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Kokoro – Sensei and I – Parts 1-9 (Natsume Sōseki)

じょう せんせい わたくし


上 先 生と 私

いち

ひと つね よ か ほんみょう う あ
私はその人 を常 に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで 本 名 は打ち明け
せけん はば えんりょ ほう しぜん
ない。これは世間を憚 かる遠 慮 というよりも、その方 が私にとって自然だからである。私はそ
きおく よ おこ ふで と こころもち おな こと
の人の記憶を呼び起 すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆 を執っても 心 持 は同 じ事 で
かしら も じ つか き
ある。よそよそしい 頭 文字などはとても使 う気にならない。

し あ かまくら とき わかわか しょせい


私が先生と知り合いになったのは鎌 倉 である。その時 私はまだ若 々 しい書 生 であった。
しょちゅうきゅうか りよう かいすいよく い ともだち こ はがき う と
暑 中 休 暇 を利用して海 水 浴 に行った友 達 からぜひ来いという端書を受け取ったので、私は
たしょう かね くめん で か こと に さんち つい
多 少 の金 を工面して、出掛ける事 にした。私は金の工面に二、三日を費 やした。ところが私
つ みっか た よ よ きゅう くにもと かえ
が鎌倉に着いて三日と経たないうちに、私を呼び寄せた友達は、 急 に国 元 から帰 れという
でんぽう はは びょうき ことわ しん
電 報 を受け取った。電報には母 が病 気 だからと 断 ってあったけれども友達はそれを信 じなか
おや すす けっこん し かれ げんだい
った。友達はかねてから国元にいる親 たちに勧 まない結 婚 を強いられていた。彼 は現 代 の
しゅうかん とし わかす かんじん とうにん き い
習 慣 からいうと結婚するにはあまり年 が若過ぎた。それに肝 心 の当 人 が気に入らなかった。
なつやす とうぜん さ とうきょう ちか あそ
それで夏 休 みに当 然 帰るべきところを、わざと避けて 東 京 の近 くで遊 んでいたのである。
み そうだん わか
彼は電報を私に見せてどうしようと相 談 をした。私にはどうしていいか分 らなかった。けれど
じっさい もと
も実 際 彼の母が病気であるとすれば彼は固 より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰
き ひとり と のこ
る事になった。せっかく来た私は一人取り残 された。

がっこう じゅぎょう はじ だいぶひかず かまくら かえ


学 校 の 授 業 が始 まるにはまだ大分日数があるので鎌 倉 におってもよし、帰 ってもよいとい
きょうぐう わたくし とうぶんもと やど と かくご ともだち ちゅうごく しさんか むすこ
う 境 遇 にいた 私 は、当 分 元 の宿 に留まる覚悟をした。友 達 は 中 国 のある資産家の息子
かね ふじゆう おとこ とし せいかつ ていど
で金 に不自由のない 男 であったけれども、学校が学校なのと年 が年なので、生 活 の程度は私
かわ ひとり べつ かっこう さが めんどう
とそう変 りもしなかった。したがって一人ぼっちになった私は別 に恰 好 な宿を探 す面 倒 もも
たなかったのである。

へんぴ ほうがく たまつ


宿は鎌倉でも辺鄙な方 角 にあった。玉突きだのアイスクリームだのというハイカラなものには
なが なわて ひと こ て とど くるま い にじゅっせん と
長 い 畷 を一 つ越さなければ手が届 かなかった。 車 で行っても二 十 銭 は取られた。けれども

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 1


こじん べっそう た うみ ちか かいすいよく
個人の別 荘 はそこここにいくつでも建てられていた。それに海 へはごく近 いので海 水 浴 をや
しごくべんり ち い し
るには至極便利な地位を占めていた。

まいにち で か ふる くす かえ わらぶき あいだ とお ぬ いそ お


私は毎 日 海へはいりに出掛けた。古 い燻 ぶり返 った藁 葺 の 間 を通 り抜けて磯 へ下りると、
へん と か い じんしゅ す おも ひしょ き おんな すな うえ うご
この辺 にこれほどの都会 人 種 が住んでいるかと思 うほど、避暑に来た男や 女 で砂 の上 が動
とき なか せんとう くろ あたま こと
いていた。ある時 は海の中 が銭 湯 のように黒 い 頭 でごちゃごちゃしている事 もあった。その
し ひと にぎ けしき つつ ね
中に知った人 を一人ももたない私も、こういう賑 やかな景色の中に裹 まれて、砂の上に寝そべ
ひざがしら なみ う は まわ ゆかい
ってみたり、 膝 頭 を波 に打たしてそこいらを跳ね廻 るのは愉快であった。

じつ せんせい ざっとう み つ だ かいがん かけぢゃや にけん


私は実 に先 生 をこの雑 沓 の間に見付け出したのである。その時海 岸 には掛茶屋が二軒あっ
はずみ いっけん ほう い な は せ へん おお かま
た。私はふとした機会からその一 軒 の方 に行き慣れていた。長谷 辺 に大 きな別荘を構 えてい
ちが めいめい せんゆう きがえば こしら ひしょきゃく
る人と違 って、各 自 に専 有 の着換場を 拵 えていないここいらの避 暑 客 には、ぜひともこう
きょうどうきがえじょ ふう ひつよう かれ ちゃ の
した 共 同 着換所といった風 なものが必 要 なのであった。彼 らはここで茶 を飲み、ここで
きゅうそく ほか かいすいぎ せんたく しお からだ きよ ぼうし
休 息 する外 に、ここで海水着を洗 濯 させたり、ここで鹹 はゆい身体を清 めたり、ここへ帽子
かさ あず も もちもの ぬす おそ
や傘 を預 けたりするのである。海水着を持たない私にも持 物 を盗 まれる恐 れはあったので、
ちゃや いっさい ぬ す こと
私は海へはいるたびにその茶屋へ一 切 を脱ぎ棄てる事 にしていた。


わたくし かけぢゃや せんせい み とき きもの ぬ うみ はい


私 がその掛茶屋で先 生 を見た時 は、先生がちょうど着物を脱いでこれから海 へ入 ろうとす
はんたい ぬ からだ かぜ ふ みず あ き ふたり
るところであった。私はその時反 対 に濡れた身体を風 に吹かして水 から上がって来た。二人の
あいだ め さえぎ いくた くろ あたま うご とくべつ じじょう かぎ
間 には目を 遮 る幾多の黒 い 頭 が動 いていた。特 別 の事 情 のない限 り、私はついに先生を
みのが し はまべ こんざつ ほうまん
見逃したかも知れなかった。それほど浜辺が混 雑 し、それほど私の頭が放 漫 であったにもかか
み つ だ ひとり せいようじん つ
わらず、私がすぐ先生を見付け出したのは、先生が一人の西 洋 人 を伴れていたからである。

すぐ しろ ひ ふ いろ いな ちゅうい ひ じゅんすい
その西洋人の優 れて白 い皮膚の色 が、掛茶屋へ入るや否 や、すぐ私の注 意 を惹いた。 純 粋
にほん ゆかた き かれ しょうぎ うえ ほう だ うでぐ
の日本の浴衣を着ていた彼 は、それを床 几 の上 にすぽりと放 り出したまま、腕組みをして海
ほう む た われわれ は さるまたひと ほかなにもの はだ つ
の方 を向いて立っていた。彼は我 々 の穿く猿 股 一 つの外 何 物 も肌 に着けていなかった。私に
だいいち ふ し ぎ ふ つ か まえ ゆ い はま い すな
はそれが第 一 不思議だった。私はその二日 前 に由井が浜 まで行って、砂 の上にしゃがみなが
なが あいだ ようす なが しり ところ すこ こだか おか
ら、長 い 間 西洋人の海へ入る様子を眺 めていた。私の尻 をおろした 所 は少 し小高い丘 の上
わき うらぐち じっ だ い ぶ おお おとこ
で、そのすぐ傍 がホテルの裏 口 になっていたので、私の凝 としている間に、大分 多 くの 男 が

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しお あ で き どう うで もも だ おんな ことさらにく かく
塩 を浴びに出て来たが、いずれも胴 と腕 と股 は出していなかった。 女 は殊 更 肉 を隠 しがち
たいてい ゴ ム せい ずきん かぶ えびちゃ こん あい なみま う
であった。大 抵 は頭に護謨 製 の頭巾を被 って、海老茶や紺 や藍 の色を波間に浮かしていた。
ありさま もくげき め す みん
そういう有 様 を目 撃 したばかりの私の眼には、猿股一つで済まして皆 なの前に立っているこ
めずら
の西洋人がいかにも 珍 しく見えた。

じぶん かえり にほんじん ひとことふたことなに


彼はやがて自分の傍を 顧 みて、そこにこごんでいる日本人に、一 言 二 言 何 かいった。その日
お てぬぐい ひろ あ
本人は砂の上に落ちた手 拭 を拾 い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、す
つつ ある だ ひと
ぐ頭を包 んで、海の方へ歩 き出した。その人 がすなわち先生であった。

わたくし たん こうきしん なら はまべ お い ふたり うしろすがた みまも


私 は単 に好奇心のために、並 んで浜辺を下りて行く二人の 後 姿 を見守っていた。すると
かれ まっすぐ なみ なか あし ふ こ とおあさ いそちか さわ
彼 らは真 直 に波 の中 に足 を踏み込んだ。そうして遠 浅 の磯 近 くにわいわい騒 いでいる
たにんず あいだ とお ぬ ひかくてきひろびろ ところ く およ だ あたま
多人数の 間 を通 り抜けて、比較的 広 々 した 所 へ来ると、二人とも泳 ぎ出した。彼らの 頭
ちい み おき ほう む い ひ かえ いっちょくせん もど
が小 さく見えるまで沖 の方 へ向いて行った。それから引き返 してまた 一 直 線 に浜辺まで戻
き かけぢゃや かえ い ど みず あ からだ ふ きもの き
って来た。掛茶屋へ帰 ると、井戸の水 も浴びずに、すぐ身体を拭いて着物を着て、さっさとど

こへか行ってしまった。

で い あと もと しょうぎ こし タバコ ふ とき
彼らの出て行った後 、私はやはり元 の床 几 に腰 をおろして烟草を吹かしていた。その時 私は
せんせい こと かんが み こと かお おも
ぽかんとしながら先 生 の事 を 考 えた。どうもどこかで見た事 のある顔 のように思 われてなら
あ ひと おも だ
なかった。しかしどうしてもいつどこで会った人 か想 い出せずにしまった。

くったく ぶりょう くる あくるひ


その時の私は屈 托 がないというよりむしろ無 聊 に苦 しんでいた。それで翌 日 もまた先生に会
じこく みはか せいようじん こ ひとり
った時刻を見計らって、わざわざ掛茶屋まで出かけてみた。すると西 洋 人 は来ないで先生一人
むぎわらぼう かぶ めがね だい うえ お てぬぐい あたま つつ
麦 藁 帽 を被 ってやって来た。先生は眼鏡をとって台 の上 に置いて、すぐ手 拭 で 頭 を包 ん
はま お い きのう よくかく
で、すたすた浜 を下りて行った。先生が昨日のように騒がしい浴 客 の中を通り抜けて、一人で
きゅう お か あさ はね
泳ぎ出した時、私は 急 にその後が追い掛けたくなった。私は浅 い水を頭の上まで跳 かして
そうとう ふか めじるし ぬきで き ちが
相 当 の深 さの所まで来て、そこから先生を目 標 に抜手を切った。すると先生は昨日と違 っ
いっしゅ こせん えが みょう ほうこう きし かえ はじ もくてき たっ
て、一 種 の弧線を描 いて、 妙 な方 向 から岸 の方へ帰 り始 めた。それで私の目 的 はついに達
おか あ しずく た て ふ はい
せられなかった。私が陸 へ上がって 雫 の垂れる手を振りながら掛茶屋に入 ると、先生はもう
い ちが そと
ちゃんと着物を着て入れ違 いに外 へ出て行った。

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 3


さん

わたくし つぎ ひ おな じこく はま い せんせい かお た こと く かえ


私 は次 の日も同 じ時刻に浜 へ行って先 生 の顔 を見た。その次の日にもまた同じ事 を繰り返
もの か きかい あいさつ ばあい ふたり あいだ おこ
した。けれども物 をいい掛ける機会も、挨 拶 をする場合も、二人の 間 には起 らなかった。そ
うえ たいど ひしゃこうてき いってい ちょうぜん き かえ
の上 先生の態度はむしろ非社交的であった。一 定 の時刻に 超 然 として来て、また超然と帰 っ
い しゅうい にぎ ちゅうい はら ようす
て行った。周 囲 がいくら賑 やかでも、それにはほとんど注 意 を払 う様子が見えなかった。
さいしょ せいようじん ご すがた み ひとり
最 初 いっしょに来た西 洋 人 はその後まるで 姿 を見せなかった。先生はいつでも一人であっ
た。

あ とき れい とお うみ あ き ばしょ ぬ す ゆかた き
或る時 先生が例 の通 りさっさと海 から上がって来て、いつもの場所に脱ぎ棄てた浴衣を着よう
わけ すな つ おと うし
とすると、どうした訳 か、その浴衣に砂 がいっぱい着いていた。先生はそれを落 すために、後
む に さ ん ど ふる きもの した お めがね いた すきま
ろ向きになって、浴衣を二、三度 振 った。すると着物の下 に置いてあった眼鏡が板 の隙間から
しろがすり へこおび し な き つ
下へ落ちた。先生は 白 絣 の上へ兵児帯を締めてから、眼鏡の失くなったのに気が付いたと見
きゅう さが はじ こしかけ くび て つ こ ひろ だ
えて、 急 にそこいらを探 し始 めた。私はすぐ腰 掛 の下へ首 と手を突ッ込んで眼鏡を拾 い出し
ありがと う と
た。先生は有 難 うといって、それを私の手から受け取った。

あと と こ ほうがく およ い
次の日私は先生の後 につづいて海へ飛び込んだ。そうして先生といっしょの方 角 に泳 いで行っ
にちょう おき で うし ふ かえ はな か ひろ あお ひょうめん
た。二 丁 ほど沖 へ出ると、先生は後 ろを振り返 って私に話 し掛けた。広 い蒼 い海の 表 面 に
う きんじょ わたし ふたり ほか つよ たいよう ひかり め
浮いているものは、その近 所 に 私 ら二人より外 になかった。そうして強 い太 陽 の 光 が、眼
とど かぎ みず やま て じゆう かんき み きんにく うご なか おど
の届 く限 り水 と山 とを照らしていた。私は自由と歓喜に充ちた筋 肉 を動 かして海の中 で躍 り
くる てあし うんどう や あおむ なみ ね
狂 った。先生はまたぱたりと手足の運 動 を已めて仰向けになったまま浪 の上に寝た。私もその
ま ね あおぞら いろ め い つうれつ な つ ゆかい
真似をした。青 空 の色 がぎらぎらと眼を射るように痛 烈 な色を私の顔に投げ付けた。「愉快
おお こえ
ですね」と私は大 きな声 を出した。

うみ なか お あ しせい あらた せんせい かえ


しばらくして海 の中 で起き上がるように姿勢を 改 めた先 生 は、「もう帰 りませんか」といっ
わたくし うなが ひかくてきつよ たいしつ あそ
て 私 を 促 した。比較的 強 い体 質 をもった私は、もっと海の中で遊 んでいたかった。しかし
さそ とき こころよ こた ふたり
先生から誘 われた時 、私はすぐ「ええ帰りましょう」と 快 く答 えた。そうして二人でまた
もと みち はまべ ひ かえ
元 の路 を浜辺へ引き返 した。

こんい し
私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。

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なか ふ つ か みっかめ ご ご おも かけぢゃや で あ
それから中 二日おいてちょうど三日目の午後だったと思 う。先生と掛茶屋で出会った時、先生
とつぜん む きみ だ い ぶ なが き かんが
は突 然 私に向かって、「君 はまだ大分 長 くここにいるつもりですか」と聞いた。 考 えのない
と ようい あたま なか たくわ わか
私はこういう問いに答えるだけの用意を 頭 の中 に 蓄 えていなかった。それで「どうだか分
わら かお み きゅう きま わる
りません」と答えた。しかしにやにや笑 っている先生の顔 を見た時、私は 急 に極 りが悪 くな
き かえ くち で ことば
った。「先生は?」と聞き返 さずにはいられなかった。これが私の口 を出た先生という言葉の
はじ
始 まりである。

ばん やど たず ふつう りょかん ちが ひろ てら けいだい


私はその晩 先生の宿 を尋 ねた。宿といっても普通の旅 館 と違 って、広 い寺 の境 内 にある
べっそう たてもの す ひと かぞく こと わか
別 荘 のような建 物 であった。そこに住んでいる人 の先生の家族でない事 も解 った。私が先生
よ か にがわら ねんちょうしゃ たい くちくせ
先生と呼び掛けるので、先生は苦 笑 いをした。私はそれが 年 長 者 に対 する私の口 癖 だとい
べんかい あいだ せいようじん かれ ふうがわ
って弁 解 した。私はこの 間 の西 洋 人 の事を聞いてみた。先生は彼 の風 変 りのところや、も
かまくら いろいろ はなし すえ にほんじん つきあい
う鎌 倉 にいない事や、色 々 の 話 をした末 、日本人にさえあまり交 際 をもたないのに、そう
がいこくじん ちかづ ふ し ぎ さいご
いう外 国 人 と近付きになったのは不思議だといったりした。私は最後に先生に向かって、どこ
おも だ わか あん
かで先生を見たように思うけれども、どうしても思 い出せないといった。若 い私はその時暗 に
あいて おな かん も うたが はら なか へんじ
相手も私と同 じような感 じを持っていはしまいかと 疑 った。そうして腹 の中 で先生の返事を
よ き ちんぎん みおぼ
予期してかかった。ところが先生はしばらく沈 吟 したあとで、「どうも君の顔には見覚えがあ
ひとちが へん いっしゅ しつぼう
りませんね。人 違 いじゃないですか」といったので私は変 に一 種 の失 望 を感じた。

よん

わたくし つき すえ とうきょう かえ せんせい ひしょち ひ あ まえ


私 は月 の末 に 東 京 へ帰 った。先 生 の避暑地を引き上げたのはそれよりずっと前 であっ
わか とき おりおり たく うかが よ き
た。私は先生と別 れる時 に、「これから折 々 お宅 へ 伺 っても宜ござんすか」と聞いた。先生
たんかん じぶん こんい
は単 簡 にただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。その時分の私は先生とよほど懇意
すこ こまや ことば よ き かか
になったつもりでいたので、先生からもう少 し 濃 かな言葉を予期して掛 ったのである。それ
ものた へんじ じしん いた
でこの物足りない返事が少し私の自信を傷 めた。

こと しつぼう き
私はこういう事 でよく先生から失 望 させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、
まった けいび く かえ
また 全 く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返 しながら、それがため
はな ゆ き はんたい ふあん うご
に先生から離 れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反 対 で、不安に揺 かされるたび
まえ すす め まえ
に、もっと前 へ進 みたくなった。もっと前へ進めば、私の予期するあるものが、いつか眼の前
まんぞく あら く おも わか にんげん たい
に満 足 に現 われて来るだろうと思 った。私は若 かった。けれどもすべての人 間 に対 して、若

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 5


ち すなお はたら こころもち おこ
い血がこう素直に 働 こうとは思わなかった。私はなぜ先生に対してだけこんな 心 持 が起 る
わか な こんにち はじ わか き
のか解 らなかった。それが先生の亡くなった今 日 になって、始 めて解 って来た。先生は始め
きら しめ ときどき そっけ あいさつ れいたん
から私を嫌 っていたのではなかったのである。先生が私に示 した時 々 の素気ない挨 拶 や冷 淡
み どうさ とお ふかい ひょうげん いた
に見える動作は、私を遠 ざけようとする不快の 表 現 ではなかったのである。傷 ましい先生
じぶん ちか か ち よ けいこく あた
は、自分に近 づこうとする人間に、近づくほどの価値のないものだから止せという警 告 を与 え
ひと なつ おう けいべつ
たのである。他 の懐 かしみに応 じない先生は、他を軽 蔑 する前に、まず自分を軽蔑していた
ものとみえる。

むろん たず じゅぎょう
私は無論先生を訪 ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから 授 業 の始まるまでにはまだ
にしゅうかん ひかず いちど い ふつかみっか た
二 週 間 の日数があるので、そのうちに一度行っておこうと思った。しかし帰って二日三日と経
かまくら きぶん だんだんうす き うえ いろど だいとかい
つうちに、鎌 倉 にいた時の気分が段 々 薄 くなって来た。そうしてその上 に 彩 られる大都会の
くうき きおく ふっかつ ともな つよ しげき とも こ こころ そ つ おうらい がくせい
空気が、記憶の復 活 に 伴 う強 い刺戟と共 に、濃く私の 心 を染め付けた。私は往 来 で学 生
かお あたら がくねん きぼう きんちょう かん わす
の顔 を見るたびに 新 しい学 年 に対する希望と 緊 張 とを感 じた。私はしばらく先生の事を忘
れた。

じゅぎょう はじ いっかげつ わたくし こころ いっしゅ たる


授 業 が始 まって、一カ月ばかりすると 私 の 心 に、また一 種 の弛 みができてきた。私は
なん ふそく かお おうらい ある はじ ものほ じぶん へや なか みまわ あたま
何 だか不足な顔 をして往 来 を歩 き始 めた。物欲しそうに自分の室 の中 を見廻した。私の 頭
ふたた せんせい う で あ
には 再 び先 生 の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。

うち たず とき る す に ど め い つぎ にちよう おぼ
始めて先生の宅 を訪 ねた時 、先生は留守であった。二度目に行ったのは次 の日 曜 だと覚 えて
は そら み し こ かん い ひより ひ
いる。晴れた空 が身に沁み込むように感 ぜられる好い日和であった。その日も先生は留守であ
かまくら せんせい じ し ん くち たいてい こと き
った。鎌 倉 にいた時、私は先 生 自身の口 から、いつでも大 抵 宅にいるという事 を聞いた。む
がいしゅつぎら に ど き ことば おも だ
しろ 外 出 嫌 いだという事も聞いた。二度来て二度とも会えなかった私は、その言葉を思 い出
わ け ふまん げんかんさき さ げじょ すこ
して、理由もない不満をどこかに感じた。私はすぐ玄 関 先 を去らなかった。下女の顔を見て少
ちゅうちょ た まえ め い し と つ きおく ま
し 躊 躇 してそこに立っていた。この前 名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしてお
うち おく ひと かわ で き うつく
いてまた内 へはいった。すると奥 さんらしい人 が代 って出て来た。 美 しい奥さんであった。

ていねい でさき おし れいげつ ぞうしがや ぼ ち


私はその人から鄭 寧 に先生の出先を教 えられた。先生は例 月 その日になると雑司ヶ谷の墓地
あ ほとけ はな た む しゅうかん いま
にある或る 仏 へ花 を手向けに行く 習 慣 なのだそうである。「たった今 出たばかりで、
じゅっぷん き どく えしゃく
十 分 になるか、ならないかでございます」と奥さんは気の毒 そうにいってくれた。私は会 釈

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 6


そと にぎや まち ほう いっちょう さんぽ き
して外 へ出た。 賑 かな町 の方 へ 一 丁 ほど歩くと、私も散歩がてら雑司ヶ谷へ行ってみる気
こうきしん うご きびす めぐ
になった。先生に会えるか会えないかという好奇心も動 いた。それですぐ 踵 を回 らした。


わたくし ぼ ち てまえ なえばたけ ひだりがわ りょうほう かえで う つ ひろ みち おく


私 は墓地の手前にある 苗 畠 の 左 側 からはいって、 両 方 に 楓 を植え付けた広 い道 を奥
ほう すす い はず み ちゃみせ なか せんせい ひと で き
の方 へ進 んで行った。するとその端 れに見える茶 店 の中 から先 生 らしい人 がふいと出て来
めがね ふち ひ ひか ちか よ い だ ぬ
た。私はその人の眼鏡の縁 が日に光 るまで近 く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と
おお こえ か とつぜん た ど かお
大 きな声 を掛けた。先生は突 然 立ち留まって私の顔 を見た。

「どうして……、どうして……」

おな ことば にへん く かえ しんかん ひる うち いよう ちょうし


先生は同 じ言葉を二遍繰り返 した。その言葉は森 閑 とした昼 の中 に異様な調 子 をもって繰り
きゅう なん こた
返された。私は 急 に何 とも応 えられなくなった。

あと つ き
「私の後 を跟けて来たのですか。どうして……」

たいど お つ しず ひょうじょう
先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈 んでいた。けれどもその 表 情 の中には
はっきり いっしゅ くも
判 然 いえないような一 種 の曇 りがあった。

はな
私は私がどうしてここへ来たかを先生に話 した。

だれ はか まい い さい な
「誰 の墓 へ参 りに行ったか、妻 がその人の名をいいましたか」

こと なに
「いいえ、そんな事 は何 もおっしゃいません」

はじ あ ひつよう
「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始 めて会ったあなたに。いう必 要
がないんだから」

とくしん ようす い み わか
先生はようやく得 心 したらしい様子であった。しかし私にはその意味がまるで解 らなかった。

とお あいだ ぬ イ サ ベ ラ なになに しんぼく


先生と私は通 りへ出ようとして墓の 間 を抜けた。依撒伯拉 何 々 の墓だの、神 僕 ロギンの墓だ
かたわら いっさいしゅじょうしつ う ぶっしょう か とうば た ぜんけん こ う し
のという 傍 に、一 切 衆 生 悉 有 仏 生 と書いた塔婆などが建ててあった。全 権 公使何々と

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 7


あんとくれつ ほ つ ちい まえ よ
いうのもあった。私は安 得 烈 と彫り付けた小 さい墓の前 で、「これは何と読むんでしょう」
き くしょう
と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦 笑 した。

せんせい ぼひょう あら ひとさまざま ようしき たい わたくし こっけい みと


先 生 はこれらの墓 標 が現 わす人 種 々 の様 式 に対 して、 私 ほどに滑 稽 もアイロニーも認 め
まる はかいし ほそなが みかげ ひ さ
てないらしかった。私が丸 い墓 石 だの細 長 い御影の碑だのを指して、しきりにかれこれいい
はじ だま き し じじつ
たがるのを、始 めのうちは黙 って聞いていたが、しまいに「あなたは死という事実をまだ
ま じ め かんが こと なん
真面目に 考 えた事 がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何 ともいわなく
なった。

ぼ ち く ぎ め おお いちょう いっぽんそら かく た した き とき
墓地の区切り目に、大 きな銀 杏 が一 本 空 を隠 すように立っていた。その下 へ来た時 、先生は
たか こずえ み あ すこ きれい き こうよう
高 い 梢 を見上げて、「もう少 しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄 葉 して、ここいら
じめん きんいろ おちば うず つき いちど かなら
の地面は金 色 の落葉で埋 まるようになります」といった。先生は月 に一度ずつは 必 ずこの木
とお
の下を通 るのであった。

むこ ほう でこぼこ しんぼち つく おとこ くわ て やす わたし


向 うの方 で凸 凹 の地面をならして新墓地を作 っている 男 が、鍬 の手を休 めて 私 たちを見て
ひだり き がいどう で
いた。私たちはそこから 左 へ切れてすぐ街 道 へ出た。

ゆ あ て ある い
これからどこへ行くという目的のない私は、ただ先生の歩 く方へ歩いて行った。先生はいつも
くちかず き きゅうくつ かん
より口 数 を利かなかった。それでも私はさほどの 窮 屈 を感 じなかったので、ぶらぶらいっし
ょに歩いて行った。

たく かえ
「すぐお宅 へお帰 りですか」

べつ よ ところ
「ええ別 に寄る 所 もありませんから」

ふたり だま みなみ さか お
二人はまた黙 って 南 の方へ坂 を下りた。

くち き だ
「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口 を利き出した。

「いいえ」

しんるい
「どなたのお墓があるんですか。――ご親 類 のお墓ですか」

「いいえ」

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 8


いがい こた はなし き あ
先生はこれ以外に何も答 えなかった。私もその 話 はそれぎりにして切り上げた。すると
いっちょう あと ふ い もど き
一 町 ほど歩いた後 で、先生が不意にそこへ戻 って来た。

ともだち
「あすこには私の友 達 の墓があるんです」

まいげつ まい
「お友達のお墓へ毎 月 お参 りをなさるんですか」

「そうです」

ひ かた
先生はその日これ以外を語 らなかった。

ろく

わたくし ときどきせんせい ほうもん ゆ ざいたく


私 はそれから時 々 先 生 を訪 問 するようになった。行くたびに先生は在 宅 であった。先生に
あ どすう かさ しげ げんかん あし はこ
会う度数が重 なるにつれて、私はますます繁 く先生の玄 関 へ足 を運 んだ。

たい たいど はじ あいさつ とき こんい のち かわ


けれども先生の私に対 する態度は初 めて挨 拶 をした時 も、懇意になったその後 も、あまり変
い つ しず しず す さび
りはなかった。先生は何時も静 かであった。ある時は静 か過ぎて淋 しいくらいであった。私は
さいしょ ちか ふ し ぎ おも
最 初 から先生には近 づきがたい不思議があるように思 っていた。それでいて、どうしても近づ
かん つよ はたら
かなければいられないという感 じが、どこかに強 く 働 いた。こういう感じを先生に対しても
おお ひと し
っていたものは、多 くの人 のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの
ちょっかん じじつ うえ しょうこだ わかわか ば か
直 感 が後になって事実の上 に証拠立てられたのだから、私は若 々 しいといわれても、馬鹿げ
わら み こ じぶん ちょっかく たの うれ
ていると笑 われても、それを見越した自分の 直 覚 をとにかく頼 もしくまた嬉 しく思ってい
にんげん あい う ふところ い
る。人 間 を愛 し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の 懐 に入ろうとするも
て だ し こと
のを、手をひろげて抱き締める事 のできない人、――これが先生であった。

いま とお しじゅう お つ とき へん くも
今 いった通 り先生は始 終 静かであった。落ち付いていた。けれども時 として変 な曇 りがその
かお よこぎ まど くろ ちょうえい さ き
顔 を横切る事があった。窓 に黒 い 鳥 影 が射すように。射すかと思うと、すぐ消えるには消え
みけん みと ぞうしがや ぼ ち ふ い よ
たが。私が始めてその曇りを先生の眉間に認 めたのは、雑司ヶ谷の墓地で、不意に先生を呼び
か いよう しゅんかん こころよ なが しんぞう ちょうりゅう
掛けた時であった。私はその異様の 瞬 間 に、今まで 快 く流 れていた心 臓 の 潮 流 をちょ
にぶ たん いちじ けったい す こころ ごふん た
っと鈍 らせた。しかしそれは単 に一時の結 滞 に過ぎなかった。私の 心 は五分と経たないうち

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 9


へいそ だんりょく かいふく くら くも かげ わす
に平素の 弾 力 を回 復 した。私はそれぎり暗 そうなこの雲 の影 を忘 れてしまった。ゆくりな
おも だ こはる つ ま あ ばん
くまたそれを思 い出させられたのは、小春の尽きるに間のない或る晩 の事であった。

せんせい はな わたくし ちゅうい いちょう たいじゅ め まえ おも


先 生 と話 していた 私 は、ふと先生がわざわざ注 意 してくれた銀 杏 の大 樹 を眼の前 に想 い
う かんじょう まいげつれい ぼさん ゆ ひ みっかめ
浮かべた。 勘 定 してみると、先生が毎 月 例 として墓参に行く日が、それからちょうど三日目
あた かぎょう ひる お らく む
に当 っていた。その三日目は私の課 業 が午 で終える楽 な日であった。私は先生に向かってこ
ういった。

ぞうしがや ち
「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」

からぼうず
「まだ空坊主にはならないでしょう」

こた かお みまも め はな
先生はそう答 えながら私の顔 を見守った。そうしてそこからしばし眼を離 さなかった。私はす
ぐいった。

こんど はかまい とき とも よ
「今度お墓 参 りにいらっしゃる時 にお伴 をしても宜ござんすか。私は先生といっしょにあすこ
さんぽ
いらが散歩してみたい」

「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」


「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか」

なん ほんとう
先生は何 とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本 当 の墓参りだけなんだから」とい
き はな ふう み こうじつ
って、どこまでも墓参と散歩を切り離 そうとする風 に見えた。私と行きたくない口 実 だか何だ
こども へん おも さき で き
か、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変 に思 われた。私はなおと先 へ出る気にな
った。

つ い くだ
「じゃお墓参りでも好いからいっしょに伴れて行って下 さい。私もお墓参りをしますから」

じっさい くべつ む い み まゆ
実 際 私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉
くも いよう ひかり で めいわく けんお い ふ かたづ
がちょっと曇 った。眼のうちにも異様の 光 が出た。それは迷 惑 とも嫌悪とも畏怖とも片付け
かす ふあん たちま よ か
られない微 かな不安らしいものであった。私は 忽 ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の
きおく つよ おも おこ ふた ひょうじょう まった おな
記憶を強 く思 い起 した。二 つの 表 情 は 全 く同 じだったのである。

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 10


こと り ゆ ひと
「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事 のできないある理由があって、他 といっしょ
じぶん さい
にあすこへ墓参りには行きたくないのです。自分の妻 さえまだ伴れて行った事がないのです」

なな

わたくし ふ し ぎ おも せんせい けんきゅう き うち で い


私 は不思議に思 った。しかし私は先 生 を 研 究 する気でその宅 へ出入りをするのではなか
う す いまかんが とき たいど せいかつ
った。私はただそのままにして打ち過ぎた。今 考 えるとその時 の私の態度は、私の生 活 のう
たっと ひと まった にんげん あたた
ちでむしろ 尊 むべきものの一 つであった。私は 全 くそのために先生と人 間 らしい 温 かい
つきあい こうきしん いくぶん こころ む けんきゅうてき はたら
交 際 ができたのだと思う。もし私の好奇心が幾 分 でも先生の 心 に向かって、 研 究 的 に 働
か ふたり あいだ つな どうじょう いと なん ようしゃ き
き掛けたなら、二人の 間 を繋 ぐ 同 情 の糸 は、何 の容 赦 もなくその時ふつりと切れてしまっ
わか じぶん じかく し
たろう。若 い私は全く自分の態度を自覚していなかった。それだから尊いのかも知れないが、
まちが うら で けっか なか お き そうぞう
もし間違えて裏 へ出たとしたら、どんな結果が二人の仲 に落ちて来たろう。私は想 像 してもぞ
つめ まなこ た おそ
っとする。先生はそれでなくても、冷 たい 眼 で研究されるのを絶えず恐 れていたのである。

つき に ど さんど かなら ゆ あし だんだんしげ


私は月 に二度もしくは三度ずつ 必 ず先生の宅へ行くようになった。私の足 が段 々 繁 くなった
ひ とつぜん む き
時のある日、先生は突 然 私に向かって聞いた。


「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」

とくべつ い み じゃま
「何でといって、そんな特 別 な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」

「邪魔だとはいいません」

めいわく ようす み はんい きわ せま


なるほど迷 惑 という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極 めて狭
こと し もと どうきゅうせい ころとうきょう
い事 を知っていた。先生の元 の 同 級 生 などで、その頃 東 京 にいるものはほとんど二人か
さんにん どうきょう がくせい とき ざしき どうざ ばあい
三 人 しかないという事も知っていた。先生と 同 郷 の学 生 などには時 たま座敷で同座する場合
かれ みん した み う
もあったが、彼 らのいずれもは皆 な私ほど先生に親 しみをもっていないように見受けられた。

わたくし さび にんげん せんせい き くだ こと よろこ


「 私 は淋 しい人 間 です」と先 生 がいった。「だからあなたの来て下 さる事 を 喜 んでいま
く き
す。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」

「そりゃまたなぜです」

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 11


き かえ とき なん こた かお み いくつ
私がこう聞き返 した時 、先生は何 とも答 えなかった。ただ私の顔 を見て「あなたは幾歳です
か」といった。

もんどう ふ と く ようりょう そこ お かえ
この問 答 は私にとってすこぶる不得 要 領 のものであったが、私はその時底 まで押さずに帰 っ
よっか た ほうもん ざしき で
てしまった。しかもそれから四日と経たないうちにまた先生を訪 問 した。先生は座敷へ出るや
いな わら だ
否 や笑 い出した。

「また来ましたね」といった。

じぶん
「ええ来ました」といって自分も笑った。

ほか ひと しゃく さわ おも
私は外 の人 からこういわれたらきっと 癪 に触 ったろうと思 う。しかし先生にこういわれた時
はんたい ゆかい
は、まるで反 対 であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。

ばん あいだ ことば く かえ
「私は淋しい人間です」と先生はその晩 またこの 間 の言葉を繰り返 した。「私は淋しい人間
とし と
ですが、ことによるとあなたも淋しい人間じゃないですか。私は淋しくっても年 を取っている
うご わか い うご
から、動 かずにいられるが、若 いあなたはそうは行かないのでしょう。動 けるだけ動きたいの
なに ぶ
でしょう。動いて何 かに打つかりたいのでしょう……」

さむ
「私はちっとも淋 しくはありません」

うち
「若いうちほど淋しいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたび私の宅 へ来るの
ですか」

くち
ここでもこの間の言葉がまた先生の口 から繰り返された。

あ さび き
「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋 しい気がどこかでしているでしょう。私にはあなたの
ねもと ひ ぬ あ ちから ほう
ためにその淋しさを根元から引き抜いて上げるだけの 力 がないんだから。あなたは外の方 を
む いま て ひろ あし む
向いて今 に手を広 げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足 が向かなくなります」

わら かた
先生はこういって淋しい笑 い方 をした。

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 12


はち

さいわ せんせい よげん じつげん す けいけん とうじ わたくし うち


幸 いにして先 生 の予言は実 現 されずに済んだ。経 験 のない当時の 私 は、この予言の中 に
ふく めいはく い ぎ りょうかい え いぜん あ い
含 まれている明 白 な意義さえ 了 解 し得なかった。私は依然として先生に会いに行った。その
うち ま しょくたく めし く しぜん け っ か おく くち き
内 いつの間にか先生の 食 卓 で飯 を食うようになった。自然の結果 奥 さんとも口 を利かなけれ
ばならないようになった。

ふつう にんげん おんな たい れいたん とし わか いま けいか


普通の人 間 として私は 女 に対 して冷 淡 ではなかった。けれども年 の若 い私の今 まで経過し
き きょうぐう こうさい むす こと
て来た 境 遇 からいって、私はほとんど交 際 らしい交際を女に結 んだ事 がなかった。それが
げんいん ぎもん きょうみ おうらい で あ し む おお はたら
源 因 かどうかは疑問だが、私の興 味 は往 来 で出合う知りもしない女に向かって多 く 働 くだ
まえげんかん とき うつく いんしょう う
けであった。先生の奥さんにはその前 玄 関 で会った時 、 美 しいという 印 象 を受けた。それ
おな いがい
から会うたんびに同 じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとく
かた なにもの き
に奥さんについて語 るべき何 物 ももたないような気がした。

とくしょく しめ きかい こ かいしゃく ほう


これは奥さんに 特 色 がないというよりも、特色を示 す機会が来なかったのだと 解 釈 する方
せいとう し ふぞく いち ぶ ぶ ん こころもち
が正 当 かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一 部分のような 心 持 で奥さんに対
じぶん おっと ところ く しょせい こうい ぐう
していた。奥さんも自分の 夫 の 所 へ来る書 生 だからという好意で、私を遇 していたらし
ちゅうかん た と の ふたり はじ
い。だから 中 間 に立つ先生を取り除ければ、つまり二人はばらばらになっていた。それで始
し あ ほか なん かん のこ
めて知り合いになった時の奥さんについては、ただ美しいという外 に何 の感 じも残 っていな
い。

ときわたくし せんせい うち さけ の おく で き そば しゃく


ある時 私 は先 生 の宅 で酒 を飲まされた。その時奥 さんが出て来て傍 で 酌 をしてくれた。
ゆかい み まえ ひと あ じぶん の
先生はいつもより愉快そうに見えた。奥さんに「お前 も一 つお上がり」といって、自分の呑み
ほ さかずき さ じたい あと めいわく う と
干した 盃 を差した。奥さんは「私は……」と辞退しかけた後 、迷 惑 そうにそれを受け取っ
きれい まゆ よ はんぶん つ あ くちびる さき も い
た。奥さんは綺麗な眉 を寄せて、私の半 分 ばかり注いで上げた盃を、 唇 の先 へ持って行っ
あいだ しも かいわ はじ
た。奥さんと先生の 間 に下 のような会話が始 まった。

めず こと めった
「珍 らしい事 。私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね」

きら たま の い こころもち
「お前は嫌 いだからさ。しかし稀 には飲むといいよ。好い 心 持 になるよ」

くる たいへん すこ しゅ め あ
「ちっともならないわ。苦 しいぎりで。でもあなたは大 変 ご愉快そうね、少 しご酒 を召し上
がると」

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 13


「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」

こんや
「今夜はいかがです」

「今夜は好い心持だね」

まいばん よ
「これから毎 晩 少しずつ召し上がると宜ござんすよ」

「そうはいかない」

くだ ほう さむ
「召し上がって下 さいよ。その方 が淋 しくなくって好いから」

ふうふ げじょ ゆ たいてい たか わら ごえ


先生の宅は夫婦と下女だけであった。行くたびに大 抵 はひそりとしていた。高 い笑 い声 など
き ため あ とき なか き
の聞こえる試 しはまるでなかった。或る時 は宅の中 にいるものは先生と私だけのような気がし
た。

こども ほう む
「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方 を向いていった。私は「そうですな」と
こた こころ なん どうじょう おこ も こと
答 えた。しかし私の 心 には何 の 同 情 も起 らなかった。子供を持った事 のないその時の私
うるさ かんが
は、子供をただ蒼蠅いもののように 考 えていた。

ひ と り もら
「一人 貰 ってやろうか」と先生がいった。

もらい こ
「 貰 ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。


「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。

だま かわ き てんばつ
奥さんは黙 っていた。「なぜです」と私が代 りに聞いた時先生は「天 罰 だからさ」といって高
く笑った。

きゅう

わたくし し かぎ せんせい おく なか い ふうふ いっつい かてい いちいん くら


私 の知る限 り先 生 と奥 さんとは、仲 の好い夫婦の一 対 であった。家庭の一 員 として暮 し
こと ふか しょうそく む ろ ん わか ざしき たいざ
た事 のない私のことだから、深 い 消 息 は無論 解 らなかったけれども、座敷で私と対坐してい
とき なに げじょ よ な
る時 、先生は何 かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は
しず ふすま ほう ふ む やさ
静 といった)。先生は「おい静」といつでも 襖 の方 を振り向いた。その呼びかたが私には優

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 14


き へんじ で く ようす はなは すなお ちそう
しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子も 甚 だ素直であった。ときたまご馳走になっ
せき あら ばあい かんけい いっそうあき ふたり あいだ えが だ
て、奥さんが席 へ現 われる場合などには、この関 係 が一 層 明 らかに二人の 間 に描 き出され
るようであった。

ときどき つ おんがっかい しばい い いっしゅうかん


先生は時 々 奥さんを伴れて、音 楽 会 だの芝居だのに行った。それから夫婦づれで 一 週 間
いない りょこう きおく に さ ん ど いじょう はこね もら
以内の旅 行 をした事も、私の記憶によると、二、三度 以 上 あった。私は箱根から貰 った
えはがき も にっこう もみじ は いちまいふう こ ゆうびん
絵端書をまだ持っている。日 光 へ行った時は紅葉の葉を一 枚 封 じ込めた郵 便 も貰った。

とうじ め うつ あいだがら ひと
当時の私の眼に映 った先生と奥さんの 間 柄 はまずこんなものであった。そのうちにたった一
れいがい ひ とお げんかん あんない たの
つの例 外 があった。ある日私がいつもの通 り、先生の玄 関 から案 内 を頼 もうとすると、座敷
はな ごえ じんじょう だんわ いさか
の方でだれかの話 し声 がした。よく聞くと、それが 尋 常 の談話でなくって、どうも言逆いら
うち つぎ こうし まえ た みみ
しかった。先生の宅 は玄関の次 がすぐ座敷になっているので、格子の前 に立っていた私の耳 に
ちょうし わか ひとり たか
その言逆いの調 子 だけはほぼ分 った。そうしてそのうちの一人が先生だという事も、時々高 ま
く おとこ こえ あいて ひく おん だれ はっきり
って来る 男 の方の声 で解った。相手は先生よりも低 い音 なので、誰 だか判 然 しなかったが、
かん な おも
どうも奥さんらしく感 ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思 っ
げんかんさき まよ けっしん げしゅく かえ
て玄 関 先 で迷 ったが、すぐ決 心 をしてそのまま下 宿 へ帰 った。

みょう ふあん こころもち わたくし おそ き しょもつ よ の こ のうりょく うしな


妙 に不安な 心 持 が 私 を襲 って来た。私は書 物 を読んでも呑み込む 能 力 を 失 ってしま
やくいちじかん せんせい まど した き な よ おどろ あ
った。約 一時間ばかりすると先 生 が窓 の下 へ来て私の名を呼んだ。私は 驚 いて窓を開けた。
さんぽ さそ さ っ き おび あいだ くる とけい だ み
先生は散歩しようといって、下から私を誘 った。先刻 帯 の 間 へ包 んだままの時計を出して見
はちじ す かえ はかま つ おもて
ると、もう八時過ぎであった。私は帰 ったなりまだ 袴 を着けていた。私はそれなりすぐ 表 へ

出た。

ばん ビール の がんらいしゅりょう とぼ ひと ていど


その晩 私は先生といっしょに麦酒を飲んだ。先生は元 来 酒 量 に乏 しい人 であった。ある程度
よ ぼうけん
まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒 険 のできない人であった。

きょう だ め くしょう
「今日は駄目です」といって先生は苦 笑 した。

ゆかい き どく き
「愉快になれませんか」と私は気の毒 そうに聞いた。

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 15


はら なか しじゅう こと ひ かか さかな ほね の ど さ とき
私の腹 の中 には始 終 先刻の事 が引っ懸 っていた。 肴 の骨 が咽喉に刺さった時 のように、私
くる う あ かんが よ ほう よ おも なお
は苦 しんだ。打ち明けてみようかと 考 えたり、止した方 が好かろうかと思 い直 したりする
どうよう ようす
動 揺 が、妙に私の様子をそわそわさせた。

きみ こんや じつ すこ へん
「君 、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実 は私も少 し変 なのです
わか
よ。君に分 りますか」

なん こた え
私は何 の答 えもし得なかった。

さい けんか くだ しんけい こうふん


「実は先刻妻 と少し喧嘩をしてね。それで下 らない神 経 を昂 奮 させてしまったんです」と先
生がまたいった。

「どうして……」

ことば くち
私には喧嘩という言葉が口 へ出て来なかった。

ごかい き しょうち はら た
「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承 知 しないのです。つい腹 を立
てたのです」

「どんなに先生を誤解なさるんですか」


先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。

にんげん くる
「妻が考えているような人 間 なら、私だってこんなに苦 しんでいやしない」

そうぞう およ もんだい
先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想 像 の及 ばない問 題 であった。

Kokoro by Natsume Sōseki – Sensei and I – Parts 1-9 16

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