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English lessons: the pedagogy of imperialism in nineteenth-century China

Article · January 2003


Source: OAI

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1 author:

James Hevia
University of Chicago
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<書評> James L. Helvia著 English Lessons: The Pedagogy of
Title Imperialism in Nineteenth-Century China

Author(s) 木畑, 洋一

Citation 東洋史研究 (2005), 64(2): 408-415

Issue Date 2005-09

URL http://dx.doi.org/10.14989/138160

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University
法一幕任問﹃叫阿部汁一国跡部ハ中日宍)日・3 E待

11
L

第一章序論帝国主義・植民地主義・中圏
0
4

第 一 部 ア ロ l戦争と平和友好通商依約
B2 ﹁ 同 巳i
]山 mHf者 第 二 章 ア ロ l戦 争 一 八 五 六 一 八 六 O年
第三章中園における暴力と法の支配一八瓦六一八五八
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宮崎、

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第 四 章 北 京 一 八 六O年 略 奪 、 獲 物 、 重 々 し い 報 復 行 負
ケコ予

2
令司
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第 二 部 中 園 の 再 領 域 化 一 八 六 一 一 九O O年
令長

第五章新秩序の構築
畑 洋 第六章ヨーロッパの位界的ヘゲモニーの時代における中圏

第三部中園の完全な平等化へ
第七章恐怖の支配北京と周透における懲罰と報復
第 八 章 清 朝 の 神 聖 な 権 威 の 剥 奪 一 九O O 一九O 一年
改めて強調するまでもなく、最近、帝園や帝国主義についての 第九章記憶の装置犠牲者と英雄としての西欧の記憶


研究は内外を問わずきわめて盛んになっている。冷戦終需後の世 第十章被抑医者の復蹄、再興と中園の愛園主義
界の朕況、とりわけ﹁九・一一同時多愛テロ事件﹂以後のアメリ
カの姿勢がこうした帝国論、帝国主義論の活性化に拍車をかけて 以下、本書の内容を紹介しつつ簡単なコメントを加えていきた
きているのである。このような仕事の中には皮相な議論も多くみ 、

}V
られるが、地道なすぐれた研究も着々と現れてきている。一九世
紀半ばから二O世紀初頭にかけてのイギリスと中園の関係に濁自
の耐角から分析のメスを入れた本書も、そうした地道な成果の一 序章(第一章)では、著者の問題意識と方法論が開示されてい
つである。 る。その目頭で著者が本書のタイトルとして﹁イングリッシュ・
著 者 ヘ ル ヴ ィ ア 氏 は 米 岡 の ノ l ス・キヤロライナ大串の教員で レッスンズ﹂という言葉を選んだきっかけとなった一枚の完員が
あり、本書に結賓した研究には一九八六年に着手したという。本 取り げられているが、その部分はきわめて興味深いので、本書
LL
書はその努力の厚みが十分にうかがえるものとなっている。まず 評においても少しスペースをとって紹介しておこう。
本書の構成を紹介しておこう。 それは、ィングランド南海岸の観光地ブライトンで一九O 一年

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頃に親光客向けに作られた﹃中園における義和国員庭刑のユニー に印象的である。それを手がかりとして著者はこのように自らの
クな寓員集﹂という小冊子の中の一枚の寓異である。童旦而の中央 立脚黙を明確にした後で、帝国主義時代の中園についての研究史
では、今しも一人の義和園員の首が切られようとしており、主且面 の批判的検討に移る。そこでは、ジョン・フェアパンクに代表さ
の左下にはすでに誠首された二つの遺髄が並んでいる。遺陸の首 れる研究の流れが西欧による中岡の近代化に着目したのに封して、
があったはずのところからは、おびただしい血が流れ出して地面 ポl ル・コ l エ ン な ど 中 園 自 慢 の 主 慢 性 を 重 損 す る ﹁ 中 園 中 心
にたまっている。慮刑の場面は多くの人々によって見守られてい 的﹂な研究が最近の主流になってきたとしつつ、帝岡主義の文化
るが、そのほとんどは中岡の民衆であり、また警官や役人とおぼ プロセスに重貼を置くことによって﹁中園近代の性格論議に帝園
しき人々も立っている。左の方に三人だけ、全く異なった服装の 主義と植民地主義の問題を再導入する﹂(一四頁)という著者の
人物がいるが、著者はインド軍の兵士であろうと、推察している。 姿勢が打ち出される。許者はイギリス帝園主義の研究者であり、
このような寓医、を通して、プライトンを訪れた観光客は﹁野蜜 中園近現代史研究については詳細な知識をもたないが、それでも
な﹂中園人に数訓を奥え﹁文明化の使命﹂を全うしようとするイ マルクスとフェアバンクのみに即して一方の研究の流れを説き、
ギリス帝園の姿に偶れたのだ、と著者は論じつつ、この寓畳一の中 ﹁中圏中心的﹂と評する最、近の研究の流れが帝国主義の問題を完

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にみられる一枚のビラに注意を向ける。それは、主面の右の方に 全に軽頑してきたかのように論ずる著者のこうした研究史整理は、


1
ある太い柱に貼り附けられた﹁英文皐堂﹂の白日惇ビラである。近 粗すぎるという印象をもっ。
くの向学校で聞かれる英語数室についてのこのピラがおどろおどろ しかし、それはそれとして、帝国主義の時代が世界史のそれま
しい庭刑風景の傍らに何気なく寓っていることが輿える強い印象 での時代における帝同支配とは匡別されるさまざまな様相を呈し
から、著者は本書に﹁イングリッシュ・レッスンズ﹂というタイ ていたことを的確に指摘した上で、植民地化された側をも能動的
トルを附すことにしたのである。その際著者が念頭に置き、本書 mgz とする動的なプロセスとして帝国主義の問題をとら
主謹白
の中心的主題となった問題を、著者は次のように表現している。 え、植民地支配のあり方の多様性、植民地化する側と植民地化さ
﹁帝図主義が軍事や経済をめぐる問題にとどまることは常にあり れる側の聞の境界線の暖昧さ、不安定さを強制する著者の議論そ
えなかった。帝国主義はまた、特定の地理的スペースをヘゲモ れ白躍は、説得的である。ただし、本書許の最後でも述べるが、
ニーのもとにおいて支配しようとする力や主憧に釘する抵抗やそ 兵髄的な分析で著者がそれに成功しているかどうかは、また別の
れらの受信什を含む文化をめぐる過程でもあった。﹂(三頁) 話となる。
本書の中では、官何回呉や檎が随所できわめて妓呆的に用いられて
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著者の叙述に彩りを奥えているが、この冒頭の一枚の窮員はとく
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の手段による戦争﹂(五七頁)といってよいものであったと、著
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者は主張する。ここで著者が問題とする翻課には二つの面がある。
先に示した目次に示されるように、この序論を受ける本論部分 一つは中園語の車語の英語の仕ん(たとえば夷が野鐙人EHrg
は三つに分かれている。第一部は、第二次アヘン戦争(アロ l戦 g と諒されたこと)であり、それが中園側の姿勢についてのイ
争)を釘象とし、第三部は義和圏運動の時期を扱う。そして第二 ギリス側の思考方法を規定したという貼である。今一つは、中園
部でその聞の時期、すなわち一八六一年から一九0 0年 ま で の 時 側の官吏聞で交わされていた書簡が戟争の過程でイギリス側の手
期が論じられる形となっている。本書の﹂一息貼は、第一部と第三部 中に入り、それが翻評されてイギリス側の交渉の武器となったと
に置かれている。アロ l戦争においても義和圏鎮墜においても、 いう黙である。いずれも重要な指摘ではあるものの、同じ翻諜と
イギリスは中岡側に封する攻撃、破壊行潟を行い(こうした過程 いっても、これら二つは全く別の問題であり、後者は情報牧集と
を 著 者 は 脱 領 域 化FZECE-R58と呼ぶ)、その結果の上に その利用に関わることで、雨者を並べて論じることには疑問が残
立って支配力を療大していった(この過程を著者は再領域化 E った。
ZEZロ己民三5ロと呼ぶ )o アロ l戦 争 と 義 和 国 鎮 座 の 聞 で 、 そ 次に、ヨーロッパ的主権概念を植えつけた仕組みとは、たとえ
の攻撃・破壊と支配力掻大の過程にあらわれた違いを、第二部で ば中園側が重視する外交儀曜としての叩頭が否定されて、ヨーロ


の議論によって説明する、という構造に本書はなっている。 ッパの側で作り上げられてきた主権園家としての濁立性と釘等性
本論部分の最初に置かれた第二章は、アロ 1戦争の過程をクロ を示す儀雄(大使同士の挨拶の仕方など)が固執されたことをい
ノロジカルに解説したもので、いわば教科書風の絞速であり、と う。著者はこの問題を説明するに際して、叩頭に一不されるひざま
りたてて特色はない。この章で紹介された事賓経過を踏まえた LL ずく姿勢は女性性を一不すものとみられ、それに釘してヨーロッパ
で、第三章では、中園におけるイギリスの勢力横大をもたらした 側が重頑した起立した姿勢の方は男性性を一以すものと考えられた
ものとして、四つの要凶が論じられる。その四つとは、アヘン、 として、﹁園家主権の概念に結び附けられた男性性のエートス﹂
軍事技術、翻語、ヨーロッパ的主権概念を植えつけた仕組みであ (六八頁)といった表現を用いている。帝国主義のもとでの支配
る。これらの内、アヘンと軍事技術については特に新たな知見が 被支配の関係を男性女性の関係に重ねてみることも、最近の
あるわけでもなく、ここで改めて紹介する必要はない。しかし、 研究の中ではよく見られるし、評者も一般論としては愛嘗である
後の二要肉については説明が必要であろう。 と考えているが、ここでの解耀はどちらかというと牽強附舎であ
まず翻認であるが、清朝の官吏とイギリスの外交官の交渉に関 ろ
、つ。
わる中園語から英語への翻詳のあり方が、﹁暴力の特別な形、別 第三章ではさらに、これらの要因を前提として、イギリス側が

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中岡に針する支配を掻大し中園側を﹁教育﹂しようとした動きと

して、一八五八年における北京での英公館設置問題と、同年に卜
海で開かれた関税曾議とが扱われている。 第二部に入るとまず第五章では、アロ l戦争後新たに獲得した
績く第四章では、アロ l戟 宇 の 最 後 の 局 面 と な つ た 固 明 園 の 破 有利な状況を利用して、イギリス側が中園についての知をいかに
壊と略奪行居震坤に付附興八された音 状集、蓄積、整理していき、それをまた中固に封する﹁レッス
いが問題とされる O
たとえば、略奪を行うことによる﹁劣等な﹂ ン﹂のために用いていったかが論じられる。中園についてのこう
人身との接鰯が帝園側の軍隊に封して汚染妓果をもったという説 した知識の惇達と蓄積、またその整腰、カタログ化のことを著者
明がなされたことが紹介されるとともに、それが軍隊内の階級差 は帝閥的アIカイヴE 宮口己日REZと呼んでいる。この表現は、
問題に結び附けられたことも指摘される。略奪された品々はオー 著者も引いているトマス・リチャ lズという研究者が十数年前に
クションにかけられたり、王山 E閥
f 連のものはヴィクトリア女王に 出した著書のタイトルに用いられたものであり、文化面での帝国
献上されたりしたし、イギリスの博物館におさまる物も多かった。 主義の作用をよく一不す言葉であるが、著者もそれを救呆的に用い
著者は、こうした品物を見る眼が、開明園をはじめとする中園の ている。ここで着目すべきは、こうした知の集積作用に際して、

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建築や庭園を女性的・子供めいたものと見た頑線と通底していた 中園に置かれることになったイギリスの在外公館ゃ、中園海闘が


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と論じているが、前章ではその遁用に無稗を感じたこの論議の流 大きな役割を演じていたことであろう。北京に置かれた公使館員
れはここでは自然である。こうした脱線はまた、園明園破壊直後 であったトマス・ウェイドやスティ lヴン・ ブ ッ シェル、海闘に
の北京倹約調印に闘しでもみることができた。調印の場の選定や 勤務していたアメリカ人ホウジ1 ・モ l スの業績を著者は高く許
中岡人官吏に針する姿勢にも、また調印式の情景や皇帝の様子に 債する。彼らの仕事によって中岡に閲する西側の知識は盟系化さ
ついてのヨーロッパ側の叙速にも、中国側を良債する内容が満ち れ、そうした模系化された知識を西欧側は中園に封する外交関係
満ちていたのである。そうした状況の中でイギリス側全権エルギ の中で利用していったのである。一八七三年にイギリス、フラン
ンが外交的手績きについての﹁レッスン﹂ともいえるものを皇帝 ス、ドイツ、アメリカ、ロシア、日本の公使たちは皇帝に謁見す
に奥えたと著者は論じているが、本書の表題となっている﹁イン る機舎を何ることになったが、その際に中園側がそれまで通り固
グリッシュ・レッスンズ﹂の意味はここでよく浮かび上がってく 執した叩頭の穫を彼らが拒存する上でも、こうして蓄積された知

。 識が大いに利用された。
積く第六章は一九世紀末までの長い時期を封象とし、アロl戦
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争を扱った第一部と義和問鎮医を扱った第二一部との聞を架橋する
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部分となっている。ここで著者は、中国が﹁瀕死﹂の朕態に陥っ ロ1戦争以降の時期、すなわち第二部で扱われた時期に中園につ
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ていたわけではないことを強調している。それを示す黙として、 いて蓄積された知識を用いて、中園側に﹁レッスン﹂を輿えよう
中央アジアにおける中国の政策がイギリスのインド政策にも似て、 としたという。前章で﹁面子﹂が重覗された理由もここではっき
支配権への抵抗を生じさせないようなさまざまな技巧を弄したも りする。すなわち、義和問鎖医に際しての中国人に針する報復は、
のであり、清朝側による帝国的ア l カイヴの構築もなされたこと まさに﹁面子﹂を失わせることを意識しつつなされたというので
や、ロシアの進出に封抗して新彊の確保に成功したこと、清仰戟 ある。弾犀軍が紫禁城に入城したこと、その壁や門が意国的に破
争においてよく軍事力を溌揮したことなどをあげている。問題は 壊されたことが、そうした意味合いをもった行動として論じられ
そうした賓情にもかかわらず、改革をなしえない病んだ存在とい る。略奪行震は、一八六O年の時と比べて地域的にも時間的にも
うイメージが中園についてなぜひろがったかということ(そのイ 横大した形で行われたし、義和園のメンバーに謝する報復を、西
メージは円清戦争での中岡の敗北によって確たるものとなった) 欧側は中園的方法と彼らがみていた斬首によって行った。公開慮
であるが、その要因を著者は一八六0年代以降に大きな愛化をみ 刑で(貫際に手を下す役は中園人に託されたが、こうしたやり方こ
た人種観に求めている。この頃以降人種の遣いを生物率的に説明 そ、西欧側が蓄積してきた中園についての知によく呼廃するもの

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しうるものとする科撃的人種主義が力をもっていき、そこで想定 と考えられたのである。

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1


された人程ヒエラルヒ l の 中 で 中 園 人 を 含 む 黄 色 人 種 は 中 間 的 な さらにこの章では、このような略奪などの行震に針する批判の
位置を占めるものとみなされたという指摘は正しいが、特に新味 撃が西欧側や日本(寓朝報の議論が引かれている)であげられて
があるものではない。著者は、さらに﹁面子﹂を重んずる(つま きていたことが紹介されている。この黙は確かに重要であるが、
り内容よりも外観を重頑する)結を中園人の特色とみなす見方が 本書全龍の議論の流れからいうとこれへの言及が必要かどうかは
ヨーロッパでの中園論において大きな位置を占めたことに注意を 疑わしい。
促している。この貼は次章での議論の前提として重要である。 破壊や略奪後の﹁再領域化﹂のプロセスを扱うのが第八章であ
る。著者はまず、一九O 一年九月に調印された最終議定書に盛り

込まれた要求の文面を、中園が﹁野愛﹂から﹁文明﹂に移行する
第二一部では、義和園事件鎮堅問題が、第一部のアロ l戦争との ための謝罪と懲罰の手績きを提示し、さらに西欧圏際秩序に中園
比較のもとで分析される。 を組み込む道筋を示したものとして語、み解いていく。その際特に
第七章では、義和圏鎖国降時の破壊や略奪が論じられる。著者に 重覗されるのが、最終議定書の第一九附属文書、すなわち皇帝の
よると、義和国鎮医行動に出た西欧(さらに日本)勢力は、ア 謁見手順に関する取り決めである。本書で繰り返し強調されてい

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るように、皇帝との謁見の形式は、西欧諸岡と中園との聞の矛盾 た宣教師たちの行矯を、犠牲と再生という聖書のイメージに託し
が鋭くあらわれた貼であったが、この附属文書での取り決めによ て論じていることの方は、かなりの説得性がある。ただし、二O
って、西欧凶際秩序の優位がさらに明確になっていったと著者は 世紀初頭に中園に赴いた宣教師の教が急増した要因を、この論結
指摘する。たとえば、それまで外園政府からの文書を皇帝が直接 に直結させているのは短絡的といえよう。こうした宣教師たちに
受け取ることはなかったが、この取り決めでは、﹁直接自らの手 よ る 義 和 圏 の 記 憶 手 段 の 創 出 は 、 米 園 の オ パ l リン・カレッジで
で﹂受け取ることとされたのである。清朝皇帝の位置の愛化は、 の、オパ lリン・メモリアル・ア lチ(カレッジに関係していた
その後紫禁城に西欧人観光客が入りこみ、その内部の官何回且(が多く 一八人の官-教師に捧げられたもの)の建造といった形で、中闘の
とられて一般に慶一められていったことによって、ますます進んで 外においても行われていった。このように宣教師に閥わる問題を
いく。著者はこのような物理的・嗣質的侵入朕況を、西欧諸園の 取り上げた後、第九章の後半部は、児童・若者向け文学(たとえ
博覧舎などでの非西欧地域の文物の展示になぞらえている。また、 ば帝閥主義を鼓吹した児童向け作家として著名なヘンテイの作
帝閥主義本国の人々の頑貨に訴える手段としては、北京の破壊や 品)、演劇、新しいメディアであった映重などが義和圏鋲墜をど
義和国員の庭刑などを題材とした給や官何回呉が用いられた。本書冒 のように取り上げたかが論じられているが、この部分はどちらか
頭に掲げられた骨局長はその代表的な一枚である。皇帝の謁見形式 といえば新味に乏しい。


に見られる西欧側の優位の確立、相脚質とイメージを媒介としての 第一 O章は、次の﹁あとがき﹂と合わせて結論部分となってお
西欧側の支配力の確認を主題とする本章は、本書の議論が集約さ り、本論で議論されてきた黙が二O佐 紀 に い か に 展 開 し た か が 語
れた部分として、評者には特に興味深かった。 られている。まず釘象とされるのは、サックス・ロ l マlが作り
績く第九章では、義和園鎮墜についての記憶を作り出す装置が 出した人物像フ l ・マンチューである。フ l ・マシチューは、イ
いかにして生み出されていったかが抜われる。その一つは、宣教 ギリスなど西欧側が﹁レッスン﹂の封象とした中園人官吏の資質
師による語りである。宣教師たちは自らを義和国による攻撃の犠 を髄現した人物であると同時に、西欧の科撃をマスターした人物
牲となった英雄として、さらには殉教者として表象しつつ、義和 であり、そうした存在を介して中園が復壁一一目してくる可能性につい
園事件についての記録を書き上げた。このことを説明するに際し てのイギリス側の恐れともいうべきものが投射された人物であっ
て著者は奮約聖書や新約聖書の語りの論加を引き合いに出してい た。こうした恐れは、中園革命を経てまた再生し、現在も績いて
るが、それをあまりに強調している黙にはいささか無理が目立つ。 いると著者はみている。次いで、映書一﹁北京の五五H﹂や、各地
しかし、義和圏によって犠牲者が出た場所をいわば聖地として、 の博物館に牧寂されている中園からの略奪物などの例を引いて、
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そこでミサなどを行いながら中園の新生のための力となろうとし 本論で扱われたような問題が西欧側に一貫して存在していること
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の内符紹介を行うに際して、許者はできる限り普通の言葉を用い
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に注音
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たかもしれないが、犠牲者であった中園側にはそうした賛津は許 ようと心がけてきた。例外は再領域化という言葉である。先にも
されていないという重要な指摘を行い、中国の人々が過去の恥辱 記したが、著者は中岡に釘する西欧側の攻撃や破壊行潟が行われ
をいかに惇えているかということを、歴史絞遮や国明園博物館で る過程を脱領域化と呼び、その結果の上に立って西欧側が支配力
の展示などに擦りつつ紹介している。﹁中岡における西欧帝国主 を掻大していった過程を再領域化と呼んでいる。従って評者とし
義・植民地主義を見ょうとしない姿勢をとれば、黛の要人だけで てもとりあえず再領域化という言葉を内容紹介に際して用いたが、
なく一般の中岡人も抱いている愛園心や誇りの表現を理解するこ 紹介を終えた今、なぜこうした表現を用いなければならないのか
とは困難となる﹂という著者の指摘は、首たり前のようであって、 という疑問は消えない。評者は﹁新しい帝国史﹂に強い影響を及
ここでいう西欧の中に含まれる日本人が忘れがちな問題である。 ぼしたカルチユラル・スタディズやポストコロニアル研究がこと

さらに難解な用語を用いることが大きな問題であることを、帝園
L
..
.

史研究の立場からかって指摘したことがあるが(木畑﹁思想の言
.
J
.

略奪や皇帝の謁見儀式などの行佐川の形の意味を護み解き、釘象 葉ポストコロニアリズムと歴史学﹂﹃思想﹄八九七援、一九九

2
についての知の蓄積のあり方や頑資に訴える表象の仕組みに分け 九年三月)、本書も、極端な例ではないものの、その弊を克れて

6
1


入って、イギリスが中国に封してふるった支配力を支えた文化の いないのである。
構造を明らかにしていくことに、本書はかなりの程度成功してい 次の黙は、文化と政治・経、併の関連である。文化に重黙を置い
る。近年盛んになってきている﹁新しい帝国史﹂の大きな特徴は、 た分析を、いかに帝岡主義の政治、経済と結合させていくかは決
帝岡、帝国主義をめぐる文化の問題に大きな比重がかけられると して容易な課題ではなく、﹁新しい帝園史﹂の流れの中でも、そ
いう貼であるが(参照、平田雅博﹁新しい帝園史とは何か﹂歴史 れは十分に行われているとは言いがたい。著者はその貼について
皐研究舎編﹃帝国への新たな覗座﹄青木書応、二O O五年所牧)、 の問題意識をもっているようにみられる。それは、以上の内容紹
本書はとりわけ米園において盛んになってきた﹁新しい帝図史﹂ 介に嘗って評者が紹介を完全に省略した論貼にうかがうことがで
の一つの代表作と考えられる。しかしそれだけに、﹁新しい帝園 きる。その論貼とはイギリスとロシアの中央アジアをめぐる競合
史﹂にありがちな陥穿も、本書には見て取ることができる。その (グレイト・ゲ l ム)であり、著者はその様相をいくつかの個所
黙に特に留意しつつ、全健にわたってのコメントをいくつか行っ で取り上げ、この問題を扱うことを、文化についての分析とイギ
てみたい。 リスの到中園関係をめぐる園際政治の動態とを結びつける糸口に
まず指摘したいのは、歴史叙述のスタイルの問題である。以上 しようしているのである。しかし、グレイト・ゲ l ムをめぐる部

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分は本書全髄の議論とはうまく接合しておらず、著者の目論見が の中にインド兵を描入することによって、アジアでのイギリス帝
成功しているとは思われない。 図の力が示されたのである。こうした形での人種関係の重層性が
第-二は、文化を重視するに際してひとつの鍵となる人種主義の 働いた場として中国を捉えてみることも、一つの重要な覗黙であ
扱い方に閲する貼である。第六章の紹介に首って、著者が一九世 ろ
、つ。
紀後半におけるいわゆる科事的人種主義のひろがりがもった意味 本書評を終わるに首って、最後に述べておきたい黙は、本書に
を強調したという貼は指摘しておいた。その他の個所でも、著者 おける中園側、中国人側の扱いである。結論部分である第一 O章
は本書の主題にとって人種主義がもった意味の大きさについて繰 では、度く二O世紀を針象として中園人側の主躍的な動きが鰯れ
り返し言及している。しかし、人種主義についての著者の議論に られているが、本論部分にあらわれる中園人は、新彊に釘する中
は、濁自性があるとは忠われない。英中関係をめぐる著者自身の 園の政策などが論じられている個所があるとはいえ、概してイギ
分析から、何らかの形で人種主義についての依存の議論を豊富化 リス側の行動や覗線の封象となる客憶としての姿に終始している
させる手立てがあったのではないかと思われるだけに(たとえば、 といってよい。これからの帝園史や帝国主義史のめざすべき方向
﹁両子﹂についての議論と人種主義の関連をより明確にするなど が、支配する側と支配される側隻方の姿を覗野に入れ、しかも支

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の形でて少々残念である。 配被支配の二分法で切れない領域を簿重していくものであると


1
人種主義との関わりであげておきたい本書での興味深い論黙と するならば、本書はその要請には磨えていない。本書評の最初の
して、英中関係の中におけるインド人の位置という問題がある。 方で紹介したように、著者向身、植民地化された側をも能動的主
本書の冒頭で紹介された窮異にもインド人兵士が官ぬっていた。ま 龍とする動的なプロセスとして帝国主義の問題をとらえるという
た第四章では、略奪したものをオークションにかけることが、イ 課題を掲げていたわけであるが、それを賓践したとはいい難いの
ンド人に規律を一不す音信州をもっていたと論じられているし、北京 である。
線約調印の儀式についてあるイギリス人将校が、﹁パンジャブ人 とはいえ、評者も中園史そのものについてはきわめて疎く、こ
たちは、それをみじめなダ l パl [インドの藩玉などの謁見、合 の書評ももっぱら支配する側の問題に即したものとなってしまっ
見]だと思ったし、中国のことを顔に毛もない老婦人のように見 た。その黙を一言お詫びしたいと思っている。
えると思った o
﹂(一一六頁)と記したことが紹介されている。第
八章で扱われた﹁中園の宇宙の中心に立つイギリスの兵士﹂とい

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兵とが描かれているが、ここでは英中関係の新たな構園を一がす給
4

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