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Journal of Asian and African Studies, No.

104, 2022
論 文

17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝

関 根 知 良

Conflict of Two Khaans in the Khalkha and the Qing Dynasty


in the 17th Century

SEKINE, Tomomi

This paper reviews a meeting held by the Kangxi Emperor in Küreng Belčir
in 1686 to mediate internal conflicts between the left and right wings of the
Khalkha and the ensuing sequence of events until the invasion of Khalkha
lands by Galdan of the Dzunghar in 1688, which led the Khalkha to seek
protection from the Qing Dynasty. This paper reveals aspects of the Qing
Dynasty’s intervention in the Khalkha internal conflict and how the left wing
of the Khalkha reacted, as well as the actions of the Jasaghtu Khaan family
and other right-wing chiefs after the meeting.
The left wing, including the Tüsiyetü Khaan, was dissatisfied with the
Qing Dynasty’s decision to follow the wishes of the right-wing Jasaghtu
Khaan, their rival at the meeting in Küreng Belčir. The Tüsiyetü Khaan protested
afterward, but the Qing Dynasty did not respond, instead rejecting all of the
left wing’s subsequent protests and requests. Most right-wing chiefs did not
agree with the Jasaghtu Khaan and his benefactor Galdan, which is why the
left and most of the right wing sought Qing protection when Galdan invaded
Khalkha lands. The Jasaghtu Khaan’s family, which was also attacked by the
Tüsiyetü Khaan, maintained constant contact with the Qing Dynasty while
following Galdan. When Galdan’s status faltered, they immediately sought
Qing protection.
The Qing Dynasty was well aware that it could cooperate with the left
wing against Russia and that the left wing was opposed by the Jasaghtu
Khaan’s family as well as Russia, the Dzunghar, and Tibet. The Qing Dynasty
was also well aware that the left wing could not afford to damage its relationship
with the Dynasty. Therefore, the Qing presumably supported the Jasaghtu
Khaan’s family as a measure to maintain the balance between the left and
right wings, regardless of the left wing’s intentions after the meeting.

Keywords: Qing Dynasty, Khalkha Mongol, Küreng Belčir Meeting, Tüsiyetü


Khaan, Jasaghtu Khaan
キーワード : 清朝,ハルハ=モンゴル,フレン=ベルチルの会盟,トゥシェート=ハーン,
ザサグト=ハーン

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6 アジア・アフリカ言語文化研究 104

はじめに 第二章 会盟直後におけるハルハ左右翼の状
第一章 フレン=ベルチルの会盟 況とガルダンのハルハ侵攻
 1.ハルハ右翼の首長らによるザサグト=  1.ザサグト=ハーン家以外の右翼首長ら
ハーンへの訴訟に対する清朝の対応と の動向
ハルハ左翼の反応  2.ザサグト=ハーン家の動向
 2.ザサグト=ハーンによる右翼属衆の返  3.清朝のハルハ左翼に対する冷遇と両者
還要求を巡る清朝の対応とハルハ左翼 の対ロシア協力
の反応 おわりに

はじめに 下,漠北と略記)一帯に拡大していった[宮
脇 1983: 172]。17 世紀初め頃には漠北東側
本稿は,康熙帝がハルハ(Mon. Qalq-a) の集団である左翼と,西側の集団である右
左右翼の内紛を調停するために開催した康 翼に分かれ,トゥシェート=ハーン(Mon.
熙 25(1686)年のフレン=ベルチル(Mon. Tüsiyetü qaγan),セツェン=ハーン(Mon.
Küreng Belčir)の会盟から,康熙 27(1688) Sečen qaγan)の称号を有する首長が左翼を,
年のジューン=ガルのガルダンの侵攻によっ ザサグト=ハーン(Mon. J̌ asaγtu qaγan)の
てハルハが清朝に保護を求めるまでの過程を 称号を有する首長が右翼を率いていた[宮
『清内閣蒙古堂檔』(2005 年刊行。以下『蒙 脇 1979]。 崇 徳 元(1636) 年 に ゴ ビ 砂 漠 以
1)
古堂檔』と略記) を主に利用して分析し, 南(漠南)に遊牧するほとんどのモンゴル諸
清朝によるハルハの内紛に対する介入の実態 部が清朝に服属する一方で,ハルハはなおも
と背景をハルハ左右翼の状況やジューン=ガ 事実上の独立を保ち清朝に朝貢を行なって
ル,ロシア,チベットなどの周辺情勢を踏ま いった。ところが,康熙元(1662)年にハ
えて明らかにするものである。 ルハ右翼のザサグト=ハーン・グムブ=ビン
ハルハはダヤン=ハーンの末子ゲレセン ト=アハイ(Mon. Gümbü ǰaγ bintü aqai)
ジェ(Mon. Gersenǰe 1513–1548)の 7 人の が,同じく右翼のロブサン=タイジ(Mon.
子に分封され,清朝の支配下に入るまで「七 Lobsang tayiǰi:第 3 代アルタン=ハーン4))
2) 3)
ホショー (七旗)ハルハ」とも呼称された 。 に殺害される事件が発生すると(以下,ザ
現在のモンゴル国の母体となった集団であ サグト=ハーン殺害事件と略記),ハルハは
る。元来はハルハ河周辺に遊牧していたと 混乱の一途を辿っていくこととなる。ロブ
考えられるが[和田 1959: 776],トゥメドの サン=タイジに殺害されたグムブの後を継
アルタン=ハーン(1508–1582)のオイラド ぎ,ザサグト=ハーン位を継承したのはワン
討伐を受け継いで,牧地をゴビ砂漠以北(以 チュク(Mon. Wangčuγ)であったが,彼は

1) 『蒙古堂檔』は蒙古堂で翻訳・抄録された康熙 10(1671)年から乾隆年間(1736–1795)までの,
満洲語・モンゴル語の檔冊を影印出版したものである。東部ユーラシア諸勢力と清朝との間で交わ
された文書の副本が収録されている。『蒙古堂檔』の概要や史料的価値は渋谷[2007]を参照。
2) ホショーとは地縁的社会組織であるオトグによって形成される軍事組織。
3) ただし,宮脇[1983: 169]が指摘するように,ハルハは 17 世紀末に清朝の支配下に入るまで「七
旗ハルハ」と呼称されたが,ゲレセンジェの第 5 子には子孫がなく,実情を反映した呼び名であっ
たのはごくわずかな時期にすぎなかった。
4) アルタン=ハーンとはハルハ右翼ホトゴイト部長 3 代にわたる称号であり,トゥメドのアルタン=
ハーンとは別人である。詳細は若松[1978a;1978b]を参照。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 7

ほどなくして死去し,康熙 5(1666)年に彼 康熙 30(1691)年にハルハは正式に清朝の


の弟であるチェンブン(Mon. Čenbün)が 支配下に入った。
ジューン=ガルのセンゲとその弟ガルダンの 当該時期における清朝―ハルハ関係に関す
後ろ盾のもと,ザサグト=ハーン位を継承し る従来の研究としては,まず,宮脇[1979]
5)
た[Buyandelger 2000] 。 す る と, チ ェ ン があげられる。宮脇氏は清朝のアルバジン攻
ブンは康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件 城戦において清朝とハルハ左翼が共同作戦
の際に,窮地を脱するためハルハ左翼へ逃亡 をとっていたこと7),その上,康熙帝とトゥ
した右翼の属衆の返還を求め,次第にトゥ シェート=ハーンの関係の強さがロシアにま
シェート=ハーン・チャホンドルジ(Mon. で察知されていたことに注目し8),ハルハ左
Čaqundorǰi 以下,トゥシェート=ハーンと 翼が服属前から清朝と密接な関係にあったと
はチャホンドルジを指す)と対立を深めてい いう見解を示している。そのため,宮脇氏
く。そこで康熙帝は,ダライ=ラマ 5 世と共 の論考は清朝がハルハ両ハーンの対立の調
同でハルハの対立を調停しようと康熙 25 年 停に乗り出し,その後,ガルダンの侵攻を
にフレン=ベルチルで講和会議を開いたが, 経てハルハが清朝に服属するまでの過程に
トゥシェート=ハーンは右翼の属衆を半分 ついて,上述のような清朝とハルハ左翼の
しか返還せず,その上,康熙 26(1687)年, 良好な関係を前提として展開される[宮脇
ジューン=ガルのガルダンのもとに援助を求 1979: 119–128]。さらに,清朝―ハルハ関係
めるために向かったザサグト=ハーン・シャ 自体を詳細に検討したものではないが,岡田
ラ(Mon. Šara チェンブンは会盟の直前に [2013: 88(初出 1979)]は康熙帝がハルハの
死去したため,子のシャラがハーン位を継 内紛に介入していく過程を論じる際に,康熙
承)を追撃して殺害するに至る。これにより, 帝はトゥシェート=ハーンに同情的であった
ガルダンは康熙 27 年にハルハへ侵攻しトゥ と言及している。
シェート=ハーンを破ると,ハルハ左右翼の だが,筆者は康熙元年のザサグト=ハーン
多くの属衆が清朝・康熙帝に保護を求め6), 殺害事件直後における清朝のハルハ政策を検

5) 従来の研究では, 『欽定外藩蒙古回部王公表伝』(以下, 『王公表伝』と略記)や『皇朝藩部要略』な


どの清朝の編纂史料を根拠に,康熙元年に第 3 代ザサグト=ハーン・ノルブ(Mon. Norbu)の子
ワンチュクがロブサン=タイジに殺害され,彼の死後チュー=メルゲンなる人物がハーン位を継い
だもののしばらくして廃位され,ワンチュクの弟であるチェンブンが代わってザサグト=ハーンと
なったと理解されてきた。ところが,Buyandelger[2000]は『蒙古堂檔』を利用し,以下のよう
な見解を提示した。康熙元年にノルブの弟で,当時ザサグト=ハーン位にあったグムブ=ビント=
アハイがロブサン=タイジに殺害され,彼の死後,ノルブの子ワンチュクがハルハ左翼のトゥシェー
ト=ハーンの後援を得てハーン位を継いだ。しかしながら,彼がすぐに死去し,その後,弟のチェ
ンブンがジューン=ガルのセンゲらの後ろ盾を得てハーン位を継承した。本稿は Buyandelger
[2000]の見解に従った。
6) この時,清朝ではなくロシアに逃亡したハルハの首長らもごくわずかであるが存在した。彼らにつ
いては柳澤[1992]に詳しい。
7) 清朝軍が康熙 24(1685)年 6 月 10 日にアルバジンに攻撃を開始したのに対し,翌日にハルハがセ
レンギンスク,ついでウジンスクを囲んだことなどから,吉田[1974: 78]は,アルバジン攻撃の
際に清朝とハルハが連携していたことを指摘し,宮脇[1979: 128, 注(37)]もこの見解に従って
いる。さらに,宮脇[1979: 128]は,康熙 26 年秋にトゥシェート=ハーンらの使節団がウジンス
クに到着し,ブリヤート問題に関する不満を伝え,康熙 27 年 1 月から 5 月までハルハ軍がセレン
ギンスクを包囲したことを指摘し,このハルハ軍をトゥシェート=ハーン配下の軍であったと推測
している。
8) ロシア語史料によると,康熙 23(1684)年にトゥシェート=ハーンの使節がロシアに到来した際に,
彼らがトゥシェート=ハーンと康熙帝の密接な関係をロシア側に報告し,威圧的な態度をとったこ
とが記されている[宮脇 1979: 128, 注(36)]。
8 アジア・アフリカ言語文化研究 104

討した結果,17 世紀後半以降,清朝がトゥ ルハを巡る清朝とガルダンの交渉過程の分析


シェート=ハーンのハルハにおける勢力拡大 に重点が置かれ,フレン=ベルチルの会盟で
や,清朝の使者に対する非礼な態度に懸念を の清朝の対応やそれに対するハルハ側の反応
抱いていたことを明らかにした[関根 2019: に関して検討の余地がある。さらに,黒龍
52–58]。さらに,清朝とハルハ左翼の間には, [2017]は,『蒙古堂檔』に収録されている
ザサグト=ハーン殺害事件によって生じた逃 フレン=ベルチルの会盟に関する 3 件のモン
9)
亡者 問題を巡って,軋轢が生じていたこと ゴル文檔案を転写・漢訳しているが,史料の
も判明した[関根 2019: 60–63]。また,トゥ 紹介にとどまっている。また,阿音娜[2013]
シェート=ハーンは,ハルハの内紛の収拾を は同じく『蒙古堂檔』を利用して,17 世紀
求める康熙帝の意向に反して,フレン=ベル におけるハルハのハーン号や右翼のジノン号
チルの会盟での決定事項を守らず,さらには 問題に対する,ダライ=ラマ 5 世と清朝の
ザサグト=ハーン・シャラを殺害するに至っ 対応を検討している。しかし,清朝がハーン
たことを踏まえると,清朝とハルハ左翼が良 号やジノン号問題に介入していく過程につい
好な関係にあったとは考え難い。その上,従 て,ハルハ左右翼が内紛状態にあることを踏
来の研究ではザサグト=ハーン家とガルダン まえた分析は十分になされていない。
の結びつきが強調されてきたが,康熙 27 年 そこで,本稿は『蒙古堂檔』を主に利用し
にガルダンがハルハヘ侵攻すると,ハルハ左 て,トゥシェート,ザサグト両ハーンの対立
翼のみならずハルハ右翼の属衆までもが清朝 に対する清朝の介入の実態を解明する。ただ
に保護を求め,ザサグト=ハーン家もまた最 し,両ハーンの本格的な対立は,チェンブン
終的に清朝に帰順することを踏まえると,清 のザサグト=ハーン位継承後から生じたと考
朝が両ハーンの対立にどのように介入し,ま えられるが10),チェンブンのハーン即位後か
た,いかなる経緯でハルハが清朝に保護を求 らフレン=ベルチルで講和会議が開催される
めるに至ったのかをあらためて検討する必要 までの約 10 年余りの時期において,清朝が
がある。 ハルハに対していかなる政策をとっていたの
近年の研究としては,黒龍[2013: 38–59 かについては,まとまった史料が残っておら
(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 106– ず詳細は不明である。よって,清朝が両ハー
168]は『蒙古堂檔』を利用して,ハルハの ンの対立を調停するために催したとされるフ
服属の過程を取り上げ,ハルハの内紛に対す レン=ベルチルの会盟から,その後,ガルダ
る清朝とジューン=ガルの介入についても論 ンの侵攻を経てハルハ左右翼が清朝に保護を
じている。だが,ガルダンのハルハ侵攻から 求めるまでの過程を再検討していく11)。
康熙 30 年のハルハの服属までにおける,ハ

9) ザサグト=ハーン殺害事件によって,多くの右翼の属衆が左翼へ逃亡したことについては前述した
とおりであるが,ハルハ左右翼の属衆の中には清朝支配下の漠南へ逃亡したものも存在した[烏雲
畢力格 2016]。
10) このことについては第一章の 2 で詳しく説明する。
11)『蒙古堂檔』に収められている康熙 26 年以降の檔冊は基本的に満蒙合璧となっているが,本稿は清
朝の政策史という視点で考察するものであるため,満洲語から訳出した。ただし,両言語で違いが
あった場合,必要に応じて注で指摘した。モンゴル人の人名は原則としてモンゴル語の表記から変
換して示すが,満洲語史料の訳文では満洲語に従い音訳し,( )の中にモンゴル語の表記から音
訳したものを示した。また,本文中で史料を引用する場合,[ ]は筆者による補記,( )は語句
の注記,……は中略を示す。なお,本稿で扱う主要な人物であるハルハの 3 人のハーンやその他の
首長らの系図については【系図 1】(33 頁)を参照のこと。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 9

第一章 フレン=ベルチルの会盟 のような反応を示していたのだろうか。
フレン=ベルチルの会盟での話し合いの内
1.ハルハ右翼の首長らによるザサグト= 容に対するトゥシェート=ハーンの反応は,
ハーンへの訴訟に対する清朝の対応とハ 康熙 26 年正月に彼が康熙帝に送付した書簡
ルハ左翼の反応 に詳しい。トゥシェート=ハーンはその書簡
(1)ガルダン=ホトクトと 2 人のアハイら の冒頭で,まず,会盟でラマやハーン,ベ
によるザサグト=ハーンへの訴訟 イレ15)たちの大臣 60 余りを選出してガルダ
康熙 23(1684)年,康熙帝はトゥシェー ン=シレトゥ,ジェブツンダンバ=ホトク
ト,ザサグト両ハーンの対立を調停しようと ト(トゥシェート=ハーン・チャホンドルジ
ダライ=ラマ 5 世(以下,ダライ=ラマと略 の弟)の御前で誓約を立て,公正に裁断す
12)
記)に協力を要請し ,ついに康熙 25 年 8 ることを表明したと説明している。そして,
月,ハルハのハーンらをフレン=ベルチルに その内容を記した書に印を押し,それに基
召集して,自身が派遣した理藩院尚書アラニ づき 500 の案件を一つ一つ公正に裁断して
と,ダライ=ラマが派遣したガルダン=シレ いったと述べている[黒龍 2013: 42(初出は
トゥ13)の立ち会いのもと会盟を開かせた14)。 黒龍,海純良[2008]
);2014: 112–113]。さ
先行研究では,フレン=ベルチルの会盟に らにつづけて,トゥシェート=ハーンはこの
ついて,康熙帝とトゥシェート=ハーンは 会盟で右翼の首長であるガルダン=ホトクト
信頼関係にあったけれども,ロシアと対抗 (Mon. Galdan qutuγtu)16) と 2 人 の ア ハ イ
する清朝にとってハルハの内紛は憂慮せざる (ヨソト=アハイ(Mon. Yosutu aqai),セ
17)
をえない事態であったため,ダライ=ラマ ツェン=アハイ(Mon. Sečen aqai) )らが,
と共同で調停に乗り出したと理解されてお ザサグト=ハーン・チェンブンに奪われた自
り[宮脇 1979: 119–124][岡田 2013: 88(初 身の属衆の返還を求めて,ザサグト=ハー
出 1979)
],清朝が特段,トゥシェート=ハー ン・シャラ(以下,単にザサグト=ハーンと
ンに肩入れすることなくハルハ左右翼の内紛 記す際はシャラを指す)に訴えを起こした件
を調停していったと捉えているものとみなせ について言及している。その上で,会盟を開
る。一方,清朝は次第に深刻化するハルハの 催することとなった主な原因であり,チェ
内紛に対して,積極的に調停を進めようとし ンブンの頃からザサグト=ハーン家がトゥ
なかっただけではなく,ハルハ左翼を引き立 シェート=ハーンに対して要求していた右翼
て,片やハルハ右翼を圧制していったと捉え 属衆の返還問題について論じている。このザ
る研究もある[黒龍 2014: 111]。それでは, サグト=ハーンによる右翼属衆の返還要求問
実際,清朝はハルハの内紛に対してどのよう 題は,会盟開催の要因となり,加えて,のち
な対応を講じ,ハルハ左翼は清朝の対応にど トゥシェート=ハーンがザサグト=ハーンを

12) 周知の如く,ダライ=ラマ 5 世は康熙 21(1682)年に逝去していたが,摂政のサンゲギャムツォ


はその死を秘匿していた。この事実は康熙 36(1697)年になって露見することとなる。
13) 本稿ではジューン=ガルのガルダン=ボショグト=ハーン以外にガルダン=シレトゥ,ガルダン=
ホトクト,ガルダン=タイジといった「ガルダン」と名がつく人物が 3 人登場するため注意を要す
る。本稿で単に「ガルダン」と記す場合はジューン=ガルのガルダン=ボショグト=ハーンを指す。
14) 康熙 23 年,康熙帝がダライ=ラマに両ハーンの対立の調停を呼びかけた際,ダライ=ラマ政権は
康熙帝の要請に応じてセムバ=チェムブ=ホトクトを派遣するが,彼はハルハへ赴く途中で病死し
てしまい,会盟は康熙 25 年に持ち越される形となった。
15) 満文史料にはベイレ(beile),モンゴル文史料にはノヤン(noyan)と記されている。
16) ザサグト=ハーン・ノルブの子。チェンブンの弟にあたる。
17) 両者ともにザサグト=ハーン・ノルブの弟。
10 アジア・アフリカ言語文化研究 104

追撃した要因ともなったことから先行研究で い。彼(セツェン=アハイ)の領民を[返
着目されてきた。だが,トゥシェート=ハー 還しその]主としていた。のち,チェンブ
ンが書簡でまず問題として取り上げているの ン=ハンは襲って奪った。これをともに
は,ガルダン=ホトクトと 2 人のアハイの件 諸々の案件等に[同じく大臣らに]任せて
である。 審問させなかった。(「ハルハのオチライ=
そこで,先にガルダン=ホトクトと 2 人の トゥシェート=ハーンの上奏した書」『蒙
アハイが訴訟を起こした件についてみてみる 古 堂 檔』 巻 6, 康 熙 26 年 檔 冊,No.55,
19)
と,トゥシェート=ハーンは以下のように論 156–159 頁(満文) 。)
じている。
【史料 1】には,チェンブンがガルダン=ホ
【史料 1】ただ,ザサグト=ハンに対して トクトと 2 人のアハイらの属衆を強奪したこ
ガルダン=ホトクト,2 人のアハイは彼ら とが記されているが,その理由や背景は不明
の領民[の返還]を督促する件で直ちに二 である。だが,康熙 26 年正月に送った【史
意を抱いた。ザサグト=ハンはまた避けて 料 1】とは別のトゥシェート=ハーンの書簡
審問させなかった。これは我々のモンゴル には,チェンブンがガルダン=ホトクトと 2
の慣例(kooli)に違うのに非としなかっ 人のアハイらの属衆を強奪した件に関して,
た。ジェブツンダンバ=ホトクトは,先に 以下のとおり記されている。
処理した他の諸々の案件のとおりに処理し
ようと尽力してみたが,ガルダン=シレ 【史料 2】のちワンチュク=ハンが死去す
トゥ,尚書(アラニ)の 2 人は誓約した ると,チェンブン=バートルは彼の兄の子
大臣らに任せず,彼らはそのまま処理し をハンとせず,彼自らオーロト(オイラド)
た。ヨソト=アハイに全く過失がないのに, のセンゲからハンの称号を得て兵を率い,
[奪った]彼の領民の[うち]半分を返還 2 人のアハイを略奪し,領民を取った。ま
し,彼の父であるビシレルト=ハン(第 3 た,ガルダン=ホトクトの母親を強奪し,
18)
代ザサグト=ハーン ・ノルブ)が尊重し 全ての物をともに奪い取った。……[ナム
祀ったガルダン=ホトクト[の領民]を子 ジャル=]ノムン=ハンにダライ=ラマの
のチェンブン=ハンが言いがかりをつけ 言といって「チェンブン=ハンが先に奪っ
て意のままに没収した。これによってた た 2 人のアハイ,ガルダン=ホトクト,ダ
だ 60,70 余りの領民をわずかに返還する ルハン=タイジらの領民を返還せよ」と言
のみである。[以前]セチェン(セツェン) い,ハンの称号で呼ぶより前に議論したと
=アハイに対して,彼の父である大いなる きに,[チェンブンは]返還したいと言っ
ザサグト=ハン(第 2 代ザサグト=ハー た。のち,ノムン=ハンの孫ノヤン=オム
ン・ソバンダイ(Mon. Subandai))が自 ブらを使者として派遣したとき,ただ数人
身の子[である]といって領民を分与し のみの領民を返還し衆人を返還せず取り,
た。右翼が壊れた際に[我(トゥシェート オーロトの近くに行って住んだ。その返還
=ハーン)が彼の]領民を収容し返還する した数人の領民を再び奪い取り,……。
(「ハ
時に 1 人でさえも争い議論したことはな ルハのオチライ=トゥシェート=ハーンの

18) ザサグト=ハーンの称号を用いるようになるのはソバンダイ以降だが,ライホル(Mon. Layiqur)


はハーンを称していたので(【系図 1】),本稿では彼を初代としてザサグト=ハーン位の継承順番
をつけた。
19) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.3,6–7 頁を参照。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 11

上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年 【史料 3】また,上聖ダライ=ラマの言「大


檔冊,No.58,190–192 頁(満文) 。)
20)
いなるザサグト=ハン(第 2 代ザサグト=
ハーン・ソバンダイ)が亡くなって以来,
チェンブンはザサグト=ハーンに即位する このセチェン(セツェン)=アハイの財物,
と,ガルダン=ホトクトと 2 人のアハイら 家畜などのものの損失が甚だ大きく,命に
の属衆を強奪し,その後,ダライ=ラマから 甚だ危機が迫ることとなったと言う。ただ,
彼ら 3 人に加え,【史料 1】には名が現れな 彼の意のまま話す言葉は真実ではないとし
いがダルハン=タイジ(Mon. Darqan qong ても(真実とは限らないけれども),これ
tayiǰi)なる人物の属衆を返還するよう命じら を知る衆人に聞けば,なおやはり[彼が]
れたとある。しかしながら,チェンブンは彼 話すことと合致しているので,この先に彼
らの属衆を数人しか返還せず,さらにはその の割り当て分の[うち]離散した,奪われ
返還した数人の属衆の強奪を繰り返したと書 た衆・領民をジャルブナイ(ダライ=ラマ
かれている。ガルダン=ホトクトと 2 人のア の使者)の前で尽く調べて返還せよ。つつ
ハイらは以上の経緯から,【史料 1】にある がなく平安,安らかで頼って暮らすことが
とおりフレン=ベルチルの会盟でザサグト= できる限り,彼のこの領民を収容して右左
ハーンに対して訴えを起こしたと考えられる。 翼のどこに遊牧するかをほしいままにする
ところが,【史料 1】によると,ザサグト ように」と言った。明白に[ダライ=ラマ
=ハーンはこの訴えを取り合わず,これに対 の]教訓があるのにこれを違い,逃げ出し
してトゥシェート=ハーンが批判を加えてい たわずかな領民で,ただ今回,督促した領
る。ここから,先行研究で論じられていると 民の半分のみを返還し,この他,3 部の衆・
おり,トゥシェート,ザサグト両ハーンの対 領民をザサグト=ハンはまた彼の弟たちに
立が会盟後も解消されなかったことが窺える 与えている。初めに書を書き決定したこと
が,【史料 1】で特筆すべきは,トゥシェー から違ったことを行なったのであって,大
ト=ハーンが調停者であるガルダン=シレ 方の形が出来上がった 500 の案件を審問
トゥとアラニの対応をも問題視していること したこと,これと同様に行わなかった。
(「ハ
である。すなわち,トゥシェート=ハーンは ルハのオチライ=トゥシェート=ハーンの
ザサグト=ハーンがガルダン=ホトクトと 2 上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年
人のアハイらの訴訟に応じない事態に対し 檔冊,No.55,159–161 頁(満文)21)。)
て,会盟の冒頭で誓約したとおり,60 余り
の大臣らが裁断した多数の案件(史料には このように,トゥシェート=ハーンはダライ
「500」の案件とある)と同様に裁断してほ =ラマの言を持ち出し自身の正当性を主張す
しいと要請したものの,大臣らに審問させる るとともに,会盟の冒頭で定めた誓約に基づ
ことなく,ザサグト=ハーンに半分あるいは いて,ガルダン=ホトクトと 2 人のアハイら
少数の属衆を返還させるのみで議論を終結さ の案件を処理しなかったと非難しているので
せた,と両調停者の対応を批判している。さ ある。
らに,トゥシェート=ハーンはつづけて以下 以上より,トゥシェート=ハーンはガルダ
のように論じている。 ン=ホトクト,2 人のアハイらの訴訟に対し
てガルダン=シレトゥとアラニらがザサグト

20) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.6,22–23 頁を参照。


21) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.3,7–8 頁を参照。
12 アジア・アフリカ言語文化研究 104

=ハーンに迎合するかのような対応をとった れるがまま処理したと苦言を呈している。さ
と訴えており,会盟での彼らの対応に不満を らに,つづけて彼はこのような事態を「今後
抱いていたといえる。しかし,史料ではこの も,力のある者が力のない者を略奪したり没
異議申し立てに対する反応を確認できず,清 収したりすることを是とする類の悪い慣例
朝はこの訴えに対して,上諭を下して要求を や,このような悪のはびこる原因の根源と
24)
退けたり宥めたりするなどの表立った対応を なった」 とまで言い放っている。だが,こ
22)
とらなかったと考えられる 。 の書簡に関しても清朝が何らかの対応をとっ
以上のガルダン=ホトクト,2 人のアハイ た形跡はない。
らの案件については,ジェブツンダンバ=ホ ただ,ガルダンのハルハ侵攻後である康熙
トクトも康熙 26 年正月の康熙帝への書簡で 28(1689)年のアラニとガルダンの交渉の内
言及している。 容を記したアラニの上奏文には,フレン=ベ
ルチルの会盟でジェブツンダンバ=ホトクト
【史料 4】ただ,ザサグト=ハンの件で, がアラニらを厳しく責め立てたことに関する経
ハン自身が審問させず取り調べから逃げて 過の変容をガルダンに尋ねられた際に,アラニ
応じなかった。シレトゥ,尚書(アラニ) が返答した内容が以下のとおり記されている。
の 2 人もまた先に決定したこと(会盟の
冒頭で誓約をたてその内容を記した書に基 【史料 5】我々(アラニ,ガルダン=シレ
づき一切の案件を公正に裁断するとしたこ トゥ)は[フレン=ベルチルの会盟で]全
と)を食言せず,諸々の案件と同様に,こ ての案件をともに公正に[裁断しよう]と
の審問したとおり裁決すれば相手(ザサグ いって審問し,裁断したことを全て彼ら
ト=ハン側)らにうらみはないのに,今, (ハルハの首長ら)に明らかにするため通
是非を区別して,のちに悪い慣例(kooli) 曉させ,彼らもまた意に従い各々印を押し,
とならないようにしようと我々が尽力し議 [その印を押した書を]我々に渡していた。
論しても承知せず,[シレトゥ,アラニら すなわちガルダン=シレトゥの前で彼らの
は]ザサグト=ハンの意向に従い誓約した [記した]そのいくつかの案件に[印を]
大臣らの審問に至らせず,……思えば先に 押して渡した証明書を出し,その派遣され
決定したことを破ったのであり,……。
(「ハ た使者(ジェブツンダンバ=ホトクト側の
ルハのジェブツンダンバ=ホトクトの上奏 使者)にみさせ事情を一度話そうとすると
した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊, きに,派遣された使者は言を翻して言った
23)
No.57,178–179 頁(満文) 。) こと。「全く他の事情はない。それはタイ
ジらに栄誉を施し与えてくれまいか,タイ
ジェブツンダンバ=ホトクトはトゥシェート ジらに等級を与えてくれまいかというため
=ハーンと同様,ガルダン=シレトゥとアラ である」と言った。(「アラニらの謹んで
ニらがガルダン=ホトクトらの案件のみを大 上奏する書」『蒙古堂檔』巻 8,無年檔冊,
25)
臣らに審議させず,ザサグト=ハーンに言わ No.178,486–487 頁(満文) 。)

22) 本稿で言う清朝の対応とは,康熙帝をはじめ,清朝のモンゴル政策に携わっていた理藩院などの官
庁の対応を意味する。理藩院や当該時期モンゴル政策に携わり,フレン=ベルチルの会盟にも派遣
され調停者の役割を担っていたアラニについては注(42)も参照のこと。
23) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.5,16–17 頁を参照。
24)「ハルハのジェブツンダンバ=ホトクトの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.5,
17 頁(モンゴル文),No.57,180 頁(満文)

25) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 8,無年檔冊,No.179,501–502 頁を参照。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 13

【史料 5】によると,アラニはジェブツンダ (2)マンディラの訴訟


ンバ=ホトクトの訴えに対して,会盟での決 また,詳細は不明であるが,トゥシェート
定は皆が承諾したことであり,現にその証拠 =ハーンが康熙 26 年正月に康熙帝に送った
もあると述べており,形式論に持ち込んだ返 【史料 1】や【史料 2】とは別の書簡の一部
答をしていることが窺える。このようなアラ からは,フレン=ベルチルの会盟でマンディ
ニの返答に対して,ジェブツンダンバ=ホト ラなる人物が訴えを起こしていたことが窺え
クトの使者はタイジらに栄誉と等級を与えて る。そこで,この件についてみてみると,トゥ
ほしいと答えているが,これは,康熙 26 年 シェート=ハーンの書簡には以下のような内
正月にトゥシェート=ハーンが康熙帝に勅印 容が記されている27)。
の給与を要請したことを指していると考えら
れる。だが,ジェブツンダンバ=ホトクトの 【史料 6】……またマンディラ(mandira)
使者がフレン=ベルチルの会盟での不満を訴 の件に関して,右左翼の誓約した 60 余り
えていた態度を急変させて,話題を勅印の給 の大臣らのうち,50 余りの人と,また我
与要請にすりかえたとするアラニの発言はに 自身をはじめとして,我々の部のノヤンら
わかに信じ難い。康熙帝が当時,アラニをガ の意はともに合致しているので,右翼を
ルダンのもとに派遣した背景にはハルハの混 全てマンディラに与えれば道理であろう
乱を収めるためだけではなく,ネルチンスク と言っても,[ガルダン=]シレトゥ,尚
講和会議(康熙 28 年 8 月)を控え,ガルダ 書(アラニ)らはモンゴル等の法度(fafun
ンがロシアと結託しないよう彼を懐柔する意 kooli)では大衆の意に従うことが道理で
26)
図 が あ っ た[吉 田 1984: 238–239] 。 し た あることを知りながら,ただ,10 近き大
がって,ジェブツンダンバ=ホトクト側がア 臣らの言に従った。これを詳らかにして仰
ラニの返答に反論やさらなる非難を加えてい せくだし,衆の意に従ってくれまいか。ま
たとしても,アラニは極力,ガルダンの反感 た大きな過失を行なったことを陳述し(認
を買うことを避けるため,ジェブツンダンバ めて),我々のこの平和を壊さなければ許
=ホトクト側が引き下がったかのような説 したいと尚書に告げていた。(「ハルハのオ
明をする必要があったと考えられる。たと チライ=トゥシェート=ハーンの上奏し
え,アラニのこの発言内容が事実であるとし た書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,
28)
ても,【史料 5】からは清朝側がジェブツン No.60,205–206 頁(満文) 。)
ダンバ=ホトクトらの使者に対して口頭で返
答を行うのみで上諭を待つよう促すこともな 若松[1974: 180–183]によると,ガルダン
く,表立った対応をとらなかったことが読み =シレトゥは康熙 25 年 8 月のフレン=ベル
とれる。清朝は左翼から不満を受けても,ザ チルの会盟に出席した後,翌康熙 26 年正月
サグト=ハーンの見解に従うかのような対応 には北京に赴いており,会盟後すぐにフレン
を変えることはしなかったのである。 =ベルチルの地を去っていたことがわかる。

26) ガルダンとの交渉の際にアラニが持参した康熙 28 年 4 月付けの康熙帝の書簡には,ガルダンがハ


ルハへ侵攻したのは,全てトゥシェート=ハーンとジェブツンダンバ=ホトクトに責任があり[黒
龍 2013: 96],「たとえハルハの地で仏を破壊し寺を共に放火しても,我は汝(ガルダン)を決して
非難することはない」と記されている(「オーロトのガルダン=ボショグト=ハーンに下す勅書」
『蒙古堂檔』巻 8,康熙 28 年檔冊,No.72,275–277 頁(満文),No.73,285–288 頁(モンゴル文))。
ここからも,康熙帝がガルダンへの配慮に努めていたことが窺える。
27) この書簡は,黒龍[2017]で紹介されていない。
28) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.8,30–31 頁を参照。
14 アジア・アフリカ言語文化研究 104

したがって,ガルダン=シレトゥとアラニら ト=ハーン・チェンブンによるジノン号剝奪
がそろって案件を処理できたのはフレン=ベ 事件が発生した際にもみられる。ジノンとは
ルチルの会盟だけであっただろう。以上を踏 ハーンに次ぐ地位称号であり,17 世紀のハ
まえると,【史料 6】はフレン=ベルチルと ルハ右翼はハーン,ジノン,ホンタイジの地
いう語句は現れないが,ガルダン=シレトゥ 位にある首長がそれぞれ勢力を率い,三核構
とアラニらの名がみられることから,フレン 造にあったことが先行研究で論じられている
=ベルチルでの出来事を述べていると考えら [前野 2017]。そこで,以下では,フレン=
れる29)。 ベルチルの会盟で議題に上がったかどうかは
さて,【史料 6】の具体的な内容をみてみ 不明であるが,ジノン号剝奪事件の経緯を確
ると,トゥシェート=ハーンは,ガルダン= 認した上で,それに対する清朝の対応とハル
シレトゥとアラニらが多数決によって物事を ハ左翼の反応についてみていく。
決定するといったモンゴルの法を理解してい トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,康
ながら,60 名中 10 名余りの大臣らの意見に 熙 3(1664)年に会盟を開き,ワンチュクを
従ってマンディラの訴訟を処理したと非難し ザサグト=ハーンに推戴するとともに,ドル
ている。この 10 名余りの大臣らがどのよう ジ(Mon. Dorǰi)をセツェン=ジノンに封
な立場の者たちであるかは記載がないが,彼 じた。ところが,ワンチュクの死後,ハーン
らが「右翼を全てマンディラに与えれば道理 位を継いだチェンブンは,ドルジに与えられ
である」という見解に反対していることか るはずであったダライ=ラマの書と印章をだ
ら,おそらく,ザサグト=ハーンの意に従う まし取ってサマディ(Mon. Samadi)に与
者たちであると思われる。いずれにせよ,トゥ え,ドルジからジノン号を剝奪した[阿音娜
シェート=ハーンがマンディラの訴訟に対す [前野 2017: 4–5]30)。これに対して,
2013: 46]
るガルダン=シレトゥとアラニらの対応に関 ダライ=ラマは康熙 15(1676)年にチェン
しても,不満を抱いていたことがわかる。 ブンのハーン号とともに,サマディのジノン
(3)ハルハ右翼のジノン号問題 号を支持する構えを見せ[阿音娜 2013: 46],
清朝がザサグト=ハーン家を支持する対応 清朝も康熙 21(1682)年に三藩の乱鎮定を
をとったとして,トゥシェート=ハーンらハ ハルハの首長らに通知する際,ドルジではな
ルハ左翼が不満を抱いていた様子は,ザサグ くサマディに使者を派遣するなど,サマディ

29) 前述した康熙 28 年のアラニとガルダンの交渉において,フレン=ベルチルの会盟でアラニらがジェ


ブツンダンバ=ホトクトから非難を受けたことについてガルダンが尋ねた際に,アラニは「この会
盟で我々が審問したことは全部で 500 種類の案件[であって],これらの案件を審問するときに,
彼らの衆ハルハから合計 60 人のザイサンを出して,案件を審問するときに,私情にとらわれはし
まいかと恐れ,衆の前で誓約し,公正にと審問し,ガルダン=シレトゥ,我々の 2 人は裁断し処
理したのであった。この中で,デグデヘイ=メルゲン=アハイ,マンダルワ=ハトン(mandarwa
haton),ヨソト=アハイ,チェチェン=アハイら何人かが告訴した案件を……かようなので彼の
意に合致しなかったと我を厳しく責めている」と返答している(「アラニらの謹み上奏する書」『蒙
古堂檔』巻 8,無年檔冊,No.178,486 頁(満文),No.179,500–501 頁(モンゴル文)。)。ここ
から,ガルダン=ホトクトや 2 人のアハイの他に,デグデヘイ=ヘメルゲン=アハイとマンダルワ
=ハトンなる人物がフレン=ベルチルの会盟で訴えを起こしていたことがわかる。以上を踏まえる
と,【史料 6】にあるマンディラとここでのマンダルワ=ハトンは同一人物ではないかと推察される。
しかしながら,マンディラあるいはマンダルワ=ハトンについて他の史料に記載がなく,確証が得
られないためここで指摘するに留める。なお, 【史料 5】とここ(注(29))で提示した史料の関係
性については以下のとおりである。アラニが会盟でジェブツンダンバ=ホトクトから非難を受けた
ことについて,ガルダンがまず質問し,ここで引用した史料のとおりアラニが返答すると,さらに
ガルダンからその後の状況を問われたため,【史料 5】のように返答した。
30) ドルジとサマディについては【系図 1】を参照。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 15

のジノン号を承認する態度,言い換えるとザ で,まず,ザサグト=ハーン・チェンブンが
サグト=ハーン・チェンブンを支持する態 トゥシェート=ハーンに右翼の属衆の返還を
度 を と っ た[阿 音 娜 2013: 47][前 野 2017: 要求するに至った経緯とその時期について考
10]。なお,ドルジのジノン号剥奪以降,代 察していく。
わってサマディがザサグとして朝貢するよう 従来の研究では,康熙 21 年にガルダンが
になり,清朝もそれを受け入れている[前野 兄センゲの捕えたロブサン=タイジをチェン
2017: 10]。 ブンに返還したため,それによりガルダンの
一方,康熙 21 年,ジノン号を剝奪された 支持を得たチェンブンは康熙元年のザサグト
ドルジを含むベスト部(ジノン家の勢力基 =ハーン殺害事件の際に,左翼に逃亡した右
盤)の首長らは,ドルジのジノン号の正当性 翼の属衆の返還をトゥシェート=ハーンに申
を康熙帝に訴え[阿音娜 2013: 45–46][前 し入れたとされている[宮脇 1995: 206]。し
野 2017: 5],ジェブツンダンバ=ホトクトも かし,チェンブンが康熙 5 年にセンゲとガ
ドルジのジノン号を支持し,サマディがジノ ルダンの後ろ盾を得て,ザサグト=ハーン
ン号を有する不当性を康熙帝に主張した[阿 に即位したことを踏まえると[Buyandelger
音娜 2013: 47]。さらにトゥシェート=ハー , チ ェ ン ブ ン は 康 熙 21 年 よ り も 早
2000]
ンはフレン=ベルチルの会盟後である康熙 い時期からガルダンらの後援のもと,トゥ
26 年に送付した書簡において,右翼ベスト シェート=ハーンに属衆の返還を要求してい
のジノン号問題を再び持ち出し,サマディが たと考えられる。それを窺わせる記述は,康
ジノン号を継承するにふさわしくない人物で 熙 21 年 10 月にチェンブンがダライ=ラマ
31)
あることを康熙帝に強く主張している 。し からザサグト=ハーン位の承認を得たことを
かし,ここでも清朝がトゥシェート=ハーン 康熙帝に伝えた書簡にみられる。
やジェブツンダンバ=ホトクトの訴えに対し
て,何らかの対応をとった形跡は見られない。 【史 料 7】 寅 年(康 熙 元 年,1662 年), ロ
清朝はハルハ右翼のジノン号問題において, ブサンが政治を破壊して以来,左翼に我が
ザサグト=ハーン・チェンブンを支持するか 弟ら領民が多く流れ込んだ。[康熙]21 年
のような対応をとり,それに対してハルハ左 に至るまで何度も[左翼に]訴えて[我が
翼は不満を抱き康熙帝に訴えたものの,その 弟ら領民を]連れて来いと言っても返還し
要求は受け入れられなかったのである。 なかったので,上ダライ=ラマの御前に上
奏したときにラマの旨を七旗(ハルハ)に
2.ザサグト=ハーンによる右翼属衆の返還要 下したこと。「ザサグト=ハン(チェンブ
求を巡る清朝の対応とハルハ左翼の反応 ン)を汝らの七旗は尊重するのが道理であ
フレン=ベルチルの会盟では,前述したと る。ザサグト=ハンと言ったとしても七旗
おり,ザサグト=ハーン・チェンブンがかね を区別せず扶助するのが道理であった。ま
てよりトゥシェート=ハーンに訴えてきたザ さにこのとおりにすべき」と旨を下し,ザ
サグト=ハーン殺害事件に起因する右翼属衆 サグト=チェチェン(セツェン)=ハン
の返還問題についても審議が行われた。そこ と称号を与え,書,印章,衣服などのも

31)「ハルハのオチライ=トゥシェート=ハーンの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,


No.6,21–23 頁(モンゴル文),No.58,188–192 頁(満文)。なお,後述するとおり(22 頁),ジ
ノン号を剥奪されたドルジの子ソノムは,フレン=ベルチルの会盟後,ドルジがジノン号を剥奪さ
れ,その後,サマディが清朝に朝貢するようになったことを説明し,自らがジノン号を得るべき人
物であることを康熙帝に主張している。
16 アジア・アフリカ言語文化研究 104

のを全て慈しみ与え,騒乱が生じて以来, シェート=ハーンはチェンブンの度重なる返
散り散りに左翼に流れ込んだ我々の弟ら, 還要請に応じず,ダライ=ラマの命で開催さ
民,領民を返還すべきと言った旨によっ れた会盟にも参加しなかった33)。その後,両
て,ラマの使者であるジャルブナイのもと ハーンの対立はガルダンの介入もあり,益々
で会盟し,我々の領民を返還するようにと 悪化していった。そのような中で,康熙帝は
言って[会盟に]赴いていた。[ところが] 前述したとおりフレン=ベルチルの会盟を開
トゥシェート=ハンは来なかった。(「ハル 催するのである。
ハのザサグト=ハーンの上奏した書」『蒙 では,チェンブンがトゥシェート=ハーン
古 堂 檔』 巻 3, 康 熙 22 年 檔 冊,No.134, に対して要求した右翼属衆の返還問題は,こ
32)
451–453 頁(満文) 。) の会盟でどのように処理されたのだろうか。
トゥシェート=ハーンはこの件に関して【史
阿音娜[2013: 43]は,【史料 7】からダライ 料 8】のとおり説明している。なお,
【史料 8】
=ラマがチェンブンを支持していたことや, は【史料 3】に続く記事である。
チェンブンがダライ=ラマから賜った称号が
ザサグト=セツェン=ハーンであったことを 【史料 8】尚書(アラニ),シレトゥに対し
指摘している。ここで注目したいのは,チェ て先に我々は「ザサグト=ハンに汝の奪っ
ンブンが康熙 21 年に至るまで,何度もトゥ た領民を返還せよ。返還した後で,我々の
シェート=ハーンに右翼の属衆の返還を求め ところにいる汝らの領民は自ら逃散して来
たが,彼が応じなかったためダライ=ラマに た者であり,故意に奪った者ではないので,
34)
援助を求め,その際にダライ=ラマからハー この領民をモンゴルの慣例(kooli) に
ンの称号を賜ったと言及していることであ 照らして返還しようと議論してあった。
[そ
る。チェンブンがダライ=ラマからザサグト の]事情を申し上げたことはある」と告げ
=ハーン位を追認された時期は,康熙 15 年 たら,[シレトゥとアラニは]「汝らが先に
頃であり[阿音娜 2013: 43],チェンブンは 確かに議論したことは道理である。[けれ
康熙 15 年以前にはトゥシェート=ハーンに ども]今,この処理するときに,[ザサグ
対して右翼の属衆の返還を要求していたとい ト=]ハンの口実とする言なので35),[左
える。おそらくチェンブンは康熙 5 年にガル 翼にいるザサグト=ハーンの領民を]担
ダンらの支持を得て,ザサグト=ハーン位を 保として求めることはせず,汝ら(トゥ
継承した直後から,トゥシェート=ハーンに シェート=ハーンら)が先に返還せよ。返
属衆の返還を要請していったのであろう。 還したのち,[ザサグト=]ハンのところ
ところが,【史料 7】にあるとおり,トゥ にいる者を直ちに取って返還したい」と

32) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 3,康熙 22 年檔冊,No.95,371–372 頁を参照。


33) ガルダンは,チェンブンを後押しして,トゥシェート=ハーンにザサグト=ハーン殺害事件の際に
ハルハ左翼に逃亡した右翼の属衆の返還を要求させる一方で,ダライ=ラマ政権にも協力を呼びか
け両者の間を調停させた[岡田 2013: 88]。【史料 7】には,ダライ=ラマがジャルブナイを派遣し,
属衆の返還問題について議論するため会盟を開催させたとあるが,おそらく,この会盟はガルダン
の働きかけによるものとみられる。
34) モンゴル文では「モンゴルの裁判の方式(mongγol-un ǰarγun-u mör)」とある(『蒙古堂檔』巻 6,
康熙 26 年檔冊,No.3,8 頁)。
35) モンゴル文では「ハーンの口実とする言は尽きているので(qaγan-u siltaγ üge baraqu-yin tula)」
とある。ただ,満文史料を踏まえると,モンゴル文にある「baraqu(尽きる,終わる)」は「bariqu
(持する,捉える)」の誤りと考えられ,とすると,この箇所の意味はモンゴル文と満文の間に大き
な違いはないといえる。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 17

言った。これは我々をあざむいたように 【史料 9】500 の案件の方法を正しいと審定


なった上に,また我々の衆が[会盟で]誓 するならば,これ(ガルダン=ホトクト,
約するときに先に決定したことを各々違わ 2 人のアハイらの訴訟の件)はすなわち
ず行おう。誰かが違えば不正をした人を衆 [500 の案件を処理した方法と]別とする
の力で破りたいと誓約したことにより,自 ので,ただこの案件を道理に合わせ,500
ずから正しいとすることを行うべき。(「ハ の案件に照らして同様に[処理]すること
ルハのオチライ=トゥシェート=ハーンの をあらためて仰せくだしてくれまいか。も
上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年 しザサグト=ハンのこの方法(ガルダン=
檔冊,No.55,161–163 頁(満文) 。)
36)
ホトクト,2 人のアハイらの訴訟に対する
ザサグト=ハンの対応)を正しいと審定す
【史料 8】によると,トゥシェート=ハーン るならば,500 の案件で返還するとしたこ
は自身のもとにいる右翼の属衆は逃亡して来 れらの者は元来,故意に略奪したものでは
たのであり,故意に奪った者ではないため, ない。ハン,ベイレ,領民ともに敵が奪っ
チェンブンが奪った属衆を返還した後,「モ て,捕虜とした者を我々が命を惜しまず平
ンゴルの慣例」によって返還したいと申し出 和を思い,死に物狂いで攻め取って,ハン,
て,会盟以前から条件つきで右翼の属衆の返 ベイレ,領民とした功ある人のところに逃
還を承諾していたと言う。ところが,ガルダ 散して来た者を養い育てたから[我々を逃
ン=シレトゥとアラニらが会盟でトゥシェー 散して来た者達が頼ったの]であり,また
ト=ハーン側が先に返還を実行するよう要求 ザサグト=ハンの方法に合わせて,あるい
したため,トゥシェート=ハーンは,先に定 は大半あるいは半分を我々が取って併呑す
めたとおりチェンブンが奪った属衆の返還が る,あるいは我々が半分あるいは少数をそ
先決であると主張し,そのとおりに調停しよ の主に返還する,この 2 つのうち 1 つを選
うとしないガルダン=シレトゥとアラニらに んで行うならば(許可を与えてくださるの
対して「我々をあざむいたよう」であると不 ならば),我々はそのとおりにしたい。(「ハ
信感をあらわにしている。しかしながら,以 ルハのオチライ=トゥシェート=ハーンの
上のトゥシェート=ハーンの訴えに対して 上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年
も,清朝が何らかの反応を示した形跡は見ら 檔冊,No.55,164–166 頁(満文)
37)
。)
れず,清朝はこの訴えに関しても正面から取
り合わなかったと考えられる。清朝は,会盟 トゥシェート=ハーンは康熙帝に対して,
の決定どおりトゥシェート=ハーン側が先に (1)多数の案件を裁断した方式を正しいとす
返還を行う以外の方法には応じない態度を貫 る場合は,ガルダン=ホトクト,2 人のアハ
いたといえる。 イらの訴訟に関しても同様に処理してほしい
続けてトゥシェート=ハーンは,ザサグト とする一方で,
(2)ザサグト=ハーンがガル
=ハーンによる右翼属衆の返還要求問題につ ダン=ホトクト,2 人のアハイらの訴訟に対
いて,第一章の 1 の(1)で論じたガルダン して,誓約した大臣らに審問させず,彼らの
=ホトクト,2 人のアハイらの訴訟に対する 半分あるいは少数の属衆を返還するのみで事
ザサグト=ハーンの対応と関連付けて,康熙 態を収拾させたことを正しいとする場合は,
帝に以下のとおり訴えている。 半数あるいは少数の属衆を返還する,といっ

36) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.3,8–9 頁を参照。


37) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.3,9–10 頁を参照。
18 アジア・アフリカ言語文化研究 104

た代替案を提示した。黒龍[2013: 43(初出 シェート=ハーンにハルハ左翼に逃亡した右


は黒龍,海純良[2008]
)]は,トゥシェー 翼の属衆を返還させるよう取り決めたことを
ト=ハーンが右翼内部の論争である案件が会 指していると考えられる。この記事が書かれ
盟で裁断されなかったことを口実として,ザ ている書簡はバランが清朝に帰順する際に送
サグト=ハーン殺害事件の際に左翼に逃亡し 付した書簡であるため,彼が言う自身の行動
た右翼の多くの属衆を返還しなかった,と論 過程について慎重に解釈する必要があるが,
じている。トゥシェート=ハーンはのち右翼 トゥシェート=ハーンが「悪い心を抱いた」
の属衆を半分返還することになるが38),以上 理由として,清朝のフレン=ベルチルの会盟
で論じた(1)
,(2)の提案のどちらにも清朝 での対応をあげていることは注目に値する。
が応じることはなかったため,
(2)の代替案 ここから,会盟においてアラニがザサグト=
39)
を実行に移したものと考えられる 。 ハーン寄りの対応をとったとするハルハ左翼
以上より,トゥシェート=ハーンは会盟で の言い分はある程度,根拠のあるものとみら
アラニらがザサグト=ハーン家を支持する対 れる。
応をとったとして不信・不満を抱き,それを フレン=ベルチルの会盟において,康熙帝
会盟後の早い段階から康熙帝に訴えていた。 の使者として派遣されたのは既述の如く,理
後述するザサグト=ハーン・シャラの子バラ 藩院尚書アラニであったが42),この会盟での
ン(Mon. Barang)が清朝に帰順する際に 対応に関して,康熙帝が実際にアラニにいか
康熙帝に送付した書簡をみてみると「我が祖 なる指示を出していたのかについては不明で
父チェチェン(セツェン)=ハン(チェンブ ある。しかしながら,会盟での対応がのちに
40)
ン )を甚だ慈しんで,我が父ザサグト=ハ 問題視され,アラニが処罰されたり咎められ
ン(シャラ)の逃散した領民・民を集めて たりしていないことから,これまでみてきた
与えた。上大主(康熙帝)が慈しんだため, 彼のザサグト=ハーン家を支持するかのよう
トゥシェート=ハンは悪い心を抱いた」とあ な対応は,概ね康熙帝の意向に基づいたもの
る41)。祖父チェンブンを慈しみ,さらに「我 であり,清朝政権の基本方針であったと考え
が父ザサグト=ハン(シャラ)の逃散した領 られる。
民・民を集めて与えた」とは,康熙帝がフ ところが,以上のようなトゥシェート=
レン=ベルチルの会盟を開き,そこでトゥ ハーンらハルハ左翼の訴えに対する清朝の返

38)『王公表伝』巻 46,伝第 30,土謝図汗察琿多爾済列伝(漢文),『皇朝藩部要略』巻 3,外蒙古喀爾


喀部要略一(漢文)。
39)【史料 9】でトゥシェート=ハーンは,条件(2)を採用する場合,右翼の属衆は故意に略奪した者
たちでないため,半数または少数の属衆を返還すると言及している。【史料 8】にはトゥシェート
=ハーンらがフレン=ベルチルの会盟以前から,「モンゴルの慣例」によって右翼の属衆を返還し
たいと取り決めていたことが記されているが,条件(2)での以上のような言及は,【史料 8】でい
う「モンゴルの慣例」に基づいたものであったのではないだろうか。この「モンゴルの慣例」が
何を指しているのかは不明であるが,モンゴル=オイラド法典(崇徳 5(1640)年制定)の第 1 条
の 6 に「誰かの所に逃亡者が来れば,半分を取って帰してやれ」という規定があり[田山 1967:
127],実際にトゥシェート=ハーンが属衆を半分,返還していたことは興味深い。
40)『アサラクチ史』(ハルハの年代記。康熙 16(1677)年編纂)によると,チェンブンはザサグト=
セツェン=ハーンの称号を有していた。
41)「ハルハのエルケ=アハイの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 9,康熙 29 年檔冊,No.53,135 頁(満文),
No.54,137 頁(モンゴル文)。なお,この記述は後掲【史料 12】冒頭の省略部分に入る。
42) 清朝のモンゴル関連の事務を扱う官庁は理藩院であり,フレン=ベルチルの会盟では,理藩院尚書
アラニが清朝の代表者として派遣された。また,ガルダンのハルハ侵攻後である康熙 28 年にガル
ダンのもとに派遣されハルハ問題に関する交渉を行なったのもアラニであり,アラニは当該時期に
おける清朝のハルハ政策に携わっていた主要人物の 1 人である。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 19

書は,『聖祖実録』や『御製親征平定朔漠方 の不信・不満を知りながらその要求に応じ
略』(以下,『朔漠方略』と略記)などの編纂 ず,ザサグト=ハーン家の意向に沿った対応
史料はもとより『蒙古堂檔』においても収 を変えなかったことに違いはない。
録されていない。『蒙古堂檔』にはほぼ 1 年
単位で東部ユーラシア諸地域の首長らの書簡 第二章 会盟直後におけるハルハ左右翼の状
や清朝皇帝の上諭が檔冊体で収められ,その 況とガルダンのハルハ侵攻
内容は編纂史料に記載されていないものを多
く含む。もちろん,『蒙古堂檔』に収録され 1.ザサグト=ハーン家以外の右翼首長らの
ていないからといって直ちにその事実が存在 動向
しなかったことにはならないが,トゥシェー ザサグト=ハーンは,トゥシェート=ハー
ト=ハーンはフレン=ベルチルの会盟の件を ンが会盟後,右翼の属衆を半分しか返還しな
康熙帝に訴えたのち,わずか 1 年にも満た かったことに不満を抱き,デグデヘイ=メル
ないうちにザサグト=ハーンのもとに出征し ゲン=アハイ43),ダルマシリ=ノヤン(Mon.
44)
ており,この短期間のうちにフレン=ベルチ Darmasiri noyan) らとともにガルダンに
ルの会盟に関する康熙帝の対応が改められた 援助を求めジューン=ガルへ向かった。する
とは考え難い。よって,清朝はこの会盟に関 と,康熙 26 年秋,トゥシェート=ハーンは
するトゥシェート=ハーンらの不信・不満の 彼らを追撃してザサグト=ハーン,デグデヘ
蓄積を理解しながら,少なくとも表立った反 イ=メルゲン=アハイを殺害し,康熙 27 年
応を示さず,説得を試みることすらしなかっ にガルダンのハルハ侵攻を招く。ハルハの属
たと捉える方が妥当であると考えられる。た 衆がガルダンの侵攻によって清朝に保護を
とえ史料が残らなかっただけで,清朝がトゥ 求めるまでの経緯は,宮脇[1979]や黒龍
シェート=ハーンらハルハ左翼の訴えに対し [2013: 43–56(初出は黒龍,海純良[2008]
);
て何らかの反応を示していたとしても,左翼 2014: 116–118]に詳しいが,前述したよう

43) 史料によってデグデヘイという名が単一で現れる場合と,直後にメルゲン=アハイやダイチン=
タイジといった名が続いている場合があり,どこで名前が切れるか判断し難い。宮脇[1979: 126]
はデグデヘイとメルゲン=アハイを別々の人物と捉え,メルゲン=アハイについては,康熙 21 年
に使者をイルクーツクに派遣した人物で,のちにロシア国籍を得たと説明している。その一方,黒
龍[2013: 43(初出は黒龍,海純良[2008]);2014: 116]はデグデヘイ=メルゲン=アハイを 1 人
の人物とし,「右翼貴族」と捉えている。しかし,『王公表伝』巻 73,伝第 57,扎薩克輔国公旺舒
克列伝(漢文)には旺舒克(ハルハ左翼ダンジン=ラマの長子の子善巴の従子)の父・色爾済穆が
デグデヘイ=メルゲン=アハイと称されており,左翼の首長であったことが窺える。さらに,旺舒
克列伝には色爾済穆が康熙 26 年にザサグト=ハーンとともに,トゥシェート=ハーンに殺害され
たことについても記されている。なお,『王公表伝』巻 64,伝第 48,扎薩克多羅貝勒卓特巴列伝
(漢文)によると,デグデヘイ(ここではメルゲン=アハイという称号は記されていない)はダル
マシリ=ノヤン(卓特巴)の同族とある。ロシア側の史料である Русско-монгольские отношения.
1685–1691. Сборник документов. Сост. Г.И. Слесарчук. Ответственный редактор Н. Ф. Демидова. М.,
Восточная литература РАН. 2000.cтp. 335, 387 には,デグデヘイ=メルゲン=アハイはガルダンの
属下と記されており,ハルハ首長の中でガルダンに従っていた 1 人であったと考えられる。また,
「ハルハのフンドゥレン=ボショグトの上奏する書」『蒙古堂檔』巻 8,無年檔冊,No.164,460 頁
(満文),No.165,463 頁(モンゴル文)には「ザサグト=ハーン,デグデヘイ=ダイチン=タイジ,
2 人の事情を我々の使者に聞いて」とあり,デグデヘイ=ダイチン=タイジで 1 人の人物であるよ
うに見受けられる。トゥシェート=ハーンらの上奏文によると(【史料 11】),デグデヘイ=ダイチ
ン=タイジはハルハ右翼の首長らしい。以上から,本稿ではデグデヘイ=メルゲン=アハイを 1 人
の人物とみなし,かつ,デグデヘイ=ダイチン=タイジとは異なる人物とみなすこととする。
44) ハルハ右翼で最初にハーンを称したライホルの次子ダルマシリ=グンタイジの長子(『王公表伝』
巻 64,伝第 48,扎薩克多羅貝勒卓特巴列伝(漢文))。また,【系図 1】を参照のこと。
20 アジア・アフリカ言語文化研究 104

に,清朝がフレン=ベルチルの会盟でトゥ て遊牧する。デグデヘイ=メルゲン=アハ
シェート=ハーンらハルハ左翼を突き放すか イを,ボショグト=ハンは左翼に合流させ
のような対応をとっていたことを踏まえて, るな,送るなと言ってあちらに遊牧させ,
あらためて捉え直す必要があるだろう。さら ②右翼のノヤンらをザサグト=ハンのとこ
に,先行研究ではガルダンに援助を求めたザ ろに軍営を張らせ宿営させ従わせる」と言
サグト=ハーン家が最終的に清朝に帰順した う。ボショグト=ハンの先の言葉は酷く,
経緯や,ザサグト=ハーンの配下であるハル 今聞けば我々に出兵すると言う言をとても
ハ右翼の首長までもが,ガルダンの攻撃を受 多く聞く。(「トゥシェート=ハーンの上奏
けて清朝に保護を求めるに至った経緯につい した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,
45)
て,十分に分析されていない。よって,本章 No.89,352–354 頁(満文) 。)
では以上の点を明らかにしつつ,あらためて
フレン=ベルチルの会盟直後からガルダンの 【史料 10】によると,フレン=ベルチルの会
ハルハ侵攻により,ハルハが清朝に保護を求 盟後,ガルダンはハルハ右翼に会盟を開かせ,
めるまでの経緯を分析する。 そこでハルハ右翼に対して,ザサグト=ハー
まず,フレン=ベルチルの会盟直後におけ ンの命に従わなければ反逆とみなし,康熙元
るハルハ右翼の状況について考察する。右翼 年にザサグト=ハーン殺害事件が発生した際
側が直接,自分たちの状況に言及した史料は に,ガルダンの兄センゲがその事件の実行者
見出せないが,康熙 26 年 6 月にトゥシェー であるロブサンを追撃し捕獲したように軍事
ト=ハーンが康熙帝に送った書簡には次のよ 征討を行う姿勢を示していたという(下線部
うに記されている。 ①)。また,ガルダンがハルハ右翼の属衆に
圧力をかけザサグト=ハーンのもとに団結さ
【史料 10】今,右翼に機嫌を伺うため派遣 せて,ハルハ左翼に出兵しようとしていると
した我々の使者が聞いて来て告げた言。① も記されている(下線部②)。
「ボショグト=ハン(ガルダン)は彼のチェ ついで,同年 9 月にトゥシェート=ハーン,
チェン(セツェン)=ウバシという大臣を ダイチン=ノヤン(Mon. Dayičing noyan),
派遣し,右翼を会盟させ,衆が会盟した地 メルゲン=タイジ(Mon. Mergen tayiǰi)ら
でボショグト=ハンの書を読み上げた。
[読 ハルハ左翼の首長がガルダンとの開戦を康熙
み上げた]書の言。『汝ら右翼は全てザサ 帝に報告した書簡には,以下のような記述が
グト=ハンの言(命令)を違えるな。もし みられる。
違えば,邪教徒とみなしてロブサン=サイ
ン=タイジのとおりにする。このとおりに 【史料 11】また,ハンのその地にいるハル
する時に,我もまた援助する』と布告した」 ハ,オーロト(オイラド)の我々に友好
と言う。この事情は我々の使者自身が見聞 的な衆は「[ガルダンが]こちらへ遊牧す
したことであり大いに本当である。次いで るため,南北 2 路で(2 路に分かれて)出
また聞いたこと。「ボショグト=ハンはこ 兵することは本当である」と言っていて,
ちらに遊牧するため[来て]アルタイ山陽 我々の右翼のザサグト=ハン,デグデヘイ
方面の三ヘゲルに入る。ザサグト=ハンも =ダイチン=タイジを除いた右翼の衆の言
またあちらに行って[ガルダンと]合流し 「ボショグト=ハン(ガルダン)が出兵す

45) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.36,111–112 頁を参照。なお,このトゥシェー


ト=ハーンの上奏は『朔漠方略』巻 4,康熙 26 年 6 月 28 日(甲戌)の条(満文)にも記載がある。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 21

ることは本当である」と言っていて,我々 で攻撃を加えていることは事実である。以上
の境界の方の衆は恐れて再三「我々のとこ を踏まえると,フレン=ベルチルの会盟後の
ろに来てくれまいか」と言うので,出発し 右翼には,ザサグト=ハーンとそれを後援す
た事情を上奏する。(「ハルハのトゥシェー るガルダンに同調する首長がほとんどいな
ト=ハーン,ダイチン=ノヤン,メルゲン かった,とみてこそ整合的に理解できる。そ
=タイジらの上奏する書」『蒙古堂檔』巻 してそのように考えれば,【史料 10】の内容
6,康熙 26 年檔冊,No.94,369–370 頁(満 も信憑性の高いものと判断できる。すなわち,
46)
文) 。) ハルハ右翼の大部分がザサグト=ハーンに同
調していなかったからこそ,ガルダンはフレ
【史料 11】によると,ザサグト=ハーン,デ ン=ベルチルの会盟後,わざわざ右翼を会盟
グデヘイ=ダイチン=タイジを除く,ハルハ させ,「右翼は全てザサグト=ハンの言(命
右翼の属衆がハルハ左翼にガルダンの出兵を 令)を違えるな」とまで命じたものと考えら
通報してきたという。これについては,ハル れる。さらに,ザサグト=ハーンがガルダン
ハ左翼がガルダンの孤立を誇張している可能 のもとに向かったのも,単にトゥシェート=
性を考慮しなければならないが,翌康熙 27 ハーンが右翼の属衆を半分しか返還しなかっ
年に実際にガルダンがハルハに侵攻した後, たからではなく,ほとんどの右翼の首長らが
理藩院尚書アラニ自らがガルダンの消息を 自身に従わない事態に不安を強めたゆえの行
探って上奏した内容には,「ガルダンの兵は 動であったとみるべきであろう。
ウェイジェン=ハタン=バートル,クンドゥ やや時代は遡るが,第一章の 2 で提示した
レン=ボショグトを破った。ダルマシリ=ノ 康熙 21 年のザサグト=ハーン・チェンブン
ヤンなどのタイジらの兵を従わせエルデニ= の書簡に引用されているハルハに下したダラ
ジョーに向かい来ると,トゥシェート=ハー イ=ラマの旨には「ザサグト=ハン(チェン
ンの子ガルダン=タイジが迎え撃ち敗北し ブン)を汝らの七旗(ハルハ)は尊重するの
……47)」とある。ここから,ガルダンに従っ が道理である。ザサグト=ハンと言ったとし
たハルハ右翼の主な首長は,トゥシェート= ても七旗を区別せず扶助するのが道理であっ
ハーンに殺害されたザサグト=ハーン,デグ た。まさにこのとおりにすべき」とある(【史
デヘイ=ダイチン=タイジを除くと,ダルマ 料 7】)。ダライ=ラマは,ハルハ左右翼全体
シリ=ノヤンのみであったことが窺える。ま に対してチェンブンに敬意を示すよう命じて
た,『王公表伝』にあるハルハ右翼首長らの いる。チェンブンの権威がある程度にまで及
各列伝や,『蒙古堂檔』に収録されているガ んでいたならば,わざわざダライ=ラマがこ
ルダンの侵攻を受けて清朝に帰順する際の様 のように命じたりはしないはずであり,ここ
子を記した右翼首長らの書簡をみても,ガル から,左翼のみならず右翼においてもチェン
ダンに援助を求めるも,のちにザサグト= ブンを支持していない首長が少なからず存在
ハーン家とともに清朝に帰順したハルハ右翼 していたことがわかる。17 世紀のハルハで
の主な首長は,ダルマシリ=ノヤン以外にみ は,長子相続が慣例であったが[烏雲畢力
てとれない。その上,ガルダンがハルハに侵 格 2009: 308–309(初出 2007)],ワンチュク
攻した際に,後述するとおり,以前から敵対 の死後,彼の子ではなく弟のチェンブンがザ
していたハルハ左翼のみではなく,右翼にま サグト=ハーンを継承したため,トゥシェー

46) モンゴル文については『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.41,121 頁を参照。なお,この上奏


は『朔漠方略』巻 4,康熙 26 年 9 月 25 日(庚子)の条(満文)にも記されている。
47)『朔漠方略』巻 4,康熙 27 年 6 月 19 日(庚申)の条(満文)。
22 アジア・アフリカ言語文化研究 104

ト=ハーンを始めとするハルハ左翼のみなら 権勢がほとんど及ばない状況にあった。その
ず,右翼の一定程度もチェンブンのハーン位 ため,ガルダンがハルハへ侵攻すると,ハル
継承に不満を抱いていたと考えられる。その ハ左翼のみならず右翼の属衆までもが清朝に
上,第一章の 1 の(1)で論じたとおり,ハー 保護を求めたのである。
ン位を継承したチェンブンは第 3 代ザサグ
ト=ハーン・ノルブの弟である 2 人のアハ 2.ザサグト=ハーン家の動向
イや,ノルブの子ガルダン=ホトクトの属衆 前述のとおり,康熙 26 年秋にトゥシェー
を略奪した。また,第一章の 1 の(3)で論 ト=ハーンはガルダンのもとに向かったザサ
じたとおり,ドルジのジノン号を剥奪しサマ グト=ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハ
ディに与え,ドルジを始めとするベスト部の イ,ダルマシリ=ノヤンを追跡し,ザサグト
首長らから反感を買っていた。ドルジの子ソ =ハーン,デグデヘイ=メルゲン=アハイを
ノムはフレン=ベルチルの会盟後も,父ドル 殺害した。つづいて,トゥシェート=ハーン
ジがジノン号を剥奪された経緯を振り返って の子ガルダン=タイジ(Mon. Galdan tayiǰi)
説明し,自らがジノン号を得る正当性を主 は,ガルダンの弟ドルジジャブが兵を率いて
張する書簡を康熙帝に送付している48)。さら 右翼で略奪を行なったため,それを追跡して
に,康熙 24(1685)年 4 月に清朝に届いた 殺害した[宮脇 1979: 126–127][黒龍 2013:
ベスト部のエルデニ=ホンタイジ,セツェン 海純良[2008]
43(初出は黒龍, );2014: 116]

=ホンタイジ,イルデン=ホショーチらの書 ガルダンは前述したとおり,ザサグト=ハー
簡からは,チェンブンがサマディとともにベ ンに従わない右翼の属衆に対して軍事征討
スト部に対して略奪を働いていたことが窺え する姿勢を示していたが(【史料 10】下線部
る49)。既述の如く,ベスト部はハルハ右翼の ①),ドルジジャブに略奪された右翼とは,
一大勢力を率いるジノン家の勢力基盤であ ザサグト=ハーンに従ってガルダンのもとへ
る。チェンブンは,右翼においても人心が得 向かった首長ら以外の属衆であり,この略奪
られない行動を度々とっていたのである。以 は見せしめの意味があったと考えられる50)。
上からも,ハルハ右翼の首長らはザサグト= ザサグト=ハーンが殺害されると,ガルダ
ハーン家のもとに統制がとれていなかったと ンはザサグト=ハーンの妻と 3 人の子バラ
みなしてよかろう。ただし,だからといって ン,グンゲ(Mon. Güngge),ケセグ(Mon.
彼らはザサグト=ハーン家と敵対している Keseg)をアルタイ山陽に居住させるととも
トゥシェート=ハーンに従っていたわけでは に[岡 2007: 84(初出 1993)],康熙 27 年春,
ない。 3 万の兵を率いてハルハ右翼,さらに左翼を
ハ ル ハ 右 翼 の ほ と ん ど の 首 長 は, ト ゥ 攻撃し,続けてトゥシェート=ハーンの子ガ
シェート=ハーンと敵対するガルダンとザサ ルダン=タイジと交戦してこれを破った。8
グト=ハーンの行動に同調していたのではな 月,トゥシェート=ハーンはガルダン軍と激
く,ハルハ右翼においてザサグト=ハーンの 突するが敗北し,これによりハルハ左右翼の

48)「ハルハのメルゲン=ジノンの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.18,54–56 頁(モ


ンゴル文),No.70,250–254 頁(満文) 。
49)「ベストのノヤンらの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 4,康熙 24 年檔冊,No.75,267–272 頁(モン
ゴル文)。
50)『朔漠方略』巻 4,康熙 27 年 6 月 7 日(癸丑)の条(満文)には「ガルダンの弟ドルジジャブ,グンジャ
ン=グムブらは,兵を率い右翼のバンディ=ダイチン=タイジ,バルダン=タイジ,ブトクセン=
ホトクトらの領民,家畜をともに略奪した」とあり,ドルジジャブが略奪した右翼の属衆とは,ザ
サグト=ハーンに従っていたダルマシリ=ノヤンら以外の右翼首長の属衆であったことがわかる。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 23

多くが清朝支配下の漠南へ逃亡した[宮脇 慈しみ[ザサグト=]チェチェン(セツェ
1979: 126–127][黒龍 2013: 43–44(初出は ン)=ハンを承襲させた名のもとに,
[我々
黒龍,海純良[2008]
);2014: 116]。 は]汝ら 2 人の仲たがいを諫め申し上げ
ところが,ガルダンはハルハ侵攻直後,甥 る」といって 2 人に使者を派遣したので
のツェワン=ラブタンが離反したことによ あった。①かえって我々が派遣した使者を
り,ジューン=ガル本国との連絡が絶ち切ら ボショグト(ガルダン)は捕えた。トゥ
れ,アルタイ山脈以東に孤立してしまい,当 シェート=ハンもまた我々の使者を捕え,
初の勢いを失っていく[岡田 2013: 93–94]。 また来てザサグト=ハンを捕え我々[のオ
その上,康熙 29(1690)年にはガルダンの援 トグ 
56)
]を破壊し収容したのち,我が身を
助を受けていたザサグト=ハーンの子バラン 亡きものにして,我が領民を分配して取り
までもがダルマシリ=ノヤンに率いられ清朝 たいということを我は聞いて,大主の御前
に帰順する51)。それでは,なぜガルダンに保 に上奏する意があったけれども,七旗(ハ
護を求めた彼らまでもが,一転してガルダン ルハ)が戦争となったので上奏できなく
より離反し清朝に保護を求めたのだろうか。 なって,ハルハからオーロトに恐れ敗走し,
以下ではフレン=ベルチルの会盟以降のバ 我の元々いた地に来て事情を上奏しようと
ランとダルマシリ=ノヤンの動向を分析し, いるときに,ボショグト=ハンの兵に遭遇
ジューン=ガル情勢の変化も踏まえた上で, し,ボショグト=ハンとともに行なった
彼らが清朝に帰順した背景を考察していく。 (行動を共にした)。②我がこのように行
まず,バランの動向について分析する。バ なったことは,ザサグト=ハンが生きてい
ランは,康熙 29 年に清朝に帰順する際に康 て元気(無事)であったならば[彼はボ
熙帝に書簡を送付し,ガルダンのハルハ侵攻 ショグト=ハンと]面会する(した)だろ
を経て,自らが清朝に帰順するまでの経緯を うと思い,ボショグトとともに行ったの
52)
以下のように説明している 。 だった。ボショグトの言「汝らの右翼の事
情をラマの御前に申し上げるまで,我とと
【史料 12】大主の御前に,エルケ=アハイ もに留まれ」と言った。しかしながら,た
[= バ ラ ン53)] が 上 奏 す る こ と。 ……54)。 ぐい稀な大主に頼り尽力することができる
ハルハ,オーロト(オイラド)の 2 つ[の かと思って来た。(「ハルハのエルケ=アハ
政治(講和)55)]が壊れるというときにザ イの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 9,康熙
57)
サグト=ハン(シャラ),ダルマシリの 2 29 年檔冊,No.53,135–137 頁(満文) 。 )
人は 2 人のハン(ガルダン=ボショグト=
ハン,トゥシェート=ハン)に,申し上げ バランは,かなわなかったものの,戦乱の
るため「……。ただダライ=ラマ,聖主が 中,常に状況を康熙帝に上奏しようとしてい

51)『王公表伝』巻 64,伝第 48,扎薩克多羅貝勒卓特巴列伝(漢文)。


52)『聖祖実録』では,康熙 29 年 5 月 11 日の条にバランの帰順について記されているが(『聖祖実録』
巻 146,康熙 29 年 5 月 11 日(辛丑)の条(漢文)), 『蒙古堂檔』によると康熙 29 年 4 月 20 日に【史
料 12】を理藩院の官員に送ってきていて,その後,同日に上奏したとある。
53) バランの帰順について記されている『聖祖実録』の記事には「ハルハのエルケ=アハイ=バラン(喀
爾喀額爾克阿海巴郎)」とあり,バランはエルケ=アハイと称していたことがわかる(『聖祖実録』
巻 146,康熙 29 年 5 月 11 日(辛丑)の条(漢文))。
54) ここには,第一章の 2 の 18 頁に引用した記事の内容が入る。
55) モンゴル文では「qoyar-un yeke törü ebderekü-dü(2 つの大いなる政治が壊れるとき)」とある。
56) モンゴル文では「otoγ-i mani ebdeged(我々のオトグを破壊して)」とある。
57) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 9,康熙 29 年檔冊,No.54,137–139 頁を参照。
24 アジア・アフリカ言語文化研究 104

たことを強調した上で(下線部①),ガルダ ゲンもまたやや大きい国であった。我々の
ンと行動を共にした事情を,下線部②のとお ここのところの右左 2 翼の中で,このエル
り,やむを得ずそうしたものと説明してい ジゲンのエルデニ=ハタン=バートルは,
る。以上の内容は,清朝に自らの帰順を認め 右翼で長上の位に立たせたザサグのノヤン
させようとする局面で述べられたものである であった。かようなので,このエルデニ=
ため,バランのそれまでの行動の真意につい ハタン=バートルをザサグとしてくれまい
て記載内容を額面通り受けとることはできな か,とエルデニ=ザサグト=ハン,また衆
い。しかしながら,ザサグト=ハーン家はトゥ ノヤンらが上奏する。(「ハルハのエルデ
シェート=ハーンと敵対していただけであっ ニ=ザサグト=ハーンの上奏する書」『蒙
て,フレン=ベルチルの会盟や右翼のジノン 古 堂 檔』 巻 8, 康 熙 28 年 檔 冊,No.152,
59)
号問題等における清朝の対応に照らせば,確 446–447 頁(満文) 。)
かに清朝に対して敵意をもつ理由はなかった
であろう。以下に提示する史料は康熙 28 年 「エルデニ=ザサグト=ハン」とはシャラの
11 月に理藩院に届き,その後,上奏された 称号であるが60),当時,シャラはトゥシェー
エルデニ=ハタン=バートル(Mon. Erdeni ト=ハーンの追撃を受けたことによりすでに
58)
qatan baγatur) のザサグ号授与を要請する 死去しており,ガルダンの指示のもとアルタ
ため,バランが清朝に送付したと考えられる イ山陽に遊牧していたシャラの子バランがザ
書簡である。 サグト=ハーンの名義で清朝に書簡を送付
し,エルデニ=ハタン=バートルのザサグ号
【史料 13】仁徳あるマンジュシリの化身の 授与を願い出たと考えられる。バランがガル
御身,衆生を均しく慈しむ仰せをなす者, ダンに従いながら,エルデニ=ハタン=バー
慈悲深く優しい心を持った天下の主である トルのザサグ号授与を清朝に要請した意図は
康熙帝の御前に,エルデニ=ザサグト=ハ 不明であるが,康熙 28 年の時点で清朝に書
ンの上奏すること。エルデニ=ハタン= 簡を送付していたことは,バランがガルダン
バートルの件。我々の七旗においてエルジ の保護下にありながら,清朝と接触を持って

58)【史料 13】にもあるとおり,ハルハ右翼のオトグの 1 つであるエルジゲンを領有する首長。エルデ


ニ=ハタン=バートルはガルダンのハルハ侵攻によって康熙 27 年に清朝に帰順し,翌年にザサグ
を授かっている(『王公表伝』巻 64,伝第 48,扎薩克輔国公袞占列伝(漢文))。
59) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 8,康熙 28 年檔冊,No.153,447–448 頁を参照。なお,【史料 13】
については,理藩院が書簡を処理した過程が満文で記録されており,それによると【史料 13】と
ともに,トゥシェート=ハーンとエルデニ=ハタン=バートルの書簡も,この時,理藩院に届いて
いる。彼らの書簡は,共にエルデニ=ハタン=バートルのザサグ号授与を要請するものである(トゥ
シェート=ハーンの書簡の内容は「ハルハのトゥシェート=ハーンの書」『蒙古堂檔』巻 8,康熙
28 年檔冊,No.154,448 頁(満文),No.155,448 頁(モンゴル文),エルデニ=ハタン=バート
ルの書簡の内容は「ハルハのエルデニ=ハタン=バートルの上奏する書」『蒙古堂檔』巻 8,康熙
28 年檔冊,No.156,449–450 頁(満文),No.157,450–451 頁(モンゴル文)を参照)。また,彼
らの他,3 人のハルハ首長の書簡も同時期に理藩院に届き処理されている(理藩院がこれら 6 通の
書簡を処理した過程については『蒙古堂檔』巻 8,公文書を処理した記録,457 頁(満文)を参照)。
60) ハルハの年代記である『シャラ=トージ』(作者不明。18 世紀頃編纂)にはワンチュクはメルゲン
=ハーン,チェンブンはセツェン=ハーンと称されていたことが記されているが,チェンブンの子
シャラについてはシャラ=ザサグト=ハーンとあるのみである[森川 2007: 297]。だが,康熙 25
年に清朝に送付したザサグト=ハーンの書簡には「ハルハのエルデニ=ザサグト=ハンの上奏する
こと」とある(例えば,「ハルハのエルデニ=ザサグト=ハーンの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 4,
康熙 25 年檔冊,No.104,342 頁(モンゴル文),No.144,453 頁(満文)を参照)。康熙 25 年時
点でのザサグト=ハーンはシャラなので,「エルデニ=ザサグト=ハン」とはシャラの称号であっ
たと考えらえる。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 25

いたことを示唆している。 ラル=ザイサンの 2 人を派遣し通報させて


以上より,バランはひたすらガルダンに いた。……。比類ない主の御前に我自身が
従っていたわけではなく,清朝を頼みとする 行き,上奏したいと言っていた。③[しか
側面も当初から一貫して合わせ持っていたと しながら,我は]歳老い乗る牲畜,食べる
考えて何ら矛盾はない61)。そのことは,康熙 口糧がないので,子のエルデニ=ダイチン
29 年にバランとともに清朝に帰順した際の を送った事情はこのとおりである。(「ハル
ダルマシリ=ノヤンの書簡からも窺える。ダ ハのダルマシリ=ノヤンの上奏した書」
ルマシリ=ノヤンはその書簡の中で,康熙元 『蒙古堂檔』巻 9,康熙 29 年檔冊,No.55,
63)
年のザサグト=ハーン殺害事件にまで遡って 140–141 頁(満文) 。)
説明し,フレン=ベルチルの会盟における清
朝の対応について言及した上で,帰順するま ダルマシリ=ノヤンは,ガルダンがハルハへ
での自らの言動を以下のとおり論じている。 侵攻するという情報を入手すると,ただち
に清朝に報告し(下線部①),さらに,トゥ
【史料 14】それから我々は主の旨と誓いの シェート=ハーンの包囲から逃れたあと,ガ
とおりにしていたが,①ハルハとオーロト ルダンと行動をともにしながらも,清朝の使
が[和が]壊れると聞いて,たぐい稀なる 臣であるシャンナン=ドルジ,アナンダの 2
主の御前に,卯年(康熙 26 年),チェチェ 人にその事情を通報していたと康熙帝に説明
ン(セツェン)=ザイサンを派遣し上奏さ している(下線部②)。【史料 14】はダルマ
せた。ここに(この機会に)と思い,2 人 シリ=ノヤンが清朝に帰順を願い出るために
のハンに申し上げるため使者を送った。ハ 送った書簡であり,清朝に自らの正当性を主
ルハ,オーロトのいずれも助けたことはな 張する性質を強く帯びていると考えられる
い。それから②先に[トゥシェート=]サ が,だからこそ,常に事態を報告していたか
イン=ハン はザサグト=ハンを捕え,我
62)
どうかの事実を把握している清朝に,虚偽や
がいた地を包囲した。我は[トゥシェート 誇張とも捉えられる発言をして,わざわざ自
=ハーンの]兵の中から出るのに甚だ苦労 身の正当性を損ねる事態を招くことはまずし
した。それからボショグト=ハンは我々を ないといえる。以上より,ダルマシリ=ノヤ
収容し,オーロトとともに行った(オーロ ンはガルダンに従いつつも,事態がどう転じ
トとともに居た)。これらの事情をシャン ても政治的選択ができるよう,清朝との連絡
ナン=ドルジ,アナンダ侍衛の 2 人に,ウェ を密にしていたと考えられる。
イジェン=チェチェン(セツェン),トゥ また,ザサグト=ハーン家が最終的に清朝

61) Ермаченко[1974: 114–117]は,康熙 9 年に康熙帝がチェンブンのザサグト=ハーン位を追認した


ことをもって,清朝はハルハ右翼の政治に介入していったと捉えている。さらに,これ以降,以前
とは異なりザサグト=ハーン家がほぼ毎年清朝に朝貢使節を派遣するようになったことなどから,
清朝とザサグト=ハーン家の良好な関係を指摘している。なお,ザサグトハーン位継承順番につい
て Ермаченко[1974: 114–117]を参照する際は注意を要する。なぜなら,注(5)で論じたとおり
Buyandelger[2000]によって康熙元年のザサグト=ハーン殺害事件やザサグト=ハーン継承順番
について真相が究明され,これまで理解されてきたザサグト=ハーン位継承順番を修正する必要が
生じたからである。
62) モンゴル文は「oyirad sayin qan(オイラド=サイン=ハン)」と記されている。サイン=ハンとは
トゥシェート=ハーン・チャホンドルジの称号であり,なぜオイラドという語句がサイン=ハンの
前に記されているのか判然としない。「最近」を意味する「oyirada」の誤訳とも考えられるが詳細
は不明である。
63) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 9,康熙 29 年檔冊,No.56,142–144 頁を参照。
26 アジア・アフリカ言語文化研究 104

に保護を求めるに至った経緯を分析する上 グト=ハーン家の密接な関係が強調されてき
で,前述したジューン=ガル情勢の変動も注 たが,本節で分析したとおり,ザサグト=ハー
目に値する。ツェワン=ラブタンの離反によ ンの子バランやダルマシリ=ノヤンは,ガル
り,ガルダン陣営は逃散者を続出させ,困窮 ダンのみに依存していたのではなく,ガルダ
状況にまで陥った64)。さらに,ガルダンに捕 ンに従う一方で清朝とも常に連絡をとること
えられたハルハの属衆の中には,脱出して清 を図り,ジューン=ガル情勢が変動しガルダ
朝に保護を求める者や,財物を全て奪われた ンが劣勢に陥ったことをみて,清朝に帰順を
上で釈放される者などもいた65)。【史料 14】 願い出たのであった。
下線部③からも,ガルダンの陣門に降ってい
たダルマシリ=ノヤンが困窮していたことが 3.清朝のハルハ左翼に対する冷遇と両者の
窺える。一方,清朝は戦乱のなか,瓦解し家 対ロシア協力
畜を捨てて清朝に逃亡して来るハルハの人々 フレン=ベルチルの会盟以降におけるハル
に対して,漠南に牧地を指定し安置するとと ハ左翼の動向に目を移すと,会盟以降もハル
もに,銀や食料を与えて養った[黒龍 2013: ハ左翼の要求が清朝に受け入れられない状況
海純良[2008]
48(初出は黒龍, );2014: 120– が続いていた。すなわち,トゥシェート=
121]。以上のような状況も,ザサグト=ハー ハーンは,康熙 26 年正月に康熙帝に勅印の
ン家の清朝帰順に十分影響を与えたと考えら 給与を要請するが,康熙帝はその要請を拒絶
れる。 し て い る[岡 2007: 82(初 出 1993)]。 さ ら
はじめにで論じたように,チェンブンの に,同年 2 月にセツェン=ハーン・ノルブが
ザサグト=ハーン位継承の背景にはセンゲ, 病死し,それをノルブの子イルデンが清朝に
ガルダンの後ろ盾があり[Buyandelger 2000]
, 報告すると,康熙帝はハルハ左右翼の首長ら
チェンブン即位後,ガルダンはトゥシェー に書簡を送り,イルデンにセツェン=ハーン
ト,ザサグト両ハーン家の争いに介入すると 位を承襲させるよう命じた[岡 2007: 82–83
ともにザサグト=ハーン家を援助した。ま (初出 1993)]
[烏雲畢力格 2009: 309–311(初
た,チェンブンは娘をガルダンの甥に嫁がせ, 出 2007)]。これに対して,ジェブツンダン
康熙 17(1678)年には自らジューン=ガル バ=ホトクトを始めとするハルハ左翼は,康
へ赴きガルダンと会見している[黒龍 2014: 熙帝のセツェン=ハーン位継承問題への介入
109–110]。加えて,フレン=ベルチルの会 に断固として反対したけれども,同年 9 月に
盟後,トゥシェート=ハーンが属衆を半分し はイルデンがセツェン=ハーンとして清朝に
か返還しなかったことに不安を募らせたザサ 九白の貢66)を送っている[烏雲畢力格 2009:
グト=ハーンは,道中トゥシェート=ハーン 312–316(初出 2007)]。
に殺害され目的を果たせなかったが,ガルダ 加えて,トゥシェート=ハーンとジェブツ
ンに庇護を求めジューン=ガルへ向かった。 ンダンバ=ホトクトは,ガルダンからジェブ
従来の研究では,このようなガルダンとザサ ツンダンバ=ホトクトがフレン=ベルチルの

64)「ダライ=ラマに情勢を報告する勅書」『蒙古堂檔』巻 8,無年檔冊,No.180,521 頁(満文),


No.181,526 頁(モンゴル文),『朔漠方略』巻 6,康熙 29 年 3 月 23 日(甲寅)の条(満文)。
65)「ハルハのエルデニ=ダイチン=タイジの上奏する書」『蒙古堂檔』巻 8,無年檔冊,No.158,
451–452 頁(満文),No.159,452–453 頁(モンゴル文),「ハルハのヨンシエブ=アルスラン=ダ
イチン=ホショーチの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 9,康熙 29 年檔冊,No.65,150–151 頁(満文),
No.66,152–153 頁(モンゴル文) 。
66) ハルハには毎年,清朝に 8 匹の白い馬と 1 匹の白い駱駝である九白の貢を納める義務があった。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 27

会盟でダライ=ラマの名代と対等に振舞った グト=ハーンを殺害し,ガルダンのハルハ侵
67)
と非難を受け ,同年 5 月,康熙帝に書簡を 攻をもたらすこととなる。
送りそのことを報告するとともに,ガルダン 以上より,フレン=ベルチルの会盟以降,
がハルハに出兵するという情報を伝えたが, 清朝とハルハ左翼の見解は度々相反し,特
康熙帝は反応を示さず放置した。続く 6 月, に,清朝はザサグト=ハーンやガルダン関連
トゥシェート=ハーンは再度,右翼の状況と に関するハルハ左翼の不満・不安の申し出に
ガルダンのハルハ出兵の情報を康熙帝に報告 対して一切,正面から取り合おうとせず,一
し,助けを乞うものの(【史料 10】
),それに 貫してザサグト=ハーン家を支持する対応を
対して康熙帝は「ザサグト=ハンは我が恩を とり,ハルハ左翼の意向は清朝に軽視されて
受けたこと甚だ深く,これらの言葉(ガルダ いたことが窺える。
ンが左翼に出兵するという情報)は[トゥ それでは,なぜ清朝は,尽くトゥシェート
シェート=ハン]属下の空虚なうわさで不和 =ハーンらハルハ左翼の意向をほとんど考慮
ならしめ疑念を抱くこと測り知れない。トゥ しない対応をとったのだろうか。康熙元年の
シェート=ハンに,なお先に[フレン=ベル ザサグト=ハーン殺害事件以降,トゥシェー
チルの会盟で平和に暮らすと]誓約したこ ト=ハーン家の影響力はハルハ左翼のみなら
とを重要として永久に平安をなせ」と伝え ず右翼にまで拡大し,それに対して清朝は懸
るよう臣下に命令するのみであった68)。トゥ 念を抱いていた[関根 2019: 52–58]。その
シェート=ハーンが短い期間に何度もガルダ 一方で,先行研究で指摘されているとおり,
ンの出兵の可能性を清朝に報告していること 康熙 24 年から 25 年における清朝のアルバ
から,ハルハ左翼がガルダンの出兵に不安を ジン攻城戦において,清朝とハルハ左翼は共
募らせ,緊迫した状況にあったことが窺える。 同作戦をとっており,両者は対ロシアにおい
この後,トゥシェート=ハーンはガルダンの て協力関係にあった[宮脇 1979: 123][吉田
もとに向かったザサグト=ハーンの追撃に乗 1984: 189]。ガルダンがフレン=ベルチルの
り出し,この事態を清朝に報告した(【史料 会盟におけるジェブツンダンバ=ホトクトの
11】)。すると,ここに至って康熙帝はようや 行動を問いただしてきているのみならず,ハ
く事の重大さを理解し,トゥシェート=ハー ルハに出兵しようとしているという情報を
ンとガルダンに書簡を送付して戦争を止める トゥシェート=ハーンが康熙帝に最初に知ら
よう説得にかかり,ダライ=ラマにも書簡を せた,前述の康熙 26 年 5 月の書簡の一部に
送付してガルダンの開戦を引き止めるよう要 は次のとおり記されている。
69)
請した 。当該時期,清朝はロシアとの講和
に向けて動いており,トゥシェート=ハーン 【史料 15】また,オロス(ロシア)のチャ
とガルダンの関係悪化によりモンゴルが動揺 ガン=ハンが 5,000 の使者を派遣したと
することを避ける必要があった。そのために いって,使者が書を送って来て,来た使者
も,彼らの戦争を回避しようと対応にあたっ は戻って行った。使者の言の大概は上主に
たと考えられる。しかしながら,清朝の説得 急いで使者を派遣し,あるいはこちらに来
は間に合わず,トゥシェート=ハーンはザサ い,あるいは東方に来い,あるいはいずこ

67) ガルダンはジェブツンダンバ=ホトクトに送った書簡と同じ内容のものを康熙帝にも送付し,フ
レン=ベルチルの会盟でのジェブツンダンバ=ホトクトの振舞いを非難している[石濱 2001:
241–243]。
68)『朔漠方略』巻 4,康熙 26 年 6 月 28 日(甲戌)の条(満文)。
69)「ハルハのトゥシェート=ハーンに下した勅書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.46,130–
133 頁(モンゴル文),No.99,393–399 頁(満文)。
28 アジア・アフリカ言語文化研究 104

まで来いと言ったその地で会盟し,講和す ハーンらハルハ左翼は,上述のとおり,清朝
ると言う。他には衆兵が東方に前進したと に度々意向を軽視されながらも,対ロシアで
聞いた。[オロスの領民は]我々の属下の の協力を惜しまない態度を変えず,清朝を頼
ハリヤトと称する領民を取り,辺界の地で りとしていた。トゥシェート=ハーンはハル
略奪しているものが甚だ多いとはいえ,こ ハにおいて突出した勢力を保持していたとは
れらの人々のハンが講和することを願って いえ,ザサグト=ハーン家やそれを後援する
いるようであるが,彼らの領民は甚だ誠実 ガルダンのみならずロシアとも敵対してお
ではなく騒乱を起こし不穏なので,久しく り72),清朝との関係を破綻させるわけにはい
処理することができなかった。今,この使 かない状況にあったと考えられる。
者がチャガン=ハンにはあちらに言った言 清朝は,ハルハ左翼とロシアの敵対関係は
葉の返答があると言うので,事情を知り明 もちろんのこと,トゥシェート=ハーンらハ
らかにするため人を派遣した。(「ハルハの ルハ左翼がガルダンと敵対関係にあったこと
オチライ=トゥシェート=ハーンの上奏し を以前から把握していた。そのことを示す記
た書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊, 述は,トゥシェート=ハーンらハルハ左翼の
70)
No.82,331–332 頁(満文) 。) 首長が康熙 26 年 9 月にガルダンのもとに向
かったザサグト=ハーンの追撃に乗り出した
【史料 15】からも,トゥシェート=ハーンは ことを清朝に報告した際の(【史料 11】),康
ロシアの動向を報告しており,ロシアと対峙 熙帝の返書の一部にみられる。その内容は以
するために清朝との協力を図っていたことが 下のとおりである。
窺える。ここで注目したいのは,フレン=ベ
ルチルの会盟以降,度々清朝に冷遇され,ガ 【史料 16】先に康熙 16(1677)年,オーロ
ルダン襲来の危機によりハルハ情勢が緊迫し ト,ハルハは互いに反目し兵を挙げたと言
た状況に至っても,トゥシェート=ハーンが う。たとえ真偽が測り知れなくても,我(康
ロシアと対抗するために清朝との協力を目指 熙帝)は天下を全て治めることにより,一
し続けていたことである。なお,この時ジェ 切の暮らす民は共に我が赤子である。我は
ブツンダンバ=ホトクトも,ガルダンがフレ 決して内外といって区別してみることはな
ン=ベルチルの会盟での自身の振舞いを非難 い。1 つの民が暮らすことができなくなれ
してきたことと合わせて,ロシアの使者が ば,我が心は悲しく思う。もし,オーロト,
送ってきた書簡の内容を明らかにするため清 ハルハの 2 部が本当に反目し互いに傷つけ
71)
朝に報告している 。 合い騒乱することに至ったときに,我が心
ハルハ左翼に対する清朝の対応の意図につ は甚だ忍びない。オーロト,ハルハの 2 部
いて,史料的に裏付けることはできないが, は元来,互いに良く暮らしていた上に,我
当時の状況を勘案すれば,清朝に敢えて左翼 に代々絶えず貢を送っていたことにより,
寄りの態度をとらせるような客観的情勢が存 従来どおり通好し,我の一様に慈しみ見守
在していたとは考えにくい。トゥシェート= る意に合わせ,互いに和睦し,平安安逸に

70) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.30,99–100 頁を参照。


71)「ジェブツンダンバの上奏した書」『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.31,101–102 頁(モン
ゴル文),No.83,333–335 頁(満文) 。
72) ロシア側の史料である Русско-монгольские отношения. 1685–1691. Сборник документов. Сост. Г.И.
Слесарчук. Ответственный редактор Н. Ф. Демидова. М., Восточная литература РАН. 2000.cтp. 402 に
よると,トゥシェート=ハーンは康熙 11(1672)年以降ロシアに使節を派遣しているが,1670 年
代後半になるとロシアとの関係は悪化していった。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 29

暮らせば,我が心は甚だ嬉しい,と該部(理 向に沿った対応をとったことや,フレン=ベ
藩院)に旨を下し,ハルハ,オーロトに共 ルチルの会盟でガルダン=シレトゥ(ダライ
に書を送っていた。(「ハルハのトゥシェー =ラマ政権の使者)がザサグト=ハーン家を
ト=ハーンに下した勅書」『蒙古堂檔』巻 支持するかのような対応をとったのも,この
6,康熙 26 年檔冊,No.99,393–396 頁(満 ような背景があったためであろう。また,ダ
73)
文) 。) ライ=ラマ政権はガルダンと緊密な関係にあ
り77),清朝はこのことを認識していた78)。
「康熙 16(1677)年,オーロト,ハルハは互 片や,ザサグト=ハーン家は康熙元年のザ
いに反目し兵を挙げた」とは,ホシュートの サグト=ハーン殺害事件以降弱体化し,ガル
オチルト=ハーン74) がガルダンと衝突した ダンの後ろ盾があるといっても,前述したよ
際に,トゥシェート=ハーンがオチルト= うにハルハ右翼のほとんどの首長らはザサグ
ハーンを助けるため出兵し,ガルダンと一戦 ト=ハーンに従っておらず,彼の権威は名目
75)
を交えたことを指している 。清朝は当時, 的なものであったと推察される。そのため,
この情報をつかむと,トゥシェート=ハーン 清朝がザサグト=ハーンを支持したとして
とガルダンの双方に書簡を送付し,両者の和 も,それに乗じてザサグト=ハーンが直ちに
解を促していたのである。ここから,清朝は 強大化することは考え難い状況にあったとい
トゥシェート=ハーンとガルダンの間に,軍 えるだろう。
事衝突が発生するほどの確執があることを十 以上を踏まえると,清朝にとってロシアと
分理解していたことがわかる。 対峙するためにハルハ左翼との協力は当然,
さらに,ガルダンのハルハ侵攻後,ダライ 必要不可欠なものであったが,清朝は,清朝
=ラマ政権がトゥシェート=ハーンとジェブ の対応如何にかかわらず自身を頼るしかない
ツンダンバ=ホトクトの身柄を引き渡すよ ハルハ左翼の状況を考慮して,右翼のザサグ
う清朝に要求していることなどから,トゥ ト=ハーンに肩入れし,ハルハの均衡維持を
シェート=ハーンとジェブツンダンバ=ホト 図っていたと考えられる。康熙帝は親政開始
クトは,ダライ=ラマ政権に敵視されてい 以降,アムール問題を巡って積極的にロシア
たことが先行研究で指摘されている[宮脇 と交渉を展開していくが,その際の対ロシア
76)
[岡田 2013: 94] 。第一章の 1 の
1993: 174] 交渉や防衛強化などにおいて鍵となったのが
(3)で論じたジノン号問題において,ダライ ハルハの存在であった。ところが,ザサグト
=ラマがザサグト=ハーン・チェンブンの意 =ハーン殺害事件以降,ハルハ右翼のザサグ

73) モンゴル文は『蒙古堂檔』巻 6,康熙 26 年檔冊,No.46,130–132 頁を参照。


74) オチルトは康熙 5 年にダライ=ラマからハーン号を授かった。順治 14(1657)年にジューン=ガ
ルで内紛が生じた際に,ガルダンの同母兄であるセンゲを支援したが,センゲの死後,ガルダン
がジューン=ガル部長となると,次第にガルダンと対立するようになり,康熙 14(1675)年には
軍事衝突を引き起こした。その後,オチルトはガルダンに敗北し捕縛される[宮脇 1995: 191–195,
198–201]。
75) トゥシェート=ハーンの娘はオチルト=ハーンの甥に嫁いでいたため,トゥシェート=ハーンは康
熙 16 年にオチルト=ハーンがガルダンの襲撃を受けた際に救援軍を派遣した[宮脇 1979: 125]。
76) また,宮脇[1993: 165–170]によると,当時,ジェブツンダンバ=ホトクトはダライ=ラマが属
するゲルク派に属していなかった可能性が高い。
77) ガルダンとダライ=ラマ政権との関係については岡田[2013: 79–84, 88–89, 94(初出 1979)],宮
脇[1995: 198–203]を参照。
78) 前述のとおり,トゥシェート=ハーンがガルダンとの開戦に乗り出した際に,清朝がダライ=ラマ
に依頼し,ガルダンの挙兵を止めさせようとしていたことから,清朝はガルダンとダライ=ラマ政
権との関係性を理解していたといえる。
30 アジア・アフリカ言語文化研究 104

ト=ハーン家は混乱に陥り,その一方で,左 ハへのガルダンの影響力を弱める,あるいは
翼のトゥシェート=ハーン家は右翼にまで権 ハルハの内紛を解決・解消するというより
勢を振るうようになった。その上,トゥシェー も,ハルハの均衡を保つための当座の手段に
ト,ザサグト両ハーンの対立が生じ,それは すぎず,そのような見地から,ザサグト=ハー
次第に深まり,ハルハ情勢は流動化していっ ンの意向に沿うような対応をとり81),トゥ
た。このような中で,清朝はロシアとの交渉 シェート=ハーンらから異議申し立てを受け
を優位な立場で進めるために,ハルハ左右翼 ても,上諭で明確に意を示すことすらせず,
の均衡が大きく崩れ,ハルハ情勢がさらに動 会盟での対応を改めなかったのであろう。ま
揺することを回避する必要があったといえ た,清朝がトゥシェート=ハーンを後押しす
る79)。Oчиp A. ,Энхтүвшин Б[2003: 116]は ることで,ザサグト=ハーン家が益々ガルダ
清朝がフレン=ベルチルの会盟を開催した目 ンへの依存を強め,清朝の介入の余地がほと
的について,崇徳 5(1640)年に結ばれたハ んどなくなる事態に陥ることを避ける意図も
ルハとオイラドの同盟関係を断たせ,ハルハ あったと思われる。
に介入を強めるためと論じ,Базаров[2016: ともあれ,左翼側が清朝の対応に不満を蓄
182]もその見解を踏襲している80)。また, 積させていたことは疑いないところであり,
Ермаченко[1974: 118] は,Златкин[1964: それゆえにこそトゥシェート=ハーンは,こ
263]を引用し,清朝はハルハに対するガル の後,康熙帝の意向に反してザサグト=ハー
ダンの影響力を弱めるため,ハルハ左右翼の ンに攻撃をかけるに至ったとみてよい。トゥ
内紛を解消させようとしたと言及している。 シェート=ハーンはフレン=ベルチルの会
しかし,これまで論じてきたとおり,当該時 盟,ジノン号問題,勅印の給与要請,セツェ
期の周辺情勢を考慮すると,おそらくは康熙 ン=ハーン位承襲問題などにおいて,自身の
帝にとってフレン=ベルチルの会盟は,ハル 意向が尽く反映されなかった上に,ガルダン

79) 右翼を統制しきれていないザサグト=ハーン家を支持して,効果的に事が運ぶかは疑問であるが,
以上で論じてきたとおり,清朝はハルハにおいて影響力を保持しているトゥシェート=ハーンに力
添えすることで,彼が益々勢力を伸ばしハルハ左右翼が極端な勢力不均衡状態に陥ることを何より
も回避したかったと考えられる。また,フレン=ベルチルの会盟で協調介入したダライ=ラマ政権
側がトゥシェート=ハーンを敵視し,ザサグト=ハーン家を支持していたという背景も影響したと
考えられる。ただし,この点については本稿で十分な検証を行うことができていないので今後の課
題としたい。一方,ガルダンは 17 世紀後半以降,オイラドの指導権を握り着々と勢力を拡大し,
ハルハにまで自身の影響力を拡大しようと図っていた。手っ取り早くハルハにまで勢力を広げるた
め,まず,かつてのハルハの盟主であるザサグト=ハーン家(ゲレセンジェが諸子に所領を分封し
た当初,ザサグト=ハーン家の祖である勢力がハルハにおいて優勢を誇っていたことについては森
川[1972: 179–182]を参照)の弱体化を利用することは何ら不思議ではない。また,ガルダンに
はトゥシェート=ハーンという共通の敵を持つザサグト=ハーン家を支持することで,トゥシェー
ト=ハーンに圧力をかけるといった意図もあったであろう。
80) さらに,Базаров[2016: 182]はネルチンスク講和会議を開催しロシアとの講和を達成させたこと
により,清朝はハルハへの統制を強めることができ,結果,ハルハを服属させることに繋がったと
論じ,清朝のハルハ政策におけるロシア関係の重要性を指摘している。
81) 康熙帝は対ロシア戦に挑むにあたり,ハルハの動揺を避けるため,ガルダンの懐柔に努めていたと
される[吉田 1984: 185–186]。それを踏まえると,清朝がフレン=ベルチルの会盟でガルダンの
後ろ盾があるザサグト=ハーンの考えを支持する対応を講じたのも,ザサグト=ハーンがガルダン
への依存を強めることや,ガルダンがロシアと結託する事態に陥ることを回避するため,ガルダン
を懐柔する必要があったと考えられる。また,フレン=ベルチルの会盟は,先にザサグト=ハーン・
チェンブンが康熙帝に内紛の調停を求める上奏を行なった結果,開催された(「ダライ=ラマに下
した勅書」『蒙古堂檔』巻 3,康熙 23 年檔冊,No.168,577–580 頁(満文))。そのため,このよ
うな経緯も会盟における清朝の対応に影響を与えたであろう。
関根知良:17 世紀におけるハルハ両ハーンの対立と清朝 31

の出兵の可能性を何度も訴えても,あしらう てるかのような対応をとった。これに対して
ような態度をとられたため,交渉によって事 トゥシェート=ハーンらハルハ左翼は,不満
態を打開することが極めて困難と考え,既得 を抱きモンゴルの法や慣例を盾に自身の見解
権益を維持するためガルダンに先んじて攻勢 の正当性を訴えたが,康熙帝はトゥシェート
に出たといえる。清朝は前述のとおり,ガル =ハーンらの訴えを正面から取り合わず,ザ
ダンに書簡を送付しトゥシェート=ハーンと サグト=ハーン家寄りの対応を改めることは
の開戦の停止を呼びかけるとともに,ダライ しなかった。さらに,それ以降も様々な点に
=ラマにも協力を要請するが,それはトゥ おいてトゥシェート=ハーンらの見解を受け
シェート=ハーンが出兵した後のことであ 入れず,ハルハ左翼の意向を軽視していたこ
り,それ以前はいくらトゥシェート=ハーン とが明らかになった。
が不安を訴えても,争いを止めるようガルダ 一方,ハルハ右翼のザサグト=ハーンはフ
ンらの説得に当たることすらしなかったので レン=ベルチルの会盟後,ガルダンと協力し
ある。もちろん,第一章の 2 で論じたとおり, てハルハ左翼に対抗しようとするものの,ハ
トゥシェート=ハーンはフレン=ベルチルの ルハ右翼のほとんどの首長はザサグト=ハー
会盟への不満を清朝に訴えた後,1 年も経た ンとそれを後援するガルダンに賛同しておら
ないうちに出兵しており,清朝がいかなる対 ず,ガルダンがハルハに侵攻する事態に陥る
応をとったとしても始めからザサグト=ハー と,左翼のみならずほとんどの右翼の属衆ま
ンと和解する意志はなかったであろう。しか でもが清朝へ保護を求めた。そればかりか,
し,たとえそうであったとしても,トゥシェー ザサグト=ハーン家もまた,トゥシェート=
ト=ハーンらが自分から戦争を仕掛けると ハーンの攻撃を受けガルダンにつき従いなが
いった極端な行動を起こしたのは,彼の個性 らも,常に清朝と接触を図り,ジューン=ガ
や積極性も要因の 1 つであっただろうけれど ル情勢が動揺してガルダンの形勢が不利にな
も,清朝の交渉支援や介入は期待できず,単 ると,すかさず清朝に保護を求めたのであっ
独での武力行使によって決着を図るより他な た。フレン=ベルチルの会盟等においてザサ
い状況に追い詰められたことが,大きな影響 グト=ハーン家を支持していた清朝の対応を
を与えたとみなすことができよう。 踏まえると,ザサグト=ハーン家はガルダン
と結びつく一方で,清朝を頼りとする側面も
おわりに 当初より持ち合わせていたと言えよう。
ハルハの内紛に対して清朝は,ハルハ左翼
従来の研究では,ハルハ左翼は服属前から の訴えや意向を一切顧慮することはなかっ
清朝と良好な関係にある一方で,ハルハ右翼 た。ハルハ左右翼のそれぞれの現状やザサグ
のザサグト=ハーン家は次第にジューン=ガ ト=ハーンとガルダン,さらにはガルダンと
ルのガルダンに依存していったとみなされ, ダライ=ラマ政権の関係などを総合的に踏ま
清朝がハルハ両ハーンの対立問題に介入して えると,清朝はハルハ左翼が周辺諸勢力と敵
いく過程においても,その枠組みの中で捉え 対しており,清朝との関係を破綻させるわけ
られてきた。しかし,本稿での検討により以 にはいかない状況にあることを十分に把握
下のように認識を修正することができる。 し,ザサグト=ハーン家を支持することでハ
清朝はトゥシェート,ザサグト両ハーンの ルハの均衡を保つことを優先したと捉えうる
対立を調停する名目でフレン=ベルチルで会 であろう。このような清朝の対応は,会盟以
盟を開き,そこで,ガルダンの後ろ盾がある 降,交渉の見通しが完全に無くなったことを
ザサグト=ハーンを支持,あるいはかばいた トゥシェート=ハーンに痛感させることとな
32 アジア・アフリカ言語文化研究 104

り,清朝に自身の状況や意向を報告しながら 宮脇淳子 1979 「17 世紀清朝帰属時のハルハ・


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улсын түүх.4 боть. Улаанбаатор.

ダヤン=ハーン

ゲレセンジェ
<右翼> <左翼>

アシハイ=ホンタイジ ノヤンタイ=ハタン=バートル ノーノホ=ウィジェン=ノヤン アミン=ドゥラル=ノヤン

バヤンダラ=ホンタイジ トゥメンダラ=ダイチン ➀アバタイ トゥメンケン=フンドゥレン


ホンゴル =チューフル
➀ライホル

ダンジン=ラマ
  ➁ソバンダイ ダルマシリ オムボ=エルデニ ツェリン=チューフル ジノン=トイン ➂グムブ ➀ショロイ
 =グンタイジ
ロブサン ドルジ サマディ ➃チャホンドルジ ジェブツンダンバ ➁バボ
゠タイジ ゠ホトクト
➂ノルブ ➃グムブ    ダルマシリ
=ビント ソノム ポンツァク ➂ノルブ
     =ノヤン
=アハイ

➄ワンチュク ➅チェンブン ➃イルデン=アラプタン

⑦シャラ

バラン

ザサグト=ハーン家 トゥシェート=ハーン家 セツェン=ハーン家

【系図 1】ハルハの三ハーンとその他の首長たち
※『王公表伝』,Buyandelger[2000],烏雲畢力格[2009: 210–229, 275–287(初出 2008a, 2008b)],前野利衣[2017:
19]をもとに作成。丸数字はハーン位継承順位を示す。

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