You are on page 1of 7

鎌 倉 時 代 に おけ る 唯 識 観 の 實 践

- 貞 慶 の唯 識 観 -
勝 又 俊 教
五 巻、 良算 の盛 唯 識 論 同 學 砂 六 十 八 巻等 があ る。

第 三 に唯 識 思 想 を 燈 系 づ け て組 織 的 に研 究 した も の に、 干
法 相宗 の傳 來 し て以 後、 江戸 時 代 の末 期 に 至 る ま で の わ が 安 初 期 に おけ る護 命 の大 乗 法 相 研 騨章 五巻、 鎌 倉 時 代 に おけ
國 に お け る諸 學 者 の唯 識 思 想 研究 の傾 向 を概 観 す る に、 第 一 る 貞慶 の心要 抄 一巻、 良 遍 の観 心 畳 夢 砂 三 巻、 眞 心 要 決 三
に唯 識 論 書 の註 繹 的 研 究、 あ る いは引 用 文 獄資 料 の研 究 に屡 巻、 二巻 抄 二巻、 江 戸 時 代 に お け る聞 讃 の略 述 法 相 義 三 巻、

-483-
す るも のが 多 く、 現 存 す るも のに つ いて いえ ば、 不 安 初 期 に 基 辮 の大 乗 一切 法 相 玄 論 二巻 等 が あ る。
おけ る 善 珠 の盛 唯 識 論 述 記 序 繹 一巻、 唯 識 義 灯 増明 記 四 巻、 第 四 に教 學 上 の論 孚 的 研 究 を な し た も の の中、 6 南 寺 傳、
法 苑 義 鏡 六巻、 卒 安 時 代 に お け る眞 興 の唯識 義 私 記 十 二雀、 北 寺傳 の敏 學 論 孚 の問 題 鮎 を 傳 え て いるも のに、 季 安 初 期、
室 町 時 代 に お け る 光 胤 の唯 識 論聞 書 十 巻、 江 戸 時 代 に お け る 漸 安 の法 相 灯 明 記 一巻 が あ り、 口 三 一灌 實 の論 孚 の問 題 を 傳
湛 慧 の盛 唯 識 論 述 記 集 盛 編 四 十 五 巻、 普 寂 の盛 唯識 論 略 疏 六 え て いるも のに、 卒 安 初 期 に は 徳 一封最 澄 の教 學 論 孚 が 最 澄
巻、 撮 大 乗 論 略 疏 六 巻、 戒 定 の盛唯 識 論 疏 十 巻、 基辮 の義 林 の著作 の中 に展 開 し、 そ の中 に 徳 一の圭張 の片 鱗 が う か が わ
章 師 子 吼 砂 二十 二 巻 等 が あ る。 れ る。 そ の他、 鷹 和 宗 論 の内 容 も 断 片 的 に傳 えら れ て い る。
第 二 に唯 識 論 書 の本 文 にお け る 問題 鮎 を 提 起 し て講 問 論 議 これ を要 す る に、 わが 國 に お いて は、 奈 良 孕 安 の法 相 宗 の
の形 式 で詳 細 に 研 究 す る 方 法 を と つたも のに、 卒 安 末 期 の盛 學 者 より 江 戸 時 代 の諸 宗 の學 者 に 至 る ま で、 唯 識 思 想 の研 究
唯 識 論 本 文 抄 四 十 五 巻 (藏俊作 か)貞 慶 の盛唯 識 論 尋 思 抄 十 は 法 相宗 の敏 學 とし て、 あ る いは 諸 宗 の敏 學 の基 礎 學 と し て
鎌 倉 時 代 に お け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 九
鎌倉 時 代 にお け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 一〇
と り あ げら れ た に留 り、 宗 教 的 實 践 の方 法 と し て の唯 識 観 を 二十 八巻、 最 勝 問 答抄 十 巻 があ り、 第 二 に法 相宗 の敏 學 の要
と り あげ て、 これを 自 ら 實 践 す る と共 に、 人 々に敏 え、 唯識 黙 を 簡 略 に述 べた も のに、 法 相宗 初 心略 要 二巻、 績 法 相 宗 初
観 の實践 の宗 教 的意 義 を 強 調 し たも のは 殆 ん ど 見 出 さ れ な 心略 要 (下巻 のみ現存)眞 理 抄 一巻、 注 三 十 頗 一巻 があ り、 第
い 三 に 因 明 に關 す る も のに、明 本 抄 十 三 巻、 明 要 抄 五 巻 があ り、
こう し たわ が國 に おけ る 唯 識 思 想 研 究 の 動 向 の 中 に あ つ 第 四 に戒 律 の復 興 に 努 め た も のに、 戒 律 再興 願文、 勧 學 記、
て、 學 的 研 究 を推 進 す る と 共 に、 ま た 唯識 観 の實 践 の方 面 に 起 請 文、 南 都 叡 山 戒 勝 劣事 が あ り、 第 五 に 信 仰 お よ び観 行 等
も カ を 注 ぎ、 唯 識 観 の實 践 的 意 義 を 明 ら か に し たも のは、 鎌 を 述 べ たも のに、 愚 迷獲 心集、 心要 砂、 勧 誘 同法 記、 唯 心念
倉 時 代 の貞 慶 と良 遍 であ る。 こ こ では 特 に貞 慶 の唯 識 観 に つ 佛、 修 行 要 抄、 観 心 爲 清浄 圓 明 事、 閑 寂 陳、 命 終 心事、 臨終
い て槍 討 し てみ よう 之 要 意、 春 日大 明 紳 獲願 文、 佛 舎 利 観 音 大 士 獲 願 文、 そ の
他、 観 音講 式、 彌 勒 講 式 を 初 め 願 文、 敬 白 文、 勧 進 状 に關 す

るも の敷 篇 があ る。
以 下本 論 攻 では 第 五 類 に鵬 す る 小篇 の中 か ら、 貞 慶 の唯 識

-484-
貞 慶 の思 想教 學 に つ い て著 し い特 徴 を 考 え てみ る と、 時 代
精 神 の反 映 が強 く現 わ れ て いる こと に 氣 つ く、 す な わち 彼 は 観、 あ る いは観 心 の實 蹉 に關 す る も の を 選 び、 彼 の唯 識 観 の
法 相 宗 の學 匠 であ る が、 た だ軍 に 學 解 の人 であ つた ば かり で 實 践 が いか に強 調 さ れ て いる か を 検 討 し て み よ う。
は な く、 眞 摯 な求 道 實 践 の人 で あ つた そ の思 想教 學 に は深

刻 な 人 生観 人 間観 の問 題 が背 景 を な し てお り、 解 脱 への宗 敏
的 要 求 が強 く 示 さ れ て いる。 そ し て こ の黙 が 鎌 倉 新佛 敏 運動 貞 慶 の唯 識 観 (観心) の實 践 に つ い ては 大 別 し て 二 つ の 方
とも 共 通 す る 一面 であ る。 彼 の思 想 ・信 仰 を 知 る た め に は、 面 が 考 え ら れ る。 そ の第 一は イ ンドに おけ る喩 伽 行 派 (唯識
彼 の著 作 に ついて研 究 す る こと が最 も 適 切 な 方 法 であ る 彼 派)、し た が つ てま た 中國 日本 に お け る 法 相 宗 の傳 統 的 教 學
の著 作 は かな り多 敷 に の ぼ る が、 そ れ ら を大 別 す れ ば、 次 の の立 場 にお いて、 唯 識 観 を 實 践 し よう とす るも の であ り、 こ
五類 とな す ことが でき る。 第 一、法 相宗 の敏 學 の傳 統 維 持、 れ は 唯 識 無 境 よ り境 無 の故 に 識 無 へと 悟 入 す る 方 法 を實 践 す
組 織 化 に 努 め たも の に、 盛 唯 識 論 尋 思 抄 十 五巻、 法 華 開 示 抄 る こ と であ る。 そ の第 二 は法 相 宗 の傳 統 を 重 ん じ つ つ、多 分
に 如來 藏、 佛 性、 本 毘 思 想 を とり 入 れ、 心性 とし て の唯 識 實 れ は唯 識 観 の實践 の オ ー ソ ド ッ ク スな 方 法 を さ す のであ る。
性、 あ る いは 圓 盛實 性 を 観 ず る の であ つて、 いわば 観 心 と し し か し第 二に も し、 そ の オ ー ソ ド ック な 方 法 を實 践 す る こと
て の唯 識 観 の實 践 を な す の であ る が でき な い人 でも、 こ の頽 を 口 に諦 じ、 心 に そ の 理 を 思 え
1)
ま ず 第 一類 に囑 す るも のを 見 る に、 ﹁修 行 要 紗 ﹂ に は、 出 ば、 ﹁滅 罪 生善 出 離 得 脱 途 に 室 し か ら ず ﹂ と い う の は、 い か
離 の最 重要 な こ とは 何 か と いう に、 法 相 宗 の立 場 では唯 識 観 にも 三密 加 持 説 を 髪 髭 せし め る も のが あ り、 こ の頗 の眞 言 的
を 實 践 す る こ と だ と いう し か し 心 が静 ま ら ず、 智 が 及 ぱ な 受 容 の仕 方 を 示 す ご と く であ る。 殊 に第 三 に た だ観 二影 唯 是
い時 に は ど う し て こ の観 を 修 し た ら よ いか と いう に、 常 に 心 心 一 の 一句 を と つて 念佛 のご とく に 構 え よ と いう に 至 つ て
を 一境 に注 ぎ、 一道 理 を思 え ば、 心 が漸 次 静 ま つ てく る、 そ は、 こ の頒 の念 佛 的受 容 の仕 方 を 示 す も のと いえ よ う。 これ
の時 に、 慈 奪 教授 の偶 (分別喩伽論)た る、 は傳 統 的 な 喩 伽 行 三昧 と し て の唯 識 観 で は 全く 考 え ら れ な か
﹁菩 薩 於 二定 位 一
観 二影 唯 是 心 嚇 義 想 既 滅 除 審 観 二唯 自 想 一 つた こ と であ るが、 卒 安佛 教 のあ とを うけ、 ま た鎌 倉 新 佛 教
如レ是 住 二内 心 } 知 二所 取 非 ジ 有 次 能 取 亦無 後 燭 二無所 の動 向 を背 景 とし て の貞 慶 の實 践 的 立場 と し て は、 從 來 の唯
得 暢。 識 観 を眞 言 密 教 的 な、 あ る い は浮 土 門 的 な實 践 の方 法 に ま で

-485-
を 我 が 心 に か け よ。 も し自 ら の慧 解 拙 なり と錐 も、 口に 聖 言 獲 展 さ せ ざ るを 得 な か つたも のと考 え ら れ る。
を 諦 じ、 心 に そ の理 を 思 え ば、 滅 罪 生 善、 出 離 得 脱 途 に 必ず し か し貞 慶 は、 心 外 の法 が存 在 す る ので は な いかと いう 問
室 し か らず ﹂ と いう し か し こ の二頗 八 句 が 長 す ぎ る と 思 に封 し て は、 次 のよ う に答 え て いる。 わ れ わ れ愚 かな る も の
う人 は、 初 め の観 二影 唯 是 心 一の 一句 を 念 佛 者 が 念 佛 を 稻 え る は、 常 に 法 の存 在 (境有)を執 し て いる が、 そ の法 の存 在 の
よう に こ れを 重 ね て諦 し、 練 習 す れ ば、 自 ら そ の意味 を知 る 源 を知 らな い。 一心 が諸 法 を 起 し、 諸 法 は みな 一心 に 随 う
こと が でき る と いう。 こ の慈 尊 教 授 の偶 は のち の唯 識 三十 頗 諸 法 は自 心 の所 攣 の影 像 に外 な ら な い。 た だ人 々は 迷 心 に よ
の第 二 十 七 八 頽 に 相 當 す る も の であ り、 そ れ は明 得 定 ・明 増 る か ら、 心外 の實 法 があ ると 執 す る。 そ こ で、 實 我 實 法 と い
定、 印 順 定 ・無 間 定 に 入 り、 順 次 に、 下 上 の四尋 思、 四 如實 う匙 から 遍 計 所執 の室を さ と り、 観 二影 唯 是 心 一
と いう 鮎 か ら
智 を お こす こと に よ つ て、 一切 法 の名 ・義 ・自 性 ・差 別 の無 依 他 起 の假 有 を さ とり、 観 二唯 識 道 理 一
と いう 黙 か ら 圓 盛實 性
を さ と り、進 ん で識 の無 に悟 入 す る の であ る。 し た が つ て、こ を さ とり、 か く し て 三性 に 悟 入 す る こと が でき る と いう。
鎌 倉 時 代 にお け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 一一
鎌 倉 時 代 に お け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 二 一
以 上は 修行 要 砂 に 読 か れ て いる 唯 識観 の實践 の要 領 と そ の意 つあ つた の で、 念佛 に つ いて の貞 慶 の見解 を述 べた も のであ
義 であ る が、 いか に も 簡 潔 に し てし か も そ の要 を つく し たも る が、 し か し彼 の念佛 の具 艦 的 な も のは彌 勒 佛 を 念 ず る こと
のと いう べき で あ る。 であ つた わ け で あ り、 ま た念 佛 三 昧 は唯 識 観 と無 關 係 な も の
次 に ﹁心要 鋤 ﹂ を 見 る に、 こ の書 は さ と り への道 を 八項 目 で は なく、 む し ろ 同 一な るも の と見 る べき で あ る と し、 ﹁念
に分 け て説 い て いる の で、 聖 敏 八 要 と も いわ れ る が、 佛 教 の 佛 三昧 是 唯 識 観 也 ﹂ と も い つて いる。 唯 識 観 の前 提 と し て、
實 践 膿 系を 示 し た も ので あ る。 そ の八項 目 は、 一、毘 母 のカ 彌 勒 念佛 の信 仰 を な す こ と は、 イ ン ド喩 伽行 派 以來 の傳統 を
に よ つて菩 提 心 を お こし、 二、 護 菩提 心 に よ つて念 佛 を 盛 就 継 承 す る も の であ ろ う が、 こ の念 彌勒 佛 か ら唯 識 観 へ の實 践
し、 三、 念 佛 力 に よ つて唯 識 観 を 盛 じ、 四、 唯 識 観 に よ つ て 的關 聯 性 を明 確 に す る と こ ろに、 や は り、 貞 慶 の唯 識 観 の鎌
一心 を制 伏 し、 五、一心を 制 伏 す る こ とに よ つ て三 學 を 盛 じ、 倉 佛 教 的性 格 を 看 取 す る こ と が でき る
六、 三學 を 盛 就 す る こ と に よ つて 二利 を具 足 し、 七、 二利 を と こ ろ で貞 慶 は唯 識 観 (観心)と は、 別 境 の慧 を も つ て 自
具 足 し て菩 提 を 讃 し、 八、 菩提 を 讃得 し て 聖教 を演 説 す る と 心を 観 照 す る こ と だ と いう が、 唯識 観 の實 践 の 方 法 と し て
いう のであ る。 こ こで問 題 と な る のは、 (葺)念佛 門 と、 四 観 心 は、 修 行 要 砂 の よ う な簡 潔 な 方 法 を 示す こ とな く、 彌勒 教

-486-
門 (唯 識観 ) と で'
ある 捺 権 に よ る略・
調 萄、 ヒ 鏑 潔 牲 経 舞傍 跣
﹁ 唯・
調鶴 薮耕
貞 慶 に よ れ ば、 菩 提 心 を お こ し て念 佛 をす る と いう が、 そ 章 に説 く 五重 唯 識 観 を あ げ、 四 さ ら に 心を 圓 鏡 に響 え、 鏡髄
の念 佛 と は特 に、 念 二彌 勒佛 一
命 終 得 レ生 二兜 率 内 院 一是 正 我願。 か ら光 影 が起 る よ う に、 心 (本) から 影 像 (末)が 起 る と い
と いい、彼 は彌 勒 佛 を 念 じ た熱 烈 な彌 勒 信 仰 の鼓 吹 者 であ つ う考 え方 を 基 本 と し て、 二 十 三 種 (本末相依門 ・髄用縛攣門、
た こ とが わ か る。 彼 はま た念 佛 の内 容 を 説 明 し て、 念 と は別 一不異 門、⋮⋮最 後は最極圓明門) の観 心 の 仕 方 を 読 い て い
境 の中 の念 の 心所 であ る と い い、 念 佛 に は、 一、名 號 を 念 ず る。 こ の 二十 三種 の観 心 の仕 方 は何 に よ つたも のか 明 ら か で
る こと、 二、佛 身 を 念 ず る こと、 三、功 徳 を 念 ず る こ と、 四、 は な いが、 いず れ に し ても、 心 を 圓 鏡 に響 え る考 え 方 は、 一
本 願 を 念ず る こと、 五、 法 身 を 念 ず る こ と の五 種 が あ る と し 面 で は傳 統 的 な唯 識 無 境 観 に した が つて いるけ れ ど も、 他 方
て いる そし て 諸 行 が あ る 中 で、 特 に 念佛 行 を 選 ぶ のは 念 佛 ま た 心性 観 と し て の観 心 の考 え 方 を も と り 入 れ て いる の であ
は 易 行 だ から と も いう。 これ は當 時、 浄 土 念 佛門 が獲 展 し つ つて、 こ こ に貞 慶 の唯 識 観 の第 一類 か ら第 二類 への移 行 の過
程 を看 取 す る こ と が で き る。 読 いで いる。
こ れ る要 す る に勧 誘 同 法 記 では 観 心 盛佛 を 読 き、 そ れ は 直

指 二眞 性 一の心性 観 に徹 す る こ と にあ る と す る 限 り、 眞 心 観、
次 に第 二 類 に属 す るも め を 見 る に、 ﹁勧 誘 同 法 記 ﹂ は、一老 佛 性 観 であ り、 唯 識 實 性 観 であ り、 佛 性 ・如來 藏 思 想 を 導 入
僧 のた め に唯 識 観 行 の大 要 を 説 いた も の と せ ら れ る が、 そ の し た も のと いう べき であ り、 傳 統 的 な 唯 識 無 境 観 と は 異 な る
大綱 は、 一、勧 修 門、 二、 義 相門、 三、修 習 門、 四、悟 解 門、 も のであ る が、 し か し、 窺 基 の創 読 に か か る五 重 唯 識 観 の遣
五、 利 他 門、 六、 略 要 門 か ら 盛 つて いる。 ま ず 勧 修 門 で は、 相 蹄 性唯 識 観 に基 く も のな のであ る。
一心を 観 ず る こ とを 勧 め て いる が、 そ の 一心 と は有 相 の事 心 次 に ﹁唯 心 念佛 ﹂ は、華 嚴 経 の ﹁三 界 唯 一心、心 外 無 別 法、
で はな く、 無 相 の理 心 であ る と いう。 そ し て誰 で も こ の 一心 心 佛 及 衆 生、 是 三 無差 別。﹂ の文 を 基 調 と し て、 凡 聖 不 二 の
を観 ず る こ と によ つ て盛 佛 し う る と なし、 観 心盛 佛 の思 想 を 理 を 禮 得 す べき こ とを 説 いた も ので、 法 相 唯 識 の傳 統 説 と は
明 確 に し て い る。 第 二 の義 相門 で は さら に ﹁萬 法 唯 心、離 レ心 異 な る も の であ る。 貞 慶 に よ れ ば、 佛 と衆 生 と は艦 用門 (佛
無 法、 因 果 迷 悟 皆 蹄 二一髄 一。
心髄 甚 深 有 二無 量 義 闇、
一切 法 皆 心 心と衆生)か ら も、 因 果 門 (衆生 心と佛心) から も、 二 諦 門 (佛

-487-
爲 レ本。﹂ と い い、 そ し て 五 重唯 識 観 によ つ て、 最 後 の遣 相 誰 心と衆生) から も 不 印 不 離 であ り、 不 二 で あ る。 し た が つ て
性 の唯 識 観 に到 達 し、 そ の心性、 す な わち 一心を 観 ず る こ と ﹁念 レ佛 観 レ佛 錐 レ似 レ仰 二能 化 佛 諸 佛 同禮 佛、 繹 迦 三奪 即 不 レ
を 説 い て いる。 第 三 の修 習 門 で は観 心を 修 習 し て、 直 指 二 眞 離 二我 佛 性 一と いう。 し か し ま た彼 は こ のよ う な 華 嚴 経 に お け
性︼
観 二自 心 桶 と いう 境 地 に 到 ら ね ば なら な いと いう。 これ は る 凡 聖不 二 の思 想 は唯 識 観 とも 矛 盾 し な いも のだ と し て、 唯
直 指 人 心見 性 盛 佛 と いう 琿宗 の考 え方 と き わ め て類 似 し た考 識 の膿 は諸 佛 菩 薩 の眞 實 心 であ る と い い、 ま た ﹁大 定大 智 一
え方 を 示 し て いる わけ であ り、 心性 観 に徹 底 す る こ とを 強 調 念 相 慮、大 願 大 悲 萬 法融 通、無 邊 功 徳 海 名 二之 唯 識 一。﹂ と い い、
し たも の であ る し か し第 六 の略 要 門 に 至 つ て、 も し 唯 識 の 識 實 性 眞 如 是 法 身 とも い つ て いる。 ここで は念 佛 の具 髄 的 内
理 論 が わ から ず、 観 心 の實 践 も な し 得 な い人 が あ る な ら ば、 容 を 示 し て いな いが、し か し、 ﹁念佛 の功 能 は世 を あ げ て依 る
金 剛 般 若 経 の過 去 心不 可 得、 現 在 心 不 可得、 未 來 心不 可 得 の とこ ろな り ﹂と い つ て い る から、卒 安 から 鎌 倉 初 期 の念 佛 門 の
偶 を 諦 じ て、常 に そ の意 味 を 思 う こと が 修 行 の要 門 で あ る と 風 潮 を 意 識 し な が ら、し か も や は り、心要 砂 に お け る、﹁念 佛 三
鎌 倉 時 代 に お け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 一三
鎌 倉 時 代 にお け る唯 識 観 の実 践 (勝 又) 一四
昧 是 唯 識観 也 の思 想 を背 景 と し て いる も のと 考 え ら れ る。 し て は 重 要 な 意味 をも つて いる こ とを 認 め う る と し、 こ の月
3)
次 に ﹁観 心爲 清 浄 圓 明事 ﹂ は、 ま ず 凡 夫 の妄 心 に は性 浄 圓 輪 観 の根 接 と し て、 心地 観 経 と菩 提 心 論 の 文 を 引 用 し て い
明 の功 徳 は な い だろ う と いう問 に答 え て、第 一に 理 性 清浄 は る。 こ のよ う に 貞慶 は観 心 の方 法 とし て密 教 の月 輪 観 の意 義
凡 夫 と 聖 者 と の爾 者 に 共 通 なも の であ る。 し た が つ て凡 夫 の を 認 めな がら、 佛 果 の純 浄 の本 識 と し て の自 心 の本 性 は、 本
妄 心 に は客 塵 煩 悩 は あ る け れ ども、 そ の心 性 は 本 來 自 性 清浮 來 清 浮 圓 満 明 朗 であ る こと は、 あ た かも 秋 の月 の ごと く であ
浬 葉 であ る と﹁
考 え る べき であ る とし、 勝 髭 経 に そ の典 檬 を求 る。 し た が つ て、密 教 の旨 を 未 だ 學 習 せ ず、ま た冥 目 結 印 せず
め て いる。 第 二 に、 凡夫 にも 法 爾 無 漏 種 子 が あ り、 そ れ は 惑 と も、 こ の妙 理 を 思 惟 す れ ば、 亘 釜 室 し か らず と い い、 ま た
障 が あ つても 染 せら れ な い。 そ れ はま た 本 性 佳 性 であ る と い 顯 敏 の観 心 に は月 輪 観 の文 は な く と も、 そ れ は本 來 同 じ 意 味
い、 喩 伽 師 地 論 に そ の典 猿 を求 め て いる 第 三 に、 凡 夫 も 悉 を も つ のであ り、 月 輪 観 と 矛 盾 す るも ので は な いと いう。 か
く 佛 性 を 具 し て いる と いい、 こ こ では 浬 葉 経 の 一切 衆 生 悉 有 く し て 貞慶 は、 密 敏 の月 輪 観 の意 義 を認 め つ つ、 し かも 自 心
佛 性 の思 想 を 根 擦 と し て い る。 第 四 に 満 月 と いう も のは、 第 を 観 じ て清 澤 圓 明 と 観 ず る 法 相宗 の唯 識 實 性 観 こ そ唯 識 観 の
八 識 の相 分 で、 諸 の有 情 の共 業 所 感 であ る が、 撮 レ相 蹄 レ心 す 基 調 であ る と なす の であ る。

-488-
れ ば、 心 中 に 在 る わけ で、 これ を わ が 心 清 浄 な る こと 満 月 の

ご と し と い つても よ い。 こ の清 浄 な る 心 は 本 有 清 浄 の菩 提 心
で あ る と いう これ を 要 す る に、 心 を 観 じ て、 そ れ は 心性 本 以 上、 貞慶 の唯 識 観 を 検 討 し た のであ る が、 彼 は 一面 で は
浄、 無 漏 種 子、 佛 性、 菩 提 心 と見 る の であ り、 渤 誘 同 法 記 の 傳 統 的 な 唯 識 無 境観 の實 践 を 奪 重 し つ つ、 唯 識 観 の實 践 の簡
直 指 眞 性、 観 心成 佛 と同 じ 思 想 形 態 に 厩 す る も の であ る 易 化 に 努 め て いる。 他 方 ま た唯 識 實 性 とし て の心 性 を 観 ず る
な お 貞慶 は観 心 の方法 の 一つと し て、 特 に 密 教 の 月 輪 観 こ とを 特 に 観 心 と名 ず け、こ の観 心 の實 践 の方 法 を 重 要 親 し、
(菩提 心観)を と りあ げ て いる。 そ れ は何 故 か と い え ば、 凡 こ の方 面 で は 五 重唯 識 観 の第 五 の遣 相 編 性 唯 識 に 根 撮 を も つ
夫 の 心 の働 き では、 無 相 の理 に 頓 入 す る こと が でき な い。 し と共 に、 多 分 に如 來 藏、佛 性、菩 提 心 の思 想 を 撮 取 し て いる。
か し 満 月 は 有相 では あ る が、 無 相 に 近 い から、 こ の有 相 の月 こ の第 二 の類 型 の観 心成 佛 思 想 は、 天 台 の観 心、 密 敏 の阿字
輪 観 を も つて、 無 相 に 入 る 方 便 と す る こと は、 観 心 の方 法 と 観、 月 輪 観、 輝 の見 性 成 佛 とも 相 通 ず る も ので あ り、 貞 慶 は
恐 らく、 そ れ ら の思 想 を 知 り、 ま た そ れら の思 想 に 刺激 さ れ
つ つ、自 宗 の實践 髄 系 を 明 確 に し た のであ ろ う。
なお彼 は彌 勒 信 仰 と いう 法 相 宗 の傳 統 的 な 信 仰 型 態 を 示 し
な がら、 念佛 門 の影 響 を う け て、 念彌 勒 佛 と いう 念 佛 の形 態
を 打 ち 出 し た の であ る。 か く し て観 心 と念 佛 とを も つ て自宗
の實 践的 立場 を 明 確 に し た と ころ に、 や は り、 法 相 宗 の學 か
ら 信 行 への實 践 的 展 開 が あ り、 そ こに鎌 倉 新 佛 敏 に 封 す る蕾
佛 教 の復 興 の姿 が 認 め ら れ る と 共 に、 ま た鎌 倉 佛 教 と し て の
共 通 な 實践 的 性 格 を 認 め る こと が でき る。
1修行要妙、 2心要砂、 3勧誘同法記、 4唯心念佛、5観心爲清
浮圓明事、 は日本大藏経、法相宗章 疏、第 二に牧 む。
(文部省科學研究費 によ る綜合研究 の成果 の 一部 )

-489-
鎌 倉 時 代 に お け る唯 識観 の実 践 (勝 又) 一五

You might also like