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白い牙

ロンドン
深町眞理子訳
OceanofPDF.com
Title: WHITE FANG
1906
Author: Jack London

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目 次

荒野

肉の臭跡
雌狼
飢えの叫び

荒野に生まれて
牙と牙の闘い
巣穴

灰色の仔
世界の壁
肉の法則

荒野の神々

火をつくるもの
とらわれの身
のけもの
神々の足跡
盟約
凶荒
すぐれた神々

同族の敵
狂気の神
憎しみの支配
まといつく死
不屈の魂
愛の主人

飼い馴らされて

長い旅路
南国
神の領域
同族の呼び声
眠れる狼

解 説 信岡 朝子
年 譜
訳者あとがき
©Mariko Fukamachi 2009

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白い牙
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荒野
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肉の臭跡
氷結した水路の両岸から、暗いとう唐檜の森が渋面を向けてきた。


木々は、先ごろ吹いた強風のため、こびりついていた白い霜を剝ぎ
とられ、たがいにもたれかかるように身を寄せあい、薄れゆく光の
ぼうばく
なかで、黒々として不吉に見えた。茫漠たる静寂があたりを支配し
ていた。大地そのものが荒涼として、生気もなく、動きもなく、そ
のうえ寒さと寂しさとがあまりにもきびしくて、そこから伝わって
くるのは、悲哀といった感情ですらなかった。どこかに笑いらしき
ものが感じとれぬでもなかったが、それは、どんな悲しみよりも恐
ろしい笑い──いわばスフィンクスのそれのような陰気な笑い、霜の
ように冷たく、また、無む びゅう
謬なるもののいかめしさを帯びた笑いだっ
た。それは、生きるもののむなしさ、生きるものの努力のむなしさ
をあざわらう、永遠なるものの尊大、かつ共有不能な知恵の笑いだ
った。これこそが〈荒野〉というもの、未開というもの、〈北国の
荒野〉というものの本質なのだった。
﹅ ﹅ ﹅
とはいえ、この地にもやはり生き物はいた──あまねくこの地に浸
透して、ふてぶてしく生きるものたちが。いましも、その林間の氷
結した水路をあえぎつつたどってゆく、狼に似た犬たちの列があっ
た。ごわごわした犬たちの被毛は、霜で真っ白におおわれている。
吐く息は、口から出たとたんに空中で凍り、噴出した水蒸気の泡が
全身の毛にこびりついて、そこでまた新たな霜の結晶となる。犬た
ハーネス
ちには、革製の
そり
引き綱がかけられ、その引き革はさらに、後方を引
かれてゆく橇につながっている。この橇には、滑走板はない。全体
がじょうぶなかば樺の木の樹皮でできていて、その樹皮の底板全面が雪
面を滑走する。橇の先端部は巻き物さながらにくるりと巻きあがっ
ているが、これは、前方から波のように押し寄せてくるやわらかな
雪をおさえつけ、押しかためるための仕掛けだ。橇の上には、ロー
プでしっかりくくりつけられた細長い直方体の箱が一個。橇にはほ
かにも各種の品物──毛布とか、手斧、コーヒーポットにフライパン
など──が積んであるが、なかでもいちばんめだつ荷物が、その幅の
狭い直方体の、橇のスペースの大半を占める箱なのだった。
犬たちの列の先に立って、大きな輪かんじきをはいた男がひと
り、難渋しながら足を運んでいた。橇の後ろからも、もうひとりべ
つの男が、やはり雪に足をとられながらついてゆく。橇の上の箱の
なかには、三人めの、こちらはすでにこうした苦しみを超越した男
が横たわっている──〈荒野〉に征服され、打ち負かされて、もはや
二度と動くことも、苦闘することもない男。〈荒野〉は本来、動くこぶ
ものを好まない。命あるものは、〈荒野〉にとっては目の上の瘤な
のだ。なぜかといえば、命あるものは行動するから。それゆえ〈荒
野〉は、つねに動くものを抹殺しようとかかってくる。川の水を凍
らせ、それが海へと流れてゆくのを妨げる。木々から樹液を押しだ
して、そのがっしりと太い幹の芯までも凍りつかせる。なかでもも
しつよう
っとも残忍で、恐ろしいのが、〈荒野〉が執拗に人間を苦しめ、踏
みにじり、なんとか屈服へ追いこもうとするということだ──なにし
ろ人間というやつ、あらゆる命あるもののうちでも、とりわけ活動
的で、すこしもじっとしていないし、〝この世のあらゆる動きは最
後には必ずその動きを停める〟という自然の摂理、それにたいして
も、たえず逆らおうとばかりするやからだからだ。
にもかかわらず、いましもこの橇の前後を、まだ死んではいない
ふたりの人間が、恐れもせず、屈服もせず、難渋しながらもひたす
ら前へと進みつづけている。ふたりとも、全身は毛皮とやわらかな
ほお
なめし革とですっぽりくるまれている。まつげや頰やくちびるに
は、吐いた息が凍りついて結晶となり、それが顔面をすっかりおお
っているため、顔だちの見分けすらつかない。おかげでふたりは、
なにやら無気味な仮面劇の登場人物のようにも見える。どこぞの亡
霊の世界の葬儀屋として、なにかの妖怪の葬儀を取り仕切ってでも
いるかのような。とはいえそうした仮面を取り払ってしまえば、そ
の下にはまぎれもない人間の顔がある。この孤独とあざけりと静寂
の支配する土地に侵入してきて、壮大なる冒険と必死に取り組んで
いる、吹けば飛ぶような冒険家たち。宇宙の深淵にも似てよそよそ
しく、異質で、生気を感じさせないこの世界の力を相手に、なんと
か対抗しようとあがいている人間たち。
ふたりは黙々と歩みを進めていた。口をきけば息が切れるから、
よけいな口はきかずに、その力は体のために温存しておく。四方の
どちらを向いても静寂ばかり、それが有形の圧力よろしく、ひしひ
しと彼らに迫ってくる。深海のさまざまな要素が、ダイバーたちの
肉体に悪影響を及ぼすのとおなじに、その静寂はここでも男たちの
おか
精神を冒そうとしていた。それは果てしない虚無の空間と、動かし
がたい神意との重みをもって、彼らを押しつぶした。それは彼らを
押しつぶし、彼ら自身の心の奥の、そのまた奥までも彼らを追いこ
ぶ どう しぼ
んで、葡萄から果汁を搾るように、彼らのうちからあらゆる見せか
けの熱意と高揚と、さらには人間の心につきものの、根拠なき自負
心とを搾りだした。そうして搾りつくされたあげくに、ようやく彼
ちり ほこり
らがさとったのは、自分たちがほんの塵か埃の粒さながら、ちっぽ
けで限りのある存在にすぎず、それが、小器用さと浅知恵だけを頼
りに、壮大で容赦のない自然の力同士の作用と反作用のなかで、小
ずるくこそこそと立ちまわっているにすぎない、という事実なのだ
った。
こうして一時間が過ぎ、二時間が過ぎた。青白い光が薄れ、日の
照らぬ短い一日が暮れてゆこうとしていた。そのとき、かすかに遠
い叫びが一声、しんとした空気のなかに響きわたった。その声は急
速に高まって、じきに最高音にまで達すると、しばらくそこで緊張
をはらんだまま、ふるえつつ持続し、それから徐々に静まっていっ
た。もしもその声が、ある種の悲哀に満ちた荒々しさと、渇望にも
似たあこがれとを帯びていなかったなら、あるいはそれは、迷える
魂のすすり泣きとも聞こえたかもしれない。橇の先を行く男がふり
かえり、後ろの男と目が合うのを待った。それからふたりは、橇の
上の細長い箱ごしに、たがいにそっとうなずきあった。
やがて二度めの叫びが起こり、針のような鋭さであたりの静寂を
つんざいた。男たちはどちらも、その音の発している地点を聞きわ
けた。橇の後方、いましがた横切ってきたばかりの雪原のどこか
だ。つづいて三つめの声が、これまでの声に答えるかのように、あ
がった。これまた後方、二番めの叫びの左寄りの方角にあたる。
「おれたちのあとをつけてやがるな、ビル」と、前を行く男が言っ
た。
男の声はしゃがれて、不自然な響きがあった。どうやら、苦心し
てそれだけの言葉を絞りだしたらしい。
「肉が不足してるからな」と、相棒の男が答えた。「もう何日も、
兎の足跡ひとつ見かけねえ」
それきりもうふたりとも口はきかなかった。だが、聴覚はその後

も鋭敏に研ぎすまされ、後方で獲物をもとめる叫びが、何度となく
あがるのを聞きとっていた。
夜のとばりが降りると、ふたりは犬たちを水路のそばのちょっと
とう ひ
した
ひつぎ
唐檜の茂みへ導き、そこにキャンプを張った。橇から降ろした

柩は、焚き火の前に据えられ、椅子とテーブルがわりに用いられ
た。狼の血をひく犬たちは、焚き火の向こう側にかたまって、たが
こ ぜ
いに歯をむきだしてうなったり、小競り合いをくりかえしたりして
いたが、それでも、焚き火を離れて闇のかなたへさまよいでてゆこ
うとするそぶりは見せなかった。
「なあヘンリー、どうやらやつら、このキャンプのすぐ近くにいる
みてえだぜ」ビルが言った。
ヘンリーは焚き火の上にかがみこみ、氷片をひとつ入れたコーヒ
ーポットを火にかけながら、うなずいた。だが、すぐには答えず、
やっと口をひらいたのは、柩に腰をおろして、食事を始めてからの
ことだった。
「犬たちだって、どこにいれば無事かぐらいは心得てらァな。食わ
れるのよりは、食うほうがましだからな。あれでけっこう利口なん
だよ、犬ってやつは」
ビルはゆっくりかぶりをふった。「さあて、それはどうかな」
相棒は怪け げん訝そうにそんなビルを見やった。「はじめてだぜ、犬が
せりふ
利口じゃないなんて台詞、おまえの口から聞かされるのは」

「なあヘンリー」口に入れた豆をことさら意識的に音をたてて嚙み えさ
ながら、ビルは言った。「ひょっとしておまえ、さっきおれが餌を
やったときの犬たちの騒ぎっぷり、気がつかなかったか?」
「なんだか普段よりは騒ぎかたがひどいみたいだったな」ヘンリー
あいづち
が相槌を打つ。
「ひとつ聞くがよ、ヘンリー、おれたちの犬、ぜんぶで何頭い
る?」
「六頭さ」
「それなんだよな、ヘンリー……」ビルはちょっと間をおいた。こ
れから言おうとすることに、よりいっそうの重みを持たせるため
だ。「いまも言ってたように、犬は六頭いる。おれは袋から魚を六
匹とりだした。そしてそれを一匹ずつ犬たちに分けたんだが、ふと
気がつくとな、ヘンリー、魚が一匹足りねえんだ」
「数えまちがったんだろ」
「おれたちの犬はぜんぶで六頭いる」と、ビルは冷静にくりかえし
ワン=イア
た。「そしておれは、魚を六匹とりだした。ところが〈片 耳〉のや
つが、魚にありつきそこねたんだ。おれはあらためてあいつにやる
魚を、袋までとりにもどらなきゃならなかった」
「だけど、おれたちの犬は六頭だけだぜ」と、ヘンリー。
「いいかヘンリー」ビルはつづけた。「おれはな、そのぜんぶが犬
だったとは言わねえ。だけど、魚にありついたのは、たしかに七頭
だったんだ」
ヘンリーは食事の手を休めると、焚き火ごしに目をやって、犬の
頭数を数えた。
「いまは六頭しかいないぞ」と言う。
「さっき、べつの一頭のやつが、雪野原の向こうへ逃げてくのを見
たよ」ビルはあいかわらず冷静な口調で言いきった。「その前は、
たしかに七頭いるのを見たんだ」
相棒は憐れむような目つきでビルを見て、言った。「この旅が終
わったら、さぞかしほっとするだろうな、おれ」
「そりゃいってえどういう意味だ」ビルが詰問する。
「つまりおれに言わせれば、おれたちの背負いこんだこのお荷物
が、おまえの神経にさわりだしてるってことさ。それで、なにやら
ありもしないものまで見えるようになった、と」
「おれだってそう思ったさ、最初は」ビルが重々しく答えた。「だ
からよ、そのべつの一頭のやつが雪野原を逃げてくのを見たとき、
あたりの雪の上を確かめてみたんだ。そしたら、向こうへ消えてく
足跡が残ってた。なのに、もう一度、犬の数を数えてみると、やっ
ぱり六頭いるんだ。その足跡なら、いまもまだ雪の上に残ってる
よ。自分の目で見てみるか? いつでも案内してやるぜ」
そ しゃく
ヘンリーはそれには答えず、ただ黙々と咀 嚼をつづけた。やが
て、食事を終え、コーヒーの最後の一杯を飲んでしまうと、手の甲
ぬぐ
で口を拭い、それからおもむろに言った──
「すると、おまえの考えじゃ、その余分のやつが──」
ふいに、かなたの闇のどこかから、長くすすり泣くような叫び、
荒々しくも寂しげな叫びが起こって、ヘンリーの言葉をさえぎっ
た。彼は口をつぐんで、その声に耳をすまし、それから、あらため
てその叫びの聞こえるほうを手ぶりで示しながら、あとをつづけ
た。
「──やつらのうちのどれかだって言うのか?」
ビルはうなずいた。「たとえ化け物でもなんでも、それ以外のな
にかのほうが、よっぽどましだけどな。だがまあなんにせよ、さっ
きの犬たちの騒ぎっぷりは、おまえも見たとおりだ」
つぎからつぎへ、叫び声が湧き起こり、さらにはそれに答える叫
きょうそう
びもつづいて、あたりの静寂は狂 躁的な騒乱の場と化しつつあっ
た。四方八方から声があがるのを聞くうちに、犬たちもしだいに恐
怖をあらわにして、いよいよ近々と焚き火に身を寄せてき、ついに

はあまりに近づきすぎて、熱で被毛を
まき
焦がしてしまうほどだった。
ビルはさらに何本か薪をくべたし、それからパイプに火をつけた。
「さっきから見てると、おまえ、なんだかだいぶ気がめいってるみ
たいだな」ヘンリーが言う。
「なあヘンリー……」ビルはしばらく物思いにふける面持ちでパイ
プをふかしていたが、やがてつづけた。「じつはなヘンリー、お
れ、なんとなくこんなことを考えてたのさ
ご じん
──ひょっとして、おまえ
やおれなんかより、この御仁のほうがよっぽど運がいいんじゃねえ
か、って」
彼が親指を下に向けて指し示したのは、自分たちが腰かけている
柩のなかの、三人めの男のことだった。
「だってよ、ヘンリー、おまえにしろおれにしろ、いずれどこかで
くたばったとき、犬どもを寄せつけねえだけの石を死体の上に積み
あげてもらえたら、それだけでもめっけもんってものだぜ」
「あいにくおれたちにゃ、この御仁とちがって、それだけの人手
も、金も、ほかのなにやらかにやらも、なんにもありゃしないもん
な」ヘンリーも調子を合わせた。「要するに、おまえやおれにとっ
ちゃ、こんな距離の長いとむら
弔いなんて、およそ別世界の夢物語だって
ことさ」

「それにしても、おれの解せねえのはよ、ヘンリー。いったい全
体、なんでこういう御仁がさ──自分の国にじっとしてりゃあ、なに
なに卿とかなんとか呼ばれて、食い物のことも、毛布のことなんか
も、なにひとつ気に病むことなんかねえご身分だってのによ。それ
がまたなんで、こんなへんぴな地の果てまでのこのこやってきて、
よけいなことに首をつっこまなきゃならねえのか──それがおれには
なんとも合点がいかねえのさ」
「そうよな。うちにじっとしてりゃ、結構なじいさんになるまで生
きていられただろうによ」ヘンリーもうなずく。
ビルはなにか言おうとして口をひらきかけたが、そこで気が変わ
った。そしてかわりにゆびさしたのは、周囲いたるところからひし
ひしと迫ってくる闇の壁だった。その完全な暗黒のなかには、もの
の形らしきものはなにも見てとれず、ただ、熱した石炭のように赤
く輝く一対の目が見えるだけだった。ヘンリーも無言であごをしゃ
くって、もうひとつべつの一対を、さらに三つめのそれを示してみ
せた。キャンプの周囲を、それら輝く目のかたちづくる輪が取り巻
いていた。ときおり、それら対になった目の一組が動いたり、消え
たりはするものの、すぐまたどこかに出現する。
このかんに、犬たちの動揺はしだいしだいにつのってきていた
が、そのうちついに発作的な恐怖にかられて、六頭がどっとばかり
に火のそばに殺到してき、男たちふたりの足もとで身をすくめた

り、這いつくばったりの騒ぎとなった。この混乱のさなかに、六頭
のうちの一頭が、焚き火のへりであお仰向けにころがり、熱さと恐怖と

でけたたましく鳴きたてる声と、焦げた被毛のにおいとが、あたり
をおおいつくした。この騒動は、周囲の目の壁にも影響を及ぼし、
それらはちょっとのあいだあわただしく右往左往したり、わずかに
後退する気配さえ見せたが、やがて犬たちが落ち着くと、それらも
また、もとどおりの輪にもどった。
「なあヘンリー、弾薬が尽きたのは、かえすがえすも不運だった
な」
ビルはパイプを吸いおわり、いまは相棒に手を貸して、食事前に
雪面に並べておいた唐檜の枝の上に、寝床がわりの毛皮と毛布をひ
ろげているところだった。ヘンリーはただ鼻を鳴らしただけで、そ
ひも と
のまま黙ってモカシンの紐を解きはじめた。
「弾は何発残ってると言ったっけ?」と、たずねる。
「三発だ」という返事。「これが三百だったらなあ。そしたらあい
つらに目に物見せてくれるんだが。ちくしょうめらが!」
そしてビルは腹だたしげに、赤く輝く目の輪にむかってこぶしを
ふり、それから自分もモカシンを脱ぐと、枝切れを支えに、それを
火の前にしっかり固定しはじめた。
「ついでに、この寒波もちっとばかりゆるんでくれればいいんだが
な」と、言葉をつづける。「もう二週間も、氷点下五十度の日ばか
りつづいてる。そもそもおれ、こんな旅に出てこなけりゃよかった
って、つくづくそう思うぜ、ヘンリー。どうもいやな感じがするん
だ。なんとなく、気分がすっきりしねえ。ついでに、もひとつおま
けに願うとすればよ、もうとっくにこんな旅が終わって、いまごろ
フォート・マッガリー
はおまえとふたり、マッガリー砦で火のそばに腰を据えて、カード
でもやっていられたらどんなによかったか、って──そう思うんだ」
ヘンリーはまた鼻を鳴らしただけで、黙って寝床に這いこんだ。
そのままうとうととしかけたとき、またも相棒の声に眠りを妨げら
れた。
「なあよう、ヘンリー、さっき忍びこんできて、魚を一匹せしめて
いったやつのことだけどさ──なんでうちの犬たちは、そいつを攻撃
しようとしなかったのかな? それがどうにも気になるんだ、おれ
は」
「おまえ、あれこれ気にしすぎだよ、ビル」と、眠たげな返事が返
ってきた。「いままでは、ぜんぜんそんなふうじゃなかったのに。
さあ、もういいから、黙って、寝ろって。朝になりゃ、気分もすっ
きりするさ。きっと胃の調子がよくないんだ。だからよけいなこと
ばかり気になるんだよ」
そして男たちは眠った──ふたり並んで、一枚の毛布を分けあい、
荒く息をつきながら。眠るうちに、焚き火の火は消えかかり、と同
時に、赤く輝く目の群れが、キャンプの周囲に張りめぐらした輪を
いっそう縮めてきた。犬たちはおびえて、かたく身を寄せあい、と
い かく
きおり赤い目のうちの一対がさらに距離を縮めてくると、威嚇する
ように歯をむきだしてうなった。一度はその声があまりに騒がしく
なり、そのためビルが目をさました。相棒の眠りを妨げないよう、
用心して寝床を抜けだした彼は、焚き火に新たな薪をくべたした。
火が勢いよく燃えはじめると、目の輪はいくらか後退した。彼は身
を寄せあっている犬たちのほうへなにげなく目をやり、それからそ
の目をこすって、もう一度よく見なおした。そのうえで、ふたたび
毛布にもぐりこんだ。
「ヘンリー。おいヘンリー」と、声をかける。
ヘンリーはいまいましげにうなりながら、眠りから覚醒への各段
階を順ぐりにたどった。それから、つっかかるように訊いた。「今
度はいったいなんだってんだ」
「なんでもねえよ」と、答えが返ってきた。「たださ、また犬が七
頭にふえたんだ。いま数えてみた」
そうか、わかった、と言いたげに、ヘンリーはひとつ鼻を鳴らし
たが、それもまた彼が眠りにひきこまれてゆくにつれ、いびきに変
わった。
あくる朝、先に起きだして、相棒を寝床からひっぱりだしたの
は、ヘンリーのほうだった。夜明けまではまだ三時間もあったが、
それでいて、時刻はすでに六時なのだった。暗いなかで、ヘンリー
は朝食の支度にかかり、かたやビルのほうは、夜具を丸めたり、橇
を仕立てる準備をしたりした。
と、とつぜん彼がたずねた。「なあヘンリー、犬は何頭だって言
ったっけ?」
「六頭だよ」
「ちがうな」と、勝ち誇ったような声。
「また七頭いるってのか?」ヘンリーがたずねる。
「いや、五頭だ。一頭いなくなった」
「ちくしょう!」
かっとしてそう叫ぶなり、ヘンリーは食事の支度をほうりだし
て、犬の数を数えにかかった。
「おまえの言うとおりだぜ、ビル」最後にそう結論する。
ファッティー
「〈肥っちょ〉がいなくなってる」
「あいつめ、いきなり走りだしたと思ったら、それこそ電光石火の
速さで消えちまった。煙みたいに消え失せる、ってやつだ」
「どっちみち、いまからじゃもうどうにもならん」ヘンリーが断を
くだす。「いまごろは、生きながら丸呑みにされてるところだろ
のど
う。やつらの喉を通っていきながら、さだめしきゃんきゃん鳴いて
たこったろうよ。ちくしょうめらが!」
「いつだって、ばかな犬だったけどな」と、ビル。
「けど、そんなふうにわざわざ自分から出かけてって、自殺するほ
どばかな犬ばかりじゃないだろうよ」ヘンリーは残ったチームの犬
たちを思案げな目で見まわした。その目は、瞬時にそれぞれの犬の
特質を見てとり、評価をくだした。「まあだいじょうぶだろう──ほ
かのやつは、どいつもそんなことはしそうもない」
こんぼう
「棍棒でひっぱたいたって、連中を焚き火のそばからひきはなすの
は無理だな」ビルも同意した。「どっちにしろ、おれなんざ最初か
らそう思ってたけど、ファッティーのやつにゃ、どこかしらおかし
なところがあったよ」
そしてこれが、〈北国〉のとある橇道で死んでいった、さる一頭
の犬のための墓碑銘だった。貧弱なものではあったが、さりとて、
ほかの多くの犬たちのための、多くの人間のための墓碑銘に比し
て、ひどく貧弱というわけでもなかった。
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雌狼
朝食がすみ、わずかばかりのキャンプ道具を橇にくくりつけてし
ぎょうあん
まうと、男たちは心地よい焚き火に背を向け、暁 闇のなかへと歩み
でていった。と、すぐさま、ずっとつきまとってきたあの荒々しく

も物悲しげな叫びが聞こえはじめた──闇と寒気を衝いて、たがいに
呼びかけ、呼びかえす、あの耳について離れぬ叫び。男たちの会話
は絶えた。日の出は朝の九時。日中には、南の空がほ んのり薔薇
色に染まり、真昼の太陽と、この北限の世界とのあいだに立ちはだ
かる大地の隆起を、くっきり浮かびあがらせた。けれども、その薔
薇色の光も、やがて急速に薄れていった。三時までは、灰色の昼の
せきばく
光がうっすら残っていたが、それもついに消えてゆくと、この寂寞
とした沈黙の荒野に、〈北極〉の夜のとばりがたれこめた。
闇が深くなるにつれ、右や左、あるいは後方から聞こえてくる、
ねら
獲物を狙う荒々しい叫びは、いよいよ間近に迫ってきた──一度なら
ず、それがあまりに近くなったりすると、あえぎつつ進む橇犬たち
のあいだを、恐怖が波のように走り抜けて、いっとき彼らを見さか
いのないパニックにおとしいれる、などといったこともあった。
一度、そうしたパニックがおさまって、ヘンリーとふたり、犬た
ちを引き革につなぎなおしているとき、ビルがぽつんともらした──
「なんとかあいつらがよそで獲物にありついて、こっちはあきらめ
てくれねえものかと思うよ」
「まったく、いらいらさせられるよな」と、ヘンリーも相槌を打
つ。
どちらもそれ以上は口をきかず、やがてその日もキャンプを張る
段どりになった。
ヘンリーは身をかがめて、ぐつぐつ煮たっている豆の鍋に氷片を
加えていたが、そのうち、いきなりどすんと音がして、ビルがなに
か叫ぶのが聞こえ、ついで犬たちのなかから、一声、鋭い苦痛のう
なりがあがったのに驚かされた。体を起こすのと同時に、なにやら
おぼろげな影がひとつ、すばやく雪野原を横ぎって、闇のかなたへ
と姿を消すのが目にはいった。ビルに視線を移すと、片手に頑丈な
しっ ぽ
棍棒を、もういっぽうの手には、干し鮭の半分、尻尾のついたのを
ぶらさげ、なかば勝ち誇ったような、なかばは落胆したようすで、
犬たちにかこまれて立っている。
「半分さらっていきやがった」と、ぼやく。「だけど、こっちもお
返しに一発、食らわしてやったからな。聞こえただろ、やつが悲鳴
をあげるのが?」
「どんなやつだった?」ヘンリーは訊いた。
「見えなかった。だけど、脚が四本あって、口があって、毛が長く
て、ざらにいる犬とおんなじさ」
「飼い馴らされた狼だな、きっと」
「なんにせよ、えらく馴れてやがることは確かだ。犬に餌をやる時
間を狙っては、こっそりやってきて、魚の分け前をせしめようって
いうんだから」
その夜は、夕食が終わり、ふたりの男が細長い箱に腰かけて、パ
イプをふかすころになると、赤く輝く目の壁は、前夜よりもいっそ
う近々と輪を縮めてきた。
ム ー ス
「やつらがへらじかの群れでも見つけて、そっちを追いかけてって
くれねえものかな──こっちのことは忘れてよ」と、ビルが言う。
ヘンリーは鼻を鳴らしたが、その調子は必ずしも、ビルの言うこ
とに同感だというわけでもなさそうだった。そのあともさらに十五
分ほど、ふたりは黙ってそこにすわり、ヘンリーは焚き火の火を、
ビルは火明かりのすぐ外側の闇できらめいている、赤い目の輪を見
つめていた。
「いまごろマッガリーへ乗りこんでくところだったら、どんなにい
いだろうかな」またしてもビルのぼやきが始まった。
﹅ ﹅ ﹅
「いいかげんにしろ、こうだといいとかなんとか、無駄なごたくば
かり並べるのは」たまりかねて、ヘンリーが怒声をあげた。「おま
じゅうそう ひと
え、消化不良なんだよ。それで胃の調子がへんなんだ。
さじ
重 曹でも一
匙、飲んどけ。そうすりゃ気分もすかっとして、もうちっとつきあ
いやすい相棒になるだろうぜ」
朝になるや、ヘンリーはビルの口から吐きだされるすさまじい悪
態の連発に、驚いて目をさました。かた片ひじ肘をついて身を起こし、相棒
のほうを見やると、ビルは、新たに薪をくべたした焚き火のそば
で、犬たちにかこまれて棒立ちになり、腹だたしげに顔をゆがめ
て、両手を高々とふりあげている。
「おい! 今度はいったいどうしたってんだ!」ヘンリーは呼びか
けた。
「〈フロッグ〉のやつがいなくなった」答えが返ってきた。
「まさか」
「いや、ほんとだとも」
ヘンリーは毛布からとびだすなり、犬たちに駆け寄った。そして
慎重にその数を数えると、相棒のそばへ行き、相棒といっしょにな
って、またも自分たちから一頭の犬を奪っていった〈荒野〉の力
じゅ そ
に、ありったけの呪詛の言葉を投げつけた。
最後にやっと、ビルが結論するように言った。「フロッグはチー
ムのなかでもいちばん強い犬だったのに」
「それに、けっしてばかな犬でもなかった」ヘンリーがつけたし
た。
かくして、わずか二日のあいだに、ふたつめの墓碑銘が記録され
たのだった。
重苦しい朝食が終わると、残った四頭の犬が橇につながれた。そ
の日もまた、これまでの日々のくりかえしだった。男たちはただ
黙々と、凍てついた地表を横ぎり、重い足をひきずって進んだ。あ
たりの静寂を破るものといえば、姿を見せぬままに後方からどこま
でも追いすがってくる、しつこい追跡者らの叫びだけだった。午後
のなかばに日が沈むのと同時に、追跡者らは例によって距離を縮め
てき、叫び声はいよいよ間近から聞こえはじめた。おびえて、興奮
しきった犬たちは、パニックに陥ったあげく、引き革をもつれさせ
てしまい、ふたりの男たちの気分をいっそうめいらせた。
その夜、ビルはある作業を終えて、すっくと立ちあがると、満足
げに言った。「さあて、これでもうおまえらばか犬どもも、手も足
も出ねえはずだぞ」
ヘンリーは食事の支度を中断して、ようすを見にいった。相棒は
犬たちを縛っていたが、それは、インディアン流に、棒を用いた縛
りかただった。それぞれの犬たちの首には、一定の長さの革紐が巻
かれていて、この革紐の、首にごく近い位置──犬がいくら首を曲げ
ても、歯の届かない位置──に、長さ四、五フィートの頑丈な棒がく
くりつけられている。さらに、棒のもういっぽうの端は、やはり革
紐を用いて、地面に打ちこんだ一本の杭にしっかり固定されてい
る。犬は、首に近いほうの棒の先端では、そこに結わえられた紐を
嚙み切ることはできない。いっぽう、棒の向こうの端だと、棒その
ものが邪魔をして、これまた先端に結ばれた紐には歯が届かない。
この仕掛けをよしとするように、ヘンリーはひとつうなずいてみ
せた。
「うん、ワン=イアめをつなぎとめておこうとすれば、これしか手
はなさそうだ」と言う。「こいつときたら、どんな革紐でも、ナイ
フそこのけにすっぱり嚙み切っちまうからな──しかも、ナイフの半
分の時間でだ。だがこの仕掛けならば、朝になっても、残った犬た
ちは、みんなここでぴんぴんしてるだろうぜ」
「ああ、そうともさ」と、ビルも相槌を打つ。「万一、朝になっ
て、一頭でも姿が見えなくなってたら、おれ、コーヒー断ちをして
みせるよ」
やがて就寝時間になると、ヘンリーは周囲をとりかこんでいる燃
える目の壁をゆびさしながら言った。「やつら、知ってやがるん
だ、おれたちにゃやつらを撃ち殺すだけの弾がないってことを。ほ
んの二発もやつらのどまんなかに撃ちこんでやりゃ、ここまでなめ
た真似をされることもないだろうによ。一晩ごとに近づいてきやが
るじゃないか。ほら、火明かりを避けて、よく見てみな──あそこ
だ! いまのやつ、見えたか?」
それからしばらくふたりの男は、まるで競いあうように、炎の照
り返しのわずかに届かぬあたりを動きまわる、おぼろげな影を数え
あげて過ごした。闇のなかで一対の目が光っているあたりをじっと
注視していると、徐々にその目を持つけものの姿が浮かびあがって
くる。ときおり、それらの影がひっそり動くのすら見てとることが
できる。
と、犬たちのあいだでなにか物音がして、男たちの注意をひい
た。ワン=イアが妙にせきこんだ、せっつくような調子で鼻を鳴ら
しながら、闇の奥へむけて棒の長さいっぱいに突進してゆこうと
し、途中でそれを断念しては、体の自由を奪っている棒にむかっ
て、物狂おしげに咬みついてゆく、といった動作をくりかえしてい
るのだ。
「おいビル、見ろよ、あれを」ヘンリーが声をひそめて言った。
焚き火の照り返しをまっこうから浴びつつ、いましも一頭の犬に
似たけものが、ひそやかな横歩きに似た動作で、すべるように姿を
あらわしたのだ。それは、警戒心と大胆さとが入りまじった動き
で、目では油断なくふたりの人間のほうをうかがいながら、そのく
せ注意はもっぱら犬たちに集中して、慎重に動いていた。ワン=イ
アがいきなり棒の長さぎりぎりまで体をのばし、せがむように鼻を
くんくん鳴らして、侵入者のほうへ近づこうとした。
「あのワン=イアのばか野郎、さほどこわがっちゃいねえみたいだ
が」ビルが小声で言った。
「あの狼、雌なんだ」ヘンリーがささやきかえした。「これで合点
がいったぜ、ファッティーやらフロッグやらが、手もなく誘いださ
おとり
れたそのわけが。あの雌は、群れ全体の囮役でさ。あいつが犬をお
びきだしたところへ、群れの残りのやつらがいっせいに襲いかかっ
て、有無をいわさず食いつくしちまうってわけだ」
焚き火がぱちぱちとはぜた。一本の薪が大きな音をたててはじ
け、ばらばらになった。その音を聞くや、その見慣れぬけものは身
をひるがえして、闇のかなたへ駆け去った。
「ヘンリー、もしかするとな」ビルが言った。
「もしかすると、なんなんだ?」
「いまのやつ、おれが棍棒でどやしつけてやった、あいつかもしれ
ねえ」
「まあその点はまず疑いあるまいよ」ヘンリーも答える。
「それにだ、ついでにはっきり言っとくけどさ」と、ビルは言葉を
つづけて、「いまのやつが焚き火にひどく馴れてやがるってこと、
う さん
どうも胡散くせえし、普通じゃねえって気がするんだ」
「たしかにな、まともな狼なら当然知ってるはずのこと以上に、あ
しゅこう
いつは人間のことをよく心得ていすぎる」ヘンリーも首肯した。
「犬に餌をやる時間を知ってて、そのときを狙って忍びこんでくる
んだからな。つまり、海千山千の狼ってわけだ」
「そういえば、以前、ヴィランじいさんの飼ってた犬が、狼の群れ
にまじって逃げたことがある」ビルがひとりごとのように言った。
「とうにそれを思いだしててもよかったのにな。なぜって、リト
ル・スティックの近くのムースの集まる草地で、群れのなかにいる
そいつを見つけて撃ち殺したの、このおれなんだから。それを聞い
てヴィランじいさんのやつ、赤んぼみたいに泣いたよ。いなくなっ
てから、もう三年もたってる、そう言ってたっけ。そのかんずっと
そいつ、狼にまじって生きてたんだな」
「おまえの言ってること、図星だと思うぜ、ビル。あの狼は、もと
もと犬なんだ。だから、これまでにも何度も人間の手から魚をもら
って、食ったことがあるのさ」
「いつか機会がありさえしたら、あの犬の化けた狼めを、おれがこ
の手でたたき殺してやる」ビルが宣言した。「もうこれ以上は、犬
をさらわれるわけにはいかねえからな」
「しかし、肝心の弾は三発しかないんだぜ」ヘンリーが指摘した。
「ぜったい撃ち損じねえ機会がくるまで待つさ」と、ビルは答え
た。
朝になると、ヘンリーは焚き火の火をかきたて、相棒のいびきを
伴奏に、朝食の支度を進めた。
支度ができると、ヘンリーは寝床から相棒をひきずりだし、声を
かけた。「あんまり気持ちよさそうに眠ってるんでね。起こすのに
忍びなかったぜ」
ビルは眠そうに食事にかかったが、ふと、コーヒーカップがから
なのに気づき、ポットをとろうとした。ところがポットは彼の手の
届かない、ヘンリーのすぐそばに置かれている。
「おいヘンリー。おまえ、なにか忘れてやしねえか?」やんわりと
そう非難する。
ヘンリーは顔をあげると、わざとらしく周囲を見まわすそぶりを
してから、首を横にふった。ビルは無言でからのカップを持ちあげ
てみせた。
「おまえに飲ますコーヒーはねえんだ」と、ヘンリー。
「品切れになったんじゃねえだろ?」ビルが心配そうに訊く。
「いんにゃ」
「消化によくねえって言いてえんじゃないよな?」
「いんにゃ」いきどお
ビルの顔が 憤 ろしげに紅潮した。
「だったら、なぜなんだ。ぜひともそのわけを聞かせてもらおうじ
ゃねえか」と、詰め寄る。
「〈スパンカー〉がいなくなった」ヘンリーが答える。
ビルは急ぐふうもなく、不運には慣れているといったあきらめき
ったようすで、首だけねじむけると、すわったその位置から犬たち
の頭数を数えた。
「どうしてこんなことがありうるんだ?」と、無表情に訊く。
ヘンリーは肩をすくめた。「知るもんか。ワン=イアめが紐を嚙
み切ってやったのでもないかぎりな。自分じゃ嚙み切れっこないん
だから──それだけは確かだ」
「あの罰当たり野郎めが」ビルはのろのろと重苦しく言った。内心
は怒りで煮えくりかえっているはずだが、それは毛筋ほども見せな
い。「自分の紐は嚙み切れねえからって、それでわざわざスパンカ
ーのを嚙み切って、逃がしてやるたァな。驚いたもんだぜ」
「まあな。いずれにしろ、スパンカーの苦しみはもう終わったって
わけだ。いまごろは二十頭からの狼の腹ンなかで、べつべつにそこ
らをはねまわってるこったろうよ」これが、最後に姿を消したその
橇犬への、ヘンリーなりの追悼の辞だった。「まあコーヒーを飲め
や、ビル」
だがビルはかぶりをふっただけだった。
「遠慮するなよ」ものやわらかにそう言いながら、ヘンリーはポッ
トを持ちあげてみせた。
けれどもビルはカップを脇へ押しやった。「いまさら飲んだら、
天罰がくだらァ。犬が一頭でも姿を消したら、コーヒーを断つ、そ
うおれは言った。だから飲まねえ」
「めっぽううまいコーヒーだぜ」ヘンリーはなおも気をひくように
言う。
だがビルはかたくなだった。飲み物なしで朝食をとり、いっさい
合財をワン=イアの演じた離れ業への、押し殺した悪態とともに飲
みこんだ。
まもなく出発する段どりになると、ビルは言った。「今夜は犬た
ちがおたがい手出しのできねえように、一頭ずつ、距離をおいてつ
なぐことにする」
歩きだしてから百ヤードも行かないうちだった。先を行くヘンリ
ーがふと立ち止まると、かがみこんで、自分のかんじきが踏みつけ
たあるものを拾いあげた。暗くてよくは見えないが、手ざわりでな
にかはわかった。彼はそれを後ろへむけてほうり、それは橇にあた
ってとんとんとはねかえると、後方からくるビルのかんじきにぶつ
かって、止まった。
「今夜の作業で必要になるかもな」と、ヘンリーは言った。
ビルは驚きの声をあげた。それはスパンカーの遺した唯一の品だ
った──彼を杭に縛りつけていた棒だ。
「やっこさんの皮からなにから、まるごと食っちまいやがったんだ
な」と、所見を述べる。「この棒、つるつるのすべすべだ。両端の
革紐まで食われてる。それほど腹をすかせてやがるってこった。な
あヘンリー、思うに、この旅が終わるころにゃ、おまえもおれも、
え じき
そろってやつらの餌食になっちまってるかもしれねえな」
ヘンリーは不敵に高笑いした。「こんなふうに、しつこく狼ども
に追われるのこそ、はじめてにしてもだ。もっとはるかにひどい目
にだって、おれは何度も出あってきてるし、それでもこうして生き
のびてきてる。まあこのおれさまをやっつけようとすれば、あんな

瘦せ狼ども、それこそ束になってかかってこなきゃなるまいよ。な
あそうだろうが、ビル?」
「さて、それはどうかな。なんとも言えねえ」ビルは不穏な調子で
つぶやく。
「まあいい。無事にマッガリーにたどりつけば、おまえにもわかる
さ」
「おれはそこまで強気にゃなれねえんだ」ビルはなおも言い張る。
「おまえ、顔色が悪いぞ。それで弱気の虫が出るんだ」ヘンリーは
おっかぶせるように言ってのける。「いいか、おまえに必要なの
は、マラリアの特効薬だよ。まあ待ってろ──マッガリーに着いた
ら、すぐにでもげっぷが出るほど飲ませてやるから」
相棒のその見立てが不服らしく、ビルはふんと鼻を鳴らしただけ
で、それきり黙りこんだ。その日もまた、いままでと変わらぬ一日
であった。九時になって、やっと明るくなり、十二時にはその見え
ざる太陽によって、南の地平線がほんのり暖められはしたものの、
すぐまた冷たい灰色の午後が──いずれ三時間後には、夜の闇に溶け
こんでゆくはずの午後が──始まった。
地平線から顔を出そうと、太陽がひとしきりむなしい努力をし
た、その直後に、ビルが橇の荷をくくったロープの下から、そっと
ライフルを抜きとって、言った──
「おまえはこのまま進んでくれ、ヘンリー。おれはちょっとやつら
のようすをさぐってくるから」
「なるべく橇から離れないほうがいいぞ」と、相棒は異を唱えた。
「なにしろ弾は三発しかないんだし、いつなにが起こるかわからな
いんだからな」
「今度はそっちが泣き言を言う番かよ」ビルは勝ち誇ったように言
いかえす。
ヘンリーはそれには答えず、そのままひとり重い足どりで進みつ
づけたが、それでもたびたび後ろをふりかえっては、相棒が姿を消
した灰色のひろがりのかなたを、気づかわしげにながめやった。一
時間後、橇が大まわりせねばならなかった箇所をまっすぐにつっき
って、ビルが追いついてきた。
「大きく散開して、広い範囲をうろつきながら進んでやがる」と、
報告する。「つまり、おれたちとつかず離れずしながら、同時にほ
かの獲物も探してるってこった。いいか、やつらはまちげえなくお
れたちを仕留めようとしてる。ただ、それには時機を待たなきゃな
らねえってことも心得てるから、それまでは、てっとりばやく手に
はいるもので、食えるものならば、なんだってものにしようってェ
算段なのさ」
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
「まちがいなくおれたちを仕留めるつもりで いる、ってことだ
ろ?」ヘンリーがわざとらしく指摘した。
だがビルはそれを聞き流した。「何頭か、この目で見かけたが、
どいつもえらく瘦せこけてる。もう何週間も、なにひとつ食っちゃ
いねえんだろう。ファッティーとフロッグとスパンカーのほかに
は、ってことだが、なんにしろあれだけたくさんの群れだから、そ
れだけじゃとうてい全体には行きわたらなかったろうな。とにか
く、おっそろしく瘦せこけてる。あばら骨は洗濯板みてえだし、腹
はぺったり背骨に貼りついちまってる。かなりせっぱつまってるの
は確かだな。そのうちいよいよ狂いだすかもしれねえ。用心するに
越したことはねえぜ」
それから数分後、いまは橇の後ろを進んでいるヘンリーが、低
く、警告するような口笛を吹いた。ビルはふりかえってみ、それか
ら静かに犬たちを停めた。橇の後方、いましがた通ってきたばかり
の道の曲がり目を早足にまわって、視界のなかにはっきり姿を見せ
たもの、それは忍びやかに動く一頭のけものだった。鼻を橇道にす
りよせつつ、一風変わった、すべるような、楽々とした足どりで小
走りに近づいてきたが、こちらが止まると、向こうも立ち止まり、
頭を高くふりあげた。そして、こちらのにおいを嗅ぎ、そのにおい
を吟味するかのように、鼻孔をひくひくさせながら、じっとこちら
の一行を見据えてきた。
「例の雌狼だ」ビルが小声で言った。
犬たちはさっさと雪上に寝そべっていたが、ビルはそのかたわら
を通り抜けて、相棒のいる橇のところまでひきかえした。そしてふ
たり並んでそこに立ち、その不思議なけものを見まもった──これま
で何日も自分たちにつきまとい、すでに橇犬チームの半数に破滅を
もたらしたやつ。
しばしさぐるようにじっと見つめてきたそのすえに、けものは小
走りに数歩、前へ出た。何度かおなじことがくりかえされ、ついに
ひ が
彼我の距離は百ヤードたらずまで縮まった。やがて立ち止まったそ
いつは、一群れのとう唐檜の木立を
ひ たて
楯にとるようにしながら、頭をあげ
て、視覚と聴覚の両方で、自分を見まもっている人間どもの装備を
値踏みした。そいつが男たちを見る目つきには、どこか犬のそれに
似た、妙に訴えかけるようなところがあったが、それでいて、その
訴えかけるような表情には、犬のそれのような情愛は、これっぽっ
ちもうかがえない。それはいってみれば飢餓感から生じる渇望であ
かん き
り、そいつ自身の牙とおなじく、残忍で、かつ寒気そのものにも劣
らず非情なものなのだった。
狼にしては、大きな体つきだった。瘦せこけているのに、その体
の線は、同族のなかでも最大級の体格であることを、はっきり示し
ている。
「肩の高さが二フィート半近くはあるぜ」と、ヘンリーが論評し
た。「それに、体長だって、五フィートそこそこあることは確か
だ」
「毛色も狼にしちゃ変わってるな」と、これはビルの評言。「赤い
狼なんて、はじめてお目にかかるぜ。おれにゃああれ、シナモン色
にさえ見える」
実際には、シナモン色つまり赤褐色などではけっしてなかった。
毛並みはまさしく本物の狼の毛色。なかでももっとも色味の濃いの
は灰色だが、それでいて、その灰色のどこかに、かすかに赤みがか
った色あいがまじっている。不思議なのはその色あいで、それがあ
らわれたり、また消えたり、なにやら目の錯覚のように、いまのい
ままで灰色だった、まぎれもない灰色だったかと思えば、つぎには
ふたたびある種のぼんやり赤みがかった色調──通常の経験にもとづ
く表現では、分類することすら不可能な色調──を、それとなくちら
つかせ、きらめかせる、といった感じなのだ。
「どこから見ても、でけえ橇犬のエスキモー犬みたいだけどな」ビ
ルが言った。「かりにあいつが尻尾をふってみせたって、ちっとも
意外じゃねえぜ」そしていきなり声をはりあげて、「おおい、そこ
のでけえの!」と、呼ぶ。「こっちへきやがれ。おまえ、名前はな
んてんだ?」
「ちっともおまえのこと、こわがっていないみたいだぜ」ヘンリー
が笑った。
ビルはそのけものにむかって脅すように手をふり、声高に呼ん
だ。けれどもそいつはすこしもひるむようすを見せない。男たちの
目にとまった変化といえば、警戒の色がむしろ強まったということ
だけだ。依然として、飢えからくる容赦のない渇望の目で、ふたり
を見つめている。ふたりは肉にほかならず、しかも向こうは飢えき
っている。きっかけさえあれば、勇んで踏みこんできて、ふたりを
食いにかかるだろう。
「まあ聞いてくれ、ヘンリー」ふと思いついたことがあって、知ら
ずしらず声をひそめながら、ビルは言った。「弾は三発しかねえ。
しかしいまならば、撃てば必ず当たる。はずれっこねえんだ。あの
狼めは、すでに三頭もおれたちの犬をおびきだしやがった。どこか
で歯止めをかけなきゃならねえ。なあ、そうだろ?」
ヘンリーはうなずいて同意を示した。橇の荷にかけたロープの下
から、ビルは慎重に銃を抜きとった。銃はそろそろと彼の肩の高さ
まであがりかけたが、ついにそこに達することはなかった。という
のも、とたんに雌狼がひらりと橇道から横に跳んで、かたわらの唐
檜の木立へと姿を消したからだ。
ふたりの男は顔を見あわせた。納得がいったとでも言いたげに、
ヘンリーがひゅうっと口笛を吹き鳴らした。
「おおかた予想がついててもよかったのにな」ビルは自嘲の言葉を
もらして、銃をもとの場所にもどした。「犬に餌をやる時間を心得
てて、ちゃっかりその時間に忍びこんでくるほどの利口者なんだ。
鉄砲のことぐれえ、とうにお見通しだって不思議はねえや。言っとやっ
くけどな、ヘンリー、あの罰当たりめこそ、おれたちにあらゆる
かいごと

介事をもたらした元凶だぜ。あいつさえいなけりゃ、いまおれたち
は三頭だけでなく、六頭の橇犬を連れてたはずなんだから。いいか
ヘンリー、いまここではっきり言っておく。おれはなんとしてでも
あいつをやっつけてやるぞ。利口なやつだから、見通しのきく場所
で撃つのはむずかしい。だけどおれは待ち伏せしてやるつもりなん
やぶ
だ。藪に隠れて、奇襲をかけてやるのさ」
「それはいいけど、うかうかと遠くまで出かけてくのはよしたほう
がいいぞ」相棒が警告を発した。「万が一、群れがいっせいに襲い
かかってきでもしてみろ。三発ぐらいの弾、あってないようなもの
だ。とにかくあいつらは、おそろしく飢えてる。いったん襲ってく
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
る気になられたら、まず確実におだぶつだからな、ビル」
その夜は早めにキャンプを張った。橇犬三頭だけでは、六頭のチ
ームほど速くは橇をひけないし、長時間、ひくのも無理だ。だいい
ち、犬たちは明らかにへばりかけている。だから、男たちも早々に
寝についたが、ビルはその前にまず犬たちを一頭ずつ離し、たがい
に革紐を嚙み切れないだけの距離をおいて、つないだ。
けれども、狼の群れはしだいに大胆になってきていて、男たちは
一度ならず眠りを妨げられた。つい目と鼻の先まで狼どもが迫って
くるので、犬たちは恐怖のあまり気も狂わんばかり。そのため、た
びたび起きだして、新たに焚き火の火をかきたて、その大胆不敵な
略奪者どもを、危険のない距離まで追い払ってやらねばならない。
一度、そうやって焚き火に薪をくべたしたあと、また毛布にもぐ
りこみながらビルが言った。「さめ鮫が船のあとをつけてくるって話
を、いつか船乗りから聞いたことがあるけどさ。まったく、あの狼
どもときたら、まさに陸の鮫だぜ。やるべきことは、おれたちより
もよっぽどよく心得てやがるし、しかもこうやってどこまでもおれ
たちにつきまとってくるのだって、けっして物好きでやってるわけ
じゃねえ。なにがなんでも、おれたちを餌食にするつもりなんだ。
ぜったいにおれたちを取り逃がすつもりなんかねえんだよ、ヘンリ
ー」
「そういう口をきいてるようじゃ、もうおまえも半分がた食われち
まったようなもんだぜ」ヘンリーがけわしくやりかえした。「人
間、やられたと口に出したら、すでに半分やられちまってるのさ。
だからおまえだって、その口ぶりからすれば、もう半分は食われち
まってるのもおなじだ」
「おまえやおれなんかより、もっとましな男たちだって、かたづけ
やがったんだぜ、やつらは」と、ビル。
「くそっ、泣き言はやめろと言ったら。聞いてるだけでうんざりし
てくらァ」
ヘンリーは腹だたしげに寝返りを打ち、背を向けたが、意外にも
かんしゃく
ビルは、負けじと癇 癪をぶつけてこようとはしなかった。これはビ
ルらしくもないことだった。普段なら、荒い言葉を向けられると、
たちまちかっとなってやりかえすたちなのだから。眠りに落ちる前
に、ヘンリーは長いことそれについて思いめぐらしていたが、やが
てようやくまぶたがひくひくして、まどろみにひきこまれていっ
た。最後に彼の頭にあったのは、こんな考えだった──「どう考えて
みても、やっぱりビルはひどくまいってる。あしたになったら、な
んとか元気づけてやらなきゃならんな」
OceanofPDF.com
飢えの叫び
その日の出だしは、ひとまずさい幸さき先がよかった。夜のうちに犬が姿
を消すということもなく、朝とともに勢いよく橇をひきだし、静寂
と、闇と、寒気とのなかへのりだしていったときには、男たちはど
ちらもけっこう明るい気分だった。ビルは前夜の不吉な予言など忘
みちわる
れたかのようだったし、ちょうど昼ごろ、とある道悪の箇所で、う
っかり橇を転覆させてしまったときにも、犬たちにむかっておどけ
てみせたほどだった。
それにしても、始末に負えない騒ぎだった。さかさまになった橇
が、そばの木の幹と、大きな岩とのあいだにはまりこんでしまい、
事態を収拾するのに、いったん犬たちを引き革から解き放たねばな
らなかった。橇の上にかがみこみ、なんとかそれを引き起こそうと
しているさなかに、ワン=イアが横歩きにそっと逃げだそうとして
いるのをヘンリーが目にとめた。
身を起こして、そのほうへ向きなおりながら、彼は叫んだ。「お
い、こら、ワン=イア、どこへ行く!」
けれどもワン=イアは引き革を後ろにひきずったまま、ぱっと雪
原を横切って駆けだした。そしてその向こう、いま一行が通ってき
た雪の道に、あの雌狼が姿をあらわし、ワン=イアを待っている。
距離が縮まるにつれて、ワン=イアは急に慎重になった。歩調をゆ
るめて、警戒ぎみの、気どった足どりになり、やがて完全に立ち止
まった。そしてそのままの位置から、用心ぶかく、疑うように、そ
のくせひどく物欲しげに、雌狼を見つめた。雌狼は彼にほほえみか
けたようだった。威嚇的にというよりは、むしろ迎合するように、
そっくり歯をむきだしてみせると、じゃれかかるように数歩、ワン
=イアのほうへ近づき、それから立ち止まった。ワン=イアは、な
おも警戒ぎみの、用心ぶかい態度をくずさず、尾と耳をぴんと立
て、頭を高くもたげて、じりっと彼女のほうへ近づいた。
か こ
雌狼の鼻を嗅ごうとするワン=イアにたいして、彼女は媚びを含
んだしぐさで、誘いかけるように後ろへさがった。ワン=イアがす
こし進みでるたびに、向こうもおなじだけ後退する。そうして一歩
また一歩、彼女はワン=イアをおびきよせて、人間の同行者という
安全域から彼を引き離していった。途中で一度、なにかの警戒信号
が漠然とながら頭をよぎったのか、ワン=イアは首だけこちらへね
じむけて、転覆した橇や、仲間の犬たち、そして懸命に自分に呼び
かけているふたりの男たちをふりかえった。
けれども、どんな警戒信号がその頭に浮かびつつあったにせよ、
それは雌狼によってあえなく消散させられてしまった。彼女はずい
とワン=イアに歩み寄るなり、一瞬だけ鼻面を嗅ぎあうしぐさをし
たが、すぐにまた、誘いかけるような後退をくりかえして、新たに
前進を始めた彼の前から遠ざかろうとする。
いっぽうこのかんに、ビルは銃のことを思いだしてはいた。とこ
ろがそれは、転覆した橇の下敷きになっていて、どうにかヘンリー
の手を借りてそれをひきだしたときには、ワン=イアと雌狼がたが
いに近づきすぎているうえ、そこまでの距離が遠すぎて、とうてい
射撃に踏みきる気にはなれなかった。
遅まきながら、ここでようやくワン=イアが、自分のまちがいに
気づいた。ふたりの男には、すぐにはその意味が解せなかったが、
それでもワン=イアがふいに身をひるがえして、こちらへ駆けもど
ろうとするのは見てとれた。と、そこで目にはいったのが、横手の
雪原から、この橇道にたいして直角に、ワン=イアの退路を断つか
たちで突進してくる、十頭余りの瘦せた、灰色の狼。一瞬にして、
雌狼のそれまで見せていた恥じらいや、じゃれかかるようなしぐさ
はけしとび、鋭く一声うなるなり、まっすぐワン=イアに襲いかか
った。ワン=イアは肩をひとゆすりして彼女をはねとばしはした
が、行く手はさえぎられている。それでもなんとか橇に帰り着きた
う かい
い、その一心で、いきなり方向を変えると、迂回して橇にたどりつ
こうとしはじめた。だが、そうするうちにも、追跡に加わる狼の数
は、刻々とふえてくる。雌狼もワン=イアのほんの一歩だけ後ろ
を、彼にひけをとらないスピードで追いすがってくる。
「おい、どこへ行く」ふいにヘンリーがそう詰問して、相棒の腕に
片手をかけた。
ビルはその手をふりはらった。「もう我慢できねえ。おれがつい
てるかぎり、もうこれ以上、やつらに犬を奪われてたまるか」
かんぼく
銃を手に、ビルは橇道をふちどる灌木の茂みへとびこんでいっ
た。彼の狙いは明白だった。橇をワン=イアのまわっている円の中
心として、その円のどこか一点で、追跡者どもの先まわりをし、そ
こに突破口をひらいてやろうというのだ。銃を持っているうえ、真
っ昼間のことでもあり、うまくいけば狼どもをひるませて、ワン=
イアを救ってやれるかもしれない。
「おい、ビル!」ヘンリーは後ろから呼びかけた。「くれぐれも気
をつけろよ! 無理するんじゃないぞ!」
そうして彼は橇に腰をおろし、情勢を見まもることにした。そう
する以外、どうすることもできなかった。ビルの姿はとうに視界か
ら消えていたが、それでもワン=イアのほうは、ときおり下生えの
とう ひ
茂みや、散在する唐檜の木立を通して、ちらちらと姿が見え隠れし
ていた。ヘンリーの見たところ、あいにくワン=イアには勝ち目は
なさそうだった。身の危険を感じてか、まさに全身の神経をそばだ
てて走りまわってはいるものの、彼が円の外側を大まわりしている
のにたいし、狼の群れは内側の、より短い円周をまわっているのだ
から。万が一にもワン=イアが、追跡者どもを大きく引き離し、敵
に先んじてその内側の円を突破できる、そして橇にたどりつける、
そう期待するのは、いわば空中に楼閣を築くようなものだった。
そうこうするうち、そのふたつの異なる円が、急速にある一点に
むけて収縮していった。どこか雪原の向こうの、木立や藪にさえぎ
られてこちらからは見えないあたりで、狼の群れと、ワン=イア
と、そしてビルの三者が遭遇しようとしているのだ。と思うまもな
く、予想していたのよりずっと早く、それは起こった。まず銃声が
一発、さらに二発がたてつづけに聞こえて、これでビルの弾が尽き
たことがわかった。そのあと、いきなりわっとはじけんばかりに湧
き起こったのは、すさまじいうなり声と、ぎゃんぎゃん吠えたてる
声との交錯。そのなかにヘンリーは、ワン=イアの苦痛と恐怖の悲
鳴を聞きとり、さらに狼のほう咆こう哮──傷ついたけもののそれとわかる咆
哮──をも聞きつけた。だがそれだけだった。うなり声はやんでい
た。ぎゃんぎゃん吠えたてる騒ぎも静まった。せき寂ばく寞とした大地の上
に、ふたたび静寂がたれこめた。
長いことヘンリーは橇にすわったままでいた。わざわざ出向いて
いって、なにがあったのかを確かめるまでもなかった。あたかも眼
前で起きたことのように、事の次第は逐一のみこめた。一度だけ、
はっとしたように顔をあげ、急いで荷物をくくったロープの下から
おの
斧をひっぱりだしたが、にもかかわらず、そのあともまだしばらく
はそこにすわったまま、ぼんやり思案にふけりつづけ、生き残りの
二頭の犬たちも、その足もとに身をすりよせて、打ちふるえている
ばかりだった。
やがてようやく身を起こしたヘンリーは、まるで全身の柔軟性が
すっかり抜けでてしまったかのように、大儀そうに立ちあがって、
犬たちを橇につなぎにかかった。さらに、もう一本のロープを──人
間用の引き革として──自分の肩にかけ、犬たちとともに橇をひきだ
した。だが遠くまでは行かなかった。空が暗くなる気配が見えはじ
めるやいなや、あわただしくキャンプを張り、とりわけ手もとにお
びただしい薪を用意しておくことに気を配った。犬たちに餌を与
え、自分も夕食をととのえて、食べ、焚き火のすぐそばに寝床をし
つらえた。
けれども、その寝床で安楽に眠るというわけにはいかなかった。
目をとじるかとじないうちから、狼どもがすぐ間近まで輪を詰めて
きて、とうてい安楽を得られるどころではない。いまでは、目を凝
らすまでもなく、連中の影を見てとることができる。こちらのいる
焚き火の周囲を、ぐるりと小さな輪でかこみ、めいめい寝そべって
いたり、すわっていたり、長々と腹這いになっていたり、あるいは
こっそり前後に動きまわったりするようすが、焚き火の火明かりで
はっきり目にはいる。なかには、ずうずうしくも眠っているやつま
でいる。そこにも、ここにも、雪のなかに犬そっくりの姿勢で丸く
なり、こちらには望めぬ眠りをむさぼっている狼の姿が目につく。
彼は焚き火を赤々と燃やしつづけることに専念した。唯一、その
火だけが、こちらの体という肉と、狼どもの飢えた牙とをへだてて
くれているものなのだから。二頭の犬たちも、左右から近々と身を
すりよせ、保護をもとめてもたれかかってきながら、くんくん鳴い
たり、鼻を鳴らしたり、ときに切迫したうなり声をあげたりした。
狼のうちの一頭が、通常よりいくらか近くまで接近してきたとき
だ。そんなときには、犬たちがうなるのにつれて、周囲の群れ全体
にも興奮がひろがり、狼どもはてんでに立ちあがって、こちらの反
応をうかがうようにじわじわと前へ出てきながら、いっせいに歯を
むきだしてうなったり、じれったげにかんだかく鳴きたてたりす
る。だがそれも、しばらくするうちにはおさまって、立っていた狼
らもふたたび横になり、中断されたまどろみがそこここで再開され
る。
とはいえ、周囲のその狼どもには、なにかといえばこちらにむけ
て輪を縮めてこようとする気配があった。いちどきにほんのわずか
ずつ、一インチまた一インチ、こっちで一頭が腹這いのままずりっ
と前へ出ると、あっちでもべつの一頭が腹這いでにじりでる。その
うちには輪が徐々に縮まって、やがては、ほんの一跳びでこちらに
とびかかれる距離にまで迫ってくる。そこまでくると、こちらも焚
き火から燃え木をひっつかみ、群れにむかって投げつけることにな
る。そのたびに、敵はあわてふためいて後退するが、それに伴っ
て、怒って吠える声や、おびえたうなり声があがることもある。狙
いすました燃え木が、でしゃばりすぎた輪のなかの一頭に命中し
て、そいつの体を焦がしたのだ。
朝がきたが、そのころにはヘンリーも疲れきって、しょう
憔 すい悴し、眠り
たりぬ目だけをぎょろつかせていた。暗いなかで朝食をととのえ、
やがて九時になって、周囲が明るくなり、狼の群れが退いていった
ところで、長い夜のあいだに考えておいた計画を実行に移すことに

した。若木を何本か伐り倒して、それを組んで棚状の足場をつく
り、隣りあった二、三本の立ち木を利用して、幹の高い位置にそれ
をくくりつける。つづいて、橇の荷をくくったロープを引き揚げ索
がわりに用い、犬たちの力も借りて、積んでいた柩を、その樹上の
足場までひっぱりあげる。
「やつらはビルを食い殺しやがったし、このおれもいずれはやられ
るかもしれん。だがなあ、お若いの、あんただけはぜったいやつら
に食われるこたァないからな」樹上の墓所に置かれた遺体にむかっ
て、彼はそう声をかけた。
それから、橇をひいて歩きだした。軽くなった橇が、勇んで進む
はず
犬たちの背後で弾んだ。犬たちにも、助かる途はフォート・マッガ
リーにたどりつくことにしかないのはわかっているのだ。狼ども
は、いまではおおっぴらに追跡をかけてきている。後方から悠然た
る駆け足で追ってくるのもあれば、左右に大きく散開しながら追い
すがってくるのもある。赤い舌を長くたらし、瘦せた脇腹には、あ
ばら骨が体の動きにつれて、波打つように浮きあがる。どいつもこ
いつもひどく瘦せこけて、ごつごつした骨格に皮の袋を張っただけ
のようだし、筋肉も筋ばった腱にすぎない──実際、こんなに瘦せて
いて、よくまあ雪道のまんなかでばったり倒れこんだりもせず、こ
うして立ちつづけ、走りつづけていられるものだ。
ヘンリーとしても、あえて暗くなってからまで旅をつづける気は
なかった。その日は、真昼に太陽が南の地平線をほんのり暖めてく
れただけでなく、淡い金色のその上縁が、スカイラインの上にわず
かに顔をのぞかせさえした。このことは、ひとつの前兆と受け取れ
た。日が長くなってきている。太陽がもどってこようとしているの
だ。それでも、喜ばしいそのかすかな光明が消えてしまうやいな
や、彼はキャンプを設営しにかかった。その後もまだ数時間は、薄
ほのぐら たそがれ
暮の光と仄暗い黄昏のひとときがつづいたから、そのあいだを利用
して、大量の薪を伐ってきた。
夜とともに、恐怖が訪れた。飢えた狼の群れがいっそう大胆にな
ってきたのに加えて、睡眠不足がついにものをいいはじめたのだ。
焚き火のそばにうずくまり、肩には毛布をまとい、両膝のあいだに
は手斧、そして左右からは犬たちがぴったり身を寄せてくる、そん
な状況のなかで、彼はわれしらずうとうとした。一度、はっと目を
さますと、すぐ目の前、十フィート余りしか離れていないところ
に、一頭の大きな灰色の狼がいる。群れのうちでも最大級に数えら
れる一頭だ。しかも、そうしてこちらが見ているあいだに、そいつ
はわざとらしく伸びをした。ちょうどものぐさな犬がやるように、
ゆったりと大きく伸びをしてみせると、つづいて今度は正面からこ
ちらを見据えて、あくびをした。その目つきは、見るからに支配者
然としていて、さながら、いまはちょっとお預けを食ってるけど、
ほんとはおまえなど、じきにおれに食われることになってるんだか
らな、とでも言っているようだ。
じきに肉にありつけるというこの確信は、その一頭だけでなく、
群れ全体にあらわれていた。数えられるだけでも、優に二十頭はい
て、食いつきそうな目でこちらを見ていたり、かと思うと、ゆった
り構えて雪の上で寝ていたりする。そのようすから連想させられる
のは、ごちそうの並べられたテーブルの周囲に群がって、食べても
よいと許可が出るのを、いまや遅しと待ち構えている子供たちのグ
ループ。そして子供たちが食べようとしているそのごちそうこそ、
ほかでもないこの自分! その食事はいったいどのようにして、そ
していつ始まるのだろうか、そうヘンリーは思った。
焚き火に薪をくべたしながら、ふと彼が気づいたのは、これまで
感じたこともなかった自分の体のありがたみだった。自在に動く筋
肉を見まもって、彼はその精巧な造りに興味をそそられた。火明か
りを頼りに、ゆっくりと、くりかえし、指を曲げてみる。ときには
一本ずつ、ときにはぜんぶいっしょに。かと思うと、曲げた指をい
きなりぱっとひらいたり、すばやく握りしめてみたりする。爪の形
を観察し、指先をときに強く、ときに軽くつついてみては、神経作

用の生みだす間をはかる。そうした働きに心を奪われて、いま急に
彼は、自分のこの神秘的な肉体──こんなにも美しく、なめらかに、
精巧に動く肉体──が好きになってきた。だがそのいっぽうで、たび
たび彼の不安げなまなざしは、期待の色もあらわに周囲をとりまい
ている狼の輪のほうへと向けられる。そしてそのつど、さながら一
発どやしつけられたかのように、はっとしてさとるのだ。自分のこ
のすばらしい肉体、生きた肉であるこの体──だがこの体も、飢えき
ったけものらにとっては、まさしく肉以外のなにものでもなく、い
ずれ彼らの飢えた牙にかかって咬みちぎられ、引き裂かれ、ちょう
どムースや兎の肉がしばしばこの自分の食物となり、栄養物となる
ように、彼らにとっての栄養物となるはずの獲物にすぎないのだ、
と。
一度、なかば悪夢にも似たこうしたまどろみからさめてみると、
目の前に、あの赤みがかった毛色の雌狼がいた。ものの六フィート
と離れていないところで、雪の上に尻を落としてすわり、物思わし
げにこちらを見つめている。犬たちは二頭とも彼の足もとでくんく
ん鳴いたり、低くうなってみせたりしているが、彼女は犬たちには
目もくれない。ただ人間だけを見つめてき、しばらくはこちらも見
み じん
つめかえした。彼女の態度には、威嚇的なところは
うれ
微 塵もない。た
んに、深い憂いを含んだ目でこちらを見ているだけなのだが、彼に
はその憂いが、おなじくらい深い飢えに通じるものだとわかってい
る。つまるところ、こちらは餌食であって、その餌食を見ること
で、彼女のなかの味覚が刺激されるということなのだ。雌狼の口は
大きくひらき、そこから唾液がしたたりおちる。そして彼女は舌な
めずりして、あごをぺろりとなめた。
けいれん
と、ふいに、痙攣的な恐怖が彼の全身を走り抜けた。急いで燃え
木に手をのばし、投げつけようとしたが、こちらの手がのびて、指
が飛び道具をつかむかつかまぬうちに、雌狼はすばやくぱっととび
すさって、難をのがれた。してみると彼女、人間からものを投げつ
けられるのに慣れているらしい。とびすさりながら、白い牙を根も
とまでそっくりむきだして、威嚇的にうなってみせたが、そのとき
には、いましがたまでの憂わしげな表情はけしとび、かわって、肉
食獣の狂暴な殺意があらわれていて、彼をふるえあがらせた。ふ
と、燃え木をつかんだわが手を見おろしてみて、それを握った指の
繊細さと精巧な造り、そしてそれらがそのざらざらの薪の上から
下、周囲へとぐるりと巻きついて、木の表面の凹凸におのずと適応
している、そのみごとさに打たれた。とくに、五指のうちでも小指
は、握った位置が薪の燃えている箇所に近すぎるため、こうして見
やけど
ているうちにも、賢明にもぞもぞ動いて、うっかりすれば火傷しか
ねないその箇所から、ごく自然に遠ざかろうとしている。けれど
も、こうしたことを見てとるのとまったく同時に、いま眼前にまざ
まざと浮かんだかに思えたまぼろし、それは、そのおなじ繊細な、
鋭敏そのものの指が、眼前の雌狼の白い牙に嚙み砕かれ、引き裂か
れる光景だった。このときほど、彼が自分の体を愛おしく思ったこ
とはなかった──わが身の寿命がここまであやうくなろうとしてい
る、いまこのときほど。
そのあとも彼は、夜っぴて燃える薪を武器に、飢えた狼の群れを
撃退しつづけた。不覚にもうとうと眠りこんでしまったときには、
犬たちがくんくん鳴いたり、うなったりする気配で目をさました。
やがて朝がきたが、この日はじめて狼どもは、日の光がさしてきて
も、キャンプから立ち去ろうとしなかった。去るのを待ったが、無
駄だった。彼と焚き火のまわりをとりまいたまま、円陣を解こうと
ごうがん
せず、態度の端々に、いかにも所有者めいた傲岸さがちらついて、
朝の光とともに生まれた彼の勇気をくじけさせた。
せっぱつまった彼は、一度だけ、橇道へと出てゆくことを試み
ひ ご
た。だが、焚き火の庇護を離れるやいなや、いちばん大胆なやつが
すぐさまとびかかってきた。わずかに距離が足りず、どうにかとび
すさって、かわしはしたが、そいつのあごがかちっと音をたてたの
ふともも
は、こちらの太腿からほんの六インチたらずのところだった。群れ
の残りの連中も、ここでいっせいに立ちあがって、こちらへむかっ
て殺到してき、それをある程度の距離まで押しかえすためには、燃
まき
える薪ざっぽうを右に左に、手あたりしだいに投げつけねばならな
かった。
白昼にすら、焚き火を離れて、新たな薪を伐りにゆくのはむずか
しかった。二十フィートほど先に、枯れた唐檜の大木がそびえてい
た。半日かけて、すこしずつ焚き火をその木のそばまで移動させた
が、そのあいだもつねに、燃える小枝の束を五つ六つ手もとに用意
おこた
して、いつでも敵に投げつけられるように手配りを怠らなかった。
やがてようやく枯れ木にたどりつくと、周囲の木立を入念に観察し
た。薪がもっとも多く得られそうな方向へむけて、その枯れ木を倒
すためだった。
その晩も、前の晩のくりかえしだった。異なるのは、睡眠不足が
確実に限界に近づいてきているということだけだった。犬たちがう
なってくれても、効果はしだいに薄れてきていたし、おまけに、ひ
っきりなしにうなっているので、眠気に麻痺した彼の感覚では、も
はやその声の高低や、切迫性の変化は感じとれない。やがて、はっ
として目をさますと、例の雌狼が目の前一ヤードたらずのところに
いる。ごく間近なので、握っていた燃え木を投げつけるかわりに、
反射的にそれを、彼女の威嚇的にうなっている、ひらいた口のなか
へつっこんでやった。苦痛の叫びをあげて、彼女はとびすさった。
そして彼は、肉や毛の焼けるにおいのなか、彼女が二十フィートほ
ど離れたところまで退却して、しきりに首をふったり、憤怒のうな
かいさい
りを発したりしているのを、快哉を叫びつつ見まもった。
それでも、またうとうとと眠りこまないうちに、今度は燃えてい
る松の節を、われとわが右手にくくりつけることにした。いつしか
まぶたがとじてしまっても、ほんの数分もすれば、燃える節が手を
焦がして、いやでも目がさめる。それから数時間は、もっぱらこの
戦法に頼り、そうして目がさめるつど、燃え木を投げつけては狼を
撃退し、新たな薪を火にくべたし、松の節を手に縛りつけなおし
た。すべては狙いどおりだったが、そのうちついにある時点で、松
の節の縛りかたが万全ではなかったときがやってきた。まぶたがと
じるとまもなく、それが手からすべりおちた。
彼は夢を見た。どうやらフォート・マッガリーにいるみたいだ。
とりで
暖かくて、快適なかつてのその砦で、交易市場の仲買人とカードを
やっている。いっぽうまたそこは、囲いの外側をぐるりと狼の群れ
に包囲されているようでもある。狼どもは、囲いの木戸のすぐ前で
しきりに咆哮し、ときおり彼は仲買人とふたり、ゲームの手を休め
て聞き耳をたてては、なかに押し入ろうとする狼どもの無益な騒ぎ
をあざわらう。ところがそこで、これが夢の奇妙なところだが、だ
しぬけにがちゃんと大音響が響きわたる。入り口のドアが乱暴に押
しひらかれたのだ。砦の居間だったこの部屋に、狼どもが先を争っ
てなだれこんでこようとしている。彼らはまっしぐらにふたりの男
にとびかかってくる。扉があくのと同時に、ずっと聞こえていた咆
哮が一気に高まって、いまではそのやかましさがひどく耳につく。
夢がいつしかほかのなにかに変容しようとしている──なにかははっ
きりしない。だが、そのあいだもずっと、やかましい咆哮は彼を追
ってき、しつこく響きつづける。
と、そこでいきなり目がさめて、その咆哮が現実のものだったと
わかった。すさまじいうなり声と、ぎゃんぎゃん吠えたてる声。狼
どもが現実にもこちらへ殺到してこようとしている。そこらじゅう
に狼がひしめき、おおいかぶさってくる。なかの一頭が、腕に牙を
突きたててきた。本能的に身を躍らせて焚き火のなかにとびこんだ
が、跳んだとたんに、鋭い牙に脚の肉をざくりと咬み裂かれるのを
感じた。それからは、火を使っての肉弾戦となった。じょうぶなミ
トンがしばらくは手を保護してくれたので、真っ赤に焼けたおき燠火を


手ですくっては、四方八方に投げつけ、撒き散らし、ついには焚き
火が火山さながらの様相を呈するにいたった。
とはいえ、このまま長く持ちこたえられるはずもなかった。熱で
顔面には火ぶくれができ、眉もまつげも焦げ落ち、足も熱さに堪え
きれなくなってきた。両手に燃え木を一本ずつ握り、思いきって焚
き火のふちまでとびだした。狼どもは、やや離れたところへ後退し
ていた。周囲いたるところ、焼けた燠火が落ちた箇所で、雪がしゅ
うしゅうと音をたてているし、ときおり、あとずさりする狼の一頭
が、大きく跳びはねては、鼻を鳴らしたり、うなったりするのは、
そうした燠火のひとつを踏んづけたものと知れる。
いちばん手近の敵にそれぞれ両手の燃え木を投げつけておいてか
ら、彼はぶすぶすいぶるミトンを雪のなかにつっこみ、ついでに、
しばらくばたばた足踏みをくりかえして、足を冷やした。二頭の犬
はいなくなっていた。何日か前にファッティーから始まった長い食
事の一コースとして、彼らが食われてしまったことはわかりきって
いたし、あと数日もすれば、その最後のコースとして、この自分の
肉体が供されるだろうこともわかっている。
「まだおまえらに食われたりはしないぞ!」そう叫びながら、彼は
飢えたけものの群れにむかって荒々しくこぶしをふった。その声を
聞くや、群れ全体に新たな興奮が走った。いっせいにうなり声が湧
き起こり、例の雌狼はするすると雪面を横切って、すぐ間近まで寄
ってくると、飢えきった、物欲しげな目つきで、じっと彼を見つめ
た。
彼は新たに思いついた計画の実行にとりかかった。焚き火を延長
して、大きな円にし、その円のなかにうずくまったのだ。解けてく
る雪を防ぐため、下には寝具を敷いた。こうして彼の姿がこの炎の
楯に隠れてしまうと、群れの狼どもがこぞって不思議そうに焚き火
のきわまで近づいてき、標的がどうなったのかを見きわめようとし
た。これまではいつも、焚き火のために近づくことをあきらめてき
た彼らが、いまは、その外側に小さく円を描いてすわりこみ、いつ
にないその暖かさのなかで、多数の犬の群れよろしく、てんでにま
ばたきしたり、あくびをしたり、瘦せこけた体を思いきり伸ばした
りしている。そのうち、あの雌狼が尻を落としてすわると、鼻面で
星空をさしながら、遠吠えを始めた。一頭また一頭、ほかの狼もそ
れに和し、やがては群れ全体がそろって腰を落として、鼻先を天に
むけ、飢えの叫びをあげはじめた。
夜明けが訪れ、やがて昼がきた。焚き火の勢いは衰えはじめてい
た。くべたす薪も尽き、遠からず補充してくる必要があった。一
度、思いきって炎の楯の外へ踏みだそうとしてみたが、と見るや、
狼どもがどっとばかりに殺到してきた。燃え木を投げつけると、脇
へとびのきはするが、もはや後ろへとびすさることはない。なんと
か い
か押しかえそうと奮闘してみたが、甲斐はなかった。あきらめて、
ふたたび炎の輪のなかにうずくまったとたん、一頭の狼がいきなり
ひらりととびかかってき、狙いを誤って、四つ足ごと赤い燠火のな
かへ落ちた。そいつは恐怖の悲鳴をあげ、と同時に歯をむきだして
うなると、ころげるように退却して、雪で足を冷やしにかかった。
ヘンリーは毛布の上にすわって、うずくまった姿勢になった。体
を腰から前かがみにし、力の抜けた肩をだらりとさげ、頭は膝にも
たせかけている。その姿は、すでに闘いをあきらめたことを示して
いた。ときおりのろのろと顔をあげ、消えようとしている火を見や
る。炎と燠火とのつくりだす輪は、いまやあちこちでとぎれはじ
め、隙間が見えかけている。その隙間は徐々にひろがり、逆に、分
断された部分は縮まってゆくばかりだ。
「いまならいつだって食いにくるがいいぜ」と、彼は口のなかでつ
ぶやいた。「どっちにしろ、おれはもう寝かせてもらうから」
一度、ふと目をさますと、真正面の炎の輪の隙間から、まじろぎ
もせずこちらを見ている雌狼が目にはいった。
つぎにもう一度めざめたのは、それからすこしあとのことだった
が、彼には何時間もたってからのように思えた。なにやら不思議な
変化が起きていた──あまりに妙な変化なので、ショックを受けて、
はっと目がさめた。たしかになにかが起きている。はじめはわけが
わからなかった。それからやっと気がついた。狼どもが姿を消して
いる。踏みにじられた雪の上の跡だけが、どれほど間近まで彼らが
迫ってきていたかを示している。ここでまた、むらむらと眠気がふ
くれあがってきて、彼をつつみこみ、頭が膝へと落ちかけた。と、
そこで、今度こそぎくっとして、はっきり目がさめた。
聞こえる──ひとの叫び声、橇の揺れ、引き具のきしみ、さらに、
力をこめて橇をひく犬たちの、しきりに鼻を鳴らす声。四台の橇を
連ねた隊列が、川床から木立のなかのこのキャンプ地へとはいって
きた。五、六人の男たちが、消えかけた焚き火の輪の中心にうずく
まった男をとりまき、しきりに揺すったり、つついたりして、男を
正気に返らせようとした。男は泥酔した男のような目で彼らをなが
め、奇妙な、眠たげな口ぶりで、とりとめなくしゃべった──
「赤い雌狼……犬の餌の時間に割りこんできて……最初は犬の餌を
食って……つぎには犬たちを食って……そしてそのあとはビルのや
つを食って……」
「アルフレッド卿はどこだ!」男たちのひとりが、荒っぽく彼を揺
すりながら、その耳もとでどなった。
彼はのろのろと首を横にふった。「いや、あのひとまでは食われ
ちゃいねえ……このひとつ前にキャンプしたところで、木の上にい
る」
「亡くなったのか?」男が叫んだ。
「ああ、いまは箱ンなかだ」ヘンリーは答えると、うるさそうに肩
を動かして、痛いほど力をこめて握ってくる相手の手をふりはらっ
た。「なあ、頼むからほっといてくれないか……おれ、死ぬほどま
いってるんだ……お休み、みなの衆」
まぶたがひくひくし、とじられた。あごががくんと胸に落ちた。
男たちが毛布に寝かせて、姿勢を楽にしてやっているうちから、早
くもいびきが凍てついた大気をふるわせていた。
けれども、いままたそこに、べつの音が重なった。遠く、かすか
に、はるか遠方から響いてくるそれは、狼の群れの発する飢えの叫
びだった──たったいま取り逃がした人間ではなく、それとはまたべ
つの肉を追って走りはじめた狼たちの。
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荒野に生まれて
OceanofPDF.com
牙と牙の闘い
真っ先に人間の声と、しきりに鼻を鳴らす橇犬たちの気配を聞き
つけたのは、あの雌狼だった。そしてまた、真っ先に消えかけた炎
の輪のなかに追いつめられた人間から離れて、走り去ったのも、お
なじ雌狼だった。群れの狼たちは、せっかく追いつめた獲物をあき
らめるのを嫌って、なおしばらくぐずぐずと、その新たな音の正体
に耳をそばだてていたが、やがてようやく、先行する雌狼を追って
走りだした。
群れの先頭に立って走っているのは、大きな灰色の狼だった──何
頭かいる群れのリーダーのうちの一頭だ。雌狼のあとを追って走り
ながら、群れを先導して進むべき方向を教えるのは、この狼だっ
かっ き
た。群れのなかの若手メンバーが、客気にかられて彼を追い越そう
としたりすると、警告するようにうなってみせたり、牙を一閃させ
てそいつを咬み裂いたりするのも、この狼だったし、さらに、先を
行く雌狼が、いまではゆったりした速歩になって雪原を駆けている
のを認めるや、速度をあげて彼女に追いついていったのも、やはり
この狼だった。
やがて雌狼は歩調を落とすと、まるでそこが自分の定位置である
かのように、そのリーダー狼と並ぶ位置までき、群れとペースを合
わせて走りはじめた。たまに彼女の跳躍が大きすぎて、はからずも
リーダーより前に出てしまうことがあっても、彼はうなり声で彼女
を威嚇したり、歯をむきだしてみせたりすることはなかった。い
や、それどころか、その雌狼に好意すら持っているようだった──そ
れが露骨すぎて、むしろ雌狼がそれを迷惑がるほどに。というの
も、とかく彼は雌狼のすぐそばを走りたがったが、ときに近づきす
ぎると、彼女のほうが逆にうなり声を浴びせたり、歯をむきだして
みせたりすることがあったからだ。場合によっては、彼の肩を咬み
裂くことすら彼女はためらわなかった。そんなときでも、やられた
リーダーはいっこうに怒りを見せようとはしない。たんに脇にとび
のいて、あとは何歩かぎこちない跳躍で前へ歩を進めるだけ。その
しゃちこばった姿勢、かたくるしい足どりは、なにやら、赤っ恥を
かかされながらも、なんとか体面を保とうとしている田舎の若者そ
っくりだ。
このリーダーにとっては、こうして群れとともに走っているあい
やっかい
だ、これがひとつの厄介の種となっていた。だが雌狼にとっては、
ほかにも面倒なことがいろいろあった。リーダーとは反対の側を、
べつの瘦せこけた老狼が追ってくるのだ。毛並みには白い毛がちら
ほらとまじり、全身には歴戦の跡を示す傷跡。彼はつねに彼女の右
側を走ろうとした。目が片方しかなく、見えるのは左側だけだとい
う事実、それがこのかんの事情を物語ってくれるかもしれない。こ
の老狼もまた、隙さえあれば雌狼につきまとってこようとした。た
えず近々と身を寄せてきては、傷跡のある鼻面でちょいちょいと彼
女の脇腹や肩、首筋などに触れる。こうした干渉を受けるつど、雌
狼は左側を走るもう一頭の雄にたいしてとおなじく、牙をふるって
それをはねつけるが、左右の狼が同時にちょっかいを出してくる
と、両者のあいだでもみくちゃになった彼女は、すばやくがちがち
と左右へむけて牙をふるい、両方の求愛者たちをともに退けるいっ
ぽう、群れとともに走るペースも落とすまいと、前方をしかと見定
めつつ走りつづける。そのようなとき、両側を走る求愛者たちは、
彼女の背ごしにたがいに牙をひらめかせ、うなり声をあげて威嚇し
あう。一騎討ちになるやもしれぬ場面だが、いま彼らにのしかかっ
﹅ ﹅
ている、飢えというより切迫した重圧のもとでは、求愛も、雌をめ
ぐる争いも、しばし先送りにするしかない。
老狼は、欲望の対象である雌狼にはねつけられるつど、彼女の鋭
い牙を避けて急に進路を変え、そのため、再三、彼の見えない右側
を走っている三歳の若狼に肩をぶつけた。その若狼は、すでに完全
な成獣並みの体格を持ち、しかも、飢餓のために弱りきっている群
れの現状を考えると、平均以上の活力と生気をそなえていたが、に
もかかわらず、走るときには必ず頭を片目の老狼の肩と並べるよう
にしていた。ときたま、勢いがつきすぎて、胸が老狼の胸と並行す
る位置まできてしまうと(こういうことはめったになかったが)、
たちまち、うなり声を浴びせられ、咬みつかれて、もとどおり相手
の肩の位置まで後退させられる。それでも、ときによって、彼はな
にやら思惑ありげにゆっくりと後方までさがり、それから、じわじ
わと老狼と雌狼とのあいだに割りこもうとしはじめる。この策は、
老狼と雌狼、双方からの怒りを買うが、ときとしてそれが、三重の
怒りになることもある。雌狼が不快がってうなり声をあげると、老
狼がくるりと向きなおって、三歳狼に立ち向かってくるのだが、あ
るときは雌狼もそれに同調し、また場合によっては、彼女の左側の
若手のリーダーまでが、向きなおって、攻撃に参加することさえあ
るのだ。 どうもう
このようなとき、三組の獰猛な牙をそろえて向かってこられる
と、若狼はいきなり立ち止まり、すとんと腰を落として、前脚をつ
っぱり、くちびるを威嚇的にゆがめ、首毛を逆だてる。走っている
群れの先頭でこうした混乱が生じると、それはいつの場合も後方に
波及する。あとからきた狼たちが若狼に衝突し、不快感を示すため
に、彼の後脚や脇腹に思いきり咬みついてゆく。食べ物がなく、み
んな気が立っているおりだから、これは若狼の自業自得にほかなら
しょう こ
ないのだが、それでも、おのれの若さへの過信からか、彼は性 懲り
もなくおなじ策をくりかえそうとする。もっともそれは一度として
成功したためしがなく、たんに彼自身の失点になるだけであった
が。
食べ物さえあれば、求愛行動と雌をめぐる闘いは、もっと早い段
階で起きていたはずだし、それに伴って、群れの分裂も早まってい
ただろう。けれども、いま現在のこの群れをめぐる状況は、まさに
きょうこう
絶望的だった。長くつづいた凶 荒のために、群れの狼はみながりが
りに瘦せていた。走る速度も標準以下だった。群れの最後方では、
としよわ
弱いもの──年弱なものや、とりわけ高齢のもの──たちが、足をひ
きずってよろよろ進んでいたし、先頭には、もっとも強健なものた
ちがいた。とはいえ、その強健なものをも含めて、群れの全員が成
熟した狼というよりも、むしろ骸骨のように見えた。だが、骸骨の
ようでいながらなお、足をひきずっているものはべつとして、この
狼たちの動きは軽く、疲れを知らぬもののようだった。筋ばった筋
はがね
肉は、無尽蔵のエネルギーの源泉かとも思われた。鋼のような筋肉
の動きのそのかげに、べつの鋼のような動きがひそんでいたし、さ
らにそのかげにはまたべつの、またそのかげにはさらにべつの動き
があって、どこまでも際限なくつづいているようなのだった。よる

その日のうちに、群れは何十マイルもの距離を走破した。夜も、
夜を徹して駆けつづけた。翌日になっても、まだ走っていた。凍り
ついた死の世界の表面を、群れはどこまでも駆け通した。動くもの
の姿はなかった。彼らだけがこの果てしない、死んだ大地を横切っ
て動いていた。彼らだけが生きていた。そして彼らは、他の生き物
を探しもとめていた──それらをむさぼり食って、自らの命をつなぐ
ために。
低い分水嶺のいくつかを越え、とある低地に出て、十にも余る小
さな流れの周辺を探しまわったすえに、ようやく彼らの探索は報わ
れた。ムースに出くわしたのだ。それは彼らのはじめて見つけた巨
大な雄だった。ここにこそ肉と命がある。しかもその相手はあの、
まも
謎めいた火の壁や、炎の飛び道具といったものに
ひづめ
護られてはいな
い。そいつの平たくひろがった蹄や、大きく枝分かれした角など
は、彼ら狼たちにもなじみのものだ。彼らは持ち前の忍耐や用心ぶ
かさをすっかりかなぐり捨てた。短時間の、だが熾し れつ烈な闘いとなっ
た。その大きな雄は、四方八方から攻めたてられた。彼もその巨大
な蹄を飛ばして、狙いすました一撃をたたきこみ、狼どもをずたず
たにしたり、頭蓋をかち割ったりして反撃した。大きな枝角で彼ら
をたたき伏せ、引き裂きもした。肉弾戦のなか、その巨体で敵を雪
のなかへとねじ倒し、押しつぶしもした。それでもやはり、彼の運
命はすでに定まっていた。やがて、先頭の雌狼に荒々しく喉を咬み
裂かれ、どうと倒れ伏すや、ほかの狼たちもいっせいに群がり寄っ
てきて、巨体のいたるところに牙を突きたて、彼が最後の抵抗をや
めもせぬうちに、あるいは決定的なダメージを受けもせぬうちに、
その体は生きながらむさぼり食われ、食いつくされてしまった。
肉はたっぷりあった。ムースは体重八百ポンド余り──群れの狼が
四十何頭かいるとして、一頭あたり優に二十ポンドになる。それで
もこの狼たちは、絶食できる能力が並みすぐれているとすれば、食
いつくす能力もまた並みはずれていたから、いくらもたたないうち
に、ほんの数本の骨がその場に散らばっているだけとなった。わず
たい く
か数時間前に、彼らの立ち向かったあのみごとな体軀の生き物、そ
の生き物の、これがその残骸のすべてなのだった。
あとはもう、思うさま休息と睡眠をむさぼるだけだった。こうし
て飢えが満たされると、やがて若い雄狼たちのあいだでは、小競り
合いやいさかいが起こりはじめ、これが何日かにわたってつづくう
ちに、おのずと群れの結束がゆるみだした。飢餓は去った。いま狼
たちがいる土地には、獲物が群れていた。だから、狩りをするとき
こそ、いまでも群れが一体となって行動しはしたが、闘いの進めか
たは、いままでよりも慎重になり、たまたま少頭数のムースの群れ
に出くわしたりすると、なかでも大型の雌か、年老いて体の不自由
な雄に目星をつけて、その標的だけを群れから切り離す、という戦
法をとるようになった。
この豊饒の地で、やがてついに狼の群れがふたつに分かれ、それ
ぞれべつの方角をめざす日がやってきた。雌狼と、彼女の左側を進
む若手のリーダー、そして右側を進む片目の老狼、この三頭は、群
れの半分を率いてマッケンジー川のほとりへ降り、川を渡って、東
の湖水地方へはいっていった。だが、半数になったこの群れも、日
つが
一日と数を減らしていった。二頭ずつ、雄と雌とが番いになって、
狼たちは群れから離れていった。ときおり、相手の見つからないは
ぐれものの雄が、ライバルの雄たちの鋭い牙の攻撃で、群れから追
いだされることもあった。そしてついに、残るは四頭だけになっ
た。雌狼、若手のリーダー、片目の老狼、そして野心満々のあの三
歳狼である。
このころになると、雌狼は、手のつけられぬほどの荒々しさを示
しはじめていた。三頭の求愛者たちは、そろって彼女の牙の跡を全
身に印していた。にもかかわらず彼らは、けっして彼女に同種の報
復を加えようとはせず、また彼女の攻撃から身を護ろうとすること
もなかった。むしろ、彼女の獰猛な牙にたいして、すすんで自らの
肩を向け、あるいは尾をふったり、気どったステップを踏んでみせ
たりして、なんとか彼女の怒りをなだめようとした。だが、このよ
うに雌狼にだけはあくまでもした下手に出ていながら、おたがい同士に

たいしては、三頭ともまったく容赦がなかった。三歳狼などは、野
心に燃えるあまり、とりわけ狂暴さをむきだしにし、いきなり片目
の老狼の見えない側に襲いかかって、その耳をずたずたにした。老
しろ げ
狼は、毛並みこそ白毛がふえて、目も片方しか見えないのにもかか
わらず、相手の若さと活力とに対するに、長年の経験からくる知恵
をもってした。失った片目も、傷だらけの鼻面も、この老狼の経験
がどういうものかを如実に示していた。そう、彼こそは数知れぬ闘
ふるつわもの のぞ
いを生き抜いてきた古強者、こういう場に臨んで、身の処しかたに
迷うはずもなかった。
闘いはフェアに始まったが、終わりもフェアに終わったと言うわ
き すう
けにはいかない。闘いの帰趨は、予断を許さなかった。というの
も、ここでとつぜん三頭めの雄狼が、老狼の加勢にまわり、その二
頭、つまり老リーダーと若手のリーダーとがいっしょになって、生
たお
意気な三歳狼を攻撃し、斃しにかかったからだ。三歳狼は、いまま
で仲間だった二頭によって、容赦のない牙で左右から攻めたてられ
た。三頭がともに狩りをしてきた日々は、忘れられた。協力してひ
きずり倒した獲物のことも、ともに堪えてきた飢餓のことも、忘れ
られた。そうしたことは、もはや過去のこと。当面の問題は、雌狼
の愛を得ること──食物を得ることなどよりも、さらにきびしく、さ
らに無慈悲な問題なのだ。
そしてこのかんずっと、この争いの張本人である雌狼は、満足げ
にその場にすわりこみ、一部始終をながめていた。彼女は浮きうき
してさえいた。きょうこそはまさに彼女の得意の日──こういう日は
めったにあるものではない──首毛が逆だち、牙と牙とがぶつかりあ
い、敗れたほうの肉が引き裂かれ、ずたずたにされる。これがすべ
て、この自分を獲得するためになされていることなのだ。
そしてこの求愛の闘いにおいて、今回はじめてその闘いにのりだ
した若者、野心的な三歳狼が、まず命を落とした。いまその死体の
両側には、二頭のライバルたちが立っている。彼らは雌狼を見つ
め、当の雌狼は、雪の上にすわり、ほくそえんでいる。けれども、
ろうかい
老いたリーダーは老獪だった。闘いにおいてとおなじく、愛を得る
うえでも、かぎりなく老獪だった。ふと、若手のリーダーが首を曲
げ、肩の傷をなめようとした、その首の曲線が、まともにライバル
のほうに向けられた。片目ではあっても、老狼はこの好機を見のが
さなかった。低く突進してゆくなり、牙をふるって襲いかかった。
長く、さっと切り払うような一撃で、しかも深かった。通り過ぎざ
まに、牙は喉の大動脈の壁をざっくり切り裂いた。すかさず老狼は
とびすさった。
若手のリーダーはすさまじいうなり声を発したが、その咆哮も途
中でいらだたしげなせき咳に変わった。血を流し、咳きこみながらも、
すでに深手を負った身をふるいたたせて、老狼にとびかかり、闘い
をいどんでゆこうとしたが、そのあいだにも、命の力は徐々に体内
から失われてゆき、脚はよろめきがちに、目の光も薄れて、牙によ
る攻撃も、とびかかる勢いも、しだいしだいに小さく、弱くなって
いった。
そしてこのかんずっと、雌狼は雪の上に腰を落としてすわり、ほ
ほえんでいた。雄同士のこの闘いから、彼女は漠然とながらある満
足感を覚えていた。なぜなら、これこそが〈荒野〉における求愛の
行為、自然界における性の悲劇なのだから。悲劇といっても、それ
はこの闘いによって命を落とすほうのものにとってだけのこと。勝
ち残ったほうにとっては、悲劇どころか、欲望の実現であり、愛の
成就なのである。
ついに若手のリーダーが雪の上に横たわり、動かなくなってしま
うと、〈片目〉はそろそろと雌狼のほうへ近づいていった。その動
作には、誇らしさと用心ぶかさとが半々にまじりあっていた。明ら
かに拒絶されることを予期していて、それゆえ、雌狼の怒りの牙が
自分にむかってふるわれずにすんだときには、おなじくらい驚いた
のも確かだった。はじめて雌狼がやさしい態度で接してくれたの
だ。彼と鼻を嗅ぎあい、さらには、わざわざ仔犬そっくりに、彼と
いっしょにはねまわり、じゃれあうことまでしてくれた。だから老
つちか
狼のほうも、年の功とか、長年の経験で培われた分別とかいったも
のをすっかり忘れて、負けじと仔犬のように、いや、あえて言え
ば、雌狼よりも、さらにいくらか愚かしくさえふるまったのだっ
た。
こいがたき
敗北した恋 敵たちのことも、雪の上に鮮紅色で書かれた愛の物語
のことも、すでに忘れ去られていた。すべて忘れ去られ、ただ一
度、〈片目〉がちょっと足を止めて、こわばりかけてきたわが身の
傷をなめた、そのときだけ、つかのま記憶がよみがえりかけた。さ
すがにそのときは、くちびるがゆがんで、なかばうなり声になり、
首筋や肩の毛はおのずと逆だち、半身は低くうずくまって、いまに
もとびかかろうとする構えを見せ、四肢の爪は、より強固な足場を
けいれん
もとめて、ほとんど痙攣的に雪面に食いこんだ。けれども、つぎの
瞬間には、それもまたすべて忘れ去られ、老狼は、雌狼が彼に追っ
てこさせようと、はにかむようなしぐさで先に立ったのを追いかけ
て、跳ぶように森のなかを走りだしていた。
それからは、たがいに理解しあった仲のよい朋友同士のように、
二頭は並んで走りつづけた。何日かが過ぎたが、そのあいだも二頭
が離れることはなく、協力して獲物を狩り、殺し、肉を分かちあっ
た。だがしばらくすると、雌狼はしだいに落ち着きをなくし、気み
じかになりはじめた。なにかを探しているようなのだが、それが見
つからないらしい。倒木の下のくぼみに心をひかれたようすを見せ
るかと思えば、もっと広い、雪に埋もれた岩の亀裂のあいだや、つ
きでた土手の下の洞穴の周辺などを、長時間かけて嗅ぎまわったり
もする。老いた〈片目〉のほうは、そうした場所になんの関心もな
かったが、それでも気さくに彼女についてまわり、どこかある特定
の場所へきて、雌狼の探求がとくべつ長びいたりしても、ただ近く
で腹這いになって、彼女が先へ進む気になるのを待っているだけだ
った。
彼らは一カ所に滞留することはなく、広く周辺の土地を歩きまわ
り、やがてもう一度マッケンジー川にたどりつくと、そこからゆっ
くりと川をくだっていった。獲物を追って、しばしば、川に流れこ
む小さな支流のほうへと足をのばすこともあったが、それでも最後
には必ず川へもどってきた。ときたま、かつて群れをつくっていた
ほかの狼たち──向こうもたいがいペアだった──と出くわすことも
あったが、どちらの側にも、親しくまじわりたいという意向は見ら
れず、再会の喜びとか、以前のように徒党を組みたいという望み、
などが示されることもなかった。また何度かは、単独行の一匹狼に
も遭遇した。それらは例外なく雄狼であり、〈片目〉と雌狼のペア
に出あうと、きまってしつこくつきまとってきた。〈片目〉はこれ
を嫌ったし、雌狼もまた彼と肩を並べて立ち、首毛を逆だてて、歯
へきえき
をむきだしてみせた。野心的な一匹狼も、これには辟易して、あと
ずさりし、尻を向けて逃げだす。そしてふたたびその孤独な旅をつ
づけるのだった。
ある月の明るい晩、静かな森のなかを駆けていた〈片目〉が、い
きなり立ち止まった。鼻が天に向けられ、尾はこわばり、鼻孔はひ
ろがって、しきりに空気を嗅いだ。加えて彼は、そっくり犬とおな
じしぐさで、片方の前足を持ちあげた。なにやら納得のいかぬこと
があるらしく、なおも空気を嗅いでは、なんとかそれが運んでくる
メッセージを読みとろうと、懸命になっている。雌狼のほうは、無
造作に一嗅ぎしただけで、なんでもないとすでに納得していたか
ら、連れ合いを安心させようと、そのまま小走りに先に立った。老
狼はそのあとを追いはしたものの、いまなお疑いを解こうとせず、
たびたび立ち止まっては、いっそう慎重に空気のもたらす警報を分
析してみようとせずにはいられぬようす。
森のなかの、とあるひらけた空き地まできて、はじめて雌狼は用
心しながら、そっとその空き地のはずれまで歩みでた。しばらく
は、ひとりそこに立っていたが、やがて〈片目〉が全身の神経をそ
ばだて、被毛の一本一本から底知れぬ疑念を放射しつつ、そろそろ
と這いずるように近づいてきて、彼女に合流した。二頭は並んでそ
の場に立ったまま、しばし油断なく目を配り、聞き耳をたて、鼻を
ひくひくさせていた。
彼らの耳に届いてきたのは、いがみあい、もつれあう犬どもの気
配と、人間の男どもの喉にからんだ叫び声、女たちの不機嫌に叱り
つける声だった。そして一度は、かんだかく哀れっぽい子供の泣き
声も。いっぽう、目にはいるものと言えば、獣皮を張った小屋の、
ずんぐりした巨体をべつにすれば、ちらちらと燃える焚き火の炎ぐ
らい、それも、手前を人影が通るたびにとぎれて見えるのと、あと
は、静かな空中にゆらゆらと立ちのぼってゆく煙だけ。ところが、
彼らの鼻には、インディアンのキャンプの発するさまざまなにおい
が無数に流れてき、ひとつの物語を伝えてくれていた。それは〈片
目〉にはほとんど理解不能な物語だったが、雌狼のほうは、その細
部までもことごとく知りつくしていた。
彼女は妙に興奮して、しきりにあたりのにおいを嗅ぎ、さらに嗅
ぎ、そして嗅ぐうちにしだいに強い歓喜にとらえられていった。だ
が〈片目〉は疑念を隠そうとせず、内心の不安をあらわにして、た
めらいつつも立ち去ろうとするそぶりを見せた。雌狼はふりかえっ
て、安心させるように鼻面を連れ合いの首に触れ、それからふたた
びキャンプを見まもることにもどった。いままではなかった渇望に
似た表情が、その顔にはあらわれていたが、しかしそれは飢えから
くる渇望ではなかった。ある欲望が彼女の胸をふるわせていた。こ
のまま進みでて、あの焚き火に近づいてゆきたい、あの犬どもとも
つれあい、男たちのどたどた歩きまわる足を避けて、すばしこく身
をかわしたり、逃げまわったりしてみたい、そんな欲求に駆りたて
られていたのだ。
かたわらで〈片目〉がじれったげに身動きした。雌狼のほうに
も、ここしばらくのあの落ち着かなさがもどってき、ここであらた
めて彼女の眼前には、かねてからの切迫した欲求──ずっと探してい
るものを早く見つけねばならぬという欲求──が、大きく浮かびあが
ってきた。雌狼は向きを変えて、小走りに森の奥へとひきかえしは
あん ど
じめ、おおいに安堵した〈片目〉も、彼女より半歩だけ先を、やは
り小走りに走りだして、あとは何事もなく、二頭はこんもりした木
立の奥に消えていった。
月光のもと、肩を並べて影法師のように音もなく進んでゆくうち
に、彼らはとあるけもの道に出くわした。二頭はそろって鼻面をさ
げ、雪面に残る足跡を嗅いだ。まだ真新しい足跡だ。〈片目〉が先
に立って用心ぶかく進み、連れ合いがすぐあとにつづいた。足裏の
幅の広い肉球が大きくひろがり、ビロードさながらに雪面に触れ
る。と、前方の一面の雪景色のそのなかに、さらに白いなにものか
が、ぼんやり動いているのを〈片目〉の目がとらえた。これまでの
彼のすべるような足どりは、見かけによらずスピードがあったが、
しかしそれも、いま走りだしたその速さにくらべれば、なにほどの
ものでもなかった。彼は見つけたのだ──前方でとびはねているおぼ
ろげな白いしみを。
〈片目〉とその白いしみとは、とある細い小道を前後して走ってい
とう ひ
た。小道の両側には、若い唐檜の木立がつづいている。木立のトン
ネルの向こうに、小道の出口が見えている。月に照らされた林間の
空き地が、ぽっかり口をあけている。そこへむかって飛ぶように逃
げてゆくその白いものに、老いた〈片目〉は急速に追いついてゆ
く。一跳びまた一跳び、距離を縮めてゆく。もう差はなくなった。
あと一跳びすれば、牙がそのものに突きたてられるだろう。ところ
が、最後のその跳躍は、ついになされずして終わった。目の前の空
中へ、その白いものが高々と、しかも一直線に舞いあがったのだ。
いまやそれは、身をよじって暴れている一匹のカンジキウサギとな
って、老狼の頭上でとんだりはねたり、風変わりなダンスを演じ、
もはや二度と地上に降りてこようとはしなかった。
突然の恐怖に打たれて、〈片目〉はぶるると鼻を鳴らして跳びす
さると、そこですくみあがって、雪の上にうずくまり、そのわけの
わからぬ恐怖のもとにむかって、やみくもに威嚇のうなりを浴びせ
た。ところが雌狼は、いたって冷静に彼のそばをすりぬけて前へ出
ると、そこでちょっと身構えたと思うまもなく、いきなりその踊っ
ている兎にとびかかった。彼女もまた高々と舞いあがったが、しか
し、狙った獲物の高さには及ばず、その牙はかちりと金属的な音を
たてて空を嚙んだ。彼女はあきらめずにもう一度跳躍し、また跳躍
した。
恐怖に固まっていた彼女の連れ合いも、ようやくすこしずつ体の
力を抜き、彼女を見まもっていた。ところが、くりかえし彼女がし
くじるのを見ると、業を煮やして、今度は自分がとばかりに、ここ
で大きく跳びあがった。牙が首尾よく兎をくわえこみ、地上にひき
おろした。ところが、ひきおろすのと同時に、かたわらで妙なめり
めりという音がして、仰天した老狼の目は、一本の唐檜の若木がぐ
ぐっと折れ曲がり、いまにもこちらを打ち据えようとするように、
もの け
頭上に迫ってくるのを認めた。その危険な物の怪からのがれよう
と、喉から威嚇のうなりをもらし、全身の毛という毛を怒りと恐怖
に逆だてつつ、くわえた兎を離して、彼は後ろへ跳びすさった、そ
のせつな、若木はふたたびぱっとそのほっそりした樹身を起こし
て、直立の姿勢にもどり、それとともに、兎もまた高々と舞いあが
って、空中であの奇怪なダンスを始めた。
雌狼は怒り狂った。連れ合いを非難しようと、がぶりとその肩に
牙を突きたて、そのため、おびえていた〈片目〉も、なぜそうした
攻撃を受けるのかのみこめぬまま、よりいっそうの恐怖にとらえら
れて、とっさに獰猛な反撃に転じ、雌狼の口のはたをべろりと咬み
ふんまん
裂いた。自分の非難が連れ合いからそれほどの憤懣を買ったという
のは、雌狼にとってもおなじくらい意外なことだったから、こちら
もまた憤慨して激しくうなりながら、相手にとびかかっていった。
そこでようやく〈片目〉も、自分の思いちがいに気づき、なんとか
雌狼をなだめにかかったが、彼女はなおも執拗に彼に折檻を加える
のをやめず、ついには〈片目〉も彼女をなだめようとするいっさい
の努力を放棄して、顔をそむけながらぐるぐるまわり、相手のほう
に向けた肩に、その牙による折檻をぞんぶんに受けるのに甘んじ
た。
いっぽうこのかんに、兎は彼らの頭上であいかわらず踊りを踊っ
ていた。雌狼はやがて雪の上に腰を落としてすわりこみ、老いた
〈片目〉は、いまやその奇怪な若木によりも、むしろ連れ合いのほ
うに強い恐怖心をいだきつつ、あらためて兎にむかってとびついて
いった。それをくわえて降りてくるあいだも、彼の目は若木の動き
から離れなかったが、はたせるかな、前回同様、それは彼を追って
地上までさがってきた。いずれやってくるだろう一撃にそなえて、
彼は毛を逆だて、身を低くしてうずくまったが、それでも兎はしっ
かりくわえたまま離さなかった。ところが、予想した打撃はやって
こなかった。若木は彼の上に頭をたれたまま、じっとしている。彼
が身動きすると、若木も動くので、そいつにむかって食いしばった
歯のあいだからうなり声を浴びせてやった。そのまま動かずにいる
と、若木もおとなしくしている。そこで、どうやらこうしてじっと
しているのが得策らしいと見きわめをつけたが、それでも、口中に
ひろがる温かい兎の血のうまさといったら、たとえようもない。
この身動きのとれない窮境から〈片目〉を救ってくれたのは、連
れ合いの雌狼だった。横合いから彼のくわえた兎に牙を突きたてる
なり、若木が頭上で威嚇的に揺れ動くのもかまわず、落ち着きはら
って兎の頭を嚙み切った。とたんに若木は勢いよくはねおき、以後
は、なんの面倒も起こさず、本来そう育つように〈自然〉が意図し
たとおりの、端正な、すっきり直立した姿勢をくずすことはなかっ
た。というわけで、雌狼と〈片目〉とは、その不思議な若木が自分
たちのためにとらえてくれた獲物を、たがいに分けあってむさぼり
食ったのだった。
その後も林間の小道や細道のそこここに、兎が空中にぶらさがっ
ている箇所がいくつもあり、狼夫婦はそれらをそっくりあさってま
わった。いつも雌狼が先に立ち、老いた〈片目〉はその後ろを油断
わな
なく追いながら、それらの罠から獲物をかすめるすべを身につけて
いった──そしてこの知識こそ、のちのち彼のためにおおいに役だつ
ことになるのである。
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巣穴
二日間というもの、雌狼と〈片目〉とは、インディアンのキャン
き ぐ
プの周辺を離れずに過ごした。〈片目〉は不安と危惧でいっぱいな
のに、連れ合いはなぜかキャンプに心をひかれているらしく、そこ
を離れたがらなかった。ところがある朝、すぐ近くで一発の銃声が
空気をつんざき、つづいて弾丸が〈片目〉の頭から数インチと離れ
ていない木の幹を粉砕した。となれば、もはやぐずぐずしてはいら
れない。二頭はすぐさま身をひるがえし、そのまま大きな、躍動的
な駆け足をつづけて、またたくまに危険から数マイルも遠ざかって
いた。
とはいえ、遠くまでは行かなかった──ほんの二日ほどの行程であ
る。かねて探しているものを見つけねばならぬという雌狼の欲求
は、いよいよ強く、のっぴきならないものになってきた。体もめっ
きり肥大して、ゆっくりとしか走れない。一度は、兎を追いかけて
いるさいちゅうに、これまでなら難なくとらえていたはずの獲物を
あきらめると、ごろりとその場に横たわって、一息入れたことさえ
ある。〈片目〉が心配してそばに寄り添ったが、やさしく鼻面で彼
女の首筋に触れたとたん、相手はおそろしい剣幕で反撃してきたの
で、彼はその牙をのがれようとして後ろにひっくりかえり、とんで
もない醜態を演ずるはめになった。いまでは雌狼はいよいよ気みじ
かに、不機嫌になっていたが、逆に老狼のほうはいままでにもまし
て辛抱づよく、親身に相手を気づかうようになっていった。
やがてついに雌狼は、探しもとめていたものを見つけた。とある
小さな流れを数マイルさかのぼった地点にあり、夏ならばその流れ
はマッケンジー川にそそぐのだが、いまはすっかり凍って、底まで
氷結している──いうなれば死んだ川、水源から河口までが、ひとつ
づきの白い板と化した流れ。その川のほとりを、かなり先を行く連
れ合いを追って、疲れた足どりで走っているとき、雌狼は頭上にせ
りだした高い粘土質の土手に出あった。向きを変え、小走りでそこ
に近づいてみる。春先の嵐と雪解け水とに洗われ、土手の下部は大
きくえぐれているばかりか、ある箇所では、一本の狭い割れ目がひ
ろがって、ちょっとしたほら穴になっている。
ほら穴の入り口にたたずんで、彼女は入念に左右の壁を観察し
た。それから、壁の基部にそって、左へ、また右へと走り、最後
は、なだらかだった地形が大きく張りだして、そのけわしい土手に
なっている地点まで行ってみた。ほら穴までひきかえしたあとは、
その狭い入り口にもぐりこんだ。はじめの三フィートばかりは、う
ずくまった姿勢で進むことを余儀なくされたが、その先は、左右の
いわむろ
壁がひろがり、天井も高くなって、直径六フィートほどの円い岩室
に変わった。天井は頭の高さすれすれだが、岩室全体は乾燥してい
て、居心地がいい。彼女はなおも念入りに点検をつづけ、ひきかえ
してきていた〈片目〉も、入り口に立って、辛抱づよく彼女を見ま
もった。彼女は頭をさげ、鼻面を地面につけると、とある一点──四
肢をぴったりすぼめて立った、そのすぐそばの一点──に目星をつ
け、その周囲を何度かぐるぐるまわった。それから、疲れきった、
ほとんどうなり声に近い吐息をもらすと、そこで体を丸め、脚の力
を抜き、頭をほら穴の入り口にむけて横たわった。〈片目〉は興味
をひかれたようすで耳をぴんと立て、彼女にむかって笑いかけた
が、その彼の背後、ほら穴の入り口には、そこの白い光を背景に、
彼の尾が善意まるだしで打ちふられているのも見てとれた。彼女自
身も、耳を心地よげに動かし、とがった先端を後ろへ寝かせて、一
瞬ぺたりと頭の地肌につけたが、同時に口は大きくあけて、舌をの
んびりと長くたらし、それで自分がいま快適であり、満足もしてい
るということを表現してみせた。
〈片目〉は腹をすかせていた。ほら穴の入り口に横たわり、眠りは
したものの、その眠りは浅く、きれぎれだった。しょっちゅう目を
さましては、外の明るい世界の気配に耳をそばだてたが、そこでは
いまや四月の太陽が強い光で雪原を照らしはじめていた。うとうと
すると、そっと耳もとに聞こえてくるのは、どこかをさらさらと流
れてゆく目に見えぬ水のささやき。そしてそのたびに彼ははっと身
を起こして、いっそう熱心に耳を傾けるのだ。ふたたびこの世界に
太陽がもどってき、めざめはじめた〈北方世界〉のすべてが、彼に
しゅんどう
呼びかけてきた。万物は蠢 動を始めていた。空気のなかには春の気
配が、雪の下には育ちつつある生命の息吹が感じとれる。木の幹の
なかを上へむかって流れはじめた樹液や、霜の束縛を一気に断ち切
つぼみ
って萌えでようとしている、蕾の力なども感じとれる。
彼はたびたび不安げに連れ合いのほうをうかがったが、彼女はい
っこうに起きだそうとする意欲を見せなかった。外へ目をやると、
五、六羽のユキヒメドリが視界を横ぎってゆくのが見えた。立ちあ
がろうとして、また連れ合いのほうを見やり、ふたたび腰を落ち着
けて、まどろんだ。その彼の耳もとに、かすかな、かんだかい歌声
が流れてきた。一度、二度と、〈片目〉は眠たげに前足で鼻面を払
った。それから目をさました。すぐ鼻の先を、ぶうんと飛んでいる
一匹の蚊。じゅうぶんに生長しきっている──冬のあいだ、乾いた丸
太のなかで凍りついていたのが、日ざしのぬくもりで溶けて、外に
出てきたらしい。〈片目〉ももうこれ以上、めざめゆく世界の呼び
声に抗しきれなくなっていた。のみならず、空腹でもあった。
連れ合いのところへ這い寄ってゆくと、そろそろ起きるようにと
説得しようとした。だが雌狼はただ不機嫌にうなりかえしただけ。
そこで、やむなく単独で外の明るい日ざしのなかへ出ていってみる
と、雪の表面がゆるんでいて、しごく歩きにくい。木立が日ざしを
さえぎるため、川床の雪はまだかたく結晶していたから、その氷の よい
上を上流へと向かった。それから八時間、ずっと歩きつづけて、
やみ

闇のなかをほら穴へもどってきたときには、出かけたときよりもさ
らに空腹の度合いは増していた。獲物は見つけたのだが、それをと
せっかく
らえるのに失敗した。溶けかけた雪殻を踏み抜き、ぶざまにころげ
まわったりしているうちに、標的のカンジキウサギどもは、例によ
ってひょいひょいと雪面をかすめるように逃げ去ってしまったの
だ。
ほら穴の入り口まできたところで、ふいにあるショックにも似た
疑念に襲われ、彼はしばししゅん
逡 じゅん
巡した。かすかな、聞き慣れぬ声が、
ほら穴の奥から聞こえてくる。連れ合いのたてる声ではない。だが
それでいて、どことなくなじみのある声。用心ぶかく腹這いになっ
て、ほら穴にもぐりこんでゆくと、一声鋭く、雌狼の警告のうなり
ろうばい
を浴びせられた。とくに狼狽することもなくその声を受けとめ、そ
れでも警告されたとおり、それ以上近づくのは避けたが、そのもう
ひとつの声への好奇心は去らない──かすかな、くぐもった、むせび
泣くような、ときにはいびきのようにも聞こえる声。
連れ合いがいらいらしたようすで彼を近づけようとしないので、
やむなく〈片目〉はほら穴の入り口に丸くなり、眠った。朝がき
て、仄明るい光がほら穴の奥までひろがるころになると、彼はあら
ためてそのなんとなく親しみのある声の源をつきとめてみたくなっ
た。雌狼の発した警告のうなりには、新たな響きが加わっていた。
さい ぎ しん
なにやら猜疑心を含んだ響きだ。だから〈片目〉もせいいっぱい用
心して、うやうやしく距離をおくように心がけた。にもかかわら
ず、彼の目は、雌狼の体の長さいっぱいに、その四本の脚に護られ
るように、見慣れない生きたかたまりが五つ、うごめいているのを
見てとっていた──ひどく弱々しく、ひどく頼りなげで、かすかにく
んくん鳴いている。目もまだひらかず、光を感じてはいないらし
い。〈片目〉は驚いた。これまで成功者として長く生きのびてきた
彼にしてみれば、こういうことに遭遇するのも、あながちこれがは
じめてではない。何度も出あっている。だがそれでいて、そのたび
にそれは新たな驚きを彼にもたらすのだ。
連れ合いは不安げに彼を見た。しょっちゅう低いうなり声をあ
げ、ときとして〈片目〉が接近しすぎたと彼女には思える、そんな
ときには、そのうなり声は喉の奥で一気に高まって、けわしい叫び
声になる。彼女自身の経験では、こういうことが前にもあったとい
う記憶はないのだが、にもかかわらず、彼女の本能──幾世代もの狼
の母たちの経験から発した本能──の奥底には、父狼が生まれたばか
りの無力な子供を食ってしまったという記憶がひそんでいる。その
記憶が、おのずから彼女のなかに強い不安としてあらわれ、〈片
こ おおかみ
目〉が自分の種から生まれた仔 狼 に近づきすぎるのを妨げさせる
のである。
けれども、その懸念は無用だった。〈片目〉がいま感じているの
は、あるおさえがたい衝動だった。それは雌狼の場合と同様、やは
りひとつの本能だった──これまでのすべての狼の父親たちを通じ
て、脈々と彼のなかに伝わってきた本能。彼はその本能に疑問をい
だくことはなかった。それを不思議に思うこともなかった。それは
ただそこにあった──彼の体組織そのもののなかに。だから、その本
能の命ずるままに、彼が新たに生まれたわが家族に背を向け、すた
すたと走りだして、生きるためのすべである肉をあさりに出かけた
というのは、このうえなく自然なことなのだった。
巣穴から五、六マイル離れた地点で、川は二股に分岐していて、
支流はそれぞれ直角に山の奥へと分け入ってゆく。ここで左の支流
を選び、それをさかのぼっていったところで、とある新しい足跡に
出くわした。嗅いでみると、ほとんど時間のたっていない真新しい
ものだとわかったので、すばやく姿勢を低くして、足跡の消えてい
っている方角を見つめた。それから、意識的にその場で向きを変
え、あらためて右側の支流をたどることにした。いましがた見つけ
た足跡は、彼自身のそれよりもはるかに大きく、そのような足跡を
かりに追ってみても、肉が得られる見込みはほとんどないとわかっ
ていたからだ。
右の支流を半マイルほどさかのぼったところで、鋭敏な聴覚が、
なにかをかじる歯の音を聞きつけた。忍び寄ってみると、一匹のヤ
マアラシだとわかった。立ち木を支えにして立ちあがり、樹皮をか
じろうとしている。慎重に近づいてゆきはしたが、たいした期待は
かけていなかった。この種のやつのことはよく知っている。もっと
も、これほど北のほうで出あったのははじめてだが。それに、これ
までの長い生涯において、ヤマアラシが食用になったためしは一度
もない。とはいうものの、世に〝巡り合わせ〟とか、〝偶然の機
会〟とかいうものがあることは、彼もつとに知るようになっていた
から、それでそのまま近づいていった。ひょっとしたはずみで、な
にがどうころぶか、だれにも予想はつかないのだし、相手が生き物
となると、物事はえてして期待とはべつの方角にころがってゆくこ
とが多い。
ヤマアラシは危険を察知してボールのように丸くなり、くるなら
とげ
こいと言わんばかりに、長く鋭い刺を四方八方に突きだした。若か
りしころ、〈片目〉はちょうどこれとおなじような、見たところ自
力では動けそうもない針の玉を見つけて、すぐ近くでにおいを嗅ご
うとしたことがある。とたんに、そいつの尾が一閃して、したたか
顔面を打たれた。あわててとびのいたときには、刺の一本が鼻面に
突き刺さったままで、それは長いこと焼けるようにうずきつづけた
あげく、何週間もたって、やっと抜け落ちた。だから、いまも身を
低くして、楽にうずくまった姿勢をとり、鼻は尻尾のとんでくる角
度を避けて、距離もそいつから優に一フィートはおいた。こうして
彼は待った──完全に静止したきりで、待ちつづけた。なにが起きる
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
かは予想がつかない。なにかが起きるかもしれないというだけだ。
たとえば、ヤマアラシが丸めた体を伸ばすかもしれない。そうした
ら、すばやく前足を突きだして、敵のやわらかな、無防備な腹を引
き裂く、そんな隙も出てくるだろう。
けれども、半時間ほどたつと、〈片目〉は起きあがり、その動か
ないボールにむかって腹だたしげに一声うなると、歩み去った。こ
れまでにも、ヤマアラシが体を伸ばすのをむなしく待ちつづけたこ
となら何度もある。いまさらここでよけいな時間を費やすわけには
いかない。ひきつづき、川の右側の支流をたどってみることにし
た。時間はどんどんたってゆくのに、狩りはいっこうに報われな
い。
新たにめざめた父親としての自覚が、強く彼を駆りたてていた。
なんとか肉を手に入れねばならない。午後になって、ひょっくり一
羽の雷鳥に出くわした。とある茂みから出たとたんに、いきなりそ
の血のめぐりの悪い鳥と鉢合わせしたのだ。彼の鼻の先から一フィ
ートと離れていないところで、一本の丸太にとまっている。双方が
たがいに相手を認めた。雷鳥は飛びたとうとしたが、〈片目〉はす
かさず前足で一撃を加え、そいつを地面にたたき落とした。それか
ら、相手がなおもよちよちと雪野原を駆けてゆき、あらためて飛び
たとうとするところを、とびかかって、くわえこんだ。牙がそのや
わらかな肉を嚙み、もろい骨を嚙み砕くと、そのままごく自然に食
べ進もうとしかけたが、そこではっと思いだして、雷鳥をくわえた
ままいまきた道をひきかえし、家路をたどった。
川の分岐点から一マイルほど上を、いつもながらのビロードのよ
うな足どりで、すべる影さながらに走ってゆきながらも、なにか新
たな痕跡は見つからないかと、道の曲がり目ごとに用心ぶかく左右
に目を配っていると、はたせるかな、早朝に見つけたあの巨大な足
跡の主の、さらに真新しい足跡に出くわした。ちょうど自分の行く
方向とおなじだったから、そのままそれを追っていったが、それで
も、川の屈曲部にくるたびに、いつなんどきその足跡の主に遭遇せ
ぬでもないと、油断なく身構えるのを忘れなかった。
とある大きな岩がせりだして、川がひときわ大きく曲がっている
箇所まできたところで、そっと岩角から頭をのぞかせてみた。目が
すばやくあるものを認めて、たちまち全身に警報が伝わり、姿勢を
低くさせる。それはまさしく問題の足跡の主、巨大な雌のオオヤマ
ネコだった。朝がた、〈片目〉自身がうずくまっていたのとまった
とげ
くおなじように、かたく丸まった刺の玉の前にうずくまっている。
これまでの〈片目〉が、すべる影さながらに雪上を走ってきたとすう
れば、いまの彼は、その影の、そのまた亡霊。その亡霊が大きく
かい たい じ

回しながら音もなく移動して、無言で対峙しているその動かぬペア
の風下側にまわった。
くわえてきた雷鳥をかたわらに置き、雪の上に腹這いになった
たけ せい
〈片目〉は、丈の低い唐檜の針葉の隙間から、目の前の生のドラマ
を見まもった。待っているオオヤマネコと、待っているヤマアラシ
── どちらも生きるために必死だ。このドラマの奇妙さはそこにあ
る。いっぽうの生きる途は、もういっぽうを食うことにあり、もう
いっぽうの生きる途は、食われぬことにある。そして、物陰にひっ
そり身をひそめている老狼の〈片目〉もまた、そのドラマに一役を
演じている。なんらかの〈運命〉の気まぐれを待ち受けている──な
にかのはずみでそれが、自分の生きるすべである狩りに役だってく
れはしないかと、それを待ち受けている。
半時間が過ぎ、一時間が過ぎたが、なにも起こらなかった。心臓
の鼓動を除けば、刺の玉はまるきり石と化したかのようだし、オオ
ヤマネコはオオヤマネコで、凍りついた大理石の像さながら、そし
て〈片目〉は〈片目〉で、まるで死んでいるかのようだ。だがそれ
でいて、三匹が三匹とも、生きるために気を張りつめていて、ほと
んど苦痛にも感じられるその緊張感が、彼らを生きいきさせてい
る。うわべは石化したかとさえ見えるいまこの瞬間以上に、彼らが
充実した生命感を味わうことはないだろう。 らんらん
〈片目〉がわずかに身じろぎし、目をいっそう爛々と光らせて、前
方を凝視した。なにかが起こりかけている。ヤマアラシが、ようや
く敵が立ち去ってしまったと判断したらしい。ゆっくりと、用心ぶ
かく、鉄壁の装甲とも見えるその刺の玉をひろげようとしている。
予感というおののきに心をかきみだされることはなかったようだ。
そろそろと、すこしずつ、針刺し然とした玉がひろがり、長くなっ
ていった。見まもっているうちに、〈片目〉はとつぜん口中につばき
唾が
湧き、知らずしらずよだれをたらしている自分を感じた。興奮する
のも道理、待ちに待った食事さながら、いましも生きた肉が眼前に
身をさらそうとしているのだ。
ヤマアラシが敵に気づいたのは、まだ完全に体を伸ばしきらない
うちだった。その瞬間に、オオヤマネコが打ってかかった。電光の
ような一撃だった。もう猛きん禽のかぎづめさながらに曲がったきょう
強 ちょく
直な前足
の爪が、矢のように相手のやわらかな腹の下へと伸び、すぐさま引
き裂くような動きでひっこめられた。ヤマアラシがもし完全に体を
伸ばしきっていたなら、あるいは、彼が敵の存在に気づくのが、そ
の一撃よりほんの一瞬遅れていたら、オオヤマネコの前足は、無傷
ですんでいただろう。だがそうはいかなかった。ヤマアラシの尾の
横なぐりの一撃が、ひっこめられようとする前足に、鋭い刺をたた
きこんだのである。
すべてが同時に起こった──オオヤマネコの一撃、それへの反撃、
ヤマアラシのけたたましい苦痛の悲鳴、オオヤマネコがふいに襲っ
てきた痛みと驚愕とに、ぎゃーっとばかりに叫ぶ声。興奮した〈片
目〉は、耳をぴんと立て、ふるえる尾をまっすぐ後方へ伸ばして、
なかば体を起こした。オオヤマネコは痛みと怒りにわれを忘れ、そ
の痛みをもたらした相手に、猛然ととびかかっていった。だがヤマ
アラシは、悲鳴をあげ、苦痛にうめきつつも、引き裂かれた体組織
を弱々しく丸めて、防御の姿勢をとろうとしながら、またもさっと
尾をふり、そしてオオヤマネコは、またも痛みと驚きとに、ぎゃー
っと叫んだ。それから、あとずさりして、くしゃみを始めた。その
鼻面には、巨大な針刺しよろしく、かたい刺が何本も突き刺さって
いて、彼女は焼けつくような痛みをもたらすその刺をとろうと、前
足で鼻の先を払ってみたり、雪のなかに鼻面をつっこんでみたり、
枯れ落ちた小枝や木の枝に鼻をこすりつけてみたりした。そしてそ
のかんずっと、苦痛と驚愕とに逆上して、ぴょんぴょんと前へ、横
へ跳びはね、そこらじゅうをぐるぐる跳ねまわった。
むち
オオヤマネコはくりかえしくしゃみしつづけ、まるで鞭でもふり
まわすように、短い尾をせいいっぱいめまぐるしく、荒々しく打ち
ふっていたが、やがてこうした道化じみた動きもやめて、長いあい
だ、じっと動かなくなった。〈片目〉はなおも注視をつづけた。だ
が、その彼でさえ、彼女がいきなりなんの前ぶれもなく、まっすぐ
空中へむけて跳びあがり、同時に長々と、聞くも恐ろしい叫びを発
したときには、思わずぎくりとして、知らずしらず背筋の毛を逆だ
てずにはいられなかった。それからオオヤマネコはぱっと跳びすさ
ると、一跳びごとにぎゃあぎゃあとけたたましくわめきながら、飛
ぶようにけもの道を走り去っていった。
その騒がしい叫び声が遠ざかり、やがて消えていってしまうと、
ようやく〈片目〉はそろりと前へ踏みだした。その歩きぶりは、ま
るで雪面全体にヤマアラシの刺がびっしりつったっていて、いまに
もそれがこちらのやわらかい足の裏に突き刺さってくる、と恐れて
でもいるようだった。ヤマアラシは彼が近づいてくるのを認め、一
声すさまじい悲鳴をあげるいっぽう、長い歯をかちかちと鳴らして
みせた。それまでに、どうにか体をもとどおり丸めてはいたが、そ
れでも以前のように完全な、コンパクトな球体にはなれなかった。
そのための筋肉が、大きく引き裂かれていたからだ。その体は、ほ
とんどまっぷたつにされていて、血もまだおびただしく流れつづけ
ていた。
〈片目〉はその血に染まった雪を一口、また一口と、たてつづけに
舌ですくいあげ、嚙みしめて、味わい、飲みこんだ。それが食欲を
かきたて、空腹感がぐんといや増した。だが、そこは年功を経た彼
のこと、用心を忘れることはなかった。彼は待った。雪に身を伏せ
て、待ちつづけた。そのあいだ、ヤマアラシは歯ぎしりをし、低い
うなり声をもらし、きいきい鳴き、ときおり鋭く、小さな悲鳴をあ
さか
げた。逆だっていた刺から力が抜け、全身に大きな痙攣が走りはじ
めているのがわかった。その痙攣が唐突にやんだ。最後の抵抗とし
て、長い歯が一度、がちりと嚙み鳴らされた。それから、すべての
刺が完全に横に倒れて、体の力もゆるみ、二度と動かなくなった。
おそるおそる、ひるみがちな前足を伸ばして、〈片目〉はヤマア
ラシの体をいっぱいに伸ばし、ついで仰向けにひっくりかえした。
反撃はなかった。ヤマアラシはまちがいなく死んでいた。ちょっと
時間をかけて入念にそれを確かめたあと、〈片目〉は慎重に獲物を
くわえて、流れをくだりはじめた。なかばは歯でくわえて運び、な
かばはひきずって運びながら、頭は横へ向けて、万が一にも刺のか
たまりを踏みつけないように用心した。そのうち、ふとあることを
思いだし、獲物をその場におろすと、小走りに雷鳥を置いてきた場
所へひきかえした。一瞬もためらったりはしなかった。どうすべき
かははっきりわかっている。だからそれをするために、その場で雷
鳥は胃の腑におさめてしまった。それから、ふたたびひきかえし
て、重荷を拾いあげた。
彼がきょう一日の狩りの成果をほら穴のなかへひきずりこむと、
雌狼はそれを点検し、鼻面を彼のほうへ向けて、軽くその首筋をな
めた。それがつぎの瞬間には、早くも警告のうなりを発して、仔狼
たちから離れるように指示していたが、それでもそのうなりは、普
段ほど荒々しくはなく、威嚇するというより、どこかすまなそうに
も聞こえた。仔狼たちの父親にたいする彼女の本能的な恐怖、それ
はいくぶんかやわらぎだしていた。彼はいまのところ狼の父親らし
くふるまっているし、彼女がこの世に送りだした幼い命をむさぼり
食う、などといったけしからぬ欲望をあらわにしてはいなかったか
らである。
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灰色の仔
彼は、同腹の兄弟、姉妹たちとは、見た目からして異なってい

た。ほかの仔たちの被毛は、母親である雌狼から受け継いだ赤みが
かった色あいを早くも見せはじめていたが、彼だけは、とくにこの
点で、父親似であることを明らかにしていた。おなじ一腹のなか
き すい
で、彼だけが灰色の仔だった。彼は生っ粋の狼の血を受け継いでい
た──いや、じつのところ、外見的には老いた〈片目〉とそっくりそ
のままと言ってもよい。異なる点と言えば、父親が片目なのにたい
し、彼には目がふたつあるということぐらいのものだろう。
その目があいてまだいくらもたたなかったが、すでに彼は揺るぎ
ないめい明せき晰さですべてを見ていた。いや、まだ目もあかないうちか
ら、それらに触れ、味わい、嗅ぎとっていたと言ってもよい。二匹
の兄弟と二匹の姉妹、彼らについてもよく心得ていた。弱々しく、けん
無器用ながらも、彼らといっしょになってじゃれあい、ときには


嘩さえする。喧嘩して、ついいきりたつと、小さな喉がふるえて、
奇妙なきしるような音をたてる(ぐぉーっといううなり声の前兆で
ある)。さらに言えば、目があくはるか以前から、触れ、味わい、
嗅ぐことで、母親の存在をも感知し、認識していた──温かみと、液
状の食餌と、やさしさとの源泉である母親。彼女には、そっと愛撫
してくれる舌があり、その舌で小さなやわらかい体をなめてもらう
と、気が静まって、そのままぬくぬくと彼女にしがみつき、眠りこ
まずにはいられなくなるのだ。
こうしてただ眠ることだけで、生涯の最初の一カ月の大半は過ぎ
ていった。だがいまでは、目もはっきりと見えるようになり、前よ
りも眠らずにいる時間が長くなり、自分の属する世界を、いっそう
よく認識するようになってもいた。それは薄暗い世界だったが、彼
にはそのことはわからなかった。ほかの世界を知らなかったから
だ。その世界は仄暗い光に照らされていたが、彼の目は、それ以外
の光に順応する必要はなかった。彼の世界は、とても小さかった。
巣穴の壁がその世界の果て、だがその外の広い世界のことなどなに
も知らなかったから、自分の置かれている環境の狭苦しさに、圧迫
感を感じることもなかった。
とはいうものの、その世界の壁のうちのひとつが、ほかの壁とは
ちがっていること、このことだけは、彼もつとに発見していた。そ
の壁はほら穴の入り口にあたり、光の源でもある。それがほかの壁
とは異なることを知ったのは、いまだ自分自身の考えとか、自覚的
な意志作用などは、いっさい持たないうちだった。目があいて、実
際にそれを見るよりも前から、それはひとつの抵抗しがたい魅力を
持って存在していた。そこからさす光が、とじたまぶたの上に落ち
ると、眼球や視神経は、その小さな、火花に似た閃光──温かい色を
した、妙に心地のよい閃光──に合わせてぴくぴくする。彼の体内の
命、体内の全組織の命、彼の体の実質そのものである命、そして彼
自身の、彼一個のものである命とはべつに存在する命、それがひた
すらその光を希求させ、体をそのほうへと押しやった──ちょうど、
植物にそなわった精妙な化学作用が、それをひたすら太陽のほうへ
と向けさせるように。
ごく最初のころ、まだ彼のなかに自覚的な生命がめざめないうち
から、彼はなにかといえばそのほら穴の入り口へ這い寄ろうとし
た。そしてこの点では、彼の兄弟姉妹たちも同様だった。この時期
には、ほら穴の奥の暗い壁のほうへ這ってゆこうとする仔は、一匹
もいなかった。まるで植物ででもあるかのように、仔狼たちは光に
引き寄せられた。彼らをかたちづくっている生命の化学作用が、生
存のために必要不可欠なものとして光を要求し、あやつり人形然と
つる
した彼らの小さな体は、蔓植物の巻きひげさながら、盲目的に、ま
た化学的に、光をもとめて這ってゆくのだ。その後しばらくたっ
て、きょうだいそれぞれが個性を発達させ、個々に衝動やら欲望を
発揮するようになると、こうした光の魅力は、なおいっそう強まっ
た。仔狼たちはしょっちゅうその光のほうへ這い寄ろうとしたり、
腹這いでにじり寄ってゆこうとしたりしては、そのつど母親にひき
もどされた。
このことを通じて、母親にはいつものやわらかな、心を安らげて
くれる舌だけでなく、ほかの特性もそなわっていること、それを灰
色の仔狼は学んだ。性懲りもなく光にむかって這ってゆくうちに、
母には、自分を鋭くこづいて、叱責を加える鼻があること、そして
のちには、上から自分を押しつぶしたり、すばやい計算された動き
で自分をころがしては、動きを止めたりする前足があること、など
がわかってきたのだ。こうして彼は痛みをも知った。加えて、その
痛みを避けることも覚えた──まず第一に、そうした危険を招かない
ことによって、つぎに、うっかりその危険を招いてしまった場合
は、すばやく身をかわして、退却することによって。これらは自覚
的な行動であり、同時に、彼がはじめて世界の諸現象について、一
般化された結論を導きだした、その結果でもあった。それまでは、
光のほうへ無自覚に這ってゆくのとおなじに、痛みの前で反射的に
しりごみするだけだった。だがそれ以後は、そこでしりごみするの
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
も、それが痛いということを知っているからこその行動に変わっ
た。
彼は気性の荒い仔狼だった。その点では、ほかの兄弟姉妹もおな
じだった。それも道理、肉食動物なのだから。肉になる獲物を殺
し、その肉を食らう種族の血をひいている。父も母も、もっぱら肉
を食って生きている。生まれたてでまだひよわかった彼が吸った
乳、それは肉がそのままかたちを変えた乳だったし、いま、生後一
カ月で、目があいてからやっと一週間しかたたないのに、早くも彼
そ しゃく
は自力で肉を食べはじめている──雌狼がなかば咀 嚼して、成長す
る五匹の仔のために吐きもどしてやった肉。彼女の乳房だけでは、
もはや仔狼たちの要求には応じきれなくなってきているのだ。
ひとはら
だがそれにしても、彼はその一腹のうちでも、さらにもっとも気
性が荒かった。ほかのだれよりもけたたましく、きしるような耳ざ
わりなうなり声をたてるし、チビのくせに、その怒りはほかのだれ
のよりもすさまじい。抜け目なく前足をふるって、同腹のきょうだ
いをころがすすべを身につけたのも、彼がいちばん先だったし、ほ
かの仔狼の耳をくわえて、力まかせにひっぱり、ひきずり、同時
に、食いしばった歯のあいだから、ごろごろとうなってみせる、な
どということを始めたのも、彼がいちばん早かった。だから、仔狼
たちをほら穴の入り口から遠ざけようと躍起になっている母親に、
いちばん手間をかけさせた仔というのも、当然のことながら、この
仔狼だった。
この灰色の仔狼にとって、光の持つ魅力は日ごとに増していっ
た。彼はしょっちゅうほら穴の入り口のほうへ、行程一ヤードほど
の冒険の旅に出ていっては、そのつどひきもどされた。ただし彼に
は、それが入り口だとはわかっていなかった。入り口のことなど、
なにも知らなかった──それがひとつの場所からべつの場所へ行くた
めの通路だということなど、知るよしもなかった。なにしろ、ほか
の場所というものを知らないのだし、ましてや、そこからほかの場
所へ到達する方法など、知るはずもない。だから、彼にとってその
ほら穴の入り口は、ひとつの壁だった──光の壁である。外界の住人
にとっての太陽がそうであるように、その壁は彼にとってのこの世
の太陽だった。蠟燭の灯が蛾をひきつけるように、それは彼をひき
つけた。彼はいつも懸命にそこにたどりつこうとしていた。体内で
急速に発達しつつある生命力が、たえず彼をその光の壁のほうへと
駆りたてていた。体内に息づくその命は、それが唯一の出口である
こと、自分もいずれは行くべく運命づけられた道であることを知っ
ていた。けれども彼自身はまだ、こうしたことをなにも知らなかっ
た。そもそも、外界なるものが存在することすら知らなかったのだ
から。
この光の壁には、ひとつだけ不思議な点があった。彼の父(彼は
すでにその父を、この世界のべつの住人として、母と同類の生き物
として、いつも光のそばで眠り、ときに肉を運んでくるものとし
て、認識するようになっていたが)──その父には、その白い、遠い
壁のなかへ、まっすぐ歩み入ってゆき、そのまま消えてしまうとい
う特技があるようなのだ。これが灰色の仔狼には腑に落ちなかっ
た。そちらの壁に近づくことは、母によって厳に禁止されているに
しても、ほかの壁ならば彼も近づいてみたことがあり、そのたびに
やわらかな鼻の頭を、かたい障害物にぶつけるはめになった。これ
は痛かった。そこで、何度かこういう冒険をくりかえしてからは、
それらの壁は敬遠することにし、あとはとくに考えることもなく、
そうやってその白い壁のなかへ姿を消すというのは、父の属性のひ
とつなのだろう──ちょうど、乳と、なかば咀嚼した肉とが、母の属
性であるように──そう受け取ることにしたのだった。
実際、灰色の仔狼は、とくに考えることが得意というわけではな
かった──すくなくとも、人間が習慣としてなにかを考えるというよ
うな意味では。彼の頭脳は漠然としか働かないのだ。にもかかわら
ず、彼のくだす判断は、人間のそれにも劣らず明晰で、かつ鋭かっ
た。物事をありのままに受け入れるというやりかたが、彼には確固
としてあって、なぜなのか、とか、なんのために、とかいった疑問
をいだくことはない。これは実際には、物事を分類し、整理すると
﹅ ﹅
いうことだ。なぜある事象が起きたのか、そんなことに煩わされる
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
ことはない。どのように起きたのか、それだけでじゅうぶんなので
ある。かくして、ほら穴の奥の壁に何度か鼻をぶつけたあと、彼
は、自分がそれらの壁のなかへ消えてゆくという事態は起こりえな
い、との事実を受け入れた。同様に、父ならそれらの壁のなかへ消
えてゆくことができる、との事実も受け入れたが、だからといっ
て、父と自分とのあいだにちがいがある理由を知りたい、などとい
う思いに悩まされることは、これっぽっちもなかった。論理学も、
物理学も、ともに彼の精神構造のなかには組みこまれていなかった
のである。
野生の動物ならおおかたそうだが、彼も早くから飢餓を経験し
た。父の運んでくる肉の供給が止まっただけでなく、母の乳房から
も、もう乳が出ないという時期がやってきた。はじめのうち、仔狼
たちはくんくん鼻を鳴らしたり、泣き叫んだりしたが、それでもた
いていは眠って過ごした。いくらもたたないうちに、仔狼たちは飢
こんすい
餓からくる昏睡に陥っていった。もはや小競り合いも、いがみあい
もなく、小さな怒りを爆発させたり、威嚇のうなりを発したりする
力も失われ、いっぽうまた、遠くのあの白い壁へ向かおうとする冒
険も、完全にやんでいた。仔狼たちは眠り、そのあいだに彼らの体
内では、命の火が弱々しくまたたいて、消えていった。
〈片目〉は必死だった。獲物をもとめて、日ごとに遠く、広い地域
を駆けまわり、いまや物寂しく、みじめな場所になってしまった巣
穴では、めったに眠らなかった。雌狼もまた、仔狼たちを残して、
肉をあさりに出かけた。仔狼たちが生まれたばかりのころ、〈片
目〉は何度か例のインディアンのキャンプまで足をのばし、罠にか
かった兎を横どりしてきたことがある。けれども、雪が解け、川の
水が流れはじめるのと同時に、インディアンのキャンプはよそへ移
ってゆき、この供給源も断たれることになってしまった。
やがて、灰色の仔狼がいくらか元気を回復し、ふたたびあの遠
い、白い壁に興味を持つようになったころ、ふと気がつくと、この
世界の居住者の数は、めっきり減ってしまっていた。同腹の兄弟の
うち、いま残っているのは妹が一匹だけだった。あとはみんな姿を
消していた。彼は徐々に体力をとりもどしていったが、そうなって
も、もはやひとりで遊ぶしかないことがわかってきた。妹はもう頭
をあげることもなく、動きまわることさえなかったからだ。彼の小
さな体は、いま与えられている肉で丸みを増していたが、あいにく
妹にとっては、その肉の届くのが遅すぎた。彼女はいつまでも眠り
つづけ、ちっぽけな体は骨と皮ばかりになり、その体内で揺らいで
いた炎は、いよいよ弱く、弱くなっていって、ついには消えてしま
った。
それからまもなく、今度は灰色の仔狼が父親の姿を見なくなる日
がやってきた。もはや父があの白い壁を出はいりしたり、入り口で
眠っていたりすることはなかった。これは二度めの、そして前回ほ
どきびしくはない凶荒が終わったころのことだった。雌狼は、なぜ
〈片目〉が帰ってこないのかを知っていたが、自分の見てきたこと
を、灰色の仔に伝えるすべはなかった。ある日、自ら狩りに出た彼
女は、オオヤマネコの棲む川の左側の支流をさかのぼり、一日前に
〈片目〉の残した足跡をたどっていったのだった。そしてその足跡
なきがら
の尽きたところで、〈片目〉を、というか、〈片目〉の亡骸を見つ
けた。周辺には、死闘の行なわれた痕跡がおびただしく残ってい
た。そしてその死闘に勝利したあと、オオヤマネコが意気揚々と自
分の巣へ引き揚げていった痕跡も。その場を離れる前に、雌狼は問
題のその巣を見つけたが、あらゆる徴候から、巣穴の奥にオオヤマ
ネコがいることは歴然としていたので、あえてなかに踏みこむこと
はしなかった。
それ以降、雌狼は狩りをするときにも川の左側の支流は敬遠し
た。オオヤマネコの巣に、一腹の仔がいることはわかっていたし、
そうでなくても、オオヤマネコというのがもともと獰猛で、気むず
かしく、おそるべき闘争相手であることは承知していたからだ。か
りに狼の仲間が五、六頭も集まれば、オオヤマネコがいくらふうふ
ううなろうが、毛を逆だててみせようが、仲間で力を合わせて、相
手を木に追いあげるぐらいのことはできるだろう。だが、たった一
頭の狼がオオヤマネコに立ち向かうとなると、話はまるきりちがっ
てくる──とくに、そのオオヤマネコが、腹をすかせた一腹の仔を背
後にかばっているとわかっている場合は。
とはいうものの、〈野性〉は〈野性〉であり、母性は母性であ
る。母性とは、〈荒野〉にいても、〈荒野〉を離れていても、いつ
も変わらず強烈な保護本能を働かせるものだ。だから、いずれは雌
狼が一匹だけ残った灰色の仔のために、思いきって川の左側の支流
をさかのぼり、岩場のなかの巣へ、そしてオオヤマネコの怒りへと
まっこうから立ち向かってゆくときが、きっとくるはずであった。
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世界の壁
母が獲物を狩るためにたびたび巣穴を離れ、遠出をするようにな
おきて
ったころには、灰色の仔狼も、入り口に近づくことを禁ずる掟のこ
とは、じゅうぶん心得るまでになっていた。この掟を強制的に──た
いがいは母の鼻や前足によって──たたきこまれていたというだけで
はなく、じつは彼自身のうちにも、恐怖という本能が育ちつつあっ
たのだ。これまでの長くはないほら穴暮らしのなかで、なんであれ
恐れなくてはならないものに遭遇したためしなど、まだ一度もな
い。にもかかわらず、恐怖が彼のうちにはあった。それは、遠い祖
先から、幾十、幾百万もの命を通じて伝わってきたものだった。仔
狼が〈片目〉と雌狼から、生まれながらに受け継いだものだった。
だがその〈片目〉と雌狼にも、それはそれ以前のすべての世代を通
じて、脈々と伝わってきたものなのだ。恐怖!──それこそは〈野
性〉の伝える精神的遺産であり、どんな動物もそれからのがれた
り、目先の利と交換したりすることはできないのである。
という次第で、灰色の仔狼は恐怖を知っていた。もっとも、その
恐怖がどういうものから成りたっているかはわからぬままだった
が。ことによるとそれを、生きることを制限するもののひとつと受
け取っていたかもしれない。そういう制限がいろいろ存在すること
は、すでに学んでいたからだ。たとえば彼は空腹を知っているが、

その空腹を癒やすことができないとき、制約を感じた。さらに、ほ
ら穴の壁というかたい障害物や、鋭くこづいてくる母の鼻、その前
き きん
足による強烈な一撃、何度かの飢饉のさいに、ついぞ癒やされるこ
とのなかった飢餓感──これらはみな、この世のすべてが思いどおり
になるわけではないということ、生きることには制限や制約がつき
まとうということ、こうしたことを肝に銘じさせた。こうした制限
や制約は、それ自体、掟である。それにしたがうことこそ、痛みを
のがれ、幸福を生みだす途なのである。
彼はこの問題を、こんなふうに人間流に理詰めで考えたわけでは
ない。たんに、痛いものと、痛くないものとを、分類し、整理した
だけである。そしてそのように分類してしまってからは、もっぱ
ら、痛いもの、制限や制約となるものを避けることに努めた──生き
ることの満足感と、それの報いてくれるものとを満喫するために。
かくして、ひとつには母の定めた掟にしたがい、またひとつに
は、そのもうひとつのはかりしれぬ、名づけがたいもの、つまり恐
怖という掟にしたがって、灰色の仔狼は、ほら穴の入り口には近づ
かぬようにしていた。入り口は、いまでも彼にとっては白い光の壁
のままだった。母が留守にしているあいだ、彼はほとんどの時間を
眠って過ごしたし、ときたま目がさめているときでも、じっと動か
ずにうずくまって、弱々しいくんくんというすすり泣き──それはし
きりに喉をむずむずさせては、いまにもわっとあふれだしそうにな
る──をこらえるのだった。
あるとき、そうして目をさまして、じっとしているとき、白い壁
のなかに聞き慣れない音が聞こえた。彼は知らなかったが、その音
の主は一匹のクズリ[屈狸。イタチ科のずんぐりした肉食哺乳動
物]で、それがほら穴の外に立って、自分自身の大胆さにふるえお
ののきながらも、用心ぶかく穴のなかのにおいを嗅ごうとしている
のだった。仔狼にわかったのは、そのふんふんという音が耳慣れぬ
﹅ ﹅ ﹅
もので、分類できないなにかであり、したがって正体の知れぬ、お
そるべきものだということだけだった──正体が知れぬということ
は、やがて恐怖へと育ってゆく主たる要素のひとつなのである。
灰色の仔狼の背筋の毛がおのずと逆だったが、逆だつ音はたたな
﹅ ﹅
かった。向こうでふんふんにおいを嗅いでいるそのものが、背中の
毛を逆だてなければならない相手だと、どうして仔狼に認識できた
のか。それは彼の知識のなかにはなかったが、それでも、彼のうち
にひそむ恐怖が、そのまま目に見えるかたちであらわれでたもので
はあり、それを言葉で説明することは、一生かかっても無理な話だ
ろう。とはいえ、恐怖にはまた、べつの本能も付随している──隠れ
るという本能である。恐怖のあまり気も狂いそうだったが、それで
も仔狼はそのまま動かず、音もたてず、どこから見ても石と化した
かのように、ひっそり凍りついたきりでいた。やがてもどってきた
母は、クズリの臭跡を嗅ぎつけるや、咆哮して、ほら穴にとびこ
み、狂おしいほどの激しさで仔狼をなめまわし、鼻をこすりつけて
きた。これでようやく仔狼にも、自分がどういう強運からか、大き
な苦痛をまぬがれたらしいということがわかったのだった。
しゅんどう
けれども、仔狼の体内では、いまやほかの力も蠢 動を始めてい
て、その最たるものが、成長力だった。本能と掟とは、彼に服従を
要求した。だがいまや心身の成長は、彼に不服従を要求する。これ
までは、母の訓戒と恐怖心とが、あの白い壁から彼を遠ざけてきた
のだが。成長とはすなわち生命そのものであり、生命は永遠に光を
もとめて進むことを運命づけられている。だから、彼のなかでいま
高まりつつある生命のうねりをせきとめる手だて、それはどこにも
ない──そのうねりは、彼ののみこむ肉の一口ごとに、吸う息の一息
ごとに、高く、大きくなってゆく。そうして、ついにある日のこ
と、高まったその生命のうねりに、恐怖と服従心は押し流され、仔
狼はよちよちと這いずるように入り口のほうへ向かったのだった。
これまでに遭遇したほかの壁とは異なり、その壁は彼が近づくご
とに遠のいてゆくかに見えた。おそるおそる前へ突きだしてみたや
わらかな小さな鼻に、かたい障壁がぶつかってくることもなかっ
﹅ ﹅
た。壁を構成しているものは、光とおなじに透過性があり、押せば
ひっこむように思われた。それに、見た目の状態も、いちおう堅固
な平面を保っているようだ。そこで、これまでは自分にとって壁で
あったもの、そのなかへと仔狼ははいってゆき、そして、それを構
﹅ ﹅
成しているものにどっぷりとひたった。
どうにもわけがわからなかった。彼は固体のなかを這い進んでい
る。おまけに、光はどんどん明るさを増してくる。恐怖はしきりに
ひきかえすようにうながすが、成長する力は、逆に体を前へと押し
進める。と、とつぜん、全身がほら穴の入り口に出ていた。これま
でそのなかにいると思いこんできた壁が、目の前でいきなりはるか
遠方へと遠のいた。光が痛いほど強烈になり、まぶしさで目がくら
んだ。目がくらんだのは、こんなふうに唐突に、途方もない空間が
目の前にひろがった、そのせいでもある。反射的に、目はそのまぶ
しさに順応しはじめるいっぽう、距離を増した対象物にも焦点を合
わせようとした。はじめ、前の壁は視界のかなたに飛び去り、消え
てしまっていた。いまはふたたび見えはじめたが、同時にそれは途
方もなく遠くなっていて、おまけに変容もしてしまっている。いま
やそれは多彩にいろどられたまだらな壁であり、流れをふちどる
木々や、その木々よりも高くそびえる向かいの山々、そしてその
山々よりもさらに高くそびえる空、などで構成されていた。
途方もない恐怖が仔狼をとらえた。それは新たな未知のものへの
恐怖だった。彼はほら穴のへりにうずくまり、目の前にひろがる世
界を見つめた。恐ろしくてたまらなかった。なぜならそれが未知の
もので、こちらにむかって敵意を示していたからだ。そんなわけ
で、背筋の毛が端からさあっと逆だってゆき、くちびるが弱々しく
ゆがんで、せいぜい獰猛な、相手を萎縮させるようなうなり声を発
しようとした。自分は小さくて、弱く、しかもおびえている。だか
らこそ、かえって挑戦的に、全世界を脅しつけようとしたのだ。
あいにく、なにも起こらなかった。彼はなおも前方を見つめつづ
け、そのうち、好奇心が勝って、うなることを忘れた。同時に、こ
わいのも忘れた。しばしのあいだ、恐怖心が成長力に打ち負かさ
れ、成長力のほうはさらに、好奇心という仮面を身につけたのだ。
仔狼は近くにある対象物に注目しはじめた──木々に隠されていない
流れの一部分が、日の光を浴びてきらめいているさま。下方の斜面
の下に立つ枯れた松の木。そしてその斜面そのもの。それは彼にむ
かってせりあがってきて、いま彼のうずくまっているほら穴のへり
の下、約二フィートのところで終わっている。
ところで、これまでずっと灰色の仔狼は、平面の上で暮らしてき
た。落ちるということの痛みなど、まだ経験したためしがなかっ
た。そこで、いまも大胆になにもない空中へと足を踏みだした。後
ろ足はまだほら穴のへりにのっていたから、彼は頭を下にして、前
のめりに転落した。大地がその鼻にしたたかな一撃を見舞い、きゃ
んと悲鳴をあげさせた。と思うまもなく、全身がごろごろと斜面を
ころがりおちはじめた。恐怖のパニックが彼をつつみこんだ。あの
はかりしれぬものが、ついに自分をとらえたのだ。それは荒々しく
この自分をわしづかみにし、なにかおそるべき苦痛をもたらそうと
している。いまや成長力は恐怖心に打ち負かされてしまい、仔狼は
おびえた仔犬よろしく、きいきい、ぴいぴいと泣き叫ぶしかなかっ
た。
正体の知れぬそのものが、おそるべき痛みを伴ってのしかかって
き、彼はたえまなくきゃんきゃん吠え、きいきい泣き叫んだ。これ
は、未知のものがすぐ近くにひそんでいるあいだ、じっと恐怖に凍
りついているのとは、また別種の問題だった。いま、その未知のも
のは、しっかり彼をとらえてしまっている。いまさら音をたてぬよ
うにしたところで、なんの意味もない。のみならず、いま彼をふる
えあがらせているのは、たんなる恐怖ではなく、魂もけしとぶよう
なおそるべき戦慄なのだ。
それでも、落ちるうちに斜面は徐々にゆるやかになり、下には草
原がひろがっていた。ここで仔狼は落下の勢いを失い、やがてつい
に止まったときには、最後に一声、ぎゃんと苦悶の悲鳴をあげ、つ
づいてもう一度、今度は長々と尾をひく物悲しげな声で、きゃいー
んと鳴いた。だが、鳴いたのもつかのま、すぐさまあたりまえのこ
とをするように、全身にこびりついた乾いた泥をなめとる作業にと
りかかった。そのしぐさたるや、もう何度となくこうして身じまい
をしてきたかのように、物慣れていた。
作業が終わると、彼はすわりなおして、あたりを見まわしたが、
そのようすはあたかも、はじめて火星に降りたった地球人のようだ
った。たったいま、彼は世界の壁を突破した。あの未知なるもの、
はかりしれぬものは、とらえていた彼を解放し、いま彼は無傷でこ
こにいる。とはいえ、火星最初の地球人といえども、いまの彼ほど
に不案内な世界に置かれることはなかったろう。なんの予備知識も
なく、こうしたものが存在するという予告すらいっさい受けず、ふ
と気がついたときには、ひとつのまったく新しい世界の探検者とな
っていたのだ。
あのおそるべき未知なるものからついに解放されたいま、未知な
るものがなんらかの恐怖を秘めていることすら、彼の念頭からは消
えていた。わかっているのはただ、周囲のすべてが物珍しいという
ことだけだった。好奇心満々で、彼は足の下の草を調べ、すぐ先に
あるコケモモの木を調べ、木立のなかのちょっとした空き地の端に
立っている、枯れた松の木の幹を調べた。その幹の根もとを走りま
り す
わっていた一匹の栗鼠が、そこでいきなり彼と鉢合わせして、彼を
ぎょっとさせた。身をすくめて、彼はうなった。けれども、栗鼠の
ほうも負けず劣らずおびえていて、そのまま松の幹を駆けあがるな
り、安全な高みから、けたたましくぎゃあぎゃあとわめきかえして
きた。
この一件で、仔狼には勇気が湧いてきた。だから、つぎにキツツ
キに出くわしたときにも、一瞬びくっとはしたものの、すぐに自信
たっぷりに先へ進んだ。その自信はなかなかのものだったから、し
ばらくして、一羽のアオカケスがずうずうしくもすぐ前まで跳びは
ねながら近づいてきたときには、ふざけて前足をひょいとのばし
た。ところが、お返しに受けたのは、鼻の頭をしたたかつつくとい
う返礼──これでまたもすくみあがり、きいきい、ぴいぴい泣き叫ん
だが、この声があまりに騒々しかったせいか、かえってアオカケス
のほうが閉口して、安全なところへと逃げ去った。
それでも仔狼は急速に学びつつあった。まだぼんやりしたままの
彼の小さな頭は、すでに無意識のうちに、ある分類整理を始めてい
た。世界には、生きているものと、生きていないものとがあるこ
と。また、生きているものには気をつけねばならぬということ。生
きていないものは、つねにひとつところにとどまっているが、生き
ているものは、たえず動きまわり、なにをしでかすか予測がつかな
いからだ。生きているものについて予測できるのは、予測がつかな
いということであり、だからこちらも用心してかからねばならな
い。
彼の足どりは、いたってあぶなっかしかった。落ちている枝だの
なんだのにやたらにぶつかった。ずっと遠くにあると思っていた小
枝が、つぎの瞬間には鼻頭にぶつかってきたり、脇腹をひっかいた
りする。地面には、でこぼこというものもある。あるときは、大き
く踏み越しすぎて鼻をぶつけるし、逆に歩幅が小さすぎて、爪先を
じゃ り
ぶつけることも再三。さらに、砂利だの石ころだのもあって、それ
らは踏んづけると、ひっくりかえる。そのうち彼も、そうした石こ
ろから学ぶにいたった──生きていないものも、必ずしも彼の巣穴の
なかでのように、つねに安定した静止状態を保っているわけではな
い。そしてもうひとつ、おなじ生きていないものでも、小さなもの
は大きなものよりも、ころがりおちたり、ひっくりかえったりしや
すい。それでも、こうして災難にあうごとに、彼はひとつずつ学ん
でいった。長く歩けば歩くだけ、歩きかたも上達していった。要す

るに、環境に順応しつつあったのだ。自分の筋肉の動きを推し量る
ことを学び、自分の肉体的限界を知り、物と物との距離をはかり、
さらには、物と自分との距離をはかる、といったことも学んでいっ
た。
たしかに、彼の場合、ビギナーズラックというものがあったこと
も否めない。肉を狩るものとして生まれて(もっとも彼自身はまだ
そのことを知らなかったが)、はじめて外界へ乗りだしていったこ
のとき、生まれ育った巣穴の入り口のすぐ外で、はからずも肉に出
らいちょう
くわしたのだから。その抜け目なく隠された雷 鳥の巣に行きあたっ
たのは、まったくのまぐれあたり、ただの偶然だった。そのなかへ
落ちこんだのである。一本の倒れた松の幹づたいに進もうとしてい
るときだった。腐朽した樹皮が足の下でくずれて、彼は絶望的な悲
鳴もろとも、幹にそって曲線的な軌道を描いて転落し、とある小さ
は むら
な茂みの、葉叢や小枝の重なりを突き抜けて、茂みの中心の地面に
落ち、七羽の雷鳥のひな雛たちの、そのまんなかでぴたりと止まったの
である。
雛たちが騒ぎたてたので、仔狼もはじめは彼らを恐れた。だが、
すぐに彼らがとびきり小さいことに気づいて、度胸がすわった。彼
らは動いている。その一羽に前足をかけてみると、動きがじたばた
と速くなった。これはおもしろい。においを嗅いでみた。口にくわ
えてみた。そいつはもがいて、舌をくすぐった。その瞬間、空腹な
のに気づかされた。上下のあごがとじた。かぼそい骨が砕ける音が
して、温かい血が口中にひろがった。その味は絶妙だった。これは
肉だ。母からもらうのとおなじ肉だ。ただしこいつは、口に入れて
からもまだ生きていて、それゆえいっそう美味だった。こうして仔
狼はその雷鳥を食った。食いだすと止まらず、あっというまに、そ
の一腹の雛をそっくりたいらげてしまった。それから、母がいつも
見せるのとまったくおなじしぐさで舌なめずりをすると、茂みのな
かから這いだしにかかった。
とたんに、羽の生えたつむじ風に強襲された。仔狼はその風の勢
いと、怒り狂ってばたばたとたたきつけられてくる翼の攻撃に、混
乱し、目がくらんだ。前足で頭をかかえて、きゃんきゃん泣き叫ん
だ。攻撃は勢いを増した。母雷鳥は激しく怒っていた。そのうち、
やられるいっぽうだった仔狼も、むらむらと腹が立ってきた。立ち
あがるなり、前足をふるって反撃に移った。小さな牙を片方の翼に
突きたてると、離すものかとばかりに敢然とひっぱり、ひきずっ
た。雷鳥がすぐそばでばたばたともがき、自由が利くほうの翼で雨
あられと打撃を浴びせてきた。これこそは仔狼の生まれてはじめて
の争闘だった。彼は高揚していた。あのはかりしれぬもののことな
ど、すっかり忘れていた。もはやこわいものはなかった。彼は闘っ
ていた。自分を攻撃してくる生きたものを相手に、そいつを八つ裂
きにしようと奮闘していた。のみならず、この生きたものは、肉だ
さつりく
った。殺戮本能が彼をとらえていた。いましがた、小さな生き物を
たくさんやっつけてやった。今度はひとつ、この大きな生き物をや
っつけてやるとしよう。そのことにすっかり気をとられ、しかもそ
れがあまりに楽しく思えるので、自分でも楽しんでいるということ
を意識せぬほどだった。いま彼は興奮し、わくわくしていた。それ
は彼のはじめて知る興奮であり、これまでに経験してきたなにより
も大きな高揚感だった。
仔狼はしっかり翼に食いついて放さず、食いしばった歯のあいだ
からごろごろとうなり声を浴びせた。雷鳥は彼を茂みからひきずり
だしていたが、やがて反転して、ふたたび茂みの奥へひきこもうと
した。彼はそれを許さず、逆に彼女を茂みから引き離し、空き地へ
とひきずりだした。そしてそのかんずっと、彼女はすさまじい絶叫
をあげつづけ、翼で仔狼を打ちつづけていて、羽毛が雪片さながら
にあたりに舞い散った。仔狼がかきたてられた興奮は、彼をこのう
えない高みへと押しあげた。狼という種族に流れるありとあらゆる
好戦的な血が、いま彼の身内に沸きたち、荒れ狂っていた。彼自身
はまだ気づいていなかったが、これこそがまさに生きるということ
なのだった。この世界における自らの存在意義、それを彼は実感
ほふ
し、そのためにこの世に生まれてきた行為──つまり、肉を屠るこ
と、それを屠るために闘うこと──を実行しているのだった。彼はこ
うしておのれの存在を正当化していた。たんに生きているだけで
は、これ以上に偉大なことを成し遂げることはできない。生命がそ
の頂点をきわめるのは、本来そうするように力を授かっているその
行為を、せいいっぱい成し遂げたときにこそ、なのだから。
しばらくすると、雷鳥はもがくのをやめた。それでもまだ仔狼は
その翼をくわえたまま放さず、両者は地面に横たわって、しばした
がいに睨みあった。仔狼はせいぜい威嚇的に、獰猛にうなってみせ
ようとしたが、そのとたんに、鼻をつつかれた。先ほどからの闘い
あか む
の余波で、その鼻はいまでは赤剝けになっていて、そこをつつかれ
てひるみはしたものの、それでも仔狼はがんばった。雷鳥はまたつ
つき、またつついてきた。ひるんだすえに、とうとう仔狼は鼻を鳴
らして泣きだし、あとずさりして、なんとか相手から身を遠ざけよ
うとした。自分が食いついたままなので、あとずさりすれば、相手
もそれについてくるということを忘れていたのだ。さんざん痛めつ
けられた鼻に、なおもくちばし
嘴 による攻撃の雨が降ってきた。身内に沸き
たっていた闘争心が、潮のひくようにひいてゆき、とうとう仔狼は
くわえていた獲物をほうりだすと、こそこそと空き地を横切り、不
名誉な撤退にかかった。
空き地の反対側の端まできて、一息入れるため、そこの茂みのそ
ばにごろりと横になると、舌を長くたらし、胸を大きく波打たせ
て、あえいだ。鼻はいまだにひりひり痛み、くんくん泣くのがとま
らなかった。ところが、そうして横になっているとき、ふいに、な
にか恐ろしい災厄がさしせまっている、との感覚に襲われた。あの
はかりしれぬものが、ふたたびありとあらゆる恐怖を伴って襲って
こようとしている、そう直感して、仔狼は本能的に身を縮め、茂み
の奥へと退却した。そして、退却したと思った、まさにそのおりも
おり、一陣の突風がさっと彼をあおり、ひとつの大きな、翼を持つ
ものが、頭上をすれすれにかすめて、音もなく飛び去った。一羽の
へきれき
鷹が青天の霹靂のごとく急降下してきて、あわやというところで仔
狼を取り逃がしたのだった。
彼が茂みのなかにうずくまって、どうにかいまの恐怖から立ちな
おるいっぽう、なおもこわごわと向こうをうかがっていると、母雷
鳥がばたばた羽ばたきしながら、荒らされた巣から空き地の向こう
端へ出てきた。雛を失った打撃のせいなのか、彼女は上空の翼を持
つ稲妻には注意を払わなかった。だが仔狼はしっかりその一部始終
を見ていて、それが彼にはひとつの警告となり、教訓ともなった──
矢のような鷹の急降下、地上すれすれをかすめたほんの一瞬の滑
空、雷鳥の体につかみかかるかぎづめ、驚きと苦悶とに雷鳥の発し
た悲鳴、そしてみごとにその体をひっさらって、またたくまに天空
のかなたへと飛び去っていった鷹。
仔狼が茂みから出ていったのは、それから長い時間がたってから
だった。すでに彼は多くを学んでいた。生きたものは肉である。食
べておいしい肉だ。だが同時に、おなじ生き物でも体が大きけれ
ば、こちらを痛い目にあわせることができる。食べるならば、雷鳥
の雛のような小さな生き物にかぎり、母雷鳥のような大きな生き物
には、手を出さぬことこそ得策。だがそうは思いながらも、彼の胸
のうちには、ちょっとした野心のうずきが、またいつかあの雌雷鳥
と闘ってみたいというひそかなる欲望がひそんでいた──あいにく、
さっきのあの雌は、鷹にさらわれてしまったけれども。まあ雷鳥の
雌ならば、ほかにもまだいるだろう。よし、ひとつ探しにいってや
ろう。
なだらかな土手の斜面をくだって、流れに出た。いままで水とい
うものは見たことがなかった。どうやら足場はよさそうだ。表面の
でこぼこもない。大胆にその上へ足を踏みだし、とたんに、恐怖の
悲鳴をあげながら落ちていって、なにやらはかりしれぬものに抱き
とめられた。そのものは冷たく、仔狼はあえいで、あわてて呼吸を
くりかえした。いつもは呼吸に伴ってはいってくる空気のかわり
に、水がどっと肺に流れこんできた。このとき味わった窒息の苦し
みは、死の苦悶そのものだった。それは彼にとって死を意味するも
のだった。死というものについて、これという明確な知識があった
わけではないが、〈野生〉の動物の例に漏れず、それへの本能はそ
なえていた。彼にとって、それはあらゆる苦痛のなかでも最大のも
のであり、また、あの未知なるものの本質そのものだった。未知な
るものの恐怖を要約したものがそれであり、自分の身に起こりうる
災厄のひとつの極致、とうてい想像もつかない破滅のひとつのかた
ち、それについて彼がなにも知らず、同時に、それにまつわるすべ
てを恐れてもいる、それが死であった。
やがて仔狼の体は水面に浮かびあがり、甘美な空気が、さっとひ
らいた口に流れこんできた。以後は二度と沈むことはなかった。ま
るで長年のあいだに身につけた習慣ででもあるように、彼はすぐさ
ま四肢を動かして泳ぎはじめた。近いほうの岸は、ほんの一ヤード
先にあったのだが、あいにく浮かびあがったときには、そちらに背
を向けていたので、最初に目にとまったのが対岸の土手、そこで、
すぐさまそのほうへ泳ぎだした。ごく小さな流れだったが、淵にな
った箇所では、幅が二十フィートほどにまでひろがっている。
なかほどまできたところで、流れが仔狼をさらって、川下へと押
し流した。淵の底にちょっとした急な流れがあり、それにとらえら
れたのだ。その流れのなかでは、とても泳げるものではなかった。
穏やかだった水が、とつぜん怒りの牙をむいてきた。彼の体はある
ときは沈み、あるときは浮きあがった。そのかんずっと、荒れ狂う
水にもみくちゃにされ、ひっくりかえされたかと思えば、後ろ向き
にされ、かと思えばまた、水中の岩にたたきつけられる。そして岩
にぶつかるたびに、彼は悲鳴をあげた。流されているあいだは、悲
鳴の連続だったと言ってもよい。だから、悲鳴の回数をもって、ぶ
つかった岩の数も推し量れるというものだ。
急流の先には、またべつの淵があり、ここで、渦巻きにとらえら
れた仔狼の体は、静かに岸へ運ばれて、おなじく静かに岸近くの砂
利に打ちあげられた。あわただしく水をかいて、どうにか流れから
抜けだした彼は、そのままそこにへたりこんだ。もうひとつ、世界
について学んだことがあった。水は生き物ではない。なのに、動
く。さらに、見た目は地面みたいに堅固に見えるが、およそ堅固ど
ころではない。ここから彼のひきだした結論は、物は必ずしも見か
けどおりのものではない、ということ。未知なるものへの仔狼の恐
怖には、先祖から受け継いだ不信が根底にあるのだが、いま、経験
を積むことで、それがいっそう深まっていた。というわけで、以
後、当然の帰結として、彼は物の見かけにたいする根強い不信感を
持つようになる。なんであれ、物の本質をしっかり見きわめないか
ぎり、その物を信じる気にはなれないだろう。
その日は、もうひとつべつの冒険が前途に待ち受けていた。この
ころようやく仔狼は、この世界には母というものがいるということ
を思いだしていた。と同時に、世界のほかのなににもまして、その
母のそばへ行きたいという気持ちが強くなってきた。一日の冒険つ
づきで、体が疲れたからというだけでなく、小さな頭脳も、それに
劣らず疲労していた。生まれてからいままで、この日ほどにその小
さな頭脳を激しく働かせたことはなかったろう。のみならず、眠く
なってもいた。そこで、ほら穴を、母親をもとめてひきかえしはじ
めたが、同時に彼をさいなんでいるのは、圧倒的な勢いで押し寄せ
てくる孤独感と、心細さなのだった。
とある灌木の茂みのあいだを、無器用によたよたと歩いていると
き、ふいに、けたたましい、血も凍るような叫びが耳に突き刺さ
り、眼前を黄色いものがさっとよぎるのが見えた。イタチだ。すば
やく彼の前から跳びすさろうとしている。小さな生き物だから、べ
つにこわくはない。と、すぐ目の前の足もとに、なにやらとてつも
なく小さな生き物がいるのが目にとまった──ほんの数インチしかな
い体。仔イタチだ。仔狼自身とおなじに、やはり親の訓戒に逆ら
い、冒険に出かけてきたらしい。しきりに仔狼の前からあとずさろ
うとしている。前足でそいつをひっくりかえしてやった。奇妙な、
きしるような声で、きいっと鳴く。つぎの瞬間、ふたたび目の前を
黄色い閃光が走った。またさっきの血も凍るような叫びが聞こえ、
同時に、首の横に激しい一撃を食らって、母イタチの鋭い歯が、そ
の部分の肉に食いこんでくるのがわかった。
仔狼が悲鳴をあげ、きいきい、ぴいぴい泣き叫びながらひきさが
ろうとしているあいだに、母イタチは仔にとびつき、そのまますば
やくそばの茂みに身を隠した。咬まれた首の傷はまだずきずきして
いたが、それよりも気持ちのほうがもっとひどく傷ついていて、仔
狼はそこにすわりこんだまま、弱々しくくんくん泣いた。あの母イ
タチのやつ、あんなに小さいくせに、あれほど獰猛だとは! これ
は仔狼のまだこれから学ばねばならないことだったが、イタチは体
の大きさや体重のわりに、〈荒野〉に棲息するあらゆる殺戮者のう
ちでも、いちばん凶暴で、執念ぶかく、おそるべき相手なのであ
る。とはいえ、その知識の一端だけは、さっそく仔狼も把握してい
たわけだが。
仔狼がまだ意気地なくくんくん泣いているとき、母イタチがふた
たび姿をあらわした。仔を無事に保護してしまったあとなので、彼
女も性急には襲ってこなかった。より慎重に近づいてき、その機会
に仔狼も、彼女の瘦せた、蛇のような胴体や、すっくと立てた、物
欲しげな、それ自体が蛇のような頭、などをじっくり観察すること
ができた。彼女のけたたましい、威嚇的な叫び声は、彼の背筋の毛
を逆だてさせ、彼も負けじと警告するようにうなって返した。彼女
はなおもじりじりと近づいてくる。と見るや、いきなり跳躍──仔狼
の未発達な目の動きでは、とても追いきれない速さだ。そしてその
瘦せた、黄色い体は、一瞬、彼の視界から消えた。つぎの瞬間、彼
女は仔狼の喉もとに食らいついて、被毛の上から喉の肉に歯を突き
たててきた。
はじめは仔狼も猛然とうなって、反撃する構えに出た。だが、な
んといってもまだ幼く、しかも、この日はじめて世のなかに出たば
かりの身、そのうなりはやがて哀れっぽい鼻声になり、反撃も、逃
げようとするあがきに変わった。イタチはけっして歯の力をゆるめ
ようとしなかった。執拗に仔狼の喉に食らいついたまま、なんとか
その歯をもっと深く、仔狼の命の血が脈々と流れている大動脈にま
で食いこませてこようとする。イタチは血を飲む動物であり、なか
でもいちばんの好みは、いつの場合も、生き物の喉そのものからじ
かに飲むことなのだ。
仔狼はここであやうく死ぬところだったし、そうなれば、この物
語も、もはや彼について語ることはなくなっていただろうが、そこ
へ、母親である雌狼が、茂みを衝いて宙を飛ぶようにやってきた。
イタチは仔狼を突きはなすなり、身をひるがえして母狼の喉もとを
狙っていったが、狙いがはずれて、かわりに、雌狼のあごに食らい
ついた。雌狼は、鞭でもふるうようにしなやかに頭をひとふりし
て、食いついたイタチをふりはなすと、そのままの勢いで、高々と
空中にほうりあげた。そしてそいつがまだ空中にあるうちに、雌狼
のあごは、がっきとその瘦せた、黄色い体をくわえこみ、イタチは
ばりばりと嚙み砕いてくるその歯のあいだで、わが身の死をさとっ
たのだった。
そのあと仔狼が経験したのは、母親からのまた新たな愛情の発露
だった。彼を見つけたときの彼女の喜びは、見つけてもらったとき
の仔狼の喜びにいやまさっていた。彼女は鼻をぐりぐりこすりつけ
て、彼を愛撫し、イタチの歯による傷跡をていねいになめてくれ
た。それから、その血を飲む殺し屋を母子で分けあって食べ、しか
るのちに、ほら穴にもどって、眠ったのだった。
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肉の法則
仔狼の成長は速かった。二日だけ体を休めると、もうはやほら穴
を出て、つぎなる冒険に乗りだしていった。この二度めの冒険で
は、例の仔イタチ──母といっしょにその母親を餌食にした、あのチ
まつ ご
ビ──に出くわし、そいつにもきっちり母親とおなじ末期をたどらせ
てやった。しかし前回とちがって、今回は彼自身が途中で迷子にな
るということもなかった。疲れてくると、ちゃんと道を探しだして
ほら穴に帰り、眠った。そしてそれからというものは、毎日ねぐら
を出て、しだいに探検する範囲をひろげてゆく仔狼の姿が見られる
ようになった。
自分の強さ、そして弱さ、それを彼はふたつながら正確に見きわ
められるようになったし、大胆になるべきときと、用心せねばなら
ないとき、それも体得していた。いつの場合も、用心だけは怠らな
いのがよい、そういう自覚もそなえていたが、それでもときたま、
自分の勇敢さに自信を持つあまり、つまらぬ怒りや欲望に身をゆだ
ねてしまうこともないではなかった。
たまたまはぐれ雷鳥に出あったりすると、そのたびに彼は怒りの
小悪魔と化した。いつぞや枯れた松の木ではじめて出あったあの栗
鼠、そいつがやかましくさえずりたてるのを聞けば、きまって猛然
とやりかえしたし、アオカケスの姿を見かければ、必ずと言ってよ
いほど、身も世もない怒りにふるえた。というのも、はじめて遭遇
したそいつの同類からつつかれた鼻の痛み、それをけっして忘れな
かったからだ。
とはいえ、それらアオカケスどもでさえ、彼の関心をひかないと
きがたまにはあって、それは、なにかほかの肉食獣が近くをはい徘かい徊し
ているため、自分自身、身の危険を感じているときだった。いつか
の鷹のことは、いまもけっして忘れず、上空に影がさすと、ちゅう
躊 ちょ躇な
く手近の茂みに這いこむのをつねとしていた。いまでは、歩きっぷ
りももたついたり、ぶざまだったりすることはなく、早くも母とお
なじすべるような足どりを身につけていた──ひっそりと、忍びやか
で、見たところいたって無造作な歩きっぷりに見えるが、それでい
て、敵に気づかれぬだけでなく、たとえ気づかれても、その目をま
びんしょう
どわせるだけの敏 捷さをそなえた足どり。
いっぽう、肉を得るという点では、幸運に恵まれていたのも、ご
く最初のうちだけだった。七羽の雷鳥の雛と、二度めのときの仔イ
タチ、それがこれまでの獲物のすべてだった。それでも、殺戮の欲
望は日ましに強まっていて、彼はひそかに、あの栗鼠を食ってやり
たいという野望を心に温めるようになっていった。あのやたらにさ
えずりまくって、周辺の野生動物たちみんなに、狼の仔が近づいて
くるぞと触れまわるやつ。だが、鳥が空を飛ぶように、栗鼠は木に
のぼることができる。だから、仔狼が相手に見つからずに栗鼠に忍
び寄れるのは、向こうが地上にいるときしかないのだ。
母にたいしては、仔狼もおおいなる尊敬の念をいだいていた。母
は肉を手に入れられるし、手に入れれば、必ずこちらの分まで持ち
帰ってきてくれる。おまけに、母はいかなるものも恐れない。その
勇敢さが、経験と知識にもとづいたものだとは、まだ仔狼の理解の
及ばぬことだったが、それでもそれが彼に印象づけたのは、力とい
うものの存在だった。彼にとって、母はそのまま力をあらわしてい
る。そしてその力を彼は、自分が成長するにしたがって、母の前足
の訓戒にこもる力が、一段と強くなったことから感じとっていた。
さらに、叱るときには鼻でそっとこづかれていたのが、牙でがぶり
とやられるようにもなったが、そうされても、やはり彼は母を尊敬

していた。母は彼に服従を強いたし、彼が成長するにつれて、いよ
いよ短気に、不機嫌になってゆくいっぽうだったのだが。
やがて、またも飢餓のときが訪れ、仔狼は前のときよりも明確な
意識をもって、空腹の痛みを知ることになった。雌狼も、身を削っ
て餌を探しまわり、無残に瘦せ細っていった。いまではめったに巣
穴で眠ることもなく、ほとんどの時間を狩りに費やし、しかも報わ
れずして終わっていた。今回の凶荒はさほど長くはつづかなかった
が、それでもつづいているあいだの苛酷さは、言語を絶していた。
仔狼はもはや、母の乳房に乳をもとめることもできず、さりとて、
自力では一口の肉も得られなかった。
以前は、遊び半分に、ただその楽しみのためにだけ狩りをしてい
た彼だが、いまはそれにおそろしいほどの真剣みが加わっていた。
それでも成果は得られなかった。とはいうものの、その失敗で、彼
こ しゃく
の成長は速まった。例の小 癪な栗鼠の習性を、前にもまして入念に
こうかつ
観察し、よりいっそうの狡猾さでそいつに忍び寄って、不意打ちに
しようとはかった。モリネズミの一党を観察して、彼らを穴から掘
りだそうともしてみたし、アオカケスやキツツキの生態にも詳しく
なった。そうしてついに、頭上に鷹の影がさしても、彼があわてて
茂みにもぐりこんだりはせぬ日がやってきた。いまの彼は、一段と
強くなり、賢くなり、いっそうの自信を深めてもいた。のみなら
ず、捨て身でもあった。そこで、わざと目につきやすいように空き
地のまんなかにすわりこみ、くるならきてみろと上空の鷹にいどん
だ。そこの青い空に浮かんでいるのが肉であり、肉こそは自分の胃
袋がかくも強烈に、執拗に欲しているものだと承知していたから
だ。けれども鷹は、舞い降りてきて、闘いに応じようとはせず、仔
狼はすごすごと茂みに這いこんで、失望と、空腹とから、哀れっぽ
く鼻を鳴らして鳴いたのだった。
やがて飢餓が終わった。雌狼が肉を持ち帰ったのだ。それは風変
わりな肉で、これまでに母が持ち帰った、どんな肉ともちがってい
た。オオヤマネコの仔だ。仔狼自身とおなじく、ある程度まで成長
しているが、さほど大きくはない。それでも、一匹分がまるまる仔
狼のもので、母自身は、どこかよそで飢えを満たしてきていた。仔
狼は知らなかったが、母の飢えを満たしたのは、その一匹を除く一
腹の、残りの仔ぜんぶだったし、さらに、それを得るための母の行
為が、せっぱつまったものだったということ、それも仔狼の思いも
及ばぬことだった。彼にわかったのは、そのビロードのような毛に
おおわれた仔猫が肉であるということだけ、そして彼はその肉を味
わって食べ、一口ごとに幸福感につつまれていったのだった。
満腹になると、行動が鈍くなる、仔狼はほら穴のなかに寝そべ
り、母の脇に寄り添って眠った。はっとめざめたのは、母がうなっ
たからだった。母のそれほど恐ろしいうなり声は、まだ聞いたこと
がなかった。ことによると母にとっても、これほどすさまじいうな
りを発するのは、生涯でこれがはじめてだったかもしれない。それ
にはれっきとした理由があり、そのことを彼女以上によく心得てい
るものはなかった。オオヤマネコの巣を荒らして、ただですむはず
はないのだ。仔狼が見たのは、ほら穴の入り口に、午後の強烈な日
ざしを浴びてうずくまっている母ヤマネコの姿だった。それを見た
とたんに、彼の背筋の毛がざわざわとそよぎ、逆だった。これこそ
が恐怖というものであり、それを知るのに、本能の助けを借りるま
でもなかった。かりに見ただけでは不十分だったとしても、侵入者
の発している怒りの叫び──ごろごろといううなりから始まって、い
きなりしわがれたぎゃーっという絶叫にまで高まる声──を聞けば、
いやがうえにも、それを思い知らされるしかなかった。
仔狼は胸のうちに生命感がうずくのを感じ、立ちあがるなり、母
の脇で勇猛果敢にうなり声をあげた。ところが不面目にも、母によ
じゃけん
って邪慳に押しのけられ、後ろへ追いやられてしまった。入り口の
天井が低いので、オオヤマネコは一気に跳びこんでくるわけにはい
かず、這いずるようにそこを突破したときには、雌狼がすかさずと
びかかって、おさえこんでいた。仔狼には闘いの様相はほとんど見
えなかった。すさまじい咆哮が聞こえて、あとはふーっと威嚇する
声や、かんだかい絶叫のみ。敵味方はたがいに組んずほぐれつころ
げまわり、そのかんオオヤマネコは爪でひっかき、引き裂き、同時
に歯でも攻撃を加えてきたが、雌狼が用いているのは、牙だけだっ
た。
一度、仔狼は隙を見て跳びこんでゆくなり、小さな牙をオオヤマ
ネコの後ろ脚に突きたてた。そして咬みついたまま、荒々しくうな
った。彼自身は知らなかったが、じつは、彼の体の重みが敵の脚の
動きを妨げ、そのため母が大きな被害をこうむらずにすんだのだ。
そのうち、双方の姿勢が変わって、彼はふたつの体の下敷きにな
り、食いついていた脚もふりほどかれてしまった。つぎの瞬間、母
親同士の二頭はぱっと跳びすさり、そしてふたたびぶつかっていっ
たが、その寸前にオオヤマネコが巨大な前足をふるって仔狼に打ち
かかり、その肩を骨までざっくり引き裂いたうえ、体を横ざまに壁
にたたきつけた。そこで、これまでの騒々しいうなりあいに加え
て、仔狼が苦痛と恐怖からかんだかく泣き叫ぶ、その悲鳴までが響
きわたる騒ぎになったが、争闘はその後も延々とつづいたので、そりん
のひまに仔狼は思うさま泣きわめいてしまうと、ふたたび勇気が
りん

々と湧いてくるのを感じた。というわけで、やがて闘いにけりがつ
いたときには、またもや敵の後ろ脚に食らいついて、歯のあいだか
ら猛然とうなりたてている彼の姿が見られることになったのだっ
た。
オオヤマネコは死んだ。だが雌狼のほうもひどく弱って、息も絶
えだえだった。はじめは仔狼をいたわり、肩の傷をなめてやったり
していたが、自分も出血がひどくて、しだいに力を失い、まる一昼
夜というもの、身動きもせず、かろうじて息をしているだけの状態
で、死せる敵手のかたわらに横たわっていた。それから一週間、一
歩もほら穴を離れず、離れるのは水を飲みにゆくときだけだった
が、そのときでも、動作はのろく、痛々しかった。やがてその一週
間が過ぎるころには、オオヤマネコはあとかたもなく食いつくさ
れ、いっぽう雌狼の傷のほうも、どうにかまた肉を狩りに出かけら
れるまでに回復していた。
仔狼の肩はこわばり、痛んだ。そして、しばらくは、このとき受
けた深手のために、足をひきずって歩くことがつづいたが、それで
もいまや、世界は一変して見えた。その新たな世界を、いま彼は、
より大きな自信をもって歩きまわった。オオヤマネコと闘う前の
日々にはまだ身についていなかった、武勇者としての自覚をもって
たけだけ
歩きまわった。生きるということを、より猛々しい角度から見るよ
うにもなった。自分は闘った。この牙を敵の肉に突きたててやっ
た。そして生きのびた。こうしたすべてが背景にあって、いまの彼
は一段と大胆にふるまい、そこにはわずかながら、新たにめばえて
きたふてぶてしささえうかがえるほどだった。もはや、些細な物事
におびえることもなく、その態度からも、おずおずしたところはほ
ぼ消え失せていたが、それでいてなお、あの未知なるもの、はかり
しれぬものへの恐怖はけっして去らず、つねになにかもやもやした
脅威として、その神秘と恐ろしさとでのしかかってくるのだった。
やがて、母の供をして狩りに出かけるようになった彼は、肉が殺
されるところをぞんぶんに見て、自分でもそれに一役買うまでにな
った。そしてそのなかで、自分なりに漠然とながらではあったが、
肉にまつわる法則というものを把握していった。生き物にはふたつ
の種類がある──自分の種類と、それ以外の種類と。自分の種類に
は、母と自分自身とが含まれる。それ以外の種類には、他のすべて
の動く生き物が含まれる。だがこの種類はさらに、二種類に分かれ
る。ひとつは、自分の種類が殺して、餌食にするもの──つまり、そ
れ自身はもともと殺さないか、殺しはしても、体は小さなやつ。も
うひとつの種類は、彼自身の種類を殺して、餌食にするか、もしく
は、彼自身の種類に殺されて、餌食にされるかするもの。このよう
に分類してみると、そこから法則が立ちあがってくる。生命の目的
とするのは肉であるという事実。生命それ自体が肉なのだ。生き物
は生き物を餌食にして生きる。食うものと、食われるものとがい
る。となれば、法則は──「食うか、食われるか」。仔狼はこの法則
を明確に系統だてて考えたわけではない。そのための条件を設定し
たり、そこから道徳的な教訓をひきだしたりしたわけでもない。そ
れどころか、それを法則として考えたことさえない。それについて
考えることなどまったくせずに、ただその法則を生きているだけ
だ。
自分の周囲のすべての面で、その法則が働いている、それを彼は
見てとった。彼は雷鳥の雛を食った。鷹は雷鳥の母親を食った。鷹
はあやうくこの自分まで食うところだった。この先、生き物とし
て、まわりから恐れられる存在に成長したときには、どうにかして
あの鷹を食ってやりたいものだ。彼はオオヤマネコの仔を食った。
その母親は、もしも彼女自身が殺されて、食われていなかったな
ら、きっとこの自分を餌食にしただろう。つまりそういうことなの
だ。この法則は、周囲いたるところで、すべての生き物によって体
現されていて、彼自身もまた、その法則の不可欠な一部分にほかな
らない。彼は殺すものである。唯一の食物は肉、それも生の肉であ
り、それは彼の目の前からすばやく逃げ去るか、空中へと飛び去る
か、木に駆けのぼるか、地中に隠れるか、あるいは向きなおって反
撃してくるか、でなければ、ときに形勢を逆転させて、向こうがこ
ちらを追いかけてくるかする。
もしも仔狼が人間流の考えかたをしていたなら、生をひとつの旺
盛な食欲の発現として、世界を無数の食欲が横行する場所として、
要約していたかもしれない。そこでは、無数の食欲の主が、たがい
に追いかけ、追いかけられ、狩り、狩られ、食い、食われ、すべて
が無知と混乱と、暴力と無秩序と、大食と殺戮とのなかで、情け容
赦なく、計画性もなく、終わりもなく、ただその場かぎりの偶然に
支配されて生きている。
とはいえ、仔狼は、人間流の考えかたなどしなかった。広い視野
で物事を見ることもしなかった。追求するのはひとつの目的だけ、
一時にひとつのことしか考えず、ひとつのことしか望まなかった。
肉の法則以外にも、彼が学び、したがわねばならない他の多くの、
さほど重要でない掟もあった。世界は驚きでいっぱいだった。身内
にあふれる生のうずき、ひとつひとつの筋肉の遊び、すべてが尽き
ざる悦びの源泉だった。獲物を追いつめることは、興奮と高揚とを
もたらす経験だった。怒りや、闘争さえも、悦楽にほかならなかっ
た。恐怖それ自体、さらに、あの未知なるものの神秘、それらも彼
が生きることにいっそうの力を添えていた。
ほかにも、安楽や、満足感があった。満腹になること、日ひ なた向でう
とうとまどろむこと──こうしたことは、彼の熱意と労苦にたいする
じゅうぶんな報償だったが、いっぽうまた、その熱意と労苦とは、
それ自体がひとつの報償でもあるのだった。それらこそは、生の表
現であり、生はおのれをせいいっぱい表現しているときに、いつの
場合も、しあわせなのである。というわけで仔狼は、敵意を持った
はつらつ
環境と争うことはなかった。彼はあらんかぎり潑剌と生き、このう
えなく幸福で、こよなく自分を誇りに思っていた。
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荒野の神々
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火をつくるもの
仔狼はとつぜんそれに出くわしたのだった。そうなったのは、彼
自身の落ち度だった。不注意だったのだ。ほら穴を出て、水を飲み
に流れまで駆けおりていった。ぜんぜんあたりに気を配らなかった
のは、寝ぼけていたせいかもしれない(夜どおし外で獲物を追って
いたので、たったいま目をさましたばかりだったのだ)。いまひと
つ、彼が不注意だったとすれば、水飲み場までの道筋に慣れきって
いたため、とも考えられる。これまでたびたびそこを行き来してき
たが、一度として面倒が起きたためしはなかったのだから。
例の枯れた松の木のそばを過ぎ、空き地を横切り、小走りに木立
のなかへ駆けこんでいった。と、その瞬間、同時にそれを見、にお
いを嗅いだのだ。目の前にひっそりと腰をおろしている五つの生き
物。こんな生き物は、まだ見たことがなかった。それは仔狼のはじ
めて目にする人間だった。ところが、向こうの五人はこちらを目に
しても、ぱっと立ちあがりもしなければ、歯をむきだして、うなる
こともしない。まったく動かず、無言のまま、不穏な気配をただよ
わせてすわっているきりだ。
動かないのは、仔狼のほうもおなじだった。いつもなら、持って
生まれた本能に衝き動かされ、なにもかも忘れてしゃにむに逃げだ
していただろう。そうしなかったのは、ここでふいに、生まれては
じめて、それとはべつの、それとは相反する本能が、身内に頭をも
い ふ
たげてきたからだ。それは、途方もなく大きな畏怖の念だった。そ
れが彼にのしかかってきた。自分が弱くて小さいという圧倒的な感
覚が彼を打ちのめし、その場にへたりこんだまま、動けなくさせ
た。ここにあるのは、優越性と力、彼などとうてい及びもつかない
なにかなのだった。
人間を目にすることこそこれがはじめてだったが、それでも、人
間に関する本能なら、仔狼も持ちあわせていた。漠然とながら、彼
が目の前の人間たちのなかに感じとったのは、彼らがこれまで〈荒
野〉に生きる他の多くの動物と闘って、優越性をかちとってきた動
物だということだった。いま仔狼は人間を自分自身の目で見るだけ
でなく、自分以前のすべての先祖の目を通して見てもいた──闇のな
かで、数知れぬ冬のキャンプファイアのまわりを徘徊してきた目。
やや離れた安全な地点や、茂みの奥などから、他の生き物すべての
上に君臨する、その見慣れない二本脚の動物を、じっと注視してき
た目。いま仔狼を呪縛しているのは、先祖から伝わってきたその精
神的な遺産だった──幾世紀もの闘争と、幾世代にもわたって蓄積さ
れた経験、それらから生まれてきた恐怖と畏敬の念だった。その遺
産の重みは、いまだ幼弱の身にすぎない仔狼には、とうてい抵抗し
がたいものだった。これがじゅうぶん成長した狼だったら、とうに
逃げ去っていただろう。だがそうではなかったから、おじけて体が
すくみあがり、その場に縮こまってしまった──早くも相手への服従
をなかば申しでたかたちで。それは、かつて最初の狼が人間の焚く
火のそばへやってきて、すわり、温まったそのときから、彼の種族
がずっと人間にたいして申しでてきた屈従のかたちだった。
インディアンのひとりが立ちあがり、仔狼のそばへやってきて、
かがみこんだ。仔狼はますます低く地面に這いつくばった。それは
まさしくあの〈未知なるもの〉が、ついに具体的なかたちであらわ
れたものにほかならなかった。それが実際に肉と血をそなえた姿で
ここにあらわれ、上からかがみこんで、つかまえようと手をのばし
てくる。知らずしらず、全身の毛が逆だち、くちびるがめくれあが
って、小さな牙がむきだしになった。すると、のしかかる凶運さな
がらに頭上に迫ってきていたその手が、ここでふと逡巡して、それ
からその男が笑いながら言った。「ワバム・ワビスカ・イプ・ピ
ホワイト・ファング
ト・ター(見ろよ! この真っ白な牙を!)」
ほかのインディアンたちがどっと笑って、そいつを抱きあげてみ
ろと男にうながした。男の手が近くへ、ますます近くへと迫ってく
るあいだ、仔狼の身内には本能と本能の闘いが荒れ狂った。同時に
ふたつの強い衝動──服従するか、抵抗するか ──に引き裂かれたの
せっちゅう
だ。結果としてあらわれたのは、ふたつを折 衷した行動だった。つ
まりその両方をやったのだ。手がいよいよこちらに触れそうにな
る、その寸前までは、服従した。それから、一変して抵抗に転じる
なり、牙をひらめかせて、さしだされた手に思いきり咬みついた。
と、つぎの瞬間、頭を一発、横なぐりに強打され、脇腹を下にして
すっころがった。たちまち闘争心はあとかたもなくけしとんだ。か
わって仔狼を支配したのは、幼さと、服従本能だった。尻を落とし
てその場にすわりこむと、彼はきいきい、ぴいぴい、声をあげて泣
いた。それでも、手を咬まれた男は、まだ腹の虫がおさまらず、つ
づけて仔狼の頭の、さっきとは逆の側に、二発めを食らわせた。仔
狼はどうにか起きあがりはしたものの、これでますます騒々しい声
をはりあげて、きいきい、ぴいぴい泣き叫ぶ結果になった。
ほかの四人のインディアンが、いっそう声高に笑いはやし、その
うちついに、咬まれた男までが笑いだした。彼らは仔狼をとりかこ
おび
んでいっせいに笑いを浴びせてき、仔狼は怯えと痛みとに、ただ泣
き叫ぶばかりだった。だが、そうして泣いているさなかに、彼はあ
る音を聞きつけた。インディアンたちにもそれは聞こえたが、しか
し仔狼だけはその音がなんなのかをよく心得ていたから、そこで一
声、長々と尾をひく叫び──悲痛というよりは、むしろ勝ち誇った響
きのある叫び──を発すると、それを最後に、けたたましく騒ぐのを
けんにん ふ ばつ
やめて、母がきてくれるのを待った。かの恐れを知らぬ、たお堅忍不抜
の母狼、これまでありとあらゆる生き物と闘って、これを斃し、一
度として恐れることなどなかった母──その母がいま、猛々しくうな
りながら駆けつけてこようとしている。仔狼の泣く声を聞きつけ
て、彼を救いだそうと疾走してくる。
彼女はインディアンたちのまっただなかへとびこんできた。わが
子の身を気づかって、いきりたっているそのようすは、およそ美し
い見ものと言えるものではなかったが、当の仔狼にとっては、自分
はや
をかばおうという一心で逸りたっている母の姿ほど、好ましいもの
はなかった。小さく喜びの声をもらすなり、跳びあがって母を迎え
にいったが、これを見て、人間動物たちは、あわてて数歩あとずさ
りした。雌狼は仔狼のそばに立ちはだかると、男たちと向かいあっ
て、毛を逆だて、低く喉の奥でごろごろとうなってみせた。威嚇す
るようにゆがめられた顔には、激しい敵意があふれ、鼻の先から目
び りょう しわ
がしらにかけて、さらに鼻 梁にまで、大きく皺が寄っている。それ
ほどその喉から発せられる咆哮はすさまじい。
と、そのとき、男たちのひとりから、叫び声が発せられた。「キ
チー!」と、その男は叫んだ。それは驚愕の叫びだったが、その声
を聞いたとたん、母の体から力が抜けるのを仔狼は感じた。
「キチー!」と、男はくりかえしたが、今度はその呼び声に、鋭さ
と権威とが加わっていた。
そのあと仔狼が目にしたのは、母が、恐れを知らぬはずの自分の
母が、腹が地面に触れるほどに身を低くし、くんくん鼻を鳴らしな
がら尾をふって、和平の合図を送っている姿だった。なんとも解せ
ぼうぜん
なかった。仔狼は呆然とした。それから、ふたたび人間への畏怖が
彼にのしかかってきた。自分の本能は誤ってはいなかった。そのこ
とを母が実証している。母もまた、人間動物にたいして恭順の意を
示しているのだ。
いま声を発した男が、彼女のそばへやってきた。そしてその頭に
手を置いたが、彼女はいっそう低く身を縮めただけだった。咬みか
えしもしなければ、咬もうという気配も見せない。ほかの男たちが
近づいてきて、彼女をとりかこみ、その体に手を触れたり、なでま
わしたりしたが、そういう行為にも、いっこう不快を感じぬよう
す。男たちはひどく興奮して、なにやら口々に騒々しい声を発して
いたが、仔狼は母のそばにうずくまってそれを聞きながら、この騒
音もどうやら危険を意味するものではなさそうだ、そう判断してい
た。いまでもときおり首筋の毛を逆だててみたりはしたものの、そ
れでもせいいっぱい自重して、おとなしくしていようと努めた。
「べつに不思議じゃないよ」と、インディアンのひとりが言ってい
た。「こいつの父親は狼だった。たしかに母親は犬だったが、おれ
﹅ ﹅ ﹅
の兄貴がさ、そいつをちょうどさかりのついてる時期に、三晩もつ
づけて森のなかにつなぎっぱなしにしといたんだ。知ってるだろ?
だから、このキチーの父親は、狼にちがいないのさ」
「けどよ、こいつが逃げてから、もう一年にもなるんだぜ、グレ
イ・ビーヴァー」と、ふたりめのインディアンが言った。
「それだって、べつに不思議はないだろうが、サーモン・タング」
と、グレイ・ビーヴァーが言いかえした。「あれはちょうど不猟つ
づきのときだった。犬にやる肉なんて、これっぽっちもなかったも
んな」
「きっと狼の群れにまじって暮らしてたんだ」三人めのインディア
ンが言った。
「どうもそのようだな、スリー・イーグルズ」グレイ・ビーヴァー
がそう答えて、仔狼に手をかけた。「それで、こいつがその証拠っ
てわけだ」
手を触れられて、仔狼が小さくうなると、その手はまたも一発く
れようとするように、高くふりかざされた。そこで仔狼はすぐにむ
きだした牙をひっこめ、ふりかざされた手も、そのままおろされ

て、仔狼の耳の後ろを 搔き、さらに背中をなであげ、なでおろし
た。
「そうさ、こいつがその証拠よ」と、グレイ・ビーヴァーがくりか
えした。「見ればわかるこった、こいつの母親がキチーだってこと
は。けど、父親は狼だった。だから、こいつには犬の血がすこしだ
けまじってるけど、あとはあらかた狼の血筋ってわけだ。このとお
り、真っ白な牙をしてるから、名をつけるなら、そのままホワイ
ト・ファングだな。そうするぜ。こいつはおれの犬にする。だって
キチーは兄貴の犬だったんだし、その兄貴はもう死んじまったんだ
から。だろ?」
こうして、この世界ではじめて名をもらった仔狼は、そのままそ
こにうずくまり、じっとようすをうかがっていた。ちょっとのあい
だ、人間動物たちは、なおもがやがやと口から騒音を発していた
さや
が、ややあって、グレイ・ビーヴァーが首につるした鞘からナイフ
を抜きとると、手近の茂みへはいってゆき、枝を一本、切りとって
きた。ホワイト・ファングは、油断なくそのようすを見まもった。
グレイ・ビーヴァーは枝の両端に刻み目を入れると、その刻み目そ
れぞれに生皮の紐を結びつけた。紐の一本は、キチーの首にまわし
て結び、それからキチーを近くの小さな松の木まで連れていって、
もう一本の紐をその幹にまわして結んだ。
ホワイト・ファングは母のあとについてゆき、そのかたわらに横
になった。そこへサーモン・タングの手がのびてきて、彼を仰向け
にひっくりかえした。キチーは不安げにながめている。ホワイト・
ファングも、いままた身内にいつもの怯えがこみあげてくるのを感
じた。つい低くうなり声をもらすのをおさえきれなかったが、それ
でも咬みつくことはしなかった。手は、指を曲げたり伸ばしたりし
ながら、ふざけるように彼の腹をさすり、さらに体全体を左右にご
ろごろころがした。仰向けにされて、四本の脚を空中でばたばたさ
こっけい
せているのは、見るからに滑稽で、みっともないざまだったし、お
まけにその姿勢だと、無防備なことこのうえない。だからホワイ
ト・ファングは、全身全霊でそれを嫌悪した。いまのこの姿勢で
は、まったく身を護る手だてがないのだ。万一この人間動物が危害
を加える気になったら、こちらは逃げることさえできない。四肢を
空中にあげている姿勢で、どうしてすばやく起きなおり、逃げるこ
となどできようか。それでも、いったん生まれた服従心のせいで恐
怖がおさえこまれ、彼はただ低くうなるばかりだった。こうやって
うなることだけは、どうしても我慢できなかったが、さいわい相手
の人間動物のほうも、うなられるのに腹をたてて、頭をぶんなぐ
る、といった真似はしなかった。おまけに、ここが不思議なところ
なのだが、そうやってその手で縦横になでまわされているうちに、
いつしかホワイト・ファングはそのことに、なんとも説明のつかな
い奇妙な快感を感じるようになったのだ。その手で横向きにころが
されると、彼はうなるのをやめた。指で耳の付け根を押されたり、
つつかれたりすると、快感はいや増した。そして、最後にもう一
度、念を押すように耳の後ろをなでたり、搔いたりしたあげくに、
男が彼をその場に残して立ち去っていったときには、ホワイト・フ
ァングの身内から、怯えはあとかたもなく消えてしまっていた。今
後も人間とかかわってゆくなかで、彼が恐怖を味わうことはたびた
びあるだろうが、それでもこれはひとつの前兆──彼がいずれは人間
とのあいだに、恐怖の介在しない友好関係を築くことになるとい
う、そのひとつのしるしなのだった。
しばらくしてホワイト・ファングは、またも聞き慣れぬ音が近づ
いてくるのを耳にした。その音を分類するのに手間どることはなか
った。というのも、即座にそれが、人間動物の発するものだとわか
ったからだ。数分後、この部族の残りのメンバーが一団となって、
パレードでもするようにぞろぞろと列をつくってやってきた。さら
に何人もの男たち、大勢の女たちと子供たち、ぜんぶで四十人ばか
りが、そろってキャンプ道具や生活用品一式を、重そうに担いでや
ってくる。人間だけでなく、犬もたくさんいるが、この犬たちも、
まだ成長しきっていない仔犬数匹を除けば、いずれも人間とおなじ
に、キャンプ道具を背負わされている。背負った袋は、腹の下にま
わした紐でしっかりくくりつけられていて、それぞれの荷の重さ
は、おそらく二十から三十ポンドにもなるだろう。
犬というものを見るのは、ホワイト・ファングとしてもこれがは
じめての経験だったが、それでも一目見ただけで、彼らが自分とお
なじ種類の、ただなんとなくちがっているだけの仲間だと察した。
ところが犬たちのほうはむしろ、仔狼とその母親を目にするや、狼
ど とう
そのものとほとんど変わらぬ本性をむきだしにした。怒濤のような
強襲。ホワイト・ファングは、負けじと首筋の毛を逆だて、うな
り、歯を嚙み鳴らし、大口をあけて突進してくる犬たちの大群に立
ち向かっていったが、たちまちその波にのみこまれ、下敷きにな
り、体のいたるところを鋭い牙で咬み裂かれるのを感じ、そして自
分もまた上からのしかかってくる脚やら腹やらに咬みつき、引き裂
きして闘っていた。すさまじい騒ぎになった。彼の耳には、自分の
ために闘ってくれている母キチーのうなりが聞こえたし、さらに、
人間動物たちの叫び声や、犬たちの体にふりおろされる棍棒の音、
打たれた犬たちの苦痛の悲鳴、なども入り乱れて聞こえてきた。
彼がふたたび自分の足で立ちあがるまでに、たいした時間はかか
らなかった。見れば、人間動物たちが棍棒や石で犬どもを追い散ら
し、この自分をかばい、この自分の同類でありながら、なぜか同類
ではないやつらの残忍な歯から護ってくれている。ホワイト・ファ
ングの頭脳では、正義などといったきわめて抽象的な概念を明確に
把握できるわけもなかったが、にもかかわらず、彼は彼なりに、こ
の人間動物たちこそ正義なり、との思いをいだくいっぽう、彼らを
本来そうあるべきものとして──つまり、法をつくり、法を執行する
ものとして──認識したのだった。さらに、その法を実際に用いるた
めの彼らの力、それも彼は良きものであると認めた。これまでに出
あった他の動物とは異なり、人間動物たちは咬みつきもしないし、
なま
爪で引き裂くこともしない。彼らがその生の力を用いるのは、〝死
んだもの〟の力によってである。〝死んだもの〟は、彼ら人間の意
にしたがって働く。かくして、この人間という不思議な生き物によ
って用いられる棒切れだの石ころだのは、さながら生けるもののご
とくに宙を飛び、犬どもに手ひどい痛みを与えるのである。
彼の思うに、これは尋常ならざる力、理解を絶する力、超自然的
な力だった──いわば神のような力だ。もとより、ホワイト・ファン
グがその本性の奥深いところで、神々についてなにかを知るという
ことなどまずありえない。せいぜい、理解を絶したなにかが存在し
ている、ということがわかるぐらいだ。それでも、彼がこれら人間
動物たちにたいしていだく驚嘆と畏怖の念は、ある意味で、人間が
なんらかの天界の存在を見たときにいだく驚嘆と畏怖の念、それに
似ていたかもしれない──山頂に姿をあらわし、両手の先から驚きお
ののく下界へむけて、電光を放ってくる神々しい存在。
犬どもは最後の一匹まで追い払われた。騒ぎはおさまった。そし
てホワイト・ファングは、咬まれた傷をなめながら、さまざまなこ
とを考えめぐらしていた──はじめて味わった集団心理の残酷さと、
その残酷な同族集団との出会い。これまでは、自分の同類があの
〈片目〉と、母と、自分自身と、この三者以外にも存在するとは、
夢にも考えたことがなかった。自分たちは自分たちだけで、一個の
独立した種族を成していたのだ。それが、ここへきてとつぜん、ど
うやら自分の同類らしい連中をたくさん見いだすことになった。し
かも、同類であるはずのその連中が、顔を合わせたとたんに襲いか
かってきて、自分を殺そうとしたとなると、無意識のうちにも、彼
ぬぐ
らへの腹だたしさが拭えない。おなじような意味で、母が木切れで
つながれていること、これにも腹がたつ──たとえ母をそこにつない
だのが、優越者である人間動物のしわざであるとしても。なんとな
く、罠とか、束縛とかのにおいがそこにはただよっている。といっ
ても、罠とか束縛とかいったものについて、仔狼がなにも知ってい
るはずはないのだが。心のおもむくままに徘徊したり、走ったり、
横になったりする自由、それは彼が生まれながらに受け継いでいる
権利だ。その権利が、ここでは侵害されている。母の行動は、彼女
をつないだその木切れの長さに制限されているし、おなじ木切れの
長さがさらに、彼自身をも制限している。彼はいまだ母のふところ
を必要としない段階には達していないのだから。
彼はその木切れが気に食わなかった。気に食わないと言えば、人
間動物たちが腰をあげて、移動を始めたときもそうだった。ひとり
の小さな人間動物が、その木切れのもういっぽうの端を握り、とら
われのキチーを後ろにしたがえて歩きだしたからだ。そしてそのキ
チーの後ろを、ホワイト・ファングもついてゆく──いま乗りだした
この新たな冒険の旅、それにひどく心を騒がせ、不安にとらわれな
がら。
一行は流れにそって谷をくだり、これまでのホワイト・ファング
の最大の行動範囲をはるかに越えて、その谷の終わるところまでや
ってきた。小さな流れは、この地点でマッケンジー川に流入してい
る。ここでは、カヌーを水からひきあげて、高い柱の上の小屋に格
納してあったり、魚を干すための網棚が並べてあったりして、キャ
ンプはその周辺に設営された。ホワイト・ファングは、ひたすら驚
嘆の目ですべてを観察していたが、これら人間動物たちがすぐれて
いることは、ここへきて、いよいよはっきりしてきた。まず、あれ
らの鋭い牙を持った犬ども全体に、彼らの支配が行きわたってい
て、これはそのまま力の存在を示している。だが、仔狼の目から見
て、それよりもさらに偉大なのは、〝生きていないもの〟までも支
配する彼らの力だ。さらにまた、〝動いていないもの〟にまで動き
を伝える彼らの能力。あるいは、世界の表面そのものをも変えてし
まう彼らの能力。
とりわけ大きく仔狼の心を揺さぶったのは、この最後の能力だっ
た。まず目にとまったのは、柱を組んでつくった骨組みを立てるこ
とだったが、これ自体は、さほど驚くようなことでもない──なにし
ろ、棒切れや石ころを遠くまで投げられる、そのおなじ生き物のす
ることなのだから。ところが、立てた骨組みが布や革でおおわれ、
テ ィ ピ ー
それぞれテント小屋に仕立てられたときには、ホワイト・ファング
も仰天した。なによりも彼を驚かせたのは、その圧倒的な大きさだ
った。周囲どちらを見ても、その巨大なテント群が、一夜でむくむ
くと生長した生き物よろしく並び建っている。ほとんど視野全体を
おおいつくすほどだ。これは空恐ろしさを感じさせた。それらは不
穏な気配をはらんでそそりたっていて、わずかな風でそれが大きく
揺れ動いたときには、恐怖のあまり、身がすくんだ。すくみあがり
ながらも、油断なくそれから目を離さず、万が一にもそいつがいき
なり自分の上に倒れかかってきでもしたら、すっとんで逃げようと
身構えている。
それでも、仔狼のティピーにたいする恐怖心は、ほどなく消え去
った。女や子供が始終、出入りしながら、べつに危害も受けていな
いのを目にしたし、犬どもまでがたびたびそこにはいりこもうとし
ば せい
て、鋭い罵声や石を投げつけられ、追い払われるのも目撃したから
だ。しばらくして、キチーのそばを離れた彼は、用心のうえにも用
心して、最寄りのティピーのほうへ這ってゆきはじめた。彼を衝き
動かしているのは、成長に伴う強い好奇心──経験をもたらすさまざ
まなことを学習し、生き、行なわねばならぬという欲求──であっ
た。ティピーまであと数インチというところまで近づくと、それか
ら先は、なにやら痛ましく見えるくらいのゆっくりした動きで、慎
重に這い進んだ。すでに、きょう一日の出来事に鍛えられて、あの
〈未知なるもの〉がたとえどれほど途方もない、思いもよらぬかた
ちであらわれようとも、心の準備はできている。やがてついに、鼻
の先がキャンバス地のテントに触れた。そこでしばらく待つ。なに
も起こらない。そこで鼻をくんくんさせて、人間のにおいがしみこ
んだその見慣れぬ布地を嗅いだ。それからその布地を歯でくわえ
て、軽くひっぱってみた。やはりなにも起こらない。くわえた部分
の周辺が、わずかに揺れただけだ。さらに強くひっぱってみる。揺
れが大きくなる。こいつはおもしろい。いっそう強く、何度もくり
かえしひっぱっているうちに、ついにティピー全体が動きだした。
ここにいたって、とうとうテントのなかから、女のけたたましい怒
声があがり、彼はあわててキチーのところへ逃げもどった。けれど
もこの経験以後は、ぬっとそそりたっている巨大なティピー群も、
もはや彼をおじけづかせる存在ではなくなっていた。
しばらくすると、彼はまたも母のそばを離れて、ふらふらとキャ
ンプ周辺をうろつきはじめた。キチーをつないでいる木切れは、地
面に打ちこんだ杭に結ばれているので、彼女は仔のあとを追うこと
ができない。と、そこへ、彼よりもいくらか年長で、体も大きな仔
犬が一匹、ゆっくりと近づいてきた──これみよがしに肩を揺すり、
はじめから喧嘩腰の態度を隠さない。のちにホワイト・ファングが
聞き知ったところでは、この仔犬の名はリップ=リップ。仔犬同士
の喧嘩では、これまでずいぶん場数を踏んできていて、すでにして
ひとかどのワルだった。
ホワイト・ファングとしては、リップ=リップが自分と同類で、
しかもまだほんの仔犬、危険な相手には見えなかったところから、
ごく友好的な態度で相対するつもりでいた。ところが、相手の足ど
りが急に変わって、四肢をつっぱり、くちびるをめくりあげて、牙
をむきだしてきたので、こちらも対抗上、四肢をつっぱり、くちび
るをめくりあげて応じることになった。両者はたがいにぐるぐるま
わりながら、相手の腹をさぐるように、うなったり、首毛を逆だて
あったりした。何分かこんな状態がつづくうちに、ホワイト・ファ
ングには、しだいにこれがある種のゲームよろしく、楽しいものに
思えてきた。ところがそのとき、ふいにリップ=リップが目にもと
まらぬ速さでとびこんでくるなり、鋭く一咬みして、すぐ跳びすさ
った。肩へのその一咬みは、そこが例のオオヤマネコにやられて、
いまだに骨に達する深さまでずきずき痛んでいる箇所だっただけ
に、かなり利いた。驚愕と痛みとの両方で、ホワイト・ファングは
ついきゃんと悲鳴をあげたが、つぎの瞬間には、怒り狂って、猛然
とリップ=リップにとびかかってゆき、激しく咬みついていた。
だがリップ=リップは、生まれたときからこのキャンプで暮らし
て、仔犬同士の闘いをあまた経験してきた闘士だった。三度、四
度、さらに五度、六度、彼の小さな鋭い牙は、この新参者を容赦な
く痛めつけ、ついに、ホワイト・ファングは恥ずかしげもなくきい
きい泣き叫びながら、母の保護をもとめて逃げ帰った。このときを
こう し
嚆矢として、以後、彼とリップ=リップとのあいだには、度重なる
抗争がくりひろげられることになるのだが、それというのも彼ら
は、そも最初からの、生まれながらの宿敵同士であって、天性、い
がみあうように運命づけられていたからである。
キチーはなだめるようにホワイト・ファングの全身を舌でなめて
やり、これからは自分のそばを離れないように説得しようとした。
だが、仔狼の旺盛な好奇心は、とてもその程度でおさえておけるも
のではなく、それから数分後には、またも彼は新たな探検に乗りだ
していった。今回、出くわしたのは、人間動物のひとり、グレイ・
ビーヴァーで、いま彼は地面にしゃがみこみ、目の前にひろげた乾
燥した苔と木切れを用いて、なにかの作業に取り組んでいるところ
だ。ホワイト・ファングは近づいてゆき、見まもった。グレイ・ビ
ーヴァーがなにか音声を発したが、ホワイト・ファングはそれを、
とくに敵意のないものと解釈し、またすこしそばへにじり寄った。
女たちや子供たちが、さらにたくさんの木切れや枯れ枝をかかえ
て、グレイ・ビーヴァーのところへ運んでくるところだった。明ら
かに、大がかりななにかが始まるらしい。ホワイト・ファングはま
たすこし近づいて、とうとうグレイ・ビーヴァーに体が触れるとこ
ろまできた。すっかり好奇心のとりこになっていて、それが恐ろし
い人間動物のひとりだということなど、とうに忘れていた。と、ふ
もや
いに、奇妙な靄のようなものが目をとらえた。それがグレイ・ビー
ヴァーの手の下の、苔と木切れのあいだから立ちのぼりだしたの
だ。つづいて、木切れそのもののなかから、生き物があらわれた──
めらめらと身をよじりながら頭をもたげてきたそれは、ちょうど空
の太陽とおなじ色をしていた。ホワイト・ファングは、火のことな
どなにも知らなかったが、かつてもっと幼かったころ、ほら穴の入
り口の光にひきつけられたように、いままたそれに強くひきつけら
れた。さらに数歩、炎のほうへにじり寄る。グレイ・ビーヴァーが
すぐ頭の上でくつくつ笑うのが聞こえたが、それが敵意を含む音で
はないことは、すでにわかっていた。やがて、鼻の先が炎に触れ、
と同時に、小さな舌が炎のほうへさしのべられた。
一瞬、体がしびれて動けなくなった。あの〈未知なるもの〉が、
目の前の木切れや苔のなかにひそんでいて、手荒にこちらの鼻をつ
かみ、ねじあげてきたのだ。よろよろと後ろへさがると、けたたま
しくきいきい、ぴいぴいわめきたてながら、ころがるように駆けだ
した。母のキチーもその声を耳にして、激しくうなりながら、つな
がれている木切れの長さいっぱいにとびだし、狂ったように暴れ
た。仔を助けに行きたくても行けないもどかしさからだが、グレ
もも
イ・ビーヴァーはそれを尻目に、腿をぴしゃぴしゃたたいて大声で
笑い、ついでにいまの出来事をキャンプじゅうに触れまわったの
で、しまいには、全員がいっせいにげらげら笑いだした。それにし
ても、そうして笑いはやしている人間動物たちの輪のなかにすわり
こみ、とめどもなくきいきい、ぴいぴい、きいきい、ぴいぴい泣き
叫ぶだけのホワイト・ファング──その姿は、まさに哀れといおう
か、みじめといおうか、悲しいほどにちっぽけだった。
このときの痛みは、彼がこれまでに経験した最悪のものだった。
鼻も、舌も、あの太陽の色をした生き物──グレイ・ビーヴァーの手
の下で、見るまに大きく生長したあの生き物──によって、焼き焦が
されていた。彼はなおも際限なくわめきたて、泣き叫ぶのをやめな
かったが、彼が泣き声をあげるたびに、人間動物たちからどっと笑
いはやされる。鼻の痛みをやわらげようと、舌で鼻をなめてもみた
やけど
が、その舌もやはり火傷を負っていて、両方の痛みが重なり、痛み
が倍加しただけだ。そこでまたいっそう大声をはりあげて、やるせ
い く じ
なげに、意気地なく泣き叫ぶことになる。
だが、そうこうするうち、ようやく恥ずかしいという気持ちが湧
いてきた。笑いというものを知り、その意味もわかってきたから
だ。ある動物がどういう経緯で笑いを知るのか、どうして自分が笑
われているとわかるのか、われわれ人間には知るべくもないことだ
が、ホワイト・ファングもまた、おなじ神秘的なプロセスを経てそ
れを知り、そして知ると同時に、周囲の人間動物たちから笑われて
いることに、恥ずかしさを覚えたのだった。いきなり身をひるがえ
した彼は、その場を逃げだした。火傷の痛みから逃げたのではな
く、その笑いから逃げたのだ──火傷の痛みよりももっと深く突き刺
さってきて、心をうずかせるその笑いから。そしてキチーのもとへ
といっさんに駆け寄った。つながれた木切れの端で、鬼神のごとく
猛り狂っているキチー──キチーこそは、この世界で唯一この自分に
笑いを浴びせたりはしない存在なのだから。
黄昏が迫り、夜が訪れた。ホワイト・ファングも母のかたわらで
横になった。鼻も舌もいまだにずきずき痛んだが、いま彼を悩ませ
ているのは、それよりももっと大きな問題だった。ホームシックに
陥っていたのだ。身内にぽっかりと空洞ができたみたいで、あの小
さな流れの静かさと安らぎが、崖の上のあのほら穴が、しきりに恋
しくてならない。いまの暮らしは、ひどくごたついたものになって
しまっている。あまりにも多くの人間動物が──男たち、女たち、子
いら だ
供たちが──群れていて、それがそろってうるさい音をたて、苛立ち
のもとをつくりだしている。おまけに犬もたくさんいる──たえずい
がみあい、喧嘩をくりかえし、きっかけさえあれば、わっと騒ぎだ
して、混乱を生みだす犬ども。彼がこれまで生きてきた唯一の生活
の、その安らぎに満ちた寂しさなど、もはやどこにもない。ここで
は、空気そのものが、命を持って打ちふるえているかのようだ。空
中にたえまなくぶんぶん、ずんずんと音が鳴り響いている。ひっき
りなしに強度が変わり、かと思うと、唐突にピッチがあがりさがり
するそれらの音は、神経や五官に作用して、こちらを神経質に、落
ち着かなくさせるばかりか、つねになにかが起こりそうな、ただな
らぬ出来事が迫っているような、そんな不安におとしいれる。
ホワイト・ファングは、人間動物たちがせわしなくキャンプに出
入りし、周辺を動きまわっているそのようすを、よそながらじっと
見まもっていた。彼が目の前の人間動物たちをながめるその見かた
は、人間が自ら生みだした神々をながめるのと、どこか似かよって
いなくもなかった。人間は卓越した存在である。まさしく神だ。
神々が人間にとってそうであるのとおなじに、人間もまた、ホワイ
ト・ファングのおぼろげな認識力からすれば、奇跡をつかさどるも
のにほかならない。人間は支配する生き物であり、ありとあらゆる
未知の、とうてい信じがたい能力をそなえ、生きとし生けるものす
べて、いや、生き物でないものまでも含めて、万物の上に君臨する
大君主である。彼らは動くものをしたがわせ、動かぬものには動き
を授けて、生き物をつくりだす──死んだ苔と木切れから立ちあがっ
てくる生き物、太陽色をして、うかうかすると咬みついてくる生き
物を。そう、彼らは火をつくるもの! 神々なのだった!
OceanofPDF.com
とらわれの身
ホワイト・ファングにとって、それからの日々は、あまたの経験
で満ちあふれていた。キチーが木切れでつながれていたその時期、
彼はひとりキャンプのいたるところを駆けまわって、探索し、調査
し、学習していた。そして急速に人間動物たちのやりかたについ
て、多くを知るようになっていったが、しかし、慣れることがその
まま相手を見くだすという気持ちにつながることはなかった。人間
のことをよく知れば知るほど、ますます彼らはその優越性を明らか
にしてみせたし、彼らがその神秘的な力をふるえばふるうほど、い
よいよ彼らの神との相似性は大きく見えてくるのだった。
人間は、敬ってきた神々がそのたか高御み くら座からひきおろされ、祭壇が
打ちこわされるのを見るという嘆きを、たびたび味わってきた。だ
が狼や、かつて人間の足もとにきて、うずくまった野生の犬たちに
は、こうした嘆きはけっして訪れなかった。人間にとっては、神々
は目に見えぬもの、あらゆる推測を超えたものであり、現実という
外装を受けつけぬまぼろしの蒸気やかすみ 霞であり、望まれる善と力と
の、さまよえる亡霊であり、魂の領域にふとあらわれでた自我の、
実体のない露頭でしかないのだが、こうした人間たちの場合とは異
なり、狼や、かつて人間の焚く火を慕ってやってきた野生の犬たち
は、生身の人間のなかに神々を見いだしたのだ──触れれば確固たる
実体があり、大地の表面にそれなりのスペースを占め、自らの目的
や生存を果たすためには時間をかけなくてはならない、そんな人間
のなかに。そのような神を信ずるのに、信心などという努力は必要
ない。意志の力をどれだけ働かせても、そのような神への不信をい
だかせることはむずかしい。それからのがれられる途はないのだ。
げんにそれは目の前に立っている──棍棒を手に、二本の後ろ脚で立
ち、かぎりなく有能で、激情的で、怒りっぽく、しかも情愛ぶか
い。神と、神秘と、力とが一体化したその存在を、生身の肉がすっ
ぽりくるんでいるが、その肉は、引き裂かれれば血も流すし、食え
ば、他のどんな肉とも変わらず、うまい。
そしてホワイト・ファングの場合も、やはりおなじことが言え
た。人間動物たちこそ神──見まがえようのない、のがれることもで
きない神。母のキチーが、人間に名を呼ばれたとたんに屈服して、
忠誠を誓ったのとおなじに、彼もまた彼らに忠誠を誓いはじめてい
た。彼らに道を譲ることもした──それを明らかに彼らの特権である
と認めたのだ。彼らが歩いてくれば、邪魔にならないところへよけ
た。呼ばれれば、駆けつけた。脅されれば、萎縮した。去れと命じ
られれば、急いで立ち去った。なにしろ、彼らがなにを望もうと、
その背後には、その望みを強制するだけの力、拒めば痛みをもたら
すだけの力があるのだから──殴打や棍棒というかたちで、あるいは
飛んでくる石や、肌を裂く鞭打ちというかたちであらわされる力
が。
キャンプの犬たちすべてが彼らに従属しているように、彼もまた
人間に従属するものであった。彼は人間の命ずるままに行動した。
彼の体は、どう痛めつけようと、踏みにじろうと、また一転して寛
大に扱おうと、すべて人間の思うままだった。こうした教訓が、あ
っというまに彼にたたきこまれた。これはきびしい体験だった──彼
の生まれ持った強く、また支配的な性質には、おおいに反するもの
だった。なのに、その教訓を学ぶのをいたく嫌悪するいっぽうで
は、なぜか自分でも気づかぬうちに、それを好むことが身について
もいるのだった。これはいってみれば他者の手のなかにおのれの運
命をゆだねることであり、生存に伴う責任を、全面的に譲りわたす
ことでもあった。これはそれ自体、〝補償(1)〟という性格を持
っていた。いつの場合も、独立独歩で立つよりは、他者に依存する
ほうが楽だからである。
とは言っても、こうして自分を心身ともに人間動物たちにゆだね
てしまうということが、すべて一朝一夕に起こったわけではない。
彼とても、すぐには野性という親譲りの資質とか、〈荒野〉の記憶
などを捨て去ることはできなかった。ふと気がつくと、こっそり森
のはずれまで忍んでいっては、そこに立ち、どこかはるか遠いとこ
ろから呼びかけてくるなにものかに耳を傾けている、などといった
日が幾日もあった。そして、そのつど落ち着かない、居心地の悪い
思いでひきかえしてくると、キチーのかたわらで低く、未練げたっ
ぷりにくんくん鳴いてみたり、彼女の顔をなにやらじれったげに、
物問いたげになめまわしてみたりするのだ。
それでもホワイト・ファングは、キャンプで通用している流儀だ
けは急速に身につけていった。餌として肉や魚が投げ与えられると
き、年長の犬たちがいかに不当で、どん貪よく欲かということもわかってき
た。人間のなかでは、男たちがまあ公平で、子供たちは冷酷、女た
ちはもうすこしやさしくて、ときおり肉や骨の切れっ端を投げてく
れないでもない、このことも知った。さらに、なかば成長した仔犬
をかかえた母犬、この連中を相手に二、三度、冒険をして、痛い目
を見てからというものは、こうした母親とはなるたけかかわらず、
せいぜい敬遠して、向こうがやってくるのを見たら、よける、これ
がいつの場合も得策だと思い知った。
それにしても、彼のなによりの悩みの種と言えば、かのリップ=
リップだった。彼よりも大きく、年長で、力も強い。そのリップ=
リップが迫害の標的として、とくにホワイト・ファングに白羽の矢
を立ててきたのだ。ホワイト・ファングとしても、受けて立つこと
いな
に否やはなかったが、あいにく格がちがった。なにぶん相手が大き
すぎる。かくしてリップ=リップは彼の悪夢のもととなった。いつ
であれ、ホワイト・ファングが思いきって母のそばを離れて冒険し
ようとすると、きまってこの弱いものいじめのガキ大将が姿をあら
わし、あとをつけまわしては、うなりたて、いじめにかかる。つね
に機会をうかがっては、人間動物が近くにいないときを見はから
い、とびかかってきて、喧嘩をいどむ。勝つのはいつも自分と決ま
っているから、リップ=リップとしては、喧嘩が楽しくてしかたが
よろこ
ない。それが彼の暮らしにおける最大の悦びとなり、逆にホワイ
ト・ファングにとっては、なにより大きな苦痛となった。
もっとも、それがホワイト・ファングに及ぼした影響と言えば、
彼を萎縮させたことだけではなかった。たしかに、ダメージはほと
んどこちらが受けていたし、負けるのもいつものことだったが、そ
れで心までも打ちのめされたわけではなかった。にもかかわらず、
やはり悪影響は及んでいたのだ。彼は根性曲がりになり、気むずか
しくなった。気性は生まれつき獰猛だったが、それがこの際限のな
い迫害を受けて、ますます獰猛になった。一面には、快活で遊び好
きな、子供っぽい性格もないではないのだが、それはほとんど表に
出ることがなかった。キャンプで暮らすほかの仔犬たちと遊ぶこと
もなければ、じゃれあうこともなかった。リップ=リップがそうさ
せないのだ。ホワイト・ファングが仔犬たちの近くに姿を見せよう
ものなら、たちまちリップ=リップが割ってはいり、いやがらせを
したり、威張り散らしたり、あるいは喧嘩をしかけたりして、追い
払いにかかる。
こうしたさまざまな経験のおかげで、ホワイト・ファングから子
供っぽい性格は残らず奪い去られ、その挙措物腰は、実年齢以上に
老成したものになった。遊びを通じてエネルギーを発散させる途が
封じられているため、ありあまる精力が自分自身にはねかえり、そ
こうかつ
れが精神作用を発達させることにもなる。こうして彼は狡猾になっ
た。ひまな時間は、もっぱら策略をめぐらすことに没頭した。キャ
ンプの犬たちに肉や魚が与えられるときにも、自分の取り分を手に
ぬすっと
入れる途がとざされているため、やむなく抜け目のない盗人になっ
た。自力で食糧を調達せざるを得ない立場となり、またそれを巧み
にやってのけもしたが、おかげでキャンプの女たちからは、しばし
かたき
ば目の敵にされる結果となった。キャンプ周辺をこっそり忍び歩く
ことを覚え、悪賢く立ちまわるすべも身につけ、ほかのいたるとこ
ろでなにが起きているかを見抜き、あらゆるものを見、聞き、それ
にもとづいて判断をくだすことを学び、かの残忍な迫害者を避ける
ための方策や手だて、それらを編みだすことにも成功した。
彼がはじめて狡猾な術策を用いてほんとうの大勝負を仕掛け、そ
れによって最初の復讐の味を味わったのは、迫害を受ける日々が始
まって、まだまもないころだった。キチーがかつて狼の群れにいた
ころ、人間のキャンプから犬たちを誘いだし、餌食にしたことがあ
ったが、それといくらか似かよった手口で、ホワイト・ファングも
あぎと
リップ=リップをおびき寄せ、キチーの復讐の顎へと導いたのだっ
た。リップ=リップの前からじりじりと後退すると見せながら、ホ
ワイト・ファングは、キャンプじゅうのティピーを出たり、はいっ
たり、周囲をまわったりして、迂回経路で逃げまわった。もともと
すぐれたランナーであり、体の大きさがおなじ程度のどの仔犬より
も、いや、リップ=リップすらもうわまわる走力の主だったが、こ
の追っかけっこでは、わざと全力では走らず、かろうじて追いつか
れない程度の速さを保って、追跡者の一歩だけ先を逃げる、という
策をとった。
リップ=リップは、追いつ追われつのゲームに興奮し、犠牲者が
つねにほんの鼻先を逃げてゆくことにも刺激されて、いつしか用心
と位置感覚との両方を忘れていた。ふとわれにかえって、位置感覚
をとりもどしたときには、すでに遅かった。とあるティピーのまわ
りを全速力でまわりきったとたん、例の木切れの先端でうずくまっ
ていたキチーに、まともに衝突してしまったのだ。胆をつぶして、

一度だけきゃんと悲鳴をあげたものの、すぐにキチーの懲らしめの
牙が、がちっと彼をつかまえてしまっていた。彼女はつながれた身
だったが、それでも、そう簡単には彼女から逃げることはできなか
った。彼女は彼をねじたおして、逃げられないようにしたうえで、
再三にわたって牙で咬みつき、咬み裂いた。
ようやくリップ=リップが体を横にひねって、彼女の牙が届かぬ
あたりまで逃げだし、そこでもがくように立ちあがったときには、
そのありさまは見るも無残なもので、心身ともにひどく傷ついてい
た。全身の毛が逆だち、キチーの歯で傷ついた箇所では、それがよ
れよれの束になっている。立ちあがったその場所で、そのまま立ち
すくみ、口を大きくあけると、長々と一声、打ちひしがれた仔犬ら
しい悲しげな鳴き声をあげた。だがこの声さえ、最後まではつづか
なかった。その途中で、ホワイト・ファングが駆け寄るなり、後ろ
脚に咬みついたのだ。もはやリップ=リップに戦意はなく、尻尾を
巻いてその場を逃げだしたが、これまでカモにしていたはずの相手
は、すぐ後ろから激しく追ってき、彼が自分のティピーに逃げかえ
るまで、執拗に追いつめ、攻めたててきた。ここでやっとティピー
の女たちが加勢に出てきたが、ホワイト・ファングは、かえってい
っそう荒れ狂う悪鬼と化し、ようやく追い払われたのは、投石の一
斉射撃を浴びてからだった。
やがてある日、ついにグレイ・ビーヴァーは、キチーにはもはや
逃亡する気はなくなったと判断して、彼女を解放した。母が自由に
なったことは、ホワイト・ファングをおおいに喜ばせた。彼は嬉々
として母につきしたがい、キャンプじゅうを練り歩いたが、母のそ
ばを離れずにいるかぎりは、リップ=リップもあえて手出しはしな
かった。ホワイト・ファングは、わざと首毛を逆だててみせたり、
四肢を踏んばって歩いてみせたりしたが、リップ=リップは、そん
な挑戦も無視した。彼も彼なりに愚かではなかったから、どれほど
恨みを晴らしたいと願ってはいても、ホワイト・ファングが単独で
いるところをつかまえるまで、じっと隠忍自重するぐらいのことは
できた。
その日、もっと遅くなってから、キチーとホワイト・ファングは
連れだって、キャンプに隣接する森のはずれまで、ぶらぶら歩いて
いった。そこまでは、ホワイト・ファングが先に立ち、一歩また一
歩と母を先導していったのだが、ここで母が立ち止まると、彼はも
っと奥まで行こうと母を誘おうとした。なつかしいあの流れや、巣
穴、静かな森、それらが彼に呼びかけていて、母にもいっしょにき
てもらいたかったのだ。何歩か先まで駆けていって、立ち止まり、
母をふりかえる。母は一歩も動いていない。訴えかけるように鼻を
鳴らして鳴き、ふざけて下生えのなかへもぐりこんだり、また這い
でてみせたりする。母のいるところまで駆けもどり、彼女の顔をな
め、それからまた駆けだす。それでも彼女は動こうとしない。立ち
止まって、じっと母を見つめる。ある種のひたむきさと熱心さが、
彼の全身からは発散しているが、しかしその熱意も、やがて彼女が
こうべをめぐらし、キャンプのほうを見やると、徐々に薄れていっ
た。
かなたの林間の空き地から、なにか彼に呼びかけてくるものがあ
った。母もそれを聞いたはずだったが、しかし、それとはべつの、
それよりもさらに大きな呼び声、火と、そして人間の呼び声を、母
は聞いていた。その声は、すべての動物のうちで、ただ狼にだけ──
ただ狼と、その兄弟である野生の犬にだけ──答えるようにと発せら
れたものなのだった。
キチーはきびす
踵を返すと、ゆっくりとキャンプのほうへ駆けもどって
いった。あの木切れによる実質的な束縛よりもさらに強く、キャン
プの持つ力が彼女をとらえていた。目に見えぬ神秘的な力で、いま
なお神々は彼女を束縛し、解放してくれようとはしないのだ。ホワ
かば
イト・ファングは、とある樺の木の下陰にすわりこみ、鼻を鳴らし
てそっと鳴いた。松の木の強い香りがし、森そのもののそれとはな
い芳香も、あたりには充満していて、とらわれの身になる以前の、
自由な日々を彼に思い起こさせた。けれども彼は、まだおとなにな
りきらない仔狼でしかなく、彼には母の呼び声のほうが、人間や
〈荒野〉の呼び声のいずれよりも、もっと強かった。生まれてから
きょうまでのまだ短い日々、それを彼は全面的に母に頼って生きて
きた。独り立ちできる日は、まだ先のことだった。だから、やむな
しょうぜん
く立ちあがると、悄 然とキャンプにむかって駆けだしたが、それで
も途中で一度、二度と立ち止まっては、その場にすわりこみ、くん
くん鳴いてみたり、いまなお森の奥深くから聞こえてくる呼び声
に、名残惜しげに耳をすましてみたりした。
〈荒野〉では、母親が仔といっしょに過ごす時間は、さほど長くは
ない。だが、人間の支配のもとにあると、しばしばその時間はさら
に短くなる。ホワイト・ファング母子の場合もそうだった。たまた
まグレイ・ビーヴァーはスリー・イーグルズに負債があったのだ
が、そのスリー・イーグルズは、近くマッケンジー川をさかのぼ
り、グレートスレーヴ・レークへおもむく旅に出ようとしていた。
というわけで、一枚の緋色の布、一枚の熊の皮、銃弾二十発、それ
にキチー、これらが負債の支払いにあてられた。ホワイト・ファン
グは、母がスリー・イーグルズのカヌーに乗せられるのを目にし、
あとを追おうとしかけたが、そこでいきなりグレイ・ビーヴァーに
一発食らわされ、岸に突きもどされた。カヌーが岸を離れた。ホワ
イト・ファングは水に飛びこむなり、もどれと叫ぶグレイ・ビーヴ
ァーの鋭い声には耳も貸さず、あとを追って泳ぎだした。叫んでい
るのがたとえ人間動物、神であっても、ホワイト・ファングはそれ
を歯牙にもかけなかった。それほどに、母を失うことへの恐れは大
きかった。
とはいえ、神々は命令を無視されることに慣れていない。グレ
イ・ビーヴァーは怒り狂ってべつのカヌーを流れに押しだすと、追
跡にかかった。そしてホワイト・ファングに追いつくなり、手をの
ばして、むんずと首筋をつかみ、水からひきあげた。ホワイト・フ
ァングの全身が宙に浮いたが、それを彼はすぐにカヌーの底へほう
りだそうとはせず、片手で宙づりにしたまま、もういっぽうの手
で、殴打しにかかった。それはまさしく殴打を目的とした殴打だっ
た。彼の手は頑丈である。一撃ごとに、痛烈な痛みをもたらすう
え、それがまたやつぎばやに、遠慮会釈なく浴びせられるのだ。
雨あられと降ってくる打撃は、いまこちらから、かと思えばまた
あちらからと、気まぐれに、痙攣的に揺れ動く振り子よろしく、宙
づりになったホワイト・ファングの体をもみくちゃにした。ホワイ
ト・ファングの身内をうねりのように流れる感情の波も、同様に変
化した。最初はただ驚くだけだった。つぎに、つかのまだが怯えが
やってきて、殴打の衝撃を感じるごとに、何度かきゃんと悲鳴がも
れた。だがその怯えも、すぐさま怒りにとってかわられた。本質的
には自由な気性が、おのずと頭をもたげてきて、彼は歯をむきだす
なり、怒り狂う神にむかって、まともにうなり声を浴びせた。だが
これは、たんに神をいっそういきりたたせただけだった。打撃はい
っそうやつぎばやに、いっそう強い力で浴びせられてき、いっそう
痛烈な痛みをもたらした。
グレイ・ビーヴァーはなおも殴打しつづけ、ホワイト・ファング
はなおもうなりつづけた。とはいえ、こんなことが永久につづくは
ずもない。どちらかいっぽうがひきさがらざるを得ず、結局、ひきど
さがったのはホワイト・ファングのほうだった。ふたたび怯えが
とう

濤のように身内に荒れ狂った。生まれてはじめて、真に人間の手で
こっぴどい目にあわされたのだ。これまでにも、ときたま棒切れで
殴られたり、石を投げつけられたりはしたが、そんなのは、いまの
この殴打にくらべれば、愛撫のようなものだった。ついにこらえき
れなくなって、彼はけたたましく泣いたり、叫んだりしはじめた。
そのあとしばらくは、一撃ごとに彼の口から悲鳴がもれたが、その
うち、怯えが恐慌に変わって、ついには、加えられる懲罰のリズム
とは無関係に、きゃんきゃんという悲鳴が間断なく、連続的に流れ
でるまでになった。
やがてようやくグレイ・ビーヴァーは殴打をやめた。宙づりにさ
れてぐったりしたまま、ホワイト・ファングはただ泣きつづけるば
かりだった。それでどうやら気がすんだらしく、あるじは彼を荒っ
ぽくカヌーの底へ投げだした。とかくするうちに、カヌーはだいぶ かい
下流のほうまで流されてしまっていた。グレイ・ビーヴァーは櫂を
とりあげようとしたが、倒れているホワイト・ファングの体が邪魔
になったので、足で容赦なく蹴とばした。まさにその瞬間、ホワイ
ト・ファングの本質的に自由な気性が、またもむらむらと頭をもた
げてき、彼はいきなりグレイ・ビーヴァーのモカシンをはいた足め
がけて、ぐさりと牙を突きたてた。
いましがた受けた容赦のないちょう
打 ちゃく
擲も、今回の新たな懲罰にくらべ
れば、物の数ではなかった。グレイ・ビーヴァーの怒りはすさまじ
く、それだけホワイト・ファングの恐怖も大きかった。手による殴
打だけでなく、懲罰には木の櫂も用いられ、やがてようやくまたカ
ヌーの底に投げだされたときには、ホワイト・ファングの小さな体
は傷だらけ、いたるところずきずきと痛んだ。ここでもう一度、今
度は故意に狙いすまして、グレイ・ビーヴァーはその体を蹴とばし
たが、ホワイト・ファングももはや、その足に再度の攻撃をかけよ
うとはしなかった。わが身を縛る掟に関して、またひとつ教訓を学
んだのだ。たとえいかなる事情があろうとも、けっして、けっして
神に咬みつくような真似をしてはならない。神は支配者であり、主
けが
人であり、その体は神聖なるもの、この自分ごときの牙で穢される
ようなことがあってはならないのだ。それは明らかに大罪のなかの
大罪、大目に見ることも、見すごすこともできない、ひとつの大き
な悪行にほかならないのである。
やがてカヌーは岸に着いたが、ホワイト・ファングはなおもくん
くん鳴きながら倒れたままでいて、グレイ・ビーヴァーがなんらか
の意向を示すのを待っていた。岸にあがれというのが、どうやらそ
のグレイ・ビーヴァーの意向と見え、体ごと持ちあげられて、岸に
ほうり投げられたホワイト・ファングは、脇腹をしたたかぶつけ
て、さいぜん打った跡を、また新たに痛めた。ふるえながら、もが
くように立ちあがって、しばらくくんくん鳴きながら立ちすくんで
いると、いままでの一部始終を岸から見まもっていたリップ=リッ
プが、そこを見すまして一気に突進してくるなり、体当たりして、
がぶりと咬みついてきた。ホワイト・ファングはすっかり弱りきっ
て、身を護ることもできずにいたから、もしもグレイ・ビーヴァー
がここでいきなり足を突きだして、リップ=リップを荒々しく空中
にはねあげ、十フィート以上も先の地面にたたきつけてくれなかっ
たなら、あるいはとんでもない結果になっていたかもしれない。こ
れは、この人間動物の公正さというものであり、そうと知ったとき
ホワイト・ファングは、いまのこの情けないていたらくにもかかわ
らず、そのことにかすかな感謝に似た気持ちがうずくのを味わっ
た。そして彼は従順にグレイ・ビーヴァーのすぐ後ろにしたがっ
て、足をひきずりながらキャンプのなかを通り抜け、ティピーへと
向かったのだった。かくしてホワイト・ファングがまたひとつ学ん
だこと、それは、罰を与える権利というのは、神々だけが保持して
いるものであり、神々以下の、より劣った生き物には、その権利は
持たされていないということだった。
その夜、キャンプが寝静まってから、ホワイト・ファングは母の
あいこく
ことを思いだし、そして母恋しさに鳴いた。その哀哭がつい大きく
なりすぎて、グレイ・ビーヴァーの眠りを妨げ、またも打擲される
はめになったので、それからは、神々が近くにいるときには、声を
忍んで鳴くことにしたが、それでも、ときとしてひとり森のはずれ
までさまよっていっては、ありったけの声でくんくん鳴いたり、吠
えるように泣き叫んだりして、その嘆きを吐きだすのだった。
ひょっとして、まだこの段階であれば、彼もなつかしいあの流れ
や、巣穴の記憶に耳を傾け、〈荒野〉へと駆けもどってゆくことも
できたかもしれない。けれども、母の記憶が彼をつなぎとめてい
た。人間動物たちが狩りに出ていっては、またもどってくるよう
に、いつかは母もこのキャンプにもどってくるのではないだろう
か。というわけで、彼はその後もとらわれの身のまま、ここで母を
待ちつづけた。
といっても、とらわれの身であることは、まんざら不しあわせな
境遇とばかりは言えなかった。おもしろいことはいくらもあった
し、たえずなにかが起きてもいた。これらの神々が行なう不思議な
わざには限りがなく、そのすべてを彼は興味をもってながめた。お
まけに、グレイ・ビーヴァーとうまくつきあってゆくことも覚えは
じめていた。服従、それも妥協のない、一貫した服従、それこそが
この自分にもとめられているものであり、その見返りとして自分
は、打擲をまぬがれ、ここで生きてゆくことを大目に見てもらえる
のだ。
いや、それどころか、グレイ・ビーヴァーそのひとがときおり肉
を投げてくれることもあったし、それを食べているあいだは、他の
犬どもからかばってくれもした。こうした肉片は貴重なものだった
し、しかも不思議なことに、女たちの手から与えられる肉よりも、
なぜかいっそう値打ちがあるように思えた。といってもグレイ・ビ
ーヴァーは、けっして彼を愛撫したり、仔犬のように扱ったりする
ことはなかった。ホワイト・ファングに強い感銘を与えていたの
は、ことによると彼の手の重みだったかもしれないし、あるいは彼
の公正さだったかもしれない。あるいは、これらすべてがひとつに
なったものだったかもしれない。ともあれ、ある種の情愛を伴った
きずな
絆が、ホワイト・ファングと、無愛想な主人とのあいだには、芽生
えはじめていたのである。
気がつかぬうちに、棒切れや投石や手による殴打の場合とおなじ
く、なにやら間接的なやりかたで、ホワイト・ファングを束縛する
あしかせ
足枷がしっかり固定されてしまっていた。彼の属する種の特質は、
かつて原初のころに彼らが人間の火に近づいてゆくことを可能にし
てくれたものだが、それはすなわち、進化することを可能にする特
質でもある。その資質がいま彼のなかで開花しはじめていて、この
キャンプでの生活は、それなりにあまたのみじめさがつきまといは
するものの、彼にとってはひそかに愛すべきものになってゆこうと
しているのだった。だがホワイト・ファング自身はまだ、それに気
づいてはいなかった。彼にわかっているのはただ、母キチーを失っ
た悲しみと、いつかその母がもどってきてくれるという期待、そし
て、かつては自分のものであった自由な生活への渇望、それだけな
のだった。
OceanofPDF.com
のけもの
リップ=リップは、その後もホワイト・ファングの暮らしに暗雲
を投げかけつづけていたから、おかげでホワイト・ファングは、持
って生まれた気質よりも、いっそう性悪に、いっそう凶猛になって
いった。凶猛なのはもともと彼の体質の一部ではあったが、それで
も、こうした事情から、凶猛さばかりがその本来の気質以上に、突
出して発達してしまったのだ。彼は人間動物たちのあいだでも、根
性悪という評判をとるにいたった。キャンプでなにか揉め事やら騒
動が起きたり、喧嘩、口論、あるいは肉が一切れ盗まれたと女がわ
めきだしたりと、そんな騒ぎが持ちあがるたびに、きまってホワイ
ト・ファングはそれにからんでいるし、たいていはその張本人でも
ある。人間動物たちは、彼のそうした行為の原因には、目を向けな
かった。つねに結果だけを見て、しかもその結果は悪質だときてい

る。彼はこそ泥で、かっぱらいで、つねに紛争の種を蒔くやつ、騒
動をあおるやつであり、腹をたてた女たちは、面とむかって彼を、
所詮おまえは狼で、役たたずで、最後はどうせろくな死にかたはし
ののし
ないよ、と罵るのだが、罵られつつも彼は、油断なく女たちを見つ
めて、なにかの飛び道具がすばやく飛んでくることでもあれば、い
ちはやく避けられるように身構えている。
キャンプにはいつも人間や犬があふれていたが、そのなかで彼
は、いつしかのけものになっている自分を感じた。若手の犬たち
なら
は、残らずリップ=リップの手本に倣っていた。彼らとホワイト・
ファングとのあいだには、明らかな相違があり、ことによると彼ら
は、野育ちという彼の本質を感じとって、本能的に彼にたいし、飼
い犬が狼にたいしていだく敵意を感じはじめていたのかもしれな
い。いずれにせよ彼らは、リップ=リップに加担して、ホワイト・
ファングを迫害した。そして、いったん彼を敵と決めつけてしまう
と、以来ずっと、それなりの理由を見つけては、彼に敵対した。ど
の犬も、必ず何度かは彼と牙をまじえたが、その場合も彼が、やら
れた数以上に彼らにやりかえしたのは、あっぱれと言うべきだっ
た。一対一ならば、たいがいの相手は打ち負かしてやれるのだが、
あいにく、一対一にはなかなかさせてもらえない。その種の対立が
起きると、たちまちキャンプじゅうの若犬に信号が伝わり、全員が
どっとばかりに押し寄せてきて、彼に襲いかかるのだ。
こうした集団による迫害を受けるなかで、彼はふたつの重要な教
訓を得た。ひとつは、集団を相手にまわして闘うとき、自分の身を
いかにして護るか。そしていまひとつは、相手が単独の場合は、い
かにして最短の時間で最大のダメージを相手に与えるか。敵意ある
集団にとりかこまれたときには、足をすくわれないことこそ生き残
るための要諦なのだが、この点も彼は身にしみて思い知った。つね
に足を地につけて立っていられるという、猫も顔負けの能力を身に
つけもした。キャンプでは、ともするとおとなの犬までが重い体を
ぶつけてきて、彼を後ろへはねとばしたり、横にころがしたりする
ことがあるのだが、そんなとき、はねとばされて宙を飛んだり、こ
ろがされて地上をすべっていったりしながらも、彼はつねに四肢を
腹の下に縮め、足を大地に向けているように心がけるのだった。
犬同士が闘うとき、普通は実際の戦闘が始まる前に、前哨戦とい
うか、小手調べが行なわれる──うなったり、首毛を逆だててみせた
り、脚をつっぱらせ、睨みを利かせながら歩いてみせたり、まあそ
んなことだ。だがホワイト・ファングは、こういう前哨戦を省略す
る法を身につけた。ここでぐずぐずしていれば、いずれ若犬どもに
集団で襲いかかられるという事態を招くだけだ。その前に、こちら
はさっさとやるべきことをやって、逃げないといけない。というわ
けで、彼が身につけたのは、こちらの意図をいっさい敵にさとらせ
ないという戦法。敵が応戦の構えをとらないうちに、前ぶれなしに
瞬時にとびこんで、咬みつき、咬み裂く。このようにして、いかに
敏速かつしん深じん甚なダメージを敵に与えるかを学び、さらに、不意打ち
の効果というものも覚えた。不意を衝かれて、なにがなんだかわか
らぬうちに、肩をぱっくり咬み裂かれたり、耳をずたずたにされた
りする──そんな犬は、すでにして、敗北したも同然である。
さらに、不意打ちをかけて相手をころがすのは、きわめてやさし
い。そうやってころがされた犬は、例外なく、一瞬だがやわらかな
喉首をさらしてみせる──もっとも無防備な、そこをやられると命と
りになる部分を。この弱点を、ホワイト・ファングはよく知りつく
していた。それは彼が狼として、代々狩猟に生きてきた先祖から、
じかに受け継いだ知識にほかならない。という次第で、ホワイト・
ファングが攻撃に出るときの戦法を要約すれば、こうなる──その
一、単独でいる若犬を見つけること。その二、そいつの不意を襲っ
て、ころばせること。その三、そいつのやわらかな喉を狙って、牙
を突きたてること。
いまだ成長途上にある若狼として、彼のあごは、敵の喉を狙って
攻撃をかけ、致命傷を与えられるほど大きくもなく、頑丈でもなか
った。にもかかわらず、キャンプには、喉に裂傷を負った若犬がぞ
ろぞろいて、それがすなわち、ホワイト・ファングの戦果を如実に
示していた。そしてある日、敵のうちの一匹が単独で森のはずれに
いるところを見つけた彼は、くりかえしそいつをころばせては、喉
を攻撃するという戦法で、みごとに相手の大動脈を嚙み破り、息の
根を止めることに成功したのだった。その夜は、キャンプじゅうが
沸騰するほどの騒ぎになった。彼が犬を仕留めるところを見ていた
ものがいて、その知らせは、すぐさま死んだ犬のあるじに伝えら
れ、女たちも、再三にわたって肉をくすねられてきた過去の事例を
数えたてて、責任を追及する声が、グレイ・ビーヴァー一身に集中
することになったのだ。それでもグレイ・ビーヴァーは、犯行の当
事者を自分のティピーのなかにかくまったうえ、断固としてティピ
ーの入り口を死守して、同族のものたちがやかましく要求する犯人
への復讐を、許そうとしなかった。 い
ホワイト・ファングは、人間からも犬からも忌み嫌われるように
なった。おとなになるまでのこの期間、彼は一瞬たりとも安心して
暮らしたことがなかった。すべての犬の牙が、すべての人間の手
が、こぞって彼に敵対していた。同類である犬たちからは、うなり
ば げん
声を浴びせられ、神々である人間からは、罵言と石ころを投げつけ
られた。彼はたえず緊張しきって暮らしていた。常時、気を張りつ
めていて、いつでも攻撃できるように身構え、敵からの攻撃にも警
戒を怠らず、とつぜん予期せぬときに飛んでくる飛び道具にも、油
断なく目を配り、とっさに冷静な行動がとれるように準備し、いざ
というときには牙をきらめかせつつ跳びこむなり、あるいは跳びす
さりながら威嚇的にうなってみせるなり、どちらにでも応用が利く
だけの態勢をととのえていた。
うなるという点について言うなら、彼のうなり声のすさまじさた
まさ
るや、老若を問わず、キャンプじゅうのどんな犬にも勝っていた。
うなることの目的は、警告ないしは威嚇することであり、それをい
つ用いるかを決めるのには、適切な判断力が必要となる。その点ホ
ワイト・ファングは、どうそれを用いるかも、いつ用いるかも、ふ
たつながらよく心得ていた。うなるときは、そのなかにありとあら
ゆる悪意と、憎悪と、怨念をこめる。たえず鼻を痙攣させて、細か
きょ し じょう しわ
な鋸歯 状の皺をつくり、寄せては返す波さながら、くりかえし背筋
の毛を逆だて、舌を真っ赤な蛇よろしくぺろりと突きだしては、ま
たさっとひっこめ、耳をぺたりと寝かせ、目は憎しみに爛々と輝か
せ、ゆがめたくちびるをめくりあげ、牙をむきだして、その先端か
よだれ
ら涎をぽたぽたとしたたらす。こんなようすを見れば、攻撃をかけ
ようとする相手も、一瞬のためらいを覚えずにはいられまい。その
ほんの一瞬が、うっかり敵に不意を衝かれたようなときにも、こち
らに起死回生のゆとりを与えてくれる──じっくり自分のとるべき行
動を考え、かつ決定するだけのゆとりを。だがそのいっぽうで、こ
うして得られたゆとりがさらに長びいて、相手の攻撃が完全に中断
してしまうこともしばしばある。そうなると、たとえ目の前におと
なの犬が一匹ならずいたとしても、ホワイト・ファングは闘わずし
て名誉の撤退をすることができるのだ。
彼自身は成長途上にある若犬の群れからのけものにされた身だ
が、こうした彼の飽くなき残忍さや、ひときわめだつ有能さが、群
れの犬たちに彼を迫害したことへの報いをたっぷり味わわせること
になった。おなじく、彼自身は群れといっしょに走ることを許され
ていない身だが、群れの犬たちのほうも、群れを離れては走れない
というおかしな状況が生まれた。ホワイト・ファングがそうはさせ
ないのだ。藪を利用して奇襲をかけてきたり、待ち伏せしていて襲
ってきたり、彼にはあれやこれやの戦術があり、そのため若犬たち
は、単独で走ることを恐れた。自業自得でつくりだしてしまったこ
のおそるべき敵にたいして、リップ=リップを除く他の犬たちは、
集団保障のため、たがいに寄り集まって走ることを余儀なくされ
た。単独で川べりにいる仔犬というのは、すなわち、もう死んだも
同然だということを意味した。でなくば、待ち伏せしていた狼の仔
から逃げてきながら、けたたましい苦痛と恐怖の悲鳴で、キャンプ
しんかん
じゅうを震撼させるか。
だが、若犬たちがつねに行動をともにすべきことを骨身にしみて
学習してしまってからも、まだホワイト・ファングの報復がやむこ
とはなかった。単独でいるところを見かければ、必ず襲いかかった
し、犬たちのほうも、集団でいるかぎりは、一致して彼を襲撃し
た。姿を見かければ、それだけでどっとばかりにあとを追ってきた
が、そんなときでも、たいがいは彼の駿足がさいわいして、無事に
逃げおおせることができた。それにしても、そういった追跡劇のさ
なかに、うっかり仲間よりも前へ出てしまった犬こそ、災難という
もの! というのも、ホワイト・ファングは、群れの先頭に立って
追ってくる犬の目の前で、いきなり反転して、仲間が追いついてく
るころには、そのおさき先っぱし走りをあとかたもとどめず引き裂いてしま
っている、といった早業を身につけていたからだ。しかもこんなこ
とが頻繁に起きる。それというのも、犬たちはいったん激しく追跡
を始めると、興奮のあまり、ともすればわれを忘れがちになるのに
たいし、ホワイト・ファングは、自分を見失うということがけっし
てないからだ。走りながらもちらちらと後ろをうかがい、いつなん
はや
どきでもくるりと向きなおって、血気に逸るお先っ走りにとびかか
れるよう、体勢をととのえているのだ。
仔犬はもともと遊びたがるものであり、しかもこういう状況だか
ら、必然的に彼らもその遊びを、こうした模擬戦争のなかで実現す
ることになった。こうして、ホワイト・ファングを追いかけること
こそが、彼らの主たるゲームとなった──それも、命がけのゲーム、
つねに真剣勝負のゲームだ。これにたいして、ホワイト・ファング
自身は、ぬきんでた駿足でもあり、どこへ行こうが、いっこう恐れ
ることはない。むなしく母の帰りを待ちわびていたこの時期、彼は
一度ならず群れを挑発して、近くの森への熾烈な追跡劇へと誘いこ
んだが、最後はきまって群れの犬たちが、ホワイト・ファングを見
失って、終わる。彼らは走りながら騒々しい叫び声をあげるので、
その居場所はおのずと知れるが、ひきかえ、ホワイト・ファングの
じきでん
ほうは、父母直伝の走りかたそのまま、ビロードのような足で大地
を踏み、音もなく木の間を移動する影となってひた走る。おまけ
﹅ ﹅
に、彼は犬たちより、より密接に〈荒野〉と直結しているし、〈荒
野〉の秘密と、それを利用した策略にも通じている。彼の得意の手
そくせき
と言えば、川の流れで足跡をくらまし、まんまとふりきられた犬た
ちが、そこでがやがや騒ぎたてているあいだ、手近の茂みにひっそ
り身を隠して、待ち伏せをかけるというものだ。
同類からも、人間からも憎まれ、たえず闘いをいどまれて、自分
からもたえず闘いを仕掛けながら、負けじ魂でなんとか乗りきって
ゆく日々。だから彼の発育ぶりは速かったが、しかし偏っていた。
こうした土壌からは、やさしさとか情愛といったものが育つはずも
ない。やさしさといい、情愛といい、彼にはおよそ無縁な感情であ
る。これまでに身につけてきた掟と言えば、強いものには服従し、
弱いものは虐げるというもの。グレイ・ビーヴァーは神であり、強
い。だからホワイト・ファングは彼に服従する。しかし、自分より
も幼く、小さな犬は、弱いもの、たたきつぶして然るべきものだ。
彼の心の発達は、もっぱら力を志向するほうへと向かった。痛い目
を見たり、悪くすると自分がたたきつぶされかねない危険、そうし
た絶えざる危険に立ち向かってゆくために、彼の捕食能力と身体防
衛機能は、異常なほどの発達を見せた。ほかのどんな犬よりも、機
敏に動けるようになったし、走力はよりすぐれ、立ち回りはより狡
猾で、より執念ぶかく、鋼鉄のような筋肉や腱をそなえた体は、よ
りしなやかで、瘦せてはいても、より屈強であり、性情はより忍耐
づよく、より冷酷で、より獰猛で、知性はより研ぎすまされた。彼
はこれらすべてを兼ね備えねばならなかった。でなければ、いま身
を置いている、この敵意に満ちた環境のなかで、とうてい持ちこた
えてはゆけなかったろうし、生きのびてゆくこともできなかったろ
う。
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神々の足跡
その年の秋だった。日ごとに日暮れが早くなり、空気ちゅうにも
肌を刺す冷気がただよいはじめるころ、ホワイト・ファングは自由
になる機会をつかんだ。ここ数日、キャンプでは大きな動きが起き
ていた。夏のキャンプがたたまれ、部族は袋や包みをまとめて、秋
の狩猟の旅に出る準備にかかっていたのだ。ホワイト・ファングは
その一部始終を注意ぶかく観察し、やがてティピーがとりこわされ
はじめ、荷物が流れの岸のカヌーに積みこまれだすと、状況を理解
した。早くも何艘かのカヌーが岸を離れだし、一部はすでに川下に
船影を消している。
よくよく考えたうえで、あとに残ることを決心した彼は、機会を
待って、そっとキャンプを抜けだすと、森へ向かった。ここでは川
そくせき
に氷が張りはじめていたが、その流れで足跡をくらましたうえで、
とある密生した藪の奥にもぐりこんで、じっと待った。時が過ぎ、
何時間か、きれぎれな眠りに落ちたが、やがて、自分の名を呼んで
いるグレイ・ビーヴァーの声に、はっと目をさました。声はほかに
も聞こえてきた。グレイ・ビーヴァーの女房の声──彼女も捜索に加
わっているらしい。さらに、グレイ・ビーヴァーのせがれ、ミト=
サーも。
ホワイト・ファングは恐怖におののいた。隠れ場から這いだして
ゆきたい衝動にかられもしたが、なんとかその気持ちをおさえこん
だ。しばらくすると、声は遠のいていったが、それからさらにもう
しばらく待ってから、ようやく這いだして、だいそれた企てにまん
まと成功した悦びにひたった。宵闇が迫ってくるなかで、自由を満
喫しながら、しばし森のなかを駆けまわって遊ぶうち、ふいに、ま
ったく予期しなかった孤独感が、じわりと意識にのぼってきた。彼
はその場にすわりこみ、思案した。思案しながら森の静けさに聞き
入り、その静けさに不安を誘われた。なにひとつ動くものもなく、
物音ひとつ聞こえてこない。これは無気味に感じられるものだ。な
にか目に見えない、想像もつかない危険が、どこかにひそんでいる
ような気もする。気のせいか、ぬっとそそりたつ巨木だの、あたり
の黒々とした影などが、ありとあらゆる危険をはらんだなにものか
を隠しているように思えてならない。
ついで、寒さが襲ってきた。ここでは、温かいテントの布に身を
寄せて、寒さを防ぐという手段もとれない。冷気はまず足にしみい
り、両の前足をたえず交互に持ちあげていないと、足が凍えてしま
う。ふさふさした尾で冷たい足をくるもうとしたそのとき、幻影を
見た。なにも目新しいものではなかった。記憶が一連の絵となっ
て、心の目に焼きつけられているのだ。そうして彼はいま一度キャ
ンプを見た。並び建つティピーを見た。焚き火の炎を見た。女たち
のかんだかい声がし、男たちの低いどら声や、犬たちのうなりも聞
こえた。彼は空腹だったから、キャンプで投げ与えられた肉や魚の
ことが、おのずと記憶によみがえってきた。ここには肉もなく、あ
るのはもっぱら威嚇するかのような静寂、あいにく食用にはならな
い静けさのみなのだ。
ぜいじゃく
とらわれの生活を送ってきたことで、彼は脆 弱になっていた。責
任を負わずともすむ暮らしがつづいて、すっかり柔弱になってい
た。自力で生きてゆくすべも、いまは忘れてしまっていた。周辺で
は、夜があんぐり口をあけている。生来、身にそなわっている五官
も、キャンプの活気や絶えざるざわめきに慣れ、しょっちゅう見聞
きするものから衝撃を受けることにも慣れきって、いまではなまく
らになっていた。ここではなにもすることがなく、見たり、聞いた
りすべきものもない。それでもせいいっぱい五官を研ぎすまして、
その静けさや、どっしりと動かぬ自然を多少なりとも騒がすものが
あれば、それを感じとろうとしてみた。だがなにも伝わってこな
い。まったく動きがないことや、なにか恐ろしいことがいまにも起
ころうとしているという感じ、それらを前に、五官はただ呆然とす
るのみなのだ。
ここで彼は、すさまじい恐怖にぎくりとした。なにかとてつもな
く大きな、形のないものが、視界を横ぎって突進してくる。月光の
投げかける木の影だった──いままで月にかかっていた雲が、ふいに
吹き払われたのだ。ほっとして、かすかにくんと鼻を鳴らしたが、
そのあとの、めそめそと泣きだしたい気持ちのほうは、必死に押し
殺した。うっかり声をたてると、そこらにひそんでいる危険なもの
の注意をひきかねない、そう恐れたのだ。
夜の冷気で木々が収縮し、その一本がぴしっと大きな音をたて
た。頭の真上だ。びくっとして、思わずきゃんと悲鳴をあげた。パ
ニックにとらえられ、やみくもにキャンプにむかって駆けだす。人
間の保護と、人間とのつながりをもとめる気持ち、それがいまや圧
倒的なまでに強まっていた。鼻孔には、キャンプの煙のにおいが残
っていた。耳には、キャンプの物音やさまざまな叫び声が鳴り響い
ていた。森を抜けて、月に照らされた空き地に出た。そこには影も
なく、恐ろしい闇もない。けれども、いくら見まわしても、キャン
プは目にはいってこなかった。つい失念していたのだ。キャンプは
とうにこの土地を引き払ってしまっている。
しゃにむにここまで逃げてきた脚が、いま唐突に止まった。ここ
にはもはや逃げこめる場所などない。人影のないキャンプ地のなか
しょうぜん
を、悄 然と首をたれてひっそり歩きまわり、ごみの山や、神々の遺
棄していったさまざまながらくたを嗅ぎまわる。いっそのこと、立
腹した女の投げつける石が、周囲にばらばらと降ってきたり、怒っ
たグレイ・ビーヴァーの手で打擲を受けたりするほうが、どんなに
かうれしかったことだろう。いや、それを言うなら、リップ=リッ
プだの、ただうなるだけの意気地のない群れの犬どもだって、いま
なら喜んで迎えただろうに。
やがて、グレイ・ビーヴァーのティピーが建っていた地点へやっ
てきた。それの占めていたスペースのまんなかに、ホワイト・ファ
ングは腰を落としてすわりこんだ。そして鼻面を月に向けた。喉が
激しい痙攣にこわばり、しぜんに口がひらき、そして一声、悲痛な
叫びがあがった──胸のうちの孤独と恐怖、キチーを失った悲しみ、
過去のあらゆる悲嘆や苦しみ、そういったものだけでなく、これか
らの苦難や危険への懸念までが、すべていっしょになって、一気に
喉もとにこみあげてきたのだ。それは長く尾をひく狼の咆哮だった
──声をふりしぼり、悲嘆をいっぱいにこめた咆哮。それは彼の発し
たはじめての遠吠えだった。
夜が明けると、恐怖は消えたものの、かわって孤独感がつのって
きた。つい最近まで、あれほどにぎやかだったキャンプ跡のはだか じ
裸 地、
それを見るにつけ、孤独感はいっそう強く胸に突き刺さってきた。
心を決めるのに、長くはかからなかった。そのまままっしぐらに森
へ走り入り、流れの岸づたいに、下流へむかって駆けだした。それ
から一日、駆けに駆けた。一度も休まなかった。永久に走りつづけ
るようにつくられている、そんなふうにも見えるほどだった。鋼鉄
のような体は、疲労を受けつけなかった。やがてようやく疲れがき
たあとも、父祖から伝わった粘りづよさが、無限の努力へと彼を駆
りたて、悲鳴をあげている体を、なおも強引に前へと押し進めるの
だった。
川が切りたった崖にぶつかって屈曲している箇所で、彼はその背と
後の高い山をのぼった。本流にそそいでいる多数の川や流れは、
しょう

渉したり、泳ぎわたったりした。川べりの、薄く氷の張りはじめた
箇所を通ろうとして、一度ならずその氷を踏み抜き、凍てつくよう
おぼ
な水のなかで、溺れまいともがきもした。そのあいだも、たえず足
もとに目を配り、神々の足跡が川を離れて、内陸へ向かっていった
形跡はないかどうかを確かめた。
ホワイト・ファングは、同類のものたちの平均よりも知的にすぐ
れていたが、それでも、その心理的視野は、マッケンジー川の対岸
にまで及ぶほど、広くはなかった。ひょっとして、神々の足跡が川
の対岸に移ってしまっていたら、いったいどうなっていただろう。
そういう可能性は、彼の念頭には浮かびもしなかった。後年、もっ
と広い土地を旅し、もっと年齢を重ねて賢くなり、多くの踏み分け
道や川の流れを知るようになってからだったら、そういう概念を把
握し、意味を理解することもできたかもしれない。だが、その種の
知力が身につくのは、まだ先のことだった。いま現在は、ただやみ
くもに走るだけ、その頭にあるのは、マッケンジー川のこちら側の
岸のことだけだった。
彼は夜を徹して走りつづけた。なにぶん闇のなかのこと、たびた
び思わぬ出来事や障害に出くわしては、よけいな時間を食ったが、
しかしひるみはしなかった。二日めの昼ごろには、すでに三十時間
もぶっとおしで走りつづけていて、鋼鉄のような筋肉も、ようやく
音をあげはじめていた。それでもなお彼を駆りたてているのは、精
神的な粘りづよさだった。もう四十時間というもの、なにも口にし
ていなかったから、空腹でしだいに弱ってきていたし、再三、氷の
ような水でずぶ濡れになったことも、やはりものをいいはじめてい
た。きれいな毛並みはよれよれになっていたし、幅の広い足の裏の
肉球は、傷つき、血を流していた。だんだん足をひきずりはじめ、
そのひきずりかたは、時間とともにひどくなっていった。なお悪い
ことに、空模様が怪しくなり、雪まで降りだした──粗く、水分が多
く、解けやすく、べとついた雪で、踏むと、足がすべる。しかもそ
れが、あたりを平面的な白一色に変え、地面のでこぼこもおおいか
くしてしまうので、足の運びはいっそう困難になり、面倒なものと
なった。
グレイ・ビーヴァーはその夜、マッケンジー川の向こう岸にキャ
ンプを張るつもりでいた。めざす猟場がその方角にあったからだ。
ところが、まもなく暗くなろうというころ、こちら側の岸で、一頭
のムースが水を飲みに降りてくるのを、グレイ・ビーヴァーの女房
であるクルー=クーチが見つけた。もしもそのムースが水を飲みに
降りてこなかったら、あるいは、雪のせいでミト=サーがいくらか
進路からはずれることがなかったなら、またそのムースをクルー=
クーチが見つけていなかったなら、そしてグレイ・ビーヴァーが運
よくそいつを一発で仕留めていなかったなら、その後の出来事は、
まったく異なる展開を見せていただろう。グレイ・ビーヴァーがマ
ッケンジー川のこちら側でキャンプを張ることはなかっただろう
し、そうすればホワイト・ファングは、知らずにそこを通り過ぎ
て、いずれはどこかで野垂れ死にするか、さもなくば、野生の兄弟
たちと出あう道を見つけて、彼らの仲間になり、狼として一生を終
えるかしていたことだろう。
ひんぷん
夜のとばりがおりた。雪はいよいよ繽紛と舞い落ちはじめ、その
なかをひとりかすかにくんくんと鼻を鳴らしながら、つまずいた
り、足をひきずったりして道をたどるうちに、ホワイト・ファング
は、雪の上に一筋の真新しい跡が残っているのを見つけたのだっ
た。まだできたばかりの跡だったから、なんの跡かはすぐにわかっ
た。意気ごんで、いよいよ激しく鼻を鳴らしながら、川岸からその
跡をたどって、森のなかへとはいっていった。キャンプの気配が耳
にとびこんできた。あかあかと燃える火が見え、料理をしているク
ルー=クーチの姿が見え、グレイ・ビーヴァーがそばにしゃがみこ
んで、生の獣脂の切れ端をもぐもぐ嚙んでいるのが見えた。とれた
ての新鮮な肉があるのだ、あそこには!
ホワイト・ファングは、殴られるものと予想していた。殴られる
ことを思うと、体がすくみ、わずかに首毛が逆だったが、そこであ
らためて心を決め、前へ進みはじめた。自分を待っているとわかっ
ている殴打は恐ろしかったし、避けたくもあった。だがそれ以上に
はっきりしているのは、あそこへ行けば暖かい火が、神々の保護
が、犬たちとの結びつきが自分のものになる、ということだった──
この最後のものは、結びつきと言っても敵同士のそれではあった
が、それでもひとつの結びつきではあり、もともと群居性の動物で
ある彼の欲求をも、満足させてくれるものだった。
彼は身をすくめて焚き火の火明かりのほうへにじり寄っていっ
た。グレイ・ビーヴァーが彼に気づき、獣脂を嚙むのをやめた。ホ
ワイト・ファングは低く身を縮め、卑屈さと服従の意を体全体であ
らわしながら、のろのろと這い進んだ。まっすぐ向かうのは、グレ
イ・ビーヴァーのいるところ──だが、じりっと一インチ進むごと
に、進みかたはしだいに緩慢に、つらそうになっていった。そうし
てようやく最後に主人の足もとに横になったとき、この瞬間こそ彼
が、全面的に主人の手に自分をゆだねた瞬間だった──自らすすん
で、身も心も。彼は自分の自由意志で人間の火のそばへやってき、
その支配を受け入れたのだ。じきにやってくるだろう懲罰を待ちな
がら、ホワイト・ファングはふるえていた。頭の上で、手が動く気
配がした。殴打が降ってくるものと予想して、われしらず身を縮め
た。だがそれは降ってこない。ちらりと上を盗み見た。グレイ・ビ
ーヴァーが、嚙んでいた獣脂をふたつに裂こうとしている。その一
片を、この自分にさしだそうとしている! いたって従順に、そし
ていくばくかの警戒心を持って、まずその獣脂のにおいを嗅ぎ、そ
れからそっと食べだした。こいつに肉を持ってきてやれ、グレイ・
ビーヴァーがそう命じて、彼がそれを食べているあいだ、ほかの犬
どもからまも護ってくれた。食べおえたホワイト・ファングは、感謝と
満足感にひたりながら、グレイ・ビーヴァーの足もとに身を横たえ
ると、自分を温めてくれる火を見つめて、まばたきし、うとうとし
た。あしたには、荒涼たる森林地帯をみじめにさまよい歩くのでは
なく、人間動物のキャンプで、神々とともに──いまやその手にこの
身をゆだね、ついに全面的に依存することとなった神々とともに──
過ごす自分がいるだろう、そう考えて、そのことに安堵しながら。
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盟約
十二月にはいってしばらくたつと、グレイ・ビーヴァーはマッケ
ンジー川をさかのぼる旅に出た。ミト=サーとクルー=クーチも同
行した。一台の橇をグレイ・ビーヴァーが自ら御し、それを、物々
交換するか、借り受けるかした犬たちにひかせた。二台めのやや小
型の橇は、ミト=サーが御し、これには若犬たちのチームがつなが
れた。いわばほんのままごとのようなものだが、それでもミト=サ
ーはこれを、一人前の男として世に出る手はじめと受け取って、満
足していた。もうひとつ、犬を御したり、犬を調教したりすること
も彼は学びはじめていて、かたや若犬たちのほうも、引き革に慣れ
る訓練をされているところだった。さらに、この程度の橇でも、多
少は旅の役に立った。小さくとも、二百ポンド近い装備や食糧を運
ぶことができたからだ。
ホワイト・ファングは、キャンプで犬たちが橇引きの仕事に使わ
れているのを見ていたので、はじめて自分に引き具がつけられたと
きにも、さほど不快には思わなかった。まず、なかに苔を詰めた首
輪が首に巻かれ、この首輪と、胸から背へとまわした一本の革帯と
が、二本の引き革でつながれる。さらに、その革帯に長いロープが
結びつけられ、このロープで橇をひっぱるのである。
チームを構成するのは、七匹の若犬だった。ほかの犬たちは、い
ずれもこの年の早い時期に生まれていて、現在九ないし十カ月には
なっていたが、ホワイト・ファングだけは、やっと八カ月になった
ばかりだった。犬たちは一匹ずつ一本のロープで橇につながれた。
ロープはどれも長さが異なり、おなじ長さのは二本となかったし、
それぞれの長さのあいだには、すくなくとも犬の体長以上の差があ
った。そしてそれらのロープがすべて、橇の前端にあるひとつの輪
ト ボ ガ ン
に結ばれている。橇そのものは、樺の木の樹皮でできた小型の橇
で、滑走板はなく、先端は雪にめりこまないよう、上向きに巻きあ
がった形をしている。これは、橇本体と積み荷との重みを、最大
限、広い範囲に分散するための構造だが、それというのも、この土
地の雪はさらさらした粉雪で、非常にやわらかいからだ。この、重
みを最大限に分散するという原理を維持するため、それぞれのロー
プの先端にいる犬たちも、橇の前端から扇形にひろがる隊形で走る
ようになっていて、そのためどの犬も、先行する犬の足跡に踏みこ
むおそれはない。
いまひとつ、この隊形にはべつの利点もあった。ロープの長さが
それぞれ異なるので、後ろの犬が先行する犬に攻撃をしかけるのを
予防できるのだ。ほかの犬を攻撃しようとすれば、いやでも後ろを
向いて、自分よりも短いロープの犬を標的にするしかないのだが、
そうすると、狙う相手と正面から向かいあうことになるし、そのう
え、御者とも正対することになる。とはいうものの、なんといって
もこのやりかたのもっとも奇妙な利点は、ある犬が先行する犬を攻
撃しようと躍起になれば、それだけ速く橇をひかねばならないし、
橇が速く走れば走るほど、攻撃される犬も速く逃げることができる
ということだ。かくして、後ろを走る犬は、前を行く犬には永久に
追いつけないことになる。彼が速く走れば走るほど、彼が追いかけ
る犬も速く走り、チームの犬全体も、それにつれて速く走る。つい
でに橇もそれだけ速く走るというわけで、こういう間接的ながら狡
猾なやりかたで、人間は動物たちにたいする支配力を強めているの
である。
ミト=サーも父親に似て、こうした抜け目のない知恵をあまた身
につけていた。かつて彼は、リップ=リップがホワイト・ファング
を迫害するのをずっと見ていたが、その当時は、リップ=リップが
他人の犬だったので、遠慮して、ときたま石をぶつけるぐらいがせ
きのやまだった。けれどもいまは、そのリップ=リップが自分の犬
になったのだから、いまこそチャンスだとばかりに、報復として彼
をいちばん長いロープにつないだ。これでリップ=リップは先導犬
となり、うわべは名誉ある地位についたかに見えたが、実際には、

これがかえって彼からあらゆる重みを剝ぎとり、いままでのように
群れの頭株として、ガキ大将として威張っていられるどころか、群
れのみんなから憎まれ、目のかたきにされる存在に成りさがってし
まったのだった。
彼はつねに最長のロープの先端を走っているから、群れの犬たち
からは、彼がたえず自分たちの前から逃げてゆくように見える。彼
らに見えるのは、リップ=リップのふさふさした尾と、走り去る後
ろ脚だけ──たてがみのように逆だった首毛や、白くきらめく牙など
とくらべて、これらはとうてい勇猛にも、威嚇的にも見えない。も
うひとつ、犬はもともと心理的にそう生まれついているのだが、彼
が走り去る姿を見れば追いかけたくなるし、彼が自分たちから逃げ
てゆくという感情をいだきもする。
橇が動きだすやいなや、チームの犬たちはリップ=リップを追い
かけはじめ、その追いかけっこは、一日の旅が終わるまでつづい
た。はじめのうちは彼も、なにかといえば向きを変えて、追跡者ど
もに向かってゆこうとした。腹もたてていたし、威厳を失うまいと
して懸命だったからでもあるが、そのたびにミト=サーの鞭──カリ
ブーの腸でつくった長さ三十フィートの鞭──が飛んで、顔面に突き
刺さるような痛撃を加えてくるので、やむなくまた向きを変えて、
走りつづけねばならない。犬たちの群れを相手なら、リップ=リッ
プにもそれなりに対抗できたかもしれないが、ミト=サーの鞭には
とても対抗できず、結局のところ、彼に残された手段と言えば、せ
いいっぱい自分のロープをぴんと張って、脇腹が仲間たちの牙から
できるだけ遠のくようにする、それぐらいのことしかないのだ。
かんけい
ところが、それよりもまた一段と大きな奸計が、ミト=サーの心
底にはひそんでいたのだった。先導犬をどこまでも追いかけるとい
う群れの習性、これをいっそう強力なものにしようと、リップ=リ
ひい き え こ
ップをほかの犬たち以上に
しっ と
贔屓してみせたのだ。こうした依怙贔屓
は、犬たちのあいだに嫉妬と憎悪を生んだ。彼らの面前で、ミト=
サーはリップ=リップに、ただリップ=リップにだけ、肉を与え
たけ
る。これは犬たちを気も狂わんばかりに猛りたたせる。いきりたっ
た彼らが、わずかに鞭の届かないあたりをうろうろしているのを尻
目に、リップ=リップは与えられた肉をむさぼり食い、そのあいだ
ミト=サーは、彼を護ってやる。また、ときとして与える肉がない
ようなときにも、ミト=サーはチームの犬たちを遠くへ追っぱらっ
ておいて、リップ=リップにだけ肉を与えるようなふりをしてみせ
るのだ。
ホワイト・ファングは、仕事になじんでいった。神々の支配に身
をゆだねるという点では、ほかの犬たちよりも長い道のりを経てき
ていたし、神々の意志に歯向かうことの無益さも、いっそう強く肝
に銘じていた。加えて、これまで群れの犬たちからけちないじめを
受けてきた結果、ものの道理として、彼らは彼の目に卑小な存在と
して映り、逆に人間はより大きく、すぐれた存在として映ってい
た。いままで生きてくるあいだも、同類との結びつきに頼るという
ことなど、ついぞ学んではこなかった。のみならず、母キチーのこ

とも、すでにほとんど忘れ去られ、彼に残された感情表現の捌け口
は、自ら主人として受け入れた神々に、忠節を尽くすということし
かなかった。それだから、彼は懸命に働き、規律を学び、あくまで
も従順にふるまった。忠実であり、そして意欲的であること、これ
らが彼の働きぶりを特徴づけていた。じつのところこのふたつは、
狼および飼い馴らされた野生犬の本質的な特質であり、そしてホワ
イト・ファングもこれらの特質を、じゅうぶんすぎるほどにそなえ
ていたのである。
ホワイト・ファングと他の犬たちとのあいだには、たしかにひと
つの結びつきが存在しはしたが、しかしそれは、もっぱら争いと敵
意だけの結びつきだった。彼らと遊び友達になろう、などとは夢に
も思わなかった。彼の知っているのはただひとつ、いかに闘うかと
いうことだけ、そしてその闘いかたを用いて彼らと闘って、リップ
=リップが群れのリーダーだった時代に受けた傷を、百倍もの咬み
傷や裂傷にしてお返ししてやった。けれどもリップ=リップは、も
はや彼らのリーダーではなかった──リーダーでいるのは、ロープに
つながれて仲間の前を逃げてゆき、橇が列の後方をがたがた揺れな
がらひかれてゆく、そのときだけだった。キャンプでは、たえずミ
ト=サーか、グレイ・ビーヴァーか、クルー=クーチかのそばにへ
ばりついていて、けっして神々から離れて独り歩きしようとはしな
かった。それというのもいまでは、犬たちすべての牙がもっぱら彼
に向けられてき、以前はホワイト・ファングが受けていた迫害の痛
みを、いまは彼自身が味わいつくしていたのだから。
リップ=リップの没落に伴って、もしもホワイト・ファングにそ
の気がありさえすれば、群れのリーダーになることもできたはずだ
った。だが彼は、その役目には気むずかしすぎたし、孤独癖が強す
ぎもした。チームの犬たちは、彼にとってはたんに打ち負かすだけ
の対象でしかなかった。でなければ、無視するだけの対象か。彼が
近づいてくると、彼らは道をあけたし、群れのなかでいちばん大胆
なやつでも、彼から肉を盗んだりするような勇気はなかった。それ
どころか彼らは、自分に与えられた肉を大あわてで丸飲みにした。
き ぐ
ホワイト・ファングに奪われはしないかと危惧してのことだ。ホワ
イト・ファングは例の、「弱きをくじき、強きにはしたがえ」とい
う掟を肝に銘じていた。自分の肉の分け前は、いつもできるだけ速
くたいらげた。もしもそのときに、まだ食べおえていない犬がいれ
ば、その犬こそ災いなるかな! 一声うなる、牙をひらめかせる──
そしてその不運な犬は、自分の割り当て分をホワイト・ファングが
たいらげているあいだ、よそながら悲憤の叫びをあげつづけること
になる。
それでも、ときたまどの犬かが怒りを爆発させ、反抗に出ること
もあったが、しかしその抵抗も、たちどころにおさえこまれた。こ
うしてホワイト・ファングは、他の犬とは没交渉に訓練を積んでい
った。群れのなかでも、ずっと独りでいることにこだわり、その独
立を維持するためになら、しばしば闘うことも辞さなかった。とは
いえそういう闘いも、長くつづくことはない。彼が敏捷すぎて、ほ
かの犬には太刀打ちできないからだ。なにが起きたのかものみこめ
ずにいるうちに、どこかを咬み裂かれて、血を流していたり、闘い
が始まるか始まらないかの段階で、早くも徹底的に打ちのめされて
いたりする。
橇をひくことについての神々の規律はきびしかったが、ホワイ
ト・ファングが仲間の犬たちに守らせようとする規律も、それに劣
らずきびしかった。彼らにはどんな自由も許さず、いっぽう自分に
たいしては、揺るぎない敬意を払うよう強要した。仲間同士でな
ら、なんでも好きなようにすればよい。それは自分の関心事ではな
﹅ ﹅ ﹅
い。半面、自分のかかわっているところでは、自分を独りにして、
よけいな干渉はしないこと、自分が彼らのなかを歩こうと決めたと
きには、道をあけること、そしてどんなときにも彼らにたいする自
﹅ ﹅ ﹅
分の支配を認めること、すべてが大きな関心事となる。すこしでも
彼の前で脚をつっぱらせたり、くちびるをめくりあげたり、首毛を
逆だててみせたりしようものなら、その場でとびかかられて、容赦
のない、残忍な仕置きを食らい、たちまちのうちに、自分たちの流
儀がまちがっていたと思い知らされるのだ。
彼は途方もない暴君だった。その支配は、鋼鉄さながらにきびし
く、妥協のないものだった。彼は徹底的に弱きをくじいた。仔狼時
代に、生きるための無慈悲な闘いにさらされたことは、無駄にはな
らなかった。当時は、母子二頭だけで、だれの助けも得られず、
〈荒野〉の非情な環境のなかでがんばりぬき、生きのびてゆかねば
ならなかったのだ。また、自分よりも力の勝ったものがそばを通る
ときには、こちらはそっと足音を忍ばせて歩くことを覚えたのも、
やはり無駄にはならなかった。彼は弱きをくじいたが、反面、強い
ものはどこまでも尊重した。だから、グレイ・ビーヴァーとの長途
の旅のあいだも、途中で出あった見知らぬ人間動物のキャンプで
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
は、そこで暮らすおとなの犬たちのなかを通るのに、まさしく足音
を忍ばせて歩くのだった。
何カ月かが過ぎた。それでもまだグレイ・ビーヴァーの旅はつづ
いた。長旅と、絶えざる橇引きの労苦により、ホワイト・ファング
の体力は一段と増し、さらに精神的な面でも、もうほとんど完全な
発達を遂げていた。自分の置かれている世界のありようを、かなり
なところまで知るようにもなったが、その世界観は暗く冷えびえと
して、とことん唯物的だった。彼の目に映る世界は、きびしく情け
容赦のない世界、温かみのない世界であり、愛撫とか、情愛とか、
明るい心のやさしさとかは、これっぽっちも存在しない世界だっ
た。
グレイ・ビーヴァーにも、彼は情愛などいだいてはいなかった。
たしかにグレイ・ビーヴァーは神ではあるが、神としてもまことに
非情な神だった。ホワイト・ファングも、彼の支配を認めるのにや
ぶさかではなかったが、その支配は、優越した知力と暴力にもとづ
くものだった。じつはホワイト・ファングのなかにも、こうした支
配を望ましいものとするなにかがあった。そうでなければ、あのと
き〈荒野〉からもどってきて、グレイ・ビーヴァーの前にひれ伏し
たりすることはなかったろう。彼の持って生まれた気性の奥底に
なんぴと
は、まだ何人もさぐったことのない領域があった。もしもグレイ・
ビーヴァーのほうから、やさしい言葉のひとつもかけてやるなり、
愛撫してやるなりしていたなら、あるいはその奥底をさぐることも
できたかもしれない。だがグレイ・ビーヴァーは、愛撫すること
も、やさしい言葉をかけることもなかった。そういうのは、彼の流
儀ではないのだ。彼の第一義とするのは暴力であり、暴力でもって
支配し、棍棒でもって正義を行ない、殴打の痛みをもって命令違反
を罰した。そして功労に報いるのには、やさしく接するのではな
く、殴打を控えることをもってした。
というわけでホワイト・ファングは、人間の手のなかに隠されて
いるかもしれぬ天国のことなど、まるきり知らぬままに過ごしてき
た。だいいち、彼自身、人間動物の手が好きではなかった。それを
警戒していた。その手がときどき肉をくれるというのも事実だが、
それよりむしろ、痛みをもたらすほうが多い。手は基本的に敬遠す
べきものだった。それは石を投げる。棒切れや棍棒や鞭をふるう。
ぴしゃりと平手打ちをくれてきたり、殴ったりするし、珍しくその
手が体に触れてくるかと思えば、卑怯にもつねったり、ねじった
り、ひねりあげたり、いずれにしても痛みを与えてくるのだ。よそ
の村でも、何度か子供たちの手に出くわし、それらが容赦なくこち
らを痛めつけてくるのを思い知った。さらに一度は、あるよちよち
歩きの赤ん坊に、あやうく片目をえぐりだされそうになったことも
ある。こうしたさまざまな経験から、彼は子供という子供を警戒す
るようになった。子供には我慢できない。子供がその忌まわしい手
をひろげて近づいてくると、すっと腰をあげて、立ち去ることにし
ている。
グレートスレーヴ・レークのほとりの、とある村でのことだっ
あくらつ
た。人間動物の手の悪辣さに、ほとほと嫌気がさしていたおりもお
り、彼はかねてグレイ・ビーヴァーから教えこまれていた掟を、部
分修正する必要に迫られた。その掟とはつまり、神々を咬むことは
許しがたい大罪である、というものだ。この村で、ある日ホワイ
ト・ファングは、どの村でも犬たちみんながやっている習慣にのっ
とり、自ら餌をあさりに出かけた。たまたまひとりの少年が、凍っ
おの
たムースの肉を斧でたたき切っているところで、細かな肉の切れ端
が、雪上に飛び散っていた。餌をもとめてすべるように通りかかっ
たホワイト・ファングは、立ち止まって、散らばった切れ端を食べ
はじめた。少年が手にした斧を置き、かわりに太い棍棒をとりあげ
るのが見えた。棍棒の一撃が降ってくる寸前に、かろうじて跳びす
さって、それをよけたが、少年はなおもあとを追ってき、この村に
は不案内なホワイト・ファングは、ふたつのティピーのあいだに逃
げこんでみたものの、気がつけば、行く手をさえぎる高い土手のす
ぐきわまで、追いつめられてしまっていた。
こうなると、どこにも逃げ場がなかった。逃げ道はふたつのティ
ピーのあいだにしかないが、そこは少年にふさがれている。少年は
棍棒を高々とかざして、追いつめられた標的に迫ってきた。ホワイ
ト・ファングは、猛然と腹がたってきた。首毛を逆だて、猛々しく
うなりながら、迫ってくる少年に正面から立ち向かった。かねて持
っていた正義の観念が踏みにじられたのだ。餌をあさるさいの掟な
ら心得ている。いま見つけた凍った切れ端もそうだが、その種のく
ず肉は、すべて発見した犬のものと決まっているのだ。こちらはな
にも悪いことはしていない。掟破りも冒していない。なのに少年
は、いまにもこの自分に懲罰を加えようという構えだ。そのあとな
にが起きたのか、ホワイト・ファング自身にもよくわからなかっ
た。怒りにかられて、とっさにそうしただけのことで、しかもそれ
が電光石火の早業だったから、やられた少年のほうも、なにが起き
たのかわからなかった。気がつくと、なぜか雪の上に仰向けにころ
がされ、棍棒を握った手は、ホワイト・ファングの牙でざっくり咬
み裂かれていた。
それでもやがてホワイト・ファングは気がついた──自分は神々の
掟を破ってしまった。神々のひとりの聖なる肉体に、牙を突きたて
てしまった。こうなればもはや、もっとも恐ろしい罰を覚悟するし
かない。一目散にグレイ・ビーヴァーのもとへと逃げ帰り、咬まれ
た少年とその家族が押しかけてきて、そいつに仕返しさせろと迫っ
たときには、庇護をもとめて主人の脚の後ろにうずくまった。とこ
ろが、報復を要求して乗りこんできた少年一家は、それが果たせぬ
ままに引き揚げていった。主人がホワイト・ファングをかばってく
れたのだ。ミト=サーやクルー=クーチもかばってくれた。激しい
言葉のやりとりを聞き、腹だたしげな身ぶりを見まもっているうち
に、ホワイト・ファングにも、自分のしたことが正当と認められた
のがわかった。こうして彼は知ったのだ──神々にも、あんな神々、
こんな神々、いろいろあることを。こちらに自分の神々がいれば、
あちらにはほかの神々もいて、両者のあいだには、おのずからなる
ちがいがある。正当であれ、不当であれ、自分の立場からはすべて
おなじこと、自分の神々の手から与えられるものは、なんであれ受
け取らねばならない。とはいえ、ほかの神々から、無理に不正を押
しつけられるつもりもない。気に入らなければ、牙でその気持ちを
あらわす、それはこの自分の特権なのだ。そしてこのこともまた、
神々の掟のひとつなのである。
その日が暮れないうちに、ホワイト・ファングはこの掟につい
て、さらに多くを学ぶことになった。単身、森のなかで焚き木を集
めていたミト=サーが、あの咬まれた少年に出くわしたのだ。先方
は仲間の少年たちもいっしょだった。激しいやりとりがとびかい、
そのうち、向こうはいっせいにミト=サーに襲いかかってきた。ミ
ト=サーには不利な状況だ。四方八方から、殴打の雨が浴びせられ
る。はじめのうち、ホワイト・ファングは傍観していた。これは
神々の争いであって、自分の知ったことではない。ところがやが
て、痛い目にあっているのはほかならぬミト=サーである、この自
分の特別な神々のひとりであると気づいた。そこで彼が起こした行
動、それはなんら筋の通った衝動によるものではなかった。ふいに
狂おしいほどの怒りがこみあげてきて、夢中で乱戦のただなかにと
びこんでいっただけだ。五分後には、蜘蛛の子を散らすように逃げ
てゆく少年たちの姿が、周囲いたるところに見られたが、その多く
は、鮮血を雪にしたたらせていて、ホワイト・ファングの牙が、け
っして遊んではいなかったことを物語っていた。キャンプにもどっ
て、その一部始終をミト=サーが語って聞かせると、グレイ・ビー
ヴァーはホワイト・ファングに肉をやるように指示した。食べきれ
ぬほどの肉を与えるように指示し、それをたいらげたあと、焚き火
のそばでうとうとしながら、ホワイト・ファングは、掟の正しさが
受け入れられたことを感じとっていた。
このときの体験を通じて、ホワイト・ファングはさらに、私的な
財産という法則を知り、その財産を護る義務についても認識するに
いたった。おのれの神々の体を護ることに始まり、その神の所有物
を護ることにいたる、ここまではほんの小さな一歩であり、その一
歩を彼は進んだのだ。おのれの神々の所有するものは、全世界を敵
にまわしてでも護らねばならない──たとえそれが、他の神々を咬む
ことをすら意味したとしても。神々を咬むというのは、それ自体、
ぼうとく
神聖冒瀆の罪にあたるだけでなく、かなりの危険をもはらんでい
る。神々は全能であり、犬はとうてい彼らの敵ではない。にもかか
わらずホワイト・ファングは、敢然と彼らに立ち向かい、獰猛かつ
意気盛んに闘うことを覚えた。義務感が恐怖をうわまわったのだ。
そして盗みを働く神々も、グレイ・ビーヴァーの財産にだけは、手
を出さぬほうがよいと思い知ったのだった。
これに関連して、いまひとつホワイト・ファングが迅速に学習し
たことがある。それは、盗みを働く神は、通常、臆病な神であり、
こちらが警告を発するだけで、逃げだす傾向が強いということだ。
また、自分が警告を発すれば、時を移さずグレイ・ビーヴァーが応
援に駆けつけてくれる、このことも学んだ。さらに、泥棒が逃げだ
すのは、この自分を恐れるからではなく、グレイ・ビーヴァーを恐
れるからだということもわかってきた。彼は吠えることで警告を発
するのではなかった。吠えることはけっしてしなかった。ではどう
するか。ただまっしぐらに侵入者にとびかかってゆき、そしてもし
可能なら、そいつに牙を突きたてる。もともと気むずかしく、孤独
癖があり、ほかの犬とはいっさいかかわりを持たぬ彼のことだか
ら、主人の財産を護るのにはうってつけだったし、グレイ・ビーヴ
ァーもそれを見込んで彼を励まし、訓練したのだった。もっとも、
その結果のひとつとして、ホワイト・ファングはなおいっそう猛悪
に、意地っ張りになってゆき、それゆえまた一段と孤立を深めたの
だったが。
何カ月かが過ぎるうちに、この犬と人間とのあいだの盟約は、い
よいよ強く、強くなりまさっていった。これは、かつて〈荒野〉か
らやってきた最初の狼が、人間とのあいだに結んだ古い盟約だった
が、その後につづいた狼や野生犬たちも例外なくそうしてきたよう
に、ホワイト・ファングもまた、その盟約の条件をきちんと果たし
ていた。その条件とは、いたってシンプルなものだった。生身の神
の所有物として庇護を受けるかわりに、おのれの自由を譲りわたす
というものだ。食べ物と、暖かい火、保護と、そして心のつなが
り、これらが彼の神から受け取るものだった。そのかわりに彼は、
神の財産を護り、神の体を警護し、神のために働き、そして神に服
従する。
神の所有物であるということは、すなわち神に奉仕することを意
味する。ホワイト・ファングの場合、その奉仕は義務感と畏怖から
きたもので、愛情からきたものではない。愛のなんたるかを彼は知
らなかった。愛を経験したこともなかった。母キチーは、すでに遠
い記憶となっている。のみならず、かつて自らの意志で人間に身を
ゆだねたとき、彼は〈荒野〉や同族の狼たちを見捨てたばかりでな
く、それが盟約の条件をも、自動的に決定してしまったのだ──かり
にいつかキチーと再会することがあったとしても、けっして神を見
捨てて、母とともに去ることはしない、という条件を。どうやら彼
の人間にたいする忠節は、自由への愛や、同族、近親への愛をもう
わまわる、彼の生きるうえでの掟のようにも思われるのだった。
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凶荒
その年の春も間近になったころ、ようやくグレイ・ビーヴァーは
その長旅を終えた。四月のことで、ちょうど一歳になったホワイ
ト・ファングは、こうしてふるさとの村に帰り着き、ミト=サーの
手で引き革をはずしてもらった。まだ完全な一人前というには程遠
かったが、それでもリップ=リップに次いで、村では二番めに大き
な一年仔だった。父である狼と、母のキチーとの両方から、その体
長と力を受け継ぎ、すでにして、成熟した犬と並んでも、見た目は
けっしてひけをとらなかった。けれどもその体は、まだがっちりと
引き締まってはいなかった。見るからにほっそりして、四肢はひょ
ろ長く、力も屈強さというよりは、むしろ柔軟さを感じさせた。毛
色は狼本来の灰色で、どこから見ても、百パーセントの狼そのもの
だった。キチーから四分の一だけ受け継いだはずの犬の血は、身体
面にはなんの痕跡も残していなかったが、それでも、精神構造の面
では、それなりの役割を果たしているのだった。
彼は村のなかをとくに目的もなくぶらついて、長旅に出る以前に
見知っていたあの神、この神を認めては、それとない満足感にひた
った。つづいて、犬たちにも出あった──自分とおなじくらいに成長
した若犬たち、そして記憶のなかに焼きつけられているほどには大
きくも見えず、威圧的にも見えない成犬たち。ついでに言えば、以
前ほどには彼らを畏怖する気持ちもなくなっていたので、彼らのあ
いだをある程度は無造作に、平然たる足どりで通り抜けたが、これ
は、これまでにない新たな経験であり、楽しくもあった。
犬たちのなかに、毛並みに白いもののめだつバシークという老犬
がいて、かつて若かりしころには、たんに牙をむきだしてみせるだ
けで、ホワイト・ファングなどはたちまち恐れおののき、退散した
ものだった。このバシークから、自分がいかにとるにたらぬ存在で
あるかを、ホワイト・ファングはぞんぶんに思い知らされたものだ
が、おなじバシークからいまは、自分自身のなかで起きた変化と成
長のほどを、これまたぞんぶんに思い知らされることになった。バ
シークは年齢とともに弱くなってきているのにたいし、自分は逆に
若さによって、どんどん強くなりつつあるのだから。
ホワイト・ファングが犬の世界における自分の立ち位置の変化に
気づいたのは、仕留めたばかりのムースが解体されているさいちゅ
けいこつ
うだった。切り分けられたなかから、彼は蹄一個と、脛骨一本を自
分の取り分として確保したが、この骨にはまだかなりの肉が残って
いた。ほかの犬どもはすぐさま奪い合いを始めたが、その乱闘から
は身をひいて──じつをいえば、とある茂みに身を隠して──獲得し
た獲物をむさぼり食っているとき、いきなり横合いから襲いかかっ
てきたのがバシークだった。自分でもどう反応したのか自覚せぬま
まに、ホワイト・ファングは、二度くりかえしてこのちん闖にゅう
入 しゃ者を咬み
裂き、すばやく跳びのいていた。思いがけないこの反撃の無謀さと
俊敏さに、不意を打たれたバシークは、生の、赤い血のしたたる脛
骨を前に、呆然と立ちつくして、ホワイト・ファングを見つめるば
かりだった。
バシークは年をとってきて、これまでよくいじめてきた犬たち
が、なにかにつけて自分に不遜な態度をとりだしたことにも、すで
に気づいていた。やむをえず、こうした苦い経験をもぐっと飲みこ
み、年の功をせいいっぱい活用して、彼らに対抗しているのが現状
であり、これがむかしであれば、正当な怒りに燃えて、有無をいわ
さずホワイト・ファングにとびかかっていったところなのに、あい
にく、力の衰えを自覚しはじめたいまでは、そんな行動にも出られ
ない。せいぜい恐ろしげに首毛を逆だて、脛骨ごしにいかめしくホ
にら
ワイト・ファングを睨み据えるぐらいしかなかったが、意外にもホ
ワイト・ファングのほうは、これでかつての畏怖の念が一気によみ
がえってきたのか、ひるんで、しりごみしながら、なんとかあまり
不名誉でない撤退の途はないものかと考えあぐね、そのせいか、体
つきまで小さくなってしまったようだった。
だが、ここでバシークが誤りを犯した。そのままいかにも恐ろし
けんのん ぎょうそう
げな、剣呑な形 相を保つだけで満足していれば、すべては無事に終
わっていただろう。退却する瀬戸ぎわまできていたホワイト・ファ
ングも、肉を相手の前に残したまま、退却していただろう。ところ
がバシークは待てなかった。すでに勝利は手中にしたつもりで、肉
のほうへずいと歩み寄った。頭をさげて、無造作にそのにおいを嗅
ごうとしたとき、ホワイト・ファングの首毛がわずかに逆だった。
まだこのときでも、バシークが事態を好転させるのに遅すぎること
はなかった。たんに肉のそばに立ちはだかって、きっと頭をもた
げ、睨みつけていさえすれば、最後にはホワイト・ファングも、こ
そこそと退散していたはずだ。ところが、新鮮な肉のにおいに強く
鼻孔を刺激され、全身が欲望に衝き動かされて、とうとうバシーク
はそれを一口、口にしてしまったのだ。
これは、ホワイト・ファングにも我慢の限界を超えていた。過去
何カ月か、チームの犬たちを実力で支配してきた彼としては、いま
さらここで、自分のものである肉をほかの犬にむさぼり食われて、
黙ってひきさがるわけにはいかない。だから、攻撃した──狼本来の
習性にしたがって、いっさい警告なしに。最初の一撃で、バシーク
の右耳がずたずたになった。不意打ちを食らって、バシークは呆然
とした。が、それだけではすまなかった。それに劣らぬ唐突さで、
さらに多くの、残忍このうえない攻撃がたてつづけに襲ってきたの
だ。彼は突きころばされた。喉に咬みつかれた。立ちあがろうとも
がいているうちに、相手の若犬は二度も肩に牙を突きたててきた。
その俊敏さたるや、ただとまどうしかない。それでもむなしく反撃
を試みたが、こちらの怒りの牙は、かちりと空を嚙んだだけ。と思
ったつぎの瞬間には、鼻を咬み裂かれて、よろよろと肉の前からひ
きさがるしかなかった。
いまや形勢は逆転した。ホワイト・ファングが脛骨のそばに立ち
はだかり、首毛を逆だてて、睨みを利かせるいっぽう、バシークの
ほうは、やや離れて立ち、いまにも退却しようという構えだ。いま
さらこの若い稲妻野郎に闘いをいどんでゆくだけの勇気もなく、こ
こでまたしてもバシークは、自分の老いを、寄る年波からくる衰え
を、いっそう痛切に思い知らされることになった。威厳を保とうと
する彼の試みは、悲壮なものだった。泰然として、若犬と、そして
脛骨とに背を向けると、まるでそんなものはもともと眼中にない
し、考慮にあたいするものでもないと言いたげに、堂々たる足どり
で歩み去った。立ち止まって、血の流れる傷口をなめたのも、相手
しりぞ
には見えないところまで退いてからのことだった。
この一件がホワイト・ファングに及ぼした影響、それは彼がいよ
いよ自信をつけ、自分に大きな誇りをいだくようになったことだっ
た。おとなの犬たちの前でも、以前ほど足音を忍ばせて歩くことは
なくなり、彼らにたいする態度も、これまでほどに屈従いっぽうで
はなくなった。べつに自分からトラブルをもとめて歩くというので
はない。けっしてそうではないのだが、しかし、自分の流儀を尊重
してもらうことは、あくまでも要求した。だれにも妨げられずにわ
が道を行き、ほかのどの犬にも先を譲らない権利。要するに、自分
を尊重してもらいたい、それだけだ。これ以上、他の多くの若犬た
ちのように──そしてこれは、橇引きチームの仲間たちについてもあ
てはまることだったが──軽視されたり、無視されたりするのは許せ
ない。若犬たちはおとなたちの前で道をよけ、何事もおとなたちに
先を譲り、強いられれば自分の肉を譲ることもする。だがホワイ
ト・ファングはちがう。つきあいにくく、孤独癖があり、気むずか
しくて、ほとんど左右に目を向けることもなく、こわもてで、態度
は近寄りがたく、よそよそしく、異質な存在であるホワイト・ファ
ング、彼だけは、年長の犬たちも、首をひねりつつも対等に扱って
いる。彼のことはほうっておくのがよい──このことはだれもがすぐ
に思い知ったから、敵対行動を起こすこともなければ、わざわざ親
しげに近づいてゆくこともしない。こちらが彼に干渉しなければ、
向こうもこちらに干渉することはない──この原則が、何度かの小さ
な衝突のあと、すこぶる好ましい状態として広く受け入れられるこ
ととなった。
夏の盛りに、ホワイト・ファングはある経験をした。いつものよ
うに音もなく小走りに走って、しばらくハンターたちとムースを追
う旅に出ているあいだに建てられた、村はずれの新しいティピーを
検分しにいったのだが、そこでばったりキチーと出くわしたのだ。
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
立ち止まった彼は、じっと彼女を見た。彼女のことはたしかに覚え
ていたが、それでも記憶はおぼろげだった。ところが彼女の側は、
覚えていないどころではなかった。彼にたいしてくちびるをめくり
あげ、威嚇のうなり声をあげたのだ。聞き覚えのあるその声を耳に
して、記憶が急にはっきりしてきた。忘れていた仔狼のころの記憶
──すべてはその聞き慣れたうなり声と結びついている記憶──それ
がいちどきにどっとよみがえってきた。まだ神々を知らなかったあ
のころ、彼にとって彼女は宇宙の中心だった。そのころの古くなつ
かしい感情がよみがえり、滔々と身内にふくれあがってきた。喜び
勇んで、跳ねるように彼女のほうへ駆けていったが、そんな彼を、
彼女は鋭い牙で迎え、いきなり頰を骨まで見えるほど深く咬み裂い
た。彼はわけがわからなかった。とまどい、途方に暮れて、たじた
じとあとずさりした。
とはいえこれは、あながちキチーの罪ではない。狼の母親という
のは、一年かそれ以上も前の仔狼のことなど、覚えていないように
できているのだ。だから彼女も、ホワイト・ファングのことは覚え
ていなかった。彼はあくまでも見慣れぬ雄であり、侵入者にほかな
らない。しかも彼女には、いままた一腹の仔がいて、そういう立場
の母親として、よそものの侵入を嫌うのは当然のことなのである。
その仔のうちの一匹が、ホワイト・ファングの足もとに這い寄っ
てきた。異父兄弟同士なのだが、そんなことはどちらも知らない。
ホワイト・ファングが好奇心からその仔のにおいを嗅ぐと、たちま
ちキチーが矢のように走り寄ってきて、もう一度、彼の顔に咬みつ
いた。彼はさらに遠くへあとずさった。たったいまよみがえってき
た古い記憶や連想は、ここでふたたび命を失い、もとの墓のなかへ
と消えていった。彼はキチーのようすをながめた。しきりに仔犬た
ちをなめてやりながら、あいまにときどき顔をあげて、こちらにむ
かってうなってみせる。もはや彼女は、彼にとってなんの値打ちも
ない。彼女なしでやってゆくことを、とうに習得していたはずの彼
ではなかったか。彼女の存在する意味は、すでに忘れ去られた。彼
の生きてゆく仕組みのなかに、彼女のはいる余地はどこにもない。
彼女の生きている仕組みのなかに、彼のはいる余地がないのとおな
じように。
それでも彼は、しばらくその場に立ちすくんでいた──呆然と、途
方に暮れて、いましがた思いだしたこともすっかり忘れ、いまのは
いったいなんだったのかと考えあぐねながら。と、そのとき、キチ
ーが三たび攻撃をかけてきた。自分の目に見える範囲から、完全に
彼を追い払ってしまうつもりなのだ。そしてホワイト・ファングの
ほうも、追い払われるままにその場を去った。この相手は、自分と
同類の雌である。雄は同類の雌と闘ってはならない、というのが彼
の同族の掟なのだ。こういう掟のことなど、彼はなにも知っている
わけではなかった。というのもそれは、一般概念でもなければ、こ
の世の経験を通じて身につける認識でもないからだ。彼がそれを知
ったのは、あるひそかな促しによって、ある種の本能的衝動によっ
てであった──彼を衝き動かして、夜空の月や星にむかって遠吠えの
声をあげさせたり、死や、〈未知なるもの〉を恐れさせたりする、
あの本能とおなじものである。
何カ月かが過ぎた。ホワイト・ファングは、一段と強く、たくま
しく、引き締まった体つきになり、いっぽう性格の面では、遺伝と
環境との設定した路線にそって発達していった。先祖から伝わった
遺伝は、生命のひとつの素材であり、いわば粘土にもたとえられる
だろう。それは多くの可能性を有し、あまたの異なった形態にかた
ちづくられうる。それにたいし、環境は、その粘土で原型をつく
り、それにある特定の形態を付与するのに役だつ。したがって、も
しもホワイト・ファングが人間の火のもとへやってこなかったとし
たら、その場合は〈荒野〉が彼を、一個の真性の狼につくりあげて
いただろう。ところが、神々が彼にそれとは異なる環境を与え、結
果として彼は、〝いくぶん狼っ気の強い犬〟にかたちづくられた。
といっても、あくまでも犬であって、狼そのものではない。
といった次第で、生まれ持った本性という粘土と、環境の然らし
むる圧力とによって、彼の性格は、刻々にある特定の形態へとかた
ちづくられていった。それからのがれるすべはなかった。彼はいよ
いよ気むずかしく、いよいよつきあいにくく、いよいよ孤高に、い
よいよ獰猛に育ってゆき、いっぽう周囲の犬たちも、そんな彼と角
つきあわせているよりは、友好関係を保っていたほうがよいという
事実を、いよいよ強く思い知らされることになった。そしてグレ
イ・ビーヴァーもまた、日ごとに彼をますます高く評価するように
なっていったのである。
見たところホワイト・ファング自身は、あらゆる資質の面で力を
つけてゆくいっぽうのように見えたが、そのじつ、たえずつきまと
ってくるひとつの弱点に悩まされていた。笑われることには我慢が
ならないということだ。人間たちの笑い声は、彼には忌み嫌うべき
ものにほかならなかった。彼自身のことでなければ、好きなだけ笑
うがよい。それは気にしない。しかし、笑いの矛先が自分に向けら
れたとたんに、彼はすさまじい憤怒に駆りたてられる。普段はいか
めしく、重々しく、陰気な彼が、いったん笑いを浴びせられるな
り、気も狂わんばかりに逆上する。それは彼を激怒させ、血迷わせ
て、何時間も悪鬼のごとき所業をつづけさせる。そんなときに、彼
の不興を買った犬こそ、いい災難というもの。といって、掟は重々
心得ているから、グレイ・ビーヴァーに八つ当たりすることだけは
しない。グレイ・ビーヴァーの背後には、棍棒と、そして神性とが
控えているのだから。けれども犬たちの背後にはなにもない。ある
のは空間、空き地だけであり、笑われたことに逆上したホワイト・
ファングが姿を見せると、その空き地へと彼らは逃げこむのであ
る。
ホワイト・ファングが生まれて三年めのこと、マッケンジー川流
き きん
域のインディアンたちを大飢饉が襲った。夏には魚がとれず、冬に
はカリブーの群れが例年通る道筋を変えた。ムースもめったに見か
けず、兎はほとんど姿を消し、彼らを狩って捕食する動物は、死滅
の一途をたどった。いつもの食糧供給の途が断たれ、飢えに衰弱し
た彼らは、同族同士でたがいに殺しあい、食いあった。生き長らえ
たのは、強いものだけだった。ホワイト・ファングの神々もまた、
狩猟によって生きるものたちだった。彼らのなかでも年老いたも
の、弱いものたちが、飢えて死んでいった。村には泣き叫ぶ声が響
きわたり、残った女たち、子供たちも、ずっと食べ物なしで過ごし
た。なけなしの食べ物が、ハンターたちの腹を多少なりとも満たす
ように、との配慮からだが、そのハンターたちもまた、瘦せこけ
て、目の落ちくぼんだ姿で、むなしく肉を追って森のなかを歩きま
わっているだけだった。
極限まで追いつめられた神々は、ついに、やわらかくなめしたモ
カシンやミトンの革まで食べるようになり、犬たちは犬たちで、背
中の引き革や、鞭の紐そのものを食いあさった。さらに、犬たちは
たがいに仲間を食いあい、人間たちもまた犬たちを食った。いちば
ん弱く、いちばん役に立たない犬が、最初に殺された。生き残って
いる犬たちは、そのようすを見て、事の次第をさとった。なかでも
もっとも大胆で、賢いやつが何匹か、いまや流血の場と化した神々
の火の周辺を離れ、森に逃げこんだが、彼らも結局はそこで飢餓に
倒れるか、狼に食われるかして命を落とした。
この悲惨な時期に、ホワイト・ファングもやはり逃げだして、森
に身を隠した。仔狼のころの修練のたまもので、彼はほかの犬より
はまだしも生存能力が高かった。とりわけ熟達していたのは、小さ
な生き物にそっと忍び寄る技術だった。何時間も、じっと物陰に身
をひそめたまま、用心ぶかい栗鼠の動きを逐一目で追い、いま体を
締めつけてくる飢餓感にも劣らぬ強い忍耐心をもって、ついに栗鼠
が勇を鼓して地上に降りてくるときを待つ。だが、そのときがきて
も、ホワイト・ファングはけっして早まらない。栗鼠が樹上に逃げ
もどるのより前に、確実に一撃を加えられる、その瞬間がくるまで
待ち受ける。それから、好機と見るや、閃光さながらに身をひそめ
ていた場所からとびだしてゆく。信じられぬくらい速いその灰色の
弾丸は、狙った的ならけっしてはずさない──たとえ逃げ足の速い栗
鼠であろうと、その攻撃をのがれられるほど速くはないのだ。
こうしてまんまと栗鼠を相手にした作戦は成功したが、あいに
く、彼らを餌食にして生きのび、さらに肥え太るのには、ひとつだ
け難点があった。栗鼠の数がそれには足りないのだ。となると、も
っと小さな生き物をあさることまで余儀なくさせられる。ときとし
て、飢餓感があまりにも堪えがたくなったときは、地中の穴からモ
リネズミをほじくりだすこともためらわなかったし、さらには、自
分とおなじく腹をすかせている、そして自分の何倍も凶猛なイタチ
を相手にまわして、一戦まじえることも辞さなかった。
飢えがいよいよ危機的段階まで達したとき、彼はふたたびこっそ
りと神々の火のもとへもどっていった。といっても、焚き火の場そ
のものに近づいたわけではない。近くの森にひそんで、発見される
のを避け、ときおり珍しく獲物が罠にかかったときなど、その獲物
を横どりする。一度はグレイ・ビーヴァーそのひとの罠から、兎を
頂戴したことさえある──衰弱して、息切れの激しいグレイ・ビーヴ
ァーが、よろめき、ふらつきながら森のなかををさまよい、あいま
にはたびたび腰をおろして休息をとる、その隙を狙ってのことだ。
ある日のこと、ホワイト・ファングは一頭の若い狼に遭遇した。
飢えのためにがりがりに瘦せ、骨ばった体には、ゆるんだ関節が浮
きだしている。もしも自分自身がそれほど飢えていなければ、ある
こう
いはホワイト・ファングもその狼と行をともにし、やがては野生の
きょうだいたちと同化する途をたどっていたかもしれない。だが実
状はそうではなかったから、彼はその場でその若狼を追いつめて、
殺し、餌食にしてしまった。
どうやら彼には運も味方しているようだった。いつの場合も、食
に窮して、いよいよ最後の土壇場までくると、必ずなにか獲物が見
つかるのだ。さらに言えば、飢えて弱りきっているときに、一度も
自分より大きな肉食動物には出くわさなかった、そういう幸運もあ
る。そんなわけで、一群れの飢えた狼が彼を見つけて、なだれを打
って突進してきたときでも、こちらはそれまで二日間かけてオオヤ
マネコを一匹たいらげ、力をつけていた矢先だった。狼の群れの追
跡は、執拗かつ苛烈だったが、彼らよりは栄養がよく、体力に勝っ
ている彼は、最後には彼らに走り勝った。いや、走り勝ったどころ
か、そのまま大きく迂回して、いまきた道へひきかえし、へとへと
になった追っ手のうちの一頭を、みごと血祭りにあげてやった。
それ以後は、その地方を離れ、旅に出た。めざすは、生まれ故郷
であるあの谷。そしてそこで、かつてのあの巣穴で、ふたたびキチ
ーにめぐりあった。彼女もまたむかしの癖で、住みにくい神々の火
のもとから逃亡し、仔を産むために、かつての隠れ家へともどって
いたのだ。ホワイト・ファングが行きあわせたとき、この一腹の仔
はもう一匹しか生き残っていなかったが、その一匹にしても、もは
や長くは生きられないことは目に見えていた。今回のような悲惨な
凶荒のなかで、幼い命が生き長らえられる見込みはほとんどない。
成長した息子を迎えたキチーの態度は、とうてい情愛あふれるな
どと言えるものではなかった。けれどもホワイト・ファングは意に
介さなかった。彼の成長は、とうに母親を追い越していた。だか
ら、すぐに見切りをつけて、母の巣穴に背を向けると、早足に流れ
をさかのぼっていった。流れの分岐点まできたところで、左へ道を
とり、やがてオオヤマネコの巣穴を見つけた──遠いむかし、母と協
力して闘った、あのオオヤマネコの残したものだ。いまは棲むもの
のないこの巣穴に落ち着いて、彼はまる一日の休息をとった。
凶荒もようやく終わりに近づいた初夏のころ、彼はリップ=リッ
プに出あった。リップ=リップもやはり森へ逃げてきて、どうにか
さんたん
惨憺たる命を食いつないできたらしい。このリップ=リップに出く
わしたのは、ホワイト・ファングにとっても、まったく予期せざる
偶然からだった。とある高い崖の下を、たがいに逆方向から駆けて
きて、ひとつの岩角を曲がったところで、ひょっこり鼻と鼻をつき
あわせたのだ。一瞬の驚きに立ちすくんだあと、双方ともに、警戒
心もあらわに相手を見やった。
ホワイト・ファングはこのとき、絶好調ともいうべき状態にあっ
た。好調な狩りがつづいて、ここ一週間というもの、食はじゅうぶ
ん足りていたし、とりわけ最後にたお斃した獲物など、腹がはちきれそ
うになるまで詰めこんでいた。だがそれでいて、リップ=リップを
目にしたとたんに、背筋の毛がいっせいにぞわぞわと逆だった。こ
れは意識せざる反応だった──過去においてはつねに、このリップ=
リップによるいじめや迫害がもたらす精神状態に伴って、肉体的に
もこの種の反応が起きたものだ。そんなときは、リップ=リップに
むかって首毛を逆だて、うなってみせるのがつねだったが、それと
おなじに、いままた彼は、反射的に首毛を逆だて、うなり声を発し
ていた。彼は一刻も時間を無駄にはしなかった。事は徹底的に、か
つ迅速に行なわれた。リップ=リップは後退しようと試みたが、ホ
ワイト・ファングはそのひまを与えず、肩と肩でぶつかっていっ
た。リップ=リップははねとばされ、仰向けにころがった。瘦せこ
けた喉首に、ホワイト・ファングの牙が突きたてられた。断末魔の
あ が
足搔きが始まったが、そのあいだホワイト・ファングは周囲をぐる
ぐるまわりながら、脚に力をこめ、警戒を怠らなかった。やがてす
べてが終わると、そこではじめてもとの進路にもどり、崖の根かた
を小走りに歩み去った。
それからまもないある日のこと、彼は森のはずれに出た。そこか
らは、マッケンジー川の流れへむけて、幅の狭い傾斜地がゆるやか
にくだっていっている。この土地へは、前にもきたことがあった。
そのときは裸地だったが、いまはそこに村ができている。なおも森
陰に身を隠しつつ、立ち止まって、状況を観察した。目に見える風
景、音、におい、すべてがなじみぶかいものだった。かつての村が
新たにこの場所に移動してきたのだ。とはいえ、目に見える風景
も、音も、においも、彼がここから逃げだしたとき、最後に目にし
た、聞いた、嗅いだものとは異なっている。いまここには、嘆く声
も、泣き叫ぶ声もない。耳にはいってくるのは、満足そうな物音だ
けだし、そのうち、女の怒った声も聞こえてきたが、それも彼に
は、満たされた胃袋から発せられるものだとわかる。しかも、空中
にただようのは魚のにおい。ああ、ここには食べ物がある。飢餓の
ときは去ったのだ。思いきって森陰から歩みでると、小走りにキャ
ンプに駆けこみ、まっすぐグレイ・ビーヴァーのティピーをめざし
た。グレイ・ビーヴァーはティピーにはいなかったが、クルー=ク
ーチが歓声をあげて迎えてくれたうえ、とれたての魚をまるごと一
匹さしだしてくれた。そしてホワイト・ファングは、ゆったり横た
わり、グレイ・ビーヴァーの帰りを待ちはじめた。

自分が他者より劣っていると意識されたことを、他の面を強調したり、べつの行動をとるこ
とで補おうとする心理作用。 (本文へ戻る)
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すぐれた神々
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同族の敵
かりにホワイト・ファングの本性のなかに、たとえどんなにわず
かであろうと、同族のものと親しくなれる可能性がそなわっていた
としても、そんな可能性は、彼が橇犬チームの先導犬にされたとき
に、とりかえしがつかぬまでに打ち砕かれてしまった。というの
も、いまや犬たちの憎しみは、彼の一身に集中するようになってい
たからだ。犬たちは、ミト=サーが彼にだけ余分な肉を与えること
で彼を憎み、彼が贔屓されている──ひがといっても、それには実質的な

贔屓もあれば、実質のない、いわば僻目から発したものもあるのだ
が──そう見なすことでも彼を憎み、さらに彼がつねにチームの先頭
に立って逃げてゆく立場で、そのふさふさした尾と、遠ざかってゆ
く後半身とが、のべつ後ろの犬たちの目ざわりになっている、その
ことでも彼を憎んだ。
それにたいしてホワイト・ファングのほうも、負けじと強烈な憎
しみを彼らにぶつけかえした。橇犬チームの先導犬になるのは、お
いやおう
よそ喜ばしいなどというものではない。否応なしに、後ろからぎゃ
んぎゃん吠えたてる犬どもの先頭を走らされる。しかもその犬たち
は、これまで三年間、彼が実力で打ち負かし、支配してきた連中な
のだから、そのいまいましさたるや、とても堪えられるものではな
い。だが、それでもここはじっと堪えねばならず、堪えられねば、
死ぬしかないのだ。そして彼の身内に息づく命は、死ぬことなど望
んではいない。というわけで、ミト=サーが出発の合図を発する瞬
間、その瞬間こそは、チームの犬たち全員が、勇みたって、凶暴な
叫びをあげながら、ホワイト・ファングめがけて突進を始める瞬間
となる。
彼にはそれにたいして身を護るすべがなかった。後ろを向き、彼
らに向かってゆこうとすれば、たちまちミト=サーの容赦のない鞭
の一撃が顔面をえぐる。となれば、残された途は、ただ逃げること
こうはんしん
だけ。尻尾と後半身だけでは、後ろでやかましく吠えたてる集団に
立ち向かってゆくことなどできない。情け容赦なく襲ってくる無数
の牙にたいして、これらはとうてい武器にはなりえないのだ。だか
ら、彼は逃げた──逃げる一足ごとに、持って生まれた本性と誇りと
を踏みにじられながら、それでもひたすら跳んで逃げ、一日じゅう
でも逃げつづける。
だれであれ、その本性から発した強い衝動を踏みにじられれば、
踏みにじられた本性は、必ずそれ自体のうえにはねかえってくる。
そうした跳ね返りは、いわば逆向きに生える毛のようなもので、自
然な生えかたに逆らって、体の内部へと食いこんでゆく──当然、ち
くちくしていらだたしいし、そのいらだたしさは、さらに心に食い
こみ、心をうずかせる。ホワイト・ファングの場合も、例外ではな
かった。身にそなわったあらゆる本能は、すぐ後ろで吠えたてる犬
どもにとびかかってゆけと強くうながしているのだが、そうしては
ならないというのが神々の意思なのだし、しかもその意思の背後に
は、それを強制するための道具──長さ三十フィートの、打たれると
食いこむように痛い、カリブーの腸でつくった鞭──が控えている。
というわけで、ホワイト・ファングとしては、ただひたすら悔しさ
に身を焦がしつつも、天性の獰猛さと負けじ魂とに釣りあうだけ
の、強い憎しみと敵意を育ててゆくしかない。
生き物として、本来の同族の敵になるというものがかりにもいる
とすれば、ホワイト・ファングがまさしくそれだった。同族に寛大
な扱いをもとめたこともなければ、それを与えたこともなかった。
同族の牙によって、たえず傷つけられ、満身創痍のありさまだった
が、自分からもたえず同族に傷を与え、牙の跡を残した。先導犬た
ちの多くは、キャンプが設営され、チームの犬たちが解き放たれる
と、庇護をもとめて神々のそばにすりよってゆく。ひきかえホワイ
ト・ファングは、そうした庇護をもとめるのをいさぎよ
潔 しとしない。大胆
にキャンプのなかを歩きまわり、日中にやられた分は、その夜のう
ちにきっと返礼をする。先導犬にされるまでは、群れの犬たちも彼
には近づかないことを心得ていたものだ。ところがいまや、事情は
一変した。犬たちは一日かけて彼を追跡したことで興奮している
し、その脳裏には、逃げてゆく彼の後ろ姿がくりかえし執拗に焼き
つけられていて、それが潜在意識を揺さぶる。きょう一日、ずっと
彼より優位に立ってきたという意識が強いから、いまさら彼に道を
譲る気になどなれないのだ。だから、彼が一同の前に姿を見せる
と、そこには必ずいがみあいが起こる。うなり声と、牙を嚙み鳴ら
す音、そして恐ろしげな咆哮、それらをずっと追ってゆけば、彼が
どこまで行ったかは見なくてもわかる。彼の呼吸する空気そのもの
に、憎しみと悪意とがみなぎっていて、そしてこのことがまた彼の
なかに、憎しみと悪意とをいっそうつのらせるだけなのである。
ミト=サーがチームの犬たちに停止の命令を発すると、ホワイ
ト・ファングはすぐにその命にしたがった。はじめのうちは、これ
がチームの犬たちに混乱をもたらした。犬たち全員が、さっそく憎
むべき先導犬に襲いかかってゆこうとするのだが、いつのまにか形
勢が逆転してしまっている。彼の後ろにはミト=サーが控えてい
て、その手のなかでは、太い鞭がびゅんびゅんうなりをあげている
のだ。これでやっと犬たちも、停止命令によって橇が停まったとき
には、ホワイト・ファングに手出しをしてはならぬということを会
得した。そのかわり、命令もないのにホワイト・ファングが停止し
たときは、寄ってたかって彼に襲いかかり、なんなら殺してしまっ
てもかまわない。こうして、何度かの苦い経験のあと、ホワイト・
ファングも、命令なしに停まることはけっしてしなくなった。彼は
急速に学習したのだ。いや、物事の当然の成り行きとして、急速に
学習せざるを得なかった──もしもいま自分に許されているとりわけ
きびしい環境のなかで、どうにかして生き抜いてゆくつもりでいる
ならば。
ところが、キャンプでも彼にはかまわずにおくという教訓が、犬
たちにはどうしても身につかないようだった。日ごと、彼を追いか
けては、吠えついて闘いをいどんでいるうちに、前の晩に学んだ教
訓は、すっかり忘れられてしまう。だから、晩ごとにまた新たに学
びなおさねばならないのだが、それもまた翌日までには、たちまち
忘れ去られる。おまけに、犬たちのホワイト・ファングにたいする
嫌悪感のなかには、もうひとつ、より大きな要素があった。彼と、
自分たち自身とのあいだに、種のちがいを感じとっていたというこ
とだ──それだけで、敵意をいだくのにはじゅうぶんな理由になる。
彼もそうだが、じつは彼ら自身もまた、飼い馴らされた狼にほかな
らない。だが彼らは、すでに何世代にもわたって飼い馴らされてき
て、〈野性〉のほとんどは失われている。だから、彼らにとって
〈野性〉はあくまでも未知のもの、恐ろしいものであり、つねに脅
威を感じさせ、つねに闘いをいどんでくるものなのだ。ところがホ
ワイト・ファングは、外見上も、行動面でも、心の動きの点でも、
ざん し
いまだに〈野性〉の残滓をひきずっている。彼は〈野性〉を象徴す
るもの、〈野性〉の化身なのだ。それゆえ、犬たちが彼にむかって
牙をむきだしてみせるとき、それはほかでもない彼らが、森の暗が
りや、キャンプの火の届かぬ闇の向こうにひそむ破壊の力にたいし
て、わが身を護ろうとしているということなのである。
とはいうものの、犬たちがそれでもひとつだけ学んだ教訓があっ
た。つねに集団で行動するということだ。彼らが単独で立ち向かう
のには、ホワイト・ファングはあまりにもおそるべき強敵である。
彼に対抗するのには、全員が一丸となって行くしかない。さもなけ
れば、片っ端から一匹ずつ、一晩のうちに残らずやられてしまうだ
ろう。だが、こちらが集団でいるかぎり、いかにホワイト・ファン
グでも、彼らを斃すチャンスはない。かりに、どれか一匹の足を払
って、転倒させることができたとしても、つづいて喉を狙って致命
的な一撃を加えるより前に、群れの犬たちがいっせいに襲ってく
る。いつであれ、一触即発の気配が見えると、あっというまにチー
ムの犬全体が結集して、彼に立ち向かってくるのだ。犬同士でも、
喧嘩はちょくちょく起こりうるが、いったんホワイト・ファングと
のあいだで揉め事が起きそうになると、そういう内輪の争いは、た
ちまちのうちに忘れ去られてしまうのである。
だがそのいっぽうで、彼らはどれだけ躍起になってみても、ホワ
イト・ファングを徹底的に打ちのめすことはできなかった。彼らが
相手にするのには、あまりにもすばしこく、あまりにも手ごわく、
賢すぎるのだ。身動きできぬような狭い場所は避け、多少でも敵に
包囲されそうになると、すぐさまひきさがる。いっぽうまた、彼の
足を払って、あわよくば転倒させるという戦術ともなると、そんな
早業をやってのけられるものなど、犬たちのなかには、一匹たりと
存在しない。彼の足は、つねに大地にしっかり根をおろしていて、
その粘りづよさたるや、彼が生きることに執着するその粘りづよさ
に、勝るとも劣らない。そのかぎりでは、犬たちとのこの果てしな
い闘いにおいて、生きることと、足場をかためることとは、いわば
同義語であり、そのことをホワイト・ファング以上によく承知して
いるものはいないのである。
という次第で、彼は同族の敵となった。いかにも彼らは飼い馴ら
された狼ではあったが、人間の火のおかげで柔弱になり、人間の力
という庇護のもとで暮らすうちに、すっかりめめしくなっていた。
だがホワイト・ファングはちがう。彼はもっと手きびしく、非情だ
った。彼の粘土がそのようにかたちづくられていたからだ。彼はす
べての犬にたいして報復を宣言した。そしてその報復を行なううえ
でも、まことに容赦がなかった。その容赦のなさは、かのグレイ・
ビーヴァーですら──もともと本人からして荒々しく、野蛮な男なの
だが──あまりの残忍さに驚倒したほどだった。いやまったく、こん
な畜生にはお目にかかったためしがねえぜ、そう彼は断言したし、
よその村のインディアンたちも、かつて自分たちの村でホワイト・
てんまつ
ファングがひきおこした、犬の一大殺戮の顚末を思いだすたびに、
おなじように悪態をつくのだった。
ホワイト・ファングがそろそろ五歳になろうというころ、ふたた
びグレイ・ビーヴァーは彼を連れて長い旅に出た。今度の旅でも、
ホワイト・ファングがマッケンジー川流域からロッキー山脈を越
え、ポーキュパイン川をくだって、ユーコン川にいたる、その道筋
の多くの村で犬たちを相手にひきおこした殺戮の数々は、その後も
ぐさ
長く語り種になった。彼は同族のものにたいして恨みを晴らすこと
に熱中した。相手はごく普通の、なにひとつ怪しむことを知らぬ犬
たちだった。彼の俊敏さや、予告なしにいきなり正面攻撃をかけて
くる戦法、そうしたものにたいして、彼らはまったく無防備だっ
た。彼のなんたるかを──〝電光石火の殺戮者〟として恐れられてい
ることを──知りもしなかった。彼らは彼にたいして首毛を逆だて、
足をつっぱって、闘いをいどんだが、いっぽう彼のほうは、そんな
﹅ ﹅
手の込んだ前哨戦に時間を無駄にしたりはせず、鋼鉄のばねとも見
まがうすばやさで行動を開始するや、相手の喉もとにとびこんで、
必殺の一撃を見舞っていた──なにが起きたのか、さっぱりわけがわ
からぬまま、相手がただ茫然自失しているあいだのことだ。
彼は喧嘩巧者になった。無駄な動きはしなかったし、けっして力
を浪費せず、組み打ちなどに巻きこまれることもなかった。おそろ
しく機敏なので、組み打ちなどする必要もなく、たとえ第一撃に失
敗しても、すぐまたぱっと跳びすさる。接近戦を嫌う狼の体質は、
そのまま彼にも異常なほど強く受け継がれていた。他者の肉体と長
く接触すること、それがまず堪えられない。危険のにおいがする
し、そう思うと、気も狂いそうになる。なんとしても、ひとり離れ
て、自由に、自分の足で立ち、他の生き物との接触を避けなくては
ならない。これは、いまなお〈野性〉が彼を去らず、彼を通してお
のれを主張している、そのあかしだった。さらに、この感情をいっ
そう強めていたのが、彼が仔狼のころからずっと送ってきた、世の
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
のけもの、はぐれものとしての生活だった。他者との接触のなかに
こそ、危険はひそんでいる。それは罠だ。つねに罠でしかない。そ
れにたいする恐れは、彼の命の奥深くにひそみつづけ、体質のなか
に、しっかり織りこまれているのだった。
したがって、はじめて彼に出あうよその犬たちには、はなから勝
ち目などないも同然だった。彼はたくみに彼らの牙をかわした。そ
して勝利するか、さもなくば逃げるか、いずれにしても、自分は無
傷だ。もとより、物事の自然な成り行きとして、これにも例外はあ
る。何匹かの犬が同時に襲いかかってきて、逃げだすひまもなく、
さんざんにやられたこともあれば、また、相手はただの一匹なの
に、その一匹に不覚をとったこともある。とはいえそれは、たんな
る偶発事故のようなものだ。だいたいは、闘士としてとびきり優秀
な彼のこと、手傷も負わず、悠然と引き揚げることになる。
いまひとつ、彼にそなわった強みと言えば、時間と空間とを正し
く判断できるという点だった。といっても、それを意識的にやって
いたというわけではない。そういうことは、計算して割りだせるも
のではなく、すべては反射的なものなのだ。彼の目は的確にものを
見てとり、神経は目の見た情報を的確に脳に伝える。彼の場合、こ
うした各器官相互の調整能力は、並みの犬たちのそれを大きくうわ
まわっていた。それらがともに働くことで、その働きはいっそう円
滑、かつ着実になる。つまり彼には、そうした神経、精神、筋肉の
相互調整能力が、普通よりもすぐれた、はるかにすぐれたかたちで
そなわっているのである。目があるひとつの動作を、一連の動くイ
メージとして脳に伝達すると、脳は、なんら意識的な努力をするこ
ともなく、その動作を限定している空間の大きさと、その動作を完
了するのに必要な時間とを割りだす。これによって彼は、ほかの犬
がとびかかってきたり、牙を突きたててきたりするのを避けること
ができるし、同時に、その一瞬の、目にもとまらぬ瞬間をとらえ
て、自分から攻撃をしかけることも可能になるのだ。といっても、
べつに褒められるほどのことでもない。〈自然〉は彼にたいして、
ほかの犬にたいするのよりも気前がよかった──ただそれだけのこと
だ。 フォート・ユーコン
ホワイト・ファングが ユーコン砦の交易市場にたどりついたの
は、その夏のことだった。冬の終わりごろ、グレイ・ビーヴァーは
マッケンジー川とユーコン川とのあいだの大分水界を越え、その春
は、ロッキー山脈の西のはずれにつきでた、いくつかの尾根のあい
だで狩りをして過ごした。やがて、ポーキュパイン川の氷が溶ける
と、自分の手で一艘のカヌーを造り、それを漕いで、北極圏限界線
のすぐ下方の、ユーコン川との合流点までくだってきた。ここに
は、旧ハドソン湾会社(2)の設けた砦ないしは交易市場があっ
て、多数のインディアンでにぎわい、流通する食糧も潤沢、空前の
活気につつまれていた。一八九八年の夏のことで、何千、何万とい
う金鉱探したちがユーコン川をさかのぼり、ドーソンやクロンダイ
ク川へと向かう途中だった。目的地まではまだ何百マイルもあると
いうのに、多くはここまでくるのにすでに一年もの歳月を費やし、
一部には地球の反対側からきているものもいるくらいで、旅した距
離は最低でも五千マイルにも達するのだった。
この土地に、グレイ・ビーヴァーは腰を据えた。ゴールドラッシ
こり
ュのうわさは彼の耳にも届いていたので、毛皮を詰めた梱をいくつ
かと、ほかに、腸線で縫ったミトンやモカシンも一梱、持参してい
た。ここでたっぷりもう儲けられると期待していなかったら、とうてい
こんな遠方まで足をのばすことなどありえなかったろう。ところ
が、実際に手にした儲けにくらべれば、それまでの期待など、無に
おお ぶ ろ しき
も等しいほどだった。せいぜい大風呂敷をひろげても、百パーセン
ト、つまり二倍以上の値がつくとは期待していなかったのに、実際
にはそれが一千パーセントにもなった。そこで、根っからのインデ
ィアンらしく、彼はゆっくりと、慎重に商売にとりかかり、たとえ
手持ちの商品すべてを売りさばくのに、この夏いっぱいかかっても
かまわない、いや、冬の終わりまでかかってもよい、と腹を据えた
のだった。
ホワイト・ファングがはじめて白人を目にしたのも、このフォー
ト・ユーコンでのことだった。これまでなじんできたインディアン
たちとくらべて、白人は彼の目にはまったくべつの種族、すぐれた
種族の神々として映った。とくに強い印象を受けたのは、彼らがよ
りすぐれた力を所有しているという点であり、そして神性は力にこ
そ宿るものなのである。こういうことを、ホワイト・ファングは理
詰めで考えだしたわけではない。頭のなかで問題を普遍化して、白
い神々のほうが力に勝る、と鋭く結論づけたわけでもない。それは
たんなる感じであって、それ以上のものではなかったが、それでい
てなお、有効な結論ではあった。かつて仔狼時代に、人間の手で建
てられたティピーの、ぬっとそそりたつその巨体が、力の顕現とし
て彼に強い印象を残したことがあるが、そのときとおなじに、いま
また建ち並ぶ家々や、全体がどっしりした丸太でできた砦の建物
が、彼に感銘を与えていた。ここには力がある。これらの白い神々
は強力である。彼らはすべてのものにたいして、これまでなじんで
きたどの神々よりも大きな支配力を持っている。これまで知ってき
たなかで、もっとも強力な神だったのがグレイ・ビーヴァーだが、
そのグレイ・ビーヴァーでさえ、これら肌の白い神々のなかに置か
れると、まるで子供のようだ。
もとより、こうしたことをホワイト・ファングはただ感じただけ
だった。意識したわけではなかった。とはいえ、動物の行動はおお
むね思考によりも情動にもとづいてなされるものであり、ホワイ
ト・ファングの場合も、これ以降、何事につけても、白人たちこそ
すぐれた神々であるという感じにもとづいて行動することになる。
最初のうちは、だから、白人たちへの警戒心はことのほか強かっ
た。彼らがどんな未知の恐怖をもたらしうるか、どんな未知の危害
を加えてくるか、知れたものではないのだ。彼らを観察したいとい
う好奇心はあるが、逆に向こうから目をつけられるのも、こわい。
そこで、はじめの数時間は、ひっそり歩きまわって、安全な距離か
ら観察するだけで満足していたが、そのうち、彼らの近くをうろう
ろしている犬たちには、なんの害も降りかかってはこないようだと
見てとると、少々距離を縮めることにした。
ところが、今度は逆にこちらが多大の好奇心にさらされることに
なった。見るからに狼めいた外見が、すぐに目をひいたのか、白人
たちはたがいに指をさしあっては彼に目を向けてきた。そんなふう
に指をさされると、ホワイト・ファングはたちまち警戒心を強め
た。そして彼らが近づこうとすると、歯をむきだして、あとずさり
した。だれひとりとして、彼の頭に手をかけることに成功したもの
はいなかったが、実際、成功しなくてさいわいだったのだ。
ホワイト・ファングはやがて知ったのだが、これらの神々はこの
土地に、ごくわずか──せいぜい十人かそこら──しか住んでいなか
った。二、三日ごとに、一隻の汽船(これまた途方もない力の顕
現)が船着き場にはいり、何時間か停泊する。白人たちがそれらの
汽船から降りたち、やがてまたその汽船で去ってゆく。どうやらこ
うした白人たちは、数えきれぬほどいるようだった。最初の一日か
そこらで、彼はこれまで一生のうちに見てきたインディアンの数を
もうわまわる、多数の白人の姿を目にした。さらに、日がたつにつ
れて、白人たちはその後もなおぞくぞくと川をさかのぼってきて
は、ここに立ち寄り、やがてまた川をさかのぼって、いずこへか消
えていった。
それにしても、白い神々がまことに強力であるのは確かだとし
て、彼らの連れてくる犬のほうは、さほどのことはなかった。この
ことは、主人に連れられて上陸してきた犬たちに立ちまじってみ
て、すぐに判明した。犬たちは、形も大きさも種々雑多だった。脚
の短い──短脚すぎる──のもいれば、逆に長い──長すぎる──のも
いる。体をおおっているのは、房毛ではなく、ただの短毛で、なか
にはほとんど毛らしい毛のないやつもいる。そして、どいつもこい
つも犬の闘いかたを知らない。
同族の敵として、彼らと闘うことこそがホワイト・ファングの本
分であった。そして実際に闘ってみた結果、たちまち彼らにはなは
だしい軽侮の念を覚えるようになった。柔弱で、無気力で、ただや
かましく騒ぎたてるだけ、ぶざまにじたばた暴れまわり、ホワイ
ト・ファングなら器用さと抜け目のなさでやってのけることを、も
っぱら力ずくでやってのけようとする。まず彼らは一団となって、
やみくもに吠えたてながら突進してきた。彼は横へ跳びのいた。す
るともう彼らには、彼がどこへ消えてしまったのかわからない。そ
すき
の隙をついて、彼は横から彼らの肩にぶつかってゆき、足を払って
ころがすなり、喉に必殺の一撃を見舞った。
ときとして、この一撃が功を奏し、やられた犬が泥のなかにころ
がると、待ち構えていたインディアンの犬たちがいっせいに襲って
きて、八つ裂きにしてしまうこともあった。だがホワイト・ファン
グは賢い。自分の飼い犬を殺されると、神々がひどく立腹するこ
と、このことをとうに心得ていた。白人にしても、その例外ではな
い。だから、いったん彼らの犬のどれか一匹を転倒させて、喉を大
きく咬み裂いてしまったら、自分はさっさとひきさがって、あとの
血なまぐさい仕事の仕上げは、群れの犬たちにまかせる。怒った白
人たちがとびこんでくるのは、このあとだ。とびこんできて、群れ
の犬たちにさんざん意趣返しをするのだが、ホワイト・ファングだ
けはお構いなし。やや離れたところに立って、仲間の犬たちに石や
ら、棍棒やら、斧やら、その他、ありとあらゆる武器がふりおろさ
れるのを、けろりとして傍観している。そう、ホワイト・ファング
はじつに賢い。
とはいえ、仲間の犬たちもそれなりに賢くなってゆき、この点で
はホワイト・ファングもまた、彼らとともに賢くなっていった。楽
けいりゅう
しい思いができるのは、汽船が船着き場に繫 留されたばかりのとき
だ、そう知ったのである。最初に一匹か二匹の犬が打ち倒され、殺
されるという一幕があったあと、白人たちは自分の犬をせきたてて
船上へ追いかえし、そのうえで、下手人どもに思いきり恨みを晴ら
すようになったのだ。ある白人などは、自分の愛犬──セッターだっ
た──が目の前で八つ裂きにされるのを目撃するや、ピストルを抜い
た。たてつづけに六発の銃声、そして群れの犬が六匹、死体となっ
て、あるいは瀕死の状態で横たわっていた──またも新たな力の顕
現、そしてこのことは、深くホワイト・ファングの意識に刻みつけ
られることになる。
こうした状況のすべてを、ホワイト・ファングはおおいに楽しん
でいた。同族の犬たちを愛してなどいなかったし、自分自身は抜け
目なく、痛い目にあわずにすんでいるのだから。当初、白人の犬ど
もを殺すのは、ささやかな気晴らしにすぎなかったが、やがてそれ
が仕事になった。ほかになにもすることがなかったからだ。グレ
イ・ビーヴァーはと言えば、商いをして、金を儲けることに余念が
ない。だからホワイト・ファングは、札つきのワルであるインディ
アンの犬たちと船着き場のあたりをうろついて、汽船が着くのを待
ち構える。船が接岸するや、さっそくお楽しみが始まるというわけ
だ。数分して、白人たちが驚きから立ちなおるころには、ワルども
はすでに散りぢりになっている。お楽しみはこれまで、あとは、つ
ぎなる船が到着するのを待つばかり。
とはいえ、ホワイト・ファングをそのワルの一味だと言いきるこ
とはむずかしいだろう。群れに立ちまじることもなく、いつも超然
と離れた位置にいる。むしろ、群れの犬たちからは恐れられている
とさえ言えるほどだ。いかにも、連携して行動はする。彼が新参者
の犬に喧嘩をふっかけるあいだ、群れはそばで待機している。やが
て、彼がその新顔を倒し、仰向けにすると、そこをすかさず群れが
襲いかかって、けりをつけるという段どりだ。けれども、その段階
で彼はひきさがり、怒り狂った神々から罰せられる役まわりをひき
うけるのは、つねに群れのものたちの側だという、このこともまた
事実なのである。
そうした喧嘩をふっかけるのに、たいした手間はかからなかっ
た。彼としては、新顔が上陸したら、そいつらの前に姿を見せてや
るだけでいい。その姿を目にしたとたん、彼らは反射的に襲ってく
る。それは彼らの本能なのだ。なにしろ相手は〈荒野〉の生き物──
かのおそるべき、未知の、つねに脅威を秘めている〈荒野〉の生き
物なのだから。かつて原初の世界で、彼は焚き火のまわりの闇のな
かを徘徊していた。そのとき犬たちのほうは、卑屈に身を縮めて焚
き火にすりよっていったあげくに、持って生まれた本能を、新たな
い がた
鋳型に合わせてたたきなおされ、自らの生地である〈荒野〉への──
自ら捨て去り、裏切ってきたはずの〈荒野〉への──恐れを植えつけ
られてきた。この〈荒野〉への、〈野性〉へのおそれは、世代から
世代へ、すべての世代を通して受け継がれ、いまでは彼らの天性の
なかに深く刻みこまれている。何世紀にもわたって、〈野性〉こそ
は恐怖と破壊の代名詞になってきた。そしてそのかんずっと、〈野
性〉のものなら殺してもかまわないとする自由が、主人たちから犬
たちには与えられてきた。そうすることによって、犬たちは自分た
ち自身を、そしてたがいに結びつきを深めてきた神々を、護ってき
たのである。
という次第で、軟弱な〈南方世界〉から到着したばかりのそれら
ふ とう
の犬たちは、埠頭への渡り板を小走りに駆けおりて、ユーコン川の
岸に降りたち、そこにホワイト・ファングの姿を見いだしたとたん
に、こいつに襲いかかって、殺してのけたい、という矢も楯もたま
らぬ衝動にかられることになる。都会育ちの犬ではあるが、〈野
性〉のものへの本能的なおそれは、おのずとそなわっているのだ。
そうした〈野性〉そのものの存在が、いま目の前に立ちはだかって
いる。それを彼らは自分の目だけでなく、先祖の目を通じても見て
とり、さらに、先祖から代々伝わってきた記憶を通じて、ホワイ
しゅくえん
ト・ファングを狼として認識し、古くからの宿 怨を思いだすのであ
る。
こうした事情のことごとくが、ホワイト・ファングの日常を楽し
いものにしてくれていた。もしも、こちらの姿を目にするだけで、
これら新参の犬たちが襲ってこずにはいられなくなるのであれば、
ますます結構、そして先方にとってはますますお気の毒ということ
になる。向こうはこちらを正当な餌食としてながめるが、こちらも
向こうを正当な餌食として見ているのだから。
かつて、ある寂しい岩屋で、はじめて日の光をまのあたりにし、
はじめて雷鳥や、イタチや、オオヤマネコと闘ったこと、これらは
けっして無駄にはならなかった。また仔狼時代には、リップ=リッ
プや、その手下の若犬どもからさんざんな目にあわされたが、それ
もけっして無駄にはならなかった。もしもこういうことがなけれ
ば、その後の事情はおのずとちがってきていただろうし、かりにリ
ップ=リップがいなかったなら、彼はほかの若犬たちのあいだで幼
少時代を過ごし、より犬らしく成長して、より犬たちが好きになっ
ていただろう。またもしグレイ・ビーヴァーが、思いやりと愛情と
そくしんすい
いう測深錘を持ちあわせていたなら、それでホワイト・ファングの
本性の深みをさぐって、ありとあらゆる好ましい性情を水面まで浮
かびあがらせることも、あるいは可能だったかもしれない。だがこ
うしたことは、どれも実際にはなかった。ホワイト・ファングとい
う粘土は、そのままかたちづくられて、いま現在そうであるような
形に練りあげられたのだった──気むずかしく、孤高で、情愛薄く、
かつ獰猛な、同族すべての敵である彼に。
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狂気の神
フォート・ユーコンに居住する白人の数は、ごくわずかだった。
これら少数の男たちは、この地方での生活が長かった。彼らは自ら
サワー=ドウ
〝パン種〟、つまり開拓者と称し、そう名乗ることをおおいに誇り
にもしていた。自分たち以外の、新たにこの土地へきたものにたい
して彼らがいだくのは、もっぱら軽侮の念しかなかった。汽船でや
ってきて、ここで下船するものは、いずれも新来であり、十把ひと
チチャコー
からげに〝新参者〟と呼ばれたが、そう呼ばれると、呼ばれたほう
もなにやら肩身の狭い思いがするのだった。チチャコーたちは、パ
ンを焼くのにベーキングパウダーを用いたが、これがまた、彼らと
サワー=ドウたちとを不当に分けへだてするものでもあった。とい
サワー=ドウ
うのもサワー=ドウたちは、驚くなかれ、本物のパン種を用いてパ
ンを焼いていたからで、それというのも、ここにはベーキングパウ
ダーなどというものはないからなのだった。
だがまあこういったことは、いまさらどうでもいいだろう。要す
るに、この土地の男たちは新参者を軽蔑し、新参者が不幸な目にあ
うのをおもしろがって見ていた、そう言っておけば足りる。とりわ
けおもしろがったのが、ホワイト・ファングと、配下の悪名高い一
味によって演じられる、新参者の犬たちの殺戮劇だった。汽船が到
着すると、そのつど土地の男たちは、こぞって船着き場に駆けつけ
て、高みの見物を決めこもうとする。騒ぎが始まるのを、ワルの犬
たちに勝るとも劣らぬ期待をもって待ち受け、いっぽうまた、ホワ

イト・ファングの演じる残忍かつ狡猾な役柄を
﹅ ﹅
愛でる点でも、この
男たちは、けっしてほかのものにひけはとらない。
とはいえ、こうした土地の男たちのなかにも、ひときわこの娯楽
に強い楽しみを見いだしている男が、ひとりいた。船の到着を告げ
る汽笛の第一声が鳴りわたるやいなや、この男は駆けつけてくる。
そして、最後の闘いが終わり、ホワイト・ファングや一味の犬たち
が散っていってしまうと、なにやら残念そうな、浮かぬ顔をしなが
ら、のろのろと交易市場のほうへ引き揚げてゆくのだ。ときとし
て、軟弱な〈南国〉の犬が打ち倒され、群れの犬たちの牙を浴び
て、断末魔の悲鳴をあげつづけているようなとき、この男は自分を
おさえきれなくなって、二度、三度と空中に躍りあがり、歓喜の叫
びを発することもある。そしてそんなときは、きまってホワイト・
いちべつ
ファングのほうに物欲しげな、鋭い一瞥をくれるのだ。
ビューティー
この男、ここに住む他の男たちからは、〝色 男〟の名で呼ばれて
いた。ファーストネームはだれも知らない。ただ〝ビューティー・
スミス〟というのが、この土地での通り名になっている。とはい
え、実体はおよそ〝色男〟などと言えたものではなかった。「名は
体をあらわす」の正反対で、とびきりの醜ぶ おとこ
男。この男を造るのに、
〈造化の女神〉は原料のすべてを節約したらしい。まず第一に、小
男で、その貧弱な体軀の上に、さらにきわだって貧弱な頭部がのっ
ている。しかもその頭のてっぺんが、鉛筆のようにとがっている。
実際、仲間から〝色男〟なる異名をたてまつられる前の少年期に
ピ ン ヘ ッ ド
は、〝とんがり頭(3)〟と呼ばれていたものだ。
そのとんがり頭のてっぺんから後ろは、うなじまで絶壁状に落ち
こみ、いっぽう前は、これまた妥協を許さぬ急傾斜で、低い、きわ
だって広いひたいにつづいている。そしてこのひたいから下は、ま
るでいままでの節約ぶりを後悔したかのように、〈造化の女神〉
は、ひどく気前のいい手つきで、顔の造作を押しひろげている。目
は大きいし、その目と目のあいだは、さらに目がふたつもはいりそけた
うなほど離れている。顔そのものも、体のほかの部分に比して、桁
はずれに大きい。大きな造作をおさめるだけのスペースをつくるた
めに、〈造化の女神〉が彼に与えたのは、とてつもなく大きな、前
につきだしたあご。幅も広く、がっしりとしたそのあごが、前方
へ、そして下へと、大きくせりだしているので、まるであご全体が
胸の上にのっているかのようだ。ことによると、そんなふうになっ
ているのは、細い首がその途方もない重みに疲れはて、胸でそれを
支えてもらう必要があったからかもしれない。
こういうあごから受ける印象は、並みはずれて強烈な意志力の存
在だろう。ところが、そう言いきるのには、なにかが不足してい
た。あるいは、すべてが過剰であるがゆえに、かえってそう感じさ
せるのかもしれない。あごがあまりにも大きすぎるせいなのかもし
れない。いずれにしても、意志が強そうだという印象は誤りで、こ
のビューティー・スミスという男、弱虫で臆病な泣き言屋のうちで
も、最低の弱虫として世間に知れわたっているのだ。ここでついで
に彼の人相書きの仕上げをすれば、歯は大きくて、黄色く、なかで
も二本の犬歯は、ほかの歯よりもさらに大ぶりで、牙よろしく薄い
くちびるの下からのぞいている。目も黄ばんで、濁っていて、さな
がら途中で絵の具を切らしてしまった〈造化の女神〉が、残りのチ
ューブの絵の具をぜんぶ搾りだし、まぜあわせたみたいだ。髪やひ
げにしてもおなじこと──まばらに、不ぞろいに生えたそれは、濁っ
た泥のような薄汚い黄色で、それがひたいの生えぎわからまっすぐ
つったったり、顔面のあちこちから思いがけない束や房となって生
えでていたりして、見た目はちょうど、風に吹き寄せられて一カ所
こくつぶ
にかたまった穀粒のようだ。
要するに、てっとりばやく言ってしまえば、このビューティー・
スミスという男、醜悪な怪物なのだが、そうなった責任はどこかよ
そにあって、彼自身にはない。造化の過程で、彼の粘土がそんなふ
うにかたちづくられてしまっただけのことだ。彼はこのフォート・
ユーコンというかつての砦で、ほかの男たちのために料理をした
り、皿洗いその他のつらい骨折り仕事をひきうけたりしていた。と
いっても、男たちは彼を見くだしてはいなかった。というより、む
しろ、人間らしい寛大な心で彼を受け入れていたと言うべきかも──
生まれつき醜い姿かたちをした生き物に、ひとが憐れみをかけてや
るように。と同時に、一面では、彼を恐れてもいた。臆病なやつほ
ど、かっとなると、なにをしでかすかわからないから、男たちも、
いつか背中に一発食らったり、コーヒーに毒を盛られたりするので
は、とびくびくしているのだ。それにしても、料理はだれかがひき
うけなくてはならないのだし、ほかにどんな欠点があるにせよ、ビ
ューティー・スミスに料理ができるのは確かなのである。
こういう男がホワイト・ファングに目をつけ、そのぬきんでた勇
敢さを愛でると同時に、なんとか彼を自分のものにしたいと考えた
のだ。そも最初からこの男は、ホワイト・ファングを手なずけよう
として近づいてきた。はじめはホワイト・ファングもこの男を無視
していたが、やがて働きかけが一段と執拗になると、首毛を逆だ
て、牙をむきだしつつ、あとずさりするようになった。彼はこの男
を好かなかった。なんとも感じの悪いやつだと思っていた。男のな
かに邪悪なものの存在を感じとり、男がさしだす手や、猫なで声で
話しかけてくる、その口ぶりを嫌悪した。こうしたものがさまざま
に積み重なって、彼は男に憎しみすらいだきはじめていた。
人間よりも単純な動物にあっては、善と悪とはごく単純に理解さ
れている。善とはすなわち、安楽や、満足をもたらすもの、苦痛か
ら解放してくれるものである。したがって、善なるものは好まれ
る。いっぽう悪は、不快や、脅威や、痛みをはらんでいるものであ
り、したがって、憎まれる。ホワイト・ファングがビューティー・
スミスから受ける感じこそ、この悪に通じるものだった。男のねじ
まがった体や、ひねくれた心からは、ちょうど汚染された沼から立
しょう き
ちのぼる瘴 気のように、その底に隠された不健全ななにかが、目に
は見えぬながらも、隠微に発散されてくるのだ。この男がなにやら
邪悪なもの、苦痛をもたらすものをはらんだ不穏な存在であり、そ
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
れゆえ悪いものであって、忌避するのが賢明だということ、これを
ホワイト・ファングは、理詰めで考えたわけでもなく、さりとて五
官だけに頼ったわけでもなく、それ以外のもっと遠い、未知の領域
に息づく感覚を通じて、感じるともなしに感じとったのである。
はじめてビューティー・スミスがグレイ・ビーヴァーの仮泊小屋
を訪れたとき、ホワイト・ファングはその場にいあわせた。男の姿
が見えてこないうちから、その遠い足音を耳にしただけで、ホワイ
ト・ファングはやってきたのが何者かをさとり、首毛を逆だてはじ
めた。それまでゆったり横たわって、心地よくくつろいでいたの
が、いきなりぱっと立ちあがるなり、男が小屋にあらわれるのと同
時に、本物の狼らしい身のこなしで、ひっそりと小屋の端まで身を
避けた。男たちがなにを言っているのかはわからなかったが、男が
グレイ・ビーヴァーと話をしているのは見えたし、一度、男がこち
らをゆびさしたときには、実際にはそこまで五十フィートも離れて
いるのに、その手がじかに自分の頭に触れてきたかのように、獰猛
にうなりかえした。これにたいして、男は声をあげて笑い、ホワイ
ト・ファングはなおいっそう小さく身をすくめて、守り神である森
へと逃げだした──すべるようにそっと走り去りながらも、首だけ後
ろへねじむけて、男のようすをうかがいつつ。
グレイ・ビーヴァーは、ホワイト・ファングを売りわたすのを断
わった。これまでの商いで、ふところは温かくなっているし、これ
以上必要なものなどなにひとつない。おまけに、ホワイト・ファン
グは貴重な動物だ。これまで所有してきたなかでも、もっとも賢い
橇犬であり、最上の先導犬でもある。さらに、マッケンジー川から
ユーコン川にかけての地域に、ホワイト・ファングのような犬はま
たと存在しない。彼は闘う犬である。人間が蚊をたたきつぶすのよ
りたやすく、ホワイト・ファングは他の犬を殺すことができる(そ
う聞いたとき、ビューティー・スミスの目がきらりと光り、舌なめ
ずりよろしく、舌の先が薄いくちびるをぺろりとなめた)。そうと
も、いくら金を積まれようと、ホワイト・ファングを手ばなす気な
どない。
けれども、ビューティー・スミスはインディアンというものをよ
く知りつくしていた。その後も彼はたびたびグレイ・ビーヴァーの
仮泊小屋を訪れたが、そのとき、上着の下にはいつも、黒い瓶が一
本隠されていた。ウイスキーの効能のひとつは、喉の渇きを招くと
いうことである。グレイ・ビーヴァーはまさしくその渇きにとりつ
かれた。熱くなった喉の粘膜と、焼けただれた胃袋とは、飲めば飲
むほどその焼けるような液体を声高に要求しはじめ、いっぽう頭の
ほうは、この慣れない刺激物にすっかり調子を狂わせてしまい、そ
れを手に入れるためになら、どんな苦労をも惜しまぬ、というまで
になっていった。毛皮やミトン、モカシンなどで儲けた金が、だん
だん減りはじめた。やがてその減りかたは目に見えて速くなり、そ
して金袋の中身が乏しくなるのにつれ、グレイ・ビーヴァーの自制
心も乏しくなっていった。
そのうちついに、金も、商品も、ついでに理性までもが、すっか
らかんになってしまうときがきた。手もとに残った資産は、喉の渇
きだけだったが、もともと異常な資産であるこの渇きは、その後も
彼がしらふで呼吸する息の一息ごとに、ますます異常さを加えてい
った。このときを待っていたかのように、ビューティー・スミスが
ふたたびホワイト・ファングを売らないかという話を持ちかけてき
た。けれども今回、付け値として提示されたのは、金ではなく、ウ
イスキー、そしてグレイ・ビーヴァーも前回のように、まったく聞
く耳を持たないという態度ではなくなっていた。
「あんたがあいつをつかまえられるもんならな。そしたら連れてく
がいいや」というのが、彼の最終的な返答だった。
約束のウイスキーが届けられたが、二日後になると、ビューティ
ー・スミスがグレイ・ビーヴァーに伝えてきた。「おまえがあいつ
をつかまえといてくれ」
ある晩ホワイト・ファングは、こっそりグレイ・ビーヴァーの仮
泊小屋にはいってゆくと、ほっと吐息をもらして、片隅に横になっ
た。さいわい、かねて恐れているあの白い神の姿はなかった。それ
までの二日間というもの、自分を手なずけようとするその男の執拗
さが、いよいよ目につくようになってきていたので、やむをえず、
この小屋を敬遠していたのだ。男のその執拗な手が、はたしてどん
な災いの前ぶれなのか、そこまではホワイト・ファングにもわから
なかったが、それでも、あらかじめその手が届かぬところへ身を避
けているのに越したことはない。
ところが、そこに横になるかならぬかのうちに、グレイ・ビーヴ
ァーがよろよろと近づいてきて、革紐をホワイト・ファングの首に
結びつけた。そしてその紐の一端を握ったまま、かたわらにどっか
りすわりこんだが、もういっぽうの手には、酒瓶を握りしめてい
て、たびたびそれを、のけぞらせた顔の上でさかさにしては、その
つど喉をぐびりと鳴らした。
一時間ほどたつと、地面を踏む足音が伝わってきて、だれかが近
づいてくることを予告した。ホワイト・ファングがまずそれを聞き
つけ、足音の主をさとって、首毛を逆だてたが、グレイ・ビーヴァ
ーは、いまだに太平楽にこくりこくりやっているだけだった。ホワ
イト・ファングは、そっとそのあるじの手から革紐を引き抜こうと
したが、とたんに、ゆるんでいた指がいきなりかたく締まり、グレ
イ・ビーヴァー本人も目をさました。
ビューティー・スミスが大股に小屋にはいってき、ホワイト・フ
ァングのかたわらに立ちはだかった。ホワイト・ファングは、その
恐怖の化身にむかって低くうなりながら、そいつの手の動きを油断
なく見まもった。片手がのびてき、ついでその手が頭の上へさがっ
てきた。低いうなりが、荒々しいものに変わった。手はなおもゆっ
くりとさがってき、それとともにホワイト・ファングは、その手の
下で低く身をすくめ、殺気だった目でそれを睨みつけた。そのあい
だも、息づかいが荒くなるのにつれて、うなりはますます短く、激
しくなり、ついにはそれが頂点に達したかと思うと、白い牙が蛇の
ようにひらめいて、その手に咬みついていった。手が急いでひっこ
められ、牙はかちりと空を嚙んだ。ビューティー・スミスは驚き、
かつ怒った。グレイ・ビーヴァーがいきなりホワイト・ファングの
頭を横なぐりに殴りつけてきた。それでホワイト・ファングもまた
低く身をすくめて、敬意と恭順の意をあらわした。
その後も彼の疑わしげな目は、男たちの一挙一動を追った。ビュ
ーティー・スミスが出てゆき、やがて頑丈な棍棒を手にしてもどっ
てきた。それから、首に結ばれた革紐の端が、グレイ・ビーヴァー
からビューティー・スミスの手に渡った。ビューティー・スミスは
そのまま歩きだそうとした。革紐がぴんと張った。ホワイト・ファ
ングはそれに抵抗した。彼を立ちあがらせ、ビューティー・スミス
についてゆかせようとして、グレイ・ビーヴァーはまたもその頭
を、左、右と横なぐりにした。ホワイト・ファングはやむなく立ち
あがったが、そこでとつぜん身をひるがえすと、自分をひきたてて
ゆこうとするそのよそものに、猛然ととびかかっていった。ところ
がビューティー・スミスは一歩もひかなかった。この機会を待ち受
けていたのだ。手慣れた動作で棍棒をふるうと、それでホワイト・
ファングの突進を食いとめ、したたか地面にたたき落とした。見て
いたグレイ・ビーヴァーが声をあげて笑い、よしよしと言わんばか
りにうなずいてみせた。ビューティー・スミスがあらためて革紐を
強くひくと、ホワイト・ファングは力なくよろめきながら、どうに
か立ちあがった。
彼は二度めの突進を試みたりはしなかった。いったん棍棒を食ら
っただけで、この白い神がその使いかたを心得ていることはいやで
も思い知らされたし、逆らえないものと闘おうとするほど、彼も愚
かではなかった。そこで、尾を脚のあいだにはさみ、不機嫌にビュ
ーティー・スミスについていったが、そのあいだも、声を殺して低
くうなるのだけはやめなかった。ビューティー・スミスは、そんな
彼から油断なく目を離さず、手にはいつでもふりまわせるように、
棍棒を構えていた。
砦にもどると、ビューティー・スミスは彼をしっかりとくくった
ままにして、自分は床についた。ホワイト・ファングは一時間だけ
待った。それから、革紐に牙をあてがい、ものの十秒とたたぬうち
に、自由の身となった。牙を使うのに、無駄な時間を費やしたりは
しなかった。ぶざまにぐちゃぐちゃ嚙んだりもしなかった。革紐は
ナイフでも使ったように、斜めにすっぱりと切れていた。彼は砦の
建物を見あげ、同時に首毛を逆だてて、うなりを発した。それか
ら、くるりと背を向け、足早にグレイ・ビーヴァーの仮泊小屋へも
どった。このビューティー・スミスというよそものの残忍な神に
は、なんの忠誠心も持てなかった。自分の一身はグレイ・ビーヴァ
ーという神にこそささげたものであり、自分はいまなおグレイ・ビ
ーヴァーのものだとしか考えていなかった。
ところが、その夜に起きたことが、やがてまたくりかえされたの
だ──いくらかかたちを変えただけで。グレイ・ビーヴァーはまたし
ても彼をしっかりと革紐でくくり、朝がくると、あらためてビュー
ティー・スミスに引き渡した。前回とは異なる展開になったのは、
ここからだった。ビューティー・スミスがホワイト・ファングをた
たきのめしたのだ。しっかりくくられたままのホワイト・ファング
は、ただいたずらに怒り狂い、ひたすら懲罰に堪えるしかなかっ
た。棍棒と鞭の両方が彼を痛めつけるのに使われ、彼の生まれては
じめて経験する、すさまじい殴打が加えられた。かつて仔狼だった
ころ、グレイ・ビーヴァーから加えられたあのおそろしい折檻でさ
え、今度のこれとくらべれば、まだ穏やかなほうだった。
しかもビューティー・スミスは、彼をたたきのめすことを楽しん
でいた。それに悦びを見いだしていた。思うさま鞭と棍棒をふる
い、ホワイト・ファングの苦痛の悲鳴や、おさえようのないうな
り、咆哮などを聞きながら、目に鈍い光をきらめかせ、犠牲者を見
おろしてほくそえむ。というのも、臆病者がえてして残忍であるの
とまったく同様の意味で、このビューティー・スミスも残忍だった
からだ。他人から殴られたり、荒い言葉で罵られたりすると、身を
すくめて、そら空泣きしてみせるこの男、その
な うっぷん
鬱憤を自分よりも弱いも
のにぶつけて、腹いせをする。生きとし生けるものは、なべて力を
好むものだが、ビューティー・スミスとて例外ではない。同類のあ
いだでは、力の捌け口を見つけられないところから、その矛先を自
分より劣った生き物に向け、そこで自分の内なる力を立証してみせ
るのである。もっとも、このビューティー・スミスとて、自分で自
分を造ったわけではないのだから、責めを本人に負わすわけにはい
くまい。たんにこの世に生まれでたとき、ねじれた体と残忍な心を
そなえていたというだけのこと。こうした素材が彼という粘土をか
たちづくったのであり、しかもその塑そ ぞう造の過程で、世のなかは彼に
やさしくなかったのだ、そう言えるだろう。
なにゆえ殴打されるのか、それはホワイト・ファング自身にもわ
かっていた。グレイ・ビーヴァーが革紐を首に結びつけ、その紐の
一端をビューティー・スミスにゆだねたときから、このビューティ
ー・スミスについてゆくことこそ、自分の神の意図するところなの
だと理解はしていた。また、ビューティー・スミスが自分を砦の外
につなぎっぱなしにしたときにも、そこから動かずにいることこ
そ、ビューティー・スミスの意思なのだと自覚はしていた。だから
彼は、ふたりの神々の意思にふたつながらそむいたわけであり、そ
れゆえ罰を受けるのは、自業自得ということになる。これまでに
も、犬のあるじが替わるという事態は何度か見てきたし、あるじの
もとから逃げた犬が、いまの自分とおなじように、たたきのめされ
るのも見てきた。ホワイト・ファングは賢かったが、それでいて、
彼の本性のなかには、そうした賢さをもうわまわる力がひそんでい
た。そのひとつが、忠実さというものである。彼はグレイ・ビーヴ
ァーを愛しているわけではなかったが、にもかかわらず、当のある
じの意思にそむき、その怒りを買ってまでも、とことんあるじに忠
実であろうとしていた。そうせずにはいられなかった。この忠実さ
は、彼をかたちづくっている粘土の、そのひとつの美質である。こ
れはまた、彼の属する種族に特有の資質でもあり、この資質こそ
こう や
が、彼の種族と、他の種族とを分かつもの──狼や野生の犬が曠野か
ら人間のもとにやってきて、人間の友となることを可能ならしめた
ものなのである。
ぞんぶんにたたきのめされたのち、ホワイト・ファングはふたた
び砦までひきずってゆかれた。だが今回、ビューティー・スミスは
彼を棒杭にくくりつけた。ひとはそうたやすくおのれのあがめる神
を捨て去れるものではなく、ホワイト・ファングもその点では例外
ではない。グレイ・ビーヴァーこそが彼のあがめる特別な神なので
あって、そのグレイ・ビーヴァーの意思にそむいても、いまなおホ
ワイト・ファングはグレイ・ビーヴァーに執着し、グレイ・ビーヴ
ァーを捨てきれずにいた。グレイ・ビーヴァーにはすでに裏切ら
れ、見はなされた身だったが、そんなことも、彼にはいっこうにこ
たえていなかった。これまでグレイ・ビーヴァーに身も心もゆだね
てきたのは、けっしてゆえないことではない。ホワイト・ファング
の側には、あるじにたいして含むところなどなにもなかったのだ
し、そうあっさりとあるじとの絆が切れるわけもないのだった。
といった次第で、この夜、砦のひとびとが寝静まってしまうと、
ホワイト・ファングは自分をつなぎとめている棒杭にいどんだ。棒
は風雨にさらされてかたく乾燥していたし、しかも、しっかり首に
くくりつけられているので、歯でそれをくわえる余地すらないほど
だった。思いきり筋肉を使い、首を弓なりにそらして、ようやくそ
れをくわえることに成功したが、それでも、どうにかそれに歯がか
かったという程度で、それからまた途方もない忍耐心と、うんざり
するほどの時間を費やしたあげくに、やっとのことでそれを嚙み切
ることができた。木を嚙み切るというのは、通常、犬に可能な行為
とは見なされていない。いってみれば、前例のないことなのだ。そ
れでもホワイト・ファングはそれをやってのけ、早朝、嚙み切られ
た棒の切れ端を首にぶらさげたまま、意気揚々と砦をあとにした。
彼は賢かった。けれども、たんに賢いだけなら、そのままグレ
イ・ビーヴァーのもとへもどることなどしなかったろう。すでに二
度も裏切られている相手なのだから。ところが、ここで彼の忠実さ
が裏目に出た。彼はもどってゆき、そして三たび裏切られることに
なった。今度もまた彼は、グレイ・ビーヴァーの手で首に革紐を巻
きつけられるままになり、今度もまたビューティー・スミスが、彼
を受け取りにやってきた。そして今度もまた彼には、前回よりもさ
らに手きびしい折檻が加えられることになった。
白人が鞭をふるっているあいだ、グレイ・ビーヴァーはただぼん
やりとそれをながめていた。ホワイト・ファングをかばってやろう
とする気配すら見せなかった。ホワイト・ファングはもう自分の犬
ではないのだ。ようやく折檻が終わったとき、ホワイト・ファング
は息も絶えだえだった。軟弱な〈南国〉の犬なら、死んでいても不
思議はなかったろう。だが彼は死ななかった。彼の場合、生きるた
めの修行はよりきびしく、また彼自身も、一段と頑強な素材ででき
ていた。途方もない活力を持ちあわせてもいた。生きることへの執
着も、ことのほか強かった。とはいえいまは、いつ死んでもおかし
くないくらいに弱っていた。はじめのうちは、這いずって進むこと
さえ無理だったので、ビューティー・スミスもやむなく半時間ほど
彼の回復を待った。それから、目もくらみ、足もともおぼつかない
ありさまで、ホワイト・ファングはビューティー・スミスの後ろに
したがって、砦へともどっていった。
今回、縛りつけられたのは、彼にもとうてい歯のたたない鎖だっ
た。静止状態からいきなり前へとびだすことで、太い材木に打ちこ
まれている鎖の留め金を引き抜こうともしてみたが、無駄だった。
それから数日後、すっかり酔いもさめ、無一文になったグレイ・ビ
ーヴァーは、ふたたびポーキュパイン川をさかのぼり、マッケンジ
ー川まで帰る長の旅路に出ていった。ホワイト・ファングは、ひと
りの男の所有物として、フォート・ユーコンに取り残された。男は
すくなからず狂っているうえ、完全な野獣でもあった。とはいえ、
犬が狂気なるものを自覚的に理解している、そういうことがはたし
てありうるだろうか。すくなくともホワイト・ファングにとって
は、ビューティー・スミスはたとえ残忍ではあれ、まぎれもなく神
なのだった。せいぜいよく言っても、狂った神ではあったろうが、
しかしホワイト・ファングは、狂気についてなにかを知る立場には
なかったし、わかっているのはただ、それでもこの新しいあるじの
意思にはしたがわねばならぬということ──あるじのどんな気まぐれ
や思いつきをも、おとなしく受け入れねばならぬということ、それ
だけなのだった。
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憎しみの支配
狂気の神のくん薫とう陶よろしきを得て、ホワイト・ファングは悪鬼とな
った。常時、鎖につながれて、砦の裏手の囲いにとじこめられたう
え、ビューティー・スミスからさまざまな卑劣な手段によってから
かわれ、いらだたせられ、半狂乱にさせられた。この男はホワイ
ト・ファングが、とりわけ笑われることに敏感なのをつとに見抜い
ていて、わざわざ彼をさんざんなぶったうえで、笑いを浴びせてく
る。その笑いは騒々しく、嘲弄の毒をたっぷり含み、しかも、そう
しながらホワイト・ファングにむけて、あざけるように指をつきつ
ける。そんなとき、ホワイト・ファングのうちからは、理性もなに
もすべて吹っ飛んで、彼は怒りにわれを忘れ、ビューティー・スミ
スよりもさらに狂気じみたようすを見せるようになる。
これまでは、ホワイト・ファングもたんに同族の敵、それも凶猛
な敵というにすぎなかった。ところがいまは、生きとし生けるもの
すべての敵となったうえ、これまでよりもさらに猛悪な存在となっ
ていた。そこまで苦しめられ、追いつめられると、憎しみもまたお
のずと盲目的な、一片の合理的な理由もない憎しみとなる。彼はお
さん
のれを束縛している鎖を憎み、囲いの桟のあいだからのぞきこんで
くる男たちを憎み、その男たちのお供でやってきて、囲いのなかで
動くこともままならぬ自分に、意地悪く吠えついてくる犬どもを憎
んだ。自分をとじこめている囲いの桟そのものをすら憎み、そして
なによりも、徹底して憎んだのは、ほかでもないビューティー・ス
ミスだった。
だが、ビューティー・スミスがホワイト・ファングに与えたこう
した待遇すべての裏には、じつは目的があったのだった。ある日、
大勢の男たちが囲いのまわりに集まってきた。ビューティー・スミ
スが棍棒を手にしてはいってき、ホワイト・ファングの首から鎖を
はずした。あるじが出ていったあと、体の自由をとりもどしたホワ
イト・ファングは、囲いのなかで暴れまわり、外にいる男たちにつ
っかかってゆこうとした。そのありさまの恐ろしさたるや、身の毛
がよだつほどだった。体長はたっぷり五フィートはあるし、肩の高
さは二フィート半、体重は同程度の大きさの狼をはるかにうわまわ
る。母親から、より犬に近いどっしりした体つきを受け継いでいる
ので、脂肪やよけいな肉など一オンスもついてはいないのに、目方
は九十ポンドを超えるのだ。そのぜんぶが、筋肉と、骨と、腱──闘
う体としては最高の状態にある。
囲いの戸がふたたびひらかれようとしていた。ホワイト・ファン
グはためらった。なにかいつもとはちがうことが起ころうとしてい
る。戸がさらに大きくあけられた。と、そこから一頭の巨大な犬が
押しこまれてき、その後ろで戸がばたんとしまった。ホワイト・フ
ァングは、このような犬をまだ見たことがなかった(それはマスチ
フだった)が、さりとて、その侵入者の体軀や、見るも猛々しい顔
つきに、ひるんだりはしなかった。ほう、こいつはおもしろい──木
でもなく、鉄でもなく、この相手なら、こちらの憎しみをぞんぶん
にぶつけてやれそうだ。と見るが早いか、彼は白い牙をひらめかせ
てとびこみ、マスチフの首の側面をべりりと引き裂いていた。マス
チフは首をぶるんとふって、しわがれ声で一声うなると、ホワイ
ト・ファングめがけてとびかかってきた。だがホワイト・ファング
は、ここと思えばまたあちら、たえずとびのき、身をかわし、あい
まにはくりかえし隙を見てとびこんでは、牙をふるい、そしてまた
反撃を食わないうちに跳びすさる。
かっさい
囲いの外の男たちが、どっとはやしたて、拍手喝采した。ビュー
ティー・スミスはと言えば、早くも得意満面
かん ぷ
──ホワイト・ファング
が相手を完膚なきまでにやっつけ、ずたずたにしてのけるのを、に
たにたとほくそえみながらながめている。最初からマスチフには勝
ち目などなかった。あまりにも鈍重で、のろますぎるから。とうと
う最後に、ビューティー・スミスが棍棒をふるってホワイト・ファ
ングを遠ざけ、マスチフは飼い主の手で囲いからひきずりだされ
た。そのうえで賭け金が支払われ、ビューティー・スミスの手のな
かで、儲けた金がじゃらじゃら音をたてた。
いつしかホワイト・ファングは、男たちが囲いのまわりに集まっ
てくることに、熱っぽい期待をいだくようになっていった。それは
新たな闘いの場が設けられることを意味するし、しかもいまや、身
内にたぎる生命力を表現するのには、それしか手段は残されていな
い。いじめぬかれ、憎しみをかきたてられ、あまつさえ囲いのなか
とら
で囚われの身となっていては、ときおりころあいを見はからってあ
るじがべつの犬をけしかけてくる、そのときしか、憎しみを晴らす
機会はないのである。ビューティー・スミスは、ホワイト・ファン
グの力を的確に見定めていたと言えるだろう。というのも、いつの
試合でも、勝つのはホワイト・ファングと決まっていたからだ。あ
るときは、たてつづけに三頭の犬の相手をさせられたし、またべつ
のときには、〈荒野〉でとらえられたばかりの、一人前に成長した
狼が、囲いの戸から押しこまれてきたこともある。さらにまたべつ
のときには、同時に二頭の犬がけしかけられたが、このときの闘い
は、彼の体験したなかでももっとも苛烈なものとなり、最終的には
なんとか二頭とも斃しはしたものの、こちらも半死半生の目にあう
結果となった。
その年の秋、初雪が降り、まだかたまりきらないシャーベット状
かわ も
の氷が川面を流れはじめるころ、ビューティー・スミスはホワイ
ト・ファングを伴い、汽船でユーコン川をさかのぼって、ドーソン
へと向かう旅に出た。このころには、ホワイト・ファングはこの地
ファイティング・ウルフ
方で、ひとかどの名声を博していた。〈 闘 狼 〉として、そのおり
名はあまねく世間に知られ、そのため、汽船のデッキに置かれた檻
のまわりには、いつも物見高い男たちが群れていた。彼はその男た
ちに怒りを向けたり、うなってみせたりし、またそうでなければ、
ひっそり横になって、冷たい憎悪の目で彼らを観察していた。どう
してこの男たちを憎んではならないのか。そんな疑問を自分にぶつ
けてみることもなかった。知っているのは、ただ憎むことだけ、そ
してその憎しみを燃やすことにだけ、ひたすら没頭した。いまや彼
にとって、生きることはそのまま地獄となっていた。人間の手に囚
われて、窮屈な監禁生活をじっと堪え忍ぶ野生の動物──そんなふう
に彼は生まれついてはいない。なのに、いま現在の彼は、まさしく
そんなふうに扱われている。男たちはじろじろ見つめてくる。彼を
さく
うならせようと、柵のあいだから棒をつっこんでくる。そしてあげ
くのはては、無遠慮な高笑いを浴びせてくるのだ。
彼らこそが、この男たちこそが、まさにホワイト・ファングの環
境なのであり、その環境が彼という粘土をこねあげて、〈造化の女
神〉が彼のために意図したのよりも、さらに獰猛ななにかにかたち
づくろうとしていた。だがその反面、〈造化の女神〉は彼に可塑性
を、柔軟性をも与えてくれていて、ほかの動物なら、死ぬか、でな
くば傷心に打ちひしがれてしまうかするところを、彼は傷心に陥る
こともなく、どうにか適応して、生きのびてきた。ビューティー・
スミスは、心底からの悪党で、しかも拷問を好む男だから、ことに
よるとホワイト・ファングを傷心におとしいれ、立ちなおれぬとこ
ろまで追いつめていたかもしれないが、さいわいまだいまのところ
は、それが成功するきざしはなかった。
もしもビューティー・スミスが身内に悪魔を飼っていたとすれ
ば、ホワイト・ファングもまた、べつの悪魔を飼っていた。それゆ
え両者は果てしなくいがみあい、怒りをぶつけあっていた。以前の
ホワイト・ファングなら、棍棒を持った人間の前では低く身をすく
め、恭順の意を示すぐらいの知恵は持っていたはずなのだが、いま
は、そうした知恵もすっかりけしとんでしまい、ビューティー・ス
ミスの姿を目にするや、もうそれだけで怒りにわれを忘れてしま
う。あるいはまた、両者がぶつかったあげくに、棍棒で撃退され
た、そのあとでも、まだホワイト・ファングはうなったり、歯をが
ちがち嚙み鳴らしたり、牙をむきだしたりするのをやめない。ぜっ
たいに音をあげる、弱音を吐くということがないのだ。どれほどこ
っぴどく打ち据えられても、必ずうなりかえすし、ときとしてビュ
ーティー・スミスのほうが根負けして、ひきさがってしまっても、
後ろから挑戦的なうなり声を浴びせかける。あるいは、憎しみに吠
えたてながら、檻の格子に体当たりする。
汽船がドーソンに着くと、ホワイト・ファングは下船した。だが
ここでも、あいかわらず檻に入れられ、物見高い男たちにかこまれ
て、人目にさらされる生活がつづいた。つまり、〈闘狼〉として見
世物にされ、客は砂金で五十セント支払って、彼を見物にくるの
だ。彼には休息も与えられなかった。横になって眠ろうとすると、
とがった棒でつつかれて、起こされる──客が五十セント分のもとを
とれるように。さらに、なおいっそう興味ぶかい見せ場をつくるた
め、常時、激しく怒っている状態に置かれる。とはいえ、なにより
いちばんひどかったのは、いま彼の生かされている、その場の雰囲
気だった。彼は、もっともおそるべき野獣のなかの野獣と見なされ
ていて、この事実が、檻の格子を通して、なかにいるホワイト・フ
ァングの胸にも、じわじわと浸透してくるのだ。男たちの発する言
葉のすべて、彼らの用心ぶかい行動のすべて、それらが彼に、自分
がどれほどまがまがしく、獰猛な存在であるかを思い知らせてくれ
るし、それがまたいっそう、彼の猛々しさという火に油をそそぐこ
とにもなる。となると、結果はひとつしかない。つまり、持ち前の
獰猛さがさらに獰猛さを生み、それがおのずと増幅してゆくという
結果。これもまた、ホワイト・ファングという粘土の可塑性のひと
つの例証──環境という重圧によって、自在にかたちづくられうる柔
軟性の例証なのだった。
つねに人目にさらされる見世物であることに加えて、いまの彼
は、れっきとしたプロの闘狼でもあった。不定期にではあるが、い
つでも試合の段どりがつけられしだい、檻から出されて、数マイル
離れた森のなかへ連れてゆかれる。これはたいがい夜になってから
のことだ。この準州の騎馬警官隊の介入を避けるためである。こう
して森のなかで何時間か待ち、夜もしらじら明けの刻限ともなる
と、見物客とともに、彼の対戦相手となる犬が到着する。こういう
やりかたで、彼はありとあらゆる大きさの、ありとあらゆる種類の
犬と闘うことになった。いってみれば、ここは未開の地であり、住
む人間たちは野蛮、だから闘いもたいがいの場合、どちらかが死ぬ
まで終わらないということになる。
そんななかで、ホワイト・ファングはずっと闘いつづけていたの
だから、死んだのが相手の犬だったことははっきりしている。彼は
敗北を知らなかった。幼いころ、リップ=リップや、他の若犬の群
れ全体を相手に闘ってきた経験が、いま役に立っていた。まず、ぜ
ったいに足が地面から離れないという粘りづよさがある。どんな犬
も、彼の足もとを襲って、転倒させることはできない。じつはこの
戦法、狼犬系統の犬の得意技なのだ──まっすぐに、あるいは思いも
かけない角度から、いきなりとびこんできて、こちらの肩にぶつか
り、あわよくばころばせるというものである。マッケンジー・ハウ
ンド、エスキモー犬、ラブラドル犬、ハスキー、マラミュート──ど
の犬もこの犬も、一度はこの戦法をホワイト・ファングにたいして
試みたが、成功はしなかった。彼はけっして足場を失うということ
がない。見物の男たちは、たがいにこのことを話題にして、今度こ
そはそれが見られるのではないかとそのつど期待するのだが、ホワ
イト・ファングはいつも、そういう見物人たちを失望させつづけて
いた。
つぎに数えられるのは、彼の電光石火のすばやさである。闘う相
手にたいして、これは彼の圧倒的な利点となった。たとえ犬同士の
闘いにどれだけ経験があったとしても、これほど俊敏に動く敵に立
ち向かうのは、相手の犬としてもはじめてのことなのだ。さらに、
もうひとつ考慮に入れておかねばならないのは、彼の攻撃が速戦即
決だということ。普通の犬は、歯をむきだしてみたり、首毛を逆だ
ててみたり、うなってみせたりと、いわゆる前哨戦を闘うことに慣
れている。だから、まだ闘いを始めもしないうち、あるいは、不意
を食らった驚きから立ちなおれずにいるうちに、あえなくも転倒し
て、一巻の終わりということになる。こういうことが、あまりにた
びたびくりかえされるので、そのうち、相手の犬がこういう予備的
行為をぜんぶ終えて、すっかり戦闘態勢をととのえおえるまで、い
や、場合によっては最初の一撃をしかけてしまうまで、ホワイト・
ファングをおさえておくというのが慣例になった。
とはいえ、ホワイト・ファングにとってのなによりの強みと言え
ば、百戦錬磨のつわものだったということだろう。闘うことについ
て、彼は相手となるどんな犬よりもよく知りつくしていた。場数も
多く踏んでいたし、さまざまな戦法や小細工にどう立ち向かうかも
心得ていた。自分でも多くの戦法を熟知していて、しかもそれら
は、ほとんど改良の余地がないほどすぐれたものばかりだった。
こうして、ときがたつにつれ、彼と闘う相手はしだいしだいに減
っていった。同等の力を持つ相手との組み合わせが無理になってき
たため、やむなくビューティー・スミスは、彼を狼と対戦させるま
でになった。それらはわざわざこの目的のためにインディアンが捕
獲してきた狼で、ホワイト・ファングとこうした狼との闘いは、い
つの場合も多数の観客を集めた。あるときは、じゅうぶんに成長し
た雌のオオヤマネコが調達されてきたこともあり、このときばかり
はホワイト・ファングも、命を賭けた闘いに臨むことになった。彼
﹅ ﹅
女の俊敏さは、彼自身にもひけをとらず、獰猛さにおいても彼と互
角、しかも彼は牙のみが武器であるのにたいし、彼女のほうは、鋭
いかぎづめを持つ四本の足までも、武器として使える。
だがこのオオヤマネコとの死闘を最後に、ホワイト・ファングの
ために仕立てられる試合はとだえた。闘う相手がいなくなってしま
ったのだ──すくなくとも、彼と闘わせるのにふさわしいと思える相
手は。というわけで、彼はただの見世物としてつぎの春までを過ご
したが、その春になって、ティム・キーナンと名乗る〈フェロー〉
[賭けトランプの一種]のディーラーが、この土地に乗りこんでき
た。そしてこのキーナンとともにやってきた犬、それこそがここク
ロンダイク地方に、最初に姿を見せたブルドッグなのだった。この
犬とホワイト・ファングとが、いずれ雌雄を決することになるの
は、避けられぬ成り行きと思われたから、それからの一週間という
もの、期待されるその決戦の話題で、町は持ちきりとなった。
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まといつく死
ビューティー・スミスが首の鎖をはずして、後ろにさがった。
ホワイト・ファングは、彼にしては珍しく、その場ですぐには攻
撃してゆこうとしなかった。耳を前へむけてぴんと立て、じっと立
ったまま、警戒しつつも好奇心を隠さぬ目で、正面にいる異様な動
あいまみ
物をじろじろながめている。いまだかつて、こんな犬と相見えたこ
とはない。そのブルドッグを前へ押しやりながら、ティム・キーナ
ンがそっと、「さあやれ」とささやきかけた。ブルドッグは、見物
人のとりまく輪の中央へ、よたよたと歩みでた。背が低く、ずんぐ
ぶ かっこう
りして、いかにも不恰好だ。そいつはやがて立ち止まると、目をぱ
ちぱちさせてホワイト・ファングを見た。
見物人のなかから、口々に声援が飛んだ。「さあ行け、チェロキ
ー!」。「やっちまえ、チェロキー!」。「丸呑みにしちま
え!」。
とはいえチェロキーは、とくに闘いたがっているようには見えな
かった。首をねじむけ、なにやら叫んでいる男たちを目をしばたた
きながら見やり、と同時に、いかにも気がよさそうに、尾とも言え
ないほど短い尾をふった。べつに闘いを恐れているのではなく、た
んに面倒くさいだけなのだ。それに、闘う相手として定められてい
るのが、いま目の前にいる犬だとも思えなかった。彼が闘い慣れて
﹅ ﹅
いるのは、こういうたぐいの犬ではない。だから彼としては、本物

の犬が連れてこられるのを待っているだけなのだ。
ティム・キーナンが進みでると、チェロキーの上に身をかがめ、
肩の両側をなでさすった。その手は毛並みに逆らって肩をなで、つ
いでに、わずかに前へ押しだすような動きをも加えた。それには多
くの暗示が含まれていた。と同時に、なでられて不快になるという
効果もあり、やがてチェロキーはうなりはじめた──ごく低く、喉の
奥のほうで、そっと。だがそのうなりと、人間の手の動きとのあい
だには、リズムのうえで相関関係があるようだった。前へ押しだす
ような手の動きが激しくなると、それにつれてうなり声も高まる
し、それがいったん静まったあと、つぎなる動作が始まるのととも
に、また新たに高まってゆく。一回の動作が終わるときが、リズム
のうえでのアクセントになっていて、やがて動作が唐突に打ち切ら
れると、うなり声は痙攣でも起こしたように一挙にはねあがる。
こうしたことが、ホワイト・ファングにも影響を及ぼさぬはずは
なかった。首筋から肩にかけての毛並みが、ぞわぞわと逆だちはじ
めた。そこでティム・キーナンは最後にもう一押し、ぐいとチェロ
キーを前へ押しだすなり、自分はふたたび後ろにさがった。チェロ
キーは、前へ押しだそうとする刺激がおさまると、自らすすんでそ
のまま前へ進み、がに股ですばやく走りだした。とたんにホワイ
ト・ファングが襲いかかった。驚愕まじりの感嘆の叫びがあがっ
た。犬というよりもむしろ猫さながら、彼はひととびで相手との距
離を縮め、おなじく猫も顔負けの敏捷さで牙をふるうなり、ひらり
ととびのいていた。
太い首筋を咬み裂かれて、ブルドッグは片耳の後ろから血を流し
はじめた。だが、咬まれたことについてはなんの反応も示さず、う
なることすらせぬままに、くるりと向きを変えると、またもホワイ
ト・ファングのあとを追いはじめた。これで両者の手のうちが明ら
かになり、いっぽうの俊敏さと、もういっぽうの沈着さとが、とも
に見物客たちの対抗意識に火をつけて、彼らは新たに賭けに参加し
たり、はじめの賭け金をふやしたりした。ここでもう一度、さらに
もう一度、ホワイト・ファングはたてつづけに相手のふところにと
びこみ、咬み裂きざまに、無傷のまま跳びすさるということをくり
かえした。ところが、その奇妙な敵は、あいかわらずとくに急ぐで
もなく、かといってゆっくりでもなく、そのくせ目的ありげな、断
固とした態度で、あくまでもビジネスライクにあとを追ってくる。
こういうやりかたには、じつはそれなりの趣旨があった──一意専
心、その目的を追求して、何事があろうと、それから目をそらすこ
となどしない、そういう趣旨が。
ブルドッグのそうしたふるまい、行動のすべてに、この趣旨が強
く刻印づけられていた。だがそれは、ホワイト・ファングをとまど
わせた。こんな犬は、まだ見たことがなかった。まずこいつには、
体を護ってくれる被毛がない。体は軟弱で、たやすく出血する。こ
れまでの同族の犬との闘いでは、厚い毛皮がたびたびこちらの牙の
邪魔になったものだが、こいつにはそういう毛皮もない。咬みつく
たびに、牙がやわらかな肉にやすやすと食いこむが、こいつにはそ
れを防ぐ手だてもないようなのだ。いまひとつ、ホワイト・ファン
グを当惑させたのは、この相手がまったく声をたてないことだった

── これまで闘ってきたほかの犬の場合、攻撃されて 音をあげるの
は、ごくあたりまえのことだったのに。ところがこの相手ときた
ら、ときに低くうなるか、鼻を鳴らすかするぐらいで、ただ黙々と
こちらの攻撃を受けとめる。しかもそのあいだ、こちらを追う勢い
がゆるむことはけっしてないのだ。
チェロキーはけっしてのろまだったわけではない。けっこう機敏
に向きを変え、回転することもできたのだが、あいにくホワイト・
ファングには追いつけなかったというだけだ。だから、とまどって
いるのはチェロキーとて同様だった。いまだかつて、そばに近寄る
ことさえできない犬と闘ったことなどない。いつの試合でも、接近
戦に持ちこみたいという気持ちは、対戦する双方が持っていた。と
ころが、この犬ときたら、つねにこちらとは距離をおいて、そこ、
ここ、あちらと身をかわし、はねまわるだけなのだ。しかも、たま
に咬みついてきたかと思えば、咬みついたままでじっとしているわ
けでもなく、すぐさま離れて、跳びすさる。
だがホワイト・ファングのほうにも、狙った相手の喉の下側、そ
このやわらかなところに咬みつくことができない、という問題があ
った。そのためにはブルドッグの背丈が低すぎるうえ、大きながっ
ちりしたあごが、防備をいっそう堅固にしているのだ。ホワイト・
ファングがひらりととびこみ、無傷のままとびのく、そのたびにチ
ェロキーの体の傷はふえてゆき、いまや首の左右も、頭の両側も、
いたるところ咬み裂かれて、傷だらけになっていた。血もおびただ
しく流れていたが、チェロキー自身はいっこう苦にするようすがな
い。あいかわらずよたよたと相手を追いかけまわすのをやめずにい
たが、それでも一度だけ、一瞬の迷いが出たようにぴたっと立ち止
まると、目をぱちぱちさせて見物の男たちをながめ、同時に短い、
かたちばかりの尾をふって、闘う意欲が衰えていないことを示し
た。
その瞬間を見すまして、ホワイト・ファングがとびかかり、そし
てとびのきざまに相手の片耳の、わずかに残った根っこを咬みちぎ
った。チェロキーもこれにはさすがに頭にきたのか、勢いを新たに
して追跡を再開し、ホワイト・ファングの描いている円の内側にそ
って走りながら、なんとか相手の喉にとびついて、そこをしっかり
くわえこもうとした。ほんの紙一重の差で、攻撃は空振りに終わ
り、どっと歓声があがるなかで、ホワイト・ファングは身軽に逆方
向に身を転じて、難をのがれた。
時が流れた。ホワイト・ファングはあいかわらずはねまわり、身
をかわし、方向を転じてはとびこみ、跳びすさり、そしてたえず相
手に損傷を与えつづけていた。そしてブルドッグのほうもまた、お
なじ不敵さ、おなじしぶとさを保ったまま、執拗にそのあとを追い
かけまわした。遅かれ早かれ、いずれは目的を達して、相手に食ら
いつき、闘いにけりをつけられるだろうが、それまでは、相手のし
たいほうだいの仕打ちに堪え、じっと我慢を通すまでのことだ。い
までは、耳は房飾りそこのけにずたずたになっているし、首と肩に
こうしょう
は二十カ所にも及ぶ咬 傷、くちびるまでが切れて、血をしたたらせ
ている──どれもが相手の電光さながらの攻撃によるもので、そのす
ばやさたるや、防備をかためるどころか、予測することすらむずか
しい。
そのあいだもホワイト・ファングは、再三、チェロキーに体当た
りし、転倒させようと試みたが、あいにく、両者の背の高さがちが
いすぎた。あまりにもチェロキーがずんぐりしていて、姿勢が低す
ぎるのだ。しかもホワイト・ファングは、その戦法を多く使いすぎ
た。彼がすばやく反転して、逆方向へと走りだす、その一連の流れ
のなかで、チャンスが到来した。彼はチェロキーが自分よりも緩慢
に反転しながら、顔をそむけるのを見てとった。肩がむきだしにな
った。ここぞとばかり、その肩めがけて体当たりしていったが、こ
ちらの肩のほうが位置が高いうえ、あまりに意気ごんでぶつかって
いったため、はずみで相手の体を乗り越えるかたちになった。長年
の彼の闘いの歴史のなかで、このときはじめて男たちは、ホワイ﹅ ﹅
ト・ファングが足場を失うのを見たのだ。全身が空中でなかばとん
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
ぼがえりを打ち、そのままならば、背から仰向けに地面に落ちてい
たはずだが、そこは彼のこと、なんとか足を地につけようと、まだ
体が空中にあるうちに、猫さながらに体をひねった。しかし完全に
足が立つところまでは行かず、体は横腹を下にして、どさりと地に
落ちた。つぎの瞬間には、身軽に立ちあがってはいたものの、まさ
にその瞬間を見すまして、チェロキーの歯が喉に食らいついてき
た。
正しく喉に咬みついたわけではなく、位置はだいぶ胸のほうにさ
がっていたが、それでもチェロキーは咬んだ歯をそのままゆるめな
かった。ホワイト・ファングは立ちあがるなり、ぶるぶると激しく
首をふって、ブルドッグをふりはらおうとした。その重み──首枷の
ようにしつこくぶらさがってくる重み──それが彼を逆上させた。そ
れは体の動きを妨げ、行動の自由を奪っていた。まるで罠にとらえ
られたみたいで、彼は全身全霊でそれに反発し、それを嫌悪した。
それは狂気に近い嫌悪だった。その後の数分間、彼のありさまはど
う見ても正気ではなかった。いま彼を支配し、衝き動かしているの
は、内なる原始的な生命だった。この体を生かしておこうとする意
思が、あふれるほどの勢いで身内をおおいつくしていた。命にたい
するこのいたって現実的な愛、それが彼を支配していた。あらゆる
理性はけしとんでいた。頭脳をどこかへ置き忘れてしまったようだ
った。理性を追いやって、それにとってかわったのは、生きたい、
動きたいという盲目的な欲求──なんとしてでも動きたい、動きつづ
けたいという渇望だった。なぜなら、動くことこそはすなわち、生
きていることのあらわれにほかならないのだから。
彼はやみくもにぐるぐる走りまわり、あるいは回転し、反転し、
逆もどりするなどして、なんとか喉にぶらさがっている五十ポンド
の重荷をふりはらおうとした。いっぽうブルドッグのほうは、ただ
食いついているだけで、なにもしようとしなかった。ときおり、ご
くまれにではあるが、足が地面に届いたときだけ、つかのまその足
を踏んばって、ホワイト・ファングと対峙しようとするが、つぎの
瞬間には、ふたたび足が宙に浮き、またしてもひきずりまわされ
て、ホワイト・ファングの狂気じみた回転の渦にほうりこまれる。
チェロキーの動きは、もっぱら本能と一体化していた。こうして食
いついて離れずにいること、これこそが正しい行動だと認識してい
たし、またそうすることにより、ある種のぞくぞくするような満足
感を味わってもいた。そのようなときは、目をうっとりととじさえ
して、手あたりしだいにあちらへ、こちらへとふりまわされるのに
まかせ、ふりまわされて痛い思いをしようとも、いっこう意に介さ
ない。痛みなど、いまさら問題ではないのだ。大事なのは、こうし
て食いついていること、食いついて離れずにいること、それだけな
のだから。
ホワイト・ファングがやっと動きを止めたのは、自身、へとへと
になってしまったからだった。これ以上どうすることもできず、ま
た、どうしてこうなったのか、そのわけものみこめなかった。これ
までさまざまな闘いを経験してきたが、こんなことはただの一度も
起きたためしがないし、闘った相手の犬たちも、こんな闘いかたは
けっしてしなかった。それらの犬が相手のときは、咬みつき、咬み
裂き、跳びすさる、咬みつき、咬み裂き、跳びすさる、これですべ
てかたがついたものなのに。いま彼は、なかば脇腹を下にして横た
わり、息をあえがせていた。いまなお喉に食いついたままのチェロ
キーが、ここで彼の体を押しこくって、完全に横倒しにしようとか
かってきた。ホワイト・ファングはそれに抵抗したが、そのあいだ
も、相手のあごが、食いついた位置をずらそうとしているのを感じ
とっていた。もぐもぐとものを嚙むように、咬んだ歯をわずかにゆ
るめて、また咬みついてくるのだが、そのたびに、咬んだ位置がじ
わじわと移動して、喉の急所に近づいてくる。要するに、いったん
食いついたら、あくまでもそこに食いさがり、さらに好機が到来し
たところで、一段と深く嚙み進める、それがこのブルドッグの戦法
なのだ。そしてその好機は、ホワイト・ファングがじっと動かずに
いるときにこそ到来する。だから、ホワイト・ファングがしきりに
もがいたり、暴れたりしているあいだ、チェロキーのほうは、ただ
食いさがっているだけで満足しているのだった。
ホワイト・ファングの牙がかろうじて届くのは、チェロキーの首
筋の、丸くふくらんだ部分だけだった。そこで、その首が肩につな
がる、その付け根のところに、どうにか咬みついてはみたものの、
もぐもぐ嚙み進むという戦法などまるで知らなかったし、そもそも
あごの形がそれには向いていない。動けるスペースをつくろうと、
牙で発作的にその周囲を咬み裂き、咬みちぎってみたが、そのう
ち、両者の位置が変わると、それも無理になった。やがて、ついに
彼を仰向けにころがすことに成功したブルドッグは、なおも喉に食
いついたまま、上に折り重なってきた。ホワイト・ファングは、猫
のように後脚を弓なりに曲げて、曲げた足の爪を上におおいかぶさ
った敵の腹に突きたてると、長く引き裂くような動きで、その腹を
ひっかきはじめた。そのままでいれば、チェロキーは臓物をえぐり
だされても不思議はなかっただろうが、そうなる前に、食いついた
あごを支点にして体を回転させた彼は、直角にホワイト・ファング
の体と重なったところで、その体の上からすべりおりていた。
それにしても、チェロキーのその執拗なあごをのがれるすべはど
こにもなかった。それはあたかも〈運命〉そのものにも似て、また
〈運命〉そのものとおなじく容赦がなかった。それは頸静脈にそっ
てじわじわと位置を上へずらしてきた。いまやホワイト・ファング
を死から救っているのは、ただひとつ、だぶだぶした首の皮と、そ
れをおおっている分厚い被毛だけだった。くわえた皮がチェロキー
の口のなかで大きなかたまりになっているうえ、嚙む力を被毛がほ
とんどはねかえしているからだった。それでもなお、すこしずつ、
機会さえあればそのたびに、一口ずつチェロキーは相手のだぶつい
た皮膚と毛皮とを口のなかにくわえこんでゆき、結果として、徐々
にホワイト・ファングの喉を締めあげてゆくことになった。時がた
つうちに、ホワイト・ファングはしだいしだいに呼吸困難に陥って
いった。
もはや闘いの帰趨は決したかのようだった。チェロキーに賭けて
いた男たちは、歓声をあげて、賭け率をとんでもない率にひきあげ
ようと持ちかけた。かたやホワイト・ファングに肩入れする一派
は、逆に意気消沈して、十対一とか、二十対一とかの賭け率をこと
ごとく拒否したが、ひとりだけ、無謀にも五十対一で賭けに応じよ
うと言いだした男がいて、それがほかでもないビューティー・スミ
スだった。彼は闘技場のなかへ一歩踏みこむと、いきなりホワイ
ト・ファングに指をつきつけた。それから、いかにもばかにしたよ
うな、冷笑的な声をあげて笑いはじめた。所期の効果をひきだした
のは、まさにこの笑いだった。ホワイト・ファングは、怒りに逆上
した。わずかに残っていた力をふりしぼり、もがくように起きあが
りはしたものの、なおも喉に食らいついている敵をひきずりひきず
り、闘技場のなかをよろめき歩くうちに、その怒りはパニックにま
で高まっていった。内なる原始的な生命が、またも彼を支配してい
て、生きようとするその肉体の意思の前で、理性はどこかへけしと
んでしまっていた。ぐるぐる走りまわり、また逆もどりし、つまず
き、倒れ、起きあがり、ときには後ろ脚で立ちあがって、敵の体を
宙に浮かせるなどしながら、なんとか喉に食いさがってくるその死
に神をふりはらおうとしてみたが、すべては無駄だった。
こんぱい
やがてついに、疲労困憊したホワイト・ファングは、後ろによろ
めいて、倒れた。と、すぐさまブルドッグが咬みついている位置を
ずらして、いっそう深く食いさがってき、毛皮におおわれた喉の肉
を、またすこし、またすこしと口にくわえこんで、それとともに、
いよいよ強くこちらの息の根をとめにかかってきた。やんやとばか
りに、勝者を声援する声があがり、「チェロキー!」、「チェロキ
ー!」という掛け声も、あまたとびかった。これにたいして、チェ
ロキーは短い尾を勢いよくふって答えたが、それでも、はたからの
こうした騒ぎに集中を妨げられることはなかった。彼の尾と、がっ
しりしたそのあごとのあいだには、なんら共鳴する関係などなく、
片方は愛想よくふられていても、もういっぽうはすさまじい力でホ
ワイト・ファングの喉を締めつけ、けっしてその力をゆるめること
はないのだ。
その場の集中を妨げる出来事、それが見物客の側で起きたのは、
このときだった。しゃんしゃんという鈴の音が聞こえてきたのだ。
犬橇の御者の掛け声も、それにまじって響きわたる。ビューティ
ー・スミスを除いて、いあわせた全員が不安げに顔を見あわせた。
警察の手入れにたいする懸念は、この男たちのあいだでは根強い。
だが、彼らの目が橇道の川下側ではなく、川上の方角に認めたの
は、犬にひかせた橇とともに走ってくる、ふたりの男の姿だった。
明らかに、どこか上流のほうで行なっていた金鉱試掘の旅を終え、
流れにそってくだってきたところらしい。人だかりを認めると、ふ
たりは橇犬たちを停止させ、なにがこの群衆を興奮させているのか
くちひげ
と、興味ありげに近づいてきた。御者のほうは、口髭をたくわえて
いるが、もうひとりの、彼よりも年若の、背の高い男は、きれいに

ひげを剃った、つるんとした顔をしていて、肌は、血の気が多いの
と、凍てつくような空気のなかを走ってきたのとの両方で、薔薇色
に上気していた。
ホワイト・ファングは、すでに事実上、もがくのをやめていた。
ときおり、痙攣的に体をふるわせ、抵抗を試みるが、効果はまるで
ない。ほとんど息を吸いこむことができず、吸いこめるわずかな空
気も、容赦なく喉を締めつけてくる力がいよいよ増すのにつれ、か
よろい
ぼそくなってゆくいっぽうだ。分厚い毛皮という鎧をまとってはい
るものの、最初にブルドッグに食らいつかれた箇所がずっと下のほ
う、ほとんど胸に近い位置でなかったなら、喉の太い血管は、とう
に食い破られていただろう。幸か不幸か、チェロキーが食らいつい
た箇所を上へずらすのに手間どったうえ、そのときくわえこんだ毛
皮やだぶだぶした皮膚が、同時に彼の口をふさぐ結果にもつながっ
ていたのである。
とかくするうちに、ビューティー・スミスのうちにひそむ底なし
の野獣性が、ついに頭にまでのぼってきて、彼の持ちあわせている
わずかばかりの正気をも支配しはじめていた。ホワイト・ファング
の目がどんよりしだしたのを見てとった彼は、闘いが決定的な敗北
に終わったのをさとった。とたんに、彼はとびだしていた。そして
ホワイト・ファングにとびかかるなり、荒々しく蹴りつけはじめ
た。群衆のなかから、制止する声や、抗議の叫びがあがったが、し
かしそれだけだった。状況は変わらず、なおもビューティー・スミ
スがホワイト・ファングを蹴りつづけるうちに、人垣のなかにざわ
ざわと動揺が走った。いましがたやってきた長身の若い男が、肩で
遠慮会釈なく人込みを押し分けて、前へ出ようとしていた。男が闘
技場のなかへとびこんできたとき、ちょうどビューティー・スミス
は片足をあげて、またひとつ蹴りを入れようとしているところだっ
た。全体重は残る片方の足にかかり、いたって不安定な体勢だった
が、まさにその瞬間に、新来の男のこぶしがまともに顔面に命中し
た。体重のかかっていたビューティー・スミスの足が地から離れ、
全身が宙に浮いたかと見るや、その体は後ろにのけぞりざま、どっ
とばかりに雪の大地に倒れた。新来の男は、くるりと見物客たちの
ほうに向きなおった。
「卑怯者めらが! このひとでなしめらが!」と、いきなり浴びせ
かける。
彼は怒りに身をふるわせていた──ただし、正気の怒りにだ。群衆
を見まわす灰色の目は、金属質の光を帯びて、鋼鉄さながらだっ
た。ビューティー・スミスがようやく起きあがり、鼻をぐすぐす鳴
らして、おそるおそるその男に近づいた。男はここへきたばかり
で、土地の事情には通じていなかった。いま近づいてくる相手が、
どれだけ卑劣な、見さげはてた臆病者かを知らず、てっきり相手は
仕返しをもくろんでいると思いこんだ。そこで、「このひとでなし
めが!」と一喝するなり、またも一発、ビューティー・スミスの顔
面にこぶしをたたきこみ、仰のけざまに吹っ飛ばした。雪の上に倒
れこんだビューティー・スミスは、もはやこの雪面以上に安全な場
所はないと思い定めたか、そこに倒れたまま、二度と起きあがろう
とはしなかった。
「おいマット、手を貸してくれ」新来の男は、犬橇の御者に声をか
けた。御者も若い男につづいて、闘技場にはいってきていた。
ふたりは犬たちの上にかがみこんだ。マットがホワイト・ファン
グの体に手をかけた。チェロキーのあごがゆるんだら、すぐさま引
き離そうという構えだ。若い男のほうは、ブルドッグのあごに手を
かけ、両手であごを上下にこじあけようとした。これは徒労だっ
た。ひっぱったり、ねじったりしながら、彼は一息ごとにうんうん
うなり、あいまには、「けだものめらが!」と吐き捨てた。
しだいに群衆がざわつきはじめ、なかには、せっかくのお楽しみ
を邪魔しないでくれ、と叫ぶものもいた。けれども、新来の男が一
瞬、手を休めて、顔をあげ、じろりと一同を睨みまわすと、そうし
た声も静まっていった。
最後に一声、「あんたらみんな、くそいまいましいけだもの
だ!」そうどなりつけると、男はまた仕事にもどった。
ややしばらくして、マットが切りだした。「無駄ですよ、ミスタ
ー・スコット。これじゃあとてもこの口はこじあけられません」
二人組は仕事を中断して、からみあった犬たちをながめた。
「出血はたいしてないようです」と、マットが所見を述べた。「ま
だ最後のところまでは食いちぎられちゃいないんでしょう」
「しかし、このようすだと、それもまもなくだぞ」スコットが言っ
た。「ほら、いまのを見なかったか? こいつ、またすこし咬みど
ころを変えやがった」
ホワイト・ファングのようすにたいする男の懸念と興奮とは、
徐々につのっていった。彼は手をのばして、チェロキーの頭のあた
りを何度も荒っぽく殴りつけたが、それだけではブルドッグのあご
をゆるませることはできなかった。なぜ殴られるのかはわかってい
ますよ、とでも言いたげに、チェロキーは短い尻尾をふってみせた
が、しかし同時にそのしぐさは、自分のしていることこそ正しく、
こうしてあごをゆるめずにいることで、自分は義務を果たしている
にすぎない、そうも心得ていることを示していた。
「だれか手を貸そうというものはいないか?」ついにたまりかね
て、スコットはまわりをかこんだ群衆にむかって叫んだ。
だが、だれひとり手を貸そうというものはなく、それどころか、
男たちはかえって嫌味たらしくスコットにむかって喝采を送った
り、ふざけた助言を浴びせたりしはじめた。
て こ
「梃子が必要らしいですな」と、マットが言った。
そう聞くと、若い男は腰のホルスターに手を入れ、リボルバーを
抜きだして、その筒先をブルドッグの歯のあいだにこじいれようと
した。力まかせに押しこみ、こじいれているうちに、とうとう、食
いしばった歯に銃の鋼鉄がこすれて、きいっときしむのがはっきり
聞きとれた。男たちはふたりともその場に膝をつき、犬たちの上に
かがみこんでいたが、そこへティム・キーナンがあらわれて、つか
つかと闘技場のなかへはいってきた。スコットのそばに立ちはだか
った彼は、その肩に手をかけて、不穏なこわ声音で言ってのけた。

「おいあんた、だれだか知らんが、そいつの歯を折らねえでくれ
よ」
「だったら、首でも折ってやろうか」スコットはそう言いかえす
と、なおもリボルバーの銃口を押しこんだり、こじったりする作業
をつづけた。
「歯を折らねえでくれと言ったんだぞ」〈フェロー〉のディーラー
は、いっそう険悪な声音になってくりかえした。
﹅ ﹅ ﹅ ﹅
だが、もしはったりのつもりでそう言ったのだとしても、効果は
なかった。スコットはあいかわらず手を動かすのをやめず、かわり
に平然と顔をあげて、たずねた──
「あんたの犬か?」
〈フェロー〉のディーラーは、鼻を鳴らすだけで答えた。
「だったら、ここへきて、こいつの歯をゆるめてくれ」
「あのなあ、どなたさんか知らねえけどよ」ティム・キーナンはい
らだたしげに、わざとのろのろした口調で言った。「いまさら言っ
ても始まらねえが、こいつはこのおれの仕組んだことじゃねえん
だ。どうすりゃもとにもどせるかなんて、おれだって知るもんか」
それへの答えは、「だったら、そこをどいてくれ」というものだ
った。「邪魔をしないでほしいんだよ。こっちは忙しいんだ」
それでも、ティム・キーナンはスコットのそばに立ちはだかった
きり動かなかったが、スコットはもはや彼のことなど一顧だにしな
かった。どうにか銃の先を口の片側から押しこむことに成功してい
て、いまはそれで反対の側の歯をこじあけ、筒先を向こうへ押しだ
そうと懸命だったのだ。それを成し遂げると、今度はそっと銃身を
こじるように動かして、すこしずつすこしずつ、食いしばったあご
をゆるめてゆき、同時にマットのほうもまたすこしずつ、しっかり
くわえこまれたホワイト・ファングの首を解放していった。
「おいあんた、自分の犬を受け取る用意をしろ」というのが、チェ
ロキーの飼い主への、有無を言わさぬスコットの命令だった。
〈フェロー〉のディーラーは、言われるままにしゃがみこむと、し
っかりチェロキーをおさえた。
「いまだ」スコットがそう言いながら、最後にぐいと銃身をこじっ
た。
犬たちは引き離されたが、引き離されつつも、ブルドッグはさか
んに暴れた。
「連れていけ」スコットが命令し、ティム・キーナンはチェロキー
をひきずって人垣のなかへもどった。
ホワイト・ファングは、起きあがろうとして、何度かむなしい努
力を重ねた。一度はどうにか足を地に踏んばったものの、脚の力が
弱っていて、体を支えきれず、またずるずるとくずおれて、雪の上
に倒れこんだ。目はなかばとじられ、眼球の表面もどんより曇って
いる。口はあんぐりひらき、歯のあいだから舌がはみでて、だらり
とたれている。どこから見ても、首を絞められて、いまにも窒息死
あらた
寸前といったようす。マットがその全身を検めた。
「すっかりへばってますね」と、報告する。「しかし、呼吸はまだ
しっかりしてますぜ」
ビューティー・スミスもすでに起きあがっていたが、ここでホワ
イト・ファングのようすを見に、寄ってきた。
「マット、優秀な橇犬はいくらぐらいする?」と、スコットがたず
ねた。
いまだにひざまずいたまま、ホワイト・ファングの上にかがみこ
んでいた犬橇の御者は、そう問われて、しばし暗算でもするような
表情になった。
それから答えた。「三百ドル」
「だったら、こいつみたいにすっかり痛めつけられてるやつだと、
いくらだ?」スコットが爪先でそっとホワイト・ファングをこづき
ながら、重ねてたずねた。
「その半額ってところかな」と、犬橇の御者が判断をくだした。
スコットはいきなりビューティー・スミスのほうに向きなおっ
た。
「聞いたか、ミスターひとでなし? おれはこの犬をあんたからひ
きとるつもりだ。かわりに百五十ドル出そう」
札入れをあけると、彼はそれだけの紙幣を数えて、とりだした。
ビューティー・スミスは両手を腰の後ろにまわし、さしだされた
金に手を触れるのを拒否した。
「売る気はねえ」と、言ってみる。
「いいや、売るんだ」相手はきっぱり言ってのける。「なぜなら、
このおれが買うんだからな。さあ、これがあんたの金だ。犬はおれ
のものだ」
依然として両手を後ろにまわしたまま、ビューティー・スミスは
じりじりとあとずさりしはじめた。
スコットがすばやく追いすがり、こぶしを後ろにひいて、殴る構
えを見せた。またも殴り倒されることを予想して、ビューティー・
スミスは身をすくめた。
「おれにだって権利はある」と、弱々しく鼻を鳴らして言う。

「この犬を所有する権利なら、とっくに喪失してるさ」法廷での
とう

答よろしく、きっぱり言いかえされた。「さあ、この金を受け取る
か? それとも、もう一度ぶんなぐってもらいたいか?」
「わかったよ」殴られる恐怖から、ついせきこんだ口調になった。
「けど、喜んで受け取るんじゃねえからな」と、念を押す。「そい
つはとびきりすばらしい犬なんだ。それをむざむざさらっていかれ
てたまるか。人間には権利ってものがあるんだ」
「たしかにね」そう答えながら、スコットは金を相手に手わたし
た。「たしかに人間には権利というものがある。しかし、そう言う
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
あんたは人間じゃない。けだもの、ひとでなしだよ」
「待ってろよ、いずれおれはドーソンにもどる。そしたら訴えてや
るからな」ビューティー・スミスは脅した。
「ならばドーソンにもどったとき、そんな大口をたたいてみるがい
い。町からたたきだしてやる。わかったな?」
ビューティー・スミスはふんと鼻を鳴らすだけで答えた。
「わかったな?」相手はふいにいかめしい態度になって、とどろく
ような大声でどなりつけてきた。
「ああ」しりごみしながら、ビューティー・スミスはぶつぶつ言っ
た。
「ああ──それだけか?」
「ああ、はい、旦那」ビューティー・スミスはとげとげしく言いか
えした。
「気をつけろ! そいつ、咬みつくぜ!」だれかが叫び、人垣のな
かから、げらげらばか笑いする声が起きた。
スコットはそちらに背を向けると、ホワイト・ファングを介抱し
ている犬橇の御者の手助けにもどった。
周囲の男たちの何人かは、すでに引き揚げかけていたが、ほかに
もまだ三々五々かたまって、形勢をうかがいながら立ち話をしてい
る連中がいた。ティム・キーナンがその集団のひとつに加わった。
「何者だ、あの野郎は?」そう問いかける。
「ウィードン・スコットだよ」だれかが答えた。
「で、何者なんだ、そのウィードン・スコットってのは?」〈フェ
ロー〉のディーラーは問いつめる。
「なに、ピカ一の鉱山技師のひとりさ。お偉がたみんなと対等につ
きあってる。面倒なことを避けたければ、あいつには近づかないこ
った、そう言いたいね。なんせ、役人どもともうまくやってるし
ふんけい
な。金鉱局長官なんて、あいつとは刎頸の友なんだそうだ」
「ただものじゃないとは思ったぜ」〈フェロー〉のディーラーはそ
う論評した。「だからおれは、はなからかかわりを持たねえように
してたんだ」
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不屈の魂
「こりゃお手上げだな」と、ウィードン・スコットが心中の思いを
口にした。
彼はバンガローの上がり口の階段に腰かけ、犬橇の御者をじっと
見つめていた。見つめられたほうも、やはり見込みがないという意
味で、軽く肩をすくめて答えた。
彼らはふたりしてホワイト・ファングを見やった。ぴんと張った
鎖の先端で、首毛を逆だて、うなり、猛々しく気負いたって、橇犬
たちにつっかかってゆこうとしている。橇犬たちは、マットからさ
まざまなレッスンを──それも、棍棒という手段でほどこされるレッ
スンを──受けたあげく、ようやく、ホワイト・ファングにはかまわ
ずにおくという習慣を身につけていて、げんにいまも、やや離れた
ところで横になり、一見、ホワイト・ファングの存在など忘れたよ
うにふるまっている。
「要するに狼なんだから、手なずけるのは無理だってことさ」ウィ
ードン・スコットがきっぱり言いきった。
「いや、そうとも言いきれませんぜ」マットが反論した。「旦那が
なんとおっしゃろうと、犬の血はずいぶん濃く流れてるみたいだ
し。しかしね、それよりなにより、ひとつだけあたしがまちがいな
いと思ってることがありまして。それがどうしても頭を離れないん
です」
犬橇の御者は気を持たせるように間をおき、なにやら自信たっぷ
りに、かなたのムースハイド・マウンテンのほうへあごをしゃくっ
てみせた。
然るべき間合いをおいてから、スコットはこころなし鋭い口調で
言った。「なんだよ、知ってることがあるんなら、もったいぶらず
に言うがいい。さあ、白状しろよ。なんなんだ?」
犬橇の御者は立てた親指を後ろに向け、ホワイト・ファングをさ
した。
「狼でも、犬でも、それはどうだっていいんですが──あいつはね、
以前、ひとに飼われてたことがありますよ」
「まさか!」
「まちがいありません。それに、引き革をつけられるのにも慣れて
ます。よく見てごらんなさい。胸を横切ってる跡が、何本か見える
でしょう?」
「まったくだ、おまえの言うとおりだよ、マット。ビューティー・
スミスのものになるまでは、こいつ、橇犬だったんだな」
「だったら、また橇犬にもどれない、と決まったものでもないでし
ょう」
「おまえ、なにを考えてる?」スコットは勢いこんでたずねた。だ
がすぐにその期待も薄れたのか、首をふりながらつけたした。「わ
れわれがあいつを手に入れてから、もう二週間にもなるんだぞ。な
のに、多少なりと変化があったとすれば、最初よりもいまのほう
が、もっと手に負えなくなってるってことぐらいじゃないか」
「あいつに機会を与えてやっちゃどうです」マットが助言した。
「しばらく放してみるんですよ」
スコットはあきれたように彼を見つめた。
「いや」マットは言葉をつづけた。「旦那がもうためしてみられた
ってことはわかってます。でもね、そのとき旦那は棍棒をお持ちじ
ゃなかった」
「ならばおまえがためしてみろよ」
犬橇の御者は棍棒を持ってくると、鎖につながれたけもののほう
へつかつかと歩み寄った。ホワイト・ファングはその棍棒を、檻の
なかのライオンが調教師の鞭を見るような目つきで、まばたきもせ
ずに見つめた。
「ね、わかるでしょう、こいつ、ぜったいに棍棒から目を離さな
い」と、マットが言った。「これはいい徴候ですぜ。つまりこいつ
はばかじゃない。こっちが棍棒を手にしてるかぎり、自分から襲っ
てくるような無茶な真似はしないってことです。完全に狂ってるわ
けじゃないという、いい証拠ですよ、ええ」
男の手が自分の首に近づいてくると、ホワイト・ファングは首毛
を逆だて、うなり声を発して、低く身をすくめた。だが、近づいて
くる手をじっと見つめる、そのいっぽうでは、男のもういっぽうの
手に握られた棍棒──威嚇するように頭上で宙ぶらりんになっている
棍棒──にも目を配り、油断なくその動きを追った。そこでマットが
いきなり首輪から鎖をはずし、後ろにさがった。
一瞬、ホワイト・ファングには、解放されたことがぴんとこなか
った。彼の所有権がビューティー・スミスの手に移ってから、すで
に何カ月もが経過しているし、そのあいだ、一瞬たりと自由になっ
たことはない。鎖から解き放たれるのは、他の犬と闘わされるとき
だけ、しかもそのときですら、闘いが終われば、すぐまた檻にとじ
こめられるのだ。
いまこうして自由にされたこと、それをどう受け取っていいのか
も彼にはわからなかった。ことによると、神々によるなにか新手の
悪辣な小細工が、自分にたいして仕掛けられようとしているのか
も。いつなんどき襲ってこられてもいいように、身構えながらゆっ
くりと、慎重に歩きだした。依然として、この先どう行動したらい
いのかわからない。なにしろこれは、まったく前例のないことなの
だ。じっとこちらを見ているふたりの神々を避け、大きく迂回する
という警戒策をとりながら、バンガローの角まで用心ぶかく歩いて
いった。なにも起こらない。いよいよわけがわからなくなって、ま
たもとのところまでもどってくると、十フィート余り離れて、ふた
りの男をじっと注視した。
「逃げやしないだろうな?」と、新しいあるじがもうひとりに問い
かけた。
マットは肩をすくめた。「いちかばちか、やってみなくちゃね。
これしか方法はないんです、確かめたいことを確かめるのには」
「かわいそうにな」スコットが憐れむ調子でつぶやいた。それか
ら、「こいつに必要なのは、人間のやさしさを見せてやることさ」
とつけくわえると、身を返して、バンガローのなかにはいっていっ
た。
まもなく出てきたときには、肉を一切れ手にしていて、それをホ
ワイト・ファングの足もとにむけてほうった。ホワイト・ファング
は跳びすさると、やや離れたところから、疑わしげにその肉片をな
がめた。
「おい、こら、やめろ、メジャー!」マットが警告の叫びを送った
が、すでに遅かった。
橇犬のメジャーがその肉片にとびついたのだった。彼がそれをく
わえた、そう思うまもなく、ホワイト・ファングが猛然と襲いかか
っていた。メジャーははねとばされた。マットが急いで割ってはい
ったが、ホワイト・ファングのすばやさにはかなわなかった。メジ
ャーはよろよろと立ちあがったが、その喉からは血が噴きだし、そ
れが雪面を赤く染めながらひろがっていった。
「気の毒だが、しかし自業自得ってもんだ」スコットがややあわて
ぎみに口をはさんだ。
だがマットの足は、すでにホワイト・ファングを蹴りつけようと
していた。鮮やかな跳躍、牙のひらめき、鋭い叫び声。そしてホワ
イト・ファングは猛々しくうなりながら、身を低くして数ヤード後
ろへとびのき、いっぽうマットはかがみこんで、おのれの脚を検分
していた。
「やられましたよ、みごとにね」そう言って彼は、裂けたズボンと
下着、そしてそこにひろがってゆく血のしみをゆびさした。
「だから言っただろう、マット、どうしようもないってさ」スコッ
トが落胆した調子で言った。「いままで何度か考えてたんだ──考え
たくもなかったけどな。しかし、こうなったらもう捨ておけん。こ
うするしかないんだ」
そう言いながら、彼はいかにも気乗りのしないようすでリボルバ
そうてん
ーを抜きだすと、回転弾倉をあけて、弾が装塡されているかどうか
を確かめた。
「ちょっと待ってくれませんか、ミスター・スコット」マットが反
対を唱えた。「この犬は、いままでそりゃあひどい目にあってきた
んです。そう簡単に、白く光り輝くような天使になれったって、無
理というもんだ。こいつに時を貸してやってほしいんですよ」
「メジャーを見ろ」スコットが言いかえした。
あらた まる
犬橇の御者は、手負いの犬のようすを検めた。円くひろがった血
溜まりのなか、雪の上にぐったり倒れ伏して、明らかに虫の息だ。
「自業自得ですよ。ご自分でもそうおっしゃったでしょう、ミスタ
ー・スコット。こいつはホワイト・ファングの肉を横どりしようと
した。だから、やられちまった。当然の報いです。むしろ、自分の
肉を横どりされて、反撃しようともしない犬なんて、あたしだった
はな
ら洟もひっかけやしませんね」
「ならば、おまえ自身はどうなんだ、マット。犬が相手なら、まあ
大目に見るとしても、相手が人間となると、どこかで一線を画さな
きゃならんだろ?」
「あたしだって、いわば自業自得なんですよ」マットは頑固に言い
張った。「いったいまたなんで、こいつを蹴っとばそうなんて考え
たんだろう。旦那だって、こいつは当然のことをしたまでだ、そう
おっしゃった。だったら、あたしにもこいつを蹴とばす権利なんか
なかったってことです」
「いや、殺してやるのこそ、こいつにとっては情けってものだ。と
ても飼い馴らすことは無理なんだから」スコットも負けじと言い張
った。
「しかしねえ、ミスター・スコット、なんとかこのかわいそうなや
つに、生きるために闘うチャンスだけでも与えてやっちゃもらえま
せんか。こいつはまだそのチャンスすら与えられちゃいないんだ。
さんざん地獄をくぐりぬけてきて、自由になったのは、いまがはじ
めてなんですから。どうかお願いします、公平な機会を与えてやっ
てほしいんですよ。そいでもって、万一こいつが期待に添わないよ
うなら、あたしがこの手で始末してみせますから。ええ!」
「正直なところ、おれだってこいつを殺したくはないし、殺させた
くもないさ」そう答えて、スコットはリボルバーをしまった。「じ
ゃあ自由にしてやって、やさしくしてやれば、どういう効果がある
か確かめるとしようか。まず手はじめが、これだ」
彼はすたすたとホワイト・ファングに歩み寄ると、やさしく、な
だめるような調子で話しかけはじめた。
「棍棒を用意しといたほうがいいですぜ」マットが警告した。
スコットは黙って首を横にふると、つづけてホワイト・ファング
に話しかけて、その信頼を得ようとした。
ホワイト・ファングは警戒をゆるめなかった。なにかがいまにも
起ころうとしている。自分はこの神の犬を殺した。神の友達の神を
咬みもした。とすれば、なんであれおそろしい懲罰がくだる以外
に、なにが期待できるというのか。にもかかわらず、ホワイト・フ
ァングは依然として、不屈の魂の持ち主だった。首毛を逆だて、牙
をむきだし、目は警戒心もあらわに、体全体も油断なく、なにがあ
ってもいいように身構えている。この神は棍棒を手にしていない。
だからこちらも我慢して、すぐそばまで近づくのを許した。そのあ
いだに神の手がさしのべられて、いまは頭上に降りてこようとして
いる。その手の下で、ホワイト・ファングはすくみあがり、小さく
なって、体をかたくした。さあ、いよいよ危険が迫ってくる──なん
らかの裏切り行為、またはその種の小細工が。神々の手のことな
ら、よく心得ている──すでに立証ずみのその支配的な力、痛めつけ
てくるときのその抜け目のなさ、なにもかも。しかも、もともと触
れられるのを嫌うという、彼の生まれながらの性癖もある。いっそ
う低く身をすくめながら、さらに威嚇的にうなってみせたが、手は
なおも頭上にさがってくる。その手を咬みたくはないし、ぎりぎり
までその危険な手の接近を我慢してみたが、そのうちついに、持っ
て生まれた本能が身内で大きくふくれあがり、その飽くことを知ら
ぬ生へのうずきで、彼を圧倒しさった。
これまでウィードン・スコットは、たとえ襲われても、咬みつか
れても、それを避けられるだけ自分は機敏だと思いこんでいた。と
ころが、ホワイト・ファングの驚くべき敏捷さについては、まだ認
識が不十分だったとわかった。なんと、この相手ときたら、とぐろ
を巻いた蛇そこのけの確実さ、すばやさで襲ってきたのだ。
あっと驚愕の叫びをあげて、スコットは引き裂かれた手をもうい
っぽうの手でつかむと、強くおさえた。マットもまた、大声で毒づ
いて、主人のそばに駆け寄った。ホワイト・ファングは低くうずく
まって、首毛を逆だて、牙をむきだし、目には殺意をみなぎらせつ
つ、じりじりと後退した。こうなっては、もはや予想できるのは、
かつてビューティー・スミスから受けたどんな折檻よりもおそろし
い折檻しかない。
「おい! なにをするつもりだ!」とつぜんスコットが声をはりあ
げた。
バンガローに駆けこんでいったマットが、すぐまたライフルを手
にしてあらわれたのだ。
「べつに」マットは落ち着きはらって言ったが、その投げやりな平
静さは、見せかけのものだった。「ただ、約束を守ろうとしてるだ
けのことでね。さっきそう言ったように、こいつの始末をつけるの
はあたしの役目だと思うから」
「ばかな、そんなことはさせんぞ!」
「いいや、やります。まあ見ててもらいましょう」
さいぜん自分が咬まれたとき、マットがホワイト・ファングの命
乞いをしたのとおなじに、今度はウィードン・スコットが命乞いを
する役まわりになった。
「こいつに機会をやれと自分で言っただろうが。だったら、それを
与えてやろうじゃないか。だいいち、いま始めたばかりなんだぞ、
われわれは。始めたばかりでやめるわけにはいくまい。おれの自業
自得なんだよ、今度は。それに──そら、あいつを見るがいい!」
ホワイト・ファングは、四十フィートほど離れたバンガローの角
まで後退すると、そこから血も凍るほどの悪意をこめて、獰猛にう
なりたてていた──それも、スコットに、でなく、マットにむけて。
「いやはや、この調子だと、あたしは永久に呪われそうだ!」とい
せりふ
うのが、驚き入った犬橇の御者の発した台詞だった。
「たいしたものじゃないか、あの賢さは」と、スコットはせきこん
でつづけた。「火器の持つ意味を、おまえやおれに劣らず、よく心
得てるってわけだ。知恵をそなえてるんだよ。だからわれわれとし
ても、その知恵を発揮する機会を与えてやらなきゃならん。銃をし
まうんだ」
「いいですとも、喜んで」マットは承諾して、ライフルをそばに積
まれた薪の山に立てかけた。
だがそのつぎの瞬間には、またも驚きの声をあげていた。
「やや、こりゃどうだ! ごらんなさい、あれを!」
ホワイト・ファングがうなるのをやめ、おとなしくなっていた。
「ためしてみる値打ちがありますぜ、これは。見ておいでなさい」
マットはそっとライフルに手をのばした。と同時に、ホワイト・
ファングが猛然とうなりだした。つぎにマットがライフルから離れ
ると、ホワイト・ファングもくちびるをめくりあげるのをやめて、
牙を隠した。
「さてと、今度はほんのお慰みまでに」
そう言って、マットはもう一度ライフルを手にすると、ゆっくり
と肩にあてがうしぐさをした。ホワイト・ファングのうなりは、彼
のそのしぐさとともに始まり、しぐさが終わりに近づくにつれ、声
もおなじように高まっていった。ところが、ライフルが肩まであが
りきって、狙いがつけられるその寸前に、ホワイト・ファングはひ
らりと横に跳んで、バンガローの角の向こうに隠れた。マットは呆
然と立ちつくして、たったいままでホワイト・ファングのいた、だ
がいまは白々と雪面がひろがっているきりの箇所を、銃の照星ごし
に、ただまじまじと見つめるばかりだった。
やがて彼はおごそかな面持ちで手にした銃を置き、それからふり
かえって、雇い主を見た。
「いや、おっしゃるとおりですな、ミスター・スコット。あの犬は
賢すぎて、殺しちまうのは、もったいなさすぎる」
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愛の主人
ホワイト・ファングは、ウィードン・スコットが近づいてくるの
を油断なく見まもりながら、首毛を逆だて、うなり声を発して、懲
罰なんぞに負けはしないぞという気組みを示した。スコットの手に
咬みつき、大きく裂けた傷を負わせてから、まる一日が経過してい
た。いまその手は包帯を巻かれ、ふたたび出血するのを防ぐため、
三角巾で肩からつってある。過去の経験から、懲罰が先送りにされ
ることもあるのを知っているホワイト・ファングとしては、これか

らいよいよそのての懲罰を食らうことになるのだと覚悟するしかな
い。それ以外のなにが予想できるだろう? 自分のしたことは、瀆
神的な行為にほかならない──神の聖なる肉体に牙を突きたてたのだ
から。それも、あろうことか、白い肌を持つすぐれた神の、その肌
に。ものの道理として、そしてまた、これまで神々と触れあってき
た、その体験から割りだせば、ここは当然、なんらかのおそろしい
懲罰が待っているはずなのである。
神は数フィート離れたところに腰をおろした。そのようすに、な
んら危険なものは見いだせない。神々が犬に折檻を加えようとする
とき、彼らは立っているものだ。おまけに、この神は手に棍棒も、
鞭も、飛び道具も持ってはいない。さらに言えば、ホワイト・ファ
ング自身は自由の身。鎖にも、棒切れにもくくられてはいない。相
手が立ちあがろうとしてもたもたしているあいだに、さっさと安全
なところへ逃げられるのだ。ならば、いましばらくはこのままでい
て、成り行きを見まもることにしよう。
神はじっとすわったまま、身じろぎひとつしなかった。いきお
い、ホワイト・ファングのうなり声も徐々に静まって、喉を低く鳴
らすだけになり、やがてはそれもかすれていって、ついに消えてし
まった。と、神が話しかけてきた。その声の最初の音が聞こえた瞬
間に、ホワイト・ファングの首筋の毛が逆だち、おさまっていたう
なり声が、一挙に喉もとに衝きあげてきた。ところが神はなんら敵
意ある動きは見せず、ただ穏やかに話しつづけているきりだ。ちょ
っとのあいだホワイト・ファングは、神が話すのといっしょになっ
てうなり、そのうなり声と話し声とのあいだには、リズムのうえで
の調和さえ生まれかけた。なのに神は、なおもとめどなく話しつづ
ける。神が話しかけてくるその口調は、これまでホワイト・ファン
グが一度として耳にしたことのないものだ。柔和に、なだめるよう
に、声はつづき、それに含まれたあるやさしさが、いかにしてか、
きんせん
いかなるところでか、ホワイト・ファングの心の琴線に触れた。知
らずしらず彼は、この神に信頼を寄せはじめた。この神とのあいだ
には、ある種の安心感があったが、それはこれまでの人間たちとの
経験では、ことごとく裏切られつづけてきたものだった。
長い時間がたって、神はやおら腰をあげると、バンガローにはい
っていった。ふたたびあらわれたとき、ホワイト・ファングは懸念
の目でまじまじと神を見据えた。あいかわらず、鞭も、棍棒も、飛
び道具も手にはしていない。怪我をした手を背後にまわしている
が、その手もなにかを隠し持っているふうではない。神はふたたび
数フィート離れて、さっきとおなじ場所に腰をおろした。さしだし
た手には、小さな肉片がひとつ。ホワイト・ファングは耳をぴくぴ
くさせて、猜疑の目でその肉片を見たが、いっぽうでは、神のほう
にも油断なく目を配って、ふたつを同時に見くらべながら、なにか
ちょっとでも不穏な気配が見えたら、すぐにでも横っとびで逃げら
れるよう、体をかたくして、緊張をゆるめずにいた。
だが依然として、懲罰は先送りにされていた。神はたんに彼の鼻
先に肉片をつきつけているだけだ。そして肉そのものにも、なんら
おかしなところは見受けられない。にもかかわらず、ホワイト・フ
ァングの疑いは晴れなかった。肉は何度か誘いかけるように、ぐい
ぐいと鼻先で打ちふられたが、彼はなおもそれに触れるのを拒絶し
た。これらの神々は、とてつもなく賢い。だから、一見すると無害
なこの肉片にも、どんな巧妙な裏切りが隠されているか、知れたも
のではないのだ。過去の経験、とりわけインディアンの女たちを相
手にしたときの経験では、往々にして肉と懲罰とが、とんでもない
かたちで結びついていたものだった。
しばらくすると、ついに神は肉片をこちらの足もとの雪にむけて
ほうってよこした。ホワイト・ファングは、慎重にそれを嗅いでみ
はしたが、それに目を向けることはしなかった。においを嗅いでい
るあいだ、目は神を見つめたきり動かさなかった。なにも起こらな
い。肉をくわえて、飲みこんだ。やはりなにも起こらない。いや、
それどころか、神はまたつぎの肉片をさしだしている。今度もまた
ホワイト・ファングは、それを神の手からじかに受け取ることを拒
絶し、今回もそれはこちらへむけてほうられた。こういうことが何
度となくくりかえされたが、そのうちついに、神は肉片を投げてよ
こさなくなった。手に持ったままで、ただこちらへさしだしている
きりだ。
肉は上等な肉だったし、ホワイト・ファングは腹をすかせてい
た。というわけで、すこしずつ、ほんのすこしずつ、かぎりない用
心ぶかさで、その肉をさしだしている手に近づいていった。そうし
てついに、その手からじかに肉を食べようと心を決めるまでになっ
た。一瞬たりと、神から目を離さず、耳を後ろに寝かせて、そろそかん
ろと首を前へのばしてゆくうちに、知らずしらず毛が逆だって、
もう

毛さながらに頭のてっぺんでそよいだ。喉の奥でも、同時にごろご
ろという低いうなり声が起こって、なめられるつもりはないぞ、と
はっきり警告を送っていた。最後にようやく肉片が口にされたが、
なにも変化は起こらなかった。また一切れ、また一切れ、とうとう
一切れ残らず食いつくしてしまったが、それでもやはり何事もな
い。依然として、懲罰は先送りにされたままだ。
舌なめずりをして、彼は待ち受けた。神はなおも話しつづけてい
る。その声にはやさしさがあった──これまでの経験では、まったく
聞いたことのないものだ。しかも、彼自身のうちにも、同様に、こ
れまで体験したことのないある感情がめばえかけていた。ある種の
奇妙な満足感──あたかもなんらかの欲求が満たされつつあるよう
な、身内にぽっかり口をあけたなんらかの空隙が埋められてゆくよ
うな。と、そこでまた、生まれ持った本能のうずきが、過去の経験
からくる警告が、彼に注意をうながした。これらの神々はおそろし
くずるがしこく、おのれの目的を遂げるためには、およそ予想もつ
かない手を使ってくるぞ、と。
そら、やはり思ったとおりだ! いよいよおいでなすった。目の
前の神の手──こちらを痛めつけようとする奸智を隠し持ったその手
──それがこちらにむかってつきだされ、さらに頭の上へと降りてこ
ようとしている。だが、神はいまだに話しつづけている。声は穏や
かだし、やんわりなだめすかすような響きもある。威嚇的な手とは
裏腹に、声は信頼感をかきたてる。そして声が安全を保証している
のとは裏腹に、手は不信感をかきたてる。これらふたつの矛盾する
感情に、相対立する衝動に、ホワイト・ファングは引き裂かれた。
いまにもちりぢりに吹っ飛んでしまいそうだった。いま身内でたが
いに支配権をめぐってせめぎあっているふたつの勢力、それを分裂
させずにおくために、彼はおそろしいほどの自制心を働かせてい
た。
そして結局は妥協した。うなり、首毛を逆だて、耳を寝かせた。
だがその反面、咬みつきもせず、とびのきもしなかった。手が降り
てきた。近く、ますます近くさがってくる。やがて、ぴんと逆だっ
た毛の先端に触れた。その手の下で、彼はすくみあがった。手はそ
の彼を追ってさらに降りてき、いよいよぴったり押しつけられてき
た。縮みあがり、ほとんど恐怖におののきつつも、彼はなんとか自
分をおさえることができた。それは拷問に等しかった──こうして触
れてきて、彼の生まれ持った本能を踏みにじろうとするその手は。
人間たちの手で、これまで彼の身にもたらされてきた数々の害悪、
それはたった一日で忘れられるようなものではない。とはいえ、そ
れがこの神の意思であるのなら、なんとか服従すべく努めるしかな
いのだ。
手がいったんあがり、ふたたびさがってきた。愛撫するように、
軽くぽんぽんとたたくしぐさをくりかえす。しばらくそれがつづい
たが、それでも、手が持ちあげられるたびに、その手の下で、彼の
被毛も逆だった。そして、手がさがってくると、そのたびに耳はぴ
たりと寝かされ、喉の奥で、うつろに響くうなり声があがる。ぐる
るる、ぐるるる、とホワイト・ファングはうなりつづけ、執拗な警
告を送りつづけた。そうすることで、かりにもこの自分になんらか
の危害が加えられるようなことがあれば、いつでも報復するぞ、と
宣言しているつもりだった。この神のいわゆる〝秘められた動機〟
というのが、いつあらわになるか、知れたものではないのだ。この
穏やかな、信頼感をかきたてる声にしても、いつなんどき怒気を噴

出して、破れ鐘さながらにがなりはじめるかわからないし、やさし
く愛撫してくれるその手も、いきなり変貌して、万力のような力で
自分をおさえつけ、手も足も出ないようにしてから、懲罰を加えて
くるかしれない。
だが、神はひきつづき温和に話しつづけていたし、愛撫の手も、
あいかわらず敵意のかけらもないしぐさで、あがったりさがったり
していた。ホワイト・ファングは、ふたつの相反する感情を味わっ
ていた。彼の本能にとっては、この状態は不快でしかたがない。そ
れは彼を束縛し、自由をもとめる彼の意思に反する。だがその反
面、それは身体的には苦痛ではない。いや、それどころか、ある意
味では肉体的に快くさえ感じられる。しかも、軽く頭をたたくよう
なしぐさが、徐々に、細心の動きで変わってゆき、やがて耳の付け
根のあたりがなでさすられるようになると、体に感じるその快感
も、わずかながら増しさえした。だが、それでいて、心の不安はな
お去らず、いつ予期せざる危害がふりかかってくるかと、警戒心に
身をこわばらせて立ちつくし、ふたつの感情のうちのいっぽうがぐ
っと高まって、全身を揺り動かすたびに、交互に苦しみと悦びとを
味わいつづけるのだ。
「うへえ、こりゃ驚いた!」
いきなりマットの声がした。袖をまくりあげ、皿を洗った残り水
の桶を両手でかかえて、バンガローから出てきたところだったが、
その水を捨てようとした、その動作の途中で、ウィードン・スコッ
トがホワイト・ファングを愛撫しているのを目にとめたのだ。
その叫びが、これまでの静けさを破った、とたんに、ホワイト・
ファングはぱっと跳びすさり、猛然とその声の主にむかってうなり
はじめた。
マットは失望まじりの情けなさそうな表情で、雇い主をながめ
た。
「あたしの気持ちを言ってもよけりゃ、ねえ、ミスター・スコッ
ト、あなたはとんでもないばかですよ──ばかもばか、十七通りぐら
いのばかで、その十七通りが、どれもみんなちがってて、しかも、
それだけでもまだ足りない、ってやつ」
そう聞いて、ウィードン・スコットは超然たる微笑を浮かべる
と、やおら立ちあがって、ホワイト・ファングのところへ歩いてき
た。そして、なだめるように話しかけたが、それもそう長い時間で
はなく、やがてまたゆっくりと手をさしだして、ホワイト・ファン
グの頭にのせると、中断された愛撫を再開した。ホワイト・ファン
グは、なでさすられるのに堪えながらも、疑わしげな目はじっと対
象から離さずにいたが、その対象というのは、自分を愛撫している
男ではなく、バンガローの戸口に立っている男のほうなのだった。
「たしかにね、旦那はナンバーワン、ピカ一の鉱山技師かもしれな
い。いや、そうでしょう、そうですとも」と、犬橇の御者は神託で
もくだすような調子で言葉をつづけた。「しかしね、子供のときに
人生最大のチャンスをのがしちまったのも確かだ。さっさとうちを
とびだして、サーカスにでもはいるべきだったんですよ」
その声にむかって、ホワイト・ファングはまたもぐおっとうなっ
てみせたが、今回は、頭上の手を避けて、跳びすさったりはしなか
った。その手はいま、彼の頭からうなじにかけてのあたりを、長
い、なだめるようなしぐさでなでおろし、なであげているのだっ
た。
これこそが、ホワイト・ファングにとっての〝終わりの始まり〟
であった。これまでの生活の、そして憎しみの支配の終わり。そし
てその先にひらけた新たな、想像もつかぬほど美しい生活の始ま
り。それを成就するのには、ウィードン・スコットの側の深い省察
と尽きざる忍耐、このふたつが必要だった。いっぽう、ホワイト・
ファングの側に必要とされたのは、ほかでもない、一個の革命であ
った。本能や理性による刺激、衝動といったものを無視し、経験を
しりぞけて、生それ自体が偽りであったと示すこと、それが彼にも
とめられたことなのだ。
これまで彼がそうと認識してきた生なるものは、いまの彼が認識
している多くのことを受け入れる余地がないばかりか、その流れの
すべてが、いま彼が身をゆだねている流れに逆行するものだった。
要するに、あらゆる点を考えあわせてみたとき、彼が成し遂げねば
ならなかったのは、新たな環境への適応だったと言えるだろう──そ
れも、かつて〈荒野〉から自発的にひきかえし、グレイ・ビーヴァ
ーを主人として受け入れた、あのときに成し遂げたのよりも、はる
かに規模の大きな適応。あのときの彼は、ほんの仔狼だった。まだ
﹅ ﹅
やわな素材のままで、これという型もできていず、環境という親指
が彼にたいして力を働かせはじめれば、たちまちその思うがままに
かたちづくられうる、そんな状態だった。だが、いまはちがう。環
境という親指は、みごとすぎるほどみごとな仕事を成し遂げてい
た。彼はそれによってかたちづくられ、〈闘狼〉へと鍛えあげられ
たのだ──獰猛で、冷酷非情で、愛さず、愛されもしない狼。そんな
彼が自己改革を遂げるのは、いってみれば、自分という存在を逆流
させるようなものだし、しかもそれを、若さの柔軟性をもはや失っ
てしまったいま、やらねばならない。体組織がすっかり硬化し、ご
たていと よこいと
つごつ節くれだってきたいま。体内の基本組織である経糸と緯糸と
が、彼を一枚のおそろしくかたい織物──手ざわりも粗く、折り曲げ
るのもむずかしい織物──に織りあげてしまっているいま。彼の魂の
表面も、かたい鉄と化し、生まれ持ったあらゆる本能も、身につけ
た原理原則も、すべて結晶化して、型にはまったルールや警戒心、
嫌悪、欲求などに変わってしまっているいま。
だがそれでいて、いままたこの新たな適応という難事にさいし
て、彼を押し進め、うながし、いったんかたくなっていた粘土をや
わらかくして、より美しい形につくりなおしたもの、それもまた環
境という親指なのだった。実際には、ウィードン・スコットこそ
が、この親指だった。彼はホワイト・ファングの本性の、その根幹
のところまで降りてゆき、衰えきって、いまにも死にかけていた生
の潜在能力に、やさしく触れたのだ。そうした潜在能力のひとつ
が、〈愛〉だった。〈愛〉は、これまで存在した〈好意〉にとって
かわったのだが、そもそもこの〈好意〉そのものが、それまでの
神々との触れあいのなかで、彼の心をふるわせた最高の感情なのだ
った。
とはいえこの〈愛〉は、一日にして成ったものではなかった。は
じめは〈好意〉だったのが、そこからゆっくりと生長していったの
だ。ホワイト・ファングは、その後も自由の身であることを許され
ていたが、それでも逃げなかったのは、この新しい神が好きになっ
たためだった。いまのこの暮らしは、ビューティー・スミスの檻に
とじこめられて暮らすのより、はるかにましだったし、彼には神を
持つことがぜったいに必要でもあった。人間の支配を受けることこ
そが、彼の本性の欲するところだった。人間への依存という刻印が
彼には大きく押されていたが、それは、かつて彼が〈荒野〉に背を
向けて、打たれることを予想しつつもグレイ・ビーヴァーの足もと
に這いつくばった、あのときに押されたものだった。さらにその後
にももう一度、その刻印は根深く彼に刻みつけられることになる──
あの長い凶荒が終わって、グレイ・ビーヴァーの村にもふたたび魚
が行きわたり、彼が二度めに〈荒野〉からもどっていったときのこ
とだ。
というわけで、ホワイト・ファングには神が必要だったし、どう
せならビューティー・スミスよりはウィードン・スコットのほうが
好ましかったから、それで彼はここにとどまった。忠節のしるしと
して、やがて彼は主人の財産を警護する役割を買って出るまでにな
った。橇犬たちが眠っているあいだも、ひとりそっとバンガローの
敷地を歩きまわって過ごし、そのため、はじめて夜間にバンガロー
を訪ねてきた客は、ウィードン・スコットが救援に駆けつけるま
で、棍棒でホワイト・ファングを寄せつけずにいるしかなかった。
とはいえホワイト・ファングは、じきに盗賊と、まっとうな人物と
を見わけることを覚えたし、人間の歩きかたや立ち居ふるまいの重
要性を判断するすべも身につけた。大きな足音とともに、すたすた
と歩いて、バンガローの戸口までまっすぐやってくる人物なら、こ
ちらも手出しはしない
しょう
──もっとも、戸があいて、その人物が主人に
請じ入れられるまでは、警戒おさおさ怠りなく、じっと目を離さず
にいるけれども。ところが、それとは逆に、そっと歩いたり、戸口
までくるのに回り道をしたり、おそるおそるのぞきこんできたり、
秘密めかした挙動をとったりするもの──そういう人物にたいして
は、ホワイト・ファングの判断が留保されることはない。その人物
はその場からすぐに、それこそほうほうのていで、あたふたと逃げ
去ることになる。
ウィードン・スコットはすでに、ホワイト・ファングを救おうと
する作業に取り組んでいた──というより、より正確には、これまで
人間がホワイト・ファングにたいして働いてきた不当な行ないの埋
め合わせをする作業、そう言うべきかもしれない。それはまさしく
道義と良心の問題だった。スコットの思うに、これまでホワイト・
ファングのこうむってきた害悪は、人間によって背負いこまされた
負債にも等しいのだから、したがってきちんと弁済されねばならな
いのだ。というわけで、彼はせいいっぱいその償いをする作業に励
み、とりわけ、この〈闘狼〉にやさしく接することに努めた。毎日
きまってホワイト・ファングを愛撫し、甘やかしてやるのを忘れ
ず、それも長い時間をかけてそうするのだった。
はじめは警戒心と敵意に凝り固まっていたホワイト・ファング
も、しだいにこの愛撫を好むようになった。とはいえ、ひとつだけ
彼のどうしても脱却できない癖があった──うなることだ。愛撫の始
まった瞬間からうなりだして、それが終わるまでうなりつづけてい
る。しかしそのうなりにも、いまは新たな響きが加わっていた。こ
の響きは、他人には聞きとることができない。だから、そうした他
人にとっては、ホワイト・ファングのうなりは、そのまま原始的な
凶猛さのあらわれであり、聞くだけで神経にさわり、血を凍らせる
ものでしかない。だがあいにくホワイト・ファングの喉は、すっか
り組織がかたくなってしまっている──仔狼のころにあの巣穴で、は
じめてきいきいと小さな怒りの声をあげたときから、長の年月、ず
っとその獰猛な音声を発しつづけてきた結果だから、もはやいまと
なっては、感じるままにやさしい感情をあらわそうにも、その喉か
ら出る音をやわらげることができないのだ。にもかかわらず、ウィ
ードン・スコットの耳は、共感をこめて、ひときわ細やかに働いた
から、その獰猛さのなかにほとんど埋もれてしまっている新たな響
きをも、あやまたず聞きとることができた──満足げな甘い鼻唄をす
らどこかに感じさせるその響き、彼以外のだれもいままで聞いたこ
とのないその響きを。
日がたつにつれ、〈好意〉から〈愛情〉への進化はどんどん早ま
っていった。ホワイト・ファング自身、しだいにその変化を自覚し
はじめていた──もっとも、意識のうえでは、〈愛〉がどういうもの
かなど、なにもわかってはいなかったのだが。それは彼の場合、身
﹅ ﹅ ﹅
内に存在するひとつのうつろとしてあらわれた──飢えて、ずきずき
しょうけい ﹅ ﹅ ﹅
痛み、しきりに満たされることを要求してやまない憧 憬のうつろ。
それはひとつの苦痛であり、不安でもあった。そしてそれが癒やさ
れるのは、新しい神がそばにいて、その手で触れてくれるときだ
け。そのようなとき、〈愛〉は彼にとってひとつの歓喜となり、ひ
とつの荒々しい、痛切な興奮を伴う満足感となる。ところが、いっ
たん神がそばを離れると、またぞろ苦痛と不安とがもどってき、身
﹅ ﹅ ﹅
内のうつろがいきなり頭をもたげてきて、その空虚さで彼を圧迫
し、その飢餓感でじわじわ、じわじわと、とめどなく胸をむしばみ
はじめるのだ。
ホワイト・ファングは、いまようやく自分を発見する途上にあっ
た。年齢的には成熟していたし、彼という粘土をかたちづくってき
た型も、粗野なまま硬直しきっていたが、にもかかわらず、その本
性はなお発達を遂げつつあった。体内には、不思議な感情と、つね
ならぬ衝動とがめばえてきていた。古い行動の規範も変わろうとし
ていた。かつては、快適なこと、苦痛がやむことを好み、不快なこ
と、痛いことを嫌っていたから、行動もまたそれに合わせて変えて
いた。ところがいまは、それが一変してしまった。身内にめばえた
この新たな感情ゆえに、彼はしばしば神のために不快や苦痛を堪え
忍ぶことを選んだ。そういう次第で、朝は早くから、周辺をうろつ
いて餌をあさったり、片隅の隠れ場で横になっていたりするかわり
に、すすんで殺風景な上がり口の階段までやってきて、神の顔が見
られるのを何時間も待っていたりする。夜は夜で、神が帰宅するや
いなや、雪のなかに掘った暖かい寝穴からぱっととびだしてゆく──
神から親しく指を鳴らして挨拶してもらったり、言葉をかけてもら
ったりするために。さらには肉、たいせつな肉そのものさえ、神と
いっしょにいるためにはあきらめることがある。神についてまわ
り、神の手で愛撫され、あるいは神のお供をして町まで出かける、
そうしたことのほうを優先するのだ。 そくしんすい
〈好意〉が〈愛情〉にとってかわられた。そして〈愛〉は測深錘と
して、〈好意〉のいまだ達したことのない彼の身内の深みへむけて
おろされ、いっぽうそれに応じて、その深みからも、新たななにか
──〈愛〉──が生まれてきた。こうして彼は、自分に与えられたも
のにたいして、自分からもお返しをしたのだ。これこそは、まさし
く神、愛の神、温かく、また光り輝く神であり、その光を受けて、
花が太陽のもとで開花するように、ホワイト・ファングの本性も花
ひらいていったのだった。
とはいえホワイト・ファングは、けっして内心をあらわに示した
りすることはなかった。それには年をとりすぎていたし、粘土はし
っかり固まってしまっていて、新たなやりかたで自分を表現するの
には慣れていなかった。これまであまりに冷静沈着でありすぎ、あ
まりに強く孤立のなかでおのれを持してきた。あまりに長く、寡黙
と、打ち解けない態度と、気むずかしさだけを培養してきた。生ま
れてからいままで、吠えたことは一度もなく、いまさら神が近づい
てきたからといって、吠えて歓迎することを習い覚えることなどで
きない。そういうことはもともと得手ではないし、自分の愛情を表
おお げ さ
現するのに、大袈裟な身ぶりをしたり、愚かしいふるまいに及んだ
りすることもけっしてない。神を迎えるために走ってゆくこともけ
っしてしない。やや離れたところで待っているだけ──だがそれでい
て、つねに待っているし、つねにその場にいる。彼の愛は、崇拝と
いう性質を帯びている──寡黙な、はっきり表現されることのない、
沈黙の崇敬。彼の愛情をあらわすものは、ただひたすら見つめてい
るその目と、そして神の一挙一動を、一瞬たりと休まず追っている
その目の動き、それだけだ。また、ときとして、神が彼を見、話し
かけてきたときなど、てれくさげにもじもじすることもある──神へ
の一途な愛が胸からほとばしりでようとしているのに、それを体で
表現できない、そのふたつの板挟みになって、焦れているのであ
る。
多くの点で、彼はこの新たな生活様式に順応してゆくことを学ん
だ。とりわけ深く肝に銘じたのは、主人の犬たちには手出しをしな
いことだったが、それでも、彼らの上に立ちたいという持ち前の気
性はおのずとあらわれ、まず最初は犬たちを片端から打ち負かし
て、自らの優越性と統率力を認めさせずにはいられなかった。これ
に成功すると、その後はほとんど犬たちと問題を起こすことはな
く、彼らのほうも、彼が目の前を行き来したり、自分たちのなかを
つっきったりするときには道を譲ったし、強引に自らのやりかたを
通そうとすれば、それにしたがった。
おなじような意味で、マットのことも彼は──主人の所有物のひと
つとして──大目に見るようになっていた。主人が手ずから餌をくれ
ることはめったにない。くれるのはマットであり、それが彼の仕事
なのだが、にもかかわらずホワイト・ファングは、自分の食べてい
るのが主人の食物であって、そういうやりかたで主人は代理人を通
じて自分を養ってくれているのだということ、これを本能的に感知
していた。最初に彼に引き革をつけ、ほかの犬たちといっしょに橇
をひかせようとしたのも、やはりマットだったが、これは思うよう
にいかなかった。ウィードン・スコットそのひとが彼に引き革をつ
け、働かせるようにしたところで、はじめて彼は納得した。つまり
それが主人の意思なのであって、マットが自分に指図し、働かせる
のも、マットが主人のほかの犬たちに指図し、働かせるのと、おな
じことなのだ、そう受け取ったのだった。
マッケンジー川でなじんでいたトボガンとは異なり、クロンダイ
クで使われている橇には、下に滑走板がついていた。異なる点は、
犬たちを御する方法にも見られ、ここでは扇形の隊形は用いられな
い。犬たちは縦一列に並び、全員が二本の引き革で橇をひっぱるの
リーダー
だ。さらにここ、クロンダイクでは、先導犬は文字どおりリーダー
であって、犬たちのなかでもっとも強いだけでなく、もっとも賢く
もある犬がリーダーとなる。そしてチームの犬はみな彼を恐れ、彼
に服従するのである。このリーダーの地位を、すぐにもホワイト・
ファングが獲得することは、もはや必然的なことだった。それ以下
の地位では、けっして承服しないだろう。このことは、マットがさ
んざん不都合な目にあい、厄介な思いをさせられたすえに思い知っ
たことだ。ホワイト・ファングは自らその地位を選びとったのであ
り、マットも実地にやってみたうえで、強い言葉で彼のその判断を
支持したのだった。とはいうものの、昼間はそうして橇引きの仕事
をしながら、夜間は主人の財産を警護するという役目、それもホワ
イト・ファングはけっして辞めたわけではなかった。要するに、四
六時ちゅう勤務についているということで、しかもそれを一刻の油
断もなく、忠実にこなす。犬のなかでも、およそこれほど貴重な犬
はいないだろう。
「まあざっくばらんに言わせてもらえばね」と、ある日、マットが
言った。「これだけの犬をあの値段で買いとられたんだから、まっ
め はし
たく旦那は目端が利くとしか言いようがない。あのビューティー・
﹅ ﹅
スミスのやつのつらに、拳固を食らわせたそのうえに、まんまとや
つに一杯食わせたんだから」
あらためてあのときの怒りがぶりかえしてきたのか、ウィード
ン・スコットは灰色の目をぎらりと光らせ、荒々しく吐き捨てた。
「あのひとでなしめが!」
その春も終わるころ、ホワイト・ファングにとってはおそろしく
重大な事態が発生した。なんの前ぶれもなく、愛の主人が姿を消し
たのだ。実際には前ぶれはあったのだが、そういうことには明るく
ない彼のこと、旅行鞄を荷造りすることの意味がわからなかったの
である。あとで思いだしてみれば、主人がいなくなるのに先だっ
て、その荷造りは行なわれていたのだが、そのときはなにひとつ感
づくこともなかった。その夜もいつものように主人の帰りを待った
が、深更になって、冷たい風が吹きだしたので、やむなくバンガロ
ーの裏手の風よけ場へと避難した。そこでついうとうとしたのだ
が、それでも半睡半醒の状態で、耳は、いまにも聞き慣れた足音が
聞こえてこないかと、ずっとそばだてたままでいた。だが、夜中の
二時ともなると、懸念のあまり、ついにじっとしていられず、ふた
たび寒い正面上がり口の階段まで出てゆき、そこにうずくまって、
待ちはじめた。
だが主人は帰ってこなかった。朝になって、戸がひらき、マット
が外に出てきた。ホワイト・ファングは物言いたげに彼を見つめ
た。あいにく、知りたいことを教えてもらえるような、共通の言葉
はない。そのまま何日もがめぐってきては、過ぎていったが、主人
は依然として帰らず、そのうち、いままで病気ひとつしたことのな

かったホワイト・ファングが、ついに病に臥した。病は重く、あま
りにつらそうなようすを見かねたマットが、とうとう彼をバンガロ
ーのなかへ運びこんでやるまでになった。ついでに、主人に宛てた
手紙のなかで、追伸としてそのようすを書き添えもした。
ウィードン・スコットは、サークル・シティーでその手紙を読ん
でいるうちに、つぎのような一節に出くわした──
「あの狼のやつが仕事をしません。餌も食いません。まるで気力を
なくしちまって、ほかの犬どもにやられっぱなしです。旦那がどう
なったのかを知りたがってるんですが、あたしにはそれを教えてや
るすべがない。ほっとくと、死んじまうかもしれません」
実際、マットの書いたとおりだった。ホワイト・ファングはなに
も食べなくなり、気力を失い、チームの犬たちぜんぶから攻撃され
るままになっていた。バンガローのなかで、ストーブのそばの床に
横になったきり、餌にも、マットにも、生きることそのものにす
ら、興味を示そうとしない。マットがやさしく話しかけたり、とき
に荒い言葉で罵ったりしても、結果はおなじだった。どんよりした
目をちらりとあげるだけで、すぐまた頭を伏せて前脚にのせ、いつ
もの姿勢にもどってしまうのだ。
そうしてある夜、くちびるを動かしてぶつぶつ声を出しながら新
聞を読んでいたマットは、ホワイト・ファングが一声くーんと鼻を
鳴らすのを聞き、ぎくっとした。見れば、ホワイト・ファングは立
ちあがっていて、立てた耳をドアのほうへ向け、一心不乱に耳をす
ましている。と、すぐに、マットにも足音が聞こえてきた。ドアが
ひらき、ウィードン・スコットがはいってきた。男たちふたりは握
手をかわした。それからスコットは室内を見まわした。
「どこだ、狼は?」と、たずねる。
そのとき、当のホワイト・ファングが目にとまった。いままで横
たわっていたところ、ストーブの近くに立っている。普通の犬なら
そうしただろうが、彼は主人にむかってとびついてゆこうとはしな
かった。ただ立って、見まもり、待っている。
「ひゃあ、なんてこった!」マットが驚きの声をあげた。「ごらん
なさい、尻尾をふってやがる!」
ウィードン・スコットは、大股に部屋の半分ほどを横切ってゆき
ながら、同時にホワイト・ファングに呼びかけていた。ホワイト・
ファングは、躍りあがってとんでくることこそしなかったが、それ
でもすばやく近づいてきた。てれているのか、身のこなしはぎこち
なかったが、近づくにつれ、その目は異様な表情を帯びてきた。な
にか底知れぬ、途方もなく大きな感情のうねり、それがひとつの光
となって目のなかに湧きあがり、輝きだしていた。
「こいつ、旦那がお留守のあいだ、一度だってこんな目であたしを
見てくれたことはなかった」マットが感に打たれたようにつぶやい
た。
ウィードン・スコットは聞いていなかった。ホワイト・ファング
と目の高さがおなじになるようにしゃがみこみ、しきりに彼を愛撫
していた──耳の付け根を搔いてやり、首筋から背中のあたりを、何
度も手のひらで長く、やさしくなでおろし、指先のふくらみで、鍵
盤でも弾くように背筋をとんとんとたたく。そしてホワイト・ファ
ングのほうも、それにこたえてうなり、そのうなりに含まれた甘く
歌いかけるような響きは、以前よりもいっそう顕著に聞きとれた。
だが、じつはそれだけではなかった。彼の身内にあふれる喜び──
つねにふくれあがって、おのれを表現する途を見つけたいともがい
ているおおいなる愛情──それらがついに、新たな表現法を見いだす
ことに成功したのだ。彼はとつぜん首を前へつきだすなり、主人の
腕と体のあいだに頭をぐいぐいと押しこみ、こじいれた。そして、
耳以外はすっかり隠れてしまったその姿勢のままで静止して、もは
やうなることもせず、ただ一心に頭を強く押しつけ、身をすりつけ
ようとするのだった。
男たちふたりは顔を見あわせた。スコットの目は輝いていた。
「まいったね!」マットが畏怖に打たれた声音で言った。
一瞬おいて、ようやくわれにかえったところで、彼はつづけた──
「あたしゃいつだって言ってたんだ、この狼は犬だって。まあ見て
ごらんなさい、このようすを!」
主人が帰宅するや、ホワイト・ファングは急速に回復した。その
あと二晩とまる一日、バンガローのなかで過ごし、それから、意気
けんこう
軒昂として外に出ていった。橇犬たちは、早くも彼の武勇のほどを
忘れ去っていた。覚えているのは、ごく最近の、やつれきって、病
に苦しむ姿だけだったから、バンガローから出てくるところを見か
けるやいなや、いっせいに躍りかかってきた。
戸口に立って、高みの見物を決めこみながら、マットが上機嫌で
つぶやいた。「ようし、名高いおまえの暴れん坊ぶりを見せてもら
おうや。遠慮せずにやっつけろ、この狼っ子! やっつけてやるん
だ──思いっきりな!」
ホワイト・ファングにすれば、激励などされるまでもなかった。
愛の主人が帰ってきてくれただけで、もうじゅうぶんだった。体内
に滔々と生命力があふれだし、勇気凜々として、不屈の魂が躍動し
ていた。闘うことに純粋な喜びを感じ、そこにひとつの表現の途を
見いだしていた──これまでずっと身内にわだかまっていたものの、
言葉を持たぬために表現するすべのなかった感情、それを表現する
ための途を。となれば、闘いの帰結はひとつしかありえなかった。
屈辱的な大敗を喫して、チームの犬たちは四散した。暗くなってか
ら、ようやく一匹、また一匹、こそこそと隠れるようにもどってき
たときには、ホワイト・ファングへの忠節を示すために、そろって
卑屈な、卑下した態度を見せたものだ。
主人に頭をすりつけることを覚えてしまうと、ホワイト・ファン
グは何度もしつこいくらいにそれをくりかえした。それは最終的な
言葉だった。それ以上の愛情表現はなかった。生まれてからこれま
で、いつの場合も彼のもっとも敏感だったところ、それが頭だっ
た。いつも彼は頭に触れられるのを嫌ってきた。彼の身内に残る
〈野性〉がそうさせるのだった。頭を傷つけられること、罠への恐
れがそうさせるのだった。それは、他者との接触を避けようとす
る、パニックに近い衝動を生みだした。頭を自由にしておかねばな
らないというのは、彼の本能の命令だった。だから、いまこうして
愛の主人に頭をすりつけるのは、すすんで自分を無力な、絶望的な
立場に置きますという、彼の意識的な行為なのだった。これこそは
まさに完全な信頼のあらわれ、絶対的な自己放棄の表現だった──い
ってみれば、「わたしはあなたの手にこの身をゆだねます。どうに
でも好きなようにしてください」とでも言っているのとおなじに。
スコットの帰宅からまだ日も浅い、ある夜のことだった。彼とマ
ットはいつもの就寝前の習慣で、クリベッジの勝負にふけってい
た。「十五の二、十五の四、このペアで六」と、マットが記録棒で
点を数えているとき、戸外でけたたましい叫びとうなり声がした。
ふたりは顔を見あわせながら、急いで腰をあげた。
「狼っ子がだれかをとっつかまえたらしい」マットが言った。
血も凍るような恐怖と苦痛の悲鳴がつづき、ふたりを急がせた。
「明かりを持ってこい!」スコットが叫びながら外へとびだしてい
った。
マットがランプを手にしてあとにつづいた。そしてその光でふた
りが見たもの、それは、雪の上に仰向けに倒れているひとりの男の
姿だった。男の両腕はたがいに重ねあわされ、顔と喉をおおってい
た。それでホワイト・ファングの牙を防ごうとしているのだが、た
しかにそうする必要はあった。ホワイト・ファングは猛り狂ってい
て、そのうえ、したたかに相手の最弱の急所を狙って攻撃をかけよ
うとしていたからだ。重ねた腕の肩から手首にかけて、上着の袖
も、青いフランネルのシャツも、その下の肌着も、ことごとくぼろ
ぼろに引き裂かれ、同時に腕自体もまた手ひどく咬み裂かれて、血
が流れている。
これだけのことを、男たちふたりは最初の一瞬で見てとった。つ
ぎの瞬間には、ウィードン・スコットがホワイト・ファングの喉を
つかみ、引き離しにかかっていた。ホワイト・ファングは抵抗し、
激しくうなったものの、咬みつこうとする気配はまったく見せず、
それどころか、主人から一声きびしい言葉を浴びせられると、すぐ
におとなしくなった。
マットが倒れている男を引き起こした。男が立ちながら重ねてい
た腕をおろすと、その下からあらわれたのは、かのビューティー・
スミスのけだものじみた顔だった。犬橇の御者は、急いで彼を突き
おき び
はなしたが、そのしぐさはまるで、真っ赤な燠火にうっかり手を触
れたかのようだった。ランプの明かりを受けて、ビューティー・ス
ミスは目をぱちぱちさせ、あたりを見まわした。ホワイト・ファン
グを認めるや、その面にさっと恐怖の色がさした。
と同時に、マットが雪の上にころがっているふたつの物体に気づ
いた。彼は近々とランプをそれらの上にかざし、同時に主人のため
に靴の爪先でそれらを示した──犬をつなぐための鋼鉄の鎖と、太い
棍棒。
ウィードン・スコットは、見て、うなずいた。言葉は一言も口に
しなかった。犬橇の御者は、ビューティー・スミスの肩に手をかけ
ると、回れ右させた。なにも言う必要はなかった。ビューティー・
スミスは歩み去った。
そのあいだ、愛の主人は手のひらで軽くホワイト・ファングの背
をたたきながら、彼に話しかけていた。
「おまえをさらっていこうとしたんだ、そうだな? しかしおまえ
﹅ ﹅
はそうはさせなかった! よしよし、つまりあいつはどじを踏んだ
ってわけだ。そうだな?」
「さだめし、悪魔を十七匹も味方につけてる、みたいな気でいやが
ったに相違ありませんや」犬橇の御者はそう言って、くつくつ笑っ
た。
いまだに気が立っているのか、ホワイト・ファングは首毛を逆だ
て、しきりにぐるる、ぐるるとうなりつづけていたが、それもやが
て徐々におさまり、いつもの甘く歌いかけるような響きも、遠くか
すかにではあるものの、喉の奥ですこしずつ大きくなっていった。
北米インディアンとの毛皮取り引きのため、一六七〇年に認可された英国の商社。 (本文
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ピンヘッドには、〝ばか〟とか〝まぬけ〟の意味もある。 (本文へ戻る)
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飼い馴らされて
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長い旅路
気配は空気ちゅうにただよっていた。災厄が近づいていること
を、その具体的な証拠が見えてくるよりも前から、ホワイト・ファ
ングは感じとっていた。なんらかの変化がいまにも起ころうとして
いる、そういう意識が、漠然とながらひしひしと身に迫ってきたの
だ。どういうふうにそれを感じたのか、あるいはどういう理由で感
じたのかはわからぬながら、それでも神々たちの動きそのものか
ら、それが近づいているのは感じとれた。神々たち自身も意識せぬ
二、三の微妙な点で、彼らは知らずしらずこの狼犬に心のうちをさ
らけだしていたのだ──しょっちゅうバンガローの上がり口の階段あ
たりをうろつき、けっしてなかにははいらぬものの、そのくせ男た
ちの頭のなかで起きていることは、敏感に察知できるこの狼犬に。
「まああれをお聞きなさいよ、旦那」ある晩、夕食の席で犬橇の御
者が言った。
ウィードン・スコットは耳をすました。ドアの向こうから、低く
不安げな、哀れっぽい鳴き声が聞こえてくる──息を殺してすすり泣
くような、ほとんど聞きとれぬほどの声。つづいて、長々と鼻を鳴
らして吐息する気配──あたかも、心酔する神がまだ屋内にいて、単
とんそう
身、謎めいた遁走を果たしたわけではないことを確かめて、ホワイ
ト・ファングが安堵したかのような。
「あの狼のやつ、すっかり旦那の胸のうちを察してるみたいです
ね」と、犬橇の御者が言う。
ほとんど哀願するかのような目つきで、ウィードン・スコットは
テーブル越しに相手を見やったが、しかし、口にしたのは、それと
は矛盾する言葉だった。
「いったい全体、カリフォルニアなんかに狼を連れてって、どうな
るというんだ!」と、なじるように言う。
「それはこっちの台詞ですよ」マットが言いかえす。「いったい全
体、カリフォルニアなんかに狼を連れてって、どうなるっていうん
です?」
しかしこの答えは、ウィードン・スコットを納得させるものでは
なかった。相手がなにやらどっちつかずな態度で自分を見ようとし
ている、そう思えたからだ。
「白人の犬なんて、あいつを相手じゃ、とうてい勝ち目なんかない
ぜ」スコットはつづけた。「目にはいったとたんに、容赦なく咬み
殺されちまうだろう。たとえ損害賠償の訴訟でおれが破産するはめ
にならなくても、どうせ当局があいつを連行して、電気椅子にかけ
ることになる」
ひ と ごと
「なんせ、生まれながらの殺し屋ですからね、ええ」わざと他人事
のような調子で、犬橇の御者はそう論評した。
う さん
ウィードン・スコットは、胡散くさげに相手を見やった。
「どうせうまくいきっこないよ」と、断定するように言う。
「どうせうまくいきっこありませんとも」と、マットも調子を合わ
せる。「きっとそのうちに、特別にやつの世話をする人間を雇わな
きゃならなくなる」
スコットの疑念はやわらいだようだった。快活にひとつうなずい
てみせる。だがそのあとにつづいた沈黙のなかで、またも戸口か
ら、低い、なかばすすり泣くような声がし、つづいてあの、長々と
問いかけるような、吐息に似た声が聞こえてきた。
「あいつがとてつもなく旦那思いだってことは、否定しようがあり
ませんな」と、マット。
急にかっといきりたって、スコットは彼を睨みつけた。「いいか
げんにしろよ、この野郎! 自分の心のうちも、なにが最善かって
ことも、おれ自身がいちばんよくわかってるんだ!」
「おっしゃるとおりで、ええ。ただ……」
「ただ──なんだ!」スコットは嚙みつくように言いかえす。
「ただね……」犬橇の御者はものやわらかに言いかけたが、そこで
気が変わったらしく、自分もまたこみあげてくる怒りをさらけだし
た。「あのねえ、なにもそんなにかっかするこたァないでしょう
が。旦那のなさってることを見れば、だれだって、旦那には自分の
心のうちがよくわかっていなさらないんだって、そう思いますよ」
いっとき思案したあとで、ウィードン・スコットはいくぶん口調
をやわらげて、言った。「おまえの言うとおりだよ、マット。自分
でも自分の心のうちがよくわからない。そこが困ったところなの
さ」
ふいに、おさえていたものを吐きだすように言いだしたのは、ま
たしばらく沈黙したあとだった──
「しかしなあ、とんでもない愚行だぞ、それは──あの犬を連れてく
なんて」
「いや、まったくおっしゃるとおりでさ、旦那」というのがマット
の返事だったが、今度もまた彼の雇い主は、その答えに納得しなか
った。
犬橇の御者は、さらに無邪気をよそおって、つづけた──
「それにしてもねえ、いったい全体なんだってあいつは、旦那がお
出かけになるってことを感づいたのやら──それがどうにも腑に落ち
ないんですよ、あたしには」
「おれだってそいつは腑に落ちないさ、マット」スコットは物悲し
げに首をふりふり答えた。
やがてついにその日がやってきた。あけっぱなしのドアを通し
て、ホワイト・ファングは、床にあの運命的な旅行鞄が置かれ、愛
の主人がそれに物を詰めているのを目にした。さらに、ひとの出入
りが激しくなり、これまでは平穏そのものだったバンガローの雰囲
気は、不可解な騒ぎと不安とでかきみだされた。これぞまぎれもな
い証拠だった。ホワイト・ファングがとうに感づいていたことだ
が、いまそれが正当かつ論理的に裏づけられたわけだ。彼の心酔す
る神は、またもいずこかへ遁走しようとしている。そして、前回も
自分は連れていってもらえなかったのだから、今回も置いてきぼり
にされることは目に見えている。
その夜、ホワイト・ファングは、狼族の長い遠吠えの声をあげ
た。かつて仔狼だったころ、〈荒野〉から村にもどってみて、村が
あとかたもなく消え、グレイ・ビーヴァーのティピーの跡を示すが
らくたの山以外、なにひとつ残っていないのを知ったときにもそう
したように、いままた鼻面を冷たい星々に向け、せいいっぱいの心
のたけを、悲痛な声にこめて遠吠えした。
バンガローのなかでは、男たちふたりが寝についたところだっ
た。
「また餌を食わなくなりましたぜ」マットが自分の寝棚から言っ
た。
ウィードン・スコットの寝棚からは、なにやら不満げにうなる声
がして、毛布がごそごそ動いた。
「前回、旦那がお出かけになったときの、あいつの落ちこみようか
らして、今度はそのまま死んじまっても、おかしくありませんな」
もうひとつの寝棚で、またもいらだたしげに毛布をごそごそさせ
る気配がした。
そして闇の向こうから、スコットがどなった。「うるさい!
ぐ ち

ったく、おまえのくどさときたら、女の 愚痴よりもたちが悪い
ぞ!」
「いや、まったくおっしゃるとおりでさ」犬橇の御者はそう答えた
が、はたしてそのあとにくすくす笑いが加わったかどうか、その点
はウィードン・スコットにもはっきりしなかった。
翌日には、ホワイト・ファングの不安と落ち着かなさは、いっそ
うきわだったものとなった。主人がバンガローを出ると、その行く
先々にしつこくつきまとい、主人がなかにいるときには、たえず上
がり口の階段付近をうろうろして過ごした。ひらいたドアごしに、
床の上の手荷物をのぞき見することができたが、いまは例の旅行鞄
のほかに、ふたつの大きなキャンバス地のバッグと、箱ひとつが加
わっていた。マットが小さな防水布をひろげて、主人の寝具と毛皮
の膝掛けをその布に巻きこんでいた。そうした作業を見まもりなが
ら、ホワイト・ファングはひっきりなしに鼻をくんくん鳴らしてい
た。
しばらくして、ふたりのインディアンがあらわれた。なおも油断
なく注視しているホワイト・ファングの目の前で、彼らは並べられ
た手荷物を肩に担ぎあげ、筒に巻いた寝具と旅行鞄をかかえたマッ
トに先導されて、丘をくだっていった。だがホワイト・ファング
は、その三人のあとを追おうとはしなかった。主人はまだバンガロ
ーのなかにいるのだ。ややあって、マットがもどってきた。主人が
戸口にきて、ホワイト・ファングをなかに呼び入れた。
「気の毒だけどな、おまえ」と、ホワイト・ファングの耳をなで、
背筋をとんとんたたきながら、主人はやさしく言った。「おれはこ
れから長い旅に出る。あいにくおまえにはついてこられないところ
なんだ。だからな、ここでひとつ、うなって聞かせてくれないか──
これが最後だと思って、うんと気張って、せいいっぱい豪気なお別
れの挨拶を聞かせてほしいんだよ」
けれどもホワイト・ファングはうなることを拒否した。そのかわ
りに、いっとき物言いたげな、さぐるような目で主人を見たあと、
いきなり主人の腕と体とのあいだに首をつっこみ、頭がすっかり隠
れてしまうまで、ぐいぐい身をすりよせた。
「ほら、汽笛が鳴ってますぜ!」マットが叫んだ。ユーコン川のほ
うから、川蒸気のしゃがれたうなりがうつろに尾をひいて流れてく
る。「そろそろ切りあげないと、遅れちまう。いいですか、旦那は
玄関のドアにしっかり錠をおろしてください。あたしは裏口から出
ますから。じゃあ行きますよ!」
ふたつのドアが同時にばたんとしまり、ウィードン・スコットは
玄関前でマットが裏口からまわってくるのを待った。ドアの内側か
らは、低く物悲しげな、哀訴するようなすすり泣きが漏れてくる。
「頼むから、あいつを大事にしてやってくれよ、マット」ふたりし
て丘をくだってゆきながら、スコットが言った。「あいつがどんな
ようすだか、せいぜい手紙ででも知らせてほしいな」
「知らせますともさ」犬橇の御者は請けあった。「それにしても、
まあちょっと聞いてごらんなさい!」
男たちふたりは足を止めた。ホワイト・ファングが遠吠えしてい
た──あるじに死なれたとき、犬が長く尾をひく叫びをあげるのとお
なじように。それはこのうえない悲しみをあらわす声であり、強
く、胸の引き裂かれるような激しさで、上へむかってほとばしりで
る。それから徐々に静まって、悲嘆に打ちふるえる声に変わってゆ
くが、それもつかのま、ふたたび一息ごとにやつぎばやに悲嘆を吐
きだしつつ、上へむかってほとばしってゆく。
〈オーロラ〉号は、〈アラスカ領外〉の土地へ向かう、この年最初
の汽船であり、甲板上は、成功した山師やら、破産した金鉱探しや
らの集団でごったがえしていた。みな一様に、はじめ〈アラスカ領
内〉にはいろうとして躍起だったのとおなじく、今度は〈領外〉へ
出ようとして躍起になっている男たちだ。その甲板へ通ずるタラッ
プのそばで、いまスコットはマットと握手をかわしていた。マット
おか
はこのあとすぐ陸へあがる予定だったが、握手のさいちゅうに、そ
のマットの手からふいに力が抜け、視線は相手の背後のなにものか
に据えられたきり、動かなくなった。スコットは後ろをふりかえっ
てみた。数フィート先のデッキに腰を落としてすわり、ホワイト・
ファングが物言いたげな目でふたりを見まもっていた。
おそれいったと言わんばかりに、犬橇の御者がそっと毒づいた。
スコットのほうはと言えば、ただ驚きのあまり、まじまじと見つめ
るばかり。
「玄関ドアの鍵、ちゃんとかけてきたんでしょうね?」マットが問
いただした。
問われた相手はうなずき、それから反問した。「裏口はどうなん
だ?」
「まちがいなくかけてきましたよ」答えには力がはいっている。
ホワイト・ファングは、ふたりの気をひくように耳を寝かせてみ
せたが、居場所はそのままで、近づいてこようとはしない。
「あたしがいっしょに連れて降りるしかないでしょうな」
マットは一、二歩ホワイト・ファングのほうへ近づきかけたが、
相手はいちはやくするりと逃げ去った。あわてて追いかける犬橇の
御者を尻目に、ホワイト・ファングは、ごったがえす男たちの脚の
あいだを、敏捷に身をかわして逃げまわった。ひょいと頭をさげ、
あるいはくるりとまわり、逆もどりするなどして、なんとかつかま
えようとするマットの努力もものかは、甲板上をひらりひらりと駆
けめぐる。
ところがそこで愛の主人が声をかけると、ホワイト・ファングは
すぐさま従順にその足もとへやってきた。
「これまで何カ月も餌をやってたのは、このあたしなんですぜ。な
のに、そのあたしにははな洟もひっかけないで」と、犬橇の御者はいま
いましげにつぶやいた。「それが旦那ときたら──こいつとお近づき
になった当座はともかくも、その後は一度だって自分で餌をやった
ことなんてないでしょうが。じっさい、わけがわかりませんよ──旦
那がご主人だってことを、どうやってこいつが見抜いたものやら」
スコットは黙ってホワイト・ファングの背をなでてやっていた
が、ここで急に身をかがめて目を近づけると、その鼻面についたい
くつかの真新しい切り傷と、目と目のあいだに残る一本の深い裂傷
をゆびさしてみせた。
マットがかがみこんで、ホワイト・ファングの腹にさっと手を走
らせた。
「窓のことを、とんと忘れてましたね。こいつの下腹、えぐったみ
たいにざっくり切れてます。きっと頭から窓につっこんで、そのま
ま突き破ったのにちがいありません。あきれたもんだ!」
だが、ウィードン・スコットは聞いていなかった。忙しく思案を
めぐらしていたのだ。〈オーロラ〉号の汽笛がぼーっと鳴りわた
り、いよいよ出航の時刻が迫ったことを告げた。男たちがそそくさ
とタラップを降り、岸壁にもどりはじめた。マットは自分の首に巻
いたバンダナを解くと、それをホワイト・ファングの首に巻こうと
した。スコットがその手をおさえた。
「さよなら、マット、ご苦労だったな。こいつの──この狼のことだ
が、手紙をくれるには及ばんよ。つまりさ、おれは決めたん
だ……」
「なんですと?」犬橇の御者は驚いて叫んだ。「まさか──まさか旦
那は……?」
﹅ ﹅ ﹅
「そのまさかだよ。さあ、おまえのバンダナを忘れるな。こいつの
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
ことは、いずれおれのほうからおまえに手紙を書くことにするか
ら」
タラップを降りかけて、マットは途中で立ち止まった。
「そいつ、あっちの気候にはぜったい堪えられませんぜ!」と、ふ
りかえりながら大声で叫ぶ。「暖かくなったら、毛を刈りこんでや
らないかぎりは、無理です!」
タラップががらがらとひきあげられ、〈オーロラ〉号はゆらりと
岸壁を離れた。ウィードン・スコットは、手をふって最後の別れを
告げた。それから、向きなおると、かたわらに立っているホワイ
ト・ファングの上に身をかがめた。
「さあ、うなるんだ、こいつ、うなってみろよ」敏感に反応するホ
ワイト・ファングの頭を軽くたたき、寝かせた耳をなでさすってや
りながら、そう彼は言った。
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南国
サンフランシスコで、ホワイト・ファングは汽船を降りた。そし
て仰天した。これまでも、どんな推論や観念作用も及ばぬ心の深奥
で、ひそかに力を神性と結びつけてきはしたが、それにしても、こ
れほど白人たちが驚嘆すべき神々に見えたことは、いまのいままで
──こうしてサンフランシスコのぬるぬるすべる石畳を歩いているい
ま現在まで──一度たりとなかった。いままでずっとなじんできた丸
太造りのバンガローにかわって、ここでは高いビルディングがそび
えている。街路は危険なものだらけだ──四輪馬車、二輪馬車、自動
車。巨大な運搬車を力いっぱいひいてゆく、大型の馬車馬たち。さ
らに、それらの雑踏のなかを、ぽーと警笛を鳴らし、かんかんと音
をたてて走ってゆく、怪物さながらのケーブルカーや電車──走りな
がら、そうやって執拗にけたたましい威嚇の声をはりあげていると
ころは、北国の森で知っていたオオヤマネコの流儀そっくりだ。
こうしたすべてのものが、力の顕現であった。それらすべてを通
じて、またその背後にも、人間の存在が見え隠れしている──統治
し、管理する人間。ここでも以前と同様、物にたいする支配力を誇
示することで、自分を表現しようとしている人間。すべては壮大、
かつ圧倒的だった。ホワイト・ファングは畏怖に打たれた。不安が
心にいすわってしまった。仔狼のころ、はじめて〈荒野〉を離れ
て、グレイ・ビーヴァーの村へとやってきたあの日、自分がいかに
ちっぽけで、とるにたらぬ存在であるかを思い知らされたものだ
が、いまや完全に成長して、力を鼻にかけるまでになっているこの
自分が、ここでまたしてもおのれの小ささ、卑小さを思い知らされ
るはめになるとは。それにしても、なんとまあ大勢の神々がいるこ
めまい
とよ! その多数の神々がうようよしているさまたるや、つい眩暈
さえ覚えるほどだ。さらに、すさまじいばかりの街路の騒音が耳じ 朶だ
を打つ。さまざまなものがひっきりなしに、あわただしく動くさま
は、彼をとまどわせ、立ち往生させる。愛の主人を頼りにする気持
ちが、これまで以上に強くなり、彼は主人のすぐ後ろについて歩き
ながら、たとえなにがあろうと主人を見失うまいとした。
だが、このあとさらにホワイト・ファングが味わうことになった
のは、ほかならぬこの都会の、夢魔にも似たイメージだった──その
体験は悪夢さながらに非現実的で、かつ恐ろしく、その後も長く夢
のなかでつきまとってきては、彼を悩ませた。つまり彼は主人の手
で貨車に入れられ、トランクやスーツケースの山のなかで、片隅の
鎖につながれてしまったのだ。ここでは、ひとりのずんぐりした、
屈強な神がすべてを取り仕切っていて、いちいちすさまじい騒音入
りで、トランクや箱の類をほうりなげたり、車輛のドアからそれら
をひきずりこんで、いくつもの山に積みあげたり、かと思うと、逆
にそれらをがちゃがちゃ、どすんと車輛からほうりだして、外で待
っているほかの神々に渡したりしている。
あろうことか彼は、主人によって、ここに、この手荷物の地獄の
なかに、置き去りにされてしまったのだ。というか、すくなくと
も、ホワイト・ファング自身は置き去りにされたと思ったのだが、
そのうち、かたわらの山のなかに、主人のキャンバス地のバッグを
嗅ぎあて、以後はそれらを見張ることにとりかかった。
「そろそろおいでになるころと思ってましたぜ」貨車を取り仕切る
神が、いかにも不服そうにそう言ったのは、それから一時間ほどた
って、ウィードン・スコットが車輛の入り口に姿を見せたときだっ
た。「なんせ、おたくのあの犬ときたら、おたくの持ち物には、指
一本触れさせようとしないんだから」
ホワイト・ファングは貨車から出た。そしてまたまた仰天した。
悪夢の都市は消失していた。貨車といっても、彼にとっては家のな
かのひとつの部屋というにすぎなかったし、そこへはいっていった
ときには、周囲にはあの都会がひろがっていた。ところが、そのと
きからいままでのあいだに、その都市が消えてしまっている。もは
や、都市の騒音ががんがん耳に響きわたることもない。目の前にあ
るのは、日ざしをいっぱいに浴びて、ものうげに、安らかにほほえ
んでいる、田舎の光景だけ。もっとも、そうした変化に目をみはっ
ているいとまは、ほとんどなかった。これまでにも神々の不可解な
行動や、力の顕現を受け入れてきたように、これもそのまま受け入
れるだけのことだ。それが神々の流儀なのだから。
停車場の外には、一台の馬車が待っていた。男と女がひとりず
つ、主人に近づいてきた。女が両腕をさしのべ、主人の首にその腕
を巻きつけた──敵対行為だ! つぎの瞬間、ウィードン・スコット
ほうよう
は急いで女の抱擁から身をふりほどくと、いまや激しくうなりた
て、猛り狂っているホワイト・ファングに、その腕をまわしてい
た。
「だいじょうぶですよ、おかあさん」ウィードン・スコットはそう
言いながら、なおもかたくホワイト・ファングをかかえこみ、なだ
めようとした。「おかあさんがぼくに危害を加えようとしてる、そ
う思いこんだんです。で、黙ってはいられなかった。もうだいじょ
うぶです。だいじょうぶですよ。じきにこいつも覚えますから」
「だったらそれまでは、その犬のいないあいだだけ、息子を愛する
ことがわたしにも許される、ってわけね」彼女は笑いながらそう言
ったが、それでもその顔は恐怖に青ざめ、弱々しく見えた。
彼女がホワイト・ファングを見ると、彼はうなって、毛を逆だ
て、殺気だった目で彼女を睨みつけた。
「こいつも学ばなくちゃなりませんし、必ず学ばせますよ──います
ぐにね」
そう言って、スコットはやさしくホワイト・ファングに話しか
け、そのうちホワイト・ファングも落ち着いて、おとなしくなっ
た。と、一転してスコットの声音がきびしくなった。
「さあ、すわれ! すわるんだ!」
すわることは、かねて主人から教えられていることのひとつだっ
たから、ホワイト・ファングも不機嫌なまま、しぶしぶ指示にした
がった。
「さあどうぞ、おかあさん」
スコットは彼女にむかって大きく腕をひろげたが、目はホワイ
ト・ファングのうえから離さなかった。
「すわれ! すわれと言うんだ!」と、きびしく注意する。
音もなく毛を逆だて、立ちあがろうと中腰になっていたホワイ
ト・ファングは、やむなくすわりなおして、さいぜんの敵対行為が
くりかえされるのをじっと注視した。だが、その行為によって主人
に危害が及ぶようすはなく、それにつづいた見知らぬおとこ
男 がみ神との抱擁
でも、やはり害はなかった。それから、衣類鞄その他の荷物が馬車
に乗せられ、そのあとに見知らぬ神々と愛の主人とがつづいて、ホ
ワイト・ファングもまた、あとを追って走りだした──ときに油断な
く馬車の後ろを走り、またときには、疾走する馬たちにむかって首
毛を逆だて、万が一にも、いまおまえたちがえらいスピードでひっ
ぱってゆく神の身に、なんらかの害が降りかかるようなら承知しな
いぞ、と警告を送りながら。
十五分ほど走って、馬車はとある石造りの門を勢いよくくぐりぬ
くるみ
けると、さらにその先の、両側から胡桃の木が枝をさしかけ、アー
チをつくっている並木道を走り抜けた。左右どちらの側にも、広々
とした芝生がひろがり、その一面の草地のそこここに、がっしりし
たオークの巨木がぽつんぽつんと立っている。近景には、青々とし
て手入れのゆきとどいた芝生のグリーンとは対照的に、日に焼き焦
がされた牧草地が茶褐色と金色の広がりを見せ、さらにその向こう
には、黄褐色の丘や高台の放牧場が連なっている。芝生のいちばん
高い地点は、土地が谷間の平地からゆるやかに起伏しつつ立ちあが
ってくる、その最初の隆起にあたっているが、そこからは、奥行き
のあるポーチと、たくさんの窓のある家屋とを見おろすことができ
る。
もっともホワイト・ファングには、こうしたすべてを見てとる機
会はほとんどなかった。馬車が屋敷の敷地にはいったと思うまもな
く、いきなり一頭の牧羊犬に狙われたのだ。目をきらきらさせ、と
んがった鼻面をしたそいつは、当然ながら、ひどく憤激し、怒りか
たも尋常一様ではなかった。そいつは彼と主人とのあいだに割って
はいり、通せんぼをしている。ホワイト・ファングは、警告のうな
りさえ発しなかった。首毛を逆だてるなり、例によって声もたてず
に、すさまじい猛襲をかけにいった。だが、その攻撃が目的を達す
ることはついになかった。途中で彼がぎこちなく踏みとどまったか
らだ。体の勢いを止めようと、前足をぐっと踏んばったため、はず
みであやうく尻餅をつきそうになったほどだ。攻撃対象の犬との接
触を避けようとする気持ちが、それほどに強かったと言ってもい
い。というのも、相手は雌犬であり、そうと知ったとたん、同族の
掟が、ふいに目の前に立ちはだかったのである。彼にとって、その
雌犬を攻撃することは、とりもなおさず、身にそなわった本能にそ
むくことになる。
ところが、相手の牧羊犬にとっては、事情はまるで異なってい
た。雌犬だから、もともとそういう本能は持ちあわせていない。そ
れどころか、牧羊犬である彼女の場合、野生のもの、とりわけ狼に
たいする本能的な恐怖が、ことのほか強い。彼女にとって、ホワイ
ト・ファングは狼以外のなにものでもない──かつて、遠いはるかな
彼女の祖先が、はじめて牧羊犬として羊たちを駆り集め、番をする
ようになったそのとき以来、つねに彼女の護る羊たちを食い物にし
てきた伝統的な略奪者。という次第で、いま相手がその突進を中断
し、接触を避けようと足を踏んばったそのとたんに、彼女のほうが
逆に相手にとびかかっていった。彼女の牙が肩に食いこむのを感じ
て、思わずホワイト・ファングはうなり声を発したが、かといっ
﹅ ﹅
て、自分から彼女に危害を加えようとはしなかった。どこかばつが
悪そうに脚をつっぱり、そのまま後退して、彼女を避けて通ろうと
した。あちらへ、こちらへと身をかわし、迂回してみたり、方向を
変えてみたりしたが、効果はまるでない。どう動きまわってみて
も、相手はつねに彼自身と、彼の行きたい方角とのあいだに立ちふ
さがるのだ。
「こら、こっちへおいで、コリー!」と、馬車のなかの見知らぬ男
が呼びかけた。
ウィードン・スコットが声をあげて笑った。
「だいじょうぶですよ、おとうさん。いい訓練になります。ホワイ
ト・ファングはこれからいろんなことを学ばなくちゃならない。な
らばいますぐ始めるのがいいでしょう。心配いりません、きっと順
応しますから」
馬車は進みつづけたが、コリーはなおもホワイト・ファングの行
く先に立ちふさがろうとする。彼はドライブウェイを離れ、芝生を
斜めにつっきることで彼女の先まわりをしようとしたが、彼女はそ
れより内側の、より小さな円をまわっているので、つねにこちらよ
り速く、どこまで行っても、よく光る二列の歯を大きくむきだして
立ち向かってくる。やむなく逆もどりして、ドライブウェイを横切
り、べつの芝生へ走りこんだが、ここでも彼女に行く手をさえぎら
れた。
馬車は主人を乗せたままどんどん遠ざかってゆき、それが木の間
ごしにちらりと見てとれた。状況はいよいよ厄介なことになってき
た。ホワイト・ファングはまたべつの円をまわろうとしてみたが、
コリーもいっそう足を速めて追ってくる。と、そこで、いきなり彼
は彼女にとびかかった。いつもの得意の戦法だ。肩で肩を狙って、
まともに体当たりしていった。彼女は転倒しただけではない。それ
までの走りかたが速かったせいもあって、その勢いで横ざまにはね
とばされ、まず背中を下に、ついで脇腹を下に、とどこまでもころ
がってゆき、ようやく身をもがいて止まったあとも、足の爪で砂利
をがりがりひっかきながら、傷ついたプライドと、やりばのない憤
りとから、けたたましい金切り声で叫びたてた。
ホワイト・ファングは立ち止まってはいなかった。これで障害は
なくなった。それだけで彼としてはじゅうぶんだ。走りだした彼
を、コリーはなおも執拗に叫びたてながら追ってきた。だがいまや
道は一本道、そして本気を出して走るということになれば、ホワイ
ト・ファングのほうが一枚上だ。コリーはヒステリックになり、半
狂乱になり、せいいっぱいの力をふりしぼって追ってくるが、一歩
ごとに吐く息、うめく声などから、どれだけ必死に走っているかは
察せられる。ひきかえホワイト・ファングのほうは、ひらりひらり
と彼女から身をかわしながら、終始、声もたてず、力も入れず、宙
に浮く亡霊さながらに地上をすべってゆく。
建物の角をまわり、張りだしたひさしのついた車寄せまでくる
と、馬車に行きあった。すでに停まっていて、主人が降りるところ
だ。と思ったとたん、依然として全速力で走っていたホワイト・フ
ディアハウンド
ァングは、とつぜん横からの攻撃に気づいた。一頭の鹿猟犬が突進
してくる。向きなおろうとしたが、それまでのスピードが速すぎた
し、相手との距離も近すぎた。そいつは脇腹にぶつかってきた。こ
ちらの前進する勢いが強かったのと、およそ予期していなかった隙
をつかれたのとで、ホワイト・ファングはその場で地面に投げださ
れ、くるりと一回転した。だがこのぶざまな体勢から抜けだしたと
きには、すでに敵意のかたまりとなっていて、耳はぴたりと寝か
せ、くちびるをめくりあげ、鼻に皺を寄せ、牙をかちかち嚙み鳴ら
していた。その牙は、相手の猟犬のやわらかな喉を、ほんのわずか
なところでかすめたのだった。
主人が駆け寄ってきたが、あいにく距離がありすぎた。ディアハ
ウンドの命を救ったのは、さいぜんのあのコリーだった。ホワイ
ト・ファングがとびこんで、猟犬に致命傷を与える寸前、まさしく
彼がとびかかろうと身構えたその瞬間に、コリーが駆けつけたの
だ。彼女はホワイト・ファングに裏をかかれ、おまけに走り負けて
いた。みっともなく砂利の上にころがされた屈辱、これは言うまで
もない。だから、いま駆けつけてきた彼女は、まさに火の玉だった
──踏みにじられた尊厳、正当なる怒り、これらのお返しをしないで
なるものか。さらに、〈荒野〉からやってきたこの略奪者への、持
ち前の本能的な憎しみもある。ホワイト・ファングが跳躍したその
せつな、彼女は真横から横腹にぶつかってき、彼はまたしても転倒
して、ごろごろところがった。
そのすぐあとに、主人が駆けつけた。そして片手でホワイト・フ
ァングをおさえるいっぽう、主人の父親が二頭の犬たちに離れろと
命じた。
「いやあ、なかなか熱烈な歓迎ですね──〈北極〉からきたかわいそ
うな一匹狼にとっては」ホワイト・ファングは主人のやさしい愛撫
を受けておとなしくなったが、そのようすを見ながら、主人はつづ
けた。「こいつはね、生まれてこのかた、たった一度しか転倒した
ことがないと言われてる。なのに、ここへきてからわずか三十秒の
あいだに、二度もころがされたんですからね」
騒ぎのまに馬車は走り去り、ほかの見慣れぬ神々が数人、家のな
かから姿をあらわしていた。何人かはうやうやしく距離をおいて立
っていたが、なかのふたり──女たち──がまた、主人の首に腕を巻
きつけるという敵対行為をしでかした。それでも、ホワイト・ファ
ングは徐々に、この行為を大目に見ることを覚えはじめていた。見
たところ、この行為によって、主人になんらかの危害が及ぶようす
はなさそうだし、だいいち、がやがや言っている神々の声の調子
も、明らかに威嚇的なものではない。ホワイト・ファングにたいし
ても、これらの神々は近づきになりたいようすを示したが、彼は鋭
く一声うなって、近づけようとしなかったし、主人もまた言葉で同
様の注意を与えた。そのようなとき、ホワイト・ファングは主人の
脚にぴったり寄り添って立ち、軽く頭をたたかれて、安心するのだ
った。
猟犬は、「ディック! 伏せろ!」と命令されると、玄関口の階
段をあがって、ポーチの片側に身を伏せたが、それでもなお、低く
うなりながら、この侵入者に不機嫌な目をそそぐのをやめなかっ
おんながみ
た。コリーのほうは、女 神のひとりにまかされ、首に腕をまわされ
て、軽くたたかれたり、なでられたりしていたが、こちらはひどく
途方に暮れて、不安げなありさま、落ち着かなげにくんくん鼻を鳴
らしている。狼ごときがこの場にいるのを許されていること、それ
にたいして腹をたて、そういう神々のやりかたはまちがっていると
思いこんでいるのだ。
神々はそろって階段をあがり、家のなかにはいりはじめた。ホワ
イト・ファングも主人のすぐ後ろからついていった。ディックがポ
ーチからうなり声を浴びせてきたので、ホワイト・ファングも階段
の途中で首毛を逆だて、うなりかえしてやった。
「コリーだけをなかに入れて、あとは犬たち同士、決着がつくまで
闘わせてやったらどうだ」と、スコットの父親が切りだした。「気
のすむまでやりあったあとは、きっと仲よくなるだろう」
「だったら、ホワイト・ファングは友情を示すために、葬式の喪主
を務めなきゃならなくなりますよ」主人が笑って言った。
年長のスコットは疑わしげな目をして、まずホワイト・ファング
を、ついでディックを、最後に息子を見やった。
「というと、おまえは本気で……?」
ウィードンはうなずいた。「ええ、本気です。闘わせたりすれ
ば、一分もしないうちに、ディックは死体になってますよ──せいぜ
い持ちこたえても、二分でしょう」
それから彼はホワイト・ファングに向きなおった。
「さあおいで、ウルフ。おまえこそなかに入れてやらなきゃな」
ホワイト・ファングは脚をつっぱらせて階段をあがり、ポーチを
横切った。尾を緊張させてぴんと立て、横からの攻撃を警戒して、
ディックからはかたときも目を離さず、同時に、家の奥からいつ、
どんな恐ろしい敵がとびだしてきてもいいように、前方にも万全の
注意を怠らなかった。けれども、そのような恐ろしいものがとびだ
してくることはついになく、なかにはいったところで、今度はぐる
りと室内を偵察してまわりもしたが、ここでもなんら怪しいものは
見つからなかった。それを確かめて、ようやく満足げに鼻を鳴らし
ながら主人の足もとにうずくまったが、その後も周囲で起きること
すべてに観察の目を配り、万一の場合は、いつでもぱっと立ちあが
って、命がけで闘う態勢をととのえていた。なにしろ、こういう建
物のトラップ仕立ての屋根の下には、必ずやなにか恐ろしいものが
ひそんでいるにちがいないのだから。
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神の領域
ホワイト・ファングは、生まれつき環境への順応性をそなえてい
たが、そればかりでなく、これまで幾多の旅を重ねてきて、適応す
ることの意味や必要性をもよく心得ていた。だからいま、このシエ
ラ・ビスタと呼ばれるスコット判事の屋敷へきても、たちまち慣れ
て、くつろいだ気分で過ごしはじめた。ほかの犬たちとも、その後
は二度と面倒な揉め事は起こさなかった。この〈南国〉での神々の
流儀についてなら、ほかの犬たちのほうが彼よりもずっと詳しいの
だし、その彼らの目から見て、はじめに神々に連れられて家のなか
にはいっていったそのときから、彼はひとまず合格ということにな
っていたのだ。たしかに彼は狼だし、そういうことはおよそ先例の
ないことではあるのだが、それでも神々が彼の存在を正当と認めて
いる以上、その神々の犬である彼らとしても、その正当性を認める
しかなかったのである。
ディックは、いやおうなく、はじめ何度かはホワイト・ファング
とのかたくるしい接触を経験することになったが、その後は、この
屋敷への新たな付加物として、穏やかに彼を受け入れた。もしもデ
ィックの流儀が通っていれば、おそらく二頭は仲のよい友達になっ
ていただろう。だがホワイト・ファングのほうは、そうした友達づ
きあいを嫌った。ほかの犬たちに望むことは、たったひとつ、ほう
っておいてもらうことだけ。生まれてからいままで、ずっと同類と
は疎遠に暮らしてきたし、これからも彼らとはやはり一線を画した
い。ディックが働きかけてくること自体、彼としては煩わしく、だ
からディックにも一声うなり声を浴びせて、追い払った。北の地に
いたころに、主人の犬たちに手出しをしてはならないとの教訓をた
たきこまれていたし、いまでもその教訓は忘れていない。それで
も、あくまでも自分ひとりでいたい、あえて孤立していたいという
気持ちはあいかわらず強く、徹底的にディックを無視したので、さ
すがにこの気のいい犬も、最後には彼と親しくなるのをあきらめ、
きゅうしゃ
厩 舎のそばの馬をつなぐ杭に向けるほどの関心も、彼には向けてこ
ないようになった。
コリーの場合は、そうはいかなかった。それが神々の命令だった
から、ひとまず彼を受け入れはしたものの、だからといって、それ
がそのまま、彼をそっとしておくという理由にはつながらなかっ
た。彼や、彼の先祖たちが、これまで彼女の先祖を相手に行なって
きた数々の犯罪の記憶、それが彼女の本性には織りこまれている。
彼らに荒らされた羊小屋のことは、一日やそこらで、いや、たとえ
一世代かかろうと、忘れられるものではない。それらすべてが心の
刺となって、報復へと彼女を駆りたてるのだ。彼を許容している
神々にたいし、まっこうから楯つくことはできないが、かといって
それは、彼女があれこれとけちなやりかたで彼に嫌がらせをする、
それを妨げるものではない。彼とのあいだには、幾世代にもわたる
確執が横たわっている。彼女としては、どこまでもその事実を彼に
忘れさせまいとしているのである。
というわけで、彼女は自分が雌であるということを楯にとって、
ことごとにホワイト・ファングを標的にし、いじめにかかった。彼
の持って生まれた本能は、彼女を攻撃することを許そうとしない
が、さりとて彼女を無視することも、彼女の執拗さが許してくれな
い。彼女がつっかかってくると、彼は被毛で保護された肩を相手の
鋭い牙に向け、脚をつっぱらせて、堂々と歩み去る。あまりに相手
の挑発が激しくなったときは、やむなくぐるりと回り道をするが、
そんなときも、肩は相手の目の前にさらしたまま、顔だけ横にそむ
け、そしてその顔にも、目のなかにも、うんざりしたような辛抱づ
かい ま
よい表情を垣間見せる。とはいうものの、ときとしてしたたか尻に
きゅうきょ
咬みつかれて、急 遽、撤退を余儀なくされたりもするが、そういう
ときの退散のしかたは、とても〝堂々とした〟などと言えるもので
はない。それでもまあ原則として、いちおうの尊厳は──ほとんど謹
厳とも言えるほどの重々しさは──保たれている。ともあれ彼として
は、できるだけ彼女の存在を無視し、彼女を避けることを心がけ、
彼女がやってくるのが見えたり、聞こえたりすると、すぐさますっ
と腰をあげて、歩み去るのを旨としている。
そのほかにも、ホワイト・ファングが学習すべきことはたくさん
あった。〈北国〉での生活は、ここシエラ・ビスタでの複雑なあれ
これとくらべると、文字どおり簡素そのものだった。ここでは、ま
ずなによりも先に、主人の家族を覚えなくてはならない。ある意味
で、これには多少の経験がないでもなかった。ミト=サーやクルー
=クーチがグレイ・ビーヴァーに所属し、彼の食物を、彼の火を、
彼の毛布を分かちあっていたように、ここシエラ・ビスタでも、こ
の家に居住する全員が、彼の愛する主人に所属しているのである。
だが、この点では、ここにはちょっとしたちがいもあった──とい
うか、多くのちがいがあった。シエラ・ビスタは、グレイ・ビーヴ
ァーのティピーよりも、はるかに広大である。注意を払うべき人間
も大勢いる。まず筆頭はスコット判事。そしてその妻。主人のふた
りの妹、ベスとメアリー。主人の妻のアリスと、主人の子供たちふ
がん ぜ
たり、ウィードンとモード──四歳と六歳で、まだ頑是ない。こうし
たすべてのひとびとのことを、ホワイト・ファングにもわかるよう
に説明してやるすべはないし、血のつながりとか、肉親とかいった
ことについても、彼はなにも知らず、知る能力も持ちえないだろ
う。にもかかわらず、すぐに彼は、これらがみな自分の主人に所属
するひとびとであると見てとった。それからは、機会あるごとに観
察を怠らず、ひとびとの行動や、話しぶりや、声の抑揚そのものに
まで注意を払っていると、やがて徐々に、彼らが主人から受けてい
る好意のほどや、主人との親しさの度合いなどもわかるようになっ
てきた。そこで、こうしてつきとめた自分なりの基準にもとづき、
それに応じた接しかたでひとびとに接した。たとえば、主人にとっ
て価値あるものは、彼もこれを尊重する。主人にとってたいせつな
ものは、ホワイト・ファングもこれを大事にし、注意ぶかく見まも
る、というふうに。
主人のふたりの子供の場合が、ちょうどこれだった。これまでず
っと、彼は子供を毛嫌いしてきた。子供の手を憎悪し、恐れてもき
た。何カ所かのインディアンの村で、子供たちのやりたいほうだい
の暴力や残酷さについて思い知らされたこと、これはなまやさしい
教訓ではなかった。だから、はじめてウィードンとモードが近づい
てきたときにも、彼は警告するようにうなって、敵意ある表情を見
せた。ところが、いきなり主人から一発ぽかりと食らわされ、きび
しい言葉で叱責されたので、そこでやむなく子供たちの愛撫の手を
受け入れはしたものの、なおも彼らの小さな手の下で、ぐるる、ぐ
るるとうなりつづけ、そしてそのうなり声には、甘く歌うような響
きはみじんもなかった。のちに、このふたりの男の子と女の子は、
主人から見ればこよなく大事な宝なのだということが、観察を通じ
てわかってきた。それからは、子供たちからなでられたり、手のひ
らで軽くたたかれたりする前に、主人からぽかりと打たれるとか、
きびしく叱責されるとかする必要はなくなった。
とはいえホワイト・ファングは、けっして過度に親愛の情をほと
ばしらせることはなかった。主人の子供たちには、不機嫌なうちに
もあくまでも誠実な態度で服従し、彼らがふざけかかったり、から
かったりしても、痛い手術に堪える患者よろしく、それを堪え忍ん
だ。そのあげくに、それ以上はどうしても我慢できなくなると、す
っと立ちあがって、決然とその場を歩み去る。それでも、しばらく
たつうちには、彼にも子供たちを愛おしくさえ思う気持ちが湧いて
きたが、かといって、その気持ちをあからさまに示すということも
ない。自分から子供たちに近づいてゆくこともしない。とはいえい
っぽうでは、子供たちを見るなりその場から離れ去るかわりに、子
供たちのほうから近づいてくるまで待つようになったし、さらにま
たしばらくたってからは、近づいてくる子供たちを見て、目を喜ば
しげに輝かせたり、やがて子供たちがほかの遊びのために離れてい
ってしまうと、妙に残念そうな目つきでそれを見送ったりする、そ
んなようすも見られるようになった。
こうしたことはいずれも、ひとつの進化の問題であって、そこま
で行くのには時間がかかった。子供たちに次いで、二番めに彼が好
意を寄せたのは、スコット判事であった。これにはおそらくふたつ
の理由があるだろう。ひとつは、判事が明らかに彼の主人のたいせ
つな所有物であること、そしていまひとつは、判事が感情をあらわ
にしない人柄であること。判事が広いポーチで新聞を読んでいると
きなど、ホワイト・ファングは好んでその足もとに寝そべった。判
事は読みながらときどき彼に目を向けたり、ちょっとした言葉をか
けてきたりする──いずれも、判事がホワイト・ファングの存在と、
彼がその場にいることを認めている証拠であって、とくに煩わしい
ものではない。ただし、こうしたことも、主人がそばにいないとき
にかぎられる。主人が姿をあらわすやいなや、ホワイト・ファング
に関するかぎり、ほかのことはいっさい存在しなくなってしまうの
だ。
ホワイト・ファングは、家族の全員が自分を愛撫したり、ちやほ
やしたりするのを容認してはいたが、しかし、主人に与えるものを
彼らにまで与えることはけっしてしなかった。彼らの愛撫は、彼が
喉の奥でたてる声に、あの甘く歌うような響きを忍びこませること
はできなかったし、どんなにそうせよとうながしてみても、主人に
するように、強く頭をこすりつけてゆくあのしぐさをさせることも
できなかった。このしぐさは、絶対的服従と、自分を捨てて相手に
すべてをゆだねているということ、そして相手への全面的な信頼、
これらをあらわすものであって、ひとり主人にのみ向けられるべき
ものなのだ。じつのところ彼としては、家族の面々といえども、み
なわが愛する主人の従属物、という観点からしか見てはいなかった
のである。
同様に、ホワイト・ファングは早くから、家族の面々と、屋敷の
使用人たちと、この二者のあいだの差異も見わけていた。使用人た
ちは彼を恐れているが、彼のほうではたんに、彼らを攻撃するのを
控えているにすぎない。それはつまり、彼らもやはり主人の所有物
であると見なしているからで、彼らとのあいだには、ある種の中立
状態が存在するだけ、それ以上のものはなにもない。彼らは主人に
かわって料理をし、皿を洗い、ほかのさまざまな雑用もこなす──か
つてクロンダイクでマットがやっていたのとおなじに。早い話が、
彼らはこの屋敷の付属品というにすぎないのである。
いっぽう、屋敷の外にも、ホワイト・ファングが学習すべきこと
はまだいくらもあった。主人の領有する土地は、広大かつ複雑に入
り組んでいるが、それでも、それなりに境界や限界はある。土地そ
のものは、一本の郡道で終わっていて、その先は、周辺のすべての
神々の共有地──道路や、街路などだ。道路の先には、またべつのフ
ェンスがあり、その内側には、他の特定の神々に属する土地がひろ
がっている。こうしたことすべてを統括し、行動を規制するための
掟、およそ無数とも言える掟が、人間の世界には存在するのだが、
あいにくホワイト・ファングには、神々の言葉はわからないし、経
験を通じて学ぶ以外に、それを学ぶすべもない。だから、はじめは
生まれながらの衝動にしたがって行動するが、そのうち、なんらか
そ し
の掟にぶつかって、阻止されることになる。何度かこんなことを経
験するうちには、自然に掟が身につき、以後はそれを守って行動す
るようになるというわけだ。
とはいえ、ホワイト・ファングを教育するにあたってなにより効
果があったのは、主人の手から一発食らったり、主人の声でけん譴せき責さ
れたりすることだった。彼が主人に寄せる愛情はこよなく深かった
から、その主人の手でぽかりと打たれると、かつてグレイ・ビーヴ
ちょうちゃく
ァーやビューティー・スミスの手で打 擲されたときよりも、受ける
傷ははるかに大きかった。彼らが痛めつけたのは、たんに肉体の表 しん
面だけで、その肉の下では、不屈の魂がなおも真っ赤に息づき、


恚の炎を燃やしていた。ひきかえ、主人による殴打は、つねに軽く
て、肉体的な痛みはもたらさない。なのに、それがひときわ身にこ
たえる。それはすなわち主人が自分に不満を持っていることの表明な
であり、それを思うと、とたんにホワイト・ファングの魂は萎えし
ぼんでしまうのである。
実際には、主人の手で打たれることなど、めったになかった。主
人の声だけでじゅうぶんだった。その声で、ホワイト・ファングは
自分のしていることの良し悪しを判断した。その声で、自分のふる
ら しん ぎ
まいを変え、行動を調整した。その声こそは彼の羅針儀であり、そ
れにもとづいて彼は方針を決め、新たな土地と生活に伴う諸問題を
分類し、整理した。
〈北国〉では、ひとに飼い馴らされた動物と言えば、犬しかいなか
った。ほかのものはみな〈荒野〉の生き物であり、犬にとっては──
もしもあまりに手ごわすぎるということさえなければ──そのまま正
当な獲物となった。ホワイト・ファングも、これまでずっと、生き
た獲物をあさって生きてきた。〈南国〉では事情がちがうというこ
となど、彼には思いもよらぬことだったが、このこともまた、サン
タクララ・ヴァレーの屋敷で暮らしはじめるとすぐに、学習しなけ
ればならない問題となった。ある朝早く、ぶらぶらと建物の角をま
わっていった彼は、けい鶏しゃ舎から逃げだした一羽のにわとり
鶏 に出あった。持っ
て生まれた本能にしたがうなら、ここはそいつを食う以外にない。
一跳び、二跳び、そして牙のひらめき、おびえた鶏のけたたましい
悲鳴、そうしてその命知らずの鶏は、彼の口にくわえられていた。
農場育ちで、よく肥り、やわらかな鶏だったから、ホワイト・ファ
ングは舌なめずりして、こういうごちそうも悪くない、などと思っ
たのだった。
その日、もうすこしあとになってから、厩舎の近くでまた一羽、
迷いでた鶏に出くわした。このときは、馬丁のひとりが救助に駆け
つけたが、その男はホワイト・ファングの素姓を知らなかったた
え もの
め、得物として馬車用の軽い鞭をたずさえていただけだった。その
鞭で一打ち食らうなり、ホワイト・ファングは鶏をほうりだして、
男のほうに向かった。棍棒であれば、あるいは彼を制止できたかも け しき
しれないが、鞭では無理だ。例によって声もたてず、ひるむ気色も
なく、突進してゆきながら鞭の第二撃を受けとめるなり、彼はその
まま男の喉を狙ってとびかかっていった。「わっ、助けてくれ
っ!」馬丁は悲鳴をあげて、よろよろと後退すると、鞭をとりおと
して、両腕で喉をかばった。結果としてその腕は、骨が露出するま
で咬み裂かれることとなった。
馬丁はすっかりふるえあがっていた。彼をふるえあがらせたの
は、ホワイト・ファングの獰猛さというよりも、むしろ、この犬が
まったく声を発しないことだった。咬み裂かれて血を流している腕
を重ね、それでなおも喉と顔とをかばいながら、彼はなんとか厩舎
のなかまで退却しようとした。もしもこの場にコリーがあらわれな
かったなら、事態はこの男にとってすこぶる深刻なことになってい
ただろう。かつてディックの命を救ったのとおなじに、きょうまた
コリーは馬丁の命を救ったのだ。激しい怒りに逆上しながら、彼女
はまっすぐホワイト・ファングめがけてとびかかっていった。やは
り思ったとおりだった。へまな神々よりも、この自分のほうが、よ
っぽどよく事の成り行きを見通していたのだ。かねての疑念は、す
べて的中していたとわかった。ここにいるのは、むかしながらの略
奪者にほかならず、そいつがまたぞろむかしながらの悪行に及ぼう
としている。
馬丁はどうにか厩舎のなかに逃げこみ、ホワイト・ファングも、
癖の悪いコリーの牙の前から後退、というか、自らその牙の前に肩
をさしだしつつぐるっとまわり、またまわった。ところがコリーは
例によって、ひとしきりぞんぶんに懲罰を加えてしまってからも、
まだあきらめようとしない。いや、それどころか、時間がたつうち
にいよいよ興奮して、いきりたつばかり。ついにはホワイト・ファ
ングもたまりかねて、威厳もなにもかなぐり捨て、逃げるが勝ちと
ばかりに、農地を横切って一目散に逃げ去った。
「いずれあいつにも覚えさせますよ──鶏に手出しをしてはならんっ
てことはね」そう主人が言った。「しかし、それをあいつに教えこ
むためには、犯行の現場をとっつかまえなきゃならない」
二晩後、その機会がやってきた。だがそれは、主人が予想してい
たのよりも大規模な犯行となった。それまでホワイト・ファング
は、じっくりと鶏舎のようすをうかがい、さらに鶏たちの習性をも
観察しておいた。夜になり、鶏たちがねぐらについてしまうと、や
おら動きだして、最近運びこまれたばかりの材木の山にのぼった。
むな ぎ
そこからは、鶏舎の屋根のひとつに移動し、屋根の棟木を越えて、
中庭へとびおりた。と見えたときには、早くも鶏舎のなかにはいり
こんでいて、すぐに大殺戮が始まった。
朝になって、ポーチに姿をあらわした主人の目は、馬丁の手でそ
こにずらりと並べられた、五十羽の白色レグホンに迎えられた。音
には出さずにそっと口笛を吹いたのは、最初はまず驚きから、そし
て最後には、いやはやと舌を巻く思いからだった。おなじくこの場
で主人の目を迎えたものに、ホワイト・ファングがいた。けれども
こちらは、その態度からいささかも恥じる気色とか、うしろめたさ
などは感じられない。それどころか、驚くなかれ、まるでなにやら
賞賛にあたいする、価値ある偉業をやってのけたように、いかにも
誇らしげにふるまっている。そこには罪の意識などこれっぽっちも
ない。これから果たさねばならぬ気の進まぬ仕事を前にして、主人
のくちびるが薄く引き締まった。それから、当人はまったくその意
識のない罪人にたいし、強い口調で叱責を始めたが、まことにその
声こそは、神の怒りの声以外のなにものでもないきびしさを持って
めんどり
いた。さらに、並べられた雌鳥たちの死骸にホワイト・ファングの
鼻をこすりつけ、かたわらこぶしでしたたか彼を殴りつけた。
これから先、ホワイト・ファングが鶏小屋を襲撃することは、二
度と許さない。それは掟にそむく行為であり、このことをかたく肝
に銘じておくべきである。懇々とそう言い聞かせたうえで、主人は
彼を鶏舎へ連れていった。目の前でも、すぐ鼻の先でも、生きた餌
がばたばたと駆けまわっている。そういう餌にすぐとびかかりたい
というのは、生まれつきホワイト・ファングの身にそなわった衝動
にほかならない。ところが、その衝動にしたがいかけたとたん、主
人の声で制止された。それから半時間余りも、主従は鶏小屋のなか
にいつづけた。そのあいだも、たびたびホワイト・ファングはおな
じ衝動にかられたが、ついそれに負けそうになると、そのつど主人
の声できびしく制止される。このようにして、彼は徐々に掟を習得
し、まもなく、鶏たちの領域を出てゆくころには、彼らの存在を無
視するすべを身につけていた。
昼食の席で、息子からホワイト・ファングに与えた教訓のことを
聞かされたスコット判事は、残念そうに首をふりふり言った。「し
きょうせい
かしなあ、鶏殺しの癖を矯 正するのは無理だぞ。いったんその悪癖
が身について、血の味を覚えてしまったら……」もう一度、痛まし
げに首をふってみせる。
だがウィードン・スコットは、父とはまたちがった考えを持って
いた。
「だったら、こうしてみたらどうですか?」ややあって、いどむよ
うに言った。「このあと、午後はずっとホワイト・ファングのやつ
を、鶏どもといっしょにとじこめておくんです」
「しかし、鶏の被害のことも考えないと」判事が反論する。
「さらにですね」と、息子がつづける。「やつが鶏を一羽殺したな
ら、その一羽につき、れっきとした金貨で一ドルずつ、おとうさん
に支払いますよ」
「だったら、おとうさまのほうにも罰金をかけなくちゃ」と、妹の
ベスが口をはさんだ。
もうひとりの妹もそれを支持し、テーブルをかこんだほかの家族
からも、賛同の声があがった。スコット判事はうなずいて、承諾を
与えた。
「いいでしょう」ウィードン・スコットはちょっと思案した。「で
は、と──もしも午後の終わりになっても、ホワイト・ファングのや
つが一羽の鶏も傷つけていなかったら、あいつが鶏舎のなかで過ご
した時間の十分ごとに一回、おとうさんにはこう言ってもらいます
──ちょうど裁判長席でおごそかに判決を言いわたすように、ゆっく
りと、重々しく、『ホワイト・ファングよ、おまえはわたしの思っ
ていた以上に利口だ』とね」
観察に適した物陰のある地点から、家族全員が事の成り行きを見
まもった。ところが、思惑ははずれた。というのも、鶏小屋にとじ
こめられ、主人が姿を消してしまうと、ホワイト・ファングはごろ
りとその場に横になり、眠りこんでしまったのだ。一度だけ起きあ
がったものの、それも水桶の水を飲みにゆくためでしかなかった。
周囲の鶏たちは、平然と無視されていた。彼に関するかぎり、鶏た
ちは存在しないのも同然だった。やがて四時になると、ひらりとみ
ごとな走り高跳びを演じて、鶏舎の屋根にとびあがり、そこから外
の地面にとびおりて、あとは悠然たる足どりで家まで歩いてきた。
掟はまちがいなく身についていた。そしてポーチに立ったスコット
判事は、大喜びしている家族たちの前で、ホワイト・ファングにむ
かって重々しく、かつおごそかに、十六度もくりかえしてこう唱え
たのだった──「ホワイト・ファングよ、おまえはわたしの思ってい
た以上に利口だ」と。
とはいうものの、掟はほかにも山ほどあって、その多様さがホワ
イト・ファングをとまどわせ、恥をかかせることもしばしばだっ
た。まず学ばねばならなかったのは、よその神々の鶏たちにも、や
はり手出しをしてはならないということだった。さらに、猫たちが
いる。兎がいる。七面鳥がいる。これらもやはりそっとしておかな
くてはならない。実際、はじめ掟の一部しか習得していなかったこ
ろには、生きとし生けるものはことごとく、手出しをしてはならな
い対象である、との印象を受けていたものだ。あるとき、裏の牧草
うずら
地で、一羽の鶉が彼の鼻先からばたばたと飛びたったことがある
が、このときも、鶉は無傷のまま飛び去っていった。追いかけたい
意欲と願望とが全身をわななかせ、こわばらせていたが、それでも
彼はその本能を抑止し、じっと動かなかった。そうすることで、
神々の意思にしたがっていたのだ。
ところがある日のこと、やはりおなじ裏の牧草地で、ディックが
一羽の野兎を狩りだし、そのあとを追うのが目にとまった。たまた
ま主人もその場にいて、そのようすを見ていたが、制止しようとは
しない。それどころか、ホワイト・ファングにむかって、おまえも
追跡に加われとうながすではないか。こうしたことから、どうやら
野兎に関してはタブーはないらしいということを彼は学び、やがて
最終的には、掟の全貌を把握するにいたった。まず、自分自身と、
ひとに飼われているすべての動物とのあいだには、どんな敵対関係
もあってはならない。友好的とまでは言わなくても、せめて中立の
り す わた
関係だけは保つべきである。だが、それ以外の動物
お うさぎ
──栗鼠、鶉、綿
尾 兎など──は、いずれも野生の生き物であって、人間に忠誠を誓
ったことは一度もない。したがって、どんな犬にとっても正当な餌
となりうる。神々の庇護が及ぶのは、飼い馴らされた動物にたいし
てだけで、それら飼い馴らされたもの同士のあいだでは、命にかか
わる争闘は許されない。神々は、従属するものすべてにたいして生
殺与奪の権を握っているが、その権利を行使するにあたっては、こ
とのほか慎重なのである。
〈北国〉の単純な暮らしを経てきたものにとっては、サンタクラ
ラ・ヴァレーでの生活は複雑きわまりなかった。そして、こうした
複雑な文明生活が主として要求するものがなにかと言えば、それは
自制であり、抑制である──いってみれば、つねに宙ぶらりんの均衡
かげろう はね
のもとに自己を保持すること、そしてその均衡は、蜉蝣の翅のふる
えにも似て繊細、同時に、鋼鉄さながらに強直でもある。それにし
ても、生き物には一千もの異なる顔があり、ホワイト・ファング
は、そのすべてと対面せねばならない──そうと思い知ったのは、近
くの町や、都会のサンノゼまで出かけたときなど、馬車の後ろにつ
いて走ったり、馬車が停まればそのへんの街路をぶらついたりす
る、そのあいまのことだ。自分のかたわらを、生き物がどんどん通
り過ぎてゆく──深く、幅広く、多彩な生き物の流れ、それがたえま
なく五官に作用して、即座に対応し、適応することを迫ってくる。
その要求は果てしなくつづくばかりか、ほとんど一瞬の休みもな
く、彼の持ち前の衝動を抑圧するよう強要しつづけるのである。
たとえば、肉屋の店先──すぐ手の届くところに、肉がぶらさがっ
ている。この肉には、ぜったいに触れてはならない。あるいは、主
人の訪問先の家々の飼い猫、この連中にも手出しは禁物。ほかに、
犬もいる。いたるところに犬がいて、やたら吠えかかってくるが、
こちらが攻撃しかえすことは許されない。さらに、雑踏する歩道に
はおびただしい人間が行きかっていて、この人間たちが、こちらに
好奇の目を向けてくる。いちいち立ち止まって、彼に注目し、たが
いに指をさしあったり、じろじろながめてきたり、話しかけてきた
り、なにより悪いことには、手を出して、愛撫しようとしさえす
る。こうした未知の手による危険な接触、そのすべてを堪え忍ばね
ばならない。それでも彼は、その堪えがたきに堪えきった。のみな
﹅ ﹅
らず、それに伴うぎこちなさ、ばつの悪さをも克服した。ある種の
尊大さをもって、これら無数の見知らぬ神々の注目を受けとめた。
彼らがどこか恩着せがましい、裏に優越感を隠した態度で接してく
れば、こちらも裏に優越感を隠して、謙虚そうに接した。だがその
いっぽうで、彼にはなにか、それ以上のなれなれしさを拒むものが
あった。彼らは軽く彼の頭をたたき、それだけで満足して通り過ぎ
てゆく──狼を愛撫した自分の大胆さがうれしくて、なにやら得意満
面といった面持ちで。
とはいえ、ホワイト・ファングにしてみれば、万事がそうたやす
くおさまるものでもなかった。馬車を追ってサンノゼの郊外を走っ
ていると、きまって何人かの少年に出くわす。日ごろから彼を目の
敵にして、石を投げつけてくる連中だ。なのに、この悪童どもを追
いかけ、ひきずり倒したりすることは、あいにく許されていない。
ここでは、生まれ持った自己保存本能を踏みにじることを強いられ
ていて、また実際に踏みにじりもした。いまでは彼も確実に飼い馴
らされ、文明社会の一員たる資格をそなえつつあったのである。
とはいうものの、こうした成り行きにホワイト・ファングが百パ
ーセント満足していたかと言えば、そうでもない。正義だの、フェ
アプレーだのといった抽象概念は、彼とは無縁のものだったが、そ
れでも、生き物のなかには本来ある種の正義感、公平という観念が
そなわっていて、この正義感がいま彼に、理由もなく石を投げつけ
てくる人間どもにたいして、なんの防御も許されていない不公平さ
への不満をいだかせているのだった。じつのところ、神々とのあい
だに結ばれた盟約により、神々は彼の身を気づかい、彼をかばうこ
とを誓っているのだが、それを彼は忘れていたのだ。ところがある
日、主人が鞭を手にして馬車からとびおりてくるなり、石を投げて
くる悪童どもを思いきり打ち据えてくれた。それからは、もう二度
と石を投げられることもなくなり、ホワイト・ファングも、事の次
第をのみこんで、納得したのだった。
もうひとつ、これと性質のよく似た体験もあった。町へ行く途
中、いつも四つつじ辻の酒場のあたりをうろついている三頭の犬がい
て、この犬どもが、こちらが通りかかるのを見るや、きまってつっ
かかってくる。ホワイト・ファングが闘えば、必ず相手の命にかか
わることは主人もよく知っているから、その後も事あるごとに、喧
嘩はいけないと彼に教えこむのをやめなかった。おかげでこの教訓
は重々ホワイト・ファングの胸にたたきこまれることになったが、
結果として、四つ辻の酒場の前を通りかかるつど、彼はひどい苦境
に立つこととなった。最初に襲ってこられてからというもの、犬ど
もがつっかかってくるたびに、激しくうなって、三頭をある程度の
距離以内には近づけないようにしていたが、それでも相手はしつこ
くあとをついてまわり、きゃんきゃん、ぎゃんぎゃんとやかましく
吠えついて、こちらを侮辱する。こうしたことがしばらくつづい
た。このかん、酒場にたむろする男たちは、犬どもを制止するどこ
ろか、むしろそそのかそうとする気配さえあったが、とうとうある
日、おおっぴらに犬どもをけしかけて、ホワイト・ファングを襲わ
せようとした。と、ここで主人が馬車を停めた。
「よし、いいぞ、やれ」主人はホワイト・ファングに言った。
そう言われても、ホワイト・ファングにはおいそれとは信じられ
なかった。彼は主人を見、それから犬どもを見た。それからもう一
度、熱っぽく、問いかけるようなまなざしで主人を見かえした。
主人は首をうなずかせた。「いいんだ、やっちまえ。徹底的にや
っつけてやれ」
こうなれば、もはやホワイト・ファングに迷いはなかった。向き
なおるなり、例によってうなり声ひとつたてずに敵のまんなかへと
びこんでいった。敵の三頭がいっせいに立ち向かってきた。すさま
じいうなりと咆哮、牙のぶつかりあう音、交錯する体と体。街道が
砂埃を巻きあげ、闘いの様相をおおいかくした。それでも数分たっ
てみると、犬どものうちの二頭は、泥まみれでのたうちまわり、残
る一頭は、雲を霞と逃げだしていた。溝をとびこえ、柵をすりぬ
け、畑を横切って、一目散に逃げる。ホワイト・ファングは追跡に
かかった。狼流の低い姿勢と、狼のスピードとで、敏捷に、音もな
く、地上をすべるように走り抜け、やがて畑のまんなかでそいつを
ひきずり倒すと、血祭りにあげた。
この三重殺により、犬ども相手のトラブルの、そのおもなものは
ヴァレー
かたづいた。うわさが立ち、それが峡谷づたいにひろまっていっ
て、ひとびとは自分の飼い犬がうっかりこの〈闘狼〉にちょっかい
を出したりせぬよう、いやがうえにも気をつけるようになったのだ
った。
OceanofPDF.com
同族の呼び声
数カ月が過ぎた。ここ〈南国〉では、食べ物は潤沢、反面、仕事
はなにもない。ホワイト・ファングも、めっきり肥って、万事に快
適な、ゆとりのある生活を楽しんでいた。たんに地理上の南国にい
るというだけでなく、暮らしかたも南国流になってきていたから
だ。人間の思いやりは陽光さながらに彼のうえに降りそそぎ、その
日ざしのもとで、良質の土壌に移植された花よろしく、彼も開花し
はじめていたのである。
だがそれでいて、彼にはなにかほかの犬とは異なる面があった。
ここ以外の生活を知らない犬たちよりも、彼のほうがいまは掟をし
っかり身につけていたし、その掟をより細心に遵守もしていた。だ
がそのいっぽうで、いまなおどこかに獰猛さがひそんでいることを
うかがわせるものもある──あたかも、彼のうちには〈野性〉がいま
も消え残っていて、内なる狼はたんに眠っているだけであるかのよ
うに。
彼はけっしてほかの犬たちとはなじまなかった。同族である狼に
ついて言えば、これまでもずっと群れとは離れて、孤立した生活を
送ってきたわけだし、これからもその孤立をつづけるつもりでい
た。いっぽう、犬族についても、かつて仔狼のころにリップ=リッ
プや他の仔犬軍団から迫害されて過ごし、その後はまたビューティ
ー・スミスのもとで闘いの日々を送るうちに、彼のうちには、彼ら
にたいする抜きがたい反感が育っていた。以来、本来たどるはずだ
った生の自然な針路からはずれ、しかも同族からはしりごみするば
かり、おのずと人間に頼るしかなかったのである。
なおそのうえに、〈南国〉の犬たちは、こぞって彼を目の敵にし
た。彼を見ると、彼らのなかには〈野性〉にたいする本能的な恐怖
がかきたてられるらしく、きまって彼にむかって歯をむきだし、激
しくうなって、挑戦的に憎しみを浴びせてくる。それにたいし、彼
のほうは、そういう連中には牙をふるうまでもない、とすぐに見き
わめをつける。くちびるをめくりあげ、牙をむきだしてみせるだけ
で、おなじ効果があげられるし、それでそのやかましく吠えながら
つっかかってくる相手を脅しつけ、尻餅をつかせるのに失敗するこ
となど、めったにない。
それでも、ホワイト・ファングの生活には、あとひとつだけ試練
がつきまとっていた──コリーである。彼女は一瞬たりと彼に安らぎ
を与えようとしなかった。掟にたいしても、彼ほどすなおにはした
がわず、ホワイト・ファングと仲よくさせようとする主人のどんな
骨折りにも、かたくなに逆らいとおした。彼女が歯をむきだし、か
んだかく神経質にうなりたてる声は、瞬時も彼の耳もとから離れな
かった。彼の鶏殺しの一件をけっして許そうとせず、彼がよからぬ
魂胆を隠し持っているという見解にどこまでもこだわり、彼がなに
もしていないうちから有罪と決めつけて、それに応じた接しかたを
やくびょうがみ
する。もはや彼女は彼にとって、一個の疫 病 神だった。警官よろし
く、厩舎の周辺から敷地内のいたるところをつけまわし、彼がちら
りとでも鳩や鶏に物珍しげな目を向けようものなら、たちまちいき
りたって、憤激と怒りの叫びをあげはじめる。彼女を無視するため
に彼が好んでとった戦法は、横になって、前足に頭をのせ、眠った
ふりをすることだ。いつの場合も、これにはコリーも啞然として、
黙りこむしかない。
このコリーの存在をべつにすれば、すべての点でホワイト・ファ
ングには順調な暮らしがつづいていた。彼は自制心と抑制とを身に
つけ、掟にも習熟した。立ち居ふるまいには、ある種のきまじめさ
と落ち着き、それに超然とした寛容さがそなわっていた。もはや、
敵意に満ちた環境で生きる身ではなかった。周囲のどこにも、危険
や苦痛や死がひそんでいることはなかった。やがて、かの〈未知な
るもの〉──これまでつねに頭上にのしかかる恐怖と脅威のもととな
ってきたそのもの──も、いつしか消えていった。暮らしは穏やか
で、安楽だった。日々は円滑に流れてゆき、前途に恐怖や敵がひそ
んでいるおそれ、などといったものもいっさいなかった。
自覚はしていなかったが、彼はどこかで雪を恋しく思っていた。
もしもそれについて考えたとしたら、さだめし、〝不当に長い夏〟
がつづいている、とでも思ったことだろう。だが実際には、ただ漠
然と、潜在意識的に、雪をなつかしく思っただけだ。おなじような
意味で、それもとりわけ強い日ざしに照りつけられる夏のさなかな
ど、なんとなく〈北国〉への渇望がうずくのを感じることもある。
もっとも、そうした思いが彼に及ぼす影響はと言えば、それがいっ
たいどういうことなのか合点がゆかぬまま、なにやら気もそぞろに
なって、落ち着きを失うというだけのことでしかないが。
ホワイト・ファングは、けっして感情をうわべにあらわすことは
なかった。主人の腕に身をすりよせたり、愛のうなりのなかに甘く
歌うような響きが加わったりするのを除けば、心のうちの愛を表現
するすべも知らなかった。ところが、その彼がここでもうひとつ、
第三の表現法を見いだすことになったのだ。これまでの彼は、いつ
の場合も、神々の笑いにはことのほか敏感だった。笑われると、ひ
どくいきりたち、ときには怒りのあまり半狂乱にもなる。それが、
愛の主人が相手となると、どうしても腹をたてるということができ
ず、ときとして主人から悪気のない冗談でからかわれたり、ひやか
されたりしても、ひたすら当惑し、どぎまぎするだけなのだ。身内
から、かつてとおなじ怒りがこみあげてきて、ちくちくと胸を刺
し、刺激するが、それは愛とは相対立する感情である。だから、怒
﹅ ﹅ ﹅
るわけにはいかないのだが、さりとて、なにかはせずにいられな
い。はじめは、もったいをつけて、素知らぬふりをよそおってみた
が、主人はかえって激しく笑っただけだ。そこで、いっそう重々し
く、もったいぶったふりをしてみたところ、今度も主人はいよいよ
無遠慮に笑っただけ。しまいには主人に笑い倒されて、彼も威厳を
かなぐり捨てた。もったいぶるのをやめて、上下のあごをわずかに
ひらき、くちびるをすこしめくりあげて、目には当惑げな妙な表情
を浮かべる──笑いというよりは、むしろ愛をたたえた表情。それで
も、ともあれ笑うことを彼は身につけたのだ。
おなじく彼の習い覚えたことのなかには、主人とじゃれあうこと
も含まれていた。主人と取っ組みあって、ごろごろころげまわった
いたずら
り、数知れぬ荒っぽい悪戯の標的にされたりする。そのお返しにこ
ちらからは、腹をたてたふりをよそおって、獰猛にうなりたてた
り、歯をかちかち嚙み鳴らしてみせたりして、いかにも険悪な意図
を秘めているように見せかけるのだが、それでも、われを忘れるこ
とはけっしてない。嚙み鳴らす歯は、つねにぱくっと虚空を咬むだ
けだし、やがて熱中の度が高まって、打ったり、たたいたり、咬み
ついたり、歯をむきだしたりがひとしきりはや早間になると、そこでと

つぜんじゃれあいは終わって、双方は数フィート離れて向かいあ
い、睨みあう。そしてそのあとまた一瞬おいて、今度もだしぬけ
に、ちょうど荒天の海からいきなりぱっと太陽の光がさすように、
双方は声をそろえて笑いだすのだ。そしてこの遊びは、最後にはい
つも、主人がホワイト・ファングの首から肩に腕をまわして抱きし
め、ホワイト・ファングのほうも甘く歌うようにごろごろとうなっ
て、いつもの愛の歌を聞かせる、というかたちで終わるのである。
とはいうものの、主人のほかにはだれひとり、ホワイト・ファン
グとじゃれあおうというものはいなかった。彼がそれを許さないか
らだ。威厳を保って立っているだけで、万一だれかがそれを試みよ
うとでもすれば、警告するようにうなって、首毛を逆だててみせ
る。そこにはとても遊びに通ずる雰囲気はない。自分とたわむれる
ことを主人には許したからといって、それがそのまま普通の犬のよ
うに、だれにでも愛嬌をふりまくとか、だれにでも自分と気ままに
たわむれるのを許す、とかいった理由にはならないのだ。自分の愛
は、主人だけに向けるいちずな愛──その愛を、また自分自身を、そ
んなことで安っぽくするのは、断固として拒絶する。
主人はよく馬で遠乗りに出かけたが、そのお供をするのが、ホワ
イト・ファングの主たる務めのひとつとなった。北の国では、引き
革をつけて橇をひくことで、主人への忠節を示すこともできたが、
あいにくこの〈南国〉には、橇はないし、犬が荷物を背負って運ぶ
習慣もない。そこで、新たな手段で忠節を立証する必要に迫られ、
それが主人の馬のそばについて走るという結果になった。一日の行
程がどれだけ長くなろうと、ホワイト・ファングがへばることはぜ
ったいにない。彼の足どりは狼のそれであり、どこまでもなめらか
に、疲れを知らず、楽々と走り通し、五十マイル走ったあとでもな
お、馬の先に立って軽やかに跳びはねながらもどってくるのであ
る。
彼がさらにもうひとつの新たな表現法を見いだしたのは、この遠
乗りの習慣に関連してのことだった。これがきわめて注目すべきこ
とだったのは、彼が生涯にたった二度しかそれをしなかったという
点にある。最初にそれが起きたのは、主人が元気のいいサラブレッ
ドの愛馬に、乗り手が鞍から降りなくても、木戸をあけしめする方
法を教えこもうとしていたときだった。再三再四、主人は馬を木戸
のそばまで近づけて、それをとじさせようとするのだが、そのたび
に馬はおびえて立ち止まり、しりごみしたり、跳びすさったりす
る。しかも、くりかえすうちに、いよいよ神経質になって、興奮の
度を加えてゆき、ついには棹立ちになってしまった。主人はその脇
腹に拍車をくれて、あげた前脚を地面におろさせたが、おろしたと
たんに、今度は後ろ脚をぴんぴんはねあげて暴れだす始末。この一
部始終を、ホワイト・ファングはしだいに懸念をつのらせながら見
まもっていたが、ここでついに我慢しきれなくなり、馬の前へとび
だすなり、猛然と、威嚇するように吠えたてた。
その後もたびたび吠えようとしてみたし、主人もそれをうながし
たりしたが、成功したのはやっと一回きりで、しかもそれは主人の
いない場でだった。そういう結果につながったのは、ある日、早駆
けで牧草地を横切っているとき、だしぬけに一羽の野兎が馬の足も
とからとびだしたことだった。急な方向転換、つまずき──そして主
人は落馬して、片脚を骨折した。怒り狂ったホワイト・ファング
そ こつ
は、その粗忽な馬の喉もとめがけてとびかかろうとしたが、主人の
声に制止された。
主人は負傷の程度を確かめたうえで、彼に命令した。「おまえは
帰れ! うちへ帰るんだ!」
だがホワイト・ファングには、主人を置き去りにしてこの場を離
れる気など、毛頭なかった。主人は伝言のメモを書こうとしたが、
ポケットをさぐっても、鉛筆も紙も見つからない。そこでもう一度
ホワイト・ファングに、うちへ帰れと命令した。
物言いたげに主人をじっと見てから、ホワイト・ファングはすご
すごと立ち去ろうとしたが、すぐまたもどってくると、そっと甘え
るように鼻を鳴らした。主人はやさしく、だが厳粛に説き聞かせる
口調で話しかけ、ホワイト・ファングは耳をぴんと立てて、痛々し
いほど真剣に聞き入った。
「この場は心配しなくていいからな。おまえはまっすぐ走ってうち
まで帰れ」主人の話がつづいた。「帰って、おれの身になにがあっ
たかをみんなに伝えてくれ。さあ、帰れよ、ウルフ。うちに帰るん
だ!」
ホワイト・ファングにも、〝帰る〟という言葉の意味はわかって
いた。だから、主人のそれ以外の言葉は理解できなかったものの、
それでも、自分がここからうちへ帰ることこそ、主人の意思なのだ
ということはのみこめた。背を向けて、しぶしぶ走りだしはした
が、すこし先で、またも去就に迷って立ち止まり、肩ごしに後ろを
ふりかえった。
「さあ、帰れ!」と、鋭い命令が飛んでくる。今度こそ彼もそれに
したがった。
家族のみんなはポーチに出て、午後のひととき、そこで涼んでい
た。そこへホワイト・ファングがもどってきた。埃まみれで、息を
切らしながら、家族の輪のなかへまっすぐはいってくる。
「ウィードンがもどったんだわ」と、主人の母親が言った。
子供たちがうれしそうに歓声をあげて、ホワイト・ファングを迎
えに走ってきた。彼はするりと彼らを避け、そのままポーチの奥へ
向かおうとしたが、子供たちはそれをさえぎって、一脚のロッキン
グチェアと、ポーチの手すりとのあいだに彼を追いつめた。彼はう
なって、強引に彼らを押しのけて通ろうとした。子供たちの母親が
懸念の目でそのほうを見やった。
「正直に言って、あの犬が子供たちのそばにいるのを見ると、はら
はらするわ」と言う。「いつか、なにかのきっかけで、とつぜん子
供たちに襲いかかったりするんじゃないかって、それが心配で」
荒々しくうなりながら、ホワイト・ファングは追いつめられた片
隅からとびだし、そのはずみに子供たちを突き倒した。母親がふた
りを手もとに呼び寄せ、慰めかたがた、ホワイト・ファングにはか
まうなと言い聞かせた。
「所詮、狼は狼だからな」と、スコット判事が論評した。「信用し
きれないのも無理はない」
「でも、百パーセント狼ってわけでもないのよ」ベスがこの場にい
ない兄の肩を持って、そう口をはさんだ。
「それはウィードンのお説にすぎんさ」判事が言いかえした。「ホ
ワイト・ファングに犬の血が多少まじっているというのは、あいつ
がたんにそう推測してるというだけのことでね。本人も喜んで認め
るだろうが、確実なことはなにもわかってるわけじゃない。見かけ
からすると──」
判事はそのセンテンスを最後まで言いおえることができなかっ
た。ホワイト・ファングが判事の前に立って、猛然とうなりかけて
きたからだ。
「あっちへ行け! 伏せろ!」スコット判事は厳然と命じた。
ホワイト・ファングは、つぎに愛の主人の妻のほうに向かった。
きゃ
彼女がおびえて悲鳴をあげたのは、彼がドレスの袖をくわえて、
しゃ

奢な布地が裂けるまでひっぱったからだ。このころには、すでに彼
のただならぬようすが、一同の注目を集めていた。いまはもううな
るのはやめて、頭を高くもたげて立ち、ひたむきに一同の顔に見入
っている。喉が痙攣的にぴくぴくするが、声は出てこず、そのあい
だも全身をふるわせ、ひきつらせて、どうしても伝えたいのに伝え
られないあるものを、表現しようと身もだえている。
「気がへんになる前ぶれじゃないといいけど」そっとそうもらした
のは、ウィードンの母親である。「ウィードンにも言ったことだけ
ど、もともと北方の生まれの動物には、ここの温暖な気候は体質的
に合わないんだとか」
「なにか言おうとしてるみたい。きっとそうよ」ベスが断言した。
そしてまさにこの瞬間に、おさえにおさえられてきた言葉が、一
気にホワイト・ファングの身内にあふれだし、爆発的な吠え声とな
って、たてつづけにほとばしった。
「ウィードンの身になにかあったんだわ」彼の妻がきっぱり言いき
った。
いまや一同は総立ちになっていた。そしてホワイト・ファングは
ポーチの階段を駆けおりながら、ついてくるようにと、一同をふり
かえった。彼が吠えることで自分の思いを伝えたのは、一生のうち
でこれが二度め、そしてこのときが最後となった。
この出来事があってから、彼はシエラ・ビスタのひとびとの心中
に、より温かな居場所を見いだし、ついには、かつて彼に腕を咬み
裂かれたあの馬丁までが、こいつは狼ではあるが、それでも賢い犬
だと認めるにいたった。そのなかで、スコット判事だけは、旧態依
然たる見解に固執し、その例証となる数字や記述を、百科事典や博
物学に関するさまざまな著作などから引用しては、ほかのみんなの
不興を買った。
毎日がきては去ってゆき、サンタクララ・ヴァレーに絶えざる陽
光が降りそそぎつづけた。けれども、その日脚も徐々に短くなっ
て、〈南国〉におけるホワイト・ファングの二度めの冬がやってく
るころ、彼はある奇妙な発見をした。いつのまにか、コリーの歯が
鋭くなくなっているのだ。あいかわらず咬まれはするが、その咬み
かたには遊び半分というか、本気で彼を痛めつけるのを控えるだけ
のやさしさがある。これまでさんざん彼女に苦しめられてきた彼だ
が、こうなると、ついそのことも忘れ、彼女がたわむれかかってく
るのにたいし、自分もきまじめに応じようと、柄にもなく懸命には
しゃいではみたものの、かえってぶざまさをさらけだす始末。
そしてある日、コリーはホワイト・ファングの先に立ち、裏の牧
草地から森のなかへとはいってゆく、長い追いかけっこに誘いだし
た。その午後は、主人が遠乗りに出かける予定になっていて、ホワ
イト・ファングもそのことは重々承知していた。馬はすでに鞍を置
かれて、玄関先で主人を待っている。ホワイト・ファングは躊躇し
た。だが、彼のなかにはなぜか、これまで身につけてきたどんな掟
よりも深いなにかがうずいていた──これまで彼をかたちづくってき
た鋳型よりも深く、彼の主人への愛情よりも深く、さらに、自分ら
しく生きようとする彼の意思そのものよりも、もっと深いなにか
が。そうして彼が去就に迷って立ちつくしているとき、コリーが軽
く彼を咬み、すぐさまぱっと駆けだしたので、彼も身をひるがえす
なり、そのあとを追った。その日、主人はお供なしで遠乗りに出か
けた。そして森のなかでは、ホワイト・ファングとコリーとが、肩
を並べて駆けていた──遠いむかし、しんと静まりかえった北国の森
のなかを、彼の母キチーと、かの老いた〈片目〉とが駆けていった
ように。
OceanofPDF.com
眠れる狼
ちょうどそのころ、新聞紙上をにぎわしていたのは、サンクエン
ティン重罪刑務所から大胆な脱獄をしてのけた、ある囚人の動向だ
った。その男は凶悪な人物だった。人格形成過程で、つねに誤った
扱いをされてきた結果だった。そもそも生まれた環境がよくないう
とう や
えに、社会という手でほどこされた人格陶冶の作業も、彼にはなん
ら資するところがなかった。社会という手は無慈悲なもの、そして
その非情な手仕事の好個の実例が、この男ということになる。彼は
野獣だった。人間の顔をした野獣──それはいかにもそのとおりなの
だが、この男の場合、野獣にしてもあまりにも凶暴なので、肉食獣
とでも表現するのが、いちばん適切かもしれない。
サンクエンティン重罪刑務所では、この男は矯正不可能とされて
きた。刑罰は彼の心の壁を突きくずすことに成功しなかった。愚か
な怒りに猛りたち、最後まで抵抗して死ぬのならまだしも、べんべ
んと生きのびて、打ち負かされるのなど、まっぴらごめんというわ
けだ。彼が獰猛に闘えば闘うだけ、社会の彼への扱いも手荒にな
り、そしてその手荒さの生んだ成果と言えば、彼をいっそう凶暴に
させたことだけ。拘束服を着せる、食を与えず干乾しにする、ある
いは鞭で打ち、棍棒で殴打する、これらはすべてこの男ジム・ホー
ルにたいする場合、根本的に誤った矯正法でしかなかった。そうい
う処遇を、サンフランシスコのスラム街で育った幼い、まだ〝やわ
らかな〟少年のころから、この男はずっと受けつづけてきたのだ──
社会という手にゆだねられたやわらかな粘土、その手のなすがまま
にかたちづくられて、なにものかに生い育ってゆく粘土として。
三度めに服役していた期間に、ジム・ホールはひとりの刑務官に
出あった──ジム自身に勝るとも劣らない、凶暴な野獣である男。こ
の男はジムを不当に扱い、ジムについて所長に虚言を吹きこみ、ジ
ムへの評価をおとしめ、ジムを迫害した。この両者のちがいと言え
ば、かたや刑務官がリボルバーを携行し、じゃらじゃらと鳴る鍵束
をぶらさげていることだけだった。かたやジム・ホールには、素手
と、歯しかない。にもかかわらず、ある日ジムは刑務官にとびかか
り、ジャングルのけもの同様、歯で相手の喉を食い破ったのだっ
た。
この事件以後、ジム・ホールは矯正不能者房に収容された。彼は
三年間そこで過ごした。房は鉄でできていた──床も、壁も、天井
も、全面が鉄。この房から出されることは一度もなかった。空も、
日光も拝めなかった。昼間は薄暮の薄暗がりにとざされ、夜は闇の
静寂にとざされた。鉄の墓所に、生きながら埋葬された身。人間の
顔を見ることもなければ、人間なるものと言葉をかわすこともな
い。扉の穴から食事が荒っぽく押しこまれてくると、ジムは野獣さ
ながらにうなった。この世のすべてを憎悪して、夜も昼も天地万物
への怒りを吠えたてるかと思えば、逆に何週間も、何カ月も物音ひ
とつたてず、闇の静寂のなかで、ひたすらおのれの魂をむしばんで
過ごすこともある。彼は人間であり、怪物でもあった。狂った頭の
生みだす幻想のなかで、わけのわからぬことを果てもなくわめきた
ててやまない、おそるべき恐怖の生き物。
そうしてある夜、ジムは脱獄した。そんなことはありえないと刑
務所長は主張したが、にもかかわらず、独房はからになっていて、
その入り口に、なかば房内、なかば外の廊下にまたがるかたちで、
刑務官の死体がひとつ横たわっていた。さらにふたりの刑務官の死
体が示しているのは、ジムの逃走の経路だった。房内から外まわり
の塀まで到達する道々、音をたてぬよう、素手で彼らを殺害しての
けたのだ。
殺害した刑務官から奪った武器で、彼は何重にも武装していた──
いってみれば、生きた武器庫。それが、社会という組織された勢力
に追われて、山中を逃げまわっているのだ。その首には巨額の懸賞
金がかけられた。貪欲な農夫らが、散弾銃で彼を狩りたてた。その
血の報酬でローンを完済できるか、あるいは息子を大学に行かせて
やれるかもしれない。公共心旺盛な市民たちも、小銃を棚からとり
おろして、ジム追跡に加わった。足から血を流しているジムの臭跡
を追って、一隊のブラッドハウンドが行動を開始した。さらに、司
スルースハウンド
法の番犬たる 刑 事 たち、社会の戦闘アニマルであるお雇い警察隊
も、電話や電報、ときには臨時列車まで駆使して、夜も昼も執拗に
ジムの足跡を追いつづけた。
それら追跡者たちの一団は、ときとして逃走ちゅうのジム本人と
遭遇することもあったが、そんなとき彼らは、ヒーロー気どりで彼
に立ち向かっていったり、なだれを打って逃げだすはずみに、鉄条
網のフェンスを突き破るといった騒ぎを演じたりして、朝の食卓で
その記事を読む一般大衆を楽しませた。そうした遭遇戦があったあ
とは、死傷者がぞくぞくと荷車で町へ後送されるが、すぐまたべつ
の熱心な人狩り志願者があらわれて、彼らの後釜にすわるのだっ
た。
そうこうするうち、ジム・ホールの消息がふいにとだえた。ブラ
ッドハウンドの一隊は、見失った臭跡をむなしく探しもとめた。遠
い谷間に住むなんの罪もない農場主たちが、武装した男たちによっ
てとつぜん通行を阻止され、身分を明らかにせねばならない、とい
ったはめに陥った。かと思うと、十カ所にものぼる山間のあちこち
で、血の報酬めあての強欲な男どもにより、ジム・ホールの遺骸と
称するものが発見されたりもした。
話は変わって、このころシエラ・ビスタでも新聞は熱心に読まれ
ていたが、しかしそれは追跡劇への興味からというよりも、むしろ
懸念からだった。屋敷の女たちは不安がっていた。スコット判事は
その不安を一笑に付したが、これはいわば根拠のない強がりだっ
た。というのも、判事がその職にあったその最後のころ、ほかでも
ないジム・ホールが判事の前に立ち、有罪判決を受けていたから
だ。そして判決を言いわたされたその法廷で、法廷を埋めたすべて
のひとびとを前に、ジム・ホールは昂然と言いはなったのだった──
いつかきっと、こういう不当な判決をくだした裁判長に恨みを晴ら
してみせる、と。
じつをいうと、このときばかりは、裁判の不当を訴えるジム・ホ
ールが正しかったのだった。有罪を宣告されたその犯罪に関するか
ぎり、彼は無実だったのだ。これはいわゆる犯罪者や警察の用語で
言うところの、〝でっちあげ〟事件だった。ジム・ホールは〝濡れ
衣を着せ〟られて、犯してもいない罪のために起訴されたのであ
る。すでに前科二犯だったため、スコット判事は彼に禁固五十年の
判決をくだした。
あいにく、スコット判事は事件の全貌を知らなかった。自分が知
らずして警察の陰謀に加担していることも、証拠がでっちあげら
れ、証言は偽証されたものだということも、当該事件に関してはジ
ム・ホールが無実であることも、なにひとつ知らなかった。ところうと
がジム・ホールのほうもまた、スコット判事がたんに裏事情に疎い
だけだということを知らなかった。判事がなにもかも承知していな
がら、警察とぐるになって、この言語道断な不正を働いているのだ
と信じこんでいた。そんなわけで、生けるしかばねとしての五十
年、との運命を判事の口から宣告されるや、これまでつねに自分を
踏みつけにする社会のすべてを憎悪してきたジム・ホールは、立ち
あがるなり、法廷じゅうを暴れまわって、最後にやっと、青い制服
を着た五、六人の敵にとりおさえられたのだった。彼の目から見 かなめ
て、スコット判事こそはこの不正のアーチのてっぺんに位置する
いし

石にほかならず、それゆえ、その判事にむけて彼は怒りのありった
けをぶちまけ、いつかきっと復讐してやるとの脅し文句を浴びせた
のだ。そのうえで、ジム・ホールは生けるしかばねの身となり……
そして脱獄したのである。
こうした事情をホワイト・ファングが知ることはいっさいなかっ
た。にもかかわらず、いま彼と主人の妻アリスとのあいだには、ひ
とつの秘密があった。夜ごと、シエラ・ビスタのひとびとが寝静ま
ってしまうと、アリスは起きていって、ひそかにホワイト・ファン
グを屋内に入れ、広いホールで寝かせるのである。とはいえ、ホワ
イト・ファングは室内犬ではなく、屋内で寝ることは許されない身
だから、翌朝早く、家族がまだ起きださないうちに、また彼女はそ
っと降りてゆき、彼を外に出すのだ。
そうしたある夜、家じゅうのものが眠ってしまってからも、ホワ
イト・ファングはひとり目をさまし、気配を殺して、じっと横にな
っていた。だがそのいっぽうで、鼻は音もなくそっとあたりの空気
を嗅ぎ、それが伝えてくる異質な神の存在を読みとっていた。さら
に、耳にもその異質な神の動く気配が伝わってくる。かといって彼
は、けっしてけたたましく吠えたてたりはしない。そういうのは彼
の流儀ではないのだ。異質な神は、ごく静かに動いているが、ホワ
イト・ファングは、それよりもさらに静かに行動する。服を着てい
きぬ
ないから、衣ずれなどとも無縁なのである。彼は音もなく相手のあ
とを追った。〈荒野〉にいたころ、いつも狩っていたのは、とてつ
もなく臆病な生き物ばかり、だから、不意打ちの効用なら、知りす
ぎるほどよく知っている。
異質な神は、階上につづく広い階段の下で立ち止まり、聞き耳を
たてた。そしてホワイト・ファングもまた、死んだもののように動
きを殺し、じっとようすをうかがいながら、待ち構えた。この階段
をあがっていった先には、愛する主人がいて、主人のなにより大事
にしている所有物もある。そう思うと、おのずと首筋の毛が逆だっ
たが、それでもまだ、彼は待った。異質な神の片足があがった。階
段をのぼりだしたのだ。
ここぞとばかりに、ホワイト・ファングは襲いかかった。いっさ
い警告は発しなかった。うなって、自分の行動を予告するような愚
も犯さない。ひらりと空中に跳びあがるや、まっすぐ異質な神の背
中にとびおり、前足でその男の肩をおさえこむのと同時に、男のう
なじに牙を突きたてた。一瞬、そのままの姿勢を保ちつつ、かたわ
ら男を仰のけざまにひきずり倒す。両者は一体となって、地響きと
ともに床に倒れる。ホワイト・ファングはすばやくとびのくなり、
男が起きあがろうともがいているところへ、ふたたびとびこんで、
牙をふるった。
騒ぎに驚いて、シエラ・ビスタの一同は目をさました。階下から
聞こえてくる物音たるや、さながら二十匹もの悪鬼が取っ組みあっ
ているかのようだ。リボルバーの銃声も何発かとどろいた。男の声
が一声、恐怖と苦痛にぎゃあっと悲鳴をあげる。そのあとひとしき
り、激しい鼻息まじりのすさまじいうなり、そしてそれらすべてを
圧して、家具が倒れ、ガラス器がこわれるどしん、がちゃんという
大音響。
だがこの騒動は、始まりかたが唐突だったのとおなじく、おさま
るのもあっというまだった。争闘はものの三分とつづかなかったは
ずだ。おびえた家族一同は、階段の上に身を寄せあい、立ちつくし
た。下からは、なにやら奈落の底闇から立ちのぼってくるような、
ごぼごぼという音が聞こえてくる──水中から噴きでてくるあぶくに
も似た音。ときおり、このごぼごぼという音がかすれて、ひゅうひ
ゅうという口笛そっくりの音になる。しかし、これもまた急速に静
まり、やがてとだえてしまうと、それきり闇の底からは、なにひと
つ聞こえてこなくなった──わずかに、なんらかの生き物が激しく空
気をもとめてあえいでいる、はあはあという息づかいがするだけ
だ。
ウィードン・スコットが手もとのボタンを押すと、階段から階下
こうこう
の広間にかけて、煌々たる光があふれた。それから、ウィードンと
スコット判事とが、それぞれリボルバーを手に、用心ぶかく階段を
降りていった。だがその用心は不要だった。すでにホワイト・ファ
ングがやるだけのことをやっていたからだ。あたり一面、ひっくり
かえったり、こわれたりした家具の残骸が散乱するなかに、なかば
横向きになって、片腕で顔をおおった男が倒れていた。ウィード
ン・スコットがかがみこんで、その腕をのけ、男の顔を上へ向け
た。あんぐりあいた喉の傷口が、男の死にざまを物語っていた。
「ジム・ホールだ」スコット判事が言った。そして父と息子は意味
ありげに目を見あわせた。
つづいてふたりはホワイト・ファングのほうに向きなおった。彼
もまた、脇腹を下にして横たわっていた。目はとじていたが、ふた
りが上からのぞきこむと、そのふたりを見ようとでもするように、
わずかにまぶたが持ちあがり、尾もそれとわかる程度にぴくぴくし
て、なんとかそれをふってみせようとするそぶりまで見せた。ウィ
ードン・スコットが軽くその体をたたいてやると、それがわかった
のか、喉が低くごろごろと鳴った。けれどもそれは、せいぜいのと
ころ、ほんの弱々しいうなりでしかなく、しかもすぐにとぎれてし
し かん
まった。まぶたがたれ、目がとじられ、やがて全身もまた弛緩し
て、ぺたりと床に平たくなってしまったかに見えた。
「だめだ、すっかりまいってる。かわいそうに」と、主人がつぶや
いた。
「だめかどうか、まあやってみようじゃないか」判事がきっぱりそ
う言って、電話のほうへ歩きだした。
「正直なところ、千にひとつの見込みってところですかね」外科医
がそう診断をくだしたのは、一時間半もかけて、ホワイト・ファン
グの傷の手当てをしたあとのことだった。
夜明けの光が窓からさしこみ、電灯の明かりを弱めていた。子供
たちを除く家族全員が医者のまわりに集まり、彼の診断を聞こうと
しているところだった。
「後ろ脚の片方を骨折しています」と、医者は言葉をつづけた。
「ほかにもあばら骨が三本折れていて、そのうち一本は、肺に突き
刺さっています。全身の血の大部分が失われていますし、内傷を受
けている可能性も多分にあります。きっと上からとびのられるかど
うかしたのでしょう。三カ所の貫通銃創については、言うまでもあ
りません。千にひとつの見込みと申したのも、じつをいえば、希望
的観測でしてね。万にひとつの見込みもない、というのが正直なと
ころです」
「それでも、なんとかしてやれるものなら、その万にひとつの見込
みも取り逃がすわけにはいかん」スコット判事が宣言した。「費用
のことなら気になさるな。レントゲンを撮るなりなんなり──なんで
もしてやってください。ウィードン、すぐにサンフランシスコに電
報を打って、ニコルズ先生にきてもらうんだ。あなたでは不足だと
言っているわけではありませんぞ、ドクター。わかっていただけま
すな? ただ、われわれとしてはこの犬に、できるだけのことをし
てやりたいと思うわけでして」
おうよう
外科医は鷹揚にほほえんだ。「もちろんよくわかっておりますと
も。この犬なら、八方手を尽くしてやるのが当然でしょう。人間
を、病気の子供を看とるように、大事に看とってやる必要がありま
す。ついでですが、先ほど体温について申しあげたこと、どうかく
れぐれもお忘れなく。では、十時にもう一度うかがいますから」
ホワイト・ファングは心のこもった看護を受けた。スコット判事
は、正看護婦の資格を持つナースを頼むようなことをほのめかした
が、この提案は、屋敷の女たち全員の憤然たる抗議を受けて却下さ
れ、そのまま女たちが看護の仕事をそっくりひきうけた。そうして
ついにホワイト・ファングは、外科医にも否定された万にひとつの
可能性をかちとったのだった。
ただし、この医者の見立てちがいについては、とやかく言うべき
筋合いのものでもないだろう。これまでずっと、彼が手当てし、ま
た手術をほどこしてきた患者は、文明社会の軟弱な人間ばかりだっ
たのだから。彼ら文明人は、常時、自然の脅威から護られて、ぬく
ぬくと暮らしているし、先祖もまた代々、保護された生活を送って
きた。ホワイト・ファングにくらべれば、本質的に脆弱かつ柔弱、
命にしがみつく力など、皆無と言ってよい。そこへいくとホワイ
ト・ファングは、〈荒野〉からそのまま立ちあらわれた身、そして
〈荒野〉では、弱者は早く死ぬだけのこと、自然の脅威から護って
くれるものなど、存在するはずもない。ホワイト・ファングの父親
にも、母親にも、弱さはこれっぽっちもなかったし、それ以前の世
代にも、なかった。鉄の体質と、〈荒野〉の生命力、それがホワイ
ト・ファングに伝わった継承財産であり、その力をふりしぼって、
彼は生にしがみついた──全身全霊で、体のすべてと、体のすべての
部分の総力を挙げて、あらゆる生き物に古くからそなわっている粘
りづよさで。
ギプスや包帯でがんじがらめにされ、動くことすらままならぬ囚
人さながらの状態で、ホワイト・ファングは半死半生のまま、何週
間かを過ごした。幾時間も眠りつづけ、夢もたくさん見たが、いつ
も頭のなかを果てしない行列となって通り過ぎてゆくのは、遠い
〈北国〉のまぼろしばかりだった。ありとあらゆる過去の亡霊があ
らわれて、彼にまつわりついてきた。いま一度、彼はキチーととも
にあの巣穴で暮らし、グレイ・ビーヴァーに忠誠を誓うため、びく
びくしながらその膝もとへと這い寄り、リップ=リップや、ぎゃん
ぎゃん狂ったように吠えたてる仔犬軍団からのがれて、死に物狂い
で駆けていた。
いま一度、静寂の森のなかを走って、生きた獲物を狩り、あの凶
荒の数カ月を生きのびたし、いま一度、橇犬チームの先頭に立っ
て、背後でミト=サーやグレイ・ビーヴァーがふりまわすカリブー
あい ろ
の腸でつくった鞭の音を聞き、橇が隘路にさしかかって、チームが
扇をとじるように間隔を縮めてそこを通り抜けるとき、父子が「ラ
アァ! ラアァ!」とかけてくる掛け声を聞いた。いま一度、ビュ
ーティー・スミスのもとで過ごした日々を生きなおし、そのとき闘
った闘いのすべてを再体験した。このようなとき、彼は眠りながら
低く鼻を鳴らし、ときにうなり声もたてた。そして見まもっている
ひとびとは、なにかいやな夢を見ているのだろうと言いあうのだっ
た。
けれども、そうした悪夢のなかにひとつだけ、とりわけ彼を苦し
めてやまないものがあった──かんかんと鐘を鳴らしながら、騒々し
く走ってくる電車という怪物。彼にとってそれらは、けたたましく
叫びたてる巨大なオオヤマネコにほかならない。彼は藪の奥に身を
ひそめて、冒険好きな栗鼠が樹上の隠れ家から姿をあらわし、狩り
に好都合な距離まで近づいてきてくれるのを、いまかいまかと待っ
ている。ところが、いざそいつにとびかかろうとした、その瞬間
に、そいつは電車に化けてしまう──山のように上からのしかかって
きて、絶叫し、がんがんと音を響かせ、こちらにむかって火を吐
く、脅威と恐怖の化身に。おなじことが、大空を舞う鷹に、どう
だ、ここまで降りてきてみろといどんだときにもくりかえされる。
そうきゅう
蒼 穹からつぶてのごとくそいつは舞いおりてくるが、いざこちらの
真上まできたかと思ったとたんに、とつぜん変身して、あのいたる
ところにいる電車になってしまう。かと思えばまた、彼はいま一度
ビューティー・スミスの檻のなかにいて、檻の外に見物人が集まる
のを見、まもなく闘いが始まるのを知る。檻の戸を見まもり、その
戸がひらいて、闘う相手がはいってくるのを待つ。やがて戸がひら
き、外から押しこまれてきた相手を見れば、それはあの恐ろしい電
車。こうしたことが、何百、何千回となく再現され、そのつどそれ
が彼の身内にかきたてるのは、いつに変わらぬ鮮明、かつ圧倒的な
恐怖感でしかない。
やがてついに、最後の包帯と最後のギプスとがはずされる日がや
ってきた。それはお祭り騒ぎの一日となった。シエラ・ビスタのひ
とびと全員が周囲に集まってきた。主人が彼の耳をなで、彼もいつ
ブレスト・ウルフ
もの甘く歌うようなうなりで答えた。主人の妻が、〈聖なる狼〉と
彼を呼び、この名は大歓声で迎えられて、以後、女たちはみな、彼
をホワイト・ファングではなく、ブレスト・ウルフの名で呼んだ。
彼は立ちあがろうとしたが、何度か試みたすえに、弱った体が支
えきれず、またくずおれてしまった。長らく寝たきりでいたので、
筋肉が持ち前の柔軟性をなくしているうえ、体力もすっかり失われ
ていたのだ。これは弱さを示すものだったから、彼は少々きまりわ
るさを覚えた──まるで、神々にたいして負っている責任を、いまの
自分が果たせずにいるかのように。そのため、なおも立ちあがろう
と壮絶な努力をつづけ、やがてようやく四本の脚で、よろめき、前
後にふらつきながらも、立った。
「ブレスト・ウルフ!」と、女たちが声をそろえて称揚した。
スコット判事は意気揚々と女たちを見まわした。
「そら、おまえたちの口から、ウルフと言うのを聞いたぞ。わたし
が最初から主張していたとおりだ。ただの犬に、こいつのやっての
けたようなことをやれるもんじゃない。こいつはまさしく狼だよ」
ブレスト・ウルフ
「〝聖なる狼〟ですよ!」判事の妻が訂正を加えた。
「なるほど、〝ブレスト・ウルフ〟だな」判事も同意した。「よ
し、今後はわたしもこいつをその名で呼ぶことにしよう」
「もう一度、歩くことを覚えさせなきゃなりませんな」と、外科医
が言った。「ならばいっそ、いまからすぐに始めるのがいいでしょ
う。それで体にさわることはないはずです。外に出しておやりなさ
い」
というわけでホワイト・ファングは、王侯さながら、シエラ・ビ
スタの全員に付き添われ、こまごまとかしずかれつつ、外に出てい
った。ひどく衰弱していたから、どうにか庭の芝生までたどりつい
たところで、ごろりと横になり、しばらく休んだ。
やがてふたたび行列は動きだしたが、そうして筋肉を使っている
うちに、力がすこしずつ体内にほとばしりでてき、やがて全身の筋
肉のなかを血流が滔々と流れはじめた。厩舎までたどりついてみる
と、そこの戸口にコリーが横になっていて、彼女のまわりの日ざし
のなかでは、まるまるした仔犬が六匹、じゃれあって遊んでいた。
ホワイト・ファングが怪訝な目でながめていると、コリーが警告
するようにうなり声を浴びせてき、そこで彼も用心して、それ以上
は近づかぬようにした。と、主人が這いまわっている仔犬の一匹
を、爪先で彼のほうへ押してよこした。彼は怪しんで、わずかに首
毛を逆だてたが、主人はだいじょうぶ、なにも心配ないと言い聞か
せた。コリーは女たちのひとりに抱きかかえられながら、疑わしげ
に彼の一挙一動を見まもり、自分としてはなにも心配ないなどとは
思っていないと、うなり声で彼に釘をさすのを忘れなかった。
仔犬は彼の目の前まで這い寄ってきた。彼は耳を立て、物珍しげ
にその動きを見まもった。と、ふいに両者の鼻が触れあい、彼は仔
犬の小さな温かい舌を、自分の下あごに感じた。自分でもなぜかわ
からぬまま、ふと彼はこちらからも舌をのばすと、仔犬の顔をなめ
ていた。
このパフォーマンスに、周囲の神々からいっせいに拍手が起こ
り、喜びあう声があがった。驚いて、彼はいぶかしげにひとびとを
見やった。そのうち、またも全身の衰弱がものをいいはじめ、彼は
ごろりとその場に身を投げだすと、耳を立て、首をいっぽうにかし
げて、目の前の仔犬を見まもった。ここで、ほかの仔犬たちまでが
ホワイト・ファングのほうへ這い寄ってき、コリーをだいぶいらつ
かせたが、彼はいたって鷹揚に構えて、仔犬たちがよちよちと自分
の体によじのぼったり、ころげおちたりしても、するがままにさせ
ておいた。はじめ、神々からの拍手喝采を浴びたときには、かつて
﹅ ﹅
のあのてれくさそうな、ばつの悪そうなそぶりがちらりとのぞきも
したが、それもまた、仔犬たちのたわむれや、おどけた騒ぎがつづ
くうちに、徐々に消えていった。そうして彼は、目を辛抱づよく半
眼にとじ、日ざしのもとで、うとうととまどろむのだった。
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解説
信岡 朝子
(日本学術振興会特別研究員)

ジャック・ロンドン(一八七六~一九一六年)の『白い牙』が刊
行されたのは、一九〇六年のことである。すでに一九〇三年に最初
の代表作となる『野性の呼び声』(The Call of the Wild)が爆発的な
人気を呼び、さらに一九〇四年に発表された『海の狼』とあわせ
て、この『白い牙』は、今日では、ロンドンの三大人気作の一つと
して数えられている。
一八七六年一月一二日、アメリカ・サンフランシスコに生まれた
ロンドンの幼少期は、両親の度重なる事業の成功と失敗によって、
浮き沈みの激しいものであった。元々ミシンの訪問販売で生計を立
てていた養父ジョンは、結婚後にはじめた食品雑貨店や養鶏業の経
営に行き詰まるなど、事業の失敗を重ねた挙句、一八八六年につい
に西オークランドの最貧困地区に移住することになる。息子のジャ
ックは、わずか一〇歳にして新聞配達をして家計を支えるなど、子
供の頃から働き詰めの毎日だった。そのジャックが二一歳となった
一八九七年に、彼の人生の大きな転機が訪れる。当時のサンフラン
シスコは、カナダのユーコン準州を中心とするゴールドラッシュに
沸いていたが、ロンドンも、その黄金を求める人の波に身を投じる
いっかくせんきん
ことを決意したのである。一攫千金を夢見て極北の地へ旅立ったロ
ンドンは、しかし、一年ほど滞在したのちに壊血病に冒され、一八
九八年六月に志半ばでカリフォルニアへの帰途につく。帰郷早々、
借金を抱える一家を支えるために、著述業で生計を立てることを考
えたロンドンは、雑誌社に送った原稿が来る日も来る日も突き返さ
れる日々を経て、ようやく一九〇三年の『野性の呼び声』の成功に
より、作家として安定した生活を手に入れたのである。
その『野性の呼び声』の続編として、その後執筆された長編小説
『白い牙』は、しかし前作と比べて、特に専門家の間での注目度
は、今日それほど高くはないようである。特にロンドンの二つの動
物小説のうち、研究論文などの数が圧倒的に多いのは『野性の呼び
声』の方であり、それに対して『白い牙』の方は、まるで『野性の
呼び声』の二番煎じのように思われるのか、独立した作品として分
析された例はほとんど存在しないという状況なのである。
確かに『白い牙』の物語は、一見して『野性の呼び声』の筋書き
を反転させただけの、ごく単純なもののようにも見える。この構成
については、作者であるジャック・ロンドンも、前回「犬が退化、
もしくは脱文明化」する様子を描いたので、今度は「犬が文明化」
する様子を物語にするということを、『白い牙』の構想段階で、す
でに明言していたようである*1。
具体的にこの二つの作品を見比べてみると、まず『野性の呼び
声』の主人公となるのは、カリフォルニアの農園で飼われていた雑
種犬バックである。ある時、庭師見習いに盗まれたバックは、シア
トルに売りとばされた後、そり橇犬としてゴールドラッシュに沸くユー
コン準州に連れて行かれる。過酷な体験を経て、バックはついにジ
ョン・ソーントンという運命の主人に出会うが、そのソーントンを
インディアンに殺され、人間世界との絆を失い、野生の狼のリーダ
さまよ
ーとなって、荒野を彷徨い歩くのである。
このバックの物語が、犬が狼になる過程を描いたものであるとす
れば、『白い牙』は、犬の血の混じった狼であるホワイト・ファン
グが、人間のもとで犬になっていく物語である。北の荒野に生ま
れ、インディアンや白人の飼い主の手を経て、鉱山技師であるウィ
ードン・スコットに引き取られたホワイト・ファングは、主人に連
れられて温暖な気候のカリフォルニアに移り住み、裕福な家の飼い
犬として、雌のコリー犬と子をもうけるまでになる。こうした明ら
かに対照的な筋書きから見ても、『野性の呼び声』と『白い牙』が
つい
作品として対になっていることは明白であり、だからこそ、続編に
あたる『白い牙』には、あまり目新しさが感じられないように思わ
れたのかも知れない。
しかしこの『白い牙』という作品が、出版当時、ある大物による
批判の標的となっていたという事実は、あまり広く知られていない
のではないだろうか。『白い牙』が出版された翌年の一九〇七年、
当時のアメリカ大統領であり、ハンターとしても名の知れた存在で
あるセオドア・ローズベルトは、雑誌に寄稿した記事の中で、ジャ
ック・ロンドンを含む複数の動物物語作家を「自然を捏造するも
の」(the Nature Fakers)として、名指しで非難したのである。「ジ
ャック・ロンドンの『白い牙』という作品中のある章は、狼犬であ
るホワイト・ファングとブルドッグとの闘いを描いている。これを
読む限りロンドン氏は、狼についても、またその闘い方についても
何も知らないようだ*2」。このような辛辣な言い回しで、ローズ
ベルトは、ロンドンは動物についての正しい知識を持っておらず、
作品を通じて読者に誤った認識を植え付けていると批判した。
これに対してロンドンは、翌年「コリアーズ」誌に「その他の動
物たち」(“The Other Animals”)と題した小論を発表し、「私の物
語は進化の事実に則して描かれたものだ」と述べ、「大統領は国政
と狩猟には少しは詳しいが、進化というものはまったく理解してい
ない」として、大統領の知識の無さを逆に指摘する形で反論を行っ
ている。
このロンドンとローズベルトとの応酬は、さらに遡って、一九〇
三年に勃発した「ネイチャーフェイカーズ論争」(the Nature Fakers
Controversy)と呼ばれる事件の一環としても、位置づけることがで
きる。一九〇三年三月、当時著名な博物学者として知られるジョ
ン・バローズが、雑誌「アトランティック・マンスリー」に、「本
物の、そして偽の博物学」(“Real and Sham Natural History”)と題し
た論説文を寄せたことが、すべての発端であった。記事の中でバロ
ーズは、日本でも『シートン動物記』の著者として有名なアーネス
ト・トンプソン・シートンをはじめ、複数のネイチャーライターに
よる野生動物の習性や行動についての記述が、事実とは異なるフィ
クションだと主張し、彼らを「偽博物学者」(a sham naturalist)だ
として痛烈に批判したのである。これに対し当時の人気作家である
ウィリアム・J・ロングが、バローズを相手に雑誌上で猛烈な反論
を展開し、その後論争は、複数の科学者や知識人を巻き込んだ大規
模なものへと発展していく。
そのバローズの擁護に立ち上がったローズベルトが、名指しでジ
ャック・ロンドンに「攻撃」を仕掛けた時には、バローズらによる
初期の論争から、約四年が経過していた。それまで他人事と思って
いた論戦に思わぬ形で巻き込まれることとなったロンドンは、その
時さぞ面食らったことであろう。
そのローズベルトの批判に反論する意味で、「その他の動物た
ち」を発表したロンドンは、その中でハーバート・スペンサーの社
会進化論をはじめとして、当時社会の様々な現象を説明するために
広く用いられていた「進化」という概念に関する、自分なりの解釈
を述べている。中でも印象深いのは、ロンドンが少年時代に飼って
いたロロという犬についての挿話であろう。「ロロと私はいつも派
手にじゃれ合っていた。彼が私を追いかけ、私が彼を追いかけた。
彼は私の脚や腕や手を、時に私が悲鳴を上げるくらいに嚙み、一方
で私は、時に彼がキャンキャン吠えたてるほど強く転がし、ひっく
り返し、引きずり回した」。こうしたふざけ合いの最中、ある時ロ
ンドンは、ロロの前で泣き真似をしてみせる。「激しく後悔し、不
安になったロロはしっぽを振って私の顔を舐めた」。しかし突如顔
をあげて笑い出したロンドンを見て、騙されたと知ったロロは怒り
のあまり「歯をむき出して飛びかかり、また激しい取っ組み合いが
始まるのであった」。
こうした、犬と人との複雑なやり取りを例に上げつつ、ロンドン
は、ローズベルトや、また大統領の「味方」であるバローズらによ
る、人間と動物の間に大きな「溝」があるといった主張や、また動
物を「本能に制御され、外界の刺激に自動的に反応する機械」とす
るような見方を、様々な角度から否定することを試みた。

人と動物の間に越えられない溝など存在しない。下等な人間は抽象
的な思考を、ほとんど、もしくはまったくすることができない。一
つの言葉を獲得するたびに、あるいは思考の更なる複雑化を経験す
るたびに、あるいは新しい事実を認識するたびに、話すことを学ん
だ者の灰白質を、活動と反応が駆け巡り、そしてゆっくりと、少し
ずつ、数十万年もの時を経て、理性の力は発達する*3。(拙訳)
こうした発想のもとにロンドンは、『白い牙』という作品におい
ても、自身が思い描いた「進化」のイメージを、様々な場面に反映
させている。
例えば、狼の父と、狼と犬の混血である母との間に生まれたホワ
イト・ファングが最初に服従した人間とは、母の元の飼い主でもあ
るインディアンのグレイ・ビーヴァーである。この、「食べ物と、
暖かい火、保護と、そして心のつながり」(第3部 第五章参照)
を与えてくれる最初の主人は、しかし「とびきりの醜男」と描写さ
れるビューティー・スミスという白人の罠にはまり、ホワイト・フ
ァングを手放す羽目になる。
そしてこの「貧弱な体軀」の上に、さらに「貧弱な頭部」が乗っ
かったビューティー・スミスという男は、ロンドン流の進化論の中
に描かれた「下等な人間」の一人であることは、おそらく間違いな
いであろう。このように並外れて愚かで臆病で、しかし残忍な存在
とされるビューティー・スミスは、他の歯よりもさらに大ぶりな
「二本の犬歯」を持つなど、野獣的な要素を強く持つ人間として描
かれている。そのビューティー・スミスの支配下に置かれ、闘犬と
なって血みどろの戦いの日々を送っていたホワイト・ファングを救
ったのが、きれいにひげを剃り、「薔薇色に上気」した肌を持つ、
鉱山技師のウィードン・スコットであった。ロンドン流の進化論に
基づけば、いわば「高等な人間」の最たる例とも言えるようなスコ
ットによって、ビューティー・スミスは「あんたは人間じゃない。
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
けだもの、ひとでなしだ」(第4部 第四章参照)と罵られる。こ
の台詞によって、ビューティー・スミスは、「けだもの」の領域に
近い「下等な人間」であることが暗に示されるのである。
このように、「下等な人間」と、また「高等な動物」の存在を想
定することで、人と動物を連続的につなげる滑らかな進化の段階を
思い描いたロンドンは、ゆえに、作品中にその人種差別的な観念を
時に表出させることにもなる。例えば『白い牙』の作品世界の中で
は、ロンドンが思い描く人種間階層は、知性や身体能力、また社会
的成功の度合いに比例する形で描かれている。すなわち、インディ
アンであるグレイ・ビーヴァーは、極端に劣った存在でありなが
ら、白人であるビューティー・スミスに知力で打ち負かされ、その
ビューティー・スミスは、さらに高い知性と体力、財力を備えたウ
ィードン・スコットによって、徹底的に打ち負かされるのである。
そうした進化論的な階層は、ロンドンによって動物の世界にも同
様に持ち込まれることになる。生まれた時からすでに、幼い兄弟た
ちのなかでもっとも気性が荒く、何をするにも一番にやってのけた
ホワイト・ファングは、飢饉の中でも唯一生き残り、その後グレ
イ・ビーヴァーのもとで、「あまりにもすばしこく、あまりにも手
ごわく、賢すぎる」(第4部 第一章参照)橇ひきの先導犬として
活躍する。さらにビューティー・スミスのもとでは、向かうところ
とどろ
敵なしの闘犬として名を轟かし、またウィードン・スコットと出会
った時には、御者のマットに「賢すぎて、殺しちまうのは、もった
いなさすぎる」(第4部 第五章参照)と言わせるほどの知性を見
せつけるのである。
このように、身体、知性の両面において類まれな資質を有し、ゆ
えに数々の生存闘争を勝ち上がってきたホワイト・ファングは、
「高等な動物」の中でもさらに抜きん出た存在として、やはり「高
等な人類」の最たる存在であるウィードン・スコットと行動を共に
することを許される。いうなればこの両者は、高度な進化段階に到
達した特別な存在同士、互いを選びあう関係にあるものとして描か
れたのである。
ロンドンが思い描くこうした「進化」のイメージは、しかし同時
代の観点からすれば、目新しいというよりも、むしろかなり一般的
なものであったと言うことができる。下層階級の出身として、ロン
ドンは、悲惨な労働環境に苦しめられ、また浮浪者と間違われて投
獄された屈辱的な経験などから、支配階級や当時の社会構造に対し
て強い不満を抱いていた。その一方で彼は、上層階級の豊かで優雅
な暮らしに対する憧れや、社会的に高い地位を得たいという欲望
も、同等に抱いていたと考えられる。ゆえに、ロンドンの物語世界
では、同時代の階層社会を支える思想上の基盤として機能してい
た、ダーウィンの進化論に基づく「適者生存」の発想とまったく矛
盾しない形で、貧しい者は愚かで弱く、また強い者は、豊かで高い
地位を約束されるのである。
こうした、ある意味で保守的とも言えるロンドンの世界観に対し
て、それとほぼ同時代に、しかしロンドンとは異なる思想を持ち、
だからこそ社会的に抑圧されるべき危険な人物と見なされたと考え
られるのが、アーネスト・トンプソン・シートンである。ネイティ
ヴ・アメリカンの思想や文化に強い感銘を受けていたシートンは、
当時、北米社会で最も文明化され、優れた存在として見なされてい
た白人を、むしろ文明によって堕落した下等な人類として位置づ
け、その反対にインディアンを、白人よりも「高貴な」存在とし
て、また野生動物を、この世のすべての生き物の中で最も気高い精
神を保つものとして敬った。その敬意を表現する意味で、シートン
は、動物の「英雄」を主人公とする物語を数多く描いたのである。
しかし、それまで信じられてきた、人と動物との絶対的な上下関係
や、また当時の人種間階層への信奉を揺るがしかねないシートンの
思想は、同時代の北米では危険なものとして受け取られた。そのた
めシートンは、あのネイチャーフェイカーズ論争において「偽博物
学者」として批判されたのをはじめ、その後も数々の社会的挫折を
経験し、ついには北米の人々の記憶から忘れ去られてしまうのであ
る。
それに対してロンドンは、シートンと同様に「ネイチャーフェイ
カーズ論争」に巻き込まれたにもかかわらず、「動物もの」以外の
作品も数多く書いていたことが幸いしたのか、あるいは、そのあま
りに波瀾万丈な人生が人々の関心を引いたのか、シートンとは違っ
て、その後も作品の人気を衰えさせることなく維持していった。第
二次大戦後、アメリカに反共産主義が吹き荒れた頃に、ロンドンの
人気は、彼が社会主義者として知られていたこともあって、一旦下
火になった。しかしこうした国内での状況とは異なり、ロンドンの
作品は、ロシア、南アメリカ、ポーランド、スウェーデン、フラン
ス、ドイツ、中国を中心とする海外では継続的に翻訳され続け、そ
の翻訳本の数は、国によっては本国アメリカで出版された単行本の
数をしのぐほどであった。またロンドンの作品は、基本的には大衆
文学と見なされていたことで、文学作品としての研究は、比較的最
近までそれほど進展してこなかった。しかし海外で高い人気を維持
し続けたことや、東西冷戦の終結に伴い、一九七〇年代半ば頃を境
に、文学作品としての評価が次第に高まっていく。そして現在まで
に、ジャック・ロンドンの作品は八六カ国語に翻訳され、またロン
ドン研究を専門とする国際学会や研究会が組織されるなど、その物
語世界への関心は国を越えてますます高まっていると言える*4。
こうした経緯を経て、今日革命的思想を持つアメリカ文学の鬼才
として広く知られることとなったジャック・ロンドンは、しかし思
想的には、非常に保守的な面も一方で併せ持っていた。すなわちロ
ンドンは、貧しい境遇の人々に対する同情や、社会への憤りを表し
ながらも、他方では、社会的地位や名声、また金銭的な豊かさにも
強いこだわりを見せるというように、内面に複雑な葛藤を隠し持つ
人物であったと想像される。そうした欲望に正直な人間臭さ、ある
いは俗っぽさのようなものが、作品にも様々な形で表現されている
からこそ、ロンドンの小説は、現代の私たちにも決して古さを感じ
させないものとなっているのであろう。
特に『白い牙』という作品は、単なる動物物語という範疇を超え
て、ロンドンが抱いていた進化思想、また人種間階層に関する考え
方が色濃く表れた、社会的性格の強い作品ともなっている。そし
て、弱肉強食の激しい生存闘争を経て、ついに平和で豊かな生活の
中でまどろむホワイト・ファングの姿は、適者生存の法則を至極ま
っとうに具現化した、非常に安心できる結末として読者の目に映る
のである。
その一方で、『白い牙』という作品には、『野性の呼び声』のエ
ンディングで表現される、孤高の英雄のヒロイズムのようなものは
描かれていないという意味で、非日常的な読書体験としては、多少
物足りないという感覚を持つのかも知れない。それが『野性の呼び
ゆえん
声』よりも存在感が薄くなりがちな所以であろうか。しかしいつの
世も、ホワイト・ファングの結末が示すように、ヒロイズムより身
近な幸福の方が、過酷な現実を生きる人々には、安心感と希望を与
えるものになる。その意味で、『白い牙』の奇妙に満ち足りた読後
感は、闘争の果ての「幸福」という、誰もが捨てきれない願望が、
物語によってささやかに満たされた結果と言えるのかも知れない。
〈注〉

James Dickey, Introduction, in The Call of the Wild, White Fang, and Other
Stories written by Jack London, edited by Andrew Sinclair (New York:
Penguin Books, 1993), p. 14. (本文へ戻る)
Edward B. Clark, “Roosevelt on the Nature Fakirs[sic],” Everybody’s
Magazine 16 (June 1907), p. 771. (本文へ戻る)
Jack London, “The Other Animals,” Collier’s 41 (September 5, 1908), p.
26. (本文へ戻る)
Jacqueline Tavernier-Courbin, The Call of the Wild: A Naturalistic
Romance (New York: Twayne Publishers, 1994), pp. 23–34. (本文へ戻
る)
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ロンドン年譜
一八七六年
一月一二日、フローラ・ウェルマンの婚外子としてサンフランシス
コに生まれる。
父と思われる占星術学者W・H・チェイニーが結婚を拒んだため、
母フローラは九月にジョン・ロンドンと結婚。養父の名にちなんで
ジョン・グリフィス・ロンドンと名づけられる。
一八七八年 二歳
一家はカリフォルニア州オークランドに移住。
一八八一年 五歳
同州アラメダに移住。
一八八二年 六歳
アラメダの小学校に通い始める。
一八八六年 一〇歳
西オークランドに移住。ジャックは新聞配達などの仕事をして、家
計を助ける。
一八九一年 一五歳
コール・グラマー・スクールを卒業。缶詰工場で働いた後、養殖場
の牡蠣を盗む窃盗団に加わる。
一八九二年 一六歳
州の漁業パトロールの一員となる。
一八九三年 一七歳
わた
アザラシ猟船舶の乗組員としてベーリング海を七カ月間に亘り航
海。途中日本にも寄港。
一八九四年 一八歳
失業者の抗議活動である「ケリーズ・アーミー」に参加。その後単
独でアメリカおよびカナダを放浪中、浮浪罪で三〇日間投獄され
る。
一八九五年 一九歳
オークランド・ハイスクールに通う。
一八九六年 二〇歳
社会主義労働党に入る。カリフォルニア大学バークレー校に入学。
短編小説、詩、エッセイなどを大量に執筆、出版社に送りつけるが
次々と返送される。
一八九七年 二一歳
学費を払えず、カリフォルニア大学を一学期間で中退。クロンダイ
ク流域のゴールドラッシュに加わるが、壊血病にかかる。
一八九八年 二二歳
西オークランドに戻る。壊血病から回復し、極貧の家計を支えるた
め執筆活動を再開。
一八九九年 二三歳
「オーヴァーランド・マンスリー」誌に短編が掲載されたのを機
に、作品が徐々に売れるようになる。一二月、「アトランティッ
ク・マンスリー」誌に作品が高額で買い取られ、短編集出版の話が
舞い込む。
一九〇〇年 二四歳
四月、ベッシー・メイ・マダンと結婚。短編集『狼の息子』が話題
を呼ぶ。
一九〇一年 二五歳
一月、娘ジョーン誕生。オークランド市長選に立候補するも落選。
一九〇二年 二六歳
ボーア戦争の報道のため南アフリカに派遣されるが、派遣途上で契
約がキャンセルされ、急遽英国ロンドンの貧民街で潜入取材を行
う。一〇月、娘ベス誕生。
長編『雪の娘』、短編集『霜の子供たち』を発表。
一九〇三年 二七歳
妻ベッシーと別居。中編『野性の呼び声』が人気を博す。英国の貧
民街での取材を元にしたルポルタージュ『どん底の人々』を発表。
一九〇四年 二八歳
新聞記者として日本および朝鮮を訪れ、日露戦争を取材。アザラシ
猟の船を舞台とする海洋長編小説『海の狼』を発表、ベストセラー
となる。
一九〇五年 二九歳
一一月、妻ベッシーと正式に離婚した翌日、長年付き合いのあった
チャーミアン・キトリッジと再婚。社会主義的論文集『階級闘争』
が評判を呼び、人気作家としての地位を不動のものとする。カリフ
ォルニア州グレン・エレンに千エーカーの農場を購入。
一九〇六年 三〇歳
長編『白い牙』を発表。
一九〇七年 三一歳
セオドア・ローズベルト大統領に『白い牙』の内容を批判される。
小帆船スナーク号でハワイ、マルケサス諸島、タヒチに旅する。長
編『アダム以前』、短編「生命にしがみついて」、一八九四年に各
地を放浪した体験を元にした『ジャック・ロンドン放浪記』などを
発表。
一九〇八年 三二歳
ソロモン諸島に旅する。熱帯病のためオーストラリアのシドニーで
入院生活を送る。ローズベルトらによる『白い牙』批判への反論文
「その他の動物たち」を「コリアーズ」誌に寄稿。長編『鉄の踵』
を発表。
一九〇九年 三三歳
七月、長い航海を終えてグレン・エレンに帰る。自伝的小説『マー
ティン・イーデン』を発表。
一九一〇年 三四歳
六月、娘ジョーイが誕生するも直後に死亡。
社会主義に関する評論集『革命』を発表。
一九一一年 三五歳
旅行記『スナーク号巡航記』、および短編集『南海物語』を発表。
一九一二年 三六歳
貨物船ディリーゴ号でホーン岬を航海。短編集『太陽の息子』を発
表。
一九一三年 三七歳
自身のアルコール依存体験を下地とする自伝的小説『ジョン・バー
リコーン』を発表。
一九一四年 三八歳
「コリアーズ」誌の記者としてメキシコ革命を取材。赤痢で帰国。
長編『エルシノア号の反乱』を発表。
一九一五年 三九歳
五カ月間をハワイで過ごす。いったんカリフォルニアへ戻り、一二
月、再度ハワイへ。中編『赤死病』、長編『星を駆ける者』を発
表。
一九一六年 四〇歳
七月、ハワイから帰国。一一月二二日に急死。死因については諸説
あるが、最新の研究によると、直接の死因は心臓発作であり、尿毒
症の苦痛緩和のためモルヒネを過剰摂取したことが遠因と考えられ
る。
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訳者あとがき
先年この〈光文社古典新訳文庫〉で出した『野性の呼び声』につ
づき、その姉妹作とも言うべきジャック・ロンドンの『白い牙』
を、ここにようやくお届けできる運びとなった。『野性……』もそ
うだが、この『白い牙』もまた、むかし子供むけにリライトされた
ものを読んだことがある、あるいは、かつて読んだことはあるが、
細部はもう忘れてしまった、そうおっしゃる読者はすくなくないだ
ろう。この新訳は、じつはそういうかたにこそ読んでいただきた
い、そう願いつつ世に問うものである。
さて、ここでまずもってお断わりしておきたいのは、『白い牙』
という訳題のことだ。原題は“White ﹅Fang”

、文字どおり〝白い牙〟
の意味だが、これは主人公たる狼の名前であって、名前に〝白い〟
という形容詞がはいるのはおかしい、との考えもあり、私もはじめ
は『白い牙』の訳題に消極的だった(げんに『野性の呼び声』の
「訳者あとがき」では、『ホワイト・ファング』としている)。あ
またある既訳のほとんどは、『白い牙』の題を採用し、大正時代の
堺利彦による本邦最初の翻訳は、『ホワイト・フアング(白牙)』
と、括弧入り注釈つき、そして
しろきば
井栄滋氏による現在のところもっ
とも新しい邦訳では、『白牙』。 井氏も、名前に形容詞がはいる
のは不自然だとの考えから、こうされたようだが、この題も私とし
ては、「〝しろきば〟なんて、そんな語が日本語にあるわけじゃな
し」として、食指が動かなかった。ところがある段階で、担当の編
集者氏から、「名前というより、最初にそう呼びはじめた先住民の
グレイ・ビーヴァーは、白い牙を持つから〝しろきば〟と、渾名の
ような感覚でそう呼んでいたのでは?」と指摘されて、はっと思い
なおした。なるほど、渾名だと考えれば、〝しろきば〟もアリか
な、と。だがそれにしても、小説の題に『しろきば』は、あまりに
も違和感が強すぎるし、かといって、私が最初に主張した『ホワイ
ト・ファング』は、カタカナ語に編集部側から難色を示されるとい
う経緯があって、結局、もっとも人口にかい膾しゃ炙している『白い牙』に
﹅ ﹅
落ち着いた。ただし、右のような次第で、本文ちゅうでは名前とし
ての〝白い牙〟はいっさい用いず、すべて〝ホワイト・ファング〟
で通している。
ところで、かつてお読みになったことのある読者なら、ロンドン
によるこの姉妹作二篇について、『野性の呼び声』のほうは、〝南そり
国でぬくぬくと暮らしていた大型犬が、ふとしたことから北国で橇ひ
犬としての苛酷な運命を強いられ、それがやがて野性の呼び声に惹
かれて狼に返ってゆく物語〟であり、対して『白い牙』のほうは、
こ かんなんしん く
〝犬の血をひく北国生まれの狼の仔が、艱難辛苦の末に、情け深い
あるじに拾われて、やがて南国で安住の地を見いだす物語〟であっ
て、その点で対照的な、それでいてつながりもある二作、そんなふ
うに記憶しておいでのことだろう。だからこそ姉妹作と見なされて
きたのだし、たしかに大筋はそのとおりでもあるのだが、訳者とし
ては、それだけでかたづけてしまうのは惜しいと感じざるを得な
い。きちんと読めば、こういう大筋以外のところに、作家としての
ロンドンのすぐれた資質──言葉の選びかたの細心さと的確さ、細部
の描写の輝き、そしてその反面にある、いわばハードボイルドの小
説の先駆とも言える簡潔でドライな筆致、はたまた物語の壮大さと
力強さ、〝登場人物〟たちが人間、犬、狼を問わず、みな個性的とうとう
で、今様の言いかたをすれば〝キャラが立っている〟こと、等々──
が、いくらでも見いだせるからである。
先に『野性の呼び声』を出したあと、「これが実際にはこういう
作品だとは知らなかった」という感想が、相当数の友人、知人から
寄せられた。あるかたなど、「子供むけのリライトでまず読み、の
ちに十代の終わりごろに全訳を読んだはずなのだが、いったいどこ
を読んでいたのだろう、といまさらながら思う。今回は、これがお
なじ作品かと疑われるほど、心に刻まれた」とまで言ってくださっ
た。実際、先入観を排し、虚心坦懐にこの新訳を読んでいただけ
ば、今回の『白い牙』でもまた、同様の感動をきっと得られるはず
だと信じている。真っ先に先入観とのあまりの落差に驚き、かつま
た、まなこの曇りをぬぐ拭われる心地がしたのは、なにより訳者である
この私自身なのだから。
さて、『野性の呼び声』が出てから今日までの一年半のあいだ
に、わが国における作家ロンドンの受容という点で、ひとつの大き
な変化があった。昨二〇〇八年秋に、柴田元幸氏の編訳による本邦
おこ
独自の短篇集『火を熾す』が刊行され、好評を博したことである。
好評のわけは、およそ二百篇にものぼるというロンドンの短篇のう
ちから、ここにおさめられた九篇を選び、訳出した、編訳者のすぐ
れた鑑定眼と、目もさめるほど鮮やかな訳文にあることは言うまで
もない。これらが作品としてどうすぐれているのか、それを論じる
のは、もとより私の任ではなく、ここはその場でもないが、それで
も、これを読みながらつくづく思ったのは、やはりロンドンは本質
的には短篇作家ではないか、という私がかねてからいだいてきた感
触が、けっして誤ってはいなかったということだった。『野
性……』と本書と、長篇をふたつ訳しつつも、私が終始感じていた
のは、細部の描写はみごとだし、ひとつひとつの場面がきつ屹りつ立してい
て、それぞれ鮮烈な短篇小説になっているのに、長篇として見る
と、そのつなぎめの部分がどうにも弱いということ。たとえばの
話、本書の第一部は、これだけで中篇もしくは長めの短篇として、
じゅうぶんひとつの作品になりうる力を持っているが、あいにく、
これはこれで終わってしまったきり、以後の物語となんら有機的な
つながりを持たない(おなじことが、『野性……』に出てくるペロ
ーとフランソワの混血二人組についても言える。主人公バックにと
ってはきわめてりっぱなあるじだった彼らは、ある時点でとつぜん
彼の前から姿を消し、以後二度と物語に登場してこない)。また、
場面ごとの輝きという点で言えば、本書第一部で狼の群れに包囲さ
れたヘンリーが、じっとおのれの手を観察して、それを愛おしく思
うシーンとか、第四部でホワイト・ファングがブルドッグのチェロ
キーと闘うシーンとか、いずれも一篇の短篇小説として読むことの
できる名場面だが、これらも前後のシーンとはあまりつながりがな
い(後者ではたしかに、その闘いの結果として、ホワイト・ファン
グはよきあるじと出あうことになるのだが、惜しむらくは、この出
会いと、右の短篇集ちゅうの「一枚のステーキ」や「メキシコ人」
に見るボクシング・シーンにも似て、おそるべき克明さで描かれる
その壮絶な闘いの一部始終とが、それぞれ別個のプロットのうえで
しか機能していないことだ)。ついでにもうひとつ、『野性……』
から例を挙げれば、全篇の最後から二番めのパラグラフで、〝いく
つかの朽ちはてたムース革の袋から、一筋の黄色い流れが流れで
て、地面にしみこんでいる〟場面。だれにも顧みられることのない
この〝黄色い流れ〟こそ、先住民に殺害されたジョン・ソーントン
とその仲間とが、営々として採集し、革袋にためこんだ、大量の砂
金にほかならない。つまり作者は、右に引用したようなごく簡潔な
ひとくさりから、人間の営為のむなしさを言わず語らずのうちに描
きだしているのであり、まさに短篇小説の名手の手腕と思わされる
のである。
また、ロンドンの作家としての長所のひとつとして、言葉の選び
かたの細心さを先に挙げた。これも本書からいくらでも例が見つか
るが、右で〝黄色い流れ〟のくだりを引用したので、ついでに『野
性……』から例をひとつ。右の引用部分とは逆に、冒頭のパラグラ
フ。〝バックが新聞を読むことはなかった〟という語り出しで示さ
れるように、ここは(というより、全篇の叙述の大半は)、バック
の視点から書かれているのだが、このなかに〝北極の暗黒地帯をさ
ぐっていた人間たちが、しばらく前に黄色い金属を発見し〟という
くだりがある。つまり作者は、ここであくまでも犬のバックの視点
﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅
に立って、人間たちが発見したのが〝金色の金属〟でも、〝金鉱〟
でもなく、ましてや〝黄金〟などでもなく、〝黄色い金属〟だった
という表現をあえて選びとっているのであり、しかもこれが、先の
引用部分に見る巻末の〝黄色い流れ〟と、みごとに照応している。
人間たちの珍重する黄金も、彼ら動物たちにはただの〝黄色い金
属〟……皮肉も利いている。だから訳すほうも、作者の選んだ言葉
さか
を一語一句ゆるがせにせず、たとえばここで賢しらだてに、〝黄
金〟などという訳語を〝黄色い金属〟にあてはめたりしないことこ
そ肝要になってくる──二篇の姉妹作を通じて、私は終始この、〝作
者の選んだ言葉・表現をどこまでも尊重し、それをせいいっぱい的
確な日本語に移しかえる〟ことに意を用いてきたつもりだ。
あともうひとつ、訳者として指摘しておきたいのは、『野性の呼
び声』でも散見された作者ロンドンの臆面もない白人優越主義、そ
れが本作ではいよいよ顕著になってきているということである。社
会主義者であったロンドンの、それとは相矛盾するかに見える白人
優越主義──これについては、『野性……』の「訳者あとがき」でも
触れておいたので、ご興味がおありのかたは、どうかそちらも参照
か し
されたい。ただし、だからといってそれがロンドンの作品の瑕疵に
なっているわけではないこと、これはすでに本文をお読みになった
かたならおわかりだろう。そういう点をも含めて、すべてがロンド
ンという作家の大きく、豊かな世界なのである。
この新訳を手がけるにあたっては、前作にひきつづき、光文社文
芸編集部の駒井稔編集長をはじめとして、編集・校閲の担当者のみ
なさんに、ひとかたならぬお世話になった。末筆ながら、ここに記
して、厚く御礼申しあげる次第である。

二〇〇九年二月
OceanofPDF.com
制作/光文社電子書店 2013年4月30日
◎本文中、今日の社会情勢と異なる事実や表現、あるいは差別的と
受け取られかねない表現がある場合もありますが、著者に差別的意
図のないこと、および作品が書かれた時代的背景を考慮し、概ね発
表時のままといたしました。読者の皆様にご理解いただきますよう
お願いいたします。(光文社電子書店)
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