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――目次――

1,宗教学徒の使命,日本宗教学会第6回大会開会に際しての挨拶,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-4.

2,基督教団の政治機構について,相原一郎介,Icirōsuke AIHARA,pp.5-7.
3,宗教的実存,青地正長,Masanaga AOCHI,pp.8-13.
4,宗教即生活への一考,藤本一雄,Kazuo FUJIMOTO,pp.14-23.
5,宇宙観の如何と宗教の職分,帆足理一郎,Riichirō HOASHI,pp.24-29.
6,宗教における合理性の問題,星野元豊,Genpō HOSHINO,pp.30-34.
7,宗教的関係における主体の問題,石津照璽,Teruji ISHIDSU,pp.35-41.
8,仏教の解脱的態度と宗教,近藤嘯雲,Shōun KONDŌ,pp.42-47.
9,宗教における現実止揚の問題,諸井慶徳,Yoshinori MOROI,pp.48-53.
10,宗教と系図観念の問題,村田格山,Kakuzan MURATA,pp.54-59.
11,論理の超越と超越の論理,長沢信寿,Shinzyu NAGASAWA,pp.60-66.
12,宗教的儀礼における生と死,中村康隆,Kōryū NAKAMURA,pp.67-73.
13,宗教と科学,西谷啓治,Keiji NISHITANI,pp.74-80.
14,宗教的社会結合,宗教集団の類型とその性格,小口偉一,Iichi OGUCHI,pp.81-87.
15,救済論を中心とするブルンネル神学と親鸞教学について,岡邦俊,Kunitoshi OKA,pp.88-95.
16,宗教と弁証法について,柴野恭堂,Kyōdō Shibano,pp.96-101.
17,宗教と政治,島原逸三,Itsuzō SHIMABARA,pp.102-106.
18,最原始民族の神観念について,棚瀬襄爾,Zyōji TANASE,pp.107-113.
19,宗教的人間学の構想,田沢康三郎,Kōzaburo TAZAWA,pp.114-119.
20,仏教と国家性,禿氏祐祥,Yūshō Tokushi,pp.120-122.
21,国家と宗教との関係と基督教の寄与,富森京次,Kyōji TOMIMORI,pp.123-128.
22,供犠論の整理,宇野円空,Enkū UNO,pp.129-133.
23,初代教会における殉教思想,有賀鉄太郎,Tetsutarō ARIGA,pp.134-140.
24,「神の国」について,福富啓泰,Keitai FUKUTOMI,pp.141-145.
25,初代基督教会の信仰告白とピリピ書2・6-11,橋本鑑,Kan HASHIMOTO,pp.146-151.
26,神名,ヤーウェーについて,石橋智信,Tomonobu ISHIBASHI,pp.152-157.
27,中世仏教徒の神祇観とその文化,鏡島寛之,Hiroyuki KAGAMISHIMA,pp.158-163.
28,サンバイさん,神根悊生,Tesshō KAMINE,pp.164-172.
29,イエスの譬に関する一考察,特に其の神学的意味内容について,菅円吉,Enkichi KAN,pp.173-181.
30,道教の仏教的擬装,金山龍重,Ryūzyō KANAYAMA,pp.182-188.
31,本邦における山岳修行について,岸本英夫,Hideo KISHIMOTO,pp.189-194.
32,明治仏教企業の特質について,上坂倉次,Kuraji UESAKA,pp.195-200.
33,仏教特に禅宗の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響,来馬琢道,Takudō RAIBA,pp.201-206.
34,我国における鏡の宗教的意義,前田泰次,Yasuji MAEDA,pp.207-213.
35,日本戦史に現はれたる宗教体験,西沢頼応,Raiō NISHIZAWA,pp.214-228.
36,イエス並に同時代のラビ,ヒレル,大畠清,Kiyoshi ŌHATA,pp.229-232.
37,上代における聖徳太子信仰についての一二の考察,小倉豊文,Toyohumi OGURA,pp.233-238.
38,神学としての原始基督教史,岡田稔,Minoru OKADA,pp.239-244.
39,日本学より見たる降臨思想について,小野正康,Masayasu ONO,pp.245-251.
40,自信の体制としての回教,佐木秋夫,Akio SAKI,pp.252-257.
41,中世の神仏相関思想,竹園賢了,Kenryō TAKEZONO,pp.258-262.
42,源氏物語の神祇観,多屋頼俊,Raishun TAYA,pp.263-269.
43,三世実有説の一考察,舟橋一哉,Kazuya FUNAHASHI,pp.270-276.
44,維新の教化政策と仏教,古田紹欽,Shōkin FURUTA,pp.277-283.
45,法爾の思想,羽溪了諦,Ryōtai HATANI,pp.284-289.
46,本仏実在論,河合陟明,Akira KAWAI,pp.290-295.
47,秘密行法の性格,加藤章一,Shōichi KATŌ,pp.296-301.
48,仏成道を中心とする大乗仏教々判,木村日紀,Nikki KIMURA,pp.302-310.
49,浄土真宗の仏性論について,桐溪順忍,Zyunnin KIRITANI,pp.311-316.
50,禅の本質構造と心性の問題,増永霊鳳,Reihō MASUNAGA,pp.317-323.
51,異門(paryāya)といふことば,長尾雅人,Gajin NAGAO,pp.324-331.
52,遵式の浄土思想に現れたる『往生要集』,苗村高綱,Takatsuna NAEMURA,pp.332-337.
53,阿閦仏国経における浄土の意義,西尾京雄,Kyōo NISHIO,pp.338-344.
54,有自性論における仮説と唯識論における仮説について,野沢静証,Seishō NOZAWA,pp.345-351.
55,仏教典籍上における高麗義天の事業並に其価値,大屋徳城,Tokuzyō ŌYA,pp.352-357.
56,王法為本の溯源的考察,佐々木憲徳,Kentoku SASAKI,pp.358-363.
57,三世両重因果と異熟業感の実践的意義,全体と個の関係を中心として,佐藤密雄,Mitsuo SATŌ,pp.364-
369.
58,漢訳法華経の有翻闕本について,塩田義遜,Gison Shioda,pp.370-376.
59,親鸞聖人の国家観,杉紫朗,Shirō SUGI,pp.377-381.
60,聖徳太子御製維摩経義疏における二三の問題,田中順照,Zyunshō TANAKA,pp.382-388.
61,支那における無量寿仏と阿弥陀仏,塚本善隆,Yoshitaka TSUKAMOTO,pp.389-394.
62,唯識の破析する極微説について,山口益,Susumu Yamaguchi,pp.395-400.
63,日蓮聖人の国神観,山川智応,Chiō YAMAKAWA,pp.401-405.

第6回大会記事,pp.406-410.

Posted in 1940(昭和15)年
宗教拳徒の使命
− 日本宗教学合第六同大合開合に際しての挨拶!
崎 正 治
この記念すべき年に、その奉祝の意を表して此の犬舎を開く事は、我々共々慶成し、叉意義深い事と考へる。
又今岡は始必て東京以外の地に開くについて、特にこの千年の古都、日本宗教の淵源に禽合し得ることも、研究
といふ事に加へて感慨の濃かなものがある。而して此をなし得るには、偏に龍谷大拳の御好意に依る事で、其鮎
を畢長始め嘗局各位に感謝し、諸君と共に厚く謝意を表したい。
今日の世界が如何なる欒他の時期を経つつあるか、何人も目前に激欒を見てゐる。併し此の欒此が人類文化に
とつて如何なる意義があるかについては伺ほ深く考究すべきものがあらう。政治や経済の事のみならす、進んで
精紳文化の根底に入つて一大韓換のあるべことは何人の考にも浮かぼうが、その深い意義について何人か展性叉
的確にその意義を捕へてゐようか。我等宗教研究者にとつて此の問題は賓に重大の課題である。

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譲政孝徒 の 使命
宗教畢徒の使命 二
古雅歴史の韓換斯に際して、人間精紳の動括が種々の形で著しい現象む呈し発ことは今;述べるまでもなか

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らう。韓換が深刻であればあるほど、人間は共に伴って自己の蓬命又は使命について深く考へるもの
ひは疑惑や失望になる専もあらうが、その失望の中にも何かの光明を見出さうとし、或は新な理想の
て人間の運命叉使命に新方向む開巻して雄た専も少からすある。その感激が如何なる形をとつても必
教的色彩と熱情とを呈することも、今までの歴史が我々に示す所である。其等の新気運に封して宗教
った場合もあれぼ、その結果として現れた費例も、一々列車する要もない位であつて、文化樽換の動
はゞ地の底深く湧き出す力を誘ひ起こし、人生観又信念として一世を動かす運動が生する。此の如き
を得、定形を具へて宗教となる。郎う形を具へた宗教としては、多く文化韓換の結果として、文人心
末として硯はれるが、その根底たる感激や理想の湧起は、文他の欒特に埜止ち、共を促す原動力とし
化の路を告げしめる力として動く。此等の消息を歴史資例によつて指摘し、又其の意義を蟄揮するこ
徒の重要任務であるが、今こゝにはその説明講究には入らすにしておかう。
そこで現在の文化欒韓を観察して見るに、直凛には東西両方にある戟季につれて主として政治経済
れてゐるが、其等眼前の事欒を起させるに至った根底がどこにあるかといふ問題が、我々にとつて重
願れぼ所謂る現代文化は三四百年前の新大陸牽見や新科畢特に物理的諸畢科の開巻で、党つ利用厚生
し、人間生活の諸方面を豊富にした事は畢ひ得ぬ眼前の草葉である。然し、此の利用厚生が果して人
異に宰相にしたかと問ふて見ると、徳渾の方面に眼が眩むでゐる人でない限り、現代文化が眞に人生
資したとは云はれない。何故といへぼ、人間の欲望は、これで飽和鮎になるといふ終局のある
満足は又更に新な欲望を誘聾して轟きない。而して蓋きない欲望を追求して止まる所を知らな
一方︸歩一歩欲望の勝利を占めるといふ喜びと勇気とが現れるが、其と同時に叫画に必ず、あせり、もがき、い
らだつ精細状態む伴ひ、其が欲望む過度に刺激してはどうしても菅悶煩悩の深みを加へる。現
め出してゐるスピード熱、闘争精細、又神経過敏や痙攣状態などは、皆その現れでなからうか
も豊富で利用厚生の最も高等に達してゐるアメリカなどで、此等の徴俵が最も激しく現れてゐ
面目な考究を要するものがあらう。而して此の如き動托激動の中に、人類の精神的要求はどう
具が今までに出来上つて形む具へた宗教にも、又その様な組織をももたぬ宗教心にも、如何の
るか其が此から後如何なる方向に如何なる力で贅勤し、又其が脾衆人類をどう導いて行かうか
とつての最も重要で叉切迫した問題を輿へてゐると息はれる。
我竺学徒は視覚目前の事象に冷淡であつてはならぬといふ事は勿論の次第である。其は此の
切迫の要求として、その克たる畢徒が、超然であつてはならぬといふ事のみならす、現代の如
換斯は我三示教峯徒にとつて無上の研究資料を提供し又深く考慮すべき問題む眼前に顔出して
ふ事をも含む。即ち直哉有形の動揺についてその表面に含まれてゐる事茸や問題については、
覚用なり文理論なりの研究があるべく、我々もその一面に加はり得やうが、我々の本釆の使命
精細生活の根底に入るべきもの、従って直接現在の材料や問題を扱ふ拝しても深く根底む探り

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宗教畢徒 の 使命
譲教畢徒の使命 四
る見地を見失はない様にしたいと点ふ。此が如何にLて行はれるか、又如何なる方法む執るべきかといふ鮎につ

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いては、合貞各自の御考へもあるペく、叉措定すべき事でなからうが、右に述べた如き見地仝餞については合点
の間に大きな異見のない事を斯侍し又希望致したい。
右の如き希望が不嘗でないとすれば、その結果として、我々の研究に電場の必要に應する諸科畢と趣を異にす
る鮎があるといふ事も自ら出て来る結論と考へ、而してそこに我々の使命が一骨深く又遠いものがあるといふ事
を自覚すべきと考へる。此もー偶の私見であるは勿論ながら、其等の鮎も今岡畢合の諸種の研究報骨なり、叉今
後合点各位の研究にも現れて凍て、公明な討議を澄んことを切望する次第である。
基替歌固の政治機構に就いて
相 原 一 郎 介
基督教囲の政治機構を現存の情態に於いて、統理権と致命観念との二鮎から観察してその強度なるものを右極
に置き漸次左方に配列して見る。尭づ第一に羅馬力卜ザックであるが、之れは他の語数囲と封既的な形態を作っ
てゐる。統治の上から見ると、全教囲が幾多の地方教直に分たれ、各教直は一司教︵監督︶ に依って統治せられ、
互に相犯すことがない。統理横は全然教職に属し所謂教職政治を成してゐる。司教等は定期的に地方的に合議を
開くことあるも、拘束的のものでない。教養に関しては史上屡々世界合議に依り、信僚の決定を見たが、一八七
〇年のヴァチカン合議に於いて、教皇無謬権の成立を見るに至つて、全教囲の統理樺は教皇に統一辟結し、其形
態が完成した。
之に直援次ぐものは東方正教合︵一名希臓敦倉︶で、教区制に依る監督政治であるが、羅馬カトリックの如く
教職たる教皇の代りに、国王を以つて最高の統理者となした。膏露国正教や東欧語囲に其例を見る。之に類した
ものに、英国敦食や革命前の猫逸プロイセン及びバイエルン等がある。此等の教囲では統理榛の一部即ち俗務に

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基督故国の政治機構に就いて


基督敦圃の政治機構に就いて
関しては信徒も開興する事を得.只教養信傑に関しては教職階級の専有する構内に展する。然るに英次に乗る長

β甜
老政教圏に於ては、統理俸は原則として教職信徒金牌に巌するが、庸長老といふ一階級を認めて、運用され、三
段の合議に依って統治せられる。此形態に於ては完全にデモクラチックに成り、カトリック的猫裁政治と裁然封
立する。
次に置くべき合衆政治形態もデモクラチックな鮎に於ては長老政治と異ならない。只長老階級を炊き統理俸が
薄弱で中央機関等教囲組織が長老制度よ少ルースなるは、本来此政治形態が、次の猫立主養教脅の聾展した結果
から凍て居るし猫立主義とは一箇の地方的教禽をのみ認めるもので、何等他と交渉なく、其小範園内の統治に終
始してゐるものである。最後に位するものは一切の教合政治や組織を否定する無教合主義である。此虚に釆りて
宗教改革以釆、帝王と監督と長老脅からの自由を追求して信仰猫立の要請が極鮎に達したのである。
次に上述の諸政治形態と教合観念との間には又密凄な関係がある。カトリック教は教囲を以て唯一金一のもの
所謂唯﹁神聖、使徒的、公同にして不可分のものと見る。他に教圏があつてもそれは離教でありセクトである。
全くLて一つな教圃︵教合︶に於て地方的に聖堂を設けて、信徒の機舞に供し教育するに過ぎない。そこには信
徒の地方的な集りがあるのみ。此仝一的教国歌念は正教波及び英米聖公舎更に其から分れたメソヂストまで及ん
でゐる。即ち監督政治を取る教圏が之に属すると見るべきである。之に封立するのが禽衆政治形態と礪立主義諸
教合で、そこに金一教合の理念はあつても、神秘的結合に過ぎない。其具現である政治機構も単に友交的に止少
倫緊密を妖く所以である。此所者の中間に位するものが長老沢の教合観である。それは伺自己の教囲を谷二とす
る教国歌を持すると主張するも、個々の敦合に依って仝牒が組織せられ、随って場合に依っては、教固から一
方教合の脱退も、叉反封に猫立教合の加入も可能とせらるゝのである。
最後に宗教圃牒法た依ると、上述の諸政治形態は、地方的敦合を以て組織せられた教圃を認め、しかも教禽の
股返を認めざるが故に聾固な金一的でもある。而して其統治様式は新教各派に見る合議中心主義に代りて、統
者より地方教倉に一貫する行政機構を建て、合議は議決機関としてそれと並立若くは附随的地位に立つが故に
我国基督教図牌爽の政治形麒は各種の停統駒形厳から漸次猫特な形態に移り行くのではあるまいかと漁想せら
る。

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基督故国の政治機構に就いて

1ニ
宗 教 由 貸 存

′し

6β2
宗 教 的 賓 存
青 地 正 長
賀春が封象認識を絶した主題的、作用的なる何ものかである限り、賀春が貿存することむほかにして、貿存の
硯貿といふ如きものはあり得ないであらう。而して資存が現賛的に茸現する時、それは単に形式的にでなくLて、
具鰐的、内箕的に賀春するのである。賀存が具鰹的、内箕的に貿存するとは、賀春がその ︼首i賢¢完n に於て賀
春理念を内合しこの賀春理念の内合によつて賀春の 宅琵が具饅的内箕的に決定せられてゐることを意味するに
ほかならぬであらう。かくして具饅的、内箕的なる出舛訂ti①蒜nに於て、賓客は既に き訂註に中性的たること
はできない。海ゞ我々は賀春の出払数①r①nを形式的に出洛ti①亨笹コの亡妻競に於て把へ、こゝに賛有形成といふ
如きものを考へることができるであらう。然し賓存形成といふも、賓客理念と不可分たることいふまでもない。
箕在理念なき賀春形成はあり得ない。寛容形成が多義的たる所以である。賀春の 廿首i賢宰宰 に於て、賀春形成
のD監訊は、賀春理念乃至は本務性といふ如きものの決意的選操によつて、内覧的に充溢されるのである。本釆
性への決意的自己集中をほかにして、賀春の現或はない。然し本来性は二零的に新興的といふのでなく、却って
それへの解答が寛有理念の決定である如き課題的性格をもつ。それ故に本葬性への間は、自ら寛容の欝梼
は旺する已ととなるのである。
人間存在はその基礎的現有に於て可能的賀春である。馳ち存在の秩序に属すると同時に精細の秩序に廃
である。精神の秩序に深く解れるものとして、真布鱒1†現存がm邑票gEn乱宗。hたる把封Lて‡in d鍔
野i什m①hH巴s野itである。永遠に関れるのである。永遠に梱れるといふもそれは存在の秩序に巌するものとし
て、観念論的・抽象的・可能性の、精細の世界の如く紅、無現箕的・基想的旺無限ではない。然しそれは
の秩序紅屠するものとして、箕澄静的・自然的・機械的・必然性の世界の如く把無可能性的でもなぃ。箕
しろ有限と無限、必然と可能、村討と梶野、時間と永遠といふ如く、賂野に矛盾するものの主調的緊謹的
綜合に放かならぬのである。それは矛眉の止揚ではない。矛眉は現箕の構造そのもの紅ほか洩らぬ故把、
自覚が深きるに随つて止揚されゆくのではなく、却っていよいよ顛はになるのみである。恭し矛盾の蘇合
限具それは畢なる冒i眉巴ti昔①iオではない。矛眉は矛盾紅於て ﹁聯開﹂し、かくして統一的発布像の﹁秩序﹂
を形成する。矛眉はそれが一定の秩序と聯闊を輿へられることによつて﹁綜合﹂される。
賀春は格封矛盾の綜合として、その最も危機的な表現たる、死、無、限界状況といはるる如き、青鬼的
の紅画するものでなけれぼならぬ。否定的なるものへまでの童牒的・現箕的・極限的な過究なくLて箕存はない。
我々は無旺面接し否定的なるものに贋くことによつてのみ封存する。


藷 教 駒 賛 存


宗 教 的 箕 存 一〇
否定的なるものへの画境を回避L、絶封矛盾を隠蔽する所に所謂﹁身饅の人﹂があるであらう。それが単に現

ββ4
存的・基餞的人間といふのみならば、それは自明の同語反復にすぎぬでもあらう。身饅的現存が自覚にindi詳r①邑
なで乳乱臣︸i註k①itではなく、自覚関係的な]訝蜜許i註であカ、寛容資現の岩乱iumとして我々に託されたも
のの性格を持つ故紅のみ、自覚可能態の自覚快除として、単なる現存は頑落的である。自覚にindif許β什 でな
く、自覚の妖除である故に顧落である。
然し自覚映除が更にpO賢iくに、経験的現存の転封化を主張するならば、それは自覚排除の自覚形成といふ如
きものとなるであらう。それは自己の存在可能を敢て薇はんとするのである。本釆性といふも現存の自己主張を
措いて他にあり得ないが故に、精細的なA讐n∽は香足され、本来人間といふも①ineb①琶nd①r①ゴ宰胃什といふ
にすぎない。それ故に本乗性への道は、精細を排除することによ幻、生命のせr呂gの中に同此することによつ
てのみ開拓されるであらう。然し自覚排除の自覚形成が備酷酎、舞踏.麻酔剤といふ如き意識的技術を要する事
箕はへへ試①家臣①n。・ゴ①rが倍端的に①訂t註s各︰たり待ざることを示すものにほかならない。
然し絶封の矛盾が自己本死の運命であるならば、それは闇夜され回避さるべきではなく.まさに引うけらるべ
きであらう。我々は死に面超せねぼならぬ。死といふも現存の客観的死ではなくして、自覚関係的なる賀春的死
である。現存の経験的意識からは、死はたゞ傍観され、回避され、忘却され隠蔽されるでもあらう。然し賀春的
死は交附の 句已乳首it賢 として、賀春に封しいはゞ p旨fきd な意味をもち、資存がそこに於て自覚的.人格的
に蒜品i宰enしゆく魔のものである。箕存は否定的なる運命的限界たる死を、自覚的.選捧的に引うけることに
ょり、決意的な自己集中、自己決定に達する。そこに貿存の運命を賭する全慣的態度の選捧がある。
然しこの賢・Si臣・S①−b苧kOmm①nが、非本葬よカ本葬へとして、傭人間性内部に於ける移行にすぎぬならば、
それは自己意識の連層的昇騰として、侍人間のS①−b払tSi各年g㌘S。−bstb①告N の外に出でぬであらう。かくして
は否定性は侍媒介的にすぎず、賀春は眞には侍終末論的なるものに画しない。そこには侍日常nwi∈gk註 があ
る。賀春は我性的である。人間は GOtt習Wi旨te でもなくゴ籍 でもなくして、まさに自立的人間の謬i一乱臣・
sdb乳として、邑b諷訂邑i註に、eigβm紆hti的に、無を見、無と戟ふ。賀春の我的形成、寛容の自己充足であ
る。かゝる賀春の主権と責任と自由への自己信頼の極限にートトもとよりそれは、自己肯定のパトスの極限に於て
却って自らを焼きつくすにすぎぬとはいへ 一 哉々は悲壮ともいふべき、ヒエブリスの究極の自己昂揚を見得る
であらう。
宗教的賀春に於ては、死は人間性の範封否定の性格をもつ。全購入間の死である。媒介的死に於けるが如く、
人間性が死を根砥として成立するといふのみならす、それは倍賞存の根砥としての死として、傭人間性の中にあ
るものにすぎない。か1る死は侍欒様され、中和された終末論の性格をもつにすぎない。宗教的否定性は、賀春
の自己的自覚面に現れるものでなく、却ってか1る自己的自覚画そのものの死である。我々はもはや戟ふことの

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できない無、覚悟することのできない死に煩く。全くの絶望である。絶望は薬ではない。薬は侍蘇生の期待に於
宗 教 的 存
凄艶職箕存 ニー
て璧ら鷲。熱し蘇生を斯侍する如き死昧、侍眞の死冨ない。而して璽姦得Lて警等なく、雷の 鋪
死から蘇る朗に、宗教的賀春といふものがある。死はそれほど庭哲謹潅的なのである。か1る死卵生とし七、宗
教的賢春とは、賀春の庵勤番慶庵於て成立する朗の寛容とい払得る。それは畢陀人間的な、人間嘩を展鹿とする
寛容ではなく、赫の前に於ける、赫を尺度とする寛容である。融の前虹といふ時、人間は本葬鮨であ為。而L、て
そこ旺は危機的な断絶がある。驚布達横的な超越は、寛容の自己青鬼の極限旺放て求められ泡も取挺す哲ず、賀
春をして、超越的に基礎づけられたヒュブザスを誇らしむるのみである。宗教的賀春は匡笥nま︼li洛ei什 の死と
L宅、ヒ立プリスから目ing各e へである。悲壮から安らひ︵G①bOr的空をei什︶ へといふことができる。ヒエブリ
スの死は我の死、我の撫である。無計量である。然しそれは危機的現宜と⑳浪漫的宥和で接ない。それ政宗教由
寛存性安らひに於て偽悲壮である。然し我性的賀春の悲壮ではなくして、寛容形威の蓼藍⊥般の悲放である。
宗教的寛容は賀春形成の宅監に於てゞなく、そのD最 咤於で療姓なのである。殉教といふ如呑もの披か1る
賀春的性格をもつと考へられる。
寛春の語形成は、全館人間といふ如きものの諸契機めヤ面的強調といふのでなくLて、却つてそれらの自己主
張旺於て湊素性を鵜互魂除的に答へるものといふことができる。かくしてそれら綾それぞれ些濁立的であ男、自
己発給的であ鬼、非達磨的である。
それ故匿我々昧、寛容語形成の自己虫張を止揚し、そのA愚啓営声によつて金嘩人間に到少額るのではない。
重態人間の理念按却って寛春背理念の﹁中略﹂ある・のである。疇って賀春語形戌蛙芳書gき昏でなくA毎重富
である。然し﹂旨払尋PEは、安寧のj①邑已gな決意の事柄であ少、そこには如何なるIntO訂r箪ヨ由もなけれぼ強
制もない。﹁面々の御計ひ﹂である。然し宗教的賀春に於て、之は単に邑註ま邑琶Fな主観的閉鎖菅ほ憩い。
宗教的寛容は、主構の。ハトス的轟揚とは轟く連に、主鞋的には無根なる、最も客観的な 孤乱臣各村註
ある。それは自らの申に椒棲む有するのではなくして、その前に箕存が死して生くる底の根壕、牽已での
が息惟し、意志し、行動することの畢尭の意味が、眞に顛はとなるであらう所の蝦擦からし耳頻擦づげ
である。
宗教的賀春は∵それが単に宜存語形成に邑①n野呂d籍といふ.陀止らず、段階的、次元的l把よ多端吹であ亀
とさるる場合に於てさへも倫、賀春形成の特殊的一転塾として、賀春諸形成把相野約に野草せぎ基盤感
如くであり、随つて叉そこにAusw旨−といふものが春せざるを碍ないかめ如くやある。
然し宗教的箕存が単に自覚的といふのでなく、眞に琴邑i註といふ時、それ蜂箕有形成のj類撃よわもぎ訂
でなけれぼならぬ。眞にs覧Ei各﹁ に﹁ものに空かするぼか少なる﹂もののみが、眞に私なき無立場の立場に立
ち得る。我が道であカ、道が我である時、宗教的箕存は単に世界観的でなく、却って無世界観的であ亀
は賀春諸形成の単なる選掻はない。単なる箕存的決意はない。宗教的決意は、本釆決意するものなき決
するものなき選掻の性格をもつのである。

例汐
宗 教 的 存
乗数郎包括への︼考

∂∂β
宗教帥生活への一考
藤 本 一 雄
宗教々育と言ふ古い語は、何か新語に番へたいと思ふ程、宗教と教育が義行動を執る時勢に成つて釆て
教釦生活﹂等と、些極端な離をも使つて見たい束も薦出した。本年七月十日には、東重日米畢校女生徒
鶴見線持寺に垂絆し、新潟懸には、加茂朝畢校が公認され、葦酒の山門に入るを禁じ、女人禁制の捷の
っ空言にも、夫々彿敦短人倉を設打て、精進の字義さへ曾て経験せぬ様な愴侶の出現をも見る時代が追
た。﹁樺尊が今時生れ直して凍られ芸、御自身の数理の餞りな激舜に喚驚かれる事で誓う﹂と、其博士
聞いたが、﹁末世に我法破すべしと、蓬撃回教に堅 いてあつても、果して亡びるかどうか、今日では
欧洲に迄悌教の寺院を見る様に威つてゐる。クリスト教、マホメット教其の他の語数にも、関税時代に
定めて異常な欒遽があらう。柿崎博士が其の著﹁宗教と教育﹂の中で、﹁宗教も教育も、人間天飴の至
性に率った生活の貨現を期するに至っては一つである。人生は慈愛の生括融和の舞蔓であり、又それと
々の生命を支配する。⋮⋮宗教も教育も、人生の二方南の自覚を人に輿へるを以て目的とする。﹂
と説かれて以爽、宗教々育の問題が次第に接頭した。大正の末期から昭和にかけての過渡期にも、前述の卓見
者はあり乍ら、其の方法論には皆苦しんで、一向に定めがつかなかつた。私の昭和七年第二同宗教畢大倉の蟄表
に潮しては﹁菜数々育に何の必要があるか﹂等の奇問さへも宗教拳徒の聞からさへ蟄せられた。然L文部省でも之を
公立畢校教材の中に取扱ふ専を承認香奨励し始め、近釆は、前記加茂靭拳校が、堂々と公立中畢校に加入して、
而も話〓人不審を抱く者の無い迄に進んだ。塊て師範峯校中峯校にも、宗教峯科の入れられる時が凍ると信ぜら
れるし、事箕然うで無くてはなるまい。が、其の取扱ひを、一般の教材としてどう馬るかは、中々の大問題で、
前述加茂朝拳校の﹁仝校寄宿制匿、年前四時牛起床、全校鰹操冊分、校内清掃後坐繹冊分︰⋮・﹂は、甚面白い結構では
っても特殊教育の範囲で、到底一般へは向かない。公立拳校での宗沢宗教取扱は∵憐しまねぼならぬ。で、問題
は其魔に起る。若い者の嬢郎人格訓練に、宗教的信念出奔得べくんば信仰の力を加へると否とは、成人後の生活
に大きな影響がある。畏くも 上御皇室の御模範に逆く無宗教主張考き−幸徳秋水叫沢の様な無道な人々でも、
我子が藩道に迷ふのを喜ぶ筈は無いし、仝や宗教と関係の無い生活には居られるもので無い専は、性の問題と共
々、人生と不離の諸重要事項の中にある以上、一日も速に、殊に人々に正解せしめ、同心斯には通常に指導して、
出奔るならば信仰に入らせ、少くともこつの信念を抱く人物たらしめる事は、必要以上の専でなけれぼならぬ。
小中等拳校の生徒に就いて統計的に調べて見ても、宗教的雰囲気に親しむ家庭の子供程、操行もー般に良く叉人
物も確少してゐる。迷信は文化の進歩と共々次第に減少するが、侍指導の必要は快かされない。宗教と科畢とは、

ββ9
故央吹博士の語を為倍カすると﹁璧別と一所じや暮されない、お前無しでは暮されない﹂間柄にはあると見られるが、
乗数即金括への︼考
宗教軸生活への︼考 〓八
草箕宗教の研究は科挙的で無ければならす、而も信仰の一面には、科挙的に詮明のつかぬ虚のあるのを首ひ壷し

β才α
たものであらう。執れにしても、正しい信念敬虔心又信仰に導き入れ1ば宗教の使命は立つし、之紅依つて人々
が立沢な理想に溶き得る様に成れぼ、訓育の目的も亦貫徹する。で、教育は、人間盈静悌の大道に導く業であつ
て、其の窮極理想を日ざして力めてやまぬ迄に人々を働かせる廃郎大理憩境、前の園触の境地であつて、之が
囲の教育理想で無けれぼならぬ。
心身の聾達的欒化が兄童の生命であつて、達境のカは元よ少、或る程度進通俸のカに反故しても、其の心力む
強くし、善良に導く事の出奔るのも、此の時代に限られてゐる。心理単著ウイリアム・ワッL∴yンの看であつた
と息ふ、﹁五歳迄の躾如何か、成人後の厚顔無恥な無頼漢や悪好とも、又粗厚篤資な紳士淑女とも成る基礎を形
正に一大眞理で無けれぼならぬ。小才小我に走力、非常識無理想に捕へられるのも、這此の時代の躾如何に定
まると断言出奔ると信する。スターバック教授は眼光を特に鋭くして、﹁Ch旨笥i芸fund昌①邑已邑eg宰y鼠
。吉thinkingPb邑tben賢r¢。f r邑iぎと力説されたが、此の原理按、兄童割に特別頻しい現象即発化から
立言出奔ると息はれる。心持の上で、成人と殆ど或は重々別の世界に住んでゐる兄童を、或る人々は自分達が骨
て同時代にあつた専を忘れて終って、我健勝手に叱カつけー叱る事を怒ると︼般に云ふ程二者は混用されてゐる
倒して﹁蕨格﹂ とか自負してゐるが、子供の心に取り返へしのつかぬ傷のつく事を考へないのであるし、衷、
師の命として、子供の自由意志を束縛し、純然たる成人故にして居るのであつて、大自然の眞意に逝く毒しい人
々であつて、信念が無いからそんな事にも成る、従って斯る人々は、親、教師の資格が無いと新富した㌔兄萱
紳彿の恩意に依って青身に授けられたものと感謝し、之を弄する心で誠意溢れる指導をすべきもので
か。宗教的信念信仰の力で訓育に従はねぼならぬと主張する所以は此虚にある。性教育の如きも、最
は、﹁小峯投入車道に、子供の質問を巧に導く事に依って、敬虔な態度で虚心平気に敦へてゆき、決
ってはならぬし、又其の疑問を打滑したり叱りたりしてはならぬ﹂とカ祝してゐる。宗教的にさへ導
無い尊貴上神秘な事である。文兄重斯竺見愚と息はれる棟な者も、必ず特徴は持ってゐるから、縛強
陀伽を導いた態度に鑑み、其の特鮎を見出し、断じて之む棄てゝはならぬ。人の日把つく秀才や良い
か幻標準にし、入沢に煽れぬ魔で生きてゆく大切な人々の指導を忽にする事は、我見や不良兄を顧み
大自然カの無税である℃親、教師の精神が即子供の精神に成るのであるから、執れもまづ自が借忙入少
乍ら、其の意力を子達に移してゆかねぼならぬ。ボルトン教授望芦ふ。﹁教育は自給法則た雛盲て行揉
入鹿は、蓼化、修正、取捨、最適者挨擢の意味を持ってゐる。教育印度活であり、教育的政見ありとい
盤な宮木を、訴和的意床の下に育てる活動を綾けてゆく掟に希求しな伊れぼならぬ意味を持つて屠る﹂
いては、虞の教育は究成せぬと恩はれる。
成長に伴つて自覚に入斗大鰐に於て成人としての生活基礎が寧雷7義子は〓鱒野栄庭女手は最近我歯檻も
専門の職に就いて一生を通す者があるが、大餞結婚に依ってご寧卑見め、而も双方親化成打始める革が
命である。兄童斯の終ゎ嘆から起り始める同心斯に入力、反省しては自己を知る生括が始まるから、出
/ 宗教精師に導き、能ふペくぼ信仰に入らしめ、二田反覆訣に鑑みさせ、個饅牽生め順序を歯抒−能く雷知つで 併
漂政財金治への︼考
宗教即金活への一考 ︼八
決してえらさうな顔せぬ人間に仕立てなければならぬ。彼のトルストイが八十歳で侍求める魔があゎ家を披け出

β72
てアスターポーの寒辟に倒れた、あの死に至る迄求めてやまぬ、孔子の所謂、﹁朝に遭を聞き夕に死すとも可なり﹂
の大精神む、若い心に深く刻み着けねぼならぬ。年長者への反抗心、強い自我心好奇心異性への憧繚等々を利用
善導して、多感の頃の訓育に、萬一の誤少があつてはならぬ。無絨砲式の記憶は、大饅満十八歳が演上であるか
ら、畢に赴く者には語峯数理の基礎も此の問に形造り、技術に進む者には、其の根本智能を、急いで授けなけれ
ぼならぬ。巷間の誼に依れぼ、彼の拘摸は、満十八才を過ぎると、断然弟子入力は許さぬ由、理由は間ふ必要が
プラトニックラブ
ない。敢て﹁鼠賊でも:⋮⊥と言ひたい。清浮愛の問題、結婚への観念、容姿整理、職業への不動心、男は男らし
く、女は女らしくの性教育の仕上げも、皆宗教的信念に導く事に依ってのみ完成する重大問題。要するに、青年
の指導を誤る者は、旛て国家を誤る着である。バーナード・ショウの言であつたと思ふ、﹁一国の釈態を探らうと
ならぼ、青年と雑誌を調べよ、外は眺める必要がない﹂ は、一大眞理である。此の時期は、生理的にも病気正確甘易
く、癒るも悪化するも、共々スピードの速い危険斯であるから、親も教師も常任に注意しなければならぬ。
キャラクターエデュケーション 孜以上二期の訓育法に、目下日本にも入りつゝある性格教育といふ研究が存在して、文人格
れてゐる。ハートショーンは﹁C訂r琶t躍im呂罵言f賢in巴 と言ってゐるが、社食実に封する理解と賓現への
意識の働きが性格と成つて現はれる人生には、立沢な人格者とLて、親、教師が尭づ立ち、若い者を立たさねぼ
ならぬ。何程拳才が勝れて居ても、人格がまづけれぼ詮も封手にしないが、反封に、若干能力が鈍くても、人柄
さへ良けれぼ採用されるのが世間一般であるから、此虞で若人に宗教的塵心を養はせる事を必要とする。或る賢
い動物は、本能に依るとは言へ、立沢な自制力を具へ、其の社命制度に従つてゐる。で、萬物の霞長た
恥しめさせぬ様、我億を調節するのは、特に此の二期で、﹁勝てば官軍﹂は世界を通じての一つの行き方
決して絶てゞは無く、負けて勝つの一手も確在する。日常の諸問題は、党づ以て結果論に経るし、善意に
見解は箕に六づかしい。怠らず試練して、明確な判断力を養はせ、節制力と結びつけた一大不動の信念で
る人物たらしめなけれぼならぬ。此の性格教育は、全科修身給であつて、畢校内の仝生活は勿論、家庭叉
も連絡をとり、行住坐臥悉く修身科と馬るゆき方で、軍資之で無けれぼ、人格の試練は出奔ない。只難鮎
供に関係するあらゆる人々が皆修身教師と成らねぼならぬ虎にあつて、研究の興味も其虚に生する。が斯
深い信念を抱かせ、正しい理想へ導いてゆき、其の心の規はれとして無我赤裸々でゆける人格と襟首りで
し得る強い人間に仕立てゝゆかねぼならぬ。繹尊は最後の言として﹁成りしものは骨滅す、不逸故に勤修
られたと停へるが、所詮百迄も兜づ生きられぬ我身、僅に、悩みの中に時折の後笑を求める外に行き場の
雑怪奇の婆婆生活、其の問に何等かの目的意義を定めて進まねぼならぬ。老子は人間を上、中、下に分類
尊は九晶に別たれた。自分は果して其の執れに属するか、青少年をして其の何廃に依らしめ得るか。米国
門畢絞出の女性程離婚訴訟が多いと慨き、我国にさへ﹁高等教育を受けた者に巧妙な犯罪が多い﹂の聾も
成ると教育の僧侶が疑はれる。生れ乍らに大罪を犯す者はないから、問題は誘惑に勝つて小罪を根絶する
ある人たらしめるにある。信念が快けてゐるから玉を抱くと罪を作る。一時間や三時間は詮でも聖人には

∂7J
が、期間の長い程倍が高い詣で、三日君子に終らしめぬ様にするには、宗教の力あるのみと言ひたい。若
宗教郎生活への一考
素数由生活への︼考 ニ0
に何事に勤しても、鰻丼讃嘆供養の態度でゆける棟、最も能く忍ぶ者が最も車両な入間である理由む食滞せしめ

ぜJイ
る事が訓練の義の一つ且無けれぼならぬ。繹尊は法敵提婆を修養の焉の良師友と眺められ、イエスは十字架土、
己に情ない者の篤に所を捧げた。
カントが時計の針の様に時刻を定めて散歩に出た事でさへも、逸話と成つて建ってゐる粗、知行合一の難い人
生であるから、人格試練の横倍は、只其の箕行如何に定まる。信念も貿行カの射い者には免づ揺らぬ。ヂ塵−才
一は、﹁一オンスの経ぬほ一トンの理論に勝る﹂と言うてゐるが、性格教育のあらゆる意義按、信念の集うた箕行に
ある専を、思索の根本忙置いてかゝらねぼならぬ。紳彿への大道は、一に此虔に轟する筈である。所詮捧程願も
て針程も叶ふかどうか解らぬ人生、紳彿への大道む、何虎進行けるかゞ、其の人の横飽の分岐鮎忙汲る。鼓境も
邁倦も世の障青も何のその、人音を謹無し、怠らす落書し且鬼籍しっ1箕行への努力者に、凍ての砂利が療すべ
きで、恨へ世に出すとも、自、眞の意味に於て満足出奔れぼ可なヵではあるまいかせ スピノーずはストヲスブル
グ大挙からの招暗にも旛ぜず、まさかに顔同程の晒巷では無か?たとしても、市井由︼隈境師の定職に甘んじて
一生を思索に終った二伸人であるが、入間をして此の境地に到らしめれぼ、人格訓練の一極地である主恩ほれる。
だが人の世には、庶壊の徒も多く、提婆の葦も少くないし、辱予以上の人物も到る廃に存在すれぼ、鼠ダやyヲ
ヒストの仲間も蔽えないので、紳併の大道に進む事は中々の困難であるけれども、困難だからこそ意義も疎いし
思索研究の債倍も高い。底知れぬ愛、敵をも容れる大童も、亦此の大道にのみ箕現出乗る繹である。
﹁乗数の必要を間ふ者蜂、生存の必要を疑ふ者に等しい﹂と西田博士は極青された。宗教をアルヨールに等しいと非難
して寺院を破壊したロシア人も、レニ、ンの屍優には改めで鰻拝しで、廣義の宗教形式捜造つでぁぁ。宗教無Lで
はゆけぬ世の中故、私も世界各宗教指導の賓情は、或は貿地に叉焚書に、時に其の園の人陀電凌辱閲して蓮調べ
て見舞が、文化国去Lては、我国以外麿夫々に一発の方法を立で1居るし、米韓では大挙の一挙部に巷へ梅入し
てぁるし、オックスフォード太峯陀は、其の専門の車者ユックスレ一博士が現存してゐる。チエッコスロバキ
の二単著が﹁乗数指導の一定方針を立てずにどうして本常の教育が践爽る㌢−と日本の某教育碗泰雄行者鮫皮問L逸話
さへ開い潅が、宗教精赫を徹底きせずには、虞の教育訓練など出水るもので娃無払と警Lて博らないし∴療毅
郎生活﹂も決して極端な討では無いと信ずる。北京未峯長をしでゐる二畢考按F私峠儒教徒ギが、妾郡毎救ふも¢は
勿甥ス下級であつて、真部遺徳儒教道教践、まだ精確的危瞼陀華して充分のカを億へてゐないらと童張してぁ
の記者タビッド教授は、日本の修身を許しで、﹁自己、家族、政食園家、人道、観民芸責任執念を、心身撃刀
アラヒトガミ
硬ゑつ伊てゆく組織は、世界の何慶にも見嘗らぬ﹂と激碍しでゐる。我国民の圃楓並び陀硯人面 塁上陛下佗封
借金は、箕紅顔義の∵犬宗教であつて、心ある世界人の驚嘆する廃∵命日迄の日本人を導いて按秀たが、更に争
一段、国家としての一般的宗教指導を必要と信ずる。此の上に乗れさへ徹底させれぼ鬼に金棒し鴻血の垂戟を
機として闇取引する卑劣漢恵ど跡を断つであらうし、世界随一rの君子囲をしセ出由する桧産もないひ我園の宗教
指導も、狭h乍ら地方的には布はれてゐで、クサスト教の日曜畢校は勿静、北陸の沸教奉院中には、既転二三十
年前から巳曜畢校を遭って屠り、且今日各地に増加しっ1あ奥、愛知麻のある地方では、教師が生徒を連れて専
念少せぬ主、攻撃する廃さへあると聞く。日曜峯校だけは、何宗に限らず、是非去竜顔め潅いものである。只我

(打方
凄艶軸塵添への二苛
宗教郎生活への一考 三︼
圃の悩みは、故央吹博士の所謂﹁宗教の展鷺骨的準琴﹂ にあるが、之とても、今日迄徹底した研究が無かつ

∂7∂
で、取扱ひ方法が無い澤では無いから、国家として∵足の方法は是非立てねぼならぬ。
米国の性格教育は、千八百六十年死の研究から蟄達し、今日で堅盲七十飴ケ朗の大挙及びカレーヂ其の他で
宗教々育共々講義し箕行に移Lてゐる。此の教育は、甫加大挙でほ哲単科に廃し、シカゴ大畢では宗教単科に、
エールでは紳畢部に、コロムビア、ニューヨーク、アイオワ、ペルシルヴァニア、ハーバードでは教育単科に
つてゐる。私は、宗教心理畢で有名なスターバック博士1ハーバード大串故ウイリアム・ジェームス博士の高弟1に
就いて性格教育を畢んだが、其の卒業論文⊇e蜃u針Inぎ望遠Onぎd①rn巴g註2ぎmtF①St呂d冒int
Oh註罵p落籍E旨c註On﹂ の等八草性格教育方法論の中へ、﹁采数々育を全巻科で行へる﹂ と考へた私案を加入し
て1性格教育の方法と私の宗教々育方法案が偶然一致してゐたので−、該教授から ﹁藤本君は教育界に甚大なる東欧を壊
したと首ふぺきである⋮⋮立汲な研究であつて之を解語し推薦すべきものである﹂とか言はれて、元より何で
あカ、箕はどんな酷評を受けるかと哉々兢々でゐた廃とて、箕に驚の眼を見張つたし、其の記述をさへ一時疑
た次第であつ寛が、何は兎もあれ、教育中の最難鮎にある賞罰の問題も叉性教育の行き悩みも、宗教的信念1
信仰な少更によい1に依っての方法で解決されると信じて衆はない。
最後に﹁宗教印生活﹂と力説したい所以は、人間がパンのみで生きてゆかれぬ郎如何なる生清音も、必ず慰
しではゐられぬ以上、一文化国家として、精細生活への指導研究は、−刻も忽に出奔ない問題であるからである。
ヒットラーがユダヤ人を排斥し、フランスも目下排斥にか1つてゐる所以は、彼の人達に、物慾以外、精神生活
も顧みず、圃豪観念は勿論親族への愛さへも廉いに近く、其の蕃毒は、躾て国家を亡ぼすのを慣
い。其の意味に於て、宗教精神を普及して教育を徹底せトめ、其慶に健全なる圃豪の蟄達を希求
醍制に添つ至大精細を形造る必要である。で、短的に﹁宗教郎生活﹂と一括した次第、寄言を弄
頭ない。此の上とも讃者諸氏の御指導を、仰ぎ研究の纏繚を期してゐる次第である。
此の短文は、前記論文−千九育三十七年六月五日南加大串卒業の際星田−を概略したもので、此の一節々々が原文の一、
二章に常る。其の各章の題目は、私の教育理想、兄童の生長と聾達、青年問題、性格教育の意
思索、宗教と人生、性格教育と宗教、性格教育の方法論、結論、の九章百八十一節である。

β77
敦郎生活への一考宗
宰領勒の如何と譲敦の職分

餌場
宇宙観の如何と宗教の職分
帆 足 理 一 郎
︻ 宗教は生活の方面に患いて、人間的自我が超人間的他我と相互関係を整へんとする努力である。がその知
的方面において宗教は、未知の世界に封する直覚的鯛手に外ならぬ。そは知識と異り、事箕の詔儲ではなく、婿
ヴアダニス 死の漁想として信仰の形をとる。信仰はルウクアがいつたやうに、一種の冒険だ。信仰は憧憬や所
て、未茶の事賓を冒険的に夢想するのであるが、さうした夢想や憧障の白熱する虚、その希侍した専箕を生みだ
すことあカといふ不思議な、−種の創造性をもつ。僑僻的念願や憶慢なくLて、人間の理想娃賛現されない。借
仰は生命の冒険として理想世界の建設に大きな役割をもつ。
素教的億仰をかやうなものと見る場合、そは字餞観の如何によ夢て、その成立を危くする。即ち宇宙がへエゲ
ルのいふ如く、汎翰理的な東成組織であるならば、宗教はその布衣理由を犬ふものではないか。宇宙が尭金匿論
理性をもつた尭威取結であるならば、牢宙の諸現象ほ数峯的に物理的把精密料率の法則を以て規定されてゐるも
のと鬼ぬぼならぬ。その場合、等倍と人間との関係を垂へんとする宗教的借倒の地位旺、極めて低い。凡ては静
理の法則に支配されてゐるのであるから、論理的性格を尊重する暫畢こそ、人間的自我と超人的他我との関係を
蟄見し、規定するに適切なる文化専功だといふことになる。従つて宗教はその存在の飴地むもたないものとなる
であらう。人間が宇宙の大法則について無知である間、直覚的場手である宗教の必要もあらう。だが、ショウベ
ンハワァが云つたやうに、宗教は螢の如く.無明の闇があれぼこそ、その青白い光を輝かすのであつて、人智の
蟄蓬と共に、宇宙の論理組織は盆モ明噺となり、宗教の螢火を以て手埋りする必要はないといふことになるであ
らう。
コムトが主張したやうに、かの複雑後妙で、たえす新奇な事象を加へ行くやうに見える社食現象でさへも、賓
讃科挙の威力の下には整然と迭則化されうるものとするならば、吾らの信仰的要素は次第に退却して、科峯萬能
となるに従ひ、宗教は此世から姿を隠すであらう。コムトが一切の社食現象を法則化しうると見たのは、ヘエゲ
ルが宇宙を完成組織と見たのと同じ根摸に立ってゐるのであつて、そはへエゲル式に、世の中がいかに進化的に
イムプリチット エキスプりチット
生成蟄展するが如く見えても、それは既に内合されてゐるものが、外に硯はれるといふまでであつて、何ら新
奇に創造的なものを加へゆくのではないといふことになる。この場合、宇宙の完成組織は既に輿へられた事賛で
ある。ヘエゲルに従へぼ、眞に人間的なものは紳的であり、人間は既に紳的完全性を含蓄せる存在であつて、宇
宙の本鰹は質的に既に人間に宿ってゐるのであるから、人智の深昧を哲畢的に掘下げてゆけぼ、完全に宇宙を理
解し、完全に神性を蟄輝するといふことになる。むべなるかな、ヘエゲルは宗教を宇宙の寓意的解繹と見倣Lて、
之を華術と共に、山門の両脇に立たしめ、絶封精細の本尊は礪り哲畢の祭司をして、その神秘の靡を開かLめた

β79
宇億劫の如何と宗教の扱分
宇宙観の如何と宗教の職分 二六
のであつた。紳聾者として出聾したへエゲルは宗教に謝してこれだけの好意を示したのであるが、結局それは哲

∂β0
畢をして滴り宇宙の眞理を悟る最高の権威たらしめたのであつて、宗教をその整頓から蹴落すものに外ならない。
〓 上述の如く、宇宙を完全に論理性の支配するものと見ることは、所詮、宗教を不必要ならしめるものであ
るが、更に進んで、論理的に完全なる宇宙が、道徳的善美の鮎にぉいても完全なる絶封的資在であるといふこと
は、同様に、宗教の職分を超香するものではあるまいか。宇宙が虞善美のあらゆる方面において絶封完全である
ならば、人間の任務は別になく、その完全性む蟄見して、之を鑑賞し、歎莫し、叉埋草発するだけLか、なす飴
地はない。人間は宇宙の遅行に億値的な何物をも加へることはできない、何ら宇宙の資在に貢献しうる魔はない。
よし否定的に罪を犯し、宇宙の完全性を阻害して見た魔で、それが資際に人間の罪によりて汚されうる宇宙であ
ヽヽ
るならば、そはいふまでもなく、完全な宇宙ではないのであるから、宇宙が絶封完全であるといふことは、恵も
罪もない世界だといふのであつて、従って宗教を無用ならしめるばかりでなく、人生共著をさへ無意味ならLめ
るものだ。
人間の生きがひを感するのは、自ら労働して僧侶を生産L、より善い世界を建設しゆくところにある。しかも
宇宙は既に絶封完全であつて、範封無限の僧侶を蚤輝してゐるといふならぼ、人間は只それを畢間的に蚤見し、
生活的に享楽するより外に、何の仕事も持たないであらう。さうした生活には断然宗教の必要なく、科挙や哲畢
による宇宙的完全性の認識と醒験があれぼ、それでよいわけである。廃が、現に、宇宙の絶封完全性は形而上畢
的に確認された専箕であるかといふに、むしろ反封で、スピノッアやへエゲル流の絶封観は今日否定される傾向
にある。二十世紀の相野性原理や創造的進化論、量子力拳や宇宙線誼、さては電子の行動にも綾見し難い自由意
イラチヨナル 志的な要素があつて、一切を論理的に規定することは不可能であり、そこに多大の非論理的な、新奇な
な生命現象や心的活動があることを認めねぼならなくなつた今日、吾らは完全性の蟄見にすぎなかつた総務の宇
宙哲拳を棄てさり、未完成未知数で、亀え套なく流動する世界、創造的に傾値の増殖によりて進化しゆく世界に、
吾らは住んでゐるのだ、といふ感懐を深めゆくものではあるまいか。そして創造的に進化しゆく、永遠に完成す
ることなき世界においてのみ、宗教はその存在理由をもつと私は思ふ。
三 宇宙が創造的に進化する世界である場合、もろくの現象は一同的であつて、繰返しはない。繰返しのな
い一回的現象の軒では、将来の後見は不可能であり、清爽の不安も虞資である。宇宙が完成組織である場合には、
終発の事件を因果関係によつて、適確に隷想しうるし、また末席の生活も安全に保障されるのである。が之に反
して、宇宙が未完成未知数の進化的世界である限り、虞惰、善意、美醜、聖済、混清して存在し.時としては眞
善美聖が、偽悪醜汚に打負けて退却することさへあ少、繰返しのない流時の世界においては、恵が結局勝を占め
て、善は滅亡し去るのではないかと危ぶまれるほどまで、波の起伏を以て退化するとこもありうるのである。故
に、必ずしも一直線に創造的進他の歩を績けゆくものとは云へない。従って筒更.牌釆どうなるかといふことは、
科畢的に適確な改想も漁見も不可能な世界であらねぼならぬ。
さうした世界に紳があるとしても、その紳は絶封完査の紳でないことは云ふまでもなく、アレキサンダアヤブ
ライトマンのいふが如く、紳自身が成長蟄展する七草pO邑雷d−g岩wingG邑であらねぼならぬ。紳は宇宙の

ββ/
宇宙戟の如何と宗教の職分
宇宙勒の如何と票数の職分
進化的精神として、範えす創造的に善美聖愛の世界を建設しょうと努力し給ふ紳であるであらう。しかもそれが

ββ2
意の力に妨げられて、その理想目的を賓現することも容易ではないであらう。のみならす、宇宙は恒久無限に展
開し進化しゆくとしても、絶封完全な終局に到達することはなく、永遠に創造的進化の歩を繚けることが宇宙の
本質だと見ねぼならぬが故に、そは永遠に惑の抵抗をうけて、悩みの中に活きてゆくものであることも覚悟せね
ぼならぬ。
世界がさうした悩みを包蔵し、善が意のカに打負けて傷つき又は滅亡するかも知れないといふ危険に晒されて
ヴアダニス
ゐる世界にあいてのみ、宗教は寛に人生最高の指導力として役立つ。信仰を冒険と見たルウタアには、絶封寓能
の紳ありしが故に、鷺は何らの冒険もなかつた。之に反して、絶封完全ならざる世界に住む書らにとりてこそ、
宗教は虞に冒険であるのだ。事資、有紳的宗教において、信者は萬能ではないが大熊の紳を信じ、完全ではない
が創造的に善美の世界を茸現しゆく紳の力に信頼して、勇敢に意と戟ひ、いかなる苦難にさらされても、いかな
る罪障に悩蛮されても、結局、善は最後の勝利者であるといふ確信に活くることができる。また礪ける人にとり
ては、罪の填ひや恩寵の欣求も痛切となるのである。紳が創造的進化の紳である場合にのみ、人間は紳の味方と
して意に適って立ち、菩実の世界の建設に、いかに些細な貢献にすぎないとしても、人間各自の猫自的性能によ
りて、聖き愛の奉仕にいそしみ、以て礪自無双の貢献をなすことができる。碧海それによりて、礪自無双の個性
僧侶を蓉輝することもできるのである。
人格紳を認めない宗教においても、宗教が学績と人間との関係を整へんとする努力である限幻、創造的に進化
しゅく世界にぉいて、人生に究極的意味を輿へるものは宗教に外ならない。繰返しのない一同的現象
いては、法則的な科拳も、論理的な管掌も、措釆の不安を取去る力はない。宗教的信仰こそ、より良
設を信じ、宇宙の眞寛なる神聖化を信仰させる。善美聖愛の蟄展に如賓に貢献しうる個我は、茎前絶
存在であるだけ、それだけ永遠にその人格的業蹟の波動を俸へ、永遠に俸はる感化影響の中に永遠に
の存在僧侶を失ふものではない。宗教はこの確信を輿へ、またいかなる苦難や不遇の中に立ちても、
の創造的進化を信じ、その重美此聖浮化を支持して、宇宙の一員たる自己の持場を守り、宇宙に謝す
に清くる、これ即ち宗教的な渇仰奉仕の生活でなくて何であらう。
要するに、従来の宗教は書々が尭全世界又は完全な紳との神秘的聯開を求めるものであるやうに考へ
たのであるが、宇宙又は紳が既に完査であるならば、宗教を無用ならしめるといふ連理を結果し、む
Lて、宇宙が永遠に先金ならざる創造的重砲の過程にあれぼこそ、宗教は人生の指導原理として、その切資なる
機能をもつといふ結論に達する。

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宇宙叡の如何と宗教の職分
浣故に於ける合理性の問題

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宗教に於ける合理性の問題
星 野 元 豊
近世の宗教哲拳や紳畢の合理主義的な宗教の理解に封して、最近は宗教の非合理性、宗教の超論理性といふこ
とが強調されてきてゐる。宗教が単なる人間理性によつてわりきれないものであるといふことは確かに否定され
得ないにしても、はたして宗教は単に非合理性にのみつきるものであらうか。もし宗教が単に非合理性にのみ終
始するならば、宗教の虞理性の主張といふことは不可能ではなからうか。宗教の非合理性のみの徹底はバルト紳
壌の如く、紳と人間との質的断絶を示すに止まり、結局紳と紳の言と蘭語ることが出奔ないといふことを承認L、
その承認によつて紳に巣光を辟するより外はない。それ故に、バルトの紳畢の所謂締澄法的な道は単なる主張
︵出色忘己pぎ義︶ の形式に止まらざるを得なかつたのである。シェーダーがバルト紳畢を許して目a訂曽、と︼禁札チ
h旨en の 哲h旨ke−葛iel にすぎないと云つ潅言葉は苛酷であるにしても、紳畢が
き、神輿はその宗教が虚偽や迷妄でなく、またその紳や啓示が妄想でなくして眞理であるといふことを説くこと
は不可能であらう。併し乍ら、宗教は自らの虞理なることを主張し、紳畢はその宗教の眞理なることを耕讃しな
けれぼならない。然らざる限り、宗教も紳畢も完全なるものといふことは出奔ないのではなからうか。
私は宗教は単なる非合理性にのみつきるものではないと思ふ。マクス・シューラーも云ふが如く、宗教はそれ
自身の法則性それ自身の論理畢をもち、それ自身の虞理性を有しなけれぽならない。勿論、この法則性とは宗教
の心理畢的因果津則の如き宗教に師する畢問的法則性を意味してゐるのではなくして、宗教それ自身の有する法
則性を意味してゐるのである。宗教にはその非合理の内に宗教礪自の合理性がなけれぼならない。ルドルフ・オ
ットーもヌミノーゼの非合理性を強調し、これをもつて宗教の本質的基本的要素なることを主張しながら、しか
も、聖なるものを単に非合理的なるものと考へす、非合理的なるものと合理的なるものとの複合的範疇となし、
この両者の完全なる抱合をもつて宗教の完き状態であることを主張してゐる。かくオットーが宗教に合理的要素
を要求Lたのは、完全なる宗教が謬n註smu訊 や 害を計i付き房 に非ざることの資格を附興せんがためであつた
と云ふことが出奔る。宗教が単なる妄想でない限り、そこには何等かの合理性が存しなけれぼならない。
併L乍ら、宗教に於ける合理性は決してオットーの云ふが如き合理性であつてはならず、また宗教の非合理性
もオットーの意味するが如き非合理性ではあゎノ得ない。オットーの意味する非合理性は深きが故に明かに解繹し
待ないものとして、凡ての理性以上のもの、絶封他者的なるものを意味してゐるのであつて、この鮎、一應は徹
底せるものと解することが出奔る。併し乍ら、詳細に検討するとき、ヌミノー′壱の非合理性は宗教の非合理性と
いふことが出発ないのではなからうか。オットーはヌミノーゼを非合理的なるもの、絶封他者としながら、それ
に適應するものとして魂の根耗、人間精細の障れたる素質を指示する。むしろオットーによれぼ、ヌミノーゼは

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采故に於ける合理性の問題
宗教に於ける合理性の問題 三三
魂そのものの最も深い認識根披から尊現するものであり、宗教に於ける非合理的なるものは精神そのものの

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たる深みに自己の猫立的根源を有してゐるのである。それ政にヌミノーゼは厳密には畢間的理性、琶践的理
勤して絶封他者であつて、人間精神の心情に封しては厳封他者ではなくLて、むしろ精神内在的なるものといふ
ことが出釆るであらう。しかも彼の非合理的なるものは合理的なるものと共に、宗教に於けるアプリオヴな
として並列的に在るものといふことが出釆る。それ故にオットーの非合理性は人間性を起へた非合理性では
して、人間性に内在せるものとして、内在的非合理性であり、合理性に並列的にあるものとして、超越的非
性といふことは出釆ない。併し乍ら、宗教の非合理性は皆澄法油壷者達の主張する如く、人間性の限界を超
非合理性でなけれぼならない。それは仝醍人間の否定による超越的非合理性でなければならない。オットーの
合理性が宗教の非合理性と云ひ得ないと共に、彼が宗教に於けるアプリオワな合理性とよぶものも宗教の合理
性とふことは出釆ない。彼の意味する合理性は概念的に把撞可能なるもの・特に彼に於ては倫理性を意味して
る。しかし、宗教は既に一切の人間性を超越せるものとして倫理性をも否定L、超越せるものでなけれぼならな
い。それ政に宗教の合理性宗教の法則性とは単なる人間理性の法則性ではなくLて、超人間理性的法則性である。
それは単に人間理性を超越せるものといふだけではなくLて、叫切の人間性む超越せる超人間的合理性である。
それは一切の人間性の否定、壊滅を通Lてのみありうる合理性であるといふことができる。宗教に於ける合理性
はオットーの如く、非合理性と二元的に並列的に存在する合理性ではなくLて、オットーの非合理性をも超へた
非合理性の内に生れる合理性である。それは人間性を超越せる非合理的なるものそれ白身の資質にアプリオリ
具はれる合理性である。宗教の合理性はかかる非合理的なるものそれ自身のもてる合理性として
場から理解されざるは勿論、一切の人間性の立場からは理解することの出来ない合理性である。
バルトが紳と人間との質的断絶む説き、紳的なるものの超合理性を主張したことは宗教の眞購
いふことが出奔るが、バルトにとつては宗教は単なる非合理性にのみつき、そこには何等の合理
いのではなからラか。ブルンナ一によつて連出された﹁結合鮎﹂の問題も望見、バルト紳峯が宗
みにつきて、合理性を釈除せるところに起因するといふことができよう。バルトの如き立場から
いふことは説くことは出乗ない。併し乍ら救済の尊寛が成立してゐる限り、救済が成立する理由
ない。そこには救済可能性の原理がある筈である。救済可能性の原理をただ不可思議なる秘義、
了れりとするならば、それは単なる迷妄と何等異なるところはなく、救済の確資性、救済の普遍
とは説くことが出釆ず、随つてその宗教の眞理性も主張することが出奔ないであらう。救済には
り、奇蹟には奇蹟自身のもつ論理がなけれぼならない。しかし、救済成立の原理はブルンナーの
解決することは出釆ないdプルンナーの﹁結合鮎﹂に就いての問題追究は神輿的といふよりも、むしろ人間的曹
畢的立場よりなされたといふことが出奔よう。その結果、彼の求めた結論はバルト紳拳の解決で
しろ破壊に終らざるを得なかつたのである。﹁結合鮎﹂に就いての法則は宗教に於ける法則とし
界外の迭則である。それは紳よりの法則性として紳的法則性とも云ふべきものである。宗教に於
間的合理性ではなく、まさしく紳的合理性であり、宗教の虞理性は人間理性によつて律せられた

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宗教に於ける合理性の問題
采敦に於ける合理性の問題
して、かかる紳的合理性によつて成立する眞理性でなけれぼならない。従って、かかる非合理の合理、静的合

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性によつて成立する紳畢こそ、眞の意味に於て紳撃と挿することが出奔るであらう。﹁結合鮎﹂の問題の如き
かかる紳的合理性によつて、紳的立場からのみ甫めて解決されうるものではなからうか。
かかる合理性は人間性の全慣が否定されきることによつてのみ生ずる超理性的理性によつて甫めて理解され
るものである。この理性は紳より生れた理性、紳が主権となつて働く理性である。宗教的理性とか智憲とか云
れるものはかかる締約理性として、紳的合理性を理解する理性でなければならない。かかる非合理的合理性を
解しうる宗教的理性がはたして可能であらうか。私はそれが可能なる立場があると点ふのである。しかし、そ
が如何なるものであゎ、如何にして可能であるかといふことは他日にゆづるより外はない。只今は宗教は単な
非合理につきるものではなくして、それ自身、合理性を有すべきであるが、その合理性は単なる合理性ではな
して、一切の人間的合理性を超越した非合理的合理性であることを主張したいと息ふのである。
宗教的関係に於ける玉髄の問題
石 津 照 璽
一宗教的関係といふことであるが、宗教の現茸、﹁事箕﹂、出奔どともまた、主牒と客餞と
﹁関係﹂の営虚に於てある、といふのが現象畢的乃至存在論的な宗教論の特質であり、習畢や
管掌もことに現在の重要な問題をもつてをる。ところで宗教のかかる現寛の場面に於て、其庭
の姿を保讃し根接づける︵謂る宗教の眞理性の問題︶のに、従釆の多くの議論は、主として客饅の側から、或は
右の関係をはなれた客醍から、又はこの関係に於てある範囲の客慣の側からなされてをつた。
くにそれを主髄の側に於て根掠づけ或は保讃することを試みに考へてみようとするのである。
宗教的関係に於てある主鰻の姿が如何にあるかといふことについては、色々な立場から問題に
教哲畢的にも宗教的﹁状況﹂といふやうな鮎からも論じられるが、今は宗教の本質的概念とし
をるやうにみえる﹁聖﹂について見る。﹁聖﹂に於てある、或は﹁聖﹂を括ってある宗教的専

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虞に興ってある主鰹は如何なる姿に於てあるか。今の問題の立て方からはシエラーや、その立
乗数的関係に於ける主磯の問題
宗教的関係に於ける主題の問題
オットー等の所論にきかれよう。

β鉄)
﹁聖﹂についてシエラーは宗式主義﹄以郊、諸書で論じてをるが、﹃形式主義﹄の最後でもいふや
れの貴硯は宗教にまつので、彼の宗整網について﹁聖﹂を、そして﹁里﹂に於てある主題の﹁如何に
をたづねることが一番である。完遠なるもの﹄では、次のやうにいふ。宗教の現軍事賛は宗教的作用
てのみあるのであるが、この作用は唯々﹁警の志向に向ひ﹁聖﹂なる傾倍様態に於てある或るものに
み賛現せられる。その作用の特質として、その指向に於ける世界超越性と、他にこの作用が、自己によ
して、全能的なはたらきをもつ紳的なるものによつて、充足せられることをあげる。かかる宗教的作用
ちらの主購は如何なる姿に於てあるか。その事情を︵こ自己井に世界一般の相待的存在者の基しさ能なさの鰻
ヽヽ 験︵二︶しかし基しく能なくはあるが無いのではなく、紳によつて創られてあるといふ鰻験だといふ。ここで明
なことは宗教的状態に於ては本質的事箕的に自己が基しうせられて︵感じられて︶あるといふことである。そし
てそのあ豊警きにあげた作用の性質の第﹁世界の超越にをくのである︵鮎認諾鋸齢琵訳摘蝉位︶。
だから宗教的作用或は事賓に於ては二切の可能的な範囲の世間的経験的なるものが起へられてをるの
そこに於てある主餞の主観性︵精神︶は知情意一切の有限的相待的従って自然的な自分自身といふものを超へて
を少、限定のしやうのない基しさに於てある。消極的にいへぼ、自己井に経験的な存在者がすべて根塚
なき状態に於て︵感じられて︶ある。それが宗教的経験の性質であるといふ。
紳乃至紳からといふ問題を暫らく措くとして、シエラーに於ても宗教の現賛の場面に於てはこのやう
楯待的世間的な自己塞がしうせられてあるとみられるが、更にオットーの﹁聖﹂に於ても、種々の問題はあると
して、ともかく、謂るヌミノーゼに於てヌミノーゼの反映として、自己の塞しいことが感じられてあるといふ事
情は、シエラーもいふとほり、やや同じ事情に於て叙べられるとみられるじ
〓 次には宗教に於ける、かかる主牒の姿を保讃するのに、シエラーも殊に客鰹の側にその虞理性の根掠を仰
いでをるが︵酎軋駅翫詣鯛鮎欄詣理︶、今笠れ豊醍の側にもつことは出慧かといふ。と差づねてみた
い。それは宗教に於てある主憶の、この﹁如何に﹂一の姿む、主餞の本革本爽の姿に寄せて吟味することである。
主鰻の本営の姿、根源的本質は如何にあるか。本質といつても、それは謂る人道主義的な、人間の考へられた
ヽヽ
ヽヽヽ 本質でなく、現貿に存在する現存在の寛容の根源に求められなけれぼならない。それは私が在るといふその在り
ヽヽ の営虞に於て、現存在の存在に於て求める外はない。それについては、まづハイデッガーの所論を引合ひにしよ
う。けだし、彼に於ては右のやうな傾向のうち、﹁存在的﹂にも﹁存在論的﹂にも、有神論的な素質を扱かれた
ヽヽ
謂る裸の人間の存在を特に問題としてをるからである。
ヽヽヽ 彼に於ても、私が現に在ること即ち現存在︵亡蓋ein︶は、私だけとして在るのではなく、硯貿に何等かの相手
︵禍耶鮒㌫酎酎組猟場詣との訃掛或は交渉た於て在ることである。それが彼の謂る恥掛宗㌢い羞豊で
ヽヽヽ
ある。そのに在るといふのが関係の嘗慶であり、将に︵私の︶現茸の、︼︶箪の場面で、気分性、了解、頑落等の構
ヽヽ
造契機に於て開示せられてある。世界といふのは、かく開示せられてあるめいめいの範囲といふか仝餞である。
ヽヽヽヽ


このD箪の重視︵いつも全餞︶の存在が関心である。それはさきの契機に於て、現存在が存在者としての自己を

/ゞさノ/
采数的関係に於ける主饅の問題
宗教的関係に於ける主鰻の問題 三八
ヽヽヽヽ ヽヽ ヽヽヽ
超へて、自己の存在可能へと投企をなす、その謂はゞわたられてあるかぎりが、現存在の賀春性であり、その存

∂92
ヽヽ
ヽヽヽヽヽヽヽヽ 在可能へわたられてあるかぎりの存在に、自己のD寧に、自己が引き渡されてあること、投げこ曇れてあること
ヽヽヽ
の事箕性が、常に気分性に於て開示せられ.るのである。そしてそれらのこと絵詞る腕白的時間性に於ける、婿爽
ヽヽ 性、眈在性の等根源的なる現在のD∼どに於て、一つにあ一るのである。なほ賛有性の亡”↑の仝鰐を世界にとつたが、
現存在が自己を超越して、わたりうる全餞の究極、存在可能の究極の達橡は何魔にあるか。それを彼はめいめい
の可能的な死であるといふ。だから賀春性の究極は紆㌫か討といふのである。
ヽヽ われわれが現に存在するとは、存在論的には、かゝる意味の現存在に於て在ることに外ならない。それは﹁投
ヽヽヽヽヽヽヽ
げられたる投企﹂といふあり方に於てあるのであつて、現存在が自己の存在可能へと自己む超へて、わたり、投
企してあるが︵その存在可能の註s琵賢岩舟−i註k①宗はめいめいの死︶、しかもその投企の営虚が、投げられて
あることに於てあるのである。ところが自己の存在可能へとわたる投企︵それが各自の寛容性︶は誰がやるので
ヽヽヽヽ
ヽヽ あるか。勿論現存在自身がやる外はない。だから現存在は、自己は、自己の投企のもとである。だがそのもとは
ヽヽヽヽ
如何にあるか。それは常に既に投げられてある。誰が投げたかはきくところではないが、現に自己のぎに︵Dp
ヽヽ
に於てある自己によつてではなく︶投げ込まれてある。投企のもとたる自己は、投げられてあることによつて、
、、 、、、、 1ヽ
ヽヽ 眞に投企のもとたる力がない︵死への存在といふ存在可能の投企のもととして、虞に投企のもとであるならば、
ヽヽ ヽヽ
そのやうな存在可能をかへることも出奔ようが︶。このもとたる力の無さが、被投性の賀春論的窒息昧である。
ヽヽ ヽヽ
更らに投企は、そのもとたる現存在の︵力︶無さによつて﹁投げられたる投企﹂であるのみならす、投企自身も
ヽヽ
本質的にまた無さに於てある。
ヽヽ
このやう窒息昧で、人間各自の現存在は、その存在の首虚に於て、本葬的根源的に︵力︶無さといふあり方に
於てあることをハイデッガーは﹃存在と時間﹄で放べてをるが、しかし更に彼は﹃カントと形而上拳﹄や﹃形而
ヽヽヽ 上畢﹄で、現存在のいはゞ茎しさについて叙べてをる。両者の問の関係をたづねることを省いて﹃形而上畢﹄の
ヽヽ
所論壱引かう ︵ヽヽヽヽヽ いのひ謂得はるゞな所ら在ばと、し前て者のは、存無在のの遽性が格説のかたれめてにあ褒るさとがも琴みぺらられれよてうあかる。が種、々﹃の形解而渾上が畢あ﹄りで得はる存と在しとて存、在今者のと主
題にはより役立ち
得るやうである
︶。
右のやうなDpに於て、現存在は自己︵存在者︶に接する存在者の金程の只中にありながら、しかもそ①査慣
をとらへることが出奔ない、︵この場合悟性は役に立たぬ︶。この捉へることの出来ぬところ、それがわれわれの
気分に於て、安からぬ屋塙摘㍑椚㌫用摘紺摘一︶に於ける存在感であるが、卦︵蔓︶はここに瑠璃あら
はす。即ち現存在としての私のじ箪に於て、私むとりまき、私に接してある一切の存在者は、ここで︵不安の束
ヽヽ ヽヽ
分性に於て︶私の苦から背き去り、私のぎに於て私を支へる何物もないので曽Q。この︵存在者にとつて︶
ヽヽ 麦への無さが無であるといふ。私のロpに於て、存在者の仝餞が私から背き去る、その事の雷廃に於て、存在者
の仝饉︵従って勿論存在者としての私むも︶を拒みながら指示するといふ仕方で無は私に迫るのである。かかる
ヽヽヽヽ
出奔ごとに於て、私は私の現存在・⋮1▲そこにのみ私の存在.賀春があるー㌻−む無に引きわたしてをるのである。
私が在ると接ぎに於て在るのであり、その︼︶叫↑は存在者としての私を、また存在者としての仝髄を、追越して

β且ブ
あるのであるが、その超越が、右の無の出奔ごと、害註tglgの場面である。だから私が存在するとは、]Pとに
漬数的閥係に於ける主駿の問題
宗教的関係に於ける主鯉の問題
於て存在するのであり、その︼︶pは超越に於てあり、無の速または絶︵害さt≡義︶に於てあるのである。

6p4
ヽヽ
三 私が存在するとは、私の基しさに於て、現賛には存在することであるといふことをハイデッガーの所論に
沿って瞥見した。そこで初めの問題にかへってみると、宗教に於ては自己が基しうせられてある。そのことは自
ヽヽヽ 己の本釆的、根源的なあり方.即ち自己の基しさのとほりにあることではなからうかし裸の自己の本釆のあり方
ヽヽ
のとほ少に在ることが宗教の現賓の極意ではないであらうか。一声
*勿論か1る板接づ伊をする前に、自己の空しさと自己が空しうせられてあるといふこととの、謂はゞ暦位の関係を明らかに
ヽヽヽヽ 、ヽヽ
することは必要である。一は存在論的にいふのであり、他は存在的にいはれてをる。そしてハイデッガー哲学を直ちに神学
に連ねる︵たとへばブルトマンの如きやり方、またハイムのどときやり方︶ことは雑ぜられるごとく吟味を要しょう。しか
lヽ︼lヽヽヽl し存在的にも存在論的にも、ハイデッガーの構想がキリスト教的神学的なるものを拒否しても、今のわれわれの提案には積
ヽヽヽ
極的な障りはない。むしろ彼に於ける存在的連関といふことが問題になるべきであるが、それは彼の所論の範囲に於ても出
て、をる。またわれわれとしては綬に止まることもない。多少の飛躍をしていふなら、たとへば偶数に於て空や無の所論には、
llヽ
人間畢的なものもあるが、存在論的、賓存静的な構想ももつてをり、そしてそれが存在的な課題と関係してをるのは知られ
ヽヽヽヽ ヽヽヽ
るとほり一であらう。さきの連関からいへぼ存在論的なところに於て、存在的な運びを試みるのはキェルケゴールであり、最
近でも一二に止まらない。ハイデッガー自身もまたこの鮎についてヤスペルスの所論のどときをみとめてをる ︵﹃存在と時
間﹄︶。何ほ主膿の存在的存在論的な関係には多くの問題があり、ハイデッカーを越へて論じなけれぼなるまいが、ともかく
このやうな事情からも推せられるどとく、自己の空しさに於て、自己を空しうしてあることは板授づけられ得ると考へられ
よう○
ところで、ここに二つの問題がある。その一つは自己を基しうしてある ︵宗教の現賓の︶状琴 謂はゆる絶
封の基とか無とかの状態に於ては、そこに存在する相手の者を容さぬといふ議論は不可であつて、存在論的に
︵即ち基しさの構造に於て︶、存在的にも︵即ち基しうしてある状態に於て︶、相手の者は容れられてをるといふ
ことである。封待を容さぬのは︵主鰭の︶存在感に於てさうなのであつて、その構造に於ては、現に存在するそ
ヽヽ
の存在の首魔に於て、何等かの相手の者にわたられてある。そしてそれが散られてあるのである。
次の間題は主饅の基しさに沿って自己を室しうしてある状態に於て、このやうに蹴られる相手の者は・その
りのままが顛はにされてあるといはれるが、そのありのままとはどういふ姿か。ここにわれわれの娘接つけの
ヽヽ 題からも重要な紳や併の問題がある。ありのままにある相手の者に創造的な紳を見る、或は紳によつて
られてある者蒙ることは︵鱒詣㌶富根和卜諾㍍新里か帥︶霊論的にいつて、空かに飛躍であ一るで雪う。
存在論とキリスト教的紳畢の連絡の難鮎である。しかし、この自己の存在のDpに於て、わたられてある相手の

者に宗教的封象をつけないで、わたられてある首相、即ち超越や基しさや存在の営魔に︵内在的な範囲ともいへ
ヽ るが︶、悌的なとでもいふか、覚者の覚の性格があるのであり、その性格をもてる悌なる者がここから出て乗る
ゎけである。ここから本覚や本悌の所論に望めて、宗教哲畢の問題が展開し得よう。創造紳へふれるのはそこ
らである。ともかく、ここではわれわれのやうな主題の運びに於て、宗教の視覚に於てある封象も根接づけ得
のではないかといふことを想望してをきたい。

69∫
宗教的関係に於ける主饅の問題
偶数の解脱的態匿と宗教

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彿敦の解脱的態度と宗教
近 藤 癖 雲
宗教には解脱即ち紳に成る態度と、紳に救済せらる態度との二型態があるとせらる。その内前者について云へ
ば、解脱とはいふ進もなく、奥義書、悌数等の思想に於ては、二別の迷妄の繋縛を離れて梵我一如とか、大我と
小我の融合とか、皆基、漫柴、自覚、成悌等を意味する。故に解脱は要するに、自己の絶封性の自覚に達する事.
又は紳的なものになる意味に外ならぬ。
廃でか1る高遠な理想に達するについては、起信論には之を眞如への遷城門として特に詳述L、ヘーゲルは理
念の自己遷蹄となして居る。尤もヘーゲルの理念の造園は、単に抽象的なものでなく、具購的な、文麿史的蟄展
的尊貴とせられ、侍それは宗教のみに限らす、道徳や哲拳蓉術等にも適用すべき原理となす。併し彿教や古代印
度思想では、解脱を宗教的目的となすぼかりでなく人類全般の理想とも解するが、夫等は理想に至るにはやはり
宗教的方法に辟すべしとLた。されどその所謂宗教的方法なるものも之を推究すれぼ、結局は世俗的な哲畢的、
道徳的、峯術的性質と全然一致してゐると息はれる節がある。故に此解脱は宗教内にあるのみならす哲畢道徳其
他世俗的文化にも存在せるものでないかと考へられる。果せる哉解脆性は即ちかの武道の中に之が己に存在せる
尊貴を見るのである。
恰も武道は沸教が解脱修行に槽位を設けし如く、彼等も亦武術的修練に段位を設定し、侍その極意に達せぼ、
沸教が羅漢を証るといふ如くに、彼等も亦奥義む証るといふのである。又その奥義も之を無我とか基とか本然の
妙用とか不動智として、夫を最終の理想となして居る。更にその理想に達する過程を修行となし、武術修錬豪を
武者修行者と名ける。故に斯の如く武恒は極めて沸教の解脱思想に類似するが、之は無論彿教の影響を受けたが
ためでもある。僻し故に留意すべきは、世俗的一重道に過ぎない此武道が斯くも明白に解脱型態を持つこの事貿
である。
他の文化は此武道程明確に解脱型能を詮期しないが、併しかの茶道に於て茶縛一味むいひ、又我国の戦死者が
紳に祭られ、古釆の聖賢が紳として崇めらる1等がある。侍婿舜解脱的思想へ蟄展する可能性あるものとしては、
碁や将棋角力民詰等の蓉術的なものである。彼等は巳に武邁の如く段僚を設けて居り、此尊貴は我国では全く常
識化してゐる。総じて此垂術方面或は道徳哲拳等は理論上必然この解脱性を持つものである。尤も碁将棋等は己
に段位む有すれ共未だ範封性の自覚的知識を持たない薦め、その理想は革に人間的なものでしかないが、されど
是等とてやがて絶封性に目覚めるなら、必ずやその理想を絶封に迄昂揚し武道の如く解脱型態を保持し得ないこ
とはない。之は彼等の絶封への新芽としての段位設定から見ても、またヘーゲルの文化の歴史的蟄展性から見て
も否定はできないことである。

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沸教の解除的農産と宗教
儒教の解脱的憩匿と宗教
魔で諸文化を此の如く眺めると諸文化は.最初に、段位む持たない幼稚なもの、次に段位性を有する碁等、次

/jリく1
に漸く絶封性へ進入せる武道等、最後に宗教としての解脱的彿敦、といふ様に之等を蟄展的に配列し得
列は無論解脱機構の蟄展し行く姿相に外ならぬが、併し又此姿相は賛は解脱機構が人生文化会面に亙つ
に保有せられ夫が顧はれ行く姿とも推察せらる。即ち此序列的聾展委容は偶然的膨脹や無より有への尊
べきでなく、之は先天的本有或ひは先験性が或る契機により啓示され詮顧表象され行く常焉的聾展姿容
きである。故に解脱機構は人生全文他の内面に本有沈潜し自が顕現表象される契機を待つと察せられる
界文化の内容は、つまり絶封傾倍を頂上とせる大須禰山をなし、各文化が東西南北よカその頂上を指し
1ありと云ひ得る。
文化は斯の如く絶封に昇りつ1あるが、之は要するに人間が憤値を欲望するが馬にして、即ち解脱は絶勤惰倍
の獲得に外ならぬ。魔で此紹封傾値は小我の妄計妄執の小細工の中は現はれすして、小我を基じて字餞
に融合辟∵する庭に顧現する。即ち絶封傾値は神秘的繹足や武道の修練又は道徳的修養や、其他諸文化
熱烈なる技術的訓練の上に顧はれる。現下の料率戦が世界壱制摩しっ1あるのも要するに此絶封力の顧現し行く
姿相に外ならぬ。此の如く絶封力の顧現には我執の妄芸を梯はねぼならぬが、然し此妄芸を沸ふには、
細分すれぼ無数に分れ、其内にも無数の法則を有する故、そこに自ら無数の妄雲を晴らす方法が存在する
る。而て是等の法に無我に従つて行くことが取りも直なず修行と云はれ訓練と呼ぼれる魔のもので、便
はかゝる修行訓練によつて蟄展解脱して絶封カを顧現するのである。
斯くて解脱型態は愈モ諸文化に存在すべきであるが、然るに今若L此解脱を以て之む宗教的根本要素となすと
せば、然らば此解脱機構を持てる政令諸文化は従つて故に必然宗教ならざるを得ない。併し之に封して、諸文化
が如何に解脱機構む内抱するといぶも、夫等が碁や将棋の如く未だ理想を絶封性にまで昂揚せす表象せずぼ、夫
等は侍世俗的なものに過ぎずして宗教たるを得ない。併し一度び之が範封として、表象されるならば、如何に武
廼と雄もよく宗教たり得べしと、主張されるかも知れぬ。
されど諸文化は如何にもその凡てが明確に理想を絶封として未だ表象されてはゐないが、併しその文化機構の
本質たるや、仮令へ各人が無限即ち絶封傾値を意識的に要望しなくとも、各文化は上述の如き蟄展姿相を有する
限少夫は巳に営為的に転封性を内抱するものと窺ひ得らる。仝牒、表象は本質に従ふものであつて、本質に郎應
せざる表象は迷信に過ぎない。叉木質は必ず普遍安富的なものであつて、而て表象に先立つ。故に文此は既に表
象せられる以前に本質的に絶封性を保有せるもので、唯それを人類が絶封知識に目覚めざるが馬に意識し表象し
詮期し得ざりしのみである。故に表象は本質の後に乗るものであるから、諸文化は本質的には絶封的解脱機構を
有すと云ひ得る。故に若し解脱が宗教的要素であるなら、文化は衰象の有無忙拘らず︵又それが人間的理想の表
象でも︶本質的には解脱機構を持てる故、文化は本質的には必然宗教とせざるを得ぬ。のみならず文化は人間が
絶封性の表象を持たすとも、彼等は夫に拘らす常に無意的に無限を義務的に要望しつ1其道を専ら賀践し聾展す
るもの故、文化はその昔相は無意識的に宗教を賛践しっゝありと云はれねぼならぬ。故に結局解脱を宗教となす

β夕、フ
立場に於ては、宗教は表象の有無に開せざること1なり従つて文化は本質上のみならす首相即自、既に宗教なら
偶数の解脱的態度と采教
係数の解放的怒度と素数 四六
ざるを碍ぬ。然し乍ら故に惟ふに、書蒜如何に係数的解脱性を明白に持てる世俗的武者修行でも、之を其億宗 ㈲
ウノ
数的行焉と看倣すは貰際には躊躇せざるを得ぬ。然るに全く宗教的気分もない凡俗的叫般文化の首相をも之を宗
教と見ることは、散りに贋漠たる感なきを得ぬ次第である。
併し之を、武道や諸文政が宗教に辟すとは、絶封へ至るその過程を云ふに非すして、梶野を饅験する諸文化の
究尭的常牒をのみ宗教此とすべきであると、解するにしても、然L乍ら此立場では、純自力的併置修行者が解脱
に至らんとして乗る証幻得ざる者を、結局宗教から挺香することになる。されど若し之を拒否し得サして、やは
ヵ此の如き修行者をも宗教徒として許容せんとするならば、此立場では尊貴、宗教は絶封慣験の究尭的常牒をの
み宗教として認めるのみならず、更に絶封に至る過程をも必然宗教として承認せねぼならなくなる。すると何れ
にLても解脱を宗教的要素となす立場では、かの武道や他の文化過程をも宗教とせざるを得なくな五㌔文雄って
之は廣漠に過ぎると云ふ非難は免れることは出奔ないことになる。
蓋し宗教には上述の如く、紳的なものになる態度と、更に紳に奉仕L救済され感謝する態度との二つの異質的
な型態があるが、併し前者は宗教史上より見ると、夫は明かに宗教の蟄展途上に蟄生したものであり、寧ろ救済
教よりも新しく、又地理上より見るも之は東洋に主として存在し世界全般に遍在しては居らない。又此型態が宗
教となる場合は如何に夫が無神教的と雉も、救済思想否な敬虔息想と全然猫立しては居らす、必ず牛面に有紳的
天神思想を持ってゐることである。そして全くその猫立せるもの盟別速の武道の如くに、世俗的文化中に凡俗化
して存在するを見る。而てか1る凡俗化は婿釆益モー椴他の傾向を持つのである。故に之は恰も、呪港が神聖的
にして頗る宗教と似て密凄に関係し乍ら、然かも宗教より遠ざかり行く宿命的状態に類似せる澤である
て以上の諸観鮎から之を考察すると、解脱型態は如何にしても宗教の根本要素を含むものでなく、寧ろ
梶尾的性質であつて、その第一義的根本要素は、宗教全般に遍在し宗教以外に全く見られない救済的型
いかと思惟せらる。
されど解脱思想は人類文化の最高思想であり宗教も諸文化と倶に絶封へ聾展する一文化である限り、
思想を保持し得ない筈はない。即ち彿教は取りも直さす自覚の救済教にして解脱を救済中に含む宗教で
教は即ち原始時代より天神や繹尊や禰勒観音禰陀大日等の諸尊の加被救済により、解脱を成就せんと茸
ぁる宗教にして、何れの寺塔にも本尊を有し、夫が如何に己心の理想的表現となすにしても、そのし践
やはり救済数的である。そしてまた純白賀的貰践者は稀有にして唯自力解脱的原理が教法と力て穣存せ
ぁる。故に悌教は全く解脱の救済しである。ヘーゲルは基数を絶封宗教となせ共、基数は教と人との二
融和にして未だ紳自鰹になる紳ではないが、沸教は解脱の救済教であるから、悌教この絶封的段階に蓮
的宗教といふべきである。

707
沸教の解脱的態度と宗教
宗教に於ける現貨止揚の問題

702
宗教に於ける現賓止揚の問題
諸 井 塵 徳
宗教に就ては色々と定蓑されてゐるが、尊意吾々が宗教なる現象に於て見出すのは、人間と超人間的な絶封
との関係に外ならぬ。喜々人間は、宗教に於て、か1る絶封者に向つて心を向けるのである。
然らば之は一倍人間そのもの1現寛的生活から言つて、如何なる意味を有するのであらうか。思ふにそれは人
間の自然的現資性の範囲外の尊であり、か1る視覚性の或意味に於ける否定そのものであらう。何となれぼ、宗
教に於ては紙ゆる有限性は問題とされすに、総て有限性以上の無限なる者への志向が問題とされるのであり、
もかゝる無限性こそはフラワーの言へる如く硯資性の﹁彼岸﹂の存在に外ならぬからである。そこでは有限な
此の自然的現資性が否定せられて、無限なる賛在者の光によつて総ての存在が新Lく見出されるのである。
宗教に於ては必す何等かの形で現賛否定的側面が伴はれる。
未開人の宗教に於ては之は専らタブー的な形式にて現はれ、菜園の樺威に於て各人の絶封信奉が強制される
それはか∼る未開人の主要なる日常的関心が外的物的なるにも拘はらす、その現資性を著しく制限的に否定する
のである。
文化人の民族的宗教に於ても、矢張り停統的的行事として各人の日常的硯資性を或程度否定せしむる専に於て、
その姿を明にする。例へば我国の神道に於て頗祓が特に重んぜられるのであるが、これは単なる過去の罪過を沸
除することに止まらす、賓に硯音性そのものを規範的に否定することを意味するのである。即ち清浮を重んーずる
といふ無意識的或待となつて硯はれてゐる。
燃し乍ら吾々は更に創唱的宗教に於てか1る否定的事例を顧著に眺め得る。そして教組乃至開組の直凛の教化
が行はれなくなつた時に、それが生活の道徳的様態を取って現はれるのが所謂戒律となるのである。
彿教に於ては本流それ以前の単なる修先主義や苦行主養とは大いに異なるが、後攻第に戎律的側面が重んぜら
れ、所謂三畢の一としての﹁戎﹂となり更に律裁として表面化せられてゐる。
叉キリスト教にあつてもイエスは常時のパリサイ的形式遵奉の律法主義む極力排斥Lてゐるが、然も備後には、
古い律法の到達し得ない高い理想を賛現する事によつて、自ら﹁新しき律法﹂となるとの思想がある。か1る新
しき律法的宗教の観念の中に、やがて成立すべき律法的力トリシズムの概念が見出されるのである。
マホメット教に於ても、最初は直接マホメットなる人格を通じて比較的自由な教詮として言はれてゐたものが、
後に固定されて戒律となり、それは現在に到る迄固く遵奉されてゐる。
然し乍ら、か1る視覚否定性は只畢に視覚に封立した否定者としてのものに止まるのではない。それは更にそ
の否定む通じてのーより高次の肯定に迄到らなけれぼならないC何となれぼ無限は有限の反定立に非すして、有 拙
宗教に於ける現賓止揚の問題
譲敦に於ける現賓止揚の問題
限的正反それ白襟の綜合的統一に外ならないからである。

704
宗教はその信仰過程に於て既に否定的側面を綜合的に内合してゐる。そこに宗教的生活の特異性がある。喜々
は特にその明らかなものとして、自力的﹁行﹂と他力的﹁教脅﹂なる二つの事柄む考察してみたい。
宗教者は行としての信仰をなす事に於て、必ず或意味に於ける現賀性の否定をなしつ1進むのである。行の行
たるはその現賛否定を含む鮎にある。然らざれぼ行にはならぬ。かくしてその極度なものは所謂苦行となるので
ある。ここに於ては肉饅的なる苦痛は飽く迄視覚的なるものであるが、それは更に高次なる精神的満足に依って
打勝たれて行くのである。
文教合なるものは、宗教的なる統制機関であり、それは苦行に於ける程人を禁慾的に萎縮せしめないが、然し
矢張り或意味に於て、人々の現貿性を否定的に束縛し、更に高次のものへとその心眼を閃かしめるものである。
カトリシズムの救済機関としての教合は正にか1る意味に外ならぬ。
前述の如きタブー的乃至戒律的側面も亦均しくかゝる高次の肯定への手段であり媒介であらねぼならない。只
それが目的自慣と化する朗にパリサイ的なる宗教の堕落が起るのがある。
宗教に於て﹁聖なる﹂ものとはかゝる否定的禁止的意味を含めた大いなる骨定でなけれぼならない。ジェーム
スが、紳厳 ︵邑em︶l︶なる心持とは、その反封面を合せ含有してゐる気持、即ち悲哀の情におぼれるべき朗も、
その中に愉楽の情を失はぬ様なものであると言ってゐるのは、この達の消息を暗示してゐるであらう。ラテン語
の﹁紳聖﹂︵筆頭︶が同時に禁忌の意味を持ち、アラビヤ語に於ける﹁モハルラム﹂が ﹁禁止されたる﹂といふ
意と共に﹁神聖なる﹂の意を有するのは之亦同様な理を教へてゐる。かくして何等か否定的側面を通過する専が、
宗教性を豊に盛るべき神聖なるものとして高次的肯定に韓換せられるのである。
シェーレルによれぼ、人間は原理的に、現賛に封して力に満ちた﹁否﹂と言ひ得るものである。生の禁慾着で
ある。かくてそこに人は神秘的汎神論的に紳を捉へ得る。かゝる意味に於て、正に宗教作用は猫特の志向作用で
あり、意識に構成的に屡すとも言ひ得るであらう。それは紳の紀封性に封する乃至絶封者に封する視覚の無債値
性となつて更に強く意識されるのである。かくてか1る現箕の規範を脱して、その範封性に凄近し、参興し、合
叫せんとする傾向が起る。それは現賛否定的であり、起現寛肯定的である。即ち現寛の世界そのま1のものとし
ては否定しっゝ超越するのである。
宗教に於ては、合理、不合理の問題に非すして、超合理乃至非合理の問題が重税せられるは、この意味虹外な
らない。セント・フランシスが﹁吾人は何物をも所有する専なくLて、総てのもの吾人にあり﹂︵Omniph各のmuS
已−pO乳den訂狙︶といひ、親鸞が﹁善人侍もて往生をとぐ、況んや悪人をや﹂と言ったこと等は正しくこの特色
を示す。
喜々はか1る否定を通じたる肯定を止揚と言ふ事が出乗るであらう。然しこの止揚は単なる論理的思惟的なる
過程を意味するのではなく、所謂香先遣 ︵爵:長音す︶ の如く、超論理的な具饅的憶得的止揚である行乃至現
レゾン・デートウル
象を媒介とせる慣待の否定韓換である。か1る止揚性こそ宗教の本質的な展性であカ、その存在意養でなけれぼ
ならない。

7りごヲ
宗教に於ける現宴止揚の問題
采故に於ける現賓止揚の問題 五二
救済される事、乃至は大悟を得る事それ白鰐は、単なる結果的な畢∴な見方でしかない。哲澄法的蟄展なる所

7(フβ
のかゝる止揚性そのものが救済であり大悟への道であるべきである。それが宗教の日常的姿でなけれぼならぬ。
その間に抵抗として紳の啓示を知力、そこに神秘が灰めくのである。頓悟としての向上を得るといふのもかゝる
過程に強ける一つの様相に外ならぬ。デュ ルケムによれぼ、未開人にあつては配合が単に各人の上に行使する力
によつて各人の心に紳の感覚を喚起せしむるといふ。かゝる束縛的なるもの、即ち自由の現箕生活否定とLての
社食が却って彼等の宗教心を強めるのであり、之亦現箕止揚の二榎と言ひ得るであらう。止揚は結局夫々の信仰
に於ける、より高次のものとされる。それ按紳の冥護であり、救済であり、悌の大藩であゎ∴解脱である。
か1る否定韓換の肯定が極度に昂められる時、そこに神秘主義が硯はれる。それは自我を中心に生起する諸々
の現象に廃して行く日常的な宗教作用の止揚性を窮極に迄押し進めて、かゝる自我に関係せる一切の否定韓換に
止まらすして、更にその根本契機たるべき自我そのものを全的に否定解消して、絶封に会興し、絶討と合一する
ものである。パウロの﹁我生けるに非す、キワスト我にありて生けるなり﹂、或はウパニシャッドの﹁我は梵な
り﹂ ︵b⊇Fmp.、smi︶﹁それが汝なり﹂︵t裟tヨln邑︶ の如きである。
かゝる直積的切迫性は無殊介なもの谷二的なものとして、宗教に於ける現賓止揚の終極のものと言ひ得るであ
らう。それは否定を通じたる肯定としての止揚と言ふよりも寧ろ、否定それ白牒、肯定それ自隈であるとも言ひ
得る。否又それ等の何れでもない。それは無規定的な絶封の境地そのものであらう。この意味に於て、絶封と非
封立的無媒介的なる直接的関係に立つか1る合一的神秘的主義は、宗教に於ける止揚性の極度に達したものたる
と共に、それは又止揚的進行そのもの1絶封止揚でなけれぼならない。それは窮極の到達鮎に於ける飛躍的韓国
であり、梧語法的止揚以上のものである。
神秘主義は一面思惟であると共に、他面行である。それが基底として何等か慣得的なものによる観念である限
り、その準備段階としての修行訓練は離すことは出来ない。かくてベルグリンも言ふ如く、眞正の神秘主義はか
ゝる思惟と行動との距離を飛び越す為に飛躍が必要である。ここに耕詮法的止揚の限界がある。神秘豪に於ける
往々言はれる如き肉標的感覚の脱落は正にか1る事を明示するであらう。先に無媒介的と言つたのはこの意味で
ある。行動を通じたる媒介的否定韓換ではないのである。然し之は単に思惟的窮極に到達して行動が停止すると
いふ意味ではない。単なる行に非す。又単なる思惟に非ざる絶封そのものとの合一的冥合といふ意味である。
かく観じ乗れぼ、尊意宗教に於ける現賓止揚性は人間としての本有的志向性に聾L、現寛そのものから生じつ
ゝ、然も自己否定的に展開し、遮にか1る否定道それ自鰻の止揚としての窮極止揚に飛躍する専に於て神秘主義
になるといふ事が言ひ得るであらう。
然らば如何に視覚止揚が行はれるか。思ふにそれは各宗教に於て種々なる姿を取り葬るものである。今は只問
題を論理的概観に止めることとしたい。

7ク7
諜故に於ける現賓止揚の問題
素数と系固執念の問題

70β
宗教と系固観念の問題
村 田 格 山
これは阻先崇拝の問題に封する一つの試論である。組先崇尭と云ふことは特に我国に於ては紳皇信奉・紳豊原
一の問題とも大いに開聯のあるものとせなけれぼならぬが、放ではしかし、その鮎まで礪れることは出奔ない。
問題は、今は、我囲の皇国風とまで云はれる組允崇拝の強健さが一髄どこから出て発たか、これに封して一應問
題を整理すると同時に、阻尭崇拝なるものが、道徳的なものではなくて、本葬、宗教的なものであり、従ってそ
こには信仰起源の中心要素とされ且つは宗教の終局の観念とされるところの永生不滅観がつながれてゐると云ふ
ことを、系固観念の問題を通して理解したいと息ふ。この場合、系固観念は或は系譜観念と云つても放では差問
えない。系固は厳密な意味に於て系繰序列的記録であるに封して、系譜は次第を追って事箕を整序した文章であ
る場合が多い。しかし、さやうに系譜拳的に直別を立ててみる必要はない。このことを初めに断ってをかねぼな
らぬ。
一醒我国ほど来園観念の強いところほなかつた。その意味は、日本神話の性質を他の圃の神話と比較してみる
時理解の出奔ることである。と云ふのは、神話に於ける来園作製の最初の試みは民族が或る経度に自己豪族乃至
自己吐合の繁柴牽展に貢献したと云ふ謂はぼ一つの歴史的情感から手近かなTliこの場合には血統的なTllもの
の二榎の系列、整序の必要を感ずるやうになつて禿たことにある。この鮎に就て今は充分に見解を述べてゐる暇
がないが、系固作製の試みをさやうに考へて、さて、希臓・北欧・ペルシャなどの神話に於ける系固と我固の神
話に見る系固とを精細に吟味してみる時、彼等にあつては血縁的関係の断絶が見出されるに封して我圃ではその
血縁的系固の断絶を見ない。すなはち希臓・北欧などの神話に於てはそこに登場する人物が多くはその組発とす
るところの神君くは英鰊であつたとは云へ、これ等の人物の活躍と歴妃プロパーに於ける人間の行動との間には
なほ大きなへだたりがあつた。然るに我国に於ては神話は極めて密接に歴史につながり、紳の後喬であると云ふ
系園の誇りは、歴史時代に入つてもなほ人の子によつて切箕に持摸されてゐた。日本神話はかやうな意味に於て
理解されるべきもので、神話にして歴史、歴史にして神話と観ぜられねばならぬものである。我国の細々ほ全く
我々自身の邁き昔の姿であり、神々の生括史はそのまま我々父組代々の生活の営みに外ならなかつた。我国ほど
系固観念の強い囲はないと云つた意味も驚は敢にある。系圃は、かくて、我国に於ては悠遠より現に生きてゐる
ものであり、生きた系固を保持して行く、故に我々の営みがあり歴史があつた講で、これは同時に我々の生活形
態や思想文化を特色づけずにはおかなかった。組先崇拝と云ふことも、この鮎に問題が寛は懸ってむらうかと思
ふ。
さて本来、系固は縦の関係を重税する。これを家系についてみて夫賦・兄弟の関係よりも多くは親子の序列を

7「)リ
宗教と系囲観念の問題
柔敦と系固執念の問題 五六
主としてゐる。これは家族本死の姿に顧みて嘗然なことである。故に家族本釆の姿とは.かの原始祀禽に於ける

7/り
テクノニミーなる風習む贋く指摘すれば足りるが、これは子に因んで親も名付ける慣習で、最初タイラーが指摘
しフレーザーによつて更に多くの事例む追加声れて愈々明確にされたもので、このことは豪族が本釆親子中心の
もので今日西洋に見るが如き夫輪中心のものでないことを現はしてゐる。我国の如き文化の高い階暦に於ける家
族にしてなほエアクノニミー的色彩のあることは注目すべき事柄である。すなはち我国ではよく豪族本葬の姿を保
持しその構成眉が有機的に結合してゐたから組発と生命を共通にしてゐると云ふ共生観に強く支持されてゐた。
従ってここにはその系固の断絶は堪え得ないことであつたから、家長が尊ぼれ、家督相模が重んぜられると同時
に世嗣の子孫を愛重した。家格の維持、家風の尊重と云ふことも、このやうな所謂家長的家族にして初めて云へ
ヽヽヽヽ
たことである。故に系固観念とは、寛はさやうな、家格の維持、家風の尊重、乃至子孫の愛重といふが如き叫聯
の親念を線種したものに外ならぬのである。系固を尊重すると云ふことも正にかかる意味内容をもつての系尚観
念でなけれぼならない。
二駁に、家の系固は何等かの意味に於て家格を表象しょうと企てられたもので、歴史的には血統的整序の必要
に迫られ、敢合的には身分・職能の維持若しは自負のために、かかる表現を取ってあらはれたものである。すな
はち父組と血統を同じうせる者の序列であると同時に父組の身分・職能を俸承し維持せる者としての系列であつ
た。家格は謂ってみれば歴史的、杜合的なもので、血統と職能との結び合せの上に形成されたものである。とこ
ろで一方、家風と云はれるものは何かと云へぼ、これは主として父組の身分・職能によつて性格づけられたもの
で、敢では最早や血統と云ふことは従の立場に置かれてゐる。第二幕的である。さやうに系固は本秀家
はすものとされ、血系であることを建て前としたが、時代の韓移は次第に家風の尊重と云ふことに重き
ぅになり、血統よりも職能、乃至それ1む母胎とした家族精神・構成を重んするに至って、系固は最早や厳密な意
味に於ける血系ではなく、単に家系といはれるものに欒質する。我国の養子制の如きは血統の連繚を擬
て定めると云ふ意味のものではなく覚にそれは職能乃至特定の生活形式の維持、所謂家風の永繚といふ
いては考へられぬ制度であつた。尤も系固に於ては時代の縛移に拘らす血の純潔なることを革んじ宅苗
或は秘露に於て名門の誇りを血の純潔に見出した徹底ぶりを敢に指摘するまでもないが、一般にこの血
に於て租先む神性なものとしその血縁につながる自己を尊貴なものとしたことは云ふまでもないことで
系固は右のやうにその初めには血統と身分・職能をあらはさうとした歴史的な社食的なものであつた
尭の名には従って何等かの意味に於てその身分職能左表現してゐるものが多かった。いま我国の記・紀
撰姓氏録に放てみて云はれることは、建嚢槌命は護を以て祭器とした大物主神の生み愛せる子であり司
っ雪而も蛮は陶によるもので母方の祀に陶津耳命のあつたことが知られる。また物部氏の祀が紳餞連日
て日の紳の職能を有し、尾張宿稗の阻が火明命として火の紳の蛋能融有し、藤原朝臣の組津遽魂命が産
を待ったものであつた如き、すべてその孤発が或る種の璽軍定有し、それを以て名を呼稀したことが知
かの物部、大伴、久米、中堅帝都などの如き民の名にしても、本釆はその職能をあらはした性質のもの
た。押入媒介と云ふ職能は中臣の氏準正取らし、中臣以外の者はその職能を侵すことが出釆なかつたの

フ77
宗教と系囲観念の問題
素数と系固執念の問題 五入
かやうにこれを見る時、謂はぼ職能は組尭のもつ一穏の勢能であり靂能であつて、これが蟄展し分化して氏姓を

772
取り族系をこ不すやうになつたものと云へる。かやうに我国に於ては組先の出自を紳話的に沸渡すると組先の持っ
たであらう神秘的な勢能の栂能の纏承が系固の上に辿られるが、しかし歴史時代にたとひ家名が例へぼ主として
地名或は自己に近い父組の功業によつて別途に起ったにしてもそれは﹁またの名﹂に過ぎないもので、組先の名
の磯承すなはち故に所謂阻先の勢能に封する或る種の信仰を持てたといふのではなかった。寧ろその権威に封す
る信仰によつて組先の名の栂承、家名の維持といふことが重税せられてゐるのである。キりストの系固にしても
マタイ停頓青書、ルカ俸福音書ともに何れもマリアの夫ヨセフの系統を示しダビデの位を嗣ぐ者として顛はされ
てゐる。これは新約に従へぼダビデの後裔たることがメシアたるの要件とせられてゐたので、ダビデの系固にイ
エスを序列しなけれぼその最大の職能たるメシアの資格がもてなかったと云へるのである。
系固を尊重することは、かくて、租尭の職能に構成を見ることであり、組発の名を負ふことは組先の集光を負
ぶことであつた。このことは一般に名の尊貴と云ふ問題に闊聯する。すなはち原始民族にあつて名は一種の賛髄
あるもの、そのものの全人格を表示するもの、乃至二程の蛋魂でさへあつた。また自ら事情は異るにせよ、締ま
たは僻の御名を呼び求める宗教的行篤のうちにも名の神秘的勢能が見られ、紳の名む汚すことは紳そのものを汚
すことに外ならなかった。ところで今の場合、絶境の名を汚さぬと云ふことは全く自己の名を汚さぬことに始ま
らねぼならぬ。と云ふのは、自己の名は系固観念よりすれぼ組尭の名の縫承乃至は家風の維持のために得たもの
であり、同時に子孫によつて持されて行くべきものであつたからである。
ヽヽヽ 阻究崇拝といふことは、従って、徒死の所謂単なる組蛋崇拝ではなく、組尭の理想を覚現しょうと云ふね
に大きな意味があつた。このために組先崇拝は宗教的なものと云ふよりは道徳的なものであると見られる惧れが
出て乗るのであるが、しかし組先の名に権威をみとめ組先の名の継承を通して同じやうに自己の名の不滅を系固
ヽヽヽヽヽヽヽ
の上につなぐと云ふねがひの掠り朗は、貿は極めて宗教的なものと云はなけれぼならない。組兜を祀ると云ふこ
とは、特に我国に於ては、耐震の加護にあづかると云ふ支那の所謂組先の飴慶と云ったものが主ではない、これ
は組発の理想・信念を寛現するために租先の人格・意志を慣得する儀穏であり自覚行に外ならなかつた。系固観
念の上に家風の尊重・遺風の俸持と云ふことと同時に子孫の愛護と云ふことが重税されるのも、子孫愛重が資は
組先の理想としたところであつて系固の持続といふ鮎から見て常然な腐結でもあつた。尤も西洋にも組允崇拝が
ないとは云へない。支部も亦組尭崇拝の図と謂はれて禿た。しかし多くは単に組靂崇拝であつて重を慰めるため
の花輪のたむけであゎ、加護を所願しての季節の喜びに終ってゐた。戴で特に我国に関する限り、斯く現在から
ヽヽヽヽヽまつりごと 過去に向つた尊信・感謝と云ふよりは、これと同時に現在から牌釆に向つての﹁まつり﹂乃至
ふことが重大な意味を持ってゐたと息ふ。
宗教と系固観念の問題には色々の問題が残されてゐるがこれは他日に譲るとして、放では要するに系囲観念の
極めて強い我国の如きにあつては宗教は組尭崇拝の性格む持ち、而もそれは単なる租富の崇葬に終らすして組尭
が現に自己と共にあると云ふ強い意識を必然的な要素とし、自己の名の永生不滅を子孫の上に懸けたものであつ
たと云ふことが出来る。

77β
崇敦と系図執念の問題
静理の超越と超越の論理

774
論理の超越と超越の論理
長 澤 信 書
哲畢史家の敦へるところによると、論理が論理峯となつたのはアリストテレースによる。論理が論理畢となる
ことによつて、論理は壌間研究のオルガーノンとなつた。だが論理は単に畢間研究のオルガーノンに過ぎないの
ト・エオン ではなくLて、存在そのもの、或は賓象 ︵︼褒︶ そのものの頗本構造でもなけれぼならぬ。存在とロゴスとの一
致を説いたパルメニデースやプラトーン乃至ストア汲も、さういふ立場に立ってゐたと見ることが出凍るであら
ぅ。だが一般に希臓哲畢は無時間的存在む考へることを知ってゐたが、時間のうちにありながら而も時間を創造
する歴史的存在を考へることが出奔なかつた。ここに希隠哲畢の論理がなほ抽象的たるむ免れ得なかつ充、従っ
て解語法を説いたプラトーンの論理でさへ、充分に主饅化せられなかつた、理由がある。もともと具慣的な論理
は封象的に把えられ得るものではないからして、これが論理であると示され得るものが、若しありとすれぼ、そ
れは具饅的存在そのものに他ならないであらう。何となれぼ具餞的な論理とは現茸的存在そのもの、箕象そのも
のの根本的構造でなくてはなら1ないからである。しかし現茸的存在は、滝えす蟄展する。それ故に、それの鹿本
デイアイレシス 構造である論理も亦動的、蟄展的であることは、言ふまでもない。プラトーンの後期の坪野法、即ち分
法は、具慣的な存在が否定をふくみ、存在と非存在とに分割せられることによつて贅展する論理的過程を示した
ものである。かくの如く論理む存在の根本構造と考へるところの立場卑我々は主慣性の立場と辞することが出
奔るであらう。
このやうな立場からすれぼ宗教も亦一つの寛象として、それ自身の論理をもつものでなけれぼならない。この
論理が即ち超越の論理である。宗教は論理を超越してゐると言ふ意味に於て非論理的である、けれどもそれは決
して無論理なのではない。宗教には宗教礪自の論理がなくてはならぬ。スコッス・エリウゲナが紳に関する総て
の述語、には、suI︸宅 ︵超︶といふ前綴む冠しなけれぼならない、肯定紳単によれぼ紳は一切であり、否定紳拳に
ょれぼ紳は如何なる存在にも巌さないが故に、紳は超存在︵警1pe⋮琵−訂已故n象11⋮︶でなくてはならない。而し
て紳は超存在的︵超本質的︶であると言ふ命題のうちには肯定と同時に否定がある、圭一百ふ意味のこと皇一日つて
ゐる。宗教の静理に就いても、これと同様のことが言へるのであつて、宗教の論理は論理を否定すると同時に肯
定するところの論理である。親鸞が﹁念彿には、無萎むもつて義とす﹂とか、﹁他力には義なきを義とす﹂と言
ってゐるのは、かく、論理む否定郎肯定する超越の論理を指したものであらう。
一義﹂とは﹁はからひ﹂であると言はれてゐる。はからひとは本死計ること郎計算することである。この鮎で希臓語の訣r局
ヽヽヽヽヽヽ と甚だ似てゐる。ただロゴスよりも貸践的といふ意味が強く、酪ってまたそれだけ主鰹性を言ひ表は
論理を否定郎肯定すること、これが論理の超越である。論理の超越とは、論理が論理を超えて蟄展することで

775‘
論理の超越と超越の論理
論理の超越と超越の論理 六二
ある。しかLそこには論理をして論理を超越せしむる論理がなけれぼならない。これが超越の論理である。宗教

クJβ
は論理を超越してゐるが、しかし宗教が論理を超越してゐるためには、宗教そのものが超越の論理を根本的構造
となすものでなくてはならない。
かくの如く宗教をその論理性といふ固から考察することは、宗教を合理化するものでもなけれぼ、ま充宗教の
合理性を強調するものでもない。古釆紳の存在を論理的に讃明しようとする企が繰返して行はれたが、それは宗
教の論理性、即ち超越の論理に基くものである。紳の存在の論澄は論澄としては悉く失敗したと言ってよいし、
また賓際失敗すべき運命を捨つたものである。しかしわれわれはこれによつて宗教が論理に封する強い要求を内
戚することを教へられたのである。この要求を明確に且つ簡明望l芸はした典型的な言葉は、アンセルムスの﹁信
仰は知性を要求する﹂であらう。アンセルムスはこの言葉を、彼が紳の存在の存在論的論澄を打ち立てた﹁プロ
スギオン﹂の副名とした。紳の存在の静澄には信仰と知性と、いふより一般的な、より贋汎な問題がひそんでゐ
たのである。彼はn百官usFOmO の中で、﹃若し我々が信仰に於て堅められた後、われわれの信するところの
ものを知解しようと努めないならば、それは怠慢であるように息はれる﹄と封話者ポリ︵BO且空白はせてゐる。
換言すれぼ信仰は自らに論理的基礎が輿へられることを求むるものであつて、これがスコラ拳前期の信仰と知性
の問題となつたのである。
さて信仰と知性、信仰と知識、或は彿敦で言ふ仰信と解信、乃至より靡い、一般的窒息味に於ては、宗教と料
率などの問題は悉く、同一の問題に辟着すると言ってよい。しかし私はこの問題が深く取扱はれたと息はれるア
ウグステイーヌスの信仰と知性の問題をここに取上げて見よう。彼にあつてはこの問題は複雑であつて、また明
瞭を快くが、例へぼ 嬰肖mOヒ属﹂・の﹃若し汝が知解することが出奔なけれぼ、汝は知解するために信ぜよ。
信仰は先立ち、知解はそれに緯く﹄と言はれてゐる如く、信仰が知性の準備としてそれに発行してゐる場合と、
反封に例へぼ亡¢扁rp邑igiOne︶柏ダ会い守覧destin註OneS芦象○り戻−ⅠⅠ︶P等に見られるが如く知性が信仰に
尭立つと説かれてゐる場合とがある。それ故にこれは、︵こ信仰i−知性、︵二︶知性・−信仰、となる。然
るに書簡−皆ニー00・では﹃信ぜんがために知解せよ.知解せんがためには信ぜよ﹄と言はれてゐる。これによつ
てみると、信仰の後には知性が釆り、知性の後には、信仰が葬るのである。政に︵こは信仰−知性1信仰となり、
︵二︶は知性−信仰1知性となる。われわれ蛛一應、アサグステイーヌスに於て、信仰に兜立ちそれへの準備の
意味を有する知性、即ち自然と人間との秩序を認識するところの知性と、反之.信仰の後に衆力、信仰の内容を
知解する知性、即ち超自然的な、紳的な秩序を把挺する知性とを直別することが出奔する。換言すればそれは信
仰によつて媒介せられない知性と、信仰によつて媒介せられた知性とである。同様に信仰も知性に先立ち、従っ
て知性に劣る信仰と、知性によつて媒介せられた信仰とを直別することが出奔る。これが雫ed①蒜DeOと雫ed宰①
in Deum との置別であらう。後者はアサダスティーヌスの言ふところによれば、紳を愛することである。紳の
存在を信じながら碧愛すること、﹃愛に由阜は苦く信仰﹄︵㍍宗ア︶である。この意味に於望信仰は嘉
である。かく解精してみれば、われわれはそこから信仰と知性との賛践に於ける相互の媒介を結論し得るのであ

777
つて、これが資は論理を否定郎肯定するところの超越の論理が支配する眞の宗教の世界なのである。
論理の超越と超越の論理
論理の超越と超越の論理 六四
かくの如く、超越の論理は資践を立場とするものであつて、宗教の世界はいつでも論理を超えた世界である。

77g
しかし翰理む超えるものはやは盈和琴目身であるからして、それは論理の自警自展によつて論理が論理自身を超
えるのでなければならぬ、他の論理によつて超越の論理が蒔絵せられるのではない。それ空洞埋が内面より自己
白身を否定することでなくてはならない。起信静はこれを﹃言論之極、因言遺言﹄と言ってゐる。言説の極とは
論理が論理白身を自覚することに他ならない。論理は自らを自覚することによつて自らを否定する。これが因言
ヽヽ 遺言である。この言を単に表現と解してはならない。離言虞如が﹃離言説相、離名字相、離心繚相﹄と言はれて
ゐるところよ少すれば、それはむしろ論理と解すべきであらう。それ故にわれわれは望弓道言を、論理が論理に
ょって論理を否定すること、即ち論理の自蟄自展と解するのである。自蟄自展する論理は主髄性の論理である。
論理が論理を超越するといふことは、主慣性の立場からでなけれぼ、考へられ得ないで挙らう。主慣性の立場に
立って初めて論理が論理を超越すると考へられるのである。離言眞如とは、かくの如き意味で論理が論理を超越
することに他ならない。しかし周知の如く超信論の立場は虞如縁起の立場であるが故に、虞如は、結局、視覚的
存在の外に超越する〓甲むもつてゐなけれぽならぬ。反之、眞如郎硯茸的存在む説いたものが法界縁起、就中、
その事々無碍法界であらう。事々無碍法界は、事と専との相即を説くのであるが、専と寄とが無碍相即であるた
めには、理事無碍の論理が一韓して、事と相即すると考へられてゐた理そのものが、賓は直ちに事であり、事が
直ちに囲融無碍なる理であることが自覚せられなけれぼならない。事即ち具慣的存在の裏面はいつでも理なので
ある。だからそれは無碍なのである。われわれは逆に理の自覚が事であるとも言ふことが出来るであらう。
事は常に理を否定契機として自己に媒介し、理は常に事を否定契機として自己に媒介することによつて具慣化せ
られるであるからして、事々無碍の裏面はいつでも理々無碍でなくてはならぬ。事が相互に無碍相即すると言ふ
ことは、いつでも理が無碍相即してゐるといふ意味を含む。而もこの理が直ちに事なのである。だから理事無碍
法界では伺ほ未だその相即が一方的であつたに封して、ここでは相互的である。事々無碍法界と言ふのは具憶的
存在の相互媒介の世界でなくてはならぬ。この段階に於ては事即ち具慣的存在が皆澄法的であるぼかりではなく
して、理む否定的に媒介してゐる事相互の関係も亦哲語法的なのである。これが即ち重々無蓋と稀せられる所以
である。けれども相互の関係が欝讃法的であるといふことを、軍に、我々のほかに、封象的に、事と専とが相互
に媒介し合ふ無碍の世界があるといふ意味に解するならば、それはまだ決して主慣性の立場に立つものとは言へ
ないであらう。専と専との相互の媒介を考へるところの我々自身が、賛は既に耕欝法的な存在として事と媒介せ
られてゐるのである。事々無碍の世界が主慣性の立場からでなけれぼ考へられない理由はここに存するであら
う。
論理を主憶的に考へるならば、論理は静止的なものではなくして、絶えず具閻他に向つて聾展するものとなる。
具慣他に向つて沓展する論理を最も典型的に示したものが浩界縁起であら■う。論理の具倍化とは何であるか。そ
れは茸践以外にはないであらう。超越の論理とは、かかる意味では、寛践であるとも言ふことが出奔る。そもそ
も論理と箕践とを切り離すことは論理の立場に於てなされるのであらうか、それとも賛践の立場に於てなされる
のであらうかむ間ふならぼ.誰Lもそれは論理の立場からであると答へざるを得ないであらう。人は覚践の立場

7/さノ
論理の超越と超越の論理
論理の超越と超越の論理 六六
から論理と貿践とを分つことが出奔るのではなく、論理の立場に立って初めて出奔るのである。反之、箕践の立
0
場からは論理と賛践とは分離せられないで、却って論理は常に箕践の中にふくまれてゆく。理は常に事の申にふ
くまれてゆく。特に理として取出して示すべきものはないのであつて、毒そのものが理なのである。これが超越
の論理である。
宗教的儀祀に於ける生と死
中 村 康 隆
論旨。宗教的儀鰻行竺般の蟄規は如何なる衝動源泉からであるか。その最原本的なる動機
にあるのか。
儀穂先行論。周知の如く儀鰻発行論は、発宗教的乃至先呪術的ともいふべき儀檀行為の原
依り、宗教的儀檀や行動が蟄生的には衝動的な自費的表出運動か乃至は多少有馬的に統重さ
すものなることを説いてゐる。併し乍ら斯る表出や表現の行動はそれ自身にては何らの宗教
よしんぼ儀薩行為の原型としては承認し得ても、宗教的儀檀蟄現の心的要因を示すものでは
求めるのは斯る儀穫行為を蟄現せしめる原本的なる衝動根源を見出すことである。
ラディン琴ラディンが、宗教の二要因として、第一に人に依って強霧の度の異る特殊な感
情と結付く或特殊な行筍習慣、信念及び観念をぼ指摘し、後者はその儀では何ら宗教的成分
素の一群に属しそれに封しては何人も集囲も受動的態度盲取るものであり、それを宗教的複

72J
柔数的儀鰻に於ける生と死
宗教的儀鰻に於ける生と死 六八
ものは先の特殊感情との結合にあるとなせるは、蓋し至言であらう。尤、も、こゝには俸統が問題にもならうが

722
今はジョーゼイと共に、凡ゆる生活に於て宗教的反應を喚起する状況こそ停統存績の基本現由たるものであり、
而も俸統の永緯的受容む支持し再び活気づける朗の、宗教的習俗の底にある或普遍的な状況と要求こそ宗教生活
の源泉と見撤すべきであると見よう。所で、ラディンに依れぼ、宗教的なる特殊感情は物的乃至祀禽経済的地盤
と提携してゐる信念と常に給付いて居り、従って斯る感情は斯の地盤k依って僕件づけらるゝものであつて、謂
はぼ不安定な自然的社食的環境に於ける生存競寧の情緒的な相関なのである。
生命観的宗教詮。こ1に宗教を以て生命僧侶の維持損充を目指すものとなす、所謂生命観的若くは生物心理撃
的宗教詮が入り凍る。この見解にあつては、宗教的窒息隷や儀穏は個人及び集圏の危機的関心並に生命的必要の
同りに凝集するものと見、結局、儀榎襲現の裏付けとしての宗教的衝動の根源をぼ、人間の有つ生理拳的な生命
欲求、生命本能に置き、自己保存の本能や生きんとする意志に依って凡ゆる宗教活動の相を説明もんとするので
ある。この立場は、宗教的欲求を生命憤値の維持損充と見る限りた於て、宗教生活と他の文他的世俗的生活との
開聯性を示し、またそこに宗教と呪術との離れ難き親緑関係、む認容するものとLて、極めて重要ではあるが、一
面に於て宗教と他の文化型態との根本的異質性む見逃し、現質的世俗的生と屡々背反する朗の宗教を全面的に自
然的生活の場面にまで引下し、その超自然主義をすら否定することになると言はれねぼなる空いし、また、宗教
と呪術とが、本葬異る行動類型であり異る生活系列に属するものであるとの、両者の封立怯むも没却するに傾く
であらう。とは言へ、勿論我々は宗教に於て此等の本能的欲求が甚だ力強く働いてゐることむ否定するのではな
い。却って宗教的本能といふが如き想定む排除するものであ少、凡ゆる本能欲求が総て宗教的傾値を形作る宗教
的欲求允り得ることを認めるものであるが、然L、同時に、斯る生物肇的なる生命欲求それ自餞にては未だ何ら
の宗教的特質をも有するものではなく、又此等の欲求の強く働く生命の危機もそのものとして宗教性はなく単に
宗教的なる感動の蟄現する機縁たるものと考へる。環境的刺戟と本能的反能との間に均衡が保たれる限り、そこ
には何らの情緒的経験も存しない、とフラワー・は言ってゐる。要するに、人間的生の基底的動因たるべき生命衝
動は生の根元的なる規定として容認すべきもので、斯の如き生物笹的人間が生の如何なる状態に於て宗教の門に
入るのであるか、宗教的感情の激動へと駆立てられるのであるか、が問題でなけれぼならない。それ故、我々は
此の畢詮に於て、宗教が生の諸危機に勝るものであカ、諸の儀躇と信念とが生の何らかの重要な出奔事に強く牽
フォマリズムワチユアリズム
かれその間園に結晶しそれを形式主義と儀稽主義の固い殻で取巻いてゐると見る、生命危機の重税をぼ就中最も
高く評傾すべきであらう。何故ならば、瑞賢に於ける生の危機性との開聯の下に考察せられざる、革なる恐怖や
願望等の心理的諸因子む抽出しての宗教動因論は、ロウィーの指摘を保つまでもなく、素宋な抽象主義に陥るで
あらうから。
生の危機と儀躇の蟄硯。ここに、我々は、党づ、儀増発行論と生命観的宗教論の立場を一應拒香し、而も再應
それの指示に従って、儀穏的衝動反能の危機性と草紙性とを柄開せしめつつ、それが現賛の人間的仝生活領域に
於て占むる位置と機構と機能閥聯とを尋ねるべきであらう。彼の自然的吐合的環境に適應しっつ自らの生命衝動
リヴアウト を充足しゆく人間の仝生活過程の中から宗教的なる儀榎行馬の清規し躍動し乗る源泉を見出さねぼならぬ

72J
宗教的儀鰻に於ける生と死
宗教的俵薩に於ける盤と死 七〇
ジムメルは、人間の宗教心の調べに高き欒調を翳らす生活圏の三断簡として、人の外的自然への、運命への、及

724
び周囲の人間世界への諸関係を拳げてゐるが、今や、それは自然的及び社命的環境の中に生くる諸個人の仝生活
過程に於ける生の諸危機として理解さるべきであらう。ラディンも、我々の所謂儀鰭的筒動を惹起すべき特殊な
宗教的心意が最も明らかに恐怖の祀禽的沈澱物とも呼ぼるべき三つの事柄、即ち第一に生誕・息春・疾病及び死
てふ肉照的事資、第二に人と外界及び自然力との接蠣、第三に人と人との乳轢に凝集するといつてゐる。勿論、
此等の何れもは、それ丈としては何ら宗教性を有たす宗教的蟄展を導かない。にも係らす、それらは殆ど常に宗
教的感情と結合して見出され、宗教的諸儀躇がそれらを続つて営まれてゐる。従って、原始的宗教儀躇の全形態
は、此の三者を繰っての謂はぼ借入的人生儀鰻、自然的季節儀鐙、社食的公共儀祀とも呼ぶべき三類型に大別し
得ることであらう。さらば、仝宗教儀鰻の章現は、全く此等の諸危機に於て人を脅す特異な感情経験に根差すも
のと言ひ得よう。
フラワー詮。それでは、なぜ人は此を横合に強き情緒的錯綜をぼ惧悩するか。なぜに諸傭人の衝動騨心は此む
横線に宗教的となるのか。ここに我々は例のフラワーの挫折詮 ︵幹宏t邑iOn tFeO苛︶ の重要性を認めざるを得
まい。環境に封する順應の破綻に於て人が及び得ぬもの、如何とも馬し能はぬもの︵b①yOnd︶を蹄別するに至る
斯る情緒的綜錯こそ、人をして深き宗教的戦慄の停虜たらしめるであらう。ムーアも原始人がその安寧と生命そ
のものを脅す危険に取持かれ、而もその焦眉の欲求を満さんとの努力の屡々失敗する所に、宗教的欲求が生する
と見て居る。所詮、斯る危機に於て日常の生命衝動の順調な進展が自己の小なる力の範囲にては達成し得ぬとの
感得こそ!王1それは生の矛盾感情と呼んでよいが、人をして宗教の門を潜らしめるに至る。
呪術的反應の問題。然し侍ほそこには呪術的反應わ問題が横たはる。マリノフスキーは此等の諸危機への封
の仕方に二つの類型を設けて居る。例へぼ出産に際し産祷に於ける死を防ぐために執行さるる儀絶と誕生後の
祭との如き異る二大行動群を指摘し、前者が茸際的目的への手段たるに封し、後者は自己充足的なそれ白襟が
的結果たる行馬であるとし、この直別を以て呪術と宗教との一見明瞭な直別たり得るものと見て居る。全く呪
も宗教と同様に生命の危惧に脅さるる感情から車足するが、しかし、飽進もその用ふる呪文や呪具の力に悼ん
自然的社食的生活過程を統御し悪き作用危宰等を抑止して生の保持損充を固らんとするものであつて、リュー
の説くやうに威制的行動として人間感情的な宗教的行動とは別途な衝動根源を有つものといふべきである。つ
ヵ未だ眞に及び待ぬものの感得に出づるものとは認め難いのである。勿論宗教的儀躇とても非箕用的非効果的
あるとは限らす、却って生硬としては大いに効果的であり創造的でさへある。除災招福が祭儀の二面性を示す
とは充分よく認められてゐる。あまつさへ、儀鰻の機能は、マリノフスキーやデュルケム等の説く如く、動力
なもので、単に此等の危機の聖他に止まらす、それに依ってそこに開興する個人と集囲との精神的更新欒革を
現し、高められたる生の状態を蘭らすもの皇百へる。然し今の論接からは有馬的に危機の回避を企求する儀穐
績は寧ろ二次的と見ねぼならない。根源的なるものは、飽迄も如何ともし難き危機の前に娘低から頗るる生の
をしる感情的激描のさ中に求めらるべきであらう。
儀鰻衝動の二源泉。今や、宗教的儀躇衝動の最深の蟄揚源泉が指し示されねぼならぬ。資にそれは、眞先に.

72∫
宗教的儀蔭に於ける生と死
京数的儀鰻に於ける生と死 七二
我々の生が全き危胎に瀕する此等の諸危機に於て感得する生命の果敢なさの露呈に依り呼覚さるるところの特異

726
な感情のさ中にあり、それは尤もよく死の不安、もつと強くは死の戦きとも呼ばるべきものである。そして斯る
感動の中に人は自らの生の果敢なさの前に率直にひれ伏して、本能衝動充寛の日常的生活諸螢作を離れ、又何ら
かの威制的な廃置に依って斯の感情を紛らはし事件や生の囲滑な途移を計らんとする呪術的事績を持去り、ひた
すらに彼の惨めなる小なる生を梼取する大いなる生命の力に依憑するに至る。次には又斯る死の感動の反動乃至
超克である所の、此等の危機を乗越えての生命の充質感と生命保全の歓喜とに於て呼覚さるる、謂はぼ生の歓び、
生の感激とも呼ぶべき感動のさ中にもその動力源を有つ。兜の戦慄が激しけれぼ激しい程人は此の歓びの中に救
と擁理との力を感ずることであらう。ラディンが、原始的な社食状態に於ける経済的安定無きところに情緒的不
インシダニフィヵシス 安定とその相闊、即ち無力感と絨 購の感情が必ず展開すると言へるは、先の場合であり、彼
生の完成と崇高との憧憬が脈々と流出して釆、それを通して魂の救なる眞聾な叫聾も湧出づるであらう。人はか
くて儀檀を通じて彼の世俗的生よりしては彼岸性を有つ勝れた一骨高次的なる生の状態を清規せんとする。それ
は﹁生命、もつと箕のある、もつと盟かな、もつと富んだ、もつと満足のある生命﹂であり、壁帽と力とに充溢
るる生命の状態である。かの不死と掃理との希求、かの解脱と捏盤との遠望も、共に同じモチーフを示すであら
ぅ。賓に、如上の二種の感動に於てこそ、儀穏衝動の最深の源泉が認められなけれぼならぬ。
飴論。かく解する時、儀檀の機構に於ける死と再生との契機も、又儀鰻の果す動力的な機能も、始めて素直に
了解出奔ようし、更に進んでは儀穫の封象との密接な給付をも合得出席よう。斯る戦慄的情緒に於てこそ最も容
易に超自然主蓑の容認は可能であり、そこに幻想と神秘と神聖感が生じ葬具己れの小なる生にのしかし↓hソその
蓬命の決定者とし感ぜらるる如き大なる生命力たる超自然的諸勢力へと井脆するに至
原型にあつては消極積極南棟の感情激聾の直裁の表出表現たりし儀踵は、今や除災と
二面の行数類型として大いに有馬的に整へられ凍るのである。斯様にして、その二つ
金髄的一貫性に於て儀鎧の有つ機構、形軍機能及び本質をぼ理解し得ることであらう

7ガ
素数的儀鰻に於ける塵と死
宗 教 と 料 率

72g
宗 教 と 料 率
西 谷 啓 治
−近世、特に近世西洋の歴史を満してゐる宗教と科挙との衝突は、現象的には宗教の諸信保と科挙的研究の
成果との問の内容的背反といふ形をとつてゐるが、根本的には南方の立場そのもの、或は南方に於けるものの見
方又は臼−en邑itかの問の背反である。近世に於て理性が宗教の稗としての位置から解放され、自由となり、それ
自身が自身の主となつた時、それは単に、従釆信仰の家内で働いてゐたものがその外で働くやうになつたといふ
ことではない。他の鱒から自らの主となるといふ自分の欒此は、理性白身がそれ自身の内面から新しい本鰹と機
能をもつものに攣ったことを意味する。理性が解放されたといふことは、理性がそれ白身のうちから、それ自身
以外の他の何ものをも権威として顧慮することを要しないやうな、従って何等の限界をも持たないやうな働きを
展開し得るものとなつたこと、即ちその機能の内包に於ても外延に於ても無限性をもち、無限の統︼力と無限の
開放性をもつて爽たことである。また理性が自主的となつたといふことは、理性が理性白身を、それ自身のうち
に自らの根源をもつものとして、従って他、の何ものにも立脚せす依存せざるもの、所謂聖ヒ∴巧㌃テ訂g袋訂≡■ な
るもの︵何もののためでもなく、何ものにも基かす、無に立脚するもの︶として、自覚して来ること、即ち本題
的に無限の生産性をもつて乗ることである。そして此の自覚とは、理性がかかる本髄的機能的に無限な
いはぼ中心に於ても外延に於ても無限なるものといふ有り方にまで、それ自身を白身の内から形成した
とである。二言でいへぼそれは主慣的なる無限性の立場、無限性としての主慣性の立場である。それ政
身分欒他には理性が内面から新しい主鰹性に腹鰭したといふ意味が含まれてゐる。そしてかかる意味の
率的心性の根抵にあるものである。ところで宗教に於ては従来、理性の働きは分別とか顛倒或は妄想と
され、理性に於ける自主性は、我性とか我意とかとして、即ち細からの人間の反逆として解繹されて釆
に於ても多く此廃に止まつてゐるのみならず、一部ではその事が特に強調されてゐる。併しそれは、近
理性が獲得した新しい意義を見落し、従って吾々の内にも外にも動いてゐる硯茸との問に透徹した通路
得す、或は自ら求めて通路を塞ぐことである。それは現代人に封して恰も近世以前の人間に封する如く
ぅとすることである。宗教が現代に至る碧で度々人々に要求され復興の気違を見せながら、然も何時も
の感を人々に残して、退潮した根本の原因は、宗教が近世以来首画してゐる自らの問題を未解決に穣し
の間に遊離性を残してゐる朗にあると言へるであらう。茸際、主慣的なる無限性の立場としての理性は
はなくして分別の否定的超越の立場として、即ち事象の普偏安常的な合法則的な認識の立場として現れ
は我意ではなくして其等の否定的超越の立場として、即ち行焉の客観的な法則を定立し自らもそれに従
践の立場として現れる。一般にそれは主鰭的にして法則的、法則的にして主標的ともいふべき立場であ

729
崇 敦 と 科 挙
宗 教 と 料 率 七六
や我意の如き贋蕃の悪意む含んだ自己の立場ではなくして、かかる悪意の自己を主慣性の内面に向つて超越した

7.始
自己の立場である。理性が自らに主であるもの潅り得たのはかかる自己超越によつてのみである。そこに、人間
存在に封して超越的にして人間の主となる如きものを立てる宗教の立場とかかる理性の立場との背反の根本があ
る。それ故に、この背反は、科挙の個々の成果と宗教の諸信保とをつき合せて個々の内容に安協鮎を求める仕方、
或は合理主義的宗教を立てて宗教を科挙に順應させやうとする仕方、科挙によつて開かれた世界の根抵に直凄に
神秘なところを認めて科挙を宗教に近付けやとする仕方などによつては克服されない。それは宗教の立場をも科
挙の立場をも歪める爾縫にすぎない。この背反を克服する仕方は唯一つのみしかないと思はれる。それは、理性
が悪意的自我を主題性に沿ふて否定的に超越したと同じ方向に於て理性を超越し、従って科峯に於ける解放され
潅理性の自主自由と無限の開放性をも容れ得るやうな、一骨深い自主性と開放性とを宗教に於て開くといふこと
である。
二 近世的理性の立場は自主性にあり、自主性とは他の何ものにも立脚しない、又は或る意味で無に立脚する
といふ根源性をもつ売主鰻性の立場であつた。無に立脚する根源性とは外延的にいへば無限の開放性を意味する。
この自主性は反面に於て他を統一し他に主となることである。他を統一するといふ側面からいへぼ、無限の開放
性とは法則性を意味し、従って一つの﹁世界﹂む包むことを意味する。何となれぼ、法則性とは或る世界を世界
たらしめる秩序であゎ、例へぼ自然法則は自然界の秩序、道徳法則はカントの所謂目的の王国といふ如き道徳界
の秩序である。それ故に自己慄理性の無限なる開放性に於て世界を内から包むと同時に、またその世界の内にあ
るものでもある。例へぼ理性から仝自然界を包み乍ら然も同時に自然界に於ける一存在着であり、意志規定に於
て恰も道徳法の立溶着である如き自主性に立ち乍ら、然もその法則壱秩序とする道徳的世界のうちにその港則に
従巌する一員として他と改んで共同的に茸存する。もし世界む包む面を超越の面とし、世界の内にある面を内在
の面とするならば、自己は内在と超越との二重性を含み、従って理性は内在との繋りを離れ得ぬ超越、いはば内
在に於ける超越の立場としてのみ成り立つ。そのことは前述の如き理論理性による悪意的分別の否定、寛践理性
による我意の否定が相封的否定に止曇り、理性の立脚する無に止まることを意味する。
相封とは、言ふ迄もなく、有或は有の世界に否定的に封立し乍ら、然もその封立催そのものによつて有との繋
カのうち■にあることを意味する。有との差別に於てのみ捉へられた無、群澄法的にいへぼ単なる封自態としての
或は無として定立された無である。それは一方では向他性、他方では自己定立性として成り立つ。単なる否定が
更に否定され、無といふことも無くなる絶封否定とか絶封無とかに於ては、有郎無、無郎有のうち■に一切の有が
異に塞ぜられ、眞に基ぜられることに於て有が如賓に現前しその賓将に於て関れられるに反して、理性はその立
脚する無の立場から世界を包む時、無として世界に直接に関係し乍ら、単に直接に関係することに於て反って世
界を如寛に現前せしめ得ない。反面からいへぼ、無として定立されたそれ白身を通してのみ世界に関係して行く。
向他性と自己定立性との一つなる此の働き方は、世界を包む理性の仕方が浩則を定立するといふ仕方でのみ行は
れる所に現れてゐる。それは、世界を捉へ乍ら、いはば捉へる自己の射影を法則として世界のうちに捉へるのみ
で、貿在には到り得ない。その立場で如何に世界把捉を深めて行っても、捉へる自己が獲る限り、その把捉はど

7β7
宗 教 と 料 率
宗 教 と 科 畢 七八
こまでも提へる自己自身む脱しない。法則的把捉を脱しない。そこには唯理性我の損大あるのみである

7、ヲ2
立場が具饅的なものを抽象化し、生きたものを死物化し、人格を非人格化するといはれるのはこの放で
へぼカントが考へた人格怯も、個性的人格からの抽象といふ意味を含み、生きた人格を非人格性に還元
ふ意味を脱しない。︵併し上のやうに言っても、理性の立場が客観的認識の立場、虞理性の成立し得る立場であ
ゎ、単なる窒息的分別の立場に止まらぬことは、どこまでも注意されねぼならぬ。世界を捉へんとして
己の影を捉へるといつても、その把捉が世界の或る断面の把捉であることには攣りない。そこに世界と
関係の銀紙に後述する如き雨着の同一性が考へられる朗がある︶。
三 理性のこの限界は、それがそれ自身の内で立脚する無の相封性に由発するもの、根源の限界とも
ものである。理性は外延的に無限な開放性であるのみならす、根源としても無限であるが、然もその無
界を、いはぼ世界の弼へ方に関する質的な限界を含むのである。然るにこの限界は理性が内在に於ける
ち此岸の世界とそのうちにある自己との繋りを穣す否定的超越であるためであつた。然るにこの繁りを
朗に宗教が成り立つ。従って宗教はどこ資でも視覚の自己とその自己がそのうちにある箕在の世界に、
世界の一切諸物、特に人間存在の無常性、自己の存在の生死性と罪業性の自覚に基かねぼならない。そ
る自己を擁冷し立脚せしめる絶封に他なるものの現前が、何等かの仕方で餞験され、救済の確信が輿へ
ならない。その際、自己に封する範封に他なるものは、生きた人格に封する人格的なるものとして現れ
をもつ。そしてこの必然性は宗教が科挙や道徳及びその理性と背反する必然性である。何となれば、そ
までも自己の有限性の自覚が機となつてゐる限り、理性の無限性の立場はそれ自身としては認められすして、単
に悪意的分別と同轍に見られざるを得す、またその自主性も人格的絶封他者の前に極小に磐められ、道徳の根源
としての意義を容認されずに、貫に我意のうちに一括されざるを得ないからである。
併し乍ら、宗教的生は、自己の人格存在に基き従って人格的な絶封他者との封向に立つといふことに究発する
ものではない。吾々は自己の人格存在の一骨深い背得になほ非人格的なる有り方を見ることが出奔る。この非人
格性は人格性をも自らの表現とする如きものである故に、この立場は前述の如き意味で人格を非人格性に還元す
る理性の立場とは根本的に典男、寧ろ人格的なるものをいはば人格的なるままに非人格化する立場、桑の有部無
としての絶封無の意味で人格む﹁非﹂化するともいふべきものである。人が自らを朝露や朝菌の如く、衣▼の如く、
枯木の如く、或は屍の如く観じたことは、無常への単なる比喩に止まらす、自己の奥底に箕際に其等と等しい有
り方を、生そのもののうちに﹁死﹂を、即ち人格存在の奥に非人格的なるものを観たのである。かかる全き死或
は非人格性の故に、絶封に他なるものはそのうちへまた全く貫入して乗る。然も賛はその時、それは絶封に他な
るもの即ち人格に封する人格的なるものともいへない。寧ろそれは虞の主慣性そのもの、虞に根源的となつた主
題性であり、絶封に別な︵他ではなく︶主慣性、無我の主慣性である。ここに於て自己は再び、一方では世界の
一存在者となり他方では世界を主鰐的に包むものとなる。ただ理性の立場と異るのは、自己が世界のうちで人格
存在さながらに根拭に於て草木土芥と等しく非人格的なるものであること、また主慣性に於て理性の無限の開放

7.ヲJ
性に封してすら絶封否定を意味する絶封の開放性ともいふべきものであることである。それが有郎無、無郎有の
素 数 と 科 挙
宗 教 と 科 畢 八〇
爵封無と呼んだ立場を意味することは言ふ進もないであらう。またこの立場と既述の理睦の立場との問に、根本

7β4
的断範にも拘らずなほ成り立つ相似怯も明かであらう。箕際かかる眞に超越的な絶封的開放性としての主慢性か
らのみ、理性の立場も包まれ得る。それは理性にその一切の自主的活動を許しながら、それむ包み、またそれを
自らへ否定的に止揚し得る唯一の宗教的立場である。︵浮土門や基督敦もかかる立場を展開し得るやうな方向は
含れてゐると思ふ︶。ここから飼って見れぼ、科挙に於.て理性が立脚する無の立場も、絶封無の主鷺性が、分別
や我意の慈意的自我の内に、それに覆はれて顕現したもの、その愕覆的顛現ともいふべきものといへるのである。
宗教的鹿骨結合
−i宗教集鞠の類型とその性格lIi
口 倖 一
すべて人間祀曾の結合には集合的な精神と行篤との様式が存し、これによつて、具鰻的な結合鰻が表現せ
祀曾結合といふ言葉を用ゐる場合にも、その結合鰻たる宗教集団を汲め想定してをり、宗教集団がいかにし
かといふ條件の問題と、宗教集図の結合様式がどのやうになつてゐるかといふ構成の問題との二つの意味が
って、諜数的社食糖合を考察する場合には常然この二つの側面に於ける結合の仕方と在り方とが究明されね
こではその範囲を限定して、特に采数集団の成員の問題を中心として集固形成の特質と性格とを考察すること1する。
宗教的社食結合の問題は、樅兼主として精神と社食性との開聯に於いて取扱はれて釆た。例へぼそれは、社
的存在に於ける精神の現寛化乃至は精神力に関する問題であつた。マックス・ヴューベルとトレルチの所説を
用して Se打t①と日r註¢との社食畢的構造を示したカール・マイヤーの研究などはその代表的なものといへる
であらう。彼は融合結合の本質を秩序の構造に於て見、宗教的社食結合の基本的なものとして、精紳の秩序た
許g。をあげてゐる。トレルチと同様に、彼はその典型的なものを原始キリスト教であるとし、こ1に寛存的・

7.ヲ∫
素数的敢骨糖合
素数的祀合結合 八二
人格的な結合関係を見出してゐる。マイヤーによれぼ、S爵t①は個慣にして仝鰐なる人格の秩序であるが、かゝ

7Jβ
る人格関係に封して法律的秩序むなす宗教集囲も存する。それは内ir︷計である。内i言h¢は政治的形像をなす
ものであつて、その秩序は支配関係である。即ち、日邑・¢は試家等nの秩序であり、葛生 の一要素である。
欝k訂 に於てはその成月が主憶であつたが、日冒訂 に於ては檜職者のみがその主閻である。しかも、宗教的社
食結合は、原始キリスト教からカトリシズムが成立したやうに、S①k訂から日昌h① への牽展過程をとるといふ。
彼の所論に於ては 欝kt①即ちこの場合では原始キリスト教の構造が明瞭にされてをらないが、宗教的社食結合
の類型を許村訂と内i宗h¢とに分ち、その封立的性格を明かにした鮎に興味がある。しかしこの慣分は許kte
と日r¢h¢といふいはゞ特殊な形態によるものであつて、これによつて宗教集囲一般を諭することは出奔ない。
またフォン・ゲィーゼのやうに宗教集圃の性格を一般社食との開聯に於て考察したものもある。彼はその﹃形
畢﹄の中で、宗教集圃は宗教的・超地上的なものと政令的・地上的なものとの間に於ける葛藤を飴儀なくされ
ものであり、この葛藤は諸々の人間関係中、最も悲劇的なものであると述べてゐる。フォン・ゲィーゼは宗教
観念内容と傾倍関係の上から、か1る特質を指摘してゐるのであるが、吾々はむしろ宗教集圃の視覚的な構造に
即して、これを取扱はねぼならぬであらう。
勿論宗教集囲には諸々の形態が存するが、これを宗教一般の分類に開聯せしめて、既に多くの聾者が行った
く、一膝、民族的・国民的宗教と創唱的・世界的宗教との区分から出費して見たい。か1る分類は、地域を基準
としたものであり、前者は部族や民族に固有の宗教を指し、後者は、これらの限界を超えて世界的になつ袴宗
或は世界的になり得る宗教といふ意味に過ぎないが、その吐合結合む考察する場合に竺つの基本的形式
レ戸
ものといへると息ふ。
*亨た璧一の型として、これらの類型の中間型たる本邦の講祀、氏子集団の如きものが存する。氏子集囲は血線関係の氏神
の祭祀集固から地縁関係の産土押の祭祀集陶への発展過程をとつたものであり、神事への集囲的協力
結合も強化されてゐる。これに射し、寺院を中心とする集囲は、村落構成に於て社食結合の役割を充
ない。今日、氏子集団の研究は宗教祀食草的に最も興味ある課題の一つであるが、こゝでは問題の設
く。その他、祭事に際し三時的に集合する乗数的群集の如きものも、この圏外におくこと⊥する。
先づ啓月について見るに、民族的宗教にあつては、その宗教集圏の成眉は、そのまゝその敢合の成員
聞知の如く、祀合と宗教とは未分化的壷接的関係をなし、政治、津律、経済、制度、道徳、慣習等、す
ものが宗教と結びついてゐる。祀舎人は同時に宗教人である。その祀合に生を亨けたものは、その宗教
貞である。もとより、宗教菜園の特定の行事に垂加するためには、性や年齢等による特定の制度が設け
ゐるが、成長は自己の選揮に於てこの集園に怨加するのではない。成員の集圃への所属は先天的陀決定
る。社食聾者が、今日の家族薬園む、プライマリー・グループスの叫つとして、これを蓬命的集囲とな
民族的な宗教集圏は運命的な性格を有する。たとひ、その社食の内部に檜職者の世襲的な集園や階級が
形態の下に贅生しても、恰職者と成員との関係は同質的関係であり、先天的に決定されたものである。
分化の社食竺般に基礎的社命と呼ぼれるが、吾々は、これに準じてこの慧昆於ける宗教集囲を基礎的宗

7、ブ7
浣数的祀倉結合
宗教的社食結合
囲と呼ぶこと1する。

フJg
これに封して、創唱的宗教に於ては、その集団の成員は、恰職者と教徒との、二つの異質的な種類に分けられ
る。日常の用語としての教園といふ言葉は、カール・マイヤーが日買h①の概念によつて示唆したやうに、檜職
者の集圏を意味し、職業集圃といふべきものである。吾々はか1る人馬的・創唱的集囲を特殊的宗教集圃と呼ぶ。
諸々の特殊的宗教集圏が教養、儀蔭、停統、環境等によつて、それぞれ特殊形態をなしてゐることはいふまで
もないが、祀倉結合の様式の上からは、その基準を薬園の蚤展形式に患いて、これ堅一つに大別することが出奔
る。第一に、成員たる愴職者が世襲制をとる場合には、その集圃は愴職者にとつて遥命的集圃であるが、教徒に
とつては避掻的集圏である。教徒は自己の信仰によつてその集囲に蓼加する。かゝる集囲に於ては、その成長の
性格堅一面的であり、愴職者と教徒の連帯は融合的でなく、時間的に制限せられてをるため、時廃に應じて薬園
結合の強窮が認められる。第二に、恰絨者が世襲制をとらぬ集囲は完全なる避揮的集囲であつて、これは畢校集
圏や教化集圏と同株な構造をなし、その社食的機能によつて一般社食との閲聯を保持してゐる。
特殊的宗教集囲には、かやうな二つの性格が認められるが、この場合、成員たる教徒の位置は、かなり重要成
されねぼならぬ。同一の宗教集囲に屡する教徒も、事資は一つの構成醍として結合せるものではない。ル・プラ
がフランスのカト∴リック数圏に関して示したやうに、教徒には時節的信奉者、信者、篤信者の別がある。しかも
その大部分は時節的信奉者であつて、彼等は洗鰻、結婚、葬祭等の場合に宗教的行事に垂加するのみである。本
邦の殆ど大部分の民衆が、組先からの俸統に於て、それぞれの宗派の教徒たるのと同様の事情である。吾々は特
に教徒の性格に注意せねぼならないがいまは省略する。
本釆、人間関係としての宗教的社食結合にほ、主題たる人的要素はいふまでもないが、容態たる宗教的封象乃
至は信仰、教養、行事等の共同が必要である。英国の同類意識といはれるもの、或ほその意識む強化するための
集合、集合の場所たる祭場・殿堂の如きものが、これから贅生し、そしてこれによつて、集囲の持績が保たれ、
集圏の機能と成口月との関係に一つの組織が成立する。また集圃自照の規範、制度、俸統、慣習等が社食結合から
レト 必然的に養生し、同時にこの結合む制約するやうになる。これらの典型的な表現は教義と儀躇とであるがい他面
では、社食的機能として宗教文化が形成される。そして、ひとたび、かゝる集囲が成立すれぼ、それは一つの仝
慣性を有ち、その内部の諸要素は相互に作り作られる関係に於て蟄展するのである。
宗教集囲の成貞の同質性と異質性とが、その社食結合の形式に大なる相異をもたらすことは前述の通ゎである
が、これは一般社食に於ける農村の同質性と都市の異質性とに類比し得るものである。特殊的宗教集困には都市
的性格が存するが、しかし成口月の異質性を止揚し、一つの精神的仝憶として結合せんとする意識と行動とに宗教
集国の特質があるといはねぼならぬ。かゝる志向性を基礎づけるものは宗教的精紳である。
宗教的精神の重要性は宗教英国の分裂や統合に関して第一に指摘されるであらう。教囲の分裂や結合が廣と持
前的なものを契機として行はれることは明かな事寛である。遷境、風土の如き自然的乃至虹禽的僕件よ力も教義
の解繹の相異の如き内部的事情によつて、分裂が惹きおこされることが多い。ジンメルはその﹃社食的分化論﹄
に於て、分裂せる宗派の再結合を各成貞の個人的確信に於て可能であると見てゐるが、吾々は、この場合にも個

7Jβ
素数的社食籍合
素数的社食結合 八六
個人の確信を基礎づけてゐる支柱を見失ふべきではない。その支柱は精神化された教組や指導者の人格である。

7J(ノ
基礎的宗教集国の分裂は基礎的杜合の分裂であり自然的・政令的保件によつて決定されるが、特殊的宗教集圏の
動因は、主として精細的なもの、人格的なものにある。教困は内部に於て如何に多数の分派が存しても、同一の
教組によつて結合し得るものであるといはれるやうに、人格的結合の重要性がある。典型的には、檜職者相互間
にも.愴職者と教徒との問にも、また教徒相互間にも、かやうな人格的関係が保たれねぼならない。ヨアヒム・
グァッハは師弟関係を呂Oist苧Jぎg早く籍h賢ni班とFCh→苧S註已①7<串h賢ni払との二つの類型に分ち、前者は
人格的に結合し、後者は事物的に結合すると見てゐる。か1る直別は飴りに極端であるが、宗教的関係が人格的
精細的関係であるといふ意味に於てはこれに同意せねぼならぬであらう。マックス・ヴェーベルのカリスマ的支
配といふことも、か1る意味に解せられる。またデュプラが、宗教集圃に於ける教徒の連帯性を無形の共同勢力
とし、神秘的血縁関係として、自然的血縁関係に発行せしめたことも、精紳的結合の緊密さを指摘したものとい
へる。以上によつて吾々は、宗教的杜合結合の紐帯は人格的・精神的なもの、換言すれぼ宗教的精神にあるとい
ひ得ると思ふ。
*素数儀祓が社食結合に重要な役割をなすものであることは一々指摘するまでもない。しかし儀蔭の持綾は塵ミ宗教的構成
の下から社食停統へと移行する。宗教的なものの社食化は多くの人々の指摘す多ところであるが、吾々は京敦儀鰻に於ける
意味の社食化乃至は滑滅に注目せねばならぬ。本邦の農耕儀祓の多くが、行事の宗教的意味を忘れられ、農村に於伊る停承
として行はれてゐるが如きはその一例である。たゞこれらの行事に於ける意嫁が停承された場合或は新たに意味が附加され
た場合にのみ、それは観念形態としても賭存するのである。従って俵祓は宗教的祀曾結合にとつては第二義的なものといへ
よう○
要するに、宗教集圃には基礎的宗教集圃と特殊的宗教集圃とその中間型との享つの類型が存する。第二の類型
たる特殊的宗教集圏には更に二つの構成様式がある。一は恰職者にとつては遅命的であり、教徒にとつては選擦
的な集圏である。他は愴職者、教徒の何れにとつても選掩的な集圏である。第一の様式に於ては構造上の性格の
矛盾を超克することが必要となる。その原動力は宗教的精神である。第二の様式は純粋の教化集圃たる特質を有
つ。そのいづれにしても、宗教集圏はか1る性格を有つ以上、仝鰻的な人格結合に基いて特にその杜禽的機能む
蟄揚する場合にのみ、最も輿型的な社食結合をなすものといへる。
かゝる戟斯から浣敦集園の特質を見るとそれはフォン・ゲィーゼのいふやうな悲劇的性格のみを有するのではない。素数
の現在的問題は単に超地上的なものが地上にあるといふ観念的な矛盾にあるのではなく、むしろ宗教が如何なる社食にある
かの問題である。例へぼ、邁繹的集囲としての素数と基礎的祀曾としての国家との間に横はる問題である。しかも国家の問
題は国土と陶民とを繰って素数以上に複雑な様相を提示してゐる。これを究明するためには、尭づ国家の性格が間はれねぼ
ならないが、これについては他の腐食に述べたいと恩ふ。

フ〃7
宗教的社食結合
救所論を中心とするブルンネル紳畢と親鸞教単について 八八
救済論な中心とするブルンネル前撃と

フィ2
親鸞数学について

宗教の世界が人間に保讃し、意施する魔の竺究克の僧侶は、絶封者−聖なるものー主人間との∵元化的豊北
である。換言するならば、相封、有限にして罪と悪と死との人間が、絶封、無限にLて永遠の生なる紳と倍なる
生活には入り、彿と壷化︵成併︶なる世界である。更にこれ至言にして云へば、解脱の茸視であ玖救ひの
成就である。仝慣とLての生の究寛的解放、統﹁そLて自由を私は贋蓑の宗教的救ひと呼ぶ。かゝる意味に於
ける救ひこそは、あらゆる宗教が賛硯L保澄する魔の、宗教猫自固有の本質であり、聖傾倍でもある。
而もかゝる宗教に於ける救ひは、人間性の鋭き反省から出蟄せねばならない。恨令ひ救ひ
教の異ることに依つて必ずしも姦しないとは云へ、人間性への深き洞察と観き反省とから出
い。
今形式の上からこれを観るならば、宗教的救ひの道の成就には大髄に於て二種あると云へ
﹁転封者の側よカ、人間へ向つて救ひの成就への道/を意施し趣向する場合
二、人間の側より転勤者へ到らんとする救ひへの道を努力して鷺現する場合
この二つの方法が私の云ふ贋蓑の救ひの二形式である。備これを強いて云へば、第一の方法は狭義の
救ひであり、叉他力這的救ひであり、第二の方法は解脱型の自力道的救ひである。詳言するならば、第
ぁっては、救ひの道の葦現に必須なる一切の條件が、紳なり彿なりの側より蔑まれ施される場合であるJこれに
反し第二の道にあつては、救ひの道の賛現に必要とされる保件は、人間の側に於て準備されることが要
即ち第一の道にあつては、人間はあくまで罪と意と死の存在である。第二の道にあつては、人間の賢
進とが、救ひの邁の要件なのである。キりスト教は第芸道を代表し、沸教は第二の道を代表すると云へ
だが私がこれから問題にしようとする、プルンネル紳畢︵一般には危機紳峯、賢澄法紳畢と呼ぼれてゐるが︶
と、親鸞教導とは飴りにもその形式の類似性のために、一見彿教とキリスト教との持つ特異性を無成するものi
如くである。而も私は既に述べしが如き、悌教とキリスト教との持つ特異性を、これ等の紳畢と教導と
依然として尊兄し縛るのである。
では一應私はプルンネル神輿と親鸞教導との間に於ける類似性を指摘しておきたい。
︵A︶ 人間性の見方についてプルンネル紳峯はどうであらうか。
川 風惟に於て我々自身が主人である。我々自身が主人である場所がこの世である。我々が主人とし
ても支配し稗ないものは唯紳だけである。︵﹁紳と人﹂菅陶告撃二九頁︶
拘 紳の尊厳性への恩ひは、私どもをLて自分を極錬のものと感ぜしめ、また基無なものと思はしめる。何故

7J、ブ
救済論を中心とするブルンネル紳畢と親鸞教畢について
救済論を中心とするプルンネル紳畢と親鸞教畢について 九〇
なら紳の尊厳性を息ふ時、私たちは自分は塵であると考へるから。︵﹁普等の信仰﹂豊樺登撃一〇頁︶

7∠プ4
鞘 祈りは無力の告白であり、生活の譲渡である。︵同上二〇〇頁︶
㈹ 人間は無であり死である。︵﹁鰹鹸、認識及信仰﹂後藤安雄諾︶
伺.紳と人との尚は無限の距離がある。︵同上︶
これ等の引用文を聖書的に表現すれぼ、人間は﹁創られ▲たるもの﹂であり、﹁紳よ罪人なる我を憐み給へ﹂で
ある。叉プルンネル紳畢のノ源流をなす、キエルケゴール的表現に依れぼ、紳は金であり、私は無である﹂とも云
へよう。
次に親鸞の教拳に於ける人間観はどうであらう。
囲▼ 焼憶具足の凡夫
拘 罪悪生死の凡夫
揮 極悪低下の泥凡夫
㈹ 罪業深重の衆生
何 虚仮不覚の我が身
ジョク
拘 生死罪濁の群臍
の 具縛の凡愚
かくて、プルンネル神輿にあつても親鸞教単にあつても、共に人間と絶封者との間の距離は無限であり、徒つ
て人間的傾値は全的に否定されるのである。では救ひの道の成就は如何にして可能であらう。これぞ救済論に於
ける最重要の問題なのである。
︵B︶ 救済の論理についてブルンネル紳畢は如何に説き教へたか。
何 倍仰は我々人間が起し得る朗のものではなくて、紳に依てのみ超され得るものである。︵菅囲官署﹁紳と人﹂
五二1五三頁︶
拘 我々は我々の思惟に依ては、どうしても信仰を作り出すことは出来ない。︵同上五三賞︶
鞘 信仰は人間は作わ得ない、持ち得ない。︵後藤安雄諾﹁鰻験、認諾及信仰﹂︶
四 人間の力に依て紳に到り、救ひに参興し、紳への橋を作り、紳的なるものの把捏を企てんとする一切の試
みは錯覚である。︵同上︶
阿 あ恵たはあなたの力が塞きた時にはじめて、紳なる言葉が何を意味するかと覚る。︵豊津登諾﹁我等の信仰﹂
〓ハ七頁︶
押 自己の可能力に、自己の知識に悼まないこと、それが即ち信仰である。︵同上︶
の 我等のカにては何事も馬し得らるるものなL、最上の生活に於ける一切の行為も叉無益である。︵同上一六
八−一六九頁︶
桝 キりスト敦は、紳に向つての人の運動にはあらで、人に向つての紳の運動である。︵岡田五作澤﹁危機の紳

74∫
拳﹂四四頁︶
救済論を中心とするブルンネル輔車と親鸞敦単について
救済論を中心とするブルンネル紳撃と親鸞敦単について
㈱ 紳に依てのみ紳認識は可能である。︵清水・菊地共謀﹁曹畢と紳畢﹂ 三一七東︶

7Jβ

川 罪の認識は他力としての紳の力によること。︵﹁吾等の信仰﹂七二頁︶

次に親鸞教単に於ける他力道の主要なるものについて引用しておかう。
印 それ、おもんみれぼ信楽を獲得することは、如乗選韓の願心より蟄起す。眞心を開聞することは、大聖紛
裳の善巧より願彰せり。︵数行信澄︶
拘 他力とは如釆の本願力な少。︵岡上︶
閂 如釆の至心を以て諸有の一切煩悩、恵美、邪智の群生海に麹施したまへ少。︵岡上︶
伸 このゆゑに如秀一切苦悩の群生海と斡哀して、菩薩の行を行じたまひし時、三業の研修、乃至一念〓琴郡
も趣向心と首として、大鑑心を成就することを得たまへるが故に、利他虞箕の欲生心を以て諸有海に姫施した
まへり。欲生即ちこれ姫向心な少。︵同上︶
何至心に麹向したまへり、かの園に生ぜんと顕すれば.即ち往生を得。︵同上︶
拘 信心と云ふは、即ち本願力剋向の信心なり。︵同上︶
私は以上に於て、プルンネル神輿並に親鸞教単に於ける二つの重要なる共通的思想、信仰む蓮べて乗た。即ち、
一にはその人間観であり、二にはその他力観である。この雨着は全く密接不可分である。蓋し人間観は必ず救済
観に於ける方法論壱決定するものである。人間の本質と罪悪と死とであると観る人間観にあつてこそ、初めて他
力道的救済の論理が成立する。即ち、他力道的救済戟は、あくまで硯茸在に於ける人間性に出費する。罪と意と
死としての人間性のさ申に紳の喚び馨を聞き、僻の大願カを感得し、そこに救ひの成就を髄験す
る他力遭にあつては、その喚び聾を聞き、大願力を感得し、救ひの牒験をなすことそのことさへ
あり、彿のカであるとするのである。
ともあれ、他力道的救済観は、人間の本質をあくまで罪と意と死であると観るのであるから、
の意隷が電援私の胸にひしくとぉし迫ま歩くるが如き人でなけれぼ、到底受け容れられないもの
に生きて居るこの我が、罪と悪と死の存在であると、自ら強くもいたいたしく賛感する魔に、プ
親鸞教畢の生きて働く場所がある。
最後転載は以上の類似性あるにも拘はらず、億依然としてそこには併教としての親鸞教撃と、
てのプルンネル紳撃との間に存する根本的相異鮎のあることを棺桶せねぼならない。
雨着は共に人間性把徹することに依て、そこに紳を見出し、彿を聾見しようとする。蓋し人間
紳線審在し待す、罪と串と死との存在しない鹿に、救払の遭の要請は無い筈であるから。
然るに、プルンネル神輿にあつては、人間と紳とは永遠の平行線として、相互に本質的に異る
として封立する。人間は永遠に創られたる被造物たる限界外灯一歩も出ること許されない。人間
として、紳の下僕として紳と倍には生き得ても、赫白澤転は成妙得ないこゝにキサスト数的二元
紳人懸隔教とLての超越的一所親の本質がある。
これに反し、親鸞教畢にあつては、一應入間と彿とを二元として区別はする。人間が罪と悪と

7オ7
救済轟を中心とするブルンネル紳皐と親鸞教単について
救済論を中心とするブルンネル紳辱と親鸞教導について 九四
に反して、彿は眞如であゎ、溶性であゎ、資相であり、虞箕である。だがかゝる二元としての人間と作との由

アイg
は、救ひ以前の迷ひの世界に於てゞあり、救ひの鰹験と共に、二元ははやその封立を中止して、機浩一鰐、彿
一饅となヵ、こ1に大乗彿教通有の妙味たる、諸法賓相、生死軸捏柴の世界を現出するのである。これは又その
ま1併数的汎神論の本質でもある。
超越と内在との封立は、キサスト教にあつては永遠に解かるべくも無い。が、彿教にあつては、悟力以前、救
ひ以前に於ける︼切の二元恥封立は、悟り以後、救ひ以後にあつては完全に解消されるのである。
次にブルンネル紳畢︵従つてキリスト教−般も︶は、その論理の仕組に於て、甚しき飛躍とギヤツブがある。
プルンネル自身、﹁信仰とは絶封者、純粋自慣性としての彼岸界、客観界への飛躍である﹂と云ひ、﹁飛躍の
めには時間を必要としない﹂、とも云ひ、論理の中止であると云つた。
然るに沸教としての親鸞教単にあつては、その表現は極はめて象徴的ではあつても、因果の鈴理が厳然として
仕組まれてある。キリストの十字架上の死とその復活とが、キリスト教に於ける救ひの最後的根接であるが、
鸞教単に於ける治癒菩薩は、非載永劫即ち無限の時間に亘つて、人間の救ひに必須なる僕件を悉く成就したと説
く。その何れに人はうなすくであらうか。
ブルンネル紳拳はあくまで紳中心に終止する、純粋紳畢の立場をとるが、親鸞教畢は備中心ではあつても、最
後には再びそれが人間白襟の問題として鰹験されることを教へる。蓋し人間性の土壌から尊芽せる宗教の救ひで
ある以上、純粋客観的中心の立場に立つことは、人間と宗教とを次元的に分絆し、やがては宗教をして人間と
重く無縁の魔術的神秘におちいらしむるの危険がある。
宗教が宗教である以上、即ちそれが少くとも人間の宗教である以上、宗教な最後には紳撃とは映を分つて人間
拳にまで到らねぼならぬと思ふ。人間畢の一部門としての紳畢はあり得ても、紳畢の↓部門としての人間畢はあ
ヵ得ない。信仰の限には一見紳中心の紳挙が萬能であるかの如く観ぜられはしても、その紳畢白襟の聾生、生長
ヽヽヽヽ
は必ずや人間を経としてなされねぼならない。かくてキリスト教的プルンネル紳拳は、あくまでも紳畢であ玖
ヽヽ 併数的親鸞教畢は紳畢的ではあつてもその本質は彿数的人間拳なのである。こゝに紳畢lと教畢との叔本的相異が
厳存するのである。

749
救済論を中心とするブルンネル紳畢と親鸞敷革について
乗数主幹澄法について

ク5り
宗教と蒋語法につ いて
柴 野 恭 堂
ここに宗教と粁澄法との関係を諭することは、如何にして宗教が現箕の出来事として吾々に理解せられ得るか
といふ問題に就て、其が可能なるべき立場を明かにすることによつて宗教に於ける梧澄法を考へて見たいと息ふ
のである。さて、人間が他者またはG巴−N・And①r① によつて限界づけられるところに、先づ宗教の客観的意味が
存するのであるが、この他者は言ふまでもなく、超世界的絶封的普遍的貿在と考へられる限り、時間的歴史的相
野的な人間及び世界に封して、永遠的遊歴史的な世界が封立せしめられ、かくLて二世界観が硯はれるのである。
宗教は二元論に立つと考へられる所以である。Je芹① は﹁信仰は紳の肯定である。唯だ紳のみが紳たらしむるの
︵1︶
である。信仰に於てのみ眞の二元論が語られる﹂と言って居る。然し、若し紳の絶封性及び超越性を説くだけで
ズプエクティビテート
あるならば、所謂﹁宗教なき紳﹂が﹁慣験の彼岸﹂に凝硯せらるに止まつてその主題性む明かにすることが
出奔ない。若しまた、同一管掌及び神秘主義の如くに、内在諭によつて紳と人間との一致を説くとすれぼ、それ
ウイルクリッヒカイト
は﹁紳なき宗教﹂として絶封箕在の視覚性を明かにすることが困難となる。︵勿論、神秘主義を以てすべて
バッカス的昏睡b琶訂nti芸F①↓ぎ白岩−であると見模すことは問題ではあるが︶
それ故、紳は超越的内在として、現賛の自己に生硬的に懐胎せられねぽならない。紳と人間︵乃至世界︶との
非連繚が克服せられる為には、矛盾の統一として両者が否定的に結びつくと考へられねぼならぬ。於並ヘーゲ
の観念的痔澄法が穿i諷の自覚の必然的拳廣によつて現箕の矛盾を止揚して、宗教的和解の翰理的膿系を樹立し、
自己否定的肯定によつてイデーが作用的に箕現せられるといふこと、蒙た歴史的硯寛の主饅を邁じて紳が認鼓
られると為したることは、まことに深い洞察であると青ふべきであらう。
しかし、既に何人も知る如く、ヘーゲルの汎論理会養は個慣の行薦の本質を謬少、従って歴史的現貴を如賛
理解することを得す、更に宗教の非合理性を奪ふと共に、その礪立性は哲畢によつて凌駕せられねぼならぬ結
となつたのである。これ全く彼に於ては、論理的必然と目的論的統一とを哲詮法の終結としての仝鰻に於て蘇
するといふ形而上拳的構想に基因して居るのである。クローナーの言ふ如く、ヘーゲルの痔澄準の根底には思
の思惟といふ観想的なる直観の媒介が存するのであつて、矛盾といふも息群の本質として存するところの止揚
れた矛盾に外ならす、其場合の他者は相容れざる矛盾︵内。nt⋮di村t乱筆h且ではなくして寧ろ反封︵苧nt諷ぎ胃︶
であるといはねぼならぬ。従つて、否定が自己否定 ︵A︸−d莞︶ によつて綜合に達するといつても其はt呂邑?
瞥邑l¢芝︵・︸−ti粥k註 に過ぎない。か1る Ⅰ訝乙l︶i已〇k芽に封して謬已l︶i告打算 が貴腐的活動む以てヘーゲ
ルの息梧に置き代へたのも尤もなことであるが、寛に宗教の封象としての他者は理性の仝饅を否定するもので
り、紳と人間とは苫芸i孤を媒介とLて結びつくのである。

7∫7
采教と辞澄法について 九七
宗教と頼経法について 九八
ヘーゲルのイデーに代ふるに 謬⊇dO舛を以てしたるものが、キェ ルケゴール及其影響を受け挺解語法的紳畢

7∫2
である。キェ ルケゴールによれぼ、生命及現寛は常に十字路に在り飛躍的に前進するのであるが、紳の前には無
である。宗教的人間は限界境位に立って無限の哲語法を認識し、罪の意識に藷で深まる苦悩を通して賓存的性質
に徹底して行くのであるが、それが可能となるのは歴史的なキリスI卜に封する信仰によるのである。即ち、苦難
を受けて死んだ人間としての基督を信することによつて、永遠が時間の中に現はれるといふのである。彼は信仰
の封象は最も著しいパラドックスであ少Ab苫rdであると言つて居る。
斯くの如く、ヘーゲルの梧澄法た於ける否定的契機のみが凍って、積極的契機を信仰に委ねたものがキュ ルケ
ゴールの賓存的皆澄法である。︵彼自らは∂u註t註扁崇已①kt芽と呼んだやうであるが Ri昇乎t はまた之れを
甥品註諾ゴi已算已k と解して居る︶。要するに、キェ ルケゴールでは啓示による認識の必然性がパラドックスか
ら要請せられ、人間の警bjektからでなく紳的客購から信仰の認識が成立するのである。ヘーゲルでは∵否定す
なはち否定が肯定に攣るのであるが、キェ ルケゴールでは否定から肯定への飛躍を説くのである。こ1に哲詮的
二元論と辞せられる所以が存する。かくて、バルト及びゴーガルチンに到つては、人間が基虚な入れ物︵G①一覧︶
即ち望註ts①i︸J であることを強調し、一Au各reさ①nd①H Du註ⅥmuS が宗教であると主張するに至つたがゴーガル
テンによれば紳と人間とが関係づけられるのは寛在的共同とLての愛によるのではなくLて、﹁汝﹂が主髄とな
り、汝の下に隷属して、その呼びかけ A冒ufを聞くことが、杜合倫理的及び宗教的態度となつて居る。マルク
の言葉を備ゎて言へぼ、粁澄法の概念は封話の意味から得られるのであ、るが、こゝでは紳の言葉のみがデイブレ
クテイクとなつてしまつた。プルンナーはシュライエルマッヘルを批評して其の同l哲峯の無差別主義を難じ、
その絶封依屠感情には超越者に封する隔売りの感すなはち畏敬の念を認め得ないことを論七て、自らは
に封するパラドックスの限界づけを強調Lて居るのであるが、グリゼバッハによれぼ、頼澄法は結局は認識の特
モノp−ギツシュ
殊な猫自的態度であると言って居る。要するに、揮発神輿は其信仰概念に於て、直観的又は紳秘的形式
義に関係を有するか、それとも貧窮な養魚他に陥るといふマルクの批評が安常するのではないかと息は
リゼバッハの如きは、痔澄紳畢を非批判的形而上畢と見撤して居るのである。
次に、カントの批判主義を稽承しヘーゲルの挟隋を修正することによつて、宗教と蹄澄法との関係を
または文生息識の方面から見ようとするものに批判的対語法かある。文化活動窒息酷を持つ充活動であ
て臣然生起に非すしてid邑\G鷲訂訂ロであるが、この立場に於ては、目的論的普遍は特殊の視覚が之れを理念
として求める生硬であつて、個性的存在は自らを形成しつ1此の課せられたる絶封的仝慣の代表として、自らの
自由なる意志決定を残すといふのである。かくして道徳的行寒が歴史を合目的々に贅展せしめるのであ
レギュラチププリンチープ の場合永遠の絶封者は輿へられるものでなく、規制原理として単に課せらる1に止まるのである。故に歴史は
決して紳の世界計喜を茸現するものとは異り、絶えず新なる創造によつて紳の目的に適ふ如く無限の過
するのである。茸に道徳的自覚が宗教を媒介として歴史を成立せしめるといふ、ことが此立場の眼目で
吾々は敢に歴史の非合理性と其が超歴史的なる永遠なるもの1上に形成せられるといふこと、並びに超傭人的

7j−J
なる個性の自覚が痔語法的に究明せられて居ることを知るのであるが、然し此虚にはi莞巴なる主観が如何に
譲敦と蒋澄法について
素数と蹄詮法定ついて 一〇〇
してr邑を内容とすべきか、また宗教は主憶の名のみに止まるのではないかといふ問題が喋る。加之、謂ふに

75′ダ
歴史は単に現在から作られるのではない。曇た時間も永遠によつて成立するのでもない。永遽は時間なき現在で
ある。か1る現在は時間の流の連漬から流れ去らないモメソトとして完結的な生硬的な意味を把握するものであ
ペグレンツエン る。現在を単に時間的契機として見れぽ没落する剰部であるが、絶封的となつた現在は寧ろ時間自身を
るものであり、これが生きた現在、永遠の硯在である。行璃はこ1に生れるのである。行薦は全饅的なるものゝ
意味を捧ひ、またそれの表現としてAnderのとなつたものである。主慣的なものは表硯的であるが、表現的行篤
によつて自己は他者として自己を自覚するのである。其は永遠の現在が時間を否定したるもの、或は否定された
現在としての現在であるに由る。斯く自己否定的現在に於て自己を肯定し、金牌を成立せしめつ1杢髄に否定せ
られる茸践に於て宗教の痔商法を理解すべきである。プラトーによれぼ、蹄澄法は最高原理へ昇り行く道である
とせられて居るが、単に下から上へ ︵○ぎ12︶の鮮麗法のみでなく上から下へ︵皇訂︸l hin︶の評語法が考へ
られねぼならぬ。批判的蹄語法では道徳的行為が見えぎる絶封者を媒介とするもの、有が無を媒介とするのであ
って其主橙は有であつたが、之れに反して童鷺が無であ少、無が有を媒介とし、有に於て無が自らを表現し、か
くて現在の内に永速が降りて葬るところに宗教的韓澄法の特徴があると恩ふ。
此の場合、無の表現としての行薦の主牒は、行為白身を目的としっ1自己否定的なるが故に、無目的の目的に
向ふもの、また原理的には完結的または黄後的と考へられねぼならぬ現在に在りながら、しかも常に時間的なる
ものを媒介として自己疎外に入るのである。然し、斯の如き意味を有する全濃的僻鰹にして、始めて歴史を形成
することが出来るのではないか。歴史と行篤よ宗教と妊梧澄法kよつて結びついて居るのであるが、その頼澄法
は無の表現としての全暖的個髄が非連繚の連緯として李展する耕澄法であると息ふ。私は候りに今これを否定的
直覚酌軒澄法主名づけるであらう。
鞋 ︵−︶ R.J已kβ︼紆−i乳On葛hi一妥①pl計.訂ipN釘−¢芦S.−声
︵蛸︶ S・呂弓Ck︸Die忌已ektikindりr竹富墓ph忘.derG品等Wart一望bingen−諾¢・−醇昌dSJu・く箪

フ∫∫
宋敦と拝辞法について
宗 教 と 政 漁

7∫6
宗 教 と 政 治
島 原 逸 三
宗教と政治とが如何なる関係に置かるべきであらうかといふ問題を取上げたのであるが、今こ1でその間題が
如何なる理由で提出せられるか、又如何なる性質の問題であるかといふ鮎について述べたい。
さてこの間題はいふまでもなく新らしい問題ではない。この間題に封する最も一般的にして又極めて常識的な
考へ方は、宗教は人間内面の精神生活に関する問題であゎ、政治は外的環境としての組織や制度や又その道常に
閲する問題であると見ることである。宗教と政治とは結合さるべきであると見てゆく立場も、また、反封に両者
は全く分離さるべきであると見てゆく立場も、共にこの見地から考へられるのが常であるやうである。かうした
一般的なまた常識的な考へ方はこの言葉通力の意味に於ては特に誤カといふべき性質のものではない。しかし今
この言葉に更に解繹を加へてこれに細かい意味を輿へてゆかうとすると、そこには又新たなる問題が現れてくる。
何故ならば我々は今日人間の措辞生活とこれを囲む環境との関係に関してある特殊な考へ方に到達してゐるので
あ幻、叉我々はこの考へ方を拒否することの出発ない理由を持ってゐるからである。即ちそれは人間の精細生活
はその顔境としてさきざまな組織や制度を建設してゆくが、その精紳生活はまた同時にその建設した組織や制度
によつて制約せられてゆくといふ考へ方である。従って人間の精紳生活は常によりよき組織や制度を建設してゆ
かなけれぼならないことはいふまでもないが、その精神生活の螢みはその建設した組織や制度の運営に連行する
ヽヽ
性質のものであつてはならないことは勿論、その道皆の外に逸脱するていのものであつてはならないと考へられ
て乗るのである。何故ならば精神生活の全幅の営みはたゞかゝる制約の下に於てのみあるからである。もつと︼
般的冬青葉で青ひ換へると内面的なるものと外面的なるものとは、それぞれ猫立し孝一つのものとして互に関係
し合つてゆくのではなく一つの寛在に内在して互に本質的に開聯し合つた二つの面に他ならない。而して我々が
これを二つの猫立したものであるかの如く考へるのは我々が人間猫得の知性を通してこれに近づいてゆくとき、
その知性の道具である概念を寛在そのものと思ひ誤るからである。故に人間が知性の生活よ少も更に深く生き賛
在を箕在として把握させてゆく神話時代の本能の生活に復摩してゆくことが出奔るならば、この生括に於ける内
外二面の隔カは全く取られてしまう筈だと考へられるのである。か1る考へ方は一面に於て我々がこの世界の一
大轄換斯に遭遇して一つの動かすことの出奔ない事寛に直面した結果であるとともに又他面に於ては庚義に於け
る哲畢的世界観の新らしい組織が試みられた結果である。その資際的動因として最も顧著なものは十九世紀末菓
に近づいて自由主義経済組織のうちから現れて釆た祀合生活の紋陥に直面して東西南洋の発進圃が人間生活の制
約者としての経済組践改造の必要に迫られたことであ少、更に又第一次世界大戦後奮嘘制下に置かれてゐた国際
関係のうちから現れてきて所謂﹁持たざる固﹂ の生括轄を如何に確立すべきかの問題に直面し、西に於ては千九

7∫7
浣 敦 と 政 治
宗 教 と 政 治 一〇四
育二手二毒ヒットラー礪逸政権の掌握とな少、東に於ては昭和六年の瀬洲事欒叉昭和十二年の支部事撃といぶ必

7j‘β
然の過程を辿って奔たことである。またその理論的動因としては奮釆抽象的観察されがちであつた人間の知性が
その本釆の母饅たる人間の具牒的生活のうちに還元せられ、その銀紙に横はる信念とか行為とかいふやうな本能
的基礎が強調せられ、こ1に知と行、理論と箕践とを一如に見てゆかうとする世界敬が組織されて釆たことであ
る。簡単にいへぼ第﹁攻世界大戦は人類文化の興廃が我等の建設してゆく経済組織によつて制約せられてゐるこ
とを悟らしめ更に今次の世界的大動乱は人間生活の全幅の営みは国民生活としての営みの外に見出し得ないこと、
又その園民生括の勃興は強力なる園豪の存立ょその整備せる髄制の運営とに依存することを敦へたといふことに
他ならない。即ち我々は鷺際方面からも文理諭方面からも人間生活に附隠し凍る必然的制約をまざまざと認識し
乗つたのである。香か1る内なるものと外なるものとの結合Lてゐるところにのみ人間生活の全幅の姿が見出さ
れることを知ったのである。宗教と政治とが如何なる騨係に定かるべきかの問題が更めて吟味されねぼならない
といつたのはこの理由からである。
そもそも宗教なるものは如何なる内容を持ったものであるにしても、必ず人間の内面生活の問題を解決せんが
ための試みたる性格を失ふことは出奔ない。言ひ換ふれば宗教への出費鮎は常に一面に於て傭人的であゎ、且内
面的でありその辟着鮎も亦常に一面に於て個人的であゎ、内面的であるといふことが出奔る。宗教生活がときと
して人間生括に必然的に附隠し来る超個人的にして現箕的な制約を無税して営まれようとする傾向を有つのはこ
こ把理由がある。もつと具慣約にいへぼ宗教が純然たる内面生括の問題を人生の第一問題とする傲り経済組織の
建設に全然無関心であつたり又ときとしては反つてその障碍となつたりすることの参るのはそれである。或は又
観念生活が現貿生活から遊離しょうとする性格を有つてゐるために宗教が全人類の福祉といふことを飴り茎想的
に考へてゆく結果国家的事業の遽行に無開心となつたり、又これに逆行するかの如き意固を現したりすることの
あるのもそれである。これは宗教が一面個人的にして又内面的な営みであることから、その外面的環境から遊離
して時に物質的制約の外に逸脱してし棄つたり、又時に国民的全髄と没交渉な立場に立ったゎするからである。
しかしながらかゝる専茸を無硯することの出釆ない∴方他面に於て宗教は人間生活の外面的制約着である組織や
制度のよりよき建設への意園に封して不可妖の開聯を有つものであることも亦否定することは出奔ない。この鮎
については最初に述べた最も一般的な、また極めて常識的な観察はどこまでも安常するといはなければならない。
即ち宗教を中心とするさまざまな試みは結局現賛生活の建設に封して最高の指導原理たるべき理念を尭づ人間内
面の情操とし意志として育成してゆくところにあり、政治を中心とするさまざまの活動は、か1る理念を結局瑛
賛社食の具標的組織とし制度として、建設し、運用してゆくところにあると見られるのである。故にこの鮎から
見て党づ問題外に斥けてゆかなけれぼならないのは視覚生活の具慣的建設を阻害するやうな理念に立った宗教と
理想生活への欲求を破象するが如き方策の下に置かれた政治とである。言ひ換ふれぼ規賛の歴史如ち幾分の合理
性と幾分の非合理性とを包蔵した歴史の過程を非賓在とするやうな理念に立った宗教は到底人類の政治的努力と
結合してゆくことは出奔ない。それは絶封平和主義の宗教のやうにまた没国家主義の信仰のやうに人類の政治的
努力を阻害すること1もなるのである。しかしながら他面に於て政治にも亦歴史の聾展性に眼を閉さうとするや

7∫9
桑教 と 政 治
宗 教 と 政 治 一〇六
うな試みがあることを戒めねばならない。理想的なるものが箕際に於て現資の建設に障碍とならない場合でも単

7仁0
にそれが直ちに現賛的なるものと一致しないといふ理由から、これを排斥しやうとするやうな試みは政治的試み
の大乗的なるものといふことは出釆ない。政治は視覚を護らねぼならないが、同時に現箕を前進せしめねぼなら
ない。かく見るならばこの間題はときどき試みられてゐるやうに歴史を顧みて、そこに宗教と政治の結合の跡を
指摘したゞけで解決せられるものでもなく、また論理を追ふて雨着の一致を確立するかの如き畢説を組織したゞ
けで解決せられるものでもない。問題は結局宗教運動と政治活動とのそれぞれの分野に於ける箕践の問題として
残されて来る。而してこの貴践は宗教運動がこれを蟄生せしめてゐる人間生活の現寛態に附随し禿る必然的制約
に封する認識によつて指導せられること大なれノぼ大なるほど容易であり、政治活動がその窮極の目標たる人間生
活の理想態の箕現に封する熱意によつて湊透せられること深けれぼ深いほど容易である。香かくして雨着は唇歯
相補ふの開聯に立つことが出奔る。
最原始民族の紳観念に就いて
棚 瀬 嚢 爾
こゝに最原始民族と申しますのは考古拳的な意味ではなくて、混存未開民族中最も原始的な民族皇1日ふのであ
ゎ三富す。御承知の如く文化史的な民族研究に於て現存民族中にも文化圏並に文化暦を考察して原始の
される棟になりました。この意味に於ける長原始民族には如何なる紳観念が懐かれてゐるかに就て若干
試み度いと息ふのであります。
こゝで資料としても使用敦します最原始民族は私がおひく心がけて研究致しております我国とも比較
東南東細亜に分布するネダウト即ち普通ピグミーと呼ぼれてゐる倭小黒人でありますが、この民族が東
のみならす世界の現存民族中長原始暦に属するものであるのに閲しましては多くの論者の認めるところ
今は給費を省略致します。東南亜細亜のネダウトは第一にアンダマン諸島に十二︵又は十三︶の部族をなして居
住し、人口約五〇〇であります。これはこの島々が印度の流詞植民地とされ流刑者に潰して種々の停染
生して激減致したので、植民地化される以前一八五八年常時では五五〇〇位ゐたと想定されてゐます。

クβ7
長原始民族の紳執念に就いて
長原始民族の神教念に就いて 一〇八
旗マレイの山部からタイ領の︼部にかけて居住するセマンと呼ばれるネグワトで人口はシェべスタによ

7β2
二、000、九つの部族をなして生活しております。第三はフィリッピンのアエタ族と呼ぼれるもので、アエタ
族の部族数は明らかでありませんが、ルソン島∵、、ンダナオ島、パラワン島等の未開地に居住し人口は約三五−
000から四五、000と想定されてゐます。
之等の民族の紳観念を観察し、同園のネダウト以外の未開民族の紳観、或はや1損めて宗教形態と封此して其
の特色を見度いと思ふのでありますが、直接資料を見るに嘗って宗教峯史空應頭に畠く必要がある様で
す。特に宗教進化論的な考へ方と宗教退化論的な考へ方とはこの場合相営重要な意味を持っております
如く宗教進化論に於ては宗教は極めて幼稚なる状態から漸次高級なものへと一聯の心理的な連関を辿っ
るものであると考へられた。時には宗教なき最原始状態すら想定せられる事があつたが、普通はア⋮ズ
考へ方が行はれるのであります。か1る考へ方に於ては長原始民族皇口ふ概念は極めて漠然としか把捏されなか
ったが、それは兎も角長原始民族の宗教の如きは取るにも足らぬものであると考へられるのを常としま
るに反之宗教退化論的な考へ方がシュミットによつて組織され、所謂文化史的方法によつて前述の如く
階を指摘整理し、先に述べたネグリトを最原始民族中でも典型的と認め、この最原始民族に極めて高級
それを中心とする一神教と呼ばれる高度の宗教形態の存在を認め、文化の蟄展と共に宗教は寧ろ退化す
ぁると考へられた。シュミットによれぼ此の長原始民族の紳観念は所謂唯三高の原始至上紳によつて特
られ、この原始至上紳は天を住所とし、通常父にあたる名辞を輿へられ、重魂や精霜とは類を異にし、
在であり、全知全能の紳であつて、無よりの創造をなし、善には繭を報い悪には懲罰を加へる。かくの如く宗
と道徳とを統べる紳であるから畏怖の念を以て崇拝され、形式のない心からなる所りと、はつもの1供犠が捧げ
られる。而して精零崇拝や呪術や卜占は蟄達せす、死者に封する恐怖もないと言ふのであります。シュミット
所詮は全世界に通するものであり資すが前記東南亜細亜の三個虚のネグリ卜に関してもこの事は論辞され主張
られております。
宗教の進化とか退化とか言ふ専は本日の問題ではありませんが、こ1で前記の東南東細東のネグリトに閲しま
して該民族の根本資料に裁て調べて見ますに、か程まで調査者の先入観念が調査の結果に影響するものかと息
れるものがありまして、ある資料では或は宗教なしと言ひ、ア一て、、ズムであると言ひ、乃至はフェティシ
あると言ってゐる。然し一方ではシュミットの言ふ所と極めてよく全数する記述むLてゐるのであります。之等
の資料を比較して見ると宗教なしと言ふ場合は勿論アニミズムとかフェティシズムとかと片づける資料は大饅
於て極めて粗雑であつて民族の他の生活様式に関しては葡嘗詳細に記述してゐる場合にも宗教に関しては調査
なしたとも息はれぬものが多いのであります。そこで詳細に記述しました資料はの
シ畢ュ誼
ミのッ影
ト響を受け
て調査したものは別にしましても、シュミットの原則そのまゝではありませんが、何れかと言へぼ之に近く、
lて、、ズムとは片づけ得ない大神乃至至上諦観念の存在を指摘してゐるのであります。
まづフィリッピンのアエタ族に裁てバンオーベルベルグの報告を見ますと、之はフィリッピンの各地のアエ
の中北ルソンの一部のものでありますが野y品ぎと呼ぼれる至上紳観念を懐いてゐて、この至上紳は野豚の所

7βJ
最原始民族の神教念に就いて
長原始民族の紳灘念に就いて 一一〇
有着であり、上に住み不可祓であつて死後に於ける審判者であり、此の紳に封しては宗の所りの

7朗
風の際、狩の際など其の時々に自費的な祈りが捧げられ、狩の獲物や果物が供犠として供へられ
ルソンの他のネダウトに於ても其の名は拳げられてゐないが唯云至上紳観念が存在し、此の紳は
でありますが、唯この紳に封する所りの文句竺定してゐる皇芸事であります。備アニミズムは尊
の恐怖も著しくなく同園のマレイ系の民族が盛んに行ふ動物犠牲も行はれすpr蔓⋮碧mOn当と呼ぼれる儀穐
は行はれますが呪術も卜占もないと報ぜられております。
マレイ牛島のセマンの神歌念に関してはエ
スバキン
ースト、
、シェべスタ等の報告があります。妻づスキー
によりますと岩p賢5と呼ぼれる至上紳が指摘され、この紳は極めて強力にして慈悲深き存在で、世界の作者
でありマレーのラジャの如く彼の上なるものなし等と言はれ、多少擬人化のある事が報告されて
ートはセマン全饅に裁て申したのですが、然し先に申しました様にセマンには、言語や慣習を異
族がありまして部族によつて副紳との関係、紳名並に観念上に複雑な欒化堅不してぉります。シ
とク。ヘンが至上紳となつてゐるのはセマンの中ケンシウ族であつて、ケンタ族、メンり族、ジャハイ族では汽罵①i
雷と呼ぼれる至上紳が知られており、其の他二部族でも之の方言差と思はれる紳名を持って患幻
族では又別の名になつてゐますが、尭のク。ヘンとカレイとが至上紳と見てよいと思はれます。
雨着が認められてゐる斯もありまして、これに関してシエペスタは元釆夕べンがq眉ru毒g量h①itであつてカ
レイの作者であつたが時の経つにつれてネグリトの恐れの自然現象たる雷カレイに地位を譲り、
が人格此づれ、前面に現はれて畠の作者る夕べンが背後にかくれたのだと解してぁります。嵐の際など此の紳に
陛骨あたりより血を取って供へる犠牲が報告せられております。震鬼や精蛋の信仰は少く、死者の重も恐れられ
ませんでこの鮎附近に住みますサカイ族やジャクン族の宗教との間に相嘗の間隔を持っております。
アンダマンのネグクトの宗教に関しては亭甲賀已l の資料によりますと り旨撃と呼ぼれる至上紳が報告
され、之はシュミットが非常に重要視しました資料でシュミ十の言ふ断とよく合致するのでありますが、其の後
A.R.辞書nと言ふ人が調査しまして、アンダマンの主要紳は匹≡ハu︵苦−ugエとぎ邑︵ゴ凰竃−D胃i且 で
持たどりクを上僚におき之は北東モンスーンの神化であると見ました。侍ブラウンは精重信仰や況術も皆無でな
い事を指摘したのであります。これに関してシュミットは﹁諦観念の起源﹂の第三巻に雨着を批判してブラウン
の資料を大アンダマン北部のもの、マンのは南部のものだとし、南部がより原始的なものである事を主張したの
であります。
資料に関して一々評論をしてゐる諸には参りませんが、これ等の材料をシュミットは極めて巧妙に扱って、例
へぼセマンで血の犠牲のある事に関しては其の血が極めて小量る事を強調して周囲のマレイ系の民族の行ふ動
犠牲とは性質を異にするものなる事を論じ、アンダマンに至上紳に封する儀祀の報告のない事に裁てはアンダマ
ンには形式的な所りがなく極端なインディビデュアワズムが支配してゐるからだ皇一一昆、資料が矛盾する場
は例へぼ前記の如く地域乃至部族を直別すると言ふ様に食通しまして、先に申しました様に外部の影響を受けぬ

7β∫
ネグリト本釆の宗教が極めて高級なる事を論じたのであります。さてこ1で問題整一つに分けて
長原始民族の紳執念に就いて
長原始民族の紳観念に就いて
﹁紳の性格乃至展性の問題

7ββ
二、儀檀の純粋性、呪術、卜占、アニミズム、死婁崇拝の妖除の問題
として考察乃至批判が出奔ると思はれ愛す。
第一に関してはシュミットは先に述べた様に極めて純粋な紳観念を認めたのですが、茸際はどうか。此の鮎至
上紳の無始無絡性、遍在性、全知全能性、創造能力、道徳的審判性等々に関して詳細に観察しなけれぼなり奏せ
んが、之は他日に譲り虔いと思ひます。然しながら蓋し至上紳の蟄生はカール・ベートが申Lました様に人生と
言ふどよめく大波の韓欒の中に括ぎなく立つ岩石としての大島の要請にあり壷すか、プロイスが申しました様に
≡旨Crdnung でありますか、レウが申しました様に至上紳は最大のアンチシヂントであゎ、最後の大審院であ
りp告ぎ塁u琵でありますか、婿又シュミットが申します様に人間の要求の総和を満足させんが為に生れたもの
でありますか、何れに致しましても最原始民族のみに存在するものではありません。そこで他の未開民族の至上
紳と資料的に比較する必要が生じますが、其の差が果して分明であるか.どうか。ペックツオーニ等は長原始民族
の紳の創造性は全般的には主張し得ないと申しておりますし、前記のネグリトの至上碑に閑Lてもかなり、擬人
敬もあり、或は風、或は雷として賓際生活と関係深く把超されてゐる事は見失ふ事が出奔ないと思はれます。勿
論現存の最原始民族は長原始とは言へ歴史的な経過を持っておりますが果Lて歴史的経過のみを以て其の挟雑的
要素む解決し得ますかどうかし この鮎倍他日む期し度いと思ひます。
第二の問題に隣しては資料によるとアニ1、、ズムやマーニズム、呪術、卜占等は皆無ではありませんが、之を他
の未開民族に比しますとなる経費達して挙りません。かくの如き尊貴から原始一神教が主張されるのですが、然
し研って息ふに一般生活程度のあの位さと、知能を蟄揮する必要もない生活水準の民族に如何にして宗教のみが
高級であり得るのであ=三富せうか。呪術少く、卜占少きことは一應はネグリ卜の宗教の高級を示すかに見える。
然し他の原始民族が盛んに行ふ呪術や卜占は人間の力を蹟充し、生活を不安なきものとしようとした努力の所産
ではなかったらうか。その意味に於て文化の第一歩でもあつたのではなからうか。呪術や卜占は高等宗教では清
算されるし、精重信仰も清算されるが、この清算された場合の快除とネダウトの場合の妖除には相常大きな傾借
上の開きがあるのではあるまいか。私はネダウトの生活活動の単純さの為に彼等が軍縮な、簡明な宗教形態を持
った事は認め度いと恩ひますが、之を理想化して考へる事は正しくないだらうと考へます。

767
長原始民族の紳執念に就いて
宗教的人間畢の構想

7∂β
宗教的人間学の構想
田 澤 康 三 郎
宗教的人間撃といふ言葉が特殊の興味を以て語られ始めたのは左程古いことでない。此の言葉から既に印象づ
けられる如く、斯かる畢的努力の興起は現代の所謂哲拳的人間畢の唱導から其の直援的刺戟と要求を受けてゐる。
人間の本質及び根本構造に関する基礎撃としての人間拳む概念的に類型化して述べたのは周知の如くマックス・
シェーレルであり、嘗っての人間畢は人間の形而上的本質規定に意を専注したのに封し、此れに於いては同時に
人間の自然性むも重税したといふ限りに患いては翻って其の先躍をフォイエルバッハの宗教論にみ出し得るであ
らろノ。
人間を蟄見し之を一切の存在物が靡巌すべき中嶺の座に据ゑた近代管掌の立場にとつて、超人間的なる紳の側
から人間を詮き又評傾する嘗っての人間観は、これが哲畢的思惟や科畢的研究の下した結論ではなく、宗教的信
仰の理念に過ぎないといふ理由を以て、殆ど云ふに足らざる程に無意味とされた。斯かる観方は﹁紳は人間の本
質をなす垂帽の欲求によつて客観的に投射され、やがて猫立の賓在と想像されたものに過ぎぬ﹂と説く碑のill苧
を″i彗星に全く相通じるのであつて、宗教を人類歴史の文化的穣念物とする主張とも其の方向を這してゐる。
−切の存在物を人間に廃廃せしめてみる態度は宗教に就いても亦例外ではあり得なかった。宗教を、道徳の延
長とみこるとによつて人間の側に蘭した近世哲畢の精神を栂承して、竺の宗教から目を韓じ
豊富なる宗教現象を蟄見してそこに﹁人間の宗教﹂をみ出さんとして誕生した宗教峯は、宗
相関々係﹂として、グッハも謂ふ如く、﹁神輿からの解放﹂の政に紳よりも専ら人間の側に
る。此の宗教畢の精神と主張も亦人間中心主義的近代哲箪の精細に源を聾するものと云はね
態度は、一般に宗教を人間即白的にみて、人間的生全般において宗教が占むべき正常なる地
ふ方向へよわも寧ろより多く紳く紳の香見破壊の傾向を生じ、ひいては人間の生仝鰻に於け
渡ひ去る結果を招釆する如き方向へ傾いたと息はれる。本釆的には決して謬つてゐない宗教
拘らず、却つて宗教を見失ふ結果に至つたのは、宗教拳は尭づ主として所謂原始宗教の研究
と同時に、其廃に掲げられた新しい旗職に眩惑されて宗教が本釆的に内有し叉依接する非合
現代の哲畢的人間畢が人間の自然・文化・社台等の贋範囲を包括して其の概念や購系を構成
常た人間の超越性への正常なる考慮を怠つてゐると批判されると全く同様の誤謬む宗教現象
付かぬま1に犯した馬である。吾々はその顧著なる一例を﹁宗教とは紳のことではなく、唯生命の、より以上の、
より大いなる、より盟かなる、より満たされたる生命たらんとする生命の衝動に基くもので
足する前の生活手段に外ならぬ﹂として終局的には宗教の否定に至ったヮユーバの誼に見得

ク∂9
素数的人間畢の構想
乗数的人間畢の構想 一一六
理畢の立場からいはれた此の言葉の中には否み難い眞相への洞破が聞かれると同時に宗教を研究する者が筍くも

77け
忽にし得ない宗教理解の根本的誤謬の新芽を胎戒してゐることフォイエルバッハの場合と全く同様である。勿論
敢に所謂宗教の非合理性超越性とは果して何を意味し、又如何なる具慣的形象を呈するかは更に詳論を保たねぼ
ならぬが、宗教の客慣性と共に其の主饅性を相関聯せしめつ1宗教現象をみ、それを静態的によりも動態的に観察
するならば、宗教の超越性を根本的に理解することが出来るであらう。換言するならば、宗教の封象又は封境と、
此れへの接近又は醍硯への動態を観察し理解するならば能く此れを究明し得ると息ふ。斯か1る態度は、静態的
ヽヽヽヽヽヽヽヽ
分析に重鮎を置き、そこで特に宗教的なものをみ出さんとした従釆の研究からは兎角顧られなかった所である。
宗教を人間の側に於て観る立場が終局的には却って宗教を見失ふに至つた理由は、宗教現象の具隈的事資性と
その意味性とむ混同し、同時に文化一般と宗教との緊密なる相関性を忘れ、宗教現象の意味性を了解すべく敢へ
て意を用ひなかったからである。マックス・シェーレルは歴史の経過に於いて宗教の占めた地位を決Lて高く評
憤してゐないけれども、貿践的には他の何物にも優して力強い宗教的確信の傾倍を尊重し、宗教を単に過去のも
のとせすに常に現質的なものとして其の意義を認識する態度が雷然要求されねぼならぬ。各宗教は夫々自己の存
立を主張する馬の紳畢や教養畢を持つ如く、宗教﹂般はその皆詳論を持たねぼならぬ。之は賛に宗教畢誕生以釆
の要求でもあり、宗教的人間畢確立の間凛的必然性は既にこ1に用意されてゐたのである。基督教紳畢の人間論
や併数々単に於ける彿性論及び救済論や解脱論は単に其の宗教の範囲内に於ける教撃として以上に宗教的人間畢
の問題に相通するものとして、此の角度からみて新たに考察される必要がある。更に、グッハも既に指摘してゐ
る如く所謂自然人の神話や儀碩に象徴された世界観等の根本に迄関れる必要がある。
我々に輿へられた宗教的人間峯の方向は決して一様でない。私の短見に依れぼ、ヨアヒーム・グッハの如く宗
教的人間畢の本質論を説かす、唯思想史に即して宗教的人間畢を類型的に概観的に蚤見せんとする立場、シャー
レルやフリックの如く特定の世界観又は形而上箪を前提しっ1其の立場から人間を諭する傾向、人格や精神生活
に於ける宗教の作用的寄輿を述べるグンデルレの試み等多様であるが、此等は其虞に掲げる課題とその解決に関
して必ずしも共通性をもつとは云ひ難く、人間の生仝髄に於ける宗教の意義を開明する為には侍充分とは云ひ得
ない。之に反して我が波多野博士がその猫自の立場から、説かれた﹁宗教の哲畢的人間畢﹂は饅験や表現に於い
ては生の他の領域と聯関して存在する宗教を、生仝鰐の聯開や構造から理解せんと試みられたものであり、生全
牒に於ける宗教の地位を定めつ1宗教の類型を聾見する馬の端緒ならしめたもの基して最も注目すべきである。
宗教的生に人生最高の傾値を賦興し之に生き抜くことは、神聖性を最高僧侶意識の軌範とみる立場を執らない
迄も、宗教全般の示す事寛である。而して此の事寛と宗教的生の表現とを理解する為には之を静態的に分析する
のみならす、更に之む動態的に観る方がより重要である。凡そ生と名付くべきは、之が流動し進行する朗に於い
てのみ正しく理解し得るからである。その主張を吾々はジムメルから峯び得るであらう。宗教的生を眞に生彩あ
らしめるものは、静態的分析の飾からは兎角こぼれ落ち易い極く楳妙な、合理的論理や思惟の前には極めて脆弱
な、然し人間的生そのものにとつては最も強力な最高債値的な要素であり、之は唯生仝牒の連関そのものに即し
てのみ正しくその昔慣を理解し得るのであつて、此の鮎への考慮を炊いた前述の諸方向はすべて充分なる用意に

ク7/
采数的人間畢の構想
譲数的人間峯の構想
立つとは云ひ得ないものである。我々は幾多の事例を以て之を論澄し得るごあらう。

77ヱ
宗教現象の動態的観察に就いての有力なる指示は、既に宗教心埋峯の側から輿へられてゐるが、ヨアヒーム・
グッハやパサル・ホフマンの畢読も亦其の申に数へ得るし、所謂宗教史家にも此れと類似の宗教観をとる者が少
くない。一々此等を評述する暇はないが、紙括的に云つて此等は救ひを求めること出訂i︼sb乱許辞j洛①it又は福祉
の希求声色sd冒ng の角度から宗教を説明しようとするのである。此の場合我々は救ひに至るべき反億値的なる
ものを形成する内容を具醍的に考察することが宗教を理解する端緒でなけれぼならない。嘗つてメソシングが人
間の仝性的状態から罪意の問題を把へ、同様の立場から彿敦と基督教の苦訂id①nの問題をとカ上げてゐるのは
結果に於いては備不充分であるが此の鮎に関しての一試論として数へ得よう。宗教心理畢に於ける回心や創唱者
の生活経歴等が問題とされるのはすべて此の鮎に関るのである。人間存在の日常性と﹁ゾルゲ﹂S宰g①を強調す
るハイデッガーの存在畢的主張は此の観鮎から興味深いものがある。此の問題の線に沿ふことによ幻我々は宗教
の価別性の普遍性とを共に見定めることが出奔るであらう。
宗教の超越性と非合理性とを宗教の客醍的無限性や超経験性から説く主張は既に我々の知れる所であるが、人
間の有限性そのものに徹することが宗教的啓示、救済又は解脱に到蓮する要件とされる主張に基き、宗教の主髄
的有限性に即して之を説く方がより重要であると息はれる。此の有限性はオットーの所謂被造物の持つ感じ
内r雷tu義e詳E やシュライエルマッヘルの依屠感に止らす、宗教的生の一中心をなす単なる自然主義からの債情
緒換の動因であつて、之を明かにしてこそ宗教の無限性や自由の問題が解けると思ふ。宗教の客醍的無限性を間
ふよりも主題的有限性を問題とするのが宗教現象のより適切なる理解に導くであらラ。特に人間の限界的状況で
ある死や弔葬が宗教にとつて如何に大きな問題であつたかを察知しなけれぼならぬ。
更に夢二に宗教的生の璃ふ封象又は封境と人間との関係が問題となる。近釆、人間の絶封的否定、絶封的放榔
によつて紳の恩寵に興ると説く者にさへ侍穣される結合鮎の問題が、封象又は封境の観念、及び宗教の箕践形態
即ち儀絶や修行の形態がその理論をも包括して一群の課題とさるべきである。救済論や解脱諭は此の鮎に関する
最も有力な手がゝりを操供するのである。
最後に宗教的生の立場から現箕的人間の生へ下す評傾又は態寒が、宗教の人世観世界観と相師聯する教養又は
思想の問題が残り、此庭に宗教的人間畢は単なる一般的基礎理論から次第に個別的寛践性む帯びること1なると
いはねぼならぬ。
以上の如く、宗教的人間畢の基礎的構想と課題の設定はそれ自照として完成されねぼならす、叉歴史理解の基
礎的共通性でなけれぼならぬ。而も斯かる準備は宗教の諸類型を見出す端緒をも輿へる結果にならう。

77、タ
宗教的人間畢の構想
偶数と国家性
彿 数 と 国 家 性

フ7∠′
禿 氏 繭 絆
課題0意味は悌教の目的とする所と国家の目的とする朗との間に何等かの合致鮎があるかといふ事である。沸
教は孤猫的思索豊泉ぶ宗教であり、また現在の生活を樫成せんとする傾向を有する宗教であると断定せ
とがある。然るに我国に行はれつゝある悌教は俸釆の首初より著しく国家的であり、鏡護国家を棲模し
は、単なる擬装であらうか。この間題を解決する薦めには、彿教の木質に就て考察し、国家を重んする
の交渉を究明する必要がある。現時の如き国防至上主義が採用されてゐる際にはこの鮎が特に重要であ
沸教俸播の区域は可なり靡く、またその年代も久Lい事であるから、地域を異にし民族を異にする場合に、地
理的歴史的過程は決して単調に推移するものではない。我国に行はれつ∼ある彿敦は国家的精神との間に不離の
関係を有する鮎で、印度
る事が囲豪としての結合を警固ならしめてゐる事であるから、僻教もまたこの傾向に順致された鮎もあ
ながらこの傾向は元釆沸教に炊けてある性格が新に願興されたのではなく、この傾向に進み得る原動力
教の本質として具備されてゐるのである。
沸教に依る修行には理論的のものと寛践的のものとの二種がある。前者は般若の智慧を啓蟄することに依っ
萬法の箕餞を察知推究することであり、後者は現在に於ける生活を規律的ならしめることである。これを表現
るに乗と戎との名稀を以てすることがある。繹迦牟尼怖が菩撞樹の下に端坐して冥想を繚けた復路に到達した
其の内容は世界に押し入世に関する諸問題の最後的解決であつたのである。世界的の問題は智に依って解決し
人生に関する分は賓践に依って調整されなけれぼならぬ。修行者としての生活を規定する或律は原則としては
子脊展と同居する家庭生活を否定してゐるが、決して孤猫の生活を推解してゐるのではなく、薬園的生活を基
としてゐるのである。即ち相互援助に依って修行を緩けることが効果的であることを考へて制定されたのが、
律であると思ふ。悌弟子は聾聞と緑覚との二類に分たれ、鐸迦牟尼開から直凛に説法を聞き、誘引教化された
が聾聞、繹迦牟尼備に依って説かれた教法を俸聞し、修行を漬けてゐるのが繚覚である。何れも集圏的生活を
けてゐた鮎に於て同様である。集圏的生活を緩ける場合に各日が互に援助すること家庭生活に於けるが如きも
でなければならぬ。この際に最も趣くべきは私利私欲である。併教の無我説は教諭派哲畢の我に封抗して主張
れる様であるが、怖弟子の規律的集囲生活を合理ならしめる蔑めに無我を提唱したものとも考へられる。
無我の誼と共に注意したいのは同向の詮である。同向とは同自向他であつて、自分の努力に依って待らるべ
ものを他に辟せしめることである。同義といふ語も使用されることかがある。集圏生活に於ける相互援助に於
始めて合理化されるのである。回向は同様の境遇にあるものが相互に行ふことを原則とするものであるが、勝

775一
偶数と園∵家性
傭教と 歯家性 一二二
た地位に在る者が劣ってゐる者に封して行ふ朗の回向もあり、また生存者が党亡者に封して行ふ朗の回向もある。

776
何れも回向としては第二次的のものである。前者は浮土教の他力を説明する場合であり、後者は追闊の薦めの年
回僻事に伴ふものである。浮土教に於ける回向の特殊解繹は眞宗にその例があり、尭亡者に封する回向は支部で
は唐代、我国では奈良時代末期からで、地蔵本願経や十方随願往生経などには七分獲﹂の誼がある。即ち尭亡者
に回向する場合はその七分の一だけが先亡者に振向けられるに過ぎないといふのである。融通念彿の思想は回向
の思想を擁充したものとして注意すべきである。
大乗教は菩薩邁であり、自利と利他とを条ぬべきであるとされてゐる。即ち上求菩提下化衆生とも云はれてゐ
る。無我と回向とを前嘩として始めて二利双修の寛を奉げる事が出発るのである。奈良時代の行基が後世に至る
まで菩薩と敬解されるのは公共事業に勢力を傾け、民衆の一幅利を計ったからである。即ち自利利他を完全に果し
たからである。彿数倍侶が現今の謂はゆる社食事業に努力した箕例は甚だ多いのであるが、これ決して偶然のこ
とではないのである。寺院内に於ける各自の修行から更に進出して教育専業、吐合事業望見赦したのは基く朗が
あるのである。戎律に規定されてある集圃生活に件ふ相互援助は布薩の薦めに合合する人々に依ってその範囲が
決定されるであらうが、この集囲生活の精神が損充される場合に国家が基準となるであらうことは容易に推察し
得る所である。国防が完備L、他国より侵略せらる1様な心配がないといふ安全感が悌道修行の方面に於てもま
た要求されるのである。
国家と宗教との閲係と基督敦の寄輿
富 森 京 次
国家と宗教との関係は如何になるべきやの問題に就いて、古釆幾多の見解があつた棟であるが、双方の立場
十分に尊重して、而も其廃に有機的関係を認めるといふ様な見方が、比較的に少かった棟であるから、此虚に
っの卑見を述べ度いと思ふのである。即ち国家宗教両者の中、何れかゞ何れかの上にあるといつた様な物の見
では、双方にとつて有害であると息はれるのである。双方をも其猫自の機能を十分に蟄揮して、侍且つ双方が
機的に結ばれ、相互に寄興し合ふといふ様な関係に見直すにあらすんば不可である。而も之は封等の関係であ
といふのでもなく、雨着各々其持ち場立場を異にしてゐる関係あつて其序列を全然異にし、比較すべからざる
のである。即ち雨着が其各々の立場に於て、他を見るといふ見方であ畠。
先づ国家の立場から宗教を見るに、眞に国家風教の上から、役立つ朗の宗教とは如何なるものであるかと言
のが、国家的見地から見た宗教観でなくてはならぬ。其宗教は、国家観念に障らす、民族精神に相背馳しない
のであるべき事は、言ふ迄もないが、更に進んでは国家生活の進展に寄興し、民族理想の茸現に貢献するもの

777
囲家と宗教との関係と基督敦の寄輿
国家と采敦との関係と基督敦の寄輿
なくてはならぬ。

77g
併し乍ら此見地に立って、此虞に注意を要する鮎は、宗教が其本釆の機能を十分に蟄揮するにあらすんぼ∵国
家に封しても亦克く貢献をなし得ないといふ鮎である。換言すれぼ、圃本的見地に立って眞に国民生活に役立つ
宗教と言へぼ、宗教らしい宗教でなくてはならぬといふ事である。更に具餞的望一円へぼ、虞に国家に有用な宗教
とは、央張宗教本葬の特性である永遠性や普遍性を具へたものでなくてはならぬといふ専である。即ち虞正の宗
教とは、反国家的なものであり得ない事は言ふ進もないが、更に或鮎現鷺的な国家括を超え、現世をも超越した
大きな普遍的領域を有し、永遠的な地盤を有つべきものであるといふ事である。之は国家的見地に立って宗教の
有用性を認むるに嘗って、忘れてはならぬ一瓢である。即ち宗教は、一方、現賓の世界、特定国豪の寛生活を離
れては在り得ないものであるが、他方、見えざる世界に厳し、民族的生活む乗り超えた領域をも有するものであ
る。此普遍的にして永遠的なる大いなる地盤に宗教が立って居れぽこそ、夫は又国民生活に謝しても貢献し得る
力があるのである。之に反して若し宗教が、何廃迄も国家生活と同じ延長しか有せすして、更に夫以上に出づる
領域も地盤も少しも有たないものであるならば、夫は又国家にとつても飴り役立たないものとなるであらう。
ひろがり 固より我が圃慣観念に於ては、多分に普遍性と永遠性とがあらて、国家生活共著に於て、既に大きな延
久性とを有つてゐるのであ畠が、併し乍ら此無窮の圃慣、八紘一字の登園の精神を、更に伸展せしめて、固本の
培養に貢献して釆たものは、矢張普遍性と永遠性とを豊かに有った宗教であつたのである。我が憲法に於て信教
の自由が許されてゐる所以のものも、其精紳は又此虞にあるものの如くであつて、宗教が其猫自の立場に於て、
自由に井本釆の機能を蟄摩し得る夙に、又国家に封しての貢献もあり得るといふ妙諦む清かしたもの
次に翻って宗教本葬の立場から囲豪なるものの機能を観察するに、国家は宗教に封して、具購的な
現箕的な賓践の道場を提供するものであるといふ事が出来るであらう。之を我が国民によつて言ふな
は其何れの宗教を信するとしても、日本帝国なる特異な囲鰻を有せる国家が、其宗教生活貿規の場所
定せられてゐるのである、我等の宗教生活は、主として此特殊な民族生活を通して営まるべきもので
る意味に於て、宗教共著が絶封であると同様に、国家も亦信仰生活にとつて絶封的な位置を占めるも
我等には此国民生活を他にしては、其宗教生活も亦あり得ないのである。宗教に如何に超世間的な領
しても、夫が現賓の国家生活から遊戯して了ふものであれぼ、また宗教としての生命も失ふて了ふの
斯くの如くに国家は宗教にとつて、現寛的な奉仕の場所、茸頗の邁場を附興すべき快くべからざる
ぼかりでなく、又宗教の普遍的にして永遠的な本質をも助長伸展せしむる補佐ともなり得るのである
教に就いて言ふならぼ、基督教は儒教や沸教の後に我が囲に渡蒸して、儒併南教が園本の埼養に貢麒
同様に、国家生活に勤して寄輿をなすべき事、論を倹たないが、更に基督教共著が、我が萬邦無比な
より蒙るべき得鮎ある事も考へ得られるのである。儒併雨教によつて培はれたる潤渾なる民族精細よ
れる鮎ある革も恩はしめられるのである。
抑も基督教は夙くより人本的にして理智的なギリシャ・ロマの文化と結びついて、特殊な蟄蓮を遂
ある。然し之は欧米型の基督教と解すべきものであつて、必ずしも基督教本奔の姿其健であるといふ

779
国家と宗教と竺関係と基督教の寄輿
閥家と宗教との関係と基督敦の寄輿 三六
い。其廃には或特殊な蟄展を遮げ得た鮎もあるであらうが、又基督教が本葬有ってゐた特異性に

7β0
伸ぼし得なかった鮎もあるであらう。故に於てか我が特異な囲鰻の中にあつて基督教を生活する
て、欧米諸国が伸ぼし得なかった基督教の猫自性を伸ばし得る事が出発るであらう。又儒悌雨敦
た民族精神の中に、基督数的な信念を成長せしめる事によつて、日本的なる特異な基督数の類型
出発るであらう。斯くて基督教は、固本の培養に封しても寄興し得ると共に、叉基督敬白憾も、
り禅益せられて、進んでは世界の文化に封しても貢戯をなし得るのである。前者は国家的見地に
用性を見た場合であるが、後者は宗教的観鮎に立って、国家の貢献を見る場合である。
斯く基督敦は国家に封して貢献をなす鮎と、又国家より利益を受ける鮎との二つが考へ得られ
其双方の場合にとつて必要な事は、基督教の本質を克く把超する事である。其特異性を明確に掴
である。之なくしては基督敦は、固本の培養にも利益する所少いであらうし、又日本的猫自性を
的貢献むなすといふ専も不可能であらう。例へぼ前者の場合に就いていふならぼ、克く基督教本
捏せすして性急に英日本国家への貢献を強要する時、其虞に二つの誤謬が生するのである。英一
一隅に、叉動もすれぼ基督界内に軽率に提唱せられる所謂日本的基督教である。之は其外形的な
基督数的な用語を用ふるけれども、其内容に於ては、徒死日本に停へられて禿たものと飴り異る
督教をなすものである。斯くては囲本培養の上からいつても、何の新しい貢献をなさない尊皇息
は既に儒悌爾教を療取して、国運の伸長に資せしめたのであるが、然し之ら雨敦も、既に其伸び
之以上の進展に封しては、同数とても何らか新しい生命の注入を必要としてゐるものの如くであるが、更に挙国
の精神にしても、之を今日以上に薔展せしめるに封しては、平田篤胤ではないが、基督敦の如き新生命の注入
必要とせられるのである。此時に常って基督敦に特異な本質が何であるかを辟へすして、之を在死の日本精細と
同内容のものに改めて、名のみ基督教を保持しょうとする事は、固本的見地に立って見ても、之を何ら用のない
宗教となす尊皇息昧するのである。俵約改正の昔はいざ知らず、今日の日本に於ては、基督教の仮面を被って、
寛に於て非なる者となすの要は聯かもないのである。
更に第二の誤謬は、欧米型の基督教を以て、其億基督教本死の姿であると看撤し、之を以て固慣観念と相容れ
ざるものとして排斥する事である。原始基督教は、物を紳中心的に見、政治を神政叫致に取扱ふ束洋の一隅に生
れたのであつたが、夫が成長した世界は、物を理智的に見、政治を人本的に取扱ったギリシア・ロマの文化であ
ったのである。従って其虚に蟄育した欧米型の基督敦には、原始基督教になかった特異性を伸ばす事が出禿た
あらうが、叉基督教本釆の特質にして十分伸び待なかったものもあつた。従って又今日欧米に行はるる基督教を
以て、其億基督敦の本質を俸へたものと見るのも誤であれぼ、更に之を取って直ちに其健我が国の精神文化の中
に取り容れようとするのも亦無理である。例へぼ民主思想とか自由主義とかいふものは、所謂基督教団が、ギリ
シア・ロマの文化から栂承したものであつて、決して基督敦福音の本質を構庭してゐないである。文麿謂平和
想の如きものも、基督教に猫自なもでなく、和の思想は僻教にもあぉ、又我が輩固の精神の︸大特徴をなすもの
である。香、何れの宗教、何れの民族も、平和を望まざるものはないが、問題は如何にすれば眞の平和を乗らし

7β7
国家と采敦との関係と基基数の寄輿
国家と宗教との関係と基督敦の客輿 一二八
める事が出発るかに懸ってゐる。此時に営って原始基番数の中から、我が囲情に適するその本質を寛く把捏抽出

7β2
して、之を我が肇園の精神紅よつて伸長せしめ、更に儒彿爾教によつて養はれた民族精神によつて進展せしめる
ならば、故に日本類型なる猫自の基督教が生れ出でて、菅に我が民族生活に貢献するのみならす、又世界の新し
い平和と文化との樹立にも大なる貢献をなすであらう。斯くて欧米型の基督教が、世界の平和を斎らすに失敗し
た後に立って、日本型の基督敦は、眞の世界の平和の樹立に貢献するのみならす、又世界の新秩序の建設に大な
る寄輿をなすものであると侶する着であるが、夫には欧米型の基督教の中より其本質を識別把挺するといふ事が、
尭づ必要なのである。
僕 犠 諭 の 整 理
宇 野 囲 空
宗教的儀穐の研究が概して神輿的な考察の域を脱してゐない中にあつて、供犠に関するそれは最も多く宗教史
的及び心理拳的検討を進められたもの1一つである。しかしこれすら供犠と呼ぼれる現象の常識的な把握、俸統
的な意義や概念への拘泥のために、その起源と本質的な形態の考定の上に少からぬ混乱があつて、十九世紀の後
年以釆展開された諸畢統にも不嘗な方向への逸脱が見られる。それは一つは 故莞註i悪 といふ青葉の語義欒他の
ために、その概念の内容が明確を炊いてゐるからであつて、これを供犠、▼供物、聖供など1種々に邦課して見る
時に、その意味の動推は益々多くなるのである。
古代欧洲では蔓已賢il・Ill といふ言葉は、一般に食物その他の物品を紳憂に供へることを意味し、大鰐に於て
供進〇琴一−茎 とか呈供〇bl註〇といふと同義に解せられたので、ドイツ語などでは今にこれに ︵︶l︶許↓ 等の語を
嘗てるのである。しかし同時にこの神霊への供進には〓骨古くは動物の犠牲が好んで用ひられ、それの屠殺や他
の供物む神前で焼いたり砕いたりlする手練としての屠宰im︸宣−邑Cに重鮎を置く場合も少くなかったので、英語

7βJ
供犠諭 の 巷 理
供犠諭の整理 ∵三〇
やフランス語のs冨iぎにはより多くこの方の意味が盛られてゐる。また宗教的儀檀としての饗宴もその大多

7β4
数が紳婁への供進や屠撃と互に前後して相伴ふために、これを毒︵喜をとか芸rlぎ睾妻1niaなど1呼
んで、むしろこれを供犠の終局的動作とする考へも、曙獣の中にひろく挙界に行はれてゐる。
仮りにこれらの諸要素をひろい意味での供犠とい皇眞で概括するにしても、供進と屠宰と饗宴とは各
の意義目的と動作形態とを持ってゐるので、賀際にそれらの執行が如何に不可分に結合されるにもせよ
は各自別個の儀檀行動として解繹した方が通常である。すなはち供進には動物以外の供物を用ひること
それには屠宰といふ事績は全く見られない。犠牲はその屠宰の前後に多少紳蛋に供へるといふ心持の意
たることが多いけれども、一方ではそれを殺したり焼いたり流したりするだけで罪械の枚渾となり、有
や病人の身代少となる場合もある。また饗宴も供物や犠牲の︼部を共食するもの1みではなく、その聖食を綿雲
に供へた少、その釆臨を乞ふて紳人共食の形をとるとは限らない。
それで供進と屠寧とをその意義目的から一つの喜捨透岩︸毒宮邑として総括して見ることも不可能ではない
けれども、所謂除害の供犠書誌毒かーi邑邑Oir①の類がこれでは詮明し難く、尊貴同者の行動形態はよほど異っ
たものがある。さらにこれに饗宴を加へて、供進によつて聖化された犠牲の神秘的な力を、層宰によつ
放し、その肉を食ふことによつて人々が分掌するのが供犠の趣旨であり、それは神聖の世界に人が出入
の豊北の儀穏であるといふ供犠諭も、強ひて三者を︼原理で貫かうとした試みであつて、三者が各自畢
れる尊貴を説明することができない。この外供犠の起源についてこれを仲買への野輿買物から始まると
トーテム動物の共食に基くとか、穀物の綿雲の化現としての犠牲を屠って、再生の力を留保する
だとかいぶ撃詮は、いづれも供犠の一画若くは特殊な形式を取上げての解繹であつて、それが供
躇の複合であることを認めない馬に、その説明に種々の混乱を来してゐるのである。
一醍供進と屠宰と饗宴とが事箕上に結合して現はれるのは、その聖慣とも概辞すべき供物と犠
一物であり、それに封してこれらの行動が時間的に連接した一つの儀穐過程を成すからである。
物が聖餞となる場合に最も多く、特に牧畜民族の儀穏に於て顕著なのであつて、欧洲聾者の供犠
数この種の茸例に基いて導かれたものである。しかるにこれを農耕儀檀の専箕について見ると、
宰は相嘗多く行はれても紳霧への供進や饗宴には一方で農作物が屡々用ひられるので、三者の結
想される程多くはないのである。今これをインドネシア於にける農耕儀躇について、それらの現
で数字的に吟味すると、全数三七八尋例の中でこれが畢猫または結合した儀躇として行はれるの
要素の延箕数三二言例となヵ、その内詩は次のやうになつてゐる。
供進の畢猫に行はれる例数 一八
屠宰の畢猫に行はれる例数 ニー
饗宴の畢猫に行はれる例数 五〇
供進と屠宰との結合した例数 二七
供進と饗宴との結合した例数 二四

7β∫
供犠諭 の 整理
供犠論 の 整理
屠宰と饗宴との結合した例数 四〇

7ββ
三者結合して行はれる例数 二二
二〇二
供進のみの通算敷 九一
居宰のみの通算数 二〇
饗宴のみの通算敏 二三六
通計 三三七
右のやうな供犠の諸要素の頻度を示す表に於て、供進の数字が全鰻を通じて比較的に少いのは、祭儀
れが飴りた普通である矯め観察者の注意を惹かなかったり、特に報告書に記載されなかたものが相普多
薦めと鳳はれる。そして饗宴の同数がその畢猫の場合と供進や屠宰と結合した場合とを通じて群を披い
は、恐らく農耕儀鰻の叫特徴である穀物を聖食とするものが特に新嘗の祭儀等に於て多く、それには必
物の屠殺を伴はないととを示すのである。しかし他方で動物犠牲の屠殺が農耕儀櫓とLて一般に換想されてゐる
よりも高い頻度堅不してゐるのは、インドネシアに於てはすでに牧畜文化の影響を強く受けてゐるから
すなはち此地の諸民族の生活文化は根本的に農耕文化の性格を強く保持Lながら、その儀穏に於ては動物犠牲の
血や肉が供物もしくは呪物として重要な地位を占め、それが饗宴に於ける美食または聖食としても登場
のは事賛である。この鮎は狩猟儀櫓に於ける少数の除外例のほか、殆んど全く動物犠牲やその屠宰を見
の農耕儀穏と此喫して可なり著しい差異である。
インドネシアの農耕儀穫のかやうな傾向について桧、一般にその民族文化の由発と構成について考へなくて
ならぬが、特にその屠辛がこの鞄で人身供犠や首狩といふ極端な程度に押進められたことは、単に古代エジプ
の農耕文化の移動といふのみでは説明できない。それでリブーズやグレブナーはこれをメラネシアに見る特殊
文化圏の儀穫的特徴として、そのアジア大陸に於ける蟄生とその俸播を説いたのであつたが、シュミットはさ
にそれを各文此圏に於ける供犠の欒化聾展から詮明した。それは死者組尭への供進を主とした初期の農耕文他
供犠が、牧畜文化に於ける家畜繁殖のための動物犠牲の屠宰と饗宴の風を加へて、豊作のための動物の屠宰と
穀の饗宴となり、一方初期の食入の風習が死者租先への人肉の供進に韓じて、動物供犠と相まつての人身供犠
首狩に蟄展したといふのである。かやうな俸播説による供犠の説明にはなほ幾多の難鮎があるけれども、新穀
饗宴は農耕文化の猫自性を示すものであり、人身供犠が単に動物供犠の強化のみではないことは明かである。
た動物屠宰が牧畜文化の混入から秀尭ことは疑はれないにしても、それがインドネ、ンアでは聖餐共食の薦め
も畑や栢の枚浮若くは聖化む主な目的としてゐることは注意すべきである。そして死者組尭への供進もこ1では
動物犠牲よりも穀物が主となつてゐる所に、ひろい意味での供犠に包括した三要素が、蟄生的にも各々猫自の
此を遂げることを示してゐる。

クg7
供犠諭 の 整 理
初代敦禽に於ける殉教思想

7β&
初代敦曾に於ける殉教思想
有 賀 銭 太 郎
一迫害虫の概略。基督教兜の初の約三世紀聞は迫菩の時代であつ宅イエス御自身が十字架上に受難された
のを初として、爾釆二百八十飴年の問、即ちガレザウス帝三一一年に、次いでコンスタンティヌス帝が二二三年
に基督教を公認するまで、督基数合は落馬帝国に於て追啓の封象となつてゐた。
我々は此の迫害史む大別して二期転分つことを得る。即ち二五〇年のデキウス帝の迫寄を境として其れ以前を
前期とし、それ以後を後期とする。前期に於ては迫菩は主として民衆の側から起され、政府としては寧ろ滑極的
な態度を探ってゐ宅或る地方に於て民衆の基督教徒に封する憎悪が激しくなつたとき、官憲は民衆を鎮撫する
ため止むを待す彼等の訴を聴いて基督教徒に制裁を加へたのであつた。即ち基督教徒の存在が治安の妨害になら
ない限りに於ては能ふ限力彼等の為す朗を黙許する方針を大餞に於て探ってゐた。
民衆は基督教徒を何と云って非難したかと云ふに、第“は基督教徒はその穏井に於て人肉を食ひ淫を行ふもの
アガペー
であるとの非難であつた。之は聖挙式並びに愛肇の誤解に基くものであるが、多くの人々は其事を眞しやかに誤
少俸へた。第二には赫々を信ぜざる無神論者であると云ふこと、琴こには皇帝崇拝を拒む不忠の民であると云
ことであつた。第一の鮎は事箕に相違すること甚しきものであつて、ビテニア・ボント州総督プリニウスの如
人は調査の結果その怒らざることを直に知り得たが、第二、等三の鮎に就ては必ずしも常らざる非難ではなか
ダイモネス た。尭づ第二の鮎に就て見れぼ、基督教徒はギリシャ・ローマの細々を惑鬼であるとなし、その
のであつた。然し彼等はそれが故に無神論者であるとは考へなかつ宅彼等は凡てのものの創造主なる紳を信す
ることによつて眞の有神論着であると確信してゐた。又彼等は所謂赫々が非倫理的行番を敢てせるものであつ
人類に悪の模範を垂れてゐるものである故に赫々として崇はれるの資格なきものと考へた。そしてキリストに
って啓示されし紳のみが人間に聖なる人格と生活とを創造して呉れるものであることを信じたが故に、此の紳
棄てて彼の神々を鰻丼せよと命ぜられても決して之に聴かなかったのである。
又第三の皇帝崇拝の件であるが、基督教徒は君権が紳によつて立てられたものであることを信じ、主権者及
有司百官の為に紳に所り且つ恩賞なる市民生活を営むことによつて皇帝に封して忠誠を捧げてゐるものと考へ
ゐ冤文事葺これは羅居帝国に於ける皇帝の位置から考へて最大限慶の忠誠であつたと云はねぼならない。何政
プリンケプス なら落馬に於ては皇帝はその本質上﹁第一市民﹂に過ぎざるものであつて、アウグスッスの如
崇拝されることを極力避けやうと努めたのであつた。又羅馬の帝位は原則上世襲ではなく、皇帝崩ざる毎に寧
を生み幾人かの者が覇権を寄ってその最も強き者が帝位に就くことになるのであつて.純然たる覇者であり、王
者とは云へない。

7gク
初代教禽に於ける殉教思想
初代敦禽に於ける殉教思想 一三六
か1る主橿者を紳によつて立てられたる者として之に忠茸に仕へることは、茸は最大の敬意を之に沸ったこと

7タロ
なのであ畠が、羅馬帝闘に於ては皇帝をその儀紳として鰻挿することを要求する傾向が次第に強くなつた。特に
基督教徒がキリストをその主として行することを以て皇帝の紳榛を干犯す、ることであるかの如く思惟L、キリス
トを棄てて皇帝を主軸として受容れLめねぼならぬと考へるに至った。
之等のことに就て今詳しく論じ且説明する蓮む持たぬが、兎に角迫害の前額に於ても基督教は此の第二、第三
の鮎に於て譲らざる限り、営然死乃至はその他の重刑を免れなかったのである。たゞ政府として積極的に彼等を
捜索逮捕することは滅多になかったので、此の時代の迫害は概して突聾的であり叉地方的であつた。従って基督
教合は比較的順調に成長することを得たのであつた。
然るに二言○年のヂキウス帝の迫害は皇帝自らが追啓の主動着であつて、その迫害の理由は帝国が裏返した
のは基督教が盛となつてローマの赫々が顧られなくなつたからであると云ふのであつた。基督教禽が迫害にも拘
らず盛となつたと云ふことと、羅馬帝国が二世紀の末期以来頃竺宋返に向つたと云ふこととは破ふことなき尊貴
であつたのだが、その両者を直ちに原因結果の関係に結びつけることは確かに甚だしき論理の飛躍であつた。羅
馬が滅びたのはその政治機構の不備と経済的行きつヰチリとに由るものであゎ∴其間に人心の堕落が一つの大きな
役割を演じたことも亦見適すことは出奔ない。基督教倉は眞率且勤勉なる人間を社食に提供することによつて落
馬の裏返を阻止する役割を演じこそすれ之を促進するものではなかったのであつた。然しその事が幾分でも理解
されるまでには数回の激しき迫書を経なけれぼならなかった。特に三〇=毒から三一三年までの最後の迫害は激
しかった。然る後に漸くコンスタンティヌス帝によ少公認とな少、次いで三八〇年には基
にまで引揚げられた。
二 迫害に封する基督教徒の態度。追啓を以て臨む杜倉又国家に封して基督教徒は如何
と云ふに、第一には締議文によつて彼等に向けられたる非難の常ってゐないことを讃する
基督教徒が無神論者ではなく忠箕なる市民であゎ、正義の民であることを極力主張し、公
叉更に基督教ごそは虞の紳の啓示による眞の紳祀舞であ久最高の管掌であることを主張し
めたのである。だが今此の梧澄文単に就て此れ以上諭することは割愛しなけれぼならない
次に、言行や文字による困苦がその数なくして依然迫害が臨んで釆たとき彼等は如何なる
ったかと云ふに、云ふ迄もなく忍苦、受難、殉教の道を選んだのであつた。チルトウリア
教者の血は種︵教合の種であるの意︶であつた。彼等は其れが受難のキリストに従ふ道であると信じた。そして
暴力や剣を以て戟ふことなくLて彼等は途に羅馬の政令に勝利を得たのであつ宅イグナチイオスの七書翰︵一
言頃︶、ポリュカルポス殉教記︵妄五︶、ユステイノス殉教記︵殉教は︸六五年、殉教記は第三世紀のもの︶、
ダイエナ及びルグドヌムに於ける殉教報告記︵言七︶、スキりに於ける殉教潮間記録︵一八〇︶、ペルペツァ及
びフェザキクスの殉教記︵二〇二︶などの殉教に関する文献は彼等が如何なる意気と熱心とを以て殉教の死を遽
げたかを如茸に物語つてゐる。
だが如何に殉教が力強きものであつても、基督教は殉教者を出しただけで勝利を得たの

797
初代政令に於ける殉教思想
初代敦骨に於ける殉教思想 一三八
ギリシア語ではマルチユリアであるが、それは元来﹁立讃﹂を意味する。福音の立澄を立てることがマルチユリ

7β2
アであるとすれぼ、其は必ずしも死ぬことによつてのみ成し得られる虚ではない。然しさう考へることは叉死ぬ
べき時に死を逃れる巧な口寛にもなつたのである。そこで基督教徒の殉教思想を審べれぼ大別して三種の態度を
識別し得られる。第〓竺途に殉教の柴冠を求めて死を選ぶ人々の態度であ少、第二は種々の口箕を設けて殉教
マルチユりア
を回避する人々の其れであカ、第三には立詮の眞義に徹して生くるも死ぬるも常に宿昔の謹人たらんとする人々
の探った態度である。
一途に殉教死を希ふ人々は、箕は一種の名替心叉功利心に動かされてゐるのであつて、虞のキリストの御馬め
を点ふと云ふよりも寧ろ無友省な自己の満足を求めてゐるのである。従って教合の指導者達は決してかゝる態度
を勧めてゐない。寧ろこれを極力戒めてゐる。例へぼ﹁ポリユカルポス殉教記﹂に於て、か1る血気の勇に逸る
人々を戒め、ポリュカルポスが追手の禿たのを知つて∵党づは身を隠した態度を賞揚してゐる。又デキウス帝の
追啓の際カルタゴの監督キプリアヌスは郊外に障れて密に教徒を指導したのであつた。クレメンスやオリグオス
の如き教父も必要ならぼ追啓を避けて逃れることも勧告してゐる。但しモンクニスとしてのチルトサワアヌスは
絶封に逃避を許してゐない。
即ち教合の指導者達は民衆や官憲の感情を刺戟するやうなことを能ふ限り避けたのであつて、三〇五、六年頃
のエルグィラ致命合議の決議によれぼ﹁偶像を破壊して其場で殺された者は︰・︰・殉教者の数に入れられぬを宜し
とす﹂とさへ規定されてゐる。神像を填ち係官に唾するなどの事を事寛やつた者もあつたのであるが、か1る態
度は極力響或されたのであつた。
然し第二に、之とは反封に、殉教すべき時に之を同喫する者も多く出たことは又教合の大きな問題となつたの
であつて、その多くは卑怯の故であることは云ふ迄もない。特にデキウス帝の迫啓及びその後の迫害に於ては赫
々を拝しキリストを棄てることを約した所謂背教者が多数出たのであつた。けれども単に卑怯な馬にと云ふよ力
も或穣の理論を以て殉教無用論を説く人々も出たので、か1る人々の理論は教徒の士菊を鈍.らす毒草の如きもの
として最も警戒を要したのであつた。彼等の理論は種々あつて畢一ではないが、例へば偶像に封して外形的に敬
意を表しても内心に鰻丼の心を持ちさへしなけれぼ差支ないと云ふのがその一つである。或は又地上の人間達の
前にキリストを告白することはキリスリの御命令ではない。我等の婁魂が天上に昇り行く中途に於て天人鬼紳た
ちの前に告白するのが虞の告白であると云ふのもその一つである。これは元釆覚智主義者の詮である。或は又マ
ルチユワァは虞の紳を認識することに在るのであつて、死することは不要であるとの主張もなされた。これも覚
智主義的傾向の人々によつて説かれた。
此の両極端の態度に封して、倖なる教父たち、例へぼクレメンスやオサゲネスが探つた態度は如何なるもので
あつたかと云ふに、彼等は迫害は自ら招くものではなく、殉教も故意に求むべきものではない、時には迫害を避
けて逃れることも必要である。然しあく進も悪魔の排戟を受けたときには敢然之と戟ひ従容として殉教死を遽ぐ
マルチユリアグノーシス べきものであることを教へた。けれども其の殉教は立詮であるから眞に信仰の認識即ち覚智
が為し得るところである。殉教は多数信徒の求むべきものではなく、特に悪魔の排戟を受けたる少数の覚智者又

79J
初代敦骨に於ける殉教思想
初代敦骨に於ける殉教思想 山四〇
は完全者に輿へられたる特條である。叉か1る者の立澄死のみが虞に悪魔とその軍勢とを滅す力と為り得るのだ

7タイ
と力説した。何故ならか1る殉教者のノみが虞にキリストの受難に救ふ着であり、従つて又キリストの勝利に興り
得るものであるからである。
初代教徒は斯の如き叡知的殉教思想によつて指導された薦め異教的顔境と載って勝利を獲ることが出奔たので
ある。我々は此の迫害と殉教の歴史を顧みて、そこに二つの要素を識別しなけれぼならぬ。一つは羅馬帝国なる
特殊な国家及社食に於ける基督教禽と云ふ時代史的性格である。我々はその時代、その民族、その土地に属する
ものは、あく迄も他の時代、他の民族、他の地域に屡するものと直別しなけれぼならぬ。従つて羅馬帝国に於け
る基督教脅の立場を其優に我国の基督教の場合に常観めて判断するの愚を敢てしてはならぬ。之は基督教徒自身
にとつても叉基督教徒以外の者にとつても深く傾しむべき鮎であると思ふ。
けれども第二の要素は時代を超超したる虞理である。其は基督致が罪及び意との戟の宗教であゎ、而して其は
書を以て悪に勝つと云ふ方法に伐るものであり、人類は少数の義人が多数者の為に犠牲として紳に献げられるこ
とになつて購はれ且潔められるとの思想及び専箕である。基督教に於てはその頃罪死は厳察に云へぼ紳の子とし
てのイエス・キリストの場合にのみ認められるのであるが、世々の殉教者達はそのイエスの墳罪愛の澄の為に立
雷死を遽、げた者として何結かの意味に於て頃罪愛に垂興する者と考へられて秀たのである。か1る意味のマルチ
ユワァこそは教合の力であり、﹁種﹂である。か1る立澄愛又は購罪愛を保つ限りに於て教含は社食に封して朝
岡の源泉とな少得るのである。
﹁紳の図﹂に就 い て
富 啓 泰
序 基督教の﹁紳の囲﹂を理解すべき典接ほ新約聖書である。其際欧米の紳峯を参考とすべきではあるが共に
拘束されてはならぬ。基督敦の日本的理解に達する為に既成の紳畢思想を排除して聖書を新に謹み直さねぼなら
ぬ。西洋的考へ方を廃棄すると共に聖書のユダヤ的時代的制約を除去して純粋に宗教的なるものを直観し、其虚
から日本人への紳の啓示を仰がんとするものである。聖書の筆者はユダヤ人やギリシャ人に講ましめんとて執筆
したのであるから顔境や民族性の差異を考慮しっ1聖書を読むべきは嘗然である。
イエスには一得の著書もなく文革青書は彼の殴後約牛世紀を経過して結集されしものなれぼイエスの教誼の歴
史拳的研究は殆ど不可能である。然し乍ら嘩青書を基礎とLて常時の宗教思想、政治経済、民族的状勢等を参照
して考察する時イエスの教旨を推察することが出奔るであらう。イエスの活動の感化影響が福音書を成立せしめ
たのであるから彼の宗教運動の意固する廃を憶測するは不可能ではない。
紳の囲がイエスの説教の主題であつた以上其は叉現代基督教の中心教理たるべきである。紳の囲こそ今日の基

79∫
﹁紳 の 囲﹂に就 い て
﹁紳 の 固﹂に就 い て ↓四二
督教教禽の指導原理である。此の教理は徒死英米の社食運動思想に隠薇せられてゐたが今此等を撤去し、その

7タβ
相を開瀕し特質を検討したい。
−阻国主養としての紳の固。イエスの紳の固は組国主蓑であつた。彼は亡国の悲運に沈冷せるイスラエルを
見棄てて観念的解脱に逃避する隠遁檜ではなかつ鷲彼の宗教的意固は敵国の復興と同胞の救済であつ鷲彼が
英資硯の方法として武力抗寧の代りに無抵抗主義をとつたのはイスラエルが弱小民族なるを洞察し、ロマ帝国
の反逆が犠牲多くして効無きを達観せられしが放である。彼の平和主義的主張は強固に歴へられた弱国を敵国
して有った事に起因する。彼は人間を内面的に強化して国民的資力を滴養せんとせられたのである。紳の囲近
との終末論的説教は組圃に封する天佑への信頼を強めると共に同胞に軽拳妄動を誠しめ、希望と勇気とを輿へ
のであるが、ユダヤ人が彼の忠告を窮いたとするならば彼等の遥命は今日とは異って居たであらう。
紳の囲はイエスにとつて理想的イスラエルである様に我々にとつては組囲日本である。紳は︼切を病理、支
し給ふ限り日本も叉紳の病理の内にある。総て苗寒からの﹁日本は神国也﹂の信念を基密着は積極的に信奉す
きである。キリストは第一に組国主義監且揚せられたが彼を信ずる人々は同様に共に徹底せねぼならぬ。然し
が国とユダヤとは根本的に国情を異にするが故に営然鷺践の仕方は欒更されざるを得ない。イエスにとつて組
主義はユダヤの猫立復興であるが我々にとつては惟紳の天栄翼賛に精進し、臣道箕践に完遼を期するに在る。
時ユダヤには国王はなかつた。ヘロデ大王とても絶封の自主権を有つ王ではなくロマ政権の伐偏にすぎない。
るに我国に是いては萬邦無比なる萬世一系の皇皇を奉戴するの栄光を有するのであるからユダヤ人と異て我々
只ひたすらに大君にまめやかにつかへまつるのみである。
〓 紳の支配としての紳の囲。イスラ卑ルはダビデ・ソロモンの黄金時代を除いて政治的運命
ものであつた。民族の理想的指導者む現箕の圃王に見出し得ざりしユダヤはエホバの内に完全な
である。彼等は紳を三郎ち支配者として表象した、而して正ホバはイスラエルの王、イスラエル
の関係になつてゐた。紳の圃︵醇談話i≡。已︸奮u︶は紳の支配の養であつて、紳と人とは国王と臣民との関係を
薦す虚に其特質がある。両者の間は東洋的に上下の固別が厳存して、民主主義政髄の如く支配者
等ではない。君主は最高の構成を有し、人民は君命に絶封的に服綻する。君民関係が理想的に箕
の内に濁り我国あるのみ、其故我が国民こそ紳の固の眞養を理解し得る資格を賦興されてゐる。
紳の支配と人の服従のある廃に紳の囲は顧現する。而して服従は個人の宗教的道徳的生活、国
紳への薩井の三つの形式を通して行はれる。然し此の三者は各が猫立するのでなく相互に他者を
一的形式を為してゐるのである。第一は何人が紳との婁的交通を結び、紳の誠を遵奉し紳の要求
のひたすらなる随順の生活である。第二は国策の茸践に積極的に協心教カし、一旦緩急あれば義
とである。紳は人間の生存に国家の様式を賜ひしものなれぼ国事に息なるは紳を愛し、紳の旨を
他ならぬ。第三に紳の支配と人の服従は致合の蔭拝に於て連行せられる。紳への所桔によつて紳
し、紳は強固に人の魂を支配し、人は紳前に挽きて恭順の意を表はすのである。
我々日本人が明御紳たる天皇に最敬穏を捧げ神社を奉寮するに際しても紳の支配と人の服従は

797
﹁紳 の 囲﹂に就 い て
﹁紳の囲﹂に就いて 一四四
につかへまつるのをヘレニズム時代の皇帝崇拝と同一硯する誤謬を犯してはならぬ。ロマ皇帝と

7タβ
は比較を絶するは言ふ進もない。神社の崇敬を偶像鰻丼と混同する不敬を慣むべきである。神社
オヤ 皇阻皇宗を始め奉幻、氏族の組の命以下皇道扶翼の大業に奉仕した紳靂である。我が日本
の教へる紳ではないが、鷹野紳はこれらの赫々を通して我が日本に特別の恩寵を垂れ賜ひしは描
る。されば神社奉帝に依り報本反始の誠を致すは日本人基督者として常然必然の義務である。
三 患との闘牢としての紳の固。紳の囲は悪魔の囲を前摸する、紳と悪魔は矛盾関係にあつて
への服従は同時に悪魔との闘寧でなけれぼならぬ。紳の意に逆ひ紳に服従を肯んぜす紳にまつろ
の罪と云ひ、斯る罪への意志を象徴的に悪魔と辞するのである。我々は先づ紳の意に逆ふ自己の
挑戦し、徹底抗戦を決意せねぼならぬ、此魔に借入の道徳的精進が途行せられる。
罪悪・不正を絶滅することによつて正義が確保せられるが故に紳の園は正義の支配皇息昧する
れば正義は成就しない、経て正義は常に能動的戦闘的性格を有する。ナザレのイエスは意に封し
く軋弾する正義の闘士であつて、安協によつて己の安逸を貪る卑劣漢ではなかつた。正義を押通
字架上に非業の最後を遽げねぼならなかつたのである。正義の戦寧に己が生命を捧げて奮闘する
に合致し、然も紳は斯る正幸の士に紳の固の祀福を降し給ふのである。
﹁天国は烈Lく改めらる、烈しく改むる者はこれむ奪ふ﹂の言は紳の圃白襟が戦闘的精神を含む事を表現して
ゐるのである。イエスの説教のみならす彼の人格も又戦闘的精細に富むでゐる。ローゼンベル′
して﹁イエスの人格は峻烈な粗剛な特徴を帯びる⋮︰力強い説教者及び殿堂において激怒の人﹂と言ひ彼の英雄
的性格を賞讃する。ドイツ的基督教の紳蓼者はへへp象ti意義。亡nd、へn義臣扁S。Oh訃tentum の区別をするが日
本的基督教も文意との闘寧の教理に依り積極的基督教と辞すべきである。
四 新生としての紳の囲。イエスの教詭に楯へぼ王なる紳は同時に父なる紳であり、義の紳は同時に愛の紳で
ある。彼の紳観の特色は紳の展性が単に着でなく文革に愛でもない、雨着が統一されてゐる虚にある。峻厳に罪
を審判する紳は慈愛の心を以て罪を赦免する紳である。此の紳信仰がイエスの人格に反映して彼の内に平和な両
と激烈な面が見られる鮎はローゼンベルクの述ぶる通りである。義は闘零し愛は抱擁する、此二つの矛盾を耕潜
没的に統一する紳は和の紳である。矛盾せる二つの態度の統合をイエスは窮を以て茸現した。彼の啓示せる紳は
義且愛なる紳であつて人が此の紳にキリストむ媒介して結ばれる時、人は新生む経験する︵図譜にてむすぶは産
むに通ずる︶。怒と愛とを綜合する和の締約性格が我等の内にむすばれるが此虚に蚕的経験としての紳の圃がある。
赫は我々の内に新生命をむすぼしめる産みの父である。新しく産まれた生命は紳とのつなが少によカ永遠性を輿
へられ永生となる。斯くして人は最高の紳の園祀岡里早受するのである。

7タタ
﹁紳 の囲﹂に就 い て
初代基督敦骨の信仰骨自とビリピ書二・六⊥一 一四六
初代基督敦曾の信仰告白と

βの
ビリピ書二・六1一一
橋 本
託1 初代教合一般に承認されてゐた信仰告白類は、サーッマンよれぼ、永年の聾展過程を経て洗薩式文から生長し
たものである。﹁再生の浴み﹂に三たび浴せしめられる際、マタイ俸二八・完の洗穫命令に従って、﹁我は汝
に父と子と聖重との名によりてバブテスマを施す﹂との式文が宣べられたが、此の授洗・受洗に先立って、受
着に封して信仰試問が行はれ、受沈着は右の洗纏式文になぞらへて、父・子・聖零の三一紳信仰の告白を以て
問に答へた。此の三〓岬信仰告白が蹟張されたものが、所謂﹁使徒書翰﹂︵Epi賢−pぢ○賢−宰um︶申の信仰告白
や﹁ロマ信保﹂︵晋mbO冒mROm旨um︶−・・−何れも二世紀中葉に成立と見られてゐるi・その他の初代教合の信
仰告白類であるといふ。
エウカリス
これら信仰告白顆は、殊にキリスト信仰の告白の部分が損張されるに至ったが、それは、聖餐式の際の感謝
ティア 所少︵Eg−睾i諷㌻︶と開聯して贅展したキリスト告白が、沈鐘の際の信仰告白に結合されたものと考へられてゐ
る。此のキりスト告白は、コリント前書一五・三⋮八、テモテ前書三・一六、ペテロ前書三・一八−二二、殊にピ
サピ蕃ニュハ⊥↓にその萌芽が見出される。﹁ニ倍條﹂では、ビワピ二・六−二に従ってキリストが﹁主﹂
と告白されてゐる。最初ギリシャ語で記された﹁ロマ信條﹂は、速かにラテン語に移されて靡く
され、四世紀末か五世紀初めに現行の所謂﹁使徒信保﹂︵Ap邑。−ik亡m︶の形をとるに至った。カール・ホルが、
証2 ﹁使徒信保﹂第二項をビリピ啓二・六⊥一と封照させて劃斯的な﹁使徒信保﹂繹義を試みたことは、理由のあ
ることである。
信仰普白文蕃の歴史は、簡単堅三紳信仰告白が、誤った解繹を避けるため、異端的曲解む防ぐ
くに説明を追加されて複雑になつて行った歴史であると言へよう。﹁使徒侶保﹂が種子であゎ、
深3 信保類は此の信備中に潜在的に包含されてゐるものと見られてゐる場合もあるが、然し、﹁使徒信保﹂から更に
その源流へと翻ることも、ある程度、不可能ではなからう。
﹁使徒信僕﹂の原形である﹁:信保﹂は、前述のやうに、ビリピ書二夫†、二と関係があると考へられて
ゐるが、ピサピ書の此の部分が、注意深く選ぼれた語句が印象深い律動を有った平行句の一群を成Lてゐて、純
然たる啓翰餞の文脈申に異彩を放ってゐることは、ヨハネス・ヴアイスをはじめ、ダイスマン、
許4 ィベリウス等の特に注目してゐる所であゎ、ローマイヤーは殊に詳細な研究の歩を進めてゐる。
此の部分は、種々の鮎からパウ。自身の作ではなくてパウロが俸承した原始教合に共通の遺産
讃歌であり、而もその癖歌たるや、セム語系の母国語を有する作歌者が自らギリシャ語で作った

βプア
ダヤ人基督者の讃歌としての性質を示してゐる、とローヤイヤーは結論してゐる。然しまた、此
初代基督敦禽の信仰告白とどリビ啓二・六−〓
初代基督敦曾の信仰骨自とビリピ書二・六1〓 ︼四八
〇−︼︼ 両前の全宇宙的な歓呼の所りへと朝宗してゐる厳密な意味でのエウカリステイア、即ち、聖餐式の際の

β02
感謝の所カであるが、同時に、ビワピ人たちにとつてもケリユダマ ︵内湾遥m且、即ち、キリストに就いての権
威ある詮教としての性質を有ってゐた、と論じてゐる。換言すれぼ、﹁屏使徒たち︵qr毒OS七色 によるキリスト
粧5
に就いての詮示﹂として侍承されてゐたものであるとの謂ひであらう。ディベリウスが言ってゐるやうに、鰻丼
式等に用ひられてゐた既存のキリスト信仰の告白の若干のものを材料として作られた聖歌であるといふ可能性も、
考へらるべきであらう。
ローマイヤーが、此の詩篇仝鰐の内容的中心は﹁主イエス・キリスト﹂といふ信仰告白に、否、﹁主﹂といふ
誰6
叫びに存すると言ってゐるのは、大鰐同様のケネディーの見解と共に、頗る常を得てゐるものではないかと息は
れる。﹁主﹂といふ名を中心概念とする歌としてヾ ローマイヤーはこれを﹁主の讃歌﹂︵内yriO葛邑m︶ ﹁主の歌﹂
︵内y已○裟乱︶等と解してゐる。
使徒行停二・三ハによれぼ﹁汝らが十字架に釘けし此のイエスを、紳は立てて主となし、キサストとなし給へ
わ﹂と、ペテロは十一便徒と共に告白澄示してゐる。ロマ書一〇・九には﹁なんぢロにてイエスを主と言ひあら
はし、心にて紳の之を死人の中より延へらせ給ひしことを信ぜぼ救はるべし﹂とあり、コリント前書こ二・三に
は﹁聖震に感ぜざれぼ誰も﹃イエスは主なり﹄と言ふ能はず﹂、同書八・六には﹁唯一の主あるのみ、萬物これに
由少、我らも亦これに由れり﹂とある。﹁主イエス・キリスト﹂或ひは﹁イエス・キりストは主なり﹂とは決して
パウロ特有の概念ではなくて原始教禽に共通の信仰告白であつた。否、全く新しい猫自の内容を盛られた﹁主の
一語が既に、原始教合に於いてはキリスト信仰の告白の一切であり、絶頂であつた。此の〓諸には、原始教合で
は如何なる内容が盛られてゐたか。ビワピ書二・六1一一は、これを極めて明瞭に、極めて徹底的に示してゐる
と言ふととが出奔やう。
九簡の﹁高く上げ﹂られたとは、紳と等しくあることへの復辟・回復より以上のものむ賜ったといふことであ
ゎ、此のより以上のものが﹁もろもろの名にまさる名﹂即ち﹁主﹂といふ稀競であゎ、此の名む賜られたとは、
鰻丼封象としての主として冊立され給ふたことである。而も、単に教合の上にのみではなくて、全宇宙の上に
﹁主﹂として冊立され給ふた︵一〇節︶ のである.とディベリウスは言ってゐるが、ケネディーは更に明瞭に徹
底的に次ぎのやうに述べてゐる。
パウロのみならす、凡ての新約聖書記者に在っては、復活以後のキリストの集光は復活以前のそれよ歩も増大
したものとされてゐるが、それは、キリストの紳たるの本質覚醒の檜加ではなくて、品位の上昇を意味するもの
であゎ、キリストは、受肉と頃罪と復活と昇天とを経て最高の地位・品位・構成に上られ、﹁主﹂といふ御名は
此の最高の地位・品位・権威を指す稀競であゎ、曹約聖書に於けるテトラグラムマトン︵洋弓HJ︶に相督するも
のである、と。
九蘭の﹁もろもろの名にまさる名﹂とは、﹁イエス﹂乃至﹁イエス・キサスト﹂を指すとの解繹もあ少、﹁品
位﹂乃至﹁稀坂﹂を意味するとの解繹もあるが、ローマイヤー、ディベリウス、バルト、ケネディ一等と共に、

βOJ
これは﹁主﹂といふ御名のことと解すべきであらう︵ヘプル書丁四参照︶。嘗約聖書では、御名といへば ﹁わ
初代基督敦食の信仰骨自とどリピ書二・六1一一
初代基督敦曾の信仰告白とビリピ啓二・犬⊥一 ︼五〇
アドナイ が主﹂︵国司巨J︶のことで・あ少、此のテトラグラムマトンは七十人繹では﹁主﹂︵内yri旦と詩されてゐる。巨竜#l

gP4
も内yriO∽も、何れも最高の稀睨であり﹁もろもろの名にまさる名﹂である。
﹁主﹂といふ稀釈は初代敦合に於けるイエス・キリストの愛稗であつたと、ケネディーは言ってゐるが、ダイ
スマンの次ぎのやうな穿った親方の方が、更に虞に近いものを有するのではなからうか。−蔓高級の、否、最上級
の宗教儀橙用語をふんだんに鎮めた賓冠を皇帝に冠らせる皇帝紳化・皇帝崇拝に封して、基督者たちの良心は極
めて強力な反作用へと騒られた。紳の王冠を飾ってゐる賓石を以て人間の頭を飾るとは何事か。下僚の卑賎な着
たちの雑踏の申から、キリストに在る聖徒たちの癒せた硬ぼつた手が差し上げられて、カイザルの王冠の賓石を
扶ぎ取って、それを以て自分たちの信する紳の御子を飾つ冤 ﹁イエス・キサストは主なり﹂との告白は、雫
託7
﹁主﹂の〓鱒乙そは、此の抗宰的戦闘的信仰告白の一つ、香、最も重要なものであつた。﹁使徒信保﹂は大口マ帝
国といふ異教世界のただ中で、なほ俸道の敦合、散りて宿れる着たちの敦禽であつた青年時代の基督敦合の通行
券、身分澄明昏、旗槙、合音菓として生じたものであるが、その一源流と見られるピサピ寧一・六−二 のキリ
スト信仰の告白、更に﹁イエス・キリストは主な少﹂との告白乃至﹁主﹂の一語は、ユダヤ教的異教的世界のた
だ申で、矢張り俸道の教合、散歩て宿れる着たちの教合として戦った原始敦合の信仰告白であぉ、通行券、身分
澄明書、旗梗、合言葉であつたと言ふことが出殖やう。
現代の基督教合の時代相應・国土相旛の信仰告白は、果して如何なるものとLて生ずるであF←つか。その聾生
の時こそ、時代相應国土相應の現代基督教合の現前の時であらう。
拝賀S己象賢邑−二FⅧ賢蛮訂づ巨富mbO︼∴−︸︰穿u︷2諷已n2Ⅰ巨已−①Ap¢kryp訂︸−ニーr拳苫1監守r I︷¢呂eCざ
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∂0き
初代基督敦食の信仰告白とビリピ書二・六⊥一
紳名、ヤーウェ一について

叔裕
紳名、ヤークエ一について
石 橋 智 信
キリスト教の紳の名を日本語詩聖書では、片傾名字で啓き表してエホバとして居ること御存知の通ゎであゎ三富
す。
第﹁ バといふ偵名を用ゐたのは、こ重力ます。ヘブライ語では等︸−宗旨で、ワであります。而も、そのw
は聾育上、丁度、英語のwであつて、ドイツ語流のwでさへ無いのであります。といふことは、awと繚く時
○となつてしまつて、アヴとはならないのです。例へぼy⋮琶h︸F箋家︸lがも彗h、h巴旨となヵ、英語の
翠き ど⊇ がリー、ローとなつて、サヴ、ラヴとならぬのと同様です。要するに、ヘブライ語のwは英語のwの
様に極めてーiq已dなロであつて、ドイツ語風なグでないのです。ですからエホワであつてエホバy各Obpでない
のです。それをエホバと書き、また、いひ来ったのは、こまつたことだと思ひます。ところで然し、そのエホバ、
正しくはエホワが、既に誤った呼名であるのは重ね重ね遺憾であります。
それでは何が正しい、ほんとの名かと申しますと、それはヤーウェーであるのであゎます。
それでは、はんとの名、ヤーウェーといふのが障れてしまつて、云はゞ、うその名エホワが俸はつたのでせ
か。
その理由は簡単なのです。本名が全然、謹まれたからです。紳の名をみだりによぶ可からず。徹底的に誇ま
て、諦名エホワの方だけが俸はつたわけであります。
y 箪 h w ㌢ をh
謹み
箪 d O n p y
︵ 意味、﹁我主﹂︶を以てせんとし
と書き壊し
ヤーウェーの子音のみ y F w ︶− それに邑き董の母音 寧 O p
を振備名の様につけおき
p d O ロ p 繹せ
yぼ﹁我が主﹂と諌め!と目論んだのです。


︵丁度自ら︵ミヅカラ︶むオノヅカラと謹め! と自らと書いた様に︶それを骨、そのまゝ謹んでオミヅカうと
でもした様なのがy多芸已−であります。
ですからエホワはオミヅカラ流であります。
夫子ノ日ク﹁夫子のたまはく﹂む﹁夫子
流の 日ん
によ くだ﹂
のと同様であります。
ちやんぽん 要するに、本名はヤーウェー、誇名はアドナイ、謹名記睨の︵本名と混滑な︶よみちがひが︵オミヅカラ、夫子
の日く流な︶がエホワであります。
︵ですからユダヤ人はアドナイとしかよみません。エホワはまちがつたクワスチャンよみであります。︶

β07
紳名、ヤーウェ一について
称名、ヤーウェ一について 一五四
さて、ところで、第二の問題、むしろ、私の今岡蟄表の本間題として、その本名の語義の問題です。

βOg
ヤーウエーといふ紳名の語義ですが、これにつきましては古釆、勿論、いろいろな推定があります。が、いま、
萄約単に於ては、むLろ、解き乗るといふのが定説であ望ます。サジを投げてゐるのであります。
然し、これは相常、確賓な推定が出来るのではないかと息ひます■。それを襲表したいと考へるのであります。
第﹁文法上、y註wさがF町ぎ詳の蔓1邑i言︵ロp︸昌︶たることは不思議に殆ど誰れもが主張Lませんけれ
ど容易に考へ得ること、文法上極めて単純なことであゎヱ慧す。y義−旨が乳−詳のc琵琶已くe ︵昌p︸−︸叫−︶である
様に。
委しくは、三人稀、単数、男性、の使役相のlI甚宰許k曾﹁かれ何々せしむ﹂ の形であります。Imp雫訂kt はこ
の場合、wi乱費FO−昌dのⅠ⋮p宰訂k什 だと息ひます。即ち、紳ヤーウェー﹁彼れは反覆、h㌣乱︸宣しむ﹂といふ
原意になります。
ところで、動詞㌫急ぎこれはF音詩と同じだと息ひます。ヘブライ語ことに動詞でwとyとは相通じ合ひ
ます。動詞の型の一つに宮とyとは全然.一應、一つに扱ったpのyOdhといふ動詞の型が設定されて居ります
棟に。鮎ち、訂雲hは充分h董旨として取扱ひ得るのであ=ヱ更す。
ところで訂冒辞動詞の意味はと申しますと、党づ問題になるのは
h竜野F
官至旨
叫方は繹して言二紆 ︵等5.︶ 忘百e︶
他方は詳してtO亡扁 ︵訂b昏︶ ︵≦.扁①︶
欧洲語では間隔があ少過ぎ垂す。
これらは欧洲語にはおきかへ碍なレ、ヘブライ語だと息ひます。そんなに︵乳首−①訂=bのこi扁︰野¢、まヨ①︶
間騰があるのではない筈です。たかがh董旨と雷yahQ
これは 日本語の﹁ある﹂と﹁ゐる﹂です。﹁ゐる﹂が欧洲語にない。﹁ゐる﹂がないから筈iづこ各①nと繹
してをります。然L−各①−1は訳詩、少くも適繹でないです。
﹁ゐる﹂と﹁いきる﹂−①b望とはちがひます。﹁ゐる﹂は云ふまでもなく、生きてるものがそこにあること。
﹁ある﹂とはそれと射すれぼ生きてないものがあること。ところで﹁活きてる﹂ の反封語は 死んでる。
あるの反封語は ない。
ゐるの反封語は ゎないで﹁死んだ﹂のとは大ちがひです。
その ﹁死んだ﹂乃至﹁死んでる﹂の反封語﹁生きてる﹂でない。たゞ﹁居ない﹂︵存在しない︶ の反封語﹁ゐ
る﹂が雷y已−なのです。そして﹁ある﹂がh董箪hであゎます。
日本諸拳中のヘブライ語拳乃至背約峯乃至宗教撃は 訂benとちがふ﹁ゐる﹂を感じてそこに在りし宗教の新
たなる再認識をせねぽならぬと息ひます。

郵相
紳名、ヤーウェ一について
紳名、ヤーウェ一について 一五六
ヽヽ
ところで首計訂邑・それはhwh即ちいきからきてゐると思はぎるを得ないのであります。ドイツ語の

g嘉0
hwh h箋h h茎。Fと同じく、オノマトポエーティシュにいきむ示すにちかひないです。F箋a計卦童寧訂いきす
るであります。
して見ますとy旨w詳と云ふ語の意味は﹃彼れはいきせしめるもの﹄乃至﹃被れはをらしめ又はあらしむる
もの﹄の意と息はぎるを得ません。
ヤーウェーの原意は﹃いきせしむもの輌居らしめるもの﹄乃至﹃あらしめるもの﹄訂訂n諾礫岩5d眉L−誓乳訂p望d薫
と考へざるを得ません。
さて他面におきまして宗教畢の姶阻マックス・ミュラーが特に力をいれ、一生を殆どその研究
ヽヽ 題は.宗教の封象の問題であつたのですが、一般宗教史に如して殆ど無数の宗教封象竺管しますに、いき関係
ヽヽ の宗教封象が非常に数多いのであゎます。宗教封象のうち、いき関係の宗教封象の一グル
ぐらゐだと息ひます。
ヽヽ 古く印度のAtm。n︵ドイツ語のAt①mを息はしめる︶、ギリシャ語のpn空m寧等いきに関係するものが多く
あります。近く、井上正絨の息の教なぞもあります。後れの著、唯一細道問答にこんなことぼも
此息は身慣の根元たして命の元なり。故に息を止むれは人死す。死れは身慣ほろぶ。然らば身
して此息正しければ心正Lく行正し。此息正しからす磯けれぼ心意しく行ひ正しからざる事を知る。⋮⋮子の
字息といふ字書入後事紳書の俸のよしそれにならひて今の世にも息子息女なそ香木るよし。
なほ黒佐敷の教組の歌にも
天地におとらぬほどのいきものは
己が心と息ふうれしさ
といふのがあり、教の五事の一にも﹃拾物を把へよ﹄といはれてゐます。たゞ、このうちにあつて面白く息ひ
ヽヽ
ますのは AtIgn、pn票mpいきもの等は宗教封象自身をいきと見るに反し、背約のはひとをいき︵いきもの
n晋h監雷y註︶と見、さてひとのいき、いのちは紳のいきと見る鮎猫特かと考へます。
紳と人と一應ハッキワニ元的封立におき︵イキナサー如とせす︶そして奥に相通ずるいき、いのちを見る鮎猫
持と息ひます。
但し、これ等以外、膏約の人間観には被創造物翫以外に、案外、一如的神秘的人間観を寂してをる鮎が注意に
伍すると考へます。それらは申命記、エゼキエル等に見られます。然しそれらについては他の機合にゆづ少たい
と存じます。

β77
称名、ヤーウェ一について
申抵沸教徒め紳献執とその文化

βJ2
中世彿教徒の紳紙観とその文化
島 寛 之
︼ 中世に於げる紳彿関係史の研究は、この囲の紳澄史、悌敬愛、都ち廣くは日本崇敬史において、極めて重
嬰なる課題である。然るに、この問題は特に近世釆の封立的感情的な紳悌関係史観の動向の飴波を受けてか、飴
りその研究自照も進められてはゐない。然し、この研究をなほ未開のま1に放棄しておくならば、神道史にお
ける中世のブランクは、永遠に哩めることはできない。またこの囲彿教がいかに日本民族精神文化として消化さ
れ、日本沸教として特異な蟄居をとげたかも正しく理解はできない。のみならす、この間題の検討こそは、所謂
日本橋紳史の究明の上にも、今や必須的テーマである。
自分は今、この間題忙関する〓断を、中世悌教徒の押紙観とその文化といふ親鮎で取りあげ、特に今後更に進
めらるべきこの研究評題上に横はる幾つかの問題の所在及び方向について若干述べてみたく息ふ。
こ まづ、鎌倉時代を経て南北朝、更に蓋町時代に通する中世の紳悌関係の最も顧著な動向の一つは、かつて
平安時代に育れた従寒の、信仰的立場で相結ぼれ雪所謂本地垂迩的神像関係が、漸く数理的に構成され、理論
的に整備されて奔たことである。即ちそれは、その最先頭に立った密教系の両部紳道、天台系の山王紳道等の既
成額密諸教の紳祀観を初め、更に鎌倉以後新勢力となつた法葦宗系の絵筆細道、浄土門の紳醗親等の所謂彿教紳
道悌迭細道の薔展がこれである。中世の沸教徒は、何れもこの紳敬神道の流れの中にぉいて、それぞれの神祇観
を展開したが、その最も重要な役割の叫つは、静々の観念に件数的理念を適用し、哲畢的紳畢的解繹を輿へ、中
世紳廼理翰の展開の基礎的工事に大きな思想的寄輿をなLた鮎である。
今、さうした中世彿徒の紳紙観の具鰻的な一例澄は、彼等が沸教的理念を以てした紳々の分類整理の上にみら
れる。南北朝術後の密教系細道文献中、最も代表的なものであつた翠気記の紳観覧気記の巻には、漸く沸教的な
ヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽ
紳の眈や姓がつけられて釆てゐる。例へぼ、法界元初紳を初め、賓迷紳、覚悟紳、或は、事紳・理紳、饅紳・相
紳・用紳などの名がみえる。然るに、かやうな併教の理念に基く教相峯的手法の適用による赫々の分類は、更に
ヽヽヽ ヽヽヽ


進展して、分類上に自ら一つ基準的なものを示すに至少、法性神文は本覚紳を最高本源的な紳として、以下、始
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽ
覚紳、不覚紳、有魔神、箕迷紳、横着紳、箕者紳・或は単に権祀・寛杜などの分類が提示され、しかも、かやう
な神々の分類は単に沸教神道のみならす、昔時これに密接に凛喝し交流した伊勢神道︵特に度合外宮神道︶や吉
田紳澄にも反映し影響してゐ、る。今、次に、中世紳悌関係書の諸方面の中から、かやうな彿数的分類法の反映さ
れたものを数例左に摘出表賢してみる。
これらの分類法は、既にその術語から感じっくやうに、主として沸教の本覚・始覚の相関的二門の立場や権・
貿の範噂に従ったもので、種々な特性を具へ極めてバラヱテ一に富む赫々の存在を、彿数的理念規格のもとに、

虐7J
中世偶数徒の酔統裁とその文化
中世偶数徒の紳紙執とその文化 一六〇
︵中臣稜訓解︶ ︵酬舶洲閑攣 ︵翫欄鵬獅舶配御︶ ︵神祇正宗︶ ︵諸紳本懐集︶

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本 畳 紳︰⋮::⋮法 性 紳⋮⋮⋮⋮本 魔 神⋮: ⋮法 性 紳
三 ソ︵樺杜紳︶⋮⋮樺祀
種 始 魔 神⋮⋮⋮⋮有 魔 神⋮⋮⋮=感 覚 紳⋮⋮
︰・有 壁 紳
∨︵貴著紳︶⋮⋮賓祀
不 覚 紳⋮⋮:⋮衰 迷 紳⋮⋮⋮⋮賓 迷 紳⋮⋮ ⋮賓 迷 紳
註 ︵右の表覚に引用せる文献中、中臣稜訓解は密教南部系、神風和記は慈遍の薯で天台山王系、法華神道秘訣は法撃神道
系、大神宮南膚之御事及び神祇秘抄は密教色の濃い伊勢神道系、神祇正宗は吉田卜部東名の著で吉田神道系、諸紳
は存畳の著といはれ浄土眞完系、それぞれの神道書である。
以上の表覚は主として三種紳分類の場合であるが、横線以下のは参考までに二種紳分数との関係を示す。僻、この
らに類する分類は、安居院の神道集、信端の顔疑瑞決集、聖岡の麗気記私紗等にも見える。︶
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
大挙二種︵三等︶又は二種に分類定立した傾向がみられる。しかもそこでは既に、法性身、本覚紳、法界元初紳
といふ如き高次な紳の定立によつて、その紳に本覚門的立場から、絶封的超絶性、最高性が輿へられてゐるので
あつて、赫々は徒死の併主軸従的即ち本地垂迩的紳悌関係を離れて、それ自身猫立猫尊的な所謂﹁元三の立場
に立ち得るに至り、もはや本迩的な二元性を解消し、一元的な原理に止揚されて、こゝに途に中世紳併師係史の
結論的動向として軸木併逆説T−反本地垂迩への韓換が開かれて発たことが意味されてゐる。
我々は、かくてこれらの併教徒の観た細々の分類のみによつても、凡そ彼等がどのやうな角度・方法をもつて
件数を神道.論的思想面へ派出し展開せしめたか、且つ伊勢神道、青田細道.への影響を初め、その紳舐観が、中世
紳道理論の展開期に示した意義をも察知できる。
三 かやうな中世彿教徒の神祇観は、その封象とする赫々が、特に日本固有のものであ少、例へぼ記紀等の藤
典によつて、その性格が特殊に規定されてゐるが故に、さうした赫々のもつ特殊性をいかにして普遍的な沸教世
界観にまで導き得るか、この焉にはまづ神々の戸籍簿である紳典の研究が第一に必要であつた。従って中世沸教
徒がいかに紳祀に強い関心む示したかは、彼等の紳典研究によつて語られるであらう。
箕際、中世の僻教徒が、・いかに紳典を尊重し敬虔な態度をもつてし■たかは、今日現存する所の代表的な辞典、
例へぼ古事記、日本書紀、古語拾遺等の古焉の諸本の多くが、殆んど中世の寺院僧侶の手によつて書籍奥書され
停承保存されて釆たその明白な尊貴が、最も力強い澄明である。例へぼ手近な併で日本書紀撰進千二百年紀念禽
編纂になる日本書紀古本集影を播くがよい。本書は今に停はる最も知名の日本書紀古本の粋を集めて、その叡凡
そ七十種にものぼるが、〓軍直ちに私共はその大過牛、約八創造が、すべて中世併教徒の手によつてもたらさ
れてゐる尊貴を蟄見する。更に叉、私共はさうした事箕を、金澤碑名寺︵金澤文庫︶に、名盲屋大須の虞繭寺に、
或は高野山の諸院に、共他数限りなく指摘できる。水戸彰考館本、丹鶴叢書本の日本書紀、前田豪本古語拾遺む
遺した碑名寺励阿、日本書紀私砂を著し霊気記研究に深かった浮土宗中興の阻といはる1了啓蟄間、所謂熱田本
の稀ある熱田神宮の日本書紀を奉嗣寄進に功あった熱田囲同寺の厳阿や四僕金蓮寺の重阿、また、良港、快専、
重尊、眞尊の四人の愴徒の手になる伊豆三島紳杜本の日本昏紀、或は名古屋眞蒔寺の開山能信、同二世信壌以下
各世代が紳典の保有者為に沸った努力、等々1奴等中世併教徒の紳典研究や流布史上に占むる地位は極めて重

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中世沸教徒の神祇裡とその文化
中世彿数社の紳観戦とその文化
成さるべきものが少く率い。

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しかもその研究態度は賛に眞蟄且っ敬虔を極めた。碑名勧阿の紳典の研究講蓬は、月を逐ひ、日に随ひ、改元
のことさへ知らず、研究に三昧し、紳邁の俸授、師資相承の際は、乗客あるも語らすといふ厳粛な態度であつた。
︵南田侯欝家蔵、無武本古語拾遺奥書︶。東京帝宝博物館に威する叫名玉屋本の稀ある日本番紀は、鮭永廿三年より恰
良港が書罵を初め、河内、近江若狭等の諸国を樽々する間、途次篤され、その間寛疫十八年を要してゐる。叉、
内閣文庫本及び鈴鹿民本も発た蓮意なる檜徒の輩で、彼はその奥番に﹁出家の身と粍も未だ此の渾の業を棄てす、
誠に是れ宿趣の登りなり﹂と諭してゐる。更に伊勢紳道の大成者である度合豪行の類衆紳紙本源十五帳を倖へた
虞繭寺の第二世信癒はその奥番に﹁己に梵文を峯ぶと雉も.寧んぞ和字の誼を持てんや、悌詮を倍するは、葦し
紳語を仰げぼなり﹂とまでいつて日本彿教徒の自覚に生きた。ま挺天文年間、青蓮院、堺の宿衆院、越前一乗谷
の日蓮宗諸寺院等に於いては、普代神道界の大立物、清原宜賢が度々日本紀神代奄の講義を行ひ、常時沸教徒が
紳廼の専門家名流講師を招いて寺院の神道講習禽を開いてゐたことも知られる。︵蹄蕃寮戒伴民事校本8本書紀撃一
奥書︶
かうして中世沸教徒の神輿研究が、後代の紳渡文化に遺し俸へた遺産は莫大なものである。ただ然L、彼等の
さうした研究の方準、例へぼ日本紀紳代奄を初めとする囲豪開開設の沸教宇宙論的解繹等の問題は、未だ推人も
研究の事をつけてゐない。揮発、この中世沸教徒の紳典研究の内容が更忙究明されることが望ましい。葺をされ
た中世暗黒時代は、かうし売方簡からも開かれてゆかなくてはならない。
日 中世教徒の紳戒戟は数相的方面と同時に宰相的方面にも特殊な聾展を逮げた。中世釆寺院内忙於いでは、
細道庵投を中心に、諸流養の師資相承といふ細道を生命ある法脈とし、件数の場合に擬してそれに附屡する紳
落演、紳逆血脈、▼神道切紙、紳道印僑、神道口決等の宗教的作法儀軌を蟄展せしめ、これを如法綿密に箕践
とれらの紳道倖授の緒株式・の蟄生は、この国中世釆の紳逆流義を生きた紳仰の寛陵形態に導くものであつて
川時代把までその彪響を及ばし縞々相森俸統した紳道の宗教的信仰的形態を尋ねる上忙は最も注意さるべきもの
である。
加之、特にこれらの中、後に御流紳道乃至lニ輪流紳道に於いて最も蟄展した秘停口決主義の文献軸ち諸種の紳
廼印僑口決類、或は紳道誇大溺を解剖すると、そこには堅の印信、横の印信を停へ、特に横の印信には、鍛冶、
番儲、兵準腎術等の技術に関する秘倖口決が述べられてゐて、例へぼ豊山渡長谷寺事相目線中の御流油紙藷適
大事部集や三輪流紳澄渡流集、三輪統帥造語印信等をみれぽ、そこに武士部、嘗軽部、相撲部、鍛冶部、鋳物部
石工部、大工番匠部、軸部、桶屋部、紺屋部、船頭部、馬口努部等の諸職の部が立てられゐる。これらは口俸秘
ヽヽヽ
決主義の封建的な古い技術論の聾生を意味すると同時に、特た鍛冶大工鋳物等は中世商工業の蟄展線に照應す
ものであつて、職人階級の聾生の事箕と考へ合す時、中世職人﹁座﹂の研究と共に最も注意すべき史料と息ふ。
かくて私共は中世悌数神道から副産された附屡的文化の中に、技術史研究や社食経済史に於ける座の研究の資材
をも求めることができるのである。

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中世沸教徒の紳統裁とその文化
サ ン バ イ き ん

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サ ン バ ネ さ ん
紳 根 怒 生
サンバイは、三祓、三井、三前などゝ書き、田の紳、大年紳、若年紳の三枝を線種したもので、この鮎は三前
の字が嘗る。現在では贋島解山解郡、高田郡、安佐郡、双三郡、比婆郡、島根解邑智部、飯石郡など、主として
中国山脈を中心とした雨騒の地方及四囲に可成り廣範囲に田植歌のみに遣って居る。
みす 幕末から明治初年までは、田植の時、田に棚を作って、サンバイさんを祭る式が行はれて居宅三祓棚は、簾
ヽヽヽ
を下げ、紫の幕を張り、蕗、署荷で飾り、さつきの花を立て、橙、勝栗を供へ、先づ朝祭には、田主、胴頭︵大
太戟を打つ者︶上下飾物、三ぼなへ、先年かき︵牛む以て田をかく先頭︶、二番、三番より尾ノ上︵最後の牛か
き︶先鍬取、江ぶりさし、大足ふみ、苗持ち、早乙女頭など全部西側に整列して東に向ひ、順次に神酒を頂く。
董祭︵午後︶には、東側に列び、西に向つて神酒を頂く。
しろLろ
この式が済んでから、牛かきは、代田に﹁三祓なわ﹂の代をかく。
田植田の方では、歌大工が音頭むとつて、﹁三祓おろし﹂の歌を早乙女が歌ふ。サンバイさんの降紳の儀であ
る。
日は日嗣田の紳様を下すには
さんぼ竹の大樹と紅の日易を手に持ちて
三祓下しはこゝこそのうやれ
笠くびに掛けてはこ1こそのうやれ
三祓様の生れはいづこ陸奥の囲
尭腹育ちの笹子さんのもと
三祓様の父親とたづ風れぼ
牛頭天王の姫ぎさき
ヽヽヽヽ
三祓さんのたなわり︵受胎︶月は幾月か
十月が満すゎや生れくる
三祓さんの産湯の清水はどこ清水
岩戸の基の岩清水
三祓さんの産湯の患は何盟
白金だらひの金びしやく
三祓さんの初着の小袖は何小袖

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サ ン バ イ さ ん
サ ン バ イ さ ん 〓ハ六
白無垢小袖七かさぬ

新形
三祓さんのとり上げうぽは となたやら
京八幡の母子なり
三祓さんの駒むまいらせる何駒を
ぜんく葦毛の黒の駒
三祓下し′の歌は、この外にも次の如きがある。
田の紳さまをおろすには
さんぽ竹の大輪に、くれないの扇を取揃へて今こそどざるよ官の上、葦毛の駒に手綱ゆりかけてな、どざ
りし道む清めたり、たてしをぼかりで清めたり、どざりし道にあやをはえ、錦をはえてお待受け︵島根麻
畠智那出羽村︶
Lろ
この三祓下しを歌ふ間早乙女も笠むとり、代かきも笠む脆い
で、降紳に敬意を表しっゝ﹁三祓のれんのくわ﹂をかく。
早乙女嫁田植をする前に苗代をサンバイさんに供へてから田植
を始める。
三祓さんを迎へたら一つ並べて歌はうや
きりと並べて一つ並べて歌はうや
調子ゆうにとれ調子が大事
歌の初億にや発づ三祓のエーヘーイエイ
初穂にや発づ三祓の
廣島解比婆郡西城町では、サンバイ下しの歌に次の如きがある。
田の紳を下さうと息ふ早乙女の身の上は
身は清浄にあらたまる
三祓はどの田に下さうか
三隅久保∵ニ隅久保の久保隅に
久保隅に三祓正徳下すには
三把の苗を手に持ちて
久保隅に三祓正穂下り給へ
この水口に下り給へ
午後の三祓祭の時、歌ふ歌は
三祓のヤレ御酒まいらせて、やよい ︵酒︶
ろげく、長柄の銚子に千代のしやく
御酒をまいらす長柄の銚子

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サ ン バ イ き ん
サ ン バ イ さ ん
白金のお銚子で玉の御酒を入れてな
田主様に参らせうや玉の御酒をてな

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田主様にかんねのちよし
三祓のヤレどちからござるヤレ
官の方から葦毛の駒に手綱よりかけ
手綱よりかけ早いが駒を︵邑智郡日貫村︶
田植の最後には、サンバイ造りの歌を歌ふ。
サンバイの神様はどこの方まで造るや
セユ山のセキ寺のモロが時の濱田まで︵邑智郡長谷村︶
田の神様を上げるには 暦天竺の八つ山︵同 郡出御村︶
三祓のヤーレどこまで迭るべし
かじが島へ、情のよめとなるは兵庫
逸りつけたよ、あれを見や兵庫人高原村︶
三祓はヤレ今こそ上る田主横
田主様にヤレ よい苗穂て隔授け
礪の苗なら哉こそ儒を授かる
棺の種なら三合蒔いた
三祓はヤレ今こそ上る西へ行け
西に行けヤレ西には二つの池がある
なに他には しぎこそ二羽と
しぎが二羽なら鴨おし鳥が
おLの思羽、我屋のかざり
羽をかざ少て三祓へ正徳
サンバイさん昇紳の儀に常るものである。
サンバイさんは、正月の年徳、五月のサンバイ︵いなづる姫︶七月の七夕とこ雇祭られる紳とし、この鮎から
三祓、三井と書かれる。古くは二万の井手ノ明神、十月の亥ノ子細とも同二視せられた。日本の紳観の動措性を
こゝに見ることが出番る。而も常任の紳でなく、その日だけの紳のやうに考へられ冤
三祓のヤーレ自路ひ宮にうつられる
造られるヤーレ今日こそ紳名を貰はれる
記名を貰うた今三祓と祭られる。︵邑智郡矢上村︶
今日こそ為官に造られる
三軍散人の供を連れ

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サ ン バ イ さ ん 二ハ九
サ ン バ イ き ん 一七〇
今日こそ紳名を貰はれる 三祓と名けられ︵谷位郷村︶

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三祓さんの今日こそお宮に参られる
今日こそ紳名もらはれる
三枚さんの紳名は何とて王政と
三祓さんに御酒を参らせる
黒の酒長柄の銚子に千代の御盃︵三原村︶
カチンハバキ
サンバイさんは勝色脛穿、錦の脚絆、綾の小袴で、露をこぎわけ、葦毛の馬で官の方から乗るといふやうに、
極めて民衆に親しい人間的な紳であり、その両親、出生等委しく歌はれて居る。
サンバイさんの田植歌には
天竺の年若水で撞かいて ︵かしての靴︶
蒔かぼや今朝の巳の刻に
麻緒の種むも今朝まいたりな
やよめのおさをぼ誰にといかろや
天竺のヤーレ阿繹が他に踵をかす
アサ
穂をかすヤーレさな田に植ゑる早稲苗を
さな田早稲苗今朝蒔き下す
天竺のヤーレ高天尿に主あれぼ
主あれぼヤーレ三祓さまの父となる
さまの父親高天原に
1、三祓のヤーレ御父君はどなたやら︵谷任郷村︶
南天竺の須佐の紳
2、笛取るぬ母君はどなたやら
南天竺の武田姫
3、番匠頭はどなたやら
南天竺の救世菩薩
の如きがあり、米が天竺から禿たといふ古来の一部の信仰を表はし、高天原を天竺と考へること︵この歌は他に
も多し︶沸教との交錯、出雲文化の浸潟などをも認めることが出発る。島根解には賀茂明神も多く、
うらやかに門の扉開いて見たら
屏協には鷺鳥かな
早稲苗を植て育て1栢鶴姫と
苗の初穂は尭づ三祓に参り正

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苗を梧て参る賀茂の明神
サ ン バ イ さ ん
サ ン バ イ さ ん 一七二
賀茂の明神に参れば硝を授かる

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などの田植歌もある
サンバイさんの父も須佐の紳、牛頭天王などといふのみならーず、
三祓のヤーレ父君様は誰棟か
誰様かヤーレ年徳様を父とする
何と父君七夕様よ
など1、年穂綿や七夕が父であつたり、サンバイさんそれ自身が年徳や七夕であつたり、母を唐天竺や柳蛇ケ淵
の大蛇とした玖八生紳としたり一、乳母も大和囲の千代が母、八幡の姫妃、龍宮の乙姫など1∵足せず、生国は
大和であつたゎ、陸奥であつたりする。
民間信仰に於ける紳の動描性る見ると共に、悌敦とも離れ得ない精神内容を有して居る。今次の事欒に戦死
たこの地方の勇士の遺書の一簡に﹁私は供さまのお園へ生れさせて頂いて、靖国神社に紳となつて現れます。
から後はお母さんは僻様の母、神様の母です﹂とあつて、紳と併との問に何等矛盾なく揮然として融合して居
る。日本人の特異な精細をこ1に見ることが出番る。
耕作法の改良と共に、田植に田植歌を歌はなくなり、サンバイさんの名さへも今や忘れられようとし、老人
問にのみ僅かに田植時に、サンバイさんの釆現によ少、よき総力が得られるであらうと信じられて居る。それ
全く無くなるであらうことももはや時期の問題である。
イエスの讐に関する一考察
1特に其の紳聾的意味内容に裁て ー
回 書
前世紀の聖書批評挙が残した輝しい業蹟は之を我々は無論認めないわけには行かないと云ふだけでなく、其の
偉大なる努力に封しては十分の尊敬む彿ひ又心から感謝を捧げねぼならぬ。然し其の今迄の聖書批評峯は惜しむ
らくは、結果む出す事に急ぎすぎて、聖書の解繹の上に飴りにも早急な結論を下してしまつたと云ふ恨みはなき
にしも非すである。聖書批評挙が畢間である開・りは、何魔道も冷静な態度を以って臨み、自分の主観的な解繹を
挿入する事を極力避けねぼならない筈であらう。然るに今迄の聖書批評蓼の多くは、聖書に封する現代人の解繹
を知らず識らすの間に始めから混入してはゐなかつたであらうか。多分それは聖書の虞理を現代的に救はうと云
ふ極めて同情的な気措から出た事であつたのではあらうが、然し聖書轟が聖書を扱ふ場合には、先づ第一には聖
書に書かれてある事を今我々が信じうるかどうかと云ふ問題から全く離れて、聖書を書いた人々が〓慣何を云は
んとしてゐるのであるかと云ふ事を捉へる事が、何よ力も党決問題であらう。さうだすれぼ聖書をぼ、普通一般
に今迄の聖者批評挙がしなれて奔た様に、人間の記録した一つの文蓼的著作として、単なる世俗的書物と同一列

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イエスの響に関する一考察
イエスの曹に関する一考察 一七四
に置いて見ると云ふ事は、既に一つの解繹が始めから下されてゐる事になるのではなからうか。我々はさういふ

β2β
解繹む下す前に、聖書は何魔道もーつの宗教的信仰の下に書かれた書物であつて、其の信仰の立場から見て一つ
のまとま.りある書物として此虞にいろいろの文書が集められてあるのであるが故に、我々は其の聖書と我々現代
人の信仰との関係如何の問題からは二贋はなれて、而して其の室書の記者連の宗教的信仰の立場に立って、而し
て其の聖書の記者蓮が聖書を通して何を語らんとしてゐるかと云ふ事を尭づ把握するべく努力すべきであらう。
勿論そこに述べられ語られてある事は極めて素朴であるかも知れぬ。それは我々現代人の信仰に直ちにあはない
様なものであるかも知れぬ。然し我々現代人の信仰との関係如何の問題はどうでもあれ、兎に角、聖書それ自身
は何む云はうとしてゐるかと云ふ事を揮へるべく努力をすべきであらう。且つ又、此虜に新約聖書と云ふ一つの
曇とまつた書物がある以上、我々は始めから此の新約聖書は唯だイエス・キリストをいろいろの人が夫々の立場
から書いた所の文書が内的必然性なくして単に偶然にも結集されたものに外ならぬとの預想の下に、其虚に何の
一貫した統一ある内容を見出さうとせず唯だ我々が自分勝手に聖書の思想内容を組立てると云ふ様な事をしない
で、否さういふ風に聖書が偶然結集された文書の寄せ集だと云ふ隷想の下に立てぼさういふ風に我々が自分勝手
に聖書の思想内容を自由に組立てる様にならざるを得なくなるのであらうが、さういふ事をしないで、聖書は全
く内的に思想的に連絡の薄弱な、単なる断片的冬青や文書のよせ集めではなくして、終始一貫した統一ある内容
を持ったものと云ふ漁想の下に、其の〓貫した思想内容む提へるべく努力すべきではなからうか。尤もさういふ
隷想の下に、聖書の統一的内容む捉へようとしても、さういふ統一的内容がないかも知れない。燃し一應はさう
いふ同情ある態度を以つて聖書に臨み、而して又その統一的内容をぼ聖書の記者連自身の意園に従って掟握する
べくつとめるべきであらう。
此の鮎に関しては最近の新しい聖書畢の方向は、かういふ研究態度にとつて極めて有利な研究結果を展開して
証1 ゐる様である。最近の聖書畢の大餞の傾向は、聖書の内容仝慣が基督論的興味によつて支配されてゐる事を次第
に明らかにして発てゐる。殊に共観痛苦書さへ終始基督静的興味を以つて書かれたものである事が見出されて邦
訳2 た。例へばホスキンスなどは同音書に於けるイエスの奇蹟物語の悉くはイエスが背約聖書に於て線言され約束さ
れたメシアである事をあからさまにそれとは云はやして、行為の上に於て暗獣の中に示してゐる朗の徴としての
証3
行為である事を明らかにした。又トゥルナイゼンは山上垂訓は単にイエスが語つた言であるのみでなく、又イエ
スが行った事をも述べたものに外ならぬと云つてゐる。つまり山上垂訓すら基督静的興味を以つて書かれたもの
であつて、此虞では律法の形で以つて隔晋が語られてゐるのである。即ちイエスの説教はイエスがメシアである
事を直積的にでなく、聞損的に述べたものなのである。今若し聖書特に嘩青書は終始、基督論を以つて一貫して
居り、講者をしてメシアとしてのイエスに出逢はしめんとしてゐるのであるならば、イエスの説教の中の、殊に
特色ある一つの形としての誓も基督論的に解さるべきではなからうか。換言すれぼイエスの誓もイエスがメシア
詐4
である事を直接的でなく間凄的に語つてゐるものである筈である。此の鮎に関してもシュエーゲィントやホスキ
ンスなどは、さういふ見方への暗示を輿へてはゐるが、未ださういふ見地から見て誓仝牒の解繹の仕方を明白に
述べてゐない棟である。

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イエスの響に関する一考察
イエスの曹に関する妄寮 言六
普通、イエスの誓と云ふと、今迄は道徳的・宗教的虞理を具慣的に解り易く表現する手段位に

βJO
少、而してさういふ具髄的表現の仕方は、大隈メタフォルとかシミルとかと普通呼ぼれて朗のも
る棟である。叉たしかに誓の多くは、さういふ表現の仕方を以つて道徳的・宗教的虞理を述べて
い。然しそれと同時に、山上垂訓が律法の形で述べられてゐるが賛は其の内容は待津でなくして
誓も、表面では道徳的宗教的虞理を選べてゐる横でゐて箕はイエスが自分はメシアである事むか
かす表現の一つの仕方なのである。此の鮎から見てマルコ停四聾のあの有名な種播の誓は非常に
りでなく、イエスの誓仝饅の解決の鍵を供給するものだと云ふ専が出番るのである。
聖書批評畢を少しでも取扱つた事のある人には直ちに明らかとなるであらう様に、マルコ俸四
は十∵節以下に於て﹃外の者には、凡て誓にて教ふ。これ﹁見るとき見ゆとも認めす、鋸くとき
嗣へりて赦さる1事なからん薦なり﹂﹄とある。さうすると、此の誓は普通考へられてゐる如くに、〓鱒輩衆に
解り易くする馬めに人々の日常の具慣的な事柄に例をかりて紳の固の虞理を語る薦めのものでは
謂5 表普通の磨衆には解らなくする矯めのものだと云ふ意味である。言ヘルは其の著﹃イエスの誓﹄の中で既に
この鮎に注意したが、然し之は原始教愈がイエスの雪を誤解トて、本釆のイエスの解り易き誓を
しまつたのだと見てゐる。確かに此の種播の誓に於ても其廃で記者が中間に挿入した句を除いて
へた誓の解繹を見ても、此の誓は別に秘密でも何でもない様に見える。箕に平明に解る。然し
議以下のまた言ひたまふ﹁升のし雪寝茎の下におかんとて、燈火をもち来るか、燈毒の上にお
や。それ顧はる1馬ならで、障るるものなく、明らかにせらるる焉ならで、秘めらる1ものなし。轟く耳ある者
は無くべし﹄の如きは全く秘密的な言であつて、﹃聴く耳ある者は鵡くべし﹄と云ふ警戒の附加言が極めてぴつ
たり葬る。然し此の一見した朗ではさういふ様な秘密的な言とは考へられない朗の種播の誓にも﹃聴け﹄とか﹃聴
く耳ある者は賠くべし﹄と云ふ撃滅の言が附加されてゐるが、此の壁京平明な解力易いものならぼ、此の警戒と
注意の言はぴつたり釆ない。ではそれはユリヘルの如くに原始敦合の誤解であつたのであらうか。此の鮎では最
近明らかにされて禿た様に誓に封するギⅤシヤ語のパラボーレに常るヘブライ原語マシヤールの意味の研究が我
証6 々に多くの暗示を輿へる。而して此のマシヤールが背約で用ひられてゐる用ひ方を見ると、謎とか隠語とかと云
ふ言葉と同意語とLて用ひられてゐるばかりでなく、又其の言葉を用ひて菌約聖書が云はうとしてゐる意味から
証7
謹8 見ても、私はイエスの彗は殆んど全部、謎と謁してよいのでないかと思ふ。謎とは、人の注意を惹く様な表現の
仕方を用ひつ1、本営の意味をかくして語る語り方だと云ってよいであらう。従ってそれは単なるメタフォルや
シミルに似てゐながらも、メタフォルやシミルでない。而してさういふ謎の仕方でかくされつ1語られてゐる朗
のものは何かと云へぼ、それはイエスが秘密のメシア、かくれたるメシアだと云ふ事である。然らば種播の誓は
︼見すると、紳の言を受ける人間の側の態度を指して教訓を輿へてゐるかの如くして、寛は、播かれてもよから
ぬ地に落ちて殆んど大部分は人に認められないが、良き地に落ちて人に認められるならば如何に少しばかりでも
後では珊倍、六十倍、百倍の資を結ぶ様な種を播く者が此廃にゐると云ふ轟、換言すれば自分は今は人間の卑し
き姿の中に身をかくしてゐるメシア救主軸ち紳の囲むもたらす人だと云ふ尊をかくして述べてゐるのである。従

βJJ
イエスの曹に関する︼考察
イエスの響に関する一考察
って又その耳ある者は聴くべし﹄の意味も明らかとなる。

βJ2
今此虞で我々が聖書、殊に琴青書は悉くイエスがメシアであると云ふ基督論む讃する焉めに書かれたものであ
り、而も其のメシアは地上では秘密のメシア、かくれたるメシアであるが、やがて其の秘密があらはにあかされ、
イエスが集光のメシアとして現はれるであらうと云ふ基督論で一貫されてゐると云ふ専箕を見れぼ、イエスの誓
も之と等しく基督論的解繹を受けるのが営然であらう。而して此の、今はかくれてゐる所のものが、やがて現れ
ると云ふ思想がまた終末論や最後の審判の形をとつて乗るのであるが故に、イエスの誓の殆んど絶てが終末論的
なものである専の理由もおのづから明かとなつて凍るであらう。
今、私は此虔でイエスの誓の絶てを、かういふ見地からして註精して其の結果を示す暇を持たない故に、唯だ
マルコ停四葦の種播の彗を奉げたのにすぎないが、然し此の誓は凡ゆる他の誓の解繹の鍵を供給するものとして
尊重さるべきものであらう。且つ私が始めに於て述べた如くに、聖書が一貫した内容を持ってゐると云ふ橡想の
下に立てば、此の同じ種播の雪がマタイ停に於て示されてゐる平行句に比較する事によつて、我々はマタイ停が
マルコ停の意味を更に細く展開し解明しようとする努力を見る専が出奔るであらう。マタイ俸では此の種播の誓
に直ぐつゞいて十三章の十六簡以下で﹃されど汝らの目、なんぢらの耳は、見るゆゑに、聞くゆゑに、幸爾なり。
誠に汝らに告ぐ、多くの琴富者義人は、汝らが見る所を見んとせしが見す、なんぢが聞く所を聞かんとせしが聞
かざりしなり﹄と云ふ言が附加されて舜てゐるが、それは、マタイ俸の勝手な附加と見るよりは、寧ろイエスが
かくれたメシアであると云ふ専を暗示する言として、マルコ停を註繹Lて解り易くしようとしてゐるのだと見る
ベきであらう。
斯如くしてイエスの誓も基督論的意味を持つものである事が明らかとなつて葬るのであるが、他方では叉、山
上の垂訓の如きものも基督諭的意味を持ったものであるとすれぼ、我々は更に進んで山上の垂訓以外の、誓でな
い所のイエスの教や説教や富も等しく基督論的意味を持ったものとして謎的なもの、即ち自分がメシアである専
をかくして述べたもの、であると云ふ専が出奔なくてはならなくなると息ふ。さうすると一例だが興味あるのは、
イエスの宣教の最初の言としてマタイ俸の四章十七簡にある﹃なんぢら悔改めよ、天国は近づきたり﹄と云ふ
イエスの言は、同じマタイ停三宝あ二簡のバブテスマのヨハネの言と全く同じだと云ふ専寛である。今迄ではヨ
ハネの育とイエスの言とが文字の上で全く同じである斯からして、聖書批評聾者や歴史家達の間では、イエスが
詳8 悔改めの運動に身を投じて其の運動を栂模して行ったと見るのが常識となつてゐる横であるが、それは琴青書の
記者連が云はうとしてゐる意固でない専は、嘩青書全髄の思想内容の構造を見れぼ直ちに明らかとなる。即ち福
音書の記者連の意園によると、ヨハ、ネは罪の赦を得さする悔改の洗祀を宜俸へたのであつて、云はぼ準備にすぎ
ないのである。だから彼は﹃我よ少もカある著わが後に釆る⋮︰・﹄と云つてゐる。その後に釆る者とは言葉を換
へて云へば、聖蚕にてバブテスマを為す者、即ち罪の赦を輿へる者の事である。而してイエスがバブテスマを受
ける時には聖零が彼の上に降る。マタイ俸は其の鮎を更に註精して三章の十三簡以下で﹃愛にイエス、ヨハネに
バブテスマを受けんとて、ガリラヤよカヨルダンに凍り給ふ。ヨハネ之を止めんとして言ふ﹁われは汝にバブテ
スマを受くべき者なるに、反って我に乗り給ふか﹂イエス答へて言ひたまふ﹁今は許せ、われら斯く正しき苓を

gユヲ
イエスの曹に関する一考察
イエスの響に関する一考察 ︼八〇
ことごとく焉遽ぐるは、常然なり﹂と附加してゐる。かくしてイエスは受洗の後、説教をし始めると共に悪鬼

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迫ひ出し、罪を赦す。経って一帽晋育の記者連の意固によれぼ、イエスが沈悼む受けるのも、イエスが人間の
身をかくす篤なのであり、従って闊青書の記者蓮はイエスがヨハネの洗鰻の運動に身を投じ、そこからして次
にメシア意識を持つに到ったとは考へてゐないのであつて、始めから、天よりおくられたメシアなのである。
くしてイエスは文字の上ではヨハネと全く同じ言で﹃なんぢら悔改めよ、天国は近附きたり﹄と云ったとして
その言はイエスに於ては寛は自分がメシアである事をかくして宣言してゐる極めて謎的な言伝外ならないので
る。さればこそイエスは其の言の直ぐあとでシモンヤアヂレに﹃我に従へ﹄と命じてゐるではないか。
尤もかういふ夙にイエスを見、叉かういふ風にイエスの言を解する事は、原始教禽の誤解であらたかも知れ
然し誤解であるにせよないにせよ、我々は兜づ第一に聖書を穿いた人の意固に従って聖昏を謹むと云ふ努力を
する事が聖書研究の先決問題であらう。而して此の党決問題を解決した後では次ぎに聖書峯はさういふ夙にイ
スを見る見方、即ち基督論は何庭から始ったかを問題とすべきである。我々に聖書の言が今の我々にとつてど
いふ意味を持つかと云ふ興味や、聖書から直ちに歴配的イエスの姿を再建しようと云ふ要求などによつて支配
れ易いのであるが、さういふ態度を以って聖書に臨んでは、聖書に封する純粋に串間的な研究が却って阻専さ
るのである。而もさういふ態度はよ程注意しないと、知らない間に混入するものである。我々は何より第一に
聖書自身が語らうとしてゐる所を公平に捉へると云ふ専に努力すべきである。此の鮎では今迄の聖書撃には大
反省すべきものがあるのではなからうか。而してさういふ努力が為されると、聖書畢の研究結果から生れる結
は今迄とは相常連ったものとなつて葬るのではなからうか。さういふ鮎を私はイエスの誓に就て簡単ながら述べ
て見たわけである。甚だ不十分なものであつて、全く研究の中間報骨の如きもの忙終った事を恥しく息ふが、私
の今後の研究の方向の↓端を披渡して研究費表とした次第である。
註一Dlb彗︼W︸句Ormg2SChlcht2盲Odd−声ePr鞋esO=l市内息dO−ゴ盲どhmeyer−ぎmSi冒del
︵N.f.∽竃tem註schの﹂コ窯岩−品ie−ひJ旨点苫義−諾00・︶
軍一H象k冒S︰芦eRidd−e。ftl−e穿弓穿賢me邑及び拙著﹃聖書の再認識﹄
託三 Tl−ur諾竃enいDie出①rgepredigt・
託四 Schnie弓ど瓦︰︼︶誌穿ueTestい巨ent冒ll︷邑ニ∵雲ど.k=班・
註五 J︵i︼icher︰G−eicど1i等温eJe岩−箋∽・
註六エゼキュル十七の一では謎︵︸11dエと同意語に用ひられて居り、麓き二の六でほ隠語と同意語に用ひられてゐる.
註七 iiOSk冒班︰芦e謀dd−eOftFe声づ.p﹂00∽f怖・拙著﹃聖書の再認識﹄一〇四頁以下参喝
註八 D誌穿lle碧賢︼nent冒utschのマルコ俸の猶課では七の十七の響を謎と飛語してゐる。
註九一例としてG.声≠冒〇re︰Hi賢r﹃○︷R各号nぎー・ドの基督敦史の部の最初の個所を見よ。

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イエスの響に関する一考察
道教の彿数的擬装

&略
道教の彿数的擬装
金 山 龍 重
道教とは一倍如何なる宗教であるかと云ふに、支部固有の民族性に郎應し之れむ代表して組成した民
といふことが出奔ると息ふ。支部は随分古くから囲む成して釆たが、宗教的に之れむ見れば永い間自然
状態に放置され、純粋の意味の宗教的教阻を持たすに経過して発たと云へると息ふ。勿論孔子孟子の如
教組級の人々は存在したが、儒教そのものの性格が普通の宗教とは梢趣きを異にし其所に宗教的な意義
るけれども、道徳的政治理論がその中核をなして居りノ、経世済民の現世的理念が主として強調されて
申すまでもない。
叉孔子と共に支部の思想的最高位を占めて居る老子も、本釆は救世済民を念とした棟ではあ畠が軋離
道の行はれ難いのを知って、無為自然を主とし清浮自寧豊息として遁世的な態度をと少、普通民衆から
く術もない隔絶した存在であつた。斯くて支部には傑出した思想家も哲人もあつたが、極端な言葉で云
袴宗教家が無く一般民衆に宗教的に充分に安心を輿へることが出来なかった状態である。一般民衆は盲
的宗教、民間信仰の雑然たる中に永い開放直されたと云ふペき状態であつた。
其廃に印度から彿教が移入されたのである。悌教は一面に於て哲拳的なものと他面に於て甜解約な宗
特徴を充分に具備して居たので、民心に甚大な影響を及ぼし忽ちにして全国を奉げて彿教に風摩さるる
態む示す様になつた。
然るに彿教が公然と倖釆された後漠の明帝永平十年から六七十年を檻、その私的停発から茸へぼ百飴
彿教的影響が相嘗に侵潤したと見得る頃に至って、即ち後漠の順帝︵西紀一二六−垂⊥四四︶の時に張道陵が出
でて所謂道教を組織した︵俸漢書一〇五劉焉俸︶のである。老荘の哲単文は道家とか造撃と云はるるものと張道
陵の謂ゆる道教とは蟄生史的には何の関係もない。老荘の時代から既に数百年を経て居るのに肇陵は膠
に傾托して、老子の紳置から符水禁呪の秘法妄俸授されたと解して自己の紳聖化を計りその構成む高め
たのである。そしてその経典として老子の道徳経を使用するに至った。謂ゆる五斗米の道む宣布し多数
集め符呪療病を主として教囲む組絃するに成功したのである。要するに張陵は黄巾の賊と云はれ五斗米
らるる張角とも相似たる所があつたものの如く、漠末の園内が乱れ政治的腐敗が甚だしく天下騒然たる
用して、外釆宗教たる彿教の刺激と暗示とによつて、徒死の民間信仰む伸教に眞似て教圃的なもの笹組
のである。然し道教といふ名稀は最初から存在したわけでは無く何時から出来たかも判然して居らない
は単に五斗米道と呼ぼれた様である′。
張遣陵の時には道教の理論的娘凍も布教の方法も未だ充分に具備して居らなかったが、魂伯陽とか葛洪︵抱朴

&ブ7
道教の彿数的擬装
逆数の彿数的擬装
子︶とか云ふ様な人物が表はれて道教の掌理的説明を試みたのである。

&柑
道教は併教に倣ひ彿教経典に模倣して多くの経典を作カ、諸種の制度も峯へ次第に民間に勢力む摸大して釆た
が未だ眞に確立されたと云ふ左とが出発す、単に私的非公認的宗教たる性格を脱却し待なかったのである。
然るに北魂に至って冠詫之なるものが硯はれ泣教を国家の公認数の地位に引き上げ配合的に確乎たる基礎を得
しめたのである。
冠謙之は宗は輔眞と云ひ夙に仙道を好み巣山︵河南省登封解︶に入りて道を修むること十年に垂んとした時、
︵親書樺老子によれぼ︶紳瑞二年十月︵西紀四︼五年︶太上老君天より降少て彼の修道の熱心なるを賞し天師の
位を授けたと云ふ。後泰常常八年︵西紀四二五年︶老君の玄孫と稀する李譜文から経文即ち国展姦経六十飴巻及
び秘法恕受けたと稗し、之れむその翌年北魂の太武帝に奏上し宅帝深く彼を信じ国都平城︵魂の首府今の大同︶
に天師道場を建て、自ら造壇に臨んで符銭を受け遽に自ら太平虞君と稀して道教を以て国教となし諸種の祭式経
文偶像等も定め、且つ冠諌之のすゝめによつて僻教を排斥し悌像寺塔を焼却し多くの愴侶を坑殺した。斯くて道
教は件数の寺院に擬して道観を建て朝廷の尊信を得、大衆にその致.理を宜侍するに至り故に活教は大成され確立
されたひ
太武帝の死後再び悌教が興隆し有名なる北魂偶数の全盛時代が表はれ道教は衰へた。
爾後約四百年間を通じ所謂三武〓読の鏑と解せらるる悌敦排斥の史箕をも織り込み、澤彿二教は絶えず勢力を
尊ひ教義を論じ合つて盛衰を繰り返したが、その間に両者は自然に影響し合ひ互に他の長を取力自家薬籠中のも
のとする風が行はれ冤而も道教は彿教に比してその程度が極端であり後世に至るに従って益々此のことが
なり殆ど噴飯に億する状態にまで及んで居る。之れ素よサ渾教は彿教に此してその歴史に於ても教理に於
底比較にならない貧窮な素質む有するに過ぎないからである。
依って次ぎに道教の悌数的擬装の最も顧著なもの二、三を餐げて見よう。
﹁老彿の一億此。之は道教の本尊とも云ふべき老子を併と同一な少とするものや、而も老子が本で悌陀
子の化身なりと云ふ主張である。之は化胡経の編纂等によつて表はされて居る。加之道教を本位にして道
から落飾二教は〓閻であると主張するもので、之れは道教が彿敦の優越性に封抗が出死ない薦め併教を白
沃.の如く扱はうとする態度より生じて居る。南奔の顧歎は夷夏論を著はし張観は門静通源を著はして共に準備二
教の一致を唱導したのである。勿論之れに封する彿敦側からの反封論も表はれて居る。
二、経典の模造。道教が彿教に擬へて経典を造成した数は非常に多く;故に枚拳することは出奔ない。而も
如何に模造とは云払ながら、その題目及び内容が彿教経典殆どそのま1に近いのがあるのには驚く外は無い。之
は小柳司索太博士も拳げて居らるるのでそれを引用するが、例へぼ高上玉皇本行集撃ハ筆太上老君誼報父
重経一撃太上洞玄貫寮三元無量詩経一奄、太上中廼妙法蓮華経l八巻等で、その内容をなす文章も悌教経典殆
どそのまゝで単に悌とか世尊とある所を天草とした玖.傲邁とある朗む廣道とした旦二十三天が三十二天に攣
ったりして居るに過ぎないので、之を平気で道士が請諦したり信者が信仰する無拳ぶりたは呆然たらざる
い。

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道教の偶数的擬装
逆数の僻数的擬変
三、彿教制度の模倣︵特に叢林及び行事︶

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現今の道教には小宗派が非常に多く六十四況乃至百二派を致へるに至つて居るが、然し南宗の頃から道教金
を南宗と北宗との二流に大別して釆て居る。即ち張造陵の系統を引く天師次郎ち正一沃は専ら江南に行はれて
る馬め南宗と名づけられて居る様である。之に封して西紀十二世紀の中頃即ち采の徽宗より孝宗の頃王重陽が道.
教の秘奥に達して〓堺即ち仝虞沃を開き、儒教及び僻数の賀践道徳的方面修行的方面を取り入れて廉く江北に
はるる様になつたので北宗と呼ぼるるに至って居る。或は繹の南北二宗と関係があるものとも息はれる。彼は
長春など七人の傑れた弟子を待た。之れが北宗の七虞人である。部長春は山東省の人で師の至重陽の死後陳州
門山に籠って自分で龍門流を創立したのである。彼は繹宗の制度を模倣し叢林を設くるに三つ充。現在の北京
白雲観は部長春が開いた朗の十方叢林である。現今支部及び清洲固を通じて大憶南宗の正一派︵清洲囲に於ては
主に火居道とも稀せれる︶の道教は新宿を主とし呪術をなし護符を頒布し肉食妻帯し服装も殆ど常人と異る所が
ない。その廟観も父子世襲の謂ゆる子孫廟である。此の次の本山とも云ふべきは、東嶽廟である。
之れに反して仝虞派︵又は呂純陽波とも云ふ︶の道教は律門とも解せらるもので繹宗に型どり悌敦の戒律に倣
らつて厳重なる規律を定め、修行精進の方途を設けて居る。之の波の廟観は十方叢林と師弟相承の子孫廓とに
たれる。十方叢林とは廟を天下の道衆に公開し、道衆はその宗派の如何を問はす十方より集まつて釆て此所に
食し修行し又は俸魂を受け得る制度になつて居る馬めに此の名がある。
支部に於ては北京の白雲翫を始め.山東省の常清観、河南省の玄妙観.上海の白雲観.湖北省の長春翫、四川
省の二仙庵。甘粛省の金天敵、挟西省の八仙官等が叢林であ少、清洲固に於ては奉天省の太清官、濱江省の太和
宮、吉林省の蜂挑宮、遼陽千山の無量観などが叢林になつて居る。奉天の太清宮の如きは邁士が百四五十人も居
り、北京の白雲観には道士が召人内外居ると云はれる。
凡そ叢林に居住する道士は皆輩食せす飲酒せず妻帯を禁じ洩良恭譲、清純の生活む持することになつて居る。
叉初めて叢林に到る者は経典道理の試験む受ける筈になつて居るが、多くは畢に形式だけに留まつて居る様であ
る。又日常も修行精進の生活を持する筈になつて居るが、之れも名目だけの所が多く無篤徒食、無単文盲の徒の
集合の様な所も少くない様である。叢林といふ名辞が明かに併教のものであり、その住持が方丈と云はれるが、
方丈も彿教の語でその他の鮎から見て叢林の制度は辞林の模倣たるは云ふまでもない。
四、彿教紳の凄牧。道教の廟敬の中には主祀として又は傍祀として繹尊や観世音菩薩等を合祀したものが頗る
多い。尤も之れは繹迦や観音に限らす孔子孟子も顔同等多くの聖人も合祀して居カ、道教一魔の中心的包容思想
より生じて居ることは勿論であるが、儒教は別として少くとも併教側よ幻する時は、繹尊は併教の本尊であり、
観世音は最も民衆的な廣く崇拝さるる菩薩であるから、之れを勝手に合祀又は接収することは宗教的侵掠と云は
ぎるを得ない。道教の寺院には敬、廟、宮、洞、庵、閣等の諸種の名辞があるが、満麦各地には如何に多くの観
音廟、観音官等が道教の廟敬の一種として民衆の尊信を集めて居るかを思へぼ、併教徒たるもの之を平然と雲梱
過眼成することは出奔ない筈であろうと思ふ。
以上は顕著なるものの一例に過ぎないが他にも模倣の例は無数にあつて一々奉げ得ない。勿静彿教も廼数的影

&〃
道教の係数的擬装
道教の偶数的擬装 一八八
響を受けて居るが、然し之れは道教と云ふよ幻は老荘の思想や管掌の影響であり、叉贋い意味の支那民族の宗教

β42
思想の影響を多く受けたので、所謂道教直墟の影響む多く受けて居るとか、又は之れを多く利用して居るとは考
へ碍ない。
要するに悌教が支部に移入せられ隆盛を極めたといふことが道教といふ支部的宗教を組成せしむるに至つた置
凄の原因であると思ふ。極端に云へぼ彿教無かりせぼ道教も無かったろう。道教は儒教や老荘管掌が襲揮し得ざ
りし宗教的挟隋む補ひ、吏らに陰陽道.の如き古釆支部に存する諸思想を取り入れ、僻教を模倣し支部の民族的宗
教を構成したものと云ふことが出奔るだろう。而して道教は手近な民間信仰と平易な民衆道徳とを主なる内容と
して民衆向きの気楽な長毒相楽を主とする宗教を形作って居るのである。
以上一般的に道教の相様を眺めたのであるが、局部的な問題は他日に譲ることにする。
本邦に於ける山岳修行について
岸 本 英 夫
宗教的修行一般について、又、本邦に於いて行はれてゐる宗教的修行の諸形態については、去る六月、日本
畢振興費貞倉主催の哲畢合に於いて、既にその概観を試みました。その折、修行の形態は、これをその性質に
って概括するならば、冥想、諦唱、水行、断食、山岳修行、蛋地巡拝、等と類別し得ることを述べたのであり
した。この度は、その中、特に山岳修行について、▲ごく概括的な考察を試み度いと考へます。
先づ、山岳と宗教との関係を一般的な問題として考へて見ますと、その間に営まれる宗教現象は、濁り山岳
行のみには限うて居りません。山岳崇拝と云ふ形のものもあります。古来、我が国には、姿の秀でた山、日々
生活に深い影響を輿へる山々を、貢山として崇拝する風習があります。白から山に入り、山む行場として鍛錬
行するものも、相宮古くからあつたことと推察されますが、それが著しくなつて釆たのは、寧ろ飴程後のこと
あります。悌教渡来以後と言ってよいでありませう。修行の行場とされる山は、同時に崇拝の封象となつてゐ

&得
場合が多く、その間には一脈の相通するものがあるのでありますが、併し、宗教現象とLて見た場合には、雨音
本邦に於ける山岳修行について
本邦に於ける山岳修行について ︼九〇
は著しくその性質を異にします。山岳崇拝は、山を信仰の封象として遠かに之を拝むものであ少、山岳

&材
山を行場として其虚で身を以つて行ふものであります。こ1では、その後者を観察しようとするのであります。
さて、山岳修行の内容を更に立入つて観察しますと、同じく山に登幻、山を行場とする修行であ少な
の中を叉二つに分けて考へる必要があります。その一つは、叫定期間山に入り、山に縫って修行するも
ます。これは、その方面で精々専門化した特殊な人々によつて螢まれることが多いやうであゎヱ更す。
佐山修行、籠山修行と云ふ様な言葉も用ひられますが、こ1では﹁山岳練行﹂とよぶことに致します。他の叫つ
は、重から山に澄男、頂を極めて再び降って乗ることそれ白煙を、一つの修行と見撤すものであ力ます
廉く一般の人々によつて、諸国の山々に、年中行事の如くにして営まれてゐます。これを﹁山岳登葬﹂
とに致Lます。
﹁山岳辣行﹂と﹁山岳登葬﹂とでは、修行の建前も、修行をする人の種類も異る場合が多いので、そ
必要となつて残るのであります。研究者としては、行者、修験、発達、と云ふ様な言葉を用ひる場合に
鮎に関してはつきりした識別を必要とします。寛際の例について見ても、例へぼ出潮の羽黒の如き、﹁
﹁秋の峰﹂と云ふ言葉でそれを区別して居ます。こ1で云ふ蜂は、地理的な﹁峰﹂の意味ではなく、峰で行ふ修行
の形態を現はして居ます。﹁夏の峰﹂は、羽黒山、月山、湯殿山の所謂出羽三山をかける﹁山高登葬﹂
﹁秋の峰﹂は、羽黒山の奥に縫って嘩中修行を螢む﹁山岳辣行﹂を指すのであります。
﹁山岳鰊行﹂は、維新以前、修験道の栄えてゐた頃には、諸国の山々で盛んに行はれてゐまし寛大和
奥騒け、羽黒の峰中修行、比叡山の回峰行の如きは、現在も猶行はれて屈ます。又、民間に於ける行者で、畢狩
に山籠りをするものは、今日も中々多いのであります。
併し、こ1での問題としては、﹁山岳練行﹂は暫く措いて、﹁山岳登葬﹂について、観察を試み度いと考へま
す。次の様な、﹁登拝の翼状。二、地理的頭境、時期、等。三、登葬者.その疲弊、組織。四、動機、目的。
五、歴史上の問題、と云ふ順序で述べることに致します。
l 萱井の賀状。現在、全国で、宗教的な意味で裏山に登る人の数は、年に百萬を超えると推定されます。そ
の人々の間には、萱弄の直前にどれだけか精進潔癖をする風習があります。この精進潔蘭は、神道的な禁忌と悌
数的な斎戒とが混治してゐる場合が多く、その方法も様々でありますが、主要なものとしては、氏紳の境内等に
一定額間垂範すること、女人を遠ざけること、別火を用ひること、輩酒を避けること、水垢離をとること、等が
奉げられます。登葬者の服装も大鰐二様で、笈招風の上衣を着けた白装束に、笠、糸立を纏ひ、金剛枚を手にし
ます。山頂の敢忙奉椚する御幣等を携へる風習のある魔もあります。
登葬者は隊伍を組み先達に導かれ、山念彿︵多くの場合に六根清浮懐悔々†︶を唱へつゝ登ります。山麓の清
流や瀧に身を潔め、途中の井魔々々では祀詞や般若心経等を話して、頂上に到ります。山損で御秀光即ち日の出
を拝することを尊重する馬、登山は夜間に行はれることを稀としません。山頂には政があり、七八月頃、かゝる
山頂の敵前は萱井者の参詣で盛観を呈します。かくて、山頂を極めると、自分及びその年不参の家々の為に護符

βイ∫
を受けて下山するのであhヱ浸す。
本邦に於ける山岳修行について
本邦に於ける山岳修行について 一九二
〓 地理的環境、時期、等。山岳登井の封象となる山は.群山から際立ち、その形が秀麗であり、且、比較的

β4β
に具に近いことを共通の特徴とします。従って、火山性の山が少くないのであります。一つの山
は、多くの場合に、溌偉かあります。その登山路乃至登山口の相互の関係、勢力の滑長等には興
題の赦されてゐることがあります。又、挽近の交通機関の賛達はこれ等の登山口に深刻なる影響
ます。三日で云へぼ、交通機関の蟄達の焉に、山が湧くなつたと云ふことが出釆ませう。その薦
宿場等も、哀感の一路を迫って居ります。近代文化と停統的敢合組織との摩擦の生きた資料の︸つを、我々は其
魔に見出すのであゎ三芳す。
登井の時期は、山と云ふ地理的制約の為に、主として夏であります。殊に嘗暦八月朔日の前後
の中心でありました。併し、これも交通機関の黎達の薦、次第にその時斯の制限を失ふ傾向にあ
三 登葬者の種類、組織。萱弾着のことを、道者、行人、等とよびます。その主要部分を占め
謂庶民階級の男子であります。即ち、地方の農民、都合の中小商工菓者が多いのであります。女
までは、沸教息想の影響で、殆Aど全く禁制でありました。大和大峰の如きは現在も之を厳格に箕行して居り、
一般に女人皇骨ばない風はあります。併し、一方には、木曾御嶽、越中立山、富士山の如く、全
しない山も出奔て釆て居ります。
登井者について著しいことは、その間に屡々強力な恒久的組織のあることであります。即ち、
ます。山によつては、数千の講によつて支へられてゐるものもあります。講と山との関係は∵一
されます。その一つの型は、木曾御嶽、越後八海山に見る如く、各地方の敦禽が、夫々畢猫に登拝講を組織し
登弄し、山の方から積極的に働き懸けて行くことのないものであります。他の型は、山麓の宿場及び発達なる
師在聴等が、地方に散在する講を指導経螢するものであゎます。出羽の羽黒や相模の大山に見る如く、萱井者
発達との関係、先達間の勢力圏の協定等、之には信仰と経済とが絡んだ長い歴史があり、宗教政令峯上に複雑
問題を捷供し て 居 ま す 。
四 動機、目的。山岳登祥の行はれる表面の理由は、山頂の諸紳諸彿に参詣することであ虻圭す。併し、単
それのみでは、かくの如く根強く蟄達した現象を説明するには不充分であつて、それ以外にも幾つかの資質的
理由のあるこ と が 考 へ ら れ ま す 。
その第一には、山の姿の持つ魅力が拳げられます。下界から仰ぎ見るときに、造かなる大益に毅然として奪
立つ山頂は、崇高感、神秘感、無限感、憧憬感を唆少、その頂を極めたいと云ふ希求を、人の心に呼び起すの
あります。その山が、山麓地方の生活に直接の影響を輿へると云ふ様な地理的事情があるときは、その感じは
更に硯箕的な迫力を加へます。男の成年のしるしに必ず一度は登ると云ふ風習も、その凌に瀕を聾してゐると
はれます。
第二に、更に、重要な理由として、山に登ること自鰻が蘭らす様々の精神的効果があります。︸ノ歩山中に入れ
ぼ幽遠寂浮、世俗生活を忘れ、大自然に直面させられます。天候の欒化や道の選び方によつては、忽ち命にも
る危険を赦して、心は充分なる緊張に導かれます。かくて、鞍苦を胃し、疲弊に耐へ、全身のカを∵歩々々に

β才7
本邦に於ける山岳修行について
本邦に於ける山岳修行について ︼九四
めて登ってゆくと、雑念は白から浮められて、深い慣験の境地に入ることが出発るのであります。而して、一度

β4β
山頂に蓮すれぼ、山又山のl連山波涛の如き眺めは堆洋壮大であり、又、造かなる下界の眺めは、最も具牒的な形
で、日常生活を反省させます。かうした慣験は、萱葬者を幾度も山に牽き付けすにはぁかないのであります。
檜、講の持つ祀禽的な制約も、登挿を促す一つの力と考へられませう。斯様に、山岳登井は、単なる紳悌への
信仰のみではなく、それを中心としながら、他の様々な理由が加はつた結果、螢まれてゐるのであります。
五 歴史上の問題。以上の観察は、現在行はれてゐる宗教現象としての山岳登拝む中心としたもので、歴史的
な展開の跡を辿ることを第一の目的としてはゐないのであります。併し、現在の尊貴を正しく理解する為には、
現在までの歴史を知ることが極めて必要であります。殊に、我が国の山岳登井、贋くは山岳修行は、修験道と密
接な関係を持って居ります。修験退を無税しては、全く理解出奔ないと云つても過言ではない様であり資す。修
験道の研究は、従釆比較的閑却されて居ましたが、今後、その研究は誠に望ましいことであります。
山岳に富む我が国に於いては、′その地理的特殊性の故に、山岳登井が一つの看過すべからざる宗教現象を形追
ってゐるのであり吏す。
︵帝国畢士院規定に徒ひ、本研究はその研究費補助によることを附記す。︶
明治偶数企業の特質について
上 坂 倉 次
l こゝに明治併教企業とは、明治二十年代、三十年代に蟄生し、彿教徒の電楼閣凄に開興するところのもの
で資本主義企業中株式合祀組織によつて営まれた事業を意味するものとす。主として彿敦銀行業、沸教保険菓に
ついて考察したい。
恰侶が営利事業に携はることは悌数々理では永.い間禁止さるべきことゝ理解されてゐた。然し乍ら吐合痙済の
欒遷は、彿数々囲、寺院、檜侶も叉世俗的螢利の業に携はることを怪しまぬまでに成り至つてゐる。此の傾向は
明治以降顛著になつてきた。かゝる必然性は封建経済より資本主義経済暖制への縛移によるものである。徳川封
建社食に安穏な生存を緯けてきた寺院僚侶が明治維新と共にその封建的諸特樺を殆んど剥奪されて寺院経済の基
礎を喪失したことは、彼等にとつて手痛い打撃であつた。上、政府からの歴迫と、下、民間からの寺院檜侶への
不信認はたゞでさへ困難な彼等の立場をより困難なものとした。

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かゝる時、明治九年頃より十五年頃までは所謂不換紙幣濫費による不健全なる企業勃興時代で寺院経済はその
明治係数企業の特質について
明治偶数企兼の特質について 一九大
高物偶に悩まされ、不換紙幣整理によつ七収縮せる財政経済は、忽ち囲を奉げて不景索のドン底陀つ曹蒋し、泡

嵐タ¢
沫食紅企業は多く倒産の夏目をみた。寺院経済の苦境は依然深酷を極はめた。十八、九年に至り景気は相好韓し
不換紙幣免換の制成るや、産業界は活気を帯び合祀企業の聾達をみ、二十年はその全盛時であり、近世資本垂養
融合の特色ある時代となつた。
たま′∼明治十七年紳悌教導職制廃止せられ各宗自治の機を迎へ、内外の状勢悌教界に好韓を示し、其の地位
勢力を回復すべき絶好の機運到来となつた。か1る二十年前彼の意まれた環境下にあつて、永年困苦窮乏裡に沈
表してゐた教圃、寺院、愴侶の大なる悩みは、如何にして依然として凄まれざる経済的苦境を突破し彿教の勢力
を増進せしめ得るかであつた。悌教の封社食への働きかけに必要なる活動費金は如何にして調達すべきか。寺院
の経営維持、檜侶の生活の保澄は何によつて可能なるかの問題が、この十年代末の教界に重要な関心事であつた。
この一般経済界の好況は寺院経済にも若干の活気を注入せすにはゐなかつた。されば脅敢企業の全盛流行期に、
葬具請負合祀、俳書出版合祀、智恩院保存合祀等の如きものが彿教徒により着手せられたこと常然であらう。明
治二十年七月の東京経済雑誌は、鼠取合祀、洋行合祀、衣服改良合祀等と共に前述の彿教企業の如きものまで合
祀濫設の波に便乗して出現したことを春草の二間毎に茂生するにも似たりと驚異の筆を述べてゐる経であつた。
此の年大谷波の寺田隔詩は早くも悌教生命保険の提唱をなしてゐるのは注目すべきことである。
〓 悌敦企業としての銀行業、保険業は共にその出資経営萬端が恰侶によつて焉されたものは全くない。直接
には企業者として、或は出資者として又企業の援助者としてあらはれ、間接にはこれら企業に封し宗教囲鰹をし
て企業の脅景となさしめ、得たる利益を本山の興畢、布教費に道上せしめ、一部業務の取次媒介者たる寺院恰
に手数料として支彿ひその乏しき経済を潤ほはしめる経帝関係等に於て結ぼれたものである。寺院に金融の途
拓き或は叉保険金の一部を寺院に寄附する特を焉させしめるなどの事はあつたが、企業自購が悌教そのもの1顧
揚とな幻、教囲活動の主目的とはならなかつたのである。斯く中途年端なものとなつたのは何故であらうか。
かゝる企業に彿数倍侶が開興する是非については賛否両様の議論が戟はされた。新しき時代に彿教に取入れ
れる専業は何にあれ、尭づ之が僻数々理に適ふや否やの論議に始まるのを明治以降の沸教界の通性とする。爾
の企業を通じた企業参加の意見は大概ね滑極的なものであつた。
1、恰侶が企業の艦螢着たることは不可なり株主として参加するをもつて可とする
2、銀行業より保険業は悌数々理に背反すること砂しされどその慈善的目的を忘却し単に射利の︼途に走るの
弊を免れす
8′、近代的資本主養経螢の術に於て愴侶は到底世俗の人に及ぼざるべし
これはその一部に過ぎないが、愴侶・寺院・教囲が営利事業に没入することに俗人の側よりの批評は一骨厳し
斯る状勢下にあつて、その反封を押し切つて進むことは躇躊せられた。これが愴侶をして積極的に斯種企業に
出せしめす、僻教圃慣︵本山や信徒︶を封象として計量せられた悌数倍徒の経営する事業と提携し、之む援助し
又出資者として、その有力な背景たらしめる程度に止まらしめたものである。かく批難抄き方法にて企業と援

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しその利益を教圏の側に供興せしめる形式を踏んだのである。檜侶が企業経営者として参加したもの皆無では
明治沸教企業の特質について
明彿治敦企業の特質について
いが程なく其の支配取を俗人に委してゐるのである。

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lニ彿教企業としての銀行は、明治二十三年のころに資本金言l寓囲で各宗勢力資金を網羅しもつて計暮せら
れ、資際には規模を縮少し、二十五年七月に三高園庭もつて営業開始の護国貯蔵銀行の設立されのたを
し、曹洞宗の久次米銀行︵資本二十寓囲︶二十九年に眞宗の海業銀行起り∵二十四年に豊山護法銀行、橘銀行の
設立をみた。他に計壷のみの六保銀行、日本彿敦銀行の二がある。保険業に於ては、二十七年二膏には
をはじめとし、有隣生命︵現存︶明教生命の三が、二十八年には虞宗信徒生命︵現存の共保生命の前身︶と虞宗
生命︵のち朝日生命む改む︶、二十九年に日宗生命、三十年に締徒生命、三十二年に六保生命、三十四年に眞宗
火災等を数へる。浮土生命、大谷派信徒生命、成田生命等は計姦後油漉し汽その蟄生時よりみて、保険
はゆる保険史上の模倣濫興時代に輩出し、三十一年よ旦二十三年の恐慌時代に打撃を蒙り、ついで三十
の解散整理時代にはその大部分は主務省より新契約停止の廃分を受くるなど蟄展の力を失ひ、四十年前
をみたもの前述の六杜に達する、有隣と眞宗信徒生命のみ存緯し得た。銀行中、豊山護法銀行がのち豊
苧商銀行と名稀を欒へその彿教具む脱却して昭和七年まで存緯したのに他は成績馨らす、短き生命に終
両企業を通じてみるに業績は芳しくなく、且つ、その存練塀間も短かつた。各箇について仔細に検討
その大部分が小資本、経営粗宋、蟄起時期の不適等の弱醍企業として素質を具へてゐるのむみるのであ
時代に興起した一般企業についても興廃起伏は世の常であるが、特定せる宗教囲照に強く依存し、それ
した彿教企業は、その小規模経営をもつて足少た時代には兎も角、一般経済界の著しき躍進によつて国
織の横充せらる1に至つた日露戦争前後の高度資本主義時代に入つては、最早亘大な資本と充箕せる一般企業と
の競寧に堪へ得なくなつた。こ1に於て増資をなし、彿教囲髄を主封象とする経営かち一般国民を封象とする経
営に樽換を要すべき秋にせまつたのである。しかるに内容の充覚をはからす、僅少の利益をも割いて教
上をなし、又同類相喰む底の多数の悌教保険合祀との競寧に没頭し、来るべき飛躍の秋に備へす、英日
営に終始した大部分の業者は、周期的に凍る恐慌の荒波に覆没を免れ得なかつたのである。日露戟事後
不景気時代に解治した係数銀行.生命保険合祀はこゝに二應その歴史的役割りを果したといへる。侍ほこの彿教
企業の解消に拍車をかけた他の原因は、敦圃経済、寺院経済が次第に安定の城に達したといふ事情にあ
生命保険企業にあつては明治二十七年より僅竺二、四年の問に有力なる彿敬語宗が相次いで、これに
銀行業にあつても二十五年の各宗綜合して大規模に計喜せられた謹囲貯蓄銀行と、新巻虞言宗豊山派、
が之に関興したところの理由は何んであつたか。明治維新の危局の想ひ未だ去りやらす、二十五、六年
宗教の衝突事件によりてキリスト教の勢力衰へ之に代って進出すべき悌敦がその社食的存在を示し、豊
済力を腐養しもつて活動に乗り出すべき時期を此時に見出し、宗囲経済、寺院経済の資本主義醍制樹立
べき必要にせまられた事情は之を充分に看取出奔るのである、︺か1る営利企業と件数との接簡が贋汎に行はれて
ゐる一面に於て、寺院経済、の愴侶作務の営利化が着々と進行し、彿教組織の資本主義化が全面的に蟄
った事箕を見逃し待ない。此斯に贅生した併教企業の歴史的役割は正に封建規制の脱皮作用の促進であ
ふべきである。彿教企業が企業白襟として有終の美果を収めなかつたにも拘はらず、彿教の資本主蓑化

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明治俳敦企業の特質について
明治彿敦企兼の特質について
した歴史的使命に至つては充分なものがある。

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四 此斯彿敷金業の大概ね不成功に経った若干の理由とその歴史的使命に閲し若干補足を試み結給とする。
1、企発着季節の遅きこと、明治彿敷金業は一般企柴勃興斯に之を蟄案せるものも若干これあれ
は一般状勢が進行し、既に下り坂に連せる時に常るをもつて、蓑勢斯に際合すること早く強固なる基礎なきた
め失敗に終る。企業のみならす悌数寄業の通性とする。
2、事業経螢に猫創性、進取性に乏しきこと、模倣追随に流れ強固なる布衣偶値を持たざること、
8、国民の経済知識の向上進歩をみ、企業封象たる宗教国債の特質たる信仰と営利企柴の結合力の乏しきに室歩
たること
4、経済界の進歩蟄達は国富の増進となり、生活程度の上昇を釆たし、寺院愴侶の信仰上の収入も自然潤澤とな
り、小作耕地代の騰貴によ刀自然増収をみるに至りたること、従って彼等の開興する銀行巣保険業の利益よ少
の僅少なる分配は教囲、経済、寺院経済の収入部門として省るに足らぬものとなつたこと、前記の如くそれら
企業の業績が不充分なるに至少ては利益分配なく、歓迎すべきもととでなくなつたこと
更に弱慣企業として祀脅に輿ふる書毒防止のため主務省の命によ幻或は法令の蚤布によカ次第に整理さる1に
至ったこと。
侍ほ明治件数企業として鋳造企業をも拳ぐべきであるが、こはそれ身鰻が猫占的性質を有するをもつて前述二
企業の性質と異なり激烈なる資本主義競等を免れて相皆の成績をみるに至つた。
彿敦特に禅宗の儀式が我国風俗に
及ぼしたる影響
来 馬 琢 道
l 宗教は多数民衆の信仰を集むるものであるから、衆人援硯の中で行はる1儀式は民間に相嘗の影響を輿ふ
るものである。支部に於ける悌教各宗の中には密教の如く厳重なる儀軌を定めてあるものがある。之に
教理其他簡潔を誇りとする繹宗は何等複雑なる儀式を要せざるかに恩はれるが、其内容を検付するとき
複雑なる儀式を定めあり箕竺挙手一投足にまで規定が設けてある。之も清規︵シンギ︶と云ふ、唐の憲宗元和
年中、石丈山大智繹師叢林を閃いて清規を定めたが、其本文は俸はらない。采徴宗の崇寧二年長崖宗麟
苑清規﹄を編輯し、同寧宗の素足二年正瑞巌無量毒和侍﹃日用小清規﹄を撰して一日の行事を定めた。
十年安州金葦の惟勉和綺﹃叢林校定清規﹄を撰し、元の武宗の至大四年東林の渾山成和侍が﹃膵林備用
撰し、同仁宗の延蕗四年中峰本和侍が﹃幻住庵清規﹄を撰し、同順宗の室元元年東陽徳輝和侍勅を受け
百大清規﹄を撰した。元の時代には蒙古の剰嚇敦の勢力のあつた事を讃する文字が見える。我国に於て

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から建長の間に、江平寺の道元縛師が﹃永平大清規を撰し、元享四年に親持寺の豊山繹師が﹃豊山清規
偶数特に繹乗の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響
沸教特に繹宗の儀式が我囲風俗に及ぼしたる影響 二〇二
たが、営時は門外不出む云ふ横転風習があつたので刊行されず、延聾六年頃に至つて薔行せられた。而して其内

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容は何れも支部の清規に依って居るが、新機軸を出した鮎もある。是等の清規に依って儀式を賛行するに営つて
は相営微細なる進退む規定してあり、殊に山法と云ふ口俸的な協のがあるので修練が容易でない。
〓 従釆彿教儀式を研究した者は少いが、予は明治四十四年始めて﹃膵門賓鑑﹄を著して、最も通俗的に膵宗
の進退を記述した。然るに伯帝大谷光照師は﹃唐代の悌教儀薩﹄を帝国太巻の卒業論文として完成し之を刊行せ
られた。予は之を耽讃Lたが、其研究の根幹たるものは慈覚大師の﹃入唐求迭巡鰻記﹄と認められる。而して同
署は、予が大正二年支部尋訪の結果、天台宗の燭に應じ、其の巡櫓の地囲を蟄表した関係があるので、ご暦印象
が深い。さて﹃唐代の件数儀櫓﹄には、国家的色彩の濃厚なる事、皇室む始め帝倉の盛な事、悌牙の狂信、行像
の盛儀、孟蘭盆合、詩経、行香、梵唄、悔過、所雨、燃燈其他の事が詳細に記述してある。然し繹宗の事は、あ
まり多く記してはない。惟ふに常時は碍宗よりも他の宗派が盛んであつたからであらう。然るに武宗の倉昌の沙
汰以釆、稽宗が濁り勢力を有するに室つたので末代に近づくに従払、縄宗の儀式は益複雑となり、且英二郡が民
間に行はる1に至つたのであらう。而してその特色は大谷伯の指示aれた所に似たものであつたらう。悟いかな
文献には侍らす、末代以後の清規に依って推定する外は無い。﹃勅修百丈清規﹄は大正新修大戒鑑第四十八巻に
収めてあり、﹃縛苑清規﹄は﹃曹洞宗全書﹄清規部に収めてあるから、参照せられたら、特色を知る事が出奔やう。
三 檀林養基の時代の繹、停散大師の俸へたる蹄が何うあつたかは分らない。栄西繹師は素、密教むも俸へた
から繹宗の儀縫は何れ程までに我国に於て賓際行はれたか分らないが、其の思想は﹃興繹護国論﹄に見る事が出
来る。臨済諸宗の停は二十陰流もあるので﹁言に壷す事は出奔ないが、﹃大鑑繹師小清規﹄ ﹃小叢林清規﹄の二
書が大正新修大蔵経第八十一巻諸宗部に収めてあるから、流れを汲んで源を察すると云ふ筆法で大憶を推定する
外は無い。曹洞宗の行事蛭前に述べた﹃永早大清規﹄、﹃登山清規﹄ による外は無いが、此二書の普及されない
問に、諸方の大寺院に於て自ら定めた清規が少くない。﹃規曹洞宗全書﹄には、前二書は宗源部に収め、清規部に
は﹃相樹林清規﹄﹃永澤専行事之次第﹄﹃桶谷内清規﹄、﹃萬緻山清規﹄、﹃普済寺日用清規﹄﹃洞上愴堂清規﹄、﹃
平寺小清規﹄ ﹃同翼﹄等が収めてある。各寺の猫得のものを求めることが出凍たら、種々の史料になると息ふが、
最早浬滅してあまり無いらしい。﹃洞上愴堂清規﹄は相常集大成したものと云つてよい。之は瑞芳面山和侍の著
である。更に降つて明治二十二年に﹃洞上行持軌範﹄が編輯された︵曹洞宗撰︶。此の洞上行持軌範と小叢清規と
を日分月分年分に分ちて封照して見たのが﹃繹門賓鑑﹄に載せてあるが、是等から潮つて、宗代輸入の繹宗儀鎧
を考へる外は無いと思ふ。仮に同時代の特色を云へぼ
一統聖︵シュクシン︶と云ふ儀式を尊び毎日朔望に今上天皇帝聖毒高森を祝福し、又上堂と云ふ大法要には
特に香を焼いて今上皇帝萬歳萬歳萬々歳を祀宿した︵之聖二呼と云ふ。山呼萬歳から発たものらしい。繹宗
では三皇五帝是何物ぞと云ふ豪邁な繹語む用ふが資際には皇帝を斯く尊崇する︶。
二 踵井の儀式が他の諸宗と異り、眞の五倍投地式を貴行し.従って座具む重用し、奔席を設けた。住持には
特に小高き壇を作ったが僅に六寸位で、今の支部にもあるが、其他の愴侶は戟︵カハラ︶敷の上に薄い座具
を敷ひて踵辞するのである。他宗の穫撃とは大に異なつてゐる

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彿敦特に蹄宗の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響
偶数特に繹采の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響 二〇四
三 天欒地異等に封し所躊を盛に行った。之には後に密教の儀式を取入れられた鮎もある。

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四 反省の意味で念諦と云ふ事聖二の日、八の日を恒例とし、其他の日にも行った。
五 滅罪と積徳との馬に布薩を望晦の日に行った。
六 彿組は三賓崇拝の意味から鰻丼するが天部等には鰻丼せす、出家以外の者には合掌の祀をなさす、叉手し
て敬意を表すること1し、之に依って道.俗の宗教的待遇を厳稀に分けた。
七 親金を僻組に捧げる儀式む行つた。︵印度では金銭を不浮と息つてゐる。︶
八 組師の喜像を重んずる風習が盛になり僧侶自ら組像を蓋いた、それは墨喜となり、紙も生紙を使ひ、筆も
水筆を使って墨韻を示す様になつた。
九 揚其の外に茶を隣組に戯ずる儀式を重んじた。
一〇 愴侶間には何事についても茶を鮎ずる儀式が流行し、清規の中には茶に関する清規が多く掲げられた。
特馬茶と云ふ儀式、大茶湯、煎鮎と云ふ荘厳なる儀式も行はれた。
一一上堂の式が行はれ、小怨も附随し所謂禅問答が盛になつた。殊に曹洞宗は日本語を用ひた。
一三 坐膵を専修する愴堂又は繹堂が出凍て、蓮磨大師の面壁を行ふ様になつた。
一三 捏柴舎、降誕合、達磨忌、成道魯等を厳粛に修行した在家の者も次第に参詣した。
一四 木魚︵桝︶、雲版等の特殊の法具が禿た。桝は特に目立ったものである。
一五 建築の上にも簡素なる荘厳が用ひられた。津堂の内部の如き客殿の構造の如き、その著しきものである。
玄関の名稀も注意すべきである。
四 奈良朝平安朝の時代の如く、宮中の儀式、又は政府の儀式には繹宗の影響はあまり多くなかつた様である
が、鎌倉時代から足利時代にかけて繹の名愴が輩出し臨済も曹洞も相首全国に普及した。黄柴宗は近代の停秀で
あるが、将軍家の辟依もあつて、一時は大に振った。曹洞宗の儀鰻には黄柴宗の歴カを受けた跡が明かである。
前に拳げた各種の法式が盛に各寺院に於て行はれた為に、繹宗へ衆庶の垂井する者が多くなつた。従つて、江湖
合とか授戒合とかがあると、大供養を設ける施主も出奔て禿た。繹宗の問答などが誰云ふとなく民間に侍った。
一連磨大師の坐繹の形の催諺。
二 蕩菊間答と云ふ類の民間の談話。
三 建築上に於ける滑脱な趣味の普及。
四 食物に封する縛愴の調味の特色。︵坐繹豆、金山寺味噌、渾庵漬、隈元豆等はその例であるが、今日まで停
はらぬものが相常多いと思ふ︶
五 退廃法に於ける禅寺趣味の普及。︵金閣寺の旋揮と、銀閣寺の清快とが例に出される︶
六 茶道に就ては最も多く繹の趣味が取入れられ、殊に足利義教の奨励があつたので、異常なる蟄達をなした。
七 墨董の蟄達︵一休縛師其他を得て斯界に大活躍をなすに室つた︶
八 聯の流行から茶道と並行して書風の上にも新方面を開拓した観がある。

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其他地方の風俗に影響した事は枚拳に追がないが、碍宗の引導法語は葬式の模範となり、仝鰹に押の思想が、風
偶数特に繹宗の儀式が我国風俗に及ぼしたる影響
偶数特に繹窄の儀式が我歯風俗に及ぼしたる影響 二〇六
経とか、崇高とか云ふ気風の代表語となり、後世の俳味とか﹁サビ﹂とか云ふのと師聯して、茶道の服装及び器

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具と碓愴との関係が密援となり、更に普他宗の興隆に依って、尺八の吹奏にまで及んで準寛之は後世の事であ
るが、相首注意すべき事である。黄柴宗の渡釆と同時代に輝朝したる曹洞宗の心越繹師が、水戸家の辟依を受け
て近世支那の宗風を停へた専は一地方に相常の影響む輿へた。
五 臨臍宗は支部直停を以て根本方針としたのと、組師の多数が辟化人であつた関係上、支部の儀薩を直讃し
た。従つて著述は漢文に限られ、設法も民衆に封しては行はなかつた棟である。夢窓国師の﹃夢中問答﹄の如き
は、初期に於て日本文で書かれた珍しいものと云つてよい。故に儀式も支部流に取扱はれた様である。曹洞宗は
初は漢文を尊重したが﹃正治隈蔵﹄が日本文で書かれた経であるから、大分日本化したやうである。同向文など
は大分支部晋を使ったが、法語や問答は日本語を使つたので、其儀鰭は日本人に解つたらしい。その馬儀祀も日
本化した傾向がある。最も顧著なる事は法堂其他へ垂を敷き僧侶も端坐した事である。戟を敷詰めた堂内の儀式
と、畳を敷詰めた堂内の儀式とは相常の差異を生じたが、衆庶の参拝する者も英数を増し、繹宗の儀式が民間に
影響する事漸く多きを見た。結制︵結夏︶も、授戒含も寺院と民衆との連鎖となつた。各種の講式も異聞に行は
れた。﹁江湖︵ゴウコ︶百日授戒は七日、明日は迭行︵ソウアン︶血の涙﹂と云ふ但洛が流行しだ如きは、如何
に繹寺と衆庶との関係の親しかつたかを知るに足る。此鮎に於て曹洞宗の儀式は日本風俗に多大の影響を輿へ、
繹と日本文化との間に、各種の聯絡を覚現するに至ったと云へる。
我国に於ける鏡の宗教的意義
前 田 泰 次
︻ 現代に生活する我々は鏡に封し、己が姿を映す詩具以外に何等の意味をも感する事は出奔
より少しく時代を遭った人々は、鏡が破れた時は不菅の兆として怖れ、女が鏡を跨ぐと罰が嘗る
彼等は鏡は姿見の界具であると同時に、何等かの力を持つーⅠ極言すれぼ或る魂を持った−!ものと考へた。何
政に鏡は或る力を持つと考へられるか。鏡の作用は物を映す所にある。我々は物がそのまゝ映つ
不思議に鳳はなくなつて居る。然し於山鏡の話の如く、映像を知らない人々にとつては、鏡は確
であつたであらう。罵虞術の初期に生活した我々の醍父母には、寛眞をとる事は甚だ不気味なこ
と同じ姿が他にも存在することは確に気味の惑いことであつたらうし、か1る作用は或る不可恩義なるカを想定
するに充分であつたであらう。
﹁うつす﹂といふ言葉に就いて、我々蜂二様の作用を考へられる。第一に、似たものを作るこ
及び偶像はこれである。第二は、篤眞及鏡が作る魔の映像である。此の二様の働に於て、原髄と

β67
我国に於ける鐙の宗教的意義
我国に於ける鏡の宗教的意義
も関係が、我々に宗教的意義を持たせる魔の或る働力である。

g62
私は此魔で鏡の蟄生を諭する飴裕を持たない。鏡が物を映す焉に出奔た物であるか、或は他の
い板であつたかは、此虔では論鮎としない。乍然、鏡が、或るものを篤し窒息昧を持ち、又映
られ、此の雨着が互に働合ってゐるといふ事は確であらう。
〓 我々が現賛に見得る日本の古鏡は支部の鏡との連関を鳳はせるに充分である。古事記神代
如何なる形式のものであつたか、考古品の見られない現在之を速断する事は危険であり、又断
伴侶友、橘守部両党人の研究に止るを飴儀なくされるであらう。故に私は今少時、論鮎を支部
恩ふ。我々が硯箕に接見する支部長苗の銅鏡は所謂秦鏡である。次に位するものとして、多数
る。秦鏡に於ては方鏡と園鏡がある。然し方鏡は現在の虎小数であり囲鏡が大多数であること
示する重要な鮎ではなからうか。鏡背丈様にある龍、蓉肇文其他の固棲む度外視して、形態そ
月、或は天といふものとの関係を思はせるであらう。然るに前漠鏡と推定される内行花文重囲
、、、、ヽヽヽヽ 鉛筆清而明以之望見⋮⋮如日之光:⋮﹂とあり、叉前漠の内行花文略蠣鏡に﹁見日之光、長母想忘﹂の句があるC
此の句よりして考へて見ても、鏡と太陽との深い関係の一端が知られる。更に後漠式に屈する
ヽヽヽヽ 文には、﹁侍方作覚自有司良工日象、大富軍︰︰﹂とあり、此廃に致っては明に太陽
ゐる。以上は極めて簡単に銘文上より考へ釆ったのであるが、更に鏡背文様の方面を考察する
紋重囲の如きは太陽を象ったと思ふに充分であり、更に漠鏡の最も代表的たるTT十Ⅴ鏡の如きも、一部の人々に
於ては、之を陽時計と関係して考へてゐる。此のTニ⊥Ⅴ鏡が陽時計であるか如何は暫くおき、同鏡の銘文に屡々
一二 見られる左龍、右虎、宋鳥、元武の四紳は、准南子、或は白虎通徳論の説明に依り、明に天鰹と関係あ
られる。更に降つて三園時代の董像鏡、六朝の四紳鏡、唐の廿八宿鏡、等何れも﹁天﹂に関係無くは考へられ
い。勿論、秦鏡の狩猟文、蜂蛸、怪獣を直ちに天鰐と関係して考へる事は出奔ないが、然し乍ら、支那古代の
が、彼等の持つ天鰹の神話、天鰹の信仰に深い接簡を持ってゐた事は明白である。
先にも述べた如く、日本の古鏡は支部のそれと開聯なしには考へられない。さて、日本書紀神代巻にては、
七 弊諾尊が白銅鏡から大日露草と月弓尊を生み給ふた事を記し、囲常立食の御子の名が一天鏡尊であゎ、古
る日象鏡の如き、何れも天醍と関係ある様に鳳はれる。この事は後に述べる鏡の宗教的意味から凝結して、鏡
我国上古に於て天髄信仰と給付いてゐた事を讃するものである。
三 鏡の働は物をうつす所にある。物が映るといふ事は、Aが他のAを産む事であり、Aが移動してAになつ
たとも考へられる。要するに映る薦には、或る力を隷想しなけれぼならない。而して此の映す券具たる鏡にも
る力を考へざるを得なかったであらう。又映つた映象自照に封しても、我々が考へる如き物理的な無生のもの
はなく、もつと有生的な考へを持たざるを待ない。其虞に鏡が宗教的意味を持つ蟄足鮎がある。而して其の第
は形見の観念であゎ、第二は鏡に呪力を詔むることである。鏡は先づ人硯を映すに用ひられる。この事は鏡と
ココニソヘクマヒリノオギシ その鏡の所有者、即ち映像の原醍との結合及至混同を生する所以である。古事
アメノイ︵ト リケノ チ ノリクマヘラクコレノ ハ シテ アガミ クマト ゴト
鏡和戦野軒胱辱飛散桝オ翫

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寸 サカノマガタマ 八尺勾璃、−
我国に於ける鏡の宗教的意義
我国に於ける鎗の宗教的意義 ニー〇
イツクガアガミマエヲイ午キマツレ
拝二吾前可伊都岐奉﹂及び日本書紀の﹁是時天照大神手持二葉鏡↓授”群が紆耶賢祝レ之日、書見祀二此賓鏡面二

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猶硯妄口﹂の如きは、鏡は映像む持つが故に映像の原餞の魂が住むと考へ、鏡と御魂、鏡と庶慣との同一を認め
る澄言であらう。御神髄としての鏡の意義は此の如き形見の観念に聾する。此の観念は御神髄としてのみならす、
一般的人間の形見の形式に於ても存する。例へぼ萬実に見える。
マリカガミミマセワガセゴアハザラメヤモトモタルマリミニ ﹁眞十鏡、見慶喜背子、朝聯卑握群が幣脾不相哉﹂或
如きは之を示してゐる。更に平安期以降に行はれた経塚への奉納鏡の如きも、剣と共に法葦経安置の守護を意味
する外に、奉約者の代理をも意合するものではなからうか。然し此の鮎に裁ては今後倍研究を要する。文一般の
奉椚鏡、例へぼ、法隆寺峯薬師への病気所願の奉椚鏡、出雲八重垣紳虻への繚結御鰻奉椚鏡、その他羽黒神社鏡池
への奉椚鏡の如きも、奉嗣者を代表するといふ意味、−・換言すれぼ奉嗣者の魂がこもつてゐるものを意味して
ゐると考へられる。鏡が形見として、最も鏡の尿所有者と近い関係にあるのは、鏡が尿髄を映す馬であると共に、
鏡が貴重なもの、即ち樹替のないもの、即ち命にも匹敵するものであつた名餞である。土佐日記東平五年二月五
日の條にある﹁ながめつゞくる間に、ゆくりなく風ふきて、たげどもくしりへしぞきにしぞきて、ほとくし
くうちはめつべし。韓取のいはく、この任青の明神は、れいの紳ぞかし、ほしきものぞおはすらむ、⋮⋮いふに
随ひて幣たいまつる。かくたいまつれゝど、もはら風止まで、:::たゞひとつある鏡をたいまつるとて海に打は
めつれぼ、いと口おし、さればうちつけに海は鏡のごとなりぬれぼ⋮⋮﹂の如きは、鏡に﹁或るカ﹂を認める思
想を示すものであると共に、鏡の重要性︵此の場合鏡は糖の生命に匹敵する︶を暗示するものではなからうか。
三 叉日本書紀中仲哀天皐八年正月筑紫御幸の條が示す如く裁圃の上古にあつては、部族の賓又
のとして、剣玉鏡が用ひられ充と考へられる。此魔にも亦鏡の重要性が認められるわけである。この事は復−前
述の天機信仰と鏡との関係からして、鏡は部族の宗教的︵軍事的をも含む︶儀穂構成の重要要素たる事を暗示す
る。更に古事記神代巻の、鏡、剣、玉む賢木に懸けて、天照大神の石戸より出させられ給ふを待
紳集ひの僕の如きも亦、此鮎に関する有力な資料であらう。
かく考へ滞ると鏡の持つ精神的意味竺一つの方面が見出される。即ち、天餞信仰との関係、形見
儀躇に於ける部族を表象する祭具としての観念がこれである。
四 論鮎を再び形見の観念に戻し、此の観念から蟄展した御神髄の形式を観察しよう。鏡が元釆
持ち、同時に重軍費重な辞典であつた事は、神聖な紳を表象する御神髄として最も適したであら
神社に於ては鏡を紳慣として崇拝してゐる。この事は更に経済的問題も開聯して葬る︵上古にては、銅白銅が貴
重な金属であり、後世にては鏡が比較的廉偶にて鋳造され吾が此虚では暫く問題としない。悌教
装身具法具等として早くより用ひられてゐたが︵奈良朝には盛に用ひられ空、御紳髄と同儀に、彿の代りたる
べきもの、悌の魂あるものとしても用ひられた。即ち扶桑略記文武天皇三年六月之保には﹁⋮⋮
於悌前二㌘其映像山像則非レ固非レ準三身具足、見二異形藩、應身之健也、窺二其影藩、化身之
者、法身之理也、功徳勝利、無レ過レ斯焉、天皇夢覚両親菩、知こ如来之應願由以こ大鏡︼懸二
大設二供養ことある。此の一文は果して文武天皇時代の思想詳記したものであるか香かは問題と

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我国に於ける鎗の宗教的意義
我国に於ける鎗の宗教的意義 ニー二
扶桑略記成立の昔時より以前の思想たる事は疑無い。この革は悌教と神道墓の相関む示す一例であるが。如斯

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が僻或は紳の表象として用ひられて葬ると、我国の如く多紳多悌の場合は、鏡のみでは、何れの紳何れの悌で
るか不明瞭となつて禿る。故に其虞から鏡に神像、或は俳優、或は種子を記する必要が生すると考へられる。
峯山番掘の蔵王権現、子守明神、金山貴明神像の鏡は即ちこれである。此磨から更に贅展する虞に所謂懸彿形
の蟄生む見るのであらう。
鏡が紳悌を表象し、或は自己を代表するといふ思想は、引いては鏡に程々の意味を附加せしめることになる
四 紳彿を表象する意味に於ては、その加護を橡想或は念願し、吾妻鏡にある如き戟寧勝利所願、百練抄記載
五 戦闘加護の意味を以て御紳牒を奉持する場合があり、柏餅に封して惰なき意味に於ては、玉海に記載され
六 起請文を鏡背に書く事がある。自己を代表する意味からは、前述の如き形見の観念があ玖種々の奉椚鏡は
重なる聾といふ意味と同時に此の観念に依るものであらう。
鏡に付き或る加護を念願する事は、その鏡が或る紳悌藍息昧するからであ急場合と、鏡そのものに或る力を
める場合との二様が認められる。此の或る力を漁想する事は党に述べた如く、鏡の映像作用の不可思議、或は
慣信仰と鏡の結合等から蟄足した鏡の呪力的信仰とも言ふべきものである。鏡の宗教的意義は、この呪力的意
と形見の意義と天餞信仰との結合し相働く夙にある。此の呪力的意義は鏡の宗教的意義を説明する最も重要な
であるが、これに関しては稿を更めて論じ度いと思ふ。更に鏡が光々と照L、萬物を映す斯から哲畢的説明の聾
展が生じ、これは悌教と結合し、鏡像囲融の如き思想へと進展して行くが、此の鮎に関しても他の横倉を待た
と息ふ。
註一港南子三に於ては、蒼龍、朱鳥、白虎、玄武の方位を示してゐる。
註二 白虎通徳給に於ては、四紳の方位、併に、四紳の精質を述べ、南方を司る帝炎帝を﹁其帝炎帝著大陽也﹂と言ってゐ
る。
註三 熊鰐天皇の衆徒に対して、岡駿主ノ組及び伊都ノ願主ノ粗は共に、資木に鏡、創、玉を懸けて舟にて蓼迎し、逆心な
きを示してゐる。
註四 香華鏡巻︼、
治承四年八月十六日⋮⋮撃明日合鱒撃彗被毎呑所躊可住吉小大夫昌長、寧在天轄地府撃⋮⋮武鱒旦㌘御鏡可
授も日長一給、
註五 官練抄
久安六年八月五日、興幅寺衆蜂起数千人、春日碑民二召餞人、捧二押紳木入洛 件紳木付義教枚一稀ニl春日大明神御
正饅一⋮⋮
註六 玉梅、
義仲輿こ平氏一和平事巳這、此事自二去年秋比轟々謳歌、︰⋮・去年月迫之比、義仲躊ニー尺之琴南奉蒜二八幡御正
撃裏躊二付置請文一遣レ之、困レ嘉利親⋮⋮
託七 出雲八重垣紳祀にては鎧他に蘭して天鏡尊を祀ってゐるっ

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我国k於ける鏡の宗教的意義
日本戦史に現はれたる宗教鰹鹸

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日本戦史に現はれたる宗教健験
西 澤 頗 應
戦場に於て慣験せられた信仰の諸相を考察して、日本の国民性によつて特色づけられた宗教意識の問題にふれ
て見ようと息ふ。
︻ 資料 日本戦史の研究では次の如き文献を資料とした。
︵こ 参謀本部編纂の日本戟史である。之れは史茸も屈しいし、考澄も信頼由来るものと考へられて居る。然
し戦略・戦術を主として居るから本研究の資料として選び出すのには手間をとつた。その中桶狭間の役・開ケ庶
の役・長篠の役・大坂の役・九州の役・山崎の役・小田原の役・柳瀬の役・柳川の役二二万原の役・朝鮮の役・
中国の彼等の順序で出版せられ五十冊許りになつて居る。
︵二︶ 井上一次中将、辻幸之助博士によつて監修せられ、各々専門研究家によつて執筆せられた大日本戦史で
ある。之れは戦役四十九の戦史を、六巻に亙りて蟄表して居るが、宗教髄験の研究としてはよい資料であつた。
︵三︶ 日本戦史集には戦役二十の戦史が拳げられて居る。之れも参考とした。
︵四︶ 日本外戦史には戦役十七の戟史が詳細に研究せられて居る。之れも参考とした。
︵五︶ 清洲事欒・日文事欒に垂加したる歴戦将兵の慣験談が資料となつて居る、二千五首名ほどあつた。
︵六︶ 常山記談其他兵家に押した停記を参照にした。
〓 宗教饅験の諸相 古来日本の戦場に於て、武士が鰐験Lた信仰にはいろくものがあるから二様に取扱ふ
ことは出奔ないが、個人個人につひては特殊の信仰を持って居た。文一族郎某を率いて居つた武家にあつては戦
闘に臨んで宗教的儀穏を特に巌修して居る、
︵こ 軍神 出陣に首つては軍神を祭り、軍紳に武運の長久を所願して居る。此の苗代の風習は今日出征する
軍人が伊勢大廟、橿原紳宮、熱田神官、平安神官、氏神に参拝して、武運の長久を所願するのと、その信仰の本
質については相通するところがある。
︵二︶ 血祭 軍神は武勇の紳であるから、軍神を祭る篤に、党づ敵の初首を献すると云ふ風習がある。これは
臆病武士に、血を見せて、士気を振起せLむると云ふ教具を、間接的に挙げて居る。戦国時代に於て怯憶の武士
を振起せしむる焉に、緒戦にて勇敢な戟を薦さしめ、その心理的影響について研究Lて居る。勿論日本武道は刀
に血ぬらすして敵を屈せしむるを本意として居るから、血祭の風習については考究すべき問題が含まれて居る。
例、古き物語に、合戦の日、最初に敵の首を切る事む、軍紳の血祭りにすると云ふことあり。⋮⋮紳功皇后の新
羅を征伐し給ひし時、新羅王は〓戟に及ぼすして降参し、之れと次で、高麗、百済南国共に戟はすして順ひ奉歩

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き。皇后の御軍 ⋮ 是ぞ誠に神武と云ふべき。−!軍紳問答 −
日本戦史に現はれたる宗教性鹸
日本戦史に現はれたる宗教睦鹸 二l六
︵三︶ 所願 戦場に臨む武士が、紳彿に所願を為すことは、いづれの時代にも行つて居つた事である。これも

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今亭欒に於いて出征する部隊の将兵が、紳併に所願すると共通する心意情態である。
例 天正二十年正月五日秀曹朝鮮囲征伐の陣場あ少。⋮⋮正月二十六日書方哀れぼ玉名郡船林にて勢揃を馬し、
二月朔日諸軍を率ゐて隈本鏡守八幡宮へ社会し。諸隊長、箭を聾殿に約め一て首途を成し、武蓮を所幻、辟陣まで
は後を見せすと誓ひ、目出度靡朝せぼ八月十五日毎に祓川にて放生合を行ひ、兵百人を以て神輿を守護し、新座
本座の猿楽をはやし、廃せし神事を興隆すべLと清正自ら立願し、祓川の棒を渡り金峰山を邁弄し、阿蘇大明紳
に立願す。聖二日瑞龍院に話して阻先の震を祭り、隈本を聾して大阪に至る。−−加藤家俸清正公行状∼
︵四︶ 紳託 軍神はわれくの眼には見えぬけれど、茸際に居まして戦場に於けるいろくの出奔事として、
紳の意志を顛現して乗るものであると信じて居る。これは戦国時代より現代に及んでも、天祓なり、紳助なりが、
責任ある武将や、司令官の心の中にしつかゎと信じられて居ると同様な慣験である。神託には次の如きものがあ
る。
例︵イ︶神風事典固より吾朝を改めし事、開聞以死己に七度に及べhリ。⋮⋮去程に文永二年八月十三日大元
七萬飴健の兵船、同時に博多の津に押寄せたり。:⋮・諸祀への行幸、諸事の秘法、虐襟を傾けて肝澹を砕かる都
て六十飴州大小の紳祀、婁験の併閣に勅使を下さる、奉幣を捧げられざる所なし、此の如く御所躊七日に滅しけ
る時①諏訪の湖の上より五色の芸、西に聾き、大蛇の形に見えたり。②日膏の杜、二十二肛の錦張の鏡動き、聾
刀研かれ、御沓潜西に同へり。⑨任膏の紳属、鞍の下に汗流れ、鋳の楯敵に向つて蟹び立てり。⋮⋮④春日野の
紳鹿、熊野山の夏鳥.稲荷山の名婦、比叡山の猿、悉く西へ飛び去ると人毎の夢に見えたりけれぼ、赫々の助け
にて、異賊を退け給はぬ事はあらじと息はれたり。⋮⋮弘安四年七月七日皇太沖宮の禰宜荒木田備良、盟愛犬紳
宮の禰宜度合貞侍等十二人起清の連署を捧げたり。抑と大元三石萬騎の蒙古兵一時に亡せし寄金く富国の武勇に
非す、只三千七宵五十飴祀の大小紳祀、宗廟の助冥に依るに非すや、 − 大平記三九1
︵ロ︶ 大雨 例 折衝黒雲頻に村立凍て、大雨頻に熱田の方より降り死力、石氷を投ぐる如くに敵勢は降りか
かカ。 − 信長記ill
︵ハ︶ 大富 例 時に大富頻に震って焔燈敵陣をおほひ風は旋風を馬して吹かけたり。−︼清水寺縁起中i
︵−こ 紳火 例 文元十一年十一月自張装束人三+人許笛崎宮より出で前党きを射けるか、家々の家焔海面に
移れるを見て海中より猛火燃え出ると見なして蒙古軍肝も心も迷ひて逃げ失せたり。− 八幡慮童訓下 −
︵ホ︶ 紳欒 不 思 議 例 應永二十六年八月十三日−1合戦難儀の時節、いづこよカとは知らず、大船四壊、錦
の顔三流差たるが、大将とおぽしきは女人な少。其力量るべからす、蒙古が舟に乗移って、軍兵三石飴人手取に
して海中に投入 る 。 七 月 十 五 日 探 題 持 範 − 看聞日記i
︵へ︶ 干潟 例 元弘三年五月二十一日義貞馬より下絵ひて、甲む脱て海上を造々と伏弄し、龍神に向つて所
誓し胎ひけるは、俸へ承るに日本開闘の主、伊勢天服大坪⋮:吾君、御醍醐其苗裔として逆臣の馬に西海の浪に
漂給ふ、義貞今臣たる道を毒す焉に、斧銭を把って敵陣に臨む、⋮⋮仲原は内海外海の龍紳八部、臣が忠義を監
て潮を萬里の外に退け、道聖二軍の障に開かせ給へと重信に所念し、自ら侃給へる金作の大刀を扱て海中投給へ

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日本戦史に現はれたる宗教健廟
日本戦史に現はれたる采敦饅験
=・太平記・−・▲

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神意が、以上の如く自然現象によりて示さることあるも、場合によりては人、又は他の生物によりて表はさるる
ことがある。
︵卜︶老比丘 ︵チ︶ 老易
︵り︶ 金鶉 例十二月丙申、皇師途撃衰髄彦↓連戦不レ能レ取レ膠、時忽然天陰而岡レ氷、乃有こ金色琴讐飛乗
止こ干天皇弓琳べ其鶉光嘩燵、状如二流電一由レ是足長梶彦軍卒皆迷眩、不こ復力戦Tl﹂日本書紀紳武三il
︵ヌ︶ 鳩 例 於レ是清原武則造拝も莞讐撃天地二言、臣晩翠事弟↓鷹こ将軍頼義命↓志在レ立レ簡、不レ願レ殺レ
身、喜不こ筍死↓必不レ基レ生、:⋮:今日有レ鳩、翔三軍卓将軍以下挿レ之・−−陸奥話記
︵ル︶ 自鳩 例 源義経監瀬の水に口を漱、日を塞て合掌八幡大菩薩を祈念し奉り、神明擁護を加へ給ふ。自
鳩二羽飛発て、判官の旗の上にぞ居たりける。−1藤平盛衰記1
︵ヲ︶ 白鷺 例 信長郷永祓三年五月十九日大明神へ御重謂有て謹んで伏弾ませ給ふ、丹誠紳にや通じけん、
内陣に物の具の苦して、物々しく聞えたゎ、信長郷信心肝に銘し所願し給ふ。⋮⋮白鷺二つ御旗の先に立って飛
び︰⋮・兵の勇気を撤し給ふ‡信長記 ⋮
戦場に於ては人知によりて解精し難いことが起って釆る。かかる場合、偉大な紳の力によることを考へるが、或
る場合にほ紳の崇りを恐れる様なことがある。
︵ワ︶ 紳崇り 例 宋鳥元年六月戊寅、トニ天皇病︼出要事薙剣∵即日迭こ置干民張囲熱田杜↓1日本啓紐天武1
︵五︶ 縁起 戦場に於ては心身共に非常に緊張して居るから、些細のことでも非常に東にかかる様にある。後
世英雄と云はれ、偉人と云はれた人でも、戦場に於ては縁起を朗ふと云ふことをやつて居る。戦場に起った出来
事は戦闘に何か直接若しくは間援に関係がある様に信じて居る。故に一般に武士は出陣時の儀式を極めて慎重に
執り行って居る。
︵イ︶ 出陣時
① 陣具、御旗は妻戸より出すこと。
⑧ 馬に乗るには東へ馬を引むけて乗り、左右の手に手綱を輪にし、左へ三度廻すべし。
⑧ 弓は弦を下へ向け、左の方にひつさげて持ち、出さきに南方に向くか、東方む向ひて、一つ弦打をする。
④ 軍配は南向きにて就ふ、軍配の盃は人に飲ませす只我滴り祀ふものである。
⑤ 聞こ鐘馨︼憂、聞二鼓撃嘉、不レ可レ攣l大将之跡︼1信玄軍法:︼
⑥ 祝酒む垂らするには左の膝むつき、膝をぼ離すとも、足むぼ後へひかぬことな打。−今川双準−
碗酒は左に盃を持ち、右に銚子を持ち立ちながら飲むべしi義貞革−
⑦ 祀膳は盃三、かちぐカ七、三、よろこぶ五、三、打あはび五、三もカとす。
︵ロ︶ 戦闘時、戦闘後
⑧ 天文六年七月十五日北保氏綱出陣、その夜いくさに討勝て武州を治め給ひぬ。諸療敏場門出の酒肴には鰹
を専ら用ひ給ひぬ1北條五代記・1

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日本戦史佐現疲れたる乗数睦瞼
日本戦史に現はれたる宗教健勝
⑨ 戦闘前、山の中に資つて居った栗を勝粟だと縁起を庇った。!−1日支事欒−・1・

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⑲ 毎日日記をつけて居る人には生存者が少ない。不思議と点はれ程である。!1日支事欒−−
⑪ 千人針や、御守を無くしたので、赤樟を締めて居たが、徐州戟では負傷してしまつた。飴り縁起は信用す
ることが出奔ない。
⑫ 討伐の命を受けて出費する際、突然に靴の紐が切れた。その日は敵の重囲に陥り戦友を失ってしまつた。
哉況が緊張して、虞斜になれぼなるほど、吉と考へることよ幻も、不吉を漁感することが多くなつて乗る様であ
る。それ程曽と考へる飴裕がないと見るのが首然であらう。
︵六︶ 占ひ 戦場に於けるいろ′∼の不安、勝助に関する曽凶判断等につき、目前の出奔事を槙準として解繹を
下して居る。
① 弓折れ 一 軍陣にて弓の折れたる場合、棒よカ上の祈れたるは菅事あカ。棒より下の祈れたるはあしき事
あゎ。
② 旗竿折れ−1軍陣にて旗竿折れたる場合、持たるよカ上の折れたる場合官軍であり、持たるよぉ下の折れ
たる場合は凶事なカ。
⑧ 鳥騒ぎ蓼童痍を取る時、鳩.鳥、夜さはきする事、二三皮あらぼ、其の城七日の内に落べきなヵ。董軍
中敦賀 −
④ 央たて杉 − 三島に詣てて、失たての杉とて大木あカ。軍陣に出る武士ども、この木に矢を射たてて音凶を
見侍る。1
以上の外、武人の心を可なり強く動かして居るものは、日時の曽凶と、方位の菅凶である。
⑤ 昔日−・!小月晦日、敵を討事なかれ、出てて辟る事なし。朔日、二日、⋮⋮上菅日なり。
⑥ 凶時!日に二時、夜に二時、人死する時な少、此の時を知りて寄すべし、此の時にあらすは敵を打ち亡
はすこと難し、此を兵法の占ひ、知死時と云ふ。き義貞記j
⑦ 方角 五瀬命富者琴︼日紳之御子↓向こ日輪一戦不レ良、故負二餞奴之痛手↓自レ今昔行こ廻而青魚日て一台事
記神武 −
⑧ 下野守義朝は二僕を東へ蟄向す、安萎守清盛も繕いて寄る、保元元年七月十一日朝日に向て、弓引事恐有
力とて三保へ打下る。 − 保元物語 −
昔日、方向に気を取られ、戦機を脱してはならぬ。味方に昔日なれは故にも昔日なりと考へるものがある。
⑨ 貴書日 − 福島正則関ケ原役に赴くの時、出陣の日、径亡日なヵ。或人諌日ふ再び頗る事なし、他の日に
定められよ。正則聞いて覚書日なり。我此度功名を遽げ、大国に封せられるか、武運塞きなぼ討死と息極めた
ゎ、何ぞ再びこの地に辟らんや、日を替へること有べからすとて、出陣せられしが、果して動功抜群なるか故
に勢備両州五十二高石に封せられたヵ。− 常山紀談拾遺11
︵七︶ 千人針 千人針に封する信仰は可なゎ強い。それには多数の人々の熱心と誠意と云ふことか将兵の心を勇

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気づけて居る。
日本戦史に現はれたる譲敦鱒瞼
日本戦史に魂はれたる来敦捜験 二二二
例① 危い慶で助かつた時等は、確に千人針を下さつた人々が、自分に封する武運長久を所って下さつたもの

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あると信じて宿る。,−I⊥H安寧攣−−
② 母の伴った千人針を、ひとわ頼少にして戦って奔た。
⑧ 弾薬を交付した鮮少の途中に、不意に敵弾を受けた折、各被服は通り披けたが、千人針を巻いて居つた
蔭で敵弾は貫くこと能時ず、幸に故障なく過ぎることが出来た。箕に千人針の縁起よきこと、又大なるカあ
ことを感した。− 日安事欒 −
千人針に封する信頼心が強い程、紛失した場合に感する心的不安は可なり大きいものがある。
④ 千人針を忘れ汽それが非常に気.になつた。不思議なはど気になつたので、戦友のを貰って着用するに及
んで、やつと精紳に落着を感じた。
⑤ ﹁マラワヤ﹂を患ったが、之は身から離さない千人針を落した薦であると思った。
千人針を信じないものがある。
⑥ 戟場では千人針や、千人力等では、どうにもならぬ。唯銃後の人々の気休めである。
⑦ 千人針は自分の精紳丈けのものである。然し千人針には弾丸が命中して居ない。
︵八︶ 夢知せ 例①戊午年九月戊辰、虜所レ壕暫定要事之地、政道路絶塞、無レ廃レ可レ通、天皇悪レ之、是夜自所
而嬢、夢有二天鱒∵、⋮如レ此則虜自平伏、天皇紙承工夢訓一!日本書記紬武三−▲
例⑧ 山中で食料の不自由む感じて居る時、毎夜亡父が夢に現はれ、食料品を持つて釆た。
例⑧ 戦友の夢を見たら、その戦友は哉死して居つた。
︵九︶ 御守 御守は紳彿の偉力が具牒的に表現したものと信じられて居る。いづれかと云へぼ守護と云ふ様な消
極的な琶験が多い。従つて次の様な牒験がある。
例② 自分は親より頂いた御守む身慣につけて居るから、決して敵の弾丸には常らないと信じて居る。
⑧ 御専横をつけて居ると、勇気百倍する。
⑧ 御守を澤山持って居ると、精神的に、非常に強く感じる。敵弾は御守に常った焉、繊兜が割れても、少し
も傷つかなかつた戦友もある。
④ 御守が袋に入らぬ馬、背負袋に入れて車輌の上に積んでおいた。敵の弾は袋を貫通Lて居つたが御守カに
は嘗って居なかつた御守りは有り難いと思った。
⑤ 御守は決して人に見せるものでない。自分は人に見せなかつた馬に二度ぼかり死ぬところを助けられた。
輿難が身に追って、どうしても兎るることが出奔ないと云ふ様な場合には身代りとなられるものと信じて居るも
のがある。
⑥ 雨、霞と弾丸の降る中を行軍中、自分は危険を感じ、其の後気が落付き、よく見ると、持って居った守札
は眞二つに割れて居った。自分の身代カになつて下さつたことを強く感じた。
⑦ 戦闘の時には御守を落すことがある。之れは自分の身代りになつてくれたことと思ふ。
⑧ マラワヤを患ったが、之は身から離さぬ御守を落した篤かとも知れぬと思った。

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日本廟史佗現はれたる宗教捜験
日本戦史に現はれたる宗教経験
⑨ 突撃の前日肌身離さず携行した御守を紛失した時に、恐怖心を感する様になつた。

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御守の信仰に封して否定的のものがある。
⑲ 戦死者で御守を持って居るものがある。生命は別問題で運命である。!日東事攣−1
二〇︶ 紳彿に封する信仰 紳彿を信仰し、安心を得て居るものが戦場に出て居る武士、軍人の中に可なり多い。
かかる慣験に日本の国民性がよく現はれて居る。
︵イ︶ 神国 例① 大日本者紳園地天敵始て基を開き、日紳長く統を停へ給ふ。我が国のみ此事あゎ。− 紳皇
正統記 − 北島親房
② 我が国は紳囲である。自分は日々紳に躇辞して居る。正しき道.を歩み、行を正する。何事も紳に任せて働
くものである。
︵ロ︶ 御稜威 例 自分には散弾は〓撃たりとも命中しないと確信して居る。我は陛下の股肱なりと常に信じて
居るからである。
︵ハ︶ 神業 例 射撃準備の時、敵の蟄射弾が飛び釆り、一寸の達ひで叫命を拾ふことが出奔た。これは神業で
あると息つた。
︵ニ︶ 氏神 氏紳に封する信仰は非常に数が多い。祭祀もられて居る紳は神代より現代まで及んで居る。郷土即
ち神国に生を享け、成長して釆たことに封する感謝と感激とである。
例③ 自分は父により常に氏神様を信すべしと訓育されて居つた。この山中の困難を追撃戟に十分に戟ふこと
が出奔たのは、全く氏紳様の御蔭であると痛感した。
⑧ 日清、日露の戦役以釆、幾多の戦闘に於て、吾が村よりは一名も戦死者を出して居ない。これは村人が有
り難い氏神様の御祭をして居るからである。従って如何なる弾雨の中にあつても、籍れない自信を持って居る
からである・璽三重解鈴庚那1
⑧ 戦場に於て激戦に参加し、生死の巷を往発して、戦友の多くは戦死して居るのに、自分丈けはこの間にあ
って生を全うして居ることは、全く何か自分以上の大なるもの存在を感する次第である。自分が今日無事なる
ことは、此の偉大なるものの庇護と、故国にある家族、親戚のものの熱心な折りの御蔭である事が強く感じら
れる蓼東都帝国大挙卒業、官吏、京都、相楽那隷備歩兵軍曹 −
︵ホ︶ 偉大なる力 例① 敵砲弾が雨、霞と飛び葬る中を進撃する時は唯紳僻を折るのみである。
② 戦場に於て、人力を以てしては到底如何ともすることが出奔ない場合に、偉大なる力を倍カて其の場をぬ
けられる横軸彿に御所幻をした。
三 宗教牒験を規定する心理僕仲 之れ等の宗教慣験を規定する心的僕件には次の如きものが考へられる。
︵こ 戦場と云ふ場面より惹起せらるる心的條件 戦場と云ふ特殊の場面に臨むが馬に、日常に、それ程深刻に、
現はれなかった様な倍験が必死の戦闘、戦闘状況の推移に伴ふて現はれて居る。即ち心的不安∵膵放に関する
虞剣昧等よカ、初陣者、緒戦者、激戦者等にありては愛囲心、敵情心、圃結心、依頼心、清廉心、恐怖心等の
情緒に伴って特殊の宗教暖験が著しく現はれて宛て居る。

β79
日本戦史に現はれたる宗教性瞼
日本戦史に現はれたる桑敦懐胎 二二六
第一表 壌境と横顔者との開係︵特殊の場合︶ ︵二︶ 人間性を基礎とする心的保件 主と

&紺
して人間の本能を基礎とするもので、自己の
依頼心
清泉心
恐怖心
保存、自己の贅展と云ふ樹人的のものよ事象
戟 ≠易 心 理
族把関するもの、郷土に関するもの、観衆に

志気阻喪
志組起
関するもの等が人間性の聾霧に伴つて、著し
−■■■■−−■−ヽ

陣戟戟戟勢 く根強く現はれて凍る。之れが功名手柄を求
初緒数歴擾
める所願とな彰、家門の名寄、兜組の名啓転
けがすまいと云ふ様な心となつて現はれて凍

二三蓑・■
横軸
て居る。その際生活に封する安楽を求め、安


全を希ふ宗教鰹験となり、或は災難を免れ不
人間性

本能
個人的︵自己保存・百己拳展︶
国旗的 生活 ︵
安全、安襲。

安を滑除する所願となつて現はれて凍て居る。
︵三︶ 社食精細によつて影響せらるる心的
不安、苦悩。
侯件 戦時の社食状態、即ち戦時の世相、社
食性と云ふ横なことから規定せらるる條件が問題となる。或は戟季が行はれて居る時代精細と云ふこと、叉その
時代の人々の世界観、人生観と云ふ様な事柄が、宗教牒験に直接に叉間頓に影響を輿へて居る。国家相互間に於
ては国際精細と云ふ様夜暑がある。之れ等が宗教醍験の特殊性を示して葬ることになる。
︵四︶ 民族精神、国民性に基く心的僕件 日本国饅に淵源する風俗、習慣、歴史、停統等蜂宗教牒験に特殊的色
彩を輿へて居る。古秀戦場に於ける宗教鰐験に於ては此の日本精細が濃厚に深刻に影響を輿へて居る。それは
第二表 環境と鰹鹸者との関係︵一般の場合︶ 事欒に於て、戦場に現はれた宗教牒験を見ると全
く日本的であ玖.国民的特色を聾揚して居ること
が解る。御稜威を仰ぎ、囲憶の尊厳さを感じ、敬

世界観・人生観・宇宙観
神崇阻の念に燃えて居ることがわかる。即ち国

粒食性(社食・世相)
社 食 心 理
家、郷土、家門と云ふことが信仰の基礎となつて
凍て居り、自分一己の安楽を希ふ牒験が非常に稀

国際精神
_−■■J−・・、

薄になつて舜て居る現状にある。
︵五︶ 第一、第二の表に示した縦軸は、人間性
であ少、国民性である。これを基準とした宗教襟
情軸


鹸は持繚性に富み、永繚性を備へて居るが、宗教
国民性
情緒の表現としては葦々しくなく、地味な性質の
民族性 歴史
俸統︵風俗・習慣︶ ものであつた。経って他の軽験によつて掩はれて
Lまふと云ふ場合が多い。然しか1る績験は昔の戦場にも現代の戦場にも現経れて居る。
然るに横軸によつて示された戦場とか、社食面とかに基いて硯はれて乗る宗教鱒験は強く.しつかゎと現はれ

ββJ
日本戦史に現はれたる票数後鹸
日本戦史に現はれたる素数饅鹸 二二八
て葬るので、宗教情緒の表現ははつきりとして居る。明瞭正確と云つてよいものがある。然し裾線性が

βg2
一貫性に乏しいので容易に他の日常鰹陰に常に置き換へられて行くと云ふ廃が多い。
︵六︶ 故に国民に本営に強い、しつかりし充宗教的信念を持たしめ、その宗教的信念む永遠無窮、恒久的ならし
める為には、人間性と圃民性とを枢軸とする心的俵件によりて宗教的信念を歯糞せしることを必要とす
へらる。
イエス並に同時代のラビ、ヒレル
白田 清
ヒレルHi−1dはシャムマイ㌢mm已と共に所謂五組の律法聾者の最後の組即ち第五組に屡する書の畢着であ
る。この雨着以後の書の聾者は律津の個々の規定の取扱ひ方に閲し︵封律法の根本的態度ではない︶この雨着の
いづれかの傾向を受機いでゐる。この鮎雨着はユダヤ律法史上極めて重要なる位置を占めてゐる。
しかし彼等の生涯に関しては確箕と思惟せらる1所俸極めて少く、之に関する唯一の信頼すべき史料たる
呂評pも、彼等に就いては僅か十ケ朗飴に停ふるところあるのみである。爾飴のものは概ね訂g①n計の域に止
って居る。
さて、ヒレルは弥Ob巨″珂∽及A⊇︵ぎl内心によれぼ、他の聾者達と直別せられて、特に、長老ぎ乱官nと
呼ぼれたと言ひ、又j芦ぎPni臣司柑は彼がダビデの喬で、バビロンよりパレスティナに移り住めるものである
と停へて居る。
冒−itN芳h はその著﹁イエスとヒレル﹂に於て、ヒレルが貧のために生活の資と畢校の鵡講料とを得べく日傭

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イエス並に同時代のラビ、ヒレル
イエス並に同時代のラビ、ヒレル 二三〇
人夫とな少、叉畢校謬t︸7訂・呂dr監C︶・の入拳金なきため、厳冬の頃箪校の窓に登って講義を聞かんとし遂に畢

gg4
生達と教師とに蟄見せられたと停へて居る︵S・甲1如ヒ︶。
又、冒琵嬰︶h はヒレルの畢識に就いて、彼は山、丘、谷、木、草、野獣、家畜等の言葉を理解したとも辞し
て居る︵S・00・︶。而して De−訂N筈h はヒレルの性格的特徴として、柔和と洩厚との二つを奉げて居るが︵翠だf︶、
これは主としてAb邑ニ:ほのヒレルの言葉に掠ったものと考へられる。その言葉は﹁㌢−かm︵昌註︶ を愛し人
々を愛し、人々む律法に導けよ﹂と言ふのである。この言葉の前年がマタイ停五ノ九︵或は五ノ甲田︶ のイエスの官
業を連想せしめ、叉、彼の他の言葉︵AbCth肖し﹁汝の隣人を審く勿れ﹂がマタイ七ノー以下︵人む議する勿れ︶等
を連想せしむる故に、このへロデー世及その後栂者の時代郎イエス直前に生宿せるラビたるヒレルを声Rβ巴−
はイ羊スの師と想像したのである。この詮はその後、特にユダヤ人側によつて支持せられたが、S箪賢材を初めと
してキリスト教例の貌者によつては峻烈に否定せられたのである︵くg−・S首覧k−匡已・S・E00・︶
さて、ミシュナに残されたヒレルの言葉を通じて看取し得らる1所では、彼の信仰の重鮎はぎr註 律法であ
った。彼は律法を最も重んじたのである。人たゞ俗事を多くなすのみにては賢くならず音律法を学ぶまでは、
︵AbO臣肖ひ︶と紋は言ふ。又、俗人pヨF針﹀許厨に信仰なし︵AP象F肖㌔ かるが故に、断じて信を求め、律
法を畢べ。さらばと言って、律法は之む利用すべきものではない。律法を拳ぶことそれ自身が信仰直接の白目的
でなけれぼならぬ。即ち、利用せんとするものは反って生命を失ふ︵iHひ︶。︵故に︶律法む峯ぼざる罪は死に雷る
︵Ⅰ箪。教養なき者は律法知らぬこの罪を怖れぬ着である︵肖し。故に、暇あらぼ律法を畢ぼんなどと言ふべきでは
ない︵崗㌔眞斜に拳ばねぼならない。律法こそ凍る世の生命を輿ふるもの︵肖q︶であり、又、律法多きもの生
命多かるべけれぼ︵肖㌔かくの如く、律法によつて、己れの養瑠dF照ぎ多ければ、紳之華黍彗春風醇と見、
之にめぐみ二等已−眉ぎを垂るる事多く、従って、受くる呂邑︵評鼓m︶も亦多い︵肖㌔かるが故に、
㌢㌫m︵日生︶を愛し求め、渇仰し、人を愛し、人を律法に導けよ︵Ⅰ−持︶
と、ヒレルは言ふのである。
如上、ヒレルの信仰生活の中心をなしたものは律迭であつた。律法は彼にとつては、仝生活に於て、内面生活
と相野して考へらるべき外面生活1﹁こゝろ﹂に封しての﹁行ひ﹂だけを一部的に律する律法ではなかったので
ある。生活の仝硬を律し、各二の生命の生死の錘を撮る律法だつたのである。生くるも死するも律法次第、この
世の生命、凍るべき世の生命、一にか1つて律法にあり、との信念だつたのである。故に、彼望ゴロふ、暇あれぼ
畢ぶと言ふ律法にあらず、叉、他の目的のために利用さるべき態の律法にも非す、と。茸に、律法を饅得せぬ者
の生命は亡ぶのである。反之.律法を拳ぶ者は紳の前に養とせられ、拝ei−にあづかる。天よ少の㌢l智P︵H註︶
到って、初めて地におだやか賢かm︵呂①i−︶があるのである。されば、紳の前に養とせられ、地にもおだやかを
致す棟、自己党づ律法に準接し、人をも律法に導かねぼならぬと言ふのが、ヒレルの信仰生活の基調である。か
くの如く、律法はヒレルにとりて、これや、かれやの行馬を律する律法ではなく、生命を左右する生命問題であ
ったのである。人無き所にても守るべき則なのである︵肖し。
かくして、自己を過信する事なく︵肖し、さカとて、飴りにも小心なる者にも興せす、過度にあせる者にも輿

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イエス並に同時代のラビ、ヒレル 二三−
イエス並に同時代のラビ、ヒレル 二三二
せず︵仇︶、適度に己れを省み、従つて、人を議せず︵肖し、滴りを慎め︵肖↓︶と説く。かくの如く、各人各価自

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ら絡むところあると共に、汝敦固より離る1事勿れ︵韓しと後れヒレルは誠みて居る。かくして、個人的にも数
国的にも、律法的信念的に生活せらるべき事がす1められて居る。
又、彼は根本生命問題として、律法の定むる行馬の顧らる可き事む細かに説きもして居る。
要之、ヒレルの信仰の中心は律法であつた。律法む守って紳よりのど許P︵穿i−︶を得べく、凍るべき世の生
命を得べく、自己も之を守り、人にも之を導へんとしたのが、ビレルの言葉を通して見るヒレルの全貌と考へる。
律法をH邑smittelとする宕rg各章g鷲da註①を基調とせるこのヒレルと、而してイエスと、雨着果して共通
せるものを有って居るであらうか。
イエスに於て猫特に見られるその紳観、律法親、神国親、就中イエスの宗教思想の基調と考へられる岩窪iaS・
bewus賢einに基ける宕邑Fn仁n粥Sg乳岩村①更に、かくの如くイエス猫自の宗教思想がかもし出すイエスの宗教
思想全憶を覆ふ警imm与g、それと、ヒレルの律法をH①i訂邑芽−とする宕憂苦ngs讐d呂k①及ヒレルの言葉
を通じて見るヒレルの義教思想の仝鰻的賢m︼喜ng との問に、かのバブテスマのヨハネとイエスとの間に見る
程度の近似性が果して看取し得らる1であらうか。
かくして、若し強いてイエスとヒレルとを何等かの鮎に於て関係せしめんとするならば、それは、たゞ、﹁律
法の叫鮎一劃もすつることなし﹂と説いたイエスの律法思想の背景むなすユダヤ教ラビの律法思想中、ヒレルが
最も優れたものを有って居つたと言ふ事に墓きるであらう。
上代に於ける聖徳太子信仰に就ての
一二の考寮
倉 璧 文
竣に言ふ上代とは奈良時代より平安初期迄、正確に云へぼ日本書紀撰修前藤原後輪雪氏によつて延書十七年
証一
撰述と考定された聖徳太子暦成立以前を意味するものであり、又、この小論の考察態度は厳密に文献拳的方法
限定したものであることを尭づ最初に断つて置かねぼならぬ。
借、右の如く限定すると、里穂太子信仰の考察は三軽義疏の流布.十七憲法の尊重、太子俸の撰述等の三方面よ
謙二 り主としてなさるべきであるとして差支ないであらう。併し三経義疏に就ては既に幾多の研究が少なか
且今私はそれらの研究に附加すべき何物も有って居ないから此魔では省略する。
十七憲法忙裁ては周知の如く日本書紀に全文が載せられ、法王帝誅や補開記に制定の由を記され、弘仁格式
令集解・類衆国史二二幸清行の革命勘文等にも全文又は制定の由を俸へてゐる尊貴自慢が、直ちに宮代太子信
の重要な表現と見ることが出奔る澤である。併し三経義疏の如く普代に於ける書鴬の記録も侍ってゐないから
の普及の程度も明かならす、その信仰内容が如何なるものであつたかに裁ても弘仁格式の﹁国家制法自レ故如

gβ7
上代に於ける謹聴太子信仰に就ての一二の考案
上代に於ける聖徳太子信仰に裁ての一二の考察 二三四
とか、補開記の﹁政事修囲修身事﹂とかいふ程度を出です、その詳細を知ることが出奔ない。而してか1る問題

βββ
は宮代に於けるその註繹の存在乃至その内容によつて最も力強い解答が輿へられる繹であるが、従爽さうした
の1存在すらも知られてゐなかったのである。然るに私は最近その最も力強い資料の存在を知少、その内容にも
詰三 関れることが出奔た。この資料の考澄に就ては既に他の機合に蟄表したことでも■あり、近き清爽に於
辞四 公表する心阻であるから此魔には省略し、たゞそれが延暦十七年春秋七十一歳で卒し、早く普通に﹁明
解せらる1太子俸を撰述してゐる東大寺沙門明一の註繹になると推定される﹁聖徳太子十七憲章井序註﹂と超す
る平安時代古罵の梯を存する二筍の影篤本であると云ふに止めて置く。
次にその内容を概説すれば、第一に従来知られてゐる俸玄意法印や潮音道海の註に比して著しく詳細である
而して文軒頗る苗髄を存し、含蓄深い漢文で約五首字に及ぶ序文を添へてあつて、それには太子の略停を述べ
その歴史的地位を論じて﹁縦天之正聖流法之東哲﹂と解し、憲法制定の功を讃へて﹁国家之港令之元﹂とか﹁
邦珠而照望ハ合﹂等と讃嘆して居る。更に詩経本文は単なる字義的解繹に止まらすして内容的註繹を加へ、而
その態度が後世の如く彿数的理解に偏せす、最も多く論語を引用Lて儒教的詮明を加へ、諸子百家の改も少なか
らす釆照したらしく、且、﹁国司国造﹂﹁諸任官者﹂等の語句には﹁国司君主典巳上是朝應朗任但史生者非二
之例遍﹂とか﹁国造者少領巳上重第之民軍曹人一也是亦朝任地然主政巳下非二国造之例遍﹂等といふ如き珍し
い法制的解繹も加へてゐるのである。以上頗る簡単で意を悉し得ないが、これのみを以てしても宮代に於て憲
が如何に理解され、如何に尊重されて居たかを察し得るであらうし、弘仁格式や栴閑記の簡単な表現を裏付け
ことも出奔るであらう。併しかうした信仰が上履知識階級のみのものであつた事は言ふ進もないと息ふ。
太子停の撰述に就ては、普代既に上官記・迭王帝詮・菩薩俸・明一博・四天王寺聖徳王俸・補閑記等が存在し
許五
て居り、其等について藤原拾雪氏の詳細なる考澄のあること、何れも周知の尊貴であらう。而してかく多数の太
子停のあつたといふ事箕それ自照が太子信仰の隆盛を物語るものたること言ふ迄もないが、たゞ私はこの中に日
本書紀や暦録は加ふべきでないと息ふのである。何政なれば此等の書は如何に豊富に太子停の資料を含んでゐる
とはいへ、その撰述動械は太子信仰そのものに聾してゐるとは考へられす、且猫立した太子俸でもなく、たゞ太
子停に最も多くの資料を掟供してゐるものでしかないからである。太子信仰を物語る太子俸は、それが猶宜した
形態に於て現れてゐる所にのみ注目すべきが常然であらう。
託六
次に私は右の諸停中、四天王寺聖徳王停は七代記であるとの藤原猶雪氏の考更についてさゝやかな補詮を加へ
て置きたいと息ふ。氏は七代記そのものに就て考察せらる1所なく、直ちに今盲目録抄や宝林抄によつてそれが
賓亀二年敏明の作であゎ、補開の四天王寺聖徳王停と同一であるとされてゐるが、単に七代記といへば、普通に
は﹁大唐囲衡州衡山道.場繹息繹師七代記﹂を指すものと言はなければならない。さすれば﹁四天王寺聖徳王俸﹂
郎﹁大唐囲衡州衡山道.場繹息膵師七代記﹂と解せらること1なる。然るにこの息繹師七代記︵以下かく略辞する︶
はその名の示す如くあくまで悪息膵師の俸記であつて太子の俸記ではない。元発この七代記は古釆太子俸研究者
中で問題になつてゐる啓であるが、私は普通に云はれる七代記は惹息膵師の俸記である七代紀であつて、それは

ββク
別に又太子の俸記である七代託と稗せられたものがあり、前述した賓亀二年敬明作るところのものはこの方であ
上代に於ける聖徳太子信仰に就ての一二の考察
上代に於ける聖徳太子信仰に裁ての一二の考察 二三六
ると考へるのである。その理由はこゝに詳説する除裕がないが、現在諸書に俸へられてゐる思膵師七

β90
観察するに、それには意思膵師の七代韓生を物語る以外の何物もなく、決して太子の俸記と考へるこ
い。たゞ太子と師係するところは流布本︵彿教会善本︶太子俸暦の片岡山説話の終りに﹁七代記云飢入着宕蓮磨
欺﹂とあるのみである。然るに私をして言はしむればこの僅モ数字の引用こそ太子俸たる七代記に基
って、前述の如き二種の七代記の存在してゐたことが明かでなかつたが馬にこの数字の引用が篠世の
はしめ、遮紅恩絆師七代記を太子停となす誤解に迄推進めてしまうたのであると鳳ふ。
然らば太子俸たる七代託とは如何なるものかと云ふに、私は延長三年の書幕で園珍の弟子峯慮の編
課七
る粟由育産院所蔵の山王院蔵書目録に見える﹁聖徳王七代記﹂がそれであると恩ふ。この目録にはこ
行程距てゝ恐らく前述の恩絆師七代記がその抄録と息はれる﹁南岳息大師七代生略記﹂なる書が記さ
ら、蘭書は明かに別物と考へなければならない。而して私はこの聖徳王七代記が四天王寺聖徳王俸で
撰述が賓亀二年の敏明になるとするが最も安首と思ふのである。而してこの書は樅釆侠書とされてゐ
が、前述した明言憲法註繹と同時に贅見され、それと合輯されてゐる同時代古幕の影焉本で、恐らく
詑八 によつて命名されたと息はれる﹁異本上官太子俸﹂なる二雷が、憲法制定以前を欠いてはゐる
思ふ。この書の内容を現存の他の類書と比較して見ると、光定の忘戎文所引の﹁上官厩声望聴耳皇太
蝕九 び荻野三七車氏によつて四天王寺の斯俸と老定された古今目録抄の申に﹁俸日﹂として引用し
Lてゐる。この一致は光定の師最澄の太子信仰が四天王寺を媒介として居り、従つて最澄系統の太子に関する知
静は四天王寺の俸統に操ったと考へるのが自然であると考へねばならぬところから瞥然と言はね
して古今目録抄が例へぼ俸暦を引くには﹁平氏俸日﹂とする如くすべて書名を記してあるのに
とのみ記してあるのは、それが四天王寺俸釆の太子俸なることを物語るとLて決して無理な推定ではなからう。
海苔今日簸抄中の﹁七代記日﹂とある引用は大鰐前述の息碍師七代記と一致して居り、叉前述の
若達磨欺﹂とある﹁七代記日﹂の一旬は異本上官太子停の証文の﹁彼飢入着蓋是達磨欺﹂と同意
文が一心或文には本文となつてゐる上に﹁歎﹂を﹁也﹂と断定にして居る。これは繹定を重んじ
極的改欒と老へることも出発るであらう。
以上によつて簡単ではあるが私の前述の老定は一應許され、藤原氏の考定も前述の限りに於て
子俸たる七代記となす限りに於て肯定されるのではあるまいか。狗藤原氏の編になる複原聖徳太
師七代記の所引数ケ所を後世の書入として本文より削除してゐるが、異本上官太子俸附録の同書
煎十 本文としてゐる夙にも同書の引用が見出される。但し此等を悉く削除したのが侍暦の原形
問題としなけれぼならぬ。
最後に以上の諸太子俸の性格について圭皇諦成氏は﹁日本書紀・法王帝詮に於て太子御俸は資
て一應完結、その以後の太子俸は沸教豪の立場に於て新しい説話を次モに添加したものである
饉十一 天台宗的談話が成立蟄展したと論じて居られるが、氏の﹁箕緑風﹂と云つ雲量遣は頗る
ばならない。何故なれぼ太子俸は最初から﹁箕錬﹂ではなく﹁俸詮として出費して居り、而もそ

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上代に於ける聖徳太子信仰に裁ての一二の考察
上代に於ける聖徳太子信仰に裁ての一二の考察 二三八
に受取られて聾展してゐるからである。そこで次にはか1る性格を有つ太子俸の尿接とその韓化形成の段階が問

βク2
題とな\る澤である。私はこの前者に就ては常時輸入された併停が注意さるべきであると思払、後者に就ては宗派
的に構成されるより以前に撰者の屠する寺院別に各々個性を有する構成が威され、而もそれは未だ極めて素朴な
電線風のものであつて、停寄的費展の乏しい段階が存在したと考へるのであるが、此等の諸鮎に就ての考察には
最早関れてゐる除裕がないから、後日の横合に譲ることゝする。
註一藤原猶雪氏複炉聖徳太子停暦考澄、其の他
二 花山信膠民法華義疏の研究其の他、拙稿繋徳太子と本地垂速思想︵以可留我一ノ一︶
三 昭和十五年匿史畢大骨国史部骨及び廣島鱒畢祈寛曾大骨国史部合併寛斐蓑
四 本朝高僧停・元亨樺書・扶桑略記等に擦る。
五 藤原猶雪氏上代の聖徳太子俸について ︵古典餅究二ノ三・四︶
六 同前
七 佐藤習英氏山王院蔵書目録について ︵叡山畢報一三︶
八 註三の■聾表年照
九 荻野三七彦氏古今目線抄の基礎的研究 ︵史孝雄誌四七J五・六・七︶
十 藤原猶雪氏複原聖徳太子俸暦七五 − 七六頁。
十一 圭軍諦成民望徳太子信仰につい⊂ ︵素数畢紀要四︶
神学としての原始基督敦史
岡 田
︻ バルト紳撃と宗教史。波多野博士還暦記念論文集に於て、開始され牽宗教史的象からのバルト紳蓼批判
は今年に入つて本格的に畢界の問題となつた。
即ち波多野博士は﹁宗教哲拳序論﹂に於て、佐野博士は;茄教と人間﹂に於て、此を取上げられた。前者はウ
ォッバーミン的にカント的宗教観を生かさんと努力され、後者はバルト紳畢に於けるカント的観念論の穣浮を指
摘しっ1、自らは宗教史的立場を生かさんと勉めてをられる。其評偶の態度は封照的であるが、両博士は共に、
バルト紳単に於ける矛盾を排除して、更に合理的な立場、即ち宗教に於ける人間的要素をも生かし得る立場を志
向してをられるのだと点ふ。此に封して、
︵筆者が果して前二者を直接惜裏に置いて書かれたか香かは別として、︶橋本鑑畢士の﹁基督教と宗教史。トレル
︵二︶
チの場合と其の批判﹂なる論文は、バルト陣営よりの應酬として見逃し得ぬものであらう。
率土はトレルチの拳闘的努力の動機が、求道と史畢研究との葛藤であつた専を、極めて熱情的な文章で書き出

β9J
紳撃としての原始基督敦史
紳撃としての際始基督教史 二四〇
してをられる。それは決して修顧的なものではあり樽ない。筆者自らの共感から湧き出潅青菜であらう。私も亦、

βタイ
トレルチとは時代と紳畢的立場とを異にするとは錐も同じ悩みの中に立つ事既に久しい。
橋本畢士のなされた如く、紳畢に於ける宗教史の問題は、虞理性と虞正性との問題であゎ、雨着を一應直別す
れば、眞理性を眞正性に従属せしめるのがトレルチの立場だと言へる。然るに率土の立場からは、究局に於て眞
正性を基礎付けるもの挨眞理性であろて、其避ではない。そして此の限りに於ては、波多野博士も亦畢士と見解
を同ぜられる如くである。博士と橋本率土との見解の差違は、信仰者にとつては婿忙絶射的でさへある如く見え
るが、冷静な畢間的問題としては寧ろ近接してゐると息はれる。
波多野博士にとつて、基督教は宗教一般と同様、餞験の意味内容の眞理性に凡ての期待が鱒がれてをり、其の
啓示の様式たる原始基督教史の眞正性は紳畢的追及の封象から除外され得るものである。
橋本率土にとつて、﹁宗教の虞理性と宗教の虞正性との信仰的一致をして、不可能ならしめるもの、即ち虞正な
︵ニ︶
宗教に於ける素朴な絶封性の主張は、宗教的アプリオリ的能力の肯定に存する﹂と考へられてをる。これは具購
︵三︶
的には新約聖書に記録されある原始基督教史の虞正性を無批判的に肯定する事を意味するのではあるまいか。
此虚に至って、私は、バルト紳撃と宗教史の問題は、結極プルトマンに於ける様式批評とバルト紳撃との関係
の問題に還元し得ると息ふ。従って、山谷博士と三枝率土の労作とを常然問題とすべきではあるが、今は直ちに
私の卑見を速べる。
こ 紳峯としての原始基番数史。バルト神輿にあつては神輿を教合の畢と言ふ風に規定する。これは記録とし
ての聖書を客観的に研究する意昧での聖書の璧警過去の歴史に於て告白された特定の聖書理解を保守する意昧
での教沃の紳攣に封比して、現賓に聖書に於て働く奇鎮的啓示として¢信仰者の紳拳と言ふ精紳ではあるまい
か。史的研究の信仰よりの甚だしき離隔に堪へ桑ねた者の廼として、歴史をも紳峯的にのみ問題とする亭によ
戟を逃れんとするのは、虞の平和を得る道でない。プルトマンの如く、福音書並に使徒行俸の記事を断片的物
に分解し、共の申で、どれが純粋に紳撃と関係する事件であり宿るかを判定する道.を求めても、極めて主戟的で
しか有得ない。囲の中心と周連と看傾すとしても、その中心に封する遠近の順位は不明瞭であり、間遠の限界
亦不確である。例へば、歴史文聾者としてのブルトマンには、イエスの欒貌記事は、復括物語が改欒されて、
エス生前にまで持ち込まれた年代錯誤であると推定されるに封し、教禽の宣教者としてのバルトには、復活の
光を明示する特例として、イエス生前に、何日か、何虚かで成起した事柄であると説教される。従って、イエ
生前に置ける山上の欒貌と言ふ記事は、プルトマンに於ては、間違内にさへ入り得ぬ筈であるが、バルトにあ
てはその中心に位置する。
宗教史的立場からは、原始基番数史の特殊性は、其の後の数台史に封してのみならず、一般の宗教史に封し
も稀薄にされる。カール・ホルの有名な論文も、眞理性、内容性の方面では相常猫自性を明かにしたけれども
虞正性史・資性の方面でほ殆んど貢献する廃がない。私はもつと根本的に、原始的に原始基督教史を仝慣とし
神輿的に生かす事が必要ではないかと思ふのである。

β玖夕
神輿として原始基督教史を樹立する道は紳畢と歴史撃とを同時に規定するものを持つ事によつてのみ可能で
紳撃としての瞭始基督敦史
紳撃としての原始基督敦史 二田二
る。基督教とは何ぞやとの概念抽出は、新約聖書のみに限定せす、現代の教合をも含めた仝基督教禽史からなさ

バ∫ノ′;
るべきであるとの考へが流布されてをる。人間が何む基督教と呼んでゐるかを知る矯めには、その事が必要であ
らうが、基督敬白牒が何であるかを規定するには、かゝる要はない。経典としての聖書は本釆かゝる事に役立つ
焉めに、敦合が持ってをるのである。
聖書の規範性が、虞理性、内容性に封しての如くには、その虞正性・史資性に封しては効力を蟄帯し得ないと
言ふ主張には二種類ある。
第一は、聖書の報道は、歴史としての正確さを持たす、往々に全く誤ってをると言ふ見解で、聖者の記録を誤
謬であると断定する。第二は聖書は決して左様な事を主張してはゐないのであり、其は栢育と呼ぼれる宣教の矯
めの文書であるから、歴史的な事柄に関してまで、その虞正性を要求するのは、教合の俸統的信念の無智に因る
事に過ぎない、と言ふ。今日多くの教食入は後者の場合を以って絶てが解求されたかの如き安堵を覚えつゝある
のではないかと疑はれる節がなくはない。併し此は問題の蔵膵であつて、長く安じ得べきものとは息はれない。
︵四︶
嘗って猫逸のある紳聾者達が蟄表した聾明文中に﹁もしも基督教存在の資格が、例へ如何に重要であるとするも、
一人物の存在や、一事件の虞備に封する問題上に置かれてあるとするならば、宗教としての基督教にとつて、そ
れは不幸な事である。凡て眞の宗教は歴史上の偶聾的虞理によりて存在するものではなく、理性の永久斡虞理に
ょる。常に歴史峯の批判封象とされる如き、過去の変事上に依接するものでなくて、何物にも制約されぬ婁魂の
深慮に、日々新らしく感應し行く生ける力によるのである。﹂と言ふ一向があるが、﹁理性の永久的虞理﹂なる︸
旬を紳の視覚的虞理﹂とでも書き改めんか、橋本率土が﹁啓示の奇蹟性﹂として主張されるバルト紳畢の啓示親
に殆んどそのま1流用されそうにさへ思はれる程類似した思想である。
佐野博士は此の鮎で、もつと歴史研究の意養を認めようとしてをられる。然し乍らそれはトレルチ的意味に外
ならぬ。トレルチは基督教の絶封性を他の鮎で悉く不定しっゝも、イエスの歴史的存在と、基督教に於けるその
︵五︶ ︵六︶
不可妖怪が他宗教の場合と全く異る鮎は途に否定しなかった。佐野博士は二方自らバルトの立場を受容れたと稀
されつ1、其の矛盾摘蟄に常つては明白に宗教史的立場を援用されてをる。かくの如き態度に於ては、研究の進
む程トレルチ的な苦悩に落入る外はあるまい。橋本畢士と思ひを同じくしつ1も、更に別な方途に於て問題解決
へ努力せんと私が願望する所以である。
基督教はイエス・キリストを内容とするのみならす、其の歴史的寄集を基礎として成立する宗教であると経基
督者の停統的信仰である。私は橋本畢士の排撃されんとする素朴な絶封性主張を出費鮎とするのではないが、宿
昔書の宣教説話集的性格と言ふ事は必ずしもその歴史に封する虞正性を排除しない専を信じる。殊にルカ文書の
意義を今二度見直すべきではあるまいか。ストワークーや、ハルナックの研究又オットー最後の書等を問窟にし
ただけでも、原本ルカ侍が現行マルコ俸より遅くはないとの椴定は黙殺出奔ない。別けて使徒行侍の信憑性に至
ってはプルトマン的疑惑は飴りにも神輿的思惟と併宜し得ぬものである。パウロ紳畢の性格を明かにする薦めに
︵七︶
はステパノの物語は決して影響薄きものではない。寧ろ我等はルカ女書を骨子として、聖書の記録を信用した原
始基督教史を作るならば、それは紳畢的思惟と矛盾せぬものであり、同時に﹁紳畢の﹂と冨ふ限定に於ける宗教

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紳畢としての原始基督教史
紳拳としての原始基督敦史
史としても矛盾なきを得るのではあるまいか。

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基番数にあつては、その眞理性は箕は虞正性に於て、と共に、成立すると言ふのが正しくはないか。聖書記事
の虞正性を確信せしめられる事なしには決して嘩晋の虞理性を信じ得ない。聖讃が記録してゐる物語を、如何に
分解するとも、とにかく、嘩背は原始基督教史話に於てでなくぼ俸へられない性質のものである。ロマ書五葦の
紳拳的註解は、それが虞に紳畢的である嘗めには常然嘗新雨約の申に記録されてをる歴史物語を背景とせねぼな
らぬ。その物語の或るものを中心に、他のものを周達に置くと言っても、其叫角が崩壊すれば他も亦到抵立つ専
の出奔ぬ必然的聯開の中にあるのである。素朴な四福音書封観を直ちにイエスの歴史と認む可きではない如く、
行俸そのま1で直ちに紳箪的原始基督教妃ではないが、行俸を規範として、史的探求の獲物を便騒する廃に必ず、
信仰者の史畢的要求に適應する原始基督教史が成立し得る専を私は確信してむるものである。
証一私は宗教心理波をも含めてをる
二 浣敦折究二′二、引用句は九五京。バルトの立場に裁ては八七東証参照。
三 私ほイエスの歴史を含めた仝新約聖書時代の基督敦史を意味してをる。
四 ウアーアイルド著抑諾﹁基督なき基督教﹂四京参照。
五 同書三九頁参照。
六 采教と人間 ∵六八頁附託参照
七 絵村蒐己著﹁森明と日本の神学﹂七二束証参照。
日本畢より見たる降臨思想について
野 正 康
−降臨思想の大意。降臨思想とはこれを端的に云へぼ、天孫の御降臨に由釆する考へ方として、爾凍今に日
本精紳の中枢機能をなすのみならす、廉く現代日本の世界的意義を的確簡明に表現する考へ方である。換言すれ
ぼ、天降り思想として上下の縦の思想であると共に、これを枢軸として横に横がり行き、やがては八故に君臨す
たてよこがく
る世界史的意義を有する縦横畢的なものとして、何時も革新的な原動力を争む生成聾展の思想である。それ故
に、これに封立する思想は、横の左右関係に立場をもつ個人主義、自由主義、就中デモクラシー及び合理主義息
よこたてがく 想として常に現状維持的な思考形態をもつもの、従って、この横の思想を標準にして下より上に及ぼす横縦畢を
以って、降臨的思想をぼ神秘思想、荒唐無稽の非畢間的乃至非料率的思想として憫笑せんとするの思惟に出るも
のである。けれども、かく封立する思想そのものも、その受容する思惟型式としては、これらも亦降臨思想であ
る。何となれぼ、例へぼ生物進化論の論の立て方と我等への降臨を考へぼ自ら明かでその他デモクラシー、自然

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科挙、哲畢、宗教等、古き教導としては彿教、儒教等、主として外周思想を元として、これを其まゝ降臨的に受
日本畢より見たる降臨思想について
日本峯より見たる降臨思想について 二四六
容し、且これを標準に諭する畢及び単著の考へ方こそ、最も典型的なる降臨思想である。換言すれぼ、替の降

90α
思想に反封する畢及び畢著それ自らの掠って立つ其の考へ方は、知ってか識らすしてか、それが降臨思想であ
その降臨思想に立脚してのものである。再言すれぼ、日本人の淳風美俗として之を組先に受け且つ子孫に俸へ
所の次第相承の思想信仰の紳ながらの思惟を、天降り思想で無風考的だと批判しながら、ご本人自らの外囲思
の受容の仕方は忠賞に其のま1天降カの思惟であつて、その限り日本人は矢張り日本人で、これらの人々も亦降
臨思想の忠寛なる遵奉家である。加之、外囲はそれノ丹、−に之を組先に受け之を子孫に俸へてゐること峯史の示す
所、この外囲的な諸峯のについての天降り思想の強き遵奉者が、その程度の少き人等を無聾者、非科挙者と購
さげすみつ1自らの紳懲り振りを蟄揮してゐるのである。極見すれぼ、この種の畢誼や思想信仰を甲から乙へと
きっわがく 絶へず競って輸入時速リレー競走に狐峯をやる単著発生こそ、むしろ何かに憑かれたが如き様相
日本文化の諸相はこれから更に展開されて日本峯的のものとなるのであるが、こ1に問題となるのは、日本の無
峯の大衆・善男善女と有畢の小インチり・受章の物識り単著と、眞の聾者・虞の先覚者と、何れも皆同じ降臨
想家であるが、何れが虞の日本人の降臨思想か。日本畢はこの三者の関係に明確な鰻系を輿へる峯である。
〓 出題の経由。川本題が特に私の畢的な問題となつた契機は、親鸞聖人の如釆廻向といふ廻向思想の韓国
﹁御己攣であるが、それは如何に聖人によつて寒されたかの根接の日本拳的な探索に聾して、島地大等師の
三同忌記念論文集﹃日本彿教の歴史と理念﹄所収の拙稿﹁日本畢より見たる如釆姐向と降臨思想について﹂と
り、これが本宗教拳合資行の﹃宗教研究﹄への紹介記事となつた。
拘 私は﹁日本車﹂を日本人の畢間として樹立せんと志し、そのお手本を教育勅語の御恩惟に仰ぐことゝなり、

教育勅語を捧誇式において捧讃する如く奉讃し思惟し解繹せんとして教育勅語解繹の日本畢的研究に専心没頭す
ること僅かながら故に五年、今年の換聾五十周年に至つて、その全文仝思惟の掠って立つ所が第一文の御恩惟に
あることに想ひ至り、それが明治天皇の皇組皇宗をまつりたまうての歴史的な御認識であると共に、皇組皇宗よ
り明治天皇への御降臨であり、これが延いて第五文の ﹁斯ノ道﹂としての世界史的意義のものへの御恩惟となら
れ!この思惟は今次の囲民皐校案に大開係があるきそれが我々臣民への御敦として降臨してゐることを挿す
るに至ったこと。
何 本年は二千六百年とて、神武天皇御聖蹟を巡拝し、皇組蟄群の地に降臨思想を仰ぐべく宮崎願鹿鬼島鰊に旗
行して、其の土地において人に質し文厳に徹して.以つて年発憤き葬りし所信を確認するに室つたこと。
三 ﹁日本畢﹂ の意義。私の大正の末より主唱し葬ったもの、現今多くの共鳴者を得て既に常識語となつてゐ
る程で、拙著の御参照に譲って、夏めて述べない。
四 ﹁如釆廻向﹂と﹁一大乗﹂と﹁王化之鴻基﹂と﹁斯ノ邁﹂
右の記念論文の因縁に係るもので述ぶべきも論ずべきものが多いが、大要は右の書の拙稿を披かれることを望
む。
中でも三顧韓入、第十八願、如乗組向。即ち如釆よりの趨向で衆生よりは不廻向、衆生なる我等より言へば如
釆よりの降臨である。三心、就中﹁欲生﹂についても、その欲生繹に示す思惟はこの降臨的に輪回した大文字で

†ノり/
日本車より見たる降臨思想について
日本車より見たる降臨思想について 二四八
ある。展宗の生命であると共に日本精細の生命である。この大輔回は何廃よ少乗るか、何故に親鸞聖人に起りし

5粕2
ゃ。これを降臨思想と解する先人の論あるや否や門外漢の私の知る朗でないが、それを﹁御己澄﹂の問題とLて、
信者はこれを問題とせぬにしても、聖人自身はその主著﹃数行信謹﹄には経典を引用し三園七高愴の敷設を並
べてある。それらは何れもなだらかに同工異曲的に如釆廻向の信の一念に辟すべく、而して﹁妙らしき法を弘め
す﹂と、紳ながら言あげせぬ組法恕具現して▼ゐられる。そこには、横の外囲思想をも日本人の思惟として日本拳
的に考へられ、譲み賛へられて﹁虞宗﹂とされた。こ1に聖人自らとして生き、日本悌教として新生した。これ
でこそ、親鸞は眞の日本人として日本精神の中枢機能に一囲融合し、それを如資陀其の時代文化即ち彿敏文弛む
通して建現された。この意味においてまさLく﹁見眞大師﹂であられる。但しこの通津を邁法として三園七高僧
の教詮を横縦畢的に塞げて元へ元へと潮り行く後の聾者にあいて、又十八願の降臨として働らく念彿を二十廟の
意味旺おける念僻として稗へる者にとつて、それは謂ゆる聖人の虞宗にあらずして、謂ゆる浮土宗となり、その
藤度はやがては謂ゆる聖道門であるのではあるきいか。第十八願を第十八願としての降臨を至心に信愛するに据

ヽ はりをおく聖人の紳ながらの道.として、﹁惟紳﹂の註にある如く﹁随神道﹂が﹁赤白﹂ら﹁有神道﹂となる其の
如く托するには、日本畢的には其の方向と基礎とにおいて、ひいきの引骨しになるぼかりでなく、自ら他の教導
と同じく妙らき法を弘めて儒・洋の後拳と封立する外囲教撃たるを脱しないことになりはし奮いか。
これは如舜姫向と降臨思想についての考察の一例であるが、これは﹁和国の教主﹂として仰かれた聖徳太子の
﹃法華哉疏﹄の﹁一大棄﹂としても亦同じ。もしこれが紳ながらの道に封立する時、謂ふ所の﹁一大乗﹂にあら
ず、叉他の勝髪練磨の爾粧を手段的に未顧眞箕のものとせぼ、これ亦封立概念たるのみならず謂ふ朗の﹁〓凶
呆﹂の﹁一大乗﹂ではない。﹃十七保憲法﹄の第二、﹁篤敬三賓﹂の思惟も﹁三賓﹂の﹁併法恰也﹂の故に後
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
に問題む起したが、今試に﹁篤敬斯之道、斯之道着日本唯一絶野道也﹂とせぼ、この候に仰せられる太子の御
惟を思惟となるのではあるまいか。こ1に第三傑﹁承詔必謹﹂が我が国人に勤してのみならす世界史的意義にお
いて降臨的に光被されるのではあるまいか。﹁日出つる所の天子﹂云々の外交亦この建現として仰がれる。か
して﹁邦家之経緯、王化之鴻基﹂︵﹃古事記﹄序文︶も亦輝かしく光るを見る。これらが其の以前何に基づき、其
の以後如何になり行ったかは、詳述を要せぬ朗。
五 撃としての思想封策と日本畢の樹立。日本文化の展相は、外碑文化の降臨的受容に開始されて、古今一
道への国籍取得と共に紳ながらの邁の展性として、日本文化は紳・彿・儒・洋、而して日本畢となる。然らば
今を通じての日本撃としての思想封策は如何。
この種日本畢的なる聾展にぉいて、その第一線に立たれしは聖徳太子。太子の﹁折伏すべきは折伏し癖放す
きは練取する﹂といふ標準原理なるものは何か。これは紳ながらの降臨思想によつて決定されるものたること
﹃義疏﹄ ﹃憲法﹄及び御事頓によつて明白である。爾後諸税師諸聖人亦然わであるが、而して今日の畢とし
考へ方は如何。右の如き考へ方を謂ゆる天降り思想として非畢間的にして偏狭且猫断とし、須らく世界的に比
研究して贋き立場においてと考へといふ。その結果は如何。詰も知る如く、猫自性を失って彼此相封的となり
従って共通の地盤を求める。その共通の抱懐と云ふことの何たるや如何にして斯く考へられるやも慮らずして

鋤j
日本摩より見たる降臨思想について
首本草より見たる降臨思想について 二五〇
その思惟は自らラショナウズムになり、同一管掌的、料率的地盤においての、低下した下位者の最大多数の最大

部材
理解の量的なものとなり、日本的に稀有にして高貴なるものは、この限り自ら滑失する。のみならす、比較研究
ヽヽヽヽヽヽ
は封象として前に並べて置いて患いて、これを多方面の立場より挑め見ることは謂ゆるやまたの大蛇的存在とな
り、そのこれそれ自身自ら非宗教的となカ非降臨的となる。それでは自ら一元的に立てぬのみならす叉他に封向
しぇぬ環に、阻局欧米のもの1降臨的受容となり狐畢的権威となる。而してこれによつて一は以って在釆のもの
ゝ批判に常て、他は以て其の研究をぼ古きものくーへと進めると同時に、西へ′∼と進むこと、雲間に舞ひ上る
ヒバリの行衛を想はせるが如くである。これは﹁彿教東湖﹂でも﹁組師西釆意﹂でもなくて、文盲今一筋邁の俸
承でもなくして、多く共通の地盤として概念的に設定されたものからの追考としての﹁諦め﹂であり科挙的研究
となる。﹁諦め﹂は追考の哲畢的思惟であつて宗教として新しきもの1降臨はなく、降臨は科拳によつては説明
されない。即ち科挙する心に生れる創造は眈有的合理的解繹の範囲以上のものであカ、その蟄達は在死の畢の範
境内に無かつたものによつてなされること次表のⅩyの如くである。

亡A+Ⅹ+y

=A+Ⅹ+y
=ごA+Ⅹ

=B+y
A←B←Cl←D⋮
右のⅩやyは何虞より乗るか、AからBが蟄展したとする限カおは一Aではなくして新しきⅩが入つたことによつ
て、そこで野となつたのである。Cの場合のy亦然り。かくしてⅩやyは科挙する者への降臨である。それで科
畢は其の性質上、既存料率の合理的範囲では聾展はない筈であゎ、それで科挙的研究とは多く既存の大
的概念の本速的なアテハメに終る。こゝに料率する料率者と料率的に研究し宣侍する者との間には、明
措かれる。前者には創造があり降臨的な資原を有しての新興科挙の日本畢的進展となるが、後者には先
迫謹の説教、古き科挙的知識の所有あるのみとなる。宗教信仰の新しき降臨に生きる組師と信者と古き
識む多く所有する宗教聾者の此も亦然るものあらん。この輝しき聖代に光輝ある二千六百年を寿ぐこと
落ちざる人、峯と宗教との本質に参興する者、謂ゆる共の新鰐利こそ横縦笹でなく縦横拳においての各
おける日本人としての其の日本拳の樹立でなけれぼならぬ。
大 結語。古奔﹁随神道は亦自ら有紳廼﹂といふ。﹁斯ノ道﹂を森々服暦﹂する所﹁成其徳ヲ〓﹂と
たまふ。﹁数行澄を敬信する﹂こと、﹁教﹂は降臨による﹁ある﹂こと、﹁行﹂はそれを﹁する﹂こと
の﹁なる﹂こと。この﹁ある﹂!﹁する﹂I﹁なる﹂こそ、堅固以釆古今一筋道に相承し発った降臨思想と其の
輯同と其の展相ではあるまいか。
現代日本の宗教界及び宗教畢界は、日本撃より見たる降臨思想によつてこの古今一筋道の降臨思想を
じ、内外の思想義教に如何に尊慮するか.これは即今各自の重要なる課題である。

90∫
日本畢より見たる降臨思想について
自信の健湖としての同数

タロβ
自信の髄制としての同数
佐 木 秋 夫
著しく立遅れ状態にある日本の回教研究は、いまや速急な促進を要望されてゐる。その理由は︵こ最近の大
陸行動、大東亜圏への展開に常つて、同教徒との接嘱が急激に緊密化したこと、︵二︶.いはゆるブロック形成に
嘗つての最大の季鮎ともなりうべき植民地、牛植民地の尤大な地域が回教圏に屈すること、︵三︶回教のもつ強
い集圏的連帯性と吐合的行動性とが、彿教やキリスト教のやうな他の﹁世界的﹂宗教にくらべ
ること、これらの諸鮎にかかつてゐる。一般的宗教研究の立場からしても、かかる特質をもつひ
究封象としてとりあげることは、比較封比によつて把握むいつそう確茸にする効果があらう。
宗教畢は周知のやうに﹁キリスト教文化﹂の埼内で聾生し、そのために、悌教む包療しえない
念規定さへ生れた。日本の宗教学は、逆に、悌教に謝して過度の注目を輿へる傾向が生じ易い。
の宗教研究はヨー。ッパのそれの移植といふべき鮎が多いから.悌教偏重などはありえないとも見られるが、宗
教と集圃的連帯性・政令的行動性とを安易に切離して考へる傾向が強いといふ専箕は個人主義的
だつたといふことからぼかりでなく、研究者の意識が強く悌数的宗教形態に捉へられてゐるとい
しぅるであらう。その意味からしても、同数の研究を進めるに先立石てー宗教の概念規定をあら
ておく必要を認めた。もちろん、同数は宗教ではないと断する人はあるまいが、正直に言って、
に輝かしい成功む収めた教組を封象とした場合に、かれが宗教的には中途年端だとか未熟だとか
人は存外多いのではあるまいか。
資をいふと、宗教の定義の峯理、再検討の必要は、単に回教の研究に首つてはじめて痛感され
はない。現に国内の宗教教囲をいかに解繹するか︵しかも行動的に︶は、いやしくも宗教を研究する者の差迫っ
た重要課題、責務となつてゐるし、従釆あまり乗込ますにうち棄ててあつた国家的・社食的な信
教的きそれとの関係の問題は、日本のみでなくドイツなどの仝牒主義国家においても切貿に現質
られてゐる。圃豪のため、社食のため、理念・理想のため、眞埋のため、垂術のため、あるひは
に行はれる献身的な行動を、軽い意味で比喩的に﹁宗教的﹂と呼ぶことはしても、厳密な考察を
ことは怠つてゐたのではあるまいか。たしかに、宗教を﹁撃とか﹁畏敬﹂とか﹁超自然﹂とか﹁
かを転封的な指標として定義づけるならば、宗教なるものの範囲は狭く局限されてしまふ。さう
ばそれでもよいが、さうすると、宗教ではなくてしかも他の範噂には入れえない尤大な領域が残
り、この尤大な領域を究明しなけれぼ宗教自照の鰐質も把捉できない、といふ結果に陥るであら
たしかに、宗教を狭く限定して考へる人たちも、そのいはゆる宗教の同線をなす漠然たる領城

9〃7
自信の既制としての回数
自信の鯉制としての同数 二五四
のままでうち棄てておくことには、不安を感じ七ゐるに相違ない。自分は曾て宗教と﹁精細の技術﹂と

90β
特に指摘したことがあつたが例へぼ個人の生活設計と指導、慶世技術、精細療法などが、漫然と﹁宗教
下に魔理されてゐる場合が多く、しかも、この鮎の厳密な分析はあまり行はれてゐないと思はれる。氏
において﹁まつり﹂も﹁まつりどと﹂も﹁おまつり﹂もー牒に統合されてゐた、といふ場合に、どこま
に宗教だと考へられてゐるのだらうか? 文化の蟄展、展開の一定段階において、政治や経済や聾術や科挙が、
﹁宗教から分化・猫立しきと表現される場合に、宗教とはその統合牒を意味してゐるのだが、もちみん
厳密窒息味で宗教と呼ぶのではなく政治・経緯等々が宗教的に保持されてゐた、といふほどの意味であら
鱒言へぼ、宗教もまた緊密に政治的であり経済的であつたとも表現してよいのであらう。ところで問題
からの分化はすでに完了したと見るのかどうかである。コント的模式は、分化の過程を指摘する鮎では
いてゐるにしても、分地が十九世紀の祀合において完結したかのやうに詮くのは.明らかに行き過ぎである。い
はゆる民主々義が最終の社食理念ではあまりえなかつたのと同様である。宗教と人間性、生活態度など
は嘗然不可分なものであるかのやうに考へてゐる人があるが、どこにさういふ結論に導く根接があるの
からの分化はすでに完了したとの猫断に立脚してゐるのであらう。
以上のやうな諸鮎を考慮して、ここに、宗教といふものを一應次のやうに規定づけてみたい。宗教とは
主義的に方向づけられた自信の慣制︵構造︶を中核とするところの観念・情操・行動・組織鹿設などの綜合購で、
かかる綜合餞として礪自性をもち、これに基く礪特の傾向が﹁宗教的−と呼ぼれる。そして、宗教ほひとつの漑
禽的・文化的現象である以上、それはもちろん歴史的な所産であり、従って、必然的に政治的な
神秘主義的といふことぽについて、ただちに疑議あ生することが漁期きれる。第一に、神秘主
と同義語で、宗教の概念規定にこのことばを用ひるのは単なることばの綾ではないかとい鮎。第
高度の表現においては紳秘主義をすでに超克してゐるのではないか、といふ鮎。
第︸の疑鮎に関しては、神秘主義恵るものをもつとはつきりと規定することによつて應へよう。神秘主義とは、
理性︵論理︶の強力的な遮断︵患よびこの遮断の結果︶をいふ、と。もちろん、形式論理は強力的な遮断をまた
なくても、みづからの限界を有する。論理といふものは耕澄法的でなくてはならない。皆澄法と
ある、とする人があるかもLれないが、強力的な遮断があるかどうかが、神秘主義と皆澄法との分岐鮎なのであ
る。論理とは、単に頭脳の浮き上がつた自己遥動の産物であつてはならない。それは視覚を断じ
なく追究することによつてのみ把起されうるものである。それでは、現賢とは何か。箕は﹁現箕
るかに根本問題が存するのだが、ここまで追究してみると生活費践が視覚なるものの規定恕行ふ
が正しいかどうかは、茸既によつてテストされるのだ、といふほかない。とは言っても、問題を
せねぼならぬといふのではない。太陽は西から出ると思ひこんでゐる盲人の意識は、たとひまと
ると見えても、やはり正しいと曝首はれない、とすれば、生活賓懐こそが決諭しうるものだとは
にそれをうち返して、論理がそれにかぶさつてゆくことができるのであつて、現資といふものの
相封主養の横行を許すほかはないと考へられるわけではない。

90タ
自信の健潮としての同数
自信の鮭榔としての同数 二五六
神秘主義の超克といふ鮎に関しては、もしも眞に超克が行はれてゐるならば、それはすでに宗教そのものをも

タ70
超越してゐるのだ、と言はう。宗教の清爽の分化の進行が、そこでは天才的に隷覚されてゐるのであらう。しか
し、いはゆる神秘主義の超克は、多くの場合、決して眞の超克ではない。繹とか紳智撃とかいふものの歴史的な
具鰹的な現れを追究してみれぼ、このことは明らかになるであらう。
次に、自信とは何か。これは、生活・行動の意識的裏づけである。宗教本能説はどうともあれ、自信こそ窒息
識的生存の必然的僕件である。箕をいふと、宗教本能詮なるものは、自信なるものの普遍性に便乗した教圏的立
論なのである。﹁非宗教的﹂人間の﹁宗教性﹂といふよくぶつかるあの矛盾は、この見地からすれぼ直ちに解指
する。だが、自信を失った人々の強い宗教性はどう解繹するのか。答へは簡単である。いはゆる自信を失ったと
いふのは、賢は奮い自信の牒制が崩壊︵または動揺︶したといふ意味なので、そこに新しい自信の鰹制への模索
がはじまつてゐるのだが、その不安定な意識状態に在っても、生活・行動はなんらかの形でやはり意識的に裏づ
けられてゐるのであり、その限りにおいて、やはり自信は栂績してゐる、と言ひうる。この鮎に関しては、徹底
的な懐疑主義といふものが資はそれ自身矛盾である、といふ命題を想起してぉきたい。たゞし、自信の牒制の不
安定な動揺斯に宗教的な傾向が強まりやすいことほあくまでも事箕であつて、宗教が不安︵危機︶に関聯し、安
心への模索に開聯する、といふ詮は、この限りにぉいては正しいのだが、かかる模索が必ず神秘主義的でなけれ
ぼならぬといふことはどこからも結論されない。
さて、宗教を以上のやうに規定してみると、同数、キリスト教l係数の相違は、これらの聾生事情と成長同時
ヽヽヽヽ の侯件とによつて、信徒の自信のとりかたがそれぞれの特質をもつべく規定されてゐたとい
ことが、明白に理解されるのではあるまいか。具饅的に例澄する飴裕がないのは遺憾だが、もしもかか
許されるならば、ある杜倉集囲が現にどういふ生活行動をとるべく現箕に要請されてゐるかを研究する
ヽヽヽ▼ って、そこに生すべき自信の韓制のありかたも推定され、教囲組織の形骸や名目的信者登録
れることなく、正しい分析が徹底させられうるのではあるまいか。例へば.ある人たちは回教徒の信仰的結合に
ヽヽヽヽ 過大な期待をかけ、他の人たちはこれらを過小評傾してゐるが、回教徒の自信のありかたを
である民族問題や植民問題と、宗教的俸統の猫自の流れとを深く分析し、通常に評量するならば、この
誤に陥らなくてもすむであらう。直接嘗面の園内宗教問題に関しても、かかる観鮎からの徹底的な究明
要件なのではあるまいか。もちろん、かかることは、宗教史の研究に首つても、全面的に適用されうる
宗教の概念規定の問題が主となつて、この規定に基いて賛際に宗教現象を究明してゆくいとまがなか
これに就いては後日を期したい。自分の常面の牒題としてとりあげた同数についても、神道。儒教、彿
道徳などの鮎についても、この観鮎から解明されるところが少くないと信ずる。

タ/J
自信の渡御としての回数
中世の紳傭相関思想
中世の紳彿相関思想

夕J2
竹 園 賢 了
鎌倉時代の宗教は日本宗教史上長も特異なものである。悌教は渡釆後六百年を経て漸く固定し、形
となり、又その間我国固有の紳祀と習合して禿たが、他方この形式主義・耽美主義から脱した信仰中
が輩出し、神道の方面では部族的な宗教の域を超えて理論化が盛んになつた。某にこの時代は宗教の
であり、或る意味では宗教の日本的反省の時代であつた。
扱兜づこれを神道の方面について言ふならぼ、神道に理論の加へられた最初の書は申すまでもなく
るが、その製作の意固は外宮の地位を高めるためであつたから、そこには常時最も流行してゐた煩窺
説が含まれてゐた。五部書はこの五行詭や製作の意囲の不純のために斥けられて禿たが、そこに含ま
教信仰の極めて強い薦に却って尊ぼれて発たのである。従って書見幸和にその偽作の画を剥がれそも
には氏の唱へた垂加神道の題名を引き出す程尊ぼれた。斯様に五部善が尊ばれた理由は、その一例を
﹁無二異心一軍料心一天清潔久霞美左物於不レ移レ右頚右物於不レ移左晋レ左右レ右⋮﹂
は明渾正直の精神を唱へた文であり、又

﹁心乃神明之主レ傷二心撃﹂
は自己反省の鋭い言葉であつた。或ひは叉
﹁祭レ紳痩以こ清浮︼馬レ尭以三富心︼馬レ宗﹂
﹁神明饗三徳輿こ信一不レ求こ僻物︼焉﹂
等も心の清浮、信仰を強調したものであつて、そこには強い宗教信仰が要求され七ゐた。斯る宗教信仰の尊重は
忌部正道の神代口訣では
﹁人之心清明則紳也﹂
といひ、一條兼良は日本書記纂疏︵巻二︶で
﹁清浮有一三義−謂こ内清渾外清浮↓也 − 使三共心一誠一両神交上着内清浮也音内浮之誠一則正直之心也﹂
といつて、この宗教心を内済浮といひ、身餞上の外清浮に封して最も重んじてゐる。又
﹁蒙二神明利寧専攻依二信力厚薄一鋸奈天苗方図乃人天等仁至莞奉三雲垂
といふが如きも、神明の蔑みを受けるのは信仰心の湧深如何に基くといふのであるが、これ等は宗教信仰を最も
力説したものと言はねぼならぬ。
斯様な信仰を重んじた鮎は伊勢大神宮の色々の参詣記等にも現れてゐる。例へぼ坂士悌の大神宮参詣記では
﹁就中首官参詣の深き習は念珠をも取らず、幣吊をも捧げすして心に所る朗なきを内済浮と云ふ。潮をかき

ノブJ、ダ
中世の紳傭粕闇思想
中世の紳悌相関思想 二六〇
水む浴びて、身に汚れたる朗なきを外清浄と云へり。内外清将になりぬれぼ・紳の心と我心と隔なし。既に神

ク/4
明に同じなば、何を望てか所持の心あるべきや。これ虞寛の参宮也と承りし程に渇仰の涙とゞめ難し﹂
といふが如きも、身心を共に清将にすれぼ、紳人一如の妙境界に達することが出乗るといふのであつた。
以上はほんの一斑に過ぎないが、これによつて明らかな如く、鎌倉時代から尊展した理論神道の方面でも種々
の雑駁な衣を着けながらも結局は内省的な宗教心をその異にもつてゐたから、後世に大なる影響を輿へたのであ
った。この鮎が宗教的に見て最も香気高く傾値あるものであつて、これあるが薦めに俗神道と誹誘されても侍且
つその生命を近世にまで穣したのであつた。
次に彿教の方面を見ると平安朝以後耽美的固定化して形式に流れ、加持所躊等の法令や徒らなる煩壊浮哲畢の
反復となつて漸く人心から酔反してゐたから、法然・親鸞・道元・日蓮等の新彿教の族出したことは今更多言を
要しない。新彿教は嘗彿教の穀を破って直載簡明な教養を説いて教化したが、そこには内心の蟄穿としての宗教
心を最も強く把へ、簡明な教義によつて信仰の境地を力詮した。この鮎は前掲の神道方面の宗教心の強調と︸致
したものであつた。
斯様に雨着に信仰の境地に於いて一見同∵のもの1様にも思はれるが、その封象に於いては全然異るものであ
った。従って両者間に消極的な相関はあ▼つても、積極的な習合は見られなかったのである。その消極的な相関
奮件数を仲介とLて行はれたのであつた。例へぼ浄土門が押紙の問題については常に南都北嶺の非難によつてこ
れを取上げた如きである。建久元年十月抄門源基の勤むる専修念彿む南都北嶺の愴徒が攻撃したが、その第五に
﹁塞紳に背くの失﹂として
念彿之輩永別二神明示レ論三権他覚類示レ恐宗廟大社、若牒二伸明恵堕二魔界云々 於二賓顆鬼神嘉置而不
杢三権化垂聾者.眈是大豊也∃1繭明者不レ足レ葬者 如何安三聖牒於二法門之与哉、末世沙門猶敬二君堅 況
於二重紳−哉、如レ此魚雷尤可レ被ェ停靡こ
と上奏したし、貞應三年五月には定尊・良印仁昇等を代表として念悌停止を上奏した第六箇保の二に
﹁一向専修某類、向こ背神明一不レ常事﹂
といつて攻撃した。沙石集でも
﹁凡そ念悌は濁世相應の要門、凡天出離の直路なり。誠に目出たき宗なるほどに飴行飴善を嫌ひ、飴の俳
神明なども樫Lめ諸大乗の旗門をも誇る専有り。此の俗語行程生ゆるさぬながれにて、飴の俳書薩をもかろし
めける人也﹂
といつてゐる。又天台の畢檜と息ぼしき人の書いた歌論の書である野守鏡でも念悌宗に封するト難の最後に、
﹁専修も禅宗のごとく生死をいまざる故に、みな神国の風を失ふ。神明のこれをいみ給ふ事。たゞ世間の義
らず、此時生死をいみて永く衆生輪廻の業をもとゞめんが篤也。しかれぼ我身はたとひこれによるべからざ
義をさとるといふとも、此度衆生のため、心ざしを神明に同じくして是をいみ侍らぼ、いよく生死を離れん
そのさはりあるべから車といへども二向専修と祝して神慮を博からず、済度を思はす、是そのあやまりの十

βブ∫
と難じた。
中世の紳悌相関思想
中世の耐偶相関思想 二大二
斯様な非難に應じて新彿教たる浮土門は鎌倉の初斯では、或は権敢を敬して貴社の紳む敬せすといつた少、或

9J6
は善鬼神は念彿の行者を守り、悪鬼紳は念併行者におそれをなして退散すると考へたりした。これらは法然や親
鸞の諸文に屡モ見られるのである。これが鎌倉の末期になると宗昭の﹁親鸞俸給﹂、聖或の﹁一遍聖檜﹂、舜昌の﹁
法念上人行状墓園一に於いて夫々組師の押紙に封する問題む物語的に書いて相常深い関係のあつた様に記録して
ゐる。けれどもこれらの俸記は頗る誇張されたものであつて、箕際はもつと滑極的なものであつたと点はれる。
以上概略であるが鎌倉時代の宗教を見るに、紳道は煩鎖な理論をまとひつ1も、その中核には信仰の境地を強
調し、新併教も亦膏併教の穀を脱して同じく信仰の世界を力説したのであつたが、雨着はその教の性質上積極的
な習合はなぐ.極めて消極的に相関したに過ぎなかった。雨着の相関が近釆非常に積極的であつた如くに解する
のは正嘗ではないと恩ふ。
源氏物語の紳紙数
多 屋 頼 俊
源氏物語の宗教思想について見ると、人生無常の観念が物語の全購に泌み渡って居る事.人生に於ける一切の
事象を、宿世の因縁に依って解精しょうとしてゐる事、物語に現れる多数の人々が出家の希望を抱いて居り、又
貿際多くの人が出家して居る事、而L七殆ど凡ての人が彼岸の世界に憧憬して居る事等を息ひ合はせると、悌教
の思想信仰がこの物語の娘砥になつて居ることを容易に認める事が出発ると息ふ。然し紳に押する記述も少くは
ない。依ってこれを整理して、源氏物語は紳に封して如何なる観念を有ち、如何なる態度をとつて居るかについ
て考察したい。
源氏物語に硯はれてゐる綿々には、その御名の明かな紳とさうでない紳とがあり、文物語の内容に比較的深い
関係のある紳とさうでない紳とがあるが、此虞では兜づ御名が明で且つ物語の内容に深い関係のある赫々につい
て述べ、次に他の赫々に及びたいと思ふ。さて物語の内容に比較的深い関係があり且つ御名の明かな赫としては

J7
伊勢の大御神、賀茂の大神、任書の紳及び八幡の紳がある。住吉の紳と八幡は既に件数と習合せられた紳として
膵氏物語の紳紙敢
源氏物語の神祇敬 二六四
書かれて居るが、伊勢の大御神と賀茂の大神は、習合を拒否せられる紳として善かれて居る。

β7β
︵こ 紳彿習合の歴史を顧れば、伊勢神宮は最も早く彿教と習合せられ、文武天皇の二年よりも前に大神宮寺
が出来て居たのであり︵績紀︶賀茂神社は少し遅くれて、平安朝の初期淳和天皇の天長年間よりも前に神宮寺が
設けられて居たが︵練日本紀︶、然し伊勢や賀茂に於いては反習合の思想も甚だ有力であつた。延書式を見れぼ
伊勢の蘭宮は僻事を修してはならぬ専は勿論﹁彿﹂ ﹁経﹂ ﹁檜﹂等の語を口にする事も禁ぜられて居り、賀茂の
粛院もほゞ粛嘗に準ぜられて居る。源氏物語には蔚宮及び粛院が取扱はれて居り、そこに伊勢の大御神及び賀茂
の大神に封する心持・態度が善かれて居る。さて源氏物語を見ると、寮宮に付添うて伊勢に居られ空ハ俵の御息
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
所は壁用の後何もなく重い病に傑つて、もの心細く思はれたので、﹁罪深き斯に年頃経つるもいみしう思して
ヽヽヽヽヽヽヽ
尼になり給ひぬ﹂ ︵浮標︶とある。御息所と光源民との蹄係、重病に躍ると出家するのが普通であつた常時の習
慣等を思ひ合はせると、御息所が尼になられた軍その事については別問題にすべきものもないが、悌敦と絶縁
するやうに厳に規定せられて居る帝宮寮を﹁罪深き朗﹂とし、その罪深き所に長年暮して居た罪を償ふために尼
になられた、といふ出家の理由は、今日から見れぼやゝ異様たも感ぜられるであらう。然し蘭官寮の生活を罪深
ヽヽヽヽヽ
しと見るのは、右の一ケ所だけではない。御息所は伊勢に居られた頃、源氏に迭られた文にも﹁罪ふかき身のみ
こそ﹂は御目にか1革も遠い婿秀であらうと云はれ︵須磨︶、又互くなられた後に′ ﹁もののけ﹂ として源氏の前
、、、、、、、、、、、、、11、11、、1ヽヽ1ヽヽヽヽヽヽヽヽ に現はれて、その御女の秋好の中宮に﹁帝宮におはしましし頃ほひの御罪からむべからむ功徳の事を必ずせさせ
ヽヽ 給へ﹂と俸言してほしいと依頼して居られる︵若菜下︶。即ち常官として、叉その付添として伊勢神宮に仕へる
事は罪深い事と信ぜられて居たのである。帝官に準ずる賀茂の帝院の生活も、罪深しと観る事は同様であつて、
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
桂の帝院は任を解せられると、﹁年頃しつみつる罪失ふばかりと思し立ち﹂給うて﹁御行ひをのみ﹂せられ︵桂︶、
やがて尼になつて﹁いみじう勤めて告ぎれなく行ひにしみ給ふ﹂とある ︵若菜下︶。蓋し伊勢神宮や賀茂神社に
仕へる事は、自身の安心立命、韓迩開悟と云ふ如き宗教的欲求とは関係が無いぼかりでなく.寧ろさやうな欲求
を捨てる事が求められて居たのである。其故に自身の後生を考へ、救済を願って居る人々は、かやうな憐教と曜
縁Lた生活を罪深しと考へざるを得なかったのである。枕草紙にも﹁額院︵に仕へるの︶は罪深かけれど云ヱ
l一つき と云つて居るが ︵春曙抄本巷十︶、紫式部とほゞ同時代の大衆選子内親王の﹁賀茂の穿と聞えける時、西に向ひ
てよめる、
﹁思へどひ忌むとて言はぬことなれぼそなたに向きてねをのみぞ泣く﹂ ︵討花集︶といふ御歌はこの宗教上の
苦悩を具橙的に現はされたものである、此の如く賛官や斎院の生活む罪深きものと観る事は常時の常識であるが、
其では紳を疎略にしたかと云ふと、さうではない。葵、賢木等の奄に見える斎宵の潔帝や索官許行、また帝木、
外顔、葵、藤の裏菓、若菜、幻、根角等の巻に見える斎院の潔費や賀茂の祭は、俸統的な公の行事として、盛大
に且つかなり厳粛に行はれてゐる。然し其虞に現はれてゐる紳に封する心持は、主として畏敬の念であつて、消
極的に紳の御心に逆らはないようにと畏れ謹んでゐる。従って紳は近づき難く親み難いものとせられてゐる。尤
も伊勢神宮は特別な神社であつて、天皇御一人だけがお祭りなさる紳として、天皇以外は皇太子、皇后、皇太后

βJク
等でも任意に幣吊を奉る事は厳禁せられて居充のであるから、︵皇太神宮儀式帳、延書式︶、一般人が近づき難
源氏物語の神武戟
源氏物語の神祇敬 二六大
い紳として専ら畏敬して居たのは自然な事であるとも云ひ得る。然し紳むぼ此の如く近づき難く親しみ難いもの

タ20
として、専ら畏れ障るのは、茸は上古の紳祀観の本質を俸へたものである︵古事記俸撃ニr迦級︶ の解説参照︶。
而して源氏物語には、もつと近づき易く親み易い紳も現はれてゐる。任書の紳と八幡の紳がその代表である。
︵二︶ 光源氏は須磨に於いて大暴風雨に襲はれ、殆んど一命も危くなつた時、﹁任舌の紳近き境を鋳め守り給へ。
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
まことに迩を垂れ給ふ紳ならば助け給へ﹂ ︵明石︶と所願をすると、漸くにして風が静まつたが、その夜故桐壷
院が源氏の夢枕に立たれて﹁住吉の紳の導き給ふま1に早や此の浦を去少ね﹂と仰せられる。一方、前播磨守明
石を入道は、その︸人の娘を都の貴人に添はせたいと思って、十八年釆任青の紳に願をかけて居たが、此廃に紳
の塞示む蒙って源氏を迎に参った。其廃で源氏は住菅の紳の導きのま1に明石へ移って、入道の娘と契を結ぼれ
たが其が、やがて源氏の後年生の柴葦に頗る重要な働きむする事になるのである。此の如く任曽の紳に封しては、
或は風波を鎮めて助け給へ、と所り、或は我が娘を理想的な人に縁づけて子孫を楽典せしめ給へと所カ、紳ほま
た其の願ひに應じて昔を扱き欒む輿へ、人々を指導し擁護し給ふのである。特紅父性愛の権化とも申すべき桐壷
院の御魂が、御自ら源氏を救はうとは仰せられすに、任青の紳の息召しに絡へと仰せられたのは注意すべき事で
あつて、こゝに任菅の紳の慈愛が深く示されて居ると息ふ。即ち任菅の紳は単に畏敬すべき紳ではなくて、その
御意みに信頼すべき依憑すべき紳として仰がれて居る。この信頼の情は﹁逃を垂れ給ふ紳﹂と仰ぐ尊から出て乗
るのではなからうかと思ふ。
次に八幡の紳は玉髪の懇に見える。即ち玉萱が或る事情のために、九州から都へ逃げて発たが、久しく都を離
れて居た馬に頼るべき入も無くなつて困惑した時、乳母子の豊後介は、﹁紳彿こそほ、さるべき方に
ヽヽヽヽヽヽ、、 給はめ。近き程に八幡の官と申すは、彼魔にても参り折り申し給ひし松浦、宮崎
とても、多くの願立て申し給ひき。いま都に辟りて、かくなむ御しるしを得てまかり上りたると、早
と勧めて、先づ石清水八幡に参詣させ、次に﹁彿の中には、長谷なむ日の本の中にはあらたなるしる
ふと、唐上にだに聞えあなる云ヱと云つて長谷の観音に参詣させてゐる。而して長谷に於いて昔の侍
に過って、その手引で玉撃は幸福な生活に入る事になる。即ち八幡の紳並に長谷観音の御利益を目の
る事になつてゐる。此の如く八幡宮は長谷の観音と相並べて、殆ど同様に信仰して居るのであつて、
い紳として信仰して居る鮎に於いては任菅の紳にも勝るものがある。八幡の紳は、改めて云ふまでも
朝以兼併教と極めて深く習合せられた紳である。源氏物語の内容に於いて、八幡の紳との関係は住吉
為に湧いが、人々の信頼の度は八幡の方が深いやうに見えるのは、垂迩思想に於て、八幡の紳の万が
居られた烏であらうかと息はれる。
右に記るした外に名の記るされてゐる紳には、藤原氏の氏紳である春日の紳が二三慶喜かれてゐる
白も少い事であるから省略しょう。また葛城の紳、立田姫、棚機の名も見えるが、其等は軽い意味で
るのに過ぎないから省略する。さて右に八幡の紳について記るした際に﹁紳悌こそは云㌻こといふ語
が、﹁紳悌﹂又は﹁併紳﹂と云ふ語は屡モ見えてゐる。﹁紳彿の憐みおはしまして﹂︵明石︶、﹁紳備に斬りて﹂

927
︵紅梅︶、或は﹁彿紳をたのみ聞えて﹂︵於風︶、﹁俳紳の御ちみびき﹂︵玉髪︶等と用ゐられてゐる、自分の概算に
源氏物語の紳紙敢
源氏物語の神祇敬 二六八
依れぼ﹁紳彿﹂及び﹁彿紳﹂はそれ′川∼十同ぼかりの用例があるが、其は何れも紳と悌を親括した語で、﹁紳﹂と

922
﹁悌﹂との間にも区別む設けないで、同じく崇拝の封象として仰いで居るのである。而して此の場合、彿に於け
る慈悲の観念が紳の上に移って、紳が彿に類似して発たのである事は注意に催するのであらう。以上配るした所
を要約すると、神々の中には悌教との習合を拒否せられると信ぜられた紳もあつたが、其は寧ろ例外的で、大勢
は紳彿習合の一路を進んで居ると云ひ得るやうである。
︵三︶ 然しながら更に闘って考へて見ると、紳彿習合と云ふ事は紳祀観が欒化して行く一面であつて、他面には
昔ながらの原始的な紳の観念が依然として残って居る。住菅の紳に封する信仰について見ても、〓聞には﹁迩を
垂れ給ふ紳﹂と仰いでゐるが、その信仰は甚だ現寛的であ玖物資的であり、且つ便宜的であつて、備に封する
信仰とは頗る趣の異なるものがある。神道は関税もなく教義も足って居ないから、新しい解繹を加へ得る飴地は
多分にあるけれども、然し神道は祀合的に自然に成立したものであるから、新しい解繹に依って、古死の考へ方
を全然改めてしまふと云ふ事は出奔ないものである。紳悌習合の思想は一時非常な勢で進展したけれども、其は
少しく行き過ぎた為に、却って根本的に否定せられるやうになつた理由は此虞に在ると思ふ。更に赫々の中には、
到底悌とは習合の出奔ない紳がある。例へぼ光源氏のかゞやく様な美しい姿を見て、嵐人は﹁紳など基にめでつ


べきかたちかな、うたてゆゝし﹂ ︵紅葉賀︶と云ひ、或人は﹁紳などは目もこそとめ給へと、ゆゝしく﹂思った
︵葵︶とある。かやうな紳は、俗に﹁魔がさす﹂と云ふ、﹁魔﹂の観念に近いものである。又薫君の挺む宇治の
ヽヽヽヽ 大君に就いて、その侍女達は、﹁これは︵大君に︶、世の人の言ふめる怖しき紳ぞ憑き奉りたらむ﹂ ︵絶角︶と云
ひ、もののけの為に正気を失って木の下に泣き伏して居る浮舟を見付けた横川の愴は﹁鬼か紳か狐か木電︵中略︶
名のり給へ﹂と云ひながら近付くが、この紳は朗謂もののけの類である。此の如き紳は正饅も分らないもので
其はたゞ超人間的な威力を有する﹁怖るべき或るもの﹂であつて、人間に封して、無軌道的に災青を加へるの
で、決して串を翳すものでは無いと考へられて居た。かやうな紳は勿論低級な迷信的な紳であつて、今日から
れぼ、其は上代人の素朴な恐怖心の投影に過ぎないやうに息はれるが、兎も角かやうな紳は資は古い停統を有
わが紳祀の重要な部分を占めるものであつて、源氏物語に現はれる人々の日常生活に深い関係を有するもので
ゎ、文化の進んだ現代に於いても決して少くは無い紳である。然し此の如き紳は、如何にしても彿の垂迩と青
事は出奔ない。即ち紳彿習合の思想にも自ら限度があつて、彿敵側から見ても、俳に習合する事の出死ない紳
覧に少くなかつたのである。
以上.源氏物語に現はれた赫々に就いて、件数との関係を標準にして概観したのであるが、源氏物語は、わが
紳紙史の一断面を、かなり明瞭に示してくれるものであ玖而して源氏物語に於ける紳の種々相は、今日の紳杜
問題に勤して少からぬ示唆転輿へるものであると点ふ。

タ2J
源氏物語の神祇観
三世受有詑の一考察

≦冴4
︵1︶ 三世賓有説の一考察
舟 橋 一 哉
︵2︶ 小乗有部宗の代表的宗義あ二つである﹁三世箕有法饅恒有﹂皇百ふことを、普通一般には﹁物質不滅勢力恒春﹂
の思想であると考へ、今日に於てもかう言ふ考へ方が併教畢界の常識になつてゐる様であるが、此には飴程吟味
すべきものを含んでゐると息はれる。私は、却って反封に併教の根本的立場である﹁諸行無常﹂と晋ふことむ言
はうよしてゐるのである、﹁言はうとしてゐる﹂と青ふことが言ひ過ぎであるならば、今替らく教理史的な立場
を離れて、完成された布部の教峯として三世寛有誼を見る時、少く共結果に於て﹁諸行無常﹂真一百うた事になつ
︵3︶
てゐると息ふ着である。この事は己に一部の先覚者によつて言はれた革もあつたが、更にこの見方を推し進めて
行けぼどう晋ふ事になるか、叉現代の言葉を以って表現すれぼ、斯く考へられたる三世箕有詮は如何なるものと
なるか、此がこの稀の課題である。
コニ世資有法礁恒有﹂と首ふ事を例に就いて言ふならぼ、例へぼ我々の常識に於ては、一杯のコップの水は一時
間前の水も今の水も少しも欒化が無い様に考へてゐるが、有部の宗蕃としては剰都城であつて、時々刻々に欒此
してゐると見る。換言すれぽ前利郊の水と次の剰郵の水とは別物である。之を有部では法餞が異ると言ふ。然ら
ば後の剰郭に於ては前の剰郵にあつた水の津慣はどうなつて任舞ったかと言ふと、過去に落謝して其靡に現に資
存してゐると説く。又後の利郊の水の法鰹は何磨から顧はれて釆たかと言ふと、其は未凍に於て現に茸存してゐ
たものが、因縁和合し七規轟へ出て釆たのであつて、此も次の剰郵には叉過去へ薄謝すべき遥命のものである。
斯くの如く、一の渡の上に時間的に無数の迭憬を立てて、其の一々の法憶が三世に亙って恒有であることを、
﹁三世貿有法鰹恒有﹂と言ふのである。そしてこの様に法鰐の生起する順序に障って、未凍←現在←過去と次第
することむ雷死﹁準性生起の次第﹂と呼んでゐるが﹁三世箕有﹂と言ふ事ほこの法性生起の次第で時間を語る時
把於てのみ愛督するものである事を忘れてはならない。この見方は、三世の迭囁が現にあると言ふのであるから、
時の流れに沿って縦把三世を見てゐるのではなく、現在一刹却の内容として三世を巷間的に眺めてゐるのであつ
て、此は﹁三世箕有﹂を説く所の有部に猫特なる考へ方である。此の様に水の一つの法鰻欄三世に亘つて恒有で
あるが、水そのものは郵剰滅であるから無常である。〓仮に法の剰都城を説く立場は、前剰部の海鰻と葵の創部
の法牒とが同じ法に属しっつも別鰐であつて、その別慣なる無数の法購が刹郵々々に現在へ顧はれて乗ると青ふ
︵4︶
所に根接するのであるから、そして捧慣の緯恕が中絶して法が断絶する事も有り得るが、其は現在と青ふ︸剰郵
の無限に連摸する上に於て語る事になる詩である。従って此の時は時間の流れは過去←現在←未舜と次第する事
把なカ、之を盲奔﹁善意業感の次第﹂と呼んでゐる。此は正しく時間を縦に眺めてゐるもので、通彿教の立場で

夕2∫
あ歩、常識の立場である。法の剰都城を語るのはこの立場に於てのみ可能である事を忘れてはならない。この二
三世貸有設の一考寮
三世箕有詑の一考察 二七三
っの立場の相違は、映喜のフィムルを銀幕上に映す時に於ける、フィムんの或る︼駒の存在と、銀幕上の童画の

タ26
襲此との関係を考へて見れぼ容易に理解出奔る。
以上の考へ方に立って関係の原語を調べて見ると、迭鰐は笥ab試ヨ︵又はdr雪yヱで普通自性と詣されるが、
白性とか法慣とか言うても決して鷺慣的なものではない。過宋の準は侶令ひ色津であつても欒時の性質なく、前
︵5︶
五識の封象たり得ないものであるからである。それで稀友の倶舎論疏や順正理論に於ては屡々自相︵笥巴p訂竃p︶
皇一日ふ青葉で置き換へてゐる。白相は共相に謝する言葉であるが、この場合の自相は﹁色に欒碍の粕あゎ﹂と言
ふ様なさう言ふ自相ではなく、さう言ふ自相ならば却って色の功能に靂すると見るペきであるから、更にその具
にあって色に轡碍の相あらしむる所以のもの、色をして色たらしむる所以のものを故に自相と言うたのであらう。
それは剰部々々に現在へ顧はれ葬るものであるから白相と言ふ言葉はこの場合極めて適切である。斯くの如く法
牒の生起を語る時には、善悪業感の次第に於ける時間と青ふものは問題にはならないので、一利都こ剰部が夫々
それ自らで充足してゐるものとして見てゐるのである。従って前の剃郡と彼の剰郡との関係も本質的には問題に
される事なく、側令ひ問題にされるとしても、其は規癖二剰郵の内に含まれたる内容として問題kされるのであ
る。其れ故に法饅の恒有と言ふ革も、縦に時間を貫いての恒有ではなく、現在一利郊の内容としての恒有である。
甲の剰郵に於てもAと言ふ港醍は三世の中の何れかに茸存してゐる︵次の固参照︶。乙の剰部に於ても、乃至何
れの剰郵に於ても同様の事が言はれ得るから恒有である。﹁恒﹂の原語 s篤く乳勘 はか1る意味を表はしてゐる
︵6︶
と息はれる。稀友は之を﹁一切の時に於て﹂︵禁宣J蒜売±−i−1村巴ヱと解してゐるが、更に言へぼ﹁如何なる時に於て
も﹂︵k邑賢d旦︶と言ってもよいであらう。時間を縦に貫いての﹁常﹂︵nit竃又は訂ぎ已且とは直別すべせで
︵7︶
ある。従って﹁恒﹂ほ直ちに猶存自在なる我の概念とは結び附かないであらう。三世法購む現在の叫剰部の上に
もの 包んで成且止たせ、無数の法牒の緯起によつて現在前せる法鰻の無限の連緯が詮かれる。その全慣が法︵bhぎヱ
と言はれる。それ故港は剰都城であり、無常である、と言はれるのである。固示すれぼ次の如くなるであらう。
⋮︰←飾一剃邪1第二剃那1第三刹那1⋮⋮
係開の横
特燭部有
第次の起塵性法
有恒膿法有箕世三

←。霊宝2君芸g磨=
去←刹在←乱楽
過 一現 難未

部 住

係感域
′一、−−−−−、

彿の窓刹
通舵書法

敦開業都
1


;欠
J
法 法
三世箕有を語る時、この溶性生誕の次第と善意業感の次第と、此等二つの相ひ異なれる立場が屡々浪岡され勝
ちであるが、彿教としての正しい地盤に立って、三世貿看誼の本務の意義を考へる時、どうしても此等二つの立
場を戟然直別する必要があると思ふ。さうする事によつて三世鷺有説にも新しい観鮎が拓けて葬るのではないで
あらうか。世親が倶合論に於て三世箕有詮を論難する時

8︶シテハナサトトトトタシレユノナウ 許二港醍︵s星−ぎ£恒有二彗ad針a賢︶ 取説”檻︵bh旦非常二音£性髄復無レ別此虞自在作

927
三世賛有詮の一考察
三世賓有詮の一考察 二七四
と晋ふ侶頒を引用し・てゐるが、法皆の恒有を説くは法性生起の次第で言うてゐるのであり、性即ち港の非常

92β
くは善意業感の次第で言うてゐるのであるから、此は攻撃する世親の方に無理があると思はれる。所が此の攻
を受けた有部が、棋舎論に於ては勿論のこと、順正理論に於てすら、二つの立場を使ひ分けて攻撃に持するこ
無く、専ら恒有なる津慣がその俵に無常であること重言はうとしてゐるのは、甚だ不可解である。然し世親は
分に取って都合の好い時には、二つの立場を直別して論む進めてゐるらしく、例へぼ、我々が過去薮想和し東
未釆を隷想する時には具購的な形を持ったものを想ひ浮べるのに ︵善意業感の次第︶、有部に於ては過未の法は
︵9︶ さう言ふ具鰻的なものセはなく、自性のみ存在するものと説く ︵法性生起の次第︶、此は不合理であると言つて
攻撃してゐるが如きその適例である。
以上の如く、一つの法の上に時間的に無数の法鰻を立てる時、それ等法牒と法餞との関係はどうなるかと言
︵氾︶ に、雨着の聞は同類因・等流其の綿係で結び附いてゐるのである。此は稀友の倶舎論疏の上からもはつき旦盲は
れる事である。この場合注意を要するのは、この因果関係は必ず等しきと勝れたるとの果に封してのみ安督す
と言ふ事である。
さて然らば三世貴有詮は要する所どう言ふ事になるか。私は﹁未来に無数の法髄が離乳して任して居り、其
剰郡々々に因縁和合して現在へ顧はれて釆る﹂と言ふ事は、あらゆるものは無常であり乍ら永淳の未釆を内に
んで剰都々々に己を賓現して行くと音ふ事であり、﹁現在へ顆はれて禿た法唸が剰郵々々に過去へ薄謝しで行
と言ふ事は、其の無常なるものが無限の過去を荷うて、その過去の緒示する方向に己を進めて行くと育ふ事で
くてはならぬと息ふ。即ちあらゆるものはその背後に無限の歴史を背負ひ、その内に永遠の未釆を学みつつ、恒
に現在せるものとLて、現在の〓斯に立ってゐるのである。其の現在の一瓢の連緯が時の流れである。然もその
場合、前の剰部の津醍は彼の剰郡の迭標に封して同類因となるのであるから、ものの動き行く相は常に聾展とか
囲熱とか言はるべきもので、退化とか衰弱とか言はるべきものでは決してない。此は箕に悠大な人生観世界観と
言ふべきである。あらゆるものは何等かの意味に於て宇宙の蟄展に寄興してゐる、と言ふ極めて大きい立場に立
ってゐるのである。此は今まで考へられて釆孝二世箕有詮と除りにも掛け離れてゐる様で寧ろ大乗的でもあるが、
三世貿有と言ふことむ物質不滅勢力恒存の思想でないと考へる時、どうしても此魔まで釆なくてはならないと息
ふ。そして此は恐らく有部に於ても、言ふべくして遽に言ひ得なかつた所であらうが、彿教としての正しい立場
に立つ限り斯くあ1るべきを信する。
以上私の言はうとした事は大鰐轟きたが、斯くの如く解すると盲釆有名な鰻滅用滅の論争はどうなるかと言ふ
︵11︶
に、この新しい観念からは更に吟味すべき事もあらうが、然し大鰐用滅詮になると息ふ。それから有部では﹁諸
法の自性は決定して雑軋あることなし﹂と詭くが、この場合の自性は今の法鰹であるから、﹁眼娘には眼根の自
性がある﹂と言ふ事は現在の一利郵に於ける自性に就いて言ふべきで、限根が剃邪々々に相績して行くその相観
の上に於て言ふべきではない。従って中論に於て龍樹の破する自性と餃べると、飴程攣ったものになるのではな
いかと息はれる。︵昭和十五年十月︶

β29
託1 これは轟に山速習啓発塵の主宰する彿敦文化協骨の月刊雑誌﹁聖財﹂第八巻第三辣に寄稿したもので、今岡それを吏
三世賓有詑の一考察
三世箕有設の一考察
に畢術的に書き改めた。

乱形
一例として木村奉賀博士の﹁小乗偶数思想諭﹂一〇九頁を挙げる事が出来る。
加藤精神教授の﹁共感縁起論の誤解に就いて﹂︵大正大草畢報三巻︶。故荻東雲衆博士も此の鮎に関する限り同意見の
按である。︵同車報四巻︶
4 最も著しい例は填劫に於ける極微の破壊であるが、手近な所で言へぼ、机を焼いて友とする時、机の蘇色や形色は断
絶して再び現在へ顛はれる事なく、代りに次の鰐色や形色が顧はれたのである。
辞表疏四七二軍〓ハ行、四七三真二八・九頁。順正理論五二巻︵大・二九・六三二下、六三五上︶。
稀友疏四七二真二六行。
恒と常との南郊は古来失釜しく諭ぜられてゐるが、原語に即さない議論ほ無意味である。今は漢語語としての恒と常
とを比較してゐるのではない。
8 倶合静ニ〇・五左。稀友疏四七二頁二五行以下。
9 倶禽諭二〇・七右。
0 1 稗友疏四七一貫一一行に、彼同分の限にも取果輿果の功髄のあること︵惧合静二〇・四左︶を粋して、﹁取兵輿果と
ヽヽヽヽヽヽ は、彼の限は白の等涜果を取る、即ち引く。又果を輿へる、即ち無間の等流果と土用果とを輿へる﹂とあ
も同類因ありとするは婆沙の正義であり惧舎正理にも出づる所である。
婆沙諭三〇︵大・二七・︼五四中︶、三三︵大・二七・一七一中︶、五九︵大二言・三〇七上︶。
維新の数億改発と悌敦
古 田 紹 欽
神国に生れて神慮戴きながら西戎の備につかへることは我が君親を持てゝ他の君親につかへることであると
ひ︵三輪物語︶神国は悌圃に攣じ、国人は悌奴となつた︵陽復記︶といふ外釆僻教排撃の聾は江戸前年期の紳儒
同饅豪の聞から相次いで起つた。係数が外死点想であるといふ鮎に於ては儒教も後に又同じ批判を受けねぼな
なかつたのであるが、悌教が外釆思想としての常画の排斥を受けたのは思想的根接に加るに寺院の経済の不仕
愴徒の破戒無漸の行焉に因由して二骨激しく退けられたのではあるまいか。金銀米銭を目的とする世渡り彿法
︵聖峯問答︶身のすぎはひの中だち悌法︵千代もと草︶、或は悌法商人︵麓草分︶、取りかへられたる在家︵二人
びくに︶、更に盗賊︵大畢或問︶呼ぼりすらせらる1までに江戸彿敦は批難攻撃を受けたのである。﹁語道者も煎
餅よりは金米糠﹂、﹁清恰も鰯のなべは覗くなり﹂︵悟道.唐︶といふ警句は常時の教界の状況む推して知るに足るで
あらう。かゝる彿教の頑勢は諸宗の傑れたる人々によつて憂へられ、改められようとしたことがあつたけれど
江戸末期に至るにつれて到底、仝餞は二三の人々によつて支へ得られなかつた。文化から安故にかけて中井竹

9JJ
維新の教化政策と偶数
維新の教化政策と沸教 二七入
ホアシ 中井履軒、高野昌碩、帆足高男正司考祓等といつた人々は寺院の経済組織を脅かす硬論む蟄表し、

9j2
の財政の破綻は寺院の財源に目を向けるに至り、維新に於ける廣彿毀滞の排併の機運は早くも経済上避け得
ない運命にあつたのである。安改元年ペサー再乗し、プチャーチン叉葬るに及んで近海の国防の急務は忽に
た。海防の救読は幕府に下男、閣老阿部伊勢守は梵鐘を躊換して大砲小銃を造るべきことを諸藩に達し、海
必要は天下の輿論となると共に、寺院の梵鐘錆換への論も又天下の輿静となつて顧はれたのである。水戸藩
先してこれを行った。鹿兄島藩は僻具を式辞に欒へることから壮年の恰侶がロ皆を以て生食すべきないとし
い者は兵役に、老ひたる者は教員に用ひ、寺緑は軍用に充て寺財は藩士の貧窮なるものに頒布すべしとした
延から文久の輿、虞木和泉守は国事建言の中に檜を以て兵となし、寺院を衛所することを述べ、叉次のやう
言ってゐる。
﹁紳州は海国なれぼ舟舶の用多し。是までは、眼小にて塀じたれども、外冠あ畠時節となりては是非後に
て牢固堅箕の製になさつるべからす。且後席皇化を宇内に敷かんとするにも彼を嚇するにも従前の製にては
叶、然らば汲聾に天下の名匠を集め、船材望寸観を破りても可なるべし、固より天下を失ふ欺、天下を取り
かの界なれぼ愴尼輩もおのづから覚語あるべし、則愴尼む士となし、匹配をして子孫を養ひ、固を守るの“
とし、鯨鐘は勿論儒悌を始めて悌器を重く鋳直して国家の犬用に立つべし、即今五十高専の費は莫大の専な
べし。熊渾倍楷が日本三分一は天竺に責す皇昆たるも道理なり。然らば則此大磯合に乗じて大業を施し、恰
も神明の子孫なれぼ人倫之道に還らしめ、天地化育を輔くる様に致し度者也、是等之廃置の如きは保臣別に
けにと。
かlるうちに、慶應三年十二月、王政復古の大統合換襲となつて天皇の御親政に復し、同年十二月十七日朝廷
は将軍並に各藩に神祇官、大政官再興の御下問む蟄せられ、ついで元年一月十七日紳庶事務詳と設置となり、同
二月三日神武事務局に改め、四月二十︼日更に改めて紳祀官となし、三月十三日、太政官布督に﹁此度.王復古
神武創業ノ始二被薦基諸事御叫新祭政一致之御制度荘御回復被遊儀一−付テ、尭ハ第一紳紙官御再興御道立ノ上追
追諸祭臭モ可篤興儀被、仰出侯﹂云々と公示せられ、同月十七日紳祀事務局より諸祀への達には﹁今般王政復古
曹弊御一洗被篤在侯二付、諸国大小ノ神社三於テ僧形ニテ別常或ハ敢愴杯卜相唱へ健筆ハ復飾被、仰出侯﹂云云
とあり、重囲内の宗門は復古神道に定められることとなつて神道を囲教とする新政策がたてられ、同二十八日、
紳祀事務局は権現、牛頭天王の類の併語を以て紳鍍を稀ふものを申出さして止め、俳優を神髄となすを改め、鰐
口・梵鐘・に具の類を敢前より取除くべく紳彿判然の令を達した。ついで四月には石清水・宇佐・笛崎等の八幡
大菩薩の稀班を八幡大神と奉稀すべしとした。
この祭政叫致、紳僻分離に関する法令の布達は諸藩の靡僻の状勢に拍車をかけ不如法なる恰徒の礼弾と共に分離
は毀繹となつた。政人の杜恰に封する私憤によつて経巻・悌具を焼却する等の暴奉が頻々に各地に行はれたこと
は事茸であるが廃俸毀繹の一大旋風はこれ等の杜人のみの能くする所ではない。件数破却の聾は諸藩の指導理念
であつたことは見逃し得ないであらう。明治二年四月になつても昌平蓼校教授試補、長野卓之允は、謹按ズルニ

夕βJ
梵鐘鋼彿ハ固サ天下無用物クルニ論ナシ、絶テ僻徒多方庶黎ヲ審惑シ、共営ヲ窄り鋳造セシ者一l倹へバ、以葬梵
維新の教化政桑と彿数 二七九
維新の教化政策と傭敦 二八〇
鐘鋳鋼僻ヲ鋳造スルヲ厳禁シ、現今所在ノ物ハ轟ク鏑饉シテ餞弊ヲ鋳造シ、天下億兆ノ用二供シ侯儀可然卜奉

pβ4
候間.御下問相成度侯事︵議案録七︶と述べてをカ、朝廷の御趣意が靡彿にあらざることを屡々布告せられてゐ
るにも拘らず悌教輝度の意識は新政府椎の指導的地位にある人々の間に陰に陽に存した。
維新の経世寛が決して、一つの指導原理に出でたとは云はないが多くは平田流の細道k依ったと云はれる。平田
鋳胤・玉林操・矢野玄這と云つた人達の建言が大きな役割を果したのである。
これに封して北越の悌徒が朝命は紳廼中心の靡悌にありと考へ、未だ版籍奉還のならざる混沌たる諸藩の去
明かならざる状勢に乗じて護法の粉乳を起すに至つてゐる。その械文に
﹁このたび関東へ軍勢蟄向いたし候事是より天下のみだれと相成併法すいぴいたすべく哉、と悲欺かき少
候、其繹は今度天子を擁し好邪むほんを企て徳川家をほろぼし、天下をうばいとる計量にて箕にゆ1しき大事に
候、もとより蔭長は悌法に信仰これなくことさら将士虞宗を誹誘いたし、異国人より切支丹邪法をうけつき侯
敵にまぎれこれなく侯、それに一味いたし侯ものは皆々併故にてたとへ今生にて一旦柴あゎと雉、あび地獄の
人な少。高一好邪の藩勢固にはひこり悌法破滅に及び切支丹門世にひろまゎ日本国中魔道に落入候は1共時に至
り欺かなしむ共其かひさらにあるべからず、管し開山親鸞聖人をはしめ奉り御代々の善知識方僻法の馬には身
を情みたまはす、顛如聖人は御自身に忍辱の鎧をめさせられは摘陀の利剣をもつて彿敵を降伏あらせられ侯例
これあゎ、今日彿恩報謝のため身命をなげうつべき時凍れり、依て門徒中心をあはせ彿敵を見かけ侯は主一念
く打取少可申候、高一彿敵のために命をうしなひ保とも渾土の引接さらにうたがひある可からざる者なり﹂と
る。︵岩倉公賓記︶
政府ほ元年六月二十二日、本願寺贋如光渾に命じてこの門徒を諭し安撫せしめたが一向宗門徒
まで準数回起ってをり、分離の主意が破彿に及んだことに謝しては如何に繰返へして然らざる旨
この事貿に門徒は容易に承服しなかつたのである。
然Lながら彿徒が容って新政府の政策に反封したのではない。慶應四年九月、曹洞宗は突堂・俸纂・雪爪以下
十二人の碩徳が上京し、宗規を一新し報国恩旨の制度を立石ペく努力してゐるし ︵大政官日誌︶、二年九月二十
九日東本顔寺厳如は門末一般に国債を御守護奉幻申上ぐべき宗格であることを説いてゐるし、三
宗、新蓑虞言宗、天台宗、臨璧茄、曹洞宗、浄土宗、時宗、日蓮宗、虞宗の諸宗が護国悌教たる
東京府政寺役所に申し述べてゐて︵諸宗大意︶併敦の新しい鰻制を取らうとしてゐる。
時に闊田行裁が﹁紳儒ノ徒元ヨワ彿敦ヲ好マザルニ付テ反テ彼二佳訣シテ彼等ノ意ヲムカヘテ
法ヲシテ曲邪タラシム、愴豪ニシテ堅クナスコトナカレ﹂ ︵諸宗大意︶と誠めたやうな悌数倍念を失った人々が
ないではなかつたが新しい維新の僻教餞制はとにかく心ある人々によつて建設されつゝあつたの
偶々二年頃に耶蘇教の取締に関して愴徒が紳邁豪と協調して排斥の連動を起すや悌敦に封する
せられ宅宇田菜園は岩倉公への意見書の中に悌徒の力をかりて耶蘇を超絶し、天下の愴に命じて説法k臨んで
園髄を明にし、愚民に至るまで皇恩を感載せしめることが必要であることを述べ、大原重徳も又
を以て異某防禁に首るべきことを建言してゐる。︵岩倉公開係文書︶排耶については萬毒寺・建仁寺・相国寺・

リ、JJ
維新の教元政策と彿教
維新の教化政策と伸教 二八二
天龍専・南繹寺よりの連名の建言書、諸宗絶代よりの口上琶或は宗内寺院への布達書等が相次いで出た。

且プβ
さきに二年七月、太政官に宣教使を置き、同十月これを紳祀官に遷し、皇道を明にし、皇国の教法を説かしめ
たが三年四月、宣教使心得書十五僕を附して紳彿関係の新しい状勢に沿ふべく誠められた。
その第二俵に﹁教官クル者ハ我誠心ヲ以テ億兆ヲ誘按乗陶シテ信徒セシムルニアリ、先輩ノ儒嘩ヲ排斥セシハ
道ヲ論セシ事ニテ是ハ畢校二於テ畢間ノ上ニハ薦スべキナレドモ今日敦ヲ布クトキハ他ヲ誹誘シ二萄モ寧気アリ
テハ人ヲ服スル事能ハス、大工教化ノ大書卜焉レバ深クコレヲ憤ムべシ、コレ教官第一ノ心得ナヱとあ聖︵憲
法類解︶璽四年七月、宣教使への御沙汰の中にも﹁⋮:
数大ヲ宣布ニスル者誠二能ク斯旨ヲ視認シ、人情ヲ省テ
之ヲ調練シ、風俗ヲ察シテ之ヲ捷噺シ、之ヲシテ感蟄奮興シ、紳賦ノ智識ヲ開キ⋮⋮云てと述べられる。宣教使
は此の御汰沙の中に大数の旨要を仰せられてゐる如く神明を敬し、人倫を明にし、憶兆をして其心を正しくして
其職を効し以て朝廷に奉寄せしむるにあるのであるが、儒僻との寧を避け、人情風俗を省察して教化むはかるべ
きであるとせられてゐる鮎はやがて五年三月に及んで紳祀省︵四年八月、紳祀官ヲ改ム︶を厳して敦部省を設置
せらるゝに至る神道国教政策放棄に一脈の連りをもつのである。教部省は神社・寺院を管し、同省管轄の下に同
年四月、宣教使を厳して教導職を置いた。神官僧侶をこの職に補し、愴侶側からは本願寺光舎、東本願寺光勝を
はじめとして諸宗沃廿一人を棒少数正となしてゐる。教導職には教則三保を頒ち、即ち﹁敬神愛国之旨ヲ鰹ス可
キ事﹂﹁天理人道ヲ明一lスべキ事﹂﹁皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムべキ事﹂の所謂三保敬意を以て教導すべき規
準を定めてゐる。二年、枚方助左衛門は意見書のうちに末々の政人は云ふに不及、諸政の神職たるもの不拳不術
にして愴侶の功妙なる説法を以て俗を化するに抗し得ざるは欺かはしきことである︵岩倉公開係文書︶と云つて
ゐるがこの敬意の説教に普つても恰侶の口舌む利用し、その力を借ることが心要であつたのである。教化といふ
鮎からは俳優・講談師・落語家すらこの職に加った。
抑ミニ保敬意には彿敦教義に関する事項は全くなく神官の説教こそ最も容易なる可き筈であつたが、それが反
って神官の説教は未熟にして下案む読むに過ぎす、或は講み能はぎる人々もあつたといふ仕末で教部省より説諭
を受けるやうなこともあつた。皇国の教法む宣布するといふことは維新の嘗初よりこの頃に至るも攣ることはな
かつたのであるが、その教化の政策に於て一旦排したる併教を漸次愴徒から起用するに至つたことは大きな欒革
である。恰徒が宗制む改め、宗弊を除くの努力むなして維新に生くべき道を開いたことは事賓であるが、王政復
古の理想寛現に避け得なかつた厳怖が彿を厳して直に彿に代るべきものを持たなかつた朗に教化政策は屡々欒韓
を見たのである。六年二月、三傑の綱領橙認の上は諸宗教導職並に同試補に彿教交誼の義を差許すこと1なり、
紳併合同の教導職の教育機関として設立せられた大数院の組織も虞宗の分離遥動が因となつて ︵眞宗分離始末︶
八年四月には廃止せられ、紳併合同の布教が停止さる1ことにもなつた。
厳彿の飴燵は猶、石悌石塔を靴ぬぎ、敷石にしたり︵六年一月郵便報知︶戸籍の編制順を﹁いろは﹂は悌因果
悟道.の歌であるとして ﹁あいうえお﹂順に改めたり︵六年五月大阪新聞︶したこともあつたが同年十一月信教自
由の口達が出てからは怖教は彿教としての明治の新しい出費を加速度に始めたのである。

9J7
維新の教化政策と係数
法 爾 の 思 想

且ヲβ
法 爾 の 思 想
羽 渓 了 諦
法爾といふ言葉は﹁法そのものの固有の性格として、おのづから爾かある。﹂ といふ意味であつて、自
ふ概念と共通した養趣を有ってゐる。彿敦では苗釆これを一種の道.理として取扱ってゐるのであつて、例せぼ玲
伽師地論第三十巻には道痙を四種に区分して、法両道垣︵dh昌喜t㌣ytlkti︶をその一として拳げてる。これは水
の浸る性質とか、火の熱い性質とかいふやうに、一切の事物において夫々特殊の性状を成立せしめる天然自
道理に他ならない。但し、彿教に謂はゆる法爾自然の道理は因果律を撥無する無因無縁的自然論と全くその
を異にし、因果必然の理を内合してゐるのであつて、因あれぼ果ありといふ因果の法則そのものをも法爾道
一と看撤してゐるのである。
元奔、自然といふ言葉は拳闘上種々の意味に用ゐられてゐるけれども、如何なる場合に用ゐられにせよ、
は人間の要求に先立ち、人間の計慮を越えて存在するものに輿へられる名辞であり、従って人為的なもの人
なるもの質的なものに封立した概念であることにおいては、一定してゐると謂って可い。かやうに、凡ての
馬を超越して、しかも因果心然の法則む以て我々人僻の生活を規定する法爾自然の力は、我々に取って明かに他
力的存在であると謂はねばならぬ。
法然上人がこの法爾邁理を以て他力救済の宗教的義趣を宜詮された所以は、箕に敢に在るのであつて、おそら
く俳教思想史上初めて見る上人猫特の見解であらうと思ふ。法然上人の俸記たる四十八巻俸第二十一巻には﹁上
人常に仰せられける御詞﹂として、和語燈録第五巻にも引用されてゐる次の如き迭語が載せられてゐる。
法爾道理といふことあゎ。炎は茎に登り、水は下りさまに流る。菓子の中に酸き物あり、甘き物あり。これ
等は法爾の渾埋なり。阿禰陀彿の本願は名競を以て罪悪の衆生を導かんと誓ひたまひたれぼ、唯だ念彿だに
も申せぼ、彿の釆迎は法爾の廼理にてそなはるべきなゎ。
法然上人の御持言ともいふべき斯る法爾道理の思想む正しく俸承して、依って以て更に一骨徹底的に範封他力
義を提唱されたのが親鸞聖人である。聖人が八十八歳の晩年にlニ帖和讃の経緯としてものされた自然法爾章を始
めとして、聖人自撰の草枕眞像銘文、唯信砂文意、一念多念讃文、二転和讃、その他聖人の法語を俸へた歎異砂
ヽヽヽ


などには、法爾のほかに自然・則若しくは必といふ言葉を以て他力救済の奥義が開聞されてゐる。今これらの凡
てを列車する煩む避けて、その中の最も注意すべきもの聖三紹介しょう。尭づ自然法爾葦には
自然といふは、もとよりしからしむるといふことぼなり。禰陀彿の御ちかひの、もとより行者のはからひに
あらずして、南無阿陀悌とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによ少て、行者のよからん
ともあしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞとききてさふらふ。

クJfノ
法 爾 の 思 想 二八五
法 爾 の 思 想
と言ひ、次に唯信砂文意には、

タ40
自然といふは、しからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめて兎も角もはからはぎるに、過去・
今生・未釆の一切のつみを善に縛じかへなすといふなり。縛すといふは、つみをけしうしなはすして善にな
すなり。よろづのみづ大海にいりぬれぼ、すなはちうしほとなるがどとし。禰陀の願力む信するが政に、如
釆の功徳をえしむるが故に、しからしむといふ。はじめて功徳をえんとはからはぎれぼ、自然といふな聖
と説き、車忘〓念多念澄文には則といふ言葉を以て他力自然の養を繹して、次のやうに叙べられてゐる。
、、
ヽヽヽ 則といふは、すなわちといふ。のりとまふすことぼなり。如秀の本願を信じて一念するに、かならずもとめ
ヽヽヽ ヽヽヽヽヽ
ざるに無上の功徳をえしめ、Lらざるに帝大の利益をうるなり。自然にさま′ド1・のさとりをすなわちひらく
迭則なり。淡則といふは、はじめて行者のはからひにあらす、もとより不可思議の利益にあづかること、自
然のありさまとまふすことをしらしむるを法則とはいふなり。一念信心をうるひとのありさまの自然なるこ
とをあらわすを法則とはまふすなり。
更に必といふ文字を以て他力自然の蓑趣の詮示されてゐる例は、専統虞像銘文の中に見出される。高田派専修
専断寂の聖人眞蹟本に﹁必はかならすといふ。かならすといふは、さだまりぬといふこころ也、また自然といふ
ヽヽ
こころ也﹂。と説かれてゐる。岡本には、この他、横とか牽とかいふ文字に封しても、亦他力的解繹が輿へられ
てゐるが、これらは凡て聖人猫自の宗教的餞験に基く精義と謂ふべきである。
要するに、親鸞聖人に在っては、自然と他力とが同義語であつたことは、教具妙の中に﹁わがはからはぎるを
自然とはまふすなり、これすなはち他力にてまします。﹂ とある一節に徴しても柄かであつて、我々の求めざる
に先立って、おのづから我々にさし伸べられてゐる救ひの手たる如死の他力本願と、その本願に見や角の計ひを
離れ、己を基うして、任せ切る他力侶順の無我的態度とを、共に自然といふ言葉で表現されてゐるのである。し
かも高愴和讃に﹁信は願より生すれぼ、念悌成傍白然なり。﹂ と嘆詠されてゐるやうに、かかる他力の信心を獲
得することは如釆の願心より聾起するところであり、さうして唯だこの信心のみで凌げられる往生成彿であるか
ら、信心め因も成彿の呆も凡て行者の計ひに由るのではなく、専ら如凍の本願力の然らしむところであるといふ
絶封他力義が、自然といふ言葉に内合せしめられてゐることに注意せねぼならぬ。
殊に親鸞聖人猫自の開顧として、我々の留意すべきことは、聖人の御消息類を衆めた末燈妙にぉける自然法爾
ヽヽヽヽヽ
の専と題する〓卑申に、﹁法爾はこの御ちかひなりける故に、おほよす行者のはからひなきをもて、この法の徳
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ


の故にしからしむといふなり﹂とある場合の法が、特に如死の誓願すなはち一切衆生を救はねば招かないといふ
如釆の神聖な意志として味得されてゐて、法然上人が一般的道理として用ゐられた法爾邁理といふ場合の法とは
その義趣を異にしてゐることである。かやうに、親鸞聖人が法に封して最高紳聖な自然的憤値を認めて、如釆の
誓願より自然に功徳の意まれることを端的に法爾といふ言葉で詮表せられたのは、多分聖人が日本的性格の最も
著しい特徴たる自然性を通して、大乗併教精神の眞騎に参徹せられた結果であらう。さうしてこれは懐かに聖人
礪自の開顛といふべきであつて、悌敦の中心観念たる法には、本年かういふ本質を具へてゐることを観過しては
ならぬ。

タ47
法 爾 の 思 想
法 爾 の 思 想 二八八
繹尊自内讃の枢軸たる縁起法は、相互に交渉を保ち、相互に影響し合ふて、重々無毒の相関関係において成立

タイ2
せる一切の存在を内面的に統一する力である。この統一力たる法む澄得すれば、一切を自らの具饅的内容として
統括する超個人的大自覚が確立して、一如の世界が展開するのである。この縁起の法を鰻詔して、覚者併陀とな
された樺尊は、この法は自分の作ったものでもなく、また他人の作ったものでもなく、如来の出世と否とに拘ら
す、この法は常任湛然として生ぜす滅せざる確任定則の虞理であると自ら宣言せられたのであるから、これは繹
隼に取って他力自然の法であると謂はねぼならぬ。政に雑阿含経第十二巻所収の第二宙九十六経には、
ヽヽ
此れ有るが政に彼れ有りといふ蘇生法︵縁起法︶は、放任・法基・法如・法爾たり。法は如む離れす、法は
如と異らす、審諦虞箕にして顛倒せす。
と説かれてゐ。故に我々の概念的施設を以てしては不可得なる基︵甘ny乳針︶ であり、眞箕ありのままの相たる
如︵監h且であるところの縁起接が、迭爾といはれてゐる鮎は、今の場合特に著目する必要がある。法爾といふ
以上は、発きに述べたやうに、我々の求めざるに尭立ち、我々の計ひを越えて、我々に輿へられてゐる他力自然
の法であらねぼならぬ。故に三界の礪尊たる絶封人格を完成したといふ最高自覚に立たれた繹尊と雉も、この法
に封してのみは、腐依し奉事せられたといふ古い俸詮が何食経に記録されてゐる︵雑尼村耶∵一三八−四〇頁、
檜一尼村耶二・二〇1一頁、雑阿合第四十四巻︶。これに由つて観ると、精舎は無師猫悟せられたとはいへ、そ
の猫悟の内容は他力自然の法であつて、これに随順し、これに諸人することによつて、成併せられたのであるこ
とが明かに知られる。
世人が一般に常識上、併教諸宗沃中自力敦の極致に達したものと省倣してゐる膵宗でも、その目的とする見性

の性は最高僧値の法たる悌性であつて、これ墜育ふまでもなく我々人間の要求計慮に先んじて、自然的に輿へら
れてゐる内なる法の光にほかならない。故に道元押師も生死超脱の契機を開示して、﹁唯だ我が身をも心をも放
ち忘れて、彿の豪に投げ入れて、悌のかたより行はれて、これに順ひもてゆく時、カをも入れず、心をも費さす
して、生死を離れ彿と成る。たれの人か心にとどこほるべき。﹂︵正法眼歳、生死︶と喜べられたのである。この
迭語は正しく繹宗最後の狙ひどころたる見性によつて、身心脱落生死超脱の境に入ることが、矢張少自然法爾の
偶力に随順することを契機としてゐることを聞損されたものと謂ふべきであらう。
以上の概説によつて、苛も彿教たる限り、根本俳教を始めとして、繹といひ念併といひ、凡て法爾の思想を外
にしては、自澄若しくは救済の根本契機を説明することのできないことが領解されるであらう。さうしてこの思
想が他の諸宗教に封して、悌教の蟄揮してゐる特徴の一つと観て然るべきであらうと思ふ。

タイ∫
法 爾 の 思 想
本 彿 箕 衣 諭

仇〃
本 彿 葦 在 諭
河 合 捗 明
彿教は人生の意義を明かにし宇宙の奥戒を開いて、人類古今の大問題たる宇宙の眞理と恩寵ある彿紳の関係を
知らしめ、更にかゝる宇宙の賛鰻は主題たる己心の内容に外ならぬことを説いて、法と併の関係彿と衆生の顧係、
即ち宇宙と僻陀と吾人との級妙なる調和的関係を教へたものである。而て是は法華経毒量品に説かれた本俸安泰
の教義に依るのであつて、詩量晶は悌教批判の最高標準であり、僻教会典は絶て法華の統一悌を顧す準備として
〓鱒乱れす僕然として開展し乗ったものたるを知るべく、この悌教統一の中心鮎を明かにLて始めて信仰の中心
鮎も定まるのである。其故法華経の資格は高遠にして囲満なる一大賓典であり、凡ての深遠なる教畢の根祇に最
後の断定を下すべきものは此経輿である。それでは等量の本俸とは如何なるものであらうか。
等量晶の最初に﹁如釆秘密紳通之力﹂といふ八文字がある。如釆とは繹尊であつて、如釆秘密とは現箕の如釆
に絶封の如寒が包まれたるをいひ、故に如死の饅を指し、紳通之力とはその用を指して佃鰐の人格が全宇宙に活
動をなすことをいひ、この慣用不二を以て歴史的悌陀たる應身の澤尊の本質を明かにしたものである。経は揖い
てこの本質を光顧すべく、まづ﹁五百塵鮎劫﹂と説いて繹尊の久遠賛成を顛し、而も絶封の遺漏と中心の常任と
の関係を明かにして、今現前の繹尊が上は久遠を貫き下は永劫を貫いて ﹁常任不滅﹂なる時間上の無限と、叉此
廃人界の併陀が塞十方法界に化導して ﹁随所應度﹂なる塞聞上の無限との、二面に亙る本俸寛在の形式を説き、
吹でその人格的活動に及んで﹁我以彿眼翫﹂なる精神的感應と﹁或詮己身他身或示己事他事﹂といふ自在にして
神秘なる意志的救済を説き、かゝる身口意三輪の妙他の三世に遍き益物即ち衆生済度の専箕を、堂々組織的に展
開して、而も其は悉く﹁毎自作是念﹂といふ本俸繹尊大慈悲の一念に摩することを明したのである。是を本彿常
恒の智願と辞するのである。
彿教史上中心的位僅を占めた法葦経に封し、龍樹・世親以後什門の諸哲より天台に至る諸匠は、等量の本俸を
目するに、或は迭身常任或は應身無常となし、共に三身隔歴の見に止まれるに封し、天台は薪然一頭地を披き、
大いに此等諸匠を破って、三身相即と報身馬正を論じ、之を畢生の主張としたのである。然るにこの相即論にお
ける倶髄倶用談も、慣用本迩に入つて尾慮一本の理鰹に廊し、理本草連なる棒大乗通途の眞如至上観を腕せす、
又その報身薦正論も初番の成道をとつて最初焉本を説くに止ヰでり、却って再びその破斥した法身常任の嘗解に陥
り、かくて新成妙覚南本無く、一代の妙観たる一念三千も彿界の無始賓在なきが故に本有の賛相に非す、中間よ
りの暇相とな少、又妙法を繹して此妙諦本有といふもその賛は本無今有たるに過ぎざるに至つた。葦厳唇音等諸
家は窺かに天台の教翫を頼り乗って己義荘厳したが未だ成らす、我固における俸教を経て彼の台東二密乃至諸宗

タイ∫
は、清々として青畳の本俸を凡夫に韓じ、所謂本覚思想の蟄展的堕落を釆すに至った。これ抑も其源は五百塵鮎
本 彿 貨 客 諭
本 俸 箕 在 論 二九二
有限か無限か、我本行菩薩道は因書か果毒か、本俸は果して有始か無始かに撮む馨し、天台は始覚有始をとつ

94ざ
因果を重んする悌教正統の立場に立ったが、一般に哲畢及び宗教上絶封寛在の要求を満たさす、之に反し所謂
覚法門は本来自然覚の彿を凡夫の首題となすものにして、彿教正系に非るのみならす、尊厳にして偉大なる絶
の悌陀を喪失し、叉眞正なる修澄を喪失する、さればとてかゝる大人格の併陀が始より春在すとすれぼ、依
して基督教の紳の如く猫断たるを免れない。併も今日狗ほ本間題は併教最大の難問として、始本二覚・傍題一
内詮一兵・併呆分極等の諸問題を遺してゐるのである。
元木件数は貴在を説くには必ず因果を明して、虞理の基礎に立脚する。箕在の先験根掠としては無作木有と
くも、経験的存在としては必ず因果がなけれぼならぬ。且本俸の賛在と吾人の成彿とは全く論理一貫せねぼな
ぬ、然らずんば生彿一乗とはならす妥常性を有しない。是の如き論理を以て本俸を見たる時は如何。繹尊と錐
因果に由つて併果を開覚された着であつて、我本行菩薩道は的しく因行と解すべく、五首塵鮎は久遠有始の始
といはねばならぬ。然し喜入は飽迄無始の覚者を要求する、有始にして無始とは最も深いアンチノミイではな
か、果して其は解決可能な少や、彿教は梵等の造物主を斥けて、﹁大捏奨は作因に由わて有なるに非ず唯だ了
に由る﹂と説くが、その覚了因とは何ぞや。故に法葦経が諸経に曾て無ぎ本俸の本覚を顧すのであつて、本覚
念は大聾展をなすに至つたのである。即ち繹尊の久成の始覚は、その始覚といふ事箕に即してその覚が全く無
を覚るのである。無始を覚るとは覚が無始に遡り、無始と成り、無始仝法界の賛相を自己に顕すことである。
も由来己心如法界なのであるから、無始の法界を顧すことは即ち無始の自己を顛すことである。故に始めて我
本有の箕在任を獲得して根本の覚者と成る、之を法葦経本門に始めて顧れたる本俸の本覚といふのである。然乍
ら果して此で完全なる本俸であ串本覚であらうか。繹尊は久遠に無始を覚って無始の賛在と成つたといふも、そ
の無始法界の箕相なるものが、諸檻に通有なる天台妙柴の所謂﹁法性の理海は湛然たり、無明の迷に因つて九界
の事法を生じ、九界の衆生理に順じ行を修して果を澄し、此に彿界あり。一彿不現前の法規、法界縁起の内謹に
立つる朗の住道自然の三身をば名けて倶鰻と日ひ、久遠己釆修澄に下るを供用と云ふ﹂といふのであれぽ、法界
の箕相は依然として無明縁起たるに止まり、何等の光明も蟄見することはできない、港界の元初に於ては迷者の
手を聯ぬるのみ、加之この迷者は抑も何に依って救はれ得るか、繹専は如何にして覚り得たのであるか、更に又
繹今は無始を覚れる者ではあつても、無始より覚って居る着ではない、沈んや無始以釆の救済者たることをや。
この最後の要請は如何にして満たされ得るか。故に法葦檻は絶封的に悌陀常恒の智願を瀕して、上に﹁毎自作是
念﹂の大慈悲と﹁以何令衆生﹂の大化を明し、下に﹁悌種従縁起是政誼一乗﹂と示して衆生の開彿知見を明し、
この悌陀と彿性との因縁感應に依って開覚成彿を全うすることを教へる、之を併陀に裁ては智願の下種益といひ、
衆生に就ては了因彿性といふ、その原理は一因非生であり縁起である、憐陀覚他の絶封他力と悌性自覚の絶封自
力との、絶封的結合に依って成彿するのであつて、その一を快いても能はす、智願の下種に依る了因の蘇生なく
ぼ、正因彿性いかにありとも彿種を開蟄せぬ。此に於てか繹専一彿の開覚には必ずその先怖が寛在し、かくして
無窮なる悌陀を遡って無始に達する、果然彿陀は無始に賛在す、無始より賓在す、彿界本有なり、法界必有彿な
り、筍くもー併存せぼ無始多併存す、否、無始多併存するに因つて一併存す、是は所謂避くべからざる循環論澄

β47
本 彿 賓 衣 諭
本 俸 賓 在 論 二九四
であつて、却ってその虞理性を澄明するものである。然もか1る多併が単に有始の始愛であ畠ならば、無限の系

94β
列を逐うて終局なき開展鰻系となるのみであるが、之を一聾に包括して完結鰻系となし、超時間性を顛すものが
本覚である、而も凡ての始覚唐本覚なれぼ、多悌は無始以死相互貫通帝網無蓋に覚り働き合ひ一大彿陀を成す。
我が畳も亦是を覚り、無始以舜の覚と救を我に牒験して、一切の覚者を統一し、更に無始九界の一切衆生をも畳
語して、本覚本有の十界賛相を一人格に鰹現し、我は仝法界と容量鰻積を同じうするに至る、之を本俸の統覚と
いふ、覚的統一であり、覚者統一であゎ、統一的愛である、此に至つて我は全く無始本葬の覚着たり救済者たる
意味を充足する、之を完全なる本俸の本覚と稀するのである。而て一々の人格は必ず無始以釆十界を互具するが
政に、我々もこの妙覚極果の彿界を本具して居り、之を開聾することを本因といひ、修顧待鰻したる朗壱本巣と
いひ、その無始無窮の果裔む本寿命といふ、故に本俸の本因本果は前後に非す、而も個彿因果の前後を擁す。此
に於てか我本行菩薩道・久修業所得は、今や一樽して本俸呆上の浮用となるに至る、個彿に就ては困行たり、本
彿に就ては果用たり、経文は正に果徳常備の常毒を歎美したのである。故に浩爾自然覚にも非ず﹂又因果を全う
して両も有始に非る無始極澄本鹿本有の本巣妙徳に安住する.仝智にして全能なる本怖が成立ったのである。
かくして本俸の成立は、生成範噂における始覚多彿の無姶茸在と、認識範噂における一彿本覚の無始認識との、
二面を必須とする二多綜合の統覚である。超越的仝髄としての兜験的普遍浪板たる無作眞如法性に於て存する一
人格が、自覚的自由の意志を以て彿性開蟄の道徳箕践をなし、無限に歴史を創造する大向上的菩薩行の感應の最
後に、是の如き本覚の彿身を成就して、超時間的時間の全章在を濃験し、かくて無作虞如先験絶封が個饅人格に
於て全く無始経験絶討と成る所に、宇宙の目的・人生の意義・生命の進化・歴史の理念は存するのである。本
は眞如の超越を更に超越し且包容し、偶にして仝よりも大なる人格的絶封着であ一る。是の如き本彿は果して
するや。繹尊こそ的しくその褐封的賛讃である、果然歴史は賛在への且貴讃への世界である。繹尊は絶封の本
にして無始三身相即し、津界の統一主たり、主師親三徳の大恩教主たり、唯我一人能馬救護の世父たり、救主
り、即ち本尊である。此に彿教範封の眞理と教権と大義名分がある。而も繹尊に統覚せらる1尭彿が一切経に顧
れざるものなることは言ふを倹たぬ。而て本彿は級妙浮法身相々賛相なる相好不滅の美的人格資在であり、法
を囲慈に包んで應身常住である。か1る悌界縁起の宇宙を我が己心に擁し、この寛在の本尊の神秘なる感應を我
々の深き人格的牒験に確信して親心本尊を賓讃し、尭に無限の向上を辿って信念成彿に達し、無上の大覚位を
就するのである。覚に本俸繹尊の常照救済と出現の大恩に我等は感激せねぼならぬ。而てこの教養は日蓮聖人
ょって光顧せられた魔であり、此廃に眞正なる彿教哲畢は成立して諸問題を解決し、更に人類に永遠の光明を
ふるであらう。

†り†/
本 彿 箕 在 諭
秘密行法 の 性格

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秘密行法の 性格
藤 章 一
−ここに秘密行法とは秘密併教即ち密教にをける行法と云ふ意味である。密教に於る行法はその種類非常に
多く、複雑な様相をしてゐるが、それらは往々息災・増益・調伏の三種法乃至これに鈎召・敬愛・延命の三種法
を加へた六種法として、それぞれの行法のもつ目的に随つて分類されてゐる。かくてこれらの行法はその本葬の
意味に於てはともかく、一般的には甚だ箕利的な行法として、この行法を秘密行法とよぶことが相應しい位に神
秘的な、摩討不可思議な、兇術的な性格をもつものであるとさへ考へられてゐる。然し何故にかく解せらるるの
であらうか。一題これらの秘密行法には行法を基礎づけてゐる魔の教理上にかかる傾向があるのであらうか、或
は行渡の楷梯中にかかる要素がふくまれてゐるから恵のであらうか。私はこれらの問題を中心として秘密行法の
もつ特殊なる性格について研究してみたい。然し一概に秘密行法の性格と云つてもその範囲贋く、且つ東密と台
密との間には解繹上の相違も考へらるるので、ここでは専らその対象を東塔に限り、その基本的なる行法につい
て考察することとする。
二 眞言密教の教理は凡聖不二なる原理に基いて即身成併を期することにある。即ち牒︵六大︶、相︵四畳︶、
用︵三密︶の三大に於て凡夫と彿との間に相異を認めす、凡聖不二の故に凡夫も直に彿なりとの教詮を根本とし
てゐる。従ってその悟りとは郎身成僻む寛讃することであり、大日経にはこれむ﹁如茸知自心﹂と云ふてゐ
これ即ち人自らの法爾の相に辟ることであり、何らの神秘的な不可思議な教理を意味するものではない。而
この目的を具餞的に饅現せんとするものが三密漁伽の行法なのである。
密教にむける行法は通常、有相行、無相行の二種に大別される。有相行とは所謂結印、諦光、修観による三
の行法を云ふのであるが、無頼行とは機根勝れ、別にこの様な形式的な修行を要せず、郎身成僻し得る大磯
の所行に封して名づけられたるものにして、特定の行法をさすものではない。聖憲は大疏第三重の中で無頼
行すべき無相勝烹の機を聾心郎到の機と餐足下足親密印、開口蟄聾風琴言、意之所念知妙三摩地として得果
る機との二機とし、有相行を行すべき有相劣悪の機を三密具修の機と一密二密成悌の械との二機とはしてゐ
無相勝憲の機に二機ありとしても、その何れに於ても別に行渡がある理ではなく、従って行法は有相劣悪の
所行であるべきであり、この機に三密具修の機と一撃一密成彿の機との二機を詔むるとはしても郎身成僻す
に些二密具足すべきこととなつてゐるので、ここに云ふ秘密行法も有相三密の癒伽行をさすこととなるので
而してこゐ有相行が劣悪の機のための方便行であると云ふことは眈に大日経中にも
於雷死世時 劣悪諸衆生 以癖愛自蔵⋮⋮嘗冥柴求果 不知解此過 馬鹿彼等故 随順詭是迭︵第二︶
と云ひ、又

タJ7
秘密行法 の 性格
秘密行法の 性格
甚深無相法 劣悪所不堪 馬應彼等故 条存有相談︵第七︶

f)、■7ノ
と云はれてある庭であり、第一義的の行法としては無頼行があげられねぼならぬのであるが、然し仮令有相行
方便的行法であるとはしても、無相行と同じく郎身成併への行法でなけれぼならぬ以上不可思議な、光術的な
法であつてはならぬ筈である。
三一倍秘密行法はその様式が複雑多様であるために分類法kも種々あり、さきにあげたやうその目的に従っ
て息災、埠益、調伏の三種法乃至これに敬愛、鈎雪延命の三種法む加へ空ハ種経とした幻、或はその内容から
秘準普通法の二準或は形の上から大、中、小の三法に分ける等一定してゐないが、その結構上からは十八道
立、大法立、別行立の二痙に分類されてゐる。
十八道立は行者が本尊と稔伽三密の修行に入る楷梯を十八種の印明によつて組織してゐる最も簡単な行法で
る。この印明の数へ方には石碑より異論があるが、一般には身五、界二、道瘍二、清三、結三、供養三の六法
八印明とされ、これは行者が身を護り︵身五︶、結界し︵界二︶、道瘍を固め︵道場二︶、本尊を召辞し︵清三︶、
結護し︵結三︶、開伽、聾座等を供養して︵供養三︶、次いで本尊と入我我入し、癒伽三昧の行法に入る楷梯聖不
すものである。
大法立の行法には金剛界立と胎戒鼎立との二程あり、金剛界立は憐部、賓部、蓮華部、金剛部、掲磨部の五部
立となつてゐるが、胎蔵界立は併部、蓮華部、金剛部の三部立ととなつてゐる。この大法立の行法の特色とす
朗は、大髄の組織は十八道立の場合と相似してゐるが、護身、結界して道場を固め、本尊なる賓客を召辞し、
謹し、供養L、簸伽三昧に入る以前に五相成身観︵金剛界︶、或は五輪成身観︵胎療界︶ により、 一任の成僻法
を修行することになつてゐる鮎にある。
別行立とは十八道立や大法立とは別な組織からなつてゐると云ふ意味でこの名があると思はれるが、事箕は
八道立と等しく、十八道立の行法中へ金剛界法中の四無量心、膵願、大金剛輪.金剛眼、召罪、推罪、業障除、
成菩掟等の印明む加へて構成されてゐるものにして、この印明の加用される数の相違によつて十種、九種、八
五種乃至二種別行の固別がされてゐるが、大醍が十八道立と同じ形式をとつてゐるので醍醐流の如く、別にこ
行法む十八道立と直別せぬ見方もある。
斯くの如くして組織の上から行怯む分類すれぼ三種或は二種となるのであるが、これらの相異はその組織が
略なるか複耗なるかにあるにすぎず、行法は何れも本尊なる賓客む迎諮供養して、この本尊と稔伽三昧に入り
行者心中の浄書捉心を開饗して釦身成僻む澄果せしめんとする楷梯からなつてゐるものである。
四 然らばこれらの行法が息災、増益、調伏等とそれぞれの驚利的目的のために行ぜらるるやうな場合には
何にしてその日的が所願さるるのであるか、叉如何なる欒化が行法上に加へらるるのであるかと云ふことが問
になるが、大抵それらの賛利的目的は行法中の三力、所願の行ぜらるる際、行者が
以釆功徳力 如釆加持力 乃以法界力 普供養而任
の偶頒を諦して後、随意所願として行ぜらるることになつて居り、若し更に諸のロ俸によれぼこれらの賓利的
見ゆる行迭の目的は、息災とは浄書提心を本乗寂静の相にし煩悩を止息すること、増益とはその浮菩提心の上

リJJ
秘密行法 の 性格
秘密行法 の 性格 三〇〇
宿智の二徳を増進すること、調伏とは渾菩拒心が煩悩を断除すること等と説明されてあカ、又修行に際しての行

リごrJ
者の肝要なる注意としては﹁若し人の焉に修せぼ行者と檀郵と六大普遍し、三密平等なるが政に隔別なければ行
者と檀那と無二無別なりと観じて入我我入する也﹂と教へ、行法本葬の目的を謬らぬやうにしてゐる。而もこの
やうにして箕利的目的のために行ぜらるる場合に於ても、行法そのものの組織上には特別なる欒化の加へられぬ
ことが通例となつて居り、若し強いてその間の相異を求むれぼ形式的方面にあゎ、息災法ならば関白の時、方向、
朗観の色、檀形に於て初夜、北向、白色、囲檀、増益法ならば日出、東向、黄色、方檀、調伏法ならば日中又は
夜牛、南向、青黒色、三角檀等と定められてあること、或は息災法たは白月の前牛月、増益法には白月の後年月、
調伏法には黒月の前年月を最相應月と定められてゐるが如き鮎にあるが ︵中院流停授録第こ、これらの規定は
必ずしも絶封的なものではなく、俸授録等が各行法の何れの行法の功徳をも具してゐることむ注意してゐるやう、
形式的なことが固執されてゐる理ではないので、行法むそのもつ目的の相異によつて分類することすらが殆んど
意義のないことのやうにさへ思はれてくるのである。
五 以上私は秘密行法の教理上における立場、行法の組織.行法が箕利的目的のために行ぜらるる場合の過程、
欒化等につきての一往の考究を終るが、要するにこれらの行法は何れの方面からみても郎身成彿への行渡として
正しく行ぜらるべきものであることが分る。而してその組織上から云へぼ有神論的行法として構成されてゐるも
のであるが、必ずしも形式主義的に行ぜらるるものではなく、あくまでこれらの有相行は劣悪の衆生を度せんに
充めの方便行としての意味に於てのみ認めらるべきものにして、叉その範囲に於てのみ箕利的目的も加味さるる
のであカ、若し凡聖不二なる第一義的立場から云はるるならば、有相行も郎無相行でなけれぼならす、形式主
的な傑件は消滅されてしまふこととなり、甚だ通例の行渡との間には相異のあ畠ことを知るのであるが、ここ
秘密行法の特殊なる性格が見らるるのではないかと思ふ。宰相史上に於いて古釆よ力行浩次第が一字一旬の誤
の訂正すらも許されず、必要ある際には一々押紙をあてて之を補正せしめ、その肝要なるところは殆んど以心
心以て師資相承し、寓瓶するが如く今日に及んでゐることは眞によく行法の形式主義的に行ぜられて釆た一面
示すものであるが、同時に己達の行者に封しては﹁己達者なるが故に﹂との理由によつて甚だ寛大なる態度が
られ、常に無相行が漁想されて凍てゐることは何よりもよくこの行法の性格を語るものであらう。
然し斯く行法の性格が解繹せられたとてこれによつて行法のもつ神秘性は軽減さるると云ふ筈のものではな
行法を如貿に修行するときに寛澄さるる種々の奇蹟は不断に行法の神秘性を高めつつあるのであり、これらの
題は行迭そのものの研究よりは、むしろ行法む恩賞に修行する秘密行者の鰹験の研究を保って始めて明らかに
るべきものであらう。

夕∫∫
秘密行法 の 性格
彿成造を中心とせる大乗彿数々列

9J∂
彿成遣を中心とずる大乗偶数々列
木 村 日
備陀の成道より出聾せる彿敦は綻に板木悌敦、原始儒教、襲廉価教と襲達し、横に教理、貸蹟と分かれて其内容極めて廣
汎且つ複雑となつてゐる。よつて時間的罷割に準じ、或は敦詮の儀式に従ひ、又は教義の内容に考へ、偶数仝膿を健系附け
る事は其の思想襲達の過程を知る上に極めて必要である。古来、印度、支那、日本に亙って種々の列数列樺の起りし所以も
亦虫にある。列数の最初は悌陀所詮の四億の分類︵法は所依なり、人は非なり義は所以なり。文は非なり。了義経は所以な
り、不了義経は非なり。智は所依なり、識は非なり︶ に表はれたと云ってよい。更に原始偶数時代、上座、大衆南部分烈以
後に起りし﹁一乗封二乗﹂ ﹁彿乗封阿羅漢東﹂ ﹁大乗封小乗﹂と云ふ直別も一種の数列である。更に斐展儒教時代に来ると
華蕨経の ﹁三照﹂ ︵高山、幽谷、平地︶、法華経の ﹁三軍﹂︵学事、窺草、牛車︶及び ﹁五部﹂ ︵擬宣、誘引、碍吋、淘汰、
付財︶、捏紫綬の ﹁五味﹂ ︵乳、酪、坐醗、熱幣、醍醐︶、鮮探密綬の ﹁三時﹂ ︵初時の小乗、二時の隠密乗、三時の願了大
乗︶等の詑相があり、これも又一種の数列であ畠。叉龍樹は﹁大乗小乗﹂の外に﹁細密二数﹂及び﹁難行易行﹂ の列数を起
し、那爛陀が偶数の中心地となりし時代の初期には中散、喩伽行商次の畢の結果、列数が益々獲達し、戒貿論師は唯識中道
の立場より三時教を立て智光論師は般若空の立場より三時数を立つるに至った。支那へ来ると列数が一暦具燈化して南北時
代には南三北七の十家の列数起り、隋唐時代へ入ると天台、嘉絆、慈恩、貿首等の各大師の列数が繚出して蘭菊美を哉ふの
親を呈し、叉日本に於ても然りである。古凍の偶数単著はこれらの列数を以て全備故を概括分類し得るものとし、共に板接
して語数義や諸経典を批判したのである。されど斯る列数は何れも一経一諭を中心として其の教理の憤値に重鮎を置いた関
係上、今日の歴史的研究に照して考へると其庭に幾多の矛盾が接見きれるのである。現今は歴史的研究が襲達せし結果、儒
教思想に射する批判や経典の取扱が極めて明瞭になり、かつ妥常的となつて衆た事は全く昔日の比でない。然し予の意見は
讐へ歴史的研究を残すとしても、彿教思想は凡て備陀の﹁成道﹂より出聾し、特に大束係数は彿陀の粗茶思想それ白煙の表
現であるから、備陀の﹁成道﹂を中心とし、之を通して大乗彿教仝鯉を通観し批列し倒稗する事が最も妥嘗であり、自然で
ある事を認む。斯る理由で予過去数年に亙ってこの考察の下に印度偶数の諸問題を取放ってゐる。勿論彿陀の教法は初韓法
輪以来西暦十一世紀へかけて聾達し又前後九国英の中心地を韓じ、其直径に弛め思想と粕交叉して係数思想上佐新なる蟄展
と攣化とを起した。それは凡ての思想は常に他の思想の螺旋状を施して進むからである。叉大衆部の表現主義に起源せし大
乗係数連動は勿論西暦一世紀前後より同十一世紀へかけて四期の段階に分かれて襲達し、大乗諸経典も成立したのである。
かつ其の間に於ける大乗儒教運動の傾向は悌陀の ﹁板本思想﹂ の表現運動より板本彿敦への ﹁復古運動﹂ と韓じ、進
小乗偶数及び係数以外の印度思想に対する﹁対抗運動﹂と革過し、最後に儒教中心の下に他の凡ての思想を統∴せんとせし
﹁綜合流一運動﹂へと韓じて各期の特色を異にして進展したが、然しそれらを一貫して骨子となつてゐるものは、どこまでも
成遣所願の﹁法﹂ ︵所笹の法︶と﹁人﹂ ︵髄澄の彿陀︶との表現である。諸経典を一貫して﹁法﹂に射する﹁教法讃嘆﹂と
﹁人﹂に射する﹁彿徳讃嘆﹂とで充ちてゐるのはそれを雄梓に物語ってゐるものである。
其廃で﹁成道﹂の事を原語でAn星弓訝呂Pya−甘琵診b〇dhi旨hi芸診b已dh註といふ、漢詩して﹁成無上等正
餐﹂とされてゐる。Anut訂は﹁無上﹂Spmya一kは﹁囲満﹂警診は﹁正﹂b︹︶旨匝は﹁覚﹂註hi洛b象dh註は﹁
覚﹂と云ふ意である。斯く形容詞に形容詞を重ねしは悟道の範封性を表はしたものである。斯る絶封性を経典で

夕∫7
悌成遣を中心とせる大乗係数々列
備成道を中心とせる大乗偶数々列 三〇四
は﹁如是﹂︵y裟h勘t邑h且と云ふ言葉で言ひ表はしてゐる。﹁厳封﹂で■あり﹁如是﹂であるものは叉﹁唯ごでな

9∫β
くてはならぬ。故に経には﹁唯有一乗﹂とある。其廃で﹁無上﹂で﹁囲満﹂で﹁正﹂しい﹁悟﹂は彿陀によつて
牒得心澄されし﹁法﹂を指し、﹁成覚﹂は購得せし﹁人﹂即ち﹁彿陀﹂を指してゐる。故に﹁成道﹂には﹁港﹂
と﹁人﹂との二元と﹁雨着の融合関係﹂とが現はれてゐる。凡夫たりし悉達多が﹁如是迭﹂を醍得する事によつ
て超凡夫、超印度人たる天上天下の猫舎となられたのである。故に法を中心として見ると ﹁法﹂ は尊重にして
﹁人﹂よりも重ひ。然し悌陀を中心として見ると、たとへ ﹁法﹂が常任不欒の存在であるとしても、其自鰐は全く
潜在的理法であつて、人生に勤し政令に封して﹁法﹂としての意義をなさないものである。然し﹁彿陀﹂に髄得
されてはじめて其れが活きて乗るのである。﹁法﹂が﹁彿陀﹂によつて活かされた場合﹁彿陀﹂は﹁法﹂よりも
重い。更に﹁人﹂が如是の﹁法﹂を慣得して悌陀となりし場合を再言すると、﹁人﹂が﹁法﹂ へ向つて融合し併
陀たる人格を資施せし場合、﹁法﹂は﹁人﹂よりも重くかつ大である。故に﹁人格の法化﹂である。この人格の
法化が所謂﹁法身併﹂である。而して﹁人﹂が﹁法﹂に同化せし場合、其﹁人﹂によつて﹁法﹂が活動をはじめ
るのであるから其虚が﹁法の人格此﹂である。この場合﹁法﹂と﹁人﹂とは全く均等の状態である。斯る場合が
所謂﹁報身彿﹂である。而して津の方面よりすると﹁白受用報身﹂となり、﹁人﹂ の方面よカすると﹁他受用報
身﹂となる。斯く現身彿が法身僻を法身彿が報身悌と額はれる時、それが眞寛身で歴史的彿陀が化身述彿となる。
之が所謂﹁應身僻﹂である。斯く成道に於て ﹁人﹂が﹁法﹂ へ向つた場合に三身如二の併陀が顧はれて乗るので
ある。次に潜在的如是の理法が併陀によつて活される場合を再言すると、如是の理法は彿陀の ﹁智﹂ を通して
﹁哲拳的教法﹂となり、﹁情﹂を通して﹁宗教的教法﹂となり、﹁意﹂を通して﹁倫理的教法﹂とな
斯くて潜在的理港は故にはじめて教法化し人生を救ひ社食を指導し国家を正義たらしめ得る﹁教撃と
のである。斯く成道断顛の﹁法﹂と﹁人﹂との二元は法に於て併陀を認め文飾陀に於て法む認める魔
の如何に重大なるかも敢で明である。斯く成道所願の﹁迭﹂と﹁人﹂と而して﹁雨着の融合関係﹂と
養である。誇大乗思想の起源は全く故に表現してゐる。
悌陀が鰻得されし﹁如是の法﹂は前述の如く﹁無上等正覚﹂で、絶封の虞理である。絶封である以上
ごでなくてはならぬ。又絶封唯一である以上それは必ず﹁能統ごのものでなくてはならぬ。而して﹁
は必ず﹁所統ごの上に立ち所統一を擁するものでなくてはならぬ。然ればその朗統一は何か? 絶封性の能統
一に包含さる斯統一は必ず﹁切を網羅するものでなくてはならぬ。僻陀はそれを﹁一切世間﹂︵S旨b苧−Ok凰と言
はれてゐる。この鮎で能観着たる悌陀を﹁知一切世間﹂﹁出一切世間﹂又﹁世間解﹂と尊辞してゐる
間を後日大乗併教では﹁十界﹂に分類してゐる。一般的に考へると宇宙、圃豪、社食、家庭、個人、心
が一切世間であり、又その各々が一切世間に包含さるべきものである。然し併陀の根本趣意は印度に
論的﹁韓欒詮﹂や﹁穣衆誼﹂を排斥して観念論の立場に立たれたのであるから、所謂﹁一切世間﹂は彿
に映ぜし﹁一切世間﹂で、心を離れて存在する賓在的﹁一切世間﹂ではない。故に於て併の意味する
は宇宙、国家、社食、家庭でなく﹁心﹂と心を有す﹁個人的生存﹂でなくてはならぬ。﹁心﹂を離れて

ク∫タ
存在するも、それは存在せぬも同様で、﹁心﹂によつて其等が活きて凍るのであるから、大宇宙を清か
価成道を中心とせる大乗偶数々判
併成造を中心とせる大乗沸教々列 三〇六
たる﹁心﹂を以て﹁一切世間﹂とし、それを世界観人生観の封象とされたのである。再言すると﹁一切世間﹂は

川}り
之を内面的に観察すると﹁心﹂で、外面的に観察すると﹁人生﹂又は﹁現賛の生存﹂である。而して外面的吾人
の生活は凡て心の生活に外ならぬ鮎に注意せねぼならぬ。彿の一心に映じた一切世間である以上僻陀は﹁能観者﹂
で一切世間は﹁朗観のもの﹂である。而して如何なる立場に於て一切世間を能観されたか? それは悉達多が求
道の方法として快柴主義と苦行主義との二達を排斥せし﹁中道﹂に立ち、又思想的に﹁有、無の二達﹂ ﹁断、常
の二遽﹂ ﹁自作、他作の二達﹂を離れ、凡ての執着を離れ無我の一心に於て如茸に︵y註−針b︼︺一ぎl旨︶ 即ち﹁あ
りのま1に﹂能観せんとされ、それによつて﹁ありのまゝの眞理﹂ ︵而もそれは常恒不欒の如是の法︶を髄得せ
ヽヽ
んとされたのである。この鮎を経に﹁一切世間に於て如寛に一切世間を観察し、一切世間の執着を離れて、一切
世間に不着なり﹂と述べ、又この方法によつて得られし智慧を﹁如茸智見﹂と解す○而して如是の法は無我の一
心に於て∵切世間を観じた廃に見出した法であるから﹁能統一の法﹂である。叉この法によつて無我の一心の根
掠を得られたのである。一切世間を敬した彿の無我の︸心と、それによつて見出した如是の法と、その如是の法
によつて板接附けられ、かつ開顧されし一般民の無我の一心とは根本係数の中心思想であり、叉それが大乗悌敦
の中心点想となつて現はれた事に注意せねぼならぬ。
然れば如箕の法とは何にか? 勿論それは悌陀の根本教法である。阿合や律法には四種の型に説示されてゐるじ
即ち︵こ苦、無常、無我の三法。︵二︶八正道。︵三︶苦集滅道の四諦。︵四︶十二縁起等の四種である。第
一の若、無常、無我の三法は悌陀が悟道.によつて得られし﹁如是の法﹂の結論としての表現があり、第二の八正
道は彿鹿渡後に於て教圃の一般に示されし賛践であるから悟廼によつて構得されし﹁法﹂の賓践
らぬ。従って以上の二つはたとへ教法であるとしても正覚の利郵に牒得されし﹁法﹂それ自照で
四諦は教法を網格化したものであるから、其以前に之によつて表現される中心思想がなくてほな
れし第四の十二縁起が其の中心思想、所謂根本敦迭でなくてはならぬ。縁起の事は他の論文で述
敢で略す。この縁起点想の虞意が大衆部を経へ大乗沸教の教義となつて表現したものである。
次に成道断顧の法が悌滅後如何に表現し聾達したるやを考へて見る必要がある。根本係数は小
乗でもないが、然しそれは小乗とも大乗ともなり得る性質のものであつた。而してそれが小犬二
めたのは原始悌教時代である。原始僻教第〓期は﹁保守派﹂或は﹁俸東野と.﹁進歩準或は﹁表現準との思
想上の封立時代であつ冤同じく根本彿教に娘接しながら立場の相違で思想封立となり、之が遠因
係数第二斯の勧め即ち悌城後盲年に於て見合離に於て遽に教囲が二部に分裂した。以後俸承渡は
いふ名で、表現派は﹁大衆部﹂といふ名で呼ぼれてゐる。普通之を放本二部の分裂と辞す。分裂
と﹁律﹂とに封する上座、大衆両部の意見の相違にあつた。大衆部に属する艮舎離の︼沃が表現
の上に十種の異蓑を賓行し、又上座部が理想とする阿羅漢に裁て五種の批難むなした事が教圏の
その結果上座部は大衆部を排斥し、﹁非法の詮者﹂ ﹁罪悪の比丘﹂と云ふ罪名む附して破門し
自らが悌陀の根本璽息の表現者たる立場から上座部の固定化と硯箕観的方面の敷設の俸承涯たる
自らを﹁毒﹂ ﹁悌乗﹂ ﹁大乗﹂主義とし、上座部を﹁二乗﹂﹁阿羅漢乗﹂ ﹁小乗﹂主義と

ββ7
偶成道を中心とせる大乗彿数々判
彿成邁を中心とせる大乗備数々列 三〇八
﹁悌乗封阿羅漢乗﹂ ﹁大乗封小乗﹂といふ名義を以て批判し排斥したのである。従って大乗小乗といふ名義の起

9∂2
源も故にあり、又文字通りの小乗併教、大乗僻教もこの時代から表現しはじめたのである。換言すると教を受け
る人の立場の教誼を停承維持せし上座部は後に小乗僻教となつて完成し、教を輿へる悌陀の立場に立って彿陀の
根本思想を表現せし大衆部は後に大乗僻教と沓展したのである。
大乗併教連動は勿論大衆部の思想運動に起源したものであるが、大乗沸教経典成立時代には大衆部の比丘以外
十六賢士をはじめとして在俗男女までが加つてゐた事は既に他の論文で論じた。又成立年代に裁ても大衆部がは
つきりと大乗連動へ韓じ、経典も成立しはじめたのは大衆部自らが南北へ分裂した以後である。而して南方大衆
部は成道断顛の﹁法﹂ の表現者であり、北方大衆部は成道新帝の﹁併陀﹂ の表現者であつた。今数世紀に亙つて
贅達せし大乗彿教を時代的に分類すると四斯に区別され、かつ各期は大乗彿教経典と大乗併敦拳溌とに分類する
事が出凍る。四斯の分類は他の論文で蟄表したから放で略す。右四斯各期に於て表現した大乗併教思想は各期其
の特色を異にしてゐるが、然し四期薪こ賞して骨子となつてゐる教理は第〓別に於て表現したものである。それ
が各期に於て其の特色を異にして表現した理由は、内部的思想常連の上にもあるが、其の主なるものは、前述の
﹁封外的封坑道動﹂と﹁綜合統一運動﹂ の上にあるものと考へる。今敢では第一期の大乗併敦経典のみに裁て検
討する事とする。而して第一期の大乗併教経典は龍樹以前又は同時代に成立したもので今その重要なるものを奉
げると
般若部桝屋⋮小品般若経︵八千頭逆行般若又悌母般若︶、大品般若経︵二萬五千頒、光讃般若、叉放光般若︶
葦厳部所属⋮十地檻︵漸備一切智徳経︶入法界品︵不思議解脱経︶
法葦部所属︰・妙法蓮葦経、法葦三昧経、
方等賓積部所属⋮阿禰陀檻︵大無量毒経︶、捕物菩薩朗間本願経、阿閥悌圃経、大悲経、密逃金剛力土経、
方等経集部所属⋮練磨檻、般舟三昧経、首楊厳三昧檻、賢功経、諸法無行程、併読葦手軽、時非時経、諸彿要
集経、彿説内習六波羅密檻
以上の経典に支部詩の経を考慮に入れて之を思想系統に分類すると他の聾者もなせる如く﹁般若系統﹂ ﹁華厳
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
系統﹂ ﹁法聾系統﹂ ﹁碍三昧系統﹂ ﹁浮土系統﹂ ﹁虞言系統﹂等に直別される。然し予は悌陀の成道を標準とし
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽ
て此等を観察せんとするのである。而してこの観察によると成道所願の﹁法﹂たる縁起め法妄表として表現した
ヽヽヽ
る﹁般若系統の思想﹂と成澤所願の﹁人﹂たる併陀及び彿陀の慣鹸を通して現はれし人生観を表として表現した
る﹁葦厳系統の思想﹂との二種にのみ分類さるるのである。而して其の他の諸系統の経典は右二系統の思想に包
含されるものである。但し包含される諸脛の中には右両系統の何れかに所属するものと又両系統を融合統一した
ものとの別がある。更に両系統む融合統一した経の中にも両系統を正しく融合統一せるものと両系統を表裏の関
係に於て融合統一したものとの直別ある。小品般若経、大品般若経、推摩檻、諸法無行経、諸併要集経、併設菩
薩内習六波羅密経等は何れも般若系統及その所属の諸経であつて、成道所願の縁起法の表現であり叉南方大衆部
の﹁諸法論﹂ の展開である。次に十地歴、入法界品、併読聾手軽、賢劫檻等は何れも華厳系統及びその所属の経

タβJ
典であつて、成道所願の彿陀の表現或は彿の餞験に於て硯はれし人生観の表現であり、又北方大衆部の併陀観の
偶成題を中心とせる大乗悌数々列 三〇九
僻成道を中心とせる大乗係数々判 二二〇
展開である。次に法華系軽の諸鐙は正しく彿成造所願の﹁法﹂と﹁人﹂とを融合したものである。換言すると

タ∂4
若、葦厳の両系統を正しく融合統一せし経である。所謂方便品を中心とする一群は般若系統を統一し、毒量品
中心とする一群は葦巌系統を統一し、斯く両系統を融合したものが津葦経の虞の趣意である。次に禰勤、阿閥
阿禰陀悌等を中心とする浮土系統の諸経典は法葦檻の如く般若、華厳両系統の思想む融合統一したものである
但しその異なる鮎は浮土系統の諸経は般若系統の思想を裏に潜め聾厳系統の思想む極めて濃厚に表現した鮎で
る。故に両系統を表裏の関係に於て融合統一したものである。次に縛三昧系統の諸経に就て見ると、第一期の
乗悌教経典中に首楊厳三昧経と般担二昧経とがある。何れも成道断顧の﹁法﹂と﹁悌陀﹂とを表現せんとせし
衆部にょって聾達したもので、前者は正浩禽重とそれの讃嘆を中心とする南方大衆部によつて現はされし繹三
経にして、後者は悌徳讃嘆を中心とする北方大衆部によつて現はされし縛三昧経と考へる。而して首楊厳三昧
無相皆室二昧の表現であり、般舟三昧は海三昧の表現である。従って前者は般若系統の思想に屈し、後者は聾
系統の思想に廃するものである。次に些一一口系統の諸経に就て見ると、第一斯の大乗彿教経典中にこの系統
る数部の経典がある。而してそれらの所説を総合して見ると、悌教徒に封する治病、除災、守護、降伏、得達
精神統一等の矯めの光明で、其の事相に於ては摩登伽経にある如く造檀あり文筆積陀羅尼紳兇経に所説する如
香聾、燈燭を以てする供養あり、前者は吠陀の祭祀的形式にして後者は印度教の供養的形式である。要するに
一期の眞青系統は所謂難部密教で成道所顛の﹁法﹂と﹁併陀﹂に封する保護を目的とした密教である。
浄土虞宗の悌性論に就いて
桐 藻 場忍
僻性論は僻教思想史上、重要な問題を起したものであり、深刻な論評をくり返したものであるが、その中心と
なるものは、一切衆生悉有悌性詮と五姓各別説との評である。即ち、一切衆生に成彿の可能性ありや否やの鮎に
就いてである。然るに浮土眞宗では、その教義組織が白澄教と趣を異にするものがあるため、特殊な角度から此
の問題が論ぜられて居る。即ち、浮土眞宗では、如舜の本願力によつて一切衆生の往生を説き、語法間接娘心常
在と説き、しかも往生即成悌を主張するものであるから、一切衆生悉有悌性を許すのである。しかし、絶封他力
を主張し、衆生の絶封的罪悪、全くの向上的なものに封する無力を力説する浮土眞宗では、硯賓の衆生の所有す
る伴性なるものは衆生本釆の所有なりや、如舞姫向のものなりやの問題を生するに到ったのである。此れが、本
有彿性肯定説と、本有併催否定説との両説に分かれて論評するに至ったのである。
本有僻性骨定の思想椒接は大鰐に因果律と眞如縁起思想であると云ふことが出奔るであらう。勿論、此の沃の
人々も、他力廻向を基調とする浮土眞宗の教義に従ふかぎり、衆生に清浮なる彿性の存在を許すものではなく、

ク(7こ丁
浄土眞宗.の彿性諭に就いて
浄土眞宗の悌性論に就いて 三一二
硯箕の衆生には自ら磨くことの出奔るが如き1所謂行彿性は否定し、たゞ理併性としての存在を許すのみである。

9∂β
此の骨定思想を救済成立の原理として取扱った最初の人は石泉倍数師︵二四二二−二四八六︶であつて玄養分義
疏には聖浮転化の根源として本有悌性を許さなけれぼならないと云つて居る。即ち衆生救済の成立原理として一
切衆生に本有の悌性を許す考へであるが、同時代のやゝ後輩になる道振師︵二四三三−二四八四︶はそれを更に
具牒的に示して、憐性とは衆生の無自性を云ふのである。即ち衆生に本葬固定したる性なき故に併願力によつて
往生成彿することが出発るのであると主張するのである。
此の悌性肯定の思想はその思想根抵としては自語数と相通するものがあるが、本有悌性否定の思想にこそ、救
済教の特色が極めて鮮明に出て居るやうで、吾人の興味を引くものがある。
本有彿性否定の思想も詳細に見ると、一切衆生悉有伴性を信心の常得を主として此を主張する人と、如秀修巌
の一如の過備によつて一切衆生悉有彿性と主張する人とに分けることが出奔ると息ふ。
如発と衆生とを転封他者と考へ、衆生には如釆への道.は如何なる態でても、たとへそれは可能性、欒化性と云
ふやうな極めて消極的な立場でも許されない絶封他力の教へは、本有併性もたとへそれは無自性の故に如死の願
力によつて成僻することが出奔ると云ふ欒化性にすぎないとしても許されないものとなるであらう。然し今問題
となるのは、その如乗と衆生とは絶封他者的存在であると云ふ考へ方が救済教として如何なる必然性を有するや
に就いてである。
此に就いて第一に考へられることは賛践の性格から乗る必然性である。併道修行は単なる理論ではなく、常に
茸壊されつゝあるものである。然るに、善根は貿践されそれが単に寛壊そのものであるときは問題と
も知れぬが、自己の行焉の上に反省されるとき大きな問題を生するのではないか。善を行ったとき、
を行って居ると考へたら、それは純なる善ではなく、雑毒の善として拒否さるべきものである。
更に叉、完全なる世界を知らされた者は、その世界と比較するとき、自分の行って居ることが善だと
ても考へられなくなるものではないか。念彿を夜すがら稀へて居て好い克持になつて居たのに気附い
に合うて居たと歎げかれた源信恰都の反省、念併二転を修しても、繹足を修する人が自力でやつて居
に魔種あり、若し聖の解りをなさぼ皆魔障ありと反省された慶文法師︵行巻引用︶などは明か把此を物語るもの
である。
博士教は貴腐的な立場を特に強く主張し、械土では賓践が困難であるから博士往生む断じたことに始
り、叉龍械の難易二道は箕践上に就いて問題であり、此れを曇鸞は自力他力によつて説明し、しかも
初めの五難も全く賓践上の問題に就いてのみ論じて居る。安契集の聖滞二門判は約時被機の論性によ
践上の教判であることも極めて明白なことである。更に善導大師の解挙行畢の教示の如き全くこのこ
外ならないのである。
かくの如く箕践を中心とした浮土教は、賛践の性格から承る。自分は善が出奔ないと云ふ思想が常
られて奔たものではないだらふか。
第二に考へられることは、救済教の性格より乗る必然性である。救済教はその成立の根砥として救済

タ∂7
浄土眞宗の傭性諭に就いて
浄土眞宋の傭性諭に就いて 三一四
臍の雨着の存在を隷想して居る。然るに此の雨音は互に他者の性格を拒否しあふものである。即ち救済者には如

9∂β
何なる意味でも被救済者の性格である不完全性を拒否し、同時に被救済者は如何なる形態ででも救済者の性格た
る完全性を在香するものである。故に救済者がそれ自身の性格む如賀に蟄揮するときは絶封完全なる相で現れ、
被救済者は絶封不完全なる相で把握されるものである。此の意味に於いて、救済数たる浮土眞宗では、阿禰陀彿
と衆生は全く異質的なものであり、如釆は転封完全であり、衆生は絶封不完全だと考へざるを得なかつたのであ
らスノ。
此の思想が博士眞宗に硯はれたものとしては、如衆論の上では、法蔵書蔭を不完全なる因位とせす、全く従果
降因の、完全なるものゝ表示であると云ふ方便迭身の思想となり、又久遠賛成説となつて現はれたのである。此
の方便法身の思想は、親鸞聖人の一念多念讃文、唯信砂文意に現はれた思想で、在死の僻陀戟とはすこぶる異な
った考へ方を有し、法蔵菩薩を一如法界から形をあらはしたものとなし給ふ。此れは在釆の悌陀は不完全なる菩
薩が聾頗修行することによつて達成したものと考へ、菩薩道.は不完全なものが完全に到達する道.であると考へら
れて居たものと全く異なり、法蔵書薩に於ける菩薩道とは救済力の内容を示すために、非因非果のものが亦因亦
果の形態を取ったものであると考へられたのである。故に法蔵書蔭は不完全なる因位の相とは考へないのである。
久遠成邁説は、将士和讃に説き給ふ朗であつて、経典には十劫威道と説くも賀は塵鮎久遠劫よりも久しい悌であ
るとの主張で、如乗の救済力の完全性が時間的に思惟されるとき営然出て禿る思想である。
その外、本師本俸、悪人正機、機失思想なぞは、如乗の完全性を示さんとする思想に外ならないのである。
次に衆生性静の上では、善導大師の機の深信、親鸞聖人の三一間答繹などは最もよく、衆生の厳封不完全なる
ことを示すもの、であらう。桟の深信は後世の宗単著は多く此れ堅二世にかけて説明して居る。即ち、自身は現に
罪患生死の凡夫であり、暖劫己秀常没常流樽の着であり、塞未発際、無有出離之経であると云ひ、しかも此の経
とは因と封立する経ではなく、因縁の略であると主張して居る。更に親鸞聖人の三一間答繹には一切群生海無始
よりこのかた乃至今日今時に至るまで棲恵汚染にして清浮の心なく、虚椴讃備にして眞寛の心なし等と示し給ふ。
置綽縛師の人間の罪意は主として末法思想によカ、外部的な僕件によつて支配された悪であつたが、善導大師
は内面的な意と考へ単に末法になつたから罪意が深くなり讃が開けないのではなく、暁劫より己乗の罪意である
と思惟され、親鸞聖人はその意味を更に明瞭にして、私の罪意が暖劫より己秀のものであり、無始以釆のもので
あるのは、それは単に私借入のみのものではなく、一切群生海の本質の上に立脚するものであるからとの表示と
なつたのである。
かくの如く、如寒が如釆自身の如箕の相を蟄揮して絶封完全の仝相を示し、衆生も亦その眞相を暴露して絶封
不完全となり、善などこにあつても如釆のもの、意はどこにあつて衆生のものと云ふ思想となつた。此れは論詰
の桟失詭、行照師の宿善他力誼などの形を取って最も開明されて居る。この向上的なものは縦令、衆生は現に所
有して居ても、衆生本来のものではないと云ふ思想が本有彿性否定説として最もより具倍化されたもののやうで
ある。
然らば、否定思想の人々は、如奔と衆生とが絶封他者であるならば、救済の成立して居る事寛を如何に見るか、

9∂p
浄土眞宗の彿性諭に就いて
浄土眞乗の彿性諭に就いて 三一六
救顔が成立して居ると云ふことが、既に雨着の間に救済が成立すると云ふ共通性が存在して居たからでないかと

97∂
云ふに、此の人々は、雨着に共通性があつたのではなく、生彿一如の立脚地を許すから救済は成立したのではな
く、如釆の願力によつて、全く無関係の雨着に関係を生じたものであると考へて居るのである。
願心とは既定の事軍決定の因果の内に新しい因果を創造せんとするものであることは一般悌教でも強く考へ
られて居るもので、善の目的む欒更する姐向の根砥をなすものとして願心を説くことは此を示すものである。浮
土虞宗では特に此の法蔵の願心に注意し、特に否定思想家は法戒の蟄願は選揖に始まつて無選捧に終ったと主張
するが、かく主張するのは、選経と云ふことは既に自由が許され創造が考へられて居るが、選撞と云へぼその創
造の素材となるものが既に以前から存在して居たと考へられ、創造性が純粋とならない憾がある。そこに無選掻
に経つたと考へ、以前に存在して居たものの内からの選経でない、全く新しい創造と考へたのである。
此の否定思想を理解するには、なほ此の思想家の一如親、無明観を検討せなければならないものである。
輝の本質構造と心性の問題
檜 永 靂 鳳
繹は絶封無を本質とする東洋思想の生んだ一大女鹿財である。それは過去の歴史に生きる
連師せる;の視覚醍である。繹も宗教である限り坐繹といふ行を媒介として楯討と転封との封立的統言可能
ならしめる。而もー般併教と共に範封他者として超越的仲里苦る代りに人郎彿の立場を取る
想を最も端的に表現したる﹁一切衆生悉有悌性﹂の命題は生彿の矛盾的封立を樟詮法的に統忘Lめるであらう。
然し繹は併催を可能態として漸盾的に箕現せんとする併敦の表的立場とは全くその方向を異
に即する悟修こそ挿の本質的立場でなけれぼならない。繹の起原は勿論印度であるが、そ
遽げたのは支那に於てである。故に我々は尭づ歴史的展開の中にその欒遷の跡を辿ることと
釆俗語j−−ぎの最後の母音が落ちてjhぎと璧日されてゐたのをそのまま音詩したものである。jh賢pに相督
する雅語d︸−yぎ2はミhy巳より来り、一般に恍惚の境に入れる冥想の意に解されてゐるが、本釆は考へること
*l 皇息昧する。併教の膏澤が思惟修と判じ、新繹が静慮と讃するは寧ろ璽息に近いと言はねぼならない。この語は

97J
繹の本質構造と心性の問題
膵の本質構造と心性の問題 ≡八
*2 苧ぎd。gy⋮トp邑鼠第七篇を初めとして、苗奥義書中敷同使用されてゐる。繹は漏り封象を思惟する賛践を指

972
すのみでなく、それによつて達せられた結果の状態をも現すのである。されば僻教に於て
*3 棄悪乃至功徳衆林とも義詩する。思惟修とは心至境に専注してそれを審かに思惟し修習するをいふ。静慮は婆
*4 沙論第百四十﹂巻が﹁静謂寂静慮謂筆慮﹂と述べ、倶舎論第二十八巻が﹁依二何義直立二静慮名︼由二此寂静能審
慮姦審慮即是賛了知義﹂皇Rつてゐる如く、心の営憶が寂静に任し、而も審慮の用を具するをいふ。定は屡々
三昧︵笹m註Fi︶の澤とされてゐるが、必らずしも然らす、心至境に住めて散動を離れた状態に外ならない。
*5 葉意は碍が五篭等蒜の患を葉つる結果に名づけたものであらう。解脱道論第四巻は﹁繹者何義謂於レ事平等思
*6 惟也、奮二迅五琴地点惟封治空と記し、巴利清浮道論︵宕uddFim盛上第四品は崩繚の思惟の故に、又は反
射︹たる五菜︺の焼塞の故に繹なり﹂︵罵−旨m鼠p”鼻ih許賢p空茶2hk阜首n賢旦h賢且と述べてゐる。朗
繚の思惟は勿論膵の蓑であるが、五葦の焼壷は通俗語源に基ける解繹である。功徳衆林は
徳が積衆Lてゐるといふ結果から待た名である。所謂繹定は単に繹のみ窒息昧する時と繹と三昧とを結合したる
場合とが存する。繹定の起源は速く正統婆羅門乃至それ以外の修先主義者中に見出し得る
を代表する一人なるYm音1邑ky伸ビの詮に存する﹁意によつて我を詔得す﹂といふは正しく後の稔伽繹定に相督
する。又繹尊が出家の後久しからすして開法したと倖へらるる意⋮内巴ぎp及び≡d詩pRぎ羞星きの如き
も繹定による生天を理想としてゐたのである。而トて彼等に於ける繹定の性質並びに三界
するに二仙は正統婆羅門以外の修先主養老に廃するものと断ぜざるを得ない。外道繹の特
比へ7 的とし、且つ死後の生天を期するにある。然るに悌陀の繹定は担架を賛現するに必要なる方法であり、現世に於
ける無漏智の牒現を目的とした。而も外道繹の如く身心二元論に立脚することなく、賓隈
っ濁断的形而上拳を背景とするものではなかつた。然るにかかる悌陀の精神も小乗悌教と
儀なくせられたのである。小乗渾は小乗併教を奉じてその説く法数を思惟し修習すること
の内容は小乗繹痙並びに小乗論部中に見出される。その主なるものは九次第定の外に三二
八解喝八勝虞、十遠慮、十随念、十不浮観、食厭観、界差別親等である。支部に於ては安
縛翫に務め所謂繹数を開いたのである。その内容は四念虚、三十七道品の如き小乗の迭数
にあつた。烈し小乗繹は一般に繹足それ白身を目的税し、修行の効果む段階によつて現さ
目は組織的にあらすして、寧ろ蒐集的であつたのである。けれどもその繹定は煩覿なる教
的感化も決して少くなかつたのである。大乗縛は入定説法の内容たる大乗諸経典の底に流
とする人々によつて修習された。経典中に餐げらるる繹定三昧は甚だ多数に上つてゐるが
三昧、首楊厳lニ昧、一行三昧、金剛三昧、如釆祀等はその一斑である。支部に於ける大乗碍は所謂菩薩繹であつ
*8 て主として羅什︵三四四−四一三︶党費︵ニ豆九−四二九︶等によつて行はれた。それらの繹戟は主に安般・不
*9 浮・慈心・観線・念併の五門繹であつた。その中念彿観は観像・観相・賛相とに分たれる。思惟略要法は念傍観
を生身観・法身観・十方諸傍観・敬無量毒彿法・諸法寛相貌・津華三昧観となしてゐるむ
る般舟三昧は首梯厳三昧と共竺般に行はれた。常時締故に名あるものは天台宗Jニ論宗の諸組師その他賓誌俸

βフJ
繹の本質構造と心性の問題
膵の本質構造と心性の問題 三二〇
*10
陀余等である。宗密︵七八〇1八四こは大乗繹の特質を奉げて﹁悟一義準一基所願虞琴而修﹂となしてゐる如

夕74
く、それが大乗教である限り、固定的貿鰻を香足する重点想に基いてゐること望一己ふまでもない。而も自性清浄
心を隷想しっつ、稽定の過程を重んじ、現世に於ける自他の得睨を強調した。然し文字によつて輿へられたる教
法は畢意月を指す指、魚兎を捕ふる基蹄に外ならない。ここに於て文字の茎蹄を脱して自己の本源に徹すべく、
揮宗が彿心宗として猫立の一系統をなすに至ったのである。支部に於ける繹宗は書換達磨の西釆に起廃する。達
*11
摩の南越到着は宋の亡ぶる︵四七九︶以前、恐らく四七〇年頃であらう。慧可の俸より推定するに達磨は多分天
平元年︵五三四︶より少し以前に寂したものと息はれる。大鰐五三二年頃であらう。達磨の述作に辟せらるる文
献は少くないが、何れも明確でない。ただ虞法の内容たる二入四行は達磨の詮として一般に重要視されてゐる。
レト2
但し二入の思想は金剛三昧経に見出される。理入は凝位壁観の虞意を徹底したもので、要するに如釆威や彿性の
、,l
意義内容を深めたに外ならない。行入はこれを開いて報克行・随縁行・無斯求行・稀法行の四行となすが、その
重鮎は寛践と利他とに存する。達磨所俸の繹は古奔最上乗繹、一行三昧乃至虞如lニ昧等とも解せらる。後世にな
れぽかかる取捨に渉る名稀を避けて組師繹と呼ぶに至った。達磨より愴壌までは師家自身が多く一衣一鉢であら
て、而も都部何虚にも足任せす、又一廃に再宿しなかつたから、多数の弟子と集圃生活を行ふことは殆んどなか
ったのである。然るに置信︵五八〇−六五こ弘忍︵六〇一−六七五︶ の問は殆んど同一虚に約六十年も五官飴
人が囲饅生活をなしてゐたから、ここに繹風が支部的に一欒せざるを得なかつたのである。即ち日常の四威儀を
悉く繹の硯成と見、胎生産業に繹の精細を蹟充し.而も膵を全く精神的に解し、畢人の心性にその本質を求めた
のである。更に集圏生活の間にはそれに應ずる規則が作られねぼならなかつ冤膵院の規矩たる清
︵七二〇−八一四︶によつ測定されたのであるが、その必要は四組五組の時代既に感ぜられたのである。達磨辞
の特色は一般喧言はるる如く、不立文字敦外別俸であり、直指人心見性成悌である。勿論かかる
の作ったものとは考へられないが、その系統の特質はこの梗峨によつて能く示されてゐる。一代
あり、併語であつて、これに基けるものが教豪である。然るに繹はこれ教外であゎ、彿心であつ
るものが繹豪である。達磨である達磨系統で絆といふのは単に印度的な思惟修や静慮を指すので
は心性の問題が重要なる契機をなしてゐると言はねぼならない。達磨の理入解法行が既にそれを
ならす、膵院の集囲生活がその意幕内容を深めたのである。思ふに絶封他者たる紳を認めざる悌
に本覚展性を求むるは寧ろ首然であらう。所謂心性本浮説が原始併教より、大衆部系統を経て、
て漸次強調されたことは歴史の我等に告ぐる斯である。殊に如死蔵系統の諸経典に於てその昔し
*13 ぅ。此等の教理を牒系化せる世親の併性論は如釆戒︵t邑身諷a篭b︼且に裁て斯療蔵、隠覆蔵、能掃寂の三義を
示してゐる。如死蔵や伴性は一般に際覆蔵の意に解れてゐるが、然し朗擁戒の如く人浩二基所顛
*14 る鮎が少くない。一般悌教に於ては悌性の悉有を重要硯し、又道生︵四三四寂︶の如く早くも頓悟成悌を創喝し
た。然し其等はすべて文字経詮に依接し、彿怯む可能態として漸暦的に箕現せんとするのである
読も侍ほ彼岸の理想たるに過ぎないであらう。理想が単なる理想でなく生きた現葺となるために

タフ∫
必要とする。即ち繹は直ちに展性そのものに契讃して、そこより一切を虞理せんとするのである
繹の本質構造と心性の問題
繹の本質構造と心性の問題 ≡一二
*15 み行く方向にあるのではなく、却って硯茸に乗る方向に存する。衆生本具の展性を悟に顧はす憲とこれを優に示
す定とを綜合したものこそ達磨系統の所謂繹に外ならない。眞性そのものを徹見するにし

Jノ7/ざ
て覚知するのではない。直下に展性それ自身に契常し展性そのもの鱒成り、それを仝慣的
る。修習と辞しても決して展性を得んが薦に修行するのではなく、展性の全面に契督した
貿践である。これ竺般に本謹妙修又は修澄不二といふ。修の中に澄は自ら具はり′、澄の
れてゐるのである。元発達摩繹の特質は本覚展性の頓悟にあると言はれてゐる。南宗も北
Lr6 を根本的に信認する鮎から見れぼ同じく頓悟皇口へるであらう。然し北宗は梯塵看渾と言薩るる如く、煩悩昏塵 ヽ′l
の葦有に拘泥し修行によつて漸次これを梯拭して本有の展性を全損せしめんとする。南宗
の本基なるを認めて、直ちに自己の覚性に契督し、修行を謹上の妙用となすのであ毛荷澤
塵となすは同轍であるが、繰返す朗に漸修が認められるのであ竜要するに繹は本覚展性に
して相封と絶討との封立を止揚綜合せんとする宗教である。侍ほ道元繹師は併性の巻に於
*17 が如き犀利なる論理を以て、この間題を深めてゐるが、その論究はこれを他の論文に譲りたいと鳳ふ。
註*1 大乗義幸第十三巻、大正戒舜四十四谷上二八頁 *2 芽1訂r盲1ebuddhI裟sc︸1の宕rぎk告g払﹂む・
*3 大正戒鱒二十七巻七二六頁 *4 大正戒第二十九巻山四五頁
*5 大正戒帝≡サニ巻四一六頁 ☆6 <一望n.ワー誓
☆7 拙稿、原殆彿敦に於ける繹定の研究 日本偶数畢協骨年報第七年四入京以下
*8 坐縄三昧経 大正戒第十五撃一七一女以下 繹秘要法経 大正戒俸十五撃一四三頁以下
*∴り 大正戒第十五巻二九九頁以下 *川 大正歳暮四十八撃二九九頁以下
*11 宇井博士、膵浣史研究一一頁以下 ☆㍑ 大正戒鱒九巻三六九京
*13 大正戒攣二十一巻七九五頁 *14 高僧停弟七巻 大正戒解五十撃二六六貢
*15 繹源諸詮集都序上巻之一大正成第四十八番三九九頁
*16 国畳経大疏妙第三巻之下 緯戒第一輯第十四套舜三筋二七七丁右
*17 鼎偶、道元繹廊に於ける悌性の関越 道元膵師研究論文集

β77
繹の本質構造と心性の問題 ニニー二イ
異門 ︵p罵笥y小こ といふことぽ

97β
異門︵p琶y嘗︶といふことば
長 尾 雅 人
異門︵苫ry首㌣︶といふことぼは、普通には同案異語孝冒︸−ymといふ意味で、経論の随魔に用ひられもし、
よく知られてゐる朗である。然しながらこの語は、単に同義異語といふのみでなく、もつと深い意味がある様に
息はれる。例へぼ通計・依他・園成の三性の非一非異なることに関して、玄葬詩痍大衆論朗知相分には次の如く
l 述べられる。
復次此三性、馬具薦不具。應言非異非不具。謂依他起自性、由異門故成依他起。郎此自性、由異門故成週計朗
執。郎此自性、由異門政成囲成寛。由何異門、此依他起成依他起、依他案習種子起故。由何異門、郎此自性成
邁計所執、由是遍計所執相故、叉是通計朗遍計故。由何異門、郎此自性成囲成箕、如通計尊意不如是有故。
即ち一なる依他起性が異門に依っては依他とも遍計とも囲成ともなつて、一なるものが異門によつて三性の別を
生するのであるから、その異門なるものは単なる同義異語といふ如きものではあり得ない。然かも斯く異門とい
ふことは、それに由つて、正Lく三性の非一非異の養を明らかにする、重要なる概念として老へられるものであ
る。
表にpa息Jpは語根p胃i⊥であり、諸璧日の示す如く、﹁周廻すること冒習巴﹁捲きつくこと﹂、或は
﹁時間の経過すること﹂等をその第表とする。此のことからしてp告署eロpといへば、﹁順次に﹂ ﹁次第し
て﹂の義であゎ、即ちその時は次第巽卑官琶宕の意味となる。同時にまた2重言宅y骨npといふ如き用法
に於ては、﹁此の姿によつて﹂ ﹁此の方法によつて﹂の義であり、異門は其虎では
る。彿教に於て他心智通c象昔罵首急ぎpといふ時のp等y首は、正しぐ此等の爾義を以て解せられるので
ぁって、他心が貪なり撰なり等との心の差別ま訝首即ち品類を知る紳通とも解繹せら
貪なり或る時は喋なり等と、時間に関係して他心の起る次第訂昌pを知るの紳通なりとも解せられてゐる。ま 2
た﹁規則的に繰返すこと﹂、殊に﹁呪文等のく少返し﹂といふ義も璧白に見られるが
本義に基いてゐるのであらう。而して更に之に由釆して前述の同義異語といふ意味も
同義異語といふことは彿教の内外を通じて贋く行はる1ものゝ如く、安票もpa息ypに関してその中連分別論
糟疏に、﹁異門とは別名なり﹂と定義し、また﹁異門とは即ち言る義に種々なる聾ありと知らしむ﹂といふ。 3
唯識二十論に﹁心意識了別は異門なヱと云ひ、また屡と基性が虞如、箕際、無相、勝
以て述べらるゝ如きは、その昔るしき例である。之を玄弊は異門とも異名とも讃し、
には此の外にまた、等宏弓p或はnirm首その他の意味があるといふ。殊に前者は語根的にも琶y首と相似
たものがあり、﹁機合G算g3h①it﹂の意であゎ、屡≧﹁分位﹂の詩語が用ひられる。後者ni∃首−欒化とは、

!ノア!ノ
異門 ︵p弓笥冒︶ といふことば
異門︵p弓y葦p︶といふことぼ 三二六
べートリンクに従へぼ、﹁形づくること﹂﹁創造﹂の、意に外ならぬ。併典に於てはp弓甘yp殊にdぎ1塁晋p胃y首ビ

ββ0
なる語が﹁法門﹂と詩せられて常に用ひられるのであるが、それは上述のp岩村許p及び特に仙芸疫挙旨 の養を強
く含むものであらう。例へぼ封薯衆の各々の機根に従ひ、その遼境時機に従って、即ち各ふの∴言藁喜r に従っ
て、併の説法が各種の法門と辞せらる1ものであらう。
かくの如く p胃y首寧 には種々の解繹が下されるのではあるが、右に奉げた棒大粟論の文の如きは、それらの
中の何れか一を以て解し轟くせるものとは思はれない。既に漠繹に於ても膏詩は頗る自由に、或は﹁別道理﹂︵笈
多︶と讃し、或は﹁別表﹂ ︵眞諦︶等といふが、此等も直墟には群書の上に見られない意味である。玄弊の詩語
たる異門といふのは、一見晦添で理解し難レ詩語ではあらうが、若し上述の異名と法門との雨義を含ましめたも
のとすれぼ、何れの漢語よりも理論的により勝れたものとは云ひ得る。然しながら侍ほ異名や法門といふ義のみ
で、上述の﹁依他が異門に依っては依他ともなる﹂といふことが理解し悉くせるものではない。殊に其廃には﹁或
る異門に依って依他起となる如き、その異門は何か、﹂と間ふのであ少、また同じく擁論の少し後には﹁或る異門
に依って依他が成ぜらるゝ時、その異門に依っては通計囲成は成ぜられず﹂等と説くものである。此等は何れも、
軍に異名法門といふのみに止まらず、進んでそれが斯かる意味の異門と稀せられ得べき内容的理由そのものを問
ふてゐるのである。それが奮諸に於ても﹁別道垣﹂ ﹁別表﹂と解せられた所以のものである。また無性の鋳大衆
論繹に於ても、此の異門を特に意趣の異門 旨hip㌫y苧p宰y首ナ として繹する、その意趣とは即ち右に述ぶる如
きものであらう。玄群が単に異門と澤せす、時には ﹁異門密意﹂ なる繹語を用ふることも、之に相等せしめて
考へ得ると息ふ。而して最初奉げた擁大乗論文の如きに於ては、斯かる種々なる義をすべて包含せるものとして
p罵y董l p といふ語が用ひられてゐると考へなくては、十分に理解L得ないものがあるであらう。辞書に示され
る解語に就いて云へぼ、同義異語の意味は勿論のこと、特に分位 等宏告辞 品類p⊇k腎pその他ni巧m針np等の
語義が、統↓的に同時に併せ考へられねぼならぬのである。斯くすることに依って初めて三性の非一非異を述ぶ
る右の文も了解し得る朗となる。即ち一なる依他起性が同時に異門に依っては三性となるといふことは、一なる
もの1分位の差別′に依って二痙の品類の差別ありといふことである。分位の如何に依っては同時に品類も異るこ
とである。それ故に、三性としての品類の差別は飽くまで認められながら、同時にその差別は↓なるものゝ分位
の如何に由るものであり、一なるもの1二ぢの方面、二ぢのあり方として考へられねばならぬ。無性繹論がまた
﹁観待別故﹂ ︵ぎ苧p風i by?br品・gis︶と解繹せるが如きも、見方の相違といふ如きものに依って、一なるもの
に三つの品類の分位ありとなすものであらう。それ故に三性は非一非異なりとせらるゝものなのである。
以上述ぶる所と相関聯して息ひ合さる1のは、調伏天が三十頒夜話に於て次の如く三性を総括して簡潔に述ぶ
る一文である。即ち調伏天は、﹁斯くの如くたゞ唯識なることに於て三性はあり。即ち唯識はそれ自牒としては
依他起性なヵ、そこに所放と能放とを増益するものは通計所執性なり。その同じものがかの二︵取︶を遠離せる
もの、それこそ園成資性なり。﹂といふ。之は勿論安慧の意を受くるものであり、安慧自らの言葉としては、また

A「
別に申達分別論相品梼相の下に右と略と同様の表現を見出し得る。たゞ調伏天が三性の統一を右の如く唯隷に於
て見出すに封して、申達分別論は常に虚妄分別︵佃巨象名賀ik已p且に於て綜合する相違があるのみである。而し

9βJ
異門 ︵p宅y葦且といふことぼ
輿門︵p弓y署エといふことぼ 三二八
て此等は何れも前蓮踊大乗論の三性非一非其の義と、この説明に於ても精神に於ても相通するものが

タβ2
めて有機的具鰻的な三性の関係を説明してゐる。たゞ三十頒や申達論が唯識或は虚妄分別に於て三性の
係を見出すに反して、梼論が同じことを依他起性に於てすることが、少しく相違する鮎ではある?
此等に比較する時、成唯識論の考へ方は少しく異るものがあると云はねぼならない。成唯識論にもそ
に三性非一非異は述べられるのであるが、それは﹁無別牒故、妄執縁起眞義別政﹂といふ簡単な文章で
てゐる。速記に徒へぼ、無別購故とは、遍計は妄執として依他を離れず、園成はまた依他の賛性なる
性何れも別饅ではなく三性非異なカといふ。また三性は次第して妄執、縁起、虞義としては別なるが故
非一なりとなすものである。此文章は文章自饅として誤謬があるとは決して考へられない。その非異門
梼論に準じて依他を中心に考ぶる傾向にあると云へよう。然しながら仝牒として安慧や調伏天の註繹の
るに此すれば、たゞ三性が平面的に並在するが如くに息はしめ易い。その由釆する所は種々であらうが
遍計が依他と不離なりといふが如きはその言ある。不離§署i隷tpとは、彗謁には直ちに同義なりとの
語感を持つが、漢字としては各別に封駄的にあるものが開係的に存在する。即ち不相離性邑n掛bh賢t5言いふ
意味で考へられ易い。週計と依他とは斯く不相離性的に井在するのではなく、依他の仝饅がそのま1遍計所載性
であるといふ一面がなくてはならない。また囲成資性の考へ方も、単に眞義とのみ云つて、何らか凝然
ものが遍計や依他とは無関係に別物として考へらるゝかの如くである。調伏天等に於て、﹁尊意遠離性
冨hi巨きとして漸成箕牲が依他の遍計との関連に於ける如性として考へらる1如きとは飴程具る。その他表
にまた成唯識論に於ける所謂識の四分説、特に前二赤に就ての護法と安惹との異説に関する議論の如きも、
を別物として分類する立場た立脚するもの1如くである。而してかくの如く法相を分類し差別する立場にあつて
は、たとへ成唯識論に異不具門が説かれたとしても、なほその虞の意義に撤せざるものがあると云はれねぼ
ない。たゞ言葉として非異を云ふに過ぎないで、資際には三性非異の回が常に忘れられ勝であるといはねば
ない。
而して前述の p眉首竃の意義内容の如きは、殆んど全く成唯識論文の上では忘れられ見失はれてゐると息は
れる。これがまた右の如く三性を平面的井在的に考ふるを馴致した所以でもある。屡述の如くp罵y⋮官とは金
一的なものが分位のあゃ方に従って三種の品類として欒現するとの意味を持つ。三性として差別せらるゝ限
れは異門に外ならないが、同時に何虞までも同じもの、餌一的なもの1異門に外ならない。即ち三は同時竺な
のである。斯かる意趣は成唯識論的表現に於ては全く影ひをそめてゐると言ってよい。殊に擁論を初め安憲
伏天が、三性を依他起嘩虚妄分別或は唯識として統一するに反して、成唯識論に於ては﹁無別餞政﹂といふの
みで斯かる三性非異として統合さるべき忘を示す研がない。然しながら此の鮎を快くことに由つては、結局
法の唯識といふことに就いても徹底し得ないものとなりはしないかと息ふ。今は然しながらこのことを詳論す
飴裕がないから、最初三性の一兵に関して注意して釆たp弓笠yPなる語が、茸は既に隷の顧現を説く場合にも
用ひられてゐる一例を示すに止めよう。それは荘厳経論蓮求品第三五偶の下に出づるもので、第三四偽と共に
唯識﹂を説く個頗にあるものである。即ち日く

甜J
異門 ︵pa巧笥冒︶ といふことば
異門︵p賀冒.笥︶といふことぼ 三三〇
ヽヽ ﹁かの心のみが正に異門として貪隕等その他の諸法として顧現し、また同時に信等の種々なる行相として顆現

pβ4
す。﹂
ヽヽヽヽヽ
餌ち一なる識が善不善の多なる諸法として、異門として顕現すと述ぶるものである。此虚に種々に顛現︵ぎh訂且
すといふことは、p焉y首pの語義としてのnirm誉首或はp⊇k腎p等に外ならない。一なる識は異門としては同
時にそのまゝ諸法なのであり、多なる存在もそのま1識なる鮎に於て一なのである。一郎多とか三性の非一非異
といふことは斯く考へねぼならぬと息ふ。そこにまた﹁唯識﹂と云はるべきことが生きて乗ると息はれる。
斯くしてp胃y首pなる語は、三性の非一非異を、更に進んでは多なる諸法の唯識性といふことを表現するのに
重要なる概念となし得るであらう。非一非異或は〓印多といふことの言はれる理論的根捺そのものは他に発ちも
あるであらうが、今はたゞその間の理趣を表現する術語として、異門といふ語が極めて適切恵ものゝあることを
6
注意したいのである。
−き・b?崇d・顎um・pOEi・d品乳t浄邑cith守d邑−p守性的gやーn\官n・tetF守dad・p守m甲笠n笥・np\tb守d邑
pp\th守d已・pa・m守笠n・pp冒掛lna・笠n・p弓brj已・p弓・b冒官\、g晋ロ・g笠・db邑・早n?b?禁d2.rnpm・gr註s・
na g晋n・gyi・db註ぎ\ \rnpmtgr旨・村笠s・na d?認d k∈†brtag苧pふ○、 \rnPm・grp昆・k笠苧np d?琵
grFb・p畠○\ \習ど骨g晋n・粥笠・db乱・乳一掛?b?望d−pg讐巨・顎iムb旨胃管bya・b嵐i rnpm・gr乳昆些註﹁ 笥・np\
笥i・db邑gi b品占hp顎kyisa・bOn−誌げbyu㌣bふi g晋nlg竿db邑乳ph且r rO、、笥㌣乳∽d?禁d k∈†
pp笥苧by守bふi rn巴苧讐a訝 警p 写np、k声・tu・rtO窄pふi rgy宇mt乳冒n笠n・p机↑d鼓二d袋kき・ど・b
pl−笠r rO\、菅平粥i班d?崇d冒訝・S宇grub・pp晋S古y守by守bふi rn小巨1gr已訂g邑二百np\ji⊥t罵k巨・百lbrt恩
訝⊥t弓d①惣呂1med・pふi▲且︼笠r rO、
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訝・lt罵rnam・p巴?ユg・p守tぎm軒b?nニpp?b?崇d・笥um蒼、す苧芹弓rnP宇p㍗7ユ甲p守t夢m ni bd品l禁
gぎn・喝i・db旨・早野Ob?認dd三 \de⊥p粥Nu㌣bpd旨富乳nlp弓馬写bt息嘗pp管チ笠n・ppnik巨・bユ品苧pふ
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S笠邑n㌫5.︰害鉢留密否莞tr賢診k腎㌢p・軍芦t賢pcitt㍗R■爪還少︵<邑£t呂Cit品bb訝p診pr雪邑旨、p
葦e召r厨詳罫仏a診忌d言明詳b訝邑忌t乱呂冒db弓mぎb訝p診忌\cit認許許さ啓二琶∴苫gpp乳腎pn旨劉d笥k腎p
斯く考ふれば前攣一十諭の心意識等は輿門なりといふ如きに於ても、単に外から同義を示す英語が蒐集められ井べられた
のみではなく、内的に一なるものが自ら2.rm首Pし已rbh誌.pしたと考へてよいものかとも思ふ。

クβ∫
異門︵p卓識冒︶といふことぼ
超式の浄土教思想に現れたる﹃往生要集﹄

9ββ
逮式の浄土教思想に現れたる﹃往生要集﹄
苗 村 高
日宋文化の交流に於て考へらるべきものに、彼の地の超宋天台と我が国の日本天台との交渉がある。
奉先源清及び山家波の四明知鰻と我が台嶺蓼徒との接偶に就いては既に周知の事であるが、章票義通門
として、四明と共に、廼采天台の偉観を完遂せる慈芸蓮式その人と我が天台箪匠との交渉に至っては
が極めて少ない。是れ葦し、遵式は徳行を以て知られ、其の表面的活動は全く四明に委ねて、自ちは
専らにした薦、我が天台畢匠との交鰭に於て、見るべきものが無かったことは性格的にも寧ろ常然と
らぬ。
けれども邁式が時代と遊離し去ったもので無い以上、彼が常時に於ける彼我交渉の埼外に在ったもの
られない。殊に冷やかな車間的理解はさて措き、暖かな道念は国境を超越する。従って熱烈なる蓮式
想は、我が平安朝中期に於ける台嶺の浮土教田蒜首何程か感受し、又、何等かの連絡があつたであら
へさせられるのである。
卒直に云ふならぼ、本朝台嶺の龍象たる源信和備が、寛和元年︵一六四五︶ ﹃往生要集﹄を畢功し、翌年これ
を彼の地の天台山に迭附した事は既に周知の如くである。其の常時、蓮式は未だ二十三歳であつたが、
三十︼年を経たる天癌元年︵一六七七︶、遵式は五十四歳に及びて﹃往生浄土決疑行琴一門﹄を鏡唐の侍郎馬亮
のために遅速した。そこに源信の﹃往生要集﹄が明確に受納されて居ることに注目せねぼならぬ。即ち
厨二門﹄に浮教古今諸師の﹁製疏、解経、宗紅蓮論、随情繹難、伽陀讃揚﹂せる内、道安の﹃往生論﹄
﹃群衆諭﹄・道綽の﹃安楽集﹄姦敏の﹃浮士慈悲集﹄と共に﹃源信挿師浮士集二奄﹄が掲げられてあ
が往生要集なる事は夙に指摘されて居る朗であるが、其の内容が蓮式の著作に如何程の交渉と連絡をも
考に倍する問題であると思ふ。
遵式の﹃決疑行願二門﹄は、決疑門の宗とする朗を天台作と停ふる﹃十疑論﹄に置き、﹃大経﹄・﹃
産﹄・﹃般舟経﹄ ﹃鼓雷撃王経﹄・﹃将士給﹄・﹃短信論﹄を以て助成してあるが、それらは何れも
論で、其の文々に至つても同一のものは抄くないのである。
第一決疑門には、疑師・旋法・疑自の三項を分って信解を勧めてあるが、︵こ疑師の下に於ける繹迦・十方
諸併の澄誠は、﹃要集﹄の極楽讃掠には﹃十衆論﹄に伴はれて出で、︵二︶靡法の下に於ける浮教の大乗了養法
たる事の高調は、﹃要集﹄にあつては臨終念相に、﹃群舞諭﹄よカの引文として登場して居る。又、﹃
檻﹄の禰陀父母は請書に論ぜられて居るが、﹃要集﹄に於ても極欒依正の下に見えて一の論題を形成し
︵三︶疑自の下に於ける十念往生は、﹃要集﹄の臨終念相の〓早む貫く一大問題であることむ銘記すべきであら

9β?
選式の浄土教思想に現れたる﹃往生要集﹄ 三三三
遊式の浄土教思想に現れたる往生要集 三三四
う。

タββ
第二、行願門には、薩俄・十念・繋線・衆両の四門を開いて、四門各々の行願を詮いてあるか、︵〓二曙俄門
は、﹃要集﹄の懐悔衆罪の一章に充嘗され、︵二︶十念門は、臨終念相の全部を占めたるものゝ如く、︵三︶繋
繚門に於ける﹁十方如釆憐二念衆撃如二母憶す子﹂は、﹃要集﹄封冶僻怠章の第十六悲念衆生と、其の趣致の
せる甚だしきを息はしめ、最後の︵四︶修栢門に於ける﹃観経﹄三宿の文は、﹃要集﹄往生諸行門の明詩経た引
く朗で、この一章の梼目既に相似を示すものである。さらに吹下の﹃観痙﹄流通の二丈は、﹃要集﹄の禰陀別
にも引かれ、叉吹下の二十五菩薩の擁護は、其の経名を奉げてはないが、これ﹃十往生経﹄の文であつて、﹃
集﹄では同じく禰陀別釜に出づる所である。かくしてこの三文、爾書ともに同一箇塵に出づる事は一奇と云ふ
きである。
かゝる文案の連績を雨着に求めるならば、更にわれくは、遵式の浮土敦として見達すことのできない重要著
作たる﹃往生懐願儀﹄に於て見出すものがある。其の序文に於ける浮土欒相の叙述は、試みにこれを﹃要集﹄
欣求将士の十発と封照するならば、︵こ聖衆釆迎柴・︵三︶身相紳通柴・︵八︶見併開法柴・︵九︶随心供併
欒・︵十︶増進彿道楽の各詮相と文養共に開聯するものがあることを注意せねぼならぬ。
﹃懐炉儀﹄の行法は十科より成つて居る。其の第一たる巌浮道場は、﹃止観﹄常行三昧の身閑適を想起せし
るのであるが、﹃要集﹄にあつては、尋常別行の章下に同じく﹃止観﹄常行三昧の文を引き以て﹃俄願儀﹄の
段との酷似を息はしめらる。こ■のことは、第二明方便添の下に於ても同然である。
第三明正修意は、標目既に﹃要集﹄の大文第四正修念悌と其の類同を示すのであるが、内容む検する
正修意藩、天親論日﹂として、五念門を出し、次に﹃論﹄の順菩提門を庚引して、﹁故重用二論文一
いふ。これ﹃要集﹄の正修念併一門が五念門を標名して、順次これを贋誼するものと此する時、これ
として黙視し去る事には躊持せしめられるのである。侍、﹃論﹄の順菩提門の長引は、﹃要集﹄では
助成する助念方旗門の第四止意修善の下に離菩提障と連引されてある事も塗息を要する。又﹃俄願儀
意に、十日十夜の行迭は﹃鼓晋王経﹄ ﹃大阿禰陀経﹄に、七日七夜の行法は﹃観経﹄ ﹃小経﹄に
ある。﹃要集﹄に於ては、別時念併門の第一尋常別行に十日の行の新撰として﹃鼓晋馨檻﹄ ﹃平等
七日の行としては﹃小鮭﹄を掲げてある。而して、往生諸行門の第一明詩経の下には﹃大阿爾陀経﹄
の行、﹃観檻﹄上上品の一日乃至七日の行を掲げてある。這般の消息は冷暖自知すべきであらう。
第四焼香散華の鰻文は、﹃要集﹄薩藤門下の穫文と血縁的関係を息はしめ、第五薩詩法の三賓穐請は
臨絡行儀の勧念十事の第一たる三賛薩念の文と、その本質なり表現形式の合同を息はしめる。第六讃
五言一旬、十句の侶を以て讃歎してあるが、﹁乗二役八正胎感度二難度着この侶は、﹃要集﹄讃歎門
晶﹄の﹁乗こ彼八這般一・能度二難度準﹂の文と、其の差違果して幾何なるかと息はしめる。
第七鰻彿迭の下、﹁一心敬経本師繹迦牟尼悌﹂の割註に﹁能稽朗薩性基寂﹂とある。この語句が﹃要
門にある事に注目させられる。良息は﹃往生要義義記﹄に此の文を説明して﹁慈覚大師津華常行三昧

夕βタ
云ふ。されどこの文意は、慈覚が在唐の時より相侍したと云ふのか、それとも慈覚がこの文を創唱し
蓮式の浄土教思想に現れたる往生婁集
邁式の浄土教思想に現れたる﹁往生婁集﹂ 三三六
か明瞭でないが.何れにしても問題はこ1に存する。即ち遵式が、何等﹃要集﹄よりヒントを得すして此の同一

9の
文句を得たとすれぼ、そは天台一家の俸統的なもの壱示すのであるから、慈覚相俸にもーつの箔を添
り、若しこれを﹃要集﹄よりの援用とすれぼ、、慈覚創唱にもーつの支柱を輿へた事になるのであつ
ても、日真南囲の天台教畢史上相関的存在を知る事が出奔ると思ふのである。若しこれを雨着全く偶
と云ふならば、そは飴りに放漫な説明と云はねぼならぬ。
第八俄願法には五科を分って、慨悔・勧請・随喜・姫向・蟄願の五悔む明かすのであるが、それは、
の慨悔衆罪の一章の俄悔・随喜・勧請を想起すべきである。其の文々句々を見ると、﹃要集﹄朗引の
の侶と、今の﹃懐願儀﹄の文との相似が存する革も重ねて指摘せられねぼならぬ。
第十坐繹法は、其の内容に於て﹃要集﹄の観察門に相督し、雨書ともに五念門の行を成就せしめん
其の軌を一にする事が知られる。今、坐縛法は、先づ﹃観痙﹄普観の聾開想を示し、次に自重観を中
想阿禰陀彿の次第となつて居るが、﹃要集﹄観察門は、﹃観軽﹄の次第によつて、尭づ聾座観の文を
﹁正敬二相好ことして四十二の相好観を車げ、これを合して別相観とし、紙相覿・雄略翫と次第して
ぶのである。両虎、些か左右あるも、葦座より自宅への展開に於てその相似を知るべきで・ある。殊
は、自重観を明し了つて、﹁攣式、若成不成、撃滅二無量生死之罪壷二諸彿前ペ又云、但聞二自宅名
況繋念﹂と利益む車げてある。﹃要集﹄に於ても亦同然である。されば﹃懐願儀﹄に﹁攣至・﹁又云
名を奉げざるため、何程なるやを不明ならしめてゐるが、この二丈は連摸して﹃要集﹄に自宅観の利
なつて居るが如きはlこれを偶然の一致となすを甚だしく困難ならしめるものである。これによつて、﹃俄願儀﹄
の﹃経﹄は﹃観併三昧経﹄である事を推定しても差支は無いこと1信ずる。
以上、蓮式の﹃決疑行願二門﹄及び﹃俄厨儀﹄の両署を採り上げて、﹃要集﹄との比較を試みたのであるが、
其の結果は、雨着の間に相嘗の契同するものを見出した事を報告し得る。もとより宗教思想史上、平行現象の在
ることは決して忽緒に附した次第ではない。又類文の存在は必ずしも、それを時代順に並べて、一を他の直接的
影響と断定すべきものとは考へられぬ。けれどもそこには、他の僕件が加へられねぼならぬ。即ち甲の書の著者
が、乙の書を全然披見した事寛が文献的に澄せられぬ際は、類文の存在による雨書接近の推定は極めて礫弱なも
のと云はねぼならぬ。されど今の場合は、蓮式が﹃要集﹄を知悉して居るのであるから、事態は甚だ異る様相を
呈する事となる。即ち﹃犠願儀﹄の如きは、其の結構組織が﹃要集﹄十門の一部に契督し、 ﹃決発行願二門﹄の
大綱も亦これを求めて﹃要集﹄に見出し得るのである。加之、丙書の引文の連績せる場合の等同や、又は、軌補
の跡をしも偲ぼせる類文の存在に至つては充分これを考慮すべきである。従って、遵式及び源信の浮土敦思想に
は幾多の異鮎が其の顔境よりして認められようとも、そこには、著書に於ける引文の道元的操作に由つて、母胎
を同じうするものを見出す事を思ふのである。この意味に於て、﹃要集﹄の面影を遵式の基似として退け去らる
べきでは無いことを考慮されんか、私の問題提出の素意はこ1に県連されるのである。

タ9J
蓮式の浄土教思想に現れたる﹁往生要集﹂
阿閤彿囲経に於ける浄土の意義

タ鼠2
阿閑彿圃経に於ける浄土の意義
西 尾 京 雄
−稗貫阿既併圃経は大乗悌教に於ける最初期に位する経典であると畢者は論讃し、其のことは畢界に認容せ
られてゐるやうである。而してこの阿閥併固檻には種々なる問題があるが、今は、本脛所説の浮土荘厳
義に就て述べて見たい。
元奔、浮土の思想は印度に於ける有神教系の思想の影響をうけて蟄達したものであるとせられ、その
々の荘厳︵童辞且、即ち、所入の門︵d乱rそ乗物︵邑且等皆有自性として、我々の婆婆世界にあるものゝ如
く存在するものであると考へられてゐる。其の思想が併教に於ける最初斯の浮土の思想であるかの如く
−般に考へられ、余も亦、これまで、その如く考へてゐた。か1る思想は盲死より行はれたものらしく、稔伽唯
識教単に屡する僻地経論に説かれる浮土についても、かの十八囲満の一々の荘厳が、有自性の事を示す
るとする第一系統と、其等は併智所詮の世界を寄顧せるものであるとする第二の系統が停承せられてゐ
十八囲満の浮土は僻地経並に解探密経に説かれるのであるが、その第二系統として理解することが経典
想として正しいやうである。有自性としての事の浮土を併数々合の中に立てて奔たことは僻地経論に
みでなく、浮土の詩経典の自らなる叙述に於ても亦観取せられるやうである。
〓 異繹諸本の異同。第﹁疏諸について、支部正於ては、三詩、即ち、後漠・麦婁迦識繹︵西紀一四七︶阿閉彿
圃経︵大正二︼・七五言︶、東晋・文題根繹︵西紀≡五︶阿閥彿剃諸薩菩畢成品、及び唐・菩提流支澤︵西紀
七三︶ 不動如奔合︵大正ニー二〇言︶があ旦西戒に於ては、智友等の共繹である阿閥如秀荘厳大乗経
︵A官bhy苧t賢督t監y芋蔓辞pm註首ぎ⋮碧且︵勘同日録・七六〇番第六︶がある。その中、支道根詩は侍っ
てゐない。
第二、経題について、阿閥悌剰請書庭草成晶は分品の名ではなく一経の名である。又、戒澤の品序よ
開︹如奔︺授記経︵mi卓h屋竿p寧︹de身hin・竃g苧p畳︺Fチb賢守p寧已首芸き︷碧苧p阜 mdO−Ak首hy
︹t邑h劉g賢払y且く甘好男眉pm註首ぎ⋮碧且の経名も知られ、総じて五名がある。
第三、分品の開合について、阿閥彿圃経の第五彿般泥垣晶が不動如発令に於ては、第五捏輿功徳品、
因縁品の二品に分たれる。蔵澤は品名なく、その分品の分ち方は不動如奔禽に同じく六品︹併し最後
炊く︺である。
第四、経の文面に於ける増減について、阿閥彿圃経は流通分を炊き、不動如死命は阿閥彿国産弟子畢
弟子不復行求衣鉢也﹂︵大正・一丁七五言十九行−下十宗︶以下の文がない。戒澤に於て、第二晶の彿剰荘厳

夕釘
品の終りた、弟子拳成品の二事︵大空︼・七五七経二行−中十二行︶が適しくも虚を欒へてゐる。
阿閤彿財経k於ける浄土の意義
阿閻彿国縫に於ける浮草の意義 三四〇
第五、思想内容に於て、阿鴎併圃経には、眞如・法易・津性・伴性等の非安立論︵彗y彗邑hぎ琵註y且の語が

994
文面顛了でなく、簡古であるが、異澤を註繹として初めて理解せられる個所も多い。
三 浮土荘厳の施設。第﹁ 本鰹の梗概に就ては、繹辛が著聞蠣山に在って舎利弗のために、東方阿此羅提
︵小↑夢ir註−妙書︶圃の大目︵蔓g告 辞①守p〇・贋目︶ 如釆の下に、阿閥菩薩が六度の法む聞いて大誓願を立て授
記を得て阿閥如舜となり、現に妙菩世界に任すること︹受慧品第こ、ついで其の悌剰の荘厳︹善快品第二︺、草
間衆の功徳︹弟子峯成品第三︺と菩薩衆の功徳︹諸菩薩峯成品第四︺荘厳を、経りに阿閥彿の捏奥の相状と往生
する因︹彿般泥垣品第五]とを説いてゐるのである。
第二、浮土荘厳の施設概説するについて、全般に亘る飴裕がないので、望月博士が﹁浮土教の起原及蟄達﹂六
六九頁に概評してゐるから、便宜上其を稽へつ1荘厳施設の意趣を見たい。
尭づ浮土の依報荘厳について、第一に日月に開設︵大正一一・七五五中七五六中等︶することより、将士には日月
がある。彿敦の経典も時と朗とに制約せられる文化の所産なのであるから、他方世界が措さ出されるについては、
嘗時の印度人の文化財に掠って建てるより外方法がない。然も闘士の施設については日月を度外することは出奔
ないから、そこに日月が配置せられる。然し、その日月の光は阿関係の光明によつて悉く萩はれ、剰土の人民は
其を見ることが出奔なく、日月の照す研がない︵七五五中︶と。日月は寓物を照し、常闇を破る朗にその意義があ
るのであるが、今はその機能が全然ないので、日月は仮説に過ぎない。
第二に仰利天等の諸天がある︵大正二∵七五七中︶と記述する。部派併敦に於て、欲・色・無色の三界誼が
確定してゐるのであるから、今も亦世界の構成上、其等の相状が詮かるべきである。然るに一般に諸天は閻浮捷
に歓待して防塵であり、為に原始併教以秀の念天の思想にも見るが如く、其虔に生れることが奨はれるのである
が、阿閥悌剰に於ては、佃利天の諸天は反つて閻浮捉に降下することを願ふのである。其は閻浮提の膵栢は諸天
に同じく、然も阿閥怖が檻を説きたまふこと︵大正・一一・七五七中︶ は仰利天に無いからである。此の事は上界
も亦同じいのである。其れ政に阿閥悌剰に於ける色界等は上界としての意味が充い。従って諸天等の建立は仮設
と首ふべきである。
次に、浮土の韮報荘厳につい、て第﹂に諸人に歌詠・遊戯︵迦哉澤には侠発とす︶あ少とせられるが、其は欲意
と相應するものでなく、寂静の行である法柴なのである。
第二に女人あゎとする。此は阿禰陀彿圃の女人あることなし︵大阿・第二願無女化豊 とすると異なるが、その
女人は玉女賓より勝れ︵七五六上︶、女人としての過失がない。女人の雷に姫身・出産あるが身心の疲極が無く安
積であると。婆婆世界に比較して女人ありと説くが為に、その女人としての理想を極度に描いたものであると思
はれる。
第三に菩薩及び諸人の死あゎとは、寡聞及び菩薩の般捏察すること皇一一口ふものであらうが、阿閥僻も亦自ら般
捏奨せらるゝのである。阿閥彿剰の︶切衆生は横死がなく芙正・一一・一〇三下、迦識轟七五三下相常文軟く︶短命
者無し︵大正二一・七五七中、戒諸には命濁とす︶ とす′るから、無量寿固の人民長寿或は弟子長詩と積極的に説か

タp∫
ない相違があるのみである。
阿閻悌国経に於ける浄土の意義
阿閻傭国縫に於伊る浄土の意義 三四二
第四に阿閥彿剰の草間衆は四果の差別はあるが、其の区別はこの土の如くではなく、現生に於て、皆、無畢他

99β
に任して城度を取るのである。それ故に四果は仮名の施設に過ぎない。然も聾聞であるよりして、或を持すべき
であるが、阿閥僻剃の衆生に煩悩濁がない為に菅・基・無常・無我 ︵大正一丁七五七下、森澤は空・無相・無常と
す︶ を以て裁とする。その整聞の無数なることは阿摘陀彿困に同じい。
第五に菩薩衆はすべて不追悼位︵大正・一一・七五八下︶ であぉ、一生神慮である。その所以は魔の嬉乱する朗
とならないからである。その魔衆は前世の業によつて魔の身と名とを待てゐるが、彼等は其を厭うて聴聞に預っ
てゐる。
第六に、その併剰の人はすべて悪色の者無く、又醜者もなく、姪・怒・療薄し︵大正・二・七五五下︶と説く
に於て、前二旬ほ大阿禰陀経の第九願端正同色といふ積極的なる開示と相恩し、後一旬は第十一顧の無食膳療と
いふに同じくはないが、﹁無有械濁﹂ ︵大正・一一・七五七中︶ ︵戒諸には煩悩濁なしとす︶とあることよ少、其の思
想は理として無貪暖痴に蟄展すべきである。
元秀、阿閃彿剰は阿禰陀彿囲の十方衆生、殊に凡夫を救済の由象とするのと異斗 ﹁阿閥彿園は凡夫の剃にあ
らず﹂︵大正一︼・七六二下︶或は﹁阿閥彿の徳枕絵檻は終に痴人の手中に至らす﹂︵大正﹂一・七六三中︶とて、凡
夫を拒否し、草間衆も亦功徳法門を聞いて受持し精勤して二生或は二重にて補廃となる︵大正一丁七六三下、一
︼︼下︶ のであるから、すべて菩薩人として悌果を得ることが究極の目的なのである。
以上説くことによつて阿閑併剰の依報・正報の種々なる差別相は魂謂無童詩経に捏輿の妙果を明す條下に説か
れる﹁因帽飴方﹂︵大正二二二三一下︶として説かれてゐるものでないであらうか。この大鑑の﹁因幡詮方﹂の
旬は、説明旬として増床せられたのか廿四顧経の相督する保下 ︵大阿瑚陀経、大正一二・五〇四中、平等畳経・大正
一二・二八四上︶に無い。この程句が魂繹並に唐澤︵大正一二・九七中︶に於て顧はれたといふことは、その昔時に
将士の荘厳を経典の文言の如く執ったものがあり、その眞の施設の意義を明かにせんが薦の説明旬であると考へ
られないであらうか。
此の因順飴方の意味に阿閥彿圃の諸荘厳が施設せられたものであらうとか漁想を確箕にするのは、阿閑俳剰の
功徳荘厳︵gu琶童中h且 の結文として、阿難と須菩提との封話がある。
賢者阿難、間こ賢者須菩捷二言、唯須菩鑓馬レ見こ阿規併及諸弟子等井其彿利一不。
須書換、謂二阿難二言、汝上向硯。
阿難答言、仁者須菩提、我己上向硯、上皆是虚基。
須菩捷、謂二阿難二言、如こ仁者上向見石基、敬二阿閥彿及諸弟子等井其彿剰︼嘗レ如レ是。︵大正二・七六〇中、一
〇八下、勘同目録七六〇番、第六・五一a︶
この間答に於て、上乗叙する所の阿閥隣国の有相の荘厳が虚基︵詳茸g且 と等しと観るべき意趣のものである
ことを知るのである。この虚基は常に大乗経典に於てその遍在 ︵琶召t⊇g且 の義よりして法界に誓へ、虚基の
一誓よく如釆をを顧はすともいはれる。此より浮土の功徳荘厳が法界と相癒して解すべきことを指示するもので

タタグ
あるまいか。
阿閑彿固経に於ける浄土の意義
阿開彿囲経に於ける浄土の意義 三田四
四十八願経に因順飴方を説き、次いで、浮土の諸天人の身慣の精妙を﹁虚無之身、無極之慣﹂と明し

βタβ
其は叉廿四顧経に於ても同じいのである。か1る能詮︵文︶・所詮︵義︶ の相應せる叙述が簡単に行はれるもの
でなく、箕に阿閥隣国経に於ける此等の思想の琢磨錬成を経七簡明直裁の表現を取って発たのでない
四二郎仮設的指方立相と離仮設的緒方立相の将士。余はか1る阿閥彿の本願カ︵p笹コぶpr邑dFぎぎ各F賢乳且に
基いて飴方に因惜して施設せられる浮土を郎仮設的緒方立相の将士と呼び、之に封して仮設を離れて
ての事を詮く将士を離仮設的指方立相の将士と名づけて差別する。思ふに法の思想は縁起・基・法性
が仮設︵llp覧許且せられるに勤して、悌身の思想は、玲伽唯識致峯の言葉を用ひた言払方ではあるが、眞如﹁清
渾法界︶・菩提︵出世間智︶・捏察︵無馬界︶・韓依︵法身︶の一味︵註琵琶︶ の上に、其は時代と人︵部彗と
によカて其等の中、扁れかを中心とはするのであるが、其等の清浮虞賓なるもの ︵息tlddど計事⊇︶の上に仮設
せられて秀たものであると見られ得るであらう。
五 結語。阿閃併囲の将士の荘厳の施設をかくの如く了知することによつて初めて係数思想として受
るやうである。東方妙書世界に緒方立相することによつて、常時一方に、一般社食の有神教を信ずる
思想へ欽慕・導入せしめられると同時に、他方、係数々圏の中に流行したであらう生天を信ずる人々
化せしめられ、自利々他園満を究寛目的とする菩薩道に韓入せしめられる善巧の施設となつたもので
へるものである。
有自性論に於ける仮説と唯識論に於ける
慣説に就いて
野 澤 静 澄
この題の下に、安憲造唯識三十項繹論︵焚本、−芸。新尋成唯識静巻竺、−○⊥妄︶に出づる、仮説︵up邑r且
に閲する有自性論者と唯識論師安惹との論争、速記の所謂﹁略繹外難、重浮此三句﹂
て卑見を述べたいと思ふ。
その有自性論者とは、成唯識論速記︵係数大系本、成唯識論竺、五四四頁︶這よれぼ吠世師即ち勝論であり、調
伏天はこれを文典家︵言首等蔓︶であるとなす。尤も速記では、後に﹁破二前外道顔論馬レ首、飴亦従レ之﹂
︵同、五五四京︶ともなすから勝論と限ったわけでもない。
借て、勝論と文典豪とにはその根本畢詮の上に少くとも次の如き相違が認められる。即ち、︵こ聾即ち言語
の詮はすものに就いて、勝論は寛︵望kti︶・種︵茸1tl︶・類︵j旦の三種に分類するに封して、文典豪は箕
︵d⊇望︶・類︵j賢︶の二種に分つ鮎、︵二︶撃と整の詮はすものとの結合関係に就いて、膵論は習慣的︵sぎ首k且
であるとするに封して、文典家では常任不欒︵︸音且であるとする、換言せぼ、前者は聾無常論︵馨生論︶を探

9タ9
有自性論に於ける傾託と唯識論に於ける僻詮に就いて
有自性諭に於ける傾託と唯識論に於ける傾託に就いて
幻、後者は草常任静︵整顛給︶をとる鮎、の二鮎の相違が認められる。

7α)ク
今、この二鮎を敢の仮説に関する論争について検するに、︵〓二恨詭せらるるものとしては寛と類との二を奉
げて文典家の誼に同じ、︵二︶眞専︵mu打hy苧p註腎tF£として能詮の整と所詮の資及び顆とを模してゐるが、
これは吹下に給する如く能詮・所詮の結合関係が常任であるところから、かく能詮・所詮を眞事となすものの如
くである。この鮎も亦文典家の誼に等しい。それ故に、調伏天の誼の如くこの有自性論者とは文典家であると認
めて然るべきかと息ふ。
文典家は前述の如く、聾常任論がその板木畢説である。而してその聾常任論を立つる娘接は、馨︵唱bd且とそ
れによつて詮はされるもの︵a一己凰、即ち能詮と所詮との結合関係︵墨mb呂dh且が常任不欒であるから、能詮
の白襟たる馨性︵唱bd邑⊇︶も所詮も共に眞事として資在す、といふ鮎に存すとせらるる。又、その馨常任給は
整群論と云はるるによつて知らるる如く、一切の言説 ︵註hidh許且 はかかる眞事として資在せるものの顛はる
る篤の経たるに過ぎないとせらるるのである。
それ故に、今これを火について云へぼ、火といふものは、火といふ言験又は火なりといふ覚︵b已dFi︶とは無
関係︵旨董ek笛︶ に眞事として箕在するけれども、火といふ言説又は覚は眞事なくしては起り得や、言説・覚の
超るところ必ず眞事を隷想しなけれぼならぬのである。このことは単に忘閥に関するぼかりでなく、文について
も嘗撮まると思ふ。例へぼ、﹁儒童は火なり﹂といふ文・−仮説は、火といふ質草と火に似たる儒董といふ別な
眞専とが既に箕在して居って、更にその雨着に共通する徳即ち展性があつて始めて可能であると云はねぼならぬ。
だから、この立場よ幻文典家では﹁仮説は三に依る。即ち眞事と眞事に似たる他の境と及びそれら雨着に共通
する徳とに依る。その何れか∵なきときは仮説すべからす。﹂とて、党づ恨詮の根本俵件を撞示し、次に、﹁誓へ
ぼ虞なる火と、火に似たる偏重と、火と儒童との雨着に共通する赤性又は猛性とが存するとき、世間に於て僻童
は火なりと仮説せらる。﹂と慧喩む掲げ、かかる根本保件と讐喩との二む以て、唯識論師の、﹁我法二種の仮説は
識の樽欒に依ると雄も眞の我法に依るに非す。﹂ といふ仮設義を難じ、筍くも我法の恨誼があれぼ我法は寛有た
らざるべからすと徹するのである。
註 宇井伯毒氏著、印度哲学研究︵解こ所収、一一膠論正理雨撃沈と吠陀並に聾骨任諭との関係﹂参照。
文典豪の徴難は前述の如く仮説の根本保件と誓喩との二部より成る故に、これに封する唯識論師安慧の答繹も
自ら二部となり、第↓部に於ては﹁誓喩に於ける仮説﹂を遮し、第二部に於ては仮説の根本候件としての﹁眞事﹂
を渡す。而してこの第二部の破を速記︵同上、五五四頁︶では﹁小乗の伏難﹂を破すとなせるを注意して置く。
以下かかる答繹について諭すべきであるが、それは可なりの紙数を要することであるから、今は調伏天の復詰
む参照しっつ自由に請出し、以て此の部に関する研究に代へたいと思ふ。
−放論。成究尭論者安吾は、故に﹁儒童は火なり﹂との誓喩を建立する場合、汝の所宗によれぼ、火の類か或
は火の資か、換言せぼ、火の共相か或は火の自相か、が儒童に於て恨詮せらるることとなる。然るに、雨音共に
仮説せられすと破す。

7α〃
〓︵A︶ 類を破す。︵a︶儒童と共通性︵s寧−旨群馬a、︶なる赤性或は猛性は火の類には無し。汝はこれらの二徳は
有自性論に於ける僻託と唯識論に於ける傍証に就いて
有自性諭に於ける偶詠と唯識論に於ける酸詑に就いて 三四八
寛に廃すと錐も類に属せずと許すが故なり。而して共通性は仮説の依事︵up莞許彗星ll︶なカ、然るにその典通

7∂02
性は火の類になきを以て儒童に於て火の類を椴誼する能はす。而かも汝侍ほ﹁類に共通性なしと錐も仮詮し得べ
し﹂と云はぼ、︹日く︺、爾るときは決定なき政に一切に於て二寧を恨詮すといふ太過の失に堕すべし。
︵b︶ 以上の難破︵頂邑首︶に封し、汝、別なる仮説の依事を説かんとて、﹁類には共通性なしと錐も、類なきと
きは赤性或は猛性は起もぎること︵等in欝hぎitく且がこの場合の仮説の因なヵ。それ故に、儒童に於て類を仮説
すとも太過の失なし﹂と云はぼ、︹日く︺、火の類は儒童にはなし。他方、猛性と赤性とは儒童に於て現に見らる。
それ故に彼の二徳は火の類なくして而も起る。由つて、類なきときはかの二徳の起らざることも亦仮説の因たり
得ざるなり。
右の難破に封し、汝更に﹁火の類なきときは起らざる赤性と猛性とは共に儒童にも亦資有なり﹂と云はぼ、︹日
く︺爾るときは、火に類なる火性寛有なる如く、儒童にも亦火の顆寛有なる故に、儒童に於て火の類を仮説する
必要全くなきなカ。
︵e︶ かくの如く仮説の依事は共通性︵卦告勢至首︶ にあれ不可分離性︵彗in勘bh賢き且にあれ共に新中には
有り得ざる故に、それ政に、﹁儒童に於て火の類は仮説し得べからす﹂と決定す。
︵B︶ 箕を破す。︵乱︶、汝、﹁類を仮説し得すと維も箕を恨改し得ぺし﹂と云はぼ、︹日く︺、火の箕も亦儀蛮
に於て仮説すること能はす。所以は、火と儒童とには共法 ︵乱m賢y苧d訂rm且 全くなきが故な少。元釆、種
︵まで晋=笥已寧k晋琶︶なるものは各自の所依に繋廃するが故に、火の徳なる猛或は赤なるものは郎ち偏重の猛或
は赤の穂な少とは許されざるな曳即ち、火は薪を焼く故に猛なりと辞せらる。然るに、偏重は諸士夷
なる故に猛な少と稀せらる。それ故に、火の猛なる徳と儒童の猛なる徳とは全く別異な少。同様に赤
異な曳既に儒童の猛・赤なる徳は火の徳ならす。それ故に、別異なる徳によりて儒童に於て火の箕を
せば、太渦の共に堕すペし。
︵b︶ 以上の.難破に封し、汝、彼二徳の相似︵思号首鼠︶を想療として、﹁猛或は赤なる二徳は各自の朗依に於
て決定せる故に、倖萱に於て火の箕を仮説する能はずと錐も、火の徳なる猛或は赤は儒童の徳なる猛
似なる故に、その徳の相似に依カて儒童に於て火の賛を恨改し得べし。﹂と云はぼ、︹日く︺、かく
は徳の類に於て許さる。それ故に、億の相似は今の場合の救繹たヵ得ざるなぉ。即ち、相似の徳有り
らはもとく徳の相似なる政に、火の徳なる猛性或は赤性は儒童の徳なる猛性或は赤性に於て仮詮し得
徳の相似によ幻て直ちに儒童に於て火の寛は仮説し得べからす。火の箕は徳の類と無関係にして、他
は諸徳と相應すと堆も覚とは相應せざるが故なカ。
︵。︶ かくの如く実に於ても共法会くなき故に、それ政に、﹁儒童に於て火の寛も同様に仮説し得べからす﹂
と決定す。︵以上、笛こ部。以下、第二部。︶
−︵A︶ 箕の眞事たるを破す。︵乱︶、かくの如く﹁誓喩に於ける侭詮﹂を遮し己つて、次に虞事を破す。汝
は﹁虞事あるとき仮説し得べし﹂と云ふも、そは復た合理的ならず。農事は全く無なるが故なり。何

7(フ仇ヲ
か。農事の白襟は一切の智と一切の言祝との境より超出するが故なり。何政に超出するか。﹁勝性︵pr邑″§・且に
有自性諭に於ける僻託と唯識静に於ける膵詑に就いて
有自性諭に於伊る僻託と唯識論に於ける僻詑に就いて 三五〇
封しては常にそれが徳呈するとき智と雷管の境となる、即ち、解了せらるるも、その白樫は解了
と竺れ汝の極成なるが故なり。而して今故に勝性とは種の慣︵風習邑u︶の謂にして賢等なり。次に徳と
は種︵意凄キの謂にして自等な五㌔かくの如く膵性に封して智と言説との二が現前に堪ることなけれぼこそ、
勝性の徳の相貌む以て顛はれしことが知らる。即ち、徳を分別することが合理的となる。然らす
自慢が智と言詮との二を以て現澄知せらる﹂とせんか、爾るときは諸徳は全く効用なしといふ過
︵b︶、これに封し、若し汝、﹁智主義との二は膠性の自照に封して現前に起ることなしと錐も、而も何らか
の別なる方便を以て膠性の自照を現澄知す﹂と云はぼ、︹日く︺、覚︵b象dhi︶と整とを離れては膵性の自照を現
澄知する所以の別なる方便は全く無けれぼ汝の所言復た不合理なり。
︵e︶、かくの如く、膠性の自倦む分別する別なる方便は全く無く、他方、智と言説との二は勝性の自饅には起
らざる故に、農事なる火の箕は全く無しと解了せらるべきな少。
︵B︶ 顆の眞事たるを破す。汝又﹁火の箕に於て発と馨とは現前に起ることなき故に火の箕は虞事たらすと鮭
もー火の類には覚と聾とは現前に堪る故に、火の顆こそ農事たるべし﹂と云はぼ、︹日く︺、火
す。所以は、火の頼も亦聾の日程を媒介︵邑卦且として始めて智と言説との二を以て知らると雄も、その白襟
は直ちに知られず。それ故に火の顆も眞事た幻得ざるなり。
︵ヱ 聾性の眞事たるを破す。汝又、﹁聾性に於て発と葺との二は現前に起る故に、賽性こそ眞事たるべし﹂
と云はぼー︹日く︺、以上の如く箕と斯とに智と言説との二が現前に起らざる如く、聾性に於て
ることなし。聾の白襟と言説とは差別なけれぼ従って結合関係も亦なし。而して汝は﹁結合関係なくしては何
にも言説鞄らず。言祝起らざる廃には智も亦起るべからす﹂と許し、更に﹁蒜の智は分別を具す﹂とも許すが
故に、智望最に依らすしては起るべからず。頼も徳も作︵k昔風も亦整の自照に依らすしては智によりて執ら
れす。それ故に、彼等分別も亦言説恕離れて別にはあり得ず。以上の如く、聾の自照にも智と言説とは現前に
らざる故に、聾怯も眞事たり得ざるな少。
〓 かくの如く、智と言説とは所詮なる箕・類及び能詮なる聾性の何庭にも現前に起らざる故に、﹁農事は
く無し﹂と成立す。
かくの如く眞事む遽し巳つて、次に仮︵g呂且を現前に説かん。汝の宗とする一切の眞事は全く仮にして眞
︵mu詳y且たらず。仮とは醍もその任廃も現に無なる相貌にて起るものな聖而して一切の聾は勝性に於ては現
に無なる仮の相貌にて起る。即ち、膵性は仮の相貌となつて始めて賽によりて知らると錐も、その自髄は知ら
るにあらず。それ政に膵性は虞たり得ざるなり。
かくの如く眞事は全く無し。それ故に﹁眞の我法なきときは仮説する能はず﹂と云へる汝の宗が却って不合
なカ。
附記。文典家の所言の出嘘を今春かにせず。従ってそれら所言に射して三社記するを得ぎるは誠に遺憾であ
車にこれを寛恕し、逸早く御指示を賜へ。倍ほ、西戎丈読解に闘し、山口.益発生の御重敦に捺せしこと多し。故に記して謝

7仇)∫
意を表す。
有自性諭に於ける僻託と唯識論に於伊る傍証に就いて
彿教典♯上に於ける高麗義天の事美並に其債値 三衷二
彿教典籍上に於けゑ尚魔義天の

7006
事業並に其債値
大 屋 徳 城
養天詮は牌、文宗の第四千、宋哲宗の辞を避けて字を以て行ふ。景徳国師を踵しー出家し
厳を畢び、蕗世愴統と親した。宜宗あ二年乙丑四月、即ち采の元望八年、商舶に乗じて入
を、従諌に天台を畢び、翌年︵宋の元繭元年︶六月、繹典及び経書一千巻を宿して辟新し、輿王寺に教寂都監を置
いて、之を刊行した。又国清寺に任して、天台望見拐し、後海印寺に退き、粛宗位に如く
び開城に遺聖典王寺に居少、門人等と華厳の要文を集めて、新集囲宗文節を編纂刊行し、
めて繹苑詞林を編Lた。異説く朗時弊に鑑み、教親愛修を標梼し、以て愴風を革めんとし宅六年辛巳︵宋の連中
元靖国年︶十月五日病みて寂す。歳四十七。註して大覚国師といふ。其事蹟は墓誌銘、憲通寺碑、仙風寺砕、文
集、外集、高窓史、彿組統紀、糟門正統、東師列俸に詳かであり、其他の随筆雑著にも散
彿教の典籍に関する義天の事業は四種ある。即ち新編諸宗教療紙録の編纂は共石あ幻、緯
は英二であカ、新集囲宗文顆は其三であり、繹苑詞林は其四である。今各項の由釆を述べ
批判するであらう。
︵こ 蓑天は十九歳の時から、彿教典籍の蒐集を蟄願し、入来するや、専心之に従事し、数多の葦疏を獲て辟
朝し、更に遮及び日本に求め、二十年間に一千○十部、四千七百四十飲食を集め、英日を編して、新編諸宗教戒
経線三奄とした。時に宜宗の七年庚年、采の元祓五年、本邦の寛治五年、義天三十六歳の時である。
︵二︶ 奉天采より蹄朝の後、輿王寺に教戒都監を置き、新編諸宗教戒経線所載の疏砂の刊行に着手した。而し
て、着手の年月、櫓繚の年月、全部成功したかどうかは徹す可き資料が無い。現存の残巻に依って推定すれば、
新編諸宗教病根録の出奔たのが、采の元祓五年で、遼の大安六年喧嘗り、現存する刊記の最も古いのが、大安八
年であるから、大安七年から始って、其寂年まで栂繚したと見て、凡そ十年問である。即ち三十七裁から四十七
歳までである。現存本の刊記の最も新しいのは、詩昌五年であるから、大安八年から毒昌五年までは八年間であ
少、右の十年とレ、ふは、略これとも一致する。而して、其刊出した数は明かで無い。
︵三︶ 新集囲宗文類は二十二奄あカ、華厳の嬰文を集めたもので、義天の弟子等と共に編纂する所で、給養の
参考書である。恐らくは、義天の辟朝後六七年頃であらうと恩はれる。共編纂に興った諸愴は竜一の後に列衝が
あるから、之把依って知ることが出奔る。凡そ斯る要文群衆の形式は、嘗時宋にも、遮にも、行はれたところで
あるから、義天は夫等に倣って、編纂したものであらう。即ち宋では重編天台諸文類衆、台宗十類因革論などが
あゎ、遼では大乗諸宗修行止親要訣があぉ、何れも義天よカ前であるから、其餞裁に則つたことは明かである。

7αフ7
︵四︶ 繹苑詞林二百五十巻は義天最後の編纂であ少、其刊行は恐らく生存中には出爽なかつたやうで、寂後遺
沸教典籍上に於伊る高麗義天の事業並控其僧侶
儒教典籍上に於ける高彦義天の事業並に其偶値 三五四
弟の手に成つたものであらう。繹豪に関する文章を蒐録したもので、今優に巻一石九十一から、余二百九十五ま

7α鳩
で、五巻を存するのみであるから、金程がどういふものであるかは知ることが出奔ぬ、併し巻一石九十三に碑四
十と注してあるから、碑が四十巷あつたことが分るのみである。之も梁簡文帝の港賓聯璧二育三工学梁元帝の
内典碑銘集二宇巻に倣うたもので、現存の凍奄に依れぼ、上は六朝より唐宋に及び、高麗朝の文も収めてある。
以上、義天の編纂並に刊行に係る四種の事業の由釆を略説したから、次に、此等の内容に閲し、他に優れた鮎
を拳ぐることとする。長所は即ち傾倍の存するところであるから、長所を説けぼ、債倍はおのづから判明する詣
である。
︵こ 新編諸宗教戒紙録は奄↓に軽部を、撃一に律部を、撃こに論部を収めてある。而して、左の四箇僕の長
所を有する。
︶ り此目録は海東有本見行線と注し、現在目録である。世の多くの目録が、其本の有無に拘らす、文献に依っ
て停はる書名を著録するとは異って居る。随つて、義天の頃には、これだけは確箕に存在したといふ謹撰になる。
00高覧の撰述だけに、古くは三園時代、次いで、新羅時代の撰述を収載して雷、警元鰐、養湘、慈寂、
憬興、可辟、太賢、養寂、囲測、勝荘、縁起、順程、明晶、智通、道身、囲勝、道澄、悟虞、端目、層致遠の撰
述から、高麗の諦観に及んで居る。他の目録にも、若干の牛島撰述を収めてはあるが、これ程豊富なものは無い。
唯惜むらくは、高麗朝を今少し載せて欲しかった。
︶ ハ 契丹又は遼の撰述を収めたことは、亦他線に秀れた鮎である。契丹は書禁が厳しく、外囲に出せば死に虚

すといふ程であつ充かち契丹の本は宋にも殴り出なかった。然るに、高麗は采と、契丹と何れ
で、契丹又は遮の撰述は高麗へ輸入され、此目録に収載されるやうになつた。政に道窄覚苑、
悟、澄淵、常眞、非濁、詮明︵役名富︶希鱗、志延、思孝の撰述は他に見ざるところである。
↓采人の撰述を多く収載したことも、亦他に傑れた鮎である。義天は親Lく入来して、押京から洗晰の問に

遊び嘗代の知識五十飴人を歴訪して、章疏を集めて居るから、北采人の撰述を多く著録して居
以後来朝の天台に関するもの、七十二部を数ゆることが出来る。こは他線に見ざる朗である。
︵二︶ 横森痙の内容は大鰐新編諸宗教戒絶録著錦の章疏であると息はるるが、今日残冊が少いので、確貴に知
ることは出奔ない。併し、完成はしなかつたとしても、重要なものや、希載なものを村営多数
は疑問の故地が無い。績歳の刊行された分が現存したならば、どれ程必要なものがあつたか、
い経で、虞に件数撰述の賓庫であつたことは、寸毒疑ふ飴地はあるまい。今残って居るものだ
玄範の阿見達磨雑集論疏、慧浮の妙法蓮華軽摂述、公哲述、息菰刑補の金剛般若経疏開玄妙、
疏、蔓基の大破捏柴経疏囲旨妙、行満の開四分律宗記養鏡紗1清素の稔伽師地給養演、雲備の因明入正理論疏砂
など、他に俸本無きものがあり、殊に息孝の妙潜蓮葦経観世音菩薩普門品三玄囲資料文、澄淵
行事妙群集記、常虞の倶合論頒疏妙の如き、契丹人の撰述は、績赦に編入せらるる亭が無かっ
伏して了つたであらう。今日契丹悌教の内容がいくらかでも窺へるのは、全く奉天の功績とい

7α)9
︵三︶ 新集囲宗文類は二十二巻あゎ、今巷一と、怒十四と、奄二十二の三宅の外、若干の戎開を留むるのみで
彿教典籍上に於ける高麗義天の事業並に其債借
沸教典籍上に於ける高麗義天の事業並に其横倍 三五大
正確なことは分らぬが、残存の部分だけで論じても、他に俸本の轟い文章が歩く無レ。其最も希潮なのは、績

7(:け0
と同じく、契丹人の文章である。道宗の繹摩討街論通玄妙の引文︵巻一に牧む︶大方廣傍輩厳経随品讃︵撃︼十二に
牧む︶侍中監修国史貌薗公桃景席の同讃引文︵啓一︶兵部侍郎参知政事劉誰の諸宗止観引文︵巻こ思考の約理事
無擬など四為︵撃一十二︶は斯書に収載された馬に凍って居る。其他、支那撰述では、元朗の起信疏論集繹記、法
談の新華厳経疏、智正の尊厳経疏、智傭の無性繹癖論疏、延俊の起信論演奥抄、石壁寺俸興の起信給随疏記、
秀の唐葦厳経疏を、彗ニ、奄四、巻七に引用してある。此等も皆散供した註疏である。
︵四︶ 繹苑詞林は二百五十奄中、二百四十五奄が亡供し、僅に五奄を存するのみであるから、とかくの論を焉
すことは不可能であるが、此五巻だけで見ても、相雷貴重な碑文が牧戟されてある。即ち支部は六朝から采ま
二十一家、朝鮮は高麗の一家を収め、就中、王融、の高麗庚州智谷寺眞観繹師碑︵巻︼首九十一に収む︶の如きは、
高麗の供文で、他に侍本を知らない史料である。王融は光宗、景宗、成宗の三朝に仕へ、後周に侵し、辟朝し
翰林に盛名のあつた文人で、此碑の外、求穂智異山の驚谷寺玄覚醒師塔碑を撰し、今に停へて居る。又巻︸石丸
十五には、八篇の謙を収めて居カ、こは康弘明其の愴行篇奄二十三に収むる八篇と全く同じであるが、繹苑詞
を以て、涛印寺仮に封校すると、大分文字の出入異同があり、雨着の底本が必ずしも同一でないことが判明し
校勘の資料として珍重すべきものである。
以上、養天の悌教典籍上に遺した四種の事業の由来と、其悌教研究上、贋くは一般文化研究上、どれ程の傾
があるかといふことを、極めて大局の上から述べたのであるが、固より略説で、其輪廓さへも逃ぶることが出
なかったことは、甚だ遺憾とする所である。されば、其詳かなことは、昭和十一年に影印刊行した高山
語宗教戒紙録の解説や、同十二年に刊行し空向麗緯戒願追放の本文に依って、知悉せられたく、其後の
る部分は、近く刊行すべき大覚国師全集の解題に依つて、承知せられんことを希望する次第である。
想ふに、朝鮮民族の心に浸み込んだ悌教の研究は、贋くは文化の問題として、軟くは彿敦の畢間上の
て、十分に研究し、開明すべき意義があ幻、僧侶があると思考する。況んや、発進国民として、後進民
必要からも、彼等の過去に於ける文化の遺産を検討することは、極めて緊切なるものがあると信する。
が支部大陸と本邦との中間に任し、文化の俸播を括常した地位から考へても、牛島文化の研究はやがて
の研究であカ、即ち叉木邦文化の研究と焉る。想ふに、義天に依つて俸へられた文章の一篇さへもが、
のどこから出て釆たか。此鮎からいつても、蓑天の事業は多くは片鱗を遺すに過ぎないが、其東洋文化
意義と傾倍とは、決して軽く評債さるべきものではあるまいと息ふのである。

707J
偶数典籍上に於ける高霹義天の事業並に其僧侶
王法麓本の潮渡的考察

7ロ72
王法麓本の潮源的考察
佐 々 木 憲 徳
浮土眞宗の道徳的軌範は王法篤本であるが、その王法は世間法である。元秀一般彿敦は出世問を標検し、随つ
敦圃規定の戒律なる出世間法を供用して、道徳的軌範としてゐる。然るに浮土眞宗も亦た出世問的性格を有す
ことは勿論であるが、而かも道徳的軌範に於て一般彿教に異ってゐるのは、眞宗それ自身の特質と存在の意義
を示してゐるものであらう。それで王法喬木の研究は困難なものであるが、今は簡単に初に数理的展開のうへ
カニ冒し、後にその根本的典接について述ぶることにする。
さて眞宗の王法篤本鱒前釆併敦の建て前からすると、そこに非常な飛躍が行はれて居具いはゆる召尺竿頭一
歩を進めた立義である。だがその猫創的新道徳軌範の先騒者む求めるならば、日本天台の箪組俸教大師の園教
薩の大或に於ける眞俗一貫の主張を指すのほかはなからう。而して囲教菩薩の大戎に尭だつものは、大乗共門
戒律であ少、大乗共門の戒律は発行者として小乗の二百五十戎を存在せしめてゐる。その小乗或はいはゆる眈
耶であつて悌陀が弟子達のために随犯随制されたものである。ゆへに成這複数年間は全く戒律といふものゝな
修渾生括であつ冤然らば併陀の戒律は何者を依準として規定せられたるかといふに、四海統−の樽輪聖玉の十
善の勅諭であつたとされる。その十善の勅諭とは身三口望息三にありて不道徳の行為を制止すべく、身三に
邪煙、口四に妄語締語雨百恵口、意三に貪暖邪見を指摘せられ、最後の意三を根本として不徳の言行なきや
養せしめたまひしものである。龍樹は大論にこの輪王の十善は有僻無併にか1はりなく存在し、この勅諭に違反
して行動するときは必夢二悪道に堕つるとしてゐる。又た天台は悌陀の大小粟の制裁の根本的依準は、この
の道徳的勅諭にあると断じてゐる。もし王洗馬本の王法む輪王の道徳的勅諭に例同することを得るならば、
の王法篤本の道徳的軌範は、数理的展開として眞俗一貫の大戎精神を徹底せしめし結果あらはれたものであ
ともに、またこれは悌陀の敦囲に未だ随犯随別の戒律の出奔てゐない以前、只輪王の十善の道徳的勅諭のみ
徳的依準となつてゐた時代に、還瀕したものとも見なさるべきであらう。簡単にいへぼ倖陀教困の戎待の根
依準となれる玉津にまで、その道徳的軌範を求めたものが眞宗の王法篤本であるといふことになる。
第二に然らば王法鶉本の道徳的軌範の根元的典接は何であ一るかといふに、眞宗の尭哲は多く庚愴鐙詩無量
にて五善五悪の勧誠の併読に之を求め、さらに翻りては第十八願の唯除五逆、誹誘正法の茎一日にあるとし
だが第三組曇鸞はその文言を詳解して居るけれども誹誘正法は悌菩薩所説の大乗教を誹讃することゝするに
カ、第五組善導の繹も之む出でない。然れば直接願文のうへで王法薦本の典接となりそうなものは見付から
わけである。ところで梵語原典を披くと誹誘正法ぁところは賀ddh胃mpp邑ik晋p賢覧甚pとなつて居カ、英詩

7(フ/J
では各賢gti旨旨dpb家①○ご︸岩g00d訂wとなつて居るが、その笹ddF胃mpといひg書d訂wといふ
王法麓本の開館的考察
王法麓本の柳瀬的考察 三六〇
が、果して何者であるかを決定することが、恐らく問題解決の錘であらうと息ふ。ともかく漢詩痙典のうへを

7(〃4
幻て、正治なる文字の意味するところを調査することにした。その結果少くとも次の如き三と便りの用例があ
ことを聾見したのである。その第一は小乗経典に於て、阿合時の教主としての併設法左指して正法とせるもの
ある。適例をあげるならば溶こ阿含経巻九に爾時世尊、輿二四部衆東薦説二彼妙之法↓時優姿塞、優姿斯、聞
準己、とあるが如きこれである。このときは替撃たる外道宗教の邪法に封して、新嘗の彿陀の説かれし彼妙の
法む正法といふので、ものがらは小乗法門である。第二は大乗経典に於て、まさしく大乗教を説ける俳書薩の
法を正法と呼んでゐる。かの椎摩経に護持正法といひ、勝髪経に梼受正迭といふときの正法はこれである。無
詩経にも廃二兜率天道二宜正撃といひ、生二彼併国表菩薩等、朗レ可二講寧東軍毒準といつてゐる。これまた
大乗法門を正法と辞せるもので、曇鸞の解繹はこの正法を大乗法門とする立場より試みられしものである。第
は前の二例の出世の彿法に約すると全く異り、世間の王者につき、ことに四海統一の韓輪豊玉の十善の勅諭を
たゞちに正法と呼べるものである。これは大小莱の経典にわ売りて説かれてゐるところで、二三の用例を引用
て見やう。乃ち長阿含経撃ハには汝但勤二行聖王正珪石二正準己、とある、但し文中の聖王とは樽輪豊玉のこ
である。均一阿合経巻八には提婆の悪計に溶かされて一時園内に邪法の行はれしことに封して、再び輪王の正
治化が現はれし趣をのべ、若復有時、王法治正、爾時群臣、亦行二正浩1、⋮囲界人民、亦行二正準日月順常、風
雨以レ時、究怪不レ現、紳紙整骨、五穀焼盛、君臣和穆、:⋮由二王法教正責知二正法行言明かしてある。金光明
最勝王経巻八には於二諸国中東二人三着、若無二辛讐不レ能下治レ囲、安二養衆竺及以自身、長居中勝禁とい
また是政汝人王、忘レ身弘二正法1、⋮令三彼一切人、修二行於十善∵率土常豊発、国土得二安寧といつてある。法
顛繹、大般捏奨経巻中には大書見といふ韓輪聖王について皆以二正法↓化二諸人鱒㌻、⋮叉夜烏レ王、起二説法殿1、
⋮其殿中央、雄二師子座↓七賓荘厳、極琴高贋∵⋮時三郎俊、上二説法殿二軍︼師子座↓一切釆衆、亦皆坐
賀之座↓爾時彼王、先琴藷人∵誼二十書法↓とのべ、その正法なるものは十善の勅諭であると示してゐる。然
にこの十善の正法は法律と見るべきか、道徳と見るべきかといふに、刑罰藍息昧する法律ではなく、まさし
徳的勅諭と見るべきものであらう。そのことは大書見王にありても、説法殿上の師子座より立論せ′られてあ
で、その敦勅のかたちなることが推知される。而して王者の道.徳的勅諭のことは、無量詩経に主上篤レ善、率二化
其下∵碍相勅令、各自端守、尊レ聖敬レ善、仁慈博愛、とある文中の勅令の語が、それを物語ってゐるやうに
っまり国民に向つて道徳的修養をなせよと勅令せらるゝのである。この勅諭には何等の罰則も附随してはゐ
が、しかし勅諭が絶封的虞理なるゆへに、仰せに順はず身をふるまつたときは、自然の換罰を受くるは勿論
世にても刑法にふれて牢獄に入るほどの結果とならう。ゆへに無量毒経には世有二王法牢獄∵不二骨畏惧↓
入レ罪、受二其換罰↓求二望解脱↓難レ得三党出一:::彗如二王法痛苦極刑↓ とあり、また今世現有二王法牢獄↓随レ罪
趣向、受二其貌罰↓ とあり、また不レ苧王迭禁令↓ ともあるが、この王法禁令とは刑罰を伴へる迭律、即
のことである。
以上の三とはりの解繹の中で、初一は且らく措き、次の一もまた王法馬本の解明に役立たす、最後の人王の
法即ち正法とする解繹によるとき、誹誘正法が王者の道徳的勅諭を否定することになり、畢完簸逆罪を構成

707∫
三法麓本の潤滑的考察
王法麓本の沸源的考察 三六二
場合として受取れる。随って王法喬木にぉのづから関係が生じて釆やう。願文に於て唯除の僕件は、原典では芸

707∂
を以て接憤し、明白に五逆と誹誘正法との二としてある。その五逆は教囲規定の極悪の犯戎であつて、忘恩、背
恩の重罪であるが、次の誹誘正法は督然これと均勢を保つやうな罪科であるべきやうに息へる。もつとも大乗非
併設の如きは通じて大飛躍典の極力排斥してゐる邪説ではあるが、しかし事箕は小乗教徒の一部のもの1主張に
すぎない。而かも第十八願の核心は信心にあるので、さらに唯除の保件として大乗法門に封する不信認を数へる
までもないことであらうか。それよりも致囲戒律の根本的依準として、龍樹がこれを犯せぼ懐悔も功なく堕獄す
るとしてゐる人王の正法む否定し、王者の勅諭に封して叛逆罪を犯した場合を、唯除の保件として五逆と伴はし
むべきであらう。そこで五逆と誹誘正法とを望み合せると、前者は戒律の違犯であり、犯罪行馬であり、本能的
過罪であるべく、後者は王勅の否定であり、道徳の全面的靡毀であゎ、智能的過罪であるべきことゝならう。そ
れで五逆の方は残忍の所行ではあるが、本能的造罪興奮が沈静すれぼ、憐情の念の生する望みもある、けれども
誹誘正迭の顔逆罪に至少ては、理性的の思想犯であるから、容易に救済さるゝ手が1ゎがない。且つまた王勅に
さへ順はぬものなれば、一切遺徳の絶滅を企固してゐるゆへ、五逆罪よ歩も造に重い犯罪である。たとへ併敦教
圏の戒律が破壊されても、なほ王者の正法は道應的軌範として球春するが、もし王者の正治が滅亡したならば、
彿敦敦圃の戒律も何もかもこ時に消失するのであらう。
すでに願文の誹誘正法が王者の正法餌ち玉津の否定であり、道徳的勅諭に封する叛逆罪であるとし、五逆罪よ
りもより重罪とするならば、之を裏返していふとき敦国の戎律の根本的依準となれる王法が、道徳的軌範とせら
るべき道理となるに相違ない。随って王法薦本の根元的典擦として、願文の誹誘正浩の文言を指示することが出
発る。元釆、玉津為本といふことは、関税親鸞には意ありて文言なく、存覚にも王法併迭の封目あるに止まカ、
中興蓮如に重力てまさしく王法寄木の造語を見たものである。而かも蓮如の信仰教峯の態度よりしても、根元的
典接なしに造語するやうなことはあり得ないので、之を願文について明瞭に立讃するのは、蓮如に忠ならんとす
る者のなすべきところであらう。

7(ノア7
王法蔑本の潮源的考察
三世雨量因果と異教菓感の貿躇的意義
三世南重囲果と異熟業感の賓撹的意義

707β
− 仝髄と個の関係を中心としてー一
任 藤 常 雄
︼ 十二縁起は阿見達磨に於て、三位雨量の因果詮に分別解繹された。此れは縁起を因果化するものであるが、
十二級起のみならす、縁起一般を因果分別する朗に、阿見達磨の法分別の意義が存する。
縁起は、存在を構成する諸法の相依関係である。然し、其の関係は、諸法の個別的な自性の自己否定的な、諸
法の仝叫的存在の有力方に具醍的存在性を肯定する意味の、谷二的存在成立の関係である。故に縁起は、諸法の
個性を抽象的なものとして否定し、全的存在の具憶的存在性を骨定するもの、諸法より谷二への方向に進ませる
ものである。此れに封して阿毘達磨は存在を諸法へ分別する。諸法の縁起関係を諸法の因果関係へ分別する。存
在を諸法の各種の因果関係へ分別することは、存在む多化することでなく、多を不可分ゐ金一として持つ存在の
内包を知らしめ、各種の因果関係を一義として持つ縁起の性格を明にすることである。かくすることに依って、
谷二とか縁起とかゞ抽象的概念でなく、諸法・因果を分別し得られる具購的存在者たることを明になし得るもの
である。例へば阿合では、縁起が諸法の時間的な関係も寡聞的な関係をも含むことが自覚的に扱はれて居ないが、
阿見達磨に依って同時異時の因果が分別され、六因四繚廿四繚等が分別されたことに依って、縁起が是等の開係
を具鰐的に一義として持つことが明にされたのである。
阿毘蓮磨は諸法分別の阿合解樺畢である。同時因果的分別に依って、個我的主観に依って把持される生活世界
をば、客観的な諸法に分別し蓋して、其廃に主観的な如何なる法も残存しないことを明にする。此の事に依って、
僻我的な主観は単なる迷執の執念抽象に過ぎざることを讃するものである。亦た個法のいづれにも猫自の自存性
を認めす、唯だ具饅的存在の具慣性を成する法としてのみあることを明にするものである。
叉、阿見蓮磨の異時因果約分別は存在は時間的存在であゎ、常に現在性のもので正作用位を不断に相摸するこ
とを明にし、無常欒易性なる言葉が単なる抽象観念セなく、存在の具鰭的有り方たるを讃する。即ち、存在は果
と因に分別される。呆とは己作用位・過去の法、因とは未作用位・未釆の法で、存在は過去法と未釆法とから成
って、正作用位現在のものとされる。存在が、常任不欒のものであるならば、此れを分別して得らる1法は現在
法たるべきであるが、然し、存在を分別して得らるゝのは過去法と未発法のみである。此廃に、過去で未禿たる
存在の現在性と、不断に正作用位にして、現在の中に過去と未釆む持つことが知られる。即ち存在は不断に現在
するものであ少、果としての現在の中に昨日の過去を、因としての現在の中に明日の未釆を持ち、不断に今日現
在を持績するのである。存在を其の行相︵嘗嵐鼠︶について行︵sp昏sk罵.且と言ふ。行は ﹁造作されたるもの1
造作する﹂ことを意味するが、此の行相は阿見達磨に依って的確に分別されて居るのである。

707ク
〓 阿見達磨で十二縁起の﹁行﹂は業と解繹され、縁起の展開は業因果に分別される。
三世両室因果と異熟共感の賛践的意義
三世南重因果と異熟菓感の賓践的意義 三六六
行︵琶賢罫且も業︵k胃m£も﹁造る﹂意味の語根︵夢㌢+一\甲立i︶ から釆た文字で、倶に﹁造られた

7020
る﹂と﹁造る﹂とを一義として持つものを表示する。然し、行は金一的存在の金的行相室息昧し、業は仝中の備
に現はるゝ行相藍息味する。業は行中の一相である。十二縁起約展開に於て、無明が僻を自我と迷執するのは、
此打行中の価相に封してゞあり、個業を自我行となさんとすることである。全的な行の行相から、個の業の業相
を自我の現在相として抽象するのである。現にかゝる意味の現在相を把少、自我的主観を観念して居る有情の現
状について、その観念的主観の依事たる僻醍を意味する十二縁起の﹁行﹂を業と解繹する阿見達磨の仕方は極め
て有意義である。
個法は存在の迭であり、全的存在に具鰻的存在性を認めるのが無我である。諸法が先在して諸法の綜合として
谷二的存在が成立するのではない。谷二的存在から分別されたものが諸法である。徒って個法の行相たる業は、
偶の猫自なるものでなく、谷二的存在から輿へられたもの、全的行相の〓型朝視である。然し、無明は備に自立
性を輿へ、個的業相を自我行とする。されど、是れはかく観念するに過ぎず、具鰻的には個は全を脱しない。観
念的自立性は冬二的存在の行相に依って、不断に否定され、此の否定は、親念的自立性に封して不如意苦として、
感ぜられる。此の不如意苦を不断に現状とする有情の現在相模把ついて、因果分別をなし、果としの現在の持つ
因と因として現在の持つ異に依って十二縁起を解繹するのが三世爾重囲異説である。
有情の現在は﹁識・名色・六虞・闇・受﹂の個牒と其の働きたる﹁愛・取・有﹂から成る。此の個鰻は自我的
自立性を観念して客観を把持し、不如意苦を現に感する苦果の現在である。その昔其の中に、金一的存在の行相
から佃的業相を自我行として、抽象する﹁無明・行﹂が過去因として現在する。又、此の苦果の行動性
取・有﹂は、個的業相を依然として自我行たらしむる因としての現在であり、此の因としての現在中に
しての﹁生・老死﹂の不如意苦が現在する。.斯の如き不如意苦の果と因を内容とする現在の相練が流韓であり、
流縛の相に十二縁起を分別するのが、三世雨重因果である。徒って十二縁起の流樽・遠滅二門の中、前
するのが三世雨量因果誼である。然し、遠城門の意義を失った繹ではない。是れ窒息義づけるものは、
熱性である。
三 悌陀は成道の後に十二縁起慶祝き、還城門として、﹁無明﹂の滅に依って﹁行﹂滅し、﹁識乃至
活佃績も﹁愛・取・有﹂の生括も﹁生・老死﹂の苦も滅するとした。是れに従へぼ、成道と共に無明を
曇の価饅は消失した筈である。然るに其の攫曇の何倍は彿陀として四十五年の侍道精進をつゞけて老病
である。此の事箕は、成道と共に丈六身は自我執から金一存在に還元せられ、悌陀は法界を法身とし、
断の創造を生命として不断の現在に生きたものとせねぼならす、彿陀の一拳手一投足はすべて迭界の行
する個業なりしことを知らしめるものとせねぼならない。此の饅曇の個餞・個業が彿陀となれる樽機に
縁起遼城門の意義を見出すべきものである。
阿見達磨業論の因果は異熟因果である。因としての業に倫理的善意む取り、業果を感覚的苦柴に認め
には無記即ち白紙とする。善因善果悪因悪果には特異向上はない。善因楽典・悪因苦異にして流縛・遠
かへの樽異創造の現在があり得る。三世雨量因果詭で、現在苦果とさるゝ個我的生活は異熟果である。

7(フ2J
三世雨量因果と異熟糞感の賛践的意義
三世南東因果と異熱菜感の箕践的意義 三六八
ある。果は決定された不可欒のものであるが、其の果は亦た未来の因として、働くものとしては無記の白紙であ

7(フ2g
る故に、如何様にでも記し働き得る絶封自由着である。決定されたものが決定するものたり得るのが異熱果であ
る。此れは全面相反の矛盾を媒介として同一着たるのではなく、苦か架かに結果したものが善悪いづれへも働き
得ることで、苦がそのま1発と達観される無賀践を言ふのではない。叉、か1ことを成立せしめるのは、倫理的
善悪が感覚的菅栄へ異熱するからである。
此のことは叉、現在の感覚的苦楽がその過去因の善悪を現在に決定し、同時旺そのことが、未番兵に封する因
としての現在を働かす理念となることを明にするものである。彿陀の威道は、攫曇の生括的不如意苦が、其の因
たる無明の悪性を決し、無明ならざる明智に働いた結果に外ならない。
倫理的善悪は紳に負ふ責任でなく、生活の苦焚から意義づけられる。苦とは自心への達逆・不如意苦である。
誓へぼ、社食に生きて社台が菅である如きで、杜合が苦であることは、虞に社食生活的でないからである。偶の
生活が苦であるのは、其の何がその中に生きて居り生き方を輿へられて居る具膿的存在者に、遠道して生きんと
して、然も得られざるに依る。生活の事茸に感ぜられる苦柴の根元・最高のものは、随順して生きるべき金一的
存在に、具鰻的に辟一して居るか香かにあ具此れが最高善と根元悪で、此の雨着から其れへの段階的な請書諸
悪の善悪性が決せられる。
生活の箕際に於ける不如意苦の深刻さは、生活の不正さの深刻さである。其廃で、正しく厨一して生くべき具
標的存在者、個が托せられ、偶の有り方を輿へる全的存在者とは、現寛に於いて何藍息昧するか。法界・迭身・
眞如・賓相は此れを表示する言葉であり、﹁捏柴の箕際と世間の箕際は金岡﹂ともされるが、侍ほ我々は現貿生
活に箕感せしめられる表示を欲する。原始生活時代には、生活は人と自然の関係で、全的存在は人を含む大自
然であつた。阿見達磨の諸法も侍ほか1る青味の存在の法である。然し人は自然生活から文化生活へ、培いて政
治・経済・吐合・国家的生活む不可分の一とした具購的生活を持つに至った。若し、個人の慈意的自由さの生活
を求めるならば、限りなき不如意苦を感する。此の不如意を感ぜしめる限りのものが、全的具購的存在成立の諸
法である。か1る諸法を縁起的に不可分一とする存在者とは、あるがま1・の日本では囲豪である。それは政治的
に限られた意味でなく、国民各自の生活全醍が托せられ、それから生き方が輿へられて居る意味でゞある。
金一的存在は異に具醍的存在として、不断に行︵琶首首且としての創造の現在を相模して居る。個は此れを
雑れざるものである。備の不如意苦は観念的に谷二的存在を頼れんとして、具憶的に離れ待ざる、有縛の菅であ
る。存在に正しく生くるものには繕はなく、自ら創造に加はカ、個業にそれむ現する喜びがある。有終着から無
縛者への解脱、苦から創造者への樽入が﹁悟り﹂である。此の悟男の箕践的可能性を今日現在の中にありとする
のが異熱因果の異熱性と考へたい。

702J
三世繭量因果と異熟共感の箕蹟的意義
藻草法華経の有翻関本に裁て

7024
漠謬法華麒の有翻関本に裁て
飽 田 義 遜
一首爽漢詩法葦檻の最初のものとしては、其の安藤澤と稀する﹁彿以三革喚経﹂一禦西紀二二〇1二五三︶
を始めとして、隋の帽多等繹の﹁添品法華経﹂ ︵西壁ハ六〇こに至る。凡そ前後四百年間に請出せられたる法
華経は、経線に就て見るに開結三部に亙つて、次の諸本を見るのである。
︵こ 彿以三革喚経 二筍 英 文 謙 繹
︵二︶ 絵筆三昧経 六奄 魂 安 泰 梁 接 繹
︵三︶ 蔭芸界陀利檻 六奄 西晋 竺 法 護 讃
︵四︶ 正法華経 十金 岡 同
︵五︶ 法華光瑞菩薩現寄居 三食 西晋 失
︵六︶ 薩曇芥陀利経 二葛 岡 同
︵七︶ 方等洪華檻 五巷 東晋 支 道 根 澤
︵八︶ 観普賢菩薩行法軽 一巻 西晋 祀 多 蟹 澤
︵九︶ 妙法蓮葦経 七竜 桃秦 磨 羅 什 澤 有
︵﹂○︶ 観普賢菩薩行法経 一奄 同 岡
︵一こ 同 一巻 劉采 曇 摩 蜜 多 繹 存
︵一二︶ 法単二昧檻 一巻 同 智 償 繹 存
︵一三︶ 無量義経 ︼巻 北貌 求郵政陀羅
︵一四︶ 同 ︼奄 青舞 曇摩伽羅耶令 語 存
︵一五︶ 提婆達多品第十二 二筍 岡 達 摩 々 捷繹 存
︵一六︶ 普門品重頒 一巻 北岡 園 部 幡 多澤 存
二七︶ 添品法華経 七巻 隋 蠣 多 笈 多詩 存
以上の十七本を数へ、就中完繹六木、支本六本、開結五木であるが、右の中現存するのは完繹の正妙添の三木と
開結の各一本、支本の四本のみである。且つ支本中の﹁法華二昧檻﹂一巻披、名目からは法葦に接すべきである
が、内容は怖が王女利行のために絵筆二慄を詮いたもので、その教理から見れぼ般若の塞敬に立って、泊極的箕
相論を説いた般若部の経典で、法葦以後に法葦を漁想した述作とさへいはれて居る。故に之は嘗然除くとすれぼ、
外三種の支本中経婆品、故に普門品重頒は、共に後世妙法葦に梼せられて流行して居る故に、現存の真木として

702∫
は正絵筆の賓塔撞婆連絡の一部と見るべき、﹁薩曇芥陀利経﹂ 二筍のみである。
漢音法華経の有翻関本に就て
漠葦法撃経の有翻関本に裁て 三七二
〓 絵筆の完本には現に護詩の﹁正法聾﹂、仲澤の﹁妙法聾﹂嘱多譲の﹁添品法聾﹂の三木があカ

702β
詩三春三関と解して、唐の智昇の﹁開元録﹂十四︵正戒五五紙二︶等に見ゆる所である。併しこれに封して最初
に疑問を投じたもの智昇で、同筆の﹁有詩無本録﹂には﹁薩芸界陀利経﹂六奄と﹁正法華﹂十奄が共
るに就て、忘再出、名目不同・諸本存没の三鮎から、これ畢売名目の梵晋倶存に依る録家の誤︵正歳五五梱二︶
なりと指摘し、﹁開元録﹂第二には﹁薩芸経﹂の下に注して﹁隋録云聾云者恐誤祓録申無﹂︵同上甜九︶と、隋の
﹁歴代三賓紀﹂ ︵正蔵四九五六︶ の誤を指摘せる如く、愴祓の﹁出三蔵記﹂第二の新集別出経線には法葦経下に
正妙二本を出し、膏録の薩芸檻は閑本未詳と判じて居るのである。
若し﹁法華三昧経﹂六巻に就ては、﹁出三蔵記﹂第四の失講雑録中、新撰閉経目録の下には﹃正法
懇、疑即是正法葦経之別名﹄︵五五三二︶と判じ、又﹁窪録﹂第言は、正しく﹃正墓撃ハ奄﹄︵五五竺︶
として矢澤録に収めて居る。且つ﹁霞録﹂﹁静泰録﹂︵五三謡︶も亦同様であ毛又﹁方等訟華経﹂墓
は﹁三蔵記﹂ ﹁法経﹂ ﹁彦憧﹂ ﹁静泰﹂ の四録には全く英名なく、唯﹁三賛紀﹂第七に初めてその名出で ︵四九
六九︶爾奔﹁内典録﹂﹁詩経固﹂﹁大同録﹂︵五墓相
︶轡 三に五
等之 倣六ひ、﹁開元録﹂第三には三賓紀等に、
支邁娘が但二経むして ﹁阿関係剰経﹂は太康︵西紀二六六︶今の﹁方等法等﹂は感度︵三三五︶と、六十年を隔
っるは﹃倖焉差整︵五五謂︶な呈なし、﹁貞元録﹂五は之に依るが、﹁三戒記﹂第二の正輩の註に﹃或
云方等正法華経﹄ ︵五五七︶とある如く、これ又正法葦の誤侍なることば明かである。
随つて完本のlニ開は護繹の﹁正法華﹂が、梵名仁依て﹁薩芸界陀利経﹂と俸へられ、叉﹁正法葦三昧経﹂或は
﹁方等正接葦経﹂等と稀したのが、何時しか正字を険して﹁絵筆二昧経﹂ ﹁方等迭聾経﹂として停
とは諸経録を封照研究すれぼ明かである。斯の如く一正法聾が録家の種々の別稗に依て、四種の別本
せらる1に至ったのである。故に法撃墜ハ琴二存三関でなく∵冗孝二詩三春に外ならなかったのである。
三 次に先づ支本の四経に放て見るに、支諌の﹁彿以三革喚経﹂一巻は、最初に資長房の二二葉紀﹂
且つ﹃出葺檻﹄︵四九五六︶と話し、後﹁大周録﹂には﹁彿以三革喚子経﹂︵五五記入︶と子の一字が加へら
れ、﹁開元録﹂に至っては﹃應出垂一慧盲慧﹄︵五是㌶︶と、正しく正輩第二巻誓唸品第云別出寄
と解したのである。然るに﹁三蔵記﹂ ﹁法経﹂ ﹁彦惜﹂﹁静泰﹂の緒録には全く其の名無く、﹁
録﹂以後の経線にのみ存するのである。然るに愴祓の/﹁三蔵記﹂三には﹃抄六皮集﹄ ︵五五三ニ︶と話せる﹁彿
以三尊実歴﹂ 二筍が見へ、本経は正しく庚愴倉澤の﹁六度集撃八巻中第六︵三三五︶に、怖が魚商、浴尿猪、
阿難の三事に、寄せて可実の因縁を設ける経である。随って﹁三賓紀﹂或はその前の録者が、三尊笑
誤カ、更に誓喩品の別出と思惟せるより、法華の支本と誤爆せらるゝに至ったものである。
若し﹁法聾光瑞菩薩璽讃攣三巻は、﹁三戒記﹂以奔の諸録何れも矢澤関本と停へ、﹁大同録﹂十一に
毒﹂を﹁見受﹂と誤博せるより一、﹁見受﹂の一驚加へて二経︵五五讐望と誤侍女のである。﹁開元録﹂
二には﹃今疑扱正墓﹄︵五五凋九︶と雪如く、正法室の序品董品の別出で雪て、絞出が支本別繹かは不
明である。若し失澤の﹁薩曇券陀利経﹂は﹁三蔵記﹂ ﹁三雪組﹂ ﹁内典﹂ ﹁固紀﹂ ﹁大同﹂

J()ノ7
が﹁法経線﹂には﹃是法華経賓塔品少分、及提婆達多品﹄︵五五いニ︶と註し、﹁開元録﹂等にも見ゆ孟董
漠諸法撃経の有翻岡本に裁て 三七三
漠澤法華経の有潮関本に裁て 三七四
別出の現在の一経である。されば前述支本四経中﹁三昧経﹂は般若部、﹁三革喚経﹂は誤俸で、他の﹁現毒﹂

JO2β
曇﹂ の正法葦別出二檻中、前者は関本、後者のみ現行である。
次に閑結二経中、閉経たる無量義経に二謂、結経の観普賢経に三澤を数へるが、二詩を始めて列ねたのは﹁
賓紀﹂で、李廓録に依て求郵政陀羅澤︵四九九三︶愴祓法上等の録に依て曇摩伽羅耶金澤を列ね、且つ後者を﹁奔
無量義経﹂と稀して居る。かくて﹁内典録﹂以後悉くこれに習ひ、﹁開元録﹂十四に至って前者を関本として
る。然るに関本経に封しては﹁三戒記﹂を始め、﹁法経﹂﹁彦憧﹂﹁静泰﹂語録には全く見えぬのである。併
蔵記﹂二の求郵政陀羅繹十三部中には﹁無量詩経﹂の関本を列ぬる外﹁無量義経﹂の名はないのである。故に
賓紀﹂の無量蓑は李廓録が、無量毒を無量義と誤博せるに依ることは明かである。これに就ては荻原博士も既
無且墨毒の誤爆と述べて居る︵悌教導合第七年報参照︶故に閉経は元秀曇摩繹一本であつたのである。
次で結脛の三繹であるが、党づ祀多蜜並に羅什の二諸に就て見るに、矢張関本の二本は﹁三賓記﹂に最初に
え︵四九禁︶後﹁内典録﹂以後の詳録に見るので雪。若し現存の曇摩蜜多轟は﹁三蔵記﹂二に出で、観普賢
菩薩行法経と出し、下に﹃或云二普賢観攣下註云出二深功徳経中︼﹄︵五五一二︶となるが、現行の同産中に汁ヱハ板
持を説いて﹃贋詮二砂絵如二妙迭葦攣﹄と述べ、分身未集に就ても﹃如二妙法聾攣﹄とあるに依れぼ、正しく
葦を指したことは明かである。併し普賢の浮土に就ては、﹃英国土相、雑聾経中巳贋分別﹄と聾厳経を指すに
れぼ、贋く大乗経を指して深功徳経といつたのであらう。若し関本中砥多蟹澤に裁ては、詩者が現行の繹者の
摩賓多と類似せるためか、然らざれぼ砥多蟹澤の関本大賓積経の文殊師利普門合と同本異詩の﹁普門品経﹂の
俸であらう。又什講の関本に就ても矢張﹁大同録﹂等が什繹の﹁観世書経﹂を奉げ七居るが、︵五真八︶観普
腎痙が法聾の結檻なるより、法葦と連関して是等を誤り俸へたものが、終に什誇関本の観普賢経とな
全く何等の娘掠もないのである。元釆観普賢経には曇摩講一本のみである故に、誤俸の分が関本とし
るに至ったのである。
四 要するに上摘の法葦三部十六経中に於て、関本中﹁光瑞現詩経﹂を除く外
︵一︶ 悌以三尊喚経一撃⋮:悌以三尊笑経︵六虔集経別出︶
︵二︶ 法華三昧経 六奄︵正迭葦三昧経︶
︵三︶ 蔭芸界陀利経 六巻 ︵四︶ 正法葦経誤停
︵七︶ 方等法華経 五巻︵方等正法聾経︶
︵八︶ 翫普賓痙︵砥多蜜︶
︵一〇︶ 同 番璧誤俸 ︵羅什︶
︵一三︶ 無量義経︵求郵政陀羅︶一撃⋮︰無量帯経誤停
右の如く真木の﹁完繹の三、開結の三国本の悉くは全く誤俸である故に、正しくは有詩関本でなく元釆無詩
無本であつたのである。
かくの如き誤は全く経線の不完全に由爽するもので、その経線の如きも大日本緯織目録に依れぼ、最初は

7(フ29
の道安の﹁綜理衆経目録﹂よカ、今の績親日録に至るまで五十八録︵彦悍と静泰を分って五十九︶を加へ、就中
漠謬法華経の有翻関本に裁て
漠澤法撃経の有勧関本に裁て 三七六
支部の五±ニ録中十六を開き、今日その根幹をなすものは大正大蔵に依るに﹁出三蔵記﹂ ﹁法経線﹂ ﹁歴代三賓

7仇ヲ0
記﹂﹁彦瞳録﹂﹁静泰録﹂﹁内典録﹂﹁詩経囲﹂﹁大同録﹂﹁開元録﹂﹁貞元録﹂の十録を見るか、法経既にその内容
に放て
或以レ敦求、或用レ歪、或憑二時代表寄二諸人一各紀−二隅義春二所見二法経線、衆軽放線第七序、︵五五か四︶
と指摘せる如く、常時既に其の正鵠は期せられなかったのであるが、次の﹁歴代二重紀﹂に至っては、﹁内典録﹂
の記者道宜か
諸代所レ詔軽部奄目、軸別陳叙、函多三保例∵然而瓦玉雑株眞憤難レ分、得レ在二通行一関二於乾異ペ︵﹁緯高僧停﹂第
二、五〇相三︶
とある如く、﹁三賛紀﹂が古記を集録せる鮎は可となすも、経線としては後世誤俸の源をなした敬がある。随つ
て以上の十録中﹁三賓紀﹂を除いた前四録は、比較的眞を俸へて居るが、﹁内典録﹂以複の五録は﹁三聾紀﹂の
影響を受けたのである。然るに智昇の﹁開元録﹂に至って、内容の研究に力を致したことは、法護繹の雨法聾の
疑問に依ても明かである。併し経線に就ては漏り法葦のみならず。充分内容を研討して虞悔を明らにすべきであ
らう。
親鸞聖人の国家観

−親鸞聖人の国家に封する考へ方を探って見たいと思ふのが、この企てゞある。その国家は抽象的な靡いど
この圃でもと云ふ国家でなくて、我日本国豪である。聖人の国家へ封する官業として注意すべきは、
つに
念彿まふさんひとくは、わが御身の料はおほしめさすとも、朝豪の御ため、国民のために念悌をま
せたまひさふらはゝ、めてたふさふらふへし︵中略︶御報恩のために御念彿こ1ろにいれてまふして、世のなか
安穏なれ悌法払ろまれとぉほしめすへしとそおほへさふらふ︵親鸞聖人御消息集第二章︶
と云ふのがあ男、和讃に念彿の現世利益を述べては
阿摘陀如釆茶化して、息災延命のためにとて、金光明の毒量晶、ときおきたまへるみのりなり。山
師は、国土人民をあはれみて、七難滑城の諦丈には、南無阿弼陀悌をどなふへし。︵浄土和讃︶
と云はれたのがある。此和讃の息災延命、七難消滅と云ふことは、共に国家の災難を除いて闘豪を興

70jJ
親鸞聖人の国家灘
親鸞聖人の国家観 三七八
云ふことに外ならない。それは﹃金光明経﹄は護国経典の一つであり、俸教大師の語は共著﹃七難消

JりJ.∼
の意を承けられたものであるから、国家興隆が意味されたものであつて、其馬の南無阿摘陀悌を稀へ
とは、朝家の御ため国民のために念僻まふすと云ふことゝ全く同じ語である。これは念彿を以て国家
のであるが、それは国家を如何に親られてれあは念彿を以て向はれるのであるか、念彿を以て国家を
と云ふのであるか、此意味を探れぼ、聖人の国家観は自ら知られると息ふ。
〓 聖人の考へられた国家興隆の置として聖徳太子の十七傑憲法の無私なる遵奉がある。それは七
太子聖徳奉讃﹄第五十八首にそれむ示されて
十七の憲章つくカては、皇法の槻模としたまへり、朝家安穏の御のりなり、国土璧餞のためからな
とある。これは靭家安穏、国土璧餞は皇法の規模たる十七保憲法の遵奉にありとせられたものと云は
十七僕憲法を以て王法の規模とせられたことは﹃四天王寺御手印綬起﹄其他に見るところであるが、
安穏、国土翌餞の法であり賛でありとせられ、常時の教界のゆき方を﹁五濁増のしるしには、この世
くく、外儀は悌教のすがたにて、内心外道を辟敬せり﹂ ︵正俊末和讃︶と悲歎せられたところに、聖人の国家
に封する聖息ある主張があると窺はれる、其十七供憲法の遵守と念彿申すこと1如何なる関係にあるであらうか、
これは云ふまでもなく、十七條憲法には資践的椒基が篤敬三賓に置かれてある。聖人はこれむ念悌申
解されたのであらふ。そこで朝豪の御ため、国民のために念併申すも、朝家安穏国土盟餞の御法とし
法の遵奉も同じこと\なる。念悌申す心構へを以て憲法の各傑む遵奉させて頂くことに外ならないのであらふ。
三 聖人の念悌は、其宗教的鰻験の表現であつたが、英鰹験は如何なるものであつたか、英鰻験の如何によカ
て、其念彿を以て封する国家の考へ方が自ら分れるのであらう。念彿と云ふことは悌教全般に於てあることであ
るが、其多くは念僻を修行する功力によつて、現世の幸福を求め、後生の善虚を得んとするか、又それによつて
煩悩を治め、智慧を磨かんとするかにあつたが、聖人はそれと全く信念を異にせられて、念僻は自力をはなれて
他力に辟した心の表現である。言を換へると自ら励んで功徳む積集するのでなくて、全き恩の世界を見た喜びの
顧はれであるとせられるのである。﹃歎異砂﹄の如きは此の念彿の信念を大腰に表白されてある。﹃歎異妙﹄に
一見普通の宗教単著や倫理聾者を驚かす多くの問題を持つのはこれが焉である。念怖が自己の馬、他人の為に功
徳を積むと云ふ修行であり善根であると云ふことは徹底的に否定されて、他力に意まれた恩の表はれであるとせ
られたのであつた。﹃歎異妙﹄第八葦に
念併は行者のために非行非善なり、わがはからひにて行ずるにあらざれぼ非行といふ、わがはからひにてつく
る善にもあらざれぼ非善といふ、ひとへに他力にして自力をはなれたるゆへに、行者のために非行非善な幻と
云ふ。
とあるのは、即ち此意味である。此他力の恩意む﹃数行信澄﹄には願力回向とか他力回向とか云ふことで示され
てある。回向の思想がそれであつて、此の思想は聖人猫特の信念でもあり教義でもあつたのである。
四 聖人の主着﹃敢行信讃﹄は聖人自らの往生成悌の道.であり、又我等のそれとして述べられたものであるが、

70JJ
其教、行、信、澄を悉く如釆の遊興されるものとして、程相回向、還相同向とせられたところに、聖人教義の特
親鸞聖人の国家傲
艶麗望人の国家調 三八〇
異性がある。其如爽の回向と云ふのは如秀の愚意であつて、それは如釆の本願の力によるから、本願カ

7仇ブイ
とが高調され本願力回向と云はれる。これが併恩である。従って﹃敢行信澄﹄一部には始終初後通して
がれ讃へられてある。党づ此書製作の由致としては、﹁特知二如釆恩徳深こ︵級序︶と云ひ、﹁唯念二僻恩深こ
︵化巻末︶と云ひ、﹁誠念二彿恩深撃﹂︵信巻別序︶とあ玖 ﹁信二知彿恩深遠こ︵行巻偽蘭︶とあ乳 信仰後の生
活として﹁應レ報二大悲弘誓恩﹂ ︵行巻正信偽︶と云ひ、信心の利益としては﹁知恩報徳益﹂を数へ、殊に﹃敢行信
澄﹄の中心生命たる眞恨の批判に於て﹁由レ不レ知一衰恨一迷三共如飛廣大恩徳こ︵眞彿土聖二丁︶圭式ひ、買化身
土奄﹄本三︼丁には
眞知、専修両難心者、不レ獲二大慶喜心↓政宗師云無レ念二報彼併寧︵中略︶凡大小聖人一切善人、以二本原案撃
夢︼己善根一散、不レ能レ生レ信、不レ了二僻賀不レ能四了三知建三文彼因壷無レ入二報卓空中略︶麦久人工願海東知ュ
悌恩∵馬レ報こ謝至徳づ披こ虞宗簡撃恒常稀二念不可思議徳撃
とある。﹃数行信讃﹄は尾翼を顧はすことを主眼として題睨には﹁顛将士眞資﹂と云はれてある。其眞
ならざる榛仮との分岐鮎は如奔の恩徳を知ると知らざるとにありとせられたのである。故に一部は磨く
けるものであつて、虞寛の念彿は恩徳を了知した念彿であると云はねぼならぬ。恩徳を了知するは展覧
ることであ彗恩徳を了知せざるは方便に留まるものである。されば聖人の申さるゝところ、勧められる
は恩徳■を仰ぐの念併の外はなかったのである。
五 恩を知るは虞箕を知るものであゎ、恩を知らざるは樟仮に留まるものである。此意味を以て聖人
て﹃教具妙﹄に俸へらるゝ﹁煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろづのこと、みなもて、そらごとたわごとま
ことあることなきに、たゞ念件のみぞまことにおはします﹂の文字、其前に﹃教具砂﹄記者に﹁まことに如衆の
御恩といふことをはさたなくして、われもひともよしあしといふことをのみまふLあへり﹂と云へるを併せ考へ
ると虞真の世界は知恩の世界であカ、忘恩の世界はそらどとたわごとの世界であるとせられたものと云へやう。
天寿図星陀羅の銘に倖へらるゝ太子の﹁世間虚仮、唯彿是眞﹂の御語もかく領解せらるゝことができやう。念彿
は箕に此知恩の表現であゎ。眞箕の世界である。これを以て朝家、国家に封せられた聖人の国家観は国家を重く
恩の世界と観、其恩を報する心棒へこそ念併を以てするものである。其報恩を根基として我身の料はおはしめさ
す御報恩のためにするこそ臣澤であ少て、十七條憲法の遵奉とLて、篤敬三賓よりする、承詔必護、背私向公、
以て以和薦貴の賞賛の世界を現成するとせられたのであらふ。

γ仇好
親鸞聖人の国家戟
聖徳太子御製練磨経義疏に於ける二三の問題

7(フJ∂
聖徳太子御製維摩経義疏に於ける二三の問題
田 中 順 照
﹁太子は御製疏の懇頭に於て、その主題を示して、椎摩詰とは乃ち己登正覚の大聖な少。本を論ずれぼ既
如と冥一な少。逃を談ずれぼ菅mを示して同量な聖徳は衆聖の表に冠し道は有心の境を絶す。事は無焉を以
て事となし相は無相を以て相となす何ぞ名相とLて稀すべきことあらん。国家の事業を煩となす但し大悲息む
ことなく志盆物に存す。﹂
と説きたまう。喜々はこの簡明な御言葉のうちに太子の推摩経に封する御理解を弄することが出乗る。即ちこ
らの御言葉のうちには、︵こ個々の事象はその個別相を止揚せる絶封的な無頼、即ち基に於て初めて個々の事
象たり得ること。︵二︶か1る基の箕践たる道.は吾々の分別を絶すること。︵三︶更に斯る基の鷺践は基に沈潜
し了ることではなくして、却つて益物−太子の御言葉をかれぼ下地蒼生−・・・にあること等の練磨檻の根本主張
に渕する太子の御理解が明確に示されてゐる。次にこれらの三つの問題の中特に︵こに就て論じょう。
−−事は無薦を以て事となし、相は無相を以て相となす。何ぞ名相として稀すべきと一あらん。−−
方便品の御話繹に於て、﹁本に非ざれば以て述む垂る1ことなし、述に非ざれぼ以て本を顧す事なし。所以に
本と迩と璧べ述べ、眞と應と立て歎す空︵巻上三三左︶と説かる1。吾々は同様の御言葉を勝撃経嘆僻虞蜜功徳
茸の御註繹に於て見出し得るのであるが、ここに絶封者は個々の事象に顧現することによつて初
り、個々の事象はその個別性を止揚せる絶封無に於て初めて個々の事象であ男得ると云ふ思想が
てゐることに望息㌻べきである。侍、方便品の御註繹に於て、﹁妙本箕に形色無し而るに上に身
とは謂く津身、心とは謂く智慧な空木に色身と心と有るに非す。亦可なるべし、眞身は是れ應色
に本にも亦身心を拳ぐ、而も本に覚に身心あるに非す。⋮⋮生に非ざれども而も生を視じ、亦居
も居を現ず。豊是れ迩に非すや、故に知ぬ本と迩と別なるべし﹂。︵巻上三六右︶と説かるゝ。同様の思想は勝聾
経嘆伸展資功徳章の如茶色無毒を解して、﹁無蓋とは足れ常住を謂ひ⋮⋮亦應色の本なるが故に
ふべし﹂と説きた資ふ朗にも見出される。ここに絶封者は無であ少、その否定による寛現である
絶討と相封1本と述1とは決して端的に同一硯すべきでないと云ふ思想が明確に理解されてゐる。更に絶封と相
封との関係に就て望息すべき誼は、経の本文、﹁法は法性に同ず、諸法に入るが故に。法は如に
が故に。法は賓際に任す、諸遽に動ぜざるが故に。し を精したまふ所に見出すことが出奔る。
に同す諸港に入るが故に﹂を繹して、此の六塵の法は即ち鷺無相なりと明かす。故に法は法性に
諸法に入るが故にとは、言ふこころは眞諦は諸法に入る。若し眞諦諸法た其れぼ則ち此の六魔の

7(リ7
することを得んやと明かす。眞詩は諸法に通するが故に此の六塵の浩も亦溶性に同することを得
聖徳太子御製椎産経義疏に於ける二三の問題
聖徳太子御製練磨鮭義琉に於伊る二三の問題 ヨ八四
絶封がもし相封に封立するならば、相封に封立すると云ふ正にその理由で転封たることが出奔ない。範封が虞に

J仇タぎ
絶対たる為には相封をも自らの中に含まなけれぼならない。太子の理解したまふ朗によれぼ、相野は転封の香鬼
による箕現である。従ってそのいづれにも絶封を宿すものである。これ太子が﹁眞諦は諸法に入る﹂、﹁虞諦は藷
法に通ず﹂と説かれる所以である。かく個々の存在が絶封者を内に宿すことによつて初めて個々の存在たゎ得る
限少、自らの猫立自存的存在を主張することは却って自らの存在を否定する所以であると云はなければならぬ。
これ六塵の法は即ち醍無相なカと云はれる所以であらう。次に﹁法は如に随ふ、随ふ朗無きが故に﹂に関して、
太子の詮きたまふ朗は次の如くである。
物、如と法とは既に是れ別績な曳前後相従ふことあり故に従ふ皇百ふと謂はん。所以に如と法とは同じく長
ヽヽヽヽ
れ一相無相にして随不随なし、故にこの六塵の法は如に随ふことを得。若し是れ別購ならば郵ぞ随ふことを得
んやと云ふことを明かす。︵巻中七聖
経討と相野とは相封立する二ではなく、むしろ相湊透するところのものである。本に非ざれぼ以て逃を垂るlこ
となく迩に非ざれぼ以て本を顛すことなしと云ふ思想は明かにこれむ示すものであるが、ここでは明かに一相無
相と云ひ表されてゐる。一箱と云ふ時、人或は絶討と相封とを端的にイコールを以て結び付け以て一相と云ふか
も知れぬ。︵吾々は斯る思想が煩悩如菩提として、婆婆郎寂光として、大乗彿教の名の下に唱へられてゐるのを
見る。︶転封と相討とが端的に結び付けられた場合、絶封と相討との間の差別は撥無されたのであるから一頼と
云へぼ︼相と云ひ得るかも知れぬ。しかL無相と云ふことは出来ぬ。何となれぼそれは、転封と同一成されたる
ヽヽ ヽヽ
相封であり、又は相封と同一視された絶封であるからである。然るに厳封は相野に顧現することによつて範封で
あり、相封はその個別性を止揚せる絶封に於て相封である場合、即ち絶封と相討とが相湊透して分つペからざる
時に於て、始めて一相無頼と云ひ得るのではなからうか。その一たるや二に封する一でないことは云ふまでもな
い。云はぼ転封の一である。然も絶封も相封も自己の否定である他者に於て始めて自己たゎ得る限少無相たるこ
とは云ふ愛でもない。斯る関係に於て初めて個々の事物が絶封に随ふと云ふことが云はれ得るのである。 − 私
は太子のこの意味深い御言葉む斯く解する。恐らく私の思索のカが深まれぼ深まる程、太子の御言葉の虞の理解
に達し得るであらう。私はただ彿教俸死後傘世斯にして併敦の哲理のかゝる深い御理解に到達したまひし太子の
思索力に驚嘆せざるむ得ない。 − 次に﹁法は覚際に任す諸達に動ぜざるが故に﹂を繹して、太子は﹁この六塵
は畢牒郎塞なり。能く有無の二遽に動ぜざることを明かす故に賛際に任すと云ふ﹂︵巻中七右︶と説かるゝ。絶対
は自らの否定である相封に自らを箕現しっゝ然も相封を自らの中に包むものである。これを粕封の側よカ云へば、
相封は自らの中に範封を宿しっ1然も絶封の中に包まる1のである。絶封の中にあつて初めて個々の存在たり得
るところのものが、絶封を離れての自存的存在む主張することは、却って自己の存在を否定する所以である。然
らば僻々の存在は無であるか。個々の存在は絶封がそれに於てのみ顧現されるものたる限力無とさるべきではな
い。これ太子が有無の二連に動ぜすと云はれる所以であらう。有無の二達に動ぜざることは太子によつて拳醍即
塞と云ひ表されてゐる。更に最初に掲げた太子の御言葉を用ふるならば﹁何ぞ名相として辞すペきあらん﹂であ

7仇ブタ
る。
聖徳太子御製維摩経義疏に於ける二三の問題
蟄徳太子御製練磨経義疏に於ける二三の問題 三八六
名相として辞すべきなきことと拳慣即基とは同義語である。換言すれぼ、名を輿へることはものを固定化する

7040
ことであり、取相分別することであゎ、正しく零の反封である。少時、弟子品菩薩品を通じて太子の御言葉を拾
へぼ
彼此を存す。分別を成す。最非を成す。相を取る。邪正の分別すべきを存す。取相を成す。取相分別。分別取
相。断不断の別つべきを存す。是非を亡すこと能はず。智慮を亡すこと能はず。
等であゎ、その反封の御言葉は邪正を亡し尊卑を存せすと云ふが如きである。是非善意邪正を分別せざることが
基の貴践、基の智慧である。云はぼ基のノエーシス的側面である。基のノエーマ的側面は前述の一相無相である。
弟子品に於ては基無二の御言葉が屡≧用ひられてゐる。例へぼ、須菩縫の葦の﹁諸の邪見に入り彼岸に到らす﹂
を繹して、
私の繹は基の中には分別無きが故に若し彼岸に到らんと欲するも亦諸見を捨つべからす。故に諸の邪見に入る
と云ふ。若し諸見を捨てんと欲するも亦彼岸に到るを須ふべからず。故に彼岸に到らずと云ふ。茎にして二無
きが故に。散らば皆取る應し、持つれぼ皆持つ應し。︵巻中十八右︶
と説きたまふ。ここに邪見と彼岸との二が相湊透して無二なる所以が説かれてゐると共に、基の賓践が如何なる
ものたるべきかも明かに示されてゐる。
基無二の智はこれを取相分別することであつてはならぬ。然るに取相分別を離れることの出挙接い吾々は基無
二をも封象化Lて基無二なるものありと考ふ。あカとされた基無二は封象化された基無二、考へられた基無二で
ある。従って太子の御言葉融かれぼ基、を以て基を通力、畢蒐基を以て基を基じなけれぼならぬ。︵問疾晶︶基を以
て基む遣ると云ふ時、入不二法門品の絆摩の獣然無言が想ひ出される。不二法門︵絶封的虞理︶は何であカ、如
何にしてそれに達し得るかとの経歴の問ひに封して、三十一人の菩薩ば各各その立場に於て絶封的虞理とそれに
到る邁とを答へ、最後に文殊が無言無詮、無示無論、諾の問答を離る、これが不二法門に入ることであると答へ、
練磨の答を促す。ところが椎摩は依然として黙然無言である。そこで文殊は自分は無音無詭と云つたが、椎摩は
無言を賢現してゐると云つて推摩を讃嘆する。これが入不二法門品の大要である。太子はこれを︵こ言に寄せ
て無言を詮す。︵二︶言に寄せて言を遣る。︵一ニ︶無言に寄せて以て無言を詮すと分科したまぶ。言に寄せて無
言を詮すは未だ封象化を離脱せざる段階であり、無言に寄せて無言を詮すは基を以て基を造る段階と見ることが
出奔る。然し無言に寄せて無言を詮すは基を以て基を遣る段階のうちの最高なるものと見得るであらうか。云は
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
ぼ、むしろ言に於て無言を詮す段階こそその最高の段階と見得ないであらうか。このことは観衆生品の所詮によ
って明かである。観衆生品に於ては、天女が舎利弗に菅年の解脱は幾許の年月を経てゐるか、と間ふたのに封し
て、舎利弗は黙然として答へない。天女は大智の舎利弗にして何故歎してゐるか、と問ふ。舎利弗これに封して
解脱は音読する所無しと答ふ。天女これに封して、言説文字皆解脱の相なヵと云ふ。太子はこれを繹して、﹁言郎
不言、不言郎言﹂と説きたまふ。かくの如く無言は言誼に於て資現されなけれぼならない。太子はこれを明確に
示Lて、

7(フィ7
二乗の敬は心室と有とに存し故に有を捨てて基を讃す。侶白虎を求めて化他に在らす。是の故に基を観ヰと名
聖徳太子御製練磨経義疏に於ける二三の問題
聖徳太子御製維摩経義疏に於ける二三の問題 三八八
づくと雄も更に相の翫を成す。菩薩の観は有に在れども基を失せす基に在て寓此を成す。基郎有な少、有即答

7ウイ2
な少。有と基とに偏せずして等しく合して不二なカ。故に名づけて虞の基観となす。︵巻下ノ本五五右︶
と説きたまう。有にあつて基を失せざることが、虞に基を以て碁を遣る所以である。基郎有、有郎基の郎がイコ
ールでないことは最早云ふまでもなからう。基郎有、有即基を理解せしむる論理は、所謂脚の論理である。脚の
論理にして初めて、有と無とに偏せずして等して合して不二たることを得るのである。非に偏せるものは経の表
ヽヽ
硯をかれぼ客間の法であゎ、郎に偏せるものは愚人の法である。
* 脚の論理︰︰:鈴木大拙発生の表現による。
支那に於ける無量藷彿と阿瀦陀彿
塚 本 菩 隆
無量詩悌は悌教に於ける西方浄土の教主阿禰陀悌の古い漢詩名であゎ、無量裔僻も阿禰陀僻も
であるのに、近世支部では、両者が別の神格であるかの如き事象を見うける。支部を旗行する
教徒から﹁阿禰陀併﹂と合掌挨拶をうけるのは、極めて普通のことであるが、彼等は﹁無量寿
一方、近世支部の小説などで、道士が﹁無量毒併﹂と挨拶する例に接する。私は支部人から、
紳であるし、無量裔彿は道教の紳であると説明せられた。近世支部の彿教界と雄も、阿禰陀併
同一彿の音詩と意澤とであることを知らないのではないが、文字と翌日の異る二名から支部国
の神格を感じ、終に竺方を彿敦の彿、他方を道教の紳と辛気で息ふまでに至ったのである。こ
と渾名とが、彿敦と道教との二伸格に分れて受容せられてゐる近世支部の宗教界の事象は、支
仰、殊に浮土教のやうな贋く民衆を封象して蟄展したものを研究する上に、注意すべきことで

704j
支部浮土敦が魂末の曇鸞︵相撃碧から、隋姦て、窟の道綽︵解離五︶、善導︵顆糾−︶に襲展大成し誓
文邦に於ける無量毒彿と阿輔陀彿 三八九
支那に於ける無彗静彿と阿弼陀傭 三九〇
とは、文献的に十分論ぜられてゐるが、この間に将士信仰者の榎帯封象の遺物の上に、﹁無量毒﹂から﹁阿禰陀﹂

JO、JJ
といふ俳名稀呼の遷移が現はれてゐることに就いては、あまり注意せられてゐない。
支部彿教徒が造った石刻僻像類は、彿教の全盛期たる第五世紀後年より第八世紀まで約三百年にわたるものが
多数に通有してゐる。これ等に附隠せる造像記を調査整理すれぼ、隋以前には専ら無量毒彿の漢詩名が用ひられ
てゐるのに封し、唐時代になつて、在死の無量毒の詩名む忘れたかの感がするほどに、阿禰陀僻の梵名が専ら用
ひられるやうになつてゐることに気がつく。今は多くの事例をあげることを略して最も重要にして且つ世界的に
著名な河南省洛陽の西南に存する龍門石矯群を例にあげて見やう。蓋し龍門石矯群は、ほゞ西暦五〇〇年頃から
約二百五十年間にわたって、殆んど間断なく造られたものであつて、こ1に今日も拓本によつて讃み得る造像記
が一千種以上も存する。而してこの二百五十年間が、北魂孝文帝の洛陽遷都から唐の玄宗の﹁開元・天賓﹂時代
にわたる支部悌敦の蟄展全盛期にあたってゐること、同一地域、殊に支部中央文の最も重要な地域に集って存し
てゐるものであること、造像者に檜尼はもとよ少、皇帝王公より庶民妖婦に至るまであらゆる階級の男女を含ん
でゐること、等々によつて、龍門石窟とその造像銘記とは、支部の悌数倍仰の性質と欒遷を研究する上に、比類
なき具標的重要資料をなすものである。
さて龍門に存する千飴の造像記を整理するに、隋以前のものは繹迦及び摘勤の道立が最も多く、蔭拝所願の封
象がこの二尊に最も力強く集められてゐる。この二舎は、常時の文献、例へぼ北奔の魂牧の選せる親書繹老志な
どによれば、昔この世界に順次に出現せられた所謂過去の六悌を栂承して、第七彿として出現し、説法し、入滅
せられた最近の過去彿と、その敦のこの世界に於ける後栂者論法者として牌奔出現する第八代の未発彿︵現在の
天上の菩薩︶とであるとして、一般に受容せられてゐたものである。雨舎は、王位の歴代楷承の如く、此世界に
於ける覚者説法指導者としての時間的縦の系列中の最後の二令であるとして信愛せられたものである。然るに
唐の併教徒は同じ龍門に於いて、俸統慣例の力が最も強く支配しがちな宗教界に於いて、在釆のこの世界に於
る歴代的な悌の縦の系列から別にある彿菩薩を最も盛に造り、所願鰻弄の封象を専らこれにむけるに至ってゐ
のである。即ち現在西方十萬憶剃の彼土の教主阿摘陀怖が、隋以前には僅かに数例﹁無量毒併﹂の名で出てゐ
ものが、唐以釆は俄然﹁阿摘陀彿﹂の名を以って繹迦・摘初の二尊の数を造かに歴倒してしまひ、唐代龍門造
の大牢を占める勢を示す。ま空別代に繹迦・禰勤に爽で多かつた観世音菩薩の道立も、繹迦・禰勤の数をのり
し、更に救苦観世晋・地蔵等の名が新に見られるやうになる。
か1る龍門に見られる鰻丼像の欒他に就いては、種々の問題が考へられるが、こゝで詳論することはできない。
唯この欒化が、印度で既に茶毘にして骨や鉢を遺された繹迦併や、遠い牌釆の成悌者といふ弼勅書薩の如き、
理的にも時間的にも遠隔感が感が伴ふのみならす、この世界の人間的讃悟者、∵切知者説法者としての感の強
封象から、現箕の苦難災厄の救護者慈悲者として現在に身側に應現する紳的なる彼土的なる封象へ移ってゐる
とが注意せられる。換言すれぼ、彿敦の智的な人間的な覚者として彿菩薩が支那彿教徒の信仰む満足せしめす
て、慈悲救済の紳としての彿菩薩が要求せられて行ったことむ示してゐるのである。今の私の論題の﹁無量轟

7(フ4∫
ら阿弼陀へ﹂の欒化も、か1る穫弄封象の欒化と時を並行して現はれてゐるのである。
支部に於ける無量毒彿と阿弼陀彿
支那に於ける無蓋寺彿と阿蒲陀健 三九二
神々支部民族に、所謂不老長生に封する強い愛著から、不死の仙薬の存在や錬製を信じ、不死の神仙を得るこ

70イβ
との信仰が聾達し普及してゐたことは、周知せられる所である。しからぼ、﹁無量詩﹂なる名はかゝる不老長生
の信仰の行はれる支部人の間に、頗る魅力あるよき名であるはずである。さればこそ、近世道教徒さへ、無量毒
彿をその敦申の紳の中に収めて口に唱へるに至ってゐるのである。然るに支部悌教界では、浮土敦の大成せられ
たといふ初唐の渾綽・善導時代頃から、この在発行はれてゐた支部的好何に應じた無量毒なるよき漠渾名をすて
1、わざく支部人には意味のわからない梵名の阿爾陀を専ら用ふるが如き現象を生じてゐるのは、如何なる理
由によるのであらうか。
第﹁無量専の渾名の不完全性が認識せられて発た焉であらうか。阿禰陀悌にはAmit首u硯︵無量毒︶とAmi・
t針bF叉無量光︶との両名が存し、善導が儀躇や焉経に盛に用ひた阿弼陀経には、明かにこの雨義を以つて阿禰陀
の名を詮かれてゐる一節もある隋・初唐に頻りに講述せられた無量毒経や観無量詩経には、特に阿禰陀件の光明
ヽヽヽヽヽ
の持化救済の徳が力強く説かれてゐて、他力教救済教主としての阿禰陀件のありがたさを、信仰者は無量轟よ少
も無量光に於いて感受する。かくて将士経の研究、或は他力教としての浮土教義の贅達に伸ひ、無量寿の名に不
満を感じ、無量裔無量光の両名む包括し得る阿禰陀俳名が用ひられるやうになつた。これもー應うなづかれる解
繹でほある。しかし廉く大衆を封象とし貿践的信仰遊動として勃興した浮土教では、か1る字義の合理的改明よ
力も、もつと賞践的なもの、もつと理論説明の外の宗教的感情によつて、事がはこぼれるものであることに注意
すべ音であらう。か1る字義的説明は、未だ必ずしも、無量毒のなれたよき名をすて去る程の唯一の理由にと少
あげ難い。
第二、道綽や善導によつて博士教の箕践行として念怖が第諒とりあげられ、而もこれが碑名と解せら
無阿禰陀悌をくりかへし熱心に稀念する行法が貿行せられ普及した。雨師が特に依擦とし講述した観
は﹁稀南無阿禰陀悌﹂なる箕践行法が説示せられてゐる。南無無量毒悌と唱へるよりも南無阿禰陀悌
が語調もよいのみならす、梵名のくりかへLの賓践行には光術的な力も感ぜられ易い。彿教徒によつては、特に
紳聖視せられてゐる梵語名、支部人には直璧息昧のわからぬ梵語名のくりかへしには、自ら児術的魅
貿行をすゝめ普及され易い。とも角﹁南無阿禰陀併﹂を唱へることが初唐嘆から盛に普及したことは
この箕践行が造像記の無量轟を阿禰陀に欒へしめたと。これは恐らく叫よりもよりうなづかれる理由
られるであらう。
二者は共に、隋・初唐の浄土教勃興の変質に照しあはせて、十分に考へ得る理由であるが、私はこ
て、前述した同じ龍門造優に於ける樺迦・爾動から阿禰陀・聖日・地蔵への欒化と共に、支部彿数倍
聾展の潮流中に現れたすがたであると解したい。聖人或は神仙の思想信仰を介して、印度の出家修行解脱者︵聖
人・紳仙︶として受容した繹迦とその教とを奉じて釆た支部悌教徒が、一切知者解脱者指導者としての僻.此土
的聖人的神仙的な併に、その宗教的感情を満足し得すして、切賓に教主繹迦を通して、その説示した
よりも高き﹁愛の紳﹂を要求する時代が釆たのである。支部彿教史に於ける解脱教を止揚して他力敦

7(〃7
潮流が、繹迦・禰勤の連像をおし流して阿禰陀・観音・地裁の慈悲救済の赫々をおし出し、無量寿の
支部に於ける無真書備と阿禰陀傭
支那に於ける無真幸備と阿弼陀備 三九四
して阿禰陀の名をおし出したのである。息ふに﹁無量寿併﹂と所願する者には自己が無量毒たらんとする意欲が

7ロイβ
強く働いてゐるであらう。自らの長寿不老を修得せんとする支部的神仙信仰と相通じ、自己信頼的傾向を脱して
ゐない感が深い。初唐の道縛・善導の浮土信仰は、隋代頓に勃興した経典の末法詮への反省に導かれて深刻な自
己及び現貴社合に就いて根本的な罪悪観の上に立てられてゐる。徹底した現箕自己の捨離の上に現はれたものが
絶封他者としての慈悲救済の神格への辟命である。自己の無量蕎を願ふよりも、無力なる自己の絶封他者による
光明梼取にすがらんとする信者には、無量寿彿の名はピックりとせぬ。光明救済の紳力に辟命する信者の間に自
ら自力教解脱数的嗅昧をもつ一方的な漢詩名から、慈悲救済の徳用をよりよく感受し得る阿藤陀の辞名への韓移
が行はれたものと思ふ。勿論﹁南無阿禰陀悌﹂ の碑名行の宣教普及に導かれつ1である。
要するに無量裏怖から阿禰陀彿への欒化は、北貌末に長寿不老の神仙的要望から無量毒併の信仰に進んだ事歴
をもつ曇驚から、自己とその蹟境の深刻な罪悪凡愚観から絶封他者的な阿禰陀彿に辟命した遁辞善導への、支部
浮土教の蟄展に並行してゐる現象である。
唯識の破析する極微説について
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一箪波の畢詮を理解するに嘗り、その反射派が云何にその峯派の箪寧紅眺めて居ったか、む究明する
その箪涯の拳改む批判的客観的に理解するに貰って緊要な一方法であると恩ふ。印度思想史に於ける如
の思想史的形態の定かならぬ領域に於ては殊に商うである。
さう云ふ課題の一部門たる翰伽唯識の敦輿論が、中親漉から封論︵︼章l⋮ldコ︶として眺められ論難せられた所
論に関する資料としては、以前にもー督したことがあるように、清絆の中親心論第耳華人稔伽行眞寛決
構造入中論第六章の所論、月稗の復権者寂天の朗造なる入菩提行論第九葦の所論等を枚馨し得るが、形
つノた一章として輿へられてある鮎と、内容上.唯識論に関する諸種の重要な問題を逓ねく包括して論難したと見
らるゝ鮎と、のその叫一瓢に於て、清非の中親心論第五葦が最も重要な資料と認めらるべきである∪
そこに論議せられた諸種の問題の中∴滞研は、世俗としては外境の資醍としての極後説を許すと云ふ

7(フィク
るから、瑞伽唯諸派が外敬の章饉としての極微性を許さーずして外境の唯識朗理な説くのむ反封論とし
唯識の破折する極微記について
唯識の破析する極微誼について 三九六
のであるが、かゝる諭伽唯識論漉からの極彼破析誼が清桝によつて次の如く紹介せられてゐる。

/り.ブ「J
有外境論者が識の境を極微なりと説く場合、そこには印譜極微の一々が単一で境となれりと説くものと、印譜
極微が和合せるときに境となると説くものとの二誼あるのであるが、糾の所宗に云ふ如くに極微は単一にては
識の境とはなり得ない。それは、極微が一三単一の形相を以て知覚の中に見ゆることはなく、従って単一の極
微は境の鰐相とは有り得ないからである。例へぼ知覚の所依たる五根の自憺は明滞色として有るものであるけ
れども、それが知覚に於て見ゆるものではないから知覚の封象となり■得なレ、と同じである。又第囲宗に言ふ極
彼の多数が和合せるものも知覚の封象とはなり得ない。それは極彼の一々の個牒は賓結として認めらる1が、
それが和合した時には軍林の如く資結として有るのでないから、和合せるものが知覚の中に見えてあつても、
それは知覚の封象としての茸怯む有たない。例へぼ眼翳者によつて見らる1第二月は、知覚の中に見ゆるもの
ではあるけれども、知覚の封象性として存するでないのと同じである。
と。此ニケの極錬破所説は、唯誠二十論第十一個下に出さる1三ケの色境寛有誼が破析せらる1中の第二、第三
に相昔せしめらる1ものであるー︼−−尤も唯誠二十論と云つても、今は漢詩替諸二本、梵本、西蔵本及び西蔵諸に
存する調伏天の設繹なる五木の上で言ふので 且らく玄英の所謂新詩を措く一重それ故に清釈は唯隷二十論に出
さるゝかくの如き極彼破析詮む討論として探り拳げたのであらう。因みに唯隷二十論のその場所に出さるゝ第一
の色境賓有詮は分︵コ⋮y芸こより別に免物︵墓lユニ一︶としての有分色︵⋮一y”乏羞l芸,︶ なる賓牒ありとする勝論
宗の如きを言ふのであり、従って世俗として外境の極彼性を許す清塀にとつてはそれは直接の新開事項でないか
ら、色境箕有破析詮の中のその第一誼はそれむ除き、極微に関係してのみ論ぜられた色境賓有破析訣の如きが封
論として掲げられたのであると息はる。
然るに盆に問題になるのは.清坪は中親心論第五章に於て陳郡の集量論及び翫所縁論の朗読む封論とし、殊に
後者に就いては敏同に亙つて或はその語を引用し、或はその所詮を掲げるのであり、勇々以て清塀の封諭せる璃
伽行渡は陳郡直後のそれであると思はるゝのであるから、その極微破析詮についても、唯隷二十論に論ぜらるゝ
ものよりも陳郡の観所縁論中のそれが探り用ひられてあるべきである。そこで観所縁論に就いてそれを見るに、
その書は題目の示す如く、境・所縁の吟味観察を行ふのであるから、封論者との関係に於ては、その書は有外境
論者によつて外境性とせらる1極磯の破析論が出さるべく特殊づけられた専門書である。そして正しくそこには
始め三偶を以て唯隷の立場からする極彼の破析論が出されてゐる。その中の始二偶の所論は先に清研が封論とし
て掲げユ竺一ケの極彼破所論であり、第三偶の所論は、始ニケの極裸論の有する欽陥、即ち第〓示の各々の極楳が
単一な場合に於ては、知覚の中に見ゆる封象性を形造らないから封象となり待ないとの難鮎と 第二宗に於ける、
和合せる極微は資性でないから識を生起する因牒なる封象とならないと云ふ難鮎と、のその両難鮎を補足して出
された極微の和合観︵三者]1許巴ハぎエなるものを立する極襖第三宗の破析論である。その極緻和合観宗とは
和合観は諸極襖中にあるものであるが、凡そ諸極微中に有る程のものは全て箕有である。故に和合観は賛有で
あり、識を生起する因たり得る。また和合敬は和合して形、即ち鹿性 ︵蚤l已=t、ヱ であるから識の上にその自
相が置かれて所見相たり得るのである。

/〃∫/
唯識の破耕する極微設について 三九七
唯識の破折する極微記紀ついて
といふもので、観新緑論ではま琴てれむ破析するのである。

70∫2
放て清研は上隼も云ふ如く、鶴所縁論に勤しては所封論として特に親しい関係にあり、その又
は外境極彼性なる所縁む吟味観察する専門書なのであるから、清輝は玲伽行波の極微破析論とし
於ける極彼三宗の破析論に封諭せねばならぬ筈である口然るに清弊は封論としての極彼破析論を
その親所縁論に於ける極微三宗の破析論を以てせず、唯隷二十論の色境葦有破析詮の第二、第三
オリヂナル のだけを掲げてゐるのは、玲伽行波に於ける極微破析論の原本的な形態がその唯識
ぁったことを讃するものであると見らる1。また観所縁論の註繹家調伏天も親所縁論に於ける第三宗の極微誼に
封しては﹁別な仕方︵弓y⋮yエによつて極徴が境とせらる土示である﹂と云つてゐるのであり、その極彼第三
オリヂン 宗の内容も上に述べた如くであるから、その畢詮の起源と云ふ鮎から言へぼ、それは
のであることは明らかである。
更にこのことはまた漆伽唯隷解繹史上に於て重要な低地む有つ安慧論師がその極微誼に封する
し得る。そは安慧は唯隷=‡頒論繹の始めに隷を賓法とトて立するに昔り、極按を慣性とする有外境論を評難し、
そこに三宗の極微誼を破析してゐる。その=哀の極微詮は、順序に於て親所縁論のそれとは、その第〓示、第二
宗の前後顛換せる相異はあるが、極微三宗の内容は親所縁論と同じであり、唯識論またそれむ襲
同様の場所に於て安慧のそれと同じ内容次第の極彼破析詮む掲げる□その鮎から見れば三宗の極
時代に於て爾う云ふ諦議の主要な形態をなしたものと思はれないでもないD併し安慧は申達分別論繹疏、相品−
入無相分別相下に識の所縁が外境であるとする所論を破するに際しては、所謂親所縁論の第三宗には開諭せずし
て順序次第も唯隷二十論、及び清弊の封論に於て見らる1極微の破析論の第一誼、第二誼のみを掲げてゐるrUで
あるから陳部より牢世紀以後に在世Lた安慧に於ても必すLも観所縁論の仕方に由る三宗のみが極微破析論とせ
られたのでなくして一般的には唯隷二十論以釆の二宗の極微破析誼であつたと云はねぼならぬ。寧ろ三十頒論繹
の極微破析誼が出さる1状勢と申達分別論繹疏に於けるそれとを比較するに、特に外境極微宗を阿畏蓮磨的な分
別膿系に於て扱ふ場合には観所縁論による三宗の方規であるが、一般的に外境・極微む破析する場合にはやはり、
二宗の極微説が破析せられてあつたのであると云ふ事情を想はしむる。
以上の如き事情由つて、唯識の破析する極微説の一般的形態は、安慧清塀等の篠の時代に至るまでも唯誠二十
論に出さるゝ二宗の極微読であり、観所縁論に見らる1第三宗は第二次的な意味のものであつたと規定して良い
と思ふ、︶
但し、唯識二十論の玄英謂のみは、件の色境賓有誼の第三宗即ち極微の第二宗なる和合せる極彼を外境とする
宗の上に、更に極徴の和集相なるものを加へて、極微の第二宗は、極彼の和合及び和実相を主張するものなりと
し、以て唯識二十論も親新緑論と同じく極彼の三宗を破析するものであると認めんとする窺基の連記によれば極
彼の第一宗は詭一功有部の所宗、第二宗は経量部、そして第三宗は世親の棋舎論に封し迦浸潤羅正統有部の立場
から倶舎論を反駁して迦惧禰羅有部の畢誼を新たに演繹展開して解繹した衆賢の新薩婆多部の所宗であると云ふ。

70∫J
そして、速記によれぼその極彼の第二裏が本文に加へられてある玄共謀本が勝れ、それ無き嘗詩が不備であると
唯識の破析する極微記について
唯羅の破秘する極微詑について 四〇〇
許する。かくして、玄英・慈恩によれば、唯識二十論は世親が衆賢の顧宗論及び正理論に於て述べた新産婆多宗

7()∫4
をも斯破の封象とした世親晩年の教峯的靡結であり、所謂出世本懐に廃するの辞であ名と認めんとするのである。
併し唯誠二十論の本文をかく理解せんとすることは、梵本申戴諸本、及び西成碍調伏天の話繹.並びに漢詩嘗謂
二本の上には絶えて無いことであつて、故に玄壁閉停の特殊性が伺はれる。また眞謂謂世親俸に、衆賢が世親に
封して随資・光三摩耶の二論につき棋舎論の義と論寄せんとしたが、世親は﹁我れ巳に老いたり、汝と面の嘗り
典に論ぜんとは欲はす、有智の人その是非を知るべし﹂と云つて論争することむ避けたことが話されてあるもの
も、玄嘆慈恩の停承と相異するところである。そは光三煉耶の光とは.唯識に於て顧現︵pr旨h訂且 と云ふ語が
光と謂さる1用例に従って、光三燦耶はpr旨h賢訂一箪m責野郎ち願宗論であることが知られる。光三摩耶が願宗
論であれば他方の随賃論が帽正理論であることは直ちに聯想せらる1。憎が随であることは固よりで、その原語
として巴ゴ戻訂邑=計宛てるに不都合はなく、正理の原語︸ly首さは賃・正と云ふような意味に用ひらるゝのである
から、順正理論ny首ぎ妄ぎ2が随貿静であることは明らかである。乃ち世親俸によれば、新薩婆多部の顧宗正
理二給に就いて論議すべく、壮観は飴りに老境に在ったと云ふのであるから、唯識二十静に於てその新産婆多部
の極微詮を論破したと云ふことは、世親俸よりすれば骨へない鮎であつて、此鮎は玄葵詩以外の五木の唯識二十
給のその場所の本文と合致するのである。
以上給するところによつて、唯識誼に於ける極微破析論のオりヂナルな、又一般的な形態は、清群が封論とし
て掲げたもの1上に能く顛はされてあると結論し得る。
日蓮聖人の固紳観
山 智 應
日蓮聖人が、天照大神・八幡大菩薩等の日本国の神祇について、いかなる観念を有してゐられたかといふこ
は、近時往々にして論評に上り、また幾種かの誤解もせられてゐるやうである。それ等に謝して本稿は、聖
囲紳観を概観することにした。そこで便宜上、これを文相上の種々相と、文底教義の靡結とに分つことゝした
−文相上の数々相。聖人の囲紳に封しての表現をその遺文に見ると、決して∵足してないで種々異った表現
がせられてゐる。随ってこれを分類すれば、三種・四種・五種乃至六・七・八・九・十種にも分ち得られるの
あるが、今はしぼらく之を五種に分つことにする。
1、果敢圃日本の守護神。一閻浮撞を五尺竺・十六大固・五首中国・十干ノ小国・無量の莱敢闘とL、日本国
はその莱散囲の一つだとは、平安朝以釆、聖人の生存した鎌倉時代の悌者の通念であつた。したがつて聖人
文にも、この通念からその粟散圃日本の守護神として、天照大神・八幡大菩薩を見てゐらる1表現が、虚々にあ

70∫g
る。例せぼ有名なる﹁絵門可申事﹂の
日蓮聖人の囲神教
日蓮里人の囲紳親 四〇二
梵天・帝繹等は我等が親父繹迦如奔の御所領をあづかりて、正法の檜をやしなふペき者につけられて侯。眈沙

70∫β
門等は四天下の主、此等が門まもり。叉四洲の王等は眈沙門天︵等︶が所従なるべし。其上、日本秋津嶋は四
州の輪王の所従にも及ぼす、侃嶋の長なるべし。
とあるは、粟散日本を持されたもので、此の立場では、﹃天照大紳・正八幡なんど申は、此囲には重けれども、
梵・繹・日・月・四天に封すれぼ、小雪かし﹄︵班斬餉︶などの表現もあぇ。注意基するのは、この場合には、
日天子をぼ、天照大紳の外に奉げられてゐることである。
2、天照大神郎大日天王。つぎには、聖人の五大主要著の一なる﹁撰時抄﹂下巻に、
日本国と申は、天照大紳の日天にてましますゆへなり。
とあるが如きは、上の﹁御振舞書﹂の日天の外に奉げられたるとは異るのである。すでに日天子とすれぼ閻浮掟
の諸国をひとしく照しひとしく護らる1紳とならる1わけで、日本国のみの守護紳ではない筈であり、そこから
次々の表現が出て釆ることになる。
8、正港守護の大書紳。蒙古の牒状が舜た文永五年の十月になつて、北條時宗に輿へた書状には、
夫レ此ノ圃ハ紳園地。紳ハ非躇ヲ菓ケクマハズ。天神七代地紳五代ノ神々昇外諸天善紳等ハ、一乗擁護ノ神明
ナウ。然モ法華経ヲ以テ食卜薦シ、正直ヲ以テカト篤ス⋮⋮一死乗冶ノ図工於テハ、豊善赫怒ヲ成サザラン耶。
とあゎ、同じ時に北俵禰瀕太に輿へた状に
天照大紳・八幡大菩薩等、此ノ囲ヲ放チクマフ政ニ、大家盲囲ヨサ牒状乗ル激。
とあるが如きは、天照・八幡等は正浩守護の紳なるが故に、日本守護といへども日本国が正浩旺背けぼ.守護し
た童ふことはできす、内証外患む乗らざるを得ないぞとの意である。
4、大日本囲の守護神。更に進みては、聖人虞蹟存在の上級囲茂原の藻廃寺の鹿茸の大量茶羅には、天部以下
に異様の勧請がある。即ち﹃無量世界大梵天王等﹄﹃無量世界帝繹天王等﹄﹃無量世界大日天王
大月天王等﹄ ﹃無量世界四輪王等﹄﹃無量世界阿修羅王等﹄ ﹃無量世界龍神王等﹄を奉げら
字に﹃大日本園天照大紳八幡大菩薩等﹄と、少しく高く善かれてゐることで、この鼻茶羅は聖人
月八日平頼嗣が蒙古釆襲の時期を間へるに封し﹃天の撰少からす、よも今年はすどし侯はじ﹄と
官有飴日後の七月廿五日、元では日本征討の都元帥析都を高麗へ蟄達した頃に善かれたものであ
伏の焉めなることが察せられるが、この表現の中には、無量世界の大梵・帝繹・日月等に封して
照八幡等の紳む勧請せられて、おのづから大日本固の法界的重要さが暗示せられ、かの﹃御振舞
日月・四天等に封すれぼ小紳ぞかし﹄とは、全く反封なるが如き表現となつてゐるとを注意しな
さらば何故に大日本圃はしかく重要なるやとなる。
5、本彿の垂此、天照八幡等諸悌。﹁日限女樺迦彿供養事﹂には、﹃天照大神・八幡大菩薩も其本地は教主繹
尊些といはれ、﹁諌瞑八幡抄﹂にも、天台大師の﹁絵筆玄義﹂ の本門十妙の本紳通妙の文なる
界づ作三種々像−﹄を引き、﹃教主繹尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はぎらんや﹄といはれてゐる面からは、天照大神・
八幡大菩薩は本彿の垂述化導であるといふことを示されてゐるが、更により多く緊切なるものは

JO∫7
日蓮里人の囲神教
日蓮里人の囲絆観 四〇四
二月、即ち聖人が勧持品の併の換言に契へる人たるのみでなく、同九年二月十叫日十五日の自界夜道、同十叫年

70∫β
十月十一月の他固侵逼を、遠くは十五年前、近くは一ケ月前までに数ば換言せる人として、此の硯澄を以て白か
ら上行菩薩の本地を示されたる、安房囲保田妙本寺に虞蹟存在の大蜃茶羅において、﹃天照八幡等諸悌﹄と書か
れてゐることである。これは聖人みづから本地を示すと共に、天照・八幡両神の本地をも示されたもので、此の
開顛によつて前の﹃大日本囲天照大紳八幡大菩薩等﹄が、無量世界の帝繹日月よりも重く書かれてゐたことの意
義が、おのづから暗示せられてゐるのである。
〓 文底教義の廊結。前の文相上の種々相は、それが従璃至深的表現の相違であること株、上釆の叙述で判明
してゐるが、何政にかく種々楯の表現ありやは、﹁四億金吾繹迦悌供養事﹄の、諸彿は肉・天・惹・法・悌の五
限を具し、法聾の持者もま1自然に五限む具すの義に因るものとの意であらうと信ずる。そこで文底教義の凝結
をいふと、
イ、本彿の三方面。法華経轟量品の本俸に就き、天台大師は十妙を説いてゐるが、其の根本的のものは、﹃我
茸成彿己釆無量無塵百千高値部由他劫﹄等の本果妙と、﹃我常在此婆婆世界﹄等の本圃土妙と、﹃我本行菩薩道﹄
等の本国妙とである。これ即ち本悌の三方国即ち三の根本的表現である。
2、紳力品の後の五紳力。法葦経紳力品に本俸が上行菩薩に付屡する時、十種の紳力を現はしたる、後の五種
の紳カを天台大師は、如死滅後に.機痕の一なる時あり、其の時の唯一の教義、唯一の本尊、唯叫の修行、唯叫
の辟結盈示せるものとしてゐる中、その唯叫の教養を示せりとせる茎中唱聾の経文にも、本圃土の婆婆と、本巣
の本件繹尊と、本国の妙法との三を畢げてゐる。即ち本俸の三方面三表現によつて、人斯
らぬとしてゐるのである。
8、本圃土妙的示現。印度に法葦経書菩mの本俸を説ける教主即ち説法着たる繹迦牟尼彿は、本懐としての本
俸の、本巣妙的表現者である。その法葦経の預言を、日本において箕行しまた自ら上行菩
の行者日蓮は、本因妙的表現者である。而して法華痙の陀羅層mにおいて、日本と日蓮とが隷言せられ、天台・
妙薬・停教また警己、それらの預言に迭られたる日蓮聖人が、﹃天照八幡等諸悌﹄と開顕
王道建国の天照大神は、即ち本餞としての本彿の、本圃土妙的表現者であるとせられたも
る。かくて毒量品・紳力品の経文の義理が、歴史的に躍動し乗りて、本彿の無量無限の神
を放ち凍るのである。

Jr)∫9
日蓮聖人の園紳戟 四〇五
夢六同大食記事 四〇六
足利龍谷大草々長の祀群があつた。最後に研究委表曹司合着
第六同大曾記事

70βα
を曹長より指名されて開合の式を閉ぢ、同書館前にて記念撮
影後、午前十時年より研究婆表昏に移り、第一都合︵宗教撃
多年の宿願であつた本畢合大倉の京都開催は機縁の熱する
宗教史一般問題︶を第九教室に、第二都合︵宗教撃宗教史特
ものあつて本年十月十九・二十日の両日に亙り京都七條龍谷
殊問題︶を第十一教室に、第三都合︵係数準備教史︶を国書
大草に於て開催された。皇紀二千六百年の意義探き此の年、
館講堂に於いて開催した。
地は我が文化の叢源であり、時は清秋の気高く澄む好季に本
文部大臣祝鮮
拳合創立十周年を記念して此の大倉を挙行するを得たことは
本日女工日本宗教拳骨弟六同大骨ノ開催セラル、ニ嘗リー
欣快之に過ぐるはない。拳骨事務所が東京にあつてのことゝ
言祝意ヲ陳ブルノ横ヲ得タルハ余ノ最モ欣快トスル所ナリ。
て諸般の準備に種々の不便も少くなかつたが、萬端手落なき
惟フニ本革含創立以来既二十年其ノ間宗教三関スル諸畢ノ
準備と多数の参加者の参集をみて、終始盛合裡に進行するを
襲達振興三軍献セシ所大ナルノ、、、ナラズ我国文運ノ進展二
得たことは、偏へに龍谷大畢嘗局の御後援によるものであり、
寄輿セシ所亦砂カラズ。
就中、勿渓了帝氏、枚井了穏氏、長繹信諸氏の御毒力による
今ゃ皇紀二千六百年ノ聖辰三富夕東亜新秩序建設ノ使命愈
ものとして感謝を捧げねばならぬ。
々重キヲ加フルノ秋悠遠ナル拳固ノ精神二則り囲鰻執念ヲ
第六同大合は十月十九日午前九時、龍谷大草囲書館講堂に
明後ニシ以テ国民精神ノ昂揚ヲ固ルハ現下ノ急務ニシテ之
於て龍谷大挙教授長澤信毒氏司脅の下に開合された。長澤氏
ガ爵ニハ素数的信念ノ啓蹄亦極メテ必要ナルコト夙二識者
は開合の静に於て、国事多難の際にかゝる大骨を開催し得る
ノ痛感スル所タ㌔而シテ宗教的信念グルヤ之ヲ深ク畢理
ことを感謝すると述べられ、参集者一同起立して皇軍将士の
工基タカシムルコトナクンバ却ツテ国民精神ノ健全ナル変
武運長久と英靂のために暫しの歎蔭を捧げた。次いで別項掲
遷ヲ阻害スルコトナキヤヲ惧ル。本大骨二於テハ斯界ノ権
載の如き、姉暗合長の挨拶、文部大臣祝辞︵相原宗務官代硬︶、
威ヲ一堂三食シテ世界ノ諸宗教三畢術的検討ヲ加へ浣敦ノ
眞轟ヲ閲明シ臥テ健全ナル宗教的信念ヲ滴養シ国民文化ノ この記念すべき年に常や、かういふ\記念すべき宗教重大骨
劇場ヰ責セントスルハ蓋シ時宜ヲ得タルノ撃ト調フベタ其 を本皐が開催し停ますことほ、私共一同の甚だ光莞に存ず
ノ成果ノ剖目シテ倹ツべキモノアルヲ疑ハズ。 るところでどぎいまして、また厚く感謝する次第でどざい
巽ハタメ各位其ノ使命ノ存スル所ヲ塵認シ我ガ囲宗教畢ノ ます。
斐達卜共二戦時下思想界ノ健全ナル進展二貢献セラレンコ 顧ますと、8支事襲が起りましてから、もう四年になり
トヲ。二言所懐ヲ陣べテ祝辟トス。 ます。そして今や新しい秩序、新しい鰻制に対する要求は、
昭和十五年十月十九日 単に東亜に限らず、西欧に於ても、彩騨として起り、また
文部大臣 橋 田 邦 彦 着々としてその歩を遵めて居ります。かういふ風に、歴史
に、新らしい時代を創らうとして居ります時にあたつて、
龍谷大串々長祝辞 串間も亦、固より一日も忽にしてはなりません。これは濁
ここに、日本采敦拳骨第六同大食が本単に於て開催せら り自然科単に限らず、賭前科単に於ても、特に精神科車中
れますに貰って、一言御祝の御言葉を準ぺきせていただき の糖紳料率とも言ふべき采敦単に於いても同株であります。
草す。今年は、申上げるまでもなく、皇紀二千六百年に常 それにも拘らず動もすれば、自恭科拳の研究奨閲に比して、
り、■その祝典も目捷の間に迫って居ります。また雷、日本 精神科畢、就中、宗教孝の研究は不急の仕事と見倣される
素数拳骨が創設せられましてから、本年は、早くも、その やうな焼がないとは言へないかと息はれるのであります。
十週年に常るのであⅥこ苫す。皇紀二千六百年と言ひ、創設 しかし新秩序の樹立といふことは、人心の板祇から、精神
十週年と言ひ、そこに一つの時期を劃する誠に意義深いも の底の底から、秩序を新たにすることでなくてはなりませ
のでありますが、その上、宗教畢大骨が京都で開かれます ん。ここに宗教畢を研究する畢徒が、この新しき時代の門
ことも、今回が最初でどざいまして、いやが上にもこの大 出に際して、負はきれた大きな使命があると考へるのであ

70∂7
骨の意義を深からしめてゐると申きなければなりません。 ります。
第六同大骨記事 四〇七
第六同大曾記事 四〇八
乗りますとエろによりますと、本大倉は、御研究を部
御二聾名、第二部四名、第三部一名であつたが、酋日の追加譜
表下きいます方が、特に多数で、七十人を数へるきう表で
とあ

7062
して、第一蔀に於ては伊藤道草氏.﹁宗教所詮制の根本問
り左すが、かういふ時期に於て、かくも多数の聾者、
題新﹂進
第二部に於ては黒任宗武氏﹁新井昌良民と教学問題﹂の
の研究家が、平素御節寮の一端を御斐表下きいますこ
凌と表は
が、行はれた。最初の預想よりも套表希望者の数が多かつ
誠に同慶に堪へないところであります。 た焉、凄表時間を一人十五分以内と制限したので、各老衰者
本巻は御璧の通り、市井の中にある関係上、四囲のに
騒は音可なり御無理を願った粘も多かつたと思はれる。研究委
を充分に防ぐことが出来ず、その上、狭陰にして且つ
表不の便
内容は本紀要に輯鎖してあるが、第一部で豪表された片
の鮎も少くないと思はれるのでありますが、かういふ
山鮎正は
直氏﹁有縁の共同鰻と無縁の共同鱒﹂及び追加老衰の前
偏に御寛容下きいますよう、御願ひ申上げますJ 記二氏の分は都合により収録し得なかった。
終にのぞみまして、本拳骨が益々隆盛に赴き、わが国の 農 朝
畢開所究に寄輿賓献せられるは勿論のこと、進ん、で世
倉道期人
中龍谷大学囲書飴内にて左の文書等が陳列展観された。
心にも、その由趨すべきところを、御指導せられること二
を迦オ浄土諭 奈良時代寛
切望いたします。明か蕪辞を連ねて統辟に代へる次第で
二ご、念彿式 平安朝時代寛
ざいます。 三、唯信砂 鎌倉時代寒
昭和十五年十月十九日 四、口停砂 害野朝時代専︵畳如自筆本︶
龍谷大畢々長 足 利 鞘 義 五、末法灯明記 告野朝時代焉︵存畳筆︶
寧究敦表禽 六、源氏物語細流抄 三保西公條自筆稿本
各部曾とも第一日は十九日午前十時牛より午後四時牛ま七で
、、つれふ1草 室町時代堵︵平忠盛筆︶
第二日ほ二十日午前九時より正午まで行はれたが、聴講者
八多、漢嵐拾葉集線起 室町時代鴬
数にして終始盛禽であつた。孝義激安老中営目敏横着は第
九一、三国一覚合蓮圃 室町時代葛
十、十七ケ條意法 永正十二年寄 二十九、高菜豊 江戸初期 活字本
十一、詞海事路 室町時代 清原宜資自筆本 三十、恵んらん鞄 江戸初期軸 活字本
十こ、職痺秒 室時町代 清原枚方筆 三十︼、しんらんき 寛文芸年刊
十革∵論語抄 室町時代尊 苧〓一、妙法蓮華軽︵餅栃︶ 唐代刊 教燈本
十国、東海城見衛 重町時代埼 三十三、大数王鮭 北宋時代刊︵金蔵本︶
十王、欺異紗 蓮町時代寓 三十四、戒因縁薩 元版
十犬、簿阿軸陀彿偽 居代務 敦燈本 三十五、絶食手軽 朝鮮尉
十七、討取起泰盛 晴信行撰、三階数典籍、唐代寛、 三十ムハ、混一誼狸歴代国都之固 明代
敦盤本 三†七、光明本尊 菅野潮時代
十入、阿軸陀経 唐代寛 敦燈本 三千八、梅内寄執 明版
十九、寒経度試筆集 唐代埼 敦燈本 見 畢
二十、悉達太子修塵囲蛛 居代務 敦燈本 弟〓日研究費表合終了後、希望者一同は龍谷大挙教授禿氏
二十一、黒谷上人狩隆能 鎌倉時代刊 繭帝民説鯛の下に西本願寺書院、飛雲閣、其地象内を具さに
二十二、無量帝鍵 鎌倉時代刊 見聾した。
二十≡、桂皮宴集 鎌倉時代刊 鶉曾葉懇親曾
こ十国、論語集解 正平旋 無汲本 十月二十日午後六時、そぼ降る中秋の細雨に情傲〓入加は
二十盆、三帖和諌 文明販 るものがある中に囲山仙楽園にて絶食乗懇親昏が開催された。
こ十宍、鎧部親略 五山版 一同参集、長澤信蒔氏司禽の下に絶食が開催され、先づ長簿
二十七、銃撃玄義序 支線四年 木因寺版 木括本 氏は赤樅智城氏其他からの親電を披露し、小口停︼氏ほ庶務
二十八、法界次第御門 元和︵?︶活字本

7(娼∂
報告、評議員曾決議事項をはかつて一同の賛成を得、虫に線
誇六闘犬官紀事 四〇九
第六同大骨記事 四一〇
昏を終アした。因みに次回大倉の開催地は第一希望地仙蔓、司令者
第二希望地東京である。 相原一郎介 初演 了諦 久絵 眞一 偶足理一郎

70βイ
懇親禽にうつつてから、姉崎曹長の幼き日の追憶談は一同 石橋 智信 石津 照璽 菅 図書 金山 龍重
にほ殊に輿酸いものであつた。また社誌﹁宗教研究﹂が創刊 木村 日組 岸本 英夫 小粒 雄道 絵井 了穏
常時歩んだ道を、赤松氏の祝電にことよせて語る宇野囲重民 長澤 信幸 西谷 啓治 西澤 頼應 大畠 清
の懐膏談は本誌成長の過ぎし姿であるだけに或ひは暁笑し或 大屋 徳城 佐々木憲徳 柴野 恭堂 島原 逸三
ひほ先輩の苦心に敬意を表せしめられた。更に勿演了諦、来 杉 紫朗 禿氏 祓群 富森 京大 塚本 書隆
烏球道、松井了穏、片山正直の諸氏の所感もあつて宴を徹し、
宇野 囲空 山口 益 山川 智應
後は姉崎曹長の御研究飴談やら踊澤諭やらが出て時の過ぐる係 員
を知らぬ程だったのは、大倉の無事終了した喜びを一層強め 長浮 信毒 脊地 正長 星野 元豊 久保 浮成
てくれた。本撃合のより健かなる成長を希ひながら囲山のわ 遊亀 教授 菊地 達眞 瓜生津隆雄 速見 純︼
たりをそゞろ歩きして一同分れたのは九時すぎ、小雨も舜れ 贋野 香象 清岡 詑成 小口 倖一 田澤靡三郎
て東山に月を観る頃であつた。 韓谷大串畢庄 護城 正一 任井記唆照 水谷 英俊
倍箱六同大合の役員氏名は左の如くである。記して感謝の 柴野 純 河北一道 増山 博通 山崎 ︼朗
徴意を表し度い。また龍谷大挙常局関係者各位、特に宗教撃 田中 貞利 高臣 亮絆 高田 益雄 服部 晃英
研究室、彿敦撃研究室、眞宗学研究室の各位にも同様お蔭を 島 千秋 武田 浮眞 管本 晃 竹田 不成
申上げて大骨の記事を終ること1する。︵田澤記︶ 津山 正澤 佐々木誓海 山崎 慶輝 安田 細道
誇大同大含役員東名 他山一切囲 磨滅 豊民 波川 敏丸 串本 喜美
骨 長 東京帝大畢生 家本 天英 西村 税喜 柳原 光
林崎 正治

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