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ぼくは世にいう泣き虫だったためしはない。

 別れた妻はぼくを〝感情欠損傾向〟にあると評し、そ
れをぼくと別れるいちばん大きな理由にあげていた
アノニマス
(いやはや、AAこと〈依存症者たち〉の会合で出
会った男の存在はなんの関係もないといわんばかり
に)。ぼくはクリスティーの父親の葬式でも泣かなかっ
たが、それはまだ許せるような気がする、ということ
だった──とはいえ、そもそも義父と知りあってわずか
六年だったし、義父がどれほどすばらしく気前のいい
人物かも理解していなかった(たとえば、娘のハイス
クールの卒業祝いにマスタングのコンバーティブルを
贈るとか)。しかしそのあと、ぼくが両親のどちらの葬
式でも泣かなかったという事件があり──両親はわ
がん
ずか二年の間隔で世を去った(父は 癌 、母の場合
れき
はフロリダのビーチを散歩中、青天の 靂 のように
襲ってきた心臓発作だった)──クリスティーはそれ
をきっかけに、〝感情欠損傾向〟がいかなるものかを理
解しはじめた、といった。AA流にいいなおせば、ぼくに
は〝自分の感情を感じることができない〟となる。
「あなたが涙を流すところを一度も見てないわ」クリス
ティーはいった。しかもその口調は、人が人間関係に
おいていっさいの交渉を頓挫させる、絶対的かつ最終
的な通告を表明するときだけにつかう平板なものだっ
た。「アルコール依存症のリハビリに行け、行かないの
なら別れる、とわたしに申しわたしてきたときにもね」
 この会話の六週間後、クリスティーは自分の荷物を
まとめて車に積みこみ、街の反対側へ行ってメル・トン
プスンと同棲しはじめた。「AAというキャンパスはボー
イ・ミーツ・ガールの場」──これも連中の会合でいい
ならわされる言葉だ。
 出ていく妻を見おくったときにも、ぼくは泣かなかっ
た。多額の住宅ローンが残っているささやかな家に
帰ったときにも泣かなかった。赤ん坊の来なかった
家、この先も来る見こみのない家。ぼくは自分ひとりの
ものになったベッドに寝ころがると、片腕で目もとを覆
い、嘆き悲しんだだけだった。
 涙をひと粒も流さずに。
 そんなぼくだが、感情に障害があるわけではない。
クリスティーは勘ちがいをしている。あれは九歳のころ
だ、学校から家に帰ると母が玄関でぼくを待ってい
た。母はぼくにいった──ぼくが飼っていたコリー犬
のラグズが、トラックにねられて死んだ、トラックはとま
りもせずに走り去った、と。ラグズを埋葬したときには、
たとえ泣いても馬鹿にする者はひとりもいないと父か
らいわれたが、それでも泣かなかった──けれども母
から話をきいたときには泣いた。ひとつには、生まれて
初めて死を身近に体験したからだった。そしていちば
ん大きな理由は、ラグズが安全な裏庭から決して外に
出ないよう確実を期すのが、このぼくの役目だったか
らだ。
 母の主治医から電話があって、あの日ビーチでな
にが起こったかを知らされたときにも泣いた。
「お気の毒ですが、助かる見こみはありませんでした」
医師はいった。「きわめて突然起こる場合もありまし
て、われわれ医者はそれを不幸中のさいわいと見るよ
うにしています」
 その場にクリスティーは居あわせなかった──その
日は学校に遅くまで残って、息子のいちばん新しい成
績表について質問があるという母親と面談しなくては
ならなかったのだ。しかし、そう、ぼくは泣いた。わが家
の狭い洗濯室へ行き、バスケットから汚れたシーツを
とりだして顔を覆って泣いた。長いこと泣いていたわけ
ではないが、涙は流した。あとでこのことをクリス
ティーに明かしてもよかった。けれども、意味があると
は思えなかった。クリスティーに〝同情乞い〟をしている
と思われたくなかったことも理由だし(ちなみにこの言
葉は断酒会語ではないが、採用してもいいのではな
いか)、ここぞのタイミングでわんわん声をあげて号泣
できる能力が結婚生活を成功させる必須条件に思え
なかったことも理由だった。
 いまふりかえれば、父が泣くところを見たことはな
い。もっとも感情がたかぶったときであれば、重々しい
ため息を洩らしたり、気が進まないようすで含み笑い
の二、三回も洩らしたりしたかもしれない──ウィリア
ム・エピングは、拳で胸を叩いたり腹をかかえて大笑
いしたりすることと無縁の男だった。父は強靱で物静
かなタイプであり、だいたいにおいて母も同様だった。
となると、たやすく涙を流さないのは遺伝かもしれな
い。しかし、感情に障害がある? 自分の感情を感じ
ることができない? よしてくれ、そんな病気にかかっ
たことはない。
 母の死の知らせを受けたとき以外に、成人してから
涙を流して泣いた記憶があるのはあと一回だけだ。校
務員の父親にまつわる物語を読んだときだった。その
ときぼくはひとり、リスボン・ハイスクールの職員室で
椅子にすわり、成人むけ英語講座の生徒たちが書い
た作文の山にとりくんでいた。廊下の先からはバウン
ドするバスケットボールの鈍い音やタイムアウトを告げ
るブザーの大きな音、そしてスポーツアニマル同士が
戦う試合を見て観衆があげている叫び声などがきこ
えていた──リスボン・グレイハウンズ対ジェイ・タイ
ガース、つまり猟犬と虎の戦いだ。
 人生がどう転ぶかわからない転換点がいつ、そして
なぜ訪れるのか、そんなことがわかる人がいるだろう
か?
 ぼくが出した作文のテーマは「わが人生を変えた
一日」だった。提出されてきた作品は大半が誠実だ
が、おぞましい作品だった──妊娠したティーンエイ
ジャーを受け入れてくれた親切なおばだの、勇気とい
う言葉の真の意味を身をもって示してくれた陸軍での
相棒だの、有名人との偶然の出会いだのにまつわる
感傷的な作品ばかり(ちなみにその有名人は〈ジェパ
ディ!〉で司会をつとめるアレックス・トレベクだと思う
が、ひょっとしたら俳優のカール・マルデンかもしれな
い)。これを読んでいる人のなかに、ハイスクール同等
課程修了証書を得ようと勉強中の成人むけの授業を
引きうけて、年収に三、四千ドルを上乗せしたことのあ
る教員がいれば、こういった作文をひたすら読むのが
どれほど気の滅入る仕事かもご存じだろう。しかも成
績にはほとんど関係しない──少なくともぼくの場合
には、まったく勘案しなかった。どうせ全員を合格させ
るのだ。ここから出ていこうという努力さえしない成人
の学生には、これまでひとりもお目にかかったことが
ない。なにか書いてありさえする紙を提出すれば、リス
ボン・ハイスクール英語科のジェイク・エピングからC
をもらえることは確実。おまけに紙の上の文章がまっと
うな段落でもつくっていようものなら、最低でもBマイ
ナスは確実だ。
 この仕事を厄介にしているのは、ぼくの主要な教育
ツールが口ではなく、もっぱら赤ペンだったことで、ぼ
くは文字どおり赤ペンをつかいつぶしていた。この仕
事で気が滅入るのは、こうした赤ペン教育で授けた知
識が生徒たちの頭にほとんど残らないからだった。正
しい綴りも知らずに(〝まったく〟は totally であって
todilly ではない)、あるいは大文字にするべき箇所は
大文字にすることも知らず(〝ホワイトハウス〟は White
House であって white-house ではない)、あるいは名詞
だけではなく動詞もそなわった文章を書くことも知ら
ないまま二十五歳や三十歳になっていたら、そのあと
そういった知識が身につくことはおそらく一生ない。そ
れでもぼくたち兵士はあきらめずに雄々しくふるまい、
〝夫はわたしをやたら生急に判断した〟という文章を見
れば書き誤っている単語を丸で囲み、〝そのあとわたし
は、その浮き台までよく及いでいったものだ〟という文
章を見れば〝及いで〟をバツで消して、〝泳いで〟と書き
添えつづける。
 その晩もぼくは労多くして功少ない、そして救いの
ないこの仕事をつづけていた。一方、ほど遠からぬと
ころでは、ハイスクールのバスケットボール試合が試
合終了を告げるブザーの瞬間に着々と近づき、世界に
終末が訪れることはなかった。アーメン。当時はクリス
ティーがリハビリテーション施設を退院してきたばかり
だった。だから──かりになにか考えていたとすれば
の話──ぼくは、家に帰ったとき妻がしらふでいてく
れたらいいのにと願っていたと思う(妻はしらふだった
──ぼくの妻の座に腰をすえるよりも、しらふの座に
腰をすえるほうがずっと上手な女だった)。そのとき軽
ごうぜん
い頭痛に悩まされていて、ちょっとした小言が 轟 然
どう ま ごえ
たる 胴 間 声 にエスカレートするのを防ごうとする人
そのままに、こめかみを揉んでいたことは覚えている。
それに、こんなふうに考えていたことも。《あと三つは
読もう。三つだけだ。そうすれば、ここから帰れる。家に
帰りついたら、大きなカップにインスタントココアをつ
くって、ジョン・アーヴィングの新作長篇の世界に没頭
できるんだ──誠実ではあれ、下手くそきわまりない
この文章が、頭にこびりついていない状態で》
 作文の山のてっぺんから校務員の作品を手にとっ
て前に置いたときにも、ヴァイオリンの音や警報ベル
の音が鳴りわたることはなかった──ぼくのささやか
な人生がまもなく変化することを告げる兆候はいっさ
いなかった。しかし、そんなことが事前にわかる人はい
ないのでは? 人生は一瞬にして方向を変える。
 校務員は安物のボールペンで作文を書いており、
五ページのそこかしこにインクの染みができていた。手
書き文字はふらつきがちだったが、まずまず読める程
度。おそらく、かなりの筆圧で書いたにちがいない。安
物のノートのページに、単語が文字どおり刻みつけら
れるように書かれていた。目をつぶって、ノートからち
ぎりとられた用紙の裏側に指先を滑らせれば、点字を
読むような気分になれただろう。どの小文字のyも、終
端部の線が装飾文字のようにわずかに湾曲してい
た。そのことはいまでもとりわけ鮮明に覚えている。
 校務員の作文がどんなふうにはじまっていたのか
も覚えている。いまでも誤字をふくめて一言一句たが
わずに思い出せる。

 あれは昼間でなくて夜だった。わたしの人生を変え
た夜はわたしの父が母とふたりの兄とを殺してわたし
にひどい乱棒をはたらいた夜だ。父は妹にもひどい乱
棒をしてそのせいで妹はこんすい状熊になつた。妹は
いっぺんも起こることなく三年あとに死んだ。妹の名
前はエレンでわたしは妹をうんと愛してた。エレンはよ
く花を積んできては花びんにいけていた。
 最初のページを半分まで読んだところで、目がしく
しくと痛みはじめ、ぼくは信頼できる赤ペンをおろして
いた。校務員が、目にまで血が流れこんだ状態でベッ
ドの下にもぐりこむところにさしかかるころには(《血は
のどにも流れおちてきてひどくいやな味だつた》)、ぼ
くは泣きはじめていた──クリスティーが見ていたら、
きっと誇らしい気持ちになってくれただろう。ぼくは赤
ペンを一回もつかわず、最後まで読みとおした。その
あいだも、校務員が多大な努力をはらった成果にちが
いない用紙を濡らしてはならないと、ずっと涙を手で
拭いどおしだった。それまでぼくは、あの校務員のこと
をまわりよりもちょっと頭が鈍い男だと考えてはいな
かったか? かつて〝学習遅滞児〟と呼ばれていた
人々よりも、ようやく半歩だけ進んでいるにすぎない
と? それに、校務員の足が不自由になった理由もわ
かった。そもそも、いま生きていることが奇跡だった。し
かし、あの男は生きている。いつも顔ににこやかな笑み
をたたえ、子どもたち相手にも決して声を荒らげない
気だてのいい男。かつて地獄をくぐりぬけ、いまはハイ
スクール同等課程修了証書を取得しようとして──
そういった者たちの多くの例に洩れず、進み方は遅々
たるものだが、希望を捨てることなく──勉学に励ん
でいる気だてのいい男。それでも、これから先もずっと
校務員のままだろう──緑か茶色の制服を着て、
ほうき
箒 をつかっているか、尻ポケットに常備しているパ
テナイフで床にこびりついたガムの食べかすを剝がし
ている男。過去のある時点でちがう人間になれるチャ
ンスもあっただろうが、ある夜を境に人生が一瞬にし
て変わり、いまはカーハートの作業服を身につけて、
がえる
歩き方から子どもたちに〈ぴょこたん 蛙 のハリー〉
と呼ばれる男になった。
 だからぼくは泣いた。本物の涙、心の奥底からこみ
あげた涙だった。廊下の先のほうでは、リスボン校の
バンドが勝利の曲を演奏しはじめた──ホームチー
ムが試合に勝ったのだ。よくやった。あと少しすればハ
リーとそのふたりばかりの同僚が収納式の観客席を
片づけて、その下に散らばっているごみをきれいに掃
除するだろう。
 ぼくは用紙のてっぺんに、赤で大きくAを書いた。そ
のあと自分が書いた文字をしばし見つめていたのち、
その横に赤で大きく+を書き添えた。すばらしい作文
だったからだし、ぼくという読者から感情面での反応
を引きだしたからだ。そもそも、A+の成績がつく作文
はそういったものではないのか? 反応を引きだすも
のでは?
ぼくとしては、当時エピングという苗字だったクリス
ティーの意見が正しければよかったと思わないではい
られない。いっそ感情障害だったほうがよかった。なぜ
なら、これにつづいた出来事のすべては──あの恐ろ
しい出来事の一切合財は──このときの涙からあふ
れだしてきたからだ

ハリー・ダニングはすばらしい成績で卒業した。
ぼくはリスボン・ハイスクールの体育館で開催さ
れた、ハイスクール同等課程修了を祝うささやか
な式典に出席した──ハリーに招かれたのだ。ハ
リーにはほかに誘うあてがなく、ぼくは喜んで招
きに応じた。
 祝辞のあと(ちなみに祝辞担当は、リスボン・
ハイスクールの式典をめったに欠席しないバン
ディ神父)、ぼくは群れあつまっている卒業生の
友人や親戚たちをかきわけて、波打つような黒の
ガウン姿でひとり立っていたハリーに近づいて
いった。ハリーは片手に修了証書を、反対の手に
レンタル品の式帽をもっていた。ぼくは式帽を受
けとって、ハリーと握手をした。ハリーがにやり
と笑うと、そこかしこに隙間があるばかりか、何
本も傾いている歯ならびがあらわになった。しか
し、そんなこととは関係なくお日さまのように魅
力的な笑顔だった。
「わざわざ来ていただいてありがとうございまし
た、エピング先生。本当に感謝してます」
「こっちこそお招きありがとう。ぼくのことは
ジェイクと呼んでほしいな。これはね、父親でも
おかしくない年齢の生徒たちに与えることにして
いるちょっとした特典なんだ」

 ハリーはしばらく腑に落ちない顔を見せていた
が、やがて声をあげて笑いはじめた。「おれはそ
んな年だっていうことか? こりゃまいった
ね!」
 ぼくも声をあげて笑った。まわりでも、たくさ
んの人たちが笑っていた。もちろん泣いている顔
もあった。ぼくにとっては簡単に出てこない涙だ
が、あっさりと流せる人は大勢いる。
「それにあのA+! まいったね! 自慢じゃな
いが、あれが生まれて初めてのA+だったよ。予
想もしてなかったし!」
「当然の結果だよ、ハリー。さて、ハイスクール
の卒業生として、まっさきになにをするつもりだ
い?」
かげ
 つかのま、ハリーの笑みがわずかに 翳 った─
─これまで考えていなかったことを質問されたか
らだ。「とりあえず家に帰るかな。ゴダード・ス
トリートの小さな借家に住んでるんだ」いいなが
ら修了証書をかかげる──それもインクがかすれ
るのを心配しているように、指の先だけで左右を
つまんでいた。「こいつを額に入れて壁に飾る
よ。それからグラスにワインを注いでソファに腰
を落ち着け、寝る時間までじっくりとながめてい
ようと思ってる」
「すてきな計画だね」ぼくはいった。「でも、そ
の前にぼくにつきあってハンバーガーとフライド
ポテトでも食べにいかないか? いっしょに〈ア
ルズ・ダイナー〉に行こうじゃないか」
じゆうめん
 最初はてっきり 渋 面 が返ってくるものと
思っていた。当然のことだが、ハリーもわが同僚
の教師たちとおなじだろうと勝手に思っていたか
らだ。ぼくたちが教えている生徒の大多数にい
たってはいわずもがな。彼らはみな〈アルズ・ダ
イナー〉を疫病の巣みたいに避け、学校の筋向か
いにある〈デイリークイーン〉や、州道一九六号
線ぞいの〈リスボン・ドライブイン〉が昔あった
場所にある〈ハイ‐ハット〉あたりに足しげく
通っている。
「そりゃうれしいね、エピング先生。喜んでつき
あうよ!」
「ジェイクだ。忘れたのかい?」
「ジェイクね。わかった」
 そこでぼくはハリーを連れて、〈アルズ・ダイ
ナー〉に行った。教員でこの店の常連になってい
るのはぼくだけだった。この年の夏にはウエイト
レスをひとり雇っていたが、いまは店主のアルが
給仕をこなしていた。いつものように、煙がくす
ぶるタバコを口の端にくわえ(公共の飲食店での
喫煙は違法だったが、そのくらいでタバコをあき
らめるアルではなかった)、そちら側の目を煙た
そうに細めていた。折りたたんである卒業生用の
ローブを目にして、なんの行事があったかを悟る
おご
と、アルはきょうの勘定は店の 奢 りだといって
きかなかった(どんな勘定になろうともだ。と
いっても〈アルズ・ダイナー〉の料理は昔から
ずっと驚くほど安価で、これが近所一帯で迷子に
なったペットの動物がたどった運命にまつわる噂
のもとになっていた)。アルはさらにぼくとハ
リーの写真も撮り、後日〈街の有名人の壁〉にか
かげた。ほかの〝有名人〟たちには、ダントン宝
石店の創始者であるアルバート・ダントンや、元
リスボン・ハイスクール校長のアール・ヒギン
ズ、ジョン・クラフツ自動車販売の創業者である
ジョン・クラフツ、そしてもちろんセント・シリ
ル教会のバンディ神父(神父の写真は教皇ヨハネ
ス十三世の肖像画とペアになっていた──教皇は
キヤツトリツク
地元民ではないが、〝善良なる 猫 舐 め 〟
を自称するアルが崇拝していたのだ)。この日ア
ルが撮った写真のハリーは、満面の笑みを顔に見
せていた。ぼくはその隣に立って、ハリーといっ
しょに修了証書をかかげていた。ハリーのネクタ
イはちょっぴり斜めになっていた。そんなことを
覚えているのは、斜めになったネクタイを見て、
ハリーが小文字のyの最後にかならず小さな曲線
を書き添えていたことを思い出したからだ。ぼく
はなにもかも覚えている。そのことは鮮やかに覚
えている

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