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最強陰陽師の異世界転生記 ∼下僕の妖怪どもに比べて

モンスターが弱すぎるんだが∼

小鈴危一

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︻作品タイトル︼
最強陰陽師の異世界転生記 ∼下僕の妖怪どもに比べてモンスタ
ーが弱すぎるんだが∼
︻Nコード︼

1
N1290FF
︻作者名︼
小鈴危一
︻あらすじ︼
︻アニメ化しました! 新装版1∼6巻&コミカライズ1∼7巻
発売中!︼
陰陽道を極め、あまたの妖怪を従え、歴代最強の陰陽師と呼び称え
られたぼくは︱︱︱︱謀略と裏切りの末、炎上する屋敷の中で死に
瀕していた。
来世でこそ幸せになろうと、ぼくは最期の時に転生の秘術を試みる。
術は無事成功したものの⋮⋮生まれ変わった先は、なんと異世界だ
った!
え、四属性魔法? 別に使えなくていいです。
極めた陰陽術と、異界に封印した強力な妖怪たちは︱︱︱︱未だぼ
くの手の中にあるから。
※カクヨムにも投稿しています。
2
第零話 最強の陰陽師、死す
︱︱︱︱どうしてこうなったのか。
平安の怪夜。
燃え落ちていく屋敷の中で、死に瀕するぼくはそれだけを考える。
ヒトガタ
呪符たる人形のほとんどを失い、式神はすべて封じられた。
切り札の鬼神も倒された。その骸は屋敷を潰し、今も青い炎を上
げ燃えている。
左腕を失った。もう完璧な印は結べない。
肺は煙で焼かれ、真言すら唱えられない。
歴代最強の陰陽師と称えられ。

3
﹃百鬼夜行﹄﹃生ける地獄門﹄と恐れられ。
年若い姿で百年を超える歳月を生きたぼく。
その末路がこれだった。
幼い頃から力を求めた。
それさえあれば何も失うことはないと思ったから。幸せになれる
と思ったから。
望み通りに力を得て、ぼくは最強になって。
そして、すべてを失った。
謀略と裏切り。
それが、最強を殺した者の名だ。
思えば、すべて仕組まれていたのだろう。
弟子達を人質に取られたことも。
朝廷を敵に回さなければならなくなったことも。
そして⋮⋮泣きながらぼくを討つに至った、あの子のことも。
見事だった。
黒幕がどこの貴族か皇族か知らないが、本当に見事に、ぼくは窮
地に追いやられた。
最強なんてなんの役にも立たなかった。
力だけではやはり限界があったのか。
策謀を巡らし、常に大勢を味方につけるよううまく立ち回るべき
だった。
こうかつ

4
ぼくに足りなかったものが、今でははっきりわかる︱︱︱︱狡猾
さだ。
わかったから、もう大丈夫。
・・
次はうまくやる。
震える右手で不完全な印を組む。
灼けた喉でささやきのような真言を唱える。
大事にとっていた一枚の呪符が、煙の中に浮かび上がる。
今生の最期に使うは、秘術。
まじな
転生の呪い。
やり直すんだ、もう一度。
ひのもと
これから先、日本がどう変わるかはわからない。いやそれどころ
か、まったく別の国に生まれる可能性も高い。
だけど、今度は失敗しない。
次の生こそ︱︱︱︱ぼくは幸せになるんだ。
呪符が光を放つ。
倒れるぼくを中心に、魔法陣が現れる。
意識が遠のいていく。
そしてぼくは︱︱︱︱、
5
第零話 最強の陰陽師、死す︵後書き︶
書籍版が発売中です!
各巻にはウェブ版未掲載の書き下ろしが収録されています。
6
第一話 最強の陰陽師、転生する
ぼくは目を開けた。
ゆっくり息を吸って吐く。
生きている。
低い視点に、小さな手。
幼子の体だ。
⋮⋮成功だ。
ぼくは生まれ直した。

7
直後に始まった記憶の統合に気分が悪くなるも、ほっとした。
自信はあったけど、なにせ失敗したらそのまま死亡だ。そりゃ不
安にもなる。
それにしても、これはどういうことだろう?
薄暗い部屋の中で、三歳くらいのぼくが床に座っている。
そして床には、ぼくを中心として魔法陣が描かれていた。
前世の最期に見た、転生の魔法陣ではもちろんない。というかこ
んな六角形の魔法陣は見たことがない。
六角形の頂点には、それぞれ石みたいなのが置かれていた。
鉱物のようだけど、なんだろう? こちらも見覚えがない。
ついでに人の気配もあった。
ぼくの背後に、数人。
微かに呪文のようなものも聞こえる。
魔法陣が微妙に光っていることから、何か呪術の最中らしい。
逃げ出すべきかと迷うが、この体が持つ記憶に嫌なものは感じら
れなかったので、ぼくはしばらく待つことにした。
妙な行動をとって怪しまれても困るし。
﹁︱︱︱︱︱︱の名において願い奉る、この者の持つ力を示せ!!﹂
低い男の声と共に、一際強く魔法陣が光輝き⋮⋮そして消えた。
何も起こらない。
後ろの人たちもシーンとしている。

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え、何これ。失敗?
﹁⋮⋮っぷ、クククッ﹂
いたたまれない雰囲気を破って、小さな笑い声が聞こえた。
﹁ククッ、マジ? こんなことってあんのかよ? っはは!﹂
﹁グライ、笑うなよ。まだ終わってない﹂
﹁いやもうわかっただろルフト兄。みろよ! どの属性の石も光っ
てない。これはつまり⋮⋮そういうことですよね、父上?﹂
ぼくは後ろを振り返った。
三人の人間がいた。うち二人は子供だ。ぼくより少し年上の子供
二人。
性格の悪そうな笑みを浮かべている少年と、真面目そうな少年。
暗くてわかりにくいが、二人は金色の髪、それに青い目を持って
いた。
異人? ここは西洋の国なのか? だけど聞いたこともない言語
ひのもと
だし、顔立ちも日本の民に近いところもあってわからなくなる。
﹁⋮⋮そうだな。儀式は終わりだ。結果は出た﹂
三人のうちの最後の一人、壮年の男が書物を閉じて、低い声で言
う。
今にも溜息をつきそうな、失望した調子で。
﹁セイカには魔力が一切ない﹂
セイカ。
それが今生での、ぼくの名前。この体の記憶にあった。

9
﹁それは⋮⋮残念でしたね、父上﹂
﹁ぷっククク、はぁーっははは! わらえるぜー。まさか魔法学の
大家、ランプローグ家に魔力なしが生まれるなんてな! しってた
かルフト兄? 魔力なしって、魔法使いとしちゃ最強の落ちこぼれ
なんだぜ! 仮にも父上の血を引いておきながら、セイカ、おまえ
はとんだ恥さらしだ!﹂
三人の人間⋮⋮おそらくぼくの家族から向けられる、失望や嘲り
の視線。
そんなものを初めて浴びたぼくは、首をかしげる。
まじな
魔力とはたぶん呪いを使う力のことだろう。どうやら彼らは、ぼ
くに呪いの才能がないと言い合っているらしい。
でも、そんなはずないんだけど。
転生体には、ぼくの魂の構造を再現できる体が自動的に選ばれる。
必然、似てくるのだ。
顔立ちや背格好。
それに、呪術の才すらも。
ぼくは、自らに流れる力を意識する。
やっぱり確認するまでもない。というかこれは⋮⋮想像以上だ。
ぼくに呪いの才能がないだって? いったい何を言っているんだ
ろう。
この体には︱︱︱︱こんなにも、呪力があふれているというのに。

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第二話 最強の陰陽師、式神を作る
転生して、早くも十日が過ぎた。
﹁うんしょ。うんしょ﹂
晴れた日の、屋敷の庭。ぼくは服の裾を広げて、辺りに落ちてい
る葉っぱを拾い集める。
どこからどう見ても三歳児だ。
そんな行動をとりつつ、頭の中では別のことを考える。
結論。
やはりここは異世界らしい。

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あの儀式の晩。地下室から上の立派な屋敷に戻されたぼくは、星
座を確かめてみようと空を見上げた。
そしたら月が二つあった。もうこの辺で察した。
ギリシア
古代希臘の叡智によると、この大地は球体で、それ自体が回転し
ていると言う。
なので日本と反対の球面からは別の星空が見えるはずだが⋮⋮月
に関して言えば軌道的に考えてどこだって見られるはずだ。まして
や増えるわけがない。
それから何日か家族の会話に聞き耳を立てていたが、知っている
地名や国の名前などは一度も聞かなかった。
これはもう、異なる世界に来てしまったと考えるしかない。
転生先の条件は、ぼくの魂の構造を再現できる体。それだけだっ
た。
だから、どこに生まれるかは全然わからなかったわけだけど⋮⋮
まさか異世界とは。
同世界内を終焉まで探しても転生体候補が見つからず、結果外部
アドレスにまで検索範囲が広がってしまったんだろう。完全に想定
外だが、まあもう今さら仕方ない。
気を取り直したぼくは、さらなる情報収集を重ねた。
今生でのぼくの名は、セイカ・ランプローグ。
ランプローグは伯爵家、つまり貴族の家柄だ。
三男ではあるものの、これは運がよかった。
前世のように平民で生まれ、疫病で即死んだりしたらどうしよう
もない。

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とはいえ、そもそもが豊かで発展した国のようだ。
そう イスラム ローマ
少なくとも日本よりはよほど。もしかしたら宋や伊斯蘭、東羅馬
帝国などに並ぶか、それ以上かもしれない。
まだまだわからないことだらけだ。
もっと情報を集めないと。
﹁うんしょ。うんしょ﹂
拾い集めた葉っぱをひとまず木陰に持って行く。
裾を離すと、葉っぱがばさっと地面に落ちた。
うん、とりあえずこれくらいでいいかな。
﹁︱︱︱︱
小さく真言を唱える。
すると、地面に落ちていた葉っぱがすべて浮かび上がり、その葉
脈をこちらに晒した。ぼくはそれらにまとめて、呪力で文字を書い
ていく。
﹁⋮⋮できた﹂
軽く指示を出し、縦横に飛ぶ葉っぱを見て出来映えを確認する。
まあまあかな。
簡単だが、式神の完成だ。
コマ
ぼくの目や耳、手足となる駒。本当はヒトガタで作るのが一番な

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んだけど、この世界でも紙はそれなりに貴重品のようなので贅沢は
言っていられない。
おいおい用意していけばいいだろう。
三分の一にカラスの姿を与え、空に放つ。
三分の一にネズミの姿を与え、野に放つ。
残りは不可視状態にしてそばに置いておくことにした。式は呪符
代わりにして術の媒介にも使えたりと、いろいろ便利なのだ。
﹁おいセイカ! なにやってんだそんなところで!﹂
やかましい声に、ぼくはどきりとして振り返る。
後ろに立っていたのは、底意地の悪そうな顔の子供。
ぼくの三つ上の兄、グライだ。
﹁みてたぞ。おまえ、葉っぱなんてあつめてただろ。きもち悪いや
つ! そんなもんあつめてどーすんだよ。ん? おい、葉っぱはど
こやったんだ?﹂
キョロキョロと辺りを見回すグライを見て、ぼくはほっとした。
今していたことは見られなかったらしい。
ぼくの前世はなんとしても秘密にしておかなければならないから
な。
﹁なんとか言えよ、この落ちこぼれ!﹂
黙ったままのぼくにいらついたのか、グライが土を蹴っ飛ばして
くる。

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何も言わずに土を払う。しっかし、とんだ糞餓鬼だ。ぼくの弟子
は良い子ばかりだったからなおのことそう感じる。
父親はあまり子供に構わないし、母親は甘やかし気味。身の回り
メイド
のことは侍女がやってくれるせいかとんでもなくわがままだ。それ
でも上の兄はまだまともなんだけど。
﹁⋮⋮やめてよ、グライ兄﹂
とりあえずそう言うと、グライは口の端をひん曲げたような笑み
を浮かべる。
﹁やめてください、だろ? 口のきき方がなってないぞ。おまえ、
まさかおれやルフト兄とおんなじ立場だと思ってるんじゃないだろ
ーな﹂
﹁違うの?﹂
﹁ちがうにきまってんだろ。だって、おまえは本家の人間じゃない
んだからな!﹂
ぼくは首を傾げる。どういうことだろう?
﹁メイドたちが言ってたぞ。おまえは妾の子だって! だからおま
えはこれっぽっちの魔力もない、落ちこぼれなんだ!﹂
なるほど。ぼくはようやく腑に落ちた。
どうも母親から無視されているような気がすると思ったら、そう
いうことだったのか。メイドも腫れ物を扱うような態度だったし、
父親も上の兄もどうりでよそよそしかったわけだ。
有益な情報だった。ありがとうグライ君。

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でもこっちの家で育てられてる以上、実質本家の人間だとは思う
けどね。
﹁わかったか? おまえは、おれや兄さんのいうことをきかなきゃ
いけない立場なんだよ! ⋮⋮そうだ、おれはいま武術を練習して
いるんだ。おまえちょっと実験台になれ﹂
そう言うと、グライはにやにや笑いながら助走を付けるようにじ
りじりと下がっていく。
﹁いいか? そこを動くなよ!﹂
叫んだと思ったらグライがこちらに走り込んでくる。
跳び蹴りでもかますつもりなんだろうか? 戦でそんなことをす
るやつは見たことがなかったけど、ひとまず勘弁願いたい。
不可視にしていた式神を一体、足下に飛ばしてやる。
すると、それに躓いたグライが顔面から派手にすっ転んだ。
うわぁ痛そう。
﹁ぶッッ! こ、この⋮⋮!﹂
まだ向かって来そうだったので、さっき飛ばした式神カラスを二
匹呼び戻す。
カラスはギャアギャア言いながらグライに急降下すると、その太
い嘴で頭をつつき出した。
﹁うわっ、な、なんだこいつらっ﹂

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グライはしばらく腕を振り回して抵抗していたものの、やがて頭
をかばってうずくまると大声で泣き始めた。
ぼくは少し反省する。子供相手にさすがにやりすぎた。
そう思って式神カラスを引っ込めようとしたとき、
﹁グライっ!!﹂
また子供の声。
見ると、長兄のルフトが棒切れを持ってグライに駆け寄ってくる
ところだった。
﹁やめろっ、やめろっ、このっ!﹂
ルフトは棒を振り回してカラスを追い払う。
カラスはひるんだように、二匹一緒に飛び去っていった。
というかぼくがそうしたんだけど。
﹁大丈夫か、グライ。けがは?﹂
大泣きする弟を気遣う。ルフトは次男に比べれば性格もまともだ
し、ぼくより五つ上だけあってさすがに大人びていた。とはいえま
だ八歳だけど。
﹁どうしてカラスが⋮⋮。セイカは大丈夫だったか?﹂
﹁うん。なんともないよ、ルフト兄﹂
そう答えて笑みを返すと、ルフトは不気味そうにぼくを見る。
無理もない。ぼくだけ襲われてないのも変だしね。
でもそれだけだ。

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怪我の治療をするため、ルフトは未だ泣き止まないグライを屋敷
に連れて行く。
そして一人残されるぼく。
邪魔は入ったものの、式神は放てた。これで情報収集がもっとや
りやすくなるだろう。
いろいろとやらなければならないことは多い。
ただこの三歳の体ではできることも限られるし、少なくとも数年
はじっくりと準備に時間を使うとしよう。
今生は、まだまだ先が長いんだから。
第三話 最強の陰陽師、紙を作る
早くも四年が経ち、ぼくは七歳となった。
﹁⋮⋮﹂
屋敷から少し離れた山林に立つ、真夜中の森小屋。式神が放つ微
かな光の中、ぼくは黙々と大きなへらで巨大な鍋をかき混ぜる。
明らかに七歳児の行動じゃない。ド直球で怪しい光景だが、見つ
かるわけにはいかないからこんな時間にやっていたりする。
静かな場所での単純作業は、考え事がはかどる。

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あれからいろいろなことがわかった。
ここランプローグ領を内包するウルドワイト帝国は、やはりかな
り強大な国だった。
文化などは前世の西洋に近い感じだったが、それを超える文明レ
ベルで、平和で、そして豊かだ。
各地を治める領主はいるものの、帝国の持つ直轄軍の力が強いた
めに軍役は課されていない。領主の仕事は経営が専らで、領地を巡
った争いなども禁じられていた。
そのあたり、前世にあった帝国と比べるとずっと穏やかだ。
ただ、それでもやはり脅威はある。
それが、モンスターと魔族だ。
あやかし
モンスターは、前世にいた妖のようなものだ。時折人間を襲う怪
物。ただその死骸は資源にもなるので、妖よりは役に立つらしい。
そして魔族とは、帝国領の外側に広がる魔族領を治める、人間と
敵対する者たちのことだ。聞くところによると、モンスターに近い
人類なんだとか。
普段は各地に駐屯する帝国軍の部隊が、国境沿いに睨みをきかせ、
ついでに厄介なモンスターを討伐しつつ︵さらについでに野盗なん
かも狩りつつ︶、平和を維持している。
ただ、それでもすべてのモンスターを相手にできるわけではない。
だから街によっては自衛のための戦力を持っていたり、冒険者を囲
っていたりした。ランプローグ領にも治安維持を兼ねた自警団がい
る。

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自衛と言えばだが︱︱︱︱この世界には独自の魔法体系がある。
四属性魔法というのがそれで、全体を火、水、風、土に系統分類
するかなり実存に近い魔法体系らしい。
実際にはそれに加えて光と闇属性があるようだったが⋮⋮なんと
なく、ぼくの開発した陰陽五行相の術に近い気がする。
こちらの魔法には少し思うところがあるが、いずれきちんと学ぶ
こととしよう。
きっと得るものがあるはずだ。
﹁でも⋮⋮まずはこっちだな﹂
大鍋を見下ろす。
この後の重労働を考えると溜息が出た。
ぼくが今作っているのは紙だ。
式神の媒体となるヒトガタを作るのにどうしても要るのだが、こ
ちらの世界でも紙は貴重品で、子供の身分では気軽に手に入らない。
だから自分で作ることにしたのだ。
作り方としては、まず原料となる草を適当に裂き、高濃度の金気
アルカリ
を含ませた強塩基の水で煮る。それから繊維だけを取り出してよく
叩く。つなぎとなる植物を加え、ドロドロになったものを型に流し
込んでよく乾燥させる。以上だ。
ぼくは運がよかった。前世で呪符の素材にこだわるために製紙を
学んでいたこともそうだが、本来の原材料であるコウゾやガンピの

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代わりになる草や、つなぎであるトロロアオイ代わりの木の実をこ
ちらで見つけられたのだから。
まあ見つけるまでと、道具作りでめちゃくちゃ時間はかかったけ
ど。
作業自体は重労働で子供の身にはきついが、仕方ない。できるだ
け術と式神を使って楽してはいるものの、何から何までというわけ
にはいかないからね。
﹁⋮⋮ん﹂
口の中に違和感。
ぐらぐらしていた歯を舌で押すと、すんなり抜け落ちた。
乳歯を吐き出して手のひらに乗せる。ぼくはそれを確認し、にん
ポケット
まりと笑って衣嚢にしまった。
歯も立派な呪術の道具となる。
転生は前世で試せなかったことを試す良い機会だ。
ヒトガタをたくさん作れれば、できることも増えていく。
第二の人生は順調だった。
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第四話 最強の陰陽師、魔法を使う 前
朝。
﹁あれ?﹂
外套を取り出そうとクローゼットを開けたぼくは、首を傾げる。
ない。
おかしいな、昨日確かにここにしまったはずなんだけど⋮⋮。
あ、まさか。
﹁︱︱︱︱セイカくん、セイカくん﹂

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小さな声に振り返ると、女の子が一人、ドアの隙間からぼくを見
ていた。
くすんだ金色の猫っ毛。年も背も、今のぼくと同じくらいの少女。
﹁なに? イーファ﹂
﹁あの、これ⋮⋮﹂
俯きがちに差し出されたのは探していた外套だった。
よく見るとところどころに小さな葉っぱや枝がついている。やっ
ぱりな、とぼくは内心溜息をつく。
たぶんグライの仕業だろう。
あの糞餓鬼っぷりは四年経っても健在で、今までことあるごとに
ぼくを見下し嫌がらせを繰り返してきたのだが、毎回さりげなく式
神で仕返ししていたせいか最近では警戒していて、もう直接なにか
をしてくることはなくなっていた。
で、代わりにやり始めたのがぼくの私物を隠すとか壊すといった
みみっちすぎるいたずらだ。
三つも下の弟にやることか?
次兄の人間性がさすがに心配になる。
﹁ありがとう、イーファ。探してたんだ﹂
ぼくがお礼を言って受け取ると、少女は俯いてしまう。
イーファはランプローグ家が持つ奴隷の娘だ。
奴隷の生んだ子も当然奴隷なのだが、屋敷に住まわせるような奴
隷は待遇が良く、扱いも使用人と大して変わらない。この辺は前世

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の西洋と似ていた。
たぶん大農園や鉱山に使われるような奴隷が悲惨なのも変わらな
いんだろうけど。
﹁でも、毎度よく見つけられるね﹂
隠された物をイーファに見つけてもらうの、これで何度目だろ。
﹁それは⋮⋮えと、たまたま⋮⋮。セイカくん、こんなのやっぱり
ひどすぎるよ。わたし、旦那さまに頼んでみる。そしたらグライさ
まだってやめてくださるかも⋮⋮﹂
イーファが抑えた声で言う。
聴いててわかるとおり、この子はぼくに対してだけは尊称も敬語
を使わない。最初は奴隷にもなめられるのかとげんなりしたものだ
ったけど、どうやら年の近い自分だけでもこの除け者の子と仲良く
しなきゃと思ってのことだったらしい。
泣ける。この家の数少ない良心だ。
ぼくは笑ってイーファへと言う。
﹁大丈夫だよ﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁ほんとだって。これくらい平気だから﹂
実際、こんなのかわいいもんだ。
師匠に弟子入りしていた時期なんて兄弟子達に本気で殺されかけ
たからな。
まあ最終的にはぼくが全員呪い殺したけど。

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﹁ううん、でも、わたしやっぱり⋮⋮﹂
﹁セイカ! おまえ、なにやってんだそんなところで!﹂
突然の大声に、イーファはびくりと肩を震わせた。
次兄のグライはどすどすと大股でぼくらに迫ると、イーファを睨
みつける。
﹁おい奴隷! こんなところでなにさぼってんだ! 父上に言いつ
けるぞ!﹂
﹁も、もうしわけございませんっ﹂
イーファは怯えたように頭を下げ、逃げるように去って行く。
グライは鼻を鳴らしてその背から目を離すと、ぼくの持つ外套を
見て、それから舌打ちしそうな顔で言った。
﹁また外で草遊びか? 妾の子はいい気なもんだな! 魔法の勉強
なんてしなくて済むんだから。おっと、そもそもしたくてもできな
いのか﹂
それから、グライは性格の悪そうな笑みを浮かべて言う。
﹁ま、好きにすればいいさ。おまえはどうせ、将来この家を追い出
されるんだからな! どうするんだ、セイカ。行き先なんて軍くら
いしかないぜ?﹂
﹁帝国の軍に入れるの?﹂
じゃあいいじゃん、と思うぼく。
飢えるよりずっとマシだ。直轄軍なら待遇もよさそうだし。
まあぼくが入軍することはないと思うけど。

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﹁なに安心してんだ。おまえ、知らないのか? 軍ではゲロ吐くほ
ど訓練させられて、しかも上官の命令にはぜったい従わなくちゃい
けないんだ。相手が平民だったとしてもだぞ?﹂
ぼくは反応に困る。
いや、そりゃそうだろ。軍なんだから。
むしろその二つを徹底しないと本番で死ぬぞ。
黙ったままのぼくが怖じ気づいたとでも思ったのか、グライは明
らかに調子に乗った声音になる。
﹁おまえは今から剣でも練習しておけよ。ま、おまえみたいなチビ
はどうせ初陣で死ぬだけだろうけどな!﹂
﹁身長はこれから伸びるよ。それより、グライ兄はどうするのさ﹂
﹁あ?﹂
﹁家はルフト兄が継ぐでしょ? 追い出されるのはグライ兄も同じ
じゃないの?﹂
グライは鼻を鳴らしてぼくを睨む。
﹁おまえみたいな落ちこぼれと一緒にするな! おれはな、魔法学
園に行って父上のような一流の研究者になるんだよ﹂
﹁魔法学園?﹂
﹁おまえ、魔法学園も知らないのか? 何人もの宮廷魔術師を輩出
した魔法使いの名門、帝立ロドネア魔法学園のことだぞ?﹂
ロドネアとはたしか、帝都の近くにある都市の名だ。
なるほど、そこに魔法の教育機関があるのか。学園と言うからに
は大規模なものなんだろうな。

26
いいことを聞いた。
﹁ふうん。何歳からそこに通うの?﹂
﹁試験を受けられるのは十二歳からだが、おれはランプローグ家だ。
無学な奴らと基礎なんて学ぶ必要はない。十五歳になってから高等
部に編入すれば十分だ! もしかしたら入学して早々宮廷魔術師に
スカウトされてしまうかもしれないが、そのときはそっちでキャリ
アを積むのもいいな﹂
恥ずかしげもなく語る次兄に、ぼくは呆れる。
ものすごい自信だな。たとえ実力があったとしても人間なかなか
こうはならないぞ。
﹁おい、セイカ。おまえはおれと一緒の道を進めると思うなよ。ラ
ンプローグ家は広く影響力をもつために、一族の者に同じ進路は選
ばせないんだ! ああ、おまえはそもそも魔力なしの落ちこぼれだ
ったな。ふん﹂
こいつ、ほんとにぼくへの罵倒を忘れないなぁ。
﹁どうでもいいよ﹂
﹁あ? なんだその⋮⋮﹂
﹁グライ、いつまで話している﹂
低く、重たい響きの声。
口ひげを生やした背の高い壮年の男が、いつの間にかグライの後
ろに立っていた。
次兄が慌てて振り返る。
﹁父上!﹂

27
﹁もうルフトは出たぞ。杖はどうした﹂
﹁あ、えっと、これから⋮⋮﹂
﹁今日は魔法をみてやると伝えていただろう﹂
﹁い、いやその、セイカのやつが⋮⋮﹂
ぼくのせいにするのはさすがに苦しすぎるんじゃないか?
男はグライから目を離し、ぼくを見下ろす。
﹁セイカ、今日は屋敷で大人しくしていなさい﹂
﹁父上﹂
ぼくは、男をまっすぐ見つめる。
そういうわけにはいかない。そのために外套を探してたんだから。
﹁魔法の練習に、ぼくも連れて行ってくださいませんか?﹂
28
第五話 最強の陰陽師、魔法を使う 後
今生の父が、黙ってぼくを見る。
ブレーズ・ランプローグ。
ランプローグ伯爵家の現当主。
ランプローグ家は元々魔法研究の功績が認められて爵位を賜った
だけあって、優秀な魔術師を何人も輩出している。ブレーズも当主
を継ぐ前は一線の魔法学研究者だったようで、現在でも各地の研究
機関に顔を出すためにしょっちゅう家を空けていた。
さらには魔法戦闘にも秀でているらしく、宮廷魔術師に誘われた
ことも一度や二度じゃないのだとか。

29
でも、それがどのくらいすごいのかはよくわからない。
ぼくも陰陽寮の役人やってた頃は宮廷魔術師だったんだろうけど、
ぼくせん
同僚には卜占も満足にできないボンクラが普通にいたけどな。
﹁おいセイカ! なに言ってんだ! おまえみたいな魔力なしが来
てどうすんだよ!﹂
﹁いいだろう﹂
﹁え、父上!?﹂
﹁ただし、見るだけだ。それでいいなら早く準備しなさい﹂
唖然とするグライの前で、ぼくはにっこりと笑う。
﹁ありがとうございます、父上。準備はもうできています﹂
****
屋敷から少し離れた場所に、ランプローグ家が使う魔法の演習場
があった。
といっても、木の台に岩の的が乗ったものが並んでるだけだけど。
ランプローグ家の屋敷自体が、街から少し離れた小高い山の麓に
ある。
グライなんかは、いずれ山に棲むモンスターを狩り、実戦経験を
積むんだ、なんて言っているが⋮⋮それはともかく、たしかにここ
なら大きな音を出しても迷惑にならないかな。

30
﹁ルフトからやってみなさい﹂
﹁はい、父上﹂
長兄のルフトが、緊張した面持ちで杖を構え、その先を標的の岩
に向ける。
﹁逆巻くは緑! 気相満たす精よ、集いてその怒りを刃と為せっ﹂
言葉と共に、ルフトの杖へ力が流れていく。
ウィンドエッジ
﹁︱︱︱︱風鋭刃!!﹂
杖から放たれた風が、標的の岩にばしんばしんと叩きつけられる。
よく見ると、岩の表面に少し傷がついているようだった。
﹁安定しているな。威力も及第点だ。これなら無詠唱にも挑戦して
いいだろう﹂
﹁っ、はい!﹂
うれしそうな長兄を横目に、ぼくは考える。
物質を直接扱う魔法。やはりかなり実存に近い魔術だ。
戦闘魔法を初めに覚えることも、相手と直接向かい合う状況を想
定していることも変わってる。
どこの国でも呪いや占いが主役だった前世の魔術とはだいぶ違う。
どちらかというと武術に近い。
なんというか⋮⋮もったいないな。
あと気になったのは、呪文が普通に口語なところだ。

31
言語なんて実際はなんでもいいので、別にそれ自体はおかしくな
いんだけど⋮⋮。
なんというか、聞いてて恥ずかしい。こいつらよく平気だな。
﹁次はグライ、やってみなさい﹂
﹁はい!﹂
グライは意気揚々と歩み出て、舐めくさった仕草で杖を構える。
﹁燃え盛るは赤! 炎熱と硫黄生みし精よ、咆哮しその怒り火球と
ファイアボール
為せ! ︱︱︱︱火炎弾!!﹂
グライの杖から放たれたのは、真っ赤な火球だった。
それは岩に勢いよく命中し⋮⋮そのまま四散する。岩は燃えない
から当たり前だ。
﹁どうでしたか、父上!﹂
﹁グライ、なぜルフトのように風の魔法を使わなかった﹂
﹁う、それは⋮⋮﹂
﹁新しい魔法を覚えたのはいい。だがまだまだ荒い。まずは一つの
系統に習熟しろと教えたはずだ﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁ルフトのように精進することを覚えなさい。お前も筋は悪くない。
努力を怠らなければいずれは風と火、二系統の魔術師として大成す
るはずだ﹂
﹁は、はい! 父上!﹂
反省してるとは思えないグライを尻目に、ぼくはまた考え込む。
うーん⋮⋮。

32
あれって純粋な呪力、じゃない魔力を燃やしているのか?
効率悪い上に物理的な威力がないし、延焼も狙いにくい。あれな
ら火矢でよくないか?
いやまあ、グライが下手なだけで本当はもっと威力あるんだろう
けど。
﹁ふっふっふ⋮⋮そうだ。おいセイカ! お前もやってみろよ!﹂
と、調子に乗ったグライが急にそんな声をかけてきた。
﹁おい、グライ⋮⋮﹂
﹁そんなところで見ていてもつまらないだろ。せっかく父上が見て
くださってるんだ、おれの杖を貸してやるから少しはランプローグ
家らしいところを見せたらどうだ?﹂
ルフトの制止も無視して、グライはこちらに歩いてくるとぼくに
杖を押しつけた。
できないぼくを見て笑い者にしようってことらしい。
こいつほんとに性格悪いなぁ。
﹁⋮⋮わかった。やってみる﹂
にやにや笑うグライの前を通り、的の前に立つ。
まじな
今ぼくの呪いを見せることは、正直あまりしたくない。
目立つ者は目の敵にされる。
だから、世界はその実、強者ほど死にやすい。

33
最強になろうと、結局その理からは逃れられなかった。
だけど、弱い者は奪われ続ける。それもまた真理だ。
馬鹿にされたままではやはり不便。ここらで最低限の力を見せる
のもいいだろう。
﹁⋮⋮はっ、なに一丁前に構えてんだか。魔力なしのくせに﹂
グライの声を背後に、ぼくは自分の呪力を意識する。
こんなに見られてる以上は真言も印も呪符も使えないが、たぶん
なんとかなるだろう。
心の中で真言を唱え。
意識の上で印を組む。
呼ぶは火と土。
申し訳程度に、こちらの術名を短く発する。
﹁︱︱︱︱ふぁいあぼうる﹂
︽火土の相︱︱︱︱鬼火の術︾
杖、正確にはその前方の空間から放たれたのは︱︱︱︱青白い炎
を纏った大火球だった。
火球は、そのまま岩に命中。
そして派手に爆散させた。
静まりかえる演習場。
皆の視線が向かう先は、半分くらいになった岩と、白煙を上げる
残り火。

34
まずい。
やりすぎた。
ファイアボール
﹁いまの⋮⋮火炎弾か⋮⋮?﹂
﹁無詠唱⋮⋮しかも、あの威力⋮⋮それに、なんか炎が青かったよ
うな⋮⋮﹂
兄たちが呆然と呟く中、ぼくは顔が引きつっていた。
もく か ど
ぼくの編み出した陰陽五行相の術は、世界の要素を木、火、土、
ごん すい け
金、水の五行と、陰と陽の計七属性に当てはめ、それぞれの気を自
在に呼び出すものだ。
そのうち前世でよく使っていたこの︽鬼火︾は、土気として呼び
リン かたまり
出した燐の塊に、火気で着火するだけの単純な術なのだが⋮⋮どう
やら燐の量が多すぎ、岩で砕けた拍子にすべての破片が一気に燃え
上がって爆発したようだ。
そのうえ核の形を保つために混ぜた石英の欠片が、爆風で岩を粉
砕してしまった。
あと炎色反応のことをすっかり忘れてた⋮⋮せめて石灰か塩でも
混ぜていればまだ自然な色にできたのに⋮⋮。
これはひどい。
﹁セイカ﹂
今生の父は、落ち着いた声で言う。
﹁隣の岩を狙い、もう一度やってみなさい﹂
﹁⋮⋮はい。父上﹂

35
よし、せめて今度は加減しよう。
﹁︱︱︱︱ふぁいあぼうる﹂
再び青白い大火球が放たれ︱︱︱︱、
大音響と共に、またもや的の岩を破壊してしまった。
﹁あっれぇ⋮⋮?﹂
さっきよりはマシだけど大して変わってない。
どうもこの体の呪力の巡りが良すぎて、うまく術をコントロール
できないみたいだ。
これは直さないとまずいな。
﹁父上⋮⋮こ、これはどういうことですか? セイカは魔力なし。
魔法は使えないはずじゃ⋮⋮ひょっとして、おれの強い魔力が杖に
残っていたとか?﹂
グライが父親を振り仰いで言う。
いやそんなわけあるか。
﹁生まれつき魔力を持っていない者でも、魔法を使った例はある。
それに魔力の質により、炎が特徴的な色を帯びることもあると言わ
れている﹂
﹁父上﹂
ふと思い立ち、ぼくは父に呼びかけた。

36
﹁ぼくも、兄さんたちのように魔法を学びたいです﹂
ちょっと計算違いはあったが、これはいい機会だ。魔法が使える
とわかれば、ぼくにも教えてもらえるかもしれない。
だが、父は首を横に振った。
﹁駄目だ﹂
﹁⋮⋮なぜですか﹂
﹁魔力のない者でも魔法を使った例はある。しかし、魔術師として
大成した例は知られていない。学んでも無意味だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカ。今年からお前にも、兄たちと同じように家庭教師をつけ
ることになっている。そちらに集中しなさい﹂
﹁⋮⋮わかりました、父上﹂
父は兄二人に目をやり、言う。
﹁こうなってしまった以上、演習は終わりだ。的は新しいものを手
配しておこう。それまでは二人とも、各自で修練に励むよう﹂
兄二人の返事と共に、父が去って行く。ルフトがその背を追った。
グライはというと、去り際にぼくの手から杖をひったくり、吐き
捨てるように言う。
﹁調子に乗るなよ、魔力なしが﹂
そして長兄を追っていき︱︱︱︱ぼく一人が残された。
とても有意義な時間だった。

37
この世界の魔法のことも、ぼく自身の課題もわかった。
家庭教師がつくというのも素直に喜ばしい。ぼくが読める書物だ
けでは勉強にも限界があったから。
魔法演習は、まあいいや。
式を飛ばせば見物できるからね。
第五話 最強の陰陽師、魔法を使う 後︵後書き︶
※鬼火の術
発火しやすい白リンに火をつけて撃ち出す術。リンが燃えると炎色
反応により炎は淡青色となる。
38
第六話 最強の陰陽師、妖怪少女を喚ぶ
あれからまた四年が過ぎ、ぼくは十一歳となった。
﹁⋮⋮﹂
真夜中の静かな自室の中。
式神が放つ光の下、ハサミで紙から切り抜いたヒトガタに、ぼく
は慎重に羽ペンで文字を入れていく。
そういえば、前世でもこのくらいの頃に同じようなことしてたっ
け。
懐かしいな。たしかちょうど今くらいの季節に元服したんだ。そ

39
う考えると、今生でのぼくもずいぶん大きくなったもんだなぁ。
﹁⋮⋮できた﹂
完成したヒトガタを眺め、緊張の息を吐く。
これは扉だ。
あやかし
前世のぼくは、何体もの妖を調伏し封印し、戦力として使ってき
た。
封印に使った呪符は前世でほとんど燃えてしまったので、当然な
がらここにはない。ないのだが⋮⋮実は理論上、封印した妖をこち
らに呼び寄せることは可能なのだ。
封印とは、すなわち位相へと送ること。
呪符は扉に過ぎない。
位相もまた異世界。だから扉さえ用意できれば、どんな世界から
だろうと繋げられる⋮⋮はずだ。理論上は。
本当にできるかどうかはこれから試す。
ヒトガタを床に置く。
印を組み、真言を唱える。
正直どうなるかわからない。
だから、最初に呼ぶのは一番大人しい奴だ。
やがて、術が組み上がる。

40
﹁︱︱︱︱ ﹀ ﹀
﹀ 儿 ㈰
くだぎつね
︽召命︱︱︱︱管狐︾
ヒトガタが光を放ち、周囲の光景が歪む。
そして、薄暗い部屋に現れたのは︱︱︱︱白い少女だった。
処女雪のような白い髪。妙に丈の短い着物も、そこから伸びる手
足も白い。ある種神秘的な容貌の少女。
その瞼がゆっくりと開かれ、対照的な漆黒の瞳が露わになる。
ん? せ、成功か⋮⋮? でもなんかちょっと違、
﹁ハルヨシさまぁーーーーーーッ!!﹂
少女が突然抱きついてきた。
ぼくを勢いのまま押し倒すと、思いっきり顔に頬ずりしてくる。
﹁ハルヨシさまハルヨシさまっ! ああまたそのお顔を拝せらるる
なんてっ、ユキは実に、実に幸いにございますぅ! すーはー!
位相の眠りの中でユキは幾度この時を夢見たことかっ! すうぅぅ
ぅぅはあぁぁぁあ! あぁ∼ハルヨシさまのにおい﹂
﹁やめろバカ! 離れろっ﹂
少女を押し返し、ぼくはずざざっと後ずさる。
そして、恐る恐るその姿を見る。
﹁ユキ⋮⋮だよな﹂
﹁はいハルヨシさま! ユキでございますよ﹂

41
にこにこ顔のその少女をよく観察する。
管狐のユキ。
ぼくが人間の姿を与え、前世で使役していた妖⋮⋮なんだけど。
﹁なんか⋮⋮小さくなってないか?﹂
前世では妙齢の女性の姿だったはず⋮⋮。
ユキは自らの姿を見下ろして言う。
﹁あ、ほんとですね。どうしてでしょう? 今のハルヨシさまの呪
力に引っ張られたか、世界自体の影響だと思いますけど﹂
まあ⋮⋮どちらもありえそうな話だ。
中身はユキそのものだし、成功と言っていいだろう。
﹁はぁ⋮⋮とりあえず呼べてよかった。久しぶりだな、ユキ﹂
﹁ハルヨシさまぁ⋮⋮っ!﹂
﹁わかったから抱きつくなって!﹂
﹁はい゛ぃ、でも⋮⋮よかっだでずぅ﹂
ユキは涙声で言う。
﹁あのとき⋮⋮あ、あの娘が敵とわかったとき⋮⋮ハルヨシさまは、
すでに死を覚悟しておられたようでしたから⋮⋮﹂
﹁ん、ああ⋮⋮﹂
﹁でも来世で必ず呼ぶとのお言葉、信じで待ち続げだ甲斐がありま
゛じだぁっ⋮⋮﹂
﹁あー、よしよし⋮⋮﹂

42
頭を撫でてやると、ユキは鼻をすすって涙を拭う。
﹁でも、この姿でよくぼくだとわかったな﹂
﹁それは⋮⋮わかりますよぅ。少しお若くなられましたけど、呪力
にもお顔にも面影がありますし﹂
﹁え、そう?﹂
﹁はい﹂
たしかに、家族ではぼくだけ黒髪黒目だ。
それは単に父親の愛人の血だろうけど⋮⋮世界まで渡って選ばれ
た転生体だけあるんだろうな。
﹁ハルヨシさま﹂
﹁ん?﹂
﹁呼んでいただいた以上、ユキはなんでもしますよ! ここは日本
どころかかの世界ですらないようですし、さすがのハルヨシさまも
さぞ労多きことでございましょう。さあ、ユキへのご用命はなんで
すか?﹂
﹁いや⋮⋮特にないよ。こっちでも妖を呼べるか試したかっただけ
だし⋮⋮﹂
﹁ええー!﹂
ユキががっくりと肩を落とす。
申し訳ないけど、ユキは管狐としてはさっぱり役に立たないから
なぁ⋮⋮。
ぼくは前世を思い出す。
いづな まじな
管狐は、飯綱使いが呪いのために使役する妖だ。
いづな あやかし
信濃国の飯綱使いは、この妖を使って様々な呪術を行使する。占

43
術に退魔術、それに憑依術。高名な者ともなれば、取り憑かせた対
象を意のままに操ることすら可能だ。
いつだったか知り合いの飯綱使いに、瞳が黒いすっごく珍しい白
変種が生まれたからあげるよ! きっとすごい力を持ってるよ!!
と善意百パーセントの目で言われ、譲り受けたのがユキだった。
最初はぼくも期待した。が、ユキはその実、管狐の本領たる予知
も憑依もぜんぜんダメ。何度やらせても最後には失敗してぐでーん
としていた。
でも捨てるのも忍びなく、仕方ないから人の姿を与えてお茶くみ
をやらせていたというわけだ。
前世でぼくは最後まで子をもつことはなかったけれど、ダメな子
ほど可愛いという言葉の意味は、ユキのおかげで理解できた。
が、それはそれとして仕事はない。
﹁というかその姿を誰かに見られるわけにはいかないからね﹂
﹁でももう位相はいやですぅ⋮⋮﹂
﹁じゃあ好きに隠れてたらいいよ﹂
﹁はぁい﹂
そう言うと、ユキは狐の姿に戻り、あっという間に細くなる。
そして、しゅるりとぼくの髪に潜り込んだ。
﹁やっぱりここが一番落ち着きますねぇ﹂
ユキの数少ない特技が、めちゃくちゃ細くなれることだ。もらわ
れたばかりの頃から、ユキはしょっちゅうぼくの頭に潜り込んでい
た。
たしかにそれも管狐の技能の一つではあるけど⋮⋮まあいいや。

44
﹁そうだ、ユキ。今のぼくの名はセイカだから、これからはそう呼
んでくれ﹂
﹁セイカさま、でございますか⋮⋮? ふふ、ハルヨシさまにはぴ
ったりのお名前ですね!﹂
ぴったりというかまあ⋮⋮前世でも何度かそう読まれたっけな。
さて、今日はもう寝るか。
ぼくは道具を片付けてベッドに潜り込む。
この世界からでも、妖は呼べる。
計画の一番重要な箇所は達成できそうだ。
あとは、思惑通りにいくかどうか⋮⋮。
45
第七話 最強の陰陽師、魔物を助ける 前
七歳からの四年間も、ぼくは準備と情報収集に費やしてきた。
せっせと紙を作ってヒトガタを切り抜き、家庭教師の言うことを
覚えながら式神で父や兄の魔法を観察する。外で体を動かし、隙あ
らば書庫で本や巻物を紐解いて、歴史や異言語を学んだ。
思えばこちらに来てから準備しかしてない。
でも、ぼく自身はちゃんと変わっている。背が伸びて肉がつき、
歯も生え替わった。
そろそろ行動も起こせる。

46
ちなみに、ぼくの周りでも変化はあった。
特にグライだ。
具体的にどう変わったかというと⋮⋮。
まじな
まずぼくが呪いを披露して以来、私物を隠されることがなくなっ
た。
口では威勢のいいことを言いながら、実はびびっていたらしい。
おかげでここでの暮らしがさらに快適になった。
しかし、代わりに鬱憤を使用人で晴らすようになってしまった。
ただし、年上だったり体格がよかったり、父や母と親しい使用人
には逆らわない。標的になるのは︱︱︱︱、
﹁おい奴隷! おまえ何をしたかわかってるのか! このおれの服
を汚したんだぞ!﹂
﹁も、もうしわけございませんグライ様﹂
年下だったり女だったり奴隷だったり⋮⋮そう、イーファみたい
な人間だった。
こいつはもうほんと⋮⋮どこまでだよ。
どこまで行ってしまうんだ、君の性根は。兄さん。
﹁父上と母上がお優しいせいで、自分の立場を理解してないようだ
な。おまえはこの家の所有物なんだ! 殺されても文句は言えない
身分なんだぞ!﹂
﹁はい⋮⋮もうしわけ⋮⋮﹂
﹁ふん、泣けばいいと思ってるんじゃないだろうな﹂
そこでグライがイーファの肩に手を回す。

47
﹁ま、おれもそこまで責めるつもりはない。おまえが理解すればそ
れでいいんだ⋮⋮そうだ、今夜おれの部屋に来い。奴隷の身分につ
いて、よ、よく教育してやるよ﹂
イーファが顔を俯けて身を竦ませた。
うわぁ、ついに出たよエロ餓鬼。そういえばこいつもう十四だっ
け⋮⋮。
というかちょっと噛んでるんじゃないよ。もう見られたもんじゃ
ないよ兄さん。
﹁朝から廊下でうるさいなぁ、グライ兄﹂
たまらずしゃしゃり出るぼく。
案の定、兄からは睨まれた。
﹁あ? なんだセイカ⋮⋮おまえには関係ない。引っ込んでろ!﹂
﹁ぼく、イーファに用があるんだよ。お説教なら早くしてよね﹂
﹁なんだその⋮⋮口のきき方はッ!﹂
罵声と共に、グライが拳を振り上げる。
頬の辺りに来そうだった拳を︱︱︱︱ぼくは手のひらで受け止め
た。
そのまま膠着状態。
﹁⋮⋮ッチ!﹂

48
やがて、グライが強引に腕を引き戻した。
﹁覚えてろよ、落ちこぼれがっ!﹂
そのままどすどすと去って行く兄。
そして溜息をつくぼく。
けっこう力込めたけど、痛かったかな? でも、さすがに十一歳
に腕力で負けるってどうよ⋮⋮。
気の流れを最適化してるとはいえ、体格は年相応のはずなんだけ
ど。
﹁あ、ありがとう。セイカくん﹂
そう言って、イーファが寄ってくる。
まあでも、グライの気持ちもわからないでもない。
具体的になぜとは言わないけど⋮⋮その、胸部がね。
この子ぼくの一つ上だからまだ十二か十三のはずだけど、どうい
うことなんだろう。ひょっとして、この世界の民族的特徴なのか?
だけど屋敷の侍女を見る限りでは必ずしもそうとは⋮⋮、
いや、これ以上はよそう。
﹁いえいえどういたしまして。そうだイーファ、実はお願いが、﹂
﹁ご、ごめん! ちょっと一緒に来てっ﹂
と言って、イーファはぼくの手を引いて走り出した。
なんだ?

49
第八話 最強の陰陽師、魔物を助ける 後
イーファに連れられるがまま、ぼくは屋敷の敷地の端っこまで来
てしまった。
当のイーファは、足を止めて何かを探すようにキョロキョロと辺
りを見回している。
﹁あっ!﹂
短く声を上げて、イーファが一本の大きな木の根元に駆け寄った。
﹁セイカくん、これ⋮⋮っ﹂

50
﹁これって⋮⋮﹂
そこに横たわっていたのは、翡翠色の毛並みをした小さな動物だ
った。
子猫ほどの大きさで、太い尾。その額には毛色と同色の宝石が嵌
まっており、微かな力の流れを感じる。
ただ傷だらけで、その毛並みの半分以上が土と血で汚れていた。
﹁これ、あや⋮⋮じゃなくて、モンスターか?﹂
﹁うん。たぶんカーバンクルの子供だよ﹂
そういえば屋敷の書物の中にこんな動物の挿絵があった気がする。
﹁きっと、フクロウかカラスにやられたんだと思う﹂
﹁モンスターが普通の動物に襲われるのか?﹂
﹁え、うん。小さいうちは弱いし、そういうこともあるみたい﹂
あやかし
妖みたいなものだと思っていたけど、それよりは普通の生き物に
近いのかもしれないな。
﹁セイカくん⋮⋮この子、助けられないかな﹂
イーファがぼくを振り仰いで言う。
そういうことか。でも、うーん⋮⋮。
﹁そうだなぁ⋮⋮﹂

51
前世で人間や犬猫、家畜などを治療したことはある。
が、こんな初めて見る生き物、しかもモンスターなんてものを治
す自信はあまりない。
ただ、だいたい何にでも効く術というのがあるにはあった。
﹁わかった。うまくいくかわからないけど一応やってみるよ。でも
見られてると集中できないからあっち向いてて﹂
﹁え? う、うん﹂
ぼくはカーバンクルの体から、血に濡れた毛を一本抜く。
そして、持っていた一枚のヒトガタにそれを貼り付けた。
呪力で上から文字を追記。
印を組み、小声で真言を唱える。
﹁︱︱︱︱ ﹀ ┋ ﹀

術が働き、カーバンクルとヒトガタに変化が起き始める。
そして︱︱︱︱、
﹁終わったよ﹂
ポケット
あちこち破れ、黒ずんだヒトガタを衣嚢に突っ込みながら、イー
ファに声をかけた。
顔を戻したイーファは目を見開く。
カーバンクルは体を起こし、舌で体に付いた血を舐めとっていた。
まだ弱々しいものの、さっきよりはずっと元気になっている。体

52
中血だらけなのは変わらないが、傷はだいたい塞がっているはずだ。
﹁な、なんで? すごい! ⋮⋮あっ﹂
イーファが手を伸ばすと、カーバンクルは動物らしい動きで、弾
かれたように森へと駆けていく。
最後に一度振り返り、しばらくぼくを見つめた後、木々の陰へと
消えていった。
大丈夫そうだな。
﹁今の⋮⋮もしかして、セイカくんが治してくれたの?﹂
﹁うん。思ったよりうまくいってよかったよ﹂
﹁セイカくん、治癒の魔法が使えるってこと!?﹂
え?
﹁す、すごい! わたし、そんなことできるの大きな街にいるよう
な光属性の魔術師だけかと思ってた!﹂
﹁あー⋮⋮はは﹂
笑って誤魔化すぼく。
あ、あれ? 魔法で治してほしいって意味じゃなかったの?
というか⋮⋮。
傷病の治療って、呪術に求めるものの最たるところなのに、それ
ができる魔術師が大都市にしかいないのか? 教育機関まであるの
に?
この世界の魔法はよくわからない。火とか風とか出すより先にや

53
ることあるんじゃないか?
﹁セイカくんはすごいね﹂
イーファが静かに言った。
﹁前は魔力を持ってないって言われてたのに、今じゃルフト様やグ
ライ様と同じくらい魔法が使えて⋮⋮ううん、それだけじゃなくて、
昔からいやな思いをしても全然めげなくて。強いんだな、って思っ
てた﹂
いやな思い⋮⋮?
そんなことあったかな? 次兄に呆れたことは何度もあるけど。
むしろこの八年間はずいぶん気楽だった。
飢える心配も命を狙われる心配もない、弟子の心配もしなくてい
い環境は久しぶりだったからな。
ずっと居たいとは思わないけど。
﹁あー⋮⋮そうかもね。でもそれはイーファも同じだと思うよ﹂
﹁え?﹂
﹁ほら、ぼくがグライ兄にいじわるされてた頃、イーファはよく隠
された服とか靴とか見つけてくれたじゃない。そのせいでグライ兄
に目を付けられてからも関係なくさ。あれでぼく、すごく助かった
んだよ﹂
これは割と本心だった。
今日のカーバンクルのこともそうだけど、この子には意外と芯が
ある。

54
﹁本当に強いってそういうことだと思うな﹂
﹁え、わ、わたしなんて全然! あんまりそういうのに気づかなか
っただけだよ。わたし、にぶいから。ぼんやりしてるってよく怒ら
れるし⋮⋮それに物を隠されてた時だって、わたしが気づくより先
にセイカくんが見つけちゃってることも多かったし⋮⋮﹂
ぼくせん
そりゃ自分で探す時は卜占してたからなぁ。面倒だったけど。
﹁わたしは生まれもよくないし、取り柄もないし⋮⋮全然、同じじ
ゃないよ。セイカくんみたいに特別じゃない﹂
﹁はは、生まれがよくないのはぼくもだなぁ。それに⋮⋮イーファ
も特別でしょ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ああ、やっと本題その一だ。
﹁君、普通の人には見えないものが見えてない?﹂
55
第九話 最強の陰陽師、奴隷少女に人魂を授ける
イーファは明らかに動揺して言った。
﹁え⋮⋮な、なんのこと?﹂
﹁実は、イーファが動物か何かの霊魂を目で追っているのは何度か
見たんだ﹂
﹁セイカくんにも見えてるの!?﹂
﹁まあ﹂
ぼくの場合生まれつきだが、修業でも霊の類なら見えるようにな
る。
しかし、それ以外は別だ。

56
﹁でも、それだけじゃないよね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくにも見えない何かを目で追っているところは、それ以上に見
てるんだ。イーファ、君は霊以外の何が見えてるの?﹂
﹁⋮⋮すごいね、セイカくん。そんなことまでわかっちゃうんだ。
死んだお母さんに、ぜったい誰にも知られちゃダメだ、って言われ
てたんだけどな﹂
そう言うとイーファは、宙空の何かに手を差し伸べる。
もちろん、そこには何も見えない。
﹁これはきっと、精霊なの﹂
﹁精霊⋮⋮﹂
﹁うん。おとぎ話に出てくる、あの﹂
﹁⋮⋮それは、どんな姿をしてるんだ?﹂
﹁丸くてぼんやりしてて、小さな羽が生えてるのが多いかな。でも
小さな動物の姿をしている子も時々いるよ。鳥とかトカゲとか、魚
とかモグラとか。たぶん力の強い子なんだと思う。そういう子が通
った場所は、温かかったり、風が吹いたりしたから。⋮⋮やっぱり、
信じられないよね?﹂
﹁いや⋮⋮信じるよ﹂
霊でも妖でもない何らかの存在は、前世でも感じたことがあった。
西洋の叡智を探す旅で出会ったケルトの呪術師、ドルイドは、宿
り木で作った特別な杖を持っていた。
彼が言うには、その杖には精霊が宿っているとのことだったが⋮
⋮力の流れは確かに感じるものの、ぼくにその存在を見ることはで

57
きなかった。
君ほどの者に見えぬのか? この藍色のワタリガラスが。
あの意外そうな言葉は嘘には聞こえなかった。
やっぱりこちらの世界にもいたか⋮⋮。
霊のような魂の残滓か、妖のような肉体に依らない魂か⋮⋮ある
いはまったく別の存在かもしれない。
﹁お母さんは賢明だったね。周りに知られても、たぶんいいことな
んてなかっただろうし﹂
﹁⋮⋮セイカくんでもなきゃ、信じてももらえないよ。きっと﹂
ああ、そうかも。
ぼくは訊ねる。
﹁ひょっとして、今日のカーバンクルやぼくの服を見つけられたの
も精霊のおかげだった?﹂
﹁う、うん。あの子たち、魔力に群がるの。セイカくんの持ち物だ
けは⋮⋮ちょっと特別だけど﹂
﹁特別って?﹂
﹁セイカくんの持ち物があると、精霊が変になるの。おかしいくら
い群がって、中には酔っ払ったみたいにくるくる回り出す子とかい
て⋮⋮。だから近くにあればすぐわかったよ﹂
﹁へぇ⋮⋮ちなみにぼく自身には?﹂
﹁それがね、セイカくんには全然。むしろ避けてる気がする。普通
魔力の強い人、たとえば旦那様にはいつも何匹かくっついてるんだ
けど⋮⋮だから、すごく不思議﹂
ふうん、なんでかな? まあいいや。

58
﹁精霊って触ったり⋮⋮は、できないよね。言うことは聞く?﹂
﹁ううん。人間とは無関係に、自由に生きてるような子たちだから﹂
﹁本当に全然?﹂
﹁うん⋮⋮あ、そうだ。一回だけ﹂
イーファは思い出したように言う。
﹁一回だけ、お願いを聞いてくれたことがあったの。洗濯物を干し
てる時、鳥の姿の子たちが何匹も遊んでたんだけど⋮⋮そのとき、
風で旦那様のシャツが飛ばされそうになったから、やめてって怒鳴
ったらみんな逃げちゃって。すぐ戻ってきたんだけど、その後はど
の子もずっと大人しかったんだ。うん⋮⋮それだけ。大したことじ
ゃなくてごめんね﹂
﹁そんなことないよ﹂
言うことを聞いてくれる。それは大きな要素だ。
これはもしかするかも。
﹁イーファ。突然だけど、魔法が使えるようになりたくない?﹂
﹁えっ! そ、それは⋮⋮使えたらうれしいけど、でも無理だよ﹂
イーファは力なく笑う。
﹁わたしには全然精霊が寄ってこないもん。たぶん魔力がないか、
少ないんだと思う﹂
﹁いやあ、魔力は要らないんだ﹂
ぼくは後ろ手に持ったヒトガタを媒介に、扉を開く。

59
﹁魔法はこいつらに使わせればいいから﹂
ひとだま
︽召命︱︱︱︱人魂︾
位相から引き出した火の玉がいくつも現れ、橙色の炎を揺らしな
がらぼくの背後に浮かんだ。
⋮⋮というかあっついなこいつら。ちょっと離れよう。
﹁え、え、なにこれモンスター!? セイカくんどうしたのこれ!
?﹂
﹁えっと⋮⋮拾った﹂
﹁拾った!?﹂
一応嘘じゃない。
前世で墓場に浮かんでたのを回収した。
地味に火事の原因になったりして危険だからな。
不可視の式神で押してやると、人魂はなされるがままイーファの
方へ漂っていく。
﹁霊魂に近いモンスター、かな。人間を襲うようなやつじゃないか
ら安心していいよ﹂
﹁うん、なんか熱いけど⋮⋮﹂
﹁じゃあ火を消してみようか﹂
﹁え?﹂
﹁お願いしてみてよ。風の精霊にしたみたいに﹂
﹁うん⋮⋮わかった。やってみる﹂
イーファは人魂を眺めた後、何かを念じるようにぎゅっと目をつ
ぶる。

60
そのまま、半刻︵※十五分︶ほど過ぎた。
特に何も起きない。
﹁セイカくん。火、消えた?﹂
﹁消えてない﹂
﹁えー! こんなに頼んでるのに⋮⋮﹂
イーファががっくりと肩を落とす。
﹁声に出してみたらどうかな。霊にはあんまり関係ないけど、気持
ちが入るから﹂
﹁わかった⋮⋮消えてください。お願いします﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうかお消えになってください。本当にお願いします﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁その、本当に⋮⋮お願いですから⋮⋮﹂
消えない。
﹁⋮⋮もうっ! 消えてっ!!﹂
消えた。
まるで水でもかけたように、すべての炎が見えなくなった。周り
の温度がすっと下がる。
﹁えっ、あ、い、いなくなっちゃった!?﹂
﹁いるよ。ほら﹂
イーファが振り仰ぐと、宙空からぽつぽつと小さな火がちらつき

61
出す。
﹁⋮⋮出てこなくていいよ﹂
イーファが睨んでそう言うと、火はぎゅっと小さくなる。
おお。
﹁いいね。もう少しやってみようか﹂
そこから二刻ほど。
何度も火の玉を出したり消したりしているうち、イーファは声に
出さずとも人魂を操れるようになっていた。
﹁こ、こんな感じ?﹂
﹁上達が早いな。これならすぐに炎の向きや強さも操れるようにな
るよ。きっとね﹂
ぼくは内心満足していた。
前世では、化け狐の類がよく人魂を操っていた。
あやかし
どんな妖使いでも、意思のほとんど見られない人魂は普通操れな
い。しかしぼくは、化け狐にできるんだから人間にもできるだろう
と、ずっと研究を重ねていたのだ。
結局、自分も弟子もどうやったってうまくいかず、半ばあきらめ
かけていたのだが⋮⋮まさか異世界でこんな才能のある子を見つけ
られるなんて思わなかった。
同業者に変人扱いされながらも、コツコツ人魂を集めていた甲斐
があったよ。

62
﹁いずれは化け狐の炎術⋮⋮じゃなかった、火属性の魔法と同じよ
うなことができるはずだよ﹂
﹁ほんと!?﹂
﹁それだけじゃない。イーファの見えてる精霊にだって、お願いを
聞いてもらえるようになるかもね。おとぎ話の王女様みたいに﹂
前世のドルイドができてたんだ。そっちも不可能じゃない。
﹁すごい⋮⋮セイカくんはなんでも知ってるんだね﹂
﹁なんでもは知らないけど、けっこう勉強がんばってるからね﹂
﹁わたしもこれ、がんばってみる! なんの役にも立たない特技だ
と思ってたけど、少しは自信、持てそうだから! ありがとう、セ
イカくん﹂
うんうん。がんばれがんばれ。
ぼくも運がいい。
転生して早々に、こんな才能を見つけられたんだから。
まあこの子では少し力不足だろうけど⋮⋮仲間はいた方がいいか
らね。
﹁そうだ、イーファはここを出て行きたいって思うことはある?﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
﹁いや、脱走とかじゃなくてさ。奴隷は解放されても、その家の使
用人として働いたりするだろ? イーファのお父さんもそんな感じ
だし。奴隷の身分でとはいえ、ずっと住んでいた場所を離れるのは
やっぱり大変なんだろうけど、イーファはどう思ってるのかなって﹂
﹁わたしは、出て行きたいな﹂

63
イーファは、きっぱりとそう言い切った。
﹁ここが嫌いなわけじゃなくて、いろんなところに行ってみたいの。
いろんなことを知りたいし、いろんなものを見てみたい。この国っ
てすごく広いんでしょ? だから、ずっとここにいるのはもったい
ない気がするんだ。いつか自由になれたら、きっと⋮⋮﹂
﹁ふうん、そっか﹂
イーファの目は、どこか遠くを見ているようだった。
やっぱり、この子大人しい割りに活力があるな。
かつてのぼくと似て⋮⋮ないか。
ぼくの衝動はこんなに前向きなものじゃなかった。
﹁あ、そうそう。イーファにはもう一つ用事があったんだ﹂
﹁なに?﹂
﹁これから何度か家を空けるけど、みんなには適当に誤魔化してお
いてくれないかな。体調が優れなくて部屋で寝てる、とか言って﹂
﹁う、うん。いいけど⋮⋮﹂
﹁あちこち一人で見て回りたいんだよ。でもグライ兄に邪魔された
くないから。お願いね﹂
そう言うと、イーファは納得したように頷いた。
こっちはこれでよし。
明日から下準備を始めよう。
そろそろ戻らなきゃと、屋敷へ慌てて帰っていくイーファに式神
を一枚貼り付ける。
水の相の術を付したヒトガタ。
もちろん、万一のための消火用だ。

64
人魂で屋敷が燃えたら大変だからね。
第九話 最強の陰陽師、奴隷少女に人魂を授ける︵後書き︶
※1刻の長さ
平安時代では1日を48分割する四八刻法が主流だったので、セイ
カは1刻=30分で数えてます。
65
第十話 最強の陰陽師、山の主を倒す
それから半年ほどが経って。
誕生日を迎え、ぼくは十二歳になった。
こちらの文化では数え年じゃなく、生まれた日を迎えて一つ年を
とる。前世で元日が祝いの日だったように、こちらでは誕生日を祝
う風習があった。
腫れ物扱いのぼくにはそういうのなかったけど。
ルフトやグライの誕生日は食事が豪華になって贈り物とかもらっ
てたんだけどなぁ。さすがに疎外感ある。

66
妾の子は辛いぜ。どうでもいいけど。
﹁⋮⋮﹂
と、朝食の席でそんなことを思う。
家族がみんな揃っているのに、かちゃかちゃと食器の音だけが鳴
る静かな食卓。
まるで昨日がぼくの誕生日だったことに触れないための沈黙みた
いで、ちょっと可笑しかった。
と言っても、特別話すようなこともないか。
最近変わったこともないし。
強いて言うなら、グライが魔法学園に行くんだと息巻いてること
くらいか。
奴ももう十五歳。そろそろ自分の行く末を決める年だ。ルフトと
違って家を継げないグライは、来春の試験を受けて帝立魔法学園の
高等部に編入し、魔法学の研究者としての道を進むつもりらしい。
数年前からずっと言ってた。
ただ、息巻いているだけで特別勉強したり、魔法の練習をしたり
といったことはない。
高等部の試験の内容は知らないけど、それでいいのかグライよ。
そんな黙々とパンに齧り付いている場合なのか?
﹁今日は街の参事会に顔を出す。日暮れには戻るから後を頼むぞ﹂
﹁ええ、気をつけて﹂

67
父ブレーズがそう告げると、育ての母が静かに答える。
それが合図だったかのように、程なくして朝食の席はお開きとな
った。
なるほど。
そう言えば今日は家庭教師もなかった。
さて、どうするかな。
****
屋敷の庭を、別棟の離れへと歩いていく。
イーファに用があり、どこにいるのかメイドに聞いたところ、今
は客人用の離れを掃除しているとのことだったのだ。
人魂の様子を訊くと共に、ちょっと注意しておきたいことがあっ
た。
﹁おいセイカ! 待てよ﹂
離れの近くまで来たとき、急にそんな風に呼び止められる。
振り返ると二人分の人影。
﹁グライ兄。ルフト兄も。どうしたの?﹂
﹁セイカ! 今日からおまえに剣を教えてやる。感謝しろよ!﹂
は? なんだいきなり。
よく見ると、二人とも練習用の木剣を手にしている。

68
首を傾げるぼくに、グライがやかましい声でがなりちらす。
﹁おまえもう十二だろ。家を出た後のことは考えてるのか?﹂
﹁うーん⋮⋮別に﹂
﹁いつまでぼんやりしてるつもりだ? おまえは家を継げないんだ
ぞ、わかってるのか! 言っておくが、格式あるランプローグ家が
役にも立たない魔力なしの、しかも妾の子をいつまでも屋敷に置い
ておくなんてあり得ないからな!﹂
お前も家継げるわけじゃないのによくそこまで家長面できるな。
﹁しかもおまえの場合、おれのように魔法研究の道を歩むこともで
きない。となると、もはや軍にでも入る以外にない⋮⋮。そこでだ、
今日からおれたちがおまえを鍛えてやろうってわけだよ。ありがた
く思えよ﹂
﹁⋮⋮セイカも知ってる通り、僕たちは従士長のテオに剣を習って
るんだ。だから少しは教えられると思う。もちろん、セイカがよけ
ればだけど﹂
ルフトがそう引き取った。
ふうん、剣か。
どうせグライがぼくをボコボコにしたくて言いだしたんだろうけ
ど、ちょっと付き合ってやってもいい。
﹁いいよ。どこでやる?﹂
﹁ここでいい﹂
グライが一振りの木剣をぼくの足下に投げて寄越す。
﹁素振りなんてしてもおもしろくないだろ? 早速模擬戦といこう

69
ぜ﹂
﹁グライ、ちょっと⋮⋮﹂
﹁おれは春には家を出るんだ。それまでにたっぷり教えてやるよ﹂
舐めた仕草で構えるグライを尻目に、ぼくは木剣を拾う。
剣術なんて何十年ぶりだろう。
ぼくが習ってたのは太刀の流派で、かたやこちらは片手持ちの直
剣だけど、応用できるかな。
﹁うん、ぼくも素振りはもうやりたくないな。ルフト兄、審判やっ
てよ﹂
そう言って、ぼくも木剣を正眼に構える。
﹁⋮⋮グライ、手加減するんだぞ。それでは、はじめ﹂
とりあえず、待ちの姿勢をとることにした。
切っ先を相手の目に向けたまま、グライの出方をうかがう。
⋮⋮む、意外にも慎重だなこいつ。
それから数合打ち合うも、フェイントと牽制ばかりで本格的に攻
めてこない。
﹁グライ、どうしたんだ? いつものように攻めないのか?﹂
﹁う、うるさいっ。こいつ、隙が⋮⋮っ﹂
仕方ないな。
ならぼくの方から⋮⋮、

70
﹁ル、ルフト様っ、ルフト様︱︱︱︱ッ!!﹂
と、突然響いた声に、ぼくもグライも剣を下げる。
見ると、使用人の一人が息を切らし、ルフトの元へ駆けてくると
ころだった。
﹁どうした! 何があった﹂
﹁そ、それが、市街地の近くに大型のモンスターが出たと﹂
ルフトが表情を変える。
﹁モンスター!? それで、どうしたんだ! 被害は?﹂
﹁ひ、被害は幸いにも、居合わせた旦那様が火の魔法で撃退された
ために、大事にならずに済んだと﹂
﹁そうか。それなら⋮⋮﹂
﹁し、しかし、モンスターは再び森へ逃げ込んだとのこと。もし山
沿いに逃げるようなら、こちらに向かう可能性もあるのだそうです
! ですから、今日明日は決して屋敷から出ないようにと旦那様か
ら言づてが﹂
そのとき。
巨大な気配を感知し、ぼくは剣を捨てて式に意識を向ける。
﹁来るよ、ルフト兄﹂
﹁セイカ? 何を⋮⋮?﹂
大きな物体が大地を蹴る音。
そして。

71
突如現れた巨大な影が、轟音と共に近くにあった離れの壁へと激
突した。
﹁なっ、何だ!?﹂
離れに埋まる赤黒い影。
その粘液に覆われた巨体がゆっくりと頭を起こす。
それは、とてつもない大きさのサンショウウオだった。
﹁エ、エルダーニュート!? しかも、なんだこの大きさは!?﹂
体長は三丈︵※約九メートル︶にも及ぼうか。
そののっぺりとした頭などは見上げるほどの高さにあった。
まるで鯨だ。山の主かな?
﹁う、うわああああああああっ!!﹂
﹁っ! 逃げろ、屋敷に逃げ込むんだ!!﹂
情けない悲鳴を上げて真っ先に駆けだしたグライ。その後を、半
泣きの使用人とルフトが続いていく。
まあそうなるよね。
﹁セイカ! お前も早くっ﹂
背中にかけられるルフトの言葉を聞き流す。
ぼくはまだ引けない。
﹁げっ⋮⋮﹂

72
そのとき、ギョッとするような光景が目に入った。
離れの瓦礫の傍に、数人のメイドと、イーファの姿があったのだ。
腰を抜かしたように動けないでいるメイドの一人を、イーファが
懸命に引っ張っている。
そのちょこまかとした動きが本能に触れたのか。エルダーニュー
トの頭がイーファへと向いた。
真っ黒な眼球が、獲物を見定めるようにぐりぐりと動く。
まずい、これは⋮⋮。
突如、顎が大きく開けられる。
それがイーファへと襲いかかる瞬間︱︱︱︱、
橙色の炎の壁が、イーファを守るように立ちはだかった。
﹁グゥ︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱ッ!!﹂
潰されたカエルのような声を上げ、炎に触れたエルダーニュート
がのたうち回る。
なんだ今の。人魂がイーファを守った⋮⋮?
いや。あの自然現象みたいな妖にそんな意思があるとは思えない。
となると⋮⋮あれはイーファ自身がやったことか。
﹁⋮⋮いいね﹂
ぼくは小さく笑い、組み上げていた即死級の呪詛を崩す。
こっちを使わずに済んでよかった。危うく台無しになるところだ

73
った。
イーファとメイド達はもう逃げたようだし、大丈夫だろう。
巨大サンショウウオへ、ぼくはゆっくりと近づく。
パニックから回復した奴は、順当にぼくを次の獲物に選んだよう
だった。
迫り来る赤黒い巨体。
ぼくはそいつに杖を向ける。
こいつはやっぱり炎が苦手みたいだ。
それなら火の魔法で倒して見せた方がいいだろうな。
エルダーニュートは水属性。五行において水と火は相剋の関係に
あるが、同時に強い火は水の相剋を受け付けない逆相剋の関係でも
ある。
そしてサンショウウオは裸虫。裸虫は土行。土を締め付けるは木
の根、すなわち木行。
という旧来の五行思想とは無関係に組んだ術だが、図らずも沿っ
たものになってしまった。
まあ。
効くならなんでもいい。
︽木火土の相︱︱︱︱毒鬼火の術︾
ぼくの放った青い火球が、エルダーニュートの下顎に弾けた。
断末魔の唸り声をあげながら、またもや巨体がのたうつ。
だが、今度はそれも長くは続かなかった。

74
エルダーニュートは、次第にその動きを弱々しくしていき、やが
て腹を上に向けて痙攣し始める。
そして、ついには動かなくなってしまった。
﹁調伏完了、と﹂
そんなに強い炎ではなかったものの、エルダーニュートは完全に
息絶えていた。
それもそのはず。
ぼくが鬼火に混ぜていたのは毒だったからだ。
東ローマ帝国領で栽培されていた除虫菊は、虫やカエル、蛇など
に強く効く一方、人間には無害という変わった毒を持っていた。
その成分を木気として呼び出したのが今の術だ。燐の炎で気化し、
皮膚の粘膜から吸収された除虫菊の毒は、サンショウウオにはさぞ
よく効いたことだろう。ぼくも多少吸い込んだだろうがなんともな
い。
ちなみに術として使うのは初めてだった。
よかった。うまくいって。
﹁セイカが⋮⋮モンスターを倒した⋮⋮?﹂
ルフトの声。呆気にとられた顔をしている。
あ、まだ逃げてなかったんだ。
﹁今のは、セイカ様が⋮⋮?﹂
﹁あ、あれほどのモンスターを、一撃で⋮⋮﹂
﹁セイカ様が⋮⋮セイカ様がエルダーニュートを倒されたぞ!!﹂

75
屋敷のそこかしこから、歓声と拍手が起こる。
どうやら、みんな騒ぎを遠巻きに見ていたらしい。
いいね。望んだ展開だ。
そう言えば今生でここまでの称賛を受けるのは初めてだったな、
とぼくは気づく。
なんだかむずがゆい。
前世でも、こういうのはついぞ慣れなかったっけ。
第十話 最強の陰陽師、山の主を倒す︵後書き︶
※毒鬼火の術
リンの炎に除虫菊の毒であるピレスロイドを乗せる術。これは哺乳
類や鳥類に対しては毒性が低いが、昆虫や両生類、爬虫類には強力
に作用する。蚊取り線香の有効成分でもある。除虫菊︵シロバナム
シヨケギク︶の原産はセルビアで、主人公が訪れた十一世紀当時は
東ローマ帝国領だった。 76
第十一話 最強の陰陽師、学園に入りたがる
ぼくの首功は、すぐに屋敷の全員の知るところとなった。
その結果。
夕食が豪華になりました。
﹁うわぁ⋮⋮﹂
すごい、子豚が丸々一頭あるよ。
今日の今日でよくこんなの用意できたな。
﹁よかったね! これ、セイカくんのお祝いだよ﹂

77
配膳を手伝っていたイーファから笑顔で耳打ちされる。
そう言われるとこそばゆい。
でもどうせなら昨日用意してほしかったな。
いや誕生日なんて気にしてないけど。
﹁今日は、私の息子がすばらしい武勲をあげたようだ﹂
食事が始まると、父がおもむろにそう切り出した。
﹁あれほどのエルダーニュートは私も初めて見た。おそらくは山奥
で年経た個体だろう。あれを倒すのは、熟練の冒険者でも容易では
なかっただろうな﹂
﹁セイカは勇敢でしたよ、父上。離れのそばにいた侍女を助けるた
めに向かっていったのです﹂
おお、ルフトが褒めてくれたよ。この兄はまともではあるけどぼ
くに関わらないようにしてたふしがあったから、ちょっと感動だ。
って、ちょっと待て、グライがすっごい睨んできてるんだが⋮⋮。
そんなに気にくわないのかよ、ぼくの手柄が。
あと母親も目を合わせようとしない。まあこっちは仕方ないか。
﹁ありがとうございます。父上、兄上﹂
﹁今夜の食材は商会からの祝いの品だ。後日参事会からは感謝状が、
冒険者ギルドからは討伐証明書と勲章が授与されることになってい
る﹂
﹁そうなんですか。大変な名誉です﹂
﹁それで、セイカ。お前はあのモンスターをどのように倒した?

78
父に聞かせてくれないか﹂
﹁はい。炎が苦手なようでしたので、火の魔法を使いました﹂
﹁⋮⋮﹂
あれ、なんだ?
もしかして怪しまれてる?
﹁えっと、あとは無我夢中でしたので、あまり難しいことを考えた
りは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮その通り、エルダーニュートは水属性のモンスターだが、実
際には火に弱い﹂
少し間を置いて、父は何事もなかったようにそう返した。
﹁よく知っていたな﹂
﹁書物にて読んだことがありました。それと、父上が一度火の魔法
で撃退したと聞いていましたから﹂
﹁⋮⋮いい判断だ。それによく勉強している。だがセイカ、これで
慢心はするな。次に同じモンスターと対峙して同じように倒せると
は限らない。戦う必要がない時は、まず逃げることを第一に考えな
さい﹂
﹁はい父上。ぼくも運がよかったと思います﹂
その通り。ぼくでも千回戦えば一回くらいは⋮⋮いやあの程度の
相手なら負けようがないか。
﹁しかし、立派な行いだったのは事実だ。私からも褒美を出さねば
なるまい。セイカ、何か望む物はあるか?﹂
﹁それでしたら父上。お願いがあります﹂

79
ぼくは本題に入る。
﹁ぼくには魔力がありません。しかしそれでも、ぼくは魔法を諦め
きれずずっと一人で修練を重ねてきました。その甲斐あってか、今
ではわずかばかりですが魔法を使うことができています﹂
杖を取りだし、青白い炎をその先に点してみせる。
﹁魔法を使える。これまではその事実だけで満足していましたが、
今回の体験を経て、ぼくの中に別の欲が生まれました。ぼくの魔法
を、もっと誰かのために役立てたいという欲です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どのような形か、それはまだ決められていません。ですがぼくも、
魔法学の大家、栄えあるランプローグ家の一子として、自分の能力
で帝国に貢献したいのです。ですから、父上﹂
ぼくは一拍おいて言う。
﹁ぼくを、帝立ロドネア魔法学園に入学させてください﹂
﹁なッ!?﹂
驚くグライの声を無視し、ぼくは続ける。
﹁魔法学園は高名な魔術師を数多く輩出していると聞きました。ぼ
くもそこで自分の力を磨き、進む道を見極めたいのです。まだまだ
未熟の身なので、初等部から。できれば来春から通いたいのですが﹂
自分の中では渾身の演説だったが、父はしばらく黙ったままだっ
た。

80
静寂の食卓。
だけど、ぼくは心配していなかった。
あれだけの手柄を立てたんだ。多少思うところがあっても、この
程度は認めざるを得ないはず。
﹁⋮⋮わかった。いいだろう﹂
﹁ち、父上っ?﹂
﹁だが、伯爵家だからといって試験の免除などはないぞ。自力で合
格する、それが条件だ﹂
﹁はい父上。ありがとうございます。早速明日から試験勉強に励み
ます﹂
ついでに、ぼくは付け加える。
﹁それと、もう一つお願いがあるのですが﹂
﹁なんだ?﹂
﹁学園ヘ通うにあたり、そこにいるイーファを従者として付けてほ
しいのです﹂
﹁え、わ、わたし!?﹂
イーファが慌てているが、父は少し沈黙した後に、頷く。
﹁その程度なら構わない。領地から出す以上は、所有主をお前に移
しておいた方がいいだろう。餞別だと思いなさい﹂
﹁ありがとうございます。加えて⋮⋮イーファが学園に通うことも、
許していただけないでしょうか﹂
﹁何?﹂
父は、今度は眉を顰めた。

81
﹁それは無理だ﹂
﹁どうしてです?﹂
﹁その娘の父親にも母親にも、魔法の才はなかった。平民の血が一
代で大きな魔力を宿すことはまれだ。学園に通う意味はない。諦め
なさい﹂
﹁それなら問題ありません。イーファは、すでに魔法の力を現して
います。今お見せしますよ﹂
ぼくは席を立ち、食堂の大きな窓を開けた。
それから、イーファへ歩み寄る。
﹁セ、セイカくん、わたし⋮⋮﹂
﹁こっち﹂
そして、戸惑うイーファを窓の前へ連れて行く。
﹁イーファ。もし君がぼくと一緒に来たいと思うなら︱︱︱︱窓の
フレイム
外へ、全力で人魂の炎を放つといい。そのときにはそうだな、炎豪
ノート
鉾とでも唱えておけばいいよ﹂
小声でささやき、杖を手渡した。
イーファはしばらくぼくを見つめていたが︱︱︱︱やがて窓の外
へ目を向ける。
静かに、杖で空を指す。
それは魔法の杖というより。
部隊長の持つ指揮杖のようで︱︱︱︱。

82
﹁︱︱︱︱ふれいむのーと﹂
ごおっ、と。
橙色の炎の柱が、日の暮れ始めた空を刺した。
それはどこまでも伸び、広がり、外の景色を赤々と照らす。
﹁はぁっ!?﹂
フレイムノート
﹁炎豪鉾って、火の中位魔法だけど⋮⋮でも、なんて威力だ⋮⋮﹂
グライとルフトが席を立ち、愕然としている。
懐かしい炎だ。
化け狐の炎術は山を焼くほどだが、今のは四尾クラスはあっただ
ろう。
上達が早い。やはりイーファには、霊の類を使役する才能がある
な。
﹁いかがです、父上? イーファは火の魔法にて侍女をエルダーニ
ュートから守りました。彼女は幸運にも魔法の才に恵まれて生まれ
たのです。ぼくは、この才を埋もれさせるのは惜しく思います﹂
父は驚いたようにしばらく沈黙していたが、やがてふっと目を伏
せて言う。
﹁⋮⋮いいだろう、好きにしなさい。ただし、試験に合格したらと
いう条件は変わらない。いいな?﹂
﹁もちろんです。感謝します、父上﹂
ぼくはイーファに向き直る。

83
﹁ごめん、勝手に進めちゃって。イーファは前、領地を出ていろん
なところに行ってみたいって言ってたから⋮⋮よかったら、ついて
きてくれないかな﹂
﹁う、うん。セイカくん、わたしっ⋮⋮﹂
﹁まだだよ。試験に合格しないといけないからね。これから春まで
勉強漬けだから﹂
﹁うん、がんばるよ! あ⋮⋮従者になるなら、言葉遣いもちゃん
としなきゃ、ですね。セ、セイカ様﹂
﹁いいよ、これまで通りで﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁なんか変な感じだし、春からは同級生になるんだからね﹂
あとユキと被るからやめてほしい。
﹁そ、そう? わかっ⋮⋮﹂
﹁︱︱︱︱納得できませんッ!!﹂
突然、グライがテーブルを叩き、食堂に大声を響き渡らせた。
﹁父上、何を考えているのですかっ!? あの帝立魔法学園に魔力
なしの落ちこぼればかりか、ど、奴隷まで入学させるだなんてっ!﹂
イーファが怯えたように縮こまる。
﹁それに父上! ランプローグ家では代々、兄弟に同じ道を歩ませ
ることはなかったはず! 魔法学園には来春、おれが編入するんだ
! 伝統を破ってまでこいつを入学させる価値なんてない! 軍に
でもやっておけばいいんだっ! そうでしょう、父上!﹂
﹁⋮⋮その通りだ、グライ﹂

84
ブレーズは静かに答える。
﹁ランプローグ家では、その魔法の才で広く帝国に貢献するため、
兄弟に同じ道を歩ませることはない。そしてその伝統を、私の代で
破るつもりはない﹂
﹁でしたら!﹂
﹁だからグライ︱︱︱︱お前が帝国軍に入りなさい﹂
﹁は⋮⋮?﹂
グライは目を見開き、今度こそ絶句した。
何を言われたかわかっているかも怪しい。
﹁お前は体力も剣の才もある。きっと向いているだろう。従兄弟叔
父のペトルスを覚えているな? 今は指揮官として東方の国境沿い
に駐屯しているはずだ。入軍後にはそちらで面倒を見てもらえるよ
う連絡しておこう﹂
﹁な⋮⋮なぜですか﹂
グライはあえぐように言葉を吐き出す。
﹁なぜおれがっ! お、おれは次男だし、こいつと違って魔力もあ
る! なのにっ⋮⋮﹂
﹁では訊くが、グライ。お前はこの数年間何をしていた?﹂
再び言葉を失うグライ。
うん、それ言われたらそうなるよね。
﹁本来ならば学園の初等部で学んでいたはずの期間、新たな発見を
したか? 何かを試みたか? 自らの力を高めようと努力をしたの
か? グライ、私は剣にかまけ、街で品のない連中と遊び回るお前

85
の姿しか見たことはなかったがな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁研究者に一番必要な資質がわかるか? 意欲だ。お前からはそれ
が感じられない﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁一方、セイカは努力し、結果を見せた。それがすべてだ﹂
ド正論を聞かされたグライが、目を剥いて押し黙った。
顔色はもはや紫っぽくなっている。
﹁⋮⋮決闘だ﹂
﹁ん?﹂
グライが、急にぼくを指さして叫ぶ。
﹁セイカッ!! おれはお前に決闘を申し込む! 賭けるものは学
園ヘの進路だ!!﹂
﹁グライ、やめろって⋮⋮﹂
ルフトが止めるも、グライは聞きもしない。
﹁お前が負けたら今すぐ家から出て行けッ! わかったな!!﹂
﹁えーっと⋮⋮﹂
いや、学費を出すのは親父殿なんだが?
そう思って父に目をやると、ブレーズは苦しげな顔で口を開く。
﹁セイカ、お前はそれでいいか?﹂
﹁ブレーズっ!﹂

86
ずっと黙っていた母が、急に声を上げた。
思わずそちらを見やると、さっと目を逸らされる。
ん⋮⋮? なんだ?
ぼくは困惑しながらも父に答える。
﹁ぼくは構いませんが﹂
﹁グライ、お前もそれで納得するんだな﹂
﹁ええ、父上。おれの方が魔法の実力が上だってことを証明して見
せます。その暁には、研究者への道を認めてください﹂
﹁⋮⋮いいだろう﹂
﹁グライ! 馬鹿なことはやめなさい。兄弟で決闘だなんてっ⋮⋮﹂
﹁お前は黙っていなさい﹂
﹁ですがっ!﹂
﹁そうです母上! これはおれとセイカの問題なんだ。おれにだっ
て譲れないものがあります﹂
﹁では決まりだ﹂
父が席を立つ。
﹁日時は明日の正午。ルールは帝国の正式な作法に準ずるが、真剣
の使用と中位以上の攻撃魔法は禁止だ。立ち会いは私がしよう。今
日は先に休む﹂
そう言って、父が食堂を出て行く。
いつの間にか、窓の外は夕暮れ時となっていた。
87
第十二話 最強の陰陽師、贈り物をもらう
﹁面倒なことになりましたね、セイカさま﹂
夜の自室。
窓から差し込む月明かりの下、ヒトガタを切り抜いているぼくに、
髪の間から顔を出した細長い狐姿のユキがそう言った。
﹁ちょっとね﹂
﹁やっぱり⋮⋮始末されるのでございますか?﹂
﹁︱︱︱︱セイカ、少しいいかい?﹂

88
ノックの音と共に、長兄の声。
ユキがさっと髪の中に隠れる。ぼくも、紙とハサミを慌ててベッ
ドの下に突っ込んだ。
﹁うん、なに? ルフト兄﹂
﹁入るよ⋮⋮やっぱり、まだ起きてたんだね﹂
ルフトはそう言うと、灯りを天井に掛け、ベッドに座るぼくの隣
へ腰を下ろす。
しばし、沈黙の時間が流れた。
なんの用なんだ?
﹁あの、ルフト兄⋮⋮?﹂
﹁セイカ。少し遅れたけど、誕生日おめでとう﹂
﹁えっ﹂
﹁これ、プレゼント﹂
と、小さな木箱を手渡される。
﹁開けてみてよ﹂
上等そうな革紐をとって蓋を開ける。
中に入っていたのは、白く透明なペンとインク壺だった。
﹁これ⋮⋮ガラス?﹂
﹁うん。ガラスのペンだよ。高位の土属性魔法を修めた職人が作る
らしいんだ。帝都で流行ってて、父上についていった時に買ってき
たんだよ﹂

89
﹁どうやって使うの?﹂
﹁羽ペンと一緒さ。インク壺に浸して書くだけ。でも、羽ペンと違
ってずっと使えるんだよ﹂
﹁へえ⋮⋮﹂
﹁セイカは勉強熱心だから、羽ペンをすぐダメにしちゃうだろ?
だからちょうどいいと思ったんだけど⋮⋮タイミングがよかった。
学園に行ったら、ますます書き物の機会が増えるだろうからね。あ
と、たまには家に手紙を書くんだぞ﹂
﹁う⋮⋮うん。ありがとう、ルフト兄﹂
それ以上言葉が思い浮かばず、ぼくは沈黙する。
しばし後に、ルフトが口を開く。
﹁ごめんな、セイカ﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁ずっとよそよそしくてさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんというか⋮⋮どう接していいかわからなかったんだよな﹂
﹁⋮⋮妾の子だから?﹂
﹁というより、周りがね。父上も母上も、メイド達も昔からあんな
感じだったから、自分がどうするべきなのかわからなかったんだ。
ほら、僕って主体性がないだろ?﹂
﹁そんなことないと思うけど﹂
﹁そう振る舞ってるだけさ。領主の長男らしくあるためにね。本当
は臆病なんだよ。昔はセイカのことも怖がってたくらいだ﹂
﹁え⋮⋮そうだった? なんで?﹂
﹁んー⋮⋮そう言えばなんでかな? そんな記憶があるんだけど、
忘れちゃったよ。子供の頃のことだからね﹂
ルフトは笑う。

90
﹁でも、今ではセイカが立派になってうれしいよ。兄として誇りに
思う﹂
﹁ん⋮⋮﹂
ぼくは口をつぐんだ。
この家の人間たちを家族と思ったことはない。
ぼくの家族は、前世で幼い頃に亡くした姉一人だけだ。
だから妾の子で腫れ物扱いという立場は、ある意味都合がいいと
思っていた。
それだけに、ちょっと意外だった。
ぼくとの関係性を悩んでいた人間がいたなんて。
﹁手加減してやってくれよ、セイカ﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁明日のことだよ。魔力を持ってなかったはずなのに、モンスター
すら倒して見せたんだ。お前がグライに負けるはずがない。だから、
ほどほどにな。それであいつも懲りるだろうから﹂
﹁⋮⋮うん、わかった﹂
﹁まだ先だけど、学園に行ってもしっかりやれよ﹂
﹁うん。ルフト兄も、がんばって立派な領主になってね﹂
﹁立派な領主か。自信ないな﹂
﹁じゃあ、ぼくかグライ兄が代わりに継ごうか?﹂
﹁うーん、それも不安だな。やっぱり僕が頑張ることにするよ︱︱
︱︱それじゃあ、おやすみ。セイカ﹂
ルフトが部屋を出て行くと、ユキが再び頭から顔を覗かせた。

91
﹁贈り物ですか、セイカさま? ふん、多少は気の利く人間のよう
ですね。どうせ大した価値はないのでしょうけど﹂
﹁こら、そういうこと言うな。それに︱︱︱︱これは結構いいもの
だぞ﹂
手近なインク壺に浸し、ヒトガタに呪文を書いてみたが、なかな
か書き味がいい。
帝都で流行っているというのも納得だ。たぶん高かっただろうな。
﹁気に入られたのなら結構でございますが、毒針が仕込まれている
かもしれませんからお気を付けくださいね﹂
﹁大丈夫だよ﹂
﹁それは、どちらの意味で?﹂
﹁どちらの意味でも﹂
前世じゃないんだからそんな心配しなくても大丈夫だし。
仮に毒針が仕込まれていても大丈夫、という意味。
﹁それより、今はあっちが問題なんだよなぁ﹂
﹁あっち?﹂
﹁ユキ、またちょっと隠れてなさい﹂
﹁え、セイカさま?﹂
ユキを髪の間に押し戻すと、ぼくは大きく頭を下げる。
次の瞬間。
窓から飛び込んできた風の刃が、ぼくの頭上を通り過ぎてドアを
派手に切りつけた。
木片が床にパラパラと降る。

92
﹁あーあ。直せないなこれ⋮⋮﹂
哀れなドアから窓の外に視線を移すと、人影が一つ。
二つの月明かりに照らされ、憤怒の表情でぼくに杖を突きつける
グライの姿があった。
行かなきゃダメだよなぁ、この流れだと。
どうやら、決闘は半日ほど早まるようだ。
第十三話 最強の陰陽師、決闘する
月光に照らされた魔法の演習場。
屋敷から距離をおいたその場所が、深夜の決闘の舞台だった。
﹁気が早すぎじゃない? グライ兄﹂
杖を強く握りしめ、こちらを睨みながら立つグライに、ぼくは言
う。
﹁明日まで待てなかったの? 父上が立ち会いするって言ってたの
に﹂
﹁︱︱︱︱黙れ﹂

93
グライが表情を歪める。
﹁黙れ黙れッ! お前いつから、いつから企んでいやがった!?﹂
﹁なんのこと? 魔法学園なら、七歳の頃からずっと行きたいと思
ってたよ。グライ兄が楽しそうに教えてくれたんじゃないか。覚え
てない?﹂
﹁お前⋮⋮ッ! いい気になるなよ⋮⋮運が良かっただけのくせに
! たまたまモンスターが現れて、たまたま倒せてなかったら、軍
にぶち込まれるのはお前だったんだッ!!﹂
﹁たまたま、ね﹂
ぼくは苦笑する。
﹁じゃあ兄さんが倒せばよかったのに。悲鳴あげて逃げるんじゃな
くてさ﹂
﹁父上は屋敷から出るなと指示していたんだ! それに従っただけ
だろうが!﹂
﹁なら父上に直接そう言ったら? というかそもそも、兄さんは前
々からの素行不良で見放されたわけなんだけど﹂
﹁素行なんて関係ない! 魔術師としての実力さえあればっ﹂
﹁だから、それを明日示すって言うんでしょ?﹂
﹁父上の条件じゃ生ぬるい⋮⋮っ﹂
グライが杖を握りしめる。
﹁中位以上の攻撃魔法が禁止? それじゃ実力なんて出せない。条
件はなしだ、セイカ。どちらかが降参するか、戦闘不能で決着。負
けたら明日、父上に勝負から降りると言え。そして家から出て行け

94
ッ﹂
﹁中位以上の魔法って危ないよ? 明日⋮⋮喋れる状態でなんてい
られるかな﹂
﹁それになんの不都合がある﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おれはな、セイカ。お前が昔から気にくわなかった﹂
﹁知ってるよ、兄さん。なんでか知らないけど、ずっと目の敵にし
てたよね﹂
そういえば⋮⋮どうしてなんだろう?
妾の子だからかと思ってたけど、本当にそれだけでこんなになる
か?
⋮⋮まあいいか。どうでも。
﹁眠いから早くしよう。じゃあいくよ。はい、始め︱︱︱︱﹂
﹁くたばれッ!﹂
グライの杖に、力が渦巻く。
フレイムノート
﹁︱︱︱︱炎豪鉾!!﹂
杖から太い紅蓮の帯がほとばしり。
夜を照らす炎は、勢いのままにぼくを飲み込んだ。
﹁どうだッ! 奴隷の使う魔法ごとき、おれならもっと簡単に扱え
るんだよ!!﹂
﹁︱︱︱︱そう言うなら、もう少し威力出したら?﹂
炎が晴れた空間。
無傷のまま同じ場所に立つぼくを見て、グライが愕然と目を見開

95
く。
ウインドランス
﹁っ⋮⋮風錐槍ッ!!﹂
風の槍が放たれる。
だがそれは、ぼくへは届かなかった。
風の槍は何もない空間にぶつかると、光の波紋を残して消滅して
いく。
ぼくにはそよ風すらも感じない。
﹁け、結界!? 光属性の魔法だと!?﹂
﹁へぇ、結界って光属性なんだ﹂
ぼんやりと呟く。
ヒトガタ八枚を使った簡単な結界だが、グライに破られそうな気
配はない。
ぼくは、新たなヒトガタを手に取る。
︱︱︱︱グライの髪の毛が、蝋で押し固められたヒトガタを。
ウインドランス ウインドランス
﹁風錐槍ッ! 風錐槍ッ!﹂
﹁うるさいなぁ。もう魔法禁止ね﹂
グライのヒトガタに呪力で印を描く。
グライがまた、術名の発声と共に杖を振り下ろした。
が、今度は何も起きない。
ウインドランス フレイムノート
﹁⋮⋮? 風錐槍ッ! クソッ、炎豪鉾!! なんだ、魔法がっ⋮

96
⋮? お前、何しやがったッ!﹂
﹁あと動くのも禁止﹂
ヒトガタを呪力を込めた手で叩く。
すると、ぼくに詰め寄ろうとしていたグライが、急に動きを止め
た。
﹁な、う、動け⋮⋮こ、これは、闇属性の⋮⋮?﹂
﹁闇属性なのこれ?﹂
確かに闇っぽくはあるけれども。
こちらの光と闇属性って、陰陽道の陽と陰に対応しているわけじ
ゃ全然ないみたいだな。
﹁はぁ⋮⋮﹂
ぼくは溜息をつきながら、無造作にグライへと近づく。
そしておもむろに、ヒトガタの右足部分を握り潰した。
﹁があぁぁぁぁぁあッ!﹂
グライが悲鳴をあげて右膝をつき、地面に倒れ込む。
まともに手もつけなかったから顔が土まみれだ。
﹁ねえグライ兄。条件なしって言うならさ、グライ兄は剣を持って
くるべきだったんじゃないかな。剣術は多少得意なんでしょ? ま
あこうなったら関係ないけど﹂
と言いながら、左手部分を握り潰す。

97
グライはまたもや悲鳴を上げる。
﹁お、おお、お前っ⋮⋮なんだ、この、魔法⋮⋮こんなの、聞いた
こと⋮⋮﹂
﹁それだよ。おかしいと思わない?﹂
ぼくは地に伏すグライの周囲を歩きながら喋る。
﹁魔術はなんでもできるんだよ? なにせ、世界の理に割り込む技
術だからね。人を遠くから呪い殺せるし、求める物の在処や未来が
わかる。どんな傷や病だって治せるし、場合によっては死や、魂す
らも思いのままだ﹂
喋りながら、ぼくはヒトガタの左足、右手を握り潰していく。
﹁それなのに四属性魔法ときたら、火だの風だのって⋮⋮よくそん
などうでもいい使い方できるよ。もったいないとは思わないのかな。
ねえ聞いてる、グライ兄?﹂
見ると、グライは息も絶え絶えの様相だった。
さすがに四本目には悲鳴も出なかったな。
ちなみに今は痛みだけで無傷だが、このまま放っておくと数日か
けて手足が腐っていくことになる。
これが呪詛だ。
﹁どう、グライ兄。降参する?﹂
﹁降参、す⋮⋮許し⋮⋮﹂
﹁許すよ﹂
ヒトガタを一撫でする。

98
すると、握り潰した皺はすべて伸び、まるで新品のように元通り
になった。
ぼくは蝋で貼り付けていた髪の毛を剥がし、その辺に捨てる。
これで呪詛は完全に解けた。
﹁う、あ⋮⋮﹂
﹁まあ、もうしばらくは動けないか⋮⋮。でも約束は守ってもらう
よ。明日父上に勝負から降りると伝えて、さっさと家を出て軍に入
ること。これ以上うだうだ言わないでね。じゃ、そういうことで﹂
振り返りもせず、ぼくは演習場を後にする。
やれやれ、余計な手間がかかったな。
﹁ふん。あの程度でセイカさまに挑むなど、まったく身の程知らず
の人間ですね﹂
髪の間から、狐姿のユキが顔を覗かせる。
﹁でも、よろしかったのでございますか? セイカさまの力の一端
を見せてしまったのに、生かしておいても﹂
﹁ルフトと約束したからね﹂
ほどほどにするって。
兄上の予想通り、これで懲りるといいんだけど。
****

99
翌日。
グライは寝込んだまま起きてくることはなく、決闘はぼくの不戦
勝ということになった。
ちなみに熱を出したのはぼくのせいじゃない。
そういうわけでグライは順当に軍に入ることになったわけだが⋮
⋮ま、あんな目に遭った後ならどんな訓練もぬるく感じるだろう。
感謝してほしいもんだ。
第十四話 最強の陰陽師、後始末をする
無事不戦勝となった、翌日の早朝。
ぼくは、屋敷の裏に広がる山林の中にいた。
﹁はあ⋮⋮はあ⋮⋮﹂
獣道すらない山中はきつい。
今生の体なら尚更だ。
ただ幸いなことに、目的地ははっきりしていた。
﹁⋮⋮やっと着いた﹂

100
ぼくは息をついて顔を上げる。
目の前にいたのは︱︱︱︱森の中に横たわる、巨大な人間だった。
身の丈は五丈︵※約十五メートル︶にも及ぼうかという、筋骨隆
々の大男。
首からは巨大な数珠をさげ、装束と呼べるものは腰に穿いたボロ
ボロの山袴のみ。
そのような存在が、背をこちらに向け、山に横臥していた。
﹁おーいっ!﹂
大男に向け、声を張り上げる。
すると巨大な禿げ頭がぐるりと振り返った。
顔の中央にただ一つある眼球。
それがこちらを向き、ぼくを見据える。
巨人が体を起こす。
ぼくを捉える単眼が、大きく見開かれる。
﹁オオオォォォォォォオオオオオッ!!﹂
雄叫びだった。
驚いた鳥たちが次々と木から飛び立つ。
大男が上体を大きく乗り出す。
そしてぼくのすぐ近くに手をつき、巨大なひげ面をこちらへ寄せ
た。
その口が開く。

101
﹁オオオオオッ! お久シュうゥ! お久シュうごゼェますゥ、ハ
ルヨシ様ァ!!﹂
ぼくは無骨なひげ面を見上げ、微笑みかける。
﹁ほう、入道。お前もこの姿のぼくがわかるか﹂
﹁何を間違えマしょうかァ! その禍々シ呪力の紋様、ハルヨシ様
でなく誰ぞありマしょうやァ﹂
大男はボロボロと、巨大な単眼から涙をこぼす。
﹁あなウレしやァ、あなウレしやァ。オデはマた、ハルヨシ様ニ仕
えらるるノでごゼェますなァ⋮⋮﹂
﹁ふん、入道。調子に乗るんじゃないですよ。一番最初に呼んでも
らえたのはこのユキなんですからね⋮⋮入道! 聞いてるんですか、
入道っ!﹂
﹁むむっ? そこニおルは、管狐の娘ッ子! 懐かシ顔だベ、長か
ッタでなァ⋮⋮いがッダなァ、おめも呼ンデもらエたベか。いがッ
ダいがッダ﹂
﹁ふん、当然です。ユキが一番最初なんですからねっ!﹂
ぼくは妖たちのやり取りを聞きつつ、ほっと息を吐く。
この姿だ。侮られて暴れられるかもしれないと心配していたが⋮
⋮大丈夫そうだな。
﹁いきなり呼び出してすまなかったな、入道。ぼくがいなくてお前
も戸惑ったことだろう﹂
﹁構わねェでごゼェます、ハルヨシ様ァ。だけンども⋮⋮オデは一
体、何さスればいがッダのでごゼェましょう?﹂

102
入道は困った顔をする。
﹁出テきタ所は、都どころカ日本ですらネェ様子。ハルヨシ様の式
を追いカけ、アちらへフラフラ、コちらへフラフラしておりまシた
が、ここらで結界にテ進めなくナり申した。どしたラいいかワカら
んぐて、横ンなってタでごゼェますが⋮⋮これカら如何んスれば?﹂
﹁いや、もうお前の仕事は済んだ﹂
ぼくは言う。
﹁式を追い、山を歩き回ってくれるだけでよかったんだ︱︱︱︱適
当なモンスターを、住処から追いやって欲しかっただけだからね﹂
﹁もんすたぁ?﹂
﹁妖のようなものさ。お前にとっては、取るに足らないものばかり
だっただろうがな。いなかったか? ︱︱︱︱大きなサンショウウ
オみたいな奴とか﹂
﹁あああッ、おッたでごゼェます、それらし獣がァ。珍シと思うた
けンども、随分とまア臆病で、すぐ逃げられテ仕舞イ申したがァ⋮
⋮あのよなモンがご所望だッたので?﹂
﹁ああ。十分役に立ってくれたよ﹂
たまたまモンスターが現れて、たまたま倒せてなかったら⋮⋮と
か言っていたグライを思い出す。
笑える。
たまたまなわけないだろうが。
山に入り、式を飛ばしてモンスターを調べ、入道の姿を隠す結界
用の呪符を貼り、扉を設置した。

103
半年前からコツコツと準備してきたことだ。
すべては入試が迫ったこのタイミングで首功をあげ、ぼくの要望
を父に認めさせるために。
モンスターが街の方へ行ったりと、いくらかアクシデントはあっ
たものの、概ね思い通りにいってくれた。
ちなみにグライの髪を仕込んだ呪詛用のヒトガタだって、前々か
ら用意していた物を使っただけだ。
ルフトやブレーズ、それどころか使用人を含めた屋敷全員分のヒ
トガタを、ぼくは万一に備え拵えていた。もちろん、イーファのも
のも。
転生してから九年。
準備の時間はいくらでもあったからね。
﹁入道﹂
ぼくは一つ目の巨人に告げる。
﹁かの世界での最後の戦いで、ぼくは大きく力を失った。今生での
わらわ
肉体は未だ童のそれ。かつて無双を誇った陰陽師は見る影もない︱
︱︱︱だが、ぼくはこの異世界で、あの頃のぼくを超えよう。百万
の妖を従え、神すらも恐れたかつてのぼくを﹂
﹁へ⋮⋮へへぇッ!﹂
﹁今生での覇道に付き合え、入道。お前の力が必要だ﹂
﹁へへぇ︱︱︱︱ッ!!﹂
一つ目の巨人が平伏する。

104
﹁恐レ多き、恐レ多きィッ! あなウレしやァ。懐かシ、かの日々。
万の軍勢を蹴散らシ、強大な邪神をネじ伏セ、異国の英傑ヲ屠ッた
ハルヨシ様の道行き。アの日々が再び、やッてくルのでごゼェます
なァ。滾るでなァ、滾るでなァ﹂
﹁新たな景色を見せてやる。期待していろ﹂
ぼくは入道の背後に飛ばしたヒトガタの扉を開く。
光が漏れ、空間が歪み、それが巨人をも覆っていく。
﹁また呼ぶ︱︱︱︱それまでは再び、位相にて眠れ﹂
﹁へへぇッ、ハルヨシ様ァ。いつデもお呼び立テをォ⋮⋮﹂
空間の歪みへ吸い込まれていく入道。
その巨大な姿が完全に消え、扉用のヒトガタが手元に戻った時、
ぼくはようやく息をついた。
﹁ふう、やっと一段落だな﹂
近くの木に貼っていた、結界用の呪符を細かく破る。
落ちた紙片は下草に紛れ見えなくなる。関連付けていた他の呪符
も、すべて同じ末路を辿ったはずだ。
これで後始末はすべて終わった。
﹁それにしても、ずいぶん遠回りな方法をとりましたね、セイカさ
ま﹂
ユキが顔を出して言う。
﹁生ぬるい世界に、力のない人間ども。セイカさまならば、あらゆ
ることが望むがままだと思うのですが﹂

105
﹁忘れたか、ユキ。前世のぼくは、その力のない人間によって殺さ
れたことを﹂
﹁む、それは⋮⋮﹂
﹁ユキ、ぼくはね⋮⋮今生では、そっち側になりたいんだ。大多数
の、弱い人間。その一人にね﹂
入道には悪いが、ぼくは前世のような、暴力の覇道を行くつもり
はない。
目立たず。
上手に立ち回り。
そしていつの間にか、望む物を手にしている。
そんな生き方こそが、きっと賢い方法だと思うから。
今回のことだって、その練習みたいなものだ。
前世でぼくに足りなかった狡猾さって︱︱︱︱たぶんこういうこ
とでいいんだよね?
106
第十五話 最強の陰陽師、旅立つ
そしてまた半年が経ち、春になった。
﹁それじゃあ、セイカ。忘れ物はないかい?﹂
見送りに来てくれたルフトが言った。
荷物は、すでに馬車へ積み終えている。
﹁大丈夫だよ。それにしても、見送ってくれる家族が兄さん一人と
はね﹂
﹁仕方ないだろ﹂

107
ルフトが苦笑する。
﹁父上は今帝都だし、グライは軍。母さんは⋮⋮﹂
﹁冗談だよ。兄さんさえいれば十分だ﹂
﹁口が上手くなったもんだよ。⋮⋮イーファ。こんな弟だけど、助
けてやってくれよ﹂
﹁は、はい! ルフト様⋮⋮ふぁ⋮⋮あ、す、すみませんっ﹂
あくびを漏らしたイーファが小さくなる。
﹁セイカ、また遅くまで勉強させてたのかい?﹂
﹁そりゃあもちろん。試験に合格しなきゃ学園には入学できないん
だからね。ぼくもだけど﹂
﹁あまり根を詰めすぎるのもよくないぞ。でもそうだな、ここから
ロドネアまで七日は馬車だからその間は⋮⋮﹂
﹁馬車の中でも勉強だけどね﹂
﹁ええー⋮⋮セ、セイカくん⋮⋮﹂
イーファが何か言いたげだが、時間が全然足りなかったんだから
仕方ない。
﹁だけど、セイカもずいぶんイーファに入れ込んでるな﹂
ルフトが笑いながら言った。
﹁ん?﹂
﹁そんな首飾りなんてあげてさ。安くなかっただろ。見目のいい従
者をあまり着飾らせていると噂になるぞ?﹂

108
﹁何か勘違いしてるみたいだけど、この宝石みたいなの全部魔石だ
からね。これも学園生活のためだよ﹂
﹁⋮⋮?﹂
イーファの次なる目標は、精霊にお願いして魔法を使うことだ。
そのためには精霊が周りに常にいてほしいところだが、残念なが
らイーファには魔力がほとんどなく、魔力に集まる精霊は普段あま
り寄ってこないらしい。
そこで、代わりに魔力を蓄えた鉱物、魔石を利用しておびき寄せ
ることにしたのだ。
二人で山に入り、あちこち歩き回っては精霊の集まる露頭を探し
た。
冗談じゃないくらい大変だったけど、その甲斐あってかそれなり
に質のいい原石をいくつか見つけられたので、街で加工してもらい
首飾りにしたのだ。
イーファ曰く、結構集まってきてるらしい。よかったね。あの苦
労も報われるよ。
﹁うーん、やっぱりセイカの考えることはよくわからないな﹂
﹁よく言われる。じゃ、そろそろ行くよ。ルフト兄﹂
﹁気をつけるんだぞ。あと休暇には顔を見せてくれよ﹂
﹁考えとく﹂
そう言って、ぼくはさっさと馬車へと乗り込んだ。
その後からイーファも乗ってくる。
﹁イーファ。どう、楽しみ?﹂
﹁うん、楽しみだよ! セイカくんは?﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮﹂

109
ぼくは馬車の窓から外を見やった。
そのずっと先に広がる、異世界の街並みを想像しながら。
﹁⋮⋮ぼくも少し楽しみだよ﹂
幕間 ブレーズ・ランプローグ伯爵、帝都にて
ブレーズ・ランプローグは、文机で開いていた書物を閉じた。
帝都にある高級宿の一室。
酒場の二階にあるような安宿とは違い、清潔で静かな部屋だった
が︱︱︱︱今は少しばかり、学究に集中できない。
今日は、セイカがロドネアへと出立する日だった。
今頃は最初の街に寄り、宿をとったところだろうか。
自分の選択は正しかったのか。
どうもそればかり考えてしまう。

110
****
セイカは、ブレーズ自身の子ではない。
今から十二年前。
黒いローブを着た謎の女が、まだ赤子だったセイカを屋敷へ連れ
てきたのだ。
この子は︱︱︱︱ブレーズの弟、ギルベルトの息子だと言って。
ギルベルトは、兄であるブレーズから見ても変わっていた。
自由奔放で、貴族らしさの欠片もない。広い世界を見てみたいと、
学園卒業後には冒険者になってしまったほどだ。魔法学の大家、ラ
ンプローグ伯爵家から冒険者になった者など、おそらく弟くらいだ
ろう。
ただ、ギルベルトは優秀でもあった。
学園では首席。冒険者としてもめきめきと頭角を現し、あっとい
う間に上位層の一人となっていた。
一族の中には認めない者も多かったが、兄としては密かに誇らし
かったものだ。
だから、初めは信じられなかった。
ある日ギルベルトが、魔族領で消息を絶ったという報せを聞いた
時は。
その数年後に、謎の女がセイカを連れてきた時。
ブレーズは、その子を孤児院へ預けようとは思わなかった。

111
もしかしたらすべて嘘かもしれないが︱︱︱︱これも一つの縁だ
と感じたのだ。
妻は、魔族の子なのではないかと訝しんだ。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、セイカを育てると決めたブレーズ
自身、その疑いも無理からぬことだとは理解していた。素性の怪し
い子であることには違いない。
ただそれでも⋮⋮あの女は、どこか必死な様子でギルベルトの名
を口にしたのだ。見捨てる気にはなれなかった。
同じように怪しむ者もいるだろうと、周りには愛人の子だという
ことにした。もちろん二人の息子にも本当のことは伏せた上で。
だが時が経つにつれ。
セイカが魔族の血を引いているのではないかという疑いは、ブレ
ーズの中でも大きくなりだした。
この国では珍しい、黒い髪に瞳。それだけではない。
一歳になった頃から、セイカは魔法の力を現し始めたのだ。
それはどの属性でもなく、ただ物を動かすのみの原始的なものだ
ったが︱︱︱︱およそありえないことだった。
魔法と言語は密接な関係にある。
それは、無詠唱を極めた魔術師でも変わりはない。
だから、言葉も話せぬ幼子が魔法を使うことなど、本来はありえ
ないのだ。
生まれながらに魔法を扱えるとされる、魔族の子でもない限りは。
セイカの魔法は次第に強くなっていった。
二歳になる頃には、物を動かすだけでなく破壊するようになった。

112
小さな物から、次第に大きな物へ。
そして次は、生き物へと。
セイカは喜ぶことも、面白がることもなく、淡々と玩具やベッド
や、虫や鳥を壊した。
自分にできることを、ただ確かめているように。
セイカの魔法のことは、妻と一部の使用人以外には伏せていた。
ただ敏感な息子たちは、怯える妻から何か感じ取ったのだろう。
ルフトはセイカを怖がるようになり。
グライは逆に、敵意を向けるようになった。
セイカはどれほどの魔力を持っているのか。
そう思い、三歳の頃に行った測定の儀式では︱︱︱︱予想に反し、
どの属性の魔力もまったく有していないという結果になった。
これもまたおかしなことだ。
魔力がなければ魔法は使えない。
もちろん例外はある。だがそれは、測定すらできない程度の魔力
しか持たない者が、取るに足らない魔法を行使した、そんな事例だ。
セイカには当てはまらない。
不思議なことに、儀式の夜以降︱︱︱︱セイカは目に見えてまと
もになった。
破壊の魔法を使うことが一切なくなったうえ、普通に会話するこ
とも増えた。
時にはルフトよりも大人びて見えたほどだ。
このまま普通の子供として成長するのではないか。
そんな考えは、セイカが七歳になる頃に打ち破られた。

113
魔法演習でセイカが見せた、火の魔法。
ファイアボール
あれは火炎弾などではない。
威力や色以前に、あの炎は魔法によるものではない。
おそらくは何か鉱物が燃焼したもの。
つまりまったく別の魔法だ。
魔法から慎重に遠ざけていたにも関わらず、セイカはまたもや独
自の魔法を使って見せたのだ。
さらに言えば、先日のモンスター騒動も奇妙だった。
エルダーニュートの死骸を検分したが、あれは明らかに、炎によ
って倒されたものではなかった。
火傷も外傷も少なすぎる。
まるで毒殺でもされたかのように。
付け加えるならば、あの奴隷の娘、イーファの見せた中位魔法も
妙だ。
フレイムノート
術名の発声はしていたが、あれは炎豪鉾とは微妙に異なる。
あれの父親は優秀な男だが、魔法の才はない。数年前に亡くなっ
た母親も同様だ。
イーファは、近頃セイカと仲が良かった。
関係がないとはどうしても思えない。
セイカには、父であるブレーズにも理解できないところがある。
だからこそ。
だからこそ、セイカが学園に行きたいと言いだした時、都合がい
いと思った。

114
セイカを軍にやるのは危険すぎる。
帝国軍は国防の要だ。万一があってはならない。
グライには悪いことをした。
あの年で中位魔法を使いこなす優秀な子だ。学園でも結果を残せ
ただろうが⋮⋮背に腹は代えられない。
本当は、グライとの決闘にて、あの子の本性を見極めるつもりだ
った。
グライではまず相手にならなかっただろう。だから少しでも危険
があれば即座に介入し、必要ならば︱︱︱︱セイカを殺すことすら
も、考えていた。
幸か不幸か、それは叶わなかった。
だが⋮⋮おそらく、これでよかったのだろう。
妻は未だに怯えているが、今のセイカは優しい子だ。
平民にも穏やかに接し、粗相をした奴隷も笑って許す。
もう無闇に生き物を殺したりはせず、それどころか部屋にいたク
モをそっと掴んで窓から放したこともあった。
イーファと仲が良く。
最近では、ルフトとも打ち解けている。
そして、グライに対しても同じだ。
決闘の前夜。ブレーズの条件が気に食わず仕掛けてきたグライを、
セイカは傷一つ負わせずに打ち負かした。
一体どのようにしたのか、グライはついぞ語らなかったが⋮⋮結
果だけで十分だ。
息子が今も無事に生きているという結果だけで。

115
周りの人間に恵まれれば、セイカは国を守る勇者ともなるだろう。
だが逆に︱︱︱︱もし裏切りや破滅に見舞われれば、人を滅ぼす
魔王ともなり得る。
そんな気がしてならない。
学園は良いところだと、かつてギルベルトが言っていた。
願わくば︱︱︱︱今も、そうであらんことを祈る。
第十六話 最強の陰陽師、学園都市に着く
ランプローグ領を発ってから、今日で七日目。
ぼくは馬車の中で、イーファに背中をさすられながら、ぐったり
と窓の外を見ていた。
﹁セイカくん、まだ気分悪い?﹂
﹁⋮⋮悪い﹂
すっかり忘れてた。
ぼく、馬車ダメなんだった。

116
前世の西洋で乗ったけど、あのときもひどかったな⋮⋮。
牛と比べて速すぎるんだよ。尻が痛いし、酔うに決まってる。
﹁⋮⋮イーファはよく平気だね﹂
﹁え、うん。でもちょっと疲れたかな﹂
と言いつつぼくよりも百倍は元気そうだ。
なんだか情けなくなってくる。
﹁あ、ほら。もうすぐだよ﹂
ぼくは無言で馬車の行く先を見る。
遠くに、長大な城壁に囲まれた都市の姿が見えた。
学園都市ロドネア。
学究の徒が集まってできた城塞都市。
そこがぼくたちの目指す場所だった。
****
御者に別れを告げた後、逗留予定の宿へと着いたぼくは、部屋に
入るなりベッドに倒れ込んだ。
あー、気分悪⋮⋮。
﹁セイカくん、大丈夫?﹂

117
荷物を置いたイーファが、ベッドの端っこに腰掛けて言う。
﹁うん⋮⋮﹂
﹁セイカくんにも弱点があったんだね。意外﹂
イーファが小さく笑う。
ぼくをなんだと思ってるんだ。
﹁人間だからね⋮⋮。あ、イーファの部屋は隣だって⋮⋮﹂
﹁そ、そうなんだ。ふうん⋮⋮﹂
﹁どうかした⋮⋮?﹂
﹁わたしにも部屋、あるんだなって⋮⋮﹂
﹁そりゃあるよ⋮⋮道中の小さい街では、仕方なく大部屋だったり
一部屋だったりしたけどさ⋮⋮ここには何日も泊まるわけだし⋮⋮﹂
﹁う、うん﹂
イーファはもじもじしながら言う。
﹁えっと⋮⋮わたしの今のご主人様って、セイカくん、なんだよね
⋮⋮?﹂
﹁え、ああ⋮⋮そうみたい⋮⋮証書っぽいやつもらったよ、父上か
ら⋮⋮﹂
領主の奴隷を領地から出すというのは、いろいろあるらしかった。
なんか法的ないろいろが⋮⋮ダメだ、気持ち悪すぎてうまく考えら
れない。
﹁そ、その、セイカくん﹂

118
イーファが意を決したように言う。
﹁こ、今夜はわたし⋮⋮こっちに来た方が、いい?﹂
ぼくは顔を伏せたまま虚ろに答える。
﹁え、なんで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あ、食事の話? ぼくちょっと食欲なくて⋮⋮イーファ、適当に
済ませてきてよ﹂
イーファはしばらく黙った後、はぁ、と溜息をついた。
﹁お腹すいた時に食べられるように、果物でも買って来るね﹂
﹁お願い⋮⋮﹂
自分の荷物を置くからと、イーファは部屋を出て行った。
バタン、と扉の閉まる音。
﹁ふんっ! はぁー、まったく!﹂
頭の上でユキがうるさい。
﹁どうしたんだよ⋮⋮﹂
﹁身の程知らずにもほどがありますっ、あの娘!﹂
﹁何⋮⋮?﹂
﹁セイカさまのご寵愛を受けようなど! ただの従者の分際でっ!﹂
﹁え⋮⋮? あ、そういう意味だったの? 今のって﹂
思えば、イーファは今年で十四。

119
この世界では少し早いが、前世でならもう結婚していておかしく
ないような年齢だ。
ぼくはベッドの上でごろんと仰向けになる。
﹁イーファ、けっこう自分の身分を意識してるふしがあるからなぁ。
気にしないでほしいんだけど﹂
﹁そうじゃないですよセイカさまっ!﹂
﹁え?﹂
﹁あの娘、セイカさまに惚れてますよ。ベタ惚れです! 奴婢の身
分を逆に利用してあわよくば抱かれようという腹づもりなんですよ
!﹂
﹁ええ⋮⋮まさかぁ﹂
というかユキのやつ言いたい放題だな。
﹁本当です! ユキにはわかります﹂
あやかし
﹁ほう? 妖風情が人の心の何を知るか﹂
﹁少なくともセイカさまよりはわかるつもりです。女心とか﹂
言うなこいつ。どうせ宮廷小説かなんかで読んだだけのくせに。
ぼくは言い返そうとして⋮⋮何も言い返せないことに気づいた。
そう言えば前世では、そういう縁にあまり恵まれなかった。
不老の法を完成させてからはまともな人間すら寄ってこなくなっ
たからな。
﹁⋮⋮どうせぼくには女心なんてわかりませんよ﹂
﹁すねないでくださいよセイカさまぁ。ちゃんと勉強しないと苦労
しますよ?﹂

120
勘弁してくれ。
第十七話 最強の陰陽師、受験を申し込む
入学試験当日。
帝立ロドネア魔法学園にやってきたぼく達は、まずその大きさに
驚いた。
﹁わぁ⋮⋮﹂
隣でイーファが感嘆の声を漏らす。
とにかく広い。何十万坪あるんだろう?
京の大内裏に迫るほどだが、どうやら裏にある森も学園の一部の

121
ようで、それを含めるならこちらの方がはるかに大きかった。
いくつもある学び舎もまるで城だ。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁どうしたのセイカくん?﹂
﹁⋮⋮いや、なんでもない﹂
あちこちに妙な力のよどみがあった。
まあ魔法の学園だし、何があっても不思議はないか。
改めて周りを見ると、ぼく達と同じような受験者の子がたくさん
いる。
﹁はーい、入学試験を受ける方はこちらですよー﹂
青空の下に受付が開かれると、皆ぞろぞろとそちらに並び出した。
ぼく達もそれに倣う。
﹁お名前を﹂
﹁セイカ・ランプローグです﹂
﹁まあ! あのランプローグ伯爵家のご子息でいらっしゃいますか﹂
受付の女性が声を上げると、周囲がざわつく。
﹁マジかよ﹂﹁ランプローグって、あの有名な?﹂﹁今のうちに仲
良くなっといた方がいいんじゃないのか﹂
え、ぼくの家ってこんなに有名だったの?

122
﹁ではこちらに手を﹂
いくつか質問された後。
そう言って魔法陣が刻まれた水晶玉みたいな物を差し出された。
﹁これは?﹂
﹁魔力を測る魔道具ですよ。私もランプローグ一族の魔力を拝見す
るのは初めてで、どのような結果になるか楽しみです。ちなみに、
全属性に強く適性があれば白く輝くんですよ。まだ見たことはない
ですが﹂
﹁へえ﹂
言われたまま、水晶玉に手を乗せてみる。
が、何も起きない。
﹁⋮⋮すみません、もう一度﹂
﹁はい﹂
やっぱり何も起きない。
﹁あっ、もしや光か闇属性に適性が? これは四属性にしか対応し
てなくて⋮⋮﹂
﹁いえ、たぶんそうではないと思います。ぼくには魔力がないらし
いので﹂
﹁ええっ﹂
また周囲がざわつく。
ぼくは不安になってくる。
﹁もしかして、魔力がないと受験できませんか?﹂

123
﹁これはただの事前確認なので、受験はできますが⋮⋮その、実技
試験がありますので⋮⋮﹂
﹁じゃあ問題ないです。受験しますのでよろしく﹂
受付を離れると、周りからはひそひそと囁き声が聞こえてきた。
﹁魔力なし?﹂﹁嘘だろ? ランプローグだぞ﹂﹁あいつどういう
つもりなんだ﹂
別の受付では、イーファが職員と話している。
﹁お名前を﹂
﹁イーファです。姓はありません﹂
﹁平民の方ですか?﹂
﹁いえ⋮⋮身分はセイカく、様の奴隷です﹂
また周囲がざわつく。
いやざわつきすぎでしょ。隣の受付も詰まってるよ。
﹁奴隷ですか。従者の方が入学することはありますが、奴隷はあま
り例がないですね。法的には財産扱いですが、脱走に関して当園は
管理責任を負いかねます。主人に伝えておいてください。ではこち
らに手を﹂
イーファも水晶玉に手を乗せる。
するとぼくの時とは違い、うっすらと黄色っぽい光が現れた。
﹁火と風属性に適性があるようですが⋮⋮弱い、ですね。実技があ
るんですが、受験されますか⋮⋮?﹂
﹁は、はい。お願いします﹂

124
イーファが戻ってくると、ざわつきはうるさいくらいになった。
﹁魔力なしって、とんだ落ちこぼれじゃないか﹂﹁どうやって合格
するつもりだ?﹂﹁コネだろ﹂﹁貴族野郎が﹂﹁所詮は成り上がり
の伯爵家か、下品なものだ﹂﹁女みたいな顔して奴隷侍らせやがっ
て﹂﹁学園に何しに来る気だよ⋮⋮﹂
ふと熱を感じ、イーファを見てみると、周りに橙色の炎が微かに
ちらついていた。
目が据わっている。
﹁イーファ。火、漏れてるよ﹂
﹁え? あわわわっ﹂
イーファが手を振ってかき消す。
ぼくは少し笑って、それから溜息をついた。
なんだか始まる前から逆境だな。でもこの方がぼくらし︱︱︱︱、
﹁うるさい﹂
凜とした声が響いた。
ぼくの前を、紅葉のような赤い髪がふわりと通り過ぎる。
﹁邪魔。受付しないならどいて﹂
群衆はいつの間にか静まりかえり、その美しい少女に道を空けた。
﹁アミュ。平民﹂
﹁は、はいっ﹂

125
受付の職員が慌てて手続きをする。
﹁ではこちらに⋮⋮﹂
﹁ん﹂
差し出される前に、少女は水晶玉に手を乗せた。
その瞬間。
眩いばかりの白い光が、周囲を照らした。
職員が目を見開く。
﹁ええっ。この色、全属性の⋮⋮﹂
﹁もういいでしょ﹂
﹁あっ、ちょっとっ﹂
少女は手を離し、まるで取るに足らないことのように踵を返した。
周囲はまたしてもざわめく。
﹁全属性って言ったか?﹂﹁しかもあんなに強く⋮⋮﹂﹁平民、だ
よな?﹂﹁王族の隠し子なんじゃないか﹂﹁まさか⋮⋮﹂
﹁あの﹂
ぼくは思わず声をかけた。
赤い髪の少女が足を止める。
心臓が高鳴る。やっぱり、似ている。
﹁えっと、ありがとう﹂

126
﹁はあ? なんであんたがお礼言うわけ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁言っとくけど、別にあんたの味方したわけじゃないから。有象無
象がうるさかっただけ。それにね﹂
少女がぼくを指さす。
﹁あんたが一番ムカつくのよ。魔法も使えないやつが学園に来るな
んて迷惑。どうせ家の力で合格するんでしょうけど、せめてあたし
の邪魔だけはしないでちょうだい﹂
そう言い残して歩き去る少女
その背を、ぼくはしばらく見ていた。
﹁どうしたの? セイカくん﹂
﹁いや⋮⋮﹂
少し驚いただけだ。
髪の色こそ違うが、前世で見知った顔に、よく似ていたから。
幼い頃に亡くした姉と。
その生き写しのようだった愛弟子︱︱︱︱ぼくを殺したあの子に。
127
第十八話 最強の陰陽師、入学試験に臨む
筆記試験は問題なく終わった。
が、イーファはそうじゃなかったらしい。
﹁どうしようセイカくん。間違えたかも⋮⋮﹂
﹁うーん⋮⋮実技で挽回するしかないな﹂
涙目のイーファを慰める。
﹁うう、あんなに勉強したのに⋮⋮﹂
と言っても、準備期間が半年しかなかったからなぁ。

128
こればかりは仕方ない。
****
実技試験の会場は外だった。
受験者の前方に、六つの石板が並んでいる。
﹁あの的を狙い、魔法を放ってください﹂
丸眼鏡の試験官が説明する。
﹁左から、火、土、水、風、光、闇の順で並んでいます。好きな属
性の的を選んでください。いくつでも構いませんが、加点方式です
のでなるべく挑戦する方が得です。ただし、異なる属性の的に攻撃
しないでくださいね。耐属性の魔法陣が効かずに傷んでしまいます
ので﹂
なるほど。
失敗を気にせず挑戦できるのか。良い試験だ。
﹁燃え盛るは赤! 炎熱と硫黄生みし精よ、咆哮しその怒り火球と
ファイアボール
為せ、火炎弾!﹂
スト
﹁弾けるは黄! 巌育みし精よ、割れ砕きてその怒り礫と為せ、石
ーンブラスト
礫弾!﹂
﹁湧き上がるは青! 冷泉と氷雨の精よ、凍てつきその怒り白槍と
アイシクル・スピアー
為せ、白氷槍!﹂

129
隣の試験場ではすでに始まっていた。
皆威勢よく呪文詠唱しているが、一属性だけ選んでいる者がほと
んどだ。
その出来も微妙。
今くらいの時期に無詠唱、複属性を学んでいたルフトやグライは、
実は優秀だったみたいだ。
﹁あ、わたしの番みたい。行ってくるね、セイカくん﹂
﹁ああ。がんばって﹂
イーファが前に出る。
周りのレベルを見るに、実技は大丈夫そうかな。
と、そのとき、視界の端に赤い髪が映った。
さっきのアミュとかいう子が、隣の試験場にいる。
出番はまだ先みたいだけど、実力はどうなんだろう。全属性とか
言われてたけど⋮⋮。
というか、あの腰に提げてるのは剣か?
どういう子なんだ⋮⋮?
疑問に思っていると︱︱︱︱熱風が、微かに頬を撫でた。
前方には的に向かって杖を構えるイーファ。
その姿を、試験官ほか全員が唖然と見ている。
フレイムノート
﹁な、なんだ、今の炎﹂﹁炎豪鉾か⋮⋮?﹂﹁中位魔法?﹂﹁無詠
唱だったぞ﹂﹁おい見ろよ、的が﹂
よく目をこらすと、石板の隅が少し融けてガラス質になっている。

130
イーファが試験官に頭を下げる。
﹁ご、ごめんなさい。まさか融けるとは思わなくて⋮⋮﹂
﹁い、いや⋮⋮仕方ないよ⋮⋮﹂
丸眼鏡の試験官は首をかしげ、火属性用の的だよなぁ、などと不
思議そうに呟いている。
﹁次に行ってもいいですか?﹂
頷く試験官を見て、イーファは三つ隣の的に歩いて行く。
え、次?
風属性の的。
その前で、イーファは再び杖を構える。
﹁︱︱︱︱ういんどらんす﹂
突風が吹いた。
気圧差で耳が痛くなるほどの風が、的へと襲いかかり。
破裂するような音と共に、石板をそのまま叩き割った。
静まりかえる試験場。
少し経って、上半分の石板がどこかに落ちるばふっ、という音が
聞こえた。
ウインドランス
﹁う⋮⋮風錐槍って、中位魔法、だよな﹂﹁中位魔法を無詠唱って﹂
ウインドランス
﹁あれ、本当に風錐槍か?﹂﹁的、壊れちゃったけどどうするんだ

131
よ﹂
﹁し、静かに! 皆静かに!﹂
﹁あ、わたしは以上です。的はごめんなさい。ありがとうございま
した﹂
イーファがぺこりと頭を下げて、ぼくへ駆けてくる。
﹁ど、どうかな、セイカくん。的はダメにしちゃったけど⋮⋮それ
で不合格になったりはしないよね? がんばった結果だし⋮⋮﹂
﹁イーファ!﹂
﹁ひゃっ!?﹂
﹁風! すごいじゃないか! どうしたんだよあれ﹂
﹁⋮⋮えへへ﹂
イーファがはにかむ。
﹁少しずつ練習してたんだよ。セイカくんが驚くかなって﹂
﹁驚いたよ。もう精霊を使役できるようになったんだ。他の属性は
?﹂
﹁まだぜんぜん。緑の子はお屋敷に多かったから、たくさん連れて
こられたんだ。あと、わたし自身に風属性の適性があったからだと
思う。さっき知ったことだけど﹂
やばい、なんかうるっときてる。
弟子の成長をいきなり実感すると、こう、心にくるんだよ⋮⋮。
﹁でもね、他の子たちも少しずつ集まってるの。光と闇の子はほと
んど見ないんだけど、それ以外ならもうすぐお願いできるように⋮
⋮って、セイカくん、泣いてる?﹂

132
﹁な、泣いてない泣いてない。あー⋮⋮イーファ。一つだけ言うと、
ウインドランス
あれ風錐槍には見えないよ。本物はもっと弱いから﹂
﹁そ、そうなんだ﹂
﹁気にしなくていいけどね。イーファはもっと強くなれる﹂
ドルイド
前世の精霊使いはあんなもんじゃなかったからな。
﹁えー、みなさん聞いてください。少しアクシデントがありました
が、試験は続行します。的は予備を準備しているところですので、
風属性を希望される場合は順番を譲ってください。では次の方﹂
﹁ぼくだ﹂
イーファに見送られながら、前に歩み出る。
﹁どの属性を?﹂
﹁まず火で﹂
的の前に立ち、無造作に杖を構える。
破壊を求められていないということは、威力は適当でいいんだろ
う。
さくっと済ませよう。
﹁ふぁいあぼうる﹂
弱めの︽鬼火︾が石板にぶち当たり、青い炎が弾けた。
こんなんでいいでしょ。
ファイアボール
﹁青い火炎弾!?﹂﹁おい、火が消えないぞ﹂﹁耐属性の魔法陣、
効いてないんじゃないか?﹂﹁待て、あいつランプローグの魔力な
しだったはずじゃ⋮⋮﹂

133
﹁次、土で﹂
呆気にとられる試験官に告げ、的の前まで移動する。
さてどうするかな。
他の連中は石つぶてを飛ばしたりしてたが、そんなどうでもいい
術はない。
かなめいし あかてつ
それっぽい術だと⋮⋮︽要石︾では遠すぎるな。︽赫鉄︾や︽岩
戸投げ︾を、まさかこんな場所では使えないし⋮⋮。
みかげいし
待てよ、あの石板︱︱御影石か。
よし、決めた。
杖を構える。
術名はどうしよう? まあ適当でいいや。
﹁すとーん⋮⋮なんとか﹂
ほうごん
︽土金の相︱︱︱︱方金の術︾
ばぎ、ばぎんっ、という音と共に。
石板の中から、巨大な金色の立方体が五、六個生えた。
当然、的は内側から破壊されてしまっている。
よし。
﹁壊してしまってごめんなさい。じゃ、次は水で﹂
﹁い、いやいやちょっと待って!﹂
丸眼鏡の試験官に呼び止められる。
﹁君、今の魔法は⋮⋮?﹂

134
﹁すとーん⋮⋮です﹂
﹁なんて?﹂
﹁あ、すみません。次行きますね﹂
ぼくはすたすたと隣の的に歩いて行く。
﹁今の、なんていう魔法だ⋮⋮?﹂﹁ま、的が内側から⋮⋮﹂﹁⋮
⋮﹂﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂
後ろも静かだった。
ありがたい。説明しろと言われても困る。
あの立方体は黄鉄鉱だ。
叩くと火花を散らすことで知られる金色の鉱物だが、もう一つ、
きれいな立方体の結晶を作るという特徴がある。
岩石の中にあるタネに金気と土気を流し込んでやれば、周りを押
しのけて型どおりに結晶化し、あのように岩を割ってくれるのだ。
御影石は溶岩が固まってできた石。タネとなる鉄と硫黄はまずあ
るだろうと思ったが、予想通りだな。
土木作業用に作った術だけど初めて役に立った。
﹁で、水か⋮⋮﹂
他の連中はつららを飛ばしたりしてたが、もちろんそんなどうで
もいい術はない。
うーん⋮⋮。
あれでいいか。規模が大きいし、一応ヒトガタ使っとこう。
杖を振って見せる。

135
﹁あいしくる⋮⋮なんとか﹂
ひょうばくふ
︽陰水の相︱︱︱︱氷瀑布の術︾
津波のごとき大量の水が、不可視にしていたヒトガタから放たれ
た。
陰の気で超過冷却状態にしていた水は、石板にぶつかった衝撃で
凍結。
それは瞬く間に連鎖し、すさまじい量の水は、一瞬ですべて氷と
化した。
あー⋮⋮周りにも流れていったせいで両端の闇と火の的までガチ
ガチに凍っちゃってる⋮⋮。
ちょっと量が多すぎたな。
﹁なんというか⋮⋮すみません。ぼくは以上です。これはそのうち
融けると思いますので﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂﹁⋮⋮﹂
氷に覆われてしまった試験場には、もはや誰の言葉もない。
ぼくは踵を返す。
﹁ただいまイーファ。帰ろうか﹂
﹁う⋮⋮うん。他の属性はよかったの?﹂
﹁ぼくができそうなのは三つだけだったからね﹂
もく か ど ごん すい
風は木、火、土、金、水の五行にないし、光と闇は今ひとつよく
わからない。

136
というかそもそも、ぼくはどうもこちらの魔法を使えないような
のだ。
何年も試しているが全然ダメ。やっぱり魔力と呪力は別物なのか
もしれない。
陰陽術は使えるから大して問題はないんだけど。
今回の試験だって、周りを見る限りでは普通に合格できそうだか
らいいだろう。
﹁ふふっ﹂
﹁どうかした?﹂
﹁ううん﹂
イーファが言う。
﹁みんな、セイカくんの魔法を見てびっくりしてたから⋮⋮ちょっ
と気分よかった﹂
137
第十八話 最強の陰陽師、入学試験に臨む︵後書き︶
※方金の術
金の気による鉄と土の気による硫黄で黄鉄鉱の結晶を成長させ、岩
を割る術。黄鉄鉱は﹃愚者の黄金﹄とも呼ばれる金色の鉱物で、六
面体や八面体、正十二面体の結晶形を示す。少なくとも紀元1世紀
頃にはその存在が知られていたようで、大プリニウスの﹃博物誌﹄
には叩くと火花が出る石として記載されていた。
※氷瀑布の術
陰の気により過冷却状態にした大量の水を放ち、対象を凍らせる術。
陰の気は負のエネルギーを司る。過冷却水は衝撃と共に急速に凍る
性質を持つ。水の温度はマイナス40度ほどで、これはそのあたり
が過冷却の限界温度であるから。理論上はさらに液体のまま冷やせ

138
るが、その場合アモルファス氷と呼ばれるガラスに近い状態になっ
てしまい、結局使いづらいためセイカはこのくらいで抑えている。
幕間 コーデル試験官、学園内演習場にて
試験官のコーデルは、丸眼鏡を直しながら一息ついた。
日暮れ前。試験場にはもう誰もいない。
今年の入学試験は大変だった。
﹁お疲れ様です、コーデル先生﹂
﹁ああ。お疲れ様です、カレン先生﹂
女性教員に挨拶を返す。
﹁どうでした、今年は?﹂

139
訊かれたコーデルは、丸眼鏡をくいと上げながら答える。
﹁アクシデントばかりで大変でしたよ。見ての通り、僕の担当して
いた試験場は使えなくなってしまいましたしね﹂
試験場を覆う氷は、未だ融けていなかった。
そのせいで周囲は肌寒い。
﹁ランプローグ家の子息ですか。たしか三属性を使ったんでしたね﹂
﹁ええ。しかも従者の方も規格外で。火と風の二属性ですが、的を
融かすわ吹き飛ばすわ⋮⋮。耐属性の魔法陣、壊れてたんでしょう
かねぇ﹂
少なくともコーデルが赴任してからの三年間で、こんなことは初
めてだった。
﹁いや、それは結構なことなんですがね。問題は子息の方の採点で
して﹂
﹁あの土と水の魔法ですね。正体はわかりましたか?﹂
﹁それがまったく。だからどう点をつけたものか⋮⋮﹂
実技試験は、型どおりの魔法をどれだけ正確に発動できるかが採
点基準となっている。
聞いたこともない魔法を使われることなど初めから想定外だった。
﹁残念ですが、満点をあげられるのは火属性だけになりそうです﹂
﹁ふふ。実は私、受付もしていたんですが⋮⋮あの二人の魔力量、
聞いてました?﹂

140
﹁いえ。どれほどすごかったんです?﹂
﹁それが全然。従者のイーファさんは、魔法が使えるか微妙なくら
い。主人のセイカ君に至ってはゼロですよ。いわゆる、魔力なしで
す﹂
﹁ありえない⋮⋮ですが、もう何を聞いても驚かないですよ。なに
せ、﹂
コーデルは言う。
﹁その二人以上の逸材が、今年はいたって言うんですからね﹂
﹁私の担当したアミュさんですね。ええ、おそらく創立以来初でし
ょう︱︱︱︱全ての属性の的を破壊した受験者は﹂
女性教官は笑って言う。
﹁ひょっとして、彼女は勇者かもしれませんよ﹂
﹁勇者? ってあの昔話の?﹂
﹁ええ。魔王が復活するとき、人の国から生まれるとされる、伝説
の﹂
﹁カレン先生、お子さんいましたっけ?﹂
﹁独り身で悪かったですね。子供に話して聞かせてるわけじゃない
ですよ。私が好きなだけです、個人的にね﹂
﹁今では事実かどうかも疑問視されている話ですが⋮⋮でも、そう
ですね﹂
コーデルは丸眼鏡をくいと上げる。
﹁もしそうなら、おもしろいですね﹂
﹁ええ⋮⋮おもしろいです﹂

141
第十九話 最強の陰陽師、合格する
合格発表当日の朝。
﹁うう、緊張する⋮⋮﹂
青い顔をしたイーファを引っ張って、ぼくは学園ヘと向かった。
正門を通ってすぐ、巨大な掲示板が置かれている。
﹁あ、あれみたいだよイーファ﹂
﹁セイカくんっ!﹂

142
がしっと袖を掴まれる。
﹁もし落ちてても従者としてがんばるから捨てないでぇ⋮⋮っ﹂
﹁わ、わかった、わかったから﹂
えーっと、ぼくの名前は⋮⋮あ、あった。
筆記六〇〇点、実技一二〇点の、計七二〇点。
上から三番目だ。
筆記はたぶん満点だろう。
実技が思ったよりも低かったが、順位的にはこんなものだろうな。
いつの時代にも天才はいる。
で、二位の名前は⋮⋮、
﹁って、イーファ!?﹂
﹁わ、わわわわたし二番目!? や、やったよセイカくん!!﹂
筆記五九〇点、実技二〇〇点の計七九〇点。
えー⋮⋮なんかショック⋮⋮。
﹁ぼ、ぼく三属性も使ったのにイーファより実技八〇点も低いの⋮
⋮?﹂
﹁ほんとだ⋮⋮﹂
イーファは考え込む。
﹁もしかして、的を壊さなかったのがいけなかったんじゃ⋮⋮﹂

143
﹁た⋮⋮確かに!﹂
イーファは火と風の二つで二〇〇点。
対するぼくは土の一つだけで、一二〇点。
二〇点が火と水の部分点、ということならば⋮⋮つじつまは合う。
つまり、あのいかにも的を壊してほしくなさそうだった試験官の
言動。
あれは受験生を惑わせる罠だったのか。
﹁おめでとうイーファ﹂
ぼくはイーファに向き直る。
﹁試験官の言葉や反応に惑わされず、容赦なく無慈悲に的を破壊し
たイーファの冷酷な判断が実を結んだんだ。まだまだ甘さが残って
いたぼくの負けだよ﹂
﹁う、うん⋮⋮なんか、人でなしって言われたみたいで複雑だけど
⋮⋮あ、ありがとうセイカくん。あの、わざとじゃなかったからね
?﹂
こうして弟子は師を超えていくんだな⋮⋮。
﹁それよりセイカくん﹂
﹁何?﹂
﹁セイカくん、暗記科目は満点じゃないと話にならないってさんざ
んおどかしてきたけど﹂
﹁うん﹂
﹁わたしとセイカくん以外、みんな筆記は五〇〇点以下だよ﹂
﹁え⋮⋮? あっ﹂

144
本当だ。
なんでだ? あんな簡単な試験だったのに。前世の文章得業生試
や宋の科挙だったらありえないはず⋮⋮、
いや待て。
これ、そういえば十二歳が受ける試験だったな。
⋮⋮さすがにエリート役人になるための試験と同じに考えるのは
まずかったか。
﹁えっとその⋮⋮き、気合いを入れるためだったんだよ! なにせ
試験まで半年しかなかったから﹂
﹁うん、そういうことにしておくね。感謝してるのは本当だから﹂
﹁⋮⋮﹂
なんかこう⋮⋮圧が来るな。
イーファはなるべく怒らせないようにしよう。
あれ、待てよ。
筆記が全員五〇〇点以下?
じゃあ一位の成績は⋮⋮、
﹁⋮⋮!﹂
見て、驚いた。
合計一〇二〇点。
うち、実技が六〇〇点。
名前は︱︱︱︱アミュ。

145
﹁すごいよね⋮⋮アミュってあの、赤い髪の子だよね﹂
イーファの声にも答えられず、ぼくは掲示板を凝視する。
へえ。
これはひょっとして⋮⋮早速見つけられたかな。
第二十話 最強の陰陽師、入学式に出る
数日後。
逗留していた宿に正式な合格通知が届き、ぼくとイーファは晴れ
て学園ヘの入学が許された。
で、今日はその入学式。
﹁ね、セイカくん⋮⋮これ、スカート短くないかな﹂
﹁そ⋮⋮そんなことないん、じゃない?﹂
短い。
でも制服のデザインだからね⋮⋮。

146
領地ではあまり見なかったけど、どうやら大きな都市で流行って
いるようだ。
﹁今日から寮生活だけど、わたしは男子寮に入れるのかな﹂
﹁無理だと思うよ﹂
﹁従者とはいったい⋮⋮﹂
﹁ここではただの学生だからなぁ﹂
とか話しながら、夜の学園を歩く。
この世界の夜は、月が二つあるおかげで明るい。
ただ今夜の学園は、それに輪を掛けて明るかった。
魔法のぼんやりとした灯りがあちこちに点され、道や学舎を照ら
している。
ぼくは足を止めた。
﹁イーファ﹂
﹁なに?﹂
﹁あの辺りに精霊はいる?﹂
﹁えっと⋮⋮あっ﹂
イーファが茂みに駆け寄る。
﹁コウモリ⋮⋮﹂
﹁コウモリ?﹂
﹁これ、闇の子⋮⋮闇属性の精霊だよ。珍しい。なんでこんなとこ
ろにたくさん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮たぶん、これのせいじゃないかな﹂

147
ぼくは茂みをかき分ける。
そこにあったのは、青白い塗料で書かれた大きな魔法陣だった。
﹁これって⋮⋮﹂
﹁イーファ。闇の精霊は連れて行けそう?﹂
﹁う、うん。セイカくんと見つけた魔石の中に、闇の子が好きなの
もあったから﹂
﹁ならよかった﹂
﹁⋮⋮セイカくん、なんでこんな魔法陣があるって知ってたの?﹂
﹁勘かな。ぼく、昔から勘が鋭いんだ﹂
﹁⋮⋮そうなんだ。ね、この魔法陣、どうする? なんかすごく⋮
⋮いやな感じがするんだけど﹂
﹁学園のものだろう? 精霊を連れていくのはともかく、勝手にい
じるのはまずいよ。何に使うかもわからないのに﹂
﹁うん⋮⋮そうだよね﹂
﹁ほら、会場に急ごう。まだ時間はあるけど、迷ったりしたら大変
だから﹂
そう言って、ぼくは歩き出す。
イーファもちゃんと後ろからついてきてるようだった。
それにしても⋮⋮いやな感じ、か。
ぼくもまったくの同感だ。
こちらの魔法陣についてはまだまだ勉強不足だが、あの力の流れ
はたぶん⋮⋮あれだろう。
ただ︱︱︱︱なんとなく、事態はぼくにとって都合のいい方向に
転がる気がする。

148
こっちは本当に勘だった。
****
入学式の会場は、大きな講堂だった。
﹁わぁ、広⋮⋮料理もすごいたくさん⋮⋮﹂
新入生の数も多い。二、三百人くらいか?
料理は立ったまま皿に取って食べるらしい。変わったパーティだ
なぁ。
﹁って、セイカくんもう食べてるの?﹂
﹁イーファも食べられるうちに食べておいた方がいいよ﹂
﹁平民みたいなこと言うね⋮⋮﹂
そのうち司会が何か言い、式が始まった。
つつがなく進行していく。
﹁セイカくん、ちゃんと話聞いてる? ほら、次はあのアミュって
子が挨拶するみたいだよ﹂
﹁んっ?﹂
﹁首席合格だったからかな﹂
見ると、壇上で赤い髪が揺れていた。
凜とした、よく通る声が響き渡る。
﹁︱︱︱︱今日、みなさんがどのような理由でここにいるのか知り

149
ません﹂
ぼくは皿を置いた。
あー、今来るのか。
タイミングがいいんだか悪いんだか⋮⋮。
あらかじめ何匹か飛ばしておいた式神の視界を探る。
フクロウはカラスと違って像がぼやけるが、その代わりに夜目が
利く。
いたいた。
って近いな。すぐそこだよ。
﹁あたしがこの学園に来たのは、ただ︱︱︱︱﹂
そのとき。
講堂の壁が︱︱︱︱轟音と共に吹き飛ばされた。
会場から悲鳴が湧き上がる。
講堂の壁は、一部が完全に破壊され大穴が空いていた。
ぱらぱらと石材の破片が落ちる。
白く舞う粉塵の向こうには、外が見えてしまっている。
その穴から、黒く、巨大な影が姿を現した。
身の丈は人の三倍はあろうか。
漆黒の体毛に覆われた屈強な肉体。
その顔は、牛とも山羊ともつかない奇妙なものだった。

150
﹁で⋮⋮デーモンだっ!﹂
﹁レッサーデーモンが出たぞぉッ!!﹂
生徒の叫び声。
それと同時に、集団が一斉に会場の出口へ向かって逃げ出した。
﹁わわっ!﹂
大勢の人の波の中、ぼくはイーファを太い柱の陰へと引き込む。
このままだと人間に押し潰されそうだ。
柱から顔を出し、敵を観察する。
レッサーデーモンは三匹に増えていた。
どうやら近くにいたやつ全員が講堂に入ってきたらしい。
見た目は恐ろしい⋮⋮が、雑魚だな。
棍棒を振るっているが、動きがにぶいし、三匹も入ってきたせい
でお互いの邪魔になっている。
そうこうしているうちに、火炎や氷柱の魔法がデーモンへと浴び
せられ始めた。
大声で指示を飛ばしているのは先生か。応じる中には先輩らしき
生徒もいる。
魔法を食らったデーモンはひるみ、動きを止める。
だけど⋮⋮、
﹁⋮⋮まどろっこしいな。何やってるんだ﹂
時間をかけすぎている。あんな雑魚、どうしてさっさと倒さない

151
んだ?
仲間の陰にいたデーモンの一体が、魔法を放つ生徒達に向かって
棍棒を振るった。
もたもたしているからだ。死んだな。
そう思いながら術を放とうとした時︱︱︱︱、
赤い髪が、棍棒の下へと潜り込むのが見えた。
剣が一閃。
鋭い金属音と共に棍棒が大きく弾かれ、レッサーデーモンが仰け
反る。
﹁戦えない奴はどきなさいッ!﹂
アミュは叫びながら風の魔法を放ち、もう一体の目を潰す。デー
モンの悲痛な叫びが上がる。
流れが変わった。
人間側が優勢に立ち始めている。もう大丈夫かな。
まったく心臓に悪い。
しかし、あのモンスターどもは妙だ。
目つきは獲物を探すようだが、攻撃がにぶい。三匹という数も無
駄に多いだけに見える。
陽動か。いやもしくは⋮⋮、
先に手を出して反応を見る、威力偵察の類か。
ま、なんでもいいや。
さて喚んだ術士はどこだろう。

152
学園中に飛ばした式の視界をすべて探っていく。
︱︱︱︱見つけた。あれか。
﹁イーファ﹂
﹁セ、セセセセイカくんどうしよう⋮⋮っ﹂
イーファが震えた声で言う。
﹁あ、あれデーモンだよ。まさか魔法学園に、こんなっ﹂
﹁本当にびっくりだよなぁ﹂
﹁軽いよっ! うう、わたしまだ死にたくない⋮⋮﹂
﹁落ち着けって。あれくらい先生たちがすぐ退治してくれるよ。雑
魚だし﹂
﹁雑魚!? デーモンだよ!? 一匹で軍の部隊が一つやられたこ
とだってあるのに!﹂
﹁たしかデーモンにもいろいろあって、あれは一番弱いやつだった
はずだから﹂
﹁でも雑魚ではないと思うけど⋮⋮﹂
﹁いいかい、イーファ﹂
ぼくは言う。
﹁しばらくはここに隠れていた方がいい。今出口は人がいっぱいい
て危ないからね。デーモンはそのうち倒されると思うけど、いざと
なったら躊躇なく魔法を使って逃げること。わかった?﹂
﹁う、うん﹂
念のため式神を何体か置いていこう。
それで十分だろう。

153
﹁セ、セイカくんは?﹂
﹁ぼくはちょっと用事があるから﹂
﹁えっ、用事?﹂
﹁何かあったらすぐ戻ってくるよ﹂
イーファの目から隠れるように、柱の陰から飛び出す。
そして。
・・・・・・・・・ ・・・・・・・・ ・・・・・
敵を見ている式神と、ぼく自身の位置を入れ替えた。
第二十話 最強の陰陽師、入学式に出る︵後書き︶
※式神︵フクロウ︶
フクロウの眼球には輝板と呼ばれる反射板があり、網膜を一度通っ
た光を再度利用できる。暗い夜でも視界を確保できる一方で、像が
結びにくくなるため明るいところでの視界はよくないとされる。式
神は術者の定めた標本を参照して機能するため、その生物とだいた
い似た能力を持つ。 154
第二十一話 最強の陰陽師、魔族と戦う 前
学園の敷地には、大きな森があった。
貴重な薬草が生える森で、この場所に学園が建ったのもそもそも
それが理由だ。危険なモンスターこそとうの昔に排除されているが、
未だにその奥地は人の灯りの及ばない自然の聖域だった。
その森に、人の影があった。
ひらけた場所に青白い巨大な魔法陣が描かれ、その上に立って精
神を集中させている。

155
月光に照らされる黒い肌。
巻き角の生えた異形の頭。
およそ人の姿ではない。
前世であれば、鬼かと見紛っただろう。
すが
﹁︱︱︱︱怪し夜の、月照らす野に人遭はば、人でなしとて気ぞ清
しけれ﹂
声に人影が振り返った。
ぼくは、黒い鬼へと微笑みかける。
﹁これ、ぼくの師匠が詠んだ歌なんだ。師匠のことは大嫌いだった
けど、この歌は好きでね。月が怪しいほど美しい夜に誰かと会った
けしょう
ならば、それが人ではない、我が宿敵たる化生であったとしても、
なぜか気分が良いものだ⋮⋮そんな意味だよ。今のぼくの気分にぴ
ったりだ﹂
剣呑な視線を向ける鬼へと、ぼくは続ける。
﹁師匠は晩年、心を病んでいてね。人でなし、は自分にも掛かって
るんだよ。人の心を失ってしまった自分でも、月を美しいと感じる
情緒が残っているのだな⋮⋮そんな意味もある。君は︱︱︱︱どう
だい? 人ではない化生の身なれど、今宵の月を美しいと感じる心
はあるかな﹂
﹁何だ? 貴様は﹂
ようやく返ってきたのは、地鳴りのような低い声だった。

156
黒山羊のような、人のような面貌。
書物でしか読んだことがないが、こいつは魔族⋮⋮その中でも、
悪魔と呼ばれる種族に違いない。
その口が歪む。
﹁人間の子供がなぜいる。まさかここを嗅ぎつけたのか? だとす
れば⋮⋮愚かだな。たった一人でこの我に挑もうとは﹂
﹁ちょっと遊びたくてね。体がなまりそうだったから﹂
﹁⋮⋮功を焦るか。哀れなり、命の短い人間よ﹂
なんか都合よく解釈している悪魔に、ぼくは問いかける。
﹁そんなに自信があるならさ、ぼく逃げないから教えてよ。君︱︱
︱︱何を探してる? ずっと見てたよね。あのレッサーデーモンの
目を通して﹂
﹁ほう﹂
悪魔の目が、わずかに見開かれる。
﹁気づくか。だが愚問なり。そのようなもの、一つしかあるまい﹂
﹁だからなんだよ﹂
﹁⋮⋮言わなければわからぬか。勇者だ。決まっているだろう﹂
﹁勇者?﹂
ぼくは首を傾げる。
この世界の書物で読んだことはあったけど⋮⋮。
﹁あの伝説の?﹂
﹁そうだ﹂

157
﹁なんでそんなものを﹂
﹁生まれたからに決まっているだろう! 人間側の英雄が現れたに
も関わらず、我ら魔族の英雄たる魔王様は、未だにご誕生なされな
い⋮⋮。だから潰しに来たのだ。勇者が力を付ける前に﹂
﹁うーん。確認なんだけど、勇者ってあの⋮⋮おとぎ話の勇者のこ
とだよね?﹂
﹁おとぎ話?﹂
一瞬の沈黙の後︱︱︱︱魔族の男は、高笑いを上げた。
﹁これは滑稽だ! 愚かなり、愚かなり人間ども! あの伝説の戦
いを、よもやおとぎ話とは。民が知らぬということは、もはや勇者
と魔王の誕生を知る予言の術も失ったと見える。争いのない時が続
いたとは言え、ここまで人が堕していようとはな﹂
﹁はぁ、事情がわかったようなわからないような⋮⋮﹂
要するに勇者と魔王というすごい奴らがいて、そいつらは定期的
に転生するけど、その間隔が長かったせいで人間の側ではおとぎ話
の存在になり、一方で寿命の長い魔族の側ではちゃんと口伝されて
た⋮⋮っていうことかな?
﹁でも勇者や魔王だなんて本当? 君たちの妄想じゃなくて?﹂
﹁戯れ言を。十二年前の託宣が虚妄であるなどありえない。それに
我は、今宵確かに、あの館の中に見たぞ。託宣に語られた勇者︱︱
︱︱尋常ならざる力を振るう、赤い髪の女を﹂
﹁赤い髪?﹂
それってまさか。
﹁あー、アミュのこと? たしかに、あの子ちょっとおかしいくら

158
い強いね。ふうん、勇者か⋮⋮﹂
﹁アミュという名か。調べる手間が省けたな﹂
﹁どういたしまして。まあでも﹂
ぼくは悪魔へと笑いかける。
﹁君、ここで殺しちゃうんだけどね﹂
﹁⋮⋮ふむ、問答はこれで終わりか? ならば手早く済ませよう。
︱︱︱︱来たれ、眷属﹂
巨大な魔法陣、その内部に埋め込まれていたやや小さな魔法陣か
ら︱︱︱︱三体のデーモンが現れた。
む、ちょっと強そう。
講堂にいたやつらよりずっと小さいが、力の流れは大きい。
特に真ん中奥にいる、体に赤い紋様の入ったやつ。
﹁こいつらはレッサーデーモンとは違うぞ。貴様らの軍とも単騎で
渡り合う、我が配下の中でも精鋭だ。残念だが︱︱︱︱﹂
﹁あっそ﹂
︽火土の相︱︱︱︱鬼火の術︾
左の一体に特大の青い火球がぶち当たる。
爆散した︽鬼火︾の核は、デーモンの胸部を大きく抉っていた。
派手に崩れ落ちる左側の個体を目くらましに、ヒトガタが一枚、
密かに右側の個体に貼り付く。
片手で印を結ぶ。

159
︽陽の相︱︱︱︱落果の術︾
瞬間、右側のデーモンが潰れた。
一気に千倍となった自重のせいで、地面が凹み、体はその中で汚
泥となっている。
﹁弱いのはいらないんだ﹂
一瞬で倒された二体を一瞥もせず。
赤い紋様のデーモンが、ぼくへと疾駆する。
その爪が迫る。
﹁こいつだけもらっとくね﹂
最後のデーモンが、動きを止めた。
爪をぼくに振りかざしたまま微動だにしない。
その周りには、五枚のヒトガタ。
それを頂点とした五芒星の陣が、デーモンの動きを封じていた。
扉となるヒトガタを浮かべる。
印を結び、真言を唱える。
﹁︱︱︱︱ ℉ ﹀

︽護法︱︱︱︱降魔位相転封︾
空間が歪み、光が漏れ。
最後のデーモンはあっという間に、扉のヒトガタへと吸い込まれ
ていった。

160
周囲はいつの間にか、燐の残り火が燃え、汚泥が不快な臭気を発
するだけの静かな森へと戻っている。
﹁貴様⋮⋮今何をした?﹂
﹁ん? もらった。別に必要なかったんだけど、一応﹂
﹁⋮⋮転移魔法か。どこに送ったかは知らぬが、闇属性の魔法を操
り我が眷属を葬るとは。少しはやるようだな﹂
またなんか都合よく解釈した悪魔の人が、ぼくを睨みつける。
ゆう
﹁よい。ならば︱︱︱︱誇りに思え。この悪魔族の雄、ガル・ガレ
オスの手によって死すことを﹂
ガレオスとか名乗った悪魔。その周囲の土が盛り上がる。
土塊からいくつも生え出たのは、黒銀色の剣だった。
﹁我は土と火を司る金属の悪魔。眷属と同じ手が通ずると思うな﹂
刃が浮かび上がり、その切っ先をぼくに向ける。
あれ、素材は鉄かな。
たしかにデーモンどもよりは強そうだ。
一瞬で倒しすぎたからよくわからないけども。
﹁同じ手が通じないって?﹂
試しに︽鬼火︾を何発か打ってみる。
ガレオスはそれを、浮かべていた刃を飛ばし、迎え撃った。

161
青い火球は届かず、すべて空中で爆ぜ割れる。
﹁ふうん。じゃあこっちは?﹂
﹁無駄だ﹂
密かに飛ばしていた︽落果︾のヒトガタ。
それらがすべて、ガレオスに迫るやいなや燃え上がった。
火の魔法を使うというのも本当みたいだな。
﹁終わりか? ならばもう死ね﹂
ガレオスが刃を放つ。
ぼくはそれを、普通に避けた。
なんだ、遅いな。期待外れだったか⋮⋮。
﹁愚かなり﹂
﹁っ!﹂
ぼくは咄嗟に身を逸らす。
・・・・・
真後ろから飛んできた刃は、頬を浅く掠めるだけで済んだ。
ちらと後ろを見ると、空中に魔法陣の残光が目に入る。
こいつ、飛ぶ刃を転移させたのか。
﹁我は悪魔族だぞ。闇属性の転移魔法なぞ、手足のごとく操れて当
然だ﹂

162
今度はぼくへ炎の魔法が放たれる。
大きく避けるが、その光に目がくらんだ。
そのせいで︱︱︱︱ぼくに肉薄するガレオスの姿に気づくのが、
ほんのわずかに遅れた。
おご
﹁驕ったな?﹂
その手に持つ、黒銀の刃が一閃される。
右腕に激痛。
︱︱︱︱肘から先を切り飛ばされた。
その事実に気づくのにかかった時間は、幸いなことに一瞬で済ん
だ。
﹁チッ⋮⋮﹂
ぼくはすぐに近くにいた式と位置を入れ替え、ガレオスから距離
を空ける。
気の流れで右腕の痛みを抑え、ヒトガタで断面の止血をする。
まだ戦えるが、苛立ちだけは禁じ得ない。
やってしまった。
﹁奇妙な転移魔法を使うのだな、人間。だがこれでどうだ?﹂

163
いつの間にか生み出されていた無数の細かな刃が、ガレオスから
四方八方へ放たれる。
それらは正確に、ぼくの式神を射貫いていた。
力を失ったヒトガタがひらひらと地に落ちる。
ぼくは、自分の表情が強ばるのを感じる。
﹁⋮⋮へえ、式神がわかるんだ。見えなくしてたはずだったんだけ
どな﹂
﹁これでもう転移は使えまい﹂
ガレオスは言う。
﹁認めよう、人間。貴様は強い。我が眷属を軽く破り、多彩な魔法
で我に抗った。貴様と勇者を倒したことは、同胞へ誇りとともに語
れるだろう﹂
﹁⋮⋮何もう終わった気でいるんだ?﹂
ぼくは︽鬼火︾を連発する。
だが狙うガレオスの姿は、魔法陣の残光とともにかき消える。
おご
﹁貴様の敗因は、その驕りだ﹂
次の瞬間。
ありとあらゆる方向から、ぼくに黒い刃が降り注いだ。
避ける場所などあるはずもなく、全身を貫かれる。

164
膝を突いた。
臓腑から血がこみ上げ、口からあふれ出る。
赤く染まったぼくの前に、ガレオスが立つ。
﹁子供の身で、それほどの力を持ったことが不運だったな。成熟し
ていればこんな無謀な戦いになど挑まなかったものを﹂
﹁だ、から⋮⋮何を、もう終わった気で⋮⋮﹂
﹁終わりだ﹂
ガレオスが、無造作に剣を振った。
型も何もないその刃は。
しかしあっけなく︱︱︱︱ぼくの首を切り飛ばした。
****
首のない死体を見下ろすガレオスは、溜息をついて呟く。
﹁よもや人間の子供相手に面白い戦いができようとは⋮⋮いやもう
一人、まだ勇者が残っていたな﹂
踵を返す、悪魔族の男。
その背に向けて。
ぼくは、歌を詠み上げる。

165
くろくも う
﹁︱︱︱︱澄みし夜の、曇りなきこそ寂しけれ、憎き黒雲、失して
思わん﹂
第二十一話 最強の陰陽師、魔族と戦う 前︵後書き︶
※落果の術
対象の重量を増加させて押し潰す術。陽の気は正のエネルギーを司
る。﹃今昔物語集﹄巻第24第16話に、安倍晴明が使用した似た
術についての記載がある。
166
第二十二話 最強の陰陽師、魔族と戦う 後
ゆっくりと、ガレオスが振り返る。
表情に乏しいその面貌にも、今は驚愕の感情がうかがえた。
ぼくは笑いかける。
﹁これ、ぼくが作った師匠への返歌なんだ。一点の曇りもない澄ん
だ夜空はどこか物足りない。月を隠す雲のようだった憎いあなたで
も、いなくなったらそう思えた⋮⋮っていう意味だよ。歌は苦手な
んだけど、どうかな? 師匠には感想を聞けなかったから⋮⋮まあ、
ぼくが殺しちゃったからなんだけどね。ちなみに最初の歌の人でな
しってぼくのことだよ。ひどいよね﹂

167
﹁⋮⋮なぜ生きている?﹂
ぼくの言葉など聞こえていないように、ガレオスが言う。
﹁なぜって、見ての通りだけど﹂
両腕を広げてみせる。
五体満足どころか、制服には血の汚れすらもない。
﹁光属性の治癒、いや蘇生術⋮⋮? もう一度殺せばわかることか﹂
瞬く間に巨大な刃を生み出し、ぼくへと放った。
それは正確に額へ突き立ち、頭が割られる。
ぼくは死んだ。
︱︱︱︱そして、術が発動する。
頭を貫いていた刃が消滅。
傷が瞬く間に治っていく。
﹁はい復活﹂
ぼくは生き返った。
みのしろ
頭部に穴が開き、力を失った身代のヒトガタをその辺に捨てる。
﹁⋮⋮なんだその魔法は。生き返るのはともかく、なぜ刃が消える。
時を戻したのか⋮⋮?﹂
﹁そんなことしてないよ。単に異物があったら消すよう式を組んで
ただけ。ちなみに服も一緒に直るようにしてあるよ。焼け死んだと

168
きに不便だからね﹂
﹁⋮⋮よい。ならば、死ぬまで殺すだけだ﹂
また刃を作り始めるガレオスを見て、ぼくは呆れる。
﹁まだやる気なんだ。普通、ここは一度退くところじゃない? そ
んなに勇者を倒したいの?﹂
﹁無論。最強の存在を、最強になる前に倒す。その機会は逃せない﹂
﹁最強、最強ねぇ⋮⋮﹂
ぼくは失笑を漏らす。
﹁くだらないよ﹂
﹁何⋮⋮?﹂
﹁最強なんてくだらないって言ってる。勇者も魔王も、それに固執
している君も総じてくだらない。勇者をおとぎ話にしたこの国の人
間の方がまだ賢いくらいだ。考えてもみなよ。この世界を動かして
いるのは、単に力の強い者か? 武芸に秀でた者なのか?﹂
前世ではぼく以外にも、およそ人とは思えないような強者はいた。
悪精シャイターンの加護を持ち、暗殺教団の頂点に君臨したイス
ラムの指導者。
無数の機械人形を従え、底知れない叡智をその頭脳に宿していた
ユダヤの哲学者。
おおむかで
日本にも、人の身にして大百足や鬼を斬る武者がいた。
だが、世界を動かしていたのはその者たちではない。
こうかつ
﹁力とは数だ。強さとはそれを操る狡猾さだ。個人の暴力なんて、

169
世界にとっては取るに足らない﹂
﹁それは貴様が真の強さを知らぬだけだ。圧倒的な力の前にはあら
ゆる者がひれ伏す﹂
﹁元最強が言うことなんだけどなぁ﹂
﹁戯れ言を⋮⋮ッ!﹂
ガレオスの浮かべていた刃が、すべてかき消える。
あ、転移させたな。
﹁もういいよ、それ﹂
全方位から降る黒い刃。
それらがすべて、ぼくに届く寸前にぼろぼろと崩れ去った。
﹁結界!? だが、魔法を無効化するなど⋮⋮﹂
﹁結界なんだから術を封じるのは当たり前だろう? しかもこれヒ
トガタ十一枚も使ってるからね。そう簡単には破れないよ﹂
﹁ならばその符を破壊するのみだッ!﹂
ガレオスが炎と刃を放つ。
それらはたしかに、結界の頂点を担うヒトガタを狙っていた。
うーんでも、あんまり意味ないんだけどなぁ。
まあ付き合ってやるか。
ばくふ
︽水の相︱︱︱︱瀑布の術︾
莫大な量の水が、ヒトガタから吐き出される。
それは炎を飲み込み。

170
刃を飲み込み。
ついでにガレオスをも飲み込んだ。
陰や陽の気がなくとも、大量の水はそれだけで強い。
﹁ぐっ、なんだこの水の魔法は、どんな魔力量だ⋮⋮﹂
ガレオスの姿が現れる。
やっぱり転移で抜け出されたか。
﹁魔法は通じぬか、ならば直接葬るッ﹂
尋常じゃない脚力で、ガレオスが地を蹴った。
まあそうくるよね。
ぼくは後退しながらヒトガタの扉を開く。
︽召命︱︱︱︱雷獣︾
位相から引き出されたのは、アナグマに似た黒い小動物だった。
﹁シ︱︱︱︱ジチチチ、シジチチ﹂
火花を含んだ唸りのような、奇妙な鳴き声。
その剣呑な気配を察したのか、ガレオスの狙いが雷獣へと向けら
れる。
勘が良いね。無意味だけど。
﹁シジヂッ!﹂

171
雷獣から特大の稲妻が放たれ︱︱︱︱ガレオスへと突き立った。
破裂音と共に悪魔が吹き飛び、地面へと転がる。
鮮烈すぎる光のせいで目がチカチカする。
うーん、やっぱり大した威力だな。
あやかし
雷獣は、稲妻と共にまれに地上に落ちてくる妖だ。
見た目はただの小さな獣だが、その身には落雷の力が宿っている。
あれだけずぶ濡れでは、船乗りが持つような雷避けの加護があっ
ても防げなかっただろう。
﹁おーい、もう終わりか? ⋮⋮あっ﹂
悪魔の姿がかき消える。転移したみたいだ。
あ、これは後ろかな?
振り返ったぼく。
その腹を、ガレオスの手刀が貫いた。
﹁驕っ、たな?﹂
熱で白濁した眼球でぼくを睨み、ガレオスが呟く。
ぼくは血を吐きながら笑い、その腕を掴んだ。
﹁捕まえた﹂
︽金水の相︱︱︱︱灰華の術︾

172
ぼくとガレオスの間で、術が発動。
すさまじい爆発と共に、黄色の火柱が上がった。
爆風で吹き飛んだぼくは、しばらくしてやおら立ち上がり制服の
汚れを払う。
ガレオスを見ると、ひどい有様だった。
片腕がない。腹からは内臓がこぼれ、体は所々溶けている。
﹁知っていたかい、金属の悪魔さん﹂
ぼくは瀕死のガレオスに語りかける。
﹁塩を二つの要素に分解すると、一方に金気が現れる。つまり塩は
金属を含んでいるんだよ。そしてその純粋な結晶はね、水と激しく
反応するんだ。ちょうど今みたいに﹂
アルカリ
頭部と両腕がちぎれ、強塩基で溶解するヒトガタの隣で、無傷の
ぼくは滔々と語る。
﹁なん、だ⋮⋮それは。知らぬ⋮⋮あり、得ぬ⋮⋮そのよう、な⋮
⋮金属など⋮⋮﹂
﹁君たちさぁ、ちょっと勉強不足じゃないかな﹂
﹁な、に⋮⋮﹂
﹁ぼくも認めるよ。四属性魔法はけっこう役に立つ。特に、モンス
ターを相手にするならね﹂
あやかし
強さだけなら、前世の妖の方がよほど強かった。
しかし実際のところ、妖による人の被害というのはごく少ない。
野犬や熊の方がずっと恐ろしいくらいだ。そのうえ、肉体に依らな

173
い魂である妖には、呪術がよく効いた。
一方で、こちらのモンスターは野犬や熊よりも強く、さらには人
をよく襲う。しかも在り方が動物に近いために、妖に比べ呪術が効
きづらい。
そこで手っ取り早く火力を得るために発達したのが、実物の火や
氷を放つ四属性魔法、ということなんだろう。
﹁それはいいよ。でもそれならさ、どうしてもっと突き詰めないか
な。君たち、火ってなんだか考えたことある? 水を分解すると風
になることは? 風を冷やすと氷よりも冷たい水になることは?
土の中にある一番多い要素は、実は風の中にあるものと同じって知
ってた?﹂
﹁なん、だ⋮⋮何を、言って⋮⋮﹂
﹁このレベルの話を理解できないのはまずいよ。ぼくたちの認識す
る第三階層の話だよ? 観測して初めて処理される第二階層や、根
源たる第一階層の話じゃない。もっと勉強しなよ。ぼくなんて昔、
わざわざ海を渡ってまで古代の叡智を求めたのに。それくらい情熱
のある魔術師はこの世界にいないのかな?﹂
ガレオスは残った片腕をつき、震える体を起こす。
﹁敵を前に、説教、か⋮⋮余裕、だな⋮⋮﹂
﹁そりゃあね﹂
﹁だが⋮⋮我は、まだ⋮⋮戦え、る、ぞ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁貴様、の、奇妙な符は⋮⋮もはや残り、少ない、はず⋮⋮我にも、
勝機、は残っ⋮⋮﹂
﹁符ってこれのこと?﹂
︽召命︱︱︱︱ヒトガタ︾

174
︽召命︱︱︱︱ヒトガタ︾
︽召命︱︱︱︱ヒトガタ︾
︽召命︱︱︱︱⋮⋮
位相から取り出した無数のヒトガタが、夜空に並ぶ。
﹁まだまだいっぱいあるよ﹂
何年間もこつこつがんばって作ってたからね。
笑顔のぼくに、ガレオスは虚無の表情を返す。
﹁⋮⋮あり得ぬ⋮⋮あり得、ぬ⋮⋮敗ける、だと、こ、の我が⋮⋮
⋮⋮先代の長を、下し⋮⋮英傑の、再来と、言われ⋮⋮人間の、剣
王すら破ったこの、ガレオス、が⋮⋮﹂
﹁もう終わりな感じ? 君、思ったより弱かったね﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
﹁ちょこまかと逃げ回って雑魚を喚ぶだけなら、別にいらないかな。
まあ君は位相に送ってもすぐ死んじゃうだろうけどね﹂
ふう、と溜息を一つ。
﹁よし。宴もたけなわではあるけれど、ここらでお開きだ。では最
後に、其の方の体をもってして︱︱︱︱﹂
一枚のヒトガタを選び取り、その扉を開く。
ちそう
﹁︱︱︱︱ぼくの下僕の馳走とし、この饗宴を締めようか﹂
みずち
︽召命︱︱︱︱蛟︾
空間の歪みから︱︱︱︱太く、すさまじく長い体が伸び上がった。

175
青緑の鱗に覆われたそれは、巨躯をくねらせて天へと昇っていく。
それは、蛇に似ていた。
だが、とても蛇と呼べる存在ではなかった。
長い鼻面に生えそろった牙。太縄のごとき二本のひげ。頭には白
い毛が風になびき、その間からは角が見える。
みずち
蛟が体を反転させ、悪魔へと迫る。
その獲物を食らわんと、顎が大きく開かれる。
ガレオスは絶望の光景に目を見開いていた。
﹁なんだこれは⋮⋮なんだこれは⋮⋮ッ! あり得ぬ⋮⋮魔王様で
も、こんな⋮⋮ドラゴンを⋮⋮ドラゴンを従えるなど⋮⋮ッ!!﹂
﹁ドラゴンじゃない﹂
蛟の牙が、ガレオスを捕らえた。
悪魔の体を空中へと攫い、数回咀嚼した後、その腹に収める。
ぼくは、もう聞こえていないだろう悪魔族の雄に、小さく呟いた。
﹁︱︱︱︱龍だよ﹂
176
第二十二話 最強の陰陽師、魔族と戦う 後︵後書き︶
※瀑布の術
水の気で大量の水を生み出す術。瀑布とは滝のこと。
※灰華の術
金の気で生み出した金属ナトリウムと、水を混合し爆発させる術。
ナトリウムをはじめとするアルカリ金属は水と激しく反応する性質
を持つ。爆炎はナトリウムの炎色反応で黄色く染まる。飛び散った
水は強アルカリの水溶液となり、肉体を溶かす。術名の由来はアル
カリが元々アラビア語で草木灰を意味することから。

177
第二十三話 最強の陰陽師、幸運を喜ぶ
みずち
﹁さて、あとは蛟を回収して終わり⋮⋮って、あ、おい!﹂
ガレオスを食わせた蛟が、空中で暴れ出した。
食中毒!? いや違う。
あいつ、逃げようとしていやがる。
﹁くそ⋮⋮このっ⋮⋮大人しく戻れっ!﹂
式神を何体も飛ばし、無理矢理押さえつける。
扉を開き、なんとか巨体を位相へと押し戻すと、ぼくはようやく
息をついた。

178
﹁セイカさまっ﹂
近くの樹から、白く細長い狐姿のユキがたたっと駆けてくる。
頭に登るのを待ってからぼくは言う。
﹁悪かったなユキ。もしかして、入れ替える時に置いていかれたか
?﹂
﹁それは大丈夫でしたが、ユキはお役に立てなさそうでしたので隠
れておりました﹂
﹁すっかり忘れてたよ。先に言っておけばよかったな﹂
﹁ユキも管ですので、その程度のことはなんの問題もございません。
それより、よろしかったのですか?﹂
ユキは心配そうに言う。
みのしろ
﹁あの程度の相手に、貴重な身代のヒトガタを三枚も使ってしまっ
て﹂
﹁元々動作確認のために三、四回死ぬつもりだったから予定通りだ
よ﹂
﹁そうでございましたか。それで、術の具合はいかがでしたか?﹂
﹁最高だね。ここまでとは思わなかった。やっぱり乳歯とは言え、
媒体に歯を丸ごと一本使えると違うな﹂
傷病をヒトガタに移し替える身代の術は、対象の体の一部が必要
になる。
普通は髪の毛とかを使うのだが、今回ぼくは、抜けた乳歯一本分
の粉末をヒトガタに練り込んでみたのだ。
前世でも親知らずを使って同じことをしたが、ケチって何枚にも

179
分けたせいかここまで劇的に蘇生することはなかった。
﹁実験でも何枚か消費したけど、まだ十枚以上あるから大丈夫だよ。
これからはそう簡単に死ぬつもりはないしね。ただ⋮⋮それ以外の
ヒトガタは、だいぶ無駄にしちゃったな﹂
止血に使ったり打ち落とされたり⋮⋮いったいいくら分損してし
まっただろう。
まさか学園で紙の自作はできないから、これからヒトガタの素材
は買うしかないってのに⋮⋮。
溜息をつくぼくを見て、ユキが言う。
みずち
﹁死ぬのはちゃんとした機会にして、最初から蛟⋮⋮いえ、牛鬼か
六尾あたりにでも任せておけば十分だったのでは?﹂
﹁いやぁ、転生してからこんな機会は初めてだったからさ。自分で
戦いたかったんだよ﹂
﹁はぁ。楽しかったですか?﹂
﹁まあね。いくつか術も試せたし。でも、やっぱりだいぶなまって
るな。それに⋮⋮まさか、蛟ごときに反抗されるとは﹂
実はちょっとショックだった。
でも、無理もないか。
前世に比べ、ぼくはたしかに弱くなっている。
ヒトガタのストックは全盛期の十分の一もないし、封印している
妖だってそう。
切り札だった鬼神スクナは倒され、雷龍や氷龍といった天候すら
操る上位龍も、軒並みあの子に奪われてしまった。

180
なんと蛟が今の最高戦力だ。悲しすぎる。
唯一呪力の巡りだけはいいが、体もまだできあがってないし、い
ろいろ物足りないのはたしかだ。
最強でなくていいけど、せめて前世の強さには戻りたい。じゃな
いとどうも不安だ。
もっとがんばろう。
ユキが言う。
﹁たしかに今日のセイカさまは、ユキが呼ばれてから一番楽しそう
でございました。それならばよかったです!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカさま?﹂
よくよく思い出してみると。
ちょっとぼく⋮⋮テンション上がりすぎてたな。
なんか、だいぶ恥ずかしいこと言ってた気がする⋮⋮。
﹁⋮⋮ユキ。今日のことは、誰にも言うんじゃないぞ﹂
﹁⋮⋮? はい、もちろんでございます﹂
ユキは続けて言う。
﹁そうだ、セイカさまは歌も詠まれたのですね。すてきです! 昔
詠まれた恋歌とか、ユキは聴きたく思います!﹂
﹁やめてくれ⋮⋮﹂

181
****
講堂へと戻ると、中からざわめきが聞こえてきた。
人は未だ多いものの、パニックの治まった出入り口から中に入り、
ほどなくイーファの姿を見つける。
﹁あっ、セイカくん! どこ行ってたの?﹂
﹁ちょっとね。大丈夫だった?﹂
﹁う、うん。セイカくんの言ってたとおり、デーモンはみんな倒さ
れたよ。怪我人は出たけど⋮⋮﹂
ぼくは会場の様子を見る。
三体のレッサーデーモンが、灯りの下に倒れ伏していた。
死骸は焼け焦げていたり、明らかに人が持てない巨大な剣に貫か
れていたりする。
戦いは、つい先ほどまで続いていたようだった。
ガレオスを倒してこいつらがどうなるか心配だったが、自爆とか
しなくてよかった。
怪我人は仕方ないだろう。
いくら雑魚でも、不意を突かれれば完璧な対応は難しいからね。
ふと、デーモンの死骸の一つ。その上に立つ、赤い髪の少女が目
に入った。
返り血を浴び、死骸に剣を突き立てたまま肩を上下させるその姿

182
を、生徒達が遠巻きに見ている。
それらは畏怖のまなざしだった。
まさか⋮⋮、
﹁アミュさん⋮⋮デーモンを一体、倒したんだよ。一人で⋮⋮﹂
イーファの声も、微かに震えている。
なるほど。
どうりで見覚えのある景色だと思った。
あれは、前世のぼくだ。
勇者か⋮⋮いいね。
ぼくは笑いそうになる口元を隠す。
﹁イーファ。ぼく、先に寮に戻ってるね﹂
﹁えっ、セイカくん?﹂
踵を返す。
明るい会場を離れ、暗い廊下を歩いて行く。
﹁セイカさま⋮⋮?﹂
不安そうなユキの声にも、今は答える気が起きない。
ぼくが魔法学園に来たのは人を探すためだ。
多くの才能が集うここなら、ひょっとしたらいるんじゃないかと
思った。

183
でもまさか。
まさかこんなに早く、見つけられるなんて。
最強になりうる者を。
﹁⋮⋮ユキ。今生のぼくは、ずいぶん運に恵まれているみたいだ﹂
世界はその実、暴力で動いている。
ガレオスの言っていたことは、そう的外れでもない。
だが、狡兎死せば走狗煮られ、出る杭は打たれるように。
自分が強くなっても、最後には周りに引きずり倒され、押し潰さ
れる。
それは前世で、ぼくが身をもって知った。
だから必要だった。
ぼくの代わりに、最強になってくれる者が。
ぼくと繋がりのあった役人どもが、朝廷ででかい顔をしていられ
たように。
最強の傘の下こそが、きっと一番利益を得られる。
イーファでは力不足だった。
だけど、勇者なら申し分ないはずだ。
彼女の仲間になろう。信頼される仲間に。
最後には、彼女も押し潰されるかもしれない。
だけどぼく自身は︱︱︱︱今度は、それを悲しむだけで済む。
今度こそ、ぼくは幸せになれるんだ。

184
口元の笑みを抑える。
もしかしたらまた魔族が襲ってくるかもしれないけど、大丈夫だ
よ。アミュ。
魔王とかいうのを倒してでも、
ぼくが君を最強にしてあげるからね。
第二十三話 最強の陰陽師、幸運を喜ぶ︵後書き︶
一章、終わりです。
次、二章です。
185
第一話 最強の陰陽師、揉める︵前書き︶
二章の開始です。
186
第一話 最強の陰陽師、揉める
波乱の入学式が終わって。
ぼくの学園生活は、予定よりも十日ほど遅れてスタートした。
﹁セイカくーん、おはよう﹂
﹁おはよう、イーファ﹂
寮から学舎へ向かう道すがら。笑顔で駆け寄ってきたイーファに、
ぼくは挨拶を返す。
こんな生活も、もう一月が経とうとしていた。

187
デーモン騒動の後、当たり前だが学園内部は対応に追われ大わら
わだったようで、一時は学園を閉鎖し、安全が確認されるまで生徒
を家に帰す意見も出ていたらしい。
あやかし
デーモンを召喚した術者の正体がわからない以上︵ぼくが妖に食
わせたせいだが︶は無理もない。がしかし、結局それは見送られた
ようだった。
そこら辺はいろいろ事情があるんだろう。
まあ術者がわからなくても、学園内の魔法陣が見つかれば手口は
知れるし、対策もとれるからね。
一応、今も学園内外を警備として雇った冒険者が見回っている。
学園側の対応は、そんな感じのようだ。
ふとそのとき。
学舎近くに、見知った赤い髪を見つけた。
ぼくは片手を上げ、笑顔で挨拶する。
﹁やあ。おはようアミュ﹂
勇者、アミュは足を止めると⋮⋮ぼくへ、露骨に面倒くさそうな
目を向ける。
﹁気安く話しかけないでくれる?﹂
アミュはそう言うと、赤い髪を翻してさっさと歩いて行く。
﹁セ、セイカくん⋮⋮﹂
笑顔のまま固まるぼくに、イーファはかわいそうなものを見るよ

188
うな目を向けてくる。
が、大丈夫。
なんの問題もない。
ぼくが転生して立てた人生計画は、とてもシンプルなものだ。
強い奴の仲間になり、その傘の下で甘い蜜を吸う、という。
我ながらすばらしく小者くさくてナイスな計画だ。
こんな奴、誰も目をつけない。ぼくでも無視する。
だから、前世と同じ末路を辿ることもないだろう。
ネックとなるのは肝心の強い奴を見つけるところだったが、また
とない幸運で早々に出会えた。
勇者などという逸材に。
しかも学友という立場だ。親しくなるのに、これほどうってつけ
のポジションもない。
学園生活は始まったばかり。時間はまだまだたっぷりある。
今嫌われているくらい、どうということもない。
ゆっくり友達になれればそれで⋮⋮、
とまで考えて、ぼくは思考が硬直した。
あれ?
友達になるって、どうすればいいんだ?
よくよく思い出してみると、ぼくは前世で自分から友人を作った
ことがない。
向こうから話しかけてきて親しくなることはあったが⋮⋮そのパ
ターンしかなかった。

189
いざ誰かと仲良くなりたくても、どうすればいいのか見当が付か
ない。
ひゃ、百年以上生きてたのに⋮⋮。
冷や汗が流れる。
恐ろしい、あまりに恐ろしい可能性に気づいてしまった。
ぼくってもしかして⋮⋮、
コミュ障?
****
午前の授業が終わった後。
ぼくは、イーファと食堂へと向かうべく、学舎の廊下を歩いてい
た。。
イーファが心配そうな顔で言う。
﹁セイカくん、顔色悪かったけど大丈夫?﹂
﹁あ、ああ。もう平気だよ﹂
ぼくは気を持ち直していた。
大丈夫。
ぼくだって友達がいなかったわけじゃないんだ。
今生でのぼくは家柄もいいし、ツラだってたぶん悪くない。

190
それに、どのような形であれ関わりが増えるほど、人間親しくな
りやすいものだと前世で女たらしの貴族が言っていた。
積極的に話しかけていけばきっといける。
そう信じるしかない。
学園が始まって一ヶ月も経ったのに、仲の良い人間がイーファ以
外にいないというぼくの厳しい現状がふと頭をよぎったが、無視す
ることにした。
不安になるだけだから。
﹁君ィ! 失礼じゃないか!﹂
学園の廊下に、声が響いた。
周りにいた生徒たちが、何事かとそちらを見やる。
そこには四人の大柄な男子生徒に囲まれた、アミュの姿があった。
囲んでいるのは、どうやら上級生のようだ。
やれやれ。
また絡まれてるよ。
デーモンの一体を一人で倒したアミュは、一躍学園の英雄に⋮⋮
とはならなかった。
てっきり雑魚だと思っていたあのレッサーデーモンは、どうやら
一般的な基準からすれば雑魚ではなかったらしい。
数人で倒したならば英雄で済んだだろう。

191
だが一人で倒したならば、それはもはや強すぎる化け物だ。
周りから向けられるのは畏怖の視線ばかり。
アミュは孤立していた。
さらに悪いことに、アミュの功績は、あの場にいなかった上級生
たちの嫉妬を買った。
入学式に出ていた上級生は一部の成績優秀者だけだったようで、
そうでない者はデーモンの恐ろしさは知らないままにアミュの名前
だけが聞こえてくる状態だった。それがよくなかったらしい。
ただでさえ異様な成績で首席になったアミュは、あっという間に
目を付けられた。
というわけで、あんな風に絡まれている様子はしょっちゅう見る。
そのくせアミュはどれだけ詰め寄られても毅然としているからか、
嫌がらせは止む気配がなかった。
ぼくは溜息をつく。
まあ、強いとああなるんだよな。
周りの生徒も遠巻きに見るばかりだし。
あの上級生が怖いのもあるんだろうけど⋮⋮。
仕方ない。
﹁あのー、どうかしました?﹂
声をかけると、四人の上級生が一斉に胡乱げな視線を向けてきた。
ぼくは笑顔のまま話す。

192
﹁彼女、この後ぼくと約束が⋮⋮﹂
﹁なんだね君は?﹂
四人の中で中央にいた、一番ひょろい金髪が口を開く。
﹁消えたまえ。私は今この平民に教育を施しているところだ。この
レグルス・シド・ゲイブルの声を無視する不届き者は、どうやら世
の仕組みというものをわかっていないらしいのでね﹂
﹁あたしはひ弱なお貴族様の嫌みと自慢話なんて聴いているヒマは
ないの。わかったならどいてちょうだい﹂
アミュの挑発するような物言いに、上級生たちが怒りの目を向け
る。
あーあ、もう⋮⋮。
﹁アミュ、ちょっともうその辺で⋮⋮﹂
﹁消えろと言ったのがわからないのかね? 君、家名は? まさか
平民の分際でこの私に生意気な口をきいているのではあるまいね?﹂
﹁ぼくは⋮⋮﹂
そのとき、右側にいた生徒がレグルスに耳打ちする。
﹁⋮⋮レグルスさん。こいつ、ランプローグですよ。例の﹂
聞いたレグルスは、急に偽物っぽい笑みを浮かべた。
﹁これはこれは。今年はあの名門ランプローグ伯爵家からご子息が
入学されたと聞いたが、君がそうだったとは。会えて光栄だよ、セ
イカ・ランプローグ君﹂
﹁はぁ。どうも﹂

193
﹁それにしても、ランプローグ伯爵家も思い切ったことをする︱︱
︱︱まさか妾腹の魔力なしを、奴隷付きでこの魔法学園に入れると
は。どれだけの金を渡したのか知らないが、うまくやったものだね﹂
﹁⋮⋮﹂
あらら。
そんな噂が立ってたのか。
貴族と言えば噂、噂と言えば貴族だし無理もないが⋮⋮これはひ
ょっとすると、ぼくもアミュと同じように敬遠されてた感じなのか
な?
﹁まったく魔法学園の質も落ちたものだ。よもや首席が平民、次席
が奴隷、三席が妾腹の魔力なしとはね。で、あらためて訊くが君⋮
⋮まさか落とし子の分際で、このゲイブル侯爵家たる私に生意気な
口をきいているのではあるまいね?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ふ、そう萎縮せずともよい。詫び代わりに、そうだな﹂
と、レグルスがイーファに粘着質な視線を向ける。
﹁君の奴隷を一晩貸してもらえさえすれば、我々は寛容な心で許そ
うではないか。なあ、お前たち?﹂
取り巻きどもが下衆な笑い声を上げる。
その中の、一際大柄な男子生徒が、イーファの肩になれなれしく
腕を回した。
﹁レグルスさん、一晩とは言わず買い取っちまいましょうよ。この
奴隷⋮⋮なかなかのもんですよ﹂

194
イーファが怯えたように顔を俯けた。
レグルスは大げさに言う。
﹁おお、それはいい考えだ。君、あの子はいくらだね? 言い値で
買おう﹂
﹁⋮⋮悪いですが、イーファを手放す気はありませんので﹂
﹁はぁ、それなら君は何を差し出せるのかね? ⋮⋮おや﹂
レグルスはおもむろにぼくの胸ポケットへ手を伸ばすと、ルフト
からもらったガラスペンを入れていた革の袋をつまみ上げる。
﹁ほう。これは﹂
﹁レグルスさん、そのペン帝都でももうなかなか手に入らないやつ
ですよ﹂
﹁ふむ、落とし子には贅沢すぎる品だ。そう言えば、ちょうど羽ペ
ンを買い換えたいところだったな﹂
﹁⋮⋮それは大事な物なので、返してもらえませんか﹂
﹁わからないのかね? これで許すと言っているんだよ。それとも、
奴隷を差し出すか?﹂
軽薄な笑みで言うレグルス。
ぼくは、はぁー、と特大の溜息をついた。
もういいや、めんどくさ。
ぼくは声に呪力を込める。
﹁レグルス・シド・ゲイブル﹂
﹁なんだね? いきなり敬称も付けずに。無礼な呼び方を私が許す
と⋮⋮﹂
・・・
﹁︱︱︱︱動くな﹂

195
その瞬間、レグルスは動きを止めた。
口を半開きにして、間抜けな彫像みたいになっている。
眼球が動いてなかったら見間違ってもおかしくないくらいだ。
ぼくは、その手から革袋とガラスペンを取り返す。
﹁返してくれて、どうもありがとうございます﹂
そしてぼくは、次にイーファの肩に手を回していたがたいのいい
男子生徒に顔を向ける。
﹁君、名前は?﹂
﹁お⋮⋮おれはプレング子爵家のマルクだ。伯爵家だろうが、落と
し子ごときに指図される謂れはねーぞ!﹂
﹁ではマルク・プレング。そこで固まってる侯爵家の若様をぶん殴
れ﹂
﹁え? あ、ああ﹂
ばきぃッ、という強烈な音がして、レグルスが吹っ飛んだ。
﹁レグルスさん!? お、おれは何を⋮⋮﹂
床に伸びたレグルスへ、マルクを含めた取り巻きどもが慌てて駆
け寄る。が、反応がないようだ。
気絶したみたいだな。
マルクよ、君は武闘家になれ。そっちの方が向いてる。
それにしても、こちらの魔術師はしょうもないな。
ちょっと名前で縛っただけでこれか。

196
前世ならド素人でももう少し抵抗したぞ。
﹁行こうかイーファ﹂
イーファの手を取って歩き出す。
その小さな手が微かに震えていて、ぼくは苦笑する。
﹁イーファも臆病だな。あんな連中、今の君ならあくびをする間に
火だるまにできるだろうに﹂
﹁⋮⋮そんなことできないよ﹂
消え入りそうな声。
そりゃ実際にはできないだろうけど、自分の方が強いんだからそ
う怖がることもないだろうに。
﹁だって⋮⋮わたしはセイカくんの所有物なんだよ。わたしのした
ことは全部、セイカくんと、ランプローグ家の責任になるのに⋮⋮﹂
ぼくは足を止めた。
そういうことか。
﹁ごめん、そうだね。今度から気をつけるよ﹂
そう言ってイーファの頭を撫でてやると、くすんだ金髪の柔らか
な感触が手に心地よかった。
それにしても、狡猾に生きるというのは難しい。
さっきだって揉め事を起こすつもりじゃなかったんだけど⋮⋮。
やり返さなければ奪われ続け、やり返せば目を付けられる。
世の中ままならないな。

197
﹁イーファも、ぼくとか家とか気にせずやりたいようにしていいよ。
なんとなく、ぼくの方がやらかしそうな気がするし⋮⋮﹂
﹁ねえ﹂
背後から声。
振り返ると、腰に手を当てたアミュの姿があった。
﹁なに? さっきのあれ﹂
ぼくは微笑のまま答える。
﹁あの子分、侯爵家の若様によほど鬱憤が溜まってたみたいだね﹂
﹁ふざけないで。あんたがやったんでしょ﹂
﹁さあ﹂
アミュはつかつかとぼくへ詰め寄ると、その端正な顔を寄せ、脅
すような声音で言う。
﹁答えなさい﹂
間近で見る若草色の瞳には、激情が宿っていた。
ぼくは一つ息を吐いて言う。
﹁訊いたら素直に教えてもらえると思った? 手の内はそうそう明
かさないよ。誰だってね﹂
﹁⋮⋮あっそ。ならいいわ﹂
隣を赤い髪が通り過ぎていく。

198
ふと余計なことを言いたくなった。
﹁てっきり、お礼を言われると思ったんだけどな﹂
﹁はあ?﹂
アミュが振り返る。
﹁もしかして助けたつもりだったわけ?﹂
﹁うん﹂
﹁余計なお世話。あんな連中なんでもないわよ﹂
﹁無闇に敵ばっかり作ってると、そのうち痛い目見ると思うよ﹂
﹁余計なお世話って言ってるでしょ。あんたなんなの? あたしに
構わないで﹂
あー、まどろっこしいな。
ぼくは笑顔を作って言う。
﹁ぼくたち、友達にならないか?﹂
﹁はあ? なに、いきなり﹂
﹁お互い変な噂や偏見のせいで苦労してるだろ? だから助け合お
うってことだよ﹂
﹁うわさ? 魔力なしとか奴隷侍らせてるとかはともかく、妾腹が
どうこうはあたしさっき初めて聞いたんだけど。あんたは素で友達
がいないだけなんじゃないの?﹂
精神攻撃にひるむぼくを、アミュは冷たい目で見つめる。
﹁あたしは友達ごっこをするために学園に来たんじゃない。強くな
るために来たのよ。くだらない連中となれ合うつもりはないわ﹂
﹁⋮⋮誰に対してもつんけんしてるのはそのせい?﹂

199
﹁だったらなに﹂
﹁下策だな。強くなりたいなら、なおのこと仲間を作らないと﹂
﹁はあ?﹂
﹁強さは数だよ。一人でできることなんて限られる。今の君は、こ
の学園の誰よりも弱い﹂
アミュがぼくを睨みつける。
﹁だから成績優秀者同士でつるみましょうってわけ? ダッサ﹂
﹁ダサいかな﹂
﹁いずれにせよお断りよ。弱い仲間なんていない方がマシ。いくら
名門伯爵家のお貴族様でも、魔力なしなんてね﹂
﹁ぼく魔力はないけど、別に魔法が使えないわけじゃないよ。魔法
演習の授業同じの取ってるんだから知ってるだろ﹂
﹁使えるだけでしょ? 入試の実技では自分の従者にも点数負けて
たくせに。あんたが三席だったのはあの嘘くさい筆記点数のおかげ
じゃない。なに満点って。逆に気持ち悪いんだけど﹂
﹁いやあれくらい⋮⋮﹂
ぼくが言い返そうとしたとき。
隣で、イーファが一歩前に出た。
﹁じゃ、じゃあ、わたしの点数も嘘くさい? セイカくんより、十
点低かっただけだけど﹂
アミュは、わずかに鼻白んだ様子で言う。
﹁あなたの点数を見て調整したんじゃないの? お貴族様が筆記ま
で奴隷に負けるわけにはいかなかったから﹂
﹁わたしに勉強を教えてくれたのはセイカくんだよ。魔法だってそ

200
う﹂
押し黙るアミュに、イーファが言う。
﹁ほんとはセイカくんの方が魔法だってずっと上手なの。でもセイ
カくんやさしいから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? やさしいのがなにか関係あるわけ?﹂
﹁的を傷つけないように、威力を抑えて魔法を使ったの! 試験官
の人があんな演技しなかったら、三枚の的を壊して三属性分満点取
れてたんだから!﹂
﹁⋮⋮演技? 的を壊すとか壊さないとか、なに言ってるの? そ
んなの点数に関係なかったはずだけど﹂
﹁えっ⋮⋮でもアミュちゃん、的を六枚壊して実技で満点取ったっ
て聞いたよ﹂
﹁あのね⋮⋮﹂
アミュがこめかみを押さえて言う。
﹁実技試験は、型どおりの魔法をどれだけ正確に出せるかが採点基
準なのよ﹂
﹁えっ﹂
﹁えっ﹂
﹁もしかして、的を壊せば満点だと思ってたわけ? 呆れた⋮⋮試
験官が一度でもそんなこと言った? 常識的に考えてそんなわけな
いじゃない。ていうかあの的、消耗品じゃないんだから壊れて困る
のは当たり前でしょ⋮⋮あんたたち、やっぱり本当はバカなんじゃ
ないの?﹂
ぼくとイーファは顔を見合わせる。
どうしよう。何も言い返せない。

201
﹁う⋮⋮セ、セイカくん﹂
イーファが助けを求めるような視線を向けてくるが、ぼくは目を
逸らす。
﹁いや、あれ最初に言いだしたのイーファだし⋮⋮﹂
﹁!? セ、セイカくんだって納得してたじゃない!﹂
﹁なに低次元の言い争いしてるのよ。同レベルよ同レベル。てかあ
んたも従者のせいにしてんじゃないわよ。ちっさいわね﹂
アミュは大きな溜息をつく。
﹁バカ貴族にバカ奴隷。絡んでくる有象無象より、あんたたちの相
手してる方がよっぽど疲れるわ⋮⋮﹂
そう言って、アミュは踵を返す。
と、急にその体が傾いだ。
﹁っ⋮⋮﹂
転びはしなかったものの、辛そうに目頭を押さえている。
え、そこまで疲れたのか?
﹁大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮なんでもないわよ﹂
そう言い残し、アミュは去って行った。
うーん?

202
なんかいやな感じするな。勘だけど。
﹁バカ貴族にバカ奴隷だって。セイカくん﹂
隣を見ると、イーファがうらみのこもった視線を向けてきていた。
思わず笑みが引きつる。
﹁あ、あはは、で、でも⋮⋮イーファも変なところで勇気があるよ
ね﹂
﹁⋮⋮なにが?﹂
﹁ア、アミュに突っかかっていくなんてさ⋮⋮ぼくだったら、あの
愉快な侯爵家若君よりもアミュを怒らせる方がずっと怖いな、って﹂
イーファは、少し口ごもってから言った。
﹁⋮⋮わたしだって、怒っていいなら怒るもん﹂
203
第二話 最強の陰陽師、避ける
午後の授業は、学び舎から少し離れた大講堂で行われる予定だっ
た。
ぼくらは入学時の成績順でいくつかのクラスに分かれたが、だか
らといっていつも同じメンバーで授業を受けるわけじゃない。
魔法演習の授業は希望の属性を選んで受けに行く方式だし、たま
にこうして、学年全員で同じ授業を受けることもあった。
そういうわけで、ぼくとイーファは食堂から大講堂へ向かう道を
歩いていた。
学園内にはいろいろな建物があるだけに、道もかなりの数がある。

204
全然規則的に並んでないから覚えるのも一苦労だ。
晴れ渡った空を見上げる。
今日は控えめな春の陽気が心地良い。
﹁⋮⋮ん?﹂
ふと学舎のそばに差し掛かった時、妙なものが目に入る。
壺が浮いていた。
学舎の三階、窓の近くでふわふわしている。
なんだあれ⋮⋮?
黙って見ていたが、ちょうど真下に来た辺りで、壺がぐらぐらと
不穏な振動を始めた。
いやな予感がする。
ぼくは隣にいたイーファを抱き寄せる。
﹁きゃっ、な、なに?﹂
次の瞬間、壺がひっくり返った。
ぐるんぐるん縦回転しながら大量の黒い液体を宙にぶちまける。
それがぼくらに降りかかる寸前。
ぼくは、自分とイーファの位置を二丈︵※約六メートル︶ほど離
れた式二体と入れ替えた。

205
転移の数瞬後、大量の液体がさっきまでぼくらのいた場所に降り
かかり、道が黒く染まった。
生臭いような臭気も漂ってくる。
うわぁ。なんだか知らないけど危ない危ない。
真っ黒になったヒトガタは、もう使えないだろうけど一応回収し
ておく。
イーファはぽかんとしていた。
﹁え、え、わたし⋮⋮なにが起こったの?﹂
﹁おーい、君たち! 大丈夫か!?﹂
学舎から、丸眼鏡の教官が飛び出してきた。
教官は黒く染まった道を見て、ついでぼくたちを見て、不思議そ
うな顔をする。
﹁あれ? さっきまでそこを歩いていたと思ったんだが⋮⋮﹂
﹁あ、コーデル先生﹂
イーファが声を上げる。
教官のコーデルは、ぼくらへ歩み寄ると丸眼鏡をくいと直して言
う。
﹁君たちだったか。驚かせてすまなかったね。怪我はないかい?﹂
﹁大丈夫ですけど、あれ、なんなんです?﹂
﹁研究に使う予定だった媒体だよ。モンスターの血に、薬草や鉱物
を入れて煮込んだ物だ﹂

206
どうりであんな臭いわけだよ。
﹁上の階に運び入れたかったんだけど、手伝ってもらうはずだった
カレン先生が見つからなくてね。仕方なく一人でやってたんだが⋮
⋮これで作り直しだよ。はぁ﹂
肩を落とすコーデル先生に、ぼくは訊ねる。
﹁あの壺は先生が浮かせてたんですか﹂
﹁そうだよ。専門じゃないから、あまり得意ではないけどね﹂
重力の魔法は闇属性だったな、とぼくは思い出す。
授業が始まってわかったことだが、闇属性は重力と、それと密接
に関係した時間や空間、光属性は雷や、光そのものを司る属性らし
い。
ただそれだけでなく、闇だったら影を使った攻撃や呪いのアイテ
ム生成、光だったら結界や治癒の魔法も含まれるので、要するに闇
っぽい魔法、光っぽい魔法という分類でしかないらしい。
今までよくわからなかった理由もわかった。
そもそも分類が曖昧なのだ。
ついでに言えば、闇か光に適性がある人間はごく少ない。
本当は六属性あるのに、四属性魔法なんて呼ばれているくらいだ。
コーデル先生は儀式学が専門だが、たしか光属性の使い手だった
はずだから、闇属性の重力魔法が使える時点で相当希少な人材なん
だろう。

207
﹁おっと、授業に行く途中だったかな? 引き留めて悪かったね﹂
﹁いえ﹂
そう言えば、次の授業ってカレン先生が講師だったような⋮⋮。
見つからないって言ってたけど、大丈夫かな?
第三話 最強の陰陽師、悪目立ちする
カレン先生は、予定より半刻︵※十五分︶ほど遅れて講堂に現れ
た。
長い黒髪の、落ち着いた妙齢の女性だが、今日ばかりは慌ただし
げだった。
﹁ご、ごめんなさい、少し遅くなっちゃいました。みなさんの中に
は知らない方も多いかもしれませんね。実はこの時期になると、帝
国の北方から氷が売り出されるようになります。ロドネアの菓子店
はそれを使って⋮⋮﹂
カレン先生はそこからさらに半刻ほど、ロドネア名物氷菓子の概

208
要と、老舗菓子舗の商品を買うのがどれだけ難しいか、自分がそれ
を手に入れるのにどれだけ苦労したかを語り、授業はたっぷり一刻
ほど遅れて始まった。
﹁今日は闇属性魔法の中でも、かなり特殊な分野となる﹃呪い﹄に
ついて説明します。有名なのは⋮⋮﹂
カレン先生の講義は、なかなか興味深いものだった。
こちらの世界の﹃呪い﹄は、大きく二つに分類されるという。
一つは剣や鎧、装飾品などに術を施し、使用者に害を与えるもの。
いわゆる呪物だ。
もう一つは相手に直接呪いをかけるもの。対象の体には呪印が浮
かび、たいていは強力な効果を持つ。
⋮⋮はっきり言って、どちらもめちゃくちゃ扱いにくそうではあ
る。
呪われた物品は前世にもあったが、ほとんどが偶然の産物だ。狙
って作って、どうするんだろう? 呪いたい相手に贈るのか?
後者は強そうではあるが、なんと呪いをかけるには近づかないと
ダメだという。もうそれ、弓か剣でいいだろ。物理的に殺せるよ。
こちらの世界での﹃呪い﹄がマイナーなのもうなずけた。
現に闇属性の魔法演習教官であるカレン先生も、呪いは専門外ら
しい。
四属性魔法は対モンスターに特化しすぎているようで、そもそも
前世の魔術とはコンセプトがだいぶ違う。

209
前世の魔術は﹃呪い﹄こそが主役の一つだった。
はるか遠くから、病に偽装し、確実に殺せる術を行使できる。
いくつか欠点はあるが、対人に限ればこれほど強力な術もない。
文化が違えば魔術も違うんだな。
﹁そろそろ時間ですね。今日はこの辺で終わりにしたいと思います﹂
授業はキリのいいところで終わったが、絶対予定通りには進んで
いないと思う。
次の授業に向かうべく皆が筆記具を片付けだした辺りで、カレン
先生は急にこんなことを言いだした。
﹁あと、みなさんに連絡があります。十日後の講義はすべて休講で
す。毎年その日は開校記念の式典が開かれることになっていますの
で、みなさんはお休みということですね﹂
講堂内がざわつく。
歓声を上げる者もいた。
式典か。たぶん貴族や役人なんかを呼ぶ、お偉方向けのものだろ
うな。
﹁ただ、二名の生徒にはお手伝いをお願いします。アミュさんとイ
ーファさん﹂
﹁え、わ、わたし?﹂
隣で驚いたような声が上がった。
カレン先生はにこやかに続ける。

210
﹁首席と次席合格者の二人には当日、祝賀会に先駆けて、今年入学
スクロール
した生徒たちの名を記した羊皮紙をロドネアの森にあるほこらへ収
めてきてもらいます﹂
森にあるほこら?
﹁みなさんもご存知でしょうが、ここ学園都市ロドネアの興りは、
希少な薬草の宝庫であるロドネアの森と、その傍らに居を構えた大
賢者とその弟子たちです。森の奥には太古の昔この地に住んでいた
者たちの神殿跡があり、様々な薬草は人為的に集められたものでは
ないか、それらを育んでいるのは遺跡に残されたなんらかの魔力源
ではないか⋮⋮などと言われてきました﹂
先生は続ける。
﹁真偽の疑わしい話ですが、大賢者とその弟子たちは、神殿へ最大
の敬意を払っていました。やがて学園が創立してからもその理念は
受け継がれ、今でも毎年式典の折に、新入生の成績優秀者が礼拝に
向かうことになっているんですよ﹂
﹁礼拝って、具体的になにをすればいいわけ?﹂
アミュが頬杖をつきながら声を上げる。
スクロール
﹁先ほど言ったとおりですよ。新入生の名を記した羊皮紙を、神殿
跡のほこらに収める、それだけです。礼拝と言ってもあくまで形式
的なものですからね。それから去年の羊皮紙を持ち帰って終わりで
す﹂
﹁神殿があるのは森のどの辺り?﹂
﹁少し時間はかかりますが、問題なく歩いて行ける距離です。それ

211
ほど心配しなくても大丈夫ですよ、アミュさん。毎年の行事ですか
ら﹂
﹁そう。ならよかったわ﹂
アミュが目を閉じて言う。
なんだろう、意外と慎重な性格なのか?
でも⋮⋮わからなくもない。
森とは本来危険な場所だ。
管理されたロドネアの森は、おそらくは数少ない例外なんだろう。
ただ、今は魔族の襲撃があったばかり。こんなタイミングでガレ
オスの拠点があったあの森に入るというのは、どうもいやな予感が
した。
そして、そもそも懸念していることもある。
そうだな。ここは⋮⋮、
﹁でも伝統ある行事で、とても名誉なことなんですよ。当日は⋮⋮﹂
﹁先生﹂
ぼくは手を上げて、先生の話を遮った。
﹁あ、はい。なんでしょう、ミスター・ランプローグ﹂
﹁どちらかが辞退したときは、片方が一人で森に入るんですか?﹂
﹁いえ⋮⋮そのときは三席の生徒に代理をお願いすることになるで
しょうね。ロドネアの森にも一応弱いモンスターが生息しています
から、一人というのは⋮⋮﹂
﹁なるほど。ありがとうございます﹂

212
ぼくはイーファに顔を向け、あえて周りに聞こえる声で言った。
﹁イーファ。辞退しなさい﹂
講堂がざわめいた。
イーファは一瞬ぽかんとして、少し考えた後に悲しそうな声音で
言う。
﹁え、で、でもセイカく、様。わたし、できれば⋮⋮﹂
﹁聞こえなかったか? 辞退しなさいと言ったんだ﹂
﹁⋮⋮わかりました﹂
イーファは立ち上がり、カレン先生に向かって頭を下げる。
﹁先生、ごめんなさい。そういうわけで、わたしはお引き受けでき
ないです﹂
﹁⋮⋮何あれ﹂﹁式典なんかそんなに出たいかよ﹂﹁奴隷に負けた
のが悔しいんだろ﹂﹁貴族の恥さらし﹂﹁妾腹の魔力なしが⋮⋮﹂
ざわめきが大きくなる。
カレン先生も眉を顰めていた。
﹁ミスター・ランプローグ。そのような行いはあまり感心できませ
んね﹂
﹁伝統ある行事なんでしょう? なら奴隷にやらせるべきじゃない。
三席のぼくが代理を引き受けますよ、先生﹂
ぼくはそう言って席を立ち、講堂を後にする。
その後ろを、イーファが慌てて追った。

213
****
﹁ごめんねイーファ。式典出たかった?﹂
﹁ううん。別に﹂
外の道を歩きながらイーファに訊いてみると、いつもの調子で首
を横に振った。
﹁なんだかセイカくんが悪目立ちしたそうだったから、乗っかった
だけだよ﹂
﹁ああ、やっぱり汲んでくれてたんだ﹂
勉強教えた時から思ってたけど、この子賢いんだよなぁ。
﹁ねえ、どうしてあんなことしたの? セイカくん、式典なんてぜ
ったいどうでもいいと思ってるでしょ﹂
﹁ぼくってそんなイメージだった? その通りだけどさ﹂
﹁やっぱり⋮⋮アミュちゃんのため?﹂
イーファがややためらいがちに言う。
﹁わざと悪目立ちして、アミュちゃんがこれ以上いろいろ言われな
いようにしたの?﹂
﹁まあそれも理由の一つかな﹂
﹁⋮⋮﹂
イーファは少し黙って、それからぼそぼそと訊ねる。

214
﹁⋮⋮セイカくんて、ああいう子が好みだったの?﹂
﹁えっ?﹂
﹁ずっとアミュちゃんにこだわってるから⋮⋮美人だもんね。すら
っとしてて、髪もきれいだし⋮⋮﹂
ぼくはしばらく呆気にとられた後、思わず笑ってしまった。
﹁違う違う。ただ友達になりたいだけだよ﹂
﹁どうして? あの子偉い貴族でもないし、あとひどいこと言うし
⋮⋮﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ぼくは少し迷って、正直に言うことにした。
﹁強いからさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁イーファも見てたんだろ? あの子がレッサーデーモンを倒すと
ころを。あれほどの才は、たぶんこの世界に数少ない。仲間になり
たいんだよ。ぜひともね﹂
﹁⋮⋮わたしじゃ、だめ?﹂
﹁ん?﹂
イーファが思い詰めたように言う。
﹁わたしだって強くなれるよ! なんだかそんな予感がするの。精
霊も少しずつ集まってきてるし、難しいお願いも聞いてもらえるよ
うになってる。いつか、きっとすごいことができるようになる気が
する。アミュちゃんにだってきっと負けないから⋮⋮﹂

215
ぼくは足を止め、イーファに向けて笑って言う。
﹁悪いけど、イーファじゃあ力不足かな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁君は想像できるかい? 自分が多くの人に称えられ、恐れられ、
その強さにすり寄られる姿を。あの子は、いずれそうなる。それだ
けの才能があるんだ﹂
﹁⋮⋮そっか﹂
イーファは小さくそう呟いて、いつもの笑みを浮かべた。
﹁⋮⋮じゃ、わたしも協力するね。女子寮で一緒だから、なにかき
っかけがあるかもしれないし﹂
﹁ああ。お願いするよ﹂
﹁でも⋮⋮もうさっきみたいなことは、できたらしないでほしい、
かな。セイカくんが悪く言われてるのは、聞いてていやな気持ちに
なるから⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮わかったよ。イーファの評判にも関わるしね﹂
そう言って、柔らかな金髪を撫でてやる。
ああいう悪目立ちは、実は嫌いではないんだけど⋮⋮ぼくの悪い
癖だな。
﹁ちなみに、残りの理由ってなに?﹂
﹁ああ。イーファが断っても文句言われないようにするためと、あ
の場で話を済ませたかったから。それと⋮⋮﹂
ぼくは言う。

216
﹁またなにか起きそうな気がするんだよね﹂
第四話 最強の陰陽師、罠に嵌まる
そして、式典の当日。
一応それらしい開会の式をやった後、教員らと招待客と一部の上
スクロール
級生に見送られ、ぼくとアミュは羊皮紙を手にロドネアの森へと入
った。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
二人で無言のまま進む。
神殿の遺跡までの道は、踏み固められていて進みやすかった。定

217
期的に人の手が入っているようだ。
ここロドネアの森は学園の敷地で、当然城塞都市ロドネアの城壁
内にある。
城壁の中に森だなんて、はっきり言って頭がおかしいとしか思え
ない都市構造だ。居住面積が狭まるし、城壁が伸びるから敵が来た
時に守りづらい。
ただ、ロドネアの始まりがこの森のそばに建つ学び舎だった以上、
それは必然だったんだろう。
それに人口密度の高い帝都よりも、こちらの方が住み良いという
話は聞いていた。
前世の貴族がこぞって山の風景を庭園に再現したように、自然が
近くにあると何かいいのかもしれないな。
神殿へは、往復で二刻︵※一時間︶ほどかかるらしい。
式の終わりまでには戻らないといけないから、あまりもたもたは
していられない。
﹁ねえ﹂
唐突に、アミュが話しかけてきた。
﹁あんたどういうつもり?﹂
﹁何が?﹂
﹁あんな茶番打ってまで、どうしてこんなイベントに出るのかって
ことよ﹂
ぼくはにっこり笑って答える。

218
﹁やっぱりこういうのは身分ある人間が出ないと。いくら実力主義
の学園でもね﹂
﹁嘘﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁笑顔からして嘘くさいのよあんた。式典なんてゴミとしか思って
ないくせに﹂
﹁⋮⋮ぼくって本当にそんなイメージなの?﹂
というかゴミとまでは思ってない。
﹁だいたい、あんた普段従者にあんな物言いしてなかったじゃない。
あの子もあの子でへりくだり方がわざとらしいし﹂
﹁⋮⋮意外とぼくらのこと見てた?﹂
﹁あんたたちいっつも二人でいるからいやでも目に付くのよ。人目
もはばからずベタベタベタベタして﹂
﹁そんなことないと思うけど⋮⋮﹂
いやこれは本当に。
﹁あんな茶番でわざわざ悪目立ちして、なにがしたかったわけ?﹂
﹁今まではアミュばかり悪目立ちしてたから、あんまりだと思って
さ。ぼくたちのために体を張って戦ってくれたのに﹂
﹁は? なにそれ。あたしは別に⋮⋮﹂
﹁あとは、君とゆっくり話がしたかったからかな﹂
笑顔で言うぼくへ、アミュはゴミを見るような目を向ける。
﹁あの乳のでかい奴隷だけじゃ飽き足らず、手近な同級生にも手を
出そうってわけ?﹂

219
﹁ちょ⋮⋮誤解だよ。あとイーファとはそういう関係じゃない﹂
﹁そういう関係じゃなくてもやらしいことしてるんでしょ﹂
﹁してないって﹂
﹁怪しいものね﹂
アミュはそう言って鼻を鳴らす。
﹁知ってるのよ。領主って初夜権とかいうの持ってるんでしょ。ほ
んと貴族って最低なこと考えるわね﹂
﹁あれはお金払えば免除されるから、実質結婚税みたいなものだよ。
金払わないから免除しなくていいって言われた方が領主としても困
るよ﹂
﹁たとえそうでも領民の女には手を出し放題なくせに﹂
﹁それやると領民に逃げられて税収下がるから死活問題だよ﹂
﹁ふうん﹂
﹁というかなんで下ネタでこんなに話が弾んでるんだよ﹂
﹁っ、知らないわよ! あんたが始めたんでしょ!?﹂
﹁いや、アミュの方からじゃなかったか⋮⋮?﹂
ぼくは溜息をついて言う。
﹁あの、前にも言ったけど、ぼくとしては友達になってほしいだけ
なんだけど﹂
﹁なんであたしなわけ?﹂
﹁浮いてる者同士で声かけやすかったから﹂
﹁自分で言っててみじめだと思わない?﹂
﹁じゃあ⋮⋮君が強いから、でどう?﹂
﹁強いあたしが、弱いあんたと友達になってどんな得があるのよ﹂
﹁ぼく、君が思っているよりはそこそこやるよ﹂
﹁そこそこ?﹂

220
アミュが、腰に提げた剣を引き抜く。
それを何気なく振ったかと思えば︱︱︱︱、
ほとんど予備動作なしで、ぼくへ裂帛の刺突を放ってきた。
﹁⋮⋮﹂
ぼくの耳をかすめ、背後を刺し貫いた剣先は。
飛びかかってきていたスライムの核を、正確に捉えていた。
核を割られどろどろに溶けていくスライムを、ぼくは横目で見る。
﹁雑魚モンスターに後れを取ることを、そこそことは言わないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは黙って扉用のヒトガタをしまい直す。
こっそり捕まえようと思ってたんだけど、ダメだったか。
それよりも、アミュの持つ装飾付きの剣の方が気になった。
﹁その剣って、やっぱり杖の代わりなのか?﹂
﹁杖剣よ。知らない?﹂
﹁たしか⋮⋮魔法剣士向けの武器だっけ﹂
ぼくの感覚では、術士で剣士というのは意味不明なのだが、この
世界にはそういう職がある。
剣も魔法も使う。杖剣はそんな戦士のための武器だ。
﹁前から思ってたけど、それ普段使いするには不便じゃないか?

221
というかよくそんな物騒なもの学園に持ち込めたな﹂
﹁なに言ってんの? 杖だって十分物騒じゃない。あたしは使い慣
れた道具を使いたいだけよ。悪い?﹂
﹁いや、別に﹂
まじな
本当は、呪いの道具にこだわるのはあまりよくないんだけどね。
道具は本質じゃない。杖も杖剣も、呪符や印や真言と同じく無く
ても問題ないものだ。
まじな
呪いの本質は意識の中の言葉。それがすべて。
まあこの子なら、自力でそこまで辿り着くだろう。
﹁どうでもいいけど、羊皮紙は汚してないでしょうね。あたしはあ
んたのお守りをしに来たんじゃないんだからね﹂
アミュが剣を振ってスライムの体液を振り払い、鞘へと仕舞う。
と、その体がふらついた。
頭痛がするのか、頭を押さえている。
﹁っ⋮⋮﹂
﹁大丈夫か?﹂
﹁⋮⋮なんでもない﹂
﹁あまりそうは見えないけど。君こそ辞退するべきだったんじゃな
いの?﹂
﹁ちょっと⋮⋮体調が悪いだけよ。あんたに心配されるまでもない
わ﹂
少しすると頭痛も治まったのか、しっかりした足取りでアミュが
歩き出す。
まあとりあえずはこのイベントを済ませよう。

222
またしばし、二人で無言のまま歩く。
時間的に、そろそろ神殿に着くかなと思った頃。
微かな力の流れを感じ、ぼくは足を止めた。
﹁⋮⋮なに、あれ﹂
アミュも何かを感じ取ったらしい。
訝しそうに向けられた視線の先。
木立の奥に、微かな青白い色が見えた。
﹁⋮⋮見てくるよ。そこで待ってて﹂
﹁あっ、ちょっと!﹂
道から外れ、茂みを分け入った先に、木立の途切れたひらけた場
所があった。
中央にある大きな切り株には、青白い塗料で魔法陣が描かれてい
る。
デーモン騒動の時に見たものと近い。
土台の切り株はまだ新しい。
切り株の周りには小さな白い花がたくさん咲いていたが、ところ
どころ踏み荒らされたように折れている箇所があった。
どうもこのスペース自体が、人為的に作られたものに見える。
﹁なんなの、あれ。魔法陣⋮⋮?﹂

223
後ろからついてきたアミュが、魔法陣を見て呟いた。
切り株に向かい足を踏み出す。
﹁おい、近づくのはいいけど魔法陣には触れるなよ﹂
﹁わかってるわよ、それくらい︱︱︱︱﹂
むっとした顔のアミュが、広場へと足を踏み入れた。
そのとき。
・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・・・
広場全体に、巨大な魔法陣が浮かび上がった。
﹁な、なによこれっ!﹂
突然足下に現れた魔法陣に、アミュが動揺した声を上げる。
力の流れが、爆発的に大きくなる。
まずい、これは⋮⋮っ、
﹁アミュ!!﹂
とっさにアミュの手を掴んだ。
魔法陣の範囲に、一瞬だけぼく自身も捕らえられる。
そして、次の瞬間。
ぼくの視界は暗転した。
224
第五話 最強の陰陽師、地下迷宮へ迷い込む
何も見えない。
何も聞こえない。
真っ暗な世界で、ぼくはゆっくりと呼吸し、手を合わせた。
自分の手から自分の体温が伝わってくる。
意識はある。身体感覚もある。
死んだわけではないらしい。
﹁セイカさま﹂

225
そのとき、耳元でユキのささやき声が聞こえた。
﹁どうやら転移した模様です。周囲十丈︵※約三十メートル︶に渡
り今のところ敵の姿はありません﹂
どうやら、ユキも一緒に転移していたらしい。助かった。
口元でかき消えてしまうほどの声量で、ぼくはユキへと問いかけ
る。
﹁⋮⋮ここがどこかわかるか?﹂
﹁恐れながら⋮⋮﹂
﹁いい。アミュは?﹂
﹁すぐ近くにおります﹂
﹁アミュ、聞こえるか?﹂
声量を上げて呼びかけると、暗い世界に光が点った。
﹁⋮⋮よかった。あんたも無事だったのね﹂
杖剣の先に光を点したアミュが、ほっとしたような表情で言った。
ぼくは、周りに目をやりながら言う。
﹁ここ、どこだろう。地下みたいだけど﹂
今ぼくたちがいるのは、岩の壁で覆われた広い通路のような場所
だった。
真っ暗な道が前後に延びている。
ただの洞窟とは思えない。

226
﹁さあ。でも⋮⋮あまりいい予感はしないわね﹂
アミュが言う。
﹁やっぱり⋮⋮あの魔法陣のせいかしら﹂
﹁たぶんね。切り株の小さな魔法陣は、空き地全体の魔法陣の一部
でしかなかったんだ。誰かが足を踏み入れたら転移させるようにな
っていたんだろうな﹂
切り株のところだけ塗料を変えて書かれていたのは、注意を引い
て近寄らせるためだったんだろう。
まんまとしてやられた。
やっぱり勘がにぶっているな。
﹁あの場所からそう遠く離れてはいないと思うけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? なんでそんなことがわかるわけ?﹂
﹁いや、なんとなく﹂
一応理由はある。
学園に残してきた式神とのリンクが切れていないからだ。
第一階層に距離は関係ないが、アドレスが離れすぎると関連性を
保てなくなって術を維持できなくなる。
だからたぶん、ここは森の地下、というより神殿の地下なんじゃ
ないだろうか。
まあ確証はないけど。
さて、どうするかな。
転移の際に周りの式を全部置いていかされたので、今は手駒がな

227
い状態だ。が、ストック分の扉を開けるヒトガタはあるから補充は
できる。
確実に行くなら式神を飛ばしてここの構造を探るべきだが⋮⋮そ
う簡単に出口を見つけられるとは思えない。これが罠だったとすれ
ば、なおさら。
うーん、今いる正確な場所さえわかれば、森の式と位置を入れ替
えて脱出できるんだけどな⋮⋮。
﹁っ! セイカさま﹂
そのとき、緊張を含んだユキのささやきが耳に入った。
﹁右方の通路よりなにか来ますっ﹂
ぼくにもその音が聞こえてきた。
ひたひたという足音。それと、微かに金属が鳴る音。
﹁アミュ。右から﹂
﹁わかってるわよ﹂
やがて剣の照らす光の中に、敵影が現れる。
それはトカゲ人間とでも言うべき姿だった。
二足歩行しているが、全身が緑の鱗で覆われ、手足にはかぎ爪が
生えている。そんな存在が、曲刀と盾を持ち、簡単な鎧を着ている
のは何かの冗談みたいだった。
たしかあれは、リザードマンとかいうモンスターだ。

228
全部で三体いる。
感情のうかがえない六つの瞳が、ぼくらを捉える。
右の一体が、威嚇するように口を開けた。
アミュはすでに飛び出していた。
風を切る剣先が、威嚇するリザードマンの口腔を刺し貫く。
曲刀を振り上げた左の一体は、胸当てを蹴り抜かれて壁へ叩きつ
けられた。
ファイアボール
そして後方にいた中央の一体に、無詠唱の火炎弾が放たれる。
炎に包まれた最後のリザードマンは、しばらく濁った断末魔をあ
げていたが、やがて倒れ伏し静かになった。
ファイアボール
なんだ、火炎弾もけっこう強いんだな。
壁際で伸びているリザードマンにとどめを刺すアミュ。
息が乱れた様子もない。
﹁⋮⋮すごいね。もしかして慣れてる?﹂
﹁多少は﹂
﹁でも、閉所で火の魔法はやめたほうがいいかもね。空気が悪くな
る﹂
﹁ちょっとくらいなら平気よ。そう言うあんたはなに使うわけ?﹂
﹁こんなのとか﹂
︽木の相︱︱︱︱杭打ちの術︾
虚空から現れた九本の杭が、ぼくの背後へ打ち出される。
それらは、後方から迫っていた巨大なオークへと次々に突き立っ

229
た。
豚面のモンスターはわずかにふらついた後、そのまま仰向けに倒
れる。
死んだようだ。
アミュがオークの死骸を見やり、眉を顰める。
﹁なに? この魔法。木の杭⋮⋮?﹂
﹁そうだよ﹂
︽杭打ち︾は西洋を旅する途中、吸血鬼対策でわざわざ作った術
だ。白木の杭がよく効くと聞いたから。
結局トランシルヴァニアでもハンガリーでも目にすることはなか
トネリコ
ったものの、ベースにした には多少破魔の力があるので、日本に
帰ってからもたまに使っていた。
四属性ではないから多少怪しいだろうが、閉所で安全に使える術
は限られる。
こんな状況だ、やむを得ないだろう。
﹁聞いたことないんだけど。こんな魔法﹂
﹁そう? まあぼくはランプローグ家だから。一般に知られない魔
法でも学ぶ機会はあるのさ﹂
これで誤魔化されてくれるといいな。
﹁⋮⋮まあいいわ。とにかく、これで一つはっきりしたわね﹂
アミュが倒したモンスターを眺め、呟く。

230
﹁ここはダンジョンよ﹂
第五話 最強の陰陽師、地下迷宮へ迷い込む︵後書き︶
※杭打ちの術
白木の杭を打ち出す術。吸血鬼退治の白木とはトネリコ・ビャクシ
ン・セイヨウサンザシ・ポプラなどだが、セイカがトネリコを選ん
だのは日本にも自生していてなじみがあったのと、建材としても使
われていて頑丈そうだったから。セイカが前世で東欧を訪れたのは
ドラキュラ公の誕生よりずっと前の時代だが、その頃からヨーロッ
パにはストリゴイやクドラクをはじめとした吸血鬼伝承が多数存在
した。

231
第六話 最強の陰陽師、地下迷宮を理解する
﹁ダンジョン⋮⋮ここが?﹂
ダンジョンとはたしか、モンスターの出現する地下迷宮のことだ。
ただの空間ではなく、核となるボスモンスターやアイテム、術士
などがいる、異界に近い場所だったはず。
﹁こんな場所でモンスターが出る以上、そう考えるのが普通よ﹂
﹁へえ⋮⋮なるほどね。ダンジョンに来たのは初めてだ﹂
そう言ってぼくは地面に腰を下ろす。
それをアミュが訝しげに見下ろす。

232
﹁なにやってるの?﹂
﹁座ってる﹂
﹁なんで?﹂
﹁闇雲に歩き回ったって仕方ないだろ。体力を消耗するだけだ。こ
こでじっとして助けを待った方がいい。ちょうどモンスターの死骸
でぼくらの体臭も紛れるし⋮⋮﹂
﹁助けなんて来るわけないじゃない﹂
言い切るアミュに、ぼくは眉を顰める。
﹁どうして?﹂
﹁ダンジョンから帰らなかった者を助けに行くことはないわ。遭難
して生きているよりも、モンスターに襲われて死んでる方が多いん
だから﹂
﹁それは冒険者の話だろ? ぼくらは学生で、事故でここに迷い込
んだんだ﹂
﹁なお悪いわよ。あたしたちは入り口から入ってきたわけじゃない、
どことも知れないダンジョンにいきなり転移したの。仮に先生たち
があの魔法陣を見つけたとして、転移で追ってくると思う? 遭難
者を増やすだけよ﹂
﹁魔法陣を解析すればどこに転移したかくらいわかるだろ﹂
﹁わかっても同じこと。たぶんだけど⋮⋮ここはギルドに管理され
たダンジョンじゃないわ。当然マッピングだってされてない。そん
な場所にいきなり遭難者を探しに行くなんて、専門の冒険者ですら
請け負わない﹂
﹁じゃあどうするんだよ﹂
﹁ダンジョンで迷ったときにやることは一つだけ。歩くのよ﹂

233
アミュが、ぼくに手を差し伸べる。
﹁歩いて歩いて、気力と体力が尽きる前に、他のパーティか出口ま
での道を自力で見つけ出す。それしかないの﹂
﹁はは、絶望的だなそれ﹂
ぼくはアミュの手を取って立ち上がり、ズボンに付いた土を払う。
本当は二、三刻ほど、式の視界で地上の様子をじっくり観察した
かったんだけど⋮⋮まあいいか。
方針を決めよう。
進むのはいい。体力が尽きることは心配していない。
こういう場所で怖いのは、飢えに乾き、窒息など不足による死だ。
まじな
でも食べ物も水も空気も、ぼくなら呪いでまかなえる。数ヶ月は問
題なく過ごせるだろう。
いざとなれば、大量の式神でダンジョンを総当たりし、地上への
出口を探すこともできる。もったいないからあんまりやりたくない
けど。
となると、なるべくヒトガタは温存したいな。
もう一つ試したいこともあるし。
﹁ユキ﹂
ささやきにも満たない声量で、ユキに呼びかける。
﹁あまり式を使いたくないんだ。索敵を頼めるか?﹂
﹁!! 任されましたぁっ、セイカさま!﹂
ユキが嬉しそうに返事をする。

234
モンスターはさほど脅威ではない。ユキは神通力がお世辞にも得
意とは言えないが、この場では十分だ。
どのみちこんなに暗いとヘビかコウモリくらいしか使えないしね。
扱いにくいんだよな、あれ。
そうだ、暗いと言えばもう一つ。
﹁アミュ。ちょっと待って﹂
歩き出そうとしたアミュを引き留める。
﹁剣の光は消していいよ。灯りはぼくが受け持つ﹂
そう言ってヒトガタを数枚飛ばし、光を点した。
先ほどまでよりずっと明るくなった地下通路の中で、アミュは驚
いたように言う。
﹁これ、呪符? それにあんた、光の魔法も使えたの?﹂
﹁まあね。言ったでしょ、ぼくそこそこやるんだよ﹂
アミュが小さく息を吐いた。
﹁生き残れる確率が上がったわね。ほんの少し、気休め程度にだけ
ど﹂
その横顔を見て、ぼくは思わず口走る。
﹁アミュ、全然余裕そうだね。こんな状況なのに﹂
聞いたアミュはわずかに目を見開いた後、顔を逸らした。

235
﹁⋮⋮そんなことないわよ﹂
第六話 最強の陰陽師、地下迷宮を理解する︵後書き︶
※式神︵ヘビ・コウモリ︶
完全な暗所で使う式神。マムシやニシキヘビの持つピット器官によ
る熱源探査や、コウモリの超音波による反響定位で地形や他生物を
探れる。が、人間の脳には元々それらの情報を処理する機能が存在
しないので、かなり使いづらい。
236
第七話 最強の陰陽師、地下迷宮を進む
剣士であるアミュを先頭に、ダンジョンを行く。
ある程度進む毎にヒトガタを通路の天井に張り付け、呪力を込め
る。
﹁⋮⋮あの、セイカさま。先ほどからなにをなさっているのです?﹂
﹁ちょっとね。地表から位置がわからないかと思って﹂
アミュに聞こえないように答える。
学園に残してきた式神は、数羽のカラスを除いてすべてミツバチ

237
に変え、森の地表を飛ばしていた。
が、まだ術の影響を感知できていない。
もう少し続けてみよう。
それにしても、ミツバチの視界は見づらいな。
複眼なうえに人には見えない色が見えるから、見慣れた物でも違
って見える。
この式にしかできない仕事だから仕方がないけど。
****
たびたびモンスターに遭遇した。
リザードマンにオークの他、スケルトンにスライム、ゴブリンな
ど、ダンジョンでは珍しくないとされるモンスターばかり。
ただ遭遇するたびに、ぼくはここが異界であることを実感する。
普通、洞窟に生物は少ない。
せいぜいがコウモリの糞を餌にする毒虫やネズミの類がいる程度
だ。
こんな場所に、これほど大きな生命体が大量にいる状況はおかし
いのだ。
モンスターを生んでいるのはこのダンジョンの核なんだろう。
けしょう
動物に近いと思っていたが、やはりモンスターも化生の類のよう
だ。

238
前世にも、ダンジョンに近いものはあった。迷い家や隠れ里とい
った、超常の力で存在する異界が。
ただ違うのは、この場所がちゃんと物理的に存在しているという
こと。
ならば物理的に脱出できる。
﹁手応えないわね。レベルの低いダンジョンみたい﹂
アミュがスケルトンの頭蓋骨を蹴っ飛ばして言う。
彼女はずっと前に出て剣を振るい、モンスターを倒し続けている。
ぼくの出番なんてほとんどなかった。
﹁あまり無理するなよ。ぼくが前に出ようか?﹂
﹁冗談でしょ? 前衛は剣士に任せておきなさい﹂
アミュは凄みのある笑みを浮かべる。
﹁実力のある前衛職はね、魔力を身体能力に変えられるの。これく
らいなんでもないわ﹂
実際、アミュが息を切らしている様子もない。
目にも留まらぬほどの剣筋といい、デーモンの棍棒を弾いた馬鹿
力といい、言うだけのことはある。
加えて鮮やかな剣技に体捌き、全属性の魔法を無詠唱で操るその
才。
さすがは勇者、と言うべきなのかもしれない。

239
まだ子供ゆえ未熟さはあるが、成長したとき、いったいどれほど
の強さを得るのか︱︱︱︱。
﹁セイカさまっ⋮⋮﹂
ユキが耳元で敵を知らせてくる。
やがて視界に入ったその姿に、アミュが楽しそうな声を上げた。
﹁へぇ。ちょっとは強そうなの来たじゃない﹂
やがてヒトガタの光に照らし出されたのは、何度か見たゴブリン
だった。
ただし、でかい。
身の丈七尺︵※約二・一メートル︶はあろうか。緑の皮膚に鉤鼻
は同じだが、体格は段違いだ。
おそらく、ホブゴブリンと呼ばれるゴブリンの上位種。
しかも普通の小さなゴブリンも数体引き連れている。
﹁ブブゥゥゥゴォォォォァアッ!!﹂
ホブゴブリンはぼくらを見るやいなや、蛮刀を振り上げ突進して
きた。
アミュがそれを迎え撃つ。
上段から振り下ろされる蛮刀を、杖剣が一閃。大きく弾き返す。
体勢が崩れたままホブゴブリンが再び蛮刀を振るうが、大きく踏
み込んだアミュがそれを握る腕ごと切り飛ばした。
耳障りな絶叫が通路に響き渡る。

240
とどめとして首を落とすべく、アミュが剣を振るおうとした。
そのとき。
アミュの体が、大きく傾いだ。
﹁⋮⋮っ﹂
こめかみを押さえ、苦しそうに体をふらつかせるアミュ。
﹁ブゴォォアッ!!﹂
その頭を。
ホブゴブリンの、残った太い片腕が殴り飛ばした。
鈍い音と共に壁に叩きつけられ、アミュがずるずると地面へ倒れ
込む。
動かない少女剣士に、ホブゴブリンと取り巻きのゴブリンどもが
殺到していく。
﹁アミュっ!﹂
白木の杭が、ホブゴブリンの頭蓋を貫いた。
周りのゴブリンどもも︽杭打ち︾で片付けつつ、アミュに駆け寄
る。
息はある。
だが、気を失っているようだ。
﹁セイカさま、まだまだおりますよっ﹂
﹁わかってる﹂

241
頬に流れる血を拭ってやりながら、迫るゴブリンに杭を放つ。
治療してやりたいが、まずはこいつらを片付けるのが先決だ。
杭を放つ。
杭を放つ。
杭を放つ⋮⋮⋮⋮。
﹁⋮⋮ってどれだけいるんだよ!﹂
灯りのヒトガタを飛ばし︱︱︱︱ぼくは愕然とした。
通路の前方は、ものすごい数のゴブリンで埋まっていた。
しかもホブゴブリンまで数体混じっている。
思わず顔が引きつる。
めんどくさっ!
こんなの︽杭打ち︾で相手していられない。
ちょうどアミュも気絶しているところだし、いいだろう。
おおむかで
︽召命︱︱︱︱大百足︾
空間の歪みから、黒光りする巨大なムカデが姿を現す。
大百足は脇目も振らずにゴブリンへ襲いかかると、その凶悪な顎
で食らいついた。
周りのゴブリンがナイフを振るうが、意に介す様子はない。
それどころかホブゴブリンが蛮刀を振り下ろしても、黒光りする

242
甲殻には傷一つつかなかった。
大百足は次に蛮刀の持ち主へ目を付けると、その少し大きめの獲
物に食らいつき、断末魔すらあげさせずに飲み込む。
ゴブリンどもは、その辺りで総崩れに陥った。
雪崩を打って逃げ出す獲物を、大百足は無数の足を素早く動かし
て追い、食らっていく。
ぼくはその様子を、ただ眺めていた。
やっぱりこういう場所での大百足は強いな。
遠くから火矢とか打たれないうえに、壁や天井まで足場にできる
からね。
この分なら、モンスター掃除は任せても大丈夫そうだ。
第八話 最強の陰陽師、休憩する
﹁ん、んん⋮⋮﹂
アミュが、微かな呻き声とともに身じろぎした。
﹁あ、気がついた?﹂
﹁ここは⋮⋮あたし、どうしたの?﹂
アミュが体を起こし、隣で壁に背を預けて座るぼくを見る。
﹁残念ながらまだダンジョンの中だよ。君はホブゴブリンにやられ
て気を失ったんだ﹂

243
﹁⋮⋮思い出した。なんであたし、あの程度のモンスターに⋮⋮﹂
アミュが髪を濡らす血に触れ、顔をしかめた。
次いで頭をあちこち触り、不思議そうな顔をする。
﹁あれ、傷が⋮⋮﹂
﹁ぼくが治しておいたよ﹂
﹁⋮⋮あんた、治癒の魔法も使えたの?﹂
アミュはそれから、通路の奥に散乱するゴブリンの死骸に目をや
った。
﹁もしかして、あれもあんたが?﹂
﹁まあね﹂
大百足は食べ方が汚いからひどい有様だ。
その代わりだいぶ奥の方のモンスターまで食ってくれたから、こ
こはしばらく安全だろう。
﹁あんた何? あたしが言うのもなんだけど、ちょっとおかしいん
じゃ⋮⋮⋮⋮っ!﹂
アミュがまた、急にこめかみを押さえて苦しみだした。
﹁大丈夫か? 君のそれは持病か何かなのか?﹂
アミュはぎゅっと目を閉じたまま、首を横に振る。
﹁原因に心当たりは?﹂

244
また首を横に振られた。
ぼくはヒトガタを取り出す。
これが病ならどうしようもないが、今はつい先ほど傷病を移し替
えたばかりだ。こんなに早く症状が出てくるのはいくらなんでもお
かしい。
となると、あれかもしれない。
ヒトガタを配置し、印を組む。
﹁⋮⋮あ﹂
﹁どう? 楽になった?﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
アミュがゆっくりと体を起こす。
﹁なにかしたの?﹂
﹁結界を張った。この中にいる間は呪いも届かないよ﹂
﹁呪い⋮⋮?﹂
﹁ああ。その症状、いつ頃出始めた?﹂
﹁えっと⋮⋮ちょうど、一月くらい前。最初はめまいがするくらい
だったんだけど、だんだん頭が痛くなってきて⋮⋮﹂
一ヶ月前となると、入学してからか。
﹁でも、これ⋮⋮呪いではないと思う。あたしも、一度そうじゃな
いかと思って呪印を探してみたけど、体のどこにもなかったもの﹂
﹁自分では探せない場所もあるだろ﹂

245
﹁⋮⋮﹂
﹁いや別に見せろなんて言ってないからね?﹂
﹁⋮⋮わかったわ。今見てくれる? それではっきりするでしょ﹂
﹁え﹂
﹁ちょっと後ろ向いてて﹂
言われるがままに後ろを向くと、衣擦れの音が聞こえてきた。
言葉もなく待機するぼく。
﹁⋮⋮いいわよ﹂
振り返ると、背を向けたアミュの白い裸身があった。
顔を横に向け、視線だけでぼくを見て言う。
﹁どう? 寒いから早くしてもらえる?﹂
言われたとおり、髪を分けたうなじから白い背中、小ぶりな尻か
らふくらはぎへと見ていくが、呪印のようなものは特に見当たらな
い。
﹁⋮⋮ない﹂
﹁そう。やっぱりね。じゃあまた後ろ向いててくれる?﹂
再び後ろを向くと、また衣擦れの音が聞こえてくる。
腰を下ろす気配がしたので振り返ると、元通り服を着たアミュが
壁を背に隣に座っていた。
平然としているように見える⋮⋮が、よく見ると少し顔が赤い。
﹁言ったでしょ。違うって﹂

246
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
もしかすると、アミュ自身もずっと不安だったのかもしれない。
ただ、ぼくは言わなければならない。
﹁いや⋮⋮そうとは限らないよ。たとえば線を肌に近い色にしたり、
ものすごく小さくしたりして見つけにくくしてるのかもしれない﹂
﹁まさか、もう一回見せろって言うつもり!?﹂
﹁違うわっ! 抜け道なんていくらでもあるってことだよ! 他に
も頭皮とかのどの奥とか、まあ後はいろんな穴の中とか、呪印を隠
す方法なんていくらでも思いつく。否定はしきれないよ﹂
﹁じゃああたし、なんのためにさっき裸見せたわけ?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
﹁そもそも、あたし呪いをかけられた記憶なんてないのよ? カレ
ン先生が授業で言ってたじゃない、呪いをかけるには対象と相対し
なきゃいけないって。その時点で否定できない?﹂
﹁⋮⋮そう思ってたならなんでさっき脱いだんだ?﹂
﹁っ!! うるっさいわね、殺すわよ!?﹂
﹁すみません⋮⋮﹂
八つ当たりはやめてほしい。
﹁とにかく、現に結界が効いている以上は呪いだと思ってた方がい
い。それに⋮⋮実際は遠くからでも、呪いはかけられるしね﹂
﹁それもランプローグ家に伝わる知識?﹂
﹁まあそんなところ﹂
﹁ふうん⋮⋮じゃあ何? あたし、ずっとあんたの結界の中にいな
きゃいけないの?﹂
﹁そうでもない。術者に抜け道があるように、かけられる方にだっ
て抜け道がある⋮⋮髪の毛一本もらえる? 血が付いてる方がいい﹂

247
アミュは血に濡れた髪を一本引き抜くと、こちらへ差し出してき
た。
ぼくはそれをヒトガタに結び、上から呪力で文字を書いて真言を
唱える。
⋮⋮よし、これでいい。
﹁はい。この呪符を持っているといいよ。君の身代わりになってく
れる﹂
アミュは受け取ったヒトガタをうさんくさそうに眺める。
﹁本当にこんなのが効くの?﹂
﹁効くよ。ただし消耗品だけどね。ある程度呪いを防いだらダメに
なる﹂
﹁なら⋮⋮﹂
﹁そうしたらまた作るけど、でもその前になんとかするよ。ぼくが﹂
﹁そ、そう⋮⋮﹂
しばしの沈黙の後、アミュはおもむろに立ち上がった。
﹁⋮⋮進みましょう。あれがもう起きないなら、あたしもちゃんと
戦えるから﹂
歩き出そうとするアミュ。
その手を、ぼくは掴んだ。 248
第九話 最強の陰陽師、話をする
﹁なに?﹂
﹁焦りすぎだよ﹂
ぼくは言う。
﹁ずっと歩き通しだったし、君は怪我が治ったばかりなんだ。もう
少しここで休んだ方がいい﹂
﹁⋮⋮わかったわ﹂
意外と素直に、アミュは再び腰を下ろした。

249
﹁のど渇かない? 水あるよ﹂
やかん
と言って、ぼくは天井から吊り下がっていた薬罐を差し出す。
アミュは、それを怪しそうに眺める。
﹁実はずっと訊きたかったんだけど、これなに?﹂
そう
﹁薬罐って言って、生薬を煮出すのに使う宋の⋮⋮じゃない、外国
の道具だよ。今は水だけ入ってる﹂
アミュは恐る恐る取っ手を受け取ると、注ぎ口に口を付けて薬罐
を傾ける。
﹁⋮⋮おいしい﹂
﹁そうでしょ﹂
やかんづる
その答えにぼくは満足して、自分でも一口、薬罐吊の水を飲む。
やかんづる
薬罐吊はその名の通り薬罐の姿をしていて、山中で木の上からぶ
あやかし
ら下がってくるというただそれだけの妖だ。
特に害はないどころか、中の水がとてもおいしいというありがた
い存在で、ぜひ捕まえたいとわざわざ探したほどだ。
けっこう珍しいからあのときは苦労したが、その甲斐はあった。
実はモンスターの体液だなんて言ったら、アミュは怒るかな。
ただの水だけど。
﹁話でもしよう﹂
﹁話?﹂
﹁そもそもぼく、アミュと話したくて今日来たんだしね。ほら、何

250
かぼくに訊きたいこととかない?﹂
アミュは少し考えた後、小さな声で言う。
﹁あんた、本当は何属性使えるの?﹂
﹁さあ﹂
﹁さあ?﹂
﹁自分が使ってるのが何属性の魔法なのか、正直よくわからないん
だ。あー⋮⋮﹂
ぼくは苦笑して言う。
﹁魔法のことはあまり訊かないでもらえると助かるな。答えにくい
ことがあるから﹂
﹁ふうん、そう。じゃあ⋮⋮⋮⋮あの従者とは実際どこまでいった
わけ﹂
﹁はっ、またその話?﹂
﹁なによ。訊きたいことないかって言ったのはあんたじゃない﹂
そう言ってアミュが睨んでくる。
﹁ちゅーくらいした?﹂
﹁してないって﹂
﹁乳か尻揉んだことくらいはあるんでしょ﹂
﹁だからないっての。ぼくをなんだと思ってるんだよ﹂
﹁なんなの? あんたの奴隷なのよ? いくら手を出しても誰から
も責められないのに。周りの男どもなんて絶対あの子のことやらし
い目で見てるわよ﹂
﹁は⋮⋮? 誰だよそいつら﹂
﹁急に怖いのやめなさいよ。はぁ﹂

251
アミュが溜息をつく。
﹁つまんない﹂
﹁つまんないってなんだよ。品のないおっさんみたいな奴だな⋮⋮﹂
﹁あの子、たぶんあんたのこと好きよ﹂
﹁⋮⋮それ違う人にも言われたけど、勘違いだって。イーファは小
さい頃から一緒で、家族みたいなものだから﹂
﹁お貴族様が奴隷と家族ってなにそれ﹂
﹁別に珍しくもないよ。小さい頃から子供と一緒に教育を受けさせ
て、成人してから解放して領地経営や事業を手伝わせるとかよくあ
る話だし。ほら、家庭教師は一人で済むからお得だろ?﹂
﹁なにその理由、貧乏くさっ﹂
﹁イーファはそういうのじゃなかったけど⋮⋮ぼく、妾の子だった
から昔から家で腫れ物扱いでさ。母親には無視されるわ兄貴にはい
メイド
じめられるわ侍女には陰口たたかれるわ。そんな中でイーファだけ
が普通に接してくれたんだよ。あの子が今敬語じゃないのもそれが
理由﹂
﹁⋮⋮そうなんだ﹂
﹁わかった? ぼくとイーファはそういう距離感なの﹂
︱︱︱︱本当は。
本当は情を移したくないだけだ。いつ切り捨てることになっても
いいように。
ぼくは、生まれ変わっても人間を信用していない。
﹁あんたも⋮⋮いろいろ苦労してたのね。その、本当のお母さんは
? 伯爵家に引き取られたってことは⋮⋮死んじゃったの?﹂
﹁え⋮⋮さあ﹂

252
﹁さ、さあ?﹂
﹁そういえば気にしたこともなかったな﹂
どうでもよすぎて。
﹁まあ、普通に考えたら死んだんじゃない? じゃないとぼくを引
き取らないでしょ、たぶん﹂
﹁軽っ⋮⋮寂しいとか思わなかったの? 家でそんな目にあってた
のに﹂
﹁正直あんまり辛いと思ってなかったからね。あ、今ではそんなに
家族仲悪くないよ。母親と二番目の兄は相変わらずだけど、父上は
学園に行くことを認めてくれたし、上の兄からはこの前手紙もらっ
た﹂
﹁なんというか⋮⋮あんたもたいがい変わってるわね﹂
呆れたように呟くアミュに、ぼくは笑って訊ねる。
﹁アミュの家族はやっぱり冒険者関係?﹂
﹁なんで知ってるのよ。誰かから聞いたの?﹂
﹁いや。ダンジョンや冒険者の事情に詳しかったから、そうなんじ
ゃないかなって﹂
﹁そうよ。母はギルドの幹部。父は未だに冒険者やってるわ﹂
﹁モンスター相手の戦闘に慣れてるみたいだったけど、アミュも森
や迷宮に潜ってたの?﹂
﹁⋮⋮十歳の頃から。父と一緒にね﹂
﹁どうりで﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁冒険者の中で、アミュは強い方だったりする?﹂
﹁⋮⋮どうでしょうね。正式にギルドへ登録してるわけじゃないか
ら、記録の上ではまだ十級ですらないけど﹂

253
﹁登録してないって、なんで?﹂
﹁十五歳にならないとギルドへは加入できないのよ﹂
﹁それなのに迷宮に潜っていいの?﹂
﹁⋮⋮本当はよくないけど、あまり厳しくはないわ﹂
﹁へぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
⋮⋮どうも、話したくなさそうな雰囲気が漂ってくる。
話題変えるか。
﹁あー、なんか趣味とかある?﹂
﹁⋮⋮別に﹂
﹁そう言えば、学園には剣術クラブがあるって聞いたけど、アミュ
は入らないの?﹂
﹁ぬるそうだったからやめたわ。一人で素振りしてた方がマシ﹂
﹁えっと、じゃあ⋮⋮好きなこととかは﹂
﹁⋮⋮⋮⋮戦うこと﹂
﹁え?﹂
﹁相手がモンスターでも人でもいいから、戦ってる時が好き。他の、
どんなことをしている時よりも⋮⋮それだけ﹂
﹁⋮⋮﹂
あれ、これ話題変わったか?
相変わらず話したくなさそうなアミュに、ぼくはかける言葉を迷
う。
﹁やっぱり、変でしょ﹂
﹁え?﹂
膝を立てて座るアミュが、自らの杖剣を抱き寄せる。

254
﹁お父さんにもお母さんにも言われたわ。アミュはおかしいって﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁冒険者は⋮⋮どんな荒くれ者でも、普通は冒険以外の物が一番大
事なんだって。金でも、名誉でも、家族でも、仲間でも。冒険その
もののために生きてる人はいないみたい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁傷つけば痛いし、死にそうになるのは怖い。あたしは、そんなの
些細なことだと思うんだけど⋮⋮普通はそうじゃないって。みんな
心のどこかでは、戦いを嫌ってるんだって。あたしは⋮⋮そういう
気持ちが壊れてるみたい﹂
アミュの独白を、ぼくは黙って聴く。
﹁あたし、強いでしょ? 昔から強かったのよ。剣も魔法もすぐに
覚えられた。ギルドのみんなに天才だって誉められたわ。勇者の再
来だ、ともね。初めてダンジョンに潜った時だってモンスターを何
体も倒して、度胸があるとも言われた。一年経った頃には腕を認め
られて、父以外のパーティにも加わるようになったわ。でも⋮⋮す
ぐに、そんなこともなくなった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今思えば当然よね。大規模パーティが崩壊して半数が死んで、ギ
ルド全体が葬儀中みたいな雰囲気になってた中、平然とまた行こう
なんて騒いでたんだから。戦闘狂とかイカれてるとか、死にたがり
なんて言われるようになったわ。お父さんとお母さんに迷惑がかか
るのがいやで、パーティに参加することはなくなったけど⋮⋮その
後も一人でこっそり森に入ってたくらいだから、みんなの言う通り
だったわね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁学園に来たのは、ギルドを離れたかったのもあるんだけど⋮⋮強

255
くなりたかったの。もっと魔法を学んで、誰よりも強くなれば、戦
いなんて退屈なだけになるんじゃないかと思って。そしたら、あた
しも普通になれるかなって⋮⋮でも、やっぱり無理かも﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だって、学園で授業受けてるよりも⋮⋮レッサーデーモンに襲わ
れた時とか、今の方が、楽しいって思ってるのよ? おかしいでし
ょ、こんなやつ。だから⋮⋮⋮⋮﹂
﹁別に、おかしいとは思わないけどな﹂
ぼくは、そう口を挟んだ。
﹁人間なんて一人一人違うんだから。それも個性だよ﹂
﹁⋮⋮個性って言っても、限度があるでしょ﹂
﹁ないよ、限度なんて。普通ってものがあるなら、アミュも普通だ﹂
﹁⋮⋮なにそれ﹂
アミュがぼくを横目で睨む。
﹁気休めならやめて﹂
﹁気休めじゃないよ。そうだなぁ⋮⋮﹂
ぼくは少し考えて話し出す。
﹁人に限らず生命は皆、子を残して次の世代に繋ぐものだ。では、
どんな子を残すべきだと思う?﹂
﹁どんなって⋮⋮強い子じゃない?﹂
﹁強いとは?﹂
﹁それは、力があるとか、賢いとか﹂
﹁力はそれが必要のない環境だと、筋肉が体を重くする分かえって
害になる。賢さも、時に新たな挑戦の妨げになる﹂

256
﹁じゃあどんな子だといいわけ?﹂
﹁多様な子だよ﹂
ぼくは言う。
﹁環境によって強さは違う。だけど環境がどう変わるかは神ですら
知り得ない。暑くなるのか寒くなるのか。食べ物がどれくらい減る
のか、敵がどれくらい増えるのか。だから生命は、できるだけ多様
な子を残す。どんな環境になっても、いずれかの子が生き残れるよ
うに。人が一人一人違うのもそれが理由だよ。アミュだって︱︱︱
︱そんな多様な子たちの一人でしかない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁アミュが求められる環境は、単にまだ来ていないだけだよ。もし
世界にもっと争いが増えたら、アミュの言う普通の人たちは戦いに
疲れ果てる。でもそんな時、アミュが先頭に立ってみんなを励まし
たら、きっと感謝されると思うよ。誰もイカれてるなんて言わない﹂
﹁⋮⋮そんな時なんて、死ぬまで来ないかもしれないじゃない﹂
﹁それでもいいんだよ。アミュがいた意味はあったから。争いの世
に備えてた、っていうね。少なくとも、ぼくはアミュがおかしいな
んて思わないよ﹂
﹁⋮⋮そう、かしら﹂
﹁それにさ、アミュにだって戦い以外に好きなことあるでしょ﹂
﹁え⋮⋮なに?﹂
﹁猥談。今日君が一番楽しそうだったのってこれ⋮⋮いだぁっ!﹂
鞘の尻で小突かれた。
顔を赤くしたアミュがぼくを睨んでくる。
﹁冒険者って粗野で下品な奴ばっかだから、し、嗜好がうつったの
よっ! それ誰かに言ったら殺すからね!? あと、あ、ああああ

257
たしが、ぬっ、脱いだこともっ!!﹂
﹁ふふっ﹂
﹁なによその反応。まさか脅す気!?﹂
﹁いや違うよ。そういう前向きな考え方はいいなと思っただけ﹂
目をしばたたかせたアミュが、ふと静かになる。
﹁そうね。こんなこと、助かってから言うことだったわね﹂
﹁助かるよ。きっと﹂
﹁うん⋮⋮﹂
それきり、アミュが沈黙する。
実はさっき、アミュに言わなかった話が一つある。
アミュの戦いを求める性格が、勇者の転生体であることに起因す
る可能性だ。
ぼくのように記憶を持った転生者ではないようだが、剣や魔法の
才に、性向が紐付いている可能性は十分ある。
わざわざ言うことでもないけど。
と、そのとき。
ぼくはおもむろに顔を上げ、天井に目をやった。
あれ、これはひょっとして⋮⋮。
﹁⋮⋮ありがとね。セイカ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あなたと話せてよかった。それと、助けてくれたことも感謝して
る﹂
﹁⋮⋮﹂

258
﹁⋮⋮セイカ?﹂
何もない天井を見上げていたぼくは、アミュへと視線を戻した。
そして、笑って立ち上がる。
﹁よし! 行こうアミュ!﹂
﹁え、ええ?﹂
﹁ここはダンジョンだろ? ぼく、冒険は初めてなんだ。どうせな
ら楽しもう。二人だけのパーティだけど、ぼくらならモンスターな
んて敵じゃないよ﹂
﹁⋮⋮しょうがないわね。先輩冒険者としていろいろ教えてあげる
わよ。よく見てなさい﹂
アミュは仕方なさそうに笑って、差し伸べていたぼくの手を取っ
た。
第十話 最強の陰陽師、ボス部屋に辿り着く
しばらく歩いた後、ぼくらはその部屋へ辿り着いた。
﹁なんだあれ⋮⋮﹂
青銅の扉が付いた広い部屋の中に、巨大な蛇がとぐろを巻いてい
た。
大木のような太さの胴に、黒い鱗を持った蛇。
ただ、その上半身は人間だった。
鱗と同じく黒いが、皮も腕も人間のものだ。しかし頭だけはまた
蛇に戻っている。まるで邪教の祀る神のような異形だった。

259
組んだ両腕にはこれまた巨大な剣が握られているが、蛇の目は閉
じている。
寝ているのか⋮⋮?
﹁あれはナーガね﹂
扉の隙間から一緒に中を覗いていたアミュが言う。
﹁あたしも初めて見る。たぶん、このダンジョンのボスよ﹂
﹁ボス?﹂
﹁ダンジョンの核か、核を守っているモンスターってこと﹂
﹁なるほど﹂
あれを倒せばこのダンジョンは攻略完了ということだな。
﹁ひょっとして、ボスを倒したら外への道が現れたりする?﹂
﹁下層へ潜っていくダンジョンならありえないわね。ただここはず
っと平坦だったし、どうも遺跡が元になってる気がするから⋮⋮も
しかすると。部屋の奥にも通路があるみたいだしね﹂
﹁よし、それなら⋮⋮﹂
﹁でも、やめた方がいいと思う﹂
アミュがそう遮った。
﹁どうして?﹂
﹁ナーガはかなりの強敵よ。六人パーティだったら全員四級以上、
四人パーティだったら三級以上ないと厳しいレベル。しかも黒いナ
ーガって聞いたことないわ。普通は砂色で、赤い奴だと火を噴いて

260
くるらしいから、あれもたぶんなにか特殊能力を持ってる。それが
わからないのは危険すぎる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁引き返しましょう。入り口は別にあるはずだから、そっちを探す
方が無難よ﹂
﹁それはできないよ、アミュ。ぼくらには探索に時間をかけられる
だけの備えがない。むしろ体力の残ってる今、この部屋にたどり着
けたことを幸運に思うべきだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あれを倒そう。仮に部屋の先に出口がなくても、核を潰せばモン
スターの脅威はなくなる﹂
﹁セイカは⋮⋮あれに勝つ自信、ある?﹂
﹁アミュとならね﹂
アミュはふと目を伏せると、小さく笑った。
﹁わかったわ。でも、ダメそうなら逃げること。いい?﹂
﹁ぼく、逃げるのも得意だよ。撤退するときはいつでも言ってくれ﹂
そう。
逃げるのはいつでもできるんだ。
アミュは鞘から杖剣を引き抜く。
﹁三つ数えたら行くわよ。部屋に入ったらナーガが起きるはずだか
ら、体勢が整う前に魔法を撃って﹂
﹁了解﹂
どうせなら印も真言も省略せずやるか。

261
﹁三、二︱︱︱︱﹂
ぼくはヒトガタを浮かべる。
﹁一ッ!﹂
アミュが扉を蹴破り、疾駆し出す。
ナーガの蛇の目が、おもむろに開いた。
剣を持った両腕を広げ、侵入者のアミュに目を向ける。
︽木の相︱︱︱︱杭打ちの術︾
トネリコ
丸太のような の杭が放たれ、ナーガの左手から剣を弾き飛ばし
た。
さらに二本目、三本目が胸や胴に命中し、大きくよろめかせる。
やっぱりちゃんとやると威力が違う。
ただ⋮⋮、
﹁⋮⋮浅いな﹂
大したダメージになってない。
ナーガは胸と腹に刺さった杭を左腕で引き抜き、その縦長の瞳孔
を今度はぼくへ向けた。
﹁余所見してんじゃないわよッ!﹂
ファイアボール
アミュが蛇の頭に火炎弾を放つと、ナーガがひるんだようによろ
めいた。

262
右腕で振るわれた巨大な剣を、アミュが馬鹿力で弾き返し、さら
に魔法で翻弄していく。
お? これはぼくが自由だ。
︽木の相︱︱︱︱杭打ちの術︾
アミュに気を取られていたナーガへ、極太の杭が襲いかかった。
肩口や喉元に次々と突き立つ。今度はそれなりのダメージが入っ
たみたいだ。
なるほど。前衛の役割とはこういうものか。
アミュが常に注意を引いてくれるおかげで戦闘中でも術が使いや
すい。
前世でも武者と術士が協力すれば妖怪退治もしやすかったのかな
⋮⋮。
﹁気をつけて! なにか来るわよッ!﹂
見ると、ナーガが胸郭を膨らませていた。
大きく上体を突き出し、蛇の口から液体を噴出する。
アミュが転がって避け、ぼくも大きく後退して躱すが、液体のか
かった床は気泡をあげて溶解していた。
強酸を吐くのか。
へぇ⋮⋮。
トネリコ
体勢が崩れたアミュへと剣が振り下ろされる。が、 の杭がそれ

263
を弾いた。
注意を引いたぼくへナーガが迫るが、アミュの風魔法がそれを牽
制する。
﹁アミュ、少し前に出たい。攻撃を引き受けてもらえるか?﹂
﹁わ、わかったわ!﹂
﹁それと、合図したら後退してくれ﹂
前衛のアミュを︽杭打ち︾で援護しながら、機をうかがう。
まだだ、まだ⋮⋮。
やがてアミュの魔法でナーガが大きく仰け反ったとき、その胸郭
が膨らんだ。
強酸を吐く前振り。
ここだ。

︽金の相︱︱︱︱爆ぜ釘の術︾
強酸を吐きかけた蛇の口腔に、白い金属の槍が突き立った。
口から漏れた強酸が槍と上半身を溶かし、ナーガが無音の絶叫を
上げて身をよじる。
﹁よし下がれっ!﹂
アミュに合図を出し、︽鬼火︾を撃とうとする。
が、暴れ回る尻尾に阻まれた。
ダメだ、完全に警戒されてるな⋮⋮。
待てよ、別に自分でやらなくてもいいか。

264
ファイアボール
﹁アミュ! 頭に向けて火炎弾を撃つんだ!﹂
狙いやすい位置にいたアミュへそう呼びかける。
ファイアボール
返事代わりに放たれたのは、火炎弾の魔法。
それは正確にナーガの頭部へと飛んでいき︱︱︱︱、
槍を中心に、派手な爆炎が上がった。
もはや防御も何もなく、半人半蛇のモンスターは地面をめちゃく
ちゃにのたうち回る。
﹁やっと頭を下ろしたわね﹂
そして未だ燃え盛る蛇頭の眼窩に︱︱︱︱アミュの杖剣が、深く
突き立てられた。
人間の上半身と蛇の下半身が、激しく痙攣する。
だがやがて⋮⋮ダンジョンボスのナーガは、そのすべての動きを
止めた。
力の流れが急激に弱くなり、消える。
死んだみたいだな。
ふう、思ったよりあっさり終わってくれた。
﹁アミュ! やったな︱︱︱︱って、おわっ﹂
﹁セイカっ!﹂
駆け寄ってきたアミュがそのまま抱きついてくる。

265
﹁やったやった! あははっ、あたしダンジョンボスの討伐なんて
初めて! パーティ組んだばっかりなのに、あたしたち息ぴったり
じゃない?﹂
ぼくの手を取って飛び跳ねるようにはしゃぐアミュ。
こう屈託なく笑っているところは︱︱︱︱本当に、あの子によく
似ていた。転生するほんの数年前には、あの子もよくこうしてぼく
の屋敷で笑っていたものだった。
しかし一方でぼくは⋮⋮これまでの過程で確信を持っていた。
アミュは︱︱︱︱あの子とは、なんの関係もない。
初めて出会った時、ぼくを追って転生してきたのではないかとい
う考えが、微かに頭をよぎりはした。だが、そんなことは技術的に
不可能だ。いくらあの子でも、無数にある異世界の中からぼくの魂
を見つけ出し、狙って転生してくるなどできるわけがない。
それに、力の流れも違う。記憶を持っている様子もない。そして
何より⋮⋮あの子の性格からして、ぼくを追いかけてくるとは思え
なかった。
ただの他人のそら似だ。別に珍しくもない。あの子とぼくの姉が、
結局わずかな血縁すらもなかったように。
あの世界での生は終わったのだ。
のこ
遺してきた者に、後になってから言葉をかけられるほど、世界は
都合良くできてはいない。
﹁はっ⋮⋮! んん、ごほんっ﹂

266
生暖かい目で見つめるぼくに気づいたのか、アミュは急に我に返
ると、恥ずかしそうに手を離して咳払いした。
ぼくは苦笑して言う。
﹁しかし、君も無茶するなぁ。あんな火がついて暴れ回ってるやつ
にとどめ刺しに行かなくても﹂
﹁も、もたもたしてると再生したりするやつがいるのよ。ちゃんと
仕留めたんだからいいでしょ﹂
﹁うん、すごいよアミュは。あんなのなかなかできることじゃない﹂
人の身にして鬼を斬る、自身も鬼であるかのような武者が日本に
はいたが、それを思い出すような戦いぶりだった。
なんてことを考えながら赤い髪をなでてやっていると、アミュが
じとっとした目を向けてくる。
﹁なに、この手?﹂
﹁あっ、ご、ごめん﹂
ぼくはあわててアミュの頭から手を離す。
イーファにもたまにやってしまうんだけど、どうも弟子を相手に
してる気分になるんだよな。
子供扱いしてるみたいで嫌がられるだろうからやめよう。
アミュがそっぽを向く。
﹁⋮⋮別にいいけど﹂
﹁え、何?﹂
﹁なんでもない。それより⋮⋮あの銀色の槍、なんなの? 火の魔
法で爆発してたけど﹂

267
﹁あれはまあ、そういう性質の金属なんだよ﹂
古代ギリシアの都市、マグネシアの錬金術師が発見した金属、マ
マグネシウム
グネシアの銀は、それ自体が燃えるという変わった性質を持ってい
る。
さらには酸に容易に溶解してこれまた燃える気体を発生させるた

め、︽爆ぜ釘︾をうまく使えばあのような爆発は簡単に起こせるの
だ。
ちょうど強酸を吐いてたからね。
﹁怪我はない?﹂
﹁⋮⋮ないわ。不自然なくらい。軽い火傷はしたと思ったんだけど﹂
﹁それなら渡した呪符が身代わりになったんだろうね。まだ全然保
つだろうけど﹂
﹁そんなこともできるの? 符術って便利なのね﹂
﹁あれだと大きな怪我は治せないけどね。さて、先へ進もうか﹂
歩き出しながら、ぼくは天井を見上げて言う。
﹁もしこの先に出口があるなら、ちょうど神殿のそばに出るだろう
な﹂
﹁⋮⋮? なんでそんなことわかるわけ?﹂
﹁あ、いや。なんとなく⋮⋮﹂
訝しげなアミュに、ぼくはあわてて誤魔化す。
ユキが耳元でささやくように訊ねてくる。
﹁セイカさま、もしかして⋮⋮今いる場所がおわかりなのですか?﹂

268
﹁まあね。少し前から﹂
﹁ど、どのようにして⋮⋮﹂
﹁術で磁石の力を使ってね﹂
磁石の持つ鉄を引き寄せる力︱︱︱︱磁力は、分厚い地殻に減衰
されず影響を及ぼせる数少ない力だ。
陽の気で強力な磁場を生み出せば、多少距離があっても地表にま
で届く。
それを、ミツバチの姿に変えていた式神で感知したのだ。
ミツバチの腹部には磁気に反応する鉱物があり、磁界の変化を感
じ取れる。もちろん式にはそんなものないけど、標本に従って動作
するから機能は同じだ。
位置や高低を変えて磁場を張り、それを地上から捉えることで、
大まかな現在地がわかったというわけ。
キツネやハトでも同じことができたはずだけど、地表近くで小さ
な変化を捉えるとなるとミツバチが一番だった。
見にくくてしょうがなかったけど。
﹁ではひょっとして、入れ替わりの法でいつでも脱出できたのです
か?﹂
﹁うん﹂
﹁な、ならばなぜ、わざわざこんな⋮⋮﹂
﹁さっき言っただろ? せっかくだし楽しみたかったんだよ。ダン
ジョンなんて初めてだったから﹂
あとは、アミュに経験を積んでほしかったのもあった。
︱︱︱︱いずれ最強になってもらうために。

269
第十話 最強の陰陽師、ボス部屋に辿り着く︵後書き︶
※爆ぜ釘の術
マグネシウムの槍を放つ術。マグネシウムはそれ自体が燃えるほか、
酸どころか温水にすら簡単に溶けて水素を発生させる。実際に発見
されたのは近代だが、作中世界においては古代ギリシアの錬金術師
が滑石と呼ばれる鉱物から分離していた。
※磁流雲の術︵術名未登場︶
陽の気でヒトガタの周りに強力な磁場を発生させる術。本来はレン
ツの法則を利用した矢避けの術だが、今回セイカは地上から位置を
特定するためのビーコン代わりに使った。
※式神︵ミツバチ︶

270
ミツバチは腹部に持つ磁性結晶で磁場の変化を感じ取れる。おそら
く仲間に蜜の位置を知らせるには方位感覚が必要で、そのために地
磁気を感じる器官が発達したのだと思われる。紫外線なども見える。
第十一話 最強の陰陽師、土産を拾う
ボス部屋の奥に伸びていた通路を進むと、辿り着いたのは小さな
部屋だった。
﹁ここは⋮⋮﹂
・・
﹁よくわからないけど、たぶんそれのための部屋なんじゃない?﹂
部屋の中央には、祭壇のようなものがあった。
そしてその上に、剣が突き立てられている。
埃を被っていてずいぶんと古そうではあるが⋮⋮見事な剣だった。
柄には控えめだが装飾が施され、微かに力の流れも感じる。

271
美しい銀色の剣身には、錆一つ浮いてない。
材質は何だろう? 鋼でも青銅でもなさそうだけど⋮⋮。
ミスリル
﹁これ⋮⋮聖銀かしら﹂
﹁ミスリル? って﹂
たしか、魔力を通す希少金属だったっけ。
﹁ミスリルの武器なんて一度しか見たことないけど、たぶん﹂
﹁もしかして、かなりいいやつ?﹂
﹁杖剣には最適な素材よ。珍しい分高いから、これ市場に出したら
相当な値段がつくんじゃないかしら⋮⋮それでも、これを引き抜い
て持って帰りたいとは思わないけど﹂
と言って、アミュが祭壇を気味悪そうに見やる。
ミスリルの剣が祭壇に刺し止めていたのは、巨大な手だった。
五指があるが、人間のものではない。
ゴツゴツとしたその皮膚は、爬虫類に近い。
﹁封印⋮⋮よね? これ﹂
﹁だろうね﹂
﹁手以外はどうしたのかしら﹂
﹁きっとバラバラにして、それぞれ別の土地に封じてあるんだよ﹂
前世でも、強大な妖をそうやって封じていた例があった。
位相に送ってしまうのとはまた別の封印だ。
﹁それだけやばいやつってこと?﹂

272
﹁たぶんね。でも⋮⋮﹂
ぼくは剣の柄を握ると、それを無造作に引き抜いた。
﹁っ!! ちょっと!﹂
﹁大丈夫だよ。この手はとっくに力を失ってる﹂
巨大な手は剣を抜いた拍子に割れ、崩れていた。
相当古いものだろう。力の流れなどは微かにも感じられない。
﹁だけど、どうしてダンジョンの奥になんて封印したんだろうな﹂
﹁⋮⋮封印した時は、まだダンジョンじゃなかったんじゃないかし
ら。その手がまだ力を持っていた頃にナーガが呼び寄せられて、そ
れがやがて核になって、長い時間をかけてダンジョンが広がってい
った⋮⋮とかね。ここ、元々はなにかの遺跡みたいだし﹂
﹁ふうん。なるほど﹂
ま、なんでもいいや。
﹁はい、アミュ﹂
ぼくはアミュに剣を差し出す。
﹁え?﹂
﹁これ、いい剣なんでしょ? 使ったら?﹂
﹁⋮⋮いいの? あんたの手柄でもあるのに﹂
﹁ぼくは剣使わないから。売ってもいいけど、珍しいものだし使え
るなら使った方がいいよ﹂
﹁ほんとにいいの? 今の杖剣は酸で傷んじゃったから、すごくあ
りがたいけど⋮⋮﹂

273
アミュがそう言って柄を受け取り、剣身を立てる。
そのとき、からんころんと柄頭から何かが落ちて床を転がった。
ぼくはそれを拾い上げる。
﹁え、飾りでもとれちゃった?﹂
﹁いや⋮⋮これ指輪だ﹂
どうやら柄頭に引っ掛けてあったらしい。飾りの一部だと思って
気づかなかった。
埃を被ってはいるが、きれいな指輪だ。
剣身と同じミスリルのリングに、複雑な色合いの小さな魔石が嵌
まっている。
文字も魔法陣もないのに、力の流れを感じる。
これはひょっとして⋮⋮。
﹁アミュ、こっちはぼくがもらっていい?﹂
﹁ダメと言う理由がないわね⋮⋮うん、これやっぱりいい剣みたい。
直しは必要だけど﹂
ミスリルの剣を振っていたアミュが、満足げに言う。
﹁まさかこんな拾い物があるなんてね﹂
﹁ああ。ぼくらはツイてるよ﹂
本当に⋮⋮本当に、ぼくはツイてる。
初めはあんなつまらない罠にはまるなんてと思ったけど、おかげ
でアミュの呪いのことを知れたし、おもしろい土産までできた。

274
もし普通にイーファを行かせてたら最悪の事態にもなりかねなか
っただろうから、ぼくの判断もよかったな。
アミュが言う。
﹁欲を言えば、ダンジョンドロップも欲しかったところだけど﹂
﹁ダンジョンドロップ?﹂
﹁ダンジョンによっては、中にアイテムが落ちていることがあるの。
武器とか、宝石とかね。それもモンスターと同じくダンジョンが生
ダンジョンドロップ
み出しているから、迷宮の恵みってわけ﹂
﹁へぇ﹂
そう言えば前世の迷い家でも、持ち主に富をもたらす呪物を授か
ることができたっけ。
﹁そういうの探すのは楽しそうだな﹂
﹁そうなのよ﹂
アミュが笑って言う。
﹁冒険者ってろくでもない職業だけど、でもおもしろいの。ま、偉
いお貴族様が関わる世界ではないでしょうけどね﹂
﹁はは、いや⋮⋮冒険者か。悪くないな﹂
﹁え、本気で言ってる?﹂
﹁お貴族様とは言っても、妾の子で家も継げないしね。働かないと﹂
﹁学園の出で成績がいいなら、普通に官吏にでもなったらいいでし
ょ。あんただったら宮廷魔術師だって目指せるんじゃない?﹂
﹁役人か⋮⋮﹂
正直、役人生活は陰陽寮時代でうんざりしていた。

275
忙しいし雑務ばっかりだし同僚は無能だし付き合いが鬱陶しいし
⋮⋮生まれ変わってまでやりたくない。
﹁役人はちょっと⋮⋮。それに、冒険者って儲かるんでしょ?﹂
﹁成功者はね。でも危険と隣り合わせよ﹂
﹁それは気にしてない。何より自由そうなのがいいな﹂
力さえあれば、しがらみなく、手っ取り早く大金を稼げる。
ぼくにぴったりの職だ。
どこにいたって金は大事だし。
ぼくはアミュに笑いかける。
﹁今回、アミュと一緒に戦えて楽しかったしね。まだ先の話だけど、
考えておこうかな﹂
﹁そ、そう⋮⋮? じゃあ、考えておいて。あの、もし冒険者にな
ったら⋮⋮﹂
﹁また一緒に冒険に行こうか。今度はちゃんと準備してね。アミュ
とだったら、どこへだって行ける気がするよ﹂
﹁う、うん⋮⋮約束ね﹂
少し照れたように、アミュが目を逸らした。
冒険者になれば、アミュのそばにいられる。
それが何より大きい。
基本的にパーティ単位で行動する冒険者なら、多少強かろうと目
立たない。
アミュの華々しい成功の陰で、ぼくはひっそりと幸せになれるだ
ろう。

276
今回のことで、だいぶ信頼を勝ち取れた。
今生は実に順調だ。
やり直しの生とは、こうも容易いものなのか。
﹁そ、それじゃ先を急ぐわよ。ここが人の作った地下遺跡なら、出
口も近いはずだから⋮⋮﹂
﹁待って﹂
歩き出すアミュを、ぼくは引き留めた。
﹁この先にも扉がある。ぼくが一応見てみるよ﹂
祭壇の部屋から延びる短い通路。
ここからでも、その先にある青銅の扉が見えた。
アミュが訝しげに言う。
﹁ボスは倒したんだから、なにもないわよ﹂
﹁念のためだよ。ちょっと待ってて﹂
そう言って、ぼくは扉へと歩いて行く。
﹁セ、セイカさま⋮⋮﹂
﹁わかってる﹂
祭壇の部屋に入ったときから気づいていた。
この向こうにある大きな力の流れを。
ダンジョンはまだ力を失っていない。
核はまだ生きている。

277
青銅の扉の隙間から灯りのヒトガタを飛ばし、中をそっとのぞき
見る。
広大な部屋。
そこに、三体のナーガがいた。
右方に、金の鱗のナーガ。
左方に、銀の鱗のナーガ。
そして中央に毒々しいまでの虹色をしたナーガが、腕を組み、と
ぐろを巻いて厳かに座していた。
先ほどのナーガとは、力の大きさが違う。
明らかにやばい。
ぼくは思わず顔が引きつる。
いや、空気読んでくれよ⋮⋮。
終わるとこだったろ、さっきので。なんで畳みかけてくるんだよ。
今いらないんだよそういうの⋮⋮!
ちらと、アミュを見る。
いくら勇者と言えど、今あの三匹を相手にするのは無理だろうな
ぁ⋮⋮。
仕方ない。
扉の隙間から、新たに三枚のヒトガタを飛ばす。
それらは目を閉じたまま動かない三体のナーガへ、静かに貼り付
いた。

278
片手で印を組む。
︽陰の相︱︱︱︱氷樹の術︾
陰の気が瞬く間に熱量を奪い去り︱︱︱︱三体のナーガは、すべ
てただの氷像と化した。
ダンジョン全体から、灯りが落ちたように力が消え去る。
やっぱりあっちが本当の核だったみたいだな。
﹁な、なに? 今の﹂
﹁あー⋮⋮ダンジョンが力を失ったんじゃないか?﹂
﹁え、でもボスはもう⋮⋮﹂
﹁もしかしたらあのナーガ、さっきまで生きてたのかもね。ほら、
蛇って生命力強いし﹂
適当なことを言いつつ扉のヒトガタを飛ばし、ナーガの死骸を位
相へと捨てていく。
よし、証拠も隠滅できた。
ぼくは扉を開け放つ。
﹁こっちの部屋にはやっぱり何もないみたいだ。ダンジョンが生き
てれば、モンスターが湧出したのかもしれないけどね﹂
﹁うーん⋮⋮そう? なんかへんなの⋮⋮﹂
釈然としない様子のアミュへ、ぼくは誤魔化すように部屋の奥を
指さしてみせる。
﹁この奥にも通路があるみたいだよ。出口かもしれない﹂
実はすでに飛ばしていた式神で、その先が上へと続く階段になっ

279
ていることはわかっていた。
出口である落とし戸には、土が被さっていて簡単には開かなさそ
うだが⋮⋮いくらでもやりようはある。
地上の神殿遺跡には、学園の先生たちの姿があった。
探しに来たんだろう。だいぶ焦っている様子がうかがえる。ぼく
は一応、貴族の子息だしね。
その中の一人を、ふとミツバチの視界でとらえて︱︱︱︱思わず、
内心でほくそ笑んだ。
なるほどなるほど。
やっぱり、ぼくはツイてるな。
第十一話 最強の陰陽師、土産を拾う︵後書き︶
※氷樹の術
陰の気で対象の熱を奪って凍らせる術。
280
第十二話 最強の陰陽師、黒幕と対決する
それから。
ぼくとアミュは無事、ダンジョンを脱出できた。
出口の落とし戸を︽灰華︾で上の土ごと吹き飛ばし、先生たちを
驚かせはしたが、誰も怪我させなかったから問題はない。
学園に連れ帰られてから、先生たちに何があったのかを事細かに
訊かれ、ぼくらはありのままを話した。
森にあった魔法陣でダンジョンに転移してしまったが、ボスを倒
してなんとか脱出できた、と。
ただぼくの術とアミュの呪いについては、アミュとも口裏を合わ

281
せて伏せた。話すと不都合があったから。
先生たちは、神殿の地下にダンジョンがあったことなんて知らな
かったようだ。
たぶんこの街で知っている人なんていなかったんだろう。普通あ
んなモンスターが城壁内にいるとわかってたら、怖くてこんなとこ
ろ住めない。
森の魔法陣はすでになくなっていた。
どうやら一回発動したら消える仕掛けが施されていたらしい。周
到なことだ。
おかげで、犯人もわからずじまい。
こんなことがあって、また閉鎖だなんだという騒ぎになるかと思
ったが⋮⋮今回は三日休講になっただけで終わった。
誰の仕業かもわからない中で、よく続けるよと思う。
まあデーモンに襲撃されても閉鎖しなかったんだし、今さらだろ
う。
あれから今日で七日。
ぼくとアミュにも、ようやく日常が戻ってきていた。
﹁失礼しまーす﹂
研究棟地下への階段を降りながら、ぼくはそう声をかける。
﹁お預かりしていた物、返しにきました。コーデル先生﹂

282
広大な地下室。
その床一面に描かれた青白い魔法陣の上で︱︱︱︱コーデルは丸
眼鏡をくいと上げる。
﹁ランプローグ君かい? すまない、君に何か貸していたかな?
それよりも⋮⋮どうやってここに? 鍵を掛けていたはずだけど﹂
﹁すみません、鍵は融かしちゃいました。侵入者を知らせる魔道具
も、今は結界の中です。預かり物についてはまた後で。今日は先生
に訊きたいことがありまして﹂
﹁⋮⋮授業でわからないことでもあったかな﹂
コーデルの冗談に少し笑って、ぼくは地下室をつかつかと歩く。
﹁儀式は順調ですか? 先生﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁アミュはまだ元気ですよ﹂
﹁⋮⋮どこまで気づいている?﹂
﹁さあ。でも、おかしいと思ってたんですよね。いくら転移の魔法
に長けた悪魔族とはいえ、帝国の都市に単独で侵入し、あれだけの
魔法陣を用意できるものかと。そしたら先日のダンジョン事件です
よ。襲撃者の置き土産だった可能性もありますが⋮⋮普通に考えた
ら内通者がいますよね﹂
コーデルは溜息をつく。
﹁ひょっとして、その襲撃者は君が倒してしまったのかな? やれ
やれ。誰だったのか知らないが、だから半端なやつは送るなと言っ
ておいたのに﹂
﹁本人はすごく偉そうでしたけどね﹂

283
﹁それにしても⋮⋮どうして僕だと? 証拠は残さなかったはずだ
けど﹂
﹁えーと⋮⋮勘です﹂
﹁はぐらかされてしまったかな﹂
﹁話すと長くなるんで。じゃ、先生⋮⋮そろそろいいですよ、真の
姿を現してもらっても﹂
コーデルはくつくつと笑う。
﹁今のは冗談かい? 残念ながら僕は人間だ。これが真の姿だよ﹂
﹁魔族が人間の間者を使うんですね﹂
﹁いくらか魔族の血は入っているがね。それくらいするさ。帝国が
魔族の間者を使っているように﹂
やっぱり人間側もその程度のことはしてるか。
﹁あのダンジョンのことも、魔族には伝わっていたんですか?﹂
﹁いや、あれは僕が見つけたのさ。古い文献をあたってね。人間の
通れる出入り口はなかったから、脱出は不可能なはずだったんだけ
ど﹂
﹁へぇ、危ない危ない⋮⋮﹃呪い﹄と併せて、確実に勇者を葬るつ
もりだったんですね﹂
﹁⋮⋮お見通しというわけか﹂
﹁ご自分で編み出した術ですか? だとしたら、きっと先生は天才
なんでしょうね﹂
﹁これの価値をわかってもらえて嬉しいよ﹂
丸眼鏡の奥で、コーデルは目を細める。
﹁光属性の儀式術を取り入れた、今までにない画期的な﹃呪い﹄だ。

284
はるか遠くから、病に偽装し、対象を確実に殺せる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今までの実験では、どんな腕のある魔術師も屈強な戦士も、為す
術なく死んでいったよ。苦しみながらね。今はまだ耐えているが、
あの勇者もいずれ同じ末路を辿るだろう。ダンジョンなんて実はど
うでもよかったんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ただ、一つ欠点があってね。時間がかかるのさ。そして途中で邪
魔されると、せっかくの術が解かれてしまう。だから︱︱︱︱君に
は死んでもらうよ﹂
コーデルが杖を振ると︱︱︱︱空中に、無数の魔法陣が出現した。
その光の中で、異世界の呪術師が丸眼鏡を押し上げる。
﹁ここは僕の工房だ。当然このくらいの備えはしてあるよ。君が誰
かに話していてもいいように、この場所は異界化させて逃げるとし
ようかな。悪いが、地獄で見ていてくれ︱︱︱︱僕が、勇者殺しの
栄誉と共に凱旋するのをね﹂
﹁あ、その前にちょっといいですか﹂
ぼくは手を上げて、コーデルの語りを遮った。
緊張感のないその様子に、コーデルが眉を顰めて押し黙る。
﹁先ほど欠点が一つと言っていましたが、実はもう二つあるんです
よ﹂
﹁何⋮⋮?﹂
﹁気づいてました? ﹃呪い﹄は今、アミュにかかってませんよ﹂
﹁は、何を言って⋮⋮﹂
﹁今呪われているのは、こいつです﹂

285
不可視化の術を解く。
ぼくの前に現れたのは、半分溶けた真っ黒のヒトガタだった。
それを見たコーデルの表情がこわばる。
﹁呪いって、標的を定めるのが難しいんですよ。普通は対象の名前
や、髪の毛や爪を使って縛るんですが⋮⋮先生はおもしろい条件を
設定しましたね。デーモンの血を浴びた者、ですか﹂
床の魔法陣、その中央には、黒い液体が満たされた壺が置かれて
いた。
おそらく、あれはデーモンの血液なのだろう。
﹁たしかに、アミュは襲撃の時にデーモンを倒してましたからね。
もしかして、席次の高いぼくとイーファも狙われてたのかな? だ
としたら危なかった。でもそのおかげで、このヒトガタに呪いを移
せたわけですが﹂
黒いヒトガタは、コーデルに壺をひっくり返された時に位置を入
れ替え、あの生臭い液体を浴びたものだった。
デーモンの血を。
アミュの呪いを移そうとした際に真っ先に試したのだが、あっさ
りうまくいって逆に驚いた。まあ最初からコーデルを疑っていたか
らなんだけど。
﹁どんな条件で狙いを定めていても、ばれてしまえばこの通りです。
全然気づかなかったでしょ? 呪いは標的がどうなっているか、術
をかけている側からわからないですからね。前世では恨んだ男が死
んだ後も呪い続け、やがて鬼と化してしまった女の話なんて珍しく
ありませんでした。それに、狙いもすぐ外れる。犬神や蠱毒など、

286
その外れやすさを逆に利用した術もあるくらいです﹂
﹁前世⋮⋮? なんだ、君は何を言っている? なぜ、僕の術のこ
とを⋮⋮﹂
﹁さて、もう一つの欠点ですが、その前に﹂
︽召命︱︱︱︱デーモン︾
ガレオス戦で捕まえたデーモンを、位相から引き出す。
ぼくの頭上に浮遊する赤い紋様のデーモンは、身動き一つしない。
死んでいるようだった。やっぱり妖と違って、肉体依存度の高いモ
ンスターは位相には耐えられないか。
まあ今は支障ないけど。
コーデルは、丸眼鏡の奥で目を見開いている。
﹁なっ、アークデーモン!?﹂
﹁これをこうします﹂
式神を使い、デーモンの死骸を力尽くで引き裂く。
大量の血と臓物の破片が、ぼくに降り注ぐ。
﹁何を⋮⋮!?﹂
﹁さらにこうします﹂
真言を唱えたのち、黒いヒトガタを火の気で燃やす。
﹁はい。これで呪いはぼくに移りました﹂
力が流れ込んでくるのを感じる。
む、けっこう強いなこれ。

287
かわいそうに、アミュはこれを耐えていたのか。
コーデルはというと、唖然とした表情を浮かべている。
そりゃそうか。このままじゃぼく、ただの頭おかしい奴だし。
﹁バカな⋮⋮気でも違ったか? 僕の呪いをその身で受けて、ただ
で済むわけが⋮⋮!﹂
聞いたぼくは、口の端を吊り上げる。
それはお互い様なんだよなぁ。
ぼくは声を張る。
かしこ いざなみのおおかみ
﹁拝すも畏き伊邪那美大神︱︱︱︱﹂
呪力を込めた言葉。
あらき うじ はべ ま やはしら
﹁︱︱︱︱殯斂の宮、黄泉の国に蛆たかられし時、侍り坐せる八柱
いかづちのかみ よもつしこめ たち もろもろ
の雷神、黄泉醜女等。諸諸の呪い、祟り、怨み有らむをば︱︱︱︱﹂
それは世界の理を曲げ、向けられた呪詛を改変していく。
く たま かえ たま もう め かしこ かしこ
﹁︱︱︱︱食らひ給ひ還し給へと白す事を、聞こし召せと恐み恐み、
かしこ もう
恐みも白す⋮⋮⋮⋮人を呪わば穴二つ、ですよ。先生﹂
突然、コーデルは血を吐いた。
尋常な量ではない。心臓を絞ったかのようなおびただしい量の血
が、コーデルの口から流れ落ち、床の魔法陣を汚していく。
異世界の呪術師が苦しみにあえぐ。

288
﹁な゛ん⋮⋮ごれ、は⋮⋮﹂
﹁呪いの一番の欠点。それは容易に返されることです。いわゆる呪
詛返しですね﹂
床に倒れ込むコーデルへ、ぼくは部屋を歩き回りながら説明して
いく。
﹁呪いは返されると、元の何倍もの威力となって術者へ襲いかかり
ます。いいですか、先生。呪いとは、決して遠くから安全に行使で
きる術じゃないんです。相手に心得があったり、術士を雇われたり
すると一転して窮地に陥る危険な術なんですよ﹂
目や鼻からも血を流し、やがて息が弱まっていく呪術師へ向け、
ぼくはなおも語る。
﹁先生が実験でうまくいってたのは、単にこの世界で広まってなか
ったからというだけ。対策が生み出されれば一気に陳腐化する、こ
れはその程度の術なんです。残念ながらね⋮⋮先生。聞いてますか
? 先生﹂
コーデルに、もはや動きはなかった。
異世界の天才呪術師は、どす黒い血の海の中で息絶えていた。
ぼくは、その死体を見下ろして言う。
﹁まあ、呪詛の方法論を一から作り上げたのはすごいと思いますよ。
でも︱︱︱︱﹂
溜息をつき、小さく呟く。

289
ぼく
﹁︱︱︱︱呪いは、陰陽師の専門なんでね﹂
****
それにしても、だ。
﹁本当に気持ちよく返せるなー、この呪文﹂
さかのりと
師匠がよく使っていた、神道由来の呪い返し用逆祝詞。ちょっと
きず
長いのが玉に瑕だが、異世界呪術にもばっちり対応だ。すごい。
のりと
﹁祝詞とは、セイカさまにしては珍しいですね﹂
上着の内ポケットから顔を出したユキが言う。
﹁そうだな。自分への呪詛返しはあれが一番使いやすいんだけど、
呪いを受けることなんて久しぶりだったから﹂
陰陽道は神道、仏教、道教が日本で融合した呪術体系で、使える
術も幅広い。
実際、真言は梵語、符に書くのは漢語、祝詞は日本語というとり
とめのなさだ。当然、術士の好みで全然使わない系統が出てくるこ
ともある。
浄化とか霊を祓う系は強いんだけどなー、神道。呪文が長いから
ダルいんだ。
﹁ところで、ユキにはわからないことがあるのですが﹂

290
﹁なんだい?﹂
﹁セイカさまは、迷宮から帰ってからずっとあの人間を疑っていた
ようですが⋮⋮どうしてわかったのです?﹂
﹁ああ。脱出前に地上の様子を観察してたとき、あの人の上着に花
粉がついてるのが見えたんだ。それが転移の魔法陣の近くに生えて
た花と同じだったからね﹂
﹁花粉、でございますか? よくそんなものおわかりになりました
ね﹂
﹁花粉は紫外線を反射するからね。ミツバチの視界ならそれがよく
見えるんだよ﹂
﹁紫外線⋮⋮とは?﹂
﹁虹の一番下は紫色だろ? でも実はそのさらに下側に、人には見
えない色があるんだ﹂
﹁ほほう﹂
﹁それが紫外線。まあ古代ギリシアの言葉を直訳しただけだけどね。
鳥や虫には見えるものが多いんだよ﹂
﹁ほへ∼﹂
ユキが気の抜けた相づちを打つ。
わかっているのかは微妙だ。
ま、何はともあれ。
これで懸念事項だった魔族への内通者も始末できた。
やっと普通の学園生活を始められるよ。
目下の問題は、あと一つだけ。
モンスターの血にまみれた服を見下ろして、ぼくはげんなりと呟
く。
﹁⋮⋮着替えどうしようかな﹂

291
第十三話 最強の陰陽師、学園生活に戻る
あれから五日。
生徒たちには、コーデル先生は退職したと伝えられていた。
あの地下室と死体は絶対に誰かが見つけてるはずだが⋮⋮この学
園も闇が深いな。
あの血みどろの光景を、学園側がどのように受け取ったかはわか
らない。
魔術に失敗して死んだ内通者、と事実通り受け取ってくれてると
助かるが、さすがに無理だろうな。
まあいいか。

292
当面の危機は去ったんだ。学園が続いてくれれば、それで十分。
﹁あ、イーファ!﹂
寮からの通りを歩くくすんだ金髪を見つけ、ぼくは声を上げた。
イーファはぼくに気づくと、こちらへ駆け寄ってくる。
﹁おはよう、セイカくん﹂
そう言って、イーファはその橙色の瞳を細める。
ぼくがダンジョンで遭難してたのは十刻︵※五時間︶ほどで、そ
の間イーファは何も知らなかったらしいが、帰ってきてから話した
らめちゃくちゃ心配された。
アミュのことも気にかけていたようだし、本当にいい子だなぁと
思った次第。
﹁そうだ。イーファ、ちょっと手を貸して﹂
﹁え、うん﹂
イーファの右手をとると、ぼくは少し迷って、その人差し指に指
輪をはめる。
﹁わっ、な、なに? この指輪⋮⋮﹂
﹁ダンジョンで拾った。磨くのに時間かかったけど。どう?﹂
﹁え、きれい⋮⋮って、わわっ﹂
イーファが宙空を見据え、驚いたように言う。

293
﹁な、なんか⋮⋮精霊がすっごい反応してるんだけど﹂
﹁あー、やっぱりね﹂
ドルイドの杖と似た印象だったからもしかしてと思ったけど、案
の定精霊関連のアイテムだったか。
﹁ぼくにはよくわからないんだけど、それ使えそう?﹂
﹁う、うん﹂
イーファが軽く指を振ると、周囲につむじ風が回った。
﹁こ、これすごいよセイカくん! みんな簡単にお願い聞いてくれ
る! わ、わたしなんかがこんなの持ってていいのかな⋮⋮﹂
﹁いいんだよ。ぼくが拾ったんだし、イーファしか使えないんだか
らね。サイズは大丈夫? なんなら今度街に直しに行こうか?﹂
﹁ううん、ぴったりだよ。ありがとう、セイカくん。これ大事にす
るね﹂
イーファが、左手で指輪に触れながらそう言った。
使ってくれるなら贈った甲斐もある。
仲間の力が上がるのは、ぼくとしても願ったり叶ったりだ。
と、そのとき。
通りから歩いてくる、見知った赤い髪を見つけた。
アミュだ。
呪いを解いてやって以来どうもタイミングが合わず、こうして会
うのは久しぶりな気がする。
この間までは露骨に嫌な顔をされてたけど、仲良くなった今なら

294
大丈夫。
ぼくは片手を上げ、笑顔で声をかける。
﹁やあ、おはようアミュ﹂
﹁⋮⋮気安く話しかけないでって言ったでしょ﹂
アミュは、微かに眉を顰めてそう言った。
な⋮⋮なんでだよ!
いやおかしいおかしい、これじゃ半月前と同じだよ。仲良くなっ
たよね? 一緒に冒険行こうとまで約束したのに⋮⋮どういうこと?
笑顔のまま固まるぼくの隣で、イーファが弾んだ声を上げる。
﹁あ、アミュちゃんおはよう!﹂
声をかけられたアミュは小さく、しかし確かに微笑んで言う。
﹁おはようイーファ。いい天気ね﹂
﹁はあ!?﹂
困惑するぼくを余所に、二人は楽しげにおしゃべりを始める。
﹁昨日は勉強教えてくれてありがとう﹂
﹁ううん。大丈夫だよ﹂
﹁お礼になにかごちそうするわ。カレン先生の言ってた氷菓子でも
食べに行かない?﹂
﹁ほんと!?﹂
﹁あ、あの。二人、仲いいんだね⋮⋮﹂

295
おずおずと言うぼくに、アミュが鬱陶しそうな視線を向けて言う。
﹁女子寮で話すようになっただけだけど。悪い?﹂
﹁いや悪くないけど⋮⋮﹂
ぼくとも話すようになりませんでしたっけ?
イーファはというと、少し申し訳なさそうにしている。
﹁えと、あの、し、試験前になったら、セイカくんも一緒に勉強し
ようね!﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁そうしてもらえると助かるわ﹂
アミュが、イーファと並んで歩いていく。
何か怒らせるようなことしたかなぁ⋮⋮。
﹁なにしてるの、セイカ﹂
アミュが、ぼくを振り返って言う。
﹁授業出るんでしょ? 早く来ないと遅れるわよ﹂
﹁あ、ああ﹂
慌てて二人の後を追う。
﹁⋮⋮きっと照れてるだけですよ、セイカさま。ユキにはわかりま
す﹂

296
ユキが、耳元でささやくように言った。
⋮⋮そうだといいんだけど。
第十三話 最強の陰陽師、学園生活に戻る︵後書き︶
二章、終わりです。
次、三章です。
297
第一話 最強の陰陽師、呼び出される︵前書き︶
三章の開始です。
298
第一話 最強の陰陽師、呼び出される
ぼくたちが魔法学園に入学して、早一年が経った。
魔法の灯が照らす講堂で、大勢の新入生たちがめいめいに談笑を
交わしている。
去年の春ぶりに見る入学式は、あのときの騒動のせいか、はたま
たただの偶然か、やや人の数が少なく見えた。
あれから魔族の襲撃もなく、学園生活も穏やかなものだ。
筆記の成績が徐々に落ちていたアミュも、イーファの勉強会の甲
斐あってか無事軌道修正に成功し、ぼくらは揃って二学年へと進級
していた。

299
で、今日は入学式。
今年は在校生としてここにいる。
アミュもイーファもぼくも、初等部二学年の成績優秀者として出
席が許されていた。
﹁アミュちゃん、これおいしいよ﹂
﹁ほんと? 一つもらうわね﹂
二人ともくつろいだ様子で式を楽しんでいる。
去年は緊張してただろうし、途中からデーモンの襲撃があったか
らな。料理を満足に味わう余裕もなかっただろう。
学園中の式神であちこち見張っているが、さすがに今年は刺客の
気配もない。
何事もなく終われそうでよかったよかった。
もう演目は一通り済み、歓談の時間が終われば閉式となる予定だ
った。
ぼくとしてはもう腹も膨れたことだし、そろそろ帰りたいところ
だけれど⋮⋮。
﹁セイカ・ランプローグ君﹂
ふと背後から声がかかった。
ぼくは振り返る。
そこには、糸杉のような老夫が立っていた。

300
骨張った長身の身体に面貌。総髪になでつけられた髪はすべて白
いが、ピンと伸びた背筋だけは老いを感じさせない。
ぼくは目をしばたたかせる。こういった場でしか見ないが、この
学園の副学園長だ。
式の始めに挨拶したきり姿が見えなくなっていたので、退席した
ものだと思っていたけど⋮⋮。
ぼくが何か言う前に、副学園長が感情のうかがえない目でこちら
を見下ろし、口を開く。
﹁明日の夕方、イーファ君と共に学園長室まで来るように﹂
それだけ言うと、背を向けて去って行った。
ぼくは眉をひそめる。なんだ?
﹁どうかした?﹂
皿を手にしたアミュから、怪訝そうに声をかけられる。
﹁呼び出しみたいだ。たぶん学園長から﹂
﹁ふうん⋮⋮? そういえばあたし、学園長って見たことないわね﹂
ぼくもそうだ。
学園内ではもちろん、こういった式典の場でも挨拶の類はすべて
副学園長が担っている。今年の入学式でも去年の入学式でも、学園
長の姿を見ることはなかった。
てっきり帝都の官吏が名前だけ置いているのだと思っていたが、
ひょっとして違うのか?

301
﹁でも、呼び出しなんて穏やかじゃないわね。退学勧告かしら?﹂
﹁明日の天気みたいな調子で縁起でもないこと言うな。というか、
イーファも一緒だぞ﹂
冗談はともかく、なんだろう?
特に心当たりはないけど⋮⋮。
なんとなく、妙な予感がした。
****
翌日の夕方。
授業が終わった後、ぼくは緊張する様子のイーファと二人、学園
本棟最上階に位置する学園長室の前に来ていた。
﹁失礼します﹂
ノックと共に入室する。
高級感のある、落ち着いた内装の室内。
そこで待っていたのは二人の人間だった。
一人は糸杉のような立ち姿の副学園長。
そしてもう一人は、老年の女性だ。
エラの張った顔に鉤鼻。いかにも魔女と言った風貌だが⋮⋮何よ
り特徴的だったのは、豪奢な仕事机を前に、椅子に座っていながら
わいく
でもわかるその矮躯だった。

302
おそらくはこの学園の誰よりも小さい。
隣で、イーファが息をのむ気配がした。
﹁よく来たね。ランプローグの﹂
老婆が、風貌に似つかわしいしわがれた声で言った。
すが
その目が眇められる。
﹁これは意外だね。才に溺れた糞餓鬼が来ると思っていたが、存外
に達観した顔をしている﹂
﹁⋮⋮それはどうも。ぼくも意外でしたよ。帝立魔法学園の長が、
まさか亜人だったなんてね﹂
書物でしか知らないが、間違いない。
ドワーフ
人としては小さく、寸胴な体型。学園長は矮人と呼ばれる種族の
生まれだろう。
小柄な老婆は口元を歪める。
﹁その呼称は気に入らないね。アタシらは人に次ぐ種族じゃあない。
まだ魔族と呼ばれた方がいいくらいさ﹂
ドワーフ
確かに、矮人も厳密には魔族だ。
だが彼らは人間と敵対していない。
ドワーフ エルフ
過去の大戦で、矮人や森人といった元来人間に対し友好的だった
一部の種族は、魔族の連合軍から離脱し、新たに共同体を作って中
立を宣言した。
当初は争いもあったものの、今では人と魔族の両方と交流を持つ

303
貴重な存在だ。彼らの領土は魔族領と帝国領の中間にあり、そこは
軍事的な衝突を防ぐ緩衝地帯ともなっている。
敵対する魔族と区別するため、帝国の人々は彼らを亜人と呼んで
いた。
まあ人間に準ずる種族みたいな意味なので、確かに蔑称と言えな
くもない。
﹁このアタシを前にその態度とは、達観は尊大な自信の裏返しかね。
ふん、あやつの血族だけある﹂
﹁⋮⋮? 父をご存じでしたか?﹂
﹁いいや。お前の叔父のことだ﹂
はて。今生での父に男の兄弟がいたとは聞いていなかったが。
話しぶりからするにこの学園の生徒だったようだけど⋮⋮若くし
て死んだとかだろうか?
学園長は息を吐いて続ける。
﹁まあそんなことはどうでもいい。さっさと本題に入ろうかね。ア
タシもお前も、そこな奴隷の嬢ちゃんも、早いとこ済ませたいのは
一緒だろう﹂
ぼくはちらと横目で、緊張で固まっているイーファを見やる。
大都市か冒険者の集う街でもなければ、亜人はまず見ない。初め
て目にすればこんな反応にもなるだろう。
学園長があまり公に姿を見せないのは、もしかしたら無用ないざ
こざを避けるためかもしれないな。

304
﹁で、本題とは?﹂
﹁ランプローグの、お前さんは帝都へ行ったことはあるかい?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁ならば知るよしもないだろうが、帝都では毎年春に、宮廷主催の
剣術大会が開かれる﹂
学園長が説明を続ける。
﹁ウルドワイトの現皇帝も観戦する、いわゆる御前試合だ。優勝者
には莫大な賞金と、近衛への入隊が認められている。帝国全土から
腕自慢の集う、この国最大の剣術大会だよ﹂
聞いたことはなかったが、そういうのがあっても別に不思議はな
いな。
学園長は、そこで一拍おいて言う。
﹁お前たちにはこの大会に出てもらいたい﹂
﹁はい?﹂
﹁⋮⋮え、わ、わたしもっ?﹂
驚きのあまりか、イーファがここに来て初めて声を上げた。
ぼくも思わず眉をひそめる。
﹁どういうことです? ぼくら、剣なんて使えませんよ﹂
﹁今年はルールが変わったのだ﹂
ぼくに低い声で答えたのは、傍らに立っていた副学園長だった。
﹁ルールが変わった?﹂
﹁魔法の使用が許可された﹂

305
沈黙するぼくに、再び学園長が言う。
﹁強ければいい、ということさ。魔法剣士のような人材を取りこぼ
す損失に、この国もようやく気づいたんだろうね。よって今年は剣
術に限らない、なんでもありの武術大会となった。魔法剣士だけで
バフ モンク
なく、光属性の支援魔法を纏う僧兵でも、土属性のゴーレムを使役
する人形遣いでも、火属性や風属性の後衛職でも自由に出場できる。
テイマー サモナー
さすがにモンスターを使う調教師や召喚士などは対象外だがね﹂
﹁死人が出そうなルールですね﹂
魔法には峰打ちも寸止めもない。
普通は当たればただでは済まない。
﹁元々多少は出ていたが、まあその辺りはどうにかするだろうさ。
話を戻すと、魔法解禁にあたって我が学園にも出場枠が与えられた。
予選は免除、いきなり本戦から出場できる特別待遇枠だ。これが、
二人分ある﹂
﹁それに、ぼくとイーファが選ばれたと?﹂
﹁いや⋮⋮実は一人はすでに決まっていてね﹂
そのとき、部屋の扉がノックされた。
振り返ると、開かれた戸の奥から、一人の人間が歩み入ってくる
のが目に入る。
それは小柄な少女だった。
さび
赤というよりは錆色に近い髪に、空色の瞳。大人しげな見た目だ
が、この場においてもおどおどする様子はなく、感情の読めない表
情のまま超然としている。

306
学園長が笑顔で声を上げる。
﹁おお、よく来たねメイベル。さあ、先輩たちに名乗っておやり﹂
少女はぼくとイーファに一瞥をくれると、無表情のまま淡々と自
分の名を口にする。
﹁⋮⋮メイベル・クレイン﹂
﹁クレイン⋮⋮﹂
﹁クレイン男爵家の息女だ。養子だがね﹂
クレイン男爵家は名前だけ聞いたことはあったが、娘が学園にい
たなんて初耳だ。そもそもこの子を学園内で見たことがない。
いや待て、さっきぼくたちを先輩と言ったか?
﹁まさか⋮⋮新入生ですか﹂
﹁ああ。入学式で見なかったかい?﹂
ぼくはしばしの沈黙の後、疑問をそのまま口にする。
﹁わかりませんね。そもそもこういうのは普通、上級生から選ぶも
のでは?﹂
﹁高等部の生徒は自分の研究で忙しい。それにこの学園は、戦闘技
術を学ぶ場所ではないからねぇ。攻撃魔法を教えるにも理論が中心
だ。武を競う大会に向いた生徒は、そう多くないのさ﹂
﹁なぜ、ぼくらが向いていると﹂
﹁去年自分がロドネアの森の地下ダンジョンから生還したのを忘れ

307
たかい? 加えて⋮⋮お前さんたちは一年半ほど前にも、領地で高
レベルのエルダーニュートを倒している﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁優秀な生徒の過去くらいは調べるさ。事実、お前さんたちは二人
とも実技の成績も良いからね﹂
﹁あ、あの、あれはほとんどセイカくんがやったことで、わたしは
全然⋮⋮﹂
あわてて言うイーファに、学園長は貼り付けた笑みを向ける。
﹁もちろんわかっているとも。だがアタシは、お前さんにも十分な
力があると思っているよ。主人ほどではないかもしれないがね﹂
﹁⋮⋮そしてそれは、彼女も同じだと?﹂
ぼくはメイベルを視線で示して言う。
学園長は、笑みを貼り付けたままうなずく。
﹁ああ、メイベルは強いよ﹂
﹁昨日入学したばかりの生徒の、いったい何を知っていると言うん
です﹂
﹁言っただろう、生徒の過去くらい調べると。彼女は入試成績も良
くてね﹂
﹁入学前から出場枠に内定しているだなんて、どれほどの武勲があ
るんですか?﹂
学園長から返ってきたのは、笑顔の沈黙だった。
ちらとメイベルを見やるが⋮⋮彼女は、ぼくらの会話などどうで
もいいかのように、無表情のままただ突っ立っているだけ。

308
ぼくは溜息をついて言う。
﹁やっぱりわからないな。何よりわからないのは︱︱︱︱なぜこの
場に、アミュが呼ばれていないんです?﹂
部屋を満たす空気の質が、少しだけ変わった気がした。
﹁入試は首席合格。実技試験に至っては満点で、入学後も成績はず
っと上位です。さらには去年、襲撃してきたレッサーデーモンと、
地下ダンジョンのボスモンスターを倒している。入学前には冒険者
をやっていて十分な戦闘経験もある。上級生を含めても、アミュ以
上に適切な人材がいるとは思えませんが﹂
そして、勇者だ。
たとえ事情を知らない者でも、その強さを理解できないわけがな
い。
短い沈黙の後、学園長が口を開く。
﹁それを踏まえても⋮⋮アタシはお前たちの方が適任だと判断した。
それだけだよ﹂
﹁その理由は?﹂
﹁さてね。強いて言うなら勘かね。年長者の勘は、そう馬鹿にでき
るもんじゃないよ﹂
年長者、ね。
ぼくにとってもそうかは、かなり微妙だけど。
学園長は続ける。

309
﹁で、どうするんだい。お前さんが出るか、嬢ちゃんが出るか、そ
れとも二人とも辞退するのか﹂
﹁⋮⋮もし辞退すると言ったら、どうなります?﹂
﹁その時は枠を一つ使わないだけさ。予選からの本戦出場者が、そ
の分一人増えるだろうね﹂
イーファが、ちらとぼくを見てくる。
どうする、セイカくん? という目をしていた。
うーん⋮⋮。
どうも、何かありそうな気はする。少なくとも一部の説明は確実
に嘘だし、いろいろと妙だ。
意図が気にはなる。が、わざわざ首を突っ込む必要も⋮⋮、
﹁⋮⋮まだ、話は終わらないの﹂
不満と無関心を、混ぜ合わせて押し固めたような声。
思わず顔を向けたぼくは、そこで初めて、メイベルの目をまとも
に見た。
﹁⋮⋮﹂
やがて顔を戻し、ぼくは溜息をついて告げる。
﹁ぼくが出場しますよ﹂
﹁おや、いいのかい? てっきり断るかと思ったがね﹂
楽しげに言う学園長に、ぼくは黙ってうなずく。
イーファも、少し意外そうな顔をしていた。

310
ぼくが出場を決めた理由は、言ってしまえば一つだ。
メイベルという少女の纏う雰囲気が︱︱︱︱師匠に師事し、兄弟
あやかし
子や妖どもと殺し合いをしていた頃のぼくに、少し似ていたから。
まあまともなものじゃない。
だから、少しだけ見届けたくなったのだ。
魔法が解禁された武術大会とやらと。
てんまつ
それを取り巻いているであろう、様々な思惑の顛末を。
第二話 最強の陰陽師、忠告される
翌日。
﹁はあ? なによそれ﹂
講義の合間、道端でアミュに学園長とした話を聞かせてやると、
返ってきたのはそんな答えだった。
アミュは不満たらたらに言う。
﹁なんっっっであたしに声がかからないのよ! 元々剣術大会なん
でしょ? 魔法はともかく、剣ならこの学園の誰にも負けないのに

311
!﹂
﹁やっぱり出たかったか?﹂
﹁うーん⋮⋮よくよく考えたらそうでもないわね。近衛隊とか興味
ないし、対人戦って、モンスター相手と比べるとあんまり⋮⋮﹂
アミュが唸るように言う。
戦いが好きと言っていた彼女にしては意外だけど⋮⋮まあ元々、
対人戦にはそんなに興味を示してなかったか。
あるいは、多少は丸くなったのかもしれない。
最近じゃあ誰彼構わずトゲのある態度を取ることもなくなったし。
アミュは、再び不満そうに言う。
﹁でも、声がかからなかったことには納得いかないわね﹂
﹁あまり強すぎる奴を出したくなかったんじゃないか? 見方によ
っては、近衛隊に人材を取られるとも言えるからな。宮廷には学園
卒業生の派閥もあるようだから、上の方の思惑によってはそういう
選択もあり得る﹂
と、ぼくがそんな適当なことを言うと、アミュが薄目で睨んでき
た。
﹁じゃあなんであんたが選ばれるのよ﹂
﹁ぼく? ぼくはそこまでの実力もないしね﹂
﹁その嘘くさい笑い方やめなさい﹂
﹁⋮⋮わかったよ。でも意外だな。君がそんなに評価してくれてた
なんて﹂
﹁⋮⋮ダンジョンで助けてくれたでしょ。それに多少冒険者やって

312
れば、相手の実力くらいなんとなくわかるようになるわよ﹂
アミュは目を逸らして、そう取り繕うように言った。
ふうん⋮⋮。
もう少し気をつけないとかなぁ。あの時はやむを得なかったとは
言え。
アミュが再び唸るように言う。
﹁それにしてもわからないわね⋮⋮あんたはともかく、イーファが
候補になってたなんて﹂
﹁え⋮⋮あはは、そうだよね⋮⋮﹂
困ったように笑うイーファに、アミュは片目を閉じて言う。
﹁別に実力がないとは言わないわよ。でもあんた、人に精霊の魔法
を向けられる?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁剣以上に、魔法って人には向けにくいの。当たったら軽い怪我じ
ゃ済まないからね。最初から躊躇なく撃てる頭おかしい奴もいるけ
ど、普通は訓練や実戦で慣れないとダメ。あんた、モンスターも倒
したことないんでしょ? いきなり本番じゃまともに戦えないわよ﹂
﹁そういうものか﹂
ぼくは呟く。
自分の場合を思い出してみると⋮⋮初めて使った呪詛で野盗一味
とその血族をまとめて呪い殺したから、頭おかしい奴の部類だった。
アミュは続けて言う。

313
﹁それから、メイベルとかいう新入生よ﹂
﹁ああ⋮⋮そうだな。何者だろう﹂
昨日から式神を使って監視しているが、誰かと交流する様子もな
く、今日もただ淡々と講義を受けているだけ。
実技は闇属性を専攻しているようだが、無難にこなすのみで、そ
の実力のほどはよくわからない。
アミュが言う。
﹁貴族なんでしょ? クレイン男爵家って、どういう一族なの?﹂
﹁ランプローグと同じく魔法学研究者が多いようだけど⋮⋮詳しく
は知らないな﹂
というより、単にそれほど有名な家じゃない。
実家に訊いてみるというのもアリかな⋮⋮。
﹁あたしが思うに⋮⋮﹂
アミュが真面目くさった声音で言う。
﹁たぶん、お貴族様の口利きね﹂
ひが
﹁出たよ。お貴族様への僻みが﹂
﹁僻みじゃないわよ。普通に考えて、ぬくぬく育ってきた貴族の子
供が強いわけないじゃない。きっと在学中に帝都での武術大会に出
場歴あり、って箔を付けさせて、上級官吏への登用を有利にするつ
もりなのよ﹂
﹁そうかなぁ﹂

314
言っていることはわからないでもない、が。
メイベルのあの鬱屈しきった目を見る限り、そんな生ぬるい事情
だとも思えなかった。
養子だというのも気になる。
しかし本人を目にしていないアミュは、自分の考えに自信がある
様子だった。
﹁そうに決まってるわ。ま、本戦は早々に棄権するつもりなんじゃ
ない? 怪我でもしたら大変だしね︱︱︱︱﹂
﹁︱︱︱︱ぬくぬく育ってきたのは、あなたの方﹂
冷たい声に、振り返る。
背後からアミュを見据えていたのは、錆色の髪の少女だった。
メイベル・クレイン。
アミュはメイベルに向き直ると、その濁った空色の瞳を睨み返す。
﹁なにが言いたいわけ?﹂
﹁弱いのに、さえずって、それが許されると思ってる。よっぽど、
甘やかされてきたのね﹂
メイベルは、まるで独り言のように続ける。
﹁あなたが選ばれなかったのは、ただ、力がないから。魔法でも、
剣でも﹂
﹁へぇー、言うじゃない﹂
アミュが、怒りのこもった笑みを浮かべる。
そして、道の向こうでたむろしていた学園剣術クラブの連中に目

315
を向けると、詰め寄りながら声をかけた。
﹁ちょっとあんたたち。その模擬剣二本貸しなさい﹂
最近アミュはどうやら一部で人気があるようで、男子生徒二人は
笑顔で模擬剣を差し出した。
アミュは借り受けた模擬剣の内の一本を、メイベルの足下に放り
投げる。
﹁⋮⋮﹂
﹁一戦付き合いなさい。それだけ言うからには、あんたも剣くらい
使えるんでしょ?﹂
﹁⋮⋮これに、なんの意味があるの﹂
﹁そっちからケンカ売っておいてその言い草は笑えるわね﹂
メイベルは無言で模擬剣を拾い、アミュと対峙する。
ぼくは意外に思った。
ゆるりと片手剣を構えるその姿は、アミュと比べても遜色ないく
らい、様になっている。
本当に剣を使えるのか。
﹁セ、セイカくん⋮⋮止めなくて大丈夫かな?﹂
﹁大丈夫だろう﹂
心配そうなイーファに答える。
お互いそこまでやる気はないだろうし、いざとなればぼくが止め
ればいい。
それに⋮⋮メイベルの実力のほどを、その一端でも知れるかもし
れない。

316
﹁セイカ。合図お願い﹂
﹁ああ﹂
アミュに答え、一拍おいて、ぼくは声を張る。
﹁始め﹂
合図と同時に、アミュが地を蹴った。
そして勢いのままに、上段からの鋭い斬撃が繰り出される。
最初から武器狙いだったのだろう。
アミュの、おそらく全力に近い一撃は、目で追うのが難しいほど
の速さでメイベルの握る剣へと襲いかかった。
勝負を決めるかと思われた、勇者の一閃。
メイベルはそれを︱︱︱︱ただ一歩、引いただけで受けた。
﹁っ⋮⋮!﹂
甲高い金属音と火花が散り、アミュの目が驚きに見開かれる。
それはそうだろう。初撃のあれを、並の人間が受けられるとは思
えない。
激しい鍔迫り合いが始まるが、メイベルは無表情のまま、アミュ
の馬鹿力を受け流し、やがて押し返し始める。
先に引いたのは、アミュの方だった。
悪くなった態勢を立て直すための後退。
それを、メイベルは見逃さなかった。

317
追撃は横薙ぎの一閃。
アミュは剣を立て、それを受けようとする。
だが、それは叶わなかった。
破裂するような音と共に︱︱︱︱アミュの手から、模擬剣が弾け
飛ぶ。
いびつ
数瞬後に遠くの地面へ転がった剣身は、歪にひしゃげていた。
メイベルは残心の姿勢を解くと、模擬剣を地面に投げ、アミュの
脇を歩き去りながら呟く。
﹁これからも、甘やかされてればいい。かわいい勇者さま﹂
ぼくは眉をひそめた。
今、メイベルは⋮⋮、
﹁待ちなさいよ﹂
かけられた声に、メイベルが振り返る。
アミュは腰に手を当てて言う。
﹁魔法はなしじゃない? あたしはそのつもりだったんだけど﹂
﹁⋮⋮﹂
ん、アミュも気づいてたか。
初撃を受けた時からずっと、メイベルには力の流れを感じていた。
杖も杖剣も魔法陣も使ってなかったから、一見わかりにくかった
けど。

318
身体強化系の支援魔法かとも思ったが、闇属性の使い手ならおそ
らく⋮⋮、
﹁⋮⋮次が、あると思ってる。だから、あなたは弱いの﹂
と、メイベルは言って。
それからぼくへと目を向けた。
取るに足らない、部外者を見るような目を。
﹁あなたも、軽い気持ちでいるなら、今からでも辞退するべき﹂
﹁それは⋮⋮どうして?﹂
﹁怪我せず済むような、甘い大会にはならないから﹂
ぼくは笑顔で答える。
﹁ありがとう。考えておくよ﹂
﹁⋮⋮﹂
メイベルは無言で踵を返すと、そのまま去って行った。
なんだ。
アミュの軽口に怒って挑発したり、他人の心配して忠告したり。
思ったより全然まともな子だった。少なくとも、若い頃のぼくに
比べればかなりマシだな。
﹁アミュちゃん⋮⋮怪我はない?﹂
﹁大丈夫か?﹂
アミュはというと、ぼくらの問いかけにも答えず、しばらく腕を

319
組んで考え込んでいたが⋮⋮やがて顔を上げ、威勢のいい声で言っ
た。
﹁よし、決めたわ﹂
第三話 最強の陰陽師、帝都へ旅立つ
そして二十日後。
ぼくは武術大会に参加するべく、学園の用意した立派な馬車に乗
り込んで帝都へと向かっていた。
向かっていたわけなんだけど⋮⋮。
﹁⋮⋮なんで君らまでいるんだ?﹂
馬車の中には、イーファとアミュの姿があった。
﹁わ、わたしはセイカくんの従者だもんっ。ついていかないわけに

320
はいかないよ!﹂
﹁まあ、イーファはいいとして⋮⋮﹂
﹁なによ。文句ある?﹂
アミュは仏頂面で言った。
﹁いいじゃない。あたし、帝都なんて行ったことなかったし。こん
な機会でもなければ行くこともないだろうし﹂
と言いつつ、目的は武術大会の観戦なんだろうけど。
負けた相手の戦い振りが気になるみたいだ。けっこう負けず嫌い
なところあるからな。
﹁でも、いいのか? 学園を休むことになるのに﹂
﹁長くても半月くらいでしょ? 平気よ﹂
﹁宿はどうするんだ?﹂
﹁イーファの部屋にお邪魔させてもらうわ﹂
確かに学園からは、従者の分の部屋も用意してもらっていた。
ベッドが二つあるかは知らないけど。
﹁それよりセイカくん、馬車だけど平気?﹂
心配そうに言うイーファへ、ぼくは正直に答える。
﹁普通にもう気分悪い﹂
﹁ええ、なんでそんな堂々と⋮⋮大丈夫なの?﹂
﹁まったく大丈夫じゃない。だから⋮⋮メイベル。できたら窓際を
替わって欲しいんだけど﹂

321
さび
錆色の髪の少女は、その青い瞳でぼくを一瞥すると、顔を背けて
呟いた。
﹁嫌﹂
そう。
実を言うと、この馬車にはメイベルも乗っていた。
いや当たり前の話なんだけどね。目的地は一緒だし、馬車を二台
に分ける意味もないから。
﹁ふうん? 一個下のくせに、ずいぶん生意気な口をきく後輩ね﹂
元冒険者だけあって上下関係にはうるさいのか、アミュが突っか
かっていく。
メイベルはそれに、また独り言のような声音で返した。
﹁学園は、実力がすべて。そう聞いた。それに私、年は、あなたと
同じ﹂
アミュが意外そうに言う。
﹁へぇ、珍しいわね、お貴族様で一年遅れの入学なんて。じゃあ、
全員年は一緒なのね﹂
﹁あのう⋮⋮﹂
イーファがおずおずと手を上げる。
﹁わたしも一年遅れだから、みんなより一つ上だよ﹂
﹁ええっ、そうだったの?﹂

322
﹁言ってなかったのか? イーファ﹂
﹁なんかタイミングなくて﹂
﹁ふうん⋮⋮年上だったのね。どうりで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どこ見て言ってるのアミュちゃん﹂
イーファが自分の胸を抱いてアミュから距離を置く。
﹁⋮⋮うるさい﹂
ほとんど聞こえないくらいの小さな声で、メイベルが呟いた。
ぼくの視線に気づくと、溜息と共に言う。
﹁学園には、こんなのばかり﹂
﹁こんなの?﹂
﹁能天気な、子供﹂
﹁実際、ぼくら子供だからね。何かおかしいかな﹂
メイベルは、一呼吸置いて言う。
﹁おかしいと思わないところが、おかしい﹂
﹁君の言うことは⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮いや、なんでもない﹂
余計なことを言うのはやめておこう。
メイベルの言うことは正しい。
不作が起きれば飢えて死ぬ。疫病が流行れば罹って死ぬ。
それが人間の普通だ。能天気に生きられる子供など、そう多くな
い。

323
日本よりはるかに豊かなこの帝国でも、貧困のために物乞いに身
を落としたり、自らを奴隷として売る人間は珍しくなかった。
学園に通える子供はそれだけで恵まれている。
ただ⋮⋮それが悪いことのようには、あまり言ってほしくなかっ
た。
皆が不幸になるよりは、せめて目の届く人間だけでも幸せに生き
てほしい。前世でぼくが孤児を拾って弟子としていたのは、そんな
理由もあったから。
﹁言っておくけど、﹂
メイベルがぼくを横目で見て言う。
﹁あなたも、能天気の一人﹂
﹁⋮⋮確かに、そうかもしれないな﹂
今生でのぼくは生まれから恵まれている。
それこそ、前世からは考えられないほどに。
そして。
どんな過去を持っているのかは知らないが⋮⋮たぶんメイベルも、
そうではなかったんだろう。
****
帝都はロドネアの西、距離としてはそれほど離れていない場所に

324
ある。
街道を馬車で揺られ、二日。
ぼくたちは無事、目的地へと辿り着いた。
ウルドワイト帝国の首都、ウルドネスク。
帝国最大の都市。ロドネアも一応都会ではあったが⋮⋮その規模
は段違いと言っていいほどだった。
﹁わぁ⋮⋮すごい人だね﹂
イーファが感嘆の息を漏らした。
往来には背の高い建物が建ち並び、イーファの言う通りたくさん
の人々が行き交っている。その喧噪も、どこか洗練されている気が
した。
領地に比べればロドネアも都会だったけど、さすがに帝都とは比
べものにならないな。
﹁でも、ロドネアよりも馬車は少ないね﹂
﹁外から来る馬車は、昼間は入れない決まりなのよ。交通量が多く
なりすぎて危ないから﹂
﹁へぇ。だから城壁の外で下ろされたんだね﹂
イーファとアミュの会話を感心しながら聴く。
そういえば、かつてローマ帝国の首都だったローマでも、同じよ
うな法律があったと聞いた。
それから二人は、ぼくを振り返る。
﹁それより、あんたは大丈夫なの?﹂

325
﹁今日はもう宿で休もっか?﹂
﹁だ⋮⋮大丈夫﹂
そう答えるぼくは⋮⋮建物の外壁に背を預け、ぜいぜいと荒い息
を吐いていた。
大会前から満身創痍だ。吐きそう。
城壁手前で降ろされたのは助かったけど、気分の悪さはまだ治ら
ない。
あやかし
くっそ⋮⋮もう帰りは妖に乗って飛んでくか?
﹁なにも今日は無理しなくてもいいんじゃ⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮先に組み合わせを見ておきたいんだ﹂
ぼくたちが向かっているのは、会場となる予定の闘技場だった。
そこの掲示板に、参加者の名前や組み合わせ、試合の日時などが
張り出されることになっている。
ちなみに、メイベルの姿は馬車を下ろされてすぐ消えていた。
宿も別のようだし、次に会うのは会場で、ということになるだろ
う。
結局、彼女のことはよくわからないままだ。
ルフトに手紙を出してクレイン男爵家のことは訊いてみたが、大
した情報は得られなかった。
アミュが言う。
﹁見に行くのはいいけど、まだ少し歩くわよ。どうする? 辻馬車
でも拾う?﹂

326
﹁⋮⋮殺す気か﹂
****
会場となる闘技場は、大きな観客席で楕円形に囲われ、外から中
の様子を見ることはできなかった。
ただ今用があるのは、外に設置された巨大な掲示板だ。
﹁えっと、ぼくの名前は⋮⋮﹂
試合は勝ち残りのトーナメント方式で行われるようで、上から下
に枝分かれした線が描かれ、その先に名前が記されている。
出場者は、全員で三十二名。
ぼくとメイベルの名はほどなく見つかった。
完全に別ブロック、というわけではない。仮に勝ち進めば準決勝
で当たることになる、中途半端な位置。
意外だな。
トーナメント表はまず間違いなく恣意的に作られると思っていた
のに、決勝手前で学園出身者同士が当たるのか。
あるいは、これも意図の一つなのか⋮⋮?
﹁アミュちゃん、誰か知ってる名前ある?﹂
﹁ないわね。名のある冒険者はこんな大会まず出ないし﹂
ぼくの目にも、見覚えのある名前は映らない。
まあそもそもこの世界の武芸者の名前なんてほとんど知らないけ

327
ど。
とりあえず一通り暗記すると、ぼくは掲示板に背を向ける。
﹁見たかったものは見られたし、先に宿で休んでるよ﹂
﹁そう? じゃあ、わたしも⋮⋮﹂
﹁いや、大丈夫。どうせ横になってるだけだし。二人は夕方まで観
光でもしてれば?﹂
﹁でも⋮⋮﹂
﹁イーファ。男にはね、一人になりたい時があるのよ。ちょっとま
だ明るいけど﹂
﹁え、ええええ⋮⋮﹂
﹁おい、変なこと吹き込むな。まだ気分悪いから寝るだけだよ﹂
嘘だけど。
﹁冗談よ。せっかくああ言ってくれてるんだし、行きましょうイー
ファ。セイカと新入生がもし一回戦で負ければ、すぐ帰ることにな
っちゃうしね﹂
﹁う、ううん⋮⋮じゃあセイカくん。帰る時になにか買ってくるね﹂
﹁ああ﹂
ぼくは二人と別れ、一人街を行く。
さてと。
ネズミとカラスとフクロウはどれくらい必要だろう?
この妙な大会の思惑を探るのは、少し骨が折れそうだ。

328
第四話 最強の陰陽師、初戦に臨む
それから二日が過ぎ。
武術大会、初戦の日がやってきた。
﹃さあやって参りました! 歴史ある帝都剣術大会改め、帝都総合
武術大会の開幕です! 今年はルールが一新され、なんと魔法の使
用が認められました! したがって今回、本戦出場者の約半数が魔
術師となっております!﹄
風魔法で増幅された司会の声が、よく晴れた闘技場中に響き渡る。
開会式こそ格式張った感じだったが、実際には興行の面も強いの
か、今は口調がだいぶ砕けていた。

329
﹃敗北条件は、戦闘不能、場外、降参の宣言、審判の判定は例年通
アミュレット
りですが、今年はそれにもう一つ、護符の破損が加わります!﹄
ぼくは、首から提げた精緻な金属細工を手に取る。
アミュレット
ミスリルで作られたこの護符は、魔法のダメージをある程度所有
者の身代わりとなって防ぐ代物で、大会運営から与えられていた。
限界が来ると音と光を出しながら自壊し、それをもって敗北とす
るのだとか。
文字通り災厄を防ぐお守りだ。前世にあったものと大差ない。
これで死人が出るのを防ぐということらしいが⋮⋮どのくらい意
味があるかは疑問だな。
﹃それでは、記念すべき第一試合の選手を紹介いたします。魔法学
の大家、ランプローグ伯爵家の神童︱︱︱︱セイカ・ランプローグ
!!﹄
歓声の中、ぼくは闘技場のステージに上がる。
そう。ぼくの初戦はなんと大会第一試合目となってしまったのだ。
運がいいやら悪いやら。
﹃帝立ロドネア魔法学園の推薦枠からの参戦、さっそく魔術師の登
場となりました! 過去には弱冠十一歳にしてエルダーニュートを
討伐。学園の入試でも三位の成績を修めております! 剣も杖も使
わない異色の選手ですが、いったいどのような戦いを見せてくれる
のか!!﹄
ぼくは観客席を見回す。
闘技場を楕円形に取り囲み、天高く階段状に設置された観客席に

330
は、ものすごい数の人があふれていた。
イーファとアミュも来ているはずだけど、さすがにここからじゃ
見えないな。
﹃そして対戦相手となるのは︱︱︱︱ガルズ傭兵団からの参戦です
! 神速の狂犬、デニス・リーガン!!﹄
ぼくの反対側からステージに上ってきたのは、十八、九歳くらい
の細身の男だった。
革鎧に、腰帯で剣を吊っている。左腕には丸い盾。どうやら剣士
のようだ。
ついでに言うと目つきが悪い。
﹃こちらは純粋な剣士! それも、ガルズ傭兵団の中では随一の使
アサシン
い手です! 特にその速さは、暗殺者職の冒険者にも引けを取らな
いほど! 素行不良によりリーガン子爵家から追放された過去を持
つ元貴族ですが、未だ家名を名乗っているのは実家への嫌がらせな
のかぁ!?﹄
﹁よお。お坊ちゃま﹂
デニスとか言う剣士が話しかけてくる。
﹁オレも運が良いぜ。初戦から貴族のガキをぶちのめせるなんてな。
ああ、何も言わなくていい。お前の思っているとおり、ただの逆恨
みだからよ﹂
﹃魔術師対剣士、この大会を象徴するかのようなカードです! ど
のような試合展開となるのでしょうか!﹄

331
﹁魔術師相手は簡単でいい。あいつらは前衛がいないと何もできな
い。ちんたら呪文を唱えている間に、オレなら十回は斬り殺せる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今日はわざわざ刃引きした剣を持ってきてやったんだ。その女顔、
ちったぁ男前にして帰してやるよ。死ななければな﹂
﹁⋮⋮体調が﹂
﹁あ?﹂
﹁体調が、実はあまりよくないんだ。少し頭が痛くてね﹂
﹁⋮⋮なんだぁ? もう負けた時の言い訳か?﹂
﹁違うよ﹂
ぼくは告げる。
﹁だから、さっさと終わらせるってこと﹂
デニスが舌打ちと共に、無言で直剣を引き抜く。
﹃それでは、一回戦第一試合目︱︱︱︱開始です!﹄
そして、試合開始の笛が響き渡った。
﹁死ねやぁっ!﹂
デニスが地を蹴った。
自信があるだけあって、速い。
ぼくとの距離が瞬く間に縮まっていく。
刹那、剣が引き絞られ。
最も出の速い攻撃、刺突が、ぼくの胸へと放たれた。

332
正確な一撃。
だが剣先が捉えたのは︱︱︱︱ぼくではなく、一枚のヒトガタだ
った。
﹁なっ!?﹂
デニスの背後へと転移したぼくは、その背にヒトガタを貼り付け
る。
﹁さよなら﹂
はっけい
︽陽の相︱︱︱︱発勁の術︾
デニスが弾け飛んだ。
まっすぐすっ飛んでいった身体は、耐属性魔法陣の描かれた流れ
弾防止の立て板をぶち破って、そこで止まる。
そのままピクリとも動かない。
﹃け⋮⋮決着︱︱︱︱ッ!! デニス選手場外! 勝者、セイカ・
ランプローグ選手です!! な、何が起こったのでしょうか? デ
ニス選手の突きを目にも止まらぬ動きで躱したかと思えば、次の瞬
間には吹き飛ばしていました! なんらかの魔法でしょうが⋮⋮﹄
救護班がデニスに駆け寄っている。
あの分なら死ぬことはないだろう。
それにしても⋮⋮。
やっぱりというか、陰陽術に護符は発動しないようだ。気をつけ
ないと殺しかねないな。︽発勁︾は対象に運動エネルギーを付加す
るだけの術だが、護符で弱められる前提で使ったせいで思った以上
に威力が出てしまった。

333
まあ向こうも寸止めする気なんてなかったようだし、別にいいけ
ど。
歓声の中、ぼくはステージを降りて裏手へと戻っていく。
﹁セイカさま。どの程度勝ち進むおつもりですか?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ユキへの返答に迷う。
負けたら試合に干渉できなくなるから、ある程度は勝ち残るつも
りだけど⋮⋮。
﹁⋮⋮そのうち決めるかな﹂
たわむ
﹁お戯れもよろしいですが、こんな場でもあまり目立たない方がい
いと、ユキは愚考します。最近、セイカさまは脇が甘くなっている
ようでございますし﹂
﹁わかってるわかってる﹂
実はこの世界にもかなり多様な魔法があることがわかってきたの
で、多少陰陽術を見せたくらいでは変にも思われないかな⋮⋮と考
え始めているフシが、正直ある。
だって実際、﹃妙な魔法を使っている。さてはこいつ、異世界か
ら転生してきたな?﹄なんて思う奴がいたら、そっちの方がおかし
い。
だから、強すぎない分には問題ないと思うんだけど⋮⋮まあ、ユ
キの言うことももっともだ。
気をつけるか。

334
﹁それと⋮⋮﹂
ユキが少しためらいがちに言う。
﹁いくらセイカさまと言えど、一度に式を使いすぎでは? ユキは
心配です﹂
﹁いや、これは必要なんだ﹂
むしろ、大会よりも大事なことだった。
第四話 最強の陰陽師、初戦に臨む︵後書き︶
※発勁の術
陽の気により対象に運動エネルギーを付加する術。符を貼り付けた
方向にかかわらず、任意のベクトルを指定できる。
335
第五話 最強の陰陽師、観戦する
トーナメントは、一回戦が一番試合数が多くなる。
次の自分の試合までの三日間、ぼくは他の試合の観戦に時間を費
やしていた。
さすがに実力のある出場者が多かったが、その中でも注目したの
は、二人。
一人はメイベルだ。
彼女は一試合目、自分の背丈ほどもある両手剣を背負って闘技場
に現れた。
そして開始直後、対戦相手だったベテラン騎士の持つ直剣を一合

336
目でへし折り⋮⋮剣を捨てて甲冑術の要領で掴みかかってきた相手
を、片手で投げ飛ばした。
明らかに小柄なメイベルが大剣や大男を微動だにせずぶん回す様
子は、力学的に不自然すぎてまるで目の錯覚だった。
間違いなく、何か魔法の効果だろう。
もっと情報が欲しかったから、一瞬で終わってしまったのは残念
だった。
もう一人は、レイナスという二十歳くらいの騎士だ。
魔法も使うようで、対戦相手だった冒険者上がりの魔法剣士を土
と風の魔法で圧倒。危なげなく勝利を収めていた。
まだ実力を隠していそうだったから目を引かれたが⋮⋮観客席に
手を振っていたり、試合後も酒場で女漁りをしていたりと、どうも
ただ強いだけの優男という感じがしないでもない。
そして。
これから始まるのが、本日最後の試合。
﹃さて、いよいよ一回戦の最終試合となります!﹄
﹁ねえ、セイカくん﹂
隣に座るイーファが心配そうに声をかけてくる。
﹁本当に大丈夫? 頭痛いんだったら休んでた方がいいんじゃ⋮⋮﹂
﹁大丈夫大丈夫。大したことないよ﹂

337
ぼくは頭を押さえていた手を振って答える。
原因はわかってる。
そしてこれは必要なことだ。
﹁あんたがそれくらいでどうにかなるとは思わないけど、無理はし
ない方がいいわよ?﹂
﹁わかってるよ。ありがとう。でも今日はこの試合で最後だから﹂
アミュにそう返して、ぼくは観客席から闘技場を見下ろす。
これが終われば、出場者は一通りチェックしたことになる。
﹃まずは一人目︱︱︱︱賢者フォルドの一番弟子、ベレン選手!
フォルド氏と言えば数々の実績を持つ水属性の使い手として有名で
すが、果たしてベレン選手はどのような魔法を見せてくれるのか!﹄
ステージに上るのは、ローブを羽織り、杖を手にした、典型的な
魔術師風の青年だ。
﹃対する相手は︱︱︱︱ルグローク商会護衛部隊より、カイル選手
!﹄
ゆっくりとステージに上る選手を見て、ぼくは思わず眉をひそめ
た。
鎧でもローブでもないぼろぼろの装束を着た、十代半ばか後半ほ
どの少年。
右手には片手剣を握っている︱︱︱︱抜き身のまま。
腰に鞘を付けているわけでもない。ただ必要だから持ってきた、
というような装い。

338
灰色の髪に、生気の感じられない足取りも相まって、まるで幽鬼
のようだった。
﹃カイル選手につきましては、こちらも詳しい情報が掴めておりま
せん! 剣士とも魔術師ともつかない異彩を放つ風貌ですが、どの
ような技を使うのか! 注目であります!﹄
両者がステージ上で対峙する。
対戦相手となる魔術師も、やや気圧されているように見えた。
﹃それでは一回戦最終試合︱︱︱︱開始です!﹄
笛とほぼ同時。異装の少年へ、魔術師の青年が杖を向けようとす
る。
だが︱︱︱︱唐突に、その動きが止まった。
﹁なんだ⋮⋮?﹂
青年は杖を上げかけた体勢のまま動かない。
明らかに何かがおかしい。
異装の少年、カイルは、硬直する青年へとゆっくりと歩みを進め
る。
ぼくは、上空を飛ばしていた式神のタカを降下させる。
もっと近くで見たい。
﹃何が起こっているのでしょうか!? ベレン選手、一向に動く気
配がありません! カイル選手、緩やかに距離を詰めていきます!﹄
観客席のざわめきも大きくなっている。

339
降下させていたタカは、選手の顔が見えるところにまで来ていた。
魔術師の表情には恐怖が滲んでいる。
気になるのは少年の方だ。ぼくはタカを旋回させる。
少年が足を止めた。
対戦相手との距離は、いつの間にか一歩分にまで縮まっている。
おもむろに。
まるで日常の一場面のような、何気ない動きで︱︱︱︱少年の剣
が、魔術師の首を刺し貫いた。
青年の口から血泡があふれる。
この期に及んでまで、魔術師の青年にはわずかな抵抗もない。
少年が剣を引き抜くと⋮⋮青年の身体は動きを思い出したかのよ
うによろめき、そして、ステージ上に仰向けに倒れた。
その周囲に血だまりが広がっていく。
﹃ベレン選手、戦闘不能︱︱︱︱ッ! 勝者、カイル選手です!
なんということでしょう、本大会初の死者が出てしまいました!
カイル選手に剣を止める気配がまるでなかったのも気になりますが、
それ以上になんなんだこの奇妙な試合展開はぁ︱︱︱︱ッ!﹄
アミュが顔をしかめ、イーファに至っては目を逸らして口元を押
さえている。
この子らがまともでよかった。
会場は騒然としていたが、どこか暗い盛り上がりを見せていた。
こんな展開を期待していたかのように。

340
人の死は、どうやらこちらの世界でも見世物になるらしい。
そのとき。
タカの視界がカイルの顔を捉えた。
少年の表情は︱︱︱︱無だった。なんの感情も浮かんでいない、
虚無の表情。
ルグローク商会の護衛部隊とか言っていたが、嘘だな。
こんな化け物を商会ごときが飼うわけがない。
おそらくはどこかから送り込まれた、裏のある人間。
ふと、ぼくの興味はあるところに引きつけられた。
少年の目だ。
右目が空色。そして、左目が深紅のその瞳。
﹃おっとぉ! ここで新たな情報が入って参りました! なんとカ
イル選手︱︱︱︱左目が邪眼であるとのことです!! なんという
ことでしょう! 歴史あるこの大会に、異端の邪眼持ちが参戦して
しまいました! 明日から始まる第二回戦に、いったいどんな波乱
が巻き起こるのか!!﹄
こちらの世界にもいたのか。
視線に呪力を乗せ、睨みつけた相手を呪う異形の呪術師。
︱︱︱︱邪視使いが。
341
第五話 最強の陰陽師、観戦する︵後書き︶
※式神︵タカ︶
人間の約六倍の視力を持つ。
342
第六話 最強の陰陽師、二戦目に臨む
邪視とは、視線を使った呪術だ。
目で見ることで、その相手を呪う。
言ってしまえばちょっと変わった呪詛なのだが、特殊な才能が必
要な代わりに効果が強力で、しかも返せない。
並の使い手だと体調を崩させたり運を悪くしたりする程度らしい
が、西洋で出会った魔女などは、野ウサギを睨み殺して夕食にして
いた。過去には生物を石に変えてしまうような使い手もいたという。
ここまで強力な呪詛はそうない。
ただ防ぐのは素人でも難しくなく、西洋やイスラムなどでは邪視

343
除けの護符や印が広く知られていた。簡単なのでも十分効くそうだ。
と、ここまでが前世の話。
これによく似た異世界の邪眼はというと⋮⋮案の定、めちゃくち
ゃ恐れられているようだった。
その効果は、相手の動きを縛ったり病気にしたりと前世とだいた
い似たような感じだが、肝心の対策が全然広まっていない。
元々邪視使いが少ないせいもあるんだろうけど⋮⋮こっちは呪い
関係が本当に未発達だな。
おかげで邪眼持ちは異端扱い。
迫害とまではいかないが、やはり厭われているようだった。
まあそこら辺は前世も同じだったけど。
﹃さて始まりました、二回戦第一試合目! 勝ち上がってきた一人
目は︱︱︱︱セイカ・ランプローグ選手!!﹄
それはそれとして、ぼくの二戦目。
長ったらしい紹介を待たずにさっさとステージに上がる。
昨日の試合を見てすっかり怯えきっていたイーファには、もう棄
権した方がいいと泣かれて大変だったが、なんとかなだめてここま
で来た。
実際、完全に別ブロックのカイルとは、当たるとしても決勝戦だ。
﹃対戦相手となるのは︱︱︱︱ 人形遣い ラビネール選手だぁー
ッ!﹄

344
地響きが鳴る。
ステージへと上がってきたのは⋮⋮人ではない、巨大な石人形だ
った。
高さは十五、六尺︵※約五メートル弱︶にも及ぼうか。
身体は緑がかった巨石でできており、全身に所狭しと文字や魔法
陣が描かれている。
﹃おっと、前回とは異なるゴーレムのようです! 一回戦の黒いゴ
メイス
ーレムは相手選手の戦棍を全く寄せ付けませんでしたが、果たして
魔術師相手にも同じ手が通じるのか!?﹄
﹁ほっほっほ⋮⋮光栄ねぇ。高名なランプローグ伯爵家の三男坊と、
こんな場で相見えることができるなんて﹂
ゴーレムに続いてステージに現れたのは、長い黒髪を垂らした、
全体的になよなよした感じの長身の男だった。
かんがん
宋の宦官に似た雰囲気だが、同じような文化でもあるのか?
ぼくは普通に返す。
﹁多少名が知れているとは言え、遠方貴族の三男風情をご存知とは、
こちらこそ恐れ入るね﹂
﹁あら、もちろん知っているわよ⋮⋮だってこの大会の出場者のこ
とは、みぃんな調べたもの。あなたのこともね﹂
男は笑みを深める。
﹁当主の愛人の息子であること、一時期は魔力なしと思われていた
こと、幼なじみの奴隷をもらい受けたことだって知ってるわ⋮⋮そ

345
れに、ふふ、入学試験のことも﹂
﹁入学試験?﹂
﹁あなた実技試験で、火、土、水の三属性を使って合格したそうね。
大した才能ではあるけれど⋮⋮逆に言えば、それ以外の属性は使え
ない。そうじゃなくて?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁うふふふ⋮⋮見なさい、アタシのゴーレムを!﹂
男が手を広げ、悠然と立つゴーレムを示す。
﹁魔術を学ぶ者ならわかるんじゃないかしら? このゴーレムには、
実に五属性分の強固な耐性が付与されている! 本来なら複数種を
重ねがけするほど効果が弱まる属性耐性だけど、アタシのゴーレム
は、一部の属性にのみ極端に脆弱にすることで、その効果を保つこ
とに成功したの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁このゴーレムの場合は⋮⋮風よ。ふふ、あなたの扱えない属性ね﹂
﹁つまり、風属性が弱点ってこと?﹂
﹁ええ。自分が今、どれだけ絶望的な状況かわかった?﹂
﹃それでは二回戦第一試合︱︱︱︱開始です!﹄
試合開始の笛が響き渡る。
﹁自分の魔法が通じない相手とどう戦うのかしら? さあっ、降参
するなら今のうちよぉっ!!﹂
男の叫びと共に、緑灰色のゴーレムが歩みを開始する。
巨体が迫り来る圧力の中、ぼくはヒトガタを選びながら呟く。

346
﹁えっと⋮⋮風ね。了解﹂
カマイタチ
︽召命︱︱︱︱鎌鼬︾
突風が吹いた。
あやかし
空間の歪みからつむじ風と共に現れたイタチの妖は、すさまじい
勢いでゴーレムへと襲いかかり。
神通力で生み出した風の刃で瞬く間に巨体をバラバラにすると、
目にも止まらぬ速さで位相へと帰っていった。
闘技場は静まりかえっている。
﹃⋮⋮おーっ、とぉ!? ラビネール選手のゴーレムが崩壊です!
セイカ選手の強烈な風魔法により、あっという間に倒されてしま
ったぁ!!﹄
﹁降参するなら今のうちだけど﹂
呆然と立ち尽くすラビネールに告げる。
長髪の男はふっと小さく微笑むと︱︱︱︱審判に向かって軽く手
を上げ、それから真顔になって宣言した。
﹁すみません降参します﹂
****
﹁しかし、危なかったな﹂

347
闘技場の控え室に戻る途中。
ぼくがそう呟くと、ユキが驚いたように言う。
﹁え、ええっ!? さっきの試合のどこにそんな要素が!?﹂
サモナー
﹁この大会、召喚士は出場禁止なんだよ。妖を喚んだのがバレたら
最悪失格になるところだった﹂
鎌鼬はいつも神通力で姿を隠しているし、そもそも人間の目では
追えないほど素速いから、まず大丈夫だとは思ったけど。
つむじ風に乗った鎌の爪を持つイタチなんて、見つかったら言い
訳のしようがなかったな。
﹁⋮⋮そうでございますか﹂
小言を言ってくるかと思ったが、ユキは呆れたように呟いただけ
だった。
そういうのは心にくるからやめて欲しい。
348
第七話 最強の陰陽師、また観戦する
メイベルの二回戦が同じ日に行われることになっていたので、ぼ
くは観客席でアミュとイーファと合流することにした。
﹁ん、お疲れ様。ほらイーファ。セイカ、帰ってきたわよ﹂
﹁うん⋮⋮おめでとう、セイカくん﹂
イーファが伏し目がちにぼそぼそと言う。
あー⋮⋮。
﹁イーファ。ほら、ちゃんと帰ってきただろ? 怪我もしてないよ﹂
﹁⋮⋮うん﹂

349
﹁そっ⋮⋮それにしても、この人混みでよくあたしたちのこと見つ
けられたわね。大雑把な場所しか言ってなかったのに﹂
﹁けっこう探したよ﹂
空からだけど。
﹁あんた、風の魔法も使えたのね。授業取ってなかったのに﹂
﹁まあね﹂
﹁属性耐性付きのゴーレム相手に、ずいぶんあっさり決めてくれち
ゃって。あんたの試合ってほんと盛り上がんないわね﹂
それから、アミュは思い出したように言う。
﹁そう言えば⋮⋮優勝したら近衛隊に入るつもり、あるの?﹂
﹁え、いや? 興味ないな。大会が終わったら学園に戻るよ﹂
﹁ふ、ふうん。そう⋮⋮よかった﹂
﹁何が?﹂
﹁な、なんでもないわよ! す、素直に辞退させてくれるのを祈る
ことねっ。向こうにだってメンツがあるでしょうから﹂
﹁それは大丈夫だと思うけどな﹂
むしろ、魔術師なんかを近衛に入れたくはないはずだ。
向こうとしても願ったり叶ったりだろう。
﹁優勝賞金だけ受け取れればいいわね。最悪そっちも辞退させられ
るかもしれないけど﹂
﹁というか⋮⋮さっきからぼくが優勝する前提で話してるけど、さ
すがにそう簡単にはいかないからね﹂

350
いくらなんでも優勝までは考えてないし。
ぼくの言葉に、アミュはきょとんとした表情を浮かべる。
﹁なぜかあんたが負けるところって、全然想像つかないのよね⋮⋮
イーファもそう思わない?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮わかんない﹂
イーファがそう言って顔をうつむけた。
あー⋮⋮。
やっぱり、ずっと心配してくれてたのかな。
そんな必要は全然ないんだけど⋮⋮しかしながら笑い飛ばすのも
気が引ける。
ぼくはイーファのそばに寄り、橙色の瞳を見つめながら言う。
﹁イーファ⋮⋮絶対大丈夫だから。負けるにしても死んだりしない
よ﹂
﹁⋮⋮ほんと?﹂
﹁本当﹂
実際、ぼくにしてみれば子犬と遊んでいるようなものだ。
ついでに言えばあと十回くらいなら全然死ねる。
﹁⋮⋮ぜったいだからね﹂
不安の残るイーファの声と、ほぼ同時に。
司会の大音声が闘技場中に響き渡った。
﹃お待たせいたしましたーッ! 第二回戦、続いての試合です!﹄

351
﹁ほら、いつまでもイチャイチャしてないで。新入生の試合始まる
わよ﹂
アミュの言葉にステージを見下ろすと、すでに両選手が出そろっ
ていた。
メイベルは相変わらず両手剣を背負っている。だが今回はそれに

加え、腰に二振りの細剣を差し、さらに腿には投剣の収められた収
ルダー
納具を付けていた。
ぼくは首を傾げる。あんなに武器を持ってどうするつもりだ?
相手選手はというと、杖を手にしていることから魔術師のようだ
った。
﹃ハウロ選手は高い実力を持つ土属性魔術師です! 魔法学園一学
年のメイベル選手、一回戦では魔術師らしからぬ怪力と身のこなし
で正統派騎士を圧倒しましたが、果たして同じ魔術師相手にはどの
ように立ち回るのか! では︱︱︱︱試合開始です!!﹄
笛の音が響き渡る。
先に動いたのは相手の魔術師だった。大ぶりな杖がメイベルに向
けられる。
ロックブラスト
﹁剛岩弾ッ!﹂
術名の発声と共に、一抱えほどもある岩がいくつもメイベルへと
放たれる。
アミュレット
護符がなければ死んでもおかしくない、土属性の中位魔法。

352
しかし、メイベルの対処は落ち着いていた。
すでに抜いていた二振りの細剣。そのうち右手に持つ方を、迫る
岩に向けて軽く斬り上げる。
ぼくは思わず眉をひそめた。
メイベルの細剣は明らかに刺突に向いたものだ。あれで岩を弾こ
うなど、普通に考えれば無謀でしかない。
だが︱︱︱︱岩の砲弾は、その細い剣身に触れた瞬間爆散した。
相手の魔術師が驚愕の表情で魔法を連発する。しかし放たれる岩
は、両の手で舞うように振るわれる細剣によって、すべて粉砕され
払われていく。
明らかに不自然な光景だった。
勢いのついた巨岩を、小柄なメイベルの振るう華奢な剣が次々に
打ち砕いていく様は、異様としか言いようがない。
使い手がどれだけ剛力の持ち主でも、あれでは普通剣が折れるか、
乗せる体重が足りずに弾かれるはずだ。
土の魔法を浴びながらも、メイベルがじわじわと相手選手との距
離を詰めていく。
焦りの表情の魔術師が、そのとき大きく後退した。
けんそ しゅんげん がが
﹁くっ! 脈動し唸り爆ぜ割れるは黄! 嶮岨、峻厳、峨々たる山
岳の⋮⋮﹂
呪文詠唱。
中位魔法ではらちが明かないと判断したか。魔術師はメイベルか
ら離れながら、おそらくはより上位の土魔法を放つべく声を張り上

353
げる。
隙はできるが、距離を詰められるには至らない、絶妙なタイミン
グ。
メイベルも間に合わないと判断したのだろう。両の細剣を捨てる
ホルダー
と、収納具の投剣に素速く手を伸ばす。
しかし、魔術師の反応も早かった。
詠唱を即座に中断し、杖を地面に向ける。すると、一瞬にして岩
の防壁が立ち上がった。
投剣に対するには過剰に見えるが、時間稼ぎを兼ねているのだろ
う。案の定、魔術師は再び詠唱を始める。
一方のメイベルは。
そんなものに構わず、投剣を放った。
空を裂いて飛ぶのは、岩の壁になどまるで太刀打ちできそうもな
い小さな刃。
だが︱︱︱︱その刃は、防壁を轟音と共に打ち砕いた。
魔術師はあわてて詠唱を中断。混乱しきった様子で岩の防壁を重
ねる。
しかしメイベルの投剣は、その程度ものともしない。
岩の壁を、生み出されるそばから豪快に砕き、削っていく。防壁
の魔法など、もうほとんど意味をなしていなかった。
投剣そのものは小ぶりのナイフほどしかなく、速度も目で追える
程度だ。
分厚い岩の壁を平然と貫通するのは明らかにおかしい。

354
アミュが呆然と呟く。
﹁なんなの、あれ﹂
﹁⋮⋮たぶん、重力の魔法だな。メイベルは闇属性を専攻してたは
ずだから﹂
アミュがぼくの方を見る。
﹁あたしも授業で少しやったけど、あれって物を重くしたり軽くし
たりするだけの魔法でしょ? あんなことができるの?﹂
﹁学園の講義では、確か詳しくは解説していなかったな。単に重く
すると言っても方法は大きく分けて二つある。一つは星が物体を引
く力を局所的に強める方法、もう一つは物体の星への引かれやすさ
を上げる方法だ。関わる粒子が共通しているから同じ重力魔法でく
くられているようだがどちらを選ぶかで結果は大きく変わる。後者
の場合は動かしにくさや止めにくさの数値にも影響をおよぼすから
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮???﹂
﹁あ、いや﹂
ぽかんと口を開けるアミュを見て、ぼくはやむなく説明を変える。
﹁ええと⋮⋮重い物は頑丈だし、投げつければ威力が出るだろ?
細剣や投剣を岩の何倍も重くしていれば、ああいうこともできるん
だよ﹂
武器を軽くするか、握る自分自身を重くすれば、どれだけ重量の
ある武器だろうと自在に扱える。
反対に武器自体を重くすることで、その強度や威力を上げること

355
もできる。
﹁なんとなくわかったような気はするけど、でも⋮⋮﹂
アミュが呟く。
﹁それ、かなり難しくない? 重いままだと振れるわけないから、
細剣なら当てる瞬間、投剣なら手から離れるか離れないかくらいの
タイミングで魔法を使ってるってことでしょ? 詠唱もなしにそん
な繊細なこと⋮⋮﹂
確かにそこも気になる。
ステージに注意を戻すと、魔術師が投剣の圧力に負け、防壁から
飛び出したところだった。
その杖が再び向けられる前に、間合いを詰めていたメイベルの両
手剣が振るわれる。
一振りで杖を両断し。
そして返された切っ先が、魔術師の首筋に突きつけられた。
数瞬ほどの静寂の後、笛が鳴る。
﹃ここで審判より決着の判定が出されましたーッ! 勝者、メイベ
ル・クレイン選手!!﹄
メイベルは剣を下げると、周りの歓声など聞こえていないかのよ
うに、無表情のままステージを降りていく。
魔法の技術以上に気になるのが、彼女の使う剣術だ。
ぼくも前世で少し囓っていたからわかるが、あれは一朝一夕で身

356
につくものではない。
細剣の扱いも投剣を放つ動作も、メイベルは熟達していた。
貴族の養子になるような子が、どのようにして得た技術なのだろ
う。
バフ
﹃支援魔法か何かだったのでしょうか? メイベル選手、すさまじ
いパワーを見せつけてくれました! 赤髪の勇者の剛剣は止まるこ
とを知らないぞーッ!!﹄
ぼくは微かに眉をひそめる。
まただ。
一回戦の終わりでも、あの司会はメイベルを勇者に例えていた。
観客席や街中でもちらほらとそういう声を聞く。
初めはよくある表現なのかと思ったが、他の選手がそう呼ばれて
いる気配もない。
﹁⋮⋮なんで、メイベルばかり勇者だなんて言われてるんだ?﹂
思わずそう口に出すと。
イーファとアミュは、そろって不思議そうな顔を向けてきた。
﹁なんで、って⋮⋮セイカくん、知らない?﹂
﹁メイベルって、二番目の勇者と同じ名前なのよ。別に珍しい名前
でもないけど、剣を使ってるからそう見立ててるんじゃない?﹂
そのとき。
頭の中で何かが繋がった気がした。

357
なるほど。
ひょっとして、そういうことだったのか︱︱︱︱。
第八話 最強の陰陽師、尋問する
まだ夜の明けきらぬ早朝。
人通りのない帝都の路地を、足早に行く一人の男がいた。
男は路地の突き当たりで足を止めると、ゴミ山の隅に隠されてい
た木箱の蓋を静かに開ける。
中に入っていたのは、一匹のハトだった。
男はハトを慎重に捕まえると、片方の足に懐から取り出した足輪
をはめる。
そして、両手で空へと放った。
ハトは自分の行くべき方角を見定めると、迷いなく羽ばたき、帝
都から遠ざかっていく︱︱︱︱。

358
そこに、突如飛来したタカが空中で襲いかかった。
もがくハトを強靱な爪で押さえ込むと、あらぬ方向へと飛び去っ
ていく。
思わぬ不運に、男は目を見開いた。
伝書鳩が猛禽に襲われることは少なくない。
だが、よりにもよってこの場面で︱︱︱︱と言ったところだろう
か。
﹁チッ⋮⋮クソッ﹂
悪態をつく男。
その背に︱︱︱︱ぼくは声をかける。
﹁ハトを飛ばすなら早朝だと思っていたよ﹂
男が驚いたように振り返った。
二十代半ばほどの、どこにでもいそうな男。特徴のない顔は印象
に残りにくい。
こういうのが向いているんだろうな。
ぼくは笑顔で言う。
﹁魔族側の間者だよね﹂
﹁⋮⋮いきなり何の話だ。誰だか知らないが、俺に何か用か?﹂
﹁いろいろ訊きたいことがあるんだ。あのハトに持たせた密書の内
容とか﹂

359
﹁密書⋮⋮? あれはロドネアの支部に送るうちの伝票だよ。あの
タカのおかげで送り直しだがな。そろそろ大旦那の出勤なんだ。悪
いが失礼するよ、坊や﹂
男は困ったように言って、視線を逸らした。
こちらへと歩きながら、まるで仕事道具でも取り出すような何気
ない仕草で︱︱︱︱腰から一振りのナイフを引き抜く。
次の瞬間、その歩みが疾駆に変わった。
ナイフの切っ先は、いつの間にかぼくを向いている。
﹁そういう態度だと助かるな﹂
つるしば
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
石畳を割って、幾本もの太い蔓が伸び上がった。
それは男に触れるやいなや巻き付き、木質化して強く締め上げて
いく。
苦鳴と共に、ナイフが手から落ちた。
﹁クソ、な⋮⋮んで、わかった﹂
﹁内緒話を聞いたんだ。君が情報屋としていた、ね﹂
﹁あ、あの場には誰もいなかったはず⋮⋮!﹂
﹁人間はね。いやぁ大変だったよ、帝都中に放った式から情報を集
めるのは。おかげで寝不足だし頭痛はひどいし。でもこうして一人
捕まえられたから、その甲斐はあったかな。これでようやく一息つ
けそうだ﹂
男は理解不能なものを見るような目でぼくを見る。
﹁セイカ・ランプローグ⋮⋮お、お前いったい⋮⋮﹂
﹁あー、やっぱり大会出場者の顔くらいは把握してるよね。ついで

360
に、君が報告しようとしていたことも教えてくれないか?﹂
男は口の端を歪める。
﹁はっ、誰が吐くか﹂
﹁そう﹂
﹁拷問でもするかい? 俺が正直に話すとは限らないがな﹂
﹁いや﹂
ぼくは一枚のヒトガタを宙に浮かべる。
﹁其の方の魂に訊こう﹂
さとり
︽召命︱︱︱︱覚︾
あやかし
位相から引き出されたのは、一匹の猿に似た妖だった。
顔だけは妙に人に似ていて、ニタニタと気味の悪い笑みを浮かべ
ている。
突如現れた妖を、男は不気味そうに見る。
﹁なんだ、この⋮⋮﹂
サモナー
﹁﹃なんだ、このモンスターは? こいつは召喚士だったのか?﹄﹂
﹁こっ⋮⋮﹂
﹁﹃言葉を喋るだと? それより今、俺の考えが読まれたのか?﹄
ゲハハァ⋮⋮﹂
覚の話す言葉に、男の顔が蒼白になる。
そう。
覚は、人の心を読む妖だ。

361
﹁じゃあ尋問といこうか。まず、君の上には誰がいる?﹂
﹁っ⋮⋮そんなことを話すわけがっ﹂
﹁ゲハハハ⋮⋮﹃ボル・ボフィス断爵だ⋮⋮黒、閣下、砦⋮⋮森⋮
⋮﹄﹂
﹁ふうん? ならその上は?﹂
﹁﹃分からない、分から⋮⋮知ら⋮⋮エル、エーデントラーダ大荒
爵⋮⋮予想。危険、勇⋮⋮﹄﹂
﹁雑音がひどいな。もう少し話し言葉で思い浮かべてくれ。一応訊
くが、それは悪魔族の者で間違いないな?﹂
﹁﹃⋮⋮そうだ。そうだ。そう⋮⋮﹄﹂
名前に独自の称号からしてそうだろうと思ったが、案の定か。ま
あコーデルも悪魔族の間者だったしな。
﹁伝書鳩が向かうはずだった場所はどこだ﹂
﹁﹃ルーウィック。ルー⋮⋮魔族領。東北東、帝国国境近、郊に位
置する街の商業資源は⋮⋮﹄﹂
﹁わかったわかった、余計なこと考えるな﹂
しかし、魔族領まで直接飛ばすつもりだったんだな。だいぶ遠い
けど、国境に近いならまあいけるか。
﹁で、内容だけど⋮⋮人間側に誕生した勇者に関することで、間違
いはないな﹂
﹁﹃そうだ、そう、なぜ勇者の誕生を知っている? そうだ、違、
魔族側、間者から? 限られる知る人間。どこまで?﹄﹂
﹁ぼくのことはいい。君が調べていた勇者の名前を言え﹂
﹁﹃⋮⋮メイベル・クレイン﹄﹂
﹁なぜ⋮⋮あの子が勇者だと?﹂

362
﹁﹃⋮⋮託宣のあった年と生年が一致、する。性別と髪色も託、宣
に沿う。そして強い。魔法学園の出身だが、あそこ、では一年前、
勇者らしき子供がいると報告してきた間者が送り込んだ刺客、と共
に消えている。入学時期の矛盾は、ある。だが情報工作の可能性も、
が⋮⋮﹄﹂
﹁ん? いきなり素直になったな。あとは?﹂
﹁﹃メイベル・クレインは勇者で、あるとの噂が流れて、いる。情
報屋の間で。出所はクレイン男爵家、の使用人に行き着い、た流出、
元として自然⋮⋮﹄﹂
ふうん、なるほどね。
﹁他にはどんな内容を記した?﹂
﹁﹃公式に、は半年前にクレイン男爵家の、養子、となっている。
学園生時代の恩師の孫娘だと当主が喧伝、しているが、裏付けはと
れてい、ない。入学試験で、は⋮⋮﹄﹂
男が調べ上げたであろう、メイベルの情報が開示されていく。
が⋮⋮どうも当たり障りのないものばかりだ。
たぶん、あえて流した表向きの情報だろうな。彼女が勇者である
という噂も含めて。
﹁最後に訊く。実際にメイベルが勇者である可能性を、君たちはど
れほどと見込んでいる?﹂
﹁﹃一割程、度の。二割ほどまでは大会で優勝するならばあるい、
は⋮⋮﹄﹂
﹁そんなものか。他に候補が⋮⋮いや、帝国が秘匿している可能性
が高いと見ているのか?﹂
﹁﹃見ている、見てい⋮⋮加え人間がすで、に勇者を過去のものと
している以上未だ、在野に、埋もれ世に出ていない可能性を誰もが

363
警戒してい、る。商家、農民、奴隷⋮⋮﹄﹂
確かに、生まれによっては剣になんて触れずに育つことも多いか
らな。女ならなおさら。
勇者の存在を帝国が把握しているならば、隠している可能性が高
い。
把握していないならば、どこかに埋もれている可能性が高い。
こんな大会に都合良く出てくる可能性は低いが、条件が合致して
いて強いから、メイベルを無視はできない⋮⋮みたいな感じかな。
見方としては妥当なところだ。
﹁よし、このくらいでいいかな。どうもありがとう。おかげで知り
たかったことを知れたよ﹂
男を締め上げていた蔓が朽ちていく。
支えを失った男が、石畳に膝をついた。蒼白の顔で⋮⋮しかし決
意の表情と共に目を剥き、その手が落ちていたナイフに伸びる。
だがそれを掴む寸前。
男のすぐ目前に、覚がすっ、と立った。
ここからじゃよく見えないが︱︱︱︱きっとその顔は、期待に歪
んでいただろう。
﹁よくやってくれた、覚﹂
ぼくは妖に告げる。
﹁褒美だ。喰っていいぞ﹂

364
﹁なっ⋮⋮!?﹂
﹁﹃なんだと!? 喰う!? ふざけるな冗談じゃな﹄ゲハハハハ
ハァ︱︱︱︱アオウゥンッッ﹂
覚の頭が、数倍に膨れ上がると。
その大きく開いた顎で、男をひと飲みにした。
もがく人の形が喉を通り、腹に収まる。
男は、その中でまだ暴れ回っている。
﹁﹃やめろ﹄﹃出してくれ﹄ゲハハハハッ﹃苦しい﹄﹃怖い﹄ゲハ
ハハハゲハハハハハハハァ!﹂
やがて、その動きもにぶくなっていく。
覚の大きく膨らんでいた腹が、すっと凹んだ。巨大な顔もいつの
間にか小さくなっており、小柄な猿と変わらない姿に戻っている。
今し方人を喰ったようには、もう見えない。
覚が振り返り、気味の悪い笑みでぼくを見る。
﹁﹃哀れだ﹄﹃仕方ない﹄﹃捨て置くには危険だった﹄ゲハハッ﹂
ぼくは薄目で覚を睨み、呪力を滲ませた声で告げる。
﹁ぼくの心を読むな、覚。殺すぞ﹂
﹁ゲ⋮⋮ァ⋮⋮﹂
覚が、笑みを凍り付かせた。
竦み立ち尽くす妖の眼前に、ぼくは位相への扉を開いてやる。

365
﹁ご苦労だった。もう戻っていいぞ。それとも⋮⋮まだぼくと話を
するか?﹂
覚は、一目散に位相へと飛び込んでいった。
ぼくは扉を閉じ、そして、一つ息を吐く。
﹁セ⋮⋮セイカ、さま⋮⋮﹂
﹁ん? ああ悪い。怖がらせたな﹂
ぼくは頭に手を伸ばし、髪の中で震えるユキを指先で撫でてやる。
それにしても。下級妖怪に舐めた態度をとられるなんて、前世で
はあり得なかったんだけどな⋮⋮。
バサバサッ、という羽音。
式神のタカが、伝書鳩を捕まえたまま戻ってきていた。
ぼくはハトを両手で受け取ると、足輪を外し、折りたたまれてい
た手紙を開く。
思わず溜息をつく。
﹁⋮⋮暗号の解読法も訊いておくんだったな﹂
密書を火の気で燃やす。
ハトに大した怪我はなかったようで、地面に放すと勝手に飛び立
っていった。
密書は読めなかったが、まあいい。
これでわかった。
今回の大会は、メイベルが優勝するために開かれたものだ。

366
そしてその目的は︱︱︱︱真の勇者たるアミュの身代わり。
最初からおかしいと思っていた。
そもそも、魔法剣士なんかを入れたところで近衛が強くなるわけ
がない。
強さとは数だが、軍となれば均質さが重要だ。同じ訓練、同じ作
戦、同じ行動で同じ強さを発揮できなければならない。そこに特殊
な技能なんて不要。魔術師など持て余すだけだ。
おそらく、帝国は勇者の誕生を把握している。
コーデルの言っていた通り魔族領に間者を忍ばせているなら、予
言の術を失っていても諜報で知ることができる。
コーデルがアミュを見つけた時、帝国側もまた、学園を通して勇
者の存在を知ったのだろう。
そう考えると、去年の騒動があった後に学園を閉鎖しなかった理
由も説明がつく。アミュの生家は貴族じゃない。学園を出られると、
帝国の監視下から外れてしまうことになる。
そんな形で一時は両者共に勇者を把握していたわけだが、その直
後、図らずも魔族側だけがアミュを見失う。
ぼくが刺客と内通者を始末してしまったためだ。
ガレオスとの会話を思い出すに、コーデルはアミュの名前すら伝
えている様子がなかった。
たぶん、あわよくば勇者討伐の手柄を自分のものとしたかったの
だろうが⋮⋮しかしそのおかげで、魔族側の持つ情報が﹃学園に勇
者がいるかもしれない﹄程度にまで後退した。ガレオスとコーデル
以外に、アミュの顔と名前を知った魔族はいなかったから。
で。

367
おそらくまた、帝国は諜報によってその事実を知る。
運良く人間側が情報的に有利になった。が、学園に目を向けられ
たままでは、いずれまたアミュの存在を知られかねない。
だったら⋮⋮学園から他に勇者っぽい奴を仕立て上げてしまえば
いい!
そして近衛隊あたりに引き取らせ、学園から目を逸らさせよう!
⋮⋮うん。
裏にあった思惑はきっとこんな感じだろうな。
アミュが推薦枠に選ばれなかった不自然さも、これなら頷ける。
﹁あー、すっきりした﹂
勇者に仕立て上げられるメイベルの経歴が気になるところだった
が、さすがにそこまで調べるのは無理だ。
どう考えても偽名だし、たぶんあの錆色の髪も染めてるだろうか
ら。
これ以上深入りする必要もない。
アミュを守ってくれるなら、ぼくとしても願ったり叶ったりだ。
間者があいつだけということもないはずだから、メイベルのこと
はきちんと報告されるだろう。むしろ一人消えているくらいの方が
真に迫っていていいかな。
さて、学園にはいつ頃帰ろう⋮⋮。
﹁待てよ。実はメイベルこそが真の勇者という可能性も⋮⋮いや、
ないか﹂
見ていればなんとなくわかる。

368
あの娘に、アミュほどの才はない。
第八話 最強の陰陽師、尋問する︵後書き︶
※蔓縛りの術
木の気で生み出した巨大な蔓植物で相手を拘束する術。蔓が物に巻
き付く仕組みは接触屈性と言い、茎に何かが触れると、その逆側の
細胞が急速に成長することで起こる。木質化とは細胞壁にリグニン
が蓄積し、組織が非常に硬くなること。樹木や竹の表皮に見られる
現象で、蔓植物の中ではフジやアケビなどが該当する。 369
第九話 最強の陰陽師、三回戦に臨む
邪視使いのカイルは、二回戦も同じように勝利した。
相手は屈強な剣士だったが、邪眼の前には為す術なかったようだ。
再び転がった死体に、観客席の一部は大いに沸いていた。
カイルの方は予想の範囲内だったが、レイナスは少し違った。
一回戦で土と風の魔法を見せていた若き騎士は、二回戦ではなん
と火と水の魔法を使い、またまた鮮やかに勝利を収めたのだ。
四属性を使える魔術師はかなり珍しいようで、その涼しげな顔立
ちも相まって人々の話題を一気にさらっていた。オッズも一番人気
だ。

370
そんな流れで第二回戦が一通り終了し、ぼくの三回戦。
﹃セイカ・ランプローグ選手の登場です! セイカ選手、どうやら
同じ学年の女子生徒が応援に来てくれているようですね。うらやま
しい限りです!﹄
﹁おい﹂
観客席の一部からブーイングが沸き上がる。余計な事言うな。
﹃さて、キーディー選手の死獣を相手にどのような戦いを見せてく
れるのでしょうか!!﹄
ぼくは対戦相手を見る。
正面に立つのは、白い髪の女だった。
年齢がわかりにくく、少女にも老女にも見える。
ただ、そんなことはどうでもよかった。
ぼくはキーディーとかいう魔術師に、ずっと思っていたことを告
げる。
﹁それさぁ、ずるくないか?﹂
女魔術師を守るように散開しているのは、黒い毛並みを持つ狼の
群れだった。
ただし、ところどころ肉は腐り、骨が見えている個体もいる。
女がにやりと笑い、しわがれた声で答える。

371
﹁ひぇっひぇ。なにがずるいさね﹂
テイマー サモナー
﹁調教師や召喚士は出場禁止のはずだろ﹂
﹁ひぇっひぇっひぇっひぇあたしゃ死霊術士さ! 使役するのもモ
ンスターじゃなく獣の死骸。どこに文句があるってんだい﹂
と、女がのたまう。
いや、死骸に入れる霊魂はモンスターと大して変わらないだろ。
呼び方の問題じゃないか? 納得いかない⋮⋮。
﹃キーディー選手はこれまで、死獣を用いた数の差で試合を制して
きています。未だ底を見せないセイカ選手ですが、多勢に対抗する
手段はあるのでしょうか? その点が勝敗の決め手となりそうです﹄
﹁ひぇっひぇ。戦いは数さ﹂
死霊術士の女は笑う。
﹁剣士も魔術師も関係ない。多こそが個の天敵さね。どんな冒険者
だって、一人ではダンジョンに潜れない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁獣の群れに襲われ、生き残る自信があんたにはあるかい?﹂
いや、言いたいことはわかるんだけど⋮⋮。
﹃それでは︱︱︱︱試合開始です!!﹄
司会の声と共に、笛が鳴った。

372
﹁行きなッ、死狼どもッ!﹂
扇状に広がった黒い死骸の狼たちが駆け出し、こちらに迫る。
ぼくは腕を組んだまま呟く。
﹁やっぱりそれ、ナシでしょ。とりあえず大人しくしてくれ﹂
こんぎょうど
︽土水の相︱︱︱︱混凝土の術︾
ヒトガタから吐き出された灰色の泥の波濤が、狼の群れを飲み込
んだ。
﹁ひぇ?﹂
泥はそのままキーディーをも飲み込み、押し流していく。
そして、完全に固まった。
﹃おっとこれはーッ!? セイカ選手の⋮⋮これは土か水の魔法で
しょうか!? 泥がキーディー選手と死獣に襲いかかりましたぁ!
ギリギリ場外ではないようですが⋮⋮泥が岩のように固まってい
ます! キーディー選手、死獣共々動けない!﹄
﹁な、なんだいこりゃぁッ!?﹂
固まった泥の上から片腕と頭だけを出して、キーディーが喚く。
ぼくは周囲で狼がもがく中、泥の上を歩いて女術士の前に立つ。
﹁アストラル系のモンスターがいるのに、霊魂はモンスターじゃな
いってその理屈はないだろ。それはそうと、これって戦闘不能だよ
ね?﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂

373
﹃ここで笛が鳴りましたぁーッ! 名門伯爵家の神童は強かった!
セイカ・ランプローグ選手、準決勝進出です!!﹄
ぼくが踵を返して歩き出すと、キーディーがあわてたようにもが
き出す。
﹁こ、こらっ! まさかこのままほっとく気じゃないだろうね!?﹂
﹁心配しなくても出してあげるよ﹂
ぼくは泥から降りると、内部に埋め込んでいた数枚のヒトガタに
呪力を込める。
その瞬間、泥の各所に亀裂が入り、全体が砕け散った。
ステージの端っこでもがいていた女術士は、その拍子にステージ
から転げ落ちる。
ここからじゃ見えないけど、狼が動いているから頭を打ったりは
していないかな。
やれやれ。
****
﹁変わった術でございますね。ユキは初めて見ました。セイカさま
ならば、あのような岩に変わる泥も生み出せるのですね﹂
ユキの言葉に、ぼくは苦笑する。
﹁いや。あれは元々人の技術者が発明した建築材料だよ。ぼくはそ

374
れを術で再現しただけだ﹂
別に陰陽術を使わなくても、水に火山灰や石灰岩を適量混ぜるこ
とであの泥は作れる。時間と共に硬化する人工の岩だ。
かつてローマで巨大な円形闘技場や公衆浴場を作るのに使われた
というこの技術を、ぼくはイスラムの技術者から聞いて知っていた。
速乾性を高めるために成分は多少いじっているが、基本はそのまま
だ。
千年の時を耐えるほど強靱な素材だが、内側からの圧力には弱い。
内部にヒトガタを仕込んで衝撃を加えてやれば、壊すのも簡単とい
うわけ。
﹁セイカさまはなんでも知っておられますねぇ。大工仕事を好き好
んで学ぶ術士など、セイカさまくらいではないでしょうか﹂
﹁勉強するのは嫌いじゃなかったからね﹂
世の中、意外なことが役に立つもんだ。
375
第九話 最強の陰陽師、三回戦に臨む︵後書き︶
※混凝土の術
大量の生コンクリートによって相手を固める術。ベースとなってい
るのはケイ酸ポリマーが主体のいわゆる古代コンクリートだが、硬
化を速めるために成分は調整されている。古代ローマで全盛を誇っ
た古代コンクリートの技術は、現実にはローマ帝国の滅びと共にそ
のすべてが失われたが、作中ではセイカの転生前の時代、イスラム
文化圏にのみ細々と伝えられていた。
376
第十話 最強の陰陽師、断る
ぼくの生み出した大量の泥の残骸を片付けるために、以降の試合
は翌日に持ち越しとなってしまった。
観客からのブーイングがすごかったようで、ちょっと申し訳なく
思う。
で、翌日。
ぼくは観客席で、一人ステージを見下ろしていた。
アミュとイーファはいない。ぼくの試合はなかったから宿に置い
てきたのだ。
今日は、カイルの第三回戦もある。
アミュはともかく、イーファにあれの試合をこれ以上見せるのは

377
気の毒だった。
肝心の試合はというと。
メイベルは、図体のでかい槍使い相手に危なげなく勝利していた。
レイナスの試合の方は、こちらは相手選手が棄権したようだった。
実力差を見極めたんだろう。勝てない勝負に挑む意味もない。
そして。
今ステージ上に立っているのはカイルだ。
﹁⋮⋮﹂
ただ、相手選手が一向に現れない。
司会も話すことがなくなって静かになっているし、周りの観客も
イライラし出している。
怖じ気づいて逃げたか。そんな雰囲気が漂う中、カイルは相変わ
らず感情のない顔で、一人ステージ上に佇む。
うーん、レイナスに続いてこの試合もなくなりそうだな⋮⋮。
﹁セイカ・ランプローグ﹂
突然、横手から声をかけられる。
顔を向けると、そこにはメイベルの姿があった。
どこかに置いてきたのか、両手剣は持っていない。
涼しげな佇まいは、つい先ほど試合を終えたようには見えなかっ
た。

378
ぼくは彼女へ笑いかける。
﹁やあ、おめでとう。さすがに勝ち上がってきたね。でも明日の準
決勝では負けないよ﹂
﹁棄権して﹂
メイベルは、そう短く告げた。
短い沈黙の後、ぼくは問い返す。
﹁なぜ?﹂
﹁これは、あなたが思っているような大会じゃない﹂
﹁⋮⋮ぼくの思っている大会というのが何を指すのかわからないけ
ど、嫌だね。決勝に進みたいなら、正々堂々勝負することだ﹂
﹁あなたが強いのはわかる﹂
メイベルの言葉に、ぼくは口をつぐんだ。
少女は続ける。
﹁今までの相手より、ずっと強い。だから、手加減できないかもし
れない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私は、負けるわけにはいかないの。お願い。あなたも、死にたく
はないでしょ?﹂
ぼくはしばらく黙った後、口の端を吊り上げて告げる。
﹁嫌だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくに勝つ自信がないならそう言えばいい。それでも、譲る気は
ないけどね﹂

379
﹁⋮⋮ふざけないで。あなたっ⋮⋮﹂
そのとき、司会の声が闘技場中に響き渡った。
﹃えー、審議の結果、どうやらザガン選手の失格となることが決定
したようです。したがって⋮⋮カイル選手、不戦勝! 準決勝への
進出が決まりましたぁ!﹄
観客席から激しいブーイングが湧き上がる。
無理もないな。入場料払ってるのに、二試合も中止になったんだ
から。
カイルが踵を返し、ステージを後にしていく。
ふと横を見ると。
メイベルが、ほっとしたような表情でその様子を眺めていた。
なんだろう。
手加減とか言っていたし、彼女も試合が命のやり取りになるのは
望んでいないのかもしれないが⋮⋮少し引っかかる。
メイベルはぼくの視線に気づくと、少しあわてたように言った。
﹁とにかく、棄権して。学園がどうして、あなたなんかを送り込ん
だのかわからないけど⋮⋮﹂
﹁セイカ?﹂
聞き覚えのある声に振り返ると。
案の定、そこにはアミュがいた。
驚いたような顔をしている。

380
﹁まさか、この混み具合で見つけられるとは思わなかったわ⋮⋮。
あれ、新入生もいたのね﹂
そう言ってメイベルに視線を向けると、赤髪の少女は不敵に笑う。
﹁三回戦も勝ったんだってね。やるじゃない。でも、こいつもけっ
こう強いわよ?﹂
メイベルはアミュを憎々しげに見つめた後。
無言のまま、背を向けて去って行った。
人混みに消える彼女を見ながら、ぼくは思う。
棄権するよう言ってきたのは、やっぱり優勝を命じられていたか
らだろうか。
学園と、そのさらに上から。
﹁あの、セイカさま⋮⋮﹂
耳元で、ユキがささやくように訊ねてくる。
﹁先ほどのお話ですが⋮⋮まさか、あの娘にも勝つおつもりで?﹂
﹁いや﹂
ぼくは小声で否定する。
予定通り、メイベルには負けるつもりだ。彼女の任務を邪魔する
つもりもない。
棄権を断ったのは、ただぼくがちょっと手合わせ願いたかったか
らだ。

381
彼女の戦い方には興味がある。もう少し手の内を見てみたい。
そして満足したら、適当に場外にでもなるつもりだった。
﹁︱︱︱︱セイカ?﹂
﹁えっ、何?﹂
あわてて返事をすると、アミュが半眼で言う。
﹁なにぼーっとしてるのよ。ねえ、今何試合目? なんか周りがざ
わついてるけど﹂
﹁あー⋮⋮実は、二枚目騎士と邪眼持ちが不戦勝になったんだよ。
今日はメイベルの試合しか行われなかったんだ﹂
﹁そうなの? なあんだ⋮⋮﹂
アミュが残念そうに呟く。
﹁というか、アミュはなんでここに? 宿にいるはずじゃ﹂
﹁やっぱり試合が気になってね。イーファを置いて抜けてきちゃっ
たのよ。あの子に付き合わせるのも悪かったから﹂
﹁そっか。せっかく来たのに、残念だったな﹂
﹁まあいいわ。帰りましょ? 明日はあんたと新入生の準決勝が⋮
⋮﹂
そのとき。
再び闘技場に、司会の声が響き渡った。
﹃皆さん! 朗報です! レイナス選手とカイル選手が共に第三回
戦で不戦勝となりましたので、本日これより、両選手の準決勝を行
うことが決定いたしました!!﹄

382
会場のざわめきが大きくなる。ところどころで歓声が上がってい
た。
予定では、明日準決勝と決勝を行うことになっていたはずだけど
⋮⋮たぶん運営が、さすがに一日に二試合中止は興行的にまずいと
判断したんだろうな。昨日もぼくのせいで他の試合が延期になった
ばかりだし。
﹁⋮⋮運がいいわね。今日来てなかったらこのカードは見られなか
ったわ﹂
アミュが呟き、眼下のステージに目を向ける。
明日来る予定だった奴はかわいそうだが⋮⋮先にこちらの準決勝
をじっくり見られるのは、ぼくとしてもありがたい。
﹃それでは選手の入場だぁ! 四属性使いのイケメン魔法騎士、レ
イナス・ケイベルン!!﹄
歓声の中、身軽そうな金属鎧を身につけた優男が、手を振りなが
らステージに上る。
相手はカイルなのに、棄権しないのか。
ということは、何か邪眼に対抗する策があるのかな。
﹃続いて︱︱︱︱本大会の殺戮者! 邪眼の剣士カイルーッ!!﹄
幽鬼のような少年が、静かにステージに上がる。
右手には抜き身の剣。今までの試合と変わらない。
観客席が、自然と静まっていく。

383
﹃両者共に本大会では話題の選手ですが、果たしてどのような戦い
が繰り広げられるのか!? 注目の準決勝、第一試合︱︱︱︱開始
です!!﹄
司会の声と共に、笛が鳴り響いた。
少年がうつむけていた顔を上げ、その赤い左目で若き騎士を見据
える。
しかし。
邪眼がその効果を発揮する前に、レイナスはすでに詠唱を開始し
ていた。
﹁輝き照らすは白! 慈愛と庇護の精よ、死の眼差しに抗する明き
アド イービルアイ・トレランス
身光を我に与えよ︱︱︱︱付与・中級邪眼耐性﹂
詠唱が終わると同時に、騎士の身体が一瞬淡い光に覆われる。
アミュが隣で驚きの声を上げた。
バフ
﹁邪眼耐性の支援魔法!? あの騎士、光属性まで使えたの!?﹂
少年の邪眼に睨まれる中、五属性使いのレイナスは悠然と剣を抜
き、振ってみせる。
﹁ははは! どうだ少年。君の目はもう効かないぞ? 降参するか
? それとも、このオレと剣術勝負でもするかい?﹂
軽やかに、レイナスが声を張り上げる。
カイルは答えなかった。
ただその代わりに、一歩足を踏み出した。

384
一歩、また一歩。
抜き身の剣をだらりと下げ、効かない邪眼で騎士を見据えながら、
カイルは静かに敵との距離を詰めていく。
顔には一切の感情が浮かんでいない。
幽鬼のごとく、ただ歩みを進める。
その様子に、レイナスは気圧されたように杖剣の切っ先を向けた。
ファイアボール
﹁っ、火炎弾!﹂
生み出された火球が少年へと襲いかかる。
カイルは抵抗すらせず、その攻撃を受けた。
﹁⋮⋮は?﹂
炎を割って、少年が現れる。
皮膚どころか髪にも服にも、焼けた様子は一切ない。
ファイアボール ファイアボール
﹁チッ、火炎弾! 火炎弾!﹂
火球が連発される。
カイルは抵抗の素振りすらなく、だが火傷一つ負わないままに歩
みを進める。
隣でアミュが呟く。
アミュレット
﹁⋮⋮なにあれ。護符が効いてるってこと?﹂
﹁いや⋮⋮それならとっくに音と光を出して自壊してるはずだ﹂
﹁でも、あんなに魔法を浴びてるのよ?﹂

385
﹁あれは所持者に降りかかる災厄⋮⋮ダメージに反応するものなん
だ。だから⋮⋮﹂
カイルは、火球によるダメージをほとんど受けていないというこ
とになる。
ウインドランス アイシクルランス ロックブラスト
﹁なんなんだよお前は⋮⋮! 風錐槍! 氷錐槍! 剛岩弾!﹂
レイナスが突風の刃を放ち、氷の槍を放ち、岩の砲弾を放つ。
カイルは、それらをすべて受けた。
少年の身体に突風が叩きつけられ、氷と岩が激突し砕ける。
数々の魔法にも⋮⋮カイルは反応すらしなかった。
無傷のまま、ただ歩みを進める。
その足跡は︱︱︱︱不自然なほど深く地面に刻まれていた。
物理攻撃どころか燃焼すら防ぎ、服や髪にまで及ぶ強い耐久性。
そんなものを実現する方法に、心当たりは一つしかない。
メイベルと同じ、重力の魔法。
﹃どういうことでしょうかぁ!? カイル選手、魔法を全く寄せ付
けません! 邪眼を封じられて大ピンチかと思われましたが、どで
かい奥の手を隠し持っていたーッ!﹄
﹁ちょっとちょっと! なんであんなことになってるのよ!﹂
興奮したように袖を引っ張るアミュに、ぼくは説明する。
﹁メイベルの時と同じだよ。闇属性魔法では物体の星への引かれや
すさを操作できるけど、この数値は動かしにくさや止めにくさの数

386
値とも勝手に連動するんだ。メイベルは武器の威力を上げていたけ
ど破壊や燃焼なんかの現象もごく小さな視点でみれば実は物理的な
動きに過ぎないからその構造が耐えられる範囲で重くするなら強度
を上げることもできる。人間の体は短時間なら意外なほどの自重を
支えられるし術の工夫次第でもっと大きな重量だって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮???﹂
﹁あ、いや﹂
ぽかんと口を開けるアミュを見て、ぼくはやむなく説明を変える。
﹁ええと⋮⋮藁を縛って作った家より、レンガをただ積んだだけの
家の方が風で飛ばされにくいだろ? 重いと壊れにくいんだよ﹂
﹁わかるようでぜんっぜんわかんないけど⋮⋮それってあたしにも
できるやつ?﹂
﹁頑張ればたぶん⋮⋮﹂
その時、実況が吠えた。
﹃おーっとレイナス選手、新たな手を打つようです! 果たして状
況を打開できるのかぁーっ!?﹄
﹁くそっ⋮⋮!﹂
レイナスが突然地面に杖剣を突き立て、呪文を唱え始めた。
すると土がボコボコと変形し、そこから岩の人形が立ち上がる。
大きさは人よりも小さいが、数が多かった。見ている間にも、岩
人形はステージ上の土から次々と湧き出してくる。
アミュがまた驚いたように言う。

387
﹁ゴーレムをこの場でこんな数作るの!? あの騎士も相当ね⋮⋮﹂
レイナスは、さすがに消耗したのか苦しげな様子を見せていた。
だがその口元には笑みがある。
﹁ずいぶん頑丈みたいだな。しかしそれだけでゴーレムを相手でき
るかな⋮⋮!﹂
レイナスのゴーレム達が、一斉に歩みを開始する。
確かに、数で押さえ込めれば動きを封じられるかもしれない。
カイルが初めて立ち止まった。
そのとき、奇妙なことが起きた。
少年の影が、突如グネグネとうごめき始める。
そして一瞬だけ円形になると、そこから棘のような細い影が大量
に飛び出した。それらは猛烈な勢いで伸び、各々がゴーレムへと殺
到していく。
地を這っていた影は、岩人形に迫ると突然ヘビのように鎌首をも
たげ、その鋭い先端で胴体を貫いた。空中に縫い止められたゴーレ
ムは身動きがとれなくなり、次々と無力化されていく。
﹁闇属性の影魔法⋮⋮あのカイルって邪眼持ち、普通の魔法も使え
たのね﹂
授業で聞いて知っていたのか、アミュが呟く。
カイルの影魔法は、次いでレイナス自身にも迫っていた。
地面から飛び出し、強襲する鋭い影。
だがそれを、若き騎士は鮮やかな身のこなしで躱していく。

388
初めからゴーレムは囮だったのか。そう思えるほどのよどみない
動きで、レイナスは瞬く間にカイルとの距離を詰める。
そして間合いに入った少年に向け、剣を振り上げた。
上手いと思った。
おそらく魔法で超重量となっているカイルの身体は、剣すらも弾
くだろう。が、寸止めにすれば審判の判定で勝ち得る。
唯一残った細い勝ち筋。
しかし︱︱︱︱そこで、レイナスの動きが止まった。
若き騎士は剣を振りかざしたまま、驚愕の表情で固まっている。
観客席もどよめいていた。
剣を突きつければ勝てるのに、動く気配がない。
否︱︱︱︱動けないのか。
注意深くステージを見ると、カイルの影の内の一本が、レイナス
の影に入り込んでいた。
あれは⋮⋮呪詛だな。
おそらくは相手の影を本体の関連オブジェクトと定義し直し、自
分の影を刺すことで動きを封じている。藁人形に釘を打つのと似た
ようなものだ。
少年が顔を上げて、自分よりも背の高い騎士を見つめる。
そこにはやはり、感情は見受けられなかった。殺意すらも。
カイルが、抜き身の剣を持ち上げる。
死の予感に、観客達が盛り上がりの前兆を見せた。
そのとき︱︱︱︱、

389
試合終了の笛が、鳴り響いた。
﹃おっとぉーッ! ここで審判より決着の判定が出されました!
勝者︱︱︱︱邪眼の剣士、カイル選手!! 見事決勝戦へ進出です
!!﹄
剣を持ち上げかけていた少年は。
意外にも、素直に刃を下ろした。
無言のまま踵を返し、ステージを後にしていく。
少年の影が持ち主の元に戻ると、レイナスが腰を抜かしたように
倒れ込んだ。
なかなか見られない試合だったと思うが、観客席は静かなものだ
った。
圧倒されているのだろう。
その内容か、カイルの持つ底知れない気迫のどちらかに。
闘技場に司会の声が響き渡る。
﹃すさまじい試合でした! 残るは明日の準決勝第二試合目、そし
て決勝戦です! 記念すべき第一回帝都総合武術大会がどのような
結末となるのか、絶対に見逃せません!!﹄
390
第十一話 最強の陰陽師、襲われる
その日の夜。逗留中の宿にて。
ぼくは吊していた灯りを消して、ベッドに潜り込んだ。
帝都中で式神に行わせていた盗み見、盗み聞きはもうやめていた。
だから、心置きなく眠ることができる。
めちゃくちゃ大変だった割りに、あまり効率はよくなかったな⋮
⋮。
明日予定通り負ければぼくの大会も終わり。
あとは学園へ帰るだけだ。
でもその前に、一日くらい観光にあててもいいかな。あの二人と

391
違ってぼくはあんまり帝都を回れてないし⋮⋮。
﹁⋮⋮セイカさま﹂
ユキの、何やら疑わしげな声。
﹁ん?﹂
﹁本当に、明日は負けるのでございますよね? まさか優勝しよう
などと考えては⋮⋮﹂
﹁ないない。そんなことしてなんの意味があるんだよ﹂
﹁おっしゃるとおりでございますが⋮⋮なんとなく、ユキはそんな
予感がしたものですから﹂
くだぎつね
﹁確かに管狐は予知もできたはずだけど、お前が成功したことなん
てあったか?﹂
﹁ユキだって次の日の天気くらいは言い当てたことがありますよ!﹂
﹁あめはれくもりの三択じゃないか⋮⋮しかもけっこう外してたし﹂
ぼくはあくびをし、目を閉じる。
﹁寝るのですか?﹂
﹁うん﹂
﹁では⋮⋮ユキも寝ます。おやすみなさい﹂
声が聞こえたかと思うと。
何やらもぞもぞと、左腕に柔らかいものが触れた。
目を開けると、白い少女がぼくの左腕に抱きついている。
﹁⋮⋮おい﹂
﹁はい?﹂

392
不思議そうな返事と共に、少女の姿のユキがぼくを見る。
暗くてよくわからないが、どうも笑いをこらえているような。
﹁いや⋮⋮なんだよ、急に﹂
﹁久しぶりに一緒に寝ましょう! セイカさま!﹂
﹁寝てるだろ、ぼくの頭で﹂
﹁そうではなく、こうやって横でということです。だいたい、もう
ずっとユキは人の姿をとっていなかった気がします!﹂
﹁まあそうだけど﹂
﹁いいではないですか、たまには! この宿の寝台は広いようです
し!﹂
﹁⋮⋮仕方ないなぁ﹂
﹁えっへへ!﹂
ユキが抱きついてくる。
そういえば人の姿を与えたばかりの頃は、はしゃいでいつまでも
あやかし
妖の姿には戻ろうとせずに、夜もこうして布団に潜り込んできたっ
け。
管狐として見るならもうけっこうな年月を生きているはずなんだ
つが
けど、いつまで経っても子供みたいだ。番いにしてやらないとこん
なものなのかな。
と、ユキがおもむろにぼくの頬へ手を伸ばすと、ベタベタ触って
きた。
こちらに顔を寄せるユキは、どうやらにやけている様子。
﹁うふふふ、セイカさまのお顔はかわいいですねぇ⋮⋮! ちっち
ゃなハルヨシさまみたいで﹂
﹁やめんか⋮⋮﹂

393
と、そのとき。
感じた気配に、ぼくは屋根にとまらせていたフクロウの視界に注
意を向けた。
これは⋮⋮。
わらわ
﹁ハルヨシさまが童の頃もこんな感じだったのでしょうか⋮⋮って、
ええっ、セ、セイカさま!?﹂
ぼくが身体の向きを変え、右手でユキの肩を掴むと、白い少女は
動揺の声を上げた。
﹁い、いけませんセイカさまっ! こ、こここれでもユキは管です
つが
ので人と番うのはそのっ!﹂
﹁ちょっと静かにしてくれるか﹂
ユキの細い身体を抱くようにして、その上に覆い被さる。
そして︱︱︱︱そのまま反対側に寝返りを打ち、ぼくはベッドか
ら転がり落ちた。
どすん、という音が響く。
﹁ぐえっ﹂
ぼくと一緒に落ちたユキが、呻き声を上げる。
次の瞬間。
天井をぶち破って落下してきた人影が、ベッドへ短剣を突き立て
ていた。
轟音が宿に響き渡る。

394
ベッドはすさまじい衝撃に耐えかね、銛で突かれた鯉のようにへ
し折れていた。
びっくりしたユキが狐姿に戻り、ぼくの髪に潜り込む。
ぼくはさらに転がって、ヒトガタを掴みつつ体を起こした。
そして、破壊されたベッドの中心に佇む人物へ目を向ける。
﹁はは、夜這いにしては過激じゃないか。メイベル﹂
メイベルの返答は、閃く投剣だった。
身を伏せるようにして銀の刃を躱す。
狙いが外れた投剣は、そのまま背後の壁の木材をぶち破り、大穴
をいくつも開けた。やはり尋常じゃない威力だ。外から夜風が入り
込んで、ひんやりした空気が肌に触れる。
投剣を投げ終えたメイベルは、すぐさま短剣を抱えて突進してき
た。
突き出された刃を、腕を掴み逸らして止める。だが突進の勢いま
では殺しきれなかった。体ごとぶつかってきた少女を受け止めきれ
ず、背中で穴の開いていた壁を突き破る。そして、ぼくはメイベル
と共に空中へ放り出された。
夜の街並みが眼下に広がる。
三階の高さだ。大したことはない。
落ちながらメイベルを蹴って距離を空け、気の流れを意識し、空
中で体勢を整えて着地する。
前方では、刺客の少女が羽のような軽やかさで路上に降り立って

395
いた。
夜の帝都。
人気のない路地で、ぼくらは静かに対峙する。
月明かりに照らされた重力使いの少女の顔に、表情はない。その
内心も読みとれない。
再び、メイベルが投剣を放った。
唸りを上げる刃を転がるようにして躱し、ぼくは片手で印を組む。
つるしば
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
メイベルの足下から蔓が噴出する。
彼女は一瞬目を見開いたものの、対処は早かった。目の前の蔓を
根元から断ち切り、前に大きく踏み込んで周りの蔓からも逃れる。
そして、その勢いのままぼくとの間合いを詰めてくる。
ぼくの肩口へ短剣が突き出される。
だがその刃先が貫いたのは、一枚のヒトガタ。
メイベルの背後に転移したぼくは、その背にヒトガタを貼り付け
た。
﹁悪いがお帰りいただこう﹂
︽陽の相︱︱︱︱発勁の術︾
符より運動エネルギーが付加され、メイベルを路地の向こうまで
吹っ飛ばす︱︱︱︱はずだった。
だが。
彼女は、瞬間的に体を屈ませたかと思えば。

396
吹き飛び始めると同時に、短剣を石畳へと突き立てた。
ガガガガガッ、というすさまじい音と共に石畳が削れていく。
しかし同時に勢いも急激に失われていき⋮⋮やがて、彼女の体は
止まった。
焦げ臭い臭気が辺りに漂う。
んー⋮⋮。
けっこう勢いを乗せたが、まだ足りなかったみたいだな。体重を
かなり増加させていたのか、初速からだいぶ遅かった。
メイベルがゆっくりと立ち上がる。
さすがにギリギリの攻防だったのか、やや息が乱れているようだ
った。
ぼくは溜息をつく。
強いな。
命を狙われて捨て置くには、少々危ない。
気は進まないが、消しておくか︱︱︱︱、
﹁なんだよ、うるっせぇなぁ⋮⋮うおっ!?﹂
声に振り返る。
見ると、路地の角から酒場帰りらしき中年の男がこちらを覗き込
んでいた。割れた石畳や穴の開いた宿の外壁を見て目を丸くしてい
る。
ちんにゅうしゃ
﹁闖入者とは無粋だな﹂

397
ぼくが術を放つ⋮⋮その前に。
メイベルの投剣が、ぼくの背後から飛んでいた。
細い投剣は、男のいる角の街壁に命中し、派手に破壊。破片と粉
塵を闖入者へと降らす。
﹁ひっ!﹂
短い悲鳴を上げ、中年の男が逃げていく。
振り返ると、すでにメイベルの姿は消えていた。
静けさの戻った、夜の路地。
冷静になったぼくは一つ息を吐く。
﹁うーん⋮⋮﹂
頭が冷えると同時に、思考が戻ってくるのを感じる。
落ち着いて戦いを思い返してみると、いくつか気づくことがあっ
た。
ユキがおそるおそる、髪の中から顔を出す。
﹁セイカさま⋮⋮あの、今のは?﹂
﹁⋮⋮明日の前哨戦、と言ったところかな。よし、決めたぞユキ﹂
ぼくは笑みを浮かべ、ユキに告げた。
﹁せっかく会いに来てくれたんだ。今宵はあの娘と過ごそうか﹂

398
第十二話 最強の陰陽師、話を聞く
帝都の端にある、小さな広場。
昼でもあまり賑わいのないこの場所で、メイベルは足を止めた。
こぢんまりとした噴水の縁に腰掛けると、溜息と共に星空を見上
げる。
その少し寂しそうな姿に、ぼくは声をかけた。
﹁やあ﹂
メイベルは弾かれたように立ち上がると、こちらを見据えて投剣
ホルダー
の収納具に手を伸ばす。

399
それに、ぼくは両手を振って見せた。
﹁待て待て。戦いに来たんじゃないよ。決着は明日つけよう。それ
でいいだろ﹂
メイベルはぼくを睨んで言う。
﹁私には、明日も今も関係ない﹂
﹁でも君、短剣はあまり得意じゃないだろ﹂
メイベルが目を見開く。
﹁なんで﹂
﹁なんだか戦ってて物足りなさそうだったから。本当はあの両手剣
よりも重たい武器が君の得物なんじゃないか?﹂
言いながら、ぼくは噴水の縁に腰を下ろした。
そして空を見上げる。
﹁ここは静かでいいな。ただ快晴なのが残念だ﹂
﹁⋮⋮晴れの、なにが悪いの﹂
﹁月に雲の一つでもかかっていた方がぼくは好きだな。明るすぎる
月は風情がない。二つもあると尚更ね﹂
﹁風情⋮⋮? 月が二つあるのは、あたり前。へんなの﹂
そう言って、メイベルがぼくから離れて腰を下ろした。
涼やかな夜風が、小さな広場を流れていく。
﹁戦わないんなら⋮⋮なんで、追いかけてきたの﹂

400
﹁話をしに来たんだよ﹂
﹁話⋮⋮?﹂
﹁君は、どうしても勝ち残りたいんだろう? ぼくはただ頼まれて
も譲る気はないし、力で迫られても同じだ。だけど⋮⋮君の抱える
事情を話してくれたら、もしかしたら気が変わるかもしれない﹂
﹁⋮⋮あんなことがあった後に話合いだなんて、どうかしてる﹂
﹁でも君は、ぼくを殺そうとまではしていなかっただろ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの闖入者の男に対してもそう⋮⋮ぼくが何かする前に、逃がそ
うとしたんじゃないか?﹂
メイベルはしばらく押し黙った後、小さく溜息をついて言う。
﹁あのときは、あなたが⋮⋮あの目撃者を消そうとしているように
見えた﹂
﹁別にそんなつもりはなかったけどね﹂
危ないから追い払おうとしただけだ。ちょっと殺気は出てたかも
しれないけど。
メイベルは続ける。
﹁私は、あなたが怪我をして、明日試合を棄権してくれればそれで
よかった﹂
﹁それにしてはずいぶん過激だったけど﹂
﹁腕か足の二、三本もらうつもりだった。それくらいで行かないと、
怪我も負わせられないと思ったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁実際には、それも無理だったけど⋮⋮。ひょっとして、もし怪我
しても、あなたなら自分で治せた?﹂

401
﹁⋮⋮さてね﹂
死んでも復活できたとは言いにくいな。
メイベルは、ぼくを見て言う。
﹁ただ、それでも⋮⋮本気で戦ったら、私は負けない。私には、負
けられない理由があるの。お願い、棄権して。あなた相手では、手
加減できない。これ以上、誰かに死んでほしくないから⋮⋮﹂
﹁言ったはずだよ。ぼくはただ頼まれても、勝ちを譲る気はないと﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙が夜の広場に降り積もる。
メイベルは、やはり自分から話す気はないようだった。
仕方ないな。
﹁じゃあ、ぼくが勝手に予想を喋ろう﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁君はアミュの身代わりだ﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁この大会で優勝して勇者になりすまし、魔族側の注意を引くこと
が君の使命。クレイン男爵家の養子になって学園に来たのもそのた
め﹂
﹁し、知ってたの?﹂
﹁いや、ただの予想だよ。違った?﹂
﹁違わない、けど⋮⋮どうして、あいつが勇者ってことまで﹂
﹁その辺はいろいろね﹂
ぼくは苦笑する。

402
﹁でも、それだけじゃなさそうだね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁君がそこまで必死になるのは、何か別の理由がありそうだ。それ
次第では棄権を考えてあげてもいいよ﹂
﹁⋮⋮﹂
長い長い沈黙の後。
メイベルは、重々しく口を開いた。
﹁あなたの予想には、一カ所だけ、違うところがある﹂
﹁違うところ?﹂
﹁私に求められているのは⋮⋮決勝で負けること﹂
﹁は⋮⋮?﹂
﹁決勝で、あの邪眼の剣士に殺されること。それが、私の役割。魔
族側に、勇者は死んだと思わせるために﹂
ぼくは、一呼吸置いて口を開く。
﹁やっぱりカイルも、送り込まれた人間だったってことか⋮⋮。理
解できないな。そんなずさんな計画を立てた奴の頭も、君のことも。
まず魔族側は、おそらく君のことを勇者だなんてそれほど考えてい
ないぞ。普通に考えて、どこかの村で自覚もなしに暮らしているか、
帝国が秘匿している可能性の方がずっと高いんだ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁こんな大会に出てくる状況自体都合が良すぎる。それなのに⋮⋮
優勝するならまだしも、決勝で負ける? それで勇者が死んだと偽
れるなんて思っているなら、宮廷の連中は相当頭がおめでたいみた
いだな﹂
﹁⋮⋮仕方なかったの﹂
﹁仕方ない? 何が﹂

403
﹁私を貸し出す条件がそもそも、決勝戦で、カイルに殺させること
だったから﹂
﹁はあ⋮⋮?﹂
﹁学園とその上は、飲むしかなかった。勇者と年が同じで、女で、
確実に大会を勝ち進めるような人材なんて、たぶん、私しかいなか
ったから。優勝させて影武者にすることは諦めて、死んだと見せか
けることにした。多少、その意味が薄れるとしても﹂
﹁⋮⋮悪いが、何が何だかわからない。貸し出す条件⋮⋮? 君は
いったい、どこから遣わされた人間なんだ?﹂
﹁︱︱︱︱ルグローク商会﹂
メイベルは、ぼくに向き直って問う。
﹁聞いたことある?﹂
﹁ああ⋮⋮カイルがそこの護衛部隊出身だと、司会が喋ってたな。
表向きの身分だと思ってたけど﹂
﹁表向きじゃない。事実。護衛部隊は、まだ﹃商品﹄じゃない予備
人員を置いておく組織の名前﹂
﹁商品?﹂
メイベルは一拍置いて言う。
﹁ルグローク商会は、人を商品にしてるの。奴隷の売買と、傭兵の
派遣。それが、ルグロークの商い﹂
メイベルが続ける。
﹁あの商会が他の奴隷商と違うのは⋮⋮才能のある奴隷を見つけ出
して、自分たちで傭兵に育て上げるところ。特に、魔法の資質があ
る子供を。カイルも、そして私も、その一人だった﹂

404
﹁⋮⋮﹂
﹁帝国も、もちろんそれを知ってる。だから今回の計画が立てられ
た時、真っ先にルグロークへ話を持って行った。勇者に仕立て上げ
られそうな、強い子供はいないかって。それで、私が選ばれたの。
私は髪の色こそ違うものの、年齢と性別が合ってたから。でも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮でも?﹂
﹁⋮⋮私は、本来別の用途に使われるはずだったの。カイルの、最
後の試験の相手、っていう用途に。だから、商会は私を貸し出す代
わりに、条件を付けた。それが、大会にカイルを出場させ、決勝で
・・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・
私と当たらせること。そして、私の試合結果に、一切の責任を負わ
・・
ないこと⋮⋮。私が決勝でカイルに負けてしまっても、それは商会
の知るところではないというわけ。帝国側もその意味がわかってた
のか、私を優勝させることは初めから諦めてた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でもきっと、ルグロークにとっては、今回の件はいいことずくめ
だったと思う。使い捨てるはずだった私で利益を得られて、大会で
は試験を済ませられるうえに、カイルという自信作の宣伝まででき
るから﹂
ぼくは、少し考えてから口を開く。
﹁その、試験というのはいったいなんなんだ? 君だって商品であ
る傭兵の一人なんだろ? どうしてそれを使い潰すような真似なん
か﹂
メイベルが首を横に振る。
﹁私は、正式な﹃商品﹄じゃない。ルグロークの、正式な傭兵にな
るためには⋮⋮手術が、必要だから﹂
﹁手術だって?﹂

405
ぼくは問い返す。
﹁なぜわざわざそんなことを。身体に何か埋め込むのか?﹂
﹁ううん、違う⋮⋮頭を、開くの﹂
﹁⋮⋮頭?﹂
﹁そう﹂
メイベルは、自分の額のさらに上辺りを、指でなぞる。
﹁皮を切って、頭蓋骨に穴を開けて⋮⋮脳に、刃を入れる﹂
﹁それは⋮⋮なんのために﹂
﹁そうすると、完璧な兵士になれる。恐れや、怒りや、ためらいを
一切覚えず、あらゆる命令に従う完璧な兵士に。代わりに、喜びや
悲しみのような感情も失われて、別人になってしまうけど﹂
﹁⋮⋮﹂
そこで、メイベルはこちらを見た。
﹁信じられない?﹂
﹁いや⋮⋮信じるよ﹂
似た事例を知らないわけじゃなかった。
ぼくは続けて問いかける。
﹁君はそれを受けていないが、カイルは受けたということだな。ど
うりで人間離れしてると思ったよ⋮⋮。それで、試験というのは?﹂
﹁手術が成功したかどうかを確かめるの。仲間を⋮⋮殺させること
で﹂

406
メイベルは続ける。
﹁奴隷の中で魔法や剣の才能を見込まれた子供は、育成所に送られ
る。そこで、四人一組で育てられるの。四人は、いつも一緒。寝る
時も、ご飯を食べる時も、厳しい訓練の時も。喧嘩することもあっ
たけど、身寄りのない奴隷の子たちにとっては、家族みたいなもの
だった。一緒にがんばろうって、いつかきっと自由になれるからっ
て励まし合って、育成所の大人たちからも、仲間同士助け合いなさ
いって言い聞かされて⋮⋮⋮⋮でもね、﹂
メイベルは言う。
﹁手術を受けられるのは、四人のうちの一人だけ。一番強い一人﹂
﹁まさか⋮⋮﹂
﹁試験の内容は、他の三人を殺すこと﹂
言葉を失うぼくへ、メイベルは続ける。
﹁ためらいなく殺せて、初めてルグロークの傭兵になれる﹂
﹁それじゃあ、君は⋮⋮﹂
﹁私はカイルの、三人の仲間のうちの一人。他の二人はもう殺され
た。あとは、勇者の身代わり候補になって、試験が延期された私だ
け。私を殺すことが、カイルにとっての最後の試験なの﹂
ぼくは、長い沈黙の後に口を開く。
﹁君は⋮⋮そんなことのために勝ち残ろうとしていたのか。決勝に
進んで、あいつに殺されるために⋮⋮﹂
﹁違う﹂

407
メイベルが即座に否定する。
その声の奥には、初めて感情らしきものが見えた。
﹁勇者も、試験も、知らない。私が負けられない理由は⋮⋮決勝戦
で、カイルを殺さなきゃならないから。帝国や、商会の意図とは関
係なく﹂
﹁それは、なぜ⋮⋮﹂
﹁私には、兄がいたの。実の兄が﹂
メイベルが言う。
﹁一緒に奴隷に売られた、たった一人の家族。たまたま私も兄も、
魔法の才能があって、一緒に商会に拾われた。育成所でも一緒だっ
た。いつもやさしくて、みんなを気遣って、辛い時もなぐさめてく
れて⋮⋮⋮⋮そして一番最初に、あの人に殺された﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁仇を、討つの。それが私の理由﹂
メイベルの言葉を聞いて。
積み重なっていた違和感が、ようやく形になる。
﹁カイルが兄の仇というのは、嘘だろう﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁カイルこそが⋮⋮君の兄なんじゃないか?﹂
﹁なっ⋮⋮なんで⋮⋮﹂
メイベルが愕然と呟く。
ぼくは溜息をついて言う。
﹁なんでと言われると答えにくいな。ほとんど勘だよ。仇に対して

408
語っているには違和感があったし、闘技場でカイルを見ていた君の
視線もそう。それに、君の瞳の色と、カイルの邪眼じゃない方の瞳
の色が同じなのも気になってた。顔立ちも少し似ているしね﹂
﹁⋮⋮そう﹂
﹁ひょっとしてその髪も、染める前はあいつと同じ灰色だったんじ
ゃないか?﹂
メイベルがこくりとうなずいた。
そのまま押し黙る少女を見て⋮⋮ぼくは、さらに思い至ることが
あった。
思わず目を眇めながら訊ねる。
﹁まさか⋮⋮カイル自身が望んだのか⋮⋮? 君の手にかかって死
ぬことを﹂
メイベルが目を丸くした。
それから顔をうつむかせ、ぽつりと呟く。
﹁なんでもわかるのね⋮⋮。あなたも、ひどい世界を生きてきたの
?﹂
﹁いや⋮⋮君ほどじゃないよ﹂
少なくとも今生ではそうだ。
メイベルがぽつりぽつりと話し始める。
﹁手術を受けることになる少し前⋮⋮兄さんが、私に言ったの。﹃
もし僕が僕じゃなくなったら、そのときはメイベルが、僕を楽にし
てほしい﹄って。言われたときは、なんのことかわからなかったけ
ど⋮⋮たぶん兄さんは、自分がああなることがわかってたんだと思

409
う。﹃商品﹄の人たちは、みんなどこかおかしかったから。そして、
その﹃商品﹄になる可能性が一番高かったのが兄さんだった。生ま
れつき邪眼を持っていた兄さんは、育成所の誰よりも強かったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今のあの人は⋮⋮もう、兄さんじゃない。兄さんならぜったいに、
試合の相手を無闇に殺すことなんてしなかった。ましてや、仲間だ
った二人を手にかけるなんて⋮⋮。今のあの人が、なにを考えてい
るかはわからない。でも、もしあの人の中に、まだ兄さんが残って
いるのなら⋮⋮きっと、苦しんでる。私は、それを楽にしてあげた
い﹂
ぼくは、沈黙の後に問いかける。
﹁君は、カイルに勝てるのか?﹂
﹁わからない⋮⋮ううん。たぶん、無理﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、やるしかないの。これはもう、私にしかできないこと。そ
れに、﹂
そこでメイベルは困ったように、小さく笑った。
﹁私は、もうどうなっても死ぬだけだから。決勝で負けても、勝っ
ても、逃げ出しても。あの人に殺されなくても、商会に処分される
だけ。だったら⋮⋮最後に、兄さんの頼みを、聞いてあげたい﹂
ぼくは、メイベルの笑った顔を初めて見たことに気づいた。
少女は言う。
﹁お願い。決勝で、兄さんと戦わせて。あなたに負ける気はない。
でも、ただで勝てるとも思ってない。できれば万全の状態で、兄さ

410
んに向かい合いたいの。私の望みはもう、それだけだから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮気が変わったよ﹂
ぼくは目を伏せる。
﹁実は、準決勝はわざと負けるつもりだったんだ。優勝に興味はな
かったし、この大会の意味も予想がついていたから。でも、やめた﹂
ぼくは、静かに告げる。
﹁準決勝は君に勝つよ。そして決勝で、ぼくがカイルを倒そう﹂
﹁なっ⋮⋮﹂
一瞬後、メイベルが怒りの表情を作る。
﹁なんで! なんでそんな!﹂
﹁君は兄に殺される必要も、殺す必要もない。もうこんな大会から
降りろ。たった一人の家族を手にかけるなんて間違ってる﹂
﹁あなたになにがわかるのっ!﹂
メイベルが叫ぶ。
﹁私がどんな気持ちで戦ってきたと思ってるのっ! 学園なんかに
入れられてっ、恵まれた人たちを見せつけられてっ、こんな大会で
兄さんと再会させられてっ! 今さらそんなきれい事言わないで!
私は違うの! 能天気な貴族の子供とも、大事に守られる勇者と
も、あなたともっ! 私の最後の役目まで奪わないでよ! あなた
に負けて、なにもできないまま消える私はどうすればいいのっ!﹂
﹁どうすればいいかなんて決まってる。学園に帰るんだ。今の君は、
男爵令嬢で学園の生徒なんだから﹂

411
ぼくは言う。
﹁学園に帰って、準決勝まで進んだことを祝福される。それから、
学園生活に戻る。能天気な生徒と一緒に勉強して、普通の試験を受
けて、進級して、いずれは卒業する⋮⋮そこから先は君次第かな﹂
メイベルは目を見開き、唇を震わせる。
﹁やめて⋮⋮そんなこと、あるわけない。失敗して用済みになった
私を、学園が囲っておく理由がない﹂
﹁うーんぼくの予想だと、そこは心配ないんだけどな﹂
﹁百歩譲ってそんなことがあるとしても⋮⋮商会が黙ってない。内
情を知る私を、放っておくわけがない。絶対に刺客を送ってくる。
兄さんより強い﹃商品﹄だって、ルグロークはたくさん抱えてる。
無事に過ごせるわけ⋮⋮﹂
﹁さすがにそのくらいの手は打ってると思うけどなぁ。まあでも、
刺客程度ならなんの問題もないよ﹂
ぼくは笑って言う。
﹁ぼくが学園にいる限り、誰も君に手出しなんてさせないから﹂
﹁そ⋮⋮そんなこと、できるわけない﹂
﹁できるよ︱︱︱︱だってぼく、最強だからね﹂
﹁は、はぁ⋮⋮!?﹂
メイベルは呆気にとられたような顔をして言った。
それから、なぜかこちらをうさんくさそうに睨んでくる。
﹁もしかして、口説いてる?﹂

412
﹁へっ!?﹂
﹁兄さんが言ってた。自分を大きく見せて気を引いてくる男には、
注意しろって﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
ぼくはさすがに気まずくなる。
変なこと言わなきゃよかったよ⋮⋮。
﹁さ、さすがに最強は冗談だけど⋮⋮腕には覚えがあるって言いた
かっただけだよ。少なくともカイルやその上の﹃商品﹄とやらには
負けない。だから、安心していい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに⋮⋮君の兄さんに願いがあるとしたら、それは自分を殺さ
せることじゃない。たった一人の妹が自由になることだと、ぼくは
思うな﹂
夜風と共に、沈黙が舞い降りた。
やがて︱︱︱︱、
﹁ありがと。でも⋮⋮﹂
メイベルは、静かに口を開く。
﹁⋮⋮やっぱり、信じられない﹂
メイベルがすっくと立ち上がった。
そして、その空色の瞳でぼくを見据える。
﹁明日は、全力で行く。そして、あなたに勝つ﹂

413
メイベルへ、ぼくは笑い返す。
﹁いいよ。それなら、ぼくはぼくで証明して見せよう。全力の君に
余裕で勝ち、造作もなくカイルへ引導を渡してやるとしよう。まず
はそこからだな﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
うなずいて、メイベルは踵を返す。
その姿を見つつ、ぼくはようやく気を抜いた。
追いかけてきてよかったな。そうだ、優勝となれば賞金がもらえ
るんだっけ。どのくらいだろう︱︱︱︱。
などと考えていると、メイベルがふと思い出したように、体半分
だけ振り返る。
﹁その、宿のことはごめんなさい。あの女の人にも、怪我がなかっ
たらよかったんだけど﹂
﹁いいよ⋮⋮え、女の人?﹂
﹁うん。あの、白い髪の﹂
﹁っ!?﹂
げっ⋮⋮ユキを見られてた?
ぼくはしらばっくれる。
﹁な⋮⋮なんのこと?﹂
﹁⋮⋮? あなたが連れ込んだ、その⋮⋮じゃなくて? だってベ
ッドで﹂
﹁はあ!? 違っ⋮⋮い、いや、知らないな。何言ってるんだ?﹂
﹁⋮⋮あなたの従者とあの勇者に黙っててほしいんなら、別に構わ

414
ないけど﹂
﹁いやいやいやいや!﹂
そういう気遣いはありがたいんだけど!
﹁待て、本当に知らないんだ。思い出してみてくれ。君とあの部屋
でやり合ってた時、他に人がいたか?﹂
﹁⋮⋮そういえば、いつの間にかいなくなってた、かも﹂
﹁ドアも閉まってたし、いなくなるとかあり得ないんだよ! そも
そもぼくはずっと一人だったんだ。いったい君には何が見えてたん
だ? やめてくれよ怖いなー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? アストラル系のモンスターだったってこと?﹂
﹁うー⋮⋮ん﹂
微妙に通じてない。
この国って怪談の文化とかないのか⋮⋮?
ぼくが首をひねっているのを見て。
メイベルは、少しだけおかしそうに口元を緩めた。
﹁⋮⋮へんなの﹂
****
メイベルと別れ、深夜の街を行く最中。
﹁ユキの予感は当たりそうですね。セイカさま﹂

415
ユキが唐突に言い放った言葉に、ぼくは口ごもった。
﹁う⋮⋮ああ、ユキはすごいな。成長したよ﹂
﹁そういうことではございませんっ! もう、なにを考えておられ
るのですか! 今生では力を誇示しないように生きると決めたので
はっ?﹂
﹁⋮⋮だって﹂
ぼくは思わずすねたような口調になる。
﹁かわいそうだったし﹂
﹁⋮⋮はぁ∼∼∼﹂
ユキが盛大に溜息をついた。
﹁セイカさまはいつもそうでした。犬か猫でも拾うように、不憫な
子供を拾ってきては弟子に迎えて﹂
﹁いいだろ。皆ちゃんと立派になったんだから﹂
﹁⋮⋮たしかに、どういうわけかセイカさまの拾ってくる童は、皆
まじな
優秀だったんですよねぇ。呪いの才がなかった子でも、後に官僚や
武者や商人として頭角を現していましたし﹂
﹁皆がそれぞれ頑張った結果だよ﹂
それから、補足するように言う。
﹁一応真面目に答えると、こんな大会で優勝するくらいどうってこ
とないよ。本当の強者はこんな場に出てこないし、それくらい誰で
も見当がついている。メイベルだって言ってただろ? カイルより
強い兵を、ルグロークは何人も抱えてるって﹂
﹁むむ⋮⋮では、どのくらいから危ないので?﹂

416
﹁布陣してる軍を一人で壊滅させたり、災害を治めたり、死人を生
き返らせたりするとやばいかな﹂
﹁それはそうでしょうねぇ﹂
それからユキは、しばらく黙った後に言う。
﹁でも⋮⋮あの娘の話は本当なのでしょうか。ユキは信じられませ
ん﹂
﹁どこか引っかかるところでもあったか?﹂
﹁⋮⋮頭を開いて、人格を変えてしまうという手術のことです。そ
んなことが果たして可能なのでしょうか﹂
﹁ありえなくはないな﹂
ぼくは説明する。
てんきょういん
﹁西洋にあった癲狂院⋮⋮気の触れた人間を入れておく施設だが、
そこで過去に同じようなことが行われていたと聞いた。脳に刃を入
れる手術をね。驚いたことに、ひどい発作や暴力衝動が収まり、日
常生活を送れるようになった者もいたそうだ。ただ⋮⋮大半は廃人
のようになったり、手術の傷が元で死んだり、成功したように見え
ても、後に自ら命を絶ったりしていたようだけど﹂
﹁ならば、やはり手術で冷酷な兵を作るというのは⋮⋮﹂
﹁いや、それでも不可能とは言い切れない﹂
ぼくは言う。
﹁西洋の癲狂院で行われていた手術は、記録を見る限り明確な方法
論などはなかった。刃の入れ方も医者によって違ったから、結果に
ばらつきがあったのも当然だ。だから、逆に⋮⋮実験によって成功
率の高い方法を確立できているならば、話は変わる﹂

417
﹁実験、でございますか﹂
﹁ああ﹂
ぼくは続ける。
﹁ルグローク商会は奴隷を扱っている。実験材料なんて、自分たち
でいくらでも調達できるんだよ。気が触れたり病を患ったりして、
売り物にならなくなる商品はそれなりに出てくるはずだからね。そ
れにこちらの世界には治癒の魔法があるから、手術の傷が元で死ぬ
なんてことも防げる﹂
﹁な、なるほど⋮⋮﹂
次いで、ユキがおそるおそる訊ねてくる。
﹁その⋮⋮手術によって起こった変化を、セイカさまが元に戻して
やることは、できないのですか?﹂
﹁無理だな﹂
ぼくは即答する。
﹁魂の変質を戻すには、それこそ死人を蘇らせるような方法が必要
になる。一日程度ならまだしも、何日も経ってしまっているとね﹂
﹁そうでございましたか⋮⋮﹂
﹁それでも、カイルを殺すつもりはないけどね﹂
﹁えっ﹂
ユキが驚いたような声を上げた。
メイベルにはあえて言わなかったが、ぼくは最初からそのつもり
だった。

418
﹁たとえ人格が変わってしまっても、また新たな関係を結び直すこ
とはできるよ。今のカイルをメイベルが受け入れられるかはわから
ないけど、それはぼくが決めることじゃない。それに、﹂
ぼくは付け加える。
﹁あいつも、人形のまま死ぬのではかわいそうだ﹂
﹁⋮⋮はぁ∼∼∼﹂
ユキがまた盛大に溜息をつく。
﹁セイカさまは甘いですねぇ﹂
﹁そうかな﹂
﹁そうでございますよ。甘々です。その子供に甘いところは、前世
からまったく変わられていないようで﹂
﹁そりゃあ百何十年と生きているわけだからな。転生したくらいで
今さら変わらない﹂
﹁しかしながら﹂
とが
そこで、ユキの口調にわずかに咎めるような響きが混じる。
﹁セイカさまは今生では、狡猾に生きると自ら決められたはず。初
志を軽んじられるような真似は、いかがなものかとユキは思います﹂
﹁ん⋮⋮﹂
ぼくは、わずかに口ごもった後に言う。
てつ
﹁⋮⋮それは、あくまで前世と同じ轍を踏まないためだ。その目的
に支障のない範囲で、少し他人の世話を焼くくらいはいいじゃない
か﹂

419
﹁む⋮⋮﹂
押し黙るユキに、ぼくは少し笑って付け加える。
あざむ
﹁それに⋮⋮いつもいつも周りを欺くことばかり考えていたのでは、
疲れてしまうからな﹂
そして、ぼくは頭の上の妖をなだめるように小さく言った。
﹁なに、心配するな。せいぜいうまくやってやるさ﹂
第十三話 最強の陰陽師、準決勝に臨む
そして、準決勝の時がやってきた。
大勢の観客の中、司会が高らかに謳う。
﹃さて、そのセイカ選手に対する相手は︱︱︱︱同じく魔法学園か
らの推薦枠、メイベル・クレイン選手!!﹄
ステージに上ってくるメイベルを見て、ぼくは軽く微笑む。
﹁それが君の本来の得物か、メイベル﹂
﹃おっとメイベル選手、武器を変えております! これはなんと⋮

420
バトルアクス
⋮巨大な戦斧だぁーッ!﹄
柄を含めれば身長の倍近くもある両刃の戦斧を携えたメイベルが、
ぼくと相対する。
﹁勇者のふりは、終わり﹂
戦斧を構え、メイベルがそう告げる。
あれはどれほどの重量があるだろう。
少なくとも、魔法なしでは持ち上げることもできなさそうだ。
ぼくは、メイベルを見据えて言う。
﹁準決勝を棄権するつもりがなかったのは、実は君の戦い方をもう
少し見てみたかったからなんだ。まだ何かあると思ってたけど⋮⋮
やっぱり、昨日話をしてよかったよ﹂
メイベルが眉をひそめる。
﹁見くびってる? 言っておくけど、私は今も、あなたに勝つつも
り﹂
﹁見くびってないよ﹂
ぼくは笑って言う。
﹁実力を正しく評価しただけだ﹂
﹁⋮⋮あなたが強いなんて、やっぱり信じられない。安穏と生きて
きた、貴族の子供なんかが︱︱︱︱私に、勝てるわけない﹂

421
﹃共に学園生徒ではありますが、全く正反対の二人! 準決勝第二
試合、果たしてどちらが勝つのでしょうか! それでは︱︱︱︱試
合開始です!!﹄
笛が響き渡った。
﹁っ!﹂
同時に、メイベルが地を蹴った。
戦斧を振り上げ、一瞬のうちにぼくをその間合いに入れる。
振り下ろされる重厚な刃。
だが速さはなく、軌道も読みやすい。
余裕を持って避けるぼく。
その左横に、遅れて戦斧が叩きつけられる。
かすりすらしない一撃。
しかし次の瞬間︱︱︱︱足下の地面が跳ね上がった。
﹁なぁっ!?﹂
下を見ると、舞い上がった土と共に石材のようなものが露出して
いる。
どうやら今の一撃で、ステージの基礎として土の下に敷かれてい
た石材を叩き割ったらしい。
どんな威力だ。
体勢の崩れたところへ、横薙ぎの戦斧が襲いかかる。

422
仕方なく転移で躱す。が、入れ替わる先を読まれていた。再び強
襲する刃を、今度は屈んで避ける。
あれほどの戦斧なのに、切り返しが片手剣並みに速い。
たぶん、振り回す時は極端に軽くしているんだろうな。メイベル
自身がほとんど反動で動いていない。
おかげで狙いやすくていい。
ぼくは逃げ回りながら、先ほど地上に現れた石材へヒトガタを飛
ばす。
そして片手で印を組む。
︽陽の相︱︱︱︱発勁の術︾
石材に運動エネルギーが付加され、メイベルへ撃ち出された。
戦斧は切り返したばかり。防御に使うには間に合わない。
彼女の対処は、奇妙なものだった。
振られるはずだった戦斧の勢いが、突如弱まる。するとその反動
が今さら伝わったかのように、メイベルが大きく振り回された。狙
いを外した石材は空を切り、観客席を支える柱で砕け散る。
﹁⋮⋮おもしろいな﹂
思わず呟く。
メイベルは今、戦斧の重さを戻したのだ。
武器の重さが変われば、武器と使用者を一つの物体と見た時の重
心が変わる。重心が変われば回転運動の中心がずれる。振り回され
るのが、戦斧からメイベルの側となる。

423
ぼくに間合いを空けられる形となったメイベルが、低い軌道で投
剣を放った。
跳び退って躱すと、地面へ細い刃が次々と突き立っていく。相当
な重量が与えられていたのか、衝撃で地面には円錐状の穴が穿たれ、
土埃が派手に舞上がる。
悪くなった視界の中、ぼくは目を細めてメイベルを見据える。
追撃への牽制だったんだろうが、向こうは投剣を放ったために戦
斧から片手を離してしまった。
つるしば
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
メイベルの足下から蔓が伸び上がる。
今日は短剣は持っていない。今さら戦斧を振るうには遅すぎる。
果たしてこれを︱︱︱︱、
﹁こんなものっ!﹂
メイベルが手を横に振る。
それだけで金棒になぎ払われたかのように、数本の蔓がまとめて
引きちぎられた。
ぼくは、思わず笑いがこぼれる。
﹁⋮⋮うん﹂
いいね。
やっぱり彼女のこれまでの試合なんて、前座もいいところだった
みたいだ。

424
まあこれくらい見られれば満足かな。
当初の予定ではここで負けるはずだったが。
今は勝たなければならない。
しかも余裕で勝つと言ってしまったからな。さくっと終わらせな
いと。
再び距離を詰めてきたメイベルの、横薙ぎの戦斧が迫る。
ぼくは、その刃の腹へ密かに貼り付けていた不可視のヒトガタを
起点に、術を発動した。
︽陽の相︱︱︱︱落果の術︾
戦斧の重さが、一気に千倍にまで増加する。
﹁なっ!?﹂
強制的に重心をずらされ、メイベルが大きく振り回される。
体勢が崩れたところへ、ぼくはさらなる一手を放つ。
みずが
つねるしば
︽木金の相︱︱︱︱汞蔓縛りの術︾
地面から微かに黒みを帯びた蔓が噴出する。
﹁同じ手をっ!﹂
メイベルがまた腕を振るう。
だが蔓は、今度は引きちぎられなかった。
触れた腕に巻き付いて動きを封じ、さらには他の蔓が全身に巻き
付いて縛り上げていく。

425
メイベルが苦鳴を漏らす。
その手から、戦斧が落ちた。
﹁な⋮⋮んで⋮⋮﹂
たた
﹁これは水銀を湛えた蔓でね。普通のやつよりもずっと重いんだ﹂
それでも全力を出されれば引きちぎられていたかもしれないが、
メイベルにはすでに二度︽蔓縛り︾を見せていた。
半端に知っていたからこそ油断したんだろう。
﹁これくらい⋮⋮っ!﹂
メイベルが、唯一自由な左手で自分を締め付ける蔓を掴む。
すると、木質化した蔓全体が軋み始めた。
すさまじい重量を与えられているのか、ところどころで組織が壊
れ、水銀化合物の赤い樹液が漏れ始める。
これは長くは保たないな。
ぼくは、メイベルが取り落とした戦斧の柄を手に取る。
それを見た少女がぼくを睨む。
﹁あ⋮⋮あなたなんかに、持ち上がるわけない﹂
﹁持ち上がるさ﹂
︽陰の相︱︱︱︱浮葉の術︾
戦斧から重さが消える。
それを、片腕で派手に振るい︱︱︱︱、

426
囚われの少女の首元に、その刃をぴたりと突きつけた。
メイベルが表情を歪ませる。
﹁そんな軽い斧では、私に傷一つ付けられない﹂
﹁君を傷つけるつもりなんてないよ﹂
笑って告げる。
﹁ぼくは試合に勝てればいいだけだからね﹂
そのとき︱︱︱︱。
試合終了の笛が、鳴り響いた。
﹃ここで審判が決着の判定を下しましたーッ!! なんということ
でしょう! 序盤圧倒していたかのように見えたメイベル選手です
が、一気に覆されましたぁ! 否、最初から彼の掌の上だったのか
!? 神童セイカ・ランプローグ選手、決勝戦進出です!!﹄
ぼくは息を吐いて、戦斧を背後に放り投げる。
術の解かれた戦斧は空中でくるくると回った後、ずーんっ、とい
う音と共に地面へと突き刺さった。
昨日レイナスが最後にやろうとしたことを真似してみたが、うま
くいったようだな。
﹁カイルのことは任せてもらうよ﹂
朽ちた蔓の中心で、地面にへたり込んだメイベルへと、ぼくは告
げる。

427
﹁もう大丈夫だ。君は少し休むといい﹂
第十三話 最強の陰陽師、準決勝に臨む︵後書き︶
※汞蔓縛りの術
高濃度の水銀を含んだ重たい蔓で相手を拘束する術。ハイパーアキ
ュムレーターと呼ばれる植物群は、地中から取り込んだ重金属を積
極的に蓄積する性質を持つ。身近なものではイネやヤナギなどがあ
るが、ニューカレドニアに生息するピクナンドラ・アクミナータな
どは、実に25パーセントものニッケルを含む青緑色の樹液を流す
ことで知られる。仮に一般的な樹木の持つ水分量のうち、全体の四
分の一をより比重の大きい水銀に置き換えるとするならば、同じ体
積で三倍近い質量を持つ超重量級植物を作り出せる。
※浮葉の術
対象の重量を減少させる術。︽落果︾の逆。いわゆる﹃重さ﹄を決

428
定する要素である重力加速度と重力質量のうち、異世界魔法がいず
れかを選んで影響をおよぼすのに対して、︽落果︾︽浮葉︾は後者
のみを増減できる。重力質量は等価原理によって慣性質量と連動す
るため、武器に対して使用すると取り回しや威力が変化する。
幕間 メイベル・クレイン男爵令嬢、闘技場控え室にて
メイベルは闘技場控え室の椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。
会場では、土属性の魔法を使える作業員たちが大急ぎでステージ
の修繕を進めている。
自分たちが派手に壊したせいで、決勝は明日に持ち越しになるか
と思ったが⋮⋮この分だと午後には行われそうだった。
ただ、もう自分には関係ない。
負けてしまったのだ。
言いようのない心細さが湧き上がってくる。

429
これまでは、ただひたすらに自分が果たすべきことだけを考えて
いればよかった。たとえその先に死が待っていようとも、心を強く
持つことができた。
しかし終わってしまった今となっては、果たすべきことなどない。
自分がこの先どうなるのかもわからない。
わからないことが不安だった。
傍らの卓から、カチカチという音が響く。
見ると、なぜか外からついてきた一羽のカラスが、卓の上で歩き
回っていた。爪が硬い木の卓にあたり、カチカチという音を立てて
いる。
このカラスがそばにいると思うと、不思議と心が落ち着いた。
ふと、セイカからかけられた言葉が思い返される。
︱︱︱︱もう大丈夫。
あの言葉を聞いた時。
不思議と彼に兄の姿が重なって、安心する心地がした。
大丈夫だよ、メイベル。そう言って頭を撫でてくれた、かつての
兄の姿が。
セイカは強い。
自分と戦っていた時も、まだ余裕があるように見えた。
ただそれでも⋮⋮今のカイルに勝てるかどうかはわからない。
別人となってしまった兄でも、失ってしまうことはずっと怖かっ
た。

430
だけど今は、それと同じくらい。
兄に挑むセイカのことが心配だった。
第十四話 最強の陰陽師、決勝に臨む
﹃皆様、長らくお待たせいたしました! 記念すべき第一回帝都総
合武術大会、いよいよ、いよいよ決勝の時がやって参りましたァ!﹄
司会の声が響き渡る。
﹃栄えある決勝戦に臨む精強なる戦士、その一人目は︱︱︱︱ラン
プローグの家名は伊達じゃなかった! 未だ底を見せないこの少年
は、いったいどれだけの引き出しを持っているのか!? 帝立魔法
学園の俊英、セイカ・ランプローグ!!﹄
湧き上がる歓声の中、ぼくはステージに上る。

431
午前にあれだけ派手に壊したのに、ステージの上はきれいなもの
だった。
きっと興行的にこれ以上の遅延は許されなかったんだろう。基礎
が叩き割られた以上応急処置でしかないだろうが、少なくとも今は
支障なさそうだ。
﹃続いて二人目は︱︱︱︱異色、異質、異端にして最も異彩を放つ
この剣士! 彼はいったいなんなのか!? こんなのどこから連れ
てきたぁ! ルグローク商会の隠し球、邪眼の殺戮者カイル!!﹄
灰色の髪の少年が、階段を上ってステージに姿を現した。
右手にはだらりと提げた抜き身の剣。半開きにした左右異色の瞳。
幽鬼のような雰囲気は変わらない。
ぼくの姿を認めているかもよくわからなかった。
﹁やあ﹂
ぼくは笑みを浮かべながらカイルに話しかける。
﹁悪いね、君の妹じゃないんだ。メイベルは準決勝で、ぼくに負け
てしまったから﹂
﹁メイベル⋮⋮?﹂
存外に高い声で、少年が呟いた。
﹁メイベル、メイベル⋮⋮ああ、﹂
両の瞳をほんの少しだけ見開き⋮⋮そして言う。

432
﹁困ったな⋮⋮予定と違う。あの子は、生きているのかい?﹂
﹁ああ﹂
﹁そうか。よかった﹂
カイルは、夢うつつのような声で言う。
﹁それなら、ちゃんとあの子を殺すことができる﹂
ぼくは一つ息を吐いて言う。
﹁君の妹だぞ﹂
﹁ああ、最後に残った仲間で、大切な家族だ﹂
カイルは、なんの感情もこもらない声で告げる。
﹁大切な人を殺せと、僕は言われているんだよ﹂
﹁⋮⋮君の事情は知っているが、やはり理解できないな﹂
ぼくは問う。
﹁君はなんのために生きている? 幸せになるためじゃないのか?
大切な妹を殺すことが、その目的の達成に寄与するのか? 兵と
して使うために、手術で論理的思考まで奪っているとは思えないが﹂
﹁幸せのために生きるとは、どういうことだい?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁幸せとは、生きることだろう? 明日へ命を繋ぐこと。僕にとっ
て、いや育成所のみんなにとってはそうだった。強くなるのも、よ
り強い者に従うのも、すべてはそのため。僕は一番強かったおかげ
で手術を受けられた。でも商会は僕よりも強いから、今も彼らに従

433
っている。生きるために。何かおかしいかな?﹂
﹁⋮⋮生きるために、大事な家族を犠牲にするのか﹂
﹁そうだよ。幸せとは生きることだからね。家族と言えど、所詮は
他人さ﹂
﹁かつての君はそうじゃなかったはずだ。そのことはもう忘れてし
まったのか?﹂
﹁もちろん、覚えているよ。でも今は、この方が正しいと思えるん
だ﹂
﹁なお悪いな。メイベルが悲しむ﹂
﹁⋮⋮わからないな﹂
カイルが重さのない声で、ぼくに問う。
﹁僕のこともメイベルのことも、キミにはなんの関係もないはずだ。
さっきからなぜ、キミは僕らの事情に口を出すんだい?﹂
﹁なぜ⋮⋮? そんなの、決まっているじゃないか﹂
ぼくは微笑しながら告げる。
・・・・・ ・・・・・・・・
﹁このぼくが気に入らないからだよ。たった一人の妹くらい大事に
しろ。強い者には従うそうだな? ならこの試合に負けた後、メイ
ベルに一言謝ってもらおうか﹂
﹁⋮⋮やっぱり、わからないな﹂
カイルが、微かに右手の剣を鳴らした。
﹁︱︱︱︱どうして、僕がキミに負けると?﹂
﹃さぁ、決着の時だ! 第一回帝都総合武術大会決勝戦︱︱︱︱試
合開始です!!﹄

434
笛が響き渡った。
カイルが、その両の目を見開く。
だが邪眼がその効果を発揮する前に。
ぼくはすでに扉を開き終えていた。
オンボノヤス
︽召命︱︱︱︱御坊之夜簾︾
位相から引き出された濃霧が、瞬く間に闘技場を覆っていく。
﹃おーっとこれはセイカ選手の魔法かァ!? ステージの様子がま
ったく見えません!﹄
﹁これは⋮⋮﹂
﹁その目に頼ろうとしても無駄だよ﹂
霧にぼやけたカイルを正面から捉え、ぼくは笑って見せる。
オンボノヤス えみし あやかし
御坊之夜簾は、蝦夷の山奥で捕まえた霧の妖だ。
山に入り込んだ者を迷わせ、遭難させるこの妖は、内部に取り込
デバフ
んだ者の認識能力そのものに阻害をかける。効果は帰り道がわから
なくなったり、近くにいる者の顔が判別できなくなったりする程度
だが、視覚で呪術を行使する邪視使いには邪魔で仕方ないだろう。
まあ、こいつを出したのは観客の目から隠れるためなんだけど。
あの程度の邪視なら普通に抵抗できそうだし。
みしり、という音。

435
カイルが一歩、足を踏み出したようだった。
一歩、また一歩と歩く度に刻まれる足跡は、不自然なほど深い。
﹁ふうん﹂
︽火土の相︱︱︱︱鬼火の術︾
青白い火球がカイルへとぶち当たるが、少年は意に介す様子もな
い。周囲で弾ける燐の炎は服にすら燃え移らない。
やっぱり、重力の魔法で相当な重量になっているみたいだな。
﹁じゃあこれは?﹂
みずが
つねるしば
︽木金の相︱︱︱︱汞蔓縛りの術︾
黒みを帯びた蔓がカイルの足下から噴出する。
水銀を含んだ重たい蔓は、まったく無抵抗の少年に巻き付き、拘
束していく。
一瞬、これで終わったかと思った。
だがそのとき。
霧で薄れていたカイルの影が、突然黒みを増してグネグネと動き
出した。
影が少年の体へと這い上っていく。
そして次の瞬間、拘束する蔓を内側から切り裂いた。
地面へと舞い戻った影は次いで枝分かれし、地を這ってぼくへと
殺到する。
その先端が、鎌首をもたげた。ぼくを貫こうと襲いかかる。
が、そこまでだった。襲いかかる影は結界を貫けず、あっけなく
途絶し消えていく︱︱︱︱。

436
と。
そんな攻防などまるでないかのように。
カイルは無言のまま、また一歩、歩みを進めた。
そこに感情の色はない。
ぼくは溜息をつく。
ここまでなんの反応もないと寂しいな。
カイルにはもう、戦いの高揚も、緊張も、恐怖も残っていないん
だろう。
仕方ない、当初の予定通りに行くか。
一枚のヒトガタを取り出し、位相への扉を開く。
うしおに
︽召命︱︱︱︱牛鬼︾
空間の歪みから現れたのは︱︱︱︱牛の頭を持った鬼だった。
黒い肌をした筋骨隆々の体躯。見上げるほどの高さにある牛頭に
は鋭い角が生え、この世すべてを恨むかのような凶相が貼り付いて
いる。
ぼくはカイルに向けて問う。
﹁感情を失った今の君が、果たして完璧な兵士だろうか?﹂
太い金棒を引きずりながら、牛鬼が一歩、カイルへと歩みを寄せ
た。
そこで、少年の足が止まる。
﹁ミノタウロス⋮⋮?﹂

437
カイルが虚ろに呟いた。
足下の影がグネグネとうごめき出すと、牛鬼に襲いかかる。
牛鬼は何もしなかった。
だがそれにもかかわらず、影は牛鬼を貫けない。目に見えない何
かに阻まれ、黒い体の表面を這うばかり。
﹁⋮⋮!﹂
﹁恐怖を感じるのが悪いことだとは、ぼくは思わない﹂
牛鬼がまた一歩、少年に迫る。
そのとき、カイルが初めて大きく踏み込んだ。
抜き身の片手剣を振りかぶり、牛鬼へと斬りかかる。
おそらくその剣も、重力の魔法で相当な重量となっていたのだろ
う。
だが。
牛鬼は、ただの腕の一振りで。
その剣を叩き折った。
霧の向こうで、カイルが息をのむ気配があった。
それはこの大会で初めて見せた、微かな動揺の仕草。
牛鬼が、無造作に金棒を振り上げる。
﹁そいつを見て、何も感じなかったか?﹂

438
そして金棒が横薙ぎに振られ︱︱︱︱カイルを吹き飛ばした。
少年はステージの外にまで転がり、動かなくなる。
攻防も何もない、圧倒的な力の差だった。
﹁そいつは、君なんかとは格が違うんだ。重力の魔法とか影の魔法
とか、そんな小細工が通じる相手じゃない﹂
ぼくは、倒れ伏すカイルを眺めて呟く。
﹁もし恐怖が残っていれば、こんな無謀な戦いなど挑まなかっただ
ろうに﹂
****
のしのしと戻ってきた牛鬼に向かい、ぼくは言う。
﹁おい、ちゃんと手加減しただろうな﹂
牛頭が寡黙にうなずいた。
相変わらず無愛想なやつ。
みずち
牛鬼は蛟ほどではないものの、今持っている中では強力な方の妖
だ。
その割に扱いやすくて前世では頻繁に使っていたのだが、今回も
よくやってくれた。ちなみに顔は怖いが別に怒っているわけではな
い。
牛鬼を位相に戻すと、ぼくは仰向けに倒れるカイルへと駆け寄っ

439
た。
気絶しているようだが、息はある。どうやら大した怪我もなさそ
うだ。
﹁⋮⋮ほんとうに生かしておくのでございますね﹂
ユキの声に、ぼくはうなずく。
﹁まあね。甘いか?﹂
﹁甘いです。でも⋮⋮ユキも、これでいいと思えてきました﹂
さてと、ここからどうするかだな。
とりあえずこっそり連れ出すとして⋮⋮それからは実際のところ、
本人の意思次第だ。どうしても商会に戻ると言うのなら止められな
い。
ただ、もし自由になりたい気持ちがあるのなら⋮⋮それはきっと
キャラバン
叶うだろう。カイルほどの強さがあれば、冒険者や、どこかの商隊
に護衛として潜り込み、身分を隠して生活することくらい難しくな
い。
感情だって、戻る可能性はある。
めし
盲いた者が音に鋭敏になるように、人間の体は失った機能を補お
うとするものだ。感情が求められるような普通の暮らしを送れば、
脳の違う箇所がそれを補うこともあるだろう。
まあ先のことよりも。
まずはメイベルに会わせてやるところからかな︱︱︱︱、
﹁︱︱︱︱セイカさまっ!!﹂

440
ユキの鋭い声に、ぼくははっとした。
カイルの頭。
そこから放射状に、黒い紋様が顔や体へと浸食していく。
これは⋮⋮呪印か!?
﹁っ⋮⋮!﹂
即座にヒトガタを引き寄せて結界を張る。
紋様の浸食が止まり、やがて薄れ消えていく。
ほっとしたのも束の間︱︱︱︱カイルの体が、激しく震えだした。
ぼくは目を見開く。結界は効いているはずだ。となると⋮⋮浸食
が始まった時点で、もう肉体に損傷が加えられていたのか。
みのしろ
だが⋮⋮詳しい損傷箇所がわからない。今から身代のヒトガタを
用意するには時間が足りなさすぎる。
間に合わない。
﹁⋮⋮メイ、ベルに⋮⋮﹂
カイルが、薄く目を開いていた。
掠れた声で告げる。
﹁⋮⋮謝れと、言って、い、たね⋮⋮⋮⋮伝え、て、ほしい⋮⋮﹂
そしてぼくは、少年の最期の言葉を聞いた。
﹁︱︱︱︱、︱︱︱︱﹂

441
カイルの全身から力が抜ける。
息はない。左右異色のその瞳からも、すでに光が失われている。
邪眼の剣士は事切れていた。
﹁セイカ、さま。これは⋮⋮﹂
ユキが愕然と呟く。
呪いの正体には、見当がついていた。
おそらく、これはルグローク商会が手術の際に施したものだ。
捕虜になり、情報を吐くことがないように。あるいは手術の詳細
を知られないように。
敗北した際に発動する、口封じの呪い。
まじな
﹁⋮⋮呪いで、﹂
ひとりでに、声に呪力が滲んだ。
周囲に飛ばしていた、ありったけのヒトガタを引き寄せる。
まじな
﹁呪いで、このぼくを出し抜くか⋮⋮? 舐めた真似をしてくれる
⋮⋮﹂
カイルの死体。その周りに、ヒトガタが立体的に配置されていく。
それぞれが呪力の線で結ばれ、やがて秘術の魔法陣が完成する。
﹁ ﹀ ﹀ ┥
︱︱︱﹂
真言を唱え、両手で印を組み、術を組み上げていく。

442
人を呪わば穴二つ。
これを施した術者はただでは死なせない。
呪った際周囲数丈にいた人間と、直系血族全員の命くらいは覚悟
してもらおう。
だが先にこちらだ。
大丈夫。間に合う。
こいつはまだ死んだばかりだ。
直近のタイムスタンプから魂の構造を参照すれば、それを読み込
むだけで事足りる。
そう。
前世で最強となったぼくなら。
ぼくならこんなこと、造作もないんだ。
死人を蘇らせるくらい︱︱︱︱っ、
﹁︱︱︱︱っ!! ダメですセイカさまっ! それはやり過ぎです
!!﹂
ユキの切羽詰まった声に。
まじな
ぼくは、呪いの手が止まった。
ユキはなおも言い募る。
﹁ご自分でおっしゃっていたではないですかっ! それは危ないと
! なぜ転生することになったのかをお忘れですか!?﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁どうか今一度お考え直しを! その者は、セイカさまがそこまで

443
しなければならないほど、恩や義理のある相手なのですかっ!?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
ぼくは︱︱︱︱印を組んでいた手を下ろした。
ヒトガタが周囲に散っていく。
呪力の線が切れ、魔法陣が崩壊する。
ぼくは少年の死体を前に、声もなく立ち尽くす。
﹁⋮⋮⋮⋮お気持ちは、わかります﹂
ユキの気遣うような声だけが響く。
﹁ユキは知っておりますから。セイカさまが、誰よりもやさしい方
であることを︱︱︱︱﹂
第十五話 最強の陰陽師、帰り支度をする
決勝戦は、ぼくの勝利で決着した。
あやかし
霧の妖を回収した後、消えてしまったカイルに会場は騒然とした
が、結局﹁跡形もなく消し飛ばした﹂というぼくの言葉が受け入れ
られた。水銀と硫黄で血に似た染料を作り、ステージ上に丹念に撒
いていたのがよかったのかもしれない。
その後の表彰式、閉会式は、ずいぶんあっさりと事が済んだ。
帝都での御前試合だったにもかかわらず皇帝の姿はなく、勲章と
しての首飾りも、運営委員長だという禿頭の中年男から受け取った
だけだった。

444
近衛への入隊は、式の中で断った。相手のメンツを考えて言葉は
飾ったが、まるで予定調和のように受け入れられたのが印象に残っ
ている。
唯一よかったのは、多額の優勝賞金がきっちりもらえたことくら
いか。
そして。
翌日の早朝。
ぼくとメイベルは、帝都の城壁の外に立っていた。
城門からかなり歩いた、森がほど近い場所。
言葉もなく佇むぼくらの前にあるのは、苔むした小さな岩だ。
﹁⋮⋮﹂
この岩の下に、カイルは眠っている。
死んだカイルの体を、ぼくは位相に仕舞い、誰にも知られないよ
う持ち出した。
おそらく、あのままだとルグローク商会に回収され、痕跡が残ら
ないよう処分されていただろうから。
せめて、埋葬くらいはしてやりたかったのだ。
メイベルのためというよりは、自分がそうしたかった。
彼女への申し開きの言葉は、今でも思い浮かばない。
﹁⋮⋮いいの。わかってたから﹂

445
ぼくの思考を読んだように、メイベルが静かに言った。
﹁そういう呪いがかけられることは、なんとなく予想してた。負け
た﹃商品﹄が帰ってくることは、絶対になかったから。あなたが、
兄さんを助けてくれようとしたこともわかってる。だから、気にし
ないで。こうやってちゃんとお別れをすること自体、私は諦めてた﹂
﹁⋮⋮﹂
カイルを生き返らせなかったことは、後悔していない。
あの秘術は、前世でも使用を控えていた代物だ。
ことわり
常命の者を蘇らせるのは、世界の理に反しすぎる。求められれば
きりがなくなり、いずれは大きな破綻を迎えるだろう。
前世で決めた自制を忘れ、激情のままに使おうとしたこと自体間
違いだったのだ。気が緩んでいたにしてもひどすぎた。
ユキの言う通り、カイルにもメイベルにも、そこまでしてやる恩
や義理はない。
前世でどれだけ乞われても行わなかった秘術を、あそこで行う理
由はどこにもない。
ただ。
ただ、やるせなかった。
﹁⋮⋮こんな場所でよかったのか? 君たちの故郷に葬ると言うの
なら、付き合ったけど﹂
この場所を選んだのはメイベルだった。
その彼女は首を振る。

446
﹁いい。私たちに、もう故郷はないから﹂
また長い沈黙が訪れる前に、ぼくはメイベルに言う。
﹁その⋮⋮メイベルって名前は、本名だったんだな﹂
聞いたメイベルは、不思議そうにうなずいた。
﹁うん。偽名だと思った?﹂
﹁最初はね﹂
﹁普通、偽勇者の名前に、わざわざ昔の勇者の名前は選ばない、と
思う﹂
﹁⋮⋮それもそうか。わざとらしすぎる﹂
﹁でも、どうして?﹂
﹁カイルが⋮⋮何度か君の名前を呼んでいたんだ。だから﹂
﹁⋮⋮そう﹂
穏やかな表情を浮かべるメイベルに、ぼくは告げる。
﹁実は、そのカイルから伝えて欲しいと言われていたことがあった
んだ﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁ただ、ぼくには意味がよくわからなくて⋮⋮﹃四つ葉のこと、ご
めん﹄って﹂
メイベルは、息をのんで目を見開いた。
それからぽつぽつと話し始める。
﹁手術の少し前に⋮⋮私が、大事にしてた四つ葉の髪飾りを、兄さ
んが間違って壊してしまったの。それで、ちょっとだけ喧嘩になっ

447
た。そのこと、だと思う。あんなの、なんでも、なかったのに⋮⋮﹂
隣ですすり泣く声が聞こえ始める。
ぼくは、ただ黙って、メイベルが泣き止むのを待っていた。
やがて長い時間が経ち。
メイベルが、小さく呟く。
﹁⋮⋮私、これからどうなるの?﹂
﹁言ったじゃないか。学園に帰って、生徒として過ごすんだよ﹂
﹁ほんとうに?﹂
メイベルがぼくの顔を見た。
不安の滲む声。
﹁こんなのまだ、信じられない。兄さんに殺されるはずだったのに。
試合で負けてしまったのに。貴族の養子で魔法学園の生徒なんて、
そんな仮初めの身分に戻って、そのまま生きていくなんて⋮⋮。ね
え、ほんとう? ほんとうなの? 私っ⋮⋮﹂
﹁大丈夫だよ﹂
そう言って、ぼくはメイベルの手を取った。
﹁行こう。もうすぐ馬車が出るよ。ぼくたちの馬車だ﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁もし⋮⋮大丈夫じゃなかったとしても﹂
ぼくは一拍置いて告げる。
﹁ぼくがなんとかしてあげるよ。だから心配するな﹂

448
最強だからと言って、なんでもできるわけじゃない。
むしろ、驚くほど無力だ。
ただそれでも。
普通の人間よりは、選択肢がたくさん用意されている。
****
﹁あ、ようやく帰ってきたわね﹂
城門近くにまで戻ってくると。
ぼくたちが乗る馬車の前で、アミュが腰に手を当てて仁王立ちし
ていた。
その隣には、不安そうな顔をしたイーファの姿もある。
二人には、だいたいの事情を伝えていた。
カイルとメイベルは兄妹で、傭兵を囲う商会に育てられたこと。
カイルには敗北によって発動する口封じの呪いがかけられていたこ
と。ぼくがこっそり遺体を運び出していたこと。それをメイベルと
二人で、たった今埋葬してきたことも。
ただ、勇者のことだけは伏せた。メイベルが貴族に引き取られた
のは縁があったからで、大会で再会することになったのは偶然。そ
ういうことにした。
アミュには、まだ何も知らないままでいてもらおう。
で、そのアミュはというと。
なにやらメイベルを見つめて不敵な笑みを浮かべていた。

449
﹁ふっふ、待ちくたびれたわ。責めるつもりはないけど﹂
﹁ね、ねぇアミュちゃん、ほんとにやるの? なにも今⋮⋮﹂
﹁馬鹿ね。こういうときこそ剣を握るべきなのよ﹂
二人でもめていた。
なんだ?
﹁新入生﹂
と言って。
アミュはメイベルに、一本の剣を差し出した。
片手剣としては、だいぶ幅広で長い剣だ。
安物みたいだけど。
アミュが告げる。
﹁一戦付き合いなさい﹂
﹁⋮⋮嫌。そんな気分じゃない﹂
﹁いいからいいから!﹂
言いながら、メイベルへ強引に剣を押しつける。
そして自分は、すっかり愛用しているミスリルの杖剣を抜いた。
﹁模擬剣じゃないから、武器が壊れるか、取り落としたら負けね﹂
﹁⋮⋮なにそれ。寸止めは?﹂
﹁危ないからナシ﹂
ぼくは首をかしげる

450
変なルールだな。
﹁そうそう、あんたは魔法禁止だからね﹂
﹁いいけど﹂
﹁あたしは使うけど﹂
﹁⋮⋮は?﹂
メイベルが眉をひそめて言う。
﹁ふざけてるの?﹂
﹁いいじゃない。あんた一回勝ってるんだから。ハンデちょうだい﹂
無茶苦茶言ってるな。
﹁セイカ。合図お願いね﹂
なんだか、あまりアミュらしくない。
メイベルの事情は知っているはず。こんな時に再戦を持ちかける
ほど、無神経でもなかったはずだけど⋮⋮。
まあ⋮⋮いいか。
﹁じゃあ行くよ。⋮⋮始め﹂
アミュが地を蹴った。
杖剣を振りかぶり、メイベルの持つ片手剣へと斬りかかる。
ただ⋮⋮なんだかいつものキレがないな。
妙に遅いし。

451
メイベルは剣を立て、怪訝そうな表情でそれを受けようとする。
だが、それぞれの刃が触れた瞬間。
メイベルの片手剣が、派手な音を立てて真っ二つに折れた。
﹁なっ⋮⋮﹂
メイベルが目を丸くする。
アミュはというと。
﹁わわっ!﹂
まるで自分の剣に振り回されるように、たたらを踏んで地面に倒
れ込んだ。
驚いたことに、地に突き立った杖剣の剣身は、その半ばほどまで
が埋まっている。
尻餅をついたアミュが、メイベルへと笑いかける。
﹁あはは、あたしの勝ち! どう新入生? あたしだってこれくら
いできるのよ!﹂
﹁今の、重力の魔法⋮⋮﹂
﹁全属性使いの首席合格者を舐めないことね! でもこれ、難しい
わねー。あんたよくこんなの実戦で使えるわね﹂
﹁⋮⋮﹂
メイベルが、アミュを冷めたような目つきで見つめる。

452
﹁⋮⋮なんなの? 自慢したかっただけ?﹂
﹁あんた⋮⋮本当は、自分でお兄さんに勝ちたかったんじゃないの
?﹂
﹁⋮⋮別に。勝ち負けじゃない。私は、ただ⋮⋮﹂
﹁嘘ね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁剣筋見てればわかるのよ。あんた、ぜったいお兄さんの後にくっ
ついてるような大人しい妹じゃなかったでしょ。横に並べるように
なるか⋮⋮あわよくば追い抜かしてやろうと思ってた。そうじゃな
い?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大会に出たのも、決勝がその最後のチャンスだったからなんじゃ
ないの?﹂
﹁⋮⋮わかったように言わないで。結局なにが言いたいの﹂
﹁次は、あたしに勝ってみなさいよ﹂
﹁はあ?﹂
呆れたような顔のメイベルに、アミュはにっと笑って言う。
﹁今一勝一敗。卒業までにあたしに勝ち越してみせなさい。ま、難
しいと思うけど﹂
﹁⋮⋮ばかみたい。なんでそんなこと﹂
﹁目指してた人がいなくなって、やるべきこともなくなって。あん
た今、これからなにしたらいいかわからないんじゃないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからよ。いいじゃない。学園には稽古の相手がいなくて退屈し
てたの。しばらく付き合いなさいよ。あんたが他に、やりたいこと
を見つけるまでの間だけでも﹂
尻餅をついたまま話していたアミュが、メイベルへと手を伸ばし

453
た。
メイベルは、しばらくそれを黙って見つめていたが⋮⋮やがて、
小さく溜息をついて言う。
﹁⋮⋮やっぱり、ばかみたい﹂
そして、その手を取った。
そのままアミュを引っ張り起こすと、憮然として言う。
﹁あなたに勝つのなんて簡単すぎ。目標でもなんでもない。偉そう
なことは、私の魔法くらいまともに扱えるようになってから言って﹂
﹁仕方ないでしょ、まだ慣れてなかったんだから﹂
﹁慣れじゃない。コツがあるの。もっと早く魔法を解かなきゃダメ。
さっきみたいに引き戻せなくなるから﹂
﹁ふうん⋮⋮? ついでに、振りながら使った時反動がきついのな
んとかならない?﹂
﹁当てる時にだけ使うの。振りながらだとどうしても力が⋮⋮﹂
﹁あ、あのっ﹂
馬車の方から戻ってきたイーファが、なんだか焦ったように言う。
﹁み、みんな、そろそろ出発しない? なんか御者さん、イライラ
してるみたいだったよ⋮⋮﹂
ぼくは、少し笑って。
それから二人の少女剣士へと声をかけた。
﹁さあ、二人とも帰るよ。話の続きは馬車の中でしてくれ﹂

454
第十六話 最強の陰陽師、問い詰める
そうして二日後。
ぼくたちは無事、学園ヘと帰ってきた。
たった半月離れただけだったのに、ずいぶん久しぶりな気がした
のは自分でも意外だった。
授業もけっこう進んだらしい。追いつくのは大変かもしれない。
主に、アミュにとってはだけど。
ともあれ、平穏なのが一番だ。

455
****
学園長に会いに行ったのは、帰ってきた翌日だった。
﹁よくやってくれたねぇ、二人とも﹂
ぼくとメイベルが部屋に入るなり、学園長は満面の笑みでそう言
った。
﹁記念すべき第一回帝都総合武術大会の優勝者が、まさか我が校か
ら出るとは。アタシも鼻が高いよ。まあ第二回があるかはわからな
いが⋮⋮とにかく、よくやってくれたよランプローグの。それにメ
イベルも。準決勝進出は大健闘だ。学園生同士が当たってしまった
のは惜しかったねぇ。ブロックが違えば準優勝も狙えていたかもし
れない﹂
一息に捲し立てた後、学園長が少し置いて付け加える。
﹁ただし、お前さんたちはあくまで学生だ。学生の本分はなんだい
? そう、勉強だよ。今回のことで多少経歴に箔はつくだろうが、
それだけだ。ぼーっとしてるとあっという間に周りに置いていかれ
るよ。特にメイベル﹂
名前を呼ばれたメイベルが、戸惑ったように問い返す。
﹁⋮⋮私?﹂
﹁アタシらの都合ではあるが、入学早々に半月も学園を離れたんだ。
追いつくのは大変だよ。特にお前さんの場合、筆記が⋮⋮ねぇ。そ

456
こなランプローグのや従者の嬢ちゃんは成績がよかったから、教え
てもらうといい﹂
メイベルは困惑したように数回瞬きした後、こくりとうなずいた。
学園長が笑顔で手を鳴らす。
﹁さて。帰ってきて早々来てもらって悪かったね。明日からに備え
て今日は休むといい。ああ、ランプローグの。お前さんは、少し残
ってくれるかい?﹂
ぼくは無言のままで目を伏せる。
メイベルは少し迷っていたようだったが、結局一人、学園長室を
出て行った。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
扉が閉まってからも、ぼくも学園長も無言のまま。
やがて。
メイベルが部屋の前から歩き去って行った頃に、学園長がようや
く口を開いた。
﹁さてと。ランプローグの⋮⋮お前さんは、アタシに何か訊きたい
ことがあるんじゃないのかい?﹂
﹁⋮⋮そうですね﹂
ぼくは一つ息を吐いた。
なるほど。
そっちからくるなら、回りくどい真似はやめようか。
微笑と共に告げる。

457
﹁これで満足ですか? 学園長先生﹂
﹁ふむ。どういう意味だい?﹂
﹁メイベルが決勝に進めなかったことで、勇者が死んだと見せかけ
る筋書きは破綻した。それでよかったかという意味です﹂
学園長は、細めた目でぼくを見る。
﹁そこまでわかっているのなら、満足かという質問は奇妙だねぇ。
アタシらの目論見が外れてしまったことになるが﹂
﹁妙だと思っていたんです﹂
ぼくは、部屋を歩き回りながら続ける。
﹁筋書きのために、学園の推薦枠は二つもいらない。ぼくが出場す
る必要はなかったはずだ。まあそれだけなら、新入生が一人だけ選
ばれる不自然さを誤魔化すためとも言えるでしょう。慎重さは大事
ですからね。ただ⋮⋮それにしてもずいぶんと、慎重を期したもの
ですね﹂
﹁⋮⋮? なんのことだい?﹂
﹁クレインの家名を聞いてから、気になって実家に訊ねていたんで
す。どんな家なのかとね。当然ながら、大した情報は得られません
でした。魔法学研究者で、学園派閥の人間が多いこと。実は古い家
柄であること。あとは⋮⋮最近養子に迎えたメイベルを、ずいぶん
かわいがっていたことくらいでしょうか。ドレスを何着も買い与え
たり、社交界へ連れ出したり、肖像画を描かせるための画家を雇っ
たり⋮⋮確かに偽装は大事でしょうが、遠からず死ぬ予定の娘にこ
こまでする必要、ありました? まるで本当に養子として迎えるみ
たいですね﹂

458
学園長は頭を抱えてぼやく。
﹁まったくあやつらは⋮⋮浮かれすぎだよ。あれほど釘を刺してお
いたのに⋮⋮﹂
﹁学園とその上は初めから、筋書き通りに進める気などなかった。
メイベルを手中に収めることこそが目的だった﹂
ぼくは続ける。
﹁試合結果に責任を持たないという条件を付けたものの⋮⋮ルグロ
ーク商会は、メイベルを決勝以外で敗退させるわけにはいかなかっ
たでしょう。カイルの試験を済ませる必要があったから。だから当
然、トーナメント表にも口を出した。出場者の経歴を調べ、レイナ
スのような危険な候補は確実に勝てるだろうカイルの側に配置した。
メイベルは順当に決勝へと進み、そこで負け、死ぬはずだった。し
かし、彼らは予想もしてなかったでしょうね⋮⋮まさかカイルまで
おおごま
倒してしまうほどの大駒を、依頼者である学園が自らぶつけてくる
だなんて﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それで学園が何を得られるかと言えば、メイベルしかない。おそ
らくルグローク商会はメイベルを傭兵のように貸し出したのではな
く、学園ヘ売ったのでは? 決勝で死ぬ予定の人間を、後で返却し
ろというのも変な話ですからね。逃げられた際に処分する条項くら
いは付けていたでしょうが⋮⋮負けて生き残ることなど想定してい
なかった。そしてそこを突き、ぼくにメイベルを敗退させることで、
彼女を手に入れようとした。こんなところですか?﹂
学園長はしばしの沈黙の後、溜息をついて言った。
﹁舐められていたのさ﹂

459
﹁⋮⋮﹂
﹁﹃メイベルの試合結果には責任を持たない﹄。もしアタシらの思
惑通りにいかなくても、金は返さないというわけだよ。そのうえ自
分らの傭兵を出場させ、優勝させて名を売る気満々のくせに、メイ
ベルが勝つ可能性もあるからと言って依頼料を吊り上げる。勇者は
この国の趨勢を決める重要な要素だというのに⋮⋮今の帝国がどれ
だけ甘く見られているかわかるってものさ。ま、だからお前さんを
使って奴らの鼻っ柱をへし折ってやったんだがね? メイベルを奪
われ、自信作も失って向こうは散々だろう。いい気味さ﹂
﹁⋮⋮ぼくがメイベルやカイルに負けるとは、考えなかったんです
か?﹂
﹁アタシはこれでも長く生きていてね﹂
学園長が、口の端を歪める。
﹁その者の力の程くらいは、それなりにわかるものさ。お前さんの
才は⋮⋮勇者のそれにも匹敵するだろう。しかも、すでにかなりの
力を手にしている。恐ろしいものだよ。下手すれば勇者以上の⋮⋮
いや、それはないかね。勇者を超える才など、この世界にあるわけ
がない﹂
﹁⋮⋮まあ、そんなことはどうでもいいです。ぼくが訊きたいのは、
実のところ一つだけだ﹂
ぼくは静かに言う。
﹁メイベルに何をさせるつもりですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ルグロークに一泡吹かせるためだけに、こんなことを企図したわ
けではないでしょう? メイベルを手に入れること、それ自体に意
味があったはずだ。それは何です?﹂

460
学園長は、ふっと笑って言う。
﹁それを訊いてどうするんだい?﹂
﹁別に。哀れな理由なら、哀れだと思うだけです。ただ多少の義理
もあるので⋮⋮何かしてあげられることがあるなら、するかもしれ
ませんが﹂
﹁はっはっは、それは恐ろしいねぇ。ではお前さんはどんな理由を
想像する?﹂
ぼくは眉をひそめて答える。
﹁学園の内から守りを固めるため、でしょうか。警備の兵を雇って
も、学園の内情までは把握できない。入学生として間者が送られて
くる可能性がある以上、生徒の立場でアミュを守る者が必要だった
のでは?﹂
﹁なるほど、それはいいねぇ。ただ今後、魔族の注意は学園から外
れることになりそうだがね? 今回明らかに託宣の内容と合わない
お前さんが優勝したことで、学園の人材の厚さが喧伝できた。去年、
どういうわけか刺客と間者が一人ずつ消えたことも、これで勇者の
仕業とは言い切れなくなっただろう﹂
﹁⋮⋮違うと言うなら、なんなんです﹂
学園長は、しばしの沈黙の後。
ふと目を伏せ、呟くように言った。
﹁あの子が不憫だったのさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁信じていないね。だが事実だ。これ以上振っても何も出ないよ﹂

461
学園長が話し始める。
﹁初め、官吏どもはこの計画を取り下げようとしていた。ようやく
勇者の影武者候補が見つかったものの、優勝させられないのでは仕
方ない。舐めた態度をとっている商会の条件を蹴り、この案を白紙
に戻そうとね。アタシもそれに賛成だった。だがメイベルと会って、
気が変わったのさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁才に恵まれた子。しかし、この世のあらゆる不幸を味わったかの
ような顔をしていた。慕っていた実の兄に殺されることになるのだ
から無理もない。ただね、あの子はアタシに、優勝してみせると言
ったんだ。変わってしまった兄を楽にしてやりたい。恵まれた才を
肉親殺しのために使う、だから自分を使ってくれと。死んだ目でね。
そのときアタシは思ったのさ︱︱︱︱こんなのは間違っている﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから官吏どもを説得し、商会と契約を取り付け、棄権なんてと
てもしないだろうあの子のために、セイカ・ランプローグという鬼
札を使う方法を考えた。従者の嬢ちゃんを候補に入れたのもその一
つさ。自分が辞退すれば、あの子が出場することになるかもしれな
いと、いくらか不安に思わなかったかい? 商人の使う話術の一つ
だよ﹂
学園長は続ける。
﹁長く生きると、色々なものから執着がなくなってくる。金や名誉
や力、そして生そのものにも。だがね、他人のために何かしたいと
いう執着は、なかなか手放せないものさ。こんな立場にいるのもそ
れが理由かもしれないねぇ。お前さんにはまだわからないだろうが﹂
﹁いえ⋮⋮﹂

462
ぼくは言葉を切った。
前世で孤児を拾って弟子にしていたぼくも、たぶんこの人と似た
ようなものだ。
かつて持っていた力に対する執着だって。
転生したことで、いや、愛弟子に敗れたことで失ってしまった。
ぼくは、一つ息を吐いて訊ねる。
﹁メイベルは、ルグロークから刺客が送られることを心配してまし
たよ。向こうはカイルを失って怒り心頭でしょうし、内情を知るメ
イベルを捨て置かないのでは?﹂
﹁そのくらい手を打っていないはずがないだろう。クレインは男爵
家だが、由緒ある家柄で宮廷との繋がりも太く、加えて奥方は公爵
家の三女だ。養子とは言え、彼らの息女を手にかければルグローク
に待つのは破滅さ。だからこそ、金を積んで引き渡しを求めてきた
ようだが⋮⋮あやつらは遣いを門前払いにしたと言っていたねぇ。
まあ心配はないだろう﹂
それに、と学園長が付け加える。
﹁ルグロークが力を付け始めたのは、ここ数年のことだ。勢いづい
ていた者が不意に足元を掬われれば、臆病になるものさ。しばらく
は大人しくしているだろうね﹂
﹁そうですか。なら⋮⋮ぼくがやることはなさそうですね﹂
﹁何を言っているんだい﹂
学園長が呆れたように言う。
﹁暗殺に怯える必要がないのは当たり前のこと。大事なのは、その

463
うえでどう生きるかだよ。あの子はこれから慣れない学園生活を始
めるんだ。色々と助けておやり。先輩としてね﹂
﹁それくらい承知してますよ﹂
そう言って、ぼくは踵を返した。
もう話も終わりだろう。
内心で溜息をつく。
今となって思えば、やはり深入りするべきではなかった。
出場を辞退し、メイベルの死や、学園長の思惑とは無関係に過ご
す。それが、ぼくにとって一番いい結果だったはずだ。
いらない好奇心に負けたのが失敗と言ってもいい。
ただ⋮⋮後悔はしていなかった。
ふと。
一つ、ささいな疑問が浮かんだ。ぼくは学園長を振り返る。
﹁ところで⋮⋮長く生きたとおっしゃっていましたが、先生は実際
おいくつなんです?﹂
﹁女に年を訊くかい。野暮な餓鬼だねぇ。アタシの年なんて、アタ
シが教えて欲しいくらいさ﹂
学園長は、吐き捨てるように言った。
﹁三百から先は数えちゃいないよ﹂ 464
第十七話 最強の陰陽師、また学園生活に戻る
それから一ヶ月。
ぼくたちは、すっかり学園生活に戻っていた。
朝。
食堂へ続く道を歩いていると、すれ違う生徒がちらちらと振り返
ってくる。
微かに話し声も聞こえる。
﹁あ、あの人﹂﹁おいランプローグだぞ﹂﹁帝都の剣術大会で優勝
した?﹂﹁あいつ、決勝で相手を跡形もなく消し飛ばしたんだって﹂
﹁剣で!? いや無理だろ﹂﹁ね、けっこうかわいい顔じゃない?﹂

465
ぼくは内心溜息をつく。
帰ってきてからずっとこんな調子だった。これでもだいぶマシに
なった方だ。
なんだか誤解も多いけど⋮⋮そんなに悪いものでもないから放っ
ておいている。少なくとも、一年前みたいに陰口叩かれているより
はずっといい。
いずれは噂も収まるだろう。
食堂に着くと、キョロキョロと目当ての人間を探す。
それはほどなく見つかった。アミュにイーファ、そしてメイベル
が、テーブルに書庫の本を広げて話し込んでいる。
やっぱりここにいたか。
前にイーファが、たまにアミュと朝の食堂で勉強していると言っ
ていたから、もしかしたらと思ったけど⋮⋮勘が当たったみたいだ
な。
ぼくは少女の背後まで歩み寄ると、声をかける。
﹁メ∼イ∼ベ∼ル∼﹂
﹁ひっ!﹂
メイベルが飛び上がった。
そしてこちらを驚愕の表情で振り返ると、あわてて逃げようとす
る。
ぼくはその手を掴んだ。

466
﹁こら逃げるな﹂
﹁やだやだ!﹂
﹁セ、セイカくん?﹂
﹁あんたいつの間にいたの?﹂
集中していたのか、イーファもアミュも、ぼくに初めて気づいた
ようだった。
ぼくは言う。
﹁ちょっとメイベルに用があって﹂
﹁わ、私はない﹂
﹁ぼくはあるんだよ。おいなんで昨日来なかったんだ。ずっと待っ
てたのに﹂
﹁も、もうセイカと勉強するの嫌﹂
メイベルが涙目で言う。
﹁勉強勉強、ずっと勉強! 授業がある日は夜遅くまでやるし、な
い日は丸一日、結局夜遅くまでやる! この一ヶ月ずっとそう!
い、育成所だって休みの日はあったのに!﹂
﹁仕方ないだろ﹂
ぼくは言う。
﹁君は授業に追いつかなきゃいけないんだ。なのに大会で遅れた半
月分どころか、入試問題すらまともに解けないじゃないか。ならそ
の分がんばらないと﹂
﹁だ、だって⋮⋮﹂
メイベルが潤んだ目を伏せる。

467
﹁私には今まで、そんなの学ぶ意味もなかった、から⋮⋮﹂
﹁はぁ。メイベル﹂
ぼくは彼女の肩に手を乗せる。
﹁留年は、どんな者にも平等に訪れる﹂
﹁格言みたいに言わないで! だいたい女子寮にまで押しかけて、
夜遅くまで居座ってるなんておかしい!﹂
﹁ちゃんと学園長経由で寮長には許可もらってるよ。だからメイベ
ル、ぼくはその気になれば、朝までだって君に勉強を教えることが
できるんだ﹂
まあさすがにラウンジ以外は立ち入れないんだけど。
﹁イ、イーファ。助けて﹂
蒼白になったメイベルがイーファに助けを求める。
寮で親切にされたのか、メイベルは一瞬でイーファに懐いていた。
そのイーファはというと、西洋に伝わる伝説の聖母のような微笑
でメイベルを見つめた後、ぼくに告げる。
﹁セイカくん⋮⋮まだ甘いんじゃないかな﹂
﹁!?﹂
﹁こんなに元気があるんだもん。メイベルちゃんは、きっとまだま
だがんばれる﹂
﹁う、嘘。イーファ⋮⋮?﹂
見捨てられたことが信じられないように、メイベルがすがるよう
な目をイーファに向ける。

468
イーファは聖母の微笑のまま、メイベルを見つめ返した。
その目は、心なしか遠い気がする。
﹁大丈夫だよ、メイベルちゃん。人間にはね、 つらい の先があ
るの。勉強して、夜眠って、ご飯を食べて、また勉強する。メイベ
ルちゃんはまだ、そんな生き物になってないよね? じゃあ、もっ
ともっとがんばらないと﹂
﹁こ、怖い⋮⋮﹂
﹁あんたはいったいどんな地獄をくぐってきたのよ⋮⋮﹂
﹁大変だったなぁ﹂
イーファが宙空を見つめる。
気のせいかもしれないが、なんだか目に光がない。
﹁お屋敷の仕事をしながら勉強してた頃は、大変だったけどまだが
んばれた。仕事の合間に休憩できたし、体を動かして気晴らしにな
ったから。でも入試が近づいて、仕事を免除されてからは、そんな
こともなくなって⋮⋮えへへ、ずっと勉強だったんだ。最初は他の
使用人の人たちに嫌みを言われたりしたけど、すぐにかわいそうな
目で見られるようになって。出発の日には、みんな泣きながら送り
出してくれた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、わたしがあんなにがんばれたのも、セイカくんのおかげだ
よ。ほんとうにありがとう、セイカくん﹂
後光が差してそうなイーファに、ぼくは答える。
﹁え? ああ。どういたしまして﹂
﹁軽っ! 今の空気に対して返事が軽すぎなのよ!﹂

469
﹁えー、でも、普通に勉強教えてただけだしなぁ。ちょっと入試ま
での時間がなかっただけで﹂
みんな大げさだよ。
﹁というわけでメイベル。今日も授業終わったら女子寮行くから。
昨日の遅れを取り戻すためにこれから数日は特に頑張らないとね﹂
﹁や、やだ⋮⋮イーファみたいになりたくない⋮⋮﹂
﹁あんたねぇ、ほどほどにしなさいよ﹂
その後。
弁護人アミュとの交渉の末、メイベルには月に二日以上完全な休
みの日を設けてやることが決まった。
まあ最近能率が落ちてたし、ちょうどいいかな。
メイベルの学園生活は、まだ始まったばかりだから。
470
第十七話 最強の陰陽師、また学園生活に戻る︵後書き︶
これで三章は完結になります。次、四章です。
471
第一話 最強の陰陽師、依頼される︵前書き︶
ここから四章です。
472
第一話 最強の陰陽師、依頼される
波乱の帝都総合武術大会から三ヶ月。
この国にも夏が訪れていた。
窓が開け放たれた寮の自室。
ぼくはベッドに腰掛け、届いた手紙に目を走らせる。
﹁あの屋敷の人間からですか? セイカさま﹂
肩に乗ったユキが、手紙を見下ろしてそう訊ねてきた。
こちらの文字はまだ読めないらしい。

473
﹁ああ﹂
ぼくはうなずく。
﹁父上からだよ﹂
﹁⋮⋮セイカさまがあの若輩を父と呼ぶのは、なんだか違和感があ
りますね﹂
﹁そう言うなって。ブレーズには一応恩もあるんだ﹂
特に、寮で貴族用の個室をもらえたこととかね。
ユキと話せて、呪術の道具を広げられるのは本当にありがたい。
ユキは気を取り直したように言う。
こたび
﹁して、どのような内容だったので? 此度の休みに顔を見せろ、
とかですか?﹂
ユキの言った通り、学園はちょうど夏休みに入っていた。
この時期を利用して実家に帰る生徒は多い。
しかしぼくは、去年なんやかんや理由をつけて寮に残っていた。
帰る意味がないし、馬車での長旅も嫌だったから。
今はあの揺れにもだいぶ慣れたが、疲れることに変わりはない。
ただこの手紙の内容は、帰省を促すものではなかった。
ぼくは首を横に振って答える。
﹁いや。なんか、ドラゴンの調査に行ってほしいんだってさ﹂
﹁ドラゴン、でございますか?﹂
﹁ああ﹂

474
怪訝そうなユキに、ぼくは説明する。
﹁帝国の持つ属国の一つにアスティリアという王国があるんだけど、
そこの旧王都は、人とドラゴンが共に生きる街らしいんだ。なんで
も近くの山に一匹の巨大なドラゴンが巣くっていて、その縄張りの
中に街がすっぽり入っているらしい。だけど住民を襲うことは決し
てなく、むしろ過去には衛兵と一緒に、野盗や敵国の軍を撃退して
いたそうだよ﹂
﹁ほう﹂
ユキが珍しく興味深げに答える。
あやかし
﹁思えばユキも人と共に生きる妖でありますし、そういうこともあ
るのでしょうね。それで、そのドラゴンがどうかしたのですか?﹂
﹁なんでも、最近様子がおかしいらしい﹂
﹁おかしい、とは?﹂
﹁人間を攻撃したり、たまに家畜を襲うようになったそうなんだ﹂
﹁む⋮⋮﹂
ユキが首をひねるような仕草をする。
﹁⋮⋮おかしいと言いますか、それが普通な気もしますが。ドラゴ
ンとて腹が減れば、手近な肥えた獣を襲いましょう﹂
﹁いや、こちらのモンスターはだいぶ動物に近いが、それでも化生
の類だ。土地の魔力さえ十分なら、妖と同じく食事をせずともちゃ
んと生きながらえるはずなんだよ﹂
いろいろな文献を読んだ限りでは、どうやらそのようだった。
ぼくは続ける。

475
﹁アスティリアのドラゴンも、きっとこれまでは滅多に獣を襲うこ
となんてなかったんだ。人間に敵意を向けることも。だからこそ、
街の住民が戸惑っているんだろう﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
ユキが気の抜けた返事をする。
もっとも、飼い慣らしたつもりの猛獣が牙を剥いてくることなど
は、普通によくある話だ。
それがドラゴンだったとしても、ぼくとしては特に不思議はない。
﹁して、なにゆえセイカさまがその調査を?﹂
﹁簡単に言えば、飼っている猛獣をちゃんと管理できているかの確
認かな﹂
ぼくは言う。
﹁ドラゴンは、この世界ではほぼ最強のモンスターだ。そんな存在
が不穏な気配を見せているとなれば、事はアスティリアだけの問題
ではなくなる。もしこちらに飛んできたりでもしたら、帝国も大き
な被害を受けかねないからね。現地を確認して、脅威を見定めるた
めの調査というわけだ﹂
﹁⋮⋮いつからセイカさまは、官僚の使い走りをされるようになっ
たので?﹂
﹁そうじゃない。ブレーズからの頼みだよ﹂
ぼくは説明する。
﹁そもそも今回の調査は、帝国官僚ではなくアスティリアの議員が

476
直接、父上に依頼したものなんだ。帝国議会からつつかれる前に、
自分たちの方から調査使節を迎えてしまった方がいいと判断したん
だろうな。そして向こうが目を付けたのが、研究者として名の通っ
ていた父上だった﹂
﹁研究者ではなく、普通は政治家を呼ぶものでは?﹂
﹁政治家に借りを作れば、後に議会で重い見返りを要求されかねな
い。それにアスティリアに常駐している総督としても、政敵に来ら
れるのは嫌だろう。その点、父上は政治から距離を置いているし、
さらに報告書には学術的な説得力が生まれる。何かと都合がよかっ
たんだよ。学会でよく帝都にいるから声もかけやすいしね﹂
まつりごと
﹁人の政はめんどうでございますねぇ⋮⋮﹂
ユキがうんざりしたように呟く。
ぼくも前世では政治になんて無頓着で、こんな話はしたことなか
ったからな。
ついでに、もう少しアスティリア側の考えを読むならば。
向こうはおそらく、ドラゴンの問題を解決する策をすでに用意し
ている。
そうでなければ、調査依頼なんてただ墓穴を掘るだけだ。
それから、ユキは何やら釈然としない様子で言う。
﹁ただユキにはやはり、あの若輩がセイカさまにこんなことを頼ん
でくる理由がわからないのですが⋮⋮。今のセイカさまは、立場上
はただの学生でございますよね?﹂
﹁それは⋮⋮きっと暇なのがぼくだけだったからだな﹂
﹁はい?﹂
﹁考えてもみろ。父上自身は多忙だし、ルフトも領主の仕事を覚え
るので手一杯。グライは駐屯地から動けないし、親戚もどうせ皆自

477
分の仕事や領地経営で忙しい。一方で学生のぼくは夏休み。実家に
帰る気配もない一ヶ月の暇人ときている﹂
﹁ええ⋮⋮そんな理由でございますかぁ⋮⋮﹂
﹁理由はそんなでも、優秀な息子に任せたと言えば聞こえはいいは
ずさ。学園で成績上位、さらには武術大会の優勝経験まであるわけ
だからね﹂
ちょっと優秀すぎるくらいだ。
いい加減、少し抑えた方がいいかもな。
﹁して、どうされるのですか? 目立たぬように生きるのなら、こ
んな要請は断った方がよろしいかと存じますが﹂
﹁いや、行くよ﹂
抑えた方がいいとか考えていたにもかかわらず、ぼくは即答した。
﹁お前の言うことももっともだが、他国は一度見ておきたかったん
だ。領地に帰省しろと言われるよりはずっといい。あとドラゴンも
気になるし﹂
﹁⋮⋮最後の理由がすべてでは?﹂
ユキが半眼になって言う。
﹁セイカさま⋮⋮ほどほどになさってくださいね﹂
﹁何がだよ﹂
﹁ご趣味も結構ですが、節度を守られますよう。前世のように丸三
日地下室にこもって実験に没頭した挙げ句、失踪したと勘違いされ
騒がれるようなことはもうお控えください﹂
﹁わかってるわかってる﹂

478
ぼくは手をひらひらと振って答える。
呪術の研究はともかく、自然科学や生物学の実験は、どうもユキ
にはぼくの趣味に見えているらしかった。
確かに趣味みたいなものだけど⋮⋮結構役に立つんだけどなぁ。
****
﹁というわけでぼく、夏休み中はアスティリア王国に行くことにな
ったから﹂
昼時の食堂。
同じテーブルに座るイーファ、アミュ、メイベルに、ぼくはそう
告げた。
﹁ふうん、ドラゴンの調査ね⋮⋮おもしろそうじゃない。あたしも
さすがにドラゴンは見たことないわね。ついてっていい?﹂
普通に言うアミュに、ぼくは呆れて返す。
﹁何言ってんだ。君、明日から実家に帰ることになってただろ﹂
﹁あたしの場合ロドネアから近いから、別に春でも帰れるし﹂
﹁そんなこと言うなって。家族には会える時に会っておいた方がい
い﹂
﹁あんたが言うと、重いのか軽いのかわからないわね⋮⋮。まあそ
うするわ。もう馬車も頼んじゃったしね﹂
﹁はい﹂

479
と、メイベルが小さく手を上げた。
﹁私は、予定ない。重い物も持てる。護衛もまかせて﹂
と言って、行きたそうな目を向けてくる。
意外と言えば意外だが⋮⋮最近は明るくなって学園生活にも慣れ
てきているようだから、ちょっと冒険したい気持ちがあるのかもし
れない。
ただ、ぼくは言わなければならない。
﹁予定、あるだろ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁勉強﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁君、ぼくの課題ちゃんとやってるか? 新学期から授業について
行けないとまた勉強漬けだぞ﹂
﹁え、鋭意消化中⋮⋮﹂
全力で目を逸らすメイベルに、ぼくは付け加える。
﹁それと⋮⋮君も今の家に帰ったらいいんじゃないか? たぶん両
親は待ってると思うよ﹂
﹁ん⋮⋮じゃあ、そうする﹂
うなずくメイベルを見て、ぼくはそれから、何やらうずうずして
いる様子のイーファに目を向けた。
﹁イーファ⋮⋮一緒に来るか?﹂
﹁えっ!﹂
﹁長い旅程になるから休みいっぱいかかるだろうし、無理にとは言

480
わないけど﹂
﹁い、行くよ! 行く! ⋮⋮あはは、わたしもだめって言われる
かと思った﹂
﹁従者の一人くらいは向こうも許してくれるよ﹂
言ってから、ぼくは少し申し訳なく思う。
ぼくが帰らないのに、イーファだけ帰るわけにもいかない。この
子も父親に会いたいだろうに、それを妨げているのは罪悪感があっ
た。
まあイーファの父親はブレーズ以上に多忙だから、帰ったところ
で会えるかはわからないんだけど。
﹁それで、出発はいつなわけ?﹂
﹁予定では明後日だな﹂
﹁ずいぶん急ね﹂
﹁移動に時間がかかるんだ。夏休みは一ヶ月しかないし、急ぎもす
るよ﹂
﹁もう馬車はとったの?﹂
﹁いや、向こうが手配してくれることになってる﹂
﹁向こう?﹂
﹁アスティリアの偉い人だよ﹂
ぼくは説明する。
﹁ちょうど帝都に来ていたみたいで、帰る時にロドネアに寄ってく
れるんだってさ。だから護衛隊付きでアスティリアまで行ける﹂
﹁護衛隊、って﹂
アミュが眉をひそめる。

481
﹁ずいぶん大げさね。街道を行くなら野盗もモンスターも心配ない
はずだけど﹂
キャラバン
確かにアミュの言う通り、主要路を行くだけなら商隊でもせいぜ
い数人の護衛を連れる程度だ。
遠くの都市を結ぶ帝国の街道は、本質的には軍を効率的に移動さ
せるための軍用路となっている。安全確保のためにモンスターは定
期的に排除されるし、野盗は近寄らない。
ただ、今回は少し事情が違った。
﹁仕方ないよ。その人の立場が立場だからね﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁アスティリアの偉い人っていうのが、実は⋮⋮﹂
そのとき、食堂の後方からざわめきが聞こえてきた。
一際声のでかい人物の話し声が耳に入る。
﹁︱︱︱︱ほう、ここがそうなのだな。案内ご苦労。しかし、なん
とも質素であるな⋮⋮む、そうなのか。しかし建物が古いならば建
て替えればよいだろうに﹂
﹁若﹂
﹁いや失敬。今言ったことは気にしないでくれたまえ。して? ⋮
⋮おお、彼がそうか。感謝するぞ。もうよい。後は我々だけで行こ
うか、リゼ。⋮⋮ん? どうした? 早く来ないか﹂
ざわめきと気配が近づいてきて、ぼくは振り返る。
そこにいたのは、豪奢な礼服を着た一人の少年だった。
年の頃は十代後半くらい。整った容姿と気品ある佇まいと相まっ
て、高貴な血筋の人間であることが否応なく伝わってくる。

482
護衛を兼ねているのだろう。そばに控えている長身で耳の尖った
亜人種の女性は、相当な使い手であるようだった。
ざわめきの原因は、明らかに人目を引くこの二人だろう。
え、まさか⋮⋮。
呆気にとられるぼくへ、少年が微笑と共に口を開く。
﹁やぁ。そなたがセイカ卿で間違いはないか?﹂
しばし固まるぼく。
しかし、やがて気を取り直して立ち上がると、笑顔と共に貴族用
の敬語を吐き出す。
﹁いかにも。お初にお目にかかります。予定よりも早いお着きでし
たね、セシリオ・アスティリア王子殿下﹂
後ろの方では少女たちのささやき声が聞こえてくる。
﹁⋮⋮誰よ、あれ﹂
﹁王子、って言ってた﹂
ぼくは笑みを引きつらせながら言う。
﹁何もこのような場に来られなくても、こちらから出向きましたの
に。アスティリア王国の第一王子たる殿下を迎えるには、いささか
不適当な場所で申し訳ない﹂
﹁よい。ボクが学園の者に無理を言って案内させたのだ﹂
そう言うと、王子は快活な笑みを浮かべる。

483
﹁ことが急を要するわけではないのだが、そなたに会うついでに帝
国の魔法学園を一度見ておきたかったのだ。なんとも歴史を感じさ
せる建物であるな。生徒たちも皆優秀そう、に⋮⋮⋮⋮おお、これ
は⋮⋮!﹂
と、セシリオ王子が言葉を切った。
その目は、ぼくの隣の席でかしこまるイーファに向けられている。
﹁そなた⋮⋮名は?﹂
﹁えっ!? ええええと⋮⋮イーファ、です⋮⋮﹂
ガチガチのイーファの前に王子は膝を突くと、少女の手を取り、
熱に浮かされたような目で言った。
ハレム
﹁なんと美しい⋮⋮そなた、ボクの後宮に来ないか?﹂
は?
484
第二話 最強の陰陽師、奴隷少女の将来を考える
イーファは何を言われたかわからなかったように、ぼくへと困惑
の視線を向けた。
しかしながら、ぼくもなんて言ってやればいいのかわからない。
王子が続けて言う。
ハレム
﹁当代のアスティリア王は母である女王陛下で、今の後宮は名目上、
継承順位第一位であるボクのために開かれている。このような立派
な学園で教育を受けられるくらいだ。イーファ、そなたはさぞ聡明
で高貴な女性なのだろう。ボクと我が国のために、ぜひ後宮に来て
ほしい﹂

485
イーファも、その頃にはようやく状況がわかってきたらしい。
小さくうつむいて、だがしっかりした声音で言う。
﹁ご、ごめんなさい⋮⋮わたしはその、セイカ、様の奴隷ですから
⋮⋮そういうことはちょっと、無理です⋮⋮﹂
﹁なんと⋮⋮そなたはこの学園の生徒ではなかったか﹂
﹁い、いえ、生徒ではあるんですけど⋮⋮﹂
﹁む、そうか。ならばやはり才媛であることに変わりはないのだな。
それならば問題ない。セイカ卿、彼女を言い値で買おう。支払いは
我が国の大判金貨でよいか?﹂
ぼくは唖然としつつもかろうじて口を開く。
﹁あ、あのですね⋮⋮﹂
﹁若﹂
亜人種の女性が、冷たい声音でそれだけ言う。
すると王子は、途端にばつの悪そうな顔をした。
﹁わかっている、リゼ。失敬、セイカ卿。此度そなたと会したのは
このようなことが目的ではなかったな。本題に入ろうか﹂
﹁⋮⋮それでしたら場所を移しましょう、殿下。ここでは無闇に注
目を集めます。学園の一室を借りましょう、こちらへ﹂
歩き出しながら、ぼくは思う。
こいつ大丈夫か?

486
****
王子の来園はあらかじめ学園長も知っていたので、お偉方向けの
応接室をスムーズに借りることができた。
その一室で、ぼくらは向かい合う。
﹁⋮⋮﹂
なぜかぼくの隣には、イーファが緊張した様子で座っていた。
なぜかというか、王子たっての希望だったからなんだけど⋮⋮ま
あとりあえず今はいい。
ぼくは気を取り直して口を開く。
﹁ではまず、旧王都の状況から教えていただけますか?﹂
﹁うむ、そこからであろうな、セイカ卿﹂
﹁その前に殿下、ぼくに対し卿の敬称は不要です。ぼくは父から爵
位の継承は受けておりませんし、その予定もありません﹂
﹁む、そうであったか⋮⋮ではセイカ殿とお呼びしよう。年も近い
ようであるし、ボクとしても気安い﹂
王子は微笑と共にそう言った。
言動にいちいち気品があるな。
﹁さて旧王都であるが、具体的にどこの都市かはご存知か?﹂
﹁ええ。王都アスタから西に馬車で半日ほどの位置にある都市、プ
ロトアスタですね﹂
旧王都は、正確にはそんな名前の街だ。

487
意味は﹃かつてのアスティリア王都﹄とかそんな感じらしい。
王子はうなずいて話し始める。
﹁百年ほど前にあった遷都からその勢いは弱まっているが、プロト
アスタは未だ、我が国では大きな都市でな。遷都以降そこは、次代
の王位継承予定者が首長を務める慣例となっている。ボクが今回帝
都まで出向き、ここでそなたと会したのもそれが理由だ﹂
これは予想外だった。
単なる使節かと思ったが、王子自身が旧王都の長だったとは。
前世では聞いたことのない慣習だが、あらかじめ官僚の仕事を経
験させるという意味では理にかなっているかもしれない。
王子は続ける。
﹁そしてアスティリアのドラゴンは、遷都以前のさらに百年以上も

昔からあの地で人々と共に生きている。街のすぐそばに立つ山を住
みか
処としてな﹂
﹁それはすごい﹂
ぼくは素直に驚いた。
強大な化生の類が二百年以上にもわたって人と共に生きた例など、
前世でも知らない。守り神のような存在は別として、普通は人里の
ような場所で共存するのは難しい。
王子は神妙にうなずく。
﹁うむ。かつては先祖たちと共に、王都に迫る敵軍と戦い追い返し
たこともあったという⋮⋮しかし、セイカ殿もブレーズ卿から聞き

488
及んでいることと思うが、ここ一年ほどそのドラゴンの様子がおか
しくてな﹂
﹁ここ一年ほどのことなのですね。たしか、家畜や人を襲うように
なったとか﹂
﹁うむ⋮⋮﹂
王子が重々しくうなずく。
﹁被害はそれほど深刻ではない。家畜を襲うと言っても、放牧中の
はぐれ羊が数頭狙われた程度。人も、不用意にドラゴンの住まう山
に立ち入った街の外の人間が襲われただけだ。怪我はしたが、逃げ
る途中に崖から足を踏み外しただけで喰われてはいない。ただ⋮⋮
様子がおかしいのは確かでな。以前はこのようなことはなかったし、
明らかに警戒心が強くなっている。最近は特にひどく、城壁の外で
遭遇する街の人間にも威嚇する始末だ﹂
﹁ドラゴンが街の人間と、それ以外の人間とを区別しているのです
か﹂
﹁うむ。何度も見る顔は覚えるのだろうか。城壁の中にこそ降り立
たないものの、以前は街の周辺に広がる牧草地や畑近くに降り立ち、
なにやらぼーっとしていることも多かったそうだ。近くに人がいて
も気にすることなくな。しかしながら他の街から来る行商人や旅人
の中には、睨まれたり空から後を追われたと言う者が多くいる﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
縄張りの外から来る者を警戒しているのか?
ただ、その内側にいる人間を受け入れているのもよくわからない。
﹁そもそも、なぜアスティリアのドラゴンは人を襲わないのですか
? 文献などを読む限り、ドラゴンは人と共に生きられるモンスタ
ーとは思えませんが﹂

489
﹁正確なところはわからぬ。とにかく昔からそうだったのだ﹂
王子は言う。
﹁ただ、伝承はある⋮⋮あのドラゴンは、かつてアスティリアの王
かえ
妃によって卵から孵されたというものだ﹂
﹁人に孵されたドラゴン⋮⋮ですか﹂
﹁あくまで伝承だ。ドラゴンの卵はごくごくまれに市場に出回ると
聞くが、人が孵した例など聞いたことがない﹂
﹁⋮⋮﹂
ヘビやカメやトカゲの卵は、普通は何もせずとも孵る。
ドラゴンも似たようなものかと思っていたが、違うのか?
﹁被害は深刻ではないと言ったが、そう楽観視できる状況でもなく
てな﹂
王子が重々しく言う。
﹁家畜が怯えるせいで放牧に支障が出ているし、行商人も大きな商
いを控える始末だ。民の間にも不安が広がっている。さらには⋮⋮
帝国の警戒もある﹂
王子の視線が、ぼくにまっすぐ向けられる。
﹁セイカ殿には、今回の件をしかと見届けて欲しい﹂
王子が真剣な表情で言った。
表向きの地位は向こうの方が上だが、実際の立場はぼくの方が上
だ。ぼくの報告次第で、アスティリアの状況は良くも悪くもなる。

490
言いようから察するに、やはりアスティリアには、何かドラゴン
の問題を解決する策があるのだろう。
ぼくは笑みを返す。
﹁無論です、殿下。父から命じられたぼくの役目は、本件の学術的
な調査、考察、報告ですから﹂
中立に見てやる、という意味を込めて互いにわかりきった建前を
口に出すと、王子はふっと表情を柔らかくした。
﹁助かる。ただボクも、学術的な考察には興味があってな。どうだ
ろう、セイカ殿。現時点で、何かそなたに思うところはあるか?﹂
﹁そうですね⋮⋮﹂
ぼくは考える。
気になる点はあるものの、今は情報が少なすぎてなんとも言えな
い。
﹁いえ⋮⋮やはり現地におもむき、詳しい記録をあたってみないこ
とには﹂
﹁そうか。では、イーファはどうだろう﹂
と、そこで王子がずっと黙っていたイーファに目を向けた。
イーファは明らかに動揺した声を上げる。
﹁え、ええっ、わたしですか?﹂
﹁うむ。何か考えはないだろうか﹂
﹁わたしは⋮⋮セイカ、様がわからないなら、なにも⋮⋮﹂

491
王子は微笑して告げる。
﹁ボクが求めているのだ。主人に気を遣わなくてもよい。そなたの
意見が聞きたい﹂
﹁えええ⋮⋮うーん⋮⋮﹂
イーファはしばし悩んだのち、口を開く。
﹁あの、やっぱりわたしはよくわからないんですが⋮⋮過去に、同
じようなことはなかったんですか?﹂
﹁ふむ﹂
王子は顎に手をやって考え込む。
﹁聞いたことはないが、記録を見直す価値はあるかもしれぬ。感謝
するぞ、イーファ。これからはそなたの見識にも頼りたい﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
﹁そうだ。今宵、会食などはどうだろうか。セイカ殿も交え、じっ
くり話ができれば⋮⋮﹂
﹁若﹂
そばに立つ、亜人種の女性がぴしゃりと言った。
﹁護衛計画に差し障ります。自重を﹂
王子が苦い顔をする。
従者か護衛のようだが、立場は強いようだ。
絹糸のように細い白金の髪に翠眼。長身に、尖った長い耳。
エルフ
おそらく、森人だろう。

492
弓と魔法に秀でた種族。強い力の流れを感じるのもうなずける。
ただ気になるのは⋮⋮食堂で会ったときから、強い警戒の目を向
けられていることだ。
護衛のためとも違う気がする。
どちらかと言えば、前世でよく向けられていたものに近い。
畏れを含んだ目。
なんだろう。ぼくの力が察せられているのか?
でも、まだ会ったばかりなんだけどな。
﹁わかっている、リゼ﹂
エルフ
王子が苦い顔のまま森人に答える。
﹁すまない、セイカ殿。ボクの護衛はどうも心配性でな﹂
﹁⋮⋮いえ、お気になさらず﹂
﹁ではそろそろ失礼しよう。出立時にまた﹂
﹁ええ、殿下﹂
エルフ
王子と森人の護衛が退室していく。
気配が部屋の前から消えると、ぼくははぁ、と息を吐いて再び応
接椅子に腰を下ろし、背もたれに体を預けた。
こういうのは疲れる。
偉い貴族にへりくだっていた役人時代を思い出してしまった。
あれほんとうんざりだったな。ぼくが半ば失踪気味に陰陽寮を飛
び出した原因の一つだ。

493
立ったままのイーファが不安そうに聞いてくる。
﹁ね、ねぇセイカくん、わたし、不敬なこととかしなかったよね?
大丈夫だよね⋮⋮?﹂
﹁え? ああ。大丈夫大丈夫。意見も、かなりもっともなこと言っ
てたと思うしね﹂
過去にあった似た事例というのは、むしろ真っ先に探すべきこと
だ。そこから今後起こりうることや、解決策が導けることも多い。
あの王子の様子ではやってたか怪しいけど。
さっきまでのやりとりを思い出し⋮⋮ぼくはなんだかイライラし
てきた。
あの王子⋮⋮大丈夫か?
主人をおいて従者に意見を聞くって、少しでも失礼にとられると
は思わなかったのか?
というか他人の奴隷を後宮に誘った挙げ句買い取ろうだとか、平
時ならともかく今やることか?
そもそも女の従者連れて女口説こうとかどんな神経してるんだ?
駄目男、という言葉が否応なく思い浮かんでくる。
﹁あー、イーファ⋮⋮今回のことだけど、無理してついてこなくて
もいいよ﹂
﹁え、なんで? 無理してないよ。セイカくんについていくよ、従
者だもん﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
きょとんとするイーファに、ぼくはそれだけ返す。

494
まあ⋮⋮いいか。
彼も自分の状況は理解していたようだし、言葉遣いや所作も洗練
されていた。
底抜けの無能というわけでもないだろう。
属国とは言え王族。それも継承権第一位の王子だ。
地位も金もある。気に入られて悪い相手じゃない。
後宮ならきっと待遇もいい。輿入れ先としては申し分ないだろう。
ちらとイーファを見やる。
綺麗になった、と思う。学園の男子生徒からも人気があるようだ
し、他国の王子に見初められるのも無理はない。
この子も今年で十五。こちらの世界でも成人の年だ。
そろそろ自分の行く末を決める時が来ている。
手元から離れるのは惜しいが⋮⋮他国に伝手を作れるのも悪くは
ない。
イーファがもし望むなら、
アスティリアに嫁がせてやってもいいかもしれないな。
****
男子寮に戻る途中、強い力で茂みに引き込まれた。
﹁静かにして﹂

495
﹁洗いざらい吐いてもらうわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
口元を押さえられ、仰向けのままメイベルとアミュを見上げる。
いるなー、とは思っていたけど、まさかこんなことされるとは思
わなかった。
﹁あの王子様となに話してきたわけ?﹂
﹁⋮⋮何って、旧王都の状況とか、ドラゴンのこととか。昼に話し
ただろ﹂
メイベルが手をどけるのを待ってぼくが答えると、アミュが眉を
ひそめた。
﹁そんなことはどうでもいいの。訊きたいのはイーファのことよ。
わざわざあの子まで連れてったじゃない﹂
﹁あー⋮⋮﹂
﹁なによ⋮⋮まさか、イーファのこと売る気なの!?﹂
﹁違う違う。本当にドラゴンの話しかしなかったんだよ。だから話
せることなんてないってだけ﹂
﹁本当に?﹂
﹁本当だよ。まあ、殿下はイーファのことかなり気に入ってたみた
いだったけど﹂
少女二人は顔を見合わせた。
それから、メイベルが訊ねてくる。
﹁⋮⋮ほんとに、イーファを売ったりしない?﹂
﹁しないよ。ぼくそんなに信用ないか?﹂
﹁そうじゃない、けど﹂

496
﹁まあ、ただ⋮⋮﹂
ぼくは立ち上がり、服の汚れを払いながら言う。
﹁もしイーファが望むなら、奴隷身分から解放してあげるつもりだ
よ。帝国では成人の後見人が必要なせいで難しかったけど、アステ
ィリアでならそれもいらないはずだから﹂
﹁アスティリアでなら、って⋮⋮それ、イーファが後宮に入る、っ
てこと?﹂
﹁本人が、殿下の誘いを受けると言うのならね﹂
﹁あんたなに言ってんの? あの子がそんなこと言うわけないじゃ
ない﹂
﹁君らこそ何言ってるんだ?﹂
思わず少し咎めるような口調になる。
﹁イーファは今年成人なんだぞ。他国の王族に声をかけられる機会
なんてそうない。自分の将来を決める時なんだ。ぼくらが邪魔する
べきじゃないだろ﹂
聞いた少女二人は、微妙な表情をしていた。
メイベルが恐る恐る言う。
﹁セイカの言うこともわかる、けど⋮⋮そのこと、イーファには言
わないであげて。たぶん、悲しむと思うから﹂
﹁なんで悲しむんだ? それに言ってやらないと、ぼくに遠慮して
切り出せないかもしれないだろ﹂
﹁お願いだから﹂
﹁⋮⋮わかったよ。だけど本人が言い出したなら別だぞ﹂

497
﹁うん、それでもいい﹂
まだ何か言いたげなアミュの背中を押して、メイベルは去って行
った。
まあきっと、二人ともイーファのことが心配だったんだろうな。
駄目男っぽい王子に無理矢理後宮に入れさせられるのでは確かに
かわいそうだ。
安心してくれ、二人とも。
ぼくはイーファの意思を尊重するよ。
アミュもメイベルも、自分一人の力で生きていけるだけの能力が
ある。イーファもそうだろう。
学園でキャリアを積むのもいい。
だけど、そうじゃない選択肢だってあるんだ。
弟子のうちの何人かは、恵まれた才を持っていたにもかかわらず
そちらを選んだ。
幸せに生きて死んだ彼女らの人生を、ぼくは否定するつもりはな
い。
498
第三話 最強の陰陽師、外国に行く
二日後。
王子とその護衛隊の馬車と共に、ぼくとイーファはロドネアを発
った。
アスティリア王国はランプローグ領以上に遠い。
かなり長い旅路になる予定だ。
隣に座るイーファが心配そうに訊ねてくる。
﹁セイカくん、大丈夫? 気分悪くない?﹂
﹁ああ。もういい加減慣れてきたよ﹂

499
苦笑しながら答える。
何回も乗ってればさすがにね。乗り心地は相変わらずよくないけ
ど。
イーファはなおも言う。
﹁ダメそうだったらまた寝ててもいいよ? なにかあったら起こす
から﹂
﹁いざとなったらそうする。でもさすがにまだ眠くはないな﹂
﹁そう? ⋮⋮あ、そっか⋮⋮まだ初日だもんね⋮⋮﹂
﹁何?﹂
﹁ううん﹂
イーファが首を横に振って、小さく笑う。
﹁セイカくん、今まで一緒に馬車に乗ったときは、途中の宿でずっ
と起きててくれたでしょ? 明るいときに馬車の中で寝てたの、そ
のせいだったのかなって﹂
﹁あー⋮⋮気づいてたんだ﹂
大都市ならともかく、小さな街や村にあるような宿はほとんどが
大部屋で雑魚寝だ。
おかげでおちおち寝てもいられない。貴重品を持っていたり、若
い女でも連れていればなおさら。
だから去年領地から出てきたとき、ぼくは途中の宿で夜通し警戒
せざるを得なかったわけだけど⋮⋮別に、だから起きていたわけじ
ゃない。その程度はやろうと思えば全部式神に任せられる。
ぼくが夜起きていたのは、ただ馬車酔いが嫌で日中ずっと寝てい

500
たかったからだ。
七日も乗っていたのに最後まで慣れなかったのは、そのせいもあ
ったんだけど。
﹁気にしなくていいよ。あの時はむしろ馬車の中で起きてる方が辛
かったから﹂
﹁うん⋮⋮ありがとね、セイカくん﹂
イーファが笑って言った。
事実なんだけど、この子が本当に気にしないということはないだ
ろうな。
まあだからこそ、女子寮でもいろんな生徒に好かれてるんだろう
けど。
﹁でも今回、宿の心配はしなくてよさそうだ。あれだけ護衛がいる
し、きっと事前に手配くらいしてるだろう﹂
何せ王子だしね。
人数が人数だから野営になるかもしれないが、それでも田舎の宿
よりはずっと快適になるはずだ。
﹁こんなにいい条件で他の国に行けることはそうそうないだろうな。
ドラゴン様々だよ﹂
﹁⋮⋮ドラゴンかぁ。でもすごいよね、人とドラゴンが一緒に暮ら
してるなんて﹂
イーファは視線を上げ、楽しげに言う。
﹁竜騎士みたいに、背中に乗ったりできるのかな?﹂
﹁竜騎士はおとぎ話じゃないか。イーファ、そういうの好きだよな

501
⋮⋮現実にはとても無理だよ﹂
﹁そうだけど、実際に仲良くしてるんだし﹂
﹁いや仲の問題じゃなくてね⋮⋮﹂
あやかし
妖もそうだが、羽の生えてるやつに乗って飛ぶというのは難しい。
ぼくも妖に乗るときは、完全に神通力のみで飛ぶものを選んでい
みずち
た。具体的には蛟とか。
どう説明するか迷っていると、イーファがふと思い出したように
言う。
﹁そういえば出発前に、セシリオ殿下から一緒の馬車に乗らないか
って誘われたよ﹂
﹁えっ!?﹂
﹁ドラゴンのことを詳しく話したい、って言われて﹂
﹁へ、へぇ⋮⋮﹂
あの王子⋮⋮ドラゴンの話をするのにぼくには一言もなしか?
いや、わかる。ドラゴンは口実で目的はイーファなんだろう。し
かし建前なら建前として、ぼくへの礼儀を通すとかないのか?
そもそも今の状況で、そんなことをしている場合なのか?
ぼくは顔を引きつらせながら聞き返す。
﹁そ⋮⋮それで?﹂
﹁もちろん断ったよ。セイカくんの従者ですから、って﹂
と、イーファは苦笑いを浮かべて言う。

502
﹁困っちゃうよね。まさかわたしなんかを、本気で後宮に迎えたい
わけじゃないと思うけど﹂
﹁いや⋮⋮一応、真剣に誘ってたと思うよ﹂
﹁そうかな? もしそうなら、ちょっとだけうれしいかな﹂
イーファが少し照れたように言った。
もやもやした気持ちを抱えたまま、馬車は進んで行く。
****
九日後。
ぼくたちの目の前に、城壁に囲まれた目的の都市が姿を現した。
アスティリア王国旧王都、プロトアスタ。
山々を背にし、周囲には草原が広がる、のどかな場所に立つ都市
だ。
かつて王都だったという割りには少し小さい気もしたが、どこか
威厳と歴史を感じさせる佇まいをしている。
城門よりもかなり手前で、馬車が止まった。
﹁ど、どうしたんだろ?﹂
﹁んー⋮⋮城門が詰まってるみたいだな﹂
窓から顔を出しながら、ぼくは答える。

503
入城待ちしているのは商人たちの馬車のようだった。混雑すると
きに着いてしまったのかもしれない。
しかし、なかなか数が多いな。帝国の街道も通っているし、大都
市というのも本当らしい。
﹁セイカ殿﹂
馬車の外から声をかけられる。
見ると、自分の馬車を降りた王子が、数人の護衛を伴ってこちら
に歩いてきていた。
﹁申し訳ない。少しばかり時間がかかるようだ。今のうちに外の空
気を吸ってはどうか﹂
﹁ええ。そうしましょう﹂
ぼくは顔を戻し、イーファに声をかける。
﹁降りようか﹂
﹁うん、そうだね﹂
イーファは先に馬車を降りると、うーんっ、と伸びをした。
﹁わぁ。いいところだね﹂
と、楽しげに草原を歩く。
ぼくよりも元気そうだけど、さすがにずっと馬車の中では疲れた
だろう。
ぼくの近くでイーファの姿を目で追っていた王子に話しかける。

504
﹁気持ちのいい場所ですね﹂
王子がふっと笑う。
﹁そうであろう。ボクもここは好きだ。もっとも⋮⋮今は前ほど、
のどかな場所ではなくなってしまったが。入城に手間取っているの
もそのせいだ﹂
﹁何かあったのですか?﹂
﹁どうも商人たちの馬が怯えているようでな。つい先ほどから⋮⋮﹂
そのとき。
強大な力の気配を、ぼくは全身で感じ取った。
大地を滑るように、大きな影が差す。
空を見上げ︱︱︱︱思わず目を瞠った。
﹁⋮⋮あれが﹂
悠然と翼を広げ、巨大なモンスターが上空を飛行していた。
シルエットは羽の生えたトカゲに近い。
だがその存在感は、龍のそれに迫るほどだ。
あれが、ドラゴン。
絵ならば文献で何度も見たが、実物を目にするのは初めてだ。
こちらの世界にもあれほど強力な化生の類はいるんだな。
﹁⋮⋮まだ去らぬか﹂
隣で王子が忌々しげに呟く。

505
ぼくの視線に気づくと、説明を始めた。
﹁少し前からこの辺りを飛び始めたようなのだ。商人の馬車が一時
に来たせいで警戒しているのだろう。馬が怯えているのもそのせい
だ。もっとも、こちらが何もしなければ襲われることはない﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
確かにあまり敵意は感じない。人と共に暮らしているというのも
本当らしい。
一応備えだけはしつつ、ぼくは訊ねる。
﹁ずいぶん大きいですね。文献でも、あそこまで大きいと記されて
いるものはほとんどなかった﹂
頭から尻尾までで、だいたい十丈︵※約三十メートル︶以上はあ
る。
﹁どうやら、そのような種であるとのことだ。グレータードラゴン
というらしい﹂
﹁⋮⋮そうでしたか﹂
そういうの、事前に言ってほしかったな。わかっていればもっと
詳しく調べられたのに。まあいいけど。
﹁ところで馬車を警戒しているとのことですが、大丈夫ですか?
ぼくらが来たことで、さらに馬車が増えてしまいましたが﹂
﹁心配はない。多少刺激してしまったかもしれないが⋮⋮﹂
と、そのとき。
山へ飛び去るかと思われたドラゴンが、上空で巨躯を旋回させた。

506
高度を下げ、あろうことかぼくらの方へと迫ってくる。
﹁あの、こっち来てますが﹂
﹁うむ。やや警戒しているようだな﹂
王子が動じることなく言う。
見ると、他の護衛の人たちも平然としていた。いつものことなん
だろう。
ドラゴンはさらに高度を下げ、そのゴツゴツした顔付きや黒みを
帯びた鱗がわかるほどに近づいてきた。
そしてそのまま、ぼくらのすぐ上を飛び去っていく。
突風が馬車の幌を叩き、怯えた馬たちがいななきを上げる。
少し離れたところにいたイーファも、わぁっ、とか言いながら尻
餅をついていた。
ぼくはドラゴンの後ろ姿を眺めながら言う。
﹁図体はでかいですが、やっていることは巣を守るカラスと変わり
ませんね﹂
﹁⋮⋮セイカ殿は豪胆であるな。屈強な冒険者でも、慣れぬうちは
悲鳴を上げていたが﹂
王子がやや驚いたように言った。
﹁しかし、その通りだ。このまま何もしなければそのうちに去ろう﹂
ドラゴンがまた上空で体を反転させた。
だが、先ほどよりはやや高度が高い。王子の言う通り、もう一回

507
威圧したら帰るつもりなのかもしれない。
再びドラゴンが迫る。
そのとき。
今度は地上から、明確な力の流れを感じた。
﹁︱︱︱︱焦熱の地より来たれ、︻ラーヴァタイガー︼﹂
男の声が響く。
そしてどこからともなく、身の丈を超えるほどの赤黒い獣が突如
現れた。
巨大な獣は周囲に熱波を撒き散らしながら草原を疾駆すると、高
く跳躍。迫ってきていたドラゴンに向かって襲いかかる。
その爪も牙も、わずかに空のドラゴンまでは届かない。
しかしドラゴンはおののいたように一度大きく羽ばたくと、その
まま山の方角へと飛び去っていった。
すが
敵に逃げられ、吠え猛る獣を見て、ぼくは目を眇める。
それは、溶岩獣とも呼ぶべき姿をしていた。
赤黒く見えた皮膚は、すべて鉱物と溶岩でできた鎧だ。丸みを帯
びた顔、猫に似たしなやかな体つき、そして赤と黒で描かれた縞の
出来損ないのような模様だけがかろうじてトラを思わせる。だがそ
の体躯は、本来のトラの三倍近くあった。
あれはラーヴァタイガー⋮⋮本来なら火山に棲むはずのモンスタ
ーだ。

508
﹁まずいな﹂
ぼくは呟く。
溶岩獣は、ドラゴンに逃げられてもなお興奮が収まっていなかっ
た。
怒りのこもった唸り声を上げ、体を震わせ︱︱︱︱そして鬱憤を
晴らすかのように、今度は一人離れたところに立っていたイーファ
へと襲いかかった。
イーファは目を見開いたまま立ちすくんでいる。
逃げる気配も、抵抗する様子もない。
ぼくは眉をひそめながら、片手で印を組む。
とおとりで
︽土の相︱︱︱︱透塞の術︾
半透明の柱の群れが、溶岩獣の前に立ち塞がった。
飛びかかったラーヴァタイガーが柱に噛みつくが、巨木並みの太
さだけあってさすがにビクともしない。
いや⋮⋮よく見ると、表面が熱で溶けているようだ。
とおとりで
︽透塞︾の石英は溶岩程度の熱なら耐えるはずなんだけど⋮⋮あ
の鎧は、思ったよりも温度が高いみたいだな。
王子を置いて、ぼくは前に進み出る。
なんだかよくわからないが、とりあえずあれは危ないから消して
おこう。
ぼくの気配に気づいた溶岩獣が、その眼光をこちらに向けた。
灼熱の脚が草原を蹴り、ぼくへと向かってくる。

509
その牙が剥かれ。
同時に、ぼくが不可視のヒトガタから術を放とうとした瞬間︱︱
︱︱。
まるで見えない手綱を引かれたかのように、ラーヴァタイガーは
その体を仰け反らせた。
﹁どうどう⋮⋮まったく、こいつぁすぐ暴れやがる﹂
再び、あの男の声が響く。
声の元を見やると︱︱︱︱黒いローブを着た魔術師が、数人の取
り巻きとともに歩いてきていた。大きなフードをすっぽりと被り、
右手で本を開いたまま持っている。
あれは⋮⋮魔道書か?
﹁おい大人しくしろ。そいつぁ契約違反だ﹂
溶岩獣は暴れるものの、動きを妨げられている様子だった。
ラーヴァタイガーを縛る魔法は、どうもあの魔道書と繋がってい
るらしい。
﹁はぁ。もういい、還れ﹂
魔術師がパタンと本を閉じると、溶岩獣は光の粒子へと変わり、
ページの間に吸い込まれていった。
ようやく確信する。
サモナー
あの男は召喚士だ。

510
モンスターと契約し、自在に呼び出して戦わせる後衛職。
ラーヴァタイガーはあの男の召喚獣だったんだろう。
﹁いやぁ、危ない危ない。ご無事で? セシリオ王子殿下﹂
軽薄そうな口調で、召喚士の男がこちらに歩いてくる。
﹁ゼクトッ!! 貴様どういうつもりだッ!﹂
それに対し、王子は表情を歪ませて一喝した。
﹁ドラゴンに危険がないことはわかっていたはずだ! なぜあの召
喚獣をけしかけた!? 帝国からの客人に危害がおよぶところだっ
たのだぞ!!﹂
﹁そりゃあねぇぜ殿下。せっかく助けたってのに﹂
ゼクトと呼ばれた男が肩をすくめる。
﹁危険がないなんて言い切れるかよ。オレらを呼んだのは殿下なん
だ。依頼主に死なれちゃあこっちが困る。むしろ、城壁の外を軽々
しく出歩かねぇでほしいもんだね。それに殿下がいない間に、こっ
ちの状況だって変わったんだ﹂
﹁状況が変わった?﹂
﹁ここ数日、ドラゴンの飛ぶ頻度がめっきり減った。だがその代わ
り、かなり気が立っているようだ。ここらに降り立ったタイミング
で吠えられた住民が何人もいる。わかるか? さっきだって危なか
ったんだぜ?﹂
言われた王子は押し黙る。

511
なんなんだ? こいつは。
﹁殿下、こちらの方は?﹂
ぼくが訊ねると、王子はこちらに目を向けて口を開く。
﹁失礼した、セイカ殿。彼はボクの呼んだゼクト傭兵団の長、ゼク
トだ。ゼクト、こちらはドラゴンの調査使節であるセイカ・ランプ
ローグ氏だ。帝国伯爵家の子息でもある。くれぐれも失礼のないよ
うに﹂
﹁はぁん。まだガキ⋮⋮おっと失礼。殿下以上にお若いにもかかわ
らず調査使節とは、大層なこって﹂
舐めた態度の男を無視し、ぼくは疑問を口にする。
﹁傭兵団ですか? いったいなぜそんなものを﹂
王子は一瞬口ごもると、やや苦々しげに答える。
﹁ドラゴンを討伐するためだ﹂
はい?
512
第三話 最強の陰陽師、外国に行く︵後書き︶
※透塞の術
石英の柱を生み出す術。主成分の二酸化ケイ素は融点1650℃、
化学的に安定で強度にも優れる。地殻中に最も多く存在する分子で
もある。
513
第四話 最強の陰陽師、叱る
﹁討伐⋮⋮? あのドラゴンを?﹂
﹁そうだ﹂
呆けたようなぼくの問いに、王子はうなずく。
﹁この事態を解決するには、もはやそれしかない﹂
ぼくは気づく。
アスティリア側が用意していた策って⋮⋮ひょっとしてこいつら
か?

514
﹁⋮⋮そのようなことが、可能だと?﹂
﹁ああ。セイカ殿も見たであろう。ゼクトの召喚獣がドラゴンを蹴
散らすのを。あのモンスターを、ドラゴンは恐れる﹂
ぼくは考えを巡らせる。
ラーヴァタイガーは人間に比べれば大きいが、それでもあのグレ
ータードラゴンよりはずっと小さい。
だが、確かにドラゴンはあの溶岩獣にひるんでいる様子だった。
てんじく えみし
天竺︵※インド︶やアフリカの南方に棲むミツアナグマや、蝦夷
の地のはるか北の果てに棲むとされるクズリは、体は小さいながら
ヒグマ
もその凶暴さで獅子や羆に向かっていくという。
おそらく、ドラゴンにとってのラーヴァタイガーもそれに似た関
係なんだろう。確かにあの鎧を見るに火炎の息吹も効かなさそうで
はある。
ただ⋮⋮倒すのは無理だ。
獅子や羆と違い、ドラゴンには飛行能力がある。
ちらと、ゼクトとその取り巻きを見やる。
全員で十人にも満たず、ゼクト以外には剣を提げる者ばかりで魔
術師は見当たらない。他にもいるのかもしれないが、そもそも頭数
をそろえたところでどうにかなるとは思えない。
ぼくは王子に告げる。
﹁考え直された方がいいと思いますよ、殿下﹂
﹁な⋮⋮何?﹂

515
﹁あのモンスターでドラゴンは倒せないでしょう。向こうに争う気
がないなら逃げてくれるでしょうが、本気で立ち向かわれれば勝ち
目はありません。体躯が段違いですし、空を押さえられているのが
大きい。負傷を恐れずに向かって来られればバラバラにされますよ。
いや⋮⋮負けるならまだいい。最悪の展開は、巣を放棄され、この
地から逃げられることです。それこそ、帝国が最も恐れる事態にも
なりかねない﹂
﹁おうおうずいぶん好き勝手言ってくださる学者様だなぁ!﹂
ゼクトがぼくに詰め寄る。
フードの下から覗く頬のこけた顔は、病的なまでに白い肌をして
いた。
﹁オレらはドラゴン退治なんてもう何回もやってんだよ! 最強の
モンスターでも対策練って準備すりゃあ勝てるんだ。学者の坊ちゃ
まも、専門外のことには口を挟まないでもらえますかねぇ!﹂
﹁⋮⋮これは失礼﹂
ぼくはにっこりと笑って言う。
﹁確かに専門外です。モンスター退治には、モンスター退治の作法
があるのでしょう。でも⋮⋮あなたもあなただ。専門家ならあまり
不用意なことは避けてもらいたい。先ほどは危なかった。なんとか
止められたからよかったものを﹂
﹁はっ、あの土魔法はお前か? あんなものなくてもオレが抑えら
れていた﹂
﹁抑える⋮⋮? 違いますよ﹂
ぼくは皮肉を込めて告げる。

516
﹁大事な大事な召喚獣を、ぼくの前に軽々しく出さないでほしいと
言ったんです︱︱︱︱危うく、消し炭にしてしまうところでした﹂
﹁あ⋮⋮?﹂
﹁そうなれば、あなたも困ったでしょう?﹂
ゼクトが顔を引きつらせる。
﹁オレのラーヴァタイガーを、消し炭にするだと⋮⋮? てめぇ、
ずいぶん言うじゃねぇか⋮⋮﹂
﹁もうやめろ! いい加減にしないか!﹂
王子がぼくたちの間に割って入る。
﹁ゼクトッ! 失礼のないようにと言ったはずだぞ! もうここは
いい、戻っていろッ!﹂
﹁チッ⋮⋮へいへい。了解ですよ殿下。オレらの仕事は、こんなこ
とじゃあないですからね﹂
街の方へ去って行くゼクトとその取り巻きを眺めていた王子は、
それからぼくへと振り返る。
﹁セイカ殿、そなたもそなただ。あのような荒くれ者を挑発するも
のではない﹂
﹁失礼。ぼくの従者に危険がおよんだもので、つい﹂
そう言うと、王子は押し黙った。
ぼくは小さく溜息をついて、一つ訊ねたかったことを口にする。
﹁話を戻しますが殿下。ドラゴン討伐の件は、女王陛下や民の信任
を得ていますか?﹂

517
﹁っ、それは⋮⋮﹂
﹁旧王都のドラゴンは、アスティリアの象徴のようなものだ。長く
共に暮らしてきた隣人を討つことに、陛下や民は同意しているので
すか?﹂
﹁⋮⋮関係ない﹂
王子は、自分に言い聞かせるように言う。
﹁プロトアスタの首長はボクだ。今回の件は、すべてボクに一任さ
れている﹂
﹁それは女王陛下のご意志で?﹂
﹁首長の権限は法で定められていることだ。法は王の意思に優越す
る﹂
法治か。
結構なことだが、今はその欠点が出ているな。
﹁母も、民も、きっとわかってくれるはずだ﹂
﹁ですが⋮⋮﹂
﹁セイカ殿。これはプロトアスタと我が国の問題だ。そなたの責務
には関係ない。口を挟まないでもらいたい﹂
﹁⋮⋮おっしゃる通りです。出過ぎたことを申しました﹂
﹁ドラゴンの問題は必ず解決しよう。そなたはそれを見届け、報告
してくれればそれでよい﹂
﹁⋮⋮ええ、そうですね﹂
なんとも不安だ。
この王子が浮き足立って独断専行しているようにしか見えない。
というか事実そうだろう。

518
あの傭兵団も、どうも怪しい。
ただ、今はこれ以上何か言える雰囲気でもない。
仕方ない。
とりあえず、もう一つやるべきことをやるか。
﹁イーファ﹂
ぼくは、こちらに戻ってきていたイーファを振り返った。
怪我はないように見える。
それはよかったものの⋮⋮。
﹁え、う、うん。なに? あ、セイカくんさっきはありが⋮⋮﹂
﹁どうして魔法を使わなかった?﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
ぼくの厳しい声に、イーファは面食らったように口ごもる。
﹁何をためらっていたんだ。死んでもおかしくなかったんだぞ﹂
﹁えと、それは⋮⋮びっくりして⋮⋮﹂
﹁君はびっくりしたら死ぬのか? それとも誰かに助けてもらうこ
とにしているのか?﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁セ、セイカ殿!? 何もそのような⋮⋮﹂
驚いたように口を挟む王子を無視し、ぼくは続ける。
﹁ぼくだっていつでも近くにいられるわけじゃない。ぼくがいない
時、危険が迫ったら君はどうするんだ﹂

519
﹁⋮⋮﹂
﹁ドラゴンの調査だと言ったはずだぞ。それに、そもそも国外への
旅だ。賢い君なら、危険があるのは承知だと思っていたんだけどな。
魔法の実力が十分だからといって連れてきたのは間違いだったか?﹂
﹁ご⋮⋮ごめん、なさい⋮⋮﹂
﹁セイカ殿! 何もそのように責めることはないだろう! 恐ろし
いモンスターに襲われたのだ、竦んでしまうのも仕方ない。イーフ
ァも気にすることはないぞ。そなたは女性なのだから⋮⋮﹂
﹁女だから何だと?﹂
ぼくは王子を横目で睨む。
﹁殿下、これはぼくとイーファの話です。あなたの責務には関係な
い。そうでしょう?﹂
﹁うっ、しかし⋮⋮﹂
﹁イーファ。これから自分の身は自分で守れとは言わないけど、せ
めて魔法は使え。いや、魔法でなくてもいい。逃げたり、誰かに助
けを求めるでもいい。とにかく自分から行動する、それだけでいい
からやるんだ。君が一人でなんとかできるようになるまでは、ぼく
が助けてあげるから。わかった?﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂
﹁ん﹂
落ち込むイーファの頭を撫でてやる。
﹁⋮⋮少し厳しすぎるのではないか、セイカ殿。イーファは女性な
のだぞ。なぜ争い事を覚えさせる必要がある﹂
﹁女性女性としつこいな。この子には力があるんだ。振るうべき時
に振るえないことにどんな利点がありますか﹂
﹁⋮⋮﹂

520
﹁城門の前が空いたようです。そろそろ馬車へ戻りましょう。行く
よ、イーファ﹂
﹁う、うん﹂
涙声のイーファの手を取り、ぼくは馬車へと歩いて行く。
少しかわいそうだが、仕方ない。
恐怖に竦むのは誰にでもあることだ。
そんなとき、人は強く背を叩かれないと動けない。
ぼくの場合それは、唯一仲のよかった兄弟子が目の前で喰われた
ことだった。
あの時のことは忘れていない。
あやかし
無我夢中で位相に封じたあの妖は、今も駒として使っている。
この子に、あんな思いはさせたくなかった。
521
第五話 最強の陰陽師、調べる
プロトアスタは、にぎやかだが歴史を感じさせる街だった。
発展が比較的新しいロドネアや、過去に大火で街が派手に焼けた
帝都と違い、古い建物が数多く残っている。
観光とかしてみたかったが、さすがにその日は疲れてそんな気力
もなかった。
会食などもなし。王子も溜まっていた政務には手を付けず、すぐ
に休むと言っていた。
まあ無理もない。

522
****
で、その翌日。
ぼくとイーファは、旧王城内に作られた図書館に来ていた。
目的はもちろん、ドラゴンの記録を調べるためだ。
この街でなら、ロドネアで探すよりも多くの文献が見つかると思
っていたのだが⋮⋮予想以上に立派な図書館があって驚いた。アス
ティリアにある書物は、ほとんどが写本を作られてここに集められ
るらしい。
おかげで文献探しも大変だ。
ただその分、予想以上に資料を見つけられた。
今は中身を調べているところだ。
イーファにも手伝ってもらっている。ただ彼女はこちらの古語が
読めないので、思った以上にはかどらない。
﹁⋮⋮むしろセイカくんは、どこでそんなの覚えたの?﹂
﹁屋敷の書庫でね﹂
幼少期に覚えた異言語の一つだ。
話すことも聞くこともできないが、読み書きは問題なくできる。
今はアスティリアでも帝国の公用語が使われているが、百年以上
前の記録となると古語の資料も多かった。
そして、古い書物ほど知らない情報が書かれている。

523
その中には、重要そうなものもあった。
﹁セイカくん⋮⋮わたしの分、終わったよ。そっちはなにか見つか
った?﹂
疲れた様子のイーファが歩いてくる。
公用語の文献だけでもけっこうあったからな。でも、この様子で
は収穫はなかったか。
ぼくはうなずいて答える。
﹁ああ。百五十年ほど前にも、今と似たようなことが起こっていた
みたいだ﹂
アスティリアのドラゴンが生まれたのは、はっきりとした記録は
ないものの数百年前のことらしい。
王妃によって卵から孵されたというが、定かではない。確かなの
は、成体となってから数百年間、山を中心に縄張りを張って街の住
民と共に暮らしてきたということだ。
それが変わったのは、二百年ちょっと前のことだった。
あるとき縄張りに、もう一頭別のドラゴンがやってきた。
アスティリアのドラゴンは初め、望まぬ闖入者だったそのドラゴ
ンを追い払っていたものの、やがて住処の山で共に暮らすようにな
る。
つが
アスティリアのドラゴンは雄、新たなドラゴンは雌で、番いとな
ったらしい。
つが
雌のドラゴンも、番いとなった後は街の人間に興味を示さなくな

524
った。
初めは恐れていた住民たちも、次第にそのドラゴンを受け入れ始
め、やがて街にはそれまでの生活が戻った。
だが五十年ほど経って、またドラゴンたちの様子が変わる。
二匹共に警戒心が強くなり、はぐれた家畜を襲ったり、外から来
る人間を威嚇するようになったのだ。
ちょうど今のように。
それが百五十年前のこと。
当時、その理由はほどなくしてわかった。
様子がおかしくなって一年ほど経ったある日から、住処の山に子
供のドラゴンの姿が見られるようになったのだ。
﹁え、じゃあ赤ちゃんを育てるためだったってこと?﹂
﹁そういうことだろうな﹂
生き物が産卵前や子育て中に気が荒くなることは珍しくない。
家畜を襲っていたのも、土地の魔力だけでは体力を蓄えられなか
ったのかもしれない。
子供のドラゴンは順調に育っていった。
産卵は何回か時期を分けて行われたようで、先に生まれた子供が
後に生まれた子供の面倒を見る姿もあったという。
大きくなると、子供のドラゴンたちは巣立っていった。
どこに行ったのか、記録にはない。ただ、とにかく遠い地を目指
したのは確かだろう。
子供のドラゴンがすべて巣立ち、さらに五十年近い時が過ぎて︱

525
︱︱︱雌のドラゴンが死んだ。
記録には自然死とある。
あやかし
モンスターに寿命があるのかはわからない。ただ妖でも管狐など
つが
は、番いにし仔を産ませるとやがて死んでしまう。それに近いもの
だったのかもしれない。
それから、アスティリアのドラゴンはめっきり大人しくなってし
まった。
縄張りはそれまでよりずっと狭くなり、街の敵やモンスターに対
する攻撃性も、すっかり鳴りを潜めた。
これが今から百年ほど前のことだ。
アスティリアが帝国の属国となったのも、そもそもこれが理由だ
という。
当時は、魔族が侵攻の気配を見せていた時期だった。
砦のいくつかを落とされ、絶対的な王都の守護者だったドラゴン
にも頼れなくなっていたアスティリアは、帝国の皇族と類縁関係を
結び、軍を国内に招き入れることでその庇護下へと入った。
実質的に支配された形だが、背に腹は代えられなかったのだろう。
その甲斐あってか、魔族の軍はそれ以上の侵攻を諦め撤退したら
しい。
その後ほどなく、行政上の理由から遷都がなされ、この街は王都
から旧王都となった。
現在でも土地は王が所有しており、王族から選ばれた首長が統治
する慣習となっている。今は、セシリオ王子がそれだ。
街のいろいろな変化を、アスティリアのドラゴンは長い間ただ静
かに見守ってきたのだろう。

526
つい最近までは。
﹁そうだったんだ⋮⋮でもそれ、今回のことにはあんまり関係ない
んじゃないかなぁ﹂
イーファが言う。
﹁今は、ドラゴンはあの一匹だけなんでしょ?﹂
﹁ああ。しかも今いるのは雄だ。まさか子育て中でもないだろう。
ただ、なぁ⋮⋮﹂
どうも関係ないとは思えない。
例によってただの勘だけど。
こういうときは⋮⋮やはり行動あるのみか。
﹁山に登ってみるよ﹂
﹁えっ! や、山って⋮⋮まさか、ドラゴンが棲んでる?﹂
﹁ああ﹂
現地を訪れ、実際にドラゴンを近くで見てみるのが一番だ。
生物学でも妖怪研究でも観察が大事だからね。
イーファが唖然としながら言う。
﹁あ、危ないよ。いくらセイカくんでも、ドラゴンには敵わないん
じゃ⋮⋮﹂
﹁別に戦うつもりはないよ。見つかったら逃げればいい。勝つのは
無理でも、それくらいなら難しくないから﹂

527
実際にはただ倒す方がよほど楽だけど。
﹁そ、そう? それじゃあ、わたしも⋮⋮﹂
﹁いや、イーファは待っててくれ。たぶん一日じゃ済まないだろう
し、さすがに危ない﹂
あまり見せたくない術や妖を使うことになるかもしれない。
領地で魔石探しに山へ入った時とは、さすがに状況が違った。
﹁あ、あはは、そうだよね⋮⋮﹂
怒られた時のことを気にしてるのか、少し気落ちしたようなイー
ファに、ぼくは笑って言う。
﹁気にしなくていいよ。いくらなんでも、山にまで君を連れて行く
ことは最初から考えてないから。元々夏休みなんだし、のんびりし
ててくれ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
しょんぼりとうなずくイーファ。
うーん⋮⋮昨日はちょっと言い過ぎたかな。
528
第六話 最強の陰陽師、添い寝する
その日の夜。
明日準備するべき物を考えていると、あてがわれた部屋の扉がノ
ックされた。
﹁はいはい⋮⋮って、イーファ?﹂
使用人かと思って出てみると、そこに立っていたのは寝間着姿の
イーファだった。
少し不安そうな様子で、イーファは言う。
メイド
﹁セイカくん⋮⋮実は、その⋮⋮さっき部屋に、侍女さんが来て⋮

529
⋮セシリオ殿下が呼んでるって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮は? 君をか? こんな時間に?﹂
﹁わたしと話したいからって、言ってたんだけど⋮⋮﹂
ぼくは顔を引きつらせる。
おい⋮⋮順番があるだろ。
まずは恋文で歌を贈るとかないのか⋮⋮いやこれは前世の話だっ
た。
百歩譲ってもお前が来いよ、どれだけやんごとない立場のつもり
なんだ⋮⋮いやこれも前世の話だし、向こうは皇子、じゃない王子
だった。
い、いや落ち着け。なんか混乱してるな。
しかしどういうつもりだあの王子。お前の恋人でも侍女でもない
んだぞ。というか本当に、今女にうつつを抜かしてる場合なのか?
﹁ど、どうしよう⋮⋮﹂
泣きそうなイーファに、ぼくは手を振って言う。
﹁あー、行かなくていいよ。あのバ⋮⋮殿下にはぼくから言ってお
くから﹂
﹁う、うん。その⋮⋮﹂
﹁⋮⋮もしかして、部屋に一人でいるの不安か?﹂
﹁⋮⋮うん﹂
イーファがこくりとうなずく。
来客用の部屋が与えられてるとはいえ、そもそもここ、プロトア

530
スタ首長用の公邸だしな。無理もない。
﹁じゃあ、こっちで寝る?﹂
﹁! う、うん﹂
﹁わかったよ。おいで﹂
イーファがこくこくとうなずいたので、ぼくは笑って招き入れる。
そういえば前世でも、親を亡くしたり、戦火で焼け出されたばか
りの弟子は、一人で寝るのを怖がってぼくや兄弟弟子のそばで寝て
いたっけ。なんとなくそんなことを思い出す。
ただ、この子の場合ちょっとその⋮⋮目のやり場に困るというか。
やっぱり制服だと着痩せしてたんだな。考えてみれば、イーファ
も大きくなってるんだから成長していて当たり前⋮⋮。
いや、これ以上はよそう。
ぼくは灯りのいくつかを消しながら言う。
﹁イーファ、ベッド使っていいよ。ぼくはもう少し起きてるから、
後で長椅子ででも寝る﹂
﹁え! わ、悪いよ。わたし、従者なのに⋮⋮﹂
﹁いいって。子供は遠慮するもんじゃない﹂
﹁こ、子供って、セイカくんの方が年下でしょ⋮⋮。じゃあ、その
⋮⋮一緒に寝よ?﹂
﹁え?﹂
﹁ほ、ほら、ここのベッド大きいから⋮⋮二人でも大丈夫だよ﹂
恐る恐る言うイーファに、ぼくは少し笑って答える。

531
﹁じゃあそうしようか。それなら、ぼくももう寝ようかな﹂
灯りを消していると、頭の上でユキがもぞもぞと動き、耳元で言
う。
﹁あ⋮⋮セイカさま。でしたらユキは、どこかへ行っておりますね
⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? なんでだ? むしろ今出て行くと見つかるからやめろっ
て﹂
ささやき返すと、ユキはしばらく沈黙した後、またもぞもぞと頭
の上に戻った。なんだよ。
最後の灯りを消すと、ベッドの隣で固くなっていたイーファが言
う。
﹁よ、よろしくお願いします﹂
﹁何が⋮⋮? いいから入りなよ、ほら﹂
ベッドに横になりながら掛け布団を捲ってやると、イーファもい
そいそと潜り込んできた。
ぼんやりと天蓋を眺めながら、ぼくは考える。
山に入ってからイーファを一人ここに残しておくのは、やっぱり
少し心配だ。念のため式神を置いていこう。こちらにはあまり注意
を向けられないだろうから、ちゃんと式を組んだうえで。
月明かりだけが差し込む部屋。
日本と違い、夏でもこの世界の夜は静かだ。
稲作が盛んじゃないから水田がなく、おかげでカエルや虫の鳴き

532
声を聞かない。
話をするには、いい機会かもしれないな。
﹁イーファ﹂
﹁は、はいっ!﹂
隣で素っ頓狂な声を上げるイーファに、ぼくは言う。
﹁セシリオ王子のこと、どう思ってる?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
イーファの声が、困惑の色を帯びる。
﹁どうって、特になにも⋮⋮﹂
ハレム
﹁殿下の後宮に入るって話、考えたりしてるか?﹂
﹁え⋮⋮か、考えてないよ! どうして急にそんなこと⋮⋮﹂
﹁ぼくに遠慮しているなら、大丈夫だから。正直に言ってくれてい
い﹂
﹁な、なんで⋮⋮わ、わたしっ、そんなに迷惑だった?﹂
﹁え?﹂
イーファが震える声で言う。
﹁き、昨日のことなら、謝るから⋮⋮ちゃんと、魔法を使えるよう
になる。こ、公用語以外だって勉強して、ぜったい読めるようにな
るよ! だ、だからっ⋮⋮﹂
﹁いや違う違う。そうじゃない﹂
ぼくは体を横にして、隣のイーファを見やる。

533
こちらを見つめる少女の目元は、薄暗い中でも濡れていることが
わかった。
ぼくは腕を伸ばし、それを指先で拭ってやりながら言う。
﹁誤解だよ。別に、君が邪魔になったわけじゃない﹂
﹁そう、なの? じゃあ、どうして⋮⋮﹂
﹁悪い話じゃないと思うんだ﹂
ぼくは言う。
メイベルとの約束を破ってしまうのは心苦しいが⋮⋮やっぱりこ
のことはきちんと話すべきだ。
﹁帝国の属国に過ぎないとはいえ、王族の後宮だ。有力な貴族の娘
でもない限り、本当なら望んだって入れるような場所じゃない。後
ろ盾がないと苦労するかもしれないけど、君ならやっていけると思
うよ。ぼくのせいで難しい立場で入学したのに、学園でもあんなに
友達ができたんだから⋮⋮。もし君が望むなら、アスティリアで解
放の手続きをするよ。そしてこのままこの国に残ってもいい﹂
﹁わたし、そんなこと⋮⋮﹂
﹁もちろん今すぐ決めなくてもいいよ。学園にも心残りはあるだろ
うしね。でも、考えておいてくれ。君ももうすぐ大人になるんだか
ら﹂
﹁⋮⋮セイカくんは﹂
﹁ん?﹂
﹁セイカくんは⋮⋮わたしが、後宮に入っても、なにも思わないの
?﹂
イーファの震える声に、ぼくは少し考えて答える。

534
﹁寂しいとは思うよ。だけど⋮⋮誰だって、いずれは自分の道を進
まなきゃいけない﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
イーファはごしごしと目元を拭って、ぼくに笑いかける。
﹁いろいろ考えてくれてありがとう。セイカくんがご主人様になっ
てくれて、本当によかった﹂
﹁⋮⋮うん﹂
﹁あんまり気は進まないけど⋮⋮ちょっとだけ考えてみるね﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ⋮⋮おやすみ、セイカくん﹂
そう言って、イーファは顔を背けた。
その表情の見えない横顔をしばし眺めた後、ぼくも体を仰向けに
戻し、目を閉じながら呟く。
﹁おやすみ、イーファ﹂
****
翌朝。
ぼくが目覚めた時、すでにイーファの姿はなかった。
日はすっかり明け切っている。やや寝過ぎたようだった。
﹁セイカさま⋮⋮いささか、酷だったのでは?﹂
着替えていると、卓の上にちょこんと座っていたユキが話しかけ

535
てくる。
﹁何がだ?﹂
﹁昨夜のことでございますよ。後宮に入りたければ入っていいだな
んて⋮⋮。ユキはだんだん、あの娘が不憫になってまいりました⋮
⋮﹂
﹁? だから、何がだよ﹂
﹁以前、ユキは申し上げたではないですか⋮⋮あの奴隷の娘は、セ
イカさまを好いていると﹂
﹁はあ? いつの話してるんだよ﹂
ぼくはシャツのボタンを留めながら呆れる。
﹁一年以上前の与太話をまだ引っ張るか﹂
﹁ユキにはわかります。あの娘は、あの頃からずっと、セイカさま
を恋い慕っておりますよ。もちろん、今でも﹂
﹁⋮⋮どうだかな﹂
ユキは人間の色恋沙汰が妙に好きだし、絶対先入観ありそうだ。
ぼくは溜息をついて言う。
﹁あのな。今回のことは、どうあれイーファの問題なんだ。誘いを
受けるも受けないも、あの子が決めるべきことなんだよ。ぼくは余
計な邪魔をするつもりはないぞ。とにかくイーファに任せる﹂
﹁な、なんですかその、信念めいたものは⋮⋮﹂
困惑するユキに、ぼくは少し口ごもってから説明する。
﹁⋮⋮ぼくの弟子にいた、あの娘を覚えてるか? ほら、占星術と
料理が得意だった﹂

536
﹁あー、あの器量のいい﹂
﹁そうそう。それで、明らかにあの子目当てでぼくの屋敷にしょっ
ちゅう来てた童がいたよな﹂
﹁たしか、貴族の子弟でございましたね。あの娘の方も話していて
楽しそうで、まんざらではない様子でした﹂
﹁そうそう。にもかかわらずぼく、一度小言を言ったよな。童の方
に﹂
﹁あー⋮⋮はい。来すぎじゃないか、のような旨を、ちょっと怖い
感じで言っておりましたね⋮⋮﹂
﹁で、その日からぱったり来なくなったよな﹂
﹁⋮⋮はい﹂
﹁それでどうなったか覚えてるか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あの娘に、口を利いてもらえなくなってましたね。十日
ほど⋮⋮﹂
﹁今だから言うけどぼく、あれかなりショックだったんだよ﹂
﹁セイカさま、見たことないくらい動揺されてましたものねぇ﹂
﹁弟子にあんなに嫌われたの初めてだったから﹂
せんせい
師匠なんて知らない、と泣きながら言われた時のことを思い出す。
娘に嫌われた父親の気分ってこんな感じなのかと思った。
また来てくれるようになっていなければどうなっていたことか。
﹁まあそういうわけで、あれ以来ぼくは弟子のそういう事情には余
計な口を挟まないと決めたんだ。いやイーファは弟子じゃないけど
さ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ユキが考え込む。
﹁それは結構なのですが⋮⋮この場合、また違うのでは? 奴隷の

537
娘が本当に想っているのは、セイカさまなのですから⋮⋮﹂
﹁百歩譲ってそうだったとしてもだな﹂
ぼくはもう一度溜息をついて言う。
﹁イーファももうすぐ十五になるんだ。恋人ならともかく、結婚相
手は好き嫌いで選ぶものでもないことくらい、あの子にもわかるだ
ろ﹂
﹁むぅ⋮⋮おっしゃることももっともなのですが、あの娘はなにも、
高貴な生まれではないのですよ? 愛情で輿入れ先を選んでもよい
ではありませんか﹂
﹁高貴な生まれでないからこそだよ。実家を頼れないんだ、金のあ
るところに嫁いだ方がいいに決まってる。それにな⋮⋮﹂
ぼくは、少し迷って付け加える。
﹁⋮⋮愛情なんて、意外と後からついてくるものだぞ﹂
﹁むむ⋮⋮ん?﹂
ユキが耳をぴょこんと立てる。
﹁セイカさま、ひょっとしてそれは⋮⋮経験談でございますか?﹂
﹁ん⋮⋮まあ﹂
﹁も、も、もしかしてセイカさま⋮⋮結婚されていたことがおあり
で?﹂
﹁若い頃、短い間だけどな﹂
﹁えーっ!!﹂
ユキが急に歓声を上げた。
そして身を乗り出し、はしゃいだように捲し立てる。

538
﹁なんですかそれは! ユキは初耳ですっ!!﹂
﹁そりゃあ言ってなかったから﹂
﹁どうしてそんな大事なこと言ってくださらなかったんですかっ!﹂
﹁き、機会がなかったし⋮⋮あと別に大事でもないだろ⋮⋮﹂
﹁気になります気になりますっ! セイカさまがおいくつの頃です
か? 奥さまはどんな方でした? ご結婚の経緯は? セイカさま
からは、どんな風に愛をささやかれたのですかっ?﹂
﹁あー⋮⋮うるさいうるさい﹂
ぼくは耳を塞ぐ。
やっぱり言わなきゃよかったよ。
第七話 最強の陰陽師、入山する
﹁殿下。昨夜ぼくの従者を呼び出されたようですが、何かご用でも
ありましたか﹂
その日の午前。
公務の合間にテラスへ出ていた王子に、ぼくは声をかけた。
王子はふっと笑って答える。
﹁少し話をしたかったものでな。フラれてしまったが﹂
﹁戸惑っている様子だったので、ぼくが行く必要はないと伝えまし
た。以後あのような呼び出しは控えていただけますか、殿下。あの

539
子はまだ後宮入りを決めたわけでもなければ、あなたの侍女でもな
いのですから﹂
真顔で告げるぼくへ、王子は向き直って言う。
﹁⋮⋮何か誤解させてしまったようだ。ボクは本当に、茶でも淹れ
ながら、ただ話がしたかっただけなのだが﹂
﹁あのような時間にですか?﹂
﹁公務の都合、どうしても夜が遅くなってしまう。皆普段からボク
の時間に合わせてくれるせいで、少々感覚がずれていたようだ。申
し訳ない﹂
王子はそう、素直に謝る。
だけど、怪しいもんだ。
﹁イーファにも謝っておいてはもらえないだろうか﹂
﹁⋮⋮それはご自分でどうぞ。本気で後宮に誘うつもりならば、で
すが﹂
ぼくの答えに、王子は驚いたように目を見開いて言う。
﹁意外だな。てっきりそなたは、イーファの後宮入りを拒むと思っ
ていたのだが﹂
﹁⋮⋮そもそも殿下は、本当にあの子を後宮に入れる気があるので
すか?﹂
﹁無論だとも﹂
王子は大きくうなずく。

540
﹁どこがそんなに気に入ったので?﹂
﹁見た目、ということになるだろうか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁美しさのことだけを言っているのではないぞ。あの聡明そうな雰
囲気に惹かれたのだ﹂
と、王子は少し照れくさそうに言う。
﹁おそらくだが⋮⋮イーファはあの学園でも、優秀な生徒なのでは
ないか?﹂
﹁まあ、筆記試験はだいたい一位か二位とってますね﹂
﹁やはりか!﹂
王子がうれしそうに言う。
﹁アスティリアは、王妃もまた政務に大きく携わることが慣例とな
っている。ボクの妻となる女性は、聡明な者でなければならないの
だ﹂
﹁はあ﹂
﹁加えて⋮⋮イーファはとても美しく、可憐だ。国の顔となるにふ
さわしい華がある。さらに言えば、ボクの好みでもあるということ
だが⋮⋮﹂
王子は、一度咳払いして続ける。
﹁帝国の属国となってからは、経済の発展から平民でも力を持つ者
が増え、昨今では血統もそれほど重要視されなくなってきている。
ボクとしては、できるならば第一王妃に迎え、王の政務を支えても
らいたいと思っている﹂

541
王子は真剣な口調でそう告げた。
それから、ぼくを微妙な表情で見やる。
﹁もっとも⋮⋮あの美しさで、奴隷という身分だ。セイカ殿とは深
い仲であったこともあるのだろうが⋮⋮ボクは気にしない。彼女の
過去も、表向きには隠し通そう﹂
﹁⋮⋮ぼくとイーファはそういう関係ではありませんよ﹂
﹁む、そうか。しかし、従者と主人という間柄にしては、いささか
距離が近いように感じたが⋮⋮﹂
﹁彼女は、いわゆる家内出生奴隷でしてね。ぼくとは屋敷で幼い頃
から一緒に育ったものですから。ぼくにとってはまあ、妹みたいな
ものですよ。ぼくの方が年下ですけど﹂
﹁なるほど、腑に落ちた。であるならば⋮⋮セイカ殿。あらためて
お願いしたい。彼女を譲ってはもらえないだろうか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁金ならどれだけでも払おう。アスティリアの後宮に入ることは、
イーファにとっても幸せであるはずだ。兄としての立場から、彼女
の幸せを願ってもらえないか﹂
﹁売れという話ならお断りします﹂
ぼくは言う。
﹁ただ、あの子が自分で後宮入りを望むなら⋮⋮その時はこの国で、
奴隷身分から解放してやりますよ。それで問題ないでしょう﹂
﹁む、そ、そうか⋮⋮。ときに⋮⋮﹂
王子は、やや言いづらそうに言う。
﹁セイカ殿から、彼女を説得してもらうことはできないだろうか﹂

542
は?
﹁どうも、ボクは避けられているようなのだ⋮⋮﹂
﹁あのですね﹂
ぼくは顔を引きつらせながら言う。
﹁女の一人くらいご自分で口説いてください。殿下、あなた王子様
でしょ? 容姿だっていいんだし、おそらくあなたほど恵まれた人
間はそういませんよ。だいたい⋮⋮﹂
と、ここでぼくは口を閉じる。
まずいまずい、思わず説教に入るところだった。
﹁とにかく、ぼくはイーファの意思を尊重するだけです。余計なこ
とをするつもりはありません﹂
﹁そうか、いやもっともだ。セイカ殿は本当に、イーファのことを
考えているのだな⋮⋮﹂
それから、王子は静かに問う。
﹁ときに⋮⋮彼女は、奴隷身分から解放されることを望んでいるだ
ろうか﹂
ぼくは少し眉をひそめて答える。
﹁それはまあ、奴隷でいていいことなんてないでしょうからね。ぼ
くだって解放してやりたいんですが、帝国では成人の後見人が必要
でしてね。学園では少々肩身の狭い思いをさせています﹂
﹁そうか⋮⋮わかった﹂

543
何がわかったのか、王子はしっかりとうなずいた。
そこでぼくは、もう一つの用件を思い出す。
﹁ところで殿下。ぼくは明日から、ドラゴンの棲む山に入ってみよ
うと思います﹂
﹁なっ⋮⋮あの山へか? 無謀だぞ、いくらなんでも危険すぎる﹂
﹁大丈夫です。ただ、いくらか物資の手配をしたく。頼んでもよろ
しいですか?﹂
﹁あ、ああ、それは部下に用意させるが⋮⋮しかし、手配というほ
ど必要なものがあるのか?﹂
﹁何日かかかるかもしれませんので、食糧や着替えなどを﹂
﹁確かに、入山して調べるとなれば一日では済まないだろうが⋮⋮
なるほど、何日かかかるか⋮⋮﹂
王子は何やら呟いた後、大きくうなずいた。
﹁わかった。そなたの調査に必要なものは、すべて手配しよう﹂
ぼくはその様子を見て、目を眇めながら思う。
﹁⋮⋮ええ、お願いします﹂
こいつ⋮⋮。
何か、余計なこと考えてないだろうな。
****

544
そして翌日。
ぼくは背嚢を背に、プロトアスタの後方にそびえる山を登ってい
た。
王子はぼくの言ったものをきちんと用意してくれたが、さすがに
急だったのか、揃ったのは今朝になってだった。
おかげで、予定よりも少々出発が遅れてしまった。
頭の上でユキが訊ねる。
﹁ドラゴンの巣は遠いのでございますか?﹂
﹁遠いな。しかも、多少回り道をしないといけない。夜に相対する
ことは避けたいから、どこかで野宿する必要があるな﹂
普通、鳥は夜に飛ばない。
しかしモンスターは、ダンジョンで遭遇した時に迷わず襲ってき
たことからわかるように、暗闇を問題にしない。
夜の空をドラゴンが飛んだという記録もある。
あまり暗い中で相手をしたくはなかった。
普通だったら山で野宿なんて命取りだが、獣も雑魚モンスターも、
結界や式神でなんとでもなる。
なんならフクロウや灯りの術で夜通し進むこともできるが、初日
から疲れるのはいやだった。
無理することもない。
目的地や現在地、周囲の地形は、タカやカラスですべて把握でき
ている。
獣やモンスターが近くにいれば、ネズミやメジロですぐにわかる。

545
人の踏み入らぬ山も、ぼくからしてみれば庭園のようなものだ。
﹁⋮⋮﹂
ただ⋮⋮見送りに来てくれたイーファは、ずいぶん心配そうにし
ていた。
なるべく早く帰ってやろう。
幕間 イーファ、プロトアスタ首長公邸にて①
ドラゴンの棲む山へおもむくセイカを見送った後。
イーファは一人、滞在する部屋への道を戻っていた。
手持ち無沙汰な気持ちになる。
自然と、溜息が漏れた。
アスティリアへ一緒に行けると決まった時は、これで少しは従者
としての仕事ができると、セイカの役に立てると思っていた。
だけど現実には、ただ足手まといになっているだけだった。
そんなことを思いながら、あてがわれた部屋の扉を開ける。

546
室内には、先客がいた。
﹁ん、戻ったか﹂
イーファは目をしばたたかせる。
そこにいたのは、学園でセシリオ王子のそばに控えていた、亜人
の女性だった。
透き通るような白い肌に、尖った耳。
エルフ
それが森人という種族の特徴であることは、イーファも知ってい
た。
不思議と、怖くはなかった。
好きだったおとぎ話にも出てくる、神聖な種族という印象があっ
たせいかもしれない。
ただ。
今の状況は若干、わけがわからない。
﹁え、あの⋮⋮なにかご用ですか?﹂
﹁お前とは一度二人きりで話したかった。まあ座れ﹂
エルフ
森人の女性︱︱︱︱たしかリゼと呼ばれていた︱︱︱︱は、まる
で部屋の主であるかのようにそう促した。
仕方なく、イーファはそばにあった椅子に腰掛ける。
リゼは自分は座ろうとせずに、部屋を歩き回りながら話し出す。
﹁プロトアスタはいいところだろう﹂

547
﹁は、はあ⋮⋮﹂
﹁街には歴史があり、住民は善き人々で、そして何より土地の魔力
エルフ
にあふれている。古来から我が森人の種族がアスティリアと深く交
流していたのも、あのドラゴンがこの街を長く見守ってきたのも、
すべてはこの豊かな魔力のためだ﹂
﹁そ、そうなんですか⋮⋮わたしは、魔力とかよくわからないです
けど⋮⋮﹂
﹁いや、わかるだろう﹂
エルフ
森人は、その翠の双眸をまっすぐイーファに向ける。
﹁これほど精霊がいるんだ。それくらいはお前も察していたはずだ﹂
﹁ええっ、せっ⋮⋮あ、いえその、なんのことか⋮⋮﹂
﹁誤魔化す必要はない﹂
そう言うとリゼは、手を掲げ、宙を泳いでいた青い魚︱︱︱︱水
属性の精霊を細い指でつまむ。
﹁この地に精霊は多いが、特にこの、青の子らがここまで満ちてい
る都市も珍しい。背後に山がそびえ、周辺の水源に事欠かないため
だろう。そのせいか、この街で生まれる子には水属性の適性を持つ
者が少なくない﹂
リゼが指を離すと、青い魚はあわてたように泳ぎ去って行く。
思わずそれを目で追っていたイーファは、リゼの視線に気づくと
はっとしてうつむいた。
エルフ
それから、恐る恐る森人を見上げる。
﹁⋮⋮どうして、わたしがその、見えるって⋮⋮﹂

548
﹁そう思わない方がどうかしている。魔石や魔道具でそれほどの精
霊を集めている者が、それを意図していないなどと誰が思うだろう。
学園の食堂でお前を見た時、私は驚いたぞ。そしてすぐに思い至っ
まつえい
た。この娘は、我らの末裔なのだと﹂
﹁ま、末裔、って⋮⋮﹂
イーファは、戸惑った声を上げる。
﹁子孫、ってことですよね? わ、わたしが⋮⋮?﹂
エルフ
﹁そうだ。今ではもう知る人間も少なくなったが、我ら森人の魔法
は、他の種族やモンスターの使う魔法とは大きく異なる﹂
リゼはイーファを見下ろしながら続ける。
まと
﹁魔力で精霊を纏い、精霊に呼びかけることで神秘の事象を引き起
エルフ
こす。精霊と交流する力こそが、森人の権能なのだ。学園では、集
めた精霊に呼びかけて魔法を使っているのだろう? お前の魔法は、
エルフ
まさしく森人の魔法だ﹂
﹁で⋮⋮でも﹂
イーファが困惑したように言う。
﹁⋮⋮わたしは、普通の人間です。あなたほどの魔力だって、持っ
ていません﹂
初めて見た時から、リゼの周りには色とりどりの膨大な精霊が渦
巻いていた。
きっと、相当な魔力を持っているのだろう。
言われたリゼは、ふっと笑って答える。

549
﹁私を基準にするな。これでも腕には覚えがある方だ。まあ確かに、
お前にはほとんど魔力が見受けられない。そのうえ、種族的な特徴
も薄い。だがその程度はささいな問題なのだ⋮⋮両親のうち、金髪
はどちらだ?﹂
﹁え、えっと、母です⋮⋮﹂
エルフ
﹁ならば母方の遠い祖先に森人がいたのだろう﹂
﹁で、でも⋮⋮﹂
﹁魔力量は種族の中でも多寡がある。容貌の特徴も、人間の血が濃
くなれば消える。だが、その精霊を見る目は別だ。それは紛れもな
い我らが同胞の証⋮⋮お前の母親には見えていたか? 見えていな
かったのなら、お前は特別な先祖返りだ。よかったな﹂
﹁⋮⋮﹂
イーファは呆然としていた。
自分の力のルーツが、まさかこんなところで判明するなんて思っ
てもみなかった。
自分が、かつておとぎ話で読んだ神聖な種族の子孫だということ
も。
言葉のないイーファに、リゼは落ち着いた口調で語りかける。
﹁これも精霊の巡り合わせだ。思わぬところで同胞に出会えたこと
は私もうれしい。だが⋮⋮同時に、哀れにも思う。奴隷身分だ、こ
れまで大変な苦労があったことだろう﹂
﹁そ、そんなこと⋮⋮﹂
﹁実を言えば、今日は我らが若様に代わり、私がお前を説得に来た
のだ﹂
エルフ
森人が微笑を浮かべて告げる。

550
ハレム
﹁アスティリアの後宮に来い、イーファ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁あそこはなかなかおもしろい場所だぞ。かつて在籍していた私が
保証しよう。我らが若様はまだ青臭いゆえやや頼りないが、悪い男
ではない。お前を今の主人から救い出す甲斐性くらいは見せてくれ
るだろう。まあもっとも、だからといって無理に妃となる必要も⋮
⋮﹂
﹁あ、あのっ、すみません!﹂
イーファがあわてて遮った。
それから、視線を逸らしつつ言う。
﹁お、お気持ちは、うれしいです。でも⋮⋮わたしはやっぱり、後
宮には入りません﹂
元より、イーファにその気はなかった。
セイカに言われても、自分がそこにいるイメージは湧かない。
﹁それに⋮⋮今だって、わたしは十分幸せです。学園は楽しいです
し、セイカくんもやさしいです。だから、今以上の生活なんて望み
ません﹂
﹁⋮⋮何を言っているんだ?﹂
﹁えっ﹂
イーファは、リゼの顔を見た。
思わず困惑する。
そこには、理解不能といった表情が浮かんでいたからだ。
﹁お前は⋮⋮あの少年の奴隷のままでいいというのか?﹂
﹁え、あの⋮⋮﹂

551
﹁私がお前を後宮に誘ったのは、何も出世や王妃になる道が開かれ
るからではない。若があの少年からお前を買うというのならば、そ
れはお前にとっても願ってもないことだろうと思ったからだ。無論、
若は気づいていなかっただろうが⋮⋮﹂
﹁ま、待ってください。何の話をしているんですか? セ、セイカ
くんを悪く言っているのなら、わたしだって怒りますよ!﹂
﹁⋮⋮お前も、気づいているはずだ﹂
リゼは、微かに緊張の滲んだ声で言った。
﹁あの少年は化け物だぞ﹂
幕間 イーファ、プロトアスタ首長公邸にて②
﹁化け物って⋮⋮﹂
言い返しかけて、イーファは押し黙る。
リゼの言わんとしていることがわかったからだ。
・・・・
﹁そうだ、お前ならばわかるだろう⋮⋮。あの少年には、あらゆる
・・・ ・・・・・
精霊が近づかない。魔力がないゆえに集まらないのではない。避け
るのだ。まるで、瘴気でも纏っているかのように⋮⋮﹂
リゼが硬い声で続ける。

552
﹁学園で初めてお前を見た時、驚いたと言ったな。しかしそれから
すぐに、私はお前の隣に座っていたあの少年の異質さに気づいて立
ちすくんだよ。お前の纏う精霊たちも、あの少年の近くにだけは一
匹すらも寄らず、奇妙に距離を空けていた。あのような光景を見た
のは初めてだ﹂
不気味なものを思い出したような響きが、声に混じる。
﹁考えずにはいられなかった。かつて存在した魔王は、きっとこの
ような者だったのだろうと﹂
﹁た、たしかに、セイカくんは少し変わってますけど⋮⋮でも、人
間です。魔王どころか、魔族でもありません﹂
﹁魔族でない、か⋮⋮。本当にそうか?﹂
リゼが問う。
﹁お前はあの少年の何を知っているんだ?﹂
﹁セイカくんとはお屋敷で一緒に育ちました。だから、小さい頃か
ら知っています﹂
﹁あの少年の両親は、本当にランプローグ伯爵とその妻なのか?﹂
﹁あ⋮⋮⋮⋮いえ、お父さんは旦那様ですけど⋮⋮お母さんは愛人
の方で⋮⋮﹂
﹁母親のことは知っているのか?﹂
﹁⋮⋮いえ﹂
﹁その女が魔族でなかったとなぜ言い切れる。そもそも、父親は本
当に伯爵だったのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前はあの少年とそう年も変わらないだろう。物心つく前のこと
は知るまい。幼少期に異常さを示していなかったとなぜ言える。い

553
や⋮⋮物心ついた後、お前の知る範囲ではどうだ? あの少年には、
本当に異常なところは一つもなかったか?﹂
イーファは答えられない。
思えば⋮⋮昔から、セイカは明らかに異常だった。
魔力がないにもかかわらず、魔法が使えたことだけではない。
普通、兄や母親や使用人にあれだけ白い目を向けられながら平然
と生活することなど、小さい子供にできるものだろうか。
その中で自ら学び、モンスターにも恐れず首功を上げ、本来行け
るはずのなかった魔法学園に奴隷である自分のことまで合格させて
しまうなど、できるものなのだろうか。
屋敷の書庫で覚えたというあの不思議な符術も、尋常なものとは
思えない。
幼い頃から一緒だったにもかかわらず、自分はセイカのことをほ
とんど知らない。
何か、重大な隠し事がある。
そんな予感がするだけだ。
﹁⋮⋮でも﹂
疑念を振り切るように、イーファは言う。
﹁セイカくんは人間ですし、いい人です。わたしは、そう信じてま
す﹂
﹁信じるということは、考えないということだ﹂
リゼは、冷や水を浴びせるように言った。

554
﹁それは神頼みと変わらない。サイコロ賭博で望みの目が出るよう、
目を閉じ手を合わせているに等しい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの少年がなんなのか、なぜ精霊が避けるのか、私も知らん。だ
がその善良さを盲信するには、あの少年はあまりに異質すぎる。そ
うまでして共にいる理由も、お前にあるまい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁後宮に来い、イーファ。あの危険な主人からは離れるべきだ﹂
﹁⋮⋮でも⋮⋮﹂
そこで、リゼはふと気づいたように言った。
﹁お前⋮⋮もしや、勘違いしているのではないか?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁アスティリアの後宮は、王の妻や愛人が生活し、ドロドロとした
愛憎図を描くだけの場所ではないぞ﹂
﹁え、ち、違うんですか?﹂
リゼが頭を抱える。
﹁参ったな⋮⋮。そこからだったか。我が国の後宮のことは、てっ
きり帝国にも広く知られていると思っていたのだが⋮⋮﹂
それから、リゼは気を取り直したように言う。
﹁よし。ならば見せてやろう﹂
﹁え?﹂
﹁言葉を尽くすよりも直接見る方が早い。明日、王都アスタへ向か
うぞ﹂

555
﹁え、ええ⋮⋮でもわたし、そんな勝手に⋮⋮﹂
﹁あの少年には、ここから動くなと言われているのか?﹂
﹁そうじゃないですけど⋮⋮﹂
﹁ならば問題なかろう。どうせ数日は山から帰らないはずだ。王都
は近い。明日発てば、明後日の昼前には帰ってこられるぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁拒むにしても、実際に目にしてからで遅くはないだろう﹂
正直なところ、気は進まなかった。
しかし、二日前の夜、セイカに言われた言葉が不意に思い返され
る。
︱︱︱︱誰だって、いずれは自分の道を進まなきゃいけない。
︱︱︱︱君ももうすぐ大人になるんだから。
気づくと、イーファはうなずいていた。
556
第八話 最強の陰陽師、ドラゴンを墜とす
入山して、二日目の朝。
ぼくは、目的地である山頂にたどり着いていた。
傾斜の緩い、ひらけた場所だ。
山道はずっと森だったのに、この辺りだけは不自然に木がなく、
代わりにゴツゴツした岩がいくつも転がっている。
炭化した幹がそこかしこに見られることから、ドラゴンが木を焼
き払い、なぎ倒して、岩石を運んだことは明らかだった。
すみか
そうして作られた住処の主が、今ぼくの目の前で首をもたげた。

557
厳めしい鱗の奥にある眼光。
それに射すくめられながら、ぼくは笑った。
﹁やあ﹂
巨大なドラゴンへ朗らかに挨拶する。
やはり、でかい。
尻尾までで十丈︵※約三十メートル︶は余裕で超えているだろう。
頭の大きさだけでぼくの身長以上だ。
先ほどまで岩石の積み上げられた巣の上で眠っていたドラゴンは、
明らかに敵を見るような目でぼくを睨んだ。
﹁グルルルゥゥォォオオオ︱︱︱︱ッッッ!!﹂
突然、ドラゴンが吠えた。
あぎと
牙の並ぶ顎が大きく開かれ、仄赤い光がちらつき始める。
ブレス
次の瞬間、炎の息吹が吐き出された。
ぼく一人など余裕で飲み込んでしまうほどの火炎が、山頂に熱と
光の道を作り出す。
﹁︱︱︱︱まあ、結界で効かないわけだけど﹂
炎の中から無傷で現れるぼくを見て、ドラゴンはいらだったよう
ブレス
に何度も息吹を吐きかける。
しかし当たり前ながら、何度やっても同じことだ。

558
﹁⋮⋮お?﹂
その時、ドラゴンが急に翼を広げた。
微かな力の流れ。何か魔法が使われたらしく、ゆったりとした翼
の羽ばたきと共に巨体が宙に浮いていく。猛烈な吹き下ろしの風に、
ぼくは思わず顔をしかめる。
普通ならあんな巨体が飛べるわけない。
だが、空気の密度が濃いと離陸も楽になる。どうやら上位龍のよ
うに気圧を操れるようだ。暴風雨を引き起こすアレよりかは、だい
ぶ規模が小さいが。
山の上空へと飛び立ったドラゴンを見て、ぼくは首をかしげる。
どうする気だろ。まさか逃げるわけじゃないだろうけど⋮⋮。
と、その時、ドラゴンが空中で旋回した。
ぼくをまっすぐに見据えたまま急降下してくる。
今回は初めて遭遇した時とは違い、威圧で済ます気はないみたい
だ。
巨体が間近に迫る。
開かれたその太い爪に捕らえられる瞬間︱︱︱︱ぼくは、近くの
式と位置を入れ替えた。
ドラゴンの爪の間を、ヒトガタがひらひらとすり抜ける。
ぼくを掴み損なった脚は代わりに近くの巨岩にぶつかって、上半
分を粉砕していた。
いやぁ怖い怖い。
空振りしたことが不思議そうなドラゴンは、空中で再びその巨躯

559
を旋回させる。
そろそろ真面目にやるか。
ぼくはドラゴンの真上に飛ばしていたヒトガタの扉を開く。
こなきぢぢ
︽召命︱︱︱︱児啼爺︾
空間の歪みから現れたのは、老爺の顔をした赤ん坊だった。
あやかし
醜悪な姿をしたその妖は、そのまま飛行するドラゴンの背にしが
みつき、皺だらけの顔を歪ませてむずがる。
そして、大声で泣き始めた。
﹁ふんぎゃぁぁぁぁぁぁああああああああっ!!﹂
その瞬間︱︱︱︱ドラゴンの体が、空中でがくっと沈んだ。
ドラゴンは焦ったように何度も翼を羽ばたかせるも、赤ん坊の泣
き声が響く度に高度が落ちていく。
﹁ああああぁあぁっんんぁぁぁあああ゛あ゛あ゛!!﹂
一際大きな泣き声が上がり︱︱︱︱ドラゴンは山頂に墜落した。
こなきぢぢ
激しい衝撃により、児啼爺がドラゴンの背から転げ落ちる。
﹁あっ⋮⋮﹂
﹁ふぎっ!!﹂
顔面から地面にめり込んだ妖は⋮⋮潰された蛙のような声を上げ
て動かなくなった。
⋮⋮ちょっとかわいそうなことしたな。

560
あいつ、別に神通力で相手に取り付くわけじゃなくて、ただ握力
でしがみついてるだけだからな。
さすがに飛んでいるドラゴンの相手をさせるのは酷だったか。
しかしながら、よくやってくれた。
こなきぢぢ
児啼爺は、山中で赤子を装って泣き、哀れに思い背負った人間を
押し潰してしまうという妖だ。
泣く度に重くなり、その重量は最大で背負った者の体重の十倍ほ
どにまでなる。
あのドラゴン相手なら⋮⋮下手したら五万貫︵※約百九十トン︶
くらいにはなっていたかもしれない。
こなきぢぢ
児啼爺を位相に戻していると、重しのとれたドラゴンが再び翼を
広げようとした。
そこに、ぼくはヒトガタを向ける。
﹁ダメダメ。大人しくしてろ﹂
かかんもう
︽土の相︱︱︱︱火浣網の術︾
白い太縄で編まれた投網が、ドラゴンの上に覆い被さった。
ブレス
抵抗するドラゴンが激しく暴れ、四方八方に息吹を吐き出す。
だが白い投網は、ちぎれることもなければ焼き切れもしない。
ユキが恐る恐る顔を出して言う。
﹁⋮⋮ずいぶん頑丈な網でございますね﹂
﹁石綿を編んだ縄でできてるからな﹂
石綿は非常に強靱な素材で、熱にも強い。

561
火にさらされたところで、汚れが燃えてきれいになるだけだ。
やがて、さすがに疲れたのか、ドラゴンが暴れるのをやめた。
とはいえまだぼくを睨んでいるし、微妙に唸り声を上げてはいる
が。
とあみ
﹁妖など使わず、最初からこの投網の術で捕まえてしまえばよかっ
たのでは?﹂
﹁空中でいきなり翼が使えなくなったら危ないだろ﹂
﹁⋮⋮珍しいですね、物の怪にご容赦なさるなど﹂
﹁そうか? まあ今回は、ぼくの方が招かれざる客だからな﹂
それに、勝手に倒してしまうわけにもいかない。
ユキは調子に乗ったような声音で言う。
﹁ふん。しかしながら、こちらの世界の物の怪は弱いですねぇ﹂
﹁あー、でも、こいつはたぶん普通の龍くらいは強いぞ﹂
﹁あっ⋮⋮そうでございますか﹂
ユキが伸ばしていた首を引っ込めた。
ぼくは歩き出す。
﹁さて、まずはこいつの巣から調べてみるか﹂
岩を集めた寝床に近づいていくと、ドラゴンが吠えて暴れ出した。
それを無視し、ぼくは岩山に足をかける。
そうして、巣を覗き込んだ。

562
みは
思わず目を瞠る。
薄く砂の敷かれたそこには︱︱︱︱淡い黄色をした、一抱えほど
もある楕円形の球体が一つ鎮座していた。
首を伸ばしたユキが呟く。
﹁セイカさま、これはまさか⋮⋮﹂
軽く、その球体の表面に触れる。
滑らかだ。重量感があり、かなり硬そうだが⋮⋮間違いない。
﹁︱︱︱︱卵だ﹂
第八話 最強の陰陽師、ドラゴンを墜とす︵後書き︶
※火浣網の術
石綿で作られた網で対象を捕獲する術。石綿︵クリソタイル︶の引
っ張り強度は30,000kg/m^2。これはピアノ線以上であ
り、撚り合わせた縄の強度は理論上炭素鋼製ワイヤーを超える。さ
らには柔軟性、耐薬品性、耐摩耗性に富み、耐熱性ともなると分解
温度がピアノ線のそれをはるかに超える450∼700℃、溶解点
は1,521℃を誇る。
563
第九話 最強の陰陽師、ドラゴンの生態を解明する
﹁どういうことでしょう、セイカさま﹂
ユキが、困惑したように呟く。
どういうことなのかは明らかだ。
このドラゴンは、子育ての真っ最中だった。
おそらく、飛ぶ頻度が減ったというここ数日の間に卵を産んだの
だろう。
一年前から様子がおかしくなっていたのも、産卵の準備をするた
め。はぐれた家畜を襲っていたのも、土地の魔力だけでは体力を蓄

564
えられなかったから。
それですべて説明がつく。
問題は。
なぜ、このドラゴンが子育てをしているかだが⋮⋮。
つが
﹁あの物の怪は雄なのですよね⋮⋮? ではやはりもう一頭、番い
となる別の個体がいるということでしょうか﹂
﹁いや、さすがにそれはないだろう﹂
あんなドラゴンがもう一頭いて、誰も気づかないなんてことがあ
るわけない。
﹁では、なぜ⋮⋮﹂
ぼくは、一つの可能性を口にする。
﹁⋮⋮性転換だ﹂
﹁え?﹂
﹁このドラゴンは、雌になったんだよ﹂
理解していないだろうユキに、ぼくは説明してやる。
﹁魚の中には、環境によって性を変えるものが多くいる。雄が雌に
なることも、雌が雄にもなることもあるそうなんだ﹂
かつて生け簀を邸宅に持つことがステータスであり、魚の飼育が
盛んだったローマにおいて、高名な博物学者が詳しい記録を残して
いた。

565
﹁性転換が起こる条件の一つには、周囲に異性がいないことという
つが
のもあった。おそらくこのドラゴンは、番いが死んでから今までの
間のどこかで性転換したんだ。もしかしたら百年前の、縄張りが狭
くなり大人しくなったという変化はそれが原因だったのかもしれな
い﹂
陸上の獣が性転換を行う例は聞かないが、生まれる時期の気温な
どで雌雄の割合が変わるものは多い。生き物の性は、その実かなり
流動的だ。
﹁で、ですがセイカさま﹂
ユキが食い下がる。
つが
﹁たとえ雌になっていたとしても、番いがいないことには変わりな
いのですよ? どうやって仔を残すのですか﹂
﹁雌だけで殖える生き物は、実は珍しくないんだよ﹂
ぼくはまたまた説明する。
つが
﹁人が飼っていたヘビやトカゲが、番いがいないにもかかわらず卵
を産み、それが孵った例はいくつかある。そればかりか、雄のいな
い生き物すらもいるくらいだ﹂
﹁そ、そんなものが?﹂
﹁ぼく、屋敷の池にフナを泳がせていただろう。あれがそうだよ。
最初は一匹だったんだ﹂
偶然の発見だったが、ぼくも気づいた時は驚いたものだ。

566
﹁あれ、食べるためではなかったのですか﹂
﹁最初はそのつもりだったけどね。まあだから、雌だけで殖えても
つが
不思議はないってことだ。番いで殖える方が利点は多いけど、環境
によってはそちらを選べないこともあるから﹂
﹁ほへ∼⋮⋮﹂
ユキが気の抜けた相づちを打つ。
﹁セイカさまの趣味が役に立ちましたねぇ﹂
﹁趣味⋮⋮まあいいけど。さて、どうしようかな﹂
様子がおかしかった理由は、これで判った。
だけど、問題が解決したとは言いがたい。
仔が巣立つまで待てばいいとも言えるが、過去の記録では、産卵
は何回かに分けて行われていた。
すべての仔が巣立つまでどれだけかかることか。
さらには、巣立った仔の問題もある。
独立していた百五十年前ならともかく、属国となった今、危険な
ドラゴンの子供がそのまま巣立つのを、帝国はよしとするだろうか。
図らずも、ドラゴンの討伐という王子の案が一番マシに思えてく
るが⋮⋮あの傭兵団では無理だろうしなぁ。
かと言ってぼくが手を出すのもなんか違う。
うーん⋮⋮。
卵を眺めながら悩んでいると⋮⋮ふと、砂の上についている跡に
気づいた。
どうやら、卵が転がった跡のようだ。

567
ぼくは思いつく。
﹁⋮⋮王子が、ドラゴンの卵を人が孵した例はないって言ってたけ
ど⋮⋮理由がわかったぞ﹂
﹁え、なんですか?﹂
﹁転卵だ。ドラゴンの卵は、転がしてやらないといけないんだよ﹂
ぼくはまたまたまた説明する。
﹁ニワトリとか、鳥はだいたいそうなんだけど、時々卵の向きを変
えてやらないと、卵殻の内側に仔が貼り付いて死んでしまうんだ。
反対に、トカゲやカメの卵は動かしたらダメなんだけど⋮⋮子育て
をするドラゴンの場合、卵はトカゲよりも鳥に近いみたいだな。だ
から、こんな感じで⋮⋮﹂
ぼくは、砂の跡に沿って大きな卵をゆっくりと転がす。
﹁定期的に転がしてるんだろう。市場に出回るドラゴンの卵が孵ら
ないのは、これを怠っていたからに違いない。どう考えても輸送中
にこんなことしないしな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ドラゴンを孵し育てたというアスティリア王妃の伝説も、これで
信憑性を帯びてきたな。方法を知っているだけでよかったんだ。も
っとも、適当に転がすだけじゃたぶんダメだから、偶然の要素も大
きかっただろうけど⋮⋮﹂
﹁セイカさま⋮⋮夢中で喋りますねぇ⋮⋮﹂
﹁うるさいな﹂
呆れたように呟くユキに、ぼくは真顔で言い返す。

568
いいだろ別に。夢中で喋ってもっ!
﹁⋮⋮あ、そうだ。ついでに⋮⋮﹂
ほむら
︽火の相︱︱︱︱焔の術︾
数枚のヒトガタから炎が吹き出し、巣となっている岩の山を熱し
始めた。
火にさらされた部分が次第に赤熱していく。
﹁えええっ、セイカさま、蒸し卵にでもするおつもりですかっ?﹂
﹁違うよ、よく見ろ。岩を温めてるだけだ。砂が敷かれてるおかげ
で卵はそれほど熱くならない。岩山をこうして炎で熱しておけば、
巣を離れてもしばらく温度を保てる。これがドラゴンにとっての抱
卵なんだ﹂
﹁な、なんでそんなことがわかるのですか﹂
﹁一部に脆くなって割れている石があった。赤熱を何度も繰り返し
た証拠だよ。というか、まだ少し温かかったしね﹂
それに、クメール︵※カンボジア︶やチャンパ︵※ベトナム︶の
はるか南方の島々には、大地の熱で卵を温める鳥がいると聞いたこ
とがあった。
これも似たようなものだ。
ふと、ドラゴンがずっと静かなことに気づいた。
思わずそちらを見ると、ドラゴンは厳めしい鱗の奥の瞳で、ぼく
をじっと見つめている。
そこに敵意はもう感じられない。
ぼくはヒトガタを飛ばす。

569
﹁セ、セイカさまっ!? なにをっ⋮⋮﹂
解呪の術を付したヒトガタで、石綿の網を情報の塵へと還す。
解き放たれたドラゴンは、わずかに体を震わせたが、暴れる気配
も襲いかかってくる気配もなかった。
ただこちらを見つめている。
﹁⋮⋮グルルッ!﹂
﹁えっ?﹂
突然唸ったかと思えば、ドラゴンは翼を大きく広げた。
そしてまたあの気圧の魔法を使い、空へと羽ばたく。
そのままどこかへ飛んでいくドラゴンを、ぼくもユキも呆然と見
つめていた。
﹁⋮⋮なんだったのでしょう?﹂
﹁さあ、わからないけど⋮⋮﹂
なんとなくだが。
卵をちゃんと見とけ、と言われた気がした。
570
第九話 最強の陰陽師、ドラゴンの生態を解明する︵後書き︶
※焔の術
火の気で火炎を生み出す術。燃焼物がないので効率が悪い。
571
幕間 イーファ、王都アスタにて
プロトアスタから王都アスタへは、馬車で半日もかからなかった。
本当に近くて、イーファはいくらか拍子抜けしたほどだ。
なぜ遷都したのかもわからないくらいだったが⋮⋮きっと、立地
とか拡張性とか帝国式街道の敷きやすさとか、いろいろあったのだ
ろう。
王都アスタは洗練された都市だった。
歴史が新しく、計画的に造られただけあって道や建物が合理的に
配置されている。
さすがに帝都ほどではないものの、イーファにとっては十分都会

572
だった。
とはいえ、観光のために来たわけではない。
街の景観を眺めるのもそこそこに、リゼとイーファはまっすぐ後
宮へと向かった。
後宮は、アスティリア王城内部の一画に、別棟として建っていた。
イーファが想像していたよりも、ずっと大きい。
この中に、どれほどの女性たちが住んでいるのだろう。
そう思いながら、イーファはリゼについて建物へ足を踏み入れる
と︱︱︱︱。
﹁⋮⋮あの﹂
﹁なんだ﹂
短く返すリゼに、イーファは問いかける。
﹁ここって、後宮⋮⋮ですよね﹂
﹁もちろんだ﹂
﹁じゃあ、ここにいる皆さんは今、なにをしているんですか?﹂
﹁見ればわかるだろう﹂
リゼは当然のように言う。
﹁講義を受けているんだ﹂
後宮の中にある一室。
そこは、まるで学園の講堂のような場所だった。

573
段々に並んだ机には、身なりのいい少女たちがついている。
前方には講義用の演台が置かれ、黒い板に石灰の棒で数式を書き
ながら、女性教員がよく通る声で説明をしていた。
講義の内容は、どうやら統計学のようだ。
﹁アスティリアが独立国だった頃は、ここも普通の後宮だったそう
だ。つまり、王の妻や愛人たちが住む、愛憎と陰謀渦巻く女の園だ
な﹂
静かに話し始めたリゼを、イーファは見上げる。
﹁だが、帝国の属国となってからは変わった。理由を簡単に言えば、
跡継ぎ問題が解決したのだ。女と養子が、王位継承者として認めら
れるようになったために﹂
﹁⋮⋮昔は、女王さまはいなかったんですか?﹂
﹁ああ、いなかった。王室典範で認められていなかったからな。そ
もそも女は、財産を相続することすらできなかったのだ﹂
﹁そうだったんですか⋮⋮﹂
﹁しかし、帝国では違った。大昔に魔族と激しくやり合ってた時代、
男が減りすぎて断絶の危機を迎える家が続出したために、女性の相
続権を認めていたのだ。そしてアスティリアを属国化するにあたり、
ここの食い違いを帝国は許容しなかった。おそらくは経済圏を広げ
る障害となると判断したのだろう。帝国法が優越する形で、我が国
でも女性の相続権が認められた﹂
リゼは続ける。
﹁そしてそれは、王位継承権にも及んだ。女王が君臨できるように
なったのだ。さらにその後、こちらの事情から帝国の皇室典範にな

574
らって養子の王位継承をも認めるようになり、跡継ぎ問題は完全に
なくなってしまった。同時に、後宮も不要となったわけだ﹂
﹁はあ⋮⋮なるほど﹂
イーファにも意味はわかった。
男子しか王位を継承できないならば、王子が生まれなかった時点
で王室が断絶する。それをなんとしてでも避けるために、たくさん
ハレム
の女性を抱える後宮が必要になる。
しかし、女王が認められているならば別だ。単純に、跡継ぎが生
まれる確率は倍になる。
そのうえ養子でもいいとなると、もはや跡継ぎに悩む必要などな
い。
必然、後宮もいらなくなるのだ。
﹁でも⋮⋮それがどうして、こんなことに?﹂
﹁アスティリアの王妃は、代々政務に深く関わることが慣例となっ
ている。後宮には元より、教育係となる優秀な教師が大勢抱えられ
ていたのだ。最初の女王が君臨した後も、教育のために息女を後宮
入りさせたいという有力者が相次いだ。財産の相続が可能になって、
いざとなれば優秀な娘に家を任せたいという者が増えたのだろう﹂
リゼは続ける。
﹁そして、こうなった。今の後宮は女子学園のようなものだ。後に
国政に携わる者も多いから、女性官僚の育成機関とも言えるな﹂
﹁それじゃあ⋮⋮セシリオ殿下は別に、その、わたしに特別思うと
ころがあったわけじゃなかったんですね﹂
﹁いや﹂

575
リゼはふっと笑って言う。
﹁歴代の王妃は、ほとんどがここの出だ。そういう意味で、ここは
未だに後宮だよ。それを狙って入ってくる者だっている⋮⋮。お前
は、間違いなく若に見初められたのだ﹂
﹁そ、そうなんですかぁ⋮⋮﹂
そう言われると、やはり戸惑ってしまう。
⋮⋮でも。
思っていたよりは、明るく開放的で︱︱︱︱良い場所である気が
した。
﹁︱︱︱︱はい、では前置きはこれくらいにしまして、まずみなさ
んには統計の考え方に慣れてもらいましょうか﹂
ふと前に目を戻すと、おっとりした女性教員がサイコロを掲げて
いた。
﹁問題です。私がこのサイコロを振ったところ、なんと十回連続で
六の目が出ました! さて、次に六の目が出る確率はいくらでしょ
うか? では⋮⋮コルネリアさん﹂
﹁はい﹂
高貴な雰囲気を纏った鮮やかな金髪の少女が立ち上がり、堂々と
答える。
﹁六分の一です﹂
﹁ありがとうございます﹂

576
女性教員はにっこりと笑って言う。
﹁他に回答のある方はいますか? いないですか⋮⋮? それでは、
今日見学に来てくださったそちらのあなた﹂
講堂中の目が自分を向き、イーファは驚いて声を上げる。
﹁え、ええっ? わたし⋮⋮ですか?﹂
﹁はい。あなたの考えを聞かせてください﹂
思わずリゼの方を見ると、ただおもしろそうに笑っているのみ。
仕方なく、イーファはうつむきがちに答える。
﹁⋮⋮次も六が出ると思います﹂
その途端、講堂中から失笑が漏れた。
﹁あなた、賭け事はやらない方がよろしくてよ﹂
コルネリアと呼ばれた少女が、からかうような声を上げる。
﹁事象の独立というものを知ってまして? 過去にどんな目が出て
いようとも、次に出る目には関係ありませんわ﹂
言われたイーファは、少しむっとして言い返す。
﹁⋮⋮十回連続で六が出る確率は、だいたい六〇〇〇万分の一です﹂
﹁⋮⋮え?﹂
﹁むしろ、どうしてそんなことが自然に起こると思うんですか﹂

577
イーファは、女性教員を見据えて言う。
﹁先生の持っているそのサイコロ、重さが偏って⋮⋮いえ、全部六
の目なんじゃないですか?﹂
﹁すばらしい! 大正解です!﹂
女性教員が、一際うれしそうな声を上げた。
そして持っていたサイコロを、端の席から生徒たちに回していく。
ここからではよく見えないが、手にした生徒が目を丸くしている
ことから、やはりすべてが六の目のイカサマ用サイコロだったんだ
ろう。
﹁これが算術の講義であれば、コルネリアさんの答えが正解でした。
ですがこの講義は、誰もわからない確率を探る統計学です。偏りを
ただの偶然とは考えず、そういった傾向があると捉えます。先入観
を捨てて、実際の結果から確率を算出する。それが︱︱︱︱﹂
****
講義が終わると、イーファの周りには人だかりができた。
﹁ねえ、あなたどこから来たの?﹂﹁魔法学園出身ってほんとう?﹂
﹁魔法も使えるの!?﹂﹁帝国ってどんなところ?﹂﹁セシリオ殿
下に会った?﹂﹁後宮にはいつ越してくる? 私の部屋、今一人分
空いてるよ!﹂
﹁あわわわ⋮⋮﹂

578
質問攻めに、イーファがうろたえていると。
﹁⋮⋮皆さん、お客人が困っておりましてよ﹂
呆れたような声が響いて、人だかりが静まった。
人の群れが自然に割れる。
そこに立っていたのは、先ほどの金髪の少女だった。
ぽかんとするイーファに、少女が話しかける。
﹁あなたには、一つ訊きたいことがあるのだけれど﹂
﹁えっ、は、はい。な、なんでしょうか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮そんなにかしこまらなくてもよろしくてよ。あなた、先ほど
べきじょう
は六の十乗という冪乗の計算を暗算でしていましたわね。あれはど
のように?﹂
﹁えっと⋮⋮ちゃんと計算したわけじゃないよ﹂
イーファはぽつぽつと説明する。
﹁六を三回かけると二一六になるから、これをとりあえず二〇〇と
考えて、三回かけあわせて八〇〇万。これで六を九回かけたことに
なるから、あと一回六をかけて四八〇〇万。ほんとうはもう少しあ
るはずだから⋮⋮たぶん、六〇〇〇万くらい、ってこと。あんまり
自信なかったけど⋮⋮﹂
人だかりがざわついていた。
金髪の少女が溜息をついて言う。
﹁先ほど計算したのだけれど、それでほとんどあっておりますわ。
大した発想力ですわね⋮⋮。あなた、名は?﹂

579
﹁イーファ、です⋮⋮﹂
﹁家名はなし、ね﹂
高貴な雰囲気の少女は、しかし蔑むでもなく続ける。
﹁身分が低いにもかかわらずここにいるということは、それだけ優
秀なのでしょう。帝国から、どのようなきっかけでアスティリアの
後宮に?﹂
﹁それは、その⋮⋮セシリオ殿下に、声をかけてもらって⋮⋮﹂
人だかりから、黄色い歓声が上がった。
金髪の少女は、少し驚いたように言う。
﹁王妃候補⋮⋮。どうりで、優秀なうえにかわいらしいお顔をして
いると思いましたわ﹂
そこで、少女はすっと手を差し出した。
﹁コルネリア・エスト・ラトーサ﹂
そして微笑みながら言う。
﹁家督を継ぐわたくしとは目指すところは違うけれど⋮⋮あなたと
ここで競い合える日を楽しみにしていますわ﹂
﹁は、はい。ありがとうございます⋮⋮﹂
イーファは、その手を握り返した。
少し、後ろめたさを覚えながら。

580
****
﹁おもしろいところだっただろう﹂
逗留予定の宿へ向かう道すがら。
隣を歩くリゼが、不意にそう言った。
﹁少なくとも、後宮らしさはまったくない﹂
﹁⋮⋮はい﹂
イーファも、素直にいい印象を抱いていた。
なんとなく、雰囲気は魔法学園に近い。
ただ、皆自分の将来をしっかり見据えているのか、学園の生徒た
ちよりも真剣である気がした。
﹁ああいう場所があるから、女性は文官であるべしという風潮がこ
の国にはある。若がお前を争い事に関わらせたくなかったのは、そ
ういう理由だ﹂
リゼは、溜息をついて言う。
﹁私も、あそこに在籍していた頃は同じように考えていた。成績が
どん底でやむなく王室魔術師に転向していなければ、今でもそう考
えていただろうな﹂
﹁⋮⋮あはは、なんですかそれ﹂
イーファが小さく笑った。
それから、リゼはゆっくりと話し始める。

581
﹁当代のアスティリア王⋮⋮若の母上である女王陛下は、優れた君
ひい
主だ。智に富み、決断力に秀で、民に愛される。傑物と言ってもい
い。まだまだ王位継承は先の話だが⋮⋮若は不安に思っているはず
だ。自分が、果たしてあの女王のように振る舞えるのかと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ドラゴンの件で、功を焦っているのもそのためだ。これを解決で
きなければ、王になる資格はないとすら思っているかもしれない。
そして⋮⋮王妃探しに関しても、おそらくそうだ。ふさわしい者を
見つけなければと焦っていたふしがある﹂
リゼは言う。
﹁青い男だ。未熟者だよ。だが⋮⋮悪い人間ではない。それは、乳
飲み子だった頃から知っている私が保証しよう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前の力で⋮⋮若をそばから支えてやってはくれないだろうか﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂
これまでなら、即座に断っていたはずの頼み。
だけど今は︱︱︱︱言葉は何かに引っかかり、一向に出てきては
くれなかった。
582
第十話 最強の陰陽師、飛ぶ
入山して、三日目。
日はすっかり昇りきり、もう昼時となっている。
ぼくは思いっきり伸びをして、重たい息を吐き出した。
﹁疲れた⋮⋮﹂
昨日飛び立ったドラゴンは、あれからほどなくして獣型のモンス
ターを後ろ肢で掴んで戻ってきた。
それをむしゃむしゃと食べたかと思えば、それからすぐ、巣のそ
ばで眠ってしまった。
夕方に目を覚ますとまた飛び立ち、今度は周辺の空を警戒するよ

583
うに見回ったら、夜に戻ってきた。そしてまたすぐ寝た。
夜が明けて朝。そして昼。ドラゴンはまだ起きない。
別に死んではいない。
ただ、爆睡しているだけだ。
寝息を立てるドラゴンを眺めながら思う。
きっと、疲れていたのではないだろうか。
子育ては、人間はもちろん動物にとっても大変だ。こいつはモン
スターだが、たぶん同じ。明らかに土地の魔力だけでは体力が足り
てない様子だった。
つが
番いがいないせいもあって苦労していたんだろう。
ただ⋮⋮、
﹁ぼく、いつ解放されるんだ⋮⋮?﹂
ドラゴンが食事したり空中散策したり眠ったりしている間、ぼく
はずっと卵を転がしたり岩を熱したりと、甲斐甲斐しく巣の面倒を
見ていた。
いい加減うんざりして一度去ろうとしたら、怒ってめちゃくちゃ
吠えられた。逃げたら街まで追いかけて来かねなかったので、動く
に動けないでいる。
たぶん卵なんてある程度放っておいても問題ないんだろうけど⋮
⋮どれくらい大丈夫かわからない。おかげで徹夜だった。
ユキも、いやになったように言う。
﹁まったく⋮⋮人に仔を育ててもらうなど、図々しい物の怪ですね
っ﹂

584
﹁⋮⋮管狐もそうだけどな﹂
あやかし
﹁うっ、いえ、管はその、人にまつろう妖ですので⋮⋮﹂
﹁はぁ⋮⋮まあたぶん、こんなのはドラゴンでもこいつだけだよ﹂
この個体は特別だ。
いや、ドラゴン自体に、そういう性質があるとも言えるが⋮⋮。
﹁で、どうするのでございますか? セイカさま﹂
ユキが言う。
﹁まさかこのまま、物の怪の乳母をやるわけにもいきますまいに﹂
﹁⋮⋮帰るよ。そろそろ食糧も少なくなってきたしね﹂
なんとかドラゴンを説得しなければ。
﹁おーいっ!! 起きろ! もう昼だぞっ!!﹂
惰眠を貪るドラゴンに大声で怒鳴ると、そのゴツゴツした瞼が微
かに開いた。
明らかにめんどくさそうな顔をしている。
ぼくはイライラしながらも、街の方を指さして言う。
﹁ぼくはもう帰るからなっ!!﹂
﹁グルルッ!﹂
つが
﹁グルルじゃないんだよいい加減にしろっ! ぼくはお前の番いで
もなんでもないんだからなっ!!﹂
ぼくが言うと、ドラゴンはしばし不満そうに唸った後、ブフゥゥ
ーッ、という溜息みたいな吐息と共に立ち上がった。

585
そしてぼくの方にのしのしと歩み寄ると、その大きな頭を下げ、
地面に顎をつける。
﹁?﹂
﹁グルルルル⋮⋮﹂
そのまま翼をバサバサと動かす様子を見て、ぼくは察する。
﹁もしかして⋮⋮乗せてってくれるのか?﹂
﹁グルル﹂
﹁ええ、気持ちはありがたいんだけどさ⋮⋮⋮⋮いや、待てよ﹂
ぼくは可能性に気づく。
羽の生えた生き物に乗って飛ぶなんて無理だと思っていたけど⋮
⋮こいつならいけるかもしれない。
鱗に足をかけ、頭の上によじ登る。
おあつらえ向きに、硬めの毛が生えていて座り心地も悪くない。
﹁グルルルッ!﹂
ドラゴンが翼を広げ、羽ばたいた。
気圧の魔法が発動し、ぼくを乗せたまま巨体が宙に浮く。
周囲に猛烈な風が吹き荒れる。
だが、乗っていられないほどじゃない。
何より︱︱︱︱揺れも少ない。思った通りだ。
鱗の突起に掴まりながら、ぼくは感動に一人歓声を上げていた。
ふもと
一度空を旋回したドラゴンは、麓の街に向かいゆったりと滑空し

586
ていく︱︱︱︱。
幕間 イーファ、プロトアスタ首長公邸にて③
後宮を訪れた翌日。
イーファとリゼは早朝の馬車で王都アスタを出て、昼前にはプロ
トアスタに着いていた。
首長公邸にまで戻ると、出迎えてくれたのは数名の護衛を連れた
セシリオ王子だった。
﹁おお! よく戻った、イーファ。道中何もなかったか? まあリ
ゼがいれば何事も問題ないだろうが﹂
﹁あ、は、はい。どうも⋮⋮﹂

587
イーファは気後れしながら返事しつつも、内心で首をかしげる。
なぜ、護衛を連れているのだろう。リゼの代わりだろうが、誰か
と会っていたのか。
王子は笑顔のまま言う。
﹁そなたを待っていたのだ。さあ、こちらへ来るといい﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
仕方なく、言われるがままリゼと共について行く。
連れてこられたのは、公邸二階にある会議室のような部屋だった。
広い庭に面したテラスがあり、風を入れるためか窓は開け放たれ
ている。
部屋の中には他に数名、男性の姿があった。
王子が、その中の一人に呼びかける。
﹁待たせたな、グルード殿。彼女だ﹂
﹁ほう。これは⋮⋮上物でございますな﹂
肥満体の中年男が顔を寄せ、品定めするような目を向けてくる。
イーファは、思わず顔を引きつらせて後ずさった。
﹁本来ならば皮膚病や傷の有無、栄養状態を見るために裸にするの
が常道ですが⋮⋮ま、そういうわけにもいきますまい﹂
肥満体の男は、それから王子に訊ねる。
﹁いくらか学問を修めているのでしたな。それと、魔法を使えると﹂

588
﹁そうだ﹂
﹁⋮⋮難しいですな。そういった付加価値のある奴隷はなかなか需
要が読めず、値が付けづらいのです。ただ、それでも概算を出すと
すれば⋮⋮﹂
男は控えていた小僧に紙とペンを持ってこさせると、そこに何や
ら記入した。
それを王子に手渡す。
﹁このあたりでしょうな﹂
﹁⋮⋮用意した金額とほぼ同額か。よい。カーティス、これは正式
な価値として認められるな﹂
﹁ええ、殿下﹂
王子から紙を手渡された、顎髭の男が言う。
﹁日付と商会の印、算定者の名と、奴隷の名が記されております。
客観的に価値を示す確かな資料であると、徴税員たるこのカーティ
スが認めましょう﹂
顎髭の男は続ける。
﹁解放税は、額面の二十分の一となります﹂
﹁うむ。おい﹂
王子が呼びかけると、護衛の一人が、持っていた革袋を机の上で
開いた。
イーファは、思わず目を瞠る。
そこに収められていたのは、大量の金貨だった。

589
﹁あ、あの、なんですか、これ⋮⋮﹂
言い様のない不安に駆られながら、イーファは王子に訊ねる。
王子はイーファに向き直り、微笑みながら言った。
﹁そなたの解放手続きだ、イーファ﹂
﹁え⋮⋮え?﹂
﹁今日から、そなたは自由になれる﹂
混乱するイーファへ、王子は諭すように話し出す。
﹁そなたも知っているだろうが、アスティリアでも帝国でも、奴隷
には解放の制度がある。自らの価値と同じだけの金額を主人に支払
い、規定の税を納めれば自由の身になれるのだ﹂
王子は続ける。
﹁本来ならば役所で手続きを行わなければならないが、行政府の長
であるボクが認めるのだから問題ない。そして⋮⋮解放にかかる金
は、今回ボクがすべて出そう﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
﹁セイカ殿へはしかるべき金額を支払い、一部を解放税としてこの
街に納める。形の上では、そなたは自分を買い戻したという扱いに
なる。心配ない。手続きはこちらですべて済ませておこう﹂
﹁え、む⋮⋮無理です。そんなこと、できるわけないです﹂
イーファは、自分にも言い聞かせるように言う。
﹁解放には、セイカくんの了承が必要なはずです。勝手に手続きを
済ませるなんて、そんな⋮⋮﹂

590
﹁了承するさ﹂
王子は言い切る。
﹁奴隷の働きに報酬を与え、いずれ解放させることは、帝国でも富
裕層の規範となっているはずだ。十分な金を支払った奴隷の解放を
拒むなど、世間的に見てとても誉められた行いではない。だが⋮⋮
それでももし、セイカ殿が君の解放を認めないならば⋮⋮﹂
王子は告げる。
﹁その時はプロトアスタで奴隷徴発令を発し、セイカ殿から君を強
制的に買い上げるとしよう﹂
﹁えっ⋮⋮! そ、そんなこと⋮⋮っ﹂
﹁本来は戦時中のための制度だが、これは参事会の承認なしに、首
長の意思で発令できる。いったんは街の公共物扱いにはなるが、そ
の後の扱いはボクの一存でどうにでもなる。ボクがあらためて君を
買い、その後に解放すれば済むことだ﹂
イーファはあわてたように言う。
﹁わ、わたし、そんなこと頼んでません!﹂
﹁リゼから、話は聞いている﹂
王子は冷静な口調で言う。
﹁精霊の見えないボクには、セイカ殿の恐ろしさはよくわからない
⋮⋮。だが、ともすれば危険な主人の下に、君を置いたまま放って
はおけない﹂
﹁っ⋮⋮﹂

591
﹁それに⋮⋮君も、ずっと奴隷身分で辛かったであろう。この際自
由の代償は求めぬ。後宮に入るも入らぬもイーファの意思で決めれ
ばよい。ボクはただ、君に自分の人生を生きてほしいのだ﹂
イーファは、微かに震える声で訊ねる。
﹁帝国では⋮⋮解放奴隷には、成人の後見人が必要なんです。自由
になったら、わ、わたしは、学園に戻れるんですか⋮⋮?﹂
王子は、ばつの悪そうな顔で目を逸らした。
﹁それは⋮⋮後見人を指定したうえで、帝国で手続きをしてもらう
必要があるが⋮⋮﹂
イーファは、悪い予感が当たったことを覚った。
帝国法上、解放奴隷にはその生活や立場を保証する後見人が必要
になる。
慣例で言えば、それは解放した元主人が務めるのが普通だ。
だが、セイカはまだ成人の身分にない。
そして属国や地方の領地ならばまだしも、大都市や帝立機関で後
見人のいない不法な身分のまま過ごせるわけがない。
解放されてしまっては、学園に戻れなくなる。
それは、セイカと離ればなれになるということを意味した。
﹁⋮⋮セイカ殿は、君の意思次第ではこの国で自由にしてやっても
いいと言っていた。元々、君にはあまり執着がなかったように見え

592
たが﹂
追い打ちのように発せられた王子の言葉に、心が大きく揺らぐ。
ただ。
やはり、どうしても受け入れられない。
﹁い、いやです。わたしは、解放なんて望みません﹂
﹁なぜだ⋮⋮。君は、自由になりたくないのか。自分の人生を生き
たくないのか。奴隷とは、自らの生殺与奪を他人に預けるのだぞ。
得体の知れない主人に仕えることをなぜ望む﹂
﹁わ、わたしがどうしたいかは、わたしが決めます! 身分は自由
じゃなくても、なにを望むかはわたしの自由です!﹂
﹁⋮⋮解放手続きの書類が用意できましたが、どうされますかな。
殿下﹂
顎髭の男が、冷めたような口調で言った。
﹁これには奴隷の拇印が必要なのですが﹂
﹁⋮⋮しかし、イーファの意思が⋮⋮﹂
﹁はは、悩まれているようですが殿下。奴隷が自ら隷属を望むなど、
なんら珍しいことではありませんよ﹂
肥満体の男が軽く笑いながら言う。
﹁過酷な状況に置かれると、人は心を守るため、その状況を自らが
望んだものだと思い込もうとします。その娘のようなことを言い出
す奴隷など、これまで何人も見ましたよ。ま、ある意味では正気を
失っているとも言えますな﹂
﹁⋮⋮どうすれば正気に戻る﹂

593
肥満体の男は肩をすくめた。
﹁すぐには無理ですな。しかし境遇がよくなれば、いずれは自分が
間違っていたと気づくでしょう。今は⋮⋮ひとまず、無理矢理にで
も承認させてしまうのがよろしいかと﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁そうか。おい﹂
王子の呼びかけと同時に、護衛の兵が二人がかりでイーファを押
さえ込む。
﹁や、やだ! やめてっ!﹂
﹁すまない、イーファ⋮⋮。拇印でいいのだったな、カーティス﹂
﹁ええ。インクはここに﹂
﹁やめてっ!! じゃ、じゃないと⋮⋮っ!﹂
イーファは自らの纏う精霊に呼びかける。
いざとなったら魔法を使え。
セイカに叱られた経験は、この時のためにあったのだと思った。
だが︱︱︱︱。
﹁魔法は使うな﹂
呼応しかけていた精霊。
それらがすべて、突然に沈黙した。
愕然とするイーファの視界に映ったのは、部屋全体を舞う無数の
白い蝶。

594
光属性の精霊。
それはセイカの使う符術の結界にも似た、光の魔法だった。
厳しい表情をしたリゼが言う。
﹁この場で力を振るえば、事はお前だけの問題ではなくなってしま
う︱︱︱︱まあもっとも、私の︻聖域︼の中ではどうしようもある
まいが﹂
﹁ど、どうして⋮⋮っ!﹂
﹁許せ。これが我が国⋮⋮ひいては、お前のためにもなるはずだ﹂
不意に、左の親指に鋭い痛みが走った。
血の流れる熱い感覚。緑色に光る小さな鳥が視界をよぎっていく。
風の刃のようなもので切られたのだと、イーファはすぐに気づく。
﹁拇印は血判でも問題ないな、カーティス﹂
﹁おお、さすがリゼ殿。恐ろしい腕前ですな﹂
兵に押さえられた左手が、徐々に文字の並ぶ羊皮紙へと近づけら
れていく。
白くなるほど握った指が、強引に開かされる。
イーファは、思わず目をぎゅっと閉じた。
﹁セイカくんっ⋮⋮!﹂
血に濡れた親指が、羊皮紙に触れる寸前︱︱︱︱、
室内に、突風が吹き荒れた。

595
第十一話 最強の陰陽師、降りる
あやかし
ドラゴンの乗り心地は、妖と比べてもそう悪くなかった。
空の上は、さすがに風が強くて夏なのに寒い。
みずち まじな
でもそれは結局蛟も一緒だし、呪いである程度快適にできる。
揺れさえ少なければいいのだ。
﹁さて、と⋮⋮﹂
ぼくは式の視界で、眼下の街を見る。

596
どこに降りるかな⋮⋮。本当は城壁の外がいいんだろうけど、首
長公邸までけっこうあるから歩くのが面倒だ。
むしろ、公邸に直接行く方がいいかもしれない。
あそこなら広い庭があるし、家畜や馬車馬を怯えさせることもな
い。
﹁お前、城壁の中には降りられるか?﹂
﹁グルルッ!﹂
ドラゴンが唸る。
はいかいいえかわからないが⋮⋮たぶん、はい、だろう。そんな
気がする。
﹁よし、あっちだ!﹂
案内役として先行させていた光のヒトガタを、街へと降下させて
いく。
ドラゴンはきちんと、それを追って高度を下げていった。
その時。
山に残してきた式神が、嫌な光景を捉えた。
思わず顔をしかめる。
今来るということは⋮⋮そういうことだろうな。
これで帰るとも言っていられなくなった。
まあでも、まだ少し時間はありそうだし、いったん公邸に顔を出
してから山に戻るでも十分だろう。

597
いい加減一人で卵のお守りをするのも疲れたしね。
ドラゴンが左翼を下げ、左へ旋回しながら街へと降りていく。
広大な首長公邸が次第に近づく。
地上までほんの数丈に迫った時︱︱︱︱ドラゴンが両翼を大きく
広げ、大気を掴んだ。
気圧の魔法が発動。生み出された密度の高い空気を激しく撒き散
らしながら、巨体が首長公邸の庭へ豪快に降り立つ。
ふう、と一息ついて顔を上げる。
ぼくは気づいた。
﹁あっ⋮⋮﹂
すぐ目の前に、公邸の二階、窓の開け放たれた広い部屋があった。
仕事中だったのか、身なりのいい人間が数人、呆気にとられた表
情でこちらを見ている。
机の上に置いてあったらしき書類や金貨が、ドラゴンの起こした
突風で派手に散らばっていた。
うわぁ、申し訳ないことをしてしまった⋮⋮。
エルフ
ん、あれは森人の従者か? ということは⋮⋮やっぱり、セシリ
オ王子の姿もある。
ちょうどよかった。
少々無礼にはなってしまうが、時間がないし仕方ないだろう。
﹁突然すみません皆さん! セイカです! 今戻りました!﹂

598
まだ気圧差の風が吹き荒れる中、ぼくは声を張り上げる。
﹁急ぎゆえ、このような形で失礼! ええと、手短に言いますと⋮
⋮ドラゴンと仲良くなりました﹂
皆、唖然としたまま言葉もない。
ぼくは少々不安になりながらも、とにかく用件を話す。
﹁今回の件、原因がわかりました! 説明したいので、唐突で申し
訳ないですが、どなたかぼくと一緒に山頂まで来ていただけないで
しょうか! できれば火属性の魔法が使える方だと助かります!﹂
案の定、答えはない。
エルフ
王子も森人も他の人間も、全員が窓から大きく距離を置いて固ま
っている。
⋮⋮困ったな。
というか、さすがにドラゴンで直に降りてきたのはまずかったか
⋮⋮。
そろそろ戻りたいが、このままではなんのために帰ってきたのか
わからない。せめて誰か、手伝ってくれる人⋮⋮。
﹁⋮⋮あ﹂
その時。
一人の少女の姿が、目に入った。
なんだ、いたのか。

599
じゃあ、彼女でいいな。おあつらえ向きに炎も扱えることだし。
本当はアスティリアの人間に来てほしかったけど、皆怖じ気づいて
るから仕方ない。
﹁イーファ﹂
ぼくはくすんだ金髪の少女に向かって手を伸ばす。
幕間 イーファ、プロトアスタ首長公邸にて④
嘘みたいだ、と。
巨大なドラゴンに乗ってあの人が現れた時、イーファは思った。
こんなタイミングがあるだろうか。
だけど同時に︱︱︱︱きっと助けに来てくれると信じていた。
﹁ええと、手短に言いますと⋮⋮ドラゴンと仲良くなりました﹂
それを聞いて、イーファは思わず笑いそうになった。
無茶苦茶だ。
でも思えば、あの人はいつだって無茶苦茶だった。

600
ぜったいに無理だと思えることをやってのける。
自分が壁だと思い込んでいたものを、打ち壊してくれる。
そうして、新しい景色を見せてくれる。
﹁イーファ﹂
自分の名前を呼ぶ声。
イーファは差し伸べられた手に向かい、足を踏み出した。
求めてくれることがうれしかった。取るに足らない、一介の奴隷
に過ぎなかった自分を。
学園行きが決まったあの時も。
そして今も。
﹁行くなっ!!﹂
その時、背中にリゼの声が響いた。
イーファは足を止める。
その声音には、自分の身を案じるような響きがあった。
同胞だと言ってくれた人だ。きっと、本当に心配しているのだろ
う。
だけど︱︱︱︱、
﹁ごめんなさい⋮⋮わたし、やっぱりここには残れません﹂
イーファは背中を向けたまま答える。
リゼや王子になんて答えればよかったのか、今ようやくわかった。

601
きっかけは、なんだっただろう。
メイド
学園ヘ共に行くことが決まって、侍女や奴隷仲間にからかわれた
ことだろうか。
屋敷で叱られていた時に、いつも助けてくれたことだろうか。
それとも︱︱︱︱なにを言われても平然として、なんでも一人で
できてしまうのに⋮⋮時折どうしようもなく、寂しそうな顔を見せ
ていたことだろうか。
きっと⋮⋮そのすべてが、そうだった。
﹁わたしは、セイカくんと行きます﹂
イーファは振り返り、リゼへと告げる。
﹁あの人が好きだから!﹂
イーファはリゼに背を向け、走り出した。
セイカの下へ。
602
第十二話 最強の陰陽師、奴隷少女をさらう
エルフ
イーファは、森人の従者と何か話しているようだった。
ただ、気圧の魔法のせいで風がうるさく、よく聞こえない。
と思っていたら話がついたのか、イーファがこちらに駆けてきた。
二階のテラスに頭を寄せるドラゴンに向かい、思い切り跳び上が
って手を伸ばす。
﹁セイカくんっ!﹂
﹁よっ、と﹂
ぼくは、その手を掴んだ。

603
そのまま力いっぱい引き上げ、後ろに座らせる。
﹁取り込み中のところ悪いな。ちょっと急いでて。しっかり掴まっ
ててくれ﹂
﹁うんっ﹂
イーファがその細い腕を、ぼくの腹のあたりに回してきた。
それを確認すると、ぼくはドラゴンに行こうと告げ、光のヒトガ
タを目の前に飛ばす。
ドラゴンは、帰るんじゃなかったのかと怪訝そうにしていたが、
やがて頭を上げ、翼を広げた。
魔法の出力が上がる。
気圧差の風が、強く吹き荒れ始める。
エルフ
ぼくは笑顔を作り、王子や森人たちに向かって告げる。
﹁それでは皆さん、ひとまず山頂にてお待ちしています。あ、食糧
とか持ってきてくださいね﹂
ドラゴンが翼を打ち下ろした。
密度の高い空気を掴んで、巨体が上昇していく。
やがて十分に高度が上がると、今度は次第に前へ前へと勢いをつ
ける。
左翼を傾け、一度大きく旋回。目的地に向き直ると、ドラゴンは
住処の山へ向け悠然と飛行し始めた。
﹁あわわわわ、と、飛んでるっ!﹂
空の上で、背中のイーファが焦ったような声を出す。

604
ぼくは上機嫌になりながら、イーファに話しかける。
﹁どうだいイーファ。空を飛んだ感想は﹂
﹁ちょ、ちょっと怖いかも。でも⋮⋮きれい。わたし、こんな景色
はじめて見た﹂
イーファが眼下に目を向けながら呟く。
そうだろうなぁ。
﹁でも、すごいね。セイカくん﹂
﹁ん?﹂
﹁まさか、ドラゴンに乗っちゃうなんて。前は無理だって言ってた
のに⋮⋮﹂
﹁そうなんだよ!﹂
﹁ひゃっ!? な、なに⋮⋮?﹂
﹁ぼくもついさっきまでは無理だと思っていたんだ。でも、すごい
発見をしたんだよ!﹂
ぼくは思わず興奮しながら説明する。
﹁翼のある生き物に乗って飛ぶことは、やっぱり基本的にはできな
いんだ。翼を羽ばたかせると、どうしてもこう、反作用で体幹が上
下してしまう。背中になんて、普通はとても乗っていられるものじ
ゃないんだ﹂
﹁あ、そっか⋮⋮﹂
﹁だけど、実は羽ばたいていても上下動しない場所があったんだ。
どこだかわかるかい﹂
﹁え⋮⋮? あ、もしかして、頭?﹂
﹁そう! 鳥でもドラゴンでも、頭だけは極力動かないように固定
してるんだ。視界を保たなきゃいけないし、そもそも脳が揺れたら

605
まともに思考できないからね﹂
﹁へ、へえ⋮⋮﹂
﹁普通のドラゴンだったら無理かもしれないけど、グレータードラ
ゴンくらい大きければ頭にだって乗れる! このドラゴンにだけは
騎乗できるんだよ! もしかしたら、おとぎ話の竜騎士もこうやっ
て飛んでいたのかもしれないな﹂
イーファは、わずかに沈黙した後。
急に、大きな声で笑い出した。
﹁あっはははははは! そんなわけないよー、ドラゴンの頭に乗る
竜騎士なんてかっこ悪いもん﹂
﹁か、かっこ悪い?﹂
そ、そうか?
みずち
というかぼく、前世でも蛟の頭に乗ってたんだけど⋮⋮もしかし
て、周りからは珍妙な人間に見られてた?
﹁あーはは⋮⋮それに、こんなに大きいドラゴンだったら、人間な
んて乗ってても乗ってなくても変わらないよ﹂
﹁た、確かに⋮⋮いやでも、拠点制圧には人員が必要だったりする
し⋮⋮﹂
言いながら、ぼくもだんだん無理がある気がしてくる。
﹁ふふっ、でも、セイカくんがこんなに夢中で喋ってるところ初め
て見た﹂
﹁べ、別にいいだろ、夢中で喋ってもっ﹂
﹁うん⋮⋮もっと聞きたい。どうやってドラゴンと仲良くなったの
?﹂

606
﹁あー⋮⋮﹂
ここで全部話す前に山頂に着きそうだ。
ついでに、連中も迫ってきている。
﹁ちょっと長くなるんだ。落ち着いてから話すよ﹂
﹁わかった⋮⋮あと、さっきはありがとう、セイカくん﹂
﹁え、何が?﹂
小さく呟かれた言葉に聞き返すも、イーファは何も答えない。
んん? まあいっか。
﹁頭を動かさないとは言っても、多少は揺れるからな。しっかり掴
まってるんだぞ﹂
﹁うんっ﹂
イーファが体を寄せ、回した腕に力を込める。
なんというかその⋮⋮背中に当たる柔らかい感触が気になるが⋮
⋮なるべく意識しないようにしよう。
607
第十三話 最強の陰陽師、召喚獣と戦う
目的地へ一直線に飛ぶドラゴンは、ほどなくして山頂へとたどり
着いた。
住処である岩場に降り立ち、頭を下げるドラゴンから、ぼくらは
二人して飛び降りる。
﹁ここが、ドラゴンの巣なの⋮⋮?﹂
﹁ああ。あっちにある岩山がドラゴンの寝床だよ。卵もそこにある﹂
﹁へえ⋮⋮って、た、卵?﹂
﹁ごめん。説明してる時間はないみたいだ﹂
その時。

608
岩場の先に広がる森から、みしりみしりという音が響きだした。
突然、こちらへと一直線に、森の奥から木々がいくつもなぎ倒さ
れ始める。
最後に岩場に面した樹木をかき分けるようにへし折り、現れたの
は︱︱︱︱赤黒い巨大なトラ。
けお
背後で、ドラゴンが気圧されたように後ずさる。
凶悪な殺気を振りまきながら迫るモンスター。
それに向かい、ぼくは術を発動した。
とおとりで
︽土の相︱︱︱︱透塞の術︾
立ち塞がったいくつもの石英の柱に、赤黒いトラが激突した。
そこからさらに、溶岩の体を囲うように周囲から柱が斜めに突き
出し、モンスターを完全に閉じ込める。
﹁ゴァアオオォォオゥゥッッ!!﹂
ラーヴァタイガーが吠え、柱の一つに噛みついた。
前回と同じように、石英の柱はびくともしない。だが次第に、そ
の表面が熱でじわじわと溶け出す。
長くは持たない。
まあでも、無駄話するくらいの時間はできたかな。
ぼくは息を吸い、声を張り上げる。
﹁おーいゼクト! いるんだろう。出てこいよ﹂
﹁面倒な時に戻ってきちまったなァ、学者様よォ﹂

609
森から姿を現したのは︱︱︱︱ローブを羽織り、手に魔道書を開
いた魔術師と、剣を提げた傭兵たち。
サモナー
フードの奥で、ゼクト傭兵団の長たる召喚士は口の端を吊り上げ
る。
﹁卵一つ回収できたら依頼料持ってトンズラするつもりだったが⋮
⋮これで二人ほど、消すしかなくなっちまったようだなァ﹂
﹁ふーん、やっぱり最初から卵目当てだったのか。殿下がたまに市
場に出回るって言ってたし、そうなんじゃないかとは思っていたけ
ど﹂
﹁はっ、当たり前だろうが。ドラゴンの卵を一つ売りゃあ、オレた
ち全員が一年は遊んで暮らせるんだ。っはは、しっかし馬鹿な王子
だったぜ﹂
ゼクトがせせら笑う。
﹁グレータードラゴンをこんな人数で倒せるわけねーだろうが!
一国が総力をあげて相手するレベルのモンスターだっつーのに、ラ
ーヴァタイガーを見せてやっただけでコロッと信じやがった。もっ
とも、追い払うだけなら簡単だったがなァ﹂
サモナー
ぼくは、召喚士に笑い返す。
﹁なんだ、やっぱりぼくの言ったとおりだったんじゃないか。エセ
専門家さん﹂
﹁あ⋮⋮? ガキが、状況をわかってねーようだな﹂
ゼクトが口元を歪ませる。

610
﹁オレのラーヴァタイガーは⋮⋮てめぇのチンケな魔法でどうにか
できるモンスターじゃねぇ﹂
バキリ、という音。
ラーヴァタイガーが、ついに溶けかけていた石英の柱をへし折っ
たところだった。
透明な檻から抜け出したモンスターが、殺気のこもった唸り声を
上げる。
﹁オラッ、焦げ肉になって喰われやがれッ!﹂
赤黒い溶岩を纏った脚が、跳躍のためにたわまれる。
その時。
・・・・・・・・・ ・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・
ラーヴァタイガーの足元から、巨大な水柱が噴き上がった。
﹁なァッ!?﹂
驚愕するゼクトの目の前で、水柱に跳ね上げられた溶岩獣が岩場
に転がる。
噴き上がった大量の水は、そのまま地面に落下。傾斜に従って流
れ、ゼクトや傭兵たちを飲み込んでいく。
驚いたのは、ぼくも同じだった。
大きな力の流れ。
それを操っていたのは︱︱︱︱指輪をはめた右手を敵に差し向け
る、猫っ毛の少女。

611
﹁もう、黙ってやられたりしないから﹂
静かな表情で、イーファが呟いた。
その様子を見て、ぼくは思わず口を開く。
﹁イーファ⋮⋮﹂
﹁セイカくん、まだ⋮⋮﹂
﹁すごい! 今よく動けたな!﹂
﹁え、ええっ﹂
ぼくの弾んだ声に、イーファの表情が崩れた。
困惑したように言う。
﹁だって、セイカくんがこの前言ってたから⋮⋮﹂
﹁普通は言われてもなかなかできるものじゃないんだよ。イーファ
は度胸があるなぁ﹂
﹁そ、そうかな﹂
﹁やっぱり君を連れてきたのは間違いじゃなかった。水の魔法もこ
こまで扱えるようになったんだね。驚いたよ﹂
﹁⋮⋮えっへへへ﹂
エルフ
﹁クソッ、なんだこの魔法、まさか⋮⋮てめぇもあの森人の仲間か
ッ!?﹂
岩に引っかかり、ずぶ濡れのゼクトがわめいている。
ぼくは首をかしげる。
エルフ
﹁森人⋮⋮? 何言ってんだ、あいつ﹂
﹁えっと、あのねセイカくん⋮⋮﹂

612
﹁まあいいや、続きだけどねイーファ。大量の水を使ったのはよか
った。というのも、水が少量だと溶岩の熱で瞬時に蒸発して、かえ
って危険なこともあるんだ。でも量が多ければ⋮⋮ほら、見てごら
ん﹂
ぼくの指さす先では、ラーヴァタイガーがよろよろと立ち上がっ
ていた。
動きがぎこちないのも無理はない。
溶岩の鎧は、そのほとんどが黒く固まっていた。
﹁赤かった部分が、丸くボコボコした形で固まってるだろ? 表面
が冷えた後で、内部の溶岩が流動してあんな形になるんだ。火山が
噴火して溶岩が海に流れ込んだ時もああいう岩ができるんだよ﹂
﹁そ、そうなんだ⋮⋮﹂
﹁ゴァアオオォォオゥゥッッ!!﹂
その時、ラーヴァタイガーが吠えた。
固まっていた鎧の表面が割れ、新たな溶岩が流れ始める。
﹁この程度で終わりだと思うなッ! オレのラーヴァタイガーに生
半可な魔法は効かねェッ!!﹂
ゼクトが立ち上がりながら叫ぶ。
表情を険しくするイーファ。
上げかけた右手を、ぼくはそっと掴んで下ろさせた。
﹁えっ⋮⋮?﹂
﹁大丈夫だよ。あとはぼくがやっておくから﹂

613
かかんもう
︽土の相︱︱︱︱火浣網の術︾
白い投網が、ラーヴァタイガーに覆い被さった。
動きを妨げられた憤りから、溶岩獣が激しく暴れ回る。
さすがの石綿も石英を溶かす熱には耐えられないのか、縄が所々
で切れ始めていた。
ゼクトが口の端を吊り上げて笑う。
﹁はっ、バカが! 網でラーヴァタイガーが捕まるかよッ!﹂
﹁いや、捕まえるつもりはないんだ﹂
ぼくは静かに呟いて。
宙空より姿を現した一枚のヒトガタを、暴れ回る溶岩獣へと向け
た。
﹁少しだけ、大人しくしてほしかっただけだから﹂
しろほむら
︽陽火の相︱︱︱︱皓焔の術︾
まばゆ
ヒトガタから吐き出されたのは、眩いほどの白い炎だった。
それは、網に囚われたラーヴァタイガーを一息に飲み込む。
ほどなくして、それが消えたあとには︱︱︱︱何も残っていなか
った。
﹁はァ⋮⋮⋮⋮?﹂
ゼクトが呆けたような声を上げる。

614
ラーヴァタイガーの残骸と呼べるようなものは、鎧にくっついて
いしくれ
いた高融点鉱物の石塊のみ。
本体も溶岩も石綿の網も、跡形もない。それどころか地面すらも
溶けて沸騰し、冷えたところはガラス質化していた。
ぼくは鼻で笑って呟く。
﹁消し炭にすると言ったが⋮⋮炭なんて残らなかったな﹂
陽の気で強引に燃焼温度を上げた、灰重石︵※タングステン鉱石︶
すらも溶かしきる真白の炎だ。
溶岩のモンスターを一匹蒸発させる程度造作もない。
﹁なんだ、てめぇは⋮⋮いったいなんなんだ⋮⋮﹂
目を見開き、慄然と呟くゼクトに、ぼくは笑って答える。
﹁世界最強の魔術師だよ﹂
﹁ふざけやがって⋮⋮ッ! おいてめぇら! 前衛で壁になれッ!
給料分働きやがれッ!!﹂
水に流され、岩や木に引っかかっていた傭兵たちがよろよろと立
ち上がる。
その時︱︱︱︱、
﹁グルルルゥゥォォオオオ︱︱︱︱ッッッ!!﹂
ぼくの背後で、ドラゴンが吠えた。
一瞬で恐慌が伝播し、傭兵たちが泡を食って逃げ始める。

615
﹁クソ、ふざけんな!﹂
﹁あんなもん相手にできるか!﹂
悪態をつきながら背を向ける傭兵たちへ、ゼクトが目を剥いて叫
ぶ。
﹁待てッ! 逃げるんじゃねェッ!!﹂
﹁そうそう、逃げるのはナシだよ﹂
ぼくはそう言って、散らばる傭兵たちを︽蔓縛り︾で拘束してい
く。
それから、立ち尽くすゼクトへと笑いかけた。
﹁で、あとは君だけだけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮オレを、あいつらのように捕まえねぇのは⋮⋮舐めてる
からか⋮⋮?﹂
﹁うん。君貧弱そうだし、自分で手枷でも付けてくれないかな?
めんどくさいから﹂
﹁そうか、それなら⋮⋮⋮⋮後悔させてやるよッ!!﹂
ゼクトの持つ魔道書が、強く光を放った。
そのフードの奥に、凶悪な笑みが浮かぶ。
﹁見せてやる! こいつはオレのコントロールすらおよばねぇ真の
切り札だ!! おまえらもあの街もッ、どうなったって知ら、熱っ
づぁっ!?﹂
間抜けな声を上げ、ゼクトが突然魔道書を手放した。

616
﹁ええーッ!? オレの魔道書がッ!?﹂
ゼクトの魔道書は燃えていた。
水に濡れていたはずなのに、橙色の炎に包まれ灰になっていく。
﹁それが、杖の代わりなんだよね﹂
イーファが、据わった目でゼクトを見つめ、言った。
﹁これで終わり?﹂
ゼクトの周りにも、らせんを描くようにぽつぽつと橙色の炎が現
れ始める。
それは、前世でも見慣れた人魂の炎。
﹁終わりだといいな。あなたまで燃やすのは⋮⋮ちょっとだけ大変
そうだから﹂
ゼクトが、人魂の虫籠の中でへたり込んだ。
あれはもう完全に心折れたな。
﹁⋮⋮ね、セイカくん、これでよかった?﹂
イーファが、何かを期待する目でぼくを見る。
﹁あ、ああ。お手柄だよイーファ。危うく、何か得体の知れないモ
ンスターを喚ばれるところだった﹂
頭を撫でてやると、イーファはうれしそうに目を細めた。

617
ただ、ぼくは少し残念に思う。
⋮⋮ちょっと見たかったなぁ、切り札とやら。
第十三話 最強の陰陽師、召喚獣と戦う︵後書き︶
※皓焔の術
陽の気で燃焼温度を上げた5,000℃の火炎を放つ術。タングス
テンは最も融点の高い元素だが、それでも3,400℃を超えると
融ける。現代技術で生み出された炭化タンタルハフニウムでも4,
200℃が限界となっている。5,000℃という温度は、この世
界に存在するあらゆる物質を融解させ、ほとんどの物質を蒸発させ
てしまうほどの熱量となる。色温度の関係上、炎光は白く輝く︵約
5,000ケルビン=昼白色の蛍光灯くらいの色︶。本来は輻射熱
で術者自身や周りの者にも危険がおよぶため、今回主人公は陰の相
の術を付したヒトガタを周囲に配置し、余剰な熱を吸い取っていた。

618
第十四話 最強の陰陽師、ドラゴンの事情を説明する
首長公邸に戻ってきたのは、結局それから数刻後のことだった。
本当は王子の部下か誰かが山頂に来るまで待ちたかったのだけれ
ど、殺気立っていたドラゴンがゼクトや傭兵を小突き回していたの
だ。
一応罪人は引き渡したかったので、喰われてしまう前に山から下
ろすことにした。
ドラゴンが再び公邸の庭に降り立つと、咥えていた蔓をぺっと吐
き出した。縛られていたゼクトや傭兵が、ドサドサと芝生に落下す
る。

619
エルフ
庭には、王子と森人の従者、そして大量の護衛兵が集まっていた。
さすがに二回目ともなるとこうなるか。
ぼくがイーファと共にドラゴンから降りると、王子が唖然とした
様子で問いかけてくる。
﹁セ、セイカ殿、これはいったい⋮⋮﹂
﹁こいつらは詐欺師で密猟者です、殿下﹂
ぼくは言う。
﹁ドラゴンを倒せるなんて話は嘘。金をだまし取り、卵だけを奪っ
て逃げるつもりだったんです﹂
﹁そんな⋮⋮それに、卵とは⋮⋮?﹂
﹁無論、ドラゴンの卵です。このドラゴンは今、子育ての最中だっ
たんですよ﹂
ぼくは山頂で見た事実と、推論を話す。
聞いた王子は、信じられないように首を横に振った。
﹁まさか、そんなことが⋮⋮﹂
﹁事実ですし、推測としては妥当な線だと思いますよ。報告書にも
このまま書くつもりです。なんならあなた方も、山に登って見て来
ればいい﹂
﹁だが⋮⋮それは危険だ。いやそもそも⋮⋮どうしてセイカ殿は、
それほどまでにドラゴンに受け入れられているのだ。攻撃されない
ばかりか、子育てを手伝った? たとえ普通の獣であったとしても、
そのようなこと⋮⋮﹂
﹁ある意味で、ドラゴンは特殊な獣なんです﹂

620
ぼくは説明する。
﹁子育てを行う生き物は珍しくない。ただ、その中でもさらに一部
は、親以外の個体も子育てに参加します。多くの鳥類、キツネやタ
ヌキに犬の一種、ごく一部の魚など。数は限られますが、実に幅広
い生き物がこの性質を持っている。そして︱︱︱︱ドラゴンもそう
だ﹂
ぼくは続ける。
﹁図書館で過去の記録を拝見しました。百五十年前の繁殖の際には、
先に生まれた子供が、他の子供の面倒を見ていたそうですね。つま
りドラゴンは、家族で子育てをするモンスターなんですよ﹂
﹁し⋮⋮しかし﹂
王子が言い募る。
﹁自身の仔ならともかく、セイカ殿は人間であろう! 血縁ではな
い、ましてや異種をなぜ受け入れるのだ﹂
﹁血縁関係にない個体が子育てに参加する種もあります。それに殿
下、お忘れですか? アスティリアのドラゴンの伝承を﹂
王子が目を見開く。
﹁まさか、王妃によって孵されたという⋮⋮? しかしそれは、あ
くまで伝承で⋮⋮﹂
﹁方法がわかっていれば孵せるのです。それに、伝承が事実であれ
ばすべてに説明が付く。ドラゴンがぼくを卵の世話にこき使ったの
も、何も不思議なことではないのですよ。その逆が、これまでずっ

621
と行われてきたのですから﹂
﹁逆⋮⋮?﹂
﹁いいですか、殿下。このドラゴンにとって、親は人間です。その
子らは家族。そして同じ縄張りで暮らしている、街の住民たちも家
族だと思ったことでしょう。当然、その子供たちのことも﹂
ぼくは話し続ける。
﹁かつてこのドラゴンは、人間たちと共に敵国の軍や魔族と戦った
そうですね。それはなぜだと思います? 住民を決して襲うことな
く、これほどの長きにわたって街の移り変わりを見守り続けたのは、
いったいなぜだと思いますか?﹂
﹁それでは、まさか⋮⋮﹂
﹁ええ、そうです﹂
ぼくは言う。
﹁アスティリアのドラゴンは、数百年もの間ずっと、人間の子育て
を助けてきたのですよ﹂
王子が、息を飲む気配がした。護衛の兵たちも微かにざわめいて
いる。
ぼくは、ずっと大人しくしている優しきドラゴンを振り仰ぐ。
﹁少なくとも、本人はそのつもりだったでしょう。それが、この生
命にとっては当たり前のことだったのです﹂
王子に目を戻し、告げる。

622
﹁恩返しをなさいませ、殿下﹂
﹁っ⋮⋮﹂
つが
﹁数百年分の恩です。番いのいないこのドラゴンにとって、子育て
は大変な苦労を伴うもの。人の手をもって助けてやりなさい。長く
交流がなかったために心が離れかけていましたが、育ての恩は決し
て忘れていません。ぼくを受け入れたのがその証拠です。まだ遅く
はない。プロトアスタの人々は、このドラゴンの家族に戻れる﹂
ぼくは付け加える。
﹁それに、人の手によって育てられれば、子のドラゴンも人間を家
族と思うようになるでしょう。いつか巣立ち、万が一人里近くに住
み着いても、人間を襲おうとしなくなる可能性は高い。あるいは交
流を持ち、共に暮らすことすらできるかもしれない。アスティリア
のドラゴンと同じように﹂
ぼくは、最後に言う。
﹁帝国へは、このように説明すればよいでしょう。ぼくも報告書に
そう書いておきます。脅威は少ないだろう、とね。いかがです、殿
下?﹂
王子はしばらくの間、沈黙していた。
だが、やがて首を横に振る。
﹁駄目だ﹂
﹁⋮⋮なぜです?﹂
﹁それでは⋮⋮それでは帝国の議員を納得させられない。そなたの
話には確証がない﹂

623
弱気な王子に、ぼくは呆れて言う。
﹁世の中確証があることの方が少ないですよ。ぼくも報告書は、そ
ちらが説得しやすくなるような内容で作ります。ここまでお膳立て
してやるんですから、あとは根回しと口八丁でなんとかしてくださ
い。殿下も政治家なんだからそれくらいできるでしょ﹂
﹁無理だ。そなたは知らないのだ⋮⋮帝国の議会は、腹に魔獣を飼
う古狸の巣窟だ。ボクなどでは、とても⋮⋮﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
おいおい⋮⋮本当に大丈夫かこいつ。
自信がなさすぎるだろ。
﹁いやでも⋮⋮かと言ってどうします? 他に方法はないでしょう。
殿下の案である、ドラゴンの討伐はそもそもが不可能だったんです
から﹂
﹁⋮⋮セイカ殿は、少なくともゼクトの召喚獣に勝てるほどの実力
があるのだろう? そなたが、ドラゴンを倒してはくれないだろう
か﹂
⋮⋮⋮⋮はあ??
呆気にとられるぼくに、王子は正気を疑うようなことを言い続け
る。
﹁いや、住処にまで受け入れられているのだ。ドラゴンにも効く毒
が手に入れば、それを用いてもよい﹂
﹁毒って、嘘でしょ⋮⋮? 今のぼくの話聞いてその発言が出てく
るんですか。ちょっと、本気でどうかしちゃってるんじゃないです
か? 皆さんさすがに引いてますよ﹂

624
﹁そなたにはわからぬ!﹂
王子が突然叫ぶ。
その目には、明らかに焦りの色があった。
﹁ボクは第一王子として、この街で結果を残さなければならないの
だ! ボクの力でこの問題を解決できないようなら、次代の王など
とても務まらない!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカ殿⋮⋮改めて頼む。ドラゴンの討伐に、協力してはもらえ
ないか﹂
ぼくは目を伏せ、首を横に振る。
﹁お断りします。ぼくの心情を抜きにしても、それはぼくの責務じ
ゃない。力を貸す理由はありません﹂
﹁そうか⋮⋮ならば、そなたの身柄は拘束させてもらおう。お前た
ちっ﹂
王子の指示と共に、護衛の兵たちが剣を抜いた。
ぼくは呆気にとられて呟く。
﹁え、なんで?﹂
﹁そなたには自身の魔法により、アスティリアのドラゴンに異常を
もたらした疑いがある。一度身柄を拘束したうえで⋮⋮その後はラ
ンプローグ伯爵に対し、此度の弁明を求めることとしよう。何、そ
なたの待遇は十分に保証する﹂
﹁えっとそれは⋮⋮ぼくを人質にするってことですか。いやしかし、
父は名こそ知られていますが、政治からは離れた立場にいますよ?
脅したところで大したことはできないですって﹂

625
﹁それでも帝国の伯爵だ。やってみなければわからないであろう﹂
⋮⋮⋮⋮やってみなければわからない、じゃないんだよ!!
ぼくはすっかり呆れ果てていた。迷走にもほどがある。
心なしか、護衛の兵たちにも迷いがあるように見えた。
そりゃそうだろうな。無茶苦茶だもん。
イライラしながらも考える。
ここは一度、大人しく捕まってから逃げ出した方が穏便に済みそ
うだな⋮⋮。
﹁イーファ! こちらへ来るんだ!﹂
と、突然、王子がイーファに呼びかけた。
え⋮⋮こいつ、嘘だろ?
イーファはというと、黙って王子に目を向ける。
﹁そなたは自由の身だ! もう怪しげな主人に従う必要はない!
セイカ殿の財産は一度接収し、そなたにはアスティリアにて市民た
る資格を与えよう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁さあ、早くこちらへ! そこにいては危険が⋮⋮﹂
﹁い、︱︱︱︱いい加減にしろッ!!﹂
ぼくは、思わず怒鳴っていた。
憤りのまま、王子に向かって言う。

626
﹁お前っ、こんな時に女だ!? それでも為政者かッ!! 無茶苦
茶言っていても所詮余所の都市の政治のことだからと黙っていたが、
結局イーファが目的だったのか!? 市民に恥ずかしくないのかッ
!!﹂
﹁なっ、なっ⋮⋮﹂
﹁そもそもお前は短絡的過ぎる! なんでもすぐ人に頼ろうとする
な! 安易な方法ばかり考えるな! そんなことで民がついてくる
かッ! 手柄や女よりも先に自分の為すべきことを考えろ、若輩が
っ! 何がこちらへ来いだ、自由にしてやるだっ。お前にっ︱︱︱
︱﹂
ぼくは勢いのまま叫ぶ。
﹁︱︱︱︱お前にイーファをやれるかぁっ!!﹂
静まりかえる公邸の庭。
﹁セ、セイカさま⋮⋮?﹂
耳元で聞こえたユキの声に、ぼくははっとした。
恐る恐る、隣のイーファに目をやる。すると、目を丸くしてこち
らを見ていたイーファが、あわてたようにさっと視線を逸らした。
ぼくは青くなる。
もしかしてぼく⋮⋮またやっちゃったのか?
﹁はっはははははははははは!﹂
突然、公邸の庭に快活な笑い声が響いた。

627
エルフ
笑声の主は、リゼと呼ばれていた森人の従者。
﹁うむ、いや、失礼⋮⋮。お前たち、剣を戻せ。このような茶番は
終いにしよう﹂
﹁なっ、リゼ!? それは⋮⋮⋮⋮ぐっ﹂
従者に睨まれ、王子が押し黙る。
剣を鞘に戻す兵たちは、どこかほっとしたような様子だった。
エルフ
それから森人は、イーファに目をやって訊ねる。
﹁一応訊いておこう。イーファ、それでいいのだな﹂
﹁はい﹂
イーファは微笑んで、王子に向かって言う。
﹁殿下。お誘いは光栄ですが、改めてお断りします。わたしは、セ
イカくんと学園に戻りますね﹂
﹁し、しかし、イーファ。そなたの意思は⋮⋮﹂
﹁わたしの意思です。それに、﹂
イーファは、冷めたような口調で言う。
﹁たとえ自由になっても、あなたを支えようとは思いませんから﹂
﹁い⋮⋮いや、だが⋮⋮﹂
﹁若﹂
エルフ
森人の従者が、咎めるように言う。
﹁いい加減引き下がることです。あなたはフラれたのですから﹂

628
﹁なあっ⋮⋮﹂
エルフ
固まる王子を無視し、森人は朗らかな調子でぼくに言う。
﹁大変に失礼した、セイカ殿。まず、ドラゴンの件については感謝
申し上げる。事の真相がわかったことは素直に喜ばしい。そのうえ
罪人まで捕らえてもらい、言葉もない。後の始末は、いただいた助
言通りにするとしよう﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁それと、調子のいいことを言うようだが⋮⋮今し方王子の言って
いたことはすべて忘れてはもらえまいか﹂
﹁あ、はい。ぼくもつい、言葉を荒げてしまいましたので⋮⋮﹂
﹁助かる。帝国へはいつ頃戻る? 馬車はいつでも都合するが﹂
﹁新学期も近いので、なるべく早いうちに。こちらに長居もしづら
くなりましたし﹂
﹁すまないな。ならば、道中の宿と共に迅速に手配するとしよう。
ときに⋮⋮イーファと二人で話したいのだが、許してもらえるだろ
うか﹂
﹁え⋮⋮﹂
思わず隣を見やる。
イーファは、ぼくを見て小さくうなずいた。
ぼくは言う。
﹁⋮⋮わかりました。どうぞ﹂
629
幕間 イーファ、プロトアスタ首長公邸にて⑤
﹁すまなかった﹂
首長公邸の庭。
護衛の兵たちから少し離れた場所で、リゼはイーファにそう言っ
た。
﹁どうやら私は、お前のことを誤解していたようだ﹂
﹁誤解⋮⋮ですか?﹂
﹁あの奴隷商の言うように⋮⋮お前の主人を想う気持ちは、やむな
く抱えたものだと思っていた。人は少なからず、新しい状況を怖が
る。今が一番いいと思い込もうとする。だが⋮⋮お前の心は、それ

630
とは違ったようだ﹂
リゼは改まって言う。
﹁愛しているのだな、あの少年を﹂
﹁あ、あいっ!?﹂
﹁ならばこれ以上、何も言うことはあるまい⋮⋮。手を出してみろ﹂
顔を真っ赤にしたイーファが、言われるがまま右手を差し出す。
リゼはそれを取ると、いつの間にか血の滲んでいた人差し指で、
手の甲に魔法陣に似た紋様を描き出した。
何やら小さく呪文が唱えられる。
すると、血の魔法陣は手に吸い込まれるようにすっと消え去った。
﹁私の精霊を少しばかりやろう﹂
イーファは、リゼの纏う膨大な精霊の一部が、自分のそばに移っ
ていることに気がついた。
魔石や指輪ではなく、消え去った手の魔法陣に集っているように
思える。
﹁特に、光の子ら⋮⋮光の精霊は希少だぞ。扱い慣れればそのよう
なこともできる﹂
イーファは、リゼの視線を追って自らの左手を見る。
風の刃で付けられた親指の切り傷が、跡もなく治っていた。
リゼが、唐突に言う。

631
﹁お前を見ていると、なぜだかおとぎ話の王女を思い出すよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
エルフ
﹁森人の魔法を使う亡国の王女。勇者の仲間でありながら、魔王す
らも憐れんだ慈愛の娘⋮⋮。お前ならば、大丈夫だ。きっとその想
いは届くだろう﹂
﹁そ、そうでしょうか⋮⋮?﹂
﹁あの少年が異質であると、私は今も疑っていない。だが⋮⋮他な
らぬあの少年自身が言っていたではないか。たとえ異なる存在同士
でも、家族になることができるのだと。ドラゴンと人とが共に生き
てきたのだ、それよりはずっと簡単さ﹂
リゼは、最後に言った。
﹁幸いであれ。同胞よ﹂
第十五話 最強の陰陽師、ご機嫌を取ろうとする
あの騒動から、二日後。
ぼくとイーファは、ロドネアへ帰る馬車の中にいた。
﹁あの、イーファ⋮⋮﹂
﹁な⋮⋮なに、セイカくん⋮⋮?﹂
イーファはぼくの方をちらちら見つつも、目を合わせようとしな
い。
一昨日からもうずっとこんな調子だ。
ぼくは、微妙に媚びた声になりながら問いかける。

632
﹁あー、その⋮⋮何か欲しいものある?﹂
﹁え、な、なに突然!?﹂
会話の流れ的に唐突すぎたせいか、イーファがびっくりしたよう
にこちらを向いた。
ぼくは恐る恐る言う。
﹁その⋮⋮怒ってるかな、と思って⋮⋮﹂
﹁ええ⋮⋮なにも怒ってないよ。どうして?﹂
﹁いやだってほら、ぼく、せっかくの縁談をダメにしちゃったし⋮
⋮﹂
﹁セイカくん⋮⋮昨日も言ったでしょ。わたし、後宮に入る気なん
てなかったって。むしろセイカくんがああ言ってくれてうれしかっ
たよ。あの王子様しつこいんだもん﹂
﹁⋮⋮ぼくに気を遣ってない?﹂
﹁遣ってないよ! なんでそんなに疑り深くなってるの!?﹂
﹁えー、だって⋮⋮﹂
ぼくはうじうじと言う。
﹁イーファ、一昨日からぼくと目を合わせてくれないし、話そうと
すると逃げるし⋮⋮﹂
﹁そ、それはっ⋮⋮﹂
イーファが目をそらし、微かに顔を赤らめながら言う。
﹁だ、だって⋮⋮リゼさんがあんなこと言うんだもん⋮⋮﹂
エルフ
﹁? あの森人の人がどうかしたのか?﹂
﹁な、なんでもないよ! と、とにかく、わたしは怒ってないから

633
!﹂
﹁そう⋮⋮?﹂
﹁そう! それに殿下のことは、わたしもセイカくんの言う通りだ
と思う! 一人で勝手に決めつけてわけのわかんないことして。あ
んなんじゃ、次の王様なんて務まらないよ。もっといろいろがんば
らないと﹂
﹁いや、何もそこまでボロクソに言わなくても﹂
﹁セ、セイカくんの方がボロクソ言ってたでしょ!? なんでわた
しの方がひどいこと言ってるみたいな流れにするの!﹂
﹁あれ、そうだっけ? まあ、殿下もまだ若いし多少の失敗はある
よ﹂
とはいえ、ポンコツ気味なのは確かだ。
そう言われても仕方ない。
しかしながら今回のドラゴン問題に関しては、なんとかなりそう
だった。
ぼくの調査報告を受けた女王陛下が、さすがにこの件はセシリオ
王子の手に余ると判断したのか、本人が直接介入することにしたそ
うなのだ。
相当な傑物とのことだし、帝国側の報告書を作るのはぼくだ。帝
国議会で譲歩を引き出すくらい難しくないだろう。
王子も女王の仕事ぶりを見て、政治のなんたるかを学んでくれる
といいな。
もっとも、これからプロトアスタは少しばかり忙しくなりそうだ。
たまたま王都アスタを訪れていた帝国の博物学者がこの件に興味
を示し、近いうちに教え子を引き連れてドラゴンを見に行きたいと
言っていたそうなのだ。
この話は学会で広まるだろうから、他にも訪れたいと手を上げる

634
学者は出てくるだろう。高名な者が訪れるとなれば首長が何もしな
いわけにもいかないし、山へ入るための諸々も整える必要がある。
王子は慣れない仕事に追われることになりそうだ。
ま、しばらくは王妃探しどころじゃないな。
当面は後宮のことなんて忘れて、精々公務に励んでくれ。
と、そこでぼくは思い出す。
﹁そう言えば、イーファは後宮を見に行ったんだっけ。どんなとこ
ろだった? やっぱり香水の匂いとかすごいのか?﹂
﹁それがね、ぜんぜんそういうところじゃなかったの。昔は普通の
後宮だったんだけど、今は跡継ぎ問題がなくなったから、すっかり
教育機関になっちゃったんだって。わたしが見学に行った時も、女
の子たちが統計学の講義を受けてたよ﹂
﹁へぇ、そうなのか。そういう例は初めて聞くな﹂
﹁みんなすごく真剣で。でも、ぜんぜん堅苦しい感じじゃなかった
よ。先生もおもしろい問題出したりして﹂
﹁おもしろい問題?﹂
﹁うん﹂
イーファが説明する。
﹁先生がサイコロを十回振ったら、全部六の目が出ました。次に六
の目が出る確率はどれくらいでしょう、って。セイカくんわかる?﹂
ぼくは苦笑する。
﹁そのサイコロ、ちゃんと一から六の目まで均等な確率で出る?﹂
﹁えっとそれは⋮⋮答えられないかな﹂

635
﹁それは答え言ってるようなもんだよ。九分九厘、六の目が出るだ
ろ。十回連続で六の目が出る確率なんて六〇〇〇万分の一くらいだ﹂
﹁えっ、あ、うん。正解だよ。ね、ねえ⋮⋮その十回連続で六の目
が出る確率、どうやって計算した?﹂
﹁ん? 六分の一の十乗だろ? 分母になる六の十乗は二の十乗に
三の十乗を掛ければ求められる﹂
﹁⋮⋮それって、どうやったの?﹂
﹁普通に、一〇二四掛ける五万九千⋮⋮﹂
そこで気づく。
べきじょう
ぼくは式を組む都合上、素数の冪乗をいくつか暗記しているのだ
が⋮⋮これ、理由を話せなければ謎の数字を無意味に覚えているた
だの変人だ。
あわてて理屈をこねくり出す。
﹁え、えっと⋮⋮二を五回掛けると三十二。これを掛け合わせると
およそ一〇〇〇。これで二の十乗ができた。三は少しめんどくさい
けど⋮⋮三の二乗で九。九を掛け合わせて八十一。八十一も掛け合
わせてたぶん六五〇〇くらい。これで八乗だから、あと一回九を掛
けておよそ六万。これで三の十乗もできた。最後に一〇〇〇と六万
を掛け合わせて、六〇〇〇万ってわけ。概算だけど、数字のスケー
ル感は掴めるよ﹂
﹁わ⋮⋮すごい。そっちの方が正確そう﹂
﹁? 他にやり方があるのか?﹂
﹁わたしはね⋮⋮﹂
イーファの方法を聞いて、ぼくは感心する。
﹁へぇ。ちょっと強引だけど、工程が少なくて済むな﹂
﹁でも、さすがに無理矢理だったよ。数字が近かったのも勘が当た

636
っただけだし⋮⋮。やっぱり、セイカくんはすごいね。ぱっと計算
しちゃうんだもん﹂
﹁あー、はは⋮⋮で、でも、話を聞く限りではずいぶんレベルが高
そうだなぁ﹂
﹁後宮を出て官僚になる人も多いんだって。リゼさんも昔在籍して
たみたいだけど、成績はどん底だったって言ってたよ。王室魔術師
になれる人が落第するくらいだから、厳しいんだろうね﹂
﹁ふうん⋮⋮。だけど昔って、どれくらい昔の話なんだろうな⋮⋮﹂
あの人あれで百歳近いらしいからな。八十年前とかかもしれない。
ぼくは、リゼの纏っていた大きな力の流れを思い出す。
﹁そう言えば⋮⋮あの人も、精霊が見えるんだっけ﹂
エルフ
それが森人の権能であると、リゼが自分で話していた。
エルフ
﹁イーファの魔法は、森人の魔法だったんだな﹂
﹁うん。わたし、ぜんぜん知らなかった﹂
エルフ
﹁両親から聞いたりしたことはなかったのか? 君に森人の血が流
れていることについて﹂
﹁ううん、一回もないよ。お母さんは、もしかしたら知ってたのか
もしれないけど⋮⋮﹂
﹁ふうん。ぼくの父上に訊いたら何かわかるかな﹂
いや⋮⋮たぶんわからないだろうな。
あの男はどうも、自分の研究以外はさほど興味がないようだし。
今回のことも、実は何かぼくに対する思惑があるんじゃないかと
ちょっと疑っていたのだが、特に何もなかった。

637
本当に他に頼める人がいなかっただけか、せいぜいが依頼を口実
ふみ
にぼくの最近の様子をうかがいたいとか、そんな理由で文を寄越し
たんだろう。
イーファが言う。
エルフ
﹁だけど、ぜんぜん実感ないなぁ。わたし、森人っぽいところなん
てどこにもないもん。お母さんも病気で死んじゃったから、長生き
できるのかもわからないし﹂
エルフ
﹁んー、だけど⋮⋮森人は見目のいい種族なんだろう? イーファ
が綺麗なのは、血のせいかもしれないよ。お母さんも美人だったじ
ゃないか﹂
﹁なななな、きっ、はわわわっ﹂
﹁そう考えたら、ポンコツ王子なんて袖にしてよかったかもな。も
っといい相手だって⋮⋮﹂
⋮⋮いや、いるか? 王子様よりいい相手なんて。
他人事ながら、やっぱりもったいない気がしてきた。
﹁うーん⋮⋮イーファは、結婚するならどんな相手がいいんだ?﹂
﹁えええっ、えっとぉ⋮⋮﹂
イーファはうつむきがちに、口ごもりながら言う。
﹁生まれはどうでもいいから⋮⋮わたしより頭がよくて、強くて、
やさしくて、それで少しだけ、さびしがり屋さんな人がいい、かな﹂
それを聞いて、ぼくは苦笑する。
﹁注文多いなぁ。偉そうなこと言うけど、妥協は大事だよ。じゃな

638
いと見つけるところから苦労する﹂
イーファはぼくをちらと見て。
それから、仕方なさそうに笑って呟いた。
﹁⋮⋮そんなことないよ﹂
第十五話 最強の陰陽師、ご機嫌を取ろうとする︵後書き︶
四章、終わりです。
次、五章です。
639
第一話 最強の陰陽師、家に呼ぶ
学園生活二年目の、冬が終わる頃。
学期末の試験も済み、学園は春休みを迎えようとしていた。
﹁メイベル、あんたちゃんと進級できそうなの?﹂
﹁なんとか﹂
﹁みんなでがんばったもんね∼﹂
ぼくの前を歩く彼女らの方からは、そんな会話が聞こえてくる。
明日から始まる春休みが終われば、ぼくらは三学年だ。
初等部の最終学年。そろそろ皆、先のことを考えなければならな

640
くなってくる。
高等部へ進み、研究の道を選ぶか。はたまた卒業し、自分の力で
生きていくか。多くの学生が頭を悩ませるところだろう。
ぼくとしては、冒険者になることをほぼ決めていた。
教師という道も悩んだ。前世のように、子供へ学問を教えながら
暮らすのも悪くない。
ただ良い待遇を求めるならば、必然的にこの学園のような帝立機
関か、金を持っている貴族に雇われることになる。
そういうのが性に合わないことは自分でよくわかっていたし、何
より⋮⋮権力者の近くにいることは、なるべく避けたかった。
仮に力を振るい、目を付けられる羽目にはなりたくない。
この世は、最強の暴力と世界の真理をもってしても立ち向かえな
いような、狡猾な人間が動かしている。
そういう連中を相手取るのは荷が重い。
ぼくには荒事の方がずっと性に合っている。
アミュとの約束もあるし。
というわけで、進路を決めたぼくは先の悩みとは無縁のはずだっ
たのだが⋮⋮。
今はちょっと、別の理由で気が重かった。
⋮⋮仕方ない。
溜息をつき、意を決して口を開く。
﹁アミュ。ちょっといいか﹂

641
前を歩いていたアミュが、足を止めて振り返る。
﹁なによ。あらたまって﹂
﹁実は頼みがあるんだ﹂
﹁頼み?﹂
﹁ぼくの実家に、顔を見せてくれないか﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁家族⋮⋮とかに会ってほしいんだ﹂
﹁はあっ!? な、な、な!﹂
アミュが目を見開き、あからさまに狼狽しながら言う。
﹁あ、あ、あんたなによそれっ、どういうつもり!? あ、あたし
たち別にそんな関係じゃ⋮⋮﹂
﹁ダメか?﹂
﹁ダメもなにも、いきなり過ぎるのよ! か、考える時間がほしい
っていうか、その⋮⋮﹂
﹁それもそうだな。待ってるよ。でもなるべく早く、いい返事が欲
しい﹂
﹁∼∼っ!!﹂
顔を赤らめて目を丸くするアミュの隣では、イーファが涙目にな
って何か言っていた。
﹁アミュちゃん⋮⋮わたし、アミュちゃんならいいよ。おめでとう
⋮⋮﹂
﹁あ、あんたもなに言ってんのよ!!﹂
と、そこで。

642
ぼくらの顔を見回していたメイベルが、首をかしげながら口を開
いた。
﹁⋮⋮求婚?﹂
﹁ん? いや、違う違う﹂
ぼくは苦笑しながら答える。
﹁実家から手紙が来てね。父上⋮⋮とかが、アミュにぜひ会いたい
って。学園に首席合格した全属性使いの魔法剣士がいるって、噂で
聞いたみたいなんだ﹂
勇者の話に関しては箝口令が敷かれているだろうが、生徒が実家
へ送る手紙や、帰省の土産話までは止められない。いくらかはアミ
ュの噂が広まっているようだった。
たずさ
﹁魔法学に携わる者としては気になるんじゃないかな⋮⋮たぶん。
ぼくも学費を出してもらっている手前、連れてこられませんでした、
では肩身が狭くてね。だからアミュ、できれば一緒について来てく
れると助かるんだけど﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
口をあんぐりと開けたまま固まっているアミュに、ぼくはふと気
づいて言う。
﹁もしかして、誤解させたか?﹂
﹁っ!! するわけないでしょっ、ばか!! あんたほんとぶっ飛
ばすわよ!?﹂
なんでぶっ飛ばされなきゃいけないんだよ。

643
なぜかイーファと並んで疲れたような溜息をつくアミュに、ぼく
は改めて訊く。
﹁それで、どう?﹂
﹁んー⋮⋮? まあ、いいわよ。春休みは家に帰る予定もなかった
し、ヒマだし。でもあたし、お貴族様の作法とかよくわからないけ
ど﹂
﹁大丈夫大丈夫。所詮遠方の田舎貴族だから、普段は作法なんて気
にしないよ。あー⋮⋮だけど一応、後で教えとく﹂
さすがに無作法ではまずい相手がいるからね⋮⋮。
﹁そうだ、よかったらメイベルも来ないか?﹂
﹁私?﹂
﹁クレイン男爵家は学会で関わることが多いからね。令嬢が顔を見
せてくれるとなれば、父上もきっと喜ぶよ﹂
﹁⋮⋮じゃあ、行く﹂
﹁よかった。それならさっそく早馬で手紙を出しておこう﹂
よしよし。
頭数はいた方がいい。ぼくが相手をせずに済むかもしれないから
な⋮⋮。
などと考えていると、メイベルが口を開く。
﹁ねぇ、セイカ﹂
﹁ん?﹂
﹁さっき、家族とか、って言ってたけど﹂
﹁えっ﹂
﹁ほかに誰かいるの?﹂

644
﹁あー⋮⋮﹂
ぼくはメイベルから目を逸らしながら答える。
﹁兄さんの婚約者が来てる、かもしれないな。あと親戚とか、客と
かね。そういうのがたまたま、いるかもしれない。いたらまあ、挨
拶しないと。ほら、メイベルも貴族になったんだからわかるだろ?﹂
﹁わからない﹂
﹁あ、そう? でもそういうものなんだよ﹂
﹁ふーん⋮⋮だからさっき作法教えるって言ってたわけね。なんか
気が重くなってきたわね⋮⋮。イーファはそういうのわかる?﹂
﹁わたしは奴隷だから⋮⋮一緒の席には座らないし、お話しするこ
ともなかったよ。今回もそうする﹂
﹁そうだったわね⋮⋮あたしもそれじゃダメかしら?﹂
﹁ダメに決まってんだろ。あー⋮⋮まあとにかく、そういうわけだ
から! 馬車は三日後に出るから、みんな準備しておいてね。それ
じゃあまた﹂
と、別れ際に言い残し、ぼくは男子寮への道を逃げるように歩き
出した。
****
﹁はぁ⋮⋮﹂
﹁気が重そうでございますねぇ、セイカさま﹂
男子寮への道すがら、頭の上でユキが言う。

645
﹁そんなにあの屋敷へ帰るのが嫌でございますか?﹂
﹁まあね⋮⋮﹂
会いたくない人間がいるんだよ、二名ほど。
﹁それならば、いつものように断ってしまえばよかったでしょうに﹂
﹁そういうわけにもいかないんだよ﹂
﹁なにゆえ、今回ばかり?﹂
﹁⋮⋮実は今、屋敷にかなり偉い人が来てるんだ。アミュやぼくに
会いたいと言っているのもその人なんだよ﹂
﹁ははぁ⋮⋮。勇者の娘が入学してから二年も経って、今さらのよ
ふみ
うに連れてこいという文が届くのも妙だと思いましたが、そういう
理由があったのでございますね﹂
﹁人の世は面倒なのさ。地位とか権力とか絡むとね﹂
ぼくがそう言うと、ユキは少し黙った後に、やや釈然としないよ
うに呟く。
﹁それは⋮⋮ユキには、よくわかりませんけども⋮⋮﹂
﹁⋮⋮? なんだい?﹂
ぼくが促すと、ユキがぽつぽつと話し出した。
さんだつ
﹁地位や権力と言いますが⋮⋮そのようなもの、結局は力で簒奪で
きるではないですか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカさまならば、望めばいつでも手に入りましょう。なぜそこ
みかど
までおもねるのです。かの世界では時の帝ですらもハルヨシさまを
敬い、対等に接していたというのに⋮⋮﹂

646
どこか歯がゆそうに言うユキへ、ぼくは静かに答える。
﹁そう単純なものじゃないのさ⋮⋮たとえば、大貴族や皇帝の地位
まつりごと
を力で奪ったとして、それからどうする? 政や策謀に不得手なぼ
くがその地位にいたところで、周りからいいように利用されるだけ
だ。彼らには彼らの闘争があるのだから﹂
﹁そのようなもの、セイカ様のお力があればいかようにも⋮⋮﹂
﹁なら政敵も力で滅ぼすか? だがそのような恐怖政治の末に、一
体どんな世界がある? 粛清に怯え話し合いすらままならない議会
に、他者を蹴落とすため密告し合う貴族や商人。賢人の放逐と疑心
暗鬼で政治は崩壊し、いずれは他国に攻め滅ぼされるか、民の反乱
でも起きるのが関の山だ。少なくとも、この豊かな国は失われてし
まうだろう。ぼくに待つのも破滅だよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁力でできることには限りがあるんだ、ユキ。ぼくだってなんでも
まつりごと
できるわけじゃない。かの世界では様々な叡智を学んだが、こと政
に関しては、到底政治家にはおよばなかったよ。人の思惑や営みは、
難解に過ぎる﹂
そんな当たり前のことを、少しばかり長く生きたせいであの頃は
忘れてしまっていた。
みかど
﹁ぼくは⋮⋮少しも、予見できなかった。哀れな幼き帝と親しくな
ったことで、数十年後の皇位争いに巻き込まれることも。弟子を手
にかけられないことを見越されて、敵の陣営が、あの子を差し向け
てくることも﹂
﹁⋮⋮﹂
まつりごと
﹁政の世界になど、わずかにでも足を踏み入れたのが間違いだった。
政治家にとっては、常ならざる強者も駒の一つに過ぎないのだろう。
現に歴代最強の陰陽師であってもこうして討ち斃され、異世界転生

647
などする羽目になってしまった。下手に力を見せて目を付けられれ
ば⋮⋮この世界でも、同じ目に遭いかねない﹂
﹁ならば⋮⋮どのようにすればいいと⋮⋮?﹂
﹁だから、目立たないように生きるんだよ﹂
ぼくは言う。
﹁偉い人間にへりくだり、大勢の内の一人に紛れる。策謀で敵わな
くとも、そもそも彼らに関わらなければいいのさ。力をなるべく振
るわずに、隠しておけばそれで済む﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁最低でも、その程度は狡猾に生きないとね。じゃないとまた幸せ
になれないまま死ぬことになる。もっとも、このところはちょっと
気が緩んでたけど⋮⋮﹂
﹁でもそれではっ﹂
珍しく、ユキがぼくを遮るように言った。
﹁でもそれでは⋮⋮時に、諦めることにもなるのではありませんか
?﹂
ぼくは、思わずきょとんとして訊ね返す。
﹁諦める? 何を?﹂
﹁それは⋮⋮うまく言えないのですが⋮⋮ううん、やっぱりなんで
もありません﹂
それきり、ユキは黙ってしまった。
あやかし
ぼくはふと笑って、頭の上に乗る妖に語りかける。

648
﹁退屈な話をしてしまったな。何か食べたいものはあるか? ちょ
うど試験も終わったし、街へ買いに行こう﹂
﹁あ、でしたらユキは、桃の砂糖漬けがいいです﹂
﹁お前甘いもの好きだよなー﹂
狐の妖のくせに。
第一話 最強の陰陽師、家に呼ぶ︵後書き︶
五章の開始です。
649
第二話 最強の陰陽師、実家に帰る
それから三日経って、ぼくたちを乗せた馬車はロドネアを発った。
学園へ出てくる時に通った道を逆に辿り、七日。
ぼくはちょうど二年ぶりに、ランプローグ領へと帰ってきた。
屋敷の前で馬車から降りると、見知った顔に出迎えられた。
﹁おかえり、セイカ﹂
﹁⋮⋮ただいま、ルフト兄。なんだか雰囲気変わったね﹂
微笑みながらそう告げると、今年で十九になるルフトは、照れく
さそうに笑った。

650
﹁そうかい? 少しは次期領主らしい威厳が出てきたかな﹂
﹁多少はね﹂
﹁セイカは⋮⋮あまり変わらないね。背は伸びたけど﹂
そりゃあ、これだけ生きていれば今さら内面なんて変わらない。
﹁兄さんの婚約者には会えないのかな﹂
ぼくが何気なく訊くと、ルフトは苦笑しながら答える。
あいにく
﹁生憎、しばらくはこっちに来ないと思うよ。ほら、今は例の逗留
客がいるから⋮⋮﹂
﹁それは残念だ。将来の義姉さんに挨拶したかったのに﹂
﹁またの機会に頼むよ﹂
それからぼくは、ルフトの傍らに控えていた長身の中年男性に目
を向ける。
﹁やあ、エディス。忙しいだろうに、わざわざ出迎えに来てくれた
のか。うれしいよ﹂
﹁とんでもございません。おかえりなさいませ、セイカ様。見ぬ間
にご立派になられました﹂
長身の男が慇懃に礼をする。
エディスは、ランプローグ家に仕える解放奴隷だ。
栗色の髪に口髭を生やした表情の乏しい男だが、その実相当有能
らしく、ランプローグ領の経営のほぼすべてを任されている。ブレ

651
ーズが自身の研究に没頭できるのも、ほとんどエディスのおかげと
言ってよかった。
それだけにかなり多忙なはずなんだけど⋮⋮。
﹁仕事は大丈夫なの?﹂
﹁下の者に任せております。多少無理をしましたが、ぜひ直接お迎
えに上がりたく﹂
と、堅苦しい口調で答える。
エディスは昔からこんな感じだが、誰に対しても同じ態度なので、
屋敷の中では好ましい方の人間だった。
まあ今日来たのは、ぼくのためではないだろうけれど。
﹁それより、セイカ一人かい?﹂
﹁ん、あれ? みんな降りてきていいよ﹂
ぼくは顔だけで振り返り、馬車に向かって呼びかける。
遠慮でもしていたのか、それを合図に彼女らがぞろぞろと馬車の
中から出てくる。
﹁ル、ルフト様。お久しぶりです⋮⋮﹂
﹁ああ、イーファか。久しぶりだね。綺麗になってて驚いたよ﹂
﹁あ、ありがとうございます⋮⋮﹂
﹁イーファ。ほら﹂
﹁う、うん﹂
それから、イーファはエディスを見上げてはにかむように笑う。
﹁えっと⋮⋮ただいま、お父さん﹂
﹁ああ﹂

652
エディスが、口数少なく頷いた。
﹁変わりないか?﹂
﹁うん、元気﹂
﹁セイカ様に迷惑をかけていないか?﹂
﹁ええと⋮⋮たぶん?﹂
と、イーファがこっちを見てくるので、ぼくが代わりに答える。
﹁イーファはよくやってくれているよ。学園での成績もいいんだ。
主人として誇らしいよ﹂
﹁娘にはもったいないほどの言葉ですが⋮⋮それならば、送り出し
た甲斐があります﹂
と言って、それきりエディスは口をつぐんだ。
仕事では有能だけど、不器用な父親なんだよな。少しブレーズに
似ているところもある。
まあこの親子は置いておこう。
ぼくはルフトに向き直り、近くで固まっている赤髪の少女を手で
示す。
﹁ルフト兄。こちら、アミュだよ。あの﹂
﹁ああ、彼女が﹂
ルフトはアミュに顔を向けると、穏やかな笑顔で手を差し出した。
﹁はじめまして。ランプローグ家次期当主のルフト・ランプローグ
です。この度はロドネアからはるばる我が領地へようこそ﹂

653
﹁ど、どうも。お招きにあずかりました⋮⋮﹂
アミュがぎこちなく握手に応じる。なんだかいつもとは全然違う
な。
ルフトは、どこか人好きのする笑みで続ける。
﹁どうかな。ロドネアと比べると、やっぱりここは田舎かい?﹂
﹁ええと、少し⋮⋮けっこうそう、かも?﹂
﹁ふふ、どうりでセイカが帰りたがらないわけだよ。帝都には何度
か行ったことがあるけど、ロドネアはなくてね。食事の席ででも、
学園や街の話を聞かせてくれないかな。セイカは自分の成績とか功
績のことばかりで、普段の生活のことはあまり手紙に書いてくれな
いから﹂
﹁別に、書くこともないだけだよ﹂
それからぼくは、アミュのそばで同じように突っ立っていたメイ
ベルを示す。
﹁えーこちら、クレイン男爵家令嬢のメイベルだよ。手紙、見てく
れてた?﹂
﹁もちろん見ていたよ。はじめまして。お目にかかれて光栄です、
メイベル嬢﹂
と、ルフトは、今度はメイベルに貴族の礼を行う。
﹁実は、貴女の伯父上には学会で一度挨拶させてもらっているんだ。
もし会う機会があったら、その時はよろしく伝えていただけると助
かります﹂
﹁⋮⋮!﹂

654
メイベルは無言でこくりとうなずくと、焦ったようにキョロキョ
ロと周りを見回して、それからあわてて同じような貴族の礼を返し
た。
メイベル⋮⋮。
作法は大丈夫とか言っていたのに、全然慣れてないじゃないか⋮
⋮まあそんなことだろうとは思ってたけど。
と、その時アミュが、腕の辺りを指でちょんちょんと突いてきた。
小声でささやきかけてくる。
﹁ね。このイケメンが、上の兄?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁あんまりあんたに似てないわね﹂
﹁それ、遠回しにぼくをばかにしてるのか?﹂
﹁なんか、貴族って感じ。別にこれは嫌みじゃなくて﹂
アミュが、他意のない様子でそう呟いた。
二年前はそうでもなかったんだけどな。若者はあっという間に変
わっていく。
ぼくは一つ息を吐くと、ルフトに声をかける。
﹁とりあえず荷物を置きたいから、みんなを部屋に案内してくれる
かな。兄さん﹂
﹁そうだね。ではこちらへ﹂
馬車に積まれていた荷物を侍女や使用人に任せ、ルフトが屋敷の
敷地内を先導していく。

655
ぼくは隣に並んで話しかける。
﹁部屋は離れの方?﹂
﹁いや、屋敷の空いている部屋になる。離れにはもう客人がいるか
らね。ほら、例の⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
と︱︱︱︱その時。
﹁︱︱︱︱セイカァァァッ!!﹂
聞きたくなかった声が、耳に飛び込んできた。
﹁げっ⋮⋮﹂
思わず足を止めてしまう。
顔をしかめながら声の方を見やると︱︱︱︱案の定、そこには二
番目の兄がいた。
﹁とうとう帰ってきやがったな! ははっ、今日この日をどれだけ
待ちわびたか!﹂
庭に仁王立ちしたグライが、不敵に笑いながらそう言った。
ぼくは引きつった笑みで答える。
﹁や、やあ兄さん⋮⋮まさかそんなに歓迎されるとは思わなかった
よ。ちょっと見ない間にずいぶん⋮⋮なんというか、でかくなった
ね﹂
二年前もルフトと同じくらいの身長があったが、今では完全に超

656
している。
おまけに軍で鍛えられたのか、体格もかなりがっしりとしていた。
今も稽古をしていたのだろう。手には模擬剣を提げ、少し汗をか
いているようだった。
こっちも変わったなぁ⋮⋮。
﹁⋮⋮元気そうで何よりだよ。そんなに軍での生活は楽しい?﹂
﹁ああ、楽しいとも﹂
あれだけ嫌がってたはずだったのに、意外にもグライは肯定する。
﹁自分でもまさかここまで性に合っているとは思わなかったぜ。机
に座っているより、ゲロ吐くほど剣振って理論なんて考えずに魔法
ぶっ放つ方がよほど楽しい。学園に行くよりもずっとよかった。セ
イカ、お前には感謝してやってもいいくらいだ。だがな⋮⋮おれを
コケにした恨みは忘れてねぇ!﹂
と、グライが手に提げていた模擬剣を差し向けてくる。
﹁勝負しろ、セイカッ!!﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁ずっとこの日を待っていた! 今日こそ屈辱を晴らす時だ!!﹂
ぼくが呆気にとられていると、グライの傍らに立っていた初老の
男が焦ったように諫める。
﹁坊ちゃま! いけませんぞ、国の危機に戦うべき貴族とはいえ、
武の心得のない子供に対してそのような!﹂
﹁うるせぇ坊ちゃまって呼ぶんじゃねぇ! おれは今日この日のた

657
めに地獄の訓練を耐えてきたんだ、邪魔すんな!﹂
グライが負けじと言い返す。
知らない人だけど、誰だろう。軍の関係者、もしかしたら部下か
な。
グライの場合ただ里帰りしたのではなく、軍務の一環で、一部隊
を率いてきているから。
グライが今や小隊の一つを任せられていることを、ぼくはルフト
から手紙で聞いていた。
元々親戚の部隊に配属されたから待遇はよかっただろうが、ここ
まで早く出世したのはやはり才能があったんだろう。剣や魔法だけ
じゃなく、部隊を率いるには軍略を解し、荒くれ者の兵の心を惹き
つけ、鼓舞する力が必要になる。
そういえば、屋敷にいた頃は街で柄の悪い連中とつるんでいたり
していた。そう考えると、やっぱり向いていたのかもな⋮⋮。
と、その時アミュがまた、腕の辺りを指でちょんちょんと突いて
きた。
﹁ね。あの人が、二番目の兄?﹂
﹁そうだよ﹂
﹁あんたとイーファをいじめてて、学園に来る前にボコボコにして
やったっていう?﹂
﹁そう。で、今は帝国軍の地方部隊で小隊長やってる﹂
﹁⋮⋮軍人が、学生に剣で勝負挑むわけ? 何考えてんのよ﹂
﹁まあ冷静に考えると非常識なんだけど⋮⋮そういうやつなんだよ﹂
﹁ふん﹂
荒い鼻息を吐いて、アミュが一歩前に進み出た。

658
それからグライを見据えて宣言する。
﹁ちょっとあんた! セイカの代わりにあたしと勝負しなさいよ!﹂
﹁えっ、ア、アミュ?﹂
突然のことに動揺するぼく。
言われたグライも、はあ? みたいな顔をしてアミュを見た。
それから、ぼくに視線を戻して言う。
﹁おいセイカ。なんだこいつは﹂
﹁ぼくの同級生なんだけど⋮⋮﹂
﹁あんたね、剣士が素人相手に勝負を挑もうとか恥ずかしくないわ
け?﹂
アミュは構わずに続ける。
﹁あたしが相手になるわよ! 決闘に代理人立てるのは普通でしょ
?﹂
言われたグライが、めんどくさそうな顔でしっしっ、と犬を追い
払うように手を振る。
﹁学生なんかがおれの相手になるか。お呼びじゃねぇからどいてろ﹂
﹁セイカも学生でしょ!? それにこっちはお貴族様になめられる
ような鍛え方してないのよ!﹂
﹁あのな、そういうのいいから⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮勝負してやってよ、グライ兄﹂
ぼくは少し迷って言った。
たぶんグライも、剣で負けた方が大人しくなるだろう。

659
﹁代理人ってことで。アミュは、少なくとも剣はぼくより確実に強
いからね﹂
﹁剣なんてほとんど握らないお前と比べてどうする﹂
﹁アミュにもし勝ったら、その時はぼくが相手してやってもいいよ﹂
﹁はーん⋮⋮それなら話が早え﹂
グライが、アミュを見据えて言う。
﹁受けてやるぜ、ガキんちょ。さっさと剣を構えな﹂
﹁構えな、じゃないのよ。模擬剣よこしなさいよ﹂
﹁めんどくせぇな。その腰のご立派なのを抜けよ﹂
グライが模擬剣の剣先で、アミュの提げるミスリルの杖剣を差す。
﹁お前もそっちの方がやりやすいだろ﹂
﹁こっちだけ真剣でやれって言うの?﹂
﹁寸止めで決着なら同じだ。だが、殺す気でかかってきてもいいぜ。
軍の訓練では模擬剣を使ってもたまに死ぬやつがいるんだ﹂
﹁⋮⋮そう﹂
アミュが、ゆるりと杖剣を引き抜く。
﹁でもそれ、冒険者でもよくいるわね﹂
﹁冒険者⋮⋮? まあいい。ローレン! 立会人をしろ、隊長命令
だ!﹂
﹁坊ちゃま⋮⋮仕方ありませんな。お嬢さんにお怪我などさせぬよ
う、くれぐれも気をつけるのですよ。それとお嬢さんの方は杖剣を
お持ちですが、この立ち会いにおいて魔法は一切禁止とします。双
方、よろしいですな﹂

660
初老の男が間に立ち、両者が対峙する。
ぼくは思わず渋い顔になる。アミュの側だけとは言え、真剣での
立ち会いになってしまった。
だがまあ⋮⋮大丈夫だろう。
アミュならば、きっと手心を加えても余裕で勝てる。グライ程度
では勇者には敵うまい。
それにもし死にそうな怪我を負ったら、その時は仕方ないから治
してやらないでもないしね。
﹁では︱︱︱︱始めッ!﹂
ローレンと呼ばれた男が、意外にも張りのある声で開始の合図を
する。
﹁っ!﹂
アミュが地を蹴り、一息に距離を詰めた。
そしてそのまま、上段からミスリルの愛剣を振り下ろす。
﹁⋮⋮!﹂
重量感のある金属音が響く。
つか
剣術の定石に従い、柄に近い部分でアミュの一撃を受けたグライ
は、わずかに目を見開いて左手を模擬剣の背へと滑らせた。そうし
なければ受けきれなかったのだろう。
しかし、受けきった。

661
レッサーデーモンに膂力で勝るアミュの馬鹿力だ。そのまま倒さ
れて勝負が決まるかと思ったけど⋮⋮。
メイベルも以前アミュの振り下ろしに耐えていたが、あれは重力
魔法があってのことだ。グライの方から力の流れは感じない。魔力
による身体強化と純粋な技術で、あの怪力に抵抗している。
鍔迫り合いの状態から、アミュが押し込んでいく。
しかしグライは、うまく力をいなしながら攻めの緩急に耐え、隙
を作らない。
むしろ表情は冷静で、いくらかの余裕まで見られるほどだ。
﹁ああもうッ!﹂
アミュが焦れたように、鍔迫り合いから強引に間合いを開き、激
しい攻めに転じた。
しかし、やや無理筋だ。流れを掴みきれていない。剣には重さも
速さも乗っているが、グライはそのすべてを落ち着いて受けきって
いる。
と、その時グライが、突然バランスを崩した。
小石でも踏んだのか。転倒まではいかないものの、大きな隙がで
きる。
当然アミュもそれを見逃さず、追撃の態勢に入った。
あそこからだと、グライは打ち合えてせいぜい二合。それで決着
だ。
なんだか拍子抜けする終わり方だが、まあこれで⋮⋮、

662
﹁燃え盛るは赤! 炎熱と硫黄生みし精よ︱︱︱︱﹂
その時、グライが突然叫んだ。
呪文詠唱。
﹁っ!?﹂
アミュが踏み込みの足を止め、剣を引いて、身構えるように一瞬
体を硬直させた。
追撃の姿勢から急に攻め気を消したために、どうしようもない隙
ができる。
それで、終わりだった。
グライが嘘のように一瞬で体勢を戻し、その剣を振るう。
アミュの手から、ミスリルの杖剣が弾け飛んだ。
そして、尻餅をついた少女剣士へと︱︱︱︱模擬剣の切っ先が突
きつけられる。
﹁はい、おれの勝ち﹂
アミュを見下ろしたグライが、気だるそうに宣言する。
場が静まりかえる中、我に返ったアミュが叫ぶ。
﹁はあ!? ひ、卑怯よ! 魔法はなしって言ったじゃない!﹂
﹁おれがいつ魔法なんて使った?﹂
言われたアミュが目を見開く。
へぇ⋮⋮。
﹁騙し討ち!? あ、あんた、それでも剣士なの!?﹂

663
﹁戦場にはお行儀のいい勝負なんてないんでね。その雑な実戦剣、
お前冒険者かなんかだろ。モンスター相手にも同じこと言ってんの
か?﹂
そう言って模擬剣を下げるグライに、アミュが歯ぎしりしそうな
顔をして言う。
﹁も、もう一回!﹂
﹁やだね﹂
﹁はあ!?﹂
﹁次やったら負けそうだ﹂
﹁な、な、な!﹂
﹁お嬢さん﹂
ローレンと呼ばれた初老の男が、アミュに手を差し伸べながら言
う。
つまず
﹁坊ちゃまが躓いたのは、わざとですよ﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
﹁このローレンも驚きました。お強いですな、お嬢さん。それだけ
に、坊ちゃまも勝ち方に困られたのでしょう。このような場でお客
人相手に、まさか荒っぽい決着をするわけにもいきませぬからな﹂
﹁⋮⋮﹂
きか
﹁坊ちゃまは、あれでもペトルス将軍の麾下では随一の使い手なの
です。魔法でも剣でも。この二年でそうなられました。もっとも、
軍略に関してはもう少しお勉強が必要ですが﹂
﹁うるせぇぞローレン! 余計な事喋るんじゃねぇ!﹂
﹁おっと、これは我が軍の機密でしたな﹂
グライとローレンのやり取りを眺め、ぼくは思う。

664
やっぱり、グライも変わったみたいだ。見た目だけではなく、中
身の方も。
﹁待たせたな、セイカ! 約束通り勝負してもらおうか﹂
腰に手を当てたグライがぼくに告げる。
息を切らした様子もない。余裕があったのも本当なんだろう。
ぼくは、溜息をついて答える。
﹁勘弁してよグライ兄。今のグライ兄に剣で勝てるわけないだろ﹂
・・・・・・
﹁誰が剣で勝負しろなんて言った。なんでもありだ。お前はあの妙
な符術でもなんでも使え。おれもこいつを抜かせてもらう﹂
と、グライが模擬剣を投げ捨て、腰の剣を抜いた。
こしら
杖剣のようだ。無骨な造形ながらもその丁寧な拵えから、上等な
ものであることがわかる。
﹁坊ちゃま! いけませんぞ!﹂
﹁うるせぇ! お前にもこの勝負だけは邪魔させねぇぞ、ローレン
!﹂
﹁坊ちゃま⋮⋮﹂
﹁受けるよなぁ、セイカ! 聞いたぜ、帝都の武術大会で優勝した
そうじゃねぇか。おれにはわかる、お前にとってはどうせ取るに足
らないやつばかりだったんだろう。だがな、今のおれは違うぞ!
あの日の屈辱をバネにここまで強くなったんだ! おれと決闘しろ、
セイカ! 二年前の再戦だ!﹂
﹁まったくやかましいなぁ⋮⋮はぁ。わかったよ、グライ兄﹂
やれやれと、ぼくは前に歩み出る。

665
負かしてやればとりあえずは大人しくなるだろう。
﹁一応、約束したからね。ルールはどうする?﹂
﹁武術大会と同じでいい。お前もその方が都合がいいだろう﹂
アミユレツト
﹁別になんでもいいけどね。ただ護符がないから、そうだな⋮⋮魔
法は一発当たったら負けで。ただし、制限はなし。中位以上の魔法
だって使っていいよ。じゃないと、実力なんて出せないんだったっ
け?﹂
﹁はっ⋮⋮言ってくれるじゃねぇか⋮⋮!﹂
グライが不敵に笑い、杖剣を肩に担ぐ。
﹁ローレン! 勝敗の判定はお前がしろ! 隊長命令だ!﹂
﹁坊ちゃま⋮⋮わかりました。あまりそうは見えませぬが、こちら
のセイカ殿は、坊ちゃまがそこまでの覚悟を持って挑むほどの強者
なのですね⋮⋮。であるならば、これ以上部外者が言えることは何
こたび
もありませぬ。このローレン、此度の決闘をしかと見届けると誓い
ましょう!﹂
﹁セ、セイカ、ほんとにやる気なの?﹂
﹁ん?﹂
思わず振り返ると、アミュが不安そうな目でぼくを見ていた。
﹁昔はどうだったのか知らないけど⋮⋮あいつ、今はたぶん本気で
強いわよ。もしかしたら、帝都の武術大会に出ていた誰よりも⋮⋮﹂
﹁はは、珍しいな。アミュがこういうことで心配してくれるなんて﹂
﹁笑い事じゃないわよ! 万が一って事もあるかもしれないし⋮⋮﹂
﹁ないよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁万が一なんてない﹂

666
そう言って、ぼくはグライに向き直った。
グライがぼくを倒すには⋮⋮試行回数が万では、とても足りない。
どれ、軽く思い知らせてやろう。今生の兄よ。
ローレンが声を張り上げる。
﹁此度の決闘は、いずれかの名誉や仇討ちのためではなく、純粋に
強さを決するもの。互いに剣を止め、致命な魔法は用いぬよう努め
ること。勝敗はこのローレンの判定によって決します。双方、よろ
しいですな? では︱︱︱︱﹂
﹁まあ、決闘﹂
澄んだ音色の笛のような、場違いな声が響いた。
皆一斉に、そちらに目をやる。
いつのまにか、屋敷の庭に一人の少女が立っていた。
﹁わたくしの聖騎士が決闘だなんて、なんということでしょう。こ
れを見届けることが、きっとわたくしの定めなのでしょうね﹂
少女が陶然と呟く。
かたど
神々を象った彫像のような、人間離れした美貌を持つ少女だった。
はがね にびいろ
鋼のような鈍色の瞳も、うっすら水色がかった髪も、前世では見
たことがない。まるで化生の類だが、身に纏っている普段着用のド
レスは上等なもので、その言葉遣いも含めて高貴な身分の人間であ

667
ることがわかる。
ローレンやルフト、エディスや使用人たちが、うやうやしく姿勢
を正す。
ぼくと向かい合っていたグライは⋮⋮ものすごく苦い顔をしてい
た。
﹁な⋮⋮なんだよ、殿下。あまり一人で行動するなって言っただろ﹂
﹁うふふ、仕方ないでしょう? 皆、どこかへ行ってしまったので
すから⋮⋮あるいは、どこかへ行ったのはわたくしの方かもしれま
せんが。うふふふ﹂
﹁おれの部下を困らせるんじゃねぇ﹂
﹁そのようなこと、どうでもいいではありませんか。さあ、はやく
決闘を始めなさい、グライ﹂
何を考えているのかよくわからない目のまま、少女は口元に笑み
を浮かべる。
﹁たとえなに一つ得ることのできない戦いであっても、あなたにと
っては意味があることなのでしょう? わたくしには、ちょっと理
解できませんけれど﹂
言われたグライの表情が歪む。
﹁おれが負けるって言うのか﹂
﹁まあ、あなたの勝負の行く末を口にするだなんて⋮⋮うふふ、そ
のような残酷なこと、わたくしにはとてもできませんわ。ですが、
敗北にも意味はあるのではなくて? あくまで一般論ですけれど。
たとえ相手の実力すら引き出せないほどの大敗であっても、気持ち
の整理はつくのではなくて? あくまで一般論ですけれど。うふふ

668
ふ﹂
﹁⋮⋮そうかよ﹂
グライが肩を落とし、杖剣を鞘に収めた。
﹁やめだ、セイカ﹂
ぼくは思わず目をしばたたかせる。
なんだ⋮⋮? 立場が立場だろうけど、あのグライが、あれほど
素直に言うことを聞いた理由がわからない。
﹁それとな。怒ってるならもっと普通に言えよ﹂
﹁まあ。では、怒っています﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮なんでだよ﹂
﹁わたくしの聖騎士が、勝手に決闘するなど許しませんわ﹂
﹁まだなってねぇだろうが﹂
﹁先の定めならば同じこと。それはそれとして、はやくお客人にわ
たくしを紹介なさい。いいかげん待ちくたびれてしまいましたわ。
この場での定めを、はやく済ませてしまいたいのです﹂
﹁おれも挨拶がまだなんだが⋮⋮はぁ、わかったよ﹂
グライが少女へと歩み寄り、ぼくらに向かい、その姿を手で示す。
﹁あー、こちらにあらせられるは、フィオナ・ウルド・エールグラ
イフ︱︱︱︱﹂
実際のところ、ぼくはその少女の正体に見当がついていた。
この場にいる高貴な身分の少女など、ルフトからの手紙にあった

669
彼女以外にあり得ない。
﹁︱︱︱︱皇女殿下だ﹂
第三話 最強の陰陽師、皇族に会う
皇女。
皇子ばかりが続いた現在の帝国皇室で、そう呼ばれる人間は一人
しかいない。
﹁えっ⋮⋮あ、あの聖皇女!?﹂
アミュが素っ頓狂な声を上げる。
聖皇女フィオナ。
現ウルドワイト皇帝唯一の娘であり、中央神殿に仕える巫女が生
んだ子。

670
その珍しさから多くの吟遊詩人に歌われ、美しさからいくつもの
肖像画や彫像が作られた、民衆にも広くその名が知れ渡る皇女。
そんな存在が⋮⋮田舎貴族の屋敷の庭に、ぽつんと佇んでいた。
グライが、声を上げたアミュを見やって言う。
﹁おいこらそこ! 不敬だぞ﹂
﹁それはあなたですわ、グライ。最近、いくらなんでもわたくしの
扱いが雑なのではなくて?﹂
二人のやり取りを見ていると、アミュに肩を揺すられた。
﹁ね、ねえ! なんで聖皇女があんたの家にいるのよ!﹂
﹁それは⋮⋮ちょうど今逗留中だったっていうか⋮⋮﹂
﹁あんたそんなこと一言も言ってなかったじゃない!﹂
だって、言って断られたら嫌だったし。
﹁あなたにお会いしたかったのですわ、アミュさん﹂
﹁うわっ!﹂
いつのまにか近くにいたフィオナ殿下に、アミュがぎょっとした
ような反応をする。
皇女はどこか掴み所のない微笑で、宙に浮かぶような言葉を紡ぐ。
﹁驚かせてしまってごめんなさい。今は地方を回る視察の最中だっ
たのですけれど、ランプローグ伯に無理を言って滞在させてもらっ
ていますの。あなたにどうしてもお会いしたくて⋮⋮学園の休みを

671
利用して、ご子息にあなたを連れてきてもらうようわたくしが頼ん
だのですわ﹂
﹁へ、へぇ⋮⋮そうだったのね⋮⋮﹂
アミュがぼくを横目で睨んできた。ごめん。
﹁その分では、伝わっていなかったようですわね。でもご学友を責
めないであげてください。無理を言ったのはわたくしなのです﹂
﹁え、ええ、いいけど⋮⋮でも、なんであたしなんかに﹂
﹁うふふ、お噂は聞いておりましたわ。二年前、魔法学園に首席合
格されたのでしょう? これまでにないほどの成績を取ったうえで﹂
﹁あァ? 殿下が言ってた奴ってお前のことだったのかよ。どうり
で剣が重いと思ったぜ﹂
﹁グライ。少し静かにしていなさい﹂
押し黙るグライを見やりもせず、フィオナはアミュに語りかける。
﹁全属性の魔法適性のみならず、たぐいまれな剣の腕までお持ちだ
とか。うふふ⋮⋮まるで、おとぎ話の勇者のよう﹂
﹁あ、ありがと⋮⋮それ、昔はよく言われたわ﹂
﹁うふふふ﹂
フィオナが、その鈍色の目でじっとアミュを見つめる。
﹁赤い髪に若草色の瞳⋮⋮わたくしが視た通りの姿ですわ。きっと、
お母様が最期に視たのも⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮セイカ・ランプローグ様﹂
そこで、不意にフィオナがぼくを振り向いた。

672
微笑のまま続ける。
﹁わたくしの急なわがままを聞いてくださって、感謝いたしますわ﹂
一瞬面食らったが、ぼくは貴族用の言葉遣いを思い出しながら笑
みを返す。
﹁とんでもございません。皇女殿下がお望みならば、この程度のこ
とはいくらでもお申し付けください﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あの、何か?﹂
フィオナはしばらく無言のままぼくを見つめていたが⋮⋮やがて
首を横に振り、いいえと言った。
﹁なんでもありませんわ。セイカ様も、大変な実力をお持ちと聞き
ました。なんでも帝都の武術大会で優勝されたとか。わたくしは血
が怖くて観ることができなかったのですけれど、今はそれを惜しく
思いますわ﹂
﹁恐れ入ります。強者ばかりが集った大会でしたが、時の運に恵ま
れました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あの、やっぱり何か?﹂
﹁いいえ⋮⋮なんでもありませんわ。うふふ。できうるならばお二
人共、わたくしの聖騎士として欲しいくらいなのですが⋮⋮そうい
うわけにもまいりませんね﹂

673
陶然と呟いていたフィオナだったが、やがて正気に戻ったように
言う。
﹁わたくしはもう少し滞在する予定です。よろしければ、新学期に
合わせ一緒に発ちませんか? ロドネアとは方向が同じですから。
王都へ先に寄ってもらうことにはなりますが、護衛の小隊が同行し
ますし、道中はよい宿を用意できますよ﹂
﹁え、ええ。それは願ってもないことです。ぜひに⋮⋮﹂
﹁ではそのようにいたしますわね﹂
フィオナはそこで初めて、いくらか人間らしい笑みを浮かべた。
﹁ここにいる間、どうかわたくしと仲良くしてください﹂
ゆうげ
それではまた夕餉の折に、と言って。
フィオナは歩き去って行った。
屋敷とは反対方向だけど、どこ行くんだろう? 庭の散策でもす
るのかな。
グライに命じられてローレンがついて行ったし、敷地内ならまあ
危険はないだろうけど⋮⋮。
なんとも変な女だ。
﹁聖皇女って、あんな人だったのね⋮⋮あたしちょっと、イメージ
と違ったわ﹂
アミュが呟く。ぼくも同感だった。
﹁セ、セセセセイカくん!? 今の、本物の皇女殿下!?﹂

674
﹁なんでだまってたの﹂
﹁あ、いやそれはその⋮⋮ルフト兄! ほ、ほら、早く部屋に﹂
﹁ふふ、そうだね。皆さんのことは、晩餐の席で改めて殿下に紹介
します。長旅で疲れたでしょうから、それまではひとまず部屋でく
つろいでください﹂
駆け寄ってきたイーファとメイベルの追及から逃げるように、ぼ
くは先導するルフトの横に並ぶ。
﹁はぁ、まったく⋮⋮﹂
﹁殿下がいることを黙って連れてきたのかい? ダメじゃないか﹂
﹁それで断られたら兄さんだって困っただろう。連れてきただけ感
謝してほしいね。それより⋮⋮なんでさっきは止めてくれなかった
のさ﹂
﹁ん?﹂
﹁グライ兄のことだよ﹂
﹁ああ⋮⋮グライは、ずっとセイカに対抗意識を燃やしていたから
ね。邪魔するのも気が引けたんだ﹂
ルフトが苦笑しながら言う。
﹁それに、滅多なことにもならないと思っていたしね﹂
﹁どうして?﹂
﹁二人とも、もう僕なんかよりもずっと強い。実力者同士の稽古ほ
ど、怪我が少ないと言うだろう?﹂
﹁稽古じゃないんだけど⋮⋮﹂
まあ⋮⋮言っていることもわかる。
﹁けっ、おいセイカ!﹂

675
いつの間にか、すぐ近くをグライが歩いていた。
その上背からぼくを見下ろしてくる。
﹁覚えてろよ、いつかボコボコに叩きのめしてやるからな﹂
﹁ふうん? いつかとは言わず、今試してみる?﹂
﹁⋮⋮おれは勝てねぇ勝負はしねぇ﹂
グライが目を逸らして呟く。
ぼくは眉をひそめた。
ついさっきまであれほど威勢がよかったのに、いったいどうした
んだろう。皇女と言葉を交わしてから突然こうなってしまった。
ぼくの疑念を知ってか知らずか、グライが呆れ口調で訊ねてくる。
﹁それにしても、女ばかり連れ帰ってきやがって⋮⋮お前、学園に
何しに行ってるんだ?﹂
﹁女ばかりって⋮⋮イーファは元々一緒だし、アミュを連れてこい
って言ったのは皇女殿下じゃないか﹂
﹁もう一人の灰色の髪の女はなんだよ﹂
﹁ああ、メイベルね﹂
染めておく必要のなくなったメイベルの髪は、今ではすっかり色
が抜け、元の灰色に戻っていた。
兄であるカイルの髪と、本当にまったく同じ色だ。
ぼくは言う。
﹁クレイン男爵家の令嬢だよ。父上やルフト兄が困ることになるか
ら、失礼のないようにね﹂

676
﹁なんでそんなの連れてきてんだ﹂
﹁頭数が増えた方がいいと思ったんだよ⋮⋮ぼくが、殿下の相手を
せずに済むかと思ってね﹂
﹁! ふん、落ちこぼれが⋮⋮﹂
そこでグライは、声量を二回りほど下げて言った。
﹁⋮⋮なかなか気の利いたことを考えるじゃねぇか。よくやった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
どうやらグライも、フィオナの相手は苦手らしかった。
第四話 最強の陰陽師、会食する
聖皇女というのは、正式な称号ではない。
その生まれから、市井の人々がフィオナをそう呼び交わしている
だけだ。
ウルドワイト帝国では、古くから伝わる多神教が国教となってい
る。
日本の神道や、古代ギリシア神話の信仰に近いものだ。
普段の生活で意識することはないが、帝都には総本山にあたる巨
大な中央神殿が置かれていて、年に一度大規模な祭典が催される。
神殿に仕えるのは巫女だ。

677
俗世から隔たれて生活し、限られた場所でしか人前に姿を現さな
い彼女らは、人々から畏敬の念を抱かれている。
前世の宗教でもしばしば見られたように、神官、特に女神官には
純潔が求められる。
姦淫はいずれの側も死罪。
有罪となった記録は数えるほどしかないが、判決に例外はなかっ
た。
十五年ほど前、一人の巫女が子を孕んだ。
本来ならば死罪となるはずだったが、これまた前世でもしばしば
見られたように、妊婦は罪が免除される慣習がこの国にはあった。
神殿からの追放。彼女への処分はそれで済んだ。
しかし、相手の男は別だ。死罪は免れない。
審問官が連日の執拗な尋問の末に聞き出した名前は、驚くべきも
のだった。
現ウルドワイト皇帝、ジルゼリウス・ウルド・エールグライフ。
ウルドワイトの皇帝は、神官の長である最高神祇官の職も兼ねて
いる。
よく言えば守られている、悪く言えば自由のない巫女に手を出す
ことも、まあ不可能ではなかった。
問題は︱︱︱︱誰も皇帝を裁けないことだ。
帝都に常駐する近衛隊を含めた全軍の指揮権を持ち、自前の諜報
部隊を飼う皇帝を、拘束できる者などいない。
議会は当然紛糾した。
しかし裁判への出頭拒否を糾弾していた議員が不審死を遂げ、さ

678
らには担ぎ上げられそうな次期皇帝候補がちょうどいなかったこと
もあって、皇帝の罪はうやむやになり、やがて消えてしまった。
そうした騒ぎが一段落ついた時期に、フィオナは生まれた。
残念ながら母親は産後の肥立ちが悪く亡くなってしまったが、代
わりに本来ありえないはずの、神殿の巫女の血を引く皇女が誕生し
た。
聖皇女フィオナ。
生まれの経緯もあってずっと軟禁生活を送っていたようだが、こ
こ数年で民衆に名が知れ渡るようになって、皇室でも存在感を見せ
てきているという話だ。
禁断の恋の末に生まれた巫女姫。
市井の人々が抱くイメージはこのようなものだが⋮⋮。
﹁生まれ変わったら、空を飛びたいですわね﹂
と、突然こんなことを言っては、晩餐の席を凍らせるのだった。
﹁⋮⋮﹂
見事に、誰も何も言わない。
燭台や花瓶で彩られた食卓には、父上に母上、ルフトにグライに
ぼく、あとはアミュらが着いていたが、反応に困る気まずい空気が
流れていた。
仕方なく、ぼくが口を開く。

679
﹁それならば、南方の森に棲む鳥がおすすめですね。餌が豊富で外
敵が少なく、見た目も色鮮やかで綺麗ですよ﹂
﹁それでしたら、以前商人が扱っているものを一度見たことがあり
ますわ。でもせっかくですし、次の生はもっと強い存在になりたい
ものです。ドラゴンのような﹂
﹁ドラゴンの生も、なかなか大変そうでしたよ。アスティリアで見
た限りでは﹂
﹁まあ。あの有名な? そのお話、もっと聞きたいですわ﹂
﹁ぼくが夏に⋮⋮﹂
話しながらちらと食卓を見回すと⋮⋮グライが、おいおいこいつ
マジかよ、みたいな顔でぼくを見ていた。
まあ、わかる。
フィオナはこう⋮⋮控えめな言い方をすると、かなり不思議な感
じだからな。
面倒がっていたぼくが、積極的に相手を買って出ているのが意外
なんだろう。
グライはどうも気に入られているようだし、普段から話し相手に
させられてうんざりしていそうだ。皇女殿下相手にあんなぞんざい
な態度なのもそのせいかもしれない。
この人、不思議な割りにけっこう喋るからなぁ⋮⋮。
﹁まあ、イーファさんも一緒でしたのね。気になっていたのですけ
れど、お二人はどのような関係ですの?﹂
﹁ぶっ! ゲホッゲホッ!﹂
突然話を振られたイーファが咳き込む。

680
そう。
実は晩餐の席には、イーファも一緒に着いていた。
自分は奴隷だからいいと固辞するイーファに、今はセイカの同級
生で客人だからと、ルフトが強引に参加させたのだ。
もっともこの空気を見るに、それがこの子にとってよかったのか
は微妙だ。
もしかしたら、ルフトが犠牲者を増やしたかっただけな可能性す
らある。
﹁え、ええええと、わたしはセイカくん、様の従者で、奴隷なので
その⋮⋮それだけ、です﹂
緊張でしどろもどろになるイーファに、フィオナはおかしそうに
笑う。
﹁うふふ。セイカくん、と呼んでいるの? 自らの主人を?﹂
﹁いえっ、あ、あの、昔からそうで⋮⋮﹂
﹁なんだかかわいらしいですわ。うふふふ⋮⋮大事にしてあげなさ
いな、セイカくん?﹂
﹁からかわないでください﹂
そこで、フィオナがふと話題を変える。
﹁それはそうと、学園は奴隷も等しく受け入れているのですわね。
実力主義とは聞いていましたが、本当でしたのね。アミュさんとメ
イベルさんも、平民の生まれにもかかわらずよい成績を修められて
いるようですし﹂
言われたメイベルとアミュが、やや不思議そうな顔をした。

681
﹁そう、だけど⋮⋮﹂
﹁あたしはともかく、メイベルが平民の生まれだなんて言った?﹂
﹁あら⋮⋮? クレイン男爵家へ、養子に入られて⋮⋮わたくしの
思い違いだったかしら。ごめんなさい。気分を害されたのなら謝り
ますわ﹂
﹁⋮⋮別にいい。養子なのはほんとう﹂
﹁あと、こいつは別に成績よくないわよ﹂
﹁⋮⋮! アミュに言われたくない。実技たくさん取って誤魔化し
てるだけのくせに﹂
﹁誤魔化してるってなによ﹂
﹁魔法学園の実技とは、どのようなことをなさるのですか?﹂
女子らの間で話が弾み出すのを見て、ぼくは自分の食事に戻る。
やれやれ。
﹁セイカ﹂
と、今度はブレーズから声をかけられて、ぼくは頭を上げた。
今生の父は、特に笑いもせず言う。
﹁変わりないか﹂
ブレーズとは、タイミングもあってまだあまり言葉を交わせてい
なかった。
ぼくは笑顔を作りながら答える。
﹁ええ。壮健にやっていますよ、父上﹂
﹁アスティリアの件はご苦労だった。報告書もよくできていた。モ
ンスターを専門とする学者の間では、一時話題になっていたようだ﹂

682
﹁ありがとうございます。学園で学んだ甲斐がありました﹂
﹁学園は⋮⋮今も良い場所か?﹂
﹁⋮⋮? ええ、良い場所ですよ﹂
﹁そうか。ならばいい﹂
ブレーズは、そう言ったきり黙った。
相変わらず言葉の少ない男だ。
﹁もう少しまめに手紙を書きなさい。ここにいては、ロドネアの様
子がなかなか伝わってこないのだから﹂
ぼくは、驚いて匙を取り落としそうになった。
今はもう自分の皿に目を落としているが⋮⋮確かにさっきかけら
れた声は、そこにいる母上のものだ。
転生してからずっと、ほぼ完璧に無視され続けてきたのに。
﹁は⋮⋮はい。母上﹂
とりあえず、それだけ返すのが精一杯だった。
683
第五話 最強の陰陽師、約束する
晩餐が終わり、その日の夜。
久しぶりに屋敷の自室に戻ったぼくは、一息ついた。
室内には埃もない。帰ってくる前に、使用人たちが掃除してくれ
ていたようだ。
ひめみこ
﹁ふい∼⋮⋮それにしても、この国の姫御子は妙ちきりんな女でご
ざいますねぇ﹂
ユキがぼくの髪から顔を出し、なんだか疲れたように言う。
フィオナはあの後もちょくちょく不思議さを発揮しては、食卓を
なんとも言えない空気にしていた。

684
ユキが少々不機嫌そうにぼやく。
﹁ユキは、あのような女は嫌いです﹂
﹁お前はそうだろうなぁ﹂
おおあさ
﹁セイカさまは、あんな大麻の煙を吸ってぼんやりしたような戯れ
言を、よくあそこまで拾えるものですね﹂
﹁誰も拾わない方が気まずいだろ﹂
﹁それはそうでございますが⋮⋮なんだか慣れている感じがあった
と言いますか⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮そうだな﹂
言うかどうか一瞬迷い、結局言う。
﹁昔の妻が、ああいう感じだったから﹂
﹁えっ⋮⋮えええええ!? 奥さま、あんな風だったのでございま
すか!?﹂
﹁見た目じゃないぞ。性格がな﹂
﹁そ、それはわかっておりますが⋮⋮なんといいますか⋮⋮セイカ
さまも苦労されたのでございますね⋮⋮﹂
同情するような口調のユキに、ぼくは苦笑する。
﹁それがな、意外と間が合ったんだよ﹂
あの頃は、あれのおかげでいくらか救われたところもあった。
﹁それに、ぼくも若い頃は人のことを言えたような性格してなかっ
たからな⋮⋮むしろ、謝りたいくらいさ﹂

685
﹁⋮⋮なるほど。セイカさま⋮⋮その辺りのこと、もう少し詳しく
⋮⋮!﹂
﹁さて。明日に備えてそろそろ寝るかな﹂
﹁もーッ!!﹂
その時。
部屋のドアが突然、がちゃりと開いた。
﹁セイカ?﹂
ぼくは思わず跳び上がりかける。
ドアが完全に開いたのは、同じく驚いたユキがぼくの髪にあわて
て潜り込んだ直後だった。
ぼくはドアを開けた少女に言う。
﹁ア、アミュ⋮⋮せめてノックくらいしてくれ⋮⋮﹂
﹁驚きすぎでしょ。なにしてたのよ﹂
少々呆れたように言って、アミュが部屋に入ってきた。
そしてそのまま、ぼくのベッドに倒れ込む。
﹁はーあ﹂
と言って、枕に顔を埋めた。着ている私室用の貫頭衣の裾が、ば
さっとめくれ上がって落ちる。
いつもは制服姿しか見ていないから、なんだか新鮮だ。
しかしながら、ぼくは苦言を呈する。

686
﹁君なぁ⋮⋮夜更けに男の部屋に一人で来たりして⋮⋮﹂
﹁なによ。もっと慎みを持てー、とか言うわけ?﹂
アミュが、枕の隙間から横目で睨んでくる。
﹁いいじゃない、別に。今さらでしょ? あんたには一度、裸も見
られてるし﹂
﹁んなっ、あ、あれはやむをえず⋮⋮というか、あの時のことをこ
れまであえて触れないようにしてきたぼくの気遣いを無にするなよ﹂
﹁あははっ。なんてね﹂
アミュが快活に笑い、横向きに寝返りを打ってこちらに顔を向け
た。
﹁それで、急になんなんだよ﹂
﹁別に? なんだか気疲れしたなー、と思って、遊びに来ただけ﹂
﹁⋮⋮悪かったな。皇女のこと、黙って連れてきて﹂
﹁気にしなくていいわよ。いるって聞いてても、たぶん来てたと思
うから﹂
それから、アミュがしみじみと言う。
﹁お貴族様も、いろいろと大変そうね﹂
﹁やっとわかってくれたか﹂
﹁あんたはそういうのとは無縁だったでしょ﹂
﹁まあそうだけどさ⋮⋮﹂
﹁来てよかったわ。学園に貴族の子は多いけど、話を聞くだけじゃ、
やっぱりピンと来ないことも多かったし﹂
﹁知らないまま卒業しなくてよかったな﹂
﹁なによその、偉そうなの﹂

687
アミュが投げてきた枕を、ぼくはあわてて掴んだ。
こら、灯りに当たったら危ないでしょ。
﹁⋮⋮ねえ﹂
そこで、アミュが少し声の調子を落とした。
﹁初等部を卒業したら、どうするか決めてる?﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁官吏はたしか嫌なのよね。あんたは勉強が好きみたいだし、やっ
ぱり高等部に進学するの? それともここの領地に戻って、経営を
手伝ったりする? アスティリアでの功績があるから、名の通った
博物学者に弟子入りして、違うところで学生続けることもできそう
だけど﹂
﹁⋮⋮アミュは、どうするんだ?﹂
﹁あたし? あたしは⋮⋮やっぱり家に帰って、冒険者を続けるわ﹂
アミュは笑って言う。
﹁同級生の友達は、官吏になるとか、学者になるとか、お貴族様と
結婚していい暮らしをしたいとか言ってるけど⋮⋮あたしは、自分
が将来そんな風になっているところなんて、全然想像つかないのよ
ね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁パパとママにはもったいないって言われそうだけど、でもいいの。
そういうのが自分に向いてなさそうってわかっただけでも、学園に
来た価値はあったと思うわ! 魔法も上手くなったしね。今は自信
を持って、あたしは冒険者になるんだ、って言えるから﹂
﹁⋮⋮そうか﹂

688
と、ぼくは小さく呟いた。
この子も成長している。二年前、入学試験で会った時の殺伐とし
た様子からは、こんなに迷いなく自分の将来を語る姿など想像でき
なかった。
なんとなく、前世で弟子と過ごした日々のことを思い出す。
﹁それで⋮⋮あんたはどうするのよ﹂
おそるおそる訊くアミュに、ぼくはふっと笑って言う。
﹁君がいきなり服を脱ぎだしたあの地下ダンジョンで⋮⋮﹂
﹁なによ、それもういいでしょ﹂
﹁約束しただろ。また一緒に冒険に行こうって﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁ぼくも冒険者になるつもりだよ﹂
﹁べっ、別に⋮⋮﹂
ベッドの上のアミュが、目を逸らしながら言う。
﹁あんな約束、あたしも本気にしてないわよ⋮⋮あんたにはあんた
の人生があるんだし⋮⋮﹂
﹁ぼくは本気だったけどな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに⋮⋮学者や領地経営をしている自分が想像できないのは、
ぼくも一緒だ。ぼくにはやっぱり、荒事の方が性に合っている。こ
れは本当だよ﹂
﹁あんた全然、そんな風には見えないわよ﹂
﹁どうしてだろうね。自分でも不思議なんだ﹂

689
﹁ふ、ふーん⋮⋮﹂
﹁でも、君がお貴族様のことをよくわかっていなかったのと同じよ
うに、ぼくも冒険者のことはよく知らないんだ。だから⋮⋮卒業し
たら、いろいろと教えてくれないか?﹂
﹁しょ⋮⋮しょうがないわね!﹂
にまにまとした笑みを浮かべたアミュが、突然ベッドの上で立ち
上がった。
﹁じゃ、もう一回約束﹂
腰に手を当てて、堂々とした調子で言う。
﹁また一緒に、冒険に行きましょう﹂
ぼくも笑って答える。
﹁ああ、約束だ﹂
﹁ふふっ﹂
上機嫌にベッドから飛び降りたアミュが、脱いでいた靴をはき直
してドアノブに手をかける。
﹁じゃあね、セイカ。おやすみ﹂
﹁寝るのか?﹂
﹁ううん。メイベルかイーファのところに行くわ﹂
﹁あ、そう﹂
元気だな。
部屋を出たアミュの気配が廊下を遠ざかっていった頃、頭の上か

690
らユキが顔を出す。
﹁セイカさま。セイカさまは⋮⋮まだ、覚えていらっしゃいますか﹂
ユキが静かに言う。
﹁セイカさまがあの娘のそばにいるのは⋮⋮あの娘が、勇者だから
だということを。セイカさまのお力を隠す、傘とするためだという
ことを﹂
﹁ああ﹂
ぼくは、先ほどと変わらぬ調子で、ユキに答える。
﹁忘れるわけがないだろう﹂
幕間 ブレーズ・ランプローグ伯爵、書斎にて
夜。ランプローグ家邸宅の書斎。
ブレーズ・ランプローグは、灯りの下で積み上がった書類の束に
目を通していた。
領地経営に関しては、そのほとんどを信用できる者に任せている。
しかしながら、時にはこうして領主自らが承認しなければならな
い事柄もあった。
あまり好きではない作業に疲れた目を押さえながら、ブレーズは
傍らに控える男に声をかける。
﹁エディス﹂

691
﹁なんだ、ブレーズ﹂
ブレーズの仕事を待つ解放奴隷が、ぶっきらぼうに短く返した。
表では決して見せないぞんざいな態度。だが、二人にとってはこ
れが本来の関係だった。
ブレーズは目も合わさずに問う。
﹁まさか、まだ怒っているのではないだろうな﹂
﹁⋮⋮﹂
無言のままのエディスに、ブレーズは呆れたような息を吐く。
﹁イーファは元気そうだっただろう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁向こうでもよくやっているようだ。学園ヘやったのは正解だった。
違うか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁このような辺鄙な地で、ずっと過ごさせるのも不憫だろう。あれ
とお前の娘だぞ﹂
﹁そんな言い方をするな。俺はこの地が気に入っている﹂
﹁お前とイーファは違う。あの子も、外の世界を見てみたいと思う
はずだ﹂
﹁⋮⋮俺の不満は、そんなことじゃない。お前がイーファをあっさ
り手放すような真似をしたことに、我慢ならないだけだ﹂
エディスは、イーファを奴隷身分から解放しろとは決して言わな
い。
解放奴隷の子を奴隷として手元に置いておく例は、珍しくない。

692
多くの場合、それは解放後も部下として従順に働かせるための、い
わば人質に近い。
しかしこの二人の間においては、別の意味があった。
﹁⋮⋮ましてや、あの忌み子の従者に付けるなど﹂
﹁エディス﹂
ブレーズは諭すように言う。
﹁イーファはあれの忘れ形見でも、お前の忠義を示すための手形で
もない。お前や私の感傷など、老いと共に消えゆくだけのもの。も
ういい加減、あの子に自分の道を歩ませてやれ﹂
﹁⋮⋮ふん﹂
﹁それと、セイカを忌み子と呼ぶのはよせ。あれはもう普通の子だ﹂
ブレーズは続ける。
﹁学園でも優秀な生徒として通っている。何も問題を起こしていな
い。結局、魔族などではなかったのだ。あのベルタですら、近頃は
私と同じ考えだ﹂
晩餐の席でセイカに見せた妻ベルタの態度には、ブレーズ自身も
驚いた。
妻は昔から、セイカを怖がっていた。
あの謎の魔力が、ルフトやグライに危害を加えるのではないかと、
いつも恐れている様子だった。
しかし、今や息子二人は立派に成長し、セイカも遠い地で様々な
人間とよい関係を築いている。
だから、許すような心持ちになっているのかもしれない。

693
﹁ふん⋮⋮俺は未だに、あれは不気味だ﹂
エディスが吐き捨てるように言う。
﹁幼子の頃から妙に大人びていたが、今も中身が変わっていない﹂
﹁私はそうは思わん。イーファや学園の友人に向ける顔は、私やベ
ルタや、使用人に向けるものとは違う﹂
﹁貴様がどう思うかは勝手だがな、イーファを付けてやる理由がど
こにあった﹂
﹁⋮⋮エディス﹂
ブレーズが溜息をつきそうな声音で言う。
﹁いい加減、認めたらどうだ。見ていればわかるだろう。あの子が、
ずいぶんとセイカのことを気に入っているようだと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカと学園へ行くことが決まった時、お前にも喜んで報告して
いたと思ったが﹂
﹁⋮⋮チッ!﹂
﹁私も父親だ。気持ちはわかる﹂
﹁娘のいない貴様にはわからん﹂
﹁ふっ⋮⋮まあそうかもしれんな﹂
ブレーズは微笑を浮かべると、エディスに語りかける。
﹁セイカはよい人間だ。私の言うことが信用ならないか? エディ
ス﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いや、信じよう﹂
エディスは嘆息しながら答える。

694
﹁貴様は、妙な男だからな。他人になど興味がないようで、見る目
だけはある﹂
﹁研究者に観察眼は必須だ。それと、意外だろうが社交性もな﹂
﹁貴様を見ている限りそうは思えん。社交性と言うならば、もっと
聖皇女殿下の話し相手を買って出たらどうだ﹂
言われたブレーズは、わずかに苦い表情を浮かべる。
ブレーズも、正直なところフィオナは苦手だった。
若い娘の考えることなどそもそもよくわからないが、あの白昼夢
でも見ているかのような聖皇女に対しては、とりわけどう接してい
いかわからなかった。
幸い、普段は自身の侍女や、聖騎士になることが決定しているグ
ライと共にいることが多いので、自分の出る幕はなくて助かっては
いるが。
だが一方で。
彼女がこの地に滞在することには、なんらかの意味があるとブレ
ーズは感じていた。
聖皇女は、その見た目と言動通りの少女ではない。
そうでなければ、何の後ろ盾もなく、皇位など最も遠かったあの
状態から、ここまで存在感を示すようにはならないはずだ。
学園でも一際優秀な生徒であるアミュという娘に会いたかったと
いうのは、おそらく本当だろう。
しかし、それだけではない。
隠れた目的が、物か、情報か、機会か、あるいは別の人間か⋮⋮
それはわからない。だが、いずれかではあるはずだ。

695
そしてそれを、自分が知ることはきっとない。
あずか
ただ、自分の与り知らぬところで皇女は目的を果たし、去って行
く。
ブレーズにはそんな予感がした。
余計なことを詮索する必要はない。
あと数日を、何事もなくやり過ごせばいいだけだ。
ブレーズは沈黙の後に、口を開く。
﹁お前も、明日の晩餐に同席するか? 娘と一緒に食事を取るのも
⋮⋮﹂
﹁明日は遠方から来る商会幹部との食事会があると伝えていたはず
だ。俺を巻き込もうとするな。領主としての仕事をしないならば、
せめて伯爵家当主としての務めを果たせ﹂
思わぬ正論に、ブレーズは深く嘆息した。
696
第六話 最強の陰陽師、案内する
帰郷して二日後の、よく晴れた日。
ぼくは、ランプローグ領内にある街を訪れていた。
﹁セイカ様。向こうにあるのは何でしょう﹂
﹁この地の聖堂ですよ﹂
﹁まあ、ずいぶん小さいのですわね。ではあそこにあるのは?﹂
﹁貸し馬車屋です﹂
そう、なんとフィオナも一緒だった。
ちなみに、ぼくらの後ろにはアミュとグライもいる。

697
昨日突然、領内の街を見に行きたいと言い出したフィオナ。
それはよかったのだが、兵がいたら楽しめないからと、こともあ
ろうに護衛を全員置いていくと主張したのだ。
自分の連れてきた侍女に鬼気迫る様子で止められていたが、フィ
オナも頑固なもので、結局押し切ってしまった。
案内役兼用心棒に、ぼくとグライと、アミュを名指ししたうえで。
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
グライとアミュの間には、気まずい空気が流れている。
自分から喧嘩を売って負けたアミュも、なんかよくわからない奴
に絡まれたという認識しかないグライも、当たり前だが話すことな
どないようで、ずっと沈黙が続いていた。
フィオナは楽しげな様子でずっとぼくに話しかけてくるので、後
ろとの温度差がきつい。
﹁はぁ⋮⋮﹂
バレないように、小さく溜息をつく。
久しぶりに来たこの街は、少し様子が変わったようだった。
学園に行く前にも数えるほどしか訪れたことはなかったが、その
頃に比べると建物が増え、やや賑やかになっている気がする。
﹁グライ兄。ここってこんな風だったっけ?﹂
﹁あ⋮⋮? いや。二年も経ったんだ、変わりもするだろ﹂
周囲に目をやったグライがそっけなく答える。

698
もしかしたら、エディスの経営がうまくいっているということな
のかもしれない。
街の中心の方へ歩いて行くと、人通りもそれにつれて増え出す。
﹁お。運が良いな、市が立ってるぜ﹂
とある広い通りに出た時、グライが言った。
通りの両脇には様々な出店が並び、人で賑わっている。
布や雑貨、干物や塩漬けなどの保存食、家畜にモンスターの素材
などの雑多な商品が並んでいるが、ところどころから美味しそうな
匂いも漂ってきていた。
当然いつもこうではないから、グライの言う通り運がよかったみ
たいだ。
﹁まあ﹂
フィオナが、驚いてるんだか驚いてないんだかよくわからない声
音で言う。
﹁すごい人混みですわ。はぐれてしまいそう﹂
﹁いや、そこまでではないですが﹂
﹁手を繋ぎましょう﹂
ぼくの言ったことをきれいに無視し、フィオナが手を握ってきた。
そのまま市の真ん中を、機嫌よさそうに歩いて行く。
﹁うふふ。こうしていると、逢い引きみたいですわね﹂
﹁ちょっ⋮⋮殿下は立場がある人なのですから、あまり滅多なこと

699
を言わないでください﹂
﹁構いませんわ。今は⋮⋮咎める者などいませんもの﹂
そうささやいて、皇女はにっこりと笑う。
うーん⋮⋮なんでこんなにテンション高いんだろう、この人。
言動が普通じゃないからわかりにくいが、なんだか不自然にはし
ゃいでいる気がする。
当の皇女殿下は、周囲の店をキョロキョロと見回している。
こんな田舎町の市を見ておもしろいのかも、よくわからない。
心なしか、その視線もどこか事務的なような。
﹁⋮⋮楽しいですか? 殿下﹂
﹁もちろんですわ。こうして庶民の暮らしを目にする機会など、あ
まりありませんもの。わたくしには立場がある代わりに、自由がな
いのです⋮⋮﹂
﹁あれ、でも、帝都ではよく市井に降りてこられ、街の住民と言葉
を交わされることもあったと聞きおよんでいたのですが﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに、地方の視察を始められたのは殿下ですよね。ここより大
きな市を目にする機会など、いくらでもあったのではないですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あの、殿下?﹂
﹁うふふふふ⋮⋮あっ﹂
中身の無さそうな笑みを浮かべていたフィオナは、不意に一つの
屋台に目を向け、言った。
﹁あれが食べたいですわ、グライ。買ってきなさい﹂

700
どうやらいい匂いを漂わせていた、串焼きの屋台のようだ。
命じられたグライが、不承不承といった様子で買いに行く。
ほどなくして四本の串を手に戻ってくると、そのうちの一本をフ
ィオナへと渡した。
それから、ぼくにも差し出してくる。
﹁⋮⋮え?﹂
﹁え、じゃねぇよ。さっさと受け取れ﹂
と、ぶっきらぼうに言う。
ぼくは串を受け取りながら、少し感動して言った。
﹁グライ兄⋮⋮まさか、こんな気遣いができるようになったなんて
⋮⋮成長したんだね⋮⋮﹂
﹁喧嘩売ってんのかてめぇは⋮⋮ほらよ、お前も﹂
と言って、アミュにも串を差し出した。
彼女は、それをおずおずと受け取る。
﹁あ、ありがと⋮⋮﹂
﹁まあまあですわね﹂
もう食べ終わったらしいフィオナが、ゴミとなった串をグライに
返しながら言った。
グライが半眼でそれに答える。
﹁屋敷に戻ったら代金は請求させてもらうからな﹂

701
﹁まあ、小さい男﹂
フィオナの煽りを背景に、ぼくも串焼きの肉を囓る。
悪くはないが、少し塩気の強すぎる味だ。
﹁おいしいですわね、セイカ様﹂
いきなり笑顔でずいと寄ってきたフィオナに、ぼくは面食らう。
﹁え、いや、さっきまあまあって⋮⋮﹂
﹁おいしいですわね﹂
﹁は、はぁ⋮⋮﹂
﹁うふふ﹂
フィオナに手を引かれるように、街を歩いて行く。
ぼくは周囲の人混みを見回す。
今のところ特に問題も起きていないが⋮⋮フィオナの姿は、人々
の視線を集めているようだった。
﹁⋮⋮やっぱり、目立ってしまっていますわね﹂
さすがの彼女も、少し気にした風に言った。
だけど無理もない。
一応お忍びではあるが、いくらフィオナが有名とはいえ、こんな
片田舎で皇女の顔を知っている人間はまずいない。
ただ、問題は容姿で⋮⋮フィオナのようにきれいな長い髪を垂ら
した娘は、この辺りでは珍しかった。
一応服は庶民らしいものを着てきたようだが、半ば侍女を振り切
るように出て来ただけあって、頭から上はそのままだ。

702
髪色の珍しさもあり、否応なく人目を引いてしまっている。
﹁わたくしも、あんな風にしてくればよかったのでしょうけれど⋮
⋮今さら仕方ないですわね﹂
フィオナが、髪を結った町娘を見やりながら小さく呟いた。
うーん、なんとかしてやれればいいんだけど⋮⋮。
そう思ってぼくは市を見回すが、その間にも皇女殿下は構わず進
んで行く。
通りの端の方まで来た時、彼女がふと足を止めて呟いた。
﹁男と女が親しくなるには、どのようにすればよいのでしょう?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁思えば、なにも考えていませんでしたわ﹂
また唐突に何か言いだした。
反応に困る一同を代表し、ぼくがフィオナに訊ねる。
﹁ええと⋮⋮婚約者との間に悩みでも?﹂
﹁あら、そのようなものいませんわ。今はまだ。うふふっ﹂
﹁では何を⋮⋮?﹂
﹁世間一般での話です﹂
皇女は陶然と呟く。
﹁他の者たちは、どのように親しくなっているのでしょうか⋮⋮?﹂
﹁それは、普通に何度も会って話したりとか⋮⋮﹂
﹁もっと一瞬で距離が縮まるようななにかはありませんの?﹂
﹁⋮⋮﹂

703
何をそんな都合のいいものを⋮⋮と思ったが。
彼女は立場が立場だ、要人と交流しなければならない場面も多い
だろう。この話題もそういった類の、切実な悩みなのかもしれない。
﹁物語などではよく、命の危機を救ったり救われたりして、親しく
なっていますけれど﹂
﹁えっ、そこまでするんですか⋮⋮?﹂
﹁それ、あると思うわ﹂
と、なぜか急にアミュがその話題に食いついてきた。
振り向くフィオナに、熱心な様子で説明する。
﹁冒険者の間でもよくそういう話聞くもの。暴漢をやっつけたり、
モンスターから助けたりして、色恋沙汰になるやつ﹂
﹁まあ。それは、珍しくないことなのですか?﹂
﹁たぶん、しょっちゅうね。冒険の途中で仲間が恋人になったー、
なんて話もよくあるから、きっとピンチを助けたり助けられたりす
ると、人間そうなるものなのよ。逆に揉めたら刃傷沙汰になるけど
ね﹂
﹁興味深いですわ﹂
盛り上がる二人に、ぼくは微妙な表情で突っ込みを入れようとす
る。
﹁いや、それは⋮⋮﹂
﹁けっ、そんなもの⋮⋮﹂
グライと喋るタイミングが被り、ぼくらは二人して口をつぐんだ。
アミュが訝しげに睨んでくる。

704
﹁なによあんたたち。なんか言いたいことでもあるわけ?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
実際には、危ないところを助けたからといって色恋沙汰になるこ
となんてそんなにない。
きっかけくらいにはなるかもしれないが、すでに相手がいたり好
みじゃなかったりすると、興味すら持たれずお礼を言われて終わり
だ。
という前世の教訓を話したかったのだが、ちょっと説明しにくい
ので黙ることにする。
グライの方も、口を閉じたままだった。
﹁⋮⋮なんなのよ、兄弟揃って。というか、別におかしなこと言っ
てないでしょ。あたしたちがそうだったじゃない﹂
﹁⋮⋮⋮⋮へっ!?﹂
思わず困惑の声を上げてしまった。
皆の視線にはっとしたアミュが、顔を赤らめてあわてたように言
い訳する。
﹁なっ、べっ、別に変な意味じゃないわよ! あの地下ダンジョン
がきっかけで話すようになったでしょってこと!﹂
﹁あ、ああ、そういう⋮⋮﹂
びっくりした。
間延びした雰囲気の中、フィオナが口を開く。
﹁わたくしの場合、障害は自分で乗り越えてきましたが﹂

705
フィオナが、少しだけ本音っぽい口調で言う。
﹁誰かが助けてくれたらと、思ったことはありますわ。そういうの
は少し、憧れますわね﹂
﹁でしょ!? わかるわ﹂
﹁君の場合、どちらかというと助ける側になりそうだけどな﹂
﹁うっさいわね、いいでしょ別に! あんたさっきからいらないこ
としか言ってないわよ﹂
すみません⋮⋮。
というか、アミュもちょっとイーファみたいなところあったんだ
な。意外だ。
﹁うふふふふふ﹂
陶然と笑っていたフィオナが、ふと街の中心の方へ目を向けた。
﹁あ、向こうへ行ってみたいですわ﹂
言うやいなや、ぼくの手を引いて歩き出す。
こんな形で、謎の話題は唐突に終わったのだった。
706
第七話 最強の陰陽師、助けてもらう
市の通りから少し歩いた街の中心部は、役所や聖堂や大商会の支
部など、比較的大きな建物が建ち並ぶ場所だ。
その合間に、軽食屋や雑貨を取り扱う小さな店がぽつぽつと建ち、
さらにその隙間を埋めるように人々の住宅が建つ。以前のここはそ
のような場所だったが⋮⋮今はやはり少しばかり、様子が変わって
いる。
﹁建物増えたなぁ﹂
数年前にはなかった、三階建てや四階建ての住宅がちらほら見ら
れる。

707
ロドネアや帝都には遠くおよばないものの、いくらかは発展して
人口が増えているようだった。
﹁それで殿下、どちらへ行かれるのですか?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
フィオナはキョロキョロと周囲を見回し、ぶつぶつと呟く。
﹁聖堂があっちで、太陽があちらですから⋮⋮向こうへ行きたいで
すわ﹂
﹁どこか目的の場所でも?﹂
﹁まさか、そのようなものありませんわ。散歩です。うふふ﹂
フィオナがそう言って笑う。
どうもそんな風には見えなかったが⋮⋮この皇女だからな。普段
からこうなのかもしれない。
﹁というかあんた、いつまで手握ってんのよ。もう人混みなんてな
いでしょ﹂
半眼で咎めるように言うアミュに、ぼくはあわててフィオナの手
を離した。
﹁ああ、これは失礼しました、殿下﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あの、殿下?﹂

708
フィオナは笑顔のまましばし無言でぼくを見つめていたが、やが
て言う。
﹁いいえ、構いませんわ、セイカ様。でもなにがあるかわかりませ
んから、わたくしのそばにいてくださいね﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
生返事を返していると、アミュに肘で小突かれた。
﹁なにデレデレしてんのよ﹂
いつデレデレしたよ、ぼくが。
一行はほどなくして、街の広場へと出た。
ここに来たかったのかと思いきや、フィオナは広場自体には興味
がないらしく、その周りを沿うように歩いて行く。
﹁うわ、すごいの建ててるわね﹂
アミュが驚きの声を上げる。
見上げる先にあるのは、広場の端っこに建設中の高層住宅のよう
だったが⋮⋮確かにすごい高さだ。今の時点で七階分はある。ロド
ネアや帝都だったら規制に引っかかっていそうだ。
﹁まあ。この地の聖堂よりも高そうですわ﹂
﹁ったく、地価が上がってるからってこんなの建てやがって⋮⋮お
い、あんまり近寄るなよ﹂
止めるグライに、フィオナは微笑んで言う。

709
﹁大丈夫ですわ。ほら、セイカ様ももっとこちらに⋮⋮﹂
言われてフィオナに歩み寄った、その時︱︱︱︱急に、突風が吹
いた。
高所で作業していた職人たちが、柱や梁にあわてて掴まる。
バキリ、という嫌な音が響き渡った。
それはどうやら、四階を支える柱が折れた音で。
風で傾いだ高層部が︱︱︱︱ゆっくりと、バランスを崩して倒れ
てきた。
よりにもよって、ぼくらの側に。
ウインドランス
﹁ッ、風錐槍!﹂
杖剣を抜き放ったグライが、風の中位魔法を放った。
それは二年前とは見違えるほどの威力で、正確に瓦礫の大半を吹
き飛ばす。
だが、すべてではない。
わずかに残った土壁や柱が、ぼくらへと降り注ぐ。
その時︱︱︱︱不意に、頭上に影が差した。
落ちてくるはずだった瓦礫は、その何かに遮られ、鈍い音を響か
せる。
﹁あんたたち、大丈夫!?﹂
ミスリルの杖剣を手にしたアミュが駆けてくる。
ぼくは改めて頭上を見やる。
てのひら
瓦礫への傘となったのは、地面から生えた巨大な岩の掌のようだ
った。
﹁これ、ゴーレムの一部? 腕を上げたなぁ、アミュ﹂

710
﹁なに暢気なこと言ってんのよ、はぁ⋮⋮でも、その分ならなんと
もなさそうね﹂
﹁お前、今の完全無詠唱だったか? はっ、そこそこやるじゃねぇ
か優等生﹂
﹁あんたもまあまあね軍人さん。詰めが甘いけど﹂
﹁助かったよ二人とも、ありがとう﹂
ぼくがそう言うと、二人から呆れたような視線を向けられた。
﹁あんたはなにぼーっとしてたのよ。死ぬとこだったじゃない。ら
しくないわね﹂
﹁セイカ、お前寝てたのか?﹂
別に寝てたわけじゃない。
二人が間に合いそうだったから任せてみただけだ。いざとなった
ら転移でもなんでもできたからね。
﹁ったく⋮⋮。おーい、怪我人はいるかー? 重傷者がいたら領主
の屋敷まで連れてこい、特別に軍の治癒士に診せてやる。それから
ここの施工主は領主代理まで出頭しろー。建築主もだぞ﹂
職人たちに呼びかけるグライを尻目に、ぼくフィオナに向き直る。
﹁お怪我はありませんでしたか? 殿下﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あ、あの、殿下?﹂
フィオナは⋮⋮頬を膨らませ、なんだか不満そうな顔でぼくを見
ていた。
それからふいとアミュを振り向くと、笑顔を作って歩み寄ってい

711
く。
﹁ありがとございました、アミュさん。あとついでにグライも⋮⋮﹂
その後ろ姿を見ながら、ぼくは思う。
あー、これは失望させちゃったかな⋮⋮。
****
さすがにもう帰ろうということになり、ぼくら一行は来た道を戻
っていた。
フィオナは前の方でアミュと談笑している。
さっきまであれほど懐かれていたのが嘘みたいに、ぼくへ話しか
けてくることはなくなっていた。
たぶんだけど⋮⋮フィオナはぼくに、騎士のような役割を期待し
ていたのではないだろうか。
少し前に男女で危機を助けられてどうのこうのとか言ってたし、
あとぼく一応武術大会の優勝者だから。
しかし先ほどまったくの役立たずだったのを見て、期待外れにが
っかりしてしまったわけだ。
小さく溜息をつく。
まあそんなことを勝手に期待されても困るだけだから、これでよ
かったのかもしれないけど。
市の通りが近づくにつれ、人通りも多くなってくる。

712
必然、フィオナに向けられる視線も。
ふと。
市の外れにぽつんと店を構える、小さな屋台が目に入った。
色合いの良い布や雑貨を扱っている。
﹁⋮⋮あの、殿下。少々お待ちを﹂
﹁はい⋮⋮?﹂
フィオナの返事を待たず、ぼくは店に駆けていく。
そして目当ての物を買って戻ってくると、皇女へと言った。
﹁失礼します。少しじっとしていてもらえますか﹂
﹁はぁ⋮⋮﹂
フィオナの後ろへ回り、その長い髪を先ほど買った編み紐で頭の
上の方に結わえる。
最後に蔓模様の入ったスカーフを髪を隠すように巻いてやると、
ぼくは小さく笑って言った。
﹁これでいくらかは町娘らしくなりました。それほど衆目も集めな
くなると思いますよ。せめて、屋敷に戻るまでの間だけでも﹂
﹁⋮⋮﹂
フィオナが自分の頭をぺたぺたと触りながら、少し不安げに言う。
﹁変ではないでしょうか⋮⋮?﹂
﹁ん、そんなことないわよ。服とも合ってるし、いいんじゃない?﹂
﹁悪くねぇよ、そうしとけ。目立たれるよりはおれらも楽だしな﹂
﹁⋮⋮うふふ。そうでしょうか﹂

713
フィオナは、今度は機嫌よさそうに頭をぺたぺた触る。
﹁⋮⋮手鏡を持ってくればよかったですわね﹂
﹁姿見ならば用意できますよ﹂
はりかがみ
︽土金の相︱︱︱︱玻璃鑑の術︾
地面から、いびつな輪郭をした巨大な平面鏡が現れる。
フィオナは一瞬目を丸くしたが、そこに映った自分の姿をいろい
ろな角度から見て、次いでうれしそうに笑った。
﹁うふふふふ﹂
﹁気に入っていただけたなら何よりです。次からはもう少し上等な
物を用意されるといいですよ﹂
﹁いえ⋮⋮これがいいです。ありがとうございます、セイカ様。こ
うした贈り物をいただくのは初めてです⋮⋮大切にしますね﹂
フィオナがにこにこと言う。
そんな安物でいいのかと若干心配になったが、まあ本人が気に入
ったのならいいか。
と、アミュがぼくの鏡を覗き込みながら言う。
﹁しかしすごいわねこの鏡⋮⋮こんなにきれいなの見たことないわ
よ。どこまでが本当の地面かわからないくらいなんだけど﹂
﹁あはは、まあ⋮⋮﹂
ヴェネツィアの錬金術師から聞き出した、ガラスに銀を被膜させ
る特別製だ。

714
術で再現するのは苦労した。
﹁割って売ったらいい値がつきそうね﹂
﹁やめんか﹂
﹁お前は本当に訳のわからねぇ魔法使うな﹂
正直自分でも、なんでこんな術をがんばって編み出したのかはわ
からない。
意外と役に立つ機会はあったが。
﹁それにしてもセイカさま⋮⋮なんだか、髪を結う仕草が手慣れて
おりましたね。弟子にはあんなことされてませんでしたのに⋮⋮﹂
ユキが耳元でささやいてくる。
西洋で小さな子の面倒を見る機会があったんだよ。というか今答
えにくいから話しかけてくるなよ。
﹁セイカさまは、西洋でいったいどんな暮らしを送られていたので
すか? ユキは無性に気になってまいりました⋮⋮﹂
気にせんでいい。
715
第七話 最強の陰陽師、助けてもらう︵後書き︶
※玻璃鑑の術
ガラスに銀をメッキした鏡を作り出す術。作中世界においてもセイ
カの転生前の時代には銀鏡反応のような製鏡技術はまだ生まれてい
なかった。しかしガラス板に金属を薄く被膜させることで高効率の
反射鏡が作れることは知られており、魔術師や錬金術師の製作した
一品物がごく少数ながらも流通していた。 716
第八話 最強の陰陽師、話しかける
その日の夜。
晩餐が済み、屋敷の灯りも落ち始めた頃。なんだか喉が渇いて、
井戸へ向かおうと外に出ると⋮⋮月明かりの下、庭で剣を振るグラ
イの姿を見かけた。
稽古中なのか。真剣な様子で、ぼくに気づく気配もない。
﹁熱心だね、グライ兄﹂
﹁あ⋮⋮? なんの用だよ、セイカ﹂
汗を拭いながら鬱陶しそうな目を向けてくるグライに、ぼくは困
った。

717
なんで話しかけたのか、自分でもよくわからなかったからだ。
﹁⋮⋮別に。そうだ、相手になってあげようか。剣術ならまだ少し
覚えてるよ﹂
﹁バカ言うな。お前の剣なんざ稽古の相手にもならねぇよ﹂
だろうなぁ、とぼくは思う。
まじな
前世の一時期、呪いの才に乏しかった弟子に付き合って、高名な
武者に太刀の流派を習っていたことがあった。
いくつかの技を伝授され、それなりにはなったのだが⋮⋮結局師
匠には遠く及ばなかったし、弟子にもあっという間に追い越されて
しまった。ぼくに剣の才はなかったのだ。
腕の錆び付いた今となっては⋮⋮いやあの頃のぼくであっても、
きっとグライの相手にはならなかっただろう。
﹁グライ兄には剣の才があったんだね﹂
﹁なんだ、お前? 気色悪ぃな﹂
﹁誉めてるんじゃないか。なんといっても、あの皇女の聖騎士に選
ばれたくらいだ﹂
﹁⋮⋮はっ﹂
グライがそう言って、傍らに置いてあった水筒の水を飲む。
聖騎士とは、フィオナのそばに控える魔法剣士たちのことだ。
本質はただの護衛兵で、人数も十に満たないが、その力は精強無
比。数々の刺客や、強大なモンスターを討ち取ってきた⋮⋮と、吟
遊詩人たちには歌われている。

718
フィオナが視察の最中に東方の駐屯地を訪れた折。グライを一目
見て新たな聖騎士に選んだのだと、ルフトからの手紙に書いてあっ
た。
ただ、正式な任命は宮廷で行うらしく、そのためには帝都まで帰
る必要がある。
自分の軍団から聖騎士が選ばれるのは大変な名誉⋮⋮ということ
で、軍団長であるペトルス将軍の一声がかかり、グライが自分の小
隊を率いて帝都まで護衛することとなった。
今はその途中、兵とフィオナの休養がてら、実家のあるランプロ
ーグ領に滞在している⋮⋮というのが、ルフトから聞いていた今回
の一連の経緯だ。
短い沈黙の後、グライが口を開く。
﹁あいつの護衛が、なんで聖騎士なんて呼ばれているか知ってるか﹂
﹁⋮⋮? さあ﹂
﹁あいつ自身が広めたんだ。民衆の耳に心地良い、詩人に歌われや
すい呼び名をな。要は、政治広報の一環だ﹂
﹁⋮⋮外面だけで、中身が伴ってないってこと?﹂
﹁そうじゃねぇよ﹂
と言って、グライが水をもう一口飲む。
﹁あいつらの実力は本物だ。おれなんて最底辺だろうよ。あいつの
侍女に二人、やべぇのがいただろ。今朝フィオナを止めてた奴らだ。
行軍の途中、稽古とか言われてあいつらに叩きのめされたよ。あれ
で序列が下の方ってんだから、どれだけ恐ろしい奴らなのかわかん
ねぇよ﹂
﹁へぇ、全員帝都に置いてきたのかと思ってたけど、違ったんだ。
侍女にね⋮⋮﹂

719
そういえば、立ち居振る舞いがそれらしかった気もする。
﹁ふうん⋮⋮で、つまり何が言いたいの?﹂
﹁おれが選ばれたのは、おそらく実力じゃねぇ。あいつの⋮⋮何か、
思惑があってのことだ。あいつは政治家だからな﹂
﹁⋮⋮政治家﹂
ぼくはグライの言葉を反芻する。
﹁あまり、そうは見えないけど﹂
﹁見えないってだけだ。あいつがいつのまにか軟禁生活を脱して、
世間にその存在が広まり、皇位継承の話題に名前が上がるようにな
ってきたのが、ただ偶然だと思うか?﹂
﹁⋮⋮全部、彼女が意図したことだと?﹂
﹁そうだ。聖皇女という呼び名や、庶民の印象も含めてな。あいつ
が自分で説明していたよ﹂
﹁⋮⋮あの年齢でそこまで成し遂げたのなら、普通じゃないな﹂
ぼくは静かに言う。
まつりごと
﹁政に対する天賦の才があったと言ってしまえば、それまでかもし
れないが⋮⋮﹂
﹁それだけなわけねぇだろ。才能でどうにかなる域を超えてる。特
に、聖騎士とかいうやべぇ奴らをあれだけ集めるなんて芸当は﹂
﹁⋮⋮才能でないならなんだって言うんだよ﹂
グライが、一つ息を吐いて言う。
﹁託宣の巫女を知っているか、セイカ﹂

720
﹁⋮⋮いや? 帝都の中央神殿にでもいるの?﹂
﹁違う。聖堂とは無関係の、かつていた一族だ。数百年に一度⋮⋮
勇者と魔王の誕生を予言する﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁あいつの母親は、その末裔だった。聖皇女には託宣の巫女の血が
流れている﹂
グライが言う。
﹁あいつには、未来が視えるんだ﹂
****
﹁未来が⋮⋮?﹂
﹁そうだ﹂
問い返すぼくに、グライが続ける。
﹁頭に浮かぶんだとよ。ある時、ある場所、ある場面の、自分が見
ている光景と記憶が。昼間に街で建物が倒れてきただろ。今思えば、
あいつはあの場面を視てたんだろうよ。なんの意味があったのかは
知らねぇが、だからわざわざあんな場所へ行こうとしたんだ。それ
と⋮⋮お前が帰ってきた日、おれが負ける光景も、おそらくな﹂
﹁⋮⋮そんなことは起こらなかったじゃないか。グライ兄が、突然
やめるって言い出したから⋮⋮﹂
﹁未来は変わるんだとも言ってたな。考えてみれば当たり前かもし
れねぇが﹂

721
ぼくはしばし思考を巡らせ、口を開く。
﹁勇者と魔王の誕生を予言する一族⋮⋮と言ったけど、それはあの
おとぎ話に語られる巫女のこと?﹂
﹁ああ。おとぎ話ではなかったがな﹂
﹁なら妙だ。あの話に出てくる巫女に未来視の力などなかったはず。
勇者と魔王の誕生を、ただその直前に察するだけの力だったはずだ﹂
﹁知らねぇよ。皇族は魔法の才に恵まれてるからな。そっちの血と
合わさって、どうにかなったんじゃねぇの﹂
﹁今の話はすべて、皇女本人から聞いたことなのか?﹂
﹁ああ、そうだよ﹂
グライが言う。
﹁あいつの母親が託宣の一族の末裔だったことは、誰も知らなかっ
た。ただあいつを産むまさにその時⋮⋮予言したそうだ。勇者と魔
王の誕生を﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そのせいか知らねぇが、あいつの母親はそれからすぐに死んじま
った。あいつはそれを、育ての親から聞いたらしい。それで覚った
んだとよ、自分の力がなんなのか﹂
グライは続ける。
﹁初めは母親の予言の方も、子を産む苦しみの末の妄言と思われて
いたそうだ。だが帝国の諜報の結果、事実だとわかった。魔族の側
でも同じような情報が出回っていたからな。もっとも、向こうはな
ぜか魔王の誕生は知らないようだが﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あいつがしばらく軟禁されていたのは、そういう事情もあったん

722
だろうぜ。帝国が今、唯一把握している託宣の一族だからな。未来
視の力は想定外だろうが﹂
﹁⋮⋮それが本当なら、あまりに出来過ぎている。偶然とは思えな
い。皇帝は、フィオナの母親が託宣の一族であると知っていたとし
か⋮⋮﹂
﹁どうだかな。普通に考えればあり得ねぇが⋮⋮あの皇帝なら、全
部狙ってやったんだとしても不思議はねぇな﹂
ぼくは、少し考えて訊ねる。
﹁帝国や聖皇女は、わかってるのか? 勇者や⋮⋮魔王が、誰なの
かを﹂
﹁おれがそこまで知るわけねぇだろ﹂
グライが吐き捨てるように言う。
﹁あいつは、勇者と魔王が生まれた時には赤ん坊だった。だから本
来の託宣を受けたわけではないだろう。ただ⋮⋮あいつは知ってい
るだろうな。その未来視の力で﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あいつがあれほど、単なる学生に会いたがるなんて妙だと思った
が⋮⋮剣を受けてわかった。あのアミュとかいう女が、勇者ってこ
となんだろうな。⋮⋮なんだよ、怖ぇ顔しやがって。その様子だと
お前も知ってたのか?﹂
﹁⋮⋮いろいろあってね﹂
目を伏せるぼくに、グライが告げる。
﹁あまり首を突っ込むんじゃねぇぞ、セイカ。勇者や魔王なんても
のに﹂

723
﹁⋮⋮グライ兄が心配してくれるだなんて、おかしなこともあるも
んだ﹂
﹁違ぇよ﹂
グライがぼくを睨んで言う。
﹁あいつの邪魔をするんじゃねぇってことだ。あいつはあれでも、
帝国の未来を見据えている﹂
﹁⋮⋮帝国の未来、ね﹂
政治家だけあるということか。
ぼくはふっと息を吐いて言う。
﹁首を突っ込むなと言う割りには、ずいぶんべらべらと喋るじゃな
いか。そんなことまで話してよかったの?﹂
﹁別に構わねぇよ。どうせこの程度のことは、あいつはいずれ民に
広めちまうだろうからな。疑うなら本人に聞いてみればいい⋮⋮い
やっ、だが、あの侍女どもには絶対言うなよ。おれがぶっ殺されち
まう﹂
﹁グライ兄も、いろいろ考えていたんだね。意外だよ。美人に仕え
られて浮かれてるとばかり思ってたけど﹂
﹁はっ、くだらねぇ!﹂
グライが忌々しげに、剣を振りながら言う。
﹁女なんてクソだ!﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
ぼくは困惑する。
何があったんだろう⋮⋮こいつも極端だな。

724
﹁セイカ、お前も気をつけろよ。おれには破滅に向かっているよう
にしか見えねぇぞ。あれだけ女を侍らせて⋮⋮﹂
﹁き、肝に銘じておくよ⋮⋮でも、それならなんで、グライ兄は聖
騎士の誘いなんて受けたのさ。話を聞く限り、そのまま駐屯地にい
た方がよかった気がするけど﹂
﹁最初は栄転だと思ったんだよ。こんなめんどくせぇ事情があるな
んて予想できるか﹂
﹁へぇ⋮⋮じゃあ、どうする? 今ならまだ辞退も間に合うんじゃ
ない?﹂
﹁間に合うわけねぇだろ、ボケ! それに⋮⋮辞退なんてするかよ﹂
グライが、視線を彼方に向けて言う。
﹁あいつの視ている未来が気になるからな﹂
****
﹁セイカさま﹂
部屋に戻ると、頭から顔を出したユキが話しかけてくる。
﹁あの者の話は本当でしょうか。あの者は、セイカさまに恨みがあ
るものと思っておりましたが⋮⋮﹂
﹁少なくとも、嘘をついているようには見えなかったな﹂
わざわざそんなことをする理由も思いつかない。
ただ⋮⋮。

725
﹁フィオナの力は、ちょっと信じがたいけど﹂
﹁未来が視えるという力でございますか?﹂
ユキが不思議そうに言う。
﹁なにゆえ⋮⋮? その程度のことは、セイカさまも占術でなされ
るではございませんか﹂
﹁占いと未来視は別物だよ﹂
ぼくは説明する。
めいせん ぼくせん そうせん
﹁命占も卜占も相占も、導けるのは特定の物事に対する特定の結果
だけだ。たとえば生まれの星から宿命を見たり、亀甲の割れ方から
縁起を判断したり、家や都市の構造から吉凶禍福を予想したり、と
かね﹂
﹁未来を視るのと何が違うのです?﹂
﹁事前に情報や道具や知識が必要で、しかもわかることが限定され
るんだよ。それに方法論が確立されていて、学べば誰でも使えるし、
他人に教えることができる。未来視は、これとはまったく違う﹂
ぼくは続ける。
﹁情報も道具も知識も何もないところから、いきなり未来がわかる。
方法論なんてものはなく、誰かに教えることもできない。魔術師の
叡智からは隔絶した、超常の力だよ﹂
﹁はぁ、それは⋮⋮管狐の予知に近いようなものでしょうか﹂
﹁管狐の予知も、厳密には占術だ。近いのは⋮⋮西洋に伝わる預言
あやかし くだん
者か、妖では件だろう﹂
くだん
﹁件、でございますか⋮⋮﹂

726
人の頭に牛の身体を持った、人語を話す妖。
生まれてすぐに重大な出来事を予言して死に、それは必ず当たる
という。
﹁話には聞くものの、ユキも見たことはございませんが﹂
﹁実は一匹持ってるけどな﹂
﹁ええっ!? どうやったのでございますか? たしかあれ、予言
をしたらすぐに死んでしまうはずでは⋮⋮﹂
くだん くだん たんごのくに
﹁件の誕生を予言した件がいたんだ。丹後国にある村だということ
だったから、しばらく逗留して牛が産気づくたびに近くに張り付い
てた﹂
﹁よくそんながんばりましたね!?﹂
﹁で、本当に生まれたから、何か喋る前にすぐ封じたんだ。悪いが
見せることはできないよ。位相から出したら予言して死んでしまう
からね﹂
﹁いえそれは別に、結構ですが⋮⋮﹂
ユキは呆れ気味にそう言ってから、気を取り直した風に頭を上げ
る。
ひめみこ
﹁それはともかく、どうされますか? あの姫御子は、セイカさま
の脅威となりうるでしょうか⋮⋮﹂
﹁いや⋮⋮大丈夫だろう﹂
ぼくは言う。
くだん
﹁未来視と言えど、万能とは思えない。預言者も件も、自在に未来
を視られるわけではないからね。そもそもぼくが力を振るうような
真似をしなければ、そのような未来も来ないはずだ。政治家だとい

727
うのは厄介だが、まあ︱︱︱︱﹂
ぼくはふっと笑う。
﹁深く関わらなければいいだけだろう﹂
第九話 最強の陰陽師、相手になる
﹁セイカ様。お茶をどうですか? うふふ﹂
﹁セイカ様。こちらにいらっしゃったのですか。お話でもしません
か?﹂
﹁セイカ様ー? どこにいらっしゃいますかー? セイカ様ー⋮⋮﹂
****

728
﹁はぁ⋮⋮﹂
ぼくは納屋の壁に背を預けて溜息をついた。
屋敷からは死角になっている場所で、日も当たらないのでひんや
りとしている。
あの日以降、どうもかなり気に入られてしまったらしく、ぼくは
ずっとフィオナにつきまとわれていた。
関わらないと決めた矢先に⋮⋮。下手に親切になどしなければよ
かったか。
ただ、そんな日々も今日で最後。
明日は出発の日だ。
帝都へ送り届けた後は、もうフィオナと関わることもあるまい。
そんなことを思っていると、近くに人影が通りかかる。
﹁うわっ、セイカ!? あんたなにしてんのよそんなとこで⋮⋮﹂
ぼくに気づいたアミュが、びっくりしたように言った。
手には模擬剣を持ち、少し汗をかいているようだ。
ぼくは訊ねる。
﹁君の方こそ。稽古でもしてたのか?﹂
﹁ちょっとね。あんたの兄貴に相手になってもらってたのよ﹂
﹁え!? 兄貴って、グライか?﹂
﹁そうに決まってるでしょ﹂
﹁なんでそんなことに⋮⋮﹂

729
﹁なんでって⋮⋮成り行き? 朝外に出たら庭で剣振ってたから﹂
﹁へー⋮⋮﹂
あいつ、夜も剣振って朝も剣振ってるのか。ずいぶん熱心だな。
目的がぼくを叩きのめすためというのがアレだけど。
ただ⋮⋮ぼくは一応訊く。
﹁⋮⋮大丈夫か? あいつ、下心あるかもしれないから気をつけろ
よ? 体触られたりしなかったか?﹂
﹁はああ? 気持ち悪いこと訊くわね。ないわよ、別に。ただ模擬
戦しただけだし﹂
アミュがはぁ、と溜息をつく。
﹁さっぱり勝てなかったけどね。さすが、あんたの兄なだけあるわ
⋮⋮うわなにその嫌そうな顔﹂
あれと兄弟とは思われたくない。
いや⋮⋮だけど、グライも昔に比べれば立派になったか。
真面目になり、気遣いも覚え、実力も伴うようになった。
ぼくへの敵愾心を異様に燃やしていたり、そういえば女嫌いにも
なっていたりと、相変わらずおかしなところはあるが。
ただ、その一方で。
ぼくの脳裏には、それとは異なる思いも浮かんでいた。
・・ ・・・・・・・・ ・・・・
なぜ、アミュは勝てないんだろう?
彼女は勇者だ。才も間違いなくある。

730
グライが強すぎる、という様子でもない。
普通に考えれば⋮⋮アミュが弱いのだ。少なくとも、今の段階で
は。世間的にはともかく、伝説に語られる強さにははるかにおよば
ない。
年齢的にももうすぐ十五になるというのに。いったいなぜ⋮⋮、
と、そこで、黙り込むぼくへ、アミュが呆れたように口を開く。
﹁まーた考え事してる⋮⋮。ねえ、というか、あんたこそなにやっ
てたのよ。こんな物置の陰で﹂
﹁⋮⋮殿下から隠れてたんだよ﹂
﹁あー⋮⋮﹂
思考を中断して答えると、アミュが理解したような声を出す。
﹁あんた、ずいぶん気に入られてたものね﹂
﹁勘弁してほしいよまったく⋮⋮ぼくはお偉いさんの相手とか死ぬ
ほど苦手なんだ﹂
﹁そう? その割に慣れてなかった? まあ、だけど⋮⋮これから
冒険者になろうって奴が、そんなの得意なわけないわね﹂
アミュが苦笑して、それから、少し口調を緩めて言う。
﹁でも⋮⋮今日で最後よ? 明日は出発なんだから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁最後くらい、話し相手になってあげたら?﹂
﹁⋮⋮アミュ﹂
﹁さっき屋敷の窓際で、戦棋の駒を一人で動かしてたわよ。寂しそ
うにね。それだけ伝えておくから。じゃ﹂

731
言い残して去って行くアミュの後ろ姿を眺めながら、ぼくは嘆息
した。
仕方ない、行ってみるか。
それに⋮⋮少し話してみるのも、いいかもしれない。
****
シャンチー チェス
この世界にも、前世の将棋や大将棋、象棋や西洋将棋のような、
二人で兵を模した駒を動かしあう戦棋という盤上遊戯があった。
ランプローグ邸二階の窓際。
卓に置かれた戦棋用の遊戯盤を見下ろして、フィオナは一人、﹃
歩兵﹄の駒を前に進める。
対面には誰もいない。反対側の手も、フィオナが進めているよう
だった。
﹁誰かに相手を頼まないのですか?﹂
話しかけると、フィオナは顔を上げ、ぼくを見て微笑んだ。
﹁誰ももう、わたくしの前には座ってくださいませんの。相手にな
らないから、と。セイカ様、戦棋はわかりまして?﹂
﹁駒の動かし方くらいなら﹂
﹁では、できますね﹂
そう言うと、フィオナは盤面の駒を初期位置に戻していく。
ぼくはフィオナの対面に座りながらも、渋い表情で言う。

732
﹁誰も殿下の相手にならないなら、初心者のぼくが務まる道理がな
いのですが﹂
﹁うふふ。無論、駒は落としてさしあげますよ﹂
と言って、フィオナは自陣の駒を取り除いていく。
﹃魔術師﹄に﹃賢者﹄⋮⋮そればかりか﹃竜騎士﹄に﹃戦車﹄と
いった強力な駒まで落としていき、最終的にフィオナの盤面には﹃
歩兵﹄と﹃騎士﹄、それと自身である﹃王﹄しかいなくなってしま
った。
﹁⋮⋮そんなに落として勝負になるんですか? 戦棋は取った駒を
使えないのだから、ぼくは一対一で交換していくだけで勝ててしま
うんですが﹂
﹁うふふふ、そうですわね、理屈の上では。ですが戦棋の勝利条件
は、相手の全滅ではありませんから⋮⋮でも、取った駒を使える、
というのはおもしろいですわね。そういうルールを加えてみるのも
いいかもしれません⋮⋮先攻をどうぞ、セイカ様﹂
言われたとおり、ぼくは﹃歩兵﹄の駒を一つ前に進める。
それから小さく呟く。
﹁譲るからには、きっと先攻の方が有利なんでしょうね⋮⋮いいん
ですか? ぼくは手加減できるほどの実力もないので、本当に勝っ
てしまいますよ﹂
﹁うふふ、どうぞ。できるものならば。⋮⋮そうだ。そこまでおっ
しゃるのなら、賭けませんか?﹂
﹁賭け?﹂
﹁ええ。負けた方は、勝った方の言うことをなんでも一つ聞くので
す﹂

733
﹁結構きついの賭けますね!?﹂
﹁うふふ。もちろん遊びですから、どうしても無理な事柄なら拒否
して構いません。いかがでしょう﹂
﹁⋮⋮わかりました。いいですよ﹂
﹁うふふふっ、セイカ様の言質を取ってしまいました﹂
﹁怖いなぁ﹂
﹁言っておきますが、わたくしは勝ちますよ﹂
フィオナは自陣の﹃騎士﹄を動かしながら、機嫌良さそうに言う。
﹁意外に思われるかもしれませんが、わたくしはこれでも、けっこ
う強いのです﹂
﹁いえ⋮⋮別に、意外ではないですよ﹂
ぼくは言う。
まつりごと
﹁政をなさるうえでは、こうした戦術眼も重要なのでしょう﹂
﹁まあ。それは、買いかぶりすぎというものです﹂
フィオナは﹃王﹄を動かす。
﹁これはただの趣味ですわ。自由のなかった頃は、娯楽も限られて
いましたから。それに⋮⋮わたくしの戦場は、このような血生臭い
場所ではありませんもの﹂
﹁では、どこなのでしょうか。政治家の戦場とは﹂
﹁うふふ⋮⋮﹂
ぼくの問いには答えず、フィオナは駒を進めながら微笑む。
﹁セイカ様。この世で最強の駒とは、何だと思われますか?﹂

734
﹁⋮⋮それは、戦棋の話ではないですよね﹂
﹁いえ、そうですね。せっかくですから、この場でどこにあるのか
を指し示してみてください。なければないで構いませんが﹂
﹁いいですよ﹂
そう答えて︱︱︱︱ぼくは、フィオナを指し示す。
﹁この場で表すならば⋮⋮最強の駒とはぼくであり、あなただ、フ
ィオナ殿下。兵ばかりか王までもを背後から操り、決して戦場で討
ち取ることはできない。政治家こそが、この世で最強の駒でしょう﹂
﹁まあ。気持ちのいい答えをくださいますわね、セイカ様﹂
フィオナが晴れやかに笑う。
﹁おそらく常人ならば、﹃竜騎士﹄や﹃王﹄と答えたことでしょう。
先のような回答をこそ、わたくしは求めていました﹂
﹁ならば、正解ですか?﹂
﹁正解は誰にもわかりません。ですが⋮⋮わたくしの考えは異なり
ます﹂
﹁では、殿下はどの駒が最強であると?﹂
﹁うふふ⋮⋮この世の最強とは、ここにいる者たちのことですわ﹂
そう言って、フィオナは自陣の背後を、指で大きく丸く指し示し
た。
そこには、何もない。
遊戯盤の置かれた卓の天板が、ただ広がるだけだ。
﹁今ここにはなにもありません。ですが現実には、兵や王や政治家
の周りには、たくさんの者たちがいます︱︱︱︱この国に住む、民
という者たちが﹂

735
﹁名もなき民衆こそが最強であると?﹂
﹁ええ﹂
フィオナが迷うことなくうなずいた。
しかしぼくは、今ひとつ納得がいかない。
﹁たしかに、民衆の反乱によって体制が倒れることはありますが⋮
⋮それは例外でしょう。ほとんどの場合、民はただ奪われるばかり
の力ない者たちです﹂
﹁ええ、その通りですわ。しかしそれでも、民こそが最強なのです﹂
眉をひそめるぼくに、フィオナは微笑む。
﹁王や政治家は、なにも生み出しません。民の生産する作物や資源
を、税という名目でただくすねるばかり。その実態は、獣に寄生し
のみ
て暮らす蚤に近いと言えるでしょう﹂
﹁仮にも皇女というお立場で、ずいぶんなことをおっしゃいますね﹂
﹁うふふ、蚤も馬鹿にはできませんわ。まずジャンプ力がすごいで
す﹂
﹁馬鹿にしてるようにしか聞こえないんですが﹂
﹁それと、血を吸い、病を媒介することで、自分の何倍も大きい宿
主を苦しめることができます。もしかすると、本当は殺すことすら
容易なのかもしれません。王にとって民が、そうであるように﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ですが、うふふ。蚤は決して、宿主を殺すことはできません。そ
の選択肢は初めから存在しないのです。なぜなら⋮⋮それは同時に、
自らの破滅をも意味するから。蚤は宿主なしでは生きられない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁税収がなければ、政治家は存在できません。兵站がなければ、軍
は維持できません。民とはまさしく我々にとっての生命線、巨大な

736
宿主なのです。我々は彼らを滅ぼすことができない、決して﹂
ぼくの駒を取りながら、フィオナは続ける。
﹁加えて彼らは、莫大な力を持っています。圧倒的な、多数という
力を。もしも彼らが一致団結できたならば⋮⋮その物量差を前に、
帝国軍など為す術がないでしょう。それはとても難しいことですが、
彼らの機嫌を損ねれば、いつかは起こり得てしまう。決して滅ぼさ
れない、不死という属性を持っている限りは⋮⋮わかりますか、セ
イカ様﹂
ぼくは、フィオナの説明にただ聞き入る。
﹁民とは不死であり、途方もない力を持つ巨獣なのです。ひとたび
まどろみから醒めて牙を剥けば、我々蚤などはひとたまりもない。
彼らこそが、この世で最強の駒なのです﹂
それは、ぼくには思いもよらない考え方だった。
前世での民とは、野盗や貴族に奪われ、飢えや寒さや流行病で死
んでいくだけの弱い者たちでしかなかった。日本でも宋でも、イス
ラムでも西洋でも。
だけどフィオナの主張には、前世でも通じる理屈が通っている。
あるいは、お国柄もあるのかもしれない。
民衆から立った英雄が初代皇帝となった逸話を持つウルドワイト
帝国では、今でも皇位継承の折、帝都の広場で人々が新たな皇帝を
承認する儀式がある。
為政者としても、民は無視できないのだろう。
ぼくは言う。

737
﹁だから殿下は⋮⋮民衆へ、積極的に自分の存在を広めているので
すか?﹂
﹁ええ。わたくしの手駒には、﹃王﹄も﹃竜騎士﹄もありません。
ですから、誰も注目しない駒だって使います。それが最強であるな
ら、なおさらのこと﹂
フィオナは、そこで小さく笑う。
﹁今はこのようなこと、ただの搦め手に過ぎないでしょうね。です
が、きっと遠い未来では⋮⋮政治家は皆、民におもねるようになる
はずです。いつかはすべての国で、民衆が王権を手中に収めるでし
ょうから﹂
﹁民衆が王権を? まさか﹂
﹁うふふ、おかしいですか? 最も強き者の手に、最も大きな権限
が収まるのは自然なことでしょう。水が低きに流れるがごとく、い
つかきっと訪れるはずです。民が為政者を選び、民が彼らの不正を
糾弾する、そんな世が﹂
まるで夢見がちな少女のように語るフィオナを見て、ぼくは思う。
やはり、この皇女は政治家なのだ。
後ろ盾や実権がなくとも。まだ年若い少女に過ぎないとしても。
ぼくには見えない力学や景色が、その目に見えている。
静かに口を開く。
﹁きっと、ね⋮⋮さすがに殿下の未来視であっても、そこまで先の
未来は視えませんか﹂

738
﹁まあ。グライかしら﹂
ぼくがうなずくと、フィオナは意外にもほっとしたような口調で
言う。
﹁感謝しなければなりませんね。セイカ様にどうお話しするか、ず
っと悩んでおりましたから﹂
﹁では、やはり事実なのですね﹂
﹁うふふ﹂
フィオナは、盤外に落とした駒を弄びながら言う。
﹁幼い頃、わたくしはこの力がなんなのかわかっておりませんでし
た。視える未来もそれに伴う記憶も、すべてはうつろう可能性のよ
うなもの。ともすれば、蝶の羽ばたき一つで変わってしまうもので
す。実現したりしなかったりするこの白昼夢の正体に思い至ったの
は、羽ばたき程度では変えることのできない、暴風のごとき運命の
流れがあると気づいた時でした。そしてお母様が何者だったのかを
聞かされた時、それは確信に変わり、同時に⋮⋮わたくしの生まれ
た意味も、覚ったのです﹂
﹁生まれた意味、ですか。それは未来視の力をもって、帝国に利す
るというような?﹂
﹁うふふふふ⋮⋮いいえ、違いますわ﹂
フィオナは、どこか儚げな笑みと共に告げる。
﹁人の生には意味などなかったのです、セイカ様﹂
押し黙るぼくに、フィオナは続ける。

739
﹁未来はうつろい、容易に変わりうるもの。運命の流れも、ただそ
れが確率的に最も実現しやすい未来というだけでしかありません。
人の生には、天より定められた意味などない⋮⋮それに気づいた時、
わたくしは好きに生きようと決めました。大人しく軟禁されるので
はなく、それどころか誰の思惑にも依らない、わたくし自身の意思
で生きようと﹂
ぼくが沈黙していると、手番を終えたフィオナがにやりとしなが
ら言ってくる。
﹁だいぶ劣勢になってきたようですわね。まだ続けますか、セイカ
様?﹂
﹁⋮⋮最後まであきらめませんよ。駒の数ならばまだ互角です﹂
﹁まあ、素敵。でもこの盤面、実は七手詰めですの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮投了します。ちなみに、ここからどう詰まされるんです
か?﹂
﹁うふふふっ。ここがこうなると⋮⋮﹂
フィオナの白く細い指が、駒を動かしていく。
どうやら本当に詰みの盤面だったようで、ぼくは重たい息と共に
言葉を吐き出した。
﹁完敗です。本当に強かったんですね、殿下﹂
ずる
﹁うふふふ⋮⋮未来が視えるのは狡い、とはおっしゃらないのです
か?﹂
﹁そこまで都合よく使える力ではないでしょう﹂
ぼくは言う。
﹁それに仮に視えていたとしても、戦棋は駒の位置も動かし方もす

740
べて公開されている遊戯です。未来の予測なんて、やろうと思えば
誰でもできることですよ。戦棋に未来視は関係ない。殿下は、間違
いなくこの遊戯がお強いのだと思います﹂
﹁うふふっ、なんだかうれしいですわ。セイカ様にそう言っていた
だけると﹂
フィオナはにこにこと、機嫌良さそうに言う。
﹁でも欲を言うならば⋮⋮わたくしがそんな卑怯な真似をするはず
がない、とおっしゃってほしかったところですわ﹂
﹁はは、さすがにそこまでは断言できかねますね。殿下に今のお人
柄とは別の腹黒い一面がないとも、まだぼくには言い切れませんか
らね﹂
﹁⋮⋮ならば、どうすれば信用していただけるのでしょう﹂
ふと、ぼくは口をつぐんだ。
微笑んではいるものの、フィオナの口調や表情からは、真剣さが
にじみ出ている。
これはひょっとすると⋮⋮ぼく個人に対してではなく、政局で味
方をどう増やせばいいのかとか、そういう類の悩みなのかもしれな
い。
最初に冗談で返したのは間違いだったかな⋮⋮。そんなことを思
いつつ、ぼくも真面目な口調を作って言う。
﹁一般論ですが⋮⋮本音を話したり、弱みを見せると良い、とは言
いますね﹂
﹁本音に弱み、ですか﹂
﹁先に相手を信用して、自分のことを打ち明けるのです。そうすれ
ば、相手も自ずと心を開いてくれる⋮⋮らしいですよ。もっとも殿
下のお立場では、なかなか難しいかもしれませんが﹂

741
﹁うーん⋮⋮﹂
フィオナが渋い表情で唸る。
﹁ええと、わかりました。では⋮⋮いきますよ?﹂
﹁⋮⋮? はい﹂
﹁わたくしは鳩が苦手です﹂
﹁へ? 鳩⋮⋮? どうしてまた。何か嫌な思い出でも?﹂
﹁いえ、そういうのはないのですが⋮⋮とにかく怖いのです。特に
あの目。セイカ様は、鳩の目を間近で見たことはありますか?﹂
﹁たぶんないかな⋮⋮﹂
﹁ならば機会があれば見てみるといいでしょう。白目が赤くて黒目
が小さくてとにかくまん丸で、なにを考えているのかまったくわか
らない異常者の目をしていますから。動物の中でも、鳩だけは絶対
に心がないでしょうね。虫に近いと思います。昔はよく、窓の外に
鳩がいると大泣きしていました﹂
﹁結構語りますね。というかそこまで鳩を恐れる人を初めて見まし
たよ﹂
﹁あとは、小さい頃シチューが怖かったです﹂
﹁シ、シチュー? 料理の? 嫌いだったということですか?﹂
﹁いえ、好きでした。でも怖かったのです。特に冬、暖炉のある部
屋で食べるのが﹂
﹁どういうことですか⋮⋮﹂
﹁シチューには小麦が使われていることを、わたくしはある時知り
まして﹂
﹁は、はい﹂
﹁幼いながらも博識だったわたくしは、パンも小麦から作られるこ
とを知っていたのです﹂
﹁はい⋮⋮﹂
﹁パンは、小麦を焼いて作ります。シチューを食べると、お腹の中

742
に小麦がある状態になりますね? だから⋮⋮そのまま暖炉にあた
ってしまうと、お腹の中で小麦が膨らんでパンになって、口からあ
ふれ出てしまうと考えたのですわ﹂
﹁あっはははは! え? ほっ、本気で言ってます?﹂
﹁本気です。だから幼いわたくしは、シチューを食べ終わると一目
散に寒い部屋へ逃げて毛布を被り、お付きの者たちを困惑させてい
ました﹂
﹁あっはははははは!﹂
ぼくは笑った。
笑うわ、こんなもん。
﹁んぐっ、ふふっ、い、いや失礼。殿下も、し、真剣に悩まれてい
たことでしょうね⋮⋮っふふふ﹂
﹁皇族を笑いものにするとは、セイカ様にはきっと恐ろしい罪が科
せられてしまうのでしょうね。悲しいことです⋮⋮﹂
﹁いやいやいや! どんな忠臣でも今のは笑いますって!﹂
﹁うふふっ、そうでしょうか。なんだかとても気分がいいですわ。
わたくしの身の上話で笑っていただけることなんて、今まで一度も
ありませんでしたから⋮⋮ああ、そうそう。もう一つありましたわ。
こちらは、弱みではなく本音の方なのですが﹂
フィオナが、穏やかな笑みで静かに語る。
﹁わたくしは⋮⋮例えるならば、助けたいのです﹂
﹁助ける?﹂
﹁子供が、草原で遊んでいるとします。でもその近くには大きな穴
が開いていて、その子はそれに気づいていない。このままでは、い
ずれ転げ落ちてしまうことでしょう⋮⋮わたくしは、それを助けた
いのです。穴に気づいているのはわたくしだけで、これはわたくし

743
にしかできないことだから﹂
ぼくは、少し考えて口を開く。
﹁その子供とは、帝国のことですか?﹂
ぼくの問いに、フィオナは曖昧に笑うのみ。
﹁ごめんなさい、詳しくは教えられませんの。未来が予期せぬ方に
変わってしまうかもしれませんから﹂
﹁アミュに会ったのも、その一環だったと?﹂
﹁それは⋮⋮ええ、そう思っていただいてかまいませんわ﹂
﹁それらはすべて、殿下がご自分の意思で望むことなのですか?﹂
今度はしっかりとうなずくフィオナに、ぼくは笑い返した。
﹁ならば、応援しますよ。ぼくに手伝えることならなんでもお申し
付けください﹂
﹁うふふ。うれしいですわ﹂
言ってから、また余計なことに首を突っ込みかけていることに気
づいたが⋮⋮今さらもう遅い。
あとでまたユキに小言を言われそうだ。今は考えないようにしよ
う。
﹁そうだ。ぼくは、馬車が苦手ですね﹂
﹁馬車が? 意外ですわ﹂
﹁どうも酔ってしまって。もっとも、最近はだいぶ平気になりまし
たが﹂
﹁わたくしもシチューはもう平気ですわ﹂

744
﹁そこ張り合います?﹂
﹁うふふっ⋮⋮楽しかったですわ、セイカ様﹂
フィオナが席を立つ。
思えば、だいぶ話し込んでいた。
﹁声をかけてくださって、ありがとうございます﹂
﹁いいえ。こちらこそ﹂
﹁うふふっ﹂
フィオナがぼくを見下ろして言う。
﹁どんなお願いを聞いてもらうかは、よく考えておきますわ﹂
﹁あー、はは⋮⋮﹂
ぼくはフィオナから目を逸らし、乾いた笑いをこぼした。
くそっ⋮⋮忘れてなかったか⋮⋮。
745
第十話 最強の陰陽師、捕まえる
翌朝。
短い休暇も終わり、再び学園ヘ発つ日がやって来た。
﹁えーっと。これで荷物は全部かい、セイカ﹂
馬車の列を眺め、ルフトが言う。
帰りは、ぼくたちだけではない。フィオナの一行や、それを護衛
するグライの小隊も一緒だった。物々しいほど並んでいる馬車以外
にも、軽装で馬に騎乗する兵の姿も見える。
アスティリアへ行った時以上の安全な旅路になりそうだ。

746
﹁そうだね。ありがとう、兄さん﹂
﹁学園に戻っても元気でやれよ﹂
﹁わかってるって﹂
﹁それと、初等部を卒業したらどうするかも、早く決めるんだぞ。
父上としては進学してほしいと思ってるだろうけど⋮⋮﹂
﹁あー、わ、わかってるって⋮⋮﹂
ぼくは引きつった笑みと共に答える。
冒険者になることは、ブレーズにもルフトにも言ってなかった。
ギリギリまで黙っているつもりだ。学費出さないとか言い出され
たら困るからね⋮⋮。
﹁イーファも元気で。ずっと働いてたけど、ちゃんと休めたかい?﹂
﹁えへ、大丈夫ですよ。ルフト様もお体には気をつけて﹂
イーファがはにかんで言う。
屋敷にいる間、イーファはずっと使用人や奴隷たちに混じって家
の仕事をしていた。もうそんな必要はないのだけれど、他にするこ
ともないから、と言って。
もしかすると、仲の良かった者たちと話をする時間が欲しかった
のかもしれない。次に会える時は、来るとしてもまただいぶ先にな
るだろうから。
﹁メイベル嬢も。機会があればぜひまたいらしてください﹂
﹁⋮⋮はい﹂
メイベルが、名残惜しそうにこくりとうなずいた。
ぼくはその様子を半眼で眺める。

747
メイベルは滞在中、もうずっと、ひたすらにだらけていた。
客人だから別にいいんだけど、さすがに小言を言いたくなるほど
に。
﹁うう⋮⋮ずっとここにいたかった⋮⋮﹂
﹁君なぁ⋮⋮実家でもあんな感じなのか?﹂
﹁あの人たちの前では、猫かぶってる⋮⋮だから、ちょっと疲れる﹂
﹁ここでこそ被れよ。なんであそこまでくつろいでたんだよ﹂
﹁貴族と結婚したいって言ってる子の気持ちが、わかった⋮⋮私も、
ずっとこんな生活送りたい﹂
﹁あのな、そう言ってる連中も、子供産んだり社交界に出たり夫の
仕事を支えたり、それくらいの覚悟はしてるからな。君みたいにひ
たすらだらけたいと思ってるわけじゃないから!﹂
﹁なんでそんな、ひどいこと言うの⋮⋮﹂
﹁みんな自分の力で生きてるんだよ。そのためにも、学園に戻った
らまた勉強をがんばろうな﹂
﹁うう⋮⋮やだぁ⋮⋮﹂
涙目になるメイベルを呆れつつ見下ろす。
この子、こういう性格だったんだなぁ。イーファやアミュはほっ
といても動き出すタイプだから対照的だ。
﹁おいセイカ! 何やってんだそんなところで!﹂
唐突に、グライの声が響き渡る。
小隊の馬車から戻ってきていた次兄が、腰に手を当ててぼくを睨
んでいた。
﹁もう時間だぞ、何もたもたしてるんだッ!﹂
﹁うるさいなぁ⋮⋮﹂

748
﹁悪いなグライ。僕が引き留めていたんだ﹂
﹁ふん⋮⋮ならいい。じゃあな、兄貴も﹂
﹁グライ⋮⋮﹂
﹁なんだよ⋮⋮どうせたまに帝都に来るんだろ? これからはその
時に顔を合わせられるだろーが﹂
﹁そうですわ﹂
グライの後ろから、フィオナがひょっこり現れて言う。
﹁グライが、わたくしに差し向けられた刺客と相打ちにならなけれ
ば、ですけれど。うふふ﹂
﹁⋮⋮おい。こんな時に不吉なこと言うんじゃねーよ﹂
﹁うふふふ、冗談ですわ⋮⋮わたくしが、それは冗談だと言うので
す。だから安心なさい﹂
﹁お、おう⋮⋮﹂
フィオナは笑っている。
あるいはそれは、グライが刺客に討たれるような未来は来ないと
いう、フィオナなりの気遣いだったのかもしれない。
﹁皇女殿下⋮⋮﹂
こたび
﹁ルフト卿。此度の歓待、感謝しますわ。帝都への帰路につく前に、
とてもよき慰安となりました。長きにわたる滞在でご迷惑をかけて
しまいましたわね。このお礼は必ず。ブレーズ卿にもそうお伝えく
ださい﹂
﹁恐れ入ります、殿下。ご滞在に我が領地を選んでくださり、大変
光栄にございました。視察の休養となったのならば何より。今後も
帝国のため、領地の振興と魔法学の発展に励んで参ります﹂
おとうとぎみ
﹁うふふ。卿の優秀な弟君をお借りしますわね﹂
﹁愚弟でよろしければ存分に使ってやってください﹂

749
﹁けっ!﹂
その時、近くの馬車の窓から、赤い髪の少女が顔をのぞかせた。
﹁あれ? みんなまだ乗らないの? あたしも降りた方がいい?﹂
ぼくは少し笑って、ルフトへと軽く手を上げて言う。
﹁じゃあね、兄さん。元気で﹂
次に会うのは、いつになるだろうか。
この兄を家族と思ったことはないが⋮⋮またその機会が来ればい
いと、なんとなく思う。
****
帰りも、馬車に乗る面々は行きと同じ⋮⋮とはならなかった。
フィオナが、自分の馬車にぼくを乗せると言って聞かなかったか
らだ。
例の侍女二人にまた烈火のごとく反対されていたが、フィオナも
相変わらず頑固だった。
そういうわけで、今ぼくの正面にはにこにこ顔のフィオナが座っ
ている。
さらにはグライもついでに指名していたので、隣に座るのは次兄
だ。
なんだよこの面子。

750
﹁お前、馬車に乗るとほんと喋んねーな﹂
グライが呆れたように言った。
ぼくは渋い表情で答える。
﹁⋮⋮余計なことをして酔うのが嫌なんだよ﹂
﹁馬車が苦手というのは本当でしたのね。出立して二日、ずっとこ
んな調子ですもの。これでも揺れはかなり少ない方なのですけれど﹂
﹁お話し相手にもなれずすみませんね。汚い話は避けますが、迷惑
だけはかけませんので﹂
﹁うふふ、お気になさらず﹂
﹁しっかし、お前に苦手なものがあったとはな﹂
﹁それ、二年前にイーファにも言われたよ﹂
苦手なものくらいある。人間だからね。
と、そこで︱︱︱︱ぼくは、外を飛ばしていた式に注意を向けた。
馬車の隊列は、両脇を木々に囲われた道に差しかかっている。
﹁グライ兄﹂
﹁あ?﹂
﹁そういえばグライ兄はこんなところにいていいの? 小隊の隊長
なのに﹂
﹁いいんだよ。もう大体のところはローレンに任せてある。いずれ
にせよ、駐屯地への帰りはおれが指揮できねぇんだ。それに皇女殿
下のご命令とあっちゃ、おれも逆らえねぇからな﹂
﹁うふふ、なんだか不本意そうですわね﹂
﹁そうは言ってねぇ﹂
﹁でも、もしもの時はどうするのさ﹂
﹁もしもの時を来させねぇためにこんな大人数率いてるんだろうが。

751
戦闘じゃねぇ、この護衛は威圧が目的だ﹂
﹁だけどもし来たら?﹂
﹁しつけぇな。その時はここで殿下を守りながら指揮を執るさ。別
にそれくらいわけねぇ﹂
﹁ふうん、じゃあよかった。ところで話は変わるけど、この国の野
盗ってどのくらいの人数が普通なの?﹂
﹁野盗だぁ? そんなもん数人から百人規模までばらばらだが⋮⋮
ただ、ここらで大きな集団は聞かねぇな﹂
﹁へぇ、そうなんだ﹂
ぼくは呟く。
﹁じゃあ、あれはなんだろう?﹂
その時︱︱︱︱馬車の前方で、轟音が響き渡った。
人間の怒号や叫び声、馬のいななきが上がる。
﹁なッ!?﹂
﹁偽装した空の馬車がやられたようですわね﹂
一気に張り詰める空気の中、フィオナが穏やかに言う。
ぼくは軽く笑って、馬車の扉を開け放った。
﹁もしもの時、来ちゃったね﹂
躍り出ると同時に天井の縁を掴み、床板を蹴って跳躍。宙を逆向
きに回るように、馬車の屋根へと着地した。
﹁ふう。久しぶりにこんな軽業やったな﹂

752
おかげで周囲がよく見える。
道の左右に分かれて散開する、粗野な格好をした数十人規模の集
団も。
前方を見ると、皇女の馬車に偽装させていた荷馬車が、巨大な岩
によって潰されていた。
周囲に高い崖はない。土属性魔法の類だ。
﹁外れだぁ! 黄玉 は六へ移動ッ、 鋼玉 は八の馬車に矢だ
! 左後列は屋根の奴を狙え! 二、一⋮⋮﹂
どこからか響く頭目らしき声に、周囲の荒くれ者どもがフィオナ
いしゆみ
の馬車とぼくへ一斉に弩を向ける。どうやら馬車の壁ごと中の人物
を射殺すつもりらしい。
ととの
それにしても、ずいぶんと装備の調った野盗だな。まあいいや。
持ち運びを重視しているのか、弩はかつて西洋で見たものよりも
ずっと小さかった。あれならそこまで威力は出るまい。
これで十分かな。
﹁放てッ!﹂
見事なほど同時に、矢が射かけられる。
その瞬間、ぼくは頭上に浮かべたヒトガタを起点にして、術を発
動した。
じりゅううん
︽陽の相︱︱︱︱磁流雲の術︾
迫る矢の群れ。
それらはすべて︱︱︱︱途中でぐにゃりと軌道を曲げ、馬車やぼ

753
くを避けてあらぬ方向へ飛び去っていく。
ぼくは口の端を吊り上げて笑った。
﹁はは、どこを狙っているのやら﹂
かしら
﹁お⋮⋮お頭ぁッ!?﹂
﹁なっ!? 軟玉 は八へ援護に入れ! 鋼玉 予備隊ッ、屋
根の奴を殺せ!﹂
控えていた数人の弩が、ぼくへと向けられる。
だが同じことだった。矢はすべて逸れ、空や森へと虚しく飛んで
いく。
﹁な⋮⋮なんだこれはっ、魔法なのか!?﹂
﹁ふふ、そうだよ﹂
弩兵の驚愕の声に、ぼくは笑いながら呟く。
陽の気で生み出した強力な磁界に金属が近づくと、その金属は磁
石へと変わり、必ず最初の磁界に対し反発するようになる、そんな
法則がある。
やじり
鏃に金属が使われている限り、︽磁流雲︾の磁界を矢が突破する
ことはできない。
﹁お頭! 六、七も偽装です!﹂
﹁敵小隊の反撃を受け始めています、お頭ぁ!﹂
﹁八だぁッ! 護衛の魔術師がいる! 黄玉 隊、魔法で潰せっ
!﹂

754
こちらへ駆けてくる一団の中に、杖を手にする者の姿があった。

その口が、急いた様子で呪文を詠唱する。
そび
﹁聳え座すは黄! 不動なる石巌の精よ、今こそ降り落ちてその怒
ロツクフォール
り鎚と為せっ、巨岩墜!﹂
魔術師のはるか頭上に現れた巨大な岩が、ぼくへと斜めに降って
くる。最初に馬車を潰したやつだろう。
だがそれは︱︱︱︱こちらに届く寸前に、空中であっけなく消失
した。
﹁なんっ!? け、結界だと!?﹂
﹁魔法相手は楽でいいなぁ﹂
こんな初歩の結界でなんでも無効化できちゃうよ。
敵の頭目が焦ったように目を剥き、一団を見回して叫ぶ。
﹁お前たち、剣を抜けッ! 護衛の魔術師には構うな! 全員でか
かって中の目標を⋮⋮﹂
その時︱︱︱︱馬車の中から、轟風が吹いた。
それは正面にいた野盗の数人をまとめて弾き飛ばし、敵の集団を
一瞬のうちに黙らせる。
﹁弩弓は打ち止めか? ったく、ようやく暴れられるぜ﹂
馬車から出てきたグライが、杖剣をかつぎながら一際大きく声を
張り上げる。

755
﹁お前らぁ!! 聖皇女を助ける絶好の機会だぞ! 詩人にその武
勇を歌われたいやつはいるかぁッ!!﹂
とき
野盗と剣を交えていた兵たちの中から、勇ましい鬨の声が上がっ
た。
敵の気勢は、反対に目に見えて削がれていく。
へぇ。ちゃんと隊長らしいこともできるんだな。
﹁セイカ様﹂
感心していると、下の馬車からフィオナの声が聞こえてきた。
﹁敵を生け捕りにはできますか?﹂
﹁どれほど﹂
﹁多い方が。頭目がいればさらに助かります﹂
﹁かしこまりました﹂
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
辺り一帯の地面から、緑の蔓が噴出した。
それは敵の全員に巻き付くと、木化して締め上げ拘束していく。
野盗一味が植物に捕らえられる光景を、グライは唖然とした表情
で見つめていた。
気勢を上げ、剣戟を交わしていた兵たちも、突然のことに皆呆気
にとられている。
戦いの場だった街道は、今やシーンと静まりかえってしまった。
ぼくは、同じく馬車の中で沈黙しているフィオナへと言う。

756
﹁どうでしょう。とりあえず、全員捕まえましたが﹂
第十話 最強の陰陽師、捕まえる︵後書き︶
※磁流雲の術
レンツの法則を利用した矢避けの術。陽の気で生み出した磁界内に
矢が侵入すると、鏃の金属部に渦電流と呼ばれる特殊な誘導電流が
生じ、鏃自体が磁場を生むようになる。この磁場は、必ず最初の磁
界と反発する形で発生するため、矢は磁界の発生源から逸れるよう
に飛んでいく。これはレンツの法則と呼ばれるもので、現代では鉄
道車両のブレーキシステムなどに利用されている。
757
第十一話 最強の陰陽師、懸念する
﹁えっ! や、やや野盗!?﹂
﹁どうりで、さわがしいと思った﹂
﹁で、あんたが全員捕まえたわけ?﹂
﹁うん﹂
引き返してきたイーファたちに、ぼくは説明の末、そう言ってう
なずいた。
どうやら、彼女らはこの騒動に気づいていなかったらしい。
イーファたちの馬車はかなり前の方を走っていたので、襲撃に気
づいた御者が、即座に馬を駆って逃げ出したそうなのだ。

758
襲撃者たちも、明らかにそこら辺の貸し馬車に乗ったイーファた
ちは、無関係と思って見逃したんだろう。
一連の流れは式神で見ていたものの、まさか気づいてないとは思
わなかったが。
今、ぼくたち一行は馬車を止め、怪我人の治療などを行っている
ところだった。
光属性使いの治癒士が慌ただしく動き回っている。ただ幸いにも、
治せないほどの重傷者はいないようだ。ぼくが出るまでもない。
野盗の方は、縛られた状態で一カ所にまとめられていた。
あれの処遇についても、今フィオナたちが話し合っているところ
だろう。
イーファが野盗一味の方に恐る恐る目を向けながら言う。
﹁あ、危なかったね⋮⋮! こっち来なくてよかったぁ﹂
﹁えー? なによ、来てたらやっつけてやったのに。でしょ、メイ
ベル?﹂
﹁私は、めんどうなのは嫌﹂
﹁君らは暢気だなぁ﹂
こっちは結構緊迫してたのに。
まあ、この子らでも野盗くらいなら蹴散らせるかもな。本来の野
盗なら。
﹁で、でも⋮⋮軍が護衛についてるのに、襲われることってあるん
だね⋮⋮﹂
﹁ん⋮⋮そうだな﹂

759
﹁そいつらのことはどうするのかしら。全員帝都まで引っ張ってく
とか?﹂
﹁歩かせるの? 新学期におくれそう﹂
﹁いや⋮⋮たぶん大丈夫だよ﹂
全員、馬車に詰め込もうと思えば詰め込める。
フィオナの偽装に使っていた馬車は中身が空だし、荷物もかなり
余裕を持って積んでいたからだ。
もっとも、それはそれで別の問題があるが。
﹁セイカ殿﹂
その時、背後から声をかけられる。
振り返ると、初老の男が立っていた。グライの副官、ローレンは、
背筋をピンと伸ばした姿勢でぼくに言う。
﹁フィオナ殿下がお呼びですぞ﹂
****
﹁セイカ様。ご足労いただき感謝しますわ﹂
軍の建てた簡易の天幕の中で、椅子に腰掛けたフィオナがそう言
った。
グライや軍の関係者の姿はない。いるのは侍女の一人だけだ。
ぼくはちらと周りを見回しながら言う。
﹁あの怖い侍女二人はいないようですね﹂

760
﹁あら、やはりわたくしの聖騎士がわかりまして? 今は兵の治療
にあたらせていますわ。姉の方は光属性の使い手ですので﹂
﹁なるほど﹂
そう言って、ぼくは侍女の引いてくれた椅子に腰掛ける。
正面に座るフィオナは、あんなことがあったにもかかわらず憔悴
した様子もなく、ただにこにこと笑っている。
﹁ありがとうございます、セイカ様。助かりましたわ︱︱︱︱わた
くしへの刺客を、捕らえてくださって﹂
﹁ああ、やっぱりそうでしたか﹂
だと思ったよ。
﹁お気づきでしたか?﹂
いしゆみ ととの
﹁誰だって気づきます。弩をそろえるほど調った装備で、軍の小隊
が護衛する馬車を襲うなんて、普通の野盗じゃありえない﹂
﹁うふふふ。一目で見破られてしまうとは、彼らも偽装が甘いです
わね﹂
﹁どうしようもなかった部分もあると思いますけどね﹂
ぼくは続けて問いかける。
﹁彼らを生け捕りにしたのは、政敵への追及が目的ですか?﹂
﹁ええ。もっとも、まずはどなたが差し向けたものか突き止めると
ころから始めなければなりませんが﹂
﹁心当たりはないので?﹂
﹁さあ⋮⋮ありすぎてわかりませんわ﹂
﹁殿下も苦労されていますね﹂
﹁でも大丈夫ですわ。セイカ様が、こんなにたくさん捕まえてくだ

761
さったんですもの。こんなこと普通ではありえません。帝都まで全
員生かして連れ帰れば、きっと誰もが仰天することでしょう。わた
くしの政敵も、これで迂闊なことは考えられなくなりますわ。うふ
ふっ﹂
陶然と微笑むフィオナに、ぼくは少し置いて訊ねる。
﹁やっぱり、あれを全員帝都まで連れて行くつもりですか?﹂
﹁ええ、もちろんですわ。大切に、大切に連れ帰ります。セイカ様
からの贈り物ですもの。うふふふ﹂
﹁⋮⋮殿下は、この場面が視えていたのでしょうね。だからここま
で余分に馬車を用意させた﹂
﹁歩かせたのでは死んでしまう者が出るかもしれませんし、何より
到着が遅れてしまいますわ。学園の新学期に間に合わなければ、ア
ミュさんたちにも迷惑がかかってしまいます﹂
﹁お気遣いはありがたいのですが⋮⋮全員を連行するのはやめた方
がいいと思いますよ。頭目と数人を除き、ここに縛ったまま捨て置
いて行くべきです﹂
﹁あら。どうして?﹂
﹁万一拘束が解かれ、反乱を起こされたらどうします。こちらの方
が多勢ではありますが、覆せないほどの差じゃない。下手すれば全
滅もありえるでしょう。手足の腱を切っておく手もありますが⋮⋮﹂
﹁うふふ、そんなことをする必要はありませんわ。彼らは大人しい
はずです⋮⋮自分たちが動くよりも、逃げる機会を待つ方が確実な
のですから﹂
﹁逃げる機会⋮⋮?﹂
﹁次の襲撃、とも言いますわね﹂
ぼくは、思わず眉をひそめる。

762
﹁別働隊がいるということですか⋮⋮? それなら、ますます危険
では? 次の襲撃がありうる中で、内にも脅威を抱えるというのは
⋮⋮﹂
﹁いいえ⋮⋮次の襲撃は、ありませんわ。もう一方の傭兵団は来ま
せん﹂
﹁なぜ断言できるのです。未来視は、そこまで便利な力ではないは
ずだ。未来は変わりうるのだから﹂
﹁いいえ、セイカ様。運命には、蝶の羽ばたき程度では覆せない、
暴風のごとき流れがあります。これは︱︱︱︱彼らの定め﹂
フィオナは、遠くを見つめるようにして言った。
﹁その未来は、来ないのです﹂
幕間 ハウザール傭兵団長、森にて
それは、襲撃から数日を遡る日の出来事。
ハウザール傭兵団の団長、ハウザールには夢があった。
野盗まがいの行いに手を染めるしかなかったあの頃から、五年。
同じような冒険者崩れだった仲間を集めて傭兵団を名乗り、野盗
の一団を退治したり、モンスターから村を守ったりを繰り返しては、
コツコツと装備を調え、仲間を集めてきた。
そして少しずつ名が知れてきた今、突然に大きな仕事が舞い込ん
だ。
大元を辿られぬよう幾人もの仲介者を挟んでもたらされた依頼、

763
それは︱︱︱︱聖皇女の暗殺。
ためらいがなかったわけではない。これでも、できるだけ人を助
けるような仕事を取ろうと心がけてきた。
しかし今回は、その報酬額に心動かされた。
前金だけでも、かなり上等な装備をそろえられた。もう一つ、別
の傭兵団にも依頼がなされているらしいが、そちらに先んじること
ができれば報酬の満額が手に入る。その暁には、実力のある冒険者
や騎士だって引き入れられるだろう。
そして傭兵団としての力量が上がれば、高い身分の依頼主から来
る割の良い仕事だって受けられるようになる。
そうやって実績を積んでいけば︱︱︱︱いずれは、これから発展
けいら
しそうな街へ交渉し、衛兵兼警邏隊である騎士団として正式に雇っ
てもらうことだって、可能になるはずだ。
そうなれば、もう流浪の生活を送る必要はない。
怪しい流れ者の集団ではなく、街の一員として、仲間たちと共に
残りの人生を穏やかに送ることができる。
いつまでかかるか知れない、それどころか叶うかも怪しかったハ
ウザールの夢が、現実味を帯びて手の届きそうなところまで来てい
た。
つい、先ほどまでは。
つい
今︱︱︱︱その夢は、潰えた。
帝都へ延びる街道からほど近い森の中で、ハウザールは背を濡ら
す冷たい汗を感じながら、終わりの光景を眺めていた。
ぜい
﹁むぅ、人の戦士は脆なるものよ。喰うにはいいが、力比べには退

764
屈すぎる﹂
血に塗れた棍棒を手につまらなそうに呟くのは、人間をはるかに
オーガ
超える体躯を持つ、赤銅色の肌の鬼人。
その前に倒れているのは、かつてハウザールの仲間だった者たち
だ。
頭を潰されている者、胴が真横にへし折れている者、あるいは、
胸が足形に陥没している者⋮⋮。
かつての仲間は、今や人の膂力では為し得ないような死体となっ
て、地面に転がっている。
ありえない死体は、他にもあった。
仲間の数人は、今や石像と化して森に佇んでいた。比喩ではない。
皮膚も髪も眼球すらも灰色に硬化し、衣服や武器だけが、冗談のよ
うに元の色彩を保っている。
﹁お魚さん、なに食べてるの⋮⋮ムニャ⋮⋮それ、お星さまだよ⋮
⋮スゥ﹂
その向こうでは、小柄な女が体を丸めるようにして、闇属性魔法
で浮遊していた。
森にそぐわないひらひらした服装に、長く揺らめく朽葉色の髪。
口からこぼれる言葉は支離滅裂で、一切の意味がない。その両目は
閉じられ、眠っているようにも見える。
だが、その額に開いた第三の眼︱︱︱︱仲間を石に変えた赤い邪
眼だけは、ギョロギョロと蠢いて周囲を見回している。
トライア
邪眼の民である三眼としても、それは異様な風貌と力だった。
まだ、息のある者もいる。

765
しかし、彼らが助からないことははっきりしていた。
呻き声を上げる仲間の体を、二頭のシャドーウルフが引っ張って
遊んでいる。
鋭い牙を持ち、影に潜む能力を持つ剣呑なモンスター。その群れ
の中心に座り込んで笑っているのは、焦げ茶色の毛並みに長い耳を
持つ、小さな獣人族の少年だ。
﹁あははっ、ディーもテスも元気だなぁ! ⋮⋮ん、それくれるの
? ありがとう! 君は良い子だね﹂
傍らのミノタウロスに人間の死体を差し出され、兎人の少年が嬉
しそうにお礼を言う。
テイマー
そのミノタウロスは、仲間の調教師が手なずけていたモンスター
だった。
今差し出しているのは、自らがくびり殺したかつての主人だ。
テイマー
ミノタウロスの突然の裏切りに、仲間の調教師は驚いた表情のま
ま死んでいた。
他人のモンスターすらも瞬く間にテイムし、従えてしまう︱︱︱
テイマー
︱兎人の少年のそれは、もはや技とも呼べない、調教師としての天
賦の才だった。
右方に目を向けると、仲間が火を噴いていた。
口や鼻、眼球の焼け落ちた眼窩から、橙色の炎が噴き出している。
仲間はしばらく生きてよろよろと歩いていたが、やがて胴からも
腹を破るようにして火の手が上がると、膝から崩れ落ちるように倒
れた。
その近くで忌々しげに舌打ちをするのは、黒い悪魔の男。
﹁チッ、もう死んじまった。とんだ計算違いだ⋮⋮炎が強すぎた。
転移させた位置もよくねぇ⋮⋮クソッ、まだまだ精度が甘すぎる!

766
こんなんじゃ、いつまで経っても兄上になんておよばねぇ⋮⋮!﹂
黒い毛並みに、山羊のごとき巻き角を持った悪魔族の男が、表情
を歪ませて吐き捨てる。
魔法の火を転移させ、対象を内部から焼く。
逸脱した技量で仲間を次々に焼死体へと変えた悪魔は、ただひた
すらに自らの未熟さを憤っている。
﹁どうして⋮⋮﹂
ハウザールは虚ろに呟く。
﹁どうして、魔族が⋮⋮こんな場所にいるんだ⋮⋮それも、こんな
⋮⋮異常な連中が⋮⋮﹂
﹁貴様が頭目か﹂
正面に立つ一人の魔族が、ハウザールへと問いかけた。
そして、ああ、この男だ。
黒い髪に黒い目。姿形は人間に似通っているものの、死人のごと
く白い肌には、入れ墨のような黒い線が走っている。
﹁神魔が⋮⋮なぜ、ここに⋮⋮﹂
﹁答えろ。この森に兵を伏せていたのは、どのような目的があって
のことだ﹂
奈落のような瞳に射すくめられる。
ハウザールにはもはや、正直に答える以外の道がない。

767
﹁聖皇女の、暗殺だ⋮⋮この先で待ち構える、はずだった⋮⋮﹂
﹁ふむ⋮⋮人間の政争か。ならば、我々とは無関係だったか﹂
﹁心配して損したねー、隊長﹂
﹁仕方ないっスよ。こんなとこに謎に兵がいたら誰だって警戒しま
すって﹂
﹁ムニャ⋮⋮紛らわしい⋮⋮﹂
トライア
兎人に悪魔、三眼が口々に話す。
﹁ガハハハ! 予期せず補給ができたのだ、かえって良かろう!
しかしな、ゾルムネムよ﹂
オーガ
豪快に笑っていた鬼人が、一転してとがめるように言う。
﹁その人間の男も、戦士であるのだぞ。それも頭目だ。あまりにも
不用意に近づきすぎではないか?﹂
﹁えー? 隊長が人間なんかに負けないよ。なんか怖じ気づいてる
みたいだし、どうせ雑魚なんじゃない?﹂
﹁いや⋮⋮この者は、弱くはない﹂
まなこ
ゾルムネムと呼ばれた神魔族の男が、その暗闇のような眼でハウ
・・
ザールを視る。
そして仲間にも聞こえないほどの小さな声で、独り言のように呟
く。
レベル
﹁︻Lv︼の割りに能力値が高い。特に︻HP︼︻耐久︼が優れて
いる。何より、金運と扇動の︻スキル︼が珍しい。傭兵団の頭目と
しては非常に有用なものだ⋮⋮貴様の﹃ステータス﹄は、決して悪
くない﹂
﹁は⋮⋮はは⋮⋮﹂

768
ハウザールには、この神魔族の男が何を言っているのか、まった
くわからなかった。
ただ言葉尻だけで称賛されたことを感じ取り、引きつった笑いを
浮かべる。
﹁あ、ありが⋮⋮﹂
その首が飛んだ。
地面に転がったハウザールの視界には、自分の首から下の体が、
一瞬で炎に巻かれる光景が映っていた。
剣線すら見えないほどの剣技に、完全無詠唱の魔法。
血と共に意識が流れ出ていく中、ハウザールが最期に聞いたのは、
宝剣を提げたゾルムネムの冷たい呟きだった。
﹁︱︱︱︱だが、私とは比ぶべくもない﹂
769
幕間 神魔ゾルムネム、森にて
帝国の街道からほど近い森で、ゾルムネムは思量にふけっていた。
むくろ
つい先ほど滅ぼした傭兵団の骸は、ロ・ニの使うモンスターと、
ムデレヴの食糧となっている。
﹁うむ、やはり人はいい。この肉を喰らっている時だけは、この旅
も悪くないと思えてくるほどよ。ガハハハ!﹂
オーガ
腿の骨を投げ捨てながら、鬼人の重戦士、ムデレヴが豪快に笑う。
オーガ
鬼人族有数の武人であっても、さすがにこの旅は堪えたのだろう
か。なんとなく、そのようなことを考える。

770
・・
ゾルムネムは、ムデレヴを視る。
︻名前︼ムデレヴ ︻Lv︼81
オーガ
︻種族︼鬼人 ︻職種︼重戦士
︻HP︼18423/18423
︻MP︼4906/4906
︻筋力︼1510 ︻耐久︼1301 ︻敏捷︼588 ︻魔力︼
451
︻スキル︼
棍術Lv7 体術Lv6 全属性耐性Lv5 状態異常耐性Lv3
HP強化Lv5 筋力強化Lv7 耐久強化Lv6
﹁ねー、隊長。この子連れてってもいい?﹂
テイマー
兎人の調教師、ロ・ニが、先ほどテイムしたミノタウロスの陰か
ら顔を出して訊ねた。
ゾルムネムは首を振って答える。
﹁駄目だ、目立ちすぎる。戦力としてもお前のモンスターには及ば
ない。無駄な荷物だ﹂
﹁⋮⋮はぁい。じゃあ︱︱︱︱ミーデ! 食べていいよ﹂
ロ・ニの呼びかけに、一呼吸置いて。
突如地中から巨大な亜竜、ワームが姿を現し、その長い体を反転
させてミノタウロスを真上から一呑みにした。
ワームがミノタウロスを嚥下する様子を、ロ・ニは目を細めて眺
めている。

771
﹁おいしい?﹂
ミーデという名のこのワームも、ロ・ニの使うモンスターの一匹
だ。兎人の少年は、自らのモンスターすべてに名前を付けていた。
・・
ゾルムネムは、ロ・ニを視る。
︻名前︼ロ・ニ ︻Lv︼38
テイマー
︻種族︼獣人 ︻職種︼調教師
︻HP︼2970/2970
︻MP︼2158/2158
︻筋力︼253 ︻耐久︼198 ︻敏捷︼922 ︻魔力︼360
︻スキル︼
獣使いLv MAX
﹁ムニャ⋮⋮おなかいっぱい⋮⋮﹂
トライア
その近くでは、三眼族の邪眼使い、ピリスラリアがまどろみの中
浮遊していた。
彼女がはっきりと目を覚ますのは、食事時など限られた時だけだ。
先ほども、傭兵団の残した食糧を少し食べた後、またすぐに眠っ
てしまった。
トライア
当たり前だが、三眼の民すべてが彼女のような生活を送るわけで
はない。
ピリスラリアのこの特性は、種族にあっても強すぎる邪眼の力に
因るものではないかと、ゾルムネムは考えていた。

772
・・
ゾルムネムは、ピリスラリアを視る。
︻名前︼ピリスラリア ︻Lv︼46
トライア
︻種族︼三眼 ︻職種︼呪術師
︻HP︼5236/5236
︻MP︼25486/27644
︻筋力︼150 ︻耐久︼181 ︻敏捷︼247 ︻魔力︼17
23
︻スキル︼
闇属性魔法Lv4 邪眼Lv MAX 邪眼強化Lv7
﹁あの﹂
声に顔を上げると、黒い悪魔族の若者ガル・ガニスが、食糧を手
に立っていた。
﹁ゾルさんも、なんか食ってください。さっきからずっとそうして
るじゃないっスか﹂
﹁すまない。だが、私はまだ大丈夫だ。先の戦闘でも、皆のおかげ
で負担が少なかった﹂
﹁⋮⋮そうっスか。でも無理だけはしないでくださいよ﹂
気遣うようにそう言って、ガル・ガニスは干し肉を食いちぎる。
気持ちの良い若者だ。ゾルムネムはそう思う。
ガル・ガニスは悪魔族の 黒 の一族の中で、今や次の族長にと
期待されるほどの人物だ。お前の兄は勇者に討たれたのだ⋮⋮など
と言って復讐をそそのかし、旅の仲間に引き込んだことは間違いだ
ったかもしれないと、時折考えてしまう。

773
・・
ゾルムネムは、ガル・ガニスを視る。
︻名前︼ガル・ガニス ︻Lv︼66
︻種族︼悪魔 ︻職種︼魔術師
︻HP︼10011/10011
︻MP︼21060/22948
︻筋力︼700 ︻耐久︼589 ︻敏捷︼692 ︻魔力︼12
13
︻スキル︼
火属性魔法Lv9 土属性魔法Lv2 闇属性魔法Lv9 魔力強
化Lv3
皆、強くなった。
ゾルムネムはそう思う。
レベル
それは、︻Lv︼や能力値に限った話ではない。この︻スキル︼
でも見通すことのない要素は確かに存在し、それこそが何よりも大
切なのだと⋮⋮ゾルムネムは、旅を通して感じていた。
・・
最後に、ゾルムネムは自分を視る。
︻名前︼ゾルムネム ︻Lv︼88
︻種族︼神魔 ︻職種︼魔法剣士
︻HP︼14307/14307
︻MP︼33211/33473
︻筋力︼1550 ︻耐久︼1035 ︻敏捷︼1411 ︻魔力︼
1593
︻スキル︼
剣術Lv9 体術Lv7 火属性魔法Lv5 水属性魔法Lv8

774
風属性魔法Lv6 土属性魔法Lv2 光属性魔法Lv9 闇属性
魔法Lv6 全属性耐性Lv4 ステータス鑑定Lv4
ゾルムネムは思量する。
自分以外に持つ者のいないこのステータス鑑定という︻スキル︼
は⋮⋮いや、そもそも﹃ステータス﹄とは、いったい何なのだろう
か。
本人すらも知り得ない事実が、なぜ自分の目には視えるのだろう
か。
この情報は、果たして誰の手によって整えられたものなのか︱︱
︱︱。
ゾルムネムは静かに目を閉じ、疑問を追い払った。
幼い頃にさんざん思い悩み、未だ仲間にすら話していないこの力
のことも、今となってはどうでもいい。
﹁皆、補給はこれで最後となる﹂
パーティーメンバーは各々の手を止め、リーダーへと目を向けた。
﹁目的の地は近い。そして、この旅の終焉も﹂
静かに耳を傾けるパーティーメンバーに、ゾルムネムは続ける。
﹁厳しい旅だった。これまで帝国に追われることなく、誰一人欠け
ることなく、ここまで辿り着けたのは幸運だったと言えよう。我々
はこの先目的の地で、旅の目的を果たさなければならない。無論、
勝算はある。だが絶対ではない。これまで以上の困難が待ち受けて
いることは、皆も覚悟していよう﹂

775
メンバーの間に、重い沈黙が降りる。
決して、楽な旅ではなかった。
ゾルムネムは知っていた。
ムデレヴが、故郷に残してきた妻子をずっと案じていたことを。
人間を手にかけた際、親子の骸からだけは、そっと目を逸らしてい
たことを。
残酷に見えるロ・ニが、その実自らのモンスターをとても大事に
していたことを。シャドーウルフの一頭が死んだ際、たった一人で
墓穴を掘って埋葬し、長い間その場に佇んでいたことを。
邪眼の負荷のためか、ピリスラリアの目覚めていられる時間がど
んどん短くなっていたことを。そのことを皆に気遣わせないよう、
彼女がなんでもないように振る舞っていたことを。
ガル・ガニスが、本当は兄の復讐など望んでいなかったことを。
亡き兄の代わりに、 黒 の同胞達の期待に応えたがっていたこと
を。それでも魔族の未来のため、ゾルムネムの話に乗ったふりをし
てくれていたことを。
この先に待つのは、さらなる困難だ。
だが︱︱︱︱ゾルムネムは言う。
﹁しかし⋮⋮しかしだ。私はあえて、この旅をより困難なものとし
たい。目的のさらに先に、新たな目標を定めたい。皆でならば、き
っと為し得ると信じているからだ﹂
それはいつか言おうと、決めていたことだった。
﹁魔族の未来のために、勇者を倒す。そして︱︱︱︱﹂

776
勇者は生まれた。
だが、魔王は未だ生まれていない。
この非対称性は、必ず戦乱の世を招く。
無論それは、魔族側が劣勢に立たされる形でだ。
だから、勇者を倒さねばならない。
自分の持つステータス鑑定の︻スキル︼ならば、おそらく勇者を
視ればそれとわかるだろう。影武者に惑わされない自分が、各々の
種族から腕の立つ仲間を集め、発つしかないと思った。
勇者打倒は魔族の悲願だ。
だが︱︱︱︱それだけでは、あまりに寂しい。
だから、ゾルムネムは続ける。
﹁そして皆で⋮⋮故郷へ帰ろう﹂
それがどれだけの困難が伴うことなのか、ゾルムネムは理解して
いた。
勇者が討たれたことが知れれば、無論、ゾルムネムらは追われる
立場となる。
少数精鋭であるこのパーティーも、早馬の速度には敵わない。補
給のために立ち寄った村で軍に待ち構えられたり、休息の場所を包
囲されでもすれば、簡単に窮地に陥ることは明白だった。
皆も、当然それは理解している。
この旅は、初めから死地へと向かうものだった。
﹁ガハハハッ! 何を言い出すかと思えば! 帰らずにどうするの

777
だ、この地で暮らすというのか?﹂
ムデレヴの豪快な笑い声に、メンバーの全員が続く。
﹁んぅ⋮⋮お布団で、ゆっくり寝たい⋮⋮スゥ﹂
﹁僕、作物の種を持って帰るんだ。村のみんなにもこれ食べさせて
あげたいから﹂
﹁オレは自分の武勇を語りたいっスね。ちゃんと、兄上の仇を取っ
たんだって﹂
朗らかに言い合う仲間たちに、ゾルムネムは思う。
厳しい旅だった。だが決して︱︱︱︱悪いものでは、なかった。
重戦士のムデレヴ。
呪術師のピリスラリア。
テイマー
調教師のロ・ニ。
魔術師のガル・ガニス。
そして、魔法剣士のゾルムネム。
この素晴らしいパーティーで過ごした日々は、充実したものだっ
た。
そう、これは。
勇者という強大な敵に仲間と立ち向かう、冒険の旅でもあったの
だ。
﹁必ず、皆で正義を果たそう﹂
ゾルムネムは、仲間へと呼びかける。
﹁魔族と、我々自身の未来のために﹂

778
第十二話 最強の陰陽師、引き受ける
数日間の旅程を終え、フィオナの一行は無事、帝都にまでたどり
着いた。
﹁皆さん。短い間でしたが、とても楽しかったですわ﹂
帝都の巨大な城門前で、笑顔のフィオナがぼくらへと言う。
昼間に外からの馬車が入城できない決まりは皇女であっても守ら
なければならないようで、ぼくらは全員、長く乗ってきた馬車を城
門の手前で降りていた。
これからフィオナは中で別の馬車に乗り換え、宮廷を抱える帝城

779
へと向かう手はずとなっている。街の宿で一泊し、明日の朝ロドネ
アへと発つぼくらとはここでお別れだ。
ぼくは、手を縛られ連行される刺客たちを見やりながら言う。
﹁⋮⋮本当に、襲撃はありませんでしたね﹂
﹁うふふ。言ったとおりだったでしょう?﹂
にこにこと言うフィオナに、ぼくはうなずく。
襲撃の気配もなく、刺客たちも大人しく、道中は平和なものだっ
た。
ぼくは、彼らのせいでやや混雑している城門の方へと目をやる。
﹁しかしながら、人数が多いだけあって入城には手間取っているみ
たいですね。帝都は警備も厳重なようで﹂
﹁普段はここまでではないのですが⋮⋮今は少々、宮廷がピリピリ
していまして﹂
﹁宮廷が? なぜこのような何もない時期に﹂
﹁さあ⋮⋮なぜでしょう? わたくしにはわかりませんわ﹂
意味ありげな微笑を浮かべた後、フィオナはやや名残惜しそうに
言う。
﹁本当は皆さんを宮廷にお招きできればよかったのですが、そのよ
うな都合で少し難しくて⋮⋮見たかったですか? 帝城﹂
﹁見たかったわね。帝城の中に入れたなんて、きっと一生の自慢に
なったわ﹂
﹁もう、アミュちゃん⋮⋮えへへ、大丈夫ですよ。殿下も、これか
らいろいろお忙しいでしょうし﹂

780
﹁高級宿とってもらえたから、いい﹂
女性陣がわいわいと話す。
彼女らは、実はランプローグ領滞在中にはもうかなり仲良くなっ
ていた。女というのは社交性高いな。
﹁うふふふ。わたくしは、こうして年の近い人と話すことがこれま
であまりなくて⋮⋮楽しかったですわ。本当です。きっと、また⋮
⋮﹂
そこでフィオナは、わずかに痛みをこらえるような微笑を、アミ
ュへと向けた。
﹁お招きする機会も、あることでしょう﹂
﹁︱︱︱︱おーいっ、殿下。こっちは済んだぞ﹂
声に顔を向けると、グライが馬を引いてきたところだった。
副官のローレンに引き継ぎを終え、自らの部下たちに別れを告げ
てきたのだろうか。
この次兄とも、ここでお別れだ。果たして次に会うのはいつにな
ることか。
﹁ふん。じゃあな、セイカ﹂
吐き捨てるように言うグライへ、ぼくは適当に答える。
﹁元気でね、グライ兄。せいぜいがんばって強くなるといいよ﹂
﹁けっ、偉そうに言いやがって⋮⋮おいガキんちょ!﹂
﹁⋮⋮なによ。そのガキんちょっていうのやめなさいよ﹂

781
﹁鍛錬を怠るなよ。実戦剣に頼り切らず型を意識しろ。お前には才
能があるんだからな﹂
﹁な⋮⋮い、言われなくてもやるわよ!﹂
ムキになって言い返すアミュに、ぼくは思う。
あんな出会いだった割りに、この二人も仲良くなったなぁ⋮⋮い
やなってないか? よくわからない。
﹁さて⋮⋮そろそろ行かねばなりません﹂
フィオナが、城門を振り仰いで言った。
ぼくは笑ってそれに答える。
﹁どうかお元気で。ここまでお供できて光栄でしたよ﹂
﹁まあ、お供だなんて⋮⋮わたくしは、友人になれたと思っていた
のですけれど﹂
﹁じゃあそれでいいです﹂
﹁⋮⋮ランプローグ家の子息は兄弟そろってわたくしの扱いが雑で
すわね。落とし子のようなものとはいえ、わたくしはこれでも現皇
帝の実子である皇女なのですが﹂
﹁すみません。長兄だけはまともなので﹂
﹁うふふっ﹂
フィオナは少し笑って︱︱︱︱それから、静かにぼくへと歩み寄
った。
﹁セイカ様﹂
そして微笑のまま、真剣な声音で言う。

782
﹁わたくしは︱︱︱︱あなたの味方です。本当に⋮⋮本当です。そ
れだけは忘れないで﹂
﹁⋮⋮? は、はい﹂
﹁うふふふ⋮⋮それでは﹂
背を向けたフィオナが、侍女やグライたちと共に城門へと去って
行く。
言い残した言葉の意味を考えるが、よくわからない。
味方が必要なのは、どちらかというとフィオナの方じゃないか?
うーん、最後まで不思議な人だったな。
﹁あ、メイベルちゃん⋮⋮お兄さんのお墓、寄る?﹂
﹁あしたの朝、行こうと思ってた﹂
﹁じゃあ、お花用意しようね﹂
﹁運がよければ市場で買えるんじゃないかしら。ほらセイカ、行く
わよ﹂
﹁あ、ああ﹂
ぼくは短く答え、彼女らに続く。
****
街の上等な宿で一泊し、翌朝には予定通りに帝都を出立した。
東へ延びる街道を馬車で揺られながら、二日。
ぼくたちは、およそ一月ぶりに学園都市ロドネアへと帰ってきた。
もうすっかり、学園寮が帰ってくる場所という感覚になっている
ことに自分で驚く。まだたったの二年しか暮らしてないけど、いろ

783
いろあったからなぁ。
春休みは残すところあと数日。
今年の入学式も目前に迫ってきている。
学園が少々慌ただしくなっている中、メイベルに勉強を教えたり、
街へ買い物に出たりしながら過ごしていたある日︱︱︱︱ぼくは、
唐突に学園長に呼び出された。
﹁そう身構えなくていいさ。大した用事じゃあない﹂
ドワーフ
学園本棟最上階の学園長室で、矮人の老婆がそう言った。
とはいえ。
学園長はアミュの正体と、ぼくの力の一端を知る人物だ。身構え
ない理由がない。
表情を崩さないぼくに、学園長はやや呆れつつ口火を切る。
﹁総代をやってみないかい﹂
﹁⋮⋮? 総代、ですか?﹂
﹁毎年入学式で挨拶をする在校生がいただろう。あれだよ。初等部
の総代だ﹂
﹁どうしてぼくに﹂
﹁間抜けな質問だねぇ。単に成績がいいからに決まっているじゃな
いか﹂
﹁⋮⋮用事って、それだけですか?﹂
﹁何を期待していたのか知らないが、それだけだよ。お前さんは学
生なんだ。アタシが学生に用なんて、総代を選ぶ時か、除籍を言い
渡す時くらいなものさ。普段はね﹂

784
﹁そう、ですか⋮⋮﹂
﹁別に辞退しても構わないよ。その時はお前さんの従者か、他の生
徒にでも頼むとするかね。誰でもいいのさ、総代なんてものは﹂
どうでもよさそうに、学園長は言う。
実際、勇者や魔族や、帝国の未来などという事柄に比べれば、ま
ったく大したことじゃない。なんだか拍子抜けだった。
ぼくは少し置いて答える。
﹁お引き受けしますよ﹂
﹁ほう。意外だね、てっきり断るかと思ったが⋮⋮。おや? くっ
く。なんだか一年前にも似たような台詞を吐いた気がするねぇ﹂
﹁ぼくでよければ、それくらいはしますよ。たぶん、名誉なことな
のでしょうし﹂
﹁くっく。ああ、そうとも﹂
くつくつと笑いながら、学園長が言う。
﹁普通の学生にとっては、名誉なことさ。経歴に箔が付き、官吏へ
とんちゃく
の登用にも有利になる。お前さんがそのようなものに頓着するとは
思わないが⋮⋮黙って受けておけばいい。それが、普通の学生とい
うものさ﹂
﹁ええ﹂
ぼくは目を伏せて答える。
﹁そうなのでしょうね﹂

785
****
﹁セイカさま、よろしかったのですか? 総代など引き受けてしま
って﹂
学園本棟から出た時、ユキがそう問いかけてきた。
日はまだ高い時分だが、灰色の雲が空を覆っていて、少し暗い。
﹁ああ。いいんだよ﹂
﹁なにゆえ? また目立つことになってしまいますが﹂
不思議そうなユキに、ぼくは軽く笑って答える。
﹁こんなものは目立つうちに入らないよ。帝都の武術大会と一緒さ。
権力者に目を付けられるような常ならざる強者は、学園の総代なん
て普通の経歴は持たない。もっと数奇な半生をたどるものだ。そう、
まじな
たとえば⋮⋮孤児から呪いの力を見込まれて拾われ、兄弟子や師匠
を殺して成り上がった挙げ句に失踪し、国外で放浪生活を送った後
に、国へ帰って弟子を育てるようになる、みたいなね﹂
黙り込むユキに、ぼくは続ける。
﹁それに、最近は⋮⋮もっと、普通にしていればよかったんじゃな
いかと思うんだ﹂
﹁普通に、でございますか⋮⋮?﹂
﹁常ならざる力を振るう機会なんて、普通に生きていればそう訪れ
るものじゃない。ぼくは⋮⋮前世であんな死に方をしたせいで、少
し臆病になっていたみたいだ。自分の代わりに最強になってくれる
者なんて、わざわざ探す必要はなかったんじゃないかと思うよ。勇

786
者や魔王なんて事情に、無闇に関わることはなかった。学園に来な
くても、流れの術士でもやりながら、穏やかに暮らす道もあったか
もしれない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁別に、あの子らに出会えたことを後悔しているわけじゃないよ。
学園はいい場所だ。いずれ始まる冒険者の生活にも興味がある。今
さら方針を変えるつもりはない。ただ⋮⋮これからは、もっと普通
にしていようと思うんだ。目立つことに神経質になるのではなく、
もっと普通の人間のようにね﹂
﹁⋮⋮ならば、セイカさまは﹂
ユキが、静かに問う。
﹁今迫る敵に対しても、立ち向かうのではなく⋮⋮普通の人間のよ
うに、逃げるおつもりなのですか﹂
﹁ああ、なんだ。お前も気づいていたか﹂
ぼくは穏やかに言う。
今はまだ街の外にいるようだが、襲撃の時は、おそらく近い。
﹁あれはなんとかするよ。入学式で挨拶することになったしね。入
学式自体がなくなっては、それを果たせなくなってしまう﹂
﹁⋮⋮セイカさまは、気づいておられないのですか。ご自分のおっ
しゃっている矛盾に⋮⋮普通の人間は、そのようなことはできない
のですよ﹂
険しい声音のユキに、ぼくは苦笑しながら答える。
﹁仕方ないだろう、もう関わってしまったんだ。今さら無視もでき
ない。それに︱︱︱︱ぼくには容易いことだ。なに、誰の仕業かわ

787
からなければ問題ないさ﹂
﹁セイカさま⋮⋮﹂
﹁ユキ、ぼくから離れるなよ。これから少々、慌ただしくなる﹂
ぼくは、一枚のヒトガタを浮かべる。
これが、総代としての最初の仕事ということになるだろうか。
︽召命︱︱︱︱⋮⋮⋮⋮
幕間 神魔ゾルムネム、ロドネアにて
空に夕闇が落ちる、わずかに手前の時分。
ゾルムネムは、目前にそびえるロドネアの城壁を見上げた。
ここは、ただの一都市に過ぎない。
魔法を学ぶ人間が少し多くいるだけで、強大なモンスターを狩る
冒険者や、帝国軍の精鋭が常駐しているわけでもない。
勇者も、まだ子供であるはずだ。
強者を集めたこのパーティーの脅威になる者はいない。
だからこの恐怖は︱︱︱︱おそらく、重圧によるものだろう。
いよいよ旅の目的を果たす時が来たのだ。

788
自分にもこのような感情があったことを、ゾルムネムは長らく忘
れていた。
手はずは、すでに全員が把握している。
学園の四方から生徒を追い込み、中央の本棟付近で合流した後、
そのまま更なる殺戮を行う。勇者らしき者を見つけた場合、その時
点で各人が専用の魔道具で合図を送る。見つけられなくとも、騒動
が起これば武勇に優れる者をおびき出せるだろう。
あまりに不確かな作戦ではあるが、仕方がない。勇者はわかりや
すく玉座に座してくれているわけではないのだ、かつての魔王と違
って。
すべ
諜報の術があればと、ゾルムネムは思う。
情報が重要なのは理解していたが、必要な人員を確保できなかっ
た。
ただロドネアと学園の地図だけは、出入りしている商人を何人か
捕まえて描かせ、照らし合わせることで信頼できるものを作った。
これを元に、ガル・ガニスの転移魔法で、各々を予定の場所へと送
り込む。
商人の荷や、彼ら自身が予定にない補給となったことは僥倖と言
えるだろう。
後は、成否を天運に委ねるだけだ。
﹁僕、なんだかうまくいくような気がしてきたよ﹂
緊張による沈黙を、ロ・ニが破った。

789
﹁ディーたちやミーデもやる気満々だし、それに⋮⋮僕たちなら、
誰にも負けないよ﹂
﹁うむ、よい心持ちであるな﹂
ムデレヴが兎人の言葉に続く。
﹁心をこそ堅に保つ。大事を為すには必要なことよ。心が脆なれば、
武に限らず何事もうまくいかぬでなぁ﹂
﹁ムニャ⋮⋮それ、六回は聞いた⋮⋮﹂
﹁もうみんなわかってるッスよ﹂
ゾルムネムは、口元に小さく笑みを浮かべた。
きっと、成し遂げられるだろう。このパーティーならば︱︱︱︱。
﹁行こう﹂
神魔の男が、仲間たちに告げる。
それから数瞬後。
魔族たちの姿は、魔法陣の残光と共にかき消えた。
****
魔法学園の西端へと転移したガル・ガニスは、二つのことを覚っ
た。
一つは、自分を含めた全員の転移が成功したこと。
そしてもう一つは、この予定外の霧だ。

790
城壁の外からはまったくその気配がなかったにもかかわらず︱︱
︱︱魔法学園は、濃い霧に覆われていた。
まれ
気象に明るくないガル・ガニスでも、夕暮れ時の霧が、極めて希
な現象であることは理解していた。それも城壁の中だけという狭い
範囲で、このような濃霧など聞いたこともない。
道に迷いそうなほどだ。
だがこの程度の問題で、今さら計画は変えられない。
﹁チッ⋮⋮﹂
ガル・ガニスが、空中に無数の炎を生み出した。
その周りだけ、わずかに霧が薄くなる。
気温が上がれば霧は晴れる。だがさすがに、魔法で生み出す程度
の炎では焼け石に水だった。この辺りは建物もまばらで、火を付け
たところで延焼が狙えない。炎は、せいぜいが光源程度にしかなら
なかった。
しかしそれでも、ないよりはマシだ。少なくとも周囲の様子はわ
かるようになる。
驚いたことに、付近には人間の気配があった。
道を歩く者。立ち止まって談笑を交わす者。
ここの生徒だろうか。この霧に動じている様子もない。ひょっと
すると、彼らにとってはありふれた現象なのか。
ガル・ガニスは舌打ちをする。
﹁チッ、平和ボケしてやがる⋮⋮悪く思うなよ﹂

791
無茶な言い草だと、自分でも思った。
悪く思わないわけがない。何の咎もなく突然に殺される運命を、
誰が呪わずにいられるだろう。
今さら過ぎる感傷だ。
兄が果たせなかった使命を継ぎ、勇者を倒して魔族の未来を救う
と決めた時、すでに恨まれる覚悟はできていた。
それに、この場所は︱︱︱︱敬愛する兄の斃れた地なのだ。
自分にも復讐の道理がある。
ガル・ガニスは、談笑する一人の女子生徒を狙い、炎の一つを転
移させた。
それは肺と心臓を灼き、口から火の粉を散らしながら、わずかな
時間でその命を奪う︱︱︱︱はずだった。
だが。
﹁あぁ⋮⋮? なんだ、これは﹂
****
ロ・ニとピリスラリアが転移したのは、魔法学園の南端だった。
﹁うまくいったみたいだね。でも⋮⋮すごい霧だな﹂
﹁ムニャ⋮⋮﹂
兎人の少年が、続けて明るく言う。

792
﹁ま、これくらい全然平気だけどね﹂
ロ・ニは獣人の特性として、極めて優れた方位感覚を持っていた。
この程度の視界不良は問題にならない。
﹁ロ・ニ君、頼りになるね⋮⋮﹂
﹁ピリスラリア? 起きてるの?﹂
﹁うん⋮⋮﹂
背後を振り返ったロ・ニに、両の目を薄く開けたピリスラリアが
うなずく。
彼女がなんでもない時に起きているのは、珍しいことだった。
きっとまた、すぐにまどろみへと戻るだろう。それでも戦闘はき
ちんとこなすから、どうなっているのかとロ・ニは思う。
﹁でもなんだい? 君が僕を誉めるなんてさ﹂
﹁ロ・ニ君は⋮⋮強くなったよ⋮⋮﹂
﹁僕が⋮⋮? 何言ってるんだよ﹂
兎人の少年は苦笑いを浮かべる。
﹁僕は変わってないよ。がんばっているのはディーやミーデたちだ
し、僕自身は、今でもみんなの中で一番弱いままだ﹂
﹁ううん⋮⋮ロ・ニ君は、強くなった⋮⋮もう、わたしより、強い
と思う⋮⋮﹂
ロ・ニとピリスラリアが組まされたのには、理由がある。
ロ・ニは多数のモンスターを扱える一方で、それ以上の強さを持

793
つ敵には為す術がない。ピリスラリアの邪眼は強力だが、極端な能
力ゆえに弱点も多い。
だから、互いに補い合う必要があった。
異様な精度で転移と炎の魔法を操るガル・ガニスや、圧倒的な武
を持つムデレヴ、そして魔法も剣も極めたゾルムネムに比べると、
二人は弱かった。
しかし、それでも。
ピリスラリアは、呟くように続ける。
﹁モンスターの使い方が、上手になったし⋮⋮心の方も⋮⋮﹂
﹁あはは、そう? でも心は多少、マシにはなったかな。僕、村じ
ゃ一番の使い手だったんだ。誰にも負けないと思ってた。だけど隊
長やムデレヴに会って、旅に出ていろんなことがあって⋮⋮性根を
叩き直された気分だよ﹂
初めはそれを認められずに、よくピリスラリアに食ってかかって
いた。
彼女にだけは負けていない、パーティー最弱では決してないと、
よく敵愾心を燃やしていたことを覚えている。
結局、それも間違いだったが。
﹁わたしも⋮⋮すこし、自信を持てるように⋮⋮なった﹂
﹁君が? 君だって、故郷では一番の使い手だっただろう?﹂
ピリスラリアが、ゆっくりと首を振った。
﹁こんな力⋮⋮平和な場所では、なんの役にも立たない⋮⋮いつも
眠ってるわたしは⋮⋮みんなに、迷惑ばかり⋮⋮かけてた﹂

794
﹁⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮今日でやっと、胸を張れる、気がする⋮⋮お父さんとお
母さんに、早く言いたい⋮⋮勇者を⋮⋮倒したんだ、って﹂
﹁⋮⋮そうだね。じゃあ⋮⋮早く済ませようか﹂
ロ・ニの影が大きく広がり、シャドーウルフの群れが次々に地上
へと現れる。
すぐ先に、複数の人の気配があることはわかっていた。
おそらくは、この学園の生徒だろう。
﹁いけっ、みんな!﹂
シャドーウルフが疾駆し︱︱︱︱人影に襲いかかった。
このモンスターは、等級の高い冒険者でも苦戦する。素人ではと
ても太刀打ちできない。
これは始まりだ。狼の群れは、人の集団など容易に追い込んでい
く。
だが︱︱︱︱ロ・ニは、違和感を覚えた。
霧のせいで様子がわからないが、妙だ。上がるはずの悲鳴が聞こ
えない。
シャドーウルフたちも戸惑っているように見える。
﹁っ、なんだ⋮⋮? 戻れ!﹂
やがて、シャドーウルフたちが戻ってくる。
その口に咥えられている物を見て、ロ・ニは目を眇めた。
﹁これは⋮⋮?﹂

795
****
魔法学園の東端に転移したムデレヴは、周囲の景色を見回して、
まず呟いた。
﹁うむ、霧が濃い。だがなんとかなるであろう﹂
あやふやな言葉とは裏腹に、足取りに迷いはない。
周囲の景色すら不確かな中で、行く先を決めるのはただの勘だ。
だがムデレヴは、その戦士の勘をこそ大事にしていた。これまで
の経験から、それは信頼のおけるものだった。
付近に、人の気配はない。
ムデレヴの担当した東端は研究棟の並ぶ区画だったが、自身の勘
では、建物の中にも人間がいるようには思えなかった。ひょっとす
るとこの場所は、普段はあまり使われていないのだろうか。
﹁それはそれで良いが⋮⋮ちと困ったな﹂
ムデレヴも、無闇に人間を殺めたいわけではなかった。
自らが全力で臨むにふさわしい、強き者。加えて、自身が食べる
分だけ。手にかけるのは、それだけで十分だと考えていた。無益な
殺生は人にも獣にも避けるべきだ。
ただ今ばかりは、そうも言っていられなかった。
騒ぎを起こし、勇者を炙り出す必要がある。
それには、人間たちに悲鳴を上げてもらわねばならなかった。

796
﹁しかし、いないのではどうしようもない。これはゾルムネムの計
算違いと⋮⋮﹂
独り言を止め、ムデレヴは唐突に棍棒を構えた。
巨木に斧を叩きつけるような音と共に︱︱︱︱二本の投剣が、ム
デレヴの棍棒に突き刺さる。
﹁おおっ⋮⋮!﹂
ムデレヴは、自身の棍棒に目をやって感嘆の声を上げた。
いにしえ
かつて切り倒した古の妖樹から彫りだしたこの棍棒は、これまで
剣でも槍でも魔法でも、傷つけられたことなど数えるほどしかなか
った。
だが、どうだろう。ムデレヴの指程度しかない小ぶりなナイフが、
今わずかにではあるが突き刺さっている。棍棒から伝わった衝撃と
いい、尋常な技ではない。それが魔法によるものだということは、
すぐに察しがついた。
﹁堅なる者よ、さあ名乗られよ﹂
ムデレヴは口元に喜悦の笑みを浮かべ、その相手へと呼びかける。
それは小さな人間だった。
女で、子供。珍しい灰色の髪に、手にはその小さな体に似つかわ
しくない大ぶりな戦斧を提げている。
少女は名乗らず、訝しげに問う。

797
﹁あなた、なに﹂
オーガ
﹁これなるは鬼人、ムデレヴ。お主を打ち倒す者よ﹂
﹁⋮⋮どこで雇われたの。商会に、あなたみたいなのはいなかった﹂
﹁商会? ガハハッ、何を言っているのかわからぬ!﹂
﹁⋮⋮なんでもいい。ここから先には、進ませない⋮⋮ッ!﹂
少女が一気に間合いを詰め、戦斧を振りかぶる。
一連の動きをムデレヴは予期していたが、それは想定よりもずっ
と速かった。
振り下ろされる戦斧を、掲げた棍棒に嵌められた、補強用の金輪
部分で受けた。体の芯に響く衝撃。金属同士が打ち合わされる重い
高音が轟く。
もし剥き出しの木地で受けていたら、刃が深く食い込んでいたに
違いない。
少女がすばやく戦斧を引くと、次いで足を狙った地を這うような
一撃が振るわれる。
棍棒を石畳に立て、再び防ぐ。そのまま薙ぎ払うように放った拳
は、身を伏せるようにして躱された。
少女は、今度は跳ね上げるように戦斧を振るう。やはり速い。加
オーガ
えて、人の頭を粉砕する鬼人の拳にも、まったくひるむ気配がない。
﹁ガハハッ! 防戦一方であるな!﹂
ムデレヴは笑う。
オーガ
少女の猛攻をしのぎながら、鬼人の武人は冷静に思考していた。
この技は、ありえない。
一撃が重すぎる。その一方で身のこなしは軽く、武器の重さに振

798
り回される様子がない。
筋力は魔力で補えるが、体重は別だ。少女はあまりに小さい。体
に鉛でも詰めていなければ、実現できない動作だろう。普通ならば。
ムデレヴの面貌に、笑みが深く刻まれる。
なんのことはない。
オーガ
鬼人の武人は、このような尋常でない技を持つ、強き者との闘争
をこそ望んでいた。
少女の戦斧が、斜めに振り下ろされる。
ムデレヴは、今度はそれを︱︱︱︱あえて、棍棒の木地部分で受
けた。
﹁っ⋮⋮!﹂
ミシリ、という音と共に、戦斧の刃が棍棒に食い込む。
切断には至らないが、決して浅くはない。そんな深さ。
少女の表情が、わずかに歪んだ。そして戦斧から感じていた重さ
が、ふと微かに軽くなる。
ムデレヴはすかさず︱︱︱︱食い込んだ戦斧ごと、棍棒を大きく
振るった。
﹁ヌンッ!!﹂
戦斧が少女の手から引き剥がされ、霧の向こうに飛んでいく。
柄から手を離したのがわざとかどうか、それは今考えるべき事で
はない。
後ろに跳び、距離を空けた少女の手には、いつの間にか投剣が握
られていた。流れるような動作でそれが放たれる。

799
正確に首を狙う投剣を︱︱︱︱ムデレヴは、左腕で受けた。
刃は、その太い腕の肉にも届かず止まっている。
オーガ
鬼人は口元に笑みを浮かべながら、少女を見据えて言う。
﹁甘いわッ! この程度の⋮⋮﹂
﹁甘いのは、あなた﹂
左腕に突き立った投剣から、突如無数の影が噴出した。
帯状の影はムデレヴの全身に巻き付くと、強く締め付け拘束する。
オーガ
鬼人の武人は、わずかに困ったような顔で呟いた。
﹁むぅ⋮⋮﹂
﹁私も、これくらいできる。大人しくして﹂
﹁いや、悪いのだが⋮⋮﹂
ムデレヴが腕を強引に開くと︱︱︱︱影の拘束は、あっけなくち
ぎれ飛んだ。
オーガ
大きく目を見開く少女に、鬼人は言う。
﹁ゾルムネムが言うところには、我には全属性の魔法耐性があるよ
うでな。ガハハッ! 搦め手など使わず、力で来るがよい。そのよ
うな技を持ちながら、よもや徒手は不得手とも言うまい?﹂
少女はすかさず腿の収納具に手を伸ばすと、投剣を掴んで投擲す
る。
ムデレヴは、すでに大きく踏み込んでいた。
棍棒を跳ね上げるように振るい、宙の投剣を打ち払う。
そして切り返したそのままに、豪速の棍棒を、少女の頭へと振り
下ろした。

800
表情を強ばらせる少女に、動きはない。もはや躱す時間もない。
金輪の嵌められた太い棍棒が、必然の流れで少女の小さな頭を叩
き割る︱︱︱︱はずだった。
﹁むっ!?﹂
棍棒が空を切った。
勢いのままに叩きつけた先の石畳が、派手に砕け散る。
少女の姿はない。
忽然と消えてしまった。
反撃が来るかと周囲を見回したが、そんな様子もない。人の気配
など、どこからも感じられなかった。
あとに残っていたのは、一枚の呪符だけ。
﹁むぅ⋮⋮面妖な﹂
ムデレヴはそれを拾い上げる。
その呪符は︱︱︱︱奇妙なことに、人の形に切り抜かれていた。
****
ゾルムネムは足を止め、辺りを見回した。
周囲に建物のない、ひらけた場所だ。予定していた合流地点では

801
ない。
霧の中、慎重に現在地を確認しつつ進んできたはずが、どういう
わけかこのような場所にたどり着いてしまった。
奇妙なことは他にもある。
ある程度はいると予想していた、生徒や教師の姿が見当たらない
のだ。
代わりにあったのは︱︱︱︱、
﹁ゾルさん?﹂
聞き慣れた声に振り返ると、霧の中から現れたのはガル・ガニス
だった。
悪魔族の青年は、戸惑った様子で言う。
﹁ここ、本棟の近く⋮⋮じゃないっスよね? なぜか、こっちに足
が向いちまったんスけど⋮⋮﹂
﹁ああ、私も同じだ﹂
﹁むっ、そこにいるのはゾルムネムか?﹂
﹁あれ、隊長?﹂
﹁スゥ⋮⋮なんで⋮⋮?﹂
声と共に、ムデレヴにロ・ニ、ピリスラリアの姿が現れる。
ゾルムネムは、疑念を深める。
﹁お前たちもか﹂
﹁みんないるの? ここ、予定の場所じゃないよね?﹂
﹁むぅ、おそらくそう離れてはいないと思うのだが⋮⋮﹂
﹁ムニャ⋮⋮それより⋮⋮人間が、なんか変⋮⋮﹂

802
﹁⋮⋮やはりか。こちらもだ﹂
ゾルムネムは、そう言って衣嚢から紙片を取り出した。
それは真っ二つに切られた、人の形をした呪符だった。
﹁人を斬っても、何一つの手応えがない。代わりに、このような呪
符が落ちているだけだ。何か魔法の類であるのだろうが⋮⋮﹂
﹁我も同じよ。強者と対峙し、いざ仕留めたと思った時には、この
呪符に変わっていた﹂
﹁あっ、それ僕たちの方もだったよ!﹂
﹁オレもっス﹂
ムデレヴに続き、ロ・ニとガル・ガニスも、牙に貫かれたり焼け
焦げたりした呪符を取り出した。
ロ・ニが不安そうな声音で言う。
﹁隊長、どうする⋮⋮? なんか、普通じゃないよ。これ⋮⋮﹂
ゾルムネムは逡巡する。
異常な事態が起こっている。それは確実だ。
おそらく⋮⋮待ち構えられている。何者かに。
今勇者を討たなければ、まず次はない。補給のない敵国の地で、
次の機会を待つなど不可能だ。この旅は失敗に終わることになる。
だが、それでも︱︱︱︱この状況で作戦を強行すれば、きっと命
取りになる。
ゾルムネムの勘は、そう告げていた。

803
撤退だ。
不名誉ではある。故郷に帰れば、同胞からそしりを受けるかもし
れない。
しかし、仲間の命を無為には散らせられない。
ゾルムネムは、皆に告げるべく口を開いた。
そして︱︱︱︱、
声が、聞こえた。
た かれ く まれひと いまし わらは き い きか まと
﹁︱︱︱︱誰そ彼に、来る客人は戒めよ、童が牙出だし、鬼火纏ふ
もや﹂
幕間 神魔ゾルムネム、学園にて
じだ
不思議な響きの言葉が、全員の耳朶を叩いた。
皆、一斉に声の方を見やる。
一人、少年がいた。
なりわい
﹁これ、妖怪退治を生業にしていた、とある剣士が詠んだ歌でね﹂
宙に浮かんだ見慣れない形の魔法陣に腰掛け、こちらを薄い笑み
で見下ろしている。
なぜ、誰も気がつかなかったのだろう。

804
そう思うほど、その姿は唐突にそこに現れていた。
少年の口は、先ほどの奇妙な言語ではない、意味のわかる言葉を
紡ぐ。
﹁夕暮れ時の来客には気をつけろ。子供の姿をした存在が、突然に
牙を剥き、鬼火を纏うかもしれない⋮⋮そんな意味だよ。臆病な男
だったが、言っていることは一理ある。黄昏時は人と人ならざる者
ゆうがすみ
とを見分けにくいからね。この夕霞のせいで、君たちもすぐには気
づかなかっただろう? ここらの人影が、すべてぼくの式神である
ことに﹂
ゾルムネムは、静かに自身の宝剣を抜いた。
剣呑な相手だ。戦士としての勘がそう告げている。
こちらの戦意をどう捉えたのか、少年が笑みを深める。
﹁近くで見るとすぐわかるんだけどね。獣と違って、人は人の顔か
たちや仕草に敏感だ。人間の式神はどうしても違和感のあるものに
なってしまう。造形の感覚が優れた術士などはうまく作るんだけど、
ぼくはどうにも不得手でね。まあもっとも⋮⋮魔族である君たちに
は、人間の顔などよくわからないかな?﹂
少年は、どこか楽しげに話し続ける。
﹁あー、でも、そこのでかいの。君が戦ってたやつだけは本物だよ。
強いでしょ、あの子﹂
どう仕掛けるべきか。

805
剣か、魔法か。
何が弱点で、どんな奥の手を隠し持っているか。
情報は重要だ。敵を知ることは、あらゆる戦いを有利に運ぶ。
初見の相手と対峙するにあたり、自らのステータス鑑定がどれほ
ど有用か、ゾルムネムはよく理解していた。
・・
ゾルムネムは、少年を視る︱︱︱︱︱︱︱︱。
﹁ふむ⋮⋮わかるぞ。それなるは堅なる者であるようだ。それも⋮
⋮尋常ではないほどの﹂
ムデレヴが言い、少年へと歩み出る。
武人としての生で初めて相対するほどの強敵に興奮しているのか、
その顔には喜悦の表情が浮かんでいる。
﹁相手として、これ以上望むべくもなし。さあ、力比べといこ⋮⋮﹂
その顔が、飛んだ。
武人の厳めしい頭が、いくらかの血しぶきと共に、石畳に転がる。
その顔には、喜悦の表情が張り付いたまま。
少し遅れて、首を失った赤銅色の巨体が、ゆっくりと地面に倒れ
伏した。
突然のことに、全員が凍り付く。
﹁あれ、死んじゃった﹂
そんな中。

806
少年だけが、拍子抜けしたように呟く。
いつの間にか手にしているのは、小さなナイフと、人の形をした
呪符。
ただし、呪符には頭の部分がない。
今し方ひらひらと地面に落ちた紙片が、それだろうか。
あいまみ かしら
﹁呪詛への耐性が低すぎる。かつて相見えた盗賊の頭などは、これ
を喰らっても首から血を流しながら向かって来たというのに⋮⋮ま
ったく、鍛え方が足りないね﹂
オーガ
少年は、取るに足らない者へ向けるような視線で、鬼人の死体を
見下ろしている。
ムデレヴが、あっけなく死んだ。
オーガ
鬼人族きっての武人が、その棍棒すら振り上げられないままに。
何をされたかもわからぬうちに。
﹁ムニャ⋮⋮死んで⋮⋮﹂
総毛立つような力の気配に振り返ると、ピリスラリアが額の邪眼
を見開いていた。
その色は、見たことのないほどの不気味な赤に変わり、輝いてい
る。
おそらく、これが仲間にも初めて見せる、彼女の全力なのだろう。
だが︱︱︱︱駄目だ。
ゾルムネムは思わず口走る。
﹁やめろ⋮⋮﹂

807
﹁へぇ﹂
少年は、ただおもしろそうに呟くのみ。
その姿が石に変わることもなければ、苦しむ様子もない。
トライア
﹁邪眼か。その姿、三眼だな。人間の邪視よりは強力そうだ。どれ、
こいつと勝負してみろ﹂
宙に浮かぶ呪符。
その周囲の景色が歪んだかと思えば︱︱︱︱突然に現れたのは、
ワームにも迫るほどの、巨大な白い蛇だった。
その両目は潰れている。明らかに光を映していない。
奇妙な召喚術。あれは契約しているモンスターなのか。だが、あ
のような種は伝え聞いたこともない。
白い大蛇が、その鼻面をおもむろにピリスラリアへ向けた。
﹁っ⋮⋮! か⋮⋮は⋮⋮っ!﹂
浮遊するピリスラリアが、急に苦しみだした。
いつもまどろんでいた両の目は限界まで見開かれ、第三の眼はぐ
りぐりとあらぬ方向を向いて回り続ける。両手は胸を押さえ、口か
らこぼれるのは掠れた喘鳴だけ。
やがて︱︱︱︱浮遊の重力魔法が消え、ピリスラリアが地面に落
ちた。
トライア
三つの目を見開いたまま横たわる三眼の呪術師は、すでに事切れ
ていた。

808
しん ね
﹁どうだい、心の音すら止めるほどの強力な邪視は﹂
少年が薄い笑みと共に呟く。
邪視、と言った。
ありえない。
あの大蛇は、確かに両目が潰れている。
﹁知っていたかい? ヘビの中にも第三の眼を持つ者があるんだ。
はくだ へんげ
こいつは白蛇という、年経たマムシの変化でね。鼻の近くで赤外線
を見ることができる。わかるかな、赤外線。虹の赤の外側にある、
熱を運ぶ光だよ。まあ古代ギリシアの言葉を直訳しただけだけどね﹂
少年の言を、ゾルムネムは理解できない。
話しているのは、博物学の知識なのか。だがハクダというモンス
ターも、古代ギリシアという国も聞いたことがない。
その時、白い大蛇がスッと首を引いた。
次の瞬間、石畳を割って地中から姿を現したのは、長大な体をも
つワーム。ロ・ニの使うミーデだ。
あぎと
大蛇の頭を食い損なったミーデは、その顎を上空で反転させ、再
び少年のモンスターへと襲いかかる。
だが大蛇に鼻面を向けられた途端、その体が硬直。地面へ横倒し
になり痙攣し始める。
しかし、ミーデは目的を果たしていた。
ワームの巨体と砂埃に隠れ、白い大蛇のすぐそばまで、ロ・ニが
近づいていた。

809
ロ・ニは純真な目で、剣呑なモンスターへ好意の言葉を伝える。
﹁僕と友達になろうよ!﹂
ロ・ニはいつもこうして、声をかけるだけでモンスターを従えて
いた。
凶暴な野生のモンスターも、他人がすでにテイムしているモンス
ターであっても。
それは技術ではない、獣使いという︻スキル︼に裏打ちされた、
ロ・ニの持つ天賦の才だった。
だが︱︱︱︱駄目だ。駄目なのだ。
ゾルムネムは、掠れた声で呟く。
﹁やめてくれ⋮⋮﹂
白い大蛇が、どこか不思議そうな様子で、ロ・ニへと頭を向ける。
そして、次の瞬間。
大きく開いた顎で、兎人の少年を一呑みにした。
﹁なッ⋮⋮﹂
近くで、ガル・ガニスが息をのむ気配があった。
大蛇はロ・ニを飲み込むと、次いで影から出てきたシャドーウル
フたちを睨み殺し始めた。主人を食われ怒る狼の群れも、見えない
邪眼に次々と倒れていく。

810
﹁ええ、何がしたかったんだ⋮⋮?﹂
少年は、ただただ困惑したように呟く。
﹁ああ⋮⋮テイムでもしようとしたのかな? はは、人への怨念で
へんげ あやかし
変化した妖に、それは無茶だなぁ﹂
まるで失笑するように、少年が言う。
テイマー
天性の調教師だった兎人は、何もできないまま死んだ。
自身の持つ恐るべき才を、敵に知らしめることすらできなかった。
しかし︱︱︱︱ロ・ニですらテイムできないモンスターを、あの
少年は、いったいどのようにして従えているのか。
何もかも、尋常ではない。
何もかもだ。
それは、初めからわかっていたことだった。
挑んだことが間違いだったのだ。
オーガ
鬼人族きっての武人、ムデレヴならば。
逸脱した邪眼の使い手、ピリスラリアならば。
テイマー
天賦の才を持つ調教師、ロ・ニならば。
勝てるかもしれないと、ほんのわずかにでも思ってしまったこと
が、間違いだった。
あの化け物に。
﹁ゾルさん、オレが隙を作ります。その間に⋮⋮﹂

811
﹁駄目だ﹂
ゾルムネムは言う。
最後に残ったガル・ガニスだけは、生還させなければならない。
﹁逃げろ。お前は逃げるんだ﹂
﹁なッ、ここに来てッ⋮⋮!﹂
﹁お前は生き残れ。生きて⋮⋮同胞に、伝えよ﹂
﹁ゾルさ⋮⋮﹂
ガル・ガニスが、言葉を切った。
気づいたのかもしれない。
自分の持つ、剣の震えに。

最初から、ゾルムネムには視えていた。
少年のすべてが。
玖峨晴嘉
︻名前︼セイカ・ランプローグ︵ █▂ ︶ ︻Lv︼MAX
陰陽師
︻種族︼人間/神魔︵魔王︶ ︻職種︼ ◢ ┅▅
︻HP︼6527/6527
︻MP︼843502364/843502705
︻筋力︼391 ︻耐久︼254 ︻敏捷︼347 ︻魔力︼0
︻スキル︼
剣術Lv3 呪術Lv MAX 退魔術Lv MAX 結界術Lv
MAX 呪力強化Lv MAX 呪詛耐性Lv MAX 霊視L
陰陽術
v MAX 龍脈視Lv MAX ◢ █ Lv MAX ◤
気功術 易術 宿曜占星
▅ █ Lv MAX ◤█ Lv MAX █ █ █
術 六壬神課 風水視
Lv MAX ◢█ ▌ Lv MAX ▄ L
奇門遁甲
v MAX ┅┉◥◣ ▆▃Lv MAX︱︱︱︱⋮⋮⋮⋮

812
否。
これで果たして、何が視えていたというのか。
ゾルムネムにはわからない。
︻魔力︼がゼロであるにもかかわらず、なぜ魔法が使えているの
か。
わずかに減少している膨大な桁数の︻MP︼は、何によって消費
されたのか。
判読できない︻職種︼や無数の︻スキル︼は、いったい何なのか。
現在のスキルレベルではまだ視ることのできない数値があること
は、ゾルムネムも把握していた。
だが︱︱︱︱これは、果たしてそういった類のものなのだろうか。
あまりにも異常だ。このような﹃ステータス﹄は、未だかつて視
たことがない。
しかし一つだけ⋮⋮はっきりしていることがある。
︻種族︼人間/神魔︵魔王︶
﹁あれは⋮⋮魔王だ﹂
﹁は⋮⋮な、何を言って⋮⋮﹂
﹁伝えるのだ⋮⋮なんとしても、このことだけは⋮⋮﹂
﹁知っているよ。君たち、勇者を倒しに来たんだよね﹂

813
少年が、薄笑いのまま告げる。
﹁だけど残念。アミュは殺せないんだ﹂
それは、予想できていた可能性だった。
この地にいて、学園の制服を纏い、自分たちを討とうとしている
のだから、それ以外に考えようがない。
しかし︱︱︱︱。
﹁このぼくが守っているのだからね﹂
その宣告は、あまりに絶望的なものだった。
ゾルムネムは掠れそうになる声で、ガル・ガニスへと必死に最期
の言葉を伝える。
﹁た、誕生していたのだ、魔王は⋮⋮それも、最悪な形で⋮⋮﹂
﹁何言ってんスか、ゾルさん! 落ち着いてください!﹂
﹁いいから聞け。今すぐにでも逃げよ。転移の魔法に長けたお前な
らば、逃げ切れるやもしれぬ⋮⋮なんとしてでも逃げ延び、この事
実を魔族領にまで持ち帰るのだ﹂
﹁事実って⋮⋮﹂
﹁よく聞け、ガニスよ⋮⋮あの少年は、魔王だ﹂
ゾルムネムは、続けて言う。
あらゆる魔族にとって、到底受け入れがたい⋮⋮絶望的な事実を。
・・・・・・ ・・・・・・・・
﹁︱︱︱︱最悪の魔王が、人間の側についた﹂
﹁君たち⋮⋮もう、終わりな感じ?﹂

814
少年が退屈そうに呟く。
その冷たい黒瞳に見下ろされながら、ゾルムネムは震える手で懸
命に剣を構える。
﹁行け。私が時間を稼ぐ﹂
﹁⋮⋮ダメだ。ゾルさん、あんたもっ⋮⋮﹂
﹁二人は逃げられない。私の⋮⋮皆の覚悟を、無駄にするな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁じゃあ︱︱︱︱そろそろ、死んでくれるかな﹂
いつのまにか⋮⋮一枚の呪符が、すぐ先に浮かんでいた。
それが二人にとって、致死の魔法を生み出すことは、容易に想像
がついた。
ゾルムネムが、最期の叫びを上げる。
﹁早く行け、ガニス!!﹂
叫びと同時に、ゾルムネムは宝剣の切っ先を少年に向け、魔法を
紡ぐ。
それは幾重にも束ねた高熱の光を放つ、光属性魔法の奥義。
これを完全無詠唱で発動できるほどに、ゾルムネムは光の魔法に
通じていた。
宝剣の先に、魔法の起こりである眩い白光が点った︱︱︱︱。
その瞬間。
全視界を灼熱の緋色に覆われ、ゾルムネムの意識は消失した。

815
第十三話 最強の陰陽師、取り逃がす
ぼくは、魔族たちがいた場所を見下ろす。
溶けた鉄が煮えたぎり、一面が緋色に染まった演習場に、もはや
彼らの姿はない。
オンボノヤス
御坊之夜簾が熱を嫌がり、溶鉄の周りだけ少し霧が晴れる。
ふとそこに、微かな光を見つけた。
消えかかっているそれは、どうやら魔法陣のようだ。
よく見てみれば︱︱︱︱それは以前、ガレオスが用いていたもの
に似ている。

816
ぼくは小さく呟く。
﹁一匹逃がしたか﹂
︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱︱
第十三話 最強の陰陽師、取り逃がす︵後書き︶
※赫鉄の術︵術名未登場︶
沸騰する鉄の波濤を浴びせる術。温度は約2,800℃。人体がこ
れに包まれると、全身の水分が瞬時に沸騰、蒸発し小規模な水蒸気
爆発が発生。肉体が爆散した後、残った有機物が燃焼を始めると考
えられる。溶鉄の高温は骨すらも融かすが、炭素を昇華させるには
至らないため、炭化した死体の一部が残ることとなる。 817
幕間 ガル・ガニス、ロドネア近郊にて
ガル・ガニスは逃げていた。
あの死地から一度の転移で、ロドネアの外に出た。
そこから何度も転移を繰り返し、城壁が霞むほどの場所にまで至
った。
魔力が尽きてからは、ただ全力で走った。
まださしたる距離を進んでいないにもかかわらず、息が切れ、足
がもつれる。だが、止まれない。
﹁クソッ⋮⋮チクショウ⋮⋮ッ!﹂

818
はば
立ち止まることを、恐怖が阻んでいた。
あの場で自分が、あの少年に立ち向かおうとしていたなど、今と
なっては信じられない。
ゾルムネムは生きていないだろう。
転移の寸前に見た、灼熱の赤い波濤が脳裏から離れない。
仲間は全員死んでしまった。
あれほど強かった皆が、あの少年一人に何もできなかった。
なぜこんなことになってしまったのか。
あんな存在を、誰が予測できたというのか。
﹁アイツが、ハァ、魔王だと⋮⋮ッ? そんな⋮⋮そんなバカなこ
とが⋮⋮ッ!﹂
ゾルムネムが、なぜその事実にたどり着いたのかはわからない。
だが今となっては、このことを知るのは自分ただ一人だ。
悪魔族の王に⋮⋮いや、あらゆる種族に、この危機を知らせる必
要がある。
これが、今の自分に残された使命だ。ゾルムネムの遺志を、なん
としても果たさなければならない。
その時ふと、ガル・ガニスは前方に注意を向けた。
はるか先の街道に、ロドネア方向へ向かう馬車が見える。
行商人だろうか。荷馬車ではあるが、護衛の類は連れていない。
ゆっくりと気持ちが落ち着いていくのを、ガル・ガニスは感じた。
魔族領まではまだまだ遠い。この先、何度も補給をする必要があ

819
る。もはや一人である以上、たった一度の機会すらも逃せない。
加えて、今日はもうすぐ日が暮れる。ロドネアからもかなり離れ
ることができた。さすがの魔王でも、今の自分の位置を特定し、こ
の距離を追いすがることはできないだろう。
ひとまずあの馬車を襲って食糧を調達し、夜営の場所を探す。
今はそれが最善だ。
馬車へと駆けながら、ガル・ガニスは魔法の炎を浮かべる。
もう大規模な転移はできないが、簡単な火属性魔法程度なら問題
なく使える。そして、今はそれで十分だ。
ガル・ガニスは、炎を放とうとして︱︱︱︱、
﹁ご⋮⋮ふ⋮⋮っ﹂
唐突に、口から血を吐いた。
浮かべていた炎が消滅。悪魔族の青年は、足をもつれさせて地面
へと倒れ込んだ。
土を噛みながら、鋭い痛みの走る胸に目をやると︱︱︱︱まるで
長大な刃で貫かれたかのように、縦に走る線状の傷から血が流れ出
している。
﹁なん⋮⋮﹂
いつ、どのようにつけられたものなのか。ガル・ガニスにはわか
らない。
だが︱︱︱︱誰によるものなのかは、想像がついていた。

820
﹁なんだ⋮⋮なんなんだ、アイツは⋮⋮あれが、魔王⋮⋮?﹂
血と共に、意識が流れ出ていくのを感じる。
全身を寒気が覆っていく。
ありえない。
伝承でも、魔王は⋮⋮このような力など、持っていなかったでは
ないか。
あまりに異質すぎる。
まるで︱︱︱︱住まう世界からして、異なるかのような。
﹁あの、魔王は⋮⋮何、者⋮⋮﹂
最期の呟きから、ほどなくして︱︱︱︱悪魔の呼吸が止まった。
勇者を討つべく旅立った魔族の英雄たちは、こうして全員が死に
絶えた。
821
第十四話 最強の陰陽師、片付ける
﹁まあ、逃がしたところで問題はないんだけどね﹂
手に持ったナイフを揺らしながら、ぼくは言った。
その切っ先には、胸を貫かれたヒトガタが突き刺さっている。
﹁⋮⋮ユキは、恐ろしいです。セイカさま﹂
オンボノヤス
御坊之夜簾を回収し、人払いの呪符を破っていると、ユキが唐突
に言った。
﹁ん?﹂

822
﹁セイカさまにとっては⋮⋮呪詛の媒介のあるなしなど、関係ない
のでございますね。ただのヒトガタのみで、あんな⋮⋮﹂
﹁とんでもない、関係なくなんかないよ。相手の髪や血が使えない
といろいろ制限がかかるし、それに⋮⋮﹂
ぼくは、苦笑しながら言った。
﹁少しだけ面倒なんだ﹂
****
そんなこんなで、魔族による二度目の襲撃は何事もなく片付いた。
前回の襲撃から、いろいろと対応方法を考えて準備していただけ
あって、今回は被害もなし。魔法実技の演習場が荒れたくらいで、
誰にも気づかれないまま事が済んだ。
彼らの死体は、溶鉄で炭化した残骸がいくらか残っていたのだが、
少し迷ったもののそのままにしておくことにした。
ロドネアに出入りしていた商人が、何人か行方知れずになってい
るという噂は聞いていた。おそらくここに来るまでの間、いくつか
の集落で略奪も行っていたことだろう。
帝国も間抜けでなければ、さすがに魔族の一党が侵入していたこ
とくらいは把握しているはずだ。そうでなければ、こんな時期に帝
都の警備を固めない。位置を捕捉できなくても、足取りをたどり、
ロドネアに向かったことくらいは予想してくれるだろう。そこで争
った跡と死体が見つかれば⋮⋮きっと、彼らが死んだことくらいは
理解するはずだ。たぶん。

823
悪魔のやつだけ別の場所で死んでいるから、仲間割れとでも解釈
してくれれば都合がいいんだけどな。
いずれにせよ、また死体が見つからずに休講になるよりはマシだ。
ちなみに冷えた鉄は解呪して消したが、巨大なワームの死骸は残
したままだ。
ひたすらに邪魔だし、あれも片付けてあげた方がよかっただろう
か⋮⋮そんなことを考えながら歩いていると、曲がり角で小柄な人
影とぶつかった。
﹁おっ、と。メイベル?﹂
﹁っ⋮⋮! セ、セイカ?﹂
息を切らし、目を丸くしたメイベルがこちらを見上げていた。
焦ったような表情で、灰髪の少女はぼくに詰め寄る。
﹁あいつはどこっ!?﹂
﹁あいつ?﹂
﹁し、刺客が来たの! セイカも、わかってるんでしょっ?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
オーガ
﹁しかも、魔族⋮⋮鬼人、って言ってた! きっと、今も私を探し
てる! このまま見つからなかったら、何するか⋮⋮誰かが、襲わ
れるかも⋮⋮っ﹂
メイベルは必死の形相で、ぼくに言い募る。
﹁わ、私が、私が止めないとっ!! さっき、セイカが助けてくれ
たんでしょ? あの霧も⋮⋮あいつの居場所がわかるなら、教えて
! 私が出て行けば、みんなが、危ない目に遭うことはないと思う。
たとえ、私が勝てなくても⋮⋮だからっ!﹂

824
﹁メイベル。少し落ち着きなさい﹂
そう言って頭を撫でてやると、メイベルはようやく口をつぐんだ。
ただ、それでもまだ表情に余裕がない。
ぼくは、軽く笑みを浮かべながら言う。
﹁君はえらいな﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁真っ先に他の生徒のことを心配したのかい? 自分は逃げること
もできたのに﹂
﹁そ、それは、だって⋮⋮﹂
﹁なかなかできることじゃない。優しくて、勇気のある証拠だよ﹂
﹁うぅ⋮⋮﹂
﹁気づいてやれなくて悪かった。すっかり、学園には慣れたものだ
と思っていたけど⋮⋮君はずっと気を張っていたんだな﹂
まじな
人払いの呪いは、強い目的意識を持つ人間には効果がない。
他の生徒や教師が皆寮や学舎に引っ込んで出てこない中、どうし
てメイベルだけがと思っていたのだが⋮⋮この子はずっと、商会の
差し向ける刺客を警戒し続けていたのだろう。
﹁ひょっとして、養父母の下でもかい?﹂
﹁⋮⋮だって⋮⋮あの人たちのことは、商会に知られているから⋮
⋮﹂
﹁心配しなくていいと言ったのに。とはいえ、あれからまだ一年も
経っていなければ、無理からぬ話か﹂
ぼくの実家であれほど気を抜いていたのは、それが許される初め
ての場所だったからかもしれない。
学園や帝都から遠く離れた地で、軍の小隊が駐留していて、よう

825
やくこの子は安心できたのだ。
﹁大丈夫だよ、メイベル。君はもう普通に生きていいんだ﹂
﹁で、でも、あいつが⋮⋮﹂
﹁あれは君への刺客じゃない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
メイベルは、ぽかんとした表情を浮かべる。
﹁そう、なの⋮⋮? じゃあ、あいつは⋮⋮﹂
﹁ええと⋮⋮まあ、君には言っても構わないか。勇者を狙ってきた
んだよ﹂
﹁えっ! ア、アミュを?﹂
メイベルの顔に、再び焦りの色が浮かぶ。
﹁そ、それならっ、やっぱり、なんとかしないとっ⋮⋮﹂
﹁あー⋮⋮﹂
ぼくは、少しばかり言いよどみながら告げる。
﹁もう終わったよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁あいつらのことは、もう心配しなくていい﹂
﹁あいつら⋮⋮? 一人じゃ、なかったの?﹂
﹁う⋮⋮まあ、そうだよ。五人ほどいたな﹂
﹁ご、五人も? それ⋮⋮全員、セイカが倒した、ってこと﹂
﹁ああ﹂
﹁だ、大丈夫、だったの? あんなのが五人なんて、手強かったん
じゃ⋮⋮﹂

826
﹁あー、いや⋮⋮別に、そんなことなかったな﹂
オーガ
﹁ええ⋮⋮鬼人以外は、大したことなかったの?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ぼくは、やや困った笑みを浮かべながら答える。
﹁よくわからなかったよ︱︱︱︱誰が強くて、誰が弱かったかなん
て﹂
﹁セ⋮⋮セイカ?﹂
メイベルが、戸惑ったように半歩後ずさった。
ぼくは苦笑しながら、彼女へ向けて、唇の前に人差し指を立てて
見せる。
﹁皆には内緒だよ、メイベル﹂
第十五話 最強の陰陽師、また入学式に出る
魔族の襲撃から、数日後。
学園の入学式は、予定通りに行われることとなった。
いくつもの魔法の灯で荘厳に彩られた講堂も、さすがに三回目と
もなると見慣れた。
緊張のためか、硬くなっている新入生たちの姿も、例年通りだ。
ただ、去年までは見ているだけだったぼくにも、今年は仕事があ
る。
つつがなく進行していく式の様子をぼんやり眺めていると、急に
アミュが笑いながら背を叩いてきた。

827
﹁あんた、何ビビってんのよ!﹂
﹁痛いな⋮⋮別にビビってないよ﹂
﹁嘘ね﹂
﹁⋮⋮よくわかったな。本当は少し緊張してる﹂
こういう役回りは、決して得意なわけではない。
とはいえ、引き受けてしまった以上はもうどうしようもないが。
﹁君の時はどうだったんだ?﹂
﹁ん?﹂
﹁一昨年の話だよ。新入生の代表で挨拶してただろう﹂
﹁あー、あの時?﹂
料理を取る手を止めて、アミュが答える。
﹁あたしは緊張なんてしなかったわよ﹂
﹁へぇ。そりゃすごいね﹂
﹁あの頃はちょっと斜に構えてたから、挨拶なんてくだらないー、
って思ってたのよ。今だったら、もっと緊張すると思うわ。さすが
にね﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
﹁でも、なんだか懐かしいわね。あの時はデーモンのせいで、あた
しの言おうとしてたこと最後まで言えなかったんだったわ﹂
﹁挨拶の内容は自分で考えたんだよな? なんて言おうとしてたん
だ?﹂
﹁なんだったかしら? ええっと⋮⋮﹂
アミュは少し考えた後、話し始める。

828
﹁今日、みなさんがどのような理由でここにいるのか知りません。
あたしがこの学園に来たのは、ただ︱︱︱︱強くなるためです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あたしの求める強さとは、冒険者の強さです。モンスターを倒し、
仲間を守れる強さ。こんな理由でこの学園に来たのは、もしかした
らあたしだけかもしれません。だけど⋮⋮強くなりたいという思い
は、みな同じく持っていることと思います。求める強さはそれぞれ
違うでしょう。それでも強さを求めるのなら、あたしたちはみな同
じ目的を共有する仲間です。これから、共にがんばりましょう。以
上。⋮⋮こんな感じだったかしら? なんか普通ね。一応、真面目
に考えたんだけど⋮⋮﹂
﹁いいじゃないか﹂
ぼくは素直に言った。
﹁話の運びや言葉の選び方がうまいな﹂
﹁は、はあ? いいわよ、そういうの﹂
﹁本心だよ。修辞学なんてどこで習ったんだ?﹂
﹁難しいことはよくわからないけど⋮⋮パパとママが、昔よく勇者
やいろんな英雄たちの物語を聞かせてくれたのよ。その中の台詞と
か⋮⋮あとは、酒場で酔っ払った冒険者がしてる演説を、参考にし
た。大半は聞けたものじゃないんだけど、たまーに、ぐっとくるの
があるの。そういうのとか﹂
﹁なるほどな﹂
アミュらしい話だ。
この子も決して頭は悪くない。勧学院の雀は蒙求を囀るというが、
見聞きしたものの中から知らず知らずのうちに学び取ったのだろう。

829
﹁それ最後まで話せてたら、他の生徒の見る目も変わってたかもし
れないな﹂
﹁やめなさいよ、もう⋮⋮ううん、でもそう言われると、なんだか
惜しかった気がしてきたわね⋮⋮。あの騒動、結局なんだったのか
しら? いろんな噂は立ってたけど﹂
﹁⋮⋮さあね﹂
﹁あの時、がんばってデーモンを一体倒したのよね。そういえば、
あんたはなにしてたの?﹂
﹁⋮⋮召喚獣のようだったから、喚んだ術士を探しに行ってたんだ
よ。見つからなかったけど﹂
﹁へぇ。あんたらしいわね﹂
この子は知らない。
あの襲撃が、自分を狙ったものだったことを。そしてつい先日に
も、同じようなことが起こっていたことを。
ぼくは話を逸らす。
﹁あの後の君はかわいそうだった。命を賭けてモンスターと戦った
のに、他の生徒には怖がられて﹂
﹁そういえばあんたそんなことも言ってたけど⋮⋮あれって本心だ
ったの?﹂
﹁本心だよ。嘘だと思ってたのか?﹂
﹁普通に適当なこと言ってるんだと思ってたわ。あの頃のあんた、
うさんくさかったから﹂
﹁ひどいなぁ﹂
﹁あはは。それが、こんなに仲良くなるなんて思わなかったわ﹂
﹁時が経てば、人の関係くらい変わるさ﹂
﹁そうね。あれからもう、二年も経ったんだものね﹂
二年も、か。

830
ようやく十五になるこの子にとっては、二年という歳月も十分に
長いものなのだろう。
入学式はつつがなく進んでいく。
ぼくの出番も、次第に近づいてくる。
﹁⋮⋮じゃあ、そろそろ行くよ﹂
﹁あれ、セイカくんもう行くの? が、がんばってね!﹂
﹁⋮⋮。がんばって﹂
後ろの方で喋っていたイーファとメイベルが、ぼくを見て言う。
アミュはというと、笑っていた。
﹁なに喋るのか楽しみにしてるわね﹂
﹁⋮⋮そんなに期待されても困る。無難に済ませてくるよ﹂
苦笑いを浮かべながら、演壇へと歩みを進めた︱︱︱︱その時。
講堂の入り口付近で、ざわめきが起こった。
思わず顔を向ける。
新入生の集団を割って現れたのは⋮⋮揃いの鎧と剣で武装した、
十数人の人間だった。
反射的に式を向けかけるが、抑える。攻撃してくる様子はない。
だが、新入生の入学を祝いに来たようにも思えなかった。
リーダーとおぼしき一人が、声を張り上げる。
﹁静まれッ! 我らはディラック騎士団! 主であるグレヴィル侯
の命により参った! ここにアミュという娘はいるか!﹂

831
ざわめきが大きくなる。
﹁剣の使い手である、アミュという娘だ!﹂
生徒たちが、次第にぼくらのいる方へ顔を向け始める。
ぼくは迷う。
これは、なんだ。
どうすればいい︱︱︱︱、
﹁あ、あのっ⋮⋮﹂
すぐそばで、声が上がった。
﹁アミュは、あたしだけど⋮⋮﹂
アミュがおずおずと手を上げる。
鎧の集団が、一斉にこちらへと視線を向けた。
そしてリーダーを筆頭に、人混みを押しのけながら強引に近づい
てくる。
﹁どけ!﹂
その中の一人に突き飛ばされ、ぼくは無言でよろめき、尻餅をつ
いた。
﹁っ! ちょっと!﹂
﹁冒険者クローデンの子、アミュだな﹂

832
狼藉に抗議するアミュへ、リーダーが淡々と問う。
﹁そうよ! あたしに何の用?﹂
﹁貴様には帝国に背いた咎がある。認めるな?﹂
リーダーの言葉に、アミュが戸惑ったように問い返す。
﹁え⋮⋮? なによ、それ﹂
﹁貴様は先日、学園を訪れた魔族領からの特使を殺害するという、
帝国への重大な背信行為を行った。この事実を認めるな?﹂
﹁は⋮⋮?﹂
アミュが目を丸くする。
﹁し、知らないわよそんなの! あたしそんなことしてない!﹂
﹁あくまで認めぬか、それでも結構。これより貴様を帝都まで連行
する。その体の芯まで罪を問うた後に、裁判へかけられることとな
るだろう。楽な刑になると思うな。⋮⋮お前達、この娘を拘束しろ﹂
﹁ちょ、ちょっと! やめてっ!﹂
騎士たちが数人がかりでアミュの手をひねり、後ろ手に縄で縛っ
ていく。
﹁そ、そのっ⋮⋮ま、待ってください! アミュちゃんは、そんな
こと⋮⋮﹂
﹁イーファ﹂
ぼくは尻餅をついたまま、声を上げかけたイーファを制す。
﹁やめなさい。メイベルもだ﹂

833
メイベルが一瞬固まって、何かを掴んでいた手を制服の中に戻し
た。
それからぼくは笑顔を作り、アミュへと言う。
﹁アミュ。心配ないよ﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁君は無実なんだ。きっとすぐにわかってもらえるさ。皆⋮⋮そう
せざるを、えなくなる﹂
﹁なんだと貴様、我らを愚弄するかッ!﹂
﹁やめろ﹂
ぼくに詰め寄る騎士の一人を、リーダーが一語で制止する。
いさか
﹁ここには貴族の子弟が在籍している。無用な諍いは起こすな。行
くぞ﹂
リーダーが踵を返すと、騎士たちがそれに続く。新入生や生徒た
ちは、今度は黙って彼らに道を空けた。
﹁っ⋮⋮﹂
縄を引かれるアミュが、一瞬こちらへ顔を向けた。
だが強く縄を引かれると、すぐにそれは背けられ、不安そうな表
情が赤い髪の向こうに隠れる。
ぼくはその様子を、黙って見ていた。
﹁⋮⋮﹂

834
彼らの姿が講堂から消えるまで︱︱︱︱じっと、静かに見ていた。
第十六話 最強の陰陽師、発つ
﹁魔族領からの特使とは、妙な話もあるものです﹂
入学式の翌日。
ぼくは、本棟最上階にある学園長室を訪れていた。
ドワーフ
小柄な矮人の老婆を前に、ぼくは言う。
﹁魔族は帝国の敵であり、彼らと正式な国交はない。その一方で、
現在は目立った戦端も開かれていない事実上の休戦状態だ。まして
や彼らは一国ではなく、いくつもの種族の、さらにいくつもの部族
に分かれている。魔王の時代には連合軍を作ったこともあるものの、

835
国となったことは一度もなかった⋮⋮。彼らのいったいどんな代表
が、なんの用で訪れるのでしょう。それも帝都や国境沿いの街では
なく、ロドネアなどに﹂
﹁⋮⋮わかりきったことを訊くのはおやめ﹂
学園長が、苦々しい表情で答える。
﹁そのようなもの、建前に決まっているだろう。勇者の娘を、連れ
て行くための﹂
﹁ええ、そうでしょうね﹂
﹁だがね⋮⋮魔族がこの都市を訪れていたのは事実だ。無論、使者
などではないが﹂
﹁ええ⋮⋮どうせ勇者を討ちに来たのでしょう、二年前と同じよう
に。彼らも死してなお人間の陰謀に利用されるとは、哀れなもので
す﹂
﹁⋮⋮⋮⋮お前さんかい?﹂
ぼくは薄笑いを浮かべながら答える。
﹁さあ。なんのことやら﹂
﹁⋮⋮まあいいさ。今そのようなことはどうでもいい﹂
学園長は、険しい声音で言う。
﹁お前さんの見ている通りさ。グレヴィル侯爵は、宮廷の把握して
いた魔族の襲来とその死を利用し、適当な理由をでっちあげてあの
娘を攫った。そこまで理解していながら⋮⋮お前さんは何をしにこ
こへ来た。みすみす生徒を奪われていったアタシを、責めに来たの
かい?﹂

836
﹁いいえ﹂
目を伏せて告げる。
﹁ぼくはただ、知りたいだけです。どうしてアミュが連れて行かれ
たのかを﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どうもグレヴィル侯とやらは︱︱︱︱勇者を、無理筋な理由を付
けてまで始末したいように思える。それがわからない。国政を担う
貴族が、なぜあえて国の英雄となる器を砕き、魔族への優位を捨て
ようとするのか﹂
﹁それは⋮⋮いや﹂
学園長は何かを言いかけ、すぐに言葉を止める。
﹁アタシは軍事の専門家じゃあない。不確かなことを言うのはやめ
ておこうかね。ただ一つ言えるのは⋮⋮帝国は、一枚岩ではないと
いうことさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ランプローグの、お前さんも貴族ならばわかるだろう。宮廷や議
会や学会、都市に商会に貴族たちの間には、様々な派閥が入り乱れ
ている。その中には無論、学園卒業生らの作る派閥もある。わかる
かい、ランプローグの。学園が勇者を抱えているということは⋮⋮
彼らの派閥が、強大な暴力を手にするということなのさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それを快く思わない連中もいる﹂
ぼくは短い沈黙の後に口を開く。
﹁その程度の事情のために⋮⋮祖国と同胞を裏切って、勇者を⋮⋮

837
一人の少女を、殺すのだと?﹂
﹁そうじゃない。そうじゃないんだよ、ランプローグの﹂
学園長は諭すように言う。
﹁彼らは決して、単純な欲望で動いているわけじゃあない。そのよ
まつりごと
うな者はほとんどいないんだよ。政は複雑だ。彼らは彼らなりに、
一族や、仲間や、帝国を思い、暗躍している。昨晩の暴挙だって⋮
⋮そうさ。おそらくは﹂
﹁ええ⋮⋮ええ。わかりますよ、先生。ぼくがこれまで見てきた政
争も、そうでした﹂
ただそれは。
ぼくやアミュの事情には、まったく関係ないことだ。
﹁ランプローグの。滅多なことを考えるんじゃないよ﹂
踵を返すぼくを、学園長が呼び止める。
﹁今、あちこちから宮廷に働きかけているところだ。どんな思惑で
動いていたとて、あのような暴挙がまかり通るわけがない。おそら
くは根回しすら満足に行わないまま事を起こしただろう。このまま
朗報を待てばいい。きっとあの娘を⋮⋮﹂
﹁滅多なこと、とはなんでしょう。先生﹂
沈黙する学園長へ、ぼくは薄笑いのまま続けて問う。
﹁まさかぼくが一人で、アミュを取り戻しに行くとでも?﹂
﹁ランプローグの。お前さんは⋮⋮﹂
﹁そんなこと、できるわけがないでしょう。先生の言うとおり、大

838
人しく朗報を待つことにしますよ。⋮⋮ところで﹂
ぼくは、さらに続けて問いかける。
﹁その働きかけというのは、どのくらい時間がかかるものなのでし
ょう。あの子が拷問の末に気が触れるか、あるいは食事に毒を盛ら
れ不審死させられる前に、確実に助け出せるものなのでしょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁失礼、意地の悪い質問をしてしまいましたね。先生もアミュのた
めに尽力していることはわかります。それについてはちゃんと感謝
していますし、応援していますよ。せいぜいがんばってください、
先生。では﹂
ぼくは再び踵を返し、歩みを開始する。
呼び止める言葉は、今度は聞こえてこなかった。
****
日が沈んでいく。
紫立っていた空は、すでに濃紺の色を帯びていた。
﹁︱︱︱︱為政者は皆、自らの持つ特権の由縁を、力以外のものに
求めたがる﹂
人気の絶えた学園の広場。
ぼくは夜の帳が下りていく世界で、空を見つめながら呟く。
﹁正統なる血筋、崇高な法、もしくは信仰や、民の承認⋮⋮王の一

839
族だから、法に定められているから、神が言ったから、皆に認めら
れたから⋮⋮自分たちは、特権を持っているのだと。税を敷き、ル
ールを定め、誰かの自由を奪ってもいいのだと、そう言い張る。よ
くもまあそう都合のいいことを考えるものだと呆れるが⋮⋮あるい
は、力よりも尊いものがあると信じるからこそ、人々は争うことな
く共に生きられるのかもしれない⋮⋮。だけどな、ユキ。彼らは、
往々にして忘れがちだ﹂
浮遊する一枚のヒトガタが、不可視化を解かれ、眼前にその姿を
現す。
﹁そのようなもの、所詮は幻想に過ぎず︱︱︱︱﹂
ぼくは、その扉を開く。
﹁︱︱︱︱すべては、より大きな力に奪われうることを﹂
みずち
︽召命︱︱︱︱蛟︾
空間の歪みから、青緑の鱗を持つ長い体が伸び上がっていく。
龍は夜空に昇ると、まとわりつく式神を振り払おうと暴れ始める。
ぼくは声に呪力を乗せ、告げる。
﹁見ろ、龍よ。ぼくを見ろ﹂
蛟は、なおも暴れる。
あるじ
﹁今のぼくは、お前の主に不足か。龍よ﹂

840
その時、蛟がふと動きを緩め、ぼくに頭を向けた。
湖を玉に変えたような青い眼でこちらをじっと見つめながら⋮⋮
ゆっくりとぼくの前へ、その巨体を降ろしていく。
やがて地表近くにまで来ると、その身に纏う神通力により、石畳
の砂や木の葉が浮かび上がった。
ぼくは、思わず舌打ちしながら呟く。
あやかし きぐらい
﹁まったく、面倒な妖だ⋮⋮大した力もないくせに、気位ばかり高
い﹂
それでも、この国の都市一つを滅ぼすくらいは容易いだろうが。
﹁セイカさま﹂
頭の上で、ユキが言う。
﹁恐れながら申し上げます。この世界での生を、狡猾に生きるもの
こたび
と未だ定めておられるのであれば︱︱︱︱此度あの娘を救うことは、
諦めるべきかと存じます﹂
﹁⋮⋮一応、理由を聞いておこう。なぜだ、ユキ﹂
﹁今生でのセイカさまは、再び政争に巻き込まれることのないよう、
力を隠して生きると決められていたはず。勇者は、そのための傘に
過ぎません。傘を惜しんで風雨にその身をさらしては、本末転倒と
いうものでしょう﹂
﹁何を言っているんだ、ユキ﹂
ぼくは、静かに言う。
﹁お前の言う傘には、代わりがない。勇者に替えはいないんだ。こ

841
こで無理をせずしてどうする。風雨など︱︱︱︱雨雲ごと晴らして
しまえばいい﹂
﹁っ⋮⋮﹂
ユキが、一瞬言葉を詰まらせる。
こたび
﹁セイカ、さま⋮⋮わかっておられるのですか? 此度セイカさま
がお力を振るおうとしている先は⋮⋮まさに、この国を動かしてい
る者たちなのですよ? ご自分でおっしゃっていたではないですか
! 彼らに力を見せて目を付けられれば⋮⋮この世界でも、前世と
同じ目に遭いかねないと⋮⋮﹂
﹁それがどうした?﹂
言葉を失うユキに、ぼくは言う。
﹁先にも言っただろう、ここは無理をする場面だと。勇者は一人だ。
救い出す以外に、ぼくの目論見を遂げる方法はない⋮⋮力を目にし
た者など、消せばいいのさ﹂
﹁し、しかしながら⋮⋮敵は、この強大な国の中枢でございます。
そう簡単に事が済むとは⋮⋮﹂
﹁力によって片が付くことで、ぼくに困難な事柄がどれほどある﹂
﹁そ、それは⋮⋮﹂
﹁いいか、ユキ⋮⋮この世界にも、前世と同じようにたくさんの国
があるんだ。なに︱︱︱︱﹂
ぼくは告げる。
﹁︱︱︱︱一つくらい滅ぼしてしまったところで、どうということ
はないさ﹂
﹁セイカさま⋮⋮﹂

842
ユキが、苦しげに言う。
﹁勇者は目的ではなく、手段に過ぎないのですよ⋮⋮? セイカさ
まが、今生にて幸せになるための﹂
﹁無論、わかっているとも﹂
﹁ならば⋮⋮っ﹂
絞り出すような、小さな声音。
﹁ならばなぜ⋮⋮それほどまでにお怒りなのですか⋮⋮﹂
沈黙を保つぼくに、ユキが言う。
﹁今一度考え直そうとは、思われませんか?﹂
﹁⋮⋮くどいな﹂
ぼくは、声を低くして問う。
あやかし
﹁妖風情が、まだぼくに意見するつもりか、ユキ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮いえ﹂
ユキは、意外にもきっぱりとした口調で答える。
﹁セイカさまがそう決められたのであれば⋮⋮ユキにはもう、申し
上げることはございません﹂
﹁⋮⋮頭を出すなよ。飛ばされるぞ﹂
ぼくは空中の式神を踏み、蛟の頭へと降り立つ。
口の端をわずかに吊り上げながら、一人呟く。

843
﹁さて⋮⋮異世界の政治家諸兄よ、腕前を拝見しよう。果たして君
たちに、最強を討つことができるかな﹂
ぼくは蛟へと告げる。
﹁西へ向かえ。龍よ﹂
蛟の纏う神通力が、力を増す。
ぼくを乗せた頭が、星の瞬きだした西の空を向いた。
巨体がうねる。
風が逆巻く。
かつて日本で、神湖を守護していた水龍は︱︱︱︱今異世界の空
を、帝都へ向かい飛翔し始めた。
844
幕間 勇者アミュ、帝城地下牢にて
アミュは地下牢の硬い床で、膝を抱えていた。
ここに入れられて、どのくらい時間が経っただろう。
日が差さず、静寂極まる地下にいると、時間の感覚すら曖昧にな
ってくる。
入学式の夜は、あれからすぐに馬に乗せられ、街道を夜通し走っ
た。
途中で馬を替えながら、ほとんど休息を取ることもなく、翌日の
夕には帝都へとたどり着いてしまった。

845
なぜそれほど急いでいたのかはわからない。
自分の、身に覚えのない罪についても。
城門を抜けた後は、すぐに馬車に乗せられ、帝城にまで連れてこ
られた。
そしてほとんど何も説明されないまま、この地下牢へと入れられ
た。
ここが普通の罪人を入れる牢でないことは、アミュにも想像がつ
いていた。
なんといっても、ここは帝城の地下なのだ。おそらく、本来は政
治犯などを捕らえておく場所だろう。
しかし、冒険者の子で、一介の平民に過ぎない自分がなぜこんな
場所に閉じ込められるのかは、どれだけ考えてもわからない。
アミュは膝を強く抱え、背を丸める。
寒かった。外は、きっともう深夜だろう。春とは言えまだまだ冷
える時期だ。冷たい石の床からは、どんどん体温が奪われていく。
着の身着のままで連れてこられたアミュには、辛かった。杖剣を
提げてはいたが、馬に乗せられる前に取り上げられてしまったので、
魔法で暖を取ることもできない。
これからどうなるのだろう。
考えると、体が震えた。
決して寒さだけのせいではない。
なぜこんなことになったのかわからなかった。

846
つい先日まで、学園で過ごす最後の一年と、来年から始まる冒険
者としての生活に、思いを馳せていたはずなのに。
あれから、入学式はどうなっただろう。
イーファやメイベルは、心配しているだろうか。
セイカの、総代としての挨拶は︱︱︱︱。
﹁っ⋮⋮﹂
滲んできた涙を、ごしごしと腕でこする。
セイカとした、また一緒に冒険へ行くという約束も、果たせなく
なってしまうかもしれない。
ふとその時、鉄格子の向こうから、足音が響いてきた。
﹁っ!?﹂
思わず身構える。
灯りを手にした人影が、次第に近づいてくる。
その姿を認めて︱︱︱︱アミュは、目を見開いた。
﹁え⋮⋮あ、あんた⋮⋮﹂
847
第十七話 最強の陰陽師、城を破る
﹁この国も、案外狭いな﹂
みずち
夜の空に浮かんだ蛟の頭の上で、眼下の街を見下ろしながら、ぼ
くは小さく呟く。
馬車で二日かかる道のりも、龍ならば十刻もかからなかった。こ
の分なら、この強大な国のすべてを、一月とかからず巡れてしまう
だろう。
真下には、帝都が広がっていた。
大きな街だ。上空から見下ろせば、なおのことそう思える。

848
長い長い城壁に囲まれた中には数え切れないほどの家々が建ち並
び、真夜中にもかかわらず街路に点った灯りが、街全体をぼんやり
と照らし出している。
日本どころか、宋や西洋で目にしたどんな都市よりも、発展した
街。
この世界の人々は、果たしてどれほどの努力の末に、ここまでの
繁栄を手にしたのだろう。
もっとも⋮⋮ぼくには、どうでもいいことではあるが。
ぼくは周囲の式神を、すべてコウモリに変え街へと降下させてい
く。
夜空を降る無数の黒い翼は、さながら影の雨のようだ。
目標は、街の中央にそびえる一際明るい城︱︱︱︱帝城。
灯りを手にした衛兵たちの声が、式神の耳を通してぼくにまで届
く。
﹃うわっ、なんだこれは﹄
﹃蝙蝠っ? だが、なぜこんなに⋮⋮﹄
やがて地表や屋根に降り立ったコウモリを、今度はすべてネズミ
に変える。
式神のネズミは走り出すと、ありとあらゆる隙間から建造物の中
へ侵入していく。煙突、通気口、わずかに開いた窓に、崩れた壁の
穴。
通路の分岐に至る度に群れは分かれ、城内の建物全体を総当たり

849
で探っていく。
特段、操ってやる必要はない。あらかじめそのように式を組んで
いる。
やがて︱︱︱︱ぼくは、小さく笑みを浮かべた。
﹁ああ、見つけた⋮⋮そこにいたんだね、アミュ﹂
ふっ、と。
ぼくは蛟の頭を蹴って、夜空に身を投げた。
空中の式神をとん、とん、と踏みながら、街へ静かに降りていく。
﹁それにしても︱︱︱︱﹂
帝城は、中央にそびえる本城の周辺にいくつかの建物が建ち並び、
それをぐるりと城壁が囲う構造になっている。
堀もなければ、城門も薄い。
完全に、居住や社交を目的とした城のようだった。敵を前に立て
こもることを想定しているようには、とても見えない。
だから、だろうか。
城壁の前に降り立ったぼくは、そのまま一枚のヒトガタを、無人
の門へと向ける。
﹁︱︱︱︱ずいぶんと、脆そうな城だ﹂
いわ と な
︽土の相︱︱︱︱岩戸投げの術︾
小山のような大きさの岩が撃ち出され︱︱︱︱城門を、その周囲

850
の城壁ごと粉砕した。
瓦礫が散り、粉塵が巻き上がる。
少し遅れて、兵たちの悲鳴や怒号が聞こえてきた。
何が起こったか、すぐには理解できないだろう。果たしてこの世
界の魔術師に、城壁の高さをはるかに超える岩を生み出す者など、
存在するのだろうか。
城壁の崩れた場所から、ぼくは悠然と城内に歩み入る。
﹃取り乱すなっ! 何があった!?﹄
﹃なっ⋮⋮城壁が⋮⋮﹄
ネズミの耳から、衛兵たちの声が聞こえてくる。
﹃襲撃かもしれん、全員武器を取れ! 非番の奴らも起こしてこい
!﹄
﹃おい⋮⋮あそこに誰かいるぞ! 塔の奴らに伝えろ!﹄
﹁ほう﹂
ぼくは少し感心する。
混乱が収まりつつある。なかなか練度の高い兵たちのようだ。
二つの月が照らす異世界の夜の明るさが、今ばかりは疎ましい。
﹃あれが襲撃者か⋮⋮? おい、射るぞ!﹄
﹃くそっ⋮⋮やってやる⋮⋮っ!﹄
偶然にも、近くにあった二つの城壁塔から、ほとんど同時に矢が
射かけられる。

851
ぼくはそれを見もせず歩みを進めながら、無言で術を発動した。
じりゅううん
︽陽の相︱︱︱︱磁流雲の術︾
ぼくを狙う矢が、ぐにゃりと逸れていく。
少しばかり出力を上げすぎたせいで、矢はぼくのだいぶ手前から、
まるで見当違いの方向へ飛び去っていった。
城壁塔からは、戸惑うような声が聞こえてくる。
﹃なんだ、矢が⋮⋮?﹄
﹃とにかく狙え! 城に近づけるな!﹄
再び矢が迫る。
もちろん、それらは当たるはずもない。
だが、決して気分がいいものでもなかった。
﹁⋮⋮鬱陶しいな﹂
ぼくは城壁塔へとそれぞれヒトガタを飛ばし、片手で印を組む。
かなめ
いし
︽土の相︱︱︱︱要石の術︾
し め なわ
注連縄の巻かれた巨大な一枚岩が二つ降り、それぞれの城壁塔を
完全に押し潰した。
同時に、式神からの声も途絶える。
﹁止まれッ!!﹂
並ぶ松明の明かりに、ぼくはわずかに目を細める。いつの間にか、

852
はるか前方には衛兵たちが集っていた。
中央にいる隊長らしき男が、ぼくへ声を張り上げる。
﹁貴様は何者だッ! 何が目的で帝城へ参った!?﹂
時間稼ぎか。
ぼくは足を止め、そう思い至る。
増援を待ちつつ、今のうちに貴人らへ避難を促すつもりだろう。
まあいい。忠告くらいはしてやろう。
﹁邪魔をするな﹂
ぼくの声に、隊長らしき男がたじろぐ気配がする。

﹁疾く道を空けよ。従うならば、其の方らの命までは取らない﹂
﹁っ⋮⋮! 放てッ!!﹂
こらえきれなくなったかのように、隊長らしき男が命令を下す。
じりゅううん
弓兵の動きに、ぼくは再び︽磁流雲︾を使おうとして︱︱︱︱舌
打ちと共に、その場から大きく跳び退った。
先ほどまでいた場所に、幾本もの火矢が突き立つ。
この術は、火矢には効果が薄い。
鏃の金属が熱せられると、十分な磁力の反発を得られないのだ。
おそらく視界を確保するためで、これを意図したわけではないだ
ろうが⋮⋮面倒なことだ。
あの隊長も目ざとい。弓兵に普通の矢でなく再び火矢をつがえさ
せているのを見る限り、この弱点を見抜かれたと考えていいだろう。

853
別の矢避けに切り替えようとしたその時、剣を抜いてこちらへ迫
る兵たちの姿が目に映る。
ぼくは⋮⋮急に、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
思えばもう、こんなにちまちまと戦う必要などない。
わずら
﹁ああ、煩わしい﹂
しろほむら
︽陽火の相︱︱︱︱皓焔の術︾
真白の炎が、夜を昼に変えた。
放たれた火矢は一瞬のうちに蒸発し、前の方にいた衛兵の一部が
炎を上げて燃え始める。
白い炎に直接炙られてはいないものの、その輻射熱で装備が自然
発火したようだった。当然中の人体が耐えられるはずもなく、衛兵
はそのままバタバタと倒れていく。
しろほむら
陰の気で余剰な熱を抑えなければ、︽皓焔︾はこれほどまでに強
い。
ぼくは全身にできた火ぶくれを治しながら、焼けただれた唇で笑
った。
﹁はは﹂
かまいたち
︽召命︱︱︱︱鎌鼬︾
空間の歪みから現れたつむじ風が、残った兵たちを切り裂いてい
く。
しばらく暴れた鎌鼬は一度城の屋根に降り立つと、その手に生え

854
た巨大な鎌の血を、毛繕いでもするかのように丁寧に舐めとった。
そして再びつむじ風と化し、衛兵を血祭りにあげていく。
あれは鎌鼬の中でも特に体の大きく、力の強い個体だ。
あの鎌と風の刃に襲われれば、切り傷程度では済まない。
悲鳴と血しぶきの上がる惨劇を眺めながら、ぼくは笑う。
同時にヒトガタが二つ、宙へ浮かんだ。
﹁ははは﹂
ようすい ねつばくふ
︽陽水の相︱︱︱︱熱瀑布の術︾
らいじゅう
︽召命︱︱︱︱雷獣︾
ほんりゅう
熱湯の奔流が兵の集団を襲う。
もだ まばゆ
武器を捨て悶え苦しむ者たちを、雷獣の眩い稲妻が次々に打ち据
え、とどめを刺していく。
はし
幾条もの稲妻が奔るエネルギーのせいで、大気の組成が組み代わ
オゾン
り、雷臭気特有の生臭い臭気が辺りに発生していた。
ぼくは笑いながら、さらなるヒトガタを飛ばしていく。
﹁はははは︱︱︱︱﹂
︱︱︱︱圧倒的な力の前には、あらゆる者がひれ伏す。
ガレオスの言っていたことを、かつてはぼくも強く信じていた。
正統な血筋も、崇高な法も、神の言葉も、民衆の意思も、強大な
あらが
暴力には抗い得ない。
なぜならそれらの権威も、結局は暴力が背景にあって成り立つ概

855
念だからだ。
自身を超える暴力の前に、弱い権威は存在を許されず、そしてよ
り強い暴力こそが次の権威となる。世界はその繰り返しだ。
だから︱︱︱︱力さえあれば。
すべてを超越する力さえあれば、世界は自分の思い通りになると
思った。
しいた
野盗や獣や化生の類を撃退し、民を虐げる貴族の私兵や、略奪を
繰り返す敵国の軍を滅ぼし、悪意ある民衆をも黙らせる⋮⋮。そう
あまた
して弱い者から奪っていく数多の暴力に打ち勝っていけば、自分だ
けは、世界に満ちる理不尽や悲劇から無縁でいられると思った。
いただき
ぼくは力を求め、最強の頂を目指し︱︱︱︱そして到達した。
まじな
もはやどんな大軍を、呪いを、怪異を、災害をもってしても、ぼ
くを倒すことなどできはしない。それは異世界だろうと変わらない。
だからこそ、不思議だった。
やけ
どうして今こんなに︱︱︱︱自棄にならなければいけないのか。

白い炎が宙を薙ぎ、衛兵や建物の壁を溶かしていく。
縦横に走るつむじ風が、血煙を次々に巻き上げる。
高温の蒸気が満ちる空気を稲妻が裂き、この場に立つ者を一人ま
た一人と減らしていく。
それはもはや、戦いとは呼べないものになっていた。
﹁ははは⋮⋮⋮⋮ああ﹂
︱︱︱︱ぼく以外の人間は、こんなにも弱いはずなのに。

856
第十七話 最強の陰陽師、城を破る︵後書き︶
※岩戸投げの術
直径十メートルを超える巨大な岩を撃ち出す術。大きさは可変。建
物や地形の破壊用。
※要石の術
注連縄の巻かれた巨大な一枚岩を降らせる術。大きさは可変。破魔
の力が宿っており、殺傷した生命の怨霊化を防ぐ。
※熱瀑布の術
大量の熱湯を放つ術。本来は高所にある拠点などの防衛用。

857
第十八話 最強の陰陽師、助け出す
城内の一画にある、一つの塔。
その地下へ続く階段を、ヒトガタの明かりで照らしながら、ぼく
は静かに降りていく。
式神を放った時点で見張りすらいないのは気になったが、まあい
い。都合がいいことには違いない。
やがて階段を降りた先に、その地下牢はあった。
ずいぶんと広い。場所が場所だけに、きっと普通の囚人を入れる
牢ではないのだろう。

858
ぼくは檻の鉄格子へ不可視のヒトガタを飛ばしながら、中で膝を
抱えてうずくまる少女へと声をかける。
﹁アミュ﹂
毛布を被った制服姿のアミュが、顔を上げた。
﹁え⋮⋮? セ、セイカ?﹂
﹁無事かい? 助けに来たよ﹂
微笑と共に、ぼくは貼り付けたヒトガタの上から鉄格子へと触れ
ていく。
ガリウム
金の気によって生み出されたガリアの汞に浸食され、脆化してい
た金属は、それだけでぼろぼろと崩れ去った。
アミュが目を丸くして言う。
﹁な、なんで⋮⋮? どうして、あんたがここに⋮⋮﹂
﹁言っただろう、助けに来たんだよ。さあ、逃げよう﹂
ぼくが軽く笑ってそう言うも、アミュはまだ戸惑っている様子だ
った。
﹁あ、あんた、どうやってここまで入って来たわけっ?﹂
﹁あー⋮⋮ちょっと、無理矢理ね。ぼく強いんだ。知ってるだろ?﹂
﹁は、はあ? な⋮⋮なに考えてんのよ! あんた、そんなことし
てどうなると思ってんの!?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁逃げようって、逃げ切れるわけないじゃない! それに、こんな

859
の⋮⋮あんただけじゃなく、あんたの家族にも迷惑がかかるかもし
れないのよ!? 最悪、領地を取り上げられたりとか⋮⋮﹂
﹁アミュ⋮⋮これは、君の命に関わることなんだぞ﹂
﹁そっ⋮⋮そんなのわかってるわよ! あ、あたしは、大丈夫だか
ら!﹂
アミュがそう言った。
それが精一杯の虚勢だということは、すぐにわかった。
微かに震える声で、アミュはまるで自分に言い聞かせるように続
ける。
﹁あたし、なんにもしてないもん! 魔族なんて知らないし、きっ
とわかってもらえる! すぐ出られるはずだから!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから⋮⋮あんたが逃げなさいよ! なにやらかしたんだか知ら
ないけど、まだ夜だし、きっと誰がやったかなんてわからないわ。
だから、今のうち﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁学園で待ってて。あたしも、ぜったいすぐに帰るから。ただの平
民にいつまでも構っていられるほど、お貴族様もきっとヒマじゃな
いわよ!﹂
強がるアミュの、無理矢理作った笑みを見て、ぼくはわずかに目
を閉じた。
それから、静かに言う。
﹁そうはならないんだ、アミュ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁君は勇者だから﹂

860
﹁ゆ⋮⋮勇者?﹂
﹁そう﹂
ぼくは続ける。
﹁おとぎ話の勇者だ。数百年に一度、魔王と共に転生する、人間の
英雄︱︱︱︱今回の勇者が君なんだよ、アミュ﹂
﹁そ、そんなの⋮⋮﹂
﹁ただの平民じゃない。君には殺される理由があるんだ。力を持つ
者は、そうでない者たちから恐れられ、疎まれ、排除される。いつ
の時代でも、どんな世界でもそうだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁逃げよう、アミュ。ここにいたら謀殺されてしまう﹂
目を見開き、言葉を失っているアミュに、ぼくは笑顔で手を差し
伸べる。
﹁ほら、早く行こう。夜が明ける前に⋮⋮﹂
その時。
ぼくは不可視のヒトガタを、通路の先に広がる闇へ向けた。
︽火土の相︱︱︱︱鬼火の術︾
燐の燃える青い火球が飛び、暗い地下を照らす。
それはどこへも届かず、空中で風の魔法により迎え撃たれた。
砕け散った燐の核が、通路のあちこちで小さく燃える。
その儚い炎が浮かび上がらせる人影へ、ぼくは声をかけた。

861
﹁やあ、兄さん﹂
グライは険しい表情で杖剣を構えたまま、何も答えない。
ぼくは、思わず苦笑しながら言う。
﹁ずいぶん早い再会になったね。参ったなぁ、ここで兄さんに会い
たくはなかったんだけど⋮⋮。でも、仕方ないか。決闘でもするか
い? たしかまだ、約束を果たせていなかったよね﹂
グライは、ぼくの問いには答えなかった。
ただ張り詰めた声で言う。
﹁セイカ、お前はいったい⋮⋮﹂
﹁その必要はありませんわ﹂
通路の奥の闇から、声が響いた。
ゆっくりと姿を現した人物を見て、ぼくは静かに呟く。
﹁フィオナか﹂
グライの前に歩み出た聖皇女へと、ぼくは皮肉げな笑みを向ける。
﹁このような場所に、なんとも似つかわしくない人物がいたものだ。
しかしずいぶんといい時に現れる⋮⋮いや、そうか。君には視えて
いたんだな? 今の、この瞬間が﹂
ぼくは笑みを消し、声を低くして続ける。
﹁如何な用向きで現れた、フィオナ。此度の釈明でもしてくれるの
か。それとも⋮⋮そこらに控えさせている有象無象に、ぼくの相手

862
をさせるか?﹂
いつの間にか︱︱︱︱この建物の周辺には、いくつかの気配があ
った。
ただの衛兵ではない。
おそらくは全員が、ガレオスや先の魔族パーティーに匹敵するほ
どの使い手。
きっとこいつらが聖騎士とやらなのだろう。
なるほど、ずいぶんと剣呑な人材を集めたものだ。
もっとも⋮⋮この場においては、何の意味もないが。
﹁いいえ﹂
フィオナは、きっぱりとした口調で言った。
陶然とした雰囲気も、今はない。
ただ真剣な声音で続ける。
﹁そのどちらでもありませんわ。いずれも、今この場では必要のな
いことです。聖騎士は、外から邪魔が入らないよう見張らせている
だけですわ。彼らにあなたを相手取らせることの無謀さを、わたく
しは理解しているつもりです、セイカ様﹂
﹁ふん⋮⋮未来視というのは便利な力だな﹂
ぼくは一つ息を吐いて問う。
﹁それで、何のために来た﹂
﹁その前に、あなたの問いに答えようと思います﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いろいろと疑問に思っていることもあるはず。説明するくらいの

863
誠意は見せるつもりです。その方が、わたくしがこの後にする提案
も、受け入れてもらいやすくなるでしょうから﹂
﹁提案、か。ものは言いようだな⋮⋮まあいい﹂
ぼくは、一番の疑問を口にする。
﹁なぜ、アミュは殺されようとしている?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁帝国には敵がいるはずだ。魔族という、明確な敵が。如何にお前
たちが臆病で、派閥の利益が大事だとしても、勇者を殺し、国とし
ての優位を自ら捨てるなどあまりに不合理に過ぎる。お前たちは、
そこまで愚かだったのか?﹂
﹁それは⋮⋮いいえ、そうではないのです﹂
フィオナは、わずかに言いよどんだ後、話し始める。
﹁かつてはこの帝国も⋮⋮今よりずっと小さな国でした。人口は少
なく、農地も限られ、属国も持っていない。国軍もなく、各地の領
主が領民を徴兵する形で戦力をまかなっていたので、当然装備も貧
弱で、満足な戦術もとれませんでした﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そんな中で現れた勇者は、どれほど頼もしい存在だったことでし
ょう。その力は一騎当千、いえ、それ以上だったかもしれません。
聖剣を手に、頼れる仲間と共に恐ろしい魔族の地に攻め入り、魔王
を倒す英雄。伝説に語られるにふさわしい、まさに希望の象徴だっ
たことでしょう⋮⋮かつては﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮今は、違います。知っていますか、セイカ様。今や帝国
は、実に数十万もの兵を即座に動員できます。それも徴兵された農
民などではなく、訓練を積んだ正規兵を。上質な装備や、進歩した

864
攻城兵器などと共に。そしてそれは⋮⋮魔族側も同じです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁わかりますか、セイカ様。勇者も魔王も、すでに時代遅れの存在
なのです。たとえ一人で数千の兵に匹敵するとしても、全体から見
れば誤差のようなもの。戦争の趨勢を左右できるほどではありませ
ん。仮に魔王を⋮⋮敵の指導者を倒したからといって、首都を制圧
できるわけでもない。所詮単騎でしかない勇者では、都市の占拠も
ままならないのです。賢明な者は皆、この事実に気づいている﹂
﹁⋮⋮それがどうした﹂
ぼくは言う。
﹁戦力としての用を為さないからといって、殺す理由がどこにある。
使えないのなら、捨て置けばいいだけだ﹂
﹁勇者は⋮⋮存在するだけで、戦争の火種となるのです﹂
フィオナが続ける。
﹁考えてもみてください。魔族側に魔王が存在しない今、人間の側
にのみ勇者がいるのです。伝説に語られる強さを持つ英雄が﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁この機に人間が攻め込んでこないと、誰が言い切れるでしょう?
戦力としての用を為さないことを、理解できないほどに人間が愚
かだったら? あるいは戦力にならないことを承知の上で、反魔族
の旗頭として担ぎ上げられてしまったら? 一度戦端が開かれてし
まえば、大戦となることは避けられません。ならば、せめて先手を
取る⋮⋮そう考える魔族の指導者がいてもおかしくはないでしょう。
勇者は、開戦の火種となりうる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今はもう⋮⋮誰も戦争など望んではいません。土地や安全を巡っ

865
て争っていた頃とは時代が違います。魔族は我々とはあまりに文化
が異なるために、属国として併合することもできない。勝ったとこ
ろで利が少ないのです。そして戦争を望んでいないのは、おそらく
魔族側も同じでしょう。勇者を討つ刺客を送ってくるのはそのため。
彼らは争いを優位に進めたいのではなく、火種を消したいのです。
戦争の火種を﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁我々と魔族は、商人を通した非公式の貿易などで、資源や工芸品
をやりとりする程度が一番いい関係でしょう。つまり、今です。誰
も大戦など望んでいない。波風が立つのは、誰にとっても都合が悪
いのです﹂
ぼくは何か言おうと口を開き、そのまま閉じた。
その様子を見ていたフィオナが、続けて言う。
﹁加えて言えば⋮⋮アミュさんがかつての勇者のような強さを得る
ことは、きっとないでしょう﹂
﹁⋮⋮なぜだ﹂
﹁あなたがいるからですよ、セイカ様﹂
フィオナが、静かに続ける。
﹁勇者の強さとは、困難に打ち勝って得られるもの。自らの命や大
切な何かを失いそうになりながら、強大な敵と何度も何度も戦って、
ようやく手にするものなのです。あなたはアミュさんに︱︱︱︱そ
のような状況を許しますか? 帝城へ攻め込んでくるほどに強く⋮
⋮優しいあなたが﹂
沈黙するぼくに、フィオナはなおも言う。

866
﹁あなたがなぜ勇者に執着するのか、わたくしにはわかりません。
未来視の力も、人が胸の内に秘め、決して表に出さない心までを知
ることはできないのです。ですがもし、その理由が強さなら⋮⋮セ
イカ様の思うようには、ならないと言っていいでしょう﹂
﹁⋮⋮だからなんだと言うつもりだ﹂
ぼくは問い返す。
﹁この子は強くならないから、ぼくの思うとおりにはならないから
⋮⋮見殺しにしろと? 平和のために死ぬ様を大人しく眺めていろ
と、そう言いたいのか﹂
﹁いいえ、そうではありません。そのようなことは、わたくしも望
んでいません﹂
フィオナは、はっきりとした口調で否定する。
﹁先ほどわたくしが言ったことは、あくまで物事の一面です。むし
ろ勇者を排すべきと考える過激派は、ごく一部に過ぎません。勇者
に有用性を見出す者、魔族が勢いづく可能性を指摘する者、魔王の
存在を懸念する者⋮⋮有力者の間でも、反対する者はたくさんいま
す。今回の蛮行は、ほぼグレヴィル侯一人の暴走と言えるもので、
帝国の総意では決してありません。学園派閥の者たちはアミュさん
を守る方向で動いていますし、わたくしもそうです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカ様。わたくしの要求は一つです﹂
そして、フィオナは告げる。
﹁今は退いてください﹂
﹁⋮⋮﹂

867
﹁アミュさんには誰にも、なにもさせません。わたくしが持つ力の
すべてでもって、無事に学園ヘ帰します。親類縁者にも、ぜったい
に累がおよばないようにします。あなたが今夜の咎を負うこともあ
りません。今退いてくだされば、必ず元の学園生活へ戻れます。帝
国を⋮⋮あなたが敵に回す必要も、なくなります。だから⋮⋮﹂
﹁はは、なるほどな﹂
ぼくは乾いた笑いと共に言う。
﹁ようやくわかった。君がアミュに⋮⋮いや、アミュとぼくに会い
たがったのは、今この時に、その要求をするためだったんだな﹂
﹁っ⋮⋮ええ、そうです。知ってほしかったのです、わたくしとい
う人間を。たとえ短い間でも、友誼を結びたかった﹂
﹁ははは⋮⋮﹂
﹁覚えていらっしゃいますか、セイカ様。戦棋での約束を。負けた
方は、勝った方の言うことをなんでも一つ聞くと、あなたは約束し
てくださいました。今、それを叶えてほしく思います﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁わたくしを信じてください﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁信じてくださるのならば⋮⋮わたくしも、必ず約束を果たします﹂
﹁ふふっ⋮⋮﹂
﹁セ、セイカ﹂
その時、アミュが横からぼくの袖を掴む。
﹁あの、フィオナとあんたの兄貴は⋮⋮﹂
﹁アミュ﹂
ぼくは少女へ短く告げる。

868
﹁君は少し黙っていなさい﹂
﹁っ⋮⋮﹂
押し黙るアミュから目を離し、ぼくはフィオナへ言う。
﹁戯れにした約束事にしては、ずいぶんと過大な願いを口にするじ
ゃないか、フィオナ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁無理な事柄ならば拒否してもいいと、君はそうも言ったはずだ﹂
ぼくは告げる。
﹁君たちの、いったい何を信じろと言うんだ?﹂
フィオナは唇をひき結び、痛みをこらえるような表情で押し黙っ
た。
決定的な決裂に、場の空気が張り詰めていく。
杖剣を構え直すグライが、堪えきれなくなったように口を開く。
﹁セイカ、お前⋮⋮っ﹂
﹁いえ⋮⋮わかりました。ならば結構です﹂
それを遮るように、フィオナが声を上げた。
﹁どうぞ、アミュさんを連れて行ってください﹂
﹁⋮⋮なんだ、ずいぶん物わかりがいいじゃないか﹂
﹁正門を出た先の広場に、馬車を用意してあります。夜でも走れる
馬ですので、すぐにでも出発できます。学園には戻れないでしょう
が、逃げる先は決めていましたか?﹂

869
﹁⋮⋮﹂
﹁あてがないのであれば、ラカナ自由都市へ向かうといいでしょう。
ダンジョンによって発展した、冒険者の街です。あそこの首長はわ
たくしの協力者で、すでに話は通してあります。セイカ様のことは
隠蔽するつもりですが、アミュさんがいなくなったことだけは隠し
きれませんので⋮⋮もしも追っ手がついた際に、便宜を図ってくれ
るでしょう﹂
﹁⋮⋮まるで、ぼくが断ることまで予期していたかのような準備の
よさだな。それで? 罠はどこに張っている﹂
﹁あなたにそのようなものが意味をなさないことくらい、わたくし
は理解しているつもりです。もしあったなら、その時はラカナでも
帝城でも好きに落とされるといいでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
フィオナは、ふと笑って歩き出した。
ぼくの脇を通り過ぎ、階段の前に立つと、振り返って言う。
﹁さあ、どうぞこちらへ。馬車のところまでわたくしが案内いたし
ましょう。もしまだ信用できないというのなら、ラカナまで同行し
ても構いませんよ?﹂
﹁︱︱︱︱フィオナ、ソコマデスル必要ハナイ﹂
突然どこからともなく、地底から響くような低い声が聞こえた。
声の主の姿は、どこにも見えない。ぼくの感じ取っていた気配の
どれでもないようだった。
﹁自ラ人質トナルツモリカ。ソレハ我トノ約定ニ⋮⋮﹂
﹁黙りなさい﹂
まじな
ぼくが呪いを使う前に、フィオナの一語が声を遮った。

870
その声音は初めて聞くほどに鋭く、ぼくも思わず手を止めてしま
う。
﹁今わたくしの邪魔をすることは許しません。わきまえなさい。た
とえあなたであっても、セイカ様の相手になるとは考えないことで
す﹂
フィオナの言葉には、わずかな焦りの響きがあった。
謎の声が沈黙したことを確認すると、フィオナは微笑を作ってぼ
くへ向ける。
﹁失礼いたしましたわ。あれもわたくしの聖騎士ですの。少しばか
り心配性なだけですので、お気になさらず。後でよく言い聞かせて
おきますわ。さあ、参りましょう﹂
背を向けて階段を登っていくフィオナを、少しの間眺め︱︱︱︱
ぼくは、アミュの手を取った。
﹁行こう﹂
手を引くと、少女は顔をうつむけたまま、大人しくついてくる。
ぼくは上へ続く階段へ、足をかけた。
****
塔から出ると、城内はぼくが暴れたことなど嘘だったかのように
静かだった。

871
きっとその辺りの始末も、フィオナはすでに手を打っていたんだ
ろう。
広場は、崩れた正門を抜けてすぐのところにあった。
﹁⋮⋮本当に、馬車を用意していたんだな﹂
広場の片隅、樹に繋がれた一頭立ての馬車を見て、ぼくは呆れ半
分に呟いた。
その時ふとあることに気づいて、思わず顔が引きつる。
﹁うふふっ、もちろんです。馬も馬車も、どちらも上等なものです
よ。セイカ様が気分を悪くするといけませんから﹂
フィオナが機嫌よさそうに言う。
﹁食糧や路銀も積んでおきました。ラカナまでは十分持つことでし
ょう。アミュさんの剣も、ちゃんとありますよ﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
﹁それで、どうしましょう? わたくしもついて行った方がよろし
いですか?﹂
ぼくは短い沈黙の後、目を伏せて答える。
﹁⋮⋮いや、いい﹂
﹁そうですか⋮⋮いくらかは信用してもらえたのだと、そう受け取
っておくことにしましょう。ここに残れた方が、わたくしとしても
今後の動きが取りやすいですしね。お二人と共にラカナへ行くのも、
楽しそうではありましたが﹂

872
フィオナは、微笑と共に続けて言う。
﹁さあ、乗ってください。今なら北の門から出られます。早く発っ
た方がいいでしょう。いつまでも帝都にいるのは、あまりよくあり
ません﹂
﹁⋮⋮アミュ、ほら﹂
﹁う、うん⋮⋮あ、フィオナ﹂
馬車に乗り込もうとしたアミュが、ふとフィオナの前で立ち止ま
った。
﹁はい?﹂
﹁あの⋮⋮これ、ありがとう。助かったわ﹂
そう言って、手にしていた毛布を差し出した。
ぼくの視線に気づくと、ぽつぽつと説明し始める。
﹁あの牢屋に入れられて少し経った時、フィオナとあんたの兄貴が
来てくれたの。食べ物と毛布をくれて⋮⋮ぜったい出られるからっ
て、ずっと励ましてくれてた﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁これ、たぶんだけど、いいものよね? あったかかった﹂
フィオナは毛布を受け取ると︱︱︱︱小さく笑って、それをアミ
ュの肩に掛けた。
﹁持って行ってください。夜はまだ冷えますから、道中に必要でし
ょう﹂
﹁いいの? ありがとう⋮⋮﹂
﹁うふふ⋮⋮お元気で。ラカナへ向かったことは、イーファさんと

873
メイベルさんにもちゃんと伝えておきますわ。またいつか、一緒に
お話ししましょう﹂
﹁うん⋮⋮あ、でも、あいつは一緒じゃなくていいけどね﹂
﹁グライは本当にひどいですわね。わたくしも驚きました。制服姿
のアミュさんを見るなり、馬子にも衣装って⋮⋮女性の扱いをわか
っておりませんわ。あれは教育が必要ですわね﹂
﹁あの時、あんた普通にひっぱたいてたものね。失礼なのが直るま
では、あたしもぜったい会わない﹂
﹁うふふふっ﹂
アミュは馬車に乗り込むと、フィオナへ小さく手を振る。
﹁じゃあね、フィオナ。本当にありがとう﹂
﹁さようなら、アミュさん﹂
それからフィオナは、ぼくへ向き直る。
﹁それでは、セイカ様﹂
﹁⋮⋮フィオナ﹂
ぼくは一つ息を吐いて、彼女の名前を呼んだ。
フィオナは、戸惑ったように首をかしげる。
﹁はい?﹂
﹁戯れにした約束事とはいえ、守れなくて悪かった﹂
フィオナは一瞬黙った後、微笑んで答える。
﹁いえ、お気になさらず。セイカ様の言う通りでした。遊戯の賭け
事に要求するようなことではありませんでしたね﹂

874
﹁それでも約束は約束だ。果たせなかったのはぼくの落ち度に違い
ない。だから⋮⋮せめてこれくらいはさせてくれ﹂
﹁⋮⋮? なにを⋮⋮﹂
ぽかんとするフィオナの前を通り、帝城を前に見据える。
ここへ降り立ったのは一刻ちょっと前だ。ブロックを八つも遡れ
ば事足りるだろう。
小さく真言を唱えると︱︱︱︱空間が歪み、位相から無数のヒト
ガタが夜空に吐き出された。
それは宙を滑るように飛ぶと、帝城を中心に規則的に配置されて
いく。
やがてそれぞれが呪力の線で結ばれ、立体的な魔法陣が完成する。
﹁ ﹀ ﹀ ┥
﹀ ︱︱︱﹂
両手で印を組み、真言を唱える。
﹁︱︱︱︱ ﹀ ﹀ 己 ﹀ ︱
︱︱﹂
まじな
数えるほどしか使ったことのない︱︱︱︱転生の呪いにも匹敵す
る、理外の術。
﹁︱︱︱︱ 己
︱︱︱﹂
そして︱︱︱︱変化が起き始めた。

875
飛び散っていた城壁の瓦礫が薄れ、その輪郭がぶれる。
一つだけではない。あちこちに存在するすべての瓦礫や降り積も
っていた粉塵が、まるで水面に映った月のように揺らぎ、消え出し
た。
代わりに崩れていたはずの城門や、跡形もなくなっていた城壁塔
が、その姿を取り戻し始める。
目をこすれば消えてしまいそうなぼんやりとした影から、次第に
色味が付き、破壊される前の形へと復元されていく。
変化は、それだけに止まらなかった。
溶けていた城の壁が。
切り裂かれていた庭園の木々が。
そして︱︱︱︱命の失われていた兵たちまでも。
まじな
理外の呪いにより、一刻と少し前の形にまで戻されていく。
やがて︱︱︱︱。
﹁⋮⋮こんなものか﹂
ぼくは印を組んでいた手を下ろした。
帝城は、すでにぼくが訪れた時の姿に戻っていた。
あれほどの破壊の痕跡など、もうどこにもない。
フィオナへと向き直って言う。
﹁一応これで、全部元に戻ったはずだ。ただ、兵の魂までは保証で

876
きない。たぶん大丈夫だと思うけど⋮⋮もし虚ろな者がいたら、そ
の時は楽にしてやってくれ﹂
フィオナは、目の前の光景が信じられないかのように唖然として
いた。
だがやがて、急に怖い顔になってぼくに言う。
﹁まったく、大変なことをしてくれたものです!﹂
﹁え﹂
﹁せっかく強大な魔族の襲撃があったという体で収拾をつけようと
していたのに! あれだけの破壊も兵の命も、すべて元に戻っただ
なんて⋮⋮こんなものどう説明しろと言うのですか!﹂
﹁そ、それは⋮⋮幻術だった、とかでなんとかならないか﹂
﹁このような幻術がありますか! あなたはわたくしに嫌がらせが
したかったのですかっ!?﹂
﹁い、いや違っ⋮⋮よ、よかれと思って⋮⋮﹂
﹁だったらなぜ事前に説明せず、勝手にやってしまうのですか!
一言言ってくれるだけでよかったのに!﹂
﹁う⋮⋮﹂
﹁もう! あなたはそういうところが⋮⋮﹂
そこで、フィオナは言葉を止めた。
そして、自分を恐る恐る見つめるぼくを見て︱︱︱︱溜息と共に、
仕方なさそうな笑みを浮かべる。
﹁でも⋮⋮あなたらしいです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大変ですが⋮⋮なんとかしましょう。約束してしまいましたから
ね﹂

877
フィオナは、踵を返した。
それから、首だけで振り返って告げる。
﹁さようなら、セイカ様。きっとまた、会える時が来ることでしょ
う﹂
****
帝城へ帰って行くフィオナをしばらく見送った後、ぼくは樹に繋
がれていた馬の縄を外し、馬車の御者台へと乗り込んだ。
手綱を握る。
明るい夜だ。馬も落ち着いている。出立に問題はないだろう。
ただ⋮⋮。
﹁セイカ﹂
後ろから、アミュの声が聞こえてくる。
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁あたし⋮⋮正直まだ、状況が飲み込めてないわ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんなのよ、勇者って﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あんたがフィオナと話してたことも、ちんぷんかんぷんだし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なに? あたし死ぬところだったの? あと勇者なのに強くなれ

878
ないの? そして学園は退学になるわけ? もうわけわかんないわ
よ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あたしはあんたやイーファみたいに頭よくないの。ちゃんと説明
してくれるんでしょうね﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁じゃあ、いいわ。今は早く帝都から離れましょ。長居しない方が
いいって、フィオナも言ってたし﹂
﹁なあ、アミュ⋮⋮一つ訊いていいか?﹂
﹁なによ﹂
﹁馬車って⋮⋮どうやって動かすんだ?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮はああ??﹂
アミュが、後ろで身を乗り出す音がした。
﹁なに? あんた動かし方わかんないの?﹂
﹁わかるわけないだろ⋮⋮! あんなに苦手だったのに﹂
﹁じゃ、あんたなんで御者台に座ったの?﹂
﹁アミュがそっち乗ったから⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮? 待って待って、頭痛くなってきた﹂
アミュが混乱したように言う。
﹁そもそも、それじゃあんたどうするつもりだったの? なんでフ
ィオナに御者も欲しいって言わなかったのよ﹂
﹁言えるわけないだろ、あの雰囲気で⋮⋮!﹂
これだけのことをやらかし、後始末を任せて逃げようって人間が、
馬車までもらった挙げ句に動かし方がわからないだなんて情けなさ
すぎる。

879
﹁こ、こんな時になに見栄張ってんのよ! フィオナだったらすぐ
用意してくれたでしょうに! はあ⋮⋮男ってほんとバカね﹂
﹁返す言葉もないよ﹂
﹁というか、あんたも男だったのね﹂
﹁それはいくらなんでもあんまりじゃないか﹂
﹁あんたが人間だってところから、あたしちょっと忘れてたわ⋮⋮
どきなさい﹂
アミュが御者台にまで顔を出しながら言う。
﹁君、馬車動かせるのか?﹂
﹁一回しかやったことないけどね。でもあんたよりはマシよ。ほら
早く﹂
言われたとおりに交代する。
アミュは手綱を握ると、苦笑して言った。
﹁先が思いやられるわね﹂
﹁なんというか申し訳ない﹂
﹁でも、少し楽しみ。ラカナは、一度行ってみたかったもの⋮⋮こ
れからよろしくね、セイカ﹂
アミュが、手綱を軽く打ち付ける。
馬車は帝都の城門へ向け、静かに走り始めた。
880
幕間 聖皇女フィオナ、帝城前にて
フィオナは走り出す馬車を遠くに見て、口元に微かな笑みを浮か
べた。
本当は御者も必要だと泣きつかれることを期待していたのだが、
どうやら自分で動かせたか、アミュに頼ったらしい。少し残念だが、
仕方ない。
城門の向こうは、慌ただしそうな様子だった。
きっと生き返った兵たちが混乱しているのだろう。
さて、どうやって城内へ戻ろうか。

881
破壊された城門を元通りにされるなど、想定していなかった。当
然、今は閉まっている。声を上げたとしても、混乱している中の兵
に聞こえるだろうか︱︱︱︱。
﹁フィオナ﹂
ぼんやりと考えていると、地の底から響いてくるかのような低い
声が、どこからともなく聞こえた。
﹁ソノヨウナ場所ニイテハ、危険ダ。我ガ、城内ヘ戻シテヤロウ﹂
いかにも恐ろしげだが、フィオナにとっては幼い頃から慣れ親し
んだ声だった。
序列一位にして、最初の聖騎士。
心配性なところだけが、玉に瑕だ。
フィオナは目を閉じながら、やや煩わしそうに声へ答える。
﹁もう少し、ここで夜風に当たっていたいのです。賊が現れた際に
は、お願いします﹂
﹁⋮⋮少シダケダゾ。アマリ長クイテハ、風邪ヲ引ク﹂
フィオナは、夜空を見上げた。
よく晴れた、気持ちのいい春の夜だ。
セイカと共に、かつてこんな夜空を眺めたことがあった。
もちろん、それは実際にあった記憶ではない。
幼い頃に視た、ありえたかもしれない可能性の未来の一つだ。
太い運命の流れではなく、蝶の羽ばたき程度のきっかけで変わっ

882
てしまった、儚い未来。
フィオナは、溜息と共に言う。
﹁あの時は焦りました。余計なことをするのはやめてください⋮⋮
セイカ様でも、あなたのような存在にまで容赦されるかはわかりま
せん。まだ、あなたを失うわけにはいかないのです﹂
﹁オ前ハ、何ガシタカッタノダ﹂
﹁セイカ様に、最初の提案に乗っていただきたかったのですが、無
理でした。さすがに交流の期間が短かすぎましたね。あのまま退い
てくだされば、すべてを丸く収めることができたのですが⋮⋮仕方
ないです。でも最後には信用してもらえたようですし、用意した逃
亡先にも向かってくれましたから、よしとします。うふふっ、少し
ばかりの意地悪もできましたしね﹂
﹁今夜ハ、オ前ガ動カナケレバナラヌホドノ、大事ダッタトイウコ
トカ﹂
﹁ええ﹂
﹁⋮⋮アレハ、何者ナノダ?﹂
聖騎士が、険しい声音で訊ねる。
﹁アレホドノ存在ヲ、我ハ知ラヌ。コノ無駄ニ生キナガラエタ生ノ
記憶ノ中デモ、ハッキリト隔絶シタ、強者ダ。尋常ナ者トハ、思エ
ヌ﹂
こ たび
﹁此度の魔王ですよ﹂
聖騎士の問いに、フィオナは短く答える。
﹁魔王、様、ダト⋮⋮? 確カニ、ワズカニ魔族ノ気配ガシタ。ダ
ガ⋮⋮﹂

883
﹁あなたの知る魔王でも、あれほどの強さは持っていませんでした
か?﹂
﹁⋮⋮アア、ソノ通リダ﹂
﹁なるほど。やはりセイカ様は、特別に強きお方のようですね﹂
﹁⋮⋮ナゼ、嬉シソウナノダ﹂
﹁言っておきますが、セイカ様の強さの理由は、わたくしにもわか
りませんよ。わたくしは未来は視えても、過去は視えませんから﹂
﹁アノ者ハ、初メカラアアダッタノカ﹂
﹁わたくしの知る限りでは、そうですわね﹂
かつて視た未来の中では、今よりもずっと年若い頃に出会ったこ
ともあった。
その時ですら、セイカは変わらずに強かった。
特別な何かを学んだり、修業をしているような場面は一度も視た
ことがない。
﹁⋮⋮ワカラヌ。アレハナゼ、勇者ヲ守ロウトスル。ソレモ、コノ
国ノ城ニ攻メ込ンデマデ。魔王ガ勇者ヲ助ケルナド、聞イタコトモ
ナイ﹂
﹁それは﹂
﹁待テ、言ウナ⋮⋮! ワカッタゾ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁我モ、人間ノ国デ過ゴシテ長イ。コレクライノコトハ、察シガ付
ク⋮⋮アヤツラハ、恋仲ナノダロウ。ソウニ違イナイ﹂
﹁⋮⋮は? 何を言っているのですか、あなたは﹂
フィオナは冷め切った口調で言う。
少しばかりの不機嫌さも混じってしまったが、これは寒さのせい
だ。

884
﹁呆れました。まさかあなたが、そんな町娘のようなことを言い出
す日が来るとは﹂
﹁ム⋮⋮デハ、ナンナノダ﹂
﹁親しい人だったからですよ﹂
﹁⋮⋮ソレダケカ?﹂
﹁そうです。あの方は、親しい者ならば誰だって助けます。自らの
従者でも、学友でも、兄弟でも両親でも⋮⋮きっとわたくしのこと
だって、同じ状況になれば助けてくれたはずです。ぜったいそうで
す﹂
﹁願望ガ混ジッテイル、気モスルガ⋮⋮﹂
最初の聖騎士は、戸惑ったように言う。
﹁俄ニハ、信ジラレン。アレホド隔絶シタ強者ガ、ソノヨウナ慈悲
ノ心デ、動クモノカ。マルデ、普通ノ人間ノヨウナ﹂
﹁セイカ様は普通の人間ですよ﹂
﹁アリエン⋮⋮ソノヨウニ言エルノハ、オ前ガアノ者ノ持ツ力ヲ、
真ニ理解シテイナイカラダ。我ハ、ヒタスラニ恐ロシイ⋮⋮カツテ
勇者ト相見エタ時モ、コノヨウナ感情ヲ抱イタコトハ、ナカッタ。
アノ者ハ、恐ラクコノ世界スラ、容易ク滅ボセルダロウ﹂
﹁そうですか。でも、セイカ様はそのようなことはなさらないでし
ょうね﹂
﹁ナゼソンナコトガ、言エル? オ前ハ、アレノ何ヲ知ッテイルノ
ダ⋮⋮。アノ者トノ未来ヲ数度視タ程度デ、何ガワカル﹂
﹁わかりますよ。数度どころではありません⋮⋮幼い頃は、何度も
何度もこの力を使い、あの方に会おうとしていたのですから﹂
今でも、よく覚えている。
幼少期に、淡い憧れと共に目に焼き付けた、儚い未来の日々を。

885
﹁うふふっ。セイカ様は︱︱︱︱﹂
フィオナは、どこか自慢げに笑う。
あの人は、いつでも優しく、強かった。
優しく、強いがゆえに、最後はいつも苦しんでいた。
優しさゆえに、力を振るわざるを得なくなる。
たとえ、その先に破滅が待ち構えていると知っていても。
だから︱︱︱︱自分も、強く生きようと決めたのだ。
まだ視たことのない、セイカにとっても帝国にとっても、最良と
なる未来を目指すために。
﹁︱︱︱︱そういう、優しい方なのです﹂
幕間 聖皇女フィオナ、帝城前にて︵後書き︶
これで五章が完結です。
学園編が終了、次から冒険者編が始まります。
886
第一話 最強の陰陽師、馬車旅をする︵前書き︶
六章の開始です。
887
第一話 最強の陰陽師、馬車旅をする
よく晴れた、春の日の正午前。
北東へ延びる帝国の街道を、ぼくとアミュを乗せた馬車が走って
いた。
御者台に乗って手綱を握っていると、頬を撫でる涼風が気持ちい
い。
心なしか、馬も調子が良さそうだ。
﹁ねぇ、セイカ﹂
荷台から、アミュが話しかけてくる。

888
﹁そろそろ替わる?﹂
﹁え? いいよいいよ。まだ全然疲れてないし﹂
﹁⋮⋮そう言って、あんたもうずっとそこ座ってない?﹂
アミュが若干呆れたように言う。
﹁なんでもうすっかり馬車大好きになっちゃってるのよ﹂
アミュの言う通り。
馬車の大まかな動かし方を教わったぼくは、それからほとんどの
時間を御者台の上で過ごしていた。
素直に答える。
﹁結構楽しいんだ、これ。あと自分で動かしてると不思議と気分が
悪くならない﹂
﹁馬の世話まで甲斐甲斐しくするようになっちゃって﹂
﹁馬は元々好きだからね。それに昔は自分で牛の世話も⋮⋮あ、い
や﹂
﹁牛⋮⋮? あんたの実家、牛なんて飼ってた?﹂
アミュが訝しげに言う。
もちろんそんなわけもなく、前世の話だ。日本に居た頃は、普通
に牛車に乗ることが多かったから。
あれは大した速度は出ないものの、その分乗り心地は悪くない。
まじな あやかし
呪いで転移したり、妖に乗る方がずっと手っ取り早いのだが、残念
ながら人を訪ねるのにはまったく向かないし、風情が欠片もなかっ
た。

889
と、そんなことを答えるわけにもいかないので言葉を濁すと、馬
車の上に沈黙が降りた。
居心地の悪いものではない。
そう感じるのは、この子に対して、幾分か素直な気持ちで向き合
えるようになったからだろうか。
﹁⋮⋮学園は、今頃どうなってるかしらね﹂
アミュがぽつりと言った。
ぼくは視線を前へと向けたまま、答えに迷う。
つい先日︱︱︱︱ぼくはさらわれたアミュを助け出すため、帝城
へ攻め入った。
大暴れの末、一応連れ出すことは成功したのだが⋮⋮当然という
か何というか、学園に戻ることはできなくなってしまった。
政争に巻き込まれ、下手すればこの子が殺される可能性もあった
おおごと
以上、やむを得なかったとは思っている。しかし⋮⋮大事になって
しまったのは事実だ。
皇女であるフィオナが取りなしてくれたからよかったものの、そ
れがなければどうなっていたことか。
ぼくは迷った末、ただ会話を繋げるだけのような答えを返す。
﹁⋮⋮今頃は、新学期が始まっているだろうな﹂
﹁そうじゃないわよ。あたしたちのこととか⋮⋮イーファのことと
か、そういうのよ﹂
﹁⋮⋮﹂

890
確かに、気がかりではあった。
侯爵の抱える騎士団にアミュが連行されたことは、入学式の最中
だったこともあって大勢の人間に知られている。
ぼくがいなくなったことも、当然気づかれているだろう。いろい
ろ実績を持ち、今年総代を務めたぼくも、アミュと同じかそれ以上
に学園の有名人だ。
今頃どんな噂が流れているやら⋮⋮。
さすがにまだ大丈夫だろうが、いずれは除籍にもなるだろう。
まあ、学園を去った以上その辺はもう関係ない。それよりもイー
ファだ。
あの子は奴隷身分だから、主人であるぼくがいなくなって⋮⋮ど
ういう扱いになるのかがいまいちよくわからない。帝国法や学園の
規則を思い出してみても、はっきりとした解釈が難しそうだった。
まあ、ひどくともランプローグ領に送り返されるくらいだろうが
⋮⋮申し訳ないことをしたと思っている。せっかく、学園での成績
もよかったのに。
帝城に攻め込む前は頭に血が上っていたから、正直後のことはあ
まり考えていなかった。ひどい主人だ。
ただ実際のところ⋮⋮そう悪いようにはならないんじゃないかと、
思っていたりする。
あの学園長は、規則に従って粛々と物事を処理するような人間で
はない。ぼくがいなくなって成績トップになったイーファを、規則
や金といったつまらない理由で手放すことはまずしないだろう。
それに⋮⋮フィオナもだ。
あの謀略家たる聖皇女は、自身の未来視によって、ぼくの持つ力

891
のほどをある程度把握しているようだった。あんなことがあったば
かりの今、ぼくの機嫌を少しでも損ねるような事態を、うっかり見
逃すとも思えない。今度はロドネアを破壊されでもしたら堪らない
はずだ。
いや⋮⋮そうじゃないな。
あの子たちと親しげに会話を交わしていた彼女のことを、ぼくは
少しでも信じたいと思っていた。
﹁きっと大丈夫さ﹂
長い沈黙の後にそう答えると、今度はアミュが黙り込んだ。
それから、ほどなくして口を開く。
﹁ねぇ、セイカ﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
﹁いい加減、訊いてもいい?﹂
ぼくはわずかな緊張と共に、問い返そうと開きかけた口を閉じた。
アミュは構わず話す。
﹁あんた⋮⋮なんでそんなに強いのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁帝城の城壁、あれあんたが壊したんでしょ? しかもその後元に
戻してるし⋮⋮いったいどうやったらあんなことができるのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁城の衛兵みんな倒して、あたしのとこまで無傷で来て。フィオナ
が言ってたけど、あの子の聖騎士ですら、誰も相手にならないくら
いなんでしょ? あんた⋮⋮何者なの?﹂

892
﹁⋮⋮﹂
ぼくは、少し置いてから答える。
﹁ぼくは小さい頃、魔力測定の儀式で、魔力を持っていないって言
われたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、どうしても魔法が諦めきれなくてね。家が家だったから、
屋敷の書庫でひたすら勉強して⋮⋮帝国では珍しい、今の符術を覚
えたんだ。普通の魔法は今でも使えないけど、これがその代わり以
上になる。強いのは、あの頃必死だったおかげだよ⋮⋮。この説明
じゃダメかな﹂
﹁そんなの前にも聞いたわよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁嘘はやめて﹂
ぼくは小さく溜息をつき、目を閉じた。
この子は人をよく見ているし、感情の機微にも敏い。
ただの学友でいられた頃ならともかく、こんな雑な誤魔化しの弁
を、もう信じてはくれないだろう。
誠実に向き合う必要がある。
もう、正直に話そう。
ぼくは、意を決して口を開く。
﹁ぼく⋮⋮どうやら、天才みたいなんだよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮は?﹂
呆けたような声を出すアミュに、ぼくは渋い顔のまま続ける。

893
﹁必死だったって言ったけど⋮⋮今思えば最初から、人よりずっと
上手くできた。一番初めにただの聞きかじりで使った術ですら大成
功だったからな⋮⋮。新しい術だってすぐに覚えられたし、そもそ
も記憶力もよくて勉強もできた。気づいたのは学び初めてしばらく
経ってからだったよ。まあ、あったってことなんだろうな。才能﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁この符術自体は、もちろん頭のいい先人が生み出して、多くの人
の努力の末に体系化されたものなんだけど⋮⋮実は今使ってる術の
まじな
半分くらいは、ぼくが自分で編み出したものなんだ。呪い以外の、
博物学の知識とかも組み合わせたりして⋮⋮途中から楽しくなって、
その頃にはあまり必死という感覚はなかったな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁で、気づいたらこうだよ﹂
説明を終えたぼくへ、アミュが呆気にとられたような顔で言う。
﹁⋮⋮なに、その⋮⋮自慢? あんたそんな自信満々のキャラだっ
たっけ?﹂
﹁君が訊いてきたんじゃないか。これ以外に、強さの理由なんて説
明のしようがないよ﹂
﹁⋮⋮なにそれ﹂
﹁嘘に聞こえるか?﹂
﹁⋮⋮⋮⋮聞こえないわね﹂
少し経ってから、アミュが溜息をついて言う。
﹁それほんとなの? なんか⋮⋮拍子抜け。聞いて損した気分。す
ごい秘密があると思ったのに。あたし、何言われるかって覚悟して
たのよ?﹂

894
﹁⋮⋮ひどい言い草だな。ぼくだってこんなこと話したくなかった
のに﹂
実際、こんなことを改めて口に出すのは生まれて初めてだ。前世
でだって言ったことはなかった。なんだか気恥ずかしい、自意識過
剰みたいで。
正直に話した。
今言ったことは、すべて真実だ。
もちろん︱︱︱︱言っていないことはある。
あやかし
異世界に、転生。陰陽術に、妖。すごい秘密だってちゃんと持っ
ている。だが⋮⋮訊かれていないことまで答えるつもりはない。
強さの理由は、説明した通りだ。
ぼくの実力に、生まれ変わりは関係ない。
アミュが呟く。
﹁でも⋮⋮強さなんて、結局そんなものかもしれないわね。あたし
だって⋮⋮勇者じゃなかったら、こんなに剣も魔法も、上手くでき
なかったんだろうし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そういえば、あたしが勇者だって、どうしてあんた知ってたの?﹂
﹁⋮⋮二年前の入学式の日、デーモンを喚んだ術士を探しに行った
って言っただろう? 見つからなかったとも言ったけど、実は見つ
けてたんだ。そいつから聞いた。あの襲撃は⋮⋮実は、君を狙った
ものだったんだよ﹂
﹁ふうん⋮⋮やっぱりね。勇者だもん、狙われもするわよね。で?
そいつはあんたが倒したわけ?﹂

895
﹁⋮⋮ああ。誰にも言ってないけど﹂
﹁そう⋮⋮じゃあ二年越しだけど、この前の分とまとめて言うわね﹂
ぼくの後ろで、アミュがはにかむように言う。
﹁ありがとね、セイカ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁なんだか、あんたには助けられてばっかりね﹂
ぼくは振り返りもしないまま、微かな罪悪感と共に答える。
﹁⋮⋮どういたしまして﹂
言っていない秘密は、もう一つあった。
アミュ。ぼくは初め、君を利用しようとしていたんだ。
先日のような、為政者に目を付けられ、処刑されるような役割を
こそ、ぼくは君に求めていた。
最強たるぼくの、身代わりとなってもらうために。
それを自ら台無しにしてしまった今︱︱︱︱もう、どうしたらい
いのかわからない。
896
第二話 最強の陰陽師、野営する
夕暮れ時。
街道の脇にあった大きな岩の陰に馬車を停めて、ぼくは言った。
﹁今日はここで野宿するしかないだろうな﹂
本当は今日中にラカナへ入りたかったのだが、前の町で少し出立
が遅くなってしまったこともあって、予定通りとはいかなかった。
ここからラカナまではまだ数刻ほどかかりそうだし、この先は山
や森が近いから、暗くなってから進むことは避けたい。
﹁その方がいいわね﹂

897
アミュが、馬車から飛び降りて言う。
﹁でも、明日にはラカナに着きそうね﹂
﹁そうだな⋮⋮。本当はこんなはずじゃなかったけど、明日は明る
いうちに入城できるから、ゆっくり宿を探せていいかもしれない。
日暮れ前に慌てて探すとぼったくられそうだ﹂
正直、手持ちの金も心許ない。
フィオナが用意してくれた金は路銀としては十分だったが、この
先ずっと生活していくにはもちろん足りない。なるべく節約したか
った。
こんなことなら、帝城へ行く前に寮に残していた金をいくらか持
っていくんだったな⋮⋮。
事情をわかっているアミュもうなずいて言う。
﹁そうね。まあでも、ラカナは冒険者の街だから、安宿はきっとた
くさんあると思うわよ﹂
﹁安宿なぁ⋮⋮。下手な安宿だと、野宿の方がマシなところも多い
からなぁ⋮⋮﹂
﹁なにその、事情通みたいな。あんたそんなに旅慣れてたっけ?
たしかにそうは聞くけど﹂
それから、アミュはにっと笑って、ぼくへ告げる。
﹁今日はあんた、寝ていいわよ。見張りはあたしがしとくから﹂
﹁え、でも⋮⋮﹂
﹁どうせ、明日もあんたが御者やるんでしょ? 居眠りされたらた

898
まんないわよ。それに、あんたいっつもあたしより遅く寝て早く起
きてるけど、ちゃんと寝てるの?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今日は甘えなさい。わかった?﹂
ぼくはしばし悩んだ後、苦笑して答える。
﹁なら、そうさせてもらおうかな﹂
﹁決まりね。じゃあ、食事にしましょう。たしか向こうに川があっ
たから、あんた水汲んできて。あたしは火をおこしておくから﹂
﹁はいはい⋮⋮﹂
歩き出しながら、ぼくは赤い空を見上げて思う。
思いがけず始まったこの旅も、そう悪いものじゃない。
****
で、明くる日の早朝。
﹁寝てるし⋮⋮﹂
たき火のそばで、膝を抱えて眠りこけるアミュを見下ろして、ぼ
くは呆れながらそう呟いた。
まあね。こうなるんじゃないかと思ったよ。
体がなまるとか言って夜中に剣を振っていたけど、あんなことし
たら眠くなるに決まってる。
一晩中気を張っているのは、それだけでも疲れるというのに。

899
﹁⋮⋮﹂
見張りに寝られるのは、本当は野宿をする上ではかなりまずい。
安全そうな場所に停めたとは言え、野盗や獣やモンスターの危険
は当たり前にある。
軍だったらまず処罰の対象だろう。
だが、この子を責める気にはなれなかった。
あんなことがあった以上、昨夜どころか、もうずっと気が休まら
なかったに違いない。ちゃんと眠れていないのはこの子も一緒だ。
たき火の様子を見るについ先ほどまでは起きていたようだし、よ
くがんばった方だろう。
まあそもそも、何かあったら式神でわかるようにしていたしね。
馬車から引っ張ってきた毛布を少女の背中に掛けてやると、ぼく
は明け方の空を見上げた。
馬はもう起きているようだが、さすがに出立にはまだ早い時分だ。
少しその辺の散策でもするか。
アミュのそばに式神を残し、ぼくは歩き出す。
昨日水を汲んだ小川の近くまで来た時、ふと口を開いた。
﹁ユキ﹂
あやかし
頭の上で、もぞもぞと妖の動く気配がする。
みずち
ユキとは、あの日蛟に乗って学園を発って以来、まだ一言も言葉
を交わしていなかった。
ぼくはもう一度声をかける。

900
﹁ユキ﹂
﹁⋮⋮なんでございましょう、セイカさま﹂
髪から顔を出したユキが、平坦な調子で答えた。
ぼくは静かに言う。
﹁ごめんな﹂
﹁なにを謝っておられるのですか﹂
そう言われて、ぼくは困ってしまった。
自分でも、何を謝っているのかよくわからない。
﹁⋮⋮もっと、お前の言うことを聞いておけばよかったよ﹂
﹁では次の機会には、あの娘を見捨てられますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あるいは力を隠すことを諦め、今後はずっと、前世で得た強さを
頼りに生きられますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカさまにも、たとえ道理に沿わぬとて、譲れぬものがござい
ましょう﹂
ぼくが黙ると、ユキは続けて、申し訳なさそうに言う。
﹁むしろ、ユキの方こそ⋮⋮あのような無意味な提案をすべきでは、
ございませんでした。セイカさまが到底聞き入れられるものでない
ことは、わかっておりましたのに﹂
﹁そんなことはないさ。ぼくは⋮⋮初めはお前の言う通り、あの子
を犠牲にするつもりでいたんだから。そもそもはぼくの言い出した
ことだ﹂
﹁いいえ。ぜったい︱︱︱︱セイカさまは、聞き入れられませんで

901
した。ユキにはわかります﹂
そう言うと、ユキは髪の中へ潜ってしまった。
ぼくは小さく息を吐き、独り言のように呟く。
﹁世の中、ままならないな。どうすればいいだろう。ぼくはこの先、
どう生きれば⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それはご自分でもよくお考えくださいませ﹂
つんと答えるユキ。
ぼくは頭の上に手を伸ばし、髪の中の細い体を撫でてやると、ユ
キが続けて憮然と言った。
﹁撫でればいいと思っておられませんか?﹂
﹁じゃあ、何か欲しいものあるか?﹂
﹁物をやればいいと思っておられませんか?﹂
ぼくが黙って頭から手を離すと、ユキが少し置いて言った。
イチジク
﹁ユキは今、干し無花果が食べたいです。あともっとたくさん撫で
てほしいです﹂
ぼくは苦笑して答える。
﹁なら、ラカナに着いてからだな﹂
ユキは黙ったままだったが、この様子はたぶん、それでいいとい
うことだろう。
ふと、その時︱︱︱︱ぼくは足を止めた。

902
小川の向こうに広がる森。木々の合間から姿を現した存在に、目
を奪われる。
それは大きな、鹿の姿をしたモンスターだった。
灰と茶が混じったような毛並みで、頭には直方体の結晶が組み合
わさった幾何学的な角が生えている。背や脚にも見られる鈍い虹色
をしたその鉱物は、どうやら魔石であるようだった。
水を飲みに来たのだろうか。普通の鹿の倍ほどもあるそのモンス
ターは、川の手前でぼくに目を向けたまま、動きを止めている。
名前はわからないが、かなり神々しい雰囲気のモンスターだ。
ぼくは無言で式を向ける。
鹿型のモンスターは、一瞬で反応して森へ逃げようとしたが、遅
かった。ヒトガタの作る五芒星の陣に囚われ、跳躍しかけの格好で
その動きを封じられる。
よしよし。
﹁セイカさま?﹂
頭の上のユキが訝しげに問いかけてくる。
﹁なにゆえ封じようとされているのです? 襲いかかってきたわけ
でもありますまいに。この世界の物の怪は位相に耐えられないので
すから、セイカさまの手駒にもできませんよ?﹂
﹁だからいいんだよ。こいつは売る﹂
ぼくは口元に笑みを浮かべながら答える。

903
﹁ラカナは冒険者の街だからな。モンスターの死骸の換金先くらい
いくらでもあるだろう。勘だけど、こいつはきっと高く売れるぞ﹂
というわけで。
ぼくは印を組み、真言を唱える。
﹁︱︱︱︱

その時、鹿の眼がぼくを睨み、魔石の角が光を放った。
しかしながら、何も起きないうちに、その体は空間の歪みへと吸
い込まれていく。
そして後には、扉のヒトガタだけが残った。
きっとそれなりに強かったんだろうが、すまない。
位相の中で綺麗な死骸となってくれ。
﹁うーん⋮⋮なんだか、ユキには罰当たりなことをしたように思え
ます﹂
﹁ぼくが罰当たりって、今さら過ぎるだろ。前世で何体の神を封じ
たと思ってるんだ﹂
踵を返し、アミュの待つ馬車への道を戻っていく。
今生でのぼくは、やはりついている。金の問題も早速解決しそう
だ。
ただなんとなく⋮⋮ユキの言ったことも、わかる気がした。

904
第三話 最強の陰陽師、街に入る
その後何事もなかったかのように馬車へと戻ったぼくは、まだ眠
そうにしていたアミュを荷台へ乗せ、出立した。
山間の道を行くこと、数刻。
日が真上まで昇る少し前に、進行方向に都市の城壁が見えてきた。
﹁⋮⋮あれが﹂
自由都市ラカナ。
ダンジョンがもたらす富によって発展した、冒険者たちの街。
そういう都市があると聞いたことはあったものの、実際に訪れる
のはもちろん初めてだ。

905
ぼくは一目見て思ったことを呟く。
﹁ずいぶん城壁が高いな﹂
ロドネアどころか帝都よりも高い。
おまけに城門や上部の通路、合間合間に立つ城壁塔まで物々しく、
外部からの脅威に対しかなり慎重になっているように思える。
不思議だった。
ここは別に、戦略的に重要な都市というわけではない。
資源が採れる豊かな土地ではあるものの、その源はダンジョンで
あるので、鉱山や港のように奪えばいいという場所でもなかった。
魔族や敵国軍の襲来を、そこまで警戒しなければいけないとも思
えないけど⋮⋮。
﹁たぶん、スタンピードに備えてるんじゃないかしら﹂
ちょっと前に目を覚ましていたアミュが、後ろで答えた。
ぼくは視線だけで振り返る。
﹁スタン⋮⋮なんだって?﹂
﹁スタンピードよ、モンスタースタンピード。モンスターが群れに
なって村や街を襲うこと。そう滅多にあることじゃないけど、ここ
の周りはダンジョンや森ばっかりだから、万が一に備えてるんじゃ
ない?﹂
﹁へぇ⋮⋮そういうのがあるのか﹂
初めて聞いた。

906
あやかし
前世でも丑三つ時に妖が群れをなす百鬼夜行というのがあったが、
みやこ
別に都や村落を襲ったりはしなかった。せいぜい出くわした人間が
喰われる程度だ。
現象としては似ているが、実態は別物なんだろうな。
ぼくは訊ねる。
﹁そのスタンピードっていうのは、どうして起こるんだ?﹂
﹁さあ⋮⋮。たまたま一種類のモンスターが大量発生したり、他の
強いモンスターから逃げてきた、ってこともあるみたいだけど⋮⋮
理由がわからないことの方が多いわね。なぜかいろんなモンスター
が一度に現れるんだって。大きなダンジョンや森が近くにあると、
起こりやすいみたいなんだけど﹂
﹁⋮⋮ふうん﹂
いろんなモンスターが、なぜか一度に、ね⋮⋮。
ここまで聞いて、ぼくはその理由に心当たりが生まれていた。
ダンジョンがモンスターを生むのなら、条件さえ整えば大量に現
れもするだろう。
ここらの土地から感じる力の流れ︱︱︱︱転生してから初めて見
・・
つけたこれを思えば、その条件というのも想像がついた。
もっとも、今心配する必要はないけど。
そんなことを考えている間にも、馬車はラカナへと進んでいく。
****

907
城壁をくぐって目に入ったのは、雑多という形容がふさわしい街
だった。
建物は簡素で、それほど高層建築もない。ロドネアや帝都に比べ
るとどうにも洗練されていない印象だ。だが一方で人の数は多く、
その見た目も様々。珍しい髪や肌の色をした人種に、亜人の姿もあ
った。
そしてやはり、武器を提げている人間が多い。
さすがは冒険者の街といった風情だ。
ラカナへ入ったぼくとアミュは、まず馬車を売った。
元はフィオナが用意した物なのでためらいはしたが、維持してお
けるほどの余裕もない。
返せと言われたら弁償するしかないな。
そんなわけで若干の申し訳なさと引き換えにはなったものの、金
銭的には少し余裕ができた。
金貨の袋を仕舞いながら、ぼくはアミュと共に人で賑わう街を行
く。
﹁で、これからどうする? セイカ﹂
横でアミュが言う。
﹁とりあえず逗留先の宿を探した方がいいと思うけど﹂
﹁それなんだけど⋮⋮まずは、ここの首長に会おうと思うんだ﹂
﹁ラカナの首長に? どうして?﹂
﹁フィオナがぼくらのことを伝えてあると言った以上、顔を見せて
おいた方がいいんじゃないかと思って﹂

908
そして︱︱︱︱できるなら、その意思を確かめておきたい。
ぼくらの敵になり得るかどうかを。
フィオナは自身の協力者だと言っていたが、所詮は一人の人間だ。
自らに利すると判断すれば、勇者を追う派閥の者にぼくらを売る
こともあり得る。
それ以前に、フィオナの意思すら、ぼくは未だに量りかねていた。
はかりごと
その場で謀を見抜けるとは思っていないが、まあそこは式神で見
張っていればいずれボロを出すだろう。
勇者の来訪を知らせ、反応を見る。
ここが安全な地か見極めるには、どうしてもそれが必要だ。
﹁⋮⋮それに、首長ならきっと安くて良い宿だって知ってるさ﹂
﹁あ、そうね。どうせならここの人間に訊いた方がいいわよね﹂
ぼくがそう付け加えると、アミュはあっさり納得してうなずいた。
****
ラカナの行政府は、街の中心にある。
城壁の中にあるもう一つの城門をくぐり、しばらく歩くと、大き
な広場に面したその市庁舎が見えてきた。
さすがに立派な建物だ。この地の商館や聖堂以上に堂々とした佇
まいをしている。

909
さて、どう言って取り合ってもらおうか⋮⋮などと考えながら歩
みを進めていると、ふと市庁舎の手前に、小さな人だかりができて
いることに気づいた。
何やら言い合う声も聞こえてくる。
どうやら揉め事らしい。
﹁こんな場所で喧嘩か? 物騒な街だな﹂
﹁そんなもんよ、冒険者なんて﹂
関わり合いにならないよう脇を通り過ぎようとすると︱︱︱︱人
だかりの中から人間が飛んできた。
﹁うわっ﹂
慌てて飛び退くぼく。
背中から地面に落ちた男は、それですっかり伸びてしまったよう
だった。
割れた人垣の中から声が聞こえてくる。
﹁てめっ、こらガキ! やりやがったなッ!﹂
﹁だったら、なに。あなたも、ぶっ飛ばされたいの﹂
その声には、思いっきり聞き覚えがあった。
ぼくはしばし固まった後、近くに寄って人垣の中を覗き込む。
そこにいたのは、三人の人間だった。
顔を歪めて喚き散らしているのは、冒険者らしきひょろりとした
男。
それに相対しているのは、背に戦斧を担いだ小さな灰髪の少女。
そしてその後ろでおろおろしているのは、くすんだ金髪で猫っ毛

910
の少女。
えーっと⋮⋮。
﹁メ⋮⋮メイベル? それにイーファ? あんたたち、なにやって
んのこんなとこで!?﹂
隣でアミュが驚きの声を上げた。
二人の少女がぼくらの方を向く。
﹁あ﹂
﹁アミュちゃん⋮⋮セイカくん⋮⋮﹂
目を丸くする二人。
だが⋮⋮やがてイーファがぼくらへと駆け寄ると、そのまま抱き
ついてきた。
﹁ちょっ﹂
﹁イ、イーファ? あんた⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふぇええええええ﹂
両腕をぼくとアミュの首に回して、すんすんと泣き出す。
ぼくらは、思わず二人して黙り込んでしまった。
とりあえずその後ろ髪を撫でてやっていると、メイベルが歩み寄
ってくる。
﹁アミュ、セイカ⋮⋮よかった。見つかって﹂
﹁メイベル⋮⋮あんた、なんでこんなとこにいるのよ﹂
﹁追いかけてきた﹂
﹁えええっ?﹂

911
﹁え、えっと⋮⋮いつからラカナにいるんだ?﹂
﹁昨日から﹂
﹁昨日!? なんでぼくらより早く⋮⋮いや、そうか﹂
位置的に、ロドネアの方がラカナに近い。
みずち
蛟で十刻かからなかったのだ。フィオナがあの翌朝に鳩を飛ばせ
ば、その日のうちに二人は事情を知ることができただろう。そこか
ら一日準備し、出発しても十分ぼくらに先行できる。
でも⋮⋮、
﹁なんで、そんなこと⋮⋮﹂
﹁それ、訊く?﹂
メイベルが少しだけ怒ったように言った。
﹁え⋮⋮﹂
﹁そうだよぉ⋮⋮﹂
イーファがぼくらから腕を放し、赤い目をごしごしこすりながら
言う。
﹁アミュちゃんが連れて行かれて、セイカくんもいなくなって⋮⋮
そしたらまさか、あんなことになってるなんて⋮⋮そのまま学園に
なんていられないよ⋮⋮﹂
﹁えっと⋮⋮やっぱり、一通りの事情は聞いたのか? その、帝城
のこととか⋮⋮﹂
﹁うん⋮⋮学園長先生から⋮⋮﹂
イーファがうなずく。

912
うん、まあ、そうだよね。隠し通せるとは思ってなかったけど⋮
⋮。
今度はアミュが、メイベルへと申し訳なさそうな顔を向ける。
﹁でも⋮⋮あんたたちには関わりないことじゃない。あたしたちは
もう、学園には戻れないのよ。こんなとこまで来てもらったって⋮
⋮﹂
﹁関わりなくない⋮⋮私はアミュのこと、最初から知ってた﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁私が貴族の養子になったのも、学園に来ることになったのも、あ
なたのせい。あなたが攫われたのと、同じ理由。だから⋮⋮今さら
無関係になんて、なれない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁最後まで付き合う。いい?﹂
真っ直ぐに言うメイベルに、アミュは言葉を詰まらせ、顔をうつ
むかせた。
ぼくは力のない笑みを浮かべながら、少女たちへと告げる。
﹁悪い。心配かけたな、二人とも﹂
﹁ちょっと待ったあああああ!!﹂
顔を向けると、先ほどのひょろい冒険者の男がぼくらを憤怒の表
情で見ていた。
あ、そういえばこいついたっけ。
﹁何終わった気でいやがる! おいガキ! てめッ、どう始末付け
るつもりだ!?﹂
﹁⋮⋮メイベル、この人は?﹂

913
メイベルは男に一瞥だけくれると、淡々とぼくに説明を始める。
﹁市庁舎に入ろうとしたら、そこのやつと、あっちで寝てる二人組
に、声かけられた﹂
﹁君が投げ飛ばしてたやつな。声かけられたって、なんで?﹂
﹁イーファが、奴隷なんじゃないかって﹂
﹁なん⋮⋮あー、そういう﹂
ぼくは察しがついた。
この二人は、たぶん逃亡奴隷を捕まえて小遣い稼ぎをしようとし
ていたのだろう。
ここラカナはその性質上、様々な土地から人間が集まる。
当然その中には、主人の下から逃げた元奴隷だって少なくない。
逃亡奴隷によっては、高い懸賞金をかけられ、商会や冒険者ギル
ドを通じて各地に手配書が回されているような者もいる。それに目
を付けるやつがいてもおかしくはなかった。
二人とも女で子供だからなぁ。この街に流れ着くには、確かに不
自然だ。
戦斧を背負い、どことなく雰囲気のあるメイベルはともかく、イ
ーファは冒険者にも見えない。容姿もいいし、疑われるのも無理は
ないだろう。
﹁それで、なんて答えたんだ?﹂
﹁はいそうですけど、って。イーファが﹂
﹁ええ⋮⋮なんで正直に言うかなぁ﹂
﹁うう、ごめん! つい⋮⋮﹂
﹁それで?﹂

914
﹁逃亡奴隷じゃないって説明しても聞かなくて、無理矢理連れて行
かれそうになったから﹂
メイベルが、伸びている男を指さす。
﹁一人ぶっ飛ばしたとこ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
事情はだいたいわかった。
﹁ごめんねぇ、メイベルちゃん﹂
﹁別にいい。だけど、イーファはもっと舐められないようにしない
と危ない。ロドネアを出てから、四回も絡まれた﹂
﹁うう⋮⋮﹂
肩を落とすイーファだが、無理もないかなぁ、と思える。
この子、どうも隙があるんだよな。別に弱くはないんだけど。
まあ今はいい。ぼくは冒険者の男へと向き直る。
﹁悪いが、ぼくがこの子の主人だ。事情があって別行動をしていて
ね。その予定はなかったが、この子としてはここでぼくと落ち合う
つもりだったようなんだ。紛らわしくてすまない﹂
﹁ハァ? てめッ、貴族か?﹂
冒険者の男は、不審そうに表情を歪ませて怒鳴る。
﹁おい、証拠はあるのか証拠は!﹂
﹁証拠?﹂
﹁首輪の鍵でも焼き印の形でも、それがないなら証書を見せてみろ

915
っつってんだ!﹂
ぼくは無茶な要求に困ったような表情を作りながら、内心焦る。
まずい⋮⋮そういえばこの子の証書、寮の部屋に置きっぱなしだ
った⋮⋮。
ま、まあきっと、学園長が保管しておいてくれるだろう。
とりあえず、ぼくは普通に正論を返す。
﹁そんなもの、いちいち持ち歩いているわけないだろう﹂
﹁だったらてめぇのモンだという言い分は通らないな。大人しくそ
いつを渡してもらおうか﹂
﹁どうして?﹂
﹁ギルドの手配書に該当するやつがいないか確かめてやる。それが
道理ってもんだろ。もちろんいなければてめぇの言うことを信じて
返してやるよ。まあもっとも⋮⋮今日確かめる必要はない。明日ま
で一晩、オレが預からせてもらおうか﹂
男に粘着質な視線を向けられたイーファが、怖じ気づいたように
小さくなる。
﹁それが困るなら⋮⋮わかるだろ? こっちは真っ当な行いをして
いただけだっていうのに、怪我人まで出てるんだ! あいつが稼ぐ
はずだった分をどうしてくれる。なあ、貴族の坊ちゃまよ﹂
﹁⋮⋮﹂
なるほど、タダでは帰らないと。なかなか意地汚いやつだ。
思えばぼくだって武器を提げていないし、舐められているんだろ
うな。自分でも冒険者に見えるとは思えない。

916
ぼくは人の増え始めた周囲を見回して、少し考える。
それから、口の端を吊り上げて言った。
﹁いやだ﹂
﹁は?﹂
﹁いやだ、と言った。金など払わないし、イーファをやるつもりも
ない。君の道理に付き合う理由が、ぼくにはないな﹂
﹁そ、それが通ると⋮⋮ッ﹂
﹁さて。通らないならば、どうする?﹂
﹁てめッ⋮⋮!﹂
﹁ちょ、ちょっとセイカ!﹂
今にも剣を抜きそうな男の前で、アミュがぼくの腕を引っ張る。
﹁ん?﹂
﹁あんた、なに挑発してんのよ!?﹂
﹁どうも舐められているようだったから。こういう街では、新入り
は一発かましておくものだろう?﹂
﹁んんんんそうとも言えるけどっ、あんたの一発って⋮⋮﹂
﹁大丈夫大丈夫、加減するから﹂
ぼくらのやり取りを眺めていた男が、いくらか余裕のある笑みを
浮かべる。
﹁はっ、女の従者に諭されてちゃ世話ないな﹂
﹁もうこのやり取りいいよ。さっさと来いヒョロガリ﹂
﹁オレをヒョロガリって呼ぶんじゃねぇぇええええ!!﹂
いきなり剣を振り上げ、冒険者の男が迫る。

917
ぼくはやれやれと、手元で印を組んだ。
︽土水の相︱︱︱︱白月塔の術︾
﹁ぬわぁぁああああっ!!﹂
男の足元から突如太い石膏の柱が立ち上がり、その身体を高く高
く持ち上げた。
﹁ひぃやああああああ!!﹂
柱の天辺で、男が悲鳴を上げながら暴れる。
しかしながら下半身が完全に石膏の中に埋まっているため、もち
ろんどうにもならない。
というか、あんまり暴れるなよ。これ脆いんだから最悪砕けて落
ちるぞ。
アミュが焦ったように言う。
﹁な、なによこのド派手な魔法! 加減するって話はどこいったの
よ!?﹂
﹁しただろ。無傷だし﹂
﹁でもぐったりしてるじゃない!﹂
﹁あれ⋮⋮ほんとだ﹂
六丈︵※約十八メートル︶ほどにまで伸びた柱の先を見上げると、
男が気を失っているようだった。
﹁⋮⋮たぶん、高いところが怖い人だったんじゃないかな。さっき
も悲鳴上げてたし﹂

918
﹁はあ⋮⋮それならいいけど、思いっきり目立っちゃったわね﹂
周りの人だかりからは歓声が聞こえていた。口笛を鳴らしている
やつもいる。
まるで見世物だ。
いや、そのつもりで派手な術を使ったわけなんだけど。
﹁あんたねぇ、あたしたちがここに逃げてきたんだってこと忘れて
ない?﹂
﹁あまりビクビクしているとつけ込まれるぞ。ある程度は堂々とし
ていた方がいい。それにな﹂
ぼくは、もう何度目かわからないこの台詞を吐く。
﹁こんなものは目立つうちに入らない。そう思わないか?﹂
﹁うーん⋮⋮。ま、そうかもしれないわね。帝城をぶっ壊すことに
比べたら﹂
﹁お前たち! 何をやってるんだ! 散れっ、散れっ!﹂
その時、数人の衛兵が庁舎の方から駆けてきた。
ここを警備している者たちだろうか。
衛兵は野次馬を散らすと、石膏の塔を呆れたように見上げ、それ
からぼくへと詰め寄る。
﹁これはお前が?﹂
﹁ええ﹂
﹁はあ⋮⋮ここでの私闘は禁止だ。当然、それはわかっていたのだ
ろうな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮えっ﹂

919
そうなの?
ぼくは焦って振り返ると、アミュが呆れたように首を左右に振っ
ていた。メイベルとイーファも気まずそうな顔をしてる。
まずい⋮⋮。
ロドネアでは意識したことなかったけど、考えてみれば当たり前
だ。正式な決闘ならまだしも、街中で私闘なんて許してたら治安も
何もない。
ぼくは慌てて言い訳する。
﹁いやでも、向こうが先に⋮⋮﹂
﹁私闘は禁止だ。例外はない。そこの女どももお前の仲間か? な
らば全員、詰め所まで来てもらおう。まさか無一文とは言うまいな﹂
﹁わ、賄賂を要求するならこちらにも考えが⋮⋮﹂
﹁違う。罰金だ﹂
最悪だ⋮⋮。ここで罰金は痛すぎる。
どうにかして逃げる算段を立てていた︱︱︱︱その時。
﹁おう、やめとけやめとけ!﹂
野太い声が、広場に響き渡った。
衛兵を含めたぼくら全員が、声の方へ顔を向ける。
大柄な男が、庁舎から歩いてきていた。
無骨な髭面に、浅黒い肌。上等なシャツと上着をだらしなくはだ
けさせ、口には葉巻をくわえている。
大男が衛兵たちに向かい、手をひらひらと振りながらながら言う。

920
﹁そいつらにゃ手を出さんでいい。ここを潰されでもしちゃ敵わん
︱︱︱︱ワシへの客人だ、こっちで相手をする。お前達はそこで伸
びている奴を連れて行け﹂
﹁は⋮⋮はっ!﹂
衛兵たちはすぐさま踵を返すと、メイベルが最初に投げ飛ばした
男を運んでいく。
大男はというと、ぼくの正面に立ったかと思えば、にやりと笑っ
て言う。
﹁おう、小僧。こいつは貸しだ。わかっているな﹂
﹁⋮⋮まあ、いいでしょう。罰金分程度の、ですがね﹂
﹁ふん。ならば早速返してもらおう﹂
大男は、石膏の塔の先でぐったりとする冒険者を見上げ、言った。
﹁そいつぁ確か、高いところが苦手だった。早いとこ下ろしてやっ
てくれ︱︱︱︱セイカ・ランプローグよ﹂
921
第三話 最強の陰陽師、街に入る︵後書き︶
※白月塔の術
石膏の柱を作り出す術。硫酸カルシウムの1/2水和物︵半水石膏︶
に水を加えると、ごく短い時間で固化し、一般に知られる白くて硬
い塊状の石膏になる。術で生み出したものは全長二十メートルに迫
るが、自然状態でも十メートルを超える巨大な結晶が確認されてい
る。 922
第四話 最強の陰陽師、会合する
市庁舎最上階の一室。
ぼくらの目の前にいる髭面の大男が、三人掛けの長椅子にふんぞ
り返って言った。
﹁それにしても、本当にガキばかりとはなぁ﹂
ぼくは顔を引きつらせながら答える。
﹁そうですか。これでも今年、成人なんですがね﹂
﹁ふん、十五なぞガキでなくて何だ。パーティーでも小間使いにし
かならんわ﹂

923
﹁⋮⋮まあ、あなたにとってみればそうでしょうね。サイラス議長﹂
聞いた髭面の大男︱︱︱︱サイラスが顔をしかめる。
ラカナは自由都市、つまり治める領主のいない都市だ。
ダンジョンを攻略する冒険者たちの宿営地から発展したここラカ
ナは、その成り立ちと住民の気質︱︱︱︱つまり、揃いも揃ってモ
ンスターを狩る荒くれ者共という特殊性ゆえに、長きにわたって封
建制からの自由を保ってきた。
街の運営はラカナ自由市民会議という名の議会が担っており、サ
イラスはそこの議長で、同時に行政府の長でもあった。
つまり︱︱︱︱フィオナの言っていた協力者である首長というの
が、この目の前の髭男というわけだ。
﹁その議長というのはやめんか。どうにも物々しくてかなわん。そ
んな呼び方、議場での議員以外はせんぞ﹂
﹁なら、どう呼べば?﹂
オヤジ
﹁議長でなければなんでもいい。親父でも旦那でも、市長でもな。
そんな役職はないが﹂
﹁では⋮⋮市長で﹂
たぶん、だいたいの人間にそう呼ばれていることだろう。
サイラスが鼻を鳴らして言う。
﹁それで? 事実なのか? 貴様が帝都を派手に破壊し、ここまで
逃げ延びてきた国賊というのは﹂

924
隣に座るアミュたちが、緊張したように身を強ばらせる。
どうやらフィオナは、ぼくたちのことを特に隠すことなく伝えて
いたようだ。
もしかしたら、アミュが攫われるよりも前に。
ぼくは小さく嘆息し、告げる。
﹁もちろん、そんな事実はありませんよ⋮⋮壊したのは帝城だけで
す。しかも、ちゃんと元に戻してから逃げてきました﹂
﹁カッカ!﹂
突然、サイラスが大口を開けて笑った。
﹁面白い小僧だ! あの姫さんもとんでもないやつを送りつけてき
おった。こりゃあ、ラカナでも何かしでかされる前に、帝国軍に突
き出した方がいいかもしれんのぉ! そこの、勇者の嬢ちゃんと一
緒に﹂
聞いたアミュが、微かに顔をうつむける。
ぼくは静かに言う。
﹁あまりおすすめはしませんね⋮⋮ここラカナを、歴史の中でのみ
語られる街にされたくなければ﹂
﹁カッカ! 大言を吐く!﹂
﹁それと、あまり連れを不安にさせるような、趣味の悪い冗談は控
えてもらいたい﹂
﹁ふん⋮⋮連れを? 貴様自身を、の間違いではないのか?﹂
見透かしたようなサイラスの物言いに、ぼくは溜息をつく。

925
このような手合いは、どうにも苦手だ。
﹁そうですね。ならば、率直に訊きましょう。あなたは本当にフィ
オナの陣営に属していて⋮⋮ぼくたちを匿う気があるのですか?﹂
﹁ふん、なんだそれは? ないのぉ、そんな気など﹂
サイラスはそう言って、葉巻をくゆらせる。
﹁まず、ワシもこのラカナも、どこぞの陣営になど属しておらん。
ここは自由を愛する冒険者の街よ。自分らのことはすべて自分らで
決める。何者かの思惑に揺さぶられることなどあってはならない。
あの姫さんとは、利用し合っているだけのことよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁さて、小僧。この意味はわかるか?﹂
﹁試すような物言いはやめてもらいたい。そんなもの知る由もあり
・・・・・・ ・・・
ませんが⋮⋮勘でいいならば、そうですね。聖皇女だけが、ラカナ
・ ・・・・・・
を欲していない。その辺りが理由でしょうか﹂
﹁カッカ! 聡いのぉ、小僧! その通りよ﹂
サイラスは言う。
﹁今の皇子どもは皆、この街を見て涎を垂らしておる。戦争もなく、
新たな土地が手に入らなければ、支援者への褒美にも当然困る。だ
が陣営を維持するためには、帝位争いを制した際の見返りは、必ず
約束しなければならない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁誰のものでもないここラカナは、その見返りとしては絶好だろう
の。この街の帝属を、どの皇子も支援者へ約束していることだろう。
当然、ダンジョンが生む富の分配も。だが⋮⋮姫さんだけは、事情
が違う。ごくごく単純な話、あの聖皇女は金を持っているからのぉ。

926
見返りには困らんのよ﹂
やはりか、とぼくは思う。
未来視の力があれば、あらゆる投資がうまくいく。後ろ盾がない
状態から成り上がるには、少なくとも金は必須だったことだろう。
市井にそんな話は出回っていないが、相当な資産を持っているこ
とは想像がついた。
加えて言えば、民の力を何よりも大きく見るフィオナにとって、
封建制はその力学に反する制度でしかないはずだ。
わざわざラカナを手に入れる理由が、彼女には乏しい。
﹁そのような事情で、緩い協力関係を結んでいるだけのことよ。姫
さんが遠くの商会にも顔を繋いでくれるおかげで、ダンジョンの資
源がいい値で売れる。向こうも傘下の商会が潤えば、出資金を回収
できて助かる。互いに益があるというわけよ。もっとも⋮⋮不都合
が起きれば、互いにいつ裏切ってもおかしくないがな﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
想像していたよりは、実利的な繋がりであるようだった。
だが⋮⋮これでよかったかもしれない。
もし、サイラスがフィオナの信奉者のような人物だったら、その
内心はとても読み切れなかっただろう。
政治には時に、愛憎や名誉が絡む。前世の最後に巻き込まれた皇
位争いもそうだった。
あんなものはとても手に負えない。
利益で繋がっているだけの関係なら、破滅の予兆もまだわかりや
すいはずだ。

927
サイラスは目を剥いて笑い、続けて言う。
﹁どうだ、小僧。この馬鹿正直な回答で満足か?﹂
﹁ええ。本当に馬鹿正直かどうかは、後で裏を取ることにしますが。
しかし⋮⋮﹂
ぼくは、ここで少しばかりの反撃を試みる。
﹁そんな答えをもらってしまっては、こちらとしてはどうにも不安
でなりませんね。このままでは︱︱︱︱あなたを始末して議会を脅
し、この街を掌握でもしなければ、とても安心して眠ることなどで
きそうにない﹂
﹁カッカッカ!!﹂
サイラスは葉巻を吐き出すと、ぼくへと大きく身を乗り出す。
﹁おう。やってみぃ、小僧﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だがな、この街は、そう簡単に貴様の思うとおりにはならんぞ﹂
⋮⋮ダメだな。この程度の脅しで揺さぶれる人物ではなさそうだ。
本物の為政者は、時に自らの生死すらも政策の一部に組み込む。
この男もそういった、異常者の一人なのだろう。
駆け引きの相手としては、どうにも分が悪い。
ぼくが黙っていると、サイラスは何事もなかったかのように上体
を引いて、長椅子の背にもたれかかる。
﹁それに、貴様としてもあの姫さんを敵に回したくはあるまい。追
っ手に聖騎士どもが加われば、いくら貴様とて荷が重かろう﹂

928
﹁そっ⋮⋮そう、ですか。いえ、そうですね﹂
ぼくは一瞬だけ目を見開き、短く答えた。
そうか。
この男は、ぼくをその程度だと思っているのか。
考えてみれば無理もない。
まだ成人もしていない子供が、まさかこの街を一夜で更地にでき
るなどとは思わないだろう。
それならば、都合がいい。
聖騎士程度で抑えられると思っているのなら、それで。
恐れられていないということは、ぼくにとって何よりもありがた
い。
﹁⋮⋮ええ、もちろん﹂
ぼくはうなずいて言う。
﹁ぼくとしても⋮⋮フィオナ殿下と敵対したくはありません。大人
しくしていると約束しましょう。それで? ぼくたちはこの街で、
これからどう過ごせば?﹂
﹁ふん、そんなもの好きにしろ。何も大人しくしている必要もない﹂
サイラスが、再び葉巻をくわえる。
﹁貴様らを特別匿う気はないが、この街は誰も拒絶せん。無論、犯
罪者は別だ。貴様らの追っ手とやらがこの街で狼藉を働けば、他の
犯罪者と同じように引っ捕らえ、金目の物を取り上げ、城壁の外へ
放り出す。やんちゃが過ぎれば当然、奴隷落ちだ﹂

929
﹁⋮⋮﹂
﹁だから貴様らは、この街の住人として好きに過ごせばいい。その
自由を、ワシらは誰も妨げん﹂
﹁⋮⋮﹂
なるほど。
この男が協力者というのは、結局のところ事実だったようだ。
わざわざこんな回りくどい言い方をするのは、帝国の権力者へ便
宜を図るような真似はしないという、自由都市の首長としての矜持
なのかもしれない。
それはそれとして、ぼくは言うだけ言ってみる。
﹁ええと、生活の面倒を見てもらえないかと、実はちょっと期待し
ていたんですが⋮⋮﹂
﹁甘ったれが、自分らの面倒くらい自分らで見んか! あの姫さん
からも、そんな言付けは受け取っておらん。まあ、言外に期待され
ていたふしがないでもないが⋮⋮知らんな。金が必要なら、自分ら
で姫さんに無心せい。でなければ、稼ぐことだ。商人の小間使いで
も、鍛冶職人の弟子でも、冒険者でもなんでもすればいい﹂
﹁⋮⋮﹂
まあ、そううまい話はないか。
ぼくたちを養う程度、この男にとっては大した出費でもないだろ
うが⋮⋮やはり貴族を接待するような真似を、個人的に許せないの
かもしれない。
それに⋮⋮ある意味では予定通りだ。
ぼくは小さく息を吐いて、言う。

930
﹁ではせっかくなので、冒険者にでもなるとしましょう﹂
﹁おう。それはいい﹂
サイラスが大きく笑って言う。
﹁力ある者ならば、やはりそう言うと思っておった。なに、帝城を
破壊できる実力があるならば、女三人を囲う程度は稼げよう﹂
﹁ばかにしないで﹂
その時、メイベルが口を開いた。
サイラスを真っ直ぐ見据えて言う。
﹁自分の食い扶持くらい、自分で稼げる﹂
﹁ほう﹂
サイラスが感心したように、メイベルを見据える。
﹁いい目をするな、娘っ子。その戦斧も、どうやら飾りではないよ
うだ⋮⋮。そういえば、勇者もおったな。どうだ、嬢ちゃんは戦え
そうか?﹂
﹁⋮⋮あたしが初めてモンスターを倒したのは、十歳の頃よ﹂
アミュが顔を上げて、その若草色の瞳でサイラスを睨む。
﹁ダンジョンにも森にも、何度行ったかわからないわ。レッサーデ
ーモンや、ダンジョンボスの黒ナーガだって倒した。この街に来る
ずっと前から、あたしはもう冒険者よ﹂
﹁カッカ! いいのぉ!﹂

931
サイラスが、大口を開けて笑う。
﹁貴様らはいい住人になりそうだ! せいぜい励み、稼ぐがいい。
この街は欲望と暴力でこそ潤う﹂
とはいえ、と、そこでサイラスは語調をゆるめる。
﹁この周辺にあるダンジョンのことは、まだ何も知らんだろう。ま
さかないとは思うが⋮⋮ここ最近、一部のダンジョンの難易度が上
がっていると聞くからのぉ。早々に死なれでもしたらかなわん。最
初くらいは多少の便宜を図ってやろう﹂
﹁便宜⋮⋮?﹂
﹁呼んでいるはずだが⋮⋮﹂
と、その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
﹁いい時に来おった。入れぃ!﹂
扉が開き、人影が入室してくる。
背の高い、どこか理知的な顔をした男だった。
細身だが、おそらくはよく鍛えられている。服装と提げた剣を見
るに、冒険者のようだ。
﹁おう、ロイド。待っとったぞ﹂
ロイドと呼ばれた冒険者が、ややすまなそうな顔で言う。
﹁遅れてすみません、市長。それで、用とは⋮⋮﹂
﹁こいつだ﹂

932
と言って、サイラスがぼくの肩を叩いた。
勢いが強かったせいで、体が揺れる。
﹁ワシの伝手で今日からこの街に住むことになったガキどもだ。冒
険者になるそうだから、ギルドやダンジョンのことを軽く教えてや
れ﹂
﹁またずいぶん急な話ですね⋮⋮﹂
﹁なんだ、嫌か﹂
﹁まさか、そんなわけありませんよ。ちなみに市長の伝手とのこと
ですが、彼らを私のパーティに勧誘しても?﹂
﹁無論、それは貴様の自由だ。好きにせい﹂
﹁ならば喜んで﹂
と、ロイドと呼ばれた冒険者が、ぼくへ手を差しだしてくる。
﹁初めまして。私はロイド。﹃連樹同盟﹄というパーティーのリー
ダーをしている者だ。えーっと⋮⋮﹂
﹁⋮⋮セイカ・ランプローグです。どうも﹂
ぼくはその手を握り返す。
﹁ランプローグ⋮⋮たしか、遠方の伯爵家だったかな﹂
﹁ええ、まあ﹂
﹁詳しい事情は訊かないことにしよう。それが、この街のマナーだ
からね。君たちも他の冒険者と親しくなる機会があったら、このこ
とを思い出してほしい﹂
と言って、ロイドは柔和な笑みを浮かべる。
あまり、冒険者らしくない笑みだった。

933
サイラスが大きな声で言う。
﹁セイカ・ランプローグよ。この街で暮らしていくには、何よりこ
の街に受け入れられることだ﹂
﹁⋮⋮それは、郷に入っては郷に従え、という意味ですか?﹂
﹁いんや、従う必要などない。貴様がこの街を変えてしまってもい
い。ラカナは、そうやってこれまで続いてきたのだからのぉ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ま、意味はいずれ分かろう。他にわからないことがあれば、そい
つに訊け。なんでも喜んで教えてくれるぞ。素材の剥ぎ取り方に、
スリ
掏摸を半殺しにするコツ、それと、具合のいい娼館とかな。カッカ
!﹂
﹁その冗談、妻の前ではやめてくださいよ﹂
二人のやり取りに、ぼくは小さく嘆息して、口を開く。
﹁なら、早速一つ訊きたいのですが﹂
せっかくだ、この機会に教えてもらおう。
﹁どこか、いい宿は知りませんか?﹂
934
第五話 最強の陰陽師、説得する
市庁舎を出て、ぼくら四人は街を歩いていた。
夕暮れ時が近づく時間帯だが、開いている店が多く、街路は人で
賑わっている。
住民の気質なのか、ロドネアや帝都やランプローグ領と比べても、
飛び交う言葉は荒っぽい。
﹁はぁ∼、でも、なんとかなりそうでよかったね! あの冒険者の
人も、いい人そうだったし﹂
歩きながら、イーファが言う。

935
﹁ふん⋮⋮ダンジョンのことなら、あたしだって詳しいのに。ギル
ドのことだってよくわかってるわよ、ママが支部の幹部なんだから
! あの男に教えてもらうことなんてなにもないわよ、まったく!﹂
﹁でも、アミュに教えてもらうのは、なんか不安﹂
﹁なによ﹂
アミュとメイベルが言い合っている。
ぼくらは三日後、あのロイドという冒険者に、ダンジョンの一つ
とギルドを案内してもらうことになっていた。
悪くない展開だった。まだ右も左もわからない中、街の冒険者に
いろいろと訊けるのはありがたい。
裏切られそうな気配も、今はまだない。
案内を三日後にしてもらったのは、こちらからの提案だった。
街に慣れると共に、必要なものを買いそろえておきたい。幸い、
手持ちにはその程度の余裕はある。
それと⋮⋮もう一つ、済ませておきたいことがあった。
﹁イーファ、メイベル﹂
ぼくは足を止め、先を行く二人を呼び止めた。
二人と、それから並んで歩いていたアミュも、こちらを不思議そ
うに振り返る。
ぼくは告げる。

936
﹁君たちはロドネアに帰れ﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どうして、セイカ﹂
戸惑うイーファと、睨むような視線を向けてくるメイベルに、ぼ
くはずっと考えていたことを告げる。
﹁君ら二人まで、こんな場所にいる必要はない﹂
街を見ていればわかる。
ここは治安がよくない。住んでいるのはその日暮らしの冒険者ば
かり。余所で居られなくなった者が、流れ着いては死んでいく、そ
んな街。
どこにも行けなくなった者たちの、最後の地だった。
若者がここに居ても、未来はない。
﹁学園に戻るんだ。あそこにいた方が、君たちはずっといい暮らし
が送れる。フィオナや学園長が、きっと便宜を図ってくれるはずだ。
ぼくとアミュの事情に⋮⋮無闇に付き合うことはない﹂
﹁嫌﹂
そうきっぱりと言ったのは、メイベルだった。
﹁セイカ。約束、忘れたの﹂
﹁約束⋮⋮?﹂
﹁私を、商会の刺客から守ってくれるって、約束﹂
﹁それは⋮⋮だが、君はもう、本当はそんな心配なんて⋮⋮﹂
﹁私は、忘れてない。だから、そばにいる。私を助けた責任を、ち
ゃんと取って﹂
﹁メイベル⋮⋮﹂

937
﹁それに﹂
メイベルは、付け加えるように言う。
﹁まだあなたに、恩を返してない﹂
沈黙の後、ぼくは、小さく息を吐いた。
﹁わかったよ⋮⋮。だが、イーファ。君だけでも帰れ。せっかく成
績がいいんだ、学園を卒業すれば、君は何にでもなれる。秋には、
ぼくが後見人になって、自由身分をあげるよ。だから⋮⋮ぼくらに
無理に付き合って、人生を無駄にするな﹂
﹁ね、セイカくん、覚えてる?﹂
静かに聞いていたイーファが、不意に小さく笑って言った。
﹁学園に行く、一年くらい前だったかな。お屋敷の庭で、怪我をし
たカーバンクルを見つけて、セイカくんから炎の幽霊をもらった日
のこと。あの時、セイカくんにここから出て行きたいか、って訊か
れて⋮⋮わたし、答えたよね。出て行きたい、って。いろんなとこ
ろに行って、いろんなものを見てみたいんだって﹂
﹁⋮⋮ああ、覚えてるよ﹂
忘れるはずもない。
長く生きたぼくにとっては、つい最近の出来事だ。
あの答えを聞いたからこそ、この子を連れ出してみようと思った。
仲間が欲しいという事情ももちろんあったが⋮⋮かつての弟子たち
と同じように、きっと何かを成せる人物になるだろうと。
イーファは言う。

938
﹁旦那様の領地を出てわかったよ。わたし、けっこう恵まれてたん
だね。お仕事もあんまり大変じゃなかったし、お腹いっぱい食事も
もらえたし、部屋もあったかかった。だけど⋮⋮それをちゃんとわ
かってても、たぶんあの時、セイカくんに同じこと答えたと思う﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お屋敷での生活よりずっと大変になるかもしれないけど、それで
も⋮⋮自分自身で、生きる場所を選んでみたかったの。ずっと自由
になってみたかった。この街は好きだよ。ちょっと怖いけど、みん
な自由に見えるから。だからね、セイカくん⋮⋮わたしも、冒険者
になってみたい﹂
﹁⋮⋮君が思っているほど、いいものでは絶対にないぞ。彼らに自
由なんて、実際のところほとんどない。他に方法がないから、やむ
をえず暴力の世界でその日暮らしをしているだけだ。学園にいた方
が、本当の意味で自由になれる﹂
﹁ううん、そうじゃなくて﹂
イーファが、首を横に振る。
﹁えっとね。たぶん、セイカくんは知らなかったと思うけど⋮⋮わ
たしのお父さんとお母さん、それと旦那さまは、昔冒険者をやって
たんだって。三人で、パーティーを組んで﹂
﹁へっ、何それ!?﹂
思わず素で驚く。
完全に初耳だった。
﹁ほ、本当にか?﹂
﹁うん。昔、お母さんから聞いたの。お父さんが前衛で剣士で、お
母さんと旦那さまが後衛だったって﹂

939
﹁ブレーズ⋮⋮いや父上は、当然魔術師だよな。イーファのお母さ
んは、なんの職業だったんだ⋮⋮?﹂
﹁弓手だって﹂
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
全然イメージできなかった。
イーファの母親のことは病気で死ぬ前に知っていたが、美人でお
っとりした人で、とても弓を引いていたようには見えなかった。
エディスはまあ、ギリギリわからなくもないが⋮⋮ブレーズがそ
んな野蛮なことをしている姿も、今ではまったく想像できない。
﹁本当に短い間だけだったみたい。旦那さまがお屋敷から、お父さ
んが奴隷主のところから、お母さんが人攫いのところから逃げ出し
て⋮⋮三人が出会って、最後に旦那さまのお屋敷にみんなで帰るま
での、短い間。でも⋮⋮話してるお母さんは、すごく楽しそうだっ
た。ね、セイカくん。あの日、わたしが広い世界を知りたいって言
ったのはね⋮⋮冒険してみたい、って意味だったんだよ﹂
﹁イーファ⋮⋮﹂
﹁あと、セイカくんは忘れてると思うけど﹂
イーファが、はにかむように笑う。
﹁わたし、セイカくんの従者だから! 一緒にいるよ。それがお仕
事だもん﹂
ぼくが、言葉をなくして立ち尽くしていると⋮⋮最後に、アミュ
が口を開く。
﹁セイカ。あたしがこんなこと言うのは、違うかもしれないけど⋮
⋮本当はセイカだって、学園に戻れるのよ﹂

940
﹁⋮⋮何言ってるんだ、そんなことできるわけないだろ﹂
﹁できるわよ。あんたのことは、フィオナが隠してくれてるんだか
ら。追っ手がつくのは、勇者のあたしだけ。そうでしょ? あんた
は学園の生徒に戻って、普通に生活できる。でも、あんたのことだ
から⋮⋮あたしがどんなに帰れって言っても、ここに残るつもりな
のよね﹂
﹁⋮⋮当たり前だ。自分の始末は自分でつける﹂
﹁それなら、みんなでがんばりましょうよ﹂
アミュが、そう諭すように言う。
﹁あんただけの世話になるっていうのも、なんだか不公平な気がし
て収まりが悪いわ。それに二人がいた方が、やっぱり心強いし﹂
﹁そうだよ、セイカくん。みんなでがんばろ?﹂
﹁セイカ﹂
三人に見つめられ、ぼくは⋮⋮目を閉じ、それから小さく息を吐
いて答えた。
﹁⋮⋮わかった﹂
さすがに、そうまで言われてしまっては止められない。
ただ喜ぶ彼女らに、一応釘を刺しておく。
﹁だが、無理はするなよ﹂
﹁そんなの、みんなわかってるわよ!﹂
と言われ、アミュに肩の辺りを叩かれる。
正直、不安だったが⋮⋮久しぶりに見たこの子の屈託のない笑顔
を見て、とりあえずは、これでいいかと思った。

941
第六話 最強の陰陽師、森へ行く
紹介された宿は、なかなかの好物件だった。
部屋割りでは少し揉めたものの⋮⋮結局ぼくが一部屋使い、女性
陣三人で少し大きな部屋をとる形で収まった。
メイベルやイーファは、手持ちを考えて全員で大部屋一つとか、
一部屋に二人ずつとかを主張していたが⋮⋮さすがに勘弁してほし
かったので却下した。ユキもいるし、見られたくない作業もあるし、
それ以前にいくらなんでも気を遣う。
翌日から、街を見回ったり必要な物を買いそろえたりしていると、
約束の三日後はあっという間にやって来た。

942
﹁ここは彷徨いの森というダンジョンだ﹂
隣を歩くロイドが説明する。
ぼくたちはロイドのパーティと共に、朝方からこの森を進んでい
た。
ロイドのパーティは、前衛二人に後衛二人の四人構成。今は前衛
にアミュとメイベル、後衛にぼくとイーファが入り、八人構成とな
って進んでいる。
ロイド本人は、回復役として後衛に入り、ぼくの隣を歩いていた。
どうやら前衛も後衛も補助もこなせる、万能な魔法剣士らしい。
ここは駆け出しの冒険者向けの森で、今日は事故が起こらないよ
う助けながら、ぼくたちにいろいろ教えてくれることになっていた。
ぼくは隣へ視線を向けながら訊ねる。
﹁ダンジョンというのは、地下にあるものだけを指すと思っていま
したが﹂
﹁普通はそうだ。だが大抵の冒険者は、モンスターが出る森のこと
もそう呼ぶ。モンスターがまったく出ない、稼ぎにならない森と区
別するためにね﹂
ロイドは朗らかに続ける。
﹁この彷徨いの森は、分類としては南の山に属するダンジョンだ。
街から近く、難易度が低いから初心者に向いているが、モンスター
が少ないからあまり稼ぎはよくないな﹂
﹁南の山に属する⋮⋮というのはどういう意味です?﹂

943
﹁ラカナの周辺にあるダンジョンは、大きく三つの区域に分けられ
る。北の山、南の山、東の山。この三つの山を中心に、それぞれモ
ンスターの出る森や地下ダンジョンが広がっているんだ﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
﹁君たちもこれからあちこちのダンジョンに行くと思うから、覚え
ておくといい。それぞれ少しずつ毛色が違うからね。ああ、ただ⋮
⋮北の山に属するダンジョンには、今は近寄らないでくれ﹂
﹁なぜです? 難易度が高いからですか?﹂
﹁いや、逆だ。十日ほど前から、モンスターがほとんど出現しなく
なっているんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
ロイドは、やや参ったように言う。
﹁こんなことは初めてでね。何が起こるかわからないから、一応今
は等級の高いパーティー以外、立ち入りが禁止されている。北の山
は元々効率の悪いダンジョンしかなかったおかげで、冒険者たちの
稼ぎにそこまでの影響はないんだが⋮⋮困ったものだよ﹂
﹁⋮⋮そうなんですね。そういえばサイラス市長が、一部のダンジ
ョンの難易度が上がっていると言っていたんですが⋮⋮﹂
﹁ああ。南の山と東の山のダンジョンは、その代わりというのも変
だが、出現モンスターの種類や数に変化があるようなんだ。ギルド
も冒険者たちに、注意するよう呼びかけている﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
実は少々、思い当たるふしがないでもなかった。
ただ今言っても仕方ないので、ぼくは黙って歩みを進める。
ロイドは説明を続ける。

944
﹁話を戻すが、この森に出現するのは主にリビングメイル系のモン
スターだ。リビングメイルというのは⋮⋮つまり、ああいうのだ﹂
ロイドが木々の先を指さす。そこに、二つの動く影があった。
それらは古ぼけた、騎士の全身鎧に見えた。
輝きの失せた金属をがしゃんがしゃんと鳴らしながら、覚束ない
足取りで森を歩いている。
人間でないことは、片方の兜が、中の頭ごとないことからすぐに
わかった。
﹁彷徨う鎧、とも呼ばれる。このダンジョン名の由来だな﹂
その時、二体のリビングメイルが、ぼくたちに気づいたようだっ
た。
覚束ない足取りはそのままに、驚くような速さでこちらに近づい
てくる。転ばないのが不思議だった。
ロイドは、顔色一つ変えずに話し続ける。
﹁リビングメイルは、見た目の通り硬い。特に、剣は相性が悪いな。
だが⋮⋮﹂
ロイドのパーティーメンバーである前衛二人が、その時前に出た。
筋骨隆々の女重戦士がハンマーを振り下ろすと、リビングメイル
の一体を地面に叩き潰す。
モンク
もう一体が振り上げた剣を、僧兵の蹴りがへし折った。そのまま
流れるように繰り出された掌打が、鎧を吹き飛ばし、樹に叩きつけ
てバラバラにする。

945
﹁と、このように打撃系の攻撃には弱い。魔法なら土属性がいいだ
ろう﹂
ロイドが平然と説明する。
前衛二人も、余裕そうに談笑を交わしている。本当ならこんな低
レベルダンジョンには来ないような、実力のある連中なんだろう。
ぼくは呟く。
﹁なるほど。魔法の属性以外にも、モンスターには弱点と呼べるも
のがあると⋮⋮﹂
考えてみれば当たり前か。
そういえば自分でも毒とか使ったし。
﹁でも、前衛が二人共打撃系とは変わったパーティーですね。それ
とも冒険者では珍しくないんですか?﹂
﹁いや、珍しいよ﹂
ロイドが苦笑して言う。
﹁冒険者は、やっぱり剣を使う者の方が多い。それに打撃が効きに
くいモンスターもいるから、バランスもよくないね。ただ⋮⋮最初
に行くならこのリビングメイルの森がいいと思ったから、二人には
今日のために声をかけたんだ﹂
﹁今日のために⋮⋮?﹂
ぼくは首をかしげる。
﹁このパーティーは、あなたの普段のパーティーではないんですか

946
?﹂
﹁うーん⋮⋮なんというか﹂
ロイドが困ったような顔をする。
﹁皆、私のパーティーメンバーであることは間違いない。ただ、こ
の組み合わせは初めてだな。特に私自身は、もうダンジョンに潜る
ことがほとんどなくなってしまったからね。どうしても雑務に忙殺
されてしまって⋮⋮本当は、体を動かす方が好きなんだが﹂
冒険者が雑務に忙殺⋮⋮?
疑問に思っていると、ロイドが上に目を向けて言う。
﹁そうそう。この森には、もちろんリビングメイル以外のモンスタ
ーだって出る。スライムやマンドレイク、それに⋮⋮﹂
その時、ロイドの傍らにいた弓手が弓を引いた。
放たれた矢は、樹の上にいた猿型のモンスターを正確に貫き、射
落とす。
かなりの強弓だったようで、鏃は緑色の猿の背を抜けていた。
﹁こういうキラーエイプだね。あまり数はいないが、すばしっこく
て危険だから他の森でも気をつけた方がいい﹂
弓手はつまらなさそうな顔をしていて手柄を誇る様子もなく、ロ
イドも特に称賛したりしない。
なかなかの腕だと思うのだが、彼らにとってはこの程度は当たり
前のことなのだろう。

947
と、そこで、ロイドが革手袋とナイフを取り出す。
﹁キラーエイプは毛皮と長い爪が素材になるが、正直大した値段で
は売れない。今日は、魔石を回収するだけにしよう﹂
と言って、ロイドはおもむろに、ナイフで緑の猿の腹を割いた。
心臓の近くにあった赤い石を革手袋で摘まみ取ると、死体が急激
に干からびていく。
血に濡れた石を軽く布で拭くと、ロイドはそれをぼくに見せた。
﹁これが魔石だ。モンスターによっては、このような石を体内に持
つことがある。獣型のモンスターが多いかな。アストラルやスケル
トンのようなモンスターにはほぼ見られない。それと同じキラーエ
イプでも、個体によってはなかったり、小さいこともある﹂
﹁これは、鉱物の魔石とは違うものですか?﹂
﹁一応、別の物だ。ただ魔道具の材料になったり儀式の触媒に使っ
たりと、用途はほぼ同じだね。だから同じく魔石と呼んでいる。専
門家に言わせれば、細かな違いはあるのだろうが﹂
﹁なるほど﹂
二枚貝から採れる真珠や、鯨から採れる竜涎香と似たものだと思
えばいいだろうか。
学園の講義で少し触れていたものの、こうして採取するところを
見たのは初めてだった。
ロイドはキラーエイプの魔石を革袋に仕舞うと、立ち上がって言
う。
﹁さて、後衛の君たちには素材運びを手伝ってもらおうか﹂

948
モンク
視線につられ前方を見ると、女重戦士と僧兵が、動かなくなった
リビングメイルの鎧を分解し、紐でまとめているところだった。二
人の説明を、メイベルが興味深そうに聞いている。ただ初歩的なこ
となのか、アミュはどうも退屈そうだ。
﹁リビングメイルの鎧は金物を作る材料になる。この森で出るよう
なレベルの低いものだと質はあまりよくないが、それでもキラーエ
イプの爪よりはよほど高く売れるよ。背負えそうかい?﹂
女重戦士が持ってきた二つの鎧を、ぼくとイーファで背負う。
気功術のおかげで見かけ以上に力のあるぼくはもちろん、小さい
頃から屋敷で洗濯や掃除をこなしていたイーファも、特に問題はな
さそうだった。
﹁大丈夫そうだね。前衛の子二人の方がきっと力はあるんだろうが、
動きを妨げるといけないからね﹂
﹁でもこれ、後衛二人で二個が限界なんですが⋮⋮。この鎧二つで、
冒険一回分の採算がとれるんですか?﹂
﹁四人パーティーの一日の食費に、ギリギリ足りるくらいかな﹂
ロイドががっかりするようなことを言う。
宿代ほか諸々を考えると完全に赤字だった。
﹁だから先に魔石を集めるとか、朝早くから何度も行くとか、何か
工夫が必要になるね。手持ちがあるのなら、一番いいのはアイテム
ポーター
ボックス持ちの運搬職を雇うことだ。リビングメイルを狩る時、余
裕のあるパーティーはだいたいそうする﹂
ポーター
﹁アイテムボックス? それに、運搬職とはなんですか?﹂
ポーター
﹁運搬職は、文字通り素材運び専門の冒険者だ。パーティーに属さ

949
ず、フリーで仕事を請け負っている者も多い。アイテムボックスと
は⋮⋮一言で言えば、ここではない別の空間に、物品を収納するこ
とができる魔法だな。普通の魔法とは違う、特別な才能が必要な能
ポーター
力だが、これを持つ運搬職は普通のパーティーでは運びきれないほ
どの素材を運べる。もっとも、そういう者は戦力の面では役に立た
ないことが多いけどね﹂
﹁ほう!﹂
ぼくは少し興味を持った。
もしかしたら、この世界にも位相を開く魔法があるのか。
前世ではだいたいの呪術体系にこの技術があったが、こちらに来
てからは聞いたことがなかったし、学園でも習うことはなかった。
しかし、話しぶりからするとそうとしか思えない。
特別な才能が必要、というのがちょっと気になるが⋮⋮。
と、その時。
歩みを進めるパーティーの前方に、またしても二体のリビングメ
イルが現れた。
﹁ちょうどいい。君たちの前衛二人で相手してみるかい?﹂
﹁⋮⋮だ、そうだ。メイベル、アミュ﹂
﹁わかった﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
素直にうなずくメイベルとは対照的に、アミュはめんどくさそう
に溜息をつく。
﹁斧と剣では少し相性が悪いかもしれないが、動きは鈍いからあま
り心配はいらないよ﹂

950
﹁いえ、別に心配はしてないですが﹂
ずがんっ、という轟音が森に響き渡った。木々から鳥が飛び立っ
ていく。
見ると、メイベルが振り下ろした戦斧の先で、リビングメイルが
真っ二つになっていた。
戦斧を担ぎ直したメイベルが、首をかしげて言う。
﹁あんまり硬くなかった﹂
唖然とするロイドのパーティーの前で、アミュが呆れたように言
う。
﹁あんたねぇ。胴体二つにしたら運びにくくなるし、買い取り価格
も下がるでしょーが。こういうのはもっと綺麗に倒すもんなのよ﹂
﹁む⋮⋮じゃあ、アミュがやってみて﹂
アミュは無言で残る一体に踏み込むと、ミスリルの杖剣を一閃す
る。
胴の隙間から剣先を突き込まれたリビングメイルは、それだけで
糸が切れたようにバラバラと崩れた。
微かに光の灯った杖剣を、アミュが振る。
﹁こいつ、こう見えてもアンデッド系のモンスターなのよ。だから
バフ
光属性を付与する支援魔法とかで簡単に倒せるの﹂
﹁私、光属性使えない﹂
﹁あんたは武闘家の真似事もできるんだから、次からはぶん殴った
ら?﹂

951
二人のやり取りを見ていたロイドが、呆気にとられたように言う。
﹁いやすごいな⋮⋮もしかして、余所で冒険者をやっていたのか?﹂
﹁アミュはそうですね。メイベルもまあ、そのようなものです﹂
そこでふと、ぼくは樹上を見上げる。
葉の茂る太い枝に、先ほどと同じ緑色の猿が現れていた。
﹁ところでまたキラーエイプがいるようですが、あれもこちらでや
りますか?﹂
﹁倒せそうかい? ならやってみるといい。ダメでも助けてあげる
よ﹂
﹁それじゃあ⋮⋮イーファ﹂
﹁う、うん﹂
イーファが、微かに視線を左右に振った。
まるで、そこに浮かんでいる何かに目を向けたかのように。
次の瞬間、宙空から一抱えもありそうな岩が撃ち出された。
岩はキラーエイプに直撃。そのまま進路にある太い枝を何本もへ
し折って、空へすっ飛んでいく。
少し経って、遠くの木々の間に岩が落ちるガサッ、という音が聞
こえた。
枝が落ち、やや明るくなった森の中で、イーファがはっとしたよ
うに言う。
﹁あっ、ご、ごめんなさいっ。これだと、素材が回収できないです
よね⋮⋮。火だと危ないから⋮⋮次は水か、風属性にします﹂

952
パーティーに沈黙が降りる中、ロイドが愕然としたように言う。
エルフ ハーフエ
﹁今のは⋮⋮まさか、森人の精霊魔法か? だが、見たところ半森
ルフ
人でもないようだが⋮⋮﹂
エルフ
ラカナには亜人も多いためか、ロイドは森人の魔法について見知
っているようだった。
説明が面倒だったので、ぼくは外面だけの笑みを、呆然とする面
々に向けて言う。
﹁まあ、この子にもいろいろありまして。あまり訊かないでもらえ
ると助かります。それが、ラカナでのマナーでしたっけ?﹂
第七話 最強の陰陽師、煙たがられる
それからしばらく森の中を進んだ一行だったが、日が高くなって
きた頃、ロイドが足を止めて言った。
﹁そろそろ戻ろうか﹂
﹁え、もうですか?﹂
まだ大してモンスターを倒してない気がする。
そんな感情が顔に出ていたのか、ロイドが苦笑して言う。
﹁これでも予定よりはだいぶ倒したよ。それに、冒険には帰りもあ
るからね。野営を考えないなら、体力の余裕があるうちに引き返す

953
ものだ﹂
そういうものか。
言われてみれば一理ある。やっぱりこういうことは専門家に聞か
ないとわからないな。
と、その時。
森の向こうに目を向けたイーファが、ぼくに話しかけてきた。
﹁ね、セイカくん。あれなにかな⋮⋮?﹂
﹁ん⋮⋮?﹂
視線の先を見ると。
何やら、ぶよぶよと気味悪く膨らんだ巨大な果実が、地面から生
えていた。
樹に生っているわけでもなく、葉の一枚すらもない一本の蔓が地
面から伸びて、果実をぶら下げている。
明らかに奇妙な植物だった。
コーリング
﹁ああ、あれは呼び寄せトラップだね﹂
ぼくらのやり取りに気づいたロイドが、後ろから言う。
﹁何ですか? それは﹂
﹁ダンジョンのトラップの一つに、周囲のモンスターを大量に引き
コーリング
寄せるものがある。そういうものを呼び寄せトラップと呼ぶんだ。
地下ダンジョンだと偽宝箱の形で、開けると大きな音が鳴り響くも
のだが、森だとあんな形をしている﹂

954
﹁じゃあ、植物ではないんですか。触れるとどうなるんです?﹂
﹁強いにおいのする液体が飛び散って、それがモンスターを引き寄
せることになる。もっとも、少し触れたくらいで破裂することはな
いけどね﹂
うへぇ、最悪だ。
﹁そうだ、試してみるかい?﹂
﹁えっ⋮⋮?﹂
とんでもないことを言い出したロイドを、ぼくは見つめる。
﹁いや、そんなことしたら⋮⋮﹂
﹁心配ないよ。元々、この森はモンスターが少ないからね。大した
危険はない。それよりも、いざうっかりトラップを踏んでしまった
時に、パニックになる方が怖い。こういうのは試せる時に試して、
慣れておいた方がいいんだ﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
どうも不安だったぼくは、ちらとアミュの方を見た。
アミュは、ぼくの懸念を感じ取ったように言う。
﹁大丈夫よ。レベルの低いダンジョンだし、こっちは八人いるから
ね﹂
﹁そうか⋮⋮じゃあ、試してみようかな﹂
﹁よし。殲滅は、もちろん私たちの方でも手伝おう。皆、用意を﹂
ロイドの声に、女重戦士に僧兵、弓手が、各々すばやく戦闘態勢
を敷く。

955
﹁においが付くと面倒だ、矢で割ろうか﹂
﹁いえ、大丈夫ですよ﹂
弓手が矢をつがえる前に、ぼくはヒトガタを飛ばし、果実へと貼
り付けた。
はくらい
︽陽の相︱︱︱︱薄雷の術︾
陽の気により、ヒトガタに小規模な稲妻が流れる。
バチッ、という音と共に火花が飛んで、奇怪な果実が破裂した。
撒き散らされた汁が、周辺の草葉を汚す。
﹁うっ﹂
ぼくは思わず鼻を押さえた。
なかなか強烈な臭気だ。
効果は、ほどなくして現れた。
木々の合間から一体、茂みの陰からまた一体と、リビングメイル
が続々と集まってくる。
どこにそんなにいたのか、周りはあっという間にリビングメイル
だらけになってしまった。
﹁ちょっと、これ多くない?﹂
アミュが少し焦ったように言う。
ロイドも、緊張の滲んだ声音で呟く。
﹁妙だな、なんだこの数は⋮⋮。仕方ない。皆、陣形を整えろ。君

956
たちも、荷物はいったん捨てなさい。いざとなったら逃げることも
⋮⋮﹂
﹁あー、いえ、大丈夫です。このくらいなら﹂
﹁な、何⋮⋮?﹂
困惑したようなロイドを余所に、ぼくはヒトガタを飛ばす。
どうやら、この集まり具合は彼としても予想外だったらしい。
やっぱりこういう呪物の類は、安易に試すものではないな。
四方に飛ばしたヒトガタの位置を調整する。この術を実戦で使う
のは、そういえば初めてかもしれない。威力はまあ、適当でいいか。
ぼくは両手で印を組む。
︽木火土の相︱︱︱︱震天華の術︾
次の瞬間、森に爆音が轟いた。
術と同時に白い煙が濛々と発生し、辺り一面を覆っていく。
﹁ゲホッ、ゲホッ!﹂
﹁み、耳がーっ!﹂
周囲からはそんな声が聞こえてくる。
ぼくもげほげほと咳き込みながら、慌ててヒトガタで煙を晴らし
ていく。
﹁あ、あんた、何してくれてんのよ!﹂
﹁わ、悪い悪い﹂

957
アミュに平謝りする。
さすがにちょっと、火薬の量が多かったか。
この術、どうしても音と煙がひどいんだよな。
ようやく煙が晴れ、辺りを見回すと⋮⋮周囲はなかなか壮観な景
色となっていた。
﹁なっ⋮⋮!﹂
﹁リ、リビングメイルが⋮⋮﹂
集まってきていたリビングメイルは、すべて崩れ、ただの鎧へと
変わっていた。
鎧の各所に開いた穴が、術の威力を物語っている。
硫黄に木炭、それに硝石。これらを適量混ぜて火を付けると、激
しい爆発が起こる。
︽震天華︾は、宋で見知った火薬というものを作りだし、石礫を
飛ばすだけの単純な術なのだが⋮⋮めちゃくちゃな威力だ。これが
まじな
呪いなしでも実現できるというのだから恐ろしい。
もっとも、これを戦争で使うにはもっと改良しないとダメだろう
な。
まじな
音や煙がひどく、湿気に弱いし射程が短い。呪いですらこんなに
使いづらいのだから、まだまだ工夫が必要だろう。
ま、それはそれとして。
ぼくはキョロキョロと森を見回しつつ、呆然と立つロイドに話し
かける。

958
コーリング
﹁モンスターは、もう寄ってこないようですね。呼び寄せトラップ
の効果が切れたのか、それともこの硫黄臭さや爆音のせいかはわか
りませんが⋮⋮ひとまず、終わったと見ていいでしょうか﹂
﹁あ、ああ、そうだね。もう警戒を解いても⋮⋮って、いやちょっ
と待ってくれ!﹂
ロイドが我に返ったように言う。
﹁い、今のは、君が?﹂
﹁ええ。少しやりすぎてしまいましたが﹂
﹁す、少し⋮⋮? あれは、魔法だったのか?﹂
﹁まあそうですね﹂
﹁⋮⋮あんなもの、見たことも聞いたこともない。今のは、どうい
う魔法なんだ。君はいったい⋮⋮﹂
口をつぐんだまま曖昧に笑うぼくを見て、ロイドは息を吐く。
﹁⋮⋮詳しいことは訊かない。私自身が言ったことだったね﹂
﹁助かります﹂
﹁よし。では今日のところは、ここで引き返そう。この数の素材は
惜しいが、我々では運びきれない﹂
﹁大丈夫です。お詫びと言ってはなんですが、ぼくが運びましょう﹂
ぼくはヒトガタを飛ばすと⋮⋮短く真言を唱えて、空っぽの位相
への扉を開いた。
そのままヒトガタを動かして、リビングメイルの鎧を空間の歪み
へと吸い込ませていく。
口をあんぐりと開ける面々へと、ぼくはにこやかに説明する。

959
﹁ここまで黙っていましたが、実はぼく、アイテムボックス持ちで
して﹂
﹁こ、これがアイテムボックスなわけないだろう!﹂
﹁えっ?﹂
ロイドの言葉に、動揺して思わず間抜けなことを口走ってしまう。
﹁これ、アイテムボックスじゃないんですか?﹂
ロイドが頭を押さえながら言う。
ポーター
﹁少なくとも⋮⋮私の知るアイテムボックス持ちの運搬職は皆、手
で触れて物品を収納していた。あのような、景色の歪みに素材が吸
い込まれていく様子など見たことがない﹂
﹁ぼ⋮⋮ぼくは符術使いなので、アイテムボックスの仕様もちょっ
と変わってるんですよ﹂
﹁そういう問題でもない気がするが⋮⋮ちなみに、容量はどのくら
いなんだ?﹂
﹁よ、容量?﹂
ぼくは混乱する。そんなこと考えたこともなかった。
位相は情報が何もない、いわば空っぽの異世界だ。
理論上で言えば、もちろん収納上限はある。
だが、たとえ星一つ入れても限界なんてはるか先だろうから、使
ううえで気にしたことなど一度もなかった。
戸惑いつつ答える。
﹁いくらでも入りますけど⋮⋮﹂

960
﹁いくらでも? まさか。限界を計ったことがないのかい?﹂
﹁ないです﹂
﹁⋮⋮これまで、最大でどのくらいの物を仕舞ったことが?﹂
﹁ええと⋮⋮﹂
思わず真剣に頭をひねる。
当然、前世の出来事になるが⋮⋮。
﹁水をちょっとした湖一杯分、ですかね﹂
言ってから、これじゃ伝わらないかなと思ったが⋮⋮どうやらそ
ういう問題ではなかったようだ。
﹁なっ⋮⋮ほ、本当に容量無限のアイテムボックス!?﹂
﹁まさか、実在したなんて⋮⋮﹂
ロイドのパーティーメンバーがざわついている。ロイド本人に至
ってはもう、言葉をなくしているようだった。
⋮⋮どうやらアイテムボックスというのは、ぼくが想像したよう
なものではなかったらしい。
﹁あんた、そんなこともできたのね﹂
アミュが呆れたように言う。
﹁もうあんたがなにしても、あたし驚かなくなってきたわ﹂
﹁なんていうか、これがセイカくんって感じだよね﹂
﹁慣れた﹂

961
女性陣の言いように、思わず乾いた笑いが漏れる。
もしかしたら⋮⋮目立たないように生きるなんて、ぼくにはそも
そも無理だったのかもしれない。
第七話 最強の陰陽師、煙たがられる︵後書き︶
※薄雷の術
陽の気によりヒトガタに電流を流す術。放電させることも可能だが、
雷獣のように飛んでいく先をコントロールできない。
※震天華の術
黒色火薬によって散弾を飛ばす術。硝石75%、木炭15%、硫黄
10%の割合で混合すると、爆発性の高い粉末ができる。この黒色
火薬は六世紀頃の中国、唐の時代に発明されたと言われているが、
日本においては鎌倉時代までその存在が知られることはなく、セイ
カが見知ったのも宋に渡ってからだった。

962
第八話 最強の陰陽師、勧誘される
それから数刻後。
ぼくたちは無事、ラカナまで戻ってくることができた。
どうやら素材は冒険者ギルドで換金できるようで、一通りのやり
方を教えてもらった。
位相から取り出したリビングメイルの鎧をすべて売ると、それな
りの金額になった。
半分渡すと提案するぼくだったが、ロイドは首を横に振る。
﹁取っておきなさい。金は、今は君たちの方が必要だろう﹂

963
それから、ふと笑って言う。
﹁それに、新入りの手柄を恵んでもらっているようでは、先輩冒険
者として立つ瀬がないからね﹂
そういうことならと、ぼくはありがたく頂戴することにした。
実際、金は切実に欲しい。
﹁それで、君たちのこれからのことなんだが⋮⋮﹂
ロイドが、真剣な表情で言う。
﹁よかったら皆、私のパーティーに入らないか?﹂
それは、特に意外でもない提案だった。
サイラスと話していた時、ぼくらをパーティーに勧誘していいか
とか言っていたから。
ただ、この話を受けるかどうか考える前に、確認しておかなけれ
ばならないことがある。
﹁あんたのパーティーって、いったい何人いるのよ?﹂
ぼくが何か言う前に、同じ疑問をアミュが口にしていた。
生意気な口調を特に気にする風もなく、ロイドは答える。
﹁つい最近、百人を超えたかな﹂
﹁⋮⋮! どういうこと? そんなにメンバー増やしてどうするの
よ﹂

964
﹁ぼくは、冒険者の事情についてあまり詳しくないんですが⋮⋮そ
れでも、普通のパーティーが四人から六人ほどの編成であることは
知っています。入る入らないの前に、あなたの︽連樹同盟︾がどう
いうパーティーなのか説明してもらえませんか?﹂
﹁もっともだな﹂
ロイドがうなずいた。
****
立ち話もなんだからということで、ぼくたちは冒険者ギルドの中
にある酒場に来ていた。
少し早い夕食をご馳走してくれるということなので、もちろん文
句などあるはずもない。
注文した料理が運ばれてくるよりも先に、ロイドが口を開く。
﹁君たちは幼い頃、冒険者にどんなイメージを持っていた?﹂
﹁⋮⋮﹂
皆が口をつぐむ。
ぼくの場合は前世の記憶があったから、流れの武芸者と同じよう
な、要するにろくでもない職業だと思っていた。アミュやメイベル
だって、その生まれや境遇から、別に冒険者に夢を持っていたわけ
ではないだろう。
となると⋮⋮、
﹁自由で⋮⋮みんなに感謝される、そんな職業だと思ってました﹂

965
一番ありがちな答えを口にしたイーファに、ロイドはうなずく。
﹁ああ、私もそう思っていた。子供の頃はね。だが、今はもう君た
ちも知っている通り、冒険者はそれほど輝かしい職業ではない﹂
運ばれてきた料理が置かれるのを待って、ロイドが続ける。
﹁自由ということは、何にも守られていないということだ。弱くて
も誰も助けてくれない。生き残るために必要な情報を、わざわざ教
えてくれる人などいない。もしも冒険に出られないような体になっ
てしまったら、路上に座り込む余生が待っている。どんな一流の冒
険者でも、それは変わらない﹂
ロイドは、料理の前で力ない笑みを浮かべる。
﹁私が最初に組んだパーティーで、今生き残っているメンバーは私
だけだよ﹂
それは、きっとよくある話なのだろう。
いや、生き残っているメンバーがいるだけ、マシと言うべきか。
﹁悲劇でもなんでもない、これが冒険者の普通だ。だが⋮⋮私はそ
れをなんとかしたくてね。学のない頭で必死に考えた。そこで出た
結論が、︽連樹同盟︾という超大規模パーティーを作ることだった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁寄る辺のない冒険者たちでも、仲間とだけは助け合う。その輪を
広げたいと思ったんだよ﹂
﹁要するに﹂

966
ぼくは言う。
﹁あなたのパーティーは、実態としては冒険者たちの互助組織のよ
うなものなのですか?﹂
﹁いいや、違う﹂
ロイドは首を横に振る。
﹁そんなに緩い繋がりではない。文字通りの パーティー だよ。
新入りには同じ職種の教育係がついて、立ち回りや技能を教える。
危険地帯の情報やパーティー崩壊が迫った事例は、共有して皆で気
をつける。だから、たとえ急造の組み合わせであっても、誰もが実
力を発揮できる。私にとって今日組んだパーティーは初めてのもの
だが、アダマントメイルやミスリルメイルの出るダンジョンにだっ
て、問題なく行けたと思うよ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
ぼくは、少し考えて言う。
﹁つまり、パーティー全体を軍のように組織化して、生存率や冒険
の効率を上げよう、ということですか﹂
﹁あくまで冒険は少人数単位で、組み合わせもメンバーの自由だが
⋮⋮そうだね。そういう理解で構わない﹂
﹁では最終的な目標は、各人の個性によらず、能力をできる限り均
質化することですか?﹂
この指摘は思いもよらなかったようで、ロイドがわずかに目を見
開いた。
﹁⋮⋮無論、第一の目的はあくまで生存率向上だが⋮⋮結果的に、

967
そういうことになってしまうだろうか﹂
﹁でしょうね﹂
軍、というかあらゆる大組織は、個性などという曖昧なものに期
待しない。
決まった教育を施した人員を、決まったルールで運用して、望ん
だ結果を得る。
それが組織というものだ。
ぼくは続けて訊く。
﹁ここからさらにパーティーメンバーが増えていくと、ほどなくあ
なた一人で管理できる限界を超えるでしょう。そうなったらどうし
ます?﹂
﹁パーティーをいくつかの単位に分け、それぞれを信頼できる部下
に任せようと思っている。もうすでにその準備を始めているよ﹂
﹁すばらしい。お手本のような組織運用ですね﹂
にこりともせず言うぼくに、ロイドは明らかな愛想笑いを浮かべ
る。
﹁貴族の生まれである君にそう言ってもらえると、勉強した甲斐が
あったよ。それで、どうだろう?﹂
ロイドが続けて言う。
﹁私の︽連樹同盟︾は、ギルドの格付けで準一級。ラカナでは第二
位のパーティーだ。帝国全土を見ても、我々以上のパーティーなど
数えるほどしかないだろう。メンバーには装備の手配や情報の共有
など、十分な援助を行える。怪我をした際の融資や、もしもの時は

968
他の職を斡旋する用意もある。組み合わせも強制しない。君たちだ
けでダンジョンに潜るなら、それでもいい。戦力や金銭面でいくら
か協力を頼むことはあるが、それ以上にメリットがあると約束しよ
う。だから⋮⋮我々のパーティーに入らないか?﹂
﹁お断りします﹂
ぼくの即答を、ロイドは特に意外にも思わなかったようで、表情
を変えずに訊き返してくる。
﹁そうか。理由を訊いても?﹂
﹁想像がついているでしょうが、こちらはいろいろと訳ありでして﹂
追っ手が付くかもしれない立場だ。
どこかのパーティーに属するなど、互いのためにならない。
部外者とは距離を置いておく方が賢明だろう。
ロイドは平然と言う。
﹁訳ありでない者の方が、この街では少ないさ。気にすることはな
いと言っても⋮⋮君は聞かないだろうね﹂
﹁ええ﹂
﹁なら、もう一つ教えてくれ。仮に君たちに厄介な事情がなかった
として、私のパーティーに入ろうと思ったかい?﹂
ぼくは一瞬目を閉じて、静かに首を横に振った。
﹁いいえ﹂
﹁やはりか⋮⋮。やはりすでに実力のある者にとっては、︽連樹同
盟︾は魅力に乏しいかな﹂
﹁駆け出しに比べればそうでしょうが、ぼくの場合はそれが理由で

969
はなく⋮⋮ただ、その理念に共感できないだけです﹂
ぼくは言う。
﹁人間、いろいろな者がいます。同じ教えで、同じく育つ者ばかり
じゃない。一癖も二癖もある冒険者たちへの教育が、そう簡単にい
くとは思えません。方針が合わず脱落する者がたくさん現れるでし
ょう﹂
ぼくの弟子にも、いろいろな子がいた。
同じく教えたにもかかわらず、占いが得手になった者、呪術が得
手になった者⋮⋮あるいは、計算が得意になった者、弁論術に長け
た者、剣の道に進んだ者もあった。
人に何かを教えるということは、思った以上に難しい。
何十年も考えて、結局最期のその時まで、ぼくはよくわからない
ままだった。
ロイドは面食らったように言う。
﹁それは⋮⋮そうだろう。だが彼らにしてみれば、何も教わらない
よりはずっといいじゃないか。ベテランなら誰もが知る単純な危機
の予兆を、ただ知らなかったせいで死ぬ新入りの冒険者がどれだけ
いると思う﹂
﹁ええ、その通りです。だからこれは、単にぼくの好き嫌いの問題
ですね﹂
﹁それなら⋮⋮﹂
﹁ただこの街にとっては、もしかしたら好き嫌いの問題では済まな
いかもしれませんよ﹂

970
ぼくは言う。
﹁与えられる環境に慣れれば、人は必死さを失うものです。あなた
のパーティーがもっとずっと大きくなれば、冒険者たちを、ひいて
はこの街全体を弱らせかねない﹂
ぼくの弟子でも、競い合う相手がいた子の方が、ずっとよく成長
した。
それこそぼくが教える前に、自分で書物を紐解いて工夫し、新た
まじな
な呪いを生み出していたこともあった。
競争のない環境は、人を鈍らせる。
﹁君も⋮⋮そう言うのか﹂
以前にも誰かに指摘されたことがあったのか、ロイドが苦々しげ
に呟く。
﹁そんなことを言えるのは⋮⋮君がすでに強く、何もかもを得られ
る人間だからだろう。そうでない者の立場に立ってみろ。必死に生
きろと右も左もわからないままダンジョンに放り出され、落伍すれ
ば死ぬ競争をさせられる。そんな世界のどこがいい? 身近な者が
突然その立場に落とされたとしたらどう思う﹂
﹁無論、競争などせずとも、皆が穏やかに生きていける方が理想で
しょう。ただそれを求めるには、おそらくこの世界はまだまだ未熟
すぎる﹂
﹁私はそうは思わない。ダンジョンの富は膨大だ。理想に近い状況
だって、きっと実現できるはずだ﹂
そう言って、ロイドは席を立つ。

971
﹁そろそろ行くことにしよう。時間を取らせてしまったね。支払い
は済ませておくから、君たちはゆっくりしていくといい﹂
﹁そうですか。ご馳走になったうえに、偉そうなことをべらべらと
すみません﹂
ロイドは軽く笑って首を横に振る。
﹁いいさ。興味深い意見を聞けた。それに断られることだって元々
多かったからね。ただ⋮⋮これからは君たちだけでダンジョンに潜
ることになるだろうが、気をつけてくれ﹂
ロイドは言う。
﹁森でも言ったが、ここのところダンジョンで出現するモンスター
の数や種類に変化がある。彷徨いの森でも、トラップで呼び寄せら
れるモンスターが多かった。古い情報は役に立たないかもしれない
から、くれぐれも慎重に進むように﹂
﹁ええ、そうします。ご親切にどうも﹂
﹁それではね﹂
そう言って、ロイドは去って行った。
後ろ姿を見送ったぼくは、皿に目を戻し、肉叉で塩味のついた麺
を掬い上げる。
そういえば話ばかりだったせいで、あまり料理に手を付けられて
いなかった。
ロイドも、それほど食べていなかった様子だ。
﹁⋮⋮なんか、意外ね﹂

972
ずっと黙っていたアミュが、スープを匙で掬いながら言う。
﹁セイカ、ああいう考え方には賛成しそうだったのに﹂
﹁そうか?﹂
﹁うん。セイカくん、困ってる人がいたら助けそうだから﹂
食事の手を止めて、イーファが仕方なさそうに笑った。
ぼくは料理に目を戻して答える。
﹁別に、そうでもない﹂
知人ですらない冒険者がどのように野垂れ死んだところで、ぼく
には関係がない。
ただ⋮⋮ロイドの思いも、理解できた。
見知った冒険者にあっけなく死なれるのは、いろいろと感じると
ころがあったに違いない。
超大規模パーティーというやり方も、たぶん有効だ。ぼくの言っ
たような懸念などはささいな問題だろう。
というか今思い返せば、前世でいくらか弟子を育てた経験があっ
たばかりに、思わず小言を言いたくなっただけだった。ぼくがあの
男のやり方に反対する理由なんて、よく考えたら何もない。
ただ、それを自覚していても⋮⋮あの場で肯定することはなかっ
ただろう。
﹁でも、断ってよかった﹂

973
パンを千切りながら、メイベルが言う。
﹁親切な人に、迷惑はかけたくない﹂
そう、結局。
ぼくがあの男を遠ざけたのは、それが理由だ。
第九話 最強の陰陽師、洞穴へ行く
それから二日後の朝。
ぼくたちは、とある地下ダンジョンの入り口に立っていた。
﹁ふっふ! いよいよあたしたちの冒険が始まるわね﹂
腰に手を当てたアミュが、仁王立ちして言った。
ぼくは思わず指摘する。
﹁うっきうきじゃないか、アミュ﹂
﹁はあっ? 別に普通よ、普通!﹂

974
と言って顔を逸らすが、とてもそうは見えない。今だって微妙に
にやにやしているし、昨日買い物をしている時も、行くダンジョン
を決めている時も、終始はしゃいでいた。
そんなに楽しみにしていたのか⋮⋮と思いながら、ぼくはダンジ
ョンへの入り口、大きな洞穴に目をやる。
東の山の麓にあるこのダンジョンを、浅谷の横穴と言った。
名前の由来は単純で、浅い谷に開いている横穴だから。ひねりも
何もない。
出現するモンスターにも特筆するものはない、ごくありふれた初
心者向けダンジョンだった。
アミュにとっては退屈な場所な気もするのだが⋮⋮たぶん、この
四人でダンジョンへ潜れるのがうれしいんだろう。
年の近い者だけで冒険に行く機会なんて、きっとこれまでなかっ
ただろうから。
﹁いい? もう一回確認するわよ﹂
微妙にはりきった声で、アミュが言う。
﹁前衛があたしとメイベルで、後衛がイーファとセイカ。距離を空
けすぎないようにね。陣形が崩れてきたらちゃんと声をかけること﹂
﹁アミュちゃん、それもうわかったから⋮⋮﹂
﹁今さら確認する必要、ある?﹂
﹁こういうのちゃんとするのが大事なのよ!﹂
むきになるアミュに、ぼくも思わず言う。

975
﹁そんなに気負わなくても、こんなダンジョンだったら君一人でも
行けそうなくらいじゃないか﹂
﹁⋮⋮そんなの、あんたもじゃない﹂
そう言うと、アミュは少しすねたような顔をした。
﹁セイカなら⋮⋮下手したら、ここに居たままダンジョンのモンス
ターを全滅させられるんじゃないの﹂
﹁できなくはないな﹂
ぼくは素直に答える。
﹁素材の回収を考えなければ、だけど﹂
﹁なんの意味もないじゃない、それ﹂
アミュが呆れたように言った。
そういう式を組めばなんとかなるかもしれないが⋮⋮少なくとも、
実際の作業をよく知らないままではそれも無理だ。
﹁しょーがない、やっぱり潜るしかないわね!﹂
﹁なんでちょっとうれしそうなんだ?﹂
﹁べ、別に普通よ、普通!﹂
アミュは咳払いと共に言う。
﹁いい? 今日はあくまで動きの確認ね。最初からうまく動けるパ
ーティーなんてないから。細かいところは実際に冒険しながら調整
していきましょう。それじゃ、出発!﹂
アミュに続いて、メイベル、そしてイーファがダンジョンへと足

976
を踏み入れる。
ぼくも、彼女らに続いた。
****
ダンジョンは、ロドネアの地下にあったものよりもずっと広かっ
た。
今のところ、出くわすモンスターはゴブリンやスケルトンなど、
ありふれたものばかり。
レベルもそう高くなく、ぼくたちは特に何の問題もないまま進ん
でいた。
﹁思ったんだけど﹂
アミュがぽつりと言う。
﹁あんたモンスター倒すのも上手いわね、メイベル﹂
﹁うん﹂
メイベルが、影魔法で動きを封じていたホブゴブリンの首を、戦
斧で落としつつ返事する。
そのまま流れるように放った投剣が、近づいていた蝙蝠型モンス
ターを壁に縫い止めた。もがくモンスターの頭に続くもう一投が突
き立ち、息の根を止める。
﹁モンスター退治の訓練も、やったことある﹂

977
二本の投剣をモンスターの死骸から引き抜きながら、メイベルが
言う。
﹁あれはけっこう、たのしかった。みんなで協力したりして﹂
﹁あんたみたいなのが四人いたら、大抵のダンジョンは行けそうね﹂
アミュが呆れたように言う。
﹁重戦士で魔法も飛び道具も使えるやつなんて、普通いないわよ﹂
﹁む⋮⋮私、重戦士枠?﹂
﹁斧使いなんだからそうでしょ﹂
アサシン
﹁なんか、やだ。暗殺者とかがいい﹂
﹁そんなド派手な武器使う暗殺者がどこにいるのよ﹂
と、暢気に言い合う二人だが実力は確かで、現れるモンスターを
次々に処理していく。おかげで後衛であるぼくとイーファの出番は、
基本的になかった。
さすがにもう少し手応えのあるダンジョンを選んだ方がよかった
んじゃないか⋮⋮などと考えながら進んでいると、突然ひらけた空
間に出た。
力の流れを感じ、灯りのヒトガタを部屋全体に飛ばす。
次の瞬間、上方から影が飛来した。
予想していたのか、アミュとメイベルは余裕を持って躱す。影の
羽ばたきによる風圧が、ぼくにまで届いた。
広い空間を飛び回るそれを見やる。
﹁あれは⋮⋮マーダーバット、だっけ?﹂

978
巨大な蝙蝠型モンスターは、旋回して再びぼくらに狙いを定めた
ようだった。
うん、ようやく後衛の仕事が回ってきたな。
﹁よし、任せてくれ﹂
︽木の相︱︱︱︱杭打ちの術︾
撃ち出された幾本もの白木の杭が、飛び回る巨大蝙蝠を刺し貫く。
だが、次の瞬間。
わずかに遅れて飛来した太い氷柱の群れが、マーダーバットの体
へ突き立った。
そこへさらに火炎と風の刃が、瀕死のモンスターへと襲いかかる。
一瞬でぼろぼろになったマーダーバットが、力なく地面へ落ちた。
黒焦げで穴だらけの体は、もうぴくりとも動かない。
﹁ああっ、ごめんセイカくん! 被っちゃったね∼⋮⋮﹂
イーファが若干気まずそうに言う。
どうやらイーファの方も、とっさに精霊の魔法を使ったらしかっ
た。
しかし、この子もなかなか容赦ないな⋮⋮。
﹁や、やりすぎよ⋮⋮火力過剰もいいところでしょ、これ⋮⋮﹂
アミュがまた呆れたように言った。
確かに後衛の出番が来るたびにこの有様では、回収できる素材も
回収できなくなる。なんとかした方がいいだろうな⋮⋮。

979
﹁あれ、アミュちゃん怪我してない?﹂
イーファがふと気づいたように言う。
見ると、確かにアミュの頬には血が滲んでいた。さっきの攻撃を
躱す際に、何かで切ったのだろうか。
﹁大変! 今治してあげるね!﹂
﹁いや、傷が残るとよくない。ぼくがやろう。だから髪の毛一本く
れ﹂
ヒーラー
﹁これくらい自分で治せるわよ⋮⋮っていうか、回復職三枚ってど
ういう構成よ!﹂
アミュが頭を掻きむしりながら言う。
﹁なんか、思ってたのと違うわね⋮⋮﹂
980
第十話 最強の陰陽師、素材を売る
﹁あんたたちはね、一人一人できることが多すぎるのよ﹂
マーダーバットが一瞬で討伐された小部屋にて。
ぼくらはそろってアミュに、説教されていた。
もちろん、周囲にモンスターの気配がないことは確認済みだが⋮
⋮問題はそこじゃない。
﹁まずメイベル! あんた投剣は控えなさい﹂
アサシン
﹁む⋮⋮なんで。それじゃ、暗殺者っぽくない﹂
﹁斧使いは重戦士だって言ってるでしょーが! なんでそこにこだ
わるのよ⋮⋮。いい? あんたは前衛なんだから、離れた敵は無理

981
に狙わないの。投剣投げなきゃ倒せないような敵は、後衛に任せる
のよ﹂
﹁でも、アミュもたまに、魔法使ってる﹂
﹁あたしだって前衛が処理する分しか狙ってないわ。それに投剣の
場合、お金がかかるじゃない。あんたの重力魔法付きの馬鹿力で投
げたら、刃だって傷むし、場所によっては回収できないこともある。
投剣以上の素材を回収できないと赤字なのよ? もっとコスト意識
を持ちなさい﹂
﹁なんかいきなり、商人みたいなこと言い出した﹂
﹁同じようなものよ。仕入れ値がかからない代わりに、武器や防具
にお金がかかるってだけ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁絶対に投げるなとは言わないわ。でも、任せられる敵なら任せな
さい。わかった?﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
メイベルが素直にうなずく。
ぼくもちょっと感心してしまった。案外考えてるもんだな。
﹁次! イーファとセイカだけど﹂
今度はぼくらを見て、アミュは言う。
﹁あんたたちは、片方攻撃禁止ね﹂
﹁え、ええ∼? 大丈夫なの、それ⋮⋮﹂
不安そうに言うイーファに、アミュが答える。
﹁さっきも言ったけど、火力過剰なのよ。ボス相手でもない限りは

982
どっちか一人で十分。素材も傷むし﹂
﹁そっかぁ﹂
ヒーラー
﹁それで、片方は回復役に徹しなさい。回復職が専任でいるパーテ
ィーの方が、事故は起きにくいって言われてるわ﹂
﹁それなら、イーファが回復役に回ってくれ。ぼくが攻撃を受け持
とう﹂
やはり自分が戦闘に参加できる方が何かと安心⋮⋮と思っての提
案だったが。
アミュは目を細めてぼくを見た後、少し置いて言った。
﹁うーん⋮⋮ダメ﹂
﹁えっ﹂
ヒーラー
﹁イーファが攻撃役ね。で、セイカが回復職﹂
﹁いやいやいやなんでだよ﹂
さっきまでどっちでもいいみたいな雰囲気だったのに。
﹁理由は三つあるわ。まず、あんたの魔法にはお金がかかること﹂
﹁呪符のことを言ってるのか? 投剣に比べたら紙の一枚程度大し
た値段じゃないぞ﹂
﹁ロドネアに比べたら、ここの紙は高いわよ? 近くに製紙所もな
いし。代わりに金属資源は取り放題だから、投剣の方が安いくらい
かもしれないわね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁これからのことを考えると、消耗品はなるべく温存した方がいい
わ。それから、二つ目の理由だけど⋮⋮あんたが攻撃役やると、肝
心な場面で、あたしたちの仕事がなくならない? 危なくなったら、
あんたなりふり構わず本気出すでしょ﹂
﹁⋮⋮そうかもしれないが⋮⋮それの何が悪いんだ?﹂

983
﹁結局、あんたに頼り切りで冒険者生活を送ることになるじゃない﹂
﹁ぼくは、別にそれでも構わないが⋮⋮﹂
﹁あたしたちが気にするのよ。面倒を見てもらうだけの立場じゃ、
やっぱり居心地が悪いわ。それに、もし何かあってあんたがいなく
なったら⋮⋮頼り切ってたあたしたちはどうなるのよ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あんたがなんでもできるのはわかるわ。もしかしたら、この辺の
ダンジョンなんて、あんた一人で全部攻略できちゃうのかもね。だ
けど⋮⋮そこまで強くなくても、冒険者はみんな、これまでうまく
やってきたのよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからあんたも、あたしたちに何か任せなさい。それと、最後の
理由だけど﹂
アミュが少し笑って言う。
ヒーラー
﹁あんたが回復職として後ろにいてもらえた方が、やっぱり安心で
きるわ﹂
ぼくが言葉に迷っていると、イーファが意気込んで言う。
﹁セイカくん。わたし、がんばるよ﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
ぼくは静かにうなずいた。
それから、小さく笑って言う。
﹁じゃあ、弟子たちに経験を積ませるつもりで、見守らせてもらお
うか﹂
﹁なによその、偉そうなの﹂

984
﹁セイカ、年寄りみたい﹂
﹁どういう立場なのそれ∼﹂
ぼくは苦笑する。
****
その後も、ダンジョン探索は特に問題なく進んだ。
元々初心者向けのダンジョンだから問題なんて起こる理由がない
のだが、アミュの指導の甲斐あってか、最初の頃にあった浮ついた
様子も消え、皆落ち着いてモンスターに立ち向かえている。
ぼくの仕事は、ほとんどなくなってしまった。
ヒーラー
軽い怪我は即席で作った呪符がすべて肩代わりするので、回復職
としてやることはなく、せいぜいが灯りのヒトガタで視界を確保し、
回収した素材を位相に仕舞う程度だ。
でも、これでいいかと思う。
彼女らが、自分たちでがんばりたいと言っているのだ。若者の成
長を見守るのも年長者の役目だろう。
もちろん、危なくなったらすぐ手を出すつもりだけど。
やがて十分に素材が集まった頃合いで、ぼくたちは引き返すこと
にした。
日はまだ高いだろうが、ギルドへ売りに行く時間も必要だ。初め
てならこんなところだろう。

985
というわけで。
ぼくたちは無事ラカナへと帰還し、その足で冒険者ギルドに向か
った。
﹁素材の買い取りをお願いしたいのですが﹂
ギルドの窓口でそう言うと、受付にいた妙齢の女性が微笑む。
﹁お帰りなさい。では、そこの台へ素材を置いてください﹂
ぼくは位相への扉を開き、回収した素材をドサドサと受付脇の台
へと広げていく。
魔石や、スケルトンの持っていた剣など。大したものはないが、
それなりの量の素材が台の上へ積み上がった。
受付嬢が目を丸くする。
ポーター
﹁あら。運搬職の方でしたか。買い取りの素材はそれですべてです
か?﹂
﹁はい⋮⋮あ、いや、待ってください﹂
ぼくは扉を閉じてヒトガタの不可視化を戻すと、別のヒトガタを
取り出す。
アミュがそれをいぶかしそうに見る。
﹁なに? 他にもあるわけ?﹂
﹁そうなんだ﹂
そう、もう一つ売る物があった。

986
ラカナへ訪れる前に捕まえた、鹿型モンスターの死骸だ。
すっかり忘れていた。何せいろいろあったから⋮⋮。でも、あれ
はきっと高く売れるに違いない。
軽く真言を唱え、位相への扉を開く。
そして、ゴトッという重い音と共に、死骸がギルドの床に落ちた。
﹁なっ⋮⋮!?﹂
﹁きゃっ﹂
﹁うおっ!?﹂
床へ鎮座するその物体に、受付嬢や、周りにいた冒険者たちが驚
きの声を上げる。
ぼくはというと⋮⋮、
﹁⋮⋮へ? なんだこれ?﹂
同じく目を丸くしていた。
それもそのはず。
モンスターの死骸は、巨大な虹色の鉱物へと変わっていたからだ。
かろうじて鹿に近いシルエットをしているものの、どう見ても死
骸ではなく、直方体の結晶が塊になったただの鉱物となっている。
そういえば、角代わりに頭に生えていた魔石がこんな色をしてい
た気もする。
しかし⋮⋮これはどういうことなんだろう?
あのモンスターは、死ぬとこうなるのか?

987
正直さっぱりわからない。
冒険者やギルドの職員なら知っている者もいるんじゃないかと、
視線を巡らせるが⋮⋮、
﹁これ、魔石か⋮⋮?﹂
﹁おいこの色、上位魔石なんじゃないか!?﹂
﹁まさか、これ全部が!?﹂
⋮⋮どうも期待はできなさそうだった。
受付嬢が、目を白黒させながらぼくに言う。
﹁しょ、少々お待ちを⋮⋮﹂
のみ
奥に引っ込んでしばらくすると、金槌と鑿を持った職員を連れて
戻ってきた。
そして、申し訳なさそうにぼくへと説明する。
﹁鑑定に少し、お時間をいただくことになります。それと、魔石で
あるようですが⋮⋮かなりの金額になると思われますので、代金を
お渡しできるのは、おそらく後日になってしまうかと⋮⋮﹂
﹁はぁ。それは構いませんが⋮⋮﹂
むしろ、なんでこんなことが起こったのかの方が気になる。
誰か詳しい人はいないのかな。
カンカン、という音が響く。ちょうどギルドの職員が、虹色の巨
のみ
大な鉱物を鑿と金槌で割っているところだった。さすがに、丸のま
まじゃ鑑定できないのだろう。

988
そして、鉱物の表面にひびが入った時︱︱︱︱急に、猛烈な力の
流れを感じた。
ぼくはあわてて声をかける。
﹁あのっ、それもうやめた方が!﹂
﹁え?﹂
ギルドの職員が、呆けた表情で振り返った、その時。
鉱物のひびが広がり︱︱︱︱すべてが砕け散った。
そして、中から現れたのは⋮⋮、
﹁うわあっ!?﹂
﹁モ、モンスター!?﹂
角代わりにあった魔石こそ消えているが、間違いない。
あの時位相に封じたはずの、鹿型のモンスターだ。
四つ脚で立つ魔石の鹿が、頭を震わせる。
どう見ても生きていた。
この世界のモンスターは、位相に耐えられないはずなのに。
﹁っ!﹂
ぼくが式を向けるよりも速く︱︱︱︱鹿の蹄が、ギルドの床を蹴
った。
床板を蹴破りつつ、さらに入り口の扉をも破壊して、外へと飛び
出していく。
﹁待っ⋮⋮いや速っ!?﹂

989
後を追うようにして外に出ると、魔石の鹿は、すでに遠くの空で
小さな点になっていた。
地面に穿たれた蹄の跡を見るに、すさまじい跳躍力で、一足にあ
そこまですっ飛んでいったらしい。
鹿のモンスターは高い建物の屋根でもう一度大きく跳躍すると、
そのまま城壁の向こうへ消えていった。
呆然と立ち尽くすぼく。頭の上から、ユキが小さく顔を出して呟
く。
﹁ま、まさか生きていたとは⋮⋮なんともはや、すさまじい物の怪
でしたね、セイカさま⋮⋮﹂
﹁あ、ああ⋮⋮この世界も広いな﹂
頭の上のユキに答える。
そしてぼくは⋮⋮恐る恐る、後ろを振り返った。
目に入ったのは、扉が完全に破壊されたギルドの出入り口。
﹁⋮⋮﹂
ぼくはゆっくりと、静かに中へ戻る。
ギルド内は、静まり返っていた。
冒険者も職員も、皆唖然としていて言葉もない。アミュたちも同
じであるようだった。
鹿に蹴破られた床板を見て、ぼくは青くなる。
まずいでしょ、これ⋮⋮。

990
その時、床に残された魔石の殻が目に入った。
中身が鹿だったせいで量はだいぶ減ってしまったが、まだかなり
残っている。
﹁あのう⋮⋮﹂
ぼくは愛想笑いを浮かべ、鹿の抜け殻を指さして言った。
﹁そこにある魔石で、弁償代に足りますかね⋮⋮?﹂
第十一話 最強の陰陽師、飲む
結論から言えば、全然足りた。
むしろ足りすぎたくらいだった。
あの鹿の抜け殻はすべてが上位の魔石だったらしく、扉と床代を
弁償しても、ちょっとびっくりするくらいの額が手元に残った。
おかげでいきなり生活に余裕が出てしまった。
しかしながら、ギルドの人にはめちゃくちゃ怒られた。
曰く、アイテムボックスにモンスターをそのまま入れるな、そし
てギルドでそのまま出すな、と。
まったくもってその通りだったので、ぼくは平謝りするしかなか

991
った。
ちなみに、あのモンスターのことは誰も知らないようだった。
だが何が起こっていたかは、なんとなく想像がつく。
おそらくあの鹿型モンスターは、魔石の殻で全身を覆うことで位
相の過酷な空虚さを耐えていたのだろう。
前世の獣で、同じことをできるものはいまい。なるほどおもしろ
い化生がいたものだ。
というようなことを嬉々として語っていたら、アミュたちには呆
れられてしまったが。
そんなわけでいきなりトラブルから始まった冒険者生活だったが、
その後は順調そのものだった。
徐々に足を伸ばす先を広げ、中堅向けのダンジョンでも安定して
潜れることがわかってからは、そこが主な狩り場になった。
たぶんこの子らならば、もっと上位のダンジョンでも問題ないだ
ろう。
だが無理をすることもない。
冒険の帰り。
夕暮れ時の路上を歩きながら、アミュたちが話す。
﹁なんていうんだったかしら? これから行くお店﹂
﹁﹃金糸亭﹄だよ。高そうな名前だよね﹂
﹁たのしみ﹂

992
いい加減ギルドの酒場の味にも飽きてきたので、今日は別の店に
行ってみようという話になっていた。
たまにはこのくらいの贅沢もいいだろう。
やがてたどり着いた金糸亭は、古そうだが格式のある、立派な店
構えをしていた。
だが扉を開けて、ぼくは思わず眉をひそめる。
﹁ギャハハハッ! オークみてぇなツラしやがって!﹂
﹁で、そのバカが死んでからよぉー⋮⋮﹂
店内は、冒険者の客であふれかえっていた。
いくらか高い店ならガラの悪いのもいないかと思っていたが⋮⋮
考えが甘かったようだ。冒険者の街なんだから、稼げるタイプのご
ろつきだっていくらでもいる。
﹁⋮⋮店、変えるか﹂
ぼくが言うと、イーファとメイベルが賛同する。
﹁そ、そうだね⋮⋮﹂
﹁うるさそう﹂
だが、アミュは首をかしげる。
﹁え、どうして? ちょっと混んでるけど、いいじゃないこれくら
い。今から別の店探すの大変よ?﹂
と言って、普通に店の中に入っていく。

993
仕方なく、ぼくらもあわてて後に続く。
空いている席を探して店の中を見回していると、ぼくらを見てあ
ちこちのテーブルからざわめき出した。口笛を鳴らしているやつも
いる。
おそらくあの内の半分は、ぼくらのことを知っている連中だろう。
モンスターを放ってギルドを破壊し、あっという間に中堅向けの
狩り場に顔を出すようになった新入り四人パーティーは、すでに一
部で有名になっていた。
だが、もう半分は⋮⋮単に見目の良い若い女を見て、ちょっかい
を出したくなっている連中だろう。
﹁おい、そこの赤髪!﹂
壁際のテーブルに座っていた、禿頭の小男が叫ぶ。
﹁こっちに来て俺様の相手をしろ! なぁに、金は持っているから
よぉ!﹂
と言って、下卑た笑い声を上げる。
こちらの世界では、女だから非力、とは限らない。
訓練次第で、魔力は身体能力に変えられる。たとえ少女だろうと、
場合によっては大男をねじ伏せる。女の冒険者が決して少なくない
のは、それが理由だ。
あの位置から、アミュの提げている杖剣が目に入らなかったはず
はない。

994
だからあれはきっと、度胸試しの冗談のようなものなのだろう。
これがあるから店を変えたかったのに⋮⋮とゲンナリしていると、
アミュが小男を鼻で笑って言う。
﹁あら、ゴブリンが何か喋っているわね。上位種かしら? よく見
たらハゲてるし﹂
酒場が爆笑で包まれた。
顔を歪めた小男が、椅子を蹴って立ち上がる。
﹁てめぇ言いやがったなッ! 言ってはいけないことをッ!﹂
アミュはというと、嬉々とした表情を浮かべていた。
﹁酒場で喧嘩! あたし一回やってみたかったのよね!﹂
﹁か、かんべんしてくれ。出禁になるぞ﹂
あと物壊したら弁償しなきゃいけなくなる⋮⋮!
どう止めようか迷っていた、その時。
﹁ランプローグ君か?﹂
聞き覚えのある、落ち着いた声が耳に入った。
思わず顔を向けると、仲間と共に酒場の一角を占めていたロイド
が、柔和な笑みでぼくへ杯を掲げてみせる。
﹁最近調子がいいようじゃないか。どうだい、こっちで飲まないか﹂
ロイドがそう言うと、酒場が少し静かになった。

995
禿頭の小男も、小さな舌打ちと共に腰を下ろす。
穏やかそうな男に見えるが、さすがにラカナ第二位のパーティー
の長ともなると、それなりに顔が利くらしい。
﹁え、ええ、ぜひ!﹂
渡りに船とばかりに返事をして、ちょっと残念そうなアミュを引
っ張ってロイドの卓へと向かう。
他の者たちが詰めると、ちょうど四人分ほどの空きができた。
﹁いやぁ、助かりました﹂
卓につきながらそう言うと、ロイドが苦笑して言う。
﹁揉め事は勘弁してくれよ? この店は結構気に入っているんだ﹂
﹁ぼくにそんな気はないんですが﹂
﹁⋮⋮なによ。あっちが先に喧嘩売ってきたのに﹂
﹁揉めるなとは言わない。ただ、喧嘩は外でやってくれ。それもこ
の街のマナーだからね﹂
ロイドが平然と言う。
いや、それはマナーなのか。
﹁久しぶりだねえ、嬢ちゃん! みんな、酒は飲めるのかい?﹂
アミュの隣に座っていた、筋骨隆々の大女がにこやかに言う。
リビングメイルの森で前衛を務めていた、鎚使いの重戦士だった。
アミュが少ししどろもどろになって答える。

996
﹁ま、まあ、普通にね?﹂
﹁わたし、飲んだことないです⋮⋮﹂
﹁私も﹂
﹁ぼくもですね﹂
今生では、だけど。
﹁この店は火酒がおすすめですぞ﹂
僧衣を纏い、頭を丸めた男が言う。
女重戦士と並んで前衛を担っていた僧兵だ。
﹁拙僧の故郷に伝わる秘酒に勝るとも劣らぬ⋮⋮﹂
﹁バカ、いきなり蒸留酒なんて勧めるやつがあるか! 初めは果実
酒にしときな。ここの酒はどれも旨いよ﹂
女重戦士が注文し、ほどなくして四つの杯が運ばれてくる。
口を付け、ぼくはわずかに目を見開いた。
﹁へぇ⋮⋮﹂
﹁わ、おいしいよこれセイカくん!﹂
﹁甘い﹂
﹁! ふ、ふーん﹂
てっきり葡萄酒かと思ったが、木イチゴか何かの酒のようだった。
甘い味付けをしているのか、かなり飲みやすい。
アミュが一気に杯を呷ると、快活に笑って言う。

997
﹁あっはは! いけるわねこれ! すみませーんもう一杯!﹂
﹁おっ、いい飲みっぷりだねぇ﹂
女重戦士がアミュの背を叩く。
﹁今日の収穫はどうだった? 稼げたかい?﹂
﹁まあまあね! 今日行ったダンジョンは︱︱︱︱﹂
アミュが上機嫌で答えると、周りの冒険者からも質問が飛んでく
る。
どうやら皆、何かと話題だったぼくたちのパーティーのことが気
になっていたらしい。
イーファとメイベルも楽しげに会話に参加する中、ぼくは時折相
づちを打ちながら、静かにその様子を眺める。
﹁おい、聞いたかよ? 帝都の騒ぎ﹂
その時ふと、横手のテーブルから気になる会話が聞こえてきた。
ぼくは、二人の冒険者の会話に耳をそばだてる。
﹁なんでもめちゃくちゃ強ぇ魔族が、単身で帝城を襲撃したんだと﹂
﹁マジかよ、やべぇな⋮⋮! あの皇帝、ぶっ殺されちまったのか
? まさかとは思うが、何百年前みたいな大戦でも始まるんじゃね
ぇだろうな﹂
﹁それがよぉ⋮⋮その魔族、詫び入れて何もせず帰ったらしいぜ﹂
﹁は?﹂
﹁ぶっ壊した城壁も全部魔法で直して。行商人の話じゃあ、どこが
壊されたのかもわからないくらいなんだとよ﹂
﹁なんだそりゃ。与太話か?﹂
﹁それが、宮廷が正式に布告してる内容らしいぜ。それに帝都の住

998
人の中には、確かに先月の夜、ぶっ壊された帝城の城壁を見たって
奴が結構いるそうだ﹂
﹁嘘くせぇ⋮⋮どうせ仕込みだろ。あの皇帝、またなんか始めよう
としてるんじゃねぇの?﹂
﹁ギャハハッ、そうかもなぁ!﹂
冒険者二人は笑い合い、すぐに別の話題に移った。
聞き耳を立てていたぼくは⋮⋮いたたまれない気持ちでいっぱい
になる。
フィオナ⋮⋮す、すまない⋮⋮。
どうやら彼女は、本当に苦労して、ぼくの起こした騒ぎを隠蔽し
てくれたらしかった。
こんな無理のある話を通すのがどれだけ大変だったかを想像する
と、さすがに切なくなる。
これはいつか、あらためて詫びを入れるべきなのかもしれない。
﹁ちょっとセイカぁ! 聞いてるのっ?﹂
﹁えっ? ああ、はいはい⋮⋮﹂
酔っ払いの呼びかけにあわてて返事しつつ、ついでに追加の酒を
注文する。
客はやかましいが、高い店だけあって酒の味はよかった。この子
らにとっても、初めて飲むにはいいところだっただろう。
これからいろいろな苦労があるかもしれないが⋮⋮せめてこんな
時くらいは、楽しんでくれればいいと思う。
そんなことを考えてから、二、三刻後。

999
﹁どうせあたじは弱いわよぉ∼﹂
﹁⋮⋮﹂
アミュが真っ赤な顔で、卓に突っ伏して泣いていた。
ぼくはそれを呆れ顔で見下ろす。
﹁⋮⋮君、酒弱いな﹂
﹁はぁ∼? チッ! うっさいわね、あんたに比べたら誰だって弱
いに決まってるでしょ!? あたし、天才って言われてたのに!
あんたたちより冒険者の先輩なのに! エルダートレント程度に後
れをとるなんてどこが天才だとか思ってるんでしょ!? ふぁああ
あああん!!﹂
﹁⋮⋮﹂
アミュの隣では、メイベルが頭を傾けたまま微動だにしない。
どうやら寝ているようだった。
ぼくは溜息をつく。
﹁⋮⋮そろそろ帰るか。イーファ、二人を運ぶの手伝ってくれ⋮⋮
イーファ?﹂
反応がないので隣を見ると、イーファは満面の笑みでこちらを見
つめていた。
﹁え∼? えっへへへへへへへへへへへ!!﹂
⋮⋮ダメだ。この子らの酔いが醒めるまで待った方がいいかもし
れない。

1000
溜息をついて席に座り直す。
周りを見ると、ロイドの仲間たちもだいぶできあがっているよう
だった。
﹁ランプローグ君は、かなり飲めるようだね﹂
ロイドが、ぼくを見て意外そうに言った。
試しに頼んでみた火酒の杯を傾けながら答える。
﹁ええ、まあ。そうみたいですね﹂
前世では体質のためか、いくら飲んでも酔えなかったことを思い
出す。
まさか今生の体でもそうだとは思わなかったが。
﹁でも、あなたもだいぶ強いようで﹂
言われたロイドが、苦笑して答える。
﹁私は水しか飲んでいないよ。意外かもしれないが、下戸でね﹂
﹁え、そうなんですか⋮⋮名の通った冒険者は、てっきり全員酒豪
なのかと﹂
﹁ひどい偏見だな。酒と冒険は関係ない。私がその証明だよ﹂
確かに、ラカナ第二位のパーティーリーダーが言うのなら説得力
がある。
﹁ところで今さらなのですが、今日は何かの集まりだったんですか
? ずいぶん大人数で飲んでいたようですが﹂
﹁ああ⋮⋮ちょっとね﹂

1001
ロイドが意味ありげな表情を浮かべて言う。
﹁近々、大規模な冒険を計画している。その打ち合わせだよ﹂
﹁へぇ、大規模な。というと?﹂
﹁東のボスの討伐さ﹂
ぼくが黙っていると、ロイドが続ける。
﹁私のパーティーも、だいぶ精鋭が揃ってきた。ボスの居場所や、
周辺の地形などの情報も集まっている。入念な準備を重ねればきっ
と達成できるはずだ﹂
﹁⋮⋮いくつか疑問があるのですが﹂
ぼくは静かに問う。
﹁東のボス⋮⋮というと、ラカナの東にある山の、ボスモンスター
のことですか?﹂
﹁ああ。以前言ったラカナの周辺にある三つの山は、それぞれが一
つの巨大なダンジョンになっていてね。北、南、そして東に、一体
ずつボスモンスターが存在する。彷徨いの森のような付属ダンジョ
ンのボスは、実は中ボスのようなものなんだ。それらとは次元が違
う強さだが、決して倒せないほどではない﹂
﹁ボスモンスターを倒すと⋮⋮ダンジョンは、力を失ってしまうの
では? ダンジョンが生み出す資源で成り立っているこの街にとっ
て、ボスの討伐は禁忌ではないのですか?﹂
﹁それは、ボスモンスターがダンジョンの核だった場合の話だね。
この辺りにあるダンジョンの核は、ボスモンスターではないよ﹂
﹁なぜそんなことがわかるんです?﹂
﹁簡単なことさ。過去に何度か、ボスモンスターが倒されたことが

1002
あるからだよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まだラカナが、こんな立派な街ではなかった頃の話だけどね。そ
れでダンジョンが消滅したかというと、見ての通りだ。今も変わら
ずに富を生み出し続け、倒されたボスとは違うモンスターが、現在
のボスとして君臨している。北の山も、南の山も、東の山も。おそ
らく核はボスモンスターではない、別の何かなんだ。それが何かま
ではわからないがね﹂
ぼくは懸念を頭の隅に追いやって、別の質問を投げかける。
﹁なぜ⋮⋮わざわざそんなことを? 危険を冒してボスを倒し、い
ったい何が得られるんです?﹂
﹁名声だよ﹂
ロイドが静かに続ける。
﹁これまで調子のよかった﹃連樹同盟﹄も、最近はメンバーの増加
に陰りが見え始めている。この辺りで大きな、誰の目にもわかりや
すい戦果をあげる必要がある。いつまでもラカナ第二位のパーティ
ー止まりでは⋮⋮私の組織は、真の完成には至らない﹂
表情こそ変わらないが、その目には燠火のような意思が見て取れ
た。
ぼくは何か言おうとして口を開きかけ、そのまま閉じる。
そんなぼくへと、ロイドが微かに笑みを浮かべながら言う。
﹁正式にパーティーに加入してくれなくても構わないから、できれ
ば君たちにも手伝ってもらいたいくらいなんだが⋮⋮いや、いい。

1003
わかっているよ。君が名声や報酬に釣られて動く類の人間だとは思
っていない﹂
﹁すみませんね﹂
視線を逸らしながら、ぼくは言う。
パーティーに入れと言われるよりも、それは受け入れがたい提案
だった。
確証はないものの、ボスの討伐はかなりまずい事態を招きかねな
い。
ただ、だからといってこの男を止める言葉を、今のぼくは持ち合
わせていなかった。
仕方なく話題を変える。
﹁そういえば、ラカナ第一位のパーティーはどんなパーティーなん
ですか?﹂
そう訊ねると、ロイドはわずかに苦い顔をした。
﹁﹃紅翼団﹄というパーティーだ。どんなパーティーかと言われれ
ば⋮⋮﹂
その時、不意に酒場の扉が開いた。
装備を鳴らす音と共に、五つの人影が店内に入ってくる。
ただそれだけで⋮⋮酒場全体が、一瞬静まり返った。
彼らの姿を見て、ぼくも察する。
重戦士、剣士、盗賊、魔術師、神官。
よくある職種の、よくある編成だが⋮⋮その装備や立ち居振る舞

1004
いが、他の冒険者とは一線を画している。
噂をすれば影が差すとはよく言ったものだ。
これが﹃紅翼団﹄︱︱︱︱ラカナ第一位のパーティーか。
﹁おい、麦酒を五つだ! 料理は適当に持ってこい!﹂
重戦士の大男が店の奥へ乱暴に叫ぶと、仲間たちと共に空いてい
る席へどっかと腰を下ろす。
不意に、微かな血生臭さが鼻を刺した。
こいつら、ダンジョン帰りか。
﹁ん? おう、ロイドじゃねぇか!﹂
リーダーらしき大男がこちらを見て、でかい声で叫んだ。
ロイドは一瞬顔をしかめた後、大男に向けて杯を掲げてみせる。
﹁どうも。ご無沙汰してます、ザムルグさん﹂
﹁はっ、ロイド。それは水か? いつになったらお前は酒が飲める
ようになる。お守りしてる半人前共にも示しが付かねぇぞ、なあ?
ガッハハハ!﹂
殺気立つロイドの仲間たちには構わず、ザムルグと呼ばれた大男
が続ける。
﹁そっちのガキ共はなんだ、また勧誘か。明日にでも死にそうなひ
よっこまで拾おうたぁ、お前も見境がねぇな。パーティーと女のケ
ツの違いはわかってるか? でかけりゃいいってもんじゃ⋮⋮﹂
﹁彼らは、市長の顔見知りでしてね﹂

1005
ザムルグの言葉を遮って、ロイドが微笑と共に言った。
﹁ラカナのことを教えるよう頼まれていたもので。それだけですよ﹂
﹁⋮⋮チッ。おい! 酒はまだか酒は!﹂
厨房へ叫ぶザムルグから顔を戻し、ロイドがうんざりしたように
言う。
﹁﹃紅翼団﹄がどんなパーティーか、という話だったね。見てのと
おりさ。酒と金と暴力を愛し、自由と名誉に何より執心する、要す
るに︱︱︱︱﹂
ロイドはまるで、その存在を嫌悪しているようだった。
﹁︱︱︱︱典型的な、冒険者のパーティーだよ﹂
第十二話 最強の陰陽師、占う
街も寝静まった夜。
逗留先の宿屋の屋根で、ぼくは一人立って作業していた。
周囲に浮かぶのは、数十枚のヒトガタ。
その中から数枚を選び取り、それを何回か繰り返した後に、眉を
ひそめて唸る。
﹁何をされているのです? セイカさま﹂
えき
﹁ああ、易だよ﹂
答えると、ユキが意外そうに言う。

1006
﹁占術でございましたか。それにしても、セイカさまが易占とはお
ぜいちく
珍しい⋮⋮筮竹は使われないので?﹂
﹁そんなものどこにあるんだよ﹂
﹁おっしゃるとおりで﹂
めどぎ
この世界に蓍や竹が生えているかどうかもわからない。
共通している動植物は多いからあってもおかしくはないが、少な
くとも遠い場所になるだろう。
﹁道具なんて本質じゃない。使えればなんでもいいのさ﹂
﹁ふふ。前世でもそう言って、貴族の覚えがよかった老占術師の面
子を潰しておりましたね﹂
﹁よく覚えてるな。あんなもの、真理も知らぬ若輩が、勝手に無知
を晒して墓穴を掘っただけだ﹂
とはいえ。今思えば、あまり誉められた言動ではなかったかもし
れない。
怪しげな呪物を知人に売りつけようとしていたから、軽く言い負
かしてやったのだが⋮⋮恨みを買わずに済む方法だってあっただろ
う。
ぼくのささいな後悔なぞ知る由もなく、ユキが暢気な調子で言う。
﹁それにしても、どうしてまた易占など? なにか心配事でもござ
いましたか?﹂
﹁ああ、ちょっとな﹂
ぼくは、少し迷ってから訊ねる。

1007
﹁お前⋮⋮気づいてるか?﹂
﹁? なににでございましょう?﹂
﹁この辺りにある力の流れだよ﹂
ぼくは言う。
﹁この下、龍脈が走ってるぞ﹂
龍脈とは、土地を通る力の流れのことだ。
これがあると、その地は栄える。作物は豊かに実り、活力のある
人間が多く集まって、その周囲にも良い影響を与えていく。
もちろん、龍脈の恩恵を受けるのは人ばかりでなく、化生の類も
同じだ。
あやかし
だから人里離れた龍脈の走る秘境には、たいてい強大な妖が棲ん
でいたものだった。
ユキが唸るように言う。
﹁う、うーん⋮⋮龍脈、でございますか? なにやら力の気配は感
じますが⋮⋮これがそうなのでしょうか? 日本にあったものとは、
いくらか趣が異なるように思えるのですが⋮⋮﹂
﹁そうだな。前世にあったものとは、力の様子がだいぶ違う。だが
龍脈であることに間違いはないだろう﹂
こちらの人間が持つ力が、気や呪力とは違う、魔力というもので
あるのも、土地に流れる力の違いが原因なのかもしれない。
﹁アスティリアの地にも力が満ちていたが、ここはあそこ以上だ。
街が発展するわけだよ﹂

1008
﹁あの地以上の、でございますか⋮⋮それではひょっとして、あの
ドラゴンよりも強大な物の怪が、この地に棲んでいるのでしょうか
?﹂
﹁いや⋮⋮おそらくだが、それはないな﹂
ぼくは説明する。
﹁ドラゴンより強力なモンスターというのは、どうやらこの世界に
は存在しないようなんだ。加えてここには、アスティリアとは比べ
ものにならないほど大量のモンスターがいる。何せでかいダンジョ
ンが三つもあるんだからな。頭数が増えれば、個々が受ける恩恵も
減るというものさ﹂
﹁ははぁ。言われてみればそうでございますね﹂
ユキが納得したように言った。
それから、やや調子に乗ったような口調で呟く。
﹁しかしながら、この地の人間はもったいないことをするものです
ねぇ﹂
﹁?﹂
﹁どうせならば、龍穴の真上に街を作ればよかったものを。その方
がさらに発展できたでしょうに﹂
龍穴とは、龍脈を流れる力が地上に湧き出す場所のことだ。
龍脈の地の中でも、特に恩恵を受けられる場所なので、確かにも
っともではあるのだが⋮⋮。
ぼくは、やや呆れながらユキに言う。
﹁それって、ダンジョンになってる山に住めって意味か? あのな

1009
ぁ⋮⋮モンスターがうじゃうじゃいて、開墾できる場所もなく、行
商人も来にくいとこに住んでどうするんだよ﹂
﹁その程度、力が得られるのなら些事ではないですか﹂
﹁妖と一緒にするなよ。人間はいろいろ大変なんだ﹂
それから、ぼくは付け加える。
﹁あとな、この地に龍穴はないぞ﹂
﹁⋮⋮はい?﹂
ユキがぽかんとして言う。
﹁物の怪が大量に住まうという三つの山は、龍穴ではなかったので
すか⋮⋮? では、力の向かう先はどこに⋮⋮﹂
﹁なんと言えばいいかな⋮⋮﹂
ぼくは少し考えて続ける。
﹁この世界にはダンジョンというものがある。強力なモンスターや、
術士や、呪物が核となって存在し、モンスターや宝物を生む異界だ﹂
﹁はい﹂
﹁この異界は、無論対価もなしに存在できるわけじゃない。ただそ
こにあるだけでも、少しずつ核の持つ力を削いでいく。ダンジョン
は自然と消滅することがあるそうだが、それは核が力を使い切った
せいだろう﹂
何かを生み出すには、必ず対価が必要になる。
それはあらゆる物事で変わらない、真理の一つだ。
まじな
もっとも呪いに関しては、だいたい収支が合わないものだが。

1010
﹁で、どのくらいの核で、どのくらいのダンジョンを維持できるか
だが⋮⋮ロドネアの地下にあったあのダンジョンを思い出してみろ。
ボスモンスターの虹ナーガはなかなか強そうではあったが、それで
も出現するモンスターは雑魚ばかりで、大した宝物もなかっただろ
う? それだけ要求される力は大きいんだ﹂
学園の書物でダンジョンに関する記録を読んだ限りでも、この認
識で間違いはなさそうだった。
﹁そう考えると、ラカナにあるダンジョンは規模がおかしい。こん
なもの、核が上位龍クラスのモンスターか、神器級の呪物でもなけ
れば成立し得ない﹂
﹁でも⋮⋮現実に存在しておりますよね? これはどういうことな
のでしょう?﹂
﹁おそらくだが⋮⋮ボスモンスターが、龍穴の代わりになっている
んだ﹂
ぼくは説明する。
﹁前世では零落した土地神が、棲み着いた場所の力を吸い取って家
や村を衰えさせる例があっただろう? それと同じように⋮⋮龍脈
の力を効率よく取り込めるモンスターが、この世界にもいるんじゃ
ないだろうか﹂
﹁ふむ﹂
﹁かつてそういうモンスターがこの地で力を得て、やがては核とな
ってそれぞれの山でダンジョンを形成した。この広大なダンジョン
を維持しているのは、核であるボスモンスターそのものというより
も、そいつが龍脈から吸い上げる無尽蔵の力⋮⋮なんじゃないかな。
たぶん﹂
﹁なんとも曖昧な言いようでございますねぇ﹂

1011
ユキが呟く。
﹁しかしながらあの細長い人間は、ダンジョンの核はモンスターで
はないと言っておりませんでしたか? 過去に数度、倒されたこと
があると﹂
﹁ああ。だからダンジョンは、そのたびに消滅していたんじゃない
かと思う﹂
ぼくは言う。
﹁今もダンジョンが残っているのは、近い能力を持つ別のモンスタ
ーが新たな核となり、ダンジョンを形成し直したからだろう。空白
地帯となれば他の山からモンスターが流入するだろうし、条件が満
たされれば、当然同じ現象が起こってもおかしくない⋮⋮まあ、た
ぶんだけどな﹂
﹁たぶん、でございますか。やはりなんとも曖昧な言いようでござ
いますねぇ﹂
﹁あくまでただの予想だ。だけど、少なくとも龍穴がないことは確
かだからな。これが一番妥当な予想だよ﹂
﹁まあ、セイカさまがおっしゃるのならばそうなのでしょうね。し
かしそれならば⋮⋮やはりそれぞれの山に君臨する物の怪は、上位
龍に近い力を持っていることになるのでしょうか?﹂
﹁さっきも言ったが、おそらくそれはない。龍脈の力を得る能力と、
単純な強さはまた別なんだろう⋮⋮そうでなければ、人に倒される
ことなどまずありえないからな﹂
﹁たしかに⋮⋮上位龍を破るほどの者が、この世界にいるとも思え
ませんしね﹂
それから、ユキは呆れたように言う。

1012
﹁それにしても、ずいぶんと都合のいい土地でございますね。無尽
蔵に富を生む物の怪が棲まいながらも、それが大した脅威ではない
というのですから⋮⋮。あの程度の人間どもが粋がっていられるの
も、こんな恵まれた地に住んでいるからなのでしょうね﹂
﹁うーん、いやそれは、そうかもしれないが⋮⋮むしろボスは、上
位龍くらい強かった方が、かえってよかったくらいかもしれないな
⋮⋮﹂
口ごもりながら言うぼくへ、ユキが不思議そうに訊ねる。
﹁なにゆえ? かの世界のように、気まぐれに大嵐でも起こされた
らたまったものではないでしょう﹂
﹁それはそうなんだが⋮⋮弱いのもまずいんだ﹂
ぼくは説明する。
﹁もしも龍穴代わりになっているボスモンスターが倒されてしまっ
たら、当然龍脈の流れは滞る。そうなればどうなってしまうかとい
うと⋮⋮﹂
﹁というと?﹂
﹁わからない﹂
﹁はい?﹂
﹁わからないんだよ。前世でも龍穴を塞いだ例なんて聞いたことが
なかった。どうなるかなんてわかりようがない﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
ユキが困惑したような声を出すが、ぼくにだって知らないことは
ある。

1013
﹁まあ少なくとも一体くらいだったら、他の二カ所もあるから問題
ないだろう。そのうち別のモンスターが新しくボスになれば、元に
戻る。だけど⋮⋮仮に三体とも倒されてしまったら、どうなるかは
本気でわからないな。とんでもない大災害が起こっても不思議じゃ
ない﹂
﹁ははぁ⋮⋮なるほど。それで、占いでございましたか﹂
得心したように言ってから、ユキはやや渋い声音で続ける。
﹁しかしながら、やや心配のしすぎでは? 三体もいるのですから、
実際に一体倒されてからでも⋮⋮﹂
﹁今、ボスはもう二体しかいないぞ﹂
﹁えっ﹂
﹁北のボスは、すでに消えている﹂
ぼくは言う。
﹁北の山には今、モンスターが出現しなくなっているという話だっ
ただろう? そしてその代わりに、東と南の山のダンジョンには難
易度に変化があると⋮⋮もう兆しは見え始めているんだ。現に、力
の流れに偏りがある﹂
﹁そ、それは⋮⋮どういうことでございましょう? この地の人間
が、倒してしまったのでしょうか?﹂
﹁さあな。そうかもしれないし、あるいはドラゴンのように、渡り
の性質があってどこかへ移動してしまったのかもしれない。まあそ
こは重要じゃない。問題はロイドが、この状況で東のボスを倒す計
画を立てていることだ。ことが成ってしまえば、残りは一体。楽観
できる状況じゃなくなる﹂
場合によっては、この地を離れる必要が出てくるかもしれない。

1014
ただそうするにしても、次の向かう地のあてはない。フィオナの
協力だって、得られるかどうかわからない。
となれば、この地に残り、最悪の事態をなんとか収めるという選
択肢も一応ありうるが⋮⋮問題は、その最悪の事態でどんなことが
起こるかだ。
﹁⋮⋮地揺れや噴火なんかが考えられるが、ここらにあるのは火山
ではないようだしな⋮⋮となるとやはり、アミュの言っていたスタ
ンピードだろうか﹂
モンスタースタンピード。
大量のモンスターが、街や村を襲う現象。
ここラカナで起こるとすれば、やはりそれが一番自然な気がした。
﹁あのう⋮⋮﹂
ユキがためらいがちに言う。
﹁言うまでもないことですが⋮⋮災害程度、セイカさまならばいか
ようにもできるのでは? 前世では大水や嵐を収めていたではない
ですか﹂
﹁無論可能だろうが、ぼくの力を衆目に晒すことになってしまう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮今さら何を言っているんだと言いたいんだろうがな﹂
何か言いたげに押し黙るユキへ、ぼくは溜息をつきながら言う。
﹁親しい者のためならばともかく、この街に住む見ず知らずの他人
なんかを救うために、ぼくは力を使う気はないぞ。帝城でのことは、
幸いにもフィオナが隠蔽してくれているんだ。この幸運を無為には

1015
したくない﹂
あんなことをしでかしたにもかかわらず、そればかりは本当に助
かった。彼女には感謝しなければならないだろう。
これ以上、為政者に目を付けられるような真似は避けたい。
スタンピードとなれば、地揺れや噴火のように密かに収めるのも
難しい。
やはり、いざとなれば逃げるしかないだろう。
﹁⋮⋮ユキは﹂
ユキが、恐る恐る言う。
﹁ユキは、セイカさまが⋮⋮前世のように過ごされるのも、よろし
いかと思っているのですが⋮⋮﹂
﹁前世のように、って?﹂
﹁見ず知らずの他人を力のままに助け、常命の友人や弟子たちに囲
まれながら、穏やかな日々を送られるのも⋮⋮ということです﹂
﹁⋮⋮何を、言っているんだ﹂
思わず硬い口調になる。
﹁それで失敗したから、ぼくは今こんな世界にいるんじゃないか﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ユキは口ごもり、しばし逡巡した後、絞り出すように言った。
﹁そうで⋮⋮ございましたね﹂
﹁⋮⋮﹂

1016
ぼくは無言で手を伸ばすと、頭の上の妖を撫でた。
もしかしたら、ユキは転生してからのぼくの状況に、もどかしさ
を感じているのかもしれない。
だが、こればかりはどうしようもなかった。
世界は暴力だけで成り立つほど単純ではなく、暴力を放っておか
れるほど、甘くもないのだ。
狡猾な為政者を敵に回さないためには、やはりそれなりに用心し
なければならない。
﹁⋮⋮話が逸れたが、ま、要はそういうことだ。これからどうなる
か、どうするべきかがちょっと判断つかなかったから、占いになど
頼っていたわけだよ﹂
﹁はい⋮⋮して、セイカさま。結果はどのようなものだったのです
か?﹂
﹁結果か。そうだな⋮⋮﹂
ぼくは浮かぶヒトガタを眺めながら、渋い顔で呟く。
何度か占的を変えて試みたが、どうも問いに対して要領の得ない

卦ばかりが出てしまう。之卦や互卦を見ても、それはあまり変わら
なかった。
それでも無理矢理解釈するならば⋮⋮、
﹁なんか、やりたいようにやればうまくいく⋮⋮らしい﹂
﹁良い卦ではないですか﹂
﹁自分の気持ちに嘘をつくな、とも読めるな。あと、仲間が導いて
くれる、とも﹂
﹁な、なにやらずいぶんと、清々しい卦が出たようですが⋮⋮しか

1017
しながら、今回の問題ってそういう話でございましたか? セイカ
さまはいったい、どんな問いかけをなされたのです?﹂
﹁普通に今後の方針を問うただけだよ。なんでこんな精神論が返っ
てくるのか、ぼくが知りたいくらいだ⋮⋮まあでも、占術なんてこ
んなものさ﹂
未来視のようにはいかない。
ぼくだって、決して万能ではない。
第十三話 最強の陰陽師、涼む
やむを得ない形で始まった冒険者生活も、もう二月が経とうとし
ていた。
﹁あ∼づ∼い∼﹂
ギルドに備え付けられた酒場の、片隅にて。
ぐったりとテーブルに突っ伏したアミュが、そう呻く。
﹁まだ夏前なのに、なんでこんなに暑いのよ⋮⋮﹂
﹁う、うん⋮⋮来月にはどうなっちゃうんだろうね、これ⋮⋮﹂

1018
イーファも胸元を扇ぎながら、力なく同意する。
﹁⋮⋮﹂
あお
メイベルだけはいつもの顔で果実水を呷っている⋮⋮が、普段以
上に口数が少ない。
どうやら、弱っているのはこの子も同じのようだ。
アミュの言う通り、まだ本格的な夏が来ていないにもかかわらず、
ここラカナでは連日猛暑が続いていた。
ダンジョンに潜る気力も失せたぼくたちは、こうして昼間からギ
ルドでくだを巻いている始末だ。似たような冒険者たちが、周りに
もちらほら見られる。
﹁ラカナは、周囲が山に囲まれた盆地になっているからな﹂
微かに柑橘の香る果実水を傾けながら、ぼくが言う。
﹁どうしても空気が滞留してしまうんだろう。仕方ないさ﹂
﹁あんたはなんでそんなに平然としてられるのよ﹂
涼しい顔のぼくを、アミュが下から睨んでくる。
﹁じめじめしてないからな。このくらいならまだ過ごしやすい﹂
日本の夏に比べたらマシだ。日差しを避けていれば我慢できない
ほどでもない。
アミュが信じられないように言う。

1019
﹁嘘でしょ⋮⋮? ランプローグ領ってそんなに暑かったの?﹂
﹁そんなことなかったよ⋮⋮セイカくんの基準は、よくわかんない
⋮⋮﹂
イーファが弱々しく答える。
仕方なく、ぼくは言い訳するように言う。
﹁ぼく、暑いのは割と平気なんだよ。ここで雨でも降られたらさす
がにうんざりするけどな⋮⋮というか﹂
そこでふと、ぼくは付け加える。
﹁思ったんだが、アミュとイーファは水属性魔法が使えるだろう﹂
﹁え? う、うん﹂
﹁それがどうしたのよ﹂
﹁氷を作って、部屋を冷やしたりできないのか?﹂
学園で習う魔法は理論がほとんどで、あとは攻撃か、せいぜい治
癒に用いるくらいのものだった。
魔道具という便利な呪物はたまに使われているものの、魔法その
ものが日常生活や産業に利用されている例はあまり見たことがない。
これほどたくさんの術士がいる世界だ、もっとそういうのがあっ
たっていい⋮⋮と、思っての発言だったが。
アミュが呆れたように答える。
﹁あのね、これだけ暑かったら多少の氷なんてすぐ溶けるし、涼め
るまで魔法使ったら魔力切れであっという間にぶっ倒れるわよ。労
力使うんなら、うちわで扇いだ方がマシ﹂

1020
﹁そうか⋮⋮イーファでもダメか?﹂
﹁う、うん⋮⋮あんまりお願いすると、だんだん聞いてもらえなく
なってくるの。だからたぶん、ダメだと思う﹂
そりゃそうか。精霊の魔力だって無尽蔵じゃない。
﹁商会では、そういう仕事も、ちょっとやってた﹂
メイベルが口を挟む。
﹁海のある街から、生の魚を冷やして、腐らせずに運んだり⋮⋮と
か﹂
﹁おお、そういうのそういうの!﹂
﹁でも、必ず二人以上の魔術師を使うから、かなり高かったみたい。
お金持ちの貴族が、道楽で頼むような仕事﹂
﹁ああ⋮⋮そこまでしないとダメなのか。というより、意外と手広
くやってたんだな、ルグローク商会⋮⋮﹂
魔法を日常生活や産業に使う文化は、どうやらないらしい。
これだけ発展しているのに、用途がモンスター退治と貴族の権威
付けだけというのももったいない気がするが、転用が難しいのだろ
う。
となると、やっぱり今はがまんするしかないな。
﹁まあ聞いたところによると、真夏でもここまで暑い日は珍しいそ
うだ。数日もすれば落ち着くだろう﹂
﹁今があづいのよぉ∼﹂
﹁⋮⋮はあ、仕方ないな﹂

1021
さすがに、体調を崩されでもしたら困る。
ぼくは懐から数枚のヒトガタを取り出すと、宙に放った。
軽く印を結ぶ。
ほどなくすると、陰の気が周囲の熱を奪い、辺りに冷気が立ちこ
め始めた。
﹁⋮⋮え、涼しい!?﹂
﹁わっ、これセイカくんが!?﹂
﹁すごい﹂
女性陣がきゃっきゃとはしゃぎ出したので、ぼくは一応言ってお
く。
﹁ちょっとだけだからな。あんまりこれに頼りすぎると体が弱くな
る﹂
﹁あっはっは! 最高!﹂
﹁セイカくんありがとう! やっぱりセイカくんはすごいんだね!﹂
﹁ここで寝たい。寝てもいい?﹂
﹁いきなり元気になるなよ﹂
さっきまでぐったりしていた生き物とは思えない豹変ぶりだった。
全然元気じゃないか、この子ら。
﹁あら、みなさん。どうしましたか? 何か⋮⋮﹂
ぼくが呆れた目で三人を見ていると、騒ぎを聞きつけたのか、通
りがかったギルド職員が寄ってきた。
いつかの買い取り窓口にいた若い受付嬢だ。弁償のやり取りなど
しているうちにすっかり顔見知りになり、アイリアという名だと知

1022
った。
﹁え、ええっ!? ここの周り、どうしてこんなに涼しいんですか
!?﹂
テーブルに近づいたアイリアが、口元に手を当てて驚く。
﹁いやその⋮⋮﹂
﹁セイカが涼しくしてるのよ﹂
﹁セイカさんが? はぁ∼⋮⋮やはりすばらしい魔法の才能をお持
ちなのですね﹂
アイリアはそう言ったまま、テーブルのそばから動かない。
どこかに行くところじゃなかったのか⋮⋮?
﹁アイリア? そんなところでどうしたんだ?﹂
またもや通りかかった若いギルド職員が、変なところで突っ立っ
ているアイリアを見て怪訝そうに言った。
魔石の鹿の殻を、金槌と鑿で割った鑑定士だった。アイリアの先
輩で、名をウォレスと言うのだと知った。
﹁ウォレスさん、こっちこっち!﹂
﹁何で呼ぶんです!?﹂
﹁何を⋮⋮す、涼しい!?﹂
ウォレスがアイリアとまったく同じように、驚愕して言った。
﹁すごいですよね、セイカさんがやってくれているのだそうで﹂
﹁本当にか? ギルドの職員になってほしいくらいだ﹂

1023
﹁こんな一芸くらいで勧誘しないでください﹂
ウォレスもまた、立ち止まった場所から動こうとしない。
こいつらヒマなのか⋮⋮?
﹁うるせーな。お前ら何をそんな⋮⋮涼しい!?﹂
﹁いい加減にしろよ、ただでさえ暑⋮⋮す、涼しい!?﹂
﹁なっ、涼しい!?﹂
周りのテーブルでぐったりしていた顔見知りの冒険者たちが、寄
ってきては驚愕する。三人パーティーのガドル、ニド、リッケンは、
似たもの同士なためか反応も似ていた。
﹁なんだ?﹂
﹁涼しいってどういうことだ?﹂
周囲の冒険者どもや、ギルド職員が次々に寄ってくる。
あっという間に、テーブルの周りには人だかりができてしまった。
ぼくはしばし呆気にとられた後、思わず叫ぶ。
﹁暑苦しいわっ!﹂
日陰に集まる猫かこいつら。
﹁もっと涼しくしてくれてもいいんだぜ?﹂
﹁そうだそうだ、そうするべきだ﹂
﹁へへっ、何か飲み物持ってきやしょうか?﹂
﹁お前らは誰なんだよ﹂

1024
いつの間にか全然知らない連中までもが、知人面で立っていた。
まったく、冒険者はなれなれしくて困る。
いや⋮⋮そういえば前世でも、ぼくの友人はこんな奴らばかりだ
った気もする。
もしかして、ぼくの性格の問題なのか?
﹁おじちゃーん、ここ涼しい!﹂
不意にその時。ギルドに似つかわしくない、甲高い子供の声が響
いた。
小さい子の扱いに不慣れな冒険者どもが、ぎょっとして声の発生
源から離れる。
そこにいたのは、白い子供だった。
色白の肌に、白金色の髪を尼削ぎにしている。五、六歳くらいに
見えるが、ずいぶんと綺麗な容姿をしていた。
ハーフエルフ
その耳は少し尖っている。ひょっとして、半森人か?
﹁わっ、か、かわいいっ! お嬢ちゃんどうしたの? 一人?﹂
﹁ボク、男だよ!! おじちゃーん!﹂
しゃがみ込んだイーファに怒鳴り返すと、子供はギルドの奥へと
叫ぶ。
﹁おーぅ、わかったわかった。ちょっとそこで遊んでもらってろ﹂
階段から顔を覗かせた男が、声を返す。
見覚えのある顔だった。ギルドに商品を卸しているエイクだ。
メイベルが首をかしげ、エイクへと声をかける。

1025
﹁これ、エイクの子?﹂
エルフ
﹁あんたの奥さんって森人だったの? やるじゃない﹂
エルフ
﹁はは、残念だが森人は妹の旦那だ。今ちょっと甥っ子を預かって
てな﹂
﹁だったら早く連れていきなさいよ。ここ、もう定員なんだけど﹂
﹁定員⋮⋮? よくわからんが、見ててくれないか。これから商談
なんだ﹂
﹁ええー⋮⋮冒険者なんかに大事な甥っ子を預けるんじゃないわよ﹂
﹁名前はティオだ。頼んだぜ﹂
渋るアミュへ一方的に言うと、エイクは階段を上っていってしま
った。
﹁お姉ちゃん、剣士?﹂
ティオが、アミュの杖剣を見つめて言った。
﹁そうだけど?﹂
﹁ボクと勝負しよ!﹂
﹁はあ?﹂
﹁ボクも剣士だよ! 友達にはもうぜったい負けないんだ。外で勝
負しようよ、ねぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
服の裾を引っ張るティオを、アミュはめんどくさいガキを見るよ
うな目で見つめている。
ぼくは、思わず吹き出してしまった。
﹁いいじゃないか。遊んでやれよ﹂
﹁はああ? いやよこの暑い中。あたしはここから離れないからね

1026
!﹂
﹁あー、残念だけどそろそろ魔力が﹂
わざとらしくそう言って、ぼくはヒトガタを回収する。
途端に熱気が立ちこめ、周囲から文句の声が上がるが、完全に無
視する。
﹁絶対嘘じゃない魔力切れとか!﹂
﹁これに慣れ過ぎると逆に体調を崩すぞ。いいから、子供の相手く
らいしてやれって。ほら﹂
と言って、長い木の棒を二本手渡してやる。
﹁どっから出したのよこんなもん﹂
﹁お姉ちゃんはやくー﹂
﹁ああもう、わかったわよ! その代わり、夜はみんなでセイカの
部屋に集合ね。最近寝苦しかったから﹂
﹁は? おい﹂
﹁ほら来なさい! 腕前を見てやるわ、ガキ!﹂
﹁よーし、行こっかティオくん! 暑いから帽子被ってね﹂
﹁うん!﹂
﹁アミュが負けたら、私が相手になる﹂
﹁負けるわけないでしょ!﹂
アミュたちがガヤガヤと出て行く。
冷気の残りに集っていた冒険者やギルド職員も、やがて固まって
いる方が暑いと気づいたのか、一人また一人と散っていった。
﹁︱︱︱︱! ︱︱︱︱﹂
﹁︱︱︱︱︱︱﹂

1027
ハーフエルフ
テーブルから離れた場所にある窓からは、半森人の子供が、アミ
ュたちと遊んでいる光景が見える。
すっかり温くなった果実水を呷る。
不思議と、ひどく懐かしい気分になった。
﹁邪魔するぜ﹂
その時︱︱︱︱テーブルの真向かいに座った大男の体が、ぼくの
視界を塞いだ。
第十四話 最強の陰陽師、また勧誘される
大男はテーブルに足を乗せると、暑そうに胸元を扇ぐ。
その様子を眺めながら、ぼくは言う。
﹁ここは酒場ですよ。飲み物でも頼んだらどうです。ザムルグさん﹂
ラカナ第一位のパーティー、﹃紅翼団﹄リーダーのザムルグは、
うっとうしそうな目でぼくを見る。
﹁いらねぇよ。今まで俺様がどれだけここに金を落としてると思っ
てる。ちっと居座ったくれぇで文句言われてたまるか﹂

1028
おそらく、それは事実なのだろう。
冒険者用の装備ではないが、服も靴も上等なものだった。ラカナ
の冒険者パーティーの頂点に立っているだけあり、相当の稼ぎがあ
るようだ。
﹁で、ぼくに何か用ですか? 今日は暑いので、なるべくなら近く
に寄らないでもらいたいものですが﹂
ザムルグが足を下ろすと、テーブルに身を乗り出し、ぼくを正面
から睨む。
﹁俺様にそんな口を利くか。なかなか肝が太いじゃねぇか﹂
﹁⋮⋮﹂
黙ってその目を見返していると、やがてザムルグが椅子の背にも
たれかかり、口を開いた。
﹁はっ、なるほど。親父の客人なだけはある﹂
﹁親父⋮⋮? ああ、市長のことですか﹂
別に血縁ではないだろう。そう呼ばれることもあると、いつだか
本人が言っていた。
﹁どうでもいいですが、先に用件を言ってもらいたいものですね﹂
﹁新入りの分際で、ずいぶんと調子がよさそうだな。セイカ・ラン
プローグ﹂
ぼくの要望を無視し、ザムルグが言う。

1029
﹁どこぞの貴族のガキが女連れで冒険者になったと聞いた時は、何
日で死ぬか仲間と賭けたものだが⋮⋮まさか生き残るどころか、中
堅向けのダンジョンにまで顔を出すようになるとはな。おかげで大
損だ﹂
﹁それは残念でしたね。まあ、こちらは運に恵まれました﹂
﹁運? 違うな。お前は本物だ﹂
﹁⋮⋮﹂
ザムルグはそこでわずかに間を置くと、話題を変える。
﹁ロイドの野郎に勧誘されたそうだな﹂
﹁ええ。加入はお断りしましたが﹂
﹁なぜだ﹂
﹁別に。彼の考えに共感できなかっただけですよ﹂
﹁はっ、そうだろうなぁ!﹂
ザムルグの声が大きくなる。
その様子に、ぼくは目を眇めて言う。
﹁⋮⋮あなたも、どうやらそのようですね﹂
﹁当たり前だ﹂
大男が鼻を鳴らす。
﹁大人数のパーティーで助け合いだぁ? バカが。冒険者をなんだ
と思っていやがる。肝心なもんがさっぱり見えてねぇ﹂
﹁よくわかりませんが、冒険者にとって何が肝心だと?﹂
﹁自由だよ﹂
ザムルグが言い切る。

1030
荒くれ者の言葉の、そこだけに真摯な響きがあった。
﹁自由が何だか、お前にわかるか? 誰の支配も受けず、それゆえ
に誰の助けも借りないということだ。自由だから欲望に忠実になれ
る。自由だから、生き残るために懸命に力を磨く。ラカナはそうや
って、欲望と生への渇望で発展してきた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁力ない者が死に、力ある者が生き残る。それのどこがおかしい?
常に力を求めてきたからこそ、今この街は自由都市でいられる。
奴の甘えたパーティーのルールが冒険者すべてに広まれば、街から
欲望も生への渇望も失われる。そんなラカナなぞ、いずれ帝国に飲
み込まれるのがオチだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あんなパーティーがラカナの頂点に立つなど、あっちゃならねぇ。
この街の冒険者の指針となるのは、力あるパーティーであるべきだ。
かつて、親父が率いていたパーティーのような⋮⋮﹂
﹁ロイドの考えには共感できませんでしたが﹂
長い話に辟易していたぼくは、やや強引に口を挟む。
﹁あなたの持論にしても同じですね﹂
﹁あ?﹂
﹁冒険者の、一体どこに自由があると言うんです?﹂
﹁⋮⋮なんだと?﹂
﹁冒険者の多くは仕方なくこの街に流れ着き、金もない、伝手もな
い、情報もない中、ただ生きるため闇雲にダンジョンへと潜ってい
く。これのどこが自由だと? 手足を縛られ、状況に引きずられて
いるも同然ではないですか﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁そしてこんな状況では、力などはほとんど役に立たない。生存を

1031
決定づけるのは、ただの天運だ⋮⋮あなたや市長が今の地位にいる
のは、力を持っていたからではなく、ただ運に恵まれていただけな
のでは?﹂
﹁てめぇ⋮⋮﹂
﹁まあしかし、あなたがロイドを目の敵にしていた理由は、今日わ
かりましたね﹂
ぼくは口の端を吊り上げて笑う。
﹁敬愛する市長に、気にくわない相手が重用されていて⋮⋮嫉妬し
ていたんでしょう?﹂
サイラス市長の応接室に、ロイドが呼ばれていた時のことを思い
出す。
あれはどうも、普段から頼まれごとをされているような様子だっ
た。
ザムルグは、その顔から表情を消していた。
﹁⋮⋮それは、俺様への侮辱か?﹂
冒険者は、面子を重視する。
特にラカナの冒険者の頂点に立つこの男ならば、自分への侮辱を
見過ごすことはできないだろう。
﹁さあ⋮⋮ぼくとしては、どう捉えてもらってもかまいませんが﹂
殴りかかってこようがどうでもいい気分だったけれど。
ただこの男も、何か用があって来たに違いない。それを聞かない
まま撃退してしまっても、なんだか収まりが悪い。

1032
仕方なく、収拾が付けられるよう一言付け加える。
﹁ただ彼には、これまで何度か世話になっているのでね﹂
﹁⋮⋮あの野郎に恩義なぞ感じる必要はねぇ﹂
恩のあるロイドの名誉を保つための物言いだったと、ザムルグは
自分の中で整理したようだった。
そしてようやく本題に入る。
﹁俺様のパーティーに入れ。セイカ・ランプローグ﹂
﹁⋮⋮え、あなたも勧誘だったんですか?﹂
意外な用件に拍子抜けする。
﹁それは⋮⋮ぼくら四人で、﹃紅翼団﹄に入れと?﹂
﹁四人じゃねぇ、お前一人だ。余計なのは邪魔なだけだからな。だ
が、十分な報酬は約束してやる。仲間に分けてやっても今以上の稼
ぎになるだろうよ﹂
﹁⋮⋮ずいぶんな過大評価をしてもらっているようですね。ぼくは
ポーター ヒーラー
ただの運搬職兼回復職なんですが﹂
﹁つまんねぇ嘘つくんじゃねぇ。ランプローグ家の出であの女ども
のパーティーリーダーやってる奴が、ただの支援職なわけあるか﹂
﹁⋮⋮確かに、多少の魔法は扱えますけどね。いずれにせよお断り
します。ぼくの仲間は、ただ施されるのは居心地が悪いと言ってい
るのでね。かといってあの子らだけで冒険に向かわせるのも、少し
不安ですから﹂
﹁お前は、あいつらの親か何かか?﹂
ザムルグが怪訝そうに言う。

1033
﹁なら、いい。一度だ。一度、冒険に付き合え。望むだけの報酬は
やる﹂
﹁一度⋮⋮? どこへ向かう気ですか﹂
﹁南の山だ。ボスを倒す﹂
長い沈黙の後、ぼくは口を開く。
﹁それは⋮⋮ロイドが計画している、東のボス討伐に対抗して、と
いうことですか?﹂
﹁そうだ。あいつらにボス討伐の栄誉を独占させるわけにはいかね
ぇ。﹃連樹同盟﹄があらゆるパーティーの頂点に立ち、大勢の冒険
者が奴の思想になびくようになれば、この街は腐る。ラカナ第一位
のパーティーとして、それだけは許しちゃならねぇ﹂
ザムルグが続ける。
﹁少数精鋭ならば、東よりも南の山の方が地形的に攻略しやすい。
この暑さで、奴も計画を止めざるをえないでいる。今が絶好の機会
だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だがいくら俺様のパーティーでも、ボス討伐に五人ではさすがに
厳しい。だから使える人員を集めていたところだ⋮⋮お前も協力し
ろ、セイカ・ランプローグ﹂
ぼくは思わず苦い顔になる。
こいつらまでボスを倒そうとしているのか。
溜息をつき、首を横に振る。
﹁悪いですが、お断りし⋮⋮﹂

1034
そこで、ふと言葉を止めた。
ザムルグをちらと見て、しばし黙考し⋮⋮思い直す。
﹁⋮⋮いや、いいでしょう﹂
ぼくは薄い笑みと共にうなずく。
﹁一緒に南のボスを倒しましょうか﹂
****
ギルドを出てぼくの部屋へと戻ると、ユキが頭から顔を出して、
困惑したように言った。
﹁あの、セイカさま? よろしいのですか? 南のボスを倒してし
まっても。龍脈の話はどこに⋮⋮﹂
﹁よろしいわけないだろ。倒さないよ、ボスは﹂
﹁え?﹂
﹁あのザムルグって冒険者⋮⋮たぶん、それなりに強い。仲間や集
めている人材も同じ程度なら⋮⋮下手したら、本当に討伐されてし
まうかもしれない。ロイドの方は放っておくことも考えたが、こち
らは危険だ﹂
﹁ええと、それならば⋮⋮﹂
﹁だから、妨害するんだよ。協力すると言って同行しつつな。さす
がにこれは、ぼくが手を出さないとまずい状況だ﹂
﹁おお、しかしながらそれは、いいお考えだと思います! して、
どのように?﹂

1035
﹁まあ見てろ。ぼくに妙案がある﹂
﹁セイカさまの案ならば、きっと間違いないでしょう!﹂
ユキが弾んだ声でそう言った。
****
ちなみに⋮⋮それから数刻後。
アミュたちは、本当にぼくの部屋に突撃してきた。
﹁セイカー、お願ーい。涼しいやつやって﹂
部屋に入るなりすぐさまベッドに倒れ込み、ゴロゴロしながらの
たまうアミュに、ぼくは半眼で言う。
﹁帰れ﹂
﹁そう言わずに! ほら、あんたたちも﹂
アミュに促されたイーファとメイベルが、彼女に続く。
﹁う、うん。セイカくん⋮⋮だめ?﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁なんでもする﹂
﹁か、軽々しくなんでもするとか言うな﹂
﹁あたしたちの部屋、風の通りが悪くて暑いのよ。だから最近寝苦
しくって。ね、お願い﹂
と言って、片目を閉じるアミュ。

1036
しばしの沈黙の後⋮⋮ぼくは盛大に溜息をついた。
﹁仕方ないな﹂
﹁やった! ありがと、セイカ!﹂
アミュが嬉しそうな声を上げる。
﹁やはり甘々ですねぇ⋮⋮セイカさま﹂
髪の中でユキが呆れたようにささやくが、何も言い返せない。
やがて浮かべたヒトガタが室内の熱を奪い始めると、元気になっ
た三人がはしゃぎ始めた。
﹁あはは、最高! こんな贅沢お貴族様でも味わえないでしょうね
ー!﹂
﹁はぁー⋮⋮涼しいね、メイベルちゃん﹂
﹁ん。生きててよかった﹂
それは何よりだよ。
﹁今日はこっちで寝るわよ!﹂
﹁おい、そのベッドで三人寝るつもりなのか? 一応一人用なんだ
けど﹂
﹁大きいから詰めれば大丈夫よ。メイベル、こっちに寝てみなさい。
どう?﹂
﹁大丈夫そう﹂
﹁それじゃあ、イーファはこっち側ね﹂
﹁う、うん⋮⋮﹂

1037
ベッドを三人で使って、彼女らはもう寝る気満々なようだった。
﹁はぁ、久々に気持ちよく寝られそうね﹂
﹁毛布はちゃんと掛けとけよ。あと夜中になったら術は止めるから
な。眠っている体を冷やすとよくないから⋮⋮﹂
﹁わかったわよ⋮⋮あんた、なんか時々じじ臭いわよね⋮⋮﹂
﹁じっ⋮⋮!﹂
﹁ふわぁ⋮⋮﹂
それから灯りも消さないうちに、ベッドからは寝息が聞こえてき
た。
﹁⋮⋮﹂
寝苦しくて本当に寝不足だったのか、あるいは日中、子供と遊ん
で疲れたのかもしれない。
まあ今日くらいはいいだろう。
﹁⋮⋮というか、ぼくはどこで寝ればいいんだ﹂
すでにいっぱいのベッドを見て途方に暮れる。
とはいえ、一度許したものは仕方がない。
外套でも敷いて床で寝るかと、ぼくは荷物を漁る。前世の幼少期
や大陸を渡る旅を思えば、そんな寝床でも十分上等だ。
﹁セイカくん⋮⋮ごめんね﹂
申し訳なさそうな、小さな声に振り返ると、イーファが横を向い
てこちらを見ていた。
続けて言う。

1038
﹁セイカくんのベッド、とっちゃうみたいになって⋮⋮﹂
﹁なんだ、起きてたのか。みたいというか、それ以外の何者でもな
いけど﹂
ベッド強盗だよ、君ら。
﹁⋮⋮ここ、代わろっか? わたしは向こうの部屋でも平気だから
⋮⋮﹂
そんなことを言うイーファに、ぼくは苦笑して、手を伸ばして頭
を撫でてやる。
﹁遠慮しなくていい。それに、朝ぼくがそこで寝てたらアミュに殴
られそうだ﹂
﹁うーん⋮⋮そう? でも⋮⋮﹂
﹁いいから。三人で仲良く寝なさい﹂
﹁⋮⋮はぁい﹂
返事をしたイーファが、口元まで毛布をたぐり寄せる。
ふと。
﹁⋮⋮イーファ﹂
﹁? なに、セイカくん﹂
﹁今、辛くないか?﹂
ぼくの問いに、数度瞬きしたイーファが、明るい声で答える。
﹁ううん、大丈夫。楽しいよ。自分の力で、みんなの役に立てるん
だもん。それに⋮⋮最初は少し怖かったけど、街の人たちもいい人

1039
ばっかりだし。今日もあの後エイクさんに果物もらったんだよ。お
礼だって﹂
﹁そうか﹂
ぼくはその時、自然に笑うことができた。
﹁それなら、よかった﹂
第十五話 最強の陰陽師、ボスを倒す
それから数日後。
夏を目の前にして、予想通りに一度猛暑は落ち着き︱︱︱︱ぼく
は、南の山を登っていた。
﹁進行速度は合わせろ、くれぐれも陣形は崩すな! 斥候職は先行
しすぎなくていい! 本陣へ確実に戻れる距離を意識しろ!﹂
すぐそばでは、ザムルグが声を張り上げている。
その馬鹿でかい胴間声は、山のどこにいても聞こえるんじゃない
かと思えるほどだ。

1040
指示を聞き、細かく陣形を直すのは、総勢二十一名の冒険者たち。
南のボスの討伐を目指す一行だった。
あの日、ギルドの酒場でザムルグの提案を了承したぼくは、暑さ
の弱まったこのタイミングで改めて討伐行の誘いを受けた。
そうして今、この急造パーティーと共に山を登っているというわ
けだ。
もちろん、今日のことはアミュたちには話していた。
驚かれはしたものの、特に心配とかはされなかった。ボスに挑む
のに。
さすがにちょっと複雑だ。ぼく、今どんな風に思われてるんだろ
う。
むしろ彼女らは、どちらかというと寂しそうだったり、つまらな
そうな様子だったが⋮⋮今回は連れて行けないから我慢してもらう
しかない。危ないしね。
﹁異常を見逃すな! 進行に支障が出ればすぐ俺様に報告しろ!﹂
ザムルグが叫んでいる。
その馬鹿でかい声に、ぼくは暇なことも手伝って、思わず話しか
けてしまう。
﹁そんなに大声を出したら、無駄にモンスターを呼び寄せてしまう
のでは? ボスの前にパーティーを消耗させるのは得策ではないで
しょう﹂
﹁あ?﹂

1041
担いだ戦斧を揺らしたザムルグが、気に食わなさそうにぼくを見
下ろし、言う。
﹁素人が。これだけ大人数で進んでいたら声なんて関係ねぇ、黙っ
ててもモンスターは寄ってくる。足並みが乱れる方がよっぽど問題
だ﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
ベテランの経験がそう言わせるのなら、そうなのかもしれない。
そしてザムルグの行動は、実際その方針に沿っていた。
山に入ってからずっと、ザムルグは似たような指示を何度も飛ば
していた。
一見無駄なようにも思えるが、急造パーティーで連携が難しいこ
とを考えると、このくらいの細やかさは必要なのだろう。
さらには、常に全体に目を向け、何かあればすぐに進行を止める
慎重さも持っている。
そう。
ザムルグはその外見と粗野な言動に似合わず、慎重な男だった。
今回の攻略隊一行には二つのパーティーを丸ごと引き入れている
が、そのリーダー二人とは、出発前にしつこいほど何度も打ち合わ
せをしていた。南の山の地形はすでに完璧に頭に叩き込んでいるよ
うで、さらには仲間の装備まで自分で確認する始末だった。
しかも今回の二十一人のうち、なんと八人は斥候役だ。彼らは現
在、パーティーの八方に散って周辺の警戒に努めている。戦力とし
ては剣士や魔術師に劣るため、道中の安全のためだけに、実力のあ
る斥候や盗賊職をそれだけ雇っているのだ。

1042
南の山のボスは誰も見たことがなく、いくつか噂があるだけでそ
の種族すらはっきりしていない。
だがそれを踏まえても、異常な慎重さだった。
しかし︱︱︱︱だからこそ、この男のパーティーがラカナのトッ
プにまで上り詰めたのかもしれない。
﹁⋮⋮チッ、面倒な雑魚が出たようだな。全員止まれ! 構えろ!﹂
斥候の一人が帰還し、前を行くパーティーリーダーの一人に駆け
寄ったのを見て、ザムルグが即座に叫ぶ。
ほどなくして前方に、人の背丈の倍はあろうかというオークが、
木々を分けて現れた。
黒みの濃い皮膚に、大きすぎる図体。
どうやらオークの上位種であるハイオークのようだ。
ぼくたちの一行を見下ろしたハイオークが、おもむろにその太い
棍棒を振るった。
巨木すらもへし折りそうな一撃。
だがそれは、前衛を務めていた華奢な女騎士の持つ盾に、あっけ
なく弾き返された。
攻撃を防がれ、たたらを踏むハイオーク。そこに、後衛からの矢
と魔法が襲いかかる。
猛攻受けあっという間に絶命したハイオークが、重厚な音と共に
地面に倒れ伏した。
﹁よーし、進行再開だ。素材には構うな! 釣りが出るほどの報酬
はくれてやる!﹂

1043
オークの死骸を避け、一行が歩みを再開する。
結構強力なモンスターだったと思うのだが、戦闘に参加した女騎
士やその後衛も含めて、誰もが些事としか思っていないようだった。
どうやらザムルグは、相当に実力のある冒険者たちを集めたよう
だ。
本来なら高く売れるであろう、ハイオークの死骸にだって誰も見
向きもしない。
﹁徹底していますね。魔石の回収くらいしてもいいでしょうに﹂
﹁そんなことに体力と時間を使って、ボス戦で死んだら大間抜けだ﹂
﹁確かに。ちなみに出発してからずっと、前を行く二つのパーティ
ーに戦闘を任せ、ぼくとあなたのパーティーは何もしていませんが
⋮⋮これでいいんですか? 反感を買いそうなものですが﹂
﹁雇い主は俺様だ。何の問題がある﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そもそも、道中の雑魚退治があいつらの仕事だ。ボスはあくまで
俺様のパーティーがメインで討伐する。そういう契約で相応の報酬
を約束してるんだ、文句は言わせねぇよ﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
この男のことだ。引き入れた時点で条件のすり合わせは入念に行
っていたことだろう。
不和が原因で引き返すなんてことも、これじゃ期待できそうにな
い。
ぼくの思惑など知りもしないザムルグが、鼻を鳴らして付け加え
る。

1044
﹁それに、あいつらがこの程度の戦闘で不平なぞ垂れるか。モンス
ターを倒しながら三日は歩き続けるような連中だぞ﹂
﹁ふうん。どうせなら、ぼくもそちらの役割がよかったですね﹂
﹁はっ、馬鹿言うな﹂
ザムルグがぼくを見下ろして言う。
﹁そんなことのためにわざわざ引き入れるか。お前は戦え﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何ができるかは知らねぇ。だがもしもの時は⋮⋮その実力を見せ
てもらうぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
どうも、かなり力を買われているようだった。
まあモンスターを放ってギルドを破壊したり、アミュたちのパー
ティーを活躍させたりと、一応心当たりはなくもない。
だが⋮⋮前世では力ある武者などに、初対面から警戒されたこと
もあった。
この男にも、そういう妙な勘所があるのかもしれない。
ぼくは内心で溜息をつく。
これはダメだな。
もう山頂も近い。道中、何か自然な要因で引き返してくれること
を期待していたが⋮⋮やはり手を出すしかないか。
ぼくは不可視のヒトガタをはるか前方に飛ばしつつ、片手で小さ
く印を組む。
ぬりかべ
︽召命︱︱︱︱塗壁︾

1045
しばらくすると、進行方向に散開していた斥候数人が、血相を変
えて戻ってきた。
その異様な様子に、ザムルグはパーティーの進行を止める。
﹁どうした、何があった!?﹂
﹁そ、それがリーダー、壁が⋮⋮﹂
﹁壁ぇ?﹂
﹁森の中に壁があるんだ! あれじゃ進めねぇよ!﹂
﹁はあ? んな馬鹿なことがあるか! チッ⋮⋮斥候役に全員戻る
よう伝えろ。ここから進行速度を半分に落とす⋮⋮それと、武器を
抜け。警戒しながら進むぞ﹂
ザムルグは、さすがの慎重さを見せた。
異常事態の報告に、散開させていた斥候を全員戻し、彼らの安全
を確保すると同時に本陣の戦力を増強する。
進行速度は落ちるが、正体不明の敵が近くにいるとなれば当然の
警戒だった。
まあ、そういうのではないんだけど。
やがて。
本陣からも、その威容が目に入るようになる。
﹁なん、だ、これは⋮⋮﹂
仲間たちと共にそれを見上げたザムルグが、呆然と呟く。
それは木々の高さにも匹敵する、巨大な壁だった。
漆喰で塗り固められたようなくすんだ白の壁が、左右に果てしな

1046
く続いている。森には明らかに場違いなそれだったが、しかし人の
手によるものにもまったく見えない。
少なくとも言えるのは、これを乗り越えて進むのは難しいという
ことだ。
﹁ど、どうする、リーダー⋮⋮﹂
﹁⋮⋮チッ。全員壁から離れろ。指示があるまで勝手なことはする
な﹂
ザムルグがおもむろに戦斧を振り上げると、壁に向かって叩きつ
けた。
鈍い音が響き渡るが、壁には傷一つ付かない。
何度も何度も戦斧を振るうザムルグだったが、結果は同じだった。
﹁⋮⋮魔法。それと矢だ。使える奴はやれ﹂
すぐさま火球や矢が壁に襲いかかる。
しかし壁には焦げ跡すら残らず、矢も弾かれるばかり。
やがて後衛の攻撃も止むと、一行の間には沈黙が降りた。
﹁困りましたね。これでは進めそうにない﹂
ぼくは素知らぬ顔で言った。
もちろん、ぼくは困らない。意図したとおりだった。
ぬりかべ
塗壁は、道行く人間の前に立ち塞がって歩みを阻む、壁の姿をし
た妖だ。
この壁は乗り越えようとしても回り込もうとしても、果てしなく
その方向に伸びていく。その本質は神通力を用いた幻術に近く、物

1047
理攻撃の一切が通じない。
害を与えてくることはないが、力押しでの突破はほぼ不可能な、
ひたすらに鬱陶しい妖だった。
一応こいつを消す方法はいくつかあるものの、この場ですぐに思
いつけるようなものでもない。
ザムルグたちが突破することは不可能だろう。
ぬりかべ
﹁あの⋮⋮セイカ様。塗壁を用いることが、﹃妙案﹄だったのでご
ざいますか⋮⋮?﹂
髪の中で、ユキが若干がっかりしたように言った。
そうだよ。単純で悪かったな。目的は果たせるんだからいいだろ
うが。
ユキを無視し、ぼくはしらばっくれて言う。
﹁ボスモンスターの能力でしょうか? いずれにせよ、不測の事態
です。ここは引き返した方がいいと⋮⋮﹂
と、その時。
不意に、大きな力の流れを感じた。
山頂の方から、上空をものすごい速さでこちらに近づいてくる。
不測の事態だった。
ぼくは焦る。
﹁えっ、あっ﹂
﹁⋮⋮チッ、そうだな。お前の言う通りだ。こいつが何かはわから
ねぇが、道中でここまでの想定外が起こっちまった以上、今回の討

1048
伐行は諦めるべきだろう⋮⋮。悪い、お前ら。俺様の調べが足りな
かったせいで、この状況は予想できなかった。これ以上粘るのも危
険だ。備えの残っているうちに引き返⋮⋮﹂
ザムルグが言い終える前に︱︱︱︱空から、巨大な影が差した。
全員が、それを見上げる。
上空を飛行していたのは、羽を持ったトカゲのような姿。
だがドラゴンとは違う。
前肢がなく、代わりに羽が生えており、飛び方は鳥に近い。
ドラゴンに似ているが、ドラゴンとは異なるモンスターを、この
世界では亜竜と呼んでいた。
あれは、その一種︱︱︱︱ワイバーンだ。
本来なら、強力ではあるものの恐れるほどのモンスターではない。
専門ではないはずの帝国軍にすら、時折討伐されている。
だがあれは、大きさが違った。
成体のドラゴンに迫るほどの巨体。体の所々からは蔓のような植
物が垂れ、端の破れた翼膜が、その生きた年月の長さを物語ってい
る。
誰かが叫んだ。
﹁エ、エンシェントワイバーンだ! オレのじいさんが言ってたこ
とは本当だったんだ!!﹂
ぼくは顔を引きつらせる。
完全に予想外だった。力の気配はずっと移動もしていなかったか
ら⋮⋮まさか、ボスモンスターが飛行能力を持っていたとは。

1049
本当なら、ボスの側からの接近すら塗壁で阻めるはずだった。
しかしいくら壁の妖でも、飛んでいるやつの前に立ち塞がること
はできない。
ま、まずい⋮⋮。
焦るぼくをよそに、いち早く我に返ったザムルグがメンバーに檄
を飛ばす。
﹁全員、構えろ! 間違いねぇ、あれがボスだ! エンシェントワ
ブレス
イバーンなら息吹も吐く! 一カ所に固まるな!﹂
その声と同時に、こちらを見下ろしたワイバーンが顎を大きく開
き、赤い口腔を見せた。
次の瞬間、緋色の火炎が吐き出される。
それはドラゴンのような帯状の炎ではなく、人の火属性魔法に似
た火球だった。
逃げ惑う冒険者の頭上で︱︱︱︱しかし火球はあっけなく消滅。
木々への延焼がないことを確認すると、ぼくは結界の起点にしてい
たヒトガタを散らす。
やはりドラゴンに比べれば大したことなさそうだ。
しかし⋮⋮これはどうしたものか。
年経たワイバーンは、明らかにぼくらを狙って姿を現したに違い
なかった。
ずっと森の奥で静かに過ごしていた亜竜の主を、果たして何が動
かしたのか⋮⋮塗壁を出したのが悪かったのか、それともこの人数
で縄張りに近づいたせいなのかはわからない。

1050
なんでもいい。
とにかく今は、壁の向こうに帰ってもらわなくては。
こちらを見据え、直接攻撃すべく降下を始めたエンシェントワイ
バーンへ、ぼくは一枚のヒトガタを飛ばす。
︽火土金の相︱︱︱︱震天光の術︾
小太陽のごとき強烈な光が、空中で炸裂した。
突然のことに、全員が呻き声を上げて目を押さえる。
︽震天光︾は、火薬に金属粉を混ぜて着火し、目がくらむほどの
光と爆音を生み出す術だ。
マグネシウム
マグネシアの銀の粉末が、一瞬で燃え尽きることでこれだけの光
が生まれる。間近で食らえば立っていることすらも難しいが、一方
で威力はごく低い、不殺の術でもあった。
いくらボスのワイバーンでも、あれはさすがにひるむだろう。
このまま何発か撃てば、きっと縄張りに逃げ帰ってくれるに違い
ない⋮⋮と考えながら、目の前にかざしていた腕をどける。
ぼくは口をあんぐりと開けた。
﹁は⋮⋮? げっ!﹂
エンシェントワイバーンが、落ちてきていた。
羽ばたきが弱く、ふらふらしている。︽震天光︾一発で、完全に
前後不覚になってしまったようだった。
弱っ!

1051
人間に倒されるくらいだから、ボスと言えどそこまで強くないだ
ろうと予想はしていたものの⋮⋮まさかここまでとは思わなかった。
しかもこのままだと、あろうことか壁のこちら側に落ちる。
や、やばいって⋮⋮。
いやしかし、︽震天光︾でひるんでいるのは人間の方も同じだ。
今のうちになんとか向こう側へ叩き返せれば︱︱︱︱。
と、思ったその時。
一行の中で、一つだけ動く影が目に入った。
戦斧を手にした大男。
リーダーたる重戦士、ザムルグ。
視力が戻りきっていないのか薄目を開けたザムルグが、それでも
体格に見合わぬ機敏な動きで、ワイバーンの落下地点へと駆けた。
そして。
その戦斧を、下段に構える。
﹁ぬぅぅううおおおおおおおおッッ!!﹂
振り上げるように放たれた戦斧が︱︱︱︱落ちてきたワイバーン
の首を、その一撃で断った。
﹁ええーっ!?﹂
ぼくは思わず叫んでいた。

1052
案の定︱︱︱︱森全体から、灯りが落ちたように力の気配が消え
去る。
首を落とされたワイバーンの翼が勢いのままにぶつかり、ザムル
グがもんどり打って倒れた。
そのまま、動かない。
﹁リ、リーダー⋮⋮?﹂
﹁ザムルグ⋮⋮お、おい、大丈夫か⋮⋮﹂
動ける数人の仲間が、恐る恐るザムルグへと声をかける。
大男は腕をつき、ゆっくりと立ち上がった。
弾き飛ばされた際に負傷したのか、左足を引きずっている。だが
確実な歩みで、自らが落としたワイバーンの首へと近づいていく。
そしてその傍らに、土と血に塗れた戦斧を突き立てた。
﹁ボスを倒したのは、誰だ⋮⋮﹂
﹁えっ⋮⋮﹂
﹁ボスを倒したのは誰だ!! 言ってみろッ!!﹂
﹁ザ、ザムルグだ﹂
﹁リーダー⋮⋮﹂
﹁そうじゃねぇ。そうじゃねぇだろ⋮⋮全員だ﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁全員が倒した。お前たちがいたからこそ、俺様はボスを討てた⋮
⋮。ここにいる全員が、ボスを、倒したんだ﹂
﹁お、オレ、オレたちが⋮⋮﹂
﹁南の、ボスを⋮⋮﹂
﹁そうだ。俺様たちが、倒した⋮⋮。ボスを討伐したッ! 南のダ

1053
ンジョンを、完全攻略したんだッ!! 喜びやがれッ!!﹂
﹁う、うおおおおおおおっ!!﹂
﹁リーダー!!﹂
﹁ザムルグ! ザムルグ!﹂
歓声の中、ぼくは一人呆然としていた。
な、なんでこんなことに⋮⋮。
﹁お前らぁッ、帰ったら祝杯だ!! 酒場の樽を飲み尽くすまで奢
ってやる! 森を出るまで気を抜くんじゃねぇぞ!!﹂
一行の間から、再び歓声が上がる。
喜んでいないのは、当たり前だがぼくだけのようだった。
第十五話 最強の陰陽師、ボスを倒す︵後書き︶
※震天光の術
マグネシウムの燃焼によって強烈な光を発生させる術。黒色火薬の
成分から木炭を抜き、マグネシウムやアルミニウムといった燃焼し
やすい金属粉を多めに混ぜることで、激しい爆風の代わりに強い光
と音を生み出す火薬ができる。閃光手榴弾などと同様の原理であり、
無力化を目的とした術ではあるものの、さすがに至近距離で受けれ
ば高温の燃焼ガスなどで軽くないダメージを負う。
1054
第十六話 最強の陰陽師、慌てる
ザムルグの宣言通り、その日はそのまま酒宴の流れとなった。
本来であれば、あれだけのボスモンスターを解体し、素材を街ま
で運ぶには大人数でも一日以上かかる。
しかし、ぼくが死骸を丸ごと位相に仕舞ってしまえば話は別だ。
どうやらザムルグは、ぼくが容量無限のアイテムボックスを持っ
ているという噂を聴き、帰りのことまで考えて勧誘したらしい。
まったく周到な男だ。
というわけでぼくは今、ザムルグの討伐パーティーの面々と一緒
にギルドの酒場にいる。

1055
ちなみに、大金が入ったのだからもっといい店にしようという当
然の提案は、ラカナにはギルド以上に大きな酒場がなく、全員で騒
ぐと迷惑がかかるというまともすぎる理由でザムルグが却下してい
た。
実は小心者なんじゃないかという疑惑が、ぼくの中に生まれてい
る。
荒くれ者の冒険者らしい振る舞いは、ひょっとしたらそういう役
割を演じているだけなのかもしれない。
﹁遠慮するなお前らぁッ! 好きなだけ飲め! おい酒が足りねぇ
ぞ! どんどん持ってこい!!﹂
﹁ヒューッ! リーダー!﹂
﹁亜竜殺しの英雄、ザムルグに乾杯だ!﹂
それはそれとして、うるさい。
喧噪から離れたテーブルで一人、黙々と杯を空けるぼく。
まったく、どうしてこんなことになってしまったのか。
あのエンシェントワイバーンは、どうやら本当にボスだったよう
で⋮⋮予想通り、下山する際に遭遇するモンスターは激減していた。
ロドネアの地下ダンジョンの時と同じだ。
核が失われれば、ダンジョンは力を失う。
獣に近いと言えど、モンスターは化生の類だ。
自然に生きていたものを除いて、ダンジョンという異界の力にす
がって存在していたモンスターたちは、ボスの討伐と同時に死に絶
えてしまったのだろう。
やはりボスが、核に近い役割を果たしていたのだ。

1056
ぼくの仮説が証明されたわけだが⋮⋮それだけにまずい状況だ。
これで龍穴代わりになっているボスモンスターは、残すところ東
の山の一体を残すのみとなってしまった。
何も起こらなければいいが⋮⋮。
﹁お兄ちゃん!﹂
と、その時。
喧噪の中、甲高い子供の声が、傍らから聞こえた。
ハーフエルフ
ふと目をやると、そこにいたのは五、六歳くらいの白い半森人。
いつか見たエイクの甥っ子、ティオだ。
冒険者たちがひしめく酒場の一角に、すました顔で突っ立ってい
る。
なんでこんな場所にいるのかわからなかったが⋮⋮とりあえず、
ぼくは笑いかけてみる。
﹁どうした、坊や﹂
﹁はい﹂
と言って、ガラスの小瓶を手渡された。
不思議に思いながらも素直に受け取る。中に詰まっているのは⋮
⋮どうやら、砂糖菓子であるようだった。
少量ではあるが、嗜好品としては高級な部類だろう。
ぼくはティオへ訊ねる。
﹁これは?﹂
﹁お祝い﹂
﹁えっ﹂
﹁おー、なんだ、ここにいたのか﹂

1057
おろし
という声と共に人混みをかき分けてやって来たのは、ラカナの卸
しょう
商、エイクだった。
﹁おじちゃん、おそい!﹂
﹁お前はまた勝手にいなくなるなよ⋮⋮﹂
困ったようにそう言って、エイクがティオの頭をわしゃわしゃと
撫でる。
それから、ぼくへと向き直って言う。
﹁聞いたぞ、ランプローグの坊ちゃん。南のボスモンスターを倒し
たんだってな。あんたならやるんじゃないかと、俺は思ってたぜ﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
﹁そいつは今回の祝いと⋮⋮あとは、この間の礼だ﹂
﹁礼?﹂
﹁ティオと遊んでくれただろう﹂
﹁それは、アミュたちで⋮⋮ぼくは何も﹂
﹁そうか? それなら、あの子らにも分けてやってくれ﹂
エイクが、ティオの頭に手を置いて言う。
﹁こいつの両親は、夫婦揃って冒険者でな。泊まりがけでダンジョ
ンへ行くことも多いから、よくこうして預かってるんだが⋮⋮俺も
普段は仕事があるせいで、あまりかまえていないんだ。しかもこい
つ、妹に似たのか喧嘩っ早くてなぁ。見た目のせいもあるのか、子
供らの間では浮いてるみたいで⋮⋮だから、また遊んでもらえるか
?﹂
﹁それは⋮⋮いいですけど⋮⋮﹂
﹁頼んだぜ。あの子らにもよろしくな﹂

1058
﹁お姉ちゃんに、また勝負しよって言っといて!﹂
ぼくは少し笑って、ティオへと視線を落とし、答える。
﹁はは、わかったよ。お姉ちゃんに伝えとく﹂
去って行く二人の後ろ姿を眺める。
小瓶の砂糖菓子を一つ摘まみ、口へと運んだ。高級品なだけあっ
てんじく
て、甘い。昔天竺で食べた砂糖菓子よりも、ずっと上品な味だった。
麦酒の杯を傾ける。やはり、酒には少々合わない。
﹁辛気くせぇやつだな、セイカ・ランプローグ。こんなところで飲
んでやがるのか﹂
唐突に、近くの席へザムルグがどっかと座った。
ぼくは小瓶を仕舞い、大男を横目に見て言う。
﹁怪我の具合はよさそうですね。でも、酒は控えた方がいいと思い
ますよ﹂
﹁これくらいの怪我がなんだ。勝利の美酒が一番うまいのは今夜じ
ゃねぇか。飲まねぇやつは冒険者じゃねぇ﹂
と言って、酒杯を呷る。
今回のボス戦唯一の負傷者と言えるのが足を折ったザムルグだっ
たが、神官の治癒魔法ですでに治療は済んでいた。とはいえ、まだ
全快とはいかないはずだ。やせ我慢だろう。
﹁はっ、それにしてもお前、まさかあれほど光属性魔法に通じてい
たとはな。解呪の結界に、ワイバーンを墜としたあの魔法⋮⋮俺様
でも聞いたことがねぇ。ランプローグ家の秘伝か何かか? なんで

1059
もいいが、やはり俺様の見立ては正しかった。お前がこの冒険の一
番の功労者だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そういや噂で聞いたぞ。こっちも相当いける口らしいな。どうだ、
飲み比べでもするか?﹂
﹁⋮⋮暢気なものですね﹂
﹁あ?﹂
﹁あなたも、気づいているはずでしょう。南の山は死んだ。あのボ
スモンスターが核だった。これで、ラカナが得られる富は大きく損
なわれることになる。少なくない冒険者が、生活に困ることになる
でしょう﹂
﹁はっ、心配ねぇよ﹂
と言って、ザムルグは再び酒杯を呷る。
﹁ボスモンスターが倒されたことは大昔にもあった。その時もこう
して、一時的にモンスターが減ったらしい。だがな、一年と経たな
いうちに元に戻ったそうだ。どの山でもな。ここはそういう場所な
んだよ﹂
ザムルグは、まるでそう聞かれることを予期していたように続け
る。
﹁それにモンスターの消えた山でも、稼ぐ方法はいくらでもある。
これまで危険なモンスターが巣くっていて行けなかった場所にだっ
て行けるようになったんだ。希少な鉱物の採掘に、珍しい薬草の採
取。ダンジョンが復活した時を見越して、詳細な地形図を作ったっ
ていい。目端の利く連中はすでに動き出している頃だろう。こうい
う時、強欲なやつらは強いぞ⋮⋮そしてダンジョンが復活した時、
この街はますます力を付けることになる﹂

1060
ザムルグは再び酒杯を呷る。
﹁もっとも、腕っ節ばかりで不器用なやつだっている。そういうや
つらにゃ、ギルドが小麦の配給でもすりゃあいい﹂
﹁収入の減ったギルドに、そこまで面倒を見る余裕があると?﹂
﹁エンシェントワイバーンの死骸を一匹丸ごとくれてやれば、財源
としちゃあ十分だろう﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁あのレベルの素材なら、一体で途方もない値が付く⋮⋮。ギルド
としても、腕の立つ冒険者が減るのは困るはずだ。あとは俺様が一
言言い添えてやれば、その通りになるだろうさ﹂
﹁⋮⋮そしてギルドと街の冒険者に恩を売り、亜竜殺しの栄誉まで
得たあなたは、ますますラカナでの影響力を増す⋮⋮と、そういう
ことですか﹂
﹁はっ、そこまで考えちゃいねぇさ。俺様はただ、力と名誉を求め
るだけだ。冒険者らしくな⋮⋮だが、そうだな。結果的に⋮⋮そう
なっちまうだろうなぁ﹂
そう言って、ザムルグは笑う。
その笑みは、前世でも何度か見た、謀略家の浮かべるそれに似て
いた。
ザムルグという冒険者の、一体どこまでが本当なんだろう。
ぼくは、とりあえず舌先だけの返答を返す。
﹁⋮⋮まあ何にせよ、食い扶持を得る方法はありそうで安心しまし
た。ただ、東の山のダンジョン探索や地下水道のスライム退治の仕
事は、しばらく取り合いになりそうですね﹂

1061
﹁ああ、東の山な﹂
ザムルグが怠そうに言う。
﹁あっちも、長くは持たねぇだろうな﹂
﹁⋮⋮は?﹂
不吉な言葉に、ぼくは訊き返す。
﹁どういう意味です﹂
﹁どういう意味も何もねぇだろ。ロイドの野郎がボス討伐の計画を
立ててんだろうが﹂
﹁彼が⋮⋮ボス討伐を成し遂げると?﹂
ぼくは硬い声音で言う。
﹁彼には、あなたほどの力はない。あなたがぼくの助けを借りてよ
うやく倒せるほどのモンスターを、﹃連樹同盟﹄が容易く狩れると
は思えない﹂
それは今日の戦闘を終えての、ぼくの所感だった。
ボスモンスターは思った以上に弱かったものの、それでもやはり、
人が相手するには荷が重い。
ぼくを除いたザムルグの一行が全力で立ち向かって、五分。ぼく
の見立てはそんなところだ。
﹁容易くはねぇだろう。だが⋮⋮おそらく奴はやるぞ﹂
しかし、ザムルグはそう言い切る。

1062
﹁あんな男だが、それでも自分のパーティーをラカナ第二位にまで
育て上げた実績がある。奴がいけると踏んだなら、攻略は時間の問
題だろうさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁確かに、腕っ節は俺様の方が上だ。だが奴は⋮⋮あー、噂では帝
国軍元帥の隠し子だったか? 知らねぇが、とにかくパーティーを
率いる才覚がある。俺様がらしくもなく功を急いだのは、このまま
では先を越される確信があったからだ。下手をすれば今日にも⋮⋮﹂
その時。
酒場の入り口付近から、喧噪が聞こえてきた。
数人の冒険者が興奮冷めやらぬ様子で、詰めていたギルド職員と
話す声。
﹁チッ⋮⋮やっぱ今日だったか。先を越したというよりは⋮⋮ギリ
ギリで間に合ったと言うべきだろうな⋮⋮﹂
ザムルグが、小さな声で忌々しげに呟いた。それから、口を開く。
﹁ロイド!!﹂
突然響いた馬鹿でかい胴間声に、酒場にいた全員がザムルグを振
り返る。
それは、ギルド職員と話し込んでいた数名の冒険者も同じだった。
﹁⋮⋮ザムルグさん﹂
冒険者のうちの一人、全身が土と血に塗れたロイドが、わずかに
できた静寂の中小さく呟く。

1063
﹁遅かったなぁ! 俺様への祝いの言葉はなしか?﹂
﹁⋮⋮聞きましたよ。おめでとうございます、ザムルグさん﹂
言葉とは裏腹に、ロイドの声音には不機嫌そうな響きがあった。
﹁南のボスを討伐されたそうですね。その様子なら、怪我もなかっ
たようで﹂
﹁まぁな。で⋮⋮お前の方は?﹂
﹁多少は苦労しましたが、なんとか﹂
ロイドが口元だけの笑みを浮かべる。
﹁幸い、死者も出ずに済みました。結果としては上々ですよ﹂
﹁はっ、よかったじゃねぇか。今日は俺様の奢りだ。飲んで行けよ﹂
﹁遠慮しておきますよ。残念ながら、まだまだやることがたくさん
ありますから﹂
その時、ぼくは思わず席を立った。
ロイドの視線がこちらを向く。
﹁おや⋮⋮ランプローグ君。そこにいるということは、ザムルグさ
んが引き入れたという噂は本当だったんだね。残念だよ⋮⋮少なく
とも君がいたら、あの大きなアビスデーモンの死骸を今日中に街ま
で運べたのに﹂
﹁⋮⋮ロイドさん﹂
ぼくは恐る恐る口を開く。
﹁まさか、東のボスを⋮⋮﹂
﹁ああ。確か、君には話していたはずだったね。その様子だと、本

1064
当に成功するとは思っていなかったかな?﹂
﹁一つだけ⋮⋮教えてください。ボスを倒した後、ダンジョンは消
滅しましたか⋮⋮?﹂
ロイドは一瞬目を見開いた後、うなずく。
﹁モンスターの数が極端に減っていたから、おそらくね。だけど心
配することはない。これまでもあったことなんだ。じきに元に⋮⋮
ランプローグ君?﹂
答えを最後まで聞く前に、ぼくはギルドの酒場を飛び出した。
****
何度か転移まで使って、逗留中の宿へとたどり着く。
息をつく間も惜しく、ぼくは大部屋の扉を勢いよく押し開けた。
﹁アミュ! イーファ! メイベル!﹂
三人が驚いた様子で小さく声を上げ、目を丸くして突然入室して
きたぼくを見た。
ちょうど着替えていたタイミングだったようで全員下着姿だった
が、今はそんなことを気にしている場合ではない。
﹁いいか、落ち着いてよく聞いてくれ﹂
﹁セ、セセセセイカくん⋮⋮っ!?﹂
﹁あ、あんたはこの場面でなんで落ち着いてるのよ!?﹂
﹁⋮⋮出てって﹂

1065
毛布で体を隠したり、ベッドの陰に隠れた三人が睨んでくるが、
ここで引き下がるわけにはいかない。
﹁言いたいことはわかるが、今はそれどころじゃないんだ。なるべ
く早く、この街を出る必要がある﹂
﹁は、はあ?﹂
﹁⋮⋮追っ手?﹂
﹁違う。もっと面倒なことだ。とにかく朝までに、荷造りを済ませ
てくれ﹂
どれだけの猶予があるかはわからない。
数ヶ月か、数年か、はたまた数百年か。あるいは、ぼくの心配が
まったくの杞憂に終わる可能性すらある。
だが︱︱︱︱その逆も、十分あり得る。
下手をすれば、明日にも。
﹁馬車と食糧は、夜が明けたらぼくが調達してくる。説明は後で⋮
⋮﹂
その時。
街が、震えた。
﹁わわっ、な、なに?﹂
﹁じ、地震かしら⋮⋮?﹂
揺れは、すぐに収まった。
小さな揺れだ、建物が崩れるほどじゃない。
しかし、ぼくは慄然としていた。

1066
まさか⋮⋮ここまで早く起こるとは。
これは、地揺れじゃない。
火山の噴火でもない。
ぼくは部屋を横切って、窓を開け放つ。
夜に薄ぼんやりと見える城壁。
その向こうに︱︱︱︱たくさんの、力の気配があった。
﹁これが⋮⋮そうなのか﹂
初めて見知る現象だったが、確信があった。
龍脈の災害が︱︱︱︱モンスタースタンピードが、始まったのだ
と。
第十七話 最強の陰陽師、気が変わる
翌朝。
ラカナでは、蜂の巣を突いたような騒ぎが起こっていた。
夜の内に迫っていたモンスターの第一波を、城壁に詰めていた衛
兵が察知したらしい。
市長に報告が行き、戦力の増強がなされ⋮⋮日が昇り始める頃に
は、スタンピード発生の事実が街全体に広まっていた。
﹁⋮⋮ひどい有様だな、これは﹂
宿の屋根から、ぼくはラカナの街を見下ろす。

1067
まだ、城壁は突破されていない。
大量のモンスターに包囲され、脱出こそ不可能になっているもの
の、堅牢な城壁はかろうじて大群を押しとどめており、防衛が叶っ
ている。
しかしそれにもかかわらず、街の中にはすでにモンスターが入り
込んでいた。
翼を持つ一部のモンスターが、城壁を飛び越えて侵入してきてい
るのだ。
市民は建物の中に避難し、今は冒険者たちが、街を襲うモンスタ
ーたちを退治して回っている。
だがすでに少なくない被害が出ているようで、ラカナのそこかし
こから悲鳴が上がっていた。
まだギリギリで人間側が優勢であるが⋮⋮もしも城壁外に迫って
いるモンスターの一部でも侵入を許してしまえば、それもあっけな
く覆るだろう。
明け方に見た街の外の光景は、絶望的なものだった。
多種多様なモンスターが、無秩序な雲霞のごとくこの街に押し寄
せてきている。あんなものは、まさしく災害だ。他のモンスターを
踏みつけてまで城壁に取り付く様からは、人の住む地を貪ろうとす
る激烈な意思だけが感じられた。
城壁の上からは、今も衛兵や冒険者の矢や魔法が、壁面を登る虫
型モンスターを落としている。

1068
サイラス市長の指揮により、街の冒険者たちがいち早く防衛に参
加したおかげで、今の均衡がある。ザムルグやロイドも、パーティ
ーを率いてこの防衛に参加していることだろう。
しかし、いつまで持つかはわからない。
城壁の一部が破られたり⋮⋮あるいは、地中を移動するモンスタ
ーが侵入口を作ってしまえば、それで終わりだ。
奴らには城門を開ける知恵こそないだろうが、物量の桁が違う。
援軍は期待できない。
帝国の意思以前に、人間の軍がこの災害をどうにかできるとは思
えない。
ラカナは、ほどなくして滅びを迎えるだろう。
と、ぼくは振り返る。
﹁ああ、三人とも。準備はできたか﹂
アミュにイーファ、メイベルが、宿の屋根に上がってきていた。
この場所を襲うモンスターはいない。
空を飛ぶキラーバットやキメラを︽薄雷︾で墜とし、ガーゴイル
を︽発勁︾で弾き飛ばしているうちに、ぼくに近づいてくるモンス
ターはいなくなってしまった。
と、そこで、ぼくは首をかしげる。
﹁あれ、荷物は?﹂
﹁セイカ⋮⋮これから、どうするつもりなの﹂

1069
不安そうにするアミュ。
ぼくは安心させるように笑って言う。
﹁そりゃあもちろん、逃げるんだよ﹂
﹁逃げるって、そんなのどうやって⋮⋮﹂
﹁どうとでもなる﹂
みずち
︽召命︱︱︱︱蛟︾
空間の歪みから、鱗を纏った青く長い体が、朝の空に現れる。
初めて目にする龍の姿に、三人は目を丸くして固まっていた。
あやかし
できれば妖の姿は見せたくなかったが、仕方ない。
もう、他のまともな方法で脱出できる時機は逸してしまった。
龍の巨体を背景に、ぼくは彼女らへ笑いかける。
﹁これまで黙っていたけどぼく、実はモンスターを何体かテイムし
ていてね。こいつで飛んでいこう。なに、乗り心地はドラゴンと変
わらないさ。イーファは覚えているだろう?﹂
﹁セ、セイカくん、でもこれ⋮⋮ドラゴンじゃ⋮⋮﹂
﹁似たようなものだよ。四人でも大丈夫、これだけ大きいんだから
ね。さあ、早く荷物を取ってきなさい。見つかって騒ぎになると面
倒⋮⋮でもないか、別に﹂
見られたとしても、どうせ滅びゆく街の人間だ。
口を封じる必要すらもない。
﹁ま、待ちなさいよっ﹂
その時、アミュが硬い声で言う。

1070
﹁逃げるって⋮⋮あたしたちだけで?﹂
﹁ああ﹂
﹁じゃあ⋮⋮この街のみんなは、どうなるのよ﹂
ぼくは笑みを消し、首を横に振る。
﹁どうにもならないよ。欲望の街が、欲をかきすぎたために滅ぶん
だ。これも運命だろう﹂
﹁そんな⋮⋮﹂
アミュが声を震わせて言う。
﹁あんた、こんなモンスターを持ってるのなら⋮⋮スタンピードを
なんとかすることだって⋮⋮﹂
﹁できるかもしれないな﹂
﹁それならっ﹂
﹁この街は救えるだろう。で、仮にそうするとして、次はどうする
?﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁君がどうしてもと言うのなら、多少の頼みは聞こう。それで、ぼ
くはどこまで救えばいい? この先スタンピードとは関係なく、モ
ンスターに襲われる冒険者は? 暴漢に襲われる女は? 街の外で
獣や野盗に襲われる商人は? 食糧不足に陥った余所の村はどうす
る? あるいは、人々どうしでの戦争は?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくなら、どこへだって行ける。たいていのことはできる⋮⋮だ
けど、すべては無理だ﹂
ただ最強であるだけでは、全員を救うことなどできはしない。

1071
﹁どこで線引きする? 誰を救い、誰を見捨てるんだ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくの意思に任せるというのなら、親しい者は助けよう。だが、
赤の他人の世話までしてやるつもりはない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁わかったか? ならば、これ以上聞き分けのないことを言うな。
早く荷物を⋮⋮﹂
﹁他人じゃないわよっ!﹂
だが。
アミュはそう、強い口調で言った。
﹁だって⋮⋮ここには、ティオがいるじゃない。あの子は、どうな
るのよ﹂
その言葉に、ぼくはわずかに目を見開いて固まった。
イーファとメイベルが、アミュに続く。
﹁アイリアさんや、ウォレスさんたちも⋮⋮今、がんばってるんだ
よね⋮⋮?﹂
﹁エイクに、ニドたちもいる﹂
それは全員、ぼくも知った名だった。
アミュが、ぼくから一歩遠ざかる。
﹁あたし、行かないわ。みんなが戦ってるのに⋮⋮ここで自分だけ
逃げたら、一生後悔する﹂
﹁⋮⋮。君らも同じか?﹂

1072
イーファが、ためらいがちに言う。
﹁わ、わたしは⋮⋮セイカくんが逃げるって言うなら、ついてくよ。
でも⋮⋮セイカくんは、本当にそれでいいの⋮⋮?﹂
﹁何⋮⋮﹂
﹁セイカ﹂
メイベルが、ぼくを見据えて言う。
﹁セイカが、私を助けてくれたとき⋮⋮別に私たち、親しくなかっ
た﹂
﹁それは⋮⋮君一人の時とは、状況が違う﹂
﹁セイカにとって、状況なんて関係ない。そうでしょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカは、本当は、どうしたいの?﹂
二人ともそう言ったきり、動く気配はない。
ぼくは内心苛立つ。
ぼくがどうしたいか⋮⋮? そんなこと、今はどうでもいい。
この街に残っても、未来はない。たとえ勇者であっても、今の弱
いアミュが、あのモンスターの群れをどうにかできるわけもない。
こうなれば、無理矢理にでも連れて行くしか⋮⋮、
﹁セイカさま﹂
その時、耳元で、ユキのささやき声が聞こえた。
﹁再び無為な進言を奉ることをお許しください。ユキに⋮⋮考えが
ございます﹂

1073
訊き返す間もなく、ユキが言う。
﹁この街の民を皆、セイカさまが手ずから、先に黄泉へと送られて
はいかがでしょう﹂
﹁っ⋮⋮?﹂
困惑するぼくに構わず、ユキが続ける。
﹁セイカさまならば、その程度のことは造作もないはず。彼らも物
の怪に生きたまま喰われるよりは、安楽な最期を迎えられることで
しょう。それに救うべき人間がいなくなれば、この娘たちも諦めが
つくというもの。一挙両得にございます﹂
﹁⋮⋮﹂
ユキの言うことは、まったく道理にかなっていた。
しかし⋮⋮、
﹁抵抗がおありですか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ならば、彼らを見捨てるというこれよりも酷い選択肢もまた、セ
イカさまのお心に沿わぬはず。かの世界で、力のままに人を助けて
きたセイカさまにとって⋮⋮本来ならば到底、受け入れがたいもの
にございましょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お心のままになさればいいと、ユキは思います。前世のように。
なにより⋮⋮占いにだって、そう出ていたではございませんか﹂
だが⋮⋮と言いかけた言葉は、ついに口から出てくることはなか
った。
みずち
永遠とも思える迷いの沈黙を経て、ぼくは⋮⋮蛟を振り返り、扉

1074
のヒトガタを向ける。
空間の歪みに、龍の巨体が吸い込まれていく。
妖の威容が消えた、朝の空をしばし眺め⋮⋮ぼくは半身を向けて、
彼女らへと告げた。
﹁今回だけだぞ﹂
﹁ほ、ほんとっ!?﹂
喜ぶ彼女らを、ぼくは憮然とした顔で眺める。
何を言っているんだろう、ぼくは。
こんなはずではなかったのに。
アミュが、気づいたように言う。
﹁あっ、でも、さっきのドラゴンみたいなやつ、帰しちゃってよか
ったわけ? これから使うんじゃ⋮⋮﹂
みずち
﹁いい。蛟は使わない。あいつは目立つからな⋮⋮できるだけ、噂
になりたくないんだ﹂
もう手遅れな気もするが⋮⋮さすがにまだ、ヤケクソになるには
早い。
ぼくは言う。
﹁あんなのに頼らずとも、なんとかしてみせるよ﹂

1075
第十八話 最強の陰陽師、嘯く
立派な市庁舎は、今は混乱の最中にあった。
ヒーラー
﹁北の城壁に人を回せ。回復職も含めてじゃ。戦力が減りすぎとる。
住民の避難が済んだのなら、街中でモンスターを狩っている連中を
多少そっちにやっても構わん。飛んでくるやつらを相手していたら
キリがないでのう、要所だけ守るようにせい﹂
慌てふためく人々の中心で、報告を受けるサイラスだけが、椅子
にふんぞり返って鷹揚としていた。
﹁ずいぶん余裕そうで﹂

1076
﹁む⋮⋮? 小僧か﹂
街の地図と被害状況の記録を見比べながら、サイラスが皮肉げに
笑う。
﹁ふん、ただの空威張りじゃ。ワシが狼狽えておったら、部下が安
心して動けまいて。しかし⋮⋮貴様らも災難だのう。帝国から逃げ
てきた地で、スタンピードに遭うとは﹂
ぼくは、ここを亡命の地にと言った、フィオナの思惑を考える。
もしも彼女が、このスタンピードが起こる未来を視ていたのだと
したら⋮⋮ぼくとアミュをここに送り込んだ意図がよくわからない。
ぼくを謀殺したかったのだとしたら、手段としてあまりに手ぬる
すぎる。この程度では死にようがないし、そんな未来が視えていた
わけもない。
あるいは支援者であるラカナを救いたかったのなら、少なくとも
そのことを事前に伝えたはずだ。成功してもぼくに不信を抱かれう
るような真似を、あの聖皇女が安易にするとも考えにくい。
だからこの事態は、きっとフィオナも予見できていなかったので
はないだろうか。未来視の力だって、決して万能ではないはずだ。
どちらかと言えば、そう思いたいという気持ちが強いが。
サイラスがぶっきらぼうに言う。
﹁ワシは忙しい。用があるならさっさと言え。いくら姫さんの客人
と言えど、逃がせという相談は聞けんぞ。そんなことができるのな
らワシがとっくに逃げとるわ﹂
﹁この子らが手伝いたいと言うので﹂

1077
ぼくは、後ろのアミュたちを顎で示す。
﹁使ってやってください。戦力になると思いますよ﹂
サイラスが顔を上げ、ぼくたちを見る。
﹁⋮⋮戦力が必要な場所に安全などはないが。いいんだな?﹂
﹁そんなの、冒険だって同じじゃない。今さらよ﹂
アミュが言い返すと、サイラスはふと笑った。
﹁北の城壁へ行け。治癒魔法を使える者はいるか?﹂
アミュと、そしてイーファが手を上げる。
﹁金髪の嬢ちゃんは魔術師か、なら回復に回れ。そっちも欲しかっ
たところだ。勇者は魔法剣士だったな。ちょうどいい。城壁の上は
モンスターが飛んでくる、剣も使えた方が好都合じゃ。そっちの斧
使いは、飛び道具は扱えるか?﹂
﹁一通りできる。弓、貸して﹂
サイラスがにやりと笑う。
﹁城壁塔の近くにいる者に言え。いくらでも寄越すだろう。準備が
できているのなら、すぐにでも向かえ。向こうは増員を今か今かと
待っておる﹂
﹁ええ﹂
アミュがうなずく。

1078
﹁じゃ、セイカ。行ってくるわね!﹂
﹁ああ⋮⋮気をつけるんだぞ﹂
﹁うん! セ、セイカくんもがんばってね!﹂
﹁終わったら、またお祝いする﹂
北へと駆けていく三人の後ろ姿を見送っていると、サイラスの声
がかかる。
﹁して、小僧。貴様は何をする気だ?﹂
﹁もちろん防衛のお手伝いですよ。ただ、あなたの指示には従えま
せん。ぼくはぼくでやることがあるのでね﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
﹁サイラス市長。あなたはこの戦い、どの程度勝ち目があるとお思
いですか?﹂
サイラスが表情を消す。
﹁⋮⋮こんなものは戦いですらない。いつか来るのではないかと恐
れておったが⋮⋮並みのスタンピードとはレベルが違う。山火事の
炎を手水で消すようなものじゃ⋮⋮ラカナは、滅ぶだろうの﹂
﹁そうですか。ぼくの見立てとは違いますね﹂
ぼくの言葉に、サイラスが眉をひそめた。
﹁何⋮⋮?﹂
﹁勝ち目がある、ということです﹂
ぼくは、街の周囲に広がる力の流れに意識を向ける。
何かを生み出すには、必ず対価が必要になる。

1079
それはあらゆる物事で変わらない、真理の一つだ。
モンスターも、無から生まれ出てくるわけではない。
ぼくはサイラスへと笑みを向ける。
﹁皆の奮闘があれば、勝てます。あなたはそのまま、ここで指揮に
励んでください﹂
****
ラカナで最も高い塔の真上から、ぼくは街を見晴らしていた。
聖堂の鐘楼だった。時を告げる役割も、モンスターを呼び寄せる
危険があるため今は果たしていないが、何かを知らせるには都合の
いい場所だ。
﹁セイカさま﹂
頭の上から顔を出し、ユキが言う。
いくさば
﹁よろしかったのですか? あの娘たちを戦場に送ってしまって。
万が一ということもありますし、てっきりセイカさまならば、目の
届くところに置いておくものだと⋮⋮﹂
﹁目の届くところには置いているさ。あの子らのことはちゃんと式
神の目で見ている。身代も作ったから、致命傷を受けたくらいで死
にはしないよ。いざとなったら助けにも入れるしね﹂
カラスの目に意識を向けると、三人ともなかなか活躍しているよ
うだった。

1080
メイベルは弓も扱えたようで、城壁を登ってくる大型のモンスタ
ーを重力魔法付きの矢で叩き落としている。イーファは負傷者の治
癒も、空から強襲してくるモンスターの迎撃も担えるため、城壁塔
の拠点で重宝されていた。
そして、アミュだ。
剣も魔法も使え、治癒すらも自分で行える万能の勇者。
だが戦力として以上に、あの子の活躍は他の皆の励みになってい
るようだった。
戦いぶりに華がある。あの子自身も生き生きとしている。何より
可憐な少女の奮戦は、周りを奮い立たせているように見えた。
戦場でこそ輝く人間というのは、確かに存在する。アミュがそう
であることに、いささか複雑な思いもあったが⋮⋮今はこれでいい。
﹁あの子たちも、いずれは自分の力で生きていくんだ。いつまでも
過保護なのもよくないだろう﹂
﹁いえその、十分、過保護に思えますが⋮⋮﹂
ユキが呆れたように言った。
﹁して、セイカさま。ここでは何を?﹂
﹁つまらない為政者の真似事さ。耳を塞いでおけよ、ユキ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁あ、あー﹂
頭上からの音を聞きつつ、ヒトガタに組んだ式を調整する。
西洋の風変わりな音楽家曰く、音とは空気の振動であり、時間あ
たりの振動数という形で数式に直せるそうだ。
この数式の通りに発声すれば、理論上どんな音でも歌える。のみ
ならず、一部を直せば高低や、音量なども自在に変えられるのだと

1081
いう。
面白いと思い、自分でも式を組んだことがあったのだが⋮⋮まさ
か、こんな場面で役立つ日が来るとは思わなかった。
ぼくは息を吸い込む。
﹁戦士諸君よ、聞け!! 朗報だ!!﹂
大気を振るわす大音声が、街全体に響き渡った。
城壁で戦う冒険者が、怪我人の治療を行う者が、建物に避難して
いた住民たちが、何事かと顔を上げる様子が式神の目に映る。
ぼくの声は、手に持ったヒトガタを通じて一度数式に直され、振
幅を大きく増幅された後、はるか頭上に浮かべたヒトガタから再び
音となって発せられていた。
鐘にも匹敵するほどの声が、再び響く。
﹁援軍の報せが入った!! じきに外からの助けが来る!! もう
しばらくの辛抱だ!!﹂
街全体が、にわかに色めき立った。
すでに目的は達したが⋮⋮ぼくはなんとなく、続けて言う。
﹁其の方ら勇者たちの活躍は、千年に渡って言い伝えられることだ
ろう!! 今こそ奮え、戦士諸君よ!! 先の語り部を担う、子や
孫たちの未来を守れ!!﹂
冒険者たちの間から、勇ましい鬨の声が上がる中⋮⋮ぼくは式を

1082
解き、ヒトガタを散らす。
﹁あの、セイカさま。いつの間に援軍の報せなど⋮⋮﹂
﹁嘘に決まってるだろ、あんなの﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
﹁いつ終わるか知れない戦いなら、絶望に折れてしまう者もいる。
だが、わずかにも希望が見えていれば別だ。誰もが死の間際まで必
死に戦う。人間とはそういうものだ⋮⋮彼らには、もう少しがんば
ってもらう必要があるからね﹂
﹁うむむ、まるで暴君の台詞でございますね⋮⋮。バレたらどうす
るのです?﹂
﹁勝ってしまえば酒盛りが始まる。いつまでも来ない援軍のことな
んて皆忘れるさ。人間とはそういうものだ﹂
﹁人とは愚かなものでございますねぇ⋮⋮。ふふ、でも⋮⋮﹂
頭の上で、ユキが小さく笑う。
﹁以前から考えていたのですが、セイカさまにはやはり⋮⋮政治家
の素質があると、ユキは思います﹂
﹁ぼくに? 馬鹿言うなよ。騙し合いとか苦手だぞ﹂
﹁そのようなものが大事だとは思いません﹂
﹁⋮⋮? じゃあ、なんだよ﹂
﹁大事なのは、誰もがちゃんと、セイカさまのお話には耳を傾ける
ということです。政治家の素質とは、なにより⋮⋮人に好かれるこ
となのではないでしょうか﹂
ユキが言う。
﹁セイカさまの治める国は、きっと良き国になると、ユキは思いま
す﹂

1083
﹁ははっ、馬鹿馬鹿しい﹂
﹁むっ!﹂
ぼくは冗談を聞いた時のような答えを返すと、不満げなユキに告
げた。
﹁そんなことより、さっさとこの災害を鎮めるぞ﹂
第十九話 最強の陰陽師、援護する
東側の城壁は、今最も苛烈な戦場となっていた。
ポイズンラーバやヘルアントのような壁面を登る虫型モンスター
が多く、明らかに手が足りていない。何度か乗り越えられては、剣
や鎚を持った冒険者が慌てて撃退している危うさがあった。
﹁くそっ、魔力切れを起こす魔術師が出始めている⋮⋮! 弓を扱
える者は登ってくるモンスターの対処に回ってくれ! それと、市
長に魔術師の増援要請を⋮⋮っ﹂
邪魔にならないよう城壁塔の屋根に転移したぼくは、パーティー
メンバーへ指示を飛ばすロイドへと声をかける。

1084
﹁戦況はどうです?﹂
﹁うわっ、ランプローグ君!? は⋮⋮はは、さすが市長だな。増
援が早すぎる﹂
﹁まだ冗談を言えるくらいの余裕はあるようですね﹂
﹁まあ、ね。だがそれももうすぐ⋮⋮品切れになりそうだよ﹂
﹁なるほど﹂
︽火土の相︱︱︱︱鬼火の術︾
青い火球が、城壁の天辺に足をかけていた蟻型モンスターにぶち
当たり、赤黒い体を下まで叩き落とす。
冒険者たちがぼくの術に驚く様子はない。他に上がってきていた
二体への対処で手一杯なのだ。
ロイドが力なく笑う。
﹁君が来てくれて心強いよ。これで、もうしばらくは持ちこたえら
れそうだ﹂
﹁それは光栄ですね。じゃあひとまず、壁の掃除でもしましょうか﹂
﹁⋮⋮?﹂
不可視にしていた何枚ものヒトガタを、長く伸びる城壁の各所へ
均等に配置していく。
この術をここまで大規模に使うことは初めてだ。加減を間違えな
いようにしなければ。
城壁を登るモンスターの群れを見据えながら、手元で印を結ぶ。
小さく真言を唱える。

1085
とうばくふ
︽陽木火の相︱︱︱︱燈瀑布の術︾
圧倒的な炎が、広い城壁を滝のように流れ落ちた。
膨大な量の火炎は、壁面に取り付いていたモンスターをすべて飲
み込み、大地へと流れて緋色の海原を作っていく。
すさまじい熱気が、城壁の上にまで押し寄せていた。
真下で燃え尽きていくモンスターの群れを、顔を出して見ること
すら難しい。
周囲の冒険者たちと共に言葉を失っているロイドへ、ぼくは言う。
﹁城を攻めてくる相手に、煮え油を浴びせるのは定石でしょう?
それに火が付いていればなおよし、です﹂
とうばくふ えごま オリーブ
︽燈瀑布︾は、荏胡麻や橄欖の油を熱し、火の気で着火して放つ
だけの単純な術だ。
こんな単純な熱と質量が、多勢相手には何より有効となる。
﹁溶かした金属でもよかったんですが、城壁が傷みそうでしたから
ね。ここまで立派な城壁だと、修理するのも大変でしょう﹂
﹁は、はは⋮⋮すごいな⋮⋮まさか君は、これほどの⋮⋮﹂
﹁しばらく燃えていると思うので、モンスターがまた城壁を登って
こられるようになるには時間がかかるでしょう。余所の様子も見て
きたいんですが、ここは任せても?﹂
ロイドが、いくらか余裕の戻った顔でうなずいた。
﹁ああ⋮⋮助かった。任せてくれ﹂
﹁では﹂

1086
そう言うとぼくは、南の城壁を見ていた式神と、自分の位置を入
れ替える。
****
南側の城壁には、壁を登ってくるモンスターは少なかった。
だが代わりに、飛行能力を持つモンスターが多く、城壁の冒険者
たちは止めどない強襲に晒されていた。
中には数人がかりでの対処が必須な、上位のモンスターも混じっ
ている。
そのうちの一つ、ソードガーゴイルを戦斧で粉砕したザムルグへ、
ぼくは話しかける。
﹁苦戦しているようですね﹂
﹁っ!? お前かよ、脅かしやがって⋮⋮﹂
﹁手伝いに来ました。そろそろ助けが必要かと思いまして﹂
﹁はっ、んなもんいるか⋮⋮と言いたいところだが、虚勢を張って
もいられねぇ状況だな﹂
南の城壁で戦う冒険者は、明け方から目に見えて少なくなってい
た。
ヒーラー
城壁塔には負傷者がひしめき、数少ない回復職が必死で働いてい
る。
いくら空を飛んでくるモンスターが多いと言えど、実力者が揃っ
ていることを考えると異常な損耗だ。
﹁あれだ﹂

1087
ザムルグが、モンスターの攻めてくるはるか向こうを見据える。
視線の先には、一体のモンスターがいた。
でかい。大きさだけならばドラゴンにも迫るだろう。獅子の頭に、
魚の尾が二本。背には蝙蝠の羽が六枚ついている。
それは、巨大になりすぎたキメラのようだった。
ぼくは目を眇める。
ずいぶんと不自然な力の流れだ。尋常なモンスターとは思えない。
これも龍脈の影響か。
ザムルグが顔を歪ませて言う。
﹁あんなキメラは見たことも聞いたこともねぇ。でかすぎてまとも
に飛ぶことも歩くこともできねぇのか、ずっとあそこに居座ってや
がる。気味の悪ぃやつだ﹂
﹁かといって無害、というわけでもなさそうですね﹂
﹁ああ、あいつは⋮⋮っ!? 来るぞ!﹂
ザムルグが叫ぶと、城壁の冒険者たちが一斉に身構える。
あぎと
キメラの獅子頭が、その顎を開き︱︱︱︱吠えた。
﹁グオ゛オオオオォォォ︱︱︱︱︱︱ゥゥッ!!﹂
その衝撃は、一瞬の後に城壁の上を吹き荒れた。
おぞましい重低音の響きが、体の芯までをも震わせるような感覚。
すく
存在の格が違うかのような圧力に、誰もが竦んでいる。
当然、それはただの鳴き声に過ぎない。
傷つくことも、自由を奪われることもない。

1088
だが︱︱︱︱キメラの威圧を受けた冒険者たちは、明らかに動き
が鈍くなっているようだった。先ほどまで優位に立ち回っていたモ
ンスターに対しても、うまく対応できないでいる。
耳を塞いでいたザムルグが、忌々しげに吐き捨てる。
ハウル
﹁チッ、あの咆哮だ! あれのせいで体が思うように動かなくなる
! 弓も魔法も届かねぇあの距離から、一方的に撃ってきやがるん
だ!﹂
﹁なるほど﹂
ハウル
咆哮は、狼系の上位モンスターなどがたまに持つ技だ。聴いた敵
に恐慌を引き起こす雄叫びを放つ。
ハウル
南の城壁が苦戦を強いられているのは、あの異常なキメラの咆哮
による妨害が原因だった。
あれはなんとかする必要がある。
もちろん、ちょっと転移してぶっ飛ばしてくるのは簡単だが⋮⋮
そこまでの手間をかける必要もない。
ハウル
﹁あの咆哮は任せてください﹂
﹁あァ? 何⋮⋮﹂
ヒトガタを浮かべ、印を組む。
やまびこ
︽召命︱︱︱︱幽谷響︾
空間の歪みから、小柄な妖怪が城壁塔の屋根へと降り立つ。
黒い毛並みの、犬とも猿ともつかない姿。首をかしげ、ぎょろり
とした目でぼくを見つめている。

1089
ぼくは、キメラの方を指さして言う。
﹁向こうを向け﹂
妖は一拍置いて口を開き、ぼくと寸分違わぬ声音で言う。
﹁︻向こうを向け︼﹂
﹁黙れ。いいから向こうを向け。次にぼくの真似をしたら殺すぞ﹂
﹁⋮⋮﹂
やまびこ
幽谷響は、今度は素直にキメラの方を向いた。
ぼくはザムルグへと顔を戻す。
﹁ええと、これで大丈夫です﹂
﹁⋮⋮おい﹂
ザムルグは、すでにぼくのことなど見ていなかった。
顎を開きかけていたキメラを見据え、叫ぶ。
﹁また来るぞッ!﹂
﹁グオ゛オオオオォォォ︱︱︱︱︱︱ゥゥッ!!﹂
ハウル
キメラの咆哮が、再び響き渡る。
やまびこ
冒険者たちが竦み上がる城壁の上で、ぼくは幽谷響に目をやった。
恐ろしい咆哮を聴いた妖怪は、だが平然とかしげていた首を戻し
⋮⋮その小さな口を開く。
﹁︻グオ゛オオオオォォォ︱︱︱︱︱︱ゥゥッ!!︼﹂

1090
ハウル
寸分違わぬ咆哮が、今度は自陣から轟いた。
空を舞っていたモンスターたちが、前後不覚になったかのように
次々と墜ちていく。
あの巨大なキメラすらも、おののいたように数歩後ずさっていた。
やまびこ
幽谷響は深山に住み、声や音を真似て叫び返す妖だ。
子供にもやられるくらい弱いが、その特性のためか音に対する物
怖じはまったくしない。鬼の声だろうと龍の咆哮だろうと、聞こえ
れば関係なく叫び返す。
冒険者たちが呆然と固まっている中、ぼくはザムルグへと言う。
ハウル
﹁これ、ぼくがテイムしているモンスターです。咆哮はこいつが勝
手に跳ね返すので、これからは一方的に不利になることもないと思
います﹂
ハウル
﹁は⋮⋮咆哮を、跳ね返す⋮⋮? 一体何だ、このモンスターは⋮
⋮﹂
﹁置いていくので、あとは頼みます。あ、こいつかなり弱いので、
他のモンスターにやられないよう守ってやってくださいね﹂
﹁わ、わかった⋮⋮﹂
﹁では﹂
転移のヒトガタを使おうとしたその時、ザムルグがぼくを呼んだ。
﹁おい、セイカ・ランプローグ!﹂
﹁え?﹂
﹁全部片付いたら⋮⋮飲み比べだ。忘れんなよ﹂

1091
ぼくは鼻で笑って答える。
﹁ええ。ではまた酒宴の席で﹂
そして、北の城壁を見ていた式神と、自分の位置を入れ替えた。
第十九話 最強の陰陽師、援護する︵後書き︶
※燈瀑布の術
高温に熱した植物油に火をつけて放つ術。十一世紀に使われていた
灯油としては、ヨーロッパではオリーブ油が、日本では荏胡麻から
とれる荏油が主流だった。なお、一般的な植物油の引火点は三百度
前後であり、あらかじめそこまで加熱しておかないと火がつかない。
1092
第二十話 最強の陰陽師、またボスを倒す
北の城壁は、一時戦力が大幅に減っていたこともあって厳しい状
況だったらしいが、サイラスの迅速な増援によって今は持ち直して
いた。
しかし、再び別の危機が近づきつつある。
城壁の上に転移したぼくは、ちょうど近くにいたアミュに声をか
ける。
﹁アミュ﹂
﹁ええっ、セ、セイカ!? いきなり現れるのやめなさいよ!﹂

1093
驚いたようにぼくを振り返ったアミュが、額の汗を拭って言う。
﹁あんた、ここにいていいわけ? なにかやることあったんじゃな
いの? あと援軍が来るとか、でかい声で言ってたけど⋮⋮﹂
﹁援軍は、ここだけの話、嘘だ。サイラスも否定していないだろう
が、ただ混乱を避けるために口をつぐんでるだけだ﹂
﹁⋮⋮やっぱり﹂
﹁そんなもの必要ないさ。さっきも、押され気味だった東と南の城
壁を手伝ってきたところだ。西側は元々ダンジョンがないおかげで
モンスターが少ないようだから、あとはここだな﹂
﹁そうね⋮⋮ついさっき、面倒そうなのが出てきたのよ﹂
﹁わかってる﹂
アミュの視線の先にいるのは︱︱︱︱巨人のごとき全身鎧だった。
リビングメイル、なのだろう。大きさはともかく、中身が空洞の
鎧が動いているのなら、そう考えるのが自然だ。
ただ、異様でもあった。
普通のリビングメイル以上に、動きがぎこちない。足を踏み出す
てっか びょう
度に鉄靴や膝関節の可動部が歪み、鋲が弾け飛ぶ。明らかに、自重
を支えきれていないように見えた。
力の流れも不自然だ。
いびつ
あれも龍脈の暴走が生んだ、歪なモンスターなのだろう。
巨大なリビングメイルは、一歩、また一歩と、城壁に近づいてく
る。
アミュが険しい表情で言う。

1094
メイス
﹁あいつ⋮⋮戦棍を持ってるのよ﹂
メイス
鎧が右手に持つのは、アミュの言う通り縁が組み合わさった戦棍
だ。
確かに、あの武器はまずい。
そうこう言っている間に、リビングメイルはすぐ近くにまで接近
していた。
メイス
不安になるような動きで戦棍を振り上げ︱︱︱︱それを、城壁の
中ほどに叩きつける。
地揺れのごとき振動が、足元に起こった。
冒険者の多くがたたらを踏み、リビングメイルを指さして騒いで
いる。
見ると、城壁の一部がわずかに崩れているようだ。
ただし、攻撃した方も無事ではない。
メイス
腕が歪み、戦棍自体も縁の数枚がひしゃげていた。
メイス
再び、戦棍が叩きつけられる。城壁がさらに崩れ、鎧の鋲がいく
つも弾け飛ぶ。
その光景を眺めて、ぼくは呟く。
﹁なんか、ほっといたら壊れそうだな﹂
﹁それって、鎧が? それとも⋮⋮城壁が、ってこと?﹂
アミュが不安そうな顔をする。
無論リビングメイルを指して言ったつもりだったが、そう思って
しまうのも無理はないだろう。
万が一、ということもある。
ただ⋮⋮、

1095
﹁硬そうだなぁ﹂
術を使うにしろ妖を使うにしろ、面倒そうだ。
ぼくは少し迷って⋮⋮あいつを喚ぶことにした。
くろしし どうじ
︽召命︱︱︱︱黒鹿童子︾
空間の歪みから現れたのは⋮⋮簔と笠を纏い、手に大太刀を提げ
た、大きな黒い人影だった。
人ではない。
爪は太く鋭く、口には収まりきらぬ牙を持っている。
はし
突然黒い人影が、鞘から刃を奔らせた。
神速の白刃は、しかしぼくの目前で、結界に阻まれて止まる。
くろしし
﹁ふ、ずいぶんな挨拶じゃないか、黒鹿よ﹂
﹁ハルヨシ⋮⋮貴様、ハルヨシ、か⋮⋮﹂
くろしし どうじ
黒鹿童子が太刀を引く。
その牙の隙間から、蒸気のごとき息を吐く。
なにゆえ
﹁なんダ、その姿ハ⋮⋮なんダ、この世界ハ。何故、此の身の⋮⋮
封じを解いタ﹂
くろしし
﹁事情があってな。それより喜べ、黒鹿よ。お前の望みを叶えてや
ろう﹂
﹁何﹂
いくさば つわもの
﹁見ろ、戦場だ。兵だ。お前が斬り結ぶにふさわしい敵だ﹂
メイス
ぼくは城壁の下を指す。ちょうど戦棍が振るわれ、足元に振動が

1096
伝わる。
くろしし どうじ
黒鹿童子はリビングメイルの巨人を一瞥し、吐き捨てる。
﹁つまらヌ、化生ダ﹂
﹁つれないことを言うな。鬼斬りの武者に比べれば劣るかもしれな
いが、百鬼夜行など目じゃないほどの軍勢だろう﹂
﹁ふン⋮⋮よイ。長キ無聊の慰めにハ、なろウ。貴様の露ヲ、払っ
てやル、ハルヨシ⋮⋮人ガ、よもや化生との約束ヲ、果たスとはナ
⋮⋮次の戦場モ、忘れるナ﹂
﹁ぼくは約束は守るさ。帰陣の祝いには、この世界の酒を振る舞っ
てやろう。楽しみにしておけ﹂
たが
﹁⋮⋮。ソれも、約束ダ。違えるナよ﹂
と言って︱︱︱︱黒い人影が、城壁の下へと身を翻した。
真下にうごめく、おびただしいモンスターの群れの中へ落ちてい
く。
アミュが驚いたように身を乗り出す。
﹁ええーっ! あの人、落ちてっちゃったわよ!?﹂
﹁人じゃない﹂
その時。
下方から微かに、涼やかな抜刀の音が聞こえた。
リビングメイルの、右腕が落ちた。
続けて左腕が、胴鎧が、両足が斬られていく。一瞬の残光と共に
落とされた部位には、鋭利な切断面が作られていた。

1097
リビングメイルが瞬く間にバラバラにされた後も、刃が閃く度に
モンスターの群れは切り飛ばされ、駆ける黒い人影の周囲に血煙が
舞っていく。あの分だと、北側のモンスターはそのうち殲滅されて
しまうだろう。
呆気にとられる冒険者たちの中で、ぼくは小さく呟く。
﹁鬼さ﹂
黒鹿童子。
自ら固有の名を名乗る、鬼の剣豪。
丹波の深山に棲み、挑む者を求め、力ある武者を幾人も葬ってき
た修羅だ。
とはいえ、龍を斬れるほどではないが。
あいつのいいところは、あんまり大きくないから目立たないとこ
ろだ。今使うにはちょうどいい。
﹁オニ、って⋮⋮モンスターの名前? あれも、あんたのモンスタ
ーなの⋮⋮?﹂
﹁そんなところだ﹂
﹁じゃあ、あんたさっき、モンスターと喋ってたわけ⋮⋮? なに
話してたの? さっきのはもしかして、モンスターの言葉?﹂
不思議そうにするアミュに、ぼくは微笑を向ける。
﹁いや⋮⋮遠い国の言葉だよ。まあそんなことはいいじゃないか﹂
と言って、城壁の先を見つめる。
まだ、か。

1098
ぼくは転移用のヒトガタに意識を向ける。
﹁⋮⋮そろそろまた東の城壁でも手伝ってこよう。じゃあ後は任せ
⋮⋮﹂
その時。
大地が揺れた。
﹁⋮⋮!﹂
﹁な、なに!?﹂
周りの冒険者たちも、何事かとざわめく。
一方で⋮⋮ぼくは城壁からはるか先を見つめながら呟いた。
﹁出てくるか﹂
地面が盛大に噴き上がった。あまりにも高く舞った土埃が、風で
こちらまで流れてくる。
茶色に霞む景色の中でのたうつのは、黒い影。
﹁な、なんだあれは!?﹂
﹁でけぇ⋮⋮あんなの見たことねぇ⋮⋮﹂
﹁おい、あれまさか⋮⋮ワームか!?﹂
冒険者たちが騒ぎ出す。
長い体。目のない顔に、頭部のほとんどを占める大きな顎。
地面から頭を出してのたうっているのは、どうやら土中に棲む亜
竜、ワームであるようだった。

1099
ただし、その大きさは尋常ではない。
頭部の太さから見るに、その体のほとんどは未だ地面の下に隠れ
ているのだろう。
だが見えている部分だけでも、それは通常のワームの何倍もの大
きさがあった。
地面から上手く出られず、不器用にのたうつその姿は、体の自由
が利いていないようにも見える。
龍脈の影響で肥大しすぎた、歪なモンスター。
ぼくは呟く。
﹁ようやく姿を見せたな﹂
地面の下から、少しずつ上に上がってくる気配はずっとあったが、
ずいぶんと時間がかかったものだ。
その時、巨大なワームが大口を開き、激しく頭を振った。
その顎から溢れ出てきたのは︱︱︱︱大量のモンスターだった。
ゴブリンにオーク、スケルトンにリビングメイルにガーゴイル。
種類には統一性などなく、まるで嘔吐するように、ワームはおびた
だしい数の生きたモンスターを吐き出していく。
その姿は、苦しんでいるようにも見えた。
﹁な⋮⋮なんなのよ、あれ﹂
﹁このダンジョンのボスだよ﹂
呆然とするアミュに言葉を返すと、困惑したような顔を向けられ
る。

1100
﹁ボス? どういうこと?﹂
﹁ラカナは今、一つの巨大なダンジョンになっているんだ﹂
すべてのダンジョンが消え、行き場を失った龍脈の流れは、出口
を求めた。
かつてのボスモンスターのような、龍脈の力を取り込めるモンス
ターを。
そして不幸にも、地中に棲んでいるがために龍脈に最も近く、た
またま力を取り込む能力に長けていた一体のワームに、すべての流
れが集中してしまったのだろう。
一瞬ですさまじい力を得たワームは、この世界の法則に従い、核
となって異界を形成する。
それはラカナをも飲み込んで︱︱︱︱ここら一帯を、モンスター
を発生させる巨大なダンジョンに変化させてしまった。
﹁で、あれがそのボスというわけだ。つまり︱︱︱︱あいつを倒せ
ば、スタンピードが収まる﹂
なるべく、あれが地上に出てくるまで待つ必要があった。
姿を直接見たこともなく、真名も媒介もなければ、呪詛は使えな
い。地中にいるまま倒そうとすれば、どうしても地形をめちゃくち
ゃにしてしまう。それこそ災害と同じだ。
﹁で、でも⋮⋮あんなの、誰が倒すのよ﹂
﹁だから、ぼくが﹂
真顔でそう答えると、アミュは一瞬固まった後、大きく溜息をつ
いた。

1101
﹁⋮⋮おとぎ話の勇者って、どのくらい強かったのかしらね。あん
なのどうにかできたかしら? あんたが魔王だったとしたら、勇者
は人間の国を救えた?﹂
﹁それは⋮⋮もちろん、そうに決まってるさ。何せ伝説の勇者なん
だから﹂
笑顔で適当なことを言うと、アミュが微妙な顔をした。
﹁あたし、何をどうしたって、あんたを倒せる気がしないわ⋮⋮﹂
﹁ぼくだって、死ぬ時は死ぬさ。人間だからね﹂
﹁ん⋮⋮し、死ぬんじゃないわよ﹂
﹁はは﹂
いろんな感情が入り交じったような顔で言うアミュに、ぼくは笑
った。
﹁あんなのでは死なないよ﹂
そして、戦場を見ていた式神と、自分の位置を入れ替えた。
モンスターの群れのただ中へと転移する。気づいたオークやスケ
ルトンが襲いかかってこようとするが、さらに転移を繰り返す。
一瞬の後に、ぼくは巨大なワームの正面へと降り立った。
のたうつ巨体を見て、ぼくは呟く。
﹁哀れな化生だ﹂
その時、ワームが大口を開けた。
再び大量のモンスターが吐き出される。

1102
まじな
向かってくるそれらを払おうとして⋮⋮ぼくは呪いの手を止めた。
視界の中で、幾条もの剣線が閃く。
﹁露ハ、払おウ。ハルヨシ﹂
頭から、胴から。
視界を埋め尽くしていたすべてのモンスターが、両断されて崩れ
落ちていった。
背後で、納刀の小気味良い音が響く。
﹁さっさト、やレ﹂
くろしし
﹁助かるよ黒鹿﹂
ぼくは、浮かべたヒトガタをワームへと向ける。
真言を唱え、小さく印を組む。
金の気で生み出された鋼の壁が、目の前で形作られていく。
それは巨大なワームの顎でも、飲み込めないほどの大きさにまで
広がる。
再びモンスターを吐き出そうと、ワームがのたうち、頭を振り上
げた。
ぼくは呟く。
﹁何、すぐ済む﹂
しんてんほうか
︽木火土金の相︱︱︱︱震天炮華の術︾
壁の向こうで、膨大な量の火薬が炸裂した。

1103
耳をつんざくような爆音が轟いて、すさまじい衝撃に大気が波打
つ。
一瞬で世界から音が消え去るが、ほどなくして身代によって内耳
が治癒したのか、周囲に喧噪が戻る。
辺りを濛々と白煙が満ちる中、ぼくは解呪のヒトガタを飛ばし、
鋼の壁を情報の塵へと還していく。
再びぼくの目に映ったワームの体からは⋮⋮頭部が完全に失われ
ていた。
︽震天炮華︾によって放たれた無数の礫が、すべて削り取ったの
だ。
薄く平面上に敷いた火薬が爆発する際、片面が重い岩や金属など
に接していると、爆風のほとんどがもう一方の面に向かって放たれ
るという性質がある。
︽震天炮華︾はこれを利用し、鋼の壁に薄く貼り付けるよう火薬
を配置することで、爆発の方向を前方に定め、その威力を強く集中
させる術だ。
火薬を扱う宋の技術者から、伝え聞いた性質だった。
まじな
このすさまじい威力に、呪いは関係ない。ただ多量の火薬と、知
識に基づく工夫があるだけだ。
この世界の人間も、いずれは兵器でドラゴンを倒す日が来るかも
しれない。
﹁⋮⋮﹂
ワームの死骸は、まるで砂漠で死んだ獣のように、急速に干から
び始めていた。

1104
振り返ると、スタンピードの終わりの光景が目に映る。
空を舞っていたガーゴイルやキメラが墜ちる。スケルトンやリビ
ングメイルは崩れ、オークやゴブリンは老い衰えたように地を這う。
かろうじて動ける一部のモンスターが、森の方へと逃げ帰っていた。
核が失われれば、ダンジョンは消滅する。
その力に頼っていたモンスターたちも、同じ末路をたどる。
すぐ近くで、鬼の呟きが聞こえた。
﹁やハり、つまらヌ、死合いだっタ﹂
﹁そう言うな。喜べ、黒鹿。ぼくらは勝ったんだ﹂
ぼくは小さく嘆息し、微笑と共に言う。
﹁たとえ楽に拾えた勝利でも⋮⋮ちゃんと喜ばなければ、彼らに失
礼だろう﹂
﹁知らヌ。知らヌが⋮⋮彼らとハ、どちらダ。人カ、それとも⋮⋮
化生カ﹂
鬼の問いに、ぼくは答えない。
城壁からは、遠く歓声が聞こえてきていた。
1105
第二十話 最強の陰陽師、またボスを倒す︵後書き︶
※震天炮華の術
指向性を持たせた爆発を発生させる術。平面状に薄く敷いた爆薬が
爆発すると、通常全方向に均等に拡散するはずの爆風は、前後左右
方向に小さく、上下方向に強く発生する。この時、片面が比重の重
い物質で覆われていた場合には、爆発のエネルギーのほとんどがも
う一方の面に向かって放たれるという性質がある。これをミスナイ・
シャルディン効果といい、現代ではクレイモア地雷や自己鍛造弾な
どに利用されている。

1106
第二十一話 最強の陰陽師、提案する
超大規模のスタンピードは、一日と経たないうちに収まった。
あれほどモンスターで満ちていた街の外も、今は静まり返ってい
る。
龍脈から感じる力の流れは、今や半分以下になってしまっていた。
さすがにあれだけの災害を起こすとなると、相当なエネルギーが
必要だったのだろう。
元に戻るまでには一年以上かかりそうだ。
逆に言えばそれだけの期間、再びスタンピードが起こる危険はな
くなったと言える。

1107
これからどうなるかはわからないが⋮⋮そのうちまた何匹かのボ
スモンスターが生まれ、それぞれの山にダンジョンを形成すること
だろう。
ここはそういう土地らしいから。
幸運なことに、街の被害は驚くほど少なく済んだ。滅多に起こら
ない大災害だったことを考えると、奇跡と言ってもいいほどだ。
もちろん、犠牲者は出ている。いずれは、街全体で彼らの葬儀を
行わなければならないだろう。
しかし︱︱︱︱今は、素直に勝利を祝う時だ。
やらなければならないことは多い。失ったものばかりに目を向け
ていては、これからの士気など上がるはずもない。
というわけで。
日が沈んだ時分。冒険者たちは、街の各所で酒盛りを行っていた。
ぼく自身もここギルドの酒場で、隅の方の席で静かに飲んでいる。
﹁ガッハッハッハッハッハッハッハ!!﹂
それにしても、うるさい。
ザムルグの豪快な笑い声は、向かいの店にまで届いていそうだ。
賑やかなのは嫌いじゃないが、こういう手合いはやはり苦手だっ
た。
しかしなぜか、前世での友人はこんなのばっかだった気もする。
きっと記憶違いだろう。

1108
ちなみに酒盛りにはアミュたちも参加していたが、早々に潰れて
しまったので隅の方で寝かせている。どうも彼女らは酒が弱いよう
だった。
﹁セイカ・ランプローグ! おらこっちこい!﹂
ザムルグの胴間声が響く。
ぼくが渋っていると、腕を掴まれて強引に引っ立てられた。
﹁セイカ・ランプローグだ! 化け物ワームを倒し、街をスタンピ
ードから救った英雄だ!!﹂
冒険者たちの間から、歓声が湧き上がった。
なぜかザムルグから火酒の杯が手渡される。そのまま飲み干すと、
さらに歓声が上がった。何しても喜ぶんじゃないか? こいつら。
﹁あの火酒をよくそのまま飲めるね。ランプローグ君は相変わらず
強いな﹂
たまらずロイドのいるテーブルへ逃げると、まずそんなことを言
われた。
﹁飲みたくて飲んだわけじゃないんですが⋮⋮まったく。よくここ
まで浮かれられる﹂
﹁ものすごい収入が街に入ることになるからね。生活の保障だって
されるんだ、浮かれもするさ﹂
﹁どうですかね。すべての素材をすぐ換金できるわけもなし、慎重
に売っていかないと大損しますよ。ダンジョンだってしばらくは元
に戻らないというのに﹂

1109
当たり前だが、スタンピードが収まった後、ラカナの周辺には大
量のモンスターの死骸が残された。
つまり、宝の山だ。
それらは一旦、街の所有物になることが決まった。ラカナの古い
法律に、そう定められていたらしい。冒険者たちが一斉に売りに出
すと相場が壊れてしまうので、合理的な取り決めだ。
もちろんその代わり、毎月安くない額が全住民に支給されること
となった。戦いに出た冒険者は、当然割り増しだ。最低でも向こう
一年間。働かずに暮らせるとなれば、まあ浮かれるのもわからなく
はない。
ただし、今はダンジョンが消滅してしまっているので、冒険者た
ちに他に稼ぐあてはない。生活費に消える以上、あまり無駄遣いは
できない。
そのうえモンスターの素材を大量に在庫として抱えるラカナには、
これから食い物にしてやろうとする商人たちが寄ってくることだろ
う。そいつらに騙されないよう、相場を維持させつつ少しずつ売っ
ていくのは、なかなか大変そうだった。
とはいえ、そこはあまり心配しなくていいかもしれない。
サイラスはやり手であるようだし、そのうえフィオナと手を組ん
でもいる。
まあ、うまくやることだろう。
そんなことを考えていると、ふとロイドの持つ杯に目が留まった。
﹁⋮⋮あれ。今日はあなたも酒なんですね﹂
﹁ああ⋮⋮仲間の弔いにね。こんな時は、私も少しくらい飲む﹂

1110
と言って、ロイドは杯を傾ける。
そういう飲み方をする者も、今夜は多そうだ。
﹁おうロイド。酒を飲むのは結構だが、んな辛気くせぇ飲み方する
んじゃねぇ! 今夜は勝利をぉ∼∼∼祝えぇ! パーティーリーダ
ーが、ヒック、んな顔してると、仲間も浮かばれねぇぞ! ⋮⋮そ
れとなぁ、盛り下がんだよ。今後に障るぞ、その辛気くささは﹂
酔っているのか真剣なのか判断の付かない絡み方をするザムルグ
に、ロイドは少しだけ真面目な顔をして言う。
﹁⋮⋮そういうわけにもいきませんよ。私の指揮が悪かったせいで、
仲間を亡くしたんです。その責任を忘れて騒ぐ資格はない⋮⋮現に
市長だって、今夜の祝いの席は辞しているでしょう﹂
﹁親父は別だ。もう冒険者じゃねぇんだ、議長としてふさわしい振
る舞いがあるだろうよ。だが俺様や、お前はどうだ? 冒険者じゃ
ねぇか。自分で自分の生き様を選び、始末をつける冒険者。お前の
仲間だって⋮⋮そうだ。お前がクソほどもいるパーティーメンバー
全員の生き死にに責任を持とうなんざ、傲慢すぎんだよ﹂
﹁それでもです。私は冒険者の流儀など無視し、彼らに自ら選ぶ自
由を曲げさせてまで、パーティーでの成功を約束したんだ。ここで
責任を持たなければ、私の言葉は嘘になる﹂
﹁はっ、んなこと言ってると、お前の仲間はそのうち甘えたことば
かり言い出すようになるぞ。守られて当然、助けられて当然、自分
がいい目を見られて当然、ってなぁ﹂
﹁構いませんよ。むしろ誰もがそのすべてを当然と思いながら、こ
の街で生きてもらいたい。仲間を失うのが当然、若くして死ぬのが
当然などという考えは、絶対に間違っています﹂
﹁お前なぁ⋮⋮﹂

1111
﹁あー、うるさいな﹂
ぼくは杯を置き、我慢できずに言った。
﹁口喧嘩なら余所でやってください。酒がまずくなる﹂
いつの間にか、テーブルの周囲は少し静かになっていた。
周りの冒険者たちも、ラカナを率いる二大パーティーのリーダー
同士の言い合いに、何やら考え込んでしまっている様子だった。
﹁⋮⋮セイカ・ランプローグ。お前はどう考える?﹂
﹁は?﹂
﹁お前は⋮⋮冒険者はどうあるべきだと思う﹂
﹁⋮⋮﹂
ザムルグが急にぼくへと話を振ってきて、思わず困惑する。
助けを求めるようにロイドへ顔を向けると、なぜか強くうなずか
れた。
﹁そうだ、ランプローグ君。君の考えを聞かせてほしい﹂
﹁⋮⋮﹂
よくよく観察すると、どうやら二人とも酔っているようだった。
溜息をつく。
酔っ払いの無駄話になんて付き合っていられない。
﹁⋮⋮なら言わせてもらうが、其の方らはどちらも間違っている。
どちらの方法でも、自分たちの理想にすら至れない。そもそも共同
体の運営を軽く考えすぎだ﹂

1112
ぼくは、なんか言い出した自分自身に困惑していた。
妙に熱くなっている。口が勝手に動く。
ひょっとしてぼく、酔ってるのか?
﹁ロイド、以前にも言った通りだ。人にはそれぞれ違いがある。均
質なだけの教育では、それに適応できない落伍者が結局は出てきて
しまう。さらにはただ指導者に身を委ねるだけの、競争の起こらな
い共同体はいずれ弱る。全員は救えず、ゆるやかに衰えゆく。その
ような体制が本当に理想なのか?﹂
黙り込むロイドから視線を外し、次にぼくはザムルグを見る。
﹁ザムルグ、そちらも同じだ。冒険者の自由など錯覚に過ぎない。
彼らが自分の意思で何かを選び取る機会など、その実ほとんどない。
ダンジョンのような危険で情報に乏しい場所では、自らの工夫や努
力以上に、ただの天運がすべてを決めてしまう。こんなものを自由
と呼ぶのは、たまたま何かを勝ち取り得た成功者の驕りだ。それと
も、このような現状が理想だと言うのか?﹂
ザムルグまでも黙り込む。
ギルドの酒場は、いつのまにか静まり返ってしまっていた。
﹁なら⋮⋮どうすりゃあいい﹂
やがてザムルグが、重々しく口を開く。
﹁俺様も、才能があるにもかかわらず死んでいった新入りを何人も
知ってる。あいつらにダンジョンのことを教える奴がいれば、もし
かしたら今でも、酒を飲み交わせていたかもしれねぇ⋮⋮。だがそ

1113
れでも、ただ管理されるばかりの甘えた冒険者を作ることが、ラカ
ナにとって良いことだとは思えねぇ﹂
﹁私の方針も、完璧とは思わない。だけどきちんと知識や技術を広
めれば、つまらない事故で死ぬ冒険者は確実に減るはずなんだ。少
なくとも、何もしないよりは⋮⋮。君の言うような問題はあるだろ
う。だけど、他に方法は思いつかなかった﹂
ロイドが言う。
﹁もし理想の方法があると言うなら、教えてくれないか。私たちは
どうすればいい﹂
﹁そのようなもの、ぼくは知らない。理想的な組織運営など、誰も
が探し求めて決して手に入らない、そういった類のものだ。存在す
るとすら思わない。ただ⋮⋮多少、マシな方法ならある﹂
﹁おい、なんだそれは﹂
﹁ぜひ聞かせてくれ﹂
身を乗り出す二人に、やや面食らう。
というか⋮⋮ぼくはいったい、何を語っているんだろう。
それでも口はひとりでに動く。
﹁助けすぎるのもまずい、助けないのもまずいならば⋮⋮学びの機
会だけを与え、後は個々人の自由意志に任せればいい﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮すまない、具体的にはどうすればいいということかな?﹂
﹁ダンジョンで生き残るための知識や技術に、誰もが自由に触れら
れるようになればいいということだ﹂
少し語調を抑えて、ぼくは続ける。

1114
﹁危険なモンスターの出現場所や、武器ごとの相性、トラップの見
分け方など、冒険に必要な情報を、たとえば書物に記してしまう。
それをギルドが管理し貸し出すでも、あるいは売りに出すでもいい。
とにかく、それを望む者が手に取れるようにする。そうなれば⋮⋮
少なくとも、何も知らないままダンジョンに挑まざるを得ないよう
な冒険者は減る。同時に、自ら必死に生き残ろうとする意思も、養
うことができる﹂
言語や文字体系の関係なのか、この国ではたとえこんな荒くれ者
ばかりの都市でも、文字を読める者は多い。
だから、こんなやり方でも十分だろう。
﹁もちろん、この方法が完璧なわけもない。自ら学ぶ意思を持たな
い者には何の意味もなく、また懸命に努力し知識を身につけた者で
あっても、時に天運次第で命を落としてしまう。ただ、其の方らの
極端な方法よりは、いくらかマシというだけだ﹂
ラテン語の古いことわざに、天は自ら助くる者を助く、とあった
のを思い出す。
結局、人が人に対してしてやれる手助けなどは、この程度が限界
だろう。
酒場がざわつき出す中、ロイドとザムルグがやや呆気にとられた
ように言う。
﹁い、いやだが、それなら、確かに⋮⋮﹂
﹁⋮⋮内容はどうする。もしそんなもんを本当に作るなら⋮⋮俺様
のパーティーが、多少協力してもいいが﹂
﹁⋮⋮いや﹂
自分に関係ないことなのに、どうしてこんな真剣に考えているん

1115
だろうと思いながら、ぼくは続ける。
﹁ここまでダンジョンがあるんだ。なるべくなら、大勢から情報を
集めた方がいい﹂
﹁それは、だが⋮⋮ランプローグ君。そう簡単に、協力してくれる
者が集まるだろうか⋮⋮? 報酬を用意するにしても、新人への援
助が目的なら、額にも限度がある気がするが⋮⋮﹂
﹁半人前が適当な情報を寄越したらどうする。それが原因で死人が
出たら、笑い話にもならねぇぞ﹂
﹁人数は、おそらく心配するまでもなく集まる。こういう催し事に
手を挙げる人間は意外と多いものだ。情報の正確さは、ある程度は
割り切るしかない。有志で検証してもいいが、最悪、版を重ねる毎
に信用が増していけばそれでいい。もしどうしても懸念するという
なら⋮⋮情報に紐付けて、提供者の名を載せればいいだろう。面子
を重視する冒険者なら、安易なことは決して言えなくなる。同時に、
これを名誉の報酬と思い、協力しようという者も増える﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁な、なるほど⋮⋮﹂
酒場のざわつきが大きくなる中⋮⋮ぼくは、逆にだんだんと冷静
になってきた。
まったく、何をこんなに喋っているんだか。
誤魔化すように杯を傾けながら、ぼくは切り上げるように、目を
伏せつつ告げる。
﹁⋮⋮ぼくは、所詮ここでは新参者だ。冒険者の事情なら、其の方
らの方がずっとよく知っているだろう。こんな酔漢の戯れ言を、そ
れでもやってみようと思うなら⋮⋮あとは、皆で話し合えばいい﹂
言い終えると同時に、酒場の冒険者たちが口々に話し始める。

1116
﹁⋮⋮要するに、ダンジョンのことを書いた本を作るってんだろ?﹂
﹁ザムルグのパーティーも協力するんだよな﹂﹁おもしれーな。オ
レはやるぜ!﹂﹁んな金誰が出すんだよ。ギルドか?﹂﹁議員でも
いいぞ﹂﹁出資者の名前も載せてやれ。金持ちに名誉を買わせろ﹂
﹁新人に読ませる分はギルドが管理すりゃいいが、売り出して収益
化もできれば最高だな﹂﹁上位のパーティーなら金も持ってる。見
込みはあるぜ﹂﹁バカお前、ねぇよ! 本がいくらすると思ってん
だ﹂﹁まあ聞け。なんでも最近、帝都では活版とかいう︱︱︱︱﹂
急に喧噪が戻った酒場の中︱︱︱︱ザムルグが、急に太い笑い声
を上げた。
﹁ガッハッハッハ! なんだなんだ、こいつらすっかり乗り気じゃ
ねぇか! お前は面白ぇことを考えるもんだなぁ、セイカ・ランプ
ローグ﹂
手元の杯を飲み干し、それから一言付け加える。
﹁んじゃ、後は任せたぞ﹂
﹁は?﹂
ぽかんとして訊き返すぼくに、ザムルグは呆れたように言う。
﹁おいおい、ここまで大事にしておいて、まさか後は知らないなん
て言わねぇよな?﹂
﹁⋮⋮そうだね。私たちはただの冒険者だ。こういったことは、家
や学園できちんと教育を受けてきた君の方が適任だろうと思う﹂
﹁⋮⋮﹂

1117
別に、学園で本の作り方を習ってきたわけではないのだが⋮⋮。
ぼくは溜息をついて言う。
﹁⋮⋮そこまでは知らないな。先にも言ったとおり、あとは自分た
ちで話し合って決めればいい。手伝いくらいならしてやってもいい
が、ぼくが主導するつもりはない﹂
聞いたザムルグとロイドが、微妙な表情で顔を見合わせ⋮⋮それ
から言った。
﹁お前は知恵があるようだが、肝心なところで馬鹿だな。セイカ・
ランプローグ﹂
﹁は?﹂
﹁これだけ盛り上がってんだ。あと半月もしないうちに、お前の意
見とやらは街中に広まるぞ。ラカナを救った英雄の考えた、新人冒
険者を育てる妙案だっつってな。そして冒険者とすれ違うたびに言
われるようになる。攻略本はいつできる? どこで見られる? オ
レの名前を載せてくれ! ってな﹂
﹁はあ?﹂
﹁そうですね⋮⋮いや、それだけならまだいい。後ろで寝ている、
君のパーティーメンバーもせっつかれるようになるかもしれない。
下手をすれば、市長や他の議員からも﹂
﹁⋮⋮はああ?﹂
ぼくは口をあんぐりとあけた。
もしかして⋮⋮最高に余計なことを言ってしまったのか?
ザムルグとロイドは、共に笑って言う。
﹁ま、諦めろ﹂

1118
﹁私たちも、できるだけ協力するよ﹂
第二十二話 最強の陰陽師、忙しくなる
それから案の定、忙しくなってしまった。
﹁セイカ﹂
ギルドの一室。
隣の机で朝からずっと書き物をしていたメイベルが、視線も向け
ずに言う。
﹁私たち、冒険者になったのに⋮⋮なんでこんなことしてるの﹂
その恨みがましそうな口調に、ぼくはわずかな沈黙の後、答える。

1119
﹁ごめん﹂
応接用のテーブルが置かれた一画からは、客と話すイーファの声
が聞こえてくる。
﹁そ、そうなんですねー⋮⋮北の洞窟に、そんな⋮⋮あ、あはは⋮
⋮﹂
その声は、若干疲れているようだった。
客である、昔弓手であったという婆さんはもう三回同じ話を繰り
返しているので、無理もないかもしれない。
あれから一月。
スタンピードの後始末が済んだ頃には、ザムルグとロイドの予想
したとおりに⋮⋮新入りのための、冒険のノウハウを記した本が作
られるという噂は、冒険者たちの間で広まってしまっていた。
しかも、発案者であるぼくの名前と一緒に。それも、ラカナのダ
ンジョンを攻略するための本︱︱︱︱攻略本などという、わかりや
すい呼び名までついたうえで。
それからは最悪だった。
スタンピード鎮圧の功労者ということで、ただでさえ顔が知られ
てしまっていたぼくだったが、噂が広まるととにかく話しかけられ
ることが増えた。
話題はしかも、攻略情報のことばかり。自分の名前も載せてくれ
と、道端でダンジョンの隠し通路やモンスターの弱点を語り出す馬
鹿野郎どもが大量発生して、そのたびに逃げ回らなければならなか
った。

1120
ただでさえ自己顕示欲の強い冒険者が、今はダンジョンにも潜れ
ず暇を持て余しているのだ。こうなって当然だった。
さらに悪いことに、どうやら彼らの矛先はアミュたちにも向けら
れたようで、あいつらなんとかしてと文句まで言われる始末。
挙げ句の果てには宿にギルドの幹部がやって来て、当面の資金だ
と言って大量の金貨を置いていこうとした。あわてて追い返したが、
翌日には自由市民会議の議員まで連れてきて︱︱︱︱ぼくはもう、
諦めて首を縦に振るしかなかった。
もっとも、ラカナへの貢献を称えて銅像を建てますとかいう妄言
だけは、なんとか撤回させたが。
﹁はあ⋮⋮﹂
というわけで。
ギルドの一室を貸し与えられたぼくは、今日も資料のまとめにい
そしんでいた。
ちなみに、部屋の外では話を聞いてほしい冒険者どもが列を作っ
ている。
まったくいつまでかかるやら。
﹁どうしてこんなことに⋮⋮﹂
﹁ま、いいじゃない﹂
運んでいた紙の束をドスンと置いたアミュが言う。
﹁お金ももらえてるんでしょ? どうせヒマだし、何もしないより
はいいわ。それより⋮⋮本を作るって、あんたそんなことできるの
?﹂
﹁⋮⋮一応﹂

1121
前世でも、弟子向けの教本作りや単なる趣味で、何冊か書いてい
た。綴じ方などもまだ覚えている。
こちらの製本方法はまた少し違うようだが⋮⋮まあなんとかなる
だろう。
アミュが呆れたように言う。
﹁どうしてそんなことまで知ってるのよ。あんたってなんでもでき
るわね﹂
﹁もっとも、いつ完成するかはわからないな。あの行列が消えてく
れない限りは﹂
﹁あー⋮⋮﹂
アミュが言いよどむ。
﹁でも⋮⋮あたしもあいつらの立場だったら、あんたを捕まえて知
ってること喋り倒してたかも﹂
﹁ええ⋮⋮君もか?﹂
﹁酒場でもよく、自分の冒険譚をでかい声で喋ってる奴いるでしょ
? みんな語る機会に飢えてるのよ。隙を作ったあんたが悪いわ﹂
﹁隙ってなんだよ。まったく、面倒な連中だ﹂
﹁あはは﹂
アミュが笑って、それから言う。
﹁あんたが助けた連中じゃない﹂

1122
****
市長がやって来たのは、日が中天にさしかかり、アミュたちが昼
食を買いに出た時だった。
﹁やっておるのう、小僧﹂
ニカッと笑いながら言うサイラスに、一人休憩していたぼくは顔
をしかめる。
﹁何の用ですか﹂
﹁いや何、面白そうなことを始めたと聞いてな﹂
﹁白々しい⋮⋮ギルドの幹部や議員に根回しして、資金を都合させ
たのはあなたでしょう﹂
聞いたサイラスは、豪快な笑い声を上げる。
﹁カッカ! なんじゃ、バレておったか。何、スタンピードの時に
うそぶ
は援軍だなどとバカでかい声で嘯き、こちらをやきもきさせてくれ
おったからのう。その意趣返しとでも思っておけ﹂
﹁街を救った英雄に対し、ずいぶんな仕打ちだ﹂
﹁おう、では銅像でも建ててやろう﹂
﹁⋮⋮頼むからやめてください﹂
渋い表情をするぼくに、サイラスはカッカと笑い、そして部屋の
中を見回す。
﹁貴様はすっかり、この街に受け入れられたな。セイカ・ランプロ

1123
ーグよ﹂
﹁そうですか。まあ、あれだけ頑張って受け入れられなかったら、
さすがに報われませんよ﹂
﹁いんや⋮⋮スタンピードは関係ない。貴様はその前から、すでに
ラカナの一員だった﹂
口を閉じるぼくに、サイラスは続ける。
﹁ザムルグのように、武勇と実績で周囲を認めさせるか。あるいは
ロイドのように、この街に新たな価値観をもたらし、人を惹きつけ
るか⋮⋮。貴様を初めて目にした時、ワシは前者の類と見たが⋮⋮
同時に後者のように、街を変えてしまう可能性もあると考えていた。
どちらでもよかった、それがラカナの力となるならば。だが⋮⋮小
僧。結局貴様は、どちらでもなかったな﹂
﹁⋮⋮どちらでもないなら、なんだって言うんです﹂
﹁貴様の周りには、自然と人が集まる﹂
サイラスは、静かに続ける。
﹁力はある。常人には持ち得ない知恵も。だがそんなこととは関係
なく⋮⋮貴様はどうも、他人に懐かれる類の人間だったようだ。カ
さが もうろく
ッカ! このワシが人の性を見誤るとは、耄碌したものよ!﹂
﹁はい? そんなことは⋮⋮﹂
﹁的外れか? では、これまではどうだった?﹂
これまでは、どうだっただろう。
思えば前世では⋮⋮確かに、ぼくの周りにはいつも誰かがいた気
がする。
弟子たちに、武者や修験者の友人。変わり者の貴族に、苦労人だ
あやかし
った陰陽寮の術士。宋や西洋で出会った者たち。人語を解す妖。病

1124
みかど
で亡くした妻に、哀れな帝。
生まれ変わってからも⋮⋮あるいは、そうだと言えるだろうか。
前世と同じ轍を踏まぬため、いざとなれば切り捨てるつもりだっ
た者たちのことを︱︱︱︱ぼくはまだ、誰も切り捨てられないでい
る。
﹁⋮⋮さあ。忘れてしまいました﹂
﹁ふん、そうか﹂
とぼけるぼくを、サイラスは鼻で笑う。
﹁力や知恵などより、それはよほど貴重な才じゃ。せいぜい大事に
せい﹂
****
サイラスが帰ると、室内には静けさが戻った。
受け付けは次の鐘が鳴るまで再開しないと言ってあるので、冒険
者連中の作る行列も今は消えている。
﹁⋮⋮あの者は、なかなか鋭い人間でございますね﹂
頭の上から、ユキが顔を出して言う。
﹁セイカさまの気質を見抜くとは﹂

1125
﹁あれ、やっぱり当たってるのか⋮⋮? 正直あんまり自覚ないん
だが﹂
﹁なにをおっしゃいます。前世ではあれほどご友人がいたではござ
いませんか﹂
﹁今生ではそうでもないぞ。親しい人間なんてあの子たちくらいだ﹂
﹁生まれの家の者たちとの関係はよいではございませんか。それに、
学び舎の長には認められ、妙ちきりんな姫御子には懐かれ、この街
の荒くれ者連中には慕われてもおります﹂
﹁ここの冒険者は、ただなれなれしいだけだと思うけどな﹂
﹁そんなことはございませんよ。セイカさまは、今でも人に好かれ
る気質をお持ちだと、ユキは思います﹂
断言するユキに、ぼくは思わず苦笑する。
﹁はは、人に好かれる気質か。本当にそんなものを持っているのな
ら、ありがたいことだが⋮⋮狡猾に生きるには、少しばかり持て余
してしまうな﹂
聞いたユキは、わずかな沈黙の後に、おずおずと口を開く。
﹁あの⋮⋮セイカさま。後悔されては、ございませんか?﹂
﹁ん?﹂
﹁この街をお救いになられたことについてです﹂
急にしおらしくなったユキが続ける。
﹁あの時ユキは、それがセイカさまのためになると思い、恐れ多く
もあのような進言を奉りました。しかしながら⋮⋮所詮は、浅薄な
あやかし
妖の考えることにございます。セイカさまの深き目論見に、もしや
水を差してしまったのではないかと⋮⋮﹂

1126
﹁なんだよ、お前。そんなこと考えてたのか﹂
ぼくは笑って頭の上に手を伸ばし、小さな妖を指の腹で撫でる。
﹁気にするな。目立たなかったとは言えないが、幸いにも龍や大呪
術を使わずに済んだんだ。あの程度を為す術士なら、さすがにこの
世界にだって何人かいるだろう。為政者に危険視されるほどじゃな
い。問題ないよ﹂
スタンピードの際に奇妙なドラゴンを見たという者が何人かいた
ようだが、噂はそのうち消えてしまった。
あの混乱の最中だ。キメラか何かを見間違えたのだろうと、だい
たいの者が思ったようだ。本当にドラゴンがいたならば、街が無事
であるはずもない。
みずち
蛟を見られた弊害も、その程度のものだった。
﹁それに、不思議と後悔はしていない。今は救ってよかったと思っ
ているよ。結果的に生活の場を守れたし、フィオナへの詫びにもな
った。お前が言ってくれたおかげだ、ユキ﹂
﹁む、そ、そうで⋮⋮ございますか?﹂
ユキの声音が、少し明るくなる。
﹁ふ、ふふ! それならば、よかったです! ユキがお役に立てた
ということですね!﹂
﹁ああ、お前の言うことを聞いてよかったよ。それに⋮⋮あれに関
してはぼくも少し、責任を感じていたからな﹂
言ってから、最後のは余計だったかと思った。
案の定、ユキが触れてくる。

1127
﹁それは、南のボス討伐を防げなかったことをおっしゃっているの
でございますか⋮⋮? さすがに、そこまで気にされなくても。誰
にだって予見できない事態はございましょう﹂
﹁あー、いや、そっちは⋮⋮そこまで気にしてないんだが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮セイカさま?﹂
頭の上から逆さに首を伸ばし、ユキがぼくの顔を覗き込む。
﹁なにか、ユキに隠していることがおありなのですか?﹂
﹁えーっと⋮⋮ほら﹂
ぼくは、視線を逸らしながら言う。
﹁ぼくが一度捕まえて、逃がしてしまった鹿のモンスターがいただ
ろう?﹂
﹁はい﹂
﹁あれ、たぶん⋮⋮北のボスだったんだよな﹂
﹁⋮⋮⋮⋮えええーっ!?﹂
ユキが驚愕の声を上げた。
﹁そ、そうなのでございますかっ!?﹂
﹁力の流れを見る限りは⋮⋮おそらく﹂
捕まえた時は、単にちょっと強そうなモンスターだとしか思って
なかったが。
﹁た、たしかにユキたちがこの街に来る前から、北の山は力が失わ
れていたという話でしたが⋮⋮﹂

1128
ユキが動揺したように言う。
﹁あの鹿の物の怪は、セイカさまが位相に封じたせいで、怯えて逃
げていってしまったのでございますよね⋮⋮? で、ではまさか、
あの災害が起こった原因の三分の一は、セイカさまにあったのでご
ざいますかっ!?﹂
﹁いやそんなわけあるかっ!﹂
ぼくはあわてて言い訳する。
﹁そもそもあの鹿は、捕まえた時点で北の山からは離れた場所にい
ただろう! ダンジョンから力が失われたのも、ぼくが封じるより
もずっと前だ! きっと元々渡りの性質があるモンスターで、あの
時はどこかへ移り住むつもりだったんだよ! いなくなったことに
ぼくは関係ない!﹂
﹁ならばなぜ、責任など感じておられるのですか﹂
﹁そ、それは⋮⋮まあ、一度は捕まえたわけだからな。あの時逃が
してしまわずに、なんとか山に戻していれば、スタンピードの前に
北のダンジョンを復活させることもできたかなー⋮⋮と﹂
あの鹿のモンスターが北のボスだった可能性に気づいたのは、す
べてが終わった後だった。
思い返すと、なんとも間の抜けた話だ。
﹁無論、ぼくだってなんでもできるわけじゃない。今さら悔やんで
も仕方のないことだとはわかっているが⋮⋮気づけていればできた
ことがあったかと思うと、どうしてもな﹂
﹁そうでございますか﹂

1129
と言って、ユキはあっさりと頭を引っ込めた。
それから、きっぱりと言う。
﹁では、今はせいぜい、書物作りにお励みくださいませ﹂
﹁え⋮⋮いや、なんでそうなるんだよ﹂
﹁セイカさまに今できることは、なんですか?﹂
﹁ええ⋮⋮まさか、これだって言いたいのか?﹂
﹁自明にございましょう。あの時できたはずなのにと、次は後悔な
さいませぬよう﹂
ユキが澄ました調子で言う。
﹁お好きだったではございませんか、こういうの﹂
﹁⋮⋮確かに、な﹂
ぼくは苦笑して、ガラスのペンを再び手に取る。
﹁仕方ない。やるか﹂
窓から涼風が吹き込み、紙の端を揺らす。
秋が近づいていた。
1130
第二十二話 最強の陰陽師、忙しくなる︵後書き︶
六章終わりました!
次、七章です!
1131
第一話 最強の陰陽師、手紙をもらう︵前書き︶
七章の開始です。
1132
第一話 最強の陰陽師、手紙をもらう
﹃親愛なるセイカ様へ
寒さも落ち着き、芽吹きの季節を迎える今日この頃。セイカ様に
おかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
便りがここまで遅くなってしまったことをお許しください。セイ
カ様が無事ラカナへ入城できたことは聞き及んでおりましたが、あ
いにく種々の難事に手を取られ、なかなかペンを執る機会に恵まれ
ませんでした。わたくしの半生で、これほど口惜しかった日々はあ
りません。

1133
ただその甲斐あって、難事はおおむね片付き、こうして手紙を送
ることもできるようになりました。ようやく思いを綴れるこの喜び
を今、インクに込めております。
前置きはこのくらいに、まずは一番お伝えしたかった言葉を申し
上げます。
セイカ様。ラカナを救っていただき、本当にありがとうございま
した。
スタンピードが起こる可能性は、実はわたくしも把握しておりま
した。セイカ様をお見送りして数日後に、ぽつりぽつりとそのよう
な未来が視えるようになったのです。
しかしながら、みなさんに別の滞在先をすぐには用意できず、ま
たセイカ様にお伝えしようにも、例の騒動の渦中にいたわたくしに
ほうぼう
は方々の派閥からの目が光り、なかなか手紙も書けない始末。そこ
で、なんとか未来を変えようと試みたのですが⋮⋮結局はうまくい
わずら
かず、セイカ様の手を煩わせることとなってしまいました。
わたくしの力も万能ではなく、まれにこのようなことが起こって
しまうのです。申し訳ありません。
お詫びと言ってはなんですが、役に立つ紙を同封しておきました。
好きな数字をお書きください。リストにあるいずれかの商会に持
っていけば、すぐに用立ててくれるでしょう。
冒険者を始められたそうですね。サイラス議長がセイカ様たちを
ろくに歓待もせず、街に放り出したと聞いた時は思わず顔が引きつ
ったものですが、とても活躍されているようで何よりです。

1134
セイカ様が冒険者をされている野性的なお姿は、いつかぜひ⋮⋮
ぜひ見てみたく思います。
お体にはお気をつけて。
また手紙を書きます。
あなたのフィオナより﹄
ぼくは静かに手紙を閉じた。
ラカナにある、逗留中の宿の一室。
時候の挨拶にもあったとおり、ここのところは寒さもだいぶ緩ん
でいる。
長かった冬が終わり、この国はまた春を迎えようとしていた。
もうあと一月もすれば、ラカナへ来て丸一年が経つことになる。
思い返せば、なんとも慌ただしい日々だった。
窓際でひなたぼっこをしていたユキがむくりと体を起こす。
ふみ
﹁おや。文でございますか、セイカさま﹂
﹁ああ。フィオナからな﹂
﹁ほほう、あの姫御子から。ずいぶんと今さらな気もしますが⋮⋮
して、なんと?﹂
﹁スタンピードのこと、なんとかしてくれてありがとうってさ﹂
﹁む⋮⋮﹂
﹁あれが起こることはぼくを送り出した後に気づいたけど、いろい
ろあって伝えられなかったって﹂
﹁むむ、なにやらいかにも、取り繕ったような内容でございますね﹂

1135
ユキはあからさまに疑わしそうな顔になって言う。
﹁ユキはどうにも怪しく思えてきました。考えてもみれば、あの未
来の視える姫御子が先の災厄を予見できず、たまたまセイカさまを
この街に送り込んだなどあまりにできすぎた話。⋮⋮騙されている
のではございませんか? セイカさま﹂
﹁んー⋮⋮そうかな﹂
ぼくは手紙を折りたたみながら、適当にユキへと問い返す。
﹁ではお前は、フィオナの真意はなんだったと?﹂
﹁あの姫御子は、すべてを知ったうえでセイカさまをこの街へ逃が
し、先の災厄を鎮めさせようとしたのでは? ここの長はあの姫御
子と協力関係にあるようですし⋮⋮いえあるいは、セイカさまのお
力を脅威に思い、災厄を利用してこの街ごと滅ぼそうとしたのかも
しれません!﹂
﹁いや⋮⋮どうだろう。たぶんそんなことはないと思うけど﹂
憤慨しながら言うユキに、ぼくは苦笑しつつ答える。
﹁今こうして生きているのだから、少なくとも謀殺を試みたわけで
はないだろう。フィオナが仮にそのつもりだったのなら、ちゃんと
ぼくが死ぬ未来が視える方法を選んだはずだ﹂
﹁あ、たしかに⋮⋮﹂
﹁スタンピードを鎮圧させたかったにしても、やはり違和感がある。
黙ってこの街に送り込み、後になってこんな言い訳めいた手紙を寄
はかりごと
越すなんて、謀というにはあまりにお粗末だ﹂
未来を見通し、権謀術数を巡らせ、聖騎士という強大な暴力まで
手中に収める聖皇女。その計略がこんなものだとは、ちょっと考え

1136
にくい。
フィオナからすれば、ぼくの不信はなるべく買いたくないはずな
のだ。またあんな大事件を起こされたらたまったものではないだろ
うから。
未来の視える人間が案内した街で、大災害が起きたらいかにも怪
しい。
そんなユキですら訝しむような粗雑な方法を、フィオナがあえて
とる理由がない。
﹁だから逆説的に、だいたいの事情はこの手紙に書いてあるとおり
なんじゃないかな。少なくとも悪意があったようには思えない。い
きなりスタンピードの未来が視えて、フィオナもきっと焦っただろ
う﹂
ぼくに危険を伝えたくとも、新しい逃亡先なんてそうすぐに用意
できるわけもない。
だからといってそのままラカナに留まり、なんとかして街を救え
とも言えるわけがない。
どうにか未来を変えるべく奔走し、結局間に合わなくてしばらく
頭を抱え、ようやく今になって詫びの手紙を書いた⋮⋮といったと
ころだろうか。
ユキは唸って言う。
﹁むむ、そう言われれば、そんな気もしてきますが⋮⋮セイカさま
がそのように思われることまで見越して、とは考えられませんか?﹂
﹁帝城をいきなり破壊するような輩に、そこまでの深慮は期待しな
いだろ﹂
﹁う⋮⋮そう言われますとちょっと、ユキには言葉が見つかりませ

1137
んが⋮⋮﹂
それからユキは、一拍置いて訊ねてくる。
﹁セイカさまはあの姫御子のことを、信用なさるのですか?﹂
﹁ん⋮⋮﹂
ぼくはわずかに口ごもった。
﹁信用、と言っていいのかわからないが⋮⋮少なくとも今は、敵で
はないと思ってる﹂
それから、おもむろに訊ねる。
﹁⋮⋮やっぱり、甘いだろうか﹂
前世では政争に巻き込まれ、謀殺されたのだ。
いくら恩があり、アミュたちと仲良くしていたからといって、本
当は皇女などに気を許すべきではないのかもしれない。
しかし意外にも、ユキは首を横に振って言う。
﹁いえ。ユキは、それもよろしいかと思います﹂
﹁え、そうか?﹂
﹁はい﹂
うなずくユキに、ぼくは拍子抜けしてしまう。
てっきり小言を言われるかと思ったのだが⋮⋮。
﹁かの世界では帝の一族のご友人もいたではございませんか。ユキ

1138
は、セイカさまが前世のように過ごされるのもよろしいかと思って
おります﹂
﹁⋮⋮。前世のように、か﹂
ユキは以前にも同じようなことを言っていた。
あんな死に方をした以上、さすがにそこまで楽観的にはなれない。
前世のように過ごした挙げ句、同じ末路をたどったのでは目も当て
られない。
狡猾に生きるかはともかく、為政者に目を付けられない程度の慎
重さは、最低限持っておかなければならないだろう。
ただ最近は、それを自分から破っているのも確かだった。
まあどのみち、今からフィオナと距離を置こうというのも現実的
ではないのだ。小言を言われても嫌だし、ひとまず今はユキの言葉
に従っておくとしよう。
﹁⋮⋮それなら、なるべくフィオナとはうまくやっていくようにし
ようか﹂
ぼくは笑みとともにそう言って、それから手紙と一緒に入ってい
た紙片に目を落とした。
それは詫びの印というには、十分すぎる代物だった。
﹁こんなものまでもらってしまったしな﹂
﹁⋮⋮? なんでございますか? その紙は﹂
﹁手形だよ﹂
その小さな長方形の紙片は、これまで見た中で最も上質な紙だっ
た。
複雑な紋様の縁取りがなされ、銀行名や支払いに関する文言、そ

1139
してフィオナの署名があり、印章が押されている。
ただし、金額は空欄になっていた。
﹁好きな額を書いてくれとさ﹂
﹁ええと、手形⋮⋮とは?﹂
﹁言うなれば、金銭の代わりになる紙だよ。ここに書いてある銀行
か、フィオナが出資している商会の支店に持っていけば、金に換え
てくれるみたいだ。ちなみに金額はぼくが自由に決めていいらしい﹂
﹁おお! それはもしや、すごいものなのでは!? この世の富の
すべてがセイカさまのものになるということですか!﹂
﹁いや、そんなとんでもない額は書けないけどな。あくまでフィオ
ナが支払える額までだ。多少は空気を読んで決める必要がある﹂
ただそれでも、相当な額をもらえそうではあるが。
﹁幸い、今はもう金の心配はしてないが⋮⋮あって困るものではな
いからな。いつかこれに助けられるかもしれない﹂
﹁ようございましたね、セイカさま﹂
ユキがあらたまって言う。
﹁財貨が手に入ることもそうですが⋮⋮その量をセイカさまが好き
に決めていいということは、それだけ向こうからも信用されている
証なのでしょう。セイカさまが書き入れる額次第では、あの姫御子
が破滅しかねないのでしょうから。帝の一族に信用され、悪いこと
はございません﹂
聞いたぼくは目を瞬かせた後、苦笑した。
﹁いや。結局この銀行に預けてある以上には払い出されないから、

1140
破滅はないと思うけど﹂
﹁あ、あれ、そうなのでございますか⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮そうだな。そう思っておくことにするか﹂
そう言って小さく笑うと、ぼくは立ち上がり、外套を手に取る。
﹁外出でございますか? セイカさま﹂
﹁ああ、便箋を買いにな。たぶん今、フィオナはぼくがどう思って
いるか、いくらか不安だろうからな。なるべく早く返事を書いてや
ることにするよ。ただ⋮⋮﹂
ぼくはそこで、眉をひそめて付け加える。
﹁内容をどうするか、だけど⋮⋮﹂
ふみ
﹁なにを悩んでおられるので? 文を書くのは、セイカさまもお好
きだったではございませんか﹂
﹁それはそうなんだけど⋮⋮なんかこの手紙、まるで想い人に送る
みたいな書き方なんだよな。あなたのフィオナより、とか書いてあ
るし⋮⋮﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ん?﹂
﹁まあこれが皇女という立場での処世術なのかもしれないけど、ど
ういう感じで返したものか⋮⋮こちらの上流階級の作法は、正直そ
こまで詳しくないし⋮⋮﹂
﹁あの⋮⋮セイカさま。それはたぶん、そうではなく⋮⋮﹂
﹁ん? なんだ?﹂
﹁⋮⋮いえ、なんでもございません。ユキが言っても、きっと仕方
のないことでしょうから﹂
と、まるで溜息をつきたそうな声音で言う。

1141
﹁ただ、ユキは前世から思っておりましたが⋮⋮くれぐれもお気を
つけくださいね、セイカさま﹂
﹁だから、何がだよ﹂
ユキは、なんだか駄目男に言い聞かせるような調子で告げた。
﹁どうか、女性に後ろから刺されるようなことにだけはなりませぬ
よう﹂
第二話 最強の陰陽師、等級を得る
﹁冒険者等級?﹂
フィオナに返事を出して、数日が経った頃。
ギルドの食堂で一人遅めの朝食をとっていると、ぼくを見つけた
アミュたちが駆け寄ってきて、身を乗り出すようにこんなことを訊
ねてきた。
冒険者等級のこともう聞いた? と。
掘り起こしつつ訊ね返す。
﹁それって確か⋮⋮冒険者の格付けのことだったよな。それがどう

1142
かしたのか?﹂
﹁あたしたちの等級がようやく決まったのよ!﹂
注文もせずにぼくの正面の椅子に座ったアミュが、弾んだ声でそ
う言った。
ぼくは意味がわからず首を傾げる。
﹁ようやく決まったって⋮⋮どういうこと?﹂
﹁えっとねセイカくん。冒険者って、実績と経験年数で等級が決ま
るんだって﹂
ちょっと店員を気にしつつアミュの隣に腰掛けたイーファが説明
を始めたので、ぼくは相づちを打ちながら聞く。
﹁あれってそういう仕組みだったのか。それで?﹂
﹁わたしたち、去年のスタンピードでみんな、たくさんモンスター
を倒したでしょ? それでね、その時に戦った人たちの等級をどう
するか、ずっとギルドで話し合ってたみたいなの﹂
﹁昇級の要件になる実績って、パーティーで倒したモンスターの種
類によって決まるのよ。でもスタンピードはパーティーなんて関係
ない乱戦だったから、どこまでを実績と認めるのか揉めてたらしい
のよね﹂
イーファの説明を補足するように、アミュが言う。
﹁上位モンスターが混じってたから全員を二級や三級まで上げるの
か、それとも特殊な状況だったから実績とは一切認めないか、間を
取って四級や五級にするか⋮⋮みたいな﹂
﹁はあ⋮⋮﹂

1143
いまいちピンと来ていないぼくは、とりあえず根本的なところか
ら訊ねることにする。
﹁その、等級が上がる実績や経験っていうのは、具体的にはなんな
んだ?﹂
﹁ええと﹂
思い出そうとするように、アミュが空中を見つめながら言う。
﹁最初は十級で、下位モンスターを倒せれば九級ね。そこから一年
経験を積むごとに一級ずつ、六級まで上がるわ。でも中位モンスタ
ーを倒せれば、その時点で経験年数関係なく五級。それでいて五年
以上の経験があれば四級。同じく上位モンスターを倒せれば三級で、
かつ十年以上の経験があれば二級ってわけ﹂
﹁ふうん、なるほどな﹂
実力と経験、どちらも評価するような等級制度らしい。
ただ腕っ節が強いだけでも三級にまではなれるが、二級となると
加えて十年もの冒険者経験が必要になる。強敵に挑みながらそれほ
ど生き延びられたのなら、かなりの古強者と言っていいだろう。
と、ぼくは疑問が浮かぶ。
﹁あれ、じゃあ一級にはどうすればなれるんだ?﹂
﹁一級と準一級は、ギルドが特別に認定しない限りなれないわ。サ
イラス市長は一級らしいけど、ラカナには他にいないんじゃないか
しら﹂
となると、名誉職みたいなものだろうか。
ならば実質、二級が冒険者の頂点というわけか。

1144
と、そこでアミュが付け加える。
﹁ただ、それとは別にパーティーの等級もあって、そっちなら準一
級はけっこういるわね。パパのパーティーもそうだったし、ザムル
グの︽紅翼団︾とロイドの︽連樹同盟︾も両方準一級だったはずよ。
もっとも、よっぽど有名なパーティーじゃないと等級なんてそもそ
もつかないけどね﹂
﹁ややこしいな⋮⋮だけどだいたいわかったよ﹂
パーティーの格付けも、実質的には名声によって得られるものな
のだろう。こっちもあまり重要ではなさそうだ。下手をすれば、功
績なんてなくても、金や政治で手に入ってしまうのかもしれないし。
等級の考察はその辺にして、ぼくは話を戻す。
﹁それで、スタンピードでの戦いを実績と認めるかってことだった
な。確かに頑張って上位モンスターを倒したやつもいれば、ずっと
隠れてたやつもいるだろうから微妙だろうけど⋮⋮ギルドは結局ど
うすることにしたんだ?﹂
﹁ふふふ⋮⋮じゃーん! 答えはこれよ!﹂
と言って、アミュがにっこり笑いながら小さな金属板を突き出し
た。
黄色がかった指でつまめるほどの金属板には、首にかけるための
小さな鎖が繋がっている。その表面には五という数字と冒険者ギル
ドの紋章、それからアミュの名前が打刻されていた。
﹁スタンピードで戦ってた冒険者はみんな、中位モンスターの討伐
実績ありって扱いになったわけ。あたしたち全員、五級になったの

1145
よ!﹂
金属板は、どうやら五級の認定票だったらしい。
よく見れば、イーファとメイベルも首から同じものを下げている
ようだった。
﹁へぇ⋮⋮ちょっと見ていいか?﹂
アミュから認定票を借り受ける。
黄色がかった金属は、おそらく真鍮。打刻は思ったよりも丁寧に
されている。等級の数字と偽造防止のためのギルドの紋章はともか
く、わざわざ名前まで入っているのは、きっと盗難や勝手な売買を
防ぐためだろう。
打刻されている五という数字をしばし眺めた後、無言で返すと、
アミュが不満そうに唇を尖らせた。
﹁なによ、そのつまんない反応。感想とかないわけ?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
微妙な気持ちになってしまった理由を、ぼくは仕方なく説明する。
﹁五級か、と思ってさ⋮⋮。だって君、レッサーデーモンやナーガ
を倒してるだろ? あれは上位モンスターじゃなかったか? 本当
なら三級になっていいはずなのに﹂
﹁そんなの仕方ないじゃない﹂
アミュが認定票を首から下げながら言う。
﹁あの時は別に冒険者として倒したわけじゃなかったし、まだ十二

1146
歳だったんだから。ギルドだって認めるわけにはいかないわよ﹂
﹁ああ⋮⋮そういえば冒険者として正式に認められるのは、十五歳
になってからだったっけ﹂
実際にはそれより年少の冒険者もいるが、正式にギルドへ登録で
きるのは成人してからだと、以前アミュに聞いたことがあった。
アミュがにまにま笑いながら言う。
﹁それに、等級は上げればいいのよ! ダンジョンが復活したら、
適当にハイオークでも倒しに行きましょう。エルダートレントでも
いいわね、一度倒さず逃げちゃったから﹂
実力より低い評価にもかかわらず、アミュはずいぶんと機嫌が良
さそうだった。
小さい頃から冒険者をやっていたアミュも、これまでは年齢の関
係で正式にギルドへ加入できなかったから、今回初めて等級を得た
ことになる。
だから、嬉しいのかもしれない。
と、そこでぼくは気づく。
﹁あれ、待てよ。それならもしかして、ぼくだけ実績が認められな
いことにならないか?﹂
﹁なんでよ﹂
﹁スタンピードの時点でも、ぼくまだ十四だったぞ。誕生日が秋だ
から。成人してからはダンジョンに潜ってないし⋮⋮ひょっとして、
ぼくだけまだ十級なのか?﹂
﹁あのね⋮⋮﹂

1147
アミュが呆れたように言う。
﹁あんたあれだけのことをしたんだから、そんなつまらない理由で
実績が認められないわけないでしょ。だいたい一、二歳くらいなら、
みんな普通に誤魔化してるわよ﹂
﹁そうか、ならよかった﹂
ぼくはほっと息を吐く。
別に等級なんてどうでもいいが⋮⋮さすがに一人だけこの子らよ
り下では、なんだか格好がつかない。
ぼくは視線をテーブルに戻し、朝食の残りに手をつけながら呟く。
﹁じゃあ、五級にはなれるわけか。それならぼくもその認定票、も
らいに行かないとな⋮⋮ギルドで受け取れるのか? 手数料とかか
かる?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あれ、どうした? 三人とも﹂
顔を上げると、三人が微妙な表情で沈黙していた。
ほどなくして、イーファがなんともいえない口調で言う。
﹁えっと、セイカくんは別だよ⋮⋮わたしたちと一緒なわけないじ
ゃない﹂
﹁えっ﹂
﹁あんた、自分がなにしたと思ってるのよ﹂
﹁ええ?﹂
﹁はい﹂

1148
と言って、イーファの反対側に座っていたメイベルが、小ぶりな
木箱を差しだしてきた。
﹁セイカの分、あずかってきた﹂
﹁ぼくの分⋮⋮? これ、ぼくの認定票か?﹂
木箱を引き寄せる。
手に取って見ると、なかなか丁寧な作りであるようだった。
金属の留め具を外し、蓋を開ける。すると予想通り、一つの認定
票が木枠に嵌められ収められていた。
ただし、その見た目はアミュたちのものとはだいぶ異なっている。
黄色がかった金属であるのは変わらないが、その輝きはずっと強
く、また打刻されている数字も別だ。
いち
一。
いち
﹁一⋮⋮? ってこれ、一級の認定票!?﹂
いったい誰のものかと思ったが、よく見なくてもセイカの文字が
はっきりと打刻されている。
家名まではないものの、明らかに自分のものだった。
﹁いや待て、これ、色が君らのと違うんだけど⋮⋮もしかして、純
金製か?﹂
﹁そうよ﹂
アミュが、どこか呆れたような顔でうなずく。

1149
﹁認定票って普通は真鍮製なんだけど、準一級が銀、一級が金でで
きてるの﹂
﹁こ、こんな高価なもの首から下げて冒険に行けっていうのか⋮⋮﹂
﹁現役の冒険者がもらうことは少ないって聞くわね﹂
名誉の等級なら、確かにそうだろうけど⋮⋮。
アミュが続けて言う。
﹁ま、鎖は金じゃないし、溶かして売っても金貨一枚分にもならな
いわよ。命を狙われるほど高価なものじゃないわ﹂
﹁確かにそんなに大きくはないけど⋮⋮というか、なんでぼくだけ
一級なんだ?﹂
﹁ええ⋮⋮なんでって、あんたねぇ⋮⋮﹂
﹁セイカくんが不思議に思ってるのが不思議だよ⋮⋮﹂
﹁スタンピードを一人で収めたんだから、あたり前﹂
メイベルに正論をぶつけられ、ぼくは何も言えなくなった。
やっぱり、さすがにやり過ぎだったか⋮⋮。
微妙な表情のまま、黄金色の認定票を手に取る。
﹁どうでもいいけど、こういうのって普通ギルドの支所長とかから
手渡しされるものじゃないのか? いくらパーティーメンバーとは
言え、人に預けるなよ⋮⋮﹂
﹁忙しかったんじゃないの? あんたが攻略本作りの仕事をギルド
に押しつけたから﹂
﹁あー⋮⋮﹂
アミュの言う通り。
この半年くらい、ぼくはダンジョンの攻略に役立つ情報を記した
書物作成に励んできたわけだが、苦労の末に初版ができあがったの

1150
を見計らって、以後の仕事を全部ギルドへ引き継いだのだ。
ぼくとしては、本来やるべきところへ仕事を返したつもりだった
のだが⋮⋮最近は少しずつダンジョンにモンスターが戻ってきてい
るのもあって、職員は皆忙しくしているようだった。
だから、少々恨まれるのもわからなくはない。
ぼくが渋い顔をしていると、アミュがめんどくさそうに言う。
﹁なに? あんた授賞式とかしてほしかったわけ?﹂
﹁いや、全然そんなことはないけど⋮⋮﹂
﹁じゃあいいじゃない﹂
﹁⋮⋮なんか最近、街の連中のぼくに対する扱いが雑になってきて
る気がするんだよな。ますます馴れ馴れしいっていうか⋮⋮﹂
﹁それ、ここに馴染んできてるってことなんじゃないの? 学園よ
りいいじゃない、あんた友達いなかったんだし﹂
﹁ぐっ⋮⋮﹂
呻くぼくを無視し、アミュが続ける。
﹁意外だけど⋮⋮あんたって行儀のいいお貴族様みたいなのより、
荒っぽかったり、変わってる人間に好かれるわよね。あんた自身は
全然そんな風に見えないのに、不思議﹂
﹁⋮⋮﹂
言われてみれば⋮⋮前世でもそうだったかもしれない。
陰陽寮の役人時代には周りの貴族に全然馴染めなかった一方で、
もののふ
西洋から帰ってきてからは変な武士や術士や山伏や商人連中に懐か
れ、そんな付き合いばかり増えていった。

1151
確かに前世では、元々生まれも育ちも決していいとは言えなかっ
たが⋮⋮こういう気質は、やっぱり転生しても変わらないものか。
﹁でも⋮⋮みんな、ちゃんとセイカくんには感謝してると思うよ﹂
その時、イーファがぽつりと言った。
﹁スタンピードの前は、いろいろ噂されてたけど⋮⋮今じゃもう、
セイカくんのことを悪く言ってる人なんていないもん。それだって
きっと、感謝してるからくれたんだよ﹂
﹁それって、この認定票か?﹂
﹁うん。セイカくん、銅像を建てる話、断っちゃったでしょ? だ
から、代わりになにかあげたかったんだよ。ギルドの人たちだけじ
ゃなくて、議会の人たちもみんな同じ気持ちだったから、セイカく
んを一級って認めることになったんだと思う﹂
ぼくは思わず、金の認定票に視線を落とした。
﹁まあ、銅像は本気で勘弁してほしかったから断ったのは当然とし
て⋮⋮その代わりか﹂
本来であれば、せいぜい準一級止まりだったのだろう。
ぼく以外で、一級の冒険者は市長のサイラスしかいないのだ。い
くら大きな功績があるとは言え、皆から尊敬される街の首長と、若
造の一冒険者を同格に認定しては、街との関係がこじれる可能性が
ある。
ギルドの独断では、きっとためらわれたはずだ。
それにもかかわらず、他の冒険者と同じタイミングでぼくが一級
になれたということは⋮⋮普通に考えて、議会やサイラス市長の後

1152
押しがあったに違いなかった。
ぼくは、ふと微笑む。
﹁そういうことなら⋮⋮ありがたく受け取っておくか﹂
為政者に目を付けられる危険を冒してまでラカナを救った甲斐も、
あったかもしれない。
冒険者の等級なら、これから先役に立つこともきっとあるだろう。
ぼくは、自分の名が入った認定票をつまんで眺める。
﹁でもこれ、家名は入れてくれないんだな﹂
﹁認定票ってそういうものよ。家名を持ってる冒険者なんてほとん
どいないし、持っていても隠したがることが多いから。あと、スペ
ースもないし﹂
﹁確かに﹂
﹁ま、なんにせよよかったわね、セイカ﹂
アミュがにやつきながら言う。
﹁一級の認定票はすごいわよ? ギルドが認めた人物ってことにな
るから、どこへ行ってもお偉いさんみたいな扱いされるわ﹂
﹁ええ、むしろそういうのはやめてほしいな⋮⋮﹂
だけど、いかにもありそうだった。
こういうのをもらうやつは、だいたいの場合金と地位も持ってい
るものだ。
今年でようやく十六という若い身体ではあるものの、一級という
肩書きを見てへりくだる人間はきっと多いだろう。

1153
しかしながら、ぼくは認定票を懐に仕舞いつつ言う。
﹁まあでも、しばらくは使い道なんてなさそうだな﹂
肩書きがあっても、見せつける相手がいなければ仕方ない。
ラカナではいろいろあったおかげで、すでにほとんどの住民がぼ
くのことを知っているし、当面は別の街へ向かう予定もなかった。
しかし、アミュはきょとんとして言う。
﹁別に、有効活用しようと思えばできるわよ。たしかここのギルド
にも掲示板があったはずだし﹂
﹁ん⋮⋮? どういうことだ?﹂
﹁依頼を受けるってこと﹂
﹁依頼?﹂
﹁知らない? ダンジョンが近くにたくさんあるラカナはともかく、
余所の街ならこっちを専門にする冒険者も多いんだけど﹂
そう言うと、アミュは立ち上がった。
﹁せっかくだから、ちょっと見に行ってみる?﹂
1154
第三話 最強の陰陽師、依頼を選ぶ
アミュに連れられてやってきたのは、ギルドの片隅に掲げられた、
古びた大きな掲示板の前だった。
ところどころに、何やら書かれた茶色い紙がぽつぽつとピン留め
されている。
﹁ギルドには依頼を出すこともできるのよ﹂
アミュが説明する。
﹁それがこうやって貼り出されるから、冒険者は気に入った依頼が
あれば受注して、達成したらギルドから報酬を受け取るの。失敗し

1155
たら銅貨一枚ももらえないけどね﹂
﹁へぇ。こんな場所があること自体知らなかったな﹂
﹁ラカナで依頼を受ける冒険者は、そんなにいないでしょうね。近
くに大きなダンジョンがあるなら、そっちでモンスターを倒して素
材を取る方が儲かるから﹂
どうりで、今まで誰かから掲示板の話は聞いたことがなかったわ
けだ。
アミュが続ける。
﹁ダンジョンは自然のものだから、ギルドで立ち入りの制限でもし
ていない限りは誰でも潜れるけど、依頼は等級が高くないと受けら
れないことも多いわ。報酬がいいものだと特にね。ラカナにいれば
等級はあまり気にしなくてもいいけど、余所の街だと生活に直結し
たりもするわね﹂
﹁じゃ、五級ってどうなの。アミュ﹂
メイベルが訊ねると、アミュは少し悩んで答える。
﹁うーん、普通くらいね。選ばなければ仕事に困ることはないわ﹂
﹁そう﹂
﹁ね、依頼ってどんなのがあるの?﹂
﹁なんでもあるわよ。本当になんでも﹂
イーファの質問に、アミュが思い出すように答えていく。
﹁簡単なのだと、薬草を取ってくるとか、鉱石を取ってくるとか。
他には商隊の護衛とか、変わったところでは失せ物探しとかもある
わね。冒険者への報酬とギルドへの掲載料を用意しないといけない

1156
から、あんまり安い仕事にはならないけど﹂
﹁そうか⋮⋮そういえば地下水道のスライム退治を駆け出しの冒険
者がよくやっていると言うけど、あれも街の参事会からの依頼にな
るのか﹂
﹁そうね。でもああいうのはいつも募集してるから、ダンジョンと
あまり変わらないわ。他には⋮⋮学園の入学式でデーモンが出た後、
しばらく警備のために冒険者がうろついてたじゃない? あれも学
園が、ロドネアの支部に依頼を出して雇ってたんだと思うわよ﹂
なるほど。意外とこれまでにも関わりがあったわけか。
アミュが続けて言う。
﹁でも、多いのはやっぱりモンスター退治の依頼ね﹂
﹁素材を取ってきてほしいってことか?﹂
﹁それもあるけど、単に村や街道の近くに出て危ないとか、森のモ
ンスターを定期的に減らしてほしいってのも多いわね。そういうの
は、村や街の代表が依頼してくるわ﹂
﹁ふうん﹂
﹁ここには⋮⋮﹂
アミュが掲示板に貼られた紙を眺めていく。
﹁あんまり、普通の依頼はないみたいね。近くのモンスターは冒険
者が倒しちゃうし、薬草も鉱石も、頼まれなくても取ってきて売り
に出しちゃうからかしら。あるのは遠方の、報酬が高い依頼ばっか
り。この辺は全部、余所の支部に出された依頼の写しね。達成が難
しい依頼は、他の街でも掲載されることがあるから﹂
﹁どれどれ⋮⋮﹂
ぼくも依頼の書かれた紙に目をやる。

1157
確かに、どれも遠い場所の依頼ばかりだった。馬車で行くような
距離だ。報酬も高いが、その分難易度の高そうな内容が多い。
﹁この、五級以上とか四級以上とか書いてあるのが、依頼を受けら
れる資格か﹂
﹁そうよ。受ける人が条件を満たしてないと、ギルドから詳しい依
頼内容を聞けないことになってるのよ﹂
﹁人数とか、パーティーメンバーの等級は問わないのか?﹂
﹁依頼を受けてから人を集めたりもするから、普通はギルドもそこ
まで口を出してこないわね。でも、冒険者はだいたい同じくらいの
等級同士で固まるものよ﹂
﹁まあそうだろうな﹂
﹁ねぇねぇ﹂
その時、イーファが掲示板を指さしながら、いいことを思いつい
たような顔で言った。
﹁わたしたちで、どれか一つ受けてみるの、どうかな⋮⋮!﹂
﹁ん。やってみたい﹂
と、メイベルもうなずく。
イーファもメイベルも、こう見えて意外と行動的なところがある。
スタンピード以降はダンジョンへ行くこともなくずっとラカナに籠
もりきりだったから、退屈しているのかもしれない。
ただ、ぼくは当然に難色を示す。
﹁ラカナから離れるのか⋮⋮﹂
ここのところ何もなさすぎて忘れそうになるが、ぼくらは帝城を

1158
破壊して逃げてきた罪人の身なのだ。
まあぼくらはというか、帝城を破壊したのはぼくで、逃げてるの
はアミュだけなんだけど⋮⋮せっかくフィオナが用意してくれた亡
命の地から離れるというのは、いくら何でも平和ボケしすぎている
気もする。
二人には申し訳ないが、やめておくべきだろう。
﹁ねぇ、あんたそういえば、フィオナから手紙をもらってたわよね﹂
反対だと言う前に、アミュがそんなことを訊いてきた。
﹁ああ、もらったけど﹂
﹁そこに、その⋮⋮追っ手のこととか、書いてあった?﹂
少し不安そうな表情で訊ねるアミュ。
一瞬面食らった後、ぼくは素直に答える。
﹁いや。そういうのはなかったな﹂
﹁そう﹂
ほっとしたように呟いてから、アミュが笑って言う。
﹁じゃあ、大丈夫じゃないかしら。あたしも、そろそろまた冒険に
出てみたいわ﹂
その言葉に、ぼくは考え込む。
なるほど。宮廷や有力者の間でそのような動きがあれば、当然フ
ィオナもそれを伝えようとしてくるはずか。まったく触れてもいな
いなら⋮⋮少なくともフィオナが感知できるような動きは、今のと

1159
ころないことになる。
それなら、少しくらい平気か。
﹁⋮⋮そうだな。あまり遠すぎない場所の依頼なら、受けてみても
いいか﹂
ぼくがそう言うと、イーファが顔を明るくする。
﹁やった! どれにしよっかぁ、メイベルちゃん﹂
﹁ん⋮⋮﹂
掲示板の紙を見比べてああでもないこうでもないと言い出した彼
女らを、ぼくは一歩後ろから眺める。
﹁実はここにある依頼なら、ほとんどどれでも受けられるのよね。
セイカが一級だから﹂
﹁じゃあ、これ?﹂
と言って、メイベルが掲示板の左上隅に貼られていた色褪せた紙
を指さした。
そちらに目をやる。
﹁えっと、依頼内容は⋮⋮﹃冥鉱山脈に棲む、ヒュドラの討伐﹄、
って﹂
なかなか重たいのきたな。ヒュドラと言えば、亜竜の中でもかな
り剣呑な種だ。
しかも距離はともかく、結構な秘境ときている。

1160
﹁これが一番、報酬が高い﹂
﹁わ、ほんとだ⋮⋮受注資格、二級以上の冒険者だって。でもセイ
カくんなら受けられちゃうんだね⋮⋮﹂
﹁えー、ダメよこんなの﹂
アミュが顔をしかめて反対する。
﹁あたしたちの手に負えないわ﹂
﹁うん、そうだよね⋮⋮﹂
﹁言ってみただけ﹂
﹁え、別にいいんじゃないか? 倒そうと思えば倒せるぞ﹂
前なら目立つからと避けていただろうが、化け物ワームを倒して
スタンピードを収めてしまった以上、亜竜の一匹や二匹を追加で討
伐したところでもう関係ない。
だが、アミュは怒ったように言う。
﹁ヒュドラをぶっ飛ばして死骸を街に運ぶまで、全部あんた一人で
やることになるじゃない。あたしたちはなにするのよ? ついてい
くだけ?﹂
﹁あー、確かに⋮⋮﹂
﹁そうだよセイカくん。みんなでできる依頼にしないと﹂
ヒーラー
﹁セイカは回復職だって、前に決めた﹂
そういえば、そんな取り決めだった。
ヒーラー ポーター
このパーティーで、ぼくは回復職兼運搬職なのだ。戦闘は彼女ら
に任せられるような依頼でないとダメか。
三人で掲示板を前に話し出す三人を、ぼくは黙って見つめる。

1161
﹁人とは不思議なものでございます﹂
ふと、耳元でユキがささやいた。
﹁世界は違えど⋮⋮人の子は皆、ひとりでにセイカさまの手から離
れていこうとするのでございますね。滅ぶことのない、大きな力に
庇護されていながら、それに頼ることなく、自分の力でこの酷な世
を生きようとする⋮⋮ユキには、理解できぬことでございます﹂
﹁⋮⋮﹂
きっとユキは、前世の弟子たちのことを思い出しているのだろう。
ぼくが面倒を見ていた弟子たちは、最終的には皆、ぼくの屋敷か
ら巣立っていった。彼彼女らは様々な一生を送ったが、一人の例外
もなく、終生まで面倒を見てくれと言ってきた者はいなかった。
親元から離れようとするのは、人の本能だ。
たとえ寿命を超越し、常ならざる力を持っていたぼくに対しても、
それは変わらないらしい。
だけどそれは、たぶん正しいのだ。
ユキにも聞こえるかわからないくらいの声量で、ぼくは呟く。
﹁滅びのない存在などないさ﹂
現にかの世界で、ぼくは倒されてしまった。
永遠の命を手にし、神すらも恐れさせた大陰陽師でさえ、滅びの
定めからは逃れられなかった。

1162
いつまでもぼくの力に頼れないと悟っているからこそ、あの子ら
も自分の力で生きていこうとするのだろう。
それはもう、明察と言うほかない。
﹁あ、これなんかどうかな?﹂
その時、イーファが一枚の紙を指さした。
皆と一緒に、ぼくも近寄ってそれを覗き込む。
﹁なになに⋮⋮﹃アルミラージの討伐:五十匹﹄、か﹂
アルミラージとは、頭に角の生えた兎のモンスターだ。
兎のくせに凶暴で、人間を見ると襲ってくる性質がある。
﹁わ、報酬高っ。場所は⋮⋮ケルツの近くの森みたいね。これなら
そんなに遠くないわ﹂
﹁どこ、それ﹂
﹁ここから北の方にある、けっこう大きな街よ。馬車で三日くらい
の﹂
﹁受注資格、五級以上だって。わたしたちでも大丈夫そうだね﹂
﹁こんなのでいいのか?﹂
ぼくは思わず口を挟む。
アルミラージは決して雑魚ではないが、とはいえ強敵とも言えな
いモンスターだ。
五十匹はなかなかの数だが、上位モンスターでも倒せるこの子ら
には物足りない依頼に思える。
﹁近場でももっと歯ごたえのありそうなやつがあるぞ。このヒュー

1163
ジボアの討伐とか、イビルトレントの討伐とか⋮⋮そっちの、朱金
草の採取っていうのもおもしろいかもしれない。かなり希少な薬草
みたいだ﹂
﹁えー、大変そうだよ﹂
﹁気分じゃない﹂
﹁お金には困ってないんだし、慣れない土地なんだから簡単な依頼
でいいわよ。適当に角ウサギ狩って、あとはケルツでゆっくりして
帰りましょ﹂
全員から反対されてしまった。
どうやらこの子らとしては、そこまで本気で冒険に行くつもりで
はなかったらしい。
しかしぼくは、依頼用紙を指さして言う。
﹁でもこの依頼、六人以上推奨って書いてあるぞ﹂
﹁ああそれは、あんまり気にしなくていいわ﹂
アミュが大したことないように言う。
﹁こういうのはギルドの職員が決めてるんだけど、実際に冒険者や
ったことのある人は少ないから、正直あてにならないのよ。それよ
り依頼内容を見て、自分で考えるべきね﹂
﹁ふうん。この依頼は四人で大丈夫なのか?﹂
﹁大丈夫じゃない? アルミラージだし、危険はないわ。五十匹は
多いけど、きっと一日で終わるわよ﹂
﹁それなら、まあいいか﹂
彼女らが言い出したことだし、任せてみよう。
﹁アミュちゃん。この依頼をどうすればいいの?﹂

1164
﹁これはケルツの支部に来た依頼だから、ここだと正式に受けられ
ないのよね。だから⋮⋮﹂
アミュが今後の流れを説明していく。
こうしてぼくたちは、一つの依頼を受けることとなった。
第四話 最強の陰陽師、嫌な予感がする
﹃何年かに一度、街の近くの森でアルミラージが大量発生するんだ。
森から出てくることは滅多にないんだけど、たまに行商人の馬車が
襲われる。あいつら強いやつからは逃げるくせに、弱いやつにはす
ぐ襲いかかってくるから⋮⋮。おかげで商品が入ってこなくなって、
こっちは商売あがったりだよ! だから冒険者さん、森であの角ウ
サギを五十匹ばかり狩ってきてくれないか? お礼は弾むからさ!﹄
ケルツの商工組合からギルドへ依頼された内容は、こんな感じの
ものだった。
ずいぶん特徴的な文面だ。たとえ手紙でも、文章をここまで口語
調で書いている例は見たことがない。冒険者への依頼というのは、

1165
独特の文化があるようだった。
﹁セイカくん、それまだ見てるの?﹂
﹁え? ああ、いや﹂
隣に座るイーファの声に、ぼくは依頼用紙を写した紙を折りたた
ポケット
んで衣嚢に仕舞う。
正面に座るアミュとメイベルは、すうすうと寝息を立てていた。
ラカナを発ち、三日。
ぼくたちを乗せた馬車は、無事ケルツの近郊にまで差し掛かって
いた。
この分だと、日暮れ前には街へたどり着けそうだ。
イーファに答える。
﹁依頼の内容を間違えたら大変だからな。念のため確認しておこう
と思って﹂
﹁えー、大丈夫だよ﹂
イーファが楽観的に言う。
﹁街へ入ったら、みんなで一度ギルドの支部に行くんでしょ? そ
の時にも詳しい話を聞けるんだから﹂
一応、ケルツへ入ってからはそのような予定になっていた。
余所の支部の依頼は、たとえ掲示板には貼られていてもその街に
行かないと受けられない。アルミラージの出る森は街の外にあるが、
否応なく一度入城する必要があった。

1166
﹁ケルツってどんな街かなぁ﹂
﹁⋮⋮イーファ、なんだか楽しそうだな﹂
﹁うん、楽しいよ﹂
イーファが笑顔でうなずく。
﹁だって、お屋敷を出て、ロドネアでしょ? 帝都でしょ? アス
ティリアに、ラカナ。それからケルツ⋮⋮行商人でもないのに、こ
んなにいろんな街へ行けることって、普通ないよ。これって、すご
く幸運なことなんだと思う﹂
﹁そう⋮⋮だな。そうかもしれない﹂
もしもイーファがランプローグ家の奴隷ではなく、普通の農民の
娘として生まれていたなら、生まれ育った村を出ることは一生なか
っただろう。
精霊が見える目を持て余したまま、嫁ぎ、子を育てて、その生涯
を終えたはずだ。
もちろん、そんな静かな生を望む者もいる。むしろ多くがそうだ
ろう。
だけど、イーファがそうでないのなら⋮⋮逃亡生活に付き合わせ
ることになったとしても、連れ出してよかったかもしれない。
ぼくは小さく笑って言う。
﹁ケルツは、聞いたところによるとけっこう大きな街だそうだ。城
壁の外に広がる大農園で農産物も作っているけど、基本的には商業
都市だな。だから、おもしろいものも多いと思うよ﹂
﹁そうなんだぁ、楽しみ﹂

1167
﹁たまに大雪が降るそうだから、住むには苦労しそうな街だけどね。
それと⋮⋮⋮⋮いや﹂
﹁⋮⋮? どうしたのセイカくん﹂
﹁なんでもない。そうそう、近くにダンジョンもあるおかげで、冒
険者が多いそうなんだ。その分ギルドの支部も大きいだろうから、
いろいろ話を聞いてみてもいいかもしれないな﹂
﹁そっかぁ。ラカナの支部みたいに、ご飯食べるところもあるのか
なぁ﹂
弾んだ調子で言うイーファを横目に、ぼくは小さく息を吐く。
まれな大雪以外にも、ケルツには懸念するところがあった。
帝国の北方に位置するケルツは︱︱︱︱比較的、魔族領に近い街
だ。
もちろん、帝国軍が駐留するような国境付近の辺境ではない。た
だ、これまでで一番、ぼくたちは魔族領に近づくことになる。
別に、危険はないだろう。
魔族領に近いとはいえ、帝国の大都市だ。まさかその辺に魔族が
出るなんてことがあるわけもない。
しかし⋮⋮どうも、妙な予感がした。
****
﹁よーし! アルミラージ狩りを始めるわよー!﹂
寒さが残る春の朝の森に、アミュの溌剌とした声が響き渡る。

1168
あの後、ぼくらの馬車は予定通りにケルツへ到着した。
降車したぼくたちはその足でギルドの支部へ向かうと、そのまま
受け付けへ直行し、アミュが持つ認定票で例の依頼を受注すると申
し出た。
受け付けの職員は、五級という受注下限ギリギリの冒険者がたっ
た四人で来たことに微妙な顔をしていたが、結局は受注を認め、森
の具体的な場所と、討伐数の証明方法を教えてくれた。どうやらア
ルミラージの頭に生えている角を五十本、持って帰ることが達成要
件となるらしい。この角は報酬とは別に買い取ってくれるそうなの
で、なかなか美味しい依頼だ。
森は、帝国の街道からほど近い場所にあった。
どうやら深い森を切り開いて無理矢理街道を通したらしく、その
せいで獣やモンスターの被害がたまにあるそうだ。そのため、年間
を通して似たような依頼を出し、危険な生き物が街道に近づかない
ようにしているらしい。
昨日の今日で森へとやって来たわけだが、イーファやメイベルも
含め皆疲れも見せず元気そうだ。
ただ、ぼくは言う。
﹁それにしても、寒いな﹂
春も近いとはいえ、木陰には微かに雪も残っている。
早朝ともなれば、なかなか冷え込みがきつい。
しかし、アミュは得意そうに言う。
ヒーラー
﹁ふふん、回復職のお貴族様はひ弱ね。剣士はこれくらいなんとも

1169
ないわ。でしょ? メイベル﹂
﹁平気﹂
言葉通り、前衛二人はこの寒い中平然としていた。しかも薄着の
まま。見ているだけで寒くなる。
ぼくがおかしいのかと思ったが、隣を見るとイーファが寒そうに
していたので、たぶんおかしいのはこの二人の方だ。
まあそれはともかくとして、ぼくは言う。
﹁⋮⋮で、どうする。アルミラージを見つけるまで、適当に歩き回
るか?﹂
﹁その必要はないみたいね﹂
アミュが目を向ける方向を見ると⋮⋮そこには、茶と白の毛並み
がまだらになった、一匹の兎がいた。
その額には、イッカクのような角が一本生えている。
あれがアルミラージか。
普通の野兎とは雰囲気がだいぶ異なる。やや顔の正面についた目
でぼくらを見据える様は、草食獣よりは狼や熊のそれに似ていた。
何の前触れもなく︱︱︱︱アルミラージが地を蹴った。
その角を前に向け、真っ直ぐアミュの方へ突っ込んでくる。
﹁あははっ、来た来た﹂
飛矢のような突進を、アミュは杖剣の細い剣身で弾いた。刃が打
ち合わされたような、硬質な音が森に響き渡る。

1170
刺突のような攻撃は受けづらいのに、上手いもんだ。
地へ降り立ち体勢を立て直したアルミラージは、次いで自身の後
ろに回り込もうとしていたメイベルに気づき、すばやく振り返る。
﹁投剣は当たらないわよっ、メイベル!﹂
﹁わかってる﹂
と言いつつ、メイベルは数本の投剣をまとめて放つ。
余裕そうに避けるアルミラージだったが、それで完全に怒り狂っ
たようで、その角をはっきりとメイベルに向けた。
メイベルの両手には、今日は簡単な篭手のようなものが嵌められ
ている。
なんとなくだが⋮⋮ぼくにはメイベルが、それでアルミラージを
ぶん殴ろうとしているように見えた。
いつもの戦斧を背負ってはいるものの、すばしこい相手に当てる
のは最初からあきらめているのか、手に取る様子はない。
たぶん、一番小回りの利く格闘戦で挑むつもりなのだろう。
アルミラージが再び地を蹴り、メイベルへと駆け出し︱︱︱︱、
﹁⋮⋮あ﹂
すぐに九十度方向を変えると、森の奥へと走り去っていった。
﹁ええっ、逃げちゃうよ!?﹂
イーファが慌てたように風の刃を生み出すが、木々や地面を抉る
ばかりで、逃げる兎型モンスターには当たらない。

1171
そうこうしているうちに、アルミラージは木立の陰に見えなくな
ってしまった。
﹁あー、逃げられたわね﹂
アミュが残念そうに言う。
﹁角ウサギって、敵わないとみるとすぐ逃げ出すのよね。そこまで
強くないけど、これがあるからなかなか倒せないのよ﹂
﹁⋮⋮なあ、アミュ﹂
ぼくは恐る恐る訊ねる。
﹁アルミラージって、そんなモンスターだったのか? この調子で
五十匹って⋮⋮いつまでかかるんだ?﹂
﹁平気平気﹂
アミュが楽観的に言う。
﹁だって、大量発生してるんでしょ? 慣れたらきっとすぐよ﹂
1172
第五話 最強の陰陽師、加勢する
それから五刻︵※二時間半︶ほど歩き回って⋮⋮ぼくらが討伐で
きたアルミラージは、未だに三体だけだった。
﹁み、見つからない⋮⋮﹂
ぐったりとしたアミュが、歩きながら弱音を吐く。
弱音の通り、大量発生しているはずのアルミラージはなかなか見
つからなかった。たまに遭遇戦になっても、気を抜いているとすぐ
逃げられてしまう。おかげで滅多に倒せない。
ぼくは言う。

1173
﹁いなくはないな。ただ、出くわす前に逃げられてるみたいだ﹂
式神の目で見ている限りでは、確かにけっこうな数のアルミラー
ジがいる。だがこちらが見つけるよりも先にぼくらの気配を感じ取
って、その場から離れているようだった。
﹁推奨人数が六人以上になってた理由が、わかった﹂
メイベルも、若干疲れたような声音で言う。
﹁これは、大人数で追い込むようにしないと、無理﹂
﹁⋮⋮だ、そうだ。アミュ﹂
﹁うっさいわね! 今さら言ってもしょうがないでしょ!?﹂
と、アミュが怒る。
まあこの展開はぼくも予想していなかった。
﹁大量発生って言うから、てっきり群れで出てくると思ったんだけ
どなぁ﹂
﹁角ウサギは基本、出てくる時は一匹よ﹂
うんざりしてくる。だんだんやめたくなってきた。
なんとなく、この依頼の意図も透けて見える。
正直、大量発生しているモンスターを五十匹倒したところで、そ
れほど意味はないだろうと思っていた。母数はもっと膨大だろうか
ら、多額の報酬に見合うだけの効果が見込めないと。
だが、アルミラージが強敵から逃げる習性があるなら話は別だ。

1174
腕の立つ冒険者でも討伐に時間がかかり、何度も森へ行く羽目にな
る。そのたびにアルミラージは森の奥へ逃げ、倒されなかった個体
も人の生活圏からは遠ざかる。ぼくのようにうんざりして途中で諦
めてくれれば最高だ。報酬を支払わずに済むんだから。
街の商人なんて行商人に比べればぼんやりしていると思っていた
が、なかなかずる賢い。
﹁おっかしいわね⋮⋮﹂
アミュが渋い顔で呟く。
﹁昔は、ここまでアルミラージに逃げられることなんてなかったの
に⋮⋮﹂
﹁君も強くなってるってことじゃないか?﹂
﹁うーん⋮⋮それより、あんたが変なオーラ出してるんじゃないの
?﹂
﹁出してない⋮⋮とは言い切れないけど、そこまで勘の良いモンス
ターじゃないだろ。たぶん﹂
そんなやり取りをしながら森を歩いていた︱︱︱︱その時。
ぼくはふと足を止め、目を森の奥へと向けた。
﹁あ、あれ? なんだか精霊が⋮⋮﹂
困惑したように、イーファがきょろきょろと周囲を見回す。
すぐに力の流れが見える方へ式神のメジロを飛ばす。
そして⋮⋮見つけた。
﹁⋮⋮ここからずっと先で、冒険者のような格好のやつが二人、モ

1175
ンスターと戦ってる。あれは⋮⋮なんだ? アストラルのようだけ
ぼろ
ど、青白い襤褸が飛んでいるような見た目だ。氷の魔法を使ってい
るように見える﹂
﹁それ⋮⋮フロストレイスじゃない?﹂
アミュが硬い声で言う。
﹁かなり面倒な上位モンスターよ﹂
﹁そうか、あれが⋮⋮﹂
レイスは、アストラル系の中でも強力な方のモンスターだ。
フロストレイスは、その中でも水属性の魔法を使うやつだったと
記憶している。
﹁四、五体いるな﹂
﹁そ、そんなに?﹂
﹁苦戦しているようだ⋮⋮どうする?﹂
ぼくは三人に問う。
﹁加勢するか? それとも、巻き込まれないよう静観するか?﹂
ここがラカナで、苦境に陥っているのが見知った冒険者だったな
ら、迷わず助けに入っただろう。
だが、ここは馴染みのない土地だ。よかれと思ってした行動でも、
どんな事態を招くかわからない。アストラル系モンスターの性質に
も、あまり明るくない。
それに⋮⋮あの二人組の方も、少々厄介そうだ。

1176
﹁そんなの、助けるに決まってるじゃない!﹂
だがアミュは、わずかな迷いもなくそう言った。
﹁ダンジョンで会った冒険者は助け合うものなのよ!﹂
﹁行こう。セイカ﹂
﹁セイカくん⋮⋮わたしも、助けに行きたい﹂
ぼくは一瞬沈黙した後、うなずいた。
﹁わかった。ここから真北だ﹂
﹁急ぐわよ!﹂
全員で、森を北へ向かって駆け出す。
走りながら⋮⋮ぼくはなんて意味のないことをしたんだろうと、
馬鹿馬鹿しい気持ちになった。
この子らに訊けば、助けると言い出すに決まっていたのに。
そして︱︱︱︱木立の間に、彼らの姿が映った。
冒険者用の外套を纏った二人組。どちらもフードを被っているせ
いで、人相はわからない。
だが体格からして、前衛が男、後衛が女だろう。
男の方は武闘家のようだ。武器は持たず、青白いレイス相手に拳
を振るっている。しかし霊体相手にはやはり分が悪い様子で、フロ
ストレイスは一瞬散るもすぐに再生し、氷礫を浴びせている。
女の方は、弓を背負っているからおそらく弓手なのだろうが、今
は短剣を握っていた。短剣はどうやら魔道具らしく、振るうたびに
薄青い光が舞っているものの、同じ水属性であるせいかフロストレ
イスには効果が薄いように見える。

1177
氷のレイスの集団は、宙を縦横に飛び回りながら二人へとどめを
刺す機会をうかがっている。
数でも相性でも不利な状況で、しかしこうまで持ちこたえている
のだから、かなり実力のある連中なのかもしれない。
﹁大丈夫っ!? 加勢するわ!﹂
アミュが叫ぶと、二人組がぎょっとしたようにこちらへ顔を向け
た。
やはり、若い男と女の二人組だ。
どちらも精悍な顔つきだが⋮⋮肌色は、まるで死人かと思うほど
に白い。
まあこの二人のことは後で考えるとして、まずはレイス退治だ。
ぼくはふと思いつき、口を開く。
﹁なあ。今は冒険じゃなく人助けだから、ぼくが手を出してもかま
わないか?﹂
﹁っ!?﹂
駆け出そうとしていたアミュが、たたらを踏んで振り返った。
﹁ダ、ダメなわけないでしょ! やるならさっさとやりなさいよ!﹂
﹁わかった﹂
そう言うだろうと思い、ぼくはすでにヒトガタを浮かべていた。
がしゃどくろ
︽召命︱︱︱︱餓者髑髏︾

1178
空間の歪みから現れたのは︱︱︱︱身の丈三丈︵※約九メートル︶
を超える、巨大な骸骨だった。
人骨の姿をした妖は、周囲に人魂を漂わせながら、ゆっくりと歩
みを進める。
そして、飛び回るフロストレイスへその虚ろな眼窩を向けると⋮
⋮白骨の手を伸ばしてむんずと掴み、そのままがつがつと喰い散ら
かし始めた。
﹁⋮⋮!?﹂
﹁な⋮⋮﹂
二人組は呆気にとられた様子で、その地獄のような光景を眺めて
いる。
残りのレイスたちは、愕然としたように一瞬動きを止めたが⋮⋮
すぐに魔法で氷柱や氷風を生み出し、巨大な骸骨を攻撃し始めた。
がしゃどくろ
しかし全身が硬い骨でできているせいか、餓者髑髏が意に介す様
子もない。
近づきすぎた他のレイスを、空いている方の手で捕まえる。青白
い霊が激しく暴れるも、かまわず頭からかぶりついた。霊体が食い
ちぎられる音も、咀嚼音もなく、ただカタカタと剥き出しの歯が打
ち合わされる音だけが森に響き渡る。
﹁うへぇ⋮⋮﹂
髪の中で、ユキが気味悪そうな声を出す。
がしゃどくろ
﹁あの、セイカさま。なぜに餓者髑髏を⋮⋮? 怨霊の類ならば、
いくらでも封じようがありますでしょうに﹂
﹁ちょっと、こいつがレイスを取り込めるかどうか試したかったん

1179
だ﹂
がしゃどくろ
餓者髑髏は、野晒しで死んだ人間の怨念が集まり、骸骨の姿をと
あやかし
った妖だ。
その成り立ちのためか、霊魂などを吸収して力を増す性質がある。
ちょうどいい機会だったから、こちらのアストラル系のモンスタ
ーも取り込めるのかどうか確かめたかったのだが⋮⋮、
﹁はぁ、一応、取り込めているようではございますが⋮⋮﹂
﹁魂を吸収しているというより、完全に人間を喰う時の動きをして
いるな﹂
霊魂を取り込む時は、あんな食べるような動作はしなかったはず
だ。力の流れを見ても、かなり取りこぼしが多いように見える。
ただ周りの人間には目もくれずまっすぐレイスへ向かったことか
ら、人よりは好んでいるようだ。モンスターとはいえ、やはりレイ
スは怨霊に近い性質を持っているのだろう。
残りのフロストレイスは、すでに方々へと逃げ去っていた。
がしゃどくろ
扉のヒトガタで餓者髑髏を位相に戻すと、未だ呆然と立ち尽くし
ている二人組に顔を向けて告げる。
﹁怪我はなさそうだな。だけど、体は冷えているだろう。暖でもと
るか﹂
1180
第六話 最強の陰陽師、暖をとる
ヒトガタで囲んだ森の一角は、まるで暖炉の前のように暖まって
いた。
ぼくたちのパーティーに件の二人組を加えた六人が、その中に円
座で腰を下ろしている。
﹁ふわぁ、あったかい⋮⋮﹂
﹁眠くなってきた﹂
﹁あんたがいると便利ねー﹂
女性陣が脱力しきった声で言っている。
寒くないと言っていたはずのアミュとメイベルも、やっぱり本当

1181
は寒かったようで、幸せそうな顔をしていた。
﹁⋮⋮不思議な魔法﹂
二人組のうち、女が言った。
外套のフードは被ったままだが、黒髪黒目に驚くほど白い肌、そ
の怜悧な顔立ちがここからでもわかる。見た目は十七、八ほどだが
⋮⋮実際の年齢は推し量れない。
女は、先ほど作ってやった白湯の杯を両手で持ちながら、ぽつぽ
つと呟く。
﹁炎も日の光もないのに暖かい。これは何なの?﹂
﹁これも光だ。周りに浮かべている呪符から放っている。炎にも、
日の光にも混じっているものだが、目には見えない﹂
﹁目に見えないのに、どうしてあなたはそれがあることを知ってい
るの?﹂
﹁いい質問だな﹂
なかなか答え甲斐がある問いだった。
﹁大昔、虹の外側にも見えない色があるんじゃないかと考えた人間
がいた。そこで虹の赤の外側に雪の塊を置いてみたところ、そうで
ない場所に置いた時と比べ、わずかに早く溶けることがわかった。
この赤の外側にある、熱を運ぶ光が赤外線だ。他にも蛇が持つ第三
の眼を通して見るという方法もあるな﹂
﹁⋮⋮空に物は置けないし、人は蛇の眼を持っていないわ﹂
﹁そこは工夫次第だ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂

1182
ぼくがそう答えると、女は何やら考え込むようにして黙り込んで
しまった。
男の方をちらと見るが、会話に入る気はないのか、顔を伏せたま
ま沈黙を保っている。
こちらは大柄で、女よりも四、五歳ばかり年上に見えるが、やは
り実年齢は不明だ。
どういう関係だろう、と考える。
恋人や夫婦には見えない。おそらくは同じところから来たのだろ
うが、血縁とも思えない。
しいて言うならば︱︱︱︱主従、だろうか。
弓を持つ女は冒険者にしては立ち居振る舞いに品があり、一方で
武闘家の男は口数が少なく、無骨な印象を受ける。
どこか、立場の違いを感じさせるところがあった。
﹁で、でも⋮⋮よかったですね。怪我がなくて﹂
イーファが愛想笑いと共に恐る恐る言うが、二人組は沈黙を保っ
たまま。
微妙に気まずい空気になるも、アミュは構わず話しかける。
﹁それにしてもあんたたち、フロストレイスなんてどこから引っ張
ってきたのよ。この森ってあんなのが出るの?﹂
﹁⋮⋮この森のずっと奥に、ダンジョンになっている洞窟がある﹂
女が答えないのを見計らったように、男が口を開いた。
容貌に見合う、低い声だ。

1183
﹁比較的、手強いモンスターが棲んでいる。そこで遭遇し、追われ
た﹂
最低限の事実だけを伝えるような話し方だった。
アミュは足を投げ出し、気を抜いたように言う。
﹁ふうん、災難だったわね。依頼? それとも、素材やダンジョン
ドロップ狙い?﹂
﹁⋮⋮後者だ﹂
﹁そう。あたしたちは依頼でアルミラージを追ってたところだった
んだけど、これが全然見つからないのよね。まんまと面倒な依頼掴
まされちゃったわ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁で、どうする? あたしたちはもう少し続ける予定だったけど、
せっかくだから一緒にケルツへ戻る? あんたたちも消耗してるみ
たいだし、途中で野盗に出くわさないとも限らないわ。もしそれで
荷でも奪われたら⋮⋮﹂
﹁見くびらないでちょうだい﹂
その時、女がアミュを遮るように、睨んで言った。
﹁人間の野盗ごときに、私たちは後れを取らない﹂
﹁⋮⋮あっそ﹂
そっけなくそう言うと、アミュは立ち上がる。
﹁じゃ、ここでお別れね。行きましょ、みんな﹂
﹁えっ、アミュちゃん、もう行くの⋮⋮?﹂
﹁ええ﹂

1184
アミュは鼻を鳴らして言う。
﹁冒険者は深入りしないものよ。たった二人で、ろくに下調べもせ
ずダンジョンに潜るような訳ありの、それも礼の言葉も知らないよ
うな連中に、これ以上関わる理由はないわ﹂
﹁ん⋮⋮わかった﹂
メイベルが、少し迷った後に立ち上がった。続いてイーファも、
仕方ないといった風に腰を上げる。
﹁ほら、セイカも。呪符片付けなさいよ﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだな﹂
確かに、アミュの言うことにも一理ある。
こちらから積極的に関わる理由はない。
そう思って立ち上がろうとした時︱︱︱︱、
﹁待って﹂
女が、そんな言葉を放った。
やや不本意そうではあるものの、ぽつぽつと話す。
﹁そんなつもりではなかったの。気分を悪くしたのなら謝るわ⋮⋮
ごめんなさい﹂
そしてぼくの方を向き、小さく付け加える。
﹁それから、助けてくれてありがとう﹂
﹁⋮⋮﹂

1185
仏頂面をしたアミュが、無言で腰を下ろした。
それを見たイーファとメイベルは顔を見合わせると、二人で再び
座り直す。
沈黙の中、ぼくは口を開く。
﹁アミュはまだ続けるつもりだったようだけど⋮⋮ぼくはもう、正
直アルミラージ狩りにはうんざりしていたところだ。そろそろ街へ
戻りたい。もしまだぼくらに用があるなら、早くしてくれないか﹂
﹁⋮⋮あなたに頼みがあるの﹂
女はぼくを真っ直ぐ見据え、告げる。
﹁私たちの仲間を、助けてほしい﹂
第七話 最強の陰陽師、看破する
﹁⋮⋮! おい!﹂
女の言葉を聞いた男が、焦りを含んだ声で言った。
女は、男の方へ視線を送って答える。
﹁わかってる。大丈夫﹂
﹁⋮⋮﹂
男が押し黙る。
やはり、決定権は女の方が握っているように見えた。

1186
ぼくは間を置いて訊ねる。
﹁仲間を助けてほしいとは、どういうことだ?﹂
﹁順番に説明するわ﹂
女が静かに話し始める。
﹁まだ名前を言っていなかったわね。私はルルム。こっちはノズロ。
同じ辺境の村の出で、流れの冒険者をしているわ﹂
ルルムと名乗った女が、一瞬ノズロと呼んだ男を横目で見て、続
ける。
﹁私たちは、ケルツの商人に捕らえられている、同郷の者たちを助
けたいの﹂
﹁商人に捕らえられて⋮⋮?﹂
﹁奴隷よ﹂
ルルムが沈痛な面持ちで言う。
﹁仲間たちは今、奴隷として捕まっているの﹂
﹁⋮⋮奴隷には普通、親に売られるか、借金が返せなくなったか、
罪を犯してなるものだが⋮⋮﹂
﹁もちろん、どれでもないわ。詳しい経緯はわからないけれど⋮⋮
きっと、みんな人攫いにあったのよ。それ以外考えられない﹂
ルルムは淡々と続ける。
﹁今はケルツにある倉庫に閉じ込められてる。私たちは一人でも多

1187
く買い戻してあげたくて、高く売れるモンスターを狩るためにダン
ジョンへ潜っていたの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁たいていのモンスターは私たちの相手にもならないのだけれど、
フロストレイスはとにかく相性が悪くて、危ないところだった⋮⋮。
助けてくれたことには、本当に感謝しているわ﹂
﹁⋮⋮それで﹂
逸れかけた話題を戻すように、ぼくは問いを投げかける。
﹁君はぼくらに、何を求めているんだ?﹂
ルルムが、意を決したように告げる。
﹁一緒に⋮⋮ケルツの奴隷商から、私たちの仲間を助け出してほし
い﹂
﹁助け出すって、どうやって?﹂
サモナー
﹁あなたほどの召喚士なら、あの商人の護衛にも絶対に勝てるわ。
街の警邏だって振り切れる﹂
﹁⋮⋮﹂
はっきりとは言わなかったが⋮⋮それは明らかに、武力での奪還
を示唆していた。
まるで言い訳するように、ルルムは続ける。
﹁私たちの仲間は、その、高く売られるみたいなの。実際のところ、
モンスターを狩る程度では到底必要なお金を貯められないし、それ
以前に私たちのような流れの冒険者では、客として取り次いでもも
らえない⋮⋮。そう遠くないうちに、仲間たちは帝都まで連れて行

1188
かれる。そうなったらもう、助け出す機会はなくなってしまう﹂
ルルムが、身を乗り出すようにして言う。
﹁もちろん、私たちができる限りのお礼はさせてもらうつもりよ。
だから⋮⋮﹂
﹁何を言ってるんだ﹂
ぼくはルルムの話を遮り、目を眇めて吐き捨てた。
﹁そんなことに、手を貸せるわけがないだろ﹂
ルルムが目を見開き、唇を引き結ぶ。
ぼくは続ける。
﹁帝国で奴隷売買は合法だ。真っ当に商売しているだけの商人を襲
って、商品を奪うだって? 強盗だぞ。そんなことに協力なんてで
きるか﹂
﹁こ⋮⋮この国では、人攫いも認められてるって言うの!?﹂
﹁そっちは違法だな。帝国や、その属国で行われているのなら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁君の仲間とやらが不法に奴隷に落とされたと言うのなら、そのこ
とをケルツの領主に告発すればいい。それが真っ当なやり方だ。良
識ある領主ならなんとかしてくれるだろう。不当な奴隷であること
を証明できれば、だが﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁門前払いされるようなら、帝都で弁護人を雇い、裁判を起こすこ
ともできる。奴隷を買い戻すよりは安く上がるんじゃないか? も
ちろん、勝てなければ仕方ないが﹂
﹁⋮⋮﹂

1189
ルルムは唇をひき結び、うつむいたまま何も言わない。
ぼくはふと思い出して言う。
﹁そういえば、できる限りの礼をすると言っていたが⋮⋮金もない
君らが、いったい何をくれるつもりだったんだ?﹂
﹁⋮⋮価値のあるものならちゃんと持ってるわ﹂
ルルムは懐から小袋を取り出すと、掌の上で逆さにして振る。
中から出てきたのは︱︱︱︱見事な金細工や、いくつもの宝石だ
った。
それらを、こちらへ差し出してみせる。
﹁これだけじゃない。仲間を助けてくれるなら、もっと支払っても
いい﹂
ぼくは、その金品を冷めた気持ちで眺める。
﹁あいにく、金には困っていないんでね。それより、素人目にも高
価なものに見えるが、これを換金できれば仲間の何人かは買い戻せ
るんじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まあだいぶ高額になるだろうから、入手先や君らの身分は多少訊
かれるだろうけど﹂
﹁⋮⋮訳あって、私たちには換金が難しいの。だから、現物で受け
取ってもらうしかない﹂
ルルムは、縋るような調子で言い募る。
﹁お願い。流れの冒険者の身分しかない私たちは、領主にも帝国法

1190
にも頼りづらい。だけど⋮⋮どうしても助けたいの。だから、力に
頼るしかない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁仲間たちは何も悪いことはしていないわ。それなのに、こんな場
所で奴隷として生きなければならないなんてあんまりじゃない。こ
んなの道理に反してる。あなたが、それをわかってくれるなら⋮⋮﹂
﹁話にならないな﹂
ぼくは突き放すように言う。
﹁道理というなら、商品を奪われる商人の立場はどうなる。高く売
れる奴隷なら、仕入れ値もそれなりにしたことだろう。すべて失え
ば破産するかもしれないが、それが道理と言えるか?﹂
﹁ひ、人攫いから奴隷を買うような商人なんて、自業自得じゃない
!﹂
﹁商人には妻子だっているかもしれない。何の咎もない彼らが路頭
に迷うことは、果たして道理なのか?﹂
﹁そんなの⋮⋮っ﹂
くみ
﹁はっきり言う。君らの企みに与するつもりはない。人の道理に照
らせば、なおのことだ﹂
そして、ぼくは決裂の言葉を告げる。
﹁魔族に手を貸すなど、できるわけがない﹂
ルルムが目を見開き、息をのんだ。
同時に、ノズロの纏う気配の色が変わる。
﹁えっ⋮⋮?﹂
﹁ど、どういうことよ⋮⋮?﹂

1191
メイベルとアミュは気づいていなかったようで、混乱したように
ぼくと二人組とを見比べている。
﹁セ、セイカくん、あの、ええと⋮⋮﹂
だがイーファの顔にだけは、戸惑いの色が浮かんでいた。
この様子だと、もしかしたら精霊の挙動か何かで見当がついてい
たのかもしれない。
ぼくは三人にはかまわず、ルルムとノズロと名乗る二人の魔族を
見据えたまま口を開く。
﹁最初から、人にしては妙な力の流れだと思っていた。だが人間に
化ける魔族というのは聞いたことがない。間近で話しても、姿形や
仕草に違和感がない。となると︱︱︱︱君らは、二人とも神魔だな﹂
﹁っ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁元々人に見た目が近い種族なら、なるほど流れの冒険者を自称し、
人間の国に忍び込むこともできるだろう。しかし確か、神魔は体に
黒い線が走っていたはずだが⋮⋮染料ででも隠しているのか?﹂
その時、ノズロの体がぶれた。
次に映ったのは︱︱︱︱ぼくの間近にまで肉薄し、手刀を引き絞
る大男の姿。
瞬きにも足らない、わずかな間だった。
おそらく尋常な人間相手なら、認識も許さないうちに息の根を止
められていただろう。
しかし︱︱︱︱その手刀が放たれることはなかった。

1192
ノズロは一瞬視線を横に流し、動きを止めると、すぐさま両腕を
頭上で交差させる。
そしてメイベルの、巨石が落ちたような戦斧の一撃を受け止めた。
轟音が森に響き渡る。
﹁き、貴様⋮⋮っ﹂
﹁⋮⋮む﹂
リビングメイルを真っ二つにするメイベルの一撃を、ノズロは受
け止めていた。
簡単な篭手しか付けていないように見えたが、今の硬質な音から
するに、腕部には鋼を仕込んであるのだろう。それでもメイベルの
一撃を受け止めたとなると、武闘家として相当な実力があることが
わかる。
無表情にも見えるメイベルの顔にも、わずかに動揺の色があった。
﹁っ! ノズロ!﹂
ルルムが叫んで立ち上がり、背中の弓を取った。
それを見たメイベルが、すぐにノズロから距離を取る。
やじり
ルルムが矢をつがえる。その鏃には、力の流れが見える。
一方でメイベルも、素速く腿の投剣に手を伸ばす。
そして、二つが放たれようとする瞬間︱︱︱︱、
﹁落ち着け﹂

1193
巨大な白骨の掌が降り、両者の間を遮った。
ルルムとメイベルが、目を見開いて動きを止める。
白骨の手は、ぼくのヒトガタが作る空間の歪みから生えていた。
がしゃどくろ
その奥には、餓者髑髏が纏う人魂の微かな灯りと、巨大なしゃれ
こうべの眼窩が見え隠れしている。
ぼくは身構える神魔の二人から目を離し、メイベルに告げる
﹁メイベル、ぼくなら大丈夫だ﹂
﹁で、でもっ﹂
﹁心配はいらない。だから、斧を下ろしなさい﹂
メイベルはまだ張り詰めた表情をしていたが、やがて戦斧を下ろ
した。
ぼくはふっと笑って言う。
﹁それにしても、さすがに反応が早いな。戦斧を使う重戦士とは思
えない﹂
アサシン
﹁⋮⋮。じゃあ、暗殺者職ってことにして﹂
﹁こだわるな、それ﹂
ぼくは苦笑する。
その時、アミュが混乱したように言った。
﹁え、えっと⋮⋮どういうこと? こいつらが魔族って、ほんとな
の?﹂
﹁ああ﹂

1194
ぼくはうなずいて、二人の魔族に目を向けながら説明する。
﹁今の反応が証拠と言っていいだろう。無論、奴隷として捕まって
いる仲間とやらもだろうな。魔族だから領主には頼れないし、訴え
に出るわけにもいかない。高価な金品の換金もしづらい。正体がば
れるわけにはいかないからだ﹂
人間に近い容貌を持っているものの、神魔は特に人間に敵対的な
種族の一つとされている。
正体がばれれば、何事もなく済むとは思えない。
ルルムとノズロは、ただ立ち尽くしていた。
ぼくは鼻を鳴らして続ける。
﹁道理が聞いて呆れる。人間と魔族は敵対しているが、商人を介し
た非公式な貿易はある。しかしそれでも、魔族領へ分け入り、神魔
を攫ってこられるような人間はいないだろう。つまりこの二人の言
う人攫いは、紛れもなく同じ魔族側の者だ﹂
﹁そ、そうなの⋮⋮?﹂
アミュがちらと二人を見るも、ルルムとノズロは険しい表情で無
言を貫いている。
ぼくは付け加える。
﹁まあ、そんなのと取引する人間の商人もどうかと思うけどな。た
だ少なくとも、こちら側だけが責を負うような問題じゃない﹂
そして、ぼくは二人を見据えて告げる。
﹁魔族の業を人間に押しつけるな。本当なら縛り上げて警邏の騎士

1195
団にでも引き渡しているところだが⋮⋮ぼくは、知人のことはなる
べく助けるようにしている。こうして言葉を交わしたのも一つの縁
だ。この際、君らが元々なんのために帝国へやって来たのかも訊か
ない。見逃してやるから、同胞のことは諦めてこの地を去れ﹂
万全を期すなら、始末しておくべきなのだろう。
もしも魔族の間諜ならば、勇者の情報を探っている可能性が高い。
実力を見せていないとは言え、アミュを目にした魔族を生かしてお
けば、後々厄介な事態を招くかもしれない。
しかし、せっかく危機を救ってやった者を今さら手にかけるのも
収まりが悪い。
だからこれが、ぼくのできる最大限の譲歩だった。
場に沈黙が満ちる。
それを破ったのは、ノズロだった。
﹁行くぞ、ルルム﹂
そう言って荷物を取ると、ぼくを忌まわしそうに睨む。
﹁人間になど頼ろうとしたのが間違いだった﹂
ぼくは皮肉を込めて答える。
﹁そうだな、ぼくも人間の社会に生きる者として、君らを助けるべ
きではなかった。ぼくらは初めから道理を外れていた﹂
﹁⋮⋮ふん﹂
﹁ま⋮⋮待って!﹂

1196
踵を返すノズロを、しかしルルムは引き留めた。
それから、ぼくへと言う。
﹁さっき攻撃してしまったことは謝るわ、ごめんなさい。だから⋮
⋮もう少し、話を聞いてほしい﹂
﹁しつこいな。まだ食い下がるつもりか﹂
﹁人を探しているの!﹂
ルルムが、ぼくを遮るように大声で言った。
﹁一人の神魔と⋮⋮その子供を﹂
﹁っ、ルルム!﹂
﹁黙っててノズロ! ⋮⋮私の、親しい人だったの。でも十六年前
に、生まれたばかりの子供と一緒に姿を消した。わかっているのは、
人間の国に行ったということだけ。私たちは、その人を探すために
旅をしているの。もうずっと﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁先日、ケルツの奴隷商が、神魔の奴隷をたくさん仕入れたという
話を偶然耳にしたわ。もしかしたらその中に、私たちの探している
人がいるかもしれない。もしいるのなら⋮⋮助け出したい。今も一
緒だとしたら、その人の子供のことも﹂
ルルムの声音には、必死さがあった。
﹁戦争がない今、魔族の奴隷は高く売れるわ。こんな外れの街では
なく、仲間たちは帝都へ移送されて、そこで売られることになる。
市場に並んでいない以上、仲間たちは人目につかないように閉じ込
められていて、私たちには誰が捕まっているのかもわからないわ。
帝都まで追っていったところで、確かめる間もなく売られるかもし
れない。そうなったらもう⋮⋮彼らの行方を追うことは、できなく

1197
なってしまう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お願い。他の同胞のことは、最悪諦めてもいい。せめて私たちの
探している人が、そこにいるかだけでも確かめたいの。一人か二人
なら、私たちでもきっと買い戻せるから⋮⋮お願い。力を貸して﹂
ルルムは、声を絞り出すように言う。
﹁わかってくれるでしょう? あなただって⋮⋮っ﹂
ルルムは最後に何か言いかけたが、言葉の終わりは声にならず、
聞き取れなかった。
場に再び沈黙が満ちる。
その中で、ぼくは一人考え込む。
一連の話が、事実かどうかはわからない。だが、話しぶりは真に
迫っているように見える。
仮に事実だとしたら⋮⋮この二人は、単に人探しのために帝国へ
来たことになる。間諜でないならば、さほど危険もないかもしれな
い。
しかし、断言はできない。
すべて虚偽である可能性も、十分にある。
ぼくがこの二人に協力してやる理由は、あるだろうか?
﹁ね、ねえ、セイカくん⋮⋮助けてあげられないかな﹂
迷っていたその時、イーファが小さな声で沈黙を破った。

1198
くすんだ金髪の少女は、遠慮がちに続ける。
﹁その人がいるかどうか確かめるだけなら、誰にも迷惑がかからな
いよね⋮⋮? 乱暴なことはしないって約束してもらえるなら⋮⋮
ダメかな?﹂
全員に注目され、やや所在なさげにしていたイーファだったが、
それでもはっきりと自分の考えを言い切った。
ぼくは、ふと思い出す。
よく考えれば、この子は最初⋮⋮二人が魔族かもしれないと知り
ながら、助けに行こうとしたわけか。
ぼくはしばし黙考した後、おもむろに二人の魔族へと向き直る。
﹁いいだろう。その奴隷商に取り次いでやる﹂
ルルムとノズロが、驚いたように目を見開いた。
小さく嘆息する。
協力する理由ができてしまっては仕方がない。
普段は滅多にわがままなんて言わない子なのだ。
こんな時くらい、イーファの頼みを聞いてやるべきだろう。
頭の上で、ユキが溜息をつく気配がした。
﹁なんだかんだと言いながら⋮⋮セイカさまは人ならざる者にも世
話焼きでございますね﹂

1199
ささや
耳元で囁かれた声に微妙な表情になるが、ひとまず聞かなかった
ことにした。
言葉を失っている魔族二人へ、ぼくは釘を刺すように付け加える。
﹁ただし、大人しくしていろよ。それと事が済んだら、この子に礼
の一つでもすることだ﹂
第八話 最強の陰陽師、門を叩く
ケルツは商業都市だ。
帝国の北東の外れにある街が、なぜ商業都市となり得たのか。そ
れにはいくつか理由がある。
北の穀倉地帯に近く、農産物を仕入れやすいこと。帝国軍の駐屯
地が近いため、様々な商品を卸す一定の需要があること。それから、
魔族領が近いというのも理由の一つだった。
人間と魔族は敵対しているが、それでも種族によってはある程度
交流がある。魔族領で採れる資源や、彼らの作る金細工や織物は、
少数ながらも帝国で流通していた。

1200
そんなわけで、ケルツには大きな商会支部がいくつもあったが、
一方でロドネアやラカナでは名前の聞かない、中小規模の商会はそ
れ以上にあった。
ルルムの言っていた奴隷商が営むのも、ここにあるような小規模
商会の一つらしい。
森での一騒動があった、翌日。
ぼくたちは、六人で連れ立ってケルツの商街区を歩いていた。
﹁⋮⋮﹂
ぼくの傍らには、外套のフードを被ったルルムとノズロが無言で
歩みを進めている。
意外にも、この魔族二人は普通に街で宿を取っているようだった。
まあよくよく考えれば、街に入らないと旅の物資を調達するのも
難しい。
それに冒険者が多い街ならば、素性などいちいち問われることは
ない。黒い線の紋様を消してもなお目立つ蒼白な肌を隠すためか、
二人とも常にフードを被っていて怪しい雰囲気を漂わせていたが、
人間の冒険者もおかしな格好をしている者は多いので、別に人目を
引いたりはしていなかった。
もっとも、人間に見た目が近い神魔だからできることだろうが。
これが獣人や悪魔なら、街に入ることすら困難だ。
と、そんなことを考えながら、ぼくは二人の魔族を振り返る。
﹁なあ。そのエルマン・ネグ商会っていうのは、どの辺りにあるん

1201
だ?﹂
商会が建ち並ぶケルツの商街区にあるとは聞いていたが、詳しい
場所はまだ聞かされていなかった。
ルルムが、やや硬い表情で答える。
﹁もう少し進んだところよ。大きな看板がかかっているから、見た
らそれとわかるわ﹂
その後、わずかに口ごもってから言う。
﹁⋮⋮ねえ、どうするつもり?﹂
﹁ん?﹂
﹁どうやって奴隷商と話をするつもりなの﹂
ルルムは続ける。
﹁あなただって、所詮は冒険者でしょう。ただ会いに行って、取り
次いでもらえるか⋮⋮﹂
﹁一応、あてはある﹂
確実とは言えないが、やってみる価値はあるだろう。
ルルムは疑わしそうな顔をしていたが、これ以上言っても仕方な
いと思ったのか、黙って口を閉じた。
そこからしばらく歩くと、やがてその商会の看板が見えてきた。
エルマン・ネグ商会。
二階建てのこぢんまりとした建物だったが、一棟を借りられるの
だからそれなりに稼いでいるのだろう。少なくとも、一介の冒険者
がいきなり来るような場所ではなさそうだ。

1202
﹁というわけで、早速入ってみるか﹂
﹁だ、大丈夫なの?﹂
ルルムはなおも不安そうだったが、ぼくは構わず歩き出す。
﹁君らはなるべく黙っていてくれ。ぼろが出ると困るから﹂
言い終えるやいなや、重厚な木製扉を押し開ける。
中は、さすがに商館だけあって立派な佇まいだった。
広さの関係で数こそ少ないものの、ところどころに置かれている
調度品はどれも高価なものに見える。
正面にあるカウンターには、妙齢の受付嬢が一人座っていた。
いきなり入ってきた貧乏くさい冒険者六人を見て、あからさまに
不快そうな顔になる。
ぼくは口元だけの笑顔を作り、その受付嬢に声をかけた。
﹁やあどうも。いきなりで悪いが奴隷が入り用なんだ。店主を呼ん
できてくれ﹂
﹁⋮⋮失礼ですが﹂
受付嬢が、ぼくを睨みつけるようにして言う。
﹁約束はございましたか?﹂
﹁いや﹂
﹁ではお引き取りを。当会は露店ではございません﹂
﹁おいおい﹂

1203
ぼくは半笑いで、しかめっ面の受付嬢へと言う。
﹁こっちは客だぞ。金もある﹂
﹁あいにくですが、当会では安価な奴隷は扱っておりません﹂
﹁もう一度言う。店主へ取り次いでくれ﹂
﹁お引き取りを。代表はお会いになりません﹂
﹁代表⋮⋮?﹂
ぼくは一瞬呆けたような顔を作った後、高笑いを上げた。
﹁はっははは! いや、悪かった。よく考えればおたくも商会だっ
たな。ぼくが普段出入りしているところより、ずいぶんと狭苦しい
ものだから失念していた﹂
訝しげな顔をする受付嬢へ、ぼくはぐいと身を寄せると︱︱︱︱
黄金色の認定票を、カウンターの上へと転がした。
﹁ぼくはこういう者だ。おたくの代表を呼んで来てくれ﹂
認定票に視線を落とした受付嬢は、一瞬眉をひそめた後⋮⋮目を
丸くした。
﹁い、一級の冒険者認定票!? それも、ラカナ支部の⋮⋮っ﹂
﹁わかったか? ならおたくの﹂
﹁しょ、少々お待ちを!﹂
言い終える間もなく、受付嬢は奥へと引っ込んでいった。
残されたぼくたちの間には、微妙な空気が漂う。

1204
﹁⋮⋮セイカ。いまの、なに﹂
﹁訊くな。わかるだろ。演技だよ演技﹂
メイベルの平坦な質問に、ぼくは若干恥ずかしくなりながら答え
る。
この後のやりとりも考えると、こういう場では多少強く出るべき
だ。出るべきなんだけど⋮⋮これ、もう少しやりようがあったかな。
﹁ふふっ⋮⋮﹂
﹁この先、笑ったら台無しだからな。アミュ﹂
﹁んんっ、げほっ、げほっ﹂
笑いをこらえていたアミュが、咳払いで誤魔化した。
続けてイーファが、どこか困ったような調子で言う。
﹁あはは、セイカくん、そういうの全然似合わないね﹂
﹁言うなって⋮⋮﹂
この後も続けていく気力がなくなるから。
﹁あなた、そんなにすごい冒険者だったのね﹂
ルルムが、少し驚いたように言った。
ぼくは仏頂面で答える。
﹁この間なったばかりだけどな。しかし⋮⋮この認定票がここまで
利くとは思わなかった﹂

1205
どこへ行ってもお偉いさんみたいな扱いをされるとアミュが言っ
ていたが、正直なところ半信半疑だった。
ぼくは付け加える。
﹁一応、君らはぼくのパーティーメンバーっていう設定で行くから
な。ぼろを出さないようにしてくれ﹂
﹁⋮⋮﹂
ルルムが無言でこくりと頷いた、その時。
一人の人物が、受付の奥から現れた。
﹁いやいや、お待たせいたしました﹂
顎髭を生やした、壮年の男だった。
細身の体を上等そうな衣服で包み、顔には商人らしい笑みを浮か
べている。
﹁当会の者がとんだ失礼を。後でよぉく、言い聞かせておきますの
で﹂
﹁どうでもいい﹂
ぼくは傲慢そうに見える表情を作り、気だるげに言う。
﹁奴隷を買いたいんだ。さっさといいのを用立てろ﹂
﹁これはこれは⋮⋮。ケルツの数ある奴隷商の中から当会をお選び
いただき、ありがとうございます。一級の冒険者様にご贔屓いただ
けたとあっては、当会の格も上がるというもの。では早速奥へどう
ぞ⋮⋮セイカ殿﹂
受付嬢が認定票に打刻されていた名前を伝えていたのか、男はぼ

1206
くの名を呼んだ。
ぼくは首を傾け、目をわずかに細めて言う。
﹁まずは名乗ったらどうだ﹂
﹁おっと、重ね重ね失礼を。どうもワタクシめ、緊張しているよう
でございます。一級の冒険者様のような取引相手は、実は初めてな
もので﹂
額に手を当て、男が困ったように言った。
それからぼくへと向き直ると、そのうさんくさい笑みを深めて名
乗る。
﹁申し遅れました。ワタクシ、当会の代表であるエルマン・ロド・
トリヴァスでございます。以後お見知りおきくださいませ、セイカ
殿﹂
第九話 最強の陰陽師、商談する
ぼくたちは、二階の応接室に通されることとなった。
いつも商談に使われる部屋なのだろう。調度品も豪華で、手入れ
が隅々まで行き届いている。
ぼくとしか話していないエルマンだったが、一応こちらのパーテ
ィーメンバーにも気を使ったようで、座る場所が足りなくて手持ち
無沙汰にするアミュたちのために椅子を持ってこさせていた。
﹁では早速ですがセイカ殿。当会にはどのような奴隷をご所望で?﹂

1207
正面に座るエルマンが、にこやかに言う。
﹁っ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくの両隣に座るルルムとノズロが、わずかに気色ばむ気配があ
った。
三人掛けのソファだったから、とりあえず当事者の二人を両隣に
座らせたのだが⋮⋮なんだか殺気立っているし、もしかしたら失敗
だったかもしれない。ルルムの方はともかく、もしノズロがエルマ
ンに襲いかかりでもしたら、この距離では止めきれない可能性もあ
る。
ただ⋮⋮向こうも向こうだった。
ぼくは言うべきことを言う。
﹁その前に、そいつはなんだ﹂
﹁ひっ⋮⋮!﹂
エルマンの隣に座る男が、ぼくの視線に身を縮こませた。
おどおどとした、どこか陰気な男だった。
エルマンよりは明らかに若いが、とはいえ商会の小僧という歳で
もない。そもそもまったく商人らしくない。なぜここにいるのかわ
からなかった。
エルマンが笑顔のまま答える。
﹁ご紹介が遅れました。これは当会の副代表、ネグです﹂

1208
﹁副代表⋮⋮? こいつが?﹂
﹁ええ。大事な商談ですので、同席しております﹂
エルマンは堂々とそう言うが、とても信じられなかった。
ぼくとは目も合わせようとしない。こんな男に商会の副代表が務
まるのか⋮⋮?
ネグはエルマンに縋るように言う。
あん
﹁あ、兄ちゃん、兄ちゃん⋮⋮﹂
﹁実は、ワタクシめの弟でございまして﹂
﹁な、なあ、兄ちゃん⋮⋮﹂
﹁ネグ。大事なお客様の前だ、今は静かにしていなさい﹂
﹁で、でもっ﹂
その時、足元から力の気配を感じた。
冷気と共に、応接室のテーブルをすり抜けて湧き上がってきたの
は︱︱︱︱青白い襤褸を纏った霊体。
﹁フ、フロストレイス!?﹂
アミュが驚いたように叫ぶ。
それだけではなかった。
書棚の奥からは、熱気を纏った仄赤い霊体が。部屋の窓からは、
もや
風を纏った薄緑の霊体が。甲冑飾りからは、土気色の靄を纏った霊
体が⋮⋮。応接室のそこかしこから、フロストレイスやフレイムレ
イス、ウインドレイスにグラウンドレイスといった、様々なアスト
ラル系上位モンスターが湧き出してくる。
そして⋮⋮、

1209
﹁ォォォォォ︱︱︱︱︱︱﹂
ネグの背後には、いつのまにか⋮⋮漆黒の襤褸を纏った、不気味
な霊体が浮遊していた。
他のレイスたちとは、力の規模が明らかに異なる。
﹁レイスロード⋮⋮!﹂
隣でルルムが、息をのんだように呟いた。
レイスロードとは確か、レイスの中でもさらに上位の闇属性モン
スターだ。
強力な闇属性魔法を使い、物理攻撃のほとんどが効かない。しか
も障害物をすり抜けてどこまでも追ってくるため、対抗策がなけれ
ば出会った時点で死を覚悟しなければならないと言われるほどだ。
ただ、こういった怨霊の類は普通、日の光を嫌う。
レイス系のモンスターも例外ではなく、深い森や洞窟、遺跡のよ
うなダンジョンにしか出てこないはずだった。
どうしてこんな場所にいるのかはわからないが⋮⋮危険なことに
は違いないから、やはり封じておいた方がいいだろう。
周囲の者たちが身を強ばらせる中、ぼくは小声で真言を唱え︱︱
︱︱、
﹁ああ、ご安心を﹂
術を使おうとした時、エルマンが穏やかに言った。思わず、ぼく
まじな
は呪いの手を止める。

1210
﹁⋮⋮何?﹂
﹁これはネグの使役するモンスターですので﹂
と、エルマンが信じがたいことを言った。
おどおどと視線を泳がせるネグを見やりながら、エルマンは説明
する。
﹁昔からネグは、こういったアストラル系のモンスターを引き寄せ
てしまう体質があるのです。ですがご心配なく。これらのレイスは
すべて、ネグに従っていますので﹂
﹁⋮⋮こいつらがか﹂
﹁ええ。こういった商売柄、ワタクシめは身の危険を感じることも
たびたびあったのですが、そのような時にはいつも、ネグのレイス
たちに助けられてきました﹂
﹁⋮⋮﹂
周りのレイスを見やるが、確かに攻撃してくる様子はない。
ぼくは目を戻し、兄の方をちらちらと見ているネグを観察する。
テイマー
調教師というモンスターを従える職業は存在するが、技術で手な
ずける以上、彼らの扱えるモンスターは限られる。このようなアス
トラル系モンスターを従えた例は聞いたことがなかった。魔導書を
サモナー
持っていないことから、魔術的な契約で行動を縛る召喚士ではない
ネクロマンサー
だろうし、霊魂を死体に入れて操る死霊術士とも違う。
スペクタラー
操霊士とでも呼ぶべきだろうか。
いずれにせよ、かなり希有な才能の持ち主であるようだった。
﹁う、うう⋮⋮﹂

1211
当のネグは、エルマンを見たり、ぼくらを見たりと挙動不審な動
きを見せている。
エルマンが、ちらと弟を見て言う。
﹁ネグ、今は商談中です。モンスターを下げなさい﹂
﹁で、でも兄ちゃん! こいつら⋮⋮﹂
こいつら、と言うネグの目は、ぼくの両隣の二人、ルルムとノズ
ロを向いていた。
多くのレイスたちは、ぼくらの周囲を遠巻きに浮遊していたが⋮
⋮二人の神魔に、強くその注意を向けているように見えた。
一部のレイスはイーファにも近寄っていることから、もしかした
ら精霊と同じように、魔力に引き寄せられる性質があるのかもしれ
ない。
エルマンは困ったように言う。
﹁いやはや⋮⋮申し訳ございません、セイカ殿。お連れの方々は、
もしや亜人の血を引いておいでで? 強い魔力をお持ちの方がいら
っしゃると、まれにレイスたちの統率が乱れ、こうした失礼を働い
てしまうことがありまして﹂
エルフ
﹁⋮⋮ああ。森人の血を引いている者が三人いる﹂
とりあえず、そういうことにしておく。
ラカナには亜人も多かったから、別に不自然ではないはずだ。
﹁そんなことはどうでもいいから、さっさとこの亡霊どもを片付け
ろ﹂
﹁ははぁ、ただちに⋮⋮。ネグ、わかりましたね。早くしなさい﹂

1212
﹁だ、だけど、兄ちゃ⋮⋮﹂
﹁ネグ!﹂
﹁うう⋮⋮は、はいぃ⋮⋮﹂
エルマンの一喝に、ネグがうつむいた。
するとレイスたちは、皆そろって二階の床板をすり抜けて姿を消
していく。主人の背後で怖気を感じさせるような圧力を放っていた
レイスロードも、やがてその姿を薄れさせながら、ネグの足元へと
沈んでいった。
どうやら普段は、日の光の届かない床下か地中にでも潜ませてい
るらしい。
周りが脱力する中、エルマンが額に手を当ててすまなそうに言う。
﹁いやはやまったく。重ね重ね申し訳ございません﹂
﹁⋮⋮なるほどな﹂
小さく呟く。ぼくはその時になってようやく、エルマンがこの怨
霊使いを同席させた意図を覚った。
こいつは、エルマンの用心棒なのだ。
おそらく冒険者相手の商談にあたって、暴力を背景に要求を通さ
れることを避けたかったのだろう。商会の名前に据え、副代表の地
位までやっているのも、こうやって商談に居座らせるための言い訳
に違いない。
よほど指摘してやろうかとも思ったが、しらを切られればただの
言いがかりになるので、やめた。
だがやられっぱなしなのも癪なので、代わりに別の指摘をしてや

1213
る。
﹁そいつはお前の弟だと言っていたが、嘘だろう﹂
﹁ほう。なぜそのように?﹂
﹁そう思わない方がおかしい。容姿が違いすぎる﹂
エルマンの髪は濃い褐色だが、ネグは金髪だ。瞳の色も違う。体
つきも顔立ちも、まったく似ていない。
それに何より⋮⋮、
﹁加えてお前は元貴族、それも侯爵家の生まれだろう。そんな社交
性の欠片もない兄弟がいるか﹂
ロド・トリヴァスという家名は聞いたことがあった。辺境ではあ
るが、大領地を治める名家だったはずだ。
名門貴族ならば、当然教育を重視する。
礼儀の一つも知らなさそうなネグが、そんな生まれとはとても思
えなかった。
エルマンが大げさに言う。
﹁これはこれは、ご明察恐れ入ります。トリヴァスの家名をご存知
でしたか。いつもは雑談の折に自虐を交えながら話し、貴族相手の
信用を得るために名乗っているのですがね。いやはや⋮⋮﹂
それから、壮年の男は困ったような顔を作る。
﹁貴族は腹違いの兄弟も多いですから、容姿の違う血縁自体は決し
て珍しくないのですが⋮⋮ご慧眼の通り、血の繋がりはありません。

1214
いわゆる義兄弟でして﹂
﹁義兄弟、ね﹂
﹁実家を出奔したばかりの頃は、それはそれは苦労しましてね。日
々の食事にも困る始末で。ネグとはその頃に出会い、共に商売をし
てきたもので、ええ﹂
うさんくさい語り口で話すエルマンだったが⋮⋮どこか、その内
容には真実味があった。
義兄弟というのも嘘かと思ったが、案外本当のことなのかもしれ
ない。
﹁しかしながら、あらためて考えれば⋮⋮セイカ殿がワタクシめの
実家をご存知であっても、何も不思議はありませんでしたな。我々
は近い境遇でありますからな﹂
﹁ん? どういう意味だ﹂
﹁かねがね、お噂は耳にしておりますよ。セイカ殿﹂
エルマンが笑顔で言う。
﹁サイラス議長に次ぐ、ラカナ二人目の一級冒険者。史上最大規模
のスタンピードを収めるという偉業を成し遂げたのは、名門伯爵家
を出奔した天才少年⋮⋮と、そんな華々しいお噂を﹂
﹁⋮⋮﹂
どうやら、ぼくのことは元々知っていたようだった。
まあ、無理もない。噂になるくらい派手なことをやらかしてしま
った自覚はあるし、商人ならば当然、そのくらいの情報は知ってい
て当然だ。
﹁えっ! あ、あなた貴族だったの⋮⋮?﹂

1215
ルルムが驚いたように小声で問いかけてくるが、ひとまず聞こえ
なかったふりをしてエルマンへと答える。
﹁なんだ、知られていたか﹂
﹁もちろんですとも。確か、ご実家は魔法研究の大家でしたな。ラ
ン⋮⋮⋮⋮いや、失礼。ひょっとして、今は家名を名乗っておられ
ませんでしたかな?﹂
﹁⋮⋮﹂
出奔した貴族とはそういうものなのか、それとも認定票に名前し
か書いていなかったためなのか、エルマンはそんな気遣いを見せた。
別に名乗っていないことはなかったが⋮⋮あらためて考えれば、
家名は公言しない方がいいのかもしれない。
今は逃亡の身だ。ルフトやブレーズに迷惑がかかっても困る。
ぼくは不機嫌そうな顔を作ると、エルマンへ言い放つ。
﹁その通りだ。噂をするのはかまわないが、家名は伏せろ。不愉快
だ﹂
﹁ええ、わかりますとも。もちろんでございます﹂
ぼくのしかめっ面など見てもいないかのように、奴隷商は笑顔で
うなずいた。
そして、そのまま朗らかに続ける。
﹁ずいぶんと話が逸れてしまいましたな。では商談に戻るとしまし
ょうか。して、セイカ殿。当会にはどのような奴隷をお望みですか
?﹂
﹁⋮⋮どのような、と言われてもな﹂

1216
ぼくはソファにふんぞり返りながら、鼻を鳴らして言う。
﹁説明も面倒だ。どんな奴隷を買うかはぼくが決める。あるものを
見せろ﹂
そこまで考えていなかったので、偉そうな態度で誤魔化す。
こちらとしては、とにかく神魔の奴隷を一通り見たいのだ。適当
なやつを数人だけ連れてこられても困る。
﹁いえいえ、そういうわけには﹂
しかし、エルマンは食い下がった。
﹁当会はご覧の通り、小さな商館しか所有しておらず、奴隷の管理
は複数の別の奴隷商へ委託しております。倉庫は街のあちこちにあ
りまして、すべてにご足労いただくのは、少々心苦しく⋮⋮。しか
しご安心を。当会では多種多様な高級奴隷をそろえており、加えて
ワタクシ、奴隷を選ぶ目には自信があります。必ずや、セイカ殿の
ご要望にお答えできるかと﹂
﹁⋮⋮。そうだな⋮⋮﹂
こうまで言われてしまっては、なおもすべて見せろとは言いにく
かった。
仕方なく、適当な条件を考える。
﹁⋮⋮強い奴隷が要る﹂
﹁強い奴隷、でございますか﹂
﹁ああ。知っての通り、スタンピードのせいでラカナ周辺のダンジ
ョンは今死んでいる。おかげで退屈して仕方がない。ここらにもダ

1217
ンジョンがあると聞いてわざわざやって来たが、期待できるほどの
ものはなかった﹂
﹁はぁ。それはそれは﹂
﹁そこでだ。モンスターがいないのならば、人を相手にすればいい。
ぼくが多少魔法をぶつけても壊れない、それどころか向かってくる
ような、訓練相手になる強い奴隷が欲しい。このままでは、ぼくも
こいつらも勘が鈍りそうだからな﹂
﹁ううむ、それは⋮⋮難題でございますな﹂
エルマンが頭をひねる。
﹁確かに当会では、元冒険者や、武芸の心得のある奴隷も扱ってお
ります。しかし、等級の高い冒険者を相手できるような奴隷となり
ますと⋮⋮ううむ⋮⋮﹂
﹁もったいぶるな、エルマン﹂
そこで、ぼくは畳みかけることにした。
口の端を吊り上げて言う。
﹁聞いているぞ。お前の商会で、魔族の奴隷を仕入れたという噂は﹂
その時、エルマンの表情が一瞬固まった。
﹁⋮⋮失礼ですがセイカ殿。その噂、どこで?﹂
﹁さあな、忘れた﹂
緊張している様子の両隣の神魔へ注意を向けつつ、ぼくは平然と
続ける。
﹁噂を聞いた相手などいちいち覚えていない。だが、情報が漏れて

1218
も不思議はないだろう。そいつらの輸送に関わった人間は、一人や
二人では済むまい﹂
ルルムが聞いたのも、どうやら途中の街で荷をあらためた衛兵の
一人からであるようだった。
関税などもかかるわけで、大人数の奴隷など到底隠しきれるもの
じゃない。
エルマンが観念したように言う。
﹁⋮⋮おっしゃるとおりでございます。いやはや、参りました。何
があるかわかりませんので、帝都へ運び入れるまではなるべく秘匿
しておきたかったのですが﹂
﹁それで、どうなんだ﹂
ぼくは間髪入れずに問う。
﹁いるのかいないのか。どうせ帝都まで運んで競売にでもかけるつ
もりだったのだろうが、そんなことをせずともぼくがこの場で、言
い値で買ってやるぞ。輸送費や野盗に襲われる危険を避けられるな
ら、そちらとしても望むところだろう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もっとも、しょうもない魔族なら別だがな。人間よりも弱い種族
では役に立たない﹂
﹁ふふ⋮⋮いえいえ、まさか﹂
エルマンが、静かな笑みと共に言う。
﹁当会が扱うのは、上質な奴隷ばかり。それは魔族であっても変わ
りません﹂
﹁なら、いるんだな﹂

1219
﹁この後、お時間はございますかな。セイカ殿﹂
ぼくがうなずくと、奴隷商は立ち上がり、襟を正して言った。
﹁では、実際に見ていただくのが早いかと﹂
第十話 最強の陰陽師、倉庫を見学する
エルマンに案内されたのは、街の城門からほど近い、巨大な倉庫
が建ち並ぶ一角だった。
大きな商会が、運び入れた商品を保管しておくための場所のよう
だ。
﹁さあさあ。こちらでございます﹂
と言って、エルマンが先導する。
その傍らに、ネグはいない。あの怨霊使いは商館に残ったようだ
った。
どうやら少なくとも、まともに取引できる相手とはみなされたら

1220
しい。あるいは単に、馬車に乗れる人数の問題だったのかもしれな
いが。
ぼくらはぞろぞろとエルマンの後ろをついていき、やがてたどり
着いたのは、一棟の比較的小さな木造倉庫の前だった。
﹁むっ、誰だ! ⋮⋮っと、エルマンの旦那じゃねぇか﹂
すい か
見張り番らしき、槍を持った巨漢が鋭く誰何するが、エルマンの
顔を見るとすぐに気勢を弱めた。
エルマンは機嫌良さそうに、見張り番へと声をかける。
﹁ふむ。ご苦労ご苦労﹂
﹁へぇ、どうも。今日はどうしやした? そっちの連中は?﹂
﹁お客様だ。当会の商品をご覧に入れたい。中を案内してくれ﹂
﹁はぁ、わかりやした﹂
見張りの巨漢がガチャガチャと鍵を開けると、倉庫の扉を開け放
つ。
﹁っ⋮⋮﹂
途端にすえたような臭気が鼻腔を刺して、思わず顔をしかめた。
﹁ええと⋮⋮どうぞ、こちらへ﹂
巨漢が慣れない様子でぼくらへ声をかけ、そのまま倉庫へと歩み
入っていく。
ぼくらがためらっていると、エルマンが隣で朗らかに言う。

1221
﹁いやはや、ひどい臭いでしょう? 当会の奴隷は高価な都合、扱
いが比較的よく、これでもマシな方でして⋮⋮。本来はお客様を案
内する場所ではないので、どうかご容赦を。ささ、参りましょう﹂
平然と中へ入っていくエルマンを、ぼくらは仕方なく追う。
倉庫の中には、木枠に鉄格子の嵌まった檻が並んでいる。
だが、中に人影はない。
﹁今この倉庫は、魔族の奴隷のため一棟すべてを当会で借り受けて
おりまして。商品は、もう少し奥に入れております﹂
訝しげなぼくの様子を見て取ったのか、エルマンがそう説明する。
やがて見張り番の巨漢が、ある箇所で立ち止まった。
﹁ここからになりやす﹂
その檻には、確かに誰か座り込んでいるようだった。
しかし倉庫内は薄暗く、曇天なせいもあって窓明かりだけでは容
姿がわからない。
エルマンが困ったように言う。
﹁灯りを持ってくるべきでしたな。確か詰所に⋮⋮﹂
﹁必要ない﹂
そう言って、ぼくは灯りのヒトガタを飛ばす。
ほのかな光に、檻の中の人影が照らし出される。

1222
﹁おおっ、お客さん魔術師か。便利な魔法だなぁ﹂
素朴に驚く巨漢を余所に、ぼくは中の人物を観察する。
突然の光に戸惑っているのは、一人の少女であるようだった。
歳はぼくらとそう変わらないくらい。簡素な貫頭衣に、両手には
手枷、首には妙な力の流れのある金属の首輪を嵌められている。
漆黒の髪に瞳。綺麗な顔立ちをしているが⋮⋮その顔や裾から伸
びる手足は死人のように白く、そして表面には入れ墨のような黒い
線が走っている。
以前学園を襲った魔族の一党の中にも、このような容姿の男がい
た。
﹁⋮⋮神魔か﹂
﹁まさしく﹂
エルマンが、自信を含んだ声で言う。
﹁全部で十五ほど、在庫がございます。いかがでしょうセイカ殿。
か弱い少女に見えますが、膂力では大男をねじ伏せ、生来の魔法で
中位モンスターすらも圧倒します。魔族の中でも、特に強い力を持
った種族ですので﹂
﹁こんなもの、どうやって手に入れた﹂
﹁そこは商売の種ですので、ご容赦を。まあ、魔族側に伝手がある
とだけ申し上げておきましょう﹂
﹁人攫いの伝手か?﹂
﹁どうかご容赦を﹂
うさんくさい笑みのエルマンから視線を外し、ぼくは少女を見る。

1223
ルルムの話では、探している人物はもう十六年も前に子供を産ん
でいるとのことだった。
それを踏まえると若すぎる気もするが⋮⋮神魔は人間よりもずっ
と長い寿命を持っているはずだから、見た目だけではわからない。
ちらと横を見ると、ルルムとノズロは険しい表情をしていたが、
それだけだった。
となると、この子ではなさそうか⋮⋮?
﹁もっと近くで見てみるかい、お客さん﹂
巨漢は軽い調子でそう言うと、鍵の束を取り出して、鉄格子にか
かっている錠を外し始めた。
ぼくは思わず言う。
﹁おい、そんなことして大丈夫なのか﹂
﹁へへっ、心配ねぇよ﹂
巨漢は鉄格子の戸を完全に開け放つと、中へずんずんと入ってい
き、少女の手枷を掴む。
﹁おらっ、立て!﹂
﹁い、いやっ、やめて﹂
少女が抵抗する。
力が強いというのは本当のようで、体格差にもかかわらず巨漢は
手を焼いているようだった。
しかしその時︱︱︱︱少女の首輪の、力の流れが増した。
首元に光る呪印が浮かび上がる。それと同時に、神魔の少女が苦

1224
しみ出す。
﹁うぐっ⋮⋮かはっ⋮⋮﹂
﹁手間をかけさせるからだ。ったく﹂
巨漢はぐったりする少女の手枷を引き、檻の外へと連れ出した。
ぼくは呟く。
﹁今のは⋮⋮﹂
﹁隷属の首輪が働いたようですな﹂
何気なく言ったエルマンへ、ぼくは問う。
﹁なんだそれは?﹂
﹁奴隷の抵抗を防ぐ首輪です。魔道具の一種でして、逃げ出そうと
したり、主人に逆らったり、あるいは無理矢理首輪を外そうとした
場合、先のように苦しみ始めるのです。これがあるからこそ、安全
に神魔を扱えておりまして﹂
﹁普通の奴隷より大人しくなるから、こっちも楽で助かるぜ。いつ
もは反抗的な奴隷がいると、檻をぶっ叩かなきゃならねぇからな﹂
﹁ふうん⋮⋮初めて聞いたな、そんな物﹂
﹁高価な代物でして、このような危険な奴隷でもない限り普通は用
いません。採算が取れませんので﹂
だろうな、とぼくは思う。
なかなか複雑な呪物だ。そう簡単に量産できるとは思えない。
﹁で、どうだいお客さん﹂
巨漢が手枷を持ち上げ、神魔の奴隷をぼくの前に突き出した。

1225
薄い貫頭衣が肌に貼り付き、少女の体の線が露わになる。
﹁こんな危ない奴隷、何に使うか知らねぇが⋮⋮こいつは上等なも
んだぜ。闘技場へ送るにも、護衛にするにも申し分ねぇ。ツラはい
いし、肉付きもまあまあだ。この肌が俺には気色悪ぃが、そっちの
楽しみもできるんじゃねぇか。興味があるなら裸を見てみるかい?
いいよな、エルマンの旦那?﹂
そう言って、巨漢が少女の貫頭衣に手をかけた。
裾が持ち上げられ、白い太腿とそこに走る黒の線が露わになるが、
神魔の少女は虚ろな目をしたまま抵抗の気配もない。
ぼくは嘆息する。
実際のところ、こちらは人を探しに来ただけで買う気はまったく
ないのだ。いくら奴隷とはいえ、剥かれ損ではこの娘もかわいそう
だろう。
あとアミュたちの視線も気になる。
そんなことを考え、断りの言葉を言おうとしたその時︱︱︱︱ガ
キリッ、という何かが砕ける音が倉庫内に響き渡った。
﹁⋮⋮?﹂
何の音かと、皆が不思議そうに周囲を見回す。
そんな中⋮⋮ぼくだけは、何が起こったのかを把握していた。
﹁ッ⋮⋮!﹂
足元のネズミの視界に意識を向ける。

1226
フードの下で怒りの形相を浮かべ、強く拳を握るノズロの篭手か
らは、粉のような物がぱらぱらと落ちていた。
どうやら、いつの間にか握り込んでいた石か何かを粉砕したらし
い。
ぼくはわずかに目を細め、口を開く。
﹁そう猛るな、ノズロ﹂
﹁っ!?﹂
ノズロがはっとしたように、ぼくへ視線を向ける。
﹁な、何を⋮⋮﹂
﹁そういえば、神魔はお前の父の仇だったな。まあ抑えろ。お前の
拳でも簡単に壊れない、もっと頑丈そうな奴隷を見繕ってやる。だ
から︱︱︱︱妙な真似はするな﹂
ノズロを横目で睨み、ぼくは告げた。
神魔の武闘家は一瞬押し黙った後、うなずく。
﹁⋮⋮わかった﹂
﹁そういうわけだ、エルマン。他を見せてくれ﹂
﹁かしこまりました。⋮⋮おい、そいつは檻に戻しておけ﹂
﹁へいへい。⋮⋮よかったなぁ、買われなくて。お前じゃ弱っちす
ぎるとよ。ほら、早く戻れ。⋮⋮それにしても、そっちのお客さん
は親の仇が魔族なのかい? 珍しいなぁ、こんな時代に。そんな話、
俺はひいじいさんからしか聞いたことないぜ⋮⋮﹂
ぼくらは巨漢の案内で、倉庫に並ぶ檻を見ていく。
中にいるのは、全員が神魔だ。その首には例外なく、隷属の首輪

1227
が嵌められている。
しかし⋮⋮、
﹁⋮⋮女子供ばかりだな﹂
﹁そればかりはご容赦を﹂
エルマンが苦笑と共に言う。
﹁成熟した男の神魔を捕縛できる者など⋮⋮そうはいないもので﹂
﹁捕縛? なんだ、やっぱりこいつらは魔族領から攫われてきたの
か﹂
﹁いやはや⋮⋮。言い訳になりますが、一応帝国法には背いており
ませんので﹂
﹁ふん﹂
鼻を鳴らしながら、ぼくはわずかに後ろへ下がり⋮⋮張り詰めた
表情で周りの檻を見回す、ルルムへと耳打ちする。
﹁⋮⋮いたか?﹂
ルルムは無言で首を横に振った。
やがて⋮⋮ぼくらは、倉庫の端へとたどり着いてしまった。
﹁ん? これで終わりか?﹂
﹁ええ。いかがでしたか、セイカ殿。気に入った商品はございまし
たか?﹂
にこやかに言うエルマン。
思わず眉をひそめていると、不意にルルムが顔を寄せ、耳打ちし

1228
てきた。
﹁⋮⋮まだいるわ。上よ﹂
倉庫の後ろ半分は、中二階になっている部分があった。
きっと、そこにも奴隷がいるのだろう。
ぼくは奴隷商へと言う。
﹁ぼくの記憶違いか、エルマン。確かさっき、お前は在庫が十五だ
と言っていたはずだが。まだ十一しか見ていないぞ、残りはこの上
か?﹂
﹁いることはいるのですが⋮⋮残念ながらお見せできかねます﹂
エルマンが困ったように言う。
﹁恥ずかしながら少々手違いがあり、隷属の首輪が十分な数用意で
きなかったのです。そのため奴隷の内の幾人かは、少々手荒な方法
で手なずけなければならず⋮⋮今は、到底売り物にならない状態で
して﹂
﹁ひどい傷があるということか? そんなもの構わない。見させて
もらうぞ﹂
そう言って、中二階への階段へ向かおうとする。
だがその時、目の前に巨漢が立ち塞がった。
﹁おいおいお客さん。困るぜ、勝手なことされちゃ﹂
﹁どけ﹂
﹁いいや、どくわけにはいかねぇな。借主が見せられねぇっつって
んだ、ここは通せねぇよ﹂

1229
﹁エルマン﹂
﹁どうかご容赦を。これはワタクシめの、奴隷商としての矜持でご
ざいまして。加えて言えば、この上にはあまり力の強い奴隷は置い
ておりません。セイカ殿のご要望には適わないかと﹂
﹁⋮⋮そうか。ならいい﹂
無理矢理通ってやろうかとも思ったが、やめた。
ここにいるのは、どれも魔族領から攫われてきた者たちなのだ。
十六年前に人間の国へ渡ったという、ルルムの尋ね人がいる可能性
は低い。そこまでする意味はない。
それでも一応、もう少しだけ食い下がってみる。
﹁では、いつ見られる。隷属の首輪とやらが用意できたらか﹂
﹁それが、手配はしているのですが⋮⋮なにぶん貴重な魔道具のた
め、新しい物が用意できるまでにどれだけかかるかわからないもの
で﹂
﹁なんだ。それではいつまで経っても売り物にできないじゃないか﹂
﹁一応、手は講じておりまして、ええ。ルグローク商会に隷属化の
手術を依頼しているところです﹂
その名前を聞いて、ぼくはわずかに目を眇めた。ネズミの視界を
見ると、背後ではメイベルが息をのんだように目を見開いている。
こちらの表情の変化に気づく様子もなく、エルマンは続ける。
﹁あそこは以前より強力な奴隷を扱っていたのですが、実は魔道具
ではなく、手術によって自由な意思を奪っていたようでして。最近
になって突然それを公表し、依頼があれば任意の奴隷にそれを施す
という商売を始めましてな。どのような商態の変化かわかりません
が、渡りに船ということで、早速手紙を出したところです。話がま

1230
とまれば、ルグロークの医術者がこちらへ出張ってくる手はずにな
っております﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁費用は決して安くないのですが⋮⋮どのような商品に仕上がるか、
ワタクシめも少々楽しみでございまして。興味がおありならば、セ
イカ殿もそれまでケルツへご滞在されるのがよいかと﹂
﹁⋮⋮考えておく﹂
まさか、ここでまたその名を聞くとは思わなかった。
帝都での武術大会以来だから⋮⋮二年ぶりか。
またろくでもない商売を始めたようだ。
﹁それで、いかがでしたかな? セイカ殿﹂
エルマンが笑顔で訊ねてくる。
﹁どれか気になる商品はございましたか? 女子供ばかりではあり
ますが、それでも生半可な人間の戦士などよりはよほど剣呑な者ば
かりです。ワタクシめの一押しは、三番に四番、そしてなんと言っ
ても八番ですな﹂
﹁⋮⋮。そうだな⋮⋮﹂
ここらが潮時か、とぼくは思う。
これ以上ここに居座っても仕方ない。尋ね人がいないことはわか
った以上、もう大人しく帰るべきだ。それが当初の約束だったのだ
から。
しかし⋮⋮ルルムとノズロの様子を見る限り、どうもあっさりと
引き下がるようには見えなかった。
二人とも、今すぐにもこの場の全員を殺し、奴隷を助け出しそう

1231
な表情をしている。
同胞がこんな目に遭っているのだ、無理もないだろう。
だが、それは許されない。
ここは人間の国で、人間の道理によって動いている。魔族の勝手
が通る場所ではない。
それに、この人数の奴隷を、全員連れて逃げるなんて不可能だ。
下手をすれば隷属の首輪によって、街を出る前にほとんどの者が死
んでしまうかもしれない。
二人の神魔も、当然その程度のことは理解している。だからこそ、
動けないでいるのだ。
やはり、ここが潮時だろう。
ぼくは口を開く。
﹁悪いがエルマン、お前の奴隷では⋮⋮﹂
その時、服の裾が引っ張られる感覚があった。
思わず顔を向けると、メイベルが縋るような表情でぼくを見上げ
ながら、無言で上着の裾を引っ張っていた。
一瞬の沈黙の後、ぼくは言う。
﹁⋮⋮なんだ、メイベル﹂
﹁セイカ。お願い﹂
﹁何が⋮⋮﹂
﹁お願い﹂
そう言ったきり、メイベルはうつむいてしまった。
それでなんとなく、言いたいことを察したぼくは︱︱︱︱小さく

1232
嘆息すると、苦笑しつつ少女の頭を撫でる。
﹁君までか⋮⋮。まったく、仕方ないな﹂
ぼくはエルマンへ向き直り、言う。
﹁悪いがエルマン、お前の奴隷を見る目は信用できない。人間の奴
隷ならばまだしも、魔族の強さを荒事の経験もない人間がそう簡単
に判断できるとは思えない﹂
﹁ほう。となると⋮⋮セイカ殿がご自身で見出した奴隷がいると?﹂
﹁いや、ぼくでも魔族の強さなどそう簡単にわからない﹂
﹁んん? それは、つまり⋮⋮残念ながら、今回はご縁がなかった、
ということですかな?﹂
﹁いや、神魔の奴隷は希少だ。この機を逃したくはない﹂
﹁え? で、ではつまり⋮⋮どうなさると⋮⋮?﹂
ぼくの意図が掴めないのか、エルマンがここへきて初めて動揺の
気配を見せた。
それを眺めながら、ぼくは口元に笑みを浮かべ、告げる。
﹁全員だ﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁上にいる傷物も含めた、全員を買うと言っているんだ。強さなど、
ぼくがこの手で確かめればいい﹂
呆気にとられる面々の前で、ぼくは少しだけ爽快な気分になりな
がら、最後に言った。
﹁さあ、いくらだ。見積りを持ってこい﹂

1233
第十一話 最強の陰陽師、新パーティーを結成する
﹁⋮⋮高っか﹂
手渡された羊皮紙に書かれた数字を一目見て、ぼくは思わず素で
呟いた。
あれから商館に戻ってきたぼくたちは、見積書を作るので少々お
待ちをとエルマンに言われ、静かにロビーで待つこととなった。
それでようやくできあがったのが、日暮れも差し迫ったつい先ほ
どの時分。応接室にはぼくだけが向かうことにし、残りの面々には
そのままロビーで待っていてもらっている。

1234
﹁えっ、高い? そ、それはそれは⋮⋮﹂
そんなことを言われるとは思わなかったのか、正面に座るエルマ
ンがやや焦ったような素振りを見せた。
﹁これでも、勉強させていただいたつもりなのですが⋮⋮ならばも
う少々、値下げしましても⋮⋮﹂
ぼくは溜息をついた後、顔を上げてエルマンへと言う。
﹁それはそうと、これを作るのにずいぶんかかったな﹂
﹁そ、それは⋮⋮いやはや、申し訳ございません﹂
一瞬目を泳がせたエルマンが、すまなそうな笑みを浮かべて言う。
﹁なにぶん神魔の奴隷を扱うのは、かなり久々なもので⋮⋮副代表
とも相談しつつ、一人一人価格を算出しておりまして⋮⋮﹂
﹁あれと相談?﹂
ぼくは眉をひそめる。
﹁そんなことをして意味があるのか?﹂
﹁え、ええ⋮⋮無論でございます。当会は、ネグとワタクシめの二
人で立ち上げた商会でございますから﹂
そう言って、愛想笑いを浮かべるエルマン。
うさんくさい笑顔の一方で⋮⋮声音にはどこか真摯な響きがあっ
た。

1235
ぼくは、あのおどおどした怨霊使いを思い出す。商人らしさは欠
片もなく、どう考えてもただの用心棒にしか見えなかったが⋮⋮あ
れで意外と、計算が得意だったりするのだろうか?
いぶか
少々訝しく思いつつ、ぼくは言う。
﹁というか、どうして今さら売値になど悩んでいたんだ。仕入れ値
を支払った時点で、商人ならばいくらで売るか想定しておくものじ
ゃないのか﹂
﹁いやはや⋮⋮お恥ずかしい。初めから競売にかけるつもりだった
もので、値付けについてはまったく考えておりませんで、はい﹂
﹁それでも、相場くらいあるだろう。久々に扱うと言っていたが、
以前の売値を参考にできなかったのか?﹂
﹁それが、こういった特殊な奴隷は、相場もあってないようなもの
でございまして。加えて過去に一度だけ扱った商品は、成熟した男
の神魔だったもので、同額というわけにもいかず⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふうん。まあいい﹂
そう言って、ぼくは羊皮紙を持ったまま席を立つ。
﹁セ、セイカ殿?﹂
エルマンがわずかに身を乗り出し、動揺したような声を出した。
﹁あの、先にも申しました通り、予算が厳しいようであればもう少
々値下げすることも⋮⋮﹂
﹁エルマン﹂
ぼくは、奴隷商を見下ろしながら言う。
﹁ルグロークの医術者がやって来るのはいつだ?﹂

1236
****
ぼくらが宿へ戻った頃には、日はすっかり沈んでいた。
﹁⋮⋮﹂
ちなみに、部屋の雰囲気も沈んでいる。
今後について話し合うためにルルムとノズロも連れてきたのだが、
五人も居ながら喋る者は誰もいない。
おそらくは、ぼくの伝えた奴隷全員分の金額が予想よりもずっと
高かったせいで、皆途方に暮れているのだろう。
﹁⋮⋮どうするわけ﹂
アミュが重々しく口を開く。
﹁あたしたち、さすがにそんな大金は用意できないわよ﹂
全員が沈黙を返した。
当たり前だ。一般的な奴隷の相場以上の額を、十五人分。そんな
大金、普通は用意できるものじゃない。
イーファが恐る恐る言う。
﹁で、でも⋮⋮みんなでギルドから借りたりすれば、もしかしたら
⋮⋮﹂

1237
﹁そうだな。スタンピードでの功績があるぼくらなら、あるいはこ
のくらいの額なら用立てられるかもしれない﹂
しかし、ぼくは突き放すように言う。
﹁だが︱︱︱︱そこまでしてやる義理はない。ぼくらにも生活があ
るんだ。信用を失いかねないほどの借金をしてまで、わざわざ魔族
を助けてやる理由がない﹂
﹁っ⋮⋮﹂
イーファが目を伏せて押し黙った。
いくらなんでも無理があるということは、彼女も自分でわかって
いたことだろう。
﹁⋮⋮そうね。もう十分﹂
その時、ルルムが静かに口を開いた。
﹁元々、これは私たちの問題だもの。ここまでしてもらって、お金
まで出してもらうわけにはいかないわ﹂
﹁そうだ。この先は我々が考えるべきことだ﹂
ノズロが話を継ぐ。
﹁貴様らには、ずいぶんと世話になった。感謝する。だが⋮⋮これ
以上の心配は無用だ﹂
﹁大したお礼はできないけど、故郷から持ってきた宝石を受け取っ
てちょうだい。きっといい値がつくはずだから⋮⋮﹂
そう言って懐を漁りだしたルルムへ、ぼくは言う。

1238
﹁それはいいが、これからどうするつもりなんだ。奴隷になってい
る同胞のことはあきらめるのか?﹂
ルルムが手を止めた。
ぼくはなおも言う。
﹁まさか、力尽くで奪還しようだなんて考えていないだろうな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁倉庫の場所と構造、見張りの位置がわかったからずいぶんとやり
やすくなっただろうが、ぼくはそんなつもりで奴隷商に取り次いだ
わけじゃないぞ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それなら、どうすればいいの﹂
ルルムはぼくと目を合わせないまま、思い詰めた表情で言った。
﹁あんなところで、あんな風に捕まっている仲間のことを⋮⋮見捨
てろって言うの?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私たちの探している人は、あの中にはいなかったわ。知人がいた
わけでもない。きっとあの上に捕まっている者たちも、私たちとは
無関係な神魔だと思う。でも⋮⋮放っておけないわ。ねえ、あなた
だったらどう? もし魔族領へ来て、人間があんな風に扱われてい
ても、平気でいられる?﹂
﹁⋮⋮﹂
かどわ
﹁⋮⋮人攫いに拐かされた仲間を、同郷の者が助けるというだけの
話だ﹂
ノズロがおもむろに言う。

1239
﹁人間の国ではよくある揉め事だろう。我々はこれから他人に戻り、
貴様はよくある揉め事を、ただ傍観していればいい。それだけのこ
とだ﹂
﹁悪いが﹂
ぼくはそれに答える。
﹁人間同士の揉め事ならばともかく⋮⋮人の国で、人ならざる者が
働く狼藉を、黙って見過ごすつもりはない﹂
人を襲う獣や妖を捨て置けば、いずれ必ず自分にまで累がおよぶ。
ラカナのスタンピードとは違い、誰にも覚られず二人の魔族を消
す程度、ぼくには造作もない。ためらう理由がなかった。
﹁やめておくことだ。ぼくを相手取りたくなければ﹂
二人の魔族は、沈痛な面持ちで押し黙った。
さすがに、森での一件で実力差は察しているようだ。
加えて、この二人には人を探すという本来の目的がある。こんな
ところで危険を冒すわけにはいかないはずだった。
しかし⋮⋮感情は別だろう。
どうしようもなく沈黙を続ける二人に︱︱︱︱ぼくは、溜息をつ
いて言う。
﹁ぼくは一級冒険者だ﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁つまり、どれだけ報酬の高い依頼だろうと受けられる﹂

1240
やや口ごもりながら続ける。
﹁前にも言ったが、ぼくは知人のことはなるべく助けるようにして
いる。こうして言葉を交わしたのも一つの縁だ。だから、その⋮⋮
神魔なのだから、君らもそれなりに強いんだろう? 割のいい依頼
をどれでも受けてやるから、それで金を貯めて仲間を買い戻せばい
い﹂
﹁⋮⋮!?﹂
ルルムとノズロが、驚いたように顔を上げた。
ぼくはわずかに目を伏せながら、そのままの調子で説明する。
﹁ルグロークの医術者が来るまで、最低一月はかかるそうだ。帝都
への移送はその後になるから、ひとまずそれまで取り置かせてある﹂
買う気はあるが、金の用意に時間がかかると言ったら、エルマン
はあっさりと納得した。
人一人が一生を遊んで暮らせるほどの額だ。金貨でも相当な量に
なる。たとえ帝都の金持ちでも、今日明日で用意できるようなもの
ではないから当然だろう。
﹁一月かけて高額な依頼をこなせば、なんとか稼げる額のはずだ。
金を貸してやる気はないが⋮⋮依頼の手伝いくらいならしてやって
もいい﹂
﹁ど、どうして⋮⋮?﹂
ルルムの呟きには答えず、ぼくは傍らにいたメイベルへと目を向
けて言う。
﹁これでいいか? メイベル﹂

1241
目を丸くしていたメイベルは、急に名前を呼ばれ、呆けたように
うなずく。
﹁う⋮⋮うん﹂
﹁そうか﹂
ぼくは気を抜いて笑う。
﹁まったく⋮⋮君にはもう関わりのないことなんだから、気にする
必要はないのに﹂
﹁そ、それでも⋮⋮もう誰も、兄さんのようにはなってほしくなか
ったから﹂
そう言って目を伏せるメイベルの頭を撫でてやると、おもむろに
少女が顔を上げる。
﹁でも、よかったの? セイカ。あんまり、深入りしたくなさそう
だった、けど⋮⋮﹂
﹁君に頼まれなかったら、ここまではしなかったな。まあこのくら
いいいさ。あとは、この二人次第だ﹂
ぼくは、言葉を失っている様子のルルムとノズロへ目を向ける。
﹁それで、どうする﹂
﹁⋮⋮⋮⋮同胞を助けられるのならば、願ってもないことだ﹂
口を開いたのは、ノズロだった。
神魔の大男は、ぼくへ真っ直ぐに目を向けて言う。

1242
﹁ぜひ、頼みたい﹂
狭い部屋が、小さく沸いた。
アミュとイーファも笑顔を浮かべ、ほっとしたような表情をして
いる。
﹁セイカ、というのだったわね。ありがとう﹂
神妙な顔で礼を言ったルルムは、それから柔らかい笑みを浮かべ
て、メイベルへと言う。
﹁それに、メイベルさんも。何があったのかは知らないけれど⋮⋮
あなたのおかげで、私たちは仲間を助けられそうよ﹂
﹁いい﹂
それだけ言って首を横に振るメイベルだったが、その顔はどこか
うれしそう見えた。
﹁えへへ、じゃ、みんなでがんばろっか!﹂
﹁さっそく明日の朝、ギルドへ行くわよ。あたしがおいしい依頼を
選んであげるわ﹂
﹁アミュに任せると、まためんどくさい依頼、選びそう﹂
﹁今度は大丈夫よ!﹂
わいわいと騒ぎ出す女性陣を眺めていると、ルルムがすすっと近
くへ寄ってきた。
思わず怪訝な顔になるぼくへ、小声で言う。
﹁あなたはその、もしかして⋮⋮あの子たちより、ずっと年上だっ
たりするのかしら?﹂

1243
﹁⋮⋮。いや、ほぼ同い年だが、どうしてだ?﹂
一瞬どきりとしたものの、ぼくは平然と訊き返す。
ルルムは、言葉に迷うように言う。
﹁いえ⋮⋮なんだか、そう見えたものだから﹂
﹁⋮⋮﹂
当たり前だが、転生してからこれまで年齢を疑われたことはなか
った。
人間は見た目で歳を推し量れるから、疑われる理由がない。しか
しひょっとすると⋮⋮寿命の長い魔族ではそういう常識が通じない
のかもしれない。容姿が同じでも、年齢が大きく違うこともありえ
る。
別に転生を見破られたわけではなく、ただ文化の違いだろう。
ぼくはおどけたように答える。
﹁そんなに老けて見えるか? 傷つくな﹂
﹁見た目ではなく、中身の話なんだけど⋮⋮﹂
﹁人間の中身なんて、見た目以上にバラバラだ。あの子らはあの子
ら。ぼくはぼくというだけだよ﹂
﹁ううん⋮⋮いえ、そうね。ごめんなさい﹂
ルルムは、誤魔化すように笑って言う。
﹁私の思い違いだったみたい。思えば、私たちの中にもたまにいる
もの。ちょっと年寄り臭い人﹂
﹁失礼な﹂

1244
年寄り臭いはやめろ。
第十二話 最強の陰陽師、再挑戦する
翌日。ぼくたち六人はケルツ近くの森へやって来ていた。
そう、あのアルミラージが出る森だ。
﹁ねえ、本当によかったわけ?﹂
アミュが二人の神魔へと訊ねる。
﹁アルミラージ狩りの依頼なんか受けて。あたしたち、もっと高い
依頼をたくさんこなさなきゃならないんじゃないの?﹂
アミュの言う通り。

1245
ルルムとノズロがまず選んだのは、ぼくたちが先日あきらめたア
ルミラージ狩りの依頼だった。
﹁いいのよ﹂
ルルムが小さな笑みと共に言う。
﹁この依頼は場所が近いから、一日で終わる。効率で言えば悪くな
いわ﹂
﹁あたしたちも最初はそう思ってたけど⋮⋮﹂
﹁大丈夫。見てて﹂
前方には、一匹のアルミラージがさっそく現れていた。
ぼくらを睨みつけながら角を揺らすウサギ型モンスターへ向かい、
ノズロが一歩歩み出る。
唐突に、アルミラージが地を蹴った。
鋭い角を大柄な神魔へと向け、飛ぶように突っ込んでくる。
緩く拳を構えるノズロは⋮⋮半身を引くことで、その突進を躱す
かに見えた。
だが、ウサギの小さな体とのすれ違い際。
﹁フッ!﹂
目にも止まらぬ鋭利な手刀が放たれ︱︱︱︱アルミラージの角を
叩き折った。
﹁ギッ!?﹂

1246
ウサギ型モンスターが鈍く鳴いて、森の地面に転がる。
そしてあっという間に、木々の合間を縫って逃げていってしまっ
た。
﹁あーあ⋮⋮﹂
アミュが残念そうに呟く。
﹁あんた、ずいぶんすごいことするけど⋮⋮逃げられちゃったわよ
?﹂
﹁いや﹂
短く言って、ノズロが下草の中に転がっていた角を拾い上げた。
それをぼくらに示す。
﹁一匹目だ﹂
﹁え⋮⋮ええっ!? そんなのあり⋮⋮?﹂
アミュが困惑したように言う。
﹁たしかに、角が討伐の証明だけど⋮⋮これ、詐欺じゃない?﹂
﹁別に構わないだろう﹂
ノズロが淡々と説明する。
﹁この依頼の趣旨は、モンスターを減らすことではない。小型のモ
ンスターを五十匹程度倒したところで意味はない。要は、街道にモ
ンスターを近づけなければいいのだ。角の折れたアルミラージは、
当面の間人間の生活圏へ姿を見せなくなるだろう。ならば問題ある

1247
まい﹂
﹁そ、それでいいのかしら⋮⋮?﹂
﹁モンスターも自然の一部だ。過度に摘み取れば必ず報いを受ける
と、故郷では幼い頃に教わる﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
﹁まあ、いいんじゃないか? そう固く考えなくても。依頼人の目
的に沿うならいいだろう﹂
ぼくは言う。
﹁もっとも、ここからが大変だと思うけど﹂
****
それから数刻後。
案の定、ぼくらを見て襲ってくるアルミラージの数は激減してい
た。
先日と同じように、すっかり警戒されてしまったらしい。
﹁や、やっぱりこうなっちゃったね⋮⋮﹂
イーファが疲れたように言う。
﹁しっ⋮⋮!﹂
その時、ルルムが不意に足を止めた。
全員が動きを止めたのを見計らうと、木々の向こうを黙って指さ
す。

1248
﹁あっ⋮⋮﹂
イーファが、微かに声を上げた。
指さした先には、一匹のアルミラージが佇んでいた。
ただし、かなり遠い。
よく見つけられたというほどの距離だ。木々が重ならない奇跡的
な位置に、薄茶の体がかろうじて見えるという程度。これほど離れ
ていれば、向こうもこちらには気づいていないだろう。
おもむろに、ルルムが背中の弓を取った。
ぼくは思わず眉をひそめる。
ここから狙うのは、いくらなんでも現実的じゃない。加えて、ル
ルムの弓は取り回しを優先した短弓だ。当てることくらいはできる
かもしれないが⋮⋮威力も正確さもなければ、ただ逃げられるだけ
だ。
ぼくの不安を余所に、ルルムは弓を構え、矢をつがえる。
やじり
その時ふと︱︱︱︱鏃から力の流れを感じた。
その正体を確かめる間もなく、ルルムは矢を放った。
見た目以上に強弓なのか、矢は直線に近い軌道を描き⋮⋮アルミ
ラージの後ろ肢へと命中する。
﹁ギッ⋮⋮!?﹂
近くにいた式神が、アルミラージの短い苦鳴を聞き取る。
致命傷にはほど遠い。
逃げられる、と思った。

1249
だが次の瞬間︱︱︱︱鏃を起点に急激な力の流れが現れると同時
に、水属性魔法による氷が生み出される。
氷はあっという間にアルミラージの小さな体を覆い尽くし、やが
てごつごつした一つの氷塊へと変えてしまった。
ごろんと横倒しになったまま、アルミラージは動かない。
一連の光景を目を凝らして見ていたアミュが、呆気にとられたよ
うに呟く。
エンチャンター
﹁あの矢⋮⋮もしかして魔道具? あんたって、付与術士だったの
?﹂
﹁ええ。おもしろいでしょ、あの矢﹂
ルルムが、少しだけ誇らしげに言った。
エンチャンター
付与術士とは、器物に魔法を込める魔術師、要するに魔道具職人
のことだ。
魔力測定の水晶玉や災厄除けの護符など、こちらの世界では魔道
具と呼ばれる有用な呪物が少なくない。だから、特に珍しい魔術師
エンチャンター
ではなかったが⋮⋮魔族の付与術士とは意外だった。
生まれながらに魔法を扱える彼らは、もっと奔放に魔法を使うイ
メージだったから。
魔族が作った魔道具も出回っているから、むしろいて当然ではあ
るんだけど。
アミュが言う。
﹁矢はすごいと思うけど⋮⋮魔族にも、魔道具を作る人がいたのね﹂
﹁魔道具職人くらい、どんな種族にもいるわ。なに? 私たちはも
っと、蛮族みたいな種族だと思ってた?﹂

1250
﹁そうじゃなくて⋮⋮神魔ってこう、無詠唱ですごい魔法使うとか、
そういうイメージだったから。思ったより地味で意外だったのよ﹂
﹁じ、じ、地味!?﹂
なんだかぼくと同じようなことを思っていたらしいアミュの言い
ように、ルルムが口をあんぐりと開ける。
エンチャンター
﹁人間の国では知らないけど、付与術士は故郷では尊敬されている
んだからね!? もちろん私だって⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ふっ﹂
﹁なに? ノズロ。あなたなんで今笑ったの﹂
﹁い、いや⋮⋮﹂
真顔で詰めるルルムに、神魔の武闘家がうろたえる。
その様子に、ぼくは思わず口を挟む。
﹁なあ。喧嘩もいいけど、この近くにはけっこうアルミラージがい
るみたいだぞ﹂
﹁わかってるわ﹂
鼻を鳴らして、ルルムが答える。
森を見渡すその目は︱︱︱︱どういうわけか、木々や茂みに隠れ
るアルミラージの群れを捉えられているように見えた。
﹁私の矢にも限りがあるから⋮⋮ここからは、全員で追い込むこと
にしましょう。手伝ってくれる?﹂
****

1251
そして、数刻後。
﹁えいっ!﹂
イーファの精霊魔法による風の槍が、アルミラージの角を根元か
ら折る。
傷を負った本体は逃げていくが⋮⋮それで終了だった。
﹁やったーっ! これで五十匹達成ね!﹂
アミュが万歳し、弾んだ声を上げた。
﹁まさか、本当に一日で終わるとは思わなかったわ!﹂
空を見ると、まだ日は高い。
これならギルドに戻って依頼の達成を報告し、さらに次の依頼を
選ぶくらいの時間はありそうだった。
メイベルが微妙に残念そうな顔で言う。
﹁なんだか、ほとんどなんにもしなかった、気がする﹂
﹁あんた今回役立たずだったわねー﹂
﹁⋮⋮うるさい﹂
﹁もう⋮⋮そんなことないよ。わたしのこと守ってくれたじゃない﹂
﹁そうだった﹂
ふと、アミュがルルムたちの方を向いて言う。
﹁でも、やっぱり六人パーティーだと違うわね。あんたたちがいて

1252
助かったわ﹂
﹁パーティー⋮⋮﹂
ルルムが小さく呟き、それから首を横に振った。
﹁いいえ、助けられたのは私たちの方よ﹂
﹁そういえばそうだったわね。だけど、あたしたちもこの依頼を達
成できてすっきりしたわ。なんだか中途半端だったから﹂
アミュがにっと笑って言う。
﹁次は、もっと高い依頼にしましょう。せっかく六人パーティーを
組んだんだもの﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
ルルムが、釣られたように笑った。
それからふと、不思議そうな顔をして、ぼくへと訊ねる。
﹁そういえば⋮⋮あなたは今回、手を出さなかったのね﹂
﹁ん?﹂
サモナー
﹁召喚士なのに、何も召喚しなかったじゃない。大きなモンスター
を使えば、もっと一度にたくさんのアルミラージを追い込めたかも
しれないのに⋮⋮﹂
サモナー
﹁ぼくは召喚士じゃないぞ。それに、この子らと冒険に行く時はい
つもこうだ﹂
﹁え?﹂
ヒーラー
﹁セイカは、回復職。モンスターを倒すのは、私たち﹂
﹁ええ?﹂
﹁ダンジョンでは灯りもつけてくれてるよね﹂
ポーター
﹁あと、運搬職の仕事もね。でもそれくらいかしら。なんかすごい、

1253
わけのわかんない魔法も使えるけど、そういうのは冒険ではなし!
ってことにしてるわ﹂
﹁ええ⋮⋮ど、どういうこと⋮⋮?﹂
ルルムが困惑したように言う。
﹁私が言うことではないかもしれないけど⋮⋮もったいないのでは
ないかしら? そんな力を持っているのに⋮⋮﹂
﹁いや、ぼくらはこれでいいんだ﹂
ぼくは微笑と共に言う。
﹁貸しばかり作るのも、借りばかり作るのもよくないからな﹂
﹁借りばかり⋮⋮⋮⋮そうね﹂
何か思うところがあったかのように、ルルムが呟いた。
﹁そうかもしれないわ﹂
1254
第十三話 最強の陰陽師、依頼をこなす
アルミラージの角を五十本納品し、達成報酬を受け取ったぼくた
ちは、さっそく次の依頼を受けることにした。
そうしてやって来たのが、とある村からほど近いこの谷だ。
﹁来るわよっ!﹂
アミュの声とほぼ同時に、前方で怒りの鼻息を吹いていた巨大な
猪︱︱︱︱ヒュージボアが地を蹴った。
ぼくは、平然とそれを眺める。
それにしてもでかい。小山のような大きさだった。ランプローグ

1255
家の屋敷で出くわしたエルダーニュートに近い大きさだが、体高の
分こちらの方が威圧感がある。
近くの村から出された依頼が、このヒュージボアの討伐だった。
どうやらここ数年、猪系のモンスターがこの辺りで急増しており、
山に入る猟師や木こりが困っていたのだとか。
おそらくボスとなる個体が現れたためで、初めはラージボア程度
だと思われていたそうなのだが⋮⋮実はこの大物だったことが逃げ
帰ってきた冒険者の証言でわかり、ケルツやラカナの支部にまで依
頼を出すこととなったらしい。
ヒュージボアは、紛れもない上位モンスターだ。
依頼の受注条件は四級以上。決して易しい相手じゃない。
しかし⋮⋮ぼくはそれほど心配していなかった。
﹁下がっていろ﹂
その時、ノズロがすっと前へ歩み出た。
進行方向の岩を小石のように弾き飛ばしながら迫るヒュージボア
を、真っ直ぐに見据えている。
道中では中位モンスターのサベージボアを何体も蹴り倒してきた
この神魔の武闘家だが⋮⋮果たしてこの巨獣にはどう対応するつも
りなのか。
ノズロは片足を引いて重心を落とし、拳を腰だめに構えた。
大地を抉るように蹴って加速するヒュージボアは⋮⋮おそらく気
づいていないだろう。
この魔族の内を巡る、強大な力の流れに。

1256
そして、いよいよ二者が激突するその時︱︱︱︱、
﹁フッ!!﹂
巨大な猪の鼻面に向け︱︱︱︱弩砲のような中段突きが放たれた。
凄まじい衝撃に、ノズロの踏みしめる周囲の土が、同心円状に舞
い上がる。
﹁ブィィッ!!﹂
ヒュージボアが、重低音の呻き声を上げた。
突進の勢いを完全に殺され、ひるんだようによろめいている。
だが、まだだった。
頭を振るヒュージボアは︱︱︱︱次いでその目に怒りを湛え、鋭
い牙を矮小な魔族へと向ける。
しかしそれを振るう寸前、動きが止まった。
気を取られたのだ。大柄なノズロの肩を軽やかに蹴り、自身の頭
上へと跳んだ、メイベルの影に。
少女は、すでに戦斧を振り上げていた。
ヒュージボアは、おそらく迷ったことだろう。
物の重さというのは、直接触れずともその様子からなんとなく予
想できる。
大きさや、その動き。踏み台にされたノズロが微動だにせず、高
く跳ぶことができたメイベルは、明らかに軽い⋮⋮つまり、取るに
足らない存在に見えたはずだった。
だからこそ︱︱︱︱頭へと振り下ろされた戦斧を、避けようとも

1257
しなかった。
﹁ブィ⋮⋮ッ!?﹂
谷中に響き渡るような、鈍い衝撃音が轟いた。
確かな手応えを感じたのか、埋まるほどに深く頭部に突き立った
戦斧の柄から、メイベルは手を離す。
重力魔法で常軌を逸した威力となっていた戦斧は、ヒュージボア
の分厚い頭骨をも、完全に砕いたようだった。
巨大な猪型モンスターが、ゆっくりと傾き、やがてどう、と横倒
しに倒れる。
巨体が地を揺らす頃にはすでに、メイベルは死骸を蹴って下草の
上へと降り立っていた。
﹁⋮⋮ふう﹂
メイベルは一仕事終えたように息を吐く。
表情はあまり変わらないものの、どこか満足げだった。
﹁どのように身につけた技か知らぬが⋮⋮大したものだな﹂
歩み寄った神魔の武闘家が、小柄な少女を見下ろしながら言った。
メイベルはノズロを振り仰ぐと、不敵な笑みを小さく浮かべて言
う。
﹁あなたも、ね﹂
そんな様子を、ぼくらはただ眺める。

1258
なんか、いつのまにか終わってしまった。
﹁あたしまだ、なんにもしてないんだけど⋮⋮﹂
﹁わ、わたしも⋮⋮﹂
アミュとイーファが、微妙な表情で呟く。
ルルムも苦笑しながら言う。
﹁ノズロは、ヒュージボアくらいなら一人でも倒せるから⋮⋮でも、
きっとメイベルさんもそうなのでしょうね﹂
それから、嬉しそうな顔になる。
﹁ともかく、これでまた依頼達成ね﹂
****
ヒュージボアの牙を納品し、達成報酬を受け取ったぼくたちは、
またすぐに次の依頼を受けることにした。
そうしてやって来たのが、大農園に近いこの森だ。
﹁ええええ、なにあれ⋮⋮﹂
イーファが気味悪そうな声を上げる。
ぼくらの目の前に立ち塞がるのは、植物系モンスターの代表種、
トレントだ。

1259
ただし、普通のトレントではない。
樹木が根を動かし歩き回っている点は変わらないのだが⋮⋮ずい
ぶんと不気味な姿だ。幹は微かに紫がかった黒色。蔓のように曲が
りくねった枝が何本も伸びており、所々に粘菌のようなヘドロ状の
液体を垂らしている。洞のような口と目も、普通のトレントよりず
っと邪悪そうに見える。
上位種であり、闇属性魔法まで使ってくるトレント︱︱︱︱イビ
ルトレントというモンスターだった。
﹁ボォォォォ⋮⋮!﹂
洞の口が、威嚇の声を上げた。
あるいは久々の獲物へ出くわしたことに対する、歓喜の声だった
かもしれない。
どっちでもよかった。このモンスターが、今回の討伐対象なのだ
から。
依頼主は、近くにある大農園の経営者だ。
たまたま出くわした森番からの報告で、このモンスターの存在を
知ったらしい。
これまでに被害があったわけではないのだが、近くに恐ろしいモ
ンスターがいるとなると、やはり不安なのだろう。すぐにギルドへ
討伐の依頼を出したらしかった。
農園が儲かっているためか、報酬もずいぶんと高額。ありがたい
ことだ。
イビルトレントは、もちろん上位モンスター。受注条件は四級以
上だ。

1260
こういった依頼は、報酬が高額でもすぐに達成されてしまうとは
限らない。これまでにいくつかのパーティーが失敗し、帰ってこな
かったらしい。
とはいえ、今回もぼくはそれほど心配していない。
﹁ボォッ!﹂
イビルトレントが枝を触手のように伸ばしてくる。
樹のくせに、それは意外なほど俊敏な動きだった。
﹁っ、と!﹂
アミュが軽く躱し、流れるような動作で枝を切り払う。
さらに、頭上を迂回し後衛へと伸びる枝を、下から氷の槍が貫く。
左右から挟撃してくる枝を風の刃で断ち、追撃の枝を岩の砲弾が潰
す。
剣にも魔法にもそつがない。
本来なら数人がかりでするような前衛の仕事を、アミュは一人で
こなしていた。
あらゆる獣を凌駕するであろう上位モンスターの攻撃が、ただ一
人の少女剣士によってすべて防がれている。
﹁あははっ、さすがにキツいわねー!﹂
と言いつつも、同じ前衛のメイベルやノズロに助けを求める様子
もない。まだまだ余裕そうだ。
こうして見ると、この子の持つ才のほどがよくわかる。

1261
﹁ボォォ⋮⋮ッ!﹂
イビルトレントが、苛立ったように枝で周囲を打ち据える。
その時︱︱︱︱黒々とした洞の口が、がばりと大きく開いた。
﹁ボオオォォォォォォォォ︱︱︱︱ッ!!﹂
﹁いっ!?﹂
アミュが、びくりと体を竦ませた。
肉薄する枝を慌てて切り払うが⋮⋮先ほどまでの精彩がない。手
数に押されるように、徐々に後退していく。
ハウル
イビルトレントの咆哮だった。
トレント系のモンスターが使ってくるとは聞いたことがなかった
が、この効果はまさにそれ。そばに控えるイーファやメイベルも、
足が竦んでいる様子だ。
イビルトレントは、どうやら調子を良くしたようだった。根のよ
うな足が蠢き、黒い樹体がぼくらへ迫る。
再び大口が開く。
﹁ボオオォォォォォォォォ︱︱︱︱ッ!!﹂
アミュたちが揃って後ずさる。
そんな中︱︱︱︱短弓に矢をつがえながら、ルルムが鬱陶しそう
に言った。

1262
﹁ずいぶんやかましい樹ね﹂
ふつ、という小気味良い音と共に、小ぶりな矢が放たれる。
それは開ききった洞の口へと真っ直ぐ飛び込んでいき︱︱︱︱直
後、内側から緋色の炎が爆発した。
﹁ボォォォォォォッ!?﹂
イビルトレントが絶叫を上げる。
枝をめちゃくちゃに振り回して暴れ回るが、自身の内側から燃え
すべ
上がる炎を消す術は、さすがに持っていないようだった。
醜悪な樹のモンスターはやがて動きを止めると、めきめきという
音と共に、森の土へと緩慢に倒れ伏す。
モンスターの死骸で燃え盛っていた炎は、次第に勢いを弱めてい
った。
明らかに自然な現象ではない。火災防止のためか、鏃に元々その
ような効果が付与されていたようだった。
魔道具には、術士の腕次第でかなり複雑な効果も込められる。
上位モンスターであるイビルトレントをただの一射で仕留めたこ
とからもわかるとおり、かなり上等な鏃を使ったらしい。
エンチャンター
付与術士として、ルルムはそれだけの実力を持っているのだろう。
一連の様子をぽかんとしながら眺めていたアミュへ、ルルムが自
慢げな笑みと共に話しかける。
﹁どう? これでも地味かしら?﹂
﹁う、ううん﹂

1263
アミュが首を横に振る。
ハウル
﹁ねえ、あんたさっき普通に動いてたけど⋮⋮神魔って咆哮効かな
いわけ?﹂
﹁効かないわけではないけれど、あれくらい平気。あなたは、ずい
ぶん怖がっていたわね﹂
﹁し、仕方ないでしょっ﹂
﹁ふふっ、人間って繊細なのね。あなたはそんなに剣も魔法も上手
なのに。最初に遊ばなければ、一人でも倒せたくらいじゃないかし
ら?﹂
﹁うーん⋮⋮そうね。いけたかも。あたし、今までも何度か上位モ
ンスターだって倒してるし﹂
アミュがそう言ってうなずく様を、ルルムは少々苦笑しながら聞
いていた。
﹁もう、終わっちゃった﹂
﹁わ、わたし今回もなんにもしなかったよ⋮⋮﹂
メイベルとイーファが、なんとも言えない表情で呟く。
﹁かまわないだろう。早く済むに越したことはない﹂
焼け残ったイビルトレントの樹皮を剥いでいたノズロが、立ち上
がって言った。
﹁次だ﹂
****

1264
イビルトレントの樹皮を納品し、達成報酬を受け取ったぼくたち
は、またすぐに次の依頼を受けることにした。
そうしてやってきたのが、この岩肌の露出する険しい山だ。
﹁あっ、あれじゃない?﹂
山頂付近にぽっかりと空いた、巨大な縦穴洞窟。
それを覗き込んでいたアミュが指を差して言った。
視線の先には、真っ赤な葉を揺らす植物が、岩肌にへばりつくよ
うにして生えている。
﹁わっ、本当に赤いね﹂
﹁あれが、朱金草?﹂
イーファとメイベルが、同じく縦穴を覗き込んで言う。
どうやら、ぼくたちはあれを採ってこなくてはならないらしい。
今回ぼくたちが受けた依頼は、朱金草という珍しい薬草の採取だ
った。
前世では見たことのない植物で、どうやら魔法薬の原料になるら
しい。
妖怪の肉や霊樹の実など、呪力を帯びたものを体に取り入れると、
大抵はろくでもないことが起こる。だから前世では、知識のある人
間ほど避けたものだったが⋮⋮どうやらこちらの世界では、一部の
モンスターや植物に限って、食用や薬になっているようだった。よ
くやるよと思う。

1265
とはいえ、朱金草自体に危険はない。
だから安全そうな割に、報酬が高額な依頼だと思ったのだが⋮⋮
その理由がわかった。あれはなかなか採りに行けない。
しかも道中ではモンスターが出るうえに、姿を現すのは一年の決
まった時期だけ。薬師が自分で採りに行かず、冒険者ギルドへ依頼
を出したのも納得だった。
﹁問題は、どうやって採るかだけれど﹂
ルルムが溜息をついて言う。
﹁困ったわ。せめて縄を用意してくるべきだった﹂
﹁降りるしかないだろう﹂
ノズロが荷物を下ろしながら言う。
﹁戻る時間も惜しい。他に方法はない﹂
﹁ええっ、ここ降りるわけ⋮⋮?﹂
アミュが縦穴の下を覗き込んで言う。
洞窟の奥は奈落の闇で、どれほど深いかわからない。いくら魔族
でも、落ちたらまず助からないだろう。
だが、ノズロは縦穴の縁へと歩きながら言う。
﹁俺一人でいい。お前たちはここにいろ﹂
﹁あ、あの、待ってください﹂
その時、イーファが口を挟んだ。

1266
﹁たぶん、大丈夫だと思いますから﹂
﹁何⋮⋮?﹂
イーファは訝しげなノズロの横を通り、縦穴の縁へと座り込む。
そして遠くの岩肌に茂る赤い薬草へ、そっと右手を向けた。
精霊の魔法による、風の刃が飛ぶ。
それは岩肌の朱金草を数本、まとめて刈り取った。
宙へと散った草が、奈落へと落ちていく。
だが直後、その周囲につむじ風が発生。高く舞上げられた薬草は
そのまま縦穴から飛び出すと、ぼくらの頭上を越え、後ろの草地へ
ぱさぱさと落ちた。
おおー、と皆でどよめく。
﹁え、えへへ⋮⋮﹂
﹁器用なものだな﹂
照れるイーファにノズロが呟くと、ルルムも優しげな声で訊ねる。
エルフ
﹁あなたの魔法は⋮⋮変わっているのね。もしかして、森人が使う
魔法と同じものなのかしら?﹂
エルフ
﹁あの、はい。遠い先祖に、森人の人がいたみたいで⋮⋮﹂
傍らでは、メイベルとアミュが話している。
﹁アミュ、あれできない?﹂
﹁無理無理。刈り取るだけならまだしも、回収できないわよ。イー
ファの魔法って、学園で教えてるような理論があるものとはちょっ

1267
と違うのよね﹂
イーファが張り切ったように言う。
﹁えへへ、じゃあ、もっと採りますね!﹂
と、岩壁の薬草を風の魔法でどんどん採集し始める。
この分なら、納品に必要な量はあっという間に貯まりそうだ。
第十四話 最強の陰陽師、わがままを言う
﹁なあ。ぼくにもいい加減、何かやらせてくれ﹂
ギルドの掲示板の前でそう言うと、全員が、えっ? みたいな顔
でぼくを見た。
朱金草を納品し、達成報酬を受け取ったぼくたちは、またすぐに
次の依頼を受けることにしたのだが⋮⋮いざ依頼を選ぶ段階になっ
て、ちょっと思うところがあってついつい口を挟んでしまった。
アミュが戸惑ったように言う。

1268
﹁あんた⋮⋮急にどうしたのよ﹂
﹁どうしたもこうしたもない﹂
ぼくは答える。
﹁けっこう依頼をこなしたけど⋮⋮ぼくだけまだ何もしてなくない
か? やったことと言えばモンスターの死骸運びだけだぞ。君ら、
誰も怪我しないし﹂
﹁いいじゃない、別に。今まで通りでしょ﹂
﹁いいや違う。ダンジョン探索はまだ気をつけることが多かった。
視界を確保するとか、モンスターが潜んでいないか確かめるとか⋮
⋮。でも依頼は、目標にまっすぐ行って、達成したらそれで終わり
じゃないか。ぼく、本当にただ歩いてるだけだぞ﹂
﹁えー、うーん⋮⋮﹂
アミュが面倒くさそうな顔をするが、ぼくはぐちぐちと続ける。
﹁酒場で君らは盛り上がっても、こっちは何もしてないからほとん
ど喋ることもないし⋮⋮﹂
﹁そうですそうです! セイカさまはこう見えて、意外とさみしが
り屋なんですからねっ!﹂
髪の中でユキが小声で煽ってくるが、それを無視してぼくはなお
も続ける。
﹁次の依頼はぼくに任せてくれ﹂
﹁じゃあ、セイカが選んだらいい﹂
メイベルが言うと、周りの面々も同調する。

1269
﹁そ⋮⋮そうね。いつも受注してくれるのはあなたなのだし、たま
にはいいんじゃないかしら⋮⋮﹂
﹁助力してもらえる以上、我々に文句などあるはずもない﹂
﹁そ、そうだね! どれがいい? セイカくん﹂
なんだか過剰に気を使われている感じがしたが⋮⋮あまり気にし
ないことにした。
ぼくは言う。
﹁実は、前から目を付けていた依頼があったんだ﹂
不敵に笑い、ぼくは掲示板の隅に留めてあった羊皮紙へと手を伸
ばす。
﹁次はこれにしよう﹂
****
そうしてやって来たのが、この地下ダンジョンだった。
廃村の井戸から入らなければならないちょっと変わったこのダン
ジョンは、どうやら大昔にあった地下水脈の跡のようで、広大な横
穴がずっと続いている。
大したモンスターは出ないものの、近くにある村の冒険者が小銭
を稼ぐ場になっていて、以前までは定期的に人が訪れていたようだ。
もっとも最近はその限りでないようで、ここまで来る道も荒れ果

1270
てていたが。
﹁⋮⋮本当に、この依頼でよかったの?﹂
隣で歩みを進めるルルムが、おもむろにそう問いかけてきた。
ぼくは笑って答える。
﹁心配するな。確かに報酬はそこまで高くないが、時間を無駄にし
ないようなるべくすぐに済ませるさ。ダンジョンも迷うような構造
じゃなくて助かった。明日にはケルツへ戻れるようにするから、少
し付き合ってくれ﹂
﹁そうではなくて﹂
ルルムは、首を横に振って言う。
﹁依頼の討伐対象⋮⋮ちょっと、厄介なモンスターよ。私やノズロ
でも勝てるかわからない。あなたの実力はわかっているけど⋮⋮﹂
﹁そうか、厄介なのか。なら、ますます興味が出てきたな﹂
そう、冗談めかして答える。
今回の依頼の内容は、いつの間にかこのダンジョンに棲み着いて
いたという、とある強大なモンスターの討伐だ。
なんでも他のモンスターを食い荒らすうえ、危険で誰も討伐でき
ないため、ここで小銭を稼いでいた冒険者たちが困っているのだと
か。
小さなダンジョンとはいえ、貴重な資源の源であることには変わ
りない。もしも核を破壊されでもしたら、決して安くない損失にな
るだろう。

1271
とはいえ、ぼくがこの依頼を選んだのは、人助けのためなどでは
なく、純粋にそのモンスターに興味があったからだった。
と、その時︱︱︱︱ヒトガタの放つ光が、何か銀色の表面に反射
した。
ぼくは足を止め、周りのヒトガタを前方へと飛ばす。
灯りの中に浮かび上がったのは⋮⋮巨大な、銀色の球体だった。
高さは一丈半︵※約四・五メートル︶ほどもあろうか。
球体には、四肢も顔もない。接地面は扁平に歪んでおり、まるで
葉についた水滴のような形だったが、その天辺には鋭い突起が王冠
のように円く並んでいる。
そして銀色の表面は、微かに揺らいでいた。
生きている。
﹁っ!﹂
﹁あ、あれが⋮⋮﹂
﹁マーキュリースライムキングか。はは、なかなか迫力のある見た
目だな﹂
金属の体を持つと言われる、スライム系モンスターの上位種。
文献で見て以来、興味があったモンスターの一つだった。
ぼくは、固まっているパーティーメンバーを振り返って言う。
﹁じゃあ、ちょっとそこで待っていてくれ﹂
巨大な金属のスライムへと歩み寄っていく。

1272
近くで見ると、よくこんな存在があったものだと思う。まるで生
きた水銀だ。
冒険者の間でも、マーキュリースライム系のモンスターはよく水
銀にたとえられるらしい。
ただ⋮⋮こいつの性質は、おそらく水銀よりも鉄に近いはずだ。
その時、マーキュリースライムキングの体が蠢いた。
水滴のような体が、ずりずりと這いずる。
その下でコロンと転がったのは、何やら黒ずんだ兜。その形状や
色合いを見るに、リビングメイル系モンスターの上位種、カースド
メイルの頭部であるようだった。
ただし、胴より下は存在しない。武器である剣や盾も含め、すべ
て食べられてしまったようだ。
ぼくは一人うなずいて呟く。
﹁なるほど。やっぱり鉄を取り込むんだな﹂
その時。巨大なスライムの体から、触手のような偽足がにゅっと
伸びた。
それは瞬く間に太くなり、ぼくの頭上へと振り上げられる。
その様子を見て、ぼくはまた一人うなずく。
﹁へぇ、そういう風に攻撃するのか﹂
呟いている間に、もう印は組み終えている。
やるべきことはもう済んだ。ぼくは考え事を続ける。
このモンスターの体は、おそらく水銀ではない。

1273
ニッケル
鉄や小鬼銅のような金属粒子を含んだ、磁力に反応する液体だろ
う。
ミツバチは、腹部に磁気に反応する鉱物を持つ。他にも渡り鳥や
鯨など、磁気を感じ取る器官を持つ生き物は数多くいる。
このスライムの体も、そういった類のものではないだろうか。
根拠もある。
頭頂にある王冠のような突起。あれは磁場の形に沿ってできるも
のだ。磁石に砂鉄を吸い付けた時にも、あれとよく似た形のものが
現れる。
いや、これはもう間違いない。
まるで蝿を潰そうとするように、太い偽足がぼくへと振り下ろさ
れる。だが、まったく問題はない。
︽陽の相︱︱︱︱磁流雲の術︾
マーキュリースライムキングの真上に浮遊していたヒトガタが、
術の解放と共に強力な磁場を生み出した。
磁気に反応する体なら、︽磁流雲︾の磁場には抗えまい。
金属のスライムは、磁力によって為す術なくヒトガタに吸い寄せ
られ、球体の全身にあの王冠のような突起を作って動きを止める︱
︱︱︱はずだった。
だが。
﹁⋮⋮⋮⋮あれ?﹂

1274
凄まじい磁場のただ中にあってなお⋮⋮マーキュリースライムキ
ングが、動きを鈍らせる様子はなかった。
太い偽足が、そのままぼくへと振り下ろされる。
﹁セイカくんっ!?﹂
水塊が落ちたような音と共に、イーファの叫び声がダンジョンの
中に響き渡る。
マーキュリースライムキングは、振り下ろした偽足を再び取り込
むようにずりずりと這いずった。ただ⋮⋮潰したはずの相手がいな
くなっていたせいか、どこか不思議そうに見える。
直前に転移で躱したぼくは、ダンジョンの壁際で頭を掻く。
﹁おかしいなぁ⋮⋮﹂
磁場に反応しない⋮⋮ということは、あれはもしかすると、本当
に水銀なのかもしれない。
水銀ならば磁力にも反応しない。磁石に吸い寄せられる金属は、
ニッケル
鉄や小鬼銅など、実は一部に限られる。
﹁ということは⋮⋮あの金属の体は単に重さを確保するためで、王
冠もただの飾り⋮⋮なのか?﹂
どうやら予想はすっかり外れたようだった。
﹁ちょっと、大丈夫!?﹂
﹁加勢が必要なら言え!!﹂
﹁あー、平気だよ。ちょっと誤算があっただけだから﹂

1275
後方で大声を上げる魔族二人へ叫び返す。
その時、どうやらぼくを見つけたらしい金属スライムが、再び偽
足を伸ばした。
今度は、まるで鞭のように横薙ぎに振られる。
水銀の豪腕が迫る中⋮⋮ぼくは片手で印を組み、そして溜息をつ
きながら浮遊するヒトガタを向けた。
﹁それなら、これでいいか﹂
こんぎょうこう
︽金の相︱︱︱︱混凝汞の術︾
その体色とよく似た銀の波濤が、マーキュリースライムキングへ
と襲いかかった。
まじな
呪いで生み出された銀色の液体は、巨大スライムにまとわりつい
こんぎょうこう
た状態で硬化し始める。︽混凝汞︾は、本来拘束のための術だ。
しかしこのスライムには、あまり意味を為していないようだった。
浴びた液体を、そのまま体の中へずぶずぶと取り込んでいく。動
きが妨げられている様子はまったくない。
やがて周囲の液体すべて吸収したマーキュリースライムキングは、
突然何本もの偽足を伸ばし、大きく広げた。
いい加減に業を煮やしたのか、そのすべてをぼくへと強襲させる。
変化は、その時起きた。
偽足の一つが、自重に耐えかねたかのように突然ぼとりと落ちた。
一つ、また一つと、偽足が次々に折れていく。その断面からは、

1276
かさぶた
瘡蓋のようなものが湧き上がっては剥がれ落ちる。
その変化は、マーキュリースライムキングの本体にもおよんだ。
かさぶた
銀色の球体の表面から、同色の瘡蓋がどんどん湧き上がり、剥が
れていく。
マーキュリースライムキングは悶え苦しむように全身を波打たせ
るが、硬化し、ぼろぼろと剥がれ落ちていく自身の体の変化を止め
ることができない。
かさぶた
瘡蓋化は次第に、球体の奥へ奥へと浸食していき︱︱︱︱そして
ついには、巨大な銀色の体すべてが、乾ききった土のようなひび割
れた塊と化してしまった。
どこか神秘的でもあった液体金属の体は、もはや見る影もない。
ぼくは剥がれ落ちたスライムの体の一部を拾うと、呆気にとられ
ている仲間たちのところへと普通に歩いて戻る。
﹁討伐完了だ。誤算があったせいで少し手こずったが、約束通り明
日にはケルツへ戻れるぞ﹂
﹁え、ええと⋮⋮とりあえず、無事でよかったわ﹂
ルルムが、どこか戸惑ったように言う。
﹁でも⋮⋮あれは何? マーキュリースライムが、なんであんな⋮
⋮﹂
﹁説明が難しいな﹂
水銀などの常温で液体となる金属に、銅や銀などの粉末をよく混
ぜると、合金を形成し短い時間で硬化する性質がある。

1277
こんぎょうこう
︽混凝汞︾はこれを利用し、敵を拘束したり、壊れた建造物を直
したりする術なのだが⋮⋮今回は金属粉を多めに混ぜて取り込ませ
ることで、相手の体ごと硬化させることにしたのだ。
ガリウム
マーキュリースライムキングの体は、やはり水銀かガリアの汞あ
たりからできていたようで、予想通り固まってくれた。
しかし、説明するとなるとちょっとややこしい。
﹁後で落ち着いたら言うよ。ひとまずはダンジョンを出よう。余計
なモンスターに出くわしても面倒だ﹂
﹁セイカくん⋮⋮大丈夫? 怪我しなかった?﹂
心配そうな顔のイーファに、ぼくは笑って答える。
﹁なんともないよ。ぼくが怪我なんてするわけないだろ﹂
﹁うん⋮⋮﹂
﹁ねえそれ、大丈夫なの?﹂
﹁だから平気だって。なんだよ、アミュ。君まで心配してくれるの
か?﹂
﹁違うわよ﹂
と、アミュは顔をしかめて言う。
﹁あんたがあの程度のモンスター相手にどうにかなるなんて思って
ないわよ。あたしが心配してるのは、それ﹂
﹁ん?﹂
アミュが指さしたのは、ぼくが持つマーキュリースライムキング
だったものの一部だった。

1278
﹁これがどうかしたのか? 確かに気味が悪いかもしれないが、こ
れを納品しないと報酬が⋮⋮﹂
﹁依頼の達成要件は、マーキュリースライムキングの一部を持って
帰ることでしょ?﹂
アミュが微妙な表情で言う。
﹁その金属の塊をギルドに出したとして⋮⋮スライムの一部だった
なんて信じてもらえるかしら﹂
﹁え⋮⋮? あっ﹂
その後。
なんとか元に戻そうとがんばってみたものの、結局ダメだったの
まじな
で⋮⋮仕方なく、呪いで作った水銀を小瓶に詰めて代わりに納品す
ることにした。
報酬は無事もらえたものの、提出した時はバレないかとヒヤヒヤ
した。
これからはもうちょっと考えて倒すことにしよう。
1279
第十四話 最強の陰陽師、わがままを言う︵後書き︶
※混凝汞の術
アマルガムによって相手を固める術。水銀などの液体金属に、銀や
銅、亜鉛や錫などの金属粉末を混合すると、合金を形成し短い時間
で硬化する性質がある。本来は拘束や建物修復のための術だが、今
回セイカは金属粉末を過剰に混合することで、敵の体に含まれる液
体金属を硬化させた。 1280
第十五話 最強の陰陽師、最後の依頼を選ぶ
その後も、ぼくたちは続けて依頼をこなしていった。
報酬が高額な依頼ばかり選んで、しかもきっちり達成してくるぼ
くたちは、もうすっかりギルドの有名人だ。
ルルムたちのことを考えると、あまり目立つわけにはいかないが
⋮⋮今のところ、噂の中心は一級冒険者であるぼくのようなので、
とりあえず放っておいている。
金も、これまでは順調に貯まっていた。
ただし⋮⋮、

1281
﹁うーん⋮⋮﹂
ギルドの掲示板を眺める、仲間たちの表情は険しい。
理由は簡単。もうめぼしい依頼がないのだ。
報酬が高額な依頼なんて、元々そうたくさんあるはずもない。
割のいい依頼から手当たり次第に受注していったぼくたちの前に
残っているのは、今や報酬が安かったり、遠方だったりといった、
微妙な依頼ばかりだった。
ただ一つを除いて。
﹁⋮⋮やっぱり、それしかない﹂
メイベルが、掲示板の左上隅にひっそり貼られている、古びた紙
を指さす。
それはラカナの掲示板でも見た、冥鉱山脈に棲むヒュドラ討伐の
依頼だった。
﹁⋮⋮﹂
口に出す者はいなかったが⋮⋮全員、メイベルと同じことを考え
ていたはずだ。
この依頼を達成できれば、目標額まで一気に届く。
場所が遠く、行って帰ってくるまでに十日はかかりそうだが、期
限にはなんとか間に合う。
小さな依頼をいくつ受けても、もう日銭程度しか稼げそうにない。
もはやこれ以外にない⋮⋮と。

1282
ルルムが手を伸ばし、掲示板の依頼用紙を剥がす。
長い間貼られていたのか、その文字は全体的に薄れていた。
﹁⋮⋮私とノズロだけでは、ヒュドラは倒せないわ﹂
ルルムが、ぽつりと呟いた。
﹁今までは、私たちだけでも手に負えそうな依頼を選んできた。あ
なたたちは、私たちの事情には関係ない。人間が神魔の奴隷を助け
る理由なんてないもの。だから、いざあなたたちが手を引いても困
らないような依頼だけを、これまで受けてもらっていたわ⋮⋮だけ
ど、もうそれでは間に合わない。仲間たちを助けられない。だから﹂
ルルムが、ぼくらの方を向いて言う。
﹁お願い、力を貸してちょうだい。一緒に仲間を助けてほしいの。
お願いします﹂
そう言って、ルルムは頭を下げる。
沈黙が続いたのは、一瞬だけだった。
﹁今さらなに言ってんのよ﹂
アミュが、にっと笑って言う。
﹁ここまで来て途中でやめるなんて言わないわ。最後まで付き合う
わよ﹂
﹁そ、そうですよ! あと少しなんですから、みんなでがんばりま
しょう﹂

1283
﹁ヒュドラくらい、きっと倒せる﹂
イーファとメイベルも続く。
﹁あなたたち⋮⋮﹂
﹁⋮⋮感謝する。人間に、ここまで助けられたことはなかった﹂
ルルムとノズロの呟きには、確かに感情が込められているように
思えた。
ぼくは、ふと笑って言う。
﹁なら⋮⋮さっそく馬車を手配するか。別の支部の依頼だから、先
を越されないように急がないとな﹂
なりゆきで決まったこのパーティーの冒険も、いよいよ大詰めだ。
****
そんなわけでさっそく馬車を頼んだぼくたちは、出立に向け各々
準備することとなった。
時間を無駄にはできない。ケルツを発つのは明日の朝だ。
とはいえ、もう何度も冒険に出ているだけあり、皆すでに旅の準
備も慣れたものだった。
必要な物を買い、荷造りも一通り済ませたぼくは、夕日の差し込
む宿の部屋でベッドに体を横たえる。
﹁ふう﹂

1284
﹁なにやら、手強い物の怪に挑むようでございますが﹂
髪の中からぴょこんと頭を出し、ユキが言う。
﹁やはりセイカさまがすべて片付けるおつもりなのですか?﹂
﹁いや﹂
ぼくは首を横に振って答える。
﹁今まで通り、ぼくはなるべく手を出さないようにするよ。今回の
件は、あくまでルルムとノズロの問題だからな。あまり助けを借り
すぎては、彼らも居心地が悪いだろう。はりきっているアミュたち
もな﹂
﹁はあ⋮⋮ですが、大丈夫でしょうか? どうにも彼らは頼りない
ので⋮⋮ユキは心配でございます﹂
﹁なに、たかが亜竜だ。援護はするし、いざとなったら助けにも入
るよ。まあ彼らなら、たぶん大丈夫だと思うけど﹂
これまで見てきた限りでは、急造パーティーの割りには息も合っ
ていて、皆よく戦えていた。個々人の能力も高いので、亜竜程度で
あればおそらくぼくがいなくてもなんとかなるくらいだろう。
小さく嘆息しながら言う。
﹁ま、モンスターなんてどうにでもなるさ。倒せばいいんだからな。
何事も、そのくらい単純であればいいのに﹂
﹁ん? と、おっしゃいますと⋮⋮なにか、他に懸念でもあるので
ございますか?﹂
ぼくの言いようが気になったようで、ユキが訊ねてくる。

1285
﹁ひょっとして⋮⋮報酬が足らず、奴婢の代価を用立てられそうに
ないとか?﹂
﹁そうじゃない。むしろ⋮⋮どちらかと言えば逆だ﹂
﹁逆?﹂
﹁安すぎるんだよ。奴隷の代金がな﹂
ぼくは説明する。
﹁エルマンが出してきた金額は、人一人が一生を遊んで暮らせるよ
うな額だ。確かに普通の奴隷に比べればずっと高い、途方もない金
額ではあるんだが⋮⋮それでも、帝都の富裕層なら気軽に出せてし
まいそうな額でもある﹂
奴隷の相場は、時に青天井とも言われる。
神魔の奴隷なんてそうはいない。全員ではなく一人あたりにその
くらいの値がついても、驚かないくらいだった。
﹁もちろん、帝都まで輸送するには費用がかかる。奴隷の食事代や、
倉庫を借りる金も必要だろう。ただ、それを差し引いても⋮⋮ここ
でぼくに渋い値段で売ってしまうよりは、当初の予定通り競売にか
ける方がはるかにいい気がするんだよな﹂
あきひと
﹁はあ、そうなのでございますか? しかし、あの商人は⋮⋮どう
も、セイカさまへ売りたがっているように見えましたが﹂
﹁ああ⋮⋮それが気にかかる﹂
それも、途中からだ。
初めにすべての奴隷を買うと言った時は、何言ってんだこいつと
いうような態度を隠そうともしなかった。
しかしいざ見積もりを出す段になると一転、なぜかやたらと下手
に出てぼくを引き留めるようになった。あの金額から、さらに値下

1286
げをすると言ってまで。
商人なのだから、損得に疎いはずもない。この先かかる莫大な費
用に、まさか怖じ気づいたわけでもあるまい。
となると、やはり何かあるのだろうか。
事情か、あるいは思惑か⋮⋮。
﹁⋮⋮考えても仕方のないように、ユキには思えます﹂
ユキが、ぽつりと言う。
﹁仮に、あの商人が約束を違えるつもりなのだとしても⋮⋮ユキた
ちにはひとまず、財貨を用意する以外の道はないのではないでしょ
うか。まさか今この時に、脅しつけて真意を吐かせるわけにもいき
ますまいに﹂
﹁ん⋮⋮そうだな。お前の言う通りだ﹂
わずかに気にかかることはある。
だがこの懸念は置いて、まずは金を持っていかなければ話が進ま
ない。
相手も商人だ。さすがに力尽くで奪ってきたりはしないだろう。
思わず溜息をつく。
知恵の回る人間を相手にすると、やはり考えることが多くなる。
向こうの土俵で立ち会うのならなおさらだ。
妖やモンスターを相手にする時くらい、世の中が単純であれば楽
なのだが。

1287
第十六話 最強の陰陽師、看破される
冥鉱山脈には、希少な魔石の鉱脈が大量に眠っていると噂される。
麓を流れる川の砂にすら、多種多様な魔石が混じる。秘境の奥地
へ分け入り、鉱脈の一つでも見つけ出すことができれば、どれほど
の富を得られるか⋮⋮と、山師たちの間ではよく噂されているそう
だ。
それを実行に移す者は、滅多にいない。
いても、たいていは帰ってこない。
魔石が大量に眠っているということは、その分魔力にも満ちてい
るということだ。

1288
ここ冥鉱山脈には、ヒュドラ以外にも厄介なモンスターが多数出
現する。
﹁あっつ!﹂
パイロリザードの吐く炎を、アミュがあわてて避ける。
ぐるりと頭を回し、再び口を開きかけた深紅のトカゲを、イーフ
ァの風魔法が吹き飛ばした。安堵するイーファを、今度はキメラが
空から強襲する。だが、ルルムの放った矢が翼を貫き、瞬く間に氷
で覆って地に墜とす。
前方では、ノズロがホブゴブリンの蛮刀をへし折り、流れるよう
に蹴り飛ばしていた。その横合いから襲いかかろうとするスケルト
ンナイトを、メイベルの戦斧が鎧ごと粉砕。同時に投剣を放ち、ル
ルムの方へ抜けようとしていたゴブリン二体のうち一体を刺し貫い
ファイアボール
た。もう一体には、すでにアミュの火炎弾が浴びせられている。
ずいぶん、戦闘がせわしない。
﹁はぁ、はぁ⋮⋮これで、全部? なんなのよもうー!﹂
﹁こ、こんなにモンスターが出るんだね⋮⋮﹂
モンスターの群れが途切れたのを確認してから、アミュとイーフ
ァが堪らずこぼした。
無理もない。モンスターの数も種類も、ここはラカナのダンジョ
ンよりずっと多い。
﹁ヒュドラなんて関係なく、こんな場所でのんびり採掘なんてでき
ないんじゃないの? 危な過ぎるわよ⋮⋮﹂

1289
﹁それでも、力のある冒険者ならなんとかなる範囲だ。採掘は簡単
にいかなくても、モンスターを倒して素材を集める場にはなる⋮⋮
ヒュドラさえいなければ﹂
ブレス
複数の頭を持ち、毒の息吹を吐く亜竜。
出会ってしまえば助からないと言われるこのモンスターがいるせ
いで、冥鉱山脈には冒険者も含めて誰も立ち入りたがらない。
ヒュドラさえ討伐できれば、この山は人間にとって資源を生む土
地になる。
群を抜いて高額な報酬は、将来に渡る収益が見込めるからこそだ
ろう。
だが⋮⋮それにも関わらず、この依頼は何年もギルドの掲示板の
片隅に留まっていたのだという。
その事実が、ヒュドラ討伐の困難さを物語っていた。
****
山に入って、数日が経っていた。
未だ、討伐対象のヒュドラは見つからない。式神を可能な限り広
範囲に飛ばしても、それらしい痕跡すら掴めていなかった。
広い山であるからある程度は覚悟していたものの、このままでは
期日を迎えてしまう。あと二日も粘ってダメなら、ケルツへ引き返
す必要がありそうだ。
簡易に作った寝床を抜け出したのは、二つの月が明るく照らす深

1290
夜だった。
皆から離れた場所で、ユキと話したかったのだ。
管狐の使う神通力は、人間の持つあらゆる技術と異なる。ユキの
力に正直あまり期待はしていなかったが⋮⋮せめて少しでも可能性
を上げるため、あらかじめ索敵を頼んでおきたかった。
夜の山の、草地を歩く。
辺りは静かだ。
この辺りはぼくが広く結界を張っているので、モンスターは近寄
らない。だから、普通なら必須の見張りも立てていない。
戦闘は任せきりなのだから、これくらいはしてもいいはずだ。
と、その時︱︱︱︱微かな水音が聞こえた。
ぼくは足を止める。
確か、近くに水辺があった。
だが、この辺りにはモンスターどころか獣も近寄れないはず。
﹁⋮⋮﹂
式神を飛ばしてもよかったが、ぼくはわずかな逡巡の後、自分で
向かうことにした。
視力に劣り、力の流れも見えない鳥獣の目を通して確認するより
も、直接見る方が早い時もある。
ぼくは歩みを進め、やがて︱︱︱︱その光景が目に入った。
湧き水によって作られた、清冽な泉。
その中心に、一つの人影があった。

1291
しなやかな曲線を描く裸身。細身だが、胸には豊かな膨らみが見
て取れる。黒く長い髪。月明かりに照らされた肌は死人のように白
く、そして⋮⋮全身に、入れ墨のような黒い線が走っている。
神魔の女が、ふと横目でぼくを捉えた。
﹁何? 覗き?﹂
眉をひそめて言うルルムに、ぼくは慌てて後ろを向く。
﹁いや、悪い⋮⋮水音がしたから、様子を見に来たんだ﹂
﹁ふうん。別にいいけれど﹂
ちゃぷん、と。
ルルムが泉を泳ぐ、微かな水音が聞こえてくる。
﹁⋮⋮しかし、そんなところで何をしているんだ? こんな深夜に﹂
﹁決まっているでしょう。水浴びよ﹂
﹁何も、こんな時間にやらなくても⋮⋮﹂
﹁あの子たちと一緒にならないようにしたかったの﹂
ルルムが、微かに笑う声が聞こえる。
﹁人間にとって、私たちの見た目は恐ろしいでしょうから﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくはその時になってようやく気づいた。
ルルムもノズロも、体の紋様を隠す染料をぼくたちの前で落とし
たことは、これまで一度もなかったことを。

1292
この国で暮らす魔族は少ない。
それも一部の獣人程度のもので、神魔となると聞いたことすらな
い。
かつて人間と、最も苛烈に敵対していた種族の一つなのだ。
正体が露見してしまえば、おそらくかなり面倒なことになる。
いつどこで誰に見られているかわからない以上、迂闊なことはで
きなかったのだろう。
﹁もっとも、中にはわざわざ覗きに来る物好きもいるようだけど﹂
﹁⋮⋮いつになく楽しそうだな﹂
﹁そうね。どうしてかしら? まさかあなたが、こんなことをする
とは思わなかったからかもしれないわね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁得体の知れない人間だと思っていたけれど、意外と男の子らしい
ところもあるのね。ふふ﹂
くすくすと、ルルムが笑う。
完全にからかわれていた。
見た目は二十にも満たない娘だが、長命種なだけあってやはりそ
れよりはずっと長く生きているのかもしれない。
﹁それはそうと、あなたもそろそろ水浴びをするべきだと思うわよ。
あの子たちに嫌われたくないのなら﹂
﹁そうだな、考えておくよ。それじゃあ⋮⋮﹂
﹁それに﹂
歩き去ろうとするぼくの背に、ルルムは言った。
﹁頭の上のモンスターにも、逃げられてしまうかもね﹂

1293
ぼくは歩みを止めた。
振り返りもしないままに︱︱︱︱不可視のヒトガタが、ルルムを
向いて密かに宙へ配置されていく。
﹁そんなに怖い顔をしないで﹂
背を向けるぼくへ、ルルムは変わらない調子で言う。
﹁秘密にしていたのなら、誰にも話さないわ。あの子たちにも、ノ
ズロにもね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ねえ、どんなモンスターなの? 見せてくれないかしら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セ、セイカさま⋮⋮﹂
髪の中でもぞもぞするユキに、ぼくは嘆息して告げる。
﹁挨拶しなさい、ユキ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
ユキが、ぼくの頭の上から顔を出す。
﹁あの、ユキと申します。こんにちはぁ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮えっ!?﹂
ばしゃりという水音と共に、ルルムが驚いたような声を上げた。
﹁か⋮⋮かわいい!? しかも、言葉がわかるの!?﹂

1294
﹁ひぇぇ⋮⋮﹂
﹁それ、なんというモンスターなの? あなたのペット?﹂
﹁ペット⋮⋮まあ、そのようなものだな﹂
﹁セ、セイカさまぁ⋮⋮﹂
﹁悪いが、これ以上質問に答える気はない﹂
﹁そう﹂
ぼくが言うと、ルルムはあっさりと引き下がる。
﹁じゃあ、今度撫でさせてもらえる?﹂
﹁機会があればな﹂
﹁えええ⋮⋮﹂
﹁ふふ﹂
ルルムが小さく笑う。
ぼくは視線だけで、神魔の女を振り返る。
ルルムは体を泉に沈め、仰向けに目を閉じているようだった。
﹁なぜわかった﹂
﹁私には、力の気配のようなものが見えるのよ﹂
ルルムは微かに目を開け、説明する。
﹁土地に流れる力や、器物に込められた力⋮⋮もちろん、モンスタ
ーや人が生まれながらに持つ力も﹂
﹁⋮⋮それは、魔力がわかるということか?﹂
﹁魔力もわかるわ。でも⋮⋮きっとそれだけじゃない。なんなのか
と言われると、自分でもよくわからないけどね﹂
﹁⋮⋮﹂

1295
龍脈や呪力の流れを見る技術は、前世ではありふれたものだった。
多少の才があれば、修業によって習得できる。風水師など、相占
を扱う者ならば誰でもこれができた。
だが、こちらの世界では聞いたことがない。
力の研究が進んでいないせいで、ルルムも自分で何が見えている
のかがわかっていないのだろう。
﹁あなたのペットのことも、それで気づいたのよ。何か違う気配が
あるなって。もっとも、小さくて最初はわからなかったけどね﹂
﹁ああ、なるほどな⋮⋮﹂
﹁だから﹂
ルルムが、静かに言った。
﹁あなたが持つもう一つの秘密も、私にはわかる﹂
﹁⋮⋮!﹂
ぼくは、動揺と共に身構えた。
ルルムは、ややうしろめたそうに続ける。
﹁別に、脅そうというつもりはないの。あの子たちも知らないのよ
ね? このことも、誰にも言わないと誓うわ﹂
そうは言うが︱︱︱︱とても信用できるものではない。
何に気づかれたのかはわからない。だが⋮⋮その内容によっては、
消さなければならないかもしれない。
下手をすれば、前世の二の舞にもなりうる。
﹁本当なら知らない振りをするべきだったのだと思う。だけど⋮⋮
私たちが探している人にも関係するかもしれないから、どうしても

1296
確かめたかったの﹂
そして、ルルムは言った。
﹁セイカ。あなたは︱︱︱︱神魔の血を引いているのでしょう?﹂
第十七話 最強の陰陽師、否定する
山の静けさが浮かび上がるような、沈黙が流れた。
ぼくはぽかんとしたまま、素直な言の葉を紡ぐ。
﹁え⋮⋮そうなの?﹂
﹁⋮⋮はあっ?﹂
ルルムが、動揺したようにばしゃりと泉の中で立ち上がった。
白い裸身から目を逸らしつつ、ぼくは言う。
﹁いや待て、なんだそれ? 知らない⋮⋮というか、たぶん君の思

1297
い違いじゃないか?﹂
﹁そ、そんなはずないわ!﹂
ルルムは大声を出して否定する。
﹁もしかして、自分で気づいていないの⋮⋮? あなたの持つ魔力
の気配は、人間のものじゃないわ。それよりは神魔に近いものよ﹂
﹁⋮⋮ぼくは魔力を持っていない。ぼくの使う符術は別の力による
ものだ。魔道具での簡易測定ではなく、測定の儀式で出た結果だか
ら確かなはずだ﹂
﹁いいえ﹂
ルルムは首を横に振る。
﹁魔力を持っていない者なんていないわ。物を食べて息をすれば、
必ず魔力が生まれる。たとえ、魔法を使うことができないほどの微
かな量であっても﹂
﹁それが、君には見えると?﹂
﹁ええ﹂
ルルムはうなずいた。
ぼくは考え込む。
どうやら彼女には⋮⋮ぼくが見ている以上に細やかな力の流れが
見えているらしい。
﹁⋮⋮そうまで言われれば、否定はできないな。先祖に神魔がいな
かったとも言い切れない﹂
﹁先祖? いいえ、違う﹂

1298
ルルムがまたも首を横に振る。
﹁そんな遠い繋がりだとは思えない。あなたの生みの親のどちらか
が、神魔なのではないの?﹂
﹁はあ⋮⋮? まさか。それはありえない﹂
今度は断言することができた。
﹁ぼくは貴族の生まれだぞ。魔族の血を引いているわけがない﹂
﹁いいから、教えて﹂
ルルムの声音には、いつのまにか必死な色があった。
﹁あなたのご両親は、どんな人なの?﹂
﹁⋮⋮父は帝国の伯爵だ。ここから遠い田舎に領地を持っていて、
魔法学の研究をしている。母は⋮⋮愛人だったと聞いているが、会
ったことはないな﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
ルルムが、息をのむ気配があった。
﹁その、お父上は⋮⋮もしかして昔、冒険者をやっていなかった?﹂
﹁⋮⋮! よくわかったな。確かにそう聞いている﹂
﹁そ、それならっ!﹂
ルルムが畳みかけるように問う。
﹁今から二十年近く前、魔族領を訪れていなかった? 神魔の住む
地に⋮⋮﹂

1299
﹁二十年前? いや、それはない﹂
﹁え⋮⋮﹂
戸惑いの混じる声を漏らしたルルムへ、ぼくは理由を話す。
﹁父が冒険者をしていたのは、確か当主を継ぐよりもずっと前だ。
たぶん三十年近く前のことじゃないか? それに場所も、ここより
ずっと南方の、帝国の中心近くだったと聞いている。二十年前と言
えばちょうど上の兄が生まれたくらいの時期だから、魔族領になん
ていたわけがない﹂
﹁そ⋮⋮そう、なの⋮⋮⋮⋮それなら、違うかしら⋮⋮﹂
ルルムは、急に気落ちしたようになっていた。
ぼくは思わず眉をひそめる。
﹁いったいどうしたんだ?﹂
﹁⋮⋮ひょっとしたら、あなたなんじゃないかと思っていたの⋮⋮
私たちが探している人の、息子が﹂
ぽつぽつと話す。
﹁年齢もあなたくらい。髪も瞳も、私たちと同じ色。それに、魔力
だって﹂
﹁だけどぼくは⋮⋮君らのような体の紋様は持っていないぞ﹂
ルルムは首を横に振る。
﹁それでいいのよ。だってあの人の夫は、人間だったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁私たちの里に迷い込んだ冒険者だった。貴族の生まれだとも言っ

1300
ていたわ。ただ、あの男はいつも調子のいいことばかり言っていた
から、本当かどうかは微妙だけど﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからメローザの子は、神魔と人間の混血なの。人間と魔族の混
血は、人間の血が強く出ることが多いから⋮⋮容姿は、人間とほと
んど変わらないはず﹂
ルルムは、うわごとのように続ける。
﹁それに、あなたほどの力を持っている人間なんて、他に⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ぼくの知る限りで﹂
ぼくは、それを遮るように口を開いた。
﹁父上の領地に魔族がいるという話は聞いたことがなかった。ぼく
の母は、きっと普通の人間なのだと思う﹂
ルルムの相づちを待たずに続ける。
﹁大戦のあった頃の時代には、この国にも捕虜から奴隷となった神
魔が住んでいたそうだ。中には解放された後も魔族領に帰らず、地
位を得て家族を持った者もいたらしい。母がそういった者たちの子
孫で⋮⋮ぼくにたまたま、先祖の血が強く出た。おそらくだが、そ
れだけのことなのだと思う﹂
﹁⋮⋮そうね⋮⋮そういうことがあるとは、聞いたことがあるわ。
じゃあ⋮⋮また、違ったのね﹂
そこで、ルルムは力なく笑い、夜空を見上げた。
﹁メローザ⋮⋮今どこにいるの⋮⋮?﹂

1301
視界の端で見たその横顔は、今にも泣き出しそうに見えた。
十六年と言っていた。ルルムの尋ね人が、魔族領から姿を消して
十六年。
彼女はどれだけの間、そのメローザという神魔を探す旅を続けて
きたのだろう。
﹁⋮⋮血縁なのか?﹂
﹁血の繋がりはないわ。だけど⋮⋮姉のような人だった﹂
﹁⋮⋮⋮⋮どんな容姿なんだ? 人間で言えば、どのくらいの年齢
に見える?﹂
ルルムが、目を瞬かせた。
ぼくは言い訳のように続ける。
﹁人探しの旅にまでは付き合えないが⋮⋮もしもこの先出会うこと
があったら、君らのことを伝えるくらいはできる﹂
﹁⋮⋮ふふ。あなたは⋮⋮ずいぶんこじれた性格をしているのね﹂
ルルムが小さく笑って言う。
﹁本当はとてもお人好しなのに⋮⋮まるで、誰かに親切にするのを、
普段は我慢しているみたい﹂
﹁⋮⋮⋮ぼくには、力がある﹂
軽く目を閉じて言う。
﹁だが、力だけでなんでもできるわけじゃない。何もかもを救おう
としたところで、どうせどこかで破綻する。だから⋮⋮義理や縁の
ある者だけを、助けることにしている﹂

1302
﹁ふうん、そうなの⋮⋮それなら私たちの間にも、縁が生まれたと
いうことかしら?﹂
﹁⋮⋮別に、無理にとは言わない。いらない助けだと言うのなら、
話はここで終わりだ﹂
﹁ふふ⋮⋮ねえ、セイカ﹂
ぼくの問いには答えずに。
ルルムは、夜空に透き通るような声音で言った。
﹁私たちが、本当は︱︱︱︱世界を救う旅をしているのだと言った
ら、信じる?﹂
第十八話 最強の陰陽師、愚痴を聞く
泉のほとりに、ルルムが腰を下ろしていた。
ちなみに、もう服は着ている。魔道具で乾かしたらしい黒髪が、
夜風に揺れていた。
傍らに立つぼくではなく、二つの月が映る水面を見つめながら、
ルルムが口を開く。
﹁メローザは、神殿の巫女だったの﹂
まるで泉に向かって語りかけるように、ルルムは続ける。

1303
﹁生まれはほんの数年しか違わなかったのだけれど、私よりもずっ
と小さな頃から神殿で働いていたわ。後から来たのに、家柄がいい
からって偉そうにしていた私に対しても、たくさんいろんなことを
教えてくれた。中には本当にくだらない遊びもあったけど、あの頃
は一緒になって笑っていたっけ﹂
﹁⋮⋮﹂
神魔の文化や風習は、よく知らない。
だが、人間の社会とそう変わらないであろうことは想像がついた。
﹁私が神殿の仕事をすっかり覚えた頃⋮⋮メローザが、森で人間を
拾ってきたの。目覚めたあの男は、冒険者だって言ってたわ。仲間
を逃がすためにモンスターと戦っていたら、崖から落ちて気を失っ
たんだって。私は怖くて、大人たちを呼んだのだけれど⋮⋮あの男、
口が上手かったのよね。縛り上げられたまま調子のいいことを言っ
て、大人たちを丸め込んで縄を解かせていたわ。メローザが必死に
庇っていたせいも、あったと思うけど﹂
﹁話を聞く限りでは、うさんくさい男だな﹂
ぼくがそう言うと、ルルムは笑声を上げる。
﹁そうね。でも、悪い人じゃなかったのよ。いつも調子のいいこと
ばかり言っていたけど、仲間を庇って崖から落ちたのは、たぶん本
当だったのだと思う。だから、メローザも好きになったんじゃない
かしら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁人間だったから、いろいろ揉めたりもしたけれど⋮⋮最終的には
里の仲間たちからも受け入れられていたわ。彼をいつまでも目の敵
にしていたのは、たぶん私だけだったわね。なんだか⋮⋮彼女をと

1304
られてしまった気がして﹂
そう言って、自嘲するような笑みを浮かべる。
ルルムの口調は、完全に遠い過去を語るそれだった。
﹁それから⋮⋮何年くらい経った頃だったかしら? 身籠もったこ
とがわかって、メローザは神殿を去ったわ。その頃にはあの男の怪
我もすっかり治っていて、仕事も家も持っていたから、そこで一緒
に暮らすことになった。皆が祝福していたわ。もちろん私も。子供
の名前だって、きっと考えていたと思う。だけど⋮⋮﹂
口元をひき結び、ルルムは自らの腕を抱く。
﹁私が⋮⋮視てしまったから﹂
﹁⋮⋮何?﹂
﹁全部、台無しにしてしまった。黙っていればよかったのよ。せめ
て、誰かに言う前に⋮⋮もう少し、考えていれば⋮⋮っ﹂
﹁なんだ? 君は⋮⋮何を視た?﹂
﹁⋮⋮未来よ。世界を破滅に導く未来︱︱︱︱勇者と魔王の誕生を、
他にどう言い表せばいい?﹂
﹁は⋮⋮?﹂
ぼくは、思わず目を見開く。
﹁それじゃあ、君は⋮⋮﹂
﹁そうよ。私が︱︱︱︱託宣の巫女。神魔族のね﹂
ルルムは、どこか恥じ入るように言い切った。
驚愕に、ぼくは言葉が継げなくなる。

1305
勇者と魔王の誕生を世界に知らしめる、託宣の巫女。
魔族側が勇者の誕生を把握していた以上、それは存在していて当
たり前だ。
だがまさか、彼女がそうだとは⋮⋮。
﹁あら⋮⋮あっさり信じるのね。こちらの国では勇者も魔王も、と
っくにお伽噺になっていたと聞いていたけれど﹂
こちらを見るルルムの口調は軽いが、どこか訝しんでいる様子だ
った。
ぼくは目を伏せて言う。
﹁⋮⋮まだ信じたわけじゃない。口を挟みたくなかっただけだ。続
けてくれ﹂
ルルムは泉に視線を戻し、話を続ける。
﹁私に視えたのは、二人の赤子の姿だったわ。一人は、髪の赤い人
間の女の子。それからもう一人が⋮⋮黒髪の、神魔の男の子﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁勇者の女の子の方は、何者なのかよくわからなかったわ。裕福な
家に住んでいたようだけど、周りの人間の身なりがあまり貴族らし
くなかった気もする。人間の国は広いから、これだけでは手がかり
にもならない。でも⋮⋮魔王の、男の子は⋮⋮誰なのかがはっきり
わかった。あの家も、両親の声も、全部⋮⋮知っていたから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁混乱していた私は、すぐに神殿の長へこのことを伝えたわ。それ
からほとんど時間の経たないうちに、メローザの子が無事に生まれ
たことを知った。だけど⋮⋮喜んでいる余裕なんてなかった﹂

1306
ルルムは表情を険しくする。
﹁皆が騒然としたわ。里長も、長老たちも⋮⋮。まさか自分たちの
世代で、自分たちの里に魔王が誕生するとは思わなかったのでしょ
うね。それから四半月もしないうちに、もっと大きな里に住む神魔
の長たちが私たちのところにやって来たわ。その後には、悪魔に、
オーガ トライア ダークエルフ
獣人、巨人、鬼人、三眼、黒森人のような者たちも⋮⋮。全員が従
者をたくさん連れて、大きな魔力や強力な魔道具を持った、指導者
階級にある者たちだった。きっと彼らも自分たちの種族の巫女から、
神魔に魔王が生まれたことを知らされたのでしょうね﹂
﹁魔族の巫女は、君だけじゃないのか﹂
﹁ほとんどの種族にいるはずよ。血が途絶えていなければ。もちろ
エルフ ドワーフ
ん、前回の戦争で魔王軍から離反した、森人や矮人にもね﹂
﹁⋮⋮。彼らは君の里で、いったい何を話し合ったんだ?﹂
口にしてから、訊くまでもない疑問だったかと思った。
ルルムは力なく首を横に振る。
﹁何も⋮⋮。話し合いになんてならなかったわ。神魔の長たちは、
とにかく魔王を自分たちの種族が抱えているという優位を保ちたが
った。人間との開戦を望む者は、指導者としての教育を幼い頃から
施すべきだと主張して、逆に今人間と交流を持っている種族は、魔
王など力の無いうちに始末するべきだと言い張ったわ。同盟関係に
ある種族の主張を支持する者もいれば、今から魔王に取り入ろうと
する者もいた。巫女である私も、一応会合には参加していたけれど
⋮⋮誰も、私の話なんて聞こうともしなかった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でもね、彼らは皆⋮⋮一つの事柄だけは、確信しているようだっ
たわ﹂
﹁それは⋮⋮﹂

1307
﹁このままでは、大戦が起こる﹂
思わず口をつぐむぼくへ、ルルムは続ける。
﹁魔王と勇者の戦い⋮⋮人間と魔族の戦争よ。彼らが生まれた時、
必ずそれは起きた。だから、今回も︱︱︱︱きっと同じことになる﹂
話しぶりからするに、ルルム自身もそれを確信しているようだっ
た。
﹁メローザの子が生まれて二月が経とうとした頃、ようやく当面の
方針が決まったわ。魔王を、魔族領の奥地にある神魔の城塞へ連れ
て行き、そこで育てるということに⋮⋮。どうするにせよ、人間の
国から離れた地で、自分たちが魔王を支配下に置かなければならな
いと考えたのでしょう。その決定に、あの子の両親の意思は介在し
なかったわ﹂
それから、ルルムは悔やむように言う。
﹁私が長に隠れて、メローザたちにそのことを伝えたのは⋮⋮親切
のつもりだった。事態は、もう私たちがどうすることもできないほ
どに大きくなっている。だから、せめて⋮⋮お別れの時まで、大事
に時間を過ごさせてあげたかった。またきっと会えるはずだから、
それまで待つことができるように⋮⋮って﹂
﹁⋮⋮⋮⋮それで、どうなったんだ﹂
﹁二人は逃げ出したわ。幼い魔王を⋮⋮彼らの宝物を、連れて﹂
ルルムは唇を噛む。
﹁私がそのことを知ったのは、すべてが終わった後だった﹂

1308
﹁⋮⋮﹂
﹁あの日のことはよく覚えてる。長たちの追っ手かあの男か、どち
らかが放った魔法で森が燃えていたわ。あの男は追っ手と戦って死
に、メローザと小さな魔王は行方不明。逃げた方角からするに、お
そらくは人間の国へ向かった⋮⋮そう聞いたわ﹂
ルルムは目を閉じて続ける。
﹁各種族の指導者たちは、箝口令を敷くことに決めた。すでに広ま
り始めていた勇者と魔王の誕生の予言だけは隠しきれない。だから
魔王だけが、まだ生まれていないということにした。これなら、魔
王が連れ去られたという危機を隠し、混乱を抑えることができる⋮
⋮と﹂
﹁⋮⋮なるほど﹂
ぼくは小さく呟く。
ガレオスは、魔王の誕生を知らないようだった。
グライが言うには、フィオナの母親が勇者と魔王双方の誕生を予
言した一方で、魔族側は魔王の誕生を把握していないらしい。それ
がなぜなのか、ずっと気になっていたのだが⋮⋮理由がわかった。
指導者階級以外には伏せられていたのだ。
魔王が魔族の元から去ったという、途方もないほどの醜聞が。
ルルムは続ける。
﹁元々、早いうちに探し出すつもりだったのでしょうね⋮⋮。でも、
メローザは逃げ切った。今でも二人の行方はわかっていないわ。一
向に魔王が誕生しないことから、最近では危機感を覚える魔族も出

1309
始めているみたい﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
そのことだけは、ぼくも三年前からよくわかっていた。
﹁私は、それからずっと塞ぎ込んでいたわ﹂
ルルムは言う。
﹁でも、ある時神殿の長に、メローザのことはもう忘れるよう言わ
れて⋮⋮それではダメだと思ったの。このままメローザたちのこと
を忘れてしまったら、本当にすべてが終わってしまう。私も彼女も
⋮⋮そして、世界も。そう思ったから︱︱︱︱旅立つことにしたの
よ。あの男の故郷である、人間の国へ。逃げ延びたメローザと、彼
女の子を探しに﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの男のことだから、死んだと思わせて生きているかもしれない。
そうでなくても、本当に貴族の生まれだったなら、メローザが彼の
実家を頼ったかもしれない。希望はあると思ったわ。彼女は、きっ
と元気に生きてる。生きているなら、絶対に見つけ出せる⋮⋮。知
らない土地に行くことにも、迷いはなかった﹂
それから、神魔の巫女は微かに笑みを浮かべた。
﹁ただ、ノズロがついてくるなんて言い出すとは思わなかったけど
ね。神殿の戦士として、将来を期待される立場になっていたから⋮
⋮というより、小さな頃の印象が残っていたせいね。驚いたわ。あ
の怖がりが、まさか里を離れる決断をするなんて﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ん? もしかしてノズロって⋮⋮君より年下なのか?﹂
﹁そうよ。少しだけだけど﹂

1310
﹁きょ、今日一番の衝撃かもしれない⋮⋮﹂
﹁ええっ、こんなことが? もっと大変なことをたくさん喋ったと
思うけど﹂
ルルムが少し笑って言う。
﹁だけど、本当に助かったわ。まさかこんなに長い旅になるとは思
わなかったから⋮⋮。一人だったら、途中で行き倒れていたかもし
れないわね﹂
﹁⋮⋮どのくらいになるんだ?﹂
﹁もう十五年よ﹂
十五年。
それは長命な神魔にとっても、決して短い歳月ではないはずだ。
﹁帝国のあちこちを回ったけど、神魔の母子がいるなんて話は一度
も聞かなかった。ようやく聞きつけた奴隷の中にもいないし、貴族
の生まれで神魔の血を引く男の子も、結局は人違い。はーあ⋮⋮参
るわね﹂
そう呟いたルルムの横顔は、どこか疲れているようにも見えた。
﹁⋮⋮君らのように、正体を隠して生活しているのかもしれない﹂
﹁もしそうなら、この広い国で見つけ出すのは難しそうね。でも⋮
⋮もう最近では、そうであってほしいと思い始めているわ。今も無
事に、生きてくれているのなら⋮⋮﹂
ぼくは、少し置いて訊ねる。
﹁どうしてそれを、ぼくに話した﹂

1311
﹁どうしてかしらね⋮⋮。たぶん、巻き込んでもよさそうに思えた
からじゃないかしら﹂
﹁巻き込む⋮⋮?﹂
﹁実はこれまでにも、人間に親切にされたことはあったわ。明らか
に怪しい私たちにも、事情を聞かないでいてくれたりね。だけど⋮
⋮所詮は人間だから。下級モンスターにもやられてしまうような弱
い者たちを、私たちの事情に巻き込めなかった。恩を仇で返すよう
な真似はしたくなかったの。ただでさえ、彼らの一生は短いのに﹂
﹁だが、ぼくを巻き込むのはかまわないと?﹂
﹁ええ。だってあなたは︱︱︱︱強いから﹂
ルルムは、はっきりとそう言い切った。
﹁どんな目に遭おうと、きっとなんとかしてしまうでしょう?﹂
﹁⋮⋮ぼくにだってできないことはある。人間だからな﹂
嘆息と共に言う。
﹁それより、君の話を聞いたぼくが、君らを領主や軍に突き出すと
は考えなかったのか? もし魔王を見つけられれば、今一方的に勇
者を抱える人間側の有利が失われることになる。ぼくがそれを許す
ように見えたか?﹂
﹁あなたはそんなことしないわ。お人好しだから。義理や縁があれ
ば、助けてくれるのでしょう?﹂
﹁あのな⋮⋮﹂
﹁それに⋮⋮あなたもきっと、私の考えに賛同してくれるはず﹂
﹁考え?﹂
﹁ねえ⋮⋮セイカは争いが好き? 戦争を望んでいるかしら﹂
ぼくは、少し置いて答える。

1312
﹁⋮⋮いや。そんなものは、無いに越したことはない﹂
﹁ええ、私もそう思うわ。魔族も人間も、戦争のたびに豊かになっ
てきた。でも、もう十分⋮⋮。あなたも同じ考えなら、私たちに協
力する理由があるはずよ﹂
﹁どういうことだ?﹂
﹁もし、セイカが私たちの立場だとしたら、どうする? この状況
から、どうやって戦争を止める?﹂
﹁⋮⋮。ぼくが魔族なら⋮⋮⋮⋮勇者を倒そうとするだろうな﹂
まじな
ぼくは、かつて呪いを向けた魔族たちのことを思い出す。
﹁この先戦争が起こるとすれば、原因は戦力の不均衡になるだろう。
ならば、それを正せばいい﹂
﹁そうね。そう考える魔族は他にもいて、中には勇者を討つために
旅立った者もいたわ。戦力の不均衡が原因になるのは、その通りだ
と思う。でも⋮⋮それでは駄目。戦争は防げないわ。だってまだ︱
︱︱︱魔王が残っているから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁勇者が死ねば、今度は魔王の取り合いが始まる。決着がつけば、
また戦力の不均衡よ。魔王を手にして力に驕った側か、相手の力に
怯えた側が剣を向けて、戦争が始まってしまう。これまでにないほ
どの戦力を向けあう、最悪の大戦が﹂
﹁⋮⋮﹂
ルルムの言い分には、筋が通っているように思えた。
魔王がすでに誕生しており、人間側にも魔族側にも属していない
浮いた駒になっているのなら、自ずとそうなるだろう。
﹁それに、勇者を討つことは簡単ではないわ。見つけることすら難

1313
しいはず﹂
﹁⋮⋮どうしてだ? 君も託宣の巫女なら、勇者の容姿は知ってい
るはずだろう。人間は数が多いが、外見の特徴だけでもそれなりに
絞り込める。赤髪で、十代の半ばの少女。そう、たとえば︱︱︱︱﹂
ぼくは、踏み込んだ言葉を口にする。
﹁︱︱︱︱アミュのような﹂
﹁そうね。綺麗な赤い髪で、きっと年齢も近い。剣も魔法も上手だ
と思うわ。だけど⋮⋮違う。あの子は勇者ではない﹂
﹁⋮⋮。どうしてそう言い切れる? もしかしたらということも⋮
⋮﹂
﹁弱いからよ﹂
ルルムはそう、迷いなく言い切った。
﹁勇者は、たった一人でドラゴンすら倒すのよ。たとえまだ全盛に
達していないとしても、生まれて十六年も経ってイビルトレントに
も苦戦するなんてありえない。本当なら、もう人間の頂点に立つほ
どの剣士になっていてもおかしくないもの﹂
﹁だが⋮⋮そんな条件に合う人物なんて、ぼくも思い当たらないぞ﹂
﹁そう、ありえないのよ。こんなに経って、未だ世に出てきていな
いなんて⋮⋮何か強力な存在に、庇護されてでもいない限りはね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁たとえば、国のような﹂
﹁⋮⋮ただ剣を振るう機会に恵まれなかっただけとは、考えないの
か?﹂
﹁それこそありえないわ。勇者がそんな、平凡な運命に見舞われる
はずがない。これまでにすべての勇者が、幼い頃から剣を抜き、力
を振るった。だから、今回もきっとそう﹂

1314
そうとは限らないんじゃないか⋮⋮とは言えなかった。
なぜならぼくがいなければ、アミュはもっとずっと、強大な敵と
戦ってきたはずだからだ。
ガレオスに、魔族パーティーの一行。あるいは帝都の武術大会に
出場し、アスティリアでドラゴンや召喚獣と戦ったのも、アミュだ
ったかもしれない。
﹁今になっても名が上がっていないということは、人間の国が勇者
を秘匿している可能性が高いわ。精強な魔族の戦士であっても、ど
こにいるのかわからなければ勇者に挑みようがない﹂
﹁⋮⋮。勇者を狙っても仕方のないことはわかったが、なら君は⋮
⋮どうやって戦争を止めようと言うんだ?﹂
﹁私は、魔王を探し出して連れ帰る﹂
ルルムは、決意を秘めた声音で言う。
﹁そして各種族と同盟を結び、魔王軍を結成するわ。これまでと同
じように。そのうえで︱︱︱︱人間の国と、和平を結ぶの﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁平時にはバラバラの魔族も、魔王の君臨する時だけは一つにまと
まることができる。人間の政府相手に、交渉の席につくことができ
るのよ﹂
﹁君は、魔王を⋮⋮外交特使にするつもりなのか﹂
﹁戦争は避けられなくても、一戦も交えず終戦させることはできる
と思わない?﹂
それはきっと、誰もが思いも寄らない策だったことだろう。
魔族の指導者も、人間の指導者も、誰も。

1315
魔王に、平和の使者をさせようだなんて。
﹁塞ぎ込んでいた頃、私はどうすればよかったのかをずっと考えて
いたわ。それで、気づいたの。絶望の始まりだった、勇者と魔王の
誕生︱︱︱︱実はあの時が、これまで以上の平和を得る、この上な
い機会だったことを﹂
ルルムはただ続ける。
﹁勇者も魔王も絶対に必要よ。人間が勇者を、魔族が魔王を抱える
対等な立場であって、初めて対等な交渉になる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もしも和平を結べれば、それが続く限り戦争は起こらない。たと
えまた数百年後に、次の勇者と魔王が誕生したとしても⋮⋮私たち
は、争うことなく共に生きられるの。ねえ、セイカ。だからこれは
︱︱︱︱きっと、世界を救う旅なのよ﹂
それは、夢物語に近い目論見なのだろう。
託宣の巫女とはいえ、十分な地位にないルルムが、それを成し遂
げるのは困難だ。帝国がどのような意思で交渉に臨むかもわからな
い。
だが少しでも見込みがあるならば⋮⋮それは本当に、世界を救う
旅であるようにも思えた。
しかし。
﹁さっき君は⋮⋮普通ならば、勇者はすでに世に名を馳せているは
ずだと言った。だが⋮⋮﹂

1316
どうしても、訊かなければならない問いだった。
﹁それは⋮⋮魔王も同じじゃないのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁魔族に庇護されていない魔王の存在が、未だ世に出ていないこと
は、どう説明する? 魔王は、本当に今も⋮⋮﹂
﹁それはきっと、メローザがきちんと育てているからよ﹂
ルルムが、どこか困ったように笑って言った。
﹁あんなに生意気だった私にも、あれほどよくしてくれたのだもの
⋮⋮。きっと優しくて、賢い子に育っているに違いないわ﹂
自分が言った言葉を、自分で信じたがっているように見えた。
信じるしかないのだろう。
魔王がすでに死亡している。
あるいは、すでに帝国の庇護下にあり、匿われている。
いずれの場合でも、ルルムの目論見は破綻するのだから。
神魔の巫女は、その時ふと小さく笑った。
﹁でも、そう考えたら⋮⋮あなたが魔王かもしれないなんて、疑う
意味はなかったわね﹂
﹁どうしてだよ。こんなひねくれた性格に育ったわけがないって言
いたいのか?﹂
﹁そうじゃないわ。魔王ならきっと、もっと途方もない力を持って
いるはずだもの﹂
ルルムは苦笑しながら言う。

1317
﹁あなたもすごい冒険者のようだけど、でも一級の冒険者って他に
もいるんでしょう?﹂
﹁まあ、あちこちにいるようだな﹂
﹁伝承によれば、魔王は勇者よりもずっと早くから強大な力を得る
そうよ。たぶん、今はもう人間なんて誰も敵わないほど強くなって
いるんじゃないかしら﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
勇者がドラゴン一匹をやっと倒せる程度なら、それといい勝負を
する魔王も大したことはない気がする。
﹁勇者はなんとなく想像がつくんだが⋮⋮魔王にはいったいどんな
能力があるんだ? 人間の国に伝わるお伽噺は、なんというか今ひ
とつ曖昧で参考にならないんだ﹂
﹁ものすごい魔力量を持っていて、ありとあらゆる魔法が使えたと
言われているわ。強力な配下を従えて自由に召喚したり、神器と呼
べるような魔剣を作って山を斬ったり⋮⋮誰も見たことがない、鉄
を腐らせる魔法を使って、敵の剣や鎧をぼろぼろにしたとも言われ
ファイアボール
ているわね。あとは闇属性が複合した巨大な火炎弾で、死霊術士の
生み出した死者の軍勢を焼き滅ぼしたりとか⋮⋮﹂
﹁ふうん﹂
やっぱりそんなものか。
﹁なんだか拍子抜けって感じね﹂
﹁聞く限りでは、頑張ればぼくでもできそうだと思って﹂
﹁そうね⋮⋮言葉にすれば、どうしても陳腐になってしまうわ。け
れどきっと目の当たりにすれば、その強さがわかるのよ。バラバラ
のはずの魔族が、一つにまとまってしまうくらいだもの﹂

1318
ルルムはぼくの言うことを本気にとらず、そんな言葉でまとめた。
穏やかな沈黙が流れる。
それは決して、居心地の悪いものではなかったが⋮⋮それを破っ
てでも、ぼくには伝えておくべきことがあった。
﹁悪いが⋮⋮君の目論見には協力できない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁たとえそれが、うまくいけば人間と魔族の大戦を阻止できるもの
でも⋮⋮成功の見込みが薄すぎる。勇者と魔王の存在を信じるにし
ても、とても力を貸せるものじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁君らの旅には付き合えない。ぼくはぼくで、やるべきことがある﹂
﹁ふふ﹂
意外にも、ルルムは大したことではないかのように笑った。
﹁あなたは、ずいぶん律儀なのね。大丈夫、最初からそこまで期待
していないわ。これは私たちのするべきことだもの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ヒュドラの討伐は、手伝ってくれるのよね?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁もしもメローザか、彼女の息子に出会ったら、私たちのことを伝
えてくれるかしら?﹂
﹁⋮⋮そのくらいはかまわない﹂
﹁よかった。十分よ﹂
ルルムは泉のほとりから立ち上がり、ぼくを振り返る。

1319
﹁ありがとう、セイカ﹂
﹁⋮⋮礼を言われるようなことはしていない。ただ話を聞いただけ
だ﹂
﹁それでいいのよ。私はただ、愚痴を聞いてほしかっただけだもの﹂
ルルムは、微笑と共に言う。
﹁その相手を見つけるだけで、十年もかかってしまったけれどね﹂
それはどこか、泣き笑いのようにも見えた。
****
泉のほとりに一人立つぼくは、黙って月明かりの反射する水面を
見つめる。
ルルムの姿はすでにない。もうとっくに野営の場所へ戻っている
ことだろう。
﹁あの、セイカさま⋮⋮﹂
﹁悪い。少し考えさせてくれ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
頭を出したユキにそう言うと、ぼくは無言で思考に沈む。
まさかルルムが、託宣の巫女だとは思わなかった。
こんな巡り合わせがあるだろうか。
運命の存在は信じていないが、それを感じざるを得ないような出
会いだ。

1320
彼女の話で、わかったことはいくつかある。
勇者と共に、魔王が誕生していたこと。
魔王は人間と神魔の混血であり、帝国にいる可能性が高いこと。
それと、強いて言えば⋮⋮アミュが弱いままである原因は、やは
りぼくのせいだろうということもか。
﹁強力な存在に、庇護されてでもいない限りは⋮⋮か﹂
本当なら、アミュはすでに帝国に名を轟かせていたかもしれない。
何度も死線をくぐり、そのたびに力をつけて⋮⋮魔王へ挑めるほ
どになっていた可能性もある。
運命めいた巡り合わせと言うなら、あの子もそうだろう。
ぼくが何もしなければ、もっとたくさんの強敵と剣を交わしてき
たはずなのだ。
もちろん、勝てたとは限らない。むしろあの子が、ガレオスや魔
族の一行を倒せた可能性は低いように思える。
だから、アミュを守ってきたことに後悔はない。
しかしそれでも、かつての勇者たちも同じような命運に見舞われ
てきたのだとすれば、あるいは⋮⋮と考えてしまう。
﹁はあ⋮⋮﹂
ぼくは頭を振った。
今、それはどうでもいい。
最大の問題は︱︱︱︱魔王が今、どこにいるのかということだ。

1321
生まれているのだかいないのだかはっきりせず、いたとしても魔
族領の奥地だろうと思っていた魔王のことは、これまであまり気に
したことはなかった。当面は関わることもないだろうから、と。
しかしルルムの話が確かなら、魔王はやはり誕生していて、しか
も帝国にいるのだという。
ならば、今後は名も知らぬ彼のことも、多少は警戒する必要があ
る。
だが彼は、勇者と同様、未だ世間にその存在を知られてはいない。
フィオナの話しぶりや、官吏や議員の動向を思い出すに、帝国が
手中に収めているということはないだろう。
すでに死亡しているなどという、都合のいいことも考えづらい。
あるいはルルムの言うとおり、メローザという神魔か、もしくは
別の誰かによって慎重に匿われているのか⋮⋮。
わからない。
魔王は今どこで、何をしているのだろう?
1322
第十九話 最強の陰陽師、標的を見つける
翌日。
山に追加で放っていたコウモリの式神が、標的の姿を捉えた。
﹁ほ、本当なの? ヒュドラを見つけたって﹂
﹁ああ﹂
信じられなさそうに問いかけてくるルルムへ、ぼくは歩みを進め
ながら短く答える。
まあ、信じられないのも無理はないかもしれない。
ルルムも力の流れが見えるようだが、式神を使えばそれをはるか

1323
に超えた範囲を探れる。
﹁確認したいんだが﹂
皆を先導しつつ、目だけで後ろを振り返る。
ブレス
﹁ここのヒュドラは、妙な息吹を吐くんだったな﹂
﹁って、ギルドにいたやつは言ってたわねっ﹂
答えたのはアミュだった。
喋りながら倒木を飛び越える。
ブレス
﹁生臭いような、変なにおいの毒らしいわ。普通ヒュドラの息吹は、
硫黄のにおいがする火山の毒のはずなんだけど、ここのやつのは全
然違うみたい。透明に見えるけど、ほんの少しだけ青い色がついて
いて⋮⋮浴びせたものを燃え上がらせるんだって﹂
前もってギルドで聞いていた情報を、アミュは話す。
ただそれは、眉唾物にも思える内容だった。
ブレス
﹁枯葉に突然火が着いたり、間近で息吹を浴びた人の髪の毛がいき
なり燃え始めたりしたそうよ。もっともその人は、体が焼けるより
も先に苦しんで死んじゃったそうだから、火よりも毒そのものを気
をつけた方がいいと思うけど﹂
ブレス
﹁その息吹は、物の色を抜くとも言ってたな﹂
﹁あー、そうとも言ってたわね。死体の服の血染みが薄くなってた
り、葉っぱが白くなったり⋮⋮。そのヒュドラ、真っ白な色をして
るみたいだけど、なにか関係あるのかしら?﹂
﹁関係あるかはわからないけど⋮⋮﹂

1324
しかし何を吐いてくるのかは、なんとなく想像がつく。
﹁こちらも、今一度確認したい﹂
黙々と山を登っていた、ノズロがおもむろに言った。
ブレス
﹁我々は息吹を気にしなくていいということだが⋮⋮本当に対処を
任せていいのか?﹂
﹁ああ﹂
ぼくは短く肯定する。
ブレス
﹁息吹を浴びようが、気にせず攻めてくれ。毒の弱点は、敵を止め
る物理的な力が弱いことだ。剣を振るわれたり火を吐かれるのと違
って、その瞬間は問題なく戦い続けられる。効き目が現れるまでに
はいくらか時間がかかるからな﹂
﹁しかしそれでは、敵を倒せてもこちらが死ぬ﹂
ヒーラー
﹁これでも回復職だ。回復は任せてくれ﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
わずかな間の後、ノズロはうなずく。
﹁いずれにせよ、貴様がいなければヒュドラ討伐は厳しい。信じる
ことにしよう﹂
ぼくへの不安に、ノズロはそのような形で折り合いをつけたよう
だった。
思わず苦笑して言う。

1325
ブレス
﹁まあそれでも、なるべく息吹を浴びないよう立ち回ってくれ。こ
ちらに面倒がなくて助かる﹂
本音を言えば、ぼくが一人でぶっとばしてしまうのが一番楽だ。
支援に徹するとなると、余計な苦労が増える。
ただそういうわけにもいかないから、人と人との関係は難しい。
﹁⋮⋮﹂
ぼくはちらと、ルルムに目をやる。
神魔の巫女は、ひどい足場に苦戦しつつも、周囲の力の流れに気
を配っているようだった。
これまでと何も変わらない。昨夜の出来事に気をとられている様
子は、微塵も見られない。
ぼくは無言で視線を戻す。
それでいい。ぼくも彼女も、今はこれからの敵に集中するべきだ。
やがて︱︱︱︱。
﹁⋮⋮ここだ﹂
目的の場所へたどり着いた。
そこは、細い谷を見下ろす崖だった。
下には急流が流れている。今はもっと上流にある、滝が削ったと
おぼしき地形だ。
アミュがきょろきょろと辺りを見回す。

1326
﹁⋮⋮? いないじゃない﹂
﹁この下だ﹂
崖際から何もない谷底を見下ろしつつ、ぼくは答える。
アミュは不思議そうにしながら、こちらへ歩み寄ってくる。
﹁下? 崖の下にいるってこと?﹂
﹁いやそうじゃなくて、崖の途中にある洞窟の中に⋮⋮﹂
アミュが崖際から顔を出そうとした、その時。
谷全体が、薄青く色づいた。
﹁げっ!﹂
急いでアミュを引っ張る。
少女剣士がバランスを崩して尻餅をついた直後︱︱︱︱崖下から、
ぬるい風が噴き上がった。
崖際に生えていた雑草や樹木の葉が、白く変色していく。
﹁ちょっと、なにすん⋮⋮﹂
﹁喋るな。一度崖から離れるんだ︱︱︱︱来るぞ﹂
アミュの手を引いて立ち上がらせると、身構えるパーティーメン
バーの元にまで後退する。
とかげ
その時︱︱︱︱崖の下から、白い蜥蜴のような頭がにゅっと現れ
た。
ドラゴンよりも鼻面が長く、華奢な印象を受ける。だがその純白

1327
の鱗はいかめしく、生半可な攻撃は通しそうにない。頭は、長い首
へと繋がっていた。
青緑色の目が、ぼくらを品定めするように見つめる。
﹁あ、あれがヒュドラ⋮⋮?﹂
イーファが呟いた直後。
まったく同じ首が二本、崖下から伸びた。
さらに、一本。さらにもう一本⋮⋮合計五つになった頭が、崖の
先でぼくらを見つめながら揺れる。
﹁やっぱり、首は五つで間違いなかったのね⋮⋮﹂
ルルムが険しい表情で呟く。
ヒュドラは複数の首を持つモンスターだが、その数が増えるほど
危険になると言われている。普通は三、四本であることを考えると、
この個体は十分強敵と言っていいだろう。
崖際に太い爪がかかる。
ミシミシと岩を割りそうなほどの握力が込められ、ヒュドラが崖
上に、その白い巨体を持ち上げた。細い首には不釣り合いにも映る
強靱な胴体に、太く長い尾。
なるほど、もっとも剣呑な亜竜と呼ばれるだけはありそうだ。
アミュが目を白黒させながら言う。
﹁こ、こんなのどこに隠れてたのよ!?﹂
﹁だから、崖の途中に洞窟があって、そこに潜んでたんだって﹂

1328
どうりで今までなかなか見つからなかったわけだ。
山脈全域を徘徊し、積極的に冒険者を襲うという話だったはずだ
が⋮⋮もしかしたら恐ろしさが誇張されていただけで、元々そこま
で活動的なモンスターではないのかもしれない。
まあ何にせよ、見つけられたのならいい。
ぼくは軽く笑みを浮かべると、皆へ告げる。
﹁さあ、いよいよボス戦だ。こいつを倒してケルツに帰るぞ﹂
仲間たちが答えるよりも先に︱︱︱︱ヒュドラの五つの頭すべて
が、まるで開戦を知らせるように甲高い雄叫びを上げた。
身構えるパーティーメンバーを後ろから眺めつつ、ぼくは思う。
さて⋮⋮無事に終わればいいけど。
第二十話 最強の陰陽師、標的を倒す
ヒュドラは、意外にもそのまま突っ込んできた。
ブレス
﹁っ、息吹吐くんじゃないわけっ!?﹂
叫んだアミュを筆頭に、皆散り散りになってヒュドラの突進を躱
す。
亜竜の巨体が、ぼくたちの中心でたたらを踏んだ。五つの頭は、
誰を最初の獲物とするか迷っているようだった。
前衛が壁となり、後衛が安全に大火力を撃つのがパーティー戦の
基本だが、ここまで大きく、しかも頭が複数ある亜竜をアミュたち

1329
ブレス
だけで止めるのは不可能だ。息吹の的にならないためにも、定石を
無視して散開した方がいい。
この辺りは、一応事前に打ち合わせていた。
しかし、後は完全に各人の対応力任せとなる。
﹁ぐっ⋮⋮!﹂
ノズロが、顎を大きく開けた頭の強襲を止める。
牙を横に受け流すように横転。首の内側に潜り込むと、突き上げ
るような掌底を放った。馬車ほどもある頭がわずかに浮き上がる。
だが。
﹁⋮⋮チッ﹂
ノズロが舌打ちと共に距離を空ける。
ヒュドラは不快そうに頭を振ったのみで、大したダメージはなさ
そうだった。
その時、傍らから轟音が響き渡る。
﹁⋮⋮む﹂
岩盤すらも割るメイベルの一撃を、しかし首の一つは慎重に避け
ていた。
勢いを殺さずに放たれた斬り上げからも、さらに上へ逃れる。流
れるように投剣が閃くも、眼球を狙ったその一閃は硬い鱗で受けら
れた。
ヒュドラの青緑色の瞳が、小さな人間を不快そうに見下ろす。

1330
一方で戦斧を構えるメイベルも、いらだたしげに呟く。
﹁⋮⋮めんどう。モンスターのくせに﹂
その右方でも、硬質な音が響き渡っていた。
﹁っ、なんなのよこいつっ!﹂
首の一つが、アミュをしつこく狙っている。
噛みつき攻撃をなんとか弾き返してはいるものの、相手にはひる
む気配もなく、アミュは防戦一方だ。
﹁いい加減に⋮⋮っ!﹂
ファイアボール
赤い口腔へ向けて、アミュが火炎弾を放つ。
突然の炎に驚いたように首が引っ込むも、それだけだった。
軽く頭を振ったヒュドラは、まるで反撃されたことが不満である
かのように、その青緑色の目で少女剣士を睨む。
﹁⋮⋮勘弁してよね﹂
引きつった顔で呟くアミュから、一旦目を離す。
今一番危ういのは、イーファのところだ。
﹁っ⋮⋮!﹂
風の槍と炎の帯をくぐって、首の一つがイーファに襲いかかった。
危機を前に、少女の表情が強ばる。
だがその時、頭の横から力の流れが籠もった矢が飛来し、鱗の間
に突き立った。瞬く間に水属性魔法の氷が生み出され、頭を覆って

1331
いく。
しかし︱︱︱︱ヒュドラは意に介すこともなかった。
氷をバキバキと砕きながら、少女に向け強引に大顎を開く。
そこへ横から飛び込んできたルルムが、イーファの体を抱えるよ
うに転がった。
獲物を捕らえ損ねたヒュドラは、勢い余ってその先にあった樹を
三本ほどへし折り、そこで止まる。
もしも矢による氷で動きが鈍っていなかったら、間に合っていな
かったかもしれない。
イーファを立ち上がらせながら、ルルムは張り詰めた声で言う。
﹁気をつけてっ、あれは中位魔法程度では止まらないわ﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
まじな
ぼくはほっと息を吐き、向けかけていた呪いを解いた。
一応致命傷くらいならなんとかなるものの、ひどい怪我人が出る
ことは避けたい。
一方で、後方からヒュドラを観察していたぼくは、なんとなくこ
のモンスターのことがわかってきた。
攻撃してくるのは頭ばかりで、太い脚や尾を振るってくる様子は
ない。
ヒュドラにとっては、複数ある頭よりも、そのバランスの悪い体
を支える脚や尾の方がずっと大事なのだろう。
となると、とりあえず五つの頭にさえ気をつければよさそうだな。

1332
ぼくは頭をひねる。
﹁うーん、子供向けのお伽噺だと、こういう敵は首を絡ませて倒す
ものだけど⋮⋮﹂
﹁そんなの現実にあるわけないでしょっ!﹂
ぼくの呟きに、アミュが叫ぶ。
そりゃそうだ。そんな間抜けな生物がいるわけがない。
五つの頭は擬態ではなく、すべてに意思があるように見える。し
かしかと言って、胴体がそれぞれに引っ張られるような様子はない。
それは、おそらく⋮⋮高く持ち上げた首でぼくらを睥睨する、中
央の頭が全体を統制しているからなのだろう。
と︱︱︱︱その時。
四つの首が、一斉に引いた。
同時に、中央の頭が顎を開き、力の流れが渦巻き始める。
ルルムが叫んだ。
ブレス
﹁息吹が来るわっ!﹂
直後︱︱︱︱中央の頭が、薄青い気体を吐き出した。
ブレス
毒息吹の温い風は、山の地表を勢いよく撫でていく。
それを浴びた途端⋮⋮生臭いような臭気と共に、目と喉に鋭い痛
みが生まれた。
﹁ごほっ、ごほっ!﹂

1333
﹁め、目が⋮⋮﹂
﹁な、なによこれっ﹂
全員が咳き込み、目をこする。
よくよく周辺を見れば⋮⋮地表に茂る下草は全体がうっすらと白
ブレス
みを帯びて、息吹の直下にあった枯れ枝にはなんと火が着いている
ようだった。
これは⋮⋮予想以上だ。
毒気の濃度がかなり濃い。これではいくら傷病を移せるとはいえ
戦闘にならない。
ぼくも咳き込みながら、身代のヒトガタを確認し⋮⋮⋮⋮愕然と
目を見開いた。
﹁は⋮⋮? 嘘だろ⋮⋮?﹂
全員分のヒトガタが黒ずみ、すでに力を失って地に落ちていた。
これが意味するところは一つ︱︱︱︱ぼくを含めた全員が、一度
ブレス
死んだのだ。先の息吹で。
ぼくは青くなる。
ま、まずい⋮⋮。
念のため、予備の予備の予備の予備まで作っておいたからまだ三、
四回は死ねるものの、こんな調子で戦い続けたらいずれ尽きる。
もう手を出さないとか言っていられる状況じゃない。
中央の頭は、ぼくらが一向に死なないためか、不思議そうな顔を
していた。

1334
業を煮やしたように、再び大口が開き、力の流れが渦巻き始める。
ブレス
そして毒気の息吹が放たれる前に⋮⋮ぼくは上空に飛ばしたヒト
ガタから術を解放した。
︽水の相︱︱︱︱瀑布の術︾
上向きに放たれた大量の水が、反転し雨となって地表に降り注ぐ。
ブレス
ヒュドラは、うろたえたように息吹を中断し、空を見上げた。
毒気は雨に弱い。
下向きの気流ができるうえに、種類によっては水に溶けて流れて
しまう。
ブレス
火山の毒気ほど溶けやすくはないものの、このヒュドラの息吹も
ある程度はその傾向があるはずだ。
突然の天気雨に驚くパーティーメンバーへ向け、ぼくは叫ぶ。
ブレス
﹁これで息吹は封じた! 今が攻め時だ!﹂
口にした直後、思った。これでは言葉が足りない。
ブレス
息吹なしでも押されていたのだ、戦い方を変えなくては。
ぼくは少し考えた後、皆へ呼びかける。
﹁一人で挑むな! 数では有利なんだ、周りと協力しろ!﹂
仲間たちが、すかさず声で応えた。
一方で、ヒュドラは明らかに気勢が削がれているようだった。
雨という不利な天候の中、戦うことに迷いが生まれたのだろう。

1335
しかし⋮⋮五つもの頭を抱える鈍重な体では、ここから退くのも
難しい。
意を決したように、首の一つがノズロへと襲いかかる。
その大顎を、神魔の武闘家は再び全身で受け止めた。
ここまでは先ほどと同じ。
だが、そこからの展開が違った。
﹁凍え凍て凍み割れるは青っ! 凛烈たる氷湖の精よ、沈黙し凝結
グレイシアフォール
しその怒り神鎚と為せ! ︱︱︱︱氷河衝墜!﹂
それは、ほとんど初めて聞く、アミュの呪文詠唱だった。
次の瞬間︱︱︱︱極太の氷柱が生み出され、ノズロが抑え込んで
いたヒュドラの首へと突き立つ。
口から大量の血を吐き、その頭は白目を剥いて動かなくなった。
血と雨に濡れたノズロが、驚いたように呟く。
﹁⋮⋮上位魔法か﹂
﹁そうよっ。呪文詠唱とか、魔法剣士らしくないことしちゃったわ
ねっ!﹂
アミュが、もう一つの首の攻撃をさばきながら答える。
アミュは普段、中位や下位の魔法ばかりを無詠唱で使う。以前訊
いたところ、魔法剣士とはそういうものなのだと話していた。
だが⋮⋮決して、上位魔法を使えないわけではなかったのだ。
誰よりも才に恵まれた、勇者なのだから。
﹁︱︱︱︱なるほど﹂

1336
ノズロが静かに呟く。
いったいどのようにしたのか。
神魔の武闘家は、その前触れすら見せることなく︱︱︱︱いつの
間にか、アミュを狙うヒュドラの頭の上に立っていた。
﹁ならば、俺の奥の手も見せよう﹂
気づいたヒュドラが、頭を傾け、大きく振り払おうとした。
対してノズロが行ったのは⋮⋮片手で厳めしい鱗の突起を掴み、
もう一方の手で、ヒュドラの頭頂に軽く掌を添えただけ。
だが、それで終わりだった。
ヒュドラが振り払う間もなく︱︱︱︱大気を振るわせるような打
撃が、その頭頂に打ち込まれた。
次の瞬間、まるで糸が切れたかのように、ヒュドラの首がどう、
と地に落ちる。
舌をだらりと垂らして動かない。
すでに絶命していた。
地面に飛び降りるノズロを見て、アミュが呆気にとられたように
呟く。
﹁な⋮⋮なに、今の。あんた今ぶん殴ったの⋮⋮?﹂
﹁そんなところだ﹂
宋に伝わる武術の技に、浸透勁というものがある。
ほとんど触れるような距離から掌底で放つ、標的の内側へ深く衝
撃を響かせる打撃だ。

1337
達人ともなれば、鎧の上から敵の内臓を破壊することもできたそ
うだが⋮⋮まさか同じものを、異世界で見られるとは思わなかった。
アミュとノズロの善戦に、ルルムが笑みを浮かべている。
﹁⋮⋮そうね。何も、自分だけで戦う必要はないんだわ﹂
ルルムは矢をつがえると、自らに迫り来る首の一つへ弓を向ける。
そして、ふつ、とそれを放った。
鱗の間に矢が突き立つ。
それは一見、いかほどの痛痒も与えていないかのように見えた。
だが、間近に迫っていたヒュドラの頭は︱︱︱︱牙を剥いたまま
で突如その動きを止めた。
よく見れば、突き立った矢からは細い影が伸び、ルルムの足元に
繋がっている。
﹁こ、これ⋮⋮強力だけど、自分も動けなくなるのよね⋮⋮!﹂
ルルムは頬を引きつらせながら、それでも笑った。
﹁だから、あとは頼んだわ︱︱︱︱メイベルさん﹂
﹁わかった﹂
ズパンッ、と。
まるで水袋を斬ったような音と共に、ヒュドラの首があっけなく
落ちた。
硬い鱗も、強靱な筋肉も、存在しないかのような一撃。
すさまじい重量となっていた戦斧の振り下ろしでなければ、為し

1338
得なかった光景だろう。
メイベルがどこか満足げに、戦斧を担ぎ直す。
﹁⋮⋮すっきりした﹂
その時。
めきめきという音を立てながら、別の首が一本の大樹を根こそぎ
引き抜いていた。
牛十頭でも敵わないであろうその怪力にも驚くが⋮⋮何より恐る
べきは、ヒュドラがそれを、明確に武器として使おうとしていると
ころだった。
接近戦は危険だと考えたのか。先にはメイベル相手に慎重な動き
を見せていたその頭は︱︱︱︱唐突に長い首を鞭のようにしならせ、
ルルムとメイベルに向け咥えた大樹を横薙ぎに振るった。
もしも当たっていたならば⋮⋮二人とも無事では済まなかっただ
ろう。
当たっていたならば。
﹁上位魔法なら⋮⋮ちゃんと効くんだよね﹂
次の瞬間︱︱︱︱空から赤熱する巨大な石塊が降り、その頭を大
樹ごと押し潰した。
メテオフォール
それは土属性の上位魔法、隕塊衝墜に似ていた。
しかし精霊のもたらしたその魔法は、人のものとは似て非なる、
まったくの別物だ。
イーファが胸をなで下ろす。

1339
﹁よ、よかった。間に合って⋮⋮﹂
隕石の熱で雨水が蒸気になっていく中、最後に残った中央の首は、
明らかに焦っているようだった。
ブレス
無理もない。息吹は封じられ、五つのうち四つの首が倒されてし
まったのだ。
残りは、自分だけ。
﹁セイカくんっ、あと少しだよ!﹂
﹁最後に決めろ!﹂
イーファとノズロが叫ぶ。
ぼくはきょとんとして訊き返す。
﹁え、ぼくがやっていいのか?﹂
﹁当たり前でしょっ、こんな時に文句なんて言わないわよ!﹂
﹁セイカ、はやく﹂
アミュとメイベルも言う。
そして、ルルムも。
﹁あなたが終わらせて︱︱︱︱セイカ!﹂
﹁⋮⋮そこまで言われては仕方ないな﹂
ぼくはふっと笑い︱︱︱︱︽瀑布︾を止めた。
雨が止む。
中央の頭がはっとしたように、ちらと空を見た。
同時に大口が開かれ、力の流れが渦巻き始める。

1340
ブレス
息吹さえ吐ければ、まだこの人間どもを倒せる︱︱︱︱とでも思
っているのだろう。
ぼくは口の端を吊り上げ、呟く。
﹁わざわざ結界ではなく、雨を降らせた甲斐があった﹂
ブレス
術さえ止めれば︱︱︱︱こうして、任意に息吹を吐かせることが
できる。
ヒュドラの口元から、薄青い風が生み出される。
同時に、奴の眼前に飛ばしていたヒトガタを起点にして、術を発
動した。
︽陽の相︱︱︱︱薄雷の術︾
ヒトガタの周りに火花が散る。
それは本来、小規模な稲妻を発生させるだけの術だ。
だが次の瞬間︱︱︱︱ヒュドラの眼前で、大爆発が起こった。
爆風が地表を吹き荒れる。
間近でそれを受けた最後の頭は、顎と首の鱗の大部分を吹き飛ば
され、純白の体を血に染めていた。
唯一残った左目が⋮⋮それでもしかし、ぼくを睨みつける。
思わず呟く。
﹁毒蛇らしく、しぶといな﹂

1341
さっさと楽にしてやるか。
一枚のヒトガタが、鱗の剥がれた首に貼り付く。
そして、片手で印を組んだ。
おうぞくとう
︽木の相︱︱︱︱罌粟湯の術︾
最後の頭が、大口を開けて間近に迫る。
決死の強襲は⋮⋮しかし、突然ぼくを見失ったかのように逸れ、
傍らの岩を粉砕して動きを止めた。
残った左目に、光はない。
すでに意識も失っていることだろう。
け し
芥子に含まれる薬効成分は、過剰に摂取すると幻覚から昏睡の症
状をたどり、最終的には死に至る。
少量なら鎮痛剤として使えるが、このように毒にもなる代物だ。
やがて、ヒュドラの体から力の流れが消えていく。
純白の巨体は血と土に塗れ、もはや起き上がる気配はない。
それが長きにわたり冒険者を恐れさせた、白いヒュドラの最期だ
った。
ぼくは大きく息を吐く。
﹁はあ⋮⋮なんとか無事に済んだな﹂
全員、ひどい怪我を負うこともなかった。
まあ身代がなければ一度死んでいたけど。

1342
皆ほっとしたような顔をするだけで、特段歓声なども上がらない。
亜竜はともかく、上位モンスターくらいならば何度も倒してきた
のだ。今さらだろう。
だけど、雨でびしょ濡れになった仲間たちの間には、どこかやり
遂げたような雰囲気があった。
﹁あれ、あんたそれ⋮⋮﹂
その時、アミュがノズロを見て呟いた。
武闘家の太く、死人のように白い腕。そこに、幾何学的な黒の紋
様がうっすらと浮かび上がっている。
﹁む⋮⋮﹂
気づいたノズロは、自らの腕に視線を落とし、眉をひそめた。
﹁⋮⋮雨で染料が流れた。それだけだ﹂
その声音には、わずかに気まずげな響きがあった。
ふと首を回してルルムを見やると、彼女も同様だった。落ちかけ
た染料の下から浮かぶ自身の紋様に目を向け、居心地の悪そうな顔
をしている。
人間の前で、それはずっと隠してきたのだ。事情を知ったうえで、
これまで同行してきたぼくたちに対してでさえ。
だから、気まずく思うのも無理はないかもしれない。
しかし、そんな反応をされるとこちらも困る。
こんなことなら雨はやめておくべきだったか⋮⋮と、考えていた
時。

1343
﹁ふーん﹂
アミュは特に気にした風もなく、ノズロの腕を見ながらそう呟い
た。
﹁なんだか忘れかけてたけど、そういえばあんたたちって魔族だっ
たわね。ねえ、それってやっぱり生まれつきなの? 自分で入れる
んじゃなく?﹂
﹁⋮⋮そうだ。人間が体に彫り入れる紋様とは違い、身体と共に父
母からもらい受けるものだ﹂
﹁ふーん、そうなのね﹂
それから、アミュはにっと笑って言う。
﹁じゃ、よかったわね。かっこいいのもらえて﹂
聞いたノズロは、一瞬呆けたように口を開けていたが⋮⋮やがて
ふいと顔を逸らし、ぼそりと呟いた。
﹁⋮⋮それほどでもない﹂
﹁ノ、ノズロ、あなたねぇ⋮⋮﹂
一連の流れを見ていたルルムが、呆れたように言った。
﹁もう少し気の利いたこと言えないの? せっかくアミュさんが誉
めてくれたのに﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まったく昔からそうなんだから⋮⋮﹂
﹁あ、あのっ。ルルムさんのも、素敵ですね⋮⋮!﹂

1344
﹁彫り師が彫ったみたい﹂
﹁えっ? そ、そうかしら。ありがとう⋮⋮﹂
興味深げにまじまじと見つめてくるイーファとメイベルに、ルル
ムがややたじろぎながら答える。
いつの間にか、雰囲気は和やかに弛緩していた。
﹁やれやれ⋮⋮この者らは気楽なものでございますねぇ。セイカさ
まの気も知らないで⋮⋮﹂
ユキが耳元で囁いてくる。
﹁ユキははらはらいたしました⋮⋮何事もなかったからよかったも
のを﹂
ブレス
﹁そうだな⋮⋮予想よりも手強かった。特にあの息吹が﹂
まさか、あれほど早く効くものだとは⋮⋮。
身代があっという間にダメになったことにも焦ったが、眼球や気
道の粘膜に触れた時の刺激も想像以上で、とても戦いどころではな
くなってしまった。
ひおけ
火桶や火山の毒気ならこうはならないんだが⋮⋮まあこういうの
は、実際に自分で喰らってみないとわからない。存在を知っていた
からと言って安易に考えるものではなかったな。
﹁もっともお前は、なんともなかっただろうけど⋮⋮﹂
にんにく
﹁む、なんともなくなどありませんよっ。あの蒜のような臭気は、
こた
ユキも堪えました⋮⋮﹂
ブレス
ユキはいかにも大変だったかのように話すが、あの息吹が嫌なに
おい程度で済むのなら楽なものだ。

1345
妖に効くのは、人々に広く知られた毒だけだから。
﹁しかし異臭で死にかけるとは、人の体とはなんとも脆弱なもので
ございますねぇ﹂
﹁別に臭くて死ぬわけじゃないけどな⋮⋮。仕方ないさ﹂
人は弱い。
この程度の化生を倒すのにも、命を賭けて戦わなければならない。
彼らほどの実力があっても、なお⋮⋮。
﹁セイカ∼﹂
唐突にアミュが声をかけてきたので、ぼくはどきりとして振り返
る。
﹁な、なんだ? アミュ﹂
﹁一応訊いておきたいんだけど⋮⋮あの最後のやつ、なんだったわ
け?﹂
﹁最後?﹂
ブレス
﹁あんた、ヒュドラの息吹を爆発させてなかった? 全然煙たくな
いし、火薬とかじゃなかったのよね?﹂
続けてルルムも言う。
ブレス
﹁あなたは不思議な魔法をたくさん使うけれど⋮⋮ヒュドラの息吹
を爆発させるなんて、そんなこともできたの?﹂
﹁あー、いや、そうじゃなくて⋮⋮﹂
ぼくは説明する。

1346
ブレス
﹁あのヒュドラの息吹が、元々そういう毒気なんだよ﹂
うっすらと青く、浴びた物の色を抜き、燃え上がらせる、妙なに
おいのする毒気。そんなものは一つしか思い当たらない。
オゾン
雷臭気だ。
稲妻によって生まれるこの気体は、強い毒性と共にいくつかの奇
妙な性質を持つ。物の色を抜き、触れた物を燃え上がらせ⋮⋮そし
て、強い刺激によって爆発する。
かなり濃度が高くなければ反応すらしないものの、人を即死させ
るくらいだからいけるだろうと踏んだら予想通りだった。
なかなかおもしろい現象を見られた。やっぱり適当な術で安易に
ぶっ飛ばさなくてよかったな。
アミュが若干興味を示したように言う。
﹁ふうん。じゃあ、普通のヒュドラ相手だとできないのね⋮⋮﹂
﹁いや、できる。実は火山の毒気にも似たような性質があるんだ。
濃度にもよるけど﹂
﹁そうなのっ? じゃあまた今度、ヒュドラが出るダンジョンに行
ってみましょ。あたしもやってみるわ!﹂
﹁危ないからやめろ。定石通り、雨か霧の日に不意打ちした方が絶
対にいい。火山の毒気はかなり水に溶けやすいから⋮⋮﹂
ぼくの話を、アミュは不満そうに聞いている。
その様子を眺めていたルルムが、呆れたように言う。
﹁あなたは⋮⋮よくそんなことばかり知っているわね﹂
﹁そんなことばかりって言うな。たまたま前に書物で読んだことが
あっただけだよ﹂

1347
﹁どうせまた博物学の本でしょ? あんたも物好きよね﹂
﹁いいだろ別に﹂
﹁⋮⋮ふふ﹂
その時、ルルムが小さく笑った。
﹁やっぱり⋮⋮あなたは、メローザたちの子ではないのでしょうね﹂
黙って目を向けると、ルルムはどこか諦めたような笑みで言う。
﹁そういうところはとても、人間らしく見えるわ﹂
第二十話 最強の陰陽師、標的を倒す︵後書き︶
※罌粟湯の術
モルヒネを生成する術。ケシが作るアルカロイドの一種で、鎮痛作
用がある一方、多量に摂取するとせん妄、意識混濁、昏睡状態を経
て早ければ数分で死に至る。実際に発見されたのは近世だが、作中
世界では八世紀にアラビアの薬草医が分離していた。
1348
第二十一話 最強の陰陽師、見捨てる
あれから依頼を貼り出していたギルドにヒュドラ討伐の報告をし
たぼくたちは、すぐにケルツへの帰路につく⋮⋮ことはできなかっ
た。
達成報酬が高額だったために、ギルドがその場で金を用意するこ
とができなかったからだ。
とにかく時間がなかったぼくたちは、半ば脅すように急かしたと
ころ、なんとか翌々日には金貨の詰まった袋を受け取ることができ
た。
その足で馬車を手配し、その日のうちに冥鉱山脈麓の街を発った
というわけだ。

1349
﹁ふぅ⋮⋮もうすぐね。でもまだ気は抜けないわ﹂
手綱を握ったまま御者台から振り返ると、アミュが張り詰めた表
情をしていた。
﹁いい、あんたたち。その金は、なにがあっても守るわよ﹂
アミュの言葉に、イーファとメイベルが力強くうなずく。
﹁も、もちろんだよアミュちゃん!﹂
﹁まかせて﹂
二人は一緒に、金貨の詰まった大袋を我が子のようにひしと抱え
る。
この三人は、報酬を受け取った時からずっとこんな感じだった。
どうやら見たこともないほどの大金を受け取って、気がおかしく
なってしまったらしい。
三人の様子を、ルルムが微妙な表情で見つめている。
﹁そ、そうまでされると、受け取りにくいわね⋮⋮﹂
﹁大丈夫⋮⋮かなしいけど﹂
﹁こ、この子たちが誰かの役に立ってくれるのなら、ぐすっ、わた
しもうれしいです﹂
﹁冒険者に別れは付きものなのよ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂

1350
ルルムがだんだん病気の人間を見るような顔になっていくのを見
て、ぼくは小さく吹き出し、顔を前に戻す。
視界にはすでに、西日に照らされたケルツの城壁が映っていた。
ここまで来れば、もう野盗の心配もない。
エルマンに約束させた取り置きの期日は今日。
ギリギリではあったが、なんとか間に合いそうだった。
﹁うまく事が済みそうでようございましたね、セイカさま﹂
髪から少しだけ顔を出し、ユキが言う。
﹁この者らに物の怪を狩らせ、一月のうちに一生食うに困らぬほど
の大金を稼ぐなど、さすがに無茶ではないかとユキは思っていたの
ですが⋮⋮見事、成し遂げられましたね。さすがセイカさまです!﹂
弾んだ調子で言うユキに、ぼくは平然と答える。
﹁いや、成し遂げてないぞ﹂
﹁え?﹂
﹁奴隷の代金には全然足りていないということだ﹂
﹁な⋮⋮なにが?﹂
﹁だから、金が﹂
﹁⋮⋮ええーっ!?﹂
思わず大声を出してしまったユキが、慌てて声を抑える。
やまたのおろち
﹁ど、どどどういうことでございますか!? あの八岐大蛇のよう
な物の怪を倒せば、奴婢の代価に届くとあの者たちと話していたは

1351
ずでは⋮⋮﹂
﹁ああ、あれか﹂
ぼくは軽く笑って言う。
﹁皆には最初から嘘をついていたからな。エルマンから示された額
の、二割ほどの額を伝えた﹂
﹁え、ええ? なぜにそのようなことを⋮⋮﹂
﹁お前の言う通り、一生食うに困らないほどの大金を一月で稼ぐな
んて無理だ。本当のことを言えば、きっとあの二人は強硬手段に出
ただろう。それを防いで、なんとか穏便に買い戻させるためだよ﹂
﹁で、ですが﹂
ユキは混乱したように言う。
﹁額が足りなければ、そもそも買い戻せないではないですか! こ
れからどうされるおつもりで?﹂
﹁足りない分は、ぼくがこっそり出すよ﹂
﹁そんな大金⋮⋮⋮⋮⋮⋮あ﹂
ユキは気づいたようだった。
ぼくは微笑と共に言う。
﹁そう、フィオナからもらった手形があるだろ﹂
あれを使えば、おそらくだが足りるだろう。
ぼくは続ける。
﹁使いどころとしてはいいところだろう。額も、自分では簡単に用
意できず、かと言って高すぎもしないくらいだからちょうどいい﹂

1352
﹁なるほど、と思いましたが⋮⋮ううむ、なんだかユキには、あれ
を使ってしまうのが惜しく思えます⋮⋮﹂
﹁そんなことを言っていると、結局使うことのないまま一生を終え
ることになるぞ﹂
﹁例によって、経験談でございますか?﹂
﹁ああ﹂
前世の屋敷には、貴重な呪物や宝物が手つかずのままたくさん仕
舞ってあった。
ぼくが死んで、あれらもすっかり焼失してしまったことだろう。
ユキが言う。
﹁思ったのですが⋮⋮あの手形を使えば、もしや全額でもまかなえ
たのでは? わざわざ物の怪を倒して回った意味は、なんだったの
でございましょう⋮⋮﹂
﹁全額を出してやるほどの義理はないさ。あまり貸しばかり作るの
もよくない。それに⋮⋮いいじゃないか﹂
ぼくは、そう言って荷台を振り返る。
さっきまでお喋りしていた元気はどこへやら。荷台に座るパーテ
ィーメンバーたちは、ルルムとノズロも含め、皆うとうとと船を漕
いでいた。
きっと、疲れが出たのだろう。
ぼくは軽く笑い、ユキへと言った。
﹁なかなか楽しめたんだから﹂

1353
****
城門をくぐると、すっかり日没間近だった。
もう少しすると、商館も閉まり始める頃合いだ。
慣れない街中で少し緊張しつつ、ぼくはなるべく急いで馬車を走
らせる。一日くらい過ぎても問題ないだろうが、できるだけ今日の
うちに話を通しておきたい。
﹁ねえ。仲間を買い戻したら、その後はどうするつもりなの?﹂
揺れる馬車の中で、アミュがルルムへと訊ねる。
﹁一度、私たちの里へ帰るつもりよ﹂
ルルムが微笑を作って答える。
﹁さすがに、十五人も連れて旅はできないからね。もうずっと帰っ
てなかったから⋮⋮ちょうどいいかもしれないわ﹂
﹁そう。じゃあ⋮⋮ここでお別れなのね﹂
アミュが、寂しそうな声で言った。
ルルムが仕方なさそうに笑う。
﹁ええ。でも、それが普通なのよ。私たちは元々⋮⋮種族からして
違うのだから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁冒険者には、別れが付きものなのでしょう?﹂

1354
﹁う、うん⋮⋮﹂
アミュは、明らかに涙声になっていた。
釣られたように、イーファとメイベルも鼻をすすり出す。
﹁⋮⋮出立までには、いくらか時間がかかる﹂
おもむろに、ノズロが口を開いた。
﹁同胞の中には、飢えや傷を癒やさなければならない者もいるだろ
う。すぐに故郷へ発てるわけではない⋮⋮その間ならば、またダン
ジョンへ赴くのもいい﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁ノズロ⋮⋮﹂
神魔の武闘家は、ぶっきらぼうに続ける。
﹁故郷へ帰るのなら、もしもの備えとして持ってきた金品を、いく
らか貨幣に変えることもできる。しばしの間、滞在する程度には十
分な額になるはずだ。そのくらいなら⋮⋮してもいい﹂
﹁ふふ、そうね﹂
ルルムが微笑む。
﹁お別れの時まで⋮⋮もう少し、このパーティーで冒険を続けまし
ょうか﹂
﹁じゃ、じゃあ⋮⋮﹂
アミュが、目元をごしごしとこする。

1355
﹁約束、だからね。そ、それと⋮⋮あたしたちのこと、忘れないで。
ぼ、冒険者って、そういうものだから⋮⋮﹂
﹁ええ、わかったわ﹂
ルルムはしばらくアミュの手を握っていたが⋮⋮それからしばら
くすると、ぼくの座る御者台の隣へとやってきた。
ぼくが無言で目を向けると、ぽつりと言う。
﹁素直でいい子たちね。あなたがかわいがるのもわかるわ﹂
﹁別に、かわいがっているつもりはない。年もほぼ同じだしな﹂
﹁そういえば、そう言っていたわね。少し信じがたいけれど﹂
ルルムがくすくすと笑う。
ぼくは、ややためらいつつ訊ねる。
﹁⋮⋮魔王捜しは、どうするつもりなんだ﹂
﹁続けるわ。一度故郷へ戻るというだけ﹂
ルルムは、穏やかな表情で言う。
﹁けど、さすがに少し疲れたから⋮⋮短い間なら、休むのもいいか
もしれないわね﹂
﹁⋮⋮もしも、だが﹂
慎重に言葉を始めたぼくへ、ルルムが視線を向けてくる。
﹁諦めざるをえないような時が来たなら⋮⋮何か、代わりの物事を
見つけるといい。どうにもならないことも、世の中にはある﹂
海や砂漠を渡り、西洋で古代の叡智を学んでも︱︱︱︱結局、妻

1356
を生き返らせることは叶わなかったように。
どんな存在にだって、どうにもならないことはある。
ルルムは真剣な表情で、ぼくの言葉を繰り返す。
﹁代わりの、物事⋮⋮﹂
﹁なんでもいい。学問でも、芸術でも⋮⋮弟子を育てる、とかでも
な﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あなたは、何を諦めたの?﹂
ぼくは、ケルツの街並みに目を向けたまま答える。
﹁ぼくはまだ、何も諦めてはいない﹂
今生では、まだ。
﹁⋮⋮そう。一応、参考にさせてもらうわね﹂
ルルムは、どこかすっきりしたような表情をしていた。
いつか来るであろう旅の終わりを、彼女だって何度も考えたに違
いない。
﹁ありがとう、セイカ﹂
﹁礼なら、別れ際にまとめて言ってくれ。ダンジョンで君らを助け
る度に言われていてはキリがないからな﹂
﹁あら。あなたも付き合ってくれるつもりだったの? 一級の認定
票は、もう必要ないのだけれど﹂
﹁あの子らだけでダンジョンに向かわせるのは不安だ﹂
﹁やっぱりかわいがってるじゃない﹂

1357
ルルムはくすくすと笑う。
****
ケルツの商街区にたどり着いた時には、日が赤く染まり始めてい
た。
まだ開いているといいけど⋮⋮。
見覚えのある看板が目に入った時、ルルムが前方を指さして言っ
た。
﹁あれ、あそこにいる⋮⋮みたいだけど⋮⋮﹂
その言葉尻が、だんだん小さくなっていく。
エルマン・ネグ商会が掲げる看板の下に、確かに見知った人影が
あった。
顎髭を生やした痩身の男、代表のエルマン。
猫背の陰気な若者、副代表のネグ。
だが︱︱︱︱それだけではない。
似たような衣服に身を包み、武器を持ったこの街の衛兵も、十数
人たむろしている。
馬車の速度を落として近づくと、気づいた衛兵がすぐにぼくらを
取り囲むよう散開した。

1358
嫌な予感がしつつも、ぼくは御者台から飛び降りる。
荷台からは、すでにノズロが姿を現し、鋭い視線を人間たちに向
けていた。後ろからアミュたちが続き、最後にルルムが御者台の隣
から降りる。
皆、一様に不安そうな顔をしていた。
ぼくは、一層うさんくさい笑みを浮かべているエルマンへ呼びか
ける。
﹁やあエルマン。二度目の来店で、ずいぶんと盛大な出迎えだな。
ぼくはあまり、こういうのは好まないんだが﹂
﹁お待ちしておりました、セイカ殿﹂
エルマンが顎髭を撫でながら続ける。
﹁いやはや、ご無事で何より。ワタクシめもほっといたしました。
約束もなしに訪れた薄汚い冒険者風情とはいえ、我が商会の大事な
お客様でございます。もし何かあったらと⋮⋮﹂
﹁見ての通り、何事もない。亜竜を屠る一級冒険者相手に、何を憂
うことがあるんだ? エルマン。わかったなら、さっさと周りにい
る盛り上げ役を全員帰らせろ﹂
﹁いやいや⋮⋮まさか。そうはいきますまい﹂
もはや企みを隠そうともせず、エルマンは言う。
﹁本当に、ワタクシめは安心いたしました。皆様がギルドの依頼を
次々に受け始めたと街の噂で聞いた時も、少々不安にはなりました
が⋮⋮まあ少しだけ、少しだけお手持ちが足りなかったのだろうと、
自分を納得させた次第でございます。しかし。しかしです。もう一
つのお噂の方は⋮⋮とてもそうはいきませんで﹂

1359
﹁何⋮⋮?﹂
・・・・・・ ・・・・・
﹁なんでも︱︱︱︱魔族の間諜を連れているとか﹂
ルルムとノズロが、息をのむ気配がした。
エルマンは大仰な身振りと共に続ける。
﹁もしもそれが事実ならば⋮⋮ああ、なんと恐ろしいことか! こ
れはケルツのみならず、帝国に暮らすすべての民を危険に晒す、人
間社会への重大な背信行為です! もはや事態は、一介の商人の手
に負えるものではない⋮⋮。そのようなお話を、少々の心付けと共
に領主様へ懇切丁寧に説明し、こうして手勢を借り受けた次第でご
ざいます。さて、セイカ殿⋮⋮まずはその危険な魔族二体の身柄を、
こちらに渡していただけますかな?﹂
﹁︱︱︱︱必要ない。自ら行こう﹂
そう声を発したのは、ノズロだった。
動きを妨げる外套を放る。その眼光は、鋭くエルマンへと向けら
れている。
﹁だがその後は、勝手にさせてもらう⋮⋮兵はせめて、口封じしき
れぬほどの数を連れてくるべきだった﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁恨むな﹂
ノズロが地を蹴った。
それは、なんらかの武技だったのだろう。五間︵※約九メートル︶
ほどもあったはずの距離が一足のうちに詰まり、商人が拳の間合い
に入る。
神速の手刀が放たれる。

1360
神魔の持つ膨大な魔力で強化された身体能力は、奴隷商の細首程
度、一瞬で刎ねることすらも可能だ。
そのはずだった。
﹁っ⋮⋮!?﹂
その手刀は、エルマンの首元で止まっていた。
地面から生えた鋭い影が、ノズロの腕を宙で縫い止めていた。
すかさず蹴りへ移行するべく重心を移した右足を、影が貫く。さ
らに左腕に肩、そして胸と、ノズロの全身を黒い影の穂先が貫いて
いく。
﹁が⋮⋮っ!﹂
神魔の武闘家が血を吐いた。
顎髭を撫でつつそれを心配そうに眺めていたエルマンが、隣へ呟
く。
﹁ネグ。くれぐれも殺してはいけませんよ。この商品は高値がつく
でしょうから﹂
あん
﹁ヒ、ヒヒヒヒヒッ! だ、大丈夫だよぉ、兄ちゃん! 魔族は丈
夫だから!﹂
猫背の怨霊使い、ネグが陰気に笑いながら答える。
﹁ノズロっ!﹂
ルルムが悲鳴のような叫び声を上げ、背中の弓をとった。
魔道具の矢がつがえられる。

1361
﹁待ってて、今っ⋮⋮﹂
﹁ヒヒッ、ダメだよぉ﹂
その時︱︱︱︱ルルムの首元に、赤黒い荊のような紋様が浮かび
上がった。
途端、神魔の巫女が目を見開く。
﹁うぐ⋮⋮ぐっ⋮⋮﹂
その手から、弓矢が落ちた。
苦痛に耐えかねたように、ルルムが倒れ込む。両手で首元にかか
る縄を外そうともがくも、そこには何もない。
赤黒い、荊の呪印があるだけだ。
﹁だ、大丈夫!?﹂
駆け寄るアミュへと、ルルムが汗を滲ませながら薄目を開け、掠
れた声で告げる。
﹁逃げ⋮⋮こい、つ、は⋮⋮﹂
言い終える前に、ルルムの影が大きく広がった。
それは瞬く間に、ぼくらの足元を侵食していく。
そして︱︱︱︱アミュ、イーファ、メイベルの首元にも、荊の呪
印が浮かび上がった。
﹁⋮⋮っ!﹂
﹁あう、ぐっ⋮⋮﹂

1362
﹁なん⋮⋮なのよ、これっ⋮⋮﹂
皆が倒れ込む。
影はそのままネグへと伸びていくと︱︱︱︱その背後で、襤褸を
纏った漆黒の亡霊が湧出した。
﹁ォォォォォ︱︱︱︱︱︱﹂
レイスロード。
強力な闇属性魔法を使う、アストラル系最上位クラスのモンスタ
ー。
味方の衛兵すら声なく立ち尽くす亡霊の王の傍らで、エルマンが
高笑いを上げる。
﹁はっはっはっはっは! はあ⋮⋮懐かしいですねぇ、ネグ。昔は
よくこうして、人を捕まえては売ったものでした﹂
エルマンの目が、ヤモリのように見開かれる。
﹁荷を奪おうとした野盗一味を捕らえ、全員を鉱山へ売った! あ
くどい手を使ってきた同業者を始末し、妻子を売春宿へ売った!
言いがかりをつけ法外な税をふっかけてきた領主を脅し、大事な大
事な領民を売らせた!﹂
それから傍らの怨霊使いへと、親しみの籠もった視線を向ける。
﹁︱︱︱︱すべてはネグ、お前がいたからできたことです。あの暴
力と商売の日々こそが、今の成功の礎でした﹂
あん
﹁ヒヒッ、あ、兄ちゃんがあいつらを金に換えてくれなきゃ、おれ

1363
なんか道端で野垂れ死んでたよぉ。ヒヒヒヒッ、おれたちは二人で
最強だぁ!﹂
ネグが上機嫌に笑う。
あん
﹁で、でも兄ちゃん、やっぱり一番は⋮⋮あれだったよねぇ!﹂
﹁ええ、その通りです︱︱︱︱神魔の逃亡奴隷。危険ではありまし
たが、あれほど高値で売れた商品はありませんでした。このような
商材を扱うことは、もう二度とないだろうと思ったほどです﹂
﹁あ、あの野郎、もしまた逃げ出したら、またすぐ見つけて痛めつ
けて、別の奴に売ろうと思ったのに⋮⋮﹂
﹁死んでしまったのなら仕方ありません﹂
エルマンが惜しむように言う。
なるほど、とぼくは思った。
こいつが、ルルムとノズロという二人の神魔を相手取ることにた
めらいがなかったのは︱︱︱︱かつて一度、ネグが神魔に勝ってい
たからなのだ。
おそらく、圧倒的なほどの力量差を持って。
﹁ですがネグ。我々はここまで来ました﹂
エルマンが満面の笑みと共に言う。
まれ
﹁かつて希な幸運なしでは扱えなかった商材を、今や十五も仕入れ
ることができるようになったのです。おっと⋮⋮十七、ですな﹂
エルマンがつかつかと歩いていき、呪印で苦しむルルムの顎を掴
んで持ち上げる。

1364
﹁ふむ。女子供は足りていますが、なかなか気品のある商品です。
体の模様次第では高値がつくでしょう。それにしてもネグ、よくわ
かったものです。この二人が魔族であると﹂
あん ・・・
﹁だ、だから言っただろぉ、兄ちゃん。ヒヒッ、みんなそう言って
るって!﹂
﹁あ⋮⋮あんた⋮⋮っ!﹂
苦悶の表情を浮かべるアミュが、ふらつきながら立ち上がった。
首には呪印が浮かび上がったまま。相当な苦痛のはずだが︱︱︱
︱それでも、手は剣の柄にかかる。
﹁ルルムに⋮⋮触るんじゃないわよッ!!﹂
杖剣を抜き放ち、奴隷商へ向け地を蹴る。
だが幾ばくかの歩みも進まないうちに︱︱︱︱その眼前に、炎の
壁が立ち塞がった。
﹁っ⋮⋮!?﹂
勇者の足が、後ずさって止まる。
やがて限界が来たかのように膝をつくと、首を押さえながら喘ぐ。
炎の周りを舞うように、仄赤い霊体が飛んでいた。
フレイムレイスだけではない。青白いフロストレイス。薄緑のウ
インドレイス。土気色のグラウンドレイス。黒い靄のようなヘルゴ
ーストに、人魂にも似たウィスプ。
多種多様なアストラル系モンスターが、ぼくらを取り巻くように
地中から湧き上がる。

1365
あん
﹁あ、兄ちゃんに何しようとした! こ、こ、殺してやるからなっ
!﹂
目を剥く怨霊使いへと、エルマンは穏やかな口調で言う。
﹁まあまあよしなさい、ネグ。この娘も、さすがにこれ以上の抵抗
はできないでしょう。レイスロードの呪いに晒されながら、立ち上
がれただけでも大したものです。それより気になるのが⋮⋮﹂
エルマンの足が、倒れ込んで喘ぐイーファの方へと向いた。
その周囲には、血塗れで影に縫い止められているノズロや、同じ
く路上で苦しんでいるルルムと同じように、怨霊たちが舞っている。
奴隷商は、金髪の少女を品定めするように見下ろす。
﹁ふむ⋮⋮これはなかなか。髪色がいまいちですが、いい値が付く
でしょう。ネグ、この魔族は?﹂
エルフ
﹁ダメだよぉ、兄ちゃん。そいつ森人だもん。しかも混じり物⋮⋮﹂
﹁ならば仕方ありませんな。間諜と言い張るには無理がある。あき
らめましょう﹂
そう言うと、エルマンはあっさり踵を返した。
そして、一連の様子を黙って眺めていたぼくへと向き直る。
﹁さて。本題の前に、まずは一つ伺いたいのですが⋮⋮セイカ殿。
あなたは、なぜ平気なのですかな?﹂
余裕ある笑みを浮かべるエルマンだったが⋮⋮その瞳には、わず
かに畏怖の色が見えた。
ぼくは、首に浮かぶ呪印を撫でながら答える。

1366
﹁つまらない呪詛だ。対象に窒息に似た苦痛を与えるだけ。身体に
影響がおよぶこともない。こんなものはただの幻術と大差ない﹂
﹁⋮⋮理解していたところで、耐えられる苦痛ではないはずですが﹂
﹁ほう。まるで体感したかのような言い草だな﹂
﹁ええ⋮⋮それは無論のこと﹂
﹁用心棒の力量を自らの体で確かめるとは、気合いの入った商人だ。
だが⋮⋮虚仮威しの呪いで、このぼくをどうにかできると思うな﹂
﹁なるほど。いやはや⋮⋮一級の冒険者とは化け物ですな。恐れ入
りました﹂
話すエルマンは、それでも余裕の態度を崩さない。
﹁ですが⋮⋮余計な真似はしない方が賢明ですな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁さて、話を本題に戻しましょう﹂
エルマンは大仰な身振りと共に言う。
﹁魔族、それも神魔の間諜を連れていたとあっては⋮⋮いくら偉大
な功績を持つ一級冒険者と言えど、帝国法に基づき罪に問われるこ
とは避けられないでしょう。ともすれば極刑もありうる。無論、あ
なたのパーティーメンバーもです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あなたと言えど、この人数を一度に始末することはできますまい。
衛兵の一人でも逃げ延びれば、あなた方は窮地に陥る。無論ここに
いる兵がすべてではなく、彼方から遠眼鏡で見張らせている者もお
ります。仮に全員の口を封じることができたとしても、事態を察し
た領主があなたを告発するでしょう。すでにこの状況は詰みなので
す﹂

1367
﹁⋮⋮﹂
﹁フ! ですがご心配なく、セイカ殿。ワタクシ⋮⋮確信いたしま
した﹂
まるで救いの手を差し伸べるかのように、エルマンは言う。
・・・・・ ・・・・ ・・・・・・・
﹁あなた方は、騙されていたのでしょう? この二体の魔族に﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカ殿のパーティーは、元々四人であったと聞きおよんでいま
す。旅の途中に出会った魔族の間諜に騙され、同胞を助け出す手伝
いをさせられていた。つまり被害者だったのだ、と⋮⋮領主様へ、
そのように報告してもかまいません﹂
﹁回りくどいな。はっきり言え﹂
﹁この商品どもの身柄を大人しく渡し、さっさと街を去ることです﹂
エルマンが鰐のような笑みを浮かべる。
﹁たまたま行き会った流れの魔族に、同情でもなさいましたか?
こやつら神魔は、人間と姿形がよく似ていますからなぁ。しかし⋮
⋮くだらない情は身を滅ぼします。高潔な貴族の心など、早く捨て
た方がよいと忠告しますよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ワタクシめは、ワタクシめの商品を狙う輩を許しません。あの場
で真っ当な見積もりを出しては、こやつらに倉庫を襲撃されかねな
かったため格安の価格を提示しましたが⋮⋮全員を買うなどと、本
来ならば一笑に付していたところです。冒険者風情がおこがましい﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁この始末は、身の程知らずへの罰とでもお考えください。さてセ
イカ殿、どう⋮⋮﹂
﹁何やら気持ちよく喋っているところ悪いが、エルマン⋮⋮ぼくに

1368
は、何が何やらさっぱりだ﹂
﹁はい⋮⋮?﹂
いぶかしげな表情をするエルマンに、ぼくは倒れ込んだルルムに
目を向けながら告げる。
﹁こいつらが魔族だって? それは驚きだ。そんなこと︱︱︱︱ぼ
くは想像すらもしていなかった﹂
﹁⋮⋮!?﹂
一瞬呆けたような顔をしたエルマンだったが、それからすぐに大
口を開けて笑い始めた。
﹁はっはっはっはっは! これはこれは!﹂
高笑いを上げるエルマンを前に、ぼくは続ける。
﹁お前の言う通りたまたま行き合い、実力があったから仲間に加え
ただけだが⋮⋮まんまと騙されていたわけか。教えてくれて助かっ
たよ、エルマン。礼と言ってはなんだが︱︱︱︱こいつらのことは、
好きにしてくれていい﹂
﹁セ、セイカ⋮⋮!?﹂
アミュが顔をわずかに上げ、愕然としたようにぼくを見つめる。
﹁なに⋮⋮言ってんのよ、あんた⋮⋮?﹂
﹁はっはっはっはっは、これはいい! セイカ殿、あなたはやはり、
ワタクシめと近しい存在だったようでございますなぁ! 出奔した
貴族の生き様とはこうでなくては!﹂

1369
アミュはとりあえず無視し、愉快そうなエルマンへと言う。
﹁疑いは晴れたようだな。ならば、この子らにかかっている呪いを
解いてやってくれ﹂
﹁はっは⋮⋮ふむ。しかしながら、こちらとしてはもうしばし用心
しておきたいところでございますな﹂
﹁それは道理に合わないな。ならばぼくが解こう﹂
言うと同時に、アミュにイーファ、メイベルの首元から呪印が消
える。三人が一斉に、荒い息と共に空気をむさぼる。
﹁こ、このっ⋮⋮!﹂
アミュがすぐさま立ち上がり、剣を手にエルマンへ襲いかかろう
とした。
ぼくは声に呪力を乗せ、告げる。
・・・
﹁アミュ。止まれ﹂
﹁っ!?﹂
ただそれだけで、アミュが動きを止めた。
信じがたいかのように見開かれた瞳が、ぼくを見る。
﹁セイ、カ⋮⋮どう、して⋮⋮﹂
﹁君はあの女と仲がよかったからな。気持ちはわかる。だが、いい
加減に理解しろ。ぼくらは騙されていたんだ﹂
﹁ふ、ふざけ⋮⋮っ!﹂
﹁すばらしい。あなたは賢明な人間だったようですな、セイカ殿﹂
エルマンが笑みを深める。

1370
﹁この者らは今後、簡易の裁判により罪が決することとなるでしょ
う。罪状は知りませんが、刑はすでに決まっております。そう、奴
隷落ちですな。一般に罪人の奴隷は入札が行われますが、懇意にし
ている領主様のご厚意により、すでにワタクシめが買い入れること
が決まっておりまして。この者らはこの後、そのままワタクシめの
奴隷倉庫行きとなっております﹂
﹁ぼくには関係ないことだ。わざわざ自慢げに報告などせず、好き
にしたらいい﹂
﹁おっと失礼。そうでございましたな﹂
上機嫌なエルマンが、おどけたように言って⋮⋮肩から提げてい
た革袋から、二つの首輪を取り出した。
黒い金属の表面には複雑な模様が彫られ、力の流れを感じる。
﹁実はあれから、隷属の首輪が十分量手に入りましてな。いやはや、
この日に間に合ってよかった﹂
隷属の首輪が衛兵に手渡され、ノズロとルルムの首にそれぞれあ
てがわれる。
血塗れで動けないノズロは大人しく受け入れていたが、ぐったり
するルルムは少しだけ抵抗の気配を見せた。
しかし衛兵に腕をひねり上げられ、乱暴に髪を掴まれて、無理矢
理に首輪を嵌められる。
﹁ぐ⋮⋮くぅ⋮⋮!﹂
名で縛っていたはずのアミュが、一歩足を踏み出した。
やはり勇者とは大したものだ。この世界の生まれで、わずかにも

1371
ぼくの呪詛に抵抗するとは。
念のために再び告げる。
・・・・・
﹁アミュ。剣を手放せ﹂
﹁い⋮⋮いや、よ⋮⋮っ!!﹂
取り落としそうになる剣を、アミュは歯を食いしばって握り直す。
しかし二つの命令に抵抗するのはやっぱり無理なようで、もう一
歩も動けなくなってしまった。
エルマンが満足げに言う。
﹁ふむ、これで一安心ですな。ネグ、もう呪いと魔法はいいでしょ
う﹂
影を抜かれ地面に倒れ込むノズロと、むさぼるように呼吸するル
ルムを、衛兵が手荒に立ち上がらせる。
ぼくはエルマンへと言う。
﹁連れて行く準備ができたのなら、さっさと道を空けろ。こっちは
馬車を返しに行く必要があるんだ﹂
﹁ええ、そうさせてもらいましょうとも。ところでセイカ殿⋮⋮奴
隷の購入は、取りやめということでいいですかな?﹂
﹁そうだな。もう必要ない﹂
﹁では︱︱︱︱キャンセル料をいただきましょうか。なに、気持ち
程度で結構ですとも。我々があなたを告発しないと確信できるほど
の、ほんの気持ち程度でね﹂
﹁⋮⋮がめつい奴だ﹂

1372
ぼくは溜息をつくと、後ろを振り返る。
そしてイーファとメイベルの方へと歩いていき、その傍らに落ち
ていた金貨の大袋を持ち上げる。
﹁セ、セイカくん、それはっ⋮⋮﹂
イーファの縋るような声を無視し、ぼくは大袋を奴隷商へと放っ
た。
エルマンの足元に落ちた大袋の口から、数枚の金貨がこぼれ出る。
﹁ほう。これはこれは⋮⋮﹂
かなりの重さがあるはずだが、エルマンはそれを自分で持ち上げ
た。
﹁なかなか稼がれたようですな。冒険者も馬鹿にはできない。これ
ならば、どちらか一方の神魔を売って差し上げてもかまいませんが﹂
﹁ぼくにはもう関係ないことだと言ったはずだ﹂
﹁フ! それがよろしい。あなたは長生きしますよ、セイカ殿﹂
大袋をネグへ手渡し、エルマンは鼻で笑ってぼくらへ告げる。
﹁良い取引でした。それでは﹂
踵を返し、エルマンが去って行く。
その後ろを、金貨の大袋を両手で抱えるネグと、二人の神魔を連
行する衛兵たちが続く。
その時、ルルムが微かに、こちらを見た。

1373
﹁⋮⋮っ﹂
だが、悲しそうな横顔と共に、それはすぐに逸らされる。
﹁⋮⋮﹂
ぼくはその様子を、ただじっと眺めていた。
第二十二話 最強の陰陽師、商品を受け取りに行く
二つの丸い月が昇りきった、真夜中の時分。
奴隷倉庫の檻に入れられ、隷属の首輪と手枷を嵌められたルルム
が、向かいの檻に呼びかける。
﹁ノズロっ、ノズロっ﹂
神魔の武闘家は、檻の中で横たわったまま返事もない。
荒い呼吸をしていることから死んではいないが、ひどい怪我のた
めか起き上がることもできないようだった。
ルルムは、袖に隠している魔道具に視線を向ける。

1374
使う機会は限られるだろう。
その時、重い音と共に倉庫の扉が開いた。
巨漢の持つ灯りが、檻の群れを照らす。
﹁旦那、こんな時間になんですかい﹂
﹁いえ、あの神魔の男の容態が気になったもので。死なれては困り
ますからねぇ﹂
あん
﹁兄ちゃん、平気だって言ってるのにぃ⋮⋮。あれくらいじゃ死な
ないよぉ﹂
見張りの巨漢を先頭に、エルマンとネグが倉庫に足を踏み入れる。
﹁万一ということもある。ネグ、もしもの時はお前が治しなさい﹂
あん
﹁わかってるよぉ、兄ちゃん﹂
﹁ふわぁ⋮⋮そんなら、もっと早く来てくだせぇ﹂
﹁領主との会合が長引いたのです。それに、この時間なら居眠りし
ている見張りを起こすこともできる﹂
﹁勘弁してくだせぇ⋮⋮﹂
言葉を交わしながらルルムたちの方へ近づいてきた三人は、彼女
には目もくれず、ノズロの檻へと灯りをかざし、覗き込む。
﹁ふむ⋮⋮この分ならば、おそらく問題ないでしょう﹂
あん
﹁だから言っただろぉ、兄ちゃん﹂
﹁そりゃあよかった。ついでだ、他のも見ていくかい、旦那。寝て
るとは思いやすが⋮⋮﹂
巨漢の見張りが振り返り、ルルムの檻に灯りを向ける。

1375
その時︱︱︱︱ルルムは袖から取り出した、薄い石ナイフを三人
の人間へと向けた。
魔石から削り出したとおぼしきそのナイフは、手のひらに収まる
ほど小ぶりで、とても武器に使えそうには見えない。檻越しになら
ば、なおさら。
しかし次の瞬間、猛烈な力の流れが湧き上がり、上位魔法に相当
する水の刃が生み出された。
凄まじい勢いで放たれる水は、檻の鉄格子を易々と切断。そのま
ま三人の命をも瞬時に奪う︱︱︱︱はずだった。
﹁っ!? そんなっ⋮⋮!?﹂
ルルムが驚愕の表情を浮かべる。
鉄格子を切断した水の刃は、エルマンらに届くことなく⋮⋮光の
ヴェールに阻まれて消失していた。
﹁ま、まさか、結界だなんて⋮⋮っ!? ぅぐっ⋮⋮かは⋮⋮!﹂
隷属の首輪が効果を現し、ルルムが首を押さえて苦しみ始める。
その様子を、エルマンがわずかに目を瞠って見下ろす。
﹁これは驚きました﹂
顎髭を撫でながら平然と呟く。
その視線は、次いで檻の中に転がった石ナイフへと向けられた。
﹁魔道具ですか。なるほど⋮⋮隷属の首輪の効果が現れるまでには、
少々の時間がかかる。普通の剣や魔法ならともかく、魔道具の武器

1376
を用いられれば、そのわずかな時間で主人を殺傷せしめる⋮⋮。ふ
む、迂闊でした。以後は注意しなければ﹂
﹁び、び、びっくりしたぁ⋮⋮﹂
ほぼ表情を変えないエルマンとは対照的に、ネグは気が抜けたよ
うに胸をなで下ろしている。
その頭上には、神々しく光る布きれのような霊体が舞っていた。
ルルムが呻く。
﹁ホーリースピリット⋮⋮! そ、そんなモンスターまで⋮⋮﹂
光属性を持つ、アストラル系モンスターの上位種。
それも、滅多に遭遇することのないレアモンスターだ。
モンスターの群の中にまれに現れ、魔法を防ぐ結界を張ったり、
治癒魔法を使って敵を回復してくる性質を持つという。
﹁お、おお⋮⋮? 何が起こった? おれには何が何やら⋮⋮﹂
﹁気にしないでよろしい。それより、この商品を檻から出しなさい﹂
言われたとおりに、巨漢が鍵を開け、ルルムを檻から引っ張り出
す。
﹁ぐっ⋮⋮﹂
﹁なかなか面白い真似をしてくれる商品だ﹂
憔悴するルルムを、エルマンは家畜を見るような目で見つめる。
﹁昔ならば鞭をくれてやったところですが、あいにくあれも処分し

1377
てしまいましたからねぇ﹂
あん エンチャンター
﹁兄ちゃん、こいつきっと付与術士だよぉ。他にも何か持ってるか
も⋮⋮﹂
﹁わかっています⋮⋮おい、こいつは裸にしておけ。買い手がつく
までは衣服を与えるな﹂
﹁今ですかい? へいへい⋮⋮﹂
巨漢がナイフを取り出すと、掴まれたルルムが身をよじる。
﹁や、やめっ⋮⋮﹂
﹁そうそう。模様も確かめておかなければ﹂
エルマンがルルムの顎を掴み、染料の下から微かに覗く黒い線を、
品定めするように眺める。
﹁神魔は個体によって模様が異なる。おそらくこれによっても売値
は変わるでしょうから、競売での見せ方も考えなければ⋮⋮。フ!
ここは商人としてのセンスが問われるところ。腕が鳴ります﹂
﹁っ⋮⋮﹂
ルルムが表情を歪める。
﹁人間が、そんな理由で、私たちを⋮⋮っ!﹂
﹁ふむ⋮⋮どうやらまだ、この商品には尊厳が残っているように見
えますなぁ﹂
エルマンが亀裂のような笑みを浮かべ、ルルムを見据える。
それは商品ではなく、人に向ける、悪意の籠もった笑みだった。
﹁自分の立場がまだわかっていないようだ。命令です。そんなもの

1378
は早く捨てなさい。奴隷には過ぎた品だ﹂
神魔の巫女が、奴隷商を睨み返す。
﹁⋮⋮断るわ。自由は奪えても、あなたたちに種族の誇りまで奪う
ことはできない﹂
﹁ならば、好きにするといいでしょう。いずれそんな物は自ずと剥
がれ落ちる。着衣を許されず、残飯のような飯をすすり、自らの汚
物に塗れてなお誇りを持ち続けられる者などいない⋮⋮。やれ﹂
巨漢がナイフを手に、ルルムの衣服を裂き始める。
ルルムは顔を背け、じっと恥辱に耐えているようだった。
予定よりだいぶ早いが⋮⋮まあいいか。
﹁︱︱︱︱以前にも言ったと思うが﹂
夜の奴隷倉庫に、ぼくの声が響き渡る。
四人が、いっせいにこちらを見た。
﹁ぼくは、縁や義理のある相手はなるべく助けることにしているん
だ﹂
倉庫に佇むぼくは、静かに続ける。
四人から見ると、ぼくがいきなり現れたように思えたことだろう。
実際、その通りだが。
﹁セ⋮⋮セイカ?﹂
﹁⋮⋮セイカ、殿⋮⋮﹂

1379
ルルムとエルマンの呟きと、ほぼ同時に。
鈍い重低音と共に、倉庫の梁が折れた。
斜めに落下した太い梁は、下にあった空の檻を数個粉砕し、轟音
を轟かせる。
﹁うおおお!? なんだ!?﹂
巨漢が驚いて声を上げる。
二本、三本、と、次々に梁が落ちる。さらには天井までもがバラ
バラと崩れ、そこから夜空が覗き始めた。
周囲の床や檻の上で、屋根に使われていたレンガが割れ砕け、破
片が飛び散る。
﹁や、やべぇっ!!﹂
巨漢がルルムを放すと、両手を頭にかざしながら、一目散に出口
へ向かって逃げ始めた。
エルマンが叫ぶ。
﹁お、おい、待て!﹂
﹁旦那も早く逃げろ! この倉庫危ねぇぞ!﹂
どうやら、倉庫が勝手に崩れ始めたと思ったらしい。
無理もない。
投石機も弩砲も、杖も魔法陣すらも使わずに、これを成せる者が
この世界にどれほどいるだろう。
逃げろと言われたエルマンは、その場で立ち尽くしていた。
ぼくから目を離すことができない。

1380
天井に大穴が開いた倉庫は、さらに壁までもが崩れ始める。
﹁天井はともかく、レンガの壁はさすがに重力だけで崩すのは難し
い。だから、少し工夫することにしたんだ﹂
言うと同時に、真上の梁が折れた。
身構えるエルマンとネグの頭上で、落ちてきた梁や天井を扉のヒ
トガタで位相へ送りながら、ぼくは続ける。
﹁硫黄を焼いて出る毒気を水に溶かし、さらに触媒として鉄を反応
りょくばんゆ
させる。こうしてできるのが、緑礬油だ。硫黄の酸︱︱︱︱硫酸と
も呼ばれているな﹂
﹁な⋮⋮何だ、何を言って⋮⋮﹂
﹁土、火、水、金と四行も使ってずいぶんと手間だが、これを使え
モルタル アル
ばレンガ壁の膠泥を溶かすことができる。灰を使う都合、あれは塩
カリ
基に寄るからな⋮⋮。知らなかったか? なら覚えておくといい。
知識は意外なところで役立つものだ﹂
ぼくは奴隷商を見据える。
﹁しかし⋮⋮エルマン。ぼくの用向きは、さすがに言わなくてもわ
かるだろうな﹂
声なく立ち尽くすエルマンへと続ける。
﹁あれだけ脅せば、さすがに手を出しては来ないだろう⋮⋮そう、
安易に考えたか? エルマン。領主の手勢を帰すのは早すぎたな。
お前も存外、甘い男だったようだ︱︱︱︱冒険者は、それほど行儀
のいい存在じゃないぞ﹂

1381
あん
﹁あ⋮⋮⋮⋮兄ちゃんに手を出すなッ!!﹂
ネグが叫ぶと同時に。
床や壁から、無数のアストラル系モンスターが湧き出てくる。
ゴーストやスピリット、ウィスプにスペクター。
そして⋮⋮、
﹁ォォォォォ︱︱︱︱︱︱﹂
闇の中からにじみ出すように、レイスロードが姿を現した。
恐れからか、その周囲には同じレイス系モンスターですら近寄ら
ない。
色とりどりの怨霊たちに取り巻かれながら、エルマンはぼくに向
け口を開く。
﹁あ⋮⋮甘い? いえいえ、まさか。ワタクシめは商人。願望や当
て推量を勘定に入れたりはしません﹂
表情を引きつらせながら、それでもエルマンは笑っていた。
﹁ただの暴力勝負ならば、初めから兵など不要だったのです。あん
な者ども、ネグの足手まといにしかならないのですから﹂
﹁ヒ、ヒヒヒッ!!﹂
陰気な怨霊使いが、義兄に釣られたように笑う。
﹁お、お前も奴隷にしてやるぞ! 足を燃やして腕を凍らせて全身
あん
呪い漬けにして、ぜ、全部きれいに治してやる! そしたら兄ちゃ
んが高く売ってくれるんだ!﹂

1382
﹁それはいい考えです、ネグ。元貴族の一級冒険者ともなれば、き
っと高値がつくでしょう。あの見目のいい娘らごと犯罪者に仕立て
て売りさばければ、ふむ⋮⋮もっと大きな商館を借りることもでき
るでしょうな﹂
ぼくは嘆息して言う。
﹁ぼくの故郷には、捕らぬ狸の皮算用ということわざがあった。こ
ちらに似た言葉はないのか?﹂
﹁ありますとも。しかし⋮⋮今は使い時ではありませんな﹂
エルマンが笑みを深める。
ネグの怨霊どもが、一斉にぼくを向いた。
﹁あなたはもはや、毛皮同然でございますからなぁッ!﹂
デバフ
火炎や風、呪いに阻害魔法がまとめて放たれる。
それらは、ぼくを囲む結界を前にすべて消失した。
だが、怨霊使いには動揺もない。
﹁ヒヒッ、結界だ! いつまでもつかなぁ?﹂
無数の怨霊たちは、攻撃の手を緩める気配がなかった。結界にも
かまわず魔法を放ち続ける。
なるほど、大した火力だ。
レイスロードが空中を滑るように飛び、結界の周囲を浮遊し始め
る。
その動きは、小屋の鶏を狙う狐にも似ていた。

1383
はなは
だが⋮⋮身の程知らずも甚だしい。
﹁欲に目がくらんだな、エルマン。初めて会った時の、慎重だった
お前はどこへ行った﹂
ぼくは呆れ混じりに呟いて、一枚のヒトガタを背後に高く浮かべ
る。
﹁長く商いを続けていたならば、お前も当然に知っているはずだ﹂
そして、小さく印を組んだ。
﹁商人が破滅するのは、いつだって欲に目がくらんだ時だと﹂
そらなき
︽召命︱︱︱︱空亡︾
空間の歪みから姿を現したのは︱︱︱︱闇をまとった、巨大な太
陽だった。
﹁な⋮⋮ッ!?﹂
そのあまりに異様な姿に、エルマンが目を瞠る。
そらなき
一瞬の停滞の後、ネグの怨霊たちが、今度は空亡へと攻撃を向け
始めた。
だが、魔法は表面の炎に飲み込まれるばかりで、呪いもまったく
効果を現していない。
﹁な、なんだこいつッ!?﹂

1384
ネグが動揺の声を上げる。
その時︱︱︱︱偽太陽が脈動した。
ぼくは呟く。
しま
﹁今宵の夜行は終いだ﹂
偽太陽へと、怨霊たちが吸い寄せられ始めた。
そらなき
動きの鈍いウィスプやスピリットが、空亡の炎に飲み込まれて消
える。ゴーストやレイスが抵抗しようと滅茶苦茶に暴れ回るも、偽
太陽の引力には勝てず、為す術なく次々に吸収されていく。
﹁お⋮⋮おれのッ、おれのアストラルたちが︱︱︱︱ッ!?﹂
まるで自分自身が飲み込まれているかのように、ネグが絶叫した。
﹁ぜ、ぜったいに殺す! 殺してやるッ! こんな⋮⋮ッ﹂
レイスロードが、引き寄せられながらも凄まじい量の呪いと闇属
性魔法を放ち出す。
膨れ上がった力の流れは、まさしく怨霊の王と呼ぶにふさわしい
ものだ。前世でもここまで力を持つ霊体はなかなかいなかった。
だが⋮⋮所詮は霊風情だ。
﹁ォ︱︱︱︱ォォ︱︱︱︱︱︱﹂
そらなき
レイスロードが、空亡にあっけなく飲み込まれていく。
強力な呪いも闇属性魔法も、偽太陽の炎一つすら揺らがせること

1385
はできなかった。
﹁ヒ、ヒィッ!?﹂
﹁⋮⋮まさか、こんなモンスターが⋮⋮﹂
腰を抜かすネグと、愕然としたようなエルマンの傍らで、ルルム
が掠れた声で呟く。
ファイアボール
﹁闇属性の⋮⋮火炎弾⋮⋮?﹂
もちろん、そんなものではない。
そらなき あやかし
空亡はれっきとした妖だ。
一つ、百鬼夜行が発生していること。
二つ、百鬼夜行が東へ進行していること。
三つ、夜明けの時分であること。
四つ、観測している人間が算命術における天中殺の時にあること。
この四つの条件が重なった時、百鬼夜行の最後尾に忽然と現れる
この妖は、妖や霊魂を飲み込みながら朝日に向かって進み、夜明け
と共に消滅する。妖の中でも一層奇妙な性質を持つ、ほとんど自然
現象に近い存在だ。
意思のようなものは一切見られない。人を襲うこともなく、炎の
ような体に近寄っても熱を感じることはない。
ただ、妖や霊魂に対してはとにかく無類の強さを持っている。
一度など、龍に匹敵する七尾の化け狐を飲み込む場面さえ見たこ
とがあった。
日に晒せば消えてしまうかもしれず、言うことも聞かないため出

1386
しづらかったが、今回はうまく使うことができた。
結果も予想していたとおりだ。
﹁さて⋮⋮エルマン。本題といこうか﹂
﹁ほ、本題⋮⋮?﹂
うろたえるエルマンを余所に、ぼくは不可視のヒトガタを飛ばし、
神魔の奴隷が入る檻へと貼り付けていく。
﹁決まっているだろう。商品を受け取りに来たんだ﹂
﹁え、は⋮⋮?﹂
﹁取り置きは今日までだったな。もうすぐ日付も変わってしまう。
急ぎ、引き取らせてもらおう﹂
かなくいこう
︽金の相︱︱︱︱金喰汞の術︾
ガリウム
ガリアの汞が金属を侵食し、檻の鉄格子がボロボロと崩れ始める。
﹁⋮⋮鉄が、腐って⋮⋮﹂
騒ぎに目を覚ました奴隷たちがざわめく中、驚きに目を見開いた
ルルムの呟きが耳に入った。
ぼくはエルマンを見据え、そして懐から手形とペンを取り出す。
﹁いくらだ﹂
﹁は、はい?﹂
﹁残金を払うと言っているんだ。いくらだ? エルマン﹂
まじな
ガラスのペン先に、呪いによって黒いインクが満たされる。

1387
﹁見積もりの金額は忘れてしまった。商品も二つほど増えたようだ
し、あらためて売り値を出してもらおうか﹂
天井の大穴から覗く二つの月と、闇をまとった巨大な太陽。
それらを背にしながら、ぼくはへたり込む商人へと告げた。
﹁さあ、どうした? 好きな額を言ってみろ﹂
第二十二話 最強の陰陽師、商品を受け取りに行く︵後書き︶
※金喰汞の術
ガリウムによって金属を脆化させる術。ガリウムは融点が30℃程
度しかない液体金属で、他の金属の結晶内部に侵食し、ぼろぼろに
してしまう性質を持っている。実際に発見されたのは近代だが、作
中世界ではフランク王国︵現フランス︶の錬金術師がピレネー山脈
近郊で採れる鉱物から分離しており、産出地域であるガリア地方か
らガリウムと名付けていた。
1388
第二十三話 最強の陰陽師、告げられる
商街区の一角にある広場に、助け出した神魔の奴隷たちが集って
いた。
あの後、エルマンとネグを崩れかけの倉庫から追い出したぼくは、
奴隷全員を檻から出し、とりあえずここまで連れて来たのだ。
人払いの結界を張ったから、野次馬や衛兵に見られる心配はない。
これでようやく一息つける。
衰弱している者は多かったが、皆命に別状はないようだった。
中二階に囚われていた奴隷は、実際には小さな子供ばかりだった。

1389
多少の怪我を負って腹を空かせてはいたものの、それだけだ。あま
り手荒くすると売り物にならなくなるから、当たり前と言えば当た
り前なのだが。
一番の重傷はノズロだったのだが、それでも死ぬほどではなかっ
ただろう。武闘家だけあって頑丈なやつだ。手伝うと言って聞かな
かったが、怪我を治しても熱が治まらなかったので、ひとまず休ま
せている。
ただ⋮⋮実際のところ、手は借りたかったのが本音だ。
﹁はぁ⋮⋮﹂
ずいぶん疲れた。
檻から連れ出そうとしても、女子供ばかりだったせいもあり、怯
えられたり泣かれたりでかなり手こずってしまった。ルルムが呼び
かけて回ってくれなければ、いつまでかかったことか。
しかしそんなルルムも、せっかく仲間を助け出せたというのに、
あまり嬉しそうにしていなかった。
いろいろあって状況が飲み込めていないのか⋮⋮もしかしたら、
ぼくが少しやり過ぎてしまったせいなのか。
﹁セイカさま⋮⋮﹂
その時、頭の上からユキが顔を出す。
﹁なんだ? ユキ﹂
﹁⋮⋮どうしてあの者に、手形をお渡しになったのですか?﹂

1390
その声音は、明らかに不満げだ。
﹁それも、言われるがままの額面を書いて。あのような仕打ちをさ
れたのです、セイカさまがあの者に対価を支払う筋合いなど、欠片
もなかったはず。それどころか、奪われた財貨を取り戻されてもよ
かったくらいでしょうに⋮⋮﹂
﹁エルマンが破産したら、ぼくが壊した倉庫を誰が弁償するんだよ﹂
﹁ええ⋮⋮いや、ええ⋮⋮﹂
ユキが呆れと困惑が混ざったような声を出す。
﹁そもそも、なぜ倉庫を壊されたのですか? 別に、そんなことを
する必要はなかったのでは⋮⋮?﹂
﹁空亡が物に触れた時の挙動がわからなかった。まさかないとは思
うが、爆発でも起こったら奴隷奪還どころじゃなくなってしまうか
らな。一応、呼び出す場所を空けておきたかったんだ﹂
しかしその甲斐あって、あの偽太陽はアストラルにも有効だとい
うことがはっきりわかった。
今度は普通のモンスターにも試してみたいところだ。アストラル
や妖よりはずっと獣に近いはずだから、どうなるかは微妙だけど⋮
⋮。
物思いにふけるぼくに、ユキが呆れたように言う。
﹁空亡の試用に、ずいぶんと大枚をはたかれましたね﹂
﹁それだけじゃないさ。領主にぼくのことがどう伝わっているかわ
からない以上、エルマンが消えるのはまずい。かといって困窮させ
たまま生かしておけば、またなりふり構わない商売を始めるかもし

1391
れないだろう?﹂
﹁うむむ⋮⋮﹂
﹁それに、なかなか肝が据わっていて、思わず感心してしまったと
いうのもあるな﹂
まさかあの状況で、当初の見積もりと同じ額を言ってくるとは思
わなかった。てっきり、タダでいいと言うかと思ったのだが。
これまで相当泥をすすってきたのだろう。やはり気合いの入った
商人だ。
ついつい言われるがままの金額を書き入れてしまった。
﹁まあ、たぶんあれでも損をしているはずだ。いい薬になっただろ
う﹂
﹁うむむむ⋮⋮しかし、やはりユキにはもったいなかったように思
えます﹂
﹁金額はともかく、手形はどうしても渡す必要があったんだ。仕方
ないさ﹂
﹁⋮⋮?﹂
ユキが不思議そうな顔をする。
あの場では暗くてわからなかっただろうが、そろそろエルマンも
気づいている頃だろうか。
手形に押された、フィオナの印章に。
皇族の印章が押された手形を持ち歩いているような者を、今後敵
に回そうとは思うまい。
後の始末も、いい感じにつけてくれることだろう。
﹁⋮⋮せめてあの狐憑きだけでも、どうにかしておくべきだったの
ではございませんか?﹂

1392
﹁ネグのことか? それはかえってまずいな。エルマンの恨みを買
いすぎる﹂
﹁む⋮⋮﹂
﹁従えていた怨霊はまとめて始末できたんだから、十分さ。それよ
りも今はこっちだ﹂
そう言って、ぼくは神魔の少女の一人へと歩み寄っていく。
﹁ひっ⋮⋮!﹂
少女はぼくに気づくと、怯えたように後ずさった。
よく見れば、それはあの倉庫で最初に見た奴隷であるようだ。
怯える少女にかまわず、ぼくはその白い首に嵌められた隷属の首
輪を指で摘まむ。
﹁少しじっとしていてくれ﹂
念のために結界を張っているおかげで、首輪はいかなる効力も発
揮していない。
しかしそのせいか、どう外していいのか皆目わからなかった。
継ぎ目のようなものもない。
ぼくは溜息をつき、呟く。
﹁仕方ない、壊すか﹂
かなくいこう
︽金の相︱︱︱︱金喰汞の術︾
ガリウム
術で生み出されたガリアの汞が、首輪の金属を侵食していく。
フランク王国の錬金術師が発見したこの金属は、常温で液体であ
るほか、触れた別の金属をボロボロにしてしまうという変わった特

1393
性を持つ。
ほんの三呼吸ほどの間で、隷属の首輪が二つに折れた。
貴重な魔道具らしいので、少しもったいなかったが仕方ない。
﹁あ⋮⋮首輪が⋮⋮﹂
﹁次、手を出してくれ﹂
同じようにして手枷も外してやると、ぼくは少女へ言う。
﹁ぼくのやりたいことはわかったか? わかったなら、皆にこっち
へ来るよう伝えてくれ。ぼくの方から近寄るとまた泣かれてしまう
からな﹂
﹁は、はい⋮⋮⋮⋮あのっ﹂
逃げるように立ち去りかけた神魔の少女は、ふと足を止めて振り
返る。
﹁ありがとう、ございます⋮⋮﹂
その顔には、微かな笑みが浮かんでいた。
****
﹁やれやれ⋮⋮﹂
ようやく十五人分の首輪と手枷を外し終わり、ぼくは一息ついて
いた。

1394
初めは怯えていた奴隷たちだったが、後の方になるとだいぶ慣れ
て、礼の言葉まで言われるようになった。
魔族でも、やはり子供はかわいい。
ただ、いつまでもここでのんびりしているわけにはいかない。
この集団は目立ちすぎる。エルマンに手形を渡した以上、衛兵に
咎められたところで問題はないだろうが、それでもなるべく避けた
かった。
どこか身を寄せる場所を見つける必要がある。
どうするべきか考えていた、その時。
﹁セイカ﹂
ふと、背後から声をかけられた。
振り返ると、外套をまとったルルムが立っていた。その首には、
未だに隷属の首輪が嵌まっている。
ぼくは気づく。
﹁ああ、そういえば奴隷は全部で十七だったな。君とノズロの分を
忘れていた﹂
冗談めかしてそう言うも、ルルムは答えず、ただ思い詰めたよう
な表情で立っているだけだった。
その様子に、ぼくは妙に思いながらも付け加える。
﹁言っておくが、恨み言は勘弁してくれよ。ぼくらも訳ありの身で、
あまり大っぴらに権力者と対立できる立場じゃないんだ。それに君
らも大変だっただろうが、こっちもこっちでいろいろ大変だったん

1395
だからな。アミュにはひっぱたかれるし⋮⋮ああそうだ、あの子ら
に無事だったと伝えないと⋮⋮﹂
﹁ねえ、セイカ。一つだけ、答えてくれないかしら﹂
﹁⋮⋮? なんだ? あらたまって﹂
ぼくは眉をひそめた。
ルルムは、一つ大きく息を吐き、ぼくへと訊ねる。
﹁あなたの家名を、教えてほしいの﹂
﹁なんだ、そんなことか? 別に隠しているわけでもなかったから、
かまわないが﹂
若干拍子抜けして、ぼくは答える。
﹁ランプローグだ。ぼくの名は、セイカ・ランプローグという﹂
﹁︱︱︱︱っ!!﹂
ルルムが息をのんだように、目を見開いて固まった。
ぼくはいよいよ訝しく思い、訊ねる。
﹁いや、さっきからなんなんだ﹂
﹁⋮⋮メローザの夫にも、家名があったわ。一度しか、聞かなかっ
たのだけど⋮⋮﹂
﹁そりゃあ、貴族の生まれを自称するなら家名くらい名乗るだろう﹂
﹁あの男は、ギルベルト︱︱︱︱﹂
そして、ルルムが言う。
﹁︱︱︱︱ギルベルト・ランプローグと、そう名乗っていたわ﹂
﹁⋮⋮は?﹂

1396
﹁ああ⋮⋮やっと、見つけた。見つけたんだわ⋮⋮メローザの子を
⋮⋮﹂
感極まったように、ルルムが呟く。
それを遮るように、ぼくは言う。
﹁待て、話が見えない。それはどういう⋮⋮﹂
その時、ルルムが慇懃に跪いた。
立ち尽くすぼくへと、顔を伏せた神魔の巫女が、厳かに告げる。
﹁どうか我らの地に、お越しください︱︱︱︱﹂
運命の存在は信じていない。
決定論など、古代ギリシア哲学によってとうの昔に否定されてい
る。
だが⋮⋮告げられた言葉は、それを感じざるを得ないようなもの
だった。
﹁︱︱︱︱魔王陛下﹂
1397
第二十三話 最強の陰陽師、告げられる︵後書き︶
これで七章が終わりました。
次は八章です。
1398
第一話 最強の陰陽師、馬車をそろえる︵前書き︶
八章の開始です。
1399
第一話 最強の陰陽師、馬車をそろえる
北へ向かう帝国式街道を、馬車が走る。
ぼくは御者台の上で、手綱を握ったまま曇った空を見上げた。
季節はもうすっかり春だが、この辺りは天候も相まってか少し肌
寒い。
﹁ねえ、セイカ。後ろは大丈夫かしら﹂
隣でルルムが、後方を気にしながら言った。
ぼくは上空を飛ばしているヒトガタの視界を確認する。
今乗る馬車に続く形で、四台の馬車が列を作っていた。
平坦な口調でルルムに答える。

1400
﹁まだ大丈夫だが、一番後ろが少し遅れ気味かもしれない。これ以
上離れるようなら休憩をいれよう﹂
﹁⋮⋮わかったわ﹂
ルルムもまた、平坦な口調で返してきた。
神魔の奴隷たちを、エルマンたちから奪還した後。
ここからどうしようかと悩んだぼくたちは、移動のためにとりあ
えず馬車を五台買うことにした。
比較的人間に近いとは言え、神魔の容姿はどうしても目立つ。体
力が落ちている者もいたので、衆目に触れないまま楽に移動できる
手段が必要だった。
馬車五台分もの大金はどうしたのかというと、依頼をこなして得
た金を当てた。
ヒュドラの報酬はエルマンにやってしまったものの、それまで稼
いでいた分は手つかずのまま残っていたからだ。それをほとんどつ
ぎ込んだことで、なんとか全員が乗れるだけの馬車を買うことがで
きた。
先頭の馬車はぼくが、後ろの馬車はそれぞれ、アミュ、メイベル、
ノズロ、そしてたまたま馬車の動かし方を知っていた神魔の一人が
駆っている。
今はイーファがメイベルに動かし方を教わっているようなので、
すぐに彼女も覚えることだろう。
ただ急いで買い求めたために、馬車は大きさも頭立てもバラバラ
だった。

1401
動かしているのも素人なので、どうしても歩調が乱れる。
結局一番遅い馬車に合わせざるを得ず、進みは遅くなってしまっ
ていた。
こういう馬車は、きっと野盗にとっては格好の獲物に見えるだろ
う。ルルムもそれを心配しているようだった。
しかし、それはまったくの杞憂だ。
暴力の比べあいで、ぼくが負けることは決してないのだから。
﹁セイカ﹂
ふと、ルルムが小さな声で言った。
﹁私の言ったこと⋮⋮まだ、信じられない?﹂
ぼくは溜息と共に答える。
﹁いきなりお前は魔王だなんて言われて、そう簡単に信じられるわ
けがないだろ﹂
こうべ
ルルムに魔王と呼ばれ、頭を垂れられた時、初めは何かの冗談か
と思った。
しかし彼女の様子からそれが本気であることを察すると、さすが
に動揺した。
とりあえず、まるで家臣がするようなへりくだった口調だけはな
んとかやめさせると、今はまずこちらだと言って元奴隷たちの世話
に集中させ、それ以上の話を避けていた状態だ。
しかし、それはただ問題を先送りしているだけに過ぎないことは、
ぼくもわかっていた。

1402
言葉を選んで口を開く。
﹁だいたい、根拠が薄すぎないか? 魔王の父親だという元冒険者
が、ただランプローグの姓を名乗っていただけじゃないか。初めに
君らに捕まった時、身分が高ければ殺されないと思って、偶然知っ
ていた貴族の名前を口走っただけの可能性もある﹂
﹁ギルベルトは以前、自分には兄がいるのだと話していたわ。そし
て⋮⋮彼は金色の髪に青い目を持っていた。あなたのお父上はどう
?﹂
﹁⋮⋮同じだ。だけど⋮⋮この国では金髪碧眼なんて珍しくない。
それに父からは弟がいるなんて話、一度も聞いたことがないぞ﹂
﹁本当に? ただ話されなかっただけではなくて? 何か少しでも、
その可能性を感じたことはなかった?﹂
﹁⋮⋮。それは⋮⋮﹂
心当たりは、実はないでもなかった。
初めて会った時に、学園長が言っていたのだ。
ぼくには叔父がいると。
ぼくは軽く頭を振って言う。
﹁⋮⋮だが、ぼくは物心ついた時から本家の屋敷で暮らしていたん
だぞ。仮にも魔族の子が、いったいどんな経緯で貴族の家で育てら
れるなんてことになるんだ﹂
﹁それは⋮⋮わからないわ。魔族であることを隠して、メローザが
必死で頼み込んだから、とか⋮⋮。死んだ弟の子と聞けば、哀れに
思って引き取ることもあるのではないかしら﹂
﹁まさか、貴族だぞ。自分の庶子ですら引き取ることはまれなのに、
弟の子なんて⋮⋮﹂
﹁あなたのお父上は、そんなに貴族らしい人なの? 自分の兄弟に

1403
対しても、なんとも思わないような冷たい人?﹂
ぼくは口ごもる。
政争や領地経営には興味を示さず、ひたすら魔法研究ばかりなブ
レーズは、少なくとも貴族らしくはまったくない。
弟に対してどんな思いを抱いていたのかは想像もできないが⋮⋮
自分の子や、妻や、離島に隠居している両親や、使用人たちとの関
係を見る限りでは、冷たい人間とは思わなかった。
というよりも⋮⋮ルルムの言を否定できるほど、ぼくはブレーズ
のことをよく知らない。
﹁前にも言ったけれど、あなたの髪や眼の色はメローザの子と同じ
なの。それに⋮⋮セイカ、あなた自身ではどう?﹂
﹁⋮⋮ぼく自身?﹂
訊き返すと、ルルムは静かに続ける。
﹁それほどの力を持っていることに、疑問を覚えたりはしなかった
? 普通の人間たちの中で普通に過ごすことに、違和感はなかった
? 自分は特別で、他人を導く存在なのだと⋮⋮そんな風に感じる
ことはなかった?﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは答えられない。
特別な力を持っていて、普通の人間と違うのは当たり前のことだ。
異世界からの転生者なのだから。
まじな あやかし
無数の呪いを極め、強大な妖を使役する、史上最強の陰陽師。
異質でないわけがない。

1404
だがそれは、直接的には魔王と関係ない。
﹁⋮⋮少なくとも、自分をそんな指導者のように思ったことはない
な﹂
﹁そう?﹂
否定するぼくに、ルルムは食い下がる。
﹁あなたも、心のどこかで魔王かもしれないと思っているから、私
たちと魔族領にまで来てくれるのではないの?﹂
﹁いや、あのな⋮⋮﹂
ルルムの言葉に、ぼくは呆れ半分に答える。
﹁それは君らがあんなに頼んできたからじゃないか﹂
具体的には、ルルムとアミュとイーファとメイベルだ。
ぼくを魔王と信じるルルムはぜひにと言って聞かなかったし、小
さい子もいるのにこのまま放り出せないからと、アミュたちもつい
ていくと言い張っていた。
そこで仕方なく、わざわざ馬車を一台余計に買ってまで、ルルム
の故郷まで同行することになったわけだ。
しかし、ルルムはなおも言う。
﹁でも、あなたは断ることもできた﹂
﹁単なる親切心を、そんな風に捉えられてはたまらないな﹂
﹁⋮⋮﹂

1405
沈黙してしまったルルムに、ぼくは少し迷って付け加える。
﹁まあ⋮⋮完全に否定しきることはできない、かもしれない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁何せ、自分が生まれてすぐの話だ。その頃の記憶があるわけもな
いし、結局憶測でしか語れない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁もっとも、荒唐無稽な話だという印象は変わらないが﹂
﹁⋮⋮私は、そうは思わないわ﹂
ルルムはそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。
ぼくも無言のまま、思考を巡らせる。
彼女に言ったことは、実は嘘になる。
ぼくが魔王であるという話が、荒唐無稽だとは思わない。
それどころか、仮にそうだとすると一つ納得できることがある。
この転生体のことだ。
ぼくは、当初見込んでいた同世界内での転生に失敗し、この世界
に来た。
まじな
あれから何度か呪いの中身を思い返してみたが、原因は一つしか
思い当たらない。
見つからなかったのだ︱︱︱︱あの世界の未来で、ぼくの魂の構
造を再現できる肉体が。
まさかとは思うが、考えられない話ではない。
神の子孫だのが生きていた古代と比べれば、ぼくがいた時代の人
間はずっと弱い。文献を紐解く限り、かつてはぼく以上の術士も何
人かいたようなのだ。だからあのまま時代が進み、人間がさらに弱

1406
くなれば、ぼくのように呪術に長けた者が生まれなくなっていても
不思議はない。
では異世界にて条件に合致した、この体はなんなのか。
こちらの世界の人間は、元の世界の人間よりもさらに弱いように
えみし
思える。数百年前にいた蝦夷征伐の武者や、師匠の父親の大陰陽師
のように、龍を倒しうるほどの者がこちらでは文献の中にすらほと
んど見られない。
勇者と、魔王を除いては。
特筆するところのない一貴族の家に、条件を満たす者が生まれる
とは考えにくい。
勇者は、別に存在している。
ならば︱︱︱︱この肉体は、魔王のものなのではないか。
ルルムの言う通り、いろいろな状況証拠もそろっている。
信じがたい部分はあるが、否定しきれるほどの材料もない。
だからひとまずは⋮⋮自分が魔王だと考えておいた方が、いいの
かもしれない。
﹁⋮⋮﹂
しかし、ぼくにとってはこの上なく都合の悪い話だった。
権力者とはなるべく関わらずに生きたかったのに⋮⋮魔王だなん
て、それが許される立場ではなくなってしまった。
下手を打てば、前世以上の政争に巻き込まれかねない。
だが⋮⋮そもそもぼくの転生体に、何も特別な要素のない普通の

1407
人間を望むこと自体、都合がよすぎたのかもしれない。
前世であれほどの力を持ったのだ。
その辺の人間に生まれ変わるなんて、無理だったに決まっている。
受け入れるしかない。
覚悟を決めて、自身を取り巻く思惑の中に身を投じる必要がある。
ルルムの故郷へ同行することにしたのも、そのように考えたから
だった。
たとえ断ったとしても、問題が解決するわけではない。それどこ
もと
ろかさらに大事になって、魔族の側がぼくの下へ訪れる可能性もあ
る。
それで揉め事でも起こったら最悪だ。帝国の宮廷に察知され、ぼ
くが魔王であると知れれば、事態はいよいよ手に負えないものにな
ってしまう。
だからもうこの際、一度魔族領に行ってしまった方がいいと考え
たのだ。
少なくとも、帝国へやって来て揉め事を起こされる心配はなくな
る。
それに⋮⋮ぼくはあまりにも、魔族のことを知らなかった。
これまで出会った魔族は、ルルムたちを除けばすべて敵で、さし
たる言葉も交わさないうちに葬ってしまっている。
文献にも、見た目や能力のことばかりで、彼らの文化や風俗のこ
とはほとんど記されていない。
だから、知っておきたかったのだ。
もしかしたら彼らとの話し合いで、状況を改善できることもある
かもしれないから。

1408
﹁⋮⋮はあ﹂
とはいえ⋮⋮落胆を禁じ得ない。
もう、今生での目論見がいろいろと破綻してしまった。
まさか勇者の対となる存在である魔王が、自分だったとは。
この間まで魔王は今どこで何をしているのかとか考えていたこと
が馬鹿みたいだ。ここまでくると笑えてくる。
どうしたらよかったのか、と思う。
魔王に生まれてしまったのはある種の必然だし、ルルムと出会っ
たのはただの偶然だ。ぼくの選択が悪かったわけではない。
しいて言えば、一年前にアミュを帝城から助け出し、学園を去っ
てしまったことが遠因と言えなくもなかったが⋮⋮あらためて考え
ても、そうしない選択肢はなかった。
そんな生き方ができるのなら、あの時人質に取られていた弟子た
ちを無視して、あの子の襲撃も軽くいなし、すべてを捨ててどこか
別の地に逃げていただろう。
それによくよく考えると、ルルムたちはランプローグの名は知っ
ていたのだ。
だから結局のところ、いつかは魔王を探す魔族が、ぼくの下へた
どり着いていたに違いない⋮⋮。
とまで考えた時、ぼくはふと気づいた。
﹁あれっ、そういえば﹂
﹁⋮⋮? どうしたの、セイカ﹂

1409
眉をひそめるルルムに、ぼくは問いかける。
﹁ルルムは、ランプローグの名は知っていたんだよな。どうして最
初からぼくの家を訪ねなかったんだ? そうしたらすぐに出会えて
いただろうに﹂
﹁⋮⋮ランプローグの家なら、何度も調べたわ。でもどこの家にも、
あなたのような子供はいなかった﹂
﹁いやそんなはずは⋮⋮ん? どこの家にも⋮⋮?﹂
首を傾げるぼくに、ルルムはやや不機嫌そうに続ける。
﹁最初は、帝国議員のランプローグ家だったかしら。次は将軍のラ
ンプローグ家で、次が官吏のランプローグ家で⋮⋮。大きな街へ行
ってランプローグの名前を聞くたびに、屋敷を訪ねたり、そこの領
民に訊いたりして調べたわ。でも、一度もあなたには出会えなかっ
た。そのうちあきらめて、神魔の子がいないか探すようになったの
だけれど⋮⋮むしろ教えてくれないかしら。あなた、いったいどこ
にいたの?﹂
﹁⋮⋮ルルムが訪ねた家の当主の名前、教えてくれないか?﹂
﹁ええと、最初がガストン・ランプローグと言ったかしら。次がペ
トルス・ランプローグで、次がベルナール・ランプローグ⋮⋮﹂
ぼくは頭を抱えて言った。
﹁それ全部親戚だ⋮⋮﹂
ランプローグ家は伝統的に、兄弟に異なる進路を選ばせている。
だから帝国のあちこちにランプローグの名を持つ者がいて、中に
は本家以上に出世している分家筋もあった。

1410
だから、間違えるのもわからなくはなかったが⋮⋮。
﹁ぼくがいたのは本家だよ、本家﹂
﹁知らないわよ、そんなの。まったく、人間の国って面倒くさいん
だから﹂
ルルムが不機嫌そうにぼやく。
まあ、貴族の家のややこしさは置いておくとして⋮⋮ルルムはど
うやら、ランプローグの名から魔王を追うことは、一度あきらめて
いたらしい。
それでも、こうして出会ってしまった。
運命の存在はありえないと思っていたが、転生してからはどうも、
数奇な巡り合わせが続いているような気がする。
さすがに持論が揺らぎそうだ。
1411
第二話 最強の陰陽師、神魔の里に着く
数日後、魔族領に一番近い村に着いて、ぼくたちは馬車をすべて
売り払った。
そこから先は、歩きだ。
﹁ちょっとこれっ、どこまで進むわけー?﹂
後ろの方でアミュが文句を言っている。
ぼくたちは今、深い森を進んでいた。
この辺りはもう、完全に魔族領だ。
はっきりとした国境はないものの、平野から森に入った時点で人
間の支配域からは外れてしまっている。

1412
国境沿いには軍が駐留しているが、それも要所のみで、こんな何
もないところにはいない。
だから魔族領への出入りは、意外と簡単にできるようだった。
﹁もうすぐだから、みんなあと少しだけ我慢して﹂
前方でルルムが、後ろを振り返って答える。
つられて振り返ると、元奴隷の神魔たちはしっかりとついてきて
いるようだった。
女子供ばかりだが、さすがに魔族だけあってか、悪路でも余裕が
ありそうに見える。
そんな中で、イーファとメイベルと一緒にほとんど最後尾を歩い
ていたアミュが、ずんずんと歩調を上げて神魔やぼくを追い越し、
ルルムのすぐそばにまで並んだ。
﹁我慢するのはいいけど、ここモンスターが出る森でしょ? 危な
いわよ。特にあの子たちなんか、大した装備もないのに﹂
アミュが神魔の子らを振り返りながら言う。
﹁あんまり長く歩くようなら、一度村へ戻ってちゃんと準備した方
が⋮⋮﹂
﹁心配ない﹂
一番前を歩いていたノズロが、ふと立ち止まって言った。
その視線の先には、木の股に鎖でぶら下げられた小さな金属細工

1413
がある。
それを見たルルムが、安堵したような声を漏らした。
﹁あ⋮⋮よかった。まだちゃんとあったわね﹂
﹁ああ﹂
﹁え、なに? そのお守りみたいなの﹂
不思議そうに問うアミュに、ノズロが短く答える。
﹁モンスター避けの護符だ﹂
そして補足するように、ルルムが言った。
﹁これ、私たちの里のものなの﹂
****
それから少し歩くと、ひらけた道に出た。
道と言っても帝国式街道のように舗装されているわけではないが、
さりとて獣道というほど狭くもなく、護符のためかモンスターの気
配もない。明らかに誰かが、生活のために管理している道だった。
そこをさらに一昼夜、野宿を挟んで歩いた先に︱︱︱︱その集落
は見えてきた。
﹁わっ、あれなにかなセイカくん﹂

1414
隣を歩いていたイーファが、ぼくの袖を引っ張りながら声を上げ
た。
言われて目をこらすと⋮⋮道の先に、何やらいくつかの白い影が
見えた。
近づくにつれ、その正体がわかってくる。
それらは、並んで立つ大きな石の柱のようだった。
さらにその奥には、建物らしきものも見える。
どうやら集落のようだ。
﹁⋮⋮﹂
ずいぶんと、風変わりな集落だった。
巨大な柵のごとく立ち並ぶ柱の群れも、その奥の建物たちも、奇
妙なほど白く大きく、直線的な石材でできている。
帝国のどの都市でも、あんな建材は見たことがなかった。
ひょっとすると魔法で作られたものなのかもしれない。
いかにも魔族の集落といった感じだ。
﹁⋮⋮っ!? 何だ、貴様ら!﹂
さらに近づくと、石柱の前に立っていた見張りらしき人物が、急
にこちらを見て声を上げた。
さっきまで柱にもたれて顔をうつむけていたので、どうやら居眠
りをしていたせいでぼくらの接近に気づかなかったらしい。
ずいぶん平和なことだ。
﹁⋮⋮神魔か﹂

1415
白い肌に黒い線の紋様。
その男は、神魔であるようだった。
装束も、白を基調とした独特なものだ。ここは本当に神魔の集落
らしい。
槍を向ける見張りの男へ、ルルムが一歩進み出る。
﹁待って! 私よ、私﹂
﹁⋮⋮っ?﹂
﹁ルルムよ、覚えてない?﹂
﹁っ! まさか⋮⋮! てっきり里を出て、死んだとばかり⋮⋮﹂
とら
﹁生きてるわよ! 人間の国で囚われていた仲間を助けて来たわ。
ここを通してくれる?﹂
﹁し、しかし⋮⋮後ろのやつらは本当に⋮⋮﹂
﹁俺もいるぞ﹂
﹁ひ⋮⋮ひいいいい! ノズロ!?﹂
すく
ノズロが歩み出ると、見張りの神魔は竦んで悲鳴を上げた。
上背のあるノズロは、その神魔を見下ろすようにして言う。
﹁俺たちは旅の目的を果たし、帰ってきただけだ。自分の里に入れ
ない道理がどこにある﹂
﹁し、しかし⋮⋮﹂
﹁貴様で判断できないならば、ほかの者に話を通してきたらどうだ﹂
﹁わ⋮⋮わかった! わかったから、待て!﹂
そう言い残すと、見張りの神魔は背を向けて集落の方へ駆けてい
った。
﹁⋮⋮あなたなんで、怖がられてるの?﹂

1416
メイベルが、ノズロを見上げて言った。
ノズロは表情を変えずに呟く。
﹁別に、理由はない﹂
﹁ノズロは昔、体が小さくてよくいじめられてたのよね﹂
代わりにルルムが、おかしそうに答えた。
﹁だけど、あっという間に誰よりも大きくなって⋮⋮あとはわかる
でしょ?﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
メイベルが再び見上げると、ノズロはばつの悪そうな顔をしてい
た。
ルルムが、感慨深そうに言う。
﹁なんだか懐かしいわ⋮⋮私たち、本当に帰ってきたのね﹂
****
勝手に入るわけにもいかないので大人しく待っていると、ほどな
くして先ほどの見張りが、数人の神魔を連れて戻ってきた。
その中の一人。
上等な装束を纏った神魔の男が、一歩進み出る。
﹁ルルム⋮⋮!﹂

1417
信じられないかのような表情と共に、小さく呟く。
その声音には、親愛の響きがあった。
蒼白な肌色ながら美形で、顔立ちや紋様がどことなくルルムに似
ている気がする。
年の離れた兄だろうか⋮⋮と思っていると、ルルムが急に駆けだ
し、男に抱きついた。
やがて顔を上げ、感極まったように言う。
﹁ただいま⋮⋮父様﹂
﹁えっ﹂
思わず動揺の声を上げてしまう。
後ろからも、アミュたちのひそひそ声が聞こえてくる。
﹁あれがルルムの父親なの⋮⋮!?﹂
﹁わ、若すぎない⋮⋮?﹂
﹁魔族すごい﹂
彼女らの戸惑いもわかる。
神魔の男は、せいぜい二十代後半くらいにしか見えない。
ルルムは十代後半くらいの見た目なので、人間の感覚で親子と見
るにはあまりにも違和感があった。
神魔は人間の倍近い寿命があると聞くが⋮⋮二人とも本当は何歳
なんだろう。
ルルムの父は、娘を見下ろして言う。

1418
﹁本当に、よく帰った⋮⋮! だが、今はその客人らのことだ。彼
らは一体⋮⋮﹂
﹁人間の国で、奴隷として囚われていた神魔よ。助けて来たの!
みんなに住む場所と食べ物を用意して、あと元の里に帰れるように
手伝ってあげて。里長にもそう伝えて﹂
ルルムの父は薄く微笑むと、娘へと答える。
﹁今の里長は私だ。三年前にネゼリム殿が身を引かれ、私が皆に選
ばれたのだ。そのような事情ならば、迅速に手配しよう。しかし⋮
⋮そうか。だから帰ってきたのだな﹂
神魔の里長が、穏やかな笑みを浮かべる。
﹁お前のことだ。メローザと魔王を見つけ出すまで、決して帰らぬ
ものだと思っていたが﹂
﹁えっと、それは⋮⋮﹂
﹁ともあれ、よく同胞たちを救い出した。父として誇りに思う。⋮
⋮して﹂
と、その時、里長はぼくらの方へ視線を向けた。
﹁彼らは? 見たところ⋮⋮人間のようだが﹂
その目つきは、やや厳しい。
まあ神魔からすれば人間は敵対種族だから、無理もない。
ルルムが擁護するように言う。
﹁人間だけど、悪い人たちではないわ。一緒に仲間を助けるために
がんばってくれたの。私たちの恩人よ﹂

1419
﹁⋮⋮そうか﹂
娘の言葉に、里長はわずかに表情を緩める。
﹁お前が言うならば、そうなのだろう。十六年ぶりになるか⋮⋮こ
の里に人間が訪れるのは﹂
里長は感慨深そうに言った後、ぼくらへと言う。
﹁同胞たちを救い出してくれたこと、里長として感謝する。歓迎し
よう、人間の客人よ﹂
﹁いえ、どうも⋮⋮﹂
﹁それと、父様﹂
ぼくが何か言い終える前に、ルルムが父へと告げる。
﹁大事な話があるの﹂
﹁⋮⋮? 大事な話、とは⋮⋮﹂
不思議そうにする父へ、ルルムは真剣な表情で言う。
﹁本当に大事な話。誰にも聞かれない部屋を用意して﹂
1420
第三話 最強の陰陽師、事情を説明する
﹁まさか、魔王だと⋮⋮﹂
ルルムの父であり神魔の里長︱︱︱︱ラズールムは、信じられな
いかのように口元を手で押さえ、呟いた。
あれからぼくらは、全員で神魔の里に入ることとなった。
白い建物に、白い装束を着た、白い肌の人々。
実に奇妙な風景の集落だったが、それはともかく。
当面の住まいに案内される元奴隷の神魔たちと、神殿へ帰郷の挨
拶に向かうというノズロを見送った後、ぼくらはルルムの家に案内

1421
されることとなった。
他の家々よりもだいぶ大きい。どうやらここは、里長に選ばれた
者が住める屋敷であるらしい。
実に十五年ぶりの帰郷だというのに、ルルムは他の家族との挨拶
もそこそこに、ぼくらと父親と共に屋敷の一室へと入る。
そこで、話し始めた。
ぼくが、おそらく魔王であろうという事情を。
﹁信じられん。信じられんが⋮⋮本当なのか? 君があのギルベル
トと同じ、ランプローグの家名を持っているというのは﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
わずかにためらった後、ぼくはうなずく。
﹁とは言っても、ギルベルトという人物は知りません。父はランプ
ローグ家当主、母は愛人だったと聞いています﹂
言いながらふと、あの研究馬鹿のブレーズに愛人がいたというの
も、よくよく考えたら違和感があるなと気づく。
魔王である根拠がまた増えてしまった。
ラズールムが問いかけてくる。
﹁君の母だという人は?﹂
﹁会ったことはもちろん、家の者から所在を聞いたこともありませ
ん。生きているのか死んでいるのかも、わかりません﹂
﹁そう、か⋮⋮﹂

1422
ラズールムが眉根に皺を寄せながら続ける。
﹁だが⋮⋮君の髪と眼は神魔と同じものだ。それに、年もメローザ
の子と近い。確かに、無関係とはとても⋮⋮﹂
﹁それだけじゃないわ。セイカは、魔王と呼ぶにふさわしい実力も
持っているもの。ほらセイカ、父様にあれ見せてあげて、あれ﹂
﹁えっ、何?﹂
思わず素で聞き返すと、ルルムはじれったそうに言う。
ファイアボール
﹁あれよあれ。レイスロードを吸い込んだ、闇属性の火炎弾﹂
ファイアボール
﹁あれ火炎弾じゃないから。それにあれは昼間は出せないんだよ﹂
﹁もう。じゃああれでいいわ、鉄を腐らせるやつ﹂
﹁⋮⋮まあそれくらいなら⋮⋮﹂
ぼくは渋々、ルルムが差しだしてきたナイフへと、ヒトガタを近
づける。
かなくいこう ガリウ
軽く真言を唱えると、︽金喰汞︾によって生み出されたガリアの

汞により、刃がぼろぼろに崩れ始めた。
ラズールムは目を見開く。
﹁まさか⋮⋮これは⋮⋮!﹂
﹁伝承通りでしょ、父様﹂
にわかに盛り上がる神魔の親子に、ぼくは少々気が引けつつも一
応言っておく。
﹁あのう、これはたぶん魔王の伝承とは関係ないものですよ。ガリ

1423
ウムという人肌で融ける金属がありまして、それが他の金属に触れ
ると⋮⋮﹂
驚きに水を差すような解説にもかかわらず、ラズールムは感心し
たように聞いていた。
﹁なるほど⋮⋮聞いたこともない魔法だ。かつての魔王は、このよ
うにして人間の軍の武装を破壊していたのか﹂
﹁私の言った通りだったでしょ、父様﹂
ダメだ、全然理解されてない。
というよりよくよく考えると、仮に過去の魔王が同じような魔法
を使っていたならば、仕組みを解説したところで意味はなかった。
﹁セイカはたった一人で、アストラルの群れとレイスロードを倒し
たの。白のヒュドラだって、セイカがいなかったらみんな毒でやら
れていたわ﹂
﹁それだけの力がある、ということか。ならば⋮⋮﹂
ラズールムが険しい表情で呟く。
﹁ひとまずは魔王と考えておくべき、なのだろうな﹂
神魔の里長も、結局はぼくと同じ結論に至ったようだった。
一度見失った以上、誰が魔王なのか、確実なことは言えない。
勇者も魔王も、本来は予言の内容ではなく、その実力によって見
出される存在なのだ。
力以外の要素で見つけようとするなら、それこそ状況証拠で判断
するしかない。

1424
ラズールムは張り詰めた声音で言う。
﹁事は私一人で判断できるものではなくなってしまった。これは魔
族全体に関わる事態だ。まずは他の里長に報せを出し、会合を開こ
う。そして場合によっては⋮⋮他種族の代表も、呼び集める必要が
ある﹂
ぼくは思わず眉をひそめた。
やはり、大事になってしまいそうだ。
ラズールムは、ぼくに目を向けて言う。
﹁君も⋮⋮いや魔王様も、それでいいだろうか﹂
﹁正直いろいろ困るんですが、そちらの事情を考えれば仕方ありま
せん。ただ⋮⋮その魔王様という呼び方はやめてもらえませんか。
まだ確定したわけでもないのですから﹂
﹁私はかまわないが、おそらく事情を聞けば他の者は皆、君をその
ように呼ぶことだろう﹂
嫌な顔をするぼくに、ラズールムは微かに表情を緩めて言う。
﹁では今ばかりは、セイカ殿と呼ぶことにしよう。君が魔王である
ことはまだ公にできない以上、その方が都合が良い﹂
﹁助かります﹂
﹁あらためてになるが、セイカ殿。娘を助けてくれて⋮⋮そして我
らの里に帰ってきてくれて、感謝申し上げる﹂
ラズールムの真っ直ぐな言葉に、ぼくは堪らず目を逸らした。

1425
﹁⋮⋮いえ﹂
変な期待を持たれても困る。
本来は、魔族になど関わる気もなかったのだ。
帰ってきてくれて、などと言われても、ここはぼくの故郷でもな
んでもない。
ぶしつけ
﹁ところで、不躾なことを訊くようだが﹂
と、そこで、ラズールムは大人しく話を聞いていたアミュたちへ
と目を向けた。
﹁彼女たちは、セイカ殿の従者か何かなのだろうか﹂
﹁はあ? そんなわけないでしょ﹂
アミュが怒ったように言う。
﹁なんであたしがこいつの家来なのよ﹂
﹁ただのパーティーメンバー﹂
﹁わたしは、従者でもあるんですけど⋮⋮﹂
続けて、メイベルとイーファも言う。
ラズールムは気を悪くした様子もなく、わずかに口元を緩めた。
﹁⋮⋮そうか﹂
﹁どうしました?﹂
﹁いや⋮⋮セイカ殿は、パーティーメンバーとはぐれずに済んだの
だなと思っただけだ﹂
訝しげにするぼくに、ラズールムは穏やかな口調で説明する。

1426
﹁君の父親⋮⋮か、どうかはまだ定かでないが、ギルベルトは仲間
をかばって崖から落ち、遭難してこの里に流れ着いた。ここに居着
いてからもずっと、奴ははぐれた仲間たちのことを案じていたんだ。
それを今⋮⋮少々思い出した﹂
﹁あの⋮⋮ギルベルトさん、ってどういう人だったんですか?﹂
問いかけるイーファに、ラズールムは薄く笑って答える。
﹁調子のいいところもあったが⋮⋮好ましい人物だった。快活で、
奴がいると場が明るくなった。初めは受け入れることに抵抗のある
者も多かったが、いつのまにか奴が人間であることを気にする者は
いなくなってしまった。里の仲間たちは皆、ギルベルトを好いてい
たよ﹂
ラズールムは、静かに付け加える。
﹁あのようなことが起こってしまった後でも、それは変わらない﹂
1427
第四話 最強の陰陽師、話し合う
ぼくらはその後、ルルムの屋敷の離れに案内されることとなった。
当面の間は、ここで寝泊まりすることになるようだ。
アミュが室内をキョロキョロと見回して言う。
﹁けっこう広いわね﹂
﹁客人用の離れみたいだからな﹂
里長の屋敷ともなれば、こういうのも必要になるんだろう。
﹁⋮⋮まさか、魔族の里を見られるなんて思わなかった﹂

1428
石造りのベッドに腰掛けたメイベルが、ぽーっとしながら言った。
﹁人生、なにがあるかわからない﹂
﹁何か、魔族の里に思い入れでもあったのか?﹂
ぼくが訊ねると、メイベルがこちらを見て答える。
﹁育成所のみんなと昔、話したことがあった。どんなところなんだ
ろう⋮⋮って。冒険者に憧れてた子も、多かったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でも、結局⋮⋮その時いちばん怖がってた、私だけこうして見ら
れた。ちょっと申し訳ない、かも﹂
そういえばこの子は、つい二年ちょっと前まで奴隷身分で傭兵と
して育てられていたのだった。
二年後にこんな場所にいるなんて、確かに思いもよらなかっただ
ろう。
メイベルは視線を下げて呟く。
﹁⋮⋮みんなの分も、もっといろんなところに行けたらいい﹂
ぼくはふと笑って言う。
﹁君が今ここにいるのは、君自身が選んだ結果だ。これからもその
ような道を選んでいけば、自ずとそうなるさ﹂
メイベルがうなずく。
少し経って、アミュが天井を見上げながら言った。

1429
﹁それにしても⋮⋮まさかあんたが魔王とはねー﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは沈黙で答える。
ルルムに言われたことは、魔族領へ向かうと決めた段階から三人
にも話していた。
﹁最初に会った時から、変なやつだとは思ってたけど﹂
﹁そんな風に思われてたのか、ぼく﹂
﹁でも、ちょっと納得できるとこあるかも﹂
アミュが軽く笑って言う。
﹁もしかしたらあたしたち⋮⋮出会う運命だったのかもね。勇者と
魔王だし﹂
ぼくは少々居心地の悪い思いをしながら答える。
﹁運命なら、出会うなり戦っていただろうな。勇者と魔王なんだか
ら﹂
﹁それもそうね。悔しいけどあんたには敵う気がしないから、そう
ならなくてよかったわ﹂
﹁ん⋮⋮﹂
﹁あ、そういえば﹂
アミュが思い出したように言う。
﹁あたしが勇者だってこと、ルルムに言ってなかったわね。今から
でも言っておいた方がいいかしら⋮⋮?﹂

1430
﹁絶対やめろ﹂
確実に尋常じゃなくややこしいことになるわ。
﹁いいか、絶対に黙ってろよ。会話を聞かれるのもダメだからな﹂
﹁わかったわよ﹂
﹁ねえ、セイカくん⋮⋮﹂
その時、タイミングを見計らったようにイーファが口を開いた。
不安そうな表情で続ける。
﹁その、ほんとうに⋮⋮ほんとうなの? セイカくんが、魔王⋮⋮
って﹂
思い詰めたような声に、軽口を叩ける雰囲気ではなくなる。
ぼくは静かに答える。
﹁わからない。ただ⋮⋮そうであってもおかしくないのは確かだ﹂
﹁お⋮⋮おかしいよ! だってセイカくんは、あのお屋敷で普通に、
人間として育ったのに⋮⋮﹂
﹁だが、生まれはわからない。思えば多少、不自然なところもあっ
た。ぼくの母については、侍女からも家族からも、どこの誰なのか、
その生死すらも一度も聞いたことがない﹂
まるでまったく知らないか⋮⋮もしくは、意図的に隠していたか
のように。
イーファはうつむきがちに言う。
﹁もし、ほんとうに魔王なら⋮⋮セイカくん、ここに残るの? 帝
国にはもう帰らないの?﹂

1431
﹁え?﹂
﹁それでもし、帝国と戦争が起きちゃったりしたら⋮⋮﹂
﹁いやいや、当然帝国には帰るよ﹂
ぼくは笑みを作って答える。
﹁魔族領に来たのは、単に元奴隷の神魔たちを見送るためだ。元々
ここに残るつもりなんてない﹂
﹁そうなの? でもこのままだと⋮⋮﹂
﹁確かに、なんだか大事になってきてはいるけど⋮⋮大丈夫。なん
とか言いくるめて帰れるようにするから﹂
そう言ってイーファの頭に手を伸ばすと、彼女は大人しく撫でら
れるがままにしていた。
たとえ言いくるめられなくても、問題はない。
帰る方法なんて、いくらでもある。
ぼくらの様子を生暖かい目で見ていたメイベルとアミュが言う。
﹁セイカ、そういうの得意?﹂
たんか
﹁あんたって啖呵は切れるけど、交渉とか意外と苦手そうよね⋮⋮
こじれたらあたしが代わってもあげてもいいわよ﹂
﹁不安しかないんだが﹂
どうして自信満々なんだ⋮⋮。
と、その時。
﹁みんな、いるかしら⋮⋮?﹂

1432
遠慮がちな声と共に、入り口からルルムが顔を覗かせた。
﹁あっ、ルルムさん﹂
﹁ルルム! そんなとこいないでこっちきなさいよ﹂
どこかはしゃいだ様子の女性陣に招かれ、ルルムが少し申し訳な
さそうに入室する。
﹁みんな、ごめんなさい⋮⋮この建物しか用意できなくて﹂
﹁平気。冒険者だから﹂
﹁えっとぉ⋮⋮部屋を仕切ったら、大丈夫ですよ﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ぼくはさすがに気を使う﹂
ぼそっと言うと、女性陣が笑った。
﹁でも、父が里長になっていて助かったわ。前の家も大きかったけ
れど、さすがに離れまで用意できなかったから﹂
﹁元々、人間で言う貴族のような地位だったのか?﹂
ぼくが訊ねると、ルルムが少し考えてうなずく。
﹁そうね⋮⋮魔王の誕生を予言する託宣の巫女の家系だから、そう
言っていいと思うわ。血を繋ぐ責務を負う代わりにいい暮らしをさ
せてもらっていたし、里の中での発言権も強かった。父が里長にな
れたのは、タイミングもあったと思うけれど﹂
やっぱりか、とぼくは自分の中で納得する。
かつては人間の国でも、託宣の巫女の家系は似たような扱いだっ
たのだろう。

1433
﹁ここにいる間は、できるだけ不便がないようにするわ。必要なも
のがあったら言ってちょうだい﹂
﹁ねえ、里を見て回ってもいい!?﹂
意気込んで訊くアミュに、ルルムは微笑んで答える。
﹁ええ。明日、私が案内するわ﹂
﹁やった! 店とかあるのかしら。帝国のお金も使える?﹂
アミュがはしゃいだようにまくし立てる。
なんだかんだ言って活動的なイーファとメイベルも、乗り気なよ
うだった。
ただ、歓迎されたとはいえここは魔族の地だ。万一を考えると、
特にアミュが目立ってしまうのはまずい。
ルルムの前なので、ぼくは慎重に言葉を選びながら言う。
﹁いや、あの、一応ぼくらは人間で余所者だから、ここではなるべ
く大人しく⋮⋮﹂
﹁私たちの客人なんだもの、里を出歩くくらい大丈夫よ。それより、
セイカも来るでしょう? 魔王ということは、まだ里のみんなには
明かせないけど⋮⋮どこか行きたいところはある?﹂
ぼくの心配を一蹴し、ルルムが問いかけてきた。
ぼくはわずかに口ごもると、少し考えて答える。
﹁行きたいところ、というわけではないが⋮⋮﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁その、メローザという神魔の両親は、今もこの里にいるのか?﹂

1434
ルルムがはっとしたような表情を浮かべた後、首を横に振った。
﹁いいえ⋮⋮。聞いた話になるけど、旅の途中でこの里を訪れた神
魔が、まだ小さかったメローザを神殿の前に置いていったそうなの。
だからメローザに、元々家族はいないわ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
短く答えると、ルルムは申し訳なさそうに言う。
﹁ごめんなさい⋮⋮。あなたには、もっと早く話しておくべきだっ
たわね﹂
﹁いや。別にそんなことはない﹂
ぼくは首を横に振る。
気にならなかったと言えば嘘になるが、それは何も本当の祖父母
に会いたかったからではない。
むしろ、その逆だ。ぼくは内心でほっとしていた。
これ以上、魔族と余計な繋がりを持ってしまってはたまらない。
﹁明日どこに行くかは任せるよ。ぼくも一応ついていくけど、後ろ
の方で大人しくしておくことにする﹂
それから、自嘲気味に付け加えた。
﹁こんなところで目立ってしまっては困るからな﹂

1435
第五話 最強の陰陽師、出迎える
それから、何度か里を見て回った。
小さな村程度かと思っていた里は、意外にもちょっとした街くら
いの規模があるようだった。
神魔の集落には、ここより大きなものもたくさんあるらしい。
里の周りを囲む、土属性魔法で造られた白い石柱の群れは、ある
種の結界のような役割を果たしているという。
まるで前世の中東にかつて存在したとされる、古代魔導文明のよ
おもむき
うな趣だ。
畑もほとんどは里の中にあるが、どちらかといえば狩猟採集が主

1436
で、神殿でも自然神の類が祀られている⋮⋮と、日が経つにつれ神
魔の文化もいろいろわかってきた。
****
ルルムの父は、最も大きな里へ会合に出向いたきり、何日も帰っ
てこなかった。
その里がどこにあるのかわからないが、当然、結論が出て戻って
こられるまでに相応の時間はかかる。
予想していたことではあったが、しかしいい加減に暇を持て余し
始めた時⋮⋮その報せが届いた。
﹁この里に、魔族の代表たちが集まることになったわ⋮⋮魔王が生
まれた、十六年前と同じくね﹂
ルルムが、固い表情でぼくに伝えた。
﹁代表⋮⋮というと、各種族の?﹂
オーガ トライア ダークエルフ
﹁ええ。神魔、悪魔、獣人、巨人、鬼人、三眼、黒森人の七種族よ﹂
﹁それが、魔王のいる里に集まって、話し合おうってことか﹂
﹁そう。どんな話し合いになるかは、わからないけれど⋮⋮﹂
ルルムが表情を曇らせる。おそらくは十六年前にあった似たよう
な話し合いを思い出しているのだろう。
一方で、ぼくも気が重い。

1437
﹁わざわざこの里に集まるくらいなんだから⋮⋮ぼくも参加しなき
ゃダメなんだろうな﹂
溜息をつきたくなる。お偉方と関わるのは前世から苦手だ。
だが⋮⋮いつまでもそんなことは言っていられない。
魔王という立場に生まれついてしまったのだ。どんなに嫌でも避
けては通れまい。
ルルムが付け加える。
﹁父様は、明日には帰ってくるそうよ。神魔の代表を連れて﹂
﹁神魔の代表って、どんなやつなんだ?﹂
ぼくが訊ねると、ルルムは答えに迷うような、微妙な表情をした。
﹁代表⋮⋮は、一番大きな里の長ね。かなりの高齢で、里の序列を
重視する厳格な人よ。ただ⋮⋮もう一人、来ると思う﹂
﹁もう一人? その神魔はどんな立場なんだ?﹂
﹁ちょっと、特別な人なの。代表には反発する人も多いけど、その
人のことはみんな敬っていて⋮⋮一応、前回の話し合いにも参加し
ていたわ﹂
いまいち要領を得ない説明だった。
眉をひそめつつ訊ねる。
﹁⋮⋮なら、話し合いでは代表よりもそいつに気を配った方がよさ
そうか?﹂
﹁いえ、そういう心配はいらないわ﹂

1438
ルルムがはっきりと言う。
﹁偉い人ではあるのだけど⋮⋮政治からは、なるべく距離を置こう
としているみたいなの。だから今回の話し合いでも、きっと発言は
控えるんじゃないかしら﹂
****
せっかくだから、出迎えることにした。
翌日の昼。
白い石柱が形作る、里の門の手前で待っていると⋮⋮やがて馬型
のモンスターに騎乗した彼らの姿が現れた。
﹁⋮⋮セイカ殿。何もわざわざ門で出迎えていただかなくとも﹂
ルルムの父ラズールムが、驚いたように言った。
ぼくは答える。
﹁いい加減、退屈だったので⋮⋮そちらの方々は?﹂
﹁ああ、ルルムにも伝えていたと思うが、こちらは⋮⋮﹂
﹁随分と腰の低い魔王がいたものだな﹂
幾騎もの従者を伴った老境の神魔が、下馬しながら唐突に言い放
った。
長い口髭も頭髪も、神魔とは思えないほどに白い。顔には皺も目
立ち、黒の紋様は色褪せている。年齢のわかりにくい魔族にあって、

1439
はっきりと老いていることがわかるほどの容貌だ。
だがその眼光は、老いを感じさせないほどに鋭かった。纏う装束
も他の神魔と比べて上等で、この者が指導者階級にあることは明ら
かだった。
神魔の老人が、ぼくを品定めするように見る。
﹁年の程はそれらしいが⋮⋮ただの人間のようではないか。ラズー
ルムよ、これが魔王だと? 一体どれほどの根拠があって言ってい
るのだ﹂
﹁それは⋮⋮﹂
﹁適当に条件の合う者を連れてきたところで、お前の里の失態が拭
われることはないぞ﹂
﹁⋮⋮またなんとも、態度のでかいご老体だな。神魔の代表とやら
は﹂
ぼくが思わず聞こえるように呟くと、その老爺がこちらを見下す
ように言う。
﹁ふん⋮⋮この儂には、ラズールムに払うような敬意は払ってもら
えぬのかな。魔王よ﹂
ぼくは口の端を吊り上げて答える。
﹁ラズールム殿には宿飯の恩がある。其の方はぼくに、どのような
恩義があるのかな?﹂
老爺の目つきがいよいよ鋭くなってきたその時︱︱︱︱唐突に、
高い声が響いた。

1440
﹁やめるの﹂
全員が、声の方向を向く。
老爺の後ろから、一人の少女が歩み出た。
﹁あなたが悪いわ、レムゼネル。これ以上はよすの﹂
人間で言えば、十二、三歳くらいだろうか。
細く編み込んだ黒髪を垂らした、まだ幼い神魔の少女。
どのような立場かはわからないが、少なくとも質の良さそうな装
束からは、高い地位にいることがうかがえる。
おさな ご
幼子に諭された形の老爺だったが、しかし機嫌を損ねることもな
く、わずかに頭を垂れた。
﹁申し訳ございません、リゾレラ様﹂
少女は老爺から目を離すと、ぼくへと歩み寄る。
そして、しばしの間じっと、ぼくの顔を見つめてきた。
何かを期待するような表情。
どこかフィオナを思い出すような仕草だったが⋮⋮やがて、少女
はその小さな口を開く。
﹁⋮⋮覚えてる?﹂
﹁えっ、何が?﹂
思わず素で問い返すと、少女は落胆したように微かに目を伏せた。

1441
そして、無表情で告げる。
﹁⋮⋮謝るの。さっきは同胞が無礼を働いたの﹂
﹁あ、いや⋮⋮﹂
﹁ワタシはリゾレラ。後ろのは里長のレムゼネル。ここからずっと
東にある、菱台地の里から来たの。魔王の処遇を決める話し合いで、
神魔を代表して意見を言わせてもらうの﹂
ぼくは思わず眉をひそめた。
聞いてはいたものの、自分の処遇を決める話し合いが始まると面
と向かって言われれば、やはり身構えてしまう。
少なくとも、ここからは慎重に立ち回らなければならないだろう。
﹁⋮⋮どうもはじめまして。ぼくはセイカ・ランプローグという﹂
とりあえず名乗ったぼくへ、少女が問いかけてくる。
﹁あなたは⋮⋮本当に魔王、なの?﹂
表情こそ変わらないものの⋮⋮その声音には真剣味があった。
ただ、ぼくは肩をすくめて答える。
﹁さあ﹂
﹁⋮⋮そうだったの。魔王だからといって、自分が魔王とはわから
ないのだったわ。馬鹿なことを訊いたの﹂
少女は無表情のまま小さく嘆息した。
少しばかり、引っかかる言い回しだった。
﹁じゃあ、代わりに教えてほしいの。あなた、ちゃんと強い?﹂

1442
疑問はひとまず置いておいて、答えようと口を開きかけた時︱︱
︱︱、
﹁︱︱︱︱おや?﹂
不意に、背後から声が響いた。
﹁ふむふむ⋮⋮やはりいくら転移に長けた我とはいえ、さすがに一
番乗りとはいかなかったようであるか﹂
力の気配に振り返る。
先ほどまで誰もいなかったはずのその場所に立っていたのは︱︱
︱︱二体の巨大なデーモンを背後に従えた、一人の悪魔だった。
﹁それにしても、神魔の結界がこの程度とは。辺境の小さな里とは
言え、こうも容易に内側へ転移できてしまうとなると⋮⋮魔王様を
遇するにふさわしい種族と言えるか、はなはだ疑問であるなぁ﹂
悪魔が周囲を見回しながら呟く。
金色の毛並み。
衣服は悪魔族の民族衣装らしき、豪奢な装束を纏っている。
力の気配はそれほどでもなかったが、強力な魔道具を帯びている
のか、妙な流れの淀みがあった。
神魔の代表、レムゼネルが苦々しげに呟く。
﹁エーデントラーダ⋮⋮貴様、他種族の里の中へ直に転移魔法を使
うなど⋮⋮﹂

1443
悪魔が、まるであざ笑うかのようにレムゼネルへと答える。
﹁久しいな、レムゼネル。相変わらず寝ぼけたことを抜かしている
のである。魔王と勇者が誕生した以上、今は戦時。種族同士のぬる
い取り決めなどにこだわっていては⋮⋮⋮⋮おや?﹂
その時唐突に、悪魔がこちらを向いた。
まるでぼくの存在に初めて気がついたかのように、その山羊のよ
うな目を細める。
そして芝居がかった仕草で話し始める。
﹁このようなところに︱︱︱︱なんと、人間がいるようである﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁困ったものであるぞ、レムゼネル。魔王様ご滞在の地に、人間が
紛れ込むとは⋮⋮いや、もしやこのお方こそが? いやいやしかし
? いやいやどうして⋮⋮﹂
悩む素振りを始める悪魔の両脇から、用心棒のように控えていた
二体の巨大なデーモンが、ゆっくりと歩み出た。
悪魔が不意に顔を上げ、明るく言う。
﹁まあ、良いのである︱︱︱︱こうすればわかることゆえ﹂
直後︱︱︱︱デーモンの持つ棍棒が、二本同時にぼくへと振るわ
れた。
レムゼネルやその従者たちが息をのむ。
ぼくはと言えば⋮⋮ただ冷静に、ヒトガタを浮かべるのみ。

1444
たがねおり
︽金の相︱︱︱︱夛金檻の術︾
周囲の地面から、銀色の金属が幾条も伸び上がった。
それらは瞬く間に竹籠のように編み合わさると、ぼくを覆う半球
状の檻を形作る。
次の瞬間、檻の表面にデーモンの棍棒が振り下ろされた。
轟音が響き渡り⋮⋮しかしその棍棒は大きく弾かれる。
編み合わさった金属には、凹みすらも生じない。二体のデーモン
が困惑したように後ずさった。
当然だ。
タングステン
重く硬い夛金の檻は、生半可な攻撃では傷すらつかない。
再び棍棒が振り上げられるより早く、ヒトガタが飛翔した。瞬く
間に五芒星の陣が形作られ、デーモン二体の動きを止める。
そして︱︱︱︱、
﹁里に押し入っていきなり狼藉を働くとは⋮⋮其の方は野盗か何か
か?﹂
浮遊するヒトガタを、ぼくはその悪魔の眼前に突きつけていた。
たがねおり
解呪した︽夛金檻︾が周囲で無に還っていく中、悪魔へと告げる。
﹁封ずる前に、申し開きがあるのなら聞かなくもないが﹂
睨みつけるぼくに、悪魔はしばし沈黙していたが⋮⋮やがて感極
まったように言った。

1445
﹁ふふ︱︱︱︱素晴らしい! 素晴らしい御技でありました、魔王
様!﹂
叫ぶやいなや、悪魔がうやうやしくぼくの前に膝をつく。
﹁我が眷属たるハイデーモンの攻撃をものともせぬ土属性魔法。身
動きを封ずる呪いにも似た不可思議な符術。少々伝承とは異なるも
のの⋮⋮我の理解を超越するお力を前に、ただただ圧倒されるばか
りでありました﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
﹁名乗りの遅れた無礼をお許しを。我は﹃金﹄のエル・エーデント
ラーダ。悪魔の王からは大荒爵の位を賜った、魔王様の忠実なる臣
下であります﹂
へりくだる悪魔の言動からいろいろ察し、ぼくは目を眇める。
﹁⋮⋮ぼくの力を試したのか?﹂
﹁まさか、滅相もない。伝え聞く偉大なお力を試すなど、そのよう
な恐ろしいこと我にはとてもとても。ただ⋮⋮我の眷属たるハイデ
ーモンはモンスターゆえ、どうしても人間に対しては敵対行動を取
ってしまうのであります。制止が間に合わなかったのは我の過失。
申し開きのしようもありません﹂
﹁制止だと? デーモンどもをけしかけていた分際でよくそのよう
なことが言えたものだな。人間を敵視しているのは、他の誰でもな
い其の方なのではないか?﹂
﹁それも、魔族の繁栄を願うからこそであります﹂
ぼくはしばし金色の悪魔を睨んでいたが⋮⋮やがてその眼前に浮
かべていたヒトガタを掴み取り、懐へ仕舞った。

1446
溜息をつきながら告げる。
﹁今ばかりはその戯れ言を信じ、許そう。だが次はないぞ﹂
﹁寛大な沙汰に感謝いたします﹂
そう言うと、﹃金﹄の大荒爵エル・エーデントラーダは歯を剥い
た。
ぼくは一瞬経って、それが悪魔という種族の笑みなのだと気づい
た。
﹁魔王様︱︱︱︱どうか我ら魔族を、お導きください﹂
ぼくは思わず顔をしかめた。
めんどくさそうな奴だ。
これからこんなのを何人も相手にしなきゃいけないと思うと憂鬱
になってくる。
なんと答えたものか迷っていた、その時。
﹁︱︱︱︱閣下! いらっしゃいますか!? 閣下ーっ!﹂
﹁こっちにはいないぞ!﹂
﹁まさか、やはり直接里の中へ!?﹂
石柱の外側に広がる森から、大勢の声が聞こえてきた。
﹁おや、我の従者たちがようやく到着したようである﹂
エーデントラーダは何事もなかったかのように立ち上がると、暢
気に呟いた。

1447
レムゼネルが怒り半分、呆れ半分の声で言う。
﹁自分の従者を置いて一人で転移してくるとは、やはり貴様、頭が
おかしいのではないか﹂
﹁レムゼネル、やめるの。こんなの放っておくの﹂
﹁おや? リゾレラ殿もお久しゅう。魔王のこととなれば、やはり
貴殿も来られるであるか﹂
﹁︱︱︱︱おい、閣下の声がしたぞ!﹂
﹁閣下ーっ! どちらにいらっしゃるのですかーっ!?﹂
門の前が騒がしくなってくる。
すでにうんざりしていたぼくが踵を返しかけると、ラズールムの
収拾をつける声が響いた。
﹁みなさん、まずは私の屋敷へお越しください。その後に滞在場所
まで案内いたします﹂
1448
第五話 最強の陰陽師、出迎える︵後書き︶
※夛金檻の術
タングステンによる檻を形成する術。金属の中でも非常に重く、硬
い性質を持つ。実際に発見されたのは近代だが、作中世界において
は北欧の錬金術師が分離しており、日本では夛金と名付けられて鉱
石が採掘されていた。
1449
第六話 最強の陰陽師、議題にのぼる 前
それから四半月ほどの間に、各種族の代表が続々と来訪した。
やがてすべての種族が揃い⋮⋮そして今日、ぼくについて話し合
われる初の会合が開かれることとなった。
﹁十六年ぶりになるか。こうしてこの地に、我らが集うのは﹂
レムゼネルが厳かに口を開いた。
そのまま、石造りの巨大な円卓を見回す。
席に着いているのは各種族の代表。その背後にはそれぞれの従者
が控えている。

1450
ここは神殿の正殿にあたる場所だが、他に人はいない。
公にできない会合のため、神殿の関係者にも席を外させているの
だ。
レムゼネルの目が細められる。
﹁しかし、いくらか顔ぶれは変わっているようだ。新参者に事の次
第を一から説明するつもりはないが⋮⋮﹂
﹁よかったであるなぁ、レムゼネル﹂
悪魔の代表、エル・エーデントラーダ大荒爵が愉快そうに口を開
く。
﹁新しい顔が多いということは、十六年前の神魔の失態を知る者も
少ないということ。議論の折に話をぶり返されては、貴殿もたまっ
たものではないであろう?﹂
レムゼネルが、エーデントラーダを睨んだ。
その時、太い声が響く。
﹁過ぎたことを悔やんでも⋮⋮仕方がない﹂
巨人の代表だった。
二丈︵※約六メートル︶に迫るほどの巨体の前に、円卓が小さく
見える。
髭面のために表情がややわかりにくいが、目は悪魔をわずらわし
く思っているようだった。
﹁責任の追及など⋮⋮十六年前にやり尽くしたはず。これ以上、く

1451
だらぬ言い合いに⋮⋮割く時間はない﹂
﹁確か、魔王の両親である人間と神魔が、赤子の魔王を連れて逃げ
たのでしたね﹂
トライア
ぽつりと言ったのは、三眼の代表だった。
トライア
糸目の、若い男。三眼は寿命が人間とそう変わらないため、おそ
らく見た目通りの年齢だろう。
額の邪眼は、今は閉じられている。
﹁私は当時の状況を知りませんが、予測できない事態だったとも思
えません。事前から事後まで、対応の甘かった全種族の責任と言っ
ていいでしょう﹂
﹁グフフフ、若造が言いおる﹂
オーガ
鬼人の代表だった。
赤い肌に、白い髪、白い髭がまばらに生えた偉丈夫。額には短い
二本の角があり、片目は何かに切り裂かれたような傷跡に潰れてい
た。
﹁お主はもしや、目を離した隙に逃げられ、あまつさえ取り逃がし
た⋮⋮ワシらに非があると言いたいのかのう?﹂
﹁ええ、ですから﹂
オーガ トライア
凄む鬼人に、三眼はその両の眼と、第三の眼をわずかに開けて答
える。
﹁そう申しているのですが﹂
﹁まあまあまあ、ここは抑えて抑えて! いやもう、兄さんらに凄
まれたらかなわんわ﹂

1452
猫の顔を持つ獣人の代表が、あわてたように言った。
獣人の中でも、猫人という部族だろう。
本人の力は、他の誰よりも弱い。
だがそれを補って余りあるほどの、強力な魔道具を身につけてい
るようだった。加えて装身具の各所にかたどられた宝石が、その財
力の高さを物語っている。
口腔の構造のためなのか、話す言葉には独特のなまりがあった。
﹁今は誰かを糾弾する場ではないんやから、な? わいも十六年前
のことは知らへんけども、魔王様がこうして戻ってきてくれはった
以上、今後のことを考えな⋮⋮﹂
﹁ふふ、懐かしいな。小僧っ子どもがぴよぴよと﹂
ダークエルフ
笑声を上げたのは、黒森人の代表だった。
長く尖った耳。浅黒い肌に、金色の髪を持つ美女。腰には細剣を
提げている。
ダークエルフ エルフ
歳の程は三十前後に見えるが、黒森人は森人と並び、魔族の中で
最も長い寿命を持つ。おそらくはこの場にいる誰よりも年長だろう。
﹁十六年前の会合も、このような様相であった⋮⋮いい加減に見苦
しい。貴様が進行なのだろう、レムゼネル。さっさと始めろ﹂
﹁⋮⋮ああ。では⋮⋮﹂
﹁と、その前に﹂
ダークエルフ
口を開きかけたレムゼネルを遮り、黒森人の代表が言った。
その目は、ぼくを見ている。
﹁まずは誰もが抱いている疑問について片を付けようではないか︱
︱︱︱その少年は、本当に魔王なのか、という﹂

1453
ダークエルフ
黒森人は続ける。
﹁父親である人間と同じ家名を持っていた? 結構。ヒュドラやレ
イスロードを倒すほどの力がある? 結構。歳や容貌も魔王の条件
と合致する? それは大いに結構︱︱︱︱で?﹂
ダークエルフ
静まりかえる円卓で、黒森人が言う。
﹁どれも決定的な証拠とは言いがたい。虚偽が混じっている可能性
もある﹂
﹁⋮⋮だが、そうは言っても他にどうする﹂
レムゼネルが苦々しげに言う。
﹁確たる証拠などあろうはずもない﹂
﹁やはり十六年前の出来事が悔やまれるであるなぁ。あの時、我ら
は確かに、魔王様と共にあったはずであるのに﹂
ダークエルフ
おどけたように言ったエーデントラーダが、黒森人へと目を向け
る。
﹁して。ガラセラ殿は何が言いたいのであるか﹂
﹁ここは少年、いや、魔王様にそのお心をお話しいただこうではな
いか﹂
ダークエルフ
黒森人は微笑と共に言う。
﹁それぞれ挨拶は済ませたと思うが、まだ深く言葉を交わしてはい
ないだろう。この場での主役なのだ。その内心を、我々は聞いてお

1454
くべきなのではないかな﹂
﹁しかし、魔王や勇者は本来その力により見出されるものだ。自覚
がある類のものでは⋮⋮﹂
あが
﹁関係ない。我らが王として崇める存在となるのだ。ふさわしい心
がなくてどうする﹂
ダークエルフ
黒森人が、ぼくへ凄みのある笑みを向ける。
こころざし
﹁さて、魔王様。貴殿には︱︱︱︱我ら魔族を導く志がおありか?﹂
その場の全員が、ぼくに注目する。
そんな中、ぼくは静かに、短い回答を発した。
﹁いや、別に﹂
正殿内に沈黙が満ちた。
これだけではあんまりだろうと思ったので、少々付け加える。
﹁其の方らも知ってのとおり、ぼくはこれまで人間の国で生きてき
た。いきなり魔王だとか言われても困惑するばかりだ。そんな志、
あるわけがないだろう﹂
﹁ふふっ⋮⋮困ったな、そのような心では﹂
ダークエルフ
黒森人が、少々愉快そうに言う。
﹁我らが貴殿を、王として認めるのは難しいかもしれない。それで
もかまわないと?﹂
﹁認める認めないは其の方らの問題だ。別にぼくが、自ら魔王を名
乗ったわけでもないのだから﹂
﹁⋮⋮﹂

1455
﹁先にも言ったように、ぼくはこれまで人間の国で生きてきた。今
この場にいるのも、偶然知り合った神魔への義理を通したにすぎな
い。魔王と認めないというのならそれでいい。帝国に戻り、これま
で通り暮らすだけだ﹂
全体に、しらけたような空気が流れた。
あまりにも冷ややかな回答で拍子抜けしたのだろう。それはそう
かもしれないけど⋮⋮という心の声が聞こえてきそうだった。
ぼくとしては、このまま見限られ、魔族領を追い出された方が都
合がいい。
ルルムに対し、少々申し訳ないなと思うだけだ。
ただ、そううまくはいかないだろう。
ダークエルフ
黒森人が、笑声と共に告げる。
﹁ふふふっ⋮⋮なるほど。少なくとも単なる凡愚ではなさそうだ﹂
﹁其の方の気に入る回答だったかな、ガラセラ殿﹂
﹁求める魔王像とは少々違ったな。だが⋮⋮魔族の未来を安請け合
ダークエルフ
いするような痴れ者では、我ら黒森人が貴殿の下に集うことはなか
っただろう︱︱︱︱私は貴殿を、魔王と信じることにしよう﹂
ダークエルフ
なんだか認めたような雰囲気を出し始めた黒森人だったが⋮⋮何
だそれは、とぼくは思う。
たかだかこんな問答一つで種族全体の意思を決定するなんてあり
えない。元々こういう流れにするつもりだったに違いない。きっと
議論の誘導とか、自分の立ち位置を周りに示すとか、そんな感じの
が目的の茶番だったんだろう。

1456
﹁グフフフ、ガラセラ殿にそこまで言わせるとはのう﹂
﹁兄さん、若いのに賢いなぁ。わいの息子らにも見習ってほしいわ﹂
予想通り、便乗して同調するやつが出てきた。
ぼくは官人だった頃を思い出して嫌な気分になりながらも、まと
めるように言う。
﹁ひとまず、魔王かもしれないということで先に進めたらいいだろ
う。前提の話で揉めていたらいつまで経っても議論が始まらないぞ﹂
代表の間から、異議はない、とか、そうですね、とかいう声が聞
こえてくる。
進行役であるはずのレムゼネルも、うむ、とうなずいていた。
それを見ていらいらする。
うむじゃないんだよ、進行はお前の仕事だろ。なんで魔王のぼく
がやってんだよ。
1457
第七話 最強の陰陽師、議題にのぼる 後
一応、魔族たちの議論は進み始めた。
﹁魔王様は我らの下に戻られた。ならば最も重要な問題を話し合う
べきだろう︱︱︱︱人間の国への対応をどうするか、ということに
ついてだ﹂
レムゼネルが口火を切った。
﹁おや。十六年前にも揉めた話題であるな﹂
﹁避けては⋮⋮通れまい﹂
﹁勇者の動向はどうなっているのですか? ニクル・ノラ殿﹂

1458
トライア
三眼の代表が訊ねると、猫人は参ったように答える。
﹁なーんも。帝国どころか、南の共和国や北の王国に出入りしてい
る同胞からもそんな話は入ってきてへんなぁ。もっとも、帝国のこ
となら魔王様に訊いた方がええと思うのやけども⋮⋮﹂
猫人の促すような視線に、ぼくはしれっと答える。
﹁ぼくも、勇者の噂などは聴いたことがないな。帝国に住むほとん
どの人間は、勇者と魔王の伝説をお伽噺だと思っているよ﹂
﹁実は三年ほど前に、我の配下にある軍団の間諜から、帝国の都市
で勇者発見の報告が上がってきたのである﹂
不意に放たれたエーデントラーダの言葉に、正殿内がざわついた。
ぼくは無言のまま、横目で悪魔を見る。
レムゼネルが厳しい声音で言う。
﹁貴様、そのような重要事を今まで⋮⋮!﹂
﹁ただ、直後に送り込んだ刺客が消され、間諜からの連絡も途絶え、
詳細がわからなくなってしまったのである。以後何の情報も出てこ
ないことから、我らの間では何かの間違いだったと結論づけられた
のである﹂
﹁何かの間違いとは、具体的にどんな事態だったということでしょ
う。エーデントラーダ卿﹂
たばか
﹁間諜が裏切りにあたり謀ったか⋮⋮もしくは帝国の餌に釣られた
か、である。命の短い人間とはいえ、王侯貴族まで残らず勇者をお
伽噺と考えているわけもないであろう。疑似餌を用意されていても
おかしくはない﹂

1459
トライア
三眼の代表に、エーデントラーダは軽い調子で答えた。
なるほどな、と思う。
悪魔族の中で︱︱︱︱入学時にあったガレオスとコーデルの一件
は、そのような扱いになっていたのか。
レムゼネルが、顔の紋様を歪めながら悪魔を糾弾する。
﹁馬鹿な⋮⋮! 本物だったらどうする! 情報が出てこないとい
うことは、帝国が匿ったのではないのか。勇者がすでに帝国に捕捉
されてしまったとなれば⋮⋮﹂
﹁それはそれで好都合。問題はないのである﹂
眉をひそめるレムゼネルに、悪魔は言う。
﹁貴殿は一つ、重要なことを忘れているのである︱︱︱︱勇者は、
勝手に強くはならない﹂
﹁⋮⋮!﹂
﹁強敵へ挑み、倒し、経験を積む必要がある。秘匿しているのなら
ば結構。表に出せない以上、戦える強敵などたかが知れているので
ある。弱い勇者など恐るるに足らず﹂
悪魔の言葉に、ぼくは目を伏せる。それは事実だった。
エーデントラーダは歯を剥いて笑う。
﹁そう、今こそが好機! 人間への対応など、議論の余地もなし︱
︱︱︱再び魔王軍を結成し、我ら魔族の領域を取り戻すべく侵攻す
るのである!﹂
﹁⋮⋮馬鹿馬鹿しい。何を言い出すかと思えば﹂

1460
トライア
溜息をつきたげに言ったのは、三眼の代表だった。
﹁あえて訊きますが、なぜ今なのです﹂
﹁魔王様が君臨なされた。それ以外にどのような理由が必要である
か﹂
﹁魔王がいるからなんだというのですか﹂
トライア
三眼は言う。
﹁それで兵が強くなるわけでもない。人口が増えるわけでもない。
食糧も、軍備も、財政も、何一つ改善されるわけではありません﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁さらに言うならば、ここ五百年で勇者と魔王は戦力的にも力不足
となった。我らも人間も、人口が増え軍が強くなったために、相対
的に弱体化したのです。これまで攻めなかった以上、この機に攻め
トラ
る理由はない。魔王の存在は開戦の理由にならない︱︱︱︱我ら三
イア
眼の民は侵攻に反対します﹂
﹁グフ、グフフフ⋮⋮ろくに戦力にもならぬ惰弱な民が、偉そうに
語るものだわい﹂
おぞけ オーガ
怖気のする笑声を上げたのは、鬼人の代表だった。
﹁お前たちは、ただ前回のようになりたくないだけであろう⋮⋮?
トライア
伝承によれば、ずいぶん死んだようであるからのう⋮⋮三眼の民
は﹂
トライア オーガ
三眼の代表が糸目で睨むが、鬼人は意に介すこともない。
トライア
﹁魔王誕生時を除けば、お前たち三眼はほとんど、人間と剣を交え

1461
わし
てこなかった⋮⋮。パラセルス、お前の言は、儂の耳には臆病者の
戯れ言にしか聞こえぬ﹂
﹁くだらない。侵攻の理由がないことに変わりは⋮⋮﹂
﹁理由なら、ある。儂らが今、こうして一堂に会していることがそ
れじゃ﹂
オーガ
鬼人は言う。
﹁魔王の誕生時のみ、儂らは共通の王を戴き、一つの軍を結成する
ことができる。種族ごとに攻め込むことしかできなかったこれまで
こ たび オーガ
とは違うのだ⋮⋮。此度の大戦、儂ら鬼人は存分に武を振るおうぞ﹂
﹁いやいやちょっと⋮⋮勘弁してくれへんか? 戦争なんて﹂
焦ったように口を挟んだのは、獣人の代表だった。
﹁向こうで暮らしてる同胞も大勢おんねんで? そいつらの立場は
どないなんねん﹂
﹁我ら魔族の地に、呼び戻せばよい。元々、人間の国で暮らすこと
がおかしいのだ⋮⋮﹂
﹁簡単に言うなや﹂
猫人の口調から、機嫌を伺うような響きが消える。
﹁兄さんの里にもおるよなぁ、宝石やら鉱石を採掘して生計を立て
とる連中。あれ全部、わいらが買って帝国に卸してんねんで? な
ぜそないなことができると思う? 向こうに住んどる同胞が、苦労
して販路開拓してくれたおかげやで。わかるか? 人間の金も魔族
領に入ってきてんねん。向こうの同胞を呼び戻すっちゅーことは、
それが全部失われることになるんやで﹂

1462
オーガ
沈黙を保つ鬼人に、猫人は言う。
﹁あれやろ? 兄さんはどうせ職にあぶれた若人を兵隊にして、食
い扶持を稼がせてやろうって魂胆やったんやろ。甘いわ、そううま
くいくかいな。それと、他の兄さんらにも言っておくけども⋮⋮い
ざ侵攻となっても、わいらは余分な戦費の負担は一切せぇへんから
な! 期待されても困るで! わいら獣人は、戦争には反対や!﹂
﹁ふっ⋮⋮いかにも、守銭奴の猫人らしい意見だ﹂
ダークエルフ
失笑を漏らした黒森人を、猫人が睨む。
﹁なんやて?﹂
﹁金だ販路だ、向こうで暮らしている同胞が心配だなどとわめくが
⋮⋮それらはすべて、お前たち猫人の話ではないか﹂
ダークエルフ
押し黙る猫人に、黒森人は続ける。
﹁商業種族であるお前たちはそれでいいだろう。だが他の種族はど
うだ? 牧畜で暮らす兎人は、人間に奪われたかつての牧草地を取
り戻したいと思っているのではないか? 今傭兵やお前たちの護衛
に甘んじるしかない犬人や狼人は、種族としての独立を強くするた
めに、戦場で戦果を立てたいと思っているのではないか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前たち猫人が獣人の代表面をしていられるのは、他の種族より
も多少、金を持っているからにすぎない。そこには獣人全体の未来
を担おうという志がない。お前の意見を獣人の総意と捉えるには、
少々無理があるな。⋮⋮ああ、そうそう﹂
ダークエルフ
そこで黒森人は、ついでのように付け加える。

1463
ダークエルフ
﹁我々黒森人は、人間の国への侵攻には賛成だ。これは紛れもなく、
種族の総意である﹂
﹁我らは⋮⋮反対だ﹂
ぽつりと言ったのは、巨人の代表だった。
語調こそ穏やかだが、その声は低く大きく、正殿内によく響いた。
﹁争いなど⋮⋮愚かしい﹂
﹁ふっ、ずいぶんと臆病なことだ。エンテ・グー﹂
ダークエルフ
黒森人は薄笑いと共に言う。
﹁先の大戦では、巨人族は皆勇敢に戦い、大きな戦果を上げたそう
ではないか。父祖たちに申し訳なく思わないのか﹂
﹁大きな戦果を上げたのは⋮⋮それだけ危険な戦地に、配されたか
らだ﹂
巨人は静かに続ける。
﹁我らは⋮⋮騙し合いなどは不得手だ。力には恵まれるが⋮⋮争い
事も、好まない。他種族にそそのかされ⋮⋮ひどい戦場を、押しつ
けられたのだ﹂
﹁それ以上はやめておけ。それは戦場で散った父祖たちの名誉を傷
つける物言いになる﹂
ダークエルフ
﹁黙れ、黒森人⋮⋮我らはもう、愚かしい争い事に加担などしない﹂
ダークエルフ
それから、黒森人に見下すような目を向ける。
ダークエルフ
﹁愚かしいと言えば⋮⋮お前たちもそうだな、黒森人﹂
﹁⋮⋮何?﹂

1464
エルフ
﹁一体いつまで⋮⋮森人との関係に、固執するのだ﹂
ダークエルフ
黒森人の目が剣呑なものとなるが、巨人は意に介さない。
﹁お前たちの種族は⋮⋮分かたれたのだ。ごく自然な流れとして⋮
⋮そうなった。他者との関係は⋮⋮様々な要因により、繋がり、そ
して離れる。強引に戻そうとも⋮⋮無駄なのだ。長きを生きて⋮⋮
いつになったら、それに気づく?﹂
ダークエルフ
黒森人は答えないが、零下の瞳がその意思を語っていた。
トライア
正殿内の空気が張り詰める中、三眼が言う。
﹁これで賛成と反対が三対三のようですね。レムゼネル殿、あなた
がた神魔の意見で、ひとまずどちらが多数派か決まりますが﹂
全員の視線が、レムゼネルに向けられる。
﹁グフ⋮⋮よもや、神魔が不戦とは言うまい? レムゼネル﹂
﹁よう考え、兄さん。戦争となれば、帝国に近いこの里にも戦禍が
およぶかもしれへんで﹂
﹁っ、我らは⋮⋮﹂
オーガ
鬼人と獣人に言い募られ、レムゼネルはちらと、ずっと黙ってい
るリゾレラに視線をやった。
しかし神魔の少女は、何も言わずただ前方を見つめるのみ。
やがてレムゼネルは、絞り出すように言う。
﹁我らは⋮⋮魔王様の意思に従うだけだ﹂
﹁はあ? 何言うてんねん﹂

1465
﹁おやおや⋮⋮やはり貴殿は寝ぼけたことを言う男であるなぁ、レ
ムゼネル﹂
獣人と悪魔に言われても、レムゼネルは苦い顔をするばかりだ。
確かに、何言ってんだとぼくも思う。
魔王に任せるだなんて、種族としての意思がないと言っているに
等しい。
﹁それならば⋮⋮決まっている﹂
巨人が言う。
﹁魔王は⋮⋮帝国で、暮らしていた。縁のある者も⋮⋮多いだろう。
侵攻に⋮⋮賛成のはずが、ない﹂
﹁魔王の意思をお前が決めるな、エンテ・グー﹂
﹁ならば⋮⋮本人に、訊こうではないか﹂
ダークエルフ
黒森人の抗議を受けて、巨人がぼくの方へ目を向けた。
同時に、他の代表たちの視線も集まってくる。
どうも何か言わなきゃいけなさそうだった。
仕方なく、ぼくは小さく溜息をついて口を開く。
﹁侵攻にせよ、現状維持にせよ⋮⋮其の方らの意思がまとまらない
ことには、どちらもままならない。ぼくの意思を訊く前に、まず其
の方らの間で折り合いを付けたらどうだ。戦場へ向かうのは他でも
ない魔族の民なのだから﹂
﹁しかしながら、魔王様﹂
エーデントラーダ大荒爵が言う。

1466
﹁あなた様と共に勇者も誕生した以上⋮⋮今は戦時。我らはすでに、
魔王軍なのであります。我らを率いるあなた様のご命令にならば、
全種族が従いましょう。さあ、どうか進軍のご指示を!﹂
﹁そうか、なら﹂
ぼくは表情を変えずに言う。
﹁全軍武装解除し、大人しく帝国へ投降せよ︱︱︱︱と言ったら、
其の方は従うのかな? エーデントラーダ卿﹂
悪魔はさすがに絶句していた。
ぼくは続ける。
﹁意思がまとまらなければ仕方ないと言ったのはそういうことだ。
今のは極端な例だが、このままではどう命じたところで、反発し離
エルフ ドワーフ
反する種族が出てきかねない。前回の森人と矮人のように﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁其の方らが歴史から学べる者ならば、同じ轍を踏まぬためにまず
話し合わなければならない。ぼくが何か言うとしたら、その結論が
出てからだ﹂
そう言うと、ぼくは席を立った。
﹁セイカ殿、どちらへ⋮⋮?﹂
﹁今日はもういいだろう。其の方らも長く話し込んでいた。まだ初
日なのだから、無理をせず体を休めた方がいい﹂
レムゼネルに答え、それから少しだけ、本音を呟く。

1467
﹁ぼくも疲れた﹂
第八話 最強の陰陽師、報告する
﹁はあ⋮⋮﹂
代表たちとの会合の後。
一人で考え事をしたかったぼくは、逃げるようにして里の外れに
ある小高い丘へ向かい、そこに立つ石柱に背を預けて溜息をついて
いた。
﹁その⋮⋮お疲れ様。セイカ﹂
傍らには、ルルムの姿があった。
どうやらここに来るところを見られていたらしく、ぼくを追って

1468
来たように姿を現したのだ。
考え事はできなくなったが、訊きたいこともあったからこれはこ
れでちょうどいい。
﹁えっと、それで⋮⋮どうだった?﹂
恐る恐る訊いてくるルルムに、ぼくは答える。
﹁ごちゃごちゃ話して終わっただけだよ。まだ何一つ決まってない﹂
﹁そう⋮⋮やっぱり、十六年前と同じなのね﹂
﹁そう言えば、今回君は参加していなかったな。前は話し合いの場
にいたような口ぶりだったのに﹂
﹁あの時はまだ、神魔は魔王を生んだ種族ということで優位な立場
にあったから﹂
ルルムは力なく言う。
﹁席も多く用意されたのよ。他の長老も参加していたわ。私のせい
であんなことになってからは⋮⋮もうそんなことも許されないけど
ね﹂
﹁ぼくの立場からは、なんと言ったものか難しいところだな﹂
ぼくは続ける。
﹁前回参加していたなら、訊きたいことがあるんだが⋮⋮﹂
﹁何かしら?﹂
﹁悪魔族はなぜ、あんなに人間社会への侵攻を望んでいるんだ?
他の種族は、穏健派にせよ侵攻派にせよ、それぞれ事情がありそう
なことはわかったんだが⋮⋮悪魔だけはよくわからなかった。とい

1469
うか、あの妙な代表はなんなんだ?﹂
﹁ああ、エーデントラーダ卿は⋮⋮﹂
ルルムは、少し口ごもった後に言う。
﹁⋮⋮世界の激動を、求めているようなの﹂
﹁激動?﹂
﹁魔王と勇者の誕生。およそ五百年ぶりとなる大戦に、魔族の勝利
⋮⋮エーデントラーダ卿は、そんな歴史の目撃者になって、あわよ
くば名を残そうとしているみたいなの。侵攻は悪魔族というよりも、
卿個人の望みね﹂
﹁ええ、なんだそりゃ⋮⋮﹂
ぼくは思わず呆れる。
﹁なんでそんなのが代表の立場にいるんだよ。悪魔族は大丈夫なの
か⋮⋮?﹂
﹁あれでも政治的な地位は高いみたいなの。王と同じ﹃金﹄の部族、
しかも力のある一族の出身で、大荒爵の位を持ってる。本人の才覚
もあったからか、今では軍部も掌握しているそうよ。だから、誰も
異を唱えられないみたい﹂
﹁誰もって⋮⋮肝心の王は?﹂
﹁今の悪魔の王は、まだ幼いみたいなの。政治的な実権は、完全に
貴族が握っているそうよ﹂
﹁ああ⋮⋮﹂
つい気の抜けた声を漏らしてしまう。
なんだか前世でも聞いたような話だった。
﹁ただエーデントラーダ卿も、卿なりに魔族のことを考えているみ

1470
たい。魔王と勇者を見つけるために、ずっと軍を動かしていたそう
だから。結局、実は結ばなかったみたいだけれど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮ああ、そういえば⋮⋮﹂
﹁どうかした?﹂
﹁いや、なんでもない﹂
不思議そうにするルルムに、ぼくは首を横に振る。
ただ、思い出しただけだ。
エル・エーデントラーダ。帝都武術大会の折、捕まえた間者の心
さとり
を読んだ覚が、そういえばそんな名を口走っていた。
まさか二年経って、本人と直接対面することになるとは。
と、そこでぼくは疑問が浮かんだ。
﹁ん? というか⋮⋮﹂
﹁何? なんなの?﹂
﹁いや君って、確か十五年くらい前からずっと帝国にいたはずだろ
う? その割に魔族の内情に詳しいなと思って。ラズールム殿にで
も聞いていたのか?﹂
﹁いえ、リゾレラ様が教えてくれたのよ﹂
﹁リゾレラって⋮⋮あの小さな子か﹂
﹁私のこと、ずっと気に掛けてくれていたみたいで⋮⋮この里に着
いたその日に話しかけてきてくれたの。その時、私が魔族領を去っ
た後の出来事をいろいろ教えてもらったわ﹂
微かな笑みと共に語るルルム。
一方で、ぼくは疑問を覚えていた。
あのリゾレラという少女は、いったい何者なのだろう。
神魔の発言権が弱まった後にも、ああして彼女の席が用意される。

1471
そしてレムゼネルによく突っかかっていたエーデントラーダですら、
リゾレラには一目置いているようだった。
十二、三歳ほどの見た目だが、十六年前から生きている以上、見
た目通りの年齢ではない。
長命な種族であるので、それでもおかしくはなかったが⋮⋮どこ
か違和感があった。
﹁ねえ、セイカは⋮⋮戦争なんて望んでいないわよね﹂
ルルムの切実な声に、ぼくは一旦疑問を横に置き、彼女の顔を見
た。
神魔の巫女は、思い詰めたような表情で言う。
﹁魔王でありながら人間でもあって、しかも帝国貴族の血も流れて
いるあなたなら⋮⋮魔族の代表として、帝国と和平の交渉を行うこ
ともできるはずよ。きっとメローザとギルベルトも、それを望んで
⋮⋮﹂
﹁悪いが﹂
ぼくは、ルルムの言葉を遮るようにして言う。
﹁それは、すべての種族がそれを望めば、の話になる。さりげなく
誘導するくらいならしてもいいが⋮⋮ぼくは侵攻派にその意思を曲
げさせ、無理矢理従わせるような真似をするつもりはない﹂
﹁えっ、でも⋮⋮﹂
﹁君のその目論見は、魔王軍がその意思を統一させていることが前
提になっていたはずだ。ぼくも、君の話を聞いた時は勝手にそうな
るものだと思っていた。だが⋮⋮現状、侵攻派と穏健派で完全に割
れている。魔王の命令に大人しく従いそうな種族も神魔くらいだ﹂

1472
考えてみれば当たり前だった。
魔王に、魔族の精神を操るような権能などない。
エルフ ドワーフ
もしそうであれば前回の大戦で森人と矮人の離反なんて起きなか
っただろうし、ぼくが学園でガレオスや魔族パーティーに襲われる
こともなかっただろう。
これまで魔王軍を結成できていたのは、魔王の誕生をきっかけと
して、彼らの利害が一致したからに過ぎない。
そして、今回はそうではない。
﹁意思が統一されていない状態では、和平交渉なんてできるわけが
ない。交渉中に離反して侵攻を始める種族が現れれば、和平を結ぶ
どころか最悪そのまま内戦が始まるぞ。君の目論見の第一段階とし
て、まず全種族が穏健派としてまとまる必要がある﹂
﹁⋮⋮そうね﹂
ルルムがぽつりと言う。
エルフ ドワーフ
﹁森人と矮人のような種族がまた現れたら、ますます魔族がバラバ
ラになってしまうものね。でも⋮⋮﹂
ルルムは様々な感情を織り交ぜたような、複雑な表情で言った。
﹁それはとても⋮⋮難しいことだと思うわ﹂
1473
第九話 最強の陰陽師、気を引き締める
﹁疲れたなぁ⋮⋮﹂
ルルムが去った後、丘に一人残ったぼくはしみじみと呟く。
この呟きこそ、心からの感想だった。
﹁ずいぶんお疲れのようでございますね﹂
頭の上で、ユキが他人事のように言った。
ぼくは嘆息と共に答える。
﹁まあね⋮⋮苦手なんだよな、ああいう連中。陰陽寮にいた頃を思

1474
い出したよ﹂
﹁官人だった頃のセイカさまを、ユキは存じ上げないのですが⋮⋮
あのような立場の者たちを相手にするほど、高い地位にいたのでご
ざいますか?﹂
﹁いや⋮⋮﹂
ぼくは苦笑と共に否定する。
まつりごと
﹁所詮は陰陽師だからな、ただの役人だよ。仕事も、政なんかじゃ
なくて実務ばかりだった﹂
﹁ならばなぜ⋮⋮﹂
﹁どうしてもお偉方と関わらなきゃいけない時もあるんだ。ぼくは
多少目立っていたから、余計にな﹂
帝へのお目通りを許されていた、殿上人のご機嫌を取る機会もあ
った。
まつりごと
政がこの世のすべてと思っている、功名心と自尊心の塊のような
奴だった。
ぼくが出世した先にはこんなのばかりいるのかと、絶望したこと
を覚えている。
﹁まあ、あいつらに比べれば⋮⋮ここの連中は、まだマシかもな。
都ほどドロドロした政争がないのか、どこか素朴な感じがしなくも
ない﹂
﹁それはようございましたが﹂
ユキが言う。
その声音は、小言を言う時のものになっていた。

1475
﹁ただ、少々深入りのしすぎではございませんか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁以前、お心のままになさればいいと申し上げたのはユキでござい
まつりごと
ますが、政の中心に思い切り足を踏み入れるような真似は、いくら
なんでも危ういかと存じます。苦手ならばなおのこと、このような
場は不慣れでしょうに﹂
﹁そうは言ってもな⋮⋮﹂
﹁もしや、以前にユキが政治家の素質があると申し上げたのを真に
受けられたのですか? あれは嘘ではございませんが、しかし額面
通りに受け取られると少々⋮⋮﹂
﹁んなわけあるか。これは仕方なくだ﹂
ぼくは顔をしかめて言う。
﹁ぼくだって本当はこんなことしたくないけど⋮⋮逃げるわけにも
いかない。何せ、騒動の中心がぼくなんだから﹂
﹁セイカさまはやはり、ご自分が魔王だとお考えで?﹂
﹁⋮⋮可能性は高い、と思っている﹂
﹁ならばきっと、そうなのでございましょう。ユキも、セイカさま
の転生体が特別なものであることは当然のように思えます。しかし
⋮⋮﹂
ユキは、変わらない口調で言う。
﹁だからと言って、ここまで魔王として振る舞う必要はなかったの
ではございませんか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁初め、セイカさまを魔王と呼んだのはあの巫女の娘だけだったは
ず。あの時点で、娘の一人くらい誤魔化す方法はいくらでもあった
のでは? そのまま遠い地に移って偽の名で過ごしていれば、いく

1476
ら彼らが魔王を求めているとはいえ、追っ手がつくことはまずなか
ったように思えますが﹂
﹁⋮⋮それは⋮⋮﹂
ユキに言われ、ぼくは自分の行動を思い出しながら呟く。
﹁確かに⋮⋮魔族領に訪れる必要は、必ずしもなかったかもしれな
いな。行くと言い張って聞かなかったとはいえ、こんな場所にアミ
ュを連れてきてしまったのも、思えば軽率だったし⋮⋮﹂
言いながら、段々自分の選択に自信がなくなってきた。言い訳の
ように続ける。
﹁⋮⋮まあ、魔族のことをよく知らないままでいるのも気持ち悪か
ったから、いい機会だと思ってしまったんだよな⋮⋮。それにルル
ムたちを放っておくのも、なんか抵抗があったから⋮⋮﹂
﹁それが一番の理由にございましょう﹂
ぼくは、頭の上にいるユキを見上げた。
ここからでは、揺れる鼻先しか視界に入らなかったが。
﹁彼らの事情を知って、捨て置く気になれなかったのでございまし
ょう? セイカさまは前世から、人との縁を大事になさっていまし
たから﹂
﹁⋮⋮そうだったか? 別に、普通だったと思うけど⋮⋮﹂
﹁いいえ、そうではございませんでした。ユキにはわかります﹂
﹁⋮⋮﹂
少なくとも自覚はない。
あやかし
まあ、所詮は妖の人物評だ。話半分に聞いておくべきなのだろう。

1477
とはいえ。
ユキの指摘に、ぼくはだんだんと後悔の念が湧き上がってきた。
﹁ただそれなら⋮⋮やっぱり、安易に魔族領へ来たのは失敗だった
かもな⋮⋮。今生では目立たないよう狡猾に生きると決めたはずだ
ったのに、なんだか最近は真逆の方向に進んでいる気がする⋮⋮﹂
﹁いえ、ユキはこれでいいと思います﹂
ユキの言葉に、ぼくは思わず目を瞬かせた。
﹁はあ?﹂
﹁セイカさまのなされたいようになさるのが、一番だとユキは思い
ます﹂
﹁⋮⋮じゃあお前、さっきの小言はなんだったんだ?﹂
﹁一応、申し上げただけでございます。聞き入れるも聞き入れぬも、
セイカさまのお好きになされますよう﹂
﹁なんだそりゃ⋮⋮﹂
ぼくは思わず気の抜けた声を出してしまう。
前世から小言はたまに言われていたが⋮⋮ユキのこんな物言いは
珍しい気がした。
転生してからはちょくちょくやらかしているし、もしかしたら呆
れられているのかもしれない。
﹁しかし一つ、ユキはお訊きしたいのですが⋮⋮セイカさまはどこ
を目指しておられるのですか?﹂
ユキが問いかけてくる。

1478
﹁てっきりユキは、戦争を避けようとなさるものだと思っておりま
したが⋮⋮どうもそうではないご様子。ならばここから、どうなさ
るおつもりで?﹂
﹁ルルムにも言った通りだよ。ぼくが望んでいるのは、彼らが意思
を統一することだ。それが開戦か現状維持かはこの際問題にしない﹂
﹁⋮⋮? しかし、開戦となってしまっては⋮⋮﹂
﹁ルルムの目論見は叶わないな。だが、ぼくも自分を犠牲にしてま
で他人の望みを優先するつもりはない﹂
ぼくは丘の下に広がる、神魔の里を見下ろしながら言う。
﹁彼らと穏便に距離を置くには、魔族にとって魔王が不要な存在と
なればいい。魔王は所詮、魔族軍結成の旗手でしかないからな。彼
らがまとまってしまえば、ぼくはもう実質的に用済みになる﹂
伝承でも、魔王が自ら戦っている場面はほとんど描写されていな
い。
せいぜい勇者との決戦時くらいのもので、あとは基本的に玉座に
座っているだけだった。指揮を執るわけでもないので、別にいなく
てもいい。
さらに言えば、過去と比べ人口が増えたおかげで、勇者と魔王は
戦力的にも大きなものではなくなっている⋮⋮と以前にフィオナが
言っていたが、この事実はちゃんと魔族側も理解しているようだっ
た。
ならばなおのこと、ぼくの必要性は薄くなる。
﹁これだけの勢力同士がぶつかるんだ、戦争だってどうせほどほど
のところで終わるさ。今までずっとそうだったんだからな。まあ、

1479
さすがに帝国に帰ると言えば引き留められはしそうだけど⋮⋮そこ
は時機を見計らうとかしてなんとかするよ。それで大丈夫だろう﹂
﹁うーん、そうでございますか⋮⋮?﹂
いい考えだと思っていたのだが、ユキは微妙そうに言う。
﹁いろいろと無理があるような⋮⋮というより、そんな状況を狙う
のならやはり最初から来ない方がよかったかと⋮⋮﹂
﹁言うな。もう来ちゃったんだから仕方ないだろ﹂
﹁おっしゃるとおりではございますが⋮⋮﹂
ユキは渋い声音で一度言葉を切る。
﹁⋮⋮もういっそ、あきらめてこちらに移住し、魔王として過ごさ
れるのはいかがでしょう。勇者の娘も追っ手に怯える必要がなくな
り、よいではありませんか﹂
﹁その選択肢はない。ここはそもそも、人間の住まう地ではない異
界だ。異界で長く過ごせば、人は取り込まれる﹂
﹁それはかの世界での話でございましょう。ここは普通の集落のよ
うですし、こちらの魔族は物の怪よりも人間に近いように思えます
が﹂
﹁⋮⋮なんとなくぼくが気になるんだよ。陰陽師としての性分かも
な。それに⋮⋮﹂
ぼくはわずかにためらった後に言う。
﹁⋮⋮寿命が異なる者たちと過ごすのは、辛いことも多い。あの子
らもそうだが⋮⋮ここの連中にとっても﹂
﹁⋮⋮おっしゃるとおりでございますね﹂

1480
ユキも思うところがあったのか、そんな風に短く呟いただけだっ
た。
ユキは気を取り直したかのように話を続ける。
﹁うむむ、確かにここまで来てしまった以上は、セイカさまのおっ
しゃる方法以外にないようでございますが⋮⋮そううまくいくでし
ょうか?﹂
﹁ま、やるしかないだろう﹂
ぼくはそう、前向きな口調で言う。
﹁あの連中もそう遠くないうちに、互いの事情に折り合いを付けて
結論を出すはずだ。そこへどう乗り、どう誘導していくか⋮⋮勝負
はそこからだな﹂
臨機応変な対応が求められる。
あらためて気を引き締めなければ。
1481
第十話 最強の陰陽師、逃げる
それから十日。
代表たちの話し合いに、結論はまったく出ていなかった。
﹁おや、ではパラセルス殿はかつての魔族領奪還を諦め、人間の好
きにさせておくのがいいと言うのであるか﹂
﹁くだらない種族主義的な物言いですね。重要なのはその選択が、
種族の繁栄に繋がるか否かです﹂
﹁せやせや! むしろ人間社会とはほどほどにでも付き合っていか
なあかんで。市場がでかいからなぁ!﹂
﹁グフ、曇っておるのう、ニクル・ノラ。かつては猫人にも、精強
な戦士がいたものじゃが﹂

1482
もうずっとこんな感じだった。
ぼくはもうすっかりうんざりしていて、円卓に突っ伏したくなる。
ルルムの言った通りだった。
十六年前は一応、魔王を育てる方針は決まったはずだったが⋮⋮
今回は折り合いのつく気配すらない。
今回の決定は種族の利益に直結するから、無理もないと言えばそ
うなのだが⋮⋮。
﹁今ある暮らしを⋮⋮守れればよい。いたずらに人間を⋮⋮刺激す
る必要はない﹂
﹁愚かなことを言う。剣を持っていても、それを抜かぬ者は侮られ
るぞ﹂
ちらと、横を見る。
レムゼネルは苦々しい顔をするばかり。謎の少女リゾレラは、十
日前と変わらない無表情のまま、静かに座っている。
神魔がどちらかに加担すれば流れが変わるかもしれないが、彼ら
も頑固に中立を維持していた。
いい加減ぼくが口を挟まないと何も変わらない気がする。だが⋮
⋮それも少々ためらわれた。
彼らの内情を、ぼくはほとんど知らないからだ。
誰にどう加担するのがいいか判断がつかない。しいて言えば穏健
派だが、その三種族にしても各々の立ち位置は微妙に異なっている。
それならそれで各種族の内情を把握したいが、彼らに訊ねるわけ
にもいかなかった。

1483
彼らは皆、政治家なのだ。
素直に訊ねて、素直な答えが返ってくる保証はない。
そういうわけで打つ手なく、膠着した議論を眺めていたら、いつ
の間にか十日が経っていた。
重い重い溜息をつく。そろそろぼくの精神力も限界が近い。
﹁ふっ、若造らしい意見だ。パラセルス、貴様の話には理はあって
トライア
も義がない。三眼の幼王は代表の人選を間違えたな﹂
﹁私を選んだのは宰相、および議会ですよガラセラ殿。人選という
ダー
なら、軍人でしかないあなたがこの場にいるのも不思議ですね。黒
クエルフ
森人の若王がしっかりと実権を握っていれば、もっと話せる文人を
寄越したのでしょうか﹂
﹁⋮⋮ん?﹂
その時ふと。
ぼくは飛び交った言葉が気にとまり、思わず彼らの話を止めた。
﹁悪魔の王がまだ幼く、実権を握っていないとは聞いていたが⋮⋮
トライア ダークエルフ
三眼と黒森人の王もそうなのか?﹂
久しぶりに声を出したぼくを、全員が見る。
トライア
三眼の代表は一瞬、そういえばいたんだった、みたいな顔をした
後、丁寧に答える。
﹁ええ、その通りです魔王様。我らの王は代替わりしたばかりでま
ダークエルフ
だ幼く、補佐の者が付きながら統治を行っています。黒森人の王も、
その若さのために今は軍部が実権を握っているようで﹂
﹁つーかなぁ、全部の種族がそうやで﹂

1484
獣人の代表がこともなげに言う。
オーガ
﹁巨人も鬼人も、わいらのとこのお嬢もそんな感じやな。たまたま
代替わりの時期が重なったっちゅーか⋮⋮少なくとも十六年前には、
どの王も生まれてへんかったで。ああせやけど、神魔はちゃうか﹂
猫人が話を向けると、レムゼネルはそっけなく言う。
﹁⋮⋮我らは、他の種族とは違い王政を敷いていない。私もただ、
最も大きな里の長というだけだ﹂
ふむ、とぼくは考え込む。
そして、決めた。
﹁よし﹂
﹁ま、魔王様?﹂
不意に席を立ったぼくに、代表たちが困惑の目を向けてくる。
ぼくは彼らに向け、微笑を作って告げた。
﹁其の方らの王に会いに行くことにしよう﹂
****
翌日。
すっかり荷造りを終えたぼくは、旅立つべく里の門にいた。
背後には、ぼくを追って来た代表やその従者たちの姿がある。

1485
﹁ほ、本気なのですか、セイカ殿!?﹂
﹁ああ﹂
ぼくは振り返り、困惑した様子のレムゼネルへと答える。
﹁考えてみれば、魔王が各種族の君主を知らないというのも変な話
だ。其の方らの折り合いが付くまでぼくの出番はなさそうだから、
この機に会っておこうと思う﹂
﹁し、しかしながら魔王様﹂
エーデントラーダが若干焦ったように言う。
﹁我ら悪魔の王は未だ幼く⋮⋮議会の決定により、この我が種族の
意思を委ねられております。王に会おうとも、そのう⋮⋮あまり意
味がないかと⋮⋮﹂
﹁我々にしても同じです﹂
﹁お考え直しを⋮⋮魔王様﹂
代表たちが口々に言うが、ぼくはそれらを一蹴する。
﹁何も重要な話し合いをしようというわけじゃない。ただ挨拶する
だけだ。何かおかしいか﹂
﹁いえ、その⋮⋮﹂
代表一同は、どうも都合が悪そうな様子だった。
まあ、理解できなくもない。
幼く実権がないとはいえ、王は王だ。
ぼくが代表たちの頭越しに彼らの君主と交渉をまとめてしまえば、
それが種族の決定となりかねない。そりゃ都合が悪いに決まってい

1486
る。
政治的な意味でも︱︱︱︱彼らが持ち続けたいであろう、権力的
な意味でも。
だが、ぼくに譲るつもりは微塵もなかった。
﹁それならば、私の従者をお付けください﹂
トライア
三眼の代表が一歩進み出て言う。
﹁道中、不便も多いでしょう。せめてこのくらいは﹂
﹁それはええな! ウチのも連れてってくれへんか﹂
﹁私の部下も付けよう。身辺の世話にでも露払いにでも、好きに使
ってくれていい﹂
トライア ダークエルフ
三眼に続いて、獣人と黒森人も便乗し始める。
ぼくは思わず顔をしかめた。
﹁いや⋮⋮けっこうだ。自分の面倒くらい自分で見られる。それに
ぞろぞろついてこられると、どうしても歩みが遅くなって困るから
な﹂
余計な監視が付くのは都合が悪い。
ぼくはそもそも、代表らの目から離れて情報を集めるために王た
ちに会いに行くのだから。
前世の経験上⋮⋮政治家や官僚たちよりはまだ、君主の方が純粋
なことが多い。
幼いならばなおさらだ。物事を知らない分、御しやすくて助かる。
各種族の内情を調べるには、彼らから話を聞くのがたぶん一番い

1487
いだろう。
それに、幼いとはいえ王は王。
いざとなれば、彼らの側から種族の意思を操ることもできるかも
しれない。
久しぶりに狡猾なことを考えてるなと自分で満足しつつ、ぼくは
代表たちに告げる。
﹁そういうわけで、一人で行ってくる。それじゃ⋮⋮﹂
﹁待つの﹂
その時、一団の中から小さな影が歩み出た。
﹁ワタシも行くの﹂
神魔の少女、リゾレラだった。
ぼくは一瞬呆気にとられた後に言う。
﹁い、いやだから悪いけど、一人で⋮⋮﹂
﹁あなた、王たちがいる場所はわかるの?﹂
﹁⋮⋮﹂
思わず沈黙する。
そう、実は知らなかった。
ラズールムからだいたいの場所は聞いたのだが、口頭の説明だけ
でわかるわけがない。
だからなんとなくその方向にある大きな集落へ向かい、そこの住
民に訊けばいいかなと思っていたのだが⋮⋮。

1488
﹁それに、どうやって謁見するつもりなの? あなたが魔王だって、
信じてもらえないかもしれないの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁どっちも考えてなかったのなら、ワタシを連れてくの。案内もで
きるし、取り次いでもあげられるの。ワタシ一人だけなら、あなた
の足手まといにもならないの﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくはしばし黙考する。
彼女の言う通りではある。
それに⋮⋮神魔は元々中立だ。
種族の内情を訊くに辺り、余計なことを吹き込んでくる心配も少
ない気がする。
彼女の不思議な立場は未だに気になっていたが⋮⋮これは受け入
れてもいいかもしれない。
﹁⋮⋮わかった。一緒に来てくれ﹂
リゾレラがうなずくと、巨人の代表が言う。
﹁移動はどうなさる⋮⋮おつもりか。森の足元は⋮⋮悪い。急ぐな
こし
らば⋮⋮我ら巨人の者が、輿を担ぎましょう﹂
﹁グフフ、ならば担ぎ手を守る者も必要じゃな。森には手強いモン
オーガ
スターもおる。争いを厭う巨人に代わり、鬼人が護衛を出そう﹂
こし
﹁いやいや待つのである。輿など不要、移動ならば悪魔の集団転移
魔法で⋮⋮﹂
﹁悪いが、移動手段のあてはあるんだ﹂

1489
ぼくはそう言って、一枚のヒトガタを宙に浮かべる。
みずち
︽召命︱︱︱︱蛟︾
空間の歪みから、青い龍の巨体が現れる。
ぼくの背後に浮遊し、頭を下ろすその威容を、魔族たちは言葉を
失いながら見つめていた。
ぼくは軽く笑って言う。
﹁こいつで飛んでいくことにする。気遣いは無用だ﹂
空中の式神を踏み、龍の頭へ降り立つ。
下を見ると、リゾレラが呆気にとられたようにこちらを見上げて
いた。
あおみはし
︽土の相︱︱︱︱碧御階の術︾
地面から翠玉の柱が階段状に立ち上がり、龍の頭までの道を作る。
﹁ほら、おいで﹂
そう言って手を伸ばすと、リゾレラはわずかにためらった後、緑
の階段を昇ってぼくの手を取った。
そのまま龍の頭に乗ったリゾレラは、硬い声で呟く。
﹁な、長く生きてるけど⋮⋮ドラゴンに乗るなんてはじめてなの﹂
﹁そうか﹂

1490
ぼくは思わず笑ってしまった。
小さい子が背伸びしているみたいでかわいらしい。いくら長命な
種族とは言え、リゾレラの見た目ならそこまで長くは生きていない
だろう。
ぼくは魔族たちを見下ろして言う。
﹁では行ってくるので、そちらはそちらで進めておいてくれ﹂
﹁ま、魔王様ーっ!?﹂
なおもなんか言っている代表たちを無視し、ぼくは龍に告げる。
﹁よし。まずは東へ向かえ、龍よ﹂
その莫大な神通力によって、巨体が持ち上がる。
そしてうねるように旋回すると︱︱︱︱ぼくたちを乗せた蛟は、
宙を泳ぐように森の空へと昇り始めた。
1491
第十話 最強の陰陽師、逃げる︵後書き︶
※碧御階の術
緑柱石で階段を作る術。名前の通り柱状の結晶を形作るため、階段
状にしやすい。純粋な緑柱石は透明に近いが、主に視認性の問題か
ら、セイカは鉄やクロム、バナジウムなどの不純物を混ぜ、エメラ
ルドに近い発色に調整している。
1492
第十一話 最強の陰陽師、悪魔の王に謁見する
眼下を、緑の木々が流れていく。
みずち
森を見晴らす空を、蛟はわずかに蛇行しながら滑るように飛行し
ていた。
﹁⋮⋮ふう。なんだか久しぶりに自由になれた気がする﹂
蛟に乗って空を飛ぶのは、実はけっこう好きだった。
神通力で飛行しているため揺れもほとんどなく、速度の割りに風
も感じない。
あやかし
まさに騎乗するための妖と言ってもいいくらいだ。気位が高いや
つなので、こんなこと口には出せないが。

1493
ただそんなことよりも⋮⋮今はあの代表たちから離れられたこと
にほっとしていた。
アミュたちを残してきたことは気がかりだったが、強力な呪符を
持たせたし、ルルムにもよく頼んでおいたから大丈夫だろう。
ぼくはわずかに、背後の少女を振り返る。
﹁空を飛ぶのも初めてかい?﹂
リゾレラは目を見開いて、眼下に広がる景色を眺めていた。
それから、ぽつりと呟く。
﹁⋮⋮空を飛ぶのは、はじめてじゃないの﹂
﹁ふうん、そうなのか﹂
こちらには飛行の魔法でもあるのか⋮⋮あるいは鳥の獣人や、テ
イムしている飛行モンスターなどに抱えられて飛んだのかもしれな
い。
リゾレラは景色から目を離し、ぼくへと訊ねる。
﹁最初は、どこに行くの?﹂
﹁そうだなぁ。近いところから、と思ってたんだけど⋮⋮﹂
﹁それなら、悪魔の王都が近いの﹂
リゾレラが東南東の方角を指さす。
﹁あっち﹂

1494
蛟は一度大きく身を揺らすと、その方角に向かい速度を上げ始め
た。
****
そして、太陽が中天にかかる頃。
ぼくらは悪魔族の王都にたどり着いた。
﹁も、もう着いたの⋮⋮普通は何日もかかるのに⋮⋮﹂
リゾレラが眼下に広がる都市を眺めながら、呆然と呟く。
﹁だいぶ急いだからなぁ﹂
巨体のせいでどうしても加減速が遅いものの、龍はその気になれ
ばどんな鳥も追いすがれないほど速く飛ぶことができる。
まあ晴天の昼間で鳥もなく、かつ目的地の方角が正確にわかって
いないと、なかなかそういうわけにもいかないのだが。
それはそうと⋮⋮。
﹁思ったより発展しているんだな﹂
眼下の都市は、かなりの規模だった。
神魔の里とは対照的な、黒い石材で造られた建物が無数に建ち並
んでいる。
もちろん帝都ほどではないものの、魔族とはいえさすがは王都と

1495
いった趣だった。
﹁王はどこにいるんだろう﹂
﹁あそこなの﹂
リゾレラが指さした先には、どこか神殿めいた造形の、一際黒々
とした巨大な建造物があった。
どうやらあれが王宮らしい。
﹁よし。直接向かおうか﹂
悪魔の王宮を目指し、龍が降下していく。
高度が下がると、都市を行き交う住民たちに気づかれ始めた。皆
こちらを指さし、何やら驚いたように叫んでいる。中には怯えて逃
げ出そうとするデーモン系モンスターを、必死になだめる飼い主ら
しき者もいた。
ぼくは少々申し訳なく思いながらも、なかなか活気があるなぁと
感心してしまう。
今まで魔族のことを、どこか蛮族のように考えていた。
だがこうして見ると、人間と変わらない。
やがてぼくらを乗せた蛟は、王宮前の広場へとたどり着いた。
正面から見た王宮は、禍々しくも荘厳な佇まいだ。
これだけでも文化レベルの高さがうかがえる。
ぼくが感心している一方で、王宮を守る衛兵の悪魔たちは半ばパ
ニックになっているようだった。

1496
﹁うおおおお!? ドラゴン!?﹂
﹁ドラゴンに人間が乗っているぞ!?﹂
﹁なんだ貴様らはぁ!! 名を名乗れぇ!!﹂

このままでは話もできなさそうだったので、ぼくはひとまず︽碧
おみはし
御階︾を使い、翠玉の階段で蛟の頭から降りる。
そして、言われたとおりに名乗った。
﹁ぼくはセイカ・ランプローグ。一応、魔王⋮⋮﹂
﹁ドラゴンから降りたぞ!﹂
﹁今だっ、かかれぇ!!﹂
﹁行け、我が眷属よ!!﹂
ぼくの名乗りなど聞く気配もなく、衛兵たちは一斉に叫ぶと、伴
っていたデーモン系モンスターをけしかけてきた。
大小様々なデーモンたちが迫る中、ぼくは眉をひそめながら呟く。
﹁名乗れと言ったからには聞けよ﹂
つちぐも
︽召命︱︱︱︱土蜘蛛︾
空間の歪みから、身の丈をはるかに超える巨大な蜘蛛の妖が現れ
た。
土蜘蛛は尻を高く掲げると、そこから無数の糸を吐き出す。
糸はデーモンたちに降りかかり、瞬く間に絡みついてその動きを
止めた。
一際巨大なデーモンであっても、引きちぎれない。神通力で生み
出されたその糸は、獲物がもがけばもがくほど意思を持ったように
絡みつき、刃物で切断することすらも叶わない。

1497
デーモンたちににじり寄ろうとする土蜘蛛を、ぼくは呪力を込め
た言葉で制する。
﹁喰うなよ﹂
土蜘蛛は、やや不満そうに動きを止めた。
まったく、こいつは凶暴で困る。
﹁あ、新たなモンスターだと!?﹂
﹁なんなんだあのモンスターは!?﹂
﹁お、俺の眷属が⋮⋮﹂
呆然とする衛兵たち。
そんな中、蛟から降り立ったリゾレラが、彼らの前に歩み出て告
げた。
﹁ワタシは神魔のリゾレラ。悪魔の王、アル・アトス陛下に会わせ
てほしいの﹂
****
﹁困りますな。リゾレラ様と言えど、急にこのような訪宮など﹂
王宮内を勝手知ったるがごとくスタスタ歩いて行くリゾレラに、
肥えた悪魔が追いすがる。
立場は知らないが、格好からしてたぶん偉い人物に違いない。

1498
﹁一体何用で? あのドラゴンは? そしてこの人間は誰なのです
かな﹂
﹁魔王なの﹂
﹁⋮⋮⋮⋮へ?﹂
﹁門番には言ったはずなの。聞いてなかったの?﹂
固まる悪魔をその場に残し、ぼくらは進んで行く。
そして、謁見の間にたどり着いた。
リゾレラがおもむろに扉を開く。
﹁⋮⋮あの子が﹂
部屋の最奥、玉座に座していたのは、金色の毛並みを持った、明
らかにまだ若い悪魔だった。
身長が低く、顔立ちにもあどけなさがある。悪魔の年齢なんて外
見からわかるはずもないのだが、どことなく幼いヤギのような印象
があった。
﹁久しいの。あなたの王位継承以来なの、アトス王﹂
まったくへりくだる様子のないリゾレラの言葉に、悪魔の王が口
を開く。
﹁リ、リ⋮⋮そそそ、そなっ⋮⋮!﹂
悪魔の王は口を閉じると、傍らに立っていた銀の毛並みを持つ悪
魔に何やら耳打ちする。
﹁はい、はい⋮⋮。﹃リゾレラ様が見えるとは驚いた。そなたの言
うとおり、あの日以来となるか。門番の非礼を許してほしい。彼ら

1499
は驚いただけなのだ﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁こちらも申し訳なかったの。あなたに会いたいと言う人がいて﹂
﹁あ、あ、あ⋮⋮?﹂
﹁﹃会いたい人物とは?﹄と王は仰せでございます﹂
﹁彼よ。魔王なの﹂
リゾレラに促され、ぼくは一歩進み出て笑顔で言う。
﹁お初にお目にかかる。ぼくはセイカ・ランプローグ。一応、魔王
ということになっている者だ﹂
言いながら、なんだこの自己紹介は、と自分で思う。
﹁⋮⋮!﹂
悪魔の王は目を見開いて立ち上がると、わずかに膝を折って頭を
下げた。
そして即座に、銀の悪魔へと耳打ちする。
よろこ
﹁﹃十六年ぶりとなる魔族領への帰還を、お慶び申し上げます。魔
王様﹄と、王は仰せでございます。それから⋮⋮はい、はい。﹃悪
魔族を導く身でありながら、陛下の御前に馳せ参じることのできな
かった無礼をお許しください。しかしながら、我が種族の意思はエ
ル・エーデントラーダ大荒爵へ託したはず。陛下は何故、悪魔の地
へ?﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁大荒爵は今、他種族との折衝で忙しい。ぼくもそれに参加してい
たが、残念ながら魔族の内情がわからず、口を挟む余地がなかった。
そこで其の方への挨拶がてら、悪魔族の抱える事情などを訊きに来
たわけだ﹂

1500
と、ぼくは正直に答える。
下手に嘘をつくよりも、言える範囲の事実を言う方がいい。
悪魔の王がはっとして、従者にすばやく耳打ちする。
﹁﹃我が種族を思い、ご足労いただけるとは恐縮の至り。我の協力
が助けとなるならば、このアトス、力と言葉を尽くしましょう﹄と、
王は仰せでございます﹂
その答えを聞いて、ぼくは微笑む。
少々変わったところはあるものの、思った通り素直そうな王だっ
た。これならまだ付き合いやすいだろう。
﹁よし、それならさっそく⋮⋮﹂
﹁お待ちを!﹂
バーンッ、と謁見の間の扉が開いて、先ほどの肥えた悪魔が現れ
た。
﹁魔王様へのご説明ならば、私が承りましょう!﹂
﹁﹃しかし⋮⋮﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁失礼ながら、アトス陛下は未だ言葉がお上手ではありません。こ
のような事柄には臣下の者をお使いください﹂
アトス王が顔をうつむかせる。
実権がないのは本当らしく、臣下にも強く出られないようだった。
肥えた悪魔が、ぼくへ睨むような目を向ける。
﹁魔王様としても、そちらの方がよろしいかと﹂

1501
﹁ええー⋮⋮﹂
ぼくは思わず呻く。
こっちにも面倒な政治家がいたとは⋮⋮この展開はちょっと困っ
た。わざわざルルムの里を飛び出した意味がない。
答えに迷っていた、その時。
ぼくらのやりとりをじっと見ていたリゾレラが、アトス王へと歩
み寄ると、その手を取った。
﹁行くの﹂
﹁⋮⋮!?﹂
と、そのまま引っ張り始める。
﹁わ、わ⋮⋮!﹂
引っ張られるアトス王は、困惑したように傍らにいた銀の悪魔の
手を掴んだ。
そのまま、二人してリゾレラに引っ張られていく。
﹁あなたも、さっさと行くの﹂
と言って、リゾレラは空いている方の手でぼくの手を掴んだ。
意図が飲み込めないまま、ぼくも引っ張られていく。
そして、出入り口を塞ぐ肥えた悪魔をキッと見上げ、リゾレラは
告げた。
﹁どくの﹂

1502
﹁⋮⋮これはどのようなおつもりですかな、リゾレラ様。我らが王
を、連れて行かれては困るのですが﹂
﹁魔王様は、すべての種族の王が一同に会することをお望みなの﹂
﹁えっ﹂
﹁⋮⋮ほう﹂
﹁だから、これは必要なことなの。ね?﹂
急に同意を求められたぼくは、しどろもどろに答える。
﹁⋮⋮ええと⋮⋮そうだった、気がしてきたような⋮⋮﹂
﹁なるほど。しかし、困りますな﹂
肥えた悪魔が、顎をさすりながら言う。
﹁王がどことも知れぬ場所へ、臣下も伴わずに向かうなど言語道断。
いくら魔王様がお望みとはいえ、認めるわけにはいきませんな﹂
﹁あなたは認めざるを得ないの﹂
﹁ほう。なぜですかな﹂
﹁認めないなら︱︱︱︱﹂
そこでリゾレラは、試すような視線を向ける悪魔から目を逸らし
て、ぼくを見た。
﹁︱︱︱︱この王宮全部、ドラゴンで木っ端微塵にしちゃうの。ね、
セイカ?﹂ 1503
第十二話 最強の陰陽師、獣人の王に謁見する
﹁これでよかったのかなぁ⋮⋮﹂
一刻後。ぼくらは蛟に乗り、空の上にいた。
あれから他の悪魔たちを振り払うようにして王宮を脱出し、蛟で
飛び立ったのだ。
ぼくはリゾレラを振り返って訊ねる。
﹁なあ、なんであんなことしたんだよ﹂
﹁あなたがそうしてほしそうだったの﹂

1504
リゾレラは澄ました調子で答える。
﹁会合の時から、ああいう手合いを苦手そうにしてたの。日暮れ森
の里を飛び出したのも、王と直に話したかったから。違う?﹂
﹁日暮れ森の里⋮⋮って、ああ、ルルムの里ね。あー、まあ、そう
と言えばそうなんだけど⋮⋮﹂
というかバレてたのか。
﹁⋮⋮ワタシも、ああいうのは苦手なの﹂
リゾレラがぽつりと言う。
﹁求められるからいろんな集まりにも顔を出してるけど⋮⋮本当は、
そんな立場じゃないの﹂
﹁⋮⋮ふうん﹂
この子にも、どうやらいろいろあるらしい。
本当はどんな立場なのか気になったが、今は長話を聞けるタイミ
ングではなかった。それよりも⋮⋮と、 ぼくはリゾレラの後ろに
座る、アトス王とその従者に目を向ける。
二人とも、目を丸くして眼下の景色を眺めているようだった。
若干申し訳なさを滲ませながら話しかける。
﹁あのう⋮⋮なんかすみませんね。付き合わせちゃって⋮⋮﹂
アトス王はぼくに目を向けると、首を横に振った。
それから、従者である銀の悪魔へと耳打ちする。

1505
﹁はい、はい⋮⋮﹃我は確かに、力と言葉を尽くすと約束しました。
くつがえ
その言を覆すつもりはありません。それに﹄﹂
そこで銀の悪魔は言葉を切り、一瞬再び、眼下を流れゆく雄大な
森へと目をやった。
﹁﹃この光景を、生涯忘れることはないでしょう﹄⋮⋮と、王は仰
せでございます﹂
﹁⋮⋮﹂
その言葉には、従者自身の思いもこもっているように見えた。
二人とも、別に怒ってはいないらしい。
まあそれならいいかと、ぼくは気持ちを切り替えることにした。
﹁さて。まだ時間があるから、もう一箇所行けそうだな﹂
﹁次に連れ出すなら、獣人の王がいいの。ここから近いの﹂
﹁⋮⋮やっぱり連れ出す前提なのか﹂
﹁あそこにも面倒なのはいるの。どうせなら全員連れ出す方がいい
の。大丈夫、ワタシに任せるの﹂
﹁⋮⋮まあ、それなら行こうか﹂
若干の不安を覚えながらも、ぼくは龍を駆る。
****
夕暮れ時に差し掛かる頃、ぼくらは獣人の王都へと到着した。

1506
蛟から街を見下ろしながら呟く。
﹁なんだか人間の都市に似ているな﹂
建物の形が近い。
神魔や悪魔の街は異質な石造りばかりだったが、こちらは木材な
ども使われていてどこか見慣れた感じがあった。
リゾレラが表情を変えずに言う。
﹁獣人は他の魔族と比べて人間との交流が深いから、向こうの文化
が入ってきているの﹂
﹁ああ、なるほど﹂
そういえば、猫人は商業種族だと言っていたっけ。
それにラカナにも、少数ではあるが獣人の冒険者がいて、人間と
もパーティーを組んでいた。
速度を落とした蛟の上で、ぼくは目的の建物を探す。
﹁うーん⋮⋮王宮のようなものは見当たらないな﹂
﹁王宮はないの﹂
﹁えっ﹂
﹁王は、自分の屋敷にいるの。あそこ﹂
リゾレラの指さした先には、周囲の建物から一回りも二回りも大
きな豪邸があった。
庭も広くていかにも権力者が住んでいそうだが、王宮っぽくはな
い。

1507
﹁さあ、早く行くの。日が暮れるの﹂
﹁はいはい﹂
なんだかこの子、妙に乗り気だな⋮⋮と思いながら、ぼくは蛟を
降下させていく。
****
街で起きた騒ぎは、悪魔の時と同じような感じだった。
ぼくは申し訳なく思いながら、蛟を豪邸の前庭へと降ろす。
﹁うおおおお!? なんだ貴様っ⋮⋮⋮⋮ぬわーっ!?﹂
﹁止まれ! 止まれ! 止まっ⋮⋮⋮⋮ぬわーっ!?﹂
警備の犬人が二人いたので、再び土蜘蛛の糸で黙らせる。
四人で豪邸へと入り、呆気にとられる熊人の家令にリゾレラが諸
々を伝えると、慌てたように奥へ引っ込んでいった。
そして、客間で待たされることおよそ一刻。
﹁もうっ、なんなの? 約束もなしに来た無礼な客なんて追い返し
て! フィリはね、暇じゃないんだから!﹂
﹁しかしお嬢さま、そういうわけにも⋮⋮﹂
家令と口論を交わす声が聞こえてきたかと思えば、客間の扉がバ
ーンッ、と開く。

1508
姿を現したのは、高価そうな衣服を纏った、白い猫人の少女だっ
た。
白の毛並みに青い目。ここにいる他の猫人と比べると、顔立ちに
どこか子猫めいた幼さがある。
﹁神魔のリゾレラなの。覚えてる? フィリ・ネア王﹂
﹁⋮⋮覚えてる。フィリが王様になった時、挨拶したよね。客って
あなただったんだ、リゾレラ﹂
立ち上がって語りかけたリゾレラに、獣人の王は気だるそうに返
す。
﹁はぁ。家令が慌ててたから、誰が来たのかと思った。それなら最
初から⋮⋮⋮⋮あれ。あなた、アル・アトス?﹂
猫人の少女はアトス王に気づくと、目を丸くした。
﹁悪魔の王が、こんなところでなにしてるの?﹂
アトス王は、キッとした表情で口を開く。
﹁ままま、まお⋮⋮! し、し、し⋮⋮!﹂
ども
﹁⋮⋮あなたその吃り癖、まだ治ってなかったんだ﹂
獣人の王の呆れたような物言いに、アトス王は顔をうつむかせ、
従者に耳打ちする。
﹁﹃我は魔王様の臣下として、求めに応じ行動を共にしているのだ﹄
と、王は仰せでございます﹂
﹁ふうん⋮⋮え? 魔王って?﹂

1509
﹁この人なの﹂
リゾレラに促され、ぼくは少々不安になりながらも名乗る。
﹁お初にお目にかかる。ぼくはセイカ・ランプローグ。一応、魔王
ということになっている者だ﹂
どうかと思う自己紹介を終えると、猫人の少女が驚いた顔をする。
﹁うっそ∼!? ほんもの!? フィリ、ただの人間かと思ってた
!﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは思わず、リゾレラへ小声で問いかける。
﹁な、なあ。この子、本当に獣人の王なのか?﹂
﹁そうなの﹂
とてもそうは見えない。
前世でも道楽にふける君主はいたが、もう少し威厳もあった。
この子から種族の内情なんて聞けるんだろうか⋮⋮?
獣人の王は驚いた表情のまま言う。
﹁神魔の里にいるって聞いてたけど⋮⋮ニクル・ノラがなにか失礼
なことでもした? もしそうでも、フィリにはなにもできないけど﹂
﹁いや、そうじゃない。会合は神魔の里で今も続いているが、ぼく
は人間の国で暮らしていたせいで魔族の内情がよくわからないんだ。
だから王である君から、獣人族の話を聞きたい﹂
﹁え∼⋮⋮? めんどくさいからいや﹂

1510
心底煩わしそうに、猫人の少女は言う。
﹁フィリはねぇ、宝石を眺めたり、お昼寝したり、次に何を買おう
か考えるのに忙しいの。そういうことは別の人に訊いてくれる?﹂
ぼくは思わず、リゾレラへ小声で問いかける。
﹁な、なあ。この子、本当に⋮⋮本当に王なのか?﹂
﹁そうなの﹂
﹁⋮⋮﹂
こんなのがいるとは完全に想定外だった。
王として振る舞おうとするそぶりすらない。
沈黙するしかないぼくに代わり、リゾレラが言う。
﹁魔王様があなたを必要としているの。一緒に来て﹂
﹁フィリはいやって言ったでしょ。もう、なんなの? 突然やって
来て﹂
﹁あなたに選択肢はないの。従わないと大変なことになるの﹂
﹁ふーん、脅し? その人間みたいな魔王になにができるって言う
の? いい加減にしないと兵隊呼んじゃうからね!﹂
怒り出す猫人の少女に、リゾレラはちらっとぼくを見る。
そして、告げた。
﹁ドラゴンであなたの家、木っ端微塵にするの。ね、セイカ?﹂

1511
****
﹁ふわぁぁぁ∼っ!!﹂
一刻後。
獣人の王フィリ・ネアは、蛟の上で歓声だか悲鳴だかよくわから
ないものを上げていた。
﹁すご∼い!! 魔王様、ドラゴンなんて持ってたの!?﹂
﹁あ、ああ﹂
﹁フィリ、これ欲しい! いくらで売ってくれるっ!?﹂
﹁いや、売り物じゃないから⋮⋮﹂
龍にはしゃぐフィリ・ネア王に、ぼくは若干気後れしながら答え
る。
こういうの、あまり弟子にもいなかったタイプだな⋮⋮。
フィリ・ネア王は空からの景色に瞳を輝かせる。
﹁これ、すっごく稼げそう! 空なら襲われる心配がないから、高
価な荷を積めば高い輸送費を取れるかなぁ⋮⋮あ、でも、富裕層向
けの観光に使う方がいいかな﹂
﹁﹃魔王様の眷属をなんだと思っているんだ。そなたはいつも金、
金と、そんなものよりもっと民のことを考えないか﹄と、王は仰せ
でございます﹂
﹁うるさ∼い。民なんてフィリ知らない。みんなそれぞれ勝手に生
きてればいいわ。っていうか、アトスも王なら自分の言葉で喋った
らどうなのかしら?﹂

1512
アトス王がしょんぼりとうつむく。
﹁⋮⋮なんか、賑やかになってきたな﹂
ぼくは呟いて、空を見る。
すでに日は沈みかけていた。
﹁そろそろ今日の宿を見つけないといけないけど⋮⋮戻るのも難し
いしなぁ﹂
本当は訪れた先の街に泊まるつもりだったのだが、悪魔の街にも
獣人の街にも戻りにくかった。
どちらの街でも最後の台詞が、﹃ドラゴンで木っ端微塵にする﹄
だったためだ。
﹁魔王様は行き当たりばったりなの。まったく仕方ないの﹂
台詞を発した張本人が、やれやれといった調子で言う。
﹁菱台地の里に行くの。そこならワタシが、泊まるところを用意で
きるの﹂
﹁菱台地の里って⋮⋮ああ、君が住んでいる里か﹂
﹁魔族領の真ん中くらいにあるから、次の街に行くにもちょうどい
いの﹂
それなら、頼んでもいいかもしれない。
若干恩着せがましいのが気になったが、ぼくは素直にリゾレラの
言葉に従うことにした。
訪ねるべき王は、まだあと四種族分もいるのだから。

1513
第十三話 最強の陰陽師、鬼人の王に謁見する
菱台地の里についたぼくたちは、すぐに寝床にありつけることと
なった。
リゾレラが神殿に少し口を利いただけで、本当に立派な宿を用意
してもらえたためだ。不思議な地位にあった彼女は、どうやら神殿
関係の有力者だったらしい。
神魔で最も大きな里というのがどんなところなのか気になったが、
さすがに夜中に見回る気も起きず、疲れ果てていた二人の王と共に
大人しく寝ることにした。
そして、翌日。

1514
﹁へぇ。じゃあ悪魔にとってデーモンは、家畜に近い存在なのか﹂
﹁﹃人間の文化にたとえるならば。ただし実態としては、姿の異な
る配下のような存在です。だから我々は彼らを眷属と呼び、彼らの
生命に責任を持ちます﹄と、王は仰せでございます﹂
ぼくら五人は蛟に乗り、次の街に向かっていた。
ぼくがアトス王との雑談に興じる後方では、フィリ・ネア王がリ
ゾレラにしつこく質問している。
﹁ねえねえ。今年はあなたの里の市におもしろい商品は並んだりし
ていないかしら? 神魔の魔道具にはね、フィリ期待してるんだ。
去年は七つ丘の里から仕入れた商品で叔父さんが大儲けしててね﹂
﹁そういう話はレムゼネルとしてほしいの⋮⋮﹂
若干うんざりしたように、リゾレラが答える。
商業種族の出身であるためか、フィリ・ネア王は商い事に関心が
高いようだった。
﹁さて、次はどの種族にしようか﹂
オーガ
﹁鬼人の里に向かうの﹂
ぼくが呟くと、リゾレラが身を乗り出して答えた。
﹁ここから一番近いの。他の里にも行くのなら、そこから回った方
がいいの﹂
オーガ
﹁鬼人か⋮⋮﹂
思わず呻く。できれば最後にしたかった種族が来てしまった。

1515
気の進まなそうなぼくに、リゾレラが眉根を寄せて言う。
﹁不満そうなの﹂
﹁いや、不満ってわけじゃないんだけど⋮⋮なんか粗暴な印象があ
って気が引けるんだよな﹂
オーガ
メイベルが戦ったあの鬼人も、ルルムの里に来た代表も、好戦的
な気質を隠そうともしていなかった。
オーガ
鬼人はその二人しか知らないわけだが、どうも種族全体がそうな
んじゃないかという気がしてならない。
だから、なるべくなら後の方にしたかったのだが⋮⋮。
﹁大丈夫なの﹂
しかし、ぼくの不安を一蹴するように、リゾレラは言った。
オーガ
﹁他の鬼人はともかく︱︱︱︱あの王に限って、そんなことはない
の﹂
****
オーガ
昼を少し回った頃、ぼくたちは鬼人の王都へとたどり着いた。
﹁うーん⋮⋮ 王都 って感じではないな﹂
蛟から見下ろす先にあるのは、村のような集落だった。
土壁や木や、大型モンスターの骨でできた家々。造りはどれも簡

1516
素で、ほとんど無秩序に建ち並んでいる。
規模はそれなりに大きかったが、どうも発展している様子はなか
った。
オーガ
﹁鬼人の集落は、どこもこういう感じなの﹂
ぼくと同じく見下ろしながら、リゾレラが言う。
﹁戦いに価値を求める種族で、あまり文化とか芸術とかに興味がな
いの。粗暴というのも間違ってないの﹂
﹁﹃しかし、歌や踊りには見事なものがあります﹄と、王は仰せで
ございます﹂
オーガ
﹁いろいろもったいないって、フィリ思うんだ。鬼人はもっと豊か
になれる気がするんだけど﹂
﹁ふうん、そうなのか﹂
やはりぼくの印象はそう的外れでもなかったらしい。
しかし、リゾレラはそこで付け加える。
﹁でも、王にはそういうこと言わないでほしいの。気にしてるから﹂
﹁わかってるよ﹂
仮にも仲良くしようという相手に、お前たちは野蛮だなんて面と
向かって言うわけない。
ただ⋮⋮気にしている、という言い回しが少し引っかかった。
どんな王なんだろう?
****

1517
オーガ
鬼人の王宮は城⋮⋮というより、砦だった。
背後の崖を利用し、巨大な石材をもって造られた物々しい佇まい
で、どこか大盗賊団の根城といった雰囲気がある。
直接龍で降りたのはこれまでと同じだったが、衛兵の反応は少し
違った。
﹁ほう⋮⋮これは妙な客人が来たようだな﹂
﹁闘争の相手は久しぶりだ。少々手に余りそうだが、ふっ、贅沢は
言えんか﹂
砦の門番は、二人だけだった。
オーガ
どちらも大柄な体躯の鬼人。おもむろに立ち上がると、それぞれ
斧と大剣をかまえる。
龍を目の当たりにしているにもかかわらず、パニックを起こす様
子もない。
それは結構だったが、敵対されるのは困った。
ぼくは慌てて言う。
﹁待て。ぼくは一応、魔王ということになっている者だ。其の方ら
の王に会いに来た﹂
オーガ
ぼくの少々アレな自己紹介に、二人の鬼人は不敵に笑った。
﹁クックック、よもや魔王を名乗るか﹂
﹁随分と不遜な人間だ。その力、我らで確かめるとしよう﹂

1518
魔王の話は末端まで伝わっていなかったのか、門番二人はまった
く信じる気配がなかった。
ぼくはなおも説得を試みる。
﹁待て待て。ほら、他種族の王も連れているんだぞ。信じる信じな
いの前に、お前たちはまず報告に行くべきなんじゃないのか﹂
﹁黙れ、問答無用!﹂
﹁死ねぇい!﹂
門番二人が、得物を振り上げて襲いかかってきた。
ぼくはヒトガタを浮かべつつ頭を抱える。
﹁結局これまでと同じだよ⋮⋮﹂
じゅろうほう
︽木の相︱︱︱︱樹蝋泡の術︾
オーガ
ヒトガタから生み出された黄金色の水塊が、二人の鬼人を直撃し
た。
﹁ぶはぁっ! な、なんだこれはっ⋮⋮!﹂
﹁ぬぅっ、う、動けん⋮⋮﹂
オーガ
仰向けに倒れ込んだ鬼人たちがもがくが、全身に黄金色の液体が
まとわりつき、立ち上がることすらもままならない様子だった。
そのうち完全に動けなくなるだろう。
まつやに
松脂の糊は、放っておけばどんどん固化していく。
﹁まったく好戦的な種族だな。これ、王を穏便に連れ出すとかでき
るのか⋮⋮?﹂

1519
今後を心配するぼくとは対照的に、後ろでは王たちが勝手に盛り
上がっていた。
﹁あはっ、なにこれ∼。おもしろい魔法∼﹂
﹁﹃さすがのお力です魔王様﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁なんだかんだ言ってセイカも好戦的なの。毎回衛兵をやっつけて
るの﹂
﹁いや好きでやってるわけじゃないからね﹂
まあ⋮⋮毎度龍で直に王宮へ降りているぼくにも、原因がないと
は言えなかったが。
****
その後、門番二人はいさぎよく負けを認め、砦の中へ案内すると
言い出した。
門番としてそれでいいのかと思ったが⋮⋮そういう種族というこ
とかもしれない。ある意味素朴と言えなくもない。
そうして案内されたのが、この部屋だった。
﹁おやまあ⋮⋮。まさか魔王が直接、この里を訪れるとはねぇ﹂
見上げるほど高い天井に、百人の兵が入れそうなほどに広大な一
室。
その中心、これまた巨大な寝台に体を横たえていたのは、一人の
オーガ
鬼人の女だった。

1520
オーガ
これまで見た中で、おそらく最も大きな鬼人だ。
身長は、おそらくぼくの倍近くある。小柄な巨人と言われても信
じてしまいそうなほどだ。
年齢はわからないが⋮⋮話し方や雰囲気からするに、決して若く
はないだろう。
﹁それに、悪魔に獣人⋮⋮神魔の王まで伴って﹂
﹁久しいの、メレデヴァ。元気そうで何よりなの﹂
リゾレラが一歩進み出て、表情を変えないまま言う。
﹁でも、ワタシは王ではないの﹂
﹁ええ、そう言うと思ったわ。でもね、そう思っているのはあなた
だけよ﹂
オーガ
それから鬼人の女は、ぼくへと目を向ける。
オーガ
﹁鬼人族の内情を、あなたは詳しく知りたいのだったわね。魔王様﹂
﹁ああ﹂
﹁見ての通り、私は体を悪くしてしまってここを離れることはでき
ないの。だけど、可能な限り協力しましょう。私の知る限りのこと
を、あなたにお話しするわ。それでいいかしら?﹂
﹁⋮⋮なら、早速訊きたいことがある﹂
オーガ
ぼくは、鬼人の女を見据えて言う。
オーガ
﹁ぼくは鬼人の王に会いにここへ来た。其の方こそが王で、間違い
はないか?﹂
オーガ
しばしの沈黙の後、鬼人の女はゆっくりを首を横に振った。

1521
﹁いいえ⋮⋮。でも、あなたの話し相手ならば、私の方がふさわし
いことでしょう﹂
﹁なぜだ﹂
オーガ
﹁王はまだ未熟。器はあれど、鬼人の行く末を託せるほど世の中を
知らないわ。今でも政務の一切は私が取り仕切っているの。何か不
足かしら?﹂
ぼくが口を開きかけた時、部屋の外から口論が聞こえてきた。
﹁お待ちください陛下。今は太后様がお話しされているところです﹂
﹁陛下!﹂
﹁どいてください! 魔王様は、僕に会いに来たんでしょう!?
ならば僕が会うべきです!﹂
勢いよく扉が開くと同時に、口論の声も飛び込んできた。
ぼくは思わず振り返る。
オーガ
そこには、眼鏡をかけた鬼人の少年がいた。
﹁あなたが⋮⋮魔王様⋮⋮!﹂
オーガ
鬼人の少年が、眼鏡の奥の目を見開く。
大柄ではあるが、どこか理知的な雰囲気を持つ少年だった。読書
の最中に慌ててやってきたのか、その太い指は一冊の分厚い本を掴
んでいる。
オーガ
﹁は⋮⋮はじめまして、魔王様。僕は、ヴィルダムド。鬼人の王で
す⋮⋮!﹂

1522
オーガ
鬼人の少年が瞳を輝かせて名乗る。
魔王の来訪を、よほど待ち望んでいたかのようだった。
﹁どうかヴィルと呼んでください。親しい者は、皆そう呼んで⋮⋮﹂
﹁陛下。お下がりを﹂
オーガ
少年の興奮に冷や水を浴びせるかのように、鬼人の女が言った。
﹁今、大事な話をしているところです。この件に関しては政務と同
様、一切をこの私にお任せください﹂
﹁母上!﹂
少年が叫ぶ。
﹁なぜです! 魔王様が会いに来たのは王たる僕だ! それなのに、
会わせるどころか伝えもしないだなんて⋮⋮!﹂
﹁陛下⋮⋮﹂
すいか
﹁そればかりか、母上の雇い入れた門番は誰何すらせず彼らに襲い
かかったそうじゃないか! いったい何をしているんだ! これが
力の持たない客人だったらどうするつもりだったんだ! これだか
ら、我が種族の者は⋮⋮っ!﹂
﹁陛下、客人の前です。そのように取り乱されては底を見透かされ
ますよ﹂
オーガ
鬼人の女は呆れたように首を横に振る。
﹁申し訳ありません、魔王様。王は勉学こそ達者なれど、まだその
立場にふさわしい振る舞いすら身につけられていません。あなたの
お相手は、この私が務めましょう﹂
﹁⋮⋮﹂

1523
ぼくは無言で踵を返した。
オーガ
そして、鬼人の王たる少年へと歩み寄る。
﹁え⋮⋮?﹂
困惑する彼の前でぼくは微笑むと、その大きな手を取った。
﹁行こうか、ヴィル王。ぼくは君を迎えに来たんだ﹂
****
﹁穏便に出てこられたの⋮⋮﹂
一刻後。
蛟の上で、リゾレラがぼやいていた。
﹁ドラゴンで木っ端微塵にするって、言うタイミングがなかったの
⋮⋮﹂
﹁なくていいんだよそんなもの。なんでちょっと残念そうなんだよ﹂
オーガ
ぼくは軽くリゾレラを睨んで、それから鬼人の王、ヴィルダムド
へと目をやった。
少年は他の王たちと同じように眼下の景色に見入っていたが、ぼ
くの視線に気づくと、その眼鏡を直して向き直る。
﹁すごいです、魔王様⋮⋮! ドラゴンをテイムするなんて、これ
までのどんな魔王でも成し遂げられなかったことです﹂

1524
﹁あー、うん。コツがあるんだよ﹂
適当に誤魔化し、それから言う。
﹁申し訳ない。あんな風に連れ出してしまって﹂
オーガ
あのメレデヴァとかいう巨大な鬼人の女︱︱︱︱王の母だから王
太后ということになるが、意外にも彼女は素直に王の外出を了承し
た。
しかし、ぼくにしてもヴィル王にしても、心象はかなり悪くなっ
ただろう。
ぼくはいいとして、政治の実権をメレデヴァが握っている以上、
王としては今後かなりやりにくくなるのではないか⋮⋮と、思って
いたのだが。
﹁いいんです。むしろ感謝しています﹂
ヴィル王は清々しい表情でそう言った。
﹁母上とは昔から考えが合わず、言い合いになるのもこれが初めて
ではありません。今さらです。それに⋮⋮人間の国で育った魔王様
とは、一度お話ししてみたいと思っていました。だから、ああ言っ
ていただけてうれしかったです﹂
﹁そうか、それならよかった﹂
こちらとしても、あの王太后のような人種は苦手だから願ったり
叶ったりだ。
ぼくは軽い調子で訊ねる。
﹁ヴィル王は、人間の国に興味が?﹂

1525
﹁ええ﹂
ヴィル王はうなずく。
﹁すばらしい文化や技術を持っていると思います。同胞に言えば鼻
で笑われるでしょうが、僕たちも見習うべきところが多い。いつか
帝国に留学して、彼らの叡智を学びたいと思うほどです⋮⋮⋮⋮も
ちろん、とても無理だということはわかりますよ。だから代わりに、
たくさん本を集めているんです﹂
ぼくの表情を見て、ヴィル王は困ったような笑顔で付け加えた。
オーガ
鬼人の王と言うには、ずいぶんと物腰が柔らかく、理知的な少年
だった。
きっと、あの砦の中でも浮いているのだろう。
﹁ところで魔王様。アトス王にフィリ・ネア王、それにリゾレラ様
もいるということは⋮⋮もしやすべての王を集めるおつもりですか
?﹂
﹁そうなの。魔王様はそれをお望みなの﹂
﹁最初はそんなつもりなかったんだけど、この子のせいでそういう
流れになっちゃったんだ﹂
﹁なるほど。成り行きとは言え、魔王と共に全種族の王が揃うとは
なかなかの重大事ですね。僕もこの場に参加できたことを光栄に思
います﹂
感慨深げに言うヴィル王に、アトスとフィリ・ネアも反応する。
﹁﹃共に行こう﹄と、王は仰せでございます﹂
オーガ
﹁ヴィルダムドは相変わらず鬼人らしくないね。先王だったら力試

1526
しに魔王へ挑みかかってたんじゃないかって、フィリ思う﹂
﹁ありがとうアトス王。それにフィリ・ネア王も。僕は自分が、そ
んな粗暴な君主ではないことに誇りを持っているよ﹂
どうやらヴィル王もまた、他の王とは面識があるようだった。話
が早くて助かる。
ぼくは太陽の位置を見ながら呟く。
﹁今日もあと一箇所くらいは行けそうだな。どこがいいだろう﹂
﹁次は巨人の里に行くの﹂
リゾレラが即座に反応する。
どうやら最初から決めていたらしい。
トライア ダークエルフ
﹁ここからだと、そこしか間に合わないの。三眼や黒森人の王都に
行ってたら夜になっちゃうの﹂
﹁それなら仕方ないが、巨人か⋮⋮﹂
思わず呻く。また後回しにしたかった種族が来てしまった。
リゾレラが眉根を寄せて言う。
﹁また不満そうなの﹂
﹁いや、不満ってわけじゃないんだけど⋮⋮こいつに乗れるのかな
ぁと思って﹂
ルルムの里に来た代表は、二丈︵※約六メートル︶に迫る巨体を
持っていた。
ただでさえ現時点で六人も乗っているのだ。そこまでの大男が追
加で乗るとなると、さすがの蛟でも嫌がる可能性がある。

1527
だから一番最後に、巨人の王だけ運ぼうかとか考えていたのだが
⋮⋮。
﹁大丈夫なの﹂
しかしまたまたぼくの不安を一蹴するように、リゾレラは言った。
﹁王は、巨人にしては小さいの。ヴィル王よりちょっと大きいくら
いなの﹂
﹁ああ、それくらいなら大丈夫そうだな﹂
﹁でも﹂
楽観しかけたぼくに、リゾレラは少々不安になるようなことを言
う。
﹁巨人にしては、ちょっとだけ乱暴者なの。そこだけ気をつけてほ
しいの﹂
1528
第十三話 最強の陰陽師、鬼人の王に謁見する︵後書き︶
※樹蝋泡の術
松脂の接着剤で固める術。主成分の一つであるテレビン油が揮発す
ることで、樹脂であるロジンが固化し、接着作用を発揮する。
1529
第十四話 最強の陰陽師、巨人の王に謁見する
日暮れ時に差し掛かる前に、ぼくたちは巨人の王都にたどり着い
た。
﹁うーん、こちらも王都っぽくはない⋮⋮というか人間の村に似て
るな。形だけは﹂
眼下には、主に木で造られた素朴な家々が建ち並んでいた。
オーガ
鬼人の王都に引き続き、あまり都会的な雰囲気はない。モンスタ
ーの骨などが使われていない分、あちらと比べると見た感じは人間
の村に近かった。
ただし、その大きさを別とすれば、だが。

1530
﹁でかいなぁ、何もかも﹂
家の一軒一軒が、まるで街の聖堂のような大きさがあった。
使われている木材からして違う様子だ。
農園地帯に目を向けてみれば、見たこともない巨大な作物が栽培
されている。
﹁巨人族は、人間とも他の魔族とも、けっこう違った生活をしてい
るの﹂
リゾレラが言う。
﹁食べ物も、使う道具も⋮⋮。だから、あんまり余所との交流がな
オーガ
いの。鬼人とは別の理由で、昔からの暮らしを続けているの﹂
﹁ふうん、そうなのか﹂
まあ、あれだけでかい種族なのだ。文化も独特で当然だろう。
ぼくはヒトガタの束を眺めながら呟く。
﹁さて、今回は巨人相手だからなぁ⋮⋮どうやって大人しくさせよ
うか⋮⋮﹂
じゅろうほう
衛兵も間違いなく巨大だろう。土蜘蛛の糸や︽樹蝋泡︾を振り払
われる可能性もなくはない。
どうしようかと悩んでいると⋮⋮。
﹁門番のことなら、心配いらないと思いますよ﹂

1531
言ったのは、ヴィル王だった。
﹁我が種族の者たちとは違い、いきなり襲いかかってくるようなこ
とはないかと﹂
﹁いや⋮⋮実は悪魔のところでも獣人のところでも、同じように襲
いかかられてるんだ。だから、きっと今回も同じだよ﹂
﹁それはおそらく、兵を怯えさせてしまったためでしょう﹂
顔の割りに小さな眼鏡を直しながら、ヴィル王は言う。
﹁巨人は違います。彼らは自分たちに力があることを知っている。
たとえドラゴンに乗っていても、対話ができる相手であることがわ
かれば、礼をもって接してくれるはずです﹂
﹁へえ、そうなのか? それなら⋮⋮﹂
﹁ただし﹂
ヴィル王は釘を刺すように、わずかに表情を歪めながら言う。
﹁王は別です。あいつは粗暴な男ですからね。一度はっきりと実力
を見せつけてやった方がいいくらいかもしれません﹂
﹁き、君もそう言うのか⋮⋮﹂
ヴィル王の時とは真逆の評判だった。
いったいどんな王なんだろう?
****

1532
巨人の王宮は、人間には切り倒すことすらできなさそうな太い丸
太で造られた、一際巨大な屋敷だった。
屋敷と言っても、フィリ・ネア王の屋敷とは違い、王の個人的な
所有物ではないらしい。だから一応 王宮 なのだと、リゾレラは
言っていた。
﹁止まられよ﹂
龍で王宮前に降り立つと、ただ一人の門番が威圧感のある声でそ
う言った。
この門番も、またでかい。ルルムの里に来ていた代表と同じくら
いはあるだろう。
門番の巨人は槍を立てたまま、ぼくらへと告げる。
﹁何者か。用向きは﹂
ぼくは蛟から降りて答える。
﹁ぼくはセイカ・ランプローグ。一応、魔王ということになってい
る者だ。巨人の王に会いに来た﹂
﹁⋮⋮。何か、証は﹂
門番は表情を変えることなく、言葉少なに問いかけてくる。
ぼくは少し迷ったが、蛟とそれに乗る王たちを示して言った。
オーガ
﹁下僕であるドラゴンと共に、悪魔、獣人、鬼人の王を伴っている。
これで証となるか﹂

1533
門番はしばし沈黙していた。
この門番の巨人は、当然他種族の王の顔なんて知らないだろう。
だから問題は、ぼくの言葉を信じてもらえるか⋮⋮ということにな
るのだが。
わずかに緊張しながら待っていると、不意に、門番は踵を返して
言った。
﹁来られよ﹂
そのまま開け放たれた門へと歩いて行く巨人の後ろ姿を見て、ぼ
くは思わず感心して呟いた。
﹁⋮⋮おお、本当に襲いかかってこなかったよ﹂
****
オーガ
案内されたのは、鬼人の王太后がいた部屋よりも、さらに巨大な
一室だった。
﹁ようこそ、魔王様。よくぞ来られた﹂
待っていたのは、一人の小柄な巨人だった。
一丈半︵※約四・五メートル︶ほどだろうか。でかいにはでかい
が、代表や門番ほどではない。
老人というほど老いてはいないものの、長命な種族の中でもそれ
なりに歳を重ねていそうな容貌だった。身に纏う装束からは、高い
地位にいることがわかる。

1534
﹁私はヨルムド・ルー。巨人族の先王にして、現在の政務を取り仕
切っている者です﹂
まるで鯨が歌うようなゆったりとした口調で喋りながら、ヨルム
ド・ルーが屈むようにして手を差しだしてくる。
ぼくはその巨大な手を握り返しつつ、微妙な表情で言った。
﹁⋮⋮やはり其の方も、王には会わせてくれないのかな。先王殿﹂
﹁⋮⋮? いいえ。間もなく来るかと思いますが﹂
ヨルムド・ルーが不思議そうな顔で答えたその時、広間の扉がバ
ーンッと開いた。
﹁親父ィーッ! すまねぇ、遅れちまったァ!﹂
現れたのは、上半身裸の少年だった。
巨人にしてはかなり小柄だ。見た感じ、八尺︵※約二・四メート
ル︶ほどしかない。鍛錬でもしていたのか、腰には模擬剣を提げ、
汗を掻いていた。
髪を短く刈り込んだその顔立ちは、髭面ばかりの巨人の中にあっ
てずいぶん若々しく見える。
巨人の少年は、ぼくらを見るとぎょっとしたような顔をした。
﹁うおっ、客人か! すまん! なんだよ親父、誰か来てるなら言
ってくれよなぁ!﹂
﹁⋮⋮伝えていたはずだぞ、ガウス。王たる者が、そのような出で
立ちでどうする﹂
ヨルムド・ルーが、呆れたように言った。

1535
﹁魔王様の御前だ。ふさわしい格好に召し替えてきなさい﹂
﹁おう!﹂
ガウス王が退室した⋮⋮かと思いきや、再び広間の扉がバーンッ
と開いた。
﹁何ィ!? 魔王だと!?﹂
頭を押さえる先王を余所に、ガウス王はこちらに駆け寄ると、ぼ
くの手を強引に取った。
﹁あんたがそうだったか! 会いたかったぜ魔王様!﹂
ぼくの手をぶんぶんと振りながら、ガウス王は豪快な笑顔で言う。
﹁神魔の里にいるんじゃなかったのか? なんだってこんなところ
にまで来てるんだよ!﹂
﹁えっと⋮⋮エンテ・グー殿の話だけでは巨人族の内情がよくわか
らなかったから、それを君に訊きたくて⋮⋮﹂
﹁要するに、オレと話したかったってことか!? それは願っても
ないことだぜ! 実はオレも、あんたにぜひ頼みたいことがあった
んだ!﹂
﹁た、頼み⋮⋮?﹂
勢いに面食らうぼくに、ガウス王は自らの胸を叩いて言う。
﹁魔王軍を結成したなら、絶対にオレを一番槍にしてくれよな!﹂
﹁ガウス⋮⋮﹂

1536
ヨルムド・ルーが苦々しげに言う。
﹁いい加減にしないか。それに一番槍などと、まだそのようなこと
を⋮⋮﹂
﹁親父ィ! だから何度も言ってんだろ、このままじゃダメだって
!﹂
ガウス王が大声で言い返す。
﹁オレはバカだから難しいことはわからねーが、昔からの暮らしを
永遠に続けられるわけないことくらいわかる。外の世界は発展し続
けているんだ、このままじゃいつかオレらの種族は滅びる。戦う意
思を持たなきゃならねぇーんだよ!﹂
それからガウス王は、ぼくへ向き直って言う。
﹁なぁ。あんたまるで人間みてぇーに小さいが、魔王なんだから強
いんだろ? オレの兵に稽古をつけてくれよ! 手始めに、オレか
らどうだ?﹂
﹁ガウス﹂
ヨルムド・ルーが、咎めるような口調で言った。
﹁もういい、一度下がりなさい。そのような格好で話し込むもので
はない﹂
﹁チッ⋮⋮確かに親父の言うことには毎度毎度一理あるな! わか
ったぜ!﹂
ずんずんと、大股に歩いてガウス王が退室する。
なんとも言えない空気の中、ヨルムド・ルーが疲れたように言う。

1537
﹁お恥ずかしい⋮⋮。あれでも一応は、我が息子であり巨人族の王
なのです。今は実権はないとは言え、いずれ先王の地位を継がせて
よいものか、迷うこともあります﹂
ヨルムド・ルーは申し訳なさげに続ける。
﹁魔王様は、我が種族の内情を王から聞きに来たのだとおっしゃい
ましたな。しかし⋮⋮ご覧の通りです。できうるならばこのヨルム
ド・ルーに、魔王様への上奏をお許しいただければと﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ぼくは、ちらとリゾレラを見た。
この先王は十分まともそうだし、なんだかぼくもその方がいいよ
うな気がしてきたけど⋮⋮。
リゾレラはぼくの視線に気づくと、ヨルムド・ルーへと言う。
﹁えっと⋮⋮魔王様は一応、すべての王が一同に会すること望んで
いるの。今そういう流れになってるの﹂
なんだかこの子も自信なさげだった。これまでの勢いがない。
ヨルムド・ルーはしばし迷うように沈黙していたが、やがて言っ
た。
﹁よいでしょう﹂
﹁ええと、いいのか? 一応、其の方らの王を連れ出したいって言
ってるんだけど⋮⋮﹂
﹁ええ。あれは私と妻に似て小さく生まれましたが、それでも巨人
の者。自らの身を守るに十分な力を持っています。魔王様に同行す

1538
ることは、見聞を広げるいい機会となるでしょう。⋮⋮ですが、魔
王様。あれに何を言われても、くれぐれもお忘れなきよう、お願い
申し上げます﹂
ヨルムド・ルーは、先王という地位にふさわしい、重みのある声
音で言った。
﹁我ら巨人族は︱︱︱︱何よりこれまでと変わらぬ、平穏を望んで
いるのです﹂
****
﹁穏便に出てこられはしたけど⋮⋮﹂
一刻後。ぼくらはまた、空の上にいた。
蛟には、新たに巨人の王、ガウス・ルーが乗っている。
﹁うっひょおおおお! 空を飛ぶのは初めてだぜ! こりゃ最高だ
なぁーっ!﹂
﹁⋮⋮相変わらず、騒々しい男だ﹂
後ろで騒ぐガウス王に、ヴィル王が眼鏡を直しながら言った。
﹁知性が欠片も感じられない。これが巨人の王とは、先王もきっと
頭が痛いだろうね﹂
オーガ
﹁おい。学者気取りの鬼人が、オレの感動に水を差すんじゃねぇー
よ!﹂

1539
なんだか勝手に険悪なムードになっている。どうやらこの二人は
相性が悪いようだった。
﹁この二人は、前からこうなの。あまり気にしなくていいの﹂
﹁ふうん﹂
適当に相づちを打つと、リゾレラは続けて言う。
オーガ
﹁ちなみに鬼人と巨人の先王同士も、同じように小さな頃から仲が
悪かったの。でも、性格はこの二人とは真逆だったの﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは、無言でリゾレラを振り返った。
神魔の少女は、沈み行く夕日を眺めながら言う。
﹁さあ、セイカ。菱台地の里に戻るの。早くしないと夜になっちゃ
うの﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
ぼくは蛟を駆る。
同時に、頭の中には疑問が浮かんでいた。

神魔の寿命は、人間の倍程度だったはずだ。巨人はもちろん、鬼
ーガ
人にも遠くおよばない。
リゾレラはなぜ、先王の幼少期を知っているのだろう。
1540
第十五話 最強の陰陽師、三眼の王に謁見する
翌日。
菱台地の里で十分休んだぼくたちは、再び空の上にいた。
﹁うるさい、チビ﹂
﹁なんだとクソメガネこらァ!!﹂
ヴィル王とガウス王は、また喧嘩している。
この二人は昨日の夜からずっとこの調子だった。
﹁﹃二人ともいい加減にしないか。仮にも王たる者が見苦しい﹄と、
王は仰せでございます﹂

1541
﹁喧嘩なんて、フィリならぜったいしないな。だって銅貨一枚にも
ならないもん﹂
アトス王とフィリ・ネア王まで喋り出す。
蛟の上は、さらに賑やかになっていた。
トライア ダークエルフ
﹁残りは、三眼と黒森人か。どちらから行こうか﹂
トライア
﹁三眼の王都から行くの。その方がいいの﹂
ぼくが呟くと、リゾレラが即座に言った。
﹁どうしてだ? あと二箇所を今日中に回るなら、どちらからでも
いい気がするけど﹂
﹁たぶん、そっちの方が早く済むの。片付けられるところから片付
けた方がいいの﹂
﹁ふうん。わかった﹂
ぼくはうなずいて、それから訊ねる。
トライア
﹁なあ。三眼の王は、どんな人物なんだ?﹂
﹁いい子だけど⋮⋮もしかするとちょっと、セイカは苦手かもしれ
ないの﹂
リゾレラは言う。
﹁今の王の中では一番、政治家っぽいの﹂
****

1542
トライア
三眼の王都へとたどり着いたのは、昼を大きく過ぎた時分だった。
﹁また特徴的な街だな﹂
眼下に広がる街並みを見下ろしながら呟く。
トライア
三眼の王都は、人間の都市に似ていた。
オーガ
道が敷かれ、石造りの家々が建ち並んでいる。昨日見た鬼人や巨
人の王都に比べれば、ずっと都市らしい都市だ。
しかし⋮⋮その色合いや形は、どこか独特だった。人間の影響を
大きく受けた獣人の街とは、明らかに雰囲気が異なる。
文化が大きく違う、遠い国の都市といった様相だ。前世で初めて
西洋を訪れた時にも、こんな印象を抱いたなぁとなんとなく思い出
す。
トライア
﹁三眼はあんまり人間と交流がないけど、でも暮らしはなんとなく
似ているの。姿とか、寿命が近いからかもしれないの。もしかする
と、はるか昔にはもっと交流があったのかもしれないの﹂
﹁ふうん。まあ、ありそうな話だな﹂
と、そこでぼくは、後ろを振り返った。
﹁ところでみんな静かだけど、どうした? 疲れたのか?﹂
﹁いえ、そういうわけではないのですが⋮⋮﹂
ヴィル王がためらいがちに言う。

1543
﹁僕、ちょっとあの王が苦手で﹂
﹁えっ﹂
﹁﹃宮廷内政治にばかり気が向いており、あまりいい君主とは思い
ません﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁なんかネチネチしたいやらしい奴なんだよなぁ! オレは先王に
なっても、ぜってぇああはならねぇぞ!﹂
﹁えー? みんなそうなの? フィリはあの子好きだなー。だって、
会ったら必ず趣味のいい贈り物くれるんだもん﹂
﹁うーん⋮⋮?﹂
どうやら政治家らしい王のようだが⋮⋮いったいどんな子なんだ
ろう?
****
トライア
三眼の王宮は、イスラムの宮殿にちょっと雰囲気が似ていた。
これまでと同じように、蛟でそのまま王宮前に降りる。
ただこれまでとは違い、ぼくらを出迎えたのは武器を持った衛兵
ではなかった。
﹁ようこそ。お待ちしておりました、魔王様﹂
王宮の前には、身なりの整った者たちが十数名、揃って立ってい
た。
トライア
額には全員、第三の眼を宿している。三眼の民だ。
まるでぼくらの来訪を待っていたかのようだった。

1544
トライア
その中でも一際老いた三眼の男が、一歩進み出て言う。
﹁私は宰相のペルセスシオ。本日の歓待を我が王より仰せつかって
おります﹂
ぼくは蛟から降りると、戸惑いつつも笑みを浮かべる老人に訊ね
る。
﹁⋮⋮どうして今日、ぼくが来ると?﹂
﹁魔王様が各王にまみえるため、それぞれの種族の地を巡っている
というお話は、私どもも聞きおよんでおりました﹂
﹁あー⋮⋮なるほど﹂
ぼくは合点がいった。
ルルムの里を飛び出してから、もう二日経つ。いい加減、それぞ
れの種族の諜報部門が情報を掴んでいてもおかしくなかった。
ぼくに次いで蛟から降りてくる王たちに目を向けて、老人が笑み
を深める。
﹁これはこれは。アル・アトス陛下にフィリ・ネア陛下、ヴィルダ
ムド陛下にガウス・ルー陛下、さらにはリゾレラ様までおいでとは
⋮⋮。本日は記念すべき日となりました。さあ、どうぞこちらへ。
我が王がお待ちです﹂
さすがに宰相なだけあって、各種族の王の顔と名前はしっかりと
把握しているようだった。
ぼくはほっと息を吐く。最初はちょっと身構えたが、どうやら荒
事にはならずに済みそうだ。

1545
老人について王宮へと歩み入っていく最中、傍らでリゾレラがぼ
そりと呟く。
﹁⋮⋮また門番をやっつけられなかったの﹂
﹁だからなんでちょっと残念そうなんだよ﹂
穏便に済んだ方がいいだろうが。
****
案内されたのは、王宮内にある議事堂のような場所だった。
トライア
入るやいなや、何人もの三眼に取り囲まれる。
﹁お目にかかれて光栄です、魔王様。議員のエルパシスと申します。
我が一族は古くからの⋮⋮﹂
﹁魔王様、財務官のセオポールです。王都視察の際には、ぜひ我が
邸宅に⋮⋮﹂
﹁私は造営官の⋮⋮﹂
﹁初めまして、魔王様⋮⋮﹂
どうやら皆、議員や官僚のようだった。
呆気にとられながら彼らの名乗りを聞いていると、奥の席から甲
高い声が響く。
﹁これこれ、落ち着くのじゃ諸君。魔王が困っておるであろう﹂
ぼくは声の方に目を向ける。

1546
議事堂の最奥に位置する、最も大きな席。そこに座っていたのは、
トライア
三眼の少女だった。
見た目はリゾレラと同じか、さらに下といったところか。朽葉色
の長髪を真ん中分けにしており、額には第三の眼が収まる縦の瞼が
見える。
少女は尊大な笑みを浮かべながら続ける。
﹁魔王は余に会いに来たのじゃ。のう、じぃや?﹂
﹁その通りでございます、我が王﹂
話を向けられた宰相のペルセスシオが、一同に呼びかける。
﹁諸君、どうか今は控えられますよう。懇親の席は後ほど設けます
ので﹂
﹁おっと、これは失礼を﹂
﹁まさか私の代で魔王様のご降臨に立ち会えるとは思わず、つい﹂
﹁年甲斐もなく興奮してしまいましたな﹂
﹁はっはっは!﹂
ペルセスシオの言葉に、一同が沸く。
なんだか朝廷での宴席を思い出すような流れだった。絶対に皆、
腹に一物抱えている。
トライア
薄ら寒いものを感じていると、三眼の少女が席から飛び降り、こ
ちらへ駆け寄ってきた。
正面からぼくを見上げるその背格好は、ずいぶんと小さい。
トライア
三眼は寿命が人間とほぼ変わらないから、おそらく見た目通りの
年齢だろう。

1547
少女はふと、ペルセスシオに顔を向けて言う。
﹁ほれ、じぃや。魔王に余を紹介するのじゃ﹂
﹁ええ。魔王様、こちらは我らが王、プルシェ陛下にあらせられま
す﹂
こたび
﹁此度の降誕、誠に慶ばしく思うぞ魔王よ﹂
﹁はあ、どうも⋮⋮﹂
ぼくは少女が差しだしてくる小さな手を握り返す。
プルシェ王は、なんだか生意気そうな笑みで言う。
﹁祝いの言葉が遅くなったことを許すがよい。できれば十六年前に
伝えたかったのじゃが⋮⋮余はその頃まだ、この世に生まれ落ちて
いなかったのじゃ。むははっ﹂
一同が沸く。
薄ら寒い流れに微妙な表情になっていると、プルシェ王がなおも
続ける。
﹁そなたは今、種族の内情を知るため、そして王を集めるために各
地を回っているのじゃったな﹂
﹁あ、ああ⋮⋮一応そういう流れだけど﹂
トライア
﹁三眼の内情ならば、じぃやに訊くがよい。余が直々に教示したい
のはやまやまじゃが、うむ、実のところ内政とかよくわからぬのじ
ゃ。未だ余は幼く、まだまだ勉強中の身であるゆえ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁その点、じぃやは頼りになる。長く宰相を務めているからの。こ
こにいる狸どもも、じぃやには皆一目置いていて、言うことを聞く
のじゃ﹂

1548
﹁おやおや陛下、狸とは心外ですな﹂
﹁ここにいる者は皆、真に種族のことを思っているというのに﹂
﹁うむ、そういうことにしておこう。よいな、じぃや﹂
﹁かしこまりました、陛下﹂
ペルセスシオがうやうやしく礼をする。
王にへりくだってはいるが、どうやら政治の実権はこの宰相が握
っているようだった。
﹁魔王よ。誠に惜しく思うが、余はそなたに同行できぬ。内政がわ
からぬ以上意味がないこともあるが、なにより余は王として、この
地を離れることはできぬのじゃ。たとえこのように、形ばかりの王
であっても﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁代わりといってはなんじゃが、餞別を用意した。持って参れ﹂
プルシェ王が言うと、使用人の一人が盆に載せた袋を運んでくる。
そのまま差し出されたので受け取ると、袋はずっしりと重かった。
ちらと中を覗き見ると、黄金の輝きが目に入る。
﹁うわ⋮⋮﹂
どうやらすべて金貨らしい。これだけで相当な額になるだろう。
﹁先の路銀には十分じゃろう﹂
どこか満足げに、プルシェ王は言う。
﹁今日はこの地に滞在するがよい。宴席も用意してあるからの。ち

1549
ょうどよい機会じゃ、余も他の王らと旧交を深めることとするか。
むははははっ﹂
機嫌良く笑うプルシェ王。
その手を、不意にリゾレラは掴んだ。
﹁んあ?﹂
﹁ダメ﹂
表情を変えないまま、リゾレラは言う。
﹁あなたも来るの﹂
﹁へ?﹂
﹁魔王様は、すべての王が一堂に会することをお望みなの。だから、
あなたも一緒に行くの﹂
﹁⋮⋮いやじゃっ﹂
手を掴まれたまま、プルシェ王は一歩後ずさる。
﹁余は行かんぞっ! 使節団が同行してもよいのなら、うむ、考え
なくもないが⋮⋮﹂
﹁ダメ。あなた一人で来るの﹂
﹁いやじゃいやじゃ! 余の身になにかあったらどうする! 一度
金を受け取ったであろうがっ! 余は認めんぞ!﹂
﹁あなたは認めざるを得ないの﹂
﹁な⋮⋮なにをするつもりじゃ﹂
そこでリゾレラの顔に、ほんの少しだけ、機嫌のよさそうな笑み
が浮かんだ。

1550
﹁ドラゴンでこの王宮、木っ端微塵にしてやるの﹂
数瞬の静寂の後、議事堂が沸いた。
﹁はっはっは! それは恐ろしい!﹂
﹁よもやこの記念すべき日に王宮最大の危機が訪れるとは﹂
﹁リゾレラ様は冗談がお上手ですな﹂
議員らの笑声も、にこりともしないまま沈黙を保つぼくとリゾレ
ラの前に、徐々にしぼんでいく。
やがて議事堂内が静まり返った頃、ペルセスシオがおもむろに言
った。
﹁⋮⋮もしや本気なのですかな?﹂
****
﹁いーやーじゃーっ!!﹂
一刻後。ぼくらは再び空の上にいた。
トライア
蛟には新たに、三眼の王プルシェが乗っている。
﹁余は降りるーっ! 国に帰すのじゃーっ!﹂
そのプルシェ王は、蛟の背にしがみついてわめいていた。
どうやら本当に来たくなかったらしい。

1551
﹁⋮⋮こんなに嫌がられるのは初めてだな﹂
なんだか申し訳なくなってくる。
﹁なあ。この子やっぱり返してこようか?﹂
﹁いいの﹂
リゾレラに訊ねると、彼女は無慈悲にも首を横に振った。
﹁ちょっとわがままなだけだから、気にすることないの﹂
﹁わがままなわけなかろうがっ!!﹂
聞こえていたのか、プルシェ王が叫んだ。
﹁王がこのようなっ、誰も味方のいない場所に一人きりなど、あ、
ありえんじゃろうっ! せめて使節団を同行させんかっ!﹂
﹁ほら、わがままなの﹂
﹁加えて言うがリゾレラ! 余は初めに同行せぬと伝え、その後差
し出した金を魔王は受け取ったのじゃ! 一度飲んだ要求を無理矢
理反故にするなど外交儀礼としてありえんじゃろうがっ!﹂
﹁そんなの知らないの﹂
リゾレラはつんと答える。
﹁魔王様の圧倒的力の前に、儀礼なんて意味を為さないの﹂
﹁んあーっ!!﹂
プルシェ王が頭を掻きむしってわめく。
﹁んもう、うるさ∼い。あきらめなよプルシェ。フィリだって同じ

1552
ように連れてこられたんだから。ほら景色見なよ。いくら積んでも
こんなの買えないよ﹂
﹁﹃魔王様と共に行けることを、もっと誇りに思うべきではないか﹄
と、王は仰せでございます﹂
ども
﹁やかましいわ! 守銭奴獣人に吃り悪魔がっ! そなたらの感覚
がおかしいのじゃ!﹂
﹁いい加減にしとけよアホ女﹂
うんざりしたように言ったのは、ガウス王だった。
トライア
小柄な三眼の王を見下ろすようにして言う。
﹁外に出るいい機会じゃねーか。王宮の中で政治ごっこしてるだけ
じゃいつまで経っても真の王にはなれねーぞ﹂
﹁はああっ?﹂
﹁オレはバカだから難しいことはわからねーが、お前の普段やって
ることが空っぽだってことくらいはわかる。そろそろ中身のあるこ
とをしろよ﹂
まつりごと
﹁そ、そなたが余に政を語るなっ! このデクノボー!﹂
蛟の上は、さらに賑やかになる。
ふとヴィル王が静かなので振り向いてみると、愚かな言い争いに
は参加せず、黙々と本を読んでいるようだった。
ぼくは前方を向き直って呟く。
ダークエルフ
﹁さて、最後は黒森人か﹂
﹁方角はこのまま真っ直ぐでいいの﹂
横からリゾレラが言う。

1553
﹁でも⋮⋮ちょっと遠いから、夜になっちゃうかもしれないの﹂
﹁まあ仕方ないさ﹂
目的地を見失いやすいから速度を落とす必要はあるが、夜であっ
ても蛟は飛べる。
みんなが疲れていないかの方が心配なくらいだった。
ぼくはリゾレラに訊ねる。
ダークエルフ
﹁黒森人の王は、どんな子なんだ?﹂
﹁うーん⋮⋮賢くて常識的な、普通の子なの﹂
それだけ聞くとまともな王様のような気がするが、リゾレラの表
情は少々曇っていた。
ダークエルフ
﹁でも、それだけに⋮⋮黒森人の中では苦労しているかもしれない
の﹂
1554
第十六話 最強の陰陽師、黒森人の王に謁見する
ダークエルフ
黒森人の王都に着いたのは、日が沈みそうな時分だった。
﹁なんというか⋮⋮まさに想像していた通りの街だな﹂
ぼくは王都の様子を眺めながら呟く。
ダークエルフ
黒森人の王都は、森と一体化した都市だった。
中央にそびえる一本の巨大な樹木。その根元から広がるように、
木々と共に家々が建ち並んでいる。
エルフ
森人はこのような集落を作るのだと聞いたことがあったが、文化

1555
ダークエルフ
の近い黒森人も同様だったらしい。
﹁じゃあ、毎度のように降りるとするか﹂
﹁待つのじゃ魔王よ、まさかここでもこのドラゴンで直接王宮へ向
かう気なのか?﹂
焦ったようなプルシェ王に、戸惑いつつも答える。
﹁そのつもりだけど﹂
﹁よせ。悪いことは言わぬ。王都の外に降り、徒歩で向かうのじゃ﹂
﹁えー、時間がかかりそうだなぁ﹂
王宮があるのは、街の中心である巨樹の根元だ。
思わず渋ってしまうが、プルシェ王は譲らない。
﹁そなたはわかっておらぬ。ドラゴンは、どんな種族にとっても脅
威なのじゃぞ。いきなり街にやって来たこれを見て、奴らがどんな
行動を起こすか⋮⋮﹂
﹁大丈夫さ﹂
本から顔を上げて言ったのは、ヴィル王だった。
トライア ダークエルフ
﹁君たち三眼が把握していたんだ。当然黒森人の者たちも、魔王様
が各地を巡っている情報は掴んでいるはずさ。いきなり攻撃してく
ることはまずない﹂
﹁むぅ⋮⋮そうかもしれぬが⋮⋮﹂
一理あると思ったのか、プルシェ王が黙った。

1556
ぼくは笑みを作る。
﹁まあ、これまでに何度も襲いかかられてるからな。そんなこと気
にするのも今さらだ﹂
そう言って、ちらとリゾレラを見た。
賛同してくれるかと思ったのだが、神魔の少女は険しい顔をする
ばかり。
﹁あれ? どうした?﹂
ダークエルフ
﹁⋮⋮黒森人だけは、ちょっと事情が違うの﹂
リゾレラはぽつりと言う。
﹁ここは、軍部が強い種族なの﹂
****
リゾレラの言っていた意味は、すぐにわかった。
巨樹の根元に築かれた、樹の王宮。
そこでぼくらを待ち構えていたのは︱︱︱︱剣や弓で武装した、
多数の兵だった。
﹁そこにおわすは、魔王様にあらせられるか!!﹂
ダークエルフ
まだ降りきる前に、指揮官らしい女性の黒森人が大声で叫んでき
た。

1557
ダークエルフ
ヴィル王が予想していたとおり、黒森人たちもぼくらが来ること
は予期していたらしい。
できればもうちょっと近づいてからにしてほしかったのだが、攻
撃されても困るので仕方なくぼくも叫び返す。
﹁そうだ!!﹂
﹁交戦の意思がないならば、ドラゴンを街から離されたし!!﹂
﹁えー⋮⋮?﹂
ちょっと困ったが、まあ理解できなくもない要請だった。
ぼくは叫び返す。
﹁わかったから、少し待て!!﹂
あおみはし
蛟を地表ギリギリにまで降下させると、いつものように︽碧御階
︾による翠玉の階段で王たちを降ろす。
それから、一枚のヒトガタを蛟に向けた。
﹁︱︱︱︱ ℉ ﹀

空間の歪みに、龍の巨体が吸い込まれていく。
その様子を、指揮官や兵たちが唖然として眺めていた。
﹁しょ、召喚魔術の類か⋮⋮?﹂
﹁これでいいか?﹂
﹁⋮⋮問題はない﹂
ダークエルフ
指揮官の黒森人が、気を取り直したように告げる。

1558
﹁魔王様へお訊ね申し上げる。現在、貴公がドラゴンと共に各種族
の地を巡り、それぞれの王を連れ出しているという情報が我らに届
いている。これは真実か﹂
﹁まあ、一応⋮⋮その通りだけど﹂
﹁ならば、率直に申し上げる。我らの王を、護衛部隊の同行なしに
連れ行くことは認めかねる﹂
﹁⋮⋮なぜだ?﹂
訊いていて、馬鹿な問いだなぁと自分でも思う。なぜも何もない。
普通ダメに決まってる。
案の定、指揮官は言う。
﹁我らの法に反する。安全の面からも懸念があり、許容しかねる﹂
だよなぁと思っていると、指揮官はさらに続ける。
﹁また我ら種族の方針は、王の意思を議会が承認する形で決定され
る。議会なき状況にて、何らかの事柄が決定されるような事態は承
服しかねる﹂
﹁⋮⋮ぼくはただ、君たちの抱える事情を王から聞きたいだけなん
だけど﹂
ダークエルフ
﹁承服しかねる。黒森人の内情ならば、特使として派遣したガラセ
ラ将軍から聞かれたし﹂
﹁⋮⋮﹂
ルルムの里に戻り、代表から聞けということらしい。
もっともと言えばもっともなのだが⋮⋮ぼくは一応、食い下がっ
てみる。
﹁せめて挨拶くらいはさせてもらえないだろうか。其の方らの君主

1559
の顔も知らないまま魔王を名乗るのは気が引けるし、ぼくらとして
もここまで来た甲斐がない﹂
﹁王は現在、王宮を空けている。行き先については護衛計画に差し
障る都合、機密となっている。理解されたし﹂
﹁⋮⋮﹂
取り付く島もなかった。
不在なんて絶対嘘だろうが⋮⋮これ以上は粘ったところで王に会
えるとは思えない。
軍部が強いというのは本当だったようだ。
仮にも魔王に対してここまで拒絶できるのは、徹底して統一され
た意思と、何より武力が背景にあるためだろう。
仕方ないか、とぼくは思う。
さすがのリゾレラも、ここはあきらめるだろう。こんな状況で﹃
ドラゴンで木っ端微塵にする﹄なんて言ったら、何をされるかわか
らない。
そう思って帰る旨を指揮官に伝えようとした、その時。
﹁⋮⋮セイカ。樹の上を見てほしいの。ばれないように﹂
不意に、リゾレラが耳打ちしてきた。
思わず問い返す。
﹁えっ、何?﹂
﹁人がいるの。見える?﹂
ばれないようにということだったので、飛ばしていた式神の視界
で確認する。

1560
注意深く見渡すと︱︱︱︱確かに、いた。
ダークエルフ
かなり上の方から延びる枝に、浅黒い肌に金髪の、黒森人の少年
が立っている。
﹁あれ、王なの﹂
﹁はあ?﹂
ダークエルフ
﹁黒森人の王の、シギルなの﹂
﹁嘘だろ⋮⋮﹂
﹁きっと待っててくれたの。あそこまでこっそり迎えに行くの。い
い、セイカ?﹂
なんだそりゃと思いながら、恐る恐る指揮官へと向き直る。
ダークエルフ
黒森人の女軍人は、ひそひそ声で会話するぼくらを訝しげに見て
いた。
﹁あー、えーと⋮⋮それなら、帰ろうかな⋮⋮なんて﹂
﹁⋮⋮そうか。ご理解、感謝申し上げる﹂
ダークエルフ
ぼくがそう言うと、黒森人の指揮官は姿勢を正す。
ダークエルフ
﹁どうか誤解なきようお願い申し上げる。我ら黒森人は、魔王様に
対し恭順する意思を持っている。此度の非礼も、我々の本意ではな
い﹂
﹁そ、そうか⋮⋮﹂
﹁魔王軍結成の際には、我らの全精鋭が加わる方針でいる。他のど
の種族よりも勇猛に戦い、多くの戦果を上げることを約束しよう。
そして︱︱︱︱﹂
そこで指揮官は、わずかに間を空けて言った。

1561
エルフ たもと
﹁︱︱︱︱五百年前、我らと森人とが袂を分かつ前の⋮⋮かつての
魔族の在り方に戻れることを、心から願っている﹂
﹁⋮⋮﹂
この指揮官は、ひょっとするとかなり上の立場なのかもしれなか
った。
そうでなければ、種族の意思をなかなかここまで語れないだろう。
﹁⋮⋮わかった。えーっと、じゃあ帰るにあたってドラゴンをまた
喚ばないといけないんだけど、いいか?﹂
﹁必要性は認識している。問題ない﹂
ぼくは再び蛟を位相から出すと、また階段を作って王たちを乗せ
ていく。
﹁はい、早く乗って乗って⋮⋮⋮⋮えっと、そうだ。最後に一つい
いだろうか﹂
﹁なんだ?﹂
﹁その⋮⋮帰りに少し、この樹を見物していきたいんだ。こんなに
大きい樹は人間の国にはなくてね。ドラゴンで近くを飛ぶだけなん
だが、問題ないだろうか﹂
ぼくがそう言うと、指揮官はわずかに口元を緩めた。
﹁問題ない。むしろ魔王様にはぜひご覧になっていただきたい。こ
の神樹は、我らの精神的な拠り所にして誇りでもあるのだ﹂
﹁そ、そうなのか。ではそうさせてもらおうかな⋮⋮﹂
ぼくは蛟に離陸の指示を出すと同時に、ヒトガタを先導させて神
樹の周りを遊覧飛行させる。そしてそのまま、さりげない動きで王

1562
のいる付近へと誘導していく。
妙な指示に、蛟もどこか不審そうな様子だ。
﹁⋮⋮な、なあ。あそこにいるの、本当に王なのか?﹂
﹁そうなの﹂
リゾレラははっきりとうなずく。
ダークエルフ
やがて黒森人の少年が立つ枝の真下にまで来ると、その少年が大
きく手を振ってきた。
﹁おーいっ! こっちこっち!﹂
蛟の頭を慎重に寄せていく。
十分に近づいたその時、少年が枝から飛び降りてきた。
蛟の上に、倒れ込むようにして着地する。
﹁うおっと⋮⋮! ふぅー、うまくいったぁ﹂
笑顔を浮かべるその少年は、間近で見るとかなりの美形だった。
肌こそ浅黒いものの、尖った長い耳、輝くような金髪に整った顔
エルフ
立ちと、容姿の特徴は森人とよく似ている。
確か王たちは皆、ぼくよりも年下だったはずだ。
しかし、シギル王の見た目は人間の十代と変わりない。
どうやら長寿だからといって成長が遅いわけではないらしい。
シギル王は足元の蛟を眺めて、感心したように言う。
﹁しっかし、マジでドラゴンをテイムしているんだなぁ⋮⋮あっ、
そちらが魔王様?﹂

1563
﹁ああ。セイカ・ランプローグという。なんだか、ずいぶんな顔合
わせになってしまったな﹂
﹁ははっ、ほんとうにな。まったくおれは囚われの姫かっつーの!
いや参ったよ。軍のやつら、魔王様が王を訪ねて回ってる噂を知
ってすげー慌てて、おれのこと軟禁し始めてさ。いやいやそれはま
ずくね? って思ってなんとか脱出したんだけど、はあー苦労した﹂
﹁それは⋮⋮大変だったな﹂
いくらぼくが原因とは言え、軍部が王を軟禁とは穏やかじゃない。
シギル王を取り巻く状況は、あまりいいものではなさそうだった。
ダークエルフ
ぼくが深刻そうな表情をしたためか、黒森人の少年が慌てたよう
に言う。
﹁あ、いや、そんな顔されるほどのことでもないぞ? おれがまだ
ダークエルフ
若いせいで、あいつらも心配してるだけなんだよ。黒森人の歴史の
中でも、おれくらいの歳で王になったやつっていなかったみたいで
さ⋮⋮あっ、そういえば魔王様も、おれらと歳近いんだっけ?﹂
﹁ええと、たぶん。今年で十六になる﹂
﹁マジ? おれ十五!﹂
ダークエルフ
﹁⋮⋮そんなに若い黒森人がいるなんて、なんだか不思議な気分だ﹂
﹁うわー、いかにも人間が言いそうな台詞! おれらだって生まれ
た時から百歳や二百歳じゃないんだからなー﹂
快活に笑う様子は、普通の少年のようだった。
リゾレラが普通の王と言っていた理由が少しわかった気がする。
﹁久しぶりなの、シギル﹂
﹁あっ、リゾレラ様! どうもっす! やっぱ全然変わんないんす
ねー⋮⋮。ってかみんなもいるんじゃん。なんだよ、おれ最後だっ

1564
たのかよ﹂
シギル王は、他の王たちを見回しながら朗らかに言う。
﹁そなたにしては、今回珍しく無茶したのう。シギル王よ﹂
﹁いや仕方なかったんだよ。こっちにもいろいろ事情はあるけどさ、
魔王様を門前払いにするのはまずいだろって、常識的に。つーかプ
ルシェ、てっきりお前はいないと思ってたよ。意地でも王宮から出
ないだろうなぁ、って﹂
﹁余だって来とうなかったわ!﹂
﹁うーっすシギル!﹂
﹁ようガウス! お前またでかくなったんじゃないか?﹂
﹁うれしいこと言ってくれるじゃねーか! また剣術ごっこでもや
るか!?﹂
﹁勘弁してくれよ、もう敵わねーって⋮⋮﹂
﹁バカに付き合うことはないよ。久しぶりだね、シギル﹂
﹁ヴィル! おいおいなんだよ、眼鏡かけるようになったのか?﹂
﹁ああ。本の読み過ぎか、少々視力が落ちてしまってね﹂
オーガ
﹁相変わらず鬼人らしくねーなぁ。ま、そこがお前のいいところな
んだけどな﹂
﹁やっほ∼、シギル﹂
﹁﹃友よ、今この時に再会できたことが嬉しい﹄と、王は仰せでご
ざいます。シギル陛下﹂
﹁よっ、フィリ・ネア! コレクション増えたか? ってかアトス、
おれには普通に喋れよなー。セル・セネクルさんが毎度大変だろ﹂
シギル王は、他の王たちと親しげに言葉を交わす。
﹁⋮⋮ずいぶん、みんなと仲が良いんだな﹂
﹁えっ? ああ﹂

1565
ぼくが思わず呟くと、シギル王は軽く頭を掻きながら言う。
﹁いやぁ⋮⋮おれらってさ、境遇似てるじゃん? 種族は違うけど、
みんな似たような歳で王様なんてやってて⋮⋮。当たり前だけど、
周りにそんなやついないからさ。だから顔を合わせる機会は少ない
けど、なんとなく仲間っつーか、戦友みたいに感じてるんだよな。
おれ、時々考えたりするんだぜ? あいつら今頃なにやってるかな
ー⋮⋮とか。みんなもそうだろ?﹂
シギルが話を向けると、王たちが口々に答える。
﹁ふん。余はそんな湿っぽい感情は持っておらん。王同士であるか
ら付き合っているだけじゃ﹂
﹁僕も、まあそこまでではありませんね⋮⋮﹂
﹁う∼ん、フィリはちょっとそれキモいなって思う﹂
﹁﹃とても心苦しいが、王である以上は友に対しても相応の距離感
を保つよう努めている﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁えーっ!? ひでぇ! 仲間だと思ってたのおれだけ!?﹂
﹁オレは戦友だと思ってるぜ、シギル!﹂
﹁ガウス∼、お前だけかよぉ⋮⋮⋮⋮なんかそれはちょっとやだな
ぁ﹂
﹁どういうことだ、おい!?﹂
王である少年少女たちが、わいわいと騒ぎ出す。
ぼくはふと、シギル王の言っていることは本当なんだろうなと思
った。
口では否定しているプルシェ王たちも、きっと心の奥底では似た
ような気持ちでいるのだろう。

1566
﹁セ、セイカ。そろそろ行くの﹂
ふと、リゾレラがぼくの裾を引っ張って言った。
ダークエルフ
﹁ドラゴンが目立つから、黒森人たちが集まって来てるの。いつま
でもじっとしてると変に思われるの﹂
地上に目を向けると、確かに人だかりができているようだった。
同じように下を見たシギル王が焦ったように言う。
﹁やべっ。早く逃げよーぜ魔王様﹂
﹁あ、ああ⋮⋮だが、いいのか?﹂
ここまで来ておいてなんだが、ぼくは思わず訊ねる。
﹁いきなり王が消えたら、さすがにまずいんじゃ⋮⋮﹂
﹁大丈夫!﹂
シギル王は爽やかな笑顔で言った。
﹁ちゃんと書き置きを残してきたからさ!﹂
****
﹁すっかり夜になっちゃったの﹂
緩やかに飛行する蛟の上で、リゾレラが呟く。
その言葉の通り、辺りには闇が満ちていた。今日は曇りだったせ

1567
いで、二つの月明かりさえも地表には届いていない。
周囲をぼんやりと照らすのは、灯りのヒトガタが発する淡い光だ
けだ。
ここまで暗いと、蛟で速度も出しづらい。
菱台地の里に戻る頃にはずいぶん遅くなってしまうが、それでも
仕方なかった。
﹁⋮⋮フィリ、眠い﹂
フィリ・ネア王が白い毛並みの手で目をこすりながら言う。
﹁こいつなんてもう寝てるぜ!﹂
ガウス王の言葉に振り返ると、プルシェ王が座ったままがっくり
と頭を垂れている。眠っているようだった。
﹁ドラゴンに乗って楽できているとはいえ、それでも長旅は疲れる
ものですね﹂
ヴィル王が首の辺りを押さえながら言う。
オーガ
鬼人が言うのだから、きっと他の子らにとっても同じだろう。
﹁うーん、なるべく早く着くようにはしたいんだけど⋮⋮﹂
かの世界では日が沈んでからもサギの仲間やコウモリが飛んでい
たので、夜の空を急いでいた際に顔面に激突してきてひどい目にあ
ったことがあった。
魔族領の空はどうなのか知らないが、王たちを乗せている以上、
安全を考えるとあまり無茶はできない⋮⋮。

1568
﹁⋮⋮あっ﹂
と、そこで、ぼくは思いついた。
曇天の夜でも明るい場所がある。
﹁これから雲を抜けるから、みんな掴まっていてくれないか﹂
﹁えっ?﹂
一同の困惑する声を受けながら、ぼくは蛟を駆り、上昇を始めた。
そしてそのまま、上空を覆う雲へと突入する。
ひんやりとした闇を抜け︱︱︱︱そして。
﹁わぁ⋮⋮!﹂
誰かが、感極まったような声を漏らした。
眼下には、月明かりに照らされた雲海が広がっていた。
上を見ると、あの曇天が嘘だったかのように、満天の星が瞬いて
いる。
﹁さすがに、こちらの空の上は綺麗だな﹂
月が二つある分、雲の平原が美しく浮かび上がっている。
前世でたびたび見た夜の雲海よりも、ずっといい眺めだった。
﹁ここなら鳥もいないから、もっと早く飛べると思う。ただ、まも
なく初夏とはいえ少し寒いな。もし我慢できなさそうなら言ってく
れ﹂

1569
誰の言葉も返ってこない。
振り返ると皆、目の前の光景に見入っているようだった。
先ほどまでうとうとしていたフィリ・ネア王も、寝入っていたプ
ルシェ王も、いつのまにか目を大きく見開いて、延々と続く雲海と
星空をじっと眺めている。
ぼくはふと笑って、同じように景色を見つめ続けるリゾレラへと
問いかけた。
﹁空を飛んだことがあると言っていたけど、雲の上に出たことはあ
ったかい?﹂
リゾレラは、静かに首を横に振った。
﹁はじめてなの﹂
それから、じっくりと思いを込めたように、小さく呟いた。
﹁⋮⋮きっと、ずっと忘れないの﹂
1570
第十七話 最強の陰陽師、魔王城に着く
すべての王を集め終えた、その翌日。
﹁⋮⋮ここが、そうなのか﹂
ぼくは、古びた巨大な城を前にしていた。
帝国の城とは建築様式が違う。なんというか、禍々しい造りだ。
﹁﹃ええ、その通りです魔王様﹄と、王は仰せでございます﹂
アトス王の言葉を伝える、銀の悪魔が言う。

1571
﹁これこそが、魔王城です﹂
****
なぜそんなところにいるのかというと。
﹁⋮⋮拠点を移せないかな﹂
昨日。
夜の空を飛び、王たちと共に菱台地の里に戻ったぼくは、今後ど
こに滞在するべきか悩んでいた。
﹁ここにいればいいの。ワタシがいればなにも不便はないの﹂
リゾレラはそう言っていたが、できればそうしたくない事情があ
った。
﹁⋮⋮どうも、見られてる気がするんだよな﹂
確証はないが、おそらくこの勘は当たっていた。しかも日を追う
毎に、監視の目は強くなっている気がする。
そもそも神殿という権力を持つ組織のお膝元で、こそこそ話し合
いをするなど無理があった。特に各種族の王族と魔王などという、
誰もがその動向を気にする者たちであればなおさらだ。
﹁そうかもしれないけど⋮⋮別に気にする必要はないの。聞かれて
困る話をするわけでもないの﹂

1572
﹁なんとなく嫌なんだよ。権力者連中に嗅ぎ回られるとろくなこと
にならない﹂
神殿と関わりが深いであろうリゾレラは不満そうにしていたが、
前世での経験があるぼくは譲る気になれなかった。
と、その時。
﹁ん?﹂
つんつんと、アトス王がぼくの腕を突っついてきた。
それから、従者である銀の悪魔に耳打ちする。
﹁はい、はい⋮⋮。﹃それならば、魔王城はいかがでしょう﹄と、
王は仰せでございます﹂
﹁魔王城?﹂
﹁﹃前回の魔王が築き、居城としていた建物です。あそこならば住
んでいる者はおりませんし、何より︱︱︱︱﹄﹂
そこで銀の悪魔は、わずかに間を空けて言った。
﹁﹃魔王様のご滞在にふさわしいかと﹄と、王は仰せでございます﹂
****
そうして翌日の午後。
準備を整えたぼくたちは、さっそく魔王城へとやって来たのだっ
た。

1573
﹁え∼、こんなところに泊まるの∼? フィリ、廃墟なんていや!﹂
﹁まさか五百年前に建った廃城が今晩の宿とはの。まるで浮浪者の
ようじゃ。余の格も、ついにここまで落ちてしまったか⋮⋮﹂
不満たらたらのフィリ・ネア王とプルシェ王に、アトス王は少し
ムッとした様子で従者に耳打ちする。
﹁﹃かつての魔王城になんてことを言うのか。それに、ここは決し
て廃墟などではない﹄と、王は仰せでございます﹂
その意味は、城に入ってすぐわかった。
﹁思ったより綺麗なんだな﹂
埃も少なく、しかもあちこちに修繕された跡まである。
明らかに人の手が入っているようだった。
﹁ここは、実は観光地でもあるのです﹂
銀の悪魔が言う。
アトス王に耳打ちされてはいないので、この従者自身の言葉であ
るようだった。
﹁旅の魔族が今でも時折訪れます。そのため、近くにある悪魔族の
村の者が定期的に手入れしているのです。旅の者は必ずその村に滞
在することになるので、魔王城へ訪れる者が増えれば、それだけ村
が潤うということでしょう﹂
﹁うわぁ、すごい現金な理由⋮⋮﹂

1574
魔族にとって歴史ある遺産だから⋮⋮みたいなわけでは全然なか
ったらしい。
フィリ・ネア王が瞳を輝かせる。
﹁へ∼、ここ観光資源だったんだ! その村の人たち頭いいんだね
! フィリ、そっちの方が気になる!﹂
﹁まあ⋮⋮このくらいなら許容範囲かの﹂
キョロキョロと城内を見回すプルシェ王も、どうやら機嫌を直し
たようだった。
シギル王が、ヴィル王とガウス王に言う。
﹁おれ⋮⋮実はけっこうわくわくしてるんだよね。非日常って感じ
でさ。お前らは?﹂
﹁オレもだ! 集落から外れていて兵もいない、警備もクソもない
城だが、モンスターが襲ってきてもオレが守ってやるから心配する
なよな!﹂
﹁僕、魔王城は一度自分の目で見てみたいと思っていたんだ。だか
ら来られただけでも満足だよ﹂
少年王らも楽しそうにしている。
ぼくはふと、城の内装をじっと見つめるリゾレラに目を向けた。
﹁君も初めて来るのか?﹂
リゾレラはぼくに向き直ると、首を横に振り、静かに答える。
﹁もう、何度も来ているの﹂
﹁ふうん。そうなのか﹂

1575
意外と旅好きなのかもしれない。
第十八話 最強の陰陽師、内情を訊ねる
物品は位相に入れて運ぶことができるので、けっこうな荷物を持
ち込めた。
全員で手分けして滞在の準備を整えた、その夜。
﹁さて、疲れているところ悪いが﹂
簡単な食事を終えたぼくらは、魔王城の円卓を共に囲んでいた。
灯りのヒトガタが室内をぼんやりと照らす中、ぼくは言う。
﹁できればぼくも、なるべく早く魔族の内情を知っておきたい。今
日は軽くでかまわないから、いくつか君たちに教えてほしいことが

1576
ある﹂
あまりもたもたしていると、また妙な連中に嗅ぎ回られかねない。
もう日が沈んでいるからあまり長話はできないが、問題の全体像
だけでも把握しておきたかった。
やや緊張した様子の王たちがうなずくのを待って、ぼくは再び口
を開く。
﹁この場で言いにくいことがあれば言わなくてもいい。後で個別に
訊くことにする。では、順番に行こうか。まずはシギル王﹂
﹁あ⋮⋮おれからか﹂
ダークエルフ
黒森人の少年王が姿勢を正す。
ダークエルフ
﹁君ら黒森人の代表、ガラセラ将軍はずいぶん帝国への侵攻に積極
的な様子だった﹂
﹁あー、だろうなぁ⋮⋮﹂
ダークエルフ
﹁それを種族の意思であるとも言っていた。だが歴史上、黒森人が
そこまで人間と争っていたことはなかったはずだ。それなのに、ど
うして君らはそれほど強硬に侵攻を主張するんだ? 軍部が実権を
握っているようだが、いったいどんな大義がある?﹂
﹁それは⋮⋮はぁ﹂
シギル王が頭を掻く。
エルフ
﹁⋮⋮一言で言うと、森人との関係が問題なんだよ﹂
エルフ
﹁森人との?﹂
エルフ
﹁なあ。魔王様は森人のことは知っているか?﹂
ドワーフ
﹁⋮⋮ああ。会ったことがある。前回の魔王と勇者誕生時に、矮人

1577
と共に魔族軍から離反して独立領を作ったことも聞いている﹂
エルフ
﹁会ったことがあるなら話が早い。それじゃあ、おれらと森人って
なにが違うと思う? あ、人間との関わりって部分以外で﹂
シギル王の問いに、ぼくは少し考えて答える。
﹁それは⋮⋮肌の色と⋮⋮悪いが、君らの文化に詳しくなくて他に
思いつかない﹂
﹁いや、それでいいんだよ﹂
シギル王は、苦笑を漏らしながら言う。
﹁それくらいなんだ、おれらの違いって。だから五百年以上前、お
れらは一つの種族みたいなものだったんだ﹂
シギル王は続ける。
﹁同じように森に感謝し、同じように精霊と共に生きてきた。肌の
色は違うし、暮らす集落も別々だったけど、同じ価値観を共有する
同胞だと思っていたそうなんだ。何千年もの間な。ただ⋮⋮人間が
勢力を増すにつれ、それは変わっていった﹂
﹁⋮⋮﹂
ダークエルフ エルフ
﹁黒森人が人間との関わりを断っていた一方で、森人は逆に、少し
ずつ交流を深めていったんだ。小国ではあるが、王族に取り入って
いた集落もあったと聞いてる。もしかしたら⋮⋮おれらよりも、肌
の色が人間に近かったからなのかもしれないな﹂
シギル王は淡々と話し続ける。

﹁だから五百年前、人間の領土へ侵攻しようとしていた魔王に、森

1578
ルフ
人たちは反発して離反した。んで⋮⋮古来から同胞だったはずのお
れたちは、バラバラになっちゃったってわけだ﹂
﹁事情はなんとなくわかったが⋮⋮それが今回の侵攻とどう関係す
るんだ?﹂
エルフ
﹁おれらはさ、森人たちの独立領を併合したいんだよ﹂
シギル王は表情を変えないまま答える。
エルフ ダークエルフ
﹁今の森人と黒森人はあるべき姿じゃないって、みんな思ってるん
エルフ
だよな。独立領を武力で併合すれば、森人たちの目もきっと覚める。
そうすればかつての、おれたちのあるべき姿に⋮⋮一つの種族に戻
れるって、そう考えてるんだよ、みんな。だから人間との戦争はた
だの口実。いざ開戦したら、頃合いを見て独立領の戦略的重要性を
主張して、そっちへの侵攻を主張するだろうぜ。軍の連中は﹂
﹁そうだったのか⋮⋮﹂
種族の歴史やら主義やらが絡んで、想像以上にややこしい事情だ
った。
﹁その⋮⋮君自身は、どう思ってるんだ。やはり独立領を併合して、
一つの種族に戻るべきだと考えてるのか?﹂
﹁⋮⋮いや。アホくせーって思うよ﹂
シギル王が苦笑する。
エルフ ダークエルフ
﹁考えてもみてくれよ。おれが生まれる前から、森人と黒森人はこ
うなんだぜ? 元が一つだったとか知らねーっての。っていうか、
ダークエルフ
今や当時を知る黒森人なんて二、三人しかいないから、おれと同じ
ように感じているやつは市井にもきっと多いぜ。それに⋮⋮昔に戻
れれば全部解決するなんて考え方は、正直理解できないよ﹂

1579
﹁それなら⋮⋮﹂
﹁ただ、それを大事だと感じてるやつらの気持ちは、馬鹿にしたく
ないんだ﹂
シギル王は真剣な声音で言う。
﹁おれ、これでも王様だからさ。臣民の思いはないがしろにしたく
ないんだよな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おれは一つの種族に戻るべきとも思わないが、戻らないべきとも
思わない。﹃こうであるべき﹄なんてものはないんだと思ってるよ。
⋮⋮あー、これで答えになってるか?﹂
﹁⋮⋮ああ。なんとなくわかったよ﹂
﹁そうか、よかった。ま、実権のないおれが何偉そうに語ってんだ
って感じだけどな﹂
シギル王は、そう言っていくらか明るい笑みを浮かべた。
﹁ただ、軍部としては今の権勢を維持したいから、戦争で自分らの
重要性を高めたいって思惑もたぶんあるんだよな。だから実は種族
の問題だけで語れる話でもないんだ﹂
﹁や、ややこしそうだな。それはまた明日以降に聞かせてもらうよ
⋮⋮。それじゃあ次は、プルシェ王﹂
﹁む、余か﹂
トライア
三眼の少女王が目をこすりながら反応する。
どうやら眠たいらしかった。
﹁先にも言ったが、余は内政などよくわからぬぞ?﹂
﹁答えられる範囲でかまわない﹂

1580
また重たい事情が来たらどうしようと身構えつつも、ぼくは訊ね
る。
﹁代表のパラセルス殿は、侵攻に対して強い否定の立場を取ってい
た。それはなぜなんだ?﹂
トライア
﹁そのようなことは簡単じゃ。三眼の民は弱いからじゃな。戦争な
んて勘弁願いたいのじゃ﹂
プルシェ王の言葉に、ぼくはわずかに眉をひそめる。
﹁邪眼という異能を持ちながら、弱いとはどういうことだ? 邪眼
の呪詛は専用の護符や印で対策しない限り、普通は防ぐことすら難
しいはずだが﹂
﹁詳しいのう魔王よ。確かに我らは強い。狩猟や一対一での決闘な
らば、他の種族にも決して引けを取らぬ。しかし⋮⋮戦争は別じゃ﹂
首を傾げるぼくに、プルシェ王は続ける。
﹁自ずと集団戦となるであろう。そうなれば邪眼の優位は失われて
しまう﹂
プルシェ王は自らの額に指を当て、その邪眼が収まる縦の瞼をわ
ずかに開く。
﹁我らはこの第三の目で見つめ、敵の動きを止める。卓越した者な
らば、鼓動をも止め死に至らしめたり、身体を石に変えてしまえる
とも聞くの。しかし、集団戦となればそうもいかぬ。視線は周りに
釣られ、どうしても一人の敵に集中することが難しくなる。我らの
肉体は他の種族に比べ脆弱じゃ。数で勝る人間に対し、分が悪いと

1581
言わざるを得ないのう﹂
﹁⋮⋮あー、なるほど﹂
なんとなく納得した。
そういえば前世で出会った狩人も、はぐれた鳥を狙うよりも群れ

の中の一羽を射つ方がずっとやりづらいとこぼしていた。それと似
たようなものだろう。
﹁しかし、それならどうして五百年前は侵攻に参加していたんだ?﹂
﹁知らん。余はまだこの世に生まれ落ちていなかったからの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁じゃが、想像はできる。おそらく単純に、人間側の侵攻が脅威だ
エルフ ドワーフ
ったのだろうの。我らは森人や矮人と違って人間との交流もなく、
魔王と共に武器を取るほかなかったのじゃ。しかし、今は違う。人
間との休戦状態は長く続いており、加えて国が大きく豊かになって
生活水準が上がったためか、民の間でも厭戦ムードが濃い。五百年
前やそれ以前の大戦の時とは、事情が違うというわけじゃ﹂
プルシェ王の話を、ぼくは感心しながら聞いていた。
﹁なるほど、だいたいわかったよ。それにしても、内政なんてわか
らないと言いながらけっこう語れるんだな﹂
﹁この程度なら子供でも語れるわ。財政や産業や社会基盤について
詳しく教えろと言われても余はわからぬぞ﹂
﹁じゃあ、どうしても知りたくなったらあの宰相殿にでも訊くとし
よう。さて次は⋮⋮ガウス王﹂
﹁オレの番か! よし、なんでも訊いてくれ!﹂
ガウス王が張り切ったように立ち上がる。
この城は巨人でも余裕で入れるほど天井が高いので、ガウス王が

1582
立っていても狭さは感じない。
﹁オレはバカだから、難しいことはわからねーけどな!﹂
﹁そんな堂々と言われても困るが⋮⋮質問はこれまでと同じだ。代
表のエンテ・グー殿が魔王軍への不参加を表明していたのはなぜだ
? 話を聞いていた限りでは⋮⋮前回の戦争がきっかけで、他種族
に不信感を抱いていたようだったが﹂
﹁ああ⋮⋮それか﹂
急に気力が萎えたように、ガウス王が再び席へと座る。
﹁単純な話だ。五百年前の戦争では、巨人族で死人が多く出た。そ
れを他種族に嵌められて、激戦区になっていた前線に送り出された
せいだって言い張ってる連中がいるんだよ。他種族ってのはまあ、
ダークエルフ
悪魔とか黒森人だな﹂
﹁おい、聞き捨てならねーぞ﹂
シギル王が鋭い声を出すが、ガウス王は煩わしそうに手を振る。
﹁聞き捨てろ、こんなの。言ってる連中だって、どこまで信じてる
かわかったもんじゃねぇ﹂
﹁⋮⋮実際にあったことではなかったのか?﹂
ぼくが訊ねると、ガウス王が肩をすくめるような仕草をする。
エルフ
﹁わからねー。なんせ五百年前だ。森人ですら死んじまってるよう
なはるか昔の戦争を、はっきり語れるやつなんていねーよ。ただ⋮
⋮たぶんだが、どちらとも言える状況だったんだろーぜ。オレたち
巨人の者は、肉体だけなら魔族最強だ。だから⋮⋮頼られて前線に
出張ることもあれば、仲間のために、自ら死地に向かうやつだって

1583
いたんだろう﹂
ガウス王らしくない神妙な語りに、円卓には沈黙が降りていた。
ぼくはわずかに間を置いて訊ねる。
﹁それなら⋮⋮どうしてそんな、自分たちの先祖を貶めるようなこ
とを言う者がいるんだ?﹂
﹁⋮⋮巨人の者は、争いを好まない﹂
ガウス王がぽつりと言った。
﹁いや、争いっつーか⋮⋮人間や他種族との関わりを丸ごと、好ま
しくないものだと思ってるんだ。オレたちは体の大きさが違いすぎ
て、他種族とは食べる物も、使う道具も違う。だから、どうしても
閉じた暮らしになるんだが⋮⋮それをどう歪めて受け止めたのか、
巨人は他種族と交わるべきじゃねーんだって考える奴が少なからず
いる⋮⋮そんなわけねーのにな﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁人間や他種族が発展する中で、オレたち巨人はずっと昔のままだ。
他の種族と比べて人口だってそれほど増えてない。いくら力が強か
ろうと、変化についていけなければいずれ滅びる。親父にどれだけ
言っても聞きやしねーがな。⋮⋮だからオレは、これが最後のチャ
ンスだと思ってるんだ﹂
ガウス王が静かに言う。
﹁かつて魔王軍として戦ったオレたちの父祖のように、人間相手に
戦果を立てられれば⋮⋮いや、他種族と肩を並べて戦う機会でも生
まれさえすれば、この失った五百年を取り戻して、巨人族としての
発展を始めるきっかけになるんじゃないかってな﹂

1584
﹁⋮⋮﹂
ぼくは、無言のままガウス王を見つめた。
この少年はぼくの考えていた以上に、王として自らの種族を思い、
憂いていたようだった。
﹁⋮⋮この男は馬鹿ですが、今言ったことは間違っていません。魔
王様﹂
おもむろに口を開いたのは、ヴィル王だった。
﹁巨人族は閉鎖的で、何より種族としての価値観を極度に重んじま
オーガ
す⋮⋮僕ら、鬼人の者たちと同じように﹂
﹁⋮⋮君たちの代表であるドムヴォ殿は、侵攻には賛成の立場を取
っていたな﹂
﹁ええ﹂
ヴィル王が険しい表情でうなずく。
オーガ
﹁巨人とは対照的に、僕ら鬼人の者は闘争を何より重んじます。戦
オーガ
いこそが鬼人の生き様であり、法も文化も倫理観も、社会のすべて
が闘争を前提として発展してきました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁しかし昔に比べ、暴力によって生計を立てることが困難になり、
それが求められる機会も減ってきています。侵攻は、富の獲得と種
族としての在り方の維持、その両方を達成できる手段です。だから
僕の母であるメレデヴァ王太后をはじめ、多くの者が支持している
のでしょう。⋮⋮まったく、愚かしいとしか思えませんが﹂
﹁⋮⋮。それは、どうして?﹂
﹁そんなものは場当たり的な対処に過ぎないからです﹂

1585
ヴィル王は眼鏡を直しながら言う。
﹁僕ら魔族の人口が増えたためか、森の大型モンスターは昔に比べ
減少しています。またかつては時折見られた魔族間での小競り合い
も、今ではほとんどなくなりました。狩人としても傭兵としても稼
げなくなり、若年層の職不足が深刻となっています。戦争で一時的
に雇用を吸収できたとしても、その後は? 根本的な解決にならな
ければ、結局元に戻るだけです﹂
﹁⋮⋮﹂
オーガ
﹁鬼人に今必要なのは、暴力を至上と捉える意識の改革です。高度
な文化を育み、倫理観を養い、学問を励行し、そして新たな産業構
造を築き上げなければなりません。巨人族とは抱える課題が違いま
すが、変化に適応できなければ滅びるのは僕らも同じです。そのた
めに、人間とは敵対ではなく融和しなければならない。戦争なんて
もってのほか。彼らの優れた文化を取り入れることが、僕らの生き
オーガ
残る道となる⋮⋮。これが、鬼人という種族の内情です﹂
溜め込んでいた思いを吐き出すように、ヴィル王が言い切った。
重い空気の中、ぼくは短く言う。
﹁⋮⋮わかった。ありがとう﹂
そしてわずかに間を空けて、次の王へと話を向ける。
﹁それでは次に⋮⋮フィリ・ネア王﹂
﹁えー⋮⋮フィリにも訊くの?﹂
フィリ・ネア王は、若干気後れしたように言った。

1586
﹁フィリに獣人族のことなんて訊かれても、なんにも答えられない
んだけど⋮⋮﹂
﹁いや、獣人の事情は、ニクル・ノラ殿の話からなんとなくわかっ
ている。少し確認したいだけだ。ええとまずは⋮⋮猫人の経済状況
が、どうも人間相手の商取引に大きく依存しているような口ぶりだ
ったんだが、それは本当なんだろうか。一応人間と獣人は互いに敵
対していて、正式な国交はないはずなんだが﹂
﹁それは、うん、ほんとうだよ﹂
フィリ・ネア王がこくりとうなずく。
﹁もちろん国とのやりとりはないけど、人間にはたくさん物を売っ
ているし、たくさん買ってもいるよ。人間と直接取引しない猫人で
も、扱う商品が最終的にそっちに流れていくことも多いから、人間
相手に商売できなくなったら困る人が多いと思う。人間側だってそ
うなんじゃないかな﹂
﹁そう⋮⋮だな﹂
帝国にも、魔族領産と銘打たれた物品は少なくない数が流通し、
特に工芸品の類は貴族が珍品としてありがたがっていた。
もちろん正式に輸入された物ではなく、すべて民間での私貿易品
だ。
何も妙な話じゃない。前世でもぼくが生まれるはるか以前に宋と
の国交は途絶えていたが、その後も商人たちの私貿易船は来航し続
けていた。
﹁でも、依存しているのはフィリたちだけじゃないよ﹂
フィリ・ネア王が続ける。

1587
トライア オーガ
﹁神魔の魔道具とか、三眼の織物とか、鬼人の採掘する鉱物だって、
猫人が買い入れるのは人間に売るためだもん。そういう産業にたず
さわる人たちも、人間の市場に依存しているようなものじゃないか
な﹂
﹁確かに、そうとも言えそうだな。しかしそれにしても⋮⋮君、全
然答えられるじゃないか﹂
﹁フィリ、お金のことは詳しいよ。好きだから﹂
﹁それなら、こちらは難しいかもしれないんだが⋮⋮﹂
ぼくはややためらいながらも、もう一つ問いかける。
﹁猫人以外の獣人は、商いとは縁遠いまったく別の暮らしをしてい
るとも聞いたんだが、それは本当なのか?﹂
﹁⋮⋮うん。ほんとうだよ﹂
フィリ・ネア王は少々ふて腐れたように、小さくうなずいた。
﹁牧畜とか農耕とか、傭兵をやってたりとか⋮⋮種族によって違う
よ。こんなに商人が多いのは、猫人だけ﹂
﹁それは⋮⋮どうして?﹂
﹁フィリ、かわいいでしょ?﹂
唐突に、フィリ・ネア王がにこりと笑って言った。
ぼくは思わず目が点になる。
﹁は?﹂
﹁フィリたちは他の獣人たちと比べて少しだけ人間に好かれる見た
目をしていて、愛想が良くて⋮⋮そしてずる賢くて抜け目なかった。
だから、商人に向いてたんだと思う﹂
﹁ああ、そういうことか⋮⋮﹂

1588
﹁他の獣人もそうだったらよかったのにね。それなら僻まれること
もなかったし、フィリたち猫人が王様なんてやらずに済んだのに﹂
ぼくは無言でフィリ・ネア王を見た。
猫人の少女王は伏し目がちに続ける。
﹁王様になったってほとんどいいことないのに、お金があるから引
き受けてただけなのに、文句ばっかり言われて⋮⋮パパもほんとう
に苦労してた。しかも魔王様が戻ってきたら、今度は戦争を始めろ
だなんて⋮⋮ばかみたい﹂
﹁⋮⋮ニクル・ノラ殿は侵攻に反対していたが、やはりそうでない
獣人もいるのか?﹂
﹁うん⋮⋮みんな、戦ってなにかを奪ったら、豊かになると思って
るみたい。猫人の中にだって、戦争に賛成してる人はいる﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁たしかに、武器とか売れば儲かりそうだもんね。魔族相手にはも
ちろん、人間相手にも。でも⋮⋮﹂
フィリ・ネア王は、はっきりとした口調で言う。
﹁フィリ、それはちょっと違うと思う﹂
﹁⋮⋮わかった。ありがとう﹂
ぼくはそう言うと、重い溜息と共に気力を振り絞り、最後に悪魔
の王たる少年へと話を向けた。
﹁ではアトス王。いいだろうか﹂
悪魔の少年王が、曇った表情でうなずいた。
ぼくはできる限り明るい口調になるよう続ける。

1589
﹁ええと、ただ君に訊きたいことはあまりないんだ。少々野心のあ
りすぎる貴族が軍部を掌握し、代表の地位に収まっていることは知
っているが⋮⋮それ以外に悪魔族の抱える問題があれば、教えてほ
しい﹂
アトス王は、深刻な顔でわずかに沈思した後、銀の悪魔に耳打ち
する。
﹁はい、はい⋮⋮。﹃我が種族は発展を続けており、おおむね良好
な社会を維持できています。もちろん細かな問題は多々ありますが、
いずれも種族の存続に差し障るような重大なものではありません。
最も懸念すべき点があるとすれば、それは、﹄﹂
そこで、銀の悪魔はためらったように言葉を一度止めた。
﹁⋮⋮﹃我の存在でしょう﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁⋮⋮。それは、どういうことだ?﹂
﹁﹃ご覧の通りです﹄﹂
耳打ちされ、従者の悪魔が答える。
﹁﹃満足に言葉を話すことができず、演説ばかりか臣下への呼びか
けもままなりません。エーデントラーダ卿のような貴族の増長を許
しているのも、我が不甲斐ないためです。年齢のせいばかりではな
く、﹄⋮⋮。﹃我が、君主としての能力を欠いていることが原因で
しょう﹄⋮⋮と、王は仰せでございます﹂
ためらいがちに、銀の悪魔は言い切った。
アトス王自身は、じっとうつむいたまま。

1590
魔王城の一室に、再び沈黙が満ちる。
﹁そんなこと言われたら、こっちも立つ瀬がねぇよ。アトス﹂
それを破ったのは、シギル王だった。
場を和ませるような、朗らかな調子で言う。
﹁だってここにいるおれら全員、誰も王としての実権なんて持って
ないんだしさ﹂
王たちの間に、苦笑するような雰囲気が生まれた。
実際のところ皆、自らの立場を不甲斐なく思っているのかもしれ
ない。
﹁⋮⋮気になっていたんだが、どうして皆、そんなに若い年齢で王
になったんだ?﹂
ぼくは王たちに問う。
﹁魔族は人間よりも寿命が長く、病にも強いのだと聞いていたんだ
が⋮⋮﹂
﹁おれの場合は、単なる偶然だよ﹂
真っ先に、シギル王が答える。
﹁先王に男児がなかなか産まれずに、早世したんだ。実のところ、
ダークエルフ
寿命まで生きる黒森人は少ないからな。んで、唯一の王子だったお
れがそのまま即位したってだけ。人間の歴史でもよくある話だろ?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂

1591
今生ではもちろん、前世でもよく聞いた話だった。
﹁確か、アトスやヴィル、プルシェも同じような感じだったよな?﹂
﹁僕の父は、特に早世というわけではありませんけどね﹂
ヴィル王が眼鏡を直しながら言う。
﹁跡継ぎに恵まれなかったわけでもなく、兄もいました。皆互いに
争い、怪我などが元で全員死にましたが﹂
﹁余はそもそも実子ですらない。病に倒れ、子がいなかった王の下
に、急遽養子として迎え入れられただけの他人じゃ。喫緊の事情で、
わずかに血のつながりもあったとはいえ、このような女児を王位に
据えるとは⋮⋮なんとも陰謀のにおいがしてくるのう﹂
まるで他人事のように、プルシェ王は笑って言う。
﹁とはいえ⋮⋮先王の毒殺疑惑すらある、悪魔ほどではないが﹂
﹁⋮⋮はい。﹃先王である我が父は、暴君であり暗君でした。実際
にはただの病死と結論づけられていますが、そのような疑惑も詮無
いことと言えるでしょう﹄と、王は仰せでございます﹂
アトス王は再びうつむいてしまう。
ぼくは少し置いてから口を開く。
﹁⋮⋮四人はわかったが、フィリ・ネア王とガウス王の場合はどう
なんだ?﹂
﹁フィリの王位はね、パパが買ってくれたんだ﹂
フィリ・ネア王の答えに、ぼくはぽかんと口を開く。

1592
﹁はい?﹂
﹁獣人の王位は、毎回競りに出されるんだよ。落札した人が次の王
様﹂
﹁な⋮⋮なんでそんな制度になってるんだ?﹂
﹁獣人にとって、王位なんてそんなものだから﹂
フィリ・ネア王が退屈なことのように答える。
﹁それぞれの種族で自治しているから、誰かに言うことを聞かせる
とか、法律を作るみたいな権限は最初からないの。王政ってことに
しているのも、他の魔族と対等に付き合うためでしかないもん。お
金があって、地位がほしい、余裕とやる気のある人がやればいいよ
ねってことで、こういう仕組みになってるの﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
思わず唖然としてしまったが、よく考えればそもそも獣人は単一
の種族ではない。
征服しあったわけでもなく、ただ便宜上団結しているだけならば、
君主に強力な権限が集中するはずもない。となると、王の価値もそ
んなものなのかもしれない。
そこで、フィリ・ネア王が目を伏せる。
﹁パパがフィリを王様にしてくれた理由は、よくわかんない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁遺言で勝手に落札されちゃったから、なるしかなかったんだけど
⋮⋮フィリならできる、って思ってくれてたのかな。パパ、がんば
って王様してたから⋮⋮フィリになんて、務まるわけないのにね﹂
答えに窮していると、ガウス王が口を開く。

1593
﹁オレの場合は、これが普通だ﹂
﹁普通⋮⋮とは?﹂
﹁オレくらいの年齢で王になるのが当たり前ってことだ。若くても
関係ない、政務は先王が取り仕切るからな。巨人の王族はこういう
伝統なんだ﹂
﹁ああ⋮⋮そういうことか﹂
﹁はるか昔、たまたま王や経験豊富な側近らが早死にしちまった時
に、先王が政治の場に戻ってきたことが始まりだったそうだぜ﹂
経緯まで含めて、前世の日本で行われていた政治形態と変わりな
い。
ぼくが大陸から戻ってきて少し経った頃から、すでに退位した帝
まつりごと
である上皇が治天の君となり、若い帝に代わって政の実権を握るよ
うになっていた。
﹁夜も更けた﹂
ふと口を開いたのは、プルシェ王だった。
﹁今夜のところは、そろそろ終いとしてくれないかのう魔王よ。余
は眠い﹂
プルシェ王が大きく欠伸をする。
言われてみれば、ずいぶんと話し込んでしまっていた。
﹁⋮⋮確かにその通りだな。みんな、今日は助かったよ。どうかゆ
っくり休んでくれ﹂
そう言って、ぼくは席を立つ。

1594
そして踵を返すと、魔王城の一室を後にした。
第十九話 最強の陰陽師、後悔する
その後、魔王城のテラスにて。
﹁重⋮⋮﹂
石造りの柵にもたれ、ぼくは思わず呟いていた。
夜の森を眺めながら考えていると、だんだん憂鬱な気分になって
くる。
魔族たちの内情は、想像以上に複雑でややこしい、重たいものだ
った。

1595
とてもぼくの手には負えそうもない。
﹁⋮⋮暴力で解決できる問題ならよかったのにな﹂
﹁そんなわけがないことくらい、容易に想像がついたはずでござい
ましょう﹂
頭の上から顔を出しながら、ユキが呆れたように言う。
﹁力で片が付くような単純な問題ならば、彼ら自身でとうに解決し
ているはずでございます﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは大きく溜息をつく。
﹁⋮⋮軽く考えてたなぁ﹂
まつりごと
政に明るくなくとも、ぼくほどの力があれば何かしら手を出せる
ことがあると思っていた。
まじな
しかし現実には、ちょっと呪いが得意なくらいではどうしようも
ないことばかりだ。
﹁前世では日本でも西洋でも、それなりに国から頼られる機会があ
ったんだけどな⋮⋮。考えてみれば、こちらの世界の国々は前世よ
りずっと発展しているようだから、抱える問題も複雑化しているの
かもしれない﹂
﹁あるいはかの世界でも、難しそうな問題についてはセイカさまに
お呼びがかからなかったのかもしれませんね﹂
﹁⋮⋮﹂

1596
もはや黙るしかないぼくに、ユキは続ける。
﹁根本に立ち返ると⋮⋮セイカさまが王たちに会おうとしていたの
は、そもそも彼らの内情を把握するためだったはず。一応目的は果
たせたので、そこまで悲観することはないかと思いますが﹂
﹁そうだなぁ⋮⋮﹂
ユキの言うとおりではあるが、内情を把握したかったのは代表ら
の議論を誘導し、意見を統一させたかったからだ。
あの子らの話を聞いたことで、それが可能になったと言えるのだ
ろうか⋮⋮?
﹁⋮⋮まあ、彼らにとって人間の国への侵攻が、そこまで切実に必
要ではなさそうだとわかったのは収穫か。反戦の方向で結論を導け
ればいいが⋮⋮ただ、王と代表の認識が食い違っている種族がいる
のが気になる。話を聞く限りではあの子らの意見が正しそうだけど、
代表らの言い分もあるだろうしなぁ⋮⋮﹂
考えるほどにわけがわからなくなってくる。
やっぱり、魔族の事情になんて首を突っ込んだのは失敗だったの
か⋮⋮。
と、その時。
﹁ん、あれ⋮⋮地震か?﹂
足元に感じた微かな揺れに、ぼくは顔を上げた。
揺れはしばらく続いた後、何事もなかったかのようにおさまる。
この分なら、何かが倒れたりもしていないだろう。

1597
﹁⋮⋮さして大きくもなかったが、珍しいな﹂
前世の日本とは違い、転生してから地震に遭ったことなどほとん
どなかったのだが。
﹁いえ、そうでもございませんよ﹂
ユキが言う。
﹁セイカさまは気づかれなかったようでございますが、この魔族の
住まう地を訪れてから、幾度か小さな地揺れが起こっておりました﹂
﹁え、そうだったのか﹂
まったく気づかなかった。
というより、管狐ほど小さくなければ、感知できるような揺れで
はなかったのだろう。
﹁さしたる問題もないかと思い、これまで申し上げませんでしたが、
ここはそのような地なのではないでしょうか﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
確かに、土地によって地震の起こりやすさは違う。
そういう場所なのだと言われてしまえば、それまでだったが⋮⋮。
﹁セイカ?﹂
その時ふと、背後から声が響いた。
振り返ると、そこにいたのは神魔の少女、リゾレラだった。
﹁なにしてるの? こんなところで⋮⋮﹂

1598
﹁ああ、いや別に。ただ外の空気を吸いたかっただけだよ。⋮⋮そ
うだ、さっきの地震は大丈夫だったか?﹂
リゾレラは一瞬きょとんとして、それからなんでもないように答
える。
﹁あれくらいで、転んだりしないの﹂
﹁それはそうだろうけど⋮⋮﹂
﹁なに?﹂
﹁いや⋮⋮怖くなかったのかと思って﹂
前世での経験上、地震の少ない国の民は、たいていはわずかな揺
れでも恐れおののいていたものだったのだが。
リゾレラはおかしそうに笑って答える。
﹁セイカは怖かったの?﹂
﹁そんなことないけど⋮⋮﹂
﹁無理しなくていいの。人間の国は地震が少ないと聞くから、怖く
ても仕方ないの﹂
﹁いや本当に違う。あれくらい慣れてるよ。というか⋮⋮やっぱり
こちらの土地では、地震が珍しくないのか?﹂
﹁そうなの﹂
リゾレラはうなずいて、夜の森が広がる先を指さす。
﹁ずーっと向こうの方に、大きな火山があるの。それが、地震を生
んでいるって言われているの﹂
﹁へぇ﹂
﹁最近は、それが少しずつ増えてきているの。もしかしたら噴火の
前兆かもしれないの﹂

1599
﹁えっ! それ⋮⋮大丈夫なのか?﹂
規模にもよるだろうが、ただ事では済まない。
思わず心配するぼくだったが、リゾレラは落ち着いた口調で言う。
﹁大丈夫なの。魔族がみんなで協力して、大丈夫なようにしている
の。そのおかげで、ワタシが生まれる前からずっと、噴火は起きて
ないの。時々こうして地震が増えるくらいで﹂
﹁ふうん⋮⋮?﹂
大丈夫なようにしている、というのが気になったが、今訊くこと
でもないかと思いここはひとまず流すことにした。
リゾレラは言葉を止めると、ぼくの隣に来て同じように柵にもた
れかかった。
しばしの沈黙の後、話のきっかけを作るかのようにぽつりと呟く。
﹁⋮⋮みんな、大変なの﹂
﹁みんな⋮⋮って、あの子らのことか?﹂
﹁うん。だけど、それだけじゃないの﹂
リゾレラは森の方を見つめたまま続ける。
﹁メレデヴァも、ヨルムドも、ペルセスシオも⋮⋮他にもみんな、
必死なの。種族を統べるということは、それだけ大変なことなの﹂
リゾレラの瞳には、憂いがこもっているようだった。
ぼくはわずかに間を置いて答える。
﹁そうだな⋮⋮軽い気持ちで訊ねる内容ではなかった﹂

1600
﹁⋮⋮なんだか申し訳ないの﹂
﹁⋮⋮? 申し訳ないって、何が﹂
訊ねるも、リゾレラは首を横に振るばかり。
仕方なく、ぼくは話を変える。
﹁そういえば⋮⋮神魔の内情については、まだ誰からも聞いてなか
ったな。ルルムが何も言っていなかったから、そこまで重大なこと
はないと思っていたんだが⋮⋮何かあるか?﹂
﹁⋮⋮そういうのは、レムゼネルに訊いてほしいの﹂
﹁いや、知っていることがあればでいいんだ。というか⋮⋮レムゼ
ネル殿は、侵攻か現状維持かの議論で態度を曖昧にしていたが、神
魔としてはあれで大丈夫なのか? 普通はどちらか、種族として利
益の大きい方の立場をとるものだと思うんだが﹂
﹁たぶん、ちょっと遠慮してるところがあるの﹂
リゾレラが静かに答える。
﹁神魔には、元々王がいないの。人間への感情も、里によって違う
の。だから⋮⋮菱台地の里長でしかない自分が、神魔全体の行く末
を決めるのは間違ってるって、レムゼネルはそう考えてるところが
あるの。代表というなら、他にもっとふさわしい人物がいるはずだ
⋮⋮って﹂
﹁ええ、そうは言ってもなぁ⋮⋮一度代表に収まった以上は、しっ
かり務めを果たすべきだと思うけど﹂
ぼくが苦言を呈すと、リゾレラは言う。
﹁ああ見えて、意外と気の弱いところがあるの。でも⋮⋮ほんとう
は、とても優秀な子なの﹂

1601
﹁そう、なのか?﹂
内容にしても言い回しにしても、どこか引っかかる物言いだった。
眉をひそめていると、リゾレラが続けて訊ねてくる。
﹁セイカ。いつまでここに滞在するつもりなの?﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
リゾレラに問われ、ぼくは答えに窮する。
内情をだいたい把握し、今後の方針が決まるまで⋮⋮と、当初は
考えていたのだが、なんだかとても無理そうに思えてきた。
悩むぼくに、リゾレラは言う。
﹁できれば、みんなと一緒に何日か居てほしいの﹂
﹁それはかまわないが⋮⋮どうして?﹂
﹁きっと⋮⋮﹂
リゾレラが優しげな笑みを浮かべる。
﹁あの子たちの、いい気晴らしになると思うの﹂
1602
第二十話 最強の陰陽師、教える
翌日。
﹁何日か居てほしい、と言われてもなぁ⋮⋮﹂
朝日の差し込む魔王城内を歩きながら、ぼくは一人呟いていた。
昨夜リゾレラに頼まれはしたが、実際のところ、ここに長く滞在
する意味は薄い。
これ以上あの子らから何か聞いたところで、状況は変わらないだ
ろう。
もう少し魔族の社会について知りたいとは思うが、その程度は何
も王から聞く必要はない。

1603
手元に置いておく以上は安全に気を配る必要があって大変だし、
さっさとそれぞれの王宮へ帰した方がいい気がしてくるが⋮⋮。
﹁⋮⋮ん?﹂
ふと、昨日話をしていた円卓のある大部屋の前に差し掛かると、
中から話し声が聞こえてきた。
なんだろうと、ぼくは扉を開ける。
﹁だから言っているじゃないか、優れた法が必要なのだと。法に逆
オーガ
らうことが不利益だとわかれば皆自然と意識も変わる。僕ら鬼人に
必要なのはまずそれだよ﹂
﹁そなたはわかっておらぬ。そんなことでは人は動かぬぞ。理屈ば
かり通っていても実現できなければなんの意味もなかろう﹂
何やら言い合っているのは、ヴィル王とプルシェ王のようだった。
大部屋には他の王たちもそろっていて、皆それぞれの態度で二人
の様子を見守っている。
ぼくは近くにいたアトス王に訊ねる。
﹁えっと、どうしたんだ? みんな集まって﹂
﹁あっ⋮⋮おはようごっ、ごっごっごっございます⋮⋮﹂
アトス王がそう言って、ぺこりと頭を下げる。
ただの挨拶だが、まともに言葉を聞いたのは今のが初めてかもし
れなかった。
アトス王はそれから、すぐに銀の悪魔へと耳打ちする。
﹁﹃皆、自然とここに集まりました﹄と、王は仰せでございます﹂

1604
﹁え⋮⋮どうしてまた﹂
﹁﹃きっと、皆まだ話し足りなかったのではないでしょうか﹄と、
王は仰せでございます﹂
﹁そうだっ、魔王様はどう思われますか?﹂
唐突にヴィル王が話を向けてきた。
王たちの視線がぼくに集まり、思わず戸惑う。
﹁い、いや、急に言われても話が見えないんだけど⋮⋮﹂
まつりごと
﹁僕ら、どのような政をすべきかについて話し合っていたんです﹂
朝からまたずいぶんと重たい話題だった。
ヴィル王は続ける。
オーガ
﹁僕は、鬼人に必要なのはまず正しい法だと思うんです。正しい法
とはつまり、それに沿って暮らしていけば自ずと発展できるという
規範です。教育による啓蒙は時間がかかるので、私闘のような誤っ
た慣習をまず法で矯正していく。それによって、社会は望ましい形
になると思うんです。人間の国では私闘の禁止なんて常識なんです
よね?﹂
﹁ふん。魔王よ、言ってやるがよい。そのようなやり方で人は動か
んとな﹂
プルシェ王が鼻を鳴らして言う。
オーガ
﹁闘争は鬼人の文化的基盤じゃろう。望まれぬ法を無理矢理押しつ
けられ、誰が従う? いやそもそも、定めることさえ難しい。宰相
や家臣たちの反発をどう抑え込むのじゃ。人心をないがしろにして
は、国を統べることなどままならんぞ﹂
﹁だからと言って、君のように宮廷政治にばかり力を入れていたっ

1605
て何も変わらない。魔王様、そうですよね?﹂
﹁どう思うのじゃ、魔王よ!﹂
﹁ええ、そうだなぁ⋮⋮﹂
重たい問いをぶつけられ困惑するぼくだったが、前世の知識から
参考になりそうな格言をなんとか引っ張り出してみる。
﹁えーと⋮⋮はるか昔、人間の思想家がこんな言葉を残している。
しか
﹃君子、信ぜられて而して後に其の民を労す。未だ信ぜられざれば
すなわ もっ おの や
則ち以て己れを厲ましむと為す﹄と﹂
﹁き、聞いたこともない言語ですね⋮⋮﹂
﹁遠い国の言葉なんだ。で、この意味は、﹃立派な者は十分に信頼
されてから人々を従わせる。もし信頼が足らないまま従わせようと
すれば、人々は自分を苦しめようとしているのだと受け取るだろう﹄
という感じだな。孔子は⋮⋮まあ、この人間の名前なんだが、プル
シェ王と似たような意見だ﹂
聞いたプルシェ王が、ふふんと言って胸を張った。
ぼくは続ける。

﹁一方で、﹃民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず﹄
とも言っている。﹃人々を法によって従わせることはできるが、そ
の理由までもを理解させることは難しい﹄というような意味だ。こ
れに沿えば、啓蒙は時間がかかるから、まず法から⋮⋮というのは
正しい方法論のように思える﹂
ヴィル王が得意げな顔をする。
﹁ほら言ったじゃないか。だいたい、言って聞くような者たちなら
僕だって苦労してないよ﹂

1606
﹁わかっておらぬな。信頼とは理屈を説いて得るものではない。根
回しに賄賂、そして何より礼を尽くすこと。味方を作る道などいく
らでもある﹂
﹁君は本当にそればかりだな⋮⋮味方を作ったところで別に何もし
ないくせに﹂
﹁⋮⋮でもさ、なんかおもしろいよな。おれ、人間の格言なんて初
めて聞いたよ﹂
感心したように言ったのは、シギル王だった。
﹁なあ、他にもっとねーの?﹂
ぼくは少し考えて答える。
﹁﹃過ぎたるはなお及ばざるがごとし﹄などはよく引用されていた
な。﹃度が過ぎることは、足らないのと同じくらいによくない﹄と
いう意味だ﹂
﹁おお、確かにそうだな。いいこと言うじゃんそのコーシってやつ
!﹂
気に入ったのか、シギル王は喜んでいる様子だった。
ユキが耳元で囁くように言う。
﹁論語でございますか⋮⋮ずいぶんと懐かしく思います﹂
古代の思想家、孔子の言行録である論語は、貴族の子の教養のよ
うなものだ。
ぼくはあまり好きではなかったが、これくらいは知っておいた方
がいいだろうと、弟子たちにはよく教えていた。

1607
もう二度と、こんなものを教える機会なんてないと思っていたの
だが⋮⋮。
﹁なあ、他には?﹂
はぐく
﹁僕ももっと知りたいです。人間が育んできた思想には興味があり
ます﹂
﹁それはかまわないが⋮⋮﹂
断る理由も特に思いつかず、ぼくはうなずいていた。
どうやら、教える機会がまた訪れたらしい。
****
それから、授業のようなものをすることになった。
とは言っても、論語や書経などから、彼らにも共感されそうな内
容を少し摘まむだけだ。
それでも退屈かなぁと思っていたのだが、意外にもヴィル王、シ
ギル王、アトス王のみならず、フィリ・ネア王、ガウス王、プルシ
ェ王も興味深げに聞いていた。
﹁フィリ、いつも勉強はちゃんとしてるよ。家庭教師って高いもん﹂
﹁オレはバカだから、人一倍勉強しねーとな!﹂
﹁ふん⋮⋮まあ、聞かんでもないの﹂
本人らはこんな風に言っていたが、ぼくはなかなか感心していた。
まじな
呪いの勉強はともかく、こういった学問はつまらなそうにしてい
た弟子も多かったのだが⋮⋮。

1608
﹁﹃その、コーシという人間は、﹄﹂
アトス王の耳打ちを受けて、従者の悪魔が言う。
﹁﹃人の本性を善なるものと捉えていたのですね。他人の内なる善
性に期待するような言葉が多いように思えます﹄と、王は仰せでご
ざいます﹂
アトス王の的を射た指摘に、ぼくは薄く笑って答える。
﹁ああ⋮⋮だからぼくは、正直あまり好きではなかったんだ﹂
弟子たちとも何度か、これと同じようなやり取りをしたものだっ
た。
第二十一話 最強の陰陽師、遊びに行く
意外にも好評だった授業は、結局午後にも、それから次の日にも
持ち越すこととなった。
最初はただ聴いているだけだった王たちも、次第に自分の考えや
知っている事柄を意見し合うようになり、いつの間にか活気が生ま
れていた。
どうやら春秋時代の賢人の教えは、異世界の人ならざる者の間で
も好まれるらしい。
とはいえ。
似たようなことばかりをずっと話していても飽きる。そう思い、
今度は試しに漢詩を教え始めた時だった。

1609
﹁魔王様。その瀑布という言葉は何を指しているのでしょうか?﹂
李白の詩の異世界語訳を話していると、ヴィル王に訊ねられた。
ぼくは答える。
﹁ああ、滝のことだよ﹂
﹁滝ですか⋮⋮僕は見たことがないですね﹂
﹁えっ、そうなのか﹂
﹁余もないのう﹂
﹁おれも﹂
﹁オレもだ﹂
﹁フィリもないよ﹂
アトス王に目を向けると、彼も首を横に振っていた。
どうやら王たちは皆、滝を見たことがないらしい。
﹁ひょっとして、魔族領には滝がないのか?﹂
﹁そんなわけないの﹂
いつの間にか参加していたリゾレラが、不意に言った。
﹁滝くらい、普通にあるの。しかもおっきいのが。でもちょっと山
奥にあって、行きにくいだけなの﹂
﹁へぇ。この詩に出てくる滝くらい大きいのか?﹂
リゾレラは笑みと共に言う。
﹁じゃ、見に行くの﹂

1610
****
数刻後。
﹁おお∼∼∼!!﹂
白い水煙を散らす巨大な滝を前に、皆が歓声を上げていた。
あの後、リゾレラからしつこく促されたぼくは、じゃあ行ってみ
ようかと蛟を喚び出し、王たちと共に乗り込んでこの山奥にまで飛
んできた。
途中で川を見失うなど不安になることもあったが、リゾレラの案
内は正確だったようで、気づくと眼下にこの雄大な滝が現れていた。
﹁おい! こっちの浅瀬に魚がいるぞ!﹂
﹁マジ!?﹂
﹁どんな種類なんだろう﹂
川を覗き込んでいたガウス王の声に、シギル王とヴィル王が駆け
寄っていく。
﹁おっ、すげーいるじゃん﹂
﹁こんなにいるなら釣れるかもしれないね﹂
﹁魔王様ー! 釣り竿とかねーのー?﹂
﹁一応あるが⋮⋮﹂
ケルツを出立する時に念のため買っておいたものが、位相に入れ

1611
っぱなしになっていた。
釣り針や糸と共に取り出すと、シギル王へ小言と一緒に手渡す。
﹁はしゃぎすぎて川に落ちるなよ﹂
﹁わかってるって!﹂
ダークエルフ
川に駆け戻った黒森人の王が、意外にも手慣れた様子で竿の準備
オーガ
を始めると、それを鬼人や巨人が覗き込む。
﹁うおっ! 人間の釣り竿はこんなに細いんだな!﹂
﹁道具はそろったけど、餌はどうするんだい?﹂
﹁川の石をひっくり返してみろよ。虫がいないか?﹂
﹁ふん﹂
川縁で騒ぐ少年王たちを見て、プルシェ王が鼻を鳴らした。
﹁まるで子供じゃの。付き合っておれん﹂
﹁そーお? じゃあフィリは、ちょっと見てくるね﹂
﹁﹃我も向かおう﹄と、王が仰せでございますので、失礼します﹂
﹁んあっ⋮⋮! ま、待たんか! 余もっ⋮⋮﹂
フィリ・ネア王に、アトス王とその従者も三人の方へ向かうのを
見て、プルシェ王があわてて彼らの後を追った。
はしゃぐ皆の姿を眺めながら、思わず呟く。
﹁⋮⋮ぼく、こんなところで何してるんだろう﹂
魔族の子らを連れて川遊びなど、している場合ではないはずなの

1612
に。
﹁みんな楽しそうだから、いいの﹂
隣でリゾレラが、ぽつりと呟いた。
﹁たまには、こういう気晴らしも必要なの﹂
﹁そうかもしれないけど、今は重要な時なんだけどなぁ⋮⋮﹂
﹁セイカも楽しんだらいいの。ずっと考えてばかりでも疲れるの﹂
﹁楽しむ⋮⋮ね﹂
前世では何を楽しみに生きていたっけ⋮⋮と考えるも、すぐには
思い出せなかった。
最期はともかく、決して嫌な日々ではなかったはずなのに。
****
結局日が暮れるまで遊んでしまい、その日は山で野宿をすること
となった。
おもむ
王たちは、﹃野宿なんて、小さい頃に兄と狩猟に赴いた時以来で
たきぎ
す﹄とか、﹃余もいよいよ落ちぶれたものじゃ﹄とか、﹃オレが薪
を集めてくるぜ!﹄とか反応は様々だったが、皆おおむね乗り気だ
ったように見える。
幸いにも、簡単な天幕や毛布などはケルツで買い揃えた物が残っ
ており、道具は十分足りていた。
夕食には、たくさん取れた魚を焚き火で焼いた。ただ塩を振った
だけのそれに、皆夢中で齧り付いていた。普段はもっといいものを

1613
食べているだろうに、どの王も不思議と満足げだった。
星を見上げながら眠り、やがて夜が明けた次の日。
﹁なあ⋮⋮この後、双月湖へ行ってみないか?﹂
朝日の中、シギル王がおずおずと言った。
ダークエルフ
﹁黒森人の避暑地なんだ。すごくきれいな場所だから、みんなにも
来てほしい。せっかくこうして集まったんだし⋮⋮﹂
昨日の今日でみんなも疲れているだろうからと、ぼくは初め断ろ
うとした。
だが。
﹁いいじゃねーか! 行こーぜ!﹂
﹁僕も興味があるよ。こんな機会は滅多にないしね﹂
﹁フィリも行ってみたいな﹂
﹁﹃友の誘いだ、乗らぬわけもない﹄と、王は仰せでございます﹂
﹁まあ⋮⋮行かんでもないの﹂
王たちに加え、リゾレラまで言う。
﹁じゃあ行くの。ドラゴンならひとっ飛びなの。ね、セイカ?﹂
全員が乗り気では、行かないとも言いづらかった。
湖はそれほど遠くもなく、あっさりと到着したのだが︱︱︱︱景
色を楽しみ、いざ帰る段になって、別の王が言い出した。今度は白
弧の高原に行ってみたい、と。

1614
それからぼくたちは、魔族領のあちこちを巡ることとなった。
どこかへ行く度に、誰かが次の場所を提案する。風の心地いい高
原の次は、幻想的な巨大洞窟へ。その次は霧の満ちる不思議な山へ。
大河に架かる長大な古橋へ。大地に開いた謎の縦穴へ。そんな具合
で、旅人が訪れそうな珍しい場所を中心に回っていった。
蛟に乗っている時間も短くなく、夜も野宿や、近くの村に簡単な
宿を借りるだけだったので皆疲れただろうが、誰も嫌な顔はしてい
なかった。
その頃には、だんだんぼくもわかってきた。
皆、帰りたくなかったのだ。
魔王城にではない。自分たちの王宮に︱︱︱︱だ。
彼らは王であるが、その実権はない。
種族の内情を憂えても、変える力がない。
そんな立場のまま祭り上げられる場所へ、どうして帰りたいと思
うだろう。
ただそれでも、彼らは王としての自覚は常に持っているようだっ
た。
まつりごと
時間が空けば、皆互いに政について話し合い、ぼくに人間の国の
歴史や偉人の教えを聞きたがっていたから。
みんな大変だから気晴らしが必要、と言っていたリゾレラの言葉
が、ようやく腑に落ちた。
こんな子供たちでも⋮⋮いや、子供であるにもかかわらず、君主
なのだ。
大変に決まっている。

1615
第二十二話 最強の陰陽師、起きる
夜。ぼくはふと目を開けた。
視界にあるのは、高い天井と梁。立ち寄った巨人の集落で、外れ
やしろ
に建つ古びた社を宿として借りたのだ。宿というには粗末な建物だ
ったが、王たちの身分を明かしたくなかった都合、集落の中心で宿
を借りることはしづらかった。
ぼくは身を起こすと、寝入る王たちを見回す。
﹁⋮⋮﹂
やがておもむろに立ち上がり、音を立てないよう静かに社を出た。

1616
そして、外で周囲を気にしながら佇む人物へ声をかける。
﹁このような夜更けにどうされたのかな、セネクル殿﹂
銀の悪魔は、はっとしたようにこちらを向いた。
セル・セネクル。アトス王の従者は、確かそんな名だった。
従者の悪魔は、ややすまなそうな笑みを浮かべ、ぼくに答える。
﹁起こしてしまったようですね。申し訳ございません。少々喉が渇
いたもので、井戸の方へ﹂
﹁其の方は巨人の井戸を一人で上げられるのか﹂
﹁⋮⋮﹂
銀の悪魔は、困ったような顔をするばかりだった。
ぼくは続けて言う。
﹁アトス王がいないようだが、其の方は気づいていたか?﹂
悪魔の王の寝床は、いつの間にか空になっていた。
セル・セネクルがややためらいがちに答える。
﹁ええ⋮⋮ですので、少々様子を見に行っておりました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁遠くへ行かれてはいません。すぐそこの、裏手におられます。魔
王様の結界から出ていないことは、おそらく把握されていたとは思
いますが﹂
銀の悪魔の言うとおり、アトス王がぼくの張った結界の内側にい
ることはわかっていた。だから、彼のことはそれほど心配していな

1617
かったわけだが。
ぼくは問う。
﹁なぜ主君のそばについていない﹂
﹁⋮⋮。どうにも、一人にしてほしそうなご様子だったもので﹂
セル・セネクルは、言葉に迷うようにそう答えた。
自らの行動に、自信が持てていないように見えた。
﹁おそばへ参ることもためらわれ、しかし私だけ眠るわけにもいか
ず、こうしてここで陛下のお戻りを待っておりました。何かあって
も、すぐに駆けつけることができるようにと﹂
﹁⋮⋮。そうか﹂
ぼくは肩の力を抜き、一つ息を吐いた。
妙な行動をしていたから問いただしてみたが、別に大したことで
はなかったようだ。
アトス王がこんな夜に一人でいるというのは少々気がかりだった
が⋮⋮彼にもいろいろ、抱えているものがあるのだろう。前世の経
験上、こういう時はそっとしておくに限る。
ぼくは告げる。
﹁ならば、其の方も眠るといい。そこでずっと待たれていたとわか
ればアトス王も気にするだろう。あの子のことなら心配いらない﹂
王たちを預かるにあたり、ぼくはちょっと過剰なくらいの安全措
置をとっていた。
たとえ結界から出てモンスターや刺客に襲われたとしても、大事
にはならない。

1618
ぼくは踵を返しながら続ける。
﹁ただ、今後不用意に結界に触れるのはやめてくれ。そのたびにぼ
くが起き出さなきゃならなくなるからな⋮⋮﹂
﹁あの、魔王様﹂
銀の悪魔に呼び止められ、ぼくは振り返った。
セル・セネクルは言う。
﹁よろしければ⋮⋮陛下を、迎えに行ってはいただけないでしょう
か﹂
﹁⋮⋮。一人にしてほしそうなんじゃなかったのか?﹂
﹁そうではあるのですが⋮⋮﹂
銀の悪魔は、曖昧な笑みと共にぼくへ告げた。
﹁魔王様に声をかけていただければ、きっと陛下も喜ばれると思い
ますので﹂
****
巨人の造った巨大な社の裏手に回ると、小さな声が聞こえてきた。
それはどうやら、歌であるようだった。
﹁⋮⋮﹂
アトス王の姿を見つけ、ぼくは足を止める。
小柄な悪魔の王は、木材の一つに腰を下ろし、静かに歌っていた。

1619
悪魔族に伝わる歌なのだろうか。それは前世でも今生でも聞いた
ことのない、不思議な旋律だったが⋮⋮やや高い少年の声には、よ
く合っているように思えた。
歌声が止むのを待って、ぼくは声をかける。
﹁意外だ、君は歌が上手だったんだな﹂
﹁あっ! まっまっまっ魔王様!﹂
アトス王はびっくりしたように飛び上がると、ぼくへ向き直り姿
勢を正した。
それから、うつむきがちに言う。
﹁ききき、聴き苦しいものを⋮⋮も、申し訳ありません。うるさか
った、ですか⋮⋮?﹂
﹁いや、ここへ来るまで全然聴こえなかったよ。巨人の社は大きい
から﹂
ぼくはそう言って笑みを浮かべると、アトス王の横に腰を下ろし
た。
悪魔の王が、恐る恐るといった調子で訊ねてくる。
﹁あの⋮⋮どうして、わっわっわっ我が、ここにいると?﹂
﹁セル・セネクル殿に聞いたんだ。彼も心配するだろうから、あま
り一人で抜け出さないように。明日も早いしな﹂
﹁はい⋮⋮﹂
アトス王はうなずくと、それからぽつりと言う。
﹁王宮にいる時も⋮⋮たったったったまにこうして、一人で歌って

1620
いたのです。誰にも、ききき聴かれない場所で⋮⋮﹂
﹁⋮⋮。それは、悪魔族に伝わる歌なのか?﹂
﹁ええ、古い民謡です。幼い頃に、母がよく歌って、ききき、聴か
せてくれたもので⋮⋮わっわっ我も、好きな歌でした﹂
ぼくは、少し笑って言う。
﹁そうだったのか。だが、どうせなら他の者にも聴いてもらえばい
いだろうに。王ならば宴席のような場もあるだろう。せっかく達者
なのにもったいない﹂
聞いたアトス王が、力なくうつむいた。
﹁わっわっ我の歌う様など⋮⋮皆を不快に、さささ、させるだけで
しょうから﹂
﹁⋮⋮そんなことはないと思うが⋮⋮﹂
﹁いいえ。きっきっきっ、きっと誰もが、思うでしょう。こっこっ
言葉が不得手で、歌ばかり達者とは、ままままったく、どうしよう
もない王だ⋮⋮と﹂
言葉が見つからないぼくに、アトス王が続ける。
﹁幼い頃から、わっわっ我は、こうなのです。こここ、言葉がうま
しょうへい
く、出てきません。直そうと高名な医者や教師を招聘し、さささ、
こんにち
様々な手を試みたのですが、どれもうまくいかず⋮⋮こ、こ、今日
まで、来てしまいました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ならばと、こっこっこっこの欠点を補うべく、王としての勉学に
注力してきたのですが⋮⋮﹂

1621
アトス王が目を伏せる。
﹁ま、ま、魔王様に同行し、久しぶりに皆とさ、さ、さ、再会して
⋮⋮自信を失ってしまいました﹂
﹁⋮⋮。それは、どうして?﹂
﹁皆、口ではあれこれ言いつつも⋮⋮かかか賢く、深い見識があり、
明確なこ、こ、こ、志を、持っています。我には⋮⋮なにもありま
せん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ガウス王にヴィルダムド王は、自らのしゅ、種族の行く末を憂い、
どうするべきかをはっきりとみ、み、見定めています。シギル王は、
せせせ、政治的なバランス感覚に、す、優れた男です。加齢と共に、
ち、ち、ち、力を付けていけば、軍部の舵取りを、うまくやるよう
になるでしょう。王宮内の、せっせっ政治に長けたプルシェ王は、
おそらくすでに、すすす少なくない議員を、味方に付けています。
フィリ・ネア王が君臨する獣人族は、こっこっ今後さらに、勢いを
増すことでしょう。人間社会から魔族領に、ももも、もたらされた
貨幣経済の広まりは、か、か、彼女にとって、追い風となりますか
ら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁しかし、わっわっわっ我にはなにも、ありません。種族の目指す
べき道筋も見えず、せせせ精通している事柄も、なく⋮⋮そっそっ
そればかりか、言葉すらまともに発することのできない、置物の王
です。本当は、わっわっ我は、皆と並ぶ資格すら、ないのかもしれ
ない⋮⋮﹂
つかえながら言い終えたアトス王は、また深くうつむいてしまっ
た。
ぼくは、少し置いて告げる。

1622
﹁そんなことはないと思うな﹂
﹁ありがとうございます。ききき、気休めであっても、うれしく思
います﹂
﹁気休めではないよ。それどころか⋮⋮君はあの子らの中の誰より
も王らしいと感じる﹂
アトス王は驚いたように顔を上げた。
﹁まま、まさか、そんな⋮⋮﹂
﹁本当さ。立ち居振る舞いに気品があり、種族のどんな事柄につい
て訊いても淀みなく答えられる。言葉が不自由とも思わないよ。だ
って君がセネクル殿に託す言葉は、いつだって完璧な、王としての
言葉だったじゃないか﹂
﹁ししし、しかし⋮⋮﹂
アトス王が信じられないかのように言う。
﹁わっわっ我には、種族の目指すべき道筋も、得手とする事柄も⋮
⋮﹂
オーガ
﹁ヴィル王やガウス王の目標が単純で明快なのは、鬼人族や巨人族
が発展の余地を大いに残しているからだろう。悪魔族の社会はだい
ぶ成熟しているようだから、道筋がはっきりしていなくても仕方な
い。発展した国ほど政治が複雑になるからな。得手とする事柄も、
なくたっていい。君は幅広い物事を決定しなければならない立場な
んだ。むしろ専門家をいかに集め、使うかの方が重要となるだろう﹂
ぼくは告げる。
﹁君に必要なものがあるとすれば、それは自信だ。もっと胸を張っ
てもいいんじゃないか?﹂

1623
﹁⋮⋮ありがとう、ございます﹂
アトス王が、微かな笑みと共に言う。
﹁すす、少し⋮⋮自信が持てた、気がします。これでいくらか、こ
っこっこっ言葉も流暢になれば、いいのですが﹂
ぼくは、少し考えて訊ねる。
ども
﹁やっぱり、緊張したりすると吃りが出るのか? 初めに会った時
より、今の方がずっと自然に喋れている気がするが﹂
﹁ええ。あの時は、しっしっしっ失礼しました。ただ平常時であろ
うと、普通の者のように話すことは、む、む、難しいです。そそそ
それに、王という立場で、大勢の前では話さないというわけにも、
いきません﹂
﹁うーん⋮⋮﹂
ぼくはずっと思っていたことを告げる。
﹁ぼくの知る限りでも、前世⋮⋮あ、いや、人間の歴史の中で、吃
音持ちの為政者や指導者は何人かいた。その中には、意外だろうが
演説の名手とされる者も。だから決して、致命的な欠点というわけ
ではないと思うんだが⋮⋮﹂
﹁ほんとうですかっ?﹂
アトス王が、身を乗り出すようにして訊ねてくる。
﹁では彼らはいったい、どのようにしてこっ、こっ、こっ、こっ、
この悪癖の克服をっ?﹂
﹁い、いやそこまでは、ぼくも知らなくて⋮⋮﹂

1624
幸か不幸か、弟子には吃音持ちがおらず、この病について詳しく
調べたことはなかった。
とはいえ、このまま突き放すのもかわいそうだ。
ぼくは頭をひねる。
﹁⋮⋮そういえば、セネクル殿に言葉を託す時は普通に話せている
のか?﹂
﹁はい。セネクルは幼い頃からの従者で、きっきっ気負いなく話せ
るというのもありますが⋮⋮そそそそれ以上に、囁くようにして話
すと、不思議と淀みなく、言葉が出てくるのです﹂
﹁そうなのか。話し方で変わるものなんだな﹂
しかしかと言って、誰彼かまわず囁きかけるわけにもいかない。
またしばし考えていると、もう一つ気づいたことがあった。
﹁あ、そういえば⋮⋮歌﹂
﹁⋮⋮?﹂
﹁歌っている時も、言葉に詰まる様子はなかったな。囁いていたわ
けでもないのに﹂
﹁歌⋮⋮ですか。こっこっこっこれまで気に留めたことも、ありま
せんでしたが⋮⋮﹂
アトス王が、考え込むようにして言う。
﹁⋮⋮言われてみれば確かに、そそ、そのようです﹂
﹁なら⋮⋮歌うように話してみるというのはどうだろう﹂
﹁えっ、歌うように?﹂
﹁ああ。こう、節をつけるというか⋮⋮そのような歌だと意識して
ども
話す。そうすれば、吃らずに話せるんじゃないか? もちろん普段

1625
からは難しいかもしれないが、あらかじめ話すことを決めているよ
うな場面なら、あるいは﹂
﹁⋮⋮興味深い方法です。こっこっこっこれまでどんな医者も教師
も、そそそそのように言ってきたことは、ありませんでした﹂
﹁まあただの思いつきで、うまくいく保証はまったくないんだが⋮
⋮﹂
﹁いえ⋮⋮光明がみ、み、み、見えた気がします。ありがとうござ
います、ま、ま、魔王様。練習してみようと、思います﹂
アトス王は、小さく笑って付け加える。
﹁歌と同じように、誰にも聞かれぬよう、こ、こ、こっそりと⋮⋮
少々、恥ずかしいので﹂
第二十三話 最強の陰陽師、火山を見物する
翌日。
蛟に乗ったぼくたちの眼下には、大きな山がそびえていた。
山肌に木々はなく岩ばかりで、ところどころから白い蒸気が上が
っている。
ぼくは呟く。
﹁これが⋮⋮地震を生んでいるという、果ての大火山か﹂
﹁そうなの﹂
すぐそばで、リゾレラがうなずいた。

1626
昨日の夕暮時のこと。
めぼしい場所を回りつくし、次の目的地が誰からも出てこない中
で、最後に、とリゾレラが提案した場所が、この果ての大火山だっ
た。
魔族領の東の端に位置する巨大な火山で、魔族領に地震が多い原
因とも言われている山だ。
場所によっては火山特有の毒気が溜まっており、山をよく知る者
でなければ危険ということで、蛟で上から見るだけとなったが⋮⋮
それでも十分な景色だった
﹁みんなは来たことあるのか?﹂
振り向いて訊ねると、王たちは全員首を横に振る。
まあ場所が場所だし当然だろう。
﹁山の向こう側には、砂漠が広がっていると聞きましたが﹂
ヴィル王が訊ねると、リゾレラが答える。
﹁そうなの。この先はずーっと、海まで砂漠なの﹂
﹁ふうん。こちら側は森が広がっているのに、不思議な地形だな﹂
﹁山の向こうには太古の昔、人間の国があったの。大きな国だった
けど、何千年も昔に大噴火が起きて、溶岩や土砂や噴煙が全部そち
ら側に流れて、滅びてしまったの。それで放棄された穀倉地帯が、
そのまま砂漠になった⋮⋮っていう古い伝承が、この辺りの魔族の
集落に伝わっているの﹂
﹁へぇ﹂
穀倉地帯が砂漠に、ということは、元々土地が痩せていたか、噴

1627
火による気候変動あたりが原因だろうか。
蛟でさらに近づくと、火口が視界に入る。
﹁あー、溶岩湖はないんだな﹂
思わず呟くと、リゾレラが眉をひそめて言う。
﹁そんな恐ろしいものがあるわけないの。噴火したわけでもないの
に﹂
﹁人間の国には、それほど活発な火山があるのですか?﹂
ヴィル王の問いに、ぼくは言葉を濁す。
﹁い、いや、そういうのもあると聞いたことがあったものだから⋮
⋮﹂
日本の富士山には、火口に噴煙をあげる溶岩湖があったので、つ
い期待してしまった。
ぼくは話題を逸らすように言う。
﹁でも、この火山もかなり活発なんだな。あちこちから蒸気が出て
るし﹂
﹁なあ、あそこにあるのはなんなんだ?﹂
ガウス王が指さす先を目をこらして見ると、山肌にレンガに似た
石材で造られた井戸のようなものがあった。
一箇所ではなく、ぽつぽつと複数箇所にある。井戸には似ている
つる べ
が釣瓶などはなく、ただ穴が開いているのみのものが多い。その一
方で、水車小屋にも似た複雑な機構が付属しているものもある。

1628
それらのすべてから例外なく、白い蒸気がもくもくと上がってい
た。
ぼくは首をかしげる。
カナート たて
前世でも見たことがない設備だ。ペルシアにあった地下水路の竪
こう
坑に近い気もするが、温泉でも汲み上げているのだろうか⋮⋮?
﹁あれは蒸気井戸なの﹂
その時、山を見下ろしたリゾレラが言った。
聞いたこともない単語に、ぼくは反射的に訊ねる。
﹁蒸気井戸? なんだそれ?﹂
﹁火山から蒸気を取り出す設備なの﹂
リゾレラはそれから、もう少し詳しい説明を始める。
﹁溶岩の熱で山の中の地下水が温められて、蒸気ができるの。あの
井戸は、それを地中から取り出しているの﹂
﹁蒸気だけをか? そんなことをして何の意味があるんだ?﹂
ドワーフ
﹁昔はこの辺りに住んでいた矮人たちが、鉱石採掘のための動力源
に使っていたの﹂
リゾレラは続ける。
﹁蒸気が上がってくる力で、水車みたいなものを回すの。それを歯
車でいろいろやると⋮⋮いろいろなことができるようになるの。重
い鉱石を持ち上げたりとか、削ったりとか、運んだりとか⋮⋮﹂
﹁細部がすごいざっくりしてるな﹂
﹁ワタシも別に詳しくないの。それに今は、そんな用途にはほとん

1629
ど使われてないの﹂
﹁じゃあ、なんであんなにあるんだ?﹂
あらためて山肌を見下ろす。
水車小屋のような設備が付属している井戸は、そもそもほとんど
なかった。大部分は石材で囲まれたただの縦穴だ。
リゾレラは答える。
﹁蒸気井戸には、噴火を抑える役目があるの﹂
﹁ふ、噴火を?﹂
﹁そうなの﹂
リゾレラがうなずく。
﹁噴火は、土の中にある蒸気の上がってくる力が強くなりすぎて、
土砂や溶岩と一緒に地上に飛び出してきてしまうことで起こる⋮⋮
そうなの。だからああやって山に穴を空けて、普段から蒸気を外に
逃がしてあげることで、噴火を抑えているの﹂
﹁そ⋮⋮そうなのか?﹂
初めて聞く情報に、ぼくは呆然と呟く。
﹁いや、確かに噴煙には蒸気が混じっていると聞くが⋮⋮そんなこ
とで、噴火などという巨大な現象を抑えられるものなのか⋮⋮?﹂
ドワーフ
﹁細かいことは知らないの。でも、大昔に矮人の賢者が言っていた
ドワーフ
ことなの。それに実際、矮人が蒸気井戸を作り始めた千年前くらい
から、果ての大火山は噴火を止めているの﹂
﹁⋮⋮﹂

1630
理屈としては通るし、歴史的にも辻褄が合うなら⋮⋮やっぱりそ
ういうものなのだろうか。
ふと、ガウス王が思い出したように言う。
﹁ああ! そういえば昔親父が言ってたな。実物は初めて見たぜ!﹂
﹁ガウス王は知っていたのか⋮⋮。ぼくは初めて聞いたよ。魔族の
文明もなかなかすごいな﹂
そう言うと、他の王たちが意外そうな顔をした。
﹁﹃むしろ、ご存じなかったとは思いませんでした﹄と、王は仰せ
でございます﹂
﹁な。てっきり何でも知ってるもんだと思ってたよ﹂
﹁魔族ならば多くの者が知っておるがのう﹂
﹁へぇ。じゃあみんなも知ってたんだな﹂
﹁うん。フィリも、小さい頃に家庭教師から教えてもらったよ﹂
﹁僕もいつのまにか知っていました。ちなみに今の蒸気水車を管理
ふもと オーガ
しているのは、主に麓の集落に住む鬼人族の者のようです。やはり
鉱石の採掘に利用しているのだとか﹂
﹁へぇ⋮⋮﹂
ぼくは次第に興味が湧いてきた。
﹁⋮⋮ちょっと降りられないかな。小屋のある井戸の近くなら、管
理する者がいる以上は当然毒気も溜まっていないんだろうし⋮⋮﹂
﹁やめるの﹂
ぼくがそう言うと、リゾレラが即座に止めた。
﹁前ならともかく、ここ最近は火山が活発になってきているから、

1631
毒気もどうなってるかわからないの。蒸気だって、ワタシが昔来た
時にはこんなに吹き出てなかったはずなの⋮⋮。山を知る者の案内
がない限り、近寄らない方がいいの﹂
﹁うーん⋮⋮そうか。それならやめておくか﹂
実を言うと、今ここにいる全員、多少の毒気を吸ったところで問
題はない。
ぼくがそのようにしているからだ。
ただ⋮⋮と、ぼくは山肌に点在する蒸気井戸を見下ろして呟く。
﹁ま、無理して見るほどのものでもないからな﹂
****
オーガ
その日の夜は、近くにあった鬼人の集落で宿を借りることとなっ
た。
リゾレラが熱心に推していたからだ。なんでも、その村には温泉
が湧いているのだとか。
﹁﹃温泉ですか!﹄と、王は仰せでございます﹂
ダークエルフ
﹁おー。ここじゃねぇけど、昔軍の連中と一緒に黒森人の管理する
湯治場へ行ったっけ。お前らは?﹂
﹁オレも行ったことがあるぜ! あの時は確か親父とお袋も一緒だ
ったな﹂
﹁僕は初めてだよ。楽しみだな﹂
おおむね好評のようだった。どうやら魔族の間にも湯治の文化が

1632
あるらしい。
﹁えっ!? やだやだ! フィリはぜったい、入らない∼!﹂
唯一フィリ・ネア王だけは死ぬほど嫌がっていたが、意地の悪い
顔をしたプルシェ王と、真顔のままのリゾレラに引きずられて、結
局は湯場へ向かったようだった。
風呂嫌いが猫人という種族の特徴なのか⋮⋮まあもしくは、単に
フィリ・ネア王がそうだというだけかもしれないが。
で、ぼくはというと。
﹁⋮⋮っと。ふう﹂
集落の外れにある、ひらけた岩場にて。
位相から出した酒樽を並べ終えたぼくは、額の汗を拭った。
これらはすべて、今までに立ち寄った集落にて、少しずつ買い集
めていたものだ。
﹁さて⋮⋮﹂
ぼくのすぐ目の前には、蛟の巨体が浮遊している。どこかそわそ
わとして、何かを待っている様子だった。
いつまでもじらしていれば暴れられかねない。
ぼくは龍へと告げる。
﹁よし。好きに飲め﹂
言うやいなや、蛟が酒樽の一つに食らいついた。
たが
箍を歪めて器用に蓋だけ割ると、そのまま頭を傾けてごくごくと

1633
中身を飲み始める。
あっという間に空になってしまった酒樽を、蛟はその辺にぽいと
放り捨てた。そしてすぐに、次の酒樽へと食らいつく。
ぼくはその様子を眺めながら呟く。
﹁⋮⋮気に入ったようで何よりだ﹂
なんと言っても魔族の酒だ。何から造られているのかも定かでな
あやかし
かったが⋮⋮まあ妖はその辺、気にしないのだろう。
すみさけ
前世でもいろいろ飲ませていたが、濁り酒だろうと清酒だろうと、
ワイン エール
西洋の葡萄酒だろうと麦酒だろうと反応は特に変わらなかった。
﹁⋮⋮なあそれ、どういう味なん⋮⋮うわっ﹂
蛟の長大な体が、ぐわんぐわんとうねる。
⋮⋮どうやら酒樽三杯ほどですでにだいぶできあがってしまった
らしい。
酒樽三杯と言えばなかなかの量だが、蛟の巨体を考えれば人間で
言う盃一杯にも満たないだろう。下戸にもほどがある。
ぼくは半ば呆れ混じりに呟く。
あやかし
﹁天狗などを除けば、妖はだいたいこうなんだよなぁ。どんな酒飲
みよりも酒好きな割りに、下戸。まあある意味、安上がりで助かる
が⋮⋮﹂
頭の上からユキが顔を出し、渋い声音で言う。
﹁ユキは、酒など嫌いです。あんな妙な味のする水を好き好んで飲
む意味がわかりません。褒美ならば、甘い物の方がずっといいです﹂

1634
﹁そして中にはこういう変わったのもいる、と。⋮⋮っていうか、
この分ならこんなに酒樽を買い集める必要もなかったな⋮⋮﹂
余った分はどうしよう、と考えていた時⋮⋮。
﹁え、セイカ⋮⋮?﹂
背後から声が響いた。
振り返ると、リゾレラの姿があった。目を丸くして蛟を見上げて
いる。
﹁こ、こんな時間にドラゴンを出して、どうしたの⋮⋮? それに
なんだか、様子がおかしいの⋮⋮﹂
﹁ああ、別に心配ないよ。酔っ払ってるだけだから﹂
﹁酔っ⋮⋮?﹂
﹁ここ数日、蛟をずっと飛ばせ通しだったから、褒美に酒をやって
いたところだったんだ﹂
﹁ド、ドラゴンが、お酒なんて飲むの⋮⋮?﹂
﹁こいつにとっては大好物のようだな﹂
リゾレラは、完全にできあがってしまってぐねぐねうねる蛟の様
子を、不安そうに見つめている。
﹁⋮⋮明日、こんなのに乗って飛ぶなんて心配なの﹂
﹁大丈夫大丈夫。限界まで酔ったら寝て、朝起きたらちゃんと元に
戻ってるから﹂
﹁そんなのぜったい、二日酔いになってるの﹂
﹁魔族にも二日酔いってあるんだな。でも翌日に具合悪そうにして
いるところは見たことないから、心配ないよ。⋮⋮こいつは、人と
同じような理屈で酔っているわけでもないしな﹂

1635
﹁えっ⋮⋮どういうことなの?﹂
﹁酒を飲むと酔うという、人間の習性を模倣しているだけだ。飲ん
だ酒も、腹に溜まるわけでもなく消える。そういうものなんだ﹂
﹁⋮⋮不思議なモンスターなの﹂
リゾレラが呟く。
あやかし
まあ正確には、妖という存在がだいたいそういう性質なのだが。
ぼくは訊ねる。
﹁みんなはもう上がったのか?﹂
リゾレラがこくりとうなずく。
よく見ると、風呂上がりなためか、リゾレラの白い肌も少し赤ら
んでいるようだった。
ぼくは言う。
﹁そうか。じゃあぼくも入りに行こうかな。こいつも朝まで起きな
いだろうし﹂
すでに蛟は神通力を止め、地表に体を横たえて寝息を立てていた。
こうなると、朝まで絶対に起きない。だから前世では、酒をたら
あやかし
ふく飲ませ寝込みを襲うのが、強大な妖討伐の常道とされていた。
リゾレラがうなずいて言う。
﹁そうするの。明日には⋮⋮帰らなくちゃいけないの。だから今日
は、ゆっくり休むのがいいの﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂

1636
この魔族領を巡る遊興も、今日で最後。そういうことにしていた。
明日には皆で一度魔王城へ戻り、荷物を片付けてからそれぞれの
王宮へ送り届ける予定だ。
各種族の内情を訊くというぼくの用事は済んでしまったので、こ
れ以上彼らを手元に置いておく理由はない。
むしろ、もっと早くに帰しておくべきだっただろう。
それをここまで引っ張ってしまったのは⋮⋮正直、ぼくもあまり
帰りたくなかったからだ。
内情は知れたものの、ルルムの里に戻って代表らにどう働きかけ
るか、思いついたわけでもない。
王たちを帰した後のことを考えると、かなり気が重かった。
﹁⋮⋮みんな、気晴らしにはなっただろうか﹂
思わず、名残を惜しむような言葉が出てしまった。
リゾレラがこくりとうなずいて言う。
﹁楽しそうにしていたの。こうやって集まって、いろんなところを
巡れてよかったの﹂
﹁それなら⋮⋮﹂
よかった、と言おうとしたところ︱︱︱︱これまであったもやも
やとした違和感が、形になっていくような感覚があった。
ぼくはわずかな沈黙の後、違う言葉を発する。
﹁⋮⋮⋮⋮それならどうして、人間だけがこの場にいないんだろう﹂
リゾレラが、無言でぼくの顔を見上げた。

1637
それを見返さぬまま、ぼくは続ける。
オーガ
﹁魔族は単一の種族ではなく、様々な種族の総称だ。中には鬼人の
ような好戦的な種族や、巨人のような力に恵まれた種族もいる。発
展度合いだってそれぞれ異なる。普通ならば⋮⋮互いに激しく争い、
どれか一つの種族が魔族領の覇権を握っていてもおかしくなかった
はずだ。それこそ人間の帝国のように﹂
前世でも、宋やイスラム、かつてのローマなどがそのような歴史
をたどっていた。
日本で朝廷が力を持っていたのも、まつろわぬ国々を平定してい
った結果だ。
﹁だが現状は、そうなっていない。少々の小競り合いこそあるよう
だが、うまく共存し合っている。王や代表らの間にも、かつて魔族
間で大きな戦乱があったような軋轢は感じられない。きっと昔から
こうだったんだろう。不思議だが、そういうものだと納得できなく
もない。しかし⋮⋮どうして人間だけは違うんだ? なぜ同じよう
に共存できない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁人間と魔族は、どうして争うんだ?﹂
リゾレラは無言のまま、星の瞬き始めた空を見上げた。
それから、おもむろに口を開く。
﹁⋮⋮セイカは人間の国で過ごしてきたから、そう思うのも無理は
ないの。ここ百年くらいは戦争らしい戦争も起こってないから、若
い魔族の間でも、そんな風に考える者が増えてきているの。商人た
ちのおかげで、人間が作った便利な物が手に入るようになったから、
最近は特に﹂

1638
﹁⋮⋮﹂
﹁でも⋮⋮﹂
リゾレラが、思い詰めたような表情になる。
﹁魔族と人間は、争う定めなの﹂
﹁それは、どうして⋮⋮﹂
﹁理由は二つあるの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ねえ、セイカ﹂
リゾレラが、こちらを仰ぎ見る。
﹁魔族領は、ほとんどが森なの﹂
﹁⋮⋮? そうだな﹂
﹁大地は、放っておくと勝手に木が生えてきて、自然と森になるの。
だからこの大地は、太古の昔そのほとんどが、今の魔族領のような
森だったと言われているの﹂
﹁⋮⋮。だが⋮⋮﹂
人間の領域は、その大部分が普通の平野だ。
﹁それなら⋮⋮﹂
﹁そうなの﹂
リゾレラが静かにうなずく。
﹁人間が、あそこまで切り拓いたの。魔族の住んでいた、太古の森
を﹂
﹁まさか⋮⋮あれほどの面積をか⋮⋮?﹂

1639
思わず疑問を口にするが、ぼくは前例をすでに知っていた。
前世の西洋だって、かつてはそのほとんどが深い森に覆われてい
たと言われている。あれほどの発展を見せていたのは、その大部分
を人間が開拓したからに他ならない。
その森にもし、人間に似た存在が先住していたとしたら?
開拓の際に、彼らを追いやってしまったとしたら?
彼らは、人間を敵視するようになるのではないだろうか。
﹁⋮⋮だが、魔族は⋮⋮種族に差はあるものの、ほとんどの者は人
間よりも強いじゃないか。そんな者たちが、ろくに技術も得ていな
い、数も少なかった頃の人間に追いやられるなんて⋮⋮﹂
﹁弱い者ほど、どんな手でも使うの。川に毒を流されたり、罠に誘
オーガ
い込まれたりすれば、屈強な鬼人や巨人でも倒されてしまうの。つ
い数百年前まで、人間はそうやって魔族を殺し、森を切り拓いてい
たの﹂
﹁⋮⋮﹂
ありえない、とは言えなかった。
強大な妖や獣に対し、人間がどのようにして対抗してきたかを思
えば。
そればかりか、時に同族に対してでもだ。
﹁たまに、すごく強い人間も現れるけど⋮⋮そんなの物の数じゃな
いの。これまで圧倒的に多くの魔族を殺してきたのは、強くもなん
ともない、普通の人間たちなの﹂
﹁⋮⋮。ならば、魔族は⋮⋮人間を憎んでいる、ということなのか
? かつて自分たちが支配していた領域を侵し、同胞を滅ぼしてき

1640
た敵であるから⋮⋮﹂
﹁憎む?﹂
リゾレラは目を瞬かせる。
まるで、そんなことを言われるとは思いもよらなかったという顔
だった。
﹁⋮⋮違うの。魔族が人間に抱く感情は、そういうものじゃないの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁力が弱く、魔力もあまり持たず、寿命も短い脆弱な種族であるは
ずなのに⋮⋮強いはずの魔族を殺し、森を切り拓いて、その資源を
使ってあっという間に増え、自分たちの領域を浸食してくる。そん
な存在に抱く感情は、憎しみなんかじゃないの⋮⋮恐怖なの﹂
リゾレラは、薄い微笑をぼくに向けた。
﹁魔族はみんな、人間が恐ろしいの︱︱︱︱だからこそ武器を手に、
立ち向かってきたの﹂
1641
第二十四話 最強の陰陽師、思い至る
静かな夜の岩場に、沈黙が降りた。
長く続いたそれを強引に破るようにして、ぼくは口を開く。
﹁だが、それは⋮⋮考えてみれば当たり前のことなんじゃないのか
?﹂
ためらいがちにリゾレラへと言う。
﹁集落が発展すれば、人口が増える。そうなれば新たな畑や家が必
要になる。新天地を開拓していかなければならないのは、どんな生
物でも同じだろう。それとも魔族だけは違うというのか?﹂

1642
﹁たぶんだけど⋮⋮そういう傾向が、魔族は人間ほど強くないの﹂
リゾレラは静かに答える。
﹁先祖代々の土地から離れず、集落の境界もあまり広げたがらない。
まれに新しい土地を目指す変わり者も中にはいるけど、そんな時も
他の集落とぶつからない場所を慎重に選ぶの。他の集落は、彼らの
先祖の土地であるから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから、魔族同士で戦争が起こることは滅多にないの。住む場所
が重ならなければ、争いだって生まれない。というよりもむしろ⋮
⋮人間が節操なく広がりすぎなの。海から山から、暑いところから
寒いところまで好んで棲み着く生き物なんて、他にいないの。人間
同士で争いが絶えないのも、それが原因ではないの?﹂
﹁⋮⋮﹂
言われてみれば、そのような気がしてくる。
灼熱の砂漠から極寒の雪原に至るまで、人間はどこにでもいる。
確かにこちらの方が異常かもしれない。
﹁しかしそれでは、人口がなかなか増えないんじゃないのか?﹂
﹁そうなの﹂
リゾレラがうなずく。
﹁魔族領がここまで後退してしまったのも、増え続ける人間に対し
て劣勢になったからだと言われているの。だから前回の大戦が終わ
ったあたりで、各種族が人口を増やすような政策をとって、そのお
かげでここまで勢力を盛り返すことができたの。この五百年間、魔

1643
族の領域は人間に奪われていないの。ただ、その代わりに⋮⋮種族
間のいざこざが増えたりとか、大型モンスターがいなくなったりと
か、弊害は出ているけれど﹂
﹁なるほど⋮⋮﹂
思い返してみれば、王や代表らもそのようなことを話していた。
あれにはこういった背景があったのか。
﹁なんとなく理解できたが⋮⋮君は先ほど、理由は二つあると言っ
たな﹂
リゾレラがこくりとうなずく。
﹁もう一つの理由は、なんなんだ?﹂
﹁それは⋮⋮魔王と勇者の存在なの﹂
リゾレラが、わずかに沈んだ表情になって言う。
﹁彼らは、争う定めにあるの。そのせいでどうしても、魔族と人間
は争ってしまうの﹂
﹁⋮⋮それは、因果が逆なんじゃないのか? 人間と魔族が争って
いるから、本来ただ強いだけの彼らにそのような役目が与えられる
んだろう。それに今は、どちらも人口が増えたおかげで、戦力的に
は時代後れとなっているとも聞いたが﹂
﹁違うの。魔族と人間との争いは、どこまでも彼らが中心となるの﹂
﹁それは⋮⋮なぜ﹂
﹁勇者と魔王は︱︱︱︱必ずそのどちらかが、正気を失ったように
なるの。物心ついた時から、すでに﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁ううん、言い方が難しいの。正気を失うのとは、ちょっと違うか

1644
もしれないの﹂
リゾレラが難しい顔をしながら続ける。
﹁でも、少なくとも平穏に過ごすことはできなくなるの。魔王なら
人間を、勇者なら魔族を、激しく敵視して、争いの中に身を投じる
ようになる。やがてそれは種族すべてを巻き込み、大戦へと発展し
ていく⋮⋮。魔王は大軍を結成して人間の国に攻め込み、勇者は少
数の英雄たちと共に魔王を討ちに向かうという違いはあるけれど、
行き着く先は同じなの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁前回の大戦でも、勇者が攻めてくるという危機感があったからこ
エルフ ドワーフ
そ、森人と矮人の反発がありながらも魔王軍を結成できたの。これ
まですべての大戦がどちらかを滅ぼすことなく終結してきたのも、
旗頭となる魔王か勇者が倒されれば、急に両者の間で厭戦的な雰囲
気が漂い始めるからなの。なぜか倒した側も、それきり人間や魔族
に対して興味を失ったようになって⋮⋮。きっと魔王と勇者という
対立構造がなければ、魔族と人間が全面的に争うことなんてできな
いの。だって魔族も人間も、本来はその内側でバラバラのはずだか
ら﹂
ぼくは、わずかに間を置いた後に訊ねる。
﹁それは⋮⋮本当なのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そんな話、聞いたこともない。人間側の伝承には語られていない
し、ルルムや代表たちがその、ぼくや勇者がどうにかなっている可
能性については触れたこともなかったぞ﹂
﹁今では知る者も少なくなっているの。でも、前回はそうだったの。
その前の大戦を知る魔族も、かつて同じことを言っていたの。だか

1645
らきっと⋮⋮これはそういうものなの﹂
﹁待て。前回はともかく⋮⋮その前だって?﹂
前回勇者と魔王が誕生したのは、約五百年前と言われている。そ
のさらに前となると⋮⋮確か今から八百年以上も前だ。
エルフ ダークエ
しかし、魔族の中でもっとも長い寿命を持つとされる森人と黒森
ルフ
人ですら、寿命はせいぜい五百年程度だったはず。
﹁なぜ八百年前に生きていた魔族の話を君が知っている。君は⋮⋮
いったい何者なんだ?﹂
聞いたリゾレラは、目をぱちくりと瞬かせた。
﹁え、あれ⋮⋮ルルムや他の神魔から、聞いてなかったの?﹂
﹁何を?﹂
﹁⋮⋮もしかしてセイカ⋮⋮ワタシのこと、ただの子供だと思って
いたの?﹂
﹁人間でいう子供と呼べる年齢かはわからなかったが⋮⋮まあ、そ
うだな﹂
リゾレラは大きく溜息をついた。
﹁何? どうしたんだ? やっぱり見た目以上には生きているのか
?﹂
﹁⋮⋮ワタシは、子供じゃないの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁こう言うと、まだ若い神魔が背伸びをしているだけのように聞こ
えるかもしれないけれど⋮⋮本当に違うの﹂
リゾレラは目を伏せながら言う。

1646
﹁ワタシは誰よりも長く生きているの。レムゼネルよりも、エーデ
ントラーダ大荒爵よりも、メレデヴァよりも、ヨルムド・ルーより
エルフ ダークエルフ
も⋮⋮それどころか、森人や黒森人の長老たちよりも、ワタシは生
きているの﹂
﹁⋮⋮何だって?﹂
﹁寿命がそれほど長くない神魔にあって⋮⋮ワタシだけが、﹃不老﹄
の︻スキル︼を持っていたから﹂
リゾレラが、わずかな憂いと共に告げる。
﹁これまで五百二十年の間、魔族領を見てきたの﹂
****
五百二十年。
思わぬほどの時の長さに、ぼくは言葉を失った。
それならば、前回の大戦を直接知っている、ということになるの
だろうか。
しかし、どうやってそれほどの時を⋮⋮。
﹁⋮⋮まず訊きたいんだが、その︻スキル︼っていうのはなんなん
だ?﹂
﹁四百年以上前、悪魔族に不思議な能力を持つ男がいたの﹂
リゾレラが静かに語り始める。

1647
﹁その男は他人の持つ才能を、姿を見ただけで言い当てられたの。
魔力や剣の腕のばかりでなく、商才や話術のようなものまで。それ
も、本人が自覚すらしていない才能さえも。その男は自らの力を、
﹃ステータス鑑定﹄という︻スキル︼によるものだと言っていたの﹂
﹁ステータス鑑定⋮⋮?﹂
﹁いわく、他人の持つ力を文字として知覚できるそうなの。自分は
その︻スキル︼を、生まれながらに持っているのだと言っていたの﹂
﹁⋮⋮聞いたことがないな﹂
前世でも、そのような能力は噂にも聴かなかった。
この世界特有のものだろうか⋮⋮?
リゾレラは続ける。
﹁その頃にはもう年を取らないことで神殿に囲われていたワタシは、
里長の計らいで、その男に見てもらうことになったの。そうしたら、
﹃不老﹄の︻スキル︼を持っていると言われたの。とても希少なも
のなのだとも﹂
﹁それは⋮⋮そうだろうな﹂
︻スキル︼というものが何なのかは今ひとつわからない。だが、
生まれ持っての不老が珍しいということはわかる。
前世において、不老とは獲得するものだった。
修行を極め仙人となった者や、妖の肉を食べた者、あるいはぼく
まじな
のように呪いを用いた者もいただろうが、とにかく不老は後天的に
得る能力であり、それ以外の例は聞いたことがなかった。
ぼくの常識から考えても、リゾレラのような例はかなり特殊だ。
それだけに、少々信じがたくもあった。︻スキル︼という未知の

1648
概念や、﹃ステータス鑑定﹄という謎の能力も含めて。
﹁⋮⋮その悪魔族の男以降に、﹃ステータス鑑定﹄の能力を持つ者
は現れなかったのか? あるいは、君以外の﹃不老﹄持ちでもいい
んだが﹂
ぼくが訊ねると、リゾレラは首を横に振る。
﹁神殿には探してもらっているけれど、どちらも見つかっていない
の。ただ⋮⋮かなり特別な力だから、いろんな事情でそれを周りに
気づかせないまま、死んでしまった者がいてもおかしくないの。﹃
ステータス鑑定﹄だけでなく、﹃不老﹄の方も﹂
﹁⋮⋮﹃ステータス鑑定﹄は、隠して生きることもできるだろうが
⋮⋮﹃不老﹄は無理なんじゃないのか? 年をとらないんだから﹂
﹁﹃不老﹄は、﹃不死﹄ではないの。怪我はするし、病気にもなる。
だから、自分自身でもそうと気づかないまま、若くして死んでしま
った﹃不老﹄持ちがいてもおかしくないの。元々寿命が長い種族だ
と、特に﹂
﹁ああ、そういうことか⋮⋮﹂
確かに、そうであってもおかしくない。
﹃ステータス鑑定﹄の方にしたって、無闇に言いふらせば頭がお
かしいとも思われかねない能力だ。心の内に秘め、そのまま天寿を
全うしてしまった者がいないとも言い切れなかった。
一つ息を吐く。
信じがたいのは変わらないが⋮⋮否定できる要素もないし、嘘を
つかれているとも思えない。
ぼくは短い沈黙を経て、神魔の少女へと言う。

1649
﹁⋮⋮それにしても、まさか君がそれほどの長きを生きていたとは
な。年を取らない特別な神魔とあれば、他の種族の者も一目置くと
いうわけか﹂
リゾレラの謎が、これでようやく解けた。
もっとも、ルルムや本人に訊けば普通に教えてくれただろうから、
謎でもなんでもなかったわけだが⋮⋮。
﹁誰も言ってくれなかったから、てっきり地位が高いだけの子供か
と思っていたよ。別に、そこまで違和感もなかったし⋮⋮﹂
﹁なに? 性格が子供っぽいって言いたいの?﹂
﹁え、いや、その⋮⋮﹂
睨まれてうろたえるぼくに、リゾレラはすねたように言う。
﹁⋮⋮仕方ないの。見た目が子供だと、周りもそういう風に接して
くるし⋮⋮いつまでも変わらない姿で、変わらない生活をしていれ
ば、性格も変わらないの。ワタシよりずっと短い年月しか生きてい
ない子たちの方が、あっという間に大人になっていくの﹂
﹁ああ⋮⋮いやわかるよ。なんとなく﹂
ぼくはぽつりと言う。
前世で初対面の者から﹃思っていたよりガキっぽい性格﹄と言わ
れ、ショックで二日引きずったことを思い出した。
仕方ないのだ。若い弟子たちに囲まれ、いつまでも変わらない生
活を送っていれば、精神的な成長なんてしない。
周りに置いて行かれるばかりの人生だったのは、ぼくも同じだ。
西洋で古代の叡智に触れ︱︱︱︱そして妻の蘇生をあきらめたあ

1650
の瞬間から、ぼくは何一つ変わっていない。
ぼくは微かに笑って言う。
﹁だが、周りの者は別に君を子供扱いなんてしてないんじゃないか
? レムゼネル殿などは、かなり敬意を払っていたように見えたが﹂
﹁レムゼネルは⋮⋮あの子が小さい頃からよく知っているから﹂
過去を思い出すように、リゾレラは笑みを浮かべる。
﹁あの子にとって、きっとワタシはいつまでたっても、少し年上の
お姉さんなの﹂
﹁ああ、会合の場でレムゼネル殿がなんとなく頼りなかった理由が
今わかった﹂
﹁もしかしてワタシが隣にいたせい? なら、これからはもっと厳
しくしないとダメなの!﹂
﹁これからか? レムゼネル殿ももう老境だろうに、同情してしま
うな﹂
ひとしきり笑った後、リゾレラがぽつりと言う。
﹁ワタシが特別に思われているのは⋮⋮年を取らないだけではなく
て、きっと前回の魔王に会ったことがあるからでもあるの﹂
﹁えっ、魔王に?﹂
エルフ ダークエルフ
﹁前回の大戦を知る魔族は、今でも森人や黒森人の中に少しいるけ
ど⋮⋮魔王を直接知る者は、たぶんもうワタシだけなの﹂
﹁⋮⋮どんなやつだったんだ? 前回の魔王って﹂
リゾレラはふっと笑って言う。

1651
﹁セイカにはぜーんぜん、似てないの﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
﹁あの人も混血だったの。ただし人間とではなくて、いろいろな魔
族との混血。金髪で、肌が少し赤くて、頭には悪魔の角があって、
背中には鳥人の黒い翼が生えていて、額には第三の眼があった。そ
れでいて⋮⋮すごく明るい性格だったの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁混血は立場が弱いことも多いのだけれど、あの人はずっと機嫌が
良さそうで、少しお調子者で、みんなから好かれていたの。あの時
はちょうど、後に四天王と呼ばれる者たちと旅をしていた時期だっ
た﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁会ったことがあると言っても、まだ不老だと知られていなかった
小さな頃に、森で迷っていたところを助けられて、少しの冒険をし
ただけ。それでも、もっとこの人のことを知りたい、一緒にどこま
でも行きたいって思えた。そういう人だったの﹂
リゾレラは数歩進み出ると、ぼくを振り返って言う。
﹁ほんとうは、セイカが⋮⋮前世の記憶を持っているんじゃないか
って、期待していたの﹂
一瞬どきりとするぼくに、リゾレラは続ける。
﹁もしかしたらワタシのこと、覚えているんじゃないかって⋮⋮。
でも、そんなわけないの。だってあの人も、前世の記憶なんて持っ
てなさそうだったから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それでも、セイカと一緒に行こうと思ったのは⋮⋮あの頃の何か
を、取り戻したかったからかもしれないの。あの時、ワタシにもっ

1652
と力があって、あの人の旅に付いていくことができたとしたら⋮⋮
何かを変えられたんじゃないかって、ずっと思っていたから。今で
も魔法は得意ではないし、剣なんか振れないけれど⋮⋮でも長く生
きてきたおかげで、いろんなことが知れて、いろんなものを用意し
てあげられるようになった﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだな。いろいろと助かったよ﹂
それからぼくは、わずかに間を空けて訊ねる。
﹁君は⋮⋮それならひょっとして、勇者や人間を恨んでいるんじゃ
ないのか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だって、前回の魔王は⋮⋮﹂
前回の魔王は、勇者によって倒されている。
これまでに起こったすべての大戦は、どちらかがどちらかに倒さ
れることで終結しているのだ。
リゾレラは、ぼくから目を逸らして答える。
﹁恨んでいたことも、あったの。でも長く生きている間に⋮⋮そん
な感情もなくなったの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だってどれだけ敵対していても、人間を伴侶に選ぶ魔族が後を絶
たないの。あなたの母のように。結婚の報告で、幸せそうに人間を
連れてこられるなんてことが続けば⋮⋮いつまでも恨んでいること
なんて、できなかったの﹂
苦笑にも似た笑みを浮かべて、リゾレラは言った。

1653
﹁人間とも、仲良くできたらいいの﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
﹁でも、向こうはどう思っているかわからないの﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁勇者は脅威なの。前回の大戦でも、魔族領に勇者のパーティーが
攻めてきた時には、とてもたくさんの犠牲が出たの。だから、今回
も⋮⋮﹂
リゾレラは、思い詰めた表情で言った。
﹁すべての魔族が団結して、人間に立ち向かわなければならないか
もしれない﹂
****
温泉へと向かう道すがら。
ユキが、頭の上から顔を出して言う。
﹁大火山に不老不死とは、なんだか竹取物語のようでございますね﹂
﹁⋮⋮役者は誰だよ。帝がぼくで、なよ竹のかぐや姫がリゾレラか
?﹂
それならぼくは、あの山で何を燃やすことになるのだろうか。
ユキの戯れ言は半ば以上聞き流していた。そんなものよりもずっ
と、考えるべきことがあったからだ。
あのわずかなやり取りで、新たにわかったことがいくつもあった。

1654
魔族の森を切り拓いてきた人間たち。長きを生きるリゾレラの秘密。
だが何よりも︱︱︱︱魔王と勇者についてだ。
﹁正気を失ったようになる、か⋮⋮﹂
リゾレラはそう言っていた。
だが、現実にそのようなことは起こっていない。
ぼくはもちろん人間を敵視などしていないし、アミュだってルル
ムたちと仲良くやっている。冒険好きで多少荒っぽいところはある
かもしれないが、平穏に過ごすことができないなどということはま
ったくない。
リゾレラが思い違いをしている可能性を考えないならば、やはり
ぼくが魔王じゃないということになるのか。しかしその場合、戦い
に身を投じるようになるはずの魔王が、未だ世に出てきていないこ
との説明がつかない⋮⋮。
﹁⋮⋮いや、違う﹂
ふと気づき、ぼくは思わず立ち止まった。
﹁⋮⋮ぼくか﹂
・・・・・・ ・・・・
転生してきてしまったためか。ぼくが︱︱︱︱人間を敵視し、戦
いを挑むことになるはずだった、魔王の体に。
確証はない。だが、それならばすべてが矛盾なく嵌まる。
だとしたら、異世界人であるぼくが歪めてしまったことになる。

1655
勇者と魔王が︱︱︱︱人間と魔族が、争う定めを。
﹁参ったな⋮⋮﹂
思わず引きつった笑みが浮かぶ。
まさかただ生まれ変わっただけで、この世界の命運をここまでね
じ曲げていたとは。
世界の行く末を左右できる立場なんてごめんなはずだった。
力ある者には、それを恐れもしない狡猾な者たちがたかり、食い
物にしようとする。だからこそわざわざ転生し、名もなき民衆の一
人になろうとしたのに。
ぼくは、視界の先にそびえる果ての大火山を見据えながら呟く。
﹁結局⋮⋮避けられないものなのだろうか﹂
力ある者を待つ、定めというものは。
1656
第二十五話 最強の陰陽師、裏切られる
翌朝。
毎度のように集落の外れに宿を借りていたぼくたちは、外で火を
焚き、簡単な朝食をとっていた。
﹁あの、魔王様﹂
ちょうど食べ終わったところで、ヴィル王がおずおずと話しかけ
てきた。
何やら周りの王たちからも視線を感じる。皆早々に食べ終わって
こそこそ話していたので、どうにも示し合わせたような雰囲気があ
った。

1657
素知らぬ顔で、ぼくは水の入った杯を傾けながら訊き返す。
﹁どうした? あらたまって﹂
﹁実は⋮⋮僕たち話していて、魔族を代表する機関があればいいん
じゃないかということになりまして﹂
﹁ぶっ!! ゴホッゴホッ!!﹂
﹁うわっ、大丈夫ですか魔王様⋮⋮﹂
思わずむせてしまった。
ヴィル王が不安そうに問いかけてくる。
﹁いい考えだと思っていたんですけど⋮⋮ダメでしょうか?﹂
﹁い⋮⋮いや、いい。すごくいいと思う﹂
思わぬ展開に内心動揺しつつも、ぼくは笑顔を作って返した。
まさか⋮⋮王である彼らから言い出してくれるとは。
ヴィル王の提案は、ルルムの望みであり、ぼくの望みでもあった。
全面戦争が起こった際に交渉の選択肢が生まれるし、何より魔王
に頼らず意思を統一できるのなら、ぼくがいらなくなる。
今の状況を考えるとめちゃくちゃに都合がよかった。
とはいえ喜びすぎるのも不自然なので、笑顔を抑え気味に訊ねる。
﹁しかし、どうして急に?﹂
﹁おれらやっぱり、なんだかんだ言ってバラバラだからさ﹂
シギル王が答える。

1658
﹁魔族対人間って構図なのに、それはまずいだろってなったんだ。
一応人間の側には、帝国っていうでっかい国があるのにさ﹂
﹁他にもいいことあるよ。魔族で統一の貨幣が作れれば、いろいろ
便利だし。フィリ、そういうのやりたい﹂
﹁余はよくわからぬが、種族の枠にとどまらぬ事業などもできるよ
うになるのではないかの﹂
﹁なるほどな﹂
ぼくはうなずき、それから皆に訊ねる。
﹁機関となれば、各種族の代表が集うことになるだろうが⋮⋮それ
はやっぱり君たちが?﹂
﹁ええ。とりあえずそういう想定でいます。⋮⋮みんなで考えたこ
とですので、初めはそれが一番かなと﹂
ヴィル王が、ちらと他の王たちを振り返る。
視線を交わす彼らの間には︱︱︱︱やはり、戦友同士にも似た絆
があるように見えた。
ふとリゾレラの方へ目を向けると、彼女は手をひらひらと振って
言う。
﹁ワタシはただ長く生きているだけでそういう立場じゃないから、

出ないの。レムゼネルか、もっと若い子を遣るの﹂
どうやら、リゾレラもこのことを知っていたらしい。
ぼくだけ蚊帳の外だったのか。
﹁わかったが、それなら⋮⋮﹂

1659
ぼくは慎重に問う。
﹁人間への対応は、どうするつもりなんだ? 神魔の里に集まった
代表たちは、たぶん今も揉めていると思うが⋮⋮君たちはどういう
結論を出した?﹂
﹁やはり、正式な和平の道を探ろうということになりました﹂
ヴィル王がはっきりと言う。
﹁争いは失うものが多いです。最後に魔族の領域を奪われてから数
百年という時が経っているので、頃合いと言っていいでしょう。互
いに不可侵の取り決めを交わし⋮⋮そして共に発展していきたい。
そう考えています﹂
﹁魔族が人間の国にもっと進出できれば、そこで活躍するやつも出
てくるかもしれないしな。寿命の長さとか腕っ節の強さとか、人間
エルフ ドワーフ
にない強みがいくらでもあるんだ。獣人や森人や矮人くらい、他の
種族も積極的に人間と関わっていいんじゃねーかと思う﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ぼくはほっとする。
人口が増えて豊かになり、争いの時代を知る世代も少なくなって、
きっとこのような考えを持つ魔族も増えていることだろう。
しかし、ぼくはさらに問う。
﹁だが⋮⋮いいのか? ガウス王は、開戦を望む立場だったと思う
が⋮⋮﹂
﹁いいんだ﹂
ガウス王は笑顔で言う。

1660
﹁みんなと話しているうちに、整理がついた。オレは外交の機会が
欲しかっただけだったんだ。他種族と意見を交わす場を得て、人間
との交流も生まれれば、それはきっと巨人族の発展に繋がる。オレ
もこれでいいんだ﹂
オーガ ダークエルフ
﹁⋮⋮そうか。悪魔や鬼人や黒森人の代表も、開戦を望んでいたよ
うだったが⋮⋮君たちもそれでいいんだな﹂
﹁ええ﹂
﹁そりゃあな﹂
ヴィル王とシギル王が笑って答える。
﹁僕は元々反対の立場でしたから。その方が、我が種族のためにな
ると信じています﹂
エルフ
﹁おれも別に開戦派じゃねーしな。森人との関係改善だって、戦争
を起こさなくてもできるはずさ﹂
アトス王に目を向けると、彼もしっかりとうなずいていた。
﹁そうか⋮⋮そうだったんだな﹂
ぼくは視線を地面に下ろした。
ぼくの知らぬ間に。
この子たちは互いに、種族を思って話し合い︱︱︱︱そして自分
たちの納得できる結論を、しっかりと導き出していたようだった。
初めに会った時は、王といってもただの子供だと思っていたのに。
ただの余暇のような時間を過ごしていたと思ったら、いつの間に
かこんな⋮⋮。

1661
﹁あれ、もしかして魔王様⋮⋮泣いてますか?﹂
﹁な、泣いてない泣いてない﹂
ぼくは目元をごしごしと擦ってヴィル王に答える。
﹁すばらしい考えじゃないか。それはおそらく、人間側も望んでい
ることだと思う。きっとうまくいくよ﹂
﹁ありがとうございます! とはいえ⋮⋮まだ実現できると決まっ
たわけではないんですけどね﹂
ヴィル王が苦笑するように言うと、他の皆も同じような表情にな
る。
﹁おれら、なんにも実権ねーしなぁ﹂
﹁親父がなんて言うか心配だぜ⋮⋮﹂
﹁フィリの言うことなんて、みんな聞いてくれるのかな﹂
﹁⋮⋮やりようがないでもないがの。そのような機関ができて他の
種族が代表を出すのだと言い張れば、自分たちも出さざるを得ん。
それを全種族で繰り返せば、一応形だけはできる。実行力が伴うか
は別じゃがの﹂
プルシェ王はぶっきらぼうに言うが、その先も考えていそうな口
ぶりだった。
ぼくは微笑と共に言う。
﹁そうか。頼もしいよ﹂
﹁ふん⋮⋮そう期待するものでもないわ。たとえうまく始められた
としても⋮⋮いつまで続けられるかわかったものではないからの﹂
プルシェ王の目に、寂しい色が混じる。

1662
﹁こんな仲良しこよしの集まりがいつまでも続くことはない。余た
ちはほんの短い間、たまたま生きる時期が重なっているにすぎぬ。
初めに余とフィリ・ネアが、続いてヴィルダムドにアル・アトスが、
それからガウスが、最後にシギルが死ぬ。その死期はバラバラじゃ。
数百年かけて、一人ずつ死んでいく。魔族の生きる時間はそれぞれ
こころざし
に異なる。今ここにある志が、いつまで魔族の間に受け継がれるか
はわからぬ﹂
しんみりとした空気が流れる中、プルシェ王は続ける。
まつりごと
﹁じゃが⋮⋮それでも今せねばならぬことをするのが政じゃ。数百
年先を憂いても始まらぬ。先のことは子孫に任せ、余たちは今ある
務めを果たすべきじゃろう﹂
﹁⋮⋮。オレは﹂
言葉を発しにくい雰囲気の中で、ガウス王がおもむろに言う。
﹁お前が、オレらの関係を仲良しこよしだと言ったことが意外だぜ
⋮⋮!﹂
﹁んあっ⋮⋮!! い、言っとらん!!﹂
﹁いいや言った! オレはバカだが耳は悪くねーぞ﹂
むきになるプルシェ王とガウス王のじゃれ合いを見ながら、ぼく
は微笑む。
﹁⋮⋮応援するよ。ぼくにできることがあればなんでも言ってくれ﹂
﹁ありがとうございます、魔王様。実は一つ、お願いしたいことが
あるんです﹂
﹁⋮⋮⋮⋮ん?﹂

1663
若干嫌な予感がしつつも訊き返すぼくに、ヴィル王は言う。
﹁それぞれの種族の代表となる議員のほかに、議長であり人間社会
と交渉を行う全体の代表者が必要なんです。それを、魔王様にやっ
ていただけないかなと﹂
﹁⋮⋮え゛!?﹂
思わず呻くぼく。
ヴィル王は続ける。
﹁いずれの種族からも中立で、人間の血も入っているとなれば、こ
れ以上の適任はいません。魔王様が全体の代表となるならば、誰も
が納得するでしょう。引き受けてもらえないでしょうか⋮⋮?﹂
﹁⋮⋮い、いや⋮⋮それは⋮⋮﹂
嫌な汗が流れる。
はっきり言って、めちゃくちゃ都合が悪かった。
そんな立場に収まったら帝国に帰れなくなる。
おびや
それどころか、下手したら前世以上に暗殺の可能性に脅かされる
ことになってしまう。
とはいえ⋮⋮この子らのことは無下にしにくい。
ぼくはしどろもどろになりながら答える。
﹁きゅ、急に言われても、安請け合いはできないな。これまでそん
な地位に就いたことはないし⋮⋮それに半分は神魔の血が入ってい
るらしいから、中立と言い切れるか⋮⋮あと寿命も長くないだろう
し⋮⋮も、もう少し、いろいろ検討してもいいんじゃないだろうか

1664
⋮⋮?﹂
﹁それもそうですね。まだ設立の目途も立っていないのに、時期尚
早だったかもしれません﹂
ヴィル王があっさりそう言ってくれたので、ぼくは内心でほっと
胸をなで下ろす。
﹁でも、前向きに考えておいてほしいです。魔王様にぜひ務めても
らいたいという思いは、僕らの中で変わりませんので﹂
﹁わ、わかった⋮⋮﹂
思わずうなずいてしまった。
困ったな⋮⋮と思いながら、ぼくは誤魔化すように立ち上がって
言う。
﹁よ、よし。じゃあ片付けるか。名残惜しいが、そろそろ出発しよ
う﹂
皆ががやがやと言葉を交わしながら動き始める中、ぼくも道具を
位相に放り込んでいると、ユキが耳元で言う。
﹁何やら面倒な役職を頼まれてしまいましたね⋮⋮。曖昧な返事な
どせず、はっきりと断るべきだったのではございませんか? その
気もないのに保留にされてはあの者らも困りましょう﹂
﹁言うな。仕方ないだろ⋮⋮断りにくかったんだ﹂
小声で返すと、ユキが呆れたように言う。
﹁やはりセイカさまは、子供には甘いようでございますねぇ﹂

1665
ぼくがさらに言い返そうとした︱︱︱︱その時。
地面が、揺れた。
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁うおっ、地震か!?﹂
﹁⋮⋮大きいようじゃのう﹂
王たちも手を止め、立ちすくんだように揺れが収まるのを待って
いる。
地震は、それから少し経っておさまった。
ずいぶんと長く揺れていたように感じる。
﹁⋮⋮まずいな、これ。建物とか崩れてるんじゃねぇか?﹂
﹁いや⋮⋮集落の様子を見る限り、そこまでの被害はなさそうだよ。
火山に一番近いここがこの程度なら、きっと他の里も大丈夫じゃな
いかな﹂
ヴィル王の言う通り、集落に大きな変化はない。
オーガ
住民である鬼人たちは何事かと外に出てきているが、さほどの混
乱はなさそうだった。
﹁果ての大火山とは遠い場所で地震が起こることもあるけど、この
分だとたぶん心配いらないの。だから⋮⋮⋮⋮セイカ?﹂
リゾレラの戸惑ったような声音。
彼女の言葉は、ほとんど耳に入ってきていなかった。
ぼくはじっと果ての大火山を見据える。
妙な胸騒ぎがしていた。
やがて違和感が形になり、口をついて出る。

1666
﹁⋮⋮蒸気が上がっていない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
昨日あれほど噴出し、周囲に雲を作っていた蒸気が、今日はほと
んど見られない。
胸騒ぎに突き動かされるように、ぼくはヒトガタを取り出す。
﹁様子を見に行ってくる。少しの間みんなを頼む﹂
﹁え、セ、セイカ?﹂
困惑するリゾレラの声を置き去りにして、ぼくは駆けながらヒト
ガタを放った。
式神を足場に宙を昇り、そして蛟の扉を開こうとした︱︱︱︱そ
の時。
背後から何かが、ぼくの胸を貫いた。
﹁ごふっ⋮⋮﹂
どろりとした血の塊を、口から吐き出す。
それは胸から突き出た、円錐状の白い金属を赤く濡らした。
首を回し、背後を見る。
円錐状の長大な槍を握っているのは、白い毛並みを持った、巨人
に迫る体躯のデーモン。
おそらくは、光属性のホーリーデーモンの一種だろう。
つい先ほどまで、こんなものはいなかったはず。
痛みに明滅する視界が、かろうじてデーモンを召喚した魔法陣と、

1667
その術者を捉える。
﹁︱︱︱︱やれやれ。我が王の御前で、このような狼藉は避けたか
ったのですが﹂
デーモンと魔法陣の背後に立つ銀の悪魔︱︱︱︱セル・セネクル
が言葉を発した。
主君の言葉を伝える時と、まったく同じような声音で。
﹁魔王討伐の好機とあらば仕方ありません。仕込みもちょうど終え
てしまいましたし、時機としてもこの上ないでしょう﹂
﹁⋮⋮セ⋮⋮セネ、クル⋮⋮?﹂
アトス王が、信じられないかのような目を自らの従者に向ける。
他の王たちも、状況を受け入れられずに固まっているようだった。
セル・セネクルはそれまでと変わらない柔らかな物腰で、周囲の
王たちへ小さく礼をする。
﹁ご安心を。皆様に手出しはいたしません。指導力のある者が魔族
の王位におさまることは、帝国としても都合が悪い。これからも変
わらず、置物の王でいただけると幸いです﹂
﹁そ、そう゛、か⋮⋮ごふっ、其の方、は、そう゛、だった、か⋮
⋮﹂
血泡を吐きながら言うぼくに、セル・セネクルは穏やかな笑みを
浮かべる。
﹁さすがは魔王様。心臓を貫かれながらまだ口がきけるとは。しか
しじきに⋮⋮﹂
﹁はは、は⋮⋮は、はは、ははは⋮⋮﹂

1668
ぼくの笑声に、銀の悪魔の顔から笑みが消えた。
胸から突き出た槍の穂先を掴む。
ガリウム
生み出されたガリアの汞が、白い金属を侵食していく。
ぼくは首をねじったまま銀の悪魔を見据え、血塗れの笑顔で言っ
た。
﹁や、やる、じゃない゛、か⋮⋮⋮⋮ぼく、の身代を、一つ割る、
とは﹂
セネクルの表情が強ばると同時に、白いデーモンが強く槍を引い
た。
ぼくから引き抜かれるはずだった穂先は、浸食によって先から折
れ砕ける。
縫い止められていた空中から解き放たれ、地面へと降り立った。
同時に、大穴の開いていた胸が瞬く間にふさがっていく。
中心に黒ずんだ穴が開き、力を失ったヒトガタがひらひらと草間
に落ちる。
振り返るも、セネクルの姿はそこにない。
﹁転移したか﹂
ならばまずは、デーモンから片付けるとしよう。
槍をかまえる白いデーモンへ、手にしていたヒトガタを素速く飛
ばす。
空を切って飛ぶそれは⋮⋮しかし突如、地中から現れた黒い石柱

1669
に阻まれた。
﹁っ⋮⋮!﹂
石柱は、その一本にとどまらなかった。
ぼくの正面のみならず、左右や後方など、計六本もの石柱がぼく
を囲むように立ち上がる。
﹁これは⋮⋮﹂
ただの石柱ではない。
表面には文字のようなものが描かれ、はっきりとした力の流れを
感じる。
﹁⋮⋮結界、か﹂
﹁ええ。私は﹃銀﹄の部族の生まれであるため、このような魔法が
比較的得意でして﹂
黒い石柱の一つ。その上に立つセネクルが、微笑と共に言う。
﹁ドラゴンを喚び、様々な属性を操り、死の淵からも蘇るあなたで
あっても⋮⋮魔法を封じる結界の中で、その力を満足に振るうこと
はできるのでしょうか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁せめて人間の血が入っていない純粋な魔族であれば、多少は抗い
得たでしょうがね﹂
白い槍を手にした巨大なデーモンが、石柱の間からぼくに迫る。
どうやらこの結界は、モンスターは通す類のもののようだった。

1670
﹁では、死になさい﹂
ホーリーデーモンが、穂先の折れた槍をぼくに振り上げる。
あれだけの槍なら、穂先が欠けていようが関係ない。人間の肉体
程度、原型すらとどめずに押し潰せてしまうだろう。
しかし、それがぼくに叩きつけられる瞬間︱︱︱︱白い円錐状の
槍は、鈍い音と共に半ばから切断された。
﹁なっ⋮⋮?﹂
セネクルが石柱の上で両の目を見開く。
ホーリーデーモンが、おののいたように後ずさった。
﹁そ、それは⋮⋮いったい⋮⋮っ﹂
両者の目は、つい今し方槍を切断した、一体の妖に向けられてい
る。
槍が振り下ろされる寸前。
空間の歪みから現れたのは︱︱︱︱甲殻類めいた奇怪な妖だった。
はさみ
その大きさはデーモンに迫るほど。二本の鋏に、節のついた体に
サソリ
尻尾。全体としては蠍に近いと言えるだろう。だが鋏以外に脚のよ
くちばし
うなものはなく、頭部には人間のような目と毛髪、そして嘴が生え
ていた。
何とも形容しがたいその姿に、銀の悪魔は表情を歪める。
﹁モンスター⋮⋮だというのか⋮⋮? しかし、そのような⋮⋮﹂
あみきり
﹁⋮⋮網剪、という﹂

1671
ぼくは独り言のように呟く。
﹁本来は犬ほどの大きさしかない、漁網や蚊帳を切って人を困らせ
る程度の妖だ。しかしまれに⋮⋮このように巨大な個体が現れる。
人間から時折生まれる英雄のような、力ある個体が﹂
﹁アミキリ⋮⋮だと? 聞いたこともない。存在しないはずだ、そ
んなモンスターは⋮⋮! そもそもなぜ、私の結界の中で召喚術が
⋮⋮﹂
ぼくは口の端を上げて答える。
﹁これ、魔法じゃないんでね﹂
網剪が滑るように動いた。
デーモンが苦し紛れに突き出した槍の残りを、片一方の鋏で根元
から切断。そして流れるように、もう一方の鋏でデーモンの頭部を
切り飛ばす。
転がったデーモンの首を、ぼくは見ていなかった。
見据えるのは、石柱の上で転移の魔法陣を構築する、セル・セネ
クルの姿。
﹁今度は逃がすか﹂
てつになや
︽金の相︱︱︱︱鉄蜷矢の術︾
回転する円錐状の鉄杭が打ち出され︱︱︱︱銀の悪魔の肩に、正
確に突き立った。
﹁ぐぅっ⋮⋮!!﹂

1672
その衝撃によって、悪魔が地に落ちる。
痛みで集中を切らしたためか、転移は失敗したようだった。
黒い石柱による結界も、落下と同時に力の流れが消える。
﹁ふう、危ない危ない。当たってよかった﹂
てつになや
︽鉄蜷矢︾は普通の矢よりもまっすぐ飛ぶので当てやすいが、そ
こまでの精度があるわけでもない。
ヒトガタを周囲に配置し、ぼくの結界を張る。
これで転移は確実に不可能となった。
セネクルの元に歩み寄りながら、ぼくは言う。
﹁悪魔には一度、転移で逃げられそうになったからな⋮⋮。ちゃん
と生きているようだし、今回は我ながらうまくやった﹂
﹁⋮⋮ふ、ふふ⋮⋮﹂
肩に鉄杭が突き刺さったまま地面に倒れるセル・セネクルは、微
かな笑声を上げた。
さすが魔族だけあって、あれだけの高さから落下しても笑う余裕
があるらしい。
﹁慈悲をかけた、つもりですか⋮⋮? この心臓を射貫けば、よか
ったものを⋮⋮﹂
﹁勘違いするな。其の方にはまだ口をきいてもらう必要がある﹂
さとり
覚のヒトガタを浮かべながら、ぼくは言う。
﹁帝国側の間者を捕まえたのは初めてだな。誰の手の者かくらいは
喋って⋮⋮﹂

1673
﹁ごふっ!! ぐふっ⋮⋮!!﹂
その時、セル・セネクルが大量の血を吐いた。
ぼくは眉をひそめる。
鉄杭は内臓に当てていない。吐血は不自然だ。ならば落下時に骨
が肺に刺さったか、胃が破れたか⋮⋮。
﹁⋮⋮まあいい。その程度ならばいくらでも治せる﹂
ヒトガタを取り出し、軽く真言を唱える。
かつてランプローグ家の庭でカーバンクルを治した時のように、
損傷をヒトガタに移していくだけだ。頑丈な魔族ならそれで十分な
はず。
︱︱︱︱だが。
﹁⋮⋮は?﹂
ぼくは思わず困惑の声を上げる。
損傷を移していくはずだったヒトガタは⋮⋮瞬く間に中央から黒
ずんで破れ、力を失って地に落ちた。
まじな
術に干渉された気配はない。呪いは正しく作用したはずだ。
ならば、これは︱︱︱︱。
ぼくは気づき、愕然として言った。
﹁お前、まさか⋮⋮内臓を⋮⋮っ!﹂
﹁⋮⋮ふふ⋮⋮﹂
セネクルが掠れた笑声を上げる。
その腹は、不自然なほどに凹んでいるように見えた。

1674
間違いない。
この悪魔は、鉄杭に貫かれるその瞬間︱︱︱︱自らの腹に収まる、
主要臓器をどこかへ転移させていたのだ。
自分自身を転移させるのに比べ、距離も精度も必要なかったのだ
ろう。
まじな
内臓が丸ごと失われるほどの損傷となると、簡易な呪い程度では
治せない。おそらく治癒魔法でも同じだ。だから情報を渡さないこ
とを第一とするならば、これ以上ない確実な手段だったのだろう。
だが、そうだとしても⋮⋮、
﹁⋮⋮なぜだ﹂
愕然とした表情を隠せないまま、ぼくは悪魔へと問う。
くみ
﹁なぜそこまで⋮⋮魔族の立場で、どうして帝国に与するんだ﹂
﹁ふ⋮⋮おかしなことを、言います⋮⋮﹂
ひゅうひゅうと、悪魔の喉からは喘鳴が漏れていた。
セネクルはぼくを見据えて言う。
﹁魔族に与する、人間がいるのです⋮⋮その逆がどうして、いない
と言えるでしょう⋮⋮﹂
人間ならばとうに死んでいてもおかしくない重傷でありながらも、
セネクルはまだ筋道立った言葉を発していた。
だが、そう長くはないだろう。

1675
﹁心臓、と肺、を、残して、しまったのは⋮⋮失態でし、た。無駄
話をする、時間が、で、できてしまった﹂
﹁⋮⋮そうか。そればかりは、ぼくにとって幸運だったな﹂
﹁ふ⋮⋮。早く、逃げた方が、いい⋮⋮魔王様﹂
掠れた笑声とともに発せられた言葉に、覚を喚ぶための印が途中
で止まる。
瀕死の悪魔は、しかしどこかやり遂げたように笑っている。
﹁何を言っている⋮⋮どういうことだ﹂
﹁もう、気づいている、でしょう⋮⋮果ての大火山の、異変に⋮⋮﹂
そして、セル・セネクルは言う。
﹁蒸気井戸を、すべて⋮⋮大規模な儀式魔術で、破壊しました⋮⋮
じきに噴火が、お、起きます。かつて、人間の国を⋮⋮滅ぼしたほ
どの、大噴火が﹂
﹁っ⋮⋮!﹂
ぼくは思わず目を見開いた。
﹁あれだけの、数です。修復は⋮⋮ごほっ、容易では、ない。魔族
は⋮⋮壊滅的な、被害を受ける、でしょう。帝国に、抗えなくなる
⋮⋮ほどの⋮⋮﹂
﹁⋮⋮嘘だ﹂
愕然としながらも、ぼくは言う。
﹁昨日の今日だ⋮⋮其の方に、そのような時間はなかったはずだ﹂
﹁ふ⋮⋮儀式魔術と、言った、でしょう。間者は⋮⋮私一人では、

1676
ない﹂
ぼくは歯がみする。
考えてみれば当たり前だ。下手をすれば⋮⋮全種族に、このよう
な間者が紛れ込んでいてもおかしくない。
裏切りの悪魔は、時折咳き込みながら言う。
その息は、先ほどよりも弱くなっているようだった。
﹁お逃げなさい、魔王様⋮⋮王たちを、連れて。大噴火が起こっ、
ても、この広大な魔族領は⋮⋮滅びは、しません。ただ⋮⋮生産が、
減り、混乱が、生まれ、人間に、抗えなくなる⋮⋮だけです。此度
の、大戦、は、これで⋮⋮﹂
﹁セ⋮⋮セネクル!﹂
その時、不意に小さな影が駆け込んできた。
﹁セネクルっ、セネクルっ﹂
アル・アトス王は、今にも泣き出しそうな声音で、自らの従者に
縋り付く。
﹁ああ⋮⋮哀れな、我が、王⋮⋮﹂
セル・セネクルは、弱々しい笑みを浮かべる。
その目はすでに光を失っているのか、主君の方を向くこともない。
﹁残念、でし、たね⋮⋮悪魔族、は⋮⋮この先、も、愚かな貴族の、
専横が、続く、でしょう⋮⋮。私が⋮⋮先王を、殺し⋮⋮あなたの
ような子供を、王位に就けた、ために、です⋮⋮﹂

1677
﹁セネクル⋮⋮!?﹂
﹁あなたに、待つのも、苦難、ばかりだ⋮⋮私も、もう、いない⋮
⋮﹂
そして最後の一息を吐き出すように、銀の悪魔は言う。
﹁これから、は⋮⋮せいぜい⋮⋮ご自分で、話され、ます⋮⋮よ、
う⋮⋮﹂
悪魔の体が力が抜け、首が微かに横に傾いた。
その息が絶えたようだった。
よく晴れた朝にそぐわない、絶望的な沈黙が、辺りに流れる。
そんな中︱︱︱︱ぼくはヒトガタを、裏切り者の死体に跪く小さ
な悪魔の王へ向けた。
﹁一応、訊いておこう。アル・アトス王﹂
﹁⋮⋮セ、セイカさまっ? なにを⋮⋮﹂
ぼくのただならぬ様子を感じたのか、ユキが耳元で動揺の声を上
げた。
ぼくはかまわず続ける。
﹁其の方の従者は帝国の手先だった。この事態は⋮⋮其の方の差し
金か?﹂
﹁⋮⋮いいえ﹂
答える声は、小さく震えていた。
こちらを振り仰ぐ仕草も、ずいぶんと弱々しい。
だが、ぼくを見返すその目には︱︱︱︱強い力が宿っているよう

1678
に見えた。
﹁そのようなことは、決して﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
そう言って、ヒトガタを散らす。
疑う意味はなさそうだった。
ぼくは雲のない果ての大火山を見据えながら、重い息と共に告げ
る。
﹁ならば⋮⋮これからのことを考えよう﹂
第二十五話 最強の陰陽師、裏切られる︵後書き︶
※鉄蜷矢の術
螺旋が描かれた円錐状の鉄杭に、回転を加えて放つ術。ジャイロ効
果により直進性が高い。
1679
第二十六話 最強の陰陽師、確かめる
セル・セネクルの言っていたことは、事実だった。
蛟で果ての大火山へ飛び、眼下の山肌に見たのは、蒸気井戸がす
べて破壊された荒涼とした光景だった。
﹁⋮⋮﹂
王たちもリゾレラも、誰も言葉がなかった。
蒸気井戸はそのほとんどが土や瓦礫で埋まってしまっており、一
朝一夕で元通りに直せるとはとても思えない。

1680
内心で歯がみする。
昨日来た時、リゾレラの制止を押し切って蒸気井戸へ見物に降り
ていれば、力の気配に気づけていたかもしれない。
だが、それは無意味な仮定だった。
帝国の手の者も、火山が活発になり毒気も増えるタイミングだっ
たからこそ、このような工作に踏み切ったのだ。見物などという理
由で気軽に人が近づける状態だったなら、ぼく以前に魔族の誰かが
気づいている。
﹁⋮⋮猶予は、どれくらいあるだろう﹂
ぼくが静かに問うと、リゾレラがためらいがちに答える。
﹁わからないの⋮⋮。でも、過去に火山が活発になった時は、一ヶ
月くらいかけて少しずつ地震が増えていたの。今回だと、一番増え
るタイミングは、たぶん今から半月後⋮⋮。噴火が起こるとしたら、
それくらいなの﹂
﹁半月後、か⋮⋮﹂
破滅までの猶予は、ほとんど残されていなかった。
****
ぼくたちは、急いでルルムの里に戻ることとなった。
事は重大で、時間もない。

1681
一刻も早い意思決定が必要だった。
被害の予測や付近の住民の避難、食糧の供給や復興への備えなど、
決めるべきことは膨大で、とても一種族の事情に収まるものではな
い。
魔族全体としての意思決定が必要だ。
そのために︱︱︱︱魔王の処遇を決めるために集まった代表たち
へ、話を持ち込むことにしたのだ。
彼らは彼らの種族の議会などから、一定の決定権を委任されてい
る。
集まった目的からはずれてしまうが、噴火への対処のため横断的
に物事を決めるにあたり、今彼ら以上の適任はいなかった。
しかし。
﹁我ら悪魔族は特に、何らかの対処をするつもりはないのである﹂
王たちを伴って代表たちへ経緯を説明し、驚愕されながらも話し
合いが進み始めた時、エル・エーデントラーダ大荒爵が唐突にそう
言った。
神魔の代表レムゼネルが、信じられないかのような表情で言う。
﹁エーデントラーダ貴様、何を言っている⋮⋮状況がわかっていな
いのか!?﹂
﹁無論、よくわかっているのである﹂
金の悪魔は、こみかみに指を当てて言う。

1682
﹁幸いにして、果ての大火山の近辺に悪魔の集落はないのである。
おそらく同胞への被害はないであろう。対処の理由がないのである﹂
﹁っ⋮⋮! 貴様の同胞が人間に寝返り、引き起こした事態だろう
!﹂
﹁魔王様のお話を聞いていなかったであるか? セル・セネクルは
魔王様と行動を共にしており、今回の破壊工作には直接関わってい
ないのである。蒸気井戸を破壊した工作員が、我が種族の者である
証拠はない﹂
﹁そのような詭弁を⋮⋮!﹂
﹁詭弁はそちらであるぞ、レムゼネル。間諜が潜んでいる可能性は、
どの種族にもある。それは以前から周知の事実であったはず。今一
人判明したに過ぎない我が種族にばかり責任を求めるのは、筋が通
らないのである﹂
レムゼネルが押し黙る。
エーデントラーダ大荒爵の言うことには、一見筋が通っているよ
うにも思える。
だが、実行部隊も悪魔族であった可能性は十分にあるのだ。それ
にもかかわらず何もしないというのは、その実ただ自分たちの負担
を避けているだけでしかない。
オーガ
レムゼネルは、あきらめたように鬼人の代表に話を向ける。
﹁⋮⋮ドムヴォ殿は、どうされるつもりか。果ての大火山の麓には、
オーガ
鬼人の集落が数多くあったはず﹂
﹁儂らも、何もせん﹂
レムゼネルが目を見開く。

1683
﹁な、なぜ⋮⋮﹂
オーガ
鬼人の代表ドムヴォは、さすがに以前のような怖気のする笑みを
浮かべてはいない。
しかし、答えは冷酷だった。
﹁そこに住む者らは、火山の脅威を知ったうえで暮らしを営んでい
たはず。普段は魔石や鉱石など火山の恩恵にばかりあずかり、いざ
脅威が迫れば同胞へ助けを求めるなど、弱者のすることよ。そのよ
うな者は同胞ではない。彼らは、彼ら自身で助からねばならぬ﹂
﹁か、勝手だ!﹂
こらえきれずに叫んだのは、ヴィル王だった。
﹁彼らが採掘した富の一部は、僕らにも恩恵を与えていたじゃない
か! 収益からは税収が上がり、彼らの使う金は行商人などを通じ
て他の集落にも巡っている! 蒸気井戸をずっと手入れしていたの
も彼らだ! それなのに、災害が起こったら見捨てるだなんて⋮⋮
っ!﹂
﹁それは、これまでがそのような形であっただけのことですぞ、陛
下。儂らと彼らはなんの約束事も交わしておらぬ。状況が変われば、
自然と形も変わる。ただそれだけのこと﹂
﹁そんなっ⋮⋮安全な者にばかり都合のいい理屈、僕は認めない!
王として命ずる! 他種族と協力し、噴火への対処を決めるんだ
!﹂
﹁陛下﹂
ドムヴォは、静かに問う。
﹁国母様は⋮⋮メレデヴァ王太后陛下は、なんと?﹂

1684
ヴィル王は愕然として目を見開く。
﹁母上は⋮⋮関係ない⋮⋮っ!﹂
オーガ
﹁グフ⋮⋮陛下も鬼人ならば、ご理解できるはず﹂
ドムヴォは、例の怖気のする笑みと共に言う。
﹁力ない者は、何一つとして為せぬのだ⋮⋮と﹂
言葉を失うヴィル王。
そんな中、獣人の代表であるニクル・ノラが言う。
﹁わいらは、同胞くらいは助けんとなぁ。もちろん猫人に限らず、
他の連中も。あの辺にも集落があったはずやから﹂
﹁ニクル・ノラ殿⋮⋮ならば、避難民への食糧供給や、復興のため
の資金の拠出も願えないだろうか﹂
レムゼネルが言う。
﹁現状、魔族の中で最も財力を有するのが獣人族だ。無論ただ資金
提供を頼むのではなく、各種族で債券を発行し、それを買ってもら
うという形ではどうか。将来的に、発展に伴って返済を⋮⋮﹂
﹁できひんなぁ、それは﹂
ニクル・ノラは冷たく言い放った。
レムゼネルが、歯がみするように問う。
﹁⋮⋮なぜ﹂
﹁あんなぁ、金っちゅーのは返せる奴にしか貸さへんもんなんやで

1685
? しかも噴火の復興資金なんて、物乞いに気まぐれに施すのとは
わけが違う額や。発展したら返しますーって、五百年かけて大して
変わってへん連中もおるのに、何を期待せぇ言うねん。アホくさ﹂
﹁あ、あの⋮⋮﹂
小さく声を上げたのはフィリ・ネア王だった。
﹁フィリは⋮⋮﹂
﹁ん? ああ、お嬢もおったんやったっけ。お嬢の方からも言って
やってくれへんか? 泥船に金貨積むなんてアホのすることやって﹂
﹁え⋮⋮で、でも⋮⋮﹂
フィリ・ネア王はそれ以上何も言わず、そのままうつむいてしま
う。
ニクル・ノラが続ける。
﹁そうそう。食糧供給なら、巨人族がやればええんやないか? よ
くわからんバカでかい作物ぎょーさん作っとるやろ。わいらが食べ
られるのかは知らへんけども、それを少し回すだけで避難民の食糧
には十分なんと違う?﹂
﹁⋮⋮断る﹂
巨人の代表エンテ・グーは、迷いない口調で言った。
﹁これ以上⋮⋮他種族のために、我らが負担を強いられる筋合いは
⋮⋮ない。同胞へ⋮⋮施すのみだ﹂
﹁⋮⋮いつまでそんなこと言ってやがるんだ!﹂
声を上げたのは、ガウス王だった。

1686
﹁五百年も前のことをうだうだうだうだと! オレはバカだが、そ
んな女々しい真似は絶対に許さねぇ! 食糧くらい回してやったら
いいじゃねーか!﹂
エンテ・グーは、ゆっくりとガウス王を見る。
﹁先王陛下ならば⋮⋮そのようなことは、おっしゃらない﹂
﹁っ⋮⋮!! オレとっ、オレと親父の何が違う!!﹂
﹁ご自身で今、おっしゃったはず⋮⋮自分は馬鹿なのだと。それが
⋮⋮答えです。もっと、学ばれなさい。いずれ先王の地位に⋮⋮就
くまでの、長い間に﹂
ガウス王が目を見開き、唇を引き結ぶ。
トライア ダークエルフ
他の者たちに続き、三眼の代表であるパラセルスに、黒森人の代
表であるガラセラ将軍が言う。
トライア
﹁我ら三眼の方針も、獣人や巨人と近いですね。同胞は助けますが、
それ以上の協力はいたしかねます。そもそもこれまでに、こういっ
た横断的な事業は前例がほとんどないでしょう。それこそ魔王軍結
成くらいでは? 正直、なぜ今ばかり⋮⋮という印象ですね﹂
ダークエルフ
﹁我々黒森人としても同じだ。戦争を控えている今、軍事費を圧迫
しかねないほどの大きな出費は控えたい。どうだろう、今回の噴火
はそれぞれの種族で対処するというのは。はるか昔の話になるだろ
うが⋮⋮おそらく前回の噴火時もそうだったのではないか?﹂
トライア ダークエルフ
三眼も黒森人も、魔族全体としての対処をはっきりと拒んでいる
ようだった。
﹁パ、パラセルスよ。なにもそう薄情なことを言わずともよいでは
ないか﹂

1687
その時、おずおずといった調子で、プルシェ王が口を開いた。
﹁魔族のためになることなのじゃ、もう少し前向きに検討しても⋮
⋮な? そうじゃ、余は今回、魔王と共にあちこちを回ってな。そ
なたの母君と妹君の喜びそうな物を、また⋮⋮﹂
﹁陛下﹂
パラセルスが横目でプルシェ王を見やり、冷たい声音で言う。
﹁ここは王宮ではございません﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁そのようなことは、この場ではお控えください。私はペルセスシ
オ宰相と議会の承認を得て、種族の意思決定を委任されています。
私はそのような立場、ここはそのような場なのです。ご理解くださ
い﹂
途方に暮れたような表情で、プルシェ王が立ち尽くす。
見かねたように、今度はシギル王が口を開く。
﹁な、なあ。おれらは、協力してやってもいいんじゃねーか? 復
興となると人員が必要だろうし、兵たちのいい経験になるじゃねー
か。軍事費っつっても、このままじゃ戦争どころじゃなくなる。だ
から⋮⋮﹂
シギル王の声は、次第にしぼんでいった。
ガラセラ将軍は、何も答えなかった。
自らの王へ、視線を向けることすらもせず、ただ沈黙を保つのみ。
シギル王の表情がこわばり、その拳が強く握られる。

1688
﹁貴様ら⋮⋮いい加減にしろ!! 状況がわかっているのか!?﹂
レムゼネルが、強く言い放つ。
﹁人間側の破壊工作により、魔族領が危機に陥っているのだぞ!?
果ての大火山の噴火ともなれば、被害が周辺の集落だけでは済ま
ない可能性もある! 漫然と対処していれば種族間の損害の差が大
きくなり、我らの分断は進むだろう! それこそ人間どもの思う壺
だ! そんな状況にもかかわらず貴様らは⋮⋮っ!﹂
﹁もういい﹂
その声を遮るように︱︱︱︱ぼくは言った。
﹁もういい⋮⋮もう、わかった﹂
第二十七話 最強の陰陽師、弱音を吐く
その日の夜。
ぼくは、里の外れにある小高い丘へやってきていた。
代表らと初めて会合を行ったあの時と同じように、白い石柱に背
を預けて溜息をつく。
﹁⋮⋮勇者の娘らと会わずともよいのですか?﹂
頭の上から顔を出し、ユキが言った。
ぼくはぽつりと答える。
﹁そういう気分じゃないんだ﹂

1689
とても今、アミュたちと話す気にはなれない。戻ってきたことを
伝えてすらいなかった。
﹁⋮⋮あの山が火を噴くことが、それほどの大事となるのでしょう
か﹂
ぼくの心情を察したのか、ユキが別の問いを投げかけてくる。
﹁かの世界でも、たしか一度か二度、富士の山が火を噴いておりま
したが⋮⋮都へは少々の音が轟いた程度で、ほとんど影響はなかっ
たではありませんか。ここ魔族領は、おそらく日本よりも広大。大
都市が付近にあるわけでもなし、そこまでの懸念を抱く必要もない
かと思われるのですが。だからこそあの魔族の者らも、さしたる動
揺を見せていないのでは?﹂
﹁⋮⋮そうとも言い切れない﹂
ぼくはぽつぽつと答える。
﹁確かにぼくが生きていた頃に起きた噴火は、それほど大したもの

ではなかった。だが⋮⋮ぼくが生まれる百五十年ほど前に起きた冨
じ やま
士山の噴火は、あれらとは比べものにならないほどの規模だったら
ふもと
しい。麓の湖が溶岩で埋まり、森の木々は焼き尽くされ、大勢の人
々が家を追われたのだと、当時の記録に残されている﹂
ぼくは続ける。
﹁噴火の脅威は、何も溶岩や土砂ばかりじゃない。噴煙と共に空へ
舞い上がり、後に降ってくる灰も問題だ。山の周辺では道や建物を

1690
埋めてしまうほどに降り積もるが、これは風向きによってはかなり
広範囲に広がってしまう。それほどの量がなくとも、畑に降れば農
作物に影響が出る。被害は麓の集落にとどまらない。あらゆる種族
の食糧生産が減り、魔族全体の力が削がれることになるだろう。こ
れは⋮⋮そういう事態なんだ﹂
さらに言えば、おそらくはレムゼネルが懸念していたように、種
族間での分断が進むことになる。
被害の少なく余裕のある種族と、復興に必死な種族とで、足並み
がそろうわけがない。
そうなれば、もはや魔王軍どころではない。被害の数字以上に、
魔族の力は弱まることとなるだろう。
もちろん、そうならない可能性だってある。
そこまで大きな噴火にはならないかもしれない。それどころか、
噴火が起きないまま火山活動が収まってしまっても不思議はない。
だが、そんな希望的観測に縋っていい状況ではなかった。
あの火山はかつて、その向こうにあったという人間の国を滅ぼし
ているのだ。
その圧倒的な自然の力が、今度は魔族領側に向かないとも限らな
い。
セル・セネクルの言っていた通り、そうなったとしてもこの広大
な魔族領が滅ぶことはないだろう。影響のまったくない地域の方が
圧倒的に多いはずだ。
しかし。
勇者と魔王が誕生し、開戦の火種が燻っているこの時に、もし最
悪の事態が起きてしまえば⋮⋮、

1691
﹁⋮⋮ならば﹂
わずかな沈黙を経て、ユキが口を開いた。
﹁ユキは、あえて申し上げましょう⋮⋮セイカさま。これは好機に
ございます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカさまは、魔族の者らとの関係に折り合いをつけ、人間の国
に帰ることが目的だったはず。此度に起こる噴火は、その絶好の機
会にございます。その被害が大きければ大きいほど、ここの者らは
対処に追われ、魔王や戦争どころではなくなることでしょう。場合
によっては⋮⋮セイカさまがそれを引き起こしてしまうのも、よろ
しいかと存じますが﹂
﹁⋮⋮。それは⋮⋮﹂
ぼくは口ごもる。
ユキの言うことは、まったく間違っていなかった。
しかし⋮⋮、
﹁わかっております﹂
ぼくが答えに窮するのを知っていたように、ユキは言う。
﹁セイカさまは、そのようなことはなされないでしょう。あの魔族
の子らを⋮⋮縁を結んだ幼き王たちを、見捨てるような真似は決し
てなされないのでしょう﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁久々に、弟子ができたようでございましたものね。ユキも⋮⋮少
々懐かしくなりました﹂

1692
穏やかに言ったユキが、頭の上から丘へと飛び降りた。
ぼくを正面に見据えて、言う。
﹁それならば、セイカさまのなすべきことは、明らかにございます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あの山の噴火をお収めくださいませ︱︱︱︱セイカさまであれば、
それも可能でございましょう﹂
ぼくは、わずかな沈黙の後に答える。
﹁方法は、なくはない。だが⋮⋮とても簡単とは言えない。このぼ
くであってもだ﹂
ぼくは重々しい口調で続ける。
﹁火山の噴火は、とてつもない規模の自然現象だ。それを完全に思
い通りにするのは難しい。同じ規模の破壊を行うよりも、ずっとだ﹂
ラカナのスタンピードも大災害と言えるものだったが、今回は事
情が違う。
ただモンスターを倒せばいいのではない。その膨大な力を制御し
なければならないのだ。
﹁確実にうまくいくとは言えない。もし失敗すれば、その瞬間に噴
火が起こってしまうだろう。そうなったとき⋮⋮少なくない魔族の
者たちが、命を落とすことになるかもしれないが⋮⋮﹂
オーガ
事件の前日に温泉を借りた、鬼人の村を思い出す。
住民こそ魔族だったが、それ以外はどこにでもありそうな素朴な
村だった。

1693
湯を貸してくれた礼として余っていた酒樽を渡してやった時には、
村人たちも喜んでいた。
あそこもきっと⋮⋮土砂や溶岩に飲み込まれるか、そうでなくて
も灰に埋まってしまうだろう。
﹁⋮⋮ぼくに、そんな責任は負えない。所詮、ぼくは魔族ではない
人間⋮⋮ここでは部外者にすぎないんだ。彼らの命運を、ぼくが左
右してしまうのは⋮⋮とても道理に合わない﹂
﹁ならば、備えさせればよいではありませんか﹂
ユキは言う。
﹁どのみち噴火は起こるかもしれないのです。もしもの時に備えあ
らかじめ付近の住民を避難させ、食べ物と家も用意させ、別の場所
で暮らしを送れるようにさせましょう。結果としてうまくいかず、
多少の不便が生じてしまっても、それは手を尽くしたセイカさまが
責を負うものではありません。当事者は彼らなのです。その程度の
協力と配慮は、当然にございます﹂
﹁⋮⋮そう簡単にはいかないさ﹂
ぼくは力なく笑う。
﹁お前の言う備えには、かなりの金や人の手が必要になる。だが⋮
⋮代表らの様子を見る限りでは、どれだけやってくれるか知れたも
のじゃない。彼らが最も重視しているのは、魔族全体の利益などで
はなく、自らの種族の利益だ。他種族のための負担などは当然嫌が
る。結果として互いに牽制しあい、先の話し合いのようになってし
まう。あの様子では魔族全体での対処なんてとても無理だ。辺境の
小さな集落のために、権力者たちがどれほど金を出すかも怪しい。
避難すらも、どれほど行われるか⋮⋮﹂

1694
﹁⋮⋮ならばっ﹂
その時、ユキが強い口調で言った。
﹁あの幼き王たちに、求めなさいませ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁セイカさまがこれから行うことの、助けとなるよう。あの者たち
は王であり、そして互いに友誼を結んでもおります。きっと成し遂
げられるはずでございます﹂
﹁それは⋮⋮無理だ﹂
ぼくは諦めとともに首を横に振る。
﹁あの子らは、まだ子供なんだ。王としての実権だって⋮⋮﹂
﹁いいえ。きっと⋮⋮きっと成し遂げるでしょう。ユキにはわかり
ます﹂
ユキは、断言するように言った。
﹁たとえほんの一時であれ︱︱︱︱セイカさまに師事していた者た
ちなのですから﹂
1695
第二十八話 最強の陰陽師、頼む
翌日。
ぼくはリゾレラと王たちを蛟に乗せ、再び空にいた。
どこかへ向かおうとしているのではない。これからする話を、誰
かに聞かれたくなかったためだ。
沈んだ表情の王たちが、何を言われるのかとこちらに顔を向けて
いる。
ぼくは、この期におよんでも未だためらっていた。
しかしそれでも口を開く。
﹁⋮⋮ぼくは人間の統べる国で生まれ、人間の術士として育った。

1696
これまでずっと﹂
幼き魔族の王たちに向かい、ぼくは続ける。
﹁人ならざる者は、ぼくにとっての敵か、あるいは力で従わせ利用
する下僕か⋮⋮その程度にしか考えてこなかった。多少の例外はあ
っても、だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁魔王などと言われても、未だに実感は湧かない。人外の者たちを
導こうなどという気は、今に至ってもまったく起きない。ぼくはど
こまでも人間で、人間以外の存在にはなれないのだろう。⋮⋮だが﹂
ぼくは、わずかに口ごもった後に告げる。
﹁それでも⋮⋮君たちとは縁が生まれてしまった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いや、君たちだけじゃない。ぼくたちは様々な場所へ赴き、そこ
に住む者たちと出会った。世話になった者、言葉を交わした者たち
がいる。その記憶はもう、ぼくの中で無視できないものになってし
まった﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくはすべての者を等しく救いたいと思うような善人ではない。
そこまでの慈悲の心は持ち合わせていない。だが⋮⋮縁や義理のあ
る者は、助けることにしているんだ﹂
ぼくは、王たちを見つめながら告げる。
﹁率直に言おう︱︱︱︱ぼくならば、噴火を止めることができるか
もしれない﹂

1697
皆が、驚いたように目を見開いた。
ぼくは続ける。
﹁だが、確実ではない。試み、もし失敗すれば、その瞬間に噴火が
起きてしまうだろう。溶岩や土砂が麓の集落を飲み込み、高く舞い
上がった灰がその周囲の集落をも白く埋める⋮⋮そうなってしまう
可能性がある﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ぼくにその責任は負えない。所詮人間でしかないぼくには、ここ
に住む者たちの命運を左右する道理がない。このままでは、残念だ
が何もすることはできない。︱︱︱︱だから、﹂
ぼくは、幼き王たちへと呼びかける。
﹁君たちに︱︱︱︱すべての魔族を動かしてもらいたいんだ﹂
王たちの反応を待たず、ぼくは続ける。
﹁噴火の影響を受けそうな集落の者たちを、どこかへ避難させてほ
しい。ぼくが彼らを滅ぼしてしまわないように。同胞は助けると言
っている種族もあるが、金や人手には限りがある。おそらく完璧に
対応しきれるものにはならないだろう。取りこぼしなくやり遂げる
ためには、魔族全体が協力し合うことが必要だ。だが⋮⋮現状はと
てもそのような状態にない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だから、王である君たちを頼りたいんだ。もちろん君たちの状況
はわかっている。君たちにとってそれが、どれだけ困難なことかも。
しかし⋮⋮もうそれ以外に、方法は思いつかない。だからどうか⋮
⋮君たちの手で、自らの種族を動かしてはもらえない、だろうか⋮

1698
⋮﹂
言いながら、ぼくの内心には罪悪感が募っていった。
ユキに言われ、一応伝えてみることにはしたが⋮⋮こんなこと、
やはり頼むべきではない。
彼らは、まだ子供なのだ。
王としての実権もなければ、強大な暴力も持たない。
弱いこの子らにとって、こんな頼みごとをされても途方に暮れる
ばかりだろう。
それを理解しながら⋮⋮ぼくは、なんて重荷を背負わせようとし
ているのか。
やっぱり忘れてくれ、違う方法を考えるから、と、取り消しの言
葉を発しようとした︱︱︱︱その時だった。
﹁やるよ!﹂
王たちの中から、声が上がった。
﹁フィリ、やる! フィリにまかせて! ぜったいみんなを説得す
るから!﹂
フィリ・ネア王だった。
その青い目にうっすら涙を浮かべながら、それでもまっすぐにこ
ちらを見つめ返してくる。
﹁いい⋮⋮のか? しかし君の立場では⋮⋮﹂
﹁いい。いいの﹂

1699
両目をごしごしと手で擦りながら、フィリ・ネア王は言う。
﹁きっとパパなら⋮⋮同じように言ってたと思うから﹂
﹁⋮⋮ならば、余も力を貸すとしよう﹂
静かに言ったのは、プルシェ王だった。
微かに笑い、ぼくに言う。
﹁なに、案ずるな魔王よ。他の者はともかく、余にはその程度わけ
もない﹂
﹁じゃ⋮⋮おれもやるよ﹂
そう言って困ったように笑ったのは、シギル王だった。
﹁まあ、なんとかなるんじゃねぇかな⋮⋮やれるだけやってみるよ﹂
﹁それならオレも負けてらんねぇな!﹂
ガウス王が、そう言って豪快に笑う。
﹁親父は話がわかるからな! 全力でぶつかればきっと大丈夫だ!﹂
﹁僕もやります﹂
強い眼差しと共に、ヴィル王が言った。
オーガ
﹁果ての大火山の麓に住むのは、多くが鬼人の民だ。王である僕が、
ここで弱音を吐く資格はない﹂
ふと視線に気づき、ぼくは最後にアトス王を見た。
従者を失った悪魔の王は、こちらをまっすぐに見つめながら深く
うなずいた。

1700
ぼくは思わず、ためらいがちに言う。
﹁本当に⋮⋮いいのか? ぼくが言うのもなんだが、これは君らが
背負い込むようなことでは⋮⋮﹂
﹁セイカ。みんな、覚悟してるの﹂
答えたのは、リゾレラだった。
真剣な表情で言う。
﹁この子たちは、子供である前に王様なの。その覚悟を、軽く見る
べきではないの﹂
その言葉にはっとし、ぼくは王たちを見回した。
彼らは一様に、見覚えのある表情を浮かべていた。
巣立っていったかつての弟子たちと、同じような︱︱︱︱。
﹁任せてみるの。いい、セイカ?﹂
﹁⋮⋮わかった﹂
ぼくは静かにうなずいて答える。
ああ、そうか︱︱︱︱、
﹁頼んだ、みんな﹂
この子たちも、ぼくを置いていくんだろう。
1701
第二十九話 最強の陰陽師、黒森人の王都へ向かう
ダークエルフ
初めに向かったのは、黒森人の王都だった。
﹁事情はわかりました。しかし⋮⋮到底協力はできませんな﹂
ダークエルフ
長い長い卓を囲む、一人の年老いた黒森人が言った。
巨大な神樹の根元にある王宮。
その中の一室にて、議会が開かれていた。
議題は無論、今回の事件について⋮⋮そして、住民の避難に際し
て必要となる、人員の拠出についてだ。

1702
﹁うむ、我らの兵を派遣するべき事態とは思えん。被害の範囲も限
られたものとなるだろう。同胞を助けるための、最低限の対処のみ
すればよい﹂
ダークエルフ
軍装をした、別の黒森人が言う。
事情はすべて説明した。
事件の経緯から、魔族全体の協力が必要なことに至るまで。
楽観視されても困るので、噴火を止められる可能性については伏
せたが⋮⋮それ以外のことは、ぼくとシギル王とで誠心誠意話した
つもりだった。
﹁ガラセラ将軍も同様の判断だったのなら、間違いない。わざわざ
魔王様や他種族の王に同席していただく事柄でもなかったのでは?﹂
ダークエルフ
また異なる黒森人が言う。
やはりというべきか、ここでも協力を得られそうな雰囲気はなか
った。
説明のためという名目で、議会にぼくや他の王たちも同席してい
たが、だからといってぼくらの意思を尊重する様子も見られない。
﹁しかし⋮⋮さすがに果ての大火山の噴火となるとただごとでは済
まないのでは? 陛下のおっしゃるとおり、食糧生産にも影響が出
る可能性もある。ここは他種族と足並みをそろえた方が⋮⋮﹂
﹁ならばなおのこと、出費は抑えねばならぬ。貴殿はその方面に疎
かろうが、兵を動かすのもタダではない。食糧が高騰するのなら、
そのための資金を蓄えておかねば﹂

1703
議員の顔ぶれを見ていて気づいたのは、やはり軍の派閥が多そう
だということだった。
軍装の者こそ限られているが、それ以外にも体つきや立ち居振る
舞いに武人の気配がある者が多い。おそらく、軍を退役した後に議
員となった者だろう。
そういった者たちが議席の過半数を占めている。そのせいか、文
人議員の立場は弱いようだった。
﹁⋮⋮﹂
卓の最奥に着くシギル王は、ずっと静かなままだ。
初めに事情を説明したきり、沈黙を保っている。
だが⋮⋮不意に、席を立って言った。
﹁悪い、ちょっといいか﹂
場の全員が、シギル王を見る。
﹁この議会は、対応の是非を決めるために開いたわけじゃない。先
に説明したとおり、他種族との協力は必須だ。今はそういう事態な
んだ﹂
﹁⋮⋮﹂
ダークエルフ
﹁魔王様と、黒森人の王であるおれが決めたこの方針について、具
体的な方策を考えてほしい。今日みんなを集めたのはそのためだ﹂
議場から、失笑の声が上がった。

1704
﹁しかしながら陛下。それにはまずその方針の是非を問わねば。議
会とはそういう場ですぞ﹂
﹁我らがいるのもそのため。それとも陛下は、専制君主として君臨
されたいのですかな?﹂
まつりごと
﹁これ、さすがに言葉が過ぎるぞ。陛下はまだ幼いゆえ、政に疎い
のだ。我らが支えつつ、これから学べばよい﹂
取り付く島もない議員たちに、シギル王の目が細められる。
﹁おれがここまで言っても⋮⋮まだ聞き入れようという気はないの
か﹂
長い卓のどこからも、言葉は返ってこない。
﹁そうか⋮⋮なら、もうたくさんだ﹂
どこか芝居がかった口調で言いながら、シギル王は目を鋭くする。
﹁お前らにはもう愛想が尽きた。おれはここを出て行くことにする﹂
議員の間から、先ほどよりも強い失笑の声が上がった。
﹁おっと、また家出なさるおつもりですかな﹂
﹁さすがに勘弁してもらいたいものだ⋮⋮先には我らがどれほど混
乱したことか﹂
もと
﹁して、次は誰の下へ?﹂
どこか呆れたように笑う議員たち。
だが次に発せられたシギル王の言葉により、その表情が凍り付く。

1705
エルフ ドワーフ
﹁森人と矮人の独立領だ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁それは⋮⋮どういうことですかな﹂
﹁どういうことも何もない、そのままの意味だ。おれはこの王宮を
エルフ
出て行き、以後は独立領に居をかまえることにする。森人たちはか
つての同胞をきっと歓迎してくれるだろう。おれと共に行こうとい
う奴はついてこい﹂
議場がざわめき出す。
ダークエルフ
そんな中、一人の年老いた黒森人がシギル王に問う。
﹁どういうおつもりですかな、陛下。もしや⋮⋮王位を捨て、市井
に下られると?﹂
﹁いいや。おれは王位は捨てない﹂
シギル王が、強い口調で言う。
﹁だからおれがいる場所が王宮、おれが住む街が王都だ。これから
ダークエルフ エルフ ドワーフ
黒森人の王都は、森人と矮人の独立領に移る。この街はただの一集
落に成り下がる﹂
﹁なっ⋮⋮!﹂
﹁だから言っただろ。おれと共に行こうという奴はついてこいと﹂
議員たちが、そろって動揺の声を上げる。
﹁独立領の中に王都だと!?﹂
﹁それでは⋮⋮まるで亡命政府ではないか! 陛下は神樹と我らを
捨てるおつもりか!﹂
﹁そんな大げさなものじゃない。ただの遷都だよ。何をそんなに騒
ぐことがある﹂

1706
シギル王が、口の端を吊り上げて言う。
エルフ ダークエルフ
﹁お前らも満足だろ。これで森人と黒森人は、また同胞に戻れるん
だ﹂
議員たちは絶句していた。
満足なわけがない。
ダークエルフ エルフ
黒森人は元々、人間との交流の差により森人と袂を分かった。そ
れを踏襲する者たちは、だからこそ戦争に際し独立領を武力で併合
することで、かつての関係を取り戻そうとしていた。
エルフ
つまり⋮⋮森人の側に歩み寄ろうというつもりなど、まるでなか
ったのだ。
ダークエルフ エルフ
シギル王は逆に、黒森人が森人に歩み寄るのだと言っている。独
立領の中に王都を築くとは、そういうことだ。
王の考えに賛同し、共に行こうという者もいるだろう。だが、決
して譲れない者もいるはずだ。
ダークエルフ
だから下手をすれば⋮⋮今度は黒森人という種族が、真っ二つに
割れかねない。
シギル王は、そのような事態を引き起こすと言っているに等しか
った。
ぼくも驚いていた。
どこか苦労人のような雰囲気で、それでも大勢の者たちのことを
考えていた少年王が、まさかこんなことを言い出すなんて。
﹁陛下⋮⋮ご自分が何をおっしゃっているか、理解されているので
すかな﹂

1707
ダークエルフ
年老いた黒森人が、表情を硬くしながら言う。
﹁そのようなこと⋮⋮我らが認めると?﹂
﹁認めなかったらどうするんだ? また軟禁でもするか?﹂
それを真っ向から見返しながら、シギル王は言う。
﹁だけどな、それもいい加減にしておかないと他の者が黙ってない
・・・・・
ぞ。やりすぎだってな﹂
軍派閥の議員たちが、苦い表情で押し黙る。
当然だろう。
軍以外の派閥の者だっているのだ。軍の専横が目に余れば、反発
の動きだって出てくるに決まっている。どこまでも好き放題にして、
今の秩序を維持できるわけがない。
﹁それに聞くが、お前ら今何歳だ? 二百か? 三百か?﹂
今や聞かされるばかりの議員たちに向け、シギル王は話し続ける。
﹁おれはまだ十五だ。お前らは未熟だと笑うが、いいことだってあ
る。おれはこれから、お前らよりずっと長い時を生きるんだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おれをいつまで軟禁していられる? 二百年か? 三百年か?
いいぜ、いつまでも付き合ってやるよ。お前らが死に絶え、その意
思が途絶えたその時に、おれはここを出て独立領に王都を築く。そ
してお前らは、せいぜい子孫に恨まれればいいさ。問題を先送りに
して、自分たちに混乱をもたらした愚かな父祖だってな!﹂

1708
議場はすっかり静まり返っていた。
そんな中、シギル王は静かに席に着く。
﹁兵を出せよ。それくらいわけないだろ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁金のことは心配しなくていい。物資も食糧も、きっとみんながな
んとかしてくれる。おれたちが一番貢献できるのは、統制の取れた
人員の手配だ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おれたちの兵を自慢してやろうぜ。人間を殺す時なんかじゃなく、
誰かを助けるこの機会にさ﹂
沈黙は続く。
だが、確実に流れは変わりつつあった。
その時シギル王が、小さく溜息をついて言った。
﹁もし協力してくれるなら、多少は軍に歩み寄ってやってもいい﹂
何人かの議員が顔を上げた。
シギル王は続ける。
﹁お前らおれが文人ばっかり目にかけるから、すねてたとこあった
だろ。だからいくらかは、お前らの言うことを素直に聞いてやって
もいいって言ってるんだ。今回苦労かけるわけだしな﹂
﹁⋮⋮それは、本当ですかな。陛下﹂
ダークエルフ
古びた眼帯を直しながら、年老いた黒森人が言った。

1709
シギル王は、微かに笑って答える。
﹁ああ。おれは約束を守る﹂
﹁⋮⋮。先王陛下には似られませんでしたな。あの方ならば、この
ような手は使われなかった﹂
﹁おれはおれだよ。だからおれの思うとおりにやる﹂
﹁⋮⋮よいでしょう。それならば︱︱︱︱︱︱︱︱﹂
****
﹁いやぁー、なんとかなってよかったぁー。ははっ﹂
数刻後。
ぼくらは再び蛟の上にいた。
ダークエ
あの後は無事話がまとまり、避難場所の設営などにあたって黒森
ルフ
人軍の派遣が決まったのだ。
軍には工兵もいる。きっと大いに役立ってくれるだろう。
まさか、本当に成し遂げるとは思わなかった。
﹁あの手、なんとなく考えてはいたんだけど、言ってる間はほんと
ドキドキだったよ。どうぞどうぞ出て行ってくださいなんて言われ
たらどうしようかと思った。まさかあんなにうまくいくなんてなぁ
⋮⋮まあもうこれで、同じ手は使えなくなったけど﹂
﹁そうだったのか⋮⋮それは悪かった。議会を動かす貴重な手段を
使わせてしまって﹂

1710
ぼくが言うと、シギル王は笑って答える。
﹁何言ってんだよ。こんな時のために考えてたんだ。むしろおれの
役目を果たせてほっとしてるよ﹂
﹁そうか⋮⋮。だが、よかったのか?﹂
ぼくはためらいがちに問う。
﹁軍の便宜を図るような約束をしてしまって⋮⋮。軍の方針に、君
は反対だったはずじゃ⋮⋮﹂
﹁あー、まあ大丈夫だろ﹂
頭を掻きながら、シギル王が答える。
﹁あいつらだって、おれの大切な臣下なんだ。軍はなくてはならな
い以上、あんまり無下にもできないさ。特に今回は苦労をかける分、
多少はいい目を見せてやらないと﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁それに⋮⋮あれ、ただの口約束だしな﹂
シギル王は、そう言っていたずらっぽく笑った。
﹁まあこれからもうまくやるよ。バランス取りつつな。なんだっけ
あれ、﹃中庸の徳たるや、其れ至れるかな﹄ってやつ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
ぼくは小さく笑う。
極端さのない、ほどほどの調和こそが最も望ましい形である。
そんな孔子の言葉の通り、彼はうまくやっていくのだろう。

1711
﹁で、次はプルシェだけど⋮⋮お前のとこは大丈夫なのか?﹂
﹁余を甘く見るでない﹂
プルシェ王が、シギル王につんと答える。
﹁そなたよりもうまくやってやるわ﹂
第三十話 最強の陰陽師、三眼の王都へ向かう
トライア
続いて赴いたのは、三眼の王都だった。
﹁ふむ。おおむね、意見が出そろいましたな﹂
階段状に席が並ぶ広大な議事堂にて、王のそばに立つ宰相のペル
セスシオが言った。
﹁やはり大規模な支援は控えるべき、というものが多かったようで
すが﹂
トライア ダークエルフ
三眼の議会も、黒森人の時と同じような流れをたどった。

1712
ぼくとプルシェ王の主張通りに、他種族と協力し合おうという意
いと
見もないではなかったが⋮⋮やはり負担を厭い、同胞への支援にと
どめるべきという者の方が多数派だった。
ダークエルフ
黒森人の議会のように、一定の派閥の者が幅を利かせている雰囲
気はない。
かえり
しかしそれでも、プルシェ王の主張が顧みられる様子はなかった。
彼らは政治家として、その方が種族の利益になると信じているの
だろう。
厳しい状況にもどかしさが募る。
﹁では決を採りましょう﹂
﹁その前に、余から皆へ言うべきことがある﹂
ペルセスシオの進行を遮り、不意にプルシェ王が声を上げた。
議員らが注目する中、宰相が王へ問いかける。
﹁どうされましたかな、陛下﹂
﹁うむ、ちょっとな。時間を奪うことを許せ、じぃや﹂
﹁⋮⋮陛下、不満はおありでしょう。しかしここは議会。それぞれ
腹に抱えるものはあれど、皆が我が種族を思い、物事を決める場で
す。いくら魔族全体のためとはいえ、陛下の一存で⋮⋮﹂
﹁わかっておる。だから少しばかり静かにしておれ﹂
そう言って、プルシェ王が議場を見回した。
﹁えー、皆の者﹂

1713
大きな机を前に、プルシェ王の小さな体はほとんどが隠れてしま
っている。
その姿は、まるで場違いな子供のようだ。
ただそれでも、彼女の高い声は議場によく響いた。
﹁せっかく魔王と共に見聞を広げてきたというに、土産がこのよう
な面倒事ですまぬの!﹂
議場から笑声が上がる。
それに応えるかのように、プルシェ王はわずかに笑みを浮かべる。
﹁余の贈り物は常々、そなたらの妻や夫、子や親御にも大層喜ばれ
てきたと自負しておる。だからこそ、此度はこのようなものを持ち
帰ってきてしまい、恥じ入るばかりじゃ。さらにはこれから⋮⋮そ
なたらにわがまままで言い、恥を重ねねばならぬとは﹂
いつの間にか、議場は静まり返っていた。
プルシェ王は続ける。
﹁魔王が訪れたかの時、余がこの王都から連れ去られることがなけ
れば、余もそなたらと同じ判断を下していたじゃろう。他の種族な
トライア
ど知らぬ、魔族領など知らぬ、我らが三眼の民さえ栄えればよい、
と。しかし⋮⋮うむ、あそこに座っておる阿呆どもに絆され、どう
やら心が変わってしまったようなのじゃ。少しばかりなら、あやつ
らと足並みをそろえるのも悪くない⋮⋮と﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まったくの私情、ただのわがままですまぬ。だが今ばかり⋮⋮今
ばかりは、そなたらに頼みたい。どうか、余の願いを聞き入れてほ
しい。以上じゃ﹂

1714
言い終え、プルシェ王が沈黙する。
静まり返る議場にて、ペルセスシオの声が響く。
﹁⋮⋮よろしいですかな、陛下。では決議に移ります。噴火にかか
る魔族全体での対処のため、各種支援に賛成の者は、挙手を﹂
ぽつりぽつり、と手が上がっていく。
その数は、少ない。
賛成している者も、その表情や仕草から、強い信念があるように
は見えなかった。どこかやれやれと、仕方なさそうな様子だ。
とてもではないが、議場の空気をプルシェ王が変えたようには見
えない。
ただ︱︱︱︱挙手の流れは、止まらなかった。
次々に手が上がっていく。
その勢いは次第に強くなっていき、全体の三割を、四割を超え⋮
⋮やがて過半数を大きく超えた時に、ようやく挙手は止まった。
﹁こ、これは⋮⋮﹂
宰相のペルセスシオが、両の目を見開く。
ぼくにも一瞬、何が起こったのかわからなかった。
プルシェ王の演説が議員たちの心を打った、という様子ではない。
現に手を上げていない議員たちは、信じられないかのような面持ち
で周囲を見回している。
だとすれば、可能性は一つだ。
初めに一定の派閥の者が幅を利かせている雰囲気はない、などと

1715
感じたのが間違いだった。
プルシェ王の派閥こそが、この議場で最大の勢力だったのだ。
それも、ただの現王派の派閥などではない。
普通幼い王の派閥というものは、それを傀儡とし、自らの権勢を
高めようとする貴族などが背後にいるものだ。
だがこの状況を見るに、そうではない。プルシェ王自身が、確か
にこの派閥の長として君臨している。
﹁すまぬの、じぃや﹂
プルシェ王が議場を向いたまま、ぽつりと言った。
﹁じぃやの思いは知っておる。これまで余を守ってきてくれたこと
も。国のため、老身を押して政務に励んでくれたことも。この支援
には、本心では反対であろうことも。だが⋮⋮今ばかりは許せ、じ
ぃや﹂
﹁⋮⋮このペルセスシオ、見誤っておりました﹂
宰相が言った。
その目は議場を向いており、顔からは感情がうかがえない。
﹁王の血筋からあなた様を見出し、他の者たちを政争で廃して養子
につけさせたことは⋮⋮私がこれまで成し遂げた功績の中で、最高
まつりごと
のものだと思っておりました。後に即位したあなた様へ、私の政を
見せ、学ばせ、落命と共にこの国を任せる。それこそが私に与えら
れた定めなのだと、そう信じておりました。しかし⋮⋮﹂
ペルセスシオが、プルシェ王に顔を向けた。
そこには、深い皺に混じって穏やかな笑みが浮かんでいた。

1716
﹁まさかこれほどに早く⋮⋮立派になられていたとは﹂
ペルセスシオが再びプルシェ王から視線を外し、前に向き直る。
﹁もう、じぃやは必要ないでしょう⋮⋮我らの命運を託しましたぞ、
プルシェ陛下﹂
﹁なにを言っておるのじゃ﹂
その時、プルシェ王が呆れたように言った。
﹁じぃやはなにも見誤っておらぬ。隠居にはまだ早いぞ﹂
﹁む、しかし⋮⋮﹂
トライア
困惑する宰相へ、三眼の王がまったく悪びれる様子もなく言う。
まつりごと
﹁余はまだ、政なぞぜんぜんわからぬからの! 此度の支援も詳し
い内容はじぃやに決めてもらうつもりだったのじゃ。余の世話を放
り出すでない。⋮⋮これからも頼むぞ、じぃや﹂
ペルセスシオは一瞬呆気にとられたような顔になったが︱︱︱︱
やがて、仕方なさそうな笑みと共に言った。
﹁これはこれは、仕様がありませんな。謹んで承りましたぞ、我が
王よ﹂
その表情はどこか、プルシェ王の派閥の者たちが浮かべるものに
も似ていた。

1717
****
﹁ま、ざっとこんなもんじゃの﹂
数刻後。
蛟の上で、プルシェ王がなんでもなさそうに呟いていた。
実際、彼女にとってはなんでもないことだったのだろう。
﹁驚いたよ。君、本当は王としての実権を握ってたんだな﹂
ぼくが言うと、プルシェ王が鼻を鳴らして答える。
﹁ふん、実権などと呼べるものではない。いざという時の保身のた
まつりごと
め、味方を増やしていただけじゃ。政のわからぬ余にとって、議場
で有利を取ったところで意味がないからの。ただただ我が身のため
に他者へ礼を尽くし、金品を贈り、困った者のことは求められずと
も助けてきた。それが⋮⋮こんな形で役立つとは、思わなかったが
の﹂
﹁でもプルシェ。お前、やっぱりおれたちのこと友達だと思ってく
れてたんだな。おれは嬉しいよ﹂
﹁んあっ⋮⋮! あ、あれはただの方便じゃ!!﹂
どこかからかうようなシギル王に、プルシェ王がむきになって答
える。
﹁ふんっ、まあよい。次はヴィルダムド、そなたの番じゃな﹂
そう言って、意地悪そうな笑みを浮かべる。

1718
﹁あの恐ろしげな母御をいかに説得するか、妙案は浮かんだかの﹂
﹁正面からぶつかるよ﹂
ヴィル王は言った。
その手が、一冊の本を強く握りしめる。
﹁母上の望む方法でね﹂
第三十一話 最強の陰陽師、鬼人の王都へ向かう
オーガ
続いて向かったのは、鬼人の王都だった。
通されたのは議場ではなく、王太后メレデヴァの待つ巨大な一室
だ。
﹁ドムヴォから、すでに便りは届いていたわ﹂
ヴィル王の母メレデヴァは、寝台に巨大な体を横たえたままで言
う。
﹁でも、できればあなたから聞きたかったわ、陛下。魔王様と共に、

1719
その場にいたのでしょう?﹂
﹁ええ﹂
ヴィル王が、自らの母を正面に見据えて言う。
﹁ドムヴォからそこまで報告を受けているのなら、僕が何を求めて
いるのかもすでにご存知のはず﹂
﹁麓の集落の者たちを避難させろと言うのでしょう? それは認め
られません﹂
寝台の上で、メレデヴァが首を横に振る。
﹁噴火の危機を伝えるくらいはいいでしょう。ですが避難場所の確
オーガ
保や、食糧に住まいの融通はできません。それは鬼人の生き様に反
することです﹂
オーガ
﹁いったい何が⋮⋮鬼人の生き様なのだと?﹂
﹁強き者が生き残り、望む物を手にする⋮⋮ということですよ、陛
下。言うまでもなく﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂
ヴィル王が、一歩前に進み出る。
﹁ならば、僕が今ここで力を振るい、望むものを手に入れようとし
ても︱︱︱︱母上はそれを受け入れるのですね﹂
﹁はぁ⋮⋮ヴィル。まったく、仕方のない子﹂
メレデヴァが嘆息すると同時に、背後に控えていた一人の兵が、
その前に歩み出た。
オーガ
屈強な鬼人だった。大柄なヴィル王よりも、さらに一回り大きい。

1720
得物として槍を持ち、体には防具を纏っている。
メレデヴァが、失望したように言った。
﹁この私が、その程度も覚悟していないと思って?﹂
兵が踏み込み、同時に槍の石突を振り上げた。
王でもある息子へ、メレデヴァは力を振るうことをためらう様子
もなかった。
介入するべきかと、ぼくはヒトガタを掴み一瞬迷う。
思いとどまったのは︱︱︱︱ヴィル王が目前の兵を、まったく恐
れていない様子だったためだ。
彼の大きな手が、掴んでいた一冊の本を開く。
﹁︱︱︱︱昏き湖底より来たれ、︻アビスクラーケン︼﹂
ヴィル王の呟きと共に、本を中心に猛烈な力の流れが湧き起こる。
そしてページからにじみ出た光の粒子が︱︱︱︱吸盤の並ぶ太い
触手となって実体化した。
﹁む⋮⋮っ! ぐぅっ⋮⋮!!﹂
触手は瞬く間に衛兵を捕らえると、宙へ持ち上げて締め上げる。
その間にも、実体化は続いていた。
うごめ
黒く蠢く触手が、五本、六本と増えていく。青白く光る目玉に、
禍々しい四つの嘴が形作られる。
それは蛸や烏賊にも似た、水棲の強大なモンスターであるようだ
った。

1721
水と闇属性の上位モンスター、アビスクラーケン。
あの本は、そいつと契約を結んだ魔導書なのだろう。
オーガ
鬼人は膂力ばかりでなく、魔族だけあって魔力にも優れる。ヴィ
ル王がこれだけのモンスターを喚び出せても、不思議ではない。
ただ、意外ではあった。
﹁勝負はついたでしょう﹂
ヴィル王が呟いて、本をぱたりと閉じる。
その瞬間、衛兵を口に運ぼうとしていた大蛸が消失。光の粒子と
なってページの間に吸い込まれていく。
どさりと床に落ちた衛兵は、防具が歪んだためかうまく立てない
でいるようだった。
手の本に目を落とし、ヴィル王が言う。
﹁空の上はこの魔導書を解析する時間が取れてよかった。それにし
ても、この程度の魔力量でアビスクラーケンを喚び出せるなんて⋮
⋮契約の内容が本当に洗練されている。やはり人間の知恵と工夫は
すばらしい﹂
﹁ああ、本当にこの子は﹂
そんなヴィル王を見て、メレデヴァ王太后が嘆くように言う。
﹁なんて戦い方をするの。せっかく、大きな体に産んであげたのに﹂
﹁母上からは、何よりこの頭脳をいただきました。それは今見せた
とおりです﹂
﹁⋮⋮﹂
沈黙するメレデヴァ王太后に、ヴィル王は言う。

1722
﹁これで満足ですか、母上﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁このような決着で、本当に満足なのかと訊いているんです。道理
もなく、意見の優劣を鑑みることもなく、単なる暴力の比べあいで
物事が決まったことに⋮⋮母上は納得できるのですか﹂
﹁⋮⋮やっぱり、あなたは何も分かっていないわ。ヴィル﹂
メレデヴァは困った子を見るように微笑んで言う。
﹁納得するもしないも、関係ないわ。だって世界は最初からそうい
オーガ
うものだもの。鬼人はもちろん、それ以外の種族も﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁多くが発展と共に社会の奥底へ埋没させてしまったその構造を、
オーガ
鬼人が原初のまま保ってきただけ。わかりやすいか、そうでないか。
オーガ
鬼人とそれ以外との違いは、その程度でしかないわ。その証拠に、
あなたの大好きな人間は⋮⋮私たち以上に、互いに争いあってきた
じゃない﹂
﹁⋮⋮それでも、僕たちは変わらなければならない﹂
﹁あなたにそれができる? ヴィル﹂
メレデヴァ王太后は穏やかに、しかし苛烈に問いかける。
﹁今、暴力に頼ってしまったあなたが。母に人間の魔導書を向けた
あなたが、いつまでその理想を語っていられる?﹂
﹁母上は勘違いしているようですが⋮⋮僕は別に平和主義者じゃあ
りませんよ﹂
目を瞬かせるメレデヴァに、ヴィル王は言い放つ。
﹁争いは結構。僕だって他人に勝ろうと努力してきました。それが

1723
オーガ
鬼人の生き様だというのなら、もう否定しません。ただ⋮⋮暴力の
強さなどという、非生産的で時代後れな基準に頼るのはやめろと言
っているんです。これから生き残る強き者とは、賢い者だ。生き残
オーガ
っていくために、僕の理想が鬼人を強くする﹂
そして、ヴィル王は告げる。
﹁そのために、もう手段は選びません。力比べを望むなら受けて立
ちましょう。それが僕の覚悟です﹂
メレデヴァは目を閉じ、しばしの間沈黙していた。
だが、やがて口を開く。
﹁いいでしょう。好きにしなさい﹂
ぽかんとして目を丸くするヴィル王に、メレデヴァは告げる。
その口元には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
﹁あなたは母に勝ち、その権利を手に入れたのですから﹂
****
翌日。
オーガ
ぼくたちは蛟に乗り、鬼人の王都を発っていた。
﹁少し⋮⋮意外だったよ﹂
ぼくはヴィル王へと言う。

1724
﹁君があんな風に母に立ち向かうだなんて﹂
てっきり、論戦でも仕掛けるものかと思っていた。
ヴィル王は、暴力の野蛮さを唾棄していたように思えたから。
﹁ああでもしなければ、母も聞き入れないと思っただけです﹂
ヴィル王がそっけなく答える。
オーガ
﹁以前プルシェ王に言われ、僕も少し反省しました。闘争が鬼人の
文化的基盤なら、多少は寄り添ってやるべきなのかな⋮⋮と。離れ
た場所から口で言うばかりでは、確かに納得できるものもできない
でしょう﹂
﹁そうか⋮⋮﹂
﹁まあ、あとは﹂
付け加えるように、ぽつりとヴィル王が言う。
﹁鍛錬だ一番槍だとしょっちゅうのたまっていた図体のでかいバカ
に⋮⋮いくらか影響されたのかもしれませんね﹂
﹁しかし、よかったのうヴィルダムドよ﹂
愉快そうに、プルシェ王が言う。
﹁要求が通ったばかりか、あの恐ろしげな母御もどこか嬉しそうに
しておった﹂
﹁え⋮⋮そうかな。予想以上にあっけなくて、僕には何を考えてる
のかよくわからなかったけど⋮⋮﹂
﹁人心に敏い余にはわかる。あれは頭でっかちな息子をずっと心配

1725
していたようじゃ。これからはきっと助けてくれることじゃろう﹂
﹁頭でっかちは余計だよ。でも⋮⋮そうだといいけどね﹂
﹁それより、問題は次だよな﹂
やや不安そうな声で、シギル王が言う。
﹁おーいガウス、いけそうか?﹂
﹁⋮⋮ん!? なんか言ったか?﹂
ガウス王が、聞いていなかったようにガバッと顔を上げる。
その手元には、ヴィル王から借りてきた本が開かれていた。
第三十二話 最強の陰陽師、巨人の王都へ向かう
巨人の王都へは、日の高いうちにたどり着いた。
﹁エンテ・グーから報せを受け、経緯は聞きおよんでおりました。
大変でしたな、魔王様﹂
ぼくが今回の事情を説明すると、先王ヨルムド・ルーはゆったり
とした口調で、同情するようにそう言った。
しかしぼくがそれに答える前に、ヨルムド・ルーは続けて言う。
﹁ただやはり、食糧の拠出はいたしかねます﹂
﹁⋮⋮﹂

1726
﹁魔族領の危機となれば、まず助けるべきは同胞。被害の規模が予
想できぬうちから支援の約束はできかねます。さらに言うならば、
我らが食用とする穀類や菜類が、他種族の食用に適すかはわかりま
せん。我ら巨人の者は毒にも強い。普段何気なく口にしているもの
が、他種族にとって致命とならないとも言い切れません。我らには、
それを確かめている時間もない。そうではありませんかな? 魔王
様﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ご理解を求めます。いくら私を説得しようとも、我らには我らの
事情が⋮⋮﹂
﹁いや﹂
ぼくが首を横に振ると、ヨルムド・ルーは不思議そうに言葉を止
めた。
﹁説得するのはぼくではなく、ご子息の役目なんだ﹂
﹁はて⋮⋮﹂
﹁おーい、親父! 開けてくれーっ!﹂
その時、部屋の扉の向こうから、ガウス王の大声が響いた。
﹁なんだ、なんだ﹂
ヨルムド・ルーが困惑したように、手下の者も使わず自ら歩いて
扉を開ける。
﹁おっ、助かったぜ親父﹂
﹁⋮⋮ガウス﹂

1727
息子の姿を見て、ヨルムド・ルーが呟く。
その声には、呆れが混じっていた。
﹁いったいなんだ、それは﹂
ガウス王は、膨大な量の紙や書物を両腕いっぱいに抱えていた。
前がよく見えないのか、覚束ない足取りで部屋の中央まで歩くと、
それらをどさっと床に置く。
﹁これは⋮⋮?﹂
オーガ
﹁書庫にあった資料だ! あとは⋮⋮学者気取りの鬼人から借りて
きた本だな!﹂
ガウス王は額の汗を拭うと、大きな声で言う。
﹁親父、オレが言いたいことは一つだ! オレたち巨人も噴火に備
えて支援を出そう! 他種族と足並みをそろえるんだよ!﹂
﹁⋮⋮ガウス。それは今、魔王様にもご説明した通りだ﹂
﹁大丈夫だ!﹂
ガウス王が資料の山をばんと叩く。
﹁今備蓄している量と、今年収穫できる量。合わせればかなり余裕
がある! 火山の近くに住んでいる奴らの分を差し引いてもだ!
他種族の連中なんて大して食わねーから、十分わけてやれるぜ!
ちゃんと計算したからな!﹂
﹁計算⋮⋮ガウス、お前がか﹂
オーガ
﹁ああ! ⋮⋮学者気取りの鬼人と、金好きの獣人にはちょっと手
伝ってもらったけどな! 間違いないぜ! なんなら詳しく説明し
てやろうか?﹂

1728
﹁⋮⋮﹂
ヨルムド・ルーは、たくさんの栞が挟まれた資料の山を無言で一
瞥し、首を横に振る。
﹁⋮⋮だが、駄目だ。我らの食糧を他種族に施し、万一があれば問
題になるだろう。そのような危険を冒してまで、他種族に支援する
理由がない﹂
﹁それも大丈夫だ!﹂
ガウス王が再び、資料の山をばんと叩く。
﹁魔族の旅人が、巨人の里を訪れた手記をたくさん読み込んだ!
食べられる物と食べられない物がこれでもかと書いてあったぞ!
旅人ってのはどの種族も食い物にこだわるものなんだな! ちなみ
にほとんど問題ないみたいだったぜ!﹂
﹁⋮⋮そんなもの、どこで﹂
オーガ
﹁鬼人から借りた! あいつ人間の本だけでなく、魔族の本も集め
てたみたいだったからな! なかなかおもしろかったぜ、親父も読
んでみるか?﹂
﹁⋮⋮﹂
ヨルムド・ルーは、無言のまま資料の山を見下ろした。
ガウス王は、そんな父へ言う。
﹁親父⋮⋮オレはもう、自分をバカだと言うつもりはねぇ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そうじゃなくなるまで努力するだけだ。これまでオレをチビだと
バカにしたやつは、体を鍛えて見返してやった。今度はそれを、頭
でやるだけだ﹂

1729
﹁⋮⋮﹂
﹁オレは変わる。だが、巨人も変わらなきゃならねぇ。そうだろ?
親父⋮⋮⋮⋮怖がってんじゃねぇーよッ!!﹂
﹁⋮⋮ああ、そうだ。私は怖い﹂
ヨルムド・ルーは顔を上げ、ガウス王を正面から見据える。
﹁巨人はこれまで、変わることのないままうまくやってきた。我ら
は強い。力ばかりでなく、飢えや病にも。変わる必要がなかった。
先祖たちの営みを繰り返すだけで、平穏に生きられることがわかっ
ていたからだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前はそれを、変える覚悟があるのか? ガウス﹂
ヨルムド・ルーが、息子である王へと問う。
﹁変革を受け入れる覚悟ではない、他者へ受け入れさせる覚悟だ。
反発はあるだろう。そればかりか⋮⋮良く変えようとした結果、よ
り悪い方へ物事が進むことすらもある。世界は我らに予期できるこ
とばかりではない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁お前に、その覚悟はあるか? 責任が取れるか? 折れることな
く、時には柔軟に⋮⋮理想を求め続けることができるのか?﹂
﹁⋮⋮ああ。当たり前だぜ親父﹂
ガウス王は、にっと笑って父に答える。
﹁良く変えようとしたら悪くなるなんて、オレにはしょっちゅうだ
ったぜ。剣を振れば怪我をした。昨日だって、難しい本を読んでい
たら頭が痛くなった。だけどそうやってオレは変わってきたし、こ

1730
れからも変わる。巨人は強いんだろ? 大変かもしれねーが、きっ
と変化だって受け入れられるさ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁食糧の支援は、その最初の一歩だ。いつまでも自分の里に引きこ
もるばかりじゃいられねー。ここから少しずつ始めよう。だから⋮
⋮オレに任せてくれよ、親父﹂
ヨルムド・ルーは無言のまま静かに目を閉じた。
だがやがて、ゆっくりとした動きでガウス王に背を向け、小さく
答える。
﹁駄目だ﹂
﹁なッ!?﹂
﹁お前にはまだ早い。とてもではないが、任せることはできない﹂
﹁この⋮⋮ッ!﹂
﹁私がやる﹂
ガウス王が、放心したように目を瞬かせた。
ヨルムド・ルーは、息子に背を向けたまま続ける。
まつりごと
﹁先王は私だ。政を取り仕切る役目は私にある。だから⋮⋮お前の
考えを、私に説明してみせなさい﹂
﹁親父⋮⋮﹂
﹁巨人の時間は長い。だからこそ、急な変化は受け入れがたい。こ
こから少しずつ始めるのだ、ガウス﹂
ヨルムド・ルーは、まるで鯨が歌うように、ゆったりとした口調
で言った。
﹁まずは、私から変えてみせなさい﹂

1731
****
﹁やっぱり親父は話のわかるやつだったぜ!﹂
数刻後。
蛟の上で、ガウス王は機嫌良さそうに言った。
あの後ぼくは席を外したので、先王とどのような取り決めがなさ
れたのか詳しくは知らない。
しかしどうやら無事、食糧の拠出は決まったようだった。
﹁どうだ魔王様! 言った通りだっただろ?﹂
﹁ああ⋮⋮すごいよ﹂
ぼくは静かに答える。
﹁何より、君自身が。この短い期間によくあそこまで、説得の材料
を用意できたな﹂
﹁へへっ、オレはやる時はやる男だからな!﹂
﹁ふん。よく言うよ、まったく﹂
ヴィル王が呆れたように言う。
﹁説明の途中でわけがわからなくなって僕とフィリ・ネア王を呼ん
でいたくせに﹂
﹁悪いな、難しい言葉はまだちょっと苦手だ! あとは金勘定も苦
手だな!﹂

1732
﹁⋮⋮先王の苦労が想像できるよ。賢い巨人を王宮に雇い入れるべ
きだろうね﹂
﹁それはいいな! お前らみたいなのがいないか探してみるぜ!﹂
溜息をつくヴィル王に、ガウス王が穏やかに言う。
﹁それと、本も助かったぜ。親父んとこに置いてきちまって悪かっ
たな。騒動が終わったらなるべく早く返しに行ってやるよ﹂
﹁別にいいよ。しばらく貸しておく﹂
意外そうな顔をするガウス王に、ヴィル王は眼鏡を直しながら言
う。
﹁本は一度読んだだけではすべてを理解できない。僕も読み返すた
び、何度も新しい発見があった。他種族と交流を始めるにあたり、
あれらの手記を一番必要としているのは君だろう。不要になったと
感じた時に返しに来てくれればいい﹂
﹁へへっ⋮⋮悪いな﹂
ガウス王が、にっと笑って言う。
﹁それまでにくたばるなよ﹂
﹁何百年借りるつもりなんだ、君は⋮⋮﹂
﹁これ、いつまでも浮かれているでない。これからの者もいるのじ
ゃからな﹂
プルシェ王が咎めるように言い、それから静かに座っているフィ
リ・ネア王へと目を向ける。
﹁先ほどから口数が少ないが、フィリ・ネア⋮⋮勝算はあるのかの﹂

1733
﹁ちょっと話しかけないで﹂
フィリ・ネア王が、彼女にしては珍しくとげとげしい口調で答え
た。
﹁フィリ、今考えてるから﹂
第三十三話 最強の陰陽師、獣人の王都へ向かう
事前に文を出していたおかげか、獣人の王都に着いた頃には議会
の準備が整っていた。
議場の席には、様々な種族の獣人が着いている。
ただやはり経済力の差なのか、猫人が多いようだった。
﹁ニクル・ノラの帰還は間に合わなかったが、結論に変わりはない
だろう﹂
長い毛を持つ、老いた猫人が言う。

1734
﹁果ての大火山周辺に住む同胞へ報せを出し、避難を促す。段取り
はどうなっている?﹂
﹁もう進めてるよ﹂
官僚でもあるのだろう黒毛の若い猫人が、軽薄そうに答える。
﹁受け入れ先の集落にも目途を付けて、すでに報せも出した。噴火
までには余裕で間に合うね﹂
﹁住まいを追われるのだ。十分な金銭的支援も必要だと思うが、そ
の辺りはどうかね﹂
片眼鏡をかけた別の猫人が問うと、若い猫人が当然のように答え
る。
﹁もちろん、それは国庫から支出しよう。こんな時だから仕方ない。
あの辺の人口を多めに見積もっても、十分まかなえると思うよ。僕
ら猫人は、魔族の中でもお金持ちだからね﹂
﹁猫人は、ね﹂
鋭い目つきをした犬人が、重厚な声音で呟く。
﹁ここが獣人の寄り合いであることを忘れてはいないかね。税収に
貢献の少ない種族はいないも同然か?﹂
﹁まさか! ごめんごめん、僕の失言だったね﹂
﹁⋮⋮一つ、要望を申し立てたいのだが﹂
長い耳を垂らした老いた兎人の男が、手を上げて言った。
﹁家畜を多く持つ者への配慮を願いたい。あれらは避難に時間がか

1735
かり、受け入れ先で餌場を見つけるのも苦労するはずだ。できるな
らば、人員と飼料の援助を⋮⋮﹂
﹁できないね、それは﹂
目を見開く兎人の男に、若い猫人がそっけない調子で続ける。
﹁要するに特別扱いしろってことでしょ? そんなの不公平だよ。
他の資産、たとえば家や土地を持っていた人はそのまま失うことに
なるのに、どうしてそいつらだけ助けなきゃいけないの? 最初か
ら何も持ってない人だって不満に思わない?﹂
﹁っ、だが⋮⋮﹂
﹁家畜なんて、売ればいいんだよ﹂
若い猫人が目を細めて言う。
﹁資産が負債になる前に、お金に換えちゃおう。こんな時なんだか
ら身軽にならなくちゃ。なんなら僕の商会で見積もり出してあげよ
うか?﹂
﹁っ、ふざけるな! 非常時だからと買い叩くつもりだろう! 何
より⋮⋮牧畜は我ら兎人の伝統的産業だ! 先祖から受け継いでき
た暮らしを、そのように軽く手放せるものではない!﹂
﹁ふーん、じゃあ好きにしたら﹂
頬杖をつき、若い猫人が気だるげに言う。
﹁国庫のお金だっていくらでもあるわけじゃない。できる支援も限
られる。守りたいものがあるなら、自分でがんばらないとね﹂
一見、公平な意見にも思える。だが実際のところは、猫人にばか
り都合のいい理屈だった。

1736
商業種族である彼らが抱える資産は、貨幣や貴金属、それに商品
だ。物にもよるが、少なくとも家畜よりはずっと持ち運びしやすく、
避難先でも活用しやすい。
まつりごと
ここの議員たちも政に関わる身だ。この事実に気づかない者はい
ないだろう。
それでも異議が上がらないのは、猫人の発言権が強いからなのか
もしれなかった。
﹁そういうわけだから、お嬢もあんまりわがまま言わないでね﹂
若い猫人がフィリ・ネア王に顔を向け、半笑いで言う。
﹁同胞に施せるお金さえも限られるんだ。他種族のための支出なん
て、民の理解が得られない。そうだよね? みんな﹂
賛同の声は特に上がらない。
だが、議場の空気はそれを認めるようなものだった。
まずい流れだ。
しかし、それでも︱︱︱︱。
﹁⋮⋮あの、フィリは﹂
フィリ・ネア王は議場を見渡し、おずおずと口を開いた。
﹁あなたたちを説得したくて一生懸命考えたんだけど、でもフィリ、
他のみんなと違ってちゃんとした王様じゃないから、全然思いつか
なくて⋮⋮。だから代わりに、儲け話を持ってきたの。フィリが得
意なの、お金だけだから﹂

1737
議場の空気が、微かに変わる。
﹁みんながたくさん儲かるなら、フィリの言うことも聞いてくれる
よね?﹂
議場がざわつく。
それは奇妙な騒々しさだった。
半分は、年端もいかない小娘が何を言っているのかというものだ。
しかしもう半分には、何かを期待するような薄暗い興奮がある。
﹁わしは聞きたいね﹂
片眼鏡をかけた猫人が言う。
﹁あの商王の娘が持ってきた儲け話だ。商人として気にならんわけ
がない﹂
﹁ふーん、なんなの? 儲け話って﹂
若い猫人も、試すような声音で言う。
議場の落ち着きを待って、フィリ・ネア王は話し始める。
﹁フィリは、獣人のみんなもだけど、できれば他の種族も助けてあ
げたいなって思うんだ。でもお金は限られてる。だから代わりに商
品券を発行して、それを貸し付けるようにしたらいいかなって思う
の。復興できたら返してねって言って﹂
﹁その、商品券⋮⋮とは?﹂

1738
老いた猫人の問いに、フィリ・ネア王が答える。
﹁商品を買うことができる、お金の代わりになる紙の券だよ。額面
には人間のお金を基準に、額を書き入れるの。銀貨何枚分、銅貨何
枚分って。それで必要な物資や食糧を買ってもらう﹂
﹁⋮⋮要するに、人間の銀行が発行する預かり証のようなものです
かな﹂
片眼鏡をかけた猫人が言う。
預かり証とは要するに、貴金属などの保管を請け負った商人など
が、所有者に発行する保管証のことだ。
保管品と引き換えられるために、預かり証そのものが価値を持ち、
売買されることもある。
﹁担保には国庫の貨幣を?﹂
﹁うん。希望する人には、商品券と額面に書かれた分の貨幣を交換
してあげるの。それならみんな、安心して使えるよね?﹂
﹁あー、わかるわかる。いいよね預かり証。紙だから軽くてかさば
らないし、何より預かってる以上の量を発行することもできる。僕
の商会でも作ったことあるよ。でもさ⋮⋮それのどこが儲け話なの
?﹂
若い猫人が、笑みを消して問う。
﹁他種族は避難民への支援のために、それを使う。使われた商人は
僕らに貨幣との交換を求めてくる。商品券が戻ってくる代わりに、
国庫からお金が出ていく。それだけだ。多少の時間差はできるけど、
結局のところ返せるかもわからない連中にお金を貸してやっただけ
なんじゃないの?﹂

1739
議場には、同意するかのような沈黙が流れていた。
実のところ、ぼくにもそうとしか思えない。
しかし、フィリ・ネア王は首を横に振る。
﹁ううん。お金を貸すんじゃなくて、商品券を貸すの。だから、返
済の時も商品券で返してもらうの﹂
一瞬の沈黙の後、議場がざわめき出した。
﹁どういうことだ、それで何が起こる?﹂﹁復興後に他種族が買い
戻すことになるのか?﹂﹁ならば額面よりも高値で売りつけられる
な﹂﹁値上がりが見込めるなら、貨幣と交換する意味はない。商品
券は市中に留まり続ける﹂﹁待て、値上がりの保証はない。商品券
はいくらでも発行できるのだぞ﹂﹁私がお嬢ならば、高騰した時点
で再度商品券を発行し、額面以上の貨幣を買い集めるな﹂﹁そうな
れば価値が暴落するのでは?﹂﹁いや貨幣との交換が約束されてい
る以上、額面以下には⋮⋮﹂
﹁ああ、そうか﹂
若い猫人が、小さく呟く。
﹁お嬢はこれを、貨幣代わりにしたいんだね﹂
﹁うん﹂
フィリ・ネア王がうなずく。
﹁最終的に他種族が必要とすることはわかってる。だから、みんな
焦ってお金に代えたりしない。軽くて便利な紙の貨幣⋮⋮紙幣とし

1740
て使われ続ける、と思う﹂
ぼくはふと、前世を思い返す。
そういえば、宋にも似たような仕組みがあった。
重たく使いにくい金属の貨幣の代わりに流通していた、紙の金が。
﹁⋮⋮お嬢のやりたいことはわかった。だがこれは、結局のところ
ただの預かり証に過ぎないのではないか?﹂
老いた猫人が、難しい顔をして問いかける。
﹁確かにそうしようと思えば、国庫にある以上の額も発行できよう。
ただしそれは、破綻の危険と引き換えだ。何らかのきっかけで一斉
に交換に走られれば対応しきれんぞ﹂
﹁しばらくはね。でも、いずれ大丈夫になる﹂
フィリ・ネア王の返答に、老いた猫人が困惑したように問い返す。
﹁いずれ⋮⋮とは?﹂
﹁フィリの紙幣が普通の預かり証と違うのは、それがすごく広い範
囲で、お金の代わりに使われるようになること。すべての種族に貸
してあげるから、結果的にそうなるの﹂
﹁それは理解しているが⋮⋮﹂
﹁そのおかげで、貨幣との交換は将来、打ち切っちゃってもよくな
る﹂
﹁⋮⋮は?﹂
老いた猫人が、目を丸くして問い返す。
﹁それは⋮⋮どういうことか。そんなことをすれば、紙幣の価値は

1741
瞬く間に地に落ちることになる﹂
﹁急いでやるとそうなるけど、少しずつなら大丈夫。初めは金額に
制限をかけて、交換できる期間も限定しちゃう。それをだんだん小
さくしていく。最後には完全に打ち切っちゃっても、誰もそれを気
にしなくなるよ。それができる頃にはフィリ、たぶんおばあちゃん
になってると思うけど﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
老いた猫人が首を横に振る。
﹁そうなった紙幣には、なんの裏付けもなくなるではないか。いっ
たい何が、お嬢が作る紙切れの価値を担保し続けるというのだ﹂
﹁信用だよ﹂
猫人の少女は、当たり前のことのように言う。
﹁お金の価値は、中身の金や銀が作るわけじゃない。みんながそれ
に価値があると信じることが、お金に価値を生むの。⋮⋮王様と似
てるよね。フィリがここに座っていられるのも、みんながフィリの
王位に価値があると信じてるからだもん﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁いろんな種族が広く使っている信用。長い間使われてきた信用。
そういうのが積み重なった頃なら、交換を打ち切っても大丈夫。フ
ィリの紙幣はお金として独り立ちできているはずだから﹂
それは異なる世界で生まれ、長い時を生きてきたぼくでも初めて
聞く理屈だった。
そんなことが、本当に成立するとは信じがたい。現に最後に宋を
訪れた時には、紙の金はずいぶんと価値を落としてしまっていた。
しかしフィリ・ネア王の言葉には、それを信じさせる何かがある。

1742
若い猫人が問いかける。
﹁⋮⋮普通、お金を作るには金や銀や銅が必要になるよね。でもお
嬢の仕組みが成立したなら、その時には⋮⋮﹂
﹁うん﹂
フィリ・ネア王がうなずく。
﹁紙さえあれば、いつでも好きなだけ、フィリたちはお金を作れる
ようになるよ。どう? 儲かりそうだよね?﹂
それは、儲け話といった次元の話ではなかった。
議場は騒然となる。
﹁まさか、そんな都合のいいことが﹂﹁さすがにいくらでも発行で
きるということはないはずだ。暴落が起こる﹂﹁だが経済圏の広が
り次第では近いことができるのでは?﹂﹁人間社会に依存しない金
はいずれ必要となる﹂﹁これは流通量も容易に調整できるな﹂﹁価
値が下落すれば買い戻し、高騰すれば新たに発行すればいいわけか。
ならば⋮⋮﹂﹁場合によっては、人間の経済圏すらも⋮⋮﹂
﹁おもしろいね、僕は賛成!﹂
若い猫人がはしゃいだように言った。
﹁印刷の道具が必要だよね? 僕の商会から寄贈してもいいよ﹂
﹁偽造を防ぐ意匠はどうする? 職人の手配が入り用かな?﹂
﹁紙質も急ぎ、検討せねば。いくつか見本を用意させるか? お嬢﹂

1743
世紀の事業に一枚噛もうと、商人たちが盛り上がり出す。
明らかに、先ほどまでと雰囲気は一変していた。
しかし、その時。
﹁いい加減にしてほしい!﹂
唐突に声を上げたのは、先ほどの兎人の男だった。
﹁黙って聞いていれば、この非常時に金の話ばかり。フィリ・ネア
王は、ご自分が獣人の王であることをお忘れか!﹂
﹁え、で、でも⋮⋮﹂
﹁この場にいるのは商人だけではないのですぞ!﹂
冷静に見てみると、議場の空気には温度差があった。
色めき立っているのは、商業種族である猫人が中心だ。それ以外
の種族には、冷ややかな目を向けている者もいる。
﹁恩恵を受ける猫人はいいでしょう。だが他の種族は? その儲け
話のために、借金漬けにされる被災者たちは、それを喜ぶとでも?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁我らには我らの守ってきた暮らしがある。誰もが猫人のような生
き方をできるわけではない。失礼する﹂
そう言って、兎人の男は席を立つ。
男に賛同したのか、同じように席を立つ者も現れ始める。
﹁待って!﹂
それをフィリ・ネア王は、大きな声で引き留めた。

1744
﹁あなたが守ってきた生き方って⋮⋮そんなに安いものなの?﹂
﹁は⋮⋮?﹂
﹁お金も払わず手に入るような、価値のないもの? その辺の石こ
ろみたいに、拾えばそれだけで得られるようなものなの?﹂
兎人の男が目を鋭くする。
﹁王とはいえ、それ以上は⋮⋮っ﹂
﹁違うんでしょ?﹂
男の言を遮るように、フィリ・ネア王が言う。
﹁一度失えば簡単には手に入らないから、大切なものなんでしょ?
ただそれを続けるだけでは、守り続けられないようなものなんで
しょ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁フィリ、知ってるよ。生活に困って、家畜を売っちゃう兎人がだ
んだん増えてきてること。本当は、それを買い戻したがっているこ
とも﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁兎人だけじゃない。どの種族にも、守りたいもの、手に入れたい
ものがある。それぞれにとってすごく価値のある、大切なものが﹂
﹁⋮⋮だから、なんだと言うおつもりか﹂
﹁フィリがそれ、助けてあげる﹂
目を見開く兎人の男を、フィリ・ネア王は正面から見据えて言う。
﹁フィリ、王様だから。他のみんなみたいには、ちょっとできない
けど⋮⋮でも、お金には詳しいから。お金に困ってるなら、きっと

1745
フィリが助けてあげられる﹂
﹁⋮⋮信用しても、よいのですかな。そのような都合のいいことを﹂
﹁まかせて!﹂
フィリ・ネア王は、初めて出会った時からは考えられないような
表情で、堂々と言って見せた。
﹁フィリがみんなのこと、たくさん儲けさせてあげるから!﹂
****
﹁はあ∼、疲れたぁ⋮⋮﹂
蛟の上で、フィリ・ネア王がぐったりと言う。
日はすでに傾きかけていた。
﹁フィリ、あんなに喋ったのはじめて⋮⋮﹂
﹁本当に⋮⋮よくやったと思うよ﹂
ぼくは猫人の少女へ、小さくねぎらいの言葉をかける。
あれからほどなくして、獣人族からの金銭的支援が正式に決まっ
た。
時間もないので最初は簡単な意匠の紙片になるようだが、ほとん
どフィリ・ネア王の案が通った形だ。
﹁君の言ったようなことが、本当に実現できるのか?﹂
﹁んー⋮⋮? わかんない﹂

1746
フィリ・ネア王はぐったりしたまま、そんな不安になるような答
えを返してくる。
﹁えっ﹂
﹁だって誰もやったことないことだもん。ぜったいうまくいくなん
て言えないよ。でも、フィリの思った通りになれば⋮⋮大丈夫じゃ
ないかなぁ。それには信用され続けないといけないけど﹂
﹁それは⋮⋮君の紙幣が?﹂
﹁紙幣もだし、フィリ自身も﹂
フィリ・ネア王は憂鬱そうに言う。
﹁王様だって、信用されてないといけないのは同じだよ。フィリじ
ゃダメってみんなが思ったら、王位を取り上げられて次の競りが始
まっちゃうもん。獣人族ってそういう仕組みだから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁でもフィリ⋮⋮がんばる﹂
フィリ・ネア王が、意気込むように小さく言った。
﹁パパががんばってくれてたおかげで、今みんながフィリの言うこ
と聞いてくれてるんだもん。だから、フィリもがんばらないと﹂
﹁⋮⋮君は、ずいぶんと変わったな﹂
ぼくは思わず呟く。
﹁初めて会った時とは別人のようだよ﹂
ここにいる誰もが、この短い期間で見違えた。

1747
だが一番変わったのは、おそらく彼女だろう。
﹁⋮⋮えへ。フィリもそう思う﹂
白い猫人の少女は、はにかむように笑って答えた。
他の王たちも口々に話し始める。
﹁実はオレ、何回聞いても理解できなかったぜ⋮⋮!﹂
﹁君はそうだろうね。僕もちょっと信じがたい内容だったよ﹂
﹁フィリ・ネアは昔から算術とか得意だったよなー﹂
﹁今のうちに、獣人族には媚びを売っておいた方がいいかもしれん
の⋮⋮﹂
﹁えー? じゃあプルシェまたなんかちょうだい。フィリ、今度は
絨毯がいいな﹂
⋮⋮ふと。
ぼくは一人黙って森の果てを見つめる、悪魔の少年に目を向けた。
﹁⋮⋮﹂
アトス王は、あれ以来ぼくらの前で一言も言葉を発していなかっ
た。
うなずいたり首を振ったりはするので、最低限の意思はわかる。
だが、それ以上の交流は避けているふしがあった。
﹁アトス王⋮⋮大丈夫なの?﹂
その時リゾレラが、静かに問いかける。
﹁無理しなくてもいいの。一種族くらいなら、協力を得られなくて

1748
もなんとかなると思うの﹂
アトス王は目を閉じ、静かに首を横に振った。
その様子を見て、ぼくはリゾレラに告げる。
﹁⋮⋮いや、行こう﹂
沈黙を保つアトス王は︱︱︱︱しかし塞ぎ込んでいる様子はなか
った。
親密だった従者を最悪の形で失いながらも、彼の目には静かな決
意が宿っていた。
第三十四話 最強の陰陽師、悪魔の王都へ向かう
﹁ん∼、まったくもって⋮⋮くだらないわねぇ﹂
悪魔の王都についた頃、すでに議会は始まって二日目となってい
た。
主たる議題はもちろん、今回の事件についてだ。
ただどちらかといえば、噴火よりも王宮内部に潜んでいた間者に
ついての話し合いに時間が割かれていた。噴火の議論は一日目に済
んでおり、やはり火山の近辺に集落がないこともあってか、対処は
行わない方針に決まったようだった。
だからアトス王が戻ってきた時、議場には冷めたような空気が流

1749
れた。
喋らないアトス王に代わり、議長である宰相が、彼から手渡され
た支援の必要性を説く書面を読み上げる。すると議員たちはあから
さまに溜息をついたり、馬鹿にするように鼻を鳴らしたりしていた。
今さら戻ってきて何を言っているんだ、その話は昨日終わってい
る︱︱︱︱そんな空気が漂っていた。
﹁他種族のための支援だなんて﹂
赤茶の毛並みを持つ悪魔が、口元に手を当てながら言う。
﹁まったくもってくだらない。魔族は仲良しこよしの集まりではな
いのよ。我らが王は魔王様に、いったい何を吹き込まれてきたのか
しら﹂
じょこうしゃく
﹁女咬爵、さすがに言葉が過ぎるぞ﹂
灰色の毛並みを持つ、大柄な悪魔が言う。
﹁だが、利がないことは確かだ。必要性は感じられない﹂
﹁議論はすでに昨日、出尽くしましたからねぇ﹂
漆黒の毛並みを持つ、眼帯をした老いた悪魔が、ニヤニヤとした
笑みを浮かべながら言う。
﹁これ以上の審議は無意味かと思いますが⋮⋮どうでしょうねぇ、
宰相殿﹂
﹁待て、我は賛成だ。他種族が軒並み支援を決定し、陛下のご意志
も同様であるならば、それらを踏まえた再審議が必要だろう﹂

1750
銀の毛並みを持つ若い悪魔の弁に、先ほどの赤茶の悪魔が口元を
歪めて言う。
﹁あら。話題を逸らすよいとっかかりを見つけたわねぇ、狛爵。こ
れ以上﹃銀﹄の部族への追及が厳しくなれば、あなたの立場も危う
くなってしまうもの﹂
﹁これは異な事を言う。王宮人事の責任者は他でもない、﹃赤﹄の
部族の出身者が務めていたはずだが。本来追及されるべきはそちら
ではないのか? 女咬爵﹂
﹁おい、話が逸れているぞ。本題は他種族への支援をどうするかだ
ろう﹂
﹁すでに行わないということで決したはずだ。これ以上の審議は時
間の無駄だ﹂
﹁いや、新たな情報がもたらされたからには再審議を⋮⋮﹂
議場に言葉が飛び交い始める。
幸いなことに、支援に賛成の議員もいるようだった。ただ明らか
に数が少なく、劣勢の様子だ。
議論が乱れ始めた頃、議長であり宰相でもある肥えた悪魔が、収
拾をつける声を上げる。
﹁皆さん、一度静粛に。どうでしょう、ここはあらためて⋮⋮陛下
にお話しいただくというのは﹂
一度静まった議場が、わずかにざわめいた。
肥えた悪魔は口元に笑みを浮かべながら続ける。
﹁私も書面を読むばかりでは、詳細までは掴めませんでした。陛下
もこのようにおっしゃる以上は、我々の考えを変えさせるだけの論
拠をお持ちなのでしょう。あらためて口頭にてご説明いただき⋮⋮

1751
それをもって判断するというのはいかがでしょう、皆さん﹂
﹁私は賛成。その方が早く済みそうね﹂
﹁我もそれで構わない。好きなようにするといい、議長﹂
赤茶と灰の悪魔が賛同する声を上げる。
その後も続くように、議場からは同じような声がぽつぽつと上が
っていく。
ぼくは内心で歯がみする。宰相の狙いははっきりしていた。
アトス王に恥をかかせ、この議題を手早く切り上げるつもりなの
だ。
アトス王は、このような場で満足に話すことができない。これま
で代弁していた従者には裏切られ、今はただ一人だ。たどたどしい
喋りに皆が呆れれば、それで審議が終わると考えたのだろう。
かといってそれを指摘すれば不敬となり、攻撃材料を与えてしま
うことになる。だから支援派も苦い顔をするばかりで、異議の声を
上げられない。
議場の隅に座っていたぼくは、思わず腰を上げかけた。
その時。
﹁⋮⋮っ﹂
アトス王が、こちらを見た。
その目に、焦りはない。まるで穏やかに制されたかのように、ぼ
くは自然と腰を戻してしまう。
﹁では陛下、お願いいたします﹂
宰相が意地の悪い笑みと共に、アトス王へ促す。

1752
悪魔の少年は一度議場をゆっくりと見回すと、やがて静かに口を
開いた。
﹁︱︱︱︱情けないことだ﹂
その一言で。
まだ微かにざわめいていた議員たちは、不思議と静まり返った。
少年王の声が、議場に響き渡る。
﹁これが悪魔の議会なのか。このような妄言をわめき立てる者たち
が、我が種族を支える有志たちだというのか﹂
陛下、言葉が⋮⋮。
そんな声がどこからか小さく上がった。
・・・・・
アトス王はまるで歌うように、言葉を続ける。
﹁今の状況を理解できぬ愚か者は、さすがにこの場にいないと信じ
る。したがってここからは、我が自身の考えを整理するために話そ
う。諸君︱︱︱︱今は戦時である﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁十六年前、勇者と共に魔王様がご誕生なされた。この度には、我
らが地へのご帰還も果たされた。そんな今、人間どもがこの地に破
おびや
壊的な工作をもたらし、民の暮らしを脅かそうとしている⋮⋮。こ
れを戦時と言わずしてなんと言うか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁このような状況で、諸君らは何をやっている? 人間どもからの
攻撃を見て見ぬ振りをするかのごとく捨て置き、助けを求める他種
族の声にも耳を塞いで、身内の責任追及にばかり終始する。これが
果たして、悪魔を統べる者たちのあるべき姿なのか。まるで戦争と
いうものを理解していないかのようだ﹂

1753
今や少年王の言葉に、耳を傾けていない者はいなかった。
アトス王は議員たちを示すように、大仰な身振りを伴って続ける。
﹁諸君らの中には、我の言葉に異を唱えたい者もいることだろう。
否、戦争など嫌というほどに理解している。今ばかりではない、我
らは常に戦時であった⋮⋮と。その通りだ。前回の大戦以後の五百
年間。魔族と人間の衝突が一切なかったこの百年間ですらも、我ら
は常に人間どもと戦っていた。それは戦場で行われる武人たちの戦
いではない。種族としての力を溜める内政の戦い、諸君ら文人の戦
いだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁議場では血は流れず、命を失うこともない。常に体を張り同胞を
守ってきた武人と比較され、口ばかり達者な文人風情がと軽んじら
れたこともあっただろう。だが我は知っている。兵や兵站は無から
湧き出てくるわけではない。豊かさこそが戦場での強さに繋がるの
だ。それを支える諸君らの戦いは熾烈を極めていた。我は諸君らの
勇姿を、戦功を、傷痍を知っている﹂
アトス王は、老いた黒の悪魔に目を向ける。
﹁ダル・ダヴィル咬爵。そなたはこの議場での歴史を誰よりも知る
ふるつわもの
古強者だ。齢四十にも満たぬ若さで議席を掴み取り、その後の実に
まつりごと
二百年間、悪魔族の政を支えてきた。幼い頃にここでそなたから聞
かされた、面白可笑しい議員たちの逸話はすべて覚えている。だが
何より我の心を熱くしたのはそのどれでもない、母から聞かされた
そなた自身の逸話だ。反対派の議員と掴み合いになり、その際の怪
我が元で片目の光を失いながらも、傷痍軍人に対する支援制度を打
ち立てた。そなたのような臣下がいることを誇りに思う﹂

1754
老いた悪魔は、開きかけた口からなんの言葉も出せないまま、た
だ少年王を見つめる。
アトス王は次いで、大柄な灰の悪魔に目を向ける。
﹁ネル・ネウドロス大荒爵。そなたは食糧供給に関する法を実に十
六も成立させた。急激な人口増加による飢餓の危機から、我ら悪魔
族を救ったのは紛れもなくそなただ。大農園の主でもあったことか
ら、自らの権益のためではないかと心ない言葉をかけられたことも
あっただろう。だが我は知っている。そなたが自らの農園を四つも
王宮へ寄進したことを。貧者への配給が初めて行われた際には、自
らもその場に立ち会い、法の効力をその目で確かめていたことを。
権益程度の目的では決して達成しえぬ、高い志を持っていたからこ
その偉業であった﹂
大柄な悪魔は少年王から視線を逸らし、まるで恥じ入るように目
を伏せた。
アトス王は続いて、赤茶の悪魔へと目を向ける。
﹁ロル・ローガ女咬爵。そなたはまさしく女傑だ。夫であるテル・
テオロス咬爵を病で亡くし、まだ幼かった息子に代わって爵位を継
ぐと、議会において瞬く間に頭角を現した。法を四つも成立させ、
不正を行った議員の糾弾をも主導した。さらには激務をこなしなが
ら、子を五人も立派に育て上げた。息子の一人は後継者として力を
付け、二人の息子は軍人として現在も軍務に就き、二人の娘は大荒
爵と狛爵に嫁いで家督を支えている。我が母はそなたに憧れ、先王
である父ですらもそなたには一目置いていた。幼心にも、これから
の悪魔族を支えるのはそなたのような女性だと思った﹂
赤茶の悪魔は、いつのまにか目を見開き、少年王の言葉に聞き入
っている。

1755
アトス王は、議員たち一人一人に目を向けていく。
﹁ソル・ソートラス狛爵、オル・オギリス咬爵、キル・キニーゼ女
狛爵、ヘル・ヘリク刺爵⋮⋮﹂
彼らの名前を呼んでいく。
名が呼ばれるたびに、彼らの纏う空気が変わっていくようだった。
やがてすべての者を呼び終え、アトス王はもう一度議場を見回す。
﹁今一度言おう。我は諸君らの勇姿を、戦功を、傷痍を知っている。
このような英雄たちが戦友ならば、我に不安はない。戦っていける。
魔王と勇者の誕生した此度の大戦を、共に戦い抜けられる。人間ど
もに打ち勝ち、我が種族のみならず魔族すべての繁栄を掴み取り、
そして子孫へとこの志を繋ぐことができる、と⋮⋮⋮⋮そう、信じ
ていた﹂
そこで、アトス王は一度言葉を切った。
物音一つなく静まり返る議場を見渡し、わずかに間を空けて告げ
る。
﹁この先も、そう信じたい︱︱︱︱決を採る!﹂
アトス王は席を立った。
議場すべてに、よく響く声で呼びかける。
﹁我と志を共にしようという者は、起立し手を打ち鳴らすがいい!
我はその者を、此度の戦友として迎えよう!!﹂
耳が痛くなるような静寂。
それは︱︱︱︱一瞬で打ち破られた。

1756
﹁賛成だ!﹂
声と同時に、銀の悪魔が立ち上がった。
拍手と共に感極まったように叫ぶ。
﹁陛下、我もあなた様と共に!﹂
﹁⋮⋮私も﹂
﹁我もだ!﹂
議員たちが次々に立ち上がり、手を打ち鳴らす。
その流れは、止まらなかった。
今や反対していたはずの赤茶や灰や黒の悪魔すらも、立ち上がっ
て賛同の拍手を送っている。
﹁賛成だ!﹂﹁戦友たちに手を差し伸べよう!﹂﹁人間どもに我ら
の地を好きにさせてなるものか!﹂﹁王よ、我も共に!﹂﹁陛下!﹂
﹁我が王!﹂﹁アル・アトス陛下!﹂﹁真なる王よ!﹂
ぼくは、思わず圧倒されていた。
アトス王は、紛れもなく彼らの心を変えていた。
シギル王のような交渉でも、プルシェ王のような根回しでも、ヴ
ィル王のような暴力でも、ガウス王のような説理でも、フィリ・ネ
ア王のような利益でもなく︱︱︱︱ただ一度の演説によって、アト
ス王は王としての実権を掴み取っていた。
まるで新たな王が誕生したかのような万雷の拍手の中、アトス王
は堂々と立つ。
そして傍らで目を見開いている肥えた悪魔へと向かい、ぽつりと
言う。

1757
﹁ベル・ベグローズ宰相。そなたはどうする? 混血でありながら
宰相にまで上り詰めたそなたの手腕、借り受けられるのなら心強い
が﹂
肥えた悪魔はおもむろに、アトス王の下へと跪いた。
そして、震える声で答える。
﹁私も⋮⋮あなた様と共に、行かせてください。アル・アトス陛下﹂
﹁ならば、我らが意は決した﹂
アトス王が大仰に告げる。
﹁支援の具体的な内容は、種々の事情に通じている諸君らに任せよ
う。きっと我が意に沿うものになることだろう。我は魔王様と共に、
最後の始末をつけに行かねばならない︱︱︱︱頼んだぞ、諸君﹂
アトス王が踵を返す。
そしてこちらに目配せをすると、議場の扉を開けて出ていく。
ぼくもそれに続いた。
****
議場を出て少し歩いた時、アトス王がまるで崩れ落ちるかのよう
に膝をついた。
﹁っ、大丈夫か?﹂
﹁え、ええ⋮⋮﹂

1758
アトス王が、力なく笑って答える。
﹁す、少し、疲れました﹂
ぼくは少年王と目線を合わせるように膝をつくと、気になってい
たことを問いかける。
﹁いったい君は⋮⋮どうしてあの場で、吃りもなく⋮⋮﹂
﹁魔王様に教えていただいた方法ですよ﹂
アトス王は照れたように言う。
﹁歌うようにふしをつけて話すという、あれです。実はずっと、こ
っそり練習していたんですよ﹂
﹁そうだったのか⋮⋮。自分で言っておいてなんだけど、あんなに
うまくいくとは思わなかったよ﹂
﹁少しうまくいきすぎたくらいです。ちょっと焚きつけすぎてしま
いました。人間とは和平を結ぶはずだったのに、後で苦労しそうで
す﹂
苦笑するアトス王の顔に、ふと憂いが差す。
﹁もしセネクルが、今の我を見たら⋮⋮どう思うでしょうか﹂
﹁それは⋮⋮悔やむかもしれないな﹂
アトス王は、議員たちの心を掴んだ。
もうエル・エーデントラーダ大荒爵のような者の専横は許されな
くなり、悪魔の議会は力を取り戻すだろう。
せめて生きていれば、まだ支配する方法はあっただろうに⋮⋮と、

1759
そう考える気がする。
しかし、アトス王は穏やかな笑みと共に言う。
﹁そうでしょうか。我は⋮⋮喜んでくれるのではないかと思います﹂
そしてアトス王は、立ち上がってぼくに告げる。
﹁魔王様。あとは⋮⋮頼みます﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁我らの領土を、どうか﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
静かにうなずく。
この子らが、ここまでがんばってくれたのだ。
ぼくも相応に応えなければならない。
1760
第三十五話 最強の陰陽師、噴火を鎮める
各種族における災害支援が、急速に行われ始めた。
金に人員に食糧に物資が用意され、必要なところに必要な量が配
されていく。
避難の遅れていた集落には人が向かい、適当な場所に種族ごとの
宿営地が作られて、食糧の配給も準備が進んでいた。
多少の混乱はあるものの、異なる種族の者たちが力を合わせてい
るとは思えないほど迅速で淀みない対応に、ぼくも驚いた。
無論、初めからこうだったわけじゃない。

1761
支援の動きが目に見えて改善されたのは、レムゼネルが菱台地の
里に戻り、全体の指揮を執り始めてからだった。
﹁宿営地の資材が足りていないようだ。獣人の商会に言って都合し
オーガ ダークエルフ
てもらうがいい。鬼人の集落に向かった黒森人の部隊が戻っている
ならば設営の人員も足りるだろう。それと、巨人族の拠出する食糧
が過剰となっている。これ以上は自種族で消費する分のみで問題な
いと⋮⋮﹂
粘土板のような魔道具を使って他種族と連絡を取りながら、ほと
んど一人で決定と指示をこなしている。
初めの会合でのぱっとしない印象が強かったので、正直なところ
かなり意外だった。
﹁だから言ったの﹂
まるで自慢するように、リゾレラが胸を張って言っていた。
﹁レムゼネルは、本当はとっても優秀な子なの﹂
****
﹁こちらです、魔王様﹂
オーガ
老いた鬼人の案内で、ぼくは山を進む。
噴火の兆候が高まり始めたその日。ぼくは王たちを置いて、果て
の大火山を訪れていた。

1762
少し、考えていたことがあったからだ。
視界に入るのは、草と低木がまばらに生える荒れた山肌。
だが以前に見た蒸気井戸は一つもなかった。
当たり前だ。ここは魔族領側ではなく、かつて人間の国があった
砂漠側の山腹なのだから。
﹁もう少しばかり、歩きます。たしかちょうど、あそこに見える岩
を越えた先に﹂
﹁ああ﹂
麓の集落に住んでいた魔族の中で、山に詳しい者を聞いて回った。
オーガ
その中に一人、この老いた鬼人が、ぼくの探すものを見たことが
あると言っていたのだ。
二百年以上前に見つけたきりだが、今でも場所は覚えている、と。
オーガ
蛟で近くへ降りた後は、この老鬼人の記憶を頼りに目的の場所へ
と向かっている。
やがて。
﹁ああ、やはり⋮⋮ここでした。魔王様﹂
オーガ
老鬼人が顔を上げ、足を止める。
そこにはぼくの探していたもの︱︱︱︱山肌に開いた暗い横穴が
あった。
洞窟というには少々小さく、ギリギリ人間一人が入れる大きさし
かない。
﹁打ち棄てられた、坑道の跡です﹂

1763
オーガ
老鬼人が言う。
﹁伝承にある、滅びた人間の国の民が、かつて掘ったものではない
かと﹂
﹁⋮⋮確かにそのようだ。感謝する、ご老体﹂
あらためて、その廃坑を見る。
外からではどこまで続いているのか見通せない。それなりに深く
あってほしいが⋮⋮。
オーガ
廃坑に歩み寄るぼくを、老鬼人が呼び止める。
﹁中には入らない方がよろしい。落盤や毒気の危険があります﹂
﹁いや、大丈夫だ。ぼく自身は入らないから﹂
数枚のヒトガタをコウモリに変え、坑道へと飛ばす。
中はかなり複雑で、落盤でふさがっている道もあったが、幸いに
も山の相当な深部にまで続いているようだった。
これなら、きっと使える。
****
そして、その日が来た。
﹁⋮⋮﹂

1764
ぼくは蛟の上から、遠くそびえる果ての大火山を見据える。
念のためかなり離れた場所に浮かんでいるのだが、快晴のおかげ
でその威容がよく見て取れた。
本当は雨の方が噴煙の拡散を抑えられてよかったのだが⋮⋮これ
以上先延ばしにはできない。
地震の頻度も大きさも、次第に増してきている。
もういつ噴火してもおかしくない状況なのだ。
様々な者たちの尽力のおかげで、麓の住民の避難は完了している。
半月しか猶予のなかった中で、間に合ったのはほとんど奇跡だっ
た。
最悪、ぼくが失敗しても死ぬ者はいない。
だからこそ、この機を逃すわけにはいかなかった。
﹁⋮⋮さすがにこれだけのことをやるとなると、いくらか緊張して
くるな﹂
小さく独り言を呟いて、後ろを振り返る。
蛟には、皆も乗っていた。
リゾレラに、六人の王たち。誰もが一様に押し黙り、ぼく以上に
緊張した面持ちをしている。
それを見て、ぼくはわずかに微笑み、彼らへと語りかける。
﹁ぼくは⋮⋮正直に言うと、これまで為政者というものに苦手意識
があったんだ。ちょっとよくない思い出があって﹂
静かに聴く彼らへ、ぼくは続ける。
﹁君たちに会うと決めたのはぼく自身だけど、それもあの代表たち

1765
と話しているよりはマシだという後ろ向きな理由で、積極的に会い
たいわけではなかった。本当はあまり気が進まなかったんだ﹂
かつて親しくした幼い帝も、結局は権力の座を巡って、都を争い
の混乱に陥れることとなった。
その混乱の余波で、ぼくも死んだ。
経緯を知るぼくは彼を責める気にはなれない。しかしそれでも、
やるせない思いはあった。
この子たちも、もしかしたら似たような道を歩んでしまうかもし
れない。
しかし。
﹁でも、今では﹂
ぼくはわずかに目を細めて告げる。
﹁君たちに出会えてよかったと思っているよ﹂
彼らの返答を待たずに、ぼくは内部に熱量を湛えた火山へと向き
直る。
すでに、ほとんどの準備は整っていた。
山は解呪用のヒトガタで囲んでいる。
そして昨日見つけた廃坑の最奥には、とある術を刻んだ一枚のヒ
トガタと、それを見届ける式神のコウモリを一体だけ置いてきてい
た。
ぼくは一度大きく息を吐いて︱︱︱︱緩やかに印を組む。

1766
﹁ ︱︱︱﹂
まじな
ヒトガタに刻まれた呪いが、その式に従い、とある物体をこの世
界に生み出す。
それは六寸︵※約十八センチ︶ほどの、小さな球体だった。
コウモリの視界では色まではわからないが、直接目にすれば金属
らしい、鈍い銀色をしていることだろう。
もっとも⋮⋮命を捨てる覚悟がなければ、それを肉眼で見ること
など叶わないだろうが。
﹁︱︱︱︱
次の瞬間。
球体が眩く光ったかと思えば︱︱︱︱式神のコウモリが塵一つ残
さず消滅した。
てんごんほうこうか
︽金の相︱︱︱︱天金崩光華の術︾
まじな
坑道の深奥で、その呪いは炸裂した。
分厚い岩盤が破壊され、轟音と共に噴煙が、土砂が、溶岩が、山
腹から空高く噴き上がる。
その爆発は、天をも震わすほどだった。
同時に生まれた衝撃波が、空を覆い尽くすように辺りに伝播して
いく。
それは一拍遅れて、遠く離れているはずのこの場所にまで到達し
た。
﹁うおおッ!?﹂
﹁な、なんじゃあっ!?﹂

1767
風と音が同時に襲いかかってくる衝撃に、王たちが悲鳴を上げる。
蛟ですらも、うろたえて身じろぎしていた。
噴煙が濛々と舞い上がり、土砂と溶岩が山肌を流れていく。
ぼくは緊張を解かないまま、その噴火の動向を注意深く見守る。
﹁さて、どうだ⋮⋮うまくいったようにも見えるが⋮⋮﹂
こんな術まで使ったのだ、成功してくれないと困る。
まじな
呪いによって生み出された、小さな金属︱︱︱︱それは西洋の言
ウラン
葉で、天金と呼ばれていた。
ガラス細工の色づけなどに使われるが、毒を帯びた目に見えない
光を常に発し、日常的に触れていれば病をもたらすとも言われるも
のだ。
ウラン
そんな天金の中には、百に一つもないほどのわずかな割合で、ほ
ウラン
んの少しだけ軽い天金が混じる。
ウラン
そしてこればかりを集め、濃縮させた天金は、一定以上の塊にな
ると凄まじい規模の大爆発を起こす性質を持っていた。
その威力はまさしく、一つの国を消滅させるほどだ。
爆発には破壊ばかりでなく、他の物質を毒の光を放つものへと変
ウラン
えてしまう作用まである。濃縮天金が炸裂した地は、生物の棲めな
い死の土地になると言われていた。
てんじく
実際天竺には、太古の昔この力によって滅びた都市があるのだと
いう。
だが⋮⋮今ばかりは、希望の力だった。

1768
土砂や溶岩は狙い通り、集落のない砂漠の方向へのみ流れている。
初めの爆発以降、大きな地震や、新たな噴火が起こる気配もない。
ぼくはやがて⋮⋮固く組んでいた印を解いた。
﹁⋮⋮大丈夫、そうだな﹂
舞い上がる噴煙の中には、灰に混じって莫大な量の蒸気が見て取
れた。
ぼくは大きく息を吐いて、後ろの皆へと言う。
﹁ここまで蒸気の圧力を抜ければ、もうこれ以上の噴火は起こらな
いだろう﹂
まだ驚きから立ち直れていないのか、ぼくの言葉に反応する者は
誰もいない。
だが、もう安心していいだろう。
噴火そのものを抑えることはできない。
ならば一度、安全に噴火させてしまえばいい。
それがぼくの考えついた、この災害を制御する方法だった。
山の片側には、集落のない砂漠が広がっている。
だから土砂や溶岩をそちらに流せれば、被害は最小限に抑えられ
る。
砂漠側の中腹、その地中深くで爆発を起こし、蒸気溜まりを破壊
する。それによって、この安全な噴火を引き起こせると見込んだの
だ。
かつて人間が掘った坑道が残っていたのは幸運だった。
もしなければ自分で穴を掘らなければならず、余計に日数がかか

1769
っていただろうから。
﹁⋮⋮噴火を引き起こすなどという神のごとき所業も、セイカさま
には造作もないことなのでございますね﹂
髪の間から小さく頭を出し、ユキがぽつりと言う。
﹁まさかこれほど簡単に、事が済んでしまうとは﹂
﹁⋮⋮簡単だったとは言えないさ﹂
ぼくは小さく答える。
﹁人間の廃坑を見つけられなければ、噴火に間に合わない可能性も
あった。蒸気溜まりを正確に破壊できるかもわからなかった。狙い
通りに溶岩が流れるかも、他の不測の事態が起こらないかも⋮⋮ほ
とんど賭けのようなものだったよ﹂
だからこそ、麓に住む住民を避難させる必要があった。
まじな
呪いの衝撃により、溶岩が集落の方へ噴出しないとも言い切れな
い。そんな博打に、彼らを巻き込む気にはなれなかった。
﹁一度でうまくいってよかったよ。一応、何回かなら元に戻してや
り直せたけど﹂
﹁あっ、そうなのでございますね⋮⋮﹂
ユキが気の抜けたような声を出すが、ぼくだって無限に呪力が続
くわけじゃない。二回目以降に成功する保証もなかったから、かな
りほっとしていた。
火山の周囲に飛ばしていた大量のヒトガタに呪力を込め、広範囲

1770
の解呪を行っていく。
毒に変わってしまった物質を元に戻してやる必要があるためだ。
てんごんほうこうか
︽天金崩光華︾の最も扱いにくい点がこれなのだが、同じ威力を火
薬で実現しようとするととんでもない量が必要になってしまう。爆
発させたい場所が狭い廃坑内部だったので、こうするしかなかった。
解呪された安全な噴煙は、気流の影響か多くが砂漠の方へ流れて
いるようだった。
多少は魔族領側にも灰が降り積もるだろうが、これなら少し掃除
が大変になるくらいで済むだろうか。
﹁⋮⋮すげぇな﹂
ふと、シギル王が呟いた。
﹁今の⋮⋮魔王様がやったのか﹂
﹁信じられねェ⋮⋮﹂
﹁魔法で、まさかここまでのことができるなんて⋮⋮﹂
ガウス王とヴィル王もまた、驚愕の表情で呟いている。
﹁フィリ⋮⋮ちょっと怖い﹂
﹁この力があれば⋮⋮人間を滅ぼすことすら、できてしまうかもし
れぬの⋮⋮﹂
フィリ・ネア王とプルシェ王が、緊張した面持ちのまま呟く。
﹁その通りだろう﹂
その時アトス王が、確かな口調で言った。

1771
﹁だからこそ︱︱︱︱我らがこれ以上、留めおくべきではないのだ﹂
第三十五話 最強の陰陽師、噴火を鎮める︵後書き︶
※天金崩光華の術
濃縮ウラン塊を作りだし、核爆発を発生させる術。天然ウランの中
には、核分裂性物質であるウラン235が〇・七パーセント含まれ
る。これを九十五パーセントまで高めた高濃縮ウラン塊六十キログ
ラムを生成すると、五パーセント含まれるウラン238の自発核分
裂をきっかけに核分裂連鎖反応が自然と発生。これに伴って放出さ
れる凄まじいエネルギーが、TNT換算で十六キロトンにも相当す
る大爆発を引き起こす。地表核爆発になる関係上、周囲に深刻な放
射能汚染を発生させてしまうため、放射化した物質を後に解呪によ
って元に戻してやる必要がある。ウランは現実には近代になって発
見された元素だが、古くからガラスの着色剤として利用されており、
作中世界では古代ローマの錬金術師が分離していた。作中における

1772
ウランという名称は、鉱石をよく晴れた朝の空にかざすと紫外線に
反応して緑色に光ることから、ギリシア神話の天空神ウラノスにな
ぞらえ、命名されていた。
第三十六話 最強の陰陽師、帰り支度をする
噴火が起こったという報せは、瞬く間に全種族へと知れ渡った。
まああれほど大きな音が轟いたのだから、無理もないが。
ぼくたちはあれから菱台地の里に戻ったのだが、各種族の調査隊
が現地へ確認に向かったおかげで、その後の状況もわかってきた。
流れ出た溶岩は未だ冷えていないものの、噴出はすでに止まって
おり、今は蒸気のみが湧き出ているようだ。
あれから数日、地震も減ってきているように感じる。今回の火山
活動は、このまま徐々に収まっていくことだろう。
周辺には灰が降り、まだとても戻れない状況だが、いずれは麓の
集落に住む者たちも元の暮らしを取り戻し、壊された蒸気井戸も再

1773
建されるに違いない。
わざと噴火を起こしたことは、ぼくらの間での秘密だった。
一応口止めはしたものの、そんなことをしなくても皆、あれが無
闇に触れ回ってはならない類の力だということは察していたように
思う。
成功を確信できた頃、ぼくらは魔王城へと向かい、そこで小さな
宴を開いた。
近くの集落でできるだけ上等な食材を買って、皆で調理した。意
外にもガウス王とシギル王が手慣れていて、思っていたよりも豪勢
な食事が並ぶこととなった。
余っていた酒も開けたおかげか、宴は賑やかなものになった。
王たちはいろいろなことを話していた。大火山の中途半端な噴火
に拍子抜けしていた高官たちの話題から始まり、王宮のこと、民の
こと、そしてこれからのことまで。
元からそれなりに親しかった王たちだが、様々なことがあったた
めか、初めの頃よりもずっと打ち解けているように見えた。
今話しておかなければ、という思いもあったのかもしれない。
危機は過ぎ、彼らも自らの王宮へ帰らなければならない時が来て
いる。
ぼくは途中で席を外したが、皆は夜が更けるまで話し込んでいた
ようだった。
そして、翌日。
それぞれの王都へ送っていくというぼくの提案を、王たちは断っ
て言った。
日暮れ森の里まで乗せていってほしい、と。

1774
﹁え、どうして?﹂
ぼくは思わず訊ねる。
ルルムの里は、魔族領でも帝国に近い端の方にある。
どの王都へ帰るにしても不便なはずだった。
﹁ええと、代表の者たちと帰ろうかと思いまして﹂
ヴィル王が、他の王たちへ視線をやりながら言った。
﹁彼らは皆政治的な有力者なので、王宮へ戻る前に話をつけておこ
うかと﹂
﹁うん、そうそう。フィリもそう思って﹂
﹁どんなやつだって話せばわかってくれるはずだ! な、シギル?﹂
﹁そ、そうだな⋮⋮おれはちょっと、あの将軍は怖いんだけど⋮⋮﹂
﹁皆といれる時間を、できるだけ長く取りたいというのもあります﹂
アトス王が補足するように言った。
﹁魔族の連盟を設立するにあたり、話し合わなければならないこと
は多いですから﹂
﹁ああなるほど。まあ、それはかまわないんだが⋮⋮﹂
ぼくは少々言葉に迷いつつ言う。
﹁ただ、もしかすると代表たちはもう出立した後かもしれないぞ。
一時は魔王どころの騒ぎではなくなってしまったし、王都へ戻った
者もいるんじゃないのか?﹂
﹁その時はその時じゃ。便りを出し、迎えを呼べばよい。なに、多

1775
少時間がかかった方が都合がよいくらいじゃからな﹂
﹁それはそうかもしれないが⋮⋮﹂
﹁大丈夫なの﹂
プルシェ王へ煮え切らない答えを返すぼくに、リゾレラが笑みを
浮かべて言う。
﹁里にいる間、みんなのことは神魔の者たちがしっかり守るの。だ
から心配しなくていいの﹂
﹁うーん⋮⋮わかった﹂
ちょっと想定外ではあったが、まあ問題ないか。
ぼくは微笑を浮かべ、皆へと告げる。
﹁では、行こうか﹂
****
宴の後始末に手間取り、出立が少々遅れたこともあって、ルルム
の里に着く頃にはすっかり夜になってしまっていた。
もう床に入る時間帯なせいか、建物に見える魔道具の灯りも少な
い。
少々申し訳なく思いながらも、里長であるラズールムを起こして
事情を説明し、王たちを代表の一団が滞在する場所へ受け入れても
らえるよう取り計らってもらった。
代表の中にはやはりすでに帰還した者もいたのだが、急いだため
に人員と物資の大半を残していったようで、王の護衛や滞在などは

1776
特に心配なさそうだった。
王たちを代表団へ引き渡し終えて、ぼくはようやく一息つく。
﹁はぁ﹂
﹁⋮⋮なんだか疲れたの﹂
リゾレラもぼくの隣で、同じように溜息をついて言った。
﹁思えばずっと、保護者をしていた気がするの﹂
﹁⋮⋮はは、確かにそうだ。気疲れしたのはそのせいか﹂
ユキの言っていたように、弟子がいた頃を思い出すようだった。
手のかかる子たちが巣立っていなくなり、少し寂しくなるのも同
じだ。
﹁でも⋮⋮ちょっと楽しかったの﹂
リゾレラが微かな笑みとともにぽつりと言う。
﹁あの時あなたについていくと決めて、よかったの。いろいろ、大
変なこともあったけれど⋮⋮あなたのおかげで、全部なんとかなっ
たの。本当に感謝してるの、セイカ﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
そう、短く答える。
これでぼくも、ようやくアミュたちのところへ戻ることができる。
ただ。

1777
﹁⋮⋮リゾレラ﹂
その前に、彼女には伝えておくことがあった。
﹁ぼくは︱︱︱︱﹂
****
翌日の夜明け前、ラズールム邸の離れにて。
すでに荷物を整え終えたぼくは、目の前で寝こけるアミュたちを
見下ろしていた。
若干ためらいながらも、宙に浮かべたいくつものヒトガタに明る
い光を点し、抑え気味の声で彼女らへ呼びかける。
﹁⋮⋮おーいっ、起きてくれ﹂
﹁んん⋮⋮﹂
﹁⋮⋮まぶしい﹂
﹁なによ、もう⋮⋮﹂
三人が目を擦りながら、もぞもぞと起き上がる。
誰がどう見ても眠そうだったが、ぼくの姿を認めると、次第にそ
の目を開き出す。
﹁⋮⋮セイカ?﹂
﹁ええっ!?﹂
﹁セ、セイカくん!?﹂
イーファが一番に立ち上がると、泣きそうな顔でぼくに駆け寄っ

1778
てきた。
﹁もうー! 戻ってこないのかと思った⋮⋮﹂
﹁ご、ごめんごめん。いろいろあって⋮⋮﹂
ぼくはうろたえながら弁解する。
噴火前に一度戻ってきた時も、結局彼女らとは顔を合わせずじま
いだったから、もう相当に久しぶりだ。
アミュが同じく立ち上がって言う。
﹁えっと⋮⋮一ヶ月ぶりくらい? ほんと、今までどこでなにして
たのよ。なんか火山がどうとかでルルムたちが心配してたけど⋮⋮﹂
﹁あー、うん。いろいろあって⋮⋮そっちは何もなかったか?﹂
﹁なにもないっていうか、ヒマでしょうがなかったわよ。神魔の里
だって半月もすれば見るものもなくなっちゃうし﹂
﹁⋮⋮することなくてルルムさんにも申し訳なかったから、最近は
魔道具作りをちょっと手伝ったりしてたよね﹂
﹁あとは、ガキんちょのお守りとかね。まったく、ガキって人間も
魔族もなんでああも生意気なのかしら﹂
﹁子供だもん、しょうがないよ。でも、なんだかんだ言ってアミュ
ちゃんが一番遊んであげてたからね﹂
﹁へぇー⋮⋮﹂
どうやら平和に過ごしていたらしい。
ルルムの里とはいえ魔族の地であったから少し心配していたのだ
が、何事もなくてよかった。
その時、寝ぼけ眼のメイベルが、未だ眠たげな声音で言う。

1779
﹁⋮⋮なんで、こんな時間に起こすの﹂
﹁はっ、そうだ﹂
ぼくはあわてて彼女らに告げる。
﹁みんな悪いんだが、急いで出発の準備をしてくれないか?﹂
﹁えっ﹂
﹁はあ?﹂
﹁⋮⋮どうして?﹂
ぽかんとする三人に向け、ぼくは言う。
﹁帝国へ戻るには、今がチャンスなんだ﹂
噴火のゴタゴタがおさまるまではまだしばらくかかる。今なら魔
族も魔王どころではなく、ぼくがいなくなっても大きな騒ぎにはな
らないはず。
今日明日でこの状況は変わらないだろうが、とはいえあまりもた
もたしてもいられない。代表たちに帰還を知られれば、あの手この
手で魔族領に留め置かれる可能性もある。
だから、今日。早朝に出立するのが一番いい。
﹁え、でも⋮⋮大丈夫なの? セイカくん﹂
イーファが心配そうに言う。
﹁黙ってこっそり出て行ったら、あとで魔族の人たちが帝国に探し
にくるんじゃない? 魔王なんだし、簡単にはあきらめないと思う
んだけど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮めんどうなことになりそう。セイカ、追っ手がついてもいい

1780
の?﹂
﹁ね、ねえ。あたし⋮⋮できればルルムには、最後にお別れしてか
ら行きたいんだけど⋮⋮﹂
﹁わかってるわかってる。全部大丈夫だから﹂
ぼくは皆をなだめるように説明する。
﹁帝国に戻ることは、実はリゾレラ⋮⋮ええと、神魔の偉い人には
もう伝えてあるんだ。ぼく自身も各種族の王とは顔見知りになって
いるから、いいように取り計らってくれると思う﹂
そう。魔族領から去ることは、リゾレラには昨日の夜に話してい
た。
なんと言われるかと思ったのだが、彼女はしばらく沈黙した後に、
﹃そう言うと思ったの﹄とだけ言って微笑みとともにうなずいてい
た。
王たちにきちんと別れを伝えられなかったことだけは、少し心残
りだ。
本当は王都まで送り届けてそこで別れるはずだったので、時機を
逸してしまったというのもある。だがそれ以上に、彼らから頼まれ
た魔族連盟の代表という役目を、断らなければならないことが後ろ
めたかったのだ。
残念だが、ぼくからの別れと弁明の言葉はリゾレラから伝えても
らうことにしよう。
ぼくはあくまで人間なのだ。魔王として、この地で暮らすことは
できない。
あの子たちも、きっとわかってくれるだろう。
﹁それと、ルルムのことだけど﹂

1781
ぼくはそれから、少ししょんぼりしている様子のアミュへ言う。
﹁今日出立することは、リゾレラから伝えてもらうようにしてある。
だからきっと、里の門のところで待ってくれているはずだよ﹂
﹁そう⋮⋮。じゃ、いいわ。はーあ、いよいよこの里ともお別れな
のね﹂
伸びをしながら感慨深そうに言うアミュに、イーファとメイベル
も同調する。
﹁長かったけど⋮⋮あっという間だったね。もう、ここに来ること
もないのかなぁ⋮⋮﹂
﹁来ようと思ったら、また来られる。目印も覚えてる﹂
﹁そうね。みんなあたしたちよりずっと長く生きるんだし、来たい
と思った時に来ればいいわ!﹂
﹁ああ﹂
ぼくはうんうんとうなずき、それから少し急かし気味に言った。
﹁じゃ、荷造りを頼む﹂
1782
第三十七話 最強の陰陽師、魔族領を後にする
夜の明けきらない中、荷物を背負って静かに離れを出る。
家主のラズールムには、昨晩のうちに事情を伝えていた。
万一にも代表たちには伝わってほしくなかったため、出立の時期
はぼかしたのだが、なんとなく察してくれたようだった。
世話になった礼として差しだした帝国の金を、ラズールムは首を
振って断った。
そして、
﹃ギルベルトの子よ、君の幸運を祈っている﹄

1783
という短い別れの言葉だけを、穏やかな表情でくれた。
ぼくら四人は黙って、まだ薄暗い里の道を進む。
やがて里を囲む巨石の柵と、門が見えてきた︱︱︱︱その時だっ
た。
﹁あっ、誰かいるみたい﹂
イーファの声と同時に、ぼくも気づく。
門の近くに、人影があった。
リゾレラとルルムはいてもおかしくないのだが、何やら数が多い。
八人もいる。
﹁え⋮⋮なんで?﹂
ぼくが動揺していると、人影の集団がこっちに気づき、大きく手
を振ってきた。
﹁おっ、来たみたいだぜ!﹂
﹁おーいっ、魔王様ー!﹂
その時にはぼくもようやく、彼らが誰なのかわかった。
思わず駆け寄る。
﹁み⋮⋮みんな、どうして⋮⋮﹂
﹁どうしても何も、決まってんじゃねーか!﹂
ガウス王が、豪快に笑って言う。

1784
﹁見送りに来たんだよ、魔王様!﹂
そこにはルルムとリゾレラの他に、六人の王の姿があった。
皆が口々に言う。
﹁水くさいんだよ、黙って出て行こうなんてさ﹂
﹁礼儀がなっとらんの。余たちにも別れくらい言わせるがよい﹂
﹁共に過ごせてうれしかったです、魔王様。またいつか、人間の国
のことを聞かせてください﹂
﹁いつでも遊びに来ていいよ。フィリたち、歓迎するから。こっそ
りね﹂
﹁そ、それはありがたいんだが⋮⋮﹂
ぼくは戸惑いながら言う。
﹁えっと、なんで知って⋮⋮﹂
﹁ごめんなの、セイカ﹂
リゾレラが、やや申し訳なさそうに言う。
﹁ワタシが話しちゃったの。みんなも、きっとお別れしたいと思っ
て﹂
言葉が浮かばないぼくへ、アトス王が落ち着いた声音で言う。
﹁大丈夫です、魔王様。誰も、他の者には言っておりません。我ら
だけの意思でここに来ました﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁代表団に知られれば、面倒なことになってしまいそうですから。
それは魔王様もお望みではなかったでしょう﹂

1785
﹁それは、その通りなんだが⋮⋮﹂
﹁魔王様の出立を、ただ皆で見送りたかっただけなのです。少しで
すが、餞別も用意しました。そこに﹂
アトス王の示した先を見ると、門の向こうに荷物のくくりつけら
れた黒い馬型のモンスターが二頭あった。
シギル王が言う。
﹁代表団の物資から、みんなでこっそり持ち寄ったんだ。荷馬はリ
ゾレラ様だけど、食糧とか布とか、あとちょっとした魔道具とかが
荷物に入ってるぜ﹂
﹁大した物がなくてすまぬの﹂
﹁フィリの家になら、余ってる宝石とかいっぱいあったんだけど⋮
⋮﹂
﹁森を出たら、ダークメアたちはそのまま帰してくれればいいの﹂
リゾレラが言う。
﹁かしこい子たちだから、ここまで勝手に戻ってこられるの。荷物
は、セイカががんばって持つの﹂
﹁うむ、そうじゃな。嫁御らにこれだけ持たせるのも酷じゃろう。
それに魔王ならば造作もあるまい﹂
﹁⋮⋮な、なあ。やっぱあそこの三人って、魔王様の嫁さんなのか
な⋮⋮?﹂
﹁さ、三人もか!? さすがは魔王様だぜ⋮⋮!﹂
﹁僕は少しショックだよ。もっと真面目な人かと思ってたのに⋮⋮﹂
﹁はああっ!? ちょっと聞こえてるんだけどっ? 誰が嫁よ!
なんなのよこの色ぼけ魔族どもはっ!﹂
﹁セイカ、また変なのと仲良くなってる﹂
﹁もう慣れてきたよね⋮⋮﹂

1786
なんだか急に騒がしくなる中、ぼくは彼らへと向き直り、告げる。
﹁いや、すごく助かるよ。それと⋮⋮﹂
ためらいがちに付け加える。
﹁黙って去ろうとして、すまなかった。でも⋮⋮やっぱりぼくは、
君たちの力にはなれないんだ﹂
﹁わかっています﹂
アトス王は、穏やかな表情で言う。
﹁魔王様が人間の国に戻りたがっていることは、実は皆、薄々勘づ
いていました﹂
﹁え⋮⋮﹂
﹁全員が王都ではなくこの里へ来ることを望んだのも⋮⋮実を言え
ば、魔王様を見送るためだったのです﹂
驚いて皆の顔を見回す。
王たちは誰もぼくを責めるでもなく、ただ仕方なさそうな表情を
していた。
﹁まあな⋮⋮そりゃあ、生まれ育った場所の方がいいよな﹂
﹁人間の文化を教わる中で悟りました。魔王様はやはり、人間とし
て生きてきたのだと。それならば、これからも人間として生きてい
くべきなのでしょう﹂
﹁魔王様、時々帰りたそうにしてたもんね﹂
﹁向こうで大事な者もおることじゃろう。魔族の陣営につき、魔王
として人間との敵対を求めるなど、酷な話じゃったな﹂

1787
﹁ああ! だから全然気にすることないぜ、魔王様!﹂
﹁⋮⋮それに、こう言ってはなんですが﹂
アトス王が、真剣な口調で付け加える。
﹁魔王様が、たとえここへ残ることを望んでも⋮⋮我らはそれを拒
絶していたでしょう﹂
﹁え⋮⋮?﹂
﹁リゾレラ様がかねてからおっしゃっていたことが、今回の一件で
真に理解できました。魔王様の圧倒的なお力は︱︱︱︱やはり、人
間との大戦をもたらすものです﹂
アトス王は続ける。
﹁あの力を知れば、魔族は誰もが狂うことでしょう。人間の国に勝
てる。魔王様さえいれば、人間どもを滅ぼせる。かつての領土と栄
光を、自分たちの世代で取り戻すことができるに違いない⋮⋮と。
この危険な思想は、きっと瞬く間に魔族領全土へと広がり、御しき
れぬ恐ろしい戦乱の世を招くでしょう。魔王様が、大戦の火種とな
ってしまうのです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁だからこそ、ここにいてはなりません。人間の国にお帰りくださ
い、魔王様。そこで穏やかに、幸いな暮らしを送られますよう﹂
アトス王は、微かな笑みとともに付け加える。
﹁ただ人間の権力者に利用されぬ程度には、どうか狡猾に。魔王様
は人がいいので、少し心配です﹂
﹁魔王様が人間側についちまうとか、マジでやべーからな⋮⋮!﹂
﹁そうそう。そこら辺ほんとに気をつけてくれよ、魔王様﹂

1788
﹁⋮⋮ああ、わかったよ﹂
彼らの言葉に、ぼくは思わず苦笑を返す。
確かに、それはこれからも注意しなければならない。思えば今回
は、力のほどを少々見せすぎてしまった。
皆がぼくを利用しようとするような者でなくて、本当によかった。
力に惑わされないこの子らが治めるならば、きっとこの先も、魔
族が争いの世に突き進むようなことにはならないだろう。
ぼくは言う。
﹁本当にすまないが⋮⋮あとのことは頼んだ。特にエーデントラー
ダ卿とか、だいぶめんどくさいと思うけど⋮⋮﹂
﹁ええ、なんとかしましょう﹂
アトス王もまた、苦笑して答える。
﹁大荒爵には、別の役割を与えることにします。これから魔族は否
応なく変わっていく。それを見届けられる地位ならば、卿もきっと
満足することでしょう﹂
激動の目撃者となることを望んでいたあの悪魔をなだめるならば、
確かにそうするのが一番いい気がした。
他にもやっかいな有力者はいくらでもいるだろうが⋮⋮今のこの
子たちなら、きっとなんとかすることだろう。
と、その時。
﹁⋮⋮セイカ﹂

1789
ずっと思い詰めたように口をつぐんでいたルルムが、一歩前に出
て言った。
﹁その、本当に⋮⋮帰ってしまうの? あなたがいれば、きっと人
間とも⋮⋮﹂
﹁引き留めちゃだめなの、ルルム。セイカは、ここにいるべきでは
ないの﹂
﹁でもっ、リゾレラ様⋮⋮﹂
﹁あなたの夢なら、大丈夫なの﹂
リゾレラが安心させるような笑みとともに言う。
﹁ワタシが︱︱︱︱魔族連盟の代表になるの。魔族の未来を背負っ
て、人間の国とも交渉するの。だから心配いらないの﹂
﹁リゾレラ様が⋮⋮?﹂
﹁えっ⋮⋮だが、君は⋮⋮﹂
ぼくは思わず口を挟んでしまう。
自分はただ長く生きただけの神魔に過ぎないからと、リゾレラは
ずっとそのような立場を固辞し続けてきたはずだった。
しかし。
﹁ワタシも、変わるの﹂
朝日の差し始めた中、リゾレラが晴れやかな顔で言う。
﹁この子たちに負けていられないの。五百年もかかってしまったけ
れど、今からだって遅くないの。長く生きてきたワタシなら、きっ
とみんな納得するはずなの。だからこれは、ワタシの役目なの﹂

1790
﹁⋮⋮そうか。君も、か⋮⋮﹂
ぼくは小さく呟いて、視線をわずかに伏せた。
その勇気が、うらやましいと思った。
百数十年の時を生き、転生してもなお変わることのできなかった
ぼくに、果たして同じことができるだろうか。
﹁⋮⋮ルルム!﹂
その時、アミュが声を上げた。
なおも何か言いたげな様子のルルムに向け、快活な笑顔で言う。
﹁あたしたち、行くわね﹂
﹁っ、アミュ⋮⋮﹂
﹁いつまでもここで世話になってるわけにもいかないもの。あたし
たちは、あたしたちで生きていかなきゃいけないんだから﹂
﹁⋮⋮﹂
アミュの言葉に、イーファとメイベルは顔を見合わせると、ルル
ムへと笑って言う。
﹁あの⋮⋮ルルムさんの探してる人、見つけたらぜったい、手紙を
書きますね! ルルムさんのことも、伝えておきますから!﹂
﹁たのしかった。ありがと。ノズロにも、そう言っておいて﹂
ルルムは一瞬唇を引き結ぶと、涙声になって答える。
﹁うん、ごめんなさい⋮⋮さようなら、みんな。元気でね﹂
ぼくらは門を出て、馬型のモンスターに二人ずつまたがる。

1791
イーファを後ろに引っ張り上げ、アミュとメイベルが無事乗り終
えたことを確認すると、ぼくは皆の方へと顔を向けた。
﹁⋮⋮﹂
別れの言葉は、すぐには出てこなかった。
ほんの一月ほど、共にしただけの間柄だ。なのに、驚くほど様々
な思いが湧き上がってくる。
もしかすると⋮⋮魔王として彼らと志を共にする道も、あったの
かもしれない。
ただ、それでも。
﹁⋮⋮それじゃあ﹂
ぼくは、寂しさの混じる笑顔で手を上げた。
﹁みんな、またいつか﹂
結局出てきたのは、前世で巣立っていく弟子たちにかけてきたよ
うな言葉だった。
皆がそろって、大きく手を振る。
﹁バイバイ、セイカ!﹂
﹁またなー、魔王様ー!﹂
﹁余たちのことを忘れるでないぞ!﹂
﹁元気でなー!﹂
﹁いつか、人間の国でも会いましょう!﹂
﹁いつでも遊びに来ていいよ! フィリ待ってるから!﹂

1792
﹁ありがとうございました、魔王様!﹂
ぼくも手を振り返す。
荷馬が、ゆったりとした速度で歩み始めた。
里が遠ざかっていく。
前に向き直ると、一月半前に通った道が延びていた。二日もあれ
ば森を出て、人間の村までたどり着けるだろう。
なんだかずいぶんと長い間、あの地で過ごしていた気がする。
前世でよく耳にした異界で暮らした逸話のように、戻ったら何十
年もの時が経っていた⋮⋮なんてことはないだろう。
ただ少し、記憶に残るような出来事が多かっただけだ。
もしかすると⋮⋮異界に取り込まれるとは、その程度のことなの
かもしれない。
ぼくの父であるというギルベルトなる男が、神魔の者たちと心を
交わし、あの地で所帯を持ったように。
離れ行く里を、ぼくは再び振り返る。
小さくなった白い巨石の門の向こうで︱︱︱︱皆はいつまでもい
つまでも、手を振り続けてくれていた。
1793
幕間 皇帝ジルゼリウス・ウルド・エールグライフ、帝城にて
﹁結局、大したことはなかったようだね。噴火﹂
帝都ウルドネスク、その中心にそびえる帝城の一室にて。
一人の男が、月明かりの差し込む窓際で呟いた。
それは取り立てて特徴のない男だった。
年の頃は四十も半ばを過ぎたほど。目鼻立ちは凡庸そのもので、
貫禄や華やかさといったものには無縁の容姿だ。長身でもなければ
短身でもなく、痩身でもなければ肥満体でもない。雑踏ですれ違っ
たならば、次の瞬間には記憶から消えてしまいそうな、地味な男。

1794
逆に言えば︱︱︱︱ウルドワイト帝国皇帝という、途方もない権
力をその手中に収める者としては、ある種異様な風貌でもあった。
おご
驕りや増長はもちろん、政敵と渡り合ってきた気迫や、激務と重
圧によるやつれや、大国の君主としての自信すらも、その姿からは
一切感じられない。まるで不自然なほどに。
皇帝ジルゼリウス・ウルド・エールグライフとは、そのような男
であった。
﹁キヒ、キヒヒッ⋮⋮﹂
呟きに答えるように、甲高い笑声が小さく上がった。
部屋の主と同じく地味な居室の一画に、うずくまる影があった。
皇帝の佇む窓際の方へ、影が一歩踏み出す。
幼子のような矮躯。ひどい猫背で、異教の神官が持つような錫杖
を支えにして立っている。身に纏う深紅の外衣から覗くのは、暗い
緑色の肌。鉤鼻に長い耳は、人間のものではない。
﹁残念でゴザいましたね、陛下﹂
甲高い声は、老婆のようにしわがれている。
その存在は無論、人間ではなかった。
ゴブリン・カーディナルという名の、モンスターの一種だ。
ゴブリンの群れの中にまれに出現し、仲間を回復する魔法を使う
ゴブリン・プリーストというモンスターがいる。ゴブリン・カーデ
ィナルはその上位種であり、本来ならば高難度ダンジョンでしか見

1795
ることのないモンスターだ。
だが皇帝は、まるでそこにいることが当然のように、顔すら向け
ることなくゴブリンの老婆へと答える。
﹁別にいいんだけどね。ぼくの策じゃなかったし﹂
ゴブリンの老婆もまた、大帝国の君主へ平然と言葉を投げかける。
﹁キヒ⋮⋮御子息の、ドなたかでショうか?﹂
﹁どなたかというか、誰が仕組んだか見当はついてるけどね﹂
皇帝たる男は表情を変えることなく続ける。
﹁少し面白いアイディアだったから放っておいたけど、案の定つま
らない結果になったね。やっぱり自然の山になんて期待するものじ
ゃないな。せっかく悪魔の王宮に潜り込ませた間者も使い捨ててし
まって、何をしているのだか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁まあこれに懲りて、息子ももう少し地道に成果を重ねることを覚
えてくれればいいのだけどね。王道とは案外、平凡で退屈なものだ。
すぐに結果の出る劇的な手段を頼らず、堅実にそれを選ぶ勇気も必
要さ。策謀一つで敵に大打撃、なんて爽快な物語は、現実にはそう
ないのだから﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁とはいえ、色々試してみるのもいい。何事も経験だ。後始末は⋮
⋮仕方がないから、ぼくがつけてあげることにしよう﹂
﹁⋮⋮陛下﹂
ゴブリンの老婆が呟く。

1796
その声音には、先ほどまでにはなかった険しさがわずかに含まれ
ている。
﹁シかしながら、此度は少々⋮⋮﹂
﹁わかっているよ、ばあや。こちらにとって、いくらか面倒なこと
になってしまったね﹂
男は苦笑して言う。
﹁魔族が協同の動きを見せ始めている︱︱︱︱軍拡の気配こそない
ものの、魔王軍結成に類する動きと見ていいだろう。噴火の危機、
それと何より魔王の帰還が、そのきっかけとなってしまったか﹂
その声音に、深刻な響きはまるでない。
知人に愚痴をこぼすかのような調子で、皇帝は続ける。
﹁これまで隠れていたくせに、どうして突然出てきたのだろうね。
そのまま舞台袖にいればよかったものを。幸い魔王は勇者と共に魔
族領を去ったようだけど⋮⋮あまり、好ましい事態とは言えないか
な﹂
皇帝は小さく嘆息する。
物憂げにも見えるその仕草だが、まるで三流役者の芝居のように、
どこか嘘くさい。
﹁困ったものだよ。ぼくらの敵は魔族ばかりではない。隣国にモン
スター、産業に経済に福祉問題、貴族の派閥争いに民の不満、あと
は古くなった街道や水道の整備とか、次の皇帝を誰にするかとか⋮
⋮国家には解決しなければならない問題がたくさんある。一人の英
雄が悪を倒せば世界が救われるなんてことは、現実には起こらない。

1797
勇者や魔王になど、かまっている場合ではないというのに﹂
﹁⋮⋮陛下⋮⋮﹂
﹁まあでも⋮⋮なんとかなるさ、ばあや。こんなの大したことはな
い﹂
皇帝は、体の向きをわずかに変え、ゴブリンの老婆に顔を向けた。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいる。
﹁勇者も魔王も︱︱︱︱所詮はただ、最強であるだけなのだから﹂
凡庸な顔の男が、凡庸な笑みのまま続ける。
﹁ドラゴンを屠り、千の軍勢と渡り合う暴力があろうとも⋮⋮広大
な領土に莫大な財貨、数千万もの民を有するこの帝国において、そ
れが持つ意味はたかが知れている。力とは数であり、強さとはそれ
を操る狡猾さだ。個人の暴力など、世界にとっては取るに足らない﹂
﹁⋮⋮キヒッ⋮⋮﹂
﹁彼らもまた、役者の一人に過ぎない。舞台に上がるのなら迎えよ
う。せいぜい筋書き通りに演じてもらうとしようか﹂
﹁⋮⋮キヒッ、キヒヒヒッ!﹂
ゴブリンの老婆が、甲高い笑声を上げる。
裂けた口からは、蛭にも似た舌が覗いていた。
﹁サすがでゴザいます。陛下がソうおっしゃるのならば、キヒッ、
きっとソノように、ナることでしょう⋮⋮!﹂
人語を解すモンスターはほとんど存在しない。こうして人と会話
している時点で、このゴブリンは十分に異常な存在と言える。
しかしそれを踏まえてなお、異常と言える光が老婆の目には宿っ

1798
ている。
﹁ヤハり⋮⋮ばあやが見込んだトおりでゴザいました。陛下ハ最も
強き、群れの長とナるお方。ジェネラルにキングばかりか、魔王や
勇者をも超越するホどの、存在に⋮⋮キヒッ、キヒヒヒッ!!﹂
﹁あんまり買いかぶられても困るよ。ぼくはぼくにできることをす
るだけさ﹂
老婆の狂気など意にも介さずにそう答えると、皇帝は窓へと向き
直った。
二つの月が同時に陰り、居室に夜が差し込む。
暗闇の中でその姿は、奇妙に存在感をなくしていく。まるで観客
にその存在が意識されることのない、演劇の裏方であるかのように。
﹁過去の大戦の焼き直しなのかと思いきや、少しばかり妙な舞台に
なりそうだ。魔王と勇者が仲間同士とは⋮⋮でもある意味、こんな
のも斬新で面白いかもしれないな﹂
口だけが、呟きを発した。
﹁さて、どのような役を演じてもらおうか︱︱︱︱魔王セイカ・ラ
ンプローグ﹂
1799
幕間 皇帝ジルゼリウス・ウルド・エールグライフ、帝城にて︵
後書き︶
これで八章が終わりました︵長かった⋮⋮︶。
次は九章です。
1800
幕間 ギーシュ、城塞都市レメアにて︵前書き︶
九章の開始です。
1801
幕間 ギーシュ、城塞都市レメアにて
ギーシュはこれまで生きてきて、何かを深く考えたことはなかっ
た。
貧しくて嫌気が差していた生まれの村を捨て、都市へ向かうこと
にしたのは、悪友の誘いに軽い気持ちで乗ってしまったからだ。
そこでろくな職にありつけず、なんとなく傭兵団に志願したのは、
耳触りのいい勧誘の言葉を真に受けてしまったからだ。
結局、その傭兵団の実態はほとんど野盗の集団だったのだが、だ
からといってギーシュは逃げ出すこともせず、流されるままに商隊
や旅人を襲う手伝いをしていた。
面倒だったのだ、考えるのが。

1802
ぼんやりとまずいとは思っていたが、行動に移すほどの気力を、
ギーシュは持ち合わせていなかった。
当然そんな稼業が長く続くはずもなく、傭兵団は捕らえられ、頭
目は絞首刑、ギーシュたち下っ端は奴隷として売り払われることと
なる。
他の大勢の奴隷とともに連れて行かれた先は、鉱山だった。坑道
は狭く、暗く、暑く、毒気や落盤で仲間が次々に死んでいく。自分
も長く生きられないだろうとギーシュは感じていたが、しかし何も
しなかった。
考えることは面倒だ。
何か状況を脱する手段があるのだとしても、それを考えるのも、
行動に移すのも、ギーシュには億劫だった。
だから、反乱に参加したのも、単にそれが目の前で起こったため
だった。
ある夜、騒がしさに目を覚ますと、奴隷を管理する兵隊たちの詰
め所が燃えていた。周辺には死体が転がり、さらにはそれを取り囲
むように、興奮した様子の奴隷たちが立っていた。
彼らの話す内容から、反乱を起こしたのだとわかった。
兵隊から奪った剣や、金槌やツルハシなど、思い思いの武器を持
った奴隷の集団に、ギーシュはついていくことにした。彼らは奴隷
主の屋敷に押し入ると、肥えた初老の男とその家族を殺し、金品を
奪って火をつけた。
﹁⋮⋮すげぇ﹂
燃え盛る大きな屋敷を見て、どさくさに紛れてくすねた宝石を握
りしめながら、ギーシュは思わず呟いていた。

1803
自分たちのしでかした事の重大さに、今さらながら興奮していた。
奴隷の数は、いつのまにか増えていた。
どうやら農園で働く奴隷たちも同じタイミングで反乱を起こして
おり、彼らと合流したらしい。
﹁やったぞ、みんな! これで俺たちは自由だ!!﹂
奴隷を束ねる頭目の男の顔を、ギーシュは知らなかった。
農園の方の奴隷なのかと思ったが、よくよく思い返してみると鉱
山からの道中ですでにその男の姿はあった。だから、共に働かされ
ていた仲間であることは間違いないはずなのだが。
﹁まあいいか﹂
ギーシュはそれ以上、深く考えなかった。
面倒であったし、何よりどうでもよかったからだ。
奴隷の反乱軍は、その後町や村を襲い始めた。
集落を襲うのは簡単ではない。たとえ小さな村でも、相手の方が
数が多い。生活を守るためにも、襲われれば決死の覚悟で反撃して
くる。豊かな村には自警団が存在し、町ともなれば警邏隊兼警備隊
である騎士団を雇っていることも多かった。野盗程度が襲える集落
など限られる。だからこそ、彼らは主に商隊などを獲物としている
のだ。
しかし、これだけの規模の集団ともなると、話は違った。
鉱山と農園の町を掌握した奴隷たちの集団は、いつの間にか数を

1804
増やしていた。
それこそ、小さな町程度なら容易に攻め落とせてしまうほどに。
反乱軍は元の町を出ると、ひたすらある方角に向かって進み、物
資の拠出を求めると称しては、進軍途上にある町や村を襲った。
頭目とその取り巻きたちは、正義を為すためだとしきりに叫んで
いたが、やっていることは正義とはほど遠かった。
しかし、やはりギーシュにとってはどうでもよかった。
﹁へへ⋮⋮すげぇよ﹂
血に濡れた刃物を手に、納屋に隠れた村娘を追い詰めたギーシュ
は、こらえきれずそう呟いた。
自分は何か、とてつもない出来事に居合わせている。
奴隷の解放やら貴族制の廃絶やら、あの男の言うことはよくわか
らない。だが退屈でしかたなかった自分の人生に、今ようやく激動
が訪れている。
ギーシュにはそんな確信があった。
反乱軍は、さらに増えた。
襲った先の町や村で、奴隷や虐げられていた者など、自分たちと
似た境遇の者を取り込んでいったためだ。
時には強制的に徴発することもあったが、そういった者たちは自
分たちの召使いとし、集落を攻めるときには真っ先に突っ込ませた
ので、ギーシュとしては気分がよかった。
やがて反乱軍は、とある小規模な城塞都市にたどり着いた。
小規模とはいえ、城塞都市だけあって町や村などとは比べものに
ならないほど大きい。
いくら数の増えた反乱軍と言えど、城壁のある都市を落とすこと
は容易ではない、というより不可能に思えたが、どういうわけか城

1805
門は最初から開け放たれていた。
誰もいない城門をくぐり、反乱軍は静かな市街を進む。
立派な街のどこにも、人の気配はない。
やがて、街の中心とおぼしき広場へとたどり着いた。
そこで、反乱軍は自然と足を止める。
﹁えっ⋮⋮﹂
ギーシュは動揺に声をあげた。
周りも次第にざわめき出す。
広場には、すでに大勢の人間がいた。
かま
街の住民、という雰囲気ではない。薄汚れた服に、剣や槍、鎌に
くわ
鍬といった武器を手にした、無秩序な集団。
彼らもこちらと同様に、反乱軍の姿を見て騒然としているようだ
った。
﹁⋮⋮これでようやく、俺の役目も終わりか﹂
そんな中、微かな呟きがギーシュの耳に入った。
奴隷の集団の中から、頭目の男が歩み出る。男はあまり奴隷らし
くない、どこか品のある仕草で、反乱軍に呼びかける。
﹁みんな、安心してくれ。彼らも俺たちの仲間だ﹂
ざわめきが大きくなる中、男は続ける。
﹁ソゾ教の信徒たちだ。南の地での弾圧に耐えかね、蜂起した。俺

1806
たちと同じように、勇気を持って巨悪を討ち、ここまで長い旅を続
けてきたんだ﹂
ソゾ教という名を、ギーシュは聞いたことがあった。
たしか、貧者の間で広まっているうさんくさい新興宗教だったは
ずだ。
そんな連中と一緒にされるのはごめんだったが、とはいえ相手も
なかなか数が多い。
もしどちらかが先に手を出してしまえば、小競り合いでは済まな
くなる。
ギーシュが思わず押し黙ると、頭目の男が笑顔とともに言う。
﹁彼らと手を取り合おう。向こうの意思も同じだ。俺たちは、もっ
と大きなことができるようになる﹂
周囲がざわめいた。ギーシュも目を見開く。
確かに双方が団結できれば、相当な規模の武装集団になれる。
町や村どころか、ここのような小規模な城塞都市だって落とせる
ようになるかもしれない。恐れていた帝国軍にすらも、きっと抵抗
できるようになるだろう。
大きな都市を占拠し、自分たちのための街に作り替えることだっ
て、不可能ではないはずだ。
﹁すげぇ﹂
ギーシュは胸が躍った。
﹁すげぇよ﹂

1807
自分たちの街ができたら、絶対にいい役職に取り立ててもらおう
と、ギーシュは決めた。
役人になれば賄賂をもらえるし、これまで自分を見下してきたよ
しいた
うな愚鈍な連中を好き放題虐げることができる。
街の役人にどのような役職があるのかすらよく知らなかったが、
偉くなれるならなんでもかまわないとギーシュは思った。
ただできるならば、あまり考えずに済む仕事がいい。
﹁だからみんな、まずは⋮⋮あー、もういいか﹂
頭目の男は、ふと後ろを振り返ると、急にめんどくさくなったか
のように言葉を切った。
男の後方では、信徒たちの指導者らしき人物が集団の前で同じよ
うに喋っていたが、いつの間にか姿を消していた。
男は奴隷の集団に顔を戻すと、どこか投げやりな表情で口を開く。
﹁じゃあ、あとはみんなでよろしくやってくれ﹂
そう言い残すと、男は街路の一つへと走り去り、そのまま姿を消
してしまった。
﹁⋮⋮おい、あいつ行っちまったぞ﹂
﹁これからどうすればいいんだよ﹂
﹁あいつらに声かけるか?﹂
﹁だが、なんて?﹂
困惑したように、周囲がざわめき出す。
チャンスだ、とギーシュは思った。

1808
ここで声を上げれば、自分が次の頭目になれる。
反乱軍の中でもギーシュは有象無象の一人でしかなかったが、頭
目の取り巻きだった者たちも混乱している今ならば、一気に存在感
を示すことができる。そうなれば、役人のトップにだってなれるだ
ろう。
自分の人生は、今ここから始まるのだ。
どうして男が信徒の集団を知っていたのか。
どうして今ここで姿を消したのか。
どうして自分たちはこの地まで歩かされたのか。
どうしてこの街には誰もいないのか。
頭の片隅には様々な疑問が浮かんでいたが、ギーシュはそれらに
ついて深く考えようとはしなかった。面倒であったし、今はもっと
大事なことがある。
この場ではどんな言葉が一番効果的なのか、ということだ。ギー
シュはこれまでほとんど使ってこなかった頭を限界まで働かせ、そ
して閃いた。
興奮のあまり口元をほころばせながら、できるだけ威厳のある声
を発しようとした︱︱︱︱その時。
ゼロ いち
﹁︱︱︱︱世界は、〇と一とでできている﹂
唐突に、声が響いた。
ギーシュと奴隷たち、そして信徒の集団の者たちも、思わず声の
方向を見上げる。
広場を見晴らす建物の屋根に、人影が一つ、腰を下ろしていた。

1809
﹁無と有、影と光、霜と炎、そして死と生。世界とは対立する二つ
の概念から成り立っており、それらを指し示す二つの数さえあれば、
あらゆるものを説明、記述することが可能だ﹂
小柄な人影だった。
大人にしては小さい。だが子供と見るには、やや大きい。そんな、
中途半端な背格好をしている。
性別はわからない。中性的な声と体格のせいもあるが、何より顔
全体に包帯が巻かれており、人相が見えないのだ。
へいげい
その人物は、包帯に隠れた目で集団を睥睨しながら続ける。
いち
﹁この理論に照らせば、君たちは一だ。矮小ながらも確かに存在し、
集まれば大きな数となる⋮⋮。よくぞここまでたどり着いた。ここ
から先は、小生が君たちを導こう﹂
二つの集団から、ざわめきが上がった。
それにはどこか、安堵したような響きがあった。リーダーがいな
くなり困惑していた者たちからの、気の抜けたような声も聞こえて
くる。
ギーシュは思わず舌打ちした。
次の頭目になるという目論見は、これで台無しになった。あの包
帯人間は、いったい何者なのか。
いち
﹁とはいえ、小生はどうにも一が馴染まない﹂
人影が変わらない調子で言う。
﹁雑多な様よりは、荒涼としている方がいい。明るい日向よりは、

1810
薄暗い日陰の方がいい。暑いのも嫌いだ。不快だし、何よりすぐに
いた
傷んでしまう。ああそれと、これは最も大事なことなのだが︱︱︱
︱生者も好かないのだ、小生は﹂
人影はいつの間にか、開いた本を手にしていた。
次の瞬間、そこから光の粒子が猛烈に湧き上がる。
﹁な、なんだ!?﹂
どよめく集団の中、ギーシュも同じく動揺の声を上げながらも、
あの本については見当が付いていた。
たしか、魔導書というものだ。魔術師が用いる、モンスターや物
品などを召喚できる本。
実物を見たことなどなく、小さい頃に聞いたお伽噺や、吟遊詩人
が歌っていた冒険譚の内容から推測しただけだったが、およそ間違
いないように思えた。
ならばあの包帯人間は⋮⋮いったい何を喚び出そうとしているの
か。
ゼロ
﹁矮小な意思など、なくてよろしい。まず君たちは、速やかに〇に
戻ること。さすれば小生の整然とした意思でもって、君たちを規則
正しく導いてあげよう﹂
光の粒子が実体化していく。
そうして広場に現れたのは︱︱︱︱奇妙なモンスターだった。
﹁な⋮⋮っ﹂
とかげ
巨大な蜥蜴のような体。太い尾に、背から突き出た二枚の翼。一

1811
見すると、冒険譚に伝え聞くドラゴンのようにも見える。
だが、その首は七本あった。
中央にある、本来のドラゴンのものとおぼしき首を取り囲むよう
にして、様子の異なる首が六本生えている。
どれも見た目が違う。どこか華奢なヒュドラのもの。目を持たな
いワームのもの。三角形に近いワイバーンのもの。魚鱗に覆われた
シーサーペントのもの。そればかりか⋮⋮長い頸部の先に据えられ
ただけの巨大な赤い単眼や、半透明の霊体のような首まで存在して
いる。
よく見れば、鱗の色も体のそこかしこで違っていた。頭が重すぎ
るためか、全体のバランスも悪く、立ち姿もつんのめっているかの
ようだ。
明らかに不自然なモンスターだった。
まるで、人間の手で無理矢理つなぎ合わせたかのような。
﹁安心していい、君たちに手荒な真似はしないよ﹂
首の内の一つ、ヒュドラの頭が、大きく引かれた。
つ は
同時に、継ぎ接ぎドラゴンの胸腔が膨らむ。
﹁だから、綺麗に死にたまえ﹂
ヒュドラの頭が大口を開き、風を吐き出した。
一瞬の後、それは広場全体を覆っていく。
﹁う⋮⋮﹂

1812
ギーシュは、腐った卵のような臭気が鼻孔を刺すのを感じた。
思わず顔をしかめた、次の瞬間︱︱︱︱強烈な吐き気と目の痛み
に、たまらず体を折った。
﹁ぐっ⋮⋮かは⋮⋮こふっ⋮⋮﹂
息ができない。
どれだけ空気を吸い込もうとしても、まるで胴体を大蛇に締め上
げられているかのように、胸を膨らませることができない。
ぼうだ
ギーシュは滂沱の涙を流していた。悲しいのではない。あまりの
目の痛みに、眼球が耐えかねているのだ。
全身に力が入らない。まるでくずおれるかのように、ギーシュは
広場に倒れ伏した。涙でにじみきった視界には、同じように倒れる
仲間たちの姿が歪んで映る。
﹁よし、よし、よし。状態のいい死体を用意するのは大変なのだが、
今回は非常に、うまくいった。ここまでお膳立てしてくれたからに
は、小生も期待に応えねばなるまい﹂
意識が途切れる直前、ギーシュの耳が機嫌のよさそうな独り言を
拾った。
﹁それでは、始めよう﹂
広場の中心に、巨大な魔法陣が浮かび上がる。 1813
第一話 最強の陰陽師、勅命を受ける
ラカナの山々が、一年ぶりに赤く色づいていた。
﹁お、ランプローグんとこのパーティーが戻ってきたぞ﹂
﹁よお、英雄さん! 今日も大漁かい?﹂
﹁俺たちの分も残しておいてくれよ﹂
﹁あ、セイカさーん、買い取りでしたらこちらの広いところへー﹂
ダンジョンから帰ってギルドに立ち寄ると、そんな声に出迎えら
れた。
ぼくは苦笑しつつ、手を挙げて答える。

1814
魔族領を発って、数ヶ月。
ラカナに戻ったぼくたちは、穏やかな日々を過ごしていた。
季節はすっかり秋だ。
例のスタンピードから一年以上が経過し、ラカナ周辺のダンジョ
ンもほとんど元の賑わいを取り戻している。
魔王から一介の冒険者に戻ったぼくは、アミュたちと共にダンジ
ョンに潜っては得られた素材を売るという、冒険者らしい暮らしを
送っていた。
半年前までの生活に戻っただけとも言えるだろう。
しかし、ぼくの気持ちは以前よりもずっと軽かった。
****
﹁それにしてもセイカくん、大人気だよね﹂
すっかり常連となったギルドの酒場で、イーファが席に腰掛けな
がらしみじみと言った。
採ってきた素材の売却を終えたぼくたちは、軽食でもとろうとい
うことで、手近なここに寄ることにしたのだ。
夕食にはまだ早い時間だが、ダンジョンに長く潜っていれば腹も
空く。
﹁どこに行ったって、いろんな人から話しかけられるもん﹂
﹁しばらく顔見せてなかったせいかしら﹂

1815
イーファの言葉を受け、アミュが両手で頬杖をつきながら言う。
﹁いつもいるとは限らないようなレアキャラって、冒険者はかまい
たがるのよね﹂
﹁ぼくそんな珍獣みたいな扱いなのか⋮⋮。まあ、一度ふらっとい
なくなったのは事実だけど﹂
春にラカナからケルツへ向かったときは、ほとんど誰にも言わず
に出てきた。
依頼をこなし終えたらすぐ戻るつもりだったので、そんな必要も
ないかと思っていたからなのだが⋮⋮ケルツでルルムとノズロに出
会い、一悶着あった末に魔族領にまで渡り、各種族の君主と交流し
たり火山をどうにかしたりしていたら、結局数ヶ月もの間ラカナを
空けることになってしまった。
おかげで、戻ってきたときには顔なじみの連中にだいぶ驚かれた。
ラカナの首長であるサイラスも、一応フィオナからぼくたちのこ
とを頼まれている手前、けっこう気を揉んでいたらしい。それを知
ったときにはさすがにいくらか申し訳なくなった。
アミュがやれやれといった笑みとともに言う。
﹁なんだかんだ言って、あんたが一番ここに馴染んだわよね。最初
は、こんな野蛮な街ー、とか言ってたのに﹂
﹁野蛮とまでは言ってなかっただろ。口では﹂
﹁口ではね﹂
しかし、馴染んだと言われれば⋮⋮多少はそうだと言えるかもし
れない。

1816
﹁でも、みんながセイカに話しかけたがる気持ちも、ちょっとわか
る﹂
ふと、メイベルがぽつりと言った。
﹁なんとなく、セイカはかまいたくなる。レアキャラとか関係なく﹂
﹁ええ、そうなのか⋮⋮? 学園では全然かまわれなかったけど﹂
﹁それもわかる﹂
メイベルはうなずいて言う。
﹁セイカは、ちょっと怖いから。私とか、冒険者みたいな連中は平
気でも、貴族の子は近づきづらい気がする。今思えば﹂
﹁怖いって⋮⋮学園にいた頃も?﹂
帝城に攻め入って以降はともかく、学園では一応、普通の貴族の
子供らしい振る舞いを心がけていたつもりだったのだが。
擁護を求めてイーファに顔を向けると、彼女はやや苦笑気味に笑
って言う。
﹁あはは⋮⋮えーっと、そうかも﹂
﹁え⋮⋮イーファも同じ意見か?﹂
﹁うん。ちょっとだけだけど﹂
イーファはうなずいて続ける。
﹁話してるとそうでもないけど、セイカくん、黙ってるときはなん
か雰囲気あるから﹂

1817
﹁雰囲気⋮⋮﹂
﹁もしも学園で初めて会ってたら、わたしも話しかけにくかったか
も﹂
﹁えー、そうかしら? あたしは別に、なんとも思わなかったけど
⋮⋮﹂
﹁アミュは、冒険者側﹂
﹁あー、それもそうね。顔がおっかないやつなんて小さい頃から見
慣れてたわ﹂
彼女らの話を聞きながら、ぼくは微妙な気分になっていた。
実は、知らず知らずのうちに気を張っていたのだろうか。あのと
きはまだ、今生をうまく生きてやろうと、慣れない企みをして意気
込んでいたから。
もしかするとぼくの学園生活は、最初からうまくいくはずがなか
ったのかもしれない。
﹁でも最近は、あんまり怖くなくなった﹂
メイベルが表情を変えずに言う。
﹁だから、みんなもかまってきてるのかも﹂
﹁あ、そうだよね。セイカくん、ちょっと雰囲気が柔らかくなった
気がする﹂
﹁たしかに浮かれてる感じはするわね﹂
﹁別に浮かれてはいないだろ。憑き物が落ちた、とかならわかるけ
ども﹂
正直、自覚はあった。
なんといっても、魔族絡みの問題がほとんど解決してしまったの
だ。

1818
アミュに送られてくる刺客。
それに、ぼくが魔王だということ。
後者はルルムに言われて以降、ぼくを悩ませていた最大の問題だ
った。前者についても、学園に現れた魔族一行が逃亡生活の遠因に
なったことから、決して軽視できないものになっていた。
味方にせよ敵にせよ、魔族は面倒な事態を引き起こしうる。
しかし、この夏に魔族領へ向かい、彼らの君主と交流を持ったこ
とで、その辺りの懸念事項がほぼ解決してしまった。
あの子たちは、魔王に頼らない全種族の団結、そして人間との和
平を望んでいる。
皆まだ年若いが、帝国の破壊工作をきっかけにそれぞれ政治の実
権を握ることができたため、いずれ種族の意思もそのようになるこ
とだろう。
もちろん、種族の意思とは無関係に魔族がやってこないとも限ら
ない。勇者と魔王がそろっているのだ、可能性がないとは言えない。
だが、確率はこれまでよりずっと低くなるはずだ。
それに⋮⋮決してわかり合えないと思っていた者たちと、わかり
合えたのだ。
これから先も、いろいろなんとかなりそうに思えてくる。
そういった事情で、少々気が抜けたところがあった。
それが、顔や仕草に出てしまっていたのかもしれない。
ぼくは小さく息を吐いて言う。
﹁まあ、ようやく⋮⋮いくらか落ち着いてきたのかもな﹂

1819
ラカナにというよりは、この世界に。
﹁ここでの暮らしはまだしばらく続くんだ。あまり肩肘張っていて
も仕方ない﹂
騙されないように、奪われないようにとばかり考えずに、もっと
普通に過ごしていても罰は当たらないだろう。
だから、少しくらい気を抜いてもいいということにした。
聞いたアミュが、頬杖をついたまま言う。
﹁なんか⋮⋮年取って丸くなった狂戦士みたいな台詞ね﹂
﹁もうちょっとマシな例えはなかったのか⋮⋮﹂
﹁でも、けっこう合ってる。セイカ、好戦的だから﹂
﹁え、そ、そんなことないよ⋮⋮セイカくん、いつも最初はちゃん
と話し合おうとしてるし⋮⋮ダメだったときは、その、あれだけど﹂
思わず引きつった笑みが浮かぶ。イーファの擁護は、よく聞けば
あまり擁護になっていなかった。
そういえば、魔族領ではリゾレラにも同じようなことを言われた
気がする。
とはいえ、別に荒事が好きなわけではないんだけどなぁ、と思っ
た⋮⋮その時だった。
﹁おっ、なんだ。ちょうどよかった。おーい、ランプローグの坊ち
ゃん!﹂
突然名前を呼ばれ、ぼくは振り返る。
おろし
こちらに手を挙げながら奥の階段を降りてきたのは、ラカナの卸
しょう
商、エイクだった。

1820
﹁エイクじゃない。久しぶりに顔見たわね。ティオは元気?﹂
﹁元気も元気。妹も大変だな、ありゃ﹂
﹁アミュが遊びたがってた、って伝えておいて﹂
﹁言ってないわよそんなこと!﹂
アミュがメイベルに文句を言うのをよそに、エイクが肩掛け鞄を
漁りながら言う。
﹁そうそう、仕入れ先の商会から郵便を預かってきたんだ。ほら、
ランプローグの坊ちゃんに﹂
﹁え、ぼく宛て⋮⋮ですか﹂
ややどきりとしつつ、差し出された白い封筒を受け取る。
この世界で手紙は、主に商人たちが運んでいた。
主要都市間には馬を用いた郵便網があるが、残念ながらラカナに
までには届いていない。
そういう辺境の都市に手紙を届けたい場合には、そこへ行き来す
る行商人に手紙を預けるのが常だった。
この街で手紙を受け取るのは、初めてではない。
前回の相手が誰だったか考えると⋮⋮。
﹁貴族の知り合いからか? ずいぶん上等な封筒で、しかも向こう
の商会のお偉いさんから直接頼まれたもんだから、俺も緊張しちま
ったよ。じゃ、またティオとも遊んでくれな﹂
そう言うと、エイクは去っていった。

1821
ぼくは、手元の封筒に視線を落とす。
質のいい紙が使われた、見覚えのある封筒だった。
﹁それ⋮⋮ひょっとしてフィオナから?﹂
抑え気味の声で、アミュが訊ねる。
﹁ああ﹂
ぼくはうなずいて、ナイフを取り出した。
ぼくが出した返事の返事にしては、遅い。
一方で、前回手紙を受け取ってからはまだ半年ほどだ。次の近況
報告というには、やや早い気がする。
となると⋮⋮。
﹁⋮⋮頼むから、厄介事は勘弁してくれよ﹂
ナイフで封蝋を剥がす。
中の便箋を広げると、書かれた文字を目で追う。
﹁⋮⋮何が書いてあったの、セイカくん﹂
不安そうな声で、イーファが問いかけてくる。
ぼくは一通り目を通した便箋をたたみ直し、懐に仕舞った。
これからとるべき行動に迷いながらも、説明のために口を開く。
﹁どうやら、宮廷の方で⋮⋮﹂
﹁︱︱︱︱アミュ殿、とお見受けする﹂

1822
その時、ギルドの酒場内に声が響いた。
全員で一斉に、アミュの声を呼んだその人物に顔を向ける。
丁寧に仕立てられた服を着た、若年の男だった。
ぼくは状況を察し、思わず顔をしかめながら呟く。
﹁うわ、さっそく来たか⋮⋮﹂
ここまで案内してきたらしきギルド職員のアイリアが、戸惑いが
ちに言う。
﹁あの、この方は、帝都から⋮⋮﹂
﹁私は皇帝ジルゼリウス陛下から遣わされた者だ﹂
帝都からの使者は、温度の感じられない目でアミュを見つめ、告
げる。
﹁勇者アミュ、共に帝城まで来てもらおう︱︱︱︱これは陛下の勅
命ととらえてもらいたい﹂
どうやら、いつまでも気を抜いているわけにはいかないようだっ
た。
1823
第二話 最強の陰陽師、帝都に戻る
アミュの居場所が露見した。
しょうへい
皇帝は帝城への招聘を望んでいる。
近く勅使がそちらに向かう。
フィオナからの手紙は、おおむねこのような内容だった。
﹁それで⋮⋮素直に従ってよかったわけ?﹂
揺れる馬車の中、正面に座るアミュが、そんなことを遠慮がちに
訊いてきた。

1824
ぼくたちは今、使者の用意した馬車に乗り、帝都へ延びる街道を
進んでいた。
この馬車に乗っているのは、御者を除けばぼくたち四人だけだ。
前後には使者の乗る馬車や護衛の乗る馬車が走っているものの、
ぼくたちに監視などはついていない。
連行ではなく、あくまで招聘。形式的にはそうなっているようだ
った。
アミュが続けて言う。
﹁あんたのことだから⋮⋮あの使者をどうにかしてでも、逃げ出す
んじゃないかと思ったけど⋮⋮﹂
﹁フィオナが、従っても問題ないと手紙に書いていたからな﹂
ぼくは自然な声音で答える。
一年半前にアミュが連行された一件以降、首謀者であったグレヴ
ィル侯爵は完全に失脚しており、反勇者の派閥も勢いを失っている
とのことだった。
どうやらそれには皇帝の意思も働いていたようなので、少なくと
も今回の呼び出しにも、アミュを排すという意図はないだろうとい
うのがフィオナの推測だ。
﹁強引に逃げ出すような無茶はしないさ﹂
何より⋮⋮今逃げたとしても、この先のあてがない。
冒険者として生きていくことはできるだろうが、常に追っ手に怯
えることになる。逃亡先で、誰かと交流を持つことすらためらうよ
うになるだろう。

1825
そんな生活を送るくらいなら、まだフィオナの庇護下に居続ける
方がいい気がした。
それに、皇帝の目的こそわからないものの⋮⋮どう転んだとして
も、これで逃亡生活は一度終わりになる。
向こうの意思次第にはなるが、うまく事が運べば、このまま逃げ
隠れせずに済む立場に戻れるかもしれない。
﹁でも⋮⋮なんなんだろうね。アミュちゃんを、帝城に呼び出すな
んて﹂
イーファが恐る恐るといった調子で言う。
﹁皇帝陛下が、それを望んでるってことなんだよね⋮⋮? どうい
う用件なんだろ⋮⋮﹂
﹁うーん⋮⋮。フィオナの手紙にも、それらしいことは書いてなか
ったのよね?﹂
﹁ああ﹂
ぼくは短く答えてアミュにうなずく。
使者に先んじられるように急いでしたためたのか、フィオナの手
紙は前回に比べるとだいぶ簡素なものだった。最低限の事実だけを
記したような印象だ。
できればもうちょっと詳細がほしかったのだが、実際のところタ
イミングがギリギリだったので、あれ以上を望むのは酷だろう。
皇帝の目的については使者にも訊いてみたが、教えてくれなかっ
た。というより、そもそも知らされていない気配がある。
アミュが難しい顔になって言う。

1826
﹁見当もつかないけど⋮⋮案外、勇者を一度見てみたかった、とか
なんじゃない? ほら、お貴族様って珍しいものとか好きでしょ?
皇帝もそうだったりして﹂
﹁じゃあ、がっかりするかも﹂
﹁なんでよ﹂
メイベルの言葉に、アミュが怒る。
少し笑ったぼくは、そのままイーファの言った心配事に思いを巡
らせる。
権力者が勇者に求めることといえば、やはり魔族の討伐だ。
だが、現時点で魔族とは休戦状態が継続している。各種族の王ど
ころか、ここにいる魔王すらも人間とことを構える気はないので、
おそらくこの先も帝国への侵攻は起こらないだろう。なので、防衛
の必要はない。
逆に、人間側から攻め入るような状況も考えづらい。
魔族領は堅牢だ。森という地形がまず攻めづらく、そこに住まう
魔族は一人一人が剣呑な戦士。帝国が発展途上だった昔ならまだし
も、成熟した今、そのような危険を冒してまで領土を広げる理由は
なさそうに思える。
そしてそもそもの話、勇者は戦争に使いづらい。
以前にフィオナも言っていたが、ただ一人が強いだけではできな
いことが多すぎるのだ。都市の占拠に、攻城戦、橋や拠点などの構
築、敵軍位置の探索ばかりか、夜通し見張りを立てる程度のことす
らも負担が大きい。捕虜を抱える余裕もないから、敵は皆殺しにす
るしかないだろう。
軍のような扱いができないからこそ、過去にも勇者は、少人数で
魔王を討たせるなどという暗殺者まがいの運用しかされてこなかっ

1827
た。
いろいろ考えてみたが、皇帝がアミュに求めるものの見当がつか
ない。
意外とアミュの言うとおり、勇者を一目見たかっただけなのだろ
うか?
﹁⋮⋮まあ、さすがにそれは楽観がすぎるか﹂
とはいえ、ここまでくればぶつかってみるしかない。
幸いにもぼくたちには、皇族の協力者もいる。
****
ラカナへ来た時とほぼ同じ日数をかけて、ぼくたちは帝都にたど
り着いた。
都市の規則で、来た馬車のまま街の中に入ることはできない。
そのため前回と同じように、城門前で馬車を降りてから入城する
ことになったのだが︱︱︱︱門をくぐってすぐに、出迎えがあった。
﹁ああ⋮⋮お久しぶりです。みなさん﹂
城門のそばで衆人の目を集めるようにしながら、水色の髪の聖皇
女、フィオナが立っていた。
両脇にランプローグ領で見た侍女姿の聖騎士二人と、その周囲に
も従者を侍らせている。
かなりものものしい雰囲気なこともあってか、彼女らを遠巻きに

1828
見つめる人だかりができていた。
フィオナは一瞬破顔しかけた表情をすぐに戻すと、余裕を感じさ
せる微笑とともに言う。
﹁ご無事でなによりです。帝都まではるばるご足労いただき、感謝
申し上げます。ラカナからの旅程は大変だったことと存じますが、
わたくしはみなさんに再び相見えることができてうれしく思います
わ﹂
いかにも高貴な血筋の少女らしい、隙のない振る舞いだった。
フィオナは次いで、ぼくたちをここまで連れてきた使者に顔を向
けて言う。
﹁勅使としての務め、ご苦労様でした。ここからはわたくしが、勇
者様とそのお連れの方々を歓待いたします﹂
﹁お言葉ですが、フィオナ殿下﹂
使者の男が一歩前に歩み出る。
その表情は険しい。
﹁それにはおよびません﹂
﹁まあ、うふふ。なぜ?﹂
﹁招聘した勇者を謁見の間までお連れするのが、私の務め。皇族で
ある殿下のお手をわずらせるなどもってのほかです。滞在場所の手
配も抜かりなく﹂
﹁そんな、意地悪なことをおっしゃらないでください﹂
フィオナは悲しそうに目を伏せながら、胸に手を当てて言う。

1829
﹁彼らはわたくしの友人なのです。なにぶん窮屈なこの身、こうい
った機会でもなければ、親しい者をもてなすことさえままなりませ
ん。ここは一つ、どうか目をつぶってはいただけないでしょうか?﹂
フィオナの懇願にも、使者の男は表情を変えることなく言う。
﹁心中お察しします。ですが⋮⋮﹂
﹁それとも﹂
男の返答を、フィオナは遮った。
﹁どなたかに、何か申しつけられているのですか?﹂
﹁⋮⋮。何か、とは?﹂
﹁おや、この場で申し上げてもかまわないのですか? うふふっ﹂
くすくすと、フィオナは笑う。
使者の男が顔を引きつらせる様を眺めながら、愉快そうに続ける。
ねずみ
﹁鼠は、沈みそうな船を見定めて逃げ出すそうです。あなたも乗る
船は選んだ方が賢明ですよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁大丈夫。聖騎士を伴った皇女に迫られたと言えば、言い訳も立ち
ます。どうせわたくしのほかにもたくさんの妨害があったでしょう
し、大した失態ではありません﹂
沈黙を保つ使者の男に、フィオナは続けて言う。
﹁わたくしに親切にしていただけるのであれば、悪いようにはいた
しません。よぉく、考えておくことです。うふふふふ﹂

1830
使者の男は、会話が途切れてからもしばらく黙ったままだった。
だが、
﹁⋮⋮では、お任せいたしました。フィオナ殿下﹂
無表情のままそう言って軽く一礼すると、勅使は踵を返し、どこ
かへ足早に歩き去って行った。
その後ろを、彼の従者たちがあわてて追っていく。
﹁セイカ様﹂
﹁うわっ﹂
間近で名前を呼ばれ、ぼくは驚いて後ずさった。
いつのまにか近くに来ていたフィオナが、どこかうずうずとした
ような、満面の笑みとともに言う。
﹁思っていたよりも、ずっと早い再会になりましたね。またお会い
できてうれしいですわ﹂
﹁⋮⋮﹂
にこにこと機嫌よさそうなフィオナだったが、ぼくはなんと返し
たものか迷っていた。
なんといっても別れ際が別れ際だ。アミュを助け出すためとはい
え帝城を破壊し、彼女が善意でした事態収拾の提案を、ぼくは拒絶
した。さらにはそれにもかかわらず逃亡のための馬車を用意しても
らったうえ、諸々の後始末まですべて押しつけてしまった。
本来なら警戒すべき為政者側の人間とはいえ、恩のある⋮⋮とい
うより、引け目を感じる相手だ。手紙のやり取りは一度あったもの
の、どんな態度で接していいかわからず、微妙に気まずい。

1831
﹁なんというか、その⋮⋮﹂
迷った末に出てきたのは、先ほどの素直な感想だった。
﹁⋮⋮やっぱり、君は政治家なんだな﹂
まつりごと
﹁おや、うふふ。政を為す女はお嫌いですか?﹂
いたずらっぽく微笑むフィオナに、ぼくは渋い表情で正直に答え
る。
﹁まあ、あまり得意ではないな⋮⋮。騙し合いなどは苦手だから、
どうしても身構えてしまう﹂
﹁うふふふふ﹂
しばらく空虚な笑みを浮かべていたフィオナだったが、唐突にぽ
つりと言った。
﹁なんだか、急にやめたくなってまいりました。政治家﹂
1832
第三話 最強の陰陽師、帝城を行く
帝城の中は、想像していたとおりの豪奢な造りをしていた。
フィオナとともに通路を進みながら、ぼくは視線だけで周囲を見
回す。
壁や柱には華美なほどの装飾が施され、燭台なども立派なものが
使われている。
どれだけの富が費やされたのか想像もできないほどだ。アミュた
ちも緊張を忘れて目を丸くしており、あちこちにある飾りや調度品
を指さしては、こそこそ盛り上がっているようだった。
ぼくの感想も、実のところ彼女らと大差ない。

1833
魔族領で見たどの王宮よりも、前世で見たどの城よりも、この帝
城は壮麗だ。一年半前にここへ攻め込んだ時には、アミュの閉じ込
められていた地下牢以外には立ち寄らず、城そのものの内部はネズ
ミの視界で見ただけだったが、まさかここまでとは思わなかった。
それだけ、この国の力が強いということなのだろう。
しかしながら、暢気に帝城見学というわけにはいかない。
ぼくは傍らを歩くフィオナに話しかける。
﹁それにしても、いくらなんでも急じゃないか? 来て早々に皇帝
に謁見だなんて﹂
﹁陛下が、そう望まれているのです﹂
前を向いたまま、フィオナが答える。
口ぶりは穏やかだが、その表情はやや硬い。
﹁元々そのような手はずになっていました。勇者の接遇を陛下の勅
使から引き継いだことになっているわたくしが、当初の謁見の予定
を乱してしまえば、他陣営に介入の口実を与えることになってしま
います﹂
﹁口実って、その程度で⋮⋮﹂
まつりごと
﹁その程度のことが、政の場では大事となるのです。これは、みな
さんの身の安全にも関わります。先ほども、実は少々危ないところ
でした﹂
表情をわずかに険しくし、フィオナは言う。
﹁あのまま彼の手配に従って歓待されていれば、今夜の夕食あたり
に毒を盛られていたでしょうから﹂

1834
﹁えっ⋮⋮﹂
後ろで聞いていたアミュが、困惑の声を漏らして絶句した。
フィオナは淡々と続ける。
﹁今回の勇者招聘は陛下の命ですので、謁見まではきっと手を出さ
れないでしょう。しかしそれが済んでしまえばすぐにでも、反勇者
の陣営が仕掛けてきてもおかしくありません。あの勅使も取り込ま
れていたようですし﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今後、暗殺者が差し向けられる可能性もあります。特に屋外の移
動時などには、多少の警戒が必要でしょうね﹂
短い沈黙の後、ぼくは口を開く。
﹁⋮⋮どういうことだ? 手紙には、帝都に戻っても問題ないと書
いていたじゃないか﹂
今回の帰還は、それが大前提となっていた。
この前提が崩れるならば︱︱︱︱当然、早急に帝都を去ることも
選択肢に入ってくる。
﹁ええ。ご心配なく﹂
しかしフィオナは、含みのある微笑とともに言った。
﹁その程度の企みならば、わたくしがどうにでもできますので﹂
フィオナは変わらない表情で続ける。

1835
﹁先ほども見せたとおりです。事前に潰すことも、あるいは仕掛け
られてから防ぐことも、わたくしには造作もありません。自らに向
けられた殺意に対しても、これまでそのように対応してきましたか
ら﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁加えて言うならば、反勇者陣営にはわたくしとは別の敵対勢力も
存在します。弱体化した彼らにとって、他陣営の妨害をくぐり抜け
ることも容易ではないでしょう。もしかすると案外、何もしなくて
も平穏に過ごせたかもしれません﹂
⋮⋮どうやら、手紙の内容は決して嘘ではなかったらしい。
話を聞く限りでは、確かに心配いらないように思えてくる。
﹁ですから、みなさまの帝都での身の安全については、本当に問題
ないのです⋮⋮陛下が敵に回りでもしない限りは、ですが﹂
話の終わりに、フィオナがそんなことをぽつりと付け加えた。
まるで冗談のようにも聞こえたが、ぼくはそれを笑う気にはなれ
ない。
そのまま懸念を口にする。
﹁その割には、あまり余裕がなさそうに見えるな⋮⋮ひょっとして、
掴み切れていないんじゃないのか? その肝心の皇帝が、アミュを
呼び寄せた意図を﹂
フィオナがわずかに目を見開いて、こちらに顔を向けた。
ぼくは続ける。
﹁暗殺については、君の言うとおり心配いらないんだろう。だが一
番重要なのは、やはりそこだ﹂

1836
もしも皇帝が勇者の排除に動くならば、単なる貴族の派閥などで
はなく国家が敵に回ることになる。
帝都に呼び寄せ、精強無比と名高い近衛隊を動員して捕縛。その
まま処刑。仮にそんな目論見が裏で動いているのだとしたら、たま
ったものではない。
もちろん近衛隊程度ぼくにはどうということもないが、状況はず
っと悪いものになってしまう。
未来視の力を持つフィオナのこと。てっきり皇帝の意図まである
程度把握して帰還を促したのかと思っていたのだが⋮⋮反応を見る
限り、そうではないようだ。
﹁⋮⋮はい。わたくしの力も、万能ではありませんから﹂
顔を前に戻し、わずかに語調を弱めながら、フィオナがうなずい
た。
﹁しかし、国内外の情勢や議会の現状をどう考慮しても、陛下に勇
者を排す意図があるとは思えません。反勇者派の勢いが衰えたこの
タイミングで、帝国として正式に勇者を容認したいのだと考える方
が自然です﹂
本来、それが当たり前なのですから。そうフィオナが付け加える。
王宮や議会に渦巻く複雑な力関係はわからない。
だが彼女がこう言っている以上は、少なくとも今の状況はアミュ
にとって悪いものではないのだろう。
であるならば、皇帝が自ら勇者を招聘し、アミュの存在を議会や
貴族社会に認めさせてしまうことは理に適っているように思える。

1837
容認が今になったのも、反勇者派閥が弱体化し、反発の声が上がら
なくなる時を待っていたと考えると辻褄が合う。
今回の謁見で、ぼくたちの状況がよくなる可能性は確かに高い。
﹁⋮⋮﹂
だが、確証はない。
そこだけが気がかりだった。
﹁あの、ねえ。よくわかんないんだけど⋮⋮もしかしてこれ、あた
し次第なところ、ある?﹂
後ろを歩くアミュが、唐突に硬い声で言った。
ぼくとフィオナがそろって後ろを振り返ると、彼女は表情をこわ
ばらせたまま続ける。
﹁下手なこと言って怒らせちゃったりしたら、やっぱりまずいわよ
ね⋮⋮あたし、お貴族様の礼儀作法とかよく知らないんだけど、大
丈夫かしら⋮⋮? 格好も、もっとちゃんとしてきた方がよかった
かも⋮⋮﹂
自らの服を見下ろしながら不安そうに言うアミュに、フィオナが
安心させるように微笑む。
﹁大丈夫です。陛下に対し、市民がそう畏まる必要はありませんよ。
皇帝とは、貴族のような存在ではないのです。礼儀も、アミュさん
がきちんと敬意をもって接すればそれで十分。心配いりません﹂
﹁そうなの⋮⋮? ううん、でも⋮⋮なんか不安なのよね。あたし
学園でも、お貴族様の子供には目の敵にされたりしてたから⋮⋮﹂
﹁それは、君が入学当初ツンツンしてたせいもあっただろ﹂

1838
﹁別方向で学園デビューに失敗してたあんたに言われると腹立つわ
ね﹂
アミュはフィオナに顔を向けて訊ねる。
﹁ねえ、皇帝陛下ってどういう人? 怒りっぽかったり、冒険者が
嫌いだったりはしない?﹂
問われたフィオナは、一瞬迷うような表情を浮かべた後、微笑と
ともに答える。
﹁どう、でしょう⋮⋮? 少なくとも、声を荒げているところは見
たことがありません。特定の人々に偏見や差別意識があるとも、思
えませんが⋮⋮﹂
フィオナはわずかに言葉を切り、言いにくそうに付け加える。
﹁⋮⋮正直なところ、よくわからないのです﹂
﹁? 皇帝陛下って、フィオナのお父さんなのよね﹂
アミュが不思議そうな顔をする。
﹁それなのに、どんな人かわからないわけ?﹂
﹁⋮⋮父といっても、長い間離れた場所で暮らしていました。世間
でいう、親らしいことをしてもらった記憶もありません﹂
﹁そう⋮⋮。悪かったわね、知らずにそんなこと訊いて﹂
﹁ただ﹂
気まずげな顔をするアミュだったが、まるでそんなことはどうで
もいいかのように、フィオナは険しい表情を浮かべて言った。

1839
﹁たとえそうでなかったとしても︱︱︱︱陛下を理解することは、
きっとできなかったと思います﹂
第四話 最強の陰陽師、皇帝に謁見する 前
謁見の間は、廊下などよりもはるかに豪奢な造りをしていた。
天井の高い、広大な一室。床には鮮やかな赤の絨毯が敷かれ、つ
やのある布で飾られた大きな窓からは、高価な板ガラスを通して陽
光が差し込んでいる。
内装ももちろんだが⋮⋮特にこの城の主が座す玉座などは、金で
彩られていることからもわかるとおり、相当な贅が凝らされている
のだろう。
ただし、肝心の主︱︱︱︱皇帝は、いまひとつぱっとしない男だ
った。

1840
ぼくは思わず、眉をひそめて小声で呟く。
﹁この男が⋮⋮?﹂
ウルドワイト帝国皇帝、ジルゼリウス・ウルド・エールグライフ。
その男が纏う雰囲気は、想像とはずいぶん違っていた。
まるで凡庸そのものだ。褐色の髪に、中肉中背の背格好。醜くも
なければ特別端正とも言えない顔立ち。印象に残るものが何もない。
さすがに皇帝だけあって、髪も口髭も丁寧に整えられている。だ
が、それが威厳や気品を生んでいるわけでもない。雑踏ですれ違っ
たならば、次の瞬間には忘れてしまいそうな、凡庸な男。
たぐいまれな指導者や為政者が持つような雰囲気らしいものがま
ったく感じられない。ごく普通の、中年男といった見た目だ。
身構えていたぼくは、少々拍子抜けしてしまった。
﹁あのっ﹂
皇帝の前に立つアミュが、一歩進み出て言う。
﹁アミュ、です。仲間と共に、参りました﹂
ちらと、その横顔を見る。
さすがに緊張しているのか表情は硬かったが、それでも若草色の
瞳はしっかりと皇帝を見据えていた。大丈夫そうだ。
一応他の二人の方も横目で確認する。
メイベルは、一見するといつもどおりだった。ただ彼女はあまり
顔に出ないタイプなので実際どうかはわからない。イーファは⋮⋮

1841
ダメそうだった。あの様子だと、仮に何か訊かれてもまともに答え
られそうもない。
まあしかし、この場での主役はあくまでアミュだ。
そんなことにはまずならないから問題ないだろう。
アミュだけでなくぼくたちまでこの場に立っているのは、そもそ
も招聘が﹃勇者一行﹄という名目でなされたためだった。
その意図はわからない。勇者本人はともかく、その仲間などほぼ
部外者のようなものだ。皇帝が会う意味があるとは思えない。
ただ、意図こそわからないものの⋮⋮ぼくとしては大いに助かっ
ていた。
この場で何かあっても、すぐに介入できる。
﹁ふむ﹂
その時、皇帝が相づちのような声を漏らした。
それからわずかに微笑むと、穏やかな声音で言う。
﹁そう畏まらなくても大丈夫だよ。皇帝は、貴族とは違うからね﹂
皇帝は、まるで知人の子供に話しかけるような口ぶりで続ける。
﹁よく勘違いされるのだけど、皇帝とは貴族のような支配者ではな
い。あくまで君たちと同じ市民、ただその先頭に立つ者にすぎない﹂
﹁あたしたちと同じ⋮⋮?﹂
﹁建国の逸話は知っているかな?﹂
皇帝の問いに、アミュが恐る恐るうなずく。

1842
﹁民衆から立った英雄が、この国を作ったって⋮⋮﹂
﹁そのとおり。魔族の脅威を前に立ち上がった一人の英雄とその仲
間たちが、そのまま当時の支配者からも独立を果たし、自らの国を
作った。それがこのウルドワイト帝国だ。無論、初めは帝国ではな
く、王国だったけれどね﹂
教え諭すように、皇帝は続ける。
﹁今各地を治めている貴族たちはその多くが、帝国がかつて併合し
た国や地域の支配者の末裔だ。王や部族の統領、あるいは盗賊の頭
など。彼らが偉ぶっているのは、その血筋によるところも少なから
ずある﹂
﹁へぇ⋮⋮そうだったのね﹂
﹁だが、皇帝とその一族は別だ。元がただの一市民だからね。貴族
の先祖たちを打ち倒してきた歴史がある以上、彼らを支配する背景
はある。けれど、市民までをも支配する背景は、実はないんだ。ぼ
くたちは彼らの中から立ち上がり、先頭に立った者でしかないのだ
から﹂
皇帝はふと笑って言う。
﹁先々代の皇帝が治めていた頃は、まだ市民の間にもそのような意
識が強く残っていてね。様々な人々が帝城まで陳情に訪れていた。
中には、大きな声で怒鳴りつけるような人もいたんだ。皇帝をだよ
? ぼくもまだ小さい時だったけれど、謁見の間の外まで響く罵声
と、祖父の疲れたような顔はよく覚えている。皇帝とはなんと大変
な仕事なのかと思ったよ﹂
いつのまにか。

1843
ぼくたちの間に漂っていた緊張の雰囲気は、すっかり失せていた。
アミュはもちろん、がちがちに緊張していたイーファも、自然な
表情で皇帝の話に聞き入っている。
﹁だから、そう畏まる必要はないんだ。むしろ、ぼくの方が緊張し
ているかもしれない。なんと言っても⋮⋮あの、伝説に語られる勇
者を目の当たりにしているのだから﹂
そう言って皇帝が微笑むと、アミュがいまいち当事者感のなさそ
うな顔で、はぁ、と気の抜けた返事を返した。
﹁剣も魔法も、さぞ上手に扱えるのだろうね﹂
﹁えっと⋮⋮そんなことない、です。あたしより強い人なんて、た
くさんいるから﹂
﹁ふむ、強者の世界は想像がつかないな。皇族や貴族は魔力に恵ま
れるとは言うけれど、実のところそれをうまく扱える者はまれだ。
ぼく自身、きっと最弱のモンスターにだって手も足も出ないだろう﹂
皇帝は穏やかな笑みを浮かべたまま、続けて言う。
﹁魔族の脅威のない、平和な時代でよかったよ。とはいえ⋮⋮勇者
としては、少々力を持て余してしまうかな?﹂
﹁陛下﹂
ぼくは、思わず口を挟んだ。
これはあまり、よくない流れのような気がする。
﹁僭越ながら︱︱︱︱アミュの、ひいてはぼくらの沙汰の次第を、
先にお訊きしても?﹂

1844
イーファとメイベルが、ぎょっとしたようにこちらを見た。
まさか、わざわざこちらから触れるとは思ってもみなかったのだ
ろう。
アミュは一年半前、帝城の一角に拘禁されていたところを逃げ出
している。
魔族領からの特使を殺害したなどという、ありもしない罪をでっ
ち上げられた結果であるものの、それでも地下牢から逃げ出したの
だ。帝国として、さすがにうやむやにできる事案ではない。
とはいえ、何も自分から話題にあげることはない。なかったこと
にしてもらえるのなら好都合なのだから、何か言われるまで黙って
おけばいい。
それでもこの話題を切り出したのは︱︱︱︱どうにも嫌な予感が
したからだ。
先ほどから皇帝は、事前に予想していた重要な話題に一切触れな
い。
前世の経験上、為政者がこのような話し方をする時は⋮⋮たいて
い悪い展開になる。
﹁沙汰?﹂
皇帝はわずかに首をかしげ、ぼくの言葉を繰り返した。
﹁ああ、あのことか。まったく、君たちも災難だったね﹂
まるで今思い出したかのように、皇帝は言う。
﹁大丈夫。﹃魔族領からの特使﹄などという存在がありえないこと

1845
は、ぼくも他の者たちもちゃんと理解しているよ。アミュ君の罪が、
勇者拘束の建前にすぎなかったこともね。勇者の力を脅威に思った
ハンス君⋮⋮グレヴィル侯爵が、国を憂うあまり先走ってしまった
みたいなんだ。本当にすまない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁おかげで君たちにはいらない苦労をかけてしまった。学園を離れ
ての生活は大変だっただろう。そちらの三人は、元々アミュ君の学
友ということだったね。帝国に代わり、人間の英雄たる勇者を支え
てくれて感謝するよ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁実のところ、アミュ君のことは翌日の議会を待って釈放するつも
りだったんだ。ぼくの一存でその日のうちに出してあげることもで
きたんだけど、何分夜だったし、ハンス君には議会でしっかりと責
任をとってもらいたかったからね。それもあって、君には一晩我慢
してもらうことにしたんだけど⋮⋮それがまさか、あんなことにな
ってしまうなんてね﹂
皇帝は小さく溜息をつくと、気遣うような目をアミュに向ける。
﹁大丈夫だったかい?﹂
﹁⋮⋮。はい﹂
アミュが、しっかりとうなずいて答える。
﹁周りが大きく揺れて、鉄格子が歪んだので、出られました。外に
はたくさんの人が倒れていて⋮⋮城門もなくなっていたので、ただ
ごとではないと思い、そのまま逃げました﹂
アミュとは、逃亡時の出来事についてどう答えるか、事前に打ち
合わせていた。

1846
この話題にならないわけがないと思ったからだ。フィオナの隠蔽
工作とも、矛盾がないようにしている。
﹁無事だったならよかった﹂
皇帝が微笑む。
逃亡時の状況はアミュしか知らない、重要な情報であるはずなの
だが⋮⋮皇帝はどこかどうでもよさそうだった。
﹁一応訊きたいのだけれど、下手人の姿は見なかったかな?﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁そうか。実は、先の帝城襲撃は強大な魔族が起こしたと言われて
いてね。ただ、その正体がまるでわからないんだ。応戦した兵に死
んだ者はいなかったんだが、なぜか全員、その時の記憶をなくして
いる。城内から遠目で見た者が、小柄な背格好だったと証言した程
度で、それ以外の一切が不明だ。君なら見ているかと思ったのだけ
れど、残念だよ﹂
言葉とは裏腹に、皇帝の声に残念そうな響きはまるでなかった。
ぼくの正体が露見していなさそうな点は、素直に喜ばしい。だが
それにもかかわらず、嫌な予感は増していく。
皇帝は、小さな嘆息とともに言う。
﹁戦争のない平和な時代とはいえ、世の中に脅威は絶えない。未だ
に帝国が数十万もの兵力を維持していることからもわかるように、
国家には暴力が不可欠だ。平和を守るための暴力が﹂
皇帝はまるで、世間話のように続ける。
﹁そこで、アミュ君。市民の先頭に立つ者として、勇者たる君に助

1847
力を乞いたい﹂
﹁えっ⋮⋮あたしに?﹂
アミュが戸惑ったように目を瞬かせる。
ぼくは悟る。この内容こそが謁見の本題であり、アミュを呼び寄
せた目的なのだ。
﹁西方で起こっている反乱を、鎮めてほしいんだ﹂
皇帝の口調は、近所への使いでも頼むかのようなものだ。
だが聞いたぼくは、思わず歯がみしてしまった。
﹁君のその、勇者の力をもってね﹂
どうやら、想像以上の厄介事に巻き込まれようとしている。
第五話 最強の陰陽師、皇帝に謁見する 後
﹁反乱⋮⋮?﹂
アミュは困惑したように、皇帝の言った言葉を繰り返した。
﹁いつの時代も、国家が悩まされてきたものの一つさ﹂
皇帝が小さく嘆息しながら言う。
﹁帝国だって例外じゃない。建国から今に至るまで、数限りない反
乱があった。たくさんの国を併合してきたのだから、当たり前と言
えば当たり前だけれどね。ただ、最後の国を併合してもう久しく、

1848
ここ百年ほどは争いのない平和な時が続いていた。まさかぼくの代
になってこんなことが起こるなんてね﹂
語る内容とは裏腹に、皇帝の声音にはまるで日常の愚痴をこぼし
ているかのように重さがなかった。
ぼくは眉をひそめながらも、つい口を開く。
﹁恥ずかしながら、東方の辺境都市にいたためか、西方の反乱につ
いては聞きおよんでおりませんでした。恐れ入りますが詳細をうか
がっても?﹂
﹁詳細は後に、官吏の者から説明させよう。すまないが、この場で
は概要だけにとどめさせてもらうよ﹂
そう言って、皇帝がぼくに目を向けた。
内心のうかがえない、褐色の瞳。
じわりと警戒心がにじむ中、皇帝が口を開く。
﹁きっかけはそこまで珍しいものじゃない。北西のとある辺境都市
で、鉱山や農園で働いていた奴隷たちが蜂起したんだ。彼らは奴隷
主を殺すと、そのまま町を掌握。やがてそこを出て南に向かいなが
ら、小さな集落などを襲っていった﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは口をつぐんで考え込む。
奴隷の集団が反乱を起こすことは、そう珍しくない。前世でも、
転生してからも、小規模な例なら何度か聞いたことがあった。
だが⋮⋮それが国を巻き込む規模にまで発展する例は、かなり少
ない。

1849
﹁それとは別に﹂
なんでもないことを付け加えるかのように、皇帝が続ける。
﹁それよりも南方の都市で、ソゾ教という新興宗教の信徒たちが蜂
起した。主に貧民の間で広まっていた宗教だったが、集団になって
怪しげなことをしていたせいか、西方ではずいぶんと弾圧されてい
たようでね。彼らも同じように一つの町を武力で掌握すると、北へ
向かいながら小さな村や町を襲い始めた。そして⋮⋮奴隷たちの集
団と合流し、一つになったんだ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁今や、数万という規模の暴徒の集団となってしまっている。地方
都市が動員できる武力ではとても制圧できず、小さな城塞都市さえ
も落とされる始末だ。参ったよ﹂
皇帝の軽い口調や仕草とは裏腹に、語られる内容は衝撃的なもの
だった。ぼくは思わず絶句してしまう。
宗教の信徒が反乱を起こす例も、ないことはない。
だが、蜂起した奴隷などというまったく性質の異なる集団と合流
し、一つの大勢力を形作るなど、これまで聞いたことがなかった。
そのようなことが起こりうるのだろうか?
﹁⋮⋮信じられません。暴徒とおっしゃいましたが、都市を落とし
ているからにはある程度秩序だった軍事行動がとれるということで
すか? 彼らの拠点などは? 数万人分の食糧はどこから? 彼ら
の指導者はいったいどのような人物なのですか?﹂
﹁詳細は後に官吏から説明させる。ぼくはそう言ったよ。彼らから
ゆっくり話を聞く方が、君も望む答えを得られるだろう﹂
口調こそ穏やかだが、明らかに突き放すような物言いだった。

1850
ぼくはわずかに目を伏せ、言う。
﹁失礼しました。それでは、一つだけ︱︱︱︱どうして帝国軍では
なく、アミュを頼ろうと?﹂
皇帝は無言のまま、続きを促すような微笑を浮かべている。
目を鋭くしながら、ぼくは続ける。
﹁その反乱が事実なら、もはや国をあげて鎮圧するべき事態です。
であるならば、ここは当然、軍を動員する必要があるでしょう。少
なくとも⋮⋮一人の少女に頼る場面じゃない。勇者の力に期待して
いるのかもしれませんが、たとえ全盛期の勇者であったとしても、
数万もの暴徒を制圧するなど不可能なはずですよ﹂
﹁⋮⋮まったく、耳が痛いね﹂
皇帝は苦笑する。
その仕草にはどこまでも、事態の重みを感じている気配がない。
﹁君の言うとおりだよ。ぼくも、できるならば軍を派遣したい。だ
けど、そういうわけにもいかない事情があるんだ﹂
皇帝は続ける。
﹁ここ百年ほど平和が続いたせいで、歴代の皇帝たちは徐々に帝国
軍を縮小させていた。武官が力を持ちすぎても困るし、何より兵は
金食い虫だからね。おかげで出費は抑えられたのだけれど、その代
わりに戦力的な余裕はなくなってしまった﹂
この段階ですでに、話の予想がついた。
皇帝は続ける。

1851
﹁この場合の余裕とは、つまり不測の事態に動員できる余剰の兵力
のことだ。帝国は数十万の軍を抱えているが、国境などに配置しな
ければならない分を差し引くと、余剰といえる兵力はほとんどない。
今すぐ動員できるのは五千といったところだね。数万を相手するに
は、さすがに心許ない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁無論、だからといって軍を派遣しないつもりもない。今は各駐屯
地に対し、兵の拠出を要請しているところだ。ただ、当然武官連中
は渋るだろう。なんとか兵が集まっても、それから部隊をどう編制
するか、誰に指揮を執らせるか、そういった事柄を決定し、議会で
承認を得なければならない。とにかく時間がかかるんだ﹂
やれやれといった様子で、皇帝は言う。
﹁しかしそうは言っても、今起こっている反乱を座して見ているこ
となどできるわけがない。無辜の民が苦しんでいるんだ。皇帝とし
て、ぼくは彼らを救う義務がある。だからこそ︱︱︱︱君を頼りた
いんだ、アミュ君。勇者として、帝国の助けになってくれないか﹂
そう言って、皇帝はアミュに笑いかける。
ちらとアミュを見ると、迷うような顔をしていた。
﹁でも、あたしなんかが⋮⋮﹂
﹁反乱を完全に鎮圧しろだなんて、無茶なことは言わないよ。君に
は軍の派遣が間に合うまで、彼らを押しとどめてほしいんだ。ああ
もちろん、君一人ではなく、仲間たちと共にね。君たち四人を招聘
したのは、協力してこの国難に対処してほしかったからなんだ。な
かなかの実力を持った冒険者パーティーなのだと、風の噂で聞いて
いるよ﹂

1852
皇帝がぼくらにも笑みを向ける。
アミュだけではなく勇者一行という名目で招聘したのは、そのよ
うな目論見だったためらしい。
﹁もっとも、一人でいいというのならそれでもかまわないけれどね。
必要なものがあればなんでも言ってほしい。人でも物でも、望むも
のを用意しよう﹂
数万の軍勢を前に、多少頭数が増えたり装備が整ったりしたとこ
ろで大差はないだろう。
表情を険しくしながらぼくは問う。
﹁アミュに望んでいるのは、帝国軍派遣までの時間稼ぎ。そういう
ことですか?﹂
皇帝は、なんとも形容しがたい笑みとともに答える。
﹁それ以上のことをしてもらえるのならば、ぜひしてもらいたいの
だけれどね。反乱軍を蹴散らせるのならそれに越したことはない。
彼らに今、大きな動きはないが⋮⋮この帝都へ侵攻してくる可能性
だってある。本当なら、時間稼ぎなどと言っている場合じゃないん
だ﹂
仮に帝都が陥落してしまえば、ウルドワイト帝国そのものが崩壊
しかねない。
単なる反乱軍といえど、数万という数はその可能性を危惧せざる
をえない規模だ。
そろって沈黙するぼくらに、皇帝は軽い調子で言う。

1853
﹁とは言っても、そう心配はいらないよ。帝都の防衛は強固だし、
そもそも反乱の地からここまではかなり距離がある。現実には、た
どり着くことも難しいだろう﹂
横目でちらと見ると、イーファとメイベルがほっとしたような表
情をしていた。
﹁しかし、他にも重要な大都市はいくつかある。特に、比較的近い
位置にある峡谷の街テネンドなどはまずいね。万が一にもあそこを
攻め落とされでもしたら、帝国に取って途方もない損失だ。これは
なんとしても防がなければならない﹂
皇帝は、まるで冗談を言うように付け加える。
﹁もしもの時には、街にかかる橋を落としてくれてもかまわないよ。
もう修繕も難しいほど古くなっていたし、後で国費を使って直して
あげられるからね﹂
﹁はあ⋮⋮﹂
呆けたような返事をするアミュ。
ただその表情を見る限り、話の内容を理解していないわけではな
さそうだった。
どちらかといえば⋮⋮本題の返事に、迷っているようにも見える。
皇帝の要請を聞き入れ、反乱鎮圧に向かうべきか、否か。
まずいと思い始めた矢先、皇帝が再び口を開く。
﹁市民に怒鳴られる祖父を見て、幼少期のぼくはそれこそが皇帝の
仕事なのだと思い込んだ。だけど、実際のところは違った。国家に
は解決しなければならない課題がたくさんある。隣国に魔族にモン

1854
スターの脅威、産業に経済に福祉問題、貴族の派閥争いに民の不満、
あとは古くなった街道や水道の整備とか、次の皇帝を誰にするかと
か⋮⋮。皇帝はこれらのすべてについて決定し、責任を負わなけれ
ばならない立場にある。それは、市民に怒鳴られるよりもずっと大
変なことだった﹂
悩める勇者に、皇帝は語りかける。
﹁それらの課題のほとんどについて、ぼくは素人だ。大工仕事など
したこともないし、民の生活も知らなければ、商売にも明るくない。
敵が来ても、戦うことなどできない。ぼく一人では何もできないん
だ。それにもかかわらず、皇帝はすべてを解決しなければならない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ではどうするか⋮⋮人に頼るのさ。ぼくが苦手なことを、得意な
人に頼る。無能な一人の人間を、大勢の者たちが自分の得意分野で
支えて、そうやって国は成り立っているんだ﹂
皇帝が、勇者に笑いかける。
それはまるで、旅立ちを促しているかのようだった。
﹁アミュ君︱︱︱︱君の得意なことで、この大きな国を支えてはく
れないだろうか﹂
1855
第六話 最強の陰陽師、検討する
謁見から数刻後。
ぼくらは帝城敷地内にある、要人滞在用の離れの一室にいた。
普段、フィオナが住んでいる場所なのだという。
謁見が終わるやいなや、ぼくらは官吏の案内を断って、彼女に密
談できる場所を頼んだのだ。
﹁どうなっているんだ﹂
そこでぼくは、フィオナに言い募っていた。
自分でも余裕がなくなっているのがわかる。
だが、それだけの状況だ。確認しなければならないことがいくつ

1856
もある。
﹁聞いてないぞ、アミュに反乱をなんとかさせようだなんて。こん
めい
な命が下るとわかっていれば、帝都になど戻らなかった﹂
﹁⋮⋮わたくしも、予想できませんでした﹂
フィオナは険しい表情で、口元に手を当てながら言う。
﹁反乱のことはもちろん把握していました。軍の派遣が遅れている
ことも。ただ⋮⋮まさか、アミュさんを向かわせる腹づもりだった
とは⋮⋮﹂
フィオナは考え込むような仕草をした後、ぼくらに問う。
﹁それで、陛下にはどのような返答を?﹂
フィオナの問いに、メイベルとイーファが顔を見合わせて答える。
﹁セイカが、なんか難しいこと言って誤魔化してた﹂
﹁えっと⋮⋮事が事だから熟慮させてほしいってことを、セイカく
んが皇帝陛下に⋮⋮﹂
﹁ああ⋮⋮よいですね。それで陛下にすんなり帰してもらえたなら、
それは朗報です﹂
そう言って、フィオナはわずかに安堵するような表情を見せた。
再び考え込む彼女に、ぼくは問う。
﹁反乱が起こっていること自体、ぼくらは初耳だった。皇帝から聞
いた内容は少し信じがたいようなものだったが⋮⋮本当に奴隷と信

1857
徒の反乱など起こっているのか?﹂
﹁ええ﹂
フィオナはうなずいて答える。
﹁帝都にまで正式に情報が届いたのは、半月ほど前になるでしょう
か。それぞれ最初の反乱が起こったのは、ほぼ同時期。合流してか
らの勢力は二万から三万ほどのようですが、現在ではいくつかの集
団に分かれています。制圧した街を拠点とし、食糧などは略奪によ
って調達しているようです﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
異なる大規模な反乱が同時期に起こるとは、運がない。帝国とし
ても、ぼくらとしても。
もしかすると、ぼくが似たような例を知らないのも、単にこんな
不幸な偶然はなかなか起こるものではないからなのか。
ぼくは続けて問いかける。
﹁城塞都市が陥落しているとも聞いたが、なぜそんなことが起こっ
た? 普通は城門を閉ざしてしまえば、反乱軍にはどうすることも
できないだろう。攻城兵器を入手し、運用できるだけの指揮系統が
存在しているとでも言うのか?﹂
﹁それは⋮⋮現時点では、なんとも﹂
フィオナが、わずかに目を逸らして答える。
﹁特定の指導者の存在は明らかになっていませんが、一定の指揮系
統は存在するものと思われます。ただ、攻城兵器が奪われていると
は考えにくいので⋮⋮おそらく、内通者に城門を開けさせる、など

1858
の手段を講じたものと﹂
﹁ああ、なるほど﹂
それならば、ありえそうに思える。
奴隷や平民の集団なら、そういった手も使いやすいだろう。
徐々にだが、フィオナと話すうちに全容が掴めてきた。
初めに聞いた印象ほど、奇妙な反乱ではないのか。
ただ⋮⋮だからといって事態が改善するわけではない。
ぼくは重い溜息をついて言う。
﹁せめて⋮⋮あと半年ばかり、宮廷から隠れていられればな。その
頃には反乱も鎮まっていただろうに。時間の問題ではあったんだろ
うが、まさかこんなに早くに見つかるなんて⋮⋮﹂
﹁⋮⋮それに関しては、セイカ様の行いもあるかと思いますが﹂
﹁⋮⋮え?﹂
思わぬ返答に、ぼくは目を瞬かせてフィオナを見た。
こちらにじとっとした目を向けながら、フィオナは言う。
﹁みなさん、ラカナでは本名のまま冒険者をされていましたよね﹂
﹁え⋮⋮あっ﹂
﹁普通、学のない咎人や逃亡奴隷だって、偽名を使うことを考える
と思うのですが﹂
﹁それは、その⋮⋮うっかりしていたというか⋮⋮﹂
思わずフィオナから目を逸らしながら、ぼくは言い訳のように言
う。
もう完全に、その発想がなかった。というより、居場所がバレて

1859
もラカナにいれば大丈夫なのかと思い、その辺りにまったく気を配
っていなかった。
フィオナはどこか恨みがましげに言う。
﹁傘下の商会経由で情報が流れてきたときは焦りました。ラカナに
は人の出入りもあるのですから、目立てば噂になります。一応の対
策として、他の都市にもアミュという名の冒険者の噂を流しておい
たのですが⋮⋮スタンピードが決定的でしたね。帝都にはセイカ様
たちの名前までは届いていませんでしたが、陛下は自身の情報網で
みなさんの活躍を掴んだことでしょう﹂
﹁う⋮⋮﹂
﹁まあ、偽名については事前に言い含めておかなかったわたくしに
も責任があります。スタンピードも当初は視えなかったことですの
で、仕方ありません﹂
﹁あ、ああ⋮⋮申し訳ない﹂
謝りつつも、あまり責められずに済みそうでほっとしていると、
フィオナが続けて訊ねてくる。
﹁ちなみにですが、ラカナからは出ていませんよね?﹂
﹁⋮⋮。ええと﹂
﹁⋮⋮まさか?﹂
﹁一度ケルツまで⋮⋮冒険者の仕事に⋮⋮﹂
﹁はい!?﹂
﹁い、いや、といっても一ヶ月くらいだから⋮⋮﹂
﹁⋮⋮。他には?﹂
﹁ほ、他には⋮⋮﹂
目を泳がせながら嘘をつく。

1860
﹁⋮⋮行ってない。どこにも﹂
フィオナが盛大に溜息をついて言う。
﹁気を緩めすぎです。追われる身だったのですから、くれぐれも注
意してください。もう遅いですが﹂
﹁⋮⋮申し訳ない﹂
謝りつつ、再び内心で胸をなで下ろす。
どうやら、魔族領にまで立ち入ったことは知られていないようだ
った。
未来視の力でバレていてもおかしくないと思ったのだが、この先
もフィオナに発覚することはないということなのか、あるいは発覚
の場面をまだ視られていないだけなのか⋮⋮。もし後者だとすれば、
この先が若干怖い。
ぼくは頭を振って思考を振り払った。今はそれよりも重要なこと
がある。
軽く咳払いして口を開く。
﹁は、話を戻すが⋮⋮皇帝は、どうしてアミュに反乱の対処なんて
命じるんだ? 帝国軍の動員が一筋縄ではいかない事情はわかるが、
それにしても傭兵を雇うとか、他に手段はいくらでもあるはずだろ
う。勇者一人の力が、大軍に匹敵するとでも思い込んでいるのか?﹂
﹁⋮⋮わかりません﹂
フィオナは難しい顔になって目を伏せる。
﹁陛下のことですから、その辺りを見誤ったりはしないでしょう。

1861
何か目論見があるのだとは思いますが⋮⋮わたくしには、なにも﹂
﹁君の、未来視の力を以ってしてもか﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
フィオナは微かにだが、はっきりとうなずいた。
﹁おそらくですが⋮⋮陛下は、わたくしの未来視を対策して動いて
いる気がします﹂
﹁未来視を、対策⋮⋮?﹂
ぼくは思わず眉をひそめる。
﹁そんなことができるのか?﹂
﹁この力は、決して万能ではありませんから﹂
フィオナが続ける。
﹁わたくしが未来永劫知り得ないことは、決して知ることができま
せん。自らの体験ではなく、伝聞の形で得る情報も、詳細を知るこ
とが難しくなります。これら以外にも、弱点はあるのですが⋮⋮陛
下は対策となる行動を組み合わせ、自らの企みの露見を防いでいる
ようなのです﹂
﹁少し信じがたいが⋮⋮どうしてそうだと?﹂
﹁陛下に関わる重要な未来を、これまで事前に知ることがほとんど
できなかったためです。不自然なほどに。今回の件も、そうでした﹂
そう言って、フィオナは唇を引き結ぶ。
今話し合っているこの場面も、フィオナは視ることができなかっ
たのだろう。
それがどういった手段によるものなのかはわからないが⋮⋮つい

1862
先ほど、ぼくの魔族領進入を隠し通せたことからもわかるように、
未来視でも全知はなし得ない。何らかの対抗手段があっても不思議
ではないだろう。
少なくとも言えるのは、彼女の力に頼ってなんとかなる相手では
ないということだ。
﹁⋮⋮皇帝陛下、優しそうな人に見えたんですけど⋮⋮﹂
イーファが、ためらいがちに口を開く。
﹁やっぱり⋮⋮見た目どおりの人じゃないんですか?﹂
﹁⋮⋮そう、ですね﹂
フィオナが力なく笑って言う。
﹁陛下がどのような人間なのか⋮⋮真に理解している人間はいない
と思います﹂
まるで自らに説くように、フィオナは続ける。
﹁陛下は先帝の死をきっかけに、若くして即位しました。先帝は元
々、養子を後継者としていましたが、その養子も急死してしまい、
陛下に帝位が回ってきたのです。満足な基盤もないまま即位し⋮⋮
以降、誰の傀儡になることも、心労や凶刃に倒れることもなく、二
十年以上にわたって皇帝として君臨し続けています﹂
﹁それって、すごいこと?﹂
今ひとつピンと来ないのか、メイベルが首をかしげて訊ねた。
わずかに苦笑して、フィオナが答える。

1863
﹁ええ。皇帝の地位は過酷です。歴史を紐解けば、心労がたたり病
に倒れたり、議員や貴族との対立の末に暗殺されてしまった例は少
なくありません。二十代という若さで即位し、大きな失態もなくこ
れまで皇帝を続けてきただけでも、普通ではないとわたくしは思い
ます﹂
﹁ふうん⋮⋮﹂
﹁加えて言えば⋮⋮陛下は、腹心と呼べるような者を一度もそばに
置いたことはないそうです。誰に対しても一定の距離を保ち、常に
あのような態度をとっているのだと聞きます。即位から、これまで
ずっと﹂
﹁⋮⋮﹂
君主とて人間だ。
時には弱みを見せ、助言を必要とし、有能な部下に頼りたくなる
こともある。普通は。
信頼できる腹心を持たず、背後に操る者もないまま、自らの力だ
まつりごと
けでこの大帝国の政をこなし続けているとなれば、確かに尋常な君
主とは言いがたい。
﹁ちなみにですが⋮⋮距離をとっているのは、肉親に対しても変わ
りません。実子である三人の皇子に対しても、わたくしに対しても、
陛下は同じように接しています﹂
﹁⋮⋮。皇妃は、たしか十八年前に亡くなったんだったか﹂
﹁ええ﹂
ぼくが訊ねると、微笑とともにフィオナはうなずく。
﹁以降は再婚することもなく、愛人のような者もいなかったと聞き
ます⋮⋮わたくしの、母を除いては﹂

1864
﹁⋮⋮﹂
﹁陛下を真に理解する者がいたとすれば、皇妃か、わたくしの母か、
そのどちらかだったのではないでしょうか。⋮⋮今となっては、そ
れを確かめる術もありませんが﹂
﹁⋮⋮﹂
初めに皇帝を見たときは、為政者らしい雰囲気のない、ぱっとし
ない男という印象だった。
だが考えてみれば、ただの凡夫がこの大帝国を二十年以上に渡っ
て治められるわけがない。ぱっとしないという印象自体が、異常だ
とも言えた。
再び重い溜息をつく。
どうやら、想像していたよりも厄介な相手のようだ。
やはり為政者と関わるのは面倒に過ぎる。
﹁⋮⋮まあ、今の問題は皇帝の要請をどうするかだな﹂
気を取り直すようにぼくが呟くと、フィオナが即座に言った。
﹁断ってしまってかまわないでしょう。いえ、断るべきです﹂
ぼくは意外に思って目を瞬かせると、彼女に訊ねる。
﹁断って大丈夫なのか?﹂
﹁ええ。陛下が断らせないつもりならば、謁見の場でアミュさんを
うなずかせていたでしょうから。そもそも議会を経ていない皇帝の
個人的なお願いを、市民が聞き入れる義務はありません﹂
﹁⋮⋮そういうものか﹂

1865
フィオナの言葉に、ぼくは少しほっとする。
皇帝も、本気でアミュに反乱を解決してもらうつもりはなかった
ということだろうか。
フィオナは真剣な表情のまま続ける。
﹁今回の要請は、わたくしにも異常に思えます。反乱に帝国が手を
焼いているのはたしかですが、勇者とはいえ、官吏ですらない一市
民に重責を負わせるべき事態ではありません。明日、陛下へ断りの
返答をいたしましょう。以降の手配は、わたくしが⋮⋮﹂
﹁待って﹂
その時口を挟んだのは、ずっと黙っていたアミュだった。
皆の注目を集める中、彼女は言う。
﹁あたし⋮⋮行ってもいいわ﹂
﹁⋮⋮は?﹂
﹁あたしの力が必要なんでしょ? 困ってる人がいるなら、助けに
行ってもいい﹂
﹁いや君⋮⋮何言ってるんだ?﹂
ぼくは思わず唖然としながら言う。
﹁反乱軍は数万の規模なんだぞ。君が行ったところで何もできない﹂
﹁街が狙われてるんでしょ﹂
アミュが言い返す。
﹁平地で、反乱軍を全員ぶっ飛ばすようなことはできないけど⋮⋮
でも、街に籠もって守ることはできるじゃない。ラカナの時みたい

1866
に。あたしの力が、少しでも役に立つのなら⋮⋮﹂
﹁いやいやちょっと待て。君、いったいどうし⋮⋮﹂
どうしたんだ、と言おうとして、ぼくは気づく。
アミュはどうもしていない。ラカナでスタンピードが起こったと
きも、ルルムが捕まりそうになったときも、この子は困っている者
に味方して強大な敵に立ち向かおうとしていた。
まるで、勇者の血がそうさせるかのように。
頭を抱えたくなる。
これまでは、多少の無茶もなんとかなってきた。だが今回の件は、
とてもこれまでと同じようにはいかない。
フィオナも困惑したように言う。
﹁あの、アミュさん⋮⋮。心配いりませんよ。今回の反乱にはわた
くしも思うところがあり、裏で聖騎士を動かしているところです。
きっと、すぐに解決しますから﹂
﹁でも、侵攻に遭おうとしている街はきっと今も助けを必要として
るんでしょ? 数万の反乱軍も、今はいくつかに分かれているのよ
ね? そのうちの一つを相手にするくらいなら、あたしでもきっと
力になれるから﹂
﹁いい加減にしろ。無茶を通り越して無謀だぞ﹂
﹁なにが無謀なのよ。ラカナの時、あたしちゃんと役に立ってたじ
ゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
役に立っていた。それは事実だ。この子の奮戦のおかげで戦線が
持っていたところは少なからずあった。仮に今侵攻に遭っている都
市に加勢したとしたら、きっとあのとき以上に活躍できるだろう。

1867
だが、そういう問題ではない。
ぼくは目を細め、静かに言う。
﹁⋮⋮死ぬかもしれないんだぞ﹂
﹁そんなの、今さらじゃない。冒険者やってれば危険なんていくら
でもあったでしょ﹂
﹁違う⋮⋮敵の人間が、死ぬかもしれないと言ってるんだ﹂
ぼくはアミュをまっすぐに見つめ、問いかける。
﹁君、人を殺したことはあるか﹂
﹁⋮⋮ないけど。でも別に、悪いやつをやっつけるくらい⋮⋮﹂
﹁大したことないか? そうだ、大したことない。屑のような人間
を死体に変えたところで、君自身は何も変わりはしないだろう﹂
初めて人を呪い殺した時も、ぼく自身は何も変わらなかった。
ただ、知っただけだ。
人を殺すなど、大したことはないのだということを。
﹁だけど⋮⋮知らない方がいいこともある。悪人でも人の命は尊い
のだと、勘違いしたまま生きていけるのなら、その方がずっといい﹂
﹁はあ? なにそれ。バカにしてるの?﹂
目つきを鋭くするアミュに、ぼくは続けて言う。

﹁それに、一度政治の場に関われば、必ず次があるぞ。皇帝の要請
を受けて勇者がその力を振るったと、有力者の間で噂が広がるだろ
う。他の者も目を付け始める。君がどれだけ望まなくとも、政争に
巻き込まれかねない。それでもいいのか﹂
﹁⋮⋮⋮⋮よくない﹂

1868
﹁なら⋮⋮﹂
﹁よくない⋮⋮けど、でもっ﹂
アミュが顔を上げ、強く言った。
﹁でもそれは⋮⋮今困っている人たちには、関係ないことじゃない﹂
﹁な⋮⋮﹂
まつりごと
﹁人間相手に殺し合いなんてしたくないし、政にも関わりたくない、
けど⋮⋮そんな理由で、助けられる人たちを見捨てたくないわよ﹂
﹁っ⋮⋮﹂
あまりの頑なさに、ぼくは閉口する。
一方で、頭の片隅には疑問が浮かんでいた。
この子は、果たしてここまで正義感の強い子だっただろうか?
この子の性格からして、かつて住んだ街が攻められようとしてい
るのなら、こう言い出すのもわからなくはない。
だが、見ず知らずの者を助けるために軍勢に挑もうとするほど、
現実の見えていない子ではなかったと思うのだが。
ぼくはいらだちを覚えながらも、アミュにはっきりと告げる。
﹁ぼくは反対だ。行くべきじゃない﹂
﹁じゃああんたは来なくていいわよ。あたし一人で行ってくるから﹂
﹁そうじゃない。行くなって言ってるんだ﹂
﹁なんでっ?﹂
はんばく
アミュが身を乗り出すようにしながら、強く反駁した。
﹁これは、あたしが頼まれたことなの。勇者の、あたしが。あんた

1869
には関係ないことじゃない﹂
ぼくは、思わず押し黙ってしまった。
確かに、その通りだ。人を殺めてしまうかもしれないことも、政
争に巻き込まれかねないことも、この子がそれを覚悟しているとい
うのなら、それを妨げる権利は誰にもない。
特に、勇者の力を利用しようとして近づいたぼくが、この子の人
生について偉そうに指図する資格はないだろう。
ただ、それでも。
﹁⋮⋮心配だからだよ﹂
数年も共にすれば、多少の情も湧く。
いや⋮⋮冷静に思い出してみると、もっと早くからだっただろう
か。
﹁っ⋮⋮﹂
アミュは驚いたように若草色の目を見開くと、それから迷うよう
な表情を浮かべた。
だが、やがてぼくから視線を背けながら、小さく呟く。
﹁それだって⋮⋮困っている人たちには、関係ないわ﹂
重い沈黙が流れた。
誰もが言葉を発せないでいる中、ぼくは考え続ける。
やがて、意思を固めると︱︱︱︱溜息とともに、口を開いた。

1870
﹁ぼくがやるよ﹂
﹁え⋮⋮?﹂
アミュが困惑したような声を上げた。
ぼくは念を押すように、同じ言葉を繰り返す。
﹁ぼくがやる。帝国軍が来るまでの時間を稼げばいいんだろう。そ
れくらいわけない﹂
﹁⋮⋮なによ、それ﹂
アミュが、目つきを鋭くして言う。
﹁自分だけ嫌な思いをするから、あたしはただ見てろって言いたい
の? なんであんたにそこまで世話を焼かれないといけないのよ。
あんたは⋮⋮人を殺したこと、きっとあるんでしょうね。でも、そ
れなら十人殺しても百人殺しても同じなの? 違うでしょ? これ
はあたしが頼まれたことなんだから、あたしだって同じくらい、嫌
な思いしてやるわよ﹂
﹁殺さない﹂
﹁え⋮⋮?﹂
呆けたように目を瞬かせるアミュに、ぼくは告げる。
﹁誰も殺さない。街の住民も、反乱軍の連中だって。それでも守れ
る街は守るし、時間稼ぎもする。それでどうだ﹂
﹁どうだ、って⋮⋮﹂
﹁生け捕りにした反乱軍の連中は奴隷として売れるだろう。それで
帝国の受けた損害も少しはまかなえるし、その金は街の復興のため
の支援にも回される。これ以上のことを、君はできるか﹂
﹁⋮⋮できない﹂

1871
﹁じゃあ、ぼくに任せてくれるか﹂
﹁で、でも⋮⋮これ、あたしが頼まれたことなんだけど⋮⋮﹂
なおも渋るアミュに、ぼくは言う。
﹁皇帝は、仲間と共にって言ってただろ。招聘されたのはぼくらも
同じなんだ。仲間に頼ってうまくいくなら、それでなんの問題があ
るんだ﹂
アミュは、しばらくの間黙り込んでいた。
だがやがて、ぽつりと言う。
﹁⋮⋮わかったわ﹂
ぼくは小さく息を吐き、内心で胸をなで下ろした。
これで聞き分けてくれてよかった。
アミュが口を尖らせて言う。
﹁でも、あたしにできることがあるならするから﹂
﹁それでいいよ﹂
そんな時は来ない。
少なくとも、この子を戦場に駆り出さなければならないような事
態には、決してならないだろう。
話し合いの結論に満足したのか、アミュはすっかり大人しくなっ
て憑き物が落ちたような表情を見せていた。
しかし、すぐに決まり悪そうな顔になって言う。

1872
﹁⋮⋮なんか、またあんたに助けられることになったわね﹂
﹁別にかまわないさ﹂
﹁でも﹂
アミュが苦笑のような、あるいはただ照れているだけのような、
そんな笑みとともに言う。
﹁心配だとか、あんたに言われたの初めてね﹂
﹁仲間なんだから、心配の一つもしなければ薄情だろう﹂
﹁言葉にされたのがってことよ。あんたにしてみれば⋮⋮周りの人
間みんな、いつだって危なっかしくて見てられないのかもしれない
けどね﹂
﹁⋮⋮﹂
確かに、無闇に口に出すのは避けていたかもしれない。
なんだか恩着せがましいのもそうだが⋮⋮狡猾に生きるにあたり、
他人を過度に慮るべきではないと、無意識にでも考えていたのか。
ぼくは思考を打ち切ると、フィオナに目を向ける。
﹁悪いが、後始末をまた頼んでもいいか﹂
﹁⋮⋮わたくしは、おすすめしません﹂
険しい表情のまま、フィオナは続ける。
﹁皇帝の要請を受けてしまえば、結果がどうあれ、噂が広がるのは
防げないでしょう。セイカ様が危惧するとおり、政争に巻き込まれ
かねません。それに⋮⋮今回の反乱自体にも、妙なところがありま
す。いたずらに関与するべきではありません﹂
﹁それは、その通りなんだが⋮⋮そう言わないでくれ。一応これも

1873
人助けだ。噂については、勇者を利用しようとする者が現れないよ
う、うまく誤魔化しておいてくれないか﹂
﹁あのですね。わたくしにも、できることとできないことが⋮⋮﹂
まつりごと
﹁そこをなんとか頼む、フィオナ。こと政に関しては君だけが頼り
だ。無茶を言っているのは承知だが⋮⋮君の力を、また貸してほし
い﹂
﹁う⋮⋮い、いえしかし、前回も大変だったんですからね? まあ、
でも⋮⋮うーん⋮⋮﹂
フィオナがあからさまに悩み出す。
下手をしたら匙を投げられるかとも思ったが⋮⋮押されれば意外
と弱いのか。
やがてフィオナは、はぁー、という大きな溜息とともに言った。
﹁わかりました⋮⋮でも、あまり期待はしないでください﹂
﹁助かるよ﹂
ぼくは微笑で答える。どうやら、噂の方もなんとかなりそうだ。
フィオナはぼくの顔をまっすぐに見ると、悔しさと呆れと、他の
いろいろな感情が交じったような表情を浮かべて言った。
﹁まったく⋮⋮あなたはいつだってそうなんですから﹂
﹁⋮⋮いつだって?﹂
﹁こちらの話です﹂
そう言って、フィオナはぷいと顔を逸らしてしまった。
思わず首をかしげていると、アミュがおずおずといった調子で言
う。

1874
﹁あの⋮⋮ありがとね、フィオナ﹂
フィオナはアミュに顔を向けると、若干引きつった笑みとともに
告げた。
﹁次はありませんから﹂
﹁は、はい⋮⋮﹂
アミュが縮こまる。
まあだいぶ無茶を聞いてもらう以上、これくらい怒られても仕方
ないだろう。
ともあれ、これで方針は決まった。
ぼくはイーファとメイベルに顔を向けて言う。
﹁二人はどうする? あまり楽しい旅にはならなそうだし、帝都に
残っても⋮⋮﹂
﹁い、行くよ!﹂
﹁行く﹂
即答だった。
ぼくは苦笑する。まあこの子らならこう言うだろうと思っていた。
ぼくらを見回したフィオナが、少し考え込むようにして言う。
﹁念のため、聖騎士を一人つけましょう。セイカ様が、手を離せな
くなるタイミングも増えるでしょうから﹂
﹁ええっ、大丈夫よ。あたしたち、ラカナでずっと冒険者やってた
んだから、自分の身くらいは自分で守れるわ﹂

1875
断ろうとするアミュに、フィオナは静かに言う。
﹁アミュさんは、狙われるかもしれない立場です﹂
﹁あ⋮⋮﹂
﹁暗殺者の相手は慣れていないでしょう。帝都を離れればまず安全
だとは思いますが、ここは万が一に備えておきましょう。対処を誤
れば、周りの者にも危害がおよびかねませんから﹂
﹁そ、そうね⋮⋮イーファやメイベルが、間違って襲われたら大変
だし⋮⋮﹂
消沈した様子で、アミュが了承する。
一方、フィオナはやや心配そうな表情を浮かべていた。
﹁ただ⋮⋮今手が空いているのが、性格に難のある者だけなんです
よね⋮⋮いえ、よく言い聞かせておけば大丈夫でしょう。そもそも
聖騎士のほとんどはちょっとおかしいので、細かいことを言ってい
たらなにもできません﹂
﹁ええ⋮⋮それ大丈夫なのか⋮⋮?﹂
どうやら吟遊詩人に語られるような、正しき英雄たちの集まりと
いうわけではないらしい。
ふと、ぼくは思い至ってフィオナに問いかける。
﹁その手が空いている聖騎士って、ひょっとしてぼくの兄だったり
するか?﹂
フィオナは目を瞬かせた後、微笑とともに首を横に振った。
﹁いえ。グライには今、任務に赴いてもらっていますので⋮⋮。そ
れに彼は、聖騎士の中では数少ないまともな人間です﹂

1876
﹁う、嘘だろ、あれで⋮⋮? 本当に大丈夫なのか、聖騎士⋮⋮﹂
思わず唖然としてしまう。いったいどんな連中が集まっているん
だ⋮⋮。
﹁ふうん⋮⋮あいつじゃないのね﹂
アミュが小さく呟いた。
フィオナは、ぼくとアミュの顔を交互に見た後、微笑みながら訊
ねる。
﹁グライに会いたかったですか?﹂
﹁そ、そんなわけないじゃない!﹂
﹁⋮⋮ぼくも、遠慮願いたいな﹂
ぼくらの答えに、フィオナは仕方なさそうな笑みになる。
﹁そうですか。ですがきっとこの先、再会の機会も訪れるでしょう﹂
﹁⋮⋮グライはあの後、ぼくのことを何か言っていたか?﹂
ぼくが問うと、フィオナは再び首を横に振る。
﹁いいえ、なにも。わたくしにセイカ様のことを訊ねることもなく、
あえて話題に出さないようにしているようでした﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
グライに最後に会ったのは、アミュが閉じ込められていた地下牢
まじな
で⋮⋮その時ぼくは、彼に呪いを向けようとしていた。
会いたくないと思っているのは、むしろ向こうの方だろう。

1877
別に、関係を改善したいと思っているわけではない。元々仲が悪
かったのだ。二度と会うことがなかろうと、困ることは何もない。
ただ⋮⋮あの時グライは、フィオナとともに地下牢のアミュを励
ましてくれていたようなのだ。
もっと違う態度があったのではないかと、悔やんでいないことも
ない。
気を取り直すように、ぼくは言う。
﹁グライはどうでもいいけど⋮⋮実家や学園がどうなっているかは、
少し気になるな。というか、ぼくはあれからどうなった扱いになっ
ているんだ?﹂
﹁学園は休学中ということになっています。みなさんの籍は残って
いますので、復学しようと思えばできますが⋮⋮﹂
﹁だ、そうだけど﹂
ぼくが三人に目を向けると、皆そろって首を横に振った。
まあ、当然だろう。すでに冒険者として生計を立てているのだ。
一年半も経った今、あの学び舎に戻ろうという気はぼくも起きない。
フィオナが微笑とともにうなずいて言う。
﹁では、折を見て退学手続きをとるよう手配しておきましょう。ラ
ンプローグ伯爵へは、見聞を広めるために旅に出たというちょっと
苦しい説明がなされているはずです。急なことで、きっと心配され
ていると思いますので⋮⋮落ち着いたら、便りを出されるといいの
ではないでしょうか﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
家を継ぐわけでもないぼくは、学園を卒業しようが退学しようが

1878
結局は一人で生きていくことになる。
突然旅に出たとなれば驚かれはしただろうが、独り立ちの予定が
少し早まっただけだ。実際のところ、そこまで心配されてはいない
だろう。
ただ⋮⋮手紙の一通くらいは、書いてもいいかと思った。
﹁ねえ、あたしも旅に出たことになってるの?﹂
﹁はい。みなさんのご家族には、そう説明されているはずです﹂
﹁ふうん⋮⋮。じゃああたしも、パパとママに手紙を書いておこう
かしら。もう逃げ隠れしなくてもよくなったんだし。勇者のことは
無理でも、ラカナでのこととかは、書いても大丈夫よね﹂
﹁あ、わたしも⋮⋮セイカくんが書くなら、一緒に出そうかな。お
父さんに⋮⋮﹂
﹁私、どうしよう﹂
﹁あんたも書いといたら? 短い間かもしれないけど、世話になっ
たんでしょ﹂
﹁⋮⋮うん﹂
家族のことを話し合う彼女らの様子をぼんやり眺めていると、な
んとなく、戻ってこられてよかったように思えてきた。
過去の繋がりを含め、逃亡生活では諦めなければならなかったも
のも多い。
あとは西で暴れている反乱軍と、皇帝の目論見さえなんとかでき
れば、心配事はなくなる。 1879
第七話 最強の陰陽師、要請を受諾する
﹁今からでも手を引くべきだと、ユキは思います﹂
その日の夜。
あてがわれた離れの一室で床に入ろうとしていたとき、唐突にユ
キが言った。
掛け物を捲りかけた手を止め、ベッドに腰掛けながら答える。
﹁ぼくだって乗り気なわけじゃない。だが⋮⋮仕方ないじゃないか﹂
﹁仕方なくなどございません﹂

1880
頭の上から飛び降りたユキは、袖机に座りながら硬い声で言う。
﹁あの勇者の娘を、ただ強引に止めればよかっただけではございま
せんか﹂
﹁⋮⋮あのな。弟子ならまだしも、あの子は言ってしまえば他人だ。
無理矢理押しとどめるのは、さすがに道理に合わない﹂
﹁それでも、ユキはそうするべきであったと思います﹂
ユキがそう断言し、ぼくを睨んで言う。
﹁あの娘らとの関係が悪くなるのを恐れるあまり、安易な道を選び
ましたね。セイカさま﹂
ぼくは一瞬、言葉を失った。
指摘がもっともだったのもあるし、ユキにここまで強い言葉を使
われたのも初めてだったからだ。
﹁前世でもセイカさまは、常命のご友人らをぞんざいに扱いながら
も、どこか甘いところがございました。それもセイカさまの善きと
ころかなと思っておりましたが、その気質が今日、悪癖に転じまし
たね。ユキは口惜しくてなりません。以前からもっと強く、お諫め
していればと﹂
﹁お前っ⋮⋮そこまで言うか?﹂
ボロクソなまでの言いっぷりに、やや唖然としながらぼくは訊ね
る。
﹁いったい何がそんなに不満なんだよ﹂
﹁今回の一件、ユキはどうにも妙に思えます﹂

1881
﹁⋮⋮それはぼくも同感だけどな﹂
読めない皇帝の意図。反乱自体も普通ではないところがある。
だが、大きな問題でもない。
﹁それでも、なんとかなるさ。反乱軍など力で片が付く。皇帝の要
請を撥ねのけるよりは、受諾する方が敵対の危険も少ない。フィオ
ナを頼れば、ある程度政争とも距離を置けるはずだ。あながち悪い
選択じゃない﹂
﹁そうではございません﹂
ユキはそう、きっぱりと言った。
﹁ユキが妙と申したのは⋮⋮勇者の娘についてでございます﹂
﹁アミュがどうかしたのか?﹂
﹁セイカさまは、様子がおかしいとは思わなかったのですか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
ユキの言うとおり、確かに様子がおかしいとは感じていた。
元々好戦的で、かつ親しい人間には情が厚い子ではあったが⋮⋮
自分を犠牲にしてまで見ず知らずの者たちを助けようとするほど、
正義感が強い印象はなかった。
ユキが言う。
﹁この国の帝と話してからではございませんか? あの娘の様子が
おかしくなったのは﹂
﹁⋮⋮まあ、そう捉えられなくもないだろうが⋮⋮﹂
﹁ユキは恐ろしゅうございます。この国の帝には、なにやら得体の
まじな
知れないものがあるように思えます。呪いとも、力とも異なる、な

1882
にかが。ユキは気がかりでなりません。あの者と関わった果てには
︱︱︱︱﹂
ユキの声には、いつの間にか不安が滲んでいた。
﹁︱︱︱︱かの世界での生と同じ末路が、待っているのではないか
と﹂
****
懸念はあったが、今さら結論は変えられない。
翌日、ぼくたちは再び皇帝に謁見し、受諾の意を伝えた。
﹁ありがとう。市民の先頭に立つ者として、君たちの活躍と無事を
祈っているよ﹂
微笑とともに、皇帝はそんな言葉を返した。
1883
第八話 最強の陰陽師、パーティーに出る 前
皇帝の要請を受け入れることが決まっても、実際に出立するまで
には三日ほどかかる。馬車や食糧などを手配しなければならないた
めだ。
準備は順調に進み、そして出立まであと一日に迫ったある日。
ぼくらは、なぜかパーティーに参加していた。
﹁⋮⋮﹂
周りを見回す。
そこは、帝城にある一室だった。

1884
きらびやかに彩られた会場に、きらびやかに着飾った人々。ここ
は本当に城の中なのかと疑わしくなってくるほどだ。
外観からも予想していたが、やはり立てこもって敵を迎え撃つよ
うな城ではないらしい。
﹁そう身構えなくとも大丈夫です。うふふっ、みなさんには誰も近
づかせませんから﹂
近くでそう言ったのは、フィオナだった。
ガラス杯の飲み物に口を付けながら、機嫌良さそうに続ける。
﹁自らの陣営に取り込もうとする者も面倒ですが、どこぞの陣営に
取り込まれたと周囲の者に誤解されてしまうのも面倒です。ですか
ら、今日はずっとわたくしと一緒にいてくださいね﹂
﹁⋮⋮ぼくらのような身分だと、こんなところに放り込まれたとこ
ろでどうせ馬鹿にされるだけだろうから助かるが⋮⋮﹂
と言いながらぼくは、フィオナの傍らに立つ人物を見上げる。
﹁⋮⋮人避けがそれか﹂
オーガ
その人物は、なんと鬼人だった。
オーガ
人間をはるかに超える体躯。鬼人としては珍しい、灰色の肌をし
ている。その立ち姿には、どこか武人の雰囲気があった。
オーガ
ぼくの視線にも、鬼人は無言のまま微動だにせず、ただ前を見据
えている。
﹁聖騎士のヴロムドです﹂

1885
微笑みながら、フィオナが言った。
﹁寡黙な性格なので滅多に喋りませんが、立っているだけで周りが
静かになるので、普段から助かっています﹂
﹁⋮⋮﹂
オーガ
パーティー会場であるためか、ヴロムドという名の鬼人は正装し
ており、もちろん武装もない。
オーガ
だが、武装の有無など関係ないほどの威圧感がその鬼人にはあっ
た。人間用の衣装も似合っているとは言えず、逆に恐ろしげだ。
おかげでぼくたちの周りだけ、人気がない。
﹁⋮⋮まさか、聖騎士に魔族がいるなんてな﹂
こんな場所に連れてくることまで含めて、ちょっとした衝撃だっ
た。
ぼくはフィオナに視線を戻して言う。
﹁よく許されたな﹂
﹁うふふ、わたくしの立場をお忘れですか?﹂
﹁⋮⋮皇女が、こんな風に人を遠ざけて大丈夫なのか?﹂
﹁ヴロムドを同伴させるパーティーはもちろん選んでいます。です
が、わたくしの支援者に元々貴族の方は少ないので、機会は多いで
すね。残念ながら今日も、わたくしがお話ししたい方はいらっしゃ
らないようです﹂
﹁⋮⋮不参加、という選択肢はなかったんだろうか﹂
﹁みなさんは陛下の客人です。陛下の顔に泥を塗るくらいなら、大
人しくパーティーに参加しておく方が賢明でしょう﹂
ぼくたちにまで招待状が配られたこのパーティーは、どうやら宮

1886
廷主催のものであるようだった。
及び腰だったぼくたちに対し、フィオナが参加を勧めてきたから
出ることにしたのだが⋮⋮肝心の皇帝も不在のようだし、別に出な
くてもよかった気がしてくる。
﹁そんなことよりも、セイカ様﹂
と、フィオナがにこにこしながらその場でくるりと回った。
華やかなドレスの裾が柔らかく浮く。
﹁いかがです?﹂
﹁⋮⋮﹂
社交用のドレスに身を包んだフィオナは、言葉が見つからないほ
ど煌めいて見えた。
フィオナの容姿は世の吟遊詩人たちが数々の美辞麗句をもって歌
っているが、それらをどれほど積み重ねても足りないのではないか
と思える。
実際、ヴロムドのせいで近づけないでいる周囲の男たちからは、
熱っぽい視線が注がれていた。
とはいえ⋮⋮ぼくに感想を求められても困る。
思わずばつの悪い顔になって言う。
﹁⋮⋮称賛の言葉が欲しいなら他をあたってくれ。君なら好きなだ
け受け取れるだろう﹂
﹁まあ。わたくしは、誰よりもセイカ様から受け取りたいのですが﹂
﹁⋮⋮⋮⋮あいにくだが、気の利いた語彙を持ち合わせていなくて
ね﹂

1887
そう言って、堪らず目を逸らす。
社交的にはあまり誉められた態度ではないが⋮⋮女性の容姿をあ
らたまって誉めるのは、どうにもむず痒くて苦手だった。
日本で暮らしていた頃も、大陸を旅していた頃も、ついぞ慣れな
かったことを思い出す。
やや申し訳なく思ってフィオナを見ると、なぜかにこにこと機嫌
良さそうにしていた。
﹁セイカ様は、思えばそうでしたね。なんだか懐かしいです﹂
﹁は⋮⋮何が?﹂
﹁いえ、こちらの話です。しかし、セイカ様﹂
と言って、フィオナがぼくの後ろを視線で指し示す。
そこには、アミュ、イーファ、メイベルの姿があった。
各々ガラス杯を手に、目立たないよう小さくまとまりながらも、
きらびやかな宮廷のパーティーに目を奪われている。
フィオナがぼくに耳打ちする。
﹁わたくしにはいいとしても、アミュさんたちにはきちんとしなけ
ればなりませんよ。このような機会はなかなかないのですから﹂
﹁⋮⋮⋮⋮﹂
三人も、今日はパーティーに合わせて着飾っていた。
フィオナに比べれば大人しいドレスだが、どれも丁寧な仕立てで、
それぞれ髪や瞳の色に合わせて選ばれている。
髪型も整え、軽く化粧もしているようで、皆どこぞの貴族の令嬢
のようだ。

1888
準備にずいぶんと時間がかかっていただけある。
三人はぼくと、にこにこ顔のフィオナの視線に気づくと、何やら
急に楽しげにし始めた。
﹁なによ、セイカ。なんか言うことあるわけ?﹂
﹁えー⋮⋮なにかな﹂
﹁期待してる﹂
ばつの悪さが頂点に達し、思わず渋い表情になる。
ただ⋮⋮これはちょっともう逃げられない。
﹁その⋮⋮三人とも、綺麗だな﹂
目を逸らし気味にかろうじてそう言うと、三人はからかい半分、
浮かれ半分みたいな歓声を上げた。
上機嫌のフィオナも混ざり、そのまま装飾品とか美容の話題で盛
り上がり始める。
ぼくはその様子を眺めながら、重い息を吐いた。
﹁勘弁してくれよ⋮⋮﹂
﹁セイカさま⋮⋮ユキは恥ずかしゅうございます﹂
腹が立って耳元のあたりを払おうとすると、髪の中のユキがさっ
と頭の上の方へ逃げていく感触がした。
どっと疲れを覚えながら、あらためて会場を眺める。
誰一人として顔を知らないが、皆名門貴族か、議員の一族なのだ
ろう。

1889
前世でたとえるなら殿上人だろうか。どうにも、こういう場は慣
れない。
﹁フィオナ﹂
その時、やや掠れ気味の声が近くで響いた。
反射的に顔を向けると、一人の青年がフィオナに声をかけていた。
﹁今日はいないのかと思ったよ。そんなに綺麗にしているのに、君
は隅で咲くのが好きだね﹂
穏やかな笑みとともに、青年が言う。
線の細い男だった。優男の多いこの会場にて、輪を掛けて覇気が
なく、弱々しいとすら思える。
実際、病弱なのだろう。不健康に見えるほどに色の薄い金髪に、
白い肌。若いにもかかわらず右手で杖を突いている。やや似合わな
い闇色の色眼鏡は、おそらく強い光を遮るためのものだ。
アミュたちと談笑を続けていたフィオナは、一瞬だけ眉をひそめ
ると、青年に向き直った。
そして、明らかに作った笑みとともに口を開く。
﹁あら、ごきげんよう︱︱︱︱ヒルトゼールお兄様﹂
1890
第九話 最強の陰陽師、パーティーに出る 中
ヒルトゼール。
その名は、さすがにぼくも聞き覚えがあった。
ヒルトゼール・ウルド・エールグライフ︱︱︱︱この国の第一皇
子だ。
アミュたちも気づいたようで硬直している。
ぼくたちが静まり返る中、フィオナは無機質な微笑みとともに言
葉を続ける。
﹁お体は大丈夫ですか? あまり無理はなさらないでください﹂
﹁嬉しいことに、今日は調子がいいんだ。このパーティーにはぜひ

1891
出席したかったからね﹂
そう言って、ヒルトゼールが微笑む。
第一皇子は、聡明ではあるが体が弱い。そんな噂を聞いたことが
あったが、どうやら事実だったようだ。
ふとフィオナが、ヒルトゼールのそばに立つ女性に目を向ける。
﹁おや、珍しい。今日はエリーシアもいるのですね﹂
女性は答えず、わずかに目礼しただけだった。
ヒルトゼールよりも、さらに若い女性だった。ぼくらの二つか三
つ上くらいに思える。にこりともせず硬い表情を浮かべていたが、
顔立ちは相当に整っていた。皇子とは対照的な、艶のある金髪が目
を引く。
ヒルトゼールが言う。
﹁マディアス公爵家の令嬢として、たまには顔を出さないかと誘っ
たんだ。婚約者に振られてばかりでは、僕も立場がないからね﹂
﹁そうですか。でも、無理はなさらず。エリーシアもなにかと忙し
いでしょうから﹂
フィオナが笑いかけると、女性は居心地悪そうに小さくうなずい
た。
どうやら、第一皇子の婚約者らしい。上級貴族の令嬢としては珍
しいが、社交の場が苦手そうにも見える。
皇子は、そんな婚約者をよそにフィオナへ笑いかける。

1892
﹁エリーシアに無理はさせないよ、僕はね。彼女はこれくらい静か
にしている方がかわいらしい。⋮⋮それより﹂
ヒルトゼールがなんの前触れもなく、アミュへと顔を向けた。
﹁この会の隠れた主賓を独り占めするものではないよ、フィオナ。
君の友人を僕にも紹介してくれないか﹂
アミュを見つめたまま、ヒルトゼールは言う。
その時になってようやく、この皇子の目的が勇者だったのだと気
づいた。
病弱そうに見えて、意外と胆力のある男だ。
オーガ
誰もがぼくらから距離を置く中、聖騎士の鬼人を恐れずこうして
近づいてきた。今も身構える様子などなく、自然体に見える。
アミュが迷うように、フィオナに視線を向けた。
フィオナはいかにも心外そうな表情を浮かべて、異母兄へと言う。
﹁独り占めだなんて。わたくしはただ、勇気ある者を待っていただ
けですのに﹂
﹁ならば僕は資格を得たようだ﹂
紹介を待つことなく、ヒルトゼールがアミュに左手を差し出す。
﹁はじめまして、勇者アミュ君。僕はヒルトゼール・ウルド・エー
なり
ルグライフ。こんな形でも、実は皇子なんだ﹂
﹁えと⋮⋮知って、ます。アミュです。お会いできて、光栄です⋮
⋮﹂

1893
ぎこちない挨拶とともに、アミュが左手を握り返した。
自嘲気味に、ヒルトゼールは言う。
﹁左手で失礼したね。体が弱いせいで杖を手放せないんだ。でも驚
いたよ。伝説の勇者がまさか、こんなに可憐な少女だったとは﹂
皇子が笑いかける。
ヒルトゼールは、父親である皇帝には似ず端麗な容姿をしていた。

血が入っているわけはないだろうが、弱々しさも相まってどこか森
ルフ
人めいてすらある。
アミュは、そんな皇子を前にして完全に硬くなっているようだっ
た。
ヒルトゼールが、やや表情を暗くして言う。
﹁反乱軍の対処を任されたと聞いたけれど﹂
﹁は、はい⋮⋮そうです﹂
﹁人間同士のいさかいに勇者を持ちだそうだなんて、陛下も何を考
えているのか⋮⋮。僕は、これが正しいとはどうしても思えない。
君も本当は不安なんじゃないか? 勇者の力があったとしても、た
った一人で数万の反乱軍に挑むのは恐ろしいだろう。今からでも断
れるよう、僕から陛下に進言してもいい﹂
﹁い⋮⋮いいえ﹂
けお
ヒルトゼールの勢いにやや気圧されながらも、アミュは首を横に
振った。
﹁あたしも⋮⋮帝国の力に、なりたいので。それに⋮⋮仲間も、い
ます﹂

1894
﹁仲間﹂
その言葉を予期していたかのように、ヒルトゼールが繰り返す。
﹁そういえば、勇者には頼りになる仲間がいるのだと聞いた。なん
でもとある魔術師は、ラカナで起こった史上最大規模のスタンピー
ドを、瞬く間に鎮圧してしまったのだとか﹂
ヒルトゼールの顔が、その時ふとこちらを向いた。
色眼鏡の奥に隠れた目で、ぼくをまっすぐに見つめながら、その
薄い唇を開く。
﹁ひょっとすると君が︱︱︱︱セイカ・ランプローグ君かな?﹂
第十話 最強の陰陽師、パーティーに出る 後
しばしの間、沈黙が流れた。
ヒルトゼールの口元に浮かぶ穏やかな微笑からは、何も読み取れ
ない。どこまで知っているのか。どんな意図で、アミュやぼくに接
触してきているのか。
ぼくはわずかに目を伏せると、静かに答える。
﹁ええ、いかにも﹂
そして、同じような微笑を浮かべて言う。

1895
﹁ぼくがセイカ・ランプローグです。はじめまして、ヒルトゼール
殿下。まさか皇室の俊英と名高い殿下に名前を知られていたとは。
恐れ多くも光栄に存じます﹂
﹁知っているさ。なんと言っても、一つの街を救った英雄の名だ。
ランプローグ伯爵家は魔法学の大家であったはずだけど、まさかこ
んな神童が生まれていたとはね。どんな魔法を使ったのか、僕に教
えてくれないか?﹂
﹁恥ずかしながら﹂
ぼくは小さく首を横に振る。
﹁噂とは尾ひれが付くもの。多少扇動めいたことをしたせいで名が
広まってしまいましたが、ぼくはあの日、あの場所で戦った多くの
戦士の一人に過ぎません。使った魔法も、残念ながら凡庸なものば
かりでした﹂
﹁なんだ、そうだったのか﹂
やや拍子抜けしたように、ヒルトゼールが言う。
﹁思えば、たしかに聞いた話には荒唐無稽なものも混じっていたな。
なんでもドラゴンに匹敵する巨大なモンスターを、ただの一撃で葬
り去ったとか﹂
﹁むず痒い噂にはぼくも困っているところです。そもそもあの規模
の災害を、一人の人間に鎮めることなどできるわけがありません。
あの場に英雄がいたとすれば⋮⋮それはぼくなどではなく、仲間の
ために命を散らした者たちでしょう﹂
﹁もっともだ。本人に言われる前に気づくべきだったな﹂
苦笑交じりに、皇子が左手で頬を掻く。

1896
なんとかうまく切り抜けられた⋮⋮と、ぼくは内心で冷や汗を流
しながら思う。
うっかり本名で冒険者になってしまった影響が、まさかこんなと
ころに現れるとは思わなかった。よりにもよって皇族にまで知られ
ているとは⋮⋮自分の間抜けさが嫌になってくる。
とはいえ、思い切りよく常識外れなことをやってしまったせいで、
逆に信憑性が下がったみたいだ。世の中何が功を奏すかわからない。
皇子が自嘲するように言う。
﹁僕としたことが、流言を真に受けてしまっていたようだ。もし勇
者を超える英雄ならばと、つい期待してしまったせいか﹂
﹁⋮⋮はは﹂
肯定も否定もせず、ぼくは微かに引きつった顔で愛想笑いを返し
た。
もし勇者を超える英雄ならば⋮⋮どうするつもりだったのだろう。
あまりぼくにとって好ましいことにはならなそうだ。
﹁セイカ君も、反乱の鎮圧へ?﹂
﹁ええ。アミュと共に﹂
﹁そうか。ならば⋮⋮気をつけてくれ﹂
ヒルトゼールが、含みのある微笑とともに続ける。
﹁あの反乱は、少し妙な⋮⋮﹂
と、皇子が言いかけたその時。

1897
ガラス杯の割れる甲高い音が、会場に響き渡った。
一部で悲鳴が上がり、ぼくらはそろってそちらに顔を向ける。
﹁貴様のせいでこうなったのだろう!!﹂
﹁何を勝手なっ! 元はと言えば兄上が⋮⋮っ!﹂
何やら、二人の若い男が揉めているようだった。
短髪で大柄な一人が、背の低いもう一人の胸ぐらを掴んでいる。
どちらも相当に怒り狂っている様子だ。
﹁⋮⋮背の高い方が第二皇子のディルラインお兄様、髪の長い方が
第三皇子のジェイルードお兄様です﹂
フィオナが耳打ちしてきた。
ぼくは眉をひそめる。第二皇子に第三皇子とは、大物だ。その二
人が、社交の場でなぜあんな見苦しい言い争いをしているのだろう。
誰も止められないのか、周囲の者たちは恐る恐るといった様子で
遠巻きに眺めるばかりだ。
特に第二皇子は体格がいいので、無理に割って入れば怪我をしそ
うでもある。
衛兵を待ちたいところだが⋮⋮。
﹁やめないか﹂
制止の声が響く。
二人に毅然と言い放ったのは、ヒルトゼールだった。
杖を突きながら、二人に歩み寄っていく。

1898
﹁このような場で何をしているんだ。見ろ、皆も驚いているじゃな
いか﹂
第二皇子ディルラインは、弟の胸ぐらを離すとヒルトゼールに向
き直った。
兄よりもずっと長身なためか、見下ろすような格好になっている。
﹁兄上⋮⋮いったい何を考えている。自分が何をしているか、わか
っているのか!?﹂
ディルラインがヒルトゼールに詰め寄る。
その様子を見て、ぼくは微かに違和感を覚えた。
病弱な兄と比べ、肉体的にははるかに頑強そうな第二皇子だが⋮
⋮その目には怒りに混じって、畏怖のような感情があるように見え
た。
﹁兄として、弟たちの喧嘩を止めている。それ以外に何がある﹂
ヒルトゼールは、体格で勝る弟を見上げ、はっきりと言い放った。
それから、やや呆れたような表情で続ける。
﹁事情は知らないが、一度頭を冷やした方がいい。二人共だ﹂
﹁⋮⋮っ! 覚えていろ⋮⋮!﹂
聞いたディルラインは目を剥くと、踵を返して大股で去って行っ
た。
ヒルトゼールは、第三皇子の方にゆっくりと歩み寄る。
﹁ジェイルード、怪我はないか﹂
﹁寄るなっ、この異常者が! クソっ⋮⋮!﹂

1899
ジェイルードはヒルトゼールに罵声を浴びせると、乱れた長髪を
乱暴に手ぐしで直し、足早に去って行った。
ヒルトゼールが伸ばしかけた左手を下ろし、所在なさげに立ち尽
くす。
﹁⋮⋮大丈夫ですか、殿下﹂
見世物のような光景を少し哀れに思い、つい声をかける。
振り返ったヒルトゼールの顔には、あの穏やかな笑みが戻ってい
た。
﹁ああ。しかし、少し疲れたかな⋮⋮。悪いが、座れる場所まで案
内してくれないか﹂
﹁ええ、こちらへ﹂
ぼくはうなずき、会場の隅までヒルトゼールを連れていく。
並んでいた椅子の一つを引くと、皇子は杖を置いてそこに腰掛け
た。
そして、苦笑しながら言う。
﹁客人に、見苦しいものを見せてしまったね﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁僕たちは決して兄弟仲がいいとは言えないんだが、あんなのは初
めてで驚いてしまったよ﹂
ぼくはなんと返したものかわからなかった。
少し置いて、ヒルトゼールは言う。

1900
﹁帝位の継承者は、どのように決まるか知っているかな﹂
﹁皇帝が子の中から一人を指名し、それを議会と民衆が承認する⋮
⋮でしたか﹂
﹁その通り﹂
うなずいて、ヒルトゼールは続ける。
﹁指名には、貴族ほど厳密な規則はない。次男や長女を選んでもか
まわないし、在野から優秀な人物を見出し、養子に迎えても問題な
い。帝国の歴史上、そういったことは何度も行われてきた。ただ⋮
⋮それでも明確な能力差がない限りは、長男が優先される慣習があ
る﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁今のところ、陛下が誰かを養子に迎える様子もない。このままい
けば、いずれは僕が帝位を継ぐことになる。けれど⋮⋮困ったこと
に、この有様でね﹂
そう言うと、ヒルトゼールは色眼鏡をわずかにずらし、すぐに眩
しそうにして元に戻した。
﹁生まれつき、体が弱かった。明るい場所ではまともに物を見られ
ず、この眼鏡が手放せない。見ての通り、足も悪い。ふとしたこと
で体調も崩しがちだ﹂
﹁⋮⋮﹂
おこた
﹁それでも幼い頃から、皇帝となるための学びを怠ったことはなか
まつりごと
った。今この瞬間からでも、帝国の頂点に立ち、政を取り仕切る覚
悟は持っているつもりだ。しかし⋮⋮僕では務まらないと見なす者
は、やはり多い﹂
﹁⋮⋮。ぼくには想像もつきませんが、過酷な地位であると聞きま
した﹂

1901
﹁ああ。陛下を見ていると、なんだか簡単そうに思えてくるけどね﹂
そう言って、ヒルトゼールが苦笑する。
﹁実際には、常人に務まる地位ではない。ましてや、病弱な者にな
ど⋮⋮。そう考える者たちのせいで、宮廷に混乱が生まれている﹂
﹁⋮⋮殿下ではなく、第二皇子や第三皇子を次期皇帝にと目論む派
閥がある、ということですか﹂
﹁ああ﹂
ヒルトゼールがうなずく。
前世でも何度か聞いた話だった。第二、第三候補を擁立し、その
臣下として利益に与ろうとするのは、現状の権勢が弱い者などが使
うありふれた手だ。
ヒルトゼールが憂いの籠もった声音で続ける。
﹁体が成長しても一向によくならない僕を見て、別派閥に鞍替えす
る者も出始めている。弟たちもいつの間にか本気になり、僕らの仲
は悪くなる一方だ。兄弟喧嘩は、いつしか政争に変わってしまった。
今回の反乱も⋮⋮あるいは、そうかもしれない﹂
ぼくは眉をひそめ、訊ねる。
﹁今回の反乱が、政争と何か関係あるのですか?﹂
﹁それぞれ最初の反乱は、弟たちが裏で糸を引いていた可能性があ
る﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
驚きに言葉を詰まらせるぼくに、ヒルトゼールは説明する。

1902
﹁奴隷の反乱が起こった地はディルラインの、信徒の反乱が起こっ
た地はジェイルードの筆頭支持者の領地だ。互いの支持基盤に損害
を与えるため、互いに工作員を忍び込ませ、不満を持つ層を煽った
⋮⋮そんな噂が立っている。あくまで噂だが﹂
﹁⋮⋮帝位のために、そこまでしますか﹂
﹁そのくらいしていてもおかしくない。歴史を見ても、ね﹂
ヒルトゼールの返答には、同意できるところがあった。歴史を振
り返れば、確かにその程度の工作はありうるだろう。
しかしそうだとすると、ぼくたちは政争の後始末を押しつけられ
たことになる。
アミュの我が儘を聞き、引き受けたのは間違いだったか⋮⋮そう
後悔し始めたとき、ふと疑問が浮かんだ。
﹁ん? となると、今二つの反乱が合流し、一つになっているのは
⋮⋮﹂
﹁それはわからない﹂
ヒルトゼールは表情を消し、首を横に振った。
﹁噂が本当だとしても、今の状態が弟たちの意思によるものではな
いだろう。案外、反乱に参加していた者たちが意気投合してしまっ
たのかもしれないな﹂
くだらない冗談でも言ったかのように、ヒルトゼールが肩をすく
める。
﹁戦姫なる者の噂もあることだし、誰が何を企んでいるのやら﹂
﹁⋮⋮戦姫?﹂

1903
﹁おや、聞いていなかったのか﹂
はんすう
初めて聞いた単語を反芻すると、ヒルトゼールが意外そうな顔を
した。
﹁反乱軍が侵攻しようとする街に、先んじて一人の女騎士が現れ、
住民たちに対して街を明け渡すよう要求したそうなんだ。その者を、
逃げた住民たちが戦姫などと呼び始め、それが宮廷にまで伝わって
きた﹂
﹁女騎士⋮⋮ですか。それは、反乱軍の使者のような?﹂
﹁使者で済んだならよかったのだけどね﹂
ヒルトゼールが続ける。
﹁初め、街の者たちは女騎士の要求を拒んだらしい。自警団の者た
ちが、そのまま彼女を拘束しようとしたんだが⋮⋮まったく歯が立
たなかったそうなんだ﹂
﹁⋮⋮はあ﹂
﹁街の防衛を担うはずだった騎士団や、雇い入れた傭兵団ですら相
手にならず、全員叩き潰されてしまった。しかも大怪我をした者や
死んだ者は一人もいなかったらしい。手を抜かれていた、というこ
となのだろうね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁反乱軍の本隊が来る前、たった一人相手にその有様では、さすが
に街を守るのは無理だと諦めたのだろう。住民たちは逃げ出すこと
に決めたそうだ。同じことが、もう一つ別の街でも起こった。この
異様に強い女騎士の正体は明らかでないが、この戦姫こそが反乱軍
の指導者なのだと、そう主張する議員もいる﹂
﹁⋮⋮そうですか﹂

1904
なんとも判断しがたい話だった。
確かに超人的な強さは大衆を惹きつけ、心酔させることがある。
戦姫とやらが反乱軍を一つにまとめ、指導者の座に着いた可能性は
なくはない。
だが⋮⋮奴隷と信徒の反乱に、果たしてそのような者が参加する
だろうか?
考えあぐねていると、ヒルトゼールがふと笑って言う。
﹁すまないね。これから鎮圧に向かおうとする者に、気を削ぐよう
な話ばかりしてしまって﹂
﹁いえ⋮⋮﹂
﹁家を出ているということは、君には兄が?﹂
﹁ええ。家を継ぐ長兄と、軍に入った次兄が﹂
﹁そうか。うまくやれているのかな﹂
﹁どう、でしょうね﹂
ぼくは苦笑して答える。
﹁ぼくと次兄は、正直あまり。ただ長兄が人格者なので、それなり
にうまくはやれているかと﹂
﹁長子が立派な人物なら、ランプローグ伯爵家も安泰だ﹂
﹁ええ。次期当主にも、幸い長兄が一番向いてました。ぼくとは仲
が悪かった次兄も、これに関しては同意見だと思います﹂
﹁なるほど。うらやましいな⋮⋮君の兄が。僕も次代を担う者とし
ての適性と、謙虚な弟たちを持てていたらと思うよ﹂
そう言うと、ヒルトゼールは傍らに置いていた杖を引き寄せる。
﹁そろそろ戻るとしよう。フィオナに独り占めなどと言ってしまっ

1905
た手前、ずっと君を引き留めているのは気が引けるからね﹂
﹁勇者ならまだしもその仲間の一人になど、殿下以外に気に留める
者はいないでしょう⋮⋮。肩を貸します﹂
﹁いや、平気だ。立つくらいは一人でもできる﹂
そう言って、ヒルトゼールが杖を立てる。
その時ふと、皇子から小さな力の流れを感じた。
﹁殿下⋮⋮﹂
﹁ん?﹂
﹁いえ⋮⋮ひょっとして何か、魔道具を身につけられていますか?﹂
聞いたヒルトゼールが、わずかに目を見開いた。
一瞬の沈黙の後、口を開く。
﹁わかるのか?﹂
﹁いや⋮⋮なんとなく、そうなのではないかと﹂
﹁⋮⋮驚いたな。ああ、そうだ。といっても、玩具のようなものだ
が﹂
そう言って、ヒルトゼールが服の内側から首飾りの細い鎖を引っ
張り出す。
それはどうやら、虫を精巧に模したペンダントのようだった。
さやばね ほたる
長い鞘翅を持つ小さな甲虫⋮⋮蛍、だろうか?
皇子が虫に視線を向けて言う。
﹁魔力を込めると、この飾りが光るんだ﹂
﹁へえ⋮⋮﹂

1906
注意深く見てみるも、力の流れが弱すぎてよくわからない。ただ、
この程度の魔道具ならせいぜいあってもそんな機能くらいに思えた。
皇子が苦笑しつつ言う。
﹁暗い場所で便利かと思い買い求めたが、結局光らせてみたのは最
初だけだった。灯りに使うには暗いうえに、少しでも魔力を使うと
すぐ気分が悪くなってしまう。まったく、自分の身体ながら嫌にな
るよ﹂
ペンダントを戻しながら、ヒルトゼールが立ち上がる。
その動作は意外にも滑らかで、不便な身体と長年付き合ってきた
慣れのようなものが感じられた。
﹁殿下﹂
続くように立ち上がると、小さな笑みとともに告げる。
﹁ぼくは応援していますよ。ランプローグ家としてではなく、ぼく
個人としてで申し訳ないですが﹂
自然と、そんなことを言ってしまっていた。
なんとなく重ねてしまったのだ。
夏に魔族領で出会った、若き王たちの姿と。
皇子は一瞬意外そうな顔をした後、微笑んで言う。
﹁ありがとう、十分嬉しいよ。他人のせいのように語ってしまった
かもしれないが、宮廷の混乱はすべて僕自身の不甲斐なさが原因だ。
だからこそ、僕自身が頑張ることで解決できる。そう信じているよ。
それではね﹂

1907
ヒルトゼールは踵を返すと、会場の人混みの中へ戻っていった。
ぼくはなんとなく、その場に留まりパーティーの様子を眺めてい
もと
たが⋮⋮しばらくすると、ぼくの下にフィオナがやってきた。
﹁⋮⋮セイカ様﹂
﹁ああ、すまない。少し話し込んでいて﹂
﹁⋮⋮今日はわたくしと一緒にいてくださいと言いましたのに﹂
咎めるように、フィオナが言う。
﹁それで、ヒルトゼールお兄様とはなにを?﹂
﹁まあ⋮⋮世間話かな。宮廷の事情や、反乱のことなどを軽く聞い
た。大した内容ではなかったけど﹂
一応の真偽確認も兼ねて、フィオナに皇子と話した内容を簡単に
説明する。
聞いたフィオナは、やや難しい顔をして言った。
﹁間違いではありませんが⋮⋮不十分ですね。まず、派閥は第一、
第二、第三皇子派とは別に、もう二つあります。そちらの方がお兄
様は面倒に感じているでしょう﹂
﹁皇子は三人だけだが、他にどんな派閥があるんだ?﹂
﹁お忘れですか? 一つに、わたくしです﹂
﹁あ⋮⋮そういえば﹂
﹁力を付けてきたのはここ数年のまだ新しい派閥ですので、それは
それは目障りでしょうね。弟たちだけに止まらず、愛人の生んだ妹
までが皇位争いに加わるのか⋮⋮と﹂
﹁その割に、君については一言も言及していなかったな﹂
﹁わたくしの庇護下にあるセイカ様の前で、わたくしの悪口は言わ

1908
ないでしょう。もっとも、そもそも相手にされていないのかもしれ
ません。帝国の長い歴史の中で、女帝はほんの数例しかありません
から﹂
﹁それで、もう一つの派閥は?﹂
﹁現皇帝派です﹂
﹁⋮⋮んん?﹂
ぼくは首をかしげる。
﹁どの後継者につくかの派閥なのに、現皇帝派というのはおかしく
ないか?﹂
﹁現皇帝派とは、陛下が今後、在野の賢人を養子に迎えると見込ん
でいる派閥です。皇子たちと皇帝が対立した場合には、皇帝の利益
になる行動を取ります﹂
﹁ああ、なるほど。しかしなんだか博打のような派閥だな﹂
﹁それでも、二番目の規模の大派閥です。第一皇子派から鞍替えす
る者も多く、去年はテネンドなどを領地に抱えるダラマト侯爵が皇
帝派の行動を取って、宮廷で噂になっていました。それまではヒル
トゼールお兄様をよく支援していたのですが﹂
ダラマト侯爵や峡谷の街テネンドは、ぼくでも名前くらいは知っ
ていた。
ヒルトゼール派は、大物が離反し始めている状態らしい。
﹁それだけ、今の皇子たちに帝位を任せることに皆が不安を覚えて
いるのでしょう。もっとも、そのおかげでわたくしにも付け入る隙
ができているのですが﹂
﹁そういえば君は、本気で皇帝の座を狙っているのか?﹂
﹁うふふ、聞きたいですか?﹂
﹁⋮⋮いや、いい﹂

1909
聞いてもろくなことがない気がした。
代わりに、別の問いを発する。
﹁反勇者の派閥というのは、どこに属しているんだ?﹂
﹁第二、第三皇子派の中でも、特に急進的な者たちです。グレヴィ
ル侯爵の失態以降は批判の声が強くなり、同派閥内でも肩身は狭い
と聞きます﹂
﹁ああ⋮⋮。まあ、自滅してくれたなら助かるな﹂
﹁やや先鋭化してしまったので厄介ですが、今回皇帝が直々にアミ
ュさんを招聘した以上、消滅は時間の問題でしょうね﹂
皇帝の依頼を受け、反乱を鎮圧したならば、さらに容認の声は強
くなるだろう。
そう考えると、政争も後始末も悪いことばかりではない⋮⋮かも
しれない。
政争といえばと、フィオナに問いかける。
﹁反乱についてはどうだ? 発端が第二皇子と第三皇子の工作だと
いう噂、君は聞いていたか?﹂
﹁⋮⋮ええ﹂
フィオナが難しい顔でうなずく。
﹁それも、おそらくは事実です﹂
﹁なぜぼくらに黙っていたんだ?﹂
やや咎めるように言うと、フィオナが目を鋭くして言い返してく
る。

1910
﹁言ったところであの場の判断が変わりましたか? そもそも、わ
たくしは関わることに初めから反対でした。政争に巻き込まれかね
ないとも、はっきり告げたはずですが﹂
﹁⋮⋮それもそうだったな﹂
説得に使えそうだと思ったのなら、あの場でフィオナが口にした
だろう。
伝えてもどうせ流されるだけの情報を、なぜ伝えなかったと責め
られる謂われは確かにない。
不満げな顔のまま、フィオナは続ける。
﹁それに⋮⋮発端こそお兄様たちでしたが、状況はすでに様変わり
しています﹂
﹁⋮⋮戦姫、なんてのもいるんだって?﹂
﹁⋮⋮。そんな噂もありますね﹂
今度はフィオナは、やや後ろめたそうな素振りをする。
﹁言っておきますが、こちらを黙っていた理由は先ほどと逆、信憑
性が低いと判断していたためです。死んだ仲間に助けられたり、神
の姿を見たりと、戦場では奇妙な噂が流れるものですから﹂
﹁わかってる。別に責める気はないよ﹂
ぼくだって聞いて反応に困った噂だ。フィオナも伝えにくかった
だろう。
小さく息を吐き、ぼくは言う。

1911
﹁どうやら、嘘をつかれたりはしていなかったようだな。まあそん
な印象も特になかったけど﹂
﹁セイカ様﹂
フィオナは、硬い表情でぼくに問いかける。
﹁ヒルトゼールお兄様のこと⋮⋮どう思われましたか?﹂
﹁⋮⋮? どうって⋮⋮﹂
ぼくは、少し考えて答える。
﹁まあ、君には悪いが、帝位を継ぐべき皇子だと思ったよ。真面目
で頭がよく、皇族としての自覚と覚悟がある。為政者らしい底知れ
なさも感じられたが、それも君主には必要な資質だろう﹂
難点と言えるのは、病弱であることくらいだ。
仮にヒルトゼールが健康な身体で生まれていたら、彼が帝位を継
ぐことに異議を唱える者はいなかっただろう。
おおむね妥当な意見⋮⋮と思ったのだが、フィオナは表情を険し
くした。
﹁あまり⋮⋮あれを信用なさりませんよう﹂
﹁⋮⋮? それはどういう⋮⋮﹂
ぼくが疑問を挟む余地なく、フィオナが続けて言った。
﹁ヒルトゼールお兄様も、わたくしと同じ︱︱︱︱政治家なのです
から﹂

1912
第十一話 最強の陰陽師、帝都を発つ
その後、ぼくたちは予定通りに帝都を出立した。
反乱が起こっている地までは、馬車でも数日かかる。そのため、
途中にある街で何度か宿をとることになっていた。
今夜滞在する、峡谷の街テネンドもその一つだ。
﹁わぁ⋮⋮﹂
馬車の窓からその威容を目にした、アミュたちが歓声を上げる。
テネンドは、断崖絶壁の上に立つ都市だった。
高い台地の上に築かれており、見上げる高さにある。ここからで

1913
は見えないが、背後は足場の悪い森になっており、とても立ち入れ
ないという。東西はなだらかで登りやすそうだが、街を挟むように
深い峡谷が走っていた。
アミュが呆れたように言う。
﹁あんなところによく街なんて作ったわね﹂
﹁元は、蛮族から逃げた人々が築いた集落だったらしい。時代が進
むにつれて人が集まり、今では帝国有数の大都市だ﹂
﹁あそこまでどうやって行くわけ?﹂
﹁谷に橋が架かっているだろ﹂
ぼくの言葉に、アミュたちが窓へと身を乗り出す。
東西に走る峡谷それぞれには、同じ形の長大な橋が架かっていた。
﹁三百年ほど前に、力のある魔術師が築いたという話だ。ここまで
大きな都市になったのも、あの二つの橋のおかげだろうな﹂
アミュたちが感心したような声を上げる。
﹁へー。まあそうでもなければあんなところに誰も集まらないわよ
ね﹂
﹁ちゃんと両側にあるから便利そうだね。あそこまで登るのが、ち
ょっと大変そうだけど﹂
﹁でも、なんか不安﹂
珍しく、メイベルが弱気なことを口走る。
﹁そんなに昔の橋、通ったことない﹂

1914
﹁⋮⋮言われてみればそうだな﹂
魔法で作った橋は、傷んだ箇所の補修とかうまくできるんだろう
か?
と、その時。
﹁おろかな人間﹂
馬車の中に、声が響いた。
エルフ
その声は、ぼくの正面に座る森人の少年が発していた。
エルフ
﹁たかだか三百年を、まるで大昔のように語るとは。ボクら森人に
してみれば、その程度年経た建造物など珍しくもないというのに﹂
馬車内の空気を読む素振りすらなく、少年が澄ました笑みのまま
言い切った。
長い耳に輝くような金髪。種族が種族だけあり、性別を見紛うほ
どの美貌だが、正直憎たらしさしか感じない。
聖騎士第六席、ヨルギエ・ノルン・ゾット・ソラリオス・ティズ
ィート・レン。
初めて会ったとき、少年はそんな風に名乗った。
エルフ エルフ ダークエルフ
森人にしてはやけに長い名だと思ったが、どうやら森人や黒森人
は本来このような名で、普段は使っていないだけらしい。
使うのは誕生と婚姻と葬儀の時くらい⋮⋮と、聞きもしないこと
をずいぶんと偉そうに語ってきたあたりから嫌な予感はしていたが、
案の定旅の共としては最悪の部類だった。
馬車内の空気が悪くなる中、思わず溜息をついて言う。

1915
﹁⋮⋮フィオナが性格の悪い聖騎士しか残っていないと言っていた
が、まさかこれほどとは思わなかった。今からでも護衛を交換でき
ないものか﹂
﹁おろかなうえに、品性の下劣な人間。姫様がボクを悪く言ってい
たと言えば、自分に怒りの矛先が向くことなくボクを責められると
考えましたね? 人間は本当に悪知恵ばかり回る。その手には乗り
ませんよ﹂
﹁いや、普通に事実だけどな﹂
﹁姫様ならば、性格に難がある、と言うはずです﹂
﹁ちょっとは自覚してるんじゃないか。というか、事前にフィオナ
からぼくらと同行するにあたって何か言われなかったのか?﹂
﹁くれぐれも無礼な言動は控えるよう仰せつかりました。ボクはそ
れを努力義務と解しました。ボクは今も努力しています﹂
エルフ
澄ました笑みで、森人の聖騎士が言い切った。
呆れて言葉を失っていると、アミュがいらついた声を上げる。
﹁こいつほんっと腹立つわね。今まで生きてきてここまで生意気な
ガキ見たことないんだけど﹂
エルフ
﹁おろかな人間。ボクは子供ではありませんよ。森人は人間よりも
はるかに長い年月を生きるのです。まさかそんなことすら知らない
とは﹂
エルフ
﹁なに言ってんのよ。あたし知ってるんだからね。森人も十五歳く
らいまでは人間と同じように成長するんでしょ。つまり、チビのあ
んたはガキってことじゃない﹂
聖騎士レンは答えずに、窓を開けて馬車の外を見た。そして、風
が気持ちいいな、などと呟いている。
さすがのアミュも言葉が出てこないようだった。

1916
第十二話 最強の陰陽師、会敵する
それから数日後、ぼくらは反乱が起こっているという地にたどり
着いた。
今、ぼくはとある街の手前で、目の前に広がる平野を見つめてい
る。
城壁とも呼べないような低い市壁しか持たない、特筆するところ
のない街。
なぜこんな場所にいるかと言えば⋮⋮ここに、反乱軍の一つが向
かっているからだった。
﹁数は三千程度だそうです﹂

1917
傍らに立つ聖騎士のレンが、澄ました笑みとともに言った。
ぼくは鼻を鳴らして答える。
﹁まあそんなものか﹂
フィオナの配下にある者たちからもたらされた情報を頼りに、ぼ
くは奴らの部隊の一つを迎え撃つことに決めた。
物資の都合上、反乱軍は他の町や村へ侵攻し続けないとその軍勢
を維持できない。
そこで、侵攻用に分割された部隊を順次狙っていくという、やり
やすそうな方法をとることにしたのだ。
それも、撃退などではなく無力化して拘束する。全員をだ。
力を抑えつつ、帝国軍到着までだらだら時間稼ぎしてもいいのだ
が、肝心の派遣がいつになるかわからない。
それを待つくらいなら、最速で解決してしまう方がいい。どうせ
力を振るうなら常識外れなくらいの方が、かえって噂の信憑性も低
くなる。そういう判断だった。
﹁⋮⋮反乱軍の間で、たちの悪い疫病が流行っていたことにでもし
てもらうか﹂
これからやることを考えれば、名案に思えた。戻ったらフィオナ
に提案してみよう。
そんなことを考えながら、前方を遠く見据える。
すでに、軍勢の姿は視界に入っていた。
まだ遠いが⋮⋮なかなかの数だ。

1918
一騎当千の英雄がどれほど奮戦したところで、あっけなく飲み込
まれてしまいそうな圧力がある。
三千とは、そのような数字だ。
ぼくは空を飛ばす式神の視界も使って、軍勢の様子を観察する。
荒いが、一応の隊列は組まれている。装備は貧弱で、鎧を着てい
る者は一人もいない。進軍速度はだいぶ速かった。あれで体力が持
つのかと心配になるほどだ。
口元に手を当て、考える。
﹁装備は予想通りだが⋮⋮思ったより秩序だっているな﹂
やはり指導者がいるのだろうか。
それだけでなく、反乱軍を複数に分けてあのように運用できると
いうことは、用兵の心得がある部隊長役まで複数いることになる。
ただ、あの後先考えないような進軍速度を考えると、本職ではない
のか⋮⋮。
﹁うーん、壮観です。おろかな人間があんなにたくさん。鳥肌が立
ちそうだ﹂
隣で聖騎士レンが、澄ました笑みで言う。
﹁で、どうするつもりですか? おろかな人間。さすがのボクでも
あの数を相手にするのはごめんなので、いざとなれば逃げさせても
らいますけど﹂
﹁言っただろう﹂
ぼくは鼻で笑って答える。

1919
﹁全員捕まえるんだよ﹂
すでにヒトガタの配置は終えていた。
一応アミュたちには街に入ってもらっているが、わずかにも漏ら
すつもりはない。
異様に速い進軍速度のせいで、すでに反乱軍は前列の兵の顔が識
別できそうなほどに接近していた。
ぼくは片手で印を組む。
警告はしない。反乱軍は投降しても極刑か奴隷落ちだ。誰も降伏
勧告になど応じないだろう。
だから、初手で決める。
ヒトガタを使い、反乱軍を大きく囲むように結界を張る。解呪で
はなく、術の影響を外に出さないためのものだ。
小声で真言を唱える。
﹁︱︱︱︱
きろうえん
︽火土の相︱︱︱︱希臘煙の術︾
軍勢を閉じ込めた結界内部に、濛々とした白煙が満ち始めた。
白煙は瞬く間に反乱軍を包み込み、その姿を覆い隠してしまう。
ぼくはふう、と息を吐いて印を解く。
﹁これで終わりだ。あとは弱った連中を捕まえていくだけだな﹂
反乱軍を飲み込んだ白煙。
それは俗に、 スパルタの煙 と呼ばれる毒気だった。

1920
硫黄を燃やすことで生まれるこの毒気は、吸い込めば目や喉に強
い痛みが生じる。かつてギリシアの都市国家の一つが、城攻めの際
に用いたと言われているものだ。
濃度が高くなれば死んでしまうが、適度に吸わせれば敵の抵抗を
封じ、無力化することができる。
完全に動けなくなるわけではないが、十分だ。
一時的にでも抵抗を止められれば、自由を奪う方法はいくらでも
ある。
ぼくは、結界内に満ちる白煙の濃さに注意を払いつつ呟く。
﹁もうあと少しってところか⋮⋮。あまり長く吸わせ、指揮官役に
死なれでもしたら面倒だ﹂
﹁おろかな人間は、奇妙な魔法を使うものです。あの四角い結界に
満ちているのは煙ですか?﹂
﹁ただの煙ではないけどな﹂
﹁なんともひどいことをします。おろかな人間には人の心がないの
ですか? あれでは戦場の誉れも何もあったものじゃない﹂
﹁ぼくが戦場に立った時点で、そんなものは誰も得られない﹂
﹁ずいぶんな自信で結構。しかし⋮⋮大丈夫なんですか?﹂
レンが、澄ました笑みを崩さずに訊ねてくる。
﹁先ほどから一向に、悲鳴もうめき声も聞こえてきませんが﹂
﹁っ⋮⋮!?﹂
ぼくは、はっとして前に向き直った。
結界と白煙に変化はなく、軍勢は静かなものだ。

1921
きろうえん
だが、静かすぎる。︽希臘煙︾は目や喉を侵す。なんの声も上が
らないのは明らかにおかしい。
疑念がこみ上げる中、ぼくは呟く。
﹁まさか、全員死んだ⋮⋮? いやだが、そんな濃度ではないはず
⋮⋮﹂
少なくとも即死はあり得ない。
ならば、何が起こっているのか。
身構えつつも、結界を解く。まずは状況を見極めなければ。
毒気が風に吹き散らされる、その前に︱︱︱︱軍勢が、白煙の中
から歩み出てきた。
﹁は⋮⋮!?﹂
思わず驚愕の声を上げる。
軍勢にはなんの変化もない。ただ中断していた進軍を再開したと
いった様子だ。
しかしあり得ない。目や喉を侵す毒気に晒され、何事もないなど
⋮⋮。
﹁っ、なんだ⋮⋮?﹂
その時、ぼくは気づいた。
反乱軍の様子がおかしい。
兵たちに生気がなかった。目がうつろで、足取りもどこか覚束な
い。斜め上を見ながら歩いている者もいれば、大怪我でもしている

1922
のか、半身が血で染まっている者までいる。
﹁っ⋮⋮!﹂
式神の視界で見た光景をよく思い返し、ぼくは歯がみした。
まじな
こいつらは、ぼくの呪いでおかしくなったわけではない。
︱︱︱︱最初からこうだった。
﹁あははぁ﹂
気の抜けた哄笑をあげ、レンが前に歩み出た。
そして、腰に提げていた妙に分厚い鞘から、静かに短剣を引き抜
く。
﹁おもしろいですねぇ﹂
それは、鉱石でできた剣だった。
剣身が金属ではなく、何らかの鉱物を切り出したものになってい
る。その鮮やかな色合いからするに、魔石⋮⋮それも、相当に希少
な上級魔石だ。
鉱物は硬く、それだけに割れやすく、剣として使うには向いてい
ない。おそらく、敵の剣を何度も受ければ砕けてしまうような代物
だろう。
レンはそれを振りかぶり︱︱︱︱迫り来る敵に向かって振り抜い
た。
反乱軍とはまだかなり距離がある。短剣の刃が届くはずもない。
だが、届いた。
剣身から放たれた、無数の魔法の刃が。

1923
﹁な⋮⋮﹂
前列の兵たちが、炎で焼かれ、風に斬られ、氷に貫かれ、石礫に
打たれ、倒れていく。
まるで巨大な刃によって斬り払われたかのように、軍勢の一部が
ごっそりと削られていた。
レンが再び、短剣を振りかぶる。
それを見て、ぼくははっとして声を上げる。
﹁っ、やめろ! あいつらは⋮⋮﹂
﹁おろかで無様で、まったく仕方のない人間﹂
大きな動作で、レンが短剣を振るう。
再びあらゆる属性の魔法が放たれ、刃となって剣身の延長上にあ
る反乱軍を削っていく。
﹁さすがに、この事態は想定していなかったようですね﹂
聖騎士の笑みは、いつのまにか意地の悪いものに変わっていた。
﹁反乱軍︱︱︱︱もう全員死んでいますよ﹂
1924
第十二話 最強の陰陽師、会敵する︵後書き︶
※希臘煙の術
亜硫酸ガスを発生させる術。硫黄を燃焼させることによって生まれ
る二酸化硫黄、いわゆる亜硫酸ガスは、曝露した者の目や喉、鼻に
強烈な痛みを発生させ、その濃度や吸入時間によっては死に至らし
めることもある。史実では、古代ギリシアにおいてスパルタ軍がペ
ロポネソス戦争の際に用いており、人類史上最古の化学兵器ともい
われる。本来は無色の気体だが、セイカは効果範囲を判別しやすく
するため、蒸気を混ぜた白煙の形で使用している。

1925
第十三話 最強の陰陽師、また検討する
﹁何⋮⋮?﹂
意味がわからず訊き返すぼくに、聖騎士はどこか得意げに言う。
﹁おろかな人間にもわかりやすく説明してあげましょう。あれらは
どうやら死体のようです。動いているということは当然、何者かに
操られている。つまりあの軍勢は、すべて死霊術士の操る死体︱︱
︱︱死霊兵です﹂
﹁死霊兵⋮⋮? あれらすべてがか﹂
死体に霊魂を入れて操る死霊術は、前世でもありふれた技術だ。

1926
ちょうしそうしじゅつ
宋の道士が使う跳屍送尸術などが有名だが、他にも世界中の様々
な呪術体系にこういった技術が存在している。
帝都の武術大会で戦ったことから、こちらの世界にも死霊術士が
いることは知っていた。
死体なら、毒気が効かなかったことにも説明がつく。
だが⋮⋮。
﹁三千という軍勢すべてを操っているだなんて、そんなことが⋮⋮﹂
﹁あれらに集まっている精霊は、闇属性のものがほとんどです。普
通の人間の群れにこんなことはありえない。典型的な死霊兵ですよ。
それに﹂
短剣を振るう手を止めずに、レンは言う。
﹁三千ではないです。たまたまボクらが迎え撃った分だけが死霊兵
ということもないでしょう。きっと反乱軍のすべて⋮⋮数万の死体
が操られています﹂
﹁⋮⋮﹂
思わず言葉を失う。
だが確かに、そうだとすれば様々な事象に説明がつく。
奴隷と信徒という、まったく異なる暴徒の集団が一つにまとまっ
たことも。
部隊を分けて運用できるほどの、秩序だった指揮系統が存在して
いることも。
しかし⋮⋮だとすれば、これを成したのは相当な技量を持つ術士
だ。

1927
毒気で覆っても術が維持されている以上、術士本人はあの場にい
ない。どこか遠くから操っていることになる。もしかすると、異な
る場所の軍勢も同時に。
死霊術としては、前世でも類を見ないほどの規模だ。
レンが澄ました笑みとともに言う。
﹁どうしますか? おろかな人間。このまま打つ手がないのなら、
ボクは逃げますけど。おろかな人間たちの街は蹂躙されるでしょう
がボクには関係ないことです﹂
エルフ
言いながらも、森人の聖騎士が手を止めることはない。死霊兵の
軍は前列からどんどん削られていく。
だがそれでも、殲滅することはできないのだろう。現に、徐々に
だがぼくらと軍勢との距離は縮まっていた。
ぼくは舌打ちし、新たに一枚の呪符を浮かべる。
﹁打つ手なんていくらでもある﹂
そしてそれを、死体の群れに向けて地を這うような軌道で飛ばし
た。
無力化するだけなら、解呪して死体に還してやればそれで済む。
だがその場合、魔術的な痕跡も一緒に消してしまいかねない。手
がかりが見つかる可能性がある以上、できれば避けたい。
ならば、物理的に壊してやるだけだ。
滑るように飛ぶヒトガタは、反乱軍の前列手前で勢いを落とし、
地面に貼り付いた。

1928
片手で印を組む。
︽金の相︱︱︱︱針山の術︾
軍勢の足元から、無数の棘が突き出した。
鈍色の鋼でできた円錐状の巨大な棘の群れが、死体の集団を貫き、
その歩みを止める。
痛みを感じないためか、どの死体もまだ前進しようとしていたが、
できるわけがなかった。ひとまず、これで侵攻は止められただろう。
一体も漏らさないようかなり広範囲に発動したために、反乱軍の
周囲一帯が針山地獄のようになっていた。
﹁っ⋮⋮﹂
エルフ
さすがに圧倒されたのか、森人の少年は絶句していた。
ぼくは、そんな彼に向けて告げる。
﹁この後、あれを調べる。逃げるなよ、聖騎士﹂
****
﹁帝都に戻ろう﹂
その日の夜。
アミュたちを集めたぼくは、滞在中の宿の一室でそう告げた。
事情は一通り説明したが、かなり衝撃的な内容だったので彼女た
ちが飲み込めているのかは怪しい。

1929
それでも、ぼくは言うべきことを続ける。
﹁前提が変わった。こんな状況で反乱の鎮圧なんて続けられない。
反乱軍自体がまるごと死体に置き換わっているんだ、どうするにし
ても一度帰った方がいい﹂
敵は暴徒の集団ではなく、帝国に害意を持つ強大な魔術師だ。
その事実だけで、とるべき対応は大きく変わる。
﹁明日、準備が出来しだいここを発つ。みんな、それでいいな?﹂
ぼくが念を押すと、アミュが渋るように言う。
﹁でも⋮⋮死体になっていても、他の街を襲おうとしてるんでしょ
? 誰かが止めないと⋮⋮﹂
﹁それはぼくらの役目じゃ﹂
言いかけて、やめる。
今のアミュに正論を言っても仕方がない。
﹁⋮⋮敵は相当に腕利きの死霊術士だ。帝国はそのことを知らない。
ぼくらで死霊兵を止めることはできるが、肝心の術士の居場所はわ
からず叩けない。つまり、ここで戦い続けてもよそで被害が広がる
だけだ。それなら報告に戻り、帝国の諜報部隊に居場所を探っても
らう方がずっといい﹂
﹁報告するだけなら、フィオナに使いを出すだけで済むじゃない。
あたしたちまで帰る必要ないでしょ﹂
﹁⋮⋮アミュ﹂
ぼくは苦い顔になる。

1930
確かにそうではあるのだが⋮⋮いったいどう言えば説得できるの
だろう。
﹁⋮⋮もしぼくらが、自分たちで反乱の噂を聞き、自分たちの意思
だけでここに来たのならそれでもいい。だが今ぼくらがここにいる
のは、皇帝に頼まれたからだ。頼まれ、引き受けた以上、勝手なこ
とはできない。前提が覆るほどの情報を得たのなら、報告して指示
を仰ぐべきだ﹂
ぼくは、なんとなしに付け加える。
﹁皇帝だって、それを望んでいるはずだ﹂
﹁⋮⋮﹂
聞いたアミュは、唇を引き結んで押し黙った。
それから、ぽつりと言う。
﹁⋮⋮わかったわ﹂
ぼくはほっと息を吐いた。
アミュにはわざわざ言わなかったが、戻って何を言われようと、
もうこの件からは手を引くつもりだった。こんな事態は予想してい
なかっただろうが、フィオナやユキの懸念が当たってしまった形に
なる。
アミュをどう説得するかは⋮⋮戻ってから考えることにしよう。
その時。
﹁ボクは反対です﹂

1931
唐突に、レンが声を上げた。
澄ました笑みで言葉を続ける。
﹁戻るなんてとんでもない。姫様に迷惑をかけないでください﹂
﹁⋮⋮はあ?﹂
ぼくは聖騎士を睨んで言う。
﹁言っている意味がわからない。この状況で、なぜぼくらが戻るこ
とがフィオナの不利益になるんだ﹂
﹁前提が覆った、本当にそうお思いですか?﹂
半笑いのレンがぼくに目を向ける。
﹁おろかで、なんともおめでたい人間。ずいぶんとこの国の王を信
頼しているんですね。⋮⋮あれが死霊軍の事実を知らなかったと、
本気でお思いですか?﹂
﹁⋮⋮まさか﹂
ぼくは言葉を詰まらせる。
皇帝は、実はすべてを知っていた。
それは決してあり得ない話ではない⋮⋮むしろ、ぼくらが到着し
てすぐに知ったようなことを、皇帝が把握していないという方が不
自然に思えた。
だが。
﹁⋮⋮全部知ったうえで、ぼくらをここに送り込んだと? なぜそ
んなことを⋮⋮情報を伏せる必要がどこにあった﹂
﹁わかりません。この国の王が考えていることなど、ボクには何も。
ですが今帝都に戻れば、あなたがたはいささか悪い状況に陥ります﹂

1932
﹁だから、どうなるというんだ﹂
﹁皇帝の勅命を受けながら、勇者はそれを放棄して戦場から逃げ帰
った︱︱︱︱皆、そのように捉えることでしょう﹂
レンの言い分に、ぼくは眉をひそめる。
﹁何もかも違うじゃないか。議会を経ていない以上は勅命じゃない。
逃げ帰るわけでもなく、報告に戻るだけだ﹂
まつりごと
﹁それはただの事実です。事実など、政の場においては簡単に覆る﹂
﹁馬鹿馬鹿しい。帝国の司法は皇帝の支配下にない。事実に基づか
なければ刑罰も下せない。失態をでっち上げたところで、何も⋮⋮﹂
何もできない、と言おうとして、ぼくは言葉を止めた。
何もできない⋮⋮本当にそうか?
﹁何もできないわけがない。むしろ何でもできてしまう﹂
レンが笑みを暗くして言う。
﹁罪をそそがせるという名目で、あらゆることを命じられる。勇者
は皇帝の支配下に置かれるでしょう。罪などないという声は、周囲
まつりごと
があげる非難の声にかき消されてしまう。政の場とはそういうもの
です﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁悪ければ、その累は繋がりのある姫様にまでおよびます。だから
戻るなと言っているんです﹂
﹁⋮⋮その理屈で言えば、戻らなくても結末は同じじゃないか﹂
ぼくは声を低くして言い返す。

1933
﹁重要な事実を知りながら、それを隠しいたずらに被害を拡大させ
た。そんな絵図だって描ける﹂
﹁ええ。ですが一つ、決定的に違う点があります﹂
﹁なんだそれは﹂
﹁あなたがたがここにとどまり、死霊軍相手に戦い続ければ︱︱︱
︱人命が救われるということですよ。おろかな人間﹂
レンが笑みとともに続ける。
﹁人命は領主の財産であり、帝国の財産とも言える。それを守った
事実は、ありもしない罪への対抗札となる。あなたがたはそんなも
の持っていたところでどうしようもないでしょうが、姫様ならばう
まく使えるでしょう。領民を救われ恩義を感じる領主、英雄への非
難に引け目を覚える議員。そういった者たちに取り入って、支持を
得られる。それが最終的には、あなたがた自身を助けることにも繋
がります﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁理解できましたか? おろかな人間。勇者はもう、英雄になる以
外ないんですよ﹂
エルフ
半笑いの森人に、ぼくは舌打ちを返す。
思った以上に最悪の状況だった。どこまでがこの聖騎士の言うと
おりになるかはわからないが、戯れ言として聞き流すには筋が通り
すぎている。
レンが続けて言う。
﹁さらに、死霊軍と戦い続けることで、状況を覆す決定的な情報を
掴めるかもしれません﹂
﹁なんだそれは﹂

1934
﹁決まってるでしょう。死霊術士の居場所ですよ﹂
少年聖騎士が笑みを深める。
﹁そいつさえ倒してしまえば、今回の反乱は鎮圧完了。王の願いを
叶えた勇者は、誰からも責められることなく、むしろ大変な名声を
得られます﹂
﹁⋮⋮現実的じゃない﹂
ぼくは目を伏せ、首を横に振る。
﹁死体からは何もわからなかった。よその死霊兵も同じだろう。他
に居場所を探る手がかりが見つかるとは思えない﹂
敵はやはり、相当に力のある術士のようだった。
串刺しの死体を、まだ動いているうちから調べたにもかかわらず、
術士に繋がる痕跡は見つからなかった。そもそも、力の流れすらも
自然な形に偽装されていたのだ。レンが精霊の挙動で異常に気づか
なければ、もっと発覚が遅れていたかもしれない。周到にもほどが
ある。
正面から打倒するのは容易いだろうが、こういう術士は正面切っ
て戦ったりはしない。
見つけ出して倒すなど、かなり難しいように思えた。
レンがいつもの、澄ました笑みに戻って言う。
﹁あきらめの早い、おろかな人間。ボクは無理とは思いませんけど
ね。運が巡ってくることだってきっとあるでしょう。とにかく、何
度も言いますが、戻ろうなどとは考えないように﹂

1935
﹁⋮⋮﹂
ぼくは黙考する。
どうやら、残って戦うしかなさそうだ。
ここに死霊兵は残っていないから、別の都市へ向かうことになる。
みずち
蛟を使えれば楽だが⋮⋮さすがに人間の地でそんなことはできない。
移動ばかりで、この子らも大変だろうが⋮⋮。
﹁セイカ⋮⋮あんた、帝都に帰ってもいいわよ。イーファにメイベ
ルも﹂
その時、アミュが唐突に言った。
下を向いたまま⋮⋮しかし、決意を込めたように続ける。
﹁もう誰も殺さないとか、関係ないでしょ。みんな死んじゃってる
んだから。あんたたちを巻き込んじゃったのは、あたしが安請け合
いしようとしたせいだし⋮⋮きっとあたし一人でも、なんとかなる
と思うから。よくわかんないけど、そんな気がするの﹂
誰とも視線を合わせることなく、アミュは言う。
ぼくらに負い目を感じているのが見え見えだった。
ただ、その一方で⋮⋮自分一人でも戦えるという言葉に、気負い
や虚勢の響きはない気がする。
﹁だから、あんたたちは戻りなさいよ﹂
﹁嫌﹂
きっぱりと言ったのは、メイベルだった。
﹁ラカナでも言った。最後まで付き合うって。それに、アミュは肝

1936
心なところで抜けてるから、危なっかしい﹂
﹁わたしも⋮⋮残るよ! あんまりできること、ないかもしれない
けど⋮⋮﹂
﹁⋮⋮あんたたち﹂
イーファも続けて言い、アミュが二人と顔を見合わせる。
それから、恐る恐るといった仕草で、ぼくを見た。
思わず笑って言う。
﹁⋮⋮馬鹿だな。ぼくに任せて⋮⋮﹂
口から出かけた言葉にはっとし、一瞬口をつぐんだ。
しかし、すぐに笑みを戻して続ける。
﹁⋮⋮任せておけよ。パーティーメンバーなんだから﹂
﹁⋮⋮悪いわね。あたしも、自分にできることはするから﹂
と、アミュが小さく笑って言う。
同じく笑みを浮かべるぼくだったが⋮⋮内心では、漏らしそうに
なった言葉への動揺が残っていた。
︱︱︱︱ぼくに任せておけよ、弟子なんだから。
かつてあの子に放った言葉を、無意識になぞろうとしていた。 1937
第十三話 最強の陰陽師、また検討する︵後書き︶
※針山の術
鋼鉄でできた巨大な円錐状の棘を大量に生み出す術。あまり正確な
狙いはつけられず、主に密集している敵に対して用いる。
1938
第十四話 最強の陰陽師、次の都市へ向かう
フィオナは、聖騎士とは別に情報収集のための部隊も飼っている。
早馬によってもたらされる彼らの情報によって、反乱軍の位置や
進軍先は、大まかにではあるが知ることができた。
﹁⋮⋮間に合わなかったか﹂
街の光景を見て、ぼくは呟く。
反乱軍の一つが向かっているという情報のあったその都市は、す
でに陥落していた。
市壁は、一部が完全に崩れている。建物もそこかしこで破壊され

1939
ており、遠くに黒い煙が上がっている場所もあった。
何より︱︱︱︱生者の気配がない。
﹁なによ、これ⋮⋮これじゃもう⋮⋮﹂
アミュが愕然と呟く。
イーファやメイベルも、言葉を失っているようだった。
と、その時。
﹁あっ、発見です﹂
レンが暢気な声を上げた。
そのまま流れるように、短剣を振り抜く。
風と砂礫の刃が飛び、物陰から姿を現した死霊兵を縦に割ってい
た。
﹁本隊は去ったようですが、やっぱりある程度死霊兵を残している
ようですね﹂
魔石の短剣を軽く肩に担ぎながら、少年聖騎士は言う。
﹁まずはそれらを片付けましょうか。じゃあボクは向こうの方を見
てきますので、あなた方は他をお願いします﹂
そう言い残すと、すたすたと早足で歩き去ってしまった。
だいぶ勝手な行動に、呆気にとられるぼくら。だがすぐに、アミ
ュが意気込んで言う。

1940
﹁あたしたちも手分けして見て回るわよ! もしかしたら生きてい
る人がいるかも!﹂
﹁う、うん!﹂
﹁わかった﹂
駆け出そうとする三人に、ぼくは一応言っておく。
﹁イーファはメイベルと一緒に行け。後衛一人だと危ない﹂
イーファは一瞬足を止めると、うなずいてメイベルの後を追って
いった。
本当はアミュも単独行動させたくなかったのだが⋮⋮まああの子
は大丈夫だろう。
﹁さて⋮⋮﹂
扉を開け、位相からヒトガタを大量に取り出す。
十枚ほどをカラスに、残りすべてをネズミに変え、次々に街へと
放っていく。
これでそれなりに広い範囲を探れるだろう。
﹁こちらは一番厄介そうなのを片付けに行くか﹂
街の中心に向けて歩を進めながら、ぼくは式神の視界に意識を向
ける。
この都市を陥落させたのは、ただの死霊兵ではない。
奴隷や信徒の死体を操るだけなら、市壁や建物をここまで破壊で
きないだろう。
もっとも、すでに本隊と一緒に街を離れた可能性もあるが⋮⋮。

1941
﹁⋮⋮ん?﹂
その時、視界に人影が映った。
薄汚れた衣服。虚ろな目で口から涎を垂らしながら、手に斧を携
えている。
﹁オ゛オ゛ッ!﹂
不意に、死霊兵がこちらに向けて地を蹴った。
ぼくは小さく嘆息してそいつから目を離すと、片手で印を組みつ
つ呟く。
﹁用があるのはこんなのじゃないんだよな﹂
ひひるきり
︽召命︱︱︱︱比々留斫︾
空間の歪みから現れたのは、黄褐色の剣だった。
それはくるくる回りながら飛翔すると、迫る死霊兵の首をあっけ
なく切り飛ばす。
そのまま地面に突き刺さってしまった剣だったが、しばらくする
とぶるぶる震えだし、ぽんっと勢いよく飛び出した。
歩みを続けるぼくを跳ねるように追いかけ、やがて追いつくと周
りをふよふよと漂い始める。
その様子を横目で眺める。まるで犬みたいだ。柄に嵌まっている、
うごめ
ぎょろぎょろと蠢く目玉さえなければ、かわいらしいとも思えるか
もしれない。
ひひるきり つくもがみ
比々留斫は、年経た銅剣の付喪神だ。
あやかし へんげ
器物は人間の強い想念を受けると、まれに妖に変化する。比々留

1942
斫は作られてから八百年は経っている代物で、長く想念を受けてき
たためか、付喪神にしては異常な神通力を持っていた。銅剣である
にもかかわらず、その切れ味はどんな名刀をも凌駕するほどだ。
とはいえ付喪神は大人しいものが多く、こいつも例外ではない。
生きている人間まで斬られてはたまらないから、今使うにはちょ
うどいい。
式神の視界に意識を向けながら、滅んだ街を歩く。
時折現れる死霊兵は比々留斫が勝手に斬ってくれるので、探索の
邪魔をされることはない。
ふと顔を上げると、空に斜めの火柱が上がっていた。
おそらくレンの魔法だ。向こうの方が先に厄介なのと当たったの
か。
﹁⋮⋮お﹂
その時。
ネズミの視界が捉えた光景に、ぼくは足を止めた。
﹁こいつのようだな﹂
小さく呟いて、そこにいた式神と位置を入れ替える。
目の前の景色が、がらりと変わる。広がったのは同じような街並
みではあったが、細部が違っていた。
正面には、背の高い五階建ての建物。
ただし、最上階には巨大な岩が埋まっており、半壊していた。
その下の階には、恐慌を起こし叫ぶ人々の姿が窓から見える。

1943
そして︱︱︱︱それを為した者が、大通りの路上から建物を見上
げていた。
大柄な、やや太った男。生気はなく、明らかに死霊兵であること
がわかる。だがその身には冒険者の装備を纏っており⋮⋮手には、
魔術師の使う杖が握られていた。
﹁⋮⋮震え、響かせるは黄⋮⋮永き風雨に、耐えし磐石の精よ⋮⋮﹂
口から漏れるのは、虚ろな呪文詠唱だった。
やはりか、と思いつつ、ぼくはヒトガタを飛ばす。
﹁死霊兵になっても、魔法は使えるんだな﹂
直後、死霊兵の魔術師によって放たれた岩塊が、解呪のヒトガタ
によって消失した。
意思の感じられない動きで、男がこちらに気づいたようにぼくに
目を向ける。
そして杖を掲げると、その唇が再び呪文を唱え始めた。
やや哀れに思いながらも、片手で印を組む。
﹁⋮⋮比々留斫を置いてくるんじゃなかった﹂
てんぐひげ
︽土の相︱︱︱︱天狗髭の術︾
風を切る、甲高い音。
同時に、死霊兵の首が飛んだ。斬撃は周囲の建物にまでおよび、
真一文字の粉塵を舞い上げながら塀や壁が切断される。
一拍置いて、頭部を失った死体が倒れ伏した。
ぼくは小さく嘆息する。

1944
﹁あまり好きじゃないんだよな、この術﹂
周囲一帯を一瞬で切断した、火山岩繊維の糸を解呪して消す。
一応死体を調べたいが、後だ。ぼくは︽天狗髭︾で斬らないよう
気をつけていた、生者の残る建物に近寄ると、下から声を上げる。
﹁助けにきました。崩れかけているので、慎重に降りてください﹂
中の人々は、窓からこちらを恐る恐る見下ろすばかりで返事もな
い。が、たぶんまだ怯えているだけだ。安全になったとわかればい
ずれ降りてくるだろう。
﹁さて⋮⋮﹂
ひとまず、街を破壊したとおぼしきやつは倒した。
まだ似たようなのがいるかもしれない以上、もう少し探しておく
べきだろうが、とりあえずは比々留斫を回収しに戻った方がいい。
あいつは放っておいても人を斬ったりはしないが、ぼくがいなくな
って右往左往している気がする。
と、その時。
一匹のネズミが、アミュの姿を捉えた。
その様子を見て、ぼくは妖の回収を後回しにし、彼女の下に向か
うことを決める。
﹁アミュ!﹂
転移してすぐに声をかける。
崩れた建物の傍らで、大きな瓦礫を持ち上げようとしていたアミ
ュが、ぼくを振り向いて目を見開いた。

1945
﹁セイカっ! こっち来て! 手伝って!﹂
崩れた建物。
その瓦礫の山の麓に、アミュはしゃがみ込んだまま声を張り上げ
る。
駆け寄ると、状況がわかった。
瓦礫の下から、小さな手が伸びている。
﹁下敷きになってるみたい! あんたそっち持って!﹂
アミュが大きな瓦礫の端を指さして言う。
術で持ち上げる方が簡単だが⋮⋮少々加減が難しい。下がどうな
っているかわからない以上、手作業の方が安全だろう。
﹁わかった﹂
アミュと息を合わせ、瓦礫を持つ手に力を入れる。
徐々にではあるが、持ち上がり始めた。
普通なら人の手に負えないような瓦礫でも、気功術とアミュの馬
鹿力があればなんとかなってしまう。
たださすがに、ここまで大きな石材だと少し苦しい。ぼくは顔を
歪ませながらアミュに言う。
﹁支えているからその子を引っ張り出せ!﹂
﹁わ、わかったわ!﹂
アミュがうなずいて、瓦礫を背で支えながら下に潜り込む。
すぐに、小さな体を抱えて出てきた。女の子のようだ。埃まみれ

1946
で動かないが、微かに力の流れを感じる。気を失っているだけだろ
う。
アミュは女の子を地面に置く。
そして、何を思ったかまた瓦礫の下に潜り込んだ。
﹁っ、おい!﹂
﹁もう一人いたわ!﹂
叫び声が返ってくる。ぼくは汗を流しながら懸命に瓦礫を支える。
まじな
一度呪いで何かつかえさせた方がいいか⋮⋮? と思い始めたと
き、アミュが一人の人間を引っ張りながら出てきた。
その人物は、女の子よりもずっと大きかった。中年男のように見
える。それがわかると同時に、ぼくは気づいて表情を険しくした。
アミュと男が完全に出てきたところで、支えていた瓦礫を手放す。
大きな音とともに砂埃が舞った。
﹁はぁ⋮⋮はぁ⋮⋮﹂
アミュは荒い息を吐いていた。
ぼくは自分の呼吸を整えると、静かに口を開く。
﹁アミュ。その人はもう⋮⋮﹂
﹁⋮⋮わかってる﹂
アミュが唇を噛む。
その男は、すでに息絶えていた。
この街の住民だったのだろう。ありふれた格好をした、どこにで
もいそうな一人の人間だった。

1947
﹁あ⋮⋮﹂
その時、小さな声が響いた。
女の子が、微かに目を開けている。
アミュが身を乗り出す。
﹁気がついたっ? 痛いところはない?﹂
﹁お、父さ⋮⋮﹂
女の子は、その小さな手を動かない中年男に向けて伸ばしていた。
だがすでに気力の限界だったのか、その手は届くことなく地面に
落ちる。また気を失ったようだった。
﹁⋮⋮﹂
ぼくとアミュは、しばらくその場で、無言のまま立ち尽くしてい
た。
1948
第十四話 最強の陰陽師、次の都市へ向かう︵後書き︶
※天狗髭の術
玄武岩繊維の糸で物体を切断する術。火山岩の一種である玄武岩を
融解させ、繊維状に再成形した糸は、鋼線の約四倍の引っ張り強度
に加え、優れた物理的・化学的特性を有する。火山毛という、これ
に近いものが自然界でも噴火によって形成されることがあり、日本
では天狗の髭などと呼ばれ古くから知られていた。 1949
第十五話 最強の陰陽師、疲れる
ぼくらは一日かけて、街中に散らばっていた死霊兵をできる限り
処理した。
カラスの視界が利かなくなる前にやめたが、その頃にはもう、ど
のネズミの視界でも死霊兵を発見できなくなるくらいには減らせて
いた。
といっても、ここを襲ったやつらを全滅させたわけではない。
破壊の規模から見るに、本隊はすでに街を去り、一部が残っただ
けにすぎないことは明白だった。
その対処だけで、気力も体力もかなり奪われてしまった。

1950
生き残った住民たちは、今はいくつかの無事な建物に集まってい
た。
皆疲弊していたが、取りこぼした死霊兵がいないとも言い切れな
かったため、体力の残っている者たちが夜も交代で見張りに立って
いる。
その雰囲気は、戦禍に遭い故郷を追われた者たちの野営地に似て
いた。
﹁やはり懸念していたとおりだったようです﹂
灯りの下、レンが澄ました笑みとともに言う。
今、ぼくらは街の貸し馬車屋だった建物を借り受けていた。
すっかり日も沈んでおり、御者や世話係の者たちはすでに休んで
いる。ぼくらもできれば休みたかったが、その前に話し合わなけれ
ばならないことがあった。
﹁どうやら敵は、攻め落とした街の住民をも死霊兵にできるようで
すね﹂
レンの言葉に、皆表情を暗くする。
エルフ
少年森人は、ぼくらの顔色など気に留める素振りもなく続ける。
﹁冒険者らしい死霊兵を何人か相手しました。十中八九、他の街で
取り込んだ死体でしょう﹂
﹁⋮⋮だろうな﹂
数万という反乱軍の規模から、それは危惧していたことだった。
奴隷と信徒の暴徒だけで、数万は多すぎる。当初その理由には見

1951
当がつかなかったが、反乱軍の実態が死霊兵となると、その調達方
法は予想がついた。
レンが少々うんざりしたように言う。
﹁そしてどうやら、死霊兵の強さは元となった人間に左右されるよ
うです。まったく骨が折れました﹂
と、疲れたように溜息をつく。
そう言う割に、聖騎士は傷一つ負っていない。
自分が戦った分を思い出すと、それなりに力のある冒険者たちが
死霊兵となっていたようだったが⋮⋮やはりフィオナに見出された
だけあるということか。
ぼくは言う。
﹁死んでいても、動いているのは人体に変わりない。筋肉が多けれ
ば、それだけ力が出るのは当然だろう﹂
ただ予想外だったのは、死体が魔法まで使えた点だ。
こちらの世界の死霊術は、ぼくが思っていたよりも多くのことが
できるのかもしれない。
ぼくは続けて言う。
﹁そんなことより⋮⋮このままいけば、死霊兵は際限なく増え続け
るぞ﹂
街を滅ぼせば、死体がそのまま兵になるのだ。敵の数は雪だるま
式に増えていく。
もちろん術士の限界はあるだろうが、すでにこれだけの数に膨れ

1952
上がっている以上、それがどれほどかはわからない。
﹁とてもぼくらの手に負えない。いくらか倒したところで焼け石に
水だ﹂
﹁あの⋮⋮フィオナさんには、もう報せを出したんですよね⋮⋮?﹂
イーファが遠慮がちに訊ねると、レンはらしくもなく愛想のいい
笑みを向ける。
﹁ええ、抜かりなく。初日に姫様と宮廷あてに使いを出しています。
心配しなくても大丈夫ですよお姉さん﹂
エルフ
﹁⋮⋮この森人、なんかイーファにだけは親切﹂
メイベルがぼそりと言うと、レンが澄ました笑みに戻って言う。
﹁精霊が見える者は皆同胞です。共におろかな人間の国で生きる者
として、親近感を覚えますね﹂
﹁うう、わたし、そんなつもりないんですけど⋮⋮﹂
イーファの困り顔を見ながら、ぼくは考える。
帝都に知らせた以上、なんらかの対処がなされると期待したいが
⋮⋮報せは なかったこと にされることも多い。皇帝の腹づもり
がわからない以上、あまり期待はできない。
﹁戦い続けるしかありませんよ﹂
レンが笑みのまま言った。
﹁あなた方に、他の選択肢はない。当然理解しているものと思って
いましたが﹂

1953
ぼくらは押し黙る。
そのとおりではあった。条件は先日から変わっていない。帝都に
は戻れない以上、この先の見えない戦いを続けるしかない。
﹁そこの勇者も、わかりましたね﹂
﹁⋮⋮﹂
レンが言っても、アミュはしばらく黙ったままだった。
短い沈黙が流れる。
ほどなくして、アミュがはっとしたように顔を上げて言った。
﹁え、あれ、なに?﹂
﹁戦うことを求められているのは、他でもないあなたなんですけど
ね﹂
澄まし顔でレンが嫌みを言うが、まったく話を聞いていなかった
のか、アミュはきょとんとするばかりだった。
仕方なく、ぼくが言う。
﹁また移動して、戦場に向かうことになると話していた。大丈夫そ
うか?﹂
﹁⋮⋮うん。わかったわ﹂
アミュがしおらしくうなずく。
﹁こんなことになってるんだもん、仕方ないわよね﹂

1954
第十六話 最強の陰陽師、愚痴をこぼす
死体のそばで、黄緑色の光が舞っていた。
たち
﹁こちらの蛍は、なんとも気味の悪い質をしておりますねぇ﹂
頭の上からユキが顔を覗かせて言う。
話が終わり、皆が休んだ頃。
ぼくは、街の外の死体置き場にやって来ていた。
理由は、主に二つ。一つは慌ただしくて満足にできなかった死体
の調査だったのだが⋮⋮深夜ということもあり、なんとなく気力が
湧かないでいた。

1955
ユキが続けて言う。
﹁死体に群がるとは。死肉でも喰らいにきたのでございましょうか﹂
﹁⋮⋮蛍は、成虫になると水しか飲まないらしい﹂
ぼくは静かに答える。
﹁だから、血を啜りに来たのかもな﹂
﹁いずれにせよ気味が悪うございますねぇ﹂
﹁初めに死霊兵の一団を倒した時も、翌朝死体の群れの近くを飛ん
でいた。この辺の地域には多いのかもしれない﹂
風情のある光も、このような場所で見ると人魂のように見えてく
る。
よくよく考えると、肌寒くなってきたこの時期に少々季節外れで
もあった。そういう種類なのだろうか。
﹁ほう。まあそれはともかくとして⋮⋮﹂
ユキが口調を切り替えて言う。
﹁ユキになにか、お話しになりたいことでもございましたか?﹂
﹁⋮⋮﹂
もう一つの理由の方は、どうやら察せられているようだった。
ぼくはややばつが悪くなりながら答える。
﹁別に⋮⋮特段話すことはない。ただ一人で考え事をしたかっただ

1956
けだ﹂
﹁ほう。ではユキは、セイカさまの独り言をただ聞いておくことに
いたしましょう﹂
﹁⋮⋮﹂
ここ数年で、ユキはずいぶんと言うようになった気がする。
百年近く生きて、こいつも成長した⋮⋮というよりは、ぼくが不
甲斐ないところを見せているせいでしっかりせざるをえないのか。
﹁ほら、どうぞお好きなように﹂
﹁⋮⋮なんか、想像以上に厄介なことになったなぁ﹂
思わず口に出してしまう。
﹁いったいどこで間違ったのか⋮⋮。お前は手を引くべきだったと
言っていたが、冷静に考えてあそこから穏便に手を引けたとはとて
も思えない。思えば、宮廷とはあれほど距離を置こうとしていたは
ずなのに、だいぶ深入りすることになってしまった⋮⋮。転生して
からのぼくの人生、どうも根本的なところで間違っていた気がする﹂
なんとなくユキに指摘される気がしたので、ぼくは先んじて言う。
﹁言いたいことはわかる。勇者を利用しようなんて、らしくもなく
小賢しいことを考えたことが元凶だって言いたいんだろ。確かにそ
の通りだよ。ただ、あの時は⋮⋮﹂
﹁いいえ﹂
意外にもユキは、ぼくの言葉をはっきりと否定した。
﹁ユキは、そのようなことが原因だとは思いません。もっと根本的

1957
な⋮⋮セイカさまの覚悟の問題だと考えます﹂
﹁え⋮⋮ぼくの覚悟?﹂
﹁はい﹂
思わぬ言葉に動揺するぼくに、ユキはうなずいて問う。
﹁セイカさまが、縁のある者を助けられるのはなぜですか? 城を
破り、人の身が到底敵わぬような物の怪を倒し、災害すら鎮められ
るほどのお力を、他者のために振るわれるのはどうしてですか?﹂
﹁それは⋮⋮﹂
それが、人の本性だからだ。
たとえ悪漢と呼ばれるような人物が、転んだ子供に手を差し伸べ
たとて、それを意外に思う者は多くとも、異常だと捉える者は少な
い。
人間ならば、他者を助けようとする心を多かれ少なかれ持ってい
るものだからだ。
ぼくも、そんな普通の人間の一人であるというだけのこと。
ただ、ユキがそんなありふれた答えを求めていないことは明らか
だった。
ぼくは、かつて自分の中で出していた答えを返す。
﹁⋮⋮大したことないからだよ。城を破るのも、強大な敵を倒すの
も、災害を鎮めるのも⋮⋮ぼくにとっては、転んだ子供に手を差し
伸べるようなものだ﹂
転んだ子供を助け起こす者は多い。
一方で、怪我が治るまで面倒を見てやる者は少ない。
人が他者のために費やせる労力には限りがある。

1958
ぼくは︱︱︱︱こと暴力に限れば、人よりもその限りがずっと高
い。
最強だから。
そうあることを望み、その頂にたどり着けたから。
ただそれだけのこと。
﹁ならばこそ⋮⋮セイカさまは、この世界で人を助けようとしては
なりませんでした﹂
ユキは静かに言う。
﹁転んだ子供に手を差し伸べる、その程度にとどめなければならな
わらわ
かったのでございます。御前試合で邪視の童が死んだ時、勇者の娘
が城にさらわれた時、セイカさまはどうなさいましたか。あのとき
振るった力は、常人の範囲を超えるものだったのではございません
か。此度の生のために彼らをあきらめようと、わずかにも考えまし
たか﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁人のため、セイカさまにとっては取るに足らない⋮⋮しかし他者
にとっては絶大な力を振るえば、為政者に目を付けられるのは必然。
勇者に関わらずとも、時間の問題であったとユキは思います﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁普通の人間は、弱き存在です。災いや暴力の前に為す術なく屈し
てしまう。セイカさまは⋮⋮彼らと同じように、膝を突く覚悟があ
りませんでした。痛みを受け入れる覚悟がありませんでした。思う
に前世での死は、セイカさまを多少疑心暗鬼にはしても、親しき者
を見殺しにし、後悔に苛まれる覚悟を持たせるほどではなかったの
でございましょう⋮⋮。その時点で、普通の人生を送ることなど不
可能だったのでございます﹂

1959
ユキがはっきりとした声音で言う。
﹁此度の生に間違いがあったとすれば、弱き存在として生きる覚悟
を決めなかったことなのではないかと、ユキは思います﹂
ぼくは、口を半開きにしたまま固まっていた。
ユキにここまで言われるとは思っていなかったのもあるが⋮⋮説
教の内容が、ぐうの音も出ないほど正論だったからだ。
思わず呻く。
﹁な⋮⋮何も反論できない⋮⋮思えば完全にその通りだ⋮⋮﹂
もやもやと感じていたどうにもうまくいかない感覚が、綺麗に言
語化されて腑に落ちた心地だった。
ユキに言われるまで気づかないって⋮⋮ぼくは馬鹿じゃないのか?
当のユキは、澄ました調子で言う。
﹁素直に受け止めてくださったようでなによりでございます。ユキ
も前々から思っていたことを言えてすっきりいたしました﹂
﹁前から思ってたならもっと早く言ってくれよ⋮⋮﹂
﹁実は喚ばれてすぐの頃からユキは内心で首をかしげておりました
が、そこはセイカさまのこと。なにか深いお考えがあるのかと思い、
出過ぎた真似はせず控えておりました。今時を戻せるのならお伝え
していると思います﹂
﹁⋮⋮⋮⋮。いや待て。よくよく考えたらお前、ラカナとか魔族領
の時はむしろ助ける方向で煽ってなかったか? ぼくはそこまです
るか迷ってたのに﹂
﹁あそこで彼らを見捨てたところで、セイカさまが生き方を変えら
れることはないと思ったためでございます﹂

1960
ユキは言う。
﹁縁の薄い者は見捨てられても、勇者の娘がさらわれるようなこと
がまた起これば、セイカさまは迷わず力を振るわれたことでしょう。
それではなんの意味もありません。彼らも見捨てられ損でございま
す﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それならば、わずかな悔いも残さない方が幾分かマシ。そのよう
に考え、進言奉りました。ユキも初めは自信がありませんでしたが、
今では間違っていなかったと思っております﹂
ぼくは無言で、頭の上のユキを見るように視線を上に向けた。
こいつは⋮⋮思った以上にぼくを見ていて、いろいろなことを考
えていたようだった。
ぼくは指を伸ばし、ユキの細い体を撫でながら言う。
﹁お前いつの間にか、そんなに難しいことを考えるようになったん
だな。あいつが屋敷に持ってきた時は、まだ人語もおぼつかなかっ
たのに﹂
﹁ユキも成長しているのでございます。弟子たちに混じって聞くう
ちに、論語だってそらんじられるようになりました﹂
﹁⋮⋮そうだったな﹂
思わず小さく笑みがこぼれた。
まだ、転生する前の出来事だ。
﹁じゃあ⋮⋮これからどうするべきだろうか﹂
﹁ユキに難しいことはわかりません﹂

1961
流れで訊くと、素っ気ない答えが返ってきた。
ずっこけそうになる。
﹁そりゃないだろ﹂
﹁とはいえ、普通の人間として生きるのはまず無理である以上、為
政者とはうまく折り合いをつけていくほかないのではないでしょう
か﹂
﹁折り合い、か⋮⋮﹂
ぼくは溜息をつく。
どうにも難しそうだ。そういう人の思惑とか読むの、ぼくには向
いてない。
﹁暴力でなんとかなればいいんだけどな⋮⋮﹂
﹁人の世はそう単純ではございませんよ﹂
あやかし
﹁妖に言われてしまっては世話がない﹂
﹁ひとまず、目の前のことから片付けられては? 死者の群れの方
がまだ、力でどうにかなりそうにも思えますが﹂
﹁⋮⋮こっちも、そう単純じゃないんだよ﹂
ぼくは思わず苦い顔になる。
ユキが意外そうに言う。
まじな
﹁呪いの比べ合いで、セイカさまがお手上げでございますか?﹂
﹁向こうの方が有利なんだよ﹂
ぼくは言い訳するように言う。
﹁事前にこれだけ死体を用意されて、隠れられてしまってはどうし

1962
ようもない﹂
﹁死体から居場所をたどれないので?﹂
﹁⋮⋮悔しいことに、そこは相手が巧みだ。ここまでやるかという
ほどにあらゆる痕跡が消されている。何か美的なこだわりすら感じ
られるほどだ﹂
まじな
こういう一つの呪いをとことん突き詰めるような、求道者気質の
術士はたまにいた。
ほぼ例外なく腕が立ち、普通の術士には理解がおよばない領域に
まで到達していることもあった。
ユキが唸る。
﹁うむむ。では手詰まりでございますか﹂
﹁⋮⋮いや、そうとも限らない﹂
やや口ごもりながら、ぼくは言う。
﹁一つ、気になっていることはある﹂
﹁ほう。それは?﹂
﹁広すぎるんだ。死霊兵を操っている範囲が﹂
ぼくは続ける。
﹁報告を聞く限り、反乱軍はかなり広範囲に展開している。敵がど
こにいるにせよ、死霊兵から離れすぎては普通術を維持できない﹂
まじな
呪いや魔法が作用する世界の第一階層に、距離は関係ない。だが、
アドレスが離れすぎると関連性が切れて術を維持できなくなってし
まう。

1963
だからこそ、遠くまで影響をおよぼせる術は少ない。どんな呪詛
も山一つ越えれば効果が弱まり、海を越えればほぼ消える。呪物の
類も同じだ。神魔は粘土板のような魔道具を使って他種族の王都と
連絡を取っていたが、普段のやり取りは森を行き来していたことか
くびき
ら、おそらく距離の軛から逃れるだけの軽くない代償を支払ってい
たのだろう。
﹁むむ。では、敵は複数だということでございますか?﹂
﹁いや﹂
ユキの言葉に、ぼくは首を横に振る。
﹁こんな術士が二人も三人もいるわけがない。絶対に一人だ。それ
だけは確信している﹂
﹁となると⋮⋮﹂
﹁必ず、何か工夫があるはずだ。ここまでの無理を通すほどの工夫
が。それを見つけられれば、あるいは⋮⋮敵の居場所を探れるかも
しれない﹂
今の状況を解決できる希望は、それくらいだった。
﹁目星はついておられるので?﹂
﹁⋮⋮何らかの方法で、術を中継しているのではないかと思う。普
通に考えれば死体だが⋮⋮決めつけない方がいいだろうな。少なく
とも協力者との連絡には、そんな方法を採っているはずがない﹂
﹁協力者? 術士は一人のはずでは?﹂
﹁術士はな。だが、おそらくそいつの背後に誰かいる﹂
ぼくはわずかに顔をしかめて続ける。

1964
﹁こういう求道者のような術士は、だいたいまともじゃないんだ。
前世にもいただろ、そういうやつ﹂
﹁あー、たしかに幾人か心当たりが。主にセイカさまのご友人の中
に﹂
﹁あの手の連中は、たった一人でここまで大それた事はできない。
街の情報を集めるだけでも困難なはずだ﹂
侵略には、どこにどの程度の規模の、どのような街があるかを正
しく知っていなければならない。
だがそれには、行商人に話を聞いたり、正確な地図を探して買い
求めたりといった、ある種の社会性が必要になる。
力だけではどうにもならない。大事業を為すのに、一定のまとも
さは不可欠なのだ。
﹁どの時点から死体だったのかはわからないが、奴隷と信徒の集団
を都合よく死霊兵に変えられたのも出来過ぎている。十中八九、死
霊術士を利用している何者かが背後にいて⋮⋮目的のために今も連
絡をとっているはずだ﹂
おそらくは、こちらも距離の軛から逃れた術を使って。
早馬や鳥のような、足が付きかねない普通の方法はまず使わない
だろう。
それなりに高いであろう、黒幕の地位を考えても。
﹁協力者は、少なくとも帝国の地理を知り、死体を用意できる程度
には力がある者ということになる。ひょっとすると⋮⋮帝都にいた
かもな﹂
﹁⋮⋮為政者、ということでございますか?﹂
﹁さあな。最初の反乱を主導したのは第二皇子と第三皇子らしいか
ら可能性はあるが、この状況で得をしそうなのはむしろ商人のよう

1965
な気もする⋮⋮いや、こちらも決めつけない方がいい。というか、
無闇に探ろうとするべきではないな。やぶ蛇になりかねない﹂
世の中、知らない方がいいこともある。
今回の裏事情は、そういった類のものだ。
ぼくは溜息をついて言う。
﹁いろいろともどかしさは感じるが⋮⋮ひとまずはお前の言うとお
り、死体の群れをこつこつ倒していくしかないだろう﹂
そう言って、ぼくは伸びをする。
気づいたらだいぶ話し込んでしまった。死体調べはまた明日にし
て、今日は休むことにしよう。
そう思って踵を返した、その時。
﹁セイカさま﹂
ユキが、ふとぼくの名前を呼んだ。
思わず足を止める。
﹁ん?﹂
﹁ユキは先ほどあのように申しましたが⋮⋮ユキはセイカさまの此
度の生に、間違いがあったとは思っておりません﹂
ユキが、柔らかい声音で言う。
﹁様々なことがございましたが︱︱︱︱とてもハルヨシさまらしく、
生きられていると思いますので﹂

1966
第十七話 最強の陰陽師、また次の都市へ向かう
フィオナの間諜からもたらされる情報を頼りに、ぼくたちは次の
街へと移動した。
﹁今度は間に合ったようだけど﹂
街の外に広がる平野部で、ぼくは呟く。
今度の街は、以前のものよりも大きかった。
市壁も比較的堅牢そうで、生半可な魔法では歯が立たないように
思える。
ただ、だからこそと言うべきか⋮⋮。

1967
﹁ずいぶんと質のいい死体を駆り出したようだな﹂
ぼくの目前には、すでに︱︱︱︱馬に騎乗した死霊兵の、馬上槍
の穂先が迫っている。
︽土の相︱︱︱︱天狗髭の術︾
火山岩繊維の糸が、神速の鞭となって放たれる。
風を切る甲高い音とともに、四体の死霊騎兵の首が飛んだ。
主人を失いながらも突進してくる馬たちを、その後ろに転移して
躱す。
四頭の馬は勢いのまましばらく走っていたが、やがて背中の首な
し死体がどさどさ落ち始めると、街の手前で戸惑ったように足を止
めていた。
その様子を眺めながら、ぼくは呟く。
﹁馬は生きているのか⋮⋮死霊兵は馬も扱えるんだな﹂
﹁あのう、セイカさま﹂
耳元でユキが言う。
﹁矢が放たれたようでございますが﹂
ユキの言うとおり。
死体の軍勢の中で、長弓を持った死霊兵たちが、山なりに矢を放
っていた。
ぼくは馬から目を離し、振り返りながら答える。

1968
﹁わかってるよ﹂
︽陽の相︱︱︱︱磁流雲の術︾
浮かべたヒトガタを起点として、強い磁界が発生する。
やじり
磁界は迫る矢の鏃に作用し、そこに小さな稲妻を流す。稲妻が流
れた金属には磁性が生まれ、︽磁流雲︾の強い磁界に反発するよう
になる。
結果︱︱︱︱飛来する矢はすべて、ぼくを避けるようにして地面
に突き立った。
周囲の矢を見下ろしながら、ぼくはまた呟く。
﹁けっこう狙いが正確だ。長弓なんてなかなかの高等技能だろうに
⋮⋮死霊兵にはこんな芸当もさせられるんだな﹂
陰陽道の技術体系にも死霊術の類は存在したものの、ここまで自
在に死体を操れるものではなかった。
先日見た魔法を使う死霊兵もそうだが、生前に持っていた技能を
うまく生かしているようだ。敵ながら感心してしまう。
再び矢が放たれるが、もう見る必要もない。
ぼくは︽磁流雲︾を発動したまま、新たなヒトガタを浮かべる。
残った死体の軍勢を見据え、一気に処理してしまおうとした︱︱︱
︱その時。
ぼくの背後で、轟音とともに大地が噴き上がった。
﹁なっ⋮⋮?﹂

1969
とっさに振り返る。
一匹の長大なワームが、土煙とともに地面から伸び上がっていた。
思わず唖然とする。
そのワームは死体ではなく、生きているようだった。
当たり前だが、ワームがこんなところに出るわけがない。力の流
れを感じなかったことから、召喚されたわけでもなさそうだ。
テイマー
ということは⋮⋮軍勢の中に、死霊兵の調教師がいるのだろうか。
ぼくは呆れのあまり半笑いになりながら呟く。
﹁まあ、生きている馬を手なずけられる以上、モンスターを手なず
けられてもおかしくないのかもしれないが⋮⋮もうなんでもありだ
な﹂
ワームが大口を開き、はるか高みからぼくに襲いかかる。
転移するほどでもなかった。足を使って躱す。
ぼくを喰い損なって地面に頭から激突したワームは、そのまま再
び地中へと潜っていく。
﹁⋮⋮遅いな﹂
図体こそまあまあでかいものの、ラカナで見たワームどころか、
テイマー
学園に襲来した兎人調教師が従えていた個体よりも弱そうだ。
ぼくはそのまま、死霊兵の軍勢の中へと走った。
当然取り囲まれ、剣を突き出されるが、体術と短い転移を使って
躱していく。

1970
﹁ワームがどうやって地上の獲物を認識しているのかわからないけ
ど⋮⋮﹂
少なくとも、同じような人体が大量に群れている中で、ぼくの位
置を正確に捉えることはできないはずだ。
次の瞬間、再び大地が噴き上がった。その場にいた死霊兵数体が
巨体に弾き飛ばされる。
まったく見当外れの位置に出たワームが、二体の死霊兵をまとめ
て咥えていた。
﹁出てきたか﹂
一枚のヒトガタを飛ばす。
それは死霊兵の頭上を鋭く飛翔すると、ワームの体表に貼り付い
た。
︽陽の相︱︱︱︱薄雷の術︾
ヒトガタを起点に、稲妻が生み出される。
感電したワームが、伸び上がった体勢のまま体を引きつらせた。
やがて数度痙攣すると、ゆっくりと体を傾かせ、地面にどう、と横
倒しになる。
真下にいた死霊兵たちが、湿った音とともに潰れた。
ぼくは転移して軍勢の外に出ると、その光景を眺めながら呻く。
﹁うわ⋮⋮失敗した﹂

1971
巨大なワームが軍勢の中心で暴れて死んだせいで、隊列が大きく
乱れていた。
散兵になってしまうと、︽針山︾が使いにくくなる。厄介なのは
もういなそうだが、一番多い歩兵の処理が少し面倒になってしまっ
た。
小さく溜息をつく。
﹁最初に出てきた時点で、ワームをさっさと倒すべきだったか⋮⋮
まあ仕方ない﹂
端の方から処理していこうと、集団からはぐれた死霊兵に目を向
けた︱︱︱︱その時。
軍勢の中に、力の流れが起こった。
﹁っ、なんだ⋮⋮?﹂
ぼくは反射的に、死霊兵の群れに目を戻す。
力の流れは続いている。魔法を使われている⋮⋮にしては、何も
起こっていない。
注意深く見ると、流れの元がわかった。ワームの死体のそばに佇
む、ローブを纏った一体の死霊兵。
その時︱︱︱︱ワームがゆっくりと、頭をもたげた。
﹁は⋮⋮?﹂
思わず目を見開く。
倒し損なっていた、わけがない。確かにワームは死んだはずだ。
仮に回復魔法を使える死霊兵がいたとしても、死んだモンスター
はどうにもできない。

1972
ならば⋮⋮可能性は一つ。
﹁まさか⋮⋮死霊術なのか?﹂
死んだはずのワームは、今や完全に動き出していた。
地表を醜くのたうち、周囲の死霊兵を挽きつぶしながら、大口を
開けてぼくに迫る。
﹁⋮⋮チッ﹂
軽い舌打ちとともに、ぼくは苦い顔をしながら両手で印を組んだ。
そして、軍勢を囲むように配置していたヒトガタに呪力を込める。
次の瞬間︱︱︱︱すべての死霊兵が、まるで糸が切れたかのよう
に地に倒れた。
大量にいる歩兵も、ローブの死霊兵も、ワームでさえも動きを止
め、死体に戻っている。
無力化を確認すると、ぼくは組んでいた印を解き、結界を解除し
た。
小さく溜息をついて呟く。
﹁できれば、これは避けたかったが⋮⋮﹂
﹁いやー、すごいすごい。大したものですね﹂
市壁の上に腰掛け、ずっと戦いを見ていたレンが、澄ました笑み
を浮かべながら言った。
﹁もう、あなた一人でいいんじゃないでしょうか﹂

1973
その声音には、若干呆れが混じっているようにも聞こえた。
第十八話 最強の陰陽師、予想する
﹁まったく、敵の術士には驚かされる﹂
その日の夜。
ぼくは再び、街の外に出ていた。
死体置き場に人気はない。例によって、蛍が数匹飛んでいるだけ
だ。
ぼくは呆れ半分に呟く。
﹁まさか、死霊兵に死霊術を使わせるなんて﹂

1974
魔法を使う死霊兵がいた以上、それはまったくおかしなことでは
なかった。
だがやはり、現実に見ると驚かざるを得ない。
﹁さすがに反則じゃないか? 死霊兵に死霊術を使わせ、その死霊
兵に死霊術を使わせれば、いくらでも兵力を増やせる。もちろん魔
力の限界や、質のいい死霊術士の死体が都合よく手に入るのかとい
う問題で、現実には難しいだろうが⋮⋮﹂
とはいえ、工夫次第でなんとかなりそうな気もしてくる。
特に死霊術を極めたような術士であれば、なおさら。
﹁しかしその死体を操る死体は、倒されたのでございますよね?
なにか手がかりは見つかりましたか?﹂
ユキが頭の上から顔を出して言う。
﹁殺めた住民を取り込んでいた以上、死体を操れる死体は敵の重要
な戦力だったはず。ならば、その居場所に繋がる痕跡が残っていて
もおかしくありません﹂
﹁⋮⋮いや、残念ながら何もなかったよ﹂
ぼくは首を横に振って答える。
﹁死体の首には、ギルドの認定票が下がっていた。どうやらただの、
冒険者の死霊術士だったみたいだ。どこかの街で取り込んで、他の
死霊兵と同じように戦力として動員しただけだろうな﹂
﹁⋮⋮そのように偽装した、とは考えられないので?﹂
﹁まあ、ないだろ。死んだワームの使い方が下手すぎた。普通なら

1975
地下に潜らせるところを、地上を這わせて味方まで巻き込む始末だ。
さすがにあれが演技とは思えない﹂
﹁むぅ⋮⋮﹂
﹁重要な戦力なら、敵ももっと大事に扱ったはずだ。殺した住民の
死体を死霊兵にしているのも別の方法だろう。もっとも﹂
ぼくは付け加える。
﹁術の痕跡は結界のせいで消えてしまったから、確かなことは言え
ないけどな﹂
﹁⋮⋮あの、セイカさま﹂
ユキが言いにくそうに言う。
﹁どうしてあの時、結界を使われたので? 手がかりが失われるか
らと、避けていたではございませんか﹂
﹁あの場ではとっさに体が動いてしまったが⋮⋮今思い返しても、
別に悪い判断じゃなかったと思うよ﹂
まず最初にワームを無力化しなければならなかったのだが、近く
にいたローブの死霊兵を巻き込まず、動きを止める方法は限られた。
さらに、そちらに手間取れば軍勢がますます散兵化し、鎮圧によ
り多くの時間がかかることになる。
その時間的余裕で、妙なことをされないとも限らなかった。
まじな
こと呪いにおいて、ぼくが後れをとるとは思わない。しかしだか
らといって、今回の敵は舐めてかかれる相手でもないのだ。
失策だったと言いたげなユキに、ぼくは軽い調子で言う。
﹁結界を使わなかったとしても、どうせ手がかりなんて見つからな

1976
かったさ。そんなに甘い相手じゃない。それより⋮⋮今日はわかっ
たことが二つあった。戦果としては悪くない﹂
﹁む、わかったこととは?﹂
﹁一つ目は、城塞都市を落とした手段だな⋮⋮ワームを使ったんだ
ろう﹂
反乱軍が死霊兵だった以上、内通者に城門を開けさせるような手
は使えるはずがなく、どうしたのかとずっと疑問だったのだが⋮⋮
今日やっとわかった。
街の外から中に向かって穴を掘らせれば、城壁なんて関係ない。
そこから大量の死霊兵を送り込める。
テイマー
ワームは死体でもいいし、昼間のように調教師の死霊兵を使って
もいい。用いる方法はいくらでもある。
今回、防衛の強固な街に対してあの部隊を向かわせていたことか
らも、間違いないように思えた。
さすがにワームの数は限られるだろうから、昼に潰せたのはおそ
らく敵の主力の一つだろう。運がいい。
ユキが言う。
﹁それはようございましたが、これから攻められる都市の住民でも
なければ、あまり関わりのない話でございますね。して、もう一つ
は?﹂
﹁敵の死霊術が、距離の制約を逃れている方法だ﹂
ぼくは言う。
﹁やはり、死体に死霊術を使わせている。そうとしか考えられない﹂

1977
予想はしていたが、今日確信した。
ただの死霊兵に死霊術が使えるのなら、ぼくの想像するような方
法だって可能なはずだ。
ユキが訊ねる。
﹁昼間のような、死体を操る死体の兵を使っているということでご
ざいますか?﹂
﹁普通の死霊兵とは違うだろう。そのやり方だと、末端の死霊兵ほ
どコントロールがしにくくなってしまう。もっと洗練された方法⋮
⋮おそらくだが、自分の似姿となるような死霊兵を作って、術を中
継させているんじゃないかと思う﹂
﹁似姿⋮⋮とおっしゃいますと?﹂
﹁そのままの意味だよ。自分によく似た死体だ﹂
ぼくは言う。
まじな
﹁似れば似るほど、呪いがよく伝わるようになるからな﹂
﹁あー⋮⋮そういえば、前世にてセイカさまが弟子にそのようなこ
とを語っていた場面を、見たことがあるような⋮⋮﹂
﹁そりゃああるだろう。呪術思考の基本の一つだ。弟子には何度も
説明している﹂
ぼくは続ける。
﹁形が似ているものには、同じ性質が宿る。人間はそのように思い
込む傾向がある。もちろん、実際には違う。藁人形に髪の毛を入れ、
釘を打ち付けたところで、それはただの器物に過ぎない。物理的に
は、髪の持ち主になんの損傷も与えられるはずがない﹂

1978
ただ、とぼくは続ける。
﹁そこに思いが乗れば別だ。藁人形こそが髪の持ち主なのだと信じ
込めば、釘を打つ行為は呪詛となり、本当の持ち主にまで届く。呪
術の理屈など知らない素人でも、時に他者を呪うことができるのは、
まじな
呪いの本質が意識にあるからだ。魔法もそこは変わらない﹂
まじな
呪いも技術の一つだ。
理屈があり、方法論があり、他人に教えることができ、同じ過程
から同じ結果を導くことができる。
そして他の技術が、時に理屈よりも感覚や力に重きを置くことが
まじな
あるように、呪いも思いの強さが重要になる場面がある。
﹁術に使う道具の形を何かに似せることは、その思いを強める工夫
の一つだ。陰陽師の呪符が人の形をしているのもそれだな。これは
逆も然りで、たとえば木彫りの熊を使って人を呪えと言われたら、
ぼくでもかなり苦しいだろう。どうしても意識が熊に引っ張られて
しまう。何も使わない方がマシなくらいだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁ん? どうした?﹂
﹁あ、いえ﹂
なぜか黙り込んでいたユキに問いかけると、はっとしたような返
事が返ってきた。
﹁ええと、それならば⋮⋮敵の術士は自らに似た死体の兵を用意し、
まじな
それに呪いを伝わせている、ということでございますか﹂
﹁ぼくの予想ではな。死霊兵を自分自身だと強く思い込むことで、
まったく同じ術を使わせる⋮⋮ような理屈なのだと思う。中継役の
死体を一定の間隔で配置できれば、それで距離の軛から逃れられる﹂

1979
﹁となりますと、敵によく似た死体を見つけられれば、何らかの手
がかりが得られる可能性がございますね﹂
﹁ああ﹂
うなずいて、ぼくは言う。
﹁まあ敵の顔なんて知らないから、見つけようがないんだけど﹂
﹁そうでございますねぇ﹂
敵の手の予想がついたからと言って、別に状況が進展したわけで
はなかった。
ぼくは続けて言う。
﹁むしろ、協力者との通信手段の方からたどった方が早いかもしれ
ないな﹂
﹁そういえば、そのようなこともおっしゃっていましたね。なにか
当たりは付けられたので?﹂
﹁残念ながら、今のところはまだだ﹂
ぼくは渋い顔になって答える。
﹁死体で術を中継できるのなら、鳥の死体に手紙を運ばせるとか、
一応方法はある。ただ、この手の術士がそんな誰でも思いつくよう
な手を使うとは思えないんだよなぁ。もっと速くて、秘匿性の高い
方法を考え出している気がする﹂
﹁鳥は十分速いのではございませんか? それ以上となりますと⋮
⋮﹂
﹁大声を上げれば音の速度、狼煙や旗なら光の速度だ。周りにバレ
バレで伝えられる距離も短いが、速さだけはある﹂
﹁音や光に、速さがあるのでございますか﹂

1980
﹁ああ。音は意外と遅いぞ。光はとんでもない速さだけどな﹂
話しているうちに新しい考えが浮かぶかと思ったが、うまくいか
なかった。
そもそも、今その手段に当たりを付けるのは無理なような気がし
てくる。
ゼロ いち
﹁まあ⋮⋮わかるはずもないか。通信なんて極論、〇と一さえ表せ
れば成り立ってしまうんだ。手段の選択肢が多すぎる﹂
ゼロ いち
﹁〇と一だけでございますか? それではせいぜい、﹃はい﹄と﹃
いいえ﹄くらいしか伝えられないのでは?﹂
﹁そんなことはないさ。お前だって知っているはずだ﹂
﹁?﹂
﹁ほら、八卦だよ﹂
ぼくは言う。
こう
﹁あれは陰もしくは陽の爻を、三つ組み合わせることで八通りの卦
ゼロ いち
を表す。陰と陽、つまり〇と一だ。三爻ならば八卦だが、六爻なら
ば六十四卦、六十四通りの情報を表せる。ここまでくれば、日本語
ゼロ いち
の音素を一つ一つ当てはめることだってできる。〇と一だけで、十
分通信は成り立つんだよ﹂
これが七爻ならば百二十八卦、八爻ならば二百五十六卦だ。情報
はいくらでも伝えられる。
実際にこのような暗号が使われていた例は知らないが、理屈の上
では可能だった。
聞いたユキは、ややうんざりしたように言う。

1981
﹁うーん⋮⋮ユキに難しいことはわかりません﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
まあ弟子もこういう話は興味を示す者と示さない者とではっきり
分かれていた。
ユキにも別に、理解を期待していたわけではない。
ぼくは小さく嘆息して言う。
﹁今回は幸いにも防衛が間に合ったから、数日は街に滞在すること
になるだろう。次に備えて、軍勢のうまい倒し方でも考えておくか
な﹂
﹁おや、やはりもう結界は使われないので?﹂
﹁一応な。手がかりが残っている可能性は低いとは言え、術の痕跡
は調べられるようにしておきたい﹂
ぼくは街へと戻るべく踵を返した。
歩きながらふと、気になっていたことを思い出し、口を開く。
﹁そういえばお前、何か気になることでもあったのか?﹂
﹁はい?﹂
﹁呪術思考の話をしていた時、なんだかぼーっとしていたようだっ
たから﹂
しばしの間、沈黙が流れた。
ぼくの足音だけが、街の外に微かに響く。
﹁⋮⋮いえ﹂
ユキが、おもむろに口を開いた。

1982
﹁お話を聞き⋮⋮腑に落ちたことが、あっただけでございました﹂
﹁腑に落ちたこと?﹂
ユキはためらいがちに言う。
﹁人が、単なる似姿に元の存在を見出す心を持ち、セイカさまもそ
の例外でないのなら⋮⋮﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁セイカさまが勇者の娘に、やや過分なほど入れ込んでいたのは⋮
⋮その姿に、弟子であったあの娘の存在を、見出していたためなの
だろう⋮⋮と﹂
ぼくは、足を止めた。
月明かりに照らされ、長く伸びた自分の影を見下ろしながら、静
かに答える。
﹁⋮⋮そうかもしれないな﹂
1983
第十九話 最強の陰陽師、戦姫に会う
数日後、ぼくたちはまたもや別の街にやってきていた。
幸い今回も間に合ったようで、ぼくの前では死霊兵の軍勢が、街
に向かって進行している。
﹁して﹂
ユキが、頭の上から小さく顔を出して言う。
﹁あれらのうまい倒し方は、なにか思いつかれましたか?﹂
﹁まあね﹂

1984
軽く答えながら、ぼくは片手で印を組む。
ちん
︽召命︱︱︱︱鴆︾
空間の歪みから、一匹の妖が姿を現す。
それは、一見すると普通の鳥のようだった。
猛禽のように大きな体。その全身は紫がかった黒に染まっており、
嘴のみが赤い。
てんじく
首の長い優美な影は、天竺に棲まうクジャクにどこか似ていた。
ぼくは死体の軍勢を指さし、その妖に向けて告げる。
﹁行け﹂
﹁ぽぽっ﹂
つづみ
鴆は、鼓を打ったような奇妙な鳴き声で答えた。
翼を広げ、妖が飛翔する。その姿も、普通の鳥と何も変わらない。
やがて鴆が軍勢の上空に差し掛かった時︱︱︱︱それは起こった。
﹁オ゛ッ⋮⋮﹂
小さな呻き声とともに、鴆の下を行軍していた死霊兵たちが次々
に倒れ始めた。
ただの一体も例外なく、足を止め体を強ばらせたかと思えば、地
に伏していく。そのまま起き上がる気配もない。
見ている限り、鴆は何もしていない。ただ飛んでいるだけだ。そ
れにもかかわらず、まるで見えない足が草むらを踏み倒しているか
のように、真下の死霊兵たちが倒れていく。

1985
その時、鴆に近づきすぎた一体の式神の視界が消えた。
別の視界でそちらを確認すると、媒体のヒトガタが朽ち、力を失
って空を落ちているようだった。
ユキが意外そうに言う。
﹁おや、死体にも鴆毒は効くのでございますね。セイカさまの毒の
煙は効きませんでしたのに﹂
﹁そりゃあな。妖が神通力で作った毒だ、普通の毒とは違う﹂
鴆は、その身に猛毒を宿す妖だ。
その毒が効果をおよぼす相手は、人や獣に限らない。田畑の上を
飛んだだけで作物は枯れ、樹に止まれば枝が朽ち、石ですらも割れ
崩れてしまう。
それだけ聞けば呪詛のようだが、鴆が毒の妖だと言われる由縁は、
羽根を酒に漬ければその劇烈な毒素を抽出できる点にある。この性
質により、鴆は古くから人々の間で毒殺などに利用されてきた。暗
殺を恐れた唐土の帝が、鴆の目撃された山を焼きはらったなどとい
う伝説まであるほどだ。
毒の強さはある程度コントロールできるようなのだが⋮⋮おそら
くあれでもまだ全力ではないだろう。
﹁⋮⋮どうやら、終わったようだな﹂
そんなことを考えているうちに、最後の死霊兵が倒れていた。役
目を終えた鴆が意気揚々と戻ってくる。
﹁ぽぽぽぽ﹂

1986
﹁ご苦労。ほら﹂
そう言ってパン屑を放ると、鴆は待っていたかのようにつんつん
と食べ始めた。
その姿はまるで鶏だった。妖とは思えない。
鴆は、クジャクと同じく毒蛇を好むと言われる。
しかし実際には、虫でも木の実でも米でもパンでも、やればなん
でも食べる。
毒が流れてしまうためなのか、妖には珍しく酒を好まないが、そ
ういうところも含めてほぼ鳥だった。
パン屑を食べ終えて満足そうにしている鴆を、位相に戻す。
それから、倒れている死体の群れの様子を、カラスの式神を飛ば
して確認していく。
﹁うん。予想通り、綺麗に倒せたな﹂
ただ
多少皮膚に爛れは見られるが、調べるのに支障はなさそうだった。
その爛れも、毒を抜けばいくらか薄まるだろう。鴆の毒は死体に
残るので、後で焼くにしろ周りに拡散しないようそうした方がいい。
と、この後の運びを考え始めた︱︱︱︱その時だった。
﹁⋮⋮ん?﹂
カラスの視界、倒れた死体の群れの中心に、一つの人影が立って
いた。
上等な全身鎧を纏い、剣を提げている。
周囲の死霊兵と比べると、ずいぶん充実した装備だった。兜に隠

1987
れて顔はわからないが⋮⋮鎧の形状や立ち姿から、女のように見え
る。
ぼくは眉をひそめる。
つい先ほどまで、あんなのはいなかったはずだ。
光属性魔法で、毒を回復できる死霊兵がいたのだろうか。確かめ
るべく、式神のカラスを降下させる。
全身鎧の騎士は、腰をかがめ、死体から何かを拾い上げていた。
カラスがさらに降下し、それが何かわかる。
どうやら死霊兵が武器にしていた、手斧のようだ。
不意に︱︱︱︱騎士が、カラスを振り仰いだ。
式神の視界を通じ、騎士とぼくの視線が交錯する。
﹁っ⋮⋮?﹂
次の瞬間、騎士がカラスに向け、手斧を投擲した。
刃物が迫ったかと思えば、式神の視界が消失する。
﹁⋮⋮!﹂
式神が落とされた。
驚いて、自分の視界に意識を戻す。
遠く佇む騎士は、ぼくを見ていた。
落とした式神ではなく、術士であるぼくを。
﹁ああ⋮⋮少々厄介そうな相手だ﹂
呟きながら、ヒトガタを浮かべる。
念のため妖を呼びだしておこうと、片手で印を組んだ⋮⋮その時。

1988
騎士の姿が、一瞬かき消えたかと思えば︱︱︱︱ぼくの目前で、
その剣を振り上げていた。
﹁⋮⋮っ!!﹂
振り下ろされた鋼の剛剣を、浮遊する銅剣が受けた。激しい金属
音が響き渡る。
ギリギリで比々留斫の召喚が間に合った。ただし、あまり状況は
よくない。
騎士の膂力は凄まじく、比々留斫は押されていた。柄の目玉が焦
ったようにぎょろぎょろ蠢いている。
なまくら
比々留斫と切り結べている時点で、剣も相当な業物だ。鈍ならば、
受けた時に逆に両断しているはず。
妖と騎士の鍔迫り合いによって生まれたわずかな時間で、思考を
整理する。
騎士が現れた瞬間、力の流れを感じた。転移魔法だ。ならば、闇
属性を使う魔法剣士の類か。
方針を決めると、ぼくは顔をしかめながら呟く。
﹁なかなか面倒だな﹂
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
騎士の足元から、太い蔦が伸び上がる。
それは鎧の上から巻き付き、騎士の体を拘束するかに思われたが。
﹁⋮⋮!﹂
力の流れが生まれると同時に、騎士の周囲に炎が巻き起こった。

1989
蔦はそれに飲まれ、あっけなく焼け落ちていく。
﹁火属性魔法か⋮⋮﹂
少し予想外の対応をされたが、残念ながらそれは悪手だ。
︽木の相︱︱︱︱蔓縛りの術︾
先ほどの三倍の量の蔦が、地面から噴出する。
鎧の不燃性を頼りに炎で燃やそうとも、いずれは伝わってくる熱
に中の人体が耐えられなくなる。同じ手は何度も使えない。
﹁⋮⋮ちっ﹂
小さな舌打ちの音。
同時に力の流れが生まれ、騎士の姿がかき消えた。
﹁そうだ﹂
そこで転移するはずだ。
ぼくは即座に、相手の剣が急に消えてつんのめっていた比々留斫
の柄を掴んだ。
そのまま、勢いよく背後に振るう。
それはぼくの背後に転移し、振り下ろされていた騎士の剣を弾い
ていた。相手の動揺の気配が伝わってくる。
一方で、ぼくも思わず顔をしかめていた。
﹁っ⋮⋮﹂
重い。

1990
気功術による膂力と、比々留斫の神通力が乗って、騎士の剣はな
お重かった。
しかし、それでも弾けた。狙い通りだ。
比々留斫が剣を受け、ぼくが術を撃ち放題になっていたあの状況
を、騎士は脱しなければならなかった。
それには転移しかない。そして最も不意を突ける移動先は、完全
に視界から外れる背後。
まあ、それだけに読みやすかったわけだが。
体勢の崩れた騎士へと、ぼくは一歩踏み込む。
剣の間合いの、さらに内側に入り、鎧に一枚のヒトガタを貼り付
ける。
︽陽の相︱︱︱︱発勁の術︾
騎士の体が、斜め上方に向かって撃ち出された。
︽発勁︾は殺傷効果こそないが、初見ではかなり対処しづらい。
普通なら何が起こったかすらわからないだろう。
空中に撃ち出せば、剣を突き立てて止めることもできない。高速
で飛ばされているあの状況では、移動先座標の指定が満足にできず、
転移もままならない。
とはいえ⋮⋮苦し紛れの転移などしたところで、無意味な手で仕
留める。
︽陽木火の相︱︱︱︱燈瀑布の術︾
巨大な炎の波濤が、騎士に襲いかかった。
燃え盛る油の波は、一面を火の海に変える。とっさの転移ではと
ても逃げ切れない。

1991
勝負が決するかに思われた、その時。
騎士の持つ杖剣に、強い力の流れが迸り︱︱︱︱次の瞬間、波の
進行を阻むかのように、虚空から巨大な氷塊が落下した。
﹁な⋮⋮﹂
氷に触れたところから、炎が消えていく。
油が冷え、燃焼を続けられる温度を下回ってしまったのだ。
騎士は体を反転させ、逆方向に凄まじい風属性魔法を放った。
反作用で︽発勁︾の勢いを止めると、空中で兜越しに、ぼくを睨
む。
﹁⋮⋮まずいな﹂
すぐさま比々留斫を後方に放り投げ、位相へと還す。単体で歯が
立たないなら邪魔なだけだ。
力の流れとともに、騎士の姿がかき消えた。そして一瞬の後、ぼ
くの眼前に現れる。
騎士は、剣を引き絞っていた。
次の瞬間︱︱︱︱空間すら裂かんばかりの刺突が繰り出される。
それはぼくの心の臓を正確に貫き、息の根を止める⋮⋮ことはな
かった。
騎士がその剣先に捉えたのは、ただ一枚のヒトガタ。
﹁転移はぼくもできるんでね﹂
後方の式と位置を入れ替え、騎士から間合いを空けたぼくは、す
でに印を組んでいた。

1992
騎士の足元に残していた、一枚のヒトガタに呪力を込める。
︽金の相︱︱︱︱針山の術︾
騎士を中心とした辺り一帯に、鈍色の巨大な棘の群れが突き出し
た。
転移による回避を許さない、再びの広範囲攻撃。だがこれで仕留
められるとは思っていない。
案の定、騎士は針山地獄を躱していた。
地を蹴り、さらには伸びてきた棘すらも蹴って、空中に逃れてい
る。
だが、ここだ。
︽土の相︱︱︱︱天狗髭の術︾
火山岩繊維の糸が、神速の鞭となって放たれる。
狙いは足。棘の先端を切り飛ばしながら、︽天狗髭︾が騎士に迫
る。空中ならば躱せないはずだ。
しかし。
ヂンッ、という音。
同時に、騎士の左右に屹立していた棘が糸によって切り飛ばされ
た。
騎士は剣を振り上げた体勢のまま、平らの断面を晒す棘の一つに、
その足で着地する。
ぼくは舌を巻いた。
騎士は下段からの斬り上げで、︽天狗髭︾の糸を切断したのだ。
ほとんど視認できない細さのうえ、高速で飛翔している強靱な糸

1993
を、初見で。
感心している場合ではない。振り上げられたままの剣には、大き
な力の流れが渦巻いている。
杖剣が振り下ろされたのと、ぼくがヒトガタを周囲に配置し終え
たのは、同時だった。
次の瞬間︱︱︱︱赤熱する巨岩が、虚空から大量に降り注いだ。
轟音とともに、周囲の大地が壊滅していく。
直撃する分は結界によって消滅するが、その高熱は空気を伝わり、
ぼくにまで届いた。
頬に痛み。指で触れると、血が滲んでいた。どうやら周囲で砕け
た石の破片が、飛んできて掠めたらしい。
身代による治癒が終わると同時に、魔法の隕石も止む。
騎士は、同じ場所に立っていた。さすがに消耗したらしく、息を
切らしたように肩を上下させている。︽天狗髭︾を切断した際に端
が掠めたのか、左の篭手からは血が滴っていた。
しかしその時、左腕に光属性魔法の淡い光が灯った。
ぼくはその意味を察し、呟く。
﹁治癒魔法まで使えるのか、あいつ⋮⋮﹂
光が消え、騎士が感覚を確かめるかのように篭手を開き、握った。
どうやら回復されてしまったようだ。
ぼくはわずかに苦い顔になる。
なかなかに剣呑な相手だ。
上位魔法を六属性分、完全無詠唱で発動している。さらには達人
と呼べるほどの剣技に、膂力と戦闘勘まで備えている。黒鹿童子を

1994
相手取っても、それなりにいい勝負をしそうなほどだ。
初手からずっと拘束を試みていたが、どうにも難しい。
普通の拘束方法では転移で抜け出されてしまうし、かといって即
死しない程度に痛めつけようにも、半端な術では今のように対処さ
れてしまう。他の目もある手前、目立つ妖も使いづらい。
小さく嘆息し、気持ちを切り替える。
苦戦の一方で、確信できたこともあった。
拘束が難しいなら、この場で対話を試みるのも悪くない。ぼくは
わずかに笑みを浮かべると、騎士に告げる。
﹁其の方は、どうやら死者ではなさそうだな﹂
いくらなんでも、こんな死霊兵はありえない。
もっとも、死霊術士でもないだろうが。
黙って返答を待つ。騎士は、息を整えるような間を置いた後、怒
鳴るように答えを返してきた。
﹁なにやってるんだ、お前っ!﹂
その声は高い。女のものだった。
それは予想していた通りだ。しかし、意外な部分もある。
これほどの実力があるにもかかわらず、強者らしい圧がない。な
んだか乱暴な子供のような喋り方だった。
そもそも、返答の意味もわからない。
﹁⋮⋮何? どういう意味だ、何が言いたい﹂
﹁なにやってるって訊いてるんだっ。もしかして、お前⋮⋮敵にな

1995
ったのかっ!? あいつはどうした!?﹂
﹁⋮⋮。悪いが、其の方がぼくに何を問いたいのかわからない﹂
ぼくは、嫌な予感がし始めていた。
人の身から逸脱したような強者の中には、精神が破綻している者
も少なくない。
まったく噛み合わない話の内容からするに、この女騎士もその類
である可能性がある。
﹁何をしているのかと訊かれれば⋮⋮見ての通りだ。帝国のため、
街を襲う死霊兵を倒している﹂
﹁はあ∼っ? 帝国のためっ? よくそんなでたらめが言えたな!﹂
女騎士が、怒りとともに叫ぶ。
﹁勇者の仲間が、この件に手を出すなっ!!﹂
﹁っ!?﹂
ぼくは衝撃に目を見開いた。
﹁なぜ⋮⋮そのことを知っている﹂
てっきり、死霊術士側の戦力なのではないかと思っていた。
だが、勇者の派遣を知る者は限られる。ならばこいつは宮廷の差
し金、あるいは皇帝の私兵か。
いや⋮⋮死霊術士側が、協力者から情報を得ている可能性も捨て
きれない。
混乱の中、ぼくはただ問う。

1996
﹁其の方は⋮⋮何者だ?﹂
﹁⋮⋮お前、思ったより無礼なヤツだな! アタシは⋮⋮﹂
と、その時。
女騎士を、炎と風と氷と砂礫の刃が襲った。
﹁うわっ!﹂
完全に不意を突かれた女騎士が、切断された棘の上から弾き飛ば
される。
ただ、思ったよりダメージがなさそうに見える。力の流れを見る
に、どうやらあの鎧も魔道具で、いくらか魔法を無効化しているよ
うだった。
﹁あははぁ、助太刀しますよーっ、おろかな人間!﹂
針山地獄の外側から、レンが叫んでいた。
らしくもなくどこか焦り気味に、上空へ振り抜いた魔法の刃を翻
す。
﹁さすがのあなたでも、 戦姫 相手は荷が重いようでっ﹂
﹁戦姫⋮⋮﹂
言葉を反芻すると同時に、再び刃となった魔法の群れが女騎士へ
と向かう。
先の攻撃で弾き飛ばされていた女騎士は、一際高く伸びた棘の先
端に掴まるようにして、針山の間にぶら下がっていた。
エルフ
間近に迫る極大の魔法と、それを操る少年森人の姿を見た彼女は、

1997
﹁はあっ!?﹂
と、困惑と驚愕が等分に混じり合ったような声を上げていた。
そんな女騎士に、レンの魔法が容赦なく襲いかかる。
途上にある棘が、ことごとく破壊されていく。やはりかなりの威
力だ。
だが彼女に到達する寸前、それは大幅に減衰していた。
女騎士の周囲には、円柱状に淡い光が灯っている。どうやら魔法
を無効化する結界であるようだ。
しかし︱︱︱︱光の円柱は、次第に削られ始めていた。
この女騎士の展開する結界でも、レンの魔法は防ぎきれないらし
い。
﹁く⋮⋮っ!﹂
悔しげな声を漏らして、女騎士の姿がかき消える。
転移した先は、レンとは反対側の、針山の外だった。
﹁お前たちのことは、報告しておくからなーっ!!﹂
そんな言葉を残し、女騎士の姿がまた消える。
どこにも現れない。空を飛ばしているカラスの視界で確認しても、
転移した先はわからなかった。おそらくだが、遠くに見える森にで
も逃げたのだろう。
ぼくは小さく嘆息する。
﹁いやあ、危ないところでしたね。おろかな人間﹂

1998
振り返ると、レンが小走りで駆けてきていた。
あまり体力がないのか、すでに額に汗が滲んでいる。
ぼくは訊ねる。
﹁あれが⋮⋮戦姫なのか?﹂
﹁え? ええ。そうなのでは?﹂
レンが額の汗を拭いながら、澄ました笑みで答える。
﹁もちろんボクも初めて見ましたけど。あれほどの強さで女騎士と
なれば、噂の戦姫しか考えられないでしょう﹂
﹁⋮⋮そうか。確かに、そうかもな﹂
反乱軍に先んじて来訪し、無類の強さで街を奪い取ってしまうと
いう戦姫。そんな噂があったこと自体、すっかり忘れていた。
当初は反乱軍の指導者の可能性を考えていたが、少なくともそう
ではないようだ。
ただ⋮⋮それ以外、何もわからなかった。
果たしてあれが、誰の駒なのかすらも。
再び嘆息する。
どうも、面倒事ばかり増える。 1999
第二十話 最強の陰陽師、墓穴を掘る
翌日。
まだ人気のない明け方の街を、ぼくは歩いていた。
昨日のうちに終わらなかった、死体の調査の続きをするためだ。
とはいえ、まだ城門の開く時間でもない。市壁にたどり着いたぼ
くは足を止め、街の外の式と位置を入れ替える。
﹁⋮⋮あれ﹂
目の前に広がった、死体の並ぶ平野。
そこに、一つの人影があった。

2000
﹁アミュ⋮⋮﹂
声が届いたのか、アミュは顔を上げてぼくを見た。
﹁あ、セイカ﹂
﹁⋮⋮何やってるんだ? こんな朝早くから﹂
アミュは地面に目を戻すと、再びシャベルを地面に突き立てなが
ら、言った。
﹁見てわかるでしょ。穴を掘ってるのよ﹂
それから、まるで言い訳のように付け加える。
﹁埋めてあげなきゃじゃない、この人たち﹂
アミュはそう言って、ちらと並ぶ死体に視線を向けた。
鴆の毒を抜いた元死霊兵たちの死体は、ほとんど損傷もなく穏や
かな死に顔を晒している。
いつから掘っていたのか。アミュの足元は、すでに広い範囲が掘
り返されていた。
ぼくはためらいがちに言う。
﹁別に、そんなことをしなくても⋮⋮﹂
すべて灰にしてしまえばいい。
これまでの街でだってそうしていた。

2001
しかし、アミュは手を止めることなく答える。
﹁しなくてもいいけど、したっていいじゃない。この辺りの地面、
あんたが戦姫とかいうのとやり合ったから、ぼこぼこになってたで
しょ?﹂
その場所は、ちょうどあの女騎士が隕石を落としていた場所だっ
た。
魔法の岩は一応解呪して消したが、散々に荒らされた地面はその
ままだ。
﹁だから、ちょうどいいかなって⋮⋮。殺されたうえに兵士にされ
て、もう一回死んだら焼かれるなんて、あんまりじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
この国では、死者は土葬にされる習慣があった。
それは宗教的なものだったが、別に景教︵※キリスト教︶や回教
︵※イスラム教︶のように、死後の復活思想があるわけではない。
ただ素朴な自然観から、死んだら土に還るものだという思想が受け
継がれてきただけのようだった。
火葬されることだって、まったくないわけではない。
ただ、それでも⋮⋮彼らの末路を哀れに思うことは、この国では
自然なことだった。
アミュは、手を止めることなく言う。
﹁別に、手伝ってほしいなんて言わないわよ。あたしが勝手にやっ
てるだけだから﹂
﹁⋮⋮﹂

2002
ぼくはしばらく、アミュが土を掘る様子を無言で眺めていたが⋮
⋮やがて、そのやたらに広い穴の縁まで歩み寄ると、位相からシャ
ベルを取り出し、無言で地面に突き立てた。
﹁⋮⋮﹂
ぼくが穴を掘り始めた様子を見ても、アミュは何も言わない。
言葉はなく、ただ二人の人間が墓穴を掘る音だけが、朝の平野に
響いている。
﹁⋮⋮どうやって、街を出たんだよ。城門は開いてなかっただろ﹂
ぼくが手を動かしたまま問うと、アミュは視線も合わさず答える。
﹁高い樹があったから、そこから壁の上に飛び移ったのよ﹂
﹁⋮⋮ははっ、よくやるよ﹂
思わず笑ってしまう。
アミュらしかった。
﹁⋮⋮ねえ﹂
しばらく沈黙が続くと、今度はアミュの方から話しかけてくる。
﹁ん?﹂
﹁死霊兵って⋮⋮死んだ人の魂を、死体に入れて操るのよね﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁じゃあ、そうやって操られていた人たちも、何かを感じたり、思
ったりしてたのかしら﹂
﹁⋮⋮﹂

2003
﹁あたしも﹂
アミュが、一瞬言葉を切る。
﹁あたしも、死霊兵に襲われた街で、残ってたやつを何体か倒した
わ。あの時は、こんなことして許せないって、思ってたけど⋮⋮で
も、あたしに斬られた人たちも、なんでこんな目に遭わなきゃなら
ないんだって、思ってたのかしら。怖いとか、苦しいとか、感じて
たのかしら﹂
アミュは、いつの間にか手を止めていた。
それでもぼくと目を合わせないまま、問いかけてくる。
﹁ねえ、セイカ⋮⋮あんたになら、わかる?﹂
ぼくは、わずかな時間言葉に迷い、それでも答える。
﹁霊魂は⋮⋮よく勘違いされるが、死んだ人の心そのものじゃない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁人の心は、物として存在しているわけじゃない。心とは構造なん
だ。頭の中で、複雑に発生している様々な現象。その総体的な構造
こそが、人の心になる﹂
ひよこをガラス瓶に密閉し、激しく振る。
ガラス瓶からは何も外に出ることはないが、しかしぐちゃぐちゃ
になったひよこからは、確かに大切な何かが失われている。
それが構造であり︱︱︱︱心であり、生命の本質だ。
﹁霊魂は、その構造が世界に焼き付いた、いわば残滓にすぎない。
時に元の人間に近い意識を持つこともあるが、それはとても本人と

2004
は言えない。無理矢理死体に入れたりすれば、さらに変質してしま
うだろう。死霊術は、いろいろな種類があるが⋮⋮どの方法を使っ
て蘇生させた死体も、生者とまったく同じ行動をとることはない。
だから、﹂
ぼくは、わずかにためらいながらも言う。
﹁君が倒した者たちが、苦しんだということはないよ﹂
ぎまん
欺瞞だった。
本当のところはわからない。ぼく自身が死霊兵になったことがな
い以上、確かなことは言えない。
ただ、それでも︱︱︱︱今生きている者のために、そう言わなけ
ればならない。
﹁ふうん⋮⋮よかったわ﹂
アミュの返事は、そんな短いものだった。
再び手を動かし始める。
﹁⋮⋮あたし、ちょっと甘く考えてたかも﹂
ぽつりと言ったアミュの言葉に、耳を傾ける。
﹁戦争って、こういうことなのね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁こんなことをしでかす奴らの思惑が巡って、たくさんの人が不幸
になって⋮⋮。知らなかったわ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あたしなら、きっとそういう人たちを助けられるって思ってたん

2005
だけど⋮⋮。これ、みんなあんたが倒したのよね? こんなことが
できるあんたですらお手上げなんて言うんだもん、ちょっと魔法と
剣が得意なだけのあたしが、なんとかできるわけなかったわね。勇
者なんて言われて、帝城にまで呼ばれて⋮⋮思い上がってたのかも。
あたし﹂
力強く土を掘り続けるアミュは、表情こそいつも通りだったが⋮
⋮どこかしゅんとしているように見えた。
﹁あんたの言うとおりだったわ。こんなことに、首を突っ込むんじ
ゃなかった﹂
﹁⋮⋮そうでもないさ﹂
ぼくは、気づくとそう言っていた。
﹁君が崩れた建物から助けた女の子は、ぼくたちが首を突っ込まな
かったらあのまま死んでいただろう﹂
﹁ねえ、セイカ﹂
アミュが地面にシャベルを突き刺し、こちらを振り向いて言った。
﹁あんた、死んだ人を生き返らせられるの?﹂
少女の若草色の瞳が、まっすぐにぼくを射貫いていた。
反射的に目を伏せ、呆れたように答える。
﹁できるわけないだろ、そんなこと﹂
﹁帝城から逃げる時⋮⋮あたしが馬車に乗った後、あんたとフィオ
ナが話してたのが、少し聞こえたのよね﹂

2006
アミュは目を逸らさない。
﹁その時はよくわかんなかったし、あたしの勘違いかなって思って
たんだけど⋮⋮謁見の間で、皇帝陛下が言ってたじゃない。死んだ
兵はいなかったって。ありえないわよね。城壁の上に詰めてた衛兵
とかもいたでしょうに、あれだけ破壊されて、誰も死んでないなん
てこと。あんた、壊した物をみんな元通りに戻してたけど⋮⋮あの
時元に戻したのって、本当に物だけ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁あんたがその気になれば⋮⋮この戦争で死んだ人、みんな生き返
らせられるんじゃないの?﹂
ぼくはわずかな沈黙の後、首を横に振った。
﹁無理だ。それは本当だ﹂
一度死んだ者を、生き返らせることはできない。
死者の完全な蘇生には、死んだ事実そのものをなかったことにす
るしかない。
世界の記録を書き換える、名前もついていない大呪術。ぼくには
それが可能だ。
しかし⋮⋮死から時間が経つほどに書き換えるべき記録は増して
いき、その難易度は加速度的に上昇する。
ぼくでも、おそらく一日分すら遡れないだろう。
戦で死んだ、多くの無辜の民どころか︱︱︱︱かつて病で亡くし
たたった一人の妻すら、生き返らせることはできなかった。
それに⋮⋮仮に可能であっても、ぼくがそうすることはないだろ
う。

2007
﹁⋮⋮そう。そうよね﹂
﹁君にそれができたなら、どうする?﹂
ぼくは、逆にアミュに問いかける。
﹁もし君が、死者を自在に蘇らせられたなら⋮⋮この争いで死んだ
者たちを、皆蘇らせたか? これから不幸に死ぬ者たちも、全員生
き返らせるか?﹂
アミュは、しばらく黙ったままだった。
しかしやがて⋮⋮首を横に振る。
﹁ちょっと考えてみたけど⋮⋮しないかも﹂
﹁⋮⋮どうして?﹂
﹁こんな言い方はあれだけど、あたしにはそこまでしなきゃならな
い理由がないし⋮⋮責任を取れないから﹂
アミュはぽつぽつと言う。
﹁たくさんの人を生き返らせられたら、きっとこの国が大きく変わ
っちゃうわよね。よくなるならいいけど、もしかしたら悪くなると
ころもあるかもしれない。そうなっても、あたしはどうしたらいい
かわからないし⋮⋮わからないから、怖い﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁そういうのってきっと、フィオナとか、皇帝陛下とか、あの第一
皇子とかの領分なんだと思う。世界を変えて、たくさんの人々の暮
らしを変える覚悟と才能のある人たち。能力があってもその覚悟が
ない、いざ世界が変わったらあたふたしちゃうような人間が勝手な
ことをしたら⋮⋮やっぱりよくないことになる、気がする﹂

2008
アミュが、ぼくを見ながら続ける。
﹁ラカナでスタンピードが起こった時、あんた最初、あたしたちだ
けを逃がそうとしてたじゃない?﹂
﹁⋮⋮ああ﹂
﹁あの時は、薄情なやつ! って思ったけど⋮⋮でも今ならあんた
が考えてたこと、ちょっとわかるわ。大変なことになるかもしれな
いものね。ラカナを助けたんだから、次はこの街を、この国を、こ
の戦争をーなんて言われたら。自分たちの命運に、責任を持てなん
て言われたら⋮⋮。そんな覚悟をさせちゃってたなんて、悪かった
わね﹂
﹁⋮⋮別にいい。そんな大げさなものでもないさ。あの街を救った
ことを、後悔しているわけでもない﹂
﹁そう? でも⋮⋮あたしがあんたくらい強かったとしても、助け
るのはやっぱり、周りにいる人たちだけにすると思う﹂
それから、アミュはぽつりと付け加える。
﹁人間を救うはずの勇者としては、失格なのかもしれないけど⋮⋮﹂
﹁いや﹂
ぼくは、小さく笑って言う。
﹁君らしいよ﹂
﹁⋮⋮なによそれ。薄情って言いたいわけ?﹂
﹁分をわきまえていることと、薄情であることは違う﹂
﹁あたし、分をわきまえてた?﹂
﹁今はな。これまではまあ、そうでもなかったかもしれないけど﹂
けな
﹁⋮⋮なに? これ貶されてる流れなの?﹂

2009
﹁そうじゃない﹂
笑みとともに告げる。
﹁世の道理を知って、それでも近しい者は当然に助けるつもりでい
るのが、君らしいって言ってる﹂
この子は、決して頭は悪くない。
少々青臭いところはあったが、いずれは世の中が綺麗事や理想論
ばかりで語れないことも、理解すると思っていた。
理解したうえで残ったのなら、その心がこの子の性根なのだ。
﹁⋮⋮なによそれ﹂
アミュが、ぷいと顔を逸らす。
再びシャベルを土に突き立てながら、ぽつりと言った。
﹁そんなの、あんただって同じじゃない﹂
2010
第二十一話 最強の陰陽師、見守る
﹁ずいぶん掘れたわねー﹂
アミュとともに墓穴を掘り始めて、数刻後。
地面には、かなり広大な穴が開いていた。
昨日女騎士が隕石を落とした跡も、ほとんどわからなくなってい
る。それを内包する範囲をすべて掘り返してしまったからだ。
穴の縁には、土の山が積み上がっていた。
ぼくも気功術で人よりはるかに力があるが、それでもアミュの底
なしの体力がなければ、たった二人でここまでは掘れなかっただろ
う。

2011
アミュは満足げに言う。
﹁これなら、全員入るんじゃないかしら!﹂
﹁ギリギリ入りはするだろうけど⋮⋮﹂
ぼくはわずかに渋面を作って言う。
﹁深さが全然足りないぞ。埋葬なら今の三倍、いや四倍は欲しい﹂
﹁む、無理ー!﹂
アミュがばったーん、と地面に仰向けに倒れた。
手を額にかざし、空を見上げながら言う。
﹁甘く見てたわ⋮⋮穴を掘るのって、こんなに大変なのね﹂
﹁そりゃ二、三千人分の墓穴だからな⋮⋮。二人でこれだけ掘れた
だけでも快挙だぞ﹂
ぼくは笑みとともに言う。
﹁あとはぼくがなんとかするよ﹂
﹁え?﹂
﹁ここから深くするだけなら、そんなに大変でもない⋮⋮って、ど
うした?﹂
アミュは仰向けのままなんとも言えない、ばつの悪そうな顔でぼ
くを見つめていた。
﹁またあんたの世話になるのね⋮⋮あたしが勝手に始めたことなの

2012
に。きっと最初から、あんた一人で掘った方が簡単だったんでしょ﹂
ぼくは少し笑って答える。
﹁何もないところからうまく穴を掘るのは、実はぼくでもけっこう
大変なんだ。いろいろ工夫しないといけないから⋮⋮。大変じゃな
くなったのは、手作業でここまで掘れたからだよ﹂
﹁変な慰めは要らないわよ﹂
﹁いや本当だって﹂
﹁はーあ﹂
アミュが盛大に溜息をつく。
﹁あたしほんと、一人じゃなんにもできないわねー⋮⋮。なんでも
できるほど強くないことくらい、わかってたはずなのに﹂
﹁なんだかずいぶん弱気になったな。帝都ではあんなに張り切って
たのに﹂
﹁ううん⋮⋮あたし、どうかしてたわよね﹂
アミュがばつの悪そうな顔になって言う。
﹁皇帝陛下にいろいろ言われてから、なんか、この国のためにがん
ばらなきゃーって気になっちゃって⋮⋮。依頼を断る気なんて、全
然起きなかったのよね。本当に一人でも、ここに向かってたかも﹂
﹁⋮⋮﹂
思い返せば⋮⋮皇帝の話術は確かに巧みだった。
かなり警戒していたはずのぼく自身も、気づいたら話に聞き入っ
ている瞬間があった。
加えて皇帝は、ほとんどアミュに向けて喋っていた。謁見の間の

2013
雰囲気と併せ、この子が飲まれてしまっても不思議はなかっただろ
う。
﹁⋮⋮まあ、仕方ないさ﹂
ぼくは、仰向けに倒れているアミュに手を差し伸べる。
﹁これからのことを考えよう。とりあえずそこ、どいてくれ。穴を
掘るのに、少し派手な方法を使うから﹂
﹁はぁい﹂
アミュがぼくの手を取り、立ち上がった。
その時。
﹁うわ、なんですかこれ﹂
少年の声が響く。
見ると、聖騎士レンがぼくたちの掘った穴を見下ろし、呆れたよ
うな表情を浮かべていた。
﹁おろかな人間二人で、妙なことでも始めるつもりですか?﹂
﹁妙なことなんかじゃないわよ﹂
エルフ
アミュが少年森人を睨んで言う。
﹁ただこの人たちを埋めてあげるだけ。悪い?﹂
﹁はい? 埋める?﹂
レンは心底呆れたとでも言うように、首を横に振った。

2014
﹁人間はおろかなものだと知っていたつもりではありましたが、ま
さかここまでとは⋮⋮﹂
そして、アミュに蔑むような視線を向けて言う。
﹁許すわけないでしょう、そんなこと﹂
﹁はあ?﹂
アミュが憤り混じりに言い返す。
﹁なんであんたにそんなこと言われなきゃならないのよ﹂
﹁ボクでなくとも同じことを言いますよ。これだけ大量の死体を、
それも死霊兵だったものを埋葬するだなんて⋮⋮何かあったらどう
するんです﹂
﹁なにかってなによ﹂
﹁土地の汚染や疫病の発生。敵の死霊術士が、死体にまだ何かを仕
込んでいる可能性だってあります。そのまま埋めるなんて危険すぎ
る﹂
﹁⋮⋮それは全部、対策できることだ﹂
ぼくも口を挟む。
﹁土の汚染や疫病は、深くに埋めれば問題ない。死体に何か仕込ま
れていたとしても、ぼくが事前にすべて消せる﹂
﹁いや⋮⋮その労力を使って、燃やす方が早くないですか?﹂
レンが半笑いをぼくに向ける。
﹁おろかな人間たちの中でも、あなたはまだマシな方だと思ってい
たんですけどね。セイカ・ランプローグ﹂

2015
﹁⋮⋮﹂
﹁あんたいい加減にしなさいよ。ここの人たちをどうするか、なん
であんたに命令されなきゃいけないわけ?﹂
﹁責任を取れるんですか?﹂
レンが笑みを消して言った。
アミュが困惑したような表情を浮かべる。
﹁え⋮⋮?﹂
﹁死体を埋めて、何かあったときに責任を取れるのかと訊いている
んです﹂
レンは真顔のまま続ける。
﹁水害が起こったり、獣に掘り返されたりして、死体が出てきてし
まったら? そのせいで疫病が発生したら? あるいは、消しきれ
ずに残っていた死霊術士の魔法が動き出したら? どうするという
んです﹂
﹁だ⋮⋮だから、そうならないようにするんじゃない!﹂
﹁ボクが訊いているのは事前の対策ではありません。万が一何かが
起こってしまった際の、対処のことです﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁数日後にはここを去るあなた方は、この街がこの後どうなろうと
知ったことではないでしょう。ですがここに住むおろかな人間たち
は、これからも住み続けなければならない。あなた方の勝手によっ
て住民が損害を被ったとき、彼らにどんな補償ができるのかと訊い
ているんです﹂
﹁⋮⋮﹂
アミュは答えられない。

2016
それも当然だった。
人々の暮らしに、自分は責任を持つことができない。それはつい
先ほど、アミュ自身が言ったことだったからだ。
﹁姫様ならば、責任を取れます﹂
レンが言う。
﹁その手腕と財力によって、姫様は自らの下した決断の責任を取る
ことができる。そこがあなた方と違うところです。姫様にこの場を
任されているボクは、そのような事態にならないよう、自らの才覚
をもって最善を尽くさなければならない⋮⋮。ボクとあなた方の、
立場の違いがわかりましたか? 勇者アミュ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁埋葬がこの国の風習なのか知りませんが⋮⋮おろかな人間のくだ
らない感傷を理由に勝手ができるほど、世界は軽くありませんよ﹂
言いながら、レンは魔石の短剣を鞘から引き抜いた。
そして、横たわる死体の群れを、見下すように見据える。
﹁それに﹂
半笑いを浮かべ、虹色の切っ先を真上に向ける。
短剣の周囲に大きな力の流れが生まれ︱︱︱︱極大の炎が空へと
立ち上がった。
短剣の先から発生したそれは、まるで巨大な炎の刃だ。
﹁無様に死んで、いいように操られるおろかな人間たちの末路など
︱︱︱︱灰が似合いでしょう﹂

2017
炎の刃が、死体の群れに振り下ろされた。
それが斬りつけた死体を炎上させ、灰に変える寸前。
﹁このっ!﹂
エルフ
アミュの杖剣の切っ先が、少年森人の短剣を跳ね上げていた。
だいぶ離れていたレンとの距離を、勇者の少女は一瞬で詰めてい
た。
﹁あははぁ﹂
炎を消し、飛び跳ねるようにレンが後退していく。
その顔には、愉快そうな笑みが貼り付いていた。
﹁やる気ですか、勇者アミュ! いいですねぇ、ちょうどボクも﹂
魔石の短剣を振り上げる。
そして、
﹁体が鈍っていたところですっ!﹂
その切っ先を、地面に突き立てた。
大地が隆起する。地中に発生した大量の巨岩が、勇者の少女を跳
ね上げていた。
﹁おい、何して⋮⋮っ﹂
ぼくが動こうとした、その時。
﹁セイカさま﹂

2018
耳元でユキが、制止するようにぼくの名を呼んだ。
﹁見守りましょう﹂
﹁はあ?﹂
﹁あの娘が始めたこと。始末は自分で付けさせるべきでございます﹂
ぼくはわずかに逡巡し、ヒトガタを懐に仕舞い直した。
﹁⋮⋮あの子の身代が割れるまでだ。それ以上は止める﹂
﹁はい﹂
転がるように着地したアミュを、腕ほどもある氷の刃が無数に襲
う。
嵐のごときそれを、アミュは叩き落としながら、隆起した大地の
陰に逃げ込む。
﹁いきなりなにすんのよっ!﹂
﹁こんなものですかぁ、勇者の力はぁ!﹂
エルフ
少年森人が短剣を振り上げる。
今度は、上空に大量の岩石が出現した。
﹁これなら 戦姫 の方がずっと強い!﹂
降り注ぐ岩石に追い立てられるように、アミュが大地の陰から転
がり出た。
続けて襲いかかる風の刃を、淡い光を纏った杖剣で弾く。
結界ほどの上位魔法ではないが、魔法を無効化する類のものであ
るようだ。

2019
しかし。
﹁くっ⋮⋮!﹂
レンの出力の前には、まったく足りていなかった。
三発目を受けた時点で、大きく体勢を崩す。
﹁そんな様で、どうやって人間を守るんですかぁ!﹂
レンが追撃の風魔法を放つ。
アミュはそれらを、体勢が崩れるに任せ伏せるようにして躱す。
そして、
﹁知らないわよっ、そんなの!﹂
瞬時に体勢を立て直したアミュが、炎と風の魔法を放った。
レンは避ける素振りすらなく、その姿は炎に巻かれて見えなくな
る。
アミュは何度も何度も、魔法を放ち続ける。
﹁このでかい国を、あたし一人でなにから守れって言うのよ! お
とぎ話の英雄の役目を、あたしなんかに押しつけないでっ!﹂
魔法が止む。
消耗したのか、アミュは肩で息をしていた。
﹁はあ。まるで子供ですね﹂
レンは同じ場所に、同じ姿で立っていた。
その周囲には、淡い光が微かに瞬いている。

2020
それは、戦姫が使っていた結界に近いもののようだったが⋮⋮力
の流れを見るに、数段洗練されていた。
﹁剣と体術はそこそこのようですが、魔法は話にならないレベルで
す。まあ多少巧みだろうと、ボクに届くことはないと思いますけど﹂
力の流れを観察している中で、理解した。
エルフ
人間の魔法と森人の精霊魔法という違いはあるものの⋮⋮こと魔
法に限れば、レンはあの女騎士よりも上だ。おそらく今もまだ力を
抑えている。
純粋な術士としてならば、この世界で出会った者の中で最強かも
しれない。
聖騎士の少年は魔石の短剣を弄びながら、どこか見下すように言
う。
﹁弱者として、民の一人として生きたいのなら勝手にすればいいで
しょう。でもそれなら﹂
レンが、短剣の切っ先をアミュに向ける。
その周囲に、力の流れが渦巻く。
﹁分をわきまえることです﹂
煌めく光の帯が、短剣から迸った。
ほとんど勘のような動きで、アミュが身をかがめて躱す。逃げ遅
れた数本の赤い髪が、光に貫かれて散った。
レンが短剣を振り抜く。
真横に薙がれた光線を、アミュは跳び退るように躱した。代わり
に喰らった大地が、横一文字に赤熱して溶解していた。

2021
縦横に振るわれる光の剣を、アミュはほとんど曲芸に近い動きで
躱していく。
命中こそしていないものの、距離も詰められず防戦一方だ。
﹁なん、なのよっ、この魔法は!﹂
﹁光の精霊による奥義ですよ、おろかな人間﹂
レンは半笑いのまま、短剣を振るい続ける。
﹁大丈夫、体のどこかが離れてもくっつけてあげます。首と胴体は、
ちょっと無理ですけど﹂
ぼくは、懐のヒトガタを掴もうとして⋮⋮手を止めた。
唇を噛む。
まだ、あの子の身代は割れていない。自分で決めたことだ。
﹁この⋮⋮っ!﹂
アミュが、土属性魔法の岩石弾を連続で放つ。
それらはレンの結界を前に消滅したが⋮⋮光の刃に対する、わず
かな遮蔽になった。
自らが放った岩に隠れるようにして、アミュがレンへと踏み込む。
地を這うように放たれた光の横薙ぎは、ギリギリの跳躍で躱した。
アミュは剣を引き絞ると︱︱︱︱流れるように、鋭い刺突を放つ。
一連の動きは、目が覚めるようなものだった。
初めて見る剣呑な魔法を前にして、常人にできる動きではない。
戦士としての才が、間違いなく彼女には備わっている。

2022
勝負を決するかに思われた一撃。
しかしそれは︱︱︱︱少年聖騎士の体を捉えることはなかった。
刺突が光瞬く空間を貫いたその瞬間。レンの姿が、力の流れとと
もにかき消える。
﹁転移だってできますよ、当然﹂
声は、アミュの背後から響いた。
少年聖騎士が、短剣の切っ先を勇者に向ける。
力の流れが渦巻く。
﹁あなたの負けです﹂
煌めく光の帯が、少女に向けて放たれる。
︱︱︱︱その次の瞬間。
振り向いたアミュの前に、激しく飛沫を上げる水の壁が出現した。
﹁っ!?﹂
レンが目を見開く。
アクアウォール
それは水属性魔法の中でも下位に属する、水壁の魔法だった。
はし
ヂュッ、という微かな音とともに、光線が水流の壁を奔り抜ける。
それはそのまま、少女の体をも貫いた。
いや︱︱︱︱貫いていない。
光線はアミュの体に当たるも、突き抜けることはなかった。
まるで、ただの光であるかのように。
水の壁を破り、少女が踏み込む。
そして、一閃。

2023
レンの傍らをすり抜けるように、アミュは魔石の短剣を激しく弾
いていた。
﹁なっ、くそっ⋮⋮!﹂
その強烈な一撃を喰らってもなお、レンは短剣を手放していなか
った。
焦ったように、その切っ先をアミュに向ける。
しかし、次の瞬間︱︱︱︱その虹色の剣身が、儚い音を立てて割
れ砕けた。
﹁あ⋮⋮ああぁーっ!?﹂
砕けた短剣を見たレンが、まるでこの世の終わりかのような叫び
声を上げる。
﹁な、な、なんてことを⋮⋮!﹂
﹁ごちゃごちゃうっさいのよ、あんたは!﹂
アミュは振り返ると、杖剣の切っ先をレンに向けて怒鳴る。
﹁そんなに言うならわかったわよ! 責任? 取ってやるわ! な
んかあったら呼びなさいよ! 力仕事でもなんでもしてやるから!﹂
腹立たしげな表情で、レンを睨むアミュ。
しかし、その雰囲気には⋮⋮どこか吹っ切れたようなものがあっ
た。
一方のレンは、地面にひざまずいて魔石の破片を集めながら、め
そめそしている。

2024
﹁こ、これ、どれだけ貴重な物だと思ってるんですかぁ⋮⋮﹂
﹁知らないわよ! あんたが始めた、喧嘩でしょっ!﹂
エルフ
アミュはつかつかと少年森人に歩み寄ると、その頭をひっぱたい
た。
レンは半泣きになっている。
﹁アミュ⋮⋮﹂
﹁あ、セイカ。どう? なんか久々に、勝負して勝った気がするわ
! 勇者の面目躍如じゃない?﹂
やや呆然としながら歩み寄るぼくに、アミュは笑顔を向けてくる。
晴れ晴れとした表情で、ずいぶんと機嫌がよさそうだった。
ぼくは訊ねる。
アクアウォール
﹁なあ、君どうして⋮⋮水壁なんて使ったんだ?﹂
﹁え? ああ、あれ。ええと、ほら、そいつの魔法、光の精霊がど
うとかって言ってたじゃない? 見た目も光ってたし、要するに光
ってことでしょ?﹂
アミュが、どう言えばいいか迷うかのように続ける。
﹁水って、ちょっと深くなると暗くなるし⋮⋮滴や泡があると、そ
の向こう側が見えにくくなったりするわよね。それって、光が届い
てないってことでしょ? だから、水で防げるんじゃないかなって﹂
アミュが自らの服を見下ろして、微かに残念そうな顔をする。
﹁あー、でもちょっと焦げちゃったわね⋮⋮。土属性の壁なら、も
っと完璧に防げたんでしょうけど⋮⋮それだと間合いを詰めるのに

2025
回り込まなきゃならなくなるから、やっぱりあれでよかったと思う
わ。うん﹂
﹁知ってたわけじゃ⋮⋮なかったのか。あの魔法の原理と、防ぎ方
を﹂
﹁知らなかったわよ。ただ⋮⋮﹂
アミュが、一瞬目を逸らして言う。
﹁あんたってわけのわかんない魔法使うけど、でもあれって全部、
いろいろ考えて使ってるんでしょ? だからあたしも、少しは考え
て戦ってみようかなって、思ったのよね﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
強く賢く、勇気のある者。
生まれではなく、そういった世間でイメージされる資質こそが勇
者の資格だったとしても⋮⋮この子は、やはり勇者である気がした。
﹁それはそうと﹂
アミュが、地面にひざまずくレンを睨む。
﹁あたしが勝ったんだから、ここの人たちは埋めてあげるから。わ
かった? このチビ!﹂
﹁なんなんですか、あなた方はぁ⋮⋮﹂
半泣きのレンが言う。
﹁姫様に迷惑をかけないでくださいよう⋮⋮﹂
﹁フィオナに迷惑はかけないよ﹂

2026
ぼくは、アミュに代わって答える。
﹁其の方が懸念するようなことが起こらないよう、ぼくが責任を持
って処置する。説明もぼくからしておく。彼女もわかってくれるは
ずさ﹂
﹁⋮⋮なんて、おろかな人間⋮⋮ボクがやめろって言ってるのに⋮
⋮このボクが⋮⋮﹂
レンは、跪いたままなおも不満そうにぶつぶつ呟いていた。
アミュが憤然と言う。
﹁あんたのせいで、せっかく掘った穴が滅茶苦茶になっちゃったじ
ゃない。まずは責任とって掘り直しなさいよ﹂
﹁ええーっ!? なんでボクが! っていうか無理ですよう、あな
たが宝剣を壊したから⋮⋮﹂
﹁なに言ってんのよ。剣がなくたって手と足が残ってるじゃない。
特別にシャベルも貸してやるわ﹂
﹁て、手作業で掘るんですかぁ? 死んじゃいますってー!﹂
レンがわめいているが、アミュはどうやら本気で掘らせるつもり
のようだった。
戦いの余波でだいぶ滅茶苦茶になってしまっているから、魔法も
なしに一人で元通りにするのは絶対無理だ。だから、たぶん嫌がら
せだろう。
まあ、墓穴については最終的にぼくがなんとかしてやるか。
﹁ようございましたね﹂
ふと、耳元でユキが言った。

2027
﹁このような機会も、必要でございましょう﹂
﹁⋮⋮そうだな。お前の言うとおりだったよ﹂
アミュは、何かを理解し、学んだ。
それはきっと、ぼくが世話を焼いてばかりいては、なし得なかっ
たことだ。
﹁少しは根性見せなさいよ、わかったわね!﹂
アミュが怒鳴っている。
見ると後ろの方でレンが、半泣きで地面にシャベルを突き立てて
いた。やっぱり本気で掘らせるつもりらしい。
﹁ところで、今さらなんだけど﹂
アミュがぼくを振り返って言う。
﹁あんたはあんな朝早くに、なんで街の外に出てきてたのよ。穴掘
り手伝わせちゃったけど、なんかすることあったんじゃないの?﹂
﹁ああ、死体を調べようと思ってたんだ﹂
すっかり忘れていた。
どうせ大して期待していなかったというのもあるが。
﹁何か、敵の手がかりになるような痕跡が残ってないかと思ってね﹂
﹁そういえば、今までの街でもやってたわね。じゃ、あたしも手伝
うわ﹂
﹁え、君が?﹂
﹁と言っても、身につけてる身元がわかりそうな物とか、外すこと
くらいしかできないけど﹂

2028
﹁あー⋮⋮そうだな﹂
これまでは燃え残った物のみ遺品として回収していたが、埋葬す
るのならそうした方がいいだろう。
アミュと二人、死体の並ぶ場所へと歩いて行く。
どこから手を着けようかと思案していると⋮⋮不意に、アミュが
声を上げた。
﹁⋮⋮あれ?﹂
その足は、一体の死体の前で止まっていた。
思わずそちらに目を向ける。
アミュの見下ろす死体は、特になんの変哲もないように見えた。
ろくな防具もなく、粗末な剣だけを身につけた、これまで散々見て
きたような中年男の死体。
にもかかわらず、アミュはその男の死体の前から動かない。
﹁⋮⋮どうした?﹂
さすがにいぶかしく思い、アミュへと歩み寄る。
アミュは、死体を見下ろしながら言う。
﹁この人⋮⋮なんか、見覚えある気がするんだけど⋮⋮﹂
﹁え⋮⋮?﹂
ぼくは、やや困惑しつつ訊ねる。
﹁もしかして⋮⋮君の知人だったか?﹂

2029
アミュは首を横に振る。
﹁そうじゃない、と思うんだけど⋮⋮どこかで見た気がするのよね
⋮⋮。あんたはどう? 見覚えない?﹂
﹁ええ⋮⋮?﹂
まさか、と思いつつあらためて死体の顔を見る。
ここ西方の地は、これまで過ごしたランプローグ領やロドネア、
ラカナなどからは遠く離れている。顔見知りがいるわけがない。
しかし⋮⋮その顔を見た瞬間、ぼくは確かな既視感を覚えた。
見たことがある。
だが、印象が薄い。どこの誰だったか⋮⋮。
﹁あっ! あ、あれ? でも⋮⋮﹂
アミュが突然、何かに気づいたような声を上げたと思いきや、直
後に困惑し始めた。
ぼくはすぐに訊ねる。
﹁どうした? 思い出したのか?﹂
﹁う、うん﹂
アミュがためらいがちにうなずく。
﹁この人⋮⋮あの人に似てない? ほら、死霊兵に襲われた街で女
の子を助けた時、一緒に瓦礫から引っ張り出したお父さん。死んじ
ゃってたけど⋮⋮﹂
ぼくは目を見開いた。
確かに⋮⋮似ている。

2030
﹁死霊兵にされちゃった、ってわけじゃないわよね。服が全然違う
し⋮⋮あの街の人たちは埋めてる余裕がなかったから、あんたたち
で火葬にしたのよね。じゃあ、兄弟かしら? もしかして双子?
もしそうなら、かわいそうね⋮⋮﹂
消沈したように呟くアミュ。
だがその声は、途中から頭に入って来なかった。
﹁まさか⋮⋮﹂
ぼくは、ただ呆然と呟く。
﹁これが、そうなのか⋮⋮? だとしたら⋮⋮﹂
第二十二話 最強の陰陽師、死霊術士に会う
夜の帳が降りようとしていた。
夕闇がさらに陰る時分。荒れ果てた街の広場を、十歳ほどに見え
る女の子が一人で歩いていた。その胸には、一冊の古ぼけた本が抱
きかかえられている。
死霊兵に襲われた街の、生き残りの一人だった。
広場に、他に人影はない。当座しのぎに片付けられた瓦礫が、無
造作に積み上げられているだけの、生気のない空間。女の子の他に
動くものは、数匹の蛍の光だけだ。
女の子は、広場に面した建物の一つ︱︱︱︱唯一窓から灯りが漏

2031
れているその家に、入っていこうとする。
だが扉に手を伸ばしたその時、広場の中心に立つぼくの姿を視界
に捉えたようだった。
﹁わ⋮⋮﹂
女の子は一瞬びくりとしたが、ぼくの顔をまじまじと眺めたかと
思えば、急に笑顔になる。
﹁あ⋮⋮お兄さん﹂
その小さな女の子は、ぼくとアミュが瓦礫の下から助けた子だっ
た。
笑顔のまま、その子は言う。
﹁戻ってきてくれたんですか? うれしいです! まだみんな、不
安で⋮⋮また、いつあれが攻めてくるかって⋮⋮お兄さんが戻って
きたって知ったら、きっとみんな安心すると思います﹂
ぼくは何も答えない。
女の子は笑顔で話し続ける。
﹁あれから、少しずつですけど⋮⋮わたしたちにも、元の生活が戻
ってきてるんです。今日はお芋と野菜が手に入ったので、スープを
作ったんですよ。あの赤い髪の女の人も来てるんですか? よかっ
たら、一緒にどうですか?﹂
ぼくは答えない。
妙な話だった。

2032
助けたこの女の子と、ぼくもアミュも、会話らしい会話をしてい
ない。
瓦礫から引っ張り出し、気を失ったように見えたこの子を、街の
避難場所に預けてそれきりだった。
普通なら、顔を覚えられているはずもない。
女の子は笑顔で話し続ける。
﹁お二人のおかげで、お父さんも元気になったんです。ほら、お父
さん!﹂
女の子が、家を振り返る。
扉が開き、灯りが漏れ⋮⋮そこから一つの人影が歩み出した。
ありふれた格好をした、どこにでもいそうな中年男。
﹁あ⋮⋮あぁ⋮⋮﹂
男は、ぼくではなく虚空を見つめていた。
半開きの口が、虚ろな言葉を紡ぐ。
﹁ああ⋮⋮ありが、とぉ⋮⋮﹂
﹁もう、お父さん! ちゃんと喋ってよ!﹂
﹁あぁりが、とぉ⋮⋮むす、すめを、たすすけけ﹂
﹁たすけて、くれれて、ありが⋮⋮とぉ⋮⋮﹂
別の声が響いた。
隣の暗い家から、一人の中年男が姿を現す。
ありふれた格好をした、どこにでもいそうな、まったく同じ顔の
男が。

2033
﹁かんんしゃ、して、ますす⋮⋮﹂
﹁たすかり、まし、まし⋮⋮﹂
西の路地から、二人の中年男が歩いてくる。
﹁しぬかとおもっ、おもったた⋮⋮﹂
﹁いきいきててて、よかったた⋮⋮﹂
商店と民家の屋根の上で、それぞれ中年男が立ち上がる。
﹁でもも、もっとはややく⋮⋮﹂
﹁はやくきて、きてきてくれれれば⋮⋮﹂
﹁あんなに、くるるしまなくて⋮⋮すんだだ、のに⋮⋮﹂
﹁なんでで、なんで⋮⋮﹂
﹁そんなにに、つよよくて、どうしてて⋮⋮﹂
瓦礫の陰から、建物の窓から、煙突の先から。
ありとあらゆる場所から、同じ顔の中年男が湧き出てくる。
﹁⋮⋮つまらなかったかね?﹂
女の子の姿をした、何者かが言った。
すでに、その顔からは笑みが消えている。
﹁残念でならないよ。せっかくこんな趣向を凝らしたというのに⋮
⋮。やはり生者の相手は難しいな﹂
口惜しそうに、死霊術士が言う。
その口調も話す内容も、幼い少女の姿にはまったく似つかわしく

2034
ない。
中年男の死霊兵に囲まれながら、ぼくは問う。
﹁ぼくの来訪を予期していたようだな﹂
﹁もちろん﹂
少女の姿をした死霊術士が、その容姿に不相応な、鷹揚な笑みと
ともにうなずく。
﹁小生は死霊術士だ。操る死体は人間ばかりではないよ。知ってい
たかね? 鳥の視界は人のそれよりも優れていることを。色だけは
妙なのだが、あれは人には見えない色が見えているのかもしれない
な﹂
死霊術士が、どこか得意げに語る。
普通、死霊術士が死体と視界を共有することはできない。目の前
の術士が語るそれは、一般的な死霊術からは大きく逸脱した技だっ
た。
﹁それにしても⋮⋮君もずいぶん奇妙なドラゴンを従えているね。
あれが死んだ際には、ぜひ譲ってもらいたいものだ﹂
﹁それは難しいな﹂
ぼくは静かに答える。
﹁あれの滅びを見ることなく⋮⋮今夜、其の方の命運は尽きること
になる﹂
﹁なんと、血の気の多い生者だ。しかし︱︱︱︱﹂

2035
ぼくに凄まれようとも、死霊術士にはどこか余裕があるように見
える。
﹁︱︱︱︱問答をする気はある。違うかね? 確か、そう⋮⋮セイ
カ君だったかな? 本名かは知らないが、君はあの時そのように呼
ばれていたね﹂
沈黙を保つぼくにかまわず、死霊術士は続ける。
﹁君には知りたいことがあるはずだ。同じ、術士の道を究めし者と
して。もっともそれは、小生の側も同様だがね。差し支えなければ、
こちらから始めさせてもらおう⋮⋮どうしてこの場所を?﹂
まるで哲学者のような口調で、死霊術士は問う。
ぼくは一拍置いて口を開く。
﹁距離の軛だ﹂
﹁ほう﹂
﹁どんな術も、距離が離れるほどに効果が弱まる。これほど広範囲
に広がる大量の死霊兵を操るには、工夫が必要だ⋮⋮其の方の工夫
が、それなんだろう﹂
ぼくは視線で、死霊術士の背後に立つ中年男の死体を示す。
﹁特別な、同じ形の死体を使い、術を中継させている。ぼくたちが
ここで瓦礫の下から引っ張り出した死体とまったく同じ顔の死体を、
別の場所で見つけた﹂
﹁ほう。それは運が良い﹂
死霊術士が感心したように言う。

2036
﹁中継役の死体は少ないのだがね。よく見つけたものだ。死者をま
とめて火葬に付してしまうか、あるいは顔がわずかにも傷つけば、
それだけで発覚することはないと踏んでいたのだが﹂
﹁運じゃない。死体を傷つけずに軍勢を無力化するなど、ぼくには
容易いことだ。状況にも慣れ、こちらにも余裕が生まれた。死者を
弔う程度の余裕が﹂
そう、決して幸運などではない。
アミュが死者を弔おうとしたからこそ。
レンに打ち勝ったからこそ。
敵の手を見抜き、ぼくはここにたどり着けた。
﹁こちらに運があったとすれば⋮⋮それは其の方が存外に間抜けだ
ったことだ﹂
﹁ふむ⋮⋮﹂
﹁その顔の死体を父などと呼ぶ者がいれば、何かあると考えるのは
当然だろう。今振り返れば、意味不明の一手だ﹂
﹁ふむ⋮⋮いや、参るね。その通りだよ。ただ、あの場ではそれが
最善手だと思ったんだ﹂
死霊術士が苦笑する。
﹁あの時小生が恐れていたことは、中継役の死体を調べられること
だった。余計な痕跡を残さないようにはしていたが、何か見落とし
があるかもしれない。住民の死体に見せかけたかったのだ。とっさ
の判断にしては、我ながら名演だと思ったのだが⋮⋮完全に裏目に
出たようだね﹂
死霊術士は語り続ける。

2037
﹁あれは、こちらにとっては不運な邂逅だった。この街は工房の一
つにするつもりで落としたのだ。しかし満足な態勢も整わぬうちに、
君たちがやってきてしまった。小生もずいぶん慌てたよ。瓦礫の下
に隠れたつもりが、うっかり赤髪の少女に見つかってしまう始末だ。
今回の広域実験にほころびが生ずるとすれば、やはりあそこからだ
ろうと思っていた﹂
ぼくは小さく息を吐く。
あの不可解な一幕には、なんらかの意図があるか、あるいは罠の
可能性も考えていたが、単に偶然が引き起こしたものだったらしい。
だが、不可解なことはまだ残っている。
﹁こちらからも問おう⋮⋮其の方の、その体はなんだ?﹂
ぼくは、眉をひそめながら続ける。
﹁中継役となる死体があるとすれば、それは術士の似姿だろうと思
っていた。だが実際にはまるで違うばかりか⋮⋮これだけのことを
やってのけるには、およそありえない姿をしている﹂
﹁⋮⋮小生にここまで迫ったにしては、退屈な問いだね。答える価
値を感じないな﹂
死霊術士は、どこか落胆したように言う。
﹁代わりに、秘密を一つ明かそう。周りにいる彼らを、よく見てみ
るといい﹂
広場を囲むように立つ、同じ顔の男たちを見回す。
よくよく観察すると、それはまったく同じ顔というわけではなか

2038
った。
わずかに太い顔、細い顔。丸い顔、角張った顔。色の白い顔、黒
い顔に、傷のついた顔もある。
首から下にも違いがあった。近い体型ではあるものの、太さや身
長が少しずつ異なる。
服装もだ。ほとんどがありふれた格好だが、中には鍛冶屋や料理
人の装束ばかりか、女物や子供が着るような服まで混じっている。
﹁⋮⋮まさか﹂
ぼくは呟く。
﹁これらは⋮⋮この街の住民だった者たちか﹂
﹁明察だ﹂
死霊術士が満足げにうなずく。
﹁君たちが助けた生者たちを、余すことなく使わせてもらったよ。
望みの形の死体を作るには、生きているうちから取りかからねばな
らない。この街に生き残りを用意したのも、元々これらの素体とす
るためだったのだ﹂
死霊術士が上機嫌に語る。
﹁死体の成形は元来とても面倒なものだったのだが、今回の広域実
験にあたり、治癒魔法を利用する手法を新たに開発してね。これが
我ながら、なかなかに画期的だった。多少間違えて切り刻んでも元
に戻せるうえ、肉の結着にかけていた時間を大幅に短縮できる。お
かげで短期間のうちにこれほどの中継用死体を用意できてしまった
よ。もっとも、死んでしまっては治癒魔法がかけられないために、

2039
素体が生きている間にすべてを終わらせねばならないという難点も
あるがね。体の動きを封じる呪詛が効きにくい者などは、処置の最
中に泣き叫ぶこともあって心が痛むのだが⋮⋮死んでしまえば皆同
じ。そのように考えて割り切ることにしているよ﹂
死霊術士の口調は、まるで自らの発見を興奮気味に語る学者のよ
うだった。
人の身から逸脱したような強者の中には、精神が破綻している者
も珍しくない。
目の前の術士はまごうことなく、そういった類の破綻者であるよ
うだった。
﹁何が目的だ﹂
ぼくは問う。
﹁何を求め、そこまでのことをする﹂
﹁求道だよ﹂
目の前の死霊術士は、当然のように答える。
﹁探究、それ自体が目的だ。他に何があると言うのかね? 死体と
ゼロ イチ
いう〇を、価値を持つ一へと変換する。死霊術には無限を超えた意
義がある。それは世界すら大きく変えてしまえるほどのものだ﹂
少女の姿をした術士が語る思想は、まさしく破綻者のそれだった。
死霊術士は憂うように続ける。
﹁とはいえ⋮⋮小生も、ただ多くの実験材料があればいいわけでは
ない。今回の広域実験は、支援者の意向によるものでね﹂

2040
﹁っ⋮⋮!﹂
﹁世知辛いものだ。探究には金がいくらあっても足りない。状態の
いい死体以外にも、必要な道具は多いのだよ。貴重な物はそれだけ
高く、たくさん必要な物も、やはり高くついてしまう。生者の中で
生きられない小生にとって、支援者の存在は欠かせないものだ。要
望にはなるべく応えねばならない﹂
﹁やはり⋮⋮協力者がいたのか。誰だ﹂
ぼくは鋭く問う。
﹁其の方の背後には誰がいる﹂
﹁おっと、それは答えられない﹂
死霊術士がにやりと笑う。
﹁生者と会話をするのは久しぶりでね。ついつい余計なことを喋っ
てしまったようだ。これ以上は許してくれたまえ﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
言いながら、ぼくは周囲にヒトガタを浮遊させる。
﹁ならば、其の方はもう用済みだ﹂
﹁問答はもう終わりかね?﹂
少女の姿をした死霊術士は、拍子抜けしたように目を瞬かせた。
﹁小生の研究成果を、もっと知りたくはないのかね? 先日はつい
に、雌の死霊鼠の受胎、出産実験に成功したのだ。仔はもちろん生
きているよ。理論上、これは人にも応用可能だ。生者の感情には明
るくないが⋮⋮配偶者を亡くした男などは、喜ぶのではないかね?﹂

2041
﹁興味が持てないな﹂
周囲のヒトガタが、呪力の漏出により青く瞬く。
﹁其の方に教えを請うことは、何もない﹂
﹁⋮⋮残念だよ。ではこちらも、この問いで最後にするとしよう﹂
死霊術士が、ぼくをまっすぐ見つめて告げる。
﹁君は何者だ?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁小生は死霊術を究めるため、あらゆる魔法や、それに関わる物事
の知識を蒐集した。今やどのような研究家にも負けない自負がある。
その小生をもってしても、君の力は理解不能だ。不可思議な召喚術
によって喚び出される、奇妙な剣やドラゴン。原理すら不明の符術。
何から何まで、小生の知識にはないものだ﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁少年よ⋮⋮それらをどのようにして会得した?﹂
死霊術士の目には、深淵を見通そうとするかのような光が宿って
いた。
ぼくは、わずかにも表情を変えることなく言う。
﹁答える気はない。答えたところで、其の方には理解できないだろ
う﹂
﹁ふ⋮⋮そうか。ならば小生も、君に用はなくなった﹂
少女のたおやかな手が、抱えていた本を開く。
凄まじい力の流れとともに、ページから光の粒子が噴出した。
それは死霊術士の背後に流れ、次第に実体化していく。

2042
﹁最後に、小生の最高傑作を見せてあげよう﹂
姿を現したそれは︱︱︱︱奇怪なドラゴンだった。
翼を持った、本来のドラゴンの体。そこから、七つもの異なる首
が生えている。
元々のドラゴンのもの。どこか華奢なヒュドラのもの。目を持た
ないワームのもの。三角形に近いワイバーンのもの。魚鱗に覆われ
たシーサーペントのもの。尋常な首はここまでだ。残り二つは、背
景が透けて見える霊体のような首と、長い頸部の先に据えられたた
だ一つの赤い巨眼だった。
およそありえない造形だった。
元々多頭を持つヒュドラにすら、このような種はいないだろう。
頭部が重すぎるのか、全体が前のめりになっている。体表の鱗すら
も、ところどころで色や形状が違っていた。
﹁どうだね?﹂
どこか自慢げに、死霊術士が言う。
﹁用いた素体だけで、城が建つほどの価値を持つ一体だ。小生の探
究の結晶だよ。君の感想をぜひ聞かせてほしかったところだが⋮⋮
さすがにもう、口が利けないかな﹂
死霊術士が愉快そうに言う。
継ぎ接ぎドラゴンの霊体と巨眼の首が、今もぼくに劇烈な呪詛を
送っていた。
赤い巨眼の邪視によって動きが妨げられるとともに、霊体の首の
呪いによってぼくの全身に楔形の呪印が浮かび始める。

2043
あの霊体の首は、おそらく亜竜の一種であるカースドラゴンのも
の。赤い巨眼は大きさからしてサイクロプス、その邪眼個体から摘
出したものだろうか。
﹁君を死霊兵にすることは、残念だけど諦めよう。そこまで甘い相
手ではなさそうだからね﹂
残る五つの首が、大きく引かれた。
大きな力の流れが渦巻き始める。
死霊術士が、鷹揚に告げた。
﹁では、跡形もなく死にたまえ﹂
ブレス
継ぎ接ぎドラゴンが、息吹を吐き出した。
ドラゴンの口から炎が、ヒュドラの口から毒気が、ワームの口か
ら溶岩が、ワイバーンの口から風刃が、シーサーペントの口から水
流が放たれ、広場に荒れ狂う。
その凄まじい反動により、継ぎ接ぎドラゴンの巨大な上半身が一
瞬浮き上がっていた。
中年男の死体たちが、ただの余波のみで燃え上がり、刻まれ、飲
み込まれ、流されていく。
仮に直撃すれば、尋常な人間なら死霊術士の宣言通り、跡形もな
く消滅していただろう。
︱︱︱︱だが。
﹁⋮⋮感想、か﹂
ブレス
莫大な出力の息吹は、どれ一つとしてぼくに届くことなく消失し
ていた。
ヒトガタに囲まれた結界の中で、ぼくは死霊術士に告げる。

2044
ブレス
﹁バランスが悪く見えた頭部が息吹の反動を相殺していたのは、意
外に機能的に思えた。ただ︱︱︱︱﹂
口も体も、動きに支障はない。呪印も、結界を張る前に消えてい
た。
あの程度の呪詛など、対処の必要すらない。
﹁︱︱︱︱やはり致命的に、趣味が悪いな﹂
﹁⋮⋮驚いたね﹂
光の円柱の中で、死霊術士が強ばった笑みを浮かべる。
その傍らには、いつの間に喚び出したのか、神官姿の死霊兵が二
ブレス
体立っていた。おそらく息吹の余波を防ぐため、二体がかりで解呪
の結界を張らせたのだろう。
ブレス
﹁その結界は一度見ているが⋮⋮今の息吹すら防いでしまうのか。
小生が知る符術の結界に、そこまで優れたものはなかったはずだが
ね﹂
﹁さあ? 其の方の知見が狭いだけだろう﹂
言いながら、ぼくは新たに位相からヒトガタを引き出す。
そして、口だけの笑みとともに告げる。
﹁面倒な動く死体も、これだけで静かになる﹂
言葉と同時に、ヒトガタを散らした。
それは瞬く間に四方八方へ飛び、街を囲むように配置されていく。
軽く印を組む。
各ヒトガタに呪力が込められ︱︱︱︱街一つを包み込む、巨大な

2045
結界が完成した。
死体がどうなってもかまわないのなら、死霊兵の相手など簡単だ
った。
ただ、解呪して死体に戻してやればいい。そしてそれは、陰陽術
の得意とするところでもある。
予想通り、結界が完成した瞬間⋮⋮残った中年男も、神官の死霊
兵も、継ぎ接ぎドラゴンも、糸が切れたかのように体勢を崩す。
︱︱︱︱だが。
﹁っ⋮⋮!?﹂
﹁ふふ﹂
結界によって術を解かれたはずの死霊兵たちが、倒れることはな
かった。
一瞬体勢は崩したものの、すぐに何事もなかったかのように立ち
上がっている。
ぼくは、事態を理解できない。
﹁どうなっている⋮⋮?﹂
﹁一度見た、と言っただろう? 当然、対策も考えてある﹂
不敵な笑みとともに、死霊術士は言う。
﹁その結界は呪符を頂点とした、立体の範囲に展開される。そこに
隙があるのだよ。呪符は地下に潜らせることはできない。そのため、
地下にその効果がおよぶことはない﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁したがって、地下に魔法陣を仕込み、術を維持しつづけることで

2046
回避が可能なのだ。接地面からの魔力供給が無効化されないかは賭
けだったが⋮⋮どうやら、小生は勝ったようだね﹂
陰陽術の結界を攻略してみせた敵の術士に、ぼくは沈黙で答える。
指摘は事実だった。
結界の張り方にもよるが⋮⋮ぼくがよく使うものは、地下までは
効果がおよばない。
ただ、まさか遠隔で一度見ただけの術士に、このような形で攻略
されるとは思わなかった。発想も、それを実現する技術も、はっき
りと常人の域から外れている。
ただの異常者ではない。
前世でも見たことがないほどの、道を究めた死霊術士。
﹁とはいえ﹂
死霊術士が、神官の死霊兵を振り返って言う。
﹁やはり死霊兵の使う魔法は無効化されてしまうようだ。この分な
ブレス
ら息吹も無理だろうね。しかし、問題はない﹂
突然、広場の石畳が大きな音を立てて弾け飛んだ。
地面の下から、何か大きな影が立ち上げる。
﹁オ゛⋮⋮オ゛ぉ⋮⋮﹂
二丈︵※約六メートル︶近くもある巨大な人型の死体。それはど
うやら、巨人であるようだった。
次々と、地下から死霊兵が湧き出てくる。
オーガ ゆうじん
赤い肌の鬼人の死体。黒い毛並みを持つ熊人の死体。戦斧を持っ

2047
た、大柄な悪魔の死体までも。
﹁こんなこともあろうかと、地下には召喚用の魔法陣も仕込んでお
いた。とっておきの、魔族の死霊兵たちだよ。生半可な剣や魔法は
肉体だけで跳ね返し、人間など素手で引き裂いてしまう。結界が通
じないこれらを相手に、君はどう戦う?﹂
死霊術士が、突撃の号令を下す。
﹁願わくば、綺麗に死んでくれたまえ﹂
魔族の死霊兵たちが、地を蹴った。
ぼくはすでに、一枚のヒトガタを浮かべている。
小さな嘆息とともに、呟く。
﹁まあいいか﹂
片手で印を組む。
﹁どうせ、最後にはこうするつもりだったんだ﹂
がき
︽召命︱︱︱︱餓鬼︾
空間の歪みから︱︱︱︱大量の妖が湧き出てきた。
﹁む?﹂
死霊術士が動揺の声を上げ、死霊兵たちも足を止める。
気味の悪い姿をしたその妖は、魔族の体格と比べるまでもなく、
小さかった。

2048
人間に近い形ではあるが、その背丈は子供ほどしかない。加えて
ひどく痩せ細っており、まるで飢餓に直面した孤児のように、腹だ
けが張り出している。
その目は、飢えを満たす物を求め、暗く輝いていた。
餓鬼たちは、地面に降り立つやいなや駆け出した。
そして、最も近くにいた巨人の死霊兵の足首に、一体の餓鬼が噛
み付く。
巨人が抵抗する間もなく︱︱︱︱その部分が、青い炎をあげて消
失した。
﹁オ゛ッ⋮⋮﹂
バランスを崩し、巨人の死霊兵が倒れる。
倒れた巨体に他の餓鬼が群がり、食らいつく。噛み付かれたとこ
ろから、巨人の体は青い炎とともに消失していく。数度瞬きする間
に、その大きさは半分ほどになってしまった。
同じことが、広場のあちこちで起こっていた。
オーガ
下半身を消され、鬼人が倒れ伏す。上半身を消され、熊人が足だ
けで立ち尽くす。片腕を消された悪魔の死霊兵が戦斧を振り下ろす
も、餓鬼はその刃にすら食らいつき、青い炎とともに消失させた。
見る間に、悪魔の死体は頭だけになった。
﹁なん、だというのだ⋮⋮これは、いったい⋮⋮﹂
目の前に広がる光景を愕然と見つめながら、死霊術士が呟く。
﹁グル゛ル゛オ゛オ゛オ゛ォォォ⋮⋮ッ﹂

2049
継ぎ接ぎドラゴンが絶叫をあげ、暴れていた。
首や尾が振るわれ、周囲の建物が崩壊していく。
見ると、その巨体のそこかしこに、餓鬼が食らいついていた。
厳めしい鱗をものともせず⋮⋮そればかりか、霊体でできている
はずのカースドラゴンの首にすら噛み付いて、青い炎とともに消失
させていく。
その体は、目に見える速度で小さくなっていった。
﹁ありえない⋮⋮﹂
今や失われようとしている、最高傑作の継ぎ接ぎドラゴンを振り
仰いで、死霊術士が呆然と呟く。
﹁なんだ、あの奇怪なゴブリンは⋮⋮腹に収まる以上の体積を、消
失させている⋮⋮? 転移魔法の類なのか? いやしかし、そのよ
うな形跡は⋮⋮﹂
﹁あれは哀れな妖でね﹂
ぼくは独り言のように言う。
﹁常に飢えているが、決して何かを食することはできない。口に入
れたそばから、あらゆるものがあのように燃え、消えてしまうんだ。
生前に欲深かった者が、死後に罰を受けた姿とも言われている﹂
もちろんそれはただの迷信で、餓鬼という妖がそのような性質を
持っているだけだ。
噛み付いたものを消失させる現象も、餓鬼自身の神通力によって
引き起こしている。

2050
﹁はあ?﹂
まるで馬鹿げた冗談を聞いたかのように、死霊術士が引きつった
笑みを浮かべた。
﹁はは⋮⋮なんだそれは。馬鹿馬鹿しい。そのようなことがあるも
のか⋮⋮。人は死ねば、それまでだ。抜け殻である死体と、残り香
のような霊魂が残るだけ。そのはず⋮⋮そのはず、なのだ。だが⋮
⋮﹂
死霊術士が頭を抱える。
﹁⋮⋮わからない。あれの生態も、原理も。あれがどのようなモン
スターなのか、なぜあのような現象が起こっているのか⋮⋮小生に
は想像もつかない。なんということだ、なんと、なんと⋮⋮﹂
死霊術士は、少女の顔に喜悦の表情を浮かべる。
﹁なんと⋮⋮すばらしい! 小生に計り知れぬことが、世界にはま
だまだ存在しているようだ! 道は続いている⋮⋮小生の究めるべ
き道は、まだ到底見通せぬほどに⋮⋮あぐっ!﹂
呻き声をあげて、死霊術士が倒れる。
その両足に、二体の餓鬼が食らいついていた。
皮膚の垂れた醜悪な口元に、青い炎があがる。
﹁ああ⋮⋮はは。いい痛い⋮⋮﹂
死霊術士は自らに噛み付く餓鬼を振り向くと、短くなっていく足

2051
を認めて、泣き笑いのような表情を浮かべた。
﹁ふ、不思議だ⋮⋮噛まれた先の感覚が、一瞬でなくなっていく。
まま、まるで、この世から消えているかのようだ⋮⋮ああ、痛い、
痛い⋮⋮ふふ。いいぞ、これは⋮⋮これは、きっと⋮⋮﹂
その目に、冷徹な光が差す。

﹁次に生かせる﹂
﹁其の方に、次があると思うか?﹂
ぼくは、死霊術士の体を喰らう餓鬼を呪力で止めながら言った。
いつのまにか、周囲には何もなくなっていた。
魔族の死霊兵も、継ぎ接ぎドラゴンも⋮⋮そればかりか、瓦礫や
民家でさえ。
すべて、飢え続ける妖によって跡形もなく消されていた。
餓鬼が集まってくる。
唯一残った食物である死霊術士の体を、暗く輝く目で見つめてい
る。
﹁無論、あるとも﹂
下半身の大部分を消され、地面に這いつくばる死霊術士が、笑っ
て答える。
﹁よもや、君が最初に発した問いの答えが、まだわからないとは言
うまいね?﹂
ぼくは小さな舌打ちとともに言う。

2052
﹁やはり⋮⋮その体は死体か﹂
可能性はあった。
少女の体が本体ならば、中継役の死体をあのような容姿にする理
由がない。
ただ、確信が持てずにいたのだ。
死霊術によって蘇った死体が、生者とまったく同じ行動をとるこ
とはない。
この少女の体は、まるで生者のように振る舞っていた。
これほどに精密な操作をなしえる死霊術は、ぼくの理解をはるか
に超えたものだった。
﹁ふふ。敵に自分を晒すなど、三流の死霊術士がやることだ。小生
が、その程度の腕前に見えたかね?﹂
餓鬼の群れに囲まれながら、どこまでも余裕の表情で、死霊術士
は言う。
﹁失策だったね﹂
﹁何⋮⋮?﹂
﹁君のモンスターが何もかもを食い尽くしてしまったおかげで、君
は小生への手がかりを完全に失ってしまった。もう、再び相見える
ことはないだろう﹂
﹁別にかまわないさ﹂
死霊術士を見下ろしたまま⋮⋮飢えた妖の群れに、ぼくは号令を
かける。

2053
﹁︱︱︱︱食い尽くせ﹂
餓鬼たちが一斉に、死霊術士へと群がった。
残っていた少女の上半身が、激しい炎とともに一瞬でこの世から
消失した。
妖を戻す位相の扉を開きながら、ぼくは呟く。
﹁どうせ、手がかりなんて残していなかっただろう。それに︱︱︱
︱﹂
生者の失われた街を振り返り、わずかに表情を歪めた。
﹁︱︱︱︱あの子にこれ以上、墓穴を掘らせるわけにはいかないか
らな﹂
第二十三話 最強の陰陽師、選択を迫られる
死霊術士と相対し、拠点の一つを壊滅させた、数日後。
ぼくたちの下に、反乱軍消滅の報せが入ってきた。
各地にいた死霊兵たちは一斉に機能を停止し、その後新たな動き
もないという。
理由は不明だ。
あの少女の死霊兵が実は重要な役割を果たしていたのか。あるい
は中継死体を製造していた大きな拠点を失ったために、これ以上の
侵略を諦めたのか⋮⋮。
確かなことは、何もわからなかった。

2054
一つ言えるのは、結局帝国軍が到着しないうちに、勇者の役目は
終わりを迎えてしまったということだ。
ぼくたちは、帝都へ戻ることとなった。
****
豪奢な回廊を、一人歩く。
帝都へ戻ったぼくは、再び帝城を訪れていた。
呼び出されたためだ。
あの不自然に凡庸な皇帝、ジルゼリウス・ウルド・エールグライ
フに。
アミュでも、フィオナでもなく、ぼく一人が。
帝城を無言で進む。
城内が広すぎるためか、回廊には使用人の姿も見られない。
ただ。
﹁⋮⋮﹂
ぼくは足を止めた。
回廊の先、ぼくの正面に、一つの人影が立っていた。
﹁やあ﹂
杖をついたその人物が、左手を軽く掲げた。

2055
﹁聞いたよ。陛下に呼び出されたんだってね﹂
色眼鏡の青年が、笑みを作って言う。
第一皇子の、ヒルトゼール・ウルド・エールグライフだった。
﹁⋮⋮これは、ヒルトゼール殿下﹂
﹁いいよ、虚礼は好まない﹂
貴族の礼をしようとするぼくを、ヒルトゼールが止めた。
﹁陛下からは、どのような名目で?﹂
﹁さあ⋮⋮。わかりません。何も聞かされていませんので﹂
ぼくは、わずかに目を伏せて答える。
何も聞かされていないのは本当だった。
﹁ふうん?﹂
ヒルトゼールは、ぼくの返答を聞いて意外そうな顔をした。
﹁しかし、不思議だね。勇者と共にではなく、君一人が呼ばれるな
んて。でも⋮⋮きっと、嬉しい用向きに違いない。なんと言っても、
本当に反乱を鎮圧してしまったのだから﹂
穏やかな笑みとともに、ヒルトゼールは言う。
﹁反乱軍の実態が死体の軍勢で、あの反乱はその実、死霊術士が単
独で起こした暴動だったと聞いた時は僕も驚いたよ。しかし、今や
その脅威も去った。君たちのおかげでね。きっと褒賞が贈られるこ
とだろう﹂

2056
﹁いえ、とんでもない﹂
ぼくは静かに、首を横に振る。
﹁ぼくたちは大したことはしていません。ただ、軍勢の一部を無力
化しただけです。帝国が手を打ったのでないなら、反乱の収束は敵
が手を引いただけのこと。褒賞など過分です﹂
﹁謙虚だね。その姿勢は好ましいよ﹂
ヒルトゼールが変わらない笑みで言う。
﹁ただ⋮⋮自分の功績は、きちんと認めた方がいい。自分のために
も、目を掛けてくれる者のためにもね﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁一つ、聞かせてくれないか? セイカ・ランプローグ君﹂
ヒルトゼールが、ぼくをまっすぐに見つめて問う。
﹁僕の配下の者から報告が上がってきた。陥落した街の一つに、何
やらおぞましい実験の跡が見つかったと。おそらく敵の死霊術士が
拠点としていたのではないかということだ。ただ、そこには死霊術
士の姿も死霊兵もなく、代わりに大規模な破壊の痕跡と、広範囲の
異様な更地が存在していた﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁死霊術士がそれをなしたと考えられなくもないが⋮⋮しかし死霊
術という魔法の特性を鑑みれば少し奇妙だ。破壊はともかく、ただ
死体を操るだけでは、瓦礫すら残さない完全な更地を作ることなど
できるはずもない。思うに、死霊術士は自らの拠点で何者かと戦闘
になり⋮⋮敗北した。異様な更地は、その何者かがなしたものだ﹂
﹁⋮⋮﹂

2057
﹁君かい?﹂
皇子の問いが、ぼくを射貫く。
﹁君がやったのか︱︱︱︱セイカ・ランプローグ﹂
ぼくは、目を逸らして答える。
﹁何をおっしゃっているのか、ぼくにはわかりかねます﹂
﹁僕の配下になれ﹂
ヒルトゼールが告げた。
青年は、すでにその顔から笑みを消していた。
ぼくは視線を上げ、その闇色の色眼鏡に隠れた目を見返す。
﹁僕ならば、あらゆるものを与えられる。金でも権力でも、君が望
むあらゆるものを。その代わりに︱︱︱︱君の力を、僕に貸すんだ。
セイカ・ランプローグ﹂
﹁殿下は⋮⋮ぼくに、何を望むのですか﹂
﹁帝位﹂
第一皇子は、迷いなく答える。
﹁僕が望むのは、ただそれだけだ﹂
重い重い、沈黙が訪れる。
その間も、ぼくら二人の視線は交錯していた。
しかし、やがて⋮⋮ぼくは目を閉じ、首を横に振った。
﹁できません﹂

2058
答えは、そう決まっていた。
﹁たとえぼくが、金や権力を必要としていたとしても⋮⋮あなたの
配下になることは、決してないでしょう﹂
﹁それはなぜ⋮⋮っ﹂
ヒルトゼールが、急に言葉を止める。
その視線は、ぼくの眼前に飛ぶ光を追っていた。
昼間にはあまり目立たない、微かな緑色の光。
蛍だった。
﹁実はぼくも、少しばかり死霊術を使えるんですよ。あの術士の死
霊術とは系統も違えば、技術的にも比べものにもならない代物です
が﹂
陰陽道にも、反魂の法が存在する。
それはいわば邪道であり、秘術の類ではあったが、ある程度力の
ある術士ならば手順さえ知れば使うことができた。
﹁この蛍は死骸です。さしずめ、死霊蛍といったところでしょうか﹂
ぼくは軽く指を上げ、死霊蛍を止まらせる。
緑色の光が明滅する。
﹁殿下。あの首飾りを、今も身につけられていますか?﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁パーティーの時につけられていた、蛍を模した魔道具の首飾りを。
もし身につけられているのなら、今一度見せていただけませんか?﹂

2059
わずかな沈黙の後⋮⋮ヒルトゼールはおもむろに、服の中から首
飾りを引き出した。
蛍を精巧に模した、ペンダント。
それが今︱︱︱︱微かに明滅していた。
死霊蛍の光る様を、そのまま写すようにして。
ぼくは語り始める。
﹁ずっと、わからなかったことがありました。死霊術士に協力者が
いるのは明らかだった。ならば、その協力者とはどのように連絡を
取っていたのか。早馬や鳥のような、盗み見されかねない、足のつ
きやすい方法は使わないでしょう。動物の死体に手紙を預けること
は簡単でしょうが、敵の正体が死霊術士とわかれば、誰もがその方
法に思い至る。運び手をたどられればすべてが露見しかねない﹂
協力者は、帝国の地理や街の情報をよく知り、高価なモンスター
や魔族、そして反乱軍の死体を用意できるほどの力を持つ、権力者。
ならば、実行役となる死霊術士との連絡も慎重になる。
﹁ことが済んだ後、ぼくは一つの違和感を思い出しました。殿下、
あなたはなぜ、パーティーでその首飾りを身につけていたのでしょ
う。暗い場所を照らすために買い求め、結局役に立たないとわかっ
た魔道具を、日中のパーティーでなぜ。服の下に隠していれば、装
飾品としての役割も果たせないというのに﹂
皇子が返してきたのは、沈黙だった。
ぼくは続ける。
﹁万が一にも、誰かに見出されたくなかった⋮⋮ぼくはそう考えま

2060
した。殿下、西方の地では、季節外れの蛍が多く飛んでいました。
死霊兵の周りにも同様に。あれらが本当に生きていたのか⋮⋮ぼく
は確信が持てません﹂
形が似ているものには、同じ性質が宿る。人間はそのように思い
込む傾向がある。
まじな
呪術思考は、呪いの基礎だ。
同じ顔の死体を使って、自身の死霊術を遠くまで伝わせられるの
なら。
蛍の死骸に灯した光を、離れた場所にある別の死骸と⋮⋮あるい
は、蛍を模した魔道具と同期させることくらい、容易い。
ゼロ いち
﹁通信は、〇と一さえ表せれば成り立ちます。具体的に言うならば、
ゼロ いち
光の短い明滅に〇、長い明滅に一を当てはめただけでも、成り立っ
てしまう。一度光るだけならば二通りですが、三度なら八通り、六
度なら六十四通りもの情報を表すことができる。ここまで複雑にな
れば、音素を一つ一つ当てはめて、言葉による通信だって可能にな
ります﹂
陰と陽、たった二通りの爻が、三つ組み合わされば八卦を、六つ
組み合わされば六十四卦を示す。
この原理を通信に用いる程度のこと、ぼくでなくても誰でも思い
つく。
﹁あまり長い情報は伝えられないでしょうが⋮⋮秘密の通信手段と
しては優れた方法だったことでしょう。物理的な距離を移動しない
ために速く、何より秘匿性が高い。辺りに飛んでいる蛍が生きてい
るのか、それとも死霊術士に操られた死骸なのかなんて、人間の目
では判別のしようがない。首飾りが光っていても、そのような魔道

2061
具だと言われれば信じるしかない。怪しむ者がいても、光の明滅に
意味があるとはとても思われない﹂
西方の地から帝都まで、死霊蛍を一定の間隔で配置し、終着点に
蛍を模した魔道具を設定する。それだけで、光による秘匿通信が成
立する。
皇子の言っていた通りに、魔力を込めて首飾りの蛍を光らせるこ
とができるのなら、双方向の通信すらも可能だ。
ヒルトゼールは、なおも沈黙を保っていた。
ぼくは続ける。
﹁もちろん、これはただの憶測です。まったくの見当違いだったな
らば、そうおっしゃってください。死霊蛍に連動し、首飾りが光っ
たのはただの偶然だと。パーティーの時に身につけていたのも、た
だ意匠が気に入っただけだと。弟たちの反乱工作を事前に掴み、そ
れを死霊兵として利用するべく画策できるような者が、自分の他に
もいたのだとそうおっしゃってください。⋮⋮その際には、非礼を
詫び、二度と殿下の前に姿を現さないと誓いましょう﹂
ヒルトゼールは、しばらくの間沈黙を保っていた。
だが⋮⋮やがてふっと、微かな笑声を漏らす。
﹁その暗号、実は僕が考えたものだったんだ﹂
皇子の纏う雰囲気は、先ほどまでとは打って変わり、一見すると
穏やかなものになっていた。
﹁連絡手段なんて、僕は別に、死霊鳥に手紙を預けてくれればそれ
で十分だと思っていたのだけどね。あの男には何やら美学があるら

2062
しく、そんなつまらない方法は使いたくないとごねられた。そこで、
あの暗号を提案してやったんだ。幼い頃、荒唐無稽な夢想の中で作
った、拙い暗号を﹂
ヒルトゼールは、自嘲するような笑みとともに続ける。
﹁今思い出しても恥ずかしい夢想だよ。帝城を、暴徒が襲うんだ。
幼い僕は弟たちとともに、城の一室に捕らえられる。使用人と弟た
ちを守るため、僕は暴徒の頭目と粘り強く交渉しながら、こっそり
配下の精強な戦士たちに合図を送る。とととーんととん、ととーん
ととーんとん。壁を叩く二通りのリズムの組み合わせで、言葉を表
すんだ。夢想の中では二の五乗、三十二通りを採用していたな。暴
徒たちの隙を突き、僕の合図で、配下の戦士たちがなだれ込んでく
る。僕も剣を持って戦うんだ。暴徒はみんな倒されてしまう。僕は
英雄になる。帝都の広場で、民衆に称えられる⋮⋮恥ずかしいと前
置きしていても、恥ずかしいな。これは﹂
ヒルトゼールは、ばつが悪そうに頬を掻いた。
確かに、子供の英雄願望が表れた、幼い夢想だ。
だが、そんな幼少期から二の累乗を理解し、暗号を自力で作って
しまったというのは、やはり俊英というほかない。
﹁それにしても﹂
ヒルトゼールは皮肉げに笑う。
穏やかな物腰の中に、微細な刃が混じり始める。
﹁民に称えられたくて作った暗号を、まさか民を死体に変えるため
に使うことになるとは⋮⋮あの頃の僕が知ったらがっかりするだろ

2063
うね﹂
﹁⋮⋮なぜ﹂
ヒルトゼールの纏う雰囲気に飲まれかけながらも、ぼくは問う。
﹁なぜ、このようなことを⋮⋮﹂
﹁帝国の未来のためだよ﹂
微笑とともに、皇子が言う。
﹁慣習を踏まえても、適性を踏まえても、次期皇帝は僕が最もふさ
わしい。だが、そんな僕の派閥からは離反者が相次ぎ、止まる気配
がない。僕への裏切りは帝位争いを激化させ、未来に混乱をもたら
す悪しき行為だ。僕は帝国の未来を担う者として、彼らに罰を下す
責任がある。領地を壊滅させ、政治的に失脚させ、裏切りを後悔さ
せる責任が。それは、今以上の離反を防ぐ役目も果たす⋮⋮俗な言
い方をすれば、見せしめだね﹂
﹁⋮⋮そんな﹂
思わず、言葉に詰まる。
﹁そんなことのために⋮⋮数万もの民を、犠牲にしたのですか﹂
﹁そこが、為政者とそうでない者との感覚の違いだ。いいかい、冷
静に考えてみてほしい﹂
ヒルトゼールは、まるで諭すように言う。
﹁たかだか、数万じゃないか﹂
青年が発した言葉の意味を、ぼくは理解することができなかった。

2064
﹁なん⋮⋮ですって?﹂
﹁四年前の調査の時点で、帝国全土の人口は八千五百万を数えてい
る﹂
ぼくの表情など見えていないかのように、ヒルトゼールは続ける。
﹁四年経った今、調査から漏れていた者も含めるならば、おそらく
人口の総数は一億に迫るだろう。わかるかい? 一億だ。数万とい
う巨大な数も、一億に比べれば霞む﹂
﹁っ⋮⋮それでも﹂
皇子の言葉に、ぼくは愕然としながらも言い返す。
﹁数万の民は、皆生きていたのですよ。それを⋮⋮﹂
﹁民一人一人の人命を尊ぶ贅沢が許されるのは、精々領主までだ﹂
ヒルトゼールが、拒絶するかのように言う。
﹁為政者には許されない。百人を生かすために九十九人を殺す選択
を、常に強いられる。誤ればより多くの民が死ぬ。人命を糧にする
勇気なくして、国は成り立たないんだ﹂
ヒルトゼールの表情は、わずかにも揺るがない。
自らが発した言葉すべてを、心から信じているようだった。
気づけば、ぼくは一歩足を退いていた。
これほどの怪物は、見たことがなかった。
暴君はいた。狂気に飲まれた君主も、欲望のあまり失政を繰り返
していた君主も。

2065
だが︱︱︱︱ここまで透徹した論理性を備えながら、発狂した結
論を導く為政者を、他に知らない。
﹁もっとも⋮⋮本当は、ここまで殺す予定はなかったんだけどね﹂
圧倒されるぼくの前で、青年が苦笑するように言う。
﹁陛下がさっさと帝国軍の派遣を決めてくだされば、それを罠に嵌
め、戦力を確保する目論見だった。それが議会や武官たちと散々に
ごたついてくれたおかげで、惰弱な民衆しか死霊兵にできず、余計
な犠牲を払うことになってしまったよ。でも⋮⋮これでようやく、
戦力がそろった。やっと始められる﹂
ヒルトゼールが、穏やかな笑みを浮かべる。
悪い予感に、ぼくは思わず目を見開く。
﹁始める⋮⋮? 何を、もう終わったはずでは⋮⋮﹂
﹁まだだよ。死霊兵が蹂躙していたのは、ほとんどが弟たちの支援
者の領地だ。裏切り者への処罰はこれから始める﹂
﹁馬鹿な⋮⋮死霊兵たちは、すべて力を失ったはずだ﹂
﹁あんなのはただの目くらましだよ。本命は民の中から力ある素体
を選び抜き、露見しないよう分散させ伏せていた、精鋭一万だ。あ
れがあればどんな都市でも落とせる⋮⋮と、あの男は言っていたね﹂
ヒルトゼールが不敵に言う。
﹁といっても、目標はただ一つ︱︱︱︱峡谷の街テネンドだ。あそ
こを滅ぼし、派閥を離反したダラマト侯爵を完全に失脚させる。皆
が思い知るだろう、僕を裏切った者の末路がどのようなものかを。
それで、目標は達せられる﹂

2066
ぼくは、一瞬言葉を失った。
﹁テネンドを、滅ぼすだと⋮⋮? 何を考えているんだ。あの街の
人口は、数万などという規模じゃない⋮⋮これまでとは桁違いの民
が死ぬんだぞ﹂
﹁それでも、一億に比べれば安い﹂
ヒルトゼールの笑みは、いささかも揺るがない。
ぼくは反射的に、懐のヒトガタに手を伸ばす。
﹁ふざけるな⋮⋮! そんなことっ﹂
﹁ならば、僕に忠誠を誓うか?﹂
ヒトガタを掴んだ手を止める。
ヒルトゼールが、穏やかに続ける。
﹁僕を殺したところで、あの男が侵攻を止めることはない。すでに
指示は出してしまったからね。だが⋮⋮今この魔道具を使って連絡
し、止めれば間に合うかもしれない﹂
青年が、左手に掴んだ蛍の首飾りを揺らす。
﹁僕はそれでもかまわない。君が手に入るのならば、見せしめなど
よりはるかに大きな成果となる。⋮⋮セイカ・ランプローグ、真相
にたどり着いた君に敬意を表し、選択肢を与えよう﹂
色眼鏡の奥に隠れた視線が、ぼくを射竦める。
﹁テネンドの民を生かすか殺すか、君が選ぶといい﹂

2067
ぼくは⋮⋮言葉を失い、立ち尽くした。
打てる手はない。
今から蛟を飛ばしたところで、間に合うかわからない。そして間
に合うか否かにかかわらず、ドラゴンを従えているとわかった者を、
帝国が放っておくわけがない。政争の渦の、中心に巻き込まれるこ
とは避けられなくなる。
一方でたとえ嘘でも、忠誠を誓うのは危険すぎる。ぼくの言質を、
この謀略家がどのように利用するかわからない。
ヒルトゼールから、目が離せない。
まじな
目の前の青年を殺すことは容易い。妖が一噛みすれば、呪いが一
撫ですれば、それだけでこの病弱な青年は死んでしまうだろう。
だが、そんなことに意味はない。
ぼくがどれだけ強かろうと、それはこの場において、まるで意味
をなさない。
ヒルトゼールの下につくなど、ありえなかった。
この男は、ぼくを政争の道具として使う。あの死霊術士のように。
そのような者の末路など⋮⋮考えるまでもない。
しかし︱︱︱︱ぼくが断れば、十数万、あるいはそれ以上の民が
死ぬ。
最強であろうと、あらゆる人間を助けられるわけではない。だか
らこそ、縁のある者のみを助け、それ以外を仕方ないと切り捨てて
きた。
テネンドの民など、ぼくにはなんの関わりもない者たちだ。
だが⋮⋮切り捨てていいのか?

2068
一人や二人ではなく⋮⋮一つの大都市に住む無辜の民すべてを、
そのような理由で。
﹁急かす気はないが、時間は限られる﹂
穏やかな笑みを崩さず、ヒルトゼールは言う。
﹁決行の時機はあの男に任せているんだ。今この瞬間にも、民が蹂
躙されているかもしれない﹂
﹁っ⋮⋮﹂
息が詰まる。
反射的に言葉を発しようとした︱︱︱︱その時だった。
﹁うふふっ﹂
回廊に、澄んだ音色の笛のような笑声が響いた。
2069
第二十四話 最強の陰陽師、助けられる
振り返る。
﹁お兄様ったら⋮⋮あまり、セイカ様をいじめないでください﹂
ドレスを身に纏い、水色の髪を背に垂らした、美しい少女。
フィオナ・ウルド・エールグライフ︱︱︱︱聖皇女の姿が、そこ
にあった。
その傍らには、澄ました顔で控えている聖騎士レンの姿もある。
﹁やあ、フィオナ﹂

2070
ヒルトゼールが、変わらない声で異母妹の名を呼ぶ。
しかし⋮⋮その笑みは、わずかに崩れていた。
﹁いじめるだなんてとんでもない。僕たちは今、二人で大事な話を
していたところなんだ。⋮⋮邪魔をしないでもらえるかな﹂
﹁うふふふっ。その大事なお話︱︱︱︱﹂
口元に手を当て、フィオナは上品に笑う。
﹁︱︱︱︱わたくしも混ぜてくださいな﹂
その時。
不意に力の流れとともに︱︱︱︱回廊に人影が出現した。
全身鎧。腰には剣。篭手を嵌めた右手で、麻袋のようなものを握
っている。
その姿には、見覚えがあった。
﹁戦姫⋮⋮っ!?﹂
突然の事態に身構える。
だが奇妙なことに⋮⋮ぼく以外の者たちは、突然転移によって現
れた戦姫にそれほど驚いている様子がない。
﹁手土産を持ってきました﹂
笑みを崩さず、フィオナが言った。
反面、ヒルトゼールの表情は曇っていく。

2071
﹁さあ、お兄様にお渡ししてあげて︱︱︱︱エリーシア﹂
それを合図に。
戦姫が、右手に持っていた麻袋を、無造作に放った。
麻袋は中に丸い物が入っているらしく、ヒルトゼールの方へとこ
ろころと転がっていく︱︱︱︱床に血の跡を残しながら。
やがて青年の足元で、麻袋は止まった。
その口からは、わずかに毛髪がはみ出している。
﹁⋮⋮﹂
ヒルトゼールは杖をついたまま屈むと、左手で毛髪を掴み、持ち
上げた。
麻袋が外れ、中身が露わになる。
﹁っ⋮⋮!﹂
ぼくは息をのむ。
それは、人の首だった。
呆けたような表情で固まっている、老人の首。
さらに言えば︱︱︱︱それはどこか、死霊術の中継役に使われて
いた、中年男の顔に似ている。あれが二十も歳をとれば、こうなる
のではないかという顔だ。
﹁っ、まさか⋮⋮!﹂
︱︱︱︱あの死霊術士の首なのか?
状況が掴めないぼくだったが、混乱の原因はもう一つあった。

2072
フィオナは⋮⋮あの女騎士を、先ほどなんと呼んだ?
﹁出会うのは三度目だな、セイカ・ランプローグ!﹂
どこか子供らしい溌剌さの残る声で、女騎士が言った。
﹁あの時は無礼なヤツとか言ったが⋮⋮すまん! よく考えたら、
まだちゃんと挨拶もしてなかったな!﹂
女騎士が、その兜を取る。
パーティー会場で見た覚えのある、艶のある金髪が流れた。
ぼくよりもいくらか年上に見えるその女性は、整った顔にやや子
供っぽい笑みを浮かべて、口を開く。
﹁聖騎士第二席、エリーシア・バド・マディアスだ! マディアス
公爵家の長女で、フィオナの友達で、あとそいつの婚約者だぞ!﹂
ぼくはあんぐりと口を開けた。
およそすべての情報がありえなかった。何から訊けばいいのかわ
からない。
﹁⋮⋮やっぱり、君は僕の邪魔をするんだね。エリーシア﹂
自らの婚約者を見つめながら、憂いの籠もった表情でヒルトゼー
ルは言った。
﹁ああそうだ! 企みは挫いたぞ、ヒルトゼール!﹂
エリーシアは婚約者を鋭く睨み返す。

2073
﹁死霊兵の軍勢は全滅させた! 術士だって倒した! テネンドの
街は、今も無事だ!﹂
その言葉に⋮⋮ぼくは、自分でも意外なほど安堵した。
ヒルトゼールは小さく嘆息すると、自らが掴んでいる死霊術士の
首に視線を落とす。
﹁あれほどの魔術師が、負けたのか⋮⋮少し信じられないな。これ
は本当に本人のものかい? あの男は同じような顔の死体をたくさ
ん作っていたから、僕ですら判断がつかないのだけど⋮⋮君には見
つけ出せたと? フィオナ﹂
﹁ええ﹂
微笑をたたえ、フィオナがうなずく。
﹁知っていましたか? お兄様。死霊術には、死体以外にも必要な
ものがたくさんあることを。どれだけ卓越した術士であろうと、様
々な素材や道具の多くは、買わなければ手に入らないのです﹂
﹁⋮⋮物資の流れを押さえられたか。商会に顔が利くのは厄介だな﹂
ヒルトゼールは苦々しげな表情を浮かべる。
﹁だが、あの男がその程度の用心を怠ったとも思えないが﹂
﹁ええ。拠点を複数構え、物資の搬入も分散させているようでした。
しかし⋮⋮人間用の食糧が搬入されていたのは、常にそのうちの一
箇所だけです﹂
﹁ああ⋮⋮はは、なるほどな﹂
ヒルトゼールが失笑を浮かべ、左手の生首を眼前に掲げる。

2074
﹁どれだけ死体に親しもうと⋮⋮結局こいつ自身は、生者に過ぎな
かったというわけか﹂
青年が首を放り投げる。
稀代の死霊術士は、首だけで回廊を転がり、壁にぶつかって止ま
った。
﹁今回は⋮⋮ずいぶん思い切った手を打ったものですね、お兄様﹂
フィオナが、笑みを消して言う。
﹁わたくしの支援者に損害はないばかりか、混乱に乗じて利益を上
げた商会も多かったのですが⋮⋮とても看過できませんでした。さ
すがに、目に余ります﹂
﹁残念だよ、フィオナ﹂
失望したように、青年は異母妹を見つめる。
﹁弟たちとは違い、賢い君なら理解してくれると思っていた。次期
皇帝は、どう考えても僕以外にありえない。それを妨げようとする
者は、帝国を混乱に陥れる危険因子だ。排除するためならば、多少
の犠牲はやむを得ない﹂
﹁なに言ってるんだ! そんなわけないだろっ!﹂
エリーシアが、強く言う。
﹁お前から人が離れていくのは、お前自身が不甲斐ないからだ!
陛下の長男という立場と、自分の頭のよさを過信して、応援してく
れる人たちの心を繋ぎ留めてこなかったからだろっ! そういう自
分の至らなさを、民の命で補おうとするなっ!﹂

2075
ヒルトゼールの表情が歪む。
エリーシアはなおも続ける。
﹁お前の妻にはなってやる! 子供だって産んでやる! だけど、
皇帝にだけはさせないぞ! 人命を軽んじるお前に、民の暮らしを
預かる資格はない!﹂
そして︱︱︱︱聖皇女を、手で示して宣言する。
﹁次の皇帝にふさわしいのは、フィオナだ!﹂
回廊に、沈黙が訪れる。
ヒルトゼールとフィオナが、視線を交錯させる。
だが⋮⋮やがてヒルトゼールの方が、ふっと笑って視線を下げた。
﹁今回は僕の負けだ。大人しく引き下がることにするよ﹂
そう言って、一歩足を踏み出す。
ぼくの横をすり抜け、エリーシアとフィオナの傍らを通って、回
廊の向こうへと歩き去ろうとする。
杖をつき、緩慢に歩を進める青年の背を、ぼくは見ていた。
その視線に気づいたかのように⋮⋮ヒルトゼールはふと足を止め、
ぼくを軽く振り返って言う。
﹁さようなら、セイカ・ランプローグ﹂
第一皇子が歩き去って行く。
その後ろ姿を、ぼくはずっと見つめていた。

2076
第二十五話 最強の陰陽師、真相を知る
﹁あの⋮⋮﹂
帝城の回廊を行く。
第一皇子ヒルトゼールと、一悶着とは言えないほどのやり取りを
終えた直後だが、この後は皇帝との謁見が待っている。
とはいえ、今は一人ではない。
ぼくは、傍らを歩く全身鎧の女騎士に声をかける。
﹁あらためまして、セイカ・ランプローグです。田舎貴族なのでご
存知かはわかりませんが、現ランプローグ伯爵家当主、ブレーズ・
ランプローグの三男です。お目にかかれて光栄です、エリーシア殿

2077
⋮⋮﹂
一応、相手は公爵家という超上級貴族なので、それなりに格式張
った挨拶をしておく。
﹁むっ、なんかよそよそしいな!﹂
しかし女騎士は、公爵令嬢とは思えない答えを返してきた。
﹁アタシはそういうのきらいだ! フィオナの友達なんだろー?﹂
﹁は、はあ⋮⋮﹂
﹁じゃ、敬語とかいらないぞ!﹂
そう言って、エリーシアはガキ大将みたいな笑みを浮かべた。
あのパーティーの時、ヒルトゼールの隣で硬い表情をしていた女
性がこれとは、少し信じがたい。
ぼくはやや唖然としながら言う。
﹁その、失礼で申し訳ないんだが⋮⋮本当に公爵令嬢なのか?﹂
﹁そうだぞ! なんでだ?﹂
﹁いや、だって⋮⋮﹂
そう思えない要素しかない。
とりあえず、あまり失礼じゃない、かつ一番気になるところを訊
いてみる。
﹁⋮⋮なぜ、それほど強い? 序列二位の聖騎士で、死霊兵の精鋭
軍を壊滅させ、あの術士の首を取ってくるなんて⋮⋮公爵家の娘と
して生まれた身で、どうやったらそこまでの力を身につけられる﹂

2078
普通に考えればありえない。
剣や魔法を学ぶにしても、たしなみ程度なはずだ。
教養や礼儀作法などの習得に時間を取られ、技を極める余裕がな
い。何より、豊かな生活を送り、将来すら約束されている者が、強
さを求める動機がない。
エリーシアは少し首をかしげた後、堂々と答える。
﹁わからん!﹂
﹁ええ⋮⋮﹂
﹁もちろん、剣も魔法もがんばったぞ! でも、普通はがんばった
くらいじゃ強くなれないらしいな⋮⋮。なんでアタシだけ特別なの
かは、知らん!﹂
﹁⋮⋮﹂
唖然としていると、フィオナが補足するように言う。
﹁エリーシアはマディアス公爵家の長女に生まれ、公爵令嬢として
ふさわしい教育を受けながら育てられました。貴族の娘としては珍
しく剣の師匠をつけられ、魔法もたしなみ程度に学ばされたようで
すが、それだけです。特別な教育がなされたわけでも、本人が強さ
を求めたわけでもありません。いわゆる、英雄というやつですね﹂
英雄。
その意味の言葉は前世でもこの世界でも、複数の文脈で使われて
いたが⋮⋮この場合は、ある特徴を持つ人間を指している。
異様なまでの強さだ。

2079
血筋も環境も無関係に、突然この世に生まれ落ちる、なんの理由
もなく強い者。人の身を超越する者。それが英雄だ。
前世でもいた。たった一振りの太刀で、おびただしい数の鬼や龍
を斬った武者。八度の転生を重ね、上位龍にも匹敵する神通力を得
た化け狐を、九つに裂いて封じた術士。
この世界ならば、あの死霊術士などがそれに当たるだろう。
そして言ってしまえば⋮⋮ぼくもそういった連中の一人だ。
﹁ただ、残念ながら﹂
フィオナが苦笑とともに、エリーシアに顔を向けて言う。
﹁公爵令嬢には、あまり向いてなかったようですけれど﹂
﹁⋮⋮そっちだって、ちゃんとがんばったんだぞ﹂
﹁⋮⋮確かに、パーティーではかなり居づらそうにしていたな﹂
ぼくが言うと、エリーシアは先ほどまでとは打って変わってしゅ
んとした顔になる。
﹁社交界はきらいだ⋮⋮。アタシが喋ると、みんないやな顔するん
だ。言葉遣いが悪いとか、品がないとかって⋮⋮。だから、じっと
黙ってることにしてる﹂
﹁まあ⋮⋮無理もないというか⋮⋮﹂
﹁うふふ、わたくしは一生懸命おしとやかにしてるエリーシアも、
かわいらしくて好きなのですけれど﹂
﹁やめろっ。あの時もいやだったんだっ、パーティーなんて出るつ
もりなかったのに!﹂
エリーシアが整った顔を歪めて言う。

2080
﹁報告のために戻ってきたらあいつに見つかって、無理矢理連れ出
された! あいつは本当に口がうまいんだ! 最悪だ!﹂
﹁⋮⋮﹂
と、公爵令嬢がわめく。
その様子を見ながら、ぼくは静かに言う。
﹁報告、か⋮⋮。やはりフィオナの指示で、ずっと動いていたのか﹂
﹁? そうだぞ! たまに戻ってきてたけどな! アタシは早馬よ
り速いぞ!﹂
エリーシアが胸を張って言う。
転移魔法をあれほど自在に操れるのなら、それは速いだろう。西
方で暗躍しながら、帝城へ報告に戻ってくることだって無理なくで
きる。
だが、問題はそこではない。
﹁思えば、聖騎士を動かしていると最初から言っていたな⋮⋮。戦
姫の噂も、君が流したものだったのか。フィオナ﹂
﹁いいえ。あれは自然発生したものでした。エリーシアが侵攻され
そうな街の住民を追い出し、避難させていたのは本当のことですか
ら﹂
フィオナが、特に取り繕う様子もなく普通に答える。
﹁エリーシアはとても強いですが⋮⋮死霊兵の軍勢すべてを相手に
できるほどではありません。鎮圧には、敵の死霊術士を叩くしかあ
りませんでした。そのため消耗を避けつつ、わたくしが居場所を探
り当てるまでの時間を稼ぐ必要があったのです﹂

2081
フィオナは淡々と、事の真相を明かす。
﹁普通、略奪の対象と言えば何より食糧と水ですが、今回の場合は
死体です。死霊兵は飲食による補給を必要としませんが、消耗した
死体を交換しつつ、さらに軍勢を拡大しようとしていました。街を
空の状態で明け渡すことは、敵の進軍を徒労に終わらせるという、
消極的ながらも確実な抵抗だったのです﹂
合理的、ではあった。
西洋における古代の戦役の中でも、敵の侵攻に際し事前に街や村
を焼き払うことで、補給を不可能にし撃退した記録が残っている。
こちらにも似たような歴史があるのかは知らないが、死体の軍勢
相手によく考えついたものだ。
ただ⋮⋮問題はそこでもない。
﹁もちろん、逃げた住民たちの生活もきちんと補償しています。戦
乱で儲けた以上、傘下の商会にはしっかり利益を吐き出させていま
すので、そう遠くないうちに彼らも街へ戻れることでしょう﹂
後ろめたそうな様子もなく語るフィオナに、ぼくは言う。
﹁やはり⋮⋮君は知っていたんだな。ぼくらが帝都に来るずっと前
から、反乱軍の実態が死霊兵だったことを﹂
﹁⋮⋮? ええ。それはもちろん﹂
やや怪訝そうな表情をしながら、フィオナがうなずく。
その反応に少々戸惑いつつも、ぼくは責めるように言う。
﹁どうして、ぼくたちに黙っていたんだ﹂
﹁⋮⋮﹂

2082
フィオナはいよいよ、この人は何を言ってるんだろう、とでも言
いたげな表情になった。
予想外の反応に、ぼくはさらに困惑する。
﹁⋮⋮あの時点ではまだ、帝都でその情報を掴んでいる者は限られ
ていました。わたくしが実態を知り、動いていると、万一にもお兄
様に気取られたくなかったのです。密談に不慣れなセイカ様たちに
は、帝都の中ではとても明かせませんでした﹂
不承不承といった様子で語っていたフィオナの表情が、そこで険
しいものになる。
﹁今回の件では、わたくしにも言いたいことがあります。⋮⋮どう
して指示に従ってくださらなかったのですか。みなさんが死霊兵と
交戦し始めたと報告を受けたときは驚きました。幸い、計画の変更
までは必要なかったものの﹂
﹁⋮⋮指示?﹂
ぼくは目を瞬かせる。
﹁なんの話だ⋮⋮? 出立前に、何か言っていたか?﹂
﹁へ?﹂
フィオナもぽかんとした表情になる。
﹁いえ、出立前ではなくて⋮⋮道中に、レンから聞いたでしょう?
一通りの事情と一緒に﹂
ぼくらは黙って顔を見合わせる。

2083
エルフ
それから⋮⋮後ろを澄まし顔で歩いていた少年森人を、一斉に振
り返った。
レンがぎくりとした顔になる。
﹁いっ、いや、これはその⋮⋮﹂
しどろもどろになりながら言い訳を始める。
﹁お、おろかな人間に、ちゃんと伝えていたような⋮⋮?﹂
﹁聞いてないぞ﹂
﹁おかしいですね∼⋮⋮失念したのでは? 困りますねぇひんへん
はっへひゃへへふははい﹂
﹁フィオナっ! こいつクビにしよう! アタシにも斬りかかって
きたんだぞ!﹂
エリーシアが、レンの両頬を左右から引っ張っていた。
エルフ
フィオナが森人の聖騎士に冷たい視線を向ける。
﹁レン。正直に言いなさい﹂
﹁ほは⋮⋮そ、そのう⋮⋮﹂
両頬を解放されたレンが、目を逸らしながら言う。
﹁⋮⋮ボクが一人で、敵の魔術師を倒してやろうかな∼、って⋮⋮
姫様が目を掛けているほどの人間なら、ひょっとしたら居場所も探
れると思って、それで⋮⋮﹂
﹁⋮⋮要するに、功を焦ったということですか﹂
エルフ
フィオナが深く溜息をつき、少年森人を冷たく見据える。

2084
﹁あなたの性格には問題があると思っていましたが⋮⋮まさか、伝
言すら満足にできないとは思いませんでした﹂
﹁しかもこいつ、アミュにも喧嘩を売って、挙げ句自分の剣を壊さ
れてたぞ﹂
ぼくが告げ口をすると、レンが露骨に焦る。
﹁お、おろかな人間! 余計なことを⋮⋮﹂
﹁はい?﹂
﹁いっ⋮⋮﹂
フィオナの顔に浮かぶ表情を見て、レンが固まる。
﹁⋮⋮はあ。レン、あなたは宝剣が直るまで謹慎です。それが明け
てもしばらくはヴロムドかカヌ・ルと一緒に行動させます。あと減
給です﹂
﹁そんなぁ∼﹂
﹁そんなぁ∼じゃないぞ!﹂
エリーシアがレンの頭をひっぱたく。
﹁アタシにはなんで攻撃してきたんだっ!﹂
﹁だ、だって⋮⋮エリーシアとおろかな人間が顔を合わせたら、バ
レるかもしれないと思って⋮⋮﹂
エルフ
﹁そんな理由で森人の宝剣の魔法を味方に向けるなっ! アタシは
なー、お前たちがフィオナの予定にない行動をとってたから、セイ
カとかいうやつが裏切ったんじゃないかって心配してたんだぞっ!
お前だって殺されてると思ったんだ! アタシの心配を返せっ!﹂
﹁ほ、ほへんははい∼﹂

2085
エリーシアがまたレンの頬を引っ張っている。
あの日、ぼくがエリーシアにいきなり襲われたのは、どうやらそ
のような事情らしかった。
ぼくも思わず言う。
﹁お前、よく考えたらぼくたちに、責任がどうとかフィオナに迷惑
かけるなとか散々言ってたけど、結局自分が一番迷惑かけてるし責
任感も皆無じゃないか﹂
﹁い、言い過ぎではっ?﹂
﹁そんなことを言っていたのですか⋮⋮あなただけは、それを口に
する資格がないでしょうね﹂
呆れたように呟いたフィオナが、さらに追い打ちをかけるように
言う。
﹁宝剣なしのあなたでは、グライにも勝てないでしょう。これから
しばらくは九席を名乗りますか?﹂
﹁はぇ∼っ!? ゆ、ゆるじでくだざい∼﹂
レンが泣き始める。
どうやら、グライ以下は本気で嫌らしかった。
思った以上の本気泣きに、若干哀れに思えてくる。
そんなぼくの顔を見て、エリーシアが言う。
﹁気にすることないぞ! どうせ明日にはケロッとしてる。こいつ
はいつもそうだ﹂
﹁あ、そう⋮⋮﹂
一気にどうでもよくなった。
ついでに、ぼくは気になっていたことを訊いてみる。

2086
﹁さっきちらっと言っていたが、そいつが持っていた魔石の剣は直
るのか? かなり希少なもののように見えたが⋮⋮﹂
﹁直るぞ。破片を集めておくと勝手にくっつくんだ、ちょっと小さ
エルフ
くなるみたいだけど。森人の里に伝わる宝剣らしい。こいつが、自
分の里を出るときに盗んできたものだ﹂
﹁うわ⋮⋮﹂
﹁だっで、ボグが一番上手ぐづがえるんでず∼﹂
盗人本人が泣きながらなんか言っているが、普通に最悪だった。
若干引きながら言う。
﹁よくこんなのを聖騎士にしているな⋮⋮﹂
すると、フィオナとエリーシアが顔を見合わせ、なんとも言えな
い表情を浮かべる。
﹁それは、そうですが⋮⋮皆多かれ少なかれ癖がありますし⋮⋮﹂
﹁少なくとも序列三位のやつよりはマシだ﹂
﹁ええ、あれよりはマシですね﹂
﹁いや⋮⋮どんな集団だよ﹂
ぼくは呆れる。
こんなのが標準とはどうかしている。聖騎士とは本当に名ばかり
のようだった。
典型的な、頭のおかしな強者ばかりで構成されているようだが、
よくそんな連中を集めたものだ。フィオナが統制できているのが不
思議すぎる。
﹁まあ、レンはまだ、状況を致命的に悪くしたことはありませんか

2087
ら﹂
フィオナが言う。
﹁今回も、むしろ⋮⋮彼の功績というと腹立たしいですが、みなさ
んが死霊兵を倒してくれたおかげで、民の犠牲が減りました。その
分時間も稼げたので、もしかしたらテネンドの防衛も死霊術士の討
伐も、みなさんの働きがなければ叶わなかったかもしれません﹂
﹁⋮⋮そうか﹂
ぼくは小さく呟き、言う。
﹁あの峡谷の街は、守れたんだな﹂
﹁はい。ただ、軽くない損失は出しましたが⋮⋮﹂
フィオナが難しい顔で口ごもる。
﹁死霊兵の急襲に対抗するため、街に繋がる橋を二つとも、エリー
シアの魔法で落とさざるをえませんでした。しばらくの間、人の流
れに支障をきたすことになるでしょう﹂
ぼくは、台地の上に築かれた街、テネンドの威容を思い出す。
街を挟む峡谷にかかっていた橋が両方失われたのなら、街へ行き
来するには背後にある険しい山林を通らなければならなくなる。死
霊兵の侵攻は確実に止められただろうが、確かに損失としては軽く
ない。
フィオナが言う。
﹁しかし、幸いにも人命は失われずに済みました。橋の再建費用も、
おそらく国庫から助成されるでしょう。ダラマト侯爵は政治的な力

2088
も強い方ですので、そのあたりはうまくやると思います﹂
それから、フィオナが付け加える。
﹁この程度で済んだことは、本当に幸いでした﹂
﹁⋮⋮そうだな﹂
アミュが強く言わなければ、ぼくたちが西方の地に向かうことも
なかった。
もしそれが、テネンドの民を助けたのだとしたら⋮⋮あの子がが
んばった意味も、あったのかもしれない。
その時、ふと気づく。
﹁ところでなんだが⋮⋮ぼくらとのすれ違いが起こっていたことは、
未来視でわからなかったのか?﹂
レンの独断専行を事前に知れれば、封をした手紙を預けて道中で
開封させるような対策もとれたように思える。
訊かれたフィオナが、苦い顔になる。
﹁⋮⋮残念ながら、わかりませんでした。この力の欠点です﹂
フィオナは続ける。
﹁レンが功を焦ったことによって、悪いことが起これば気づけたの
でしょうが⋮⋮結末が望ましい形だった以上、わたくしは未来に問
題がないと捉えていました。するとレンの企みに気づくには、それ
が発覚した、まさに先ほどの瞬間を視なければなりません。どの場
面を視られるかまでは、わたくしの思い通りになりませんので⋮⋮﹂

2089
﹁ああ、なるほど⋮⋮﹂
なんとなく、未来視の扱いにくさがわかってきた。
万能でないことはわかっていたが、思った以上に不便そうだ。未
来が視えるといっても、布にあいた虫食い穴から外の景色を覗くよ
うなものなのかもしれない。
﹁それで⋮⋮君はよく、あんなのと渡り合えているな﹂
未来が視えるのならば、あらゆる政敵に先んじられるものと思っ
ていた。
ただ、そう都合よくはいかないらしい。
皇女とはいえ、フィオナも十六の少女にすぎない。帝国の宮廷な
ど、魔境に等しいはずなのだ。
﹁そこは、努力です﹂
そう言って、フィオナは顔の前で両手を小さく握って見せた。
それは年頃の少女らしい、しかしあまり謀略家らしくはない、か
わいげのある仕草だった。
フィオナは笑みとともに言う。
﹁わたくしは負けません。ヒルトゼールお兄様にだって﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは沈黙とともに、あの第一皇子のことを思い出す。
恐ろしい男だった。
知性も、冷酷さも⋮⋮己が皇帝になるのだという、その狂気的な
信念も。

2090
ぼくの力を知りながらもその前に立ちはだかり、まるで死を恐れ
る気配のなかったあの狂気は、どこから来たものなのだろうか。
﹁あいつは、自分に厳しいんだ﹂
その時、エリーシアがぽつりと言った。
﹁アタシは許嫁だったから小さい頃から知ってるけど、すごかった
ぞ。剣を振っては倒れ、呪文を唱えては倒れてた。皇帝になるなら
これくらいできなきゃダメだって、あの体で言うんだ。もう何度、
医者のところに背負っていったかわからない。ただのたしなみ程度
の、剣と魔法でそれだ。勉強なんて、厳しい家庭教師が本気で心配
するほど入れ込んでたみたいだった﹂
エリーシアが、表情を曇らせながら続ける。
﹁次期皇帝に自分がふさわしいって、あいつが言ってるのは⋮⋮そ
れが本当のことだからなんだ﹂
﹁本当のこと⋮⋮?﹂
﹁本当に、あいつが一番ふさわしいって意味だ。体の弱さを差し引
いても、ヒルトゼール以上に皇帝をうまくやれるやつがいない。本
人はそう思っていて⋮⋮たぶん、それは事実なんだ。もし自分以上
に皇帝にふさわしい者が現れれば、あいつはきっとそれを認めて、
悔しくても身を引く気がする﹂
﹁⋮⋮﹂
ぼくは沈黙を返す。
理解できる気がした。
仮にもっと適した人物がいるのなら、二番目の派閥が皇帝派にな
んてならない。現時点で養子の候補がいない以上、宮廷の外で見つ

2091
かることも期待できないだろう。
たとえ数万の犠牲を払っても、それ以上に国を富ませ、帳尻を合
わせる。
ただ冷酷で狂気的なだけではなく、その程度のことをあれはやっ
てのける気がする。
皇帝が凡夫には務まらない地位ならば、あの男こそ、その地位に
ふさわしいのかもしれない。
しかし︱︱︱︱それを肯定できるかは、別だ。
﹁ふさわしいだけじゃ、ダメなんだ﹂
エリーシアが彼方を見つめるように、視線を上げて言う。
﹁あいつには足りないものがある。そのせいで、きっと民は苦しむ。
誰かが止めなくちゃならないんだ﹂
﹁だから君は⋮⋮フィオナに忠誠を誓っているのか?﹂
エリーシアを見つめ、ぼくは問う。
﹁ヒルトゼールの婚約者で⋮⋮未来の皇妃という立場でありながら﹂
本来ならば、敵対派閥のはずだ。
フィオナに与することは、ヒルトゼールを裏切り、自らが皇妃に
なる未来を捨てることを意味する。
この女騎士が皇妃の地位を積極的に求めているとも思えないが、
それでも公爵家の行く末を大きく左右することになる。決して軽い
決断ではないはずだ。

2092
﹁それはちょっと違うぞ﹂
エリーシアが、小さく笑って言った。
﹁あいつを止めたいのは本当だ。でもそれだけじゃない。フィオナ
には恩があるんだ﹂
﹁⋮⋮恩?﹂
﹁そして、今では友達だ。仲良くなったからわかった。フィオナは
あいつにないものを持ってる。フィオナならきっと、いい皇帝にな
れるって! だからアタシは、聖騎士になったんだぞ!﹂
エリーシアが、にっと笑う。
ぼくはというと、彼女の語った話の内容に、やや違和感を覚えて
いた。
エリーシアにとってのフィオナ以上に⋮⋮フィオナにとってエリ
ーシアは、喉から手が出るほど欲しい人材だったはずだ。
これほどの英雄は、この世界にそうはいない。
そんな相手に恩を売れたとなると、フィオナは相当な幸運に恵ま
れたことになる。
ふと、フィオナに目をやった。
聖皇女は微笑んでいる。
その時︱︱︱︱ぼくは急に気づいた。
﹁ああ⋮⋮そうか﹂
幸運じゃない。
フィオナは初めから、自分が差し出せるものを欲するエリーシア

2093
に目を付け、近づいたのだ。
未来視を使えば、機会も演出できる。恩だって売れるだろう。
あとは簡単だ。交流を結び、自分の持つ価値を認めさせるだけ。
ヒルトゼールに対抗できる派閥と、帝位の継承権を持つ自分自身
という価値を。
相手に、決してそうとは悟らせない形で。
フィオナはそのようにして、条件に合う強者を探し出しては聖騎
士としてきたのだろう。
皇帝という地位は、凡夫には務まらない。
ならば彼女には︱︱︱︱どうだろうか?
﹁そうだっ。セイカも、聖騎士にならないか?﹂
﹁えっ﹂
突然の提案に、ぼくは動揺の声を上げた。
エリーシアが、まるで名案を思いついたかのように続ける。
﹁聖騎士になれば、セイカを利用しようとするやつも寄ってこなく
なるぞ! 何かあっても、フィオナが助けてくれる!﹂
﹁⋮⋮﹂
﹁それに、お前が仲間になってくれたら心強いぞ!﹂
エリーシアが快活な笑みで言う。
それは、確かにぼくにとって利益がある提案ではあった。
勇者一行は今、フィオナの庇護下にあることになっている。ただ
それは、あくまで暫定的なものだ。アミュ、あるいはぼくに目を付

2094
けた者が寄ってくる可能性はいくらでもある。
政治的にも、守ってくれるだろう。
しかし︱︱︱︱それでは、ヒルトゼールの下につくのと何も変わ
らない。
﹁⋮⋮エリーシア。ダメですよ、セイカ様を困らせたら﹂
ぼくが何か答える前に、フィオナが割って入ってきた。
﹁セイカ様には、セイカ様の仲間がいるのですから﹂
﹁えー? でもなぁ!﹂
﹁聖騎士は今でも足りています。無理を言って引き入れるものでは
ありません﹂
﹁うーん、そうかー? それなら仕方ないなー⋮⋮﹂
エリーシアは残念そうにしていた。
ぼくは少々の気まずさを感じながら、フィオナに言う。
﹁⋮⋮悪い﹂
﹁いいのです﹂
フィオナは、仕方なさそうな笑みを浮かべていた。
﹁セイカ様を、政争に巻き込むつもりはありませんから﹂
﹁⋮⋮助かるよ﹂
どうやら、ぼくの思いを汲んでくれているようだった。

2095
ふと思う。
そういえば⋮⋮フィオナはなぜ、ここまでぼくたちに世話を焼い
てくれるのだろうか?
勇者やぼくの力を巡る、帝国の混乱を防ぐため。何らかの望まし
くない未来を視て、それを避けるために動いているのかと思ってい
たが⋮⋮それにしてはずいぶん、親しげにしてくれている気がする。
﹁ですが﹂
ぼくが何か言う前に、フィオナは少しいたずらっぽい笑みを浮か
べて言った。
﹁そろそろ、うれしい言葉が欲しいですね﹂
﹁え⋮⋮? 何のことだ?﹂
﹁ほら、セイカ様。わたくしに、なにか言い忘れていることはあり
ませんか?﹂
にこにこと、楽しげに言うフィオナ。
その時⋮⋮ぼくは気づいてしまった。
思わず微妙な表情になる。
しかし、さすがに二度目だ。いくらなんでももう逃げるような振
る舞いはできない。
溜息をつきたい気持ちを我慢しながら、ぼくは口を開く。
﹁その⋮⋮君は今日も綺麗だ、と思う﹂
﹁⋮⋮へ?﹂
﹁パーティーの時のドレスもよく似合っていた。これまで生きてき
て、君ほど美しい女性は見たことがない⋮⋮気がする。本当に﹂

2096
﹁は⋮⋮はい!?﹂
﹁⋮⋮こういう感じでよかったか?﹂
やや居心地の悪い思いをしながらも、訊ねる。
フィオナは⋮⋮首筋から頬までを赤らめ、目を丸くしていた。
口は何かを言おうとしているが、何も言えずにあわあわするばか
り。
﹁な⋮⋮そんっ⋮⋮うぐ⋮⋮﹂
﹁⋮⋮どうした?﹂
﹁いえっ、ち⋮⋮ち、違います! そうではなくてっ﹂
﹁え?﹂
﹁ほ、ほら! 危ないところだったでしょう! お兄様との、あの、
先ほどの! 助けに入ってさしあげたではないですかっ﹂
﹁あ⋮⋮ああ﹂
フィオナにしては珍しく、動揺しきりで話す内容にもまとまりが
なかったが、さすがにぼくも誤解に気づいた。
苦笑しながら言う。
﹁そっちか。悪い、本当に助かったよ。最悪、ヒルトゼールの陣営
に取り込まれていたところだった⋮⋮。世話をかけるのも二度目だ
な。感謝している﹂
フィオナもその実、剣呑な政治家の一人だ。
本当ならば、無闇に近づくのも避けるべきなのかもしれない。
ただそれでも、ぼくやアミュたちのために動いてくれた彼女のこ
とを、できる限り信じたいと思った。
﹁はい、はい⋮⋮そうです、それでいいのです。はぁ⋮⋮﹂

2097
フィオナはなぜかぼくから顔を逸らし、こくこくとうなずいてい
た。
手で顔をぱたぱたと扇ぎながら、何やら呟く。
﹁か、完全に不意打ちでした⋮⋮まさか、あのセイカ様から、あん
な⋮⋮うふ、うふふふふっ﹂
それから、どういうわけかにやにやし始めた。
後ろを歩く二人の聖騎士が、こそこそと言い合う。
﹁こんなフィオナ初めて見たぞ⋮⋮!﹂
﹁姫様もああいう顔するんですねぇ⋮⋮﹂
ぼくは、今さらながらに恥ずかしくなってきた。
誤解にもほどがある。なぜあのタイミングで、容姿を誉めろと促
されたことなんて思い出したのだろう。
思わず取り繕うように言う。
﹁なんだか、とんだ思い違いをしていたな⋮⋮。さっきのは忘れて
くれ。君ならもっと、気の利いた賛辞を聞き慣れているのだろうし﹂
﹁いえ、忘れません﹂
フィオナが真顔で答えた。
****
回廊は続く。

2098
ぼくらの間にも、いつの間にか言葉が尽きていた。
やがて︱︱︱︱その部屋の前にたどり着く。
﹁残念ですが、わたくしたちはここまでです﹂
足を止めたフィオナが、真剣な表情で言う。
﹁陛下がどのようなつもりで、セイカ様一人を呼んだのかはわかり
ません。ですが⋮⋮﹂
﹁わかってるよ﹂
ぼくは軽く笑って答える。
ただのねぎらいなどでは、決してないだろう。
だが、それでも。
﹁大丈夫、あれと顔を合わせるのも二度目だ。それに、何があろう
と﹂
謁見の間の扉を振り返り、それに手を触れる。
笑みを消して呟く。
﹁別に死ぬわけじゃない﹂
ぼくならば︱︱︱︱たとえどんな罠が待ち受けていようと、それ
が可能だった。
扉を強く押し開ける。
2099
第二十六話 最強の陰陽師、再び皇帝と相対する
謁見の間に、ぼくは足を踏み入れる。
皇帝ジルゼリウスは、前回と同じように玉座でぼくを待っていた。
﹁やあ﹂
凡庸な顔の男が、凡庸な笑みとともに言う。
﹁ご苦労だったね。帝都へ戻ってきたばかりだというのに、わざわ
ざ帝城まで出向かせてしまって﹂
﹁いえ﹂

2100
ぼくは短く答える。
﹁して、此度はどういったご用向きでしたか﹂
﹁もちろん、ねぎらいだよ。今回はよくやってくれた。勇者である
アミュ君に頼んだことではあったけれど、君が特にがんばってくれ
たと聞いているよ﹂
それから、皇帝の男はごく普通の調子で付け加える。
﹁悪かったね、息子の後始末なんてさせてしまって﹂
それを聞いたぼくは⋮⋮しかし驚くことはなかった。
皇帝を見据え、答える。
﹁やはり、ご存知だったのですね﹂
﹁さすがにね。こんなこともわからないようでは、皇帝なんて務ま
らないよ﹂
ジルゼリウスは、まるで市井に暮らす一市民が浮かべるような、
ありふれた苦笑をその顔に浮かべた。
﹁あの子の狙いはなんとなくわかっていたから、軍の派遣はあえて
だらだらと引き延ばしていたんだ。帝国軍を死霊兵とするために、
どのような罠を張っていたかまではわからなかったからね。君たち
に黙っていたのは申し訳なく思っているよ。ただ、さすがに伝える
わけにはいかなかった事情もわかってほしい。それに、やってもら
うことは結局同じだしね﹂
気迫や凄みといったものをまるで感じさせないまま、皇帝は裏に

2101
存在していた思惑を明かしていく。
﹁今回の結果にはとても満足している。君たちは本当によくやって
くれた。これで、ルゲイル君との約束も果たせるよ。⋮⋮あ、すま
ないね﹂
ぼくの怪訝そうな表情を見て、皇帝が言う。
﹁多少なりとも関わりを持った人間のことは、家名ではなく個人の
名で呼ぶことにしているんだ。そのせいでよく首をかしげられる。
⋮⋮ルゲイル君は、ダラマト侯爵のことだよ。テネンドの橋を新し
くしてあげる約束をしていたんだ﹂
﹁⋮⋮橋を?﹂
﹁ああ。作られてから三百年も経っていて、古くなっていたからね。
魔術師は大した物を作るけれど、残念ながら整備や修繕のことまで
は考えない。どちらの橋にも直しようのないところが出てきて、ル
ゲイル君も困っていたんだ。もっとも、三百年持たせただけでも大
したものだけどね﹂
﹁ああ⋮⋮なるほど﹂
てっきり落とされた橋を再建する話なのかと思ったが、どうやら
それ以前から老朽化による限界がきていたらしい。
どうせ新しく架けるのなら、今回の一件はタイミングがよかった
と言えるだろうか。
ぼくは言う。
まつりごと
﹁それはよかったですね。政には詳しくありませんが、復興の名目
ならば国庫からも支出、しやす、く⋮⋮﹂
言葉が薄れて消えていく。

2102
猛烈な違和感が湧き上がっていた。
橋を新しくする約束をしていたというが⋮⋮皇帝はいったい、ど
うするつもりだったのだろうか?
大帝国の君主である以上、皇帝は相当な資産を保有しているだろ
うが、いくらなんでもあれだけの橋を私費では架けられない。
かといって、国庫からの支出には議会の承認がいる。一貴族の領
地に架ける橋の建設費用など、認められるわけがない。
戦禍に際した、復興の名目などがなければ。
それ以前の、根本的な疑問がある。
フィオナが言っていたが、第一皇子派の主流だったダラマト侯爵
は去年、突然皇帝派に鞍替えしている。今回の騒動の、発端とも言
える事件だ。
︱︱︱︱それは、なぜ起こった?
﹁あの古い橋⋮⋮本当は君が壊してくれることを期待していたのだ
けどね、セイカ君﹂
皇帝は頬杖をつきながら、まるで世間話のように言った。
﹁⋮⋮まさか﹂
ぼくは愕然とする。
﹁ダラマト侯爵が、第一皇子派から皇帝派に鞍替えしたのは⋮⋮密
約があったからなのですか? 橋の再建という大事業を、帝国の金
で行うという密約が﹂
そうだとすれば、今回の騒動の意味がまるで変わってくる。

2103
ヒルトゼールの狂乱は、ダラマト侯爵の離反がきっかけだった。
だが⋮⋮その離反が、皇帝との密約によって起こったとしたら?
そしてその密約の内容が、ヒルトゼールの狂乱を前提としたもの
だったとしたら?
﹁すべては、あなたが⋮⋮﹂
言葉が詰まる。
﹁あなたが、仕組んだことだったのですか⋮⋮!?﹂
﹁いやいや、さすがにそれは買いかぶりすぎだよ。人の思惑という
のは、そこまで誰かの思い通りになるものじゃない﹂
どこまでも凡庸な表情で、皇帝は言う。
﹁橋を新しくする約束だって、ルゲイル君としたたくさんの約束事
の一つでしかない。派閥の鞍替えも副次的なものだ。もっと具体的
なお願いもしているよ。君が知ることはないと思うけどね﹂
立ち尽くすぼくに、皇帝は続ける。
﹁見込み違いだってあった。さすがにあそこまで死体の軍勢が増え
ることは想定していなかったよ。あの子もずいぶんいい食客を飼っ
ているとは思っていたけど、あれほどとはね。ふふ、ルゲイル君も
びっくりしていたのではないかな。橋の新築をお願いしただけで、
まさかあんなことになるなんて⋮⋮ってね。まあそれでも、だいた
いはぼくが期待していた筋書きの一つをなぞってくれたかな﹂
﹁っ⋮⋮あなたは﹂
ぼくは、絞り出すように言う。

2104
﹁あれで、望み通りだったというのですか⋮⋮? 膨大な民の命を
犠牲にして密約の一つを果たすことが、本当に帝国のためになった
とでも⋮⋮っ!?﹂
肌で理解できる。
この男は、決して凡庸な暗君などではない。
占いや女に狂ったり、欲望の果てに失政したりは決してしない。
だからこそ⋮⋮理解できなかった。
﹁うん﹂
どこまでも平静に、皇帝はうなずく。
﹁ルゲイル君との約束事もそうだけど、今回の反乱まがい自体にだ
ってちゃんと意味はあったよ﹂
﹁あれだけの犠牲に見合う、いったいどんな意味があったと⋮⋮!
?﹂
﹁帝都で生まれる子供の数が減ってきているのは知っていたかい?﹂
皇帝が問いかけてくる。
知る由もないことだった。沈黙を返すと、皇帝は続けて言う。
﹁他都市からの流入のおかげで、まだ人口は微増しているけどね。
それもいつまで続くかわからない。この現象は、いずれは帝国全土
に広がるだろう﹂
皇帝は物憂げに続ける。
﹁栄華を誇り、長き平和を掴み取った都市では必ず起こることなん

2105

だ。長すぎる平和は人を倦ませ、その活力を失わせる。帝国の平和
は百年だ。どんな贅沢な暮らしだって、いずれは飽きる。人の社会
には、どれだけ忌み嫌われていても必要なものがあるのさ﹂
﹁必要な、もの⋮⋮?﹂
﹁危機だよ﹂
皇帝は、当然のように言う。
﹁自然の生命にとって、それは身近なものだ。どれだけ忌避してい
ても、その欠乏はいずれ毒になる⋮⋮。今回の危機は帝国にとって、
ちょうどいい刺激になったんじゃないかな﹂
﹁は⋮⋮?﹂
﹁住民のいなくなった都市には、職にあぶれた大都市の市民や、農
家の長子以外の子などから人員を募り、復興に向かわせる。彼らは
よく働き、よく産み、よく富むことだろう。何せ、自分たちの街を
新たに作り上げるのだからね。きっと張り切るさ。そこで培われた
活力は、いずれ必ず帝都にも波及する。ちょっとだけかもしれない
けどね﹂
﹁それで、帳尻が合うとでもっ⋮⋮犠牲になった民やその地の領主
たちが、納得するとでも言うのですか!﹂
﹁民には謝るしかないね。ただ、領主は少し事情が異なる。西方は
元々、帝国に敵対的だった国が多くあった地域だ。その支配者の末
裔である領主たちにも、その気質は受け継がれている。ヒルトゼー
ルではなく、ディルラインやジェイルードの支持者が多いのもそれ
が理由だね。ぼくは彼らに、今一度自分たちの本分を思い出してほ
はかりごと
しかったのさ。謀を巡らす前に、まず大切な領地を守るという、当
たり前のことをね。とても乱暴な言い方をすれば⋮⋮民も、結局は
どちらの反乱に巻き込まれるかの違いでしかなかったのではないか
な﹂
﹁西方の諸侯が⋮⋮反乱の計画を立てていた、とでも⋮⋮っ?﹂

2106
﹁ううん﹂
皇帝は、軽く首を横に振る。
﹁立ててないよ。まだそこまでの段階ではなかった。だって、そう
なってからでは遅いじゃないか。計画を立てられてしまえば、ぼく
だって彼らを処罰せざるを得なくなる。そこからはどんな筋書きを
たどっても、お互いに嫌な感情が残ってしまう⋮⋮そんな脚本なん
て誰が欲しがるんだい?﹂
﹁っ、何を⋮⋮﹂
﹁ぼくはやはり、皆が喜びのままに終わる筋書きの方が好みだ﹂
まるで演劇の内容を語るかのように、皇帝は続ける。
﹁陰謀なんて、偶然のうちに挫かれてしまう方がいい。悪巧みをし
ていたら、もっと悪い魔術師が大暴れして、自分たちの領地を滅茶
苦茶にしてしまった! 困り果てる諸侯たち。そこに帝国が手を差
し伸べる。具体的には復興資金の貸し付けや、税の免除措置などで
ね。諸侯たちは感謝し、深く反省する。そして他の土地からやって
きた若者たちと協力して、領地を前よりもっと立派に立て直す。将
来的により大きな税収という形で、諸侯たちは帝国に恩を返すんだ。
帝国も、西方でがんばる若者たちに触発され、活力を取り戻す。つ
いでに血の気の多い息子たちもちょっと懲りる︱︱︱︱どうだい?﹂
皇帝は、どこか満足げに言う。
﹁ハッピーエンドだとは思わないか?﹂
ぼくは言葉を失っていた。
何かが間違っていた。これほどの人間が死んで、ハッピーエンド

2107
などあるわけがない。
だが、何が間違っているのかがわからなかった。
ひょっとすると︱︱︱︱何も間違っていないのだろうか。
まつりごと
これが、政なのだろうか。
﹁なぜ⋮⋮﹂
皇帝から目が離せない。
﹁なぜそれを、ぼくに明かした﹂
この男は⋮⋮ヒルトゼールともフィオナとも、次元が違う。
だからこそ、真相を知ってしまったことが恐ろしい。
﹁なぜって別に、大した秘密でもないしね﹂
皇帝は、本当にささいなことのように言う。
﹁こういう邪推はみんなしているよ。真相に迫るものもあれば、中
には笑ってしまうほど的外れで荒唐無稽なものもあるけどね。その
すべてをぼくは放置している。君がどこで何をわめき立てたところ
で、そのうちの一つにしかならない。裏付けがないから⋮⋮⋮⋮お
っと﹂
皇帝はそこで、間違いに気づいたような顔になる。
﹁これは隠さない理由にはなっても、わざわざ話してあげる理由に
はなってなかったね。失礼。まあ、ただの雑談だよ﹂
﹁雑談、ですって⋮⋮?﹂

2108
﹁うん。本題は最初に言ったように、ねぎらいだ。これは本当だよ
? 反乱への対処はぼくが頼んだことだからね。用が済んだからは
いさようならでは、人格を疑われてしまう。皇帝であっても、さす
がにそんな特権はない。褒賞もちゃんとあげるとも﹂
﹁陛下が招聘したのは⋮⋮勇者であるアミュだ。ぼく一人を、呼び
出す理由がない﹂
﹁まあそうなのだけどね。結局君が彼女らのリーダーであるようだ
し、かまわないかなって。だって、別に彼女たちも来たいと思って
いないだろう? こんなところ﹂
自嘲するように、皇帝はおどけて言う。
言葉も仕草も、他人に緊張感を抱かせることがない。恐れる必要
のない人物のように、本能で感じ、言葉を受け入れてしまう。
だからこそ、恐ろしい。
﹁それでも、アミュ君は呼ぶべきだったかもしれないね。セイカ君
一人を呼んだのは⋮⋮実を言うとぼくの都合だ。君に訊きたいこと
があったのだけど、もしかしたら他人に知られれば困る内容かと思
ってね﹂
﹁ぼくに何を⋮⋮問おうというのです﹂
﹁全然、大したことじゃないんだけどね﹂
皇帝は、そこで再び、ありえない笑みを浮かべた。
まつりごと
陰謀に財貨、暴力に愛憎が渦巻く政の世界に生きる者であれば、
とうに捨て去っていなければおかしいはずの︱︱︱︱どこまでも凡
庸な笑みを。
﹁君︱︱︱︱魔王なんだって?﹂

2109
第二十六話 最強の陰陽師、再び皇帝と相対する︵後書き︶
これで九章が終わりました。
次は十章です。
︵仕事も辞めたし次はもっと早めに更新したい⋮⋮︶
2110
この作品の詳細については以下のURLをご覧ください。
https://ncode.syosetu.com/n1290ff/

最強陰陽師の異世界転生記 ∼下僕の妖怪どもに比べて
モンスターが弱すぎるんだが∼
2023年12月17日20時34分発行

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