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いち
一
ひと つね よ か ほんみょう う あ
私はその人 を常 に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで 本 名 は打ち明け
せけん はば えんりょ ほう しぜん
ない。これは世間を憚 かる遠 慮 というよりも、その方 が私にとって自然だからである。私はそ
きおく よ おこ ふで と こころもち おな こと
の人の記憶を呼び起 すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆 を執っても 心 持 は同 じ事 で
かしら も じ つか き
ある。よそよそしい 頭 文字などはとても使 う気にならない。
に
二
すぐ しろ ひ ふ いろ いな ちゅうい ひ じゅんすい
その西洋人の優 れて白 い皮膚の色 が、掛茶屋へ入るや否 や、すぐ私の注 意 を惹いた。 純 粋
にほん ゆかた き かれ しょうぎ うえ ほう だ うでぐ
の日本の浴衣を着ていた彼 は、それを床 几 の上 にすぽりと放 り出したまま、腕組みをして海
ほう む た われわれ は さるまたひと ほかなにもの はだ つ
の方 を向いて立っていた。彼は我 々 の穿く猿 股 一 つの外 何 物 も肌 に着けていなかった。私に
だいいち ふ し ぎ ふ つ か まえ ゆ い はま い すな
はそれが第 一 不思議だった。私はその二日 前 に由井が浜 まで行って、砂 の上にしゃがみなが
なが あいだ ようす なが しり ところ すこ こだか おか
ら、長 い 間 西洋人の海へ入る様子を眺 めていた。私の尻 をおろした 所 は少 し小高い丘 の上
わき うらぐち じっ だ い ぶ おお おとこ
で、そのすぐ傍 がホテルの裏 口 になっていたので、私の凝 としている間に、大分 多 くの 男 が
で い あと もと しょうぎ こし タバコ ふ とき
彼らの出て行った後 、私はやはり元 の床 几 に腰 をおろして烟草を吹かしていた。その時 私は
せんせい こと かんが み こと かお おも
ぽかんとしながら先 生 の事 を 考 えた。どうもどこかで見た事 のある顔 のように思 われてなら
あ ひと おも だ
なかった。しかしどうしてもいつどこで会った人 か想 い出せずにしまった。
あ とき れい とお うみ あ き ばしょ ぬ す ゆかた き
或る時 先生が例 の通 りさっさと海 から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着よう
わけ すな つ おと うし
とすると、どうした訳 か、その浴衣に砂 がいっぱい着いていた。先生はそれを落 すために、後
む に さ ん ど ふる きもの した お めがね いた すきま
ろ向きになって、浴衣を二、三度 振 った。すると着物の下 に置いてあった眼鏡が板 の隙間から
しろがすり へこおび し な き つ
下へ落ちた。先生は 白 絣 の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見
きゅう さが はじ こしかけ くび て つ こ ひろ だ
えて、 急 にそこいらを探 し始 めた。私はすぐ腰 掛 の下へ首 と手を突ッ込んで眼鏡を拾 い出し
ありがと う と
た。先生は有 難 うといって、それを私の手から受け取った。
あと と こ ほうがく およ い
次の日私は先生の後 につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方 角 に泳 いで行っ
にちょう おき で うし ふ かえ はな か ひろ あお ひょうめん
た。二 丁 ほど沖 へ出ると、先生は後 ろを振り返 って私に話 し掛けた。広 い蒼 い海の 表 面 に
う きんじょ わたし ふたり ほか つよ たいよう ひかり め
浮いているものは、その近 所 に 私 ら二人より外 になかった。そうして強 い太 陽 の 光 が、眼
とど かぎ みず やま て じゆう かんき み きんにく うご なか おど
の届 く限 り水 と山 とを照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋 肉 を動 かして海の中 で躍 り
くる てあし うんどう や あおむ なみ ね
狂 った。先生はまたぱたりと手足の運 動 を已めて仰向けになったまま浪 の上に寝た。私もその
ま ね あおぞら いろ め い つうれつ な つ ゆかい
真似をした。青 空 の色 がぎらぎらと眼を射るように痛 烈 な色を私の顔に投げ付けた。「愉快
おお こえ
ですね」と私は大 きな声 を出した。
こんい し
私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。
よん
四
こと しつぼう き
私はこういう事 でよく先生から失 望 させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、
まった けいび く かえ
また 全 く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返 しながら、それがため
はな ゆ き はんたい ふあん うご
に先生から離 れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反 対 で、不安に揺 かされるたび
まえ すす め まえ
に、もっと前 へ進 みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前
まんぞく あら く おも わか にんげん たい
に満 足 に現 われて来るだろうと思 った。私は若 かった。けれどもすべての人 間 に対 して、若
むろん たず じゅぎょう
私は無論先生を訪 ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから 授 業 の始まるまでにはまだ
にしゅうかん ひかず いちど い ふつかみっか た
二 週 間 の日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経
かまくら きぶん だんだんうす き うえ いろど だいとかい
つうちに、鎌 倉 にいた時の気分が段 々 薄 くなって来た。そうしてその上 に 彩 られる大都会の
くうき きおく ふっかつ ともな つよ しげき とも こ こころ そ つ おうらい がくせい
空気が、記憶の復 活 に 伴 う強 い刺戟と共 に、濃く私の 心 を染め付けた。私は往 来 で学 生
かお あたら がくねん きぼう きんちょう かん わす
の顔 を見るたびに 新 しい学 年 に対する希望と 緊 張 とを感 じた。私はしばらく先生の事を忘
れた。
うち たず とき る す に ど め い つぎ にちよう おぼ
始めて先生の宅 を訪 ねた時 、先生は留守であった。二度目に行ったのは次 の日 曜 だと覚 えて
は そら み し こ かん い ひより ひ
いる。晴れた空 が身に沁み込むように感 ぜられる好い日和であった。その日も先生は留守であ
かまくら せんせい じ し ん くち たいてい こと き
った。鎌 倉 にいた時、私は先 生 自身の口 から、いつでも大 抵 宅にいるという事 を聞いた。む
がいしゅつぎら に ど き ことば おも だ
しろ 外 出 嫌 いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思 い出
わ け ふまん げんかんさき さ げじょ すこ
して、理由もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄 関 先 を去らなかった。下女の顔を見て少
ちゅうちょ た まえ め い し と つ きおく ま
し 躊 躇 してそこに立っていた。この前 名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしてお
うち おく ひと かわ で き うつく
いてまた内 へはいった。すると奥 さんらしい人 が代 って出て来た。 美 しい奥さんであった。
ご
五
「どうして……、どうして……」
あと つ き
「私の後 を跟けて来たのですか。どうして……」
たいど お つ しず ひょうじょう
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈 んでいた。けれどもその 表 情 の中には
はっきり いっしゅ くも
判 然 いえないような一 種 の曇 りがあった。
はな
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話 した。
だれ はか まい い さい な
「誰 の墓 へ参 りに行ったか、妻 がその人の名をいいましたか」
こと なに
「いいえ、そんな事 は何 もおっしゃいません」
はじ あ ひつよう
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始 めて会ったあなたに。いう必 要
がないんだから」
とくしん ようす い み わか
先生はようやく得 心 したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解 らなかった。
ぼ ち く ぎ め おお いちょう いっぽんそら かく た した き とき
墓地の区切り目に、大 きな銀 杏 が一 本 空 を隠 すように立っていた。その下 へ来た時 、先生は
たか こずえ み あ すこ きれい き こうよう
高 い 梢 を見上げて、「もう少 しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄 葉 して、ここいら
じめん きんいろ おちば うず つき いちど かなら
の地面は金 色 の落葉で埋 まるようになります」といった。先生は月 に一度ずつは 必 ずこの木
とお
の下を通 るのであった。
ゆ あ て ある い
これからどこへ行くという目的のない私は、ただ先生の歩 く方へ歩いて行った。先生はいつも
くちかず き きゅうくつ かん
より口 数 を利かなかった。それでも私はさほどの 窮 屈 を感 じなかったので、ぶらぶらいっし
ょに歩いて行った。
たく かえ
「すぐお宅 へお帰 りですか」
べつ よ ところ
「ええ別 に寄る 所 もありませんから」
ふたり だま みなみ さか お
二人はまた黙 って 南 の方へ坂 を下りた。
くち き だ
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口 を利き出した。
「いいえ」
しんるい
「どなたのお墓があるんですか。――ご親 類 のお墓ですか」
「いいえ」
ともだち
「あすこには私の友 達 の墓があるんです」
まいげつ まい
「お友達のお墓へ毎 月 お参 りをなさるんですか」
「そうです」
ひ かた
先生はその日これ以外を語 らなかった。
ろく
六
いま とお しじゅう お つ とき へん くも
今 いった通 り先生は始 終 静かであった。落ち付いていた。けれども時 として変 な曇 りがその
かお よこぎ まど くろ ちょうえい さ き
顔 を横切る事があった。窓 に黒 い 鳥 影 が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消え
みけん みと ぞうしがや ぼ ち ふ い よ
たが。私が始めてその曇りを先生の眉間に認 めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び
か いよう しゅんかん こころよ なが しんぞう ちょうりゅう
掛けた時であった。私はその異様の 瞬 間 に、今まで 快 く流 れていた心 臓 の 潮 流 をちょ
にぶ たん いちじ けったい す こころ ごふん た
っと鈍 らせた。しかしそれは単 に一時の結 滞 に過ぎなかった。私の 心 は五分と経たないうち
ぞうしがや ち
「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」
からぼうず
「まだ空坊主にはならないでしょう」
こた かお みまも め はな
先生はそう答 えながら私の顔 を見守った。そうしてそこからしばし眼を離 さなかった。私はす
ぐいった。
こんど はかまい とき とも よ
「今度お墓 参 りにいらっしゃる時 にお伴 をしても宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこ
さんぽ
いらが散歩してみたい」
「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」
い
「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか」
なん ほんとう
先生は何 とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本 当 の墓参りだけなんだから」とい
き はな ふう み こうじつ
って、どこまでも墓参と散歩を切り離 そうとする風 に見えた。私と行きたくない口 実 だか何だ
こども へん おも さき で き
か、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変 に思 われた。私はなおと先 へ出る気にな
った。
つ い くだ
「じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れて行って下 さい。私もお墓参りをしますから」
じっさい くべつ む い み まゆ
実 際 私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉
くも いよう ひかり で めいわく けんお い ふ かたづ
がちょっと曇 った。眼のうちにも異様の 光 が出た。それは迷 惑 とも嫌悪とも畏怖とも片付け
かす ふあん たちま よ か
られない微 かな不安らしいものであった。私は 忽 ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の
きおく つよ おも おこ ふた ひょうじょう まった おな
記憶を強 く思 い起 した。二 つの 表 情 は 全 く同 じだったのである。
なな
七
く
「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」
とくべつ い み じゃま
「何でといって、そんな特 別 な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」
「邪魔だとはいいません」
「そりゃまたなぜです」
もんどう ふ と く ようりょう そこ お かえ
この問 答 は私にとってすこぶる不得 要 領 のものであったが、私はその時底 まで押さずに帰 っ
よっか た ほうもん ざしき で
てしまった。しかもそれから四日と経たないうちにまた先生を訪 問 した。先生は座敷へ出るや
いな わら だ
否 や笑 い出した。
「また来ましたね」といった。
じぶん
「ええ来ました」といって自分も笑った。
ほか ひと しゃく さわ おも
私は外 の人 からこういわれたらきっと 癪 に触 ったろうと思 う。しかし先生にこういわれた時
はんたい ゆかい
は、まるで反 対 であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。
ばん あいだ ことば く かえ
「私は淋しい人間です」と先生はその晩 またこの 間 の言葉を繰り返 した。「私は淋しい人間
とし と
ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年 を取っている
うご わか い うご
から、動 かずにいられるが、若 いあなたはそうは行かないのでしょう。動 けるだけ動きたいの
なに ぶ
でしょう。動いて何 かに打つかりたいのでしょう……」
さむ
「私はちっとも淋 しくはありません」
うち
「若いうちほど淋しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅 へ来るの
ですか」
くち
ここでもこの間の言葉がまた先生の口 から繰り返された。
あ さび き
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋 しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたの
ねもと ひ ぬ あ ちから ほう
ためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの 力 がないんだから。あなたは外の方 を
む いま て ひろ あし む
向いて今 に手を広 げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足 が向かなくなります」
わら かた
先生はこういって淋しい笑 い方 をした。
めず こと めった
「珍 らしい事 。私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね」
きら たま の い こころもち
「お前は嫌 いだからさ。しかし稀 には飲むといいよ。好い 心 持 になるよ」
くる たいへん すこ しゅ め あ
「ちっともならないわ。苦 しいぎりで。でもあなたは大 変 ご愉快そうね、少 しご酒 を召し上
がると」
こんや
「今夜はいかがです」
「今夜は好い心持だね」
まいばん よ
「これから毎 晩 少しずつ召し上がると宜ござんすよ」
「そうはいかない」
くだ ほう さむ
「召し上がって下 さいよ。その方 が淋 しくなくって好いから」
こども ほう む
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方 を向いていった。私は「そうですな」と
こた こころ なん どうじょう おこ も こと
答 えた。しかし私の 心 には何 の 同 情 も起 らなかった。子供を持った事 のないその時の私
うるさ かんが
は、子供をただ蒼蠅いもののように 考 えていた。
ひ と り もら
「一人 貰 ってやろうか」と先生がいった。
もらい こ
「 貰 ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。
た
「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。
だま かわ き てんばつ
奥さんは黙 っていた。「なぜです」と私が代 りに聞いた時先生は「天 罰 だからさ」といって高
く笑った。
きゅう
九
とうじ め うつ あいだがら ひと
当時の私の眼に映 った先生と奥さんの 間 柄 はまずこんなものであった。そのうちにたった一
れいがい ひ とお げんかん あんない たの
つの例 外 があった。ある日私がいつもの通 り、先生の玄 関 から案 内 を頼 もうとすると、座敷
はな ごえ じんじょう だんわ いさか
の方でだれかの話 し声 がした。よく聞くと、それが 尋 常 の談話でなくって、どうも言逆いら
うち つぎ こうし まえ た みみ
しかった。先生の宅 は玄関の次 がすぐ座敷になっているので、格子の前 に立っていた私の耳 に
ちょうし わか ひとり たか
その言逆いの調 子 だけはほぼ分 った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高 ま
く おとこ こえ あいて ひく おん だれ はっきり
って来る 男 の方の声 で解った。相手は先生よりも低 い音 なので、誰 だか判 然 しなかったが、
かん な おも
どうも奥さんらしく感 ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思 っ
げんかんさき まよ けっしん げしゅく かえ
て玄 関 先 で迷 ったが、すぐ決 心 をしてそのまま下 宿 へ帰 った。
きょう だ め くしょう
「今日は駄目です」といって先生は苦 笑 した。
ゆかい き どく き
「愉快になれませんか」と私は気の毒 そうに聞いた。
きみ こんや じつ すこ へん
「君 、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実 は私も少 し変 なのです
わか
よ。君に分 りますか」
なん こた え
私は何 の答 えもし得なかった。
「どうして……」
ことば くち
私には喧嘩という言葉が口 へ出て来なかった。
ごかい き しょうち はら た
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承 知 しないのです。つい腹 を立
てたのです」
「どんなに先生を誤解なさるんですか」
と
先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。
にんげん くる
「妻が考えているような人 間 なら、私だってこんなに苦 しんでいやしない」
そうぞう およ もんだい
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想 像 の及 ばない問 題 であった。