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ISSN1349-4309

ISSN1349-4309

苫小牧駒澤大学紀要  第三十三号  
BULLETIN
OF
苫小牧駒澤大学紀要 TOMAKOMAI
KOMAZAWA UNIVERSITY
第33号 Vol. 33

帝大教授のアイヌ墓地発掘 Professor Who Desecrated Ainu Graves


  ――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年) −Koganei Yoshikiyo's Second Visit to Hokkaido in 1889
   …………………………………………………………… 植 木 哲 也 …………   1   …………………………………………………………………… UEKI Tetsuya ……… 1)

龍のイメージ覚書 Images of Dragons in East Asia


    ――東アジアにおける龍の図像展開――   ……………………………………………………………… HAYASHI Kouhei ……… 27)
   …………………………………………………………… 林   晃 平 …………  27                     ◇
                    ◇ The Introduction Status of the Management
苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況 Accounting in the Small and Medium-sized Enterprises
   …………………………………………………………… 川 島 和 浩 ………… ( 1) in the Tomakomai Area
  ……………………………………………………… KAWASHIMA Kazuhiro ………   (1)
『法性不動経』をめぐる諸問題
   …………………………………………………………… 小 林   守 ………… (33) Some Remarks on the Dharmatācalasūtra
  ………………………………………………………… KOBAYASHI Mamoru ……… (33)
シャーロット・ブロンテの文学とベルギー
  ――『ヴィレット』におけるヨーロッパレースの表象―― The Literature of Charlotte Bronte and Belgium
   …………………………………………………………… 佐 藤 郁 子 …………(97)  −Representations European Traditional Lace in Villette
  ……………………………………………………………………… SATO Ikuko ……… (97)
旅の変遷
  ――軍旅から観光へ―― Discussion of the Transition of the Journey
   …………………………………………………………… 髙 嶋 めぐみ ……… (113)   ………………………………………………………… TAKASHIMA Megumi ……… (113)

アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化 The History of the American Poor Whites


   …………………………………………………………… 山 田 利 一 ……… (133)   ………………………………………………………… YAMADA Toshikazu    (133)
………

社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察 Consideratior of college students' conscious change aiming at the acquisition


   …………………………………………………………… 松 田 剛 史 ……… (165) of teacher's license of social studies and civic studies
  …………………………………………………………… MATSUDA Takeshi ………  (165)
平成三十年三月

苫小牧駒澤大学 TOMAKOMAI KOMAZAWA UNIVERSITY


2018年3月 March 2018
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号(二〇一八年三月三十一日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018
帝大教授のアイヌ墓地発掘
――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
Professor who Desecrated Ainu Graves ; Koganei Yoshikiyo's Second Visit to
Hokkaido in 1889
植 木 哲 也
UEKI Tetsuya

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キーワード:人類学・解剖学・遺骨・研究倫理・東京大学
要旨
 帝国大学医科大学の解剖学教授小金井良精は、一八八八年と一八八九年の二度にわたって北海道を
訪れ、アイヌ墓地から数多くの遺骨を掘り出し、東京へ持ち去った。この小金井の旅行を起点に、ア
イヌ頭骨の人類学的研究が日本に導入され、数多くの遺骨が大学の研究室に持ち込まれた。現在も全
国の大学に一七〇〇近くのアイヌ遺骨が放置された状態にあり、返還を求める声がアイヌ民族から高
まっている。
本稿は小金井良精の遺骨収集のうち、これまで実態の不明だった第二回北海道旅行について、アイ
 
ヌ墓地発掘とアイヌ生体計測の模様を、近年公刊された『小金井良精日記』に記述にもとづいて検討
する。
一、はじめに
 帝国大学医科大学の解剖学教授だった小金井良精は、一八八八年と一八八九年の二度にわたって北海道を
旅行した。その目的は、多数のアイヌ遺骨、とくに頭骨を集めることにあった。二回の旅行でかれはアイヌ
の墓地を掘り、約一六〇のアイヌ頭骨(一部は体骨もふくむ)を手に入れた。そして、これらを用いた研究
によって、アイヌ民族研究の第一人者として世界的に知られるようになる。
 アイヌ民族の遺骨の収集はその後、京都帝国大学医学部の清野謙次や北海道帝国大学医学部の児玉作左衛
門などに引き継がれた。研究者たちは、集めた頭骨をさまざまな角度から計測し、数多くの論文を発表した。
しかし、研究が終了しても、遺骨が遺族や子孫のもとにもどされることはなかった。
 その結果、いまや日本全国の大学におよそ一七〇〇のアイヌ遺骨が残されている 。近年になってアイヌ

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民族から遺骨の返還が求められるようになり、一部の返還が実現したが、しかしその数はごくわずかにすぎ
ない。日本政府は「返還不可能な」遺骨を、二〇二〇年までに北海道白老町に開設される「民族共生の象徴
空 間 」内に集約し慰霊するとしているが、集約した遺骨を再び利用しようとする研究者も存在す る 二。その
ため多くのアイヌが政府の政策に反対しているだけでなく、政策そのものがあらたな民族差別の様相を呈し
ている(北大開示文書研究会二〇一六、植木二〇一七、二七一‐三一六)。
小金井良精による二回の北海道旅行は、こうした状況の発端となった出来事にほかならない。
 
 二回の旅行のうち一回目については、のちに小金井自身が回想記を発表したこともあり(小金井一九三五)、
そ の 事実がある程度知られていた 三。旅行の目的だったアイヌ頭骨の収集の様子も、この回想記に 記さ れて
いる。そ こ か ら 発 掘 地 、 発 掘 の 様 子 、 協 力 し た 和 人 な ど に つ い て 、 知 る こ と が で き る(植木二〇〇一七、
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
四六‐五八)。
 しかし、一八八九年の二回目の発掘旅行について、小金井良精は詳細を語らなかった。この旅については、
良 精 の 妻 喜 美 子 に よ る 「 島 め ぐ り 」 と 題 さ れ た 旅 日 記 が 残 さ れ て お り ( 小 金 井 喜 美 子 一 八 九 七)、 そ こ に は
旅 で 出会った人々や出来事が生き生きと描かれている 四。しかし、アイヌ墓地発掘についてはまっ たく 触れ
ていない。そのため、この旅行でどのようにアイヌ遺骨が収集されたかについて、これまでその詳細を知る
ことができなかった。
 二〇一五年一二月と二〇一六年一二月の二度に分けて、小金井良精の日記全四巻が公刊された。これは、
一八八三年ドイツの留学中から亡くなる直前まで、良精がほぼ毎日欠かさず記し続けた日記の翻刻である。
その中には、小金井が北海道を旅行した一八八八年と一八八九年の分も含まれ、アイヌ遺骨収集の一端を知

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ることが可能になった。
本稿では、この日記を手がかりに、第二回北海道旅行におけるアイヌ遺骨収集とアイヌ生体計測の模様を
 
検討したい。なお、日記については日付をもって引用箇所を確認できるので、引用頁の記載は省いた。
二、旅行の行程
 一八八九年の旅行は、前年一八八八年の旅行と同様、大学の講義が休みとなる七月と八月のほぼ二カ月を
用いて実行された。小金井の日記には、旅行に先だつ五月二八日に北海道旅行の趣旨を大学評議会に提出し、
翌二九日に評議会を「通過」したこと、そして六月一七日に北海道出張の辞令を受取ったことが記されてい
る。遺骨収集旅行は帝国大学の公務だった。
 旅行は六月三〇日からはじまった。東京での日常については、毎日せいぜい一行から数行、それもきわめ
て実務的な記述しか残さなかった良精は、旅行がはじまるとともに饒舌となる。一日の出来事が記されるだ
けでなく、その日に出会った人々、聞き知ったアイヌ民族の生活や風習、発掘した墓地や遺骨の状態などが
くわしく記録され、ときには数頁にわたっている。このことは、一八八九年だけでなく、前年一八八八年の
旅行でも同じである。北海道旅行が小金井にとってどれほど重要だったか、興奮の伝わる書きぶりといえる。
 六月三〇日午前一〇時五〇分、新橋駅を汽車で出発した小金井は、一二時に「糸屋」で大沢岳太郎と合流
する。大沢は小金井の数年後輩にあたる解剖学者であり、後に小金井同様に帝国大学の解剖学教授を務めた。
そ の 後 旅 行 中 に 数 回 名 前 が 登 場 す る こ と か ら 、 北 海 道 ま で 同 行 し た と 推 察 さ れ る 。 ふ た り は 、 午 後 一 時 半、

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「郵船会社の小汽船」によって本船薩摩丸に乗込んだ。
 薩摩丸は翌日、仙台近郊の荻の浜に立ちよった後、七月三日朝七時に函館に到着した。この後、日記に記
された旅行日程は、喜美子が「島めぐり」につづった足取りとほぼ一致する。函館についた良精は、その日
のうちに出発し、森で一泊した後、四日に山越内に到着した。森の宿に神保小虎が(たまたま?)同宿して
おり、山越内まで小金井に同行した。神保は一八八七年に帝国大学を卒業し、北海道庁に技師として務めた。
地質学や鉱物学を専門とし、後に帝国大学の教授になった人物である、山越内で一泊した小金井は、再び森
を経て六日午後函館にもどると、その日のうちに陸奥丸に乗込んだ。
船 は 七 月 七 日 未 明 に 函 館 を 出 帆 。 七 日 の 晩 か ら 小 金 井 は 体 調 不 良 が 続 き、「 水 瀉 」 を 繰 り 返 し た 。 翌 八 日
 
の午後四時頃に根室着。その日の夜、小金井は色丹島へ向けて、矯龍丸に乗船した。船は九日の早朝に根室
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植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
を発し、午後一時に色丹島斜古丹小湾に到着。色丹島に三泊(最後は船中泊)し、一二日に根室にもどった。
七月一〇日の日記には、色丹島での見聞が数頁に渡るほど詳しく記載されている。
 続いて一三日からは、国後島泊村に出かけ、一五日根室にもどった。翌一六日に根室を発って、その後は
海 岸 に そ っ て 別 海 ( 十 六 日)、 標 津 ( 十 七 日 ) と 進 ん だ 。 標 津 に 二 泊 し た 後 、 十 九 日 に 斜 里 到 着 。 斜 里 に も
二 泊 し 、 そ の 後 は ト ウ ブ ツ ( 二 一 日)、 網 走 ( 二 二 日 ) と オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 を 歩 い た 。 網 走 滞 在 中 、 二 四 日
から二六日まで内陸の美幌まで脚を延ばしている。
  七 月 二 八 日 に 網 走 を 出 発 。 常 呂 ( 二 八 日 か ら 三 泊 )、 湧 別 ( 三 一 日 ) を 経 て 八 月 一 日 に 紋 別 に 到 着 し た
( 喜 美 子 の 「 島 め ぐ り 」 で は 、 湧 別 か ら 紋 別 へ の 移 動 は 八 月 二 日 と さ れ て い る)。 紋 別 に 二 泊 し た 後 、 沢 喜
(三日)、幌内(四日)、枝幸(五日から二泊)、頓別(七日)、ツイトマリ(八日)とオホーツク海沿岸を進み、

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九日に宗谷岬、一〇日に稚内に到達している。稚内からは日本海沿岸を南下し、一一日に天塩、一二日に
遠 別 ( ウ エ ン ベ ツ )、一 三 日 に 苫 前 と 進 ん だ 。 苫 前 に 二 泊 し た 後 、 さ ら に 南 下 を 続 け 、 鬼 鹿 ( 一 五 日 )、留 萌
(一六日より二泊)、増毛(一八日より二泊)、そして二〇日に浜益に到着した。浜益を発った日は、小金井の
日記では二四日だが、喜美子の文章では二五日とされ、一日ずれている。その後、厚田、石狩を経て、札幌
に到着したが、札幌到着の日付も、日記は二五日、喜美子の旅行記は二七日と、ここにも二日間のズレがあ
る。
 札幌に数日滞在した後、小樽に移動。三十日に熊本丸に乗船する。良精の日記では、熊本丸は翌三一日の
早朝出港し、九月一日に横浜に着いたとされるが、喜美子の記述では、いったん函館によった後、荻の浜に
到着し、そこから小蒸気で松島を抜け、汽車で福島を通って四日に上野に到着したとされている。
 良精と喜美子の説明は、最後の数日について若干の食い違いがあるが、旅行の行程についておおよそ一致
している。食い違いについては、当事者である良精の記述が正しいと解するのが妥当だろう。なお、良精は
旅の途中で頻繁に喜美子に手紙を書き送った。
三、墓地発掘
 一八八八年の旅行と同様、小金井は行く先々でアイヌ墓地を掘り遺骨を持ち出した。日記から判明した墓
地発掘の様子を、発掘地別に見てみよう。なお、日付の下の数字は、発掘数と一八九四年のドイツ語論文
( )に記載された、該当すると思われる遺骨の数である
Koganei1894a

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森(七月六日、〇)
  七 月 三 日 晩 に 森 に 到 着 。 小 金 井 の 記 述 で は 、 森 に は か つ て ア イ ヌ 数 家 あ っ た が 、 そ の こ ろ は 五、六 軒 の み
で、その外に和人と結婚した者が数名いた。アイヌは「大概雑種」で風俗は「皆日本化」していたという。
七月四日は山越内へ出かけ、五日一二時半に山越内からもどると、森病院の医員村岡柊とともに「土人墓
 
所 を 一 見 」 し た 。 翌 六 日 は 早 朝 か ら 、 宿 の 千 歳 千 代 作 お よ び 村 岡 と と も に 、 森 か ら 二 四 、五 丁 ほ ど 海 岸 を
進 ん だ 先 の 「 土 人 旧 墓 」 で 遺 骨 を 探 し た が、「 空 し く 帰 る 」 こ と と な っ た 。 こ の 場 所 は 以 前 ア イ ヌ 小 屋 が 二 、
三軒あったところだという。
たし
  朝 食 後 、 千 歳 と 村 岡 が 二、三 箇 所 「 慥 か な る 」 場 所 を 探 し 出 し た が、「 時 日 な き を も っ て 」 村 岡 に 依 頼 し
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植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
て、午後函館へ発った。
国 後 島 泊 村 ( 七 月 一 四 日 、 一 三、一 二 )
  泊 村 に は 一 三 日 午 後 に 上 陸 。 医 師 山 田 英 明 に 面 会 し、「 骨 格 採 収 の 件 」 を 相 談 し て い る 。 翌 一 四 日 、 山 田
とともに、戸長の塙浩気が同道し、「村後の山にアイノ旧墓を捜索し之を掘る」。骨の多くは朽ちており、小
金 井 は 「 時 代 は 余 程 古 き も の 」 と し て い る が 、 そ れ で も 二、三 〇 年 以 上 前 と い う に す ぎ な い 。 朝 か ら 夕 方 ま
でかかって一三個発掘し、石油箱六個に積め、さらに石油箱二個ずつ一つの行李に入れた。その後、「縦穴」
を三箇所検分している。
  一 八 九 四 年 の 論 文 に は 、 九 二 か ら 九 九 、一 三 四 か ら 一 三 七 と 番 号 を ふ ら れ て 一 二 体 の 遺 骨 が 国 後 島 泊 村

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発掘として記載されている。最初の八つは体骨と頭骨の両者がそろったものだが、一三四から一三六は、
のみ、一三七は頭骨のみである。いずれも副葬品の記述はない。
Hirnkapsel
  喜 美 子 の 「 島 め ぐ り 」 は 、 七 月 一 四 日 に つ い て 「 今 日 も こ こ に。」 と 記 す だ け で 、 発 掘 の こ と は ま っ た く
触 れ て い な い ( 五 五 一)。 い っ ぽ う 墓 地 発 掘 を 行 な わ な か っ た 色 丹 島 に つ い て は 、 人 び と と の 出 会 い や 島 の
様子を生き生きと描きだしている。発掘を話題にするのを意図的に避けた様子が見られる。
標津(七月一八日、一?、一)
 七月一八日晩食後、標津病院長大熊光之を訪問すると、「骨格採掘中」で留守だった。十時頃宿に帰り就
寝したところ、大熊が「吉報」を持ってきたという。翌日早朝、大熊に「土人骨格送り方」を依託し、朝七
時には標津を出発したとされている。この記述から、標津で遺骨を入手したことは知れるが、個数などの記
載は見当たらない。
 一八九四年のドイツ語論文には、標津発掘として一つだけ女性の頭骨(一五二番)が記載されている。た
だし、小金井が立ち会ったとされている。日記の記述と整合しない。
斜 里 ( 七 月 二 〇 日 、 四、四 )
 午前中、戸長役場で戸長永田高致に面会。帰宿すると巡査菊地栄次郎が来訪した。菊地の同道で「薮中
に 入 り 髑 髏 一 個 拾 う 」。 さ ら に 、 晩 食 後 八 時 に な っ て 藤 野 店 員 の 山 田 某 の 案 内 で 、「 人 足 三 人 」 と 共 に 「 村
後 の 山 中 に 入 り 旧 墓 を 発 掘 」 し 、 三 体 の 遺 骨 を 得 る 。 一 八 九 四 年 の 論 文 に も 、 一 〇 〇 ( 全 体 骨 及 頭 骨 )、

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一三八、一三九(ともに頭骨のみ)、一四〇番( )の四体が記載されている。
Hirnkapsel
 この日、喜美子の記述は、アイヌの「富家」に「宝物見にゆきぬ」となっている。同日の良精の日記には、
斜里の水野清二郎、網走の宮本伊太郎という二人のアイヌ「財産家」が漁場を持ち和人を使役しているとい
う話が書かれているが、二人を訪問したという記述はない。日記では、水野清二郎とは二二日に網走への途
上(?)で、また宮本伊太郎とは二三日に網走で面会したとなっている。
  な お 藤 野 と は 、 斜 里 郡 の 漁 場 を 請 け 負 っ て い る 藤 野 木 兵 衛 ( 屋 号 は 又 十)。 斜 里 で は 又 十 の 店 に 宿 泊 し て
いた。
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植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
網走(七月二六日、二七日、一〇?、一〇)
 網走には七月二二日に到着。翌二三日は郡役所で測定(午前五、午後四)し、二四日から二六日まで二泊
三日で美幌まで出かける。
 七月二六日午後六時頃網走にもどると、直ちに網走公立病院に行き、「骨採集の手順」を相談した。さら
に 、 晩 食 後 再 び 病 院 へ 行 き、「 大 沢 子 は 道 路 に 当 る 旧 墓 発 掘 に 着 手 す 」 と さ れ て い る 。 夜 に 発 掘 を 始 め た と
い う こ と だ ろ う か。「 大 沢 子 」 と は 同 行 し た 大 沢 岳 太 郎 だ ろ う か ら 、 か れ も 発 掘 を 行 な っ て い た こ と が 確 認
できる。その後、郡長心得の三沢秀二が病院に来て談話した後、医員の渡辺貞次郎と一緒に、盛田辰蔵とい
う 人 物 を 尋 ね、「 明 日 の 手 順 」 を 相 談 し て 、 一 一 時 に 帰 宿 し た 。 盛 田 と い う 人 物 に つ い て は 、 二 三 日 に も 訪
問して、壺や石斧、石鏃などを見物している。

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 翌二七日は「約束の如く」盛田の案内で「旧墳墓二個」を発掘したほか、盛田から土器石器数個を得、さ
らに自らも土器片数個を拾った。昼食後「人夫一名」の案内で「町南の山中」で三個、大沢が畑地で二個を
掘り、病院で荷造りをした。さらに、晩食後、盛田にお礼に行った後、さらに二個掘った。これらを合計す
る と 九 で あ る が 、 小 金 井 は、「 総 て 十 個 」 と 記 載 し て い る 。 一 八 九 四 年 の 論 文 に は 、 一 〇 一 か ら 一 一 〇 ま で
一〇の遺骨が記載されている。一〇八は頭骨だけだが、他は体骨もそろっている。また一〇九の男性の遺骨
については副葬品の存在も記されている。
 喜美子の二七日の記述は、これもまた「同じ所にあり。」だけできわめて素っ気ない。
常 呂 ( 七 月 三 〇 日 、 三、三 )
 常呂には七月二八日に到着し、翌二九日は丸木舟に乗ってアシリコタンへ出かけ、三〇日の午後六時に常
呂へ帰った。その晩、「宿主下川〔寅吉〕に計りて土人古墳三個を発掘」、すぐに荷造りをして就寝した。
 常呂の遺骨は、一八九四年の論文の一一一から一一三まで三つ記載されている。男一女二である。
紋 別 ( 八 月 二 日 、 五 + 一、五 )
 八月一日は、湧別を起って、午後五時半、紋別に到着した。小金井はすぐに村医の古谷憲英と戸長役場
「兼生」の笛田茂作の来訪を受けた。翌日早朝、古谷が再び来訪し、戸長役場で一一名の測定を行ない、午
後再び役場に出掛けて、笛野に案内を頼んでアイヌの「旧墓」を発掘した。いったん七時に宿に帰り食事を

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とった後、古谷とともにまた発掘を行う。頭骨五(一部体骨あり)と頭骨のない体骨一を得る。その日のう
ちに病院で荷造りを行ない、石油箱二個に積めた。
 喜美子の記述では、一日でなく二日に湧別から紋別へ移動したとなっていて、途上の様子のみ記述されて
いる。
論文には、頭骨と体骨のそろったものが二(一一五、一一六)、体骨と のものが一(一一一)、
Hirnkapsel
 
さ ら に 頭 骨 の み が 二 ( 一 四 一、一 四 二 ) 記 載 さ れ て い る 。
枝 幸 ( 八 月 六 日 、 一 七、一 七 )
 小金井は八月五日午後五時半に枝幸に到着すると、宗谷病院派出所医員の高橋子之助、宗谷戸長役場派出
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所員の萩田喜三郎を訪問した。翌日六日早朝、高橋と巡査一名を訪問し発掘の相談をした後、人夫二人を雇
い発掘を行なった。発掘物はアイヌの空き家に運んだ。遺骨は午前九、午後八、総数一七となり、土器用一
を含め一〇個の荷にまとめられた。一八八九年の発掘では最多の遺骨数である。
  枝 幸 の 遺 骨 は 一 八 九 四 年 論 文 中 に 一 七 確 認 で き る ( 一 一 七 ‐ 二 四、一 三 〇 ‐ 一、一 四 三 ‐ 八、一 六 四)。
ただし、その内ひとつ(一四五)は、小金井の立会いの記述がない。別の機会に得たものの可能性もあるが、
単 な る 記 載 漏 れ か も し れ な い 。 ま た 、 一 一 八、一 一 九、一 二 二 に は 副 葬 品 の 記 載 が あ る 。
 喜美子の記述は、「今日も寒さ激し。」で始まり、湯あみやこの先の道程がたいへんなことが簡単に記され
ているだけである。

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天塩(八月一二日、〇)
 午後、苫前戸長役場派出所員の案内で「旧墓」を掘るが、「事空し」。また「こびと穴」を四カ所実地検分
している。その日の三時に天塩出発。
苫 前 ( 八 月 一 四 日 、 五、五 )
 一三日午後五時に苫前に到着。休息後戸長恩田昌章を尋ねるが不在。ただし、後に本人が来訪した。一四
日は九時前に役場に行き、病院医員大沢広司に面会。アイヌ七名を測定した。午後、村後の山上にてアイヌ
「旧墓」を掘り、「四具」と破損した頭骨一個を得る。
一八九四年の論文には頭骨を含む全体骨四(一二五‐七、一五〇)と「不完全な頭骨」が一つ(一三二)、
 
全部で五体が苫前のものとして記載されている。一五〇はカタログナンバー外( )とされて
Extranummer
いる。五つとも小金井立会いのものとされている。
 喜美子の記述は「とどまりぬ。」のみ。
留 萌 ( 八 月 一 七 日 、 一、一 )
 午前八時に戸長役場に出掛け、アイヌ五名測定後、「骨格を得ることを諸子に談す」。前日、役場で戸長伊
山 徳 二 郎 に 面 会 、そ の 晩 に 役 場 用 係 寄 木 橘 郎 と 開 業 医 浦 上 芳 達 が 小 金 井 の も と を 訪 ね て い る か ら 、「 諸 子 」
とはこれらの人びとだろう。一七日は夕景になって喜太郎という人物に命じてアイヌ頭骨を探させ、一個を
得た。

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 一八九四年の論文には、一三三番としてルモッペ( )出土の頭骨が記載されている。小金井立
Rumoppe
会いとされている。
貴美子は「同じ所にあり。」とのみ。
 
別刈(八月一九日、〇)
増毛滞在中に日帰りで別刈村へ出かけている。別刈の栖原番屋の裏の山中でアイヌ「旧墓」を探すが「事
 
空し」。郡役所員の横岡喜正が同道した。
なお、増毛では、公立病院長磯田広達、郡長高岡直吉、病院医員石橋謙助などと交流している。
 
 喜美子は「こゝに泊まれり。」のみ。
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浜益(八月二二日、二三日、〇)
  二 二 日 に 大 沢 岳 太 郎 が 「 旧 墓 捜 索 」 に 出 た が 「 空 し く 帰 る」。 翌 二 三 日 早 朝 ( 朝 食 前 ) に 、 人 夫 二 人 を 雇
い漁業家某の案内で村北の山に行き、アイヌの「旧墓」を探るが、やはり空しく帰った。
 なお、これらの他に、石狩で発掘されたものとして、体骨と頭骨が四体(一五四‐七)、体骨と Hirnkapsel
のみのものが一体(一五三)論文に記載されているが、小金井立会いではない。どういう経緯で入手したか
は不明である。
四、生体測定

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 小金井は、アイヌたちを呼び集め身体測定も行なった。これも、日記からわかる範囲で、その模様を測定
地別にまとめておく。
山越内(七月四日)
 小金井は函館滞在中、山越内まで出かけた。山越内で「アイノ男一名測定す」と記されているが、それ以
上の詳細は不明である。
森(七月五日)
  山 越 内 か ら の 帰 途 、 病 院 に 立 寄 り 医 員 村 岡 柊 を 訪 ね た 後、「 ア イ ノ 女 子 一 名 を 測 定 す 」 と 書 か れ て い る 。
話 の 流 れ か ら す る と 病 院 内 で 測 定 し た も の と 思 わ れ る 。 
色丹島斜古丹村(七月九日、一〇日)
  七 月 九 日 、 色 丹 島 に 着 く と 、 そ の 日 の 午 後 、 戸 長 鈴 木 七 朗 、 村 医 前 野 昌 輔 と と も に 、 役 場 よ り 四、五 丁 の
「酋長ヤノコップ〔ヤーコップとも〕宅」を訪れ、五名測定した。翌一〇日は朝食後ただちに村落へ出かけ、
アイヌ一五名を測定した。昨日と合せて二〇名、男女内訳は男七人女一三人である。
別海(七月一七日)
  午 前 五 時 に 起 き て 、 別 海 戸 長 中 川 理 七 郎 、 村 医 前 野 昌 輔 と と も に、「 土 人 家 に 至 り 三 名 測 定 す 骨 盤 も 三 名

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なり」。骨盤とは骨盤の測定と思われる。
標津(七月一八日)
  「 土 人 の 案 内 」 で 「 ケ イ 助 」 と い う 人 物 の 家 に 出 か け た が 「 測 定 す る を 得 ず」。 こ の 記 述 の 直 前 に 「 土 人
組頭鬼蔵オニチヤラ虹別村」のことが書かれているが、標津から一三里もあるので、日帰りしたとは考えら
れない。ケイ助は標津のアイヌと思われる。なおかれの家屋は「内地の百姓に勝る」ものだったと記されて
いる。
同 日 午 後 、 同 じ ア イ ヌ の 案 内 で 茶 志 骨 に 出 か け、「 旧 組 頭 伊 三 郎 の 宅 に 入 り て 」 男 子 二 名 を 測 定 し た 。 こ
 
の伊三郎がどのような人物かは不明。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
斜里(七月二〇日)
 「午食、土人骨盤を七人に付測定す」とある。詳細は不明。
トウブツ(七月二二日)
 前日トウブツ村に到着。網走公立病院医員渡辺貞次郎が出迎えた。止別に手提げかばんを忘れた小金井は、
翌二二日かばんが届けられるのをまって朝九時から測定を始めた。おそらく渡辺の手配による測定だろう。
午 前 男 子 八 名 、 午 後 女 子 五 名 を 測 定 し た 。 一 三 人 中 五、六 人 に 身 体 上 の 障 害 が あ っ た と い う 。

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網走(七月二三日)
 二三日は朝から郡長心得三沢秀二、網走病院の渡辺貞次郎が来訪、さらに「土人総代」宮本伊太郎と面会
した後、郡役所にでかけアイヌ五名を測定した。さらに、昼食後再び役所に行き四名測定した。
美幌(七月二五日、二六日)
  二 五 日 「 午 前 土 人 十 三 名 午 後 四 名 骨 盤 測 定 を な す 但 し 戸 長 の 尽 力 に 依 り 各 村 よ り 集 り た る こ と な り」。 美
幌村戸長は野崎政長。前日到着と同時に面会している。また美幌では戸長役場を宿としていた。測定の記述
に続いて、「土人北野政太郎(ポンキキン村の老人)」の談話が記されている。おそらく測定で集められたア
イヌの一人だろう。
 さらに翌二六日も、午前七時に起きて、アイヌ三名の「骨盤測定」を行ない、午前中に美幌を発って網走
にもどった。
常呂(七月二八日)
 同時午前八時網走を出て、午後二時過ぎ常呂村着。戸長松田三次郎を訪問した後、アイヌ男女二名ずつ骨
盤測定を行なった。
アシリコタン(七月三〇日)
 七月二九日にテシオマナイ行きと決め、丸木舟で出発。午後六時アシリコタンに着き、アイヌ田中八郎方

17
に宿をとった。翌三〇日朝、家主一名を測定したが、女子からは拒否された。
湧別(八月一日)
 七月三一日に常呂を出て湧別に到着。旅人宿は「粗悪且満員」なので、又十番屋に宿をとる。翌八月一日
朝 か ら 「 土 人 八 名 測 定」。 詳 細 は 不 明 。 前 日 、 総 代 和 田 麟 吉 、 永 沢 久 助 を 訪 ね て い る の で 、 こ の 二 人 の 手 配
か。
紋別(八月二日、三日)
 前日午後五時半紋別到着。村医古谷憲英および戸長役場兼生笛田茂作が小金井を訪ねた。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
 二日朝、古谷がやってきて、一〇時頃に役場に行き、アイヌがやってくるのを待ち測定した。総数一一名。
昼食後は墓地発掘。
 翌三日も同じように、朝は古谷が来訪。八時過に役場に行き、アイヌの集るのを待って一一時頃から測定
開始。人数は不明。午後二時過ぎには紋別を発っている。古谷が沢喜まで同行した。
沢喜・幌内(八月四日)
 又十番屋に宿をとっていた小金井は四日朝五時半に起きて、朝食前にアイヌ二名、朝食後六名を測定。経
緯は不明。朝九時に沢喜を発った。
 同日午後三時に幌内に到着。人馬継立所旅宿藤島福次郎方に宿をとると、アイヌ総代平瀬八太郎と中山勇

18
吉に「命じ」て、アイヌ九名を集めて測定した。
宗谷(八月九日)
  一 〇 時 半 に 宗 谷 岬 を 過 ぎ 、 午 後 一 時 宗 谷 着 。 松 沢 某 方 に 投 宿 。「 土 人 家 は 十 五 戸 あ り と   夕 刻 迄 に 土 人
十二名測定す」と記されている。宿主からアイヌの家を聞き出し測定に回ったということだろうか。
稚内(八月一〇日)
一〇日は早朝宗谷を発って、午前中に稚内に到着した。投宿後すぐに郡役所に行き戸長(名前空欄)に面
 
会し、アイヌを集めるよう依頼した。その後、公立病院に行き、医員安田清安と面会、いったん帰宿して昼
食を取ったのち、安田から「土人集りたるの報を得て」病院に行き五名測定。
天塩・遠別(八月一二日)
 小金井は八月一一日に稚内から抜海、若咲内を経て天塩に到着。翌一二日の午前中「土人八名測定」した。
 午後は、天塩で墓地を発掘した後、午後三時天塩を発って、六時遠別(ウエンベツ)に到着。さっそく「土
人二名測定」している。どちらも、測定に関する詳細は記載されていない。
苫前(八月一四日)
 一三日には遠別から苫前へ移動。その日のうちに、苫前村戸長恩田昌章の来訪を受けている。一四日は朝

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九時に戸長役場へ出かけ、さらに病院医員大沢広司に面会した後、七人のアイヌを測定した。午後は発掘。
三泊(八月一六日)
 一六日朝鬼鹿を発った小金井は、午前中に三泊に到着した。同村総代の竹谷友蔵を訪問し、アイヌを集め
るよう依頼する。その後、「半道程後に戻り」、栖原番屋を借りて、昼食をとり、アイヌ六名を測定した。そ
の後、午後三時に三泊を出発し、四時過ぎには留萌に到達した。
留萌(八月一七日)
留萌に到着すると、戸長役場で戸長伊山徳二郎に面会。晩には、開業医の浦上芳達と役場用係寄木橘郎が
 
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
小金井にもとを訪ねた。翌一七日は朝八時に役場に出かけ、アイヌ五名を測定するとともに、「骨格を得る
ことを諸子に」相談した。
札受(八月一八日)
 八月一八日、留萌から増毛への移動の途中、留萌から二十余丁の札受村に立ちより、総代岩田円蔵を訪問。
アイヌの招集を依頼し、栖原番屋を借りて一〇名のアイヌの測定を行なった。
浜益(八月二一日、二二日)
 八月二〇日に浜益に到着した小金井は、公立病院医員(二一日の記述では院長)布施新吉を訪問した後、

20
戸長知工甚吉のもとを訪れ、「明朝土人を招集すること」を依頼する。
 二一日朝六時に起床してさっそく役場に出かけたが、アイヌがまだ集っていなかった。そのため浜益で開
催されていた水産物品評会に来村していた石狩等郡長□□(空き)、厚田戸長井口保之、石狩戸長斎藤皓のも
とを訪問。さらに、病院長布施の案内で「土人小屋」に行って酒を振舞い談話の後、再び役場に戻った。し
かし、アイヌが集まっていないので、昼食の後、また役場に出かけた。なおアイヌは集まらない。品評会を
一見した後、午後三時過ぎになってようやくアイヌがやって来たので測定を始めた。七名を測定し、日が暮
れた。
さらに翌日も朝七時から役場に出て測定を行なった。「総て九名」と記されているが、この日だけで九名な
 
のか、前日とあわせてなのかは、不明。午後は「旧墓探索」。
石狩(八月二五日)
 石狩には二四日午後六時前に到着。翌二五日朝六時に宿を出て、旧樺太土人共済組合事務所に行き、監事
高橋浪華に案内を頼んで、「土人漁場」に行き、「取締の居宅」でアイヌ一一名を測定した。
 小金井の説明では、樺太アイヌは明治八年に宗谷に、そして九年「対岸〔対雁〕」に移された。移住時には
八四一人だったが、当時は三六〇人余りに減っていた。日本政府が「引取」ったのは、楠渓(くしにこた
ん)、西富内(にしとんない)、白主(しらぬし)の三部落からと小金井は記している。
 なお、「土人漁場」について前日二四日の日記に、樺太アイヌは対岸(対雁)に移住し本籍はここにあるが、
字 ラ イ サ ツ に 五 十 戸 と 聚 富 ( し ゅ っ ぷ ) に 五、六 戸 見 ら れ る 、 聚 富 に は 「 土 人 共 有 の 漁 場 あ り て 漁 期 に 多 く
出張するのみ」と記されている。

21
五、遺骨収集をめぐる問題
 墓地発掘と生体測定の実際からわかるように、小金井の北海道での活動は多くの和人の協力によって可能
となった。
 とくに小金井の墓地発掘や身体測定を各地で手助けしたのは、病院関係者と行政関係者である。多くの場
合、小金井は夕方ころ宿泊地に到着し、投宿後ただちに役場や病院に出かけ、戸長や病院長に面会した。お
そらくその場で、墓地発掘や生体測定についての相談が行なわれ、手はずが整えられたと想定される。多く
の場合、翌日は午前中から墓地に出向き遺骨を探すか、あるいは役場や病院にアイヌを集め、身体測定が行
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
われた。各地における主だった和人協力者をまとめると、表一のようになる。
 もうひとつ重要な点は、「現地」での発掘協力や測定の手助けとは別に、函館、札幌、小樽などで多くの和
人が小金井に協力したことである。とくに札幌では、前年の旅行と同様、道庁関係者と面会した。とくに当
時道庁勤務だった永田方正は、前年の旅行の大半の行程で小金井に同伴していた。今回も、他の道庁関係者
とともに札幌で小金井を「東京庵」に招待し馳走している。
 その一方で、小金井の日記には、墓地発掘のためにアイヌと接触した様子はない。今回も前年同様に、墓
地の発掘はアイヌに無断で行なわれた。一方、身体測定に関しては、戸長や病院関係者だけでなく、アイヌ
の指導者に協力を依頼したケースも散見される。
 二〇一七年七月三一日、ベルリン人類学民族学先史学協会は、保管していたアイヌ民族遺骨一体を北海道

22
ア イ ヌ協会へ引き渡した 五。その理由は、その遺骨が一八七九年に旅行者によって墓地から無断 で持ち出さ
れたということにあった。収集が倫理的に不適切だったと判断される以上、返還するのがふさわしいという
ことである。
小金井良精もアイヌに無断で数多くの遺骨を持ち出した。しかし、遺骨を保管する東京大学は、いまのと
 
こ ろ 返還へ向けた動きを見せていない。返還もとめる人々への対応も依然として消極的である 六。この違 い
に正当な理由はあるのだろうか。過去に行われた研究に対してどう向き合うか、遺骨を保管する各研究機関
の明快な対応が待たれる。

【表一】
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月

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植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)
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24
文 献
植木哲也 二〇〇八:『学問の暴力―アイヌ墓地はなぜあばかれたか』春風社
―――― 二〇一七:『新版学問の暴力―アイヌ墓地はなぜあばかれたか』春風社
小金井喜美子 一八九七:「島めぐり」、森林太郎『かげ草』春陽堂、五四三‐七四
小金井良精 一九三五:「アイヌの人類学的調査の思ひ出─四十八年前の思ひ出」『ドルメン』第四巻第七号(通巻
  四〇号)、岡書院、五四‐六五
―――― 二〇一五a:『小金井良精日記―大正篇一九一三‐一九二六』クレス出版
―――― 二〇一五b:『小金井良精日記―昭和篇一九二七‐一九四二』クレス出版
―――― 二〇一六a:『小金井良精日記―明治篇一八八三‐一八九九』クレス出版
―――― 二〇一六b:『小金井良精日記―明治篇一九〇〇‐一九一二』クレス出版
北大開示文書研究会(編)二〇一六:『アイヌの遺骨はコタンの土へ』緑風出版

25
星 新一 二〇〇四:『祖父・小金井良精の記』上・下、河出文庫
Koganei, Y. 1894a:“Beiträge zur physischen Anthropologie der Aino; I. Untersuchungen am Skelet”,
  Mitteilungen aus der medizinischen Fakultä t der kaizerlich-japanischen Universitä t, II Band. 1-250
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
植木 哲也 帝大教授のアイヌ墓地発掘――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年)

文部科学省の「大学等におけるアイヌの人々の遺骨の保管状況の再調査結果」によれば、二〇一七年四月時点で全国
一二大学に、個体の判別可能な遺骨一六七六、個体として判別できない遺骨三八二箱が存在する。そのうち東京大学は
二〇一体と六箱である。

二〇一七年六月七日の北海道新聞のインタビューで、日本人類学会会長の篠田謙一国立科学博物館副館長は、象徴空間
に集約した遺骨を研究利用したいという考えを明らかにしている。

小金井良精の孫にあたる作家の星新一も、良精の伝記の中でこの旅行について言及している(星二〇〇四、上二二四‐
三 五)。 筆 者 も 、 こ れ ら の 資 料 に も と づ い て 、 一 八 八 八 年 の 第 一 回 旅 行 に つ い て は 、 ア イ ヌ 墓 地 発 掘 の 概 要 を ま と め る こ
とができた(植木二〇一七、四六‐五八)。

そ の た め 、 筆 者 は 喜 美 子 自 身 が 旅 行 に 同 伴 し た と 誤 解 し て い た ( 植 木 二 〇 〇 八、五 八)。 し か し 、 良 精 の 日 記 か ら 誤 り
で あ る こ と が 判 明 し た の で 、 こ の 点 は 訂 正 し た ( 植 木 二 〇 一 七、五 八)。 な お 、 こ の 旅 日 記 は 、 喜 美 子 の 実 兄 で あ る 森 鷗

26
外(林太郎)が編纂した『かげ草』に収録され、一八九七年に刊行された。

北海道新聞二〇一七年八月一日など。なお、北海道新聞も含め多くの報道機関がこれを「返還」と報じたが、遺骨はベ
ルリンの学術協会から日本政府や北海道アイヌ協会を通じて北海道大学アイヌ納骨堂に移されたのであり、北海道大学の
アイヌ遺骨がアイヌ側の返還要求にもかかわらず容易に返還されない事実を考慮すれば、今回はたんなる遺骨の「移管」
であって、遺族や関係者に「返還」されたわけではない。

アイヌ民族有志は、東京大学の保管する遺骨の返還を求めて、毎年東大赤門前でイチャルパを行なっている(北海道新
聞二〇一七年一〇月二八日など)。
(うえき てつや・本学教授)
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号(二〇一八年三月三十一日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018
龍のイメージ覚書
―東アジアにおける龍の図像展開―
Images of Dragons in East Asia
林   晃 平
HAYASHI Kouhei

27
キーワード:獅子・訓蒙図彙・和漢三才図会・霊獣・三停九似
要旨
 龍のイメージは日本固有のものではなく、中国から朝鮮半島を経由して日本に入ってきたと思われ
るが、日本においては時代によって大きく二つに分けられる。古代における龍は鳥の嘴のように前に
突き出た上顎の口を持つ。しかし、鎌倉期以降には、獅子鼻で口が飛び出していない龍が絵画におい
て描かれるようになる。そして、そのイメージが現在まで続いている。
   はじめに
 龍は十二支の中で実在しない動物であり、想像上の霊獣
といわれる。そうであるならば、その具体的イメージは何
をもとにできあがったものであろうか。眼前にないものを
形作る行為は極めて人間的なものであるだけでなく、その
人間が抱いている見えない志向を理解することにもなる。
そうした人間の思想と思考と知る手掛かりとして、龍のイ
メージの展開過程を追いかけてみようと思う。

29
 龍のイメージをたどるときに出合うことばに「三停九
似」というものがある。龍の身体的特徴を述べ「頭は駱駝
に 、 角 は 鹿 に 、 目 は 鬼 (一説に兎)に 、 耳 は 牛 に 、 項 は 蛇 に 、
腹は蜃に、鱗は魚に、掌は虎に、爪は鷲に」似ているとい
うものである〈図 ・笹間良彦氏『図説龍の歴史大事典』

図01 三停九似の図解

01
一 一 頁 〉。 こ れ は い つ ご ろ か ら 述 べ ら れ て い る の だ ろ う か 。
笹 間 良 彦 氏 の 『 図 説 龍 の 歴 史 大 事 典 』( 以 下 『 図 説 』 と 略 称 す
る )で は 、 後 漢 の 学 者 ・ 王 符 の 説 だ と し 、 こ れ に よ っ て 中
国 の 龍 の イ メ ー ジ が 固 ま っ た と し 、「 前 漢 の も の と 推 定 さ
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
れる龍を見ると、すでに非常に峻厳な感じがするが、北朝頃になるとさら
図02 ナーガ上のブッダ

に神格化して神秘性を帯びてくる」と述べる。確かにその通りであろう。
 龍の姿を見ていると、麒麟と同じようにその複雑な形状ゆえか、なぜか
寄せ集められたイメージという趣きがある。全体に統一感が見られないの
である。しかし、そう考える以前に今日の我々には龍のイメージとして明
確なものを持っているのだろうか。まずはそれを確かめなければならない。
  一 般 に 龍 は 印 度 の 仏 典 の ナ ー ガ ( 蛇 )の 漢 訳 と さ れ て い る が 、 同 じ ナ ー
ガでも、インドと中国とではそのイメージは大きく異なる。例えば古代イ
注一
ン ド の 彫 刻 で は ナ ー ガ は コ ブ ラ の 形 象 で 表 現 さ れる 。 そ の 姿 は 、 他 国 で も

30
継承され、例えばカンボジアのアンコールワット時代でも石にそう刻まれ
ている〈図 ・ナーガ上のブッダ・東京国立博物館〉。一方、中国は、釈迦

02
の 誕 生 に 現 れ 、 水 を 潅 ぐ 龍 王 の 姿 は 龍 と し て 刻 ま れ て い る の で あ る〈 図

03
・九龍潅仏・杭州市雷峰塔〉。
 こうした中国の龍のイメージが、後漢からおよそ二千年の間まったく変
わらなかったと考えることはできないであろう。龍が想像から人間の生み

図03 九龍潅仏
出した産物であるならば、時代とともに、文化の発展とともにそのイメー
ジも変化していると見てよいのではないか。本稿では、筆者がこれまでに
見聞してきた龍の姿について、そのイメージを提示しつつ、折々に記して
きたメモをまとめることにする。これまで先学の記されたことをなぞるに過ぎないことを自覚しつつ記したい。
   
北斎の龍のイメージ
 今日でも龍は描き続けられている画題である。日本における龍の
イメージを探る手始めとして、その典型を『北斎漫画』に求めてみ
図04 『北斎漫画』の龍

よう。葛飾北斎は江戸末期に活躍し、その刊行は死後の明治になっ
ても続き、五十六年の長きにわたっている『北斎漫画』は全十五編
注二
あ る 。 そ し て 、 そ の 中 に は 六 つ の 龍 の 図 像 が 収 め ら れ て い る 。 二編

31
( p 6 ) に「 龍 ( り や う )
」〈 図 ・『 北 斎 漫 画 』二 編 の 龍 〉が 描 か れ て

04
ママ
い る 。そ の 見 開 き 左 丁 に は「 應 竜 ( た う り や う )
」「 」「 雨 竜
(だりやう)
」「
(あまりやう) 蛇 (うはばみ)
」と四つの図像が並んでいる〈図 ・

05
図05 應竜・ ・雨竜・蛇
『 北 斎 漫 画 』 二 編 の そ の 他 の 龍 四 種 〉。 ど れ も 龍 の 仲 間 と し て 描 か
れていて、その姿は龍といっても異なるようであるが、翼がある応
龍以外はその違いがはっきりとはしない。龍にも種類は多いのであ
る。ところで、このようなイメージは何によってできあがったので
あろうか。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
 四編(p )では「十二支」の中として龍が部分的に描かれている。六
33
図06 『訓蒙図彙大成』の龍

編の中扉(p )には、弓を引く二匹の龍が描かれている。十二編「灰吹
3

か ら 大 蛇 」( p )では、大蛇に角は描かれてはいないが、三爪の龍の相
42

貌 で あ る 。 十 三 編 「 倶 利 伽 羅 不 動 (くりからふどう)
」( p 4 ) で は 剣 に 龍 が
絡 み つ い て い て 「 右 ノ 劔 龍 ハ 即 チ 左 リ之 索 也 ク」 と い う 、 不 動 明 王 の 右 手
に持つ剣に絡みついた龍は、左手に持っている羂索索縄と同じだという説
明 も つ い て い る 。 同 じ 十 三 編 「 和 氣 清 麿 (わけのきよまろ)
」( p )は、幣

7
帛を振る清麿の前に龍が現れた場面である。北斎によって描かれる龍はいずれも獅子鼻の三爪の龍だが、角
は鹿というよりは山羊に近い。北斎には確たる龍のイメージが存在したのであろう。

32
『訓蒙図彙』と『和漢三才図会』の龍
 江戸期における龍のイメージについてさらに考えるために、やはり江戸期の長きにわたって刊行されて
きた『訓蒙図彙』の中の龍を見てみよう。そこには三つの龍が描かれている。「龍 (りやう)
」「蛟 (かう)みつ
ち」「 螭 ( ち )あ ま れ う 」 で あ る。「 あ ま れ う 」 は 「 あ ま り ゅ う 」 と 同 じ で あ ろ う 。 し か し 、 こ れ も こ の よ う
な簡素な絵では何とも違いが判然としない。
 この三種の龍の挿絵は、『増補訓蒙図彙大成』(寛政版)で
は さ ら に 展 開 し 「 龍 ( り や う )た つ 」「 蛟 ( か う )み つ ち 」 と あ
り、絵も少しは詳細になっている〈図 ・『 増 補 訓 蒙 図 彙 大

06
図07 『和漢三才図会』の龍

成』(寛政版)の龍〉。
 ところで、こうした龍の仲間の種類は『和漢三才図会』
(正徳二年 自序・享保十七年刊)の中で既に多く掲載され

1712
て い る 。 巻 第 四 十 五 の 龍 蛇 部 で は 龍 類 ・ 蛇 類 に お い て 、「 龍
た つ 」「 吉 弔 き つ ち や う 」「 蛟 龍 み つ ち 」「 螭 龍 あ ま り や う 」
「 應 龍 を う り や う 」「 蜃 し ん 」「 龍 だ り や う 」「 虬 龍 き う り

33
やう」があり、また龍には「龍骨」、吉弔には「弔脂」「紫稍
花」という漢方薬的記述も添えられている。龍の記事と挿

図08 同・拡大図
絵は次の通りである〈図 ・『 和 漢 三 才 図 会 』 龍 と 図 b・

07

07
図 版 拡 大 〉。 こ れ ら の 龍 類 は 今 日 で は な じ み が な い 。 し か し 、
この絵入百科事典の記述は明治まで刊行され続けているので、
江戸時代的知識の基底といえよう。つまり、江戸時代には龍以外に、蛟龍・螭龍=雨龍・応龍・蜃・ 龍・
虬龍・ 蛇という七種の龍の存在が確認されるのである。だが、これらの龍のイメージは残念ながらそれほ
どには広がらなかったようだ。
  と こ ろ で 、『 和 漢 三 才 図 会 』 で は 、「 龍 」 の 説 明 の 冒 頭 に 『 本 草 綱 目 』 を 引 き 「 九 似 」 に つ い て 触 れ る 。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
「龍形有九似、頭似駱駝、角似鹿、眼似鬼、耳似牛、項似蛇、腹似蜃、鱗似鯉、爪似鷹、掌似虎也」(「龍の
形に九似あり、頭は駱駝に似、角は鹿に似、眼は鬼に似、耳は牛に似、項は蛇に似、腹は蜃に似、鱗は鯉に似、爪は鷹に似、掌は虎に
似 る な り 」 )と 記 し 、 更 に 「 背 有 八 十 一 鱗 具 九 九 陽 数 。 其 聲 如 戛 銅 盤 。 口 旁 有 鬚 髯 。 頷 下 有 明 珠 。 喉 下 有 逆 鱗 。
頭 上 有 博 山 、 名 尺 水 。 無 其 尺 水 、 則 不 能 升 天 」( 背 に 八 十 一 鱗 あ り 、 九 九 の 陽 数 を 具 え る 。 其 の 声 は 戛 銅 盤 の 如 し 。 口 の 旁
に 鬚 髯 有 り 。 頷 の 下 に 明 珠 有 り 。 喉 の 下 に は 逆 鱗 有 り 、 頭 の 上 に は 博 山 有 り て 、 尺 水 と 名 づ く 。 其 の 尺 水 無 き は 、 則 ち 升 天 能 は ず )と
説く。「尺水」は他の文献では「尺木」とある。興味深いのは「龍生九子」として龍が九つの子どもを生
むことを紹介したのちに「蓋龍性淫、無所不交、故種多耳」(蓋し龍の性は淫にして、交わらざる所無き故に種は多きの
み)とする。九子だけでなく龍の種類が多いのも、これゆえと考えるべきなのであろう。

34
古代の龍のイメージ
 古代における龍のイメージははっきりととらえることができない。それはいつごろから「龍」ということ
ばが日本に存在したのかということがわからないからである。文献では『古事記』『日本書紀』を遡ること
ができないことである。そして、「龍」とその訓である「たつ」との関係が明確でないからである。『時代別
国 語 大 辞 典 上 代 篇 』( 三 省 堂 ・ 一 九 六 七 年 )で は 「 り ゅ う 」 は 字 音 語 ゆ え 立 項 は な い が 、「 た つ 」( 竜 )の 項 は あ
 
り、「竜。どのような形のものかと想像されていたのかは不明だが、水に関係の深いものという考えはあっ
たらしい。十二支の第五にあてられ、中国の文献から教えられた概念であろう。」(四二六~四二七頁)とする。
用例には『万葉集』八〇六、
『日本書紀』神代、
『遊仙窟』な ど が 挙 げ ら れ て い る 。 ま た 、
【 考 】の 部 分 で は
「第 二 例 の 神 代 紀 の 例 に あ た る 個 所 、 古 事 記 で は「窃伺其方 産時、化八尋和 而、
二 一
レ 二 一
葡 匐 委 蛇」( 神 代 ) と あ る 。 竜 に し た の は 、 日 本 書 紀 に 対 す る 漢 文 学 の 影 響 の 一 つ
の表れか。」としている。
 一方、『角川古語大辞典』では、「りゆう(龍)」として立項。初めに「「リユウ」
は慣用音、漢音で「りよう」とも。」と説き、「中国の古代伝説における、雨・水を
つかさどる霊物で、鱗虫の長という。形は蛇に似て、角、四肢・爪、鬚髯を備え、
背に八十一鱗、頷下に明珠、喉下に逆鱗、頭上に尺木がある。また、九似といって
(中略)(本草綱目)という。また、有鱗のものを蛟龍、有翼のものを応龍、有角
の も の を 虬 竜 、 無 角 の も の を 螭 竜 ( 広 雅 )、未だ天に昇らぬものを蟠竜(方言)と

35
もいわれる。」(第五巻・九二四頁)と説明している。そして「中国や日本における竜王
の像は、蛇ではなく中国の竜の姿をとっている」とし「和語では「たつ」といい、
十二支の一つとして知られ、中国および仏教に基づいた説がおこなわれる」と中国
図08 宗像神社の金銅製龍頭
との関係を認めている。用例は前田本『字類抄』、『竹取物語』、『うつほ物語』など
が 挙 が る 。 ま た 、「 た つ 」 と し て も 立 項 さ れ て お り 、「 竜( 慣 用 音 「 リ ユ ウ 」、 漢 音
「 リ ヨ ウ 」)」 に 対 応 す る 和 語 。『 万 葉 集 』 で は 「 煙 立 竜 ( た つ )」「 竜 ( た つ ) 田 」
な ど 「 立 つ 」 の 借 訓 と し て 用 い た こ と、「 竜 馬 」 の 訓 読 語 と し て の 「 多 都 の 馬 」 の
例 も 見 え る こ と か ら、「 た つ 」 と い う 語 は 、 上 代 か ら 存 し て い た こ と が 確 か め ら れ
る。」 と し、「 中 国 伝 来 の 想 像 上 の 動 物 」 で、「 そ の 形 状 を う か が わ せ る も の と し て
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
「十二支八卦背円鏡」がある。和名抄は「みづち(蛟)」を「竜属也」「竜 太
都」 四 足 五 采 ( = 爪 )、甚だ神霊有る者也」(第四巻・一五六頁)と 説く。 かなり
早くから龍は「たつ」として認識されていたようであるが、具体的イメー
ジとしては「十二支八卦背円鏡」が提示されるのみであり、これは正倉院
御物の一つだと思われる。具体的には四神としての青龍と十二支の一つと
しての龍が描かれているが、どちらもその形象はほぼ同じである。詳細は
確認できないが、頭部の口許辺りに違和感がある。
 ところで、この他に古い龍のイメージがないわけではない。例えば宗像
図09 盤龍鏡

神社沖ノ島にある龍頭はその一例である〈図 宗像神社沖ノ島の龍頭・一

08

36
対〉。 宗 像 神 社 は 世 界 文 化 遺 産 と し て 登 録 さ れ た 日 本 の 古 代 か ら 続 く 神 の 信
仰の実態を残す遺跡である。神社といえども、このような仏具も残されて
いて、神仏習合の一例といえよう。これは大陸から渡来した遺物と考えられている。
 この龍の頭部を見ると先の十二支八卦背円鏡に感じた違和感の正体がはっきりとする。その理由はやはり
龍の口許にある。龍の口の先が尖り鳥の嘴のようになっているのである。しかし、こうした形は当時の龍の
イメージとして決して異形とはいえない。というのも、同じような龍頭は他にいくつもの例がある。鏡に
おいては、八世紀とされる重要文化財「盤龍鏡」がある〈図 ・盤龍鏡・八世紀 重文・東京国立博物館〉。

09
龍頭については時代が下ってもその口を持つ龍がいくつも存在しているのである。例えば十三世紀のものと
いわれる鎌倉時代の龍頭がある〈図 ・ 銅 龍 頭 ・ 鎌 倉 一 三 世 紀 ・ 東 京 国 立 博 物 館〉。 ま た 更 に 下 っ て 、 室 町

10
時代にも同様なイメージの龍頭が見られるのであ
る〈図 ・嘉吉三年銘のある龍頭・東京国立博物
11
図11 嘉吉三年銘龍頭

館 〉。 ま た 、 こ の 異 形 の 姿 は 金 工 作 品 以 外 に も 描
か れ て い る 。 平 家 納 経 ( 厳 島 神 社 蔵 ・ 一 一 六 四 年 )の
図10 銅龍頭

経箱である。そこには確かにその受け継がれたイ
メ ー ジ が あ っ た ( 笹 間 『 図 説 』・ 口 絵 に 掲 載 )。 こ れ ら
は基本的には仏具であるから、仏教の教義を前提とした装飾として造形された物といえよう。
海彼の龍のイメージ

37
 こうした嘴のような顎を持つ龍のイメージは日本独自のものではない。大陸起源のものであり、それが大
陸から直接に、或いは朝鮮半島を経て日本に入ってきたもの
と思われる。中国の例を示せば、陝西省歴史博物館に美しい
龍 の 像 が あ る 。「 純 金 鉄 心 銅 龍 」 と い う 金 色 に 輝 く 美 し い 龍

図12 純金鉄心龍
で、その全体と頭部の拡大図を示す〈図 ・純金鉄心銅龍・

12
陝 西 歴 史 博 物 館 〉。 こ れ の 他 に も 同 館 に は 「 赤 金 走 龍 」 と い
う小さな六体の金の龍の造形物がある。これも口許は長く伸
びている。これらは唐代のものであるが、この龍の全体像か
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
らは直ちに仏具とは考えにくい。仏教の影響とは異なる独立した形象と考えたい。こうした口先の長い龍の
イ メ ー ジ は 、 唐 代 の 金 工 品 だ け で は な く 、『 図 説 』 に は 隋 代 「 趙 州 橋 」 レ リ ー フ ( 『 図 説 』・ 五 九 頁 )や 溯 っ て
秦代「双龍拱璧文空心磚」(同・六五頁)も掲載されているので、漢代以前に溯れるイメージといえよう。
  ま た 、 韓 国 の 例 と し て は 、 梵 鐘 ( 釣 鐘 )の 釣 り 下 げ る 部 分 の 所 謂 龍 頭 の 部 分 を 掲 げ て お く 。 一 つ は 韓 国 の
宝 物 、 清 寧 四 年 銘 (高麗) ・青銅梵鐘・宝物一一六八号で、

1058
国立中央博物館にある〈図 ・清寧四年銘青銅梵鐘〉もう
図13 清寧四年銘青銅梵鐘

13
一つはそれより後のもので高麗銅鐘、正確な年代は不明な
がら一一八五或いは一二四五年とされているものある〈図

図14 高麗銅鐘
・ 高 麗 銅 鐘 〉。 ど ち ら も 高 麗 時 代 の も の だ が 、 こ れ 以 外

14

38
にもこれ以前にも多数あり、どれも嘴のある龍である。梵
鐘の龍頭の二点は仏具であるから、これも仏教の教義を前
提とした装飾と造形された物といえる。しかし、韓国では梵鐘以外にも例えば青磁の香炉などにこのような
龍の装飾を付けた物があるので、一概に仏具のみとはいえない。
描かれた古代の龍
 今日までの残存遺物から龍のイメージははっきりとしている。龍は仏教とともに日本にはっきりとした
イメー ジ
形 をもって入ってきた。それは仏教において龍が尊ばれていたからであり、仏具の数々にその姿が明確に
刻まれているからである。それらはこれまで見てきたように北斎などが描
いてきた龍から見ると少し異形の姿をしている。
図15 『鳥獣人物戯画』の龍

 実は気になっている図像がある。高山寺蔵「鳥獣人物戯画」の乙巻に描
かれている龍の画像である〈図 ・「鳥獣戯画」乙巻の龍〉。一見これまで

15
に見てきた三爪の龍の姿である。しかし、角は一本のようにも見え、口許
の辺りも判然としない。体の一部にも見るが、口の先が出っ張っているよ
うにも見えるのである。他に龍の描かれてのいるものを見れば『華厳宗祖
師 伝 』( 一 三 世 紀 前 半 )の「 義 湘 伝 」巻 三 に 二 例 あ る 。 留 学 僧 で あ る 義 湘 を 追 っ て 海 に 身 を 投 げ た 女 = 善 妙 は 龍
と化して、義湘の船に寄り添って新羅まで送る。その場面に二度にわたり龍が描かれているのである〈図

39
・「 華 厳 宗 祖 師 伝 」 義 湘 伝 ・ 巻 三 の 龍〉〈 図 ・ 同〉。 こ れ も 口 の 先 が 少 し 出 て い る よ う に 見 え る 。 顔 が 緑
16

17
図16 『華厳宗祖師伝』の龍

図18 十二神将の龍
図17 同
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
色に近いのに対して、その部分は赤で彩色されているので、口の一部と思われる。この絵巻は華厳宗を中興
注三
し た 明 恵 上 人 が 自 ら プ ロ デ ュ サ ー と な っ て 完 成 さ せ た と い わ れ て いる 。 な ら ば こ の 頃 に お い て も 描 か れ た 龍
は嘴のよな顎を持ち口の先が付き出ていたと考えてよいのかも知れない。和歌山県の道成寺に残された『道
成寺縁起絵巻』の大蛇も手足は描かれていないがこの龍のイメージをもっている。
 他にも十二神将の中に龍に乗っているものがあり、その龍の姿も、このような嘴のある龍である〈図 ・

18
「十二神将神図像」〉。こうしたことから金工仏具の龍の形象はそのまま絵でも描かれていたといえよう。
龍王と雷神 

40
 御伽文庫二十三編の中に『梵天国』がある。高藤の子、侍従玉若が父の供養のために七日吹いた笛を吹く。
その音に感動した梵天王は、彼に娘を与える。時の帝はこれを知り、彼を追放せんとして次々と難題を出し
て苦しめる。迦陵頻、鬼の娘の十郎姫、そして鳴神を呼び下して七日内裏へ參らせて鳴らせよ、と命ずるの
である。姫君はこれに対し「天の鳴神と葦原国には申せども、梵天国のうながしの下使にて候也。やすき程
の事」といともたやすく答え、呼び寄せる。しかし、そこで姫君が呼びかけたのは、難陀龍王など八大龍王
の名であった。そして「八龍王、各御暇申し、すなはち雨風となりて、内裏の御殿に飛び移りけり」とあり、
八龍王がやってくるのである。ここでいう鳴神とは雷神のことであるが、それを龍神と考えていたのである。
だから挿絵に描かれた龍神の姿は、俵屋宗達が描くところの雷神図と同じ姿をしている〈図 ・御伽文庫

19
『梵天国』第五図の鳴神〉。それも複数ではなく単体である。龍王といえどもその姿は雷神なのである。
 もっとも龍神のイメージは多様である。龍神のイメージが雷神と重なるのはい
つ ご ろ か ら な の で あ ろ う か 。 本 来 は 別 人 格 の 神 で あ ろ う 。『 大 辞 泉 』 で は 龍 神 を
①「竜を神格化した呼び方。雨・水などをつかさどるとされ、漁師は海神として
信 仰 す る こ と が 多 い 。 竜 王 。」 と し 、 ② 「 仏 法 を 守 護 す る 天 竜 八 部 衆 の 一 」 と も
図19 『梵天国』の鳴神

説明する。一方鳴神は「かみなり」とだけ記す。ではその「かみなり」はという
と、まず「神鳴の意」として。①「雲と雲との間、雲と地表との間に生じる放電
現 象 。 ま た 、 こ れ に 伴 う 音 。」 と 説 明 し 、 ② 「 雷 神 。 雲 の 上 に い て 、 虎 の 皮 の 褌
を し め 太 鼓 を 打 ち 、 へ そ を と る と い う 。 か み な り さ ま 。 か み 。 な る か み 。」 と 記
す 。 さ ら に ③ 「 口 や か ま し く 責 め る こ と 。 が み が み い う こ と 。 ま た 、 そ の 人 。」

41
と比喩的な用法を記す。
 さて、それでその「雷神」については「かみなりを起こすと信じられた神。ふつう虎の皮の褌(ふんど
し)をした鬼が、輪形に連ねた太鼓を負い、手にばちを持った姿で描かれる。古くは水神の性格も持つもの
とされた。」と説明している。
御伽草子『梵天王』において、鳴神即ち雷神と龍王のイメージが重なって同じ神として描かれているのは、
 
既に古代からの龍のイメージが、時代の変化とともに拡散していった結果だといえるであろう。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
江戸と室町をつなぐ龍
 これまで見てきたように、室町時代まではたどれる嘴を持つ龍と獅子鼻のような龍、古代と江戸時代では、
龍のイメージは大きく異なっている。しかし、獅子鼻の龍のイメージは、いきなりに江戸時代に登場したわ
けではなかった。この龍のイメージは既に室町期から存在していた。中国には龍を描く達人がいた。南宋
代 末 の 人 で 陳 容 と い い、「 所 翁 」 と 号 し 、 そ の 作 品 は 室 町 時 代 に は 「 所 翁 の 龍 」 と 呼 ば れ 珍 重 さ れ た と い う 。
徳 川 美 術 館 に 所 蔵 さ れ て い る 「 絹 本 墨 画 竜 図 」( 重 要 文 化 財 )は 、 獅 子 鼻 で 真 直 ぐ 伸 び た 角 と 三 爪 の よ う で あ
る。陳容の龍の画像はボストン美術館にも「九龍図巻」として所蔵されている。かつて清朝の乾隆帝も旧蔵
した名品として著名である。その「九龍図巻」では、九つの龍が描かれているが、そのどれもが、爪は四爪、

42
角は真直ぐ、そして、鼻は獅子鼻のように見える。これまで見てきた龍とは明らかに異なる龍が描かれてい
る 。 ま た 、 東 京 国 立 博 物 館 に も 伝 陳 容 筆 「 五 竜 図 」( 重 要 文 化 財 )が 所 蔵 さ れ て い る 。 い ず れ も 、 多 く の 龍 が
迫力ある画像として描かれている。ただし、ある一つの龍のみは象のような長い鼻を持つような姿に描かれ
ていることに注意したい。
 こうした中国の龍の姿は、当然に漢画を標榜する絵師たちの手本とされたであろう。雪村周継「竜虎図屏
風」(一六世紀後半・クリーヴランド美術館)、 長 谷 川 等 伯 「 波 龍 図 」 屏 風 (本法寺『長谷川等伯』東京美術・二〇一〇年)、
相 国 寺 法 堂 天 井 の 一 六 〇 五 年 の 狩 野 光 信 「 蟠 龍 図 」( 『 狩 野 永 徳 と 京 狩 野 』 東 京 美 術 ・ 二 〇 一 二 年 ・ 五 五 頁 )は 直 な 角
で 三 爪 、 十 七 世 紀 始 め と い う 狩 野 山 楽 「 龍 虎 図 屏 風 」( 妙 心 寺 ・ 重 要 文 化 財 ・ 同 七 一 頁 )も 直 な 角 、 さ ら に 山 楽 に
は東福寺法堂天井画「蟠龍図」があったが消失したというがその縮図は残されていて (同七五頁)、直な角に
三 爪 で あ る 。 そ の 孫 ・ 永 納 の 「 龍 虎 図 屏 風」( 泉 涌 寺 ・ 同 八 五 頁 )は 直 な 角 に 四 爪 、 ま た 、 妙 心 寺 法 堂 天 井 に は
狩 野 探 幽 筆 「 雲 龍 頭 」( 明 暦 二 年 ・ )が 残 さ れ て い て 直 な 角 に 三 爪 で あ る 。 さ ら に 高 田 敬 輔 「 龍 虎 図 屏 風 」
1656

( 一 七 四 一 年 ・ 栃 木 県 立 博 物 館 ・ 同 八 八 頁 )も 、 直 な 角 に 三 爪 の よ う で あ る 。 こ れ ら 狩 野 派 を 中 心 と す る 室 町 か ら 江
戸にかけての日本画・漢画の流れは陳容のイメージを受け継ぐものであった。北斎の龍もこの狩野派の流れ
注四
を汲んでいるといえよう。
 龍神について、『世界大百科事典』が、以下のように要領よく説明している。「古代中国の想像上の霊獣で
ある竜と、日本の水神の表徴とされる蛇信仰が習合して生まれた神格で、竜神のほか、竜王、竜宮様などと
も呼ばれている。」(飯島吉晴)という説明は、民俗学的には正しいといえる。しかし、本来の龍神は、仏教の
中で展開してきたものであるが、一方では、雷ともかかわってきた。ゆえに「竜神は、農耕生産と結びつい

43
て水をつかさどる水神とされ、雨乞いはしばしば竜神のすむ池や淵でなされた。この水神としての竜神は,
さ ら に 降 雨 や 稲 光 を も た ら す 雷 神 信 仰 と も 結 び つ き 、 竜 巻 の と き に 天 に の ぼ る と も 考 え ら れ た。」 と も 説 か
れている。
 龍のイメージは仏教の伝来に伴い、付属した仏具という明確な形をもってやってきた。その時のイメージ
は鳥のような嘴、または象の鼻のような長い口先をもった龍であった。その今日から見ると異形の龍のイメ
ージは、金工品仏具としては、室町時代まで受け継がれていた。
 一方、陳容に代表される獅子鼻の龍のイメージは、中国宋代には出来上がっていて、それは室町時代まで
には日本に届いていた。絵画におけるこのイメージが、以後の日本においては龍の典型とされ、今日まで受
け継がれている。
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
まとめ
 以上をまとめておく。今日の日本の龍のイメージは大きく二つに分けられる。一つは仏教の影響のもとに
作成された仏具の龍である。これは古代の金工遺物に多く見られ、上顎が嘴のように突き出た龍である。こ
れは一部の絵画にも残されている。こちらが古代の普及型といえよう。
 もう一つは、中世以降に見られる嘴のない獅子鼻の龍である。これは絵画に描かれることが多い。この二
つの龍は、おそらくはそのイメージの源流をどちらも中国の文化に求めることができる。今日では絵画の龍
のイメージが中心を占めおり、古代からの龍のイメージは継承されることは少ない。
 また、龍のイメージは、日本においては独自に展開し、雷神のイメージとも習合して新たなイメージを展

44
開している。
 注一 中村元『図説佛教語大辞典』では「漢訳仏典に出る龍の原語はサンスクリット語のナーガである。ナーガは蛇
    のことで、頸部にかさ状のふくらみを持つとされるから、特にコブラのことである。」(六九八頁)とする。
  注 二   『 北 斎 漫 画 』 と し て 参 照 し た テ キ ス ト は 『 初 摺  北 斎 漫 画 』 ( 全 ) ・ 小 学 館 ・ 二 〇 〇 五 年 で 、 付 載 の ペ ー ジ 番 号
    もそれによった。
 注三 辻惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会・二〇〇五年・二〇九頁
 注四 『世界大百科事典』にも北斎は「 年ころ,勝川派を破門された後,狩野,住吉,琳派,洋風画派を学び」と
94

    あり、江戸期の絵画の全体像を知るにも適していると考えられる。
参考文献
林巳奈夫 龍の話 図像から読み解く謎    中公新書 一九九三年
       

45
王従仁 龍 吉祥納福看瑞獣 四霊文化叢書      世界書房 一九九五年 台湾
水野拓 龍の伝説       KOEI ( 光 栄 )   一 九 九 六 年
荒川紘 龍の起源       紀伊國屋書店 一九九六年
竹原威滋・丸山顕徳・編 世界の龍の話      三弥井書店 一九九八年
池上正治 龍の百科       新潮新書 二〇〇〇年
那 谷 敏 郎 ・ 大 村 次 郷   龍 と 蛇 〈 ナ ー ガ 〉 ― ― 権 威 の 象 徴 と 豊 か な 水 の 神      集英社 二〇〇〇年
国立大邱博物館 特別展・龍 韓国の文様(図録)      二〇〇三年 韓国
笹間良彦 図説龍の歴史大事典 (『龍―神秘と伝説の全容』一九七五年の増補改訂版)  遊子館・二〇〇六年
福井栄一 龍の の物語     技報堂出版 二〇一一年

100
苫小牧駒澤大学紀要 第三十三号 二〇一八年三月
林 晃平 龍のイメージ覚書―東アジアにおける龍の図像展開―
図版一覧
図  三停九似の図解 笹間良彦『図説龍の歴史大事典』十一頁
19 18 17 16 15 14 13 12 11 10 09 08 07 06 05 04 03 02 01

図  ナーガ上のブッダ坐像(カンボジア・アンコールワット時代)東京国立博物館
図  九龍灌仏・中国杭州市雷峰塔・木彫(現代)
図  葛飾北斎の描く龍・『北斎漫画』二編六(小学館版)
図  葛飾北斎の描くその他の龍(応龍・雨龍・
蚦蛇)同
図  『訓蒙図彙大成』巻・龍(寛政版)
図  『和漢三才図会』・龍・蛇 ‐  図 b 同・図版拡大
01

07
3

図  金銅製龍頭・宗像神社沖ノ島・(図録『大神社展』・二〇一〇年)
図  盤龍鏡・八世紀・
重文・東京国立博物館
図  銅龍頭・鎌倉・一三世紀・東京国立博物館

46
図  銅龍頭・嘉吉三年(一四四三)銘・東京国立博物館
図  純金鉄心銅龍・陝西省歴史博物館  
図 b 同・頭部拡大

12
図  清寧四年(一〇五八)銘(高麗)・青銅梵鐘・宝物一一六八号・ソウル市・国立中央博物館
図  高麗銅鐘(一一八五または一二四五年)同
図   『 華 厳 宗 祖 師 絵 伝 』 義 湘 伝 ・ 巻 三 ・ 龍 一 ・ 続 日 本 の 絵 巻 8・一 九 九 〇 年

 『華厳宗祖師絵伝』義湘絵・巻三・龍二・同
図  『鳥獣人物戯画』乙巻・特別展「鳥獣戯画─京都高山寺の至宝」図録・二〇一五年
図  『十二神将図像』下巻・ ・醍醐寺・同

111
図  御伽文庫「梵天国」の雷神姿の龍王・日本古典文学大系・二七二頁
(はやし こうへい・本学教授)
苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

苫小牧地域の中小企業における
管理会計の導入状況
The Introduction Status of the Management Accounting in the
Small and Medium-sized Enterprises
in the Tomakomai Area

川 島 和 浩
KAWASHIMA Kazuhiro

    キーワード:北海道苫小牧地域、中小企業管理会計、管理会計手法、
          中堅企業、アンケート調査結果

要旨
 中小企業庁が公表した『中小企業白書2017年版』によると、北海道では99.8
%が中小企業であり、84.8%が中小企業に従事する従業者である。地域経済を
活性化するためには、中小企業に対する支援が必要であり、中小企業に有効な
管理会計の手法を普及させる必要がある。そのためには、北海道苫小牧地域の
中小企業における管理会計の導入状況を明らかにし、経営改善のために管理会
計手法を積極的に活用している中小企業を探索することを通じて管理会計実践
の課題を把握することが重要となる。本稿では、山口(2016)の先行研究に依
拠した管理会計手法全般にわたるアンケート調査を、苫小牧地域の中堅企業
157社を対象に実施し、その回答結果(回収率29.9%)にもとづいて中小企業
における管理会計手法の導入状況とその実践事例を考察している。

1
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

1. はじめに

 中小企業庁が公表した『中小企業白書2017年版』によると、全国
の中小企業者数は約381万者で企業全体の99.7%を、また、従業者
数は約3,361万人で企業全体の70.1%を占めている。他方、北海道の
中小企業者数は約15万者で道内企業全体の99.8%を、また、従業者
数は約127万人で道内企業全体の84.8%を占めている。地域経済を
活性化するためには、中小企業に対する支援が必要であり、中小企
業に有効な管理会計の手法を普及させる必要がある。そのためには、
北海道苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況を明らか
にし、経営改善のために管理会計手法を積極的に活用している中小
企業を探索することを通じて管理会計実践の課題を把握することが
重要となる。
 本研究は、中小企業に有効な管理会計手法の解明を目的としてい
る。そのため、中小企業において、管理会計手法の利用がどの程度
進んでいるのか、また、どのような管理会計手法が導入されている
のかという実態調査が必要である。そこで、2016年度の日本管理会
計学会スタディ・グループ最終報告書『中小企業における管理会計
の総合的研究』(研究代表者:水野一郎(関西大学))において、共
同研究者の山口(2016)が「第2章 燕三条・大田区・東大阪地域
の中小企業における管理会計実践に関する実態調査」において使用
したアンケート調査手法(以下「山口モデル」という)に依拠して、
苫小牧地域の中小企業に対して郵便質問票という形式でアンケート
調査を実施した。
 山口モデルには、①会社概要(業種、創業・設立年数、従業員
数、資本金額、総資産額、売上高、製造業における顧客と製品の特
徴)、②経営課題、③経営管理手法の導入状況、④経理体制、⑤管
理会計手法の導入の有無、⑥管理会計手法の導入の必要性、⑦管理
会計手法の導入状況(予算、損益測定、原価計算、原価管理、資金

3
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

管理、その他の管理会計手法)、⑧見直しや導入が必要な管理会計
分野という管理会計手法全般にわたる質問項目が設定されている。
したがって、山口モデルは、中小企業の管理会計実践に関する全国
規模での実態調査に際して、比較可能な回答結果をデータベース化
するのに適している。
 ただし、山口(2016)も指摘するように、中小企業を研究する場
合、設立経緯、業績特性、経営資源の制約による地域内企業との高
い相互依存性、地域内顧客への高い依存性の要因によって、経営管
理システムおよび管理会計システムの成熟度や特徴に違いがあるこ
とが想定されている。当該調査対象企業の位置する地域性や取引の
特殊性、そして、経営者(社長)の管理会計に関する理解度や関与
の程度にも留意する必要がある。そのため、アンケート調査ののち
に、ヒアリング調査(聞取調査)を行うことが重要となる。
 以上の観点から、本稿では、まず苫小牧地域における産業構造の
特徴を整理している。次いで、山口モデルによるアンケート調査の
回答結果にもとづいて、苫小牧地域の中小企業における管理会計の
導入状況を明らかにし、経営改善のために管理会計手法を積極的に
活用している中小企業を探索することを通じて管理会計の実践事例
を考察している。

2.  苫小牧地域における産業構造の特徴

 苫小牧市は、人口が約17万2,500人であり、道南地域に位置する
工業都市である。1910(明治43)年に王子製紙株式会社が苫小牧工
場を操業して以来、いわゆる「王子製紙の企業城下町」として発
展してきた。その後、1963(昭和38)年には、世界初の内陸掘込港
湾の苫小牧工業港が開港し、非鉄金属、石油精製、自動車、化学工
業等の企業進出が加速した。最近では、トヨタ自動車北海道に関連

4
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

する自動車部品メーカーの集積化も進んでいる。現在、苫小牧港は、
港湾取扱貨物量が1億トンを超えて国内4位となり、北海道における
港湾取扱貨物量の51.6%を占めている。
 このような状況のもとで、苫小牧地域は、新聞用紙の生産量が
国内1位の王子製紙苫小牧工場を起点として出光興産北海道製油所、
トヨタ自動車北海道という3つの大手企業を中心に経済成長を遂げ
ている。

2.1 苫小牧地域の事業所数と従業者数
 苫小牧市(2014)が公表した「平成24年経済センサス―活動調
査結果概要」によると、2012年の苫小牧地域における事業所数は
7,459事業所、従業者数は7万7,452人である。これを経営組織別にみ
ると、事業所数は「会社」が60.2%で、「個人」が32.4%であり、他
方、従業者数は「会社」が79.1%で、「個人」が8.6%である。
 従業者規模別に事業所数と従業者数をみると、従業者数「1人~
4人」の事業所が54.0%で最も多く、次いで、「5人~29人」が39.1
%となっている。従業者数30人未満の事業所が全体の93.1%を占め
ている。また、従業者数「5人~29人」の事業所に従事する従業者
が41.0%で最も多く、次いで、「100人以上」が23.3%となっている。
従業者数30人未満の事業所に従事する従業者が全体の52.1%を占め
ている。図表1を参照。
 産業別に事業所数と従業者数をみると、事業所数では「卸売業・
小売業」の事業所が23.2%で最も多く、次いで、「宿泊業・飲食サ
ービス業」が14.1%、「建設業」が13.4%となっている。また、従業
者数では「卸売業・小売業」の事業所に従事する従業者が18.7%で
最も多く、次いで、「製造業」が14.2%、「建設業」が11.7%、「運送
業・郵便業」が11.6%、「医療・福祉」が11.2%となっている。事業
所数の割合よりも「製造業」と「医療・福祉」に従事する従業者数
の割合が多い。

5
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

図表1 苫小牧地域の従業者規模別の事業所数と従業者数(2012年)
ᅗ ⾲ 1 Ɫ ᑠ ∾ ᆅ ᇦ ࡢ ᚑ ᴗ ⪅ つ ᶍ ู ࡢ ஦ ᴗ ᡤ ᩘ ࡜ ᚑ ᴗ ⪅ ᩘ (2012 ᖺ )

஦ᴗᡤᩘ ᚑᴗ⪅ᩘ
ᚑᴗ⪅つᶍู
⥲ᩘ ᵓ ᡂ ẚ (%) ⥲ ᩘ (ே ) ᵓ ᡂ ẚ (%)

1 ே㹼4 ே 4,030 54.0 8,631 11 . 1

5 ே 㹼 29 ே 2,915 39.1 31,770 41.0

30 ே 㹼 49 ே 247 3.3 9,250 11 . 9

50 ே 㹼 99 ே 142 1.9 9,768 12.6

100 ே ௨ ୖ 7 1.0 18,033 23.3

ฟྥ࣭ὴ㐵ࡢࡳ 53 0.7 ̿ ̿

ྜ ィ 7,459 100.0 77,452 100.0

(出典)苫小牧市(2014)「平成24年経済センサス―活動調査結果概要」
   より一部修正。

2.2 製造業に係る事業所数と従業者数
 苫小牧市(2016)が公表した「平成26年工業統計調査―調査結
果概要」によると、従業者4人以上の製造業を営む事業所について、
2014年の苫小牧地域における事業所数は208事業所、従業者数は1万
1,114人、製造品出荷額等は1兆3,913億円である。
 従業者規模別に事業所数、従業者数、製造品出荷額等をみる
と、従業者数「4人~9人」の事業所が36.1%で最も多く、次いで、
「10人~19人」が28.8%となっている。従業者数30人未満の事業所
が全体の77.9%を占めている。また、従業者数「300人以上」の事
業所に従事する従業者が50.7%で最も多く、次いで、「100人~299
人」が18.1%となっている。さらに、製造品出荷額等では従業者数
「300人以上」の事業所が83.3%で最も多く、次いで、「100人~299
人」の事業所が5.6%となっている。図表2を参照。
 産業別に事業所数、従業者数、製造品出荷額等をみると、事業
所数では「金属製品」の事業所が16.4%で最も多く、次いで、「窯

6
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

業・土石製品」が10.1%、「食料品」が9.1%、「木材・木製品」が8.7
%となっている。また、従業者数では「輸送用機械機具」の事業
所に従事する従業者が49.0%で最も多く、次いで、「パルプ・紙・
紙加工品」が15.2%、「食料品」が4.4%となっている。さらに、製
造品出荷額等では「石油製品・石炭製品」の事業所が60.2%で最も
多く、次いで、「輸送用機械機具」が17.2%、「パルプ・紙・紙加工
品」が10.4%となっている。苫小牧市における製造品出荷額等では、
この上位3つの製造業種で全体の87.8%を占めている。
 なお、2014年の製造品出荷額等は北海道全体で6兆6,728億円であ
り、このうち、苫小牧市が20.9%で最も多く、次いで、室蘭市19.5
%、札幌市7.9%、千歳市3.7%、釧路市2.9%の順となっている。

ᅗ ⾲ 2 Ɫ ᑠ ∾ ᆅ ᇦ ࡢ ᚑ ᴗ ⪅ つ ᶍ ู ࡢ 〇 㐀 ᴗ ࡢ ≧ ἣ (2014 ᖺ )
図表2 苫小牧地域の従業者規模別の製造業の状況(2014年)

஦ᴗᡤᩘ ᚑᴗ⪅ᩘ 〇㐀ရฟⲴ㢠➼

ᚑᴗ⪅つᶍู ⥲ᩘ ᵓᡂẚ ⥲ᩘ ᵓᡂẚ 㔠㢠 ᵓᡂẚ

(௳ ) (%) (ே ) (%) (ⓒ ୓ ෇ ) (%)

4 ே㹼9 ே 75 36.1 485 4.4 17,221 1.2

10 ே 㹼 19 ே 60 28.8 844 7.6 32,352 2.3

20 ே 㹼 29 ே 27 13.0 677 6.1 30,750 2.2

30 ே 㹼 49 ே 18 8.7 741 6.7 52,616 3.8

50 ே 㹼 99 ே 10 4.8 716 6.4 22,198 1.6

100 ே 㹼 299 ே 12 5.8 2 , 0 11 18.1 77,898 5.6

300 ே ௨ ୖ 6 2.9 5,640 50.7 1,158,300 83.3

ྜ  ィ 208 100㸣 11 , 1 1 4 100㸣 1,391,335 100㸣

(注)従業者4人以上の事業所を対象としている。
(出典)苫小牧市(2016)「平成26年工業統計調査―調査結果概要」より
   一部修正。

7
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

3. アンケート調査の概要

 本研究では、苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況
を明らかにし、経営改善のために管理会計手法を積極的に活用して
いる中小企業を探索することを通じて管理会計の実践事例を考察し
ている。
 そのため、山口モデルによるアンケート調査にもとづいて、①会
社概要(業種、創業・設立年数、従業員数、資本金額、総資産額、
売上高、製造業における顧客と製品の特徴)、②経営課題、③経営
管理手法の導入状況、④経理体制、⑤管理会計手法の導入の有無、
⑥管理会計手法の導入の必要性、⑦管理会計手法の導入状況(予算、
損益測定、原価計算、原価管理、資金管理、その他の管理会計手
法)、⑧見直しや導入が必要な管理会計分野という管理会計手法全
般に関する実態調査を実施した。
 アンケート調査では、苫小牧商工会議所のご協力を得て抽出した
苫小牧地域157社の中堅企業に対して郵便質問票の形式でアンケー
ト調査用紙を発送した。中小企業において創業・設立年数、従業
員数、売上高の規模によってはアンケートの回答結果が得られな
い可能性を考慮した。2017年3月7日にアンケート調査用紙を発送し、
同年3月22日を回答期限とした。この結果、アンケートの回収状況
としては、送付社数157社に対して、回答社数47社で回答率(回収
率)は29.9%であった。図表3を参照。

図表3 送付先数・回答社数・回答率
ᅗ⾲ 3 ㏦௜ඛᩘ࣭ᅇ⟅♫ᩘ࣭ᅇ⟅⋡

㏦௜♫ᩘ ᅇ⟅♫ᩘ ᅇ ⟅ ⋡ (ᅇ ཰ ⋡ )

157 ♫ 47 ♫ 29.9㸣

8
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

4. アンケート調査の回答結果

4.1 会社概要
4.1.1 製造業および非製造業の業種区分
 アンケート調査では、回答期限までに47社から回答結果を得るこ
とができた。このうち、製造業は16社(34%)で、非製造業は31社
(66%)であった。図表4を参照。

図表4 製造業・非製造業の別
ᅗ⾲ 4 〇㐀ᴗ࣭㠀〇㐀ᴗࡢู

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

16 ♫ (34㸣 ) 31 ♫ (66㸣 ) 47 ♫ (100㸣 )

 アンケートの送付先としては、製造業種が30社で、非製造業種が
127社であった。また、苫小牧地域の中小企業においては、後述す
るように、従業者数30人以上の製造業の事業所数は46社であり、従
業者数300人以上の大手の事業所6社(1)を除くと、実際上は40社とな
る。今回のアンケートでは、このうち30社に送付し16社から回答を
得ていることとなり、苫小牧地域の製造業についての回答率は実質
的には53.3%となる。

4.1.2 業種分類
 製造業において回答を寄せた16社のうち、「食料品」が4社で最も
多く、次いで、「窯業・土石製品」が2社、「一般機械器具」が2社で
あり、「その他」が3社であった。図表5を参照。
 他方、非製造業において回答を寄せた31社のうち、「運送業」が
10社で最も多く、次いで、「卸売・小売業」が4社、「飲食・宿泊
業」が2社、「医療・福祉」が2社であり、「その他」が11社であった。
図表6を参照。

9
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

ᅗ⾲ 5 〇 㐀 ᴗ ✀ 30 ♫ ࡟ ᑐ ࡍ ࡿ ࢔ ࣥ ࢣ ࣮ ࢺ ࡢ ㏦ ௜ ඛ ࡜ ࡑ ࡢ ᅇ ⟅ ⤖ ᯝ
図表5 製造業種30社に対するアンケートの送付先とその回答結果

ᴗ✀ ㏦௜ᩘ ᅇ⟅ᩘ ᴗ✀ ㏦௜ᩘ ᅇ⟅ᩘ

㣗ᩱရ 4 4 ❔ᴗ࣭ᅵ▼〇ရ 4 2

ᮌᮦ࣭ᮌ〇ရ 4 1 㔠ᒓ〇ရ 3 1

ᐙල࣭ᘓල 1 0 ୍⯡ᶵᲔჾල 3 2

⣬࣭⣬㢮ఝရ 1 1 ㍺㏦⏝タഛ 5 1

༳ๅ࣭ฟ∧ 1 0 ࡑࡢ௚ ̿ 3

30 ♫ 16 ♫
໬Ꮫᕤᴗ 4 1 ྜ ィ
(100%) (53.3%)

(注)「繊維・繊維製品」「石油・石炭製品」「ゴム製品」「皮革・皮革製
   品」「第一次金属」「電気機械器具」「精密機械器具」に係る製造業
   種にはアンケートを送付していない。

ᅗ⾲ 6 㠀 〇 㐀 ᴗ ✀ 127 ♫ ࡟ ᑐ ࡍ ࡿ ࢔ ࣥ ࢣ ࣮ ࢺ ࡢ ㏦ ௜ ඛ ࡜ ࡑ ࡢ ᅇ ⟅ ⤖ ᯝ
図表6 非製造業種127社に対するアンケートの送付先とその回答結果
ᴗ✀ ㏦௜ᩘ ᅇ⟅ᩘ ᴗ✀ ㏦௜ᩘ ᅇ⟅ᩘ

㟁Ẽ࣭࢞ࢫ࣭ 
4 0 㣧㣗࣭ᐟἩᴗ 10 2
⇕౪ ⤥ ࣭ Ỉ 㐨 ᴗ

᝟ሗ㏻ಙᴗ 2 1 ་⒪࣭⚟♴ 8 2

㐠㏦ᴗ 36 10 ᩍ⫱࣭Ꮫ⩦ᨭ᥼ᴗ 3 0

༺኎࣭ᑠ኎ᴗ 14 4 ࡑࡢ௚ 47 11

㔠⼥࣭ಖ㝤ᴗ 1 0 127 ♫ 31 ♫
ྜ ィ
୙ື⏘ᴗ 2 1 (100%) (24.4%)

(注)アンケート調査の発送に際して、業種の回答記入欄を設定しなかっ
   た「鉱業・砕石業」1社と「建設業」23社は非製造業の「その他」
   に含めている。

4.1.3 創業・設立年数、従業員数、資本金額、総資産額、
  売上高、顧客と製品の特徴
(1)創業・創立からの年数
 創業・創立からの年数では、「50年超」の企業が24社(51%)で

10
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

最も多く、このうち、製造業が9社で、非製造業が15社であった。
25年超の企業は全体で45社(96%)を占めている。図表7を参照。
(2)従業員数
 従業員数では、「100名超」の企業が16社(34%)で最も多く、こ
のうち、製造業が8社で、非製造業が8社であった。中小企業者の定
義にもよるが、従業員数30名以上の企業は全体で45社(96%)を占
めている。図表8を参照。

ᅗ⾲ 7
図表7 創業・設立からの年数
๰ᴗ࣭タ❧࠿ࡽࡢᖺᩘ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

1 ᖺᮍ‶ 0 0 0

1 ᖺ㉸㹼5 ᖺ௨ෆ 0 0 0

5 ᖺ ㉸ 㹼 10 ᖺ ௨ ෆ 1 0 1

10 ᖺ ㉸ 㹼 25 ᖺ ௨ ෆ 0 1 1

25 ᖺ ㉸ 㹼 50 ᖺ ௨ ෆ 6 15 21

50 ᖺ ㉸ 9 15 24

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

ᅗ⾲ 8 ᚑᴗဨᩘ
図表8 従業員数

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

30 ྡ ᮍ ‶ 0 2 2

30 ྡ ㉸ 㹼 50 ྡ ௨ ෆ 4 8 12

50 ྡ ㉸ 㹼 70 ྡ ௨ ෆ 2 5 7

70 ྡ ㉸ 㹼 100 ྡ ௨ ෆ 2 8 10

100 ྡ ㉸ 8 8 16

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

(3)資本金額
 資本金額では、中小企業者の定義にもよるが、「1千万円以上~5
千万円未満」の企業が29社(62%)で最も多く、このうち、製造業

11
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

が7社で、非製造業が22社であった。図表9を参照。
(4)総資産額
 総資産額では、「5億円以上」の企業が28社(60%)で最も多く、
このうち、製造業が9社で、非製造業が19社であった。1億円以上の
企業は全体で39社(83%)を占めている。図表10を参照。

⾲ 9 ㈨ᮏ㔠㢠
図表9 資本金額

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

1 ༓୓෇ᮍ‶ 0 3 3

1 ༓୓෇௨ୖ㹼5 ༓୓෇ᮍ‶ 7 22 29

5 ༓୓෇௨ୖ㹼1 ൨෇ᮍ‶ 6 4 10

1 ൨෇௨ୖ 3 2 5

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

ᅗ ⾲ 10
図表10 総資産額
⥲㈨⏘㢠

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

1 ༓୓෇ᮍ‶ 1 0 1

1 ༓୓෇௨ୖ㹼1 ൨෇ᮍ‶ 2 3 5

1 ൨෇௨ୖ㹼5 ൨෇ᮍ‶ 3 8 11

5 ൨෇௨ୖ 9 19 28

ᮍᅇ⟅ 1 1 2

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

(5)売上高
 売上高では、「10億円以上」の企業が30社(64%)で最も多く、
このうち、製造業が12社で、非製造業が18社であった。売上高が1
億円未満の企業はなかった。図表11を参照。
(6)製造業における顧客と製品の特徴
 製造業16社における顧客の特徴では、「顧客の大半は企業であり、

12
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

顧客企業に占める元請業者以外の割合が高い(企業/元請業者以
外)」の企業が6社(38%)で最も多く、次いで、「顧客の大半は企
業であり、顧客企業に占める元請業者の割合が高い(企業/元請業
者)」の企業が5社(31%)であり、「顧客の大半は個人である」の
企業が3社(19%)であった。
 また、製造業16社における製品の特徴では、「自社で標準仕様を
定めた量産品の割合が高い(量産品)」の企業が8社(50%)であり、
「製品仕様を顧客の要望に合わせる個別受注型製品の割合が高い
(個別受注生産)」の企業が6社(38%)であった。図表12を参照。

⾲ 11 ኎ ୖ 㧗
図表11 売上高

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

5 ༓୓෇ᮍ‶ 0 0 0

5 ༓୓෇௨ୖ㹼1 ൨෇ᮍ‶ 0 0 0

1 ൨෇௨ୖ㹼5 ൨෇ᮍ‶ 2 7 9

5 ൨ ෇ ௨ ୖ 㹼 10 ൨ ෇ ᮍ ‶ 1 6 7

10 ൨ ෇ ௨ ୖ 12 18 30

ᮍᅇ⟅ 1 0 1

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

ᅗ ⾲ 12 〇㐀ᴗ࡟࠾ࡅࡿ㢳ᐈ࡜〇ရࡢ≉ᚩ
図表12 製造業における顧客と製品の特徴

㢳ᐈࡢ≉ᚩ 〇㐀ᴗ 〇ရࡢ≉ᚩ 〇㐀ᴗ

௻ᴗ㸭ඖㄳᴗ⪅ 5 ಶูཷὀ⏕⏘ 6
௻ᴗ㸭ඖㄳᴗ⪅௨እ 6 㔞⏘ရ 8
௻ᴗ㸭༙ࠎ 0 ࡑࡢ௚ 1
ಶே 3 ᮍᅇ⟅ 1

ᮍᅇ⟅ 2 ྜ ィ 16 ♫

ྜ ィ 16 ♫

13
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

4.2 経営課題、経営管理手法の導入状況、経理体制
4.2.1 経営課題
 経営課題では、複数回答で、「優秀な人材確保」の企業が39社
(83%)で最も多く、次いで、「新規顧客の開拓」の企業が30社
(64%)、「既存顧客の維持」の企業が28社(60%)であった。アン
ケート調査の送付先が中堅企業であったことから、多くの企業が経
営資源の鍵となる優秀な人材の確保と従業員の技術力の維持・向上、
収益基盤の維持・拡大を重要な経営課題として認識している。
 また、製造業16社の観点からは、「全社レベルでのコスト低減」
の企業が9社(56%)、「製造原価の引き下げ」の企業が8社(50%)、
「技術力の維持・向上」の企業が8社(50%)であり、コストマネ
ジメントも経営課題として認識している。図表13を参照。

ᅗ ⾲ 13 ⤒ Ⴀ ㄢ 㢟 (」 ᩘ ᅇ ⟅ )
図表13 経営課題(複数回答)

〇 㐀 ᴗ (16) 㠀 〇 㐀 ᴗ (31) ྜ ィ (47)

஦ᴗࡢከゅ໬ 3 4 7

ඖㄳ࡟౫Ꮡࡋ࡞࠸ 0 4 4

᪂つ㢳ᐈࡢ㛤ᣅ 11 19 30

᪤Ꮡ㢳ᐈࡢ⥔ᣢ 13 15 28

〇㐀ཎ౯ࡢᘬࡁୗࡆ 8 4 12

඲♫࡛ࣞ࣋ࣝࡢࢥࢫࢺపῶ 9 13 22

◊✲㛤Ⓨຊࡢ⥔ᣢ࣭ྥୖ 5 4 9

ᢏ⾡ຊࡢ⥔ᣢ࣭ྥୖ 8 8 16

ඃ⚽࡞ேᮦ☜ಖ 12 27 39

஦ᴗᢎ⥅ 2 8 10

ࡑࡢ௚ 0 0 0

4.2.2 経営管理手法の導入状況
 経営管理手法の導入状況では、「年度計画」の企業が41社(87
%)で最も多く、次いで、「目標管理」の企業が40社(85%)で

14
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

あった。全般的に高い割合で経営管理手法の導入がなされており、
「年度計画」や「目標管理」のような短期的なマネジメントのため
の経営管理手法が採用されている。他方、「中(長)期経営計画」
や「戦略」のような長期的なマネジメントのための経営管理手法を
採用する企業は、特に非製造業で少なかった。図表14を参照。

ᅗ ⾲ 14 ⤒Ⴀ⟶⌮ᡭἲࡢᑟධ≧ἣ
図表14 経営管理手法の導入状況

〇 㐀 ᴗ (16) 㠀 〇 㐀 ᴗ (31) ྜ ィ (47)

⤒Ⴀ⌮ᛕ࣭♫カ࣭♫᫝ 13 25 38

ࣅࢪࣙࣥ 12 25 37

୰ (㛗 )ᮇ ⤒ Ⴀ ィ ⏬ 12 20 32

ᡓ␎ 14 22 36

ᖺᗘィ⏬ 14 27 41

᪉㔪⟶⌮ 12 27 39

┠ᶆ⟶⌮ 13 27 40

4.2.3 経理体制
 経理体制では、複数回答で、「経理部署を設置しており、複数の
職員を経理専任業務に配置している(経理部署/複数職員)」の企
業が38社(81%)で最も多かった。なお、非製造業のみでは、「親
族等が1名で経理業務を遂行している(親族等の1名)」の企業が6社
で、「会計事務所」の企業が3社であった。図表15を参照。
ᅗ ⾲ 15 ⤒ ⌮ య ไ (」 ᩘ ᅇ ⟅ )
図表15 経理体制(複数回答)
〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜ ィ

⤒⌮㒊⨫㸭」ᩘ⫋ဨ 14 24 38

ぶ᪘➼ࡢ 1 ྡ 0 6 6

఍ィ஦ົᡤ 0 3 3

ࡑࡢ௚ 2 1 3

ྜ ィ 16㸦 16㸧 34㸦 31㸧 50㸦 47㸧

(注)「その他」は、「1人の職員が経理専任で従事している」
   「経理専任ではなく業務部が担当している」「未回答」。
15
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

4.3 管理会計手法の導入の有無と必要性
4.3.1 管理会計手法の導入の有無
 管理会計手法の導入の有無では、「何らかの管理会計手法を導入
している(導入済み)」の企業が45社(96%)であり、他方、「管理
会計手法を導入していない」の企業が2社(輸送用設備製造業1社、
運送業1社)であることから、ほぼすべての企業が導入済みであっ
た。図表16を参照。

ᅗ ⾲ 16
図表16 管理会計手法の導入の有無
⟶⌮఍ィᡭἲࡢᑟධࡢ᭷↓

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

ᑟධ῭ࡳ 15 30 45

ᮍᑟධ 1 1 2

ྜ ィ 16 ♫ 31 ♫ 47 ♫

4.3.2 管理会計手法の導入・見直しの必要性
 管理会計手法の導入・見直しの必要性では、「何らかの管理会計
手法を導入している(導入済み)」と回答した45社のうち、「既存の
手法を見直したり、新たな手法を導入する必要性を感じている(見
直し・導入の必要性あり)」の企業が13社(29%)であった。ま
た、「管理会計を導入していない(未導入)」と回答した2社のうち、
「管理会計手法を導入する必要性を感じている(導入の必要性あ
り)」の企業が1社であった。
 以上の結果として、「導入済み」および「未導入」と回答した47
社のうち、未回答12社を除いて、「見直し・導入の必要性あり」と
回答した企業が14社(30%)であった。このうち、製造業16社につ
いては、未回答2社を除いて、「見直し・導入の必要性あり」の企業
が4社(25%)で、「見直し・導入の必要性なし」の企業が10社(63
%)であった。他方、非製造業31社については、未回答10社を除い
て、「見直し・導入の必要性あり」の企業が10社(32%)で、「見直

16
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

し・導入の必要性なし」の企業が11社(35%)であった。図表17を
参照。
ᅗ ⾲ 17
図表17 管理会計手法の導入・見直しの必要性
⟶⌮఍ィᡭἲࡢᑟධ࣭ぢ┤ࡋࡢᚲせᛶ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

‫ڦ‬ᑟධ῭ࡳ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

ぢ┤ࡋ࣭ᑟධࡢᚲせᛶ࠶ࡾ 3 10 13

ぢ┤ࡋ࣭ᑟධࡢᚲせᛶ࡞ࡋ 10 11 21

ᮍᅇ⟅ 2 9 11

‫ڦ‬ᮍᑟධ 1 ♫ 1 ♫ 2 ♫

ᑟධࡢᚲせᛶ࠶ࡾ 1 0 1

ᑟධࡢᚲせᛶ࡞ࡋ 0 0 0

ᮍᅇ⟅ 0 1 1

‫ڦ‬ᑟධ῭ࡳ㸩ᮍᑟධ

ぢ┤ࡋ࣭ᑟධࡢᚲせᛶ࠶ࡾ 4 ♫ (25%) 10 ♫ (32%) 14 ♫ (30%)

ぢ┤ࡋ࣭ᑟධࡢᚲせᛶ࡞ࡋ 10 ♫ (63%) 11 ♫ ( 3 5 % ) 21 ♫ (45%)

4.4 管理会計手法の導入状況
 管理会計手法の導入状況に関する概要は図表18のとおりである。
以下では、①予算、②損益測定、③原価計算、④原価管理、⑤資金
管理に区分して、その回答結果を明らかにする。
ᅗ ⾲ 18⟶⌮఍ィᡭἲࡢᑟධ≧ἣ࡟㛵ࡍࡿᴫせ
図表18 管理会計手法の導入状況に関する概要

⟶⌮఍ィᡭἲ 〇 㐀 ᴗ (15 ♫ ) 㠀 〇 㐀 ᴗ (30 ♫ ) ྜ ィ (45 ♫ )

ձ ண  ⟬ 14 ♫ (93%) 28 ♫ (93%) 42 ♫ (93%)

ղ ᦆ┈ ᐃ 15 ♫ (100%) 30 ♫ (100%) 45 ♫ (100%)

ճ ཎ౯ィ⟬ 15 ♫ (100%) 24 ♫ (80%) 39 ♫ (87%)

մ ཎ౯⟶⌮ 14 ♫ (93%) 17 ♫ (57%) 31 ♫ (69%)

յ ㈨㔠⟶⌮ 14 ♫ (93%) 27 ♫ (90%) 41 ♫ (91%)

(注)「原価計算」には、財務諸表作成目的のみの導入も含んでいる。

17
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

4.4.1 予算
(1)予算の導入状況
 予算の導入状況では、「予算を作成・導入している」の企業が42
社(93%)であった。このうち、製造業が14社(93%)で、非製造
業が28社(93%)であった。具体的には、「会社全体としての予算
に加え、事業単位の予算も作成している(全体+事業)」の企業が
13社(29%)であり、同様に「会社全体の予算に加え、事業単位、
製品・サービス単位及び、部署単位(工場・営業所・店舗等)の予
算も作成している(全体+事業+製品・サービス+部署)」の企業
が13社(29%)で最も多い。これに対して、「会社全体の予算に加
え、事業単位、製品・サービス単位の予算も作成している(全体
+事業+製品・サービス)」の企業が4社(9%)と低くなっている。
図表19を参照。

ᅗ ⾲ 19 ண⟬ࡢᑟධ≧ἣ
図表19 予算の導入状況

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

఍♫඲యࡢࡳ 4 8 12

඲య㸩஦ᴗ 4 9 13

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ 2 2 4

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ㸩㒊⨫ 4 9 13

ࠕண⟬ᑟධ῭ࡳࠖࡢᑠィ 14 ♫ (93%) 28 ♫ (93%) 42 ♫ (93%)

ண⟬ࢆసᡂࡋ࡚࠸࡞࠸ 1 2 3

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

(2)予算の対象期間
 予算の対象期間では、予算を作成していない3社を除いて、「年度
予算に加え、半期予算、四半期予算及び、月次予算も作成している
(年度+半期+四半期+月次)」の企業が21社(50%)で最も多く、
次いで、「年度予算のみ作成している(年度予算のみ)」の企業が12

18
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

社(29%)であった。このように、月次予算まで作成している企業
が多い傾向が伺える。図表20を参照。

ᅗ ⾲ 20 ண ⟬ ࡢ ᑐ ㇟ ᮇ 㛫
図表20 予算の対象期間

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

ᖺᗘண⟬ࡢࡳ 2 10 12

ᖺᗘ㸩༙ᮇ 4 3 7

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ 0 0 0

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ 8 13 21

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ㸩㐌ḟ 0 1 1

ᮍᅇ⟅ 0 1 1

ྜ ィ 14 ♫ 28 ♫ 42 ♫

(3)予算の種類
 予算の種類では、予算を作成していない3社を除いて、「損益予算
のみ作成している」の企業が15社(36%)で最も多い。製造業では
「損益予算に加え、資金予算(キャッシュ・フロー予算)、および
資本予算(投資資本)も作成している(損益予算+資金予算+資本
予算)」の企業が8社(57%)で最も多く、他方、非製造業では「損
益予算のみ作成している(損益予算のみ)」の企業と、「損益予算に
加え、資金予算(キャッシュ・フロー予算)も作成している(損益
予算+資金予算)」の企業がそれぞれ11社(39%)で最も多い。図
表21を参照。

(4)業績評価(予算実績差異分析)
 業績評価(予算実績差異分析)では、予算を作成していない3社
を除いて、「会社全体の業績のみ予算と比較分析を行い、予算の達
成度を評価している(全体業績のみ)」の企業と、「会社全体の業績
に加え、事業単位の業績についても予算と比較分析を行い、予算の

19
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

達成度を評価している(全体+事業)」の企業がそれぞれ11社(26
%)で最も多い。図表22を参照。

図表21 予算の種類
ᅗ ⾲ 21 ண ⟬ ࡢ ✀ 㢮

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

ᦆ┈ண⟬ࡢࡳ 4 11 15

ᦆ┈ண⟬㸩㈨㔠ண⟬ 2 11 13

ᦆ┈ண⟬㸩㈨㔠ண⟬㸩㈨ᮏண⟬ 8 5 13

ᮍᅇ⟅ 0 1 1

ྜ ィ 14 ♫ 28 ♫ 42 ♫

図表22 業績評価(予算実績差異分析)
ᅗ ⾲ 22 ᴗ ⦼ ホ ౯ (ண ⟬ ᐇ ⦼ ᕪ ␗ ศ ᯒ )

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

඲యᴗ⦼ࡢࡳ 2 9 11

඲య㸩஦ᴗ 4 7 11

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ 3 4 7

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ㸩㒊⨫ 3 7 10

ண⟬࡜ࡢẚ㍑ศᯒࡣ⾜ࡗ࡚࠸࡞࠸ 2 1 3

ྜ ィ 14 ♫ 28 ♫ 42 ♫

4.4.2 損益測定
(1)損益の測定状況
 損益の測定状況では、「会社全体の損益に加え、事業単位の損
益も測定している(全体+事業)」の企業が21社(47%)で最も多
く、このうち、製造業が9社(60%)であり、非製造業が12社(40
%)であった。次いで、「会社全体としての損益のみを測定してい
る(会社全体のみ)」の企業が10社(33%)であるが、これはすべ
て非製造業であった。図表23を参照。
(2)損益測定の対象期間
 損益測定の対象期間では、「年度単位に加え、半期単位、四半期

20
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

単位及び、月次単位の損益も測定している(年度+半期+四半期+
月次)」の企業が36社(80%)で最も多かった。製造業15社はすべ
てこの損益測定に係る対象期間を設定していた。図表24を参照。

図表23 損益の測定状況
ᅗ ⾲ 23 ᦆ ┈ ࡢ   ᐃ ≧ ἣ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

఍♫඲యࡢࡳ 0 10 10

඲య㸩஦ᴗ 9 12 21

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ 3 1 4

඲య㸩஦ᴗ㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ㸩㒊⨫ 3 7 10

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

ᅗ ⾲ 24 ᦆ┈ ᐃࡢᑐ㇟ᮇ㛫
図表24 損益測定の対象期間

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

ᖺᗘ༢఩ࡢࡳ 0 5 5

ᖺᗘ㸩༙ᮇ 0 1 1

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ 0 0 0

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ 15 21 36

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ㸩㐌ḟ 0 1 1

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ㸩㐌ḟ㸩᪥ḟ 0 2 2

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

4.4.3 原価計算
(1)原価計算の導入状況
 原価計算の導入状況では、「財務諸表を作成する目的の原価計算
とは別に、製品・サービス単位で原価計算を行っている(財務諸表
+製品・サービス単位)」の企業が26社(58%)で最も多く、次い
で、「財務諸表を作成する目的でのみ原価計算を行っている(財務
諸表作成目的のみ)」の企業が13社(29%)であった。

21
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

 原価計算については、すべての製造業が製品・サービス単位で原
価計算を行っているのに対して、非製造業では財務諸表を作成する
目的で原価計算を行っている回答が多い。図表25を参照。

図表25 原価計算の導入状況
ᅗ ⾲ 25 ཎ ౯ ィ ⟬ ࡢ ᑟ ධ ≧ ἣ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

㈈ົㅖ⾲సᡂ┠ⓗࡢࡓࡵ 0 13 13

㈈ົㅖ⾲㸩〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ༢఩ 15 11 26

ࠕཎ౯ィ⟬ᑟධ῭ࡳࠖࡢᑠィ 15 ♫ (100%) 24 ♫ (80%) 39 ♫ (87%)

ཎ౯ィ⟬ࢆ⾜ࡗ࡚࠸࡞࠸ 0 4 4

ᮍᅇ⟅ 0 2 2

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

(2)原価計算の実施方針
 原価計算の実施方針では、「現在実施している原価計算のまま
でよい」の企業が18社(44%)で最も多く、次いで、「将来的には、
さらに原価管理に役立つ原価計算を導入したい」の企業が10社(24
%)となっている。図表26を参照。

ᅗ図表26 原価計算の実施方針
⾲ 26 ཎ ౯ ィ ⟬ ࡢ ᐇ ᪋ ᪉ 㔪

〇 㐀 ᴗ (15) 㠀 〇 㐀 ᴗ (30) ྜ ィ (45)

⌧ᅾࡢࡲࡲ࡛ࡼ࠸ 8 10 18

౯᱁タᐃ࡟ᙺ❧ࡘཎ౯ィ⟬ࡢᑟධ 2 3 5

ᦆ┈ᢕᥱ࡟ᙺ❧ࡘཎ౯ィ⟬ࡢᑟධ 4 4 8

ཎ౯⟶⌮࡟ᙺ❧ࡘཎ౯ィ⟬ࡢᑟධ 3 7 10

௒ᚋࡶᑟධ࡞ࡋ 0 4 4

(3)原価計算の目的
 原価計算の目的では、複数回答で、「製品・サービス単位での損
益状況の把握に役立てる」の企業と、「原価管理に役立てる」の企

22
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

業がそれぞれ15社(36%)で最も多く、次いで、「製品サービスの
価格設定に役立てる」の企業が12社(29%)となっている。図表27
を参照。

図表27 原価計算の目的(複数回答)
ᅗ ⾲ 27 ཎ ౯ ィ ⟬ ࡢ ┠ ⓗ (」 ᩘ ᅇ ⟅ )

〇 㐀 ᴗ (15) 㠀 〇 㐀 ᴗ (14) ྜ ィ (29)

〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫࡢ౯᱁タᐃ 7 5 12

〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ༢఩࡛ࡢᦆ┈ᢕᥱ 9 6 15

ཎ౯⟶⌮ 8 7 15

ࡑࡢ௚ 1 0 1

(注)「その他」の回答は「人事評価」。

(4)原価計算の方法
 原価計算の方法では、「部材の原価、直接労務費に加え、複数の
製品・サービスに共通して発生する原価(機械の減価償却費、工場
事務員の給与等)(間接費)も集計する」の企業が10社(24%)で
最も多く、次いで、「材料費、部品費や外注加工費など製品を構成
する部材の原価のみを集計している」の企業が8社(20%)で、「部
材の原価(材料費、部品費、外注加工費等)に加え、製品の製造や
サービスの提供に直接従事する従業員の人件費(直接労務費)も集
計している」の企業が7社(17%)となっている。図表28を参照。

(5)間接費の配賦方法
 間接費の配賦方法では、上記の設問で、「間接費も集計する(部
財原価+直接労務費+製造間接費)」と回答した10社を構成する製
造業8社と非製造業2社を対象としている。複数回答で、配賦方法で
は「実際配賦」が7社で最も多く、配賦率では「複数の配賦率」が7
社で最も多く、配賦基準では「労務費」が7社、「作業時間」と「生
産量」がそれぞれ6社であった。

23
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

ᅗ図表28 原価計算の方法
⾲ 28 ཎ ౯ ィ ⟬ ࡢ ᪉ ἲ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

㒊ᮦࡢཎ౯ࡢࡳࢆ㞟ィ 3 5 8

㒊ᮦࡢཎ౯㸩┤᥋ປົ㈝ 3 4 7

㒊ᮦࡢཎ౯㸩┤᥋ປົ㈝㸩〇㐀㛫᥋㈝ 8 2 10

ࡑࡢ௚ 0 1 1

ᮍᅇ⟅ 1 2 3

ྜ ィ 15 ♫ 14 ♫ 29 ♫

(注)「その他」の回答は、「医療機関における医師の収益効率、看護師
  ・技師の人件費効率の計算」。

4.4.4 原価管理
(1)原価管理の導入状況
 原価管理の導入状況では、「製品・サービスだけでなく、販売部
門、管理部門等を含め、全社的に原価管理を行っている(全社的な
原価管理)」の企業が22社(49%)で最も多い。図表29を参照。

ᅗ図表29 原価管理の導入状況
⾲ 29 ཎ ౯ ⟶ ⌮ ࡢ ᑟ ධ ≧ ἣ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

〇ရ࣭ࢧ࣮ࣅࢫ༢఩࡛ࡢཎ౯⟶⌮ 3 6 9

඲♫ⓗ࡞ཎ౯⟶⌮ 11 11 22

ࠕཎ౯⟶⌮ࡢᑟධ῭ࡳࠖࡢᑠィ 14 ♫ (93%) 17 ♫ (57%) 31 ♫ (69%)

ཎ౯⟶⌮ࢆ⾜ࡗ࡚࠸࡞࠸ 1 7 8

ᮍᅇ⟅ 0 6 6

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

(2)導入している原価管理手法
 導入している原価管理方法では、複数回答で、「予算に基づく
原価管理」の企業が19社(61%)で最も多く、次いで、「標準原価

24
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

計算に基づく原価管理」の企業が15社(48%)、「原価改善」の企
業が6社(19%)となっている。一方で、「原価企画」の企業が2社、
「活動基準原価計算に基づく原価管理」の企業が1社であることか
ら、中小企業に導入するための環境整備が整っていないことが考え
られる。図表30を参照。

図表30 導入している原価管理手法(複数回答)
ᅗ ⾲ 30 ᑟ ධ ࡋ ࡚ ࠸ ࡿ ཎ ౯ ⟶ ⌮ ᡭ ἲ (」 ᩘ ᅇ ⟅ )

〇 㐀 ᴗ (14) 㠀 〇 㐀 ᴗ (17) ྜ ィ (31)

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≉Ṧཎ౯ㄪᰝ࡟ᇶ࡙ࡃཎ౯⟶⌮ 2 2 4

ࡑࡢ௚ 0 0 0

4.4.5 資金管理(キャッシュ・フロー管理)
(1)資金収支の測定状況
 資金収支の測定状況では、「会社全体としての資金収支のみを
測定している(会社全体のみ)」の企業が24社(53%)で最も多く、
次いで、「会社全体の資金収支に加え、事業単位の資金収支も測定
している(全体+事業)」の企業が10社(22%)となっている。図
表31を参照。
(2)資金収支測定の対象期間
 資金収支測定の対象期間では、「年度単位に加え、半期単位、四
半期単位及び、月次単位の資金収支も測定している(年度+半期
+四半期+月次)」の企業が29社(67%)で最も多く、次いで、「年
度単位の資金収支のみ測定している(年度単位のみ)」の企業が8社
(19%)となっている。損益測定と同様に、多くの企業が短い期間

25
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

で資金収支を測定している。図表32を参照。

ᅗ図表31 資金収支の測定状況
⾲ 31 ㈨ 㔠 ཰ ᨭ ࡢ   ᐃ ≧ ἣ

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

఍♫඲యࡢࡳ 5 19 24

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㈨㔠཰ᨭࢆ ᐃࡋ࡚࠸࡞࠸ 1 1 2

ᮍᅇ⟅ 0 2 2

ྜ ィ 15 ♫ 30 ♫ 45 ♫

ᅗ図表32 資金収支測定の対象期間
⾲ 32 ㈨ 㔠 ཰ ᨭ   ᐃ ࡢ ᑐ ㇟ ᮇ 㛫

〇㐀ᴗ 㠀〇㐀ᴗ ྜィ

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ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ 13 16 29

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ㸩㐌ḟ 0 1 1

ᖺᗘ㸩༙ᮇ㸩ᅄ༙ᮇ㸩᭶ḟ㸩㐌ḟ㸩᪥ḟ 0 1 1

ᮍᅇ⟅ 0 1 1

ྜ ィ 14 ♫ 27 ♫ 41 ♫

4.4.6 その他の管理会計手法
 その他の管理会計手法では、複数回答で、「導入していない」の
企業が22社(49%)で最も多い。導入しているものとしては、「設
備投資の経済性計算」の企業が7社(16%)で、「品質原価計算・品
質コスト管理」の企業が3社(7%)となっている。
 なお、「設備投資の経済性計算」と回答した製造業種は、「紙・

26
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

紙類似品」1社、「金属製品」1社、「化学工業」1社、「その他製造
業」1社であり、他方、非製造業種は、「運送業」2社、「その他(自
動車整備業)」1社であった。「バランスト・スコア・カード」と回
答した製造業種は、「食料品」1社と「その他製造業」1社であった。
「活動基準原価計算」と回答した非製造業種は「卸売・小売業」1
社であった。「スループット会計」と回答した非製造業種は「その
他(自動車整備業)」1社であった。「品質原価計算、品質コスト計
算」と回答した非製造業種は、「その他(設備工事業、自動車整備
業)」2社と「情報通信業者」1社であった。「ライフサイクル・コス
ティング」と回答した非製造業種は「その他(ビルメンテナンス
業)」1社であった。図表33を参照。

図表33 その他の管理会計手法(複数回答)
ᅗ ⾲ 33 ࡑ ࡢ ௚ ࡢ ⟶ ⌮ ఍ ィ ᡭ ἲ (」 ᩘ ᅇ ⟅ )

〇 㐀 ᴗ (15) 㠀 〇 㐀 ᴗ (30) ྜ  ィ (45)

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ࣛ࢖ࣇ࣭ࢧ࢖ࢡ࣭ࣝࢥࢫࢺ⟶⌮

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ᑟධࡋ࡚࠸࡞࠸ 8 14 22

ᮍᅇ⟅ 0 9 9

(注)「その他」の回答は、「自社基準」。

4.5 見直しや導入が必要な管理会計分野
 見直しや導入が必要な管理会計分野では、複数回答で、「予算編

27
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

成」の企業が12社(27%)で最も多く、次いで、「業績評価」11社、
「戦略管理」11社、「損益測定」9社、「原価計算」8社となっている。
 なお、図表17において、管理会計手法について「導入・見直しの
必要あり」と回答したのは製造業4社と非製造業10社であった。し
かしながら、「導入・見直しの必要なし」と回答した企業が含まれ
ていることに注意が必要である。図表34を参照。

図表34 見直しや導入が必要な管理会計分野(複数回答)
ᅗ ⾲ 34 ぢ ┤ ࡋ ࡸ ᑟ ධ ࡀ ᚲ せ ࡞ ⟶ ⌮ ఍ ィ ศ 㔝 (」 ᩘ ᅇ ⟅ )

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ࡑࡢ௚ 0 0 0

5. おわりに

 アンケート調査の回答結果を要約すると、以下のようになる。
 北海道苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況に関す
る実態調査では、アンケート調査の実施に先立って、売上高の規模、
従業員数、創業・設立年数を考慮して、調査対象先を中堅企業157
社に限定して実施した。その結果、アンケートの回答企業47社(回
答率29.9%:製造業16社・非製造業31社)では、会社概要について、
概ね創業・設立年数25年超、従業員数30名以上、資本金額1千万円

28
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

以上、総資産額1千万円以上、売上高1億円以上であった。
 経営課題については、「優秀な人材の確保」「新規顧客の開拓」
「既存顧客の維持」が上位を占めていた。他方、「元請に依存しな
い」「事業の多角化」「研究開発力の維持・向上」は下位であり、市
場競争力が低い北海道の土地柄が影響しているかもしれない。経営
管理手法の導入状況については、「年度計画」「目標管理」のよう
な短期的なマネジメントの手法が多く、他方、「中(長)期経営計
画」のような長期的なマネジメント手法は特に非製造業で少なかっ
た。経理体制については、大半が「経理部署/複数職員」であり、
記帳代行を含めて経理業務を会計事務所に任せていると回答したの
は非製造業の3社のみであった。
 管理会計手法の導入の有無では、中堅企業が調査対象先であった
ためか、概ね導入済みであった。管理会計手法の導入の必要性に
ついては、既存の手法を見直したり、新たな手法を導入する必要
性を感じていると回答した企業は、製造業4社(25%)、非製造業10
社(32%)であり、全体で14社(30%)という低い結果に留まった。
管理会計手法の導入状況については、①予算、②損益測定、③原価
計算、④原価管理、⑤資金管理を調査項目として設定した結果、製
造業は概ね100%で導入済みであったが、非製造業は業界特性から
「原価管理」が57%の導入状況であった。
 実践事例では、①予算について、対象では「全体+事業」「全体
+事業+製品・サービス+部署」が29%、期間では「年度+半期+
四半期+月次」が50%、種類では「損益予算のみ」が36%、業績評
価では「全体業績のみ」「全体+事業」が26%で最も多かった。②
損益測定について、対象では「全体+事業」が47%、期間では「年
度+半期+四半期+月次」が80%で最も多かった。③原価計算につ
いて、対象では「財務諸表+製品・サービス単位」が64%、実施方
法では「現在のままでよい」が44%、目的では「製品・サービス単
位での損益把握」「原価管理」が36%、方法では「部材の原価+直

29
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

接労務費+製造間接費」が24%で最も多かった。また、間接費の配
賦方法では「実際配賦」が、配賦率では「複数の配賦率」が、配賦
基準では「労務費」がそれぞれ最も多かった。④原価管理につい
て、対象では「全社的」が49%、導入手法では「予算に基づく原価
管理」が61%で最も多かった。⑤資金管理について、対象では「会
社全体のみ」が53%、期間では「年度+半期+四半期+月次」が67
%で最も多かった。
 なお、その他の管理会計手法については、「導入していない」が
49%で最も多く、次いで、「設備投資の経済性計算」が16%であった。
 最後に、見直しや導入が必要な管理会計分野については、「予算
編成」が27%で最も多く、次いで、「業績評価」「戦略管理」が24%、
「損益測定」が20%、「原価計算」が18%であった。
 さて、本稿では、北海道苫小牧地域の中堅企業157社に対して郵
便質問票の形式で実施したアンケート調査の回答結果にもとづいて
中小企業における管理会計手法の導入状況とそこでの実践事例を明
らかにした。ヒアリング調査は、時間的な制約があるものの、アン
ケート調査の回答結果に反映されなかった経営者(社長)の考え方
や経営方針、経営者の管理会計に対する理解度、管理会計手法の導
入をめぐる社内の状況と組織体制、さらには、当該中小企業に係る
地域性や取引の特殊性などを面談によって確認できる点で実施が望
まれる。ただし、本橋(2017)が指摘するように、ヒアリング調査
を通じて得られた情報については、当該企業にとって秘密情報であ
る可能性があるため、中小企業の事例研究を行う場合には、何を明
らかにするのかを事前に検討して実施しなければならない。
 なお、ヒアリング調査ではK社(卸売・小売業)、D社(設備工
事業)、М社(汎用機械製造業)の3社について実施したが、本稿で
は紙幅の関係で割愛している。
 今後の課題は、中小企業の管理会計に関する実態調査の地域を拡
大することにある。アンケート調査については、山口モデルの精緻

30
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

化を通じて、アンケートに回答する経営者等が理解しやすい質問項
目を設定する必要がある。同時に、アンケートの回答結果から当該
地域の優良企業を探索し、ヒアリング調査を行うことが重要となる。
また、中小企業の経営者における会計教育歴や職歴に応じて管理会
計に関する理解度に差異が予想される。したがって、その差異に留
意しながら、管理会計に関する中小企業と税理士・公認会計士など
の会計事務所との関わり合いの度合いを調査することも必要となる。


(1)
大手の事業所6社は、トヨタ自動車北海道、王子製紙苫小牧工場、ダイ
ナックス苫小牧工場、いすゞエンジン製造北海道、アイシン北海道、出
光興産北海道製油所である。

参考文献
独立行政法人 中小企業基盤整備機構 経営支援情報センター(2011)「中小
企業の管理会計システム―キャッシュ・フロー経営の視点から」『中小
機構調査研究報告書』第3巻第2号、1-49頁。
飛田努(2011)「熊本県内中小企業の経営管理・管理会計実践に関する実
態調査」『産業経営研究(熊本学園大学附属産業経営研究所)』第30号、
29-42頁。
飛田努(2012)「中小企業における経営管理・管理会計実践に関する実態調
査―福岡市内の中小企業を調査対象として」『会計専門職紀要(熊本学
園大学専門職大学院会計専門職研究科)』第3号、57-69頁。
苫小牧市(2014)「平成24年経済センサス―活動調査結果概要」『統計とまこ
まい』No.106.
苫小牧市(2016)「平成26年工業統計調査―調査結果概要」『統計とまこま
い』No.109.
水野一郎(2015)「中小企業の管理会計に関する一考察」『関西大学商学論
集』第60巻第2号、23-41頁。
本橋正美(2015)「中小企業管理会計の特質と課題」『会計論叢(明治大
学)』第10号、51-69頁。

31
川島 和浩 苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況

本橋正美(2017)「中小企業管理会計の事例研究アプローチ」『会計論叢(明
治大学)』第12号、29-47頁。
山口直也(2016)「第2章 燕三条・大田区・東大阪地域の中小企業における
管理会計実践に関する実態調査」日本管理会計学会スタディ・グループ
(研究代表者 水野一郎)『中小企業における管理会計の総合的研究(最
終報告書)』所収、13-33頁。

(付記)
 本稿は、日本管理会計学会2017年度全国大会(福岡大学)における自由論
題報告の報告原稿を加筆修正したものである。

(かわしま かずひろ・本学教授)

32
苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

『法性不動経』をめぐる諸問題
Some Remarks on the Dharmatācalasūtra

小 林   守
KOBAYASHI Mamoru

キーワード:法性不動経、Dharmatācalasūtra、カンギュル、デンカルマ目録、
      漢文蔵訳、ヤクトゥク・サンギェーペル

要旨
『法性不動経(*Dharmatācalasūtra)』はチベット語訳として現存する小経で、
内容的に、世尊が法性から不動のままに説法するのを受け手の側が5種の異な
った教えとして受け取ることを説く。本経は謎めいた経典で、そのインド語名
とチベット語名は確定的でなく、『デンカルマ目録』には本経のチベット語訳
は「漢文からの翻訳」と記載されている。本稿では、カンギュル諸本の検討に
より一般に用いられる本経のインド語名とチベット語名を本来の経名とみるに
は問題があることと、経文の分析により『デンカルマ目録』の伝承の通り「漢
文蔵訳」の可能性があることを指摘し、併せて本経に特徴的な教判的な5種の
見解の真意を探る。

33
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

はじめに
 サキャ派のヤクトゥク・サンギェーペル(g.Yag phrug Sangs rgyas
dpal, 1350-1414)はその『般若注・広本(YT

īk(rgyas))』において、ハ

リバドラの『現観荘厳注 (AAV)』第5章 (頂現観釈) に説かれるい


わゆる“四瑜伽地(rnal 'byor gyi sa bzhi)”を解説するときに、『法
性不動経(*Dharmatācalasūtra/ DAS)』なる経典のほぼ全経文を引用す
る(1)。『法性不動経』は蔵訳として現存し、デルゲ版で3枚半ほど
の短い経典である。もとはインドで成立したと思われるが、インド
仏教の論師が本経に言及するのは稀で、その点で本経がマイナーな
経典であるのは間違いない。内容的には、本経は、世尊と文殊の問
答を通して、「世尊が法性から不動のまま逸脱することなく説法す
るのを受け手の側が異なった教えとして受け取る」ことを説く経典
で、とくにインド仏教諸学派の教義を思わせる5種の見解を教判的
に並べて、それらを種々の観点から説き明かす点、興味深い内容を
もった経典といえる。
 かつて筆者は、その所説のうち特に如幻中観・無住中観的な見解
に注目して、本経を取り上げたことがあるが、その際に「本経は謎
めいた経典で、本経をめぐる問題は別に論じなければならない」と
記しておいた(2)。そのとき筆者の念頭にあったのは、主に『デンカ
ルマ目録』に本経が「漢文蔵訳」と記載されているその伝承の真偽
の問題であった。その後、資料を集めて本経を読み返すうちに、諸
資料において本経のインド語名/チベット語名が一定しておらず本
来の経名は確定的でない、そしてその経名の問題は「漢文蔵訳」の
問題とも無関係ではないだろうという見通しを得、さらに本経の特
徴的な所説である教判的な5種の見解に関しても、経文が簡潔で誤
解を招きやすくその真意を再検討しておく必要があると考えるよう
になった。そこで、旧稿と一部重なるところもあるが、本稿では、
『法性不動経』をめぐる問題として、特に「経名」「漢文蔵訳」
「特徴的な所説」の3点を取り上げることにしたい。

35
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

1 テキストについて
 本論に入る前に、はじめに『法性不動経』のテキストについて述
べておく。
 本経の梵語原典と漢訳は不明である。本経は蔵訳として現存する
が、筆者が参照し得たのは以下にあげるデルゲ版等のカンギュル7
版本と、ロンドン写本等のカンギュル5写本、及びヤクトゥク作
『般若注・広本』所引の経文である。

 (版本)
C:チョネ版:Co-ne Kangyur, Vol.35:fols.(Da)200a6-204b7.(3)
D:デルゲ版:Toh No.128:fols.(Da)171a1-174b4.(4)
H:ラサ版:Takasaki[1965:No.130]:fols.(Ta)269b4-275b2.(5)
J :ジャ ン サ タ ム 版 ( リ タ ン 版 ) :Imaeda[ 1984:No.73]:fols.
 (Da)180b1-184a2.(6)
N:ナルタン版:Mibu[1959:No.769]:fols.(Ta)273b5-279b4.(7)
P:北京版:Ota No.796:fols.(Thu)185a8-189b4.(8)
U:ウルガ版:Bethlenfalvy[1980:No.128]:fols.(Da)171a1-
174b4.(9)

 (写本)
F:プタク写本:Samten[1992:No.125]:fols.(Na)223a6-229a2.
Cf.Eimer[1993:15].
L:ロンドン写本:Pagel/Gaffney[1996:No.137]:fols.(Zha)
273a2-277b7.
M:モンゴル・ウランバートル写本:Samten/Niisaku[2015:
No.242]:fols.(Zha)273b6-278b4.
S:トクパレス写本:Skorupski[ 1985:No.193]:fols.(Zha)
317a5-322b5.(10)
T:東京写本:斎藤[1977:No.193]:fol.(Zha) 276a3-280b5.(11)

 (ヤクトゥク;Dは『法性不動経』デルゲ版の対応箇所)

36
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

Y:YT

īk(rgyas), fols.(Nga) 63b1-74b5 (pp.126-148): Y63b1-64a2
(pp.126-127)=D171a1-6; Y64b4 (p.128)=D171a6-7; Y65a6 (p.129)=
D171a7;Y65b5-6 (p.130)=D171a7-b1;Y69b2-4 (p.138)=D171b1-2;
Y70a6-74b5 (p.139-148)=D171b2-4b3.

 上の本経カンギュル諸本の系統の問題には深入りせずに、ここ
では最後のヤクトゥク所引本 (Y) の系統について記しておくにと
どめる。カンギュルの系統に関する先行研究を参考にして (12) 、デ
ルゲ版等の7版本 (CDHJNPU) を1つのグループ (ツェルパ系及びツ
ェルパ・テンパンマ混合系)、ロンドン写本等の4写本 (LMST) を1

つのグループ(テンパンマ系)、そしてプタク写本(F)を独立系とみ
るとき、7版本 (CDHJNPU) の読みと4写本 (LMST) の読みが異
なる75例のうち、Yが4写本に一致し7版本に一致しないのは40例
(何度も用いられる“chos la brtag pa'i thabs”は1回にカウント)、Yが4

写本に一致せず7版本に一致するのは35例がある。ほかに、YとF
のみが一致するのは16例、そしてYが7版本と4写本及びFに一致
しないY独自の読みは61例がある。Yの場合ヤクトゥクのテキスト
伝承も考慮する必要があるが、それは措くとして、上の結果をみる
と、Yは7版本と4写本のどちらに近いとも言えない。ただし、Y
と4写本は重要な点において一致していて、例えば両者は共通して
本経蔵訳の冒頭表題にインド語タイトルを欠き (cf.第2節:2.2)、
末尾奥書に「ダーナシーラの寸評」を欠く (cf.第3節:3.3.1)。そ
して本経において何度も繰り返し用いられるキーターム“法に関す
る5選択肢”は、7版本“chos la brtag pa'i mtha' lnga”に対して、
Y及び4写本に“chos la brtag pa'i thabs lnga”とある点が注意を
惹く (cf.後注27)。2つのグループに特徴的なこれらの相違に注目す
るとYはテンパンマ系4写本に近いといえるが、しかしながらY独
自の読みも多いことから今のところYはFのような独立系とみてお
くのが無難であろう。

37
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

 上の諸本に基づいた校訂本を準備しているが、以下、本稿におい
て『法性不動経』の蔵訳テキストをあげるときは、入手の容易なデ
ルゲ版 (D) のフォリオとラインのみを記し、異読は繁雑となるの
で重要なものだけを記すことにした。
 なお、本経(DAS)の梗概は、次の通り―
Ⅰ 序(D171a2-)
Ⅱ 法に関する5選択肢:世尊による5種の見解①~⑤の略説
  (D171a5-)
Ⅲ 文殊の問い:5種の見解をめぐる7種の問い〔a〕~〔g〕(D171b2-)
Ⅳ 世尊の回答:世尊による5種の見解の詳説〔a〕~〔g〕(D172a2-)
Ⅴ 文殊と世尊の問答(D174a1-)
Ⅵ 結び;奥書(D174b2-4)

2 経名について
 『法性不動経』の梵語タイトルと蔵訳タイトルには問題が少なく
ない。『デンカルマ目録』によると本経の蔵訳は「漢文からの翻訳
(rGya las bsgyur ba)」とされるため、もともと蔵訳の基になったテ

キストに梵語タイトルが記されていなかった可能性がある。よって、
ここでは梵語タイトルの検討に先行して、初めに蔵訳タイトルを検
討することにしたい。

2.1 蔵訳タイトルについて
 本経の蔵訳タイトルは、まず上述したカンギュル所収本 (7版本
CDHJNPU、5写本FLMST)と、ヤクトゥク作の『般若注・広本』(1405
年作) 所引本 (Y) 及び『般若注・中本 (YT

īk('bring))』(1387年作、
Y2) に見出されるが、それらの蔵訳諸本の冒頭表題に記されている

タイトルと、諸本末尾の奥書に記されているタイトルの間に微妙な
差異が認められる。諸版本の表題と奥書に記されている蔵訳タイト
ルは、こうである。

38
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

Tib.1:'Phags pa Chos nyid rang gi ngo bo stong pa nyid


las mi g.yo bar tha dad par thams cad la snang ba'i mdo
〔CDHJNPU表題〕

Tib.2:Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo bar tha dad
par thams cad la* snang ba'i mdo〔CDHJNPU及びF奥書、Y表
(13)
題と奥書;* la om. CDHJNPU〕

5写本のうちFをのぞく4写本LMSTの奥書はタイトルを欠く。5
写本の冒頭表題に記されている経名はTib.2に近い。経名末尾が、
LMST表題:~zhes bya ba theg pa chen po'i mdo、F表題:~zhes
bya ba'i mdoとあるのがTib.2と異なるだけで、経名本体(chos nyid
~snang ba)の部分はTib.2に一致する(14)。
 チベット大蔵経のカタログとして『東北目録』『大谷目録』がよ
く用いられるが、その両目録は、当然のことながらデルゲ版 (D)
と北京版 (P) の冒頭表題にあるタイトルTib.1を『法性不動経』の
蔵訳名としてあげる。そのためTib.1が本経の蔵訳名として一般に
用いられるが、しかしその両版(DP)においてさえも上のように2
種の蔵訳名が認められる。Tib.2の経名本体部分は、7版本奥書の
ほかに、5写本 (FLMST) とヤクトゥク所引本 (Y/Y2) にもみられ
る。むしろ7版本冒頭表題に示される蔵訳名Tib.1のほうが特異と
も言える。Tib.1/2は下線部が相違するが、特に“stong pa”の有無
については後述する。
 ほかに目録や他論書に、本経の蔵訳タイトルは、こうある。
Tib.3:Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo bar snang ba
bstan pa〔『デンカルマ目録』No.267〕(15)
Tib.4:'Phags pa Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo
bas tha dad par bstan pa'i mdo〔アティシャ『菩提道灯難語釈』
(16)
BMP, D284a7, P328b5 に経名引用〕

Tib.5:Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo bar tha dad
par thams cad la snang ba〔リクレル『仏教史』目録、Schaeffer/

39
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

Kuijp[2009:255;No.29.4]〕

Tib.6:Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo bar tha dad
par thams cad la snang ba bstan pa〔プトゥン『仏教史』目録部、
西岡[1980:No.438]〕

上のうちTib.4はインド人アティシャ (982-1054) の著作所引である


点で重要である (cf.第3節:3.3.2)(17) 。Tib.5はチョムデン・リク
レル (bCom ldan Rig pa'i ral gri, 1227-1305)がその目録 (bsTan pa rgyas
pa rgyan gyi nyi 'od)に示す蔵訳名で、リクレルはそれを同目録「第6

章:大乗の諸経典」の中にではなくて、「第29章:真とエセの経・
タントラ・論書の区分(mdo rgyud bstan bcos yang dag dang ltar snang
gi dbye ba'i le'u ste nyer dgu pa)」の中にあげ、しかも本経等の7作
(Nos.29.4-10) を列挙した後に、「これ等は誰が作ったのか知られて
いないようである(la sogs pa ni/ sus byas mi shes par snang ngo//)」
とコメントする。経典であるなら「誰が作ったか」もないが、それ
は、リクレルが本経を“素性の怪しい経典”とみていたゆえの発
言かもしれない(18)。最後のTib.6はプトゥン(Bu ston Rin chen grub,
1290-1364) の示す蔵訳名だが、しかし彼は『仏教史』目録部におい

て本経を「未入手 (ma rnyed)」と明記する。Tib.6は当時の情報に


よったものであろう。
 上の蔵訳名について一言すると、リクレルの示すTib.5は、Tib.2
の経名本体部分に一致する。Tib.3/4/6の下線部に“bstan pa/
*nirdeś a”とあるのは、現存のカンギュル諸版本・諸写本にはみら
れない。それは『デンカルマ目録』等の比較的古い資料にあるかた
ちで、無視することは出来ないとしても、本経の本来のタイトルに
おけるその語の有無の点は現在のところ判断できない。それと同じ
ように、Tib.1/4の経名の初め付されている“ 'phags pa”の有無と、
経名末尾の“~mdo”“~zhes bya ba theg pa chen po'i mdo”等
のいずれが本来の形であるかも、今は扱わない。

40
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

2.1.1“stong pa(nyid)”の有無について
 Tib.1“Chos nyid rang gi ngo bo stong pa nyid las mi g.yo bar~”
のうち下線部“stong pa”は、残余のTib.2~6すべてがそれを欠く。
この“stong pa(nyid)”の有無の点を検討するに当たって、例えば
『法性不動経』本文に、
bcom ldan 'das …… chos nyid rang gi ngo bo nyid ji lta ba las
mi g.yo bar bzhugs so//(DAS Ⅰ, D171a2-3);世尊は……あるが
ままの法性・自性より動ずることなく、住していらっしゃった。
sangs rgyas rnams ni sbyangs pa dang bsags pa dpag tu med
pas rtsol ba med par chos nyid rang gi ngo bo nyid ji lta ba las
mi g.yo ba gcig pu yin te/(DAS Ⅳ-a, D172a3-4);諸仏は学習と
[善根]積集が無量であるゆえ、努力することなくあるがまま
の法性・自性より動ずることのない唯一のお方です。
とあるのが、参考になる。下線部はそのままTib.1を除くTib.2~6に
見出せる。『法性不動経』はたしかに内容的に空思想を説いており
“skye ba med pa(不生)”という語はキータームとして用いられ
ているが(19)、しかし経の本文には“stong pa/stong pa nyid”とい
う語は1度も使われていない。経本文に照らして見ると“stong pa
(nyid)”は不可欠とも思えない。諸版本 (CDHJNPU) 末尾の奥書
にあるタイトルTib.2は“stong pa”を欠くがその同じ諸版本冒頭の
表題Tib.1にのみそれが有るというのは、ツェルパ・カンギュル編
纂の頃だろうか、チベット人が表題を整える際に、本経の内容をふ
まえつつ、そして「諸法の法性 (dharmatā/chos nyid) とは、即ち諸
法の自性(svabhāva/rang gi ngo bo)で、それは諸法の空性(śūnyatā/
(20)
stong pa nyid) である」という図式を考慮に入れて 、“stong pa”
の語を付加したものの如くである。そこで今は、本経の経名本体
の蔵訳は、最大公約数的に、“Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi
g.yo bar tha dad par thams cad la snang ba([世尊自身は]法性・自
性から動ずることなく[その教えは]種々異なったものとして一切の者たち

41
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

に現れる)”とみておくことにする。

2.2 梵語タイトルについて
 次に梵語タイトルについて検討してみよう。“rGya gar skad
du”としてチベット文字で記される梵語タイトルは、Skt.1:諸版
本 (CDHJNPU) 冒頭の表題と、Skt.2:プタク写本 (F) 冒頭の表題
に記されている以下の2種が得られる。
Skt.1:ārya dharma tā swa bhā wa shū n.ya tā a tsa la pra ti
sa rba ā lo ka sū tra/
 ⇒ Ārya-Dharmatāsvabhāvaśūnyatâcalapratisarvâloka-sūtra/
Skt.2:dharma ta swa swa bha ta a tsa la pī pri ta ga sar bhe
shu a bā bha sa ma sūtra/
2つの梵語タイトルのうちSkt.1は『東北目録』『大谷目録』が採
っているため、よく知られている。しかしそもそも上のSkt.1/2は、
蔵訳タイトルの原梵語そのものというより、それの還梵であった可
能性が大きい。

2.2.1 上のSkt.1に対応する蔵訳タイトル、
Tib.1:'Phags pa Chos nyid rang gi ngo bo stong pa nyid las
mi g.yo bar tha dad par thams cad la snang ba'i mdo/
下線部“rang gi ngo bo stong pa nyid”は“svabhāva-śūnyatā”に
相当するが、前節 (2.1.1) でみたように本経の本来の蔵訳タイト
ルに“stong pa”は無かったとすると、“śūnyatā”を有する点で
Skt.1は原梵語タイトルの再現ではなくてTib.1を還梵したものであ
ることになる。
 又下線部“snang ba”にあたる梵語は“āloka(輝く)”であるが、
それが今の場合の“snang ba”に相応しい梵語か疑問である。と
くに下線部“tha dad par”の相当梵語を不変化詞“prati”とする
のは、梵語文法からみて無理があるのではないか。すなわち、蔵

42
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

訳“tha dad par”は今の場合「異なって/種々異なったものとし


て」を意味する(21) 。“prati”が複合語の前分となるときチベット
語で“so sor(各々)”と翻訳されることがあり(e.g. pratiniyata/ so sor
nges pa)、これが“tha dad par”にやや近いとも言えるが、しかし

Skt.1において“prati”は“prati-sarva”という複合語の前分をなす
のでもない。複合語の一部ではない単独の“prati”にそのような
「種々異なっている」等の意味をもたせるのは難しいだろう。この
点からも、Skt.1は、本経の梵語テキストにあった梵語タイトルそ
のものではなく、チベット人がTib.1に基づきそれを不完全ながら
も梵語に還元したものと思われる。

2.2.2 つぎに、プタク写本 (F) 表題に記されている梵語タイト


ルSkt.2は、同写本の表題にある、
Chos nyid rang gi ngo bo nyid las mi g.yo bar tha dad par
thams cad la* snang ba zhes bya ba'i mdo/(*F表題はF奥書に
ある“la”を欠く)

という蔵訳タイトルの梵語形である。写本に記されている上の
Skt.2のトランスクリプトは分かりにくい箇所を含むが、それと蔵
訳との対応は、こうであろう。
dharma(chos) ta(nyid) swa(rang gi) swabha(ngo bo) ta(nyid las)
atsala pī(mi g.yo bar) pritaga(tha dad par) sarbheshu(thams cad la)
abābhasa(snang ba) ma(zhes bya ba'i) sūtra(mdo)
よって、梵語タイトル全体は、
Skt.2:Dharmatā-sva-svabhāvatâcalo 'pi p thak sarves・ v
avabhāsa nāma sūtra/(22)
という具合に再構成することができるかと思われる。
 一般に梵語の経名は一つの複合語で表されるが (e.g. sarvabuddha-
viṣayāvatārajñānālokālaṃkāra)、Skt.2では不変化詞“api”が用いられて

いる点や斜格が用いられている点から(23) 、Skt.2も又、本経の梵語

43
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

テキストにあったタイトルではなくて、プタク・カンギュルに関わ
った等のチベット人が蔵訳タイトルに基づいてそれを梵語に還元し
たものだろう。Skt.2において“tha dad par”が“p thak”そして
“snang ba”が“avabhāsa”と還梵されているのは、Skt.1におけ
るそれら蔵訳語の対応梵語“prati”“āloka”に比べるなら、より
相応しいようにもみえる。ともあれ“api”を活かしてSkt.2を翻訳
するなら、「[世尊自身は]法性・自己の自性から動ずることがな
いにもかかわらず[その教えは]別々に一切の者たちに現れる」と
なるだろう(24)。
 上にみた2つの梵語タイトルSkt.1/2の差異は小さくないが、そ
れも、蔵訳に関わった者かカンギュル編纂に関わった者か等は不明
だが、いずれにせよチベット人がそれぞれの蔵訳タイトルに基づい
て独自にそれを還梵したことに起因すると思われる。換言するなら、
『法性不動経』の本来の梵語タイトルは、本経を蔵訳したチベット
人には知られていなかったのではないか。それも、次の第3節で検
討するように、もともと本経の蔵訳が「漢文からの翻訳」であった
とすれば説明がつくだろう。

3 漢文蔵訳について
 『法性不動経』の現存蔵訳は「ダーナシーラ (Dānaś īla) /イェ
シェデ (Ye shes sde) 訳」と伝えられている (CDHJNPU;FLMST;
(25)
Y) 。一方、上でも触れたように、『デンカルマ目録』は本経
(No.267) を、「漢文から蔵訳された大乗経典(theg pa chen po'i mdo
sde rGya las bsgyur ba)」に分類する。「ダーナシーラ/イェシェデ
訳」という伝承と「漢文蔵訳」という伝承の2つは両立しえず、こ
れまで学会では「漢文蔵訳」の伝承のほうを否定する意見が出され
てきた。
 『デンカルマ目録』を扱った研究のうち、まず原田[1992:148,
n.112]は、この問題に関して簡潔に、「奥書に依る限り、本経は印

44
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

度からの蔵訳と考えられる」と言い、漢文蔵訳の伝承を否定する。
「奥書に依る限り」とあるのは、恐らく、本経の奥書に「ダーナシ
ーラ/イェシェデ訳」と記されていることによるのだろう。
 つぎに、Herrmann-Pfandt[ 2008]は『デンカルマ目録』の関
連資料を網羅した研究だが、そこでは、本経の奥書に蔵訳者が
“Sanskrit-Übersetzer”であるダーナシーラ/イェシェデと記され
ていることや、本経に相当する漢訳経典がみられないことから、本
経蔵訳はインド語原本からの翻訳であり、『デンカルマ目録』では
単に誤って「漢文からの翻訳」の項目に配せられたのではないかと
いう(Herrmann-Pfandt[2008:147, n.255])。
 この問題に関して筆者自身、かつて、疑問をもちながらも、「ダ
ーナシーラ/イェシェデ訳」という伝承を受け入れるなら少なくと
も現存蔵訳本は「漢訳からの重訳」ではないだろうと述べたことが
ある(小林[2008:202])。
 要するに、原田[1992]、Herrmann-Pfandt[ 2008]、そして小林
[2008]はいずれも、現存蔵訳本の奥書にある「ダーナシーラ/イ
ェシェデ訳」という記述を、より信頼できる伝承とし、『デンカル
マ目録』にある「漢文蔵訳」の伝承を疑わしいものとみなしたので
ある。しかし、Herrmann-Pfandt[ 2008]の指摘する、本経に相当
する漢訳経典がみられないという点は措くなら、『デンカルマ目
録』の伝承を否定する理由はさほど説得力のあるものでもなく、む
しろ、「ダーナシーラ/イェシェデ訳」の伝承を疑わしいものとし、
『デンカルマ目録』にある「漢文蔵訳」の伝承を採用するという選
択肢もあり得るだろう。以下では、とりあえず『デンカルマ目録』
の伝承を尊重しつつ、『法性不動経』蔵訳本文の分析を通して、本
経蔵訳の「漢文蔵訳」の可能性をさぐってみたい。

45
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

3.1“theg pa chung ngu”について


 『法性不動経 (DAS) 』蔵訳本文のうち以下の一節は、「漢文蔵
訳」の問題を考えるときに手掛かりの一つとなる。
DAS Ⅳ-d, D172b6-7:'Jam dpal khyod kyis 'di skad du chos
la brtag pa'i mtha' lnga po 'di dag la gang zag gi rigs ni mchis
lags sam zhes zer ba ni theg pa chung ngu'i rigs dang theg pa
chen po'i rigsa) gnyis kasb) chos la brtag pa'i mtha' lnga las
bzhi las brgyud nas lhag ma gcig tuc) yang dag pa phyin ci ma
log pa sangs rgyas kyi spyod yul rtogs par bya'o// 〔a)chen
po'i rigs CDFHJNPUY, chen po LMST. b)kas CDJPU, kyis FHLMNSTY.

c)gcig tu CDHJNU, gcig pu LMSTY〕

文殊よ、おまえは、「これらの法に関する5選択肢には、[特
定の素質をもつ人が特定の選択肢を採るという具合に]人の種
姓が存在するのですか」と言う。小乗種姓と大乗種姓の双方と
もに、法に関する5選択肢のうち、4つを経由して、残余のも
っぱら正しく無倒錯なる仏の行境を証悟すべきである(26)。
上のうち「(色等の一切)法に関する5選択肢 (chos la brtag pa'i
(27)
mtha' lnga(po))」とは 、①「一切法は顕現する通りに存在する」、
②「一切法は唯心をのぞいて他に存在しない」、③「心そのものさ
えも不生である」、④「一切法は幻の如く顕現し、幻の如く成立し
ない」、⑤「一切法は本性によって不生……無始時来、戯論は浄化
されている」という5つの見解である。5種の見解は、詳しくは第
4節で扱うことにする。
 さて、上引の経文では「小乗種姓と大乗種姓の双方ともに、上の
見解①~④を経由して、最終的に、残余の見解⑤つまりもっぱら無
倒錯なる仏の行境を証悟すべし」と説いているが、今問題となる
のは上の蔵文下線部“theg pa chung ngu”で、それは文字どおり
“小乗 (小さな乗) ”と翻訳できる。周知のように、一般に漢訳経
典において“大乗”に対比されるべき漢語は“小乗”であるが、そ

46
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

れらに相当する梵語の場合、“mahāyāna(theg pa chen po)”に対比


されるべきは“hīnayāna”で、それの蔵訳語は通常“theg pa dman
pa (劣乗 )”である。よって、本経蔵訳に“theg pa chung ngu (小
乗)”とあるのは、梵語“hīnayāna”の翻訳ではなくて、漢語“小
乗”をチベット語“theg pa chung ngu”に翻訳した可能性がある。
ほかに、DAS Ⅳ-e(D173a7) に“theg pa che chung rim pa gsum
yang”とあるのも、下線部の梵語は想定しにくい(28)。その下線部
は漢語“大小乗”をチベット語に翻訳したもののようにみえる。
 実はかつて筆者は、上の蔵訳語の存在を気にしながらも、アティ
シャの著作の蔵訳に“theg pa chung ngu”という訳語がみられるこ
とから、その蔵訳語の存在は『法性不動経』が「漢訳からの重訳」
であることの決定的な証拠とはならないとした (小林[2008:202])。
例えばアティシャ作『中観優波提舎開宝篋 (RKU)』の蔵訳にこう
ある。
theg pa dman pa'i gang zag bsten pa dang/ theg pa chung
ngu'i gzhung la brtson pa dang/(宮崎[2007:29,11-12]. Cf.宮崎訳
[2007:89]:「劣乗の人を頼ること、小乗の教説を求めること」)

ここに“theg pa dman pa”と“theg pa chung ngu”という2種の蔵


訳語が前後に並んでみられるのは興味深い。それらの梵語は異なっ
ていたのだろうか(29)。
 ほかにアティシャ作『菩提道灯難語釈 (BMP) 』の蔵訳にもこう
ある。
bud med kyi nyes dmigs kyang theg pa chen po dang theg pa
chung ba'i mdo dang lung rnams su blta bar bya ste/(BMP,
D261a1, P300b8. Cf.望月訳[2015:86]:「女性の過失も大乗と小乗の経
典や聖典を見るべきである」)

ここでは“theg pa chung ngu”ではなくて“theg pa chung ba”と


あるが、意味は同じである。
 しかしアティシャの著作の現存蔵訳は、その扱いに注意が必要か

47
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

と思われる。つまり、アティシャ作の RKU や BMP の梵語で筆記


されたテキストの有無の問題は措くとして、彼が自身の梵語テキス
ト又は梵語による講説をチベット人 Tshul khrims rgyal ba 等と相
談しつつチベット語に翻訳する際に、その蔵訳文のなかに、チベッ
ト人の意見を容れてチベットで古くから用いられている“theg pa
chung ngu/theg pa chung ba”という蔵語を採用した可能性も考え
られなくもない(30) 。よって、アティシャの著作の現存蔵訳におけ
る用例をもって、「梵語“hīnayāna”は“theg pa chung ngu”と翻
訳され得る、よって『法性不動経』におけるその蔵訳語の存在は同
経が梵語原典からの蔵訳であることと矛盾しない」と論じるには、
より慎重であるべきだろう。今後、アティシャの著作のほかに、梵
語からの蔵訳本のなかに“theg pa chung ngu”という訳語の存在
を見出してゆく必要があるだろう。

3.2“mdo sde bcu gnyis”について


 本経(DAS Ⅲ-e)において、文殊は世尊に対して、
世尊よ、これらの法に関する5選択肢について、[世尊の教え
が人々に]種々異なったものとして現れることの同喩は、どの
ようなものなのですか(31)。
と質問する。その問いへの世尊の回答は、本経 (DAS Ⅳ-e) に3種
の比喩をもって示されるが、そのうち《比喩3》「わたし (世尊ブ
ッダ) が説いた十二部経と、法に関する5選択肢はどのようなもの

であるかという点に関する比喩」は、こう説明されている。
DAS Ⅳ-e, D173a7-b2:ngas bshad pa'i mdo sde bcu gnyis
dang chos la brtag pa'i mtha' lnga ji lta bu yin pa'i dpe ni rgya
mtsho lasa) phyogs bzhi nas chu 'bab pas bstan te/ phyogs
bzhi nas chu bo bzhi yan lag mang po dang bcas pa phyogs
bzhi nas bab kyang gzhi rgya mtsho chen po lasb) bab par
'dra basc) rgya mtsho ni phyogs bzhi nas 'bab pa'i chu thams

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

cad kyi gzhi yin no// spyi yin no// de bzhin du chos la brtag
pa'i mtha' lnga tha dad kyang ngas mdo sde bcu gnyis bshad
pa la rtend) pa yin pas mdo sde bcu gnyis ni gzhi yin no//
spyi yin no// 〔a) las FLMSTY, la CDHJNPU. b) rgya mtsho chen
po las CDFHJLMNPSTU, rgya mtsho las Y. c) 'dra bas CDFJPU, 'du bas

HLMNTY, 'dus pas S. d)rten CDJPU, brten FHLMNY, bsten ST〕

その比喩は、《大海から四方 (東南西北) より河が流れ下るこ


と》によって示される。すなわち、四方より四河および多くの
支流が四方より流れ下っていても、[それらはすべて]所依
である大海から(gzhi rgya mtsho chen po las)流れ下る点で等し
いから、大海は四方より流れ下るすべての河の所依(chu thams
cad kyi gzhi) であり、共通のものである。同じように、法に関

する5選択肢は種々異なっていても、[それらは]わたし (世
尊ブッダ) が十二部経を説いたのに依存するから、十二部経が

所依(gzhi)であり、共通のものである。
 上の蔵文破線部の助辞“las”には“la”の異読があり、それを採
れば「大海に (rgya mtsho la) 四方 (東南西北) より河が流れ下る」
となり、意味は理解しやすい。一般に大海(ocean)は、およそそこ
に諸河川が流れ下るところの容器の如きものであって、大海から諸
河川が流れ下ることはないからである(32) 。しかし上では大海と四
河の比喩は、所依 (gzhi) である世尊ブッダ所説の十二部経と、そ
れに依存して生じてくる5種の見解 (法に関する5選択肢) との関係
の喩えとして用いられているから、比喩と主題 (dpe don)の点から
みて、今は「大海から四河が流れ下る」と理解せざるを得ない(33)。
 さて、上の一節において今問題の「漢文蔵訳」の点から注目
されるのは、下線部である。蔵訳“ngas bshad pa'i mdo sde bcu
gnyis”は、そのまま和訳すれば「わたしが説いた十二の経」とな
る。その「十二の経」とは般若経等の具体的な十二の経典のことで
はなくて、文脈からみるなら、ここではむしろ“法に関する5選択

49
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

肢”のような各派の教義的な諸見解の共通の拠り所となるところの
「世尊ブッダ所説の教法」つまり「世尊の説法」に重点があるのだ
と思われる。
 そこで「十二」という数に注目するなら、世尊ブッダの教法を
十二に分類した「十二分教 (dvādaś ān

gadharmapravacana)」が連想

される。十二分教 (Mahāvyutpatti, Nos.1267~1278) の第一分に“sūtra


(契経/修多羅)”があげられるが、その“sūtra”は元は「端的に

法の内容を簡略にまとめた聖典中の散文」を意味していて(34) 、そ
れは例えば『法華経』というときの「経 (sūtra)」とは意味が異な
る。インドでは、十二分教のなかに“sūtra”が含まれているため
もあってか、“sūtra”乃至“upadeśa”の十二の教法を「十二(部)
経 *dvādaśa-(an

ga-)sūtra」と括る伝統はないようである。一方、漢
訳では十二の教法が「十二部経」と翻訳されるのは稀ではない。前
田[1964:197, n.3]によると、旧訳では多く「十二部経」の訳語を
用いたが、玄奘にいたって「十二分教」と改訳したとされる。
 文脈からみて、ここの“mdo sde bcu gnyis”は、およそそれに
依存して諸見解が生じてくるところの所依で、世尊の説法と言って
よいだろう。つまり、同じ世尊の所説 (十二部経) に依りながらも
人々の受けとめ方は様々で、そこから種々なる見解が生じてくるた
め、そうした世尊の説法が人々にとっての“共通の所依”と表現
されているのだと思われる。そうであれば、その蔵訳語“mdo sde
bcu gnyis”が、漢訳語“十二部経”を蔵訳したもの (「十二(bcu
gnyis)部(sde)経(mdo)」) であった可能性はあるだろう。

3.3 付随する問題
 以上、2例を検討しただけだが、それでも上の検討により、『デ
ンカルマ目録』にみられる『法性不動経』蔵訳の「漢文蔵訳」の伝
承を簡単に否定し去ることはできないとは言えるだろう。そこで
『デンカルマ目録』の伝承を信頼できるものとみるなら、むしろ本

50
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

経蔵訳奥書にみられる「ダーナシーラ/イェシェデ訳」の伝承のほ
うを否定することになる。しかしその伝承を直ちに否定するには問
題もある。

3.3.1 ダーナシーラの寸評について
 『法性不動経』蔵訳奥書には「インドの和尚ダーナシーラと比丘
イェシェデが翻訳、校閲し決択した」と記した後に、ダーナシーラ
による本経の寸評が、伝聞(skad)として、こう記されている。
ダーナシーラ御前は「[三]蔵のなかの論書と中観の見解の
種々異なったものはこの (経) より発した」とおっしゃるよう
である(35)。
本経の特徴的な所説として、すでに本節 (3.1) に記したように、
一切法のあり方をめぐる ①「一切法は顕現する通りに存在する」
乃至 ⑤「一切法は本性によって不生……無始時来、戯論は浄化さ
れている」という5種の哲学的見解“法に関する5選択肢”があ
る。上の伝聞は、ダーナシーラは『法性不動経』の所説をふまえて、
「この経にはアビダルマ的見解、唯識説、中観説の元になったとこ
ろの仏説が示されている」とコメントした、とするのだろう。
 本経蔵訳奥書に記されているダーナシーラの寸評は、彼が実際に
イェシェデと共に本経の梵語テキストをチベット語に翻訳した際に
本経についての感想を述べたという印象を与えなくもない。上の
“伝聞”は、本経の諸版本(CDHJNPU)にみられるもので、諸写本
(FLMST) 及びヤクトゥク所引本 (Y) にはみられない。そのこと

は上の“ダーナシーラの寸評”の虚偽性を直ちに意味するわけでは
ないが、しかし又その“伝聞”が本経蔵訳が「ダーナシーラ/イェ
シェデによる梵語テキストからの翻訳」であることを保証するわけ
でもないだろう。これは想像の範囲を出ないことだが、ダーナシー
ラ/イェシェデは本経の“翻訳者”ではないとしても校閲など本経
との何らかの関わりをもち、その際にダーナシーラの洩らした言葉

51
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

が“伝聞”として後代に伝えられたのかもしれない。

3.3.2 インド資料における言及と引用について
 『法性不動経』の現存蔵訳が漢訳テキストと梵語テキストのどち
らに基づいたものであるにせよ、本経はもとはインドで成立した経
典であったかと思われるので、次にそのことを検討してみよう。
 この問題を考える場合の重要な手掛かりとなるのは、インドの他
書における本経の引用もしくは言及である。そのうち“本経への言
及”に関しては、すでに第2節 (2.1) で記したように、アティシ
ャは『菩提道灯難語釈』において、正理によって一切法不生を論証
した後に、聖教によってそれを示すが、その際にその聖教の1つと
して『法性不動経』に言及する。周知のように『菩提道灯』『同難
語釈』は、アティシャが西チベットのグゲ国王チャンチュプ・ウー
(Byang chub 'od)に要請されてチベットで著しチベット語に翻訳さ

れたもので、そこに当時のチベットの宗教事情を勘案した記述がみ
られるとしても(36) 、しかしそこに説かれているのは基本的にイン
ドで形成されたアティシャの教学に他ならないだろう。もっとも、
本経の名に言及するインド人の著作はアティシャの『菩提道灯難語
釈』が確認できるだけというのも心もとないが、ともあれ同書に本
経が言及されているということは、アティシャの時代のインドにお
いて本経が仏説として伝承されていた可能性が大であることを示す
だろう(37)。
 つぎに“本経の引用”に関しては、現在のところ筆者は、蔵訳と
してのみ現存する次の1作品における引用を確認できているだけで
ある。
Avadhūti'i zhabs(Avadhūti-pāda)作『一切法無住を説く真実偈
の半分の注釈 (真実半偈注 TAGVと略) 』Chos thams cad rab tu
mi gnas par ston pa'i de kho na nyid tshigs su bcad pa phyed kyi 'grel
pa.(38)

52
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

書名にある「真実偈の半分 (de kho na nyid tshigs su bcad pa phyed/


*tattvārdhagāthā)」というのは、本書冒頭にある、
rgyu skyes ye shes glang po che//
'joms byed seng ge bdag gi gzhung//
因より生じたものと智なる象を
打ち負かすのは獅子なる我が宗義。
という、一切法無住なる真実 (de kho na nyid/tattva) を説く4句よ
りなる偈のうちの2句 (1偈の半分phyed/ardha) のことで、これは
その半偈を注解する作品である。上の半偈の内容を注釈によって語
を補って解説すると、「因より生じる依他起と無二智なる円成実の
真実有を説く象つまり瑜伽行派を打ち負かすのは、獅子つまり無住
中観なる我が宗義」となる。つまり無住中観の立場から瑜伽行派の
立場を批判する書である(39)。
 この『真実半偈注』は、はじめに瑜伽行派の教義を略説し、それ
が外界実在論者の教義よりも勝れていることを示した後に、
何により[象の如き瑜伽行派を]打ち負かすのかというと、無
住を論じる中観という獅子の如きものの聖教と正理の真に恐ろ
しい牙によって打ち負かすからである。聖教はどのようなもの
かというと、ここで経典 (『法性不動経』) に、「文殊よ、おまえ
は……」と説かれている(40)。
とし、『法性不動経』を無住中観 (Rab tu mi gnas par smra ba'i dBu
ma)の典拠として引用する。所引の経文(DAS Ⅳ-b, D172a5-b4)は、

上にも示した一切法のあり方をめぐる本経に特徴的な“法に関す
る5選択肢”についての文殊の問い (「これらの法に関する5選択肢
のすべてが正しいのですか。又はあるものは正しく、あるものは正しくない
(41)
のですか」) に対する世尊の回答〔Ⅳ-b ①~⑤〕にあたる 。ちな
みに、その『真実半偈注』所引の経文には上で検討した“theg pa
chung ngu”と“mdo de bcu gnyis”に言及する箇所が含まれてお
らず、『真実半偈注』所引経文からは『法性不動経』の漢文重訳の

53
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

問題を判断する手掛かりは得られない。
 その重訳の問題は措くとして、大蔵経所収のAvadhūti-pāda作
『真実半偈注』に本経『法性不動経』の経文が引用されていること
は、本経がまぎれもなくインド産の経典であることの決定的な証拠
になりそうだが、しかし実は『真実半偈注』はその素性に疑問の
余地のない作品ではない。すなわち、一般にインド語テキストか
らの蔵訳の場合、作品冒頭にインド語タイトル (rGya gar skad du/
~) とチベット語タイトル (Bod skad du/~) が記されているが、本

書『真実半偈注』の場合、それらを欠いていて、“sangs rgyas la
phyag 'tshal lo// ”という翻訳者の礼拝 ('gyur phyag) から始まっ
ており(42)、そのインド語タイトルは知られない(43)。
 又本書の蔵訳奥書に、著者名 dPal Avadhūti'i zhabs(Śrī Avadhūti-
pāda) は記されているが、翻訳者名が記されていない点も気にな

る。周知のように“Avadhūti-pāda/Avadhūti-pa”は有名なアドヴァ
ヤヴァジュラ(Advayavajra)の別名でもある。そこで、チベット大
蔵経において本書『真実半偈注』(Toh No.2296, Ota No.3144) の前後
に収録されているのは gNyis med rdo rje (Advayavajra) の2作品
『四印契優波提舎』『不覚覚作』で、しかも後述のように所説内容
の点からその2作品の中間に置かれている本書がアドヴァヤヴァジ
ュラの作であるのは不自然ではないのだが、しかしながら『四印契
優波提舎』『不覚覚作』の2作品の蔵訳本にはインド語タイトル/
チベット語タイトル/著者名/翻訳者名が明記されているのに対し
て、『真実半偈注』の蔵訳の場合、インド語タイトルも翻訳者名も
伝えられておらず(44) 、それが元々インド語で著された作品の翻訳
であるかは即断できない。
 アドヴァヤヴァジュラ作『真理の宝環 (Tattvaratnāvalī)』が如幻中
観と無住中観を論じるのはよく知られている。その彼が如幻・無住
中観に近い見解を説く『法性不動経』を聖教として引用する『真実
半偈注』の著者であるのは合理的と言えるし、そして彼は『法性不

54
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

動経』も参考にしつつ『真理の宝環』を著したと論じるのは、魅力
的でもある。しかし『真実半偈注』は、その所説の点で『真理の
宝環』との類似性のゆえに、むしろ、チベットにおいてAvadhūti-
pa(Advayavajra)に仮託して著された作品の可能性もなくはない(45)。
もっとも、『真実半偈注』を措くなら、アティシャの『菩提道灯難
語釈』に『法性不動経』が言及されているため、アドヴァヤヴァジ
ュラが同経を見ていた可能性は否定できないだろう。

4 特徴的な所説
 特徴的な所説として、本経 (DAS) は、色等の一切法の存在の仕
方に関する5種の見解“法に関する5選択肢(chos la brtag pa'i mtha'
lnga)”を設けて、それを種々の観点から解説する。その5種の見

解は、まず世尊によって略説されるが (DAS Ⅱ)、それの比較的詳


しい解説は、文殊の問いに対する世尊の回答 (DAS Ⅳ-b) にみられ
るので、その部分を和訳しておく。

4.1『法性不動経』
“法に関する5選択肢”和訳(46)
 〔Ⅳ-b〕文殊よ、おまえは、「これらの法に関する5選択肢のす
べてが正しいのですか。又はあるものは正しく、あるものは正しく
ないのですか」と言う。これらの法に関する5選択肢もすべて正し
いものと把握すべきである。すなわち、①ある人々は、「“一切法
は顕現する通りに存在する”と、[世尊は]法を説く」とも考え
る。どうしてかというと、四大種とそれより成るもの (大種所造)
は、言説として、幻の如く、存在するからである。
 ②ある人々は、「“一切法は唯心をのぞいて他に存在しない”と、
[世尊は]法を説く」とも考える。どうしてかというと、法を種々
に施設することは“恒常で永遠なるもの”と分別されたものの潜在
印象 (習気) を心のなかに置くが、その力により一切時に我と法と
して顕現するものは、単に言説として顕現しても、実際には無自性

55
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

である。唯心のほかに存在しないからである。
 ③ある人々は、「“心そのものさえも不生である”と、[世尊は]
われわれに法を説く」とも考える。どうしてかというと、この
(心) には、形態、又は色彩、又は三時、又は辺と中間が存在しな

いからである。
 ④ある人々は、「“一切法は幻の如く顕現し、幻の如く成立しな
い”と、[世尊は]法を説く」とも考える。どうしてかというと、
一切法は因縁により生じ起こるからである。
 ⑤ある人々は、「“一切法は本性によって不生、自性によって不住
で、業と所作の極端のすべてを離れていて、分別知と無分別知の
対象を超えており、無始時来、戯論は浄化されている”と、[世尊
は]法を説く」とも考える。どうしてかというと、一切法の無倒錯
の自性はそれであるからである。
 〔Ⅳ-b 1 〕文殊よ又、あるものは正しくないとも把握される。す
なわち、少しばかり学習し信解は劣っており知恵の弱い人々による
認識である。あるものは学習と信解と知恵が中くらいの人々による
認識である。残余のものは正しい、つまり最高の認識である。

4.1.1 上の経文うち最後の〔Ⅳ-b1〕を除いた経文〔Ⅳ-b〕が、第
3節 (3.3.2) で扱った『真実半偈注』に聖教 (lung/āgama) とし
て引用される(47)。
 上の経文では、初めに〔Ⅳ-b〕において文殊の質問に答えて5種
の見解①~⑤はすべて正しい、つまりそれらの見解はすべて謂わば
修習次第という点から意味があるとしながらも、終わりの部分〔Ⅳ
-b1〕では、それらの5種を、“知恵の弱い人の認識”と“知恵の中
くらいの人の認識”と“知恵の優れた人の認識”に、三分する。5
種のうち、①物質的存在も顕現するままに認める見解が知恵の弱い
人々の、②~④唯心的乃至如幻中観的見解が知恵の中くらいの人々
の、そして⑤無住中観的見解が知恵の優れた人々の認識、となろう

56
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

か。本経 (DAS Ⅳ-e) に「これらの5選択肢により解脱を等しく得


るということの譬喩」の説明に、「[宝石に]親しむ行為を行なう
者は、[その行為を]勝れて積集した人々と、大いに積集した人々
と、少しばかり積集した人々に、宝石の必要性も三段階に生じる
ように、正しく無倒錯なる[諸仏の行境](見解⑤)と、残余の4つ
(見解①~④) すべてを、順々に考察する大乗と小乗の三次第 (theg
(48)
pa che chung rim pa gsum)も、譬喩の次第の如くである」とある 。
下線部の「三次第」が、“知恵の優れた人/知恵の中くらいの人/
知恵の弱い人”に当たるのだろうか。その場合“知恵の弱い人”で
ある経文①の“ある人々”は小乗教徒となりそうである。

4.2 『法性不動経』の5種の見解の真意について
 『法性不動経』に説かれる上の経文①~⑤は、瑜伽行中観派のシ
ャーンタラクシタ/カマラシーラの著作にみられる教判的な“修習
の次第”を連想させる。すなわち、シャーンタラクシタ/カマラシ
ーラは、『大日経』住心品に説かれる菩提心思想と同経の所謂“菩
提心句”、そしてそれに影響を受けたジュニャーナガルバの『瑜伽
修習道』に説かれる瑜伽次第という思想的流れの中で、インド仏教
史において展開した声聞部派ないし中観派の理論的教理を階層的
に統合し、それらの教理を順次に対象とする瞑想を“修習の次第”
として体系化した(49) 。シャーンタラクシタの『中観荘厳論』等の
当該箇所に具体的な学派名は記されていないが、理解しやすくする
ためにその次第に学派名を結びつけて記すなら、シャーンタラクシ
タが『中観荘厳論』(MAV ad k.92) に引用する『入楞伽経』の3偈
(Laṅkāvatāra, Ⅹ.256~258) を、カマラシーラは『中観荘厳難語釈』、
『修習次第』初篇において、「ヨーガ行者は、毘婆沙師や経量部の
声聞部派の外界実在論を有相唯識派 (形象真実派) の“唯心”によ
ってのり越える、それを無相唯識派 (形象虚偽派) の“無二知”に
よってのり越える、それを中観派の“一切法無自性”によっての

57
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

り越えて“戯論寂滅”に到る」と解説する(50) 。これに類した所説
はカマラシーラの『修習次第』中篇・後篇にもみられるし(51) 、さ
らにそれらの所説をうけて、同じく瑜伽行中観派のハリバドラの
『現観荘厳注 (AAV) 』第5章に所謂“四瑜伽地 (rnal 'byor gyi sa
(52)
bzhi)”が説かれることになる 。
 『法性不動経』の経文①~⑤に5種の見解が教判的に並べられて
いるのは、これらの論師たちの所説と無関係ではないだろう。そ
の点でヤクトゥク・サンギェーペルがそのうち特にハリバドラの
AAV“四瑜伽地”を解説する際に本経の経文を教証として引用し
ているのが注目される(53) 。もっともヤクトゥク説は経文の理解の
仕方の点で問題があるのだが、以下では、ヤクトゥク説を紹介しつ
つ、主にカマラシーラ等の所説を参考にして本経の簡潔な経文の真
意を探ることにしたい。

4.2.1 ヤクトゥクは、まずハリバドラのAAV(A90,4-6)の「その
うち“生・滅を欠くゆえ我 (アートマン) は存在しない”と修習し
つつ、我への執着を断じてから、それを離れた縁起し生・滅の性
質をもつ蘊等を正しく認識する」という一節では、声聞部派――特
に経量部――の教義によって異教徒や仏教内部の正量部等の主張す
る我 (アートマン/プドガラ) を否定して人無我を説きつつ人我を欠
いた蘊・界・処の実在が説かれているとし(54) 、それの教証として
『法性不動経』の経文、
①ある人々は、「“一切法は顕現する通りに存在する”と、[世
尊は]法を説く」とも考える。
を引用する。よってヤクトゥクはその経文①を、経量部等の声聞部
派の外界実在論を示すものと捉えていたことになる。
 上の見解に関して前節 (4.1) に和訳した経文①後半部に「ど
うしてかというと、四大種とそれより成るもの (大種所造) は、言
説として、幻の如く、存在するから」という中観派の世俗説を思

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

わせる理由が説かれているが、それは文脈からみて、「①の“ある
人々”自身が自説の理由を述べたもの」ではなくて、「世尊が“あ
る人々”の外界実在論的見解を正しいとみなすときの理由を解説し
たもの」のように思われる。よって、上の経文①の“ある人々”自
身は、その見解が経文②の唯心説の前に置かれている点からみても、
ヤクトゥクのいう経量部等の学派配当の問題を措くとして、ともあ
れ小乗の外界実在論者となりそうである。
 『法性不動経』の経文は簡潔なもので、これ以上その意図を詮索
しても大した意味はない。経文①で注目されるのは、むしろ、「一
切法は顕現する通りに存在する(ji ltar snang ba bzhin du yod)」や、
「言説として、幻の如く、存在する (tha snyad du sgyu ma bzhin du
yod (55) )」という文言で、それらは、用語の点でジュニャーナガル

バの『二諦分別論』に「顕現する通りのもの、これこそが世俗であ
る(ji ltar snang ba 'di kho na// kun rdzob)」とあるのや(56)、カマラ
シーラの『中観明』に「顕現する通りのもの(ji ltar snang ba)で、
幻の如く、依存して生じるところの事物が、依他起性である。それ
も、世俗として、幻の如く、他の縁の力によって生じる (kun rdzob
(57)
tu sgyu ma bzhin du …… skye)」とあるのに近い 。経文①は、この
ような中観論書の所説を参考にして外界実在論を示し、そのあるべ
き意図を中観派の世俗説の立場から解説したもののようにみえる。

4.2.2 次に、ヤクトゥクは、AAV(A90,6-8)の「その後に“青と
それの知の2つは同時に認識されるのが決定しているから、これは
唯心にほかならないのであって外界対象は存在しない”と作意しつ
つ、能取形象をもつ心への執着は捨てずに、外界対象への執着を断
じる」という一節では、唯心形象真実派の教義によって声聞部派の
外界実在論を否定して一切法を心の現われとする唯心説が説かれて
いるとし(58)、それの教証として、
②ある人々は、「“一切法は唯心をのぞいて他に存在しない”と、

59
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

[世尊は]法を説く」とも考える。
という『法性不動経』の経文を引用する。
 さらにヤクトゥクは、続くAAV (A90,8-10) の一節「その後に
“所取が無ければ能取は無い”と熟考しつつ、その能取形象を相と
する唯識性さえも断じてから、“ただ無二智だけは真実有の本質を
もつ”と決定する」では、唯心形象虚偽派の教義によって形象真実
説を否定して、所取・能取の二として顕現することのない無二智の
真実有が説かれているとし(59)、そしてそれの教証として、
③ある人々は、「“心そのものさえも不生である”と、[世尊
は]われわれに法を説く」とも考える。
という『法性不動経』の経文を引用する。
 このようにヤクトゥクによると、経文②③は、順次に唯心派のな
かの形象真実派と虚偽派の見解を示すことになるが、しかし特に
経文③の理解の仕方には問題がある。上の経文は簡潔だが、前節
(4.1) に訳出した経文③後半部では、上の所引経文に示される見

解「心そのものさえも不生」の理由が、世尊の発言として、「この
(心) には、形態、又は色彩、又は三時、又は辺と中間が存在しな

いから」と説かれている。そのうち「心には形態又は色彩がない」
という一節を、「心・知に顕われる形態や色彩は虚偽なるものであ
るゆえ有形象知の真実有は否定される」という意味にとるなら、そ
れを形象虚偽派説とみるヤクトゥクの学派配当の仕方も理解できな
くもない。しかしながら「心には三時がない」という経文は、カ
マラシーラの『修習次第』を参考にすると、「過去の心も認識さ
れず、未来と現在の心も認識されない」を意味するし(60) 、さらに
「心には辺 (mtha'/anta) と中間 (dbus/madhya) がない」という経
文も、シャーンタラクシタ/カマラシーラが『聖出世間品 (Ārya-
Lokottaraparivarta)』の経文―「あァ、勝者子よ、さらに、三界に

属するものは唯心であると悟入し、そしてその心も辺と中間がない
と悟入する」―に加えた注釈によると、「生・滅(utpādabhaṅga)な

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

る二辺と、住 (sthiti) なる中間がない」を意味するから(61)、『法性


不動経』の経文③では心の真実有を否定する中観的立場が示されて
いるとみるのが適当であろう。
 このような「一切法は唯心」と捉えた上で「心そのものも不生で
真実無」とする唯心から中観へと進む次第が『大日経』の“菩提心
句”に注解したジュニャーナガルバの『瑜伽修習道』、さらにシャ
ーンタラクシタ/カマラシーラの著作に説かれるのは、よく知られ
ている(62)。それゆえ、『法性不動経』経文③に対してヤクトゥクが
唯心形象虚偽派を配当する仕方には、やはり無理があると思われる
し、それと同時に、経文②が唯心説であるのは間違いないとしても、
それを特に唯心形象真実説とみなす必要があるのかも疑問である。

4.2.3 次に、AAV (A90,10-15) の「その後に“その (無二智) さ


えも縁起のゆえに幻の如く無自性で、真実には一向に有・無等と捉
えられる自性を離れている”と修習しつつ、修習が完成したとき、
ある人々の宝石・銀等の知のように錯乱の因相がすべて断ぜられて
いる、[因縁生の多様なものが]如幻性のものとして顕現する、無
分別にして、自内証されるべきところの知が、何とかして生じたと
きに、ヨーガ行者は所知障を正しく断じる」という最後の一節に関
して、ヤクトゥクは、『般若注・中本』でそれを中観派一般の立場
とするのとは異なり、その後に著した『般若注・広本』では中観派
を自立派と帰謬派に二分して、そこでは、特に中観自立派の教義に
よって形象虚偽派のいう無二智の真実有を否定して、自立派の果
(63)
('bras bu)が説かれているとし 、そしてそれの教証として、
④ある人々は、「“一切法は幻の如く顕現し、幻の如く成立しな
い”と、[世尊は]法を説く」とも考える。
という経文を引用するから、『広本』によると『法性不動経』の経
文④は中観自立派説となる。ヤクトゥク説の是非は後述することと
して、“幻の如し”という比喩は仏典ではありふれたものだが、し

61
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

かし経文④がそれを一つの学派的教義の説く“真実 (tattva) ”の
ごとく独立させて提示するのは、いわゆる中観如幻派を連想させる。
 さらにヤクトゥクは『広本』では、上の自立派説を中観帰謬派の
教義によって批判するとし、AAVの本文を離れて、その帰謬派説
を、
〔宗〕蘊等は、本性によって不生、自性によって不住で、業と
所作の極端のすべてを離れており、分別と無分別の対象を超え
ているため、無始以来、有・無等の戯論がすべて浄化されている。
〔因〕縁起のゆえに。
〔喩〕例えば虚空の如し(64)。
と示し、そしてその教証として、『法性不動経』の経文、
⑤ある人々は、「“一切法は本性によって不生、自性によって不
住で、業と所作の極端のすべてを離れていて、分別知と無分別
知の対象を超えており、無始時来、戯論は浄化されている”と、
[世尊は]法を説く」とも考える。
を引用する。上の論証式破線部はこの経文⑤に基づいて構成された
ものに他ならない。換言するなら、AAVの著者が自立派 (瑜伽行中
(65)
観派) のハリバドラであれば当然ともいえるが 、AAVに帰謬派
(66)
の立場は説かれていないことになる 。
 このようにヤクトゥク『広本』によると、『法性不動経』の経文
④⑤は、順次に中観派のなかの自立派と帰謬派の見解を示すことに
なるが、しかしそれらの経文の学派配当として自立派/帰謬派を持
ち出す必要があるとも思えない。すなわち、ヤクトゥクによると、
見解 (lta ba) の点での両派の差異は、縁起する一切法を、「如幻、
真実無自性」と捉えるか、又は「如虚空、離戯論」と捉えるかとい
う点にあるのだろう(67) 。しかし、経文⑤に出ていない“如虚空”
は措くなら、ヤクトゥクのいうような、ヨーガ行者は「一切法は幻
の如く勝義不生」と修習してからさらに「一切法は有・無等の一切
の戯論を離れている」と修習するという、このような修習の次第の

62
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

論じ方は、カマラシーラの『修習次第』にも見出せるし(68) 、自立
派論書においてさほど珍しいものでもない。その次第は今問題の自
立派ハリバドラのAAV (A90,10-12) の文言“pratītyasamutpannatvān
māyāvan niḥsvabhāvaṃ”と、“tatvato 'pagataikānta-bhāvābhāvādi-
parāmarśa-rūpam”からも読み取ることができるだろう。実際ヤク
トゥク自身、『広本』に先行する『中本』では、上のAAV本文へ
の注釈において、「虚偽派の言う無二智も縁起のゆえに幻の如く無
自性」、そして「それゆえ (つまり形象虚偽派以下の言う真実有なるも
のは否定されるから)、この縁起する多様なものは、真実には一向に

有・無・二・非二なるものと捉えられる自性を離れている。縁起の
ゆえに。虚空の如し」「真実には戯論の四極端を離れている」等を、
中観派一般の立場として述べているのだ(69) 。こうしてみると『法
性不動経』の経文④⑤の内容は自立派の著作に見出し得ると言って
よいだろう。
 そこで、経文④⑤の特徴が「一切法は幻の如し」「一切法は戯論
を離れている」という点にあるとするなら、それらの経文④⑤に示
される見解は、むしろ、後代のアドヴァヤヴァジュラ作『真理の宝
環』等のいう中観派の別の区分――勝義の捉え方の点での区分――
であるところの如幻派/無住派の見解に近いとみることができる。
この点で、前節 (3.3.2) で言及したように『真実半偈注』におい
て『法性不動経』の経文が“無住中観(Rab tu mi gnas par smra ba'i
dBu ma)”の典拠として引用されているのは、その根拠の一つとな

り得るだろう。ヤクトゥクの『広本』が『法性不動経』の経文④⑤
を自立派/帰謬派に配当した理由は推測できなくもないが(70) 、い
ずれにせよ、もし経文④⑤に学派を配当するのであれば、後代に言
われるところの如幻派/無住派の2区分とするのが適当と思われる。

4.2.4 以上をまとめるなら、ヤクトゥクは、AAV“四瑜伽地”
の本文は、順次に、異教徒等のアートマン (我) 論を否定する経量

63
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

部等の外界実在論者の教義、それを否定する唯心形象真実派の教義、
それを否定する唯心形象虚偽派の教義、それを否定する中観自立派
の教義を示すとし、さらにAAV本文を離れて自立派の教義を中観
帰謬派の教義によって乗り越えるとして、これらの5段階に順次に
『法性不動経』の経文①~⑤を対応させた。しかし、AAV本文に
順じて経量部ないし帰謬派の5派の教義と、『法性不動経』の経文
①~⑤に説かれる5種の見解を結びつけるという、ヤクトゥクの学
派配当の仕方は、截然と配分されていて魅力的ではあっても、それ
は経文①~⑤の真意を捉えていないだろう。
 一方、シャーンタラクシタの『中観荘厳論』やカマラシーラの
『修習次第』を参照して簡潔な経文①~⑤の真意を探ってみるなら、
まず経文①の“ある人々”の見解は、一切法を顕現するままに認め
る点で声聞部派の外界実在論に近いが、経文①において世尊がその
見解の意図を「物質的存在は、顕現する通りに、言説として、幻の
如く、存在する」という点に求めているのは、中観派の世俗説を連
想させる。経文②は、そうした物質的存在を含む一切法は心の現れ
として、それを心のなかにおさめとる唯心説である。経文③は、そ
の心もまた幻の如く真実不生として、唯心説を批判する中観説であ
ろう。経文④は、心が如幻であるように一切法も如幻で真実無とし、
最後の経文⑤は、一切法は有・無等の分別によって捉えることので
きない離戯論とするが、これらの経文④⑤の所説は、中観説の中で
も後代のアドヴァヤヴァジュラの『真理の宝環』等に言われる如幻
派の説と無住派の説に近いとみることができる。
 最後に、経文①~⑤と類似した所説がシャーンタラクシタ/カマ
ラシーラの著作そして彼らに先行すると思われるジュニャーナガル
バの著作に見出されることは上で指摘したが、その場合に問題と
なるのは、『法性不動経』は何時ころ成立したのかという点である。
この点、明確なことは無論わからないが、『法性不動経』のような
マイナーな経典がジュニャーナガルバやシャーンタラクシタ/カマ

64
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

ラシーラを思想的にリードしたというより、同経の経文①~⑤に示
される5種の見解は、彼等の著作から抽出され箇条書き的に整理さ
れたものである可能性のほうが大きいと思われる。

おわりに
 上において『法性不動経』の経名と漢文蔵訳の問題、そして同経
の特徴的な所説を検討した。これまで検討してきたことから『法性
不動経』のインド・チベットにおける成立伝播はどのように説明す
ることができるだろうか。もとより資料は限定されているため確実
なことを知ることは出来ず想像の範囲を出ない点もあるが、今後関
係資料の発掘収集に期待しつつ、以下に、本経の現存蔵訳を「漢文
蔵訳」とみたときの本経の成立、チベットへの伝播と定着について
見通しを記すこともって、本稿の結びとする。
○『法性不動経』はインドで成立したと考えられる。『デンカルマ
目録』に本経の蔵訳が記載されているため、インドにおいて本経
は8世紀末までには成立していたことになる。内容からみて、本
経はジュニャーナガルバそして特にシャーンタラクシタ/カマラ
シーラの影響を受けている可能性がある。その場合、本経の成立
はせいぜい8世紀半ばとなる。
○インドにおいてその後も本経の伝承は絶えることなく、11世紀の
アティシャは本経を聖教として認識していた。第3節で扱った
『真実半偈注』がアティシャの同時代人であるアドヴァヤヴァジ
ュラの真作であるなら、彼は本経の影響も受けつつ有名な『真理
の宝環』を著したことになる。
○『デンカルマ目録』にしたがい本経の現存蔵訳を「漢文蔵訳」と
みるとき、本経は800年頃までにはインドの外に伝えられ、はじ
めは漢訳されたことになる。それは、中国本土においてではなく
て、チベットにおいてであったか。この点で敦煌出土資料のなか
に本経の漢訳が確認できれば好都合だが、現在確認できていない。

65
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

○その漢訳されたテキストがチベット語に翻訳された。この場合の
翻訳者は、まずダーナシーラ/イェシェデではない。なお、この
蔵訳の時点ですでに本経の梵語タイトルは不明となっており、そ
の結果、のちに2種の蔵訳タイトルに基づいて2種の不完全な還
梵が試みられることとなった。そのうちの1つが現在、本経の梵
語タイトルとして一般に用いられている。
○チベットにおいて漢訳からチベット語に翻訳された蔵訳本は、
『デンカルマ目録』に「漢文蔵訳」と記載されることになった。
○現存蔵訳本にみられる「ダーナシーラ/イェシェデ訳」とする伝
承は、無名のチベット人による翻訳が大物翻訳師の名を借りて後
代に伝えられたか、又はダーナシーラ/イェシェデが実際に蔵訳
本の校閲等、本経蔵訳本に何らかの関わりをもったことによるも
のか。後者の場合、ダーナシーラの洩らした寸評が“伝聞”とし
て後代に伝えられたことになる。
○その伝承をふまえて後にカンギュル所収本の奥書に「ダーナシー
ラ/イェシェデ訳」と記されるとともにダーナシーラの寸評も書
き留められた。ただし、その寸評はカンギュル諸版本奥書には記
されているが、カンギュル諸写本及びヤクトゥク所引本の奥書に
はみられない。
○チベットでは前伝期の本経蔵訳が後伝期にも存続し、12世紀前半
にガムポパ・ソナムリンチェン (1079-1153) はその一部の経文を
自著に引用している。
○その後、13世紀後半のチョムデン・リクレル (1227-1305) は、本
経を“素性の怪しい経典”とみなしていたようである。彼の示す
経名は現存蔵訳本に確認できるもので、彼は実際に本経の蔵訳を
見ていたように思えるが、その後、本経蔵訳の所在は不明となっ
たのか、プトゥン (1290-1364) は14世紀前半に著した『仏教史』
に本経の名をあげるが、蔵訳本そのものを入手し得ずそれを見る
ことはできなかった。

66
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

○その後、ヤクトゥク・サンギェーペル (1350-1414) は14世紀末か


ら15世紀初めに著した自著において本経を重視した。特に『般若
注・広本』では、本経の表題から奥書に至るまで、ほぼ全経文を
引用している。
○ヤクトゥクの用いた蔵訳本の系統は不明だが、その後、本経の蔵
訳は、ツェルパ系ジャンサタム版等の版本カンギュル、テンパン
マ系ウランバートル写本/独立系プタク写本等の写本カンギュル
に収録されて、今日に至っている。

略号及び使用テキスト

AA Abhisamayālaṃkārakārikā. See AAV.


AAṬ(DK) Dharmakīrtiśrī(gSer gling pa):Abhisamayālaṃkāra-nāma-
  prajñāpāramitopadeśaśāstravṛtti-duravabodhāloka-nāma-ṭīkā.(Tib)
D:Toh No.3794, 140b1-254a7, P:Ota No.5192, 161a7-289a3.
AAṬ(DM) Dharmamitra:Abhisamayālaṃkārakārikāprajñāpāramito-
padeśaśāstra-ṭīkā-prasphuṭapadā-nāma.(Tib)D:Toh No.3796, 1b1-
110a3, P:Ota No.5194, 1-128a5.
AAV  Abhisamayālaṃkārakārikāśāstravṛtti.(Skt)ed. by Amano
[2000].(Tib)ed. by Amano[1975].
AKBh  Vasubandhu:Abhidharmakośabhāṣya.(Skt)ed.by Pradhan
[1967].(Tib)D:Toh No.4090,(Ku)26b1-(Khu)95a7, P:Ota
No.5591,(Gu)27b6-(Ngu)109a8.
ASBh  *Jinaputra:Abhidharmasamuccayabhāṣya.(Skt)ed. by Tatia
  [1976].(Tib)D : Toh No.4053, 1b-117a5, P : Ota No.5554,
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67
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

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Namdol[1985:73-117],D:Toh Nos.3916,4567, P:Ota No.5311.
BhKⅢ  Id.:BhāvanākramaⅢ.(Skt)Tucci[1971].(Tib)Namdol
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BMP  Dīpaṃkaraśrījñāna(Atiśa):Bodhimārgadīpapañjikā.(Tib)
D:Toh No.3948, 241a4-293a4, P:Ota No.5344, 277b6-339b2.
DAS  Ārya-Dharmatāsvabhāvaśūnyatācalapratisarvāloka-sūtra/ 'Phags
pa Chos nyid rang gi ngo bo stong pa nyid las mi g.yo bar tha dad
par thams cad la snang ba'i mdo.(Tib)D:Toh No.128, P:Ota
No.796.
MA  Śāntarakṣita:Madhyamakālaṃkārakārikā. See MAV.
MĀl  Kamalaśīla:Madhyamakāloka.(Tib)D:Toh No.3887,
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MAV  Śāntarakṣita:Madhyamakālaṃkāravṛtti.(Tib)(kā.)I:一
郷 Ichigō[1985], D:Toh No.3884, P:Ota No.5284;(vṛ.)I:
一郷 Ichigō[1985],D:Toh No.3885, P:Ota No.5285.
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  ed. by L.de la Vallée Poussin, BBⅣ, 1903-1913 (reprint:
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madhyamakopadeśa.(Tib)ed. by 宮崎[2007].Cf.Toh No.3930.
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TAGV  Avadhūti'i zhabs(Avadhūti-pāda):Chos thams cad rab tu
mi gnas par ston pa'i de kho na nyid tshigs su bcad pa phyed kyi 'grel
pa/ *Sarvadharmāpratiṣṭhāna-deśaka-Tattvārdha-gāthā-vṛtti.(Tib)

68
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

D:Toh No.2296, 214b5-226b3, P:Ota No.3144, 234a6-247a6.

Go Phar ṭīk  Go rams pa bSod nams seng ge:Shes rab kyi pha rol
tu phyin pa'i man ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan 'grel
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Grub mtha' kun shes  sTag tshang lo tsā ba Shes rab rin chen:
(rtsa ba)Grub mtha' kun shes nas mtha' bral sgrub pa zhes bya
ba'i bstan bcos;(rang 'grel)Grub mtha' kun shes nas mtha' bral
grub pa zhes bya ba'i bstan bcos rnams par bshad pa Legs bshad kyi
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mNgon rtogs ljon shing  rJe btsun Grags pa rgyal mtshan:rGyud
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sTag rnam thar kha skong  gTsang sTag tshang lo tsā ba Shes rab rin
chen rgyal mtshan dpal bzang po'i rnam par thar pa'i kha skong Yid
ches gser gyi ljon pa. sTag tshang lo tsā ba Shes rab rin chen gyi gsung
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bod yig dpe rnying zhib 'jug khang(百慈蔵文古籍研究室), 2007,
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Thar rgyan  sGam po pa bSod nams rin chen:Dam chos yid bzhin

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小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

nor bu Thar pa rin po che'i rgyan. The Jewel Ornament of Liberation,


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YṬīk(rgyas)  g.Yag phrug Sangs rgyas dpal:Śes rab kyi pha rol
tu phyin pa'i man ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan dang
de'i 'grel pa don gsal ba dang bcas pa legs par bshad pa Rin po che'i
phreng ba blo gsal mgul rgyan. g.Yag ṭīk, 4Vols.: Ka/Kha/Ga/Nga.
YṬīk(bsdus)  g.Yag phrug:Shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i man
ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan dang de'i 'grel pa don
gsal ba dang bcas pa legs par bshad pa Rin chen bsam 'phel dbang gi
rgyal po. g.Yag ṭīk, Vol.6:Cha 1-269a(pp.411-947). C1:rJe btsun
Byams pa/g.Yag ston Sangs rgyas dpal:Sher phyin mngon
rtogs rgyan rtsa ba dang 'grel pa(現観荘厳論詳解), Si khron mi rigs
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YṬīk('bring)  g.Yag phrug:Shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i man
ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan 'grel pa dang bcas
pa legs par bshad pa Rin po che'i bang mdzod. g.Yag ṭīk, Vol.5:Ca
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Rig ral grub mtha'  bCom ldan Rig pa'i ral gri:Grub mtha' rgyan gyi

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

me tog. M1:bKa' gdams gsung 'bum, Vol.53, 1-73a(pp.9-155). M2:


  me tog. M1:bKa' gdams gsung 'bum, Vol.53, 1-73a(pp.9-155). M2:
bKa' gdams gsung 'bum, Vol.61, 1-144a( pp.271-413). T:TBRC,
bKa' gdams gsung 'bum, Vol.61, 1-144a( pp.271-413). T:TBRC,
W00EGS1017426:gSung 'bum, Vol.5(ca-6), 1-163a(pp.102-
W00EGS1017426:gSung 'bum, Vol.5(ca-6), 1-163a(pp.102-
425).
425).
Lung gi snye ma  Bu ston:Shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i man ngag
Lung gi snye ma  Bu ston:Shes rab kyi pha rol tu phyin pa'i man ngag
gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan ces bya ba'i 'grel pa'i rgya
gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i rgyan ces bya ba'i 'grel pa'i rgya
cher bshad pa Lung gi snye ma. D:The Collected Works of Bu-ston,
cher bshad pa Lung gi snye ma. D:The Collected Works of Bu-ston,
Part 18(Tsha), New Delhi, 1971. S:Sher phyin lung gi snye ma,
Part 18(Tsha), New Delhi, 1971. S:Sher phyin lung gi snye ma,
Sarnath, CIHTS:Kagyud Relief & Protection Committee, 2
Sarnath, CIHTS:Kagyud Relief & Protection Committee, 2
Vols., 2001.
Vols., 2001.
gSer phreng  Tsong kha pa Blo bzang grags pa:Shes rab kyi
gSer phreng  Tsong kha pa Blo bzang grags pa:Shes rab kyi
pha rol tu phyin pa'i man ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i
pha rol tu phyin pa'i man ngag gi bstan bcos mngon par rtogs pa'i
rgyan 'grel pa dang bcas pa'i rgya cher bshad pa Legs bshad gser gyi
rgyan 'grel pa dang bcas pa'i rgya cher bshad pa Legs bshad gser gyi
phreng ba. C:Legs bshad gser gyi phreng ba(善説金珠), mTsho
phreng ba. C:Legs bshad gser gyi phreng ba(善説金珠), mTsho
sngon mi rigs dpe skrun khang(青海民族出版社), 1986. T:The
sngon mi rigs dpe skrun khang(青海民族出版社), 1986. T:The
Collected Works(gSuṅ 'bum)of rJe Tsoṅ-kha-pa Blo-bzaṅ-grags-
Collected Works(gSuṅ 'bum)of rJe Tsoṅ-kha-pa Blo-bzaṅ-grags-
pa, Reproduced from an example of the old Bkra-sis-lhun-po redaction
pa, Reproduced from an example of the old Bkra-sis-lhun-po redaction
from the library of Klu-'khyil monastery of Ladakh, ed. by Ngawang
from the library of Klu-'khyil monastery of Ladakh, ed. by Ngawang
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小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

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76
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

注記
(1)第2節で検討するように、本経の経名は確定的でない。チベットの資
料だが、ガムポパ(sGam po pa bSod nams rin chen, 1079-1153)は本経
を“Chos nyid mi g.yo ba'i mdo(法性不動経)”と略称して本経の一部を自
 著に引用する(Thar rgyan, p.240,1)。本稿ではガムポパのいう略称『法性不
 動経』を用いることにする。Cf.Guenther[ 1986:210];ツルティム/藤仲
[2007:241].
(2)小林[2007:9].Cf.小林[2008:201-202].
(3)チョネ版は、東洋文庫所蔵のものによる。
(4)デルゲ版は、『西蔵大蔵経 台北版』第11巻(台北、南天書局)所収の
ものによる。
(5)Cf.BriefCata[1998:No.115]. ラサ版と、後述のプタク写本とトクパレス
写本の入手に当たって、北海道大学の林寺正俊准教授のお世話になった。
(6)ジャンサタム版(リタン版)は、http:adarsha.dharma-treasure.org に
公開されているものによる。ジャンサタム版と、後述のロンドン写本と
ウランバートル写本の入手に当たっては、Central University of Tibetan
Studies の Jampa Samten 教授のお世話になった。
(7)Narthang Kanjur, Vol.55(Śata-piṭaka Series, Vol.555), ed. by L.Chandra,
New Delhi, 1999, pp. 546-558. Cf.BriefCata[1998:No.115].
(8)北京版は、『影印北京版西蔵大蔵経』第31巻所収のものによる。
(9)Urga Kanjur, Vol.55(Śata-piṭaka Series, Vol.450), ed. by L.Chandra, New
Delhi, 1993, pp.341-348.
(10)The Tog Palace Manuscript of the Tibetan Kanjur, Vo.72, pub. by C.Namgyal
Tarusergar, Leh, 1980, pp.633-644.
(11)東洋文庫所蔵の河口慧海将来のギェンツェ写本Vol.77-13。なお写本で
は、ほかに、本経のパタン写本の存在が報告されているが、それは参照し
得なかった。Cf.Skilling[2001:78].
(12)主に、先行研究を丹念にまとめている佐藤[2008:76-92]によった。
Cf.庄司[2016:168, n.2]. ほかに、Samten[2015]は、チベット大蔵経(カン
ギュル/テンギュル)の歴史を体系的にまとめた労作。なお、本経のナル
タン版(N)についてのみ一言するなら、本経の場合Nがツェルパ系CJPの
みと一致する異読9例を確認できる。
(13)パタン写本(Skilling[2001:78:mDo sde, Vol. ja, 15])のタイトルは
Tib.2に一致。
(14)ヤクトゥク『 般 若 注 ・ 広 本 』(Y:YṬīk(rgyas)(Nga)63b1ff.)所引

77
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

 の『法性不動経』の冒頭表題と奥書に記されている経名は、Tib.2。『中
本』(Y2:YṬīk('bring)
(Cha)99b3-4( p.198))に示される経名は、末尾部
分(Y2:~zhes bya ba theg pa chen po'i mdo)がYと異なるが、経名本体
の部分は同じ。
(15)吐蕃王国時代の訳経目録として現存する『パンタンマ目録』に、本経
の記載はない。同目録は『デンカルマ目録』よりも先に成立していたよう
である。Cf.庄司[2016:111-112, n.19].
(16)Cf.望月[2017:139-141]. ほかに、本経の引用に関しては、前述したよ
うにチベットの資料だがガムポパが“Chos nyid mi g.yo ba'i mdo”という
経名のもとに本経の一部を引用する。ガムポパの示すその経名はおそらく
省略形であるから、蔵訳タイトルの検討において考慮する必要はないだろ
う。Cf.前注1.
(17)アティシャの生没年については、羽田野[1966]参照。
(18) リ ク レ ル は 本 経 を “ 中 国 で 作 ら れ た 疑 経 ” と み て い た 可 能 性 も あ
る。彼は目録第29章末尾において、こう言う――「インド人は論書を作
る、中国人は経典を作る、チベット人はタントラを作ると言われているの
は真実と思われるから、賢者に依存して取捨を誤りなく行うべきである」
(Schaeffer/Kuijp[2009:262,1-3]よりも読みやすいSamten[2015:80,10-
13]をあげる:rGya gar bstan bcos rtsom/ rGya nag mdo rtsom/ Bod
rgyud rtsom zer ba rnams bden par snang pas mkhas pa brten la blang
dor phyin ci ma log par bya'o//)。次の第3節で検討するように筆者は本
経の現存蔵訳は「漢文蔵訳」の可能性が大きいとみるが、しかしアティシ
ャの著作に本経の名が言及されていることから、本経をインド成立の経典
とみておくことにしたい。なお、リクレルの年代(1227-1305)に関して
は、御牧[2014:512-513, n.36]参照。
(19)Cf.DAS Ⅴ, D174a3-4:rang bzhin skye ba med pa la dngos po tha
snyada)du snang ba bsal nas med par brtags na yang 'khrul pa yin no//
gzhi de'ib)ma nor ba'i rang gi ngo bo ni chos de dag gi rang bzhin skye
bac)med pa yin no//〔a)tha dad CJNP. b)CDFHJLMNPSTU“de'i gzhi ”
should be emended to“gzhi de'i.”c)skye ba om. LMST〕
(20)Cf.PSP, p.264,11-13:yadi khalu tad adhyāropād bhavadbhir astīty ucyate
kīdṛśaṃ tat/ yā sā dharmāṇāṃ dharmatā nāma saiva tatsvarūpaṃ/ atha keyaṃ
dharmāṇāṃ dharmatā/ dharmāṇāṃ svabhāvaḥ/ ko 'yaṃ svabhāvaḥ/ prakṛtiḥ/ kā
ceyaṃ prakṛtiḥ/ yeyaṃ śūnyatā/;(Tib)D89b1-2,P102a3-4:gal te sgro btags pa
las de yod do zhes brjod na/ de ci 'dra ba zhig yin zhe na/ de'i rang gi ngo bo ni chos

78
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

rnams kyi chos nyid ces bya ba gang yin pa de nyid do// de nas chos rnams kyi chos
nyid 'di yang gang zhig yin zhe na/ chos rnams kyi ngo bo'o// ngo bo 'di yang gang
zhe na/ rang bzhin no// rang bzhin 'di yang gang yin/ stong pa nyid do//
(21)経 本 文 に お け る “tha dad par” の 用 法 は 、 こ う で あ る 。DAS Ⅲ,
 D171b2-3:bcom ldan 'das chos nyid rang gi ngo bo nyid ji lta ba las mi
g.yo bar bzhugs pa …… 'khor 'dus pa de dag gi lta ba tha dad par gyur
pa'i rtog pa'i mun pa sel ba zhes bya ba'i 'od zer ljags kyi dbang po las
spros te/;「世尊はあるがままの法性・自性から動ずることなく住してい
らっしゃったが……それらの参集した眷属の見解が種々異なっている[そ
うした]分別の闇を除去するという名の光明を、御舌根から発して」;
DAS Ⅲ, D171b3-4:byang chub sems dpa' 'Jam dpal gyis 'khor phal mo
che'i rtog pa lnga po tha dad par gyur pa sems kyis shes nas/;「文殊菩
薩は、大勢の眷属の5つの分別が種々異なっているのを心によって知り」。
(22)Cf.Samten[1992:No.125].
(23)梵語の経名に斜格が用いられることもあるが、やはり稀である。Cf.Toh
 No.50:Ārya-Akṣobhyatathāgatasya vyūha-nāma-mahāyānasūtra. Cf.佐藤[2008:
 6-7].
(24)今はSkt.2における“rang gi ngo bo nyid”の対応梵語“sva-svabhāvatā”
にしたがって「自己の自性」と和訳したが、この梵語(還梵)には問題が
ある。蔵訳経名にある“chos nyid(dharmāṇāṃ dharmatā;諸法の法性)”
と“rang gi ngo bo nyid”は同義語と思われるが、そうであるならその
蔵訳語の相当梵語は単純に“svabhāva(dharmāṇāṃ svabhāvaḥ;諸法の自
性)”でよいだろう。“svabhāva”の蔵訳は“ngo bo nyid/ngo bo/rang gi
ngo bo/rang bzhin”が一般的であるが、“rang gi ngo bo nyid”も例が
ないわけではない。Mahāvyutpatti, Sakaki ed., No.7498:svabhāva=rang gi
ngo bo nyid dam rang bzhin. Cf.前注20.
(25)“ダーナシーラ(Dānaśīla)”という名の複数の人物がチベットで活躍
したが、ここのダーナシーラは無論、9世紀初頭にイェシェデ等と共に翻
訳活動に従事した人物。Cf.越智[1994].
(26)ここの前半部で世尊は文殊の質問を繰り返しているが、文殊の質問そ
のものは、DAS Ⅲ-d(D171b7)にある。そこでは“gang zag gi rigs ni du
mchis lags sam”(LMNST:人の種姓はいくつ存在するのですか)の異読
がある。又“lhag ma gcig tu”の代わりに“lhag ma gcig pu”を採るなら、
「唯一つ残余の正しく無倒錯なる仏の行境を~」となるだろう。
(27)“chos la brtag pa'i mtha' lnga(po)”は、本経のキータームの1つで、

79
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

字義通りには、「法に関して考察されるべき5つの辺」又は「法を考察す
る(ときの)5つの辺」となろうか。その5つの辺とは、「一切法は顕現
 する通りに存在する」等の5つの見解をさす。いまは内容から判断して
“chos la brtag pa'i mtha' ”を「(色等の一切)法に関する選択肢」と和
訳しておく。なお“chos la brtag pa'i mtha' lnga(po)”はツェルパ系及び
混合系の7版本CDHJNPUにあるかたちで、テンパンマ系の4写本LMST
とFYそして後述する『真実半偈注』における本経の引用では“chos la
brtag pa'i thabs lnga(po)”。これは「法を考察する(ときの)5つの方
法」を意味するだろう。
(28)この文言を含む『法性不動経』の経文は、次節 (4.1.1)で扱う。
(29)“theg pa dman pa/theg pa chung ngu”のような術語ではないが、梵
 語“hīna”が同じ文脈において“chung ngu”“dman (pa)”と訳し分けら
れる例が『倶舎論』にみられる。AKBh 284,24-285,3:hīnād viśiṣṭah・ samena
vā samo 'smīti manyamānasyonnatir mānaḥ/ …… bahvantaraviśiṣṭād alpāntarahīno
'smīty ūnamānah

/;(Tib) D232a5-7, P271b2-5:chung ngu bas bdag khyad par
du 'phags pa'am/ mnyam pa dang mnyam mo snyam du sems pa'i khengs* pa ni
nga rgyal lo// …… ches khyad par du 'phags pa bas bdag cung zad cig gis dman
no snyam pa ni cung zad snyam pa'i nga rgyal lo//〔*Pによる。D sems bangs ?
⇒sems khengs〕;小谷/本庄訳[2007:57-58]:「①劣った人よりもわた
しは勝れている、あるいは、同等の人と同等である、と思う者の高ぶりが
慢である。……⑥はるかに勝れている人に対して、「わたしは少し劣って
いる」と〔思う者の高ぶりが〕卑慢である」。
(30)『デンカルマ目録』には“theg pa chung ngu'i mdo sde(小乗経典)”
という項目が設けられている。なお、望月[2015:16] は、『菩提道灯』
『 同難語釈』の梵語で筆記されたテキストの存在は疑う余地があるとす
る。
(31)DAS Ⅲ-e, D171b7-172a1:bcom ldan 'das chos la brtag pa'i mtha' lnga
po 'di dag la tha dad par snang ba'i mthun pa'i dpe * ni ji ltar lags/〔*
 'thun pa'i dpe CDJLMPTU(dpe:lacuna D)〕
(32)Hara[ 2010-2011:131, n.5]に引用されるNītisāra 13.4“śrīya syāt
parama pātram apām iva mahār ava ”において、大海は諸河川が流れ
込むところの容器(pātra)とされる。
(33)『倶舎論』『世間施設』等のインド資料に、無熱悩湖(anavatapta-
saras/mtsho ma dros pa)つまりマナサロワル湖から東南西北の四方に四
河が流れ下ることが説かれているのは、よく知られている。『世間施設』

80
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

蔵訳では、大きな湖(mtsho chen po)である無熱悩から四河が流れ下り、


 それらは東南西北の大海(rgya mtsho chen po)へと行くとある。Cf.御牧
 [2014:503;510, n.10]. インド資料ではないが、チベットのタクパギェル
ツェン(rJe btsun Grags pa rgyal mtshan, 1147-1216)はその無熱悩湖を
“ma dros pa'i rgya mtsho chen po(無熱悩の大海)”とも呼ぶ。Cf.mNgon
rtogs ljon shing, C492,16-17, K137b2(ma dras pa'i);静[2015:307]. 無論
 『法性不動経』のここの“rgya mtsho(chen po)”は大海(ocean)ではな
くて無熱悩湖を指すと固執するつもりはないが、タクパギェルツェンの用
法を参考にすると、『法性不動経』にある「rgya mtsho/rgya mtsho chen
po(大海)から四河が流れ下る」という表現も、全くあり得ないわけで
もないのかもしれない。なお、チベットのボン教のテキストには、「大
海から四河が流れ下る(phyi ma ces pa phyi'i rgya mtsho'i/ chu bźi źes
pa rgya mtsho nas 'bab pa ste/;gliṅ chen bźi'i dbus kyi chu bźi yaṅ rgya
mtsho chen po de nas 'bab pa'o//)」と読める記述がみられる。Cf.御牧
[2014a:171-172, n.27,30].
(34)前田[1964:227-231]. Cf.ASBh, p.95,3-5:dharmo dvādaśā ga vaco-
gatam// tatra sūtra yad abhipretārthasūcanākāre a gadyabhā itam/
(35)DAS, D174b3-4:Dā na shī la'i zhal nas sde snod kyi bstan bcos dang
dbu ma'i lta ba tha dad rnams 'di las 'phros pa yin gsung skad// このうち
“sde snod kyi bstan bcos”とは、直後に「中観の見解」とあるので、三
蔵の論書の中でも特にアビダルマ論書や唯識論書のことか。なお、ジャン
サタム版(J)にはこの後に小さな文字で、“yang zhus(b)sngags/ zhus ba
gtan la phab pa//”と記されている。
(36)Cf. 静[2012].
(37)チョムデン・リクレルが本経を“素性の怪しい経典”“中国作の疑
経”とみていた可能性については、第2節(2.1)と、前注18で触れた。
(38)東北目録では書名を、作品冒頭にある“~tshigs su bcad pa byed kyi
'grel pa”とするが、大谷目録にあるように下線部はデルゲ/北京両版の
奥書にある“tshigs su bcad pa phyed(半偈)”を採るべきである。
(39)ちなみに、北京版では作品冒頭のインド語・チベット語タイトルを欠
くが、翻訳者の礼拝('gyur phyag)に先立って、“drang nges kyi 'grel
pa bzhugs so//”とある。本書が瑜伽行派と中観派の未了義・了義を扱う
ことから、チベットにおいて“drang nges kyi 'grel pa(未了義・了義の
解説)”という略称で呼ばれることがあるのかもしれない。
(40)TAGV, D215a3-b3, P234b4-235a5:gang gis 'joms par byed ce na/ Rab

81
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

tu mi gnas par smra ba'i dBu ma seng ge lta bu'i lung rigs kyi mche ba
ches mi bzad pas 'joms par byed pa'i phyir ro// lung gang zhe na 'dir('di
ltar P)mdo las 'Jam dpal khyod 'di skad du/ …… zhes gsungs so//
(41)Cf.小林[2007:24, n.30][2008:200-202]. 『真実半偈注』(TAGV,
D215a4-b3, P234b5-235a5)所引の『法性不動経』の経文(DAS Ⅳ-b)は、
第4節に和訳を示す。『法性不動経』のキーターム「法に関する5選択
肢」は、TAGV所引経文では“chos la brtag pa'i thabs lnga po”と翻訳さ
 れている点が注意される。Cf.前注27. なお、Almogi[ 2010:152-155]は
『真実半偈注』所引経典に注目しそれを英訳しているが、その経典の同定
はおこなっていない。
(42)尤もデルゲ版では、翻訳者の礼拝に先立って“Chos thams cad rab tu
mi gnas par ston pa'i de kho na nyid tshigs su bcad pa byed(⇒phyed)kyi
'grel pa bzhugs/”とあるが、これはこの論書TAGV(蔵訳本)の一部を
なすものではない。Cf.前注39.
(43)大谷目録では奥書の蔵訳タイトルを、“Sarvadharmāprasaha-deśaka-
tattvārdha-gāthā-v tti”と還梵する。“aprasaha-”は“rab tu mi gnas par”
 の還梵だが、むしろ“aprati hāna-”の方がよいだろう。
(44)Toh No.2295, Ota No.3143:『四印契優波提舎』Phyag rgya bzhi'i man
ngag/ Caturmudropadeśa, Vajrapā i/Tshul khrims rgyal ba訳;Toh No.2297,
Ota No.3145:『不覚覚作』Ma rtogs pa rtogs par byed pa/ Abodhabodhaka,
Vajrapā i/rMa ban Chos 'bar 訳。なお、プトゥン『テンギュル目録』
(bsTan
  'gyur dkar chag, 49b4-5(p.498))でも、gNyis med rdo rje(Advayavajra)作
 のその2書の中間に置かれるAvadhūti-pa作『真実半偈注』だけは、翻訳者
 の記載がない。Cf.Schaeffer/Kuijp[2009:221;Nos.25.22-24].
(45)小林[2007:10][2008:200ff.]では、『真実半偈注』のチベット撰述
の可能性をみながらも、暫定的にアドヴァヤヴァジュラ作とみなして論述
した。Almogi[2010:152-155]は、同書をアドヴァヤヴァジュラ作とみな
すことに躊躇していない。なお、仮託説・真作説のほかに、アドヴァヤヴァ
 ジュラとは別のAvadhūti-paと呼ばれる人物の作とみる選択肢も無論ありえ
 るだろう。Cf.Hadano[1958:166-167];Tatz[1987:701, n.30].
(46)DAS, D172a5-b5:〔Ⅳ-b〕 'Jam dpal khyod 'di skad du chos la brtag
pa'i mtha' a)lnga po 'di dag kun yang dag pa lags sam/ 'on te kha cig ni
yang dag pa lags la kha cig ni yang dag pa ma lags samb)zhes zer ba ni
chos la brtag pa'i mtha' lnga po 'di dag thams cad kyang yang dag pa yin
par gzung ste/ ① kha cig gis ni chos thams cad ji ltar snang ba bzhin du

82
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

yod pa'i chos ston to snyam pa yang yin te/ ci'i phyir zhe na/ 'byung ba
bzhi dang des byas pa rnams ni tha snyadc)du sgyu ma bzhin du yod pa'i
phyir ro// ② kha cig gis ni chos thams cad ni sems tsam las ma gtogs pa
gzhan med pa'i chos ston to snyam pa yang yin te/ ci'i phyir zhe na/ chos
sna tshogs su 'dogs pa rnams rtag pa ther zug tu brtags pa'i bag chags
sems la bzhag pa'i mthus dus thams cad du bdag dang chos rnams sud)
snang ba tha snyad tsam du snang yang don due)rang bzhin med de/
sems tsam las med pa'i phyir ro// ③ kha cig gis ni sems nyid kyang ma
skyes pa yin par bdag cag la chos ston to snyam pa yang yin te/ ci'i phyir
zhe na/ 'di la dbyibs sam/ kha dog gam/ dus gsum mam f)/ mtha' dbus
med pa'i phyir ro// ④ kha cig gis ni chos thams cad sgyu ma bzhin du
snang zhing sgyu ma bzhin du ma grub pa'i chos ston to snyam pa yang
yin te/ ci'i phyir zhe na/ chos thams cad ni rgyu rkyen las skye zhing
'byung ba'i phyir ro// ⑤ kha cig gis ni chos thams cad rang bzhin gyisg)
ma skyes pa/ ngo bo nyid kyis mi gnas pa/ las dang bya ba'i mtha' thams
cad dang bral ba/ rtog pa dang mi rtog pa'ih)yul las 'das pa/ thog ma
med pa'i dus nas spros pa rnam par dag pa'i chos ston to snyam pa yang
yin te/ ci'i phyir zhe na/ chos thams cad kyi rang gi ngo bo nyid phyin
ci ma log pa de yin pa'i phyir ro// 〔Ⅳ-b1〕 'Jam dpal yang kha cig yang
dag pa ma yin par yangi)bzung ste/ sbyangs pa chung ba/ mos pa dman
pa/ shes rab zhan pa dag gis rtogsj)pa'o// kha cig sbyangs pa dang mos
pa dang shes rab 'bring bak)rnams kyis rtogs pa'o// lhag ma ni yang dag
pa ste mchog tu gyur pa'i rtogs pa'o// 〔a)thabs FLMSTY. b)sam om.
LMSTY. c)tha snyad FLMSTY, tha dad CDHJNPU. d)su om. LMSTY.
e)Cf.TAGV don dam du. f)mam HNSY, 'am CDFJLMPTU. g)gyis
FLMSTUY, gyi CDHJNP. h)mi rtog pa'i Y, mi om. CDFHJLMNPSTU.
Cf.TAGV mi rtog par;Thar rgyan(240,2-3)mi rtog pa'i. i)yang om. LMST.
j)rtogs CFHJLMNPSTY, rtog DU. k)'bring po LMSTY〕 なお、小林
[2008:200-201]に示した和訳を一部改めた。
(47)Almogi[2010:153-154]は 、『 真 実 半 偈 注 』 所 引 の 経 文 (DAS Ⅳ
-b)を英訳し、そこに説かれる①~⑤に示される5種の見解に順次に、
Sautrāntika/Sākāravāda/Nirākāravāda/Māyopamavāda/Aprati hānavāda
を当てるが、それはアドヴァヤヴァジュラの『真理の宝環』に引きずられ
た解釈だろう。経文④⑤を如幻派説/無住派説とみる点は、筆者も同意見
だが、その他の学派配当の仕方には問題があると思われる。この問題は、

83
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

次節(4.2)で扱うことにする。
(48)DAS Ⅳ-e, D173a6-7:bsten pa'i las byas pa ni khyad par du bsags pa
dang cher bsags pa dang cung zada)bsags pa rnams la rin po che'i dgos
pa yang rim pa gsum du 'byung ba bzhin du yang dag pa phyin ci ma log
pa dang lhag ma bzhi po brgyud par brtag pa theg pa che chung rim pa
gsum yang dpe'ib)rim pa bzhin no//〔 a)cung zad tsam FLMSTY. b)dpe'i
FLMSTY, dpe CDHJNPU〕
(49)Cf.生井[2008:73-81;232ff.].
(50)Cf.梶山[1983:74-85];一郷[1985:184-185][2011:35-42].
(51)Cf.一郷[2011:78-81;103-106].
(52)AAV, A90,4-15. 梵文冒頭部分(Amano ed. 90,4)“tatrodaya-vyava-”
は“vyaya-”に訂正。
(53)ヤクトゥク説の一部は、小林[2007:7-11][2008:202-204]で扱った。
(54)Cf.Y Ṭ īk('bring)(Cha)98b3-99a2( pp.196-197):dang po ni/ dNgos
smra ba gzhan gyis bden dngos yod par 'dod pa de la(tatra)ste 'dod pa
rnams kyi nang nas Phyi rol pa kha cig na re/ phung po lnga rtag gcig
rang dbang can gyi bdag tu yod do zhe na/ de mi 'thad par sgrub pa
ni/ phung po lnga chos can/ rtag gcig rang dbang can gyi bdag tu med
de/ skye 'jig byed pa'i phyir/ khyab ste/ de lta bu'i bdag de skye 'jig gis
stong pa'i phyir (udaya-vyaya-śūnyatvān)/ rtags grub ste 'dus byas yin
pas so// khyab ste/ yung(⇒lung)las/ kye ma 'dus byas rnams mi rtag//
skye zhing 'jig pa'i chos can yin// zhes so// yang phung po lnga de lta
bu'i bdag tu bden par med de/ de lta bu'i bdag des dben pa'i rten 'brel
skye ba 'jig pa chos can gyi phung po dang khams la sogs pa la yang dag
par dmigs te(tadviviktaṃ skandhādikaṃ pratītyasamutpannam udaya-vyaya-
dharmmakaṃ samupalabhya)bdag med do snyam du bsgoms pas sgom pa
rdzogs pa na/ de rnams la bdag tu mngon par zhen pa yongs su bor nas
(nāsty ātmeti bhāvayann ātmābhiniveśaṃ parityajya)bdag med par rtogs pa
mngon du 'gyur bas so// 蔵文下線部とカッコ内の梵語はAAV本文。以下
も同様。又破線部の所引の聖典は、言うまでもなく諸行無常偈:aniccā
vata saṃkhārā uppāda-vaya-dhammino.
 なお、『中本』(YṬīk('bring)(Cha)99b5-100b1(pp.198-200))と、『広本』
(YṬīk(rgyas)(Nga)76a4-77a3(pp.151-153))には、AAV“四瑜伽地”に
中観派よりも下位の経量部等の諸学派の教義を結びつけるヤクトゥク流
 の解釈の仕方に対する異論と、それへのヤクトゥクの回答が述べられて

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

いる。すなわち、ある反論者は、ダルマミトラの『現観荘厳復注』(AA
 (DM)D80a3, 32a6, P92b2-3, 37a1-2)にある「(四瑜伽地では)核心義を
 修習する」や、ダルマキールティシュリー(セルリンパ)の『現観荘厳復
注』(AAṬ(DK)D229b7-230a1, P260a6-7)にある「(四瑜伽地では)あ
らゆるものに行きわたる無我を示す」という一節を引用して、「AAV四
瑜伽地の本文には菩薩(中観派)だけを結びつけるのが合理的」と論じる。
この点に関するヤクトゥクの立場は、『広本』にこうある――「ダルマミ
トラとセルリンパも、最終的に中観に到らせるために、「核心義を修習す
る」「あらゆるものに行きわたる無我を示す」と説明しているのであって、
すべて(つまりAAVの四瑜伽地のすべて)を中観派に結びつけると説明
しているのではない。すなわち、セルリンパは「各々前者を退けるために
各々後者を修習する」と述べていらっしゃるし、ダルマミトラも「邪分別
の立場及びそれへの非難を伴ったこの所説に依存して修習する」と述べて
いらっしゃる。[ハリバドラのAAVに]「[蘊等を正しく]認識してか
ら、青と」等、「[外界対象への執着を]断じてから、所取がなければ」
等、「[無二智だけは真実有を自性とすると]決定してから、それも縁起
したものだから」等と説かれているから、経量部と、唯心形象真実派と、
形象虚偽派と、中観派の見解と修習が、順次に心相続に生じてから、各々
前者の独自の主張を断じて、最終的に中観に到らせるのは明らかである」
(YṬīk(rgyas)76b6-77a3:Chos bshes dang gSer gling pas kyang mthar
dBu ma la skyel ba'i phyir snying po'i don sgom pa dang/ thams cad du 'gro ba'i
bdag med pa ston par bshad kyis thams cad dBu ma pa la sbyor bar bshad
pa min te/ gSer gling pas/ snga ma snga ma bsal ba'i phyir phyi ma(phyi
ma)sgom par gsungs shing/ Chos bshes kyis kyang log par rtog pa'i phyogs
smad pa dang bcas pa'i brjod pa 'di la brten te sgom zhes gsungs so// dmigs
te sngon po dang(samupalabhya nīlataddhiyoḥ)zhes sogs dang/ spangs
te gzung ba med na(tiraskṛtya grāhyābhāve)zhes sogs dang/ nges par
byas nas de yang rten cing 'brel bar 'byung ba yin pa'i phyir(niścitya tad
api pratītyasamutpannatvān)zhes sogs gsungs pas mDo sde pa dang Sems
tsam rNam bden pa dang rNam brdzun pa dang dBu ma pa'i lta ba dang
sgom pa rnams rim gyis rgyud la skyes nas/ snga ma snga ma'i 'dod pa
thun mong ma yin pa spangs nas/ mthar dBu ma la skyel bar gsal lo//;
cf.YṬīk('bring)1004a-b1)。上 の う ち 、 ダ ル マ ミ ト ラ が し ば し ば 用 い る
 「核心義の修習(snying po'i don bsgom pa)」と い う 表 現 は 、 勝 義真
 実を主として修習するという意味。Cf.AAṬ(DM)D32a5-6, P36b8-37a2:

85
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

 snying po'i don bsgom pa don dam pa'i bden pa gtsor byas pa dang/
mngon par rtogs pa'i don yid la bya ba kun rdzob kyi bden pa'i dbang du
byas pa'o// de la snying po'i don bsgoms pa'i dbang du byas te/ slob dpon
gyi zhal snga nas/ rtse mo'i mngon par rtogs pa'i skabs su. 又セルリンパ
がしばしば用いる「あらゆるものに行きわたる無我(thams cad du 'gro
ba'i bdag med pa)」という表現は、単に人無我の意味ではなくて、一切
法無自性の意味。Cf.AAṬ(DK)D232b7-233a1, P263b5:ngo bo nyid med
pa'i phyogs thams cad du 'gro ba'i bdag med pa'i grub pa'i mtha' brtan
por mdzad (AAV, A90,23:niḥsvabhāvapakṣaṃ sthirīkurvan)cing nges par
byas nas. ほかに、所引のダルマミトラの波線部の言は AAṬ(DM)D32b7,
 P37b4 に見出せるが、セルリンパの破線部の言“snga ma snga ma bsal
ba'i phyir phyi ma(phyi ma)sgom pa”は、AAṬ(DK)に見出せない。そ
の言は、AAṬ(DK)D230b2, P261a1 に“de'i rjes la de bsal bar bya ba'i
don du sngon po dang de'i blo dag(nīlataddhiyoḥ)”とあるが、これらを
ふまえてヤクトゥクがセルリンパの意図を要約したものかもしれない。
 上のごときヤクトゥク流の AAV“四瑜伽地”に経量部ないし中観派を配
当する解釈に対しては、ヤクトゥク以後、ツォンカパ(Tsong kha pa Blo
bzang grags pa, 1357-1419)や、コラムパ(Go rams pa bSod nams seng
ge, 1429-1489)が批判的である。彼らは、ヤクトゥクによって前主張とし
て提示される反論者が自説の典拠として引用するものと同一のダルマミト
ラ/セルリンパの『現観荘厳復注』の一節(AAṬ(DM)D80a3, P92b2-3;
AAṬ(DK)D229b7-230a1, P260a6-7)を根拠としつつ、ヤクトゥク流の解
釈を批判する。そのうちコラムパが前主張として示す“ある人”の説では、
四瑜伽地が“無我を証悟する瑜伽地/所取の無を証悟する~/能取の無を
証悟する~/離戯論を証悟する~”と名づけられている点、ヤクトゥク説
“無我又はある限りのものを所縁とする瑜伽地/唯心を所縁とする~/真
如を所縁とする~/無顕現を所縁とする~”と異なるが、しかしその“あ
る人”が四瑜伽地を順次に、経量部の見解/唯心形象真実派の見解/唯心
形象虚偽派の見解、そして一切法は勝義には離戯論そして世俗としては如
幻と証悟して修習する中観派の見解(chos thams cad don dam par spros
 bral dang kun rdzob tu sgyu ma lta bur rtogs nas sgom pa'i dBu ma pa'i
lta ba)とみなす点は、ヤクトゥク説に近い。それをコラムパは、「しか
らば、その四瑜伽地のすべては中観派の見解を証悟する知ではないこと
になる。その初めの三地すべては実有論者の見解であるから('o na rnal
'byor gyi sa bzhi po de dBu ma pa'i lta ba rtogs pa'i blo min par thal/ sa

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

dang po gsum po de dNgos smra ba'i lta ba yin pa'i phyir/)」と批判する。


Go Phar ṭīk, 278b6-279b1. Cf. gSer phreng, C954,10-955,3, T(Tsa)184b4-185a3
(Vol.27, pp.57-58).
(55)“tha snyad du”は、FLMSTYによる。デルゲ版等7版本は“tha dad
du(種々異なったものとして)”。“sgyu ma bzhin du”との関わりからは
前者の読みの方がよいと思われる。
(56)SDV, k.3cd1.
(57)MĀl, D150a4, P162b6-7:de la dngos po ma brtags na grags pa ji ltar
snang ba sgyu ma bzhin du brten nas byung ba gang yin pa de ni gzhan
gyi dbang gi ngo bo nyid yin no// de yang kun rdzob tu sgyu ma bzhin
du gzhan gyi rkyen gyi dbang gis skye'i. なお『中観明』のこの一節
の梵文はアバヤーカラグプタ作『牟尼意趣荘厳(Munimatālaṃkāra)』
により回収される。李/加納[2017:120]:tatra yad avicārapratīta
yathādarśanam māyāvat pratītyasamutpanna vastu sa paratantra
svabhāva / tasya ca sa v tyā māyāvat parapratyayabalenotpattir.
(58)Cf.YṬīk(rgyas)(Nga)64a2-6(p.127):bden dngos 'dod pa rnams kyi
nang nas mDo sde pa na re/ phyi rol gyi don bden pa ba yod ce na/
Sems tsam rNam bden pa'i grub mtha' la brten nas de mi 'thad par sgrub
pa ni/ shes bya chos can/ gzugs sogs su snang ba 'di ni sems tsam kho
na yin gyi phyi rol gyi don med de(cittamātram evedan na bāhyārtho 'sti)
bzung bya sngon po sogs su snang ba dang/ de 'dzin pa'i blo gnyis lhan
cig dmigs nges yin pa'i phyir(nīlataddhiyoḥ sahopalambhaniyamāc)/ ……
'di ni sems tsam kho na yin gyi phyi rol gyi don ni med do zhes nges par
byas nas rtse gcig tu yid la byed cing(cittamātram ~ 'stīti manasikurvvan)
bsgoms pas bsgom pa rdzogs pa na/ gzugs sogs su snang ba la 'dzin pa'i
rnam pa can gyi sems su mngon par zhen pa ma bor ba'i sgo nas phyi rol
don du mngon par zhen pa spangs(aparityakta-grāhakākāra-cittābhiniveśo
bāhyārthābhiniveśaṃ tiraskṛtya)par bya ba'i phyir/
(59)Cf.YṬīk(rgyas)(Nga)64b4-65a2( pp.128-129):bden dngos yod par
'dod pa rnams kyi nang nas Sems tsam rNam bden pa na re/ gzung bya
sngon po sogs su snang ba 'di sems su bden no zhe na/ Sems tsam rNam
brdzun pa'i grub pa'i mtha' la brten nas de mi 'thad par bsgrub pa ni/ shes
bya chos can/ 'dzin pa sngon po sogs su snang ba bden pa ba med de/
gzung ba sngon po sogs bden pa ba med pa'i phyir dang/ rten cing 'brel
bar 'byung ba skye ba dang 'jig pa'i chos can gyi phung po dang khams

87
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

dang skye mched la yang dag par dmigs te gzung 'dzin gnyis su snang ba
med pa'i ye shes 'di yang dag par yod(advayajñānam eva kevalaṃ bhāvato
bhāva-rūpam)cing/ gzung ba med na 'dzin pa med par nges par byas nas
(grāhyābhāve grāhakābhāva iti nidhyāyaṃs)rtse gcig tu bsgoms pas sgom
pa rdzogs pa na/ sngo sogs su snang ba la phyi rol don du zhen pa spangs
par ma zad/ de la 'dzin pa'i rnam pa'i mtshan nyid rnam par rig pa sems
tsam du bden par zhen pa de yang spangs(tām api grāhakākāra-lakṣaṇāṃ
vijñaptimātratām avadhūya)pa'i phyir/
(60)Cf.BhKⅡ, G43,2-5, N95,18-96,4:des de ltar shes rab kyis sems kyi ngo
bo nyid la so sor brtags na …… 'das pa'i sems kyang mi dmigs/ ma 'ongs
pa yang mi dmigs/ da ltar byung ba yang mi dmigs so//;一郷[2011:
80].
(61)MAV ad k.92, I 296,1-8;MĀl, D158b2-4, P172b3-5. 『修習次第』初篇の
テキストを挙げておく。BhKⅠ, T217,4-14:vijñaptimātraṃ traidhātukam iti
bhāvayan vijñānavādibāhyārthanairātmyam avatarati/ anena tv asyādvayajñānasya
nairātmyapraveśāt paramatattvapraviṣṭo bhavati/ na tu vijñaptimātratāpraveśa
eva tattvapraveśaḥ/ yathoktaṃ prāk/ uktaṃ cāryalokottaraparivarte “punar
aparam, bho jinaputra, cittamātraṃ traidhātukaṃ avatarati tac ca cittam
anantamadhyatayāvatarati” iti/ antayor utpādabhaṅgalakṣaṇayoḥ sthitilakṣaṇasya
ca madhyasyābhāvād anantamadhyaṃ cittam/ tasmānn advayajñānapraveśa eva
tattvapraveśaḥ/ なお下線部“advayajñānapraveśa(gnyis su med pa'i shes
pa la zhugs pa)”は、文脈からみて「無二知への悟入」ではなくて破線部
にある「無二知の無我への悟入」でなければならない。(一郷訳[2011:
42]は「不二知[すら顕現しない知]への悟入」。)そうであれば下線部
は破線部のように“advayajñāna-nairātmya-praveśa”に訂正すべきかもし
れない。
(62)Cf.生井[2008:75-76];MA, k.92:sems tsam la ni brten nas su// phyi
rol dngos med shes par bya// tshul 'dir brten nas de la yang// shin tu
bdag med shes par bya//;一郷訳[1985:184];前注61.
(63)Cf.Y Ṭ īk(rgyas)(Nga)65b3-66b1( pp.130-132):bden dngos 'dod pa
rnams kyi nang nas Sems tsam rNam brdzun pa na re/ gzung 'dzin gnyis
su snang ba med pa'i ye shes yang dag par yod do zhe na/ dBu ma Rang
rgyud pa'i grub pa'i mtha' la brten nas/ de mi 'thad par sgrub pa ni/ sngo
sogs su snang ba phyi rol don du med pa dang sems su bden pa med par
ma zad/ gzung 'dzin gnyis su snang ba med pa'i ye shes de yang chos

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

can/ bden pa'i ngo bo nyid med de/ rten 'brel yin pa'i phyir/ dper na sgyu
ma bzhin no( tad api pratītyasamutpannatvān māyāvan niḥsvabhāvaṃ)// ……
rten cing 'brel bar 'byung ba skye ba dang 'jig pa'i chos can gyi phung po
dang khams dang skye mched la yang dag par dmigs te/ yang dag par
na gcig tu dngos po dang dngos po med pa dang/ sogs pa gnyis ka dang/
gnyis ka ma yin par brtags pa'i ngo bo dang bral ba yin par nges par
byas nas rtse gcig tu bsgoms pas bsgoms pa'i stobs grub pa na(tatvato
'pagataikānta-bhāvābhāvādiparāmarśa-rūpam iti bhāvayan bhāvanāniṣpattau)/
 bden 'dzin gyi 'khrul pa mtshan ma mtha' dag spangs pa rten 'brel sna
tshogs pa rnams bden pa'i ngo bo nyid med pas sgyu ma lta bu'i bdag
nyid du snang ba'i rjes thob kyi blo* rnam par mi rtog pa'i so so rang gis
rig pa'i ye shes skyes pa na(utsārita-sakala-bhrānti-nimittāyā māyopamātma-
pratibhāsa-dhiyo nirvikalpāyāḥ kathaṃcit pratyātmavedyāyāḥ samutpāde)/ de
rgyud la ldan pa'i rnal 'byor pas dngos po dang dngos po med pa dang
gnyis ka dang gnyis ka ma yin par 'dzin pa'i shes bya'i sgrib pa yang
dag par spangs(jñeyāvaraṇaṃ samyag yogī prajahyāt)pa'i phyir de lta bu'i
spangs rtogs ni 'bras bu'o// dper na brda la byang ba'i skyes bu kha cig la
nor bu dang dngul dang me long dag pa'i nang du shar ba'i gzugs brnyan
mthong ba na rang bzhin ma dmigs par shes pa skye ba bzhin(keṣāṃcin
maṇi-rūpyādi-jñānavad)no//
 なお、上の『広本』斜体部*“rjes thob kyi blo(後得の知)”は、『中本』
では“sgyu ma lta bu snang ba'i blo rnam par mi rtog par so so rang
gis rig par bya ba'i mnyam gzhag gi ye shes(入定智)”とある。無分別に
して自内証されるのは、後得智ではなくて入定智か。その場合、入定
無分別智に一切法が如幻性のものとして顕現することになる(cf.Lung
gi snye ma, D315b4-5( p.630), S(smad cha)280,7-8:dngos po thams cad
snang yang bden par med pa sgyu ma lta bu'i bdag nyid du snang ba'i blo
(māyopamātmapratibhāsadhiyo))。ここのAAVの記述によりプトゥンはハ
リバドラを、入定無分別智に世俗的な主題が顕現するのを認める所謂“有
顕現派(sNang bcas pa)”とみなしていたという点については、別稿で指
摘した。Cf.Ibid., D315b6-7, S280,11-14;小林[2005:64][2007:23, n.23].
(64)YṬīk(rgyas)(Nga)69a3-5(p.137):phung po la sogs pa rnams ni rang
bzhin gyis ma skyes pa ngo bo nyid kyis mi gnas pa las dang bya ba'i
mtha' thams cad dang bral ba/ rtog pa dang mi rtog pa'i yul las 'das pas/
thog ma med pa'i dus nas yod pa dang med pa la sogs pa'i spros pa thams

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小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

cad rnam par dag pa yin te/ rten cing 'brel bar 'byung ba yin pa'i phyir/
dper na nam mkha' bzhin no//
(65)ヤクトゥクは『中本』において中観派の区分について、こう述べてい
る――「中観派には、経量[中観派]、瑜伽行中観派、世間極成中観派
の3つがある。第1は、言説の確立を経量部と一致して確立する。第2は、
唯心派と一致して言説の確立を行う。第3は、世間の極成と一致して言説
 の確立を行う。そのうち前二者は自立派、後者は帰謬派である」(YṬīk
('bring)(Cha)104a6-b2(pp.207-208):dBu ma pa la mDo sde spyod pa/
rNal 'byor spyod pa'i dbu ma pa/ 'Jig rten grags sde spyod pa'i dbu ma
pa gsum/ dang po ni tha snyad pa'i rnam gzhag mDo sde pa dang mthun
par rnam par gzhag byed la/ gnyis pa Sems tsam pa dang mthun par tha
snyad kyi rnam gzhag byed la/ gsum pa ni 'Jig rten grags pa dang mthun
par tha snyad kyi rnam gzhag byed do// de la snga ma gnyis Rang rgyud
pa phyi ma Thal 'gyur ba'o//)。中観派をその世俗の確立の仕方の観点か
ら経量中観/瑜伽行中観/世間極成中観の3派に区分し、その3派と、別
の基準による中観派の区分であるところの自立/帰謬の2派とを統合する
のは、後代のチベットでは一般的となるが、上のヤクトゥク『中本』の
記述は、そうした説明の仕方の比較的早い時代のものと言える。なお瑜
伽行中観派のハリバドラは当然、自立派論師となる。Cf.小林[2007:25,
n.34].
(66)『広本』では、帰謬派説の論証式を示した後に、いわば帰謬派の果
('bras bu)が、こう述べられている――「蘊等は、有・無・二・非二な
るものとして存在しない。なぜなら、縁起せる言説として生・滅の性質
をもつ蘊・界・処を正しく認識し、無始以来、有・無等の戯論のすべて
を離れていると決定してから、修習することにより修習の力が完成し修
習が完全となったとき、一切法は虚空界の如く顕わとなり、自相続の所
知障のすべてが断ぜられるから」(YṬ īk(rgyas)(Nga)69a6-b2( pp.137-
138):phung po la sogs pa rnams ni dngos po dang dngos med dang gnyis
ka dang gnyis ka ma yin par yod pa ma yin te/ rten cing 'brel bar 'byung
ba tha snyad du skye ba dang 'jig pa'i chos can gyi phung po dang khams
dang skye mched rnams la yang dag par dmigs te/ thog ma med pa'i dus
nas yod pa dang med pa la sogs pa'i spros pa thams cad dang bral bar
nges par byas nas bsgoms pas sgom pa'i stobs grub cing sgom pa yongs
su rdzogs pa na/ chos thams cad nam mkha'i dbyings ltar mngon du gyur
cing rang rgyud kyi shes bya'i sgrib pa mtha' dag spangs pa'i phyir/)。

90
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

このうち破線部はAAV本文をうけているとも言えるが、しかしヤクト
ゥクはAAV本文のなかに帰謬派説を積極的に見出そうとはしていない。
Cf.Ibid., 69b6:de ltar bsgoms pas sgom pa yongs su rdzogs pa na chos
thams cad nam mkha'i dbyings ltar mngon sum du gyur cing rang rgyud
kyi shes bya'i sgrib pa mtha' dag spangs pa'i byang chub chen po ni 'bras
bu'o//;和訳:「そのように修習することにより修習が完成したときに、
一切法が虚空界の如く顕わとなり、自相続の所知障すべてが断ぜられた大
菩提が、[帰謬派の]果である」。
(67)『広本』に、自 立 派 の 見 解 が、「“縁起した多様なものは、幻の如
く、真実の自性が無い”と認識する智慧が、中観自立派の見解である」
 (Y Ṭ īk(rgyas)(Nga)65b6-66a1( pp.130-131):rten 'brel sna tshogs pa
rnams sgyu ma bzhin du bden pa'i ngo bo nyid med par rtogs pa'i shes
rab ni dBu ma Rang rgyud pa'i lta ba yin la/)とあり、帰謬派の見解は、
「“蘊等の縁起したものは、虚空の如く、有・無・二・非二等の戯論の
すべてを離れている”と、ありありと認識する智慧、それが、中観帰謬
派の見解である」(Ibid., 69b4-5( p.138):phung po la sogs pa rten cing
'brel bar 'byung ba rnams nam mkha' ltar yod pa dang med pa dang gnyis
ka dang gnyis ka ma yin pa la sogs pa spros pa thams cad dang bral ba'i
mngon sum du rtogs pa'i shes rab de dBu ma Thal 'gyur ba'i lta ba/)と
ある。
 なお、自立派/帰謬派の差異に関して、『広本』に、上の帰謬派の見解
等を示した後に、ある人による「そのような帰謬派流の見解・修習は自立
派にも存在するのではないか」という反論に答えて、「中観自立派にそ
 のような見解と修習は存在しない。中観自立派は「勝義には一切法は真実
無で幻の如し」と認めるのであって、“勝義”によって限定せずに、「一
切法は虚空の如く有・無等を離れている」とは認めないからである。そ
うでなければ、その(自立派)の流儀において“勝義”によって限定す
ることは無意味になるからである」(Ibid., 70a2-3(p.139):dBu ma Rang
rgyud pa la de lta bu'i lta sgom yod pa ma yin te/ dBu ma Rang rgyud pa
ni don dam par chos thams cad bden med sgyu ma lta bur 'dod kyi don
dam gyis khyad par du ma byas par chos thams cad nam mkha' ltar yod
med sogs dang bral bar mi 'dod pa'i phyir te// de lta ma yin na de'i lugs la
don dam gyis khyad par du byas pa don med par 'gyur ba'i phyir ro//)
 とある。又『中本』には、「その両者(自立派と帰謬派)の相違は、他者
 の主張を否定するときに、前者(自立派)は自立証相を立てて「一切法は

91
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

真実無である。幻の如し」とする。後者(帰謬派)は、他者の主張を否定
するときに、自立証相と自立主張を立てずに、他者の主張を帰謬を通し
 て否定し、一切法を真実有・無のいずれであるとも主張しない」(YṬīk
 ('bring)(Cha)104b2-4(p.208):de gnyis kyi khyad par ni gzhan gyi 'dod
pa 'gog pa'i tshe snga mas ni rang rgyud kyi rtags 'god cing chos thams
cad bden med sgyu ma lta bur byed do// phyi mas ni gzhan gyi 'dod pa
'gog pa'i tshe rang rgyud kyi rtags dang dam bca' mi 'jog cing gzhan gyi
'dod pa thal 'gyur gyi sgo nas 'gog cing chos thams cad bden par yod med
gang du yang dam mi 'cha'o//)とある。ここで自立/帰謬両派の差異は、
 『中本』では“自立論証の有無”に、『広本』では“勝義という限定の有
 無”に求められているが、しかし上の下線部をみるなら、ヤクトゥクは両
派の見解の差異を、自立派の“如幻/真実無”と、帰謬派の“如虚空/離
戯論”に見出しているとみなしても大過ないだろう。
(68)BhKⅢ, p.7,7-15:tasmān māyopamam eva cittam/ yathā cittam eva
sarvadharmā māyāvat paramārthato 'nutpannā / …… tato bhāvādi-
vikalpoparatau sarvaprapañcavigatam ānimitta yoga pratilabhate/;一
郷訳[2011:105]. Cf.MAV ad k.70, I 230,2-232,1:skye ba med pa la sogs
pa yang yang dag pa'i kun rdzob tu gtogs pa yin du zin kyang/ dam pa'i
don dang 'thun pa'i phyir// 'di ni dam pa'i don zhes bya// yang dag tu na spros pa yi//
tshogs rnams kun las de grol yin//(k.70)don dam pa ni dngos po dang dngos
po med pa dang/ skye ba dang mi skye ba dang/ stong pa dang mi stong
pa la sogs pa spros pa'i dra ba mtha' dag spangs pa'o//;一郷訳[1985:
168].
(69)Cf.YṬīk('bring)(Cha)103a2-6(p.205):gzung 'dzin gnyis su snang ba
med pa'i ye shes de chos can/ bden pa'i ngo bo nyid med pa yin te/ rten
'brel yin pa'i phyir/ dper na sgyu ma bzhin no(pratītyasamutpannatvān
māyāvan niḥsvabhāvaṃ)// yang(api)gi don ni snga ma snga ma'i dgag
bya rnams bden pa med par ma zad gzung 'dzin gnyis su snang ba med
pa'i ye shes de yang(tad api)bden par med ces pa'o// des na rten 'brel
sna tshogs pa 'di chos can/ yang dag par na mtha' gcig tu dngos po dang
dngos med dang/ sogs pa gnyis ka dang/ gnyis ka ma yin par btags pa'i
ngo bo dang blal (⇒bral)ba yin te(tatvato 'pagataikānta-bhāvābhāvādi-
parāmarśa-rūpam)/ rten 'brel yin pa'i phyir/ dper na nam mkha' bzhin
no// yang shes bya chos can/ bden pa'i dngos po grub pa skra'i rtse mo
brgyar bshags pa'i cha tsam yang med de/ yang dag par na spros pa'i

92
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

mtha' bzhi dang bral ba yin no snyam du nges par byas nas.
(70)小林[2007:7]において「ヤクトゥクはインド流の如幻/無住の中観二
派を、チベット流の自立/帰謬の中観二派と同一視していたと思われる」
と記したが、その後に披見し得た資料によると、インドの唯心派の分類に
関してヤクトゥクは彼に先行するチョムデン・リクレル説を継承してい
ると思われるところがあるから、今の中観派の分類に関しても同様に彼
はリクレル説を承けている可能性が考えられる。すなわち、中観派の分類
に関してリクレルはその『宗義書』において、根本頌で「そのような中観
論者には、自立派と帰謬派の2つ。それを、如幻派と無住派とも言う」と
し、散文釈で「マイトリーパ(アドヴァヤヴァジュラ)の『四印契』等
 に“如幻派”“無住派”と出ているが、それもこの2派(自立派と帰謬
派)なのである。すなわち、自立派の人々は“如幻”をたくさん説明する
が、帰謬派の人々は“幻のみにも住さない離戯論”をたくさん説明するか
ら、[如幻の説明が]多いか少ないかという点で名付けるのだ」と説明す
る(Rig ral grub mtha', M1 66a4-b7(pp.141-142),M2 134a4-135a4(pp.403-404),
 T146a1-147b2(pp.391-394):de 'dra'i dBu mar smra ba la// Rang rgyud pa dang
Thal 'gyur gnyis// de la sGyu ma lta bu dang// Rab tu mi gnas zhes kyang zer//(rtsa
ba)…… Me-tri-ba'i Phyag rgya bzhi pa(Toh No.2295:Caturmudropadeśa)
la sogs pa nas sGyu ma lta bu dang Rab tu mi gnas pa zhes 'byung ba
de'ang 'di gnyis yin te Rang rgyud pa rnams ni sgyu ma lta bu shas cher
'chad la/ Thal 'gyur ba rnams (M1 T om. rnams)ni sgyu ma tsam du mi
gnas pa'i spros bral shas cher 'chad pas shas che chung la btags pa yin
no//)。Cf.Almogi[2010:180-181;202-203]. このリクレルのアイディア
は、よく知られているように後のタクツァン翻訳師(sTag tshang lo tsā
ba Shes rab rin chen, 1405-1477)の宗義書にみられる(Grub mtha' kun shes
(rtsa ba)Ⅴ.2:de gnyis rim bzhin Rab tu mi gnas dang// sGyu ma rigs
grub pa zhes 'Phags yul gyi// tshad ldan du mas bshad phyir dbye ba
de// rmongs pa mtshar skyed yin zhes gsung mi rigs//;「その2つ(帰
謬派と自立派)は、順次に、“無住派”“幻理成就派”と、聖国(イン
ド)の権威のある多くの[学者]によって説明されているから、[ゴク大
翻訳師が]「[無住派と幻理成就派という]この区分は愚者に希有の念を
起こさせる」とおっしゃるのは不合理である」)。Cf.小林[2007:11-14].
なお、タクツァン翻訳師の没年は、例えば『東噶蔵学大辞典』(Dung dkar
tshig mdzod, p.1004)では不明('das lo ma rnyed)とされるが、最近公刊
されたタクツァン翻訳師著作集収録の伝記補遺(sTag rnam thar kha skong,

93
小林 守 『法性不動経』をめぐる諸問題

pp.60-61)によると没年は1477年である。Cf.著作集冒頭の略伝rnam thar
mdor bsdus, p.20.
 次に、唯心派の分類に関してリクレルは『宗義書』において、インド唯心
派を、八識聚を認める者と六識聚を認める者に区分し、その六識聚を認め
る者を、形象真実派と形象虚偽派に区分し、その形象真実派に“形象と知
の関係”の観点から区分される3説をあげる。そのうち“形象と知[それ
ぞれ]を半分と認める者たち(rnam pa dang shes pa phyed mar 'dod pa
rnams)”――後に一般化する術語では“一卵半塊派(sGo nga phyed tshal
ba)”――は「所取と能取の2つは異なった知である」と認める(gzung
'dzin gnyis shes pa tha dad du 'dod)とし、その典拠として、“nang du
snang ba'i shes pa gzhan// phyi rol snang ba'ang gzhan yin te// gsal bar
byed pa gsal bya nyid// mar me lta bur de nyid* min// ”〔*M1 M2 数字
2, T gnyis. 後述のタクツァ ン翻訳師の引用によりnyid に訂正〕;「内的に
顕現する知と、外的に顕現する知は、異なっている。[その2つの知は2
つの別の自証であって]“照らすもの且つ照らされるもの”に他ならない
灯火のように[2つの知が]同一のものであるのではない」(Rig ral grub
mtha', M1 57a8(p.121), M2 120b2-4(p.389), T123b6-124a1(pp.346-347))とい
う詩節を引用する。詳細は省くが、上の詩節はもとはジターリの『善逝
本宗分別論注』(SMVBh, Sh111,9-112,1, D53a1-3, P339a2-5)に紹介され
る唯識説に由来するが、リクレル所引詩節の特に前半破線部は、SMVBh
にある詩節“rtogs pa gcig ni nang du snang// gzhan ni phyi rol snang ba
ste// ~”には一致せず、SMVBhの散文“nang du snang ba'i shes pa 'di
gzhan yin la phyi rol du snang ba yang gzhan kho na'o//”を詩節に改め
たと思われる特色ある形を示す。Cf.白㟢[1986:43-44]. ヤクトゥクは唯
心形象真実派の細分として、多様不二(sna tshogs gnyis med pa)、主客
同数(gzung 'dzin grangs mnyam pa)、一卵半塊(sgo nga phyed tshal
ba)の3派をあげ、そのうち一卵半塊派は「内的なものとして顕現する
識と、外的な対象の形象の2つは、“卵の半塊”のように、実体的に異
なっている」と認める(nang du snang ba'i rnam shes dang phyi yul gyi
rnam pa gnyis sgo nga phyed tshal ba ltar rdzas tha dad du 'dod de)と
し、その典拠として上のリクレル所引の特色ある詩節の前半2句“nang
du snang ba'i rnam shes gzhan// phyi rol snang ba gzhan yin te//”を引用
する(YṬīk('bring)(Cha)101b3-4(p.202))。その後、リクレル所引のもの
とほぼ同じ詩節4句は、タクツァン翻訳師が一卵半塊の典拠として引用す
る(Grub mtha' kun shes(rang 'grel)G56a3, C122,22-24, T69a4-5:nang du

94
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

snang ba'ang gzhan yin la// phyi ru snang ba'ang de gzhan nyid// gsal bar
bya dang gsal byed nyid// mar me bzhin du de nyid min//)。Cf.小林[1988:
102-103]. このようにインド唯心派の分類の仕方に関して、部分的にせよ、
「リクレルからヤクトゥクへ、そしてタクツァン翻訳師へ」という次第が
認められることになるが、それと同じことがインド中観派の分類の仕方に
も起こりえたのではないか。つまり、中観派に関する上のリクレルの「如
幻派イコール自立派」「無住派イコール帰謬派」というアイディアは、明
言されていないがヤクトゥクも採用しており、その後さらにタクツァン翻
訳師に継承されていった、と考えられないだろうか。この想定が許される
なら、ヤクトゥクは上のリクレル流のアイディアを前提とした上で、『法
性不動経』の経文④⑤を、自立派(如幻派)説、帰謬派(無住派)説とし
て説明したことになるだろう。

(こばやし まもる・本学教授)

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

シャーロット・ブロンテの文学とベルギー
-『ヴィレット』におけるヨーロッパレースの表象-

The Literature of Charlotte Bronte and Belgium


-Representations European Traditional Lace in Villette

佐 藤 郁 子
SATO Ikuko

キーワード:子学校、教養、ベルギーレース、職業、人生

要旨
 シャーロット・ブロンテの作品『ヴィレット』は主人公ルーシー・スノウが
彼女の半生を振り返りながら自伝的に語る物語であるが、シャーロットのブル
ュッセル留学体験が反映されている。分身のようなルーシーの体験や苦悩にシ
ャーロットの姿を重ねることで彼女が希求する女性の自立像や人生観を考察す
る。
 小説にレースを導入することによる効果と作者の意図を選ばれたレースの特
徴と人物像の組み合わせから読み解き、世界中に継承されたヨーロッパレース
の伝統技術を現存する地域とレースにつけられた名前から探る。

97
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

『ヴィレット』とベルギー留学
 『ヴィレット』(Villette,1853)はルーシー・スノウがラバスクー
ル王国の首都ヴィレットでの体験やみずからの半生を振り返りなが
ら自伝的に語った物語であるが、シャーロット・ブロンテのブルュ
ッセル留学体験が反映されていると評される小説である。
 女主人公ルーシー・スノウは、孤児同然の境遇にあって、生活の
ために北イングランドの故郷を離れ、「ヴィレットに行け」(Villett,
p.73)という「運命」の声を信じてロンドンに着き、ヨーロッパ大
陸にわたり、「ここで止まれ、ここがお前の宿だ」(p.79)という声
に従いヴィレットのマダム・ベックの女子寄宿学校で教師になる。
導かれた場所での現実と幻想の世界をさまよいながらも人々と繋が
り、孤独と苦悩の人生を切り開いていくという内容である。ラバス
クール王国の首都ヴィレットという異国の地に身を落ち着け、ベッ
ク夫人の経営する私立女子学校のお雇い教師として働くことによっ
て自活の途を見つけ、やがて婚約者ポール・エマニュエル教師から
委託された学校の運営に成功し、女性教師経営者として自立すると
いう若い女性が歩んだ人生の軌跡である。このみずからの半生を、
主人公ルーシーが振り返りながら語る自伝的内容である。
 シャーロットの留学体験を辿る時、作品に反映されているブリュ
ッセルでの日々やルーシーが語るマダム・ベックの学校での体験や
出会う人物、特にポールとの恋に悩み、彼への愛をはぐくむルーシ
ーの姿は、パンショナ・エジェでのシャーロットを彷彿とさせるの
である。

 後に『ヴィレット』を創作することに繋がるベルギー王国ブリュ
ッセルへの留学は、シャーロットと妹メアリーが計画していた女子
学校開校経営を実現するために必要だと判断したためで、女子学校
経営を計画した理由は現実的に差し迫った状態にある困窮する生活
から抜け出し、安定した収入を得ることにあった。より豊かな生活

99
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

を維持することへの準備でもあった。シャーロットの留学は一人の
実業家の助言を受けて実現されたのであるが、その助言者とはシャ
ーロットがガヴァネスとして雇われていたブラッドフォードのアッ
パーウッド・ハウスの雇い主ホワイト氏である。
 当時ガヴァネスはジェントリーの子女を教えるという知的な仕事
として、中流階級の女性が対面を保ち生計を立てられる唯一の職業
として認識されながらもその実態は召使と同じような悪条件であり、
富裕の証として雇われるために雇い主からも軽蔑されるという屈辱
的な職業でもあったという。1841年には哀れなガヴァネスのために
家庭教師互助協会が設立されたことからもいかに多くの女性たちが
耐え忍んだかが理解できる。シャーロットから受けていた学校経営
の相談に対しての「もし可能ならば、大陸へ留学してフランス語に
習熟し、箔をつけることによって成功できるようにしたほうがよ
い」というホワイト氏の助言に従いエミリーと留学するのが1842年
である。
 ヴィクトア時代において、中流階級の女性の唯一最大目標は良い
結婚をして良い家庭を作ることであったために、女子教育は結婚獲
得の手段となり、充実した教養教育を特色ある教育内容として提供
する個人経営の私立学校や私塾が各地で開校された。しかし、ブロ
ンテ姉妹が通った聖職者の子女のためのクロフトン・ホール・スク
ールやカウアン・ブリッジ校、ミス・ウラー経営のロウ・ヘッド校
は名ばかりの学校で、『ジェイン・エア』(Jane Eyre,1847)で描かれ
るローウッド女学校のモデルとなっていることからもその教育環境
は容易に想像できる。ガヴァネス以外に収入源のないブロンテ姉妹
にとって生きる道は結婚であったが、彼女たちは自分たちの力で生
活する方法を模索するのである。そのような選択は1840年代後半の
社会問題に起因する。結婚相手候補の男性は植民地政策により移民
し、軍隊での海外勤務に従事し、さらには幼児期の高い死亡率によ
る減少が「女性の過剰人口」による結婚難に拍車をかけるという事

100
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

情を引き起こしていたのである。その現実的で回避しがたい波はま
さに適齢期を迎えるブロンテ姉妹にも押し寄せていたからではない
か。ヨークシャーの寒村ハワースの牧師の娘、家族の結びつきがと
ても強いブロンテ家にあっては、姉妹に理想的な結婚話が舞い込む
ことや資産家に見初められる機会への期待はあまり持てないことを
察してしていたのである。家族で生活できる方策をもとめながら、
現実的に直面する経済的問題を克服するためにもブロンテ姉妹はそ
れぞれに出来る範囲で仕事をしていたのである。女子学校経営を成
功することを目標に1842年2月、シャーロットとエミリーはハワー
スを発ちロンドンへ、ドーバーからヨーロッパ大陸のベルギーのオ
ステンドへ、そして15日にブリュッセルのパンショナ・エジェに入
学するのである。

ブルュッセルでの見聞

 言葉も宗教も異なるベルギー王国のブリュッセルへ留学したシャ
ーロットの体験は『ヴィレット』のルーシーの語りから推し量るこ
とができるように、彼女が留学した頃もブリュッセルはベルギー王
国を代表する都市のひとつで商業・経済の中心地であった。その町
並みは荘厳で歴史が感じられるばかりか躍動的で、そこに暮らす
人々の生活も活気に満ち溢れていると彼女には華やかに映ったので
はないか。様々な産業の中でもレース産業を代表するようなフラン
ダースレースやブリュッセルレースがヨーロッパレースとして世界
中で有名であったことからもシャーロットはそれらの繊細に編まれ
た美しいレースに目を何度も留めたと思われる。またフランスやイ
ギリス等の王侯貴族や上流階級の人々の憧れとなり、高度な技術を
もつ職人の創るレースを持つことが社会的地位の高さや富裕さを表
すことにもなると、それらの貴重なレースは調度品としてテーブル
や壁に飾られ、女性たちが持つ小物を装飾し、服飾としては男女を

101
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

問わず華麗に着飾らせるために多くの人々の目を惹きつけたことと
想う。また、教会に寄進したレースで祭壇を飾り、聖書を包み、司
祭の法衣を飾ることは信仰心の顕れとされていたことから多くの信
者たちが寄進したという。『ヴィレット』に登場人物たちを描くと
きにもレースが効果的に使われたことにはシャーロットが出会うブ
リュッセルでの見聞があったからだと考えられる。
 姉妹はパンショナ・エジェでの体験を通して異文化を知り、様々
な見聞を広げる機会を得て女子学校経営を成功するためにと多くの
ことを習得していく。カトリック教徒のなかの孤独なプロテスタン
トとして互いに寄り添いながらも意欲的に勉強に励んだ姉妹の学
習成果は、エジェ塾での宿題-シャーロットは11篇以上、エミリー
は8篇以上のエッセイ-であっても文学的遺産となっているのであ
る。しかし充実した留学中の1842年11月、最初の留学は伯母エリザ
ベス・ブランウェルの急死という家庭の事情によって一時中断する
が、翌1843年1月シャーロットは単身パンショナ・エジェに戻るの
である。この時からのシャーロットの体験も『ヴィレット』におい
てのルーシーの語りの源となるのである。約2年の留学中にシャー
ロットが初めての恋に悩み、孤独に苛まされながらも散策したブリ
ュッセルの街をルーシーも『ヴィレット』において彷徨する場面で
も推測できる。
 シャーロットの体験に重なるルーシーの半生は名付け親のブレト
ン夫人一家とベック夫人一家との関わりのなかでも展開する。北イ
ングランドの子ども時代、身寄りのない彼女はブレトン家の息子の
ジョンや知人の娘ポーリーナと過ごすことで家庭的な雰囲気を味わ
うがその後音信不通となり孤独に生きる。医師になっていたジョン
がマダム・ベックの女子寄宿学校に頻繁に訪れることから再会し、
ブレトン家は再びルーシーの心の拠りどころとなり、長期休暇中に
精神のバランスを崩した時も癒される所にもなる。ルーシーはやが
てこの成長したジョンに愛情を抱くが、ジョンは親切にはするもの

102
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

の、ヴィレットで再会したポーリーナと婚約するのである。ジョン
に抱いた愛情は消えていくがルーシーはベック夫人のいとこである
ポール・エマニュエル教授との愛、対立から理解することで生まれ
る愛に戸惑い苦悩する。「眼鏡をかけて、小柄で色黒のやせた男」
(p.81)という第一印象に加えて絶対的な自信や批判的な考えを持
つ教授として独裁的な態度で学校を支配する彼とことごとく対決す
る。しかし、彼の過去を知るにつれて理解を深め、彼によって成長
する自分に気付くが、彼の性格を理解することへのジレンマにも悩
むのである。この苦悩と努力が尊敬と理解に基づく「愛情」となり、
ベック夫人や聴聞僧シラー神父、老女ヴァルヴァランの嫉妬や干渉
を乗り越えて、ポールの求愛を受け入れるのである。その後、ベッ
ク夫人の計略で西インド諸島での駐在を余儀なくされたポールは三
年間の任務を完了して帰国の途上にある。ヴィレットへ向かうポー
ルの船は嵐が吹き荒れる大西洋上で遭難したかもしれないと想いな
がら、ルーシーは彼女に女学校経営という自立の道を渡したポール
の帰りを待つという不明瞭な結果で終わる。
 このルーシー語りにおいて、シャーロットの体験が反映されてい
ると考えられるは留学先までの航程や長期休暇中の不安定な精神状
態、ポール・エマニュエル教師との関係などである。長期休暇中の
苦悩はパンショナ・エジェで痛感する宗教上の問題や孤独との闘い
であり、その苦悩から解き放たれる瞬間を求めるように散策したブ
リュッセルの町並みは、図らずもシャーロットにベルギーのレース
文化にも気付かせることになったのかもしれない。1843年3月にエ
ジェ教授とカーニヴァルを楽しみ、8月公園でのコンサートに出席
し、9月プロテスタントの共同墓地を訪れた後、サン・テギュール
の大聖堂で懺悔するなど彼女の行動は内面で揺れ動く心情の表れの
ようである。その中でも10月ヴィクトリア女王を見たことは幸せな
結婚像を思い描かせる出来事だったのではないか。ポール・エマニ
ュエル教授のモデルはパンショナ・エジェのエジェ教授のようであ

103
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

ることは帰国後にハワースからエジェ教授宛に書き送った何通もの
手紙を通して彼女の慕情が伝わることからもおしはかれる。初めて
の恋ゆえの苦悩は既婚者のエジェ教授への尊敬から生まれた思慕で
あったにちがいない。エジェ教授から贈られた書籍やパンショナ・
エジェでの留学生活をはじめとして、大音楽堂でのコンサートやサ
ン・テギュールの大聖堂で懺悔、学校運営の実態やカトリック教の
信仰教義、結婚準備としての学校生活やブリュッセルの上流階級の
人々の生活のすべてがシャーロットの中で変化し、脚色されて『ヴ
ィレット』で蘇るのである。貴重な体験が個性的な人物と繋がると
きブリュッセルの見聞として鮮明に刻まれている。

装飾レースの流行

 シャーロットが留学したベルギーはレースでも代表される王国と
して周知され、その卓越した高度な技術により作られたボビンレー
スは主流の伝統的なアンティークレースとして、イタリアのヴェネ
ツィアと並び、特にフランドル地方(フランダース地方)の模様が
有名となり、そのレースはヨーロッパの王侯貴族をはじめとする上
流社会の人々にとっては垂涎の的であったという。この繊細で華麗
なレースは16世紀半ばほぼ同時期に発祥し、熟練した職人が多くの
時間を費やして作るような特別なレースは国を代表する特別な品と
して競争を重ねることで独自の発達をし伝承されるようになる。国
を挙げての競争、いわゆる「レース戦争」から誕生した貴重で稀な
レースを手に入れた人々は社会的地位と財力を表すかのように財産
目録に残したという。彼女が留学した1842年は1840年代に起きたヨ
ーロッパ大陸にも広がった産業革命により、ベルギーの伝統的なア
ンティークレースを基幹としたレース産業にも工業・機械化による
新技術が導入されたことにより、継承されてきた伝統が変わる頃で
ある。

104
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 その革新的な技術はイギリスのジョン・ヒースコートが本物の手
編みレースのように生産できる機械を発明したことから始まるので
あるが、後にこの機械レースの広まりはレース産業市場を急激に変
化させるからである。1808年ヒースコートは今でもレースが観光資
源となっているノッティンガムで会社を立ち上げたが、1816年の産
業革命期に起こったラダイツによって55の製作所が破壊されたため
にデボンに移ることを余儀なくされたのである。しかし同年、彼は
デボンのティバートンにある毛織物工場を買取りレース製作操業の
工場を操業するのである。様々な試行錯誤を経て機械の改良を重ね
たヒースコートは1832年生産技術の特許を取得したことでイギリス
での機械レース産業が本格的に始動するきっかけを作るのである。
 ヒースコートの機械で作られたレースは「イングリッシュネッ
ト」や「ボビネット」と名づけられ、大量生産による安価レースの
市場は多くの女性たちが憧れたレースのある生活も実現可能にした
のである。また、ヒースコートと同年代の1813年にジョン・リバー
によって発明されたレースは現在もリバーレースと呼ばれ服飾以外
の装飾でも華やかさを演出している。趣あるレースとの出会いはそ
の魅力的な透かし模様に惹かれる女性たちを古典的に飾るのである。

 何千年も前から続いているというレースの歴史は長く、糸で作ら
れる透かし模様はヨーロッパの国々で産地の名前がついた独特の編
み物として継承されてきている。レースは針と糸だけで作られるニ
ードルレースと道具を使うレースに大別できる。刺繍を施すエンブ
ロイダリー(刺繍)レースの他にもボビン、シャトル、かぎ針、棒
針などの道具を使うレースはその道具によりそれぞれボビン、タテ
ィング、クロッシェ、クンストと呼ばれ、さらに刺繍、ボビンを手
織りに他の3種は手編みにと3区分に分けられている。より細かく分
けるならば、シャトルを使うタティングはマクラメと同じく糸を結
ぶレースである。かぎ針では日本でも馴染みが深いクロッシェ(か

105
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

ぎ針1本で編むレース)やアイルランドのアイリッシュクロッシェ
が作られてきた。棒針を使うクンストレースはクンストストリッケ
ンとして編まれている。
 手織りに分類されるボビンレースはボビンという糸巻きに巻いた
糸をクッサン(専用の枕)やピロー、あるいは板に型紙をピンで固
定し、2本のボビンを交差しながら作る手織りレースである。歴史
を辿るとイタリアのヴェネツィアに次いでベルギーのフランドルが
代表的で財産としても価値もあるという理由から芸術品と同等に扱
うという付加価値がついていた。各々のレースはその特徴と共に時
世の流れに沿って世界中で流行し現在でも各国各地で出会うことが
できる。
 イギリスの歴史に残るレースの変遷からを辿ると、エリザベス1
世の肖像画に残る襞襟を縁取ったのはイタリアのヴェネツィアやフ
ランドルのレースであることが読み取れる。そのヴェネツィアのニ
ードルレースやフランドルのボビンレースは17世紀のイギリスのレ
ース愛好家のために密輸までされたという。また、18世紀にはタテ
ィングレースも王侯貴族や上流階級の女性の間での教養として愛好
されたことで、国内のレースも時代と共に形を変えて発展したこと
を表している。さらに産業革命と共に新しいレース産業の時代が始
まるが、その技術が伝統的レースと共存できることが1840年のヴィ
クトリア女王の結婚衣装で証明されるのである。ヴィクトリア女王
の結婚衣装はそれまでのドレスではなく、機械レースのチュールを
生地にホニトンレースと呼ばれたボビンレースのアップリケを縫い
合わせてデザインされた純白のドレスとレースで飾られたヴェール
という純潔と幸福が感じられる衣装だったからである。その純白の
花嫁衣裳は現在までも女性の憧れとして広がり、ヴィクトリア女王
の結婚衣装のようにホニトンのレースで飾られた純白のドレス姿の
キャサリン妃が伝統として結婚式で継承されたことは記憶に新しい。
英国の4つのカントリーの国花であるバラ、アザミ、ラッパ水仙そ

106
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

してシャムロックがモチーフとして散りばめられていたことも神か
らの祝福として映る瞬間であった。
 イタリア、ベルギー、フランス、イギリスなどに残るアンティー
クレースにはニードルレースに代表され、修道院が発祥のデザイン
も含めてそのモチーフは花や葉などの植物、雪や鳥など自然を題材
にしたものが好まれ、ボビンレースは糸の材質により軽く、透ける
ような部分と縁取りするデザインのレースも作られたことで襟やカ
フスも飾ったという。また、アイルランドのアンティークレースは
かぎ針で編むアイリッシュクロッシェが歴史的に古く、そのモチー
フには苦難の歴史を物語るかのように作られている。貧窮する人々
の救済策として修道院で編まれていたレースの技術を公開し、設立
した学校で職人を養成した物語が織込まれているのである。アメリ
カやアジアに継承されたレースにもまた植民地時代を彷彿とさせる
のである。スペインから伝えられた南アメリカのパラグアイのレー
スは刺繍を取り入れたカナリア諸島のテリーフであるし、タティン
グをアレンジしたようなオヤはトルコの結びレースである。アルメ
ニアのレースもフィレレースのように糸を結ぶタイプで作られ、ト
ルコの侵略から逃亡した人々によって周辺各地で違う名前で呼ばれ
ることがあるという。フランス占領下のベトナムでは継承されたニ
ードルレースの技術が繊細な手工芸品の誕生に繋がり、フィリピン
のカラド刺繍はスペインの宣教師が伝えた刺繍レースのドロンワー
クである。さらにスコットランドの宣教師が伝えたというインドの
クロッシェは修道院の布教活動の軌跡でもあり、オランダの植民地
時代のレースはスリランカのボビンレースとして女性の自立した生
活を支援する技術へと引き継がれている。そして、日本には型紙に
沿って組み合わされたテープ間に作る糸かがりで模様をつくるバテ
ンレースと機械でつくるエンブロイダリーレース(刺繍)が明治期
からヨーロッパから継承された技術とデザイン性が相まって発展し、
昨今の国内でのレースの流行の原動力となっていることと思う。

107
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

 このように様々なレースが世界各地に継承された理由のひとつと
しては植民地政策にある文化の流入考えられ、継承されたレースを
辿ることはその国との歴史を紐解くことにもなる。ハワースに住む
シャーロットがイギリス国内で手にしたのも機械レースであったか
もしれない。

シャーロットの示唆

 シャーロットの小説には女性の立場が分かるようなレースが小道
具のように使われる。『ジェイ・エア』や『ヴィレット』において
も様々なレースを愛用させることで現実の世界や社会の実態を表白
することなく指摘し展開している。
 シャーロットは『ジェイ・エア』の中では、ソーンフィールド館
の当主ロチェスターに招待された舞踏会で「黒い無地のサテンの衣
裳に外国製のレースのスカーフ、真珠の首飾りなど」(p.201)で着
飾ったデント夫人や「髪をきれいにとき、身体にぴったり合うこと
だけがせめてもの救いである、クェーカー教徒のもののような服を
着て、清潔なレースのえり飾りをつけたとき、これならフェアフッ
クス夫人の前に出ても恥ずかしくはないだろうし、私の新しい教え
子も少なくとも私に反感を持って寄りつかないようなことはないだ
ろうと思った。」(p.130)とジェインがフェアフックス夫人に会う
前に身支度する様子にレースを取り入れている。これらの場面から
ガヴァネスが身に着けていたレースの飾り襟をジェインが持ってい
ることで生活のために働く中流階級の未婚女性であることやデント
夫人が外国製のレースを持てるほどの社会的地位と財産を所有する
男性と結婚できた女性であることが分かる。このようなレースの扱
い方が女性の置かれた立場の違いをより現実的に映しているのであ
る。さらに、『ヴィレット』ではより具体的にアンティークレース
を、ルーシーと繋がる女性たちの将来が予想できるかのように扱い、

108
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

彼女が選択したレースの特徴に含みをもたせている。シャーロット
が体験したパンショナ・エジェでの学校生活や学校運営の実態、サ
ン・テギュール大聖堂での懺悔にみる信仰の迷いや苦悩、ブリュッ
セルでの娯楽や結婚準備の教育内容などがシャーロットの遭遇した
レースに脚色されて『ヴィレット』のルーシーの語りに再現される
のである。
 マダム・ベックの教室でルーシーはブーリマーヌ港へと渡る船の
中で出会った少女と再会する。飾りなしの麦わらのボンネットに木
綿のドレスを着ていた美しい金髪だった少女は利己的で尊大な態度
の意気盛んなジネヴラ・ファンショーだと気づく。彼女は社交界に
デビューする前の礼儀作法や教養を養うために入学し、音楽やダン
スが好きなおしゃれで恋遊びに夢中な女子生徒に変貌していた。イ
ジドールと名づけた男性の気持ち受け入れながらアマル大佐との交
際を狙うというような享楽的な生活を楽しむのである。同じように
寄宿生活をしているのがジネヴラの従姉妹の伯爵令嬢ミス・バソン
ピエール。ルーシーを慕うその姿はジネヴラとは対照的に現実的な
考えを持ち、堅実な生活を望みながら学校を訪れる医師ジョンに恋
心を抱く繊細な女子生徒としてルーシーの前に現れる。後に父親が
ジネヴラの伯母との再婚で爵位を得たというミス・バソンピエール
がイギリスのブレトン家で出会ったポーリーナ本人であること、恋
する医師ジョンはグレアム・ブレトンでありジネヴラに気持ちが揺
れるイジドールでもあることも判明する。
 ルーシーの本質を投影あるいは反射させているようなポーリーナ
とジネヴラの恋が実りはじめるとルーシーの語りによって様々な人
間模様が人生まるでレースを編むように織りなされていく。ルーシ
ーの語る現実の世界をより鮮明に映すのがシャーロットが選択した
レースである。それらのレースを現実の世界と結びつける存在とし
てポーリーナとジネヴラにも愛用させ、レースを所持出来ることが
家柄や階級という社会的地位を表すという社会通念を明確に感じさ

109
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

せながら当時の社会事情をも描写するのである。カトリックの教育
を提供するマダム・ベックの学校でニードルワークを習うポーリー
ナには極細の糸で編んだフランスレースを選び、礼儀や教養を習得
した女性が受け継ぐ生活と人生を重ね、ジネヴラには繊細かつ豪華
に編まれたフランダースレースを好ませることで華やかな生活を楽
しみとする人生を暗示させている。
 『ヴィレット』において、レースで飾られるハンカチの縁やピン
クッションなどの小物、靴や帽子の飾り、ドレスの襟飾りや扇子な
どが日常生活を彩り、カトリックの聖職者の法衣や財産なるような
豪華なアンティークレースは持ち主の虚栄心を満たすのである。具
体的に描かれている様々なレースを扱いながら、シャーロットはこ
れらのレースを使うことで軸となる語りのテーマを包んでいる。そ
れはレースを楽しみ着飾る女性とレースを作る女性での人生である。
アンティークなニードルレースやボビンレースなどの熟練した職人
による希少なレースを持ち、着飾れる人々は、王侯貴族や聖職者と
いう上流階級の人々、つまり家柄も財産も社会的地位もある限られ
た人々とその家族である。道具を使って作る刺繍のようなエンブロ
イダリーレースや芸術のようなボビンレース、シャトルで結ぶタテ
ィングレースやかぎ針のクロッシェレースを作る人々は修道女やレ
ース作りを仕事とする女性、授業として習う女子学校の生徒たちで
あったが、修道院で暮らす孤児たちにまでにも教えられレース産業
を支えることになるのである。さらに先祖由来のレース修理(メン
ディング)も労働する女性たちが副収入にと本業以外に担う仕事で
ある。レースを持てる人々と作る人々が混在したブリュッセルでの
シャーロットの留学生活は新世界での発見と直面する社会問題の確
認の中で続いたのではないかと思える。
 ヴィクトリア期には中流階級女性の知的職業として認められてい
たガヴァネスの仕事でさえその実態は召使の条件と変わらない事実
が明らかになっていたように、上流階級の女性の服飾事情を支えた

110
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

いたお針子と呼ばれた女性の仕事も過酷な条件での実態が社会問題
化されたのである。優美な透かし模様のレースによって浮かび上が
る厳しい現実、不条理な現実と矛盾に対するシャーロットの示唆が
『ヴィレット』に編みこまれているかのようである。

1. Charlotte Bronte, Villette, Ed. Margaret Smith (Oxford: Oxford UP,


1998) p.73 Villette からの引用はこの版を使用し括弧内にページ数を記
す。
  p.73 ”Go to Villette”
  p.79 “Stop here; thus is your inn.”
  p.81 M.Paul was summoned. He entered: a small, dark and spare man,
in spectacles.
2. Charlotte Bronte, Jane Eyre, Ed. Margaret Smith (Oxford: Oxford UP,
1993) p.201 Jane Eyreからの引用はこの版を使用し括弧内にページ数を
記す。
  p.201 Mrs. Colonel Dent was less showy; but, I thought, more ladylike.
Her black satin dress, her scarf of rich foreign lace, and her pearl
ornament,
  p.130 However, when I had brushed my hair very smooth, and put on
my black frock --- which, Quaker-like as it was, at least had the merit
of fitting to a nicety – and adjusted my clean white tucker, I thought I
should do respectably enough to appear before Mrs. Fairfax; and that
my new pupil would not at least recoil from me with antipathy.

参考文献

1.Alexander, Christine and Smith Margaret, Eds. The Oxford Companion to


The Brontes, Oxford: Oxford UP, 2006.
2.Baker, Juliet, The Brontes, New York: Pegasus Books, 2012.
3.Bronte, Charlotte. Jane Eyre, Oxford: Oxford UP, 1993

111
佐藤郁子 シャーロット・ブロンテの文学とベルギー

4.Bronte, Charlotte. Villette, Oxford: Oxford UP, 1998.


5.Gardiner, Juliet, The Bronte at Haworth, A life in letters, Diaries and
Writing, London: Collins & Brown Limited, 1992.
6. Sellars, Jane, Charlotte Bronte, London: The British Library, 1997.
7.内田能嗣、中岡洋編『ブロンテ姉妹を学ぶ人のために』世界思想社、
2005年。
8. 宇多和子編、『ブロンテと芸術-実生活の視点から』大阪教育図書、
2010年。
9. 河野多恵子、小野寺健、『図説 「ジェイン・エア」と「嵐が丘」を
  読む』河出書房新社、1996年。
10. 久守和子、窪田憲子『〈衣裳〉で読むイギリス小説』ミネルヴァ書房、
2004年。
11. ブロンテ、シャーロット、『ヴィレット』、日本ブロンテ全集6、(青
山誠子訳)みすず書房、1995年
12. 矢崎順子、『世界のかわいいレース』、2012年。

(さとう いくこ・本学教授)

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

旅の変遷
――軍旅から観光へ――

Discussion of the Transition of the Journey

髙 嶋 めぐみ
TAKASHIMA Megumi

キーワード:旅、交通、関所、統合国家、統一国家

要旨
 「旅」という言葉の意味は軍旅そのものを意味する。従来旅の歴史を法的に
みることは少なかった。上代統合国家から近現代の統一国家までの旅について、
法圏という角度から波動史観論的に考察する。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

目次
 1、はじめに
 2、旅の歴史
  Ⅰ、上代
  Ⅱ、上世
  Ⅲ、中世
  Ⅳ、近世
  Ⅴ、近現代
 3、まとめ

1、はじめに
 旅という文字は軍旅そのものを意味する。広義には人の移動であ
り、公用、商用、観光などを指す。つまり多くの人が旅することは
軍旅を思わせた。
 そもそも古い時代、交通網も整っておらず、盗賊に遭遇するなど
困難と危険を伴った。斯かる状況下で観光旅行は先ずない。治安も
安定していないなか、それでも旅に出る際は水盃を交わし、辛酸を
舐めながらの命がけのものであった。
 江戸時代になって観光旅行が珍しくなくなるのは、治安も安定し
法圏拡大により旅も進展したからである。江戸中期になって更に生
産力向上で観光が珍しくなくなった。参勤交代で『五街道』を筆頭
に交通インフラが整い、庶民の旅が成り立つ条件が満たされたから
である。
 旅における体験や見聞、感想を記した紀行文が世界中に数多く残
る。事実を忠実に記したものとして海外では、唐僧玄奘『大唐西域
記』、慈覚大師円仁『入唐求法巡礼行記』、マルコポーロ『東方見聞
録』、ダーウィン『ビーグル号航海記』などがある。我国の文学作
品では、『土佐日記』、『更級日記』『十六夜日記』『海道記』『東関紀

115
髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

行』『奥の細道』などが代表的なものである。(1) 近世になると一般
庶民も経済的、治安的安定のなかで参詣や遊行に出掛けるようにな
る。本稿は旅の歴史を時代別に法圏という角度から波動史観論的に
考察するものである。

2、旅の歴史
Ⅰ、上代
 上代は各氏族の連合政権であり、小国家による連邦体制であった。
自分の属するクニを出て旅をするということは一種国際旅行である
ということを念頭において旅をすることにある。例えば平群と葛城
は別の氏であり、当然に別の国である。
 日本武尊や素戔男尊が行く先々で戦をしているのはこのためであ
る。出雲国譲りは、高天原で武甕雷男神が大国主命に葦原中国の支
配権を譲るように迫り承諾させるが、まさしく軍旅である。
 先ず軍旅についての史料として和銅5(712)年『古事記』や養老
4(720)年『日本書紀』に編纂されるより400年も遡る遠い昔、第
12代景行天皇の皇子日本武尊の記述が『古事記』にみられる。
「爾天皇、亦頻詔倭建命『言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩
都樓波奴人等。』而、副吉備臣等之 ・名御鉏友耳建日子而遣之時、
給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參入伊勢
大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者『天皇既所以思吾死乎、
何擊遣西方之惡人など而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更
平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。』患泣罷
時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔『若有急事、
解茲囊口。』」(2)
「東方の十二国の荒れすさぶ神、また服従しない者どもを征伐し平
定せよ」と、南九州の熊曾建や出雲の出雲建を討つ西征をした後、
東国の蝦夷征服の東征を行うために父君の命を受け旅に出られた。
 『日本書紀』には、旅の途中伊勢神宮に立ち寄った際の記述があ

116
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

る。
「冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道拜伊勢神宮、仍
辭于倭姬命曰『今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。』於是、
倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰『愼之。莫怠也。』是歲、日本武尊
初至駿河、其處賊陽從之欺曰『是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如
茂林。臨而應狩。』」(3)
「今天皇の御命令を承って東国に行き、もろもろの叛く者を討つこ
とになりました。それでご挨拶に参りました」倭媛命に挨拶され草
薙剣を日本武尊に授けられ旅に出ている。
 文学には一人で出掛けたとあるが、通常一人で討伐に出掛けるこ
とはないはずである。規模は定かではないがある程度の隊を組んで
の旅であろう。大和側の視点で書かれた物語であり、そのまま史実
とは看做せないが、当時の情勢を推測することができる。
 上代の朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗の三韓征伐について
記されている『古事記』『日本書紀』には、仲哀天皇の后神功皇后
が天皇急死後、政を司る記述がある。
先ず『日本書紀』には、
「秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰
『必神心焉。』則立大三輪 以奉刀矛矣、軍衆自聚。於是、使吾瓮
海人烏摩呂、出於西海令察有國耶、還曰『國不見也。』又遣磯鹿海
人名草而令 、數日還之曰『西北有山、帶雲横 。蓋有國乎。』爰
卜吉日而臨發、有日。時皇后親執斧鉞、令三軍曰『金鼓無節・旌旗
錯亂、則士卒不整。貪財多欲・懷私內顧、必爲敵所虜。其敵少而勿
輕、敵强而無屈。則 暴勿聽、自服勿殺。遂戰勝者必有賞、背走
者自有罪。』」
既而、神有誨曰『和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。』和
魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。卽得神教而拜禮之、
因以依網吾彥男垂見、爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎、皇后則
取石插腰而 之曰『事竟還日、産於茲土。』其石今在于伊都縣道邊。

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髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。」(4)
「新羅出兵
秋九月十日、諸国に令して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が
集まりにくかった。
皇后がいわれるのに、『これは神のお心なのだろう』と。そして大
三輪の神社をたて、刀・矛を奉られた。すると軍兵が自然に集まっ
た。」(5)
次に『古事記』には、
「故、備如教覺、整軍雙船、度幸之時、海原之魚、不問大小、悉負
御船而渡。爾順風大起、御船從浪。故其御船之波瀾、押騰新羅之國、
既到半國。於是、其國王畏惶奏言『自今以後、隨天皇命而、爲御馬
甘、毎年雙船、不乾船腹、不乾 檝、共與天地、無退仕奉。』故是、
以新羅國者、定御馬甘、百濟國者、定渡屯家。爾以其御杖、衝立新
羅國主之門、卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。」
(6)

「故備教へ覚されし如くして、軍を整へ船を双べて、・・・」
と軍を率いてはるか海を渡った様子が描かれている。
「かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双めて、度
り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて
渡りき。ここに順風いたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれそ
の御船の波瀾、新羅の国に押し騰りて、既に国半まで到りき。」
(7)

 この他、律令制下で行われた軍事制度で北九州の防備に当たった
防人もまた軍旅を行った兵士であり、天智2(663)年の白村江の戦
い以後制度化された。防人は厳しい任務であり、遠い東国から九州
までを自力で移動しなければならずまさに命がけの旅である。
『万葉集』には防人のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌
が100首以上収録されている。巻13、14にも含まれているが、巻20
には最も多くの歌がある。「天平勝宝七歳乙未二月、相替へて筑紫
の諸国に遣はさるる防人などが歌」と題し、防人の歌が80数首ある。
代表的なものとしては、

118
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

「国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべな
し」(4381)
全国から集まった防人が任務のために船に乗って別れることを詠ん
だものである。
「百隈の道は来にしを又更に八十島過ぎて別れか行かむ」(4349)
「百隈の道は来にしを」とは、陸路遥々とやって来たことを歌った
ものであろう。
「霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを」(4370)
鹿島神宮の神に武運を祈って自分は来た。そして無事任を果たして
帰りたいという気持ちが表れている。
 天平12(740)年藤原広嗣の乱に際し、征討に赴いた物部麁鹿火
以下の官軍は長途の軍旅に従った。
 国境を守るため律令制の下、大化2(646)年、関塞の法が定めら
れることをうたい、律令法導入の過程で整備されていった。
「改新の詔」には以下の記述がある。
「二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
其二曰。初修京師。置畿内國司。郡司。關塞。斥候。防人。
驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京毎坊置長一人。四坊置
令一人。掌按検戸口督察奸非。其坊令取坊内明廉強直堪時務者充。
里坊長並取里坊百姓清正強幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。
凡畿内東自名墾横河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西
自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿内國。凡郡以
四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並
取國造性識清廉堪時務者爲大領少領。強幹聰敏工書算者爲主政主帳。
凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。
無次官執。(8)

119
髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

Ⅱ、上世
 上世になると、大化の改新を経て統一された律令国家となる。単
一法圏となったことで上代に比して移動がし易くなった。この期の
関所は軍事上の意味を持っており、敵の大軍を防ぐ要塞であった。
壬申の乱(672年)において、不破の関が要塞としての機能を十全
に発揮した。
 飛鳥から平安時代の朝廷が学問のために留学生を、また朝命にお
いて外交使節団を唐に派遣した。遣唐使として唐に渡り、日本仏教
に影響を与えた真言宗の開祖である空海も全国を旅した。貴族など
中央へは勿論、地方へ赴いて布教活動を行うと共に文化・教育・社
会事業と幅広い活動をなし、医療や土木・建築・鉱業・自然科学な
ども行った。
 遣唐使の一行に加わって唐に渡った慈覚大師円仁『入唐求法巡礼
行記』は旅の困難さが窺い知れる日本最古の紀行文であり、(9) 中
国大陸に難破船さながら着く様子が描かれている。
 吉備真備は遣唐使船に乗り、在唐18年の後帰国、順当に累進して
右大臣まで上り詰めた。
 阿倍仲麻呂は留学生として唐に渡り、遂に帰国適わず彼の地に没
した。帰国の困難を物語る実例である。
 紀行文学にみる公用の旅は、平安時代に成立した日記文学で紀貫
之『土佐日記』があげられる。
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。
ある人、県の四年五年果てて、例の事どもみなし終へて、解由
など取りて、住む館より出でて、船に乗るべき所へ渡る。かれこ
れ、知る知らぬ、送りす。年ごろ、よくくらべつる人々なむ、別れ
難く思ひて、日しきりにとかくしつつ、ののしるうちに、夜更け
ぬ。二十二日に、和泉の国までと、平らかに願立つ。・・・」
 土佐国に国司として赴任していた後その任期を終え土佐から京へ
帰る貫之ら一行の55日間の旅路とおぼしき話を綴ったものである。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

個人の旅としては、平安時代初期の貴族・歌人在原業平について
『伊勢物語』に描かれている。
「昔、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、『京に
はあらじ、東の方に住むべき国求めに。』とて行きけり。」
 京には諸事情があって住みづらくなったために東国に移り住もう
と旅に出る。
 文学の他、平安中期から鎌倉中期にかけて行われた日宋貿易は寛
平6(894)年の遣唐使廃止後も、九州沿岸の商人たちによる私貿易
は継続していたが、旅という視点からみれば商用にあたるであろう。
日本至上初期の長途の旅行をなされたのは高岳親王のご事跡である。

Ⅲ、中世
 封建時代は地方分権で統一国家ではない。戦国時代ほどではなく
とも各時代大名が割拠しており中央政府の支配力は弱まる。
 京、鎌倉間に史上初の二大都市体制が出来上がったことにより、
両都市間の連絡が密になった。公益、物動が起こることで決済の必
要性が生じ、ここに為替決済が始まる。
 中世になると、朝廷や武家、荘園領主、有力寺社などが各々独自
に関所を設置した。その目的は通行料徴収である。人馬や船、荷物
などに対し、関銭(通行税)を徴収するという経済目的を持つ。
(10)

地元の領主たちが通行料を徴収し自らの管理としたため、交通及び
商品流通という交通政策上の停滞をもたらすことになり、その対応
策として室町幕府は「新関禁止令」を度々出すも効果は上がらなか
った。
 文学にみる公用・商用旅行を表したものに、平安中期頃に書かれ
た菅原孝標女『更科日記』は、作者の父菅原孝標が国司の赴任先で
ある上総国(現在の千葉県)での任期を終え、一家で京の都へと引
き上げる記述がある。
 他、鎌倉時代中頃に成立、所領紛争の実相を当事者の側から伝え

121
髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

る資料としても貴重である藤原為家の側室阿仏尼『十六夜日記』に
は、夫藤原為家の没後,為家の嫡子為氏(二条家祖)と実子為相
(冷泉家祖)間に遺産相続争いが起こり、所領紛争のため京から鎌
倉に下る様子が描かれている。
「惜しからぬ身一つは、やすく思ひ捨つれども、子を思ふ心の闇は
なほしのびがたく、道をかへりみる恨みはやらむ方なくて、『さて
もなほ東の亀の鏡にうつさば、曇らぬ影もやあらはるる』と、せめ
て思ひあまりて、万の憚りを忘れ、身を要なきものになしはてて、
ゆくりもなく、いざよふ月に誘はれ出でなむとぞ思ひなりぬる。」(11)
 鎌倉幕府の判決を仰ぐため鎌倉に下向する。治安不安定、道路も
整備されていないなかの女性の旅は余程の覚悟がなければ成し遂げ
られるものではない。
 上世の空海と同じく旅をした鎌倉時代中期の僧侶で時宗の開祖で
ある一遍上人は、踊りながら念仏を唱える「踊念仏」で全国遊行し、
時宗の布教に務めたことでも知られる。
 その他、「惜しむとて惜しまれぬべき この世かは身を捨ててこ
そ身をも助けめ」を詠んだ西行法師は生涯幾度となく旅に出ている。
能因法師など先輩たちの歌枕を訪ねる旅だったといわれているが定
かではない。目的が明らかであるのは文治2(1186)年西行69歳の
とき2回目の奥州の旅であり、その目的は東大寺の大仏建立のため
の勧進の旅であった。
「羇旅歌・987」「あづまの方に罷りけるに、よみ侍りける
西行法師
 年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけりさ夜の中山」
(12)

 東海道が整備される前は鈴鹿峠より東は殆どが未開の地であり、
西行が東国に下ったとき東海道は心細い道中であった。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

Ⅳ、近世
 戦国時代は分国法であった。法圏は分国内に留まり全国的統一性
はない。しかし同じ戦国の環境のなかでも軍事的に同じ目的があっ
たため共通性は高い。ドイツ普通法時代より統制されているわけで
はないが、自然な共通性がみられる。例えば信玄家法や長宗我部元
親百箇条は、いずれも分国のなかでしか通用しない。戦国後期にな
ると、一部大名が富国強兵のため領国内の関所を廃する方策をとっ
た。
 戦国時代末期に関白を務めた近衞前久は、富士山が見たいと個人
的な旅に出ている。これが可能となったのは、織田信長と親交があ
り、甲州征伐に出掛ける織田の軍勢に頼み込んで同行させてもらっ
たからで、安全面においても保障されたからこそ出来たことである。
この時代になると軍隊同士の戦いは激しさを増し中世より更に危険
度があがる。旅人は命がけで旅立つ。橋など勿論ない行程で、旅の
途中軍隊に出会うと秘密保持のため、殺害される不運にも見舞われ
る。越境するという事はもっとも困難で命がけである。これは分国
法の前提である戦国時代の世であるためで、領主の保障は分国の外
に及ばないからである。
 交通発達史は物的政治的に語られ、法的に観察されることは少な
かった。成吉思汗は初め何処へ行くにも命がけであり、やがて蒙古
を統一、勢力圏が拡大すると旗下蒙古中を自由に旅し、欧亜を制す
るとユーラシア大陸の大半が蒙古法に服して成吉思汗の通行証ある
者は天下を横行することができた。
 江戸時代になると徳川の覇権が確立する。我が近世封建制は世界
的に見ても稀なものであり、欧州封建に対比さるべきは前期封建制
のみである。徳川氏の威権が及ばない。このため薩隅の島津氏では
鎖国も曖昧となり密貿易、偽金を鋳る、薩摩飛脚は薩摩の国情漏洩
を防ぐために法圏を出れば殺害された。例えば佐賀も二重鎖国であ
るのは、封建時代は統合体制であって統一されていないからである。

123
髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

江戸後期は前代に比べれば、産業革命以前なので薩摩や佐賀の例外
はあるが、関所は手順を踏み手形 (13) があれば通ることが可能で
あるし、橋は橋銭を支払えば渡ることができるなど比較的安全確実
に旅が出来た。
 江戸時代になって制度化された参勤交代はまさに軍旅そのもので
あり、これは戦国時代にほぼ完成をみた。城下集住の同一線上に
起きたことである。大名は半年乃至3年毎に江戸と国許を往来する。
このため交通網が整った。各宿毎に本陣を備え、脇本陣を添え、主
要街道は御領私領を問わず道中奉行の支配下に置かれた。これによ
って幕府の強力な統制下にあったこと、軍旅であったことがわかる。
 元和偃武によって平和が維持され治安が向上、世の中が安定し、
生産力が向上する。徐々に街道が整備され、水陸交通網が発展する
などインフラが整備された。流通が円滑化し、経済の発展がみられ
移動が以前よりも楽になっていく。この政策を大規模に実行したの
は織田信長であり、その延長上に徳川時代がある。ここに旅の体制
が整った。現在の観光旅行が成立する下地が江戸中期以降発展した。
この結果、江戸中期になると経済的に余裕のある庶民を中心に江戸
から各地へ旅に出掛けるようになり盛んになっていく。代表的なも
のはお伊勢参りである。当初伊勢、金比羅、大山詣、秩父巡礼など
宗教的色彩を帯びた信仰の旅が多かったが、ここに娯楽的要素も加
わり途中で観光化している節もみられる。現在の観光旅行にあたる
ものがここに始まる。
 一般庶民の巡礼も始まり、江戸時代には各寺社とも多くの参拝者
で賑わった。巡礼旅行では、1200年昔、空海が人々の災難を除くた
めに開いた八十八の霊場を巡る四国巡礼、鎌倉時代に成立したとい
われる坂東三十三箇所巡りがある。(14) 信仰を掲げたものとしては
江戸近辺では、江ノ島、成田山新勝寺、相模大山詣が代表的なもの
としてあげられる。庶民の信仰と行楽の地となっている。
 士庶が一生に一度は拝みたいと願っていたのが伊勢詣であり、多

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

くの人が旅に出掛けた。
 「伊勢に行きたい 伊勢路が見たい せめて一生に一度でも」と
伊勢音頭 (15) に歌われるほど伊勢詣が盛んであった。伊勢詣は周
期的に熱狂的ブームが起こり、文政13(1830)年には全国から500
万人もの人々が伊勢目指して殺到した。こうなると関所も役に立た
ず、手形無しで突破する暴走集団が街道を襲ったといわれる。暴れ
ながら詣でるというのは、そこには娯楽の要素も多分に含まれてお
り、また発作的に憂さを晴らし、この際便乗して暴れるということ
もあったであろう。
 江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣『お蔭参り』は、本
居宣長の『玉勝間』によれば、江戸開府100年の2年後である宝永2
(1705)年の群参は50日間で362万人に達し、京都から起こった群
参の波は、東は江戸、西は現在の広島県や徳島県にまで及ぶほどで
あったとある。
 しかし多くの人が願ったものの簡単には行けず、せめて自分の代
わりにと送り出されて以来、明和8(1771)年4月、犬が突如単独で
伊勢詣を始めている。以降約100年にわたって、伊勢詣する犬の目
撃談が数多く残されている。(16)

                伊勢参宮の犬(17)
 他にも戸隠講、立山講などが有名であるが、一番は富士講であろ
う。富士山を崇拝する人々によって組織された講社であり、浅間講

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髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

ともいわれる。富士山へ登拝し修行した。富士山信仰は江戸を中心
に関東・中部地方で盛んに行われるが、富士山に直接行けなくとも、
江戸には多くの「富士塚」が存在し、そこに登れば霊峰参拝と同じ
ご利益があるとされた。富士信仰は、好奇心旺盛で物見高い江戸庶
民間で評判となり、江戸八百八講といわれた。富士山詣での叶わな
い人や子どもたちは富士山を模した「富士塚」を江戸各地に築山し
ている。(18)
 江戸中期、白山信仰が全国に広まりをみせたが、この富士講は食
行身禄が民の貧困生活を嘆いて時の政治を批判したもので、富士
山7合五5勺の烏帽子岩で世直しを求めて断食入定を果たした享保18
(1733)年以降にみられるものであり、庶民が徒党を組むことを嫌
った江戸幕府から度々禁止令が出されるほどであった。
 中世から近代にかけて出現、特に近世江戸時代に大坂商人・伊勢
商人と並ぶ日本三大商人の一つである近江国(滋賀県)出身の近江
商人は三都(江戸、大坂、京都)をはじめとする全国各地に進出、
商用旅行を繰り返し豪商と呼ばれるまでに発展していった。
江戸時代に始まった富山の薬売りもまた全国的に行商が行われたこ
とで有名である。
 風流人の旅の一例として、松尾芭蕉や小林一茶は日本各地を廻っ
ている。芭蕉が『奥の細道』のなかで、「松嶋の月先心にかゝり
て」記述しているところをみると風雅の旅をし、一茶は生計のため
に旅に出た。
 他、宮本武蔵は、主に生計のために諸国を旅している。行先は職
業によって異なるが、歌人や詩人などが全国を歩いて歌枕を訪ねて
廻るのは自らの生計のためである。その際地方の有力者の屋敷など
に逗留した。武芸者は武芸を教え、絵師は襖絵などを残し、歓待を
受け次の旅に出掛ける。今日、寺や大百姓が名品を所持しているこ
とが多いのは、これも一因であろう。
 伊能忠敬は、日本地図作成として公儀御用の旗を立てて全国を廻

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

る。これこそまさに公用の旅である。 
 江戸時代の関所は、江戸周囲の関所の一つである箱根の関所で有
名な「入鉄砲に出女」の言葉に象徴されるように、江戸に武力を寄
せつけないこと、参勤交代の武家の子女を江戸から出さないことが
設置の目的となった。また関所を通過するには通行手形が必要とな
る。
 この関所に関する逸話として、国定忠治が有名である。上州に「
国定忠治は鬼より怖い、にっこり笑って人を斬る」と詠われた侠客
で有名な国定忠治(長岡忠次郎)が捕縛され、小伝馬町の牢屋敷に入
牢される。罪状は博打、殺人、殺人教唆などさまざまな罪状はあっ
たが、最も重罪とされたのは碓氷関所の「関所破り」だった。国定
忠治は、嘉永3(1849)年上州で磔刑に処せられた。
 また260年間の江戸時代を通じて堂々と関所を正面突破した男が
いた。文久3(1863)年、江戸を出発した幕末の長州藩士高杉晋作であ
る。箱根といえば江戸時代第一の主要道路である東海道を監視する
ために設置された重要な関所である。
 江戸後期は産業革命以前なので薩摩や佐賀の例外はあるが、関所
は手順を踏み手形があれば通ることが可能であるし、橋は橋銭を支
払えば渡ることができるなど比較的安全確実に旅が出来た。
 関所は大化2(646)年以降制度化、軍事目的を持つ要塞であった。
その後関銭を徴収という経済的機能を持ち、その後治安維持の警察
目的へと時代によって役割を変え、明治2(1869)年廃止された。(19)
 江戸時代後期に書かれた上田秋成『雨月物語』の「菊花の約」は、
命をかけた旅を表しており旅の困難さが描かれている。
 「・・・・いにしへの人いふ 人一日に千里をゆくことあたは
ず魂よく一日に千里をもゆくと 此のことはりを思ひ出で み
ずから刃に伏し 今夜陰風に乗りて 遥々来り菊花の約に赴
く・・・・」(20)
「魂は一日に千里行くことができるとそのことわざを思い出し、自

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髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

ら刃で命を奪い今宵陰風に乗ってはるばる菊花の約束に赴いた」と
あり、約束の期間に間に合わせるために自ら命を断ち魂となって会
いに行く。早く旅するために死を選ぶ、死ぬことで行きたいところ
にも行けるということである。旅が困難であるという前提がなけれ
ばこの話は成り立たない。
 吉田松陰は鎖国時代にアメリカに留学を試みるも失敗、捕縛され
やがて処刑された。その弟子である高杉晋作は藩命を帯びて上海に
赴き、アヘン戦争後の反植民地状態を目の当たりにし深く学ぶとこ
ろがあった。同じく松下村塾である伊藤博文も藩命を帯びて留学生
として、長期留学の予定でロンドンに赴いたが、長州征伐のため
1年に満たない短い留学期間であった。

Ⅴ、近現代
 幕末に参勤交代が廃止されたことで交通や旅がそれに依存しなく
なるなど事情が一変した。
 明治2(1869)年版籍奉還、明治4(1871)年廃藩置県により全国
統一国家となり、交通の法的障害がなくなり交通圏が拡大する。科
学技術的進歩により交通手段は鉄道、蒸気船、などが普及、高速化
され、料金も抑えられ人や物の往来が活発になった。領土拡大によ
り台湾、樺太、朝鮮などにも行けるようになる。
 参勤交代がなくなっても旅に大規模な軍旅は残っていた。
 郵便汽船三菱は西南戦争で軍旅に従い、日露戦争時すべての私鉄
を買い上げたのは軍需輸送の便宜ためであり、まさに軍旅である。
 日本至上空前の軍旅として、大東亜戦争がある。常時300万人規
模の地上兵力が広く国外に展開していた。これほどの規模のものは
日本としてはもうないであろう。
 我国が開国して外国と交際するようになると、旅行も国際性を帯
びる。日米修好通商条約で批准書交換のためワシントンに赴いたの
は正使新見豊前守、副使村垣淡路守であった。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 時代が下って、夏目漱石は英文学研究のためロンドンに赴き、森
鴎外は軍医としてドイツへ留学した。
 今日旅の重点は、数の上では観光に移りつつある。今後共政府の
誘導と交通費の減少傾向によって増加していくであろう。

5、まとめ
 我国上代は氏族法下の統合国家であり、当然氏族法が氏族の領域
外に及ばないため交通は不便であった。上世は律令法の統一がなさ
れ、単一法圏であるので交通は便利となる。
 律令制下、駅逓が整備され物理的環境も好転したが律令衰退の過
程で共に衰える。その後武家法拡大の統合国家となり、交通は不便
となる。
 近世法建は中世と同じ武家法で、統合国家であり統一国家ではな
い。比較においては前代より集権化が進んでいる。従って交通法規
に関しても前代より進んでおり移動が楽になった。今日の旅は観光、
公用、商用を思い浮かべるが、観光旅行が盛り上がるのは江戸中期
になってからである。しかし観光よりも強い必要性があった商用旅
行の方が歴史は古い。戦国以前は治安不安定、交通網が整備されて
いないなかでの命がけの旅であったが、江戸期に入ると治安が向上
し、水陸交通網が整備され旅がしやすくなった。
 慶応3(1867)年12月9日小御所会議で政治的革命が成立、幕府の
廃止が決定した。幕府は法的に消滅し、徳川は全国的支配権を失っ
た。翌慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いが起こり、軍事的にも革命がな
った。ここに戊辰戦争が開始され西国で編成された新政府軍が日本
列島を縦断し五稜郭まで攻め下り、旧江戸幕府の勢力はここになく
なった。江戸の終わりを象徴する旅は、まさしく「軍旅」であった。
 明治を迎えると共に交通網は蒸気機関車、蒸気船など質が一新、
これによって大量高速廉価移動の時代になり、旅行が激増するに至
った。

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髙嶋 めぐみ 旅の変遷 ――軍旅から観光へ――

 現代、旅といえば観光が中心なのかというとそうではない。長い
歴史のスタンスでみれば観光の比重は時として増えているが旅に決
死の覚悟で出掛けた時代、観光旅行など先ずなかった。
 当時軍用路として造られたもので、例えば各所領と鎌倉を結ぶ鎌
倉往還や武田信玄が信州攻略のために造った信玄棒道など今も軍旅
の往時を留めるものがある。
 欧化政策のなかで欧州法の統一国家となり、領域拡大により交通
圏が拡大する。EU統合が進んだことでヨーロッパの多くは一つに
なり、同一法圏になると域内の移動や旅も楽になる。本稿は上代か
ら近現代までの旅の歴史について、従来法的にみられることが少な
かった点に着目し、統一国家であると移動しやすく、統合国家であ
ると移動しづらい点を法圏という角度から新しい視点で考察した。


1、中世の日記紀行文学作品は、現存するだけでも7、80編の多数にのぼると
いわれる。
2、新編日本古典文学全集『古事記』中巻4(小学館)。
3、新編日本古典文学全集『日本書紀』巻第7(小学館)。
4、前掲『日本書紀』巻第9。
5、宇治谷 孟『日本書紀』全現代語訳(講談社学術文庫)。
6、前掲書『古事記』中巻5。
7、前掲書『古事記』中巻4。
8、前掲書『日本書紀』大化2年(646)年春正月甲子朔。
9、マルコ・ポーロの『東方見聞録』、僧正玄奘の『大唐西域記』と共に「東
アジアの三大旅行記」と呼ばれている古典書物の一つである。
10、日野富子が京都・七口の関の関銭を内裏修復の名目で集め、実際には私
費を肥やすのに流用した話は有名である。
11、新編日本古典文学全集『中世日記紀行集』新編日本古典文学全集48(小
学館)。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

12、佐佐木信綱校訂「新古今和歌集」(岩波文庫)。
13、通行手形は領主が発行した。
14、神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県にかけて
ある三十三箇所の観音霊場である。
15、通称『伊勢音頭』といわれる『伊勢音頭恋寝刃』は、歌舞伎の演目の一
つになっている。
176、仁科邦男『犬の伊勢参り』(平凡社)に多くの実例が紹介されている。
年に一匹、二匹はいたと、菊池貴一郎著『江戸風俗画集江戸府内絵本風俗
往来』に絵入りで詳しく説明している。
17、菊池貴一郎『江戸府内絵本風俗往来』(青蛙選書)。
18、信仰の山である富士山は江戸末期まで女人禁制であった。
19、慶長5(1600)年、徳川家康により東海道に創設された新居関所は国指
定特別史跡として今もなおその姿を維持している。
20、日本古典文学全集『雨月物語』(小学館)。

(たかしま めぐみ・本学教授)

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

The History of the American Poor Whites

山 田 利 一
YAMADA Toshikazu

キーワード:アメリカ植民 プランテーション スコッチ・アイリッシュ
      アパラチア プアホワイト

要旨
 アメリカが階級社会であることは日本ではあまり知られていない。しかしア
メリカは貴族制度こそないものの、歴史と伝統に裏打ちされた階級社会である。
そもそもアメリカ大陸での植民地建設の目的の一つが、イングランド社会にあ
ふれていた貧民、下層階級を棄民することであり、アメリカ国家の歴史は階級
社会の歴史に他ならない。国民は階級によって異なるライフスタイルと価値観
を発展させ、住み分けを行い、相互に異なる文化集団を構成した。そしてそん
な社会の底辺にいるのがプアホワイト(白人貧困層)である。本論は彼らの歴
史と文化について検証をする。

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苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 2016年秋のアメリカ大統領選挙におけるトランプ候補の大票田の
一つが中西部ラストベルトであった。ここは19世紀末から20世紀半
ばまで、一大工業生産地として脚光を浴びた地域であるが、その後
の世界経済と社会の構造変化についていけず、荒廃し、寂れてしま
った土地である。多くの人は職と経済的チャンスを求めて他の地域
に移動したが、いくつかの理由でここに取り残された人々がいる。
これらの人々、かつての工場労働者は、地域のほとんどの工場が閉
鎖・廃業してしまったために、職を失い、失業者となっている。
 他方アメリカ経済は好調で、失業者は減少し、株価は上昇の一途
を辿っている。にもかかわらず、大統領選挙の前、ラストベルトに
は復興の兆しは皆無に近かった。失業者が職に就く可能性はほとん
どなく、彼らは全米的な繁栄から疎外されていた。彼らはここ半世
紀近く、大統領が共和党出身であれ、民主党出身であれ、本気でア
メリカの製造業を復興させ、ラストベルトを再生させようとしたこ
とはなかった、と信じている。彼らは、効率の高い国際的分業体制、
グローバリズムを重視するワシントンのエリートからは完全に無視
され、忘れ去られてしまったと絶望していた。
 そして2016年度の選挙におけるヒラリー・クリントン候補は、彼
らにはあまりにもエリート臭が強すぎた。彼らは今まで以上に無視
されることを危惧した。他方、トランプ候補は「アメリカ第一主
義」を標榜し、アメリカの産業を復活させ、失業者に職を与えると
声高に主張した。これはラストベルトにはまり込み、そこから抜け
出すことができない労働者、とりわけ白人労働者にとっては朗報で
あった。彼らにはトランプの後ろ向きの環境保護思想や国際協調主
義などは二義的な問題であり、彼の人格的な問題はむしろ個人的魅
力に感じられた。こうしてトランプはアメリカの白人、とりわけ疎
外感にとらわれていた労働者層(プアホワイト)から熱烈な支持を

135
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

得て、大統領選挙に勝利することができたのである。
 さて上で「プアホワイト」に言及したが、それは労働者階級を意
味するのであろうか、それとも失業中の貧しい労働者を指すのであ
ろうか、それとも貧者全般を示すのであろうか。以下に、アメリカ
におけるプアホワイトという概念について検証してみたい。

第1章 蔑視

 経済的弱者に向けられる冷たい視線はどこの社会にもあるが、ア
メリカ人の貧民に対する偏見は際立っている。それは細民に言及す
るフレーズの「豊かさ」が物語っていると同時に、その比喩の過激
さ、冷酷さにもうかがわれる。アメリカにおける黒人差別・蔑視の
し烈さはつとに知られているが、この攻撃性は貧しい白人に対して
も向けられ、その非情さにひるみはない。侮蔑語は多数あるが特徴
的なことは、waste peopleやrubbish、white trash、trailer trashなどの
ように人間を「ごみ」にたとえるフレーズが存在することである。
そしてさらにひどい例はscum(「(人間の)屑」)であろうが、最悪
はoffscouringsであろう。この語は一般の辞書には掲載されておらず、
その意味するところは“human fecal waste”1、すなわち「糞尿」
である。いずれも南部の植民地形成期、17世紀半ばに使用されてい
た言葉であり、階級間の断絶の深さを物語っている。
 同時期、よく用いられていたフレーズにlazy lubbersがある。その
意味は「愚かで扱いにくい無礼者」(stupid, clumsy oafs)であるが2、
前提には怠惰(lazy)がある。植民地エリートの視点では下層民は
常に怠け者であり、怠け者は、その性格ゆえに貧者、という固定観
念があったようだ。
 またこの時代、カロライナ北部の入り江には海賊が巣くっていた
ため、そこの貧しい住民は「野蛮な悪党」(the rascally barbarians
of Caroline)と呼ばれた3。そしてカロライナは住民の大半が貧民で

136
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

あった。ゆえにそこは「うすのろの土地」(Lubberland)と呼ば
れていた 4。貧しい人々は怠け者であると同時に愚鈍とも思われて
いたのである。
 そして植民地開設から1世紀以上経た18世紀半ば、この地に駐
屯していたイングランド軍将校たちは零細な庶民層を「屑」(the
scum of nature)や「かす」(vermin)と呼んでいた5。そして植民
地を代表する都会フィラデルフィアで活躍していたベンジャミン・
フランクリンも、貧者に対しては容赦がなかった。彼は貧しき民
衆を浮浪者(vagrants)や怠け者(idle persons)6、さらに「下層
民」(the vulgar masses)と罵倒していた7。彼は植民地の独立運動
に貢献した人物であるが、階級の存在を当然と考え、土地を持たな
い圧倒的多数の同胞を見下していた。
 そして再びカロライナに言及すると、この地に住む貧しい住民は
「山賊」(backcountry banditti)や「ならず者」(villains)、「馬泥
棒」(horse thieves)と呼ばれるようになった。そしてその属性は
怠惰(indolent)で愚鈍(foolish)、信仰がなく(irreligious)、ふし
だら(immoral; sluttish)であると信じられていた8。
 さらに1世紀後、19世紀の半ばになると、南部の貧民は、プラ
ンテーションが営まれていた平野部、沿岸部から押し出される
ように、西方の山間部に定着していたことから「砂山の住民」
(sandhillers)と呼ばれ、さらにはその赤貧状態ゆえに「土を食ら
う人々」(clay-eaters)と馬鹿にされた。
 17世紀の植民地形成期、アメリカはすでに階級社会であったが、
世紀が変わるころから、土地を購入する資金をもたないが、土地
所有の農民になりたいと願望していた人々が植民地の西部、辺境
地帯の山間部、アパラチア山脈に入り込んだ。そして18世紀には山
岳地帯を越え、先住民の土地に無断侵入し、そこを不法占拠し、定
住するようになった。それゆえ山間部に住む白人は「不法占拠者」
(squatters)と呼ばれるようになったが、彼らは同時に赤貧状態

137
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

であり、「不法占拠者」は「貧乏人」と同義であった。
 そして今日でもよく使われている「白人の屑」(white trash)が
登場したのもこの時代であった。このフレーズが初めて印刷物に掲
載されたのは1821年のことであった。そしてそれが一般的に流布す
るようになったのは1850年代のことであった。何はともあれ、この
頃には南部、とりわけアパラチア周辺の住民は貧困であるとのイメ
ージが全米に定着し、住民に対する偏見と嘲笑、愚弄も拡大した。
そして「貧しき白人」は文学にも言及されるようになった。19世紀
を代表する文学者ヘンリー・デーヴィッド・ソローは哀れな白人を
「人糞」(human detritus)にたとえ、『アンクルトムの小屋』の作
者、ハリエット・ビーチャー・ストウは彼らをネズミと同様に根絶
すべきと論じた 9。またニューヨークの小説家ジェームズ・ギルモ
アの南部旅行記は「卑しい白人」(mean whites)に触れ、その正
体は「怠惰で、盗癖のある、粗暴な白人」(the shiftless, thieving,
and brutish mean whites)であると断じた10。
 そして南北戦争後の南部復興期、勝利した政府共和党側の南部貧
困層に対する見方も同様に芳しくなかった。ワシントンの見解では
彼らは「危険な階級」(a dangerous class)で、「私生児や売春婦、
浮浪者、犯罪者の集団」(a flood of bastards, prostitutes, vagrants,
and criminals)の元凶であった。他方、復興の当局者の一人はダー
ウィニズムを持ち出し、彼らの絶滅を期待していた11。
 南北戦争は奴隷制とともに、事実上の貴族であったプランテーシ
ョン経営者による寡頭政治を終わらせたが、世紀末、この体制崩壊
に伴い貧しい白人の一部が政治的影響力を示すようになった。それ
が「レッドネック」(redneck)である。屋外で肉体労働をしてい
る白人が日焼けし、首筋が赤銅色になることに由来する語である
が、実際には、その意味するところは沼地に住む「暴力的で、人種
偏見をもつ人々」(the rowdy and racist followers)であり、作業衣
(overall)を着て政治集会に参加し、ヤジを飛ばし、時には議員に

138
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

選出される白人労働者階級であり12、本稿の冒頭で言及したトラン
プ大統領の支持者のプロトタイプである。注目すべきは、「暴力的で、
人種偏見をもつ」という点で、政治や経済からは同じように疎外さ
れているにもかかわらず、黒人に対する優越意識と差別意識、さら
には嫌悪感を抱き、それを行動――黒人に対するリンチや南部連邦
旗を掲げての白人至上主義主張――で示す傾向があることである。
 さらに20世紀初頭、ダーウィニズムにくわえて人類学や優生学を
背景に、貧乏白人に対する偏見はさらに先鋭化する。バージニア州
立精神薄弱者施設の代表(the superintendent of the State Colony
for Epileptics and Feebleminded)、アルバート・プリディーは白人
貧困層を「無能・無知で無用な人々」(the shiftless, ignorant, and
worthless class)と誹謗した13。
 また最高裁判事オリバー・ウェンデル・ホームズは、貧困白人
を前提に、個人の妊娠に関して州が関与――不妊手術――できる
との判例を示した。その根拠は、「立派な国民」(worthy citizens)
と「不用な国民」(the waste people)とを選別する必要があり、
「愚鈍の連鎖」(generations of imbeciles)と、国家が無能国民
(incompetence)の波にのまれるのを防止するためだとした14。
 このような思潮を背景に、また自身の体験をもとに、小説家アー
スキン・コールドウェルは、黒人からも馬鹿にされる無知で貧乏な
白人小作農民を主人公に据えた『タバコロード』(Tabaco Road)
を書いた15。
 20世紀前半、全米の小作(poor rural tenants and sharecroppers
class)の2/3は南部に所在し 16、その2/3が白人であった 17。小作は
恒常的に地主に借金し、現金を欠き、教育を受ける機会もなかった。
結果的に彼らは土地に縛り付けられ、経済的機会を求めてよそに移
ることができなかった。ゆえに小作制度は檻で、階級は監獄という
様を呈していた18。
 何はともあれ、南部の白人貧困層の悪しきイメージを払拭する

139
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

チャンスは訪れず、旧来のイメージが上書きされていった。南
部の中流層や北部人の目には、彼らは昔同様、虚ろな表情を呈し
(vacant-faced)、男はノッポ(gangling)でオーバーオールを着
用し、たばこを噛み、女性はふしだら(slattern)と映った 19 。そ
して彼らは怠惰(shiftless; lazy)で、ものぐさ・無気力(inertia)
で、目的意識と向上心を欠いている(purposeless, unambitious; no
desire to improve themselves)と考えられた20。
 しかし第二次大戦後、世間から疎外されてきた南部プアホワイト
の中から全米に影響を及ぼす人物が現れ、彼らの存在に対する再確
認とイメージに対する再評価の機会となった。最初はミシシッピ
州出身のエルビス・プレスリーで、プアホワイトの音楽(hillbilly
singing)と黒人音楽(rhythm and blues)を融合させた新ジャン
ル(ロカビリー)で全米のアイドルとなった21。貧困から一気に富
豪に上り詰めた彼には中傷と賛辞が拮抗したが、従来は社会の隅に
押しやられ、半ばその存在が否定されてきたアパラチアの貧民とそ
の生活にスポットライトが当てられたことは明白である。
 次いで1963年、東部エリートのケネディー大統領暗殺を受け、テ
キサス出身のリンドン・ジョンソンが大統領に出世したが、彼は
小作の息子(the son of a sharecropper)で、赤貧の中で幼少期と
青春期を過ごした苦労人であった22。そして権力者となった彼は、
「偉大な社会」の建設という大風呂敷を広げ、「貧困との戦い」を
宣言し、都市の黒人やアパラチアのプアホワイトの生活向上を意図
した。当時、アパラチア地域の失業率は全米平均の4倍もあり、住
民は鉱山開発による環境破壊と人権侵害に苦しんでいた23。ジェー
ムズタウン建設以来3世紀半の間、南部の貧しい白人に政治の光を
当て、本気で生活改善を意図した政治家は彼が初めてであった24。
 さらに1990年、アーカンソー出身のビル・クリントンがホワイト
ハウス入りした。彼も典型的な南部プアホワイト家庭の出身であ
る。アーカンソーは全米50州の所得ランキングで47位の貧乏州で、

140
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

「アーカンソーの掘っ建て小屋」(dirt-poor shacks in the Arkansas


hills)というフレーズが象徴しているように貧困家庭が多い。ク
リントンの出身家庭も例外ではなく、父親はDVや家出を繰り返し、
彼の家庭は事実上の母子家庭であった。そして母親が看護師の資格
を取るべく通学していた間、クリントンは祖父母と曾祖父母に養育
されていた25。とはいえ彼は学業が優秀で、奨学金を得て東部の名
門大学(ジョージタウン)に進学し、さらに誉れ高いローズ奨学金
を得てオックスフォード大学にも留学し、東部エリートの仲間入り
を果たした。それゆえ彼が、「怠惰で愚鈍」という南部プアホワイ
トのイメージアップに少なからず貢献したことは評価に値する。

第2章 階級社会

 アメリカはフランス革命に先立って王政(イングランド国王によ
る支配)を否定・駆逐し、市民(ブルジョア)革命を成功させ、対
等・平等な市民による自主独立の共和国、連邦制国家(旧植民地間
のゆるやかな連合体)となった。よってアメリカには王侯貴族は存
在しない。だが貧富の差――それは原理的には土地所有の有無、あ
るいはその規模の違いということになるが――や、その「世襲」に
よる社会的格差と社会的不公平は確実に存在し、富める者がますま
す富を増やす一方で、貧しき者がより劣悪な境遇に零落していく構
造の存在は否定することができない。そしてその萌芽は植民地建設
のはるか以前から存在した。
 イングランドは14世紀から貧困者対策に悩んできたが 26、それは
いかに貧困層を支援するか(福祉政策)、いかに経済状況をレベル
アップするか(経済政策)といったことではなかった。国家による
貧者支援(社会福祉)という発想がなかった時代、貧者は生存のた
め孤軍奮闘するしかなかった。しかし産業未発達の社会にあって職
を見つけることは絶望的で、結果的に貧者は犯罪に走る以外に生き

141
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

る術はなかった。ゆえに貧者=犯罪者というステレオタイプが形成
されると同時に、貧者の増大は社会不安を招き、王権への脅威とな
っていた。実際、14世紀末には貧農たちの暴動、ワットタイラーの
一揆が発生し、政権を脅かした。
 この流れをくんで1584年、上流階級に属する牧師リチャード・
ハクリュートがエリザベス女王に植民地建設の提案書(Discourse
of Western Planting)を提出し、アメリカ植民の効用を説いた。こ
れはイングランドに満ち溢れる貧者と犯罪人、「ごみのような人」
(waste people)を「荒地」(a wasteland)に移植し、荒地を豊穣
の地に変えさせるという提案であった。具体的にはイングランド国
内にいる乞食、浮浪者、囚人、債務者など怠け者と無用の者(idle
and unused)、遊び人(idle rogues)を「巨大な労働施設」(one
giant workhouse)に放逐するという発想であった。ハクリュート
はこれにより国内の治安対策と富国政策が一気に実現できると説い
た27。
 この思想は政府関係者・上流階級の間で共有されていたと考えら
れ、国王ジェームズ一世の勅許(charters)を受け、1606年にバー
ジニア会社(The Virginia Company)が創設された。当時は貿易
が盛んになり、そこから巨万の富を得ることが可能であったが、危
険な海上交通に依存していたため失敗の可能性も高く、貿易や植民
地開発は投機に近い事業であった。また初期投資に莫大な資金を要
することから個人での事業は不可能で、株を発行し、その売り上げ
で事業を展開することになった。とはいえ今日とは異なり、中間層
が未成熟な時代であり、投資家は貴族や富裕な商人であったし、国
王自身も会社の利益から有形・無形の恩恵を受ける立場であり、会
社の営業を積極的に後援した。たとえば彼は親しい国教会の牧師に、
説教を通じて金持ちには投資を、貧者には移民を勧めるよう依頼し
た28。
 このように、国策事業としてバージニア植民地は形成された

142
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

が、当然のことながら当初からここは階級社会であった。そもそ
も会社の筆頭株主にして初代総督はデラウェア男爵(Lord De La
Warr)・トーマス・ウェストであった。とはいえ彼はロンドン在住
の「不在地主」であった。そこでジェームズ一世は兵士上がりの
下級貴族トーマス・ゲーツ(Sir Thomas Gates)を総督代理として
現地に派遣した29。そして3隻の船団に乗船した約100人の移民の半
分は、冒険にも農業にも不慣れな「紳士」(gentlemen)であった30。
ちなみに当時の「紳士」は、今日の語法とは異なり、財産や徳のあ
る男性を指すのではなく、貴族に準ずる身分を指していた。
 そして1619年、初代総督トーマス・ウェストに代わり、やはり準
男爵のジョージ・ヤードリー(Sir George Yeardley)が赴任したが、
彼はすでにこの植民地に1,000エーカーの土地を所有していたので
ある。着任するや彼は6人の参事(fellow-councillors)と22人の議員
(elected burgesses)から成る植民地政府を立ち上げたが、それは
国王代理である総督と参事が構成する「上院」(an Upper House)
と「下院」(like the Westminster Commons)から構成されていた31。
とはいえ「下院」議員は富裕層(burgesses)であり、植民地が貴
族と上流階級によって支配されていたことは疑いの余地がない。
 つまり1607年4月、植民地建設が着手される前から、アメリカに
は潤沢な資金をもち、広大な土地を取得し、そこから生産される作
物の販売を通じて大きな利潤を得ようとする者と、その農園(プラ
ンテーション)で労働者として、あるいは奴隷として働く者と、原
則的には二つの階級しか存在しなかった。
 最初の植民者(planters)には100エーカーの土地が与えられた
が、その植民者とは上述したように紳士階級であった。しかし植民
地の開発が進み、土地が減少すると、新たな入植者が取得できる土
地は50エーカーに半減した。にもかかわらず、不足していた労働者、
年季奉公人を1人呼び寄せた者は新たに50エーカーの土地を取得す
ることができたのである32。とはいえ常識的には奉公人の渡航費を

143
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

負担できるのは豊かな人間、農場経営に成功した者以外にはおらず、
ここでも土地持ちがさらに土地を増やし、現金収入も増やすという
錬金術が機能していた。
 時代は前後するが、植民地のプランテーションは、1609年にジョ
ン・ロルフがバミューダ諸島からタバコを持ち込み、栽培に成功し
33
、1616年にはイングランド本国にタバコを出荷できるようになっ
たことで事業的成功を収めた 34 。しかもタバコは他の作物の6倍と
いう高い商品価値を有していたため植民地、より正確には農園・地
主層を潤した 35 。だがこの商品作物の栽培は3年で土地を枯渇させ
るため、新たな土地の取得が必要となり、植民地の絶えざる拡大が
必須条件となった。しかし言うまでもなく、新たな土地を買収でき
たのは初期投資を行うことができた富裕な事業家のみであった。
 他方、単一作物を広い農園(プランテーション)で育成するため
には多数の人手を必要とし、イングランドをはじめヨーロッパ大
陸から労働者を募った。労働者には短期(1年から2年)契約の奉公
人(servant contracts)と長期間(4年から9年)契約の年季奉公人
(indentured servants)があったが、いずれも事実上の奴隷で、ア
メリカに到着すると競売にかけられた。その後は雇用者の「動産」
(chattels)とされ、転売されることもあった36。
 人間を動産と考えるなど今日では考えられないことであるが、当
時はこれが常識で、雇用者、大農園経営者(大土地所有者)はこの
安価な労働力を最大限利用することでビジネスを拡大し、富を蓄積
することができたのである。
 さらに1676年に発生した貧困白人よるベーコンの乱をきっかけに、
富裕層は白人労働者の暴動や反乱を危惧し、武器所持が禁じられて
いたアフリカ人奴隷に労働力を依存しはじめ、奴隷船が入港するや
奴隷は富裕層によって買い占められ37、プランテーションの拡大再
生産に拍車がかかった。
 その結果、1世紀が経過した18世紀前半、バージニア植民地の半

144
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

分の土地が人口10%以下の上流階級によって所有されることになっ
た。他方、植民地住民の半分以上がまったく土地を所有しておらず
38
、極端な富の不均衡が生じていた。富める者は単に経済的に豊か
ということにとどまらず、議会を独占し、政治を動かし、我田引
水をほしいままにした。彼らはみずからを神に選ばれた階級(the
chosen people of God)と自称していた。爵位こそ保持しなかった
が、富と家格、それに特権を継承していた点で彼らは事実上の貴族
(the yeoman class; the ruling gentry)であった39。
 初代大統領ジョージ・ワシントンを含め植民地独立運動の指導
者たちはほぼ全員がこの階級に属していたが、第3代大統領トマ
ス・ジェファソンの経歴を見ればその貴族的出自が一目瞭然であ
る。小学校すら存在しなかった時代、彼は大学(the elite college of
William and Mary)を卒業した稀有な知識人であった。また本が貴
重かつ高価な時代にあって、彼は6,487冊の蔵書を有していた。彼
はラテン語、ギリシャ語を解し、イタリア語とフランス語に堪能で
あり、学歴も蔵書も単なる飾りではなかったことを裏付けている。
くわえて彼はヨーロッパの贅沢品を集め、美食家でもあった40。イ
ングランドの貴族の館(manor houses)には必ずと言ってよいほ
ど図書室(library)が設備されているが、ジェファソンはまさに領
主、貴族のような存在であった。
 ワシントンもジェファソンも奴隷の労働に依存した農園主であっ
たが、土地と奴隷の所有こそ富の源泉であり、名望家族から構成
されていた上流階級への参加資格条件であり、政治を左右する支
配体制への参加資格であった。南部植民地のエリート層は農園主
と商人から成る閉鎖的社会(a highly incestuous community)であ
ると同時に、疑似貴族社会(a pseudo-nobility)でもあった。当然、
植民地の自治は土地と奴隷、あるいは富をもつ者による寡頭政治
(oligarchy)であった41。
 そして独立後、少数エリート支配は勢いを増した。イングランド

145
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

国王の干渉がなくなった新国家では有力者がその権益をさらに増や
し、より強力な権力を掌握していったのである。南部ジョージアの
ジョナサン・ブライアンはそのような貴族的農園主を象徴する人物
といえる。彼は土地分配機構(Georgia’
s Executive Council)を利
用して32,000エーカーもの土地を入手し、そこに250人の奴隷を投
入して大プランテーションを築いたのである42。結局のところ、ア
メリカ独立は旧植民地のエリートをより豊かに、そしてより強力に
し、事実上の貴族にまでその地位をレベルアップさせたのである。
対照的に、土地も奴隷も所有しない小作(sharecroppers)、年季奉
公人や年季明けの自由民(労働者)、あるいは僻地の不法占拠者は、
新国家設立の中であたかも市民権を有しない異邦人のような扱いを
受け、相対的にその地位は低下した。彼らはエリートの市民社会か
らますます疎外され、切り捨てられていったのである。
 そして19世紀に至ると、この二つの集団の乖離にダイナミズムが
加わる。プランテーション経営による富の累積の結果、エリート層
は厚みを増し、支配はより一層頑強となり、アメリカ北部との間で
摩擦が生じた。それは自由労働を前提とする商業・工業に立脚する
民主的な北部と、奴隷に依存した農業から少数のエリート層が富を
独占する保守的な南部との経済・政治上の対立に発展し、ついに内
乱となった。南部エリートは南部連合(the Confederacy)を立ち
上げ、独立を宣言した。彼らは自分たちこそアメリカ建国の父たち
の血統を受け継ぐ正統な後継者であると公言し、北部人はピューリ
タン革命を起こした反逆者の末裔であり、劣等人種(a degenerate
race)であると愚弄した 43 。そして戦争が始まると南部政府は徴
兵制をしいたが、我田引水的に特例を設けた。それは教育のある
者、奴隷所有者、商店経営者、貴重な職業に従事する者などを徴兵
の対象外とすることであった。つまるところ南北戦争とは、南部
にとっては、「貧乏人が戦う金持ちのための戦争」(rich man’
s war
s fight)であった44。しかるにこの戦争は階級戦争(a
and poor man’

146
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

class war)でもあった45。
 むろん北軍による「解放」を待つまでもなく、南部の貧困層はこ
の戦争の大義を疑っていたし、それ以前に、身分による徴兵の不
公平・不平等(the unfair conscription policy)に不満を抱いていた。
兵隊は彼らばかりで、将校は農園主階級であり、徴兵免除対象者も
教師や牧師、政治家など、やはり上流階級の出身者であった。そし
て戦争の大義は「金持ちが所有する奴隷」を北軍による解放から阻
止するためであり、奴隷を所有しない者(貧乏人)にとって戦争は
何の意味もなかったのである。その結果、脱走が横行し、南軍はそ
の対応に苦慮することになった46。南軍の記録では75万から85万の
徴兵のうち、約10万人が脱走したのみならず、7万から15万の補充
兵徴募に対して出頭してきた者はわずか10万人であった。補充兵の
大半は貧困層であった47。
 連邦政府は当初から南部の階級制度とプランテーション・エリー
トによる貧乏白人の搾取を問題視し、占領政策として上流階級の財
産没収と 48 、世襲制度の弱体化を行った 49 。これにより南部の体制、
大地主層による寡頭政治は瓦解したが、階級制度の崩壊には至らな
かった。ゆえにプアホワイトの境遇には大きな変化は生ぜず、彼ら
が社会の底辺から脱却することはできなかった。
 北軍の勝利は奴隷を解放したが、南部エリート層は彼らの公民権
行使を妨害し、黒人は奴隷ではないが市民でもないという劣悪な状
態に置かれた。だがこれは黒人に限ったことではなく、旧支配層は
識字検査など姑息な手段を用い、小作など貧困白人からも公民権の
行使を阻害し続けたのである50。
 南北戦争終結から半世紀経った1930年代、全米のわずか36,000世
帯の所得は残り1,200万世帯のそれと同じであった51。つまり国民の
わずか0.3%が残りの99.7%と国富を分け合っていた計算になる。無
論これは経済に限ったことではなく、この数字は少数の上流階級が
国政を動かす寡頭政治の存在を暗示している。

147
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

 本論の冒頭で述べたように、労働者階級はこの寡頭政治、国政が
少数のエリート階級によって独占され、彼らの声や存在が無視され
ていることに苛立ちを覚え、彼らの主張に耳を傾け、彼らの窮状を
改善してくれる人物との期待を抱いてトランプを「利益代表」に選
んだのである。
 他方、トランプも、真意はともかく、表面上は彼らの心情を察
し、彼らに寄り添うそぶりを示した。2017年1月、彼は大統領就任
式の演説の中で「国民が苦労をしている一方で、ワシントンにい
る少数の集団が国政を我田引水してきた」(“a small group in our
nation’
s capital has reaped the rewards of government while the
people have borne the cost”)とエリート非難を行い、「権力をワ
シントン(のエリート)から国民の手に取り戻す」(“……we are
transferring power from Washington, D. C. and giving it back to
you, the people.”)と主張した。もちろん彼が意図する「国民」は
白人労働者階級である。
 彼は、植民地時代から続く東部上流階級の政経コングロマリッ
トからなる支配体制(the Establishment)と、それから見放されて
きた白人労働者階級との不和を見事に利用し、自らの出世願望を
実現することができた。しかし彼は本当に社会の底辺(the bottom
rung of the social order)52に光を当て、底上げすることができるだ
ろうか。それは400年にわたって光が届かなかった闇の世界である。
そこはたとえば、クレジットカード文化のアメリカで、クレジッ
トカードが使えないホテルがあり53、クレジットカードをもてない
人々がいる世界であり54、夢(アメリカンドリーム)が実現しない
世界でもある55。

第3章 階級と文化

 アメリカにおける階級問題は地理学的な棲み分けによっても顕在

148
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

的である。大は国土上に示される貧富の差や教育の偏りから、小は
地域社会における同様の偏りまである。1930年代、ペンシルベニア
州の地方都市の郊外に育った作家ジョン・アップダイクは、人口わ
ずか5,000人の小さな町56の中に所在した、金持ちの住宅街の存在を
記録している57。
 またニューヨーク州北部の、人口3,000人の田舎町スプリングデ
ールを調査した社会学の研究書『大衆社会の中の田舎町』(Small
Town in Mass Society)は5種類の階級を発見し、その棲み分けに言及
している58。
 そして以下に紹介する本、『ヒルビリー・エレジー』(Hillbilly
Elegy)によれば、オハイオ州の企業城下町ミドルタウン――著者
によれば労働者の町ということだが――も住宅地は階級ごとに分か
れているとのことである59。
 ゆえにアメリカ人は、日常生活を通じて常に階級の存在を意識せ
ざるを得ない状況下で人生を過ごしている。多くの場合、それは人
種・民族と重なるが、すべてがそうだというわけではない。黒人が
貧しく、白人は裕福という構図はあまりに単純で陳腐である。今日、
中流階級に属する黒人は珍しいことではない。上述したように、白
人にも貧困層はいるし、社会の最下層に白人がいたこと、そして今
もいることは厳粛な事実である。
 そして注目すべきは、階級は貧富の差、経済的格差であると同時
に、文化の違いでもあるということである。言うまでもなくアメリ
カは、人種・民族の違いにより、多くの異なる文化が併存する多文
化社会であるが、貧富の格差、しかも数世代を超越したそれは、国
民の間に相互に異なる生活様式や価値観を創造・発展させてきた。
ゆえに階級は文化の違いということにもなる。複数の異なる階級が
同一社会に併存するということは、国内に、人種・民族の違いによ
る異文化集団とは別の異文化集団が存在するということを意味する。
アメリカはこの点においても多文化社会であり、人々の平等を建前

149
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

とし、協調性と集合性に価値を置き、階級の存在を否定する日本社
会とは好対照である。ゆえに階級の問題は、人種問題と同様にアメ
リカを特徴づける大きな社会問題である。とはいえ、今までプアホ
ワイトの生態や文化に関しては未知の部分が多かった。しかし上で
簡単に言及したが、2017年、このテーマに関する興味深い本がアメ
リカで出版された。J. D. バンス(J. D. Vance)の著書『ヒルビリ
ー・エレジー』である60。
 著者は中西部のラストベルトに住む労働者階級出身で、海兵隊勤
務の後に(軍の奨学金を得て)州立大学に進学し、さらに奨学金を
得てイェール大学の法科大学院に進学し、弁護士となり、中流階級
入りした異色の人物である。そして彼は上掲書を通じて、外部から
はうかがい知れない白人労働者階級(white working class)の現実、
とりわけ行動原理と精神文化について貴重な一次情報を提供してい
る。
 バンスは、実質的な養育者であった祖父母がアパラチア山脈、ケ
ンタッキー州東部の山岳地帯出身者(hillbillies)であることを繰り
返し述べるとともに、祖父母がケンタッキーからオハイオ州へ移住
した時代――第二次大戦後――には数十万人のケンタッキー人が
「山」(hills)から中西部(オハイオ・ミシガン・インディアナ・
イリノイ)の工業地帯に移り住んだ歴史を語っている。
 と同時に彼は、そして彼の両親も祖父母も、アパラチアに住み着
いたスコットランド系アイルランド人の末裔(“I am a Scots-Irish
hillbilly at heart.”)であることも力説している。スコットランド
系アイルランド人とは、16世紀にイングランドの植民地となったア
イルランドに移住したスコットランド人のことである。ところが18
世紀、イングランドの植民地政策が彼らに不利に働いたため、彼ら
はアイルランドからアメリカに再移住した61。だが貧困な彼らには
土地を購入し、農業をする余裕はなく、辺境であったアパラチア山
脈に分け入り、先住民の土地を不法占拠し、自給生活を開始したの

150
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

である。以降、彼らは「山岳民族」(hill people)として貧しく閉鎖
的な社会の中で世代を重ねていった。そして19世紀末、鉄道の敷設
や鉱山(石炭)開発などに従事し、20世紀になると中西部の工業地
帯に職を求めることになった。しかし3世紀近くに及ぶ地縁・血縁
の閉鎖社会での歴史は彼らに特有の――祖先から継受したものも含
まれるが――精神と行動様式を付与することになった。
  バ ン ス は 自 著 の 冒 頭 で 「 自 分 は ワ ス プ と は 思 わ な い 」( “ I
may be white, but I do not identify with the WASPs of the
Northeast.”)と述べているが 62、ワスプとはイングランド人を祖
先にもつアメリカ人を指し、東部エスタブリッシュメントの中核を
なす人々(「人種」)である。そしてその「民族的特徴」は個人主義
である。個人の自由とプライバシーに最大の価値を置き、群れるこ
とを嫌う精神的傾向である。他方、スコットランド系アイルランド
人はバンスが指摘しているように、地縁・血縁を大切にし、一族が
群れ、助け合う精神的特徴をもつ。逆説的に言うなら、彼らはアメ
リカ人には珍しく、あまりプライバシーに価値を置かない生き方―
―“…privacy was more theory than practice.”――をしていると
言える63。
 他方、彼らは「家」への強い帰属意識をもち、一族の名誉を大切
にし、それを守るためには暴力の行使もいとわない。バンスの祖父
は幼い息子(バンスの伯父)がある商店から締め出されたのを知る
と、商店の商品を破壊し、店員を脅迫したことがある64。そして一
族の中には殺人未遂を犯した者や 65、実際に人を殺した者がいる 66。
前者は家族の名誉のため、後者は町の支配をめぐる抗争で対立一族
のメンバーを殺害したが、いずれも逮捕されることはなかった。彼
らの社会では「悪」を退治するためには法律は必要がないと考えら
れており 67 、少なくとも昔は、そのような考え(「山の正義」) 68 が
アパラチア山地に住まう、スコットランド系アイルランド系アメリ
カ人社会の中で容認されていたのである。

151
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

 以上からわかるように、スコッチ・アイリッシュは家族の絆を大
切に考え、地縁・血縁を重視し、それに対して強い帰属意識と忠誠
心を抱く傾向がある。そして「外敵」による侮辱や批判、攻撃は絶
対に許さず、そのためには暴力も辞さないのであるが、皮肉な味方
をすれば、彼らは直情径行で、攻撃性の強い人格の持ち主といえ
る。さらにその攻撃性はしばしば「内部」でも発揮され、DVとな
り、家庭崩壊の原因となる。そして特徴的なことは、その暴力の担
い手が男性だけではないということである。
 オハイオ州南西部、ケンタッキー出身者の多い労働者階級の間で
は夫婦喧嘩が常識で、喧嘩をしない夫婦は変人(odd)扱いされほ
ど夫婦間のいざこざが絶えないとのことである69。そしてバンスの
両親も例外ではなかった。食器の投げ合いを含む暴力が毎夜のよう
に続き、幼いバンスは睡眠不足で学業不振に陥ったとのことである
70
。驚くべきは彼の祖母である。祖父が毎夜酩酊して帰宅したこと
に腹を立てた祖母は、「もう一度酔っぱらって帰ってきたら殺す」
と警告を発し、その次に祖父が酩酊して帰宅した際、祖父にガソリ
ンをかけ、火を放ったのである71。そしてその祖母は家庭内のトラ
ブルのさい、しばしば銃を持ち出し、威嚇することもあった72。
 夫婦間の対立がかくも深刻な事態に陥るということは当然、離婚
に行きつく。そしてそれは大半のケースにおいて母子家庭を創出す
ると同時に、その枠外で祖父母による子供の養育が広く行われるこ
とになる。これがスコッチ・アイリッシュ、白人労働者階級、白人
貧困家庭においてよく見られる生活形態であり、彼らの文化の一つ
と言える。バンスの家庭も例外ではなく、両親は彼が幼稚園児の
時に離婚し、彼と5歳年長の姉は母親の手で育てられた。ちなみに、
彼の父親は母親の再婚相手であった。母親は最初の夫、姉の父親と
は18歳で結婚し、翌年離婚し、シングルマザーとなった。そしてバ
ンスの父親の次に母親と結婚したボブも母子家庭の出身であった。
バンスの母親は最終的に5人の男性と結婚したが、それは4回離婚を

152
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

重ねたということであり、同じ数シングルマザーを演じたというこ
とでもある。そしてその間バンスは、高校1年の時から祖母の家で
育った。さらに彼の実父も母親が再婚したのち、ケンタッキーに住
んでいた祖父母のもとで養育された経験をもつ73。
 先にクリントン元大統領がプアホワイトであると言及したが、彼
も母子家庭出身で、祖父母の養育を受けていたが、これはまさにプ
アホワイトの典型的な生活であったといえる。このような「地域文
化」は客観的にも明らかで、ジョージア州のある地方では世帯の
1/4が母子家庭である74。
 ところでシングルマザーを生み出す原因はもちろんこのスコッ
チ・アイリッシュに特徴的にみられる、男女共通の「多血質」だけ
ではない75。祖母が祖父を焼き殺そうとした背景には祖父の止まな
い酒癖があった。バンスはテレビのドキュメンタリー番組を例証し、
これが祖父に限ったことではなく、アパラチアに住む、そしてそこ
をルーツとするスコッチ・アイリッシュの男性によく見られる現象
であることを指摘している76。すなわち、一家の主が酒に溺れ、労
働意欲をなくした結果、母親が一家を支えるという現象がおき、最
終的には離婚に至り、シングルマザー世帯が増えるということであ
るが、根本的には衝動性が象徴しているように、自己抑制力の欠如
という問題が浮かび上がってくる。
 彼らはこの資質ゆえにアルコールやドラッグの中毒になり、家庭
を破壊し、子供に間違ったロールモデルを提示しているのである。
ゆえにその弊害は離婚やシングルマザーを発生せしめるだけではな
く、子供の学習意欲や向上心を阻害し、成人の勤労意欲や順法精神
に支障を及ぼすことになる。
 バンスによれば、彼の育った文化圏では成績の良い男子児童は
「女々しい奴」(sissies)と揶揄されるのみならず77、学業そのもの
が「女性の仕事」(a feminine endeavor )78と考えられている。そ
の結果、高校の落第率は20%、高校からアイビーリーグへの進学者

153
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

ゼロ、親戚に大学進学者ゼロということになる79。
他方、多くの女性が10代で妊娠し、シングルマザーとなる。時代的
背景を考慮しなければならないが、バンスの祖母は13歳で妊娠し、
14歳で結婚した80。そして彼の母親は18歳で妊娠し、19歳で結婚し、
すぐに離婚した。さらに叔母も16歳で高校を中退し、結婚した。く
わえて、バンスが通っていた高校の女子同級生の大半は、卒業後ひ
んぱんにボーイフレンドを替えているとのことである。中には13歳
の娘をもつ旧友がいるが、娘は母親の旺盛な恋愛行動に「もういい
加減やめてほしい」と訴えている81。さらに、バンスの祖母の隣人
となったケンタッキー出身の女性は複数の男性と関係し、その都度
子供を出産し、福祉で生活するシングルマザーとなっている82。
 つまりスコッチ・アイリッシュ系の人々は、男性が衝動的に暴
力を行使し、酒やドラッグに溺れ、身を持ち崩すのに対し、女性
は衝動的に恋をし、破たんするやいなや別の男性との間で愛の成
就を期待する傾向があるといえる。18世紀後半にノースカロライナ
の辺境を旅した人はこの地の女性が「奔放」(sluttish)であると報
告している83。さらに20世紀の中葉、南部の主婦は「だらしない」
(slattern)というステレオタイプが定着していたが84、バンスの記
述は噂の信憑性を暗示している。
 さらに彼は別の噂の信憑性も裏付けている。それは、スコッチ・
アイリッシュに限ったことではないが、400年以上前のイングラン
ド人上流階級が下層民に対して抱いていた偏見、そして植民地上流
階級が年季奉公人に対して抱いていた偏見――貧民は怠惰であると
する偏見――である。たとえば独立闘争の指導者層は、国家創成に
は勤勉で自立した市民が必要だが、怠け者(下層民)は不要と考え
ていたし、独立のイデオローグ、トマス・ペインは、怠惰は罪悪
(no man need be idle)と主張していた。そしてその下層民とは土
地をもたない貧民(the landless poor)にほかならなかったのであ
る85。

154
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 他方、バンスは草の根から興味深い証言をしている。彼が大学院
進学の資金を蓄えるべく地元の床材卸売店で働いていたときの同
僚に若い男性がいた。その若者は慢性的に遅刻し、週1回は欠勤し、
就業中に数回トイレに行き、30分くらいトイレ休憩をしたとのこと
である。くわえて、職場の監督が温情的に、彼の19歳になる妊娠中
のガールフレンドを事務職に採用したところ、3日に1日は無断欠勤
したとのことである86。これは極端な例と言えるが、バンスの証言
は豊富にあり、それに耳を傾けると貧困層に潜む「怠け」の存在が
浮かび上がってくる。
 まず、彼は高校生の時に食品スーパーでアルバイトをしたが、そ
こには福祉で生活をする貧民が多数買い物に訪れた。そして彼らは
いくつかの不正を行い、貧乏ながら安楽な生活を営んでいることが
明らかになった。たとえば彼らは福祉制度(行政当局から支給され
た食品購入チケット)を使用して食品を購入し、それをディスカウ
ント店に売り、現金化し、食品以外の物を買っていたのである。あ
るいは食品購入チケットでは禁じられている酒類は現金で購入し、
食品はチケットを利用する。あるいはチケットで高額なステーキを
買う者もいた。またバンスは、貧しい客の多くが携帯電話で通話し
ながら買い物をしていることに気づき、働かず、金のない人がなぜ
電話料金を支払えるのか不審に思った。しかしこの不審感、働いて
いない人々が酒や携帯などの「ぜいたく品」(trinkets)を楽しん
でいることに対する不審感は多くの労働者が共有している心情であ
る。
 かつて労働者階級は自分たち弱者に優しい民主党を支持していた
が、現在では大企業の利益代表たる共和党支持に回った。バンスは
その理由を、労働者は周囲にいる、不正を働く怠け者に対して怒り
を感じているからだと説明している87。すなわち労働者は、自分が
汗水流して稼いだ給与から税金を天引きされるが、それが怠け者の
生活費に充てられることに怒りを感じ、福祉に積極的な民主党とは

155
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

対照的な、小さな政府と自己責任をモットーとする共和党支持に動
いているのである。これは、貧者は怠惰だとする神話が、少なくと
も労働者階級の間では、今日でも信奉されていることを物語ってい
る。
 以上、プアホワイトの行動原理と精神文化について議論を重ねた
が、次に彼らの言語と服装について考えてみたい。バンスが11歳の
とき母親は息子同乗の車を暴走させ、親子心中を図ったことがあり、
裁判にかけられた。その法廷に出席したバンス少年が発見したのは
法曹関係者の話す英語であった。それはオハイオやケンタッキーの
プアホワイトの話す英語と異なり、テレビでキャスターが話す英語
(TV accents)であった88。この直後、彼はカリフォルニアの親戚
を訪ねる機会があったが、このとき彼は初めて自分がケンタッキー
訛りの英語をしゃべっていたことに気づいたのである。
 もう一つ法廷でバンスが気づいたことは、裁判官や弁護士が背広
姿であったのとは対照的に、彼の親戚が一様にトレーナーやTシャ
ツなどカジュアルな服装をしていたことである。それは取りも直さ
ず、服装に関するプアホワイトの無関心と無知を示していた。後年、
彼がイェール法科大学院生として就活するさい、労働者階級にはこ
の「社会資本」(social capital)が欠落していることに気づく。他
方、中流階級ではこれは常識で、就活の子供に対して親がどういう
服装をすべきか、面接では何を語るべきかをアドバイスしているの
である89。
 バンスの周囲の大人はこのアドバイスができず、バンスは必要な
情報、社会資本を欠いた状態でいた。彼は大学在学中、非営利団体
のアルバイト募集に応募したが、危うく拒絶されそうになったと告
白している90。その理由は、彼が海兵隊のシャツを着て、軍靴を履
いて面接に出かけたことであった。
 18世紀半ば、フランクリンは下層階級の服装がだらしないこと
(a rude appearance)や、訛りがひどいこと(vulgar speech)を

156
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

指摘したが、この指摘はそのご2世紀半にわたって有効であったこ
とになる91。フランクリンの言及は主にフィラデルフィアの貧民に
関してのものであったと推定される。しかし当時はスコッチ・アイ
リッシュが大挙してアメリカに渡った時期であり、その上陸地点が
ペンシルベニアであり、フィラデルフィアであった。もちろんフィ
ラデルフィアの貧民のすべてがアイルランドからの移民であったと
いうことは考えられないが、彼らの中に少なからずスコッチ・アイ
リッシュがいたことは十分考えられる。そして彼らの一部が18世紀
末からアパラチア地方(ペンシルベニア西部・ケンタッキー・ジョ
ージア・テネシー・サウスカロライナ西部)に移動し、先住民の土
地を不法占拠し、代を重ねたのがプアホワイトの歴史であった。外
部世界から遮断されたやせ地で世代交代が進む中で、固有の言語と
ライフスタイルが形成され、それが今日に至りプアホワイトの文化
となり、さらにそれが外部世界でステレオタイプとなったと考えら
れる。
 そして貧しい服装は貧しい食事や栄養の欠如、それに付随した公
衆衛生上の特徴などを想起させる。18世紀初頭、プアホワイトの根
城とされていたノースカロライナを旅した測量士ウィリアム・バー
ドは92、住民の容姿と言動の異様に気づいた。彼らはイノシシのよ
うな顔をし、人間の言葉というよりは動物の鳴き声のような言葉を
発していたというのである。また同時代のノースカロライナ総督
は、住民が素っ裸であること、栄養不足ゆえに肌の色が極端に悪い
こと、四肢や鼻、口蓋や歯を欠損する者が多いことを挙げ、彼らが
「人類の中で最も卑しく、最も垢抜けず、最も不潔な人種」(the
meanest, most rustic and squalid part of species)と断言した93。そ
して半世紀のちの観察者は、住民が「痩せて貧弱な体」(a lean and
mean physique)をしているとの記録を残している94。
 他方、19世紀中ごろ、アパラチア住民は痩せて、あごが出て、肌
が黒く、歯を欠いていることが知られていた。そして彼らの言語に

157
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

は辺境特有の訛り(backwoods patois)があったという。さらに彼
らはマナーを知らず、不潔な小屋に住んでおり、外部の人間には際
立った存在(a distinct class)と映った95。
 次いで20世紀、南部貧農が寄生虫(hookworm)の餌食になり、
重度の皮膚病ペラグラ(pellagra)に罹患していることがわった96。
言うまでもなく、前者は不潔な環境が、そして後者は栄養不足が原
因である。すると、代々このような劣悪な環境に住み、病気にさ
いなまれ続ければ、人は生気をそがれ、無気力にも怠惰にもなり、
「虚ろな表情」97を示すことが十分に考えられる。それはまた、55
歳の男性を80歳に見せることにもなるのである98。
 そしてこの悲劇的状況は21世紀に至っても変わらない。バンスは
祖父母の故郷、ケンタッキーの寒村を訪れ、「アパラチアの貧困」、
「山の人々」(hill people)の貧困を目の当たりにしたと告げてい
る。そこでは住民の1/3が貧困にあえぎ、政府の援助(福祉政策)
なしでは生活していけないのである。当然、村には廃屋(decrepit
shacks)のような建物が目立ち、そこの住民は恒常的かつ確信犯的
な失業者であり、彼らの飼い犬も栄養失調であった。そしてバンス
は自分の体験を、2009年に放送されたテレビ番組と重ね合わす。そ
れはアパラチアの子供たちの貧困を伝える番組であったが、特徴的
なことは子供たちが、甘いソフトドリンクの飲みすぎで深刻な虫
歯に罹患していることであった 99。彼らはまともな食事が得られず、
その空腹を紛らわせるために甘い飲料を摂取し続けていると想像さ
れる。ゆえに虫歯は彼らの貧困なる食習慣の象徴といえる。そして
そんな悪しき食習慣は最終的には彼らの命を縮ませることになる。
ケンタッキーの各地では平均寿命が67歳だが、それは隣州バージニ
アのそれより15年も短いのである。
 くわえて興味深いことは、この貧しき生活習慣がオハイオでも
認められることである。労働者階級は自宅で調理することがほと
んどなく、朝は菓子パン(Pillsbury cinnamon rolls)、昼はタコス

158
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

(Taco Bell)、夜はマクドナルドのファーストフードを食べている
のである100。
 以上からわかるように、南部アパラチアに始まる貧困の文化は、
「山」に残った者を今日でも呪縛し続ける一方、北部の平野で労働
者となった者に対してもいまだに大きな影響を及ぼし続けているの
である。貧困が作り出した「貧困の文化」が「豊かな文化」に転化
するのにはまだ多くの歳月を要するように思われる。

結論

 プアホワイトが南部の貧困白人を指す概念であることから南部に
焦点を当てて論を進めてきたが、アメリカが階級社会であるという
点では北部についても南部と同様のことがいえる。イングランド人
によるアメリカ植民は、南部バージニア(ジェームズタウン)と北
部ニューイングランド(プリマス)の2カ所から始まった。ニュー
イングランドの植民地はピューリタンが中心となって町づくりを始
めたことから、祭政一致の宗教国家的性格が濃厚であった。そこで
は人の地位は神が定めたと説かれ、「神の前の平等」は否定され、
聖職者と資産家が町を支配し、教会の席次も決まっており、身分に
もとづく服装の規定もあり、それに違反した者は教会から追放処分
を受けた。ゆえにピューリタンたちは常に階級を意識して、分相応
の生活をしなければならなかったのである101。つまり南部ほど極端
な貧富の差は生じなかったものの、北部においても階級は確実に存
在したのである。
 ただ北部では当初から上流階級がいた一方で、その後の社会の発
展は多数の中流階級を発生させた。ここでは独立自営農民という概
念が尊ばれ、奨励された。少数の名家が存在する一方で、無名では
あるが日常の生活に不自由しない家庭が社会にあまねく存在するよ
うになったのである。南部では地主層が20世紀に至っても社会や地

159
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

域を律していたのとは対照的に、北部では社会や地域を動かしてい
たのはほどほどの財産、そして教養をもつ中流階級であった。
 この流れは国家の西方への発展とともに西部にも到達し、そこで
も多数の中流階級を育て、アメリカを中流階級中心の国家とした102。
このようなマクロな流れに逆行するような形で、南部では20世紀に
至るまで少数の富裕層が、大多数の持たざる者から搾取を続けてい
たのである。そしてその過程、その構造の中で貧しき白人、プアホ
ワイトが生まれた。彼らは貧困構造の中でもがき、苦しむと同時に、
白人エリート層から侮蔑され、侮辱され続けてきた。そして20世紀、
産業構造の変化と共に彼らは「山」を降り、工場労働者となり、飢
えの恐怖から解放された。しかし彼らは依然として父祖の文化、歴
史に培われた山の文化に呪縛され続けている。それゆえ彼らは貧困
でなくなっても、職があり、ほどほどの富に恵まれても、プアホワ
イトなのである。バンスは、「階級とは経済の問題ではなく、生
き方(ライフスタイル)の問題だ」(“……social mobility isn't just
about money and economics, it's about a lifestyle change.”)と述
べている103。そしてそのライフスタイルとは、家庭内に不和がなく、
家族が和やかに生活することであり104、健康的な食習慣を身に着け
ることであり105、上昇志向を抱くことである106。
 バンスはイェールに進学し、周囲の中・上流階級出身者と交流す
ることで初めて自分が所属していた文化、プアホワイトの文化の存
在を知り、その貧しさと弊害を悟り、自分がエリート社会の中では
文化的な異邦人であることを知ったのである。
 繰り返しになるが、アメリカは階級社会であると同時に多文化社
会でもある。そしてその「多文化」の中には、国内のプアホワイト
の歴史と文化が含まれている事実を見落とすことはできない。

160
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

1.Nancy Isenberg, White Trash: The 400-Year History of Class in America, Viking,
2016, p.37.
2.同上、p.46.
3.同上、p.48.
4.同上、p.53.
5.同上、p.108.
6.同上、p.72.
7.同上、p.79.
8.同上、p.110.
9.同上、p.148.
10.同上、p.179.
11.同上、pp.180-181.
12.同上、p.187.
13.同上、p.200.
14.同上、p.201.
15.山田利一、「タバコロード――Jeeter Lesterの信仰」、湘南英文    
 学会紀要「湘南英文学」第8号所収、2013年
16.Isenberg 上掲書、p.217.
17.同上、p.214.
18.同上、p.215.
19.同上、p.251.
20.同上、p.225.
21.同上、p.258.
22.Stephen Graubard, The Presidents, Penguin Books, 2004, p.436.
23.Isenberg 上掲書、pp.262-263.
24.1829年に大統領になったアンドリュー・ジャクソンはスコッチ・アイリ
ッシュで、南部辺境出身最初の大統領である。この時代、テネシーやケ
ンタッキーなどアパラチア周辺の地域は州に昇格したばかりで、ジャク
ソンの政治的関心は先住民から土地を収奪し、彼らを西部に移動させる
ということにあった。彼自身土地投機を行っており、個人的思惑も多分
にあったことと推察される。他方、この地で暮らす貧しき開拓民への支
援などは国政の対象外であり、ジャクソンも関心を示さなかった。
25.Isenberg 上掲書、pp.296-297.

161
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

26.同上、p.21.
27.同上、p.17-21.
28.Malcolm Gaskill, Between Two World: How the English Became Americans,
Oxford University Press, 2014, p.21.
29.Gaskill 上掲書、pp.22-23.
30.同上、p.11.
31.Paul Johnson, A History of the American People, Harper Parennial, 1977, pp.26-
27.
32.Isenberg 上掲書、p.26.
33.同上、p.25.
34.Johnson 上掲書、p.26.
35.同上、p.38.
36.Isenberg 上掲書、p.36.
37.同上、p.41.
38.Isenberg 上掲書、p.85.
39.同上、p.86-87.
40.同上、p.87.
41.同上、p.46.
42.同上、p.62.
43.同上、p.155.
44.同上、p.159.
45.同上、p.158.
46.同上、pp.163-164.
47.同上、p.165.
48.同上、p.169.
49.同上、p.171.
50.同上、p.218.
51.同上、p.216.
52.同上、p.207.
53.J. D. Vance, Hillbilly Elegy: A Memoir of a Family and Culture in Crisis, Harper,
2016, p.236.
54.Vance 上掲書、p.251.
55.同上、p.242.
56.James Plath ed., Conversations with John Updike, University Press of
Mississippi, 1994, p.164.
57.John Updike, A Kind of Memoir, Oshisha, 1984, pp.16-17.

162
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

58.Arthur J. Vidich and Joseph Bensman, Small Town in Mass Society, Princeton
University Press, 1968, pp.52-78.
59.Vance 上掲書、pp.49-51.
60.Vance 上掲書
61.Dunbar-Ortiz, An Indigenous People’s History of the United States, Beacon
Press, 2014, p.52.
62.Vance 上掲書、p.3.
63.同上、p.32.
64.同上、p.40.
65.同上、p.14.
66.同上、p.24.
67.同上、p.16.
68.同上、p.78.
69.同上、p.69; p.73.
70.同上、p.71.
71.同上、p.43.
72.同上、p.78.
73.同上、p.90.
74.Isenberg 上掲書、p.308.
75.同上、p.120.
76.Vance 上掲書、p.58.
77.同上、p.245.
78.同上、p.78.
79.同上、p.79.
80.同上、pp.25-26.
81.同上、pp.150-151.
82.同上、p.141.
83.Isenberg 上掲書、p.110.
84.同上、p.251.
85.同上、pp.82-83.
86.Vance 上掲書、p.6.
87.同上、pp.138-140.
88.同上、p.79.
89.同上、p.214.
90.同上、p.182.
91.Isenberg 上掲書、p.73.

163
山田 利一 アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化

92.同上、p.49.
93.同上、pp.54-55.
94.同上、p.110.
95.同上、pp.115-116.
96.同上、p.215.
97.同上、p.251.
98.同上、p.242.
99.Vance 上掲書、pp.18-19.
100.同上、p.148.
101.Isenberg 上掲書、pp.32-34.
102.山田利一、「消滅しつつある戦後文化としてのムード音楽――インス
トゥルメンタル・ポピュラー音楽鑑賞文化の消失が意味するもの――」、
「苫小牧駒澤大学紀要」第32号所収、pp.58-62.
103.Vance 上掲書、p.207.
104.同上、p.225.
105.同上、p.207.
106.同上、p.106.

(やまだ としかず・本学教授)

164
苫小牧駒澤大学紀要 第33号(2018年3月31日)
Bulletin of Tomakomai Komazawa University Vol. 33, 31 March 2018

社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察
   

Consideratior of college students' conscious change aiming at the


acquisition of teacher's license of social studies and civic studies

松 田 剛 史
MATSUDA Takeshi

キーワード:社会科 公民科 教職課程 自己評価 コンピテンシーベース

要旨
 教職課程における社会科・公民科の教員免許取得を目指す学生が,当該教科
にどのような意識をもって学習に取組んでいるかを分析したものである。教科
目標である「公民的資質を養う」ことに向けた学生自身の教科観,授業法,さ
らには教科そのものがもつ意義を認識し,適切な教授ができる社会科・公民科
の教員としての資質・能力を醸成するために必要な視点を探ることをねらいと
している。
 本稿は,手法としては学生による量的,質的な自己評価を分析し,その結果
から見いだせる教師観や指導観を明らかにしようとした実践およびその分析の
結果である。

165
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

1 はじめに
 本稿は教員免許取得を目指す学生の免許教科に対する意識や学び
への向き合い方の現状と課題について,考察したものである。教育
学部所属ではない一般大学での教職課程の単位「社会科教育法・公
民科教育法」を履修する学生を対象に,学生個々人による自己評価
から質的・量的両面から得たデータを分析し,学生が今感じている
ありのままの教職観・教科観をあぶり出そうとした。中でも,本稿
では,毎講義時におけるリフレクション活動の機会が,学生自らが
「学ぶ」ことへの意識変革に及ぼす影響やその価値獲得プロセスの
一側面を明らかにしようと試みたものである。

2 社会科・公民科とは
 現行の学習指導要領(平成20年および21年告示)では各学校種
における社会科・公民科の教科目標は以下のように示されている。
(下線は筆者加筆)

「社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対す
る理解と愛情を育て,国際社会に生きる平和で民主的な国家・
社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。」
 (小学校学習指導要領第2章第2節 社会 第1「目標」より)

「広い視野に立って,社会に対する関心を高め,諸資料に基づ
いて多面的・多角的に考察し,我が国の国土と歴史に対する理
解と愛情を深め,公民としての基礎的教養を培い,国際社会に
生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的
資質の基礎を養う。」
 (中学校学習指導要領第2章第2節 社会 第1「目標」より)

167
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

「広い視野に立って,現代の社会について主体的に考察させ,
理解を深めさせるとともに,人間としての在り方生き方につい
ての自覚を育て,平和で民主的な国家・社会の有為な形成者と
して必要な公民としての資質を養う。」
 (高等学校学習指導要領第2章第3節 公民 第1「目標」より)

 各学校種の発達段階をふまえた目標の示し方(筆者加筆の下線部
を比較参照)にはなっているが,基本的な考え方としては「公民的
資質/公民としての資質を養う」こととした共通の目標を掲げてい
る。また,このことは小学校低学年での生活科「自立への基礎を養
う」,高等学校での地理歴史科「日本国民として必要な自覚と資質
を養う」とそれぞれの教科目標(以下参照)にあるように,社会科
系統教科としての関連性が色濃くみられることは言うまでもない。

「具体的な活動や体験を通して,自分と身近な人々,社会及び
自然とのかかわりに関心をもち,自分自身や自分の生活につい
て考えさせるとともに,その過程において生活上必要な習慣や
技能を身に付けさせ,自立への基礎を養う。」
 (小学校学習指導要領第2章第5節 生活 第1「目標」より)

「我が国及び世界の形成の歴史的過程と生活・文化の地域的特
色についての理解と認識を深め,国際社会に主体的に生き平和
で民主的な国家・社会を形成する日本国民として必要な自覚と
資質を養う。」 (高等学校学習指導要領第2章第2節 地理歴史
第1「目標」より)

 今回本稿で扱う免許取得科目は「中学校社会科」と「高等学校公
民科」である。これより以下は,両校種・教科に絞ってみていく。

168
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 各校種の学習指導要領(平成20年告示)解説によると,教科目標
は以下のように解説されている。

 この教科目標は,(中略),大きく三つの部分から構成され
ている。 (第1は省略)第2は(中略)地理的分野及び歴史的
分野の基礎の上に公民的分野の学習を展開するという中学社会
科の基本的な構造に留意して,公民としての基礎的教養を培う
ことを目指すのである。(後略) 第3は「国際社会に生きる平
和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の
基礎を養う」の部分である。これは,上の「第2」で示した三
分野の学習を通して育成する資質について述べたものである。
「公民的資質の基礎を養う」は小・中学校の目標に一貫した文
言であり,社会科の究極のねらいを示している。(中学校学習
指導要領解説社会編より)

 今回の改訂において(中略)目標は次の各部分から構成され
ている。 (第1,第2の部分は省略)第3の部分は「平和で民主
的な国家・社会の有為な形成者として必要な公民としての資質
を養う。」という部分である。これは,従前の公民科の目標で
あった「民主的,平和的な国家・社会の有為な形成者」を育成
することを目指すこの教科の究極目標と同じものである。「公
民」とは,政治的な観点からとらえる場合の国民を指す。また,
「公民としての資質」とは,現代の社会について探究しようと
する意欲や態度,平和で民主的な国家・社会の有為な形成者と
して,社会についての広く深い理解力と健全な批判力とによっ
て政治的教養を高めるとともに物心両面にわたる豊かな社会生
活を築こうとする自主的な精神,真理と平和を希求する人間と
しての在り方生き方についての自覚,個人の尊厳を重んじ各人
の個性を尊重しつつ自己の人格の完成に向かおうとする実践的

169
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

意欲を,基盤としたものである。また,これらの上に立って,
広く,自らの個性を伸長,発揮しつつ文化と福祉の向上,発展
に貢献する能力と,平和で民主的な社会生活の実現,推進に向
けて主体的に参加協力する態度とを含むものである。
 (高等学校学習指導要領解説公民編より)

 ここで言う公民とは,国民として国家に付き従う者という意味で
はない。共により良い社会を形成し,創造する上で必要となる「主
体的な参画者」であり,また適切な判断力や協働性を発揮できる
「社会の一員」としての能力や態度を備えた者,とでもいうべき
人・個人である。その資質を養うのが社会科・公民科の究極のねら
いであるとするならば,その指導にあたる本教科の教員免許の取得
を目指す学生は他に比しても大いにその意識をもち,公民的資質を
備えるにふさわしい学びへの向き合い方が重要となるはずである。

3 教職課程における社会科・公民科教育法
 教員免許状を取得する際の必要な修得単位として,教職に関する
科目区分の教育課程及び指導法に関する科目である。ここでは,複
数の大学での教職課程における当該科目のシラバスを事例に,その
実情について述べる。
 授業計画(シラバス):※各大学概ね共通性を持たせている。

第1回 オリエンテーション
第2回 わたしの学校時代をふりかえる
第3回 「社会」とは何か
第4回 「公民」とは何か
第5回 コミュニケーションと社会
第6回 「社会科」という教科①/「公民科」という教科①
第7回 「社会科」という教科②/「公民科」という教科②

170
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

第8回 「地理的分野」の内容分析と指導法/「現代社会」の
    内容分析と指導法
第9回 「歴史的分野」の内容分析と指導法/「倫理」の内容
    分析と指導法
第10回 「公民的分野」の内容分析と指導法/「政治・経済」
    の内容分析と指導法
第11回 関連する諸教育活動(ESD,国際理解教育,環境教育
    など)
第12回 学習指導案の作成①〜単元の指導計画を考えてみる〜
第13回 学習指導案の作成②〜本時のねらいと展開を考えてみ
    る〜
第14回 模擬授業
第15回 学習のまとめ

対象:A大学経済学部2年次履修学生「公民科教育法」(通年)3名
   N大学保健福祉学部3年次履修学生「社会科・公民科指導法
   Ⅰ」(前期)8名
   T大学国際文化学部3年次履修学生「社会科教育法Ⅱ」(前
   期)2名
期間:2016年度前期(4月〜8月)
 15回の講義の早い段階で,履修学生自らの小・中・高の児童・生
徒時代における経験をふりかえる活動をし,社会科・公民科という
教科の授業のみならず,学校教育に対する意識を自分に引き寄せた
り,他者と経験を共有することで教科像をぼんやりながらも形づく
った。これにより,学習指導要領を読み解く活動の際に自己や他者
の経験と照らし合わせながらイメージを少しでも具体化できるので
はないかとの想定であった。実際,履修学生の意識としては少なか
らず学習内容の理解に役立った。しかし,履修学生にとっては多か
れ少なかれ本教科に対しては「暗記」「テスト」「覚える事が多す

171
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

ぎる」などといった,ネガティブなイメージが多くみられた。また,
授業の形態も「板書」「教師の説明をきく」「覚えたことをテスト
で吐き出す」といった一連のサイクルを共通経験として見いだして
いる事も多かった。しかし,「調べ活動」や「グループディスカッ
ション」といった活動を経てきている学生も少なからずおり,担当
教員の持ち味によって経た学習プロセスも多様であることは想定内
である。
 そこで,学習指導要領の読み込みを等も通して,本教科の意義や
特質を認識し,学習者である生徒が価値ある学びを体得するための
時間としていかに指導に当たることが大切かについて,ブレーンス
トーミングやKJ法的な手法も適宜活用しながら自己の意見を導き
出し,他者とともに練り合いをする対話的な場面も多く設定するこ
ととした。しかし,主体的で対話的な学びに不慣れな一部の履修学
生にとっては,このような時間は戸惑うことも多く,また履修学生
が少人数であることなどからも多様な見方や考え方が出来るような
環境ではなかった。その点を改善するために,これら複数大学の履
修学生が一同に会して共に学習をしたり,相互に交流出来る場面を
数回設定した。これはいつもとは違う価値観に触れたり,自己の考
え方をあらためて見つめる有効な機会となった。

4 意識変容の分析
4-1 意識変容の見取りの方法
 履修学生には以下の視点で本教科に対する意識変容を見取ろうと
した。
 ・毎講義時に各自が記入する自己評価活動シート「リフレクショ
  ンシート」への自己評価
 上記の視点から,履修学生それぞれが本教科への意識をどのよう
に変容させ,自らの指導に対する意識を高めていったかを見取ろう
としたものである。

172
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

4-2 履修学生の変容についての分析
【リフレクションシート】
 学習者が主体的な学びのあり方を自ら見出だすための効果的な自
己評価活動として,ルーブリック的な手法を活かしたリフレクショ
ンシートを使用した。講義終了の際の10分程度を使い毎時行なった。
本取組は以下の3つの具体的な目的をもっている。
  ①【自己と向き合う】主体的に学ぶ態度と人間性を養うための
    機会
 (次期学習指導要領の改訂に向けた中教審の議論との関連性)
  ②【自己の能力を高める】認知スキル向上のためのふりかえり
   経験 (コンピテンシーベースの21世紀型能力の醸成)
  ③【自己の学びの軌跡を可視化】学びの現在位置を測るための
   道具 (ルーブリックを活用したポートフォリオ自己評価)

また,評価の観点と記入事項(視点)は以下の通りである。
  ・「学習状況」(右図上半分)と
   「目標達成」(右図半分)の2
   つの観点から自己評価
  ・記入する事項は「気づきや学び,
   疑問点の可視化」(右図1-1)
   と「評価の根拠の記述」(右図
   1-2と2-2)の2つの視点
 本活動は学習者である履修学生が自
らの学びの状況や立ち位置(向き合い
方)を確認するものであり,蓄積する
ことで学びの軌跡を学習者自らが確認
し学びを深めたり意識を高めたりする
ためのポートフォリオ評価材として活 【図1 リフレクションシート(例)】
用できるようにしている。そのための機会として,15回の講義期間

173
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

の中間と最後には学びの軌跡を自らふりかえる機会を設定している。
ゆえにその性格上,成績評価には反映させることはない。
 1-2については,1-1「気づきや学び,疑問点等」をどれだけ可視
化できたかを自己評価し,その評価の根拠を示すというものである。
評価段階は3段階とし,可視化できていればB,できていなければC,
可視化できた者のうちさらに達成度の高い基準にまで達していたと
する者はAにチェックを入れる。ここで大事なことはどこの評価の
段階にチェックを入れたかではなく,評価の根拠欄に記述された理
由が他者に対して納得を得られるものとなっているかどうかである。
これは,21世紀型能力 などでも示されている根拠に基づいて説得
する力の醸成につながるものである。
 ではこの自己評価した評価の段階はどのように変化していったの
であろうか。「学習状況」「目標達成」ともに講義回が進むにつれて
徐々に上昇し,自らの学びをしっかりと自己評価できていることが
そこで明らかになるであろうと仮説を立てていた。では実際はどう
であっただろうか。
 そもそもこのリフレクションシートは以下の3つの要素が関連し
合いながら構成されている。
 ・1-1「気づいたこと,学んだこと,疑問に思っていること等〜
  感想ではないので留意~」の記述
    →本教科に対する意識の変容を読取るひとつの質的資料
 ・1-2および2-2の評価段階のチェック→自己の学びの現在位置を
  測るためのツールでしかない
 ・1-2および2-2の評価根拠の記述→思考・判断・表現力の醸成に
  向けたツールである
 その中でも今回は学習者が自己評価としてチェックを入れた評価
段階そのものを量的に分析した。1-2「学習状況評価」における3大
学での値は以下の通りである。

174
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 A大学では都合によりデータは11回目で終了し,T大学では途中
何回かのデータ未取得時がある。ゆえに,本データ分析は1回目〜
11回目をその分析対象として扱うこととした。
 また,それらの値をグラフ化したものと,その平均値から見出だ
せたことは次の通りである。それぞれの見取りの根拠は,1-1に記
載されている質的データをもとにしている。

1
国立教育政策研究所「教育課程の編成に関する基礎的研究報告書5 社会
の変化に対応する資質や能力を育成する教育課程編成の基本原理」(2013年)
で報告された研究で名付けられた“21世紀を生き抜く力”のこと

175
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

①4回目は「『公民』とは何か」を扱った回であった。これは「公民
科」は何かではなく,「公民」そのものの意味を見いだすという
ことである。さらに,学習指導要領から本教科目標の読み込みお
よびその解釈をグループで行った。4回目の学習状況評価の根拠
を以下掲載する(一部)。
 ・あくまでも知ったというだけで理解するまでは至らなかった。
(A大)
 ・あまり深くまでは読み解けなかったから。(A大)
 ・目標について一つ一つを吟味し,考えを表現することはできた
が,それをどうしていけば達成できるのだろうかというところ
まではたどり着けなかったから。(N大)
 ・気付いたことは多かったけど,意味が分からん。(N大)
 ・目標を理解できたようでできていない。しかし,一文一文の意
味を考える事によって,その言葉の意味や伝えたいことが明確
に見えるようになってきたから。(T大)
 ・自分と相手の解釈を意見交換することで,気づきや学びが多く
理解につながった。(T大)
  これらから見えたことは,難しい活動内容ではあったが学生
個々が自ら学びへと向き合う最初
  の時間であったということである。そのため,1-1に記載した
気付きや学び,疑問点を経験から
  率直に書き表したことへの評価であると見取れた。
②6回目は教科そのものについて扱う講義内容であった。どちらか
というと,第1回目の講義から時間の多くを使って活動してきた
グループ討議や自己の意見をもって他とかかわるといったような
主体的な学習形態よりは,教員からの講義やインプットの場面が
多かった。
 ・今まで感じていたことと実際に理解したことが違っていたこと
を認識できた(A大)

176
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

 ・初めて聞いた言葉やこれまでうまく捉えることができなかった
言葉が多く,気づきや学びを十分に可視化するには至らなかっ
た。(N大)
 ・自分の受けた教育,これからする教育について具体的にイメー
ジできた。(N大)
  自ら何かを考え生み出すといった能動的な学びに未だ慣れてい
ない学生にとっては,既にこれまでの学校教育で経験上慣れて
いる受動的な学びに安心感を覚えての評価結果であるとも見取
れなくはない。そのために学習状況はやや上昇したものかとも
考えられる。
③9回目は教科内の分野や科目の内容分析である。
 ・「倫理」の授業を実際にどのようにしていけばいいのかがまだ
わからない。(A大)
 ・意義を理解するのに必至で,可視化までは至らなかった。(N
大)
 ・目標の設定をするためのポイントを理解できた。また,学生同
士で話し合いをすることで,新しい見方や自分の理解に足りな
いものがみえてくることが多くあった。(T大)
 学習内容的に,教科における分野や科目の目標や内容にも深く
足を踏み入れたことにより,理解不足を招くことになったのかと
思われる。また,公民科では「倫理」を分析したことで,これま
で経験してきた授業からみた「教えられる」ことから「自己で学
びを生み出す」ことへの転換プロセスに見通しの不透明さや不安
が現れてきたのではないかと推察できる。これは自ら問題を発見
し解決に至らしめようとする意識が現れ始めたと捉えられるので
はないだろうか。
④10回目は9回目同様に教科内の分野や科目の内容分析である。
 ・知識がないところから少しついたということで,教科のことが
少し見えてきた。(A大)

177
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

・ 学習の意義を理解し,文字化することができたから。(N大)
・ 実際に生徒に何を身に付けさせることがねらいかを文字にして
初めてわかった。(T大)
 9回目で意識した「学びへの向き合い方」について,ブレイク
スルーした学生が何人か現れ始めたということと,それが学生相
互に伝播したことも要因として考えられる。しかし,まだ打破で
きない学生もおり,次回以降の学習指導案の作成時期において学
生個々の学びへのモチベーションの差にもつながってくることと
なる。
 以上のことから,各講義回の学習内容や授業形態によって,学習
状況の自己評価には大きく影響を及ぼしていた。これは当然と言え
ば当然のことなのだが,だらしなく根拠のない評価や記述をしてい
るのではなく,学生が学習に対してしっかりと向き合っているから
こその影響なのではないだろうか。
 次に2-2「目標達成評価」について見てみる。

 本講義の到達目標は,学習内容にも関連しているため,その多く
は学習状況と似た動きを示している。以下,学生による評価の根拠
の一部を掲載する。

178
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

①4~5回目への自己評価の根拠記述より
 ・他者の意見も参考にしながら,自分なりに教科目標を分析する
ことが出来た。(N大)
 ・教育的効果について,他の人の意見を聞きながら,理解を深め
ていくことができた。しかし,深めていく中で頭の中で整理す
るのに精一杯で関連付け迄には至らなかった。(N大)
 ・教科の目標にふれて,それがどういうものかについて考えるこ
とは出来た。しかし,内容を深められるほど理解出来なかった。
やはり授業への準備は必要ありそうだ。(A大)
 ・教科目標について,読むと1分で終わる文でも,その単語の意
味をよく考え,吟味し,理解した上で,最後に自分の言葉で目
的についてまとめることができたため。(T大)
②6~7回目への自己評価の根拠記述より
 ・疑問点を他の人と共有し,多様な面から事物を捉え,色々な見
方をすることができたから。(A大)
 ・高等学校では小中学校での基礎をもとにして,公民的資質を
養うために,各科目の目標があることが改めて理解出来たから。
(A大)
 ・社会科系統教科の教科目標や社会科の各分野のねらいから,似
ている単語や同等の意味の単語を見つけ出し,学習者が身につ
けるべき資質や能力・態度を総合的に見い出すことができたか
ら。(N大)
 ・総合的に見いだすということは意味がわからない。まずは結論
から知りたい。(N大)
 ・講義形式が多かったが,自分なりに考えることが出来たし,こ
れまで疑問に感じていたことへの答えが分かったような気がし
た。(N大)
③10~11回目への自己評価の根拠記述より
 ・身につけさせたい資質能力をどのように科目内で授業展開して

179
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

いけばいいか,イメージができなかった。(N大)
 ・まず先に答えを教えて欲しい。(N大)
 ・具体的な科目のめざす姿が見えてきたこと,学生同士で話し合
いが上手く出来るようになってきたこと,そして自身で教科の
指導イメージが持ててきたことは大きな収穫。(A大)
 ・学習指導要領をもとに周囲の人と何が大切か,重要な単語はあ
るかを話し合い,そこからイメージをふくらませて色々な解釈
ができることに気付けた。(A大)
 ・生徒に身につけさせたいものについて考え,この大事な部分を
どのような活動の中で行われているかについて検討することが
出来た。(T大)
 ・学習指導要領解説を読み込み,身につけさせたい資質・能力を
どれだけの時間で指導し,身につけさせるかについて理解でき
た。(T大)
 以上のことから,目標達成評価は学習状況評価と連動しており,
その顕著な差異や傾向を学習内容や学習環境の質的データを参考に
読み解くことで,学生の学びに対する向き合い方や意識の変容を読
み取り,変容の兆しを発見したり確認できるツールとなりうること
が検証できた。

5 見取れた変容について
 これまで述べてきた事例や活動の側面から次のことが見えてきた。
・社会科および公民科に対する自己の経験とそのねらいとのギャッ
プ,すなわち「暗記」を中心とした科目と公民的資質を養うこと
を目指した科目という差を感じ取ることができている(感じ取ろ
うとしている)記述が,講義回を重ねるにつれて増加したり,そ
の意識が授業内での活動においての意欲的な姿勢に結びついてい
たことは十分に見取れた。しかし,その気づきが学校現場で行わ
れている本教科の現状とリンクしないことはジレンマとして残っ

180
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

ている学生も少なからず存在した。これはまだ学校現場の実態を
未経験であることもあげられるが,教育実習を控えた学生にとっ
ては課題意識をもって臨むことにもつながる効果もあるのではな
いかと感じられた。
・小グループで学び合う場面を多く設定することによって,相互
に学びに向き合う姿勢や意識を高めることができる。しかし,こ
れはマイナス面においても影響がみられ,意識が高まらない学生
にグループ内の他の学生が引っぱられ,学びへ向き合うことへの
意識の低下を招く。これには前提として,指示が的確に届いたり,
問いが自分の中にしっかりと理解されていたり,また適切な学習
環境の整備を教員が行っていることがあった上で,学生への個別
の状況に合った指導がなされることが重要である。
・グループワークを学習活動の中心に据えることによって,自ら獲
得した知見や他者から得られた新たな視点を自分のものとし,そ
れを活かしたり,さらに追究したりする意欲や態度を効果的には
ぐくむことができる。習得・活用・探究の学習視点が具現化され
たとみられる。実際に学習指導案の作成をすることにより,活
用・探究の部分がさらに刺激され,自らの学びを深めたり広げた
りまた他の学習や日常においても活かす意識や態度も醸成するこ
とにつながっている事例もみられた。

6 おわりに
 社会科および公民科の現場指導に向けた指導者としての意識変容
について今回は分析をした。しかしこれは何も本教科だけにあては
まることではない。身に付いた学びへの向き合い方や考え方が学習
内容や事象に対しての関心を高め,追究へと誘う効果的な学習のス
パイラルがうまく作動したに過ぎない。ゆえに,今回分析した本教
科指導への意識変容は,学びに対する意識変容と捉えることができ
る。

181
松田 剛史 社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察

 また,本教科は「公民的資質を養う」観点から,自主的でかつ実
践的な学習という側面をもつことからも,今回の「リフレクション
シートによる自己評価活動」「少人数によるグループ活動」などを
有機的に組み合わせた実践は,学生の意識変容を促し,それを学習
者・教員双方が見取り,本教科での学習はもとより,他の学習や日
常生活で活かすことにもつながる事例のひとつとして,少なからず
の意義があったのではないかと考える。
 コンピテンシー・ベースの確かな学びを学習者自らが獲得し,そ
してその獲得した知識,資質・能力,態度を日常の中でいかに適切
に使っていけるかは,持続可能な社会づくりを担う市民としてとて
も大切な学びのプロセスではないだろうか。そのプロセスを実社会
に羽ばたく前の中等教育年限において実際的に経験できる場として
機能する社会科・公民科の授業の在り方が今問われている。その指
導にあたる本教科の教員免許を目指す学生の意識と,そこに向き合
うための資質・能力を自らはぐくむ姿勢は,今後の学校教育にとっ
て相当大きな財産となるのではないだろうか。

<参考文献・資料>
◯文部科学省「小学校学習指導要領解説 生活編」日本文教出版社 2008年
◯文部科学省「小学校学習指導要領解説 社会編」東洋館出版社 2008年
◯文部科学省「中学校学習指導要領解説 社会編」日本文教出版社 2008年
◯文部科学省「高等学校学習指導要領解説 公民編」教育出版 2009年
◯文部科学省「高等学校学習指導要領解説 地理歴史編」教育出版 2009年
◯文部科学省教育課程課「中等教育資料 No.953」学事出版 2015年
◯OECD教育研究革新センター「メタ認知の教育学 生きる力を育む創造的
数学力」明石書店 2015年
◯P.グリフィン,B.マクゴー,E.ケア「21世紀型スキル:学びと評価の新た
なかたち」北大路書房 2016年
◯石井英真「今求められる学力と学びとは― コンピテンシー・ベースのカ
リキュラムの光と影」日本標準 2015年
◯田村知子,村川雅弘,吉冨芳正,西岡加名恵「カリキュラムマネジメント

182
苫小牧駒澤大学紀要 第33号 2018年3月

ハンドブック」ぎょうせい 2016年
◯田中耕治「新しい『評価のあり方』を拓く」日本標準 2010年
◯西岡加名恵,石井英真,田中耕治「新しい教育評価入門」有斐閣 2015年
◯松下佳代「パフォーマンス評価―子どもの思考と表現を評価する」日本標
準 2007年
◯三藤あさみ,西岡加名恵「パフォーマンス評価にどう取り組むか― 中学
校社会科のカリキュラムと授業づくり」日本標準 2010年
◯安彦忠彦「『コンピテンシー・ベース』を超える授業づくり」図書文化 
2014年
◯ダネル・スティーブンス,アントニア・レビ「大学教員のためのルーブリ
ック評価入門」玉川大学出版部 2014年
◯国立教育政策研究所「資質・能力 理論編」東洋館出版社 2016年
◯国立教育政策研究所「教育課程の編成に関する基礎的研究報告書5 社会
の変化に対応する資質や能力を育成する教育課程編成の基本原理」2013年

(まつだ たけし・本学非常勤講師)

183
苫 小 牧 駒 澤 大 学 紀 要 第33号
平成30(2018)年3月31日印刷
平成30(2018)年3月31日発行
編集発行

苫小牧駒澤大学
〒059-1292 苫小牧市錦岡521番地293
電話0144-61-3111
印  刷
ひまわり印刷株式会社
紀要交換業務は図書館学術情報センターで行っています。
—— お問い合わせは直通電話0144-61-3311 ——
ISSN1349-4309
ISSN1349-4309

苫小牧駒澤大学紀要  第三十三号  
BULLETIN
OF
苫小牧駒澤大学紀要 TOMAKOMAI
KOMAZAWA UNIVERSITY
第33号 Vol. 33

帝大教授のアイヌ墓地発掘 Professor Who Desecrated Ainu Graves


  ――小金井良精の第二回北海道旅行(一八八九年) −Koganei Yoshikiyo's Second Visit to Hokkaido in 1889
   …………………………………………………………… 植 木 哲 也 …………   1   …………………………………………………………………… UEKI Tetsuya ……… 1)

龍のイメージ覚書 Images of Dragons in East Asia


    ――東アジアにおける龍の図像展開――   ……………………………………………………………… HAYASHI Kouhei ……… 27)
   …………………………………………………………… 林   晃 平 …………  27                     ◇
                    ◇ The Introduction Status of the Management
苫小牧地域の中小企業における管理会計の導入状況 Accounting in the Small and Medium-sized Enterprises
   …………………………………………………………… 川 島 和 浩 ………… ( 1) in the Tomakomai Area
  ……………………………………………………… KAWASHIMA Kazuhiro ………   (1)
『法性不動経』をめぐる諸問題
   …………………………………………………………… 小 林   守 ………… (33) Some Remarks on the Dharmatācalasūtra
  ………………………………………………………… KOBAYASHI Mamoru ……… (33)
シャーロット・ブロンテの文学とベルギー
  ――『ヴィレット』におけるヨーロッパレースの表象―― The Literature of Charlotte Bronte and Belgium
   …………………………………………………………… 佐 藤 郁 子 …………(97)  −Representations European Traditional Lace in Villette
  ……………………………………………………………………… SATO Ikuko ……… (97)
旅の変遷
  ――軍旅から観光へ―― Discussion of the Transition of the Journey
   …………………………………………………………… 髙 嶋 めぐみ ……… (113)   ………………………………………………………… TAKASHIMA Megumi ……… (113)

アメリカ白人貧困層(プアホワイト)の歴史と文化 The History of the American Poor Whites


   …………………………………………………………… 山 田 利 一 ……… (133)   ………………………………………………………… YAMADA Toshikazu    (133)
………

社会科・公民科教員免許取得を目指す学生の意識変容の考察 Consideratior of college students' conscious change aiming at the acquisition


   …………………………………………………………… 松 田 剛 史 ……… (165) of teacher's license of social studies and civic studies
  …………………………………………………………… MATSUDA Takeshi ………  (165)
平成三十年三月

苫小牧駒澤大学 TOMAKOMAI KOMAZAWA UNIVERSITY


2018年3月 March 2018

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