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体育学研究 66:573-590,2021 柔道の礼法における戦中・戦後史 573

原著論文

柔道の礼法における戦中・戦後史
中嶋 哲也

NAKAJIMA Tetsuya: Wartime and postwar Judo etiquette. Japan J. Phys. Educ. Hlth. Sport Sci.

Abstract: The present study aimed to clarify the establishment of Judo etiquette during the wartime and postwar
periods. Nakamura (2011) discussed Japanese martial arts etiquette in modern Japan. In his work, however, he
dealt largely with Kendo etiquette, and inadequately addressed the history of Judo, as well as overlooking the
period of Allied occupation (1945–1952). This article focuses on the reformation of Judo etiquette in that period
and clarifies its historical background.
It was revealed that, first, the enactment of etiquette in August 1940 was intended to be a criticism of
Taro Inaba, who was excommunicated at the Kodokan. Inaba had criticized the Kodokan and the Dai Nippon
Butokukwai, stating that when a judoka stands and bows with shizen hontai (natural posture) it reflects disrespect
to the emperor. During the war, with the increasing influence of State Shinto, Inaba’s claim could have undermined
Judo’s social credibility. Therefore, the Kodokan and Butokukwai abolished shizen hontai and in its place
instituted the posture of attention, the basic Shinto posture, and this was also followed by the military and adopted
in middle school games; thus, the current system of courtesy was established during this period. Furthermore, the
practice of sitting on tatami mats with the left knee and standing up with the right foot was adopted in 1943 to
match the postures stipulated in State Shinto.
The etiquette established during the war was modified during the Occupation, when bowing to feudal seniors
and the kamidana were abolished. In addition, the choice of bowing posture, whether at attention or a natural
posture, was left to the practitioners. In this way, it can be said that Judo etiquette was democratized.
However, college students’ conduct during Judo bouts was disturbed after the Tokyo Olympics in 1964.
Consequently, wartime etiquette was revived. However, the Kodokan did not disclose that its etiquette was
influenced by State Shinto and the military. The official line was that the etiquette was based on principles of Judo
such as seiryoku-zenyo (maximum use of energy) and jita kyoei (mutual welfare and benefit).

Key words : natural posture, posture of attention, Shinto, military drill, democratization
キーワード:自然本体,気をつけの姿勢,神道,教練,民主化

ならないことを意味する.
Ⅰ はじめに ところで,1937 年 7 月の日中戦争開始から第
二次世界大戦終戦の 1945 年 8 月までは,戦後に
柔道は 1964 年の東京オリンピックで公式種目 つながる文化の創造が様々な場面でみられること
になって以来,国際スポーツとして定着してい が文化史研究者によって明らかにされてきた(赤
る.国際スポーツとして実施される柔道にあって 澤・北河,1993;赤澤,1994).こうした視点は
その文化的・教育的特徴が表れるのが礼法であ 戦後の柔道がどのような歴史的前提のもとで出発
る.講道館が柔道の礼法を制定したのは 1940 年 したのかを検討する上で有効だと考えられる.武
であり,嘉納治五郎(以下「治五郎」と略す)が 道史では戦中と戦後のつながりを意識した研究は
死去した 1938 年以降である.この事実は,柔道 坂上(2015)によって着手され始めているが,本
の礼法史において治五郎死後の歴史を軽視しては 研究も戦中と戦後の関係に着目して柔道の礼法史

茨城大学教育学部 Ibaraki University College of Education


〒 310-8512 水戸市文京 2-1-1 2-1-1, Bunkyo, Mito, Ibaraki, 310-8512
連絡先 中嶋哲也 Corresponding author tetsuya.nakajima.anthropology@vc.ibaraki.ac.jp
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を考察する. る.4 つ目は敗戦後,学校柔道が復活する際に起


柔道の礼法の先行研究には中村(1993,2011) きた礼法の民主化の内実を明らかにすることであ
がある.本稿に関わる点で注目すべきは以下の 3 る.そして 5 つ目に 1967 年に起きた礼法の再制
点である.1 つ目に中村(1993)は 1940 年 8 月 定とその歴史的意味を明らかにすることである.
1 日に柔道の礼法が制定されたことを明らかにし 資料引用にあたっては,旧字体を新字体に,カタ
ている.2 つ目に 1940 年の礼法制定では起居動 カナは平仮名に直した.
作は右座左起とされていたが 1942 年 12 月に左座
右起に改正された.それは 1941 年 4 月に文部省 Ⅱ 南郷時代における礼法の制定
が国民礼法の統一のために発行した『礼法要項』
の影響(中村,1993,p.30)や,1943 年 10 月に 1.礼法制定以前
大日本武徳会(以下「武徳会」と略す)が制定 講道館では修行者礼法以前に礼法は実施されて
する礼法にあわせて変更したことに因る(中村, いなかったのだろうか.もちろん,実施されてい
2011,p.8)などと指摘されている.3 つ目に,中 た.礼法に関する規定も存在していた.『講道館
村(2011)では 1967 年に現行の礼法が制定され 百三十年沿革史資料編』に 1911 年 6 月 15 日に発
るまで試合時の立礼は天覧試合の例外を除き,気 行された『講道館柔道教師会々報』第 4 号という
をつけの姿勢ではなく自然本体で行われていたと 資料が所収されている.それによれば 1911 年 2
指摘している.また自然本体による立礼の初出は 月 23 日に「稽古を始むる際及び終わりたる際に
1921 年に村上邦夫が発行した『乱取の形』(柔道 行ふ礼は必ず互に向かひ合ひ師範を横にして成す
会発行)に遡れることが主張されている. 事」と礼法が「改定」されたことが述べられてい
本研究では中村の歴史叙述には 2 つ検討の余地 る(講道館,2012,p.57).そのため何らかの礼
が残されていると考えている.1 つ目に講道館関 法の規定が存在していたことが分かる.しかし,
係の資料調査が不十分である.特に左座右起への 起居進退,お辞儀の角度など具体的な所作まで定
改正について中村は文部省の『礼法要項』や武徳 めた規定は見当たらない.
会の礼法制定の影響を要因としているが,本研究 では,講道館で 1940 年以前にどのような礼法
ではこのどちらでもない要因があることを明らか が指導されていたのか.立礼や座礼については
にする.2 つ目に中村(2011)は敗戦直後の占領 1915 年 2 月に発行された雑誌『柔道』の記事「柔
期における柔道の礼法を検討しておらず,戦中か 道形解説」で説明されている.同記事は連載記事
ら一気に 1967 年に制定された現行の試合時の礼 で治五郎から信任されて山下義韶,永岡秀一,村
法の分析に移っている.そのため,1967 年の礼 上邦夫らが執筆を担当した.中村(2011)が依拠
法制定の歴史的意味を考察しきれていない.本研 した 1921 年発行の『乱捕の形』は,
「柔道形解説」
究では主に先に挙げた中村(1993,2011)の主張 の連載を後にまとめたものである.そのため,本
を再検討しつつ,柔道の礼法がどのような変遷を 稿では「柔道形解説」にしたがって立礼と座礼の
経て 1967 年に作られる現行の方式に至ったのか 仕方を確認したい.
注 1)
を明らかにする . まず立礼である.これは「立礼は自然本体で立
以下,本稿では 5 つの課題を解決する.1 つ目 つて,気を静め心に恭順の意あつて上体が自然に
は 1940 年の礼法制定直前にはどのような礼法が 前に傾くのである.其の傾ける度合は約三十度で
柔道界で行われていたのかを検討する.2 つ目は ある.目は相手に注目するのではなく,自然本体
1940 年に制定された「講道館柔道修行者礼法」
(以 に立つて居た姿勢のまゝ前に傾けるのである.こ
下「修行者礼法」と略す)の成立過程を考察する. れは柔の形の時などに用ひる」(山下ほか,1915,
3 つ 目 は 中 村(1993,2011)の 主 張 を 再 検 討 し, p.37)と示されている.ここで確認しておきたい
1942 年に修行者礼法が改正された背景を考察す ことは,1915 年時点で立礼は自然本体のまま行
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われていたこと,そして主に立礼は柔の形で用い 練習する際は,本式に礼をすると時間を取るか
られていたことである. ら,ただ手と頭を本式にすることさえ忘れなけれ
次に座礼であるが,これは「乱取を行ふ時最も ば,足を爪立て,尻を浮せてしても差支ない」(嘉
広く用ひられる…自然本体で立って居て膝の関節 納,1931,pp.12-13)と座礼の所作について述べ
を屈げながら上体を下ろし,臀部が踵の上に乗る ている.治五郎は形稽古では「足の甲」を畳に寝
程にして下げて後,両膝を畳に附ける.畳に膝が かせる正座を本式としているが,乱取稽古では爪
ついたら両手を両膝の前に約五寸ばかり膝から離 立ててもよいと説明している(図 2).このように,
して畳につく.この場合に指先は軽く揃へて稍内 治五郎も所作を強制することはなく,状況に合わ
側に向けるのである.而して上体はそのまゝに肘 せた調整を許容していたのである.
及び肩の関節に依つて上体を稍下げるのである では,講道館以外ではどうだったであろうか.
…終ったならば今と反対の順序に手を畳からは まず,武徳会の礼法からみてみよう.これについ
なし,膝をはなして立つのである」(山下ほか, ては武徳会柔道範士である磯貝一(以下「磯貝」
1915,p.37)と説明されている.乱取では座礼が と略す)と栗原民雄(以下「栗原」と略す)とが
基本であり,起居動作は自然本体から両足を同時 著した『大日本柔道教典』(以下『教典』と略す)
に曲げて蹲踞のような姿勢になり,そこから膝を が指標になる.『教典』は武徳会の両範士が「中
畳についていたということである.左右どちらの 等程度諸学校の教科書用」(磯貝・栗原,1932,
膝から畳につけるのかは指示されていなかったの p.1)に作成した柔道の指導参考書である.『教典』
である.ここで座礼から起ちあがる所作は述べら では礼法は次のように記されている.
れていないが,講道館の門人で 1929 年当時は国
士舘専門学校で指導していた工藤一三によれば座 道場に於ては座礼を原則とし,立礼は特殊の
礼からは「右足又は左足より立つ」(工藤,1929, 形を行ふ場合,及び神前(上席)に向つて敬礼
p.159)とされ,どちらからでもよかったようで を行ふ場合に用ひるのである.
ある.ちなみに工藤も立礼の姿勢は「自然本体」 立礼は,自然本体…に立ち,其の儘上体を
(工藤,1929,p.159)と述べている. 四十度位前方に傾けるのである.此の時,眼は
また,図 1 をみれば分かるように大正期までの 自然の儘で,殊更相手を注目するのではない.
講道館では爪先を畳に寝かせないで頭を下げるの 座礼とは,自然本体の姿勢から腰を下げ,両
が一般的だった.爪先を畳に寝かせた座礼が説明 足を爪立てゝ跪づき,上体を前屈して,両手
されるのは,1931 年に治五郎が著した『柔道教 を畳に著け(指先は内方に向く),頭を肩の高
本上巻』である.このなかで治五郎は「足の甲を さまで下げるのである.眼は立礼と同様殊更相
ぴったり畳に着け,尻を踵に載せ指先を少し内へ 手を注目するのではない.(磯貝・栗原,1932,
向けて手を畳に着け,頭をその後部が肩と同じ高 p.22)
さになるまで下げるのが本式である.形の時は必
ずそうすべきであるが,平素道場において乱取を 武徳会でも自然本体のまま立礼していることが

図 1 明治 ・ 大正期の爪先を立てた座礼
図 2 爪先を寝かせた座礼
(出典:山下ほか,1915)
(出典:嘉納,1931)
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2.稲葉太郎の自然本体批判
では,なぜ礼法は制定されたのか.本研究では
神道と軍事教練に影響されたと考えている.ここ
ではまず,昭和戦前期の神道の様子を概観する.
満洲事変以降,日本人が神社参拝しないこと
は次第に困難になっていく.1920 年代には政府
は「一般国民の神社参拝は自由であり,政府と
して参拝を強要する意思はない」(赤澤,1985,
p.133) と い う 見 解 を 示 し て い た. と こ ろ が,
1931 年 9 月 18 日の満洲事変を機に起きたことは,
図 3 自然本体による立礼.栗原(右)の脚の影から両 「国威宣揚・武運長久・戦勝祈願の祈願祭の急増
踵がくっついていないことが分かる.
であり,そこへの在郷軍人会・消防組・青年団・
(出典:磯貝・栗原,1932)
婦人会・小学校・自治組合・氏子など地域のあら
ゆる団体の計画的組織的な動員」(赤澤,1985,
分かる(図 3).また座礼は治五郎の説明とは異 p.201)であった.特に 1932 年 5 月に起きた上智
なり,従来の爪立てるスタイルである.起居動作 大生靖国参拝拒否事件では,東京大司教が神社参
については不明である. 拝を宗教的行為ではないと認めた結果,神社は宗
また,1935 年に学校柔道の指導法について書 教ではないという建前を政府は手に入れることに
かれた竹田淺次郎著『柔道試合の業掛る時機教典』 なる.その結果,「信教の自由を根拠として神社
にも「自然本体より両膝を屈して膝頭をつき…礼 参拝を拒否することが困難な雰囲気が次第に醸成
が終わって立つ時は右足を少しく前に踏み出して されていった」(新田,1999,p.43)という.
膝立ちで立上る様にし,両足を一度に踏んで,殊 こうしたなか,神社参拝あるいは神棚への拝礼
に強く踏みつけて立上る様なことをしては礼を失 の所作についても厳格さが求められる雰囲気が醸
しるから決して行ってはいけない」(竹田,1935, 成されていった.柔道の礼法についても神道的な
pp.16-17)と起居動作を説明している.竹田の説 立場からこれを批判する人物が現れる.独自に段
明では右足から立つことが指導されているが,座 位発行を行ったことから,講道館を破門された
る時は左右どちらの膝から畳につけるかは指示さ 稲葉太郎(以下「稲葉」と略す)である(中嶋,
れていないのである. 2011).中嶋によれば,稲葉は治五郎が掲げた柔
つまり,自然本体から両膝を屈してから左右ど 道の理念である精力善用・自他共栄を西洋思想と
ちらかの膝からあるいは左右同時に膝を畳につ 批判し,日本精神を柔道のモットーとすべきであ
き,立上る時は両膝同時に畳から離して蹲踞のよ ると主張した(中嶋,2011,p.29).また,稲葉
うな姿勢に戻ってから立ち上がるか,または右足 は講道館からの脱退を表明し,全日本柔道会とい
から立ち上がるというのが,礼法制定前に指導さ う組織を新たに設立したが,こうした行動は柔
れていた起居動作だったのである.座礼も爪立て 道関係者に衝撃を与えたのである(中嶋,2011,
るのが 1930 年以前では一般的であった.1931 年 p.29).武徳会の磯貝や栗原も全日本柔道会の解
以降,治五郎は爪先を寝かせる座礼を本式とした 散を要求したが,稲葉はその要求をはね返してい
が,武徳会では従来の爪立てる座礼が採られた. る.その結果,日本精神論を好まなかった治五郎
修行者礼法制定前には複数の礼法が併存していた も稲葉の批判に圧されて 1938 年の雑誌『柔道』3
のである. 月号では「柔道は勿論一面日本精神の発揚に努め
て居る」(嘉納,1938 年,p.1)と公言するように
なった(中嶋,2011,pp.36-37).稲葉の批判は
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治五郎に主張の変更を迫る影響力を持っていたの は一元論なるに,二元論を以てせるは不都合の極
である.講道館や武徳会としても稲葉の批判は無 み」(稲葉,1940,p.19)である.
視できないものであったと考えられる. ここで稲葉は自然本体が相手と敵対する姿勢で
稲葉は破門された 1937 年 12 月以降,講道館及 あり,神前玉座に向けてこの姿勢をとることは
び武徳会の礼法を次のように批判した. 私と天皇とを対立させるので,「二元論」である
と批判する.一方,神前玉座を前にした直立不動
ママ ママ
武道は礼に始まり,礼に終ると武〇会講〇館 の姿勢には我が無くなる「皇化,神化」のはたら
関係の教典に教へてあり…礼に対す緊張の気持 きがあり,天皇との対立を解消する「一元論」的
は十分であるが,明らかに動作に示していない, 姿勢であるとする.戦中には西洋思想を排撃す
神前玉座に向つて自然本体の様になつて居る, る日本主義が支配イデオロギーとなるが(赤澤,
これは大不敬で日本武道の大根本,真髄を誤れ 1994,p.285),稲葉の自然本体批判は反西洋思想
るもの後進を誤る事誠に憂慮に堪へず が強まる当該期のイデオロギー状況を後ろ盾にし
玉座神前にはあくまで自我無き た強力な主張だったと考えられる.
日本臣民の一番緊張した時であるから直立不 しかし,「支配イデオロギーと文化の関係は,
動が当然の姿勢なり,自然体は攻撃防御の都合 け っ し て 一 筋 縄 で は い か な い 」( 赤 澤,1994,
よき相対的の姿勢にて大不敬なり p.287).『維新完遂』には稲葉に対する栗原の反
座礼も同じく爪立てゝ跪づきは相対的にて大 論も載せられている.1939 年 10 月 21 日に栗原
不敬なり,右の次第次時代のため大改正を断行 が稲葉に対して送ったとされる書簡がそれであ
すべし精力善用では右の様な事が出来る(康, る.書簡によると栗原は「不動の姿勢の歴史的事
1938,p.180) 実を研究すると之は日本固有の「惟神」の道にあ
らざる様愚考仕候」(稲葉,1940,p.27)と稲葉
ここで稲葉は,それまで柔道の立礼の基本姿勢 に反論している.これに対して稲葉は栗原の主張
だった自然本体を神前に向ってするのは「大不敬」 に首肯しつつ,不動の姿勢の「精神は惟神一貫に
と断じ,
「直立不動の姿勢」をとるよう主張した. 御座候」(稲葉,1940,p.30)と,やや批判の手
座礼についても爪立てることは「敵対行為の姿勢」 を緩めている.
(稲葉,1940,p.43)であるため,「大不敬」なの ここで稲葉がなぜ強勢を保てなかったか.それ
である. は,稲葉自身が「我が国明治五年徴兵制により
稲葉の批判はこれで終わらず,1940 年 9 月に 国民皆兵である,軍隊の直立不動の姿勢が玉座,
出版された稲葉の『皇道昭和柔道維新完遂』(以 神霊を奉る礼の姿勢である」(稲葉,1940,p.43)
下『維新完遂』と略す)では武徳会に対する礼法 と述べているところから把握される.陸軍の『歩
批判が主眼とされた. 兵操典』注 2)においては不動の姿勢と称される直
ママ
稲葉はいう.「磯貝,栗原両範士共著大日本武 立不動の姿勢は「軍事基本の姿勢」(小林,1940,
道教典」(稲葉,1940,p.18)には自然本体で立 p.16)と位置づけられている.つまり直立不動の
礼すると記されているが,それは「大不敬」
(稲葉, 姿勢は西洋近代由来の軍隊の姿勢なのであり,日
1940,p.18)である.講道館の柔道を採用した武 本固有の姿勢とは言い難いものだったのである.
徳会は「武道の根本「礼」に於てすら,皇化,神 しかし,稲葉は講道館や武徳会の礼法に対して
化の直立不動にして,我れ無き,滅私,絶対的の 批判の手をゆるめなかった.稲葉によれば,当
姿勢なるべき筈なるに自然本体を以て久しく教授 時武徳会会長であった林銑十郎などにも掛け合
す」(稲葉,1940,p.18)るが,「自然本体は相対 い,1940 年 5 月 11 日,武徳祭大演武会の直後に
的の攻撃防御の都合よき,敵対行為の姿勢」(稲 礼法を改正するとの旨を栗原から伝えられたと
葉,1940,p.18)なのであって,「日本伝来柔道 いう(稲葉,1940,p.55).武徳会が 1940 年 7 月
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15 日付けで発行した『武徳』103 号の「本部だよ 者を地方に出向せしめて進歩向上させたい.それ


り」には同年 6 月 26 日に「磯貝範士より柔道礼 から柔道修行者に礼法をやらすことも考へてゐ
法につき講道館と協議決定せる結果の報告あり」 る」(講道館,1940,p.47)と挨拶している.正
(大日本武徳会,1940,p.6)とあるため,武徳会, しく柔道を広める一環として礼法を捉えていたの
講道館双方の合意に基づく修行者礼法が決定され である.礼法の制定背景には稲葉の批判のみなら
たのではないかと考えられる.協議した時期につ ず南郷自身による柔道の普及方針も働いていたの
いては同年 6 月 18 日から 20 日にかけて宮内省済 である.
寧館で行われた天覧試合の時だと考えられる.磯 さて,修行者礼法は 1940 年 8 月 1 日に講道館
貝は天覧試合の審判員として東京に出張しており 及び武徳会で施行された.本研究では同年 9 月発
(大日本武徳会,1940,p.6),そのタイミングで 行の雑誌『柔道』に公表された修行者礼法の内容
講道館の南郷と協議したのではないかと考えられ を検討したい.南郷が制定した礼法で最初に示さ
る.また,講道館雑誌の『柔道』をみても『武徳』 れるのは「不動の姿勢」(南郷,1940,p.17)で
103 号以前の時期に礼法を協議したことを示す記 ある.これは稲葉の批判を念頭に置いた対応であ
事は見当たらない.つまり,修行者礼法の決定は ると考えられる.修行者礼法と『歩兵操典』を比
稲葉の批判に応答した 5 月 11 日以降であると考 較すると,上体を「真直ぐ」(南郷,1940,p.17)
えられ,稲葉の批判が礼法策定過程に影響力を持 にするか,「少しく前に傾け」(小林,1940,p.16)
ったことが窺えるのである. るかの違いはあるが,両足踵を合して爪先を約
60 度に開くなどは概ね一致している.
3.南郷次郎と礼法制定 不動の姿勢は学校の教練でも行われていた(遠
1940 年に礼法制定を主導したのは講道館第二 藤,1994;木下,1982).教練は明治期の兵式体
代館長の南郷次郎である.南郷は 1938 年 5 月の 操に起源を持つ.1913 年に学校体操教授要目が
治五郎の死去をうけて同年 12 月 25 日に館長に 改正され,兵式体操は教練と呼ばれるようにな
就 任 し,1946 年 9 月 15 日 ま で 在 任 し た. 南 郷 る.1925 年には現役将校を中等学校以上に配属
は 1938 年 12 月 25 日の館長就任の辞において, させて教練を行う陸軍現役将校学校配属令が公布
講道館の美点として「礼節の正しい点」(三澤, された.ここに教練は体操科から独立した科目と
1939,p.9)を挙げ,「礼を以て心を制しますなら して成立する.1937 年 5 月の学校教練要目改正
ば,矢張り長幼序あり各々その分を守り他の分を で軍人勅諭の「奉体」が明記された後には,軍事
おかさぬといふ事が最も大切である.この心を以 的な意義が次第に前景化することになる(吉葉,
て我が講道館は更に強く一致協力,一の理想に 2017,p.61).この兵式体操及び教練の中で軍部
向って邁進しなければならない」(三澤,1939, 由来の不動の姿勢は指導されたのである(遠藤,
p.9)と述べている.南郷が館長に就任した当時 1994,p.644; 木 下,1982,pp.195-198). 柔 道 は
は治五郎の死去,そして稲葉の礼法批判など柔道 1931 年に師範学校及び中学校で必修化され学校
界が分裂の危機にあった.南郷が礼法を重視した との結びつきが強まったことを考慮すれば,不動
理由の 1 つには,そうした柔道界分裂の危機を乗 の姿勢の採用ついては教練との整合性も意識され
り越える目的があったと考えられる.もう 1 つの ていたものと考えられる.
理由は柔道普及の在り方についての南郷の考え方 また 1940 年の修行者礼法では自然本体は不動
である.講道館の指導者養成機関である高等柔道 の姿勢から左足,右足の順に歩を進めて構えるよ
教員養成所が 1940 年 4 月に発足しているが,同 うに定められている.自然本体から不動の姿勢に
年 7 月 16 日に同養成所職員・講師と南郷との顔 戻るときは右足から退き,次いで左足を退く.現
合わせ会が行われた.その席上で南郷は「全国に 在の柔道では “左進右退” と呼ばれるこの進退動
柔道を正しく広めたいので,旅費を計上して高段 作も,
不動の姿勢が採用されるに伴い定められた.
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4 4 4 4 4 4 4 4

もう 1 つ注目すべきはこの修行者礼法では神前 持にて立上りつゝ右足を左足に揃ふ.(南郷,
に向って「二拝二拍手し更に一拝する」(南郷, 1940,p.17)〔傍点,筆者〕
1940,p.18)拝礼の仕方も規定されていることで
ある.拝礼は不動の姿勢から上体を 45 度傾け, 傍点で示したところに注意したい.修行者礼法
それに伴い両手は膝蓋骨の前にくる「最敬礼」
(南 の起居動作は右足から下ろし,左足から立つ,“右
郷,1940,p.18)を行う.拝礼が採用された背景 座左起” なのである.これは現在の起居動作と真
は 2 つ考えられる.1 つ目は 1937 年 1 月に講道 逆である.なぜ,右座左起が採用されたのかは雑
館に神棚が設置されたことである.この神棚設置 誌『柔道』に説明されていないので分からないが,
に伴い,講道館の修行者に求められる「柔道修行 問題はこれがわずか 2 年で左座右起に変えられて
者心得」注 3)が 1939 年 7 月に改正され,「道場に しまったということである.なぜ起居動作は変更
入りたれば適宜の場所に着坐せんとする時神殿に されたのだろうか.
向ひ最敬礼」をし,試合の前には「神前に向っ 中村(1993)は右座左起が現在の左座右起に変
て」最敬礼するように定められたのである(講道 わるきっかけとして,文部省が 1941 年 4 月 1 日
館,1939,p.36).拝礼は柔道修行者心得の改正 に制定した『礼法要項』の影響を指摘している
に合わせるかたちで修行者礼法に採用されたと考 ( 中 村,1993,p.30). そ の た め ま ず は『 礼 法 要
えられる.もう 1 つは南郷の柔道観に因る.南郷 項』について再検討しよう.『礼法要項』の制定
は 1939 年 8 月 4 日の講道館夏季講習会で治五郎 は 1938 年 2 月に文部省が設置した「作法教授要
と自身の違いを次のように表明している. 項調査委員会」において中等教育で指導すべき礼
法の具体的な内容が調査されたことに始まる(熊
嘉納先生の精力善用は自分には良い教へであ 倉,1999,p.215).それは日本社会が「戦時体制」
った…私は私として,柔道即ち武道といふこと に移行するなかで礼法の統一が求められるよう
の根幹を日本の惟神の道に置いている.(南郷, になったためと熊倉功夫は指摘している(熊倉,
1939,pp.3-4) 1999,p.215).
それでは,『礼法要項』のなかで左座右起に触
南郷は治五郎の精力善用の意義を認めつつも, れた箇所はあるのだろうか.本稿では 1941 年 4
自身の柔道観には「惟神の道」,すなわち神道が 月 1 日に文部省によって発行された『文部時報』
根底にあると表明したのである. 720 号に拠ってこの点を確認したい.『文部時報』
720 号は『礼法要項』の特集号であり,全頁が『礼
4.礼法の改正―右座左起から左座右起へ― 法要項』に割かれている.その中の第 6 章「起居」
さて,1940 年の修行者礼法では起居動作をど には次のように記されている.
のように説明していたのか,みてみよう.
二,坐るには,片足の爪尖を僅かに引き,又
4 4 4 4 4

二,不動の姿勢より坐するには,先づ右足を は出して静かに膝を折り,片膝づつつく.この
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

其爪先が左踵の線に至る位に退き,上体を徐ろ とき上体が前に傾かないやうにする.
4 4 4 4

に下ろし足先は爪立てつゝ右膝をつき次で左足 三,起つには,先づ少しく腰をあげ,次に爪
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

を退き足先は爪立てつゝ右足と揃へて膝をつき 尖を立て,片足を僅かに踏出し,静かに起つて
両足の爪先を伸ばして足の親指と親指とのみを 足を揃へる.このとき上体が前に傾かないやう
重ね,鳩尾を落し脊椎を真直に落付けて正坐す にする.(文部省,1941,pp.7-8)
…四,正坐より立上るには,先づ上体を浮かし
4 4 4

両足を爪立てゝ立上る準備をなし,次に坐ると ここでは文部省が『礼法要項』にどちらの足か
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

きと反対に左膝を立て,其足に重みを託する気 ら起居するのかを明記していない.さらに,『礼
580 中嶋

法要項』の第 4 章「敬礼・挨拶」には注意書きと ま ず, 神 社 作 法 と は 1901 年 3 月 に 内 務 省 が


して「教練・武道・競技に於てはその定むる礼法 「各神社に於ける祭式の整理統合」(国学院大学,
に従ふ」(文部省,1941,p.6)と記されている. 1970,p.324)をするため皇典講究所に礼典調査
つまり,文部省の『礼法要項』は講道館に対して を委嘱し,1907 年 6 月に制定されたものである.
礼法の変更を迫るものではなかったのである.事 竹内は,礼典調査にあたって皇典講究所は神宮司
実,『礼法要項』にしたがって講道館が礼法を改 庁との綿密なやり取りを経て,「とかく故実や所
正する動きはみられない. 伝が不確実な中で,皇典講究所は多数の意見をま
では,講道館が起居動作のみを改正する理由は とめて,初めて全国統一の行事作法を完成させた」
どこにあったのか.講道館の改正告知をみてみよ (竹内,2009,p.70)ことを明らかにしている.
う. つまり神社作法は日本各地の神社で行われていた
多種多様な祭式・行事作法が中央集権的に統一さ
今般内務省告示第六百八号を以て神社祭式行 れることで作られた,いわば近代化された作法だ
事作法を改正発表せられたるにつきては曩きに ったのである.神社作法は起居・進退動作だけで
本館に於て制定せし柔道修行者礼法中該当する なく坐法,立法,拍手,膝行などが 33 項目に亘
要則を左記括弧内の通り改正し昭和十八年一月 って分類され,所作が厳密に定められていた(赤
一日より実施す 江,2013,p.33).
では,神社作法では起居・進退の動作はどのよ
要則第二項 不動の姿勢より坐す動作 うに制定されたのか.1907 年 8 月に発行された『神
不動の姿勢より正坐するには先づ右足(左足 社祭式・行事作法』では次のように説明されてい
と改正す)を其爪先が左踵(右踵に改正す)に る.
至る位に退き上体を徐ろに下にし足先は爪立て
つつ右膝(左膝と改正す)をつき次に左足(右 九 起座
足と改正す)を退き足先は爪立てつつ右足(左 先つ両足を爪立て次に右膝を起して立なから
足と改正す)と揃へて膝をつき両足の爪先きを 左足を進めて右足に踏み整へ或は右足を引きて
伸ばして足の親指と親指とのみを重ね鳩尾を落 左足に踏み整ふるをいふ…
し脊椎を真直に落付けて正坐す 十 著座
要則第四項 先つ左膝を突き次に右膝を突き整へて座する
正坐より立上るには先つ上体を浮かし両足を をいふ…
爪立てて立上る準備をなし次に坐るときと反対 十一 進退
に左膝(右膝と改正す)を立て其足に重みを託 進む時は左足よりし退く時は右足よりす
する気持にて立上りつつ右足(左足と改正す)  (神社協会編,1907,p.4)
を左足(右足と改正す)に揃ふ
昭和十七年十二月二十四日 つまり,起居動作は左座右起であり,進退動作
(講道館,1943,p.29) は左進右退である.内務省告示 608 号による改正
では「立法」は「直立」と改められ,両足踵をつ
注目すべきは講道館の礼法改正が「内務省告示 け,爪先を開き真直ぐ立つ姿勢は変わらないが,
608 号神社祭式行事作法改正」をうけてなされて 両手の位置が「下腹の辺に控え」(神社協会編,
いることである.講道館が文部省の『礼法要項』 1907,p.3)から「両手を下腹の左右に控え」(内
や武徳会の意向に沿って左座右起に変更したので 務省編,1942,p.8)へと変更されている.ただし,
はないことは明らかである.では,神社祭式行事 熱田神宮宮司の長谷外余男は「前には坐法とあつ
作法(以下「神社作法」と略す)とは何だろうか. たのが正坐となり,立法とあつたのが直立となつ
柔道の礼法における戦中・戦後史 581

た如きである.また中の文句も幾分づゝ整理した 改正されなかったものと考えられる.
程度のものが多く,余り変つてゐない」(河田編,
1944,p.62)と講述しており,立姿勢は従来の神 5.武徳会及び試合時の礼法への影響
社作法と変わっていない様子が窺える.神職は笏 講道館の修行者礼法は武徳会でも踏襲された.
を持つことを前提に作法が構成されているため, 1941 年 10 月に磯貝・栗原が著した『新制柔道教
両手は体側ではなく,下腹部の左右,即ち腿の前 科書改正版』(以下『新制柔道』と略す)では,
面に置くのであり,不動の姿勢とは異なる注 4). 旧版を改めた理由が次のように述べられている.
また,起居・進退動作についても長谷は「各項は
文句を整へられた点もあるが,実際の作法は従来 あらゆる分野に亘つて新しい体制,新しい指
と変らない」
(河田編,
1944,p.63)と述べている. 導原理の叫ばれて来た時偶々昭和十五年八月,
なぜ,講道館が神社作法の改正に合わせて礼法 我が武徳会に於ても,それに応じて柔道礼法の
を変えたのか,その直接的な理由は分からない. 全面的な改正が行はれたのであつた.著者はこ
1 つには稲葉から批判される可能性が考えられる れを機として先書の訂正に着手,こゝに改正版
が,稲葉の著作には自然本体への批判はあって を成し,新体制下に於ける中等学校生徒錬成に,
も起居動作への批判はみられない(稲葉,1940, 柔道科の使命を遺憾なからしめた.
(磯貝・栗原,
1942).もう 1 つの可能性として,赤江(2013) 1941,pp.1-2)
に よ れ ば,1940 年 代 に は 神 社 作 法 の 所 作 を 間
違えると神社宮司や政府から「不謹慎」(赤江, 修行者礼法の制定が旧版改正のきっかけだった
2013,pp.34-36)だと非難される社会情勢になっ ことが分かる.図 4・5 をみれば,修行者礼法改
たことが考えられる.柔道界で神社作法のミスに 正前なので右座左起ではあるが,不動の姿勢で起
最も神経を尖らせていたのは南郷であった.1943 居動作している様子が分かる.図 4・5 では見え
年の柔道有段者会総会で南郷は神前の礼拝につい ないが座礼も爪先を寝かせる方式である.
て「拍手が揃はんことは詰り神に対する敬意が十
分でない証拠であると迄非常に喧しく云はれて居
るので,諸君がいろいろの祭典に行かれても,あ
の神官が一度に拍手する態度を見てもお分かりだ
と思ふ.ところが講道館に於ては,いろいろの人
が急に集まるといふことがある為か,私はこの拍
手が一斉に行かないことを甚だ遺憾にして居る…
私がかういふ様に手を合せる時に,もう『パチン
パチン』始め出す.唯もうぞんざいに斯うやつて
居るのだらうと思ふ.こんなことは苟も神に対し
て礼拝をする場合の武道家の態度でない」(南郷,
1943,pp.7-8)と各地有段者会から参集した代表
者に遺憾の意を表している.南郷の叱咤は起居動
作に対するものではなかったが,彼が神社作法に
注意していたことは分かる.つまり,南郷は柔道
家に神社作法を徹底させるため,修行者礼法の右
座左起を左座右起に改めたのではないだろうか.
他方で,進退動作及びその他の所作については修 図 4 磯貝による座り方の挿絵
行者礼法と神社作法との間で齟齬が無かったので (出典:磯貝・栗原,1941)
582 中嶋

修行者礼法に基づいた試合時の礼法は 1941 年
3 月に講道館と武徳会との双方合意の下で改正さ
れた審判規定でも採用された.

試合者が互に敬礼(座礼を原則とす)を終り
て立上り,一歩前進して自然本体になりたると
き「始め」と宣す…審判員が「一本」
「合せて一本」
「待て」「夫れ迄」と宣せるときは,試合者は元
の位置にかへり,正坐して審判員の命を待つべ
し…試合者は「止め」の宣告ありたる後,互に
敬礼して試合を終るものとす(講道館,1941,
pp.5-6)

ここで確認しておきたいことは,第 1 に試合の
開始と終了の礼法が原則,座礼であったこと,第
2 に礼が終わった後に一歩前進して自然本体にな
り,試合開始することである.ここで「自然本体
図 5 立礼と座礼の挿絵
になり」と記されているところから,自然本体に
(出典:磯貝・栗原,1941)
なる前の姿勢があると考えられる.ここは不動の
姿勢から一歩前進して自然本体になると読むのが
さて,『新制柔道』にも修行者礼法が載せられ 妥当であろう.この 1941 年版の審判規定と『新
ており,「形,乱捕及び試合等に於ける礼」の説 制柔道』で説明された試合時の礼法を踏まえる
明は以下のように述べられている. と,不動の姿勢からの立礼は天覧試合など特殊な
場合でしか用いられず,「気を付けの姿勢」での
形,乱捕及び試合に於ける際は,先づ双方一 立礼が通常の試合で用いられるようになったの
線上に於て,上座に対して不動の姿勢を取り, は 1967 年からだとする先行研究の主張(中村,
敬礼して後,互に向き合ひ,少しく前進し,適 2011,p.6)は修正されなければならない.
当の距離…に縮めて不動の姿勢に立ち,若くは また,栗原は 1941 年版の審判規定について「団
正座し,互に敬礼をして,一先づ自然本体にな 体試合に於て,便宜上個人の上席(玉座,奉安所,
り,然る後始めるものとする. 神殿等)に対する敬礼を省略する時以外は,礼法
終つた時は,元の位置に帰り,互に前の如 の示すところに従って,上席に対する敬礼を忘れ
く敬礼して,又元の同一線上に帰り上座に向 ぬ様…審判員に於ても留意すべきである」(栗原,
ひ敬礼して後,退くやうにせよ(磯貝・栗原, 1942,p.40)と解説している.つまり,選手及び
1941,p.31) 審判員には神道に基づく「上席」への礼法も指示
されていたのである.
つまり,戦中に行われた中等学校の試合では不 試合時の礼法は天覧試合ではない時にも用いら
動の姿勢での立礼が奨励されていたことが分か れていた.例えば 1943 年 8 月 10 日に講道館が開
る.講道館の修行者礼法の同項目には不動の姿勢 催した第二回高段者柔道大会の試合評に「感じた
で立礼することは明記されていない.講道館と武 ことは新らしく制定せられた講道館礼法が短日月
徳会とでは修行者礼法の内容に若干の違いがあっ によく徹底したことである…二,三段の試合では
たのである. 単に勝敗のみを重視し前後の動作,即ちこの礼
柔道の礼法における戦中・戦後史 583

法を失し往々審判の注意を受ける場合が少くな press.)」(Evaluation Committee, 1950, p.8)に努め


いが,今度の試合では夫れがなかつた」(丸山, ていると評価した.そして同評価委員会は,「高
1943,p.27)とある.修行者礼法は空文ではなか 等学校と大学の体育及び課外活動として柔道を認
ったのである. めること(Judo to be permitted in the upper second-
また,1942 年 12 月 24 日に改正された修行者 ary school and universities in both the regular physical
礼法は,同年 3 月に政府外郭団体へと改組された education program and in extra-curricular activities.)」
新武徳会でも採用されることになった(大日本武 (Evaluation Committee, 1950, p.11)と結論づけた.
徳会,1943,pp.10-11).1943 年 10 月のことであ さらに,1950 年 5 月 12 日には文部大臣の天野
る.新武徳会は武道諸団体を包摂する組織であっ 貞祐からマッカーサー宛に請願書が提出された.
たが,時系列的にみて講道館は新武徳会に礼法を 同請願書では,戦後柔道は「スポーツとして儀礼
統制される前に礼法を制定し,主導権を握らせな 的なことは殆どせずに楽しむようになった(The
かったものと考えられる.一方で,新武徳会にと sports has come to be enjoyed as sport and with very
っても講道館の修行者礼法を採用することは不敬 little ceremony.)」(Amano, 1950, p.1)こと,大会
の誹りを免れるための都合の良い選択だったので では「各種の礼儀作法は出場者と観衆のどちら
はないだろうか.かくして,講道館の修行者礼法 にも求めない(No ceremonies are required to either
は帝国日本の柔道家に定着していったのである. participants or spectators.)」(Amano, 1950, p.2) こ
となどが示された.
Ⅲ 礼法の戦後史 こ れ を う け,GHQ は 同 年 9 月 13 日 に「1950
年 5 月 12 日の文部大臣からの書簡「学校柔道復
1.礼法の民主化 活の要請」に定義される通りに,すべての教育
敗戦後,柔道は学校の授業並びに課外活動での 機関の体育・スポーツ活動で柔道を復活させる
実 施 が 禁 止 さ れ た.1945 年 10 月 22 日 の SCAP こ と に 異 論 は な い(No objection is offered to the
指令で「全ての軍事的科目と教練を廃すること reinstatement of judo in the physical education and
(all military education and drill will be discontinued)」 sports activities of all educational institutions, as de-
(Evaluation Committee, 1950, p.1)が日本政府に通 fined in the letter from the Minister of Education, 12
達されたためである. May 1950, entitled “Request for Restoration of school
柔道関係者は学校柔道の復活を目指し,GHQ judo.”)」(SCAPIN, 1950)という内容の覚書を日
へ向けて陳情や模範演武を行った(山本,2003, 本政府に手渡した.この覚書によって学校柔道は
pp.70-72).これをうけて,GHQ 部局の民間情報 復活したのである.
教育局(以下「CIE」と略す)は 1950 年 2 月に武 では,戦後の学校柔道では礼法が行われなくな
道の評価委員会を設置し,学校武道の復活が可能 ったのだろうか.答えは否である.例えば,東京
かどうか調査した.その結果,CIE の評価委員会 教育大学体育学部長の野口源三郎は戦後の学校柔
は,戦後の武道界は「スポーツとしての活動を損 道の指導者に対して次のように呼びかけていた.
ねる象徴的な儀礼を廃すること(Eliminate sym-
bolic ceremonies which detracted and interfered with 戦前の柔道は…学校においてもその道場には
these activities as sports)」(Evaluation Committee, 正面に床の間があり,その上に神棚が設けられ
1950, p.8)や,
「様々な教育や報道を通じて,実践 て,何か一種の宗教じみた儀礼さえ行われてい
者や一般人の心の中で,スポーツと軍事活動を分 た程であった.柔道は日本固有のものであるか
離すること(Separate sports from military activities ら,柔道に相応しい 1 つの礼儀作法があっても
in the minds of sports participants and the general pub- 差支えないであろうが,それは度を越した固
lic through various means of education and the public 苦しいものであってはならないと思う(野口,
584 中嶋

1951,p.17) たのである.
なぜ,立礼を原則にしたのかは定かではない
つまり,神棚の撤去とともに神道的な意味での が,1951 年前後というのは柔道の国際化が進む
礼法は払拭されたものの,稽古や試合における礼 時期であったことも影響していると考えられる.
法が廃止されることはなかったのである. 1948 年 7 月には欧州柔道連盟が設立され,1951
神道的な意味の払拭が具体的にみられたのは試 年 7 月には国際柔道連盟が設立されている.こう
合時の礼法だった.1949 年 5 月 6 日に設立され した柔道の国際化を見据えた時,正座は海外の
た全日本柔道連盟(以下「全柔連」と略す)は 人々にとって馴染みのない姿勢であり,国際化に
1951 年 3 月 26 日に戦後初の試合審判規定を制定 は不向きと判断された可能性はある.かくして占
した.これは先に見た 1941 年版の審判規定を改 領期に試合時の礼法は民主化されたのである.
正したものであるが,礼法については次のように
記されている. 2.礼法再制定の背景
占領期には修行者礼法の背景にある神道的,軍
第 4 条 試合者は試合場の中央に約 2 間の距 事的な性格が否定されたため,礼法の意味づけは
離を置いて向いあつて立ち,同時に礼を行う. 揺らいでいた.例えば,学校柔道復活の請願書作
礼が終つた後,審判員の「始め」の宣告により 成に関わった塩谷宗雄が 1951 年に著した『新し
直ちに試合は始まる. い学校柔道』の目次には「礼」の項目が立てられ,
但し,試合の礼は立礼を本体とするが座礼を 「お互いに稽古をしましょうという意味で挨拶」
行つても差支えない.(講道館,1951,pp.2-3) (塩谷,1951,p.49)をするために礼法を行うと
述べられている.他方で松本や老松信一(以下「老
まず 1951 年の審判規定及び解説には上座への 松」と略す)らが作成に関わった全国中等学校関
言及が無くなった.つまり,神道的かつ封建的な 係者用の『体育の学習指導柔道篇』では,礼法は
上下関係を試合場に持ち込ませなかったのであ 「小我を抑えて常に師の教えに従順ならしめ」(日
る.さらに戦後の試合時の礼法では立礼を原則と 本体育指導者連盟編,1951,p.94)るものと説明
するようになった.そして礼をした後は「直ちに」 された.
後者は封建的な意味を礼法に込めている.
試合開始することになっている.改正に関わった GHQ が日本を去った後には礼法の封建的な性
松本芳三(以下「松本」と略す)は次のように解 格は強まった注 5).1955 年に三船久蔵,工藤一三,
説している. 松本らが作成した『柔道講座第一巻』では「立礼,
座礼の場合には,ほぼその距離,また上座下座の
試合の礼は立礼が本体となったが,その姿勢 区別がきめられている…先生や先輩に対しては,
は自然本体とも,踵を合したいわゆる「気を付 自分が下座にさがって礼をすること」(三船ほか,
け」の姿勢とも限られていない.礼を終るや一 1955,p.86)と礼法の心得が説明されている.三
歩前進して自然本体に構える所作は今度の規程 船らは立礼と座礼の仕方をどのように説明したの
では無くなった(松本,1953,p.34) か.まず立礼は「双方約二間を距て,ごく自然に
立った姿勢で向い合い,上体を約三十度ほど前に
このように戦後は 1951 年から 1966 年まで,試 まげて礼をする…ごく自然に立った姿勢というの
合時の立礼は不動の姿勢とも自然本体とも規定さ は「気を付け」の姿勢でもなければ,また自然本
れなかったのである.そのため,試合開始・終 体の姿勢にしなければならないというのでもな
了時の礼法は選手によって「まちまち」(村山, い.字義どおりに解して行えばよい」(三船ほか,
1973,p.95)だったという.1951 年の審判規定で 1955,pp.85-86)と説明されている.立礼の姿勢
は選手自身に礼法の仕方を選択させる方式をとっ については非常に曖昧な説明となっているが,こ
柔道の礼法における戦中・戦後史 585

れは 1951 年版の審判規定に示された礼法に沿っ
た説明だったと考えられる.座礼については「向 戦後まもなく,試合場における試合開始の時
い合って正座し,ついで両掌は指を揃えて,内側 の礼についていろいろ論議されたことがあっ
に向け,膝から五六寸前のところ,凡そ肩巾の広 た.戦前には,試合者が向いあって軍隊式の気
さに同時につける.そして両肱をまげ,上体を を付けの姿勢でお互に礼を交わし,一歩出て柔
前にさげて,礼をする」(三船ほか,1955,p.86) 道の自然本体の姿勢になって,はじめて試合が
とある.また起居動作については「まず左足を後 開始された.戦後は占領治下にあったためもあ
にひき,膝頭を右足の横につけ,爪先を立て,つ ろうが,軍隊式の固苦しい礼法は,之を無視す
いで右膝をおろし,同じように爪先を立てた姿勢 る風潮が学校教育等にも見られた様である.嘉
となり,それから両方の爪先をおろして正座する 納師範は,柔道の自然本体の姿勢が,人間とし
…正座から起立するには,立った姿勢から座るま て一番安全な,また礼にも叶った姿勢であると
での動作を逆の順に行えばよろしい」(三船ほか, 言う意見であった.戦前は学校において,三大
1955,p.86)とあり,爪先を寝かせた左座右起で 節には必ず勅語奉読が行はれたが,嘉納師範も
ある.座礼と起居動作については修行者礼法との 学校長として長い間その役目を務めたが,御真
違いはみられなかった.つまり,占領期に神棚が 影に対する礼拝にも,勅語奉読の折も,その姿
廃され,試合時の立礼も改正されたが,それを除 勢は,柔道の自然本体で押し通した.当時一部
けば,修行者礼法の所作は続けられていたものと の時代迎合論者が,之を不敬に亙るといって批
考えられる. 難したことさえあった.一般常識として,礼を
1960 年 4 月に投の形及び固の形が改めて成文 なす姿勢としては,踵をつけた態度をよしとす
化された.これは「地方により或は人により小異 る意見が多い様であり,私は必しも故師範の意
が生じていた点,また多くの人の疑問にしていた 見を固守すべきであるとは考へないが,何者に
点等を解明して統一した見解に帰一する事を目 も屈せず自らの信念を貫いた点は敬服するもの
的」(嘉納,1960,p.1)として実施されたもので である…終戦後,柔道もスポーツの面が強くう
ある.このとき,「約 5.5 メートル(約三間)の ちだされ,勝敗に対する関心が強く,技の巧拙
距離をとって直立し,両者,正面に向って,同時 といふ様なことは勿論深く留意されているが,
に立礼をし,互に向きあって,座礼をする.次い 品位といふことに関心をもつ人が少なくなっ
で,取,受ともに立ちあがり,同時に左足から一 た.しかし試合態度の良否こそ,柔道を観る人
歩踏み出して自然本体になり(後略)」(講道館, にとっては心を打たれる点であり,一流選手の
1960,p.10)と,現行の投の形及び固の形の礼法 中でも試合態度の立派な人には,見る人々に,
が成文化された.「直立」,つまり不動の姿勢が復 すがすがしい気分を与える.服装の乱れも,試
活していること,左進右退が復活していること, 合者のちょっとした心がけによって,乱れを防
そして上座とは呼んでいないものの,「正面」に ぐことが出来るものであろう.
立礼するなど,修行者礼法の所作が復活している 時代の流れというものは大きなものであっ
様子がみてとれる. て,柔道に関する礼儀作法も,時代を考慮に入
試合時の礼法は 1966 年 6 月 18・19 日に行われ れて考えるべきではあるが,やはり礼という根
た全日本学生柔道優勝大会をきっかけに再制定さ 本を忘れてはならぬことが,正しい柔道の発展
れた.この大会の開会式,閉会式,そして試合に のため必要であろう.(嘉納,1966,p.1)
おける学生選手の態度が非常に悪く,そのことが
大会関係者の間で問題になったのである(嘉納, 4 つ確認すべきことがある.1 つ目は「戦前」
p.1).講道館第 3 代館長の嘉納履正(以下「履
1966, の試合時の礼法が「軍隊式」であると証言されて
正」と略す)は次のように述べている. いることである.1940 年の修行者礼法には『歩
586 中嶋

兵操典』や教練からの影響があったことが示唆さ 示唆されている(田端,2015;武田,2009).教
れている.2 つ目は敗戦前の試合では「気を付け 練は戦後廃止されたが,教練と内容が重なる「秩
の姿勢」,すなわち不動の姿勢で一礼済んだ後に 序運動」は体操の範疇ということで続けられた(武
自然本体に構えていたことが再確認できる.3 つ 田,2009,p.5).しかし,敗戦直後の秩序運動は
目に治五郎が不敬と批難されながらも不動の姿勢 「「気を付け」
「休め」
「右(左)向け」
「廻れ右」
「整頓」
をとらず自然本体で押し通したと証言されている 「番号」等は最小限度に止め且軍事的色彩がなく
点である.ここで治五郎を批難した 1 人が稲葉で 愉快な気持を与へるやうに行ふ」(文部省,1946)
あることは想像に難くない.また,履正は治五郎 ことが求められたため,一時,体育授業は混沌と
の振る舞いを良しとせず,一般常識を優先すべき した状況になったといわれる.体育学者の高田典
との態度をとっている様子も窺える.4 つ目に, 衛は敗戦直後の体育授業の様子を次のように振り
礼法と「正しい柔道」がセットで語られているこ 返っている.
とである.戦後,柔道の礼法は民主的な方式がと
られてきたが,1960 年代になると正しい柔道の  「体育の授業」といっても名ばかりで,「遊び
根本は礼法にあると主張されるようになったので の時間」とどこも変らないような状態になって
ある.戦中の修行者礼法も南郷の考える正しい柔 いった.不感症になってしまって,ハイヒール
道の一環として制定された経緯があった.しか をはいたままで体育の授業に出ていた女教師と
し,履正はそのことには触れず,1968 年 1 月に か,煙草をくわえながらボール運動の審判をし
父・治五郎の著述から柔道は「礼儀作法に就ての ていた若い男教師を見かけたとか,当時このよ
実物科」(嘉納,1968,p.1)であるとの一節を引 うな乱れ切った授業の様子をよく耳にしたも
き,治五郎が礼法を重視していたことを説いた. のである.「体育の授業」とはそういうものだ
ところで,履正が礼法の励行を柔道界に呼び掛 と思い込んでしまった教師が,全国各地にあら
けた背景には東京オリンピックで柔道が公式種目 われてきたということであろう.(高田,1969,
となったことも挙げられる.東京オリンピックは p.18)
敗戦から民主国家として復興を果たした日本人の
ナショナル・プライドを回復する契機となったが, こうしたなか,学校体育に集団行動を求める声
同時に「オリンピックを契機にして生じた日本武 も上がっていた.集団行動の初出は 1953 年の『小
道に対する内外の関心が,武道の精神面の復活に 学校学習指導要領体育科編(試案)改訂版』であ
大きな影響与えた」(中野,1972,p.280)といわ るが,その審議編集に文部省初等中等教育局文部
れる.例えば,
1966 年 3 月に文部省が発行した『学 事務官として携わった井上一男は集団行動につい
校における柔道指導の手引き』で柔道は「日本に て秩序運動を改変したものと述べたという(田端,
生まれて日本で育ってきた伝統的な運動」(文部 2015,pp.230-231).
省,1966,p.1)であると記された.保健体育教 東京オリンピックは学校体育に集団行動をもた
材としての柔道について文部省が「日本」や「伝 らすきっかけになった.文部省によれば,東京オ
統」を強調することは敗戦この方みられないこと リンピックの招致を機に「しだいに集団行動の指
であった(坂上,2015).このように東京オリン 導の必要性が強調されるにいたり,集団行動の指
ピックを契機とした学校柔道の伝統回帰は礼法の 導効果をあげるために,全国的な立場から,共通
意義を再確認するきっかけにもなったと考えられ な行動様式を示してほしいとの要望が高まって
る. きた」(文部省,1965,p.1)という.その結果,
加えて,礼法再制定の背景には学校体育の集団 1965 年に文部省は小・中学校用に「体育(保健
行動が成立したことが挙げられる.先行研究で 体育)における集団行動指導の手びき」を発行す
は,集団行動には教練や秩序運動の影響があると るが,そこでは気をつけの姿勢もとり上げられて
柔道の礼法における戦中・戦後史 587

いる. では,試合礼法の所作についてはどのように定
められたのか.まず,試合礼法の制定にあたって
3.「柔道試合における礼法」の制定 全柔連では「(一)礼の精神を示すこと(二)現在,
全日本学生柔道優勝大会,東京オリンピック, 慣行されている礼法を,できるだけ生かして明文
そして学校体育の集団行動の成立を背景に,1967 化する.しかし,試合の開始,終了のときに行な
年 1 月 8 日,全柔連の理事会決定で「柔道試合に われる立礼の姿勢のように,かかとをつけた直立
おける礼法」(以下「試合礼法」と略す)が制定 姿勢と,両足を約一足長横に開いた自然本体の直
された(講道館,1967,pp.30-31).試合礼法の 立姿勢との二様とも認められているものについて
原案作成を担当した全柔連事務局次長の老松は制 は,どちらか一方に決めること(三)理論上,あ
定の背景を次のように説明している. るいは試合者の態度を是正する上から,新しいし
かたに直した方がよいと思われるものがあれば検
礼法については,戦前に文部省で定められた 討すること」(老松,1967,p.8)という方針が採
国民礼法があり,柔道においても,昭和十五年 られた.1 つ目の礼の精神については後回しにし
八月一日講道館において制定された「講道館修 て,ここでは 2 つ目と 3 つ目について老松の解説
行者礼法」があり,全国的に励行されていた を基に検討しよう.
が,第二次大戦後,一部変更されており,現在, まず 2 つ目の自然本体と両踵をつけた直立姿勢
まとまった明文がない状況であった.
(老松, についてである.老松が「戦後,一部変更」され
1967,p.8) たと述べているのは,先の松本の解説にあった試
合開始・終了時の基本姿勢及び進退動作のことで
こ こ で は 2 つ 確 認 し て お き た い.1 つ 目 は, ある.全柔連で議論された結果,両足の踵をつけ
1967 年当時,講道館の修行者礼法は「まとまっ た「直立姿勢」(老松,1967,p.9)と自然本体の
た明文がない状況」であったという主張である. どちらにも「理論的根拠」(老松,1967,p.9)は
つまり,1967 年時点で戦時中に制定された修行 あるが,「学校で行われている立礼の姿勢を,柔
者礼法は戦後,礼法の民主化で制度的な効力がな 道でもそのまま行うことが,社会的に,礼法上の
くなっていたものと考えられる.そのため,試合 混乱を起こさないことになり,徹底も期し易い」
礼法は戦後初めて成文で示そうとされた礼法だっ (老松,1967,p.9)との見解から,開始線で両足
たのである. の踵をつけた直立姿勢になり敬礼する方式が採用
2 つ目に,老松の主張はその後の研究者の礼法 された.学校で気をつけの仕方を扱っているのは
史観に影響したと考えられる.すなわち,老松は 集団行動であったことから,それと整合性をとっ
文部省の『礼法要項』と修行者礼法とが関連して たものと考えられる.
いるかのような印象を後続する研究者に与えてし 3 つ目について,左座右起,左進右退も再制定
まったのではないだろうか. された.特に試合開始時に気をつけでお辞儀し左
一方で,老松は修行者礼法への神道的・軍事的 進右退で自然本体に構え,試合終了時には逆の手
影響を語らない.大正元(1912)年生まれの老松 順で気をつけに戻る所作について老松は「乱取の
は修行者礼法が制定された当時,28 歳である. 形(かた)の礼法とも一致しているのである」
(老
青年期に戦争を迎えた老松が神道的・軍事的な背 松,1967,p.9)と述べている.乱取の形とは投
景の下で修行者礼法が策定されたことを知らなか の形の別称である.つまり,試合礼法は 1960 年
ったとは考えにくい.それゆえに老松には戦後柔 に明文化された投の形の礼法とも整合性を取った
道の民主化が進められた後で修行者礼法に神道 のである.老松は左進右退を新しい仕方として解
的・軍事的な影響があったことを公言することは 説している.確かに占領期に再編された礼法と比
憚られたのではないか. べれば新しい仕方だが,これらの所作は修行者
588 中嶋

礼法や 1941 年版の審判規定にみられたものであ


る.老松も修行者礼法に言及していることからこ Ⅳ おわりに
うした所作を知らなかったとは考え難い.そのた
め,左進右退についても戦中の所作が復活したと さて,1967 年の試合礼法の制定にはどのよう
考えることができる. な歴史的意味がみられるのか.冒頭で示した課
そのほか,試合礼法制定で注目されるのは拝礼 題に 1 つ 1 つ応答しながら考察したい.1 つ目に
の復活である.1967 年の拝礼の所作は 1940 年の 1940 年の礼法制定までは礼法は重んじられてい
修行者礼法における最敬礼の所作と同様である たものの,所作に厳密な取り決めはなかった.
が,神棚や玉座に向かって行うとは明記されてい 2 つ目に,講道館及び武徳会が修行者礼法の制定
ない(老松,1967,p.11).拝礼は試合開始直前 に乗り出したのは,稲葉に代表される礼法批判と
に用いることが想定されていた.個人試合におけ 南郷の礼法普及方針をうけてのことだった.そし
る礼法の説明では,試合開始時に対戦相手との礼 て 1940 年の修行者礼法では神道的かつ軍事的な
の前に「正面に向きをかえ,一斉に立礼」(講道 不動の姿勢を採り入れたのである.不動の姿勢は
館,1967,p.31)し,試合終了時にも対戦相手と 試合における選手同士の立礼でも用いられた.
の礼の後に同じく正面への礼が行われることにな 3 つ目は 1942 年 12 月に右座左起が左座右起に改
った.さらに,団体試合でも「主審の「正面」の められたのは内務省の神社作法の改正に合わせた
合図により上座に向きをかえ,「礼」の合図によ 動向だったことである.これは戦中の講道館がい
り一斉に立礼」(講道館,1967,p.31)すること かに神道の動向を注視していたかが分かるエピソ
になった.団体戦の礼法の説明から正面とは上座 ードである.4 つ目に,敗戦後,学校柔道の復活
のことと解せるが,個人試合,団体試合ともに「正 に伴い礼法も民主化された.具体的には立礼の姿
面に対する礼は,対象により拝礼に代えることが 勢を不動の姿勢及び自然本体のどちらでも良いと
ある」(講道館,1967,p.31)と説明された.こ され,また上席への礼法がなくなったことで神道
こに上下関係を意識させる封建的な上座への礼法 的かつ封建的な要素が試合に持ち込まれなくなっ
が復活したのである. た.5 つ目に 1967 年の試合礼法は,学生選手の
では,全柔連は礼法をどのように意味づけたの 試合態度を是正するという理由で制定された.ま
だろうか.ここで 1 つ目の全柔連の方針を検討し た,制定背景には東京オリンピック前後のナショ
よう.老松によれば全柔連が設置した礼法作成の ナリズムの高揚注 6)もみられた.さらに全柔連は
委員会では「礼は,人と交わるに当り,まずその 学校の礼法と整合性をとりつつ,修行者礼法を模
人格を尊重し,これに敬意を表することに発し, 範にしたと考えられる.
人と人との交際をととのえ,社会秩序を保つ道」 全柔連は戦中,西洋思想として批判された柔道
(老松,1967,p.9)であり,「精力善用・自他共 の精力善用・自他共栄によって試合礼法を「社会
栄の道を学ぶ柔道人は,内に礼の精神を深め,外 秩序の道」と意味づけ直した.一方で,試合礼法
に礼法を正しく守ることが特に肝要である」(老 には封建的な上座への礼が復活したことで,占領
松,1967,p.9)と決定されたという.全柔連は 期に GHQ 及び CIE から要求された柔道の民主化
柔道の理念である精力善用・自他共栄に基づき, からは遠のいたのである.このように,試合礼法
礼法を「社会秩序を保つ道」として意味づけたの には戦中とも占領期とも異なる戦後柔道界の秩序
である.これによって不動の姿勢も左座右起も柔 観が反映されていると考えられる.
道固有の礼法として再定位されたのである.

1)なお,柔道の礼法史については野瀬ほか(2002)も
あるが,その内容は中村(1993,2011)の範疇に留ま
柔道の礼法における戦中・戦後史 589

るため,本研究では先行研究から外した.また,中村・ 赤澤史朗(1985)近代日本における思想動員と宗教統制.
濱田(2007)は柔道の礼法の国際化の問題を扱ってい 校倉書房.
るが,本研究は日本国内を主な対象としているため, 赤澤史朗(1994)戦中・戦後文化論,朝尾直弘ほか編,
これも先行研究から外す. 岩波講座日本通史第 19 巻.岩波書店,pp.281-328.
2)『歩兵操典』は何度か改正されているが,本研究では 赤澤史朗・北河賢三(1993)文化とファシズム.日本経
修行者礼法の制定時期を考慮し,1940 年 2 月に改正 済評論社 .
された『歩兵操典』を参照した. Amano, T.(1950)Request for Restoration of school Judo.
3)柔道修行者心得がいつ制定されたのかは不明だが, GHQ/SCAP RECORDS CIE(C)-04585. 国立国会図書館
1894 年 3 月 21 日には早くも改定された記録がある 憲政資料室:1-2.
(講道館,2012,p.6).この後,修行者心得は 1928 年 大日本武徳会(1940)武徳,(103).日本体育大学図書
6 月に 1 度改正される(講道館,2012,pp.189-190). 館民和文庫所蔵複写資料.
1928 年にはまだ講道館内に神棚は設置されていない 大日本武徳会(1943)武徳,(142).財団法人大日本武
ため,神棚に関する規定はない. 徳会.
4)神職の姿勢に関しては國學院大学の藤田大誠教授の Evaluation Committee (1950) Reinstatement of Budo Sports
ご教示による. as Physical Education Activities in the Schools and
5)柔道の封建的性格は 1960 年代に入ると体育関係者に Universities of Japan. GHQ/SCAP RECORDS CIE (C)-
も指摘されるようになっていた.例えば,1965 年に 04583. 国立国会図書館憲政資料室:1-12.
今村嘉雄は,武道の礼は「道場そのものの神聖さに対 遠藤芳信(1994)近代日本軍隊教育史研究.青木書店.
する敬虔な気持ちのあらわれ」であり,かつ「師範を 今村嘉雄(1965)日本武道の特色.体育科教育,13(2):
頂点として,先輩・後輩,技術修練の程度,技法の巧 28-31.
拙・上下による階級性とも関連」
(今村,1965,p.30) 稲葉太郎(1940)皇道昭和柔道維新完遂.稲葉默道太郎
すると述べている.続けて,
「その事のよしあしを云々 會本部.
するつもりはないが,こうした遣習は…近代デモクラ 稲葉太郎(1942)柔道維新日本傳肉弾體武,全日本體武
シー思想とも融合して,学生生活の中に深く根をおろ 會全日本柔道會本部.
している」
(今村,1965,p.30)と指摘している.こ 磯貝一・栗原民雄(1932)大日本柔道教典.冨山房.
こで今村は武道総体を問題にしているため,柔道も当 磯貝一・栗原民雄(1941)新制柔道教科書改正版.冨山房.
然含まれるだろう.今村は学校武道が民主化された点 神社協会編(1907)神社祭式・行事作法.神社協会.
には配慮しているものの,「遺習」という表現には封 嘉納治五郎(1931)柔道教本上巻.三省堂書店.
建的なニュアンスを込めていると考えられる. 嘉納治五郎(1938)報国更生団の結成につき講道館員に
6)昆野伸幸は,1966 年以降,
「天皇を中心価値とする 告ぐ.柔道,9(3):1.
保守勢力の動きは,有効な大衆的基盤を得て活発化し 嘉 納 履 正(1960) 全 国 形 研 究 委 員 会 の 成 果. 柔 道,
ていく」
(昆野,2018,p.78)と指摘している.具体 31(6):1.
例として昆野は 1966 年 10 月に「天皇への敬愛」
「日 嘉納履正(1966)柔道試合の諸作法について.柔道,
本国への敬愛」を青年に求めた「期待される人間像」 37(8):1.
が中央教育審議会によって答申されたこと,1967 年 2 嘉納履正(1968)柔道指導に関する嘉納師範の言葉.柔
月 11 日には「建国記念の日」が始まったこと,1968 道,39(1):1.
年に国家的行事として「明治百年」記念と小学校学習 河田晴夫編纂(1944)改正神社祭式行事作法講話増訂版.
指導要領改訂が実施されたことを挙げている.こうし 京文社.
た一連の出来事を昆野は「戦後最大の反動攻勢」
(昆 木下秀明(1982)兵式体操からみた軍と教育.杏林書院.
野,2018,p.84)と述べ,宗教学者村上重良が国家神 小林又七(1940)歩兵操典.川流堂.
道論を唱える背景と主張している.試合礼法の制定に 国学院大学(1970)国学院大学八十五年史.国学院大学.
ついてはこうした思想史的状況も考慮する必要がある 昆野伸幸(2018)村上重良「国家神道」論再考.山口
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日本体育指導者連盟編(1951)体育の学習指導柔道篇(高 Published online 2021/7/10
速度写真解説).金子書房.

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