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KURENAI : Kyoto University Research Information Repository

Title <學界展望>中國見聞記

Author(s) 島田, 虔次

Citation 東洋史研究 (1961), 19(4): 512-522

Issue Date 1961-03-31

URL http://hdl.handle.net/2433/148194

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University
、 日し、交
いは 招請 によE、あるいは皐曾出席 のため あい次いで来
12

中国 見聞記 。 事件 に
流は非常 に活滋と なってき た それが五八年 の例 の長崎間旗
5

よってついに、頓挫のやむなきにいたったのである。 ( も ちろん 、
名稽は﹃日本中闘友好協曾皐術代表固﹄、メンバ ーは左の 十一名
がこ れ で完
脇島要一也穆謬術曾議禽員
闘長 一 例 えば法律家代表闘 の例もあるように、 日本 からの 訪問
園 員 山 田 勝 次郎 経 済 皐 土 地制度史翠曾倉員(以下年齢順 ) 全に停止した わけではない )
昨年秋、中園
金子二郎中図語大阪外闘語大撃教授 この停頓欣態 を打破 しようとして 日中友好協曾は 、
果、中園科間半院の
本城市次郎動物同学 大阪大製品水 京都大間字教授 人民封外文化協曾と の問 に協定を むすび 、そ の結
汲遣とな った の
佐久間重 男 中 園 史 北海道大謬助教授 招待に態ず るという かたちでわれわ れ翠術代表闘 の
他、聞学術
紳山 恵 三 気 象m f 気象研究所員 である。そしてその具盤的推進 にあたっては文献交換その
にまっところ
島 田 慶 次 中 国 史 京 都大摩助教授 交流の 地道な努力を歎々とつ づけてきた京都日中の力
ところであ
小林 英夫 地質 事 北海道大事助教授 が多 かったことは 、東京の諸 氏もひとしく 口にしていた
。 衡 (希 望者
小 川 修 三 物 理 摩 成 島大島ナ助教授 って 、やはり 特筆しておいてよいと思われる 園員 の詮
ハU
排 して
安野愈物理事東京教育大皐朝永研究室助手 は全国で 五一名あった 由) にあたって無暗な大物羅列主義 を 00
少壮気鋭主義を原則 としたのも京都側 の主張であっ た 、 と聞 いてい
随 員 踊 島 一 正 日 中 友好協曾組 織部員
たのは
年齢 のひらきは 、最長老 の 山田勝 次郎さんが六十歳をわずかに越 る。 いろいろないきさつの末 、私 めような若輩が 還に入り え
。ただ恥ずら くはこの少妊 、 すこぶ
え、最年少 の安野さんが三 十歳にわず かに 足りない。十一 月 二十六 右 の原則 のおか げといってよい
われわ
日羽田畿、十 二月 二十 七日羽田着、往復とも切O﹀の のジ 占ツト る気鋭ならざりしことを !ーー そのほか今回 の源遣に闘して
機、香港まで の所要時間 は、往きが五 時間あまり 、飾 りが三 時間牢 れの諒解したのは 、 この闘が 他 ならぬ 日中友好協曾の代表闘 であり
好と

あまり 。闘交が回復されて 、北 京へ直 行ということ になれば 二時 した がって閥単なる穆 術観察、交微 でなく 日中 の根本趣旨た る友

間半くらいで透するのではあるまいか。 園交正 常化の矯 めのものでなければならぬというのが 大前提であ

中華人民共和闘と の 事術交流は一 九五四 、五五年の頃から始ま こと、また副ぜんたい として の使命が 今後の人的物的な交流 の矯
り、五七年 には物理撃、考古壁 、密接、農撃の専門別代表闘の波遣
d
めの 方策、特 に具鰻的 には 、 六O年初頭以来 の中国 側 の文献輸出の

など 、い よいよ本格化した 。全閣最初 の地域観術代表幽とし て 重 極度 の制限 に附して 、そ の民意と今後 の意向とをさ ぐる という貼に
津俊郎教授を園長とする京都 の 一 行(日中友好協曾京都府 連汲遺) あること 、 などの諸貼 であっ た。 か く て わ れ わ れ は 建 園以来十一
﹃科摩耶世展十二ヶ年計輩﹄(五六年より寅施、十二ヶ年で先進
が訪中したのもこの年である 。中園 からも各専門の代表闘が、ある 、

諸国の水準に追いつき追い越そうとするもの)さなかの新中園を訪 のなったパナナの樹 。安南式?の躍ったような屋根の民家をときど
問することとなったのである 。 き。瞬々で丸腰の兵隊(兵隊は到るところで見かけたがすべて丸腰
である)家や建物の壁、塀には例外なく共産主義高裁、大躍進高裁
二十六日 。香港九龍、金門酒庖に一泊 ω香港の猿雑さについては などなどのスローガン。爽快なのは眼をさえぎる商品底告板の皆無
既に多くのことが指摘されてい るが 、そのほ かに 私の注意をひいた なこと 。午後三時、庚州車結着 。科事院慶州分院の黄副院長(京大
のは、翠校のべらぼうに多いところだということ 。何と か小泉、何 物理 の出身、日本語は流暢)など の出迎 えあり、 愛群大鹿に入る 。
とか中率、何とか英文撃校など、し かつめら しい校名の生徒募集廃 夕食まえ、本城さんたちと街を散歩。 ホテルから 二十歩あまり、
告が至るところベタベタ貼つである 闘にあきれ石ほど撃校が多
e本骨 斜に向いあわせて、中山留皐院第 二附属病院というのがある 。なに
い。公寓の一室に二三十人の生徒を集 めて 、それでもう翠校でござ 気な くのぞく と﹃孫逸仙博士開始皐盤 及革 命運動策源地﹄と金文字
い、と いうことらしい 。流
宙開 のインテリの生計の道である以上 に、 で刻んだ高さ六、七メートルの紀念碑が限に入 った。裏面に﹃申華
植民地人の生活のための必須 の﹃資本﹄として、高難を排して教育 民園二十四年十一月二日紀念大倉立﹄側面 に英文を添えてある 。そ
を受けさせるという。﹃教育﹄がなければ外人商社などに就職する のかみのい わゆる慶州博済盤院はま さしくここだったのである !
ことはできず、うだつの上る日は紹封に来ないのであるから 。 近代史に興味をもち、市開自由 の革命逸史 などを漫 讃していた自分と 唱E4
二十七日、午前九時、九能停車場設 。四 つめの 騨に大浦雛とい う しては 、 放行の前途に何 か 幸先のよさ?を感じてうれしか った 。 。。
のがあり、その ローマ 字綴の万では、櫨の字に宮田存立とあてであ 前景は道路を へだて て珠江 の悠々た る流れ 、そ の中流には設動機船
O時一五分深別着。十一時ごろ徒歩で閣境(幅一 0 メート
った 。 一 やジヤンクがいそがしく上下し、岸べには蛋民の舟がむらがってい
ルFくらいの小川︺-の鍛橋をこえ、中国側の深別停車場にむかう。 る。 (もっとも、蛋民とい う言葉を用いてはならぬ、今は水上居民
すでに園境には、北京の中国科事院より宋守種(科事院哲皐佐倉科 とよぶのだ、と誰かが叱られていた 。 すでに水上特別匡も暗躍され
事部連絡慮副慮長、哲事者)韓雅泉(科目学院封外連絡局緋公室副主 て、完全に市の人民公世に編入されている由 。慶州の人口は三O O
任、十七歳 で共産軍の遊撃隊に参加したという)黄鳳英(三O裁く 高、うち市内一九O菌、が一五の人民公社に分かれている)
らいの婦人、封外文化協曾遇謬、北京大事日本語科卒)の三氏、およ 日曜日のせい か街は大慶な雑沓である 。 そのあちこちの道ばた
び科皐院慶東分院の文卒氏、が出迎えていられた 。深別│慶州は快 に、小屋場校の低率年くらいの子供がしゃがんで何か費っている 。新
車で三時間 。慶東語と普通語(綴準語)の爾万でひっきりなしに車内 聞紙牢枚にも足らぬ紙を ひろげ 、そ のうえにタパコの各紙をならべ
放途 。 かけあい高才で衛生週間の宣停をしているのが面白かった 。 ているものと 、刻 んだ葉 のみを盛っているものと 、 の二種類があっ
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た。もちろん禁令を犯してのことに相違ない 。上海、旋東は政治的
1

窓から見たもの││水牛(ただし普通の牛の方がむしろ多い)質
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にむつかしいところと 聞 いていたが 、 これはそのあら われか 。 るで 見笛もつかぬ。 家 のよ うな雨が降 ってい た。
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二十八日、午前七時、 街州車結設 、
京腐線の 直通快車で 北上の途に 二 時 三O分、長沙 。小野川 秀美氏 の﹃戊 戊獲法と 湖南省﹄ (
﹃清
つく 。出設後まもなく 、洪禿全の郷里 ・花豚附 近を通過 したが、 一 末政治 思惣研究﹄) に詳細 に 摘 かれているように 、長沙こ そ 改革運
帯は 丘陵が買になだらかに起 伏しているのみで 、何の鎚哲 もない 。 動
、 ひいて革 命巡動 のそもそもの笈鮮 の地 である (のちの 毛津東の
もっとも 、洪秀全に 因んでいえば 湖南省境の 坪 石 (午後 二時 一五 分 郷里 ・湘額 も長沙 のすぐ 西南 )
。せめて街のあかりなりと望見 して
停車 )で洪禿全の 妹 が立てこもった 山楽というのを 見た 。 断崖紹 紀念としたいと思い 、私 はここまで 睡
眠叫 と戟 いつ恭つけてき たが、ま
壁、驚くべき天険 で、高さはあまり高くはないが 、騨 のまん 前 に突 つくらなること 衡陽 に閉じ、何 の枚 出もなかった。

如としてその岩 山がそそり立っている 風景は質に 異様 である 。太卒 二十九日 。午前 七時 三O分ごろ 武昌。ついで漢 陽│(玉櫓門)│漢
天国が既に滅 亡したとも 知 らず 、彼女はこの天険 によって 最後 まで 口。一
音にきく 長江大橋も汽車で通ればあっけない 。辛亥革命 の諸問

抵抗 したのである と いう。文皐代表園 の﹃潟異 ・中閣 の顔﹄三0 ペ は指呼するに 由なく 、た だ、到 るところ建設中 の工人宿舎らしきも
ージではけ わしさが 多少 やわらげられているように思う 。質際 の感 の、また 、煙突や高鏑 の佑立する 壮観 を見るのみ 。
じは文字どうり震直な 組壁で 、 こんなところに立てこもれば 、た と 午後 間時 まえ、 駐馬庖 。 この透から何だか 地上の 様子が袋化 しは

2ー
一 ケ小隊くらいの箪勢でも相笛な大軍を 悩まし得ただろうと思わ
い じめたように思う 。 これまでどちらかというと赤 味がかった 地肌 で

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れた ︾だいたい 此 のあたり 、南部そのままの奇怪な 山や岩が甚だ多 あったのが、黄 色くなってきたし、また 、畑 の 一筆の 商積が質に府
い。南部のあのつくね苧式 山水が 山 伏してほしいままな 空趨 の産物で 大となってきて 、 しかも砥めたように美事に 耕 し、 ならされ て い
ないことは 、早く 奥村伊九良 氏 の文章で承知していたが (﹃瓜茄﹄ る。恐らく機械力によったのであろう 。目算に弱いので 数字的に何
五鋭、北川桃 雄氏もいつか﹃ 世界﹄に書いていた )正にその 通りで とも言いかねるが 、とにかくべらぼうに 底 い。但し 、此 を南北 の差
ある 。│ │坪石の手前 の
-商闘 は、さすがに﹃湘輪車守 三省 の要道を 犯 としてよい のか、それとも今まで車窓 より 眺 めた風景がとかく 山地
北最大 の城市た り﹄というだけあって 、乗降 の客が多 い。む
し、血ワ がら (
少 くとも 遠景にはかならず 連山 を望むような 地形)であったの
かし王陽明 が思恩 遠征 に際 しての道 筋も、まず杭州 より富 春江をさ に、 このあ たりは一釜 山をみぬ大卒 原 であるという貼 にもとづくの
かの ぼ って 江西省 に入り、更に 融
制江 をさかのぼって 江西省 を縦断、 か何 とも判断し かねる 。 はるか 地卒の空に 雁 の列 を数行 みとめた。
、 あと 、われわれの 通 った 路震を 逆 に廠州 に
部闘 に出
南縦からこの- 三十 日、 午前七時 五O 分 、北 京騨着 。 昨
一 年落成し た新 緑 で奮来
下 っていった筈で 、そ う考えるとなつかしさにたえなかっ た。 の前 門のそれではない 。 ふるえあがる寒さ 。科製院 の張友池山 刷院長

七時 一五分 、衡陽着。王船山先生 に敬意 を表すべく 、プ ラ ットフ 西閣 寺公一 氏 はじめ 十名ばかりの 出迎 え。一束交民巷の 新僑飯庖に入
剛間陥陥 で市衡 がどちら側 にあるのか 、ま
ォーム まで 下りて 見 たが 、 る。 (哲同仁病院 の南、山由市文門 のうち側)。輩までぐっすり 眠る。午
、 自動車で市内遊覧 。天安 門責場、天密など 。 ホテルには東欧諸
後 佐久間、私は北京図書館へ︺夜、由疹承志氏招宴、 四川菜館 に
園人のほか、黒人の青年 (F) も少なくない 。 ガ lナとか聞いた 。 て司
111暖房が時として三O度 にまで昇ったのはその せいであろ うか。 十 二月 十 日 午 前 ・ 分 散 活 動 ︹ 私 は 遇 誇 の黄鳳英さんにつれら
遊覧で冷えこんだせいか、夜牢に腹部激痛、下痢四、五回 。脂汗 れて歴史博物館へ︺午後、科闘僧院秘書長杜潤生氏を か こむ座談
をながす。 禽、ホテルにて 。夜(紅軍歌舞図)
北京でのわれわれの 日程は次 のとおり(カッ コ内は風邪 または疲 十 二月十 一日 午 前 、 農業部副部長貌震五 氏をかこむ座談合同、ホ
労のため私の参加できなかったもの) テル にて 、
午後、 自由時間︹私は疏璃廠と東安市場 の古本屋へ︺
十二月一日午前(工業交通展覧館)午後、民族文化宮夜、科 夜、杜潤生氏招宴 、北京飯后にて 。
皐院秘書長杜潤生民の招宴、全車部徳にて 。 十 二月十 二日 あ さ七時すぎの快車で 北京結夜、津浦線そ南下 。
十二月 二日 午 前 、 農 業 展 覧 館 午 後 、 革 命 軍 事 博 物 館 夜 、 民
族歌舞幽公演、北京劇場にて 。 さて、北京での日程は以上の如くに進行したのであるが、その聞
十二月 三日 午前、北京大撃、午後、講牟︹佐久間さんと私とは の見聞をいちいち報告している徐裕は到底ない 。さいわい、わ れわ

3一
科挙院歴史研究所にて︺ れより四、五ヶ月まえ に訪中せられた文撃代表園の開高健氏 ﹃海沌

-8
十 二月 四 日 ( 高 誇 山 ) 1 の外で﹄(﹃世界﹄十月 │ 一月)や前掲 ﹃骨
局員 ・中闘の顔﹄の類があ
十 二月 五 日 午 前 ( 農 村 人 民 公 枇 ) 夜 、 科 撃 院 院 長 郭 沫 若 氏 の るので 、それ らを参照されることを笠みつつ 、以下、主として聞学界
堂一新砲の閥にて 。
招宴、人民大合同 閥係 のことのみをまとめて記してみたい 。
十 二月六日午前(歴史博物館)午後(封外文化協禽、紅十字曾 まず、関係の機関として取りあ ぐべ きは、中園科恩院歴史研究
へ挨拶)夜(封外文化協曾副曾長陽翰生氏招宴、四川菜館に 所、北京大皐 h北京図書館、歴史博物館 などであろう。また、杜潤
て。ついで、京劇野猪林) 生氏の科事院全僅についての話 や胡沙氏の高等教育についての解説
十二月七日午前、教育部高等敬育司副司長胡沙氏をかこむ座談 にも言及する必要があろう 。そのほ か人民 大事、民族間牢院、故宮博
禽、ホテルにて︹高等敬育とは大撃数育の意︺午後、聞宇術活動 物館の一ニつが最初のスケジュールには入 ってい たのが、陳毅氏との
︹佐久間さんと私は歴史研究所 にて 所員と座談曾︺ 曾談という突然の出来事があったために次々とスケジュールが狂
十二月八日午前、(外交皐曾へ挨拶)午後、都市人民公枇(北 い、迭に割愛のやむなきにいたったのである 。なかでも人民大事は
京西城 一
服絞境) 革命史研究に特色彩-有すると聞いており、またそこの倫銭(故安部
5

十 二月九 日 午 前 、 隙 毅 副 総 理 と 曾 見。午後、分散活動︹金子、
1

健夫教授監謬﹃中国展史概説﹄の著者)氏に は森 鹿三教授 から頗る


5
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興味 ある質問を 授 けられていたので 、ぜひ 訪問 したかったのである しばしばお目にかかった。長身、面長、無髭、顔色はあまりよいと


1
5

が、途 に如何ともなしえなかった 。もちろん 、闘員各 自 は、そ れぞ は言えない 。どちらかというと寡歎なほうであるが 、必ずしも とつ


れ訪問希望の機関や、曾談希望の事者の名前を ランク をつけて 列摩 つき にくい感じでは ない。 周園 の人 からも 侯老侯老と 親愛 せられて
し、前もって工作員 の方に提出してあった 。しかし何分にも 囲が専 いるように見うけられる 。 こうしてお目にかかるまで、なぜかしら
門を極度 に異 にする由学者た ちの 混成放幽 であるから 、各自 の希望、
か 先生 を巌腐な方 のように 想像し ていたが 、お曾 いしてみる とこんな
大幅 にくい遣うという貼があり 、 また 、中闘側 でぜひ 見せた いも に和気な方なので安心した 、 と言うと 、 天井を 仰 いで 阿 々大笑さ
の、省 くわけにゆかないもの 、が一 定数 は存在する と いう 鮎も あっ れ、それ から随分は なし 易くなっ た。以下、私 と佐久間さんとがこ
て、それに時 日の制約 も加わ り、随分スケジ Alルの編成は困難で もごも訊き 、先生 が答えられ たことのうち から、 めぼ しい黙を拾う
あったらしい。 出来 あがったそれは﹃穆 術﹄代表閣 の日程として必 と、山西太原 の人、明年 六十歳、と いうから 、明 けて今年 六十歳 の
ずしも満足すべきものではなかった 。したがって 、専門別にみた訪 はずで 、 アジア史辞典そ の他に、 山西介休懸 の人、 一九一 一
一年生 、
中 の目 的は必ずしも十二分に達成 されたとはいいがたいが 、しかし というのは訂正を要しよう。玉橋というペン ネ ームで資本論 の繕認
考えてみると、今日 の中国の皐術界 の動向 を理解 する ためには 、車 第一加 を出版し た のが著作活動 のはじまりである 。ただし、第二 、

4一
なる 専門分野をこ えた、園ぜ んた いの動向と いう背景を 把握して か 第三加は図民議反動振の歴迫がきびしくて 出版 できず 、原稿 も失っ

-8
からなければ 充分でない 、 という事情が 特 に強くあるのであるか てしまったが 、解放後、 その一部が 北京図書館に保存さ れているの
ら、現段階 ではこのスケジ ュール はむしろ安笛なものであったかも を知 った。資本論出版 の嘗時 は北卒大皐 (
北京大撃とは別 ) に奉職
知れない 。それにしても 、鴻友閥 、府
廿肇 組なと 、 つねづね深い撃恩 していたが 、座迫によって途に職を退かざるを得なかった、などな
を蒙っている諮先生に個人的にお目にかかる機曾をもち得なか った ど。中園 における資本論絡謬史上 、侯氏 の謬本 がいかなる 地位 を占
ことは 、やはり 、 この上ない遺憾であったが 、ただひとつ 、お目に めるものか 私はま だ詳かにしていない 。 テーブル ・マナ ーとし て私
かかって親しく数を・つけたいと願 っていた事者の 随 て 侯 外 施 先 生 諮にのみふけっているわけにもゆかず、 誰 かの スピ ーチの聞 は紳妙
と何度も接 鮒 でき たこと は望外の 幸福 であったといわねばならぬ 。 にしていなくてはならず 、そ れにいちばん 参 った のは 、談いよ いよ
それでまず侯先生のことから始めよう 。 佳境に入りそうになると 肝心 の私 の中国語の 能力が聴取力・ 禽話力
侯先生はわ れわれの 接待委員(?) であったらしく 北京到着の日
- ともに底をついてどうにも動きがとれなくなってしまうことで 、先
の鑓手を別にすれば 、翌日 腕 の全豪徳(明代 からつ づ いている 料亭 生は気 の毒 そうな顔をして 沈歎に 蹄えられるし 、買に情ない思いを
の由) での レセ プシヲンで 隣 りあわせに 席 をしめ 、親しくよもやま した 。井上清 さんのように一人でゆく 場合には 、一人に一人 の通課
の話をうかがって 以来、或は研究所 で、或 は レセ プシ ョ ン で、最も がつききってくれるから問題はないが 、闘慢 でゆく 場合、切角イ ン
チメ lトな話ができる機曾がやってきても、その 時はどう しても通 貼を理論的に把握す べく 、ヨーロッパ的封建制を領主封建制と呼
詳の数が足りなくなり 、中園語がある程度できないと ニツチもサッ び、中園的なそれを地主封建制と類型化したのである。侯先生はこ
チもゆ かなくなる。こういう大員理を思味見した時は、し かし 、後 の の設を徐りよく 御存 じなかったようで、いったい誰の意見 かと反問
祭であった 。 され、それからしばらく考えたのち言わるるには、領主も地主の一
料湿の話、酒の話、風俗の話などの一般的話題(先生は政治的な
、 種 で あ る (私 の ノ lト如此、 或は 地主 も領主のとすべきか )、ョ l ロ
話は殆どされなかった)の他に、事問上の問題についてもいろいろ フパの如き完備した領主 は中閣 にはいなかったが 、し かし 、そのこ
聞くことができた 。宴席でも聞いたし、また、歴史研究所でも聞 い とは領主がいなかったということを意味するものではない、と 。重
たが 、以下にそれらを一括して書きとめておくことにする 。(もちろ ねて、地 主・ 小作閥係は契約関係であり 、領主 ・農奴関係とは性質
ん、問題の提出は私のみではない 。つ ねに佐久間さんと行をともに を異にするように思うが、と問うたのに封し 、契約閥係 というもの
していたから 、同氏の質問に封する答えも以下には含まれている) は資本主義的なそれとは性格はちがうけれども封建後期には既に存
第一に歴史人物の階級性の判別の問題。つまり、某々は農民出身 在した 。宋、以後はすなわち かくの ごとし、と答えられた 。 この問題
はもっと突込んで訊くべきだったろうが、かんじんのこちらに徐り

- 85-
であったからその思組は農民的、という風な設の嘗否の問題であ
る。原理的に考えればこのような設をそのまま肯定する者は殆どあ 素養がないのでこれで中 。佐久間さんは他の質問をねらっていた
るまい。しかも賓際の 、具盤的 な歴史記述となると 、徐 りにしばし

らしく 、助 け舟を出して 問
くれなかった。
ばこの素朴なやり方が採用されている。われわれ人文科事研究所 第三は資本主義萌芽問題に関する討論の最近の動向。此 の方面 で
の比較革命史の曾でもよくこの貼が問題になるので、試みに侯先生 はその後あまり見るべき愛展はない。最近はむしろ農民載容に閲す
の意見を叩いてみたところ、日く、思惣の一貫した鰻系と態度とを る論戦が活波である ││と前 おきして 、 いわゆる萌芽の 時期に つい
見るべきで 出身 は箪に 一つの参考にすぎない、中国には﹃出身論﹄ ご く少数)と、明
ては、それを宋代、甚 しきは唐代 に求めるもの (
という言葉があって、これは正しくないということになっている。 清の際に求めるもの(大多数)の二通りの見解がある 。 この問題は
一ンはプロレタ
トルストイ は農民出身でなかったしマル Fス、レ l - 大愛む つかしい問題で 、萌芽 の程度という貼 を考慮せねばならず、
リア出身では なかった云 々。だい たい漁期していた通りの答えであ そのた めには 、また、地域差(長江地方とそ の他 の地方など)の問
った。聞が餓りに 月並 であったのである。 題、マニュファタチみアの問題、雇傭関係の問題 、圏内市場の問題、
第二に王亜南の提出した領主封建制 ・地 主封建制という設につい 貨幣地主(?)の問題、自然経済 の問題などの諸問題を綿密に検討
て。中国のいわゆる封建制がヨ l ロ yパl日本的な尺度ではどうに しなくてはならぬ。この﹃程度﹄という駄を考えないと伶鍛のよ
7

うに 、萌芽 があり さえすれば 、そこ からもう近代史とす べきだとい


1

も割りきれないということは周知 のところ であるが 、王座 南はこの


5
8

う主張が 出 てくる。 bれわれは 一八四O年以後 を近代史と考 え、そ ど、私 の原稿は二OO字 詰 で 六O枚 、 そ れを 前日渡 しておいたら
1
5

の内容 が牢封建 学植民地と考 えている 。 この貼は 毛主席 が既 に指摘 一夜 のうちに 完全に岬附議 されてあったのには驚いた 。 (趣旨 は東方
しているところである 、云 々。 これも大惚われわれが既に承知して 皐報京都二八の 拙稿 とほぼ同じ) 時間 の関係で日本文の最初の一枚
いる 以上 のもので はなく 、む しろ 、最 近 のいわゆる 幾民戦 争に 関す のみ 私が観み 、 あ と は 通 識 の 王 達鮮 さんに隷文の方を一潟千里に
る討論の内容の万がききたかったのであるが 、なかなか思うように 讃みあげてもらっ た。聴衆 は婦人数名 を交えてほぼ六O名、侯先生
はゆかない 。そのほか 近代史の分期 問題 、漢民族形成問題 など 、 一 ,
司曾、苦ノ 遼(考古研究所副所長)劉大年(近代史研究所刷所長) の
時慰問介をさわがし た問題 についても最 近別 に新しい r提案 もない 由。 雨氏も列席 。聴衆はす べて 歴史研究所 の研究生 の由。天気のせいも
第四 、 一昨年ごろ一部から相笛つよく 出されていた 新し い地方志 あってか 、陰惨 なうす 暗 講堂、 一様 に藍 色、灰色 の綿入 れ外套を
編纂 の提唱は何 か成果 があったか 。ーーたし かに 方々でその試 みが 着たこれ等きまじめな 聴一 い
衆 の前 に立った 時は、島一者というよ り何か
なされている 。わが 歴史研究所でも河 北省 昌禁豚の師雲仙の編纂 にか 工場努働者の 前 で話して いるような錯 究 におそわれざるをえなかっ
かり 、原稿 は既にできあがった 、云 々。 (猶こ の地方志編纂は別に全 た。時間 の関係 で、質疑態 答がぜんぜん無く 、た だちに次の佐久間
図的な企査 中心 があって 、それ に従って 方々で分纂して いる 、と い さんの話にうつってしまったのは物足りなかった 。私 の考えは中園

- 86ー
うわけではない 、との 趣旨を言われたように記憶している) の通 説 とかなりくいちがう(私が マルクス主義者 ではないことも 、
第五、震 近 、 地文書などの文書類が綴々と渡見蒐集され つつあ はっきりことわっておいた ) ので大いに 異論 がでるだろう 、 めちゃ


ると 聞 くが 、その 欣 況 │ │嘗研究所 でも相笛あつめている。 日付 の くちゃにやっつけられるかも 知れない 、と可成り 緊張して いただけ
も っと も早いのは南宋のもの、ついで 一部は元代、も っとも多いの に、失望を禁じえなかったのである 。 しかし 、翌日 の郭沫 若氏 の招
は明代である 。史料集として 出版の 意図なき ゃ、と の聞には 、有り 宴で侯先生に曾ったとき、君は 昨日、 張横渠 ・王船山H唯物論、朱
とも無しとも答えられなかったと 記憶する 。 子宇 H客観唯心論、陸象山・王陽明 H主淑唯心論というシエて か

歴史研究所は前後二回訪問した 。正確 な地祉 を訊くことを 忘れた っ、思惣としての償値(進歩的意義)はこの順序に逓減するという
が、東軍 の東 、建国門 の手前(?) ではなかっ たか
。 ﹃中国科謬腕 テ lゼ
、 を中園思想史皐界 の通説とし て批評したが 、あれは 一部 の
哲謬枇曾科事部﹄の標札の掲げら れた 構内 に歴史研究所、文事研究 論者の 意見 で、必ずしも通説 ではない 、また 自分は王陽明朗干説に封
所、哲朗学研究所などの建物が集まっている 。第一回の訪問は一二月 する君の積極的評債 や左波王撃と 陽明設 との閥 係 についての君の 説
三日午後、講撃のため 。まず 私 が﹃中聞 における 主観唯心 論の歴史 には賛成できない 、自分の考えは 中園恩組通史の第四谷下加 にはっ
とその許償﹄ と い う題で 一時間 あまり 前 座をつとめ 、 ついで 佐久 きり述べておいた 、占﹄話された 。侯先生主編 の﹃中園思想通史﹄は
間さ ん が ﹃ 日本 における 中関史聞学研究 の現 欣 ﹄ と 題 し て 四O分ほ 箪にそ の包括性詳細性 の貼 でこれまでに そ の比を見ない 大著 である
のみでなく、全容鋭い濁創的な解寝と問題提起にみちている鮎で である。また、集園的研究のやり方は曾讃形式でなく、問題別の討
も、解放後中園思想史事界の最初の金字塔(日本であればさしずめ 論を主慢としている 。現在研究中の集図研究のテ l マを訊ねてみた
恩賜賞、朝日賞ものであろう)と断言して憎らないが、いかんせん が、さまざまな問題について、とのみで具睡眠的に翠げられなかっ
日本にはそのとき第四谷・上肪までしか入っていなかった。その第 た。また出版物については、歴史関係の三研究所が別々に出版して
四谷下街はのち北京を離れる直前に、先生から私と佐久間さんとに いるものはなく (p) 連合して﹃歴史研究﹄などそ出し、また、不
贈ってくださったので、早速ひろい讃みしてみると、なるほど朱子 定期に史料などを出しているとのこと 。不定期の史料とは、侯先生
における主観唯心論的要素が強調してあるし、陽明に至つては、そ の説明によると、軍に部内史料のみでなく、例えば﹃歴代大同思想
の﹃反動的荒謬﹄さが完膚なきまでに指摘されている 1 私のいわ 史料﹄その他のようなものを指しているのである。││ついでに、
ゆる申園事界の通説なるものは、その賞、漏友蘭系統の人々の遇設 中園科畢院は、数撃物理化聞宇部、技術科聞学部、生物製部、地闇軍部、
にすぎなかったのかも知れない。 哲撃祉曾科見宇部の五皐部にわかれ、そのうえに国軍部委員曾(全園の
十二月七日、第二回訪問。今回も 日本語の達者な王氏が通謬とし 著名の撃者二 三二名より成る)があり、また別に最終決定機関とし
て院務委員舎がある。科察院の使命としては、一舵曾主義建設のため

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て同行。座談曾。侯先生以下、古代史の張政煉氏、甲骨皐の胡厚宣
氏など、そのほか世界史のひとをも交えて十二名。しかし後言はほ の最高皐術研究ということ以外に、新しい科息子部門および、いろい
とんど侯先生のみであった 。さき に掲げた侯氏の談話はこの目、佐久 ろな科事分野の境界領域の研究という駄があげられる。しかし制度
間氏と私との問に答えられたものも多いのである。この日、侯先生 面は賓はまだ考慮中で、たとえば他の枇曾主義闘のように事位(博
や近代史研究所事術秘書劉径五氏から聞いた研究所の制度的な面の 士)制度を作るか、ソ連アカデミイのように総身曾員制をとるか、
説明を記しておくと、まず研究生の来源に三種ある。て大事の史 いまのところ我々は否定的だが、要するに結論は出ていない。研究
謬系の卒業生および外事留与を終って鯖 ってきた事生、二、種々の Ol 一
生についても趨系的なやり方はない。将来は一人の聞事者が 一
機関の幹部、三、その他試験によって採用するもの。これらの研究 五人くらいを養成するようにしたい。また、各研究所(合計八O ほ
生(歴史研究所に現に入名いる)は三年後に再び試験をうけなくて ど)が北京に集中しすぎているので、これを思いきって地方に分散
はならない。そのほかに大撃を経て、あるいは試験によって入って させたい云々。これは後目、杜潤生氏から聞いた話である。
くる賓習研究生というのがあり、歴史研究所で九六名いる。研究生 なおこれは第一回訪問の際のことであったが、年初以来の文献杜
の育成方針はいわゆる﹃溢干透事﹄で、古い専門家より皐ぶこと、 紹について異相をただしてみた。すると賓に意外なことは、侯・否ノ
外圏諸を事ぶこと、集園的研究に参加し、その一部分のテ l マをも 逮・劉大年三氏ともその事買を知らざるもののごと く、われわれの文
9
献が日本に行っていないはずはない、もし行っていないとすればそ
1
らうこと。かくて、集図的研究と個人的研究の雨者を併進させるの
5
れはむ しろ日本の 圏内事情 のせいではないか 、という。 そして叉、 一 、000、教師 二、 二OO
) は市の 西北部、
20

北京大摩 (
厚生 一
5

あるいは次のような事情のせいかも 知れぬ 、と者ノ 達氏が一諮ったと こ もとの燕京大皐の 地祉にある 。途中のポプ ラ並木は素 晴らしい。 こ


ろによると 、最近、 撃術雑誌の整 理統 合の ために﹃ 歴史研究﹄など こへは 図員一 同 で出 かけたが 、 ﹃東洋史 研究﹄むきな話題は殆ど 何
一 時停止 しており 、それは二 ヶ月 で終る抽
護行 を 定 であったのが 賓
出 もないといってよい 。沿革・現欣 ・数育 方針 について数務 長 の雄鰐
際 は三 ヶ月もかかってしまった 、 この 休刊 は園家の 要求に態ずるた な説明がありそれを奔聴し了ったら十二 時 すぎ 。列席者は 歴史系副
め、また 、最 近 の中闘 の情勢に追いつくために 、 これまでの経 験を 主任 の周 一良氏 (東方史 東方言語翠の季羨 林氏、 東方言語皐 日
検討 括 する必要があり 、それで 休 んだのである 、し かしもう それ
)
本 語副主任 の下立張氏。、
京大中園文撃 の人たち からの 強 い要望 もあ

総 り、中関文民平史の築館創作 という前代未聞 の事業をなしとげた畢 生
も了 ったから 、
﹃歴史研 究﹄ はやがて第六 腕が出 るであろう、 以後、
との 雑誌は 隔月刊 となる筈である 、と。文献 の輸出 が極度に 制限 さ たちと曾談したいと申入れたが 叶わず 、あと 外交棲 の日本語教室を
れた ことを 罪逮氏など編輯 もとが 知らなかっ た のは或いは 事質 かも のぞい ただけで錦途 につかざるをえなかっ た。ー !なお 、数務長 の
知 れな い。しかし 、そ れにしても休刊 云々は 説明にはならないであ 話と 後日 の胡沙氏 の話とから 抜翠すると 、五 二年 の院系 調盤 によ っ
ろう 。何故 なら 、 ﹃歴史研究﹄についていえば 、第 一腕 │五蹴まで て悠用・ 技術方面 の軍科大撃たる﹃察院﹄と 、理論的 、基礎的な 自

8ー
の既刊ぶんがそも そも入ってきて いない のであるから 。われわれの 然科事 ・祉曾科翠を専 攻する﹃ 大息ごとが 分 かれ 、文科 は五 年、理

-8
文献交換積極 化 の提案に 封 して 、 三氏とも 、研 究機 闘閥 の交換は笛 科は六年。五八年の線路線 ・大躍 進を 契機として 、大率教育の 目的
然おこなわ るへきである 、といい叉 、闘交未回復の今 日、無駄 だと としては労働者政 治 への服務 、教育(謬問)と生産 ( 労働) との結
は思いながらも、留制干の 可能性 につ いて 打診 をここぎみたところ 、 合 、黛 の指導性の 確 認、が打 ち出されたこと 、交科・理科 ともに 翠
甚 だ結構なこ とである 、 いずれきっと そ の日が来 るであろう 、との 生は卒業ま でに一 定期間農業または工業の労働 に従事すること ( 北
みで具他的な 答え はな かっ た。│ │この 日、文翠 研究所
、 哲摩 研究 大で一 四 ヶ月 )、留間半生は 北大へ閲O ケ 闘 (うち一一一 ケ闘は 枇曾主
所 をも 訪問したく思っていたが質 現 できず 、せめて 腕りがけに 歴史 義闘) から来ていること 、教授 のうち 黛員 は 一 OO分 の二O位 であ
O舶、
研究所 の笥庫を 見せ てもらっ た。目下 の蔵書数 三七高 五OC ること 、人文系皐生 の数 は全髄 の一 OO分の一五 (北大 では 人文系
て 自然科 皐系 二の 割合) であること 、など 。
木造二 階建 の研究所 の建物 の階下にぎっしり詰まっていて 、通路 は
殆んど 身をひるがえす こともできぬ 位 。外は もはや夕 闇が濃く、暗 金子 、
佐久 間、私 の三人が 北京聞書館 を訪 問したのは 陳毅外 交部長
い稽燈の 光 では充分にた しかめることはできなかっ たが、明人 の集 との 曾談のあっ た日 の午後 であった 。陳毅 の談話 というのは ﹃皆さ
なとさすがに珍しいものが相首あるように 見 うけた。 んが文献 や資料 の交換を切笠し ていられることを 聞 いた。資料交換
については質際的なとりきめをしてよろ し い。過去にある 種 の刊行
物を停止したのは事者や中園研究者に封してやったことではない
。 書庫を 二、三 層参観して辞去。閲覧室を通りぬけるとき 、洋装本に
気象についても漁業などに必要という黙もあるのでこの方面の資料 よみふける青年たちにまじって 、老人 が毛筆 でしきりに寓しものを
も手筈をとりたい 。 (註、気象閥係 は軍事に 直接 つながるものとし している 。肩ごしにそっと のぞ いてみたら、陳輪組という文字が限に
て最も困難観されていた)われわれは研究して方法を かえてみ たい とまった 。
と思っている 。私たちも外園の刊行物はたくさん買 っている。交流 北京でお目にかかった撃者には、まだ、李鵬慨 、席浬綜の雨 氏があ
はよいことで 、日本 の友人たちのまじめな研究を歓迎する。悪意あ る。李先生は周知のごとく中国数拳史の最高権威、聴明温雅そのも
る者の 利用を恐れはしない 。資料の中には事賓をったえない正しく のといった感じ、席氏は四O歳前後か、天文撃史の中堅どころであ
ない資料もあるが、私たちは事賞を反映した客観的な資料を渡した ろう。ともに薮内清教授からの名刺をこと けたのに濁するホテル
い﹄というもので、われわれは心中ひそかに歓呼の撃をあげたので 事O年以降の日本数翠史
への御回訪である 。 李先生は目下、一七O

あった 。 この原則論をきいた午後、執行機関ともいうべき北京聞書 をやっていられること、五七年以後、歴史研究所内に 自然科事史研
館園際交換組主任の毛動女士の口からも次のような言葉をきくこと 究室が濁立したこと、解放後、若い人で天文をやる人がふえたこ
ができたのである 。﹃今年 (一九六O年)は従来とちがって質 のよく と、など 。北京を 離 れる 前夜 のことであった 。

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ない審物は外園に迭らないことにしたが、そのさい通知しなかった
ことは甚だ申評ない 。叉、日本から要求されたもので迭らなかった 目、南京 二日、上海五日、杭州 二目 、慶州 三日、の見聞
北京一一 一
ものもあるが、そのさいも通知しなかったことを残念に思う 。しか が奥えられた紙数で書ききれるとは勿論おもっていなかったが、そ
し書物や期刊を日本の皆様に迭るのは我々の仕事のうちで重要なも れにしても北京だけで了るとは心外千高である 。 急いで南京大摩
のである 。 今後はできるだけ御希望に副うようにしたい﹄私が京 (畢生七、 000、数師八O O)そ の他をつけ加えておく 。南京大
都 の日中 から携えていったいろいろな註文にもこころよく善庭を約 撃は解放後、中央大事、金陵大皐、南京大事の三者が統合されたも
し、また、京都の日中あてのマイクロフィルムもできるだけの努力 ので、その歴史系は事生二八八、数時四O。園書二六 、000樹 、
をはらって私の離京に間にあわせてくれた 。毛津東と 同姓 のこの 主 中文雑誌六O種、露文雑誌二O種、その他二五種、を備える 。何か
任先生、 いかばかりなる偉丈夫にやあらん、と思いのほか、年のこ 機関誌を出していられるか、と訊いたのに封して ﹁波有﹂ との答え
ろ五十歳 Pばかりの素朴なおばちやんで、貧弱な駄にぶくぶくの梅 は甚だ不審であった 。中園古代史教研組(ど の大事でも古代とは便
子、すっかりど肝をぬかれた。しかしサ イ γの 際のみごとな筆蹟 宜的 な名稽で、一八四O年まで)中国近代現代史教研組、世界上古
は、さす がに蔵書数六O O高朋(解放直後一 O O寓加)の中関最大 中世史教研組、世界近代現代史教研組 の 四部分に分かれ、前三年
1
画書館の要人たるに恥じない 。時間が足りなくてもよりの一般書の では 、理論方面としてマルクス・ レ l -
一ン主義 、政治 経済摩 、闘際
2
5
共産主義史 、考古方面として古代漢文 、基礎とし て中園通史 、世界 廃東 では中山大翠(聞宇生四、七O O人)と腐州博物館 。中山大事
2
52

通史 を修 め、後 二年は専門で 、中関史 、世界史、中闘機築の三部分 歴史系 は感生 三六O、教師 五五 (


うち教授 刷数授 一七)、世界史 の

に分れるという (通謀者 が謀っていなければ )。 中園稽案と はわが 鐘 一均氏と、明代 の枇曾経済史 で有名な梁 方仲氏 にお話をき いた
。 近く﹃中闘 歴代戸口土
梁 氏はすこぶ る素朴 な人なっこい方であ る
古文書撃にでも相賞す る のであろうか 、指祭の愛理などを課すると
の説 明であった 。中関史 方面 では経 済史、民族史 に眼目を おいてい 地問賦統計﹄という入Ol九O高字 の著述を 出される 由 で、既 に三
る由。目下の研究テ 1 7は三つあり 、 て 東 南沿海地域 の経 済震度 校を了ったとのことであった 。 かつて 日本に遊 んだ 時 のことや 、内


と階級附 字、 こ れは 明清より 解放 までの 時期 にわたる 二、元朝 藤乾吉、古川幸次郎、仁井田陸 など 誠氏 の略をせられる また 、日
、とと の閥係)。一は数師と撃生 、
史、 三、 中 外 側 係 史 (英、米 、 ソな 本 の撃者からよく 抜刷 をもらうが 徐り返事 を出し ていない 、そん な
二は教師と研究生、 三は 老数師とご くわずかの若い教師、 および 方々 に命回ったらよろしく 侍 えてくれ 、などなど 。与仲勉氏もここに

学 。

、 が共同 に研究し ているという 更 に、おそらく右の一の 細目 と
生 居り 、
陳寅俗、容庚 の老先生も元気 で研究 に波頭し ていられる 由
思われるが 、ィ、明清以来の蘇州 の織物業の調査 、ロ、 清末の張警
の南通大生紗臓 の調査、ハ、太卒天闘土地制度 の研究(明年、すな けっきよく博物館のこと、書屈のこと、すべて省略 せざるをえな
AU
わち今年が太卒一 一O年なるを 紀念し て) の三 種 に目 下とり 組ん で い羽目 になってしまった 。殊 に北京その他の歴史博 物館 については nwd

いると のことであった 。以上 が膝史系主任 の綿儒林 主任助理茅家 ただただ紹讃あるのみで 、博物館といえば考古・美術博物館 一色 と
埼、中古史 (F)数研組副主任洪娩 椿の三氏 より聞 いた 概略 で、ィ、 いってよい 我園 の現状 に封比 して 頗 る考 えさせられ たし、殊に北京

口、 ハの場合、しばしば貫地調査を重ねているとのことである のそれ では、同治年閥、繭建奮江賂の故居より出土した李卓吾の石
例 の﹃ 中園資本主義萌芽問題討論集﹄の 綴編が ここで 編輯 され た の 印、甘粛武 威燃出土の儀雄木簡(儀穂七篇が完整なる形で出た !と
はこのような研究の進行と無闘係ではあるまい(六0 ・二月刊 )

いうから 、まさに 西漢 経師 の奮を 窺 うに足るもの て びっくりする

ここでは珍し く研究組目 を詳制 に数えてもらって 大蕗び もっとじ ほど で っかい蘇州 のハ タオリ機、 など トピッ クは 山 ほどあるが、す
っくり訊こうと身を乗りだした途端に 、好事魔多し、 闘員 に急病人 でに目に徐る紙幅超過なので 御勘緋 いただきたい 。 (島田慶次)

が出た矯 め、あわてて僻去せざるをえなかった ーー ほかに南京 博
物院、太卒天国紀念館、紫金山天文裂 の儀器 なと語るべきこと は多
いがすべて 割愛 。
上海 では復且大事(皐生六四O O、教師 八五O、蔵書九五菌加

歴史系皐生 三O O)、上海市博物館、これも割愛。

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