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奈良大仏の鋳造技術と 2

,3の啓示 1
97

技術報告
奈良大仏の鋳造技術と 2,3の啓示
宅当・*
石野 で

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キーワード:大仏,青銅鋳物,甑,中子削り,接合技術

明することができた.得られた成果は 1 956年の「鋳物」
1. はじめに 誌以来折にふれて論文 6)7)や著書 8)-11) 1
;
:発表した.
筆者は 1956年 5月「東大寺大仏の鋳造について」と題 本報告では,筆者が行ってきた奈良大仏の鋳造技術とそ
する小論を,本学会の前身日本鋳物協会第 50回講演大会 の背景に関する調査研究の結果を,これまでの発表に最近
で報告し周年 1
1月号の会誌「鋳物」に発表した 1) の成果を含めて記述し,さらにこの巨大鋳造物製作から得
これは,東大寺要録,続日本紀などの古文献の解読と, られた啓示の 2
,3を論述しよう.
奈良大仏より約 500年後に鋳造され, ほとんど創建当時
2
. 奈良大仏建立の背景
のまま現存する鎌倉大仏実体の観察に基づく推論を主体と
している. 40年余り前である. 2
.1 当時の社会情勢と聖武帝
えぞ
.翌 1957年 2月,文化財保護委員会から依頼され,鋳造 神亀元年 (
724
) 聖武帝 24才で即位,蝦夷反乱す.
工学研究者の立場で鎌倉大仏の調査に参加し,成分分析や 天平 4年 (
732
) 干害と台風で農作物不作.
顕微鏡組織検査を行い,各段の鋳継ぎの状況を仏体の内外 天平 6年 (
734
) 4月と 9月に大地震おこる.
壁から観察するなど,鋳造技術に種々の角度から検討を加 天平 7年 (
735
) 天然痘大宰府地方(福岡県〉に流行.
えることができた.その後,奈良大仏についても,各部位 天平 9年 (
737
) 天然痘まん延し,藤原武智麻自ら光明
から採取した試料が同委員会から提供され,成分分析を行っ 皇后の兄 4人病没.
た.また平岡定海師(元東大寺管長)の御配慮で, 1968年 このように天平の始めは,天災・天然痘のまん延・蝦夷
今ぬぐ
8月以来数回東大寺大仏お身拭いの行事に参加し,仏体内 の度重なる反乱が続き,対外的には朝鮮半島に統一国家を
部を観察し,鋳継ぎの様子や頭部螺髪の取付け状況などを 作っていた新羅と緊張関係にあった.さらに天平 1
2年に
うまかい
調査した. は天然痘で死んだ藤原字合の長男で天皇のおいに当る藤原
これと前後して, 1966年には桶谷,香取らと雑誌「金 広嗣が反乱を起こすなど,世の中は非常に乱れていた.
属」誌上で「大仏さま鋳造, 3つの論争点」をテーマに討論 聖武帝はうち続く災いを除き,国家の安泰をとりもどす
し2)3), 1979年には NHK(日本放送協会)のテレビ番組 には仏教の力に頼るよりほかに方法はないと考え,天平
「歴史への招待一東大寺大仏建立」に堺屋,杉山とともに 1
3年国分寺建設の詔を出され,各地に国分寺,国分尼寺
こんじゅじ
出席し,大仏建立の動機,建立事業のスケール,鋳造技術 が造られるようになった.天平 5年良弁開基の金鍾寺は
などについて話し合う機会を得たの. 整備されて大和(奈良県)の国分寺となり,次第に総国分
さらに, 1988年には奈良県立橿原考古学研究所が東大 寺的性格を持つに至った.大仏が建立される東大寺の前身
寺大仏殿西廻廊隣接地の発掘調査を行ったが,この調査で である.
るし φ な
大仏鋳造に用いられたと推定される炉の一部,溶解原料で これより先,天平 1
2年河内の知識寺で本尊の慮舎那仏
ある地金や鉱石及び創建当時の様子を記録した多数の木簡 像に感銘され,自らもこのような仏像を作って人々の心を
などが発見されたの.筆者も依頼されてこの調査に加わっ 和らげ,仏恩を広めたいと思われたのが,大仏建立の直接
た.解読された木簡の記述から,これまで推測する点の多 の動機であろう.天平 1
5年 (
743
)10月大仏建立を発願
かった鋳造の実体がかなり明らかになり,使用した原料地 する詔を出された.続日本紀巻 15に記さな 認には, f
金や鉱石の種類なども知り得た. 「置合那仏の金銅像ー躯を造り奉る.国の銅を尽くとて
かたち い

このような経緯を経て,奈良大仏の鋳造技術,使用地金 象を舘,大山を削りて堂を構へ,広く法界に及ぼして朕が
とその溶解法,及び当時の採鉱・精錬,工業技術,土木建 智識とす」
設事業などと大仏建立技術との関連性について,かなり解 「夫れ,天下の富を者つは援なり.天下る議も有つは朕

1年 9月 24日 原 稿 受 理
平成 1
権 近餓大学名誉教授 Pro
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1
98 鋳造工学 第 7
2巻 (
200
0)第 3号

表 1 奈良大仏建立の頃のわが国鉱工業.
さいこう せいれん

工業技術上の発明や建設土木事業 採鉱精錬などの面の発展

工業技術上の発明 改良
さいのい ら ゆ l
.
.t.iんの くるま
斉明 4 年 (658年) 僧智総,指南車(磁石を利用し常に南を指す てん じ ぇ包ごの〈 に らえるつ , "えるみ"

ようにした方向指示車)をつくる。 天智 7 年 (
668年) 越後国,燃土(石炭)・燃水(石油)を献上。
てん じ
天武 3年 (
ろうこ 〈

斉明 6年 (
660年) 中大兄皇子,漏刻(水時計〕をつくる。 674年) 対馬国, 銀を献上,圏内産銀のはじめである。
むつ
てんじ みずうす や てつ

天智 9 年 (
670年) 水碓をつくり冶鉄す。(水車を動力として炉 天武 5 年 (
676年) 砂金を陸奥と対馬で産出。
いよの《 にうわ しろがね M がね

に風を送り,製鉄を行う)。 持統 5 年 (
691年) 伊予国宇和君s
より白銀緋(鉱の古字で未精錬
きJみのみやっこほん じち ゐ ず 拡かり
天 智 10年 (671年) 黄書造本実、水集(水準器)を献上す 。 こ の の金属の意)を献上。
bん む ¥
, /~!tのく にす必ヲの"こ いせの

年漏直jにより鐘鼓を打って時を知らせる。 文武 2年 (698年) 因 幡 園 周 防 国から銅鉱を献上,伊 予 国 伊 勢


〈に しろ め むヲゐの 〈 に こ ん じ ι 》
て人 む
天武 4 年 (675年) 初めて占星台を建てる。 国から白鎚を献上、このほか近江国は 金青(銅
.いいろ が Aり "
じとう し.bんかんじ 4 う え ん d ん
持統 6 年 (692年) 沙門観成,鉛粉 (唐風のおしろい)をつくる。 鉱石などにまじって産出する藍色の顔料).伊
し 4 しゃ ゅうこヲ

大宝 2 年 (702年) 初めて度量衡を諸国に領つ。 勢国は朱沙(硫化水銀〕 雄黄(ヒ紫の硫化物).


ひたちびぜん ひゅうが あき

常陸備前伊予 日向四国は朱沙,安芸
橋梁造船・築城などの土木工事 なが と り"せいぷん』の〈にしんし a
長門二国 は 金 青 緑青,豊後国は真朱を献上,
化ち維明
2 }冗 2
大山臼斉

年年年

年年年
AUτkυ
氏u a U F O

氏υ n U F O

僧道登,字治橋をかける 。 対馬国に金を精錬させ る

あきの〈に くだ り せ ん

安芸国に命じ百済船二隻をつくらせる。 文武 3年 (699年) 下野国,雌黄 (硫黄とヒ素の混合した黄土)を


民υ

苗具議(多武峯)に垣を周 らせ嶺上に両議官。 献上。


やましろ
(山城に類するもの)をつくる。 文武 4年 (700年) 丹波国,スズを献上。
かぐやま いそのかみ みそ

香山・石上山間に渠を掘 り石材を運び石垣を 大宝元年 (


701年
〕 対馬国,金を献上, 建元する。
やきん
つくる。 陸奥国に{吏を遣わし冶金させる。
するがの〈 に
げい うん
斉明 6 年 (
660年) 百済救援のた め,駿河国に船をつくらせる。 慶雲元年 (
701年
〕 常陸と近江で鉄を産出。
つしま いき つ 〈し ささも η とぷひ
わどう むさ しの〈 に わどヲ
天智 3年 (664年) 対 島 壱 岐 筑 紫 等 に 防 人 燦 (のろしをあ 和 銅 元 年 (708年) 武蔵国,和銅を献上,改元する 。
"ざい』 どざい“ はりまの〈に
げて急、を伝える施設)を置き,筑紫大宰府防衛 和銅 3 年 (710年) 大宰府,銀銭を献上,播磨国,銅銭を献上。
d
与す・ .
みかおの 〈に ヲ ん も さがみの(:: ¥'L い お う
のため前面に大堤を築き,水を貯えて水城を 和銅 6 年 (713年) 三河国雲母, 伊 勢 国 水 銀 , 相 模 国 石 硫 黄

.
:のの 《に
LI かd
らつ けの〈に
つくる。 など,信濃国石硫黄,上野国 金青,陸奥国
はがとの〈にき 俗必のの s
天智 4 年 (665年) 百済の遺臣に長門国の城,筑紫国の大野城. 雲母・石硫黄などをそれぞれ献上。
橡城を築かせる。 霊亀 2 年 (
716年) 筑前で銅を産出。
やまと の〈に き砲 さの〈 に
てんび a う
天智 6 年 (667年) 大和国の高安城,讃岐国の屋嶋城,対馬国の 天平 2 年 (
730年) 周防で銅を産出。
金田城を築く。
はにわのみや らじよ う

天武 8 年 (
679年) 難波宮に羅城を築く 。

なり.この富と勢とを以てこの尊き像を造らむ 12)J 度に鋳込みを完了することは技術的に困難なため,全高を


とあるように,聖武帝の大仏建立に対する強い御意志がう 8段 13) に仕切って下から順に,外型作り・塑像削り・外
かがえる. 型合せ・鋳込みといった作業を繰返した.
2
.2 鉱工業や土木建設事業の発展 まず,最下段の部分の塑像表面に鋳型土を塗りつけ,高
大化改新 (6
46)以来急速に律令国家として整備された さ 2mX幅 1m X厚さ 0.6m程度の大きさに分割した外
わが国は,鉱工業の面でも 7世紀後半から 8世紀にかけ 型を作り,これを塑像から剥がし,十分乾燥する.塑像は
て目覚しい進歩をとげた.例えば指南車や漏魁など工業上 外型を型取りした部分を,作ろうとする鋳像の厚さ(創建
の発明・改良,橋梁・造船・築城などの土木工事,鉱山の 当時の推定重量と表面積から算出すると約 5
.5cm)だけ削
開発と鉱石の精錬などで,これを列挙すると表 1のようで る(中子削り).乾燥を終えた外型を再び元の位置に並べ,
ある. 鋳銅製型持(ケレン)を挿入して溶銅の注入される幅を正
当然,鋳造や堂屋建築の技術も,これら鉱工業に支えら 確に保ち,さらに流し込む溶銅の圧力で外型が外側にずれ
れて進歩し,現在も世界ーを誇る巨大鋳造物「大仏」や木 るのを防ぐため,外型の外周を蔓などで締めつけて固定す
己しき たたら
造の「大仏殿」を完成させた. る.周囲に土手を築き,その上に多数の甑と踏輔を置き,
溶解と鋳込みを行う(図 1
9))•
3
. 鋳造技術
このようにして下から順に鋳込みを繰返したので,最後
奈良大仏は次のような手順で製作された. には鋳仏は土の小山に覆われ,この小山を壊すと始めて鋳
まず,石と土で土台を築き固め,礎石を据え,その上に 仏が姿を現わした.
木の住を建て骨組みを作り,外側に篠や細い割竹を組んで 1988年の発掘調査吋出土した木簡に「右ぽ童うなど竃
仏像の輪郭を作る.次にこの上に塗る土が剥がれないよう (溶解炉)の位置や番号を示したり,材料名やその量を記
こまいがき ふじづる
に,左官仕事で壁塗りの下地として行う木舞掻と同様藤蔓 した文字を認め,数多くの溶解炉を土手の上に置き溶解と
や縄を巻きつける.議ゃ弱援をまぜた鋳型土をその上に厚 鋳込みを行ったとする筆者の推論が裏付けられた. また
く塗って乾燥すれば塑像は完成である. 「白銅碍」などと記された木簡で,すずなどは砕いた粒状
この土の塑像を削って中子とするのだが,像が巨大でー の鉱石をそのまま甑に投入し,炉内で鉱石の精錬と合金化
奈良大仏の鋳造技術と 2
,3の啓示 1
99

を行わせたことも明らかになった.
I 仏体鋳造 2年 1か月,補鋳と仕上げ 5年,仏体表面の塗
東大寺要録 13)などの記録から大仏建立の各作業と歴年 金 5年などの歳月が費やされている.仏体各位置の成分
月との関係を整理して表 2に示した.塑像製作 1年 2か月, 分析値を表 3に,お身拭いの際筆者が写した大仏内壁の写
真を図 2-4に示した.

4
. 大仏鋳造からの啓示
我が国古代の鋳造技術からは.ガス抜きや可縮性を助け
るため鋳型に籾殻などを混ぜる,土の模型を削って中子と
ま ね
する,異土を焼いて永久鋳型を作る,など現在もその考え
方は数多く導入・利用されている. しかしここでは鋳継ぎ
を繰返して鋳造を完成させた巨大鋳造物の製作過程に絞っ
て,それから受ける啓示を考えてみよう.
4.
1 合せ湯の技術
奈良大仏の鋳造では,最下段蓮華座下部で約 1 00tの溶
湯を同時に鋳型内に注入した.当時の溶解炉「甑Jは溶解
量 1t程度と推測されるので,土手の上には 100余基の炉
が準備され,同時に溶解と鋳込みが行われた.この技術は
図 1 大仏 6段自の鋳込み(想像図). 500年後の鎌倉大仏はもちろん,大型党(ぼん)鐘の鋳造
表 2 奈良東大寺大仏建立の歴史.

和暦 西暦 事 項

2
4の金制il
てんαa

B
i

天平 12 740 2月 7白星義美呈苛向通話議 議
はつがん
を拝し大仏建立を発願。
おうみの〈に Lが . . の み 9 み ことのり
天 平 15 743 10月 15日近江国紫香楽宮で大仏建立の詔を出
。 10月 19日大仏建立のため紫番楽で寺地を

こ着手。
開く。僧ち基,弟子をひきいて動量 l

天平 16 I 744 I11月 13日近江圏中百点こ大仏塑像の高官を立


てる。
そ ぞう 。.との 《にそえがJ
らぐんや
., fJl ,~のさと

塑像(土像)作成 「一一 17 745 8月 23日大仏建立計画を大和国添上郡山金里


約l年 2ヵ月 一一一一寸 (現在地)に移し,基礎工事を開始。
.
.令 ζう ねんとう 《 ょ う
1
8 746 0月 6日聖武天皇行幸し,燃灯供養行わる。
1
(大仏の塑像完成と考えられる)

19 747 9月 29日大仏本体の鋳造開始。
本 体 鋳 造 約 2年 1ヵ月
この年.大仏殿建築の準備にも着手。
てん,"う ι
aうほう
天平勝宝元 749 10月 24日大仏本体の鋳造完了。
大正鵬

建鋳約幻

約取制約
4 叶 カ5
仏 白

年け月年
築造
殿の仕

12月大仏の奴髪 966個の鋳造開始。
髪と

い〈 わえ い~ ;
与え
2 750 1月大仏の鋳加(補鋳)・鋳凌(仕上げ)開始。
J
17

3 751 6月大仏螺髪の鋳造と頭部への取付け完了。
この年,大仏殿完成。

4 752 I2月大仏銅座の鋳口(蓮井への彫刻)開始。


b 大の

叫山
む よ養 凌
凶 川会 終

ム町わ。
ば仏補
日日仏

融行了
ト 9 大
円月円月四月
qdAUτ


開鋳
地⋮鋳

'

蓮 弁 の 彫 刻 約 4年 5ヵ月
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a

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ヴ,
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7
υ

8 I 756 I5月 2日冨最長主実


室崩御

7月 29日銅座の鋳口 (蓮井への彫刻)終了。
と Sん
仏 体 へ の 塗 金 約 5年 9 757 I1月造東大寺司に塗金のため沙金(砂金 )2016
両下す。
この年,塗金完了か。
てん a.う ぼ う じ

光背 〔
木造)っくり I
「一一一一 天平宝字 7
~::
763
l
東大手縦揺員住ふ光背づくり(木造)に着手。

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fL,
:
.
約 8年 一一→ 宝亀 2 771 この年,実忠大仏殿高I
柱 40本を補強, 大 仏 光
J
背完成。
《に信かの " ら "
5 774 I10月 3日大仏建立の技術の総 CIfJ圏中公麻巴没。
2
00 鋳造工学 第 7
2巻 (
200
0)第 3号

表 3 奈良大仏の仏体分析結果, %
.
No 採取位置 Cu S
n P
b As F
e S
i Mn N
i B
i S
b Au Ag

1
i
1Ii
l 部(額) 87.7
9 4.
24 3.
07 4.
55 0.
10 0
.04 T
r Tr
. 0.02 0.
13 0
.00
088 0
.15
14
2 左 自 の 犠 91
.54 4.
15 2.
97 .05
1 0.
08 0
.22 T
r Tr 0.02
3 胸 古H 91
.52 4.
00 2.
56 .2
1 0 0.
12 0
.07 0
.04 0.
05 0.
14 0.
06
4 左側乳附近 94.
13 2
.15 .85
1 .6
1 2 0.
08 0
.02 Tr T r 0.03 0.
08
5 右 側 乳 附 近 9 2.
93 .6
1 0 3.
41 .8
1 1 0.
03 Tr
. Tr 0.04 0.
02 0.
14 0
.00
636 0.
0998
6 右 肩 部 93.48 2.
91 2.
61 0.
53 0.
05 0.
02 0
.01 Tr 0.02 0.
05 0
.00
209 0.
0488
7 左 肩 日
部 91 16
. 2.
81 2.
72 2.
94 0.
20 0.
01 Tr T r
. 0 .
01 0.
08 0
.00
184 0.
0709
8 左 腕 左 側 上 部 94 .
22 .83
1 0.
92 2
.11 0.
13 0.
08 0
.23 Tr 0.14 0.
09
9 左腕右 側下部 8 4.
96 3.
93 8.
21 0.
30 0.
09 . Tr
Tr .
1
0 左 腕 上 日
制 9 3.
55 2.
34 .82
1 0.
96 0.
10 0.
02 Tr T r 0.
03
1
1 背部下の入口 1m上 $ 93.
57 .43
1 0.
57 2.
91 0.
16 0
.22 Tr T r 0.
16 0.
06 0
.00
817 0.
1657
1
2 上部入口附近 事 9 3.
10 2.
45 0.
60 3
.14 0.
28 0.
01 Tr T r 0.
12 0.
08 0
.00
886 0.
1414
1
3 左 膝 下 部* 9 2.
78 .77
1 0
.49 2.
99 0.
30 0.
15 Tr T r 0.
13 0.
08 0
.00
236 0.
1421
1
4 斜右後膝の高さ 91
.76 3.
65 .93
1 2.
43 0.
10 0.
01 Tr. 0.07 0.
02 0.
07 0
.00
420 0.
0783
建時(11-13)の平均
車I
J 93.
15 1
.88 0
.55 3
.01 0
.25 0
.13 T
r. T
r 0.
14 0
.07 0.
00646 0.
1497

痕は創建当時のもの と推定される。 Tr.は T


rac
e(痕跡)で,ごく微量の存在を認め たこ とを示す。

図 2 奈良大仏の内壁(1) (正面:倉リ建当時のか所と思
われる.) 図 3 奈良大仏の内壁 (
2) (背面:補強の木組みと鉄の
釣でつないでいる)
にも広く利用された.例えば 1614年に鋳造された方広寺
鐘(約 4
5t)は,地中に穴を掘って据えつけられた直径 3
.8 子を示す写員が現存するが(図的,この場合も鋳型を中心
m,高さ 5m程度の円筒形の大きな鋳型上部に設けた・湯だ に放射状に設けられた樋に沿って,多数の甑が見られる.
まりから,東西南北に 4本の樋(とい)をわたし,各樋に 4
.2 接合技術
34基づつの甑と踏輔を配置するといった大がかりな鋳込 奈良大仏の鋳造は,下から順次鋳込みを繰返したので:
み作業が記録されている 11)14) また 1934年京都の鋳物師 当然先に鋳込まれた部分と次に鋳込もうとする部分の接合
高橋才治郎が口径 2.8m,重さ 4
5tの大党鐘を鋳造した様 が問題になる.鎌倉大仏内壁を観察すると図 6に示す 3種
奈良大仏の鋳造技術と 2,3の啓示 2
01

耐lE (1)

(2)

図 4 奈良大仏の内壁 (
3) (目の部分:目は銀鍍板を用
L
F(
3)
匡~l長から t均込んだ自日分

, くさびで止めている.)
図 6 3種類の接合法(左は垂直,右は直角に継ぐ場合).

図 7 鎌倉大仏内壁(肩部)に見られる巧妙な接合法

敬の念を覚える.
4
.3 積層鋳造によるシェル構造物
奈良大仏は,土の塑像を削って中子とし,下から順に鋳
継いでゆく積層鋳造方式がとられ,完成した鋳仏は像高
図 5 大党鐘(重量 45t
,口径 280cm)の鋳造(1934年横 16m余と巨大だが,中空で肉厚約 5.5cmの薄いシェル構
浜) 造である.
(株)クボタが開発したアルミ鋳物パネル(カーテンウオー
類の方法(香取はこれを「鋳がらくり法」と呼んだ 15)) が ル)を外被とする建築様式は, 1 964年建設の千代田生命
認めら れる.奈良大仏では最も簡単な(1)の場合すなわ ビル(図 8
)に始まり, 1968年にはドイツミュンへンの
ち先に鋳込まれた部分の先端を挟み込むように,後の溶湯 BMW本社ビルにも採用されるなど,急速に世界の建築界
を流し込む方法しか使われなかったので,建立後天災や戦 に広まり,画一化された建築物に個性と記念性を持たせ
火で度々損傷したのだろう. 500年後の鎌倉大仏は,力の た 16) 工法をみると 1階ごとにコンクリートを流し込み,
かかり具合を考え,巧妙に 3種類の鋳がらくり法を駆使 打継いで高層ビルを完成させ,鉄筋コンクリートを骨格と
していることが図 7の大仏肩部内壁でも明らかである.そ してアルミ鋳物パネルで外側を覆っている(図 9
). 大仏鋳
のためほとんど創建時のままの姿で現存している.奈良大 造にみられる積層鋳造によるシェル構造は,このアルミ鋳
仏に学び,新しい接合法を習得した先輩たちの努力には畏 物のカーテンウオールで固まれた現代建築を生み出した源
2
02 鋳造工学 第 7
2巻 (
200
0) 第 3号

図 8 アルミ鋳物ノ fネル(カーテンウオール)を外被とし
た建築(千代田生命ビ Jレー1,964年)

流と云えよう. 図 9 カーテンウオールの取付け作業(伊藤忠ビルー 1968


4.
4 大仏建立と貨幣経済 年)
ひ もと
和銅元年 (
708
)の歴史を繕くと,律令国家は銅鉱発見 識(寄進者)42万余人,役夫(作業者)延べ約 218万人と
さいじゅぜん L
と相まって,催鋳銭司を置き,銅貨(和同開称)の鋳造と 記している.この大事業を管理運営する機関である「造東
発行に着手している. 大寺司J(
図104)) も,大仏建立の詔発布 5年 後 の 天 平 20
もみ
その後,殻と銭との交換比率を決める,公務員の給与を 年(
748
)には正式に発足した. このように大仏建立は国
貨幣で支給する,銭で米を販売し旅行者が食料として重い 家的大プロジェクトで,これをうまく機能させるには,よ
米を携行することを止めさせる,庸調の銭納すなわち物納 うやく確立した貨幣の流通がきわめて有効に作用し,真殿
していた税を貨幣に換えることを決める,田畑の売買(貨 も指摘するように 19L 当時の経済は活性化した.堺屋 4) は
租)に貨幣の使用を認める,などの施策が和銅 4年から 6 この事業を 1970年大阪で開催された日本万国博覧会と対
年頃にかけて次々と行われ,貨幣の流通を促進し,大仏建 比させて論じているが,天平の経済活性化対策は,現代に
立の始まった 8世紀中ごろには貨幣経済の基礎が確立し も適用しうる施策であろう.
T
こ17)18)
5
. おわりに
さて,大仏建立は先に述べたように,仏体の鋳造から塗
金完了までに約 1
0年,大仏殿の建設に約 4年 と い う 長 年 1200余年前に鋳造された奈良大仏は,その 150年前の
月が費やされ,東大寺要録 13) は
, これに携わったのは知 飛鳥大仏, 500年後の鎌倉大仏とともに,我が国 3大仏と
木石他
泉大そ
津坂の

屋山
所所

所コ式
報酬
上香石

甲賀山作所
料制設独自対

達制ら繕

関る関

山山山
調拍け営

寺薬仁院
機--れ機
材何単開
﹂ │L



Z 当 足 止 定

伊賀山作所
田上山作所
先大

関営
出東

機寺
﹁1111 Ill1L

高嶋山作所

一一
一一

料所








造東大寺司

造仏所鋳所

絵所事 木工所
造物所造瓦所
「事務所(政所)一一一『荘園管理機関が付属する 足庭作(現場)
管理機関寸
し雑務所(大炊厨所)
紙打殿 装i
演所 写経所
写経機関一写経所 熱紙所 経堂(経所)
紙屋 助経所 i京 大 川 i
i
l Pi絞所の 1
'1-特トにあ
*
r絵 0 0所 jとし、う表現をする場合がある る。ただし、写続所別 2 1は造石山
{問中嗣人「造東大寺司造悌所のー研究J
より) 院;v
i
l]
lh
'Jが萩I.T:

図1
0 天平宝字 6年 (762年)頃の造東大寺司の機構.
奈良大仏の鋳造技術と 2,3の啓示 2
03

じて人々に親しまれてきた.とくに奈良大仏は鋳造物とし 5) 東大寺,奈良県立橿原考古学研究所:東大寺大仏殿
て世界ーを誇る大きさと重量を持ち,再三の天災や戦火で 西廻廊隣接地の発掘調査報告(1988・3 )
大きく損傷したが,現在も奈良東大寺の本尊直舎那仏とし 6) 石野亨:金属 35( 196
5)9・1 5,82
7) 石野亨:総合鋳物 1 6(1975
)1 2,14
て存在し,記録も数多く残されている.
8) 石野亨:鋳造技術の源流と歴史(産業技術センター)
筆者は鋳造工学研究者の立場で,この大仏の鋳造技術の
(19
77)
解明を試みて来たが, これまでの調査研究の成果と大仏建 9) 石野亨:図説日本文化の歴史 ( )奈良(小学館)
3
立から受けた啓示について論述した. (1979)105
1988年の発掘調査ののように,今後も新しい事実が発 10
) 石野亨:奈良の大仏をつくる(小峰書庖)( 19
83)
見され, 1200年前の技術がさらに明らかになることを期 11
) 石野亨:鋳物五千年の足跡(日本鋳物工業新聞社)
待したい. (19
94)
1
2) 大仏発願の詔の訓読は岩波書店版新日本古典文学大
なお,東京芸術大学美術学部関係の鋳金技術者と美術史
系「続日本紀J( I
I)(1990
)431による
研究者の方々が, 18年に及ぶ研究成果を 350頁の大著 1
3) 筒井英俊校訂東大寺要録(図書刊行会)( 19
71)
「東大寺大仏の研究」として 1997年に出版された 20) 興味 1
4) 石野亨:鐘をつくる(小峰書底)( 1984)52
のある方はぜひ一読されることをお薦めする. 1
5) 香取秀員:続金工史談(桜書房)( 1943)106
文 献 1) 村野藤吾:CAST((株)クボタ発行誌)1(
6 1967)23
) 石野亨,若林洋一 :鋳物 28(
1 1956)847 1) 新日本古典文学大系「続日本紀 J(
7 1
)(岩波書庖)
2
) 桶谷繁雄,香取正彦,石野亨:金属 36( 19
66)2・1
, (1989)127
33 1) 三上隆三:朝日選書「貨幣の誕生 J(朝日新聞社〉
8
) 長崎誠三:人と金属と技術の昭和史(アグネ技術セ
3 (1998)119
19
ンター)( 9
8)157 1) 真殿統:JACTNEWS515(
9 1999)33
4
) 堺屋太一,杉山二郎,石野亨:歴史への招待第 7 2
0) 前田泰次,西大由,松山繊夫,中津圭之介,平川晋
19
巻東大寺大仏建立(日本放送出版協会)( 8
0)133 吾:東大寺大仏の研究(岩波書庖)( 1997)

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