You are on page 1of 171

小乗偶数の算段的意義

字 井 伯 毒

筍くも多少悌教について知る人は、殆ど皆、大乗と小乗との名稀に慣れて居るが、然し、其中の小乗彿教とは


賓際上何を指すかといふ問題になると、専門家すら、之を確定することは困難であらう。元来小乗といふ命名は
日ら奉ずる所を大乗と誇辞する人々の側から↓挺し窒息味を含めて、起したものであつて、何れの時代、何れの
場所にも、自ら奉ずる所を小乗と自稀したものはないから、初めから既に漠然たる命名であつたのであらう。然
し、恐らく賽開法又は寡聞粟の名の方が、小乗の名よ力も忘古いであらうと考へられるが、之に対して望屈
法が大乗又は諸悌法である。然らば、客間乗の内容は何であるかといへぼ、十二因縁、四諦八塑造、三十七遺品、
其他種々なる繹定、智慧の分類語明等であるといはれ得ることになつて居るが、然し一般的にいへぼ、これ等が
直に馨聞莱の特質をなす詮と看徹さるべきではなくして、所謂大乗と錐、これ等の法数名日は其まま之を用払て
居る。唯大乗としては、馨聞乗の用ひない﹂切宙衰とか、諸法賓相とかが、初期時代に於て、特有のものとせら
小乗係数の箕蹟的意義
\ ll、

も、・.

′ ・

・Jl

タ・′タL

ヽ 苓
小乗沸教の衰應的意義 二
れて居るに過ぎないであらう。然むぼ、大鰹からいへば、十二田緑等の法数名目などは、いはば、適沸教の教材
とも解すべきもので、少なくとも、草間束に特有なものではない。而も、これ等の所謂教材は、ナ切皆茎や諸法
賓紆などよ力も古く認められて居たものであるから、或鮎から見れぽ、これ等の教材に基いて、後に整聞凍即ち
小乗沸教と菩薩諸彿泡即ち大乗彿敦とが蟄達したともいへるであらう。故に又、これ等の教材に封する取扱払の
態度の相違から小乗と大乗とになるに至ったともいへるであらう。取扱払の態度の相違といふのは、所謂彿教な
るものを、新興として受取って故ふ精神と輿へる側に立って活用する精神との相違に辟著するであらう。此精神
の相違は、恐らく、大鰐は、経蔵の精神と冷蔵の精神とであるといへよう。経は凡て詮者が、鵡老の素養等種々
なる事情を稽へて、適切なる方法により、最庵効果的に誘導啓蟄する教育のl記録であ少、かかる脛が多数あるか
ら、之む銀輪して脛裁といひ、論は、聴者の側に立って、これ等の麿止宿する種々なる詮教の項目即ち法数名日

l
を解詮し蒐集し分類して、理解と賓修とに便宜な組織を立てるものであつて、これも多数存するから、規格して
冷蔵と解する。茸際としては、脛戒の中にも既に冷蔵的の部分が存するが、それは全く聴音の立場で扱うた結果
、\

に外ならぬし、論戒の中にも諭戒的でない部分も見出されるが、それも鵡者の立場を離れたものではないから、
今いふ一般的の特質の例外となるものではない。この舐者を贅聞と名づくるから、馨閲乗は差雷り冷蔵の詮を指
すことになる。
l

沸教は阿育王治下甘上軽部と大衆部との二流に分裂し、更に両派内にそれぞれ枝末分裂が起ったとせられて居
るが、紛裁の製作は上庭部系統の特色をなすといへるであら、ぅ。鹿今俸讐て居る書から言うても、又俸詮とし


ゝパ V

\t
ご ■l
・轟音攣

j
1

て知られて居る説から考へても、論或は凡て上座部系溌のもので、大衆部系統に膵係するものは殆ど知られて居
ない。檻って、審問乗又は小乗と指名されるものは、之を上座部系統に於て求むる外はないことになるっ蓋し.
上座敵は併滅後彿敦なるものを推潜し俸承する責任の地位に在った代々の諸上座の系統に成ったものであつて、
彿教を新興のものとして受取旦且つ受渡すことに努力したから、必然的に、其受取った併敦を整頓し解繹し組
織することになつたのである。之に封していへぼ、大衆部は白由進歩的に彿敦を活用して、教育と蟄展とに努力
し、必ずしも論蔵製作には向はなかったと見える。勿論両系統は相互に影響し合うて居るから、思想上では、時
には劃然直別の立てられないこともあるが、然し大鰐の傾向上此の如き観察が容れられ得るであらう。
進むで上座部系統を観るに、論戒の最もよく俸はって居るのは説一切有部で、朗鮎では他の何れの部波も之に
比肩し得るものはない。茸際としては、詮一切有部に於て諭戒製作が最も盛であつて、他の部派では、かほどに
は努力せられなかったのであらうが、然し、現今までも俸はって居る射で、此部のみが完備した論蔵む有すとい
へるのである。故に、此難から見ても、詮一切有部が客間乗又は小乗と指名されるものであるといへよう。之を
茸際に徹するに、印度にあつても、小乗其もの又は小乗の代表者と見られるのは詮﹁切有部であ少、支部並びに
日本としても亦此部を以て小乗其も阻又は其代表者となして居るので参る。印度としては、大乗傲教取起る時、
封者として考へるものは、冷蔵の最もよく整うた説一切有部を奉げて、其能迷の情を却け所迷の教を容れること
に放らざるを得なかったが、 此風潮が後世まで塘緯した為に、詠一切有部が小康其もの又は其代表者上して奉げ
㌧ト ′ rノ ∴y
ら卸て居るのである。然し、 詮﹁切有部の内に於ては、長い時代の問に、、種々なる欒蓮を経て、亀に略飯食給tの
l掛蕎敦の棄戌的意義 三
・・ \ト

.㍍へ∴り∴
.︼ \
J・ \


J−
・. \ タ 糟′
1 ▼
ナ1
\ .へ8ど
ぎ∴・∴い二∴㌧ ▼.∴、も.

小乗併敦の箕践的意義 四
如き俸説上必ずしも偉溌誅に忠資でないとせられるものまでが遣られ、而も聴明論と
徒に研究講述せられるに至った。之に封して、支部に於ては、元来が印度彿教の移植
を異にL、本土に於ける蟄達の順序のままに俸はることがなく、叉詮一切有部以外の部のものも俸はったから、
古く屁曇宗と解せられたものは、詮−切有部の正系としての迦演禰羅系統よりも、むしろ異系とでも稀すべき健
駄羅系統のものが主で、それに他部のものの加はつたものであつて、この尾登宗小乗
った。然るに後に倶舎論が俸竺て、倶舎筈稀せられて、盛に研究せられるに至ると菟
て倶舎宗小乗となる理である。而も其問に、最初は相雷の期間大衆論と看傲されて居
遂に又小森とせられ荒ら、小乗としては有を説く倶含筈穴冨説く成軍示とを指すことにな?莞我国として
は、昏等宗は全く俸はることがなく、そして奈良朝時代に既に倶舎蒜漁相宗の寓宗、
るの地位を占むとせられたから、爾来猶立の宗派として立つことなく唯草間的に考究
も三論宗は後竺宗としても勢力を失うて殆ど消失するに至ったが為に、成軍示も亦其
も全く研究せられることもない状態となつ寛之に反しで、法相宗倶舎ボの教義は草間
悌教を学ぶ入門として、蒼悌敦表孟解する基礎として、各宗の聾者によつて力が注が
畢として流行し、其故に、悌歌登着たる為には、性相畢の蒜に通暁せすぼ、英資格な
った。経って、小乗としては倶舎論が其代表者である如くに看傲されるのである?茸際の例から見ても、例へぼ
天台宗の戒通別図の四教に於て、三蔵教は古くは層票を指したに相違ないが、後には
て居る経である。故に支部に於ても、また我困に於ても、慣例上、小乗彿教は倶舎論の説を以て代表せしめて居
る、のである。セイロンなどの悌教は明治時代以後ならばともかくとして、明治時代以前には全く問題の申に入ら
ない。

倶舎諭はいふまでもなく、世親の著述である。世親は健駄羅系統の詮﹂初有部で出家し、後産部をも畢び、よ
ヵて有部の詮に封して取捨む懐ふに至ったが、俸詮にょれぼ詐って迦演摘確固に入って大蛇婆沙論を聴き、四年
にして之に通じ、数々経部の詮にょつて有部の詮む難じた。然し、悟入の息骨によつて、故郷健駄羅に辟わ、蘭
亀 釆毎日婆沙諭の要領を講じ、二月講じ詰ると其要鮎を一項に纏め、かくして六百頒を待、之を迦演滴羅に造った
之を見た其地の詮一切有部の人々は吾宗がかくて蟄揚せられるとなして喜び迎へた、にも拘らず、悟入は之を然
らすとなして、世親自身の繹を請はしめ、其八千頭の長行繹を待て之を見れぼ、悟入のいふ如く、有部の偏執む
覚破して法の正理を顧揚するにあつたことが明かになつたといふ。果して世親が迦演禰羅困に潜入したかどうか
確茸でなく、叉一日の講空頒になしたといふのむ専賓竺致しないこと、倶舎給の額を見れぼ判るし、繹を見
て初めて偏執の覚被せられて居るのが判ったといふのも其ままには信ぜられない如くである。恐らく世親は健駄
羅に在って有部軽部の詮に通達し、自ら待たる所を頒と繹とに菅はしたものであらう。固より有部の俸流説を其
優に述べたものでなくして、批評的の眼で論述したのであるから、Lたとひ文面上に明瞭には褒庶取捨が現はれて
居なくとも、古来、理長璽示によつて正法む顧揚する主旨であるといはれる如く、決して盲従的ではなかったの
小乗係数の賓腐的意義
.︼▼
ー ヽ
\、−

′ 、・■
ヽ 1
小乗係数の賛成的意義 六
である。理の長するを宗と焉すといふのは、現今の語でいへぼ、批評的態度で論述したといふことであつて、有
部の俸統語でも、之を脛部の詮と比して、姪部の詮に理の長する研があらぼ、之を用ひたとせられるのである。
然らば、倶舎翰研究の努むべき所は、著者世親の眞の趣意がどこにあるかの射でなけれぼならない理であるァ世
親は既に有部の俸統語む其まま恩賞に論述する意囲でなかったのであり、それが為に衆賢の偵合名静、即ち恨正
理論の製作を喚起した程であるから、倶合論を以て有部の詮を知る焉の論となすのは、これ全く著者世親の趣意
に副はないことであるといはねぼならぬ。蓋し、倶合論と倶舎電論との閲係の事茸の如きは、古来殆ど全く例の
無いことであるから、倶舎論の製作が有部に封し、少なくとも迦藩摘羅系統の有部に勤して、如何に大なる衝動
を輿へたかを推測するを得るであらうし、それだけ叉偵舎論の内容又は論述の精神が薪新なものであることを示
して居る。この倶舎給が眞終にょりて諾出せられてから約千四百年、玄共にょつて俸課せられてから約千三百年、
其聞此諭の研究は和漢に於て頗る盛大であつて、我国の近世に於ては、唯識論と相山出びて、俄教一般を知る要門
とせられ、彿教研究の放くべからざる階梯として所謂唯識三年、偵舎八年の謹まで生するに至った程に、よく研
究議連せられたものであるが、然し、茸際としては、此論にょつて所謂小乗悌数なるものの一醸む知るといふの
が童であつて、倶舎論の其趣意を穿笠し、以て世親の意固した論理的成果む結茸せしめることに封しては、殆ど
無関心であるといへよう。従って、世親の理長為宗を徹底せしむれぼ、五億七十五法の中、果して幾何を茸有と
見突か、幾何を慣立となしたか、進むで其結果にょつて、有部の教理が如何なる新組織を得るかの鮎が全く眠か
にせられて居ないのは、誠に遺憾の至りである。或はいはむ、此の如くすれば、所謂有部又は小乗係数の漁胡乱
敵が全部破壊せられ終古から、此の如きは、紘相上許されないと。然し理長鳥宗愈決して俸流説を其まま維持
るを以て満足して居るものでないから、そこには新しいものが現出せねばならないものである。倶合論に通じ
而も此新しいものに腰到しないならぼ、それは果して倶舎給を研究し、それに通じたといはれ得るであらうか
どうか。
然し、倶舎諭に於ける破顔は、文面上では、直に判明する如くには、明言せられて居らぬ。僅に俸詮すらぺ
ど望昆よつて、世親が英語に封する不信を表はす程度であるとせられて居る。これが、恐らく、従来倶舎論の
精神を蟄挿せずに、倶舎諭にょつて、小乗悌教の詮一般を知ることにせられた所以であらう。従って、これに
満を抱きつつも、今も亦倶合論の論述する所を取って、有部の教理の一舞、従って小乗彿教の教理の大襟を知
得るものとなし、之にょつて小乗彿数の茸践的意義を考察することにしょう。

近世の徳門普寂が成唯識給略疏懸渾に於て、意思基公が小乗を歴斥し、時には外道と同除となし、甚しきせ
は小乗を以て耶執とまで解したことを嘆き、続いて
定日、瞥開法敦考是我彿世尊、癖二間浄重障衆望令レ入二彿琴最妙第一之方便也。此不三止繹迦女彿而作二
彗三世十方諸併、亦皆以二此泣叫救二扮難染衆生ペ是革レ凡成レ聖之初甘露也。畳可レ嫌二斥之義。.
というて居るが、之にょれぼ、閣浮提、即ち此地球上、の重障の人類は小乗彿教の所被の機であつて、小乗彿
を解し小乗沸教を行ふに堪へるだけの素質のものに過ぎないから、大泉高遠の敢む潜行するを得ないとせられ
小乗徳政の箕康的意義
m.
ノがも ′ノ、 ﹂ .J▲
・・ 、∴・嘉1 . J\㌧ 一
小乗沸教の箕顔的意義 八
のである。閥浮提の人々が凡て重障の衆生であるとすれぼ、何人も大乗彿教を理解し茸

β
せあるが、之に反して重障の衆生は単に一部分のものに過ぎぬとすれぼ、其他は大乗相
然七宗教的の謙畏心あ張㌫人々は自らを重障の衆生と考へるから、かかる人々は小乗彿
力するであらう。此働からいへぼ、小乗悌教も決して排持すべきものではないであらう
る教育詮であつて、而も被教育者の素質に應じて種々なる階段的の教相を分つから、上
する教のみあらぼ、初級教育の教は無くとも可なりとはいへない。又上級教育の教から
は不完全でもあり不徹底的でもあるが、然し、初級教育に相應する人芸らいへぼ、決し
底的でもなく、而も通常な穀果を収め得るものである。古来小乗彿教を奉じたものは甚
例を取れぼ、求郵政摩︵三六七−四三この如きは二男を讃したというて居るし、其他初男二男等を待なくとも
大なる徳化を布いた人々も少くない。小乗係数の如き頗頸な畢詮を有するものが永く存
賓修者穂他者の賓である。然るに、此の如き賓修者徳化者を見出すのは、支部でいふ艮
舎誓いはれる倶合論に関しては、右往今釆、畢解者はあつても、賓修者として聞えて居
る。倶舎論は最初から畢解の論として扱はれ、殆ど全く茸修の論と豊られて居票つ充と
らう。然し今は倶舎論によつて茸践的に見るとき、賓際としてどうなるかを考へて見よ
倶舎論は九品=手金で、第完品二巻は諸法の饉を、第二根品五巷は諸法の用を明し、これにて総じて有漏無
漏を明し、第三世間品五巻は有漏の果を、第四薬品六巻は有漏の因を、・第五随眠品三
賢書m四番は無漏の果を、第七智品二奄は無漏の因を第八定晶二奄は無漏の繚を明し、以上で別して有漏無漏を
明すとせられるが、更にこれ等凡ては諸法の事を明すもので、第九破我品一巻が無我の理を明すのと相侠って
一部の内容をなすとせられて居る。聾者は之を簡単にして、界根二品は諸法の饉用を、世間、業、随眠三晶は
の因果、即ち流樽相韓を、賢聖、智、定三晶は悟の因果即ち断惑謹理を、破我品は無我の道理を明すとなして
る。之によつて兜づ在日すべきは、最初に諸法の慣用を詳説して居ることである。一般に、彿教の凡ては断惑
理を目的となすのであるが、通常は、かかる賓践門に入らしむる為に、先づ吾々の流捧相績の硯賓を知らしめ
其厭はしきことむ痛切に感ぜしめて、修行を確茸ならしめる。然し其流韓相輯を明知せしめる・には、吾々並
世界を構成する要素的の諸法の如何なるものなるかを解繹する必要が存する。此故に、諸法の嘘用む明すを以
最初となしたのであかと説明せられて居る。然し、最初から茸餞修行を説くことむ主となすならば、決してか
る迂遽な順序を以て論述することはないであらう。賓践的の要求が切茸でないから、此の如きことになるので


って、倶合論が畢解抄論に過ぎな小ことは此鮎にも硯はれて居ると息はれるが、然し、此中の断惑詮理の中心
見れぼ、J修行の道程としては、身心遠離、菩足少欲、任四里程、︵以上身器清浄︶、五停心、別相念任、親相念任、
︵以上三撃、侠、頂、忍、世第一洪、︵以上四書撮、三賞と合せて七方便︶、.預流向、︵これ見遣︶、預流果、﹁釆
向、﹂兼用、不還向、不選果、阿羅漢向、︵以上修造、見遣と合せて有草道︶、阿羅漢果、︵これ無草道︶であつ七、
五/停心観から世魔一法までを七賢とし、四向四果を合せて四聖と栴して、之を全過程となして居る。即ち、身器
清浄は一種準備的のものであるから、賓際修行の過程の中には礪立の地位を占めることにはならぬのである。


小乗彿敦の算段的意義




J

小乗沸教の貿蹟的意義 ︼○
して此七単四塑の間に要する期間を見ると、極速のものでも三生、極道のもの埜ハ十劫を要すとせられる。蓋し、甘
五停心、別相念任、紙相念任を順解脱分と名づけ、外凡位となすが、此間礎一生、また煉痛忍也第一汲む鹿決樺
分と稀し内凡位となすが、此間が一生、進むで第三生に曳に入って乃至解脱すとせられるのであるが、同時に、
第一一生に於て聴解脱分左生じ、第二生に於て成就し、第三生に於て順決按分を起し、即ち塑造に入ると解絆する
異説もある。之に封して、枝道のもの竺ハ十劫といふのは、慣解脱分に二十劫、順決韓分に二十劫、其以後に二
十劫を配嘗する説である。然らば、一生とは何年の間をいひ、一劫とは幾何を指すかを規定しなけれぼ、意味が
明確にならないが、細かにいへぼ、此地球上、即ち閣浮提では時期によつて一定して居布い。欲界包界無色暴か
ら成る此世界は成佳境茎の四劫に各々二十劫を要すとせられ、各劫の始と経とでは人寿の長さを畢にするからで
あるが、然し、一般的にいへば、人生は五十年となすのが一種梗準的なるが如くである。胎外五位を分つ時に、
出生より六歳頃までを嬰該、七歳より十五歳頃までを童子、十六歳よ旦二十歳頃までを少年、三十一哉より四十
歳頃までを盛年、四十一歳以後を老年となすのが注繹者などの誼で、大鰐五十歳を一生と考へて居ると居はれる
が、これは恐らく諸天の毒量を算出するに人間の五十歳を棟準となす詮などに基いて居るのであらう。また劫の
長さは、一寵にょれぼ、一千五百九十九寓八千年程で、之を二十劫とすれぜ、三億一千九百九十六高年となると
いふから、六十劫は六億五千九百八十八高年となる理である。勿論異説も存するが、これ等は事賓上では茸数む
必要となすのではなくして、畢に梅長期といふ程の意味に過ぎない。劫といふ軍使が既に数ふることの出衆ない
長時を指すのであるが、倶舎論は、任劫の初めは人の薄命は無量歳で、それが百年毎に一読を減じて遂に薄命十
、ヽ


_
歳となる聞を第一の任の中劫とし、そして千歳から又百年毎に一歳を増して遂に寿命八萬歳となり再び八蔦歳か
ら有年毎竺歳を減じて十歳の藩となる嗜と減とが第二の申劫で、この中劫が第三国より第十九固まで十七回繰
†いト
返され、最後に寿命十歳から叉百年に一読を増して八寓歳の藩命となる第二十の中劫といはれる此二十中劫の間
が任劫でぁって、滅劫と壊劫と基劫とにも各々かく二十中劫があるとせられるから、極遅のものの六十劫といふ
のは、此中の基劫の二十中劫を隙いた間を摘すこと尼なるのであらう。任劫の初めの寿命が無量歳といふから、 /
’r・・■
㌢ヽ
■・

従って劫の長さも正確には算せられないことになるが、第一申劫と第二十申劫とは何れも中間の十八中劫と共時
量が等しいといはれる黙に基いて算出し得るのである。然し、茸際として果して六十劫の間を緯いて修行に努力
し得るかどうか
時に叉三生を要すといふのも、一生の少なくとも五分の一文些一は修行に入り得る年齢でないから、事賓上濫て
は可能でなく、従ってこれも概念的に考へて定めたものに過ぎないことは言ふまでもないであちう。然らば、こ
の修行の期間の問題も、他の意味があると考へなければ、到底此ままに認めてよいものではなからう。之むしも
此ままに承け七、此ままに説いて居るから、修行などは吾々の茸際生活とは全く無関係なものとなつて凍るので
あるし、無閲係である為に全く不要成せられるにも至るのである。
進むで七賢四聖の聞に於て断惑すといふのは如何なる煩悩を断癒るのであるかを見よう。一般に煩悩としては
貪、暖、痍、慢、疑、、悪鬼の六根本煩悩、又は悪鬼を身見
邪、見適
、温見、
取見、戎禁取見の五種に開き、之を
前の五種上倉せた十根本煩悩と、放逸、僻怠、不信、悼沈、
︵韓之拳
に痍、を加へて大旗惰鞄放め六種︶、無漸、

7J
小乗彿敦の箕腐的意義 −︼
1r
!r

−−−
小乗彿敦の箕塵的意義 三
しlヽ■′
無塊、︵これ大不善地ノ法︶、念、覆、憧、娯、悩、害、恨、詔、註、惰、︵これ小煩悩地洪︶、痙眠、患作、︵これ

不定地法中の二種︶の十九枝末煩悩とが重要成せられるが、これ等を断ずる掛からいへぼ、根本煩悩を断すれぼ
枝末煩悩は必然肘に断ぜられ経るから、枝末煩悩を断ずることはぇ塞かなく上もよい為に、通常、断慈として
は根本燈悩にのみ関係して説いて居る。枝末煩悩む加へたとしても、断すべき煩悩は僅に二十五種又は二十九軽
のみで、根本煩悩のみならば、六種又は十種に過ぎない。然るに此等の煩悩を断ずることは茸際上客易ではない
から、長時を要することになるが、それが為に、叉煩悩について種々なる詮をなして居る。
一般に煩悩は心の汚れであ久本心を煩擾悩乱するものとせられて居るが、元来は心の作用に外ならぬもので
ぁる。既に心の作用とすれぼ、心の作用はこれ等以外にも多数者し、倶舎論としては凡てで四十六種を数へ、そ、
れ等旦ハ種に大蝕する。
大 地 法−−受・想・息・解・欲・烹・念・作意・勝解・三摩地の十種
大書地法−−信・不放逸・軽安・捨・漸・塊・無食・無喋・不害・勤の十種
大不善地法− 無噺・無塊の二種
大旗悩地法−痕・放逸・僻怠・不信・悼沈・掠拳の六種
小旗悩地訟﹂−念﹂覆・怪・嫉・悩・害・恨・詔・誼・惜の十種
不定地法Tl尋.・伺・睡眠・患作・貪・咲・慢・疑の八種
前め根本煩悩と枝末煩悩とを、これ等四十六種に封照すれぼ、分類に於て全く異なるものであることが判る8
根本旗偶の大部分は不定地法とせられるのは、倶舎論の文には不定地法は尋伺睡眠意作のみあるのを、在籍者等
が、等の中に、貧賎慢疑を含むとなすのに基くのである。療は大煩悩地法、そして意見は大地法申の意を慣とな
すものである。烹は法に封して簡接することで、簡揮は分別することに外ならぬから、意見は烹が邪分別に走っ
たものを直別したのである。痍は愚痴で、無明・無智・無頼ともいはれ簡樺む放くものである鮎でいへぼ、全く
梅的のものといふべく、夢見の積極的邪分別なると相表裏する如くである。之に封して枝末頗悩は大不幸地放と
大煩悩地法︵療を除く︶と小煩悩地法と不定地法の二種とであつて、根本枝末爾煩悩にょつて大境不善と煩悩との
凡てが含まれる。故に、六種に大別する如きはこれ全く概念的理論的の見方で一切の心作用を包括せむとする
のであるが、娘本枝末繭煩悩に分つのは賓際的賓践的の見方で煩悩として扱ふものである。心に封Lて作用を考
察することは古くから行はれて居るが、作用を以て心所有法又は略して心所と課して用ふるのは既に作用を一種
茸鰻的に現て居るものであつて、心より礪立に起ることは認めないにしても、心より猫立な喋のものと見て居る
のである。かく茸常的に見ることも小乗論病中の最古の一と考へられる法薙論に心・心新法とか心相應行心不
應行とかを論じて居る夙に現はれて居るし、心所を分類することは界身諭に初めて十大地法・十大煩悩地法・十
小煩悩地法・五煩悩・五見などとして奉げられて居る夙に見える。故に、恐らく小乗冷蔵の最初から心作用に関
する考案が行はれて遂に大地法等の分類をなすに至ったものであらう。従って此満面はこれ賓践修行にょる断惑
とは直接の関係阻ないものである。之に反して煩悩として見る方面は、たとひ根本と枝末との土に分つ如き理静
的な鮮があるにしても、最初から賃銭的に見たものであつて、二に分つすら茸践的の根壌に立って居るものであ

7J
小乗沸教の貴腐的意義 一三
一ト、 さ
1.J∴
,√t

J
ノーざ
♪ 一


小乗係数の箕蹟的意義 一四, ≠
る。かかる煩悩を断ぜむと希ふときは、それが切賓に希はれと、それだけ、煩悩を賓慣的に見ると宣になるもの

74
であらう。此見方を基として、根本煩悩について之を迷理の審と迷事の惑とに分つ如き分類を取る。迷理は四諦
の理に迷ふの意、迷事は宰相に迷ふの謂ひで、前著は分別起即ち経験的に邪師・邪教・邪思惟にょりて起り其性
猛利であるが、許理を勒知して道理が判れぼ頓臥せられるし、後者は倶生起即ち覚菜的に存し、其性遅鈍である
から数々道を修して漸次に断ずるを得るものである。諦理を観知するのは四諦の理を見ることを指すから、之む
見遣といひ、その煩悩は見遣に於て断ぜられるから見遣所断・の惑で、略して見惑と呼び、数々道む修するのは見
遣を繰返すことで、之を修造といひ、之にょつて断ぜられる煩悩は修道所断の惑、即ち修惑である。根本煩悩文
は本態を見惑修惑に配督すると、十種凡ては見惑、貪隕疾慢は修惑である。故に疑と五意見とは見慾たるのみで、
其他の四種は見惑でもあり修惑でもあるとせられるのである。疑は四諸因果の理を疑ふことであるかち、四諦の
理が判れぼ頓に断ぜられる七、五意見は耶分別であるから正しき理を見れぼ頓断せられる。其他は見遣にょつて
一應断ぜられても、修造によつて数々断ぜねぼならぬ性質のものである。これ等の軒は吾々の日常心に訴へて反
省して見ても、直に理解せられ得るであらう。貪欲・隕意・愚痍の如きは自制心ある人ほ一應は之を制し得るで
あらうが、全く制御し毒すことは蓋し.容易でなく、慢は慢と過慢と慢過慢と我慢と増上慢と卑慢と邪慢との七種
に分たれて居る程に放強きものであるから、何等慢心を起ざざるに至るには非常なる寛己心を要する。殊に小乗
彿教で偲、
には死に保つ外はないことにもならうが、ともかく人類としては容易ならざることである。従って叉自制心克己
心にょつて多少にてもこれ等々制御し得れぼ、それだけ人格修葦を遂げたことになるので透る。
見修一惑は之を.四締三界に配常して、見慾八十八使J修怒八十二品となすが、四諦は欲界の四諦と色界無色界、
即ち上二界、の四締とな旦欲界四締の音締め下には十惑全部、集諦には有身見・透見・戎禁取見の三を除いた
七撃滅紆にも之と同数があ旦造諦には有身見・達見の二を除いた八惑があゎ、上二界各の四諦の苦諦の下に
は膜を除いた九惑、集蹄には瞑・有身見・達見・戎禁取見の四を除小空ハ惑、滅諦にも之と同数があり、遁辞
は咲・有身見・達見む除いた七惑があるから、合せて几十八使となる。叉修惑は貪・暖・疲・慢の四種のみで
るが、上二界には凡て咲はないから、欲界の此四惑と上二界各の三惑とであつで合せて十慈となる。然しこれ
等の惑の起る強弱によつて上上と上申と上下と、中上と中中と中下と、下上と下申と下下との九晶とせられ、
欲界と上二界とは欲界と色界四繹天と無色界四虚七の九地と忽して、九地に九晶があるから八十言卯となる。
ぎり欲界には九品の食暖疾慢があ聖上二界八地には各九品の貪療慢があるのである。然し見惑修惑と呼ぶ以上
は、少なくとも見遣に入って、初めて根本煩悩を断ずるに至るのであつて、それ以前には之を断ずるを得ない
従って七単四聖の中の七賢は見遣以前であるから、これ全く準備的階段に過ぎないものである。.この準備に順解
\ 脱分の一生と順拠韓分の一生と合せて二生を費し、或は第三生にも及ぶのであるし、然らざれぼ四十劫を費さね
ぼならぬので▼ある。
七賢の最初の五倍心で、五停心は不浄親と慈悲観と縁起観と界分別親と数息観を指しノ之にょって順次に食費
心と随意と慢疲と我見と散乱心とを治するのであ夢、次の別柏倉任は身・受・心・法む順次に不浄・苦・無常
小乗悌敦の貸段的意義
ゝ†
小乗彿教の算段的意義 ﹂六
無我と哉じ、又身受心法の一一に不浄・苦・無常・無我を観じて常・柴・我・浄の四顧倒を封治するを指し、


に練相念任は四法を親じて観じて四顧倒を封治する
初の決は、見通に於て起る無漏智が煩悩を断するを、火が煩悩を焼くに喩へ、其火の起る前相としての暖気の
味で旗といひ、ヱこにては勝れた有漏の四諦観慧の起る場合であるとなす。燥善根は長期に亙る位で、此間に
界の四締十六行相と上二界の四諦十六行相と合せて八諦三十二行相を修する。四諦十六行相は、苦諦の下で一
法に封して非常・苧苧非我を、集諦の下で煩悩に封して甲集・生・緑を、城締切下で淫楽に封して、城・
浄・妙・離を、道諦の下で糞漏塑造に封して道・如・行・出を観ずるから、合せて四諦十六行相とな少、之を
界の四諦と上二界の四諦とに於てなすから、八諦三十二行相となるのである。この親をなすから無漏智に接近
るのであ五∴此快音棍が進みて最極成滅する時、又勝れた善根が生じ、それを頂善根と稀する。この頂善根に
ても亦八諦三十二行相をなすのでありて、煩善根と共に之を動善根と呼び、忍と世第一放とを不動善根と呼ぶ
と寝別する。又、頂善根が進みて最極成就に達すると勝れた善根が生じ、それを忍と稲する。忍善根は下忍と
忍と上忍との三晶に分れ、下忍では八諦三十二行相を修し、中忍では減繚減行をなし、八緒三十二行相をなす
欲界苦諦の四行相から始まつて、上二束苦諦四行相、欲界集諦四行相、上二界集諦四行相、.欲界滅諦四行相、上
二界親許四行相、欲界造締四行相、上二界道諦四行相をなすl第二周に於て、其経りに上二界造締の下の第四行相
たる出行相む減じ去るから之を減行といひ、かくして漸次減行し、第四周には上二界道締を減ずるから減経で

かく減行し職務して行って、革手工周に欲界苦諦の非常行相のみ室一刹那に修するので中忍は満位とな聖上
忍では一利郵の心を以て欲界苦諦を観じて一行相を修するのみで、直に世第一法に進むが、上忍に接いて起る勝
れた善根が世間有漏法の中の最膠であるから世第一法と解するのであつて、この世第一法は一行相一利郵のみで、
直に進むで見遣に入るのである。上忍も世第一法も共に単に一利郵のみであるから、極めて短小の樹間に過ぎな
い。従って中忍以前は長期間に亙る七とが判る。
以上の如き準備を経、世第一法の直後に、これより以前に未だ曾て見たことのない四締を硯執するを見遣と輸
し、ここで無漏智を得ることになる。この見遣に於てまた欲界四諦と上二界四紆と合せて上下八諦を緑ずるが、
これに十六剰郊を要する。無漏智は分って法智と類智との二となすが、法智は法切眞理を澄智する智、類智は法
智に類似する智である。法智によつて欲界四緒の理を観じて、欲界に関する三十二種の見惑を断じ、類智にょつ
て上二界四諦の理を観じて上二界に関する五十六種の見暑を断する。然し法智と類智とには、各前剃郵に法衣と
類忍とがあるが、忍は智に封する漁決力で、まさしく断惑作用を起す無漏心、之を無間道といひ、智は決断のこ
とで、漁決したのを決断するのであるから、まさしく理を讃する心、これを解脱造といふのがある。従って欲界
四締の〓に封して法忍と法智、上二界四諦の二に類忍と類替とが働くことになる。十六剰郵の順序は欲界四
紆の苦諦に封して苦法忍と苦法智とで観じて二剃邪を要し、これにて十種の見惑を断じ、次に上二界苦諸に封し
て苦類忍と苦類智との二心を起して観じ、これにも二利邪を資して九種の見惑を断じ、かくして欲界集諦から上
二界集諦、欲界滅諦から上二界滅諦、更に欲界道諦から上二界造語と進み、上二界道路の道類忍までで十五剰邪
を賛すのであるが、此間が見遣で、第十六剰郵たる上二界道時の道類智を起すのは既に修造に屠する。故に十六−7
小薬彿敦の算段的意義 一七
売声
蔽、

小栗沸教の資腐的意義 一八


心の中、﹂前十五心が見遣で、之を預流向とし、第十六心は修道で、預流果である。この預流果は見惑八十八鹿を 柑
断じたものであるが、然し狼未だ修惑を断じて居ない。即ち迷事の惑としての欲界の貪瞑疾慢、上二界の貪疲慢
た断じて居ないから㌧これ等を断ずる為に、更に完向二乗果・不達向・不達果・阿羅漢向と進ぶ修造を経、
此間に修惑八十一品を断じて、遂に阿羅漢果の無草道に入るのである。八十〓晶は九地九品の惑で、之を断サる
にも欲界から上二界に及び、二品二品に無間道と解脱道とあつて、合せて百六十二心となるが、此中、前の百六
十一心と前の第十六心預流果とが修道で、第百六十二心たる無色界非想非非想虚第九品の解脱造は阿羅漢果であ
る。之にょつて見れぼ、見遣修道無草道は百七十八心となるのであるが、然しこれ等の四向四果は次第詮の場合
であつて、若し之を超越詮の場合でいへぼ、見遣に於て一茶向となるもあるし、・不達向になるものもある。又、
修惑について、欲界の修惑は一品たして二生又は二生を潤するもの、二品又は三晶で一生を潤すものもあカ、更
・に向と果との中に種々なる種類の分れるのもあつて、複雑な説となつて居る。然し今これ等を明詮することむ必
婆と容すのではないから、ここには凡てそれ等を省略する。
−五停心− 不浄戟、慈悲就、線起親、界分別恕、数息戟
−三賢−1外凡− −別相念任− 身、受、心、法Ⅰ不浄、菅、無常、無我﹂常、栄、我、弊
−粗相念任−・ 紙観
七資1 1燥書取1 欲界四諦十六行相、上二界四諦十六行相、合計八諦三十二行相
⊥渦書経丁 同右
同着
−四書根−内凡− 去[叩門
入諦三十二行相之滅縁減行
ルー′
一−上忍−・一行相一刹那
世襲一法1一行相一刹那
前十五心−−−見遣−
去流し[銅〓
第十大心− ー有草道
⊥苧[門 −修道−
四聖−
一向− 官六十一心−
−不 達⊥
−果−
−果 −
第首六十二心

以上簡単に筋道を叙したものについて考へて見る。要領としては根本煩悩を四終に関係せしめ、更に雨着聖二
界に配首して見惑八十八使と修惑八十二品とに分類し、これ等を断する階梯を組織立てて居るのであるが、第一
に三界なるものが如何なる意味を有するか。
三界詮は印度のせ界形態に幽する神話の一に過ぎない。而も如何なる時代にも印度一般に承認せられたことの
ある詮でなく、又沸教の考出した説でもない。印度最古の時代に三界というては居るが、これは天と茎と地とを
三界というたものであつて、決して欲界と色界と無色界とを指したものでない。其後、此世界は水世界に固まれ
其上に順次上層に基世界、乾闊婆世界、太陽世界、月世界、星辰世界、諸紳世界、因陀羅紳世界、生主神世界、
梵天世界が任するとなす詮が出て、これは大鰐正統婆羅門の一般に承認した詮となつたであらうが、然し必ずし 柑
小薬彿敦の箕践的意義 一九.
小乗係数の貸践的意義 二〇.
もー般息想界の認めたものではない。ヂサイナでは世界は地下と地上と紳界とに分れ、地上は閣浮揚と大鯨

20
ぁ旦紳界は地下にバグナグーシン︵bh雪呂邑sin宮殿に任する紳ヱとギアンタラ︵童邑≡軋間の紳ヱ
とのT謹があり、此申或紳は人界にも任し、天上としてはずヨーティシュカ︵jy。t官学光明ある神々︶とブイマ
ーニカ︵邑m劉ni訂動宮に任する紳ヱとがあゎ、このブイマーニカは二群た分たれるが、竺群は十二群に、
第二群望ハ群に小分せられ、第蒜の第五は梵天界と名づけられる。正統婆羅門としては隠天界が鞠去るは首
然で、又最上でなけれぼならぬも町であるが、ヂャイナは之を最上としないのはこれ一般思想界に屠するか
ある。ヂャイナ及び彿教の興起以前に稔伽行が流行し、玲伽行者の問に於て生前漁伽行の進むだ階段に應じ
後それだけの天に生ずることが考へられ、稔伽行としての繹定が大段として四、その四に各小段を有すとせ
これに應じて天界も大別して四、その四に各幾程かの天があり、更に繹定の進むだものを四種囲別し、これ
じて四虞を分つ如き詮が行はれるに至つ驚これ四挿四無色克と色界四繹天四無色界四魔とである。これに欲
が下位として存すとせられるが、欲界は所謂六欲天で、四天王天ふ利天・夜摩天・兜率天・化楽天・龍此自
天である。欲界は散地であるから繹定によつて生ずといふのではないが、色界無色界は定地で、繹定を修し
ので在くぼ、これに生じない。色界は初繹天・第二繹天・第三繹天・第四繹天に分れ、初繹天は梵衆天・梵
・大梵天に、第二繹天は少光天・無量光天・光青天に、第三繹天は少浄天・無量浄天・礪浄天に、第四繹天
果天・無想天・無頗天・無熱天・書見天・善硯天・色究貴天に分れ、無色界は基無達虞・識無遵虞・無所有
非想非非想虞に分れる。然るにこれには種々なる異詮があつて、天の数が一致しない。叉色界全部を
色較天界ともいひ、無色界を無色梵天界ともいひ、或は色界無色界を凡て梵天界とも栴する。蓋し通常の三界詮
では梵天は色界初繹天に任すとせられるのであるが、これは明かに一般思想界の考たるもので、決して正統婆羅
門の考たるものではない。然し異説として、.或は色界全鰐を梵天界となすのも、或はまた無色界をも梵天界とな
し、更に色界無色界をも梵天界となす詮の出で▲たのも、梵天がこれ等を支配すると考へるものであつて、ここに
多少正統婆羅門の考が入って居る。無色界は形もなく叉虞もー足して居ないから、別の存在と見られるものであ
る。倦詮にょれぼ、悌陀が出家後直に訪うたアーラーラ・カーラーマ︵A−腎p内巴p.m£は無所有虎を以て在韓と
し、サッダカ・ラーマブック ︵qdd浄pR劉mぢまt且 は非想非非想虞を以て捏菓となして居たといひ、梯陀時代
の現在捏輿論の五詮の中第二以下は順次に四繹む首てて居たといひ、悌陀は出家以前に初繹の繹定を修したとい
はれる如き、lニ界詮が彿陀以前の詮なるを示す倦詮である。古くは三界詮は必ずしも須禰山詮と結合して居たの
ではないらしいが、結合した詮に於ては須摘山の頂上に仰利天があつて帝繹天の宮殿があり、それ以上の天界は
基による宮殿に諸紳が任して居るといふ。この三界詮の中にはヂャイナの詮と共通する名辞等も見出されるが、
世界形態としては全く別である。故に彿敦ヂャイナの時代には各異なつた詮が行はれて居たのであ謁し、これよ
・一
り以後には又他の異なる改も表はれて居る。三界詮は悌教中にのみ俸はったもので、而も後世彿敦の教理が三界
説に配督して組織せられることになるから、如何にも沸教特有の世界形態詮であカ、途近は悌教が考出した詮な
るかの如ぐ看倣されることになるのであるが、決してさうでない。沸教が考出した艶でなくして、悌教が接解し
た宗教界の中に行はれて居た詮が彿敦中にのみ保存せられたに過ぎない。其常時の宗教の何れも、彿教程に、典 27
小乗俳教の箕顔的意義 ニー
小乗沸教の算段的意義 二二 .
籍を俸へて居らぬから、彿敦のみに保存せられたのであるし、保存したものとしてはヂャイナの如き全く異なる

22
詮をなして居るものもあるのである。然らば、たとひ彿教蟄達の何時頃からか此の如せ三界詮と結合したにしで
も、之を引離して彿教の教理を考察しても、趣意の上では、失はれる所はない理である。
加之、茸践修行として要求する時、少息くとも色界無色界が吾々と何の関係があると考へられ得るか。叉、欲
界と錐直接には人趣を除いた他の六欲天並びに四趣若しくは五趣が如何なる鮎に於て意味があるか。吾々の有す
る係数は人間に封する教であつて、決して色界無色界の諸天文は六欲天、或は四趣五趣などに封する教ではない。
三界詮はもともと印度の一部に行はれた神話に過ぎないもので、資産して居る世界とせられるものではない。現
今の彿敬老と錐何人が之を資産の世界と考へて居らうか。倶舎論の詮を述べる人すら三界を賓在と信ぜず、鵡′く
人は勿論かかる詮を信じないにも掛らす、依然として又平然として説かれて居るのである。三界詮が彿教中に保
存せられて居た一の理由は確に輪麹詮との関係の為であるが、輪廻詮すらが、其説.の性質上、これ宗教的道徳的
の要請信仰に外ならないもので決して事茸安産となす詮ではない。道徳的宗教的の因果律の要求上、来世の生存
山似びに前せの生存もなけれぼならぬといふのであつて、決して来世前世の生存が寄算上衣るといふのではない。
然し、之を単なる要求又は信仰とのみいうたのでは、教を説くとしては、力がないが為に、寄算となすに至るの
であるし、而も四趣五趣の中畜生趣即ち動物の如きは資見するものであるから、茸例たり得る鮎で、事茸となす
に便であることに助けられるのである。をして現世に於ける菓即ち行為と飴力、は極めて優雅であゎ、又各人各
磯に複灘であるから、凍世前世も畢瀧では不足である為に、必然的に複雑多様に考へねぼならぬ所に、従来の三
暴説む見れぼ、それに結付いて来るのは極めて自然の経過である。而も三界詮は常時尊貴の世界と考へられて桓
たから、此射で叉来世前世も安産とせられるに至るのである。かくして沸教教理が三界詮と結合して組織せら弟


るのであるが、三界詮が事茸を硯はさす叉到底眞として信ぜられないとすれぼ、これは唯修行の困難で長期に亙
るべきものであること、又煩悩を断ずるは容易でなく発生かの努九をも要する経であること、等の意味を其趣意
となすと解して設けぼよいことにならう。何れの鮎からいうても、三界詮などを如何にも重大な、決して省くを
得ざる詮なるかの如くに保存して置く要は認められない。之を省いて考へる時は、詮金環は簡単に而も適切なも
のになるであらう。勿論今ここに改革を企でむとするのではないが、試みに一例として拳げ′て見よう。
四紆は彿教教理の根本的の綱格をなすもので、重要なものであるし、文通切な詮である。小乗彿教の如くに解
するのは必ずしも原意のままではないが、然しかく説くのも力ある詮方となるから、決して冷つべきもので牒な
い。叉板木煩悩も適切恵ものであつて﹂吾々の反省上、決して迂遠とは考へられないし、ヂャイナも心の汚濁と
して怒と慢と詐と貪とを奉げ、これ煩悩と同じであるから、根本煩悩と共通するもの多く、印度としてはかかる.
煩悩を重大視したことむ示して居る。然し、四紆と根本煩悩とを給付けることは、四諦の智によつて煩悩を断サ
ることを考へて居るが薦であるが、之を結合して考へても、三界詮と引離していへぼ、見惑は欲界のみに限る射
で、単にlニ十二使とな少、修惑は四煩悩が欲界のみに於て九晶あるに過ぎ放いこ上になる。叉、七貿四聖につい
て見ても、三貴は其ままとなすも、燥頂に於て単に四諦を観じ十六行相を修するのみで、上下八肺患槻サること
なく、忍に於て、下忍もそれと同じく、中忍の滅練成行は第十五周までであ斗上忍と世第−放と練共生塗や準ガ
小乗彿敦の貴腐的意義 二三
か/

小乗沸教の算段的意義 二四
るし、四聖の中、預流向の見遣は欲界四諦の八心のみになり、上二界道諦の遣類智たる第十六心は省かれるから、

24
預流果の配首も異な旦叉一系向果、不達向果、阿羅漢向果も、修惑九品なる為に、塗く異なつて配首せられね
ぼならなくなる。これ等は聾者の考究すべきことであるが、元衆預流・一衆・本道・阿羅漢は、阿含経に於ては、

五下分結の初三結、即ち有身見・疑・戎禁取見を断じたのが預流、他の貪・隕・疾︵疾は五下分結の一ではない︶
Q薄ちいだのが一爽、貪・院・療を断蓋したのが不還、更に五上分結を断じたのが阿羅漢とせられて居るのが二
般的で、法経論に於ても亦全く此の如くであるのが、蟄智論以凍前述した如くになるに至ったのであるから、明
かに欒蓮を経た詮であつて、決して古くからの詮其ままではなく、従って改革の容れられ待ないものとはいへな
いであらう。加之、欲界というても、茸際としては人間界に限るべきで、吾々は人間界以外の者に封する教を考
へた所で、何等の役にも立たないし、之を他界に施しやうがなく、叉吾々の釆世生存に必要なと看倣したにして
も、これも全く不要なものである。来世生存が専茸上あるとしても、吾々は何れの趣又は天に生れるかは到底知
られ得ることでなく知られ待たにしても、
支ないでないか。何ぞ今生に於て衆生の準備として知って置く必要があらうか。今生ですら、教の如くに茸践す
ることが出非難いから、むしろ今生の努力に〓暦の精進をなす方が有意味である。
然し吾々はかかる言を以て道徳的因果律を無税せむとするのではない。道徳的因果律を信じ、之に薄ふでなく
ば、彿教は成立しない。香、吾々の日常生活が眞茸には成立たない。悌数はこの日常生活をより善くする焉のも
のであつて、其外には何等の目的もなく、叉日常生活だに完全眞賓な域に達すれぼ、沸教はもはや必要なきもの

である。此斯からいへぼ、彿教は必ずしも目的たるものではなくして、却って目的を示す手段たるものたる性質
のものであるといへるが、然し、人生は絶封完全な域に達する性質のものでなくして、絶封完全態といふ理想を
追うて無限の努力を登り痍に璧息義を有するものであるから、沸教も亦その絶封完全態を明示して、ケしてそれ

に封するこの無限の努力精進を起さしめ緯かしめ、促進せしめる役目を漬するものである。其為には党づ第一に↓
人をして、この日常生活の現賓態が決して之に満足するに足らぬものであることを痛切に感ぜしむるヱとを必要
とする。それを痛感せしめるのが即ち根本煩悩を挙げて居る鮎である。根本煩悩としての貪暖痍は貪欲・随意・
愚癖であるから、特別の鎗明を要しない程曙普通知られて居るもの、慢は前述した如く七種にも置別せられるが、
通常の高慢心に外ならぬもの、疑は四諸因果の理を疑ふものといはれるが、人生龍封する懐疑であるし、意見に
っいては多少の説明を要す渇。有身見は身見で、自己の身心に賓慣我があると固執する、我見、我所見、達見は
達執見ともいひ、.我見む持して而も我が今生のみで断滅すると考へる断見と、来生までも常任不欒此であるとな
す常見とを指し、何れも中正の理に背くから遽執見、邪見は特に道徳的因果律を認めない見解、見取見は前三見
む固執して動かない見解並びに劣ったものを勝れて居るとなす見解、戎禁取見は生天の因に非ざる特別の苦行な
どむ眞の因となす如き見解︵即ち非因計因︶とJ解脱の道に非ざる五戒十善を眞の道となす如き見解︵砂ち非道
計道︶とである。此中、戎禁取見は印度に於て、悌教以外の外拳の取つた誤った戒律誓行を指すものであるから、
現今としては適切なものでなく、従って省いても差支ないであらうし、見取見も特別なものとして猫立成する要
もなく、凍る所、身見と達見と邪見との三が重要成せらるべきであらう。この三見は結局我見に固着すといへる

2g
小薬沸教の貴腐的意義 二五
† ■
†・て†I ′一− ユ 1l 盲1 ㌔

l
璃=
l
小薬沸教の箕践的意義 二大
し、叉我見を根本として起るものに過ぎないといへるであらう。我見があるから、断見も常見も成立す渇を得

26
のであるし、この二の達見が道徳的因果律を撥無することになるに外ならぬのである。故に五種の頚見は我見
一に辟着せしめ得る。然るに、更に大乗唯識語の説く所を参照すると、我見と我疾と我慢と我愛との四焼隠が
汚意と相應するもので、四煩悩の中では我疾が根本で、これにょつて他の三煩悩があるとせられるが、我痍は
明で、前の痍又は愚痴に外ならぬから、従つて、五種の意見は貪暖疾の療にょつて起るものであるといへるし
慢も我慢と同じであるから、痍に基くと考へられ得るであらうし、疑も道琴に明かでないものたる鮎では疾の
に入れられ得る呼あらう。此の如く見れぼ、貪隕痍が中心板紙をなすものであるといへよう。然し又或難から
へぼ、貪幌痍も我見に基くどもいへるもので、我を固執することを激怒せすしては、貪隕の如きは起り得ない
我見があるのが疾たる所以であるといへよう。・然らば又、疾が根本で、貪渡は之にょつて起るともいへる理
る。喜々の生存がかかる我見貪院に悩まされ、かかる我見貪陽に引づられての他律的の生活であることは、多
の自省をなせぼ何人にも否定せられないことで、自明であるし、これ専が発天的のものであることも判るであ
う。この他禅的生存を苦と辞するのであつて、これ四紆の申の苦諦の明かにするものである。傲に苦諦を説く
は、決して厭世観たるを硯はすのではなくして、むしろ日常生活の硯賛態に満足せずして向上心を起さしむる
趣意とするものである。然らばこれ程日常生活に適切なものは舞いといふべきで、これが眞に人生を意味付け
▲▼
ものであることは何人にも異論なからう。而もかかる我見食院を制御するのは、偶数一般としていへば、これ基 \
敬に徹する道程たるに外ならぬ。即ち小乗彿敦と経基観に基かしむることにょって展の小乗彿教たり得るので
ト ヽ− 、I 幣イ∴
、▼
る。
他律的生活の因つて起る所を明かにするのが集諦の趣意であつて、今いふ研から見れぼ、集諦は我見貪院を指
すに外なちない。小乗彿教は此集紆を断絶せしめることを教へるのであるが、我見倉掛が倶生起であ牒先天的に
固有であちとすれぼ、断絶は結局死に於て初めて可能となるから、死が究極になるで・あらう。然し、断絶といふ
のは茸際は特に語に重きを琴いていうて居ることであつて、制御といふ意味に外ならないことである。生存中に
は、倶生起のものを断挺することは事茸上不可能であるから、死をいはぎるを待なぃことになるのであるが、然
し完全に制御するを得れぼ、集紆の有無は問題とはならぬであらうし、むしろ有るのを制御する所に、眞の制御
の意味が認められる。完全に制御し得れぼ、他律的生活は全く自律的生活となるのであつて、それが滅諦捏盤で
ある。滅諦は人生の範封完全態であるから、事茸上では、到底茸現するを待ないものである。然し茸現し得ない
からというて、之を放棄すべきではない。苦諸に於て向上心を起したのは、この絶封完全態に封して、之を茸現
せしめる努力精進を為す決心をなしたことであるから、放棄はこれと矛盾する。たとひ完全には賽現するを待な
いにしても、絶封完全態に封して無限の努力をなすのが人生の意義であつて、努力する所に一歩一歩茸現せられ
つつあるのである。吾長の日常生活が箕際上此の如くで雪て、吾蒜意識する卜しないとに拘らず理想の茸現
に努力しっつあるのであつて、而も何人も満足な状態に達せずに努力しっつある。主の無限の努力むなす研が即
ち這許で、従って造簡は我見貪院の制御の過程である。故に人生の行路は凡て道諦に外ならぬといふべきで、こ
こに七贅四聖が直別せられると見るべきである。七賢四豊は元来古くから、詮かれて居た種々なる説む系統的に

27
小乗彿敦の賃践的意義 こ七

\、



・.へヽ. .1、
欝守豆㌢、∵∴㌣J−㌧
そ ′
軒∴、⋮
小乗沸教の賛蹟的意義 二八
整理して組織したものであるから、凡てが必ず此順序を経ねぼならぬといふべきものでなく、殊に快頂忍世第一
法の如きは必ずしも古くからの鎗でなく、蟄智論以来組織せられたものに過ぎぬ。かかる階段を立てるのは要す
るに煩悩断表の容易ならざることを考へて居るが禿であつて、其趣意にょつて、又三生又は六十劫の期間を言ふ
に至ったに相違ない。故に無限の努力を韓けねぼならぬ鮎で、七賢四聖などの階段が立てられることになるので
あつて、必ず之に依って進まねぼならぬといふものではない。凡ては概念上考へた詮であつて、決して賓謹的に
成立したものでないから、到底茸際上の力は認められぬ。加之、絶封完全態への無限の努力をなす誠意からいへ
ば、階段組織の如きは顧みる要のないものである。従って七貿四聖を以て破るべからぎるものなるかの如く看倣
すのは迂遠に障った考に過ぎないものである。舎利弗は馬膠から抜身舎利偽を聞いたのみで直に預流果を待たと
いはれ、須故陀は悌陀の最後の説法を聞いたのみで阿羅漢果を得たといはれるから、たとひこれ等は小乗悌教の
組織以前であるにしても、古来凡てのものが階段を経たとはいはれない。

以上の如く考へるならば、小乗彿教の賓践的意義は、前述の意味での、我見貧賎を制御することを説く鮎にあ
ると見るべ′く、又それは日常生活上適切なる指導となるものであつて、決して迂遠の詮としてのみ却くべきもの
でない所にあるといはねぼならぬ。ただ小乗悌教の詮く所は、其根本に
態度を取るが為に、凡てが固定的の型にはめられて、組織は整うても、生々した漕力を失うて居るのである。倶
舎論も亦全く型を整へたもので、倶舎論の詮く所を以て小乗彿教であると見れぼ、殆ど竜も生彩のない型のみの
もの上なつて居る。之を叉型の如く知ったとしても、果してどれだけ得る研があるか、疑なきを得ない。而も、
倶舎論の眞意は従爽明かにせられて了つて居るとはいへないであらうし、倶舎論の表はす詮の賓践的意義も、倶
合冷製作の常時に於ても、果して幾何明確に考へられて居たか、疑なきを待ない。然し、この一小論文は決して
倶舎論の眞趣意壱考案し、又はそれによつて小乗係数の誼を新に組織せむとするが如き意固を以て書かれたもの
でなて、叉供合論の詮其ものの賓践的意義を研究せむとするものでもなべ、唯倶舎論の詮を通じて見た小乗彿教
の賓践的意義を考へて見むとしたのみのものであつて、其鮎を以上述べた如くに見て行かむとするのである。
然し、以上の如きことをいへぼ、全く倶舎諭の法相を破壊するものであつて、小泉彿教の教理組織も支離滅裂
になるものであらうが、小乗悌教又は倶舎論の教理組織庭俸統のままに維持する所に、果して何の意味があるか
をも反省する要があるであらう。倶舎論の眞趣意に従へば、俸溌詮を其まま奉じて居ることは出凍ない理である。
加之、倶舎諭の詮に通するでなくぼ、到底理解することの田来ない如き彿教教理又は宗乗が、印度支部日本に於
て、果してどこに存するであらうか。沸教教理一般から大観するときは、倶舎諭の法相を乱した所で、失ふ研が
どれだけあるかを考へて見るに、恐らく大なる損失もなきが如くに息はれる。然らば、凡てを世親の望息を徹底
せしめて新組織を明かにするのは理論的要求に副ふものとして歓迎せらるべきであ聖文法相の関係の内面に入
って茸践的意義を考察することも茸際的要求に應ずるものとして持つべきことではないであらう。かかる方面か
ら見れぼ、小乗係数の賽践的意義を論ずるのも、これ等に進む第一歩として多少の意味あることではなからうか。
︵十四・三・二十︶

29
小乗係数の箕踵的意義 二九
豊玉姫静話の一考察 三〇

β¢
豊玉姫神話の・一考察
松 村 武 雄

記紀・の語るところにょると、蓼火火出見尊の配で海神の女なる豊玉姫が、産期の近づいた時、失神に封して﹃す
カレ、 べてあだし圃の人は、子産む折になれば、本つ岡の形になカてなも産むなる。故あれも今本の身になりて産
丁 むとす。妾をな見給ひそ﹄と戒め、産屋に龍られたが、辛がその言を怪しんで掻かに産屋を窺ふと、姫は八尋鰐
になつてゐた。姫は夫が禁戎を犯したことを知久﹃海阪五塞きて﹄故国に腐り去ったとある。
この神話には、吾人を困惑させる難が少くとも三つ含まれてゐる。
︵l︶ 何故咤女人は出産に際して故国の者の形態をとらねぼならぬか。
︵2︶ 故国の者の形態は何故に動物でなくてはならなかったか。
\\
︵$︶ 産室を覗かれることが何故に夫婦永別の因とならねばならなかったか。
がこれである。

_
、 7ヰ ■ 1■ −
これ等の疑問を解くためには、先づ神話畢上で﹃浴身森組禁忌型﹄とでも呼び得る詮語群に日をつくべきだと
息ふ。賓例を支那の説話界に求めるなら、﹃捜紳記﹄巷十四に、.
湊露膚時。江夏黄氏之母。浴盤水中。久而不立。襲名亀実。婦駕走昔。此家人釆。亀韓入深淵。其後時時出見。
初浴啓一銀欽。潜在其首。於是黄民兵世不敢食亀肉。
とある。この説話に於ては、或女性が或行為中に或動物に欒ずる鮎では、豊玉姫神話に類同してゐるが、その行

為が出産でないこと、該行為を見ることが禁制であつたか香かが明かでないこと、目撃したものが女人の夫に限
られてゐないことの三鮮で、異つ七ゐる。然るに同書同会に出てゐる他の一説話には、
或黄初中。清河宋士宗母。夏天於浴室嘉浴。達家中大小悉出。礪在室中長久。家人不解其意。於壁穿中窺之。
不見入腰。見盆水中有一大幣。遽関戸。大小悉入。了不興人相承。昔党著銀欽。潜在頭上。相輿守之噂泣。無

オ奈何。意欲求宅永不可留。祓之積日韓僻。自捉出戸外。其去甚駿。逐之不及。造便入水。
とある。この説話では、女性の或行為を見ることが禁忌である。かくて豊玉姫神話との差違鮎が減じて二となる。
更に宋の洪邁の﹃夷堅志﹄によると、


丹陽願外十里間。士人孫知願婁同邑某氏女。女兄弟三人。孫妻居少。⋮⋮容儀意態全如蘭書中人。但毎躁浴時
必施重棒蔽障。不許脾妾柵至。雑婚背亦不恨事。孫数和英故。笑而不答。歴十年。年三十実。孫一日因微酔伺
其入浴。戯鎮隙窺之。正見大自蛇堆盤於盆内。云々。
とある。この説話では、女性の禁忌行薦を見た者は正しくその夫である。かくて豊玉姫紳託との隔りは更に減じ 封

豊玉船群話の一考察 三一

l
みy・‘ 一?∴∴∵㌧



..
.、
、・ \■一.∵\
豊玉姫神話の一考察
て凍る。

J2
上に奉げ聖二個の支部説話は、その内容から推して、その蟄生因を共通にしてゐること明かである。然らばそ

の蟄生国は何であつたか。第一説話の終末に﹃於是黄民具世不敢食竜肉﹄とあるのが、こQ鮎に閲して頗る示唆
トーテム
的である。吾人はそこにほのかに族塞信仰の匂ひを喚ぎ得るやうな気がするからである。自分はこの匂ひを心に
とめて、更に他の地域の説話を窺って見る。


朝鮮の一民渾に、或貧漁夫が大鯉を獲て護の中に入れて置くと、翌朝見知らぬ美女が厨房で飯を炊いでゐた。
漁夫が驚き怪しんでその女を執へると、女は彼に語って、水界の龍王の娘で、緑あつて御身の許に発た。今から
三日たて
は遂に夫妬の契を結び、而して女の法術にょつて富裕な生活を営むに至ったが、女は毎日水浴をなし、而して水
浴中は決して浴室を伺ってはならぬ。之を破れぼ必ず不幸が起ると堅く夫む戒めた。彼等の間に三人の子が生れ
るまで、漁夫はよくその禁戎を守つたが、或日好奇心に負けて浴室を覗くと、女は鯉になつて水中に泳れでゐ宅
女は夫が禁戎を破ったことを知力、龍宮に去ってしまつた。︵孫晋泰氏﹃朝鮮民詩集﹄第一ニー−一二三頁︶ ヽ、
更に彿蘭西、猫逸、西班牙に俸承せられた談話にょると、レーモンドといふ貧しい貴族が山中に狩して一美女
に遇び、求婚して女の承諾を待た。女はメリユシナと呼ぼれ、呪能と富とを有する水の精であつた。かの女はレ
ーモンドの貧窮を憐み、策を授けて養父エンメサックの安子ベル!フムに封して、一枚の鹿の皮で覆ひ得るだけ
の土地を乞はしめ、ベルトラムが之を許すと、皮を数多の勧に朝具それで慶大な土地を囲み取らせた。かくて
レーモンドはメリユシナと結婚することになつたが、かの女は一の促件1毎週土曜日にはかの女は全く一人で
室内にあり﹁夫の入来し若くは覗き見することを堅く禁するといふ促件の下に同意した。後レーモンドは妻が不
義む働いてゐると聞き、憂憤の飴禁む犯して妻の私室を覗くと、かの女は水中にあつて、下牛身が魚尾︵又は蛇尾︶
をなしてゐた。かの女は夫が戎禁を破ったことを悟幻、途に夫と別れて家を去った。︵S.出胃ing・GOu−d、CuriO已玩
舅ythひOhthe試−1dd−eAge∽、pp・彗−・彗00︶
これ等の欧洲説話は、共に複合の説話であるっ一の猫立的説話に、これと種類・性質を異にした他の一の猫立
説話が癒着したものである。即ち朝鮮の民渾に於ては、
︵1︶ 或男性が或る動物を獲て之を器物に養ふこと。
︵2︶ その動物が女人となつて男性のために働き之を車両にすること。
︵さ︶ 或る事情のため︵多くは本の姿を見られること若くは男から叱られること︶女人が立去ること。
を話根とする﹃螺婦型詮話﹄︵﹃述異記﹄、﹃捜紳後記﹄、﹃此中人語﹄等に少しつつ異った内容で執ってゐる︶が﹃浴
身窺祓禁忌塑説話﹄と抱合して居り㍉欧.洲民渾では、動物の皮のト∴リックで慶大な地を占取することを説く﹃デ
ィドー型説話﹄︵この説話の詳細な研究については、拙著﹃民俗拳論考﹄を見られたし。︶と﹃浴身窺祓禁忌型説
話﹄とが結合してゐる。もし前者から﹃螺妬型説話﹄の要素を、而して後者から﹃ディドー型説話﹄の要素を剥
ぎ取ると、雨着は全くその内容を同じうするに至る。即ち両者は、
︵1︶ 或男性が超自然的性質を有する女性と結婚すること。

βJ
豊玉姫神話の︼考察 三三
.\、
1

豊玉姫神話の︼考察 三田
︵2︶ 結婚は、夫が妻の浴身を見ることを待すと心、ふ禁制催件の下に成立すること。

34
一′︵8︶ 夫がこの禁制む破ったため妻が立去ること。
︵4︶ 女性は禁室に於て或る動物に欒形してゐること。
.の話根を共有してゐる。
吾人は、かうした話掛の共有を基礎として、﹃禁室型﹄︵FOrbiddenβ冒ber弓竃e︶′の詮話の稀呼の下に、上
拳の支部、朝鮮、俳蘭西、礪逸、西班牙等の物語を総括することが出来る。而して雷面の問題である豊玉姫神詰
も亦一の禁室型説話である。前者に於ける浴身窺祓禁忌のモーチフに置き換ふるに軋産幾組禁忌のモーチフを以
てすれぼ、則ち後者となる。かくて豊玉姫神話が含む幾つかの謎を解く最も正常な、そして最も手近かな路は、
かうした禁室型説話が持つ幾
これ等のモーチフは、顧在的形相としては、近代人の眠から見て、幾多の不可解な、不合理な要素を露呈せし
めてゐる。吾人はさうした顧在的形相め底に潜って、そこに隠れひそんでゐる潜在的形相としての合理的要素を
摘まなくてはならぬ。而して之を掴み取るためには、これ等阻説話が吾人に示唆してゐる主要観念を仔細に講み
取らなくてはならぬ。自分の見るところでは、示唆されてゐる観念の主要なものは、
この型の談話が、之について語らんとする主役は、常に女性であることぺ
′ ̄\

\_■′
しかも単なる女性ではなくて、結婚した女性であること。

3 2 1
/rヽ


それ等の女人は、或る場合には、超自然的性質を有するとの信仰が之にまつはりつく程、家族の他の成
′†

、■
ィ\
J


J
′J∼
負から特殊的な存在と見られてゐ虎こと。
︵4︶ その女人は、自己の夫にとつて、−更に虞くは自己む除く豪族の金成貞にとつてタブーである或行為
を為す必要があサ、従ってその女人は、或斬に於て入線した家族から慣糾せらるべき身分であること。
︵5︶一夕ブーとなつてゐる行為は、定期的若くは不定期的に為されること。
︵6︶ その行革の中核は、その女人が或る動物の形感をとることに存する七と。
︵7︶ その行為は、それが家族の他の成員−−殊に夫にょって見られるとき、女人は豪族との、若ぐは豪族の
主成員としての夫との関係を断たねぼならぬ程重大な意義を有するものであつたこと。
等である。
凡そ説話は、心理的婁茸の結晶饅である。原始心性に特有な思考法若くは茎想にょつて引き歪められた−1従
って規資性から遊離した茸際的経験としての自然的事象、史的事軍若くは祀
れならぼ、嘗面の問題である﹃禁室型詮話﹄に於ける心理的事茸の基底となつてゐる寄算は、.いかなる種類・性
質のものであらうか。ヱの説話型の物語の主要難がいかなるものであるかを見極めた者は、到底これを自然現象
の歪曲相となし得ない。さうした推定が可能であるべく、主要鮮は殴りに濃厚鮮明に人間生活の色調を具へ過ぎ


てゐるからである。はた之を史的事賓の歪んだ姿とも考へることも太だ困難である。全く同一の史的事賓が、巷
間的及び時間的差異を以てして頻繁に生起することは、どうもあり得ないからである。かう考へて来ると、禁室
型説話む構成する主要内容は、どうしても或社食的寄算の引き曲げられた形相でなくてはちらぬ。問題は、その

J∫
豊玉姫神話の一考察 三五
翠玉姫神話の一考察
引き曲げられた社食的事茸の賓醍は何であつたかの捻出に辟著する。
トーテム 自分は先に﹃捜紳記﹄に見ゆる這の禁室型説話に族重信仰の匂ひがするのを覚えると云

.ブ∂
諸説話に共通な主要観念を仔細に眺めてゐると、さうした匂ひがいよいよ強くなるやうな束がする。自
しても一の試みとして、トーテミズム及外婚制の方面からこの種の詮話を検討して見尭くなる。

トーテミズムの社食鰐制を有する部族に於ては、部族の構成要素としての氏族が、それぞれ自己にのみ屠Lて
ぬるトーテムを有してゐる。同じ部族の異つ空一つの氏族が同一のトーテムを有することはあり待ない
で自然民放の間に普通であつた婚姻制度としての外婚は、一の氏族に屈する女性が、之と異なる他の
男性に入婚する結婚様式なるが故に、トーテムの関する限りに於ては、妻たるもののトーテムは外釆ト
して、夫の屈する氏族のそれと異ならざるを待ない。それはAに封する非Aである。
然るに各モのトーテムは、それぞれおのれに固有な呪術宗教的な茸修を有して居!而して這般の賓修に厳密
な意味に於て蓼興し得るものは、雷然該トーテ宣に屈する氏族成員に限定せられ、他の氏族の成員にと
それは一の厳重なるタブーである。


ファミリイ ところで、今云ったやうに、外婚の結果は、必然的に︸の豪族に相異るトー≠ムを併存させることになる。こ
の婚姻制の規定によつて、夫と妻とは、義務的にトーテムを異にしなくてはならぬからである。殊に
父系にょつて承け砥がれる配合集園にあつては、少くともトーテムの信仰・崇拝の関する限りに於て
旋の杏成員と封立附な立診た置かれる。かの女の夫及び子たちが凄くAなるトーテムを奉する中にあつて、かの
女だけは非Aなるトーテムを信奉しっづけねぼならぬ。かの女の立場を規準として考ふると家族の金成月が那都
である。而しておのれの呪術宗教的な儀祀に外者を参興させることが厳しいタブーであることは、自然民族に於
ける通則的な生活規範であるが故に、かの女が定期的若くは不定期的に行ふべく義務づけられた自己氏族トーテ
ム儀祀の箕修は、厳しいタブーの下に秘密の中に行はれねぼならぬ。説話に於ける﹃禁室モーチフ﹄の少く占も
或るものは、即ちさうした秘密的茸修の歪められた姿であるのではあるまいか。もし此の秘密を守るためのタブ
ーが犯された場合には、之を犯した者も犯された者も、配合的制裁を受けなくてはならぬ。而してさうした祀合
的制裁は、この場合多くは、入姫君が入婚した豪族を去るといふ形式を採らざるを待ない。禁量的説話の主要鮎
の一つ即ち禁室を覗かれた女性がその豪族から逃去するといふモーチフの謎は、これで解けるやうな気がする。
彦火火出見尊に禁室を覗かれ衆望玉姫が﹃海阪を塞き﹄て故国に立ち去らねぼならなかったといふのも

、ヽ
るに這般のタブーの破棄に因する社食的制裁の蟄現としての民族間の隔離と解し得られるではなからうか。︵勿
論記紀人の心持では、この破局によつて人間界と海の世界との交通不可能む説明しょうとしてゐること、拾ほ諾
再二紳の﹃ことどわたし﹄の神話にょつて、明界と冥界との交通断絶を説明しょうとしたのと同じであるが、さ
うした心持は説話の顧在相に過ぎぬJ
次に、禁室中にゐる女人は、何故に動物の形をとらなくてはならなかったか、これもトーテミズムの腰制及び
儀祀から見ると、正しく一つの必然である。

J7
豊墓姫神話の↓考察 三七
豊盈姫締高の一考察 三八
氏族がトーテムとして抹力上げてゐるものは、全面的に云へぼ、由物・植物・無生物の虞きに亙ってゐるが、


無生物はトーテム.の分野に於て太だ僅少孜領域を占むるに過ぎない。エー・ダブづユー・ハウィット︵A・W・穿l
wi丘が、東南オース!フリア諸部族から蒐集した五首飴のトーテムの中、無生物から採られたものは、僅々四
十ぐらゐであつたといふ事茸、及びピー・スペンサーと㌻・ヂェー・ギレンとが同じくオースとフワァの多数
の部落から採集した二百四種の下−テムの中、無生物はブーメラング、火、水、電光、太陽、月、夕星、旋風、
電、渦、樹脂、塵水、石、紅がら等の十九に過ぎなかったといふ寄算が、雄梧に這般の滑息を俸へてゐる。植物
から揺られたトーテムは、無生物のそれに比して多数であるが、これも亦決しで著大な比率む示してはゐない。
要するに、茸質的には、トーテムは主として動物界に属すると断言しても敢て不雷ではない。
ところでトーテムと之む族婁とする氏族の成月との間には、血縁以上の密接な関係が想定せられ信仰せちれて
ゐる。ヂュ.ルケム ︵由mi−eせurkheim︶が、その大著﹃宗教生活の原初形態﹄︵訂払冒m悪かlかぎβ邑re∽d①lp
≦①邑igi昌且に於て箕讃してゐるやうに、トーテミズムは、云はぼトーテム原理と呼ぶべき非人格的な勢能が
宇宙の諸事象に内在してゐるといふ観念及び該原理が個々のものに表象せられたものの一つがトーテムであると
いふ観念の基底の上に立ってゐる。而して或特定のトーテムとそのトーテムを持つ氏族の成長とは、トーテム原
理の個分化したひ罵Oi已⊇夏着▼を共有してゐる。かくてトーテミズムの慣制・信仰を有する民族にあつてはA
なる動物むトーテムとする氏族の成員は、比喩恥にではなく、文字通りに、おのれも亦Aであー。亀氏族の成員
は自身を盛と呼ぶ沌而してこの湯合、名前の同義は畢に健質の同忘の外的指療と考へられるのみで
の名む負ったものが、その名にょつて精麦せられる種類の動物そのものであることを示してゐる。オーストテリ
アの土人に関する最も周到な探究者スペンサー及びギレン ︵謬−dまロⅥ罵莞雫︶句・J・重−−en︶ は、・その共著﹃中
央オーストラワァの士族﹄︵増訂甥註孟ゴibesOfCen冨已A宏t邑ip︶吋・貸せに於て、土人たちがトーテムと自
己とを同二硯する詮例として、カンガルーをトーテムとする土人が、爾氏によつて撮影された自己の語尾を指し
て、司これは自分と全く同じものである。だから之はカンガルーである﹄と云った事賓を拳げてゐる如き、カー
ル・ストレ一口ウがその著﹃中央オーストラリアのアラング及びロ“リ=トヤ旗﹄︵DieAr芦d甲声dどをy苧St勘mm①
in謬nす已lA邑r邑ぎⅠ−平00−ふ︶に於て、カシガルー氏族のものは、その祀党がカンガルーと同一の草を食し、
叉この動物と同じく狩人から逃遁すると信じてゐる尊貴む報告してゐる如き、はたニュー・サウス・ウェールズ
のギーウェ・ガル旗が、各成員はおのれを生かLてゐる婁魂とトーテム霧との問に類縁があると信じてゐる事茸
の如き、︵P句i琶n呂dA・召・出ざwitt−同日n已ぎdRpmil告Oi︸吋・琵○︶みなトーテムが或る意味に於て人間の
茸鰻の一部む構成してゐるとの観念・信仰を裏書してゐる。
かくて氏族の成員が、トーテム儀穐恩賞修する場合には、義務的にトーテムの装態を為すのを通則とする。北
米印度人のトサンキッート族は、或る親祭に於てトーテムたる動物の全牒若くは一部を表出する衣服を纏ふ。
︵A焉d同rp戻♪Die守in民t・Indi芦雫、㌍00彗︶同一の現象が西北アメリカの全地域に見出される。︵J■甲
S宅ぎぎn−S幕i已QOndit︼.8、厨e−山かぎ芦d巳n習i裟ORd邑○ロ浄ip Ofthのゴi
官署Oh tF①出弓e呂b巾障m雫i忌日∴空計nO−品y、句●念串鞠∴﹃⊇巳二野蛮−増訂賢i已○毒ani夢ti邑ぎd昏¢賢註す

Jタ

筆立姫神舌の一考察 三九
‘、ゝ


こl:l
L − J

1
\ブ∴

▼ ●

タ〆1
㌧ ・
潜ヽ

1
■’
豊玉鮭神話の一考察 四O
S00ieties阜夢eRき村iut=ndian切︶増・器仇︶イオウァ放では、常民放は前額に二偶の髪束をつくり、その一を後


方に垂れて鷺の装をなし、水牛氏族では髪束を角の形にする。︵ロR・警h邑宅p声Indi芦TユbesこIH−吋.皆¢︶
オマハ故に於ても各!そのトーテム動物を表現する特殊の理髪法を有してゐる。忽氏族が、忽の頭・脚・尾を表
すための六つの渦巻を頚の南側と前後とに嫁して他の部分を剃り落すが如きJその一例である。︵DOr語y−Omphp
S02.已Ogy、声月hirdRep・−吋・柏隻、貸00一望○−思慮
かくの如くして、トーテミズムの慣剃・信仰を有する部族に於ては、各民族の成月が種々の場合 − 殊に呪術
宗教的儀祀の賓修に際し、極めて一般的な準則として、自己のトーテムたる動物の外的形態を環視しょうと努め
る。ところで、自分は兜に或氏族に外婚した他の氏族の女性が厳しいタブーの下に一室に籠るのは、−トーテム的
儀祀を行ふためであることを示唆した。禁室に於ける女人の行為が、多くの禁屋型説話に於て水浴であることは、
この示唆に相照應する。這般の儀祀の漁備的賓修の主なるものは、水にょる潔療であるのを常とするからである。
而して女人はおのれの信奉するトーテム動物の全慣若くは一部を表現するため紅、該動物の装態をしなくてはな
らみかった。そこに禁室塑説話の他の一つのモーチフへの解答が潜んでゐるではなからうか。

吾人は、支那、朝鮮、欧洲に禁室型説話を探索することにょつて、豊玉姫神話に封する近似値を見出し待たと
考へる。従ってそれ等の説話から抽き出される解繹的結果は、豊玉姫神話を構成する主要鮮の意義に封する透祓
としての層値を持つ。吾人は前者の考察から得た解繹を出蟄鮎として、後者に封する解繹への正しい道程を辿る
ことが出来ると息ふ。


豊玉姫神詰も亦禁室型に屠する物語である。ただ上に挙げた多くの禁室塑説話と異なるところは、出産といふ
鮎だけである。かくてこの神話に封する解繹は、この一鮎に集中せられなくてはならぬ。他の幾つかのモーチフ
に封する解繹は、既に完了してゐるからである。
従来、拳徒の或るものは、禁室型説話に於ける﹃覗き見禁止﹄を、単なる説話文畢上空の技巧、若くは筋の
運びの上からの単なる便法と解してゐる。異埜父通の可能といふ素撲な観念・信仰にもたれ、超自然的な女人を
放し凍って、尋常の人間に伍せしめることによつて、一の興味ある物語を構成せしめたものの、さうした異類的
な存在態をいつまでも屈坐らせては、人間生活の賢相に背戻するといふ心遣ひから、約束若くは禁戎を設定し、
それを破らせるといふ便法によつて、さうした存在態の始末をつけたのに過ぎないと解するのである。
かうした解繹は、先に奉げた﹃螺癖型﹄の説話、我が国で云へぼ、﹃鶴女房﹄や﹃魚女房﹄などの物語−貧
しい人界の或男性が正直であるとか孝行であるとかのため、之を褒賞すべく、若くはさうした男性から生命を救
助せられたため、その思に報ゆべく、超自然的な女性が凍り嫁して、男の家主臨ますとかその他の車両を輿へる
とかしたあと、結婚の際に申出た約束や禁或を男が破ったため、若くは偶然に男から本性を見破られたため、天
繚が切れて女が本意なく辟り去るといふ物語に封しては、或ひは雷て籍まるかも知れぬ。しかし磨い意味では、
同じく禁室型に威するものの、螺婦塑説話と浴身窺祓禁忌型説話との問には、一つの著しい相違が存在すること
を忘れてはならぬ。前者にあつては、超自然的な女人の田規のいきさつ、及びをうした女人の結婚後の活動が物

-41
豊玉姫神話の一考察 四一


蟻∴ざ
豊玉姫紳話の一考察 四二
語の主要部をなし、女人が去ることはその際静的な諾qud であるに過ぎないのに反し、後者にあつては、前者

〟2
の主要部に首る物語が全く放けて居カ、禁室む覗かれたため女人が立去ることそのものが、物語の全部をなt中
核むなしてゐる。だから﹃覗き見禁止﹄を目して﹂超自然的存在態を人間から汚してしまふ便法に過ぎぬといふ
解繹は、後者に封しては全く意味をなさぬ。且つまた前者に於て、覗き見禁止の誘導が一の文畢的技巧若くは趣
向上の便法であると仮定しても、﹁然らばさうした技巧若くは便法として何故に特紅覗き見禁止が改し来られた
か﹂といふ問題は、依然として未解決のうちに取少壊されるのである。
かくて他の多くの拳徒は、文畢的技巧詮を排挺して、茸際的信仰の反映を観じてゐる。即ち彼等は、たとへぼ
この種の説話に於ける覗き見禁止が産屋に歯して課せられてゐる場合には、その禁止を出産の汚れに封するタブ
ーと解してゐる。出産時に於ける羊水・血液その他の排出物が四覧rかi臼puづとして恐れ忌計れることは、多くの
民族に共通した硯象であるが故に、かうした解繹も亦あながち不首として排斥せらるべきではない。我が圃の古
俗で、妊梅の産樹が近づくと、産屋を建てて之を別居させ、かくして常人から一定時日の間隔離することにした
のも、血忌の信仰−殊にいはゆる﹃赤不浄﹄として産稼に封する忌み恐れ比国したこと、人のよく知るとこ
である。しかしかうした意味の産篭タブーは、隔離・不接近といふことが中核となつてゐるのであつて、覗き見
禁止との間にデサケートな差別があることを忘れてはならぬ。覗き見を禁止するといふことは、凄近による解稜
を漁足してゐるよカは、寧ろ見てはならぬものの内存を濠足してゐる。且つまた産稜との接偶によつて、産屋タ \ ブ
ーを犯した者はおのれ自らが更に一のタブーとなるだけであつて、さうした破戒が夫療永別の因となるのでは
ない。.その上に、産婦が何故に動物の姿をなしてゐるかの問題も、﹃血の汚れ﹄詮では全く目鼻がつきさうにも
l ない。かう考へて来ると、産屋覗きの禁止は、産稜の親念・信仰だけでは、その秘を開く乙とが
に気がつかずにはゐられない。
かくて他の畢徒1たとへぼ日本民俗拳の大家折口信夫博士の如きい−は、真空歩を進めて、豊玉姫禁宴籠
りの紳話に於ては、崖稜に関する禁忌の親念は後代的な潜入物に過ぎずとなした。詳言すれぼ、豊玉姫がトーテ
ム的な呪術宗教的行為をなすために禁主に籠り動物形を探ったといふのが、この物語の木原的形相であゎ、これ
を出産のための禁室籠カとなす現存の説話形態は、一つの已ter・tどuggであると解するに至ってゐる。
この解繹に徒へぼ、豊玉姫が禁室籠カをしたのは、ただに出産時の錬れからの隔離のためでなかったばかりで
なく、猶ほまた出産行為そのものを行ふためでもなかった。それは木原的には、出産そのものや出産の稜れには

l
何等の関係がなくて、外婚によつて、或る男の妻となつた女人が、トーテムを異にする豪放たちの眼からおのれ
の氏族の或る呪術宗教的儀穐の茸修を防適することを主脈としたといふのである。近頃に見ぬ尖新な見解である
かう解すれぼ、技巧詮、便法詮では解き待ぬ発つかの謎が見事に解ける。
しかし自分は、かうtた見解にも全的陀は賛同し待ない。自分の考ふるところによれば、出産と這般の呪術宗
教的儀絶とは決して排他的関係に置かれるものではない。いな、それどころか二者は互ひに密接に相聯閲してゐ
る。だから豊玉姫禁室能力神話に関しても、出産のための禁室入りを否定して、トーテム的な或る儀絶賛修のた

イブ
めのそれだ廿を主張する必要は、必ずしも存しないのである。記紀の文献は、明かにそれが出産のためであつた
豊玉姫紳萬の一考察 四三 ′

■ 憑


豊玉姫紳話の一考察 四四

_
ことを記述してゐる。而して文献的記述は、■絶封にこれを無税し若くは姿を改めて眺めることが不可であるとい 一4
4
ふわけでは決してないが、しかし文献の云ふままを抹力上げても、安富な解群が下され得る場合には、之を否定
ヽヽ し無税し歪曲するよ力も、之を生かして取扱ふ方がよ力積常であること勿論である。かくて吾人は、豊玉姫の禁
ヽヽ
室龍汀ご紅解して、出産のためでもあ少、或る儀祀賓修のためでもあるとなす。いな、よ幻適切に云へぼ、出産に
必要な或る儀緒を茸修するために為されたものであると見たい。然らば.さう見る根接は都連に存するか。
ここで吾人は、親子に於けるトーテムの関係に眼を注ぐ必要がある。
豪族の1成員としての子がトーテム名を得る様式には、少くともオース!フリアの関する限りに於ては、デュ
ルケムが指摘したやう鱒∵部族によつて三つの相異る規準が存してゐる。
︵l︶ 子は生得樺︵dr。itdeロ已ssぎ且によつて、母たる者のトーテムをおのがトーテムとする。即ちトーテ
ムは母系的に栂承せられる。
︵2︶ 子は父の側転つき、父たる庵ののトーテムを自己のトーテム七する。即ちトーテムは父系を通して塘承
せられる。
︵8︶ 子のトーテムは必然的に母のそれ若くは父のそれであるといふのではなく、俸承上の組先 − 母を神秘
的に受胎せしめに凍る組党のトーテムである。


の三つがこれである。然るにこれ筆二つの範型のうち、第三は殆んど例外的と云ひ得るほどに僅少で、オースト
ラヤアのアルンタ族やロⅥノトヤ放等に見られるだけである。第二範型は第三範型に比べると梢モ多く見出される
り..札ノ
が、しかし決して顧著な比率を示してゐない。オーストラリアのナリンゲリ、ワラムンガ、ウンバイア
ンガ、てフ、アヌラ等の諸部族に見られるだけである。かくして事賓上は、大多数の部族に於て、トー
と母系による親子関係との間に密接な聯闊が存し、子のトーテムは母のそれと同一であるといふ様相が
である。
この事茸は、デュルケムが道破したやうに、トーテムがその起療に於て母系にょつて俸承せられたせ
十分な理由があることと相呼應する。而して先に云ったやうに、トーテムと之を名組とする人間との間
的及び心審的に不可分離の類縁が存して居旦五なる動物をトーテムとする母の出産は、尊貴するに、Aなる動
物の類縁的存在としての一個あ女性が、他の扁のさうした類線的存在を此の世に造りⅦすことにほかな
従ってその女性が出産に際しては、Aなるトーテムを中心とする呪術宗教的儀穐を茸修し、而してかの女自身が
該†−テムの装態をなすLとが、常時に於ける祭儀の場合よりも吏に強く要求せられる。なぜならこの場合は、 ●
菅にトーテムに封する崇敬、トーテム動物紫殖への欲求のための敷儀であるだけでなく、云はぼトエアムのd宇
ble︵母︶が他の十つのÅ冒b訂︵子︶を蟄生づせることを、感性的な外的形態によつてま瞥忘筆記するための祭儀
でもあるからである。豊玉姫が出産に雷って禁室にこもり鰐の形態をとつたといふ説話的モーチフの謎
て解けるではなからうか。
ヴァン・ゲネップ︵ぎn穿nn旦がその昔訂昌ite芸昌議長eに於て詳説してゐるやうに、低級文他局
靂は、人の子の一生に多くのp監督を観じ、而して人生に於ける一の段階から他の一の段階への移行が行は
豊玉姫紳話の一考察 四五

▲ぷ



ヽ J〃+▲
い、■
む彗巨

寺′ノ
■ ヽ
/ ・ 、
−−− ︼、 1

、・、′.・ lヽ
心∵.
i幸−∵十掛か料隼守 ■∵ \

豊玉姫神夢の︼考察 望ハ
れる場合には、楼芸呪術宗教的な儀薩を箕修するのが常である。人の子がこの世に生れ出るのが

4す
p層gOで雪とされ警とは、猶ほ未成年者が成年者になるのが、忘重要な昔s品三されたのと同−であ
る。而して成年式に於ては、式の封象である常人も、式を箕修する大人宅も、その氏族のトーテ
をなす。常人は未成年者雪身分に死して成年者雪身分に新生すると信ぜられ鷲そして成年者雷身
生することは、即ちそのトーテム動物に生れることであると考へられたが故陀、該動物の装態を
︵このことに就いては、寧日旨rte−声夢u琵盲かーan竃d東芝冨de昌e宣○ロ払㌔・−監二弼∵5芦Gennep・
訂sRite班de冒農e︸吋●簑巧こL罫†写巨︶訂苦邑i2∽men邑esd冒ニes腎iかt針in㌫ri昌e切㌔・霊 ●
き等参照︶同じ意味に於て、︵1︶人の子の生誕竺の大切なp萱geなるが故に、或る呪術宗教的儀祀の賓修
が必要で雪、︵2︶トーテミズムの惜制畏つ部族にあつては、それがトーテム動物と肉的心的覧可分離な一
存在の新生と信ぜられたが故に、産婦はその儀祀に於て㌻テム動物の装態をなすことが必要であ
ヲツト 姫制にょる結婚に於ては、さうした儀穫は壷ハなるトーテムを信奉する夫にタブーであ
止の室に籠る必要がある。
かう考へて来ると、豊玉姫禁室籠り神話は、その主要な構成モーチフの関する限りに於て、ト
外姉御の方面から眺めるとき、可なりよくその謎が解けるやうに自分には息はれる。
しかしかうした解繹の安首位が裏書きせられるためには、我が国に昔てトーテミズム及び外婚制が虞

てゐたといふ澄徴が必要がある。︵もし此の紳話が、・その前段を構成する鯨幸彦山車彦の物語がさうした疑を掠
っやうに、甫洋地方からの俸衆である上するなら、問題は自ら別であるが︶ところでさうした琵徴の有無につい
ては、今日のところいろいろな見方があつて、決して決定した問題ではないこと、みな人の知る過少である
かち自分が上氷試みて釆たところの考察は、徒死行はれた種モの見方の他にかうし
いふことの示唆以上の何物をも要求するものではない。

J7
筆意蒜啓三考察 臨七



箕相諭に於ける唯心論的解樺 四八

イβ
茸相論に於ける唯心論的解滞
− 智固、仁岳の観境論について
石 津 照 璽

諸法賓相とトふのはわれわれの常画する硯賢生活の事態を最も具慣的な、踏み外しのない基本的な賓際に於て、
そのあるがまゝなるありやうに直指したものであるが、そのあるがままなるあカやう或望息味といふのは既に見
て釆たやうに﹁絶待﹂のありやう、﹁妙﹂のありやうに於てあ旦 いひかへれぽ﹁一郎一切﹂といふ意味に於て
あるので雪て、三千とか三諦とかいふのも此魔のことで艶。ところで注意すべきことはその謂る現茸の首魔
の所在、あり庭であるが、絶待とか妙といふとほり、われわれに封立した外物自曜の世界や単なる思惟や戯念の
世界にその所在ををくのではないといふことである。それらとはかけはなれ賀しかもそれらが組み合はされ織
り出されてあるところ︵現茸にはこの場面の外はない︶ の、いはゞ第三の世界を直指しょうとしてをるのである。
潔から乙ちらから凝へやうもなく不可待とか不可思議とかいつてをるのであ旦夢とか幻とか響とか、いろいろ
く ノ

な誓喩や、四性の推究等によつても示そうとせられふとほ少、われわれの首面硯繭の雷塵は自他、左右すべてに
操る遽のないあカやう、・あり虞に於てあるのである。
ところがその絶倒とい払不思議といふ場面の叙述にあたっては︵四悉檀等の因縁を介するとせられるが︶、虜
詮物の側な少、観念や心の・側なカ、いはゞ第一なり第二なりゐ世界に、その操る達のない世界むつけなげれぼな
らない。智顔の﹃摩詞止朝﹄に出て来る﹁一念三千﹂といふ意味もこのやうな事情にもとづくのであるが、しか
も超宋天台に於てはこの一念の性格を廻って長い論争の歴史を展開した。
一曙ものを執念或ひ.は心の側から説くといふ仕方濫も色々参つて、ものをしてあらしむる蟄生的根接或ひは論
理的根揚力至本襟として敬念や心むをくといふこともあ旦又ものや事の成立する場面、或ひはそれらの於てあ
る場所として意識や心を考へるこjもある。彿教の思想にも唯心とか由心とかいって心から法相を叙べてをるも
ヽヽヽヽ
ヽヽヽ のが多いが、箕相給の建前からいへぼ、心から、或ひは心の場面せ現茸の事態を説くといふことが究極のもので
はない。心につけて一切の事象を説くこともあるが、茸は茸相の所在は心といふ場所や舞轟を抜けた、右のやう
︵三︶
な操る遽のないところにある。遁にいへぼ、心に掠って︵或ひ・は蟄生的、論理的に、或ひは場面としての心にょ
って︶ものが在るのではない。現茸の首虚、一切の事象はものや心に於てあるのではない。ただそのあゎやうは
ヽヽヽヽ ︵妙解む介してと知櫓はいってをるが︶、或はこれを心によせ或は物に撹めて明らかにすることが出来るのであつ


て、遭宋天台の論日でこれを示せぼ、﹁心具三千﹂とともに﹁色具三千﹂乃至香草味解何れ旦二千を具してある
のである。とくに﹃摩討血戦﹄等で﹁一念三千﹂といつ七心について三千をいふのは、それは止載に於ける親行

4タ
賢相森元於ける唯心論的解繹 四九


げ∵∴≠
箕相論に於ける唯心論的解樺 五〇
修道の便宜のためであるとせられる。これは知樽が右の論争に於て﹃十不二門指更紗﹄や﹃十養育﹄で明らかた

ぶ∂
︵四︶ したことであるが、畢史上の俸統をはなれてみても、茸相論の本来からげだし雷然のことである。ところが山外


の諸家は既に見て禿たやうに、心と物
︵五︶
ろの虞心、心性といふものをたてる。そして一切の事象をそこから、或ひはそこに於て飯べるのである。更らに
智囲をはじめ、後にはこの眞心、心性と硯箕の心との関係が複雑に論じられるのであるが、ともかくそれらは賓
相論の建前からは逸したものとしなけれぼならないと考へられる。
これらの双方の撃沈的見地から湛然の﹃十不二門﹄等に出て来る一念の性格︵級別、理事︶についてその眞妄
といふことが尚題となり、とくに親心、観窃の上で難かしい論日を展開して釆たのであつた。はじめ山外の諸家
はこ念理親と考へ、理性唯心としてそこから寓法を詮くのであるが、論争の進むにつれて教、勒何れの方面から
も賓相論の基調とするととろに沿はんとするかぎり不都合を来し、謂ゆる眞心を以て親填とするといふ主張を捨
てて妄心をとる。しかしやはり唯心論的な畢詮の基調をかへぬので、そこに微妙にして複雑な迂路を脛なけれぼ
ならなかった。しかも賓相を賓相に於てゞはなく、そこから離れて論を立てる結果に終ることになつたのである。
今それらの代表的なものとして智囲と殊に仁岳の主張について論じることとしたい。両者の所論をみ宣ことにょ
って理論的にも長叫論争の結着を明らかにすることが出来るやうに息はれるからである。
〓.
観項の問題は、源清はじめ慶昭等山外語豪に於ては、知穏が主張したやうな、親心のために立てられる謂はゞ
技術的な勒鮎からの心の解繹ではなべ、心の本性本質、いひかれぼ事象寓法のよつてあるところの理心、心性の
問題であり、且つその結果は親心の賓修を須ひず、直ちにこの眞性につくといふやう程議論まで出で釆てをる。
そして、そのことは山外の師組以来、飯に叙べたやうな事情から、聾厳の教理を背景として、茸相論を究明する
立場としては、また自然の辟結でもあらうと思はれる。もつともこのことについてはホ後には議論が段々限られ
て発て、智囲のやうに﹃金光明玄義﹄にいふところの十種三法廷二種の勒法のうちでは﹁附法﹂の観に属するか
ら、陰囁む立てす、直ちに法に附して、不思議理親を明かすのであるとせられ、一般的には止観﹁約行﹂の親を
︵六︶ 立てることが認められなけれぼならぬやうになつて釆てをる。
すでに慶昭にも論争の後期になるとこれらのことが認められるが、更にはつきりと﹁約行﹂十乗の教法を立て
て、陰妄の勒項をとることを主張するのは、瀬清の門下で、慶昭とともに知穐に対して論陣を張つた智固である。
知稽の後畢可度は﹃指要紗詳解﹄の中で、.智囲は知穫の立義が囁を定めて妄に屡するとしてをるのを見て、遂に
自説 をまげて、﹁昔人眞を観じ、今人妄を散ず、鶴蝉相祝す、我その弊に乗じ、六識の安心に達して三締の妙理
を顧はす﹂といつてをると叙べ、この妄心を親ずるといふことは山外豪の相承にはないことであつて、智囲が知
櫓の詮を編んだのであるといつてをるがVともかく天台の正統に滑はんとするかぎり、親心の賓修を中心とし、
十来観法を立て、観項を抹ぶといふことは雷然である。だから、慶昭以後は山家山外を間はず、親心の問題にな


って凍ると何れも安心を立てるやうになつて凍てをるが、とくにここでは智囲、仁岳の雨着をあげる。

■■
智囲も亦瀕清の門下として、既に見て禿たやうに﹁理紙﹂の唯心、心性を主張するが︵﹃心の問題﹄前掲︵註四︶

JJ
貸相論に於ける唯心論的解樺 定一
箕相論に於ける唯心論的解棒 五こ
に叙べたからここでは重ぬて論じない︶、歌心の賓修む否定しない。観壕についてとくに﹁即妄而眞﹂と許き﹁帥 ︳▼

∫2
事而眞﹂といつて、現前の妄心を敬することによつて、眞性をあらはすといふ妄心親をと少、﹃顧性録﹄や﹃
︵八︶ 不二門正義序﹄等に明らかなやうに、・偏へに或は直ちに眞心を封囁とするといふことは聞達ってをるといふ。.断
ち﹁自ら己心を観ぜずんぼ安んぞ白地因凛心を知らんや﹂といひ、己心を執するのは﹁妄に即して眞﹂なる所
をそこで了達する虻あるとする。そして、﹁止戟を善くせずんぼ安んぞ心を修すべけん﹂といひ、また﹁悟理
要必ず十乗に在り﹂云々といつて湛然の十不二門述作の意が﹃玄義﹄の十妙を結束して﹃止親﹄竺念三千不思
議頓に辟するにあカとし、必ず十来観法左用ゆることを説き、そのために、歌壇としては現前の陰妄の心によ
︵九︶
と主張する。けだしこのことは彼の立場からは極めて巧妙に誘導せられるところであつて、既に見て釆たやう
︵﹃心の問題﹄前掲︶、彼は心、彿、衆生の三法乃至一切法左それぞれその場の心に謂はゞ還元した上で︵三法を
己他に分け、心を己、悌と衆生を他とし、己とは己心、彿と衆生もこれを約示すれぼ彿心、衆生心に外ならぬ
見て、三法を心に置く︶、その心について心性と説くのであるから、雷面の問題としては、現前の心即ちそれぞれ
の剰郊忘を㌃へてこれを観囁とすること豊張しても、別覧眉はないわ誓雪。かつ、とくに親心の上
で、偏へに眞を立て或は妄を主張することを斥けて即妄の虞につくといふ考へは知穫の﹁雨曇能所﹂の考へと
息ひあはせて甚だ樹密な叙述といはなけれぼなるまい。しかし注意すべきことは、即妄而虞等とはいつても、
と虞との関係は茸相給の極意から謂る直轄全是﹂︵﹁即﹂について知祀が﹃妙宗紗﹄や﹃指要紗﹄等で明すとこ
ろであるが︶といふやうな所観とは異なる。剃郵妄心とか現前己他の心とかいつてこれを直ちに能造の心性にを
きかへるところに問題がある。妄と眞との間には性質を異にする開きがある。或は淡水等と喩へてをるが︵顧性
録、余こ、柏筈b︶、既に見て釆たやうに、理経、心性とたてるかぎり事別一念とは隔少があるので、妄心を親囁と
するといつても、.その思想的背景に於ては抜くべからざる無理があ鼠算相論の建前からは逸してをる。
倍ほ彼につりて注意すべきことは、﹃金光明脛玄義﹄に閲する所論である。このやうに彼は親心の要道は約行
の止戟によることむ主張してをるが、﹃金光明経玄義﹄の十種三法にかかはる親心問題に裁てははつきりした意
見を立ててをる。知超の引照等によつてうかがひうる慶昭の考へにも、或ひは智囲のやうな論旨があつたのを伏
捜されてをるのではゑからうかとすら懸念せしむるものであつて、とくに﹃金光明玄義やの虞略二本中の親心繹
の有無の紛議になつて来ると、きわめて辟約的科畢的に論述せられて、親心繹のない略本を正常とする彼の意見
は、論争の始終を通じて精彩を放ってをる。そのことは知穫の﹃金光明脛玄義拾遺記﹄に引照せられる彼の﹃金
光明経玄轟表徴記﹄に於て詞部、義疎、埋葬、事誤といふ四鮎から親心繹をもつ虞本を否定するととろに明らか
︵一〇︶
であるが、親心の問題についても、やはヵ、この四難のうちの第二の難に於て、十嘩三法に裁ての親心の問題と、
彼が悟理の要道として振るところの止観約行の親放とを、はつきカと論じ分けてをる。.即ち上にあげた三種勒法
のうち、託事、附法の親洪は事に附し、法を挿し、それらについて不可思議理頃む観じるのである。したがって、
約行の止親のやうに陰入を立てす、陰入を抹ぼず、直ちに事・法について不思議三締の理を観じるのである。
﹃金光明脛玄轟﹄の十種三法を観じるとは、それは附法の観であるから、従って約行の止観のやうに陰入鹿挟ん
で瓢境とする必要なはい。妻ろが、鹿本の親心繹の中紅、﹁問、心有四陰、何以粟三敬一云ごとある。しかし、

∫J
箕粕静に於ける唯心静的解帝 五三
箕相諭に於ける唯心論的解樺 五四
附準の観法は右のやうに陰壌を立てもせず、文挟ぶ必要沌ない筈である。それにもかか時らず、ここで陰を抹ぶ

∫4
ことを問題としてをるの望息味が通じない。だから、親心繹は後人が檀ままに加へたものであるといふ論法であ
︵一一︶
る。
﹃金光明経玄義﹄の虞略眞佑の問題は暫く別として、親心の問題.についてみると、砂なくとも知穐やその他に


よつて引照或.ひは論評されるかぎカの、慶昭の論調とははるかに整った條埋立ったものである。臨に見て兼たや
うに慶昭の場合には十種三法の戦法が、紗なくともその建前の上から祝遺一般のことであるかの如くに論じられ
てをつたに封して、智囲の場合は、約行十乗の観法を観道の正統とし﹃金光明玄義﹄に於ける十種三法の親心と


いふことはこの正造とは別のものとして、即ちかぎつて附法の観として扱ってをる。観道の建前が雨着に於て異
って凍てをるとすら見られるであらう。もつともさきの謂はゆる七年給寧から十僚年を経て智囲の﹃金光明脛玄
義表微記﹄は作られたものであるといはれるから、その論調に慶昭と相違のあるのは首級でもあるが、しかし、
一面には又、これらの智囲の論調から推して慶昭にも亦知櫓等によつて俸へられるが如き論旨よりは或は別の、
たとへぼ智囲の論調にあらはれるやうな趣旨も伏廃して居ったのではなからうかとも察せられる。しかしここで
はそれを詮整することを措いて、智囲のこのやうな主張に暫して、次に問題となるの偲、託事、附法の親は陰境
を勒じないといふ鮎である。これらの湛然によつて創められ充謂る﹁三種勒法﹂の論については別に詳論するが、
智囲は﹁ただ約行の親のみ陰囁を簡示す。その際の二種は全く陰を観ぜず﹂といふに封し、知祀は三種の親法の
うち託寄附法の観も差陰堵を敬すること豊張撃もつともこのことは、智園の﹃表微記﹄の後に作られた
彼の﹃拾遺記﹄にはじめて主張せられたのではなく、既にさきの七年論争に於て、慶昭等が﹃五轟書﹄や﹃繹間
書﹄に等三種観法の間警論ずるのに封して、随所で知祀竺のこと蓬張して簑即急後の所論象
約すれば、凡そ親行に於て観境を必要とするかぎ具 その観墳とは五陰を出でぬ。︵知橙は智貴の﹃法華文句﹄
︵一五︶
や﹃止鶴﹄並びに湛然の﹃止親義例﹄や﹃繹畿﹄﹃文句記﹄﹃輔行﹄等の文を引照してこれを論語してをる︶。だか
ら附法の観といへども陰境をとるといふが常然で、若し陰境をとらないといふならば、それは直接に清浄眞如を
︵一六︶
観ずるといふことになカ、智囲のいふ妄に即して眞なる所以を顧はすといふ主張望息義を失することになる。こ
れらの理由から、附法の観は陰境をとらぬといふ智囲等の主張は論難せられるのであるが、首面の硯茸の場面に
於てある茸相を窮らに具現しょうとする親行の建前からは、けだしこの主張は常然であつて、妄心を観じ、十乗
の親法をなすとする智囲には上に許した問題とともに、この﹃金光明玄義﹄の十種三法の観についても依然問題
を嫁してをると見なけれぼならない。

異心勒の本流たる慶昭に関連して、しかも妄心の主張をとつた智囲をあげたが、次には山家、山外両家の主張
に跨る仁岳の所論む見ることによつて問題の整理を急ぎたい。


仁岳はもと知祀門下の高足として慶昭、智囲に封する論争では師の知祀を輔けて大いに山豪の主張の蟄揮につ
とめ、多くの論索がある。すなはち、知祀が﹃十不二門指要紗﹄の中で創唱した別理随縁語に関して、さきの七
年給季の問にまた論難往復が交はされるが、そ、のうち慶昭門下の纏奔の﹃指濫﹄や、それから元頴の﹃徴決﹄、

g5
■▼
貨相論た於ける唯心論的解蒋 五五

箕細論に於伊る唯心論的解繹 五大
子玄の﹃魔繚撲﹄等の論難書に封して、仁岳は﹃別項随線十門杯難昏﹄空くつて、これらを論破
授の主張を支持に窄ま雪きにもふれ誓性悪﹂の問題についても、琶め知祀と智画との間に﹃請警


に関する論争があ具慶昭門下の成潤が﹃蛮族﹄をつくつて知躇の所論を難じたので、仁岳は﹃止
ってこれに應じ冤更にまた知穫の﹃親経疏妙宗紗﹄に封して成潤は﹃指現﹄をつくつて、知穐の
を具して謂る﹁蛙埜ハ即﹂の義等といふ所詮を難じ、智囲等と同じく猫額の色に三千を具せずと
︵一八︶ 岳は﹃挟膜書﹄をつくつてこれを難じて色心不二の主張から知樽の鎗を護ってをる。ところが、俸へられるその
理由に多少の相違はあるが、ともかく、ある時師資畢詮の上で少しく合はぬことあゎ、たちまち
説の誤を見出し、知祀に背き、知穐の﹃妙宗紗﹄に閲して論難をはじめた。その第宗﹃十諌書﹄︵冨閣梨十諌
書﹄︶であ具これに封して、知躇は﹃解璧日﹄を以て應じ、男らに仁岳竺れに﹃雪空日﹄を以て封k和そ
れらの請書は﹃緯戒﹄の纏忠編、﹃四明仁岳異説叢書﹄中に収録せられ、主として彿身俳性のこ
む駁したもの
ゎれわれの問題は仁岳が師の知縫に背いて後に親境の問題をどう取扱ってをるかといふことに
外語豪は眞心の主張からともかく安心の主張にうつつてをるが、始め知祀の合下にあつて、妄心
た仁岳は後にここを如何に論じてをるかといふことである。師に背いてから後の仁岳はむしろ山
等の所詮と傾向を同じくしてをるとみられ、拳沃史の上では﹃彿組競記﹄等に山家正統から逐は

︵ニ○︶ 俸派或は後山外の人と挺稀せられてをるが、背師後の著作として知祀の所詮と密接な閲係のあるものは上の二書
の外には、とくに崩れわれの今の問題に直接関係をもつ彼の﹃十不二門文心解﹄がある。それらによつてみると
知穐に背いた後の彼は知鰭の下にあつた時のものとは大いにその論調を異にしてをる。ただ前後の論調に一脈通
じるもの.のあるやうに感ぜられることは、その前樹に於ても、知絶とは綿々異なつて、その論述の運び方が、い
はゞ茸相の境地についてものをいふよカは、むしち倫理的な理路を逐ひ、問題が具慣的な境地をはなれて封象化
せられてをるやうに息はれる。たとへぼ前期のものとして﹃十門析難書﹄や﹃挟膜書﹄等の﹁別理随繰﹂や﹁即
・兵﹄の問題、﹁色心不言などを論じるところのごときがそれをよくあらはしてをる。更にいひうるならば、
湛然以後根強く遵宋天台の思想に喰ひ入ってをつた唯心論的傾向− 心性、唯心等を中心とする ー が、知穐と
︵t二︶
は臭って、彼に於ても鉦に早くからあらはれてをるやうにさへ息はれる。そしてこのやうな傾向は師に背いてか
ら後の場合には殊に著しいのは論をまたない。
背師後の﹃十不二門女心解﹄その他に於て知絶と異った主張の主なるものとしては、今の問題と密接に関係す
るが、山家山外論争の重要な給目として、さきにユニ法無蓋﹂について叙べたところで論じてをいた﹁理事親
別﹂の問題について、仁岳はまた次に詳論するやうに山外諸家とも異なり、知絶とも異った解繹を立ててをる。
﹃女心解﹄等に出て凍る仁岳が背師の主張は多くここから出てをるとさへ考へられよう。ここに連閲して特色の
参る主張としては、﹁理溺﹂聖二締に分封し、謂はゆる﹁事撃二今 理二専一﹂といつて基中こ紆を理に、償諦
を事に属するとし、﹁基中理同、俗恨事異﹂、﹁三千の法定て仮に廃す、基中の慣断じて数量にあらず﹂、﹁三千は
但だこれ俗諦﹂といふ謂はゆる﹁三千唯仮﹂の詮を主張し、三千法の互具、融即の意は基中二諦の理同、無相の

J7
賃相諭に於ける唯心論約解滞 五七
. ●
ー、﹁ドヱ .
/ 幾 二、∵、ヾ1 十\.、・
賢相静に於ける唯心論的解稗 五入
︵t三︶
喋にいはゞ還元して、俗恨、差別事相を亡祝するところにあるといふ異解をたてる。またユニ法無差﹂に閲する

∫g
彼の解繹や、彼が背師のきつかけをなした﹁三身詩量﹂についての彿身彿性の議論も、上の理事の問題から出て
凍てをるが、前にもふれたから今は省く。その他六郎についても異解を立ててむる。やはり理事の解輝から出て
をるが、﹃女心解﹄で﹁三千革具の故に六、昼中理同の故に即﹂といひ、吏ら乾この郎或は具といふ意味につい
︵ニ三︶
ても、知穏の解繹を難じて、華厳諸家の詮を耕護してをる。しかし、四明禽下にあつて、成潤を駁した﹃扶膜
書﹄のうちにも、すでにこのやうな傾向はあらはれてをり1ま空ハ郎を首面の現茸の境地についてみてをるとい
︵二田︶ ふよりは境地といふ場面を外してこれを封象化して叙べてをるやうにみへる。もつとも﹃挟膜普﹄では知踵が
﹃観脛疏妙宗紗﹄で蟄挿した謂はゆる﹁蛙蟻六郎﹂といふことを痔護してをるが、後にはこれを論難してをる。
﹃十諌書﹄や﹃雪誇書﹄﹃文心解﹄等にはふれてをらぬが、可度の﹃詳解﹄に引用せられるところによると、仁
岳は﹃難篇﹄′で六郎といふことは本凍研濫を防ぐためにあるけじめを分けた観念であつて、濫ることがなければ
必ずしも六郎を分けて抹ぶことはない、蛙焼といふやうな畜趣の微物には、もとより叩濫するといふやうな事僧
︵二五︶
はないから六郎を用ひて乾分することはないといつてをる。これは正しく六郎といふことを蛙蟻といふ封象につ
いていつたことであつて、上にあげた傾向がはつきカあらはれてをるものとかへやう。知砥が﹃妙宗妙﹄や﹃解
請書﹄でこの蛙焼六郎を覿の境地についていつてをるのに封照して、仁岳の論調が終始知祀のそれと即すること
︵二大︶ が出来ず、遂に師に背かなければならなかった一つの重要な性格がよくあらはれてをる。
︵二七︶
その他起教の観といふ問題についても知絶と見解を異にしてをカ、又山外諸家が多く﹁心具三千﹂をゆるレて
﹁色具三千﹂といふことをゆるさなかったに封し、仁岳は知経と同様に﹁色具三千﹂といふことを主張してむる。
しかしその論述の運び方は知絶と大いに異なるのであつて、やはり山外風の論調をと▼るのであるが、しかも山外
とも同じでない。山外諸家は心具三千といふ心を眞如唯心として、心を理性に於て考へ ﹁級別﹂についていへば
﹁親﹂についていふのであつて、﹁事別﹂ の色にこれをゆるさなかったのであるが、仁岳はそうはいはない。彼
の﹁三千唯恨﹂といふ詮にも明らかなやうに、基中敷同無差、俗仮三千は革具、互具融郎といふことは必ず理軋
於ていはるべきことである。そして通じてその理を論ずれぼ色心寓法その鰹一、色性心性は別のものではない。
心性は色に即し、色性は心に即す。だから色心ともに三千を具すといふのである。心や色が三千を具するといふ
ことは﹁仮﹂に於てゞはなく﹁容中﹂の理同に於ていふのである。山外諸家が多く心を﹁一念理親﹂とたて、色
を差別事相にをくに勤して、色をも理性に於て考へ、いはゞ心性と同格に置いて色具三千をゆるすのであり、そ
の鮎に於て亦、知祀の如く剰郵現前の事別の色の首虞首相に三千を具すると立てる謂はゆる﹁理事繭量級別﹂の
主張とも異なるものである。若し三千を具すといふことを﹁理﹂に於てではな︵﹁事﹂に於ていふならば、たゞ
︵ニ八︶
に色が三千を具せざるのみならす、心も亦三千を具することはないといぶ。


以上によつて仁岳の観囁論の特色をなすその背景を明らかにしたから、次には彼が歌壇としての心について如
何なる主張をしてを渇かといふことを論評したいが、漁想せられるやうに、きわめて複雑した議論になつてをる。
さきにもあげたやうに彼の﹁理事練別﹂に関する考は山外とも異な幻、知絶とも異なつてをる﹂この問麿は湛然

g9
箕相論に於ける唯心論的解稗 五九
叫+▲‘ l\
−. 1 ︻ 1
.′ \
箕相論に於ける唯心論的解帝 大〇
の﹁十不二門﹂中色心不二門に出て来るが、彼も亦山外語豪と奪しく、﹁理雑事別﹂と主張して知穐の蟄揮tた

β0
﹁膚理爾重礫別﹂の養に反封する。しかし、その﹁理親﹂について山外語豪のやうに一向に眞心、心性を立てる
といふのではない。﹃文心解﹄に﹁自ち偏へに清浄眞如を指すとは異なる﹂といつて、山外の詮を駁し、要らに
﹁若し只だ事中一念を以て親となさぼ、豊に別を挿する義あらむや﹂といつて知穫の﹁理紙﹂とともに﹁尊徳﹂
︵二九︶
といふことをゆるすのを難じてをる。ここに彼の微妙な論旨があるのであるが、彼は唯心、心性をのみ理凍の主
慣とするのではない。理といふは後に於てはむしろ知絶と同様覧息味として考へられてをる。即ち﹁具﹂とか
︵三〇︶
﹁郎﹂といふはたらきをもつことが﹁理﹂であカ﹁紙﹂であるといふ。このことは彼の﹁三千唯慣﹂といふ考へ
や色心ともに三千を具するといふ主張でも明らかなやうに、基中の理に於て互具、融郎といふことが可能なので、
差別諸法の﹁事﹂に於ては﹁具﹂或は﹁即﹂といふ′ことはあり待ない。したがって、練といふのは一切諸法がそ
こに於てある、親捜せられてあるといふ意味であるから、茎中の﹁理同﹂についてこそいひうるのであつて、具、
即の義のない﹁事﹂に於てはありうることではない。だから、知穐の主張する﹁事親﹂といふやうなことはゆる
されぬといふのである。では﹁理紙﹂の意味を括ふところのものは何であるか、理紙の主鰻は何であるか。ここ
に知絶のやうに、首面の硯賓の差別事相の首鹿をあげて、その甫端の事の諸法そのままのうちに具・即の練相む
ゆるし、いはゞ意味としての﹁理紙﹂のありやうを﹁事別﹂の中に於てみるといふ主張もせず、といつてまた自
らいふやうに理練の主慣或は本腰と小ふべきものを別に構へて、差別宰相に往趣するものとしての心性唯心とは
直ちにいひかねるといふ混渚があるのである。彼は﹁色心不二門﹂の﹁親森二念、別分色心﹂の旬を解僻する甘
めに﹁色心寓法通じてその甥を論ずれば一々法慣是れ紙にあらざることなし﹂といひ、また別のところ
蒜、別慣なし﹂といつてをるが、﹁撃とは﹁基中﹂、﹁事﹂とは﹁俗憤﹂、茎中に於ては差別事相は亡
てある、そこを親といふ。では理同の親相は差別事相の腎虚、首相に於てではなく、そこを亡祝し、そ
︵三一︶
たものならぼ、それは何庭にあカ、また何についていふのか、これについては彼ははつきカと小っては
しかも、湛然の旬は﹁紙在一念﹂といふ。何故に一念に於て総をあげるのであるか、すでに紙といふ
の一念は事中の忘ではなく理塘の一念であるにちが.ひない。彼もまたこの一念を解繹して心念性、心性といつ
︵三二︶
てをるが、とくにここで心性をとつて紙とするのは何故か、彼の所論にしたがへぼ理同の紙相に於ては
といふから二念といふかわカに一色と立ててもよい筈ではないか。これに答へて彼は色心何れも放とし
られぬことはないが、心放は因にあ具ま東男に通するが、色放はただ果にあ旦即ち心は能造の根源、寓
︵三三︶ 本、前者︵心︶は知り易く、後者は︵色︶は顕れ難いといふ。這知り易く他は顧はれ難しといふところから考へれ
ば、知穏の主張のやうに心をとつて放となすのは親行の便宜のためであるといふやうに受けとれぬでも
しかし仁岳の解繹は知絶とは全然異な曳 ここで全く山外語豪と軌を同じくする。すなはち、﹁一念と
︵三円︶ 心な少、三千世間とは所造の法なり﹂といひ、この心、理に在れぼすなはち心性本具といふ。即ち紙の一念とは
心性、唯心であるが、・ではこの理紙の心性と事別色心とはどんな関係にあるか。彼は﹁別相唯心所生
涼あるがごとし﹂といふ。即ち理練に於てある能造能具、寓法の根源をなす心性が事別諸相を生起せし
ふので挺肇このこと蕃師前にも既にあら痕元てをるやうに畏れるが、ここに山外の心性慧の詮に同ずる

β7
箕相論に於ける唯心論的解蒋
箕相論に於ける唯心論的解帝 大二
事情が明らかである。暦だ山外語豪のいふやうに、はじめから理繚とは即ち心性といふのではな

6g
理放としてありうるが、とくに心性をもつて理雄とたてるのは、心性は能造の本、事別諸法をし
らであるといふのでおろう。この﹁造・具﹂といふ問題は湛然が﹃止勒﹄の文由解繹にはじまり
心的な論目となつたのであつて、山外の﹁不欒随繚﹂の詮に封する知祀の﹁別理随線﹂の主張や
の問題に関連する﹁理兵事造﹂の問題等の根砥をなすものであるが、さきに﹁三千諭﹂や﹁三法
この間題を論じてをいたから、ここで吏めて叙べることを省こう。ただ仁岳も亦三千諸法が融即
後封待なきことをもつて天台国教の特色とし、﹃十門林難書﹄はじめ前期の書には勿論であるが
︵三大︶ も、﹃文心解﹄等にこれむ主張してをる。しかしこの具・郎の養をゆるすものは﹁理﹂に於てゞあつて、事別語
漁のそのままの雷虞に於てゞはない。事別諸法はすべて所詰所具であり、能造能其の義はただ理
ゆるしてをるのみである。﹁撃
たやうに欒造諸法のはたらきはこれを心性にゆるし唯心にゆるすのみで、ここに山外諸家の主張
る。この具造の関係を彼は﹁仝鰹起用﹂嵐ひは﹁全理造事﹂といつてをるが、この諸法﹁撃退﹂
とくに﹃文心解﹄で、知祀等が天台怪異の誼を護って専ら﹁具﹂豊張してをるのを難じ、事経と
の昔庭をやはり偏に理具に於て見て覧と駁して、却って華厳等の諸宗師の所論姦護して㌍聾
以上によつて、仁岳の主張する心の性格にふれて釆た。次には観境としての心の問題であるが
の茸修を否定しない。﹃止勒﹄の十粟親故にょることを執心の建前とする。これらについてはと

隕鉄べられでをるが、親心について、仁岳は党づ﹁観とは囲修三親、心とは通じて四陰を指す﹂といひまた﹁事
︵三八︶ に即して理を顧はす﹂ことが親心の意義であるともいふ。即ち親心の心といふのは常面魂前の心であつて、介蘭
有心、心鰹即具とも自己妙境ともいつてをるとほり、観墳としては衷心をたてるのであり、陰界入三科の観囁の
うち境を挟んで、的に改心につき、末に従ひ事に従って離するので、この心起らざればやむが、起れぼすなはち
十界のうち必ず一道に屠す、この∵運む勧づるに即ち十界百界千如む具す云々と小ふ。そしてこのやう妃境を棟
ぶといふことは修観のためであ旦、それは﹃玄轟﹄の﹁三法妙﹂葦でも示すとほカ、衆生心髄に三軌を具し、こ
︵三九︶
の困は果を成じて三捏盤に達するからであ少、前にもふれたやうに心は国典に通じるからである。
このやうに仁岳は親心をもつて﹁教の所辟、行の所由﹂とし、その心と些二科の封境を棟んで陰堵中の識心を
とる、即ち安心を観境としてここに一念三千の不思議堵を観ずるのであるが、すでに叙べたところから明らかな
ヤうに、安心について不思議境を執するといつても、事別の妄心は三千を具することは出爽ない。互具の義は彼
紅あつてはただ理に於て紙に於てゆるされるのみである。郎を妄心を観墳とするといつても、それはただ手がか
カといふ意味に外ならず、事別事心の腎虚を翫づるのではなく、賓は妄心を介して、理に於てある、紙に於てあ
るところの心即ち心性の理醍について散ずるのであ畠。衷心といつても、ねらふところはその奥の虞であり、妄
を介して眞につき、﹁即事の理﹂につくのであつて、論調に相違はあつても、やはり智囲等と同じくいはゞ﹁卸
妾の虞﹂を親ずるので、これは彼の所論からは嘗然の結論といはなけれぼならない。ここに等しく妄心を親境と
するといつても、知蕗等の主張とその所由、因由を異にする所以が明らかとならう。もつとも知祀が槌と砧と淳

βj
箕相論に於ける唯心論的解簿 六三
資相諭に於ける唯心論的解樺 六四
林の閲係に於て、親行の賓修の仕組みを示す謂はゆる﹁雨量能所﹂の所論のごときに想到れぼ、発達の言として

β4
︵四〇︶
引かれる﹁山外観眞即同親妄、四明祝宴即同親眞﹂といふことも一往骨はれることながら、それは微妙な親心♂
茸修の場面のことであつて、その理論上の背景に於ては規を一にし得ないものがあることを見逃してはならない。
︵こ この稿、とくに仁岳の妄心執境諭は日本宗教学曾東四同大骨で聾表したものであるが紙幅の都合で右大骨の紀要に収
めることが困難であり、紀要編纂常事者の意見もあつて、本誌に載せられることとなつた。


倍ほこの稿は従来整理せられることの砂い邁宋天台に於ける論争の諭目を箕相諭の建前と思はれる鹿からまとめて論
評してみようとするものであり、前後に連なるものの∵部分であるから、重複を避けるために意の通じ難い鮎がある
かも知れない。その鮎で、拙稿、﹁箕相諭に於ける唯心論的解繹−−宋朝天台の戟境に関する論争の批評−﹂︵哲畢
雑誌、昭和十一、六、七月紋所載︶ に続くものであるから、それらの参照を得ば幸甚である。
︵二︶ 拙腎﹁一望切の問題﹂﹁賛相に於ける身燈性、国土性﹂︵曹畢雑誌、昭和十一年二月、何十二年十月︶参照。
︵三・四︶ ︵註︶二、及び拙稿﹁主教化の究極﹂︵曹畢雑誌、昭和八年十一月︶、﹁心の問題﹂︵﹃沸教畢の諸問題﹄所収参照。︶
︵五︶ 拙稿﹁箕相論の唯心論的解繹﹂、前掲参照。
︵犬︶ 産昭については上木皮べたとほりであるが、智囲になるとこのことははつきりと出てをる。資料の粘からも産昭の場
合叔判然せぬところがあるが、智囲によつて、それを補って考へるといふことも出来やう。それについて、たとへぼ、
智囲の﹃金光明経玄義表徴記﹄に於て四難をかまへて廣本の執心樺を否定するうち、撃一の難等によくあらはれてを
る。もつと尽この書は停はらないから知祓の﹃拾遺記﹄に引照せられるところによる外はない。知鱈、金光明経玄義
拾遺記、巻中、∽夢参照。倍ほ﹁三種敢法﹂については別に論じる横合があらうが託事、附法の二親も﹃止戟﹄に説く
﹁釣行﹂の十来観法にならふべきものとみるのが正しい。

︵七︶ 可変、指要妙詳解、巻二−莞ぎノ下 − bノ上、参照。
︵八︶ 山外語家のうち智固は最も多くの著作を残してをり、その教官七十︵閑居編選序︶にのばるといはれ、又世に彼を十
本疏主とも解したといふ。そのうち、今の問題に関係の深いのは湛然の﹃金剛鉾﹄を滞した﹃金剛鉾願性錬﹄や﹃十
不二門正義﹄﹃金光明玄義表徴記﹄等があるが、後の二書は停はらない。ただ﹃表徴記﹄は前述のやうに﹃拾遺記﹄
に辛がかりがあり、﹃十不二門正義﹄は﹃法撃玄記十不二門正義亨﹄が彼の﹃閑居編﹄に収載せられてをる。就中、
執心の問題に関しては、﹃蘇性錬﹄と﹃十不二門正義序﹄によつてその主嚢をうかゞひうる。金剛鉾蘇性錬、撃一、
崇夢ノ上、下、撃ニ、柏冒・b、法華玄記十不二門正義序︵智固、閑居編、巻十、昏上、下︵績戒三ノ六ノ一︶︶等参照。
︵九︶ 金剛鉾蘇性錬、攣二帖ヾ夢ノ上、巻四蛸誓b\下、些獣訂ノ上、諾00ヲ下、璧巴諷ノ下、bノ下、泣きノ上参照。
情理の要は必ず十粟にあり云々の文は智囲の﹃十不二門正義﹄の中の文せして可匿の﹃詳解﹄に引かれてをる︵詳解、
巻一、−Sb︶この書は現在停はらない。ただ﹃十不二門正義序﹄が﹃閑居編﹄に収められてをる。
︵一〇︶ 知祓、金光明経玄義拾遺記、巻中∽告1巻下彗b
︵一こ 孤山四意中、第二義疎、破此文︵この文とは﹃金光塀玄義﹄浜本の執心繹申、﹁問、心有四陰、何以棄三戦ごを
いふ︶云、今家約行附法託事三種戦中、唯約行数筒示陰境、其余二極、仝不戦陰、但託簑積送明理敢耳、今附法視、
抵合下直積二三法一以蹄中三諦山丙撃衰レ三親L之同義、蓋不知三種歓心規矩瞼、是後人檀加也。知鰻、拾遺記、巷中
∽¢p、
但し智囲に於いても理親といふ言葉の使ひ方は慶昭の場合に赦べたやうに湛鮨等のいふ天台正統の意味とは異ってを
る。もつとも知絶は拾遺記ではこのことにふれてはゐない。
︵一二︶ 紳鐙、拾遺記、巻申∽¢p−きp

6J
︵二ニ︶ 知慮、十義書、上、紆−00p参照。
箕相諭に於ける唯心論的解樺 六五


賛細論に於ける唯心論的解樺 六大
二四︶ 十義春、上、夢−訂、下、誌a、望b


︵一五︶ †轟音、上、夢、.拾邁記、巻中∽夢!告辞参照。


︵〓ハ︶ 前註︵一二︶︵一四︶参照。
︵一七︶ 仁岳、別理廃線十門樺雑書、︵績戒九五ノ四︶会訂ノ下、﹃樺門正統﹄にもくわしいが近く、彿覿統記、巻八J¢野b
︵大正︶、同上、撃三二、箪諷・C、可琴指事紗詳解、啓三、㌍訝ノ上、下、参照。
︵一八︶ 仁岳、止発音、︵績戒九五ノ四︶畠茅ノ上以下、挟膜書︵緯戒九五ノ四︶烏夢ノ上以下、統紀、巻八、−莞ぎ・b、同
上、啓二十一㌧望−b・C
︵一九︶ 前註︵一八︶参腰。
なほ仁岳の﹃雪誘書﹄に射して知鰻は封諭してをらぬが、統紀のいふところによると、知祓は病気であつたので門人
にこれを蔑ましめ、これをきいて大息し、すでに膵寂にせまつてをつたので、拝明をしなかつたといふ。後に知慮の
孫弟子にあたる希最が﹃評誘﹄をつくつて仁岳に射し虻。仁岳はこれに應ぜず、﹁四明記其淫行乎﹂と嘆じたといふ。
統紀、巻八、−器b参照。
︵二.〇︶ 統紀、巻二十一、望−a参腰。
︵二こ この鮎についてたとへば、決膜書烏夢ノ上−金野ノ下、念夢ノ上等、十門簿難蕃、堂冒以下、︵榛名立義阿︶等をあ
げることが出衆よう。
更に可定、詳解、啓二、−可夢ノ下、割託、啓三、巴訝ノ下参照。
︵二二︶ 仁岳、丈心解、果訂ノ上、望ぎノ上、笥bノ上、00夢ノ下、その他知薩に対してつくられた﹃辛辣書﹄﹃寧諺書﹄にも
あらはれてをる。たとへぼ、十辣書、∽缶bノ下等参照。
華中を堺て三千を亡沢するといふについては、とくに笥bノ上、00夢ノ下、讐pノ下等参照。

ただしこの考はすでに知鰻の曾下にあつた時から出てをる。別理随線十門樺雑書、︵練成、九五ノ四︶、慧ヲ下等参照。
︵二三︶ 前の句は、文心解、菩ノ下、後のことについては、同上、芸bノ下等参照。
︵二四︶ 仁岳、妖膜書︵練成、
︵二五︶・可髭、詳解、撃一、−ヨpノ下−bノ上参照。
﹃雑篇﹄といふ名は可変の﹃詳解﹄に慶ば出て来意が、仁岳背師後につくられたものである。︵可変、詳解、竺Jざ
ノ下、割註参照︶。
﹃山家教典志﹄や﹃統紐﹄についてみると義孝諾意︵六聾の㌻であろうが今は停はらない。︵統紀竺十一、琶c、
同上、啓二十五、誤ぎ参照︶。
︵二六︶ これについては後にも叙べる横合が雪が、知絶、妙宗砂︵彗至ニノ三︶、竺、災コわノ上、同上、解誘書︵続載
九五ノ四︶誓bノ上、以下によくあら思てをる。吏らに、可匿、詳解に引かれる糖息の句の如きもよくここの意味
をあらはしてをると思ふ。可変、詳解、撃一、.−ヨbノ下、参照。
︵二七︶ 仁岳、文心解、∽夢ノ上以下、;−pノ下、参照。
︵二八︶ 同右、彗bノ上、下、笠aノ下−bノ上下。
何ほこの傾向は前にもあらはれてをる。決膜書、雲bノ下、以下参照。
︵二九︶ 文心解笠bノ下。
︵三〇︶ 同着、00⊇ノ上、下、00夢ノ下、bノ下。
︵三こ 蘭註︵ニ八︶参照。
︵三こ︶文心解、夢ノ下、本文引用の句は、同上、冨ノ下、倍ほ雷唯心とか理に於て心性をいふところは同上、菩上、

βア
下さ照。
六七
・ 貸欄論陀於打る唯心論的解渾
・√∵ ∴.
篭ヽ

十.∵∴ . ′ 亨
\ ー
一 ′
.︰■† ∴∵∴べー∵


賓相諭に於伊る唯心論的解繹 六八
︵三三︶ 文心解、笥b上、下。

βg
︵三四︶ 同上、笥b上。
︵三五︶ 同上、00⊇ノ上、下、00夢ノ下、bノ下、−書評ノ下、bノ上。
倍ほこの傾向は背師前の﹃十門非難書﹄等にも既にあらはれてをると息ふ。十門杯難書、第二写菟門、焉b以下参照。
︵三大︶ 前註︵三五︶引用の筒底と同じ、十門林難書は堂言上、下、たーbノ上以下。
︵三七︶ 文心解、00冒ノ上、00ぎノ下、bノ下、讐aノ上、下、bノ上、−書写下、bノ上。倍ほこの鮎は知鰻等にも弱いところ
がある。知鰻の所論は別に稿を夏める。
︵三八︶ 同上、00夢ノ下、bノ上、止激賛修のことについては¢−bノ上下、00夢ノ上。
︵三九︶ 同上、笥bノ上、aノ下、¢−b下、00きノ上、下。
︵四〇︶ 詳解、巻一、−悪pノ下。
引用の書目丁数中、智囲、顕性錬、十不二門正義序、仁岳、十門稗難書、止疑書、故膜書、文心解、十辣蕃、雷読書、
知撃解誘書、可変、摘要妙詳解は何れも﹁緯戒﹂所収、統紀は大正戒、妙采砂は坑戒にょり、その他は単行流通のも
の︵刊行年は略す︶によつた。それらのうち大正戒所収のもbは磯を得て合すつもりであるが、今は及ばなかつた。
共観福音書と様式史的方法
− 原始基督敦の現代的理解の一駒
三 枝 義 夫

﹁宿昔曹の様式史の中に、原始基督教の運命が如茸に反映して居る﹂︵Hnder冒r屋e邑i彗ed双こ甲忌日ge巳gs ●
鼠egelt賢Fd監二浮巨iO訂已deひqr註ri賢ntum且といふ主張は、我々の耳に、賓に新鮮な響を俸へる。ここには、
﹁福音書の様式史﹂といふ新語が用ひられ、かくの如き﹁様式史﹂の中に、原始基督教の蟄展の
映Lて居るといふこの提唱は、甚だ斬新性に富んだ表現であるぼかヵでなく、二十年このかた初めて聞¢を待た
新提唱であるからである。併しながら、我々が、ここから受ける印象は、単に耳新しいといふこ
この主張の持つ重要性こそ、我々の最大の関心事でなけれぼなるまい。璧日書を、その﹁様式史
考察し、ここから原始基督教の蟄展の虞相を明瞭ならしめ得るといふ、重要なる新研究方法を提
である。即ち、これは、一方において、イエスに閲する種々なる俸詮の眞柏里犀明かにして、イ

β9
共戟肩書書と株式史的方法


共粧涌青書と株式史的方法
匪○ 重恩軍献む鹿すと同時に、他方において、原始基督教の生活と思想と空犀明瞭たらしめ、かくして宿昔蕃研究 乃
と原始基督教研究の南面の研究に暫して、重要な新勒鮎を提唱して居るのを認め得るからである。それ故、これ
は未だ年若い主張であゎ、その提唱の初期において一二の反封詮に逢過したにも拘らず、今日、かかる主張に一
席の耳をも薄さずしては、再青書についても、亦原始基督教についても語ることは許されないといつても、決し
て過言ではないといひ待よう。されば、原始基督教の現代的理解を獲得する為には、我々は蒐づ、かかそ王張に
最も詳細に耳を傾けなければならないであらう。
さて、かくの如き新研究方法は、提唱者マルチィン・ディべサウス︵試邑in Di訂−i宏︶によつて、﹁様式史的方
法﹂︵fOrmge芳hiOど︼i註e眉el■どde︶と名付けられ、私が最初に引用した言葉も、この提唱者の著書﹁両署書の様
︵1︶
式史﹂の中で述べられ窒亘某なのであつた。一般に、この著書の公刊以来、﹁様式史﹂といふ用語も、﹁様式史的
方法﹂といふ名稀も、原始基督教研究の領域内において廉く使用されるやうになつたのである。然らば﹁株式史﹂
とは、如何なる意義を有サるものであるか。
註︵1︶ 試買江口崇be−iu警望e句OrmgeS註icbte des国<芦ge︼ium♂−空き一芸∽N●S●皆可●
ディベリウスが初めて用ひたこの﹁株式史﹂といふ語は、もともと文献峯の領域における用語であることを注
意しなければ滋らない。すべての文献は、それの有する文慣の相違によつて、多くの種類︵G已き5g︶に分たれ、こ
れは、その種類特有な様式︵句Orm︶を有し、﹁様式史﹂とは、かくの如き様式の磨史であるといふ意味に用ひられ
充ものであるが、ディべサウスの指摘するところによれぼ、かくの如き用語は、古典言語堅者ノルデン︵監喜ra
冒夢︶も用新約文献の研究領域においても、鉦に古くフランツ・オーフェルペック曾ぎ芸竃g丘が
︵3︶
︵4︶ 使鳳して居ったといふ。特に後者は﹁一文献は、その歴史を様式の中に有し、かくしてすべての寛際の文献史と
︵5︶
は、株式史であらう﹂といふ重要な示唆を輿へてをつた。
ディベリウスは、かくの如き用語を借り凍って、特に福音書の文献畢的特質を明瞭にしようとしたので遜った。
我々は今野らく、ディベリウスについて、↓様式史﹂ の意義を聞かう。
註︵2︶ 巨星rd害rden︰A関口邑○払学芸.dnter琶hu扁en昌r句Om電欝ghte邑i取替TRae.
︵3︶ 浮草NO諾rbeck︰缶訂rdieAnf賢geder嘗r賢邑len己ter暮lr∴貞瞥〇ri篤heN象宮hrifこ笠柏.S.た可−彗
︵4︶ 声望be︼ius︰ibid♪S●Af.
︵5︶ 句.〇焉rbeek︰ibid.S.畠∽.
ヂィべサウスは前記の著書﹁幅青書の様式史﹂・の目頭において、既に述べたオーフェルペックの﹁すべての文
献史は様式史である﹂といふ命題を取上げて批判し、これは、その言ふやうに、あらゆる種類の文献に適用され
る命題ではなく、むしろ著者の人格が背後に隠れ、前面に硯はれて居ない様な或種の文献にのみ、一層よく適用
されることを指摘した。即ち、多くの無名の士が、それむ受け糖ぎ、修正し、増補し、而もその著者は、何れも
何等文畢的目擦を有してゐなかった様な民間俸承の世界においては、その詩人或は物語者の人格的特質は重要な
裏を持たず、むしろ茸際的要求にょつて創られたその物語の様式の方が、遠かに重要な意義を有するものであ
るが、かくの如き種類の文献を、ディべザウスは﹁小文献﹂︵巴einlite邑弓︶と名付け、凝って、前記の余席昧、

7J
兼職扁香草と痍式史的方法 七︼
夫ポ
一 ー∴
∴ト
予 ー1
−︰. ゾ
、三
共執肩青書と株式史的方法 七二
かくの如き﹁小文献﹂において最もよく適用されることを強調した。かくして﹁小文戯﹂は、文畢的・聾術的文

72
献と慣別されると同時に、又これは既知の小範囲の読者を漁想して居るといふ鮎において、公開を漁想し頂い私
的文献とも充分に直別されなければならないことを指摘した。然るに新約諸文献の文献的特質を吟味すると、二
三の文献を除いては、新約文献は、何れもこの非文畢的文献、即ち﹁小文戯﹂であカ、就中共勒福音書は、﹁疑
もなく、かくの如き小文献に屈するものである。彼等は﹁文畢的﹂作品に匹敵しょうとするものでも、匹敵し得
るものでもなく、而もこれは私的な著述ではなく、例へ小範囲の、謙虚ではあるにしても、公開を漁想してゐる
︵6︶
ものである﹂と稀した。
然らば共親嘩青書を他の新約諸文戯と直別し得る文献的特質は何であるか。ディペリウスはこれに封して﹁共
︵7︶
親指青書の文献的理解は、共親嘩青書は﹁衆集せる材料﹂︵∽巴nme︼習オ︶を含むことを認める鮮から始る﹂ことに
あるといふ、極めて重野な提言をなした。郎皇望日書の文献的特質は、それが単なる材料の衆集家であり、編輯
着であるに過ぎず、従ってここから、福音書記者が、俸へられた俸詮に封して、文献的労作を施したのは、単に
俸へられた俸詮を選接し、これに輪廓を輿へ、最後に一つの物語に構成したことだけであつて、決して材料に最
初の様式を輿へたものではないといふ理解から、先づ第一に出蟄しなければならないといふのである。併しなが
ら、この事茸は従来一般に理解されては居なかった。反つて、古くから嘩青書は恰も大文献であるかの如く取扱
はれ、その俸詮親慣は、著者及び著者の意図に基づいてゐるかのやうに解されて居った。併しかくの如き解繹は
正しくない。嘩青書記者は、鉦に様式を持った材料を単に受取りヽこの眈に形式上一つに纏って居った小さな統
一慣を、単に結合したものに過ぎないのである。﹁かくして帽青書の、即ち、これらの材料の様式史は、一望日書
︵8︶
記者の労作を以て始るのではなく、嘩青書文献の株式化で、或程度終結する﹂ものなのである。然るに、この小
銃一環は如何に構成され、成長するか、この事賓を支配する法則が、更に追求されなければなるまい。﹁この法
則を跡付け、小銃一環の蟄生を明瞭ならしめ、その類型を抽き出し基礎付け、これによつて俸詮を理解すること
︵9︶
∫−これが却ち福音書の様式史の仕事である﹂と栴Lた。
註︵6︶ 呂・Dibe︼i一ぷibid旧.S.ド
︵7︶ ibi▲声S●ド

︵8︶ ibidは.S−∽●
︵9︶ ib岩帽.S.P
以上ディべサウスの主張するところによれぼ、宿昔書の様式史とは、イエスに関する各種の俸説が、如何にし
て教生し、如何なる様式をとつて俸承され、かくして途に福音書記者によつて文献に固定されるに至つたか、こ
の文献に固定されるに至る迄の両青書偉詮の歴史を示すものである。即ち、これは、宗教畢辞典﹁歴史及び現在
における宗教﹂の中で﹁様式史﹂の項目を解語したカール・ルドグッヒ・シュミット︵内邑どdwigS臣midt︶
︵10︶ ︵11︶
の言葉によれば、福音書の﹁前存在論﹂︵守ぎn邑Ogie︶ の意義に他ならないものである。
註︵10︶ 内実−どdまgSchmidt︰冒rmge警hicbte・DieRe厨5.ninG2警Ficht2undGe笥n表rt−望﹂Ⅰ.−諾毛.Sp.認0
︵11︶ この語は○扁r訂ckの用語から得たものである。

フJ
共赦琴青書と株式史的方法
英数宿昔書と株式史的方法 七四
然るに、この璧日書材料の文献的固定化、換言すれば帽青書俸詮の最後の過程については、我々は党畢の長

アイ
に亙る異常なる研究努力め結果を、現に一般の承認を得た定説として所有することの出発る状態に在る。それ
璧日書の様式史的研究も亦、党畢のかくの如き文献畢的研究の結果を考慮し、
の﹁前存在﹂について考察を進めたものである。従って我々も亦、幅青書研究の経過を辿って、更に様式史的
究以前に迄遡り、福音書研究の金程過の下に、様式史的研究の新方法を理解し度いと思ふ。

璧日書については、古衆多くの党尊者達が並々ならぬ研究の努力を賛して爽た。いふまでもなく、福音書は
エスの言行を記した文献であるといふ寄算が、古来研究の興味を異常に唆った原因であつたであらうバそし
︵12︶ の長い研究の経過を脛、初めて現在に至って、既に見たやうに、これを様式史的方法によつて研究しょうといふ
段階に迄到達することが出来たのである。私はこの祓膏書研究の経過を、三段階に分けて大観し、尊敬すべき
くの党聾者達の努力の跡を辿って、現在との聯開とを考へて見度いと思ふ。
私は党づこの試みをなす前に、取上げて特に指摘するまでもないことであるが、現に新約聖書の中に包含さ
れて居る璧量に四書、即ち﹁マタイにょる璧日書﹂︵﹁㌻、⋮きぎ古書ミマルコにょる彗星㌣︵LIミごか
ぶ喜:ぎちむ﹁ルカにょ旦帽青書﹂︵r㌻き喜郎=㌻ヾ!。ミニネにょる宿昔普﹂︵㌧㌻r;ぎ琶巾㌢ごぎ←
と辞されるものがあることを指摘し、この内最初の三璧量は、相互にその内容が著しく類似し、従ってそ.の内
容を三列に配列ずれば、同一内容の記事は平行し、かくて我々は、この三書の内容を同時に大観することが出
..・ヽ
1
︵拶︶ るといふ意義から、グリースバッハ︵J.i.家e∽ぎ阜⊥00一帖︶以来、一括して﹁共親両青書﹂︵晋n旦is註e警告1
琶en︶とい宕稀を以て呼ぼれ、かくして最後のヨハネ誓書とは、著しい内容の相違か辟封立して取扱は
れるやうになつたことに先づ言及し、かくして私は次ぎに、共観相青書間に存するこの類似とは如何なるもの
あるかを明瞭にし度いと息ふ。何となれば、党づこの事賓を明瞭に認識した後、この事茸を如何に詮明するか
いふことに、栢青書の畢的研究の第一歩が踏み出されたのであつたし、且つ踏み出されなければ在らないか
ある。
託︵望 A.Sch焉it琵︰亡ieG箋hichtedeニJeben計苧冒r邑ul摩−冨予
︵ほ︶ A一冒呂詩︰.晋nO屈ederdreier賢n出雲5ge︼ien●−悪筆を参照されよ。希勝原語を以て配列したこの睾にょれ
ぼ、その額似の程匿を塀際にしながら、大赦することが出来る。
︵14︶ 拙著﹁基督時代﹂︵昭和七年︶七八1八六貢に可成り詳細に記述して置いた。
ヽヽ 共歌聖日書が相互に如何にょく類似し、而も相互に如何に腐接な関係を有して居るかは、恐らく次
分に認識することが出来よう。
イザヤ四〇ノ三︵希脂講評︶ マルコーノ三 マタイ三ノ三 ルカ三ノ四
︵漁言者イザヤの書に録 ︵濠富者イザヤにょりて ︵準富者イザヤの言の書
されたる如し︶ 言はれたる者なり。臼 に録されたる如し︶

ア∫
く︶
共視肩書書と株式史的方法 七五
共教頭膏書と株式史的方法 七六
● 荒野に呼ぼはる者の聾 荒野に呼ぼはる者の聾 荒野に呼ぼはる者の草 荒野に呼ぼはる者の草


す、 す、 す、 す、
﹁主の道をそなへ、 ﹁主の道をそなへ、 ﹁主の道をそなへ、 ﹁主の造をそなへ、
ヽヽヽヽ
我等の紳の道すぢを直く ヽヽ 彼の遺すぢを直くせヽ
よヽ
彼 ﹂通すぢを直くせよ﹂

ヽヽ
彼の通すぢを直くせよ﹂
せよ﹂
三善共背約聖書のイザヤ書を引用して居るにも拘らず、何れも引用原典の旬と相違し、而もその相違において
三書は全く一致して居るといふ寄算がここに示されてゐる。而してこの事茸は、三善の著しい類似を示すと同時
に、相互に極めて密接孜閲聯の厳存して居ることを、何よ幻も雄耕に物語って居るといはなけれぼなるまい。
次いで私は、全癒として特に目立つ著しい二三の類似現象を指摘しなけれぼならない。
ヽヽ
物語の経過が、何れも殆ど同じやうな具合で進捗して居るといふのが、その第一の類似現象である。イエスの
活動は、洗祀者ヨハネの活動と閲聯して開始され、北方のガリラヤ地方を主なる活動舞茎として活躍し、最後に
初めで首都エルサレムに行き、ここで捕へられて殺されたといふ、主要根幹をなす物語の経過は、三者とも全く
同一である。この鮎において首都を主要活動舞茎としたといふヨハネ俸とは、著しい相違を示して居るといふこ
とが出来る。
、、ヽ 第二は、これらの物語を構成して居る個々の材料は、大部分共通記事であつて、而もこれは殆ど同じやうな順
.ヽ
序で配列されて居るといふことである。各書の特有な記事は、僅かに物語紙数の1甘に過ぎず、凍りの5甘は共
通記事である︵内1甘は三善間の共通記事︶。配列順序については、次の一例を表示して讃者の理解に資し度い
と息ふ。
中風者を摩す
レビを弟子とす
断食に関する質問
安息日の非難︵こ一歩穏を摘んで
安息日の非難︵二︶1不具者を馨して
ヽヽ
第三は、用語における類似である。最初に例示したイザヤ書からの引用句は、同時に、用語における類似を示
す一つの適例であるといひ得る。
ヽヽ かくの如き類似現象は、同時に、他方にぉいて若干の相違現象の存在することを示してゐることに他ならな
それ故類似現象に向けた眼を、我蒜直ちに韓じて相違現象に向けなけれぽならない。さて相違現象として、第
ヽヽ
−に、同−物語にあつても、その内容を詳細に観察する時には、それは全然同左物語なのではなくして、そこ
には微細な相違が示されて居るといふ現象を、党づ看過することは出来ない。
安息日にイエスが、病んで片手の不自由な病人を撃トて非難されたといふ物語は、三璧日書に共通な記事であ
るが︵右表参照︶、然し安息日にかくの如き留療を賓行することは、常時の禁断の法俸に照して確かに問題とな
l・
ヽヽヽ らな仇ればなら禁つ芸で、ここにおいて、一反封者はイエスに封して質問して﹁安息日に人を馨やすは善﹂

77
共親琴青書と株式史的方法 七七
共戟璧日暮と株式史的方法 七入
か﹂といったといふ。これはマタイ俸の記事であるが、これに封して﹂マルコ俸とルカ俸とは、反封者に封して、

7&

ヽヽヽ、、、 むしろイエスが﹁安息日に善をなすと悪をなすとは何れがよいか﹂と質問したといひ、質問者についての相違を
示して居る。併しながら、かくイエス・が反封者に質問したといふことは、マルコ俸とルカ俸において同じであつ
ヽヽヽヽ たにしても、雨着の間にはその質問動機を異にして居るといふ事賓が又看過されない。マルコ俸にょると、イエ
、、
ヽヽ スは反封者の賛否を知る為に質問L、ルカ俸によると、イエスは反封者の悪意を知ってなしたのであるといふ。
ヽヽヽ.ヽ 第二に、配列順序も、その細部においては、必ずしも一致して居ないことを知ることが出来る。所謂﹁山上の
垂訓﹂と呼ぼれるイエスの著名な敬語は、マタイ俸においては、五1七葦に一括して記され、これは山上におい
て行った敬語であるとして居るのに反して、ルカ俸において墜ハ、一一、一二、一三の各章に散在し、山上では
なくして平原においてなした敷設であるやうに記されて居る。
ヽヽヽヽ 第三に﹂前述したやうに、全鰻の1甘に上る各書の特殊材料と、同じく4甘の多数に上る二菩間のみの共通材
︵15︶
料が叉rこれらの相違現象を構成してゐる有力な要素であることを看過することは出奔ない。
註︵摘︶ マルコ停のみの特殊材料は、この数極めて少ないが︵例へば親族の者がイエスを狂人と考へて、これを振り押へ
. ようとした物語−三ノ二〇−三−等︶、マタイ俸濁特の特殊材料は、・相常の数に上つてゐる︵例へぼ天国の響−一
三ノ二四−三〇、三六−五二、一八ノ二三−三五、二〇ノ一−一六−等︶。ルカ俸のみの特殊材料は、その数におい
て最も多数を占めて居る︵精神的謙虚や悔改めを高唱した、よきサマリア人の響、放蕩息子の響話などのやうな内面
的な美しい物語等︶。
更にマタイ=ルカに共通な材料︵マルコ俸にのみ全然快けてゐるもの︶は最も多く、マルコ=マタイに共通な材料

︵マタイ停にのみ放け七ゐるもの︶も相嘗の数に上るが、マルコ=ルカに共通な材料︵マタイにのみ故けてゐるもの︶
はその数最も少ない。
以上のやうに、共親指青書の問には、極めて著しい一致現象、類似現象が存在してゐると同時に、又可成りの
相違現象も存在する。ここから、これらの現象は如何なる原因にょつて生じたか、これを如何なる理由によつて
詮明すべきであるかといふ、﹁共親指青書間攣︵Dies等号i邑e牒品e︶といふ名柄によつて呼ばれる困難な問
題が提出され、かくしてこの間題の解決に最初の漱を打込んだ時を、私は前述した宿昔書研究の第一段階と見倣
し度い。然らばこの時期においては、如何なる解決の試みが加へられたであらうか。

ヽヽヽヽ
共型翌日書研究の第一段階は、種々なる仮説を次ぎ次ぎに提出して、輿へられた共観相青書問題の解決に首ら
ぅとした、いはば、暗中模索の状態を示した混沌たる時期と稲することが出来よう。
聖書は、紳の聖嘉にょつて記されたといふ窟感説が信ぜられた時代にあつては、前記の事貨は何等問題となり
得るものではなかった。聖蛋の導きによつて記されたれぼこそ、三著聞に存する顧著な一致現象が教生したので
はなかつたのか。類似現象は首然な現象でなければならないであらう。むしろそこに存する若干の相違現象こそ、
注目されなけれぼならないものである。従って、彼等にとつては、この些細な相違を、全醍の中に調和せしむる
ことが、重要な関心となつた。併し、以上の如き信仰を前提L、この前提から出聾した彼等にとつては、かくの

如き問題は、途に、雷然にも重大な峯恥関心を惹き起すこととはならなかったので−ここからは、何等傾聴に値

7タ
共祖廟青草と株式史的方法 七九
共観福音書と株式史的方法
する解決を開くことは出爽ない。

β0
然るに、新約聖書も亦、それはたとへ特殊な意義と自覚を以って記され、特有な低値を有する文献であつたに
しても、人間の産出した文献として、少くともその歴史的起源については、人間理性の封象として考察されなけ
ヽヽヽヽ
ればならないと考へられた啓蒙思潮以衆は、むしろ反封に、類似現象に注意の眼が注がれ、如何にしてかくの如
き一致現象が生じたかに、説明の努力が費やされたことは、常然であるといはなければならないであらう。
かくの如き合理的解繹は、併しながら、既に教父時代の傑れた紳聾者アウダスティヌス︵Aug宏旨ロS︶によつて
試みられて居ったといふ事茸を、看過することは許されない。アウダスティヌスは、この共親指青書問の類似現
象を詮明して、これは、各璽日書記者が、既に彼以前に存在して慮っ塑帽青書を利用した為貯、生じたものであ
るとなしたの﹁である。即ちマタイ、マルコ、ルカの順序で、次なるものが、前なるものを見乍ら書いたといふの
である。そして、啓蒙時代の合理的説明は、この久しく埋もれて居ったアウダスティヌスの仮説、いはぼ﹁利用
仮説﹂︵謬n已昌ngSすpO旨ese︶とも稀すべきものを再び取力上げて、その説明となしたのであった。勿論利用さ
れたと考へられた両青書の順序は、必ずしもアウダスティヌスによらず、種々なる順序が考へられたことはいふ
︵16︶ までもない。
註︵16︶ アウダスティヌスの認を復興して、マタイ・マルコ・ルカの利用順序を主求したのは、グロティウス︵GrOtiu盟
等であり、マタイ・ルカ・マルコの利用順序は、グリースバッハによつて主来され、これは﹁グリースバッハの僻詮﹂
として特に著名である。マルコ・マタイ・ルカの順序はシュトル︵StOrr︶ によつて主張された。


さて、かくの如き最初の解繹は、⋮彗星晶の類似現象を説明するには、極めて適切であると許することが出
よう。他の福音書む見て記したればこそ、多くの一致現象が蟄生したと、極めて合理的に説明し得るからであ
併しながら、かく他の幅元日昏を見て記したものであるとするならば、何故そこに又多くの相違現象が生じた
あらうか。同じイエス誕生記事にあつて、マタイ俸︵一ノ㌃∵±五︶とルカ俸︵二ノT〓○︶とが全く異なるのは、
かくの如き利用仮説にょつては到底説明し待ないであらう。類似現象を充分考慮の中に入れ、且つ相違現象計
暦合層的に説明しようとするならば、この相違現象は、三普以外の他の文献を、各自が猫自に利用した為に生
た現象と考へた方が、一層更に適切ではないだらうかっ
ここから三福音書以外の或る他の福音書を、三普が各々猫立に使用したといふ仮説が提出されるに室つ焉我
々は今この仮説む﹁原本仮説﹂︵q箋1旨ge−iumsすp。these︶と栴しょう。ここでも亦、かかる原本たるべき福音
書とは如何なるものであるか、ヘブライ語の彗星日であるか、或は希臓語の一望量目であるかといふ鮎で、多
を有するものであるが、これは著名なレッシング︵訂邑ng−−ヨ00︶、ゼムレル︵Se邑eり、−詔00︶、アイヒホルン
︵匡各hOrロこ諾e等によつて主張された。
ヽヽヽ

であると許しなければならない。一つの原本に基づいて記したとする以上、類似現象は、常然これによつて説
されることが出来るが、かのイエス誕生記事の相違は、この三の原本から夫々引用したものなのであらうか。
この一つの原本は、かくも相違し、所々矛盾さへ呈してゐる二つのイエス誕生の記事を︰もともと同時に記し

β7
ヽ 共親琴青書と株式史的方法 八一
異教肩書書と株式史的方法 八二
おつたものと考へねぼならないであらうか。かくして﹁原本仮説﹂の最大の故障は、原本を唯一の文献となした

β2
髄にあるといはねばならない。ここにおいてシュライエルてヘル︵S彗eiern−邑erこ00ーヾ︶は、かくの如き原本
は多くの断片的記録であるといふ、いはば﹁断片仮説﹂︵字義mentenhypOthe語−Diegま2n旨eOユe︶と栴すべきも
のを主張した。併しながら、ここで重要なのは一つの原本ではなくして、多数の原本であるといふのであれぽ、
これは必ずしも文献と考へる必要はなく。文戯の代りに、多くの口俸への断片的停承と考へても、差支へないで
あらう。ギーゼレル ︵Gie邑erこ00ー00︶ はシュライエルマッヘルの後を受けて直ちに、かくの如き、いはぼ﹁口
倦仮説﹂ ︵学監itiO口許ypOthe芳︶と稲すべき仮説を主張したのであつた。
ヽヽヽ
この断片、口俸の二つの仮説は、前二者の仮説と異って、福音書相互間に存在する相違鮎を説明するに、適切
な仮説であると許し得よう。多くの相違鮎は、多くの断片的記録、或は断片的口俸の俸承に基づいたが故に生じ
た現象であると解することは、極めて適切であるからである。併しながら、一致類似鮎は、反封に、これらの偶
語からは適切には説明されないであらう。断片的記録を基礎として居ながら、而も全惜における物語配列の順序
が一致して居るといふ事賓は、﹁断片仮説﹂からは決して説明されないし、希臓語において三福音書の表現が、
往々一言一句の末に至るまで、全然一致し七居るといふ寄算は、﹁口俸仮説﹂からは到底説明し得ないからである。
共観相青書の闇題に封しては、以上の四仮説の主張は、考へ得られるすべての解決法む呈示し蓋したものとい
ふことが出来よう。我々は、かかる四偶語以外に、通常なる仮説を他に考へ出すことは殆ど不可能であらう。そ
れにも拘らず、賓際には、これらの仮説は、何れも部分的解繹には役立ったけれども、全慣を刺すところなく誼
明し童⊥偽るといふものではなかった。結局、この段階は、これらの仮説によつては、途に満足な説明の出来な
かった、偶詮の提出時代、いはぼ混沌たる時代であつたと稀することが出来よう。かくして我々は、ここから↓
共潮璧日苦悶題は、かぐの如き単一な仮説にょつてではなく、それらを綜合した複雑な偶語にょつて、初めて解
決し得るといふことを教へられたと同時に、他面、かくの如き状況は、宿昔書の批判研究界に激しい動揺と不安
定とを輿へ、かくの如き畢界硯情からの、必然的な産物であると同時に、新解繹への直接刺戟を輿へることに役
立った所の、劃期的な著書、ダビット・フリードリッヒ・シュ・トラウス ︵D雪id守i2dri各二等⊇戻且一の﹁イエス
︵17︶
俸﹂が公刊されるに至ったことに注目しなけれぼならない。
註︵17︶ せ雪id出riedr●Strau仇S︰D誌Feben Je筈−−芸Pt
シュトラウスは、﹁我々の目的は過去の歴史を確めることではなく、むしろ人間精神を助けて、信仰の重き椀
︵18︶
から、将来解放せしめようとすることである﹂といふ彼の著書の目的と、﹁この目的に封する最良の手段は、概
︵19︶
念の哲畢的啓蒙と相並んで、歴史的研究である﹂といふ方法とを明瞭にして、問題の中心を、イエスが賓際に何
老語り、何を焉したか、文相青書の物語阻、夫自身において何であるかに置くことを止めて、報告者がイエス盈
して何を寛L、何真一百はしめたか、文物語者が、彼の立場に立ち、彼の晦殊な目的の下に、イエスと共に何を考
へ、何を欲したかを明かにすることにあると辞し、イエスそのものを知ることではなくして、福音書記者がイエ
スを如何に見たかを、研究の封象として取上げようとした。.併しながら、彼の研究の興味は、むしろ両青書の物
語は果して眞賓であるか否かといふことにあつた。然るに、かかる問題に対しては、﹁我々が元来知り皮いと思

βJ
共翠鱒青書と株式史的方法 八三
′ −−
ユーA︰
共観福音書と株式史的方法 八四
ふのは、両青書の物語は、金曜において、又部分において、眞安であるか香かといふことである。︰⋮・この鮎に

β4
ついては、最近二十年間の帽青書批判は、只菓ぼかり繁つ溌感じである。特に最初の三相青書に関する、その資
料、目的、構造、関係についての多くの新仮説は、相互に鋳き合ひ、恰も、これで問題が打切られたかの如く、
熱心に建設し闘争し合ってゐる。然しこれらの論争は、透か遠く脾死に迄引輯くかのやうに思はれる。従ってこ
の主要問題の解決が、寄算この論争の終結を見る迄引き延ばされねばならないとすれぼ、この主要問題が、いつ
︵幻︶
の日明瞭にされるか、不安たらざるを待ない﹂と栴し、批判研究界の混沌たる情況を指摘し、百年河清を待つ愚
を止め、むしろこれと異った観鮎から考案しょうといふ前記の目的に邁進することとなつたのである。かくして
為した彼の詳細なる幅青書の研究は、常時の県界に震駁的な結論を提供した。
註︵18︶ 瞥r呂若いibid.−琵食♪出d.Ⅰ.S.舛IIHf.
︵19︶︵20︶ ibid琵●S.舛Ⅰく.
即ちシュトラウスは、詳細な研究の結果、福音書に記された物語は、すべて神話であるといふ驚くべき結論に
到達したのである。即ち彼にょれば、﹁大樹にからみ付き、これを遠ざけてゐる各種の神話的蔓の一国を、我々
は今日迄、大樹そのものの枝、菓、色、形であると考へて残雪然しそれは大部分は、かの蔓そのものであつ鷲
叉我々はこの蔓を取除くことによつて、大樹の虞の姿と外観とを再現させる代りに、むしろ寄生植物が如何にし
て大樹の菓を駆逐し、その液を吸ひ取旦大小の枝を萎縮せしめ、かくして元来の大樹の姿が最早全然存在しな
︵21︶ くなつたかを見出す﹂といふのであつ鷲歴史のイエスと、両青書に記された基督の俊之は、大樹とそれに纏綿
した蔓との相違であるか而してシュ!フウスにとつて重要だつたのは、それ故その蔓を取去って、眞資の歴史上
のイエスの像を再現することではなくして、如何にしてかかる眞茸の像を曲歪した神話的物語が出現したかとい
ふところ、にあつ1た。そしてかかる神話は、帽祉を接待しょうといふ人間精神の作用にょつて創り上げられたもの
に外ならないのである。﹁歴史的基督と、理想的基督、換言すれば、人間理性の中に存する人間の原型とを直別
︵霊︶
し、棺祉を得んとの信仰にょつて、この歴史的基督より理想的基督へと移り行った﹂ことを明かにしょうとした
のが、彼の著述全鰭の究極の目梗であつた。
註︵21︶ ibid誌●監HI●S●∽記●
︵22︶ ′ibi忠相.出d HI.S.∽冨

シュ!フウスの﹁イエス俸﹂は、その綿密な研究と、驚くべき結論によつて、畢界を根砥より霊験せLめ、彼
自身も亦復習指導教師の職を曳ぜられなけれぼならなくなつた。一本の批判の棒を以って履き鵜はされた蟻の大
群のやうに、紳峯の陣営は右往左往し、狼狽の極を蓋したとは、常時の人の批評であつたといふ。何となれば、
シュ、トラウスの研究は、畢界に一つの判然たる研究目槙を指示して、本来の樹木たるイエスを覆ひ蔭した、この
寄生植物、福音書を更に一層明瞭ならしむべきことを明確にしたが、これは二つの全く相異なる方向の道を、新
たに開拓することとなつたからである。一は、幅青書の神話的特質の方面を更に一層強調し、その昔後に存在す

β∫
る歴史的イエスを否定せんとする、所謂基督抹殺論の端緒を開いたことである。ブルーノー・パウエル ︵野層○
共視鱒青書と株式史的方法 八五
共親琴晋書と様式史的方法 八六
許諾ユは、シチ・トラウスの理解を更に一歩進めて、帽青書は、常時の下層階級が.羅馬皇帝に反封して、理想

ββ
的支配者を描き出まうとした者の、詩的創作に外ならないといふ主警蟄缶・ここに現代に至る迄、絶えず尊
︵24︶ 界の一′隅において繰返し主張されてゐる、其督の歴史的否定論の端緒を開くこととなつた。
註︵23︶︰野un〇出puer︰Chri裟u∽unddieC訝弓en、−笥∝.
︵空 この基督の歴史的否定論については、拙稿﹁基督抹殺諭の諸相﹂︵理想、昭和五年二〇挽︶参照。
他は、幅青書の批判研究を更に一層徹底せしめて、確賓なる結論を生み出し、帽青書成立の情況を明かにし、
延いてはイエスの歴史的存在を確立せしめようとしたことである。シュトラウスの研究も、結局は宿昔専研究の
未熟と不安定とから生れたものであつたから、この﹁菓ばかりり繁つ符﹂従来の研究から、更に一歩を進めて、
批判研究の根幹の成長を促すことに努力が集中されなけれぼならなくなつた。かくして、かかる異常な刺戟に應
ヽヽヽヽ じて、初めて不動の畢説を確立するこ.とに成功したこの段階を、私は璧日書研究の第二段階と稀し度い。﹁共観
相青書問攣の解繹として、この不動の地位を占めるものをぼ、﹁二資料詮﹂︵晋ei‖Q邑−enmeOrie︶と栴し、こ
れはマルコ俸と、ある他の文献の二つを主要資料とL、その他の小文献、口俸の俸承を副資料として、初めて現
在の共観相青書が成立したと主張する畢詮である。ここに我々は、前時期において彗百されたすべての仮説が、
ここに再び、その部分的主張を保持しながら一括綜合されて主張されてゐるのを認めることが出来る。従って、
これは又﹁綜合仮説﹂︵汽embi。註On賢冒Othe且とも栴し待よう。クリスティアン・ヘルマン・ブィセ︵9ri裟芦
習rヨ眉n召。iぎー00∽∞︶ によつて基礎付けられ、爾来微細な鮎にぉいては、多少の意見の相違を示してはゐる
が、その根本は次第に確められて、遂に今日の定説となり待たものである。
然らば、何故マルコ俸が、他のマタイ、ルカ爾福音書の最も有力な資料であつたといふ仮説が主張されなけれ
ぼならないであらうか。これに封して、我々はこの憶説を、物語材料、配列順序、用語、思想内容の四部から確
立することが旧来る。
共親幅青書が、全鰐としゼ相互に、材料、配列順序、用語の諸難から、極めてよく類似して居ることについて
は前述したが、更に詳細な親黍の結果にょれぼ、これらの類似は、すべてマルコ俸を基礎として示されたもので
あつたことに気付くことが出爽よう。
へお︶︵お︶ マルコ俸の中に含まれて居る物語材料は、僅少な物語だけを除いて、すべてマタイ侍とルカ俸の中に存在して
居るⅥに反して、マルコにない、マタイとルカとの共通物語は、極めて少数であるといふ事賓に、党づ注目し、
これはマルコを中心として、封マタイ及び封ルカの関係の方が、マタイ封ルカの関係よりも、遠かに密接である
こと、換言すれば、これはマルコが内容の上から最も根本になつて居るといふ等質を示す庵のと認めなけれぼな
ヽヽ
らない。然るに、かくの如き現象は、三吉問に行はれた利用関係の結果として説明しなけれぼならないであらう。
もしこれを、原本椴説によつて説明しょうとすれぼ、マタイは極めて偶然に、マルコがそこから取った材料を、
殆ど全部、或原本宿昔書から取ったといふ、不自然な説明とならなけれぼならないからである。かくしてマルコ
=・マタイ=ルカ間に、利用関係が存在するとするならば、マルコの中には、マタイやルカに布衣するやうな、山
上の垂訓や、イエスの奇螢的誕生の記事などが有産し潔いところから見て、マルコはマタイ=ルカを利用した最

β7
共就頑青書と株式史的方法 八七
共敷革晋書と榛式史的方駄 八八
後のものと推定するよ力も、反封に、マルコはマタイ=ルカによつて利用された最初の福音書であると推論すべ

ββ
きであらう。
註︵宛こ マルコの材料の中、約十二筒の、極めて短い物語を除いて、他の仝部の材料が、マタイの中に含まれて居る。
︵讐 同じくマルコの材料中、約二十箇を除いて、他の全部の材料が、ルカの中に含まれて居る。
ヽヽヽヽ
このマルコが中心となつて居ることは、物語の配列順序を比較して見た時にも亦、明瞭に指摘することが出
︵釘︶ 釆、そしてこの現象も亦﹁利用仮説﹂によつて説明さるべきであつて、断片恨詮や、口俸仮説によつては詮明す
ることは出来ない。
証人27︶
マ ータ イ マ ル コ
ヨハネのメシア諷言 三ノー一−一ニ 一ノ七1八 一ニノー五1一八
イエスの受洗 ー三1一七 九1一一 ニー−二二
悪魔の誘惑 四ノー−一一 一二−一三 周ノー−一三
ガタラヤ活動 “二−一七 一四−一五 一四−∴五
四人の弟子を徒ふ 一入−二二 一六−二〇 五ノ∵1一一
カペルナウム食堂の奇蹟 二一Ⅰ二八 四ノニー−三七
ペテロの姑の熱病癒し 八ノ〓甲1︼五 二九−三一 三八−三九
同日夕、多くの病人癒し 〓T⊥七 三こ1三四 四〇−四一
同地過去 三五1三八 四二−四≡
ガリラヤ遍歴 二三−二五 三九 四四
ここにマルコを中心として、マタイ、ルカの材料が配列されて居るのを看取することが損耗よう。四角で限つた部分
はマタイ、ルカ自身が特有な意固の下に、順序の欒更を加へたものであつて、原始的な順序でないことは明かである。
ヽヽヽ 何となれぼ、マタイは、五1七章の中に、イエスの﹁敦設﹂を一括して記し、それによつて、敦記者としてのイエス
の婁を、明瞭に括鴬することに努力し、次いで八−九章において一群の﹁奇蹟﹂物語を二括し、それにょつて、イエ
スの救済者としての婁を措かうとしたのであるから、この表中の、奇蹟に関する物語のみが、その順序を襲吏して周
るのは、かくの如きマタイ特有の意図によつた順序といふべきである。
ヽヽ
ルカの順序もさうである。この場合は、﹁カペルナウム食堂における奇蹟﹂物語の占める順序が、重鮎として考へ
られなけれぼならない。マルコでは﹁カペルナウムの奇蹟﹂︵一ノ二一−二八︶ − ﹁故郷において卑めらる﹂︵六ノー
−六︶ の順序で配列されて居るが、ルカでは﹁故郷において卑めらる﹂︵四′一六−三〇︶ − ﹁カペルナウムの奇蹟﹂
︵四ノ三一−三七︶ の順序で記され、この場合、ルカの順序が第二次的の欒吏した形であることは、﹁カペルナウム
の奇蹟﹂以前に、故郷に掃ったといふ順序をとつてゐるにも拘らず、故郷の人は、﹁カペルナウムの奇蹟﹂を既に知
って居つたといふ︵二三︶、寄現象を呈してゐることによつて、確めることが出死、これはルカがマルコの順序を前提
してゐるといひ得るからである。
ヽヽ ヽヽ
文章の構造、用語においても、マルコが最も基本的な形を示してゐるのを、指摘することが出来る。特にマル
︵28︶− コの文章は、簡潔にして幼稚素朴であり、この軍縮性は、マルコが最も古いことを示してゐるものであつて、も
しも、マルコは、最後に、マタイ、ルカを一層簡潔化したものであるとするならば、マルコの文章は、単純の軋
に、更に一層洗練された形式を具へて居なけれぼならない筈である。然るに、マルコの文章は、かくの如き洗練
でれた文章ではない。
鞋︵28︶ このことは ﹁而して⋮⋮而して﹂ ︵きγ−差‡ といふ単純な接続語で文章を績けて行く形式をとつてゐるとこる

β9
共親宿昔書と様式史的方法
共親鱒青書と株式史的方法 九〇
に明瞭に示されてゐる。例へば∵二〇・一一・山二・一三・一四は、何れも邑で接緯Lて居る。


ヽヽヽヽ
から、次第に複雑高等なものへと蟄達する。殊に信仰崇拝封象者に封する観念は、明かにかくの如き経過をとつ
て進む。イエスを紳の子として崇弄する基督教教団においては、イエスの人間的色彩は次第に犬はれて、イエス
はいまいよ神格化されて行く傾向を辿った。この紳畢的思想蟄展切経過から、我々は又充分に、マルコの原初性
︵銅︶ を確めることが出来る。
註︵翌 マルコにおいて、イエスは、その周囲に集った病人のうちの﹁多くの人﹂\を摩したと記されてゐる物語は︵マル
三ノ三四︶、マタイ俸において、﹁すべての人﹂と記きれてゐる︵マタイ八ノー六︶。﹁多くの人﹂から﹁すべての人﹂
へと蚤虚した跡を、我々はここから跡付けることが出来よう。イエスは故郷において、﹁何等の奇蹟を行ふことが出
凍なかつた﹂ といふマルコの叙述︵マルコ六ノ五︶と、﹁多くの奇蹟を行はなかつたのだ﹂と記してゐるマタイの叙
ヽヽ 述︵マタイ三ノ五八︶とを比較して見ても、奇蹟を行はなかつた理由を、能力の問題からかか掛掛の現題へと聾展
せしめて行った跡を、看板することが出来よう。
かくして、マルコは、他の⋮璧口舌の資料となり、マタイとルカとは、このマルコを利用したといふ事賓を、以
上の多くの理由に基づいて謹明し得るであらう。而してかくの如き謹明は、﹁利用仮説﹂の適用に外ならない。
次いで第二の資料隼如何なる根掠に基づいて主張されるのであるか。
マタイ、ルカの三嘩青書から、今試みに、資料マルコを利用した箇所を全部取除いて、その嫁験の部分を戟苓
︵欝︶ すると、雨着の間に箇著しい類似記事が多数存在してゐることに気付くどとが出解る。さてマタイ、ルカの雨着
、、ヽ
1
間においてのみ一致Lてゐるといふ、かくの如き現象は、如何に説明すべきであらうか。
ヽヽ 註︵訓︶ 例へば洗鰻者ヨハネの説教︵マタイ三ノ七−一〇−−ルカ三ノ七=九︶の如き、その適例であつて、用語の鮎まで
姶ど完全な表を示してゐるれかくの如き類似記事は、マタイにおいては金物語材料中の1官、ルカにおいては1す
の多数に上つてゐる。
雨着が、用語の鮎に至るまで完全な一致を示してゐるといふこと、は︵前註︵30︶参照︶、ここでも亦口俸の材料を引
用した焉と解する﹁口俸仮説﹂によつて、説明することは困難であつて、矢張り﹁文献﹂を利用した為に生じた
相互の類似と考へた方が、遠かに合理的であるといはなけれぼなるまい。而して﹁文献﹂を利用したといふ時に、
我々は次の二つの可能な場合を想像することが出水る。
第一は、﹁利用偶語﹂による説明、即ちマタイ、ルカの両者の中、何れかが資料となり、他の何れかがそれ私
利用したといふ場合である。第二は、他の第三の原本を共通資料としたといふ、所謂﹁原本偶語﹂にょる説明でl
︵31︶ ある。然るに、第一の場合は、種々怒る困難を倶ふ故に、これは主張することは出来ない。
註︵31︶ イエス活動以前の物語、及び復活物語は、爾嘩音書において物語られて居るが、その内容は甚だ相違してゐる。か
くの如き大きな粕連は、仝経としての一撃晋署を、他が利用したといふ相互関係を否定するものでなければならない。
ヽヽ
又もし一方が他を利用したならば、賓料となつた一方の宿昔書は、常に原初的な思想内容む示し、それを利用し潅
ヽ■ヽ
伯方の琴青書は、常に蚤達した思想内容を示してゐなけれぼならない啓であるにも拘らず、事資は、或場合には、マ
. タイが古い原初的な形宮元し、或揚合には、ルカが古い原初的な形を示してゐる湯合があつて、常に一定して居ない
ことも、重要な困難の一つに数へなければならない。

タ∼
典裡宿昔書と株式史的方法 九︼
′11
− ・ヽ1、. サ.ノ∴ヰ 鼎メ㍉.㌣丸 か㌧
一∴、=㌧㌧


∴ト・ノ
共戟痛著書と株式史的方法 九二
︵マタイ八ノ二二︶ ︵ルカ九ノ六〇︶

タ2
我に従へ、死にた.る者にその死にたる者を葬らせよ ヽヽヽヽ 死たる者にその死にたる者を葬らせ、汝は往き
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ −▼ ヽ ヽ ヽ ヽ
て紳の囲を言ひ弘めよ。
これは前者の例であつて、ルカは、停造を重要な職務とした後の故国生活を反映し、マタイよⅥ︰も時代的に後代の句
であることを示してゐ.る。然るに、マタイ一八ノー五以下=ルカ一七ノ三以下において、マタイは﹁もし彼等にも聴
ヽにヽ げ
ヽヽ、 かよず
、ばも敦
し敦骨食に骨
も聴かずば⋮⋮﹂︵一七︶と準ぺ、ここには敦曾が既に成立し、相常な構成を保持し
て居つたことを示し、ルカよりも後代の思想たることを明示Lてゐる。
かくして、この際、相互の利用が考へられないとすれぼ、雷然、残されだ他の可能な場合、即ち或る原本を利
用した場合が考へられなけれぼならない。而してこのことを、更に積極的に主張せしめ得るのは、マタイ、ルカ
に、しぼしぼ存在する重複記事である。即ちこれは、同一記事が二箇所に重複して記されてゐるものであつて、
これは明かに一つはマルコより放つたものであるが、他の一つは或る原本より取つたことを示して居るものでな
︵32︶
ければならないであらう。
註︵32︶ 例 重 複 記 事
︹マタイ一六ノ二五︺ ︹マタイ一〇ノ三九︺
︹マルコ八ノ三五︺ 己が生命を救はんと思ふ者は、これを
失ひ、わが馬に、己が生命を失ふ者は 生命を得る者は、之を失ひ、我が為に生
己が生命を救はんと
之を得べし


命を失ふ者は、これを得べし

が息
は、とれを失ひ、我

ノ\
︹マタイ九ノ二四︺ ︹ルカ一七ノ三三︺
肩書の箆に己が生命を朱ふ
己が生命を救はんと思ふ者は之を失ひ 我
者は、之を救はん が食に己が生命を失ふ人は之を救は 凡そ己が塵命を全うせんとする者は、


ん これを失ひ、失ふ者は、これを保つべし
私の研究によれば、かくの如き重複記事は、次の如く十五箇を数へることが損耗る。
﹁桝の下の燈の曹 マル。四ノ二二
カ ル
八ノー六
マタイ
ル カ
五 ノー五
一一ノ三三
二︰願るるもの薪はる マルコ四ノ二二 マタイ
蒜”一ニハ︶
カ 八ノー七 ル カ
三、持てる者輿へらる ︵ル
マルコ四ノ二五 マタイ 一三ノー二
カ 八 ノ一八 ル
マタイ

四、弟子政道について マルコ六ノ八−一一 ︵ マイイ一〇ノ几1一〇前年一帽
ル カ 丸ノ三−正
マタイ一〇ノー〇後牛−一一
ル カ一〇ノ四・ゼ前牛、役牛・八・岩1一一前半−
五、天よりの徴 マルコ八ノー丁 三
マタイ 〓ハノ四
〃圭兢
一四ノ二︶
六、十字架を負ひて従へ マルコ八ノ三四 一六ノ二四 一〇ノ三八
九 ノ二三 七
七、生命を獲る者 マルコ八ノ三五 一六ノ二五 一〇ノ三︶

九 ノ二四 一七ノ三三
八、我を恥づる者 マルコ八ノ三八 一大ノ二七 一〇ノ三︶

九 ノ二六 一二ノ 九
九、我を受くる者 マルコ九ノ三七後牛
カ 九ノ四八後半

一〇ノ四〇
一〇ノ〓ハ
一〇、我と倍ならぬ者 マルコ九ノ四〇
カ 九ノ五〇
一一、蹟の手を切去れ マタイ 一八ノ八
一二、践の目をえぐれ マタイ 一八ノ九
マルコ九ノ四七

9j
共鱒琴晋書と様式史的方法
共敏感普書と株式史的方法
マタイ 一九ノ九 マタイ
一三、離婚について マルコ一〇ノー

94
ル カ
苗、山を移す信仰 マルチ二ノ二三マタイ ニーノ二一 マタイ
ル カ
マタイ 二三ノ 六
二華・パタサイ人攻撃マル三二ノ三八1三九︵ ん カ ニ〇ノ四六 ルカ一刀町引︶
かくしてマタイ、ルカは、第二の資料として、或る第三の原本を利用したことが、推定されなけれぼならない。
そしてかくの如き推定は、﹁原本仮設﹂の適用に外ならない。
私は今ここで、かくの如き第二の資料についての詳しい考察を為すことを避け度いと思って居る。ロハこの原本
の内容は、イエスの敬語を集録したものであり、かくの如き文献は、現に我々に俸へられて居らない鮎から、既
に亡映したものと想像され、そこから我々は、この失はれた文献を、一般に、猫逸語のQ莞−−e︵﹁資料﹂︶の頭文
字をとつてQと辞して居ること、そしてこれは吉敷響いふところの、使徒マタイがヘブライ語で集録した﹁主
ギア の言葉﹂︵ふンふ畠︶の語録集の希臓語諾と、恐らく同一文献であらうことに言及するだけに留め度いと息ふ。
註︵33︶ 出usebi亡ねの﹁敦曾史﹂三食二二九ノー六によれぼ、曙正パピアス︵P毒i革紐元一三〇年頃︶が、かくの如き俸詑
を停へておったといふ。
以上の考察にょつて、﹁マ・ルコ﹂と﹁Q﹂が二大資料となつて、マタイ、ルカにょつて使用されたことを知つ
ヽヽヽヽ た。共観相青書相互間に存在する著しい類似現象は、かくの如き仮説にょつて充分に説明することが出来
ヽヽヽヽ して相違現象は、マタイ、ルカがかくの如き共通資料以外の、いはぼ﹁特殊資料﹂︵SOnde還已︶を使用したこと
に辟着きれなければならない。そしてかくの如き特殊資料は、何磨から得たかについては、現在最も多くの論議
の行はれて居るところであつて、充分には明確に明かにされないが、恐らく、ここには多くの口俸の物語と、小
︵訓︶ 文献から待た物語とを指摘することが出来るであらう。そしてかくの如き解繹は、﹁口俸仮説﹂﹁断片仮説﹂の通
用に外ならないものである。
註︵聖 マタイにおける特殊資料には、口俸の停託と推定きれるものが多い、少くとも、文献にょるものと明確に指摘し
得ないものが多い︵イエス誕生物語など︶。これに反して、ルカにおける特殊資料には、多くの断片的文猷より得た
と推定されるものが多い。洗祓者ヨハネの誕生物語、イエス誕生、幼年物語、又放蕩息子の響話のやうな内面的な美
しい多くの響話など。
﹁二資料詮﹂は、上記のやうな理論的基礎に立脚して、現在の新約批判界に定説として君臨してゐる。そして
これは﹁利用仮設﹂﹁原本仮説﹂﹁断片仮説﹂﹁口倦仮設﹂の主張を、その部分において承認した、トではぼ﹁綜合
仮設﹂であつた。そしてかくの如き綜合仮設であるところに、その理論的根接の確資性が存するといはなけれぼ
ならない。勿論﹁二資料詮﹂に封して、挽近これ密修正しょうとする種々なる仮説が提出されつつある。ストエリ

ークー︵鱒∴巧.浮許多牒︶の﹁四資料シュラッチル︵A.SGE邑er︶の﹁三資料告が夫で雪が、然し
これらは何れも、二資料詮の基づく理論的棍接を前提し、そこから出蟄したものであつて、そ中限り﹁綜合仮説﹂
であることを注意しなけれぼならない。換言すれぼ、たとへ二資料詮を如何やうに修正するにしても、二資料詮
Q理論的棍掠を無税しては、即ちr綜合仮説﹂の埼外に立っては、共観栢曹啓開題の適切なる解決は到底望まれ

タg
共戦痛青書と株式史的方法 九五


一 r
共湖福音書−こ株式史的方法 九六
待ないことを、私は特に注意し度いと息ふ。


註︵調︶ 鱒﹂芦Streeter︰↓he才一−r G〇Sp21警pStu音OfOr直冒−−諾A・﹁マルコ﹂と﹁Q﹂との外に、特にマタイ停が
利用した極めてユダヤ的色彩をもつた資料﹁M﹂と、ルカ停が利用した文献、これは現在のマルコよりも長篇で、既
にQを食んで居つた﹁前ルカ﹂︵PrOt?冒打e︶の四賓料詭を主現してゐる。
︵36︶ A・哲hl邑teりこP誌∴軍票5g2︼iumd謎Fuk説ぎ狐乱nenQ莞−︼en erkl腎t−−器−∵は挽近における最も特異な主求
をなして居るものとして、注目に催する。即ちルカは﹁マル三と﹁マタイ﹂と﹁新物語者﹂︵derneueEr註h一er︶
の三資料を用ひたといふ主菓である。この際資料﹁Q﹂を主張しない鮎が著しく日立つ。﹁マタイ﹂は﹁マルコ﹂を
利用したのみであつて︵A.Sch︼蔓㌢屠白書ge−ist夢tth賢¢︰SeiロeSpr邑le∴乱n訂︼.seFeSe碧tぎdi賢eit、
−器∽帽︶、ルカが利用したこの ﹁マタイ﹂ の中に、既に、我々が﹁Q﹂と解する部分が、含まれて居るといふのである。
﹁新物語者﹂とは、我々がルカの特殊糞料として、断片的文猷と考へたものを、一つの統一ある文献となしたもので
. ある。

共観両青書の文献的研究は、﹁二資料説﹂の定説となつて現れた。福音書記者は、二大資料とその他の小資料
を基礎として、現在の福音書を記述したといふのであつた。ここから問題は、マタイ、ルカにおける両青書記者
自身が.、これらの資料を綜合配列して夫々の文戯に固定せしめた、所謂編纂者上して、彼等は如何なる程度の加
筆む施し、俸へられた資料む虞理したかといふ問題、換言すれぼ、資料と編纂者の加筆との直別といふ問題が、
新たな問題として提出されなければならない。而して、かくの如き問題は、更に、遡って資料となつた﹁マルコ

俸﹂ ﹁Q﹂にも適用し、これらの原始的文献における∵俸へられた俸承と、それをかくの如き文献に固定したこ
れらの著者の加筆との峻別といふ鮎にも、及ばなけれぼならないであらう。それ故に、これは、俸へられたイエ
スの俸詮を、文献以前の一層古い形において把挺するといふ要求によつて生れた課題に外ならないの甘ある。何
となれぼ、茸際のイエス.と、このイエスの俸詮を記録した帽青書の著作との間には、時間的に約四十年といふ人
︵訂︶︵38︶ 問一世代の期間が構ってお力、而も、この叙述は事件の目撃者白身によつてなされたものではなく、﹁目撃者に
︵飽︶
よつて俸へられた物語﹂が、前記の長い樹間を、記憶によつて次ぎ攻ぎに倦承されたものであゎ、従って、最初
の目撃者自身の報骨ほ、・雷然、最後の叙述者によつて叙述される迄には、多くの場合、甚だ歪められてしまつた
であらうと想像される粘から、我々の研究は、ここから更に一歩を進めて、このイエス倦詮が辿った文献以前の
闇黒樹の鮮明に向けられなけれぼならないからである。
註︵37︶ イエスの死を、正確に推定することは、一般にイエス生涯の事件の時間的聯開︵所謂 ﹁相封年代﹂ 蒜−邑扁
∈lrOnO︼○乳e︶が不明であるばかりでなく、それと一般年代との外的開聯︵所謂﹁絶対年代﹂pbsO−uteChrOnO︼Ogie︶
が不明である箆に、殆ど不可髄であるが、大約紀元三〇年前後と推定すると、最古のマルコ琴青書が記述されたのは、
二仮に、紀元七〇年直前と推定きれるので、雨着の間浸は、約四〇年の期間が見積られる。
︵鍋︶ マルコ俸は、ペテロの通謀着工パピアスの俸詮、ユウセビウス ﹁敦曾史﹂三春三九ノー五所俸︶パウロの同伴者
︵コロサイ四ノー〇、ビレモソニ四︶ たるマルコ ︵Mぞ亭︶ の著であつて、イエスに直接錐ったものではない。マタ
イ停は、或る不明な猶大人基督教徒によつて記され、ルカ俸は、パウロの同勢者、希凰人、欝者ルカ︵A等号︶︵コロ
サイ四ノー四︶■によつて記され、何れも目撃者によつて記きれたものではない。

タ7
共視癌青書と様式史的方法 九七
共親肩青書と棟式史的方法
︵39︶ ルカ一ノー以下。

タg
ヽヽヽヽ
かくして私が本論において、共鶴福音書研究の第三段階と栴しょうとするものは、いはぼ、この、イエスと福
音書との問の約四十年内外の期間にぉけるイエス倦詮の蟄展経過を、明かならしめようとする試みを指すのであ
る。そして、これは最初に簡れたやうに、特にディベリウスによつて提唱された﹁様式史的方漁﹂の適用にょつ
て茸現せしめようと努力されて居るのである。
さてかくの如き新研究方法の輪廓を葺くに首つて、我々は先づ第一に、ディベリウスの態度について述べるに
︵40︶ 先立って、カール・ルドグッヒ・シュミットの好研究﹁イエス物語の枠、最古のイエス俸詮の文献批判的研究﹂
︵41︶ から出費しなけれぼならない。
註︵讐 舛邑↓し邑wi明Schmidt︰D2r出註m2nd卑Ge器hicl旨J2芦Eer罵打riti警he.冒ter乳已⋮n駕nN
Je讐誤ber−iefer已n喝−−讐¢●
︵空 この書はディペリウスの﹁福音書の株式史﹂と同年に旧版きれたものではあるが、これは既に一九一七年に、ベ
ルリン大畢紳畢講座において、大草教師就職論文として講義されたものであつて、著者の欧洲戦争由征、戦傷等の事
情に加ふるに、印刷の遅延によつて延引されたものである︵S・一国f・︶。
カール・ルドグッヒ・シュミットは、先づ第一に、イエスの歴史的研究に関して、根本的な一提言をなし、た。
︵亜︶
イエスの﹁歴史的問題は、第一に、これは文献的問題である為に、甚だ複雑化して居る﹂といふことである。即
ち、彼は、従来のイエス俸研究は、イエスの活動場所と活動期間の問題を、好んで出蟄鮎となしてゐることむ指
摘し、従ってイエスの外的生涯の問題は、かくの如き場所︵ぎp品rぢFie︶と年代︵CF苫nO−Ogie︶の陳述が、両青
書において支離滅裂であつて、全く相互に聯儲を付け難いといふ鮎に、問題の困難性があるのではなくして、む
しろ、かくの如き陳述は、抑々場所と年代とは何時頃から明言されるに至ったかといふ疑問を提出して居る所に
存在することを指摘し、それ故、文献批判を加へ、然る後に初めて、歴史家は、嘩青書の物語を利用することが
出来るのであると稲した。ここにおいて彼は、福音書の年代と場所に閲する言葉について詳細な研究を施し、そ
の結果、これらは全慣として、最初から俸へられたものではないことを明かにし、最古のイエス偉説は1個々の
行為、個々の言葉についての俸詮であって、いはぼ﹁抜拳﹂︵謬ユkOpeロ︶倦詮で、大部分は、物語の序言の役割
を演じて居る年代も場所も付け加へられずに、教国内に俸承されたものであることを明瞭にし、且つかくの如き
序言は多種多様であつて、何等個々の物語を正しく事件に従って結び付けて属ない鮎から見て、年代と場所に関
する言葉は、一般に、個々の倦詮に附加された単なる枠︵RpFmen︶の性格を有するものに過ぎないことを明かに
した。而してこれは﹁イエス物語の最古の物語者、俸承者は、物語相互の聯闊についてほ、殆ど、或は、一般に
︵鳴︶
は全く注意せず、もしろ彼等は、全く、樽弄に必要な断片的抜草を形造ることを目梗にしねのであつきことに
基づくのであるといふ。ここにおいて彼は、基督教の蟄生が、基督崇拝の生成である以上、原始基督教文献の蟄
生は、その意義を飴りに高く評債することは不可ではあるが、基督崇拝から把握されなけれぼならないと主張し、
﹁最古のイエス俸詮は、崇弄によつて規誉れ、こ去ら形至り、超歴史的雷のとな芸﹂といふ注目響
ヽ▲

き提言を試み、・かくして本書の最後において、それ故帽青書は、最古のマル三帽青書にぉいて既にjうであるや

99
√−\

共戟琴青書と株式史的方法 九九

弗敏琴晋書と様式史的方法 一〇〇
㌢に、これは、決して、イエスの生産の蟄展を物語って居るといふ意味におけるイエス偉を示して居るものでも

700
なく、キイエス物語を年代的に概観して居るものでもなく、これは単に枠を附け加へたところの個々の物語、
︵45︶
按革に過ぎないといふ、 重要な結論を提示することとなつた。
鼓︵亜︶.ibid●S−≠
︵43︶ ibid・S・くH・
︵胡︶ ibid●S●づⅠ●
︵45︶ ibid●S●誓石●
カール・ルドグッヒ・シュミッ・卜のかくの如き提言の中に、我々は既に、共観相青書に封する新たな研究方法
の蟄端を、充分に認めることが出来る。何となれぼ、後にょつて、初めて両青書記者の加へた第二次的労作が研
究の封象とされ、それが明瞭に指摘されて、宿昔書の材料がイエスの個々の菓蹟、個々の言葉に分解され、鹿っ
て、問題は、これに引き韓いて、かくの如き個々のイエス債務は、抑モ如何なる欒遥の歴史を辿ったかといふ鮎
に向つて更に一歩を進むべきであるといふ、問題の動向を明瞭に指示されることが出衆たからである。そしてこ
のことは、カール・ルドグッヒ・シュミッートが、既に言及したやうに、原始基督敦の成立を、教園の基督崇葬に
基づけようとする挽近有力になりつつある親鮎に立脚することによつて、一層数果的に果されるであらう。そし
てこのことは、前記のディベリウスと、ルドルフ・ブルーマン ︵討已邑出已tmpnn︶の異常な努力にょつて試み
られたのであつた。私はここで、この雨着の研究方法について、最も詳細な叙述を試み度いと思ふ。︵未完︶
教育目的としての儒彿一教諭
高 橋、俊 乗
後三昧天皇がまだ東宮にあらせられた時、御持健勝範庭主に仰せられて、今生の事を確に息ひ捨て、兼ねて眞
言止親を知力、その上に外典をもよく伺うた奇特の愴を選び進むべき旨を命ぜられた。しかしこの四事が十分に
兼備った高僧政中々無いものであつて、膠範は﹁顧密かねたる常の事にてあまた侍り、から.の文の心知りたる着
こそ有りがたく侍れ。﹂とお答へしたが、色々叡山で探した末に、逐に西塔の益智こそ思召に叶つた着であると
見妄宮の御前に推薦し奉つ警とが雪︵協虹新約別の︶。
かく顧密を兼ね、儒彿を併せ達した人は誠に稀れであるが、しかし古来我が国の宗教史上・教育史上、この三
尊を兼ねることが、教葦の理想と立てられて釆た凰うである。後三保天皇が儒・顧・密を併せ尊ぼんとし給うた
のも、常時の教育理想に従はれたものと思はれる。勿論、儒者が儒畢を主として尊び﹂彿徒が彿畢を主として畢
ぶことは首然であカ、顛教では止勒を、密教で眞言を旨と畢ぶことも首然であるが、倫理想としては、これらを
併せ畢ぶことが理想と立てられてゐること、頗る久しい聞に及んだ。これが確然と相互に排挺されたのは、江戸
教育目的としての備健一教諭 一〇一
、hl い
Vと
. r−†\・・﹂′
∵ .∵ /\・・1㌧・∴1
教育目的としての儒教一致諭 叫〇二
時代になつてからであると思はれる。

〃け
×
聖徳太子の御俸を投ずるに、日本書紀によれぼ、﹁軍内教於高麗檜意彗学外典於博士覚苛”並悉達夫。﹂と
記され、内外の二教を並び通暁せられたのである。●世に行はれて庖る古来の太子俸は、凡そ悌敦側で編速さ机て
ゐるので、太子は只管係数を興隆され、彿敦に深く通暁して居られ、儒拳については儒教ほど御熱心でなかった
やうに考へられやすいが、決してさうとは信じられぬ。日本書紀は儒彿いづれにも偏らぬ著遡と考へられるが、
これを読めぼ、太子に於ては、何等儒と悌との問に直別差等を設け給はなかったことを知力うるのである。
まづ考ふべきは、推古天皇の十六年に小野妹子が二同日の圃使として隋に渡った時に、之に随った留畢生八人
の申、四人は儒畢の畢生であゎ、四人が草間伶であつた。儒畢の四人とは倭漠直両国、奈羅繹語意明、高向漢人
玄理、新漢人大国であり、草間伶の四人とは新湊入日文、南淵漢人請安、志賀漢人意陰、新漢人虞奔である。こ
れらの人々の一々の詳細な事曙は分明ではないが、巷間伶であつた新日文や甫淵請安が辟朝後共に彿教の上で活
動せず、儒畢を数へ、或は政治上に活動してゐる。よつて少くともこの二人は儒悌二敦を併せ尊んだものである。
聖徳太子は法華・膠輩・推摩の三経の義疏を製作せられた。儒畢の方面ではこれに匹敵するほどの御著作はな
い。しかし十七條意迭軋引用してゐられる漢籍は頗る多数に上斗毛詩・筒音・孝控・論語・左俸・祀記・管子
・孟子・墨子・荘子・韓非子・史記・漢書・文選等より虞く言辞の材料を採用して居られ、しかもその文章は頗
る精錬せられ、帝藤拙堂は﹁英文有漢貌遺風英。﹂と許し奉った。
太子の定められた冠位十二階は大小の徳仁櫓信義智の順位になつてゐるが、徳は仁祀信義智の繰名であるから
之を姑く除けぼ、環りは五常の名稀を用ひられたのであカ、五常は法王帝詮にも説いてゐるやうに、勿論五行説
に依られたものである。しかし単に冠位の名稀に儒教的な名栴を用ひられたといふよりも、一歩進めて人々に
徳敦を励まし給㌢たのであると考へ奉ることが出来る。但し仁祀信義智の順序が、普通の仁義祀智信の順序と一
致しない。仁樽信義智の順序は支部にも行はれた順序ではあるが、仁義祀智信の順序よりは、比戟的に有名では
ない。比較的有名ではない順序を敢へて採用せられたのは、明かに太子が仁鰻信義智の順序の方に、比較的大な

る意味を認められたからであらう。しかもこの順位は冠位の上下を示すものであるから、始のものほど、太子は
道徳的債値が高いものと認められたものであらう。普通の仁義祀智信の順に比べて最も差等多く上へあげられた
のは信である。信は勿論儒教でも大切な徳であるが、信の意味を擁張すれぼ、宗教的信仰をも含ませることが田
爽よう。かく考へるならば、太子が信を重んじ給うた中に、係数を重んじ給うたことを併せ考へてもよい。 八
十七條憲法の第七條に﹁世少二全知茄念作レ聖。﹂といふ句がある。生知といふ語は論語や中庸の書に見える語
であるから、作聖といふ教育目的は儒教の聖人を指してあるやうにも見える。しかし同憲法の琴一條に
篤敬二三軍三聾者彿瀧伶也。則周生之格好、高閲之橿宗、何世誰人、非レ草亮法↓人鮮二尤璽能教徒レ之1
其不レ野−三賓”何以直レ柾。
と仰せられた。これにょれぼ教育は悌教に掠るのが最良の道のやうに説かれてある。しかも沸教修行の目的は審
問・繚覚・菩薩・悌陀の四果にある。この四果を兼宿して四聖と栴し、地獄・餓鬼∴畜生・修羅・人・天の六凡

70J
教育目的としての儒健一致論
教育目的としての俵健一敦論 一〇四
に封せしめる。従って前記虜七健の作聖とは俳教の聖者の蒙昧に解せられないわけでもない。正しくは儒伸二教

704
の聖に通じ用ひられたのかも知れない。
以上を通じて考察すれぼ、太子の御重問・御修養並びに奨励せられた教育の方針は、全然彿倍並行であつて、
いづれを特に重んぜられたといふことはないやうである。されば法王商務に太子は支部文化と印度文此を併せ畢
召せられた有様を、次の如く記載してゐるのも、骨厳に雷つてゐると思はれる。
能悟二捏奥常任五種傭法之理↓明開二法撃二専横賓二智之趣↓通二達維摩不思議解脱之宗↓且知二綬部薩婆多雨
家之桝可亦知二三玄五経之旨↓並照二天文地理之道可
×
その後、儒併発畢の思想は種々の鮎に現れてゐるが、日本書紀に、孝徳天皇の御性質を次のやうに許し奉って
ゐる中にも、その∵端は現れてゐる。日く、﹁撃彿法↓軽二伸道品誌鯛翠野人柔妄レ儒。﹂

聖武天皇は頻りに彿寺を撃止し、大いに悌法を興隆し給ひ、御親ら﹁三賛の奴﹂と稀し給うた方面のみが、世
人によく知られてゐるけれども、儒聾をも大いに興隆せられたのである。天皇は東宮にあらせられた頃よ斗頗
る藻草に御熱心であつて、養老五年正月佐寒王以下十六人の尊者に命じ、過朝の後、兼官に侍せしめられた。天
皇が王義之の摺本書巻を数多く御蒐集になつたのも、書道御研祭の一端を察し奉ることが出来る材料であつて、
虞い支部文化を熱心に御研究になつたことを示すものである。
大賀令の堅制は唐の制度にならつて儒教的教育を方針とした。その内容は早く法文として一通り整ってゐるも

の皐、庸不備な鮎が少くなかつ冤天皇はそれら不備な軒を御治世中に殆ど凡て補足せられたのである。従来大
畢寮は明控二晋・啓・算の四道を教授した。それには給費制度はなかつたが、天平二年より畢業優秀にして貧困
なもの十人以下五人以上を選んで夏冬の服と食費を給せしめられ、かつ之を陰陽・典薬・雅柴の各寮の生徒にも
及ぼさしめられた。同七年に唐より辟朝し空口備虞備を大草助に任じ、県政に努力せしめられたので、従来整は
なかった繹奥の穫容も始めて備はつ宅間十一年には三位以上の子孫、五位以上の子は年齢の高下を問はず、皆
大草に入草して勉畢せしめられた。
朝臣の子弟が国家試験を受けて合格すれぼ、叙位任官されるのであるが、その試験には秀才・明脛・進士・明
法・書卜算の六種ある。この六種の申で、明脛・書・算だけしか、もとは大草寮で教育しなかった。それでは受
験者に頗る不便であるから、聖武天皇の御代から文章造・明治道の二道の教官と生徒を置き、文章道で秀才・進
士の二科の教育をなし、明法遣で明法科の教育をせしめられた。
乞れら藻草に関する聖武天皇の御熱心な御奨励を、彿教興隆の御事曙に比べると、畏くもまだ小さいやう貯考
へる人があるかも知れない。天平二年正月十六日天皇は大安殿に御し、五位以上を集めて新年の御室を開かれた。
夕景から皇后宮収宴を移し、百官主典以上をして陪徒踏歌せしめられた。終って酒食を賜うたが、その後で棺引
・を行はしめられ篭紙片に仁義鰻智信の中の∵革む蕃Gてあて紙の字に随って物む輿へ給うた。畏れ多いとと
ながら、もし彿敦を主として興隆し給ふ大御心であれぼ、栢引の字も沸教語を用ひられることゝ慮はれるのに、
さはなくて、儒教の要語を用ひしめられた勲に、儒教にも深い御阻心をお持ちになつたことが明かであるQ

JOぶ
教育目的としての儒痛二致論 ﹁〇五

ヽ■
\ il■−、
. / ヽ \−、I

教育目的としての儒偽こ致諭 ︼〇六
光明皇后も非常に沸教を庖ませられ、沸教に本づいて慈善事業に御義力遊ぼされたことは、何人も熟知してゐ

70β
ることであるが、藻草にも御熱心であカ、文章をも善くせられた。御筆為になつた﹁社家立成﹂や﹁楽毅論﹂な

どが正倉院御物として現存して居り、御畢植の該博なることむ察し奉ることが出来る。皇后の御腹な嵐孝謙天皇
は聖武天皇の皇太子として御愛育を受けられ、まだ内親王にましました頃、音備眞備を侍講として、漢書・祀記
を御輿習になつた。孝謙天皇もまた係数を好ませられたが、かく漢文にも都道請が深かったのである。倍天皇の
御代に大墜寮に三十町、雅発案・陰陽寮・典薬寮にそれ′ぐー十町の田を置き、諸生の衣食の資たらしめられた。
平安時代の初期に於ても、ほゞ同様の状態であつた。桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇は皆藻草にも
悌畢にも達せられ、大草寮等を盛んにして儒教的教育を奨励せしめられると共に、天台・眞言二宗の蟄達に御力
を注がせられた。嵯峨天皇の皇后即ち檀林皇后も悌敦を好ませられ、しかも漢籍をも磨く渉猟せられた。御一族
の為に畢館院を建て︸控普を講習せしめ、又檀林寺を建て比丘尼の持律者を遷して住持せしめられた。
×
以上、皇宅の御茸例を以て儒彿の二畢を乗召する教育的海想が教育上の寄算となつてゐたことを述べたのであ
る。これを更に昔時の思想方面から、この理想をや1抽象的に述べたものから、箕例聖二二奉げて見たい。
元正天皇の養老五年七月の詔に﹁周孔之風、尤畢︼仁愛↓李繹之数、探禁こ殺生ごと仰せられた。李は老子の
氏稀であるから、儒と彿とのみを封立せしめられたものではないが、仁愛と殺生或とを比べられたのは、儒彿並
行の事茸を示すものである。淳仁天皇の天平賓字三年六月の勅は内外宮人む教誠せられたものであるが、全文凡
て彿教と支部文化との所思想を以て、訓戒を垂れ給ひ、特に﹁其推城典訓者、叙義政之規模”著二修身之桧括↓律
令格式者、録二雷今之要務↓具二庶官之紀綱ごへたものであるから、﹁若有下修二習仁義穏智信之善∵戎二惧貪噴療
浮盗之悪∵発語二前二色書︼蕃山拳両案レ之、随レ品昇進。﹂と仰せられたのである。
萬凛集奄五に﹁悲二歎俗遺恨合郎離易レ去難レ留詩﹂の序には
窺以繹慈之示教、先開二三辟五戒↓両地二政界可周孔之垂訓、前張二三綱五教↓以奔磨二郡囲↓故知引導雄レ二
得レ悟惟一也。云々。
とあつて、明白に儒彿二教を封立せしめてゐる。
昔備眞備が挟んだ﹁私敦類衆﹂といふ書は、本文は一部分しか俸はらないが、その目次だけが、拾芥抄に載録
してある。目次む見ると、全部で三十八章ある。その筋〓革は次のやうになつてゐる。
竺 略示三内外撃㈹慧闊蒜諾︰ニ新相讐蒜相柵︰関節相鏑︰誤認
これによれぼ、眞備は五戒と五常とを全然同二硯したと息はれる。例へば義は必ずしも不盗のみではないが、
養をかく解して五戒の第二との一致を求めるが如き、金環としてこじつけの跡は多いが、彼れの教育理想の中心
が都連にあつたか、よくこれを明示してゐるやうである。基海は、眞備が二教院と栴する私畢む建設したと俸へ
てゐそ室悔も二教院の内容を詳説してゐないし、他に全然所見がないので、考足する由もないが、﹁二教﹂と
いふ名稀と、右の私教類衆の日次第〓阜む照合すると、この私畢の目的・は二教条単にあつたととは確賓であらう。
石上宅嗣は奈良時代末の人で、経史を愛僻し、渉璧するところ多く、その上、文を善くし、書道にも巧であつ

707
教育目的としての儒彿一致論 一〇七

教育目的としての儒彿一致諭 一〇八
た。晩年菅宅を捨て∼阿閥寺とし、寺内の一院に外典の一院を設け、芸事院と名づけた。多くの漢籍を収蔵して

70g
J

好畢の徒の就いて閲せんとするものには、自由に赦した。芸事院の條式を書き残したが、その略史が韓日本紀
︵禁︶に掲げてある。日く、
番外南門本革一一撃漸極似レ異、菩誘不レ殊。僕捨レ豪声寺、辟レ心久英。芦助二内野加三富外霊地是伽
藍、事攣禁戎可庶以二同志入着、無レ滞一一基有∵乗忘二物彗異代蒸着、撃出盛琴二攣於覚地∵
これも彿儒の一致論であつて、眞備の趣旨とは何等の差を見ない。更に基海の設立した綜垂種智院の趣旨を
討して見よう。
この院は茎潅が京都東九促にある前中堅一口藤原三守の嘗宅を貰ひ受けて私畢としたものであつて、天長三
四年頃の慧である。茎海ほこの院の式とその序霊㌢残してゐるので︵雛頂︶、その設立の趣易も明白で雪
が、それによれぼ、唐には坊毎に開塾を置いて普く童稚を教へ、願毎に郷聾を開いて廉く青年を導.くから、才子
が城に満ち萎士が閥に盈ちてゐるのに、今我が平安京には一の大草あるのみで開塾がないから、貧賎の子弟は
を受ける研がない。よつてこの一院を建て1普く童豪を済はうとするのである。その寄には﹁普戒二三教義二諸
能者ごいて師とし、﹁五乗並レ鋳、攣群庶於覚苑ごんことが、教育の理想であつた。この三教について、性藁
集を註繹した箕毅の﹁性塞集抄﹂などには、﹁儒繹造也﹂と解してゐる。しかし蛋梅の﹁綜蓉種智院式並序﹂
本文には三口も、道教には慣れてゐない。叉我が国に道教の思想や信仰が古来俸へられたとしても微々たるも
であつて、決して彿備に封立しうべきではない。これよ力も、基海はこの式及び序の中で、屡々﹁師有二二種
造二俗。﹂といひ、﹁通人﹂と﹁俗博士﹂を並べ、﹁内経論﹂と﹁外典﹂を並べつ1、内敦の中で﹁顧密二敦﹂を分
けてゐるから、三敦とは儒教と顧密の二教との義であらう。かくの如き三分法は古来塵妄あるところであつて、
本稿の初に奉げた後三保天皇の御茸例にも見えることである。かくして琴海はこの院に於て
退所三以俸二彿経↓俗所三以弘二外書∵虞俗不レ離、我師雅言。
といふことを希求した。その上、かく悌儀遺俗併せ畢ぶことが﹁我師雅言﹂であつたと明言してゐるのは、この
乗畢の思想が虞く流布してゐたことを裏書するものである。しかも基海自らしの理想を茸現したのである。
×


大賀令に定められた大峯寮その他の拳校では、全く沸教的教育を放いてゐた。これは唐制の模倣であるから、
このやうな結果になつたが、民間で有志の設立した私草及び国書館の有力なものは揃ひもそろつて、悌俵乗習に
なつてゐるから、聖徳太子以爽の色々の茸例と照合して、苗代の教育の理想は二教の粂密伝あつたと結論して差
支がないやうである。儒者が儒単に偏斗悌者が彿畢に偏ることは勿論普通のことであゎ、儒又は彿を専門とし
ない人々でも、いづれか一方に偏ることは、此れ叉普通の有幻がちの事であらう。しかし叉時には儒者が儒を捨
てゝ悌・に偏する例もある。懐風藻に見える繹道融はそ竺人である。叉言出寂したものが還俗する例も多数に
ぁる。さ少ながら、苗代では出来うるならば、二教を並草するのが理想であつて、それこそ眞の硯雷二世の敬重
目的であつたのである。唯困難であるから、普通には容易でないが、すぐれた人は此魔まで上少待たのである。
以下平安時代中期以後の茸例を少し奉げて、この理想の欒蓮を概観して見たいQ扶桑略記にょると﹂村上天声

JOク
教育目的としての儒彿一致諭 一〇九
教育目的と七ての儒彿一致諭 一一〇
の應和四年三月、大草案文葦道の畢生が叡山の西坂本で勘重合を修めて、開法歓喜讃の心から、法華経を講じ

J70
脛中の一句を以て題とし、詩を作り歌を詠じたことがある。かゝる企は侍何回かある。さて應和四年三月の勧
合の中心人物は慶滋保胤であつたから、詩歌の序を彼れ自ら書いてゐる。保胤は陰陽家賀茂忠行の二男であつ
早くから文才を以て着れ、試を奉じて及第し、大内書記に任ぜられ雪しかし少年の時より心に極柴を慕ひ、晩
年には出家したが、それ以前でも毎日手水を使ふと、自宅の西堂に参って摘陀を念じ、法華経を読み、食事終
てからJ東関に入って請書した。彼れが私淑崇敬したのは漠の孝女帝と唐の自棄天と晋の竹林七賢とであつた。
孝女帝を崇弄したのは、倹約を守力人民を安じたからである.自居易は詩に長じ彿に辟したからである、七賢は
その身は朝に告ても志は隠遁にあつ食おらで計る︵嘩争︶。
今昔物語︵讐︶にょると、挿津陶の慶日といふ伶は、幼にLて比叡山に登って出家し宗、顧密の法文老っ
たところが皆よく詰んじ、その上に亦外典もよく知ってゐた。後に道心む起し、本国の菟原で小庵を作ってそ
に籠久日夜法葦経を読み、三時にその法を修行して遂に極楽に往生したといふ。
×
儒彿の一致は思想的には特に室町時代に廉く信ぜられた。昔備馬偏に始った五常五戒の一致詮が贋く普及し
のもこの時代である。
眞備の五常五戒詮が文献に録戟された初は、現在する限り、洞院公賢の拾芥抄を初見とする。拾芥抄で眞備
私教新来の目次を掲げるのに、第〓草琴げ題目の名稀を記し、かつ内容たる五常五戒一致詮の概略を記してゐ
が、第二茸以下はどの茸も只題目しか掲げてゐ、ない。それだけ五常五戒一致詮に関心を持ってゐたのであ
公賢は鎌倉時代の末から南北朝時代へかけての人であるから、この思想もその頃には流布してゐたものと見
る。大永八年に下総入道宗五が述作した宗五大押紙に、﹁聖徳太子の給はく、五常の語、内典には五戒なり
いふ書出しで、五常五戒の一致をやゝ詳説してゐる.
一條兼良も内典外典の一致を確信してゐたこと咤其の著、樵談治安、文明一統記などに見えてゐる。﹁五
内儀抄﹂といふ普は少璧一見道信西作とも舌はれ、文中重盛作とも恨托されてゐるが、室町時代のものであ
どう古く見ても鎌倉時代の末より遡ることは出死ぬ。これは五常を五戒に配して、∵竺甲得に閲する和漢の
と内外典の嬰文を集めた教訓書である。五常五戒一致論としては最も精しい。親子訓といふのも著者不明の
書であるが、内容や文章から見て、やはり室町時代のものである。この書にも五常五戒の一致の説明がある
五大州紙のそれと殆ど同じ文章である℃どちらかが援用したものであると思はれる。
鎌倉時代末より再びかく儒悌一致詮が盛んとなつたのは、墜示の力である。繹宗は特に支那では末代以後に
え、儒者の中にも之を尊ぶものが多く、朱子学や陽明畢の組織にも璧芸影響の大であつたことは、虞く世に
られてゐることである。従って又繹宗内部でも儒畢を尊ぶものも多かつ冤その上、我が鎌倉室町時代の栄華
専ら繹伶にょつて畢召されたので、儒彿二教は密接な関係を結んだ。特に鎌倉中期の聖一国師は三教要暑を
入寂の年には自ら三教典籍目録を造久末両寺普門院の書庫に置いたと俸へられる。宋から渡爽した光電は儒
不二を説き、同じく辟化倍大休は三教団の偏頗を書き、下って南北朝どろの虎閲は儒繹に兼ね通じ、五常五

777
教育目的としての.儒悌一致諭 一一一
教育目的としての儒傭二致諭 一一二
同じきを説き、中巌は中正子十篇を著して儒彿不二の旨を蟄揮してゐる。これ以来我が繹伶たちは一般に牛ぼ儒

〃2
者のやうに儒彿を条草し、二敦の一致を信じ、五常五戒の同じきことを説いた。これが係数外にも普及して、一
般教育界にも五常と五戒との一致論が盛んになつたのであらう。
×
儒俳α調和も五常五戒の一致も、儒畢と係数とが提携して進む聞こそ信じられたが、江戸時代になつて栄子聾
者や陽明聾者が彿教を痛烈に攻撃するやうになると、この調和一致の詮は儒者の側から盛んに攻撃非難された。
比較的早くして、しかも非常に臥くかつ詳細に、これ是難痔駁し芸は中江藤樹の象問答︵が柏︶で雪。藤樹
は、五常と五戒とは名は違ってゐるが、資質的には同じも甲なりと説くのは、﹁金と鉛は名はちがひたれ共おな
じかねなりと宰ふごとし﹂と非難した。彼れは五常は天神地祀の大穂、無上無外の天徳であつて、黄金に首鼠
五戒空事になづみて偏きにひがんだ放であると見て鉛に雷てたのである。
あり、悌道は繹迦が偏僻の心から作為した不自然な道であると見る藤樹の考へ方から出てゐるけれども、江戸時


代で係数が歴迫され始めたのは、′かゝる議論も有力な動機となつた紅蓮ひない。
かくして教育は次第に宗教から触れて明治の時代に及んだ。
彿敦思想な現代哲学へ導入することに
封すむ論難の批判
− 彿数的哲聾.の意義素描 −
山 口 等 樹
この問題は先づ彿敦曹撃といふものが曹畢としてその存在の理由を主張し得るや否やの根本問題の上に成立
従てこゝには先づ彿教管掌の意義が究明されなけれぼならぬ。然もか1る基礎的本質的なる問題は決して簡単に
解明し遺さる1性質のものでない。それは寄茸として内容的に悌教思想を現代の思惟の中に生かしてゐる現代哲
畢を樹立して示すことに伐て果されなけれぼならぬ。それ故にか1る提詮をなすことは、ともすれば単に外面的
な所詮に終る危険がある。それは一にはその節課そのものが外面的なものとなる危険があ聖文、二にはよしそ
の所詮にして見透され漁見され既に辟結されたものゝ内容的方法的なる説明であるにしてむ、その説明と理解
の困難よりして単に外面的のものとなる危険が存するのである。が虞の外面性は本質的内容的なる内面性を漁
して始めて確固たるものとなる。ヘーゲルに於ては形式的原理的方向的なる方法論は同時に内容的本質的具標

7JJ
係数思想を現代曹畢へ導入することに射する論難の批判 一一三
傭敦思想を現代曹畢へ導入することに対する論難の批弼 一一四
なる方法論に外ならぬ。而してかゝる方法論的態度は硯賓的隼的状況の逼迫せる時代に於ては最も有力な牒もの

JJJ
として考へられる。才こに於ては内容と形式とが甚だしく接近する、内容が形式とな五∴形式が内容となる。そ
こには内外は一枚であ少、然もこの内外は共に相互に基礎づけ合ふこと、平常の状態に於て内容と形式とが隔て
ゐる場合と同様であ少、雨着が極度の紫密さに於て接近してゐる。かゝる方法論的出費は、批判的基礎づけと批
判的創造との二個の意義を一致せしめてゐる。自分は草間として管掌を遅々として二十年近く尊んで釆た着であ
るが、甘ては東洋即ち印度、支部、日本には正常な哲畢は存しなかったと長く聞かされてゐたものである。これ
は常時哲畢を畢ぶ者の殆ど常識とせし所であつた。これは常時曹畢と言へぼ西洋哲畢を指したのであ旦時代的
に西洋哲拳を翰入選解することが、その最も重要窒息義たりしことより凍れることであつた。然もこれは明治大
正の西洋学者の時代的運命であつた。然もこれに伐て日本は西洋哲畢を白己のものとなし、やがてこれを克服し、
更にょり以上前進する楔横を輿へられたのであつて、その使命の意義は探大である。斯くの如くして明治大正の
曹聾者の多くは、
ピゴーネンであつた。これは斯くありし事が決して其等管掌者の憤値を滅ずることではない㌦一つの思想の眞正
なる理解はその創造者に少くとも等しき精神的能力と努力とを隷想せしむるからである。道元繹師の如きは、西
爽組造我俸克と自ら香して足れ少とした。これ我を軽くして眞理を重んぜL詭虚なる人格の蟄視である。然も賓
際に於ては、日本人として、個人として、猫自の苦悶もあ具それに封して充分なる猫創性をも有して冶たので
ある。即ちたとへ如何なる傑物と雌も斯かる明治大正の時代に生れ1ぼ、何れもその時代の使命に生きざるを得
なかったと言ふべきであつて、寧ろそれは悲壮放る運命的使命であつたのであゃ、また革質その時代の傑れたる
者がそれむ果し待て今日の日本の哲畢的状勢を帰来したものと考ふべきである。これは現代の倫理畢、教育畢、
心理拳、美挙、鹿骨聾等に関して云ても大鰐同じである。研が今日に至て、東洋に啓蟄況んや此等の語草が無か
ったと云ふが如き言葉は、全く笑ふべき考へとなつた。それだけ畢的状勢が一愛したのである。東洋哲畢、就中、
沸教の思想が屡々西洋哲聾者の興味を惹きしことは知られたるが如くであるが、賓際は彼等に此等の哲畢が影響
や暗示を輿へしことは普く知られてゐる以上造に多いのではないかと思ふ。このことは少くともあり得ることで
あヵ、東洋の思想は或る程度迄諸種の方法に俵て西洋哲聾者の濁創的暗示の材料乃至刺戟と1孜ることが考へられ
る。又若し斯かる歴史的革質的な精神的閲聯なくして型としての精神的諸形態が類同するとすれぼ、そこに人間
思惟の普遍的世界的客観的な有機的聯閲が考へられることゝ寧る。カッシ﹂ラーの象徴的形態の相互関係、ヤス
。ハースの喝性及び茸存に於ける明暗、フッセルに於ける判断停止及び本質直観、カントに於ける現象界と本腰界
等の哲拳の中には、たとへその萌芽は西洋′の苗代哲畢、中世曹単に存するものであるとするも、その内容極めて
東洋的特に悌数的思想に類同するところがあるのは、人間的且つ世界的に畢的に看過すべからざる所である。ヘ
ーゲルの否定の論理畢も紀平博士の夙に注目せしが如く、年代的に逸に先立つ東洋的思惟を聯想しないではゐら
れないものである。第一、西洋の中世或ひはルネッサンス以後所謂神秘豪の否定説なるものは存するとは云ふも
のゝ、西洋古代幹畢には斯かる強烈な論理的否定性を以て出費せる哲畢を以て優れし者はなかったのである。然
もそれは印度、彿数に於て徹底的に明確に既に長く主張されてゐたこと言ふ迄もなき所である。哲畢は希臓に蟄

7JJ
悌敦思想を現代曹畢へ導入することに対する論難の批判
偶数思想を現代曹畢へ導入することに射する論難の批判 二大
し、その本来の意義は、人間及び世界に封する虞の知識を理絵的に把捉せんとするにあ少、以後歴史的に基督

J76
的なる哲畢を生じ、叉猶太数的哲畢を生じたのである。たとへぼ哲学は希臓のみに起りしものにせよ、以後欧
各国の哲畢、香、各人の哲拳は何れも自己的素質の中にその哲畢を蟄展させてゐるのである。今8の欧洲哲畢に
基督教が影響してゐることは疑へない。カントもヘーゲルも、シューラーも、ハイデッカーも多少なりとも何
も基督数的であると言へる。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、スピノザ等は基督数的ではなかった。
ヵント沃のマールブルヒ畢沢は、コヘンむ筆頭として狼太的な哲拳であると言ひ得㌢然らば同様の意義に於
併教哲挙が認められない筈はあり待ない。少てとも沸教思想が哲拳的に生かされしものは彿教哲畢である。ま
たとへ希臓的方放と異るにしても、例へぼ起信論、中論、唯識論、柄大衆論、華厳、般若、絵筆等々が人間及
世界に封する虞の知識を理論的に把捉せんとした鮎に於て、本質的に内容的にみても少くともそれ竺種の哲拳
的なる研究であつたと言ひ得られぬ理田はない。寧ろその方迭や態度が希臓のそれと異つゐたと考へられるだ
それだけ人間の哲畢そのもの1内琴を金環的に釜益豊富ならしむるものと言ふべきである。況んやその方法や態
度は、例へぼ舌代印度に於ては、舌代希臓に於けるが如く、詭目論者、吠咤主義者、唯物論者、懐疑論者、快
主義者、厳格主義者、その他諸種の人生観、世界観、及び諸種の認識論的な又論理的な研究が存してゐたと言
待らるゝに於てをやである。支那の古典哲拳に閲して言てもこのことは相常に論ぜらるる。自分はこの希蝋石
野草と、印度古典曹聾と、支部古典哲畢とは同じレベルの哲畢的古典研究の態度を採って然るべきものではな
かと息ふ。これら三大哲畢的古典哲畢を同じ態度を以て現代哲畢的に現代の日本的思惟の中に生かすべきであ
これは給来の管掌の純ぼりむ犯すものなどと偏狭に考ふべきものではなくして、曹拳の本質的なる領域を人間的
世界的笹虞の普遍的意義に於て接大深化せんとするものと見られなけれぼならぬ。明治大正の恩人達の精進に伐
て西洋哲畢は大腰日本人に輸入し理解さる1に至った。今後些二大古典の中現代に生けるものを挿取して更に西
洋管掌者に追随せず、寧ろそれを指導する現代哲畢的願度を採るべきである。而してこれぞ現代日本管掌者の時
代的使命である。このことは類同せる他の語草に於て逐亦然りである。こゝに日本精神の今後哲畢的に蟄展する
ことの重要性がある印曹、支曹﹂就中彿数的なものむ飴カに西洋的要素の多き現代思想の申に生かして新しき蟄
居打開の基調となすことは、最も大切なる蟄展打開の方法の一である。悌教曹拳は印度及び支部に於て蟄展せし
められて発てゐる。悌数的思惟は東洋に於ける最も偉大な精神的潮流であること言ふ迄もない。悌教と無関係の
ものにも印曹.支哲の古典には現代思惟の新しき打開に向ての模様と萌芽とを有するものが少くない。それらの
古典的掛芽や楔機を現代的状勢の申に生かすのである。換言すれぼ、今後の日本哲尊者の時代的使命は、これら
三大古典を生かして現代哲畢的に人間と世界とを規定し指導するに足る人間的畢的研究を猫創的に蟄展すべきに
ある。然もか1る大事業は決して一人や二人のよく容易に杢標的に果し得べき所に非ず、志を同くする多くの人

士が各との素質を以て各方面から努力することに伐て時代的畢的機運を醸成することことに於て金環的に果され
る。明治二十年代銑に井上囲了の﹁彿教法給序論﹂J村上専精の﹁沸教一貫翰﹂、前田書芸の﹁畢彿甫針﹂等出で、
沸教哲畢、葦厳哲峯天茎曹畢等々が語られたこともあカ、以て西洋哲拳匿封抗せんとした意気は観るぺきもので
あつたが、常時は未だ日本に於ける西洋曹畢も十分進歩してゐず、西洋哲畢それ自身として侍ほ猫自なる専問的

7J7
備敦思温を現代哲畢へ導入することに対する論難の批判 一一七

鮭阜顧昏:′ F I

‘矛
彿教思想を現代哲畢へ導入することに対する論難の批判 一一八
研庶の詮地を存し、悌教哲畢も亦それ自身としての猫自的研究を要して、儒教峯乃至印哲としての猫自の考究を

7J、g
要し、未だ東西南洋哲畢の統一とか、係数哲学の現代哲畢的興起といふ所迄は錦ほ至らなかったのであるゾそこ
でこの畢的触隕を発す要求と使命とが明治大正の以後の西洋哲畢的研究、及び悌教畢、印哲研究となつて個々に
礪昌に進められたのである。故に明治二十年代に於ける井上、村上、前田諸氏の提詮は、現代に於ける係数哲畢
の萌芽と見らるべきものであカ、一ディアレクテク以前の萌芽である。これらの萌芽的彿敬啓畢の堕的ライデン
シャフトは以後、西洋哲拳の尋問的猫自研究、及び悌教導、印哲の尋問的猫自研究の中に解消せしめられたので
ある。而してその後数十年これらの研究は尋問的に研鐙される十分の問題と仕事とを有したのである。さはれ、
南條博士と同時にロンドンに於て、敢てカント研究をも始めて天折した英才研毒の如きは、常時代の情まるべき
悲劇であつ冤若し彼の如きが生き凍てその初志を買いたならば、悌敦と現代哲撃との閲係も現在より以上密接

となり、悌教哲畢の意義と地位も今日以上のものとなつてゐたかも知れない。今や日本の哲学望単に西洋哲畢の
理解追随に憤ず、各哲聾者何れも此等に封して批判、創見庭加へないではゐられなくなつて釆てを少、所謂係数

畢印哲、支哲も大示に研究を深め、その中の優秀な者は既に現代思惟に道連せんとする傾向を有するに至った。
これ正しく現代日本に於て東西古今の優れたる諸哲の原理を基礎とし背景として、新しき猫自の現代日本的なる
創造哲畢が生れ出でんとする機運の萌しである。新しき現賓的日本の精神的鍛練に伐る日本人としての人間的世
界的統一的哲畢の創造的樹立、これぞ富来日本哲畢の方向であり任務であり、使命でなけれぼならぬ。
ニ.

鼓に至て一つ批判されなけれぼならないことは、悌教育畢は哲畢として存在しないと些一百はないが、東洋哲畢
は全く西洋哲畢とはその内容や方法む異にしてゐて、聾的にそこには確乎たる搭壁があつて、これら畢的両分野
は全く別個のものであつて、その聯絡交渉は不可能であゎ、全く潜む異にせる別個の畢として別々に攻究するよ
り外はないといふ考へである。これは或る程度道西洋の畢の性質む内容的に知れるものとして、又賓際その畢習
研究の上よりいふ場合一磨このことは至極尤もの事と考へられるのである▲が﹂これは飴りに俸統的歴史的畢召上
の便宜や習慣から言はれることであつて、虞に人間の原理畢としての曹畢の本質に味到しないことから来るもの
である。然もそこに停止することは寧ろ易きことであるが、時代の畢的成長蟄居を志す者は、敢へて此の閲計田
でて積極的に更に南洋の二畢を大波流とする綜合的統−的なる創棲的な畢の樹立に向はなけれぼならぬ。それに
伐て富来自本の曹拳は始めて猫特の意義と債値とを世界的に歴史的に有し得るに至るからである。これが為には、
印曹、立替、就中悌教哲畢が西洋哲畢と並び攻究さるゝこと、資産的存在的諸研究が観念的意識的諸研究と並び
究めらるゝが如くであらねぼならぬ。或は又カントが経験論と合理論との二大潮流をその先験哲畢に伐て綜合統
一せしことに於て人間及び世界に封する認識が更に大に且つ深く基礎づけられたことが考へられなけれぼならぬ。
たとへ西洋の畢の内容を比賛する時、類同するものがある場合、その研究方法や態度が異るが為に別個の取扱ひ
を輿へ
ら限定がある。勿論特殊的には各々個性的相異を有ずるであらうが、それは西洋哲峯白身の中、東洋哲畢白身の
中に於て言ても同じである各閑人各個人に相異する特殊性はまたやがて畢的蟄展の興味ともな少、基礎ともなる

JJ9
彿教思想を現代菅畢へ導入することに射する論難の批列 ︼一九


偶数思想を現代暫畢へ導入することに射する諭妹の批判 一二〇
のであそ来るべき新哲畢としての彿教曹畢は、全人間、全世界の哲峯的原理と基礎の上に樹立され、そこに沸

720
教のよき原理的新芽が生かされるものでなくてはならぬ。眞に人間的世界的意義の上に立てる日本人的な硯資性
を有する現代哲畢でなけれぼならぬ。これが為には、西洋の哲堅乃至古典も常に研究され基礎となることが濠想
されなけれぼならぬ。然して斯くの如き純粋に綜合的統一的なる人間及び世界の意識を以て、多くの同志が各自
の特質に徒て内面的本質的に一致攻究することに伐て、かゝる意固が更によカよく達成される。斯くの如き態度
を以て哲畢を研究することは、決して物質的な一定量のアスファルトを敷く塩合、その面積の大小にその探璃が
反比例するといぶが如き結果とはならぬ。人間の思惟機能は一つの有機的な聯閲を有し、物質の凝固性とは異な
る膵力ある生命の働きを有し、且つ限定されたる精神的な原理の型をも有するからである。尊貴、南洋の哲畢.を
理解することが爾洋の哲畢の綜合流一の途であり第一歩である。即ち現代思想の内容として南洋の哲畢史的古典
が畢び探られ把挺し理解されることが必要である。それは決して単なる思想や倦詮的なものに止るものであつて
はならぬ。深く畢的思惟的内容的なる分析批判に依て、現代人の哲畢的思惟として、科峯的論理的に把挺し理解
されなけれぼならぬ。南洋の優れた曹畢的原理の如きは、これを現代的に打成せんが為に如何なる高熱の精神的
熔鋳燵に投するも何れも白熱せる統一的鍛練に堪へ得る質のものである。就中、彿教哲畢は既に印哲、支哲の鍛
練を通過してゐる。明治初期以爽の俳敦哲畢の基気を哲峯的に穂積軽視したる最顛著なる者は井上︵哲︶老博士で
ある。それは西周の﹁百こ新論﹂、井上老の﹁倫理許詮﹂、雪嶺の﹁虞善美日本人﹂、﹁偽悪醜日本人﹂の時代よカ
哲畢的に今日に生きたからである。氏が西洋管掌の研究者として且つ東洋曹畢、即ち印度哲畢﹂支部曹畢、日本

野草む曹撃として認めんとする態度は、極めて重要な意義を有する。殊に氏の悌教に封する理解は相嘗
ある。桑木博士はその時代的使命を捨て尋問的に西洋管掌に献身し冤それに伐て西洋曹畢は更に淀くな
それは決して桑大望人の仕事ではないが、宮代の暫畢的運命及び使命がそこに集仲代表せられ待たので
伊藤教授は桑木博士の方向を韓韓して更に特殊問題的に深くな旦殊に現代哲峯的に探くなつ寛が明治初
所謂彿敦哲畢を相常に認めようとするあたり根本的に井上博士の哲畢的傾向を有してゐると思はれる。
に深化した結果、一般的には彿敦哲畢的傾向に反封するかの如くに考へられたりし、又串間的には必然
難があるが、本質的には悌故に理解む有する。こムに井上博士の謂はゞ人間的世界的本質的な管掌方法
伊藤両氏に代表される仕事に伐て一つのディアレクテクを輿へられたことになる。桑木博士のカント的
の研究潮流は、爾来批判的にカントのみならず、普く西洋古今の哲畢を理解紹介することに努力し冤
或る場合には自我を塞くされてゐる。懐疑的にな久一断定に停止することを寧ろ沈滞とする。その結果
の諸種の曹拳思想を理解紹介すること1な少、日本の哲畢的内容のレベルを淀めた。桑木氏の如きも素質的には
東洋哲畢乃至棟数哲畢に封してもこれを軽蔑するが如きことはなく、相首の理解を有しっ1も、自己の尋問的畢
的使命に孜々たる結果、尋問的に封彿教育畢の如き傾向を有するものと一般的に見られてゐるのである
の作た曹畢的客気は、東大の懐疑的、放浪的、批判的、研究的なるに此して、信念的、静的、慣系的
ぁった。雨傾向何れも一長一短あ旦簡単に何れがよいなど立言ひ切れるものではない。寧ろ爾傾向何れ
で雪二般的には西田氏の方が知られてゐる。氏の哲峯は屡品数哲畢的で雪と思はれる鮎がある位彿教に 727
彿教思想を現代曹畢へ導入することに射する論難の批判 一二−
僻敦思想を現代菅拳へ導入することに対する論難の批判 一二二
近い研がある。紐平博士は繹に念備に長年褒聡に屈せず、夙に東洋哲畢に封する理解を公にしてゐたが、氏の進

72z
んだ道は、明治初期の悌教哲畢と一ディアレクテク後の彿数的曹畢との椿梁をなし、現代彿教哲畢の先駆的意義
を有する。川合博士は人格温厚、然も内に哲畢的な強さを有し、且つ東洋的な落付きを以て、福澤読書の精神を
惜して、悠々その研究む進め冤その領域は哲畢、倫理畢、教育畢、心理拳、紅食草等に亘てゐる。悌敦にも理
解を十分有Lてゐる。得能博士は、その哲畢的態度といひ、人格といひ、川合博士に極めて近い。こゝに少しく
師事せる諸発生︵西田博士のみは著書︶を敢へて批判し、自己の反省とせし所以は、悌教哲拳が哲畢として現代
思惟の中に生き得る事を直入的に述べんとする目的の禿である。嘗東日本の管掌の方向は、革なる西洋哲畢理解
を超出し始めてゐる。が虞に意義ある猫創的思想は決して容易紅生ずるものではない。東洋の思想曹畢は、吾々
民族の歴史的精神的遺産として、現代日本の世界的意義を有する思惟として生きなけれぼならぬ。無意識的素質
的には既に長くこの基礎とな旦近くはそれに閲しても著しく自覚的になつてきた日本人の東洋哲畢的意識は、
今や単なる西洋哲畢的方法に依る現代哲尊に封し七再構成を要するとなすに至つ驚こJに現代日本人の自己に
立脚して世界生息識せる眞の哲畢的自覚が生ずるのである。常東日本の硯代替畢は白熱せる精神的熔鏡燵として、
此等の哲畢的な爾洋の優れたる原理を再び熔解し、濾過し、鍛練して新しき猫自の結合、綜合、統一を作らねぼ
ならぬ。それにはもとより猫自の創造的思惟が必要であるが、畢なる猫創よりも、俸溌の中の生けるものを現代
思惟の中に生かす猫創が必要である。そこに最も意義ある猫創がある。畢なる猫創は単に一人の狗創である。歴
史的精神的遺産の申よカ生れたる礪創は、最も探き確賓なる客観的債値を有する。哲畢思想の進歩の如きはもと
より天才的猫創に依るものであるが、一人の一馨の猫創が歴史的文化の蟄展に優る如きものは考へられぬ。歴史
的爆沈む容れて扱え得るものゝみが虞の猫創としての意義を有し得る。事案また歴史的に見ても偉大なる創造、
劃射的な創造は、常に斯くの如きものであつた。殊に悌教の唯識論や起信論に於ける有為法と無為法との分類及 ︳
び紺聯給の如き般若、三論に於ける無相︵空夢td琵eiロ∵ヨ立話嵐nこ斉家ge払t註︶純粋基︵reine∽訂ere︶の論理
■.
的否定作用の如き、華厳に於ける相即相入の事々無擬を説く相互聯閲の原理の如き、法聾の具惜的個物的寄算的
なる硯茸相如是相の中にそのまゝ普遍的永遠的なる諸法賓相を見るが如き、是等の諸問題は、何れもカント、ヘ
ーゲル、プラトン、アリストテレス等の諸問題の頂を摩する程のものであゎ、何れも現代哲畢的に意義洗き生け
るものである。歴史に関することに伐て礪創は普遍的客戟怯む有し得るむ至る。カント、ヘーゲルにせよ、コヘ
ン、ハイデッカーにせよ、何れもこの方法を進んでゐる。歴史的な東洋の偉大な哲尊者達も皆然りである。ニー
チェの如きは最も非歴史的猫創的に見ゆるが、然し茸際彼の希臓的造詣と閲心とは相雷のものである。東洋哲聾
者の此戟的非歴史的な内容を有する哲聾者と雄も、苛も歴史的古典の中に重んぜらるゝが如き者は、何れも相皆
の歴史的形態を有するのであ旦謂はゞその表現が非歴史的形態を有すると見るべ奮である。猫裁ナチスの如き
思想が中世的思惟に興味を有するに至るも意義がある。明治大正以来孜々として西洋文化を梼敬した日本の文化
が、今日に至ってその猫自的樹立を連行せんとする場合、西洋の歴史的なる特殊のものを起鮎として出蟄するこ
とも意義なしとはしないが、それよ力も其の上に更に、血液的風流的に既に吾々の中にあつて然も西洋的には飴

72J
力多く未だ畢的に生かされてゐない東洋哲畢的原理を封自己的に意識して、その種子を以て蟄展することは、最
偶数思想を現代暫畢へ導入することに封する論難の批判
彿敬思想を現代曹畢へ導入することに対する論難の批判 三四
も必要にして可能的にして又債値あるところでなけれぼならぬ。西洋か㌻板取したものを捨てた少止め

724
のでなく、それを生かし、それを蟄展せしむる場合にこれを考へるのである。一方、西洋文明の捜落と
がスプランガーなどにさへも問題とされつゝある今日、西洋文化的な行きづまりを打開することにも、
重要窒息義を有する。吾々は、日本人として、現代思惟の世界的人間的意義の中に、東洋思想殊に沸教
かさなけれぼならぬ。東洋哲畢は既に長く日本文化に同化し蟄展してゐる。ク了チェがヘーゲル哲畢に
なした如く、今日吾々は、其等のもの1現代日本の思惟として生けるものと死せるものとを淘力分けることが先
つ必要である。印曹、彿教のみならす、老荘、孔孟、程朱、陽明等の畢は現代思惟の中に同じく生かさ
ぼならぬ。その精神的熔錦燵は世界的意義を有する新日本の現代思惟でなけれぼならぬ。日本は哲畢的
洋的なるもの竺應既に十分取力入れた。今後はこれを猫自に蟄展せしむることが必要であるが、それに
哲畢をその中に生かすことが最も重要である。そこが最も畢要な世界的意義を有する所である。而して
ほ、現下の動向を察するに、既にさうなりつ去るを観るべきである。首釆の日本哲畢は、この精神的熔
於て、古今東西の曹畢の粋としてのの優れたる諸原理諸思想を白熱化し、打って克とするものでなけれ


ぬ。かゝる打成に俵て必ず日本哲畢は清爽世界的猫白の威力あるものとなるであらう。それは世界の日
の国民的生活力と並行する。世界的精神史化の日本の蟄展、或ひはその世界的指瞥はこれからである。
を有する日本民族は儒彿を探り入れ、これを自2のものとして蟄展し、更に西洋受此賢明治歪の問に急速力
に殆どこれを採り入れ焉今日は是等のもの1上に立ち、是等のもの占の最も意義あるものを生かして︰新し
き日本濁自の凍のを創るべき時代である。他の諸畢に於ても然カであるが、哲畢に於て殊に然りである
明治以来日本に新しく生じたるかの如く考へられた事もあつたのであるが、その本質上、これは既に日
し、支部印度にも存したのである。唯だ西洋的哲拳が明治以来輸入されたのである。認識的眞理の理論
諸種の形厳に於て既に日本に存せしものである。又その表現的方法の異なりし所に特殊の興味も意義も
である。慣験演上か、生の哲畢とか、直観次の管掌とか、萎術的な管掌とか、倫理的な哲峯とか、宗教
といはれるものは、既に普ねく寄算上存し、根本理論的といはる1ものも、諸種の形態に於て既に存し、殊にそ
れは支部、印度、及びそれに紺聯するものとして日本にも極めて多く存してゐる。殊に儒彿に関して哲
諸給は驚くべき蟄展を途げ、日本にも既に長く歴史的に攻究されてゐ冤ソクラテス、プラトン、スピノ
ーチェ、キエルゲゴール、等を哲拳者として認める以上、少くとも基梅、日蓮、法然、親鸞等をも哲畢
ない理由はない。老荘、孔孟、程宋、陽明、等何れも堂々たる哲聾者であヵ、龍鹿、世親、無著、玄弊
安意、難陀、違法、隣邦等諸種の作者は何れも皆哲畢的素質を十分有せし着であ久印度六次の哲畢の如
の他諸溌の聾者は、何れも哲聾者とみて差支へ・なきものである。是等の哲聾者は皆、西洋曹尊者と共
本の思惟の中に再生し再構成され吟味される必要がある。

次に沸教思想を管掌的に現代的思惟の中に生かすといふこ上は、決して彿教哲畢を西洋哲峯的方法に
することのみではなく、決して外国人のために係数曹畢を紹介することのみがその仕事ではなく、更に

72∫
悌戯思想盈現代曹畢へ導入することに射する論井の批
備敦思想を現代曹畢へ導入することに射する論難の批判 一二大
沸教の西洋野草的方法に徒へる表現や把握は彿敦哲畢を現代哲畢の中に生かすといふ根本的精神からいへば、決

72∂
して本質的な仕事でなく、単にその展性的仕事に過ぎないといふ事である。故に、今後更に究明確立さるべき現
代哲畢的意鶉を有する彿敦哲畢は、決して偉統的係数眞理のその偉の形態に於ける表現であつてもならす、また
沸教眞理の単なる西洋哲峯的方法に従へる把振であつてもならす、それは、彿教哲畢の俸統的なる虞理が一つの
生ける精神として、具鰻的且つ普渇的な意義を現資性の申に有し得るに至らなけれぼならぬ。そこにこそ現代彿
教畢の曹畢的究貴地が存する諾であゎ、また係数野草は、そこに現代哲畢的意義を有するものとして、本原的な
る彿教哲畢の本質を有し得るに至るのである。それは決して畢Ⅶ暫畢的諸原埋を東西古今堅且って蒐集集積する
ことではない。単なる寄せ集めであつてはならぬ。そこには言はぼ曹畢的に天才的なる産出的創造的統一を要す
る。然もこの哲畢的に天才的なる差出的創造的統一は、.一定の聯開聞係を有する社食的共同態としての社食的精
神の中に於ける、個人的精神の哲畢的思惟なる認識批判問題的な苦悶を通して後に、耗粋理論的に象徴されなけ
れぼならぬ。而してそれはまた時代的社食的な苦悶と努力の中にあるものに外ならぬ。カントの如き、ニーチェ
の如き、何れもかかる種類の哲畢的天才であゆ、敢へてその自負をさへ有したものである。が吾々通常人にとつ
ては、到底かゝる天才菅自身の中に認めるが如きことは不可能であゎ、精々事務的畢紡的にこれらの悲劇以上の
哲畢的天才の苦しき産出を理解し得るに止るものであカ、少しくそれに模倣して、なくても済む言詮を弄ぶに過
ぎざるものである。がそこにも相首の曹畢的な苦悶が存しないこともない。これらの苦悶と精進努力の表現的な
らぬ押しっまれる最高潮に於て、時代は必ず上述の如き天才を産み出すに至るものであカ、その意味に於七吾々
・の努力も甲斐な七とはされぬと考へる。西洋哲畢に於ては、希臓殊にルネッサンス以来自我の意静が
なし、自我の存在論的把担が重要祓されてゐる。ヂかルト、カント、フィヒテ、ニーチェ、フッセル等
この自我意識は益々根源的に分析されて超個人的とな少、自然的自我超出の域まで進められてゐるもの
としてその根本特質として自我的存在と溌言を中心としてゐる。′が俳厳に於ては、その始めよ斗無我
を以ってその根本方向とし、大乗あ我峯法垂はその理論的中心をなしてゐる。このことは字井博士も最
究第一巻の﹁我基法有と我基法基﹂に於て明にしてゐる。その所謂眞基の論理は、般若茎観に沸るもの
その大成は申給である。葦厳に於ける事々無碍、相即相入の所謂個物的存在の普遍的淫楽抑融通、唯改
心外に高氏な七とする性相の分析批判、及び法聾の現象郎捏梨、煩悩郎菩提を詮く諸法賓相等は、要す
辟結であカ、その辟結の虞理の内的構造の詮明が虞峯の論理である。論理的な働きとして、悌教論理の
をなすものは、この虞基の論理、純粋基の論理である、その達せんとするところは、一切の現象的内容
なるものを裂破、撤去、否定、脱落せる最も基礎的なる容、虚基であゎ、一切の具慣的個物的なるもの
ことに依って待らるる、最も根汝的にして純粋に形式的なる仝標的基礎の諦観である。これは基礎的無
と名づけて、ハイデッカー等の基礎的存泰論と並べ考量するとき、極めて探き意義を有しないであらう
この場合、彿教の主流と考へらる1縁起静的考察は、ハイデッカー等と同じく時間的研究を投げかけるものであ
る。上座部系統の三世賛有法腰恒有といひ、大衆部系統の現在曹有週末無喋といひ、何れも究発すると
我ど時間給の問題に外ならぬ。然もそこに中心となるものは我琴壷の徹底的なる眞基論である。有部の

72ナ
係数思想を現代哲畢へ導入することに射する論難の批判 一二七


係数思想を現代哲拳へ導入することに封する論難の批判 一二八
対立ゐ問題等は、皆。の中に既に解決されてゐるので雲。起信論や唯識論に我の分析嘉八、第七、第六識等 描 t
の心意識の問題として攻究してゐるのは、この意味に於て極めて大切なるものと考へられる。如何なる意義に於
て沸教哲拳は常一主宰とLての自我の意識を説くか。然も如何にして無我、無著、無相を以て捏奥寂滅、虞には
事々無擬、諸法賓相を説くか。捏奥、眞如、寂滅、無為の中道は何故に懐疑論、虚無諭でないか等々。これら■の
問題は例へぼカント、ヘーゲル、フッセル、ハイデッカーを考へる者にとつても、同様の問題を異れる鋭角から
種々攻究せるものとして、現代哲畢的に備ほ不滅の意味を有する哲畢的研究である。然もこの眞峯の論理たる基
礎的無的なる金環論は、既に歴史的と有と無の封立、及びあらゆる一切の封立的措定を裂破し、否定し、脱落し、
固融し凍れるものである。この意味に於ては、徒にハイデッカーの基礎的存在論と封立するものとして考へるこ
とも、鉦に一つの問題となる。これ以上内容的分析批判に入ることは伯乱に譲るが、有とか存在とかの問題は、
儒教哲畢には長き歴史的な問題であつたのであり、而してか1る有論、無論、有無諭の究克として眞峯論が生じ、
論理的内容からいへぼ、それが華厳法華の事々物々を重んする事々無職諸松茸相迄完売したのである。これらの
周題は、有と無の問題としてのみ取扱つても最も有意義なものでなけれぼならぬ。然も焉ぞ知らん、斯くの如き
問題は、西洋哲峯に於ても希楓時代より現代に至る迄、倍ほ俄然として重要にして興味ある問題とされてゐるの
である。同畢の士の奮起を促す所以である。こゝには衰のある所を解り易く少しく速べ、諸蛍の反省を求め、同
畢の志気を鼓舞せんとしたのである。由来悌教育峯は論難に対して決して薄弱なものではたい。充分反撥する。
洞山繹師の五位は、中論、起信諭、唯識論等を経た後に作られた篤か、論理的にも驚異すべき深みを有してゐる
主観られるが、その偏中至の頒的表現には、両党交鋒不須避、好手狼如火裡蓮、宛然有衝天索、とさへある。

現代蒙古青年の宗教意識
赤 於 智 城
故に蒙古とは主として内蒙を指すのであるが、普通にはこの蒙古の宗教竺律に柳城敦であ
しかし今これを賓地に踏査して仔細に吟味すれぼ必ずトも然らず、殊に現代の蒙古青年には
が漸く薄らぎつ1ある傾向をさへ観取し得るのみ放らず、斯教以外の他の信仰をも明かに認めることができるの
である。そこで近き購釆の蒙古を璧肩に荷ふべーき此等青年の宗教意識を理解することは、
層重要性を加へて釆た秋に於て、賓に輿紫なる〓課題であると息ふ。しかしかの虞漠たる大
域に散轟する青年の多数に接してこれを贋査することは決して容易ではな岩であるが、章に
命廟にわが軍特務機閲指導の下に蒙古軍官尊校︵わが士官畢校に雷る︶が設立されて、幾多の蒙古青年が集園的
に軍事教育を受けてゐるので、私は曾て満蒙調査放行の途次、去る昭和十毒九月下旬、この
しq完邑○邑rO莞t藍に依り次の如き簡単な質問を試みて、.研か彼等の宗教意識の蒜を窺ふことができたの
である。

ヂj妙
現代蒙古青年の采故意鼓 ︼二九

一三〇
現代蒙古青年の浣故意誠
一、あなたは嚇嚇む信するか。

JjO
二、あなたは李額︵bか蒙古の薩満即ち巫︶を信ずるか。・
三﹂.あなたは季額の行事を見たことがあるか。
四、あなたの兄弟は幾人あつて、その中嘲嚇となつた者は廃人あるか。
五、あなたの知ってゐる碑名俳名を列記せよ。
さて回答盈ハへた生徒の紙数竺l 七八名、その平均年齢は約二〇・八歳強であるから、それは正に青年の名に
ふさはしい年頃であるが、その知識や教養の程度は勿論我国の一般壮丁よりは警てゐる。従
も上記の如く簡明墓へ易いもの嘉み芸で雪が、しかし彼等は多少とも警嘉昌本語雷解し、且
現に厳格な教育を受けつ1ある屈強孜蒙古の代表的中堅青年であるから、たとひその回答者の数は多くないとし
ても、少なくとも彼等の蟄表は信憑するに足るものである。今この軍官峯校は拳級を三期に
俸一表︵第︼同軸ち柳城の信仰に就いて、表中の数字は 三柳生、中級を第二期生、上級を第一期生と
員数を示す︶
稀し、更に別に下士官を養成する軍士候補生の
一級があつて、低度の教育を施してゐる。そこ
で此等の各年級別に、夫々上記の諸質問に封す
る回答を整理し且つ集計した結果を簡約して、
逐次にこれを表示して見よう。

この外に何ほ第三期生中に﹁晋は射場の信仰ありしも今は失はれつゝある﹂と記せる者、第二期生中に﹁卿痴を
ずる場合と終らざる場合とがある﹂と記せる者各々一名がある。
第一表で若し一方に柳城の信者と他方にその不信者及不明の者と信不信に亙る者とを集頃て見れぼ、前者九〇
名に封して後者は八八名となり、雨着は殆ど伯仲するといふべく、従って放では嘲嚇への信仰は茸に向背略々相
年ぽする状態にあることを示してゐる。されば少なくとも現今家宝円年の信仰は必ずしも一概に柳城教に辟向し
てはゐない.ととをこれに伐てもよく察知し得るのであつて、偽ほこの鮎に関しては、後にも少しく論及するであ
らう。
夢二表︵第二同軸ち巫の信仰、に就いて、数字は員数を示 次に第二表に伐れぼ巫の信者は全数の僅かに
す︶
一割強なるに比して、不信者は八割六分強に及
び、前者に封して殆ど腰倒的であるから、.今や
蒙古固有の民間信仰としての薩沸教は、蒙古青
年の問には確に失はれつ1あると云ふべく、而
もこれに封此すれぼ、さきの嘲味教の信仰は侍
ほ大なる勢力を有ってゐることが明かである。由釆卿嚇数と薩減数とは固より相異少、現今に於ても
の嘲嚇と酪満とは相剋してゐるやうであるけれども、今前表に奉げた薩満教の借着一九名に就いて更
答を精査すると、その中嘲嚇を併せ信ずる者ニー名、その不信者七冬不竺名七なつてゐて、従って故に

JjJ
現代蒙古青年の宗教衰滅 一三︼
が 、∴住∴∵メ ▲f
、J

j −
現代蒙古青年の素数意識 一≡一
れた限わでは、薩沸教の信者も亦必ずしも轟く噺嚇敦を排斥する賜のではなぐ、互に並存する場合もあることを

7」グ2
示してゐるのである。
第三表︵第三問即ち巫の行事に裁いて、数字は員数を示 第三表に依れぼ全数の六割強は薩満の行事を
す︶
見たことがある着であつて、これを見ない者は
三割大分張疫過ぎない。さればたと望家古の魂
代青年は前述の如くもはや多く薩満教を信じな
いけれども、蒙古民間には僻ほ廉くその行事が
執行されてゐることを推知し得るのである。
第四間即ち兄弟と剰嚇との係数如何に裁てはぃ各年級を通じて兄弟教練計二九一名の中、嚇暁となれ
に一八名に過ぎず、賓に濠想外に少数であつ冤知らる1如く徒釆蒙古では、次男以下の子弟の中幾人かを柳城
第四表
とする零慣であつたのが、今やこの慣習は大に
衰へつ1あることをこれに伐ても確かに認め得

:.



られるのであつて、これ亦嚇琉歌の信仰の衰退
を示す一語左であらう。
終りに第五問即ち紳俳の名辞豊尊ねた紳統に
閲する問題に就いて靭るに、先づ何等かの名辞
を記入せる者と全く記入せざる者との月数を拳ぐれぼ第四表の如くである。
これに依れぼ全数の約八割窮は紳俳名を記入せるに封して、全くこれを記さゞる者は不明の者を合せて賓に二
部強に及んでゐる。尤も前者に廃する者もその諸紳彿に向つて必ずしも皆信仰を抱いてゐるのではなからうが、
しかも彼等は何程かの宗教的知識を有ってゐる着であるけれども、後者に至っては何等の紳俳名を記さゞる限り、
宗教的には殆ど隠閲心な着であると云っても敢て過言ではないであらう。息ふ竺般には嘲碗敦の普及せる民琴
lt、、
として知らる∼蒙古人に於て、その青年層の間にこの事箕を見出すことは深く注意すべき問題ではなからうか。
但しこの不記入者は見らる1如く低畢級に多く、即ち第三期生に約三割、軍士候補生に約年数を算し、他の上級
に於ては甚だ少ないから、此戟的に知識程度が低く殊に文筆に熱しない生徒等が、充分に紳俳名を記載すること
ができなかった事情も、この場合には特に参酌しなけれぼならないであらう。
さて次には紳俳名を拳げたる一四〇名︵平均年齢約二〇・八歳強︶に就いて、故には各年級別に記載する煩を
避けて全年級を通計し、且つその生徒等が各自の便宜に従望家蔵漢和Ⅵ詩語を.混用して雑然と記入したものを私
が相常に苦心して解語整理し、かくして全鰐を通じて掲げられた紳名彿名の多寡を夫々数字を以て示し、その順
位を迫ふて列記すれぼ下の如くである。
︵こ繹尊60。︵二︶閲帝48。︵三︶観音84︵錦ほ単に千手千眼と記せる者5と後掬の馬頭和音5とをこれに加ふれ
ダラウ7シヤガシダラウ7′ゴガンダラウフシラダラウフケヒンツングサ ぱ44︶。︵・四︶禰勒25。︵五︶母紳︵自母紳と線母紳と黄母紳とを合せて︶讐︵六︶女神︵願馬に乗つ弁二女紳であ
って普鮮天女に常男、.除夜に降臨すると信ぜられてゐる︶15。︵七︶大黒天14Q︵八︶娘晶。︵九︶成青息汗10Q︵一∽
現代蒙古青年の宗教意識

現代蒙古青年の宗教意識 一三四
〇︶無量薄彿、鹿沙門天、胡仙、組党神文は組先悌、各々7。︵一こ宗略巴︵柳城敦の一大組師︶6。︵一二︶ハヤ

7、ブイ
シサガンシフルチ ンハサヴァ︵何耶摘嘲婆即ち同量重−−昌で馬頭観音をいふ︶、自傘彿喝ヂャムサラン︵夜叉大将に首る︶、イダ
ム︵護法紳︶、各言。︵三采配賢舶載喝サ嬰挿柳城、各々41︵一四︶ヤマンタカ︵大威徳空で俗稀歓喜悌の
一である︶、四天王、シャクサ・ボロサ︵災難除の護身彿とtての懐中悌︶、ダムジン︵山草に乗れる荒神のこ、
シヤガンサブタン 土地紳、達頼嘲碗、文殊師利、五帝紳又は五帝彿、各々3。︵一五︶チェヂン︵二護法紳︶、十六羅漢、白老人︵嘲
プル︵シボクダ 碗廟の跳舞に硯はれる一老人紳︶、岳飛、オボ紳、スルド︵一守護神︶、ミラ彿又はミラ聖人︵西戎の有名な聖嚇痴︶、
サヒコ巌スン︵清洲語オトリに首か一神祇である︶、三世彿︵繹迦禰陀摘勒をいふ︶、サマン神文はサマン彿、各々
2、︵〓ハ︶金剛薩唾、ナスンヌグルバンプルハン︵歳の三彿即ち長寿を祈る三悌で、無量寿彿と自母紳と頂留廟
グルベンヲ▼ 母とをいふ︶、周倉彿、九聖紳︵土地神山紳火紳財神島主薬王龍王苗三馬王をいふ︶、三嘲碗︵宗略巴とその二大弟
子チャルサブとヘールプむいふ︶、ナランハヂッエー母紳︶、ボモラ︵土地守護の悌︶、シャツサ︵小土塔︶、ドク
シュー荒神︶、トルサック、ブルハン︵畏るべき一彿︶、摩利支天、ダイスン・ツンダリ︵仇敵を防ぐ紳︶、ツング
バスバ リ、書群時輪、老悌、孔子、孟子、財紳、福神、八思巴、主祭紳、七星紳、閲歴、クスル︵嘲嚇の一階級︶、ゴク・
チック︵大過遽母︶、基督、以上各々1。
鴇備望森吉には知らるゝ如く種々の部族があつて、多少その信仰を異にしてゐるから、今試みに上記の諸紳
をぼ更に二三の代表的な部族別に集計して見れぼ次の如くである。
﹁ダフール族戯身者二八名に於ては、︵こ閲膚、簸て各々9。︵二︶繹尊、胡仙、祖先紳、各々7二三︶火
紳$。︵四︶土地紳、山神、嘲城、各々2。︵五︶主祭悌、七星紳、千手千限、成青息汗、各々l、
二、ブザヤー†族出身者一二名に於ては、︵こ繹隼11、︵二︶昆沙門3。︵三︶母紳、女神、観音、ヂャムサラン、
各々針。︵四︶トルリック、達頼嘲味、文殊師利、ナランハヂッ・卜、十六羅漢、大黒天、摩利支天、白老人、五感
紳、各々1。
三、カラチン及コルチン族出身者合計七六名に於ては、︵こ繹尊84。︵二︶闊帝犯。︵三︶観音24。︵四︶滴勤19。
︵五︶母紳10。︵六︶大黒天、成青息汗、各々8。︵七︶女神6。︵八︶宗塔巴、千手千眼、ハヤンハリヴァ、各々5。
︵九︶無量寿彿、班繹嚇蛎、各々4。︵一〇︶ヤマンタカ、娘て自傘悌頂、シャクサボロサ、四天草各々8。
︵二︶達頼嘲嚇1イダム、文殊師利、スルド、チェジン、各々2。︵一二︶九聖紳、火紳、土地紳、組鬼神、周倉
彿、岳飛、十六羅漢、三嚇嚇、ドクシト、見沙門、三世彿、ボモラ、五帝彿、ミラ彿、音鮮時輪、八息巴、ツン
ダリ、孔子、孟子、財紳、両神、各々1。
さて上摘の拷紳諸俳書薩名は親じて六十四今に及ぶが、その中では流石に腰尊を第一とし、これを拳やる者茸
竺ハ○名であつて、侍ほこれに観音禰勒其他の彿敢闘係の諸寄を加ふれば、嘲嚇教の諸悌天は殆ど腰倒的に多数
を占めてゐる。しかし闊帝は練数に於ても繹尊に次ぐ順位にあつて、更に若しこれにかの凍て胡仙、財宿所、
七星紳等の諸紳を加ふれぼ、所謂漢文他の系統を引く此等道教関係の諸紳は、嘲嚇敦系に次いで多数であつて、
殊にダフール族出身者に於ては、開帝と娘々が首位にあつて、道教系は却て嘲碗系を凌駕してゐるのは、本族が
漢文他の影響を受くることが多㌫二特色を故にも窺ふことができると息ふ。次にカラチン及びコルチン族出身者

JJ∫
現代蒙古青年の宗教意識 一三五
現代蒙古青年の桑故意故 ご二ハ
に於ても、関南は繹尊に匹敵して優位にかるから、一般に道彿二教の紳溌望家宝円年隊にも大鱈上並存し、徽つ・

7β6
て宗教上漢文化の受容も蜘嚇教に次いで盛であることをこれに伐ても察知し得るのである。しかしブリヤート放
に就いては、回答者が少数ではあるけれども、その殆ど全部が繹尊を挙げて、道教閲係の碑名を記してゐないの
は、由来北方に蜂居する本族には漢文化の影響が乏しいことを故にも明示してゐる趣がある。更に全喋を通℃て
固有の蒙古紳とし七のツングリに屈する紳統と民族的英雄紳としての成育思汗は流石に道教釆の紳統に次いで多
く掲げられてはゐるが、道悌二教に比すれぼ逸かに下位にある。そこで両統上から観た如上の蒙古青年の宗教的
知識はやはり俸線的に依然として嘲嚇教即ち西戒悌教を主とし、支部系の道教及び蒙古系の諸所を徒としてゐる
と云はれるであらう。錦ほ上記の紳競の中に、かの清洲や支部に於ては相常に勢力がある回教に関するものが一
も奉げられてゐないのは、箕に斯敦が蒙古人間には鈴り顧みられてゐないことを反映してゐるものである。
しかし柳城教の信仰が前述せる如く漸く衰へつゝあることは寧ふべからざる寄算であつて、その一理由は明かl
に漢文化の偉播と影響に依るのであるが、他方に於てはそれはまた彼等蒙古の青年層にも、漸次世俗的な現代文
明が浸潤して、その薦めに多少とも非宗教的若くは反宗教的傾向が硯はれて衆たことにも伐るのではなからうか
と恩ふ。若し果して然りとすれぼ、これは特に留意しなけれぼならぬ事態であつて、私は曾て現地で食談した幾
多の蒙古青年に就いても、賓はこの鮎を探く考へさせられたのである。
以上q麦邑β賢①me臣Odを用ゐて、恰も青春期にある百七十除名の蒙古青年の宗教的信仰と知識との一端を
調査し、これに簡単なる説明と卑見とを加へたのであるが、.今その回答者の員数は固より多くは率いとしても、
その結果は少なくとも彼等青年の精神生活の一案相を窺知せしめる一の資料とし七、彼等の教化指導上にも或る
示唆を輿へるものであらうと信ずる。侍ほこの小篇はわが外務省丈他事巣部の委将に係る満蒙の民俗及び宗教調
査の一部であつて、現地では特に蒙古軍官拳絞首局各位の好意に負ふ所大であつたことを附記して、歯に深く謝
意を表する次第セある。
現代蒙古青年や宗教意識
金倉阿照博士著﹃印匪古代椅紳史﹄ 〓ニ八

JJβ
金倉固照博士著﹃印度舌代精神史﹄
山 本 快 龍
皮苗代精神の債値などが手際よく述べられてゐる。

緒論 印度輯軸の受容と軌粘 日本人と西洋人
東洋思想が新しい立場乃至違った角度から、更に高 の間の相異を取扱ってゐる。前者は大乗彿教のみを採
次の研究を必要とする時に際し、我が印度畢の泰斗、 用して同化培養し、その精神文化の重要な慣幹となし、
金倉博士に依て、﹁印度苗代精神史﹂の公刊を見るに 資料としては専ら漢詩を仰いだに勤して、後者の受容
至った。畢界はこゝに一大牧獲を待て、.その水準を一 は始め好奇心の範囲を出なかったが、次に箕用を目的
犀を高めた澤である。博士の彫心鎖骨の努力に封して、とし、更に拳闘自照として研究した。然し国民精酔に
満隆の感謝と敬意を表すると共に、内家品二端を紹介 同此してゐないと述べ、特に数真に亙って欧米尊者の
して、本書の必読を江湖にお奨めしたいと息ふ。 業績を詳にしてゐる。か1る践行的受容の現状は、終
釆我が印度研究に向ふべき指療を明かにするものであ

かとなし、苗乗捨てゝ顧みなかった彿教以外の思想の
発づ序では、本書を起稿した動横、叙述の方法、印 探究と、原典の色請を力説し、日本彿教は支部印度へ
嘉i一■才
と次第に本渡に遡って研究すべきであると云ってゐる。 有した巨大な人間と考へろれた。そこに高速な人生の
第−章 楠紳史の黎明 最近にその遺跡が蟄見さ 理想を樹待するは退官の要求であつて、すべて規賓的
れたインダス河畔の文明に関して一節を設けて、.その の生活の幸福を主眼としてゐる。厳粛な罪悪意識は金
驚くべき文化む紹介し、次にアサヤン旋の印度移住か 環的に藷められない。輪麹思想の如きは、未だ全く姿
ら、彼等に伐て最初に作られ現代印度文化の本源とな を現してゐない。これ等が﹁神々と人間﹂に関する考
ってゐるリグ吠陀む取扱ってゐるのが本章である。一リ 察の一部である。次に﹁秩序と鹿ごの節で、理法天
グ吠陀は十巷一千有鎗の静歌から成る詩集で、その大 則を表すリクの観念が説明され、それは個々の現象を
部分は赫々に封する供薦の歌であ少、讃頒であカ、所 越えた規則の観念に封する自覚の始であつた、と断定
願である。そして小部分に初期の哲畢思想を叙べた物、 し、この他にもつと具鰹的な、一々の事象の奥にひそ
呪払の目的に使用された物、物語風の詩篇を含んでゐ む普遍的な賓在に閲する初歩の勘念を吠陀の中に指摘
るが、これ等は比戟的に新Lい作品だと見られてゐる。 し得るとして、火に就小ての興味ある観察を、その一
それが比較的純粋に過去の思想む保存してゐる限りで 例に上げてゐる。頓後に﹁諸紳の競一と寓有の起源﹂
は、移住以前に於けるアサヤン族の精神生活への橋梁 を考察した、有名な無有歌の説明で茸が終.ってゐる。
を示す物であカ、既に欒他の過程を表示してゐる鮎で 弟こ草 生−ぺの階梯 この茸ではザグ吠陀以外
は、印度精神史の黎明を呈現してゐるもの、と言へよ の三昧陀とブラーフマナを取扱ってゐる。前をリグ吠
う。かうtた極めて安首な表現でこの詩集が紹介され 陀時代とすれぼ、こ1は所謂ブラーフマナ時代である。
てゐる。爽は内容に就いての説明である。自然現象の 文化の中心の移動から、カースト即ち四姓の確立を説
神格化む中心とする自然数で、紳は形而下の威力を具 き、アクルブ吠陀の内容を紹介し、次にブラーフマナ

7J夕
金倉園児博士著﹃印度古代精紳史﹄ ー三九

パ∵仁 ︼
′㍉﹁ 翼
金倉囲照博士著﹃印度古代清紳史﹄ 一四〇
のそれに及ぶのである。ブラーフマナの内容は要する パニーシャツドを取扱ったものである。経典の解説及び

740
に祭祀の要素と寓象の間に存する必然の連繋︵バンド 名稀の意義の語明から始まゎ∴﹁婆羅門の生活と教育﹂
ゥ︶を取扱ったものだといふに辟著すると断定してゐ の一節を設けて、詩者の興味を唆旦 ﹁冥想の対象﹂
る。但し此庭には理路整然たる世界観が組織的に戯蓮 と云ふ茸でウパニシャッドの特質を述べてゐる。ウパ
されてゐるのでなく、歪曲された世界梼囲でたゞウパ ニシャッドに於ける探求は専ら全有の中に潜む根本の
ニシャッド曹畢の前提として評債さる場合に全く棄却 箕在に向けられたこと、それは祭祀を離れて、唯一有
しぇない歴史上の意味が蟄見される、塵芥ふのである。自鰭を認識し髄験しょうとする猫立の哲畢的意慾む示
紳観の推移を﹁古紳の顧落﹂と﹁新紳の出現﹂の二簡 すものであること、但しこ1で認識とは形而下の感覚
で詳説し、新紳の最高紳としてプラヂャーパティを上 認識でなく、形の奥に秘む統一者の自覚、否か1る溌
げてゐる。次の二簡で種々の資産を具惜的なものと、 一着と主観の統一者との同︼の確信さること、即ち内
抽象的なものとに別けて述べ、ブラフマン ︵梵︶は単 的直観、神秘的な慣験である鮎を強調してゐる。かゝ
に神秘な力として上げるのみである。更に﹁人間の機 る認識を得る薦めには、現象の個人と統一者との関係、
能﹂として、息、心︵意︶、語、祓、聴の五種を述べ、 即ち現象と箕在との構成を諒解することが必要で、両
﹁機能の中心﹂としてアートマンを説き、主なる表 者が如何なる関係構成にあるかを探求するのが、ウパ
現を引用して、これを基礎として、梵我一如の幽玄な ニシャッド哲畢の課題であるとしてゐる。而して唯一
哲畢上の理念が建設せられるやうに成ったと章む結ん 者と、雑多なる現象との関係は、多は一の韓攣である
でゐる。 とな
第三章 梵我−如 この茸は次の二葦と共に古ウ 間的な見方との何れかに辟著し、これがウパニシャツ
ド哲畢の二代表的のものであるとなすのである。然し
て始めて現れたと見る詮に封して傭省察を要するとし
統一者が終極的の定立を得るまでの動揺、即ち本源の
て退けてゐる。而して梵我一如の断言は、ブラーフマ
種々相を述べ、それ等が次第に整理されて、後に二原
ナでなくて、古ウパニシャッドの初期であると力説し
理が残った。それはブラフマンとアートマンであると
てゐる。
云って、こゝに始めて梵︵ブラフマン︶に封して猫立 第日章 ウパニシャッドの哲人 ′最初に﹁王族の
の衝を輿へてゐる。その語原の考察から出聾して、思
ブ想的活動﹂を述べ、次に哲人の代表としてウッダー
ラーフマナに現はれたものを述べVウパニシャッドに ラカ・アールニとヤーヂニヤダルクヤを上げてその説
於て、成立を異にせる他の原理アートマンと同一成せ
を詳説してゐる。前者に封しては、その一元三要素の
られるに及んで、その位置は不動とな旦永く印度の思舛は韓欒論の発願と見るべぎものだが、寓有の進化
精神界に君臨する事となつた鮎を明かにしてゐる。次
を精密に規定してゐない鮎は、彼の哲畢に重要な課題
に我︵アートマン︶に移って、その考察の蟄達を述べ、 として環された問題であゎ、彼は過去の思耕む統一し、
その宇宙創造詮はウパニシャッドの初樹濫於て明瞭精
に神史上に重要な足跡を印したに相違ないが、その思
説かれたと云ひ、更に﹁梵我一如﹂の一節では、梵索
とは粗宋の域を脱せず、賓在論的で唯物給的の傾が強
我たる二つの根本観念は、共に造化の主と見られた鮎
いと許してゐる。これに封して後者の主張は、観念論
を主要な媒介として、同〓祝されたと推定し、アー的
トで唯心論で、印度古代の代表的な神秘詮だと云って
マンの観念は、ブラフマンの主観的要素を強調するゐ
事る。而して彼の説く慣験の境地たる絶対界と日常相
に伐て、自然に展開し釆たと云ふ詮や、アートマン封
創の世界が、如何に論理上関係するかに就いては明確
7
造詮は、ブラフマンの創造説、及び梵我一如を濠想し
な答耕を輿へてゐない。これが後の哲畢に重苦課題−4
金倉囲照博士著﹃印度古代精神史﹄ 一四一
金倉問照博士薯﹃印匪古代帰紳史﹄ 一四二
として彼が穣しておいた問題であると加へてゐる。こ 婆羅門本来の考へはアーーマンが絶封軋梵に辟入して

742
ふに雨着がそれ′川∼異った立場から、重要な二一間題を 永遠の不死を得ると云ふにあるから、その限り輪廻詮
後世に課したことを知ることが出釆る。 のかはるべき飴地は存在し待ない。輪麹や菓の思想で
弟玉章 輪廻と業・ 輪廻と業と解脱の三種の観念 は、此の世の行為の主鰐と、未死にぁける生活の主慣
は、相互に密接な闊傾を有し、然も印度精神史に特色 が常に同一であると云ふ、即ち個性の永韓を必然的に
を輿へる重要な基本概念である、と胃頭に明記して、 漁想するが、これと大富への融合些一種の矛盾した思
輪廻詮の詳説に移ってゐる。この輪廻思想は長く東洋 想であるとなし、婆羅門哲畢の梵我一如戟と、輪廻思
の精神史に重大なる影響を輿へ、善悪應報の菓の思想 想との矛盾は、苗ウパニシャツ㌻に於ては未窒息諭さ
と結合し、一般民衆を積善の良俗に向はしめ一、又動物 れず、その解決は帰来の印度哲畢に課せられる結果と
愛護、慈悲の精神を作興せしめる原動力となつた、と なつたと云ふのである。
云ふが如き長所を強調してゐる。その起原に就いては、 茅大章 文化の東漸と新宗教の喫憩 今まではク
ブラーフマナ時代では、未だ所謂る輪廻は一般に信じ ル・パンチャーラが文他の中心であつたが、紀元前六
られてゐなかった。ウパニシャッドに釆てこの詮が王 世紀頃から、更に東方の地域が活動舞毒として重要性
族から婆儲門族に俸受せられ、婆羅門の中で翫ぼれる を加へたこと、原始のヂャイナと悌敦に伐て代表され
やうになつた、と主張してブラーフマナ時代に輪廻の る新宗教の起ったこと、輪廻思想の影響に俵て厭世の
思想が明白に存表したと云ふ詮を取らないのである。 色調が次第に濃くな曳これが印度思想の重要なる特
而して古ウパニシャッドの輪廻説聖二種に分類して解 色となつて、固有の印度精神が確立の端緒を聾したこ
り易く叙述してゐる。次に﹁美点想の蟄達﹂あ節では、 と、従って純粋アサヤン人の単純明朗な苗木の気風が
.・ ﹁ ●、
/一

永野に喪はれて行ったことなどむ述べてから、原一始時悌は彿教やヂャイナと鼎立する様な状態を哀したか
典に於ける十六囲の中の三大王国の政治状態を接と詮思しふと述べ、後にヂャイナに合流したと云ふ俸へを
てゐる。 事茸と見てゐる。この流血主張に就いて考察せんとせ
弟七章 思想界の情勢 沙門婆羅門の説明から
ば始マッカリを代表者とし、その人格と思想む取り上げ
ま旦梵網腔の六十二月を紹介し、更にこれをヂァるイ
のは雷然であると断って、ヂャイナの経典を主なる
ナの三空ハ十三見と封照比較せしめてゐる。こゝ
併に任悌としてその生涯を述べ、その教理と行法を彿教と
陀が作用論者か、無作用論者かに就いての問題に
ヂ封ャすイナの丙疋典から克明に集輯して、史料に俸はる
る安常な解繹のあるのは特に注意すべきである。
彼の全貌を明かにしてゐる。
帯入章 主要なる思想家︵大師外道︶ 併陀の師 弟十章 ヂヤイナ︵菅邪教︶ 教組大勇の俸記を
匠として俸へられてゐる阿羅避仙と鬱陀迦仙の二
述人べに
て、彼は特殊の聴明と魅力を有し、人生の饉験や
就いて始めに考察し、彼等の主張する無所有虞と
世非界宥
の知識に関して一世を象駕すべき哲人であつたと
恕非無想鹿と沸教のそれと叔相異なるを諾し、阿
結羅論遥
してゐる。次に﹁ヂャイナの前史﹂の節で、第二
仙が一種の恰倍哲畢を有してゐたと云ふ俸詮は、
十石四室
組パーサの資産の人物なるを讃し、彼の主張する
典に詮跡がないと明言してゐる。次に沙門果経に四俵
筒て條の道徳法に代へるに、大勇が五大誓を以てした
六師外道を紹介し、前の六十二月や三宮ハ十三見とと
云比ふのである。﹁聖典︵分類と成立︶﹂の簡では、白
較考究し、沙門果経の史料債値を疑ってゐる。 衣沢現存の聖典即ち悉梧多を列馨し、更にその言語、
第九章 部会外溝 これ墜ハ師の中のマッカリ● 性質、成立に就いての論及がある。プールブとアンガ
ゴーサーラに俵て代表されてゐる有力なる宗教囲 の醍
閲で係、
量ろ■
並行的塵顆のものとなし、前後閲係と 描
金倉囲照博士著﹃印定吉代務紳史﹄ 一四三
−−、,
L
〟−ふ㌧ ㍉−▲ ちノ
金倉囲照博士著﹃印翠古代精神史﹄ 一四四
なす俸説を否定してゐる。周春型典は大勇滅後九八〇 し、苦行特に断食を解脱に至る最上道としたと云ひ.

744
年にブラピーで編輯増補したものが基礎になつてゐる 木沢が倫理的賓践を強調したのは、印度精神史上に於
が、聖典の起源は紀元前三世紀頃から紀元前後の問と ける不朽の功績だと主張し、最後に解脱の世界に及ん
云ふ尊者の詮を取ってゐる。﹁教義︵根本事と原子論︶﹂ でゐる。﹁供給﹂ではスヤード・ブーグとナヤの論む
ダムマアダムマ
の簡で先づ活動・静止・基問・重魂・材料の五種の根 述べ、前者は聖典即ち悉増多に一同も問題とされてゐ
本事を説明し、更に原子と鮎に及んでゐる。原子は材 ないが、その根源形態とも云ふべきものは、多分大勇
料の微細なるものを指し、鮎は材料以外の根本事の微 自身の蟄明であらうと推定し、後者に就いてはその七
細なものまでも意味する、従って一材料難は一原子と 種は悉檀多に数へられてゐるから、前者より古く皐へ
同義であると解繹し、ヂャイナの原子観は印度精神史 られたと見るべきであらうと云ってゐる。而して菓説
に於ける原子論の党駆であカ、極めて注意に伍すると が、原始ヂャイナの中心的教義であつたと述べて終り
結んである。﹁菓と人間の運命﹂に於ては、藁魂に就 としてゐる。
いてその六種見上げ、次にそれを輪廻せLむる原因た 弟十l章 偶数 係数と云っても初期のものなる
る菓に説き及び、菓を物質的に解するのは、凡てを具 ことを初めに断って、﹁教組繹迦俸﹂では、青年・出
象的に考へる傾向から来るもので雷然であると云って 家・受畢・苦行・成道・塑造の説明・六十人の演壇・
ゐる。更に菜の種類から、捧、漏、汚濁に及び、倫理 捏柴の八項目に分けて批判的に考詮を述べてゐる。そ
観は動機説なること、魂蛋の六種の色︵類型︶等に閲 の中、彿陀が餞得せられた哲理について、四諦詮と縁
する問題などの詳解がある。﹁賛践倫理と苦行解脱﹂ 起説との二種の俸承があるが、悌俸の構成要素として
の簡では引用を巧みに配首して木次の修業徳目を羅列 成道を眺める時は、縁起説よ少も四諦詮との潜合を一
ヽl
犀古い俸承だ之考へられると云ってゐる。次に﹁教組 聖典の形態が確立するに至ったと考へられる。北方に
の人格﹂の一節を加へて、その悲智囲満の徳の中、経 俸へられた漠澤阿含経等についても、概ね事情は之と
典では蕃悲門が智慧門を覆ひかくされるの感があるの 類似のものであつたと推定されよう。﹂﹁教理︵五経と
は、ロハ管教理を俸へようとする努力に基づくもので止 縁起︶﹂の節では、悌陀の根本的立場としては、先づ
むをえざる結果であつたと輝明し、慈悲の現れを知る 五経詮の如きが随一であると考へ、その琵明は、阿合
材料を拾ひ上げてゐる。﹁彿陀の年代﹂に就いては東 に最も多く線返されてゐると云ふ外的の理由と、更に
西諸家の詮を批判し、結局紀元前四八〇年前後と見る 彿敦全饉に封する五経の意味と外教に封するその猫創
のを安富とする立場である。﹁悌敦の聖典﹂ の簡では、 性とに別けて論及してゐる。而して五経詮は苦無常無
聖典の語明から、脛律の成立問題に移り、諸家の研究 我の三種の理念を明かに示す根本の立場であつて、こ
の要綱を次の四種の掠鮎に概括してゐる。即ち第一、 の三種の理念こそは全彿教を通貫する根本観念である
聖典内の記事に伐てその成立期を考へること、第二、 として、五経詮を悌教の根本思想となすのである。次
聖典外の琵跡に由る指定、琴ニ、俸詮の批判、第四、 に五経の他に原始沸教の哲畢的立場を表す今一つの方
九分数と三蔵分類の問題である。而して次がその結論 、式が存在する。それは縁起の系列であるとして、これ
である。﹁阿育王の頃に些二戒の分類もでき、また経 を詳細に論じてゐる。即ち縁起詮の理解の困難の理由、
戒も四阿含五部に整理せられて居たと見てよい。そし 縁起に封する歴史的理解と批判的解繹の選庭、縁起と
て恐らく四阿合五部の分類に先んじて、九分数の如き 輪廻と無我との関係、縁起と成道、かゝる問題がこ
分類も用ゐられてゐた。其後、経典が錫蘭に俸へられ、 1で取扱はれてゐる。﹁倫理︵四諦八正道︶﹂では、八
紀元前一世紀に書籍されるに至って、漸く現存パーサ 正道を説いて、ウパニシャッドやヂャイナの倫理に比

74∫
金倉囲照博士著﹃印度古代精神灸﹄ 一四五
金倉園昭博主著﹃印度古代頼紳史﹄ 一四大
してその優秀な牒を強調し、次に日常生活に封する垂 々あ旦博士の卓見や強調した所を見逃してゐると信

アイβ
訓として、法句経の聖旬が上げられてある。﹁宗教︵繹する。博士並びに講者に封して漸塊に堪へない。それ
克と解脱︶﹂ では、係数が単に倫理や哲畢の概念に包 で今、全饅的な特徴の二三を上げて、この名著の眞債
拝されない教義と資践を含んでゐる、・その代表的な一の幾分を知らしたいと思ふ。本書の第一の特色は、礪
例は繹定であるとし、それを彿敦で重要成するのは、 断偏見なく、畢術的にも充分信頼し得ると云ふ鮎に存
解脱の教であるが寄めであると主張してゐる。而して .する。即ち博士は公平無私の態度を以て、角を矯めて
四念虞、四繹、四無色虞を説き、捏菓に論及し、﹁吾 牛を殺す様な論究を退け、﹁峯疎な理論に走るむ避け、
々は繹足に閲しても、他の場合と同様に、これを洗煉 印度の聖典をして自ら語らしめる﹂のみならす、又著
し、集大成し、新しい内容を輿へた鮎に、彿教が印度 名な世界の印度聾者を動員して、彼等に先づ云はしめ、
精神史に穣した偉大な足跡を認めねぼならないであら 然る後に自らの判断を加へ、或暗譜者の批判に倹つと
う。﹂と結んでゐる。 云皐方法を取つてゐる。J現在における印度精神の研
弟十〓章 結語 牌釆の展望を簡潔に概親して、 究成績む報告⊥たい﹂と云ふ博士の希望が文字通り成
印度の古代精神は、その淵源として極めて重要な意味 就してゐる。かくの如きは、卓越した帝脳の所有者で、
を有し、精神史上もつとも礪創に満ちた時代であつた、
多年象牙の塔に籠り、資料の渉撤と思索研鍔に寺庄せ
と明記してゐる。 る博士にして始めてなし得る菓績である。故陀報告と
云っても単なる集成セなく、叉引用が多くとも決して

蝋を噛むが如き感を起さしめない。凡ての材料は充分
以上の極めて甜菜杜撰な内容紹介には余の誤謬も多 に岨噂洗煉されて極めて巧みに引用配置され、繊細巧
緻な構想、軽快華麗な筆致と相保って、印度古代精神 驚異とも云ふべきである。
の農相が発しく展開されてゐる。第二に、章及び簡の

分類が、
勢に多くの達意を向けた鮎も見逃し得ない特色である。 かくの如く、本書は印度畢界の現状に於て望み得る
始め日次を渡合で見た時に、論文集かと思った程であ 最高樟威と最上債値とを有するものであつて、それだ
った。第三には、ヂャイナに極めて詳しく、叉邪命外 け吾人の本書に期待する犠打て大なるものがある。故
道の〓阜を加へたことである。これは序で、﹁他の日 に今、博士の寛容を乞ふで、望萄的な希望と、余の璃
本語の類蕃で巳に取扱はれてゐる問題はなるべく簡単 導から生する疑問の二三を逮べさせて頂きた.い。
に飯述し、然らざるものは比軟的詳細に論ずる方針を 先づ一般的な希望としては第一に、何故に然るか、
採った﹂と遊べてゐる主旨に伐つたもので、我が拳骨 と云ふ問題をもつと取扱って欲しかった。例へぼ、泰
で徒釆その研究が比較的遮れてゐた部分が、これに依 西に於ける印度精神の受容は依然客観的な研究態度に
って見事に補はれた繹である。従ってこの二茸だけで 留まつてゐるのは、歴史的環境の然らしめた結果だと
も、本書は高く評慣さるべき労作と云はなけれぼなら 云ってゐるが、もつと古代に於て、何故に東洋に於け
ぬ。第四の特色は、章節の終りに豊富な註の軋るこキ る如く受容されなかつたかを聞きたかった。叉ヂャイ
備考として上げる参考書は、極めて精選され、且つ最 ナで特種な理解に困難なダムマ、アダムマを何故に根
新刊書までも加へてゐることである。第五には.誤植 本事として認めるかも、首然考ふべき問題と思ふ。第
の極めて砂ないことである。本文で余の蟄見し得たも 二に﹁技巧的な説明﹂は極力避けなけれぼならぬが、
の僅かに二三に過ぎなかったのは、この種の書として もつと思想の必然的蟄展と組織性を顧慮して凍らひた

J〃7
金倉囲照博士著﹃印匪古代糖紳史﹄ 一四七
金倉囲照博士著﹃印最古代精神史﹄ 一四八
かった。次に部分的の問題に封する希望としては、緒 次に疑問としては、第一にウッダーラカの詮む前速

7イβ
論に於て西洋人の印度聾者及びその集結に封しては、 の如く﹁賓在論的で唯物論の傾向が強い。﹂︵百二一二︶
極めて詳細であるが、日本の場合は代表的な叢書を馨 と云ってゐるが、果して唯物論的と云ひ得るであらう
げるのみで人名は全くない、平衡に取扱って欲しい。 か。これはヤーヂニヤブルクヤの詮を観念論的で唯心
第〓阜、第二茸、第三章にも文厳に関する簡があるべ 論的である︵頁一二三︶と云ふに封立せしめてゐるか
きであゎ、又年代に就いても開設すべきだと息ふ。第 ら、極めて軽い意味に用ゐたに相違ないし、叉彼の述
二章で、ブラフマンに封しても、等十五節の申でか、 べる三要素の教義は唯物論的畢誼である︵クーン記念
或は猫立の節で、プラヂャーパティやアートマンと同 論文集頁三八︶と主張するヤコービ教授に従ったもの
様な取扱をして欲しかった。﹁輪廻と業と解脱の三種 かとも思はれるが、ウッグーラカの有は梵我である限
の観念は、相互に密接な関係を有し、然も印度精神史 り唯物論的とは云へないと思ふ。﹁ウパニシャッドの
に特色を輿へる重要な基本概念である﹂︵頁一二五︶の 哲畢は、我と梵との一如を澄得するを窮極の理想とし
であるから、﹁輪廻と菓﹂と云ふ猫立な章がある限幻、 寛その意味で神秘胡唯心論の絶頂に達したと﹀いへ
首然ウパニシャッドの解睨観に封しても、断片的毎言 る。﹂︵頁三八八︶と博士自らも主張する如く、これは
及でなて、猫立な茸を輿ふべきだと息ふ。苦・無常・ この両替人にもあてはまる見解であると思ふ。第二に、
無我を根本立場とせる原始併教に於て捏紫の可能なる ヂャイナに就いて、原始教義の概戟を試みる︵真二四
理由に封して、理論的な論及を試みて欲しかった。畢 五︶と断つて述べてゐる教義は、果して原始彿教と同
に無明の撥無、無明の特同だけでは説明は不充分と思 じ頃のものであらうか。極めて断片的では居るが、阿
ふ。 含に於けるチャイナの教義を見ると、これとは格段の
相異がある。﹁チャイナは保守的で、古釆その教義は 併陀の成道に求めなけれぼならぬ。﹁彿陀が慣得せら
殆ど欒化しないと言はれてゐる﹂︵真二四五︶と云ふこ れた哲理について、少くとも二種の俸承が存在してゐ
とは、直に教義が古いと云ふ意味ではない。悌教の如 たと息ふ。その一は四諦で、他一に縁起詮があつたと
く、小乗から大乗と云ふ様に封立的の欒此はなかった するもの﹂︵頁三〇九︶であつて見れば、又﹁菩提樹下
と云ふ意味にも解し得る。勿論﹁現存聖典中の大勇俸 の成道時における内観が、苦なる人生の由縁を訪ねて、
や師弟相俸の記事の如きは、極めて古い形態を誤なく 根本の惑を断じ溌ものである以上、縁起系列の順逆二
俸へてゐる﹂︵真二四こであらうが、﹁現存聖典は大 親であつたとする俸給は、寧ろ賞賛を穿ってゐるもの
勇滅後九八〇年ブラピーで、編輯増補したものが基礎 だと言へよう。﹂︵頁四〇〇︶と主張する限少、寧ろ縁起
に成ってゐる﹂︵頁二二九︶、﹁巳に結集の際に盲爆は 詮の方が五薙詮よりも根本基礎思想ではあるまいか。
唾滅に瀕してをカ、僅かに部分や断片を集め失はれし 而して外教の韓欒詮と積衆詮に封して、原始係数の掛
虞を補填して完成したものである﹂︵真二三五︶からに 白の主張として上げ得るものは縁起説だと息ふ。第四
は、益モ疑しくなる。印度思想の諸派の中で、ヂャイ に、輪廻詮に閲して﹁輪廻する主牒、即ち我の永遠な
ナの聖典成立史が最も不明である眼力、ある説の起源 る白同性を認めて、始めて成立しうる数理である。有
をこ1に求むるのは危険であると云はなけれぼならぬ。 我の邪見を基底とする﹂︵頁三九三︶と云ってゐるが、
従って原子論の党騒をヂャイナに置く︵真二五三︶ の 輪姐説をかく限定するとすれば、有我の邪見を極力排
は、更に二暦厳密な考琵を要すると思ふ。琴二に、悌 斥する係数では、この説は到底認められる飴地はない
教に於て五経詮を彿教の根本基礎思想とするのは、果 ではあるまいか。博士は悌陀が全く輪鵜を認めなかっ
して安富であらケか。何んと云っても、悌教の根本は たと主張してゐるのではないと断つて、﹁無明の立場

74夕
金倉囲照博士著﹃印匿古代精神史﹄ 二田九
金倉囲鹿博士薯﹃印匿古代精紳史﹄ 一五〇
において﹂︵真二克四︶認めたのであると云つてゐる。

75り
これは単に墟ひと云ふ代りに無明を置き換へただけで、
理論的の調和を示してはゐない。悌陀と輪廻詮との問
題は、印度の輪廻詮はその主慣は必らすしも我に限っ
てはゐないこと、無我の意味、彿陀は常見を排斥した
が同時に断見をも否定し.たこと、無常欒易即ち滅無で
はないこと、如衆の死後の有無等に閲して彿陀が無記
の態度を取つた理由、かうした事項と閲係せしめて根
本的に討究せなけれぼ怒らぬと思ふ。
但しか1る妄評は、一笑に附すべき賀末事であつて、
本書の債値に何等影響するものではない。余は博士が
更に﹁筆硯を新たにし﹂、﹁残除の部分をも世に間ひう
る日﹂ の速かならんことを切に勉望するものである。
紳単に放ける﹃紳と人間﹄の問題
桑r 田 秀 延
間存在の畢は、現代に於ける哲畢の、従ってまた現代.

倫理畢の、中心的関心事であり、神輿の場合その興味
最近神輿界の事情を検討してみるに、現下に於ける は、単なる人間畢、或は紳畢的人間畢でさへもなく、
ヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽ
紳畢の論議と問題とは、紳と人間との関係乃至結びつ 的確には、紳と人間との関係の問題であると息ふ。

きの事にまで凍てゐるやうに思ふ。世界と人間の歴史 周知の如く最近二十年間に於ける紳畢の主要問題は
ヽヽヽヽ
とを超えた紳が、灘何にして、・世界と歴史とのうちに 紳の問題であつた。これは、膏に紳畢と云ふ畢の問題
ある人間と周供するか、その事が如何にして可能か、 であつたぼかりでなく、活きたキサスト数倍仰の革新
そ¢関係なカ結びつきを如何に詮明するか、之等の鮎 的な問題であつたと親るのが至常であらう。文重複輿、
に、現代の紳畢的主題が集中して凍てゐるやうに息は 啓蒙思想、浪漫主義、理想主義、と流れて釆た近代の
れる。ある人は、現代の紳畢的主題を、寧ろ﹁人間畢﹂ 思想と、探い交渉を持ち緯けて爽た近代神輿の傾向は、
であると聯るかも知れない。無給一應は左様に観るこ 人間中心的な内在的なものであつた。紳畢と呼ぼれて
おが出来る。だが、精細に検討すると、人間畢乃至人

7∫7
ゐても、それは、屡々紳を失へる畢・人間の理性によ
潮単に於伊る﹃潮と人間﹄の憫層 一五一
ダ ニべ∵ ∴ナ∵一 ∵⊥ ∼、l
、十−㌧
紳単に於ける﹃紳と人間﹄の問題 一五二
る理想主義的な紳畢であつた。之に封して、世界大戦 思ふ。
ヽヽ

7∫2
を契機として、超越的な他者なる紳が新らしく見出さ さて現時の神輿問題は、上述の動きから離れてはゐ
れ信ぜられ、それが膏に信仰の問題として説かれたぼ ない。だが、超越なる紳の信仰とその紳の言なる啓示
かりでなく、紳畢的に提唱せられた。之が、カール・ についての神輿的な論議に於いて、一應の使命を果し
ヽヽヽヽヽヽ
バルトによつて主唱せられ最近二十年間の紳畢の動き た最近の紳畢は、紳の問題から、更に、紳と人間との
ヽヽ
であることについては、虫で事新しく繰り返す必要は 閲係の問題にまで、その紳畢的論議を移して釆たので
ない。たゞ鼓で指摘しておきたい一鮎は、近時の紳畢 ある。かゝる推移の首然の結果として、現時の紳畢論
ヽヽヽヽヽヽヽ
的問題が紳の問題であつたと云ふ事茸である。之は、 は、極めて繊細な専門的な論議を特色としてゐる。果
歴史的には、よく云はれる通力、近代の人間中心主義 してかうした傾向が喜ぶべきものであるかどうかは、
に封する反定立の意味をもつてゐる。だがこの事たる 確かに一つの問題であゎ、この間の事情は、∴示教改革
や、比戟的に意味の少い反動位のものではなく、キリ 後、プロテスタントの紳畢がスコラ的なものになつて
スト教思想史に於て可成り重要なる位置を占むべきも 行った場合を想起せしめるものがなくはないが、兎に・
のであカ、例へぼ、宗教改革に於ける紳の言の樺威と 角かうしたものが、現時の紳畢的問題の所在であゎ性
信仰による義の主張が、キリスト教史に於て重大なる 質である。之咤主として猫逸を中心とする欧洲大陸の
位置を占めるやうに、無論それと同様には親られては 紳畢に関することであるが、しかし世界の紳尊兄全慣
ならず、その性質も異ってゐるけれども、班語法紳尊 の動きに於いても、これは恐らく最も大きな、従って
者等によつてなされた抗議と提唱とには、紳畢史的に 最も注意すべき鮎であらうと考へられるので、故にこ
みてもつと積極的に注意せらるべきものがあるやうに の間の事情を、解繹を加へつ1報道Lたいと思ふ。
・は、この場合、他の語草とは直接的には接嘱しない濁・

白的な教禽の拳として考へられる。
然らば、現代神畢のどこに、如何なる動きのうちに これは、否定的では透るが、現時に於ける紳と人間
かうした紳と人間との閲係の問題が現はれて居るか。 の閲係の問題であり、この雨着の閲係む積極的に詮明
現時の紳畢的な動きに、幾らかでも注意を凍ってゐる せんとする紳聾者たちに封し、カール・バルトが近時
者は、誰でも気づいてゐる所であるが、この間題は二 種々なる横合に於て示しっ11ある態度である。即ち、
ヽヽヽ
つの傾向むとつて現れてゐる。その一は、最近のバル ヽヽ 啓示の認識の問題に於いて、この鮎がよく表示せられ
トによつて代表せられてゐるものであカ、この紳と人 てゐる。バルトと雄も、紳の言が認識し得られること
間との問題に於て、両者の関係或は結びつきを問題と ︵出rkeゴnb弓keit des弓Orte∽GOtte且 は、無給これを
することの危険を感じ、さうした結びつきの説明を紳 説いてゐる。しかしその紳の言の認識それ自照が紳の
畢的な問題としてと幻あげること自照を、二桂の人間 啓示によると云ふのが、彼の基本的な主張である。ま
主義乃至自然の肯定であると見徹し、かうした紳・人 た啓示の耕讃諭的な説明を紳畢的なグノーシスである
の関係を紳畢的な問題とすることを排撃するものであ として斥け、紳聾の課題を、厳密に教合に於ける幅音
ヽヽ
る.。即ち紳畢の問題む、どこまでも神のみの問題に限 の宣教の批判訂正に限定した所にも、彼のこの願度が
り、所謂紳と人間との閲係の説明に於ても、央張りこ 十分示されてゐる。更にまた、自然紳畢む排し、各種
れを根本的には紳の問題であり、紳の働きであるとな の人間畢 − 紳畢的な人間畢でさへをも斥ける彼の麒
L、教倉に於ける嘩晋の宣教に於てさへも、基礎的に 度は、つきつめる所、上述の紳堕的立場に由爽してを
はさうした考へ方をおして行くのである。従って紳畢 り、そこで問題となってゐるのは、紳と人間との関係

7エヲ
紳畢に於ける﹃紳と人間﹄の問題 一五三
紳単に於ける﹁紳と人間﹂の問題 一五匹
ヽヽヽヽヽ
についての彼の極めて潔癖な見解である。だが、バ第
ル二の現れ乃至傾向である。之等の人て殊にブ几シ
トのかうした見解については、之までに既に相償悉ナ
しーは、これまで、バルトによつて攻撃せられて、受

7∫4
︵1︶ く紹介せちれてゐるので、鼓では省略したい。
太刀の気味であカ、従ってバルトとの論議は、多く自
︵1︶ 例へぼ日本紳畢校紳拳骨編纂﹁紳撃と敦骨﹂第三巻 己桝明の臥㌢つてゐ宗、最琵於望彼等の紳拳
Ⅱ︵一九三七年︶ バルト特輯敦参看。
的な動きは、耕明をやめ、積極的にその相違を明かに
ところで、最近時に於ける紳畢的な動きは、上述の
し、抗議し、主張してゐる。
︵2︶
ヽヽ
ヽヽ 如きバルトの紳のみの主張、紳畢のみの主張に︵封1す
︶ る声﹂野unner、穿どr昌d GI邑e.賢−ゴGe払pr琵−
抗議の形をとつて凍てゐる。彼に封する抗議とか反封 mit舛邑謬r昏−荒廃﹂転読の如きは終始自己辣明であ
とかは、従来とても屡々なされて釆た所であつて、抗 る。
議それ白蝶は何ら新しい事柄でばないが、最近に於け︵2︶ ノ或・声G。g≒t2n−G3.各t Oder Ske官許出ine
るそれは、従殊に於けるものとはその性質を異にして 警2it驚h註言勺笥口許ユ謬r−∫−誌ご声望unner︶
Dりr寅eロ欝him Wid2r眉ruCF]臣echri邑iche rell↓e
ゐる。従来の反封は、その紳畢的立優に於て、バルト
吉m弓註re菅und∃mまrk︼icheロ︼扁e星heEこ¢芦
のそれと、基礎的に相違せる人々からのものであつた
が、最近の抗議は、一應バルトの立場を受納しっ\ これは、結局紳と人間との結びつきについて説明
少くともそれを理解しっ\而も紳と人間との関係の し、或は啓示の解樺の可能性を認めるものであるが、
問題に於て、彼の見解に反封するものである。これか
はうした試みにも種々計るものがある。例へばブルン
最近に於けるゴーガルテンやブルンナーの動きに見え
ナーの如く、人間に於ける應答性とか、心のうちに記
る所であゎ、近時に於ける紳と人間との関係の問題さ
のれたる律法とか、創造の秩序とかの意義を認め、之・
︵1︶
等の自然乃至†般的啓示がⅤキリストに於ける特別な 論︵望mensiOnen−eどの︶は、つきつめる所キリスト教
る啓示の受刑のために準備的な働きをなすと云ふやう 的な存在論である。又最温の紳畢的人間拳の主題とな
に考へるものもある。之がブルンナーの謂ふ所の自然 ってゐる﹁汝と私﹂ の詮は、この間題の最も積極的な
紳拳の意味である。彼はまた、バルトが紳峯的なグノ 企囲であると云へよう。人間単に於ける近時の主題た
ーシスとして排斥してゐる啓克と理性、信仰と文化、 る﹁汝﹂︵d誌Dヱ の思想は速くキエルケゴールまで
恩寵と自然等、 測るのであるが、−もゴロnd H註=とか ㍉Oh・出払HOh・
これを紳畢の課題に探り入れる。啓示の解繹の可能性 D弓の封立とかが、問題とせられるに至ったのは、紳
︵2︶
については、ブルトマンも之を認め、彼はハイデッガ 尊者エーブナト及ブーバーに始まる。ゴーガルチンや
ーの存在論を援用し凍って†人間有産の一つの歴史的 ブルンナーは、彼等の蟄見に負ふてゐるのであゎ、ゴ
な有産様相としての信仰の存在論的な可能性を見出 ーガルチンはそれを更に蟄展せしめて人間の﹁他国有﹂
・し、信仰のかうした有産論的な解繹を啓示信仰への後 ︵吉mAnde記n・訂r・Se山n de払巳打更旨旨︶ を主張し、
備的理解として容認しょうとしてゐる。既存の存在論 これをキリスト教的使命全鰹の解繹に適用したもので
︵3︶
的な管掌を援用するに止らず、更らに進んで紳摩的な ある。だが、かうした自然紳拳の主張なカ、紳峯的人
人間存在畢を主張する紳聾者たちの意囲と努力も、矢 間堅の企囲は、結局、紳拳に於ける紳と人間との関係
張り現時に於けるこの紳と人間との関係の解繹的努力 の問題の現れであゎ、紳拳の問題は、今日この鮮まで
の現れに他ならな小。カール・ハイムは時代の紳畢と 凍てゐるのである。
か哲拳とかを吸収し、また大腰に批判して、それらと ︵1︶ <g︼∴戸 Heim︼ G㌻u謬 und せ苫ken.吋El畠?
紳撃とを関係づける紳聾者であるが、彼の唱へる次元 pE籍he n⊇n染eg〓ng eiI蒜rChri邑首hen Peb苫野口欝h・
紳単に於ける﹃紳と人間﹄の問題 ︼五五


∴tも

紳単に於ける﹃紳と人間﹄ の問題 一五六
空星已lg.−¢∽P
再述する必要はない。たゞ、最近我国の思想界で云ひ

7∫β
︵2︶ つ呵︼・若rdi一ノ昌d些旨er−D蓋宅○ユunddiege耳
慣されてゐる一つの思想−人間存在が単なる自立存
tigeロ一Re註t賢en∵胃彗七日.出各er−巨e字義e pn den
在 でなく、寧ろ他に国力て存在してゐる存在者である
出in籍−nenいJch uロd Du.
との思想は、ゴーガルチンの紳畢的な人間撃と関係あ
︵3︶ <g一・苦iedri各GOg讐ten−Hch g︼呂be計den
るものであることを、故に指摘しておきたい。さて、
d→eiein山笥nGOttいG︼呂bepudWi→k−iehkeitこざーiti胃he
彼の人間畢及びそれを基礎とする彼の図表倫理畢は、
国th茸 We︼訂e器︸l呂uロg∈ld G訂ロbe.・
バルトの非難と攻撃とを受け、この異色ある二人の紳
皐者は互に枚を別つに至ったのであるが、バルトの非

難にも拘らず、ゴーガルチンの方では最近まで別段の
こゝで、先頃出版せられたブルンナーの前述の書物 耕明をも試みないで釆た。所へこの駁論が現れたので
のうち、この鮎に解れてゐる部分を紹介してみよう。 ある。本書に於て、彼は、全部的にバルトを斥けてゐ
だがその前、序に、ゴーガルチンのバルトに封する るのではない。近代町人間中心的な紳畢に封して、紳
論難書︵曾g等訂n、穿ri臣t OderSke旦m盲5.e St︼
の・言eの
i紳t・
畢を強調したバルトの貢献は、十分之を認め
岩ぎi芹gegen内邑許r旨︶について二言しよう。ゴーてゐる。だがしかし彼は、バルトに於ける琴前の説明
ガルチンの神輿思想は、先頃彼の主著﹁我些丁二の沖 が、一種の息瑠に陥ってゐると難じてゐる。即ちバル
を信ず︶︵坂田澤・長崎書店刊行︶が邦繹せられたし、 トは、紳と人間との差異乃至直別とそれの克服が啓示
ま牽彼の人間拳は、西田、和辻両博士等によつて我国 によるとみてが訂∴それがイエス・キリストと云ふ歴


の思想界に紹介せられて凍てゐるので、詣で事新しく 史的な出乗車に於て生起したとみてゐる。しかし彼の
説いてゐる啓未は、茸際にはさうした歴史的な出兼事 dO等︶を引照しっ1指摘してゐる。彼の給の雷香は別

l′I

に閲供してゐない。と云ふのは、バルトに於ては、啓 として、兎に角彼は、本書に於て、バルトの紳畢的な
示の根漁である紳はイエス・キリストに於いて啓示せ 立場が、その動機の純粋さにも拘らず、事茸的には誤
られる紳ではなく、﹁根源の理念﹂ ︵dieHdee de∽q
謬rにl
陥ってゐるこ.とを積極的に指示してをカ、条ねて
Sp↓5的S︶に他ならず、又壁不の紳が閲係する人間性も、 彼自身の人間畢的な紳畢を主張してゐるのである。本
イエス・キリストによつて啓示せられた紳によつて造 書は直接、紳と人間との関係の問題を取扱った書では
られた人間の人間性でなく、寧ろ﹁根源ならざること ないけれども、本書の背景となつてゐるバルト封ゴー
の理念﹂︵dieHdeeeine巧A邑er浄eiヱに他ならガ
なルいか
チンの紳畢的論議の焦鮎は、矢張りそ■の問題であ
らである。かくしてバルトの説いてゐる啓示は、キリ る。
スト教的信仰に於ける啓示ではなく、箕は、かうした さて我々は、今ブルンナーの著書﹁矛盾に於ける人
根源と根源ならざるものとの連理的な一致であ旦路 間﹂︵出mi−冒巨ner︶Der試ensOF山m尋idermpr喜F︰
封と有限との一敦の息梧的な理念・にすぎない。バルト Die OFr訂t−iOFeトeFreづOm宅PF諾n undづOm W肯村−T
の意囲がこ1に存しない事は明かであるが、しかし彼 。訂n雰n溝昏︶に移らねぼならないが、これは、謂
ヽヽヽヽヽヽヽ
は茸際にはかうした一致の思料︵Hdenき芳名ek已邑○ロ︶ はゞ彼の紳畢的な人間論である。彼は、この書の内容
に陥ってゐると、ゴーガルチンは論じてゐる。ゴーガ に封する暗示を、過去幾年かの問に、或はキエルケゴ
ルチンの論議は、弟分奇矯の嫌ひがなくはないが、こ ールから、或はエーブナーやゴーガルチンヰブーバー
れが彼の論議の中心であカ、彼はこの鮎を、バルトの の人間尊から、そして又宗教改革者、.そのうちでも殊
請書︵Der掃かm軋brief、崇e粁i苫Ei註eDOgm邑
に岸九∵
ツPタ
?ーを研究し直すことによつて得たと奉ってゐ
∵ぶ■ ∵ 一上 ̄

7∫7
、紳単に敷ける﹃紳と人間﹄の同席
ー、
一兎七
Aり÷∵J一ノ
ミ考 ゝ∴.、・・


扉\1
・・
ヽ−


紳単に於伊る﹃紳と人間﹄の問題 一五入
るが∵菊版五七〇真の大著であぉ、その紛議には、矢 は相違として明確紅叙し、反封すべきものにはその反

丁ββ
張り現下神輿界の一方の樟威着たる重さを示すものが
封の理由をあげてゐる。 ブルンナ
ある。こ1で論議せられてゐる事柄と、それに封する ーが本書に於て述べやうとしてゐる所は、
ブルソナーの見層や解繹は、本書に於て初め七蟄表せ 無論キリスト教的な紳畢的な人間観であ少、廉い苦味
られた澤ではなく、幾つかの倫文や之までの著書︵例 では、キサ/スト教以外甲凡ゆる人間観転封して、粁澄的
へば、︶GOt七日nd試en等Fへへ やーも家GebOオ已nd象に
①書いてゐる皐茶へる。即ち人間は、自然的素朴的に
○ヨ紆岩旨genへへ
こ考各日告d¢n鼠⑳。︶ に於て赦べら は自分自身が、彼の生活及び彼の世界の中心であると
れて禿た所であ少、かつ前述の如く他の人々の見解も 考へてゐる。かうした粛朴な人間親が理論的匿克服せ
探り入れてゐるので、本書は、彼自身のものとしても、 られたと信ぜられでゐる所でも、茸擬恥にはなほ此見
叉紳畢界仝慣の出発事としても、極めて新しい内容を 解が生活的に甥静的に不断に現れてくそ各自がかや
提供してゐるとは云はれない。だが、平明な叙述に於 うな考を有ち、徒てそこに多くの中心難が現れる所に
ヱ問題を明か、にする鮎に於ては、恐らく現代のどの紳 人間世兇あ凡ゆる混乱と語意との根源がある。研が人
ヽヽヽヽヽヽヽ
尊者よ力も優れてゐる理論家であるブ、ルンナーは、本 間が中心でなく紳が中心であると云ふ事が、膚仰に於
ヽヽヽヽヽヽヽ
書に於て、明確にして新鮮な用語で、キサスト数的な て理論的にだけでなく賓際的に把へられる事が.聖書
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ
人間観の諸問題を纏めあげ、その中心肺を描出するこ 的人間観の特色である。本書は、他の人間観に封Lて
ヽヽヽヽヽヽヽヽ ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
とに成功してゐる。かつ、本書は、自己蹄明的な謂は 紳に造られた者としての人間を説いてゐる。だがもつ
ヽヽヽヽヽヽ
,ぼ拘極的な着ではなく、どこまでも積極的な建設的な と狭い意味では、本書は、近時の紳畢的な動きを青臭
蕃であ少、反封著に対する意見の相違の如きも、相蓮 としてブルンナ一日身の神輿的人間論を叙べてゐると
訝ちれる。彼はこ1でキリスト教人間敬の含む凡ゆる 以て主張してゐる。要する紅人間に於けるこ望月任性
問題に全面的に煽れてゐる。.例へぼ、基礎給として、 こそが、罪にも拘らずなほ人間のうちに凍ってゐる紳
﹁紳の像﹂︵im感づじ豆︶の問題、それの崩壊、かうし の像であぇ之は克魂應答性であゎ紳の言によつて造


′/

た南方面の矛盾を含む硯賓の人間等を取扱ひ、更にそ られたものであ少、従って紳の創造の菓に俵春せるも
の展開として、人篠の撃宣その崩壊、自由と不白味、 のであるが、しかしかうした責任性が生衆的に人間に
.・

個人と共同鰹、個性と人間性、男性と女性、精神と身 輿へられてゐる。従って之埠信仰なき者︵d雫冒・
ヽ\

饅、′人間の生成と進化思想、宇宙に於ける人間、歴史gl旨bige︶ にも存してをカ、信仰なき者もこの意味で


; 一

に於ける人間、時間のうちに於ける人間と死、等の諸 は紳と関係を有してを旦責任的である。人間のかう
問題を取扱ってゐる。だが之等の諸問題の紛議に於け した責任性は、キリストに於ける紳の特別なる恩恵の
る彼の人間論の基礎的な思想は、結局一つの鮎に辟著 ヽヽヽ 最も鹿本的な梗準によつても無数にせられず、寧ろ要


一 ■

する。彼はこの一難から之等の多くの問題をみてゐる 求せられるのである。之がブルンナーと云ふ啓示と人
ヽヽヽ
のである。その一軒とは何かと云へぼ、人間の應答性 間との﹁結びつきの暫︵An㌢営計琶蔓︶の意味

ヽヽヽ
或は責任性︵つ雪巨富○邑i註官it︶を認めると云ふこと である。かうし望月任性の主張が、彼の人間論の基礎
である。之は、彼とバルトとの紛議の中心をなすもの 的な思想である。而してこの事は、イエス・キリスト
であゎ、所謂ブルンナ一に於ける﹁自然紳畢的要素﹂ の啓示以外に、さうした特別なる啓示と矛盾せず∵香
‥ 、

と呼ぼれるものであるが、彼は、最初以凍、種々なる な寧ろそのために有意義なものとして﹂人間の責任性

_
・、  ̄▲

♪′r

誤解のうちに耕明に努めながら叙述して発たこの鮎 ︵紳の創造軋由つてはゐるが自然的な一般的なもの︶
を、本音に於ては最早落度する所なく積極的に確信を ︵J を容認する伊である。つまカブルンナーは、叔本の甲路

し も

紳単に於伊る●﹃紳と人間﹄の問照 ︼五九
.∵ 1
\ .、.、∵. . . ︸∴ ∵∴﹂∴ト∴
.、1 ∵∴∴


∫ 二ノ1
7仁〟▲l b
・﹂
ト﹁ ∴ 1
キ㌢
.1 ′

紳畢に於ける.可紳と人間﹄の問題 一六〇
題として、矛盾に於ける硯資の人間の克服が、一にキ 取幻あげてゐる問題に関係してゐる。それらの二三を

7β0
リス下に於ける恩恵の啓示に存することを堅く信じ、 螢に紹介しょう。
ヽこt

ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
この上に立ちながらも、かうした啓示と人間との結び その∵は、﹁哲畢的人間畢と御畢的人間畢﹂と云ふ
つきが、上述のやうな構造に於てなされることを認め、 のである。この主題の論議は、キュルケゴールの思想
ヽヽヽ ヽヽヽヽヽ ヽヽ
これが聖書的な人間観であカ、叉宗教改革者殊にルツ が近時の哲畢にとり入れられたことに始まるのである
守1∵シザキ∵∴∴.‘Gけ一ゝ′′†′

ヽヽ
クーの主張であることを主張し、その聯閲で人間の責 が、ハイデッガーの存在論が問題と論議の焦鮎となる。
任性を説くのである。即ち本書に於いて著者ブルンナ 哲畢と紳選との問の討論は最近にはなされてみないが、
ーが不断に懐いてゐる紳畢的な問題峰、我々が最初に 之は無意義な事でもなく、又結了した繹でもない。哲
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ

述べた如く、紳と人間との結びつきの問題であると云 畢的な存在論と紳畢との関係は、之まで、謀withや
へる。彼はこゝで啓示の問題から離れてゐるのではな 内醇lm箪ロロ 等の哲尊者の側から、叉 出已什m呂n や
いが、↓と頃のやうに、啓示そのものを強調tたりそ 出鼓mやSさum賀nやそして占rSn巧 自身等の神
の意義を簡明したりする仕事を一應了して、現在では 輿者によつて論ぜられた。而してこの問題に閲するブ
、 ヽl

啓示と人間との関係乃至結びつきの問題にまで達し、 ルンナー自身の見解として述べられてゐる斬は、大要
それをとりあげてゐるのである。本書は、右腰の意味 次の如きものである。潜拳の側では、信仰の立場から
′ 叫で

で、現代紳畢の動きとその問題の所在とをよく示して の猫自なる存在論を否定しょうとするかも知れないが、
ゐる代表的な書と観ることが出兼よう。 菅に存在するものとしての存在と云ふだけでなく、紳
ヽヽ
なほブルンナーは、附録として幾つかの有益な論文 の言によつて働造せられたものとしての存在と云ふこ
を附加してゐるが、それらは、みな、我々が今こ1で とは、一つの猫自的な存在の規定である。而して創造
﹁ 、
者と被造物と云ふ規定のごムくに、根源的な規定は他 から離れようとする企園に於て、キエルケゴール的な

貯ない。あらゆる存在の概念は、結局創造の思想を否 存在論の基礎概念を、それとは相違せる意味に封きか
定する形而上畢的な汎神論的なものか、或はキリスト へたことも、偶然でない。さてかやうな紳畢的な存在


1
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
数的なものかであ少、キリスト教的な存在の概念の如 論を主張する所に、危険のあることも革質である。即
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
くに根本的汲も切は他にない。﹁創造せられたる存在﹂ ちかうした行き方に於ては、紳畢が普遍的な拳に堕し
ヽヽヽ
︵打re邑弓仁多e払Sein︶と云ふ規定は、膏に存在的な特てゆく惧れがある。だが哲畢的な存在論では、論議が
ヽヽヽヽ
色のものであるぼかりでなく∵又存在論的な特色のも 形式的になるのに反して、紳畢的な人間畢に於ては、
のである。かくて人間存在は、哲畢的にでなく、寧ろ 形式と内容とが統一に於て把へられる。解ってブルJ
紳畢的に理解せられねばならぬ、と云ふのがブルンナ マンの如く、現存在の形式的な構造が凡て中性的であ
ーQ所論である。責任的な存在とか、決断に於ける存 カ、人間の信仰の事箕にも同様であり、それが存在論
在とか、自由に於ける存在とか、の徹底せる意味は、 的に分析せられると考へるのは、大きな誤謬である、
菅畢に於てでなく、紳畢に於て理解せられる。従って とブルンナーは視てゐる。かくて紳畢的な存在論乃至
紳畢が哲畢的な存轟翰を漁想サると云ふよやや寧ろ 人間畢こそ、最も根源的なものであると彼は主張する
今日の H甘由宇謬i−OSOpEe の方で知らず知らずキリ のであるが、同時に彼は、野草的な人間畢の意義をも
スト教的な範疇へ傾いてくるのである。所謂箕存管掌 紳畢的なものゝ漁備的な甥諭として之を認め、之と神
が、キリスト者にして紳聾者なるキエルケゴールによ 輿的な人間撃と切開に料語法的な関係を認めてゐる。
って形成せられたことは、決して偶然ではない。そし 即ち人間存在の理性的な概念も、箕はひそかなる形に
て叉ハイデッガーが、.この哲畢のキワ 於ける紳畢的な概念であ少︰哲隼的人間畢と紳畢的な

J∂7
紳畢に於ける﹃紳と人間﹄の問題 一六一

●靂
,写√ご1、

l■′l
﹂ ∵・f .

′ − 、
Jr
4

紳単に於伊a﹃紳と人間﹄の問題 〓ハニ
人間撃との関係は、律法と嘩育との関係の如く、法則 ねぼならず、その意味で栢育と封立するが、しかし同
的及び信仰的自己層倫として掛記法的に関係すると親. 時に啓晋に対して意味を有ち、救の事件に於て一つの
てゐる。 役目をなすものである。それは、ただ単に否定的に評
ヽヽヽヽヽヽ
次にブルンナーは、 債せらるべきものでなく、失はれたる罪人の境遇に於
てゐる。バルトは、従凍の﹁律法と帽音﹂と云ふ順序 て神聖なる役目をなすのである。即ち律法は、帽晋に
を贋へてJ ﹁栢育と律港﹂と云ふやうに更めてゐる。 封して、曽語法的な関係に立つのである。凡ての人は
バルトの意味は、律法の意義が眞賓に知られることが、 かうした心のうちなる律法を有してゐる。而して律法
福音によらねぼならないと云ふのである。研がブルン の役目は、罪を知らしめ絶望を宛らしめることである。
ナーは、バルトの意味を認めると共に、叉それとは別 故にも紳の働きが関係してゐる。絶望それ白襟は有益
に律法の意義を認めようとする。つまり﹁律法と帽音﹂ なものとは云へない。だがかうした否定的な律法の働
と云ふ順序に意味を認めようとするのである。そして きは﹂必要であ旦之なくしては悔改めあなく、信仰
之が聖書の敦へであゎ、又ルックーの詮いてゐる所で もない。尤も人は自然的に失せてをカ、律法の内在的
あると翰じてゐる。律法と云ふのは、菅に暫約聖書の 梧詮法のみではかうした否定的な働き以上に出ること
律法だけでなく、叉ロマ書の第二章の記してゐるやう は出衆ない。しかし紳の手に於て、この同じ律法が悔
にハ﹂心に録、さ弟たる律法のことであゎ、ルックーもか 改む生ぜしめるに至る。律法の否定から悔改の生する
うした自然法の意義む認めた。而してかうした律法は、 ことが紳の恩憲の働きであ旦之が紳の訓練であ鳶
た旦帽章に封立すると云ふ単一なる意革のものでなく、 而して改に律放と帽育との関係が親られる。悔改は、

寧ろ二重の意義のものであカ、無論嘩育と直別せられ 帽晋によ少て始まるのではなく、寧ろ律法と共に始ま
一■\.
ると云へる。而してかうし溌律逸の梅故によつて、紳 故には省略したいと息ふが、唯一つ指摘しておきたい
ほ人々を信仰にまでキ・サストにまで至らしめる。だが のは、ブルンナーがこふで積極的に一般的啓示と人間
信仰にある時、我々は最早律法の下になく、キリスト に於ける﹁紳の像﹂との意義を認め、之等を承認する
の零の下把ある。信仰による義に於セる生活は、新し 鮎に於て、彼がバルトと紳畢的見解を異にしてゐる、
ヽヽ
き人を形成するのである。とは云へ、キサスト者は信 と明確に述べてゐることである。聖書の註繹に於て、
押者としては、最早確賓に律洛の下にないが、しかし 啓示の理解と把捏に於て、そして叉何よりも福音の俸
彼拭現賓的な罪人としてなほ常に律法の下に立つ。而 道に於て、自然紳畢的要素は必然であ針、寧不の理解
してこゝに、律放と嘩育との最後め耕詩法が存在して のために理性と創造の業に於ける一般啓克との意義が
で、
∴ ゐる。律法と棺音キの関係について、ブルンナーは右 認められねぼならず、之を認ないのは非聖書約だと云
様に簸いてゐるので.あるが、要するに彼の併給は、宿 ふやうに論じてゐる。人間に於ける﹁紳の像﹂として
昔との関係に於て人間に内在する律法の意義を認めん の責任性の上に、キリスト教的人間論の中心鮎をおか
とするものであり、こゝにも彼に於ける自然神輿的要 うとしてゐるブルンナ一にとつては、かうした論議は
蓋し雷然であらう。
1 J、
素が項極的に承認せられてゐる澤である。

ン そして更にブルンナーは、、右の律法の承認と同様の
ヽヽヽヽ ヽヽヽヽ 四一
精神に激て、﹁自然紳畢﹂と﹁結びつき﹂の問題を論
ヽヽヽヽヽヽ
じてゐる。この間題については、社務既に十分論ぜら 以上私は、近時の紳畢界の情勢が、﹁紳と人間との
ヽヽ
れたので、放で凄めて詮く必要はなく、叉この附録に 関係﹂と云ふ問潜まで凍てゐる鮎について、パル下の
於で別段新しい解群がなされてゐる繹でもないので、 行き方と、之に封して人間堅的な説明むなすゴーガ几

7βJ
紆王り絆サイ∵

紳畢に於ける.﹃紳と人間﹄の問題 〓ハ三
.ナJ二IL

\.
J
− ●一
紳畢に於ける﹃紳と人間﹄の問題 一穴四
テンとブルンナーの行き方とを、近時の紳畢界の動き 等には、単なる紳畢諭以上のものがみられねぼならな

7βイ
の事茸に基いて述べて発た。而して、最初は一寸言及 い。たゞ現下の紳畢的事情のうちに左様軋ものが果し
したやうに、近時の紳畢的事情は、時代の動きと思想 て存するか香かは問題で優る。
的な敵に封する大きな戟ひと云ふよりも、寧ろその後 今一つの意見は、近時の紳畢的賓状が除りにも細か
ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
の内部的な思想の整理の時期であり、従って精細かな な紳畢論に堕しっ1あると靭るものである。宗教改革

﹁論争﹂の形をとつてゐる。潮路はゞ今日は紳鼻輪の時 後、プロテスタン下敷含内にスコラ的な紳畢給が現は
代であるとも親られよう。 れたやうに、現下の紳畢界にもそれ程までではないに
さてかうした今日の神輿的な賓存庖如何に考ふべき して幾分左様な傾きのあることは等質であらう。尤も
であらうか。結局二つの意見が之に封して叙べられ得 かうした傾向は、大きな戟ひの後の整理の時代とし

るであらう。その一は、バルトなどの懐いてゐるもの て、ある程度まで致方のない事であカ、歴史的には首
であ少ハ現下の紳畢論に於ても、そこに十分主張すべ 然な事でさへあると云へよう。たゞ紳聾者の任務は、
き本質的なもの1存在してゐることを認め、それを安 常に本質的なものをみて、徒らなる紳摩論に陥らざる
協し譲ることは、悔いと悪結果を解凍に嫁すものだと やう戒心すべきである。著作としては、前述せしブル
云ふやうに観るものである。例へぼ自然紳畢に封する ンナーのキリスト教的人間畢の如き、相常連設的なも
バルトの潔癖な抗議のうちには、かやうな心持ちが存 のと云ふべく、論のための給ではなく、可成りな力作
轟してゐる。紳畢の歴史を播く場合、かうした意見に である。
意味のあることむ見出す。ニカイヤ合議のキサスト神 最後に二言したいのはへ一方バ・ルトの行き方が、極
性給だとか、宗教改革に於ける信仰による義認の論議 力恩寵を説きつゝも、人間との関係の積極的叙述を鉄
∴.1、
l
ぐため、結局恩寵の抽象給に終ると云ふ批評に軋くべ のとして、﹁敦曾と文化﹂、﹁敦食と国家﹂の問題が中心と
きものがあるとすれぼ、他方ゴーガルチンやブルンナ なつてゐる。この鮎を読者請貢が諒とせられんことを望む。
ーの行き方には、殊に後者の近著に現れたる傾向には、 その後になつて旧版せられた注意すべき著作としては、
バルトの教義畢の第二筋 ︵珂aユ好一tb︶崇e打fr各︼icbe
紳畢史上ベラギウスやエラスムスや、エズイ夕波︵封
せ&m註kこ.ヂ忠霊︶ があり、又彼のギッフォード講演
パスカル︶等の障った危険がなくはないやうだ。.ブル
︵芦e内uO已ed笥。︷GOdald七・eSer各eOfぎd−−諾00
ンナーの説く所は、紳畢的叙述として一應承認せられ
がある。前者は菊大坂千真の大著であり、彼の教義畢はこ
為としても、かやうな難が紳畢の大きな主題としてと
れでその ﹁厚誼﹂を完了した澤である。
打あげられることはどうであらうか。.私は、今心に息
︵昭和十四・五二〓己
払浮んだ健、史家ハルナックがアウグスチヌスの恩寵
給について云つ窒石英を引用してこの小論を終らう、
1﹁外形的に考察すると全然誤ってゐるが、内的に
考察すると虞なる命題がある。アウグスチヌスの罪と
恩寵の教義は左様に批判せらるべきである。﹂
追 配
こ秒小論は、ブルソナーの﹁矛盾に於伊る人間﹂が出版
せられた頃、嘗時の紳畢界の事情を紹介する目的を以て書
いたもので、今日の事情には必ずしも邁合しない。今日の、
√・

7βJ
紳畢界の事情は、この間題の更に具性的に展開せられたも
紳畢吼於ける﹃紳と人間﹄の問題 ︼六五
1
レギア牒エール氏の思萬 一六六
I\

才∂β
レギブリエール氏の思出
宇 野 固 空
フランスの哲畢界民族畢界の長老レギブサユール氏 か何かでドギマギと何を話したか覚えてもゐない。東
の長逝、それは去る三月十三日のことゝ報ぜられた。 大での講演を聴き得なかったのは穣念だが、数日中に
一八五七年四月生れといふから満八十二歳の高齢では 京都に葬られる.といふのを章ひ、何れゆつくりお訪ね
あるが、公私につけて全く惜しい畢的人格であつた。 してと数日後を期して別れた。
顧みると大正九年の春であつたかと思ふ。畢用で京 京都では一両日見物もしたいからといふ事で、世間
都から東上して研究室を訪れたら、柿崎発生からレギ なみに嵐山から金閣寺など案内し、まだ自動革もあま
ブサエールが釆てゐるかち合って行けといふ話。突差 りなかった頃なので、電車のつぎ目室一人でテクサな
lに何事も他所に書んで終ったのは、常時その宗教県関 がら、日本の習俗など覚束ない説明をしたり、集合表
係の最初の著述﹃未開社食に於ける心的機能﹄が我々 象についての疑問など尋ねても見莞それを途々熱心
仲間で論議の題材にな少、デュルケム に手まねを入れて教へてもらふ様子は、如何にも好々
て評論などしてから飾り間もない頃だったからである。爺貯手を引かれての孫の散歩見たいだつ冤肩にまで
早速震災紆の膏御殿で引合はされたが、怪しげな英語 押かけてフランス畢界の様子忽ど聞きつゝ、私もその
/ l(

\ −・・

秋把故習重度磯ることに内定してゐるから、先づパリ なつて、その横合は意まれなかった。大正十二年の春、
に行ぐつもカと\いふと伺さら大いに喜ぼれて、必ず待 辟朝の直前に数日パリに出/で、お暇乞に寄ったけれど
′、

ってるから牛年後には又パリで合はふと向ふからの堅 も、この時は施行中とのことで合へなかった。
● − 、■●

い約束であつた。 それから恰度十年、′手紙がうまく書けない薦めサっ
その年十一月バザに着くと直ぐお顔ねしたが、その かり滑息を絶ってはゐたが、竜虎始的質魂観念﹄﹃超自
− ■

綻暮しの簡素な崖括には、こちらが見馴れない故か意 然と自然﹄など次々に韓刊される諸著に、その畢的健
外の感に打たれた。往年その著書を和課したブトルー 在を偲んでゐた。それが昭和八年に国際畢士院聯合食
や、そめ他民族畢閲係の人々にも腐介してもらひ、大 議のためブラッセルに使ひして、開合前夜の顔合せの
挙把も耗詩に寒いといふことで、開簡後間もない哲畢 娩餐に集まつて見ると、今年もフランスの畢士院代表
史の講義に毎週出かけた。tかしその内容は極めて簡 はレギブサエール氏だといふ。誰も初めての知合のな
単だし、面白そうな部分は茸はこつちがよく分らない い私にとつては、開くだけでも懐しい限れである.。そ
のや、畢年末までは緯かなかった。その代り時々宅に の賂は未着とてつひに顔を見なかったが、翌朝の腰骨
ト 、
お邪魔して豊富な蔵書を見せてもらつたサ、お茶によ には昔ながちの温容が、それせも飴り齢をとられたや
ぼれてその発給理故に臆面もなく喰ってか∼つたりし うにもなく元気で禽場に硯はれた。多分忘れてをられ
l

て、温瀕に屡々微苦笑む浮べさせたのであつた。 るだらうと思って自己紹介をすると、中々それどころ

卜∴」∴十∵

翌年その﹃原始的心性﹄が刊行されて、さらに大い でなく向かう十年前のととを語り、種々近状をも尋ね
に教を受げる好い種が出釆たと期待してゐたが、まだ て偶然の帯食に嬉しげな様子である㍉二三の分科食で
金憶を遍粛しきら打中に私がドイツへ蒋草することに も彼これと探切に世話やいてもらつたが、特にインド
レギブ針ユール氏の息出 l六七

ニ ̄I
ー∼′: て守∵∴ホ雪
タ ノ

丹 ノ、
レギブyユール氏の屈指 〓ハ八
ネジサ関係のこハ七人で囲卓を囲んでの要点合では、す 今さらこゝで此碩畢の経歴や畢績の紹介でもあるま

7βg
ぐ隣同志の席について、私の提示する資料を刻明に見 い。たゞ今世紀の初頭ま.での氏の蹄年生の集結は、そ
入ちながら細かい鮎まで質問される。生者の言語が十 の五六の著書が示すやうに主として哲畢史と倫理畢の
数種の異った語系に分れるといふ詮明 lも、此人だけに 領域に在ったのが、後のlニ十数年濫は最近の﹃原始的
は明確にのみ込め宵らしく私の言葉の不足を補っては 神話﹄に至る五巻に於て、専ら民族畢的資料による原
日本側の努力を座長にも懇々と代耕されるのであつた。 始的心性の孔明に注がれたのであつた。これはコント
合議ああとパサにも釆いといふことで、私はギーン 的方法による道徳慣習の研究から、認識の蟄生的考察
に廻ってがらまた一日パワのお宅盈訪れた。今度はエ に由釆するのであらうが、それがフランス社食轟陣営
トアルに近く以前まりも大分立沢な住居ではあつたが、 の有力な一翼訂形ったことは疑はれない。.その近代的
依然一人暮しらしい大きな書粛で数時間閑談した。日 論理と神秘的融即との封立観は、種々の方面から論難
本の民放選者の誰彼のことやら畢界の傾向を聞かれた されたがらも、大きな波のうねりのやうに畢界を動か
サ、ギーン沢の人達に合って発たことを話すと、畢系 した底力には強いものがあつた。その新著を再三大挙
の間の溝の越え難い乙とを述懐されるのであつた。こ の演習に用ひた私も、自分でかつて現地調査をやらな
の時も私の不躾な氏の峯詮への批評や書いた物など、 かつ売人だけに、未開人の心理に封する見方のむしろ
欧文にすることが出奔たら見ていただかうと言って別 ロマンテイクである事に、叉して不足を言ひつ1引付
れたのに、その約束も殆んど果し待ない申に今度の計 けられるのであつた。
報檻接した諜である。二十年死の既往を追懐して感謝
と漸塊の念無量である。

日本宗教学合倉則 ︵昭和十三年十二月改正︶
第一促 本倉ハ日本宗教拳骨卜稀ス 第七條 合点ヲ分チテ左ノ二種トス
第二促 本合ノ目的ハ宗教畢ノ研究三関係アル国昭及 一、維持合員 ︳
個人ノ研究上ノ連絡ヲ固り宗教畢ノ蟄達普及ヲ期 二、普通食艮
スルニ在り 第八條 維持合点ハ食費トシテ年額金拾囲ヲ納入スル
第三條 本合ハ其ノ目的ヲ達ス.ルタメ左ノ事業ヲ行フ モノトス
一、大倉其ノ他ノ集合ノ開催 普通合員ハ合資トシテ年額金五囲ヲ納入スルモノ
二、食詰﹁季刊宗教研究﹂ノ刊行 トス
三、其ノ他必要ナル事業 第九健 合点ハ刊行物ノ配付ヲ受ケ集合二一出席スルコ
第四條 蹄條ノ事業ヲ連行スルタメ本合二左ノ二部ヲ トヲ得 又別二足ムルトコロノ規定ニヨサ食詰及
置ク 集合二於テ其ノ研究ヲ蟄表スルコートヲ得
ー、庶務合計部 第十條 本合二左ノ役月ヲ置ク
二、編輯部 ー、禽 長 一名
第五條 本禽ハ事務所ヲ東京帝国大草文畢部宗教畢研 二、評議口月 若干名
究室内二層ク 三、委 口月 若干名
第六促 本合ハ合点組織トシ第二健ノ目的二賛同スル 第十一條 評議員ハ合点中ヨり維持合点組合之ヲ選任
モノヲ合月トス ス 評議口月ハ評議員含ヲ組織シ重要ナル合

207
脅 則 ﹂

務ヲ審議ス 附、則 改正前ノ本倉要点及膏宗教研究合委員ヲ以

202
評議員ハ合計監督二名ヲ互選ス テ第一期ノ評議月トス
第十二促 倉長ハ評議月食之ヲ推薦シ本倉ヲ代表シテ
含紡ヲ統理ス 大 倉∴珂 定
第十三條 委員ハ合点中ヨⅥり評議月之ヲ委爆シ禽務ヲ
塵理ス 二本合ハニケ年毎ニー同大合ヲ開催ス
第十四條.役員ノ任樹ハニケ年トス・但シ重任スルコ 二、大倉ハ合点総合及研究蟄表合ヨリ成ル 但シ大倉
トヲ得 二際シテ講演合、展営倉、見畢其ノ他遠雷ナル催
第十五條 維持合点線合及評議員ノ議事ハ出席者ノ三 シヲ行フコトヲ得
分ノ二以上ノ同意ヲ以テ之ヲ決ス 三、合点総合ハ次回大倉開催地ヲ決定ス
欝十六低 木倉ノ経費ハ食費、寄附金其ノ他ノ諸収入 四、大倉二際シテハ臨時合点ヲ置クコ、トヲ待
二接ル 臨時合点ハ食費トシテ金重囲ヲ前納シ、研究蟄表
剰鈴金及寄附金ハ基本金トシテ之ヲ積立ツルコト 合二於テ其ノ研究ヲ蟄表スルコトヲ得、且ツ大倉
ヲ待 紀要ノ配付ヲ受ク
第十七促 本倉ノ年度ハ毎年一月一日二始り十二月三 五、大官l際シデハ特二大愈々長、大倉副食長英ノ他
十∵日工鮭ル ノ大倉役月ヲ置クコ、トヲ待
第十八嘩木骨則ハ評議員合ノ議決ヲ経テ欒吏スルコ 六、大倉紀要ハ食詰二輯録ス
†ヲ待
解 帝

後 記
⋮︵禁時暫
耶来鱒研究朋蒜 真空撃−十毯
東京帝国大寒文皐都宗教串研究室内
▽曾誌﹁季刊宗教研究﹂をいよいよ世に還る。従来﹁幕政研究﹂の編輯
編輯寮費行者 日 本 宗 教 拳 骨
に常ってゐむ素数研究骨が本骨に合併し、改吟て﹁季刊﹂の文字を附して 代表者ノ城 崎 正 治
創刊親の形をとり、拳骨の合意とし・て新しく揖斐することとなつた。拳骨 東京市牛込区政代町〓十牢番地
の機開誌ではあるが、徒らに偏狭なアカデミズムの世界に沈潜するもので 印 刷 者 理 想∴肛 印 刷 折
はなく、大正五年創刊以来の歴史と港沖とを充分に尊重し、斯界最高の雑 田ノ 中 末 書
東京帝同大皐文畢邪宗教畢研究室内
誌たる両日を保持して′ゆくことはいふまでもない。今後益々曾貞各位の有
葦 行 駅 8 本 崇 敬 畢 合
力喪る御支授を騎ふものである。 振替口座東京四︼七〓七番
∇本誌は年西岡襲行のうち、三岡を普通娩とし、一同を特韓放とする。
定領普通貌一囲二十餞 特韓鍍二陶・一年分五固
隔年の大骨紀要は、今後特韓汝として挙行される。 六十餞︵郵兢共︶
今岡は真数の都合上、﹁新刊紹介﹂の欄を省略したが、次弾からは、こ 曾貞掟︼ケ年寄適合費金玉囲。入骨希望者は日本
の欄を大いに携充してゆきたいと息ふ。 宗教寧倉宛御申込下さい。
∇−昨年七月以降休刊のため各方面に御迷惑をかけたが、時に常時御寄 ▽食費の彿塾は前金でお額ひします。御遊金は振
稿を腸った濱周本悠、細川亀市、神林隆浄、片山正直、金拳敬、唱田癌太 替郵便を御利用下きい。
郎、松村克己、望月信亨、佐々禾意徳、杉浦健一、山本智敦、糖城奇問の ▽食費は振替口座東京四︻七こ七番8本畏敬墨i
へ御彿込下さい。骨員外の解凍申込及び御送金
諸氏には深謝せねば腰らぬ。玉稿を掲載することが出奔なくなつた事情を
は振替口座東軍〓八1〓四〇審岩波壷店へお顧ひ
御諒永原ふと共に、一層の御高按を切望してやまない。こゝに記して、御 します。
寄稿の謬彦並に骨貞各便の御許恕を乞ふ次第である。
餌、本誌轟刊に際して種々御摸助を輿へられた登要所岩波書店に深甚な
る謝意を表する。

You might also like