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「黒死病流行と近代への萌芽」

もりた たいしん

このレポートでは、中世ヨーロッパに蔓延した黒死病の流行を人口と農業を中心に概観
し、その後の社会に残した影響を考察したい。

【1】 黒死病の蔓延
(1) 黒死病とは
黒死病は 14 世紀中期以降、ヨーロッパに広がった伝染病である。ネズミやノミ
によるかみ傷からペスト菌が感染し、近くのリンパ節がはれて痛み、次いで全身
のリンパ節に広がる。有効な治療が行われなかった場合の致死率は 60%から 90%
に達する。感染者の皮膚が内出血によって紫黒色になることが名前の由来である。
(2) ヨーロッパにおける大流行
1347 年、当時東地中海から黒海まで活動の範囲を広げていたジェノヴァの商船
の乗組員が、クリミア半島の黒海沿岸でこの病気にかかったとみられている。こ
の商船はその後シチリア島に寄港し、そこで上陸した乗組員から島中に広がった 。
シチリア島には当時、各地からの商船が集まっており、そこから地中海の各都市
の港に感染が広がっていった。
1348 年には百年戦争ただ中のフランス一帯に広がり、このためイギリス、フラ
ンス両軍は休戦協定を更新した。この年の夏にはイングランド西部へ、また 1349
年末までにはイングランド全域、北欧、東欧に広がり、1351 年まで流行した。そ
の後 1361~63 年、1369~71 年、1374~75 年、1390 年、1400 年にも発生した。
黒死病による死亡者の割合は、ヨーロッパの人口の約 3 分の 1 とされる。約
9000 万人と推定される当時のヨーロッパ人のうち 3000 万人前後が死亡したこと
になる。
特にフィレンツェは、当時の人口約 10 万人の半数にあたる 5 万人が死亡したと
される。マルキオーネ・ディ・コッポ・ステファニによる年代記によれば、「死
体は『次から次へと積み重ねられ、まるでラザニアのチーズのように層をなし
て』いた」(ケリー、2008)。

(3) 度重なる流行と人口減
国立社会保障・人口問題研究所「西暦 14 年から 1800 年までの世界人口」によ
れば、西暦 1000 年に 3920 万人だった全ヨーロッパの推計人口は 1340 年には
8450 万人に倍増したが、1500 年には 6780 万人に急減している。
14 世紀中葉の細かい人口動態については資料が乏しいが、1348 年の最初の流行
から 1361 年に始まる第 2 回流行まで 13 年ほど空いており、この間それまでの過
剰人口の残存部分や、やや生活に余裕のあった人々が結婚するなどして「失われ
た人口が補充され、大きな変動を来たさなかった」(瀬原、2016)。しかし、第
2 回目と第 3 回(1369 年)、第 4 回(1374 年)との間は,それぞれわずか数年
の間隔しかなく、「失われた人口を回復するには余りにも短すぎ、ついに 1380
年代をして労働者数の最底辺を実現させることにな」(瀬原、2016)ったとみら
れる。度重なるペストの流行が人口の復原力を上回り、産業危機を深刻化させた
のである。
大量死による人口減少は慢性的な労働力不足と、社会基盤の衰退を招いた。生
き残った人々も病気の感染を恐れてそれぞれ孤立した集団になり、1400 年頃にな
ると「手入れのされていない畑、修理されない柵、壊れたままの橋・・・崩壊した
建物など」(ケリー、2008)が各地に出現した。

【2】 影響
黒死病がヨーロッパ社会に残した影響として以下の点が指摘できる。
(1) 人口圧力からの解放
黒死病流行に先立つ約 200~300 年間、ヨーロッパは人口急増期だった。農耕
法の改善などで生産性が向上したのに加え、長期にわたる温暖な気候と疫病がな
かったことで人口が増えた。しかし「肥沃地の枯渇、技術進歩の停止、気候条件
悪化 によ る不 作の 頻発 によ って 農業 経済 が活 力を 失っ 」( リヴ ィ ‐ バッ チ 、
2014)た結果、19 世紀の経済学者マルサスが説くように「等比級数的に」増え
る人口を支えきれなくなっていた。
14 世紀に入ると気候が不安定で収穫が減った結果、飢饉となって食料需要が
供給を上回り、食料価格が上昇した。「動物間流行病のせいで家畜が激減」
(シャイデル、2019)し、食肉によるタンパク質の供給は減った。一方、人口圧
力によって供給される労働力の価値が下がり、所得が減少していた。「貧困、飢
餓、栄養不良・・・社会の流動性は失われ、技術革新の流れもよどみ、新しい発想
や奇抜な考え方は危険な異端思想として抑圧された」(ケリー、2008)。
ところが黒死病の流行で労働人口が大量に失われると、一転して労働力の慢性
的な不足を招き、賃金と労働に関係する経費が急上昇につながった。「二流の職
人はわずかな手作業に三倍の報酬を求め」(ケリー、2008)たという。
労賃や労働コスト上昇の一方、人口減で食料の需要が減ったため、食料価格が
下落、人口圧力が大幅に改善した。

(2) 庶民の生活水準向上
 黒死病流行から半世紀過ぎた 14 世紀末ごろになると、農業生産で富を得てい
た「土地持ちの貴族は、食料価格の下落と労働力の高騰という鋏で自分たちの富
がずたずたに切り刻まれ」(ケリー、2008)、逆に労賃向上の恩恵で労働者の生
活水準が向上した。また土地に縛られていた小作農たちは誰でも簡単に領地から
出て、小作料が安いなど好条件の領主を選択しやすくなった。
英国で黒死病が流行して間もない 1349 年 6 月、国王エドワード 3 世は「労働
者勅令」の中でこう述べている。
住民の大部分、特に労働者と使用人(「召使い」)がペストで死亡して
以降、多くの人びとが主人の窮状と労働者不足につけこんで、法外な給金
をもらわないと働こうとしない・・・あらゆる男女は、自由民であれ非自由
民であれ、・・・自分の地位とつりあう仕事を提供されたらその申し出を受
ける義務が生じることを、ここに定める。(シャイデル、2019)

貴族と庶民。「中世社会における従来の経済的勝者と敗者が入れ替わった」
(ケリー、2008)ともいえる関係の変化が生まれた。

(3) 農村の変化
 農村を基盤とした支配層と被支配層の関係にも影響を及ぼした。英国の農村で
は、農地保有相続の混乱や不安定から「血縁関係で結ばれた共同所有観念が動揺
し,個人的所有観念が優位」(瀬原、2016)となった。封建領主の農民支配は緩
み、商人層の台頭、政界への参入など他の要素と相まって脆弱な英国独特の絶対
王制が成立した。
フランスでも土地持ちの貴族階級への打撃が大きく、地代収入が大幅に低下し
た。国王、大諸侯らは租税増徴などで財政危機に対処するが,これが農民を圧迫
し、ジャックリーの一揆(1358 年)や 1420 年代のノルマンディーの農民大量逃
亡などにつながった。農民の生産力を維持,育成する必要に迫られた領主たちは 、
小作人に対して土地と農業経営に農具類を支給する一方、小作人は労務を提供し
収穫物を実物で地主と小作人との間で分割する「折半小作制」を導入するように
なった。これは領主側の譲歩と言うより、「農民の生産力を生かす,十分に計算
されつくした」(瀬原、2016)戦略との見方もある。

(4) 省力化、技術革新
 ヨハネス・グーテンベルク(1398 頃 - 1468)による活版印刷技術の考案は、
最初の黒死病流行の約1世紀後だが、黒死病後の労働力急減が後押ししたともい
える。
13~14 世紀は商人や高等教育を受けた専門職の台頭から書籍の需要が伸びたが、
「当時は写字生が手分けして書き写す」(ケリー、2008)労働集約的作業だった
ため、ただでさえ需要に追いつかなかった。そこに黒死病後の高賃金が追い打ち
となり、事業が成り立ちづらくなっていた。グーテンベルクによる活版印刷の発
明はこうした労働力不足を解決し、さらに近代の情報化社会へ大きく道を開いた。

(5) 宗教、文化への影響
黒死病をはじめ、死が身近にあった時代、人々は神とのより緊密な、個人的な
関係を求めるようになった。礼拝堂を個人で所有するのが富裕層だけでなく「手
工業のギルドに属していた労働者すらその例外ではなかった」(カンター 、
2002)。また神秘主義の人気も高まった。これらをカンターは宗教の「私物化」
と呼ぶ。
宗教的感情が高まる一方、教会への幻滅も広がった。黒死病という最大の危機
に、教会が「まったく役に立たなかった」(ケリー、2008)とみられたためだ。
これが異端運動の活発化につながり、「教会への不満が高まり、宗教改革への土
壌が準備」(ケリー、2008)された。
中世後期の文化には、死に神とのダンス、トランジ墓など死の色の濃いものが
みられる。歴史家ヨハン・ホイジンガは「中世の秋」で「死の思想に・・・これほ
どとりつかれた時代は他にない」と指摘している。
死のモチーフは別のメッセージも含まれている。14~15 世紀に流布した「死の
舞踏」は、死の恐怖を前に人々が半狂乱になって踊り続けるという寓話および絵
画や彫刻の様式だが、異なる身分に属していても、死によって貧富の差なく、無
に統合されてしまう、という死生観が支配している。前述の支配層と被支配層の
関係変化とともに、中世末期の身分社会の変化をうかがわせる。

【3】 まとめ
黒死病以前のヨーロッパ社会は、長期の人口増の結果、人口に見合った食料生
産量が限界に近づき、生活水準は下がり、貧困、飢餓が広まっていた。黒死病の
大量死がそれをリセットする働きをしたともいえる。「疫病の死者を収めた死体
安置所のなかから、ヨーロッパはすっきり洗われ、新しくなって蘇った」(ケ
リー、2008)。行き詰まりが終わりを告げ、社会が再び息を吹き返しただけにと
どまらない。身分制社会の変化、技術革新、宗教改革の基礎、新たな文化・芸術
の潮流など近代への萌芽をもたらした。

【引用文献】
・ジョン・ケリー(野中邦子訳)「黒死病 ペストの中世史」(中央公論新社、2008)
・ノーマン・F・カンター(久保儀明、楢崎靖人訳)「黒死病 疫病の社会史」(青土社、
2002)
・瀬原義生「大黒死病とヨーロッパ社会」(文理閣、2016)
・マッシモ リヴィ‐バッチ(速水融/斎藤修訳)「人口の世界史」(東京経済新報社 、
2014)
・ウォルター・シャイデル(鬼澤忍訳)「暴力と不平等の人類史」(東洋経済新報社 、
2019)
・ヨハン・ホイジンガ(堀越孝一訳)「中世の秋」(中公文庫、1976)
・国立社会保障・人口問題研究所「西暦 14 年から 1800 年までの世界人口」(2020 年 6
月 30 日閲覧)
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2004/01-10.htm

【参考文献】
・神崎忠昭「西洋史概説 I」(慶応義塾大学出版会、2015)
・河口明人「予防概念の史的展開 : 中世・ルネサンス期のヨーロッパ社会と黒死病」(北
海道大学大学院教育学研究院紀要, 102、2007)

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