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諸 法 無 我 の ﹁法 ﹂ (卒 川) 三 九六

諸 法 無 我 の ﹁
法﹂
卒 川 彰
け て い る が、 と く に そ れ ら の 中 で ﹁實 髄 的 持 者 ﹂ subs
tanti
e-
蘭 法 の種 々の意 味
l
ler Trager の 意 味 が、 ダ ル マ の 本 質 的 な 意 味 で あ る と な し
(4)
原 始 佛 教 の ﹁法 ﹂ の 意 味 は 多 義 的 で あ る。 ガ イ ガ ー 夫 妻 て いる。 こ の考 え は 和 辻 博 士 によ つ て槍 討 さ れ、 批 剣 さ れ て
(5)
(M. undW. Geige
はr阿
)含 経 典 の ダ ン マ dhamm a の 用 例 い る が、 彼 に よ れ ば dharm aは 語 源 的 に は dhar (持 t
ragen)
を、 法 則 Geset
z ・敢 法 di
e Lehre・眞 理 di
e Wahrheit・物
か ら 導 か れ、﹁持 す る も の、持 者 ﹂Trager
あでる と い う。倶 舎 論
di
e em pi
rischen Di
nge の 四 種 に 大 別 し、 さ ら に そ れ ぞ れ の

-870-
で は ﹁自 相 を 持 す る が 故 に 法 で あ る ﹂ sval
aks
ana-
dharanad
(6)
中 を 細 か く 分 け て、 ダ ル マ に は 六 十 以 上 の 意 味 が あ る こ と を dhar
mah と定 義 さ れ て いる が、 これ は、 法 と は特 殊 相 の 持
(1)
示 し て い る。 原 始 佛 敏 の 法 の 意 味 を こ の よ う に 分 類 す る こ と 者 であ る と いう 意 味 であ る。 現 象 界 は 千 差萬 別 に現 れ て いる
は、 ブ ッ ダ ゴ ー サ Buddhaghosa に も す で に 見 ら れ る の で あ が、 そ の雑 多 な 現 象 界 の特 殊 相 の持 者 が法 であ る と いう こ と
(2)
り、 彼 は 法 に 四 つの意 味 を 大 別 し て いる。 こ の考 え は、 學界 に な る。 す な わ ち現 象 の現 れ てく る 基 髄 が ダ ル マであ る と い
(3)
で も 一般 に 承 認 さ れ て い る と 言 つ て よ か ろ う。 う。 現 衆 を 形 成 す る も のは、そ れぞ れ の法 の ﹁自 相﹂ であ る。
こ の よ う に 多 岐 に 分 化 し て 用 い ら れ る ダ ン マ の 意 味 の、 最 法 は そ の自 相 を に な う も の であ つ て、 そ れ自 身 は現 衆界 に現
も 根 本 的 な 意 味 は 何 で あ る か と い う こ と は、 當 然 こ れ ま で 學 れ な いも の、不 可 認識 的 持 者 であ る と解 し た。
者 に よ つ て 問 題 に さ れ て き た。 そ れ ら の 中 で 最 も 有 名 な の し かし ロ ーゼ ンベ ルグ の こ の解 繹 では、 法 は認 識 でき な い
は、 ロ ー ゼ ン ベ ル グ O.Rosenberg の Trager (持 者 ) と い 形 而 上學 的 な 實禮 に な つ てし ま う、 法 は現 象 の世 界 の背 後 に
う 解 繹 で あ ろ う。 ロ ー ゼ ン ベ ル ク は ダ ル マ に 七 種 の 意 味 を 分 かく れ る こと に な る。 わ れ わ れ の認 識 で き る の は、 法 の ﹁自
相 ﹂のみ であ る と いう こ と に な る。 し か し こ の解 繹 は、佛 敢 の (カ) が存 在 す る こ とも考 えら れ る。 こ れら のも のを ふ く め
法 の解 繹 には合 しな い。 佛 敏 では 法 は、 認 識 可 能 な も の と見 て ﹁法 と は、 物 質 ・精 紳 ・力 の、 これ 以 上分 析 でき な い要 素
(10)
ら れ て い る。 とく に有 部 では、 認 識 可 能 な法 が そ のま ま 實 在 の こ と であ る。 そ れら は 精 妙 に し て、究 極 的 な實 在 であ る﹂
(7)
(自性svabhavab
,hav
sa)
vでoあ る と 説 か れ て いる。 した が と 言 つて いる。 そ し て こ れら の諸 要 素 (法) の相 互協 動 の 上
つて 法 を不 可 認識 的 な持 者 と見 る のは、 佛 教 の法 論 に は合 し に現 象界 が成 立す る。 した が づ て佛 教 め 世 界 観 は ﹁徹 底 的多
な い。 ま た そ のよ う に 見 た ので は、 ﹁法 は 室 で あ る﹂ と 見 た 元論 ﹂ samghata-vaあ
daるで
と 言 つて いる。
(8)
大 乗 佛 敏 の教 理 も 理 解 でき な い こ と にな る。 認識 で き な いも 彼 は法 を要 素 と は見 て いる が、 し か し 實 髄 at
man と は 考
(11)
のを ﹁室 であ る﹂ と いう こ とは 不 可 能 だ から であ る。 原 始 佛 え な か つた。 實 髄 と いう 概 念 は属 性 と いう 概 念 に 封 鷹 す る も
教 以來、 法 は観 ぜら れ るも の であ り、 ﹁法 を 見 る こ と に よ つ ので あ る が、 法 を實 髄 と見 る と法 の属 性 は何 か と いう問 題 が
て悟 る﹂ と いわ れ るも の であ る。 こ の よう に法 は 見 ら れ る も お こる。 し か し 法 は そ の よう な實 髄 で はな く し て、屡 性 が そ
の であ る か ら、 法 を 超 越 的 持 者 と見 る ロー ゼ ンベ ルグ の解 繹 のま ま 實 在 であ る よ う な、 そ う いう意 味 で の實 在 であ る。 例
は、 以 上 のよ う な意 味 で和 辻 博 士 に よ つて批 到 さ れ し り ぞ け え ば 色 とか 香 り、 味 な ど が、 そ の ま ま法 であ る。 水 の囑 性 と

-871-
ら れ た の であ る。 し て味 や 色 を 想 定 し、 水 を 實膣 と 見 る考 え は、 佛 敏 の法 論 に
ロー ゼ ンベ ルグ の法 の解 繹 は、 圭 と し て倶 舎 論 や 唯 識 論 を は な い。 屡 性 的 な も のを 實在 と し て 立 て る と こ ろ に、 そ の囑
研 究 し た結 果 の説 であ る が、 同 じく 倶 舎 論 に基 い て法 の意 味 性 の所 有 者 は假 法(Prajnap見
tiら)
れとる こ と にな る。 こ こ
(9)
を 研究 し た の は スチ ェル バ ッ キ ー Th.
stcherbatsk図 であ る。 に佛 教 の ﹁法 室﹂ の圭 張 が 出 てく る の であ る。
彼 は ロー ゼ ンベ ルグ の師 であ る が、 し か し ロー ゼ ンベ ルグ の 以 上 の スチ ェル バ ッキ ー の法 の解 繹 は、 倶 舎 論 によ る 限 り
如 く、 法 を 超 越 的 持 者 と は 見 な か つた。 し か し多 元 論 の立 場 要 當 な 解 繹 であ る が、 し か し 法 を多 元 論 と見 て い る鮎 で、 法
(12)
で法 を 理解 し、 こ の現 象 世界 を 構 成 す る要 素 的 な 實 在 が 法 で の室 を 説 明 す る 鮎 に 充 分 で な い貼 が あ る。 さら に多 元 論 的 な
あ る と解 繹 した。 現 象界 と は、 時 間 的 に動 い てゆ く わ れ わ れ 見 方 か ら は、 有 爲 法 と無 爲法、 す な わ ち無 常 な る 有 爲 の 世 界
の現 實 であ るか ら、 外界 の 物質 界 の み で なく、 心 の世界 も そ と常 佳 な る浬 業 とが 全 く 別 個 な 世 界 と 見 ら れ る 傾 き が あ ろ
の中 に ふく ま れ る。 そ し て物 に も 心に も ふ く ま れ な い 實 在 う。
諸 法無 我 の ﹁法 ﹂(卒 川) 三九七
諸 法無 我 の ﹁法 ﹂ (
卒 川) 三九八
な お ロ ーゼ ンベ ルグ や スチ ェルバ ッ キ ー の法 の解 繹 に刺 戟 以 上 の 如 く で あ る か ら、 古 代 イ ン ド で は ﹁悪 ﹂ は ﹁非 法 ﹂
せ ら れ て、 グ ラ ー ゼ ナ ップ H.von Gl
asenapp が 法 の 解 繹 pdharm a と 見 な さ れ て お り、 法 の 中 に ふ く ま れ て い な か つ
(81)
を 獲 表 し た。 彼 の 説 は 金 倉 博 士 に よ つ て 和 謬 さ れ、 研 究 さ れ た の であ る。 こ の鮎 は、悪 を も法 の中 に加 える 佛 敏 に至 つ て、
(13)
て いる。 そ の中 で グ ラ ーゼ ナ ップ は ﹁法 と は、 一定 の敷 果 を 法 の見 方 が攣 つてき た こ とを 示 す も ので あ る。 原 始佛 敏 で は
(19)
生 ず る こと によ つて合 法 的 に實 存 す るも の であ るが、 し か し 貧 り ・怒 り 等 は ﹁悪 法 ﹂papa-dhamma,
不﹁善
悪 の法 ﹂papa-
(20)
生 物 では なく、 (車 の如き)且 膿 物 でも な く、 過 程 でも な い或 pkusal
a-dham m aと 呼 ば れ て お り、 悪 も 法 の 中 に 加 え ら れ て
(21)
物 であ る か、 し か ら ざ れ ば、 そ れは 多 数 の協 力 よ り 生 ず る と い る。 阿 含 経 に は ﹁煩 悩 法 ﹂ ki
lesa-
dhamm a と い う 用 例 も
假 定 せ ら れ る或 他 の物 で あ る﹂ と述 べ、 こ の定 義 に よ つ て、 あ り、 煩 悩 も 法 の中 に ふ く ま れ て い た の で あ る。 法 の 原 意 が
掟 ・正當 ・敏 え ・特 質 ・意識 状 態 ・現 存 の要 素 な ど、 種 々の ﹁た も つ も の ﹂ で あ る 以 上、 食 り や 怒 り 等 も 自 己 の 本 性 を た
(14)
意 味 を 包撮 す る こ とが でき る と言 つて い る。 も つ て い る 鮎 で、 た も つ も の、 す な わ ち ﹁法 ﹂ の 中 に 加 え ら
つき に中 村 元 博 士 は イ ンド古 代 の文 鰍 に おけ る ダ ル マの用 れ て よ い わ け で あ る。 こ の よ う に 法 の 範 園 が ひ ろ げ ら れ た 黙
例 を 精 査 され て、 古 代 イ ンド の ダ ル マの意 味 を 明 ら か にさ れ

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に、 原 始 佛 敏 の 理 解 が そ れ 以 前 と 異 る こ と が 知 ら れ る。
(15)
た、 ま ず ダ ル マの語 源 よ り し て ダ ル マは ﹁た も つも の﹂ であ 1 M agdal
ena und W i
lhel
m Gei
ger, Pa
Dhla
imma,M un-
つて、 ﹁た も たれ るも の﹂ では な いこ と を 明 ら か に し、 と く chen 1920,p.5ff.
に ﹁人 間 の行 爲 を た も つも の﹂ が 法 であ る とさ れ た。 古 代 イ 2 Buddhaghosa は 法 の 意 味 と し て、 A tthasali
ni2-9 (Poona
ン ド では、人 倫 的 秩 序 のも と に ダ ル マが考 察 さ れ て いた の で、 edition p.33) で は Pariyatti(聖 典 ) ・hetu (因 ) ・guna (属
性 ) ・ni
ssatta-nij
jiva (物 ) の 四 種 を 學 げ て い る。 し か し 彼 の
ダ ル マは ﹁人倫 を實 現 す る た め の行 爲 の規 範 ﹂ であ る と い わ
(16) 別 の 著 作 で あ る sum angala-
vilasini 1,1,28(vol. I.
p ,99)
れ る。 そ のた め に廣 義 の ヴ ェーダ 文 鰍 に お い て は ダ ル マは、
で は、 guna ・desana (敢 説 ) ・Pariyatti・nissatta (物 ) の 四
人 間 の實 行 す べ き ﹁古 より の慣 例 ﹂、つと め、 義 務、 肚 會 秩 種 を 畢 げ て い る。 宇 井 博 士 や 赤 沼 敏 授 に こ の鮎 に つ い て の 検 討
序、 さ ら に善 ・徳 ・眞 理 な ど の意 味 を 附 與 さ れ て おり、 さら が あ る。 宇 井 伯 壽 ﹃印 度 哲 學 研 究 第 四 ﹄ 一三二 頁 以 下。 赤 沼 智
に 祭 祀 な ど の宗 教 的 義 務 も ダ ル マと 呼 ば れ て いた こ とを 明 ら 善 ﹃原 始 佛 敏 之 研 究 ﹄ 三 四 頁 以 下。
(17)
か に し て お られ る。 3 例 え ば PTS.Pali-
Engli
sh Dictionary, dhamma項
の参 照。
4 O. Rosenberg, D ie Pro
blem e der buddhistis
chen 1
2 ﹃和 辻 哲 郎 全 集 ﹄ 第 九 巻、 四 六 九 頁 っ法 室 の 意 義 の 不 理 解 は
Phi
loso
phie,1924,
S. 8法3の
, 意 味 に 次 の 七 種 を 庭 別 し て い る。 チ ェ ル バ ッ キ ー の多 元 論 と し て の 解 繹 に も 現 れ て い る﹂ と 指 摘
し て い る。
13 H. von G l
asenapp,Nur Geschichte der buddhis
tischen
D harm a-
Theorie,
ND M G.1938,
pp.38
3-420金 倉 圓 照 ﹁佛 教
に お け る 法 の 意 味 ﹂ (﹃佛 教 研 究 ﹄ 第 三 巻 第 四 號 一〇 三 頁 以 下、
昭 和 十 四 年 八 月 )。
14 金 倉 博 士、 同 上 ﹃佛 敢 研 究 ﹄ 一 一四 頁 下 段。
15 中 村 元 ﹁古 代 イ ン ド に 於 る ダ ル マ (法 ) の観 念 ﹂ (﹃思 想 ﹄ 昭
和 辻 哲郎 ﹁佛 教 哲 學 に お け る ﹁法 ﹂ の 概 念 と 室 の 辮 讃 法 ﹂ (﹃人 和 十 三 年 十 月 號、 五 二 三 - 五 四 二 頁 )。な お こ の 論 文 は ﹁補 訂 ﹂
格 と 人 類 性 ﹄ 和 辻 哲 郎 全 集 第 九 巻、 四 六 一頁 以 下 )。 さ れ て、 ﹃中 村 元 選 集 第 十 巻、 イ ン ド 思 想 の 諸 問 題 ﹄ 一 七 七-
6 A bhidharm akosabhasya p.2;y aso
m itra,Abhidharm a- 二 〇 四 頁 に 牧 録 さ れ て い る。
kosa-vyakhya ed.
by Wogiharp
a.,12, l1
1 .,
sva-Sam anya- 1
6 同 上 ﹃イ ン ド 思 想 の 諸 問 題 ﹄ 一七 九 頁。

-873-
laksana-dharanad dharm ah.﹃倶 舎 論 ﹄ 巻 一、 能 持 自 相、故 名
17 前 引 書、 一八 三 頁 以 下。
爲 法、 大 正 二 九、 一中。 18 前 引 書、 一八 五、 一九 八 頁 等 参 照。
7 Prasannapada ed.by Poussi
n p.262,iha svo bhavah 19 例 え ば MN. vol.II,p. 51
4;AZ. vol. Ip
Ip,
. 110,
224.
svabhava iti. 20 SZ. vol.II,p.29;DZ.vol.
II,p.214;M Z.vol. pp.
I
8 ﹃和 辻 哲 郎 全 集 ﹄ 第 九 巻、 四 六 八 頁 以 下 参 照。 91,247,
504.
etc.,
Geiger, aP
liD ham m a,P.110.
9 T h.Stcherbatsky,The centralconceptio
n o
fBuddhism 21 Dham m asanganiNo.1229,
etc.S
;am kilesa-dham m a,
DN.
and the m eani
ng of the Word. D"
harm a",
London 1923. vol.
I,pp.195-9,vol.
III,
p.57,
etc.
和 課、 金 岡 秀 友 ﹃シ チ ェ ル バ ト ス コ イ 小 乗 佛 敢 概 論 ﹄ 昭 和 三 八
年。 二 和 辻 博 士 の法 の解 繹
10 Th.Stcherbatsky,op ci
t.p. 37
.金 岡 秀 友、 和 一
諦、 一六 三 (1)
西 洋 の學 者 に は ﹁法 ﹂ に つい て の研究 が多 いが、 日本 の學
頁 参 照。
11 i
bid.P.25,同、 和 課、 七 〇 頁。 者 の法 に關 す る研 究 は意 外 に少 い。 上記 の 金倉、 中 村 爾 博 士
諸 法 無 我 の ﹁法 ﹂ (卒 川) 三九九
諸 法無 我 の ﹁法﹂ (卒 川) 四〇〇
じ (8)
の ほ か には、 和 辻 博 士 の研 究 が注 目 され る 程 度 であ る。 し か てそ れ は 自 性 svabhava,
Ansi
chsei
n を 持 さ ねば な ら ぬ﹂ と
し阿 含 経 には ﹁縁 起 を 見 るも の は法 を 見 る。 法 を 見 る も の は の べ て い るか ら、 博 士 が ﹁自 性 を持 す る が故 に法 であ る﹂ と
(2) (3)
縁 起 を 見 る﹂ と いわれ、 ま た﹁法 を 見 る も の は佛 を 見 る ﹂と も いう 解 繹 に立 つて いる こ と は 明 ら か で あ る。
い わ れ るから、法 は佛 数 研究 の中 心 課題 で なけ れば な ら な い。 博 士 によ れば、法 は自 性 を 持 つ匙 で攣 化 しな いも ので あ る。
和 辻 博 士 は ﹃原 始 佛 教 の實 践 哲 學 ﹄ の中 で、法 に つい て の し かる に色 等 の五 纏 が ﹁無 常 で あ る﹂ ﹁攣 易 法 ﹂ で あ る と い
詳 し い研 究を 獲 表 した。 ま ず 原 始 佛 敏 の根 本 的 立場 が ﹁法 の う の は、 こ の攣 易 す る の は法 自 身 で は な い。 攣 易 す る の は時
(4)
認 識 ﹂ にあ る こ とを 明 ら か に し、 つい で ﹁法﹂ の意 味 を槍 討 間 的 存 在 (有者) であ る。 法 は過 ぎ ゆ か ざ る も の、 超 時 間 的
し て いる。 そ のた めに ジ ナ で お こな わ れ た 法 の定 義、 す な わ に妥 當 す るも の であ る。 有 者 が無 常 と い う ﹁か た﹂ ﹁の り ﹂
ち ﹁任 持 自性、 軌 生 物 解 ﹂﹁能 持 自 性、 軌 生 勝 解﹂ の解 繹を 手 に お い て有 る故、 有 者 は無 常 な る も のと し て理 解 さ れ る。 法
掛 り とし て、法 と は ﹁か た ﹂ ﹁のり﹂ で あ る と いう 説 を 提 示 の語 源 が dhr(持する) であ る のは、 過 き ゆ く も の に 封 し て
(5)
し た。 ﹁任 持 自 性 ﹂ と は、 自 性 を も つも の が法 であ る と い う ﹁過 ぎゆ か ざ る こと﹂ を 示 す も の で あ り、 こ こ から 法 に ﹁過
もつ

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意 味 であ り、 つぎ の ﹁軌 生 物 解 ﹂ とは 軌 (軌範)と な つ て 物 ぎ ゆ かざ る こ と﹂ の意義 が 生ず る。 か く の 如 き ﹁か た﹂ の意
(9)
(人間)に理 解 を 生 ぜ しめ る と いう 意 味 であ る。 こ の 解 繹 は 味 が、 法 の本 來 の意 味 で あ る。 か か る 意 味 に お い て、 法 と
﹁た も つも の﹂ と いう ダ ル マの語 源 的 な 意 味 に も合 致 す る説 ﹁こ の法 に よ つて存 在 す る も の﹂ と は 旺 別 さ れ ね ば な ら な い
(6) (10)
で あ る が、 但 し 倶 舎 論 で は ﹁自 相 を 持 す る が 故 に 法 で あ る ﹂ と説 き、 博 士 は ﹁法 の領 域﹂ と ﹁存 在 の領 域 ﹂ と を 分 け た。
と 定 義 さ れ て い た の を、 倶 舎 論 の 註 繹 者 普 先 が ﹁能 持 自 性 ﹂ そ し て ﹁色 は 無 常 で あ る﹂と い わ れ る ﹁無 常 な るも の﹂は ﹁存
と、 自 相 sval
aksana を 自 性 s
vabhava に 言 い か え た の で あ 在 ﹂に つ い て言 う の であ り、法 に つ い て言 う ので は な い と解 繹
(7)
る。 和 辻 博 士 は こ の普 先 の説 に よ ら れ た のであ る。 自 性 も 自 す る。 博 士 はさ ら に こ の 法 に つ いて、 二種 類 を匿 別 さ れ た。
相 も倶 舎 論 で用 いる 用 語 であ る が、 も し 爾 者 が 全く 同 じ であ す な わ ち 上記 の﹁存 在 ﹂と 法 と を 遜 別 す る 法 (例えば無常 と いう
る なら ば、 倶 舎 論 で こ のよ う に 二 つ の用 語 を使 い分 け た筈 は 法) と、 存 在 自 身 の存在 の法 (例えば存在とし ての色を示 すとこ
(11)
な い の であ る。 爾 者 の違 いは 後 か ら 吟 味 す る が、 博 士 は ﹁法 ろの色 という法)と であ る。 し か し いず れ の場 合 の法 も、 法 は
は過 きゆ か ざ る も の、超 時 間 的 に 妥 當 す る も の であ る。 從 つ 時 間 的 存 在 者 で はな く し て、 超 時 間 的 に 委 當 す る も の と 理解
さ れ て いる。 法 無 我 ﹂ と いわ れ る と言 う。 諸 法 無 我 とは 一切 の 法 が こ の 立
以 上 の和 辻博 士 の法 の解 繹 の特 徴 は、 第 一に は無 常 な る も 場 に お い て考 え ら れ て いる と いう に 他 な ら ぬと も 言 わ れ て い
のは ﹁も の﹂ ご あ つて、 法 で はな い と いう 鮎 であ る。 しか し る。 し た が つて ﹁法 そ の も の が無 我 であ る﹂ と いう 解 繹 は 博
阿 含 経 で は ﹁色 は無 常 であ る。 云 々﹂ 等 と説 か れ、 法 が 無 常 士 に よ つて は認 めら れ て いな い。法 の領 域 に は我 がな い と い
であ る と いう 立 場 に 立 つて い た と思 われ る。 第 二 に、 も の と う意 味 に 理解 され て いる。 こ の問 題 は ﹁法 の室 ﹂ の問 題 に も
法 とを 分け た か ら、 法 が物 の意 味 を も つ、 と いう解 繹 を しり 關係 す る。 博 士 は浬 繋 を とり あ げ て、 法 を観 ず る こ とが 滅 へ
(14)
ぞ け て いる。博 士 は ﹁後 に は法 が廣 く ﹁も の﹂ni
ssat
ta の意 の進 行 であ る と言 い、 これ は 縁 起 説 に よ つて解 決 さ れる と い
味 に 用 いら れ る とし て も、 過 ぎ ゆ く も の そ れ自 身 が法 な の で う。 す な わ ち ﹁法 を観 ず る とは 無 明 印 ち自 然 的 立場 そ のも の
はな く し て、 過 き ゆ く も の が そ の も の と し てあ ら し め ら れ る を 滅 す る こと であ り、 無 明 を 滅 す る こと は そ れ に條 件 づけ ら
﹁か た﹂ どし て のも のが法 な の であ る。 も の に内 在 す る ﹁こ れた あ ら ゆ る 法 を滅 す る こ と であ る。 だ か ら法 を ﹁観 る﹂ こ
かた (12) (15)
と﹂ が 法 とし て の ﹁も の﹂ で あ るL と 述 べ て いる。 こ のよ う と が直 ち に 法 を ﹁滅 す る﹂ こ とに な る﹂と 述 べ、 こ れを 浬 繋
に法 にも の の意 味 のあ る こと を し り ぞ け る が、 しか し 阿 含経 の意 味 とす る。 し か し法 の滅 を 説 く 縁 起 読 に は、 法 と法 と の

-875-
の法 の用例 に ﹁も の﹂ の意 味 のあ る こと は、 ガ イ ガ ーは じ め 條 件 づけ の關 係 と、 無 明 が法 を 條 件 づけ る關 係 と の相 違 が見
現 代 の多 く の學 者 の認 め る と ころ であ り、 ブ ッダ ゴ ー サ以 來 の が さ れ てお り、 観 と滅 と の 同 一はま だ充 分 根 接 づ けら れ て
一般 に認 めら れ て いる 説 であ る。 いな い こ とを 指摘 し て、 ﹁更 に 法印 ち本 質 が自 性 Ansi
chsei
n
法 が無常 であ る の では な し に、 も のが 無 常 で あ る と いう の あ る も の であ るか 否 か を 追求 し、 そ の無 自 性 室 を 明 か す に 至
が博 士 の解 繹 であ るが、 無 常 ・苦 ・無 我 のう ち、 無 我 に つ い つて、 初 め て法 を 観 ず る こ と が法 の絶 封 的 滅 への躍 入 と 連 絡
(16)
ても ﹁法 の無 我 ﹂ と いう こ とは、 博 士 に は 言 葉 通 り に は理 解 す る こ と に な る の であ る﹂ と 読 いて い る。 す な わ ち 法 の自 性

さ れ て いな い。 博 士 によ つて ﹁我 ﹂ とは も つぱ ら 人我 の意 味 の否 定 に お いて 室 が成 立 す る と 見 て いる。
に解 繹 さ れ、 超 感 畳 的 超 越 的 圭 観、 経 験 的 認 識 圭 観 の意 味 で 以 上 の和 辻読 に お い ては、 法 の無 自 性 室 が法 の滅 に つな が
(13)
取 り あ げ ら れ、 こ のよ う な 我 のな い こ とが 無 我 の意味 と さ れ る わ け であ る が、 こ の法 が無 自性 室 であ る と いう こ と と、 さ
て い る。法 の世 界 に は こ のよ う な 我 が 存 在 し な い の で、 ﹁諸 き の 法 は か た と し て、 自 性 を も ち、 超 時 間 的 に要 當 す る と言
諸 法無 我 の ﹁法 ﹂ (杢 川) 四〇 一
諸 法 無 我 の ﹁法 ﹂ (卒 川) 四〇二
わ れ た こ とと は、 如 何 に 關 係 す る か が不 明 であ る。 す な わ ち 鮎 で は 博 士 も ロ ー ゼ ン ベ ル グ と 異 な ら な い。 但 し ロ ー ゼ ン ベ
法 が自 性 を も ち、 超 時 間 的 存 在 であ る なら、 どう し て そ の同 ル グ は 自 相 に 立 場 を お き、 博 士 は 自 性 に 立 場 を お い て い る ち
じ法 が無 自 性 で あ り 室 であ る のか と いう 問 題 があ る。 和 辻 博 が い が あ る。
士 は ﹁無 自 性 室 ﹂ は 龍 樹 哲 學 の根 本 思 想 で あ る と 言 わ れ る 和 辻 博 士 は ﹁法 は 自 性 を 持 つ か 故 に 法 で あ る ﹂ と 言 う が、
が、 そ れな ら ば 法 の室 の思 想 は原 始 佛 教 に は無 か つた と見 る こ の 考 え は 自 性 の ﹁所 有 者 ﹂ と し て の 法 を 想 定 し て い る よ う
(17)
の であ ろう か。 ﹁法 の自 性 ﹂ と いう こ とは 倶 舎論 等 の ア ビ ダ で あ る。 ロ ー ゼ ン ベ ル グ は ﹁法 は 自 相 を も つ﹂ と し て、 自 相
ル マ佛 敏 で言 う こ と であ り、 阿含 経 で は ま だ用 いら れ て いな は 外 界 に 現 れ る が、 し か し 自 相 を も つ 法 自 身 は 外 に 現 れ な い
い。 和 辻博 士 は こ の語 を 阿 含 経 の法 の解 繹 に持 ち こ ん で、 法 と し て、 こ れ を 不 可 認 識 者 と し た の で あ る。 し か し 和 辻 博 士
ば ﹁か た﹂ であ る と いう 説 を 立 て た のであ る が、 法 の室 の問 の ご と く ﹁法 が 自 性 を 持 つ﹂ と し た ら、 も し そ の さ い 法 と 自
題 が 出 て く る と、 こ の説 は維 持 で き な いよう であ る。 そ の理 性 と が 別 で あ る と し た ら、 自 性 の 背 後 に あ つ て、 自 性 を も つ
由 は、 博 士が 存 在 の領 域 と法 の領 域 と を 分け た と ころ に原 因 法 と は 何 か と いう 問 題 が お こ ろ う。 も し そ の さ い法 と 自 性 と

-876-
があ る よう に思 わ れ る。 さ ら に そ れ は ま た、 博 士 が法 の自 性 が 同 じ で あ る (自 性 を Ansi
chs
ein と解 し た 博 士 は こ の 立場
と自 相 と を同 一視 し た こ とに 原 因 が あ る よう に思 わ れ る。 の よ う で あ る が ) と す れ ば、 ﹁自 性 (法 ) が 自 性 を 持 っ﹂ と い
自 相 と自 性 を 同 一覗 す る の は普 光 の倶 舎 論 記 であ る。 博 士 う こ と に な る が、 こ の 立 言 は 如 何 な る 意 味 を 持 つ の で あ ろ う
はそ れ に 基 い て ﹁自 に着 目 す る場 合 に は性 と呼 ば れ、 相 連 關 か。 こ れ は 理 解 し 難 い こ と で あ る。 倶 舎 論 で ﹁自 相 を 持 す る
す る 他 の法 に着 目 す る 場 合 に は (すなわち他 に封 して自 の性格 が 故 に 法 で あ る ﹂ と 言 つ て い る の は、 か か る 理 由 が あ る か ら
(18)
を旺 別 す る場 合 に は) 相 と 呼 ば れ る ﹂ と 説 明 し、 自 性 と 自 相 を で あ る。
同 一と 見 る。 自 性 と 自 相 を こ の よ う に 解 繹 す る 説 は、 普 光 に ア ビ ダ ル マに お い て自 性 svabhava と 自 相 sval
aks
ana と
は あ る が、 倶 舎 論 に は 見 當 ら な い。 博 士 は ロ ー ゼ ン ベ ル グ の は 別 で あ つ た と 考 え ら れ る。 い ま は こ の 論 謹 は 省 略 す る が、
Trager 説 を 批 到 す る に さ い し、 ロ ー ゼ ン ベ ル グ が 自 性 を 自 自 相 は 共 相 sam anya-
laksana に 封 す る 言 葉 で あ る。 倶 舎 論
相 と 同 一覗 す る た め、 法 が 自 性 Ansi
chsei
n を持 つか 否 か の で は 四 念 庭 観 で、 身 ・受 ・心 ・法 の 自 相 と 共 相 を 観 ず る こ と
(19)
問 題 が 見 失 わ れ て しま う と非 難 さ れ た が、 爾 者 を 同 一覗 す る を 説 く が、 そ こ で 自 相 と は 身 ・受 ・心 ・法 の そ れ ぞ れ の 自 性
の こ と であ る と説 明 し、 さ ら に 一切 の有 爲 は 非常 の性、 一切 こ の場 合 に青 の極 微 に は、 濃 い青 色 を 示 す も のも あ れ ば、
の有 漏 は苦 の性、 一切 の法 は 室 と非 我 の性 で あ る のが 共相 で 淡 い青 色 を 現 わ す も のも あ ろう。 し か しそ れら が同 じく ﹁青 ﹂
(20)
あ る と言 つ て いる。 す な わ ち無 常 ・苦 ・室 ・無我 は 法 の共 相 と呼 ば れ る わ け であ る か ら、 こ の法 の自 相 が青 であ る と いう
であ る。 但 し 無 爲 法 は無 常 でな く、 浬 葉 や 道 諦 は 苦 で はな い こと が 成 立 す る 背 後 に は ﹁青 色 一般 ﹂ と いう 観 念 があ る わ け
から、 法 の共 相 に は贋 狡 があ る。 と も かく 和 辻博 士 が法 に 二 で あ る。 こ の観 念 に も とず いて、 ﹁こ れ が青 で あ る ﹂ と いう
種 を 匿 別 さ れ た う ち、 存 在 者 と法 と を 旺 別 す る 法 (無常等) 立 言 が 可 能 に な る。 そ の意 味 で こ の観 念 は ﹁か た ﹂ と言 つて
は倶 舎 論 で言 う 法 の ﹁共 相 ﹂ に 相 當 す る。 そ し て 和 辻 博 士 よ いと 思 う。 す な わ ち 客 観 の世界 に青 と いう ﹁か た﹂ があ る
が、 存 在 者 の存 在 の法 と言 う も のが、 倶 舎 論 の いう 法 の ﹁自 と 言 つ てよ いで あ ろ う。 こ のか た は超 時 間 的 存 在 であ る。 極
相﹂ に 相當 す る と見 てよ い と思 う。 上 述 の 如 く 倶 舎 論 で は 微 と し て の青 は 色 が あ せ た り、 破 壌 さ れた り し て無 常 で あ る
﹁身 ・受 ・心 ・法 のそ れ ぞ れ の自 性 がす な わ ち自 相 であ る﹂ が、 青 と いう観 念 は 時 間 を こえ て存 在 す る。 和 辻 博 士 の 言う
と言 つて いた が、 しか し そ のこ と は自 性 と自 相 と が同 じ であ ﹁存 在 の法 ﹂ は、 こ のよ う な観 念 を 指 す か と思 う。 あ る いは
る と いう 意 味 で はな い。 は じ め から 同 じ であ れ ば、 ﹁同 じ で 青 と いう ﹁自 相 ﹂ を 指 し て いる か と思 う。 とも かく ﹁自 性 ﹂

-877-
あ る﹂ と こ とわ る必 要 は な いか ら であ る。 た し か に青 と いう は 極 微 か ら でき て いる か ら、 こ れ は明 ら か に 博 士 の言 う ﹁存
法 の自 性 も 青 で あ り、 自 相 も 青 であ る。 し か し倶 舎 論 等 によ 在 者 ﹂ (有者)で あ る。 これ ら は無 常 の法 を か た と し て無 常 す
れ ば、 青 の自 性 は 極 微 か ら で き て い る と な す か ら、 こ れ は る も の であ り、 さ ら に 存 在 の法 を か た と し て存 在 す るも の で
﹁物 質 ﹂ と し て の青 を 指 す わけ であ る。 これ にた い し て自 相 あ る。 倶 舎 論 では こ の自 性 が そ の まま 法 と呼 ば れ て い る の で
は自 性 の現 れ と し て の ﹁青 色 ﹂ を 意 味 す る。 こ の青 色 は極 微 あ る。 し か も こ の考 え は阿 含 経 にも 適 用 し て差 支 え な い と思
であ る こ と を 必要 條 件 と は し な い。 幻 影 で青 色 を 認 め た場 合 う。 物 が 法 であ る、 法 は 無 常 であ る、 法 は無 我 であ る等 と阿
いう
に は、 色 と し て の青 はあ る が、 物 質 とし て の青 はな い わけ で 含 経 で は説 い て いる の であ る か ら、 法 にた いす る基 本 的 な 理
あ る。 し たが つて青 色 (自相) と極 微 と し て の青 (自性)とは 解 は、 阿 含 経 と ア ビ ダ ル マとは異 な らな い と見 て よ い。
同 じ でな い。 こ の よう な 意 味 で、 青 の自 性 は 極 微 で あ り、 青 とも か く 和 辻 博 士 の読 か れた ﹁存 在 の法 ﹂ は、 倶 舎 論 で 言
いろ
の色 は自 相 であ る と考 え て よ い。 え ば自 性 よ り も 自 相 に 近 いも ので あ る。 自 性 は 存 在 で あ る
諸 法 無 我 の ﹁法 ﹂(卒 川) 四〇三
諸 法 無 我 の ﹁法﹂ (李 川) 四〇 四
が、 自 相 は 封象 と認 識 と の關 連 に お い て成 立 す るも の であ る 難 鮎 は 除 か れ て いな いわ け で あ る。 有 部 は 有 爲 法 を ﹁刹 那 滅 ﹂
か ら、 ﹁か た ﹂ と いう 観 念 を ふ く み う る と思 う。 和 辻 博 士 は とな すと とに よ つ て、 法 が 自 相 を持 す る こ と と、 無 常 であ る
こ のか た を ﹁圭 観 の形 式 と し て で はな く、圭 観 を抜 き 去 つた、 こ と と の矛 盾 を解 潰 せ ん と した のであ る。 し か し阿 含 経 に は
從 つてま た客 観 を 抜 き 去 つた" 存 在 そ のも の の法 と し て考 え ま だ法 の刹 那 滅 は説 かれ て いな いの であ り、 刹 那 滅 を 説 か な
(21)
ら れ て いる ﹂ と言 う。 とも か く 和 辻 博 士 の立 てら れ た 二種 類 く とも、 法 は ﹁たも つも の﹂ で あ り つつ、 し かも 無 常 で あ る
の法 は、 倶 舎 論 で 言 え ば法 の自 相 と共 相 に あ た るも の と言 つ こ とを 認 め て いた の であ る。 す な わ ち そ の よう な 二重 性 を も
て よか ろ う。 そ し て博 士 が法 の領 域 か ら 除 いた﹁存 在 者﹂が、 つ法 が、 原 始 佛 教 で理 解 し て いた 法 であ る と見 なけ れ ば なら
法 の自 性 に あ た る と見 てよ い。 倶 含 論 では こ の自 性 が自 相 を な い。 同 時 に 法 は 有 爲 法 ・無 爲 法 を加 え て、 一切法 が無 我 で
持 ち つ つ、 し か も無 常 であ り、 苦 であ り、 室 であ り、 無 我 で あ る こと も、 阿 含 経 に 説 か れ て いる。 ﹁法 の 室 ﹂ と い う こ と
あ る と 言 つて い る の であ る。 し か し こ こに、 自 相 を 維 持 す る は、 阿 含 経 では ま だ 明 瞭 に は 説 か れ て いな い。 し か し 阿含 経
こと と、 無 常 であ る こ と とは 相 互 に 矛 盾 す る の で はな いか と に は 大 室 経 ・小 室 経 等 の室 を 説 く経 典 があ り、 そ の ほ か にも
いう疑 問 があ ろう。 室 ・無 相 ・無 願 の三 解 脆 門 や、 室 佳 ・室定 な ど が説 か れ て お

-878-
自 相 は攣 ら な い性 質 であ り、 これ を も つと こ ろ に 法 (たも り、 室 に 關 す る 教 読 は 少 く な い。 一切法 の 室を 説 く 思 想 の源
(22)
っも の) の特 質 が あ る。 これ に た い し て ﹁無 常 ﹂ は 攣 化 で あ 流 は、 す でに 阿 含 に あ る の であ る。
る から、 ﹁た も つこ と﹂ と矛 盾 す る。 こ の 二 つが 同 時 に 法 に とも か く 法 は た も つも ので あ り つ つ、 しか も 無 常 であ り、
あ る と いう こと は 理解 し難 い わけ であ る。 和 辻 博 士が 存 在 の 無 我 であ る と いう のが、 阿 含 経 の圭 張 であ つた の であ り、 こ
領 域 と法 の領 域 と を 分 け た の は、 こ の理 由 から か と思 う。 そ の立 場 か う わ れ わ れ は 阿 含 経 の法 の意 味 を 理 解 す べ き で あ
れ に よ つて、 無 常 の法 も存 在 の法 も ﹁たも つこ と﹂ を 維 持 し る と考 え る。 阿 含 経 の思 想 を 代 表す る ﹁三 法 印 ﹂ は、 諸 行 無
得 る のであ る。 し か し そ の場 合 に は存 在 の領 域 す な わ ち ﹁有 常 ・諸 法 無 我 ・浬 繋 寂 静 であ る が、 こ こに は法 の無 常 を 言 わ
サソ カセ ラ
者 ﹂ は、 攣 化 し な い存 在 の法 を かた と し て存 在 し つ つ、,
同時 な い で ﹁行 の 無 常 ﹂ と 言 つ て い る。 こ れ は 行 sankhara と 法
に攣 化的 な無 常 の法 を か た と し て攣 化 し て ゆく と見 る の であ dham m a と が い か な る 關 係 に あ る か と いう 問 題 を 提 起 す る。
る か ら、 有 者 に こ の 二 つの矛 盾 す る性 格 が 同時 にあ る と いう こ れ は 結 論 を 先 に い え ば、 サ ン カ ー ラ と ダ ン マ と は 表 裏 の關
係 に あ る の で あ り、 そ れ に よ つ て さ き の ﹁法 の 二 重 性 ﹂ が 可 但 し、 漢 繹雑 阿 含、 巻 四 七、 大 正 二、 三 四 六 申 以下、 増 一阿 含
能 と な る の で あ る。 一般 に は 三 法 印 で は ﹁諸 行 無 常 ﹂ と い う 巻 一九、 大 正 二、 六 四 二中 以 下 の蹟 迦 梨 の経 典 に は、 こ の句 は
な い。
が、 智 度 論 で は 三 法 印 に 二 切 有 爲 法 無 常 印 L と 言 つ お り、
4 和 辻 哲 郎 ﹃原始 佛 敏 の實 践 哲 學 ﹄ 一六 六 頁。 ﹃和 辻 哲 郎 全集 ﹄
諸 行 無 常 は 有 爲 法 の 無 常 と 言 い か え ら れ る も の で あ る。 た だ
第 五巻、 一一〇頁。
し 無 爲 法 は 無 常 で は な い か ら、 一切 法 無 常 と は 言 え な い の で
5 和 辻哲 郎、 前 引書、 一七 二頁。 ﹃全集 ﹄同、 一一四 頁。 な お こ
あ る。 三 法 印 で ﹁諸 行 無 常 ﹂ と 無 常 を サ ン カ ー ラ に つ い て 言
の解 繹 は、 申 村 元博 士 に よ って ア ビ ダ ル マ文 鰍 に適 用 せ ら れ、
う の は、 無 爲 法 を 除 外 す る た め の 配 慮 で も あ る の で あ る。 確 め ら れ て いる。 中村 元 ﹁説 一切 有部 の立場 ﹂ (﹃倫 理 學 年 報、
と も か く 法 は、行 と の 關 連 に お い て 理 解 す べ き も の で あ る。 第 六年、 二 四 一頁 以 下。 昭 和 三十 二 年。)
前 お き が 長 く な つ た が、 本 稿 で は こ の 三 法 印 を 手 が か り と し 6 前 節、 註 六。
て、 如 上 の 問 題 を も つ 法 の 意 味 を 考 察 し た い。 7 倶 舎論 記、 巻 一、大 正 四 一、八 下。 但 し 法寳 の倶 舎 論 疏、 巻
一に は ﹁能 持 自 相、 軌 生 解 故 ﹂ ﹁持 自 相、 常 無 改 攣 ﹂ と あ り、
- た とえ ば G.C.Pande,
Studi
esi
nthe Ori
ginsofBudd- これ が 正 し い。大 正 四 一、四 六 六 下。

-879-
hi
sm,Al
lahabad 1957,
p. 466
にfおfい
.て、 ロ ーゼ ンベ ルグ 8 和 辻哲 郎、 前 引 書 一七 二頁。 全 集、 同、 一 一四頁。
の説、 グ ラ ーゼ ナ ップ の説、 キ ー スや シ ャイ エ ル の 説 (I.
H. 9 同 上、 一七 一- 一七 二頁。 全 集、 同、 一 一三- 四頁。
O.vol.
XII)
.リ ズデ ヴ ィ ッヅ 夫 人 の説 (TheBi
rth ofi
ndi
an 10 同 上、 一七四 頁。 全 集、 同、 一 一五 頁。
Ps
ychol
ogy and i
tsDevelopment i
n Buddhi
sm, 1936 p. 11 同 上、 一七八 頁。 全 集、 同、 一 一八 頁。
229ff.)
どなを 批 釧 し て、 自 読 と し ては、 佛 敢 に は経 験 的 な 法 12 同 上、 一七 三頁。 全 集、 同、 一 一五 頁。
と 超 経験 的 な法 と の 二種 類 の法 があ る と 言 って いる。 前 者 は 縁 13 同 上、 一七 六頁。 全 集、 同、 一 一七頁。
起 の法 に よ って示 さ れ、 後 者 は浬 盤 であ る と いう。 14 同 上、 二 六〇 頁。 全 集、 同、 一六 八 頁。
2 MN.vol.
I,p.190-
911,
yopati
ccas
amuppadam pas
sat
i 15 同 上、 二 六 一頁。 全 集、 同、 一六 九 頁。
so dhammam passati南
.傳 大 藏 経 第 九 巻 三 三九 二 二四 〇 頁。 16 同 上、 二 六 一頁。 全 集、 同、 一六 九 頁。
中 阿 含 経 巻 三〇、 象 跡喩 経、 大 正 一、四 六 七 上。 17 法 に自 性 svabhava が あ る こ と を圭 張 した のは 説 一切 有 部
3 SN.vol.
III,
p. 12
y0ok
.hovakka-
idhammam passat
i で あ り、 こ れ にた いし て、 法 は無 自 性 ni
hsvabhava であ る こ
so mam Pas
sat
i,yo mam pasat
i sodhammam pas
sati. とを 圭 張 した のは中 観 派 であ る。 こ の こ と は特 に指 摘 す る必 要
諸 法無 我 の ﹁法 ﹂ (卒 川) 四〇五
諸 法無 我 の ﹁法 ﹂ 奉 川) 四〇六
はな い。 そ の他 の部 派 に つ い ては文 鰍 不 足 か ら 明 ら か で な い。 あ り、 三 法 印 の名 を あ げ て いる、 以 上、 文 章 は 若 干 異 る が趣
﹁自 性﹂ の パ ー リ形 s
abhava は M i
lindapanha ed.
byTre- 意 は 同 じ であ る。 阿 含 経 で これ に 似 た も の は、 漢 課 雑 阿 含 の
(4)
nckner,
pp.
90 2122
,63,360,
383v
;isuddhi
magga XX. 二 切 行 無 常 ・ 一切 法 無 我 ・浬 葉 寂 滅 ﹂ で あ る。 こ れ ら に は
HOS.
vol 4p
1.,
543A
;bhi
dhammatt
has
amgahap.
27e
,tc. ﹁浬 藥 寂 滅 ﹂ が ふ く ま れ て い る が、 し か し 本 來 は ﹁浬 契 寂 滅 ﹂
な ど に現 れ る が、 数 理 用 語 と はな って いな い。
は ふ く ま れ ず、 二 切皆 苦 ﹂ を加 え て三 法 と な つ て い た よ う
18 和 辻 哲 郎 ﹁佛 教 哲 學 に お け る ﹁法 ﹂ の概 念 と 室 の辮 謹 法 ﹂ 和
で あ る。
辻 哲 郎 全 集、 第 九 巻、 四 六 七頁。 ﹃倶 舎 論 記 ﹄巻 一、大 正 四 一、
八下。 有 名 な の は法 句 経 の 二 切 行 無 常 sabbesanhharaani
cca,
一切 行 苦 sabbe sankhara dukkha,一切 法 無 我 sabbedha-
19 前 註 に 同 じ。 全集 同、 四 六 三頁。
(5)
20 ﹃倶舎 論 ﹄ 巻 二三、 大 正 二 九、 一 一八 下。 ﹃倶 舎 繹 論 ﹄ 巻 一六 m m a anat
ta﹂ で あ る。 こ の 三 法 は、 パ ー リ で は こ の ほ か に
(6)
では、 別 相 ・通 相 と課 す。 大 正 同、 二 七 一上。 長 老 偶、 増 支 部 な ど に も 見 ら れ る。 ガ ンダ ー リ ー。 ダ ル マ パ
(7)
21 ﹃原始 佛 教 の實 践 哲 學 ﹄ 一七七 頁。 全集、 第 五巻、 一 一七 頁。 ダ に も 一〇 六-八 偶 に こ れ を あ げ る。 但 し ベ ル ン ハ ル ド の 出
22 阿 含 に おけ る室 の思 想 に つ い ては、 宮本 正尊 ﹁室思 想 及 び そ

-880-
版 し た ウ ダ ー ナ ヴ ァ ル ガ で は、 苦 と 無 我 の 間 に 二 切 行 を 室
の獲 達﹂ (﹃日本 佛 教 學 會 年 報 第 一七號、 一〇 〇頁 以 下、 昭 和 二
な り と 慧 に よ つ て 見 る 脇m yat
ah sarvas
am skaram pr
ajnaya
六年 )。﹃根 本 中 と 室﹄ 四 九 五頁 以 下 参 照。 (8)
pasyateyada﹂ と て、 一切行 室 を 入 れ て いる。 こ れ は有 部 の
三 三 法 印
系 統 で ﹁無 常 ・苦 ・室 ・無 我 ﹂ の 四法 を 立 てる傳 統 を受 け て
は じ め に 三 法 印 に つ い て 一言 し て お き た い。 三 法 印 と は いる のであ る。 漢 澤 の法 句 経、 法 集 要 頽 経、 出曜 経 な ど も 同
(9)
﹁諸 行 無 常 ・諸 法 無 我 ・浬 葉 寂 静 ﹂ で あ る が、 こ の 型 の 三 法 系 統 で あ る。 但 し 法 句 響 喩 経 に は 三 法 印 の 偶 は 見 當 ら な い。
印 は 比 較 的 新 し い 経 典 に 出 る。 例 え ば 根 本 有 部 律 に ﹁諸 行 皆 な お バ ー リ増 支 部 に は コ 切 行 無 常、 一切 行 苦、 一切 法 無
(1)
無 常 ・諸 法 悉無 我 ・寂 静 即 浬 葉。 是 名 三法 印 ﹂ とあ る の が そ 我、 浬 葉 樂 (浬 架 を 樂 と し て 見 る ni
bbanam s
ukhat
o s
amanu-
(10)
れ であ る。 さら に大 乗 の浬漿 経 に も ﹁一切 行 無 常 ・諸 法 無 pas
sant
o)﹂の 四 法 を 學 げ て い る。 こ こ で は 浬 渠 を 樂 と 示 し て
(2)
我 ・浬 墾 寂 滅 ・是 第 一義 ﹂ と あ る。 大 智度 論 に は 一一奴 有 爲 い る が、 浬 架 を 樂 と 説 く こ と は 法 句 経 や 浬 藥 経 な ど に も 見 ら
(3) (11)
法 無 常 印 ・ 二切法 無 我 印 ・浬 葉 寂 滅 印。 問 日、 是 三 法 印 L と れ、 阿 含経 と し て は 一般 的 であ る と言 つて よ い。 但 し漢 課 の
増 一阿含 では、 二 切 諸 行 無 常 ・一切諸 行 苦 ・ 一切 諸 法 無 我 ・ 9 法 句 経、 巻 下、 大 正 四、 五 六 九 上 中。 法 集 要 碩 経、 巻 二、 大
(12)
浬藥 爲 永寂﹂と な つ て いる。 な お二 切行 無 常 ・ 一切 法 無 我﹂ 正 四、 七 八 三 上 中。 出 曜 経、 巻一三、 大 正 四、 六 八 二 中 下。
の二 法 を説 く こ とは、 パー リ の中 部 ・相 慮部 な ど に も 見 ら れ 10 A N.vol.III,p. 4
24.
(13)
11 Dham m apadavv.203,204n
.ibbanam param am sukham;
る。 こ のよ う に 三 法 印 と 言 つても、 阿 含 経 で古 く か ら 固定 し
D N.vol.II,p.157.
法 句 経 に も、 浬 架 が 寂 静 santiで あ る こ
て いた わけ では な いが、 し か し これ は、 五 紹の無 常 ・苦 ・無
と を 読 く 偶 が あ る。 こ れ は 煩 悩 を 滅 蓋 し た の が 浬 架 だ か ら で あ
我 を説 い た経 典 の思 想 が ま と めら れた も のと 見 て よ い ので あ る。 Dham m apada.v. 2
58
る から、 思 想 と し て は阿 含 経 に古 く か ら存 在 し た と言 つて よ
12 増 一阿 含、 巻 一八、 三 六、 大 正 二、 六 四 〇 中、 七 四 九 上。
い。 そ し て最 初 は お そら く 法 句 経 のご と く 二 切行 無 常 ・ 一 13 M N.vol.I,pp.228,
230;SN. vol.III,p.132.
切 行 苦 ・諸 法無 我 L の三 法 であ つた であ ろう。 そ し て有 部 系 14 Jataka,vol.Iv, p.340.
統 では これ に 二 切行 室﹂ が加 え ら れ た ので あ ろ う。 そ し て
四 行 ・縁 起 と 法
別 の系 統 で、﹁浬 契 樂 ﹂ ﹁寂 滅 爲 樂 t
esam vupas
amo sukho﹂
等 が 加 え ら れ て、 四法 にな り、 あ る いは ﹁一切皆 苦 ﹂ を 除 い 三 法 印 の第 一は 二 切 行 無 常 ﹂ で あ る が、 智 度 論 では 二

-881-
て、 三 法 印 と な つた の であ ろ う。 パ ー リ 系 で は ﹁三 印 ﹂ Tや 切 有 爲 法 無 常 印 ﹂ と な つ て い た。 こ の こ と は ﹁行 ﹂ sankhara,
(14)
lakkhana の 語 は ジ ャ ー タ カ に 見 ら れ る。 sam skara と ﹁有 爲 ﹂ sankhata,sam skrta と に 共 通 的 な 性 格
1 根 本 説 二切 有 部 毘 奈 耶、 巻 九、 大 正 二 三、 六 七 〇 下。 の あ る こ と を 示 し て い る。 オ ルデ ンベ ル ヒはダ ン マと サ ンカ
(1)
2 大 般 浬 桀 経、 巻 二三、 大 正 一二、 四 四 三 上。 ー ラが 同義 語 であ る こと を 認 め て いる。 諸 行 無 常 と は萬 物 は
3 大 智 度 論、 巻 三 二、 大 正 二 五、 二 九 七 下。 流 轄す る と いう 意 味 であ る が、 ﹁流 轄 す る ﹂ と いう 場 合 に は、
4 雑 阿 含 経、 巻 八、 一〇、 大 正 二、 五 〇 中、 六 六 中 下。
流 轄 す る圭 禮 は立 て る こと が で き な い。例 えば A が B に流 轄
5 Dham m apada vv.277-279.
し た と し た場 合、 A には Bが な く Bに は A がな い とす れ ば、
6 Theragatha 6766
-78.
A;N, vol.I,p.286.な お SN. vol.
Aが流 轄 す る とも 言 え な いし、 Bが流 轄 し た とも 言 え な いわ
Iv,p.28.に も、 無 常 ・苦,・無 我 の 三 法 を 説 く。
7 け
J.Brough,Gandhari Dharm apada,p.134,vv.106-108. であ る。 若 し こ の場 合、 Aか ら Bに自 己 同 二の も の が移 行
8 F.Bernhard,Udanavarga, 19p
6p5
.,193-4,
vv.5-8. し てゆ く とす れ ば、 そ の自 己 同 一のも のが 流 鱒 す る と 言 う か
諸 法 無 我 の ﹁法 し (干 川) 四〇 七
諸 法 無 我 の﹁法 ﹂ (準 川) 四〇 八
も し れな い。 し か し自 己 同 一であ れ ば、 攣 化 がな いか ら、 流 い て は 言 わ な い。 す な わ ち ﹁サ ン カ ー ラ ・ダ ン マ﹂ と いう 表
轄 と は言 え な いわけ であ る。 現 は な い。 サ ン カ ー ラ は 法 と し て 把 捉 で き な い 歌 態 で あ る。
こ のよ う に流 輻 とか 攣 化、 無 常 と いう こ と は、 個 物 に つ い サ ン カ ー ラ に つ い て 無 常 を 言 う の は、 能 動 的 な 力 が 流 轄 し
て言 う こと は 適切 でな いの で、 も つと廣 い立場 で言 う の であ て ゆ く と いう 貼 に お い て、 連 績 の 面 を 表 に し て い る の に た い
こわ
る。 そ れ が サ ンカ ー ラ ーで あ る。 諸 行 と いう の は攣 化 し てゆ し、 有 爲 法 の無 常 を いう のは、 法 と し て 作 ら れ た 世 界 が 壌 れ
く 現 實 を、 全膿 的 に 表現 し た も のであ る。 サ ンカ ー ラ は﹁行 ﹂ て ゆく 貼 に 注 目 す る のであ る。 これ は、 法 か ら 法 への断 絶 を
と 課 さ れ る が ﹁爲 作﹂ と も課 さ れ る。 ﹁サ ム﹂ は集 る と い う 表 に出 し て いる と 見 てよ い。 一般 に 攣 化 に は 連 績 的 な 性 格 と
意味 の接頭 僻 であ り、 ﹁カ ー ラ﹂ は作 る と いう 意 味 で あ る。 断 絶 的 な 性 格 と が 見 ら れ る が、 しか し 連 績 と断 絶 の混 合 が 攣
す な わ ち多 く の力 が 集 つて新 し い歌 態 を 作 り あ げ て ゆく 能 動 化 で あ る の では な い。 連績 と断 絶 と の混 合 と いう こ と は不 可
サ ンカ タ
的 な 歌態 を いう。 こ れ に た い し て ﹁有 爲 ﹂ は サ ンカ ー ラと同 能 な こと であ る。 攣 化 ・無 常 は論 理 に よ つて は把 握 でき な い
じ語 根 から 作 ら れ た言 葉 であ る が、 過 去 受 動 分詞 であ り、 多 世界 であ る。 原 始 佛 教 では、 こ れを ﹁如 實 に 正 し い 智 慧 s穿
(2)

-882-
く の力 が集 つて作 ら れ た ﹁も の﹂ を 意 味 す る。 サ ンカ ー ラ の mma-
panna を も つ て見 る﹂ と示 し て い る。 連 績 や 断 絶 を 知
サ ソカタ
能 動 的 な 力 が作 りあ げ た世 界 が有 爲 であ る。 わ れ わ れ の現 實 る のは、 到 断 であ り、 論 理 で あ る が、 無 常 を悟 る の は如 實 知
(3)
は 絶 え ず 動 い てや ま な い世 界 であ り、 そ う いう能 動 的 な力 の 見 yathabhuta-
nanadassana で あ る。 こ れ は 全 髄 的 な 直 観 で
世 界 であ り つ っ、絶 え ず サ ンカ タ と し て作 ら れ て﹁存 在 す る ﹂ あ り、 大 乗 の 般 若 経 に お い て は ﹁般 若 ﹂ praj
na と 呼 ば れ る
世 界 であ る。 ﹁作 ら れ つ つ作 つ てゆ く ﹂ と いう 在 り 方 を も つ も の で あ る。 こ れ は ま た 無 分 別 智 ni
rvi
kal
pa-
jnana と も 呼
(4)
のが、 わ れ わ れ の現 實 であ る。 作 ら れ た 世界 は個 物 の 世界 で ば れ る。
あ る の で、 これを ﹁有 爲 法 ﹂ sankhat
a-dhamma と いう。 法 とも か く 諸行 の無 常 も、 有 爲 法 の無 常 も、 如 實 知 見 に よ つ
句 経 等 で ﹁諸行 無 常 ﹂ と いう のは、 原 因 の在 り 方 で世 聞 の無 て知 ら れ る も の であ る。 した が つ てそ の無 常 に お い て成 立す
常 を 示 し た も の であ り、 智 度 論 が 二 切有 爲 法 無常 印 L と 言 る法 も、 如 實 知 見 に よ つて のみ 知 ら れ、 見 ら れ る も の であ る
つた の は、 結 果 の在 り 方 に つ い て、 世間 の無 常 を 示 し た も の こと は、 言 を ま た な い。 し た が つて分 別 智 や 常 識 な どに よ つ
であ る。 こ の場 合、 法 は 有 爲 に つ い て言 う の であ り、 行 に つ て知 ら れ る個 物 は法 では な い の であ る。 法 は縁 起 にお い て見
ら れ る も の で あ る。 因 み に 法 を 有 鳥 法 と 無 爲 法 asankhata- こ の 有 爲 法 が 相 依 り、 相 助 け て 成 立 す る 關 係 は、 縁 起 に よ
dham m a つ て 示 さ れ る。 こ れ を 詳 し く 言 え ば 縁 起 pat
iccasam uppada,
uasam skrt
a-dharm a と に 分 け る こ と は、 阿 含 経 に
(5)
す でに用 例 が 見 ら れ る。 有 爲 法 が作 ら れ た 法 であ り、 し た が prati
tyasam ut
pada と 縁 已 生 法 pat
iccasam uppanna-
dha-
(6)
つ て壌 わ れる 法 であ る に た い し、 無 爲 法 は作 ら れな い法 であ mma, pratityasamutpamに
aよ-d
つhてa
示rさmれ
aるh。

り、 し た が つ て永遠 ・常 佳 の法 であ る。 これ は阿 含 経 では も こ の爾 者 は表 裏 の關 係 を なす 言 葉 で あ る。 縁 起 の 起 ut
pada
つば ら浬 葉 を 指 す の であ る。 は ﹁生 ぜ し め る﹂ (使役法) の意味 を も ち、 縁 起 の能 動 的 な在
有 爲 法 が サ ンカ ー ラ と表 裏 の關 係 に あ る こ と にお い て、 法 り 方 を 示す。 動 的 な 連 績 の世界 であ る。 一如 の 世界 であ る。
は力 を そ な え て いる こ とが 知 ら れ る。 法 は ﹁存 在 そ のも の の これ に た いし て縁 已 生 法 の已 生 ut
panna は 過 去受 動 分 詞 で
か た ﹂ であ る と 言 つてよ い であ ろ う が、 し か し軍 な るか た で あ り、 生 ぜ し めら れ た 在 り 方 を 示 し、 静 止 の面、断 絶 の世 界、
は な く、 力 と し て の實 在 であ る と言 わ ね ば な ら な い。 な ぜな 分 化 の在 り方 を 示 し、 縁 起 の果 相 を 意 味 す る。 す な わ ち 法 は
ら ば、法 の反面 は能 動 的 な サ ンカ ー ラ ー の世 界 だ か ら で あ る。 縁 起 の果 相 と し てあ る の であ る。 因 相 であ る縁 起 は、 そ の ま
法 に 力 が そな わ つ て いる 鮎 で、 法 は孤 立 的 な存 在 で はあ り 得 ま では 法 と し て把 捉 さ れ な い。 した が つ て上 述 のご とく ﹁縁

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な い。 力 であ る貼 に お い て必 然 的 に 他 の法 に つな が つて い る 已 生 法 ﹂ と て、縁 已 生 に は ﹁法 ﹂ を つけ るが、 縁 起 に 法 を つ
から であ る。 サ ンカ ー ラ ーは 連 績 的 な流 轄 の 世界 であ り、 動 け て ﹁縁 起 法﹂ と は言 わ な い。 法 は差 別 相 の世 界 であ る が、
的 な面 を 現 わ す にた いし、 法 は む し ろ 個 々の存 在 と し て成 り 縁 起 は全 髄 の世界 であ る。 しか し こ の こ と は、 わ れ わ れ の世
立 つ て い るた ち 切 ら れ た存 在 者 の世界 で あ り、 世 界 の静 的 な 界 が縁 起 と 縁 已 生法 と いう 二重 構 造 に な つて いる と 言 わ ん と
面 を 示 す も ので あ る が、 し か し な お か っ法 は、相 互 に 相 依 り、 す る の では な い。現 實 は 一つであ る が、 そ こに こ の二 つ の在
相 助 け て、相 互 連 關 の上 に な り 立 つ關 係 に あ る。 そ の理 由 は、 り方 が見 ら れ る と 言 う意 味 であ る。
サ ン カー ラと サ ンカ タ と いう 表 裏 の 二 つの世 界 があ る の で は ﹁縁 起 法 ﹂ とは 言 わ な い と言 つた が、 し か し佛 陀 が 悟 つた
な く、 唯 一つの世 界 があ る にす きな い の であ り、 そ の世 界 が の は縁 起 と浬葉 であ つた と いわ れ る から、 そ の黙 では縁 起 も
サ ンカ ー ラの世 界 とも 見 ら れ、 あ る い はま た サ ンカ タ の世 界 法 の 二つ であ る と言 つてよ い。 し か し こ の場 合 の ﹁法﹂ は、
と も 見 ら れ る の だ から であ る。 眞 理 あ る いは 法 則 と いう 意 味 の法 であ る。 律 藏 の佛 傳 で は、
諸 法 無 我 の,
﹁法﹂ (卒 川) 四〇九
諸 法 無我 の ﹁法 ﹂(卒 川) 四 二〇
ことわり
佛 陀 の悟 つた 縁 起 と浬 架 を、 ﹁縁 起 と いう 庭 thana,
浬藥 とい 起 の第 一支 であ る。 縁 起 に よ つ て成 立 し た も の が法 であ る こ
こ とわり
う 庭 thana は、 (ア ー ラ ヤを 喜 こぶ衆 生 に は) 難 知 ・難 見 で あ と が、 こ こ に示 さ れ て いる。 し か も そ の法 は無 常 であ り、 こ
(7)
る ﹂ と 言 つ て、 縁 起 と 浬 繋 を ﹁庭 ﹂ t
hana (根 庭、 道 理 ) と 呼 わ れ る も の であ る等 と、 法 の性 格 が 示 さ れ て いる。 とく にそ
ん で い る。 縁 起 が 眞 理 と し て の 法 で あ る こ と は、 縁 起 と 縁 已 れ が こ こ で は離 食 の法 ・滅 の法 であ る と言 わ れ て い る の は、
生 法 と を 明 す 有 名 な 教 説 に も 見 ら れ る。 そ れ に よ る と ま ず こ れ が有 漏 法 であ る か ら であ る。 縁 已 生 法 の場 合 に は、 老 死
﹁縁 起 と は 何 ぞ や ﹂ と 示 し、 ﹁生 を 縁 と し て 老 死 あ り ﹂ と い の次 に 生 があ げ ら れ、 同 じ く 無 常 ・有 爲 等 が説 か れ、 順 次 に
う 縁 起 の 最 初 の 部 分 を 示 し、 ﹁如 來 世 に 出 ず る も 出 で ざ る も、 無 明 ま で及 ん で いる。 十 二縁 起 に お い て成 立す る存 在 が縁 已
こ の 原 理 (dhat thi- 生 法 な ので あ る。
u 界 ) は 定 ま れ り。 法 の 定 佳 性 dham m at
t
ita,法 の決 定 性 dhamm ani
yam at
a に し て、 相 依 性 i
dap- こ こに は法 の無 常 は説 か れ て い るが、 し か し法 の無 我 は説
(8)
paccayat
a な り。 如 來 は こ れ を 悟 り、 こ れ に 到 達 す ﹂ と 述 か れ て いな い。 法 の無 我 は五 纏 に つい ても つば ら 説 か れ る。
べ て、 縁 起 が 不 攣 の 眞 理 で あ る こ と を 示 し て い る。 つ ぎ に 順 色 は無 常 であ る。 無 常 な るも の は苦 であ る。 苦 な るも の は無
次、﹁有 を 縁 と し て 生 あ り ﹂ 等 と、十 二 縁 起 を 示 し、最 後 に ﹁無 我 であ る。 云々と説 か れ、 こ れ が受 ・想 ・行 ・識 に つい て も

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明 を 縁 と し て行 あ り。 比 丘 等 よ、こ こ に お け る 眞 如 tathat
a・ 読 か れ る。 五慈 に つ い て無 我 が 説 かれ る場 合 の ﹁無 我 ﹂ は、
不 虚 妄 性 avi
tathata・不 異 如 性 anannathat
a ・相 依 性 な る も 固 定 的 な自 我 がな い こ と が、 そ の原 意 であ つた であ ろう。 こ
(9) が
の、 こ れ を 縁 起 と い う な り ﹂ と蓮 べ、 十 二 支 の 關 連 に お け る れ は、 わ れ わ れ の執 着 し て い る ﹁我 ﹂ が、 そ のま ま の在 り方
眞 如 ・眞 實 ・永 遠 性 を 縁 起 と 見 て い る。 では 存 在 し な い と いう 意 味 であ る。 こ の意 味 の無 我 は、 そ の
こ れ に た い 七 て 縁 已 生 法 は、 ﹁縁 已 生 法 と は 何 ぞ や ﹂ と ま 後 の獲 達佛 敏 にも 長 く 受 け つが れ て い る。 いわ ゆ る﹁人 無 我 ﹂
ず 示 し、﹁老 死 は 無 常 ani
cca に し て、作 ら れ た も の sankhat
a の意 味 であ る。 しか し 一切 法 無 我 の場 合 の無 我 の意 味 は、 も
(有爲 )・縁 起 に よ つ て 成 立 し た も の pat
iccas
am uppanna (縁 つ と廣 く解 繹す べき であ ろう。 こ れ は無 我 の意味 を、 固定 的
已 生)・壌 れ る 法 khayadham m a ・滅 す る 法 vayadham m a ・ 實 髄 でな いと いう 意 味 に解 す る の であ り、 いわ ゆ る﹁法 無 我 ﹂

離 食 の 法 vi
ragadham m a ・滅 の 法 ni
rodhadham m a で あ る ﹂ の意 味 であ る。 これ は、 法 の反 面 が サ ンカ ー ラであ り、 縁 起
と 述 べ て い る。 こ こ に は ﹁老 死 ﹂ を あ げ る が、 こ れ は 十 二 縁 に お い て法 が なり た つ貼 から 考 え ら れ る も のであ る。 人無 我
の場 合 は無 我 に 重 貼 が あ る が、 法 無我 の場 合 は 法 に 重 鮎 が あ な お 十 二 縁 起 読 に は ﹁法 の滅 ﹂ が 説 か れ て お り、 縁 已 生 法 に
る。 法 の性 格 と し て無 我 を 理 解 す る の で あ る。 一切 法 無 我 お い て も 法 が 離 貧 法 ・滅 法 等 で あ る こ と が 示 さ れ て い た。 こ

sabbe dhamma anat
ta とは、 一切 の法 の中 に 我 かな い と い れ も、 法 が た も つ も の で あ り つ つ、 し か も ど う し て 滅 法 で あ
う 意 味 ではな く し て、 一切 法 は 我 でな いと いう 意 味 であ る。 る か と い う 問 題 が あ る が、 こ の 鮎 も 改 め て 論 じ た い。
し た が つて こ の場 合 に は、一切法 は固 定 的 實 髄 で は な いが、 1 H.Ol
denberg, Buddha
Leb
sen
e,i
seni
ne Lehre,
sei
ne
Gem ei
nde,
1923,S.288A
.m m.2.
し か し 尚 か つ ﹁たも つも の﹂ の性 格 を持 つ て いる と解 繹 す べ
2 SN.vol.
III,
p.22et
c.雑 阿含 経、 巻 一、大 正 二、 二上。 そ
き であ ろう。 こ の こ と は法 の室 と も關 係 が あ る。 阿 含 経 に も の他、 かく 説 く 経 は多 い。
法 の室 は 説 か れ て い る。 例 え ば 漢 課 雑 阿 含 に は ﹁當 さ に 色 の 3 vi
nayapit
aka vol.I,p.11.
四 諦 に お い て如 實 知 見 が清 浄
に な った と き、 悟 り の自 毘 を 得 た。
無 常 を 観 ず ぺし。 是 の如 く 観 ず る 者 は 則 ち 正 観 とな す。 ⋮⋮
(11)
4 末 綱 恕 一博 士 は、 無 分 別智 を ﹁徹 到 の室観 に基 づ く行 爲的 直
無 常 を 観 ず る 如く、 苦 ・室 ・非 我 も 亦 復 是 の如 し﹂ と説 く 経 観 の智 慧 ﹂ と表 現 さ れ た。 印 佛 研、 十 三 ノ一、 一五頁。 な お川
田熊 太 郎 ﹁根 本 無 分 別 智 に就 いて ﹂印 佛 研、 四 ノ 一、三 八頁 以
は多 い。 パー リ増 支部 にも ﹁五 纏 に 囑 す る す べ て の法 を、 無
下 参 照。
常 な り、 苦 な り、 病 な り、⋮⋮室 な り sunnat
o,無 我 な り 5 AN.vol.II,p.34;vol.
III,
p.35.
etc.

-885-
(12)
anattato
と観 ず ﹂ と説 いて いる。 法 の室 の問 題 は、 す でに 阿 6 SN.vol.
II.pp.25-26雑,
阿 含、 巻一三、 大 正 二、 八 四中。
7 vi
nayapi
taka vol.
I,pp. 5
4.-
含 経 で自 畳 さ れ て いた と見 てよ い。法 は 室 であ り な が ら、 な
8 SN.vol.II,p.
25.
お か つ ﹁た も つも の﹂ の性 格 を 持 つて いる のは、 法 の反面 が 9 SN.vol.II,p.
29
m ibi
d. 2p6..
行 であ り、 法 が 力 と し て の實 在 であ る こ と に 關 係 が あ る。 二
11 雑 阿 含 経、 巻 一、大 正 二、 二上 以 下。
切法 無 我 も こ の意 味 に理 解 し てよ い と考 え る。 12 AN.vol. Iv,pp.224 -243.M;N.vol.I, p.500.
法 は現 象 界 に 存 在 す るも の であ る が、 し か し 個 々の現 象 が 本 論 文 の内 容 は 前 年 度 高 野 山 大學 に て獲 表 し たも の であ るが、
第 十 五 巻 第 二號 が 五 二 〇頁 鯨 の大 冊 とな った た め掲 載 を 中 止 し
そ のま ま 法 であ る ので はな い。 法 は た も つも の であ り、 自 己
た。 本 年 度 第 二 號 は原 稿 の集 り が わ る いた め、 内 容 を 若 干 鑛 大
同 一の性 格 を も つも の であ る。 し か ら ば何 が 法 で あ る か と い し て掲 載 し た。
う 問 題 が お こ るが、 こ れ は阿 含 経 で法 と し て 立 て ら れ て い る (文部 省 科 學 研 究 費、 総 合 研 究 の 一部 )
も のを 取 り 上げ る 必要 があ る の で、これ は 別 の機 會 に ゆず る。
諸 法 無 我 の ﹁法 ﹂ (準 川) 四 一一

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