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『キリスト教の精神とその運命』

LT21−1037E 王紀元

1、
第二章では、ヘーゲルの理解するイエスの態度においてユダヤの律法道徳は、客体として
の「聖なるもの」による統合がユダヤ民族に自分自身を放棄させ、
「聖なるもの」へ従属させ
ているようなものであった。それに対し、イエスはそうした統合による禁止や客体的な命令
への隷属(実定性など)を侮蔑し、そこから分離した。そこで客体的な命令への隷属を超え
る立場においてイエスがそれに対置したものは、人間の「主体性」であった。「聖なるもの」
への侵犯と人間欲求(傾向性)を承認し、人間主体をその内面の全体性において回復しよと
したイエスによって、支配-従属という実定的な精神は主体的に超えられた。それらを可能
にしたのは、和解精神によって「聖なるもの」への「侵犯行為」を承認することであった(p.66)。
そのような侵犯への承認によって主体性は律法における実定性に、愛は当為と命令にとっ
て代わり、そして律法を律法としては廃棄し、和解精神において人間にはもはや律法の律法
としての形が不要となり、それは侵犯に承認を与え、法と傾向性、嗜好との統一(律法の成
就〔充足〕)、客体と主体との対立から綜合への移行が行われたからだ(p.78)。そこで「聖な
るもの」と「法」に主体性と傾向性を持ち込むことによって「法」の止揚がなされたといっ
た点について興味深く感じた。イエスの承認によって実定性を乗り越えた「法」においてま
さに一種「逆転」が起こったのではないかと考え、バタイユのいう「聖なるもの」の両義性
を踏まえ、侵犯は禁止(タブー)の否定ではなく、禁止の超越とその補完であるという論点
から「法」について論じてみたい。(680 字)

2、
1「聖なるもの」=「法」=「神話的暴力」⇔「専制君主」
法と傾向性、嗜好との統一、客体と主体との対立から綜合への移行といった弁証法的な移
行において「法」・「禁止」と、それに対置されたものとしての「違反」・「侵犯」との関係は
止揚されただけではなく、
「法」が自己補完的な性格をもつようになったように思われる。と
いうのは法の実定性にとって代わる和解性と主体性は、律法を律法ではない形としての「法」
の成立の支えとなったからであり、侵犯行為が否定ではなくなり、行為の対象と和解したか
らである。そこで私が着目したい点がわかる。
すなわち、この和解性(傾向性への承認)によって、
「違反」が違反する相手の「法」に依
存するといった関係が逆転されたことである。しかし、元々「禁止」と「違反」は「聖なる
もの」、あるいは「法」という形で客体には無く、主体にしか存在しなかった。それを論じた
バタイユのいう「聖なるもの」とその両義性を借り、先に私の論点を述べ、そしてその両義
性を踏まえて止揚された「法」のあり方に生じた逆転の具体的な過程を述べ、最後にその弁
証法的な逆転を経た「法」を「神話的暴力」として捉え直してみたい、さらに「聖なるもの」

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という整体における「禁止」と「侵犯」は承認を得て「法」そのものに移行した論点を踏ま
え、ドゥルーズ+ガタリの述べていた「専制君主」における「法」という「書体」と「音声」
の従属関係を取り上げ、「法」のもうひとつの出来上がり方を考察してみる。

1−2 承認された「侵犯」とユダヤ民族における「法」のゆくえ
弁証法的な過程をへて「法」そのもののなかに何か逆転的な変化があったように思われる。
すなわち、欲望を抑圧する作用としての「法」から(人間諸欲求と主体性の回復によって)
欲望を維持するものとしての「法」へ移行したということである。イエスによって「法」に
一方的に依存する「違反」における「法」から逆に「違反」に依存する「法」となった。と
いうのは、ユダヤ民族の実定性においては、侵犯行為が神からの絶対的な隷属のもとに行わ
れることであり、神的な客体としての「聖なるもの」や「神事法」に対しても従属の姿でし
かないからだ。また、それまでなかった「違反」に対してユダヤ人の「法」は、その揺れ動
きの姿を一切見せてくれないような実定性があるゆえに、
「違反」を自分の中に含ませるよう
な自己補完をなすことができないからである。
したがって、絶対的な位置に立った客体のもとに自分の外部にあるその権威にすがって自
分の規定を行うという絶対的な依存状態では、
「聖なるもの」は元々神に関連し、従属するよ
うなひとつの客体として「法」に禁じられた不可侵のものではあった。しかし、そこで人間
の諸欲求と主体性、傾向性への承認により、禁じられた「聖なるもの」と「法」はいったん
和解し、同じく愛の次元に置かれて統一されることになった。そのため「聖なるもの(法)」
に一方的に依存する「侵犯(違反)」における「聖なるもの(法)」からその逆となり、つま
り冒頭に述べた逆転がこの主体性の回復と承認によって行われたのである。
こうして逆転の運動において、
「法」に対する違反が「法」を危うくするどころか、実際は
その究極の支えとして働いているようになった。違反が違反する相手の「法」に依存し、そ
れを前提としているわけではなく、むしろ、逆の方がずっとと言えている。
「法」の方が、そ
れに内在する違反に依存するようになり、実定性が介在しないがゆえに「法」と「違反」と
の自己補完が生じる。いわば欲望の抑圧から欲望の維持への逆転なのである。
ところで、それらはすべて神と人間との相互承認によってはじめて行われていた。ヘーゲ
ルによれば、神と人間との和解=無限的精神と有限的精神との和解とは、キリスト教におい
て神の側から人間との和解がもたらされることによって、人間は神のなかに自分の無限な精
神を自覚することができるということであった。第二章ではそうした承認の精神、神との交
わりは、最初イエスの登場によって実現され、つまりそれが窮状においてしか起こらない「聖
なるもの」への侵犯を介したイエスによる信徒との最初の相互承認であった。信徒の侵犯行
為をイエスが代弁し、ある種の相互承認によって和解が生じ、欲求と侵犯とを統一し、それ

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をヘーゲルが「法」のなかに持ち込んでいった。
しかし、そこではイエスは主体性を回復し、客体としての「聖なるもの」と信徒の侵犯と
和解させるには、まず自ら主体としてでなければならなかっただろう。だとすれば、
「聖なる
もの」と侵犯行為を分離から和解において統一するために、いわばイエスが「聖なる者」と
化した。ただ、そのように承認された「聖なるもの」は「聖なる者」によって禁止の領域か
ら脱出されたものの、この一回的な脱出によってあり続けるべき承認を成り立たせることが
できなかったろうか。

1−3「聖なるもの」の両義性とその分離
それはともかく、そこからまず分かるのは「聖なるもの」は信徒を戦慄させ、畏怖させ、
不安に陥れると同時に、信徒を魅力し、引き付けるもの何ものかでもあり、というのはまさ
にバタイユが『エロティシズム』において述べていたように「聖なるもの」が客体には無く、
直接的に最初から主体にしか存在しないからである。
それを踏まえると、この「聖なるもの」の両義性を敢えてそれぞれ客体と主体においてみ
れば(これはまさにイエスが行ったこと)、侵犯された「聖なるもの」は人を戦慄させるが、
侵犯を承認するために主体化した「聖なる者」は人を魅力し、引き付けるものというように
捉えられるだろう。たが、バタイユはそういった「聖なるもの」の両義性を、まず「禁止す
る」ことにおいて見いだし、
「聖なるもの」が自らを制限に服従させ、規範づけると同時に禁
じられた「聖なるもの」をあえて侵犯するというこの二重のプロセスとして聖性の感情を初
めて発生させたということである。重要なのは侵犯は結果として発生するのではなく禁止と
ともに発生する主体的な感情なのである。そこでバタイユが指し示したように「聖なるもの」
は極めて主観的なもので主体にしか存在しないということが分かる。

1−4「聖なるもの」の分離の一部への承認=「不在」への承認
そうしたバタイユを踏まえて考えてみると、聖性によってイエス(神)が実体化され、本
来主体の意識にしか存在しない主観的なもの(聖なるもの)を、キリスト教―――イエスに
よる主体性の回帰によって―――は実体化した。つまり、神は人格化されてしまった(聖な
る者)。そのため、主体的でしかあり得ない人を戦慄させると同時に人を引き付けるといった
「聖なるもの」への感情は元々客体には無いのに、イエスはそれを客体と見做し、しかしそ
うすると単に「対象なき瀆聖行為」に、つまりある種の「不在」に承認を与えてしまったに
すぎないことになる。しかも、逆にそうではないと「不在」への承認によって当の人間の主
体性の回復(と和解精神)も成り立たなかったわけである。
ここで「法」と「違反」の関係の逆転に戻って考えてみると、まさにそこから、そうした

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「不在」への承認によって成り立てた侵犯への正当性づけは、
「法」の次元にまで移行してし
まった。というのも、
「法」は前述した傾向性、嗜好との統一(=イエスの承認による聖なる
ものと侵犯との和解)、客体と主体との対立から綜合への移行が行われたからだ。しかし問題
は「不在」への承認、客体にはなかった「聖なるもの」への承認に基づいているのだ。
つまり、弁証法的逆転を経た「法」の根拠は「不在」からくるのである。であれば、最初
「聖なるもの」それ自体が禁止である同時に、禁止への侵犯に依存しているようなものはい
ずれも主体にあったが、イエス自身の主体化と人間の主体性の回復のために禁止と侵犯がそ
れぞれ客体と主体に分けなければならなかった 1。そうして「聖なるもの」から分裂した一部
を受け取った「聖なる者」は、主体として主体の次元に置かれたとみなされる「侵犯」に承
認を与えることが可能となったのである。このように、承認を得た主体と客体の分離を経た
「聖なるもの」から、それと同様に「法」とその「違反」との間の関係にも成り立つことが
分かるだろう。

1−5「不在への承認」による「法」の逆転→「神話的暴力」
ところが、主体的な「聖なるもの」が客体とされたがゆえに「不在への承認」であること
とそれによって成り立てた「法」を否定したいというわけではない。それはちょうど、ラカ
ンのいう(シニフィエなきシニフィアンでの)
「不在の価値」という逆説的な概念において「不
在」によって主体と精神を成り立たせる精神の根拠なさと多様性を示したように、
「不在」に
よった法の弁証法的逆転は主体にしか存在しなかった「聖なるもの」を客体に置かせる同時
に主体を定立することで、両者の対立が止揚されたことにより、バタイユの考えた人間のは
じまりが聖なる世界にあったことを時代的にも逆転させたことには「不在の価値」があると
は言えなくもない。
しかし「不在」だからといって、それは「聖なるもの」と「法」を同質的なものにさせた
無根拠さとしては見逃せない「法措定的」かつ「法維持的」な性格も見えてくる。すでに論
じたように「不在」への承認に基づいた「法」がその違反に依存し、自己補完、自己維持を
成し遂げるようになった。というのも、客体とされた聖なるものに依存する侵犯が承認され
たように、違反が承認されうることになって「法」が措定を行い、違反→承認→法→違反→
承認→法といった相互依存的で自己補完的な法となったからである。
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1:ジジェクの有名なジョークをみれば、そのイエスによる「法」の逆転がわかるだろう—————「キリストは人々を罪から解放し、アダムの堕落
の遺残から解放するために地上に降りて来たのではない。逆であって、キリストが地上に降りて救済を施すことができるようになるためにアダ

ムは堕落しなければならなかったのだ」。(『幻想の感染』p.126)

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その意味で「違反」というのはまさにそれまで承認されなかった暴力のことであろう。だ
とすれば、そうした「法」と「違反」の関係は直ちに「神話的暴力」として捉えられる。ベ
ンヤミンが『暴力の批判的検討』で述べていたように、
「こういった弁証法的な揺れ動きの法
則が生じるのは、まず、どのような法維持的暴力にせよ、それが存続していくうちに、敵対
する暴力を抑圧することで、法維持的暴力のなかに現れている法措定的暴力を間接的に自ら
を弱めることになるからだ」。(『ベンヤミン・アンソロジー』p.78)
「法」が存続していくうちに敵対する暴力を抑圧することで、法維持的力のなかに現れて
いる法措定的暴力を自ら弱めることになって「法」はこうして絶えずに補完され続けていく
のだろう。まとめてみると、
「禁止」と「侵犯」は主体における「聖なるもの」そのものの二
つの異なる様態であったが、
「聖なるもの」の禁止を客体、侵犯を主体とされ、神は主体性を
回復するために、客体と主体を和解させる同時に客体に承認を与え、そして主体性を高揚す
ることで「法」が止揚された。このように、
「侵犯」は「聖なるもの」に依存することから「聖
なるもの」は「侵犯」に依存し、補完をすることへ、それと共に「違反」は「法」に依存す
ることから「法」は「違反」に依存し、補完をすることへ逆転ということを論じてきた。

2 専制君主における「法」の出現とその還元不可能性
ところで、全く異なる事態は専制君主における「法」は「音声」とそれに支える「書体」
の関係において見いだされる。ドゥルーズ+ガタリは『アンチ・オディプス』において野生
社会から移行してきた野蛮としての専制君主社会では、
「法」が王の声に依存し従属すること
によってエクリチュール化されると述べていた。私の理解では野生社会での近親相姦の禁止
から野蛮社会での新しい縁組が作り出された時点で―――君主の身体の位置付けとしての
「神との直接的な出自」によって―――つまりコードの二重化(超コード化)が作動し始め、
君主の告示の体系(法律)と徴税の台帳(身体が登記されること)などが出現する。すなわ
ち、専制君主機械が一旦形成されると、表象についてのコード(le code には法律という意
味もある)が出現する。そこから、そのよう専制君主において「書体」と「音声」の関係に
ついて彼らが以下のように述べている。
「野蛮なる諸文明において文字が書かれているのは、この文明が音声を失ったからではな
い。そうではなくて、文字の体系がその独立性と固有の次元を失い、音声に忠実に従って、
音声に従属したからである。このため平気でこの文字の体系は、脱土地化した抽象的な流れ
をこの音声から抽出して、エクリチュールの一線的直系的なコードの中にこの流れを保存し
反響させることになる」(p.245)
専制君主の「声」が決定的で中心的な権威を持ったことの意味がわかるだろう。野生社会

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での多様的なコードを持っていた「書体」が、君主の「声」を線型的に再現するだけの媒体
(写しとった声の翻訳としての法)へと格下げされてしまうというように理解できる。だが
それは、野蛮において「声」がそのまま翻訳し、再現されるわけではなく、
「声」を脱土地化
し、表象として抽象化した上で再現するのである。そして、神の声としての「聖なる声」が
「音声」に依存する「書体」が「法」という形で現れてくる一方で、この「書体」はまた「聖
なる声」という無言の音声を自分に従属させることになると彼らは述べていた。
「要するに、同じひとつの運動の中で、一方で、字体は音声に依存し始めるとともに、他
方で、この字体が天上あるいは彼岸の無限の音声(今度は逆に字体に依存し始める無言の音
声)を引き出してくることになるというわけである。」(p.246)
無限の音声はまさに聖書のもとになったとされる神の啓示のことばのようなものであろう。
それはつまり「書体」は聖なる声を再現するようにふるまいながらも、実際は「声」を翻訳
し、その中身を左右することで「書体」それ自体の力を自ら補完することになると言えるだ
ろう。そういった「音声」←「書体」←「無言」という流れのなかで「法」というエクリチ
ュールが出来上がり、それは前述した「法」におけるそれ自体と違反の関係よりもっと一個
前の段階のことである。ただし、内実的にはいずれの段階に注目するとしても自己維持的で
相互依存的に見える。
すなわち、専制君主において王の身体は特別な身体(神との直接的な出自)とされ、そこ
で王の声は、王の声の写しとしてのエクリチュールによって布告されて「法」となるという
ことである。
「写し」は「声」に従属してはいるが、それと同時に「無言の声」が降りてこな
ければならず、この声は「写し」に依存し始める。いわばそれは「聖なる声」であって神と
の直接的な出自をもつ人間がしかそれと接触することできず、自らそれを自分の声と関係さ
せて正当化することで最低層の「写し」としての法が補完されることないが、異端の「写し」
(つまり侵犯と違反)が現れてきた際に「聖なる声」が「王の声」に依存するがゆえに、再
び訳されて「王の声」はまず補完される。

2−1「書体」と「音声」から隔絶した違反
それを踏まえると、前述した法は「聖なるもの」への侵犯に承認を与えることによって逆
転され、違反に依存し、違反によって補完するような法となったが、専制君主の法は違反に
依存するのではなく、声に依存しながらも、もうひつの声が法に依存する。違反は直ちに法
のほうに届かない。ただ、まず声に届くのだが、しかし途中で無言が現れてきて違反がいっ
かいせき止められ、法それ自体に戻って依存し黙らなければならないかというと、しかし声
に届けるようにもならなければならない。
であれば、どこにもいけなくなるようなこの違法のジレンマをいかに理解すべきだろうか。

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要するに補完されるのは法ではなく、
「聖なる声」のみが補完可能であり、それこそ専制君主
の実態である。違反に依存するどころか、違反が法に依存するでもなく、法と違反の間に断
層に置かれている「聖なる声」が専制君主における法の本体であり、法秩序それ自体といえ
る。
「聖なる声」が依存する「写し」としての法=王の声は承認に基づいてのではなく、それ
自体に基づく。いわば、イデアのような「聖なる声」という法秩序において神話的暴力でも
神的暴力もあり得ず、絶対的違反不可能の支配によって現世的な法が想像できないほど頑固
な実体なのである。
したがって、違反は「空想」という形でしか現れ得ないようになり、マルクスが述べたイ
デオロギーのもっとも基本的な定義のように「彼らはそれを知らない、しかしそれをやって
いる」のである。しかしもっと言ってみれば、それよりはむしろ、違反というのは現実界の
レベルで法(秩序)を「知らない」のではなく、違反を「やっている」というイデオロギー
的空想によって専制君主のそうした社会的現実が構造化されたのだろう。というのも、違反
という欲望はどこにも届くことができず、それを自分にそのまま還元することもできず、
「空
想」としての違反がしか起こり得ないからである。

2−2まとめ
ユダヤ民族では、違法は法に依存し、全て異他的で客体の諸々の現れに従属する形で「聖
なるもの」への侵犯行為は一方的なものであった。それに対し、イエスの出現によって「聖
なるもの」への侵犯が承認され、主体として「聖なるもの」を分離させながら止揚し、それ
によって「法」が客体と実定性から離れ、主体性への回帰が行われた。しかし、その「法」
の全体としての「聖なるもの」は最初から極めて主体的なものであり、イエスはそれをあえ
て客体に置かせたため、承認の指向はある「不在」であった。ただ、
「法」それ自体が逆転さ
れた事実が見えてきた。つまり、法は違法に依存し、自己補完を成すことが可能となった。
それに対し、違反を暴力から欲望として捉えてみると、専制君主では、法が確かに声に依
存し、法が法の形で機能しているが、法が自己補完を行わず、
「聖なる声」としての法は不動
の動者のように違法との連動を欠いていながら、法秩序の全体を自ら働かせているようなも
のであると論じてきた。なお、自己補完としての法と違法が空想でしかないような法秩序と
しての法を対比することで現代社会での各イデオロギーの実態も見えてくるだろう。極めて
「法」が混み合っている世界では、論じてきたいずれの法の様態も存続しているだろうし、
「逆転」が常に起こっているような(逆に一切起こらないような)
「法秩序」はまさにふたつ
の「法」の様態が合体したものとなり、それをまた見出す必要があるだろう。(7705 字)

参考文献:

7
『キリスト教の精神とその運命』
LT21−1037E 王紀元

『キリスト教の精神とその運命』G.W.F.ヘーゲル、平凡社、伴博訳、1997

『アンチ・オイディプス』G.ドゥルーズ F.ガタリ、河出書房新社、市倉宏祐訳 1988

『幻想の感染』スラヴォイ・ジジェク、青土社、松浦訳、1999

『ベンヤミン・アンソロジー』ヴァルター・ベンヤミン、河出書房新社、山口訳、2021

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