、「済口証文」の内容を確認する。「済口証文」には、①法漸寺からの訴え、②それに対す
( )

16
る禰宜側からの反論(申上書)、③最後に済口証文となっている。訴訟の主要な争点は、八幡宮祭礼時の境内地の差配とな
る。
 ①の内容は、別当の主導性容認の主張を中心に、境内の掃除、そして八幡宿の又左衛門のあり方が争点化している。特
に各地からの祭礼市に訪れる商人らからの「地代銭」の対処となる。別当は、それらの人々についての届け出の必要性を
駒沢史学89号(2017)

主張する。
 ②の内容は、火の回りなどの監視を八幡宿が実施してきたこと、
「見世賃」は八幡町が受け取ることが先例と主張した。
また寛政十二年に別当が新たに就任したことを述べる。この他、別当が阿弥陀堂での仏事、秩父札所の「開帳仏」を八幡
宿に相談もなく阿弥陀堂で開帳させたことを問題視する。
 概して、十八世紀後半以降、八幡宮祭礼の隆盛が想定される。祭礼への様々な諸要素が認められるが、八幡町側の主張
の中で「見世賃」については、次ぎのように記されている。「八幡宮祭礼之節、諸商人方より取立候見世賃之儀者、年貢
地之地先并当時居屋敷嘉左衛門・半平・源七・甚蔵・与四郎右五人之地先并古例之場所相除、其外者古例之通り八幡町百
姓方ニ而見世賃請取候筈ニ而、則見世賃請取候場所ハ往々争論ニ不及様絵図面ニいたし扱人名印差加」とある。つまり、
見世賃は年貢地の地先や嘉左衛門ら五人の地先などは除き、見世賃受取の指針が定められている。
 そして最終的に七項目にわたって解決がなされる。①八幡宿から商人を社地へ「引附」の場合は別当に届出すること、
②朱印地は百姓が対処できないので、別当へ「立会人」を出すこと(後述)、③神輿渡御の場所には「魚肉」を出さない
こと、④商人が引き払った後は別当に届けること、⑤八幡町で掃除などを実施すること、⑥祭礼中の喧嘩口論は八幡町が
対処すること、⑦上記のほか、「旧例」を重視すること、以上の内容となる。
 このうち、②について記事を引用すると、「一、御朱印百姓之支配ニ不相当ため立会人差出シ、取計ひ方之儀者八幡町
百姓江相任せ可申候、尤立会人及遅刻候而者、諸商人共難儀ニ付早速差出可申事」とある。朱印地は百姓支配ではなく、
「立会人」を出す旨が示されている。おそらくは境内における見世の「出店」の規制を示す内容と言えるだろう。また、
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

商人らの「取計ひ」は八幡町の百姓に委任する旨も述べられる。特に「立会人」の表記にみられるように、朱印地への八
幡宿の関与は規制がかかる。この点に朱印地における祭礼市の対処作法とも言うべき問題が含まれていると考えたい。別
当による朱印地支配の正当性の担保が、「立会人」を出す形で示されている。
 また「見世賃」をめぐって、その取り分は曖昧決着とみられる。史料上では、別当に届け出ることに収斂させており、
又左衛門の主導性も否定されていない。いずれにも、祭礼市への別当の関与は確認されるが、八幡宿の祭礼市での立場が
確保されていることに注意したい。
 以上、この訴訟の経緯を整理すると、祭礼への八幡宿の主導性が認められ、それに別当が先例を主張することで対処し
ている状況が判明する。祭礼市をめぐる華美化もうかがえ、当該期の八幡宮をめぐる状況が判明する。
むすびに
 最後に本稿の内容を整理し、冒頭の課題にこたえ、今後の展望等を述べたい。
 ①八幡宮宛ての朱印状について輪王寺宮による「書替え」があり、その朱印状写しが在地社会に伝来してきた。輪王寺
宮による朱印状の「書替え」は、輪王寺宮―別当法漸寺が神社を「場」として禰宜や八幡宿を規定していく一つの事由と
217
みられる。
218

 ②また寛政三年から同五年の例では、禰宜には吉田家支配を受けながらも、それを相対化する論理が認められたことも
重要である。このような秩序形成のあり方に注意しつつ、今後も当該期における神社を介した将軍権威や朝廷権威のあり
方に迫ることが求められよう。
 ③寛政三年以降の別当と禰宜の問題では、朱印地管理のあり方が争点となっていた。朱印地のなかで屋敷の譲り渡しが
実施されていたが、代官の裁定により禁止された。この点は、当該期の朱印地の管理、特には運用のあり方を考える上で
注目すべき事例の一つではなかろうか。
 ④享和二年の例では、別当と百姓らが祭礼市をめぐって争点となっていた。なお禰宜と八幡宿との関係は、比較的良好
駒沢史学89号(2017)

な関係が認められた。この時点で、特に見世賃の受取方法が定まった点は注目できた。
 ③④の二つの事象は、概して禰宜の台頭から発生したものであるが、改めて別当を中心に秩序形成が再確認されている。
但し、祭礼時に禰宜のもとに「社人」が参集することが代官に容認されるなど、様々な諸要素が顕在化している。つまり、
十八世紀後半において、別当支配のあり方に実質的な変容がみられると評せよう。なお境内地が朱印地であることや神社
( )

17
境内地であることの「場」としての意味を代官裁定から注目すると、少なくとも以下の点に留意すべきである。①祭礼市
を開催するにあたり、商人の「出店」をめぐって八幡宿側から「立会人」の確保が決められたこと。②神輿出御では「魚
肉」を出さない旨を示されていること。これらをふまえ、今後、当該期における江戸近郊の朱印地を有する神社を位置づ
けるにあたっては以下の点に注意すべきと考える。
 まず朱印状の受給者を重視しつつ、①当例のように別当の主導性が禰宜に対して認められる類型、②①に対して禰宜(神
職)の主導性が認められる類型、少なくとも以上の事象を想定しておく必要がある。その上で、本例のような類型では、
これまで十八世紀後半以降の神職による吉田家とのあり方を軸にし、別当からの「自立性」のあり方を捉える傾向があっ
た。但し、本稿では吉田家支配より別当支配を優先する取り決めもみられ、吉田家支配を論理とした「自立」という動向
のほかに、八幡宿・禰宜と別当の対抗にみられるように、宿側(在地側)の立場から捉える視角も重要であった。特に本
稿の例は祭礼市における社人や神事舞太夫の参集など、華美化傾向に対する別当支配のあり方が争点ではなかったか。朱
印地の「場」としてのあり方が、祭礼の華美化と不可分であった。当該期の神職をめぐっては、本所支配の進展とともに
祭礼への関与の変遷に留意すべきである。当該期の祭礼認識のあり方は、神職および旧来の秩序を維持したい別当との関
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

係性を規定していくのである。
 また近年の神社をめぐる研究が、江戸城将軍年頭御礼や江戸の古跡地神主のあり方など、その序列化をめぐる立場のあ
( )
18

り方に注目があつまっていた。本稿で取り上げた神社の朱印地の問題も、これらの成果をふまえつつ、朱印状受給のあり
( )

19
方(代官などの関与)にも留意した位置づけが重要になるはずである。冒頭で松本和明氏の朱印寺社の地帯性を取り上げ
たが、朱印受給の寺社の地帯性に注目しつつ、さらに別当の存在の有無などを含めたデータ化も必要であろう。徳川将軍
権威を背景とした朱印地を有する寺社の地帯性に注目しつつ、寺院と神社のそれぞれの宗教者のあり方に留意した分析が
( )
20

求められよう。

( ) 朱印地の定義は大野瑞男氏の見解がある。同「朱印地」(『国史大辞典』、吉川弘文館、一九八六年)。寺社が将軍の朱印状を受け、
1

領主として知行する地域および地主として所持する土地を朱印地として定義されている。
( ) 本論全体については、井上智勝氏の成果に注目する。同『近世神社と朝廷権威』(吉川弘文館、二〇〇七年)。在地の神社を介し
2
た朝廷権威のあり方へ追求する方法を重視するが、それをふまえ江戸近郊の立地条件を論点に組み入れたい。また近年の竹ノ内雅
人氏の成果も、江戸近郊の神社を捉える上での重要な成果になっている。同『江戸の神社と都市社会』(校倉書房、二〇一六年)。
219
( ) 拙著『日本近世の宗教と社会』(思文閣出版、二〇一一年)。
220

( ) 『葵の御威光』(足立区立郷土博物館、二〇〇六年)。
4

( ) 松本和明「近世朱印寺社領の成立について~慶安元・弐年の新規安堵を中心に~」(『論集きんせい』二九、二〇〇七年)。
5

( ) 保垣孝幸「近世『御朱印』寺社の所領特質と制度的展開」(『関東近世史研究論集二 宗教・芸能・医療』、岩田書院、二〇一二年)。
6

この他、重田正夫の成果も知られる。同「明治維新期における寺社領朱印状の差出~武蔵国での実態と西角井家諸国寺社朱印状~」
(埼玉県立文書館編『文書館紀要』二一、二〇〇八年)。
( ) 廣瀬史彦「近世寺社の朱印改についての記録に関する書誌学的考察」(『駒沢史学』六三、二〇〇四年)。『なにが分かるか、社寺境
7

内図』(国立歴史民俗博物館、二〇〇一年)。
( ) 中村陽平「埼玉の東照宮」(『特別展 徳川家康~語り継がれる天下人~』、埼玉県立歴史と民俗の博物館、二〇一六年)。幕府の
8
駒沢史学89号(2017)

全国寺院に奉斉された東照宮の確認調査にあたる。
( ) 古谷津順郎『つく舞考』(岩田書院、二〇〇二年)。『市川市史 第二巻』(市川市、一九七四年)六四六頁~六六〇頁。但し、当
9

地の「つく舞」が「利根川文化」との関係で理解してよいかは再考を要する。
( ) 湯浅吉美『成田街道いま昔 成田山選書十四』(成田山新勝寺、二〇〇八年)。『分間延絵図』(東京国立博物館、一九九〇年)。こ
10

の史料では「阿弥陀堂」の存在が確認でき、この他、社殿裏手側に別当・神主の並立する形で屋敷が認められる。また当社の例を
取り上げた場合、浅草寺の忠運が生類憐みの令への対処で法漸寺に流罪となっていることも、江戸と当地の地理的なあり方を考え
る場合興味がもたれる。『浅草寺誌 上巻』
(名著出版、一九七六年)四六五頁。なお当該史料は『浅草寺誌巻七』に所収されている。
( ) 市川歴史博物館所蔵史料。神社所在地の旧八幡村に伝来してきた史料群になる。断りのない限り、本稿では、この史料群を分析
11

するが、既に一部内容を紹介している。拙稿「市川市の近世文書③~八幡を中心に~」(『市史研究いちかわ』七号、二〇一六年)。
また中心に紹介する事例については、既に『市川市史 第二巻』(一九七四年)でも言及がある。
( ) 註( )拙稿参照。
13 12

11
( ) 拙稿「近世中後期における在地寺社の秩序化と社会動向」(『関東近世史研究』六九、二〇一〇年)。ここでは紀州鷹場内における
寺社の問題を取り上げた。鷹場の論理と寺院の殺生禁断の論理の相克などについて取り上げた。
( ) ここでは代官側の神社認識について注目する。特に、代官の宗教政策という視角が重要になると考えるためである。
14
( )  神 社 の い わ ゆ る 社 叢 の 問 題 は、 近 世 史 研 究 以 外 に 近 年 成 果 が み ら れ る。 畔 上 直 樹「 日 本 近 現 代 史 と『 原 生 林 』」(『 歴 史 評 論 』
15

七 六 八、二 〇 一 四 年 )。 高 木 純 一「 東 寺 領 山 城 国 上 久 世 荘 に お け る 山 林 資 源 利 用 ―「 鎮 守 の 森 」 と「 篠 村 山 」 ―」(『 地 方 史 研 究 』
三八六、二〇一七年)。上田正昭編『探究「鎮守の森」』(平凡社、二〇〇四年)。但し、近世段階では社木を運用し問題化する事例も
各地に散見され、論点を深めるべき問題であろう。
( ) 註( )拙稿参照。
17 16

11
菅野洋介  近世中後期における朱印地管理と祭礼

( ) 神田由築『近世の芸能興業と地域社会』(東京大学出版会、一九九九年)三七六頁。市の場が神社境内とする以上、宗教性を伴う。
この宗教性も重要な課題となっている。
( ) 註(2)竹ノ内書参照。
19 18

( ) 拙稿「近世における下総国六所神社の基礎的研究~朱印地支配をめぐる問題を中心に~」(『市川歴史博物館館報(平成二一年度)』、
市川歴史博物館、二〇一一年)。
( ) 拙稿「史料紹介~利根川東岸弌覧の世界によせて~」(『浮世絵からみた市川~利根川東岸弍覧を中心に~』、市川市、二〇一七年)
20

二三頁。明治期に入ると、八幡宮に関わる「八幡藪知らず」を宗教者が開発を進めようとする事例がある。宗教者の開発認識を捉
える上でも興味ぶかいが、神社をめぐる社叢の問題を含め、境内管理のあり方が、どのような歴史的規定性を帯びていたかは、朱
印地の性格づけともあわせて注目される。
221

You might also like