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世界中の安部公房の読者のための通信 世界を変形させよう、生きて、生き抜くために!

もぐら通信


Mole Communication Monthly Magazine
2017年5月1日 第57号 第二版 www.abekobosplace.blogspot.jp

あな
迷う たへ
事の : そう、もう十年以上も昔になるかね。
あな
ない あ
迷路 『(霊媒の話より)題未定』の冒頭第一行
ただ を通
けの って
番地
に届
きま

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もぐら通信 ページ 2

目次

0 目次…page 2
1 ニュース&記録&掲示板…page 3
2 『さまざまな父』の朝食は何故ドーナツと鶏の燻製とブラックコーヒーなの
か?:編集部…page 6
3 安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2):
岩田英哉…page 9
4 処女作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カンガルー・ノート』の
結末継承と作品継承について:岩田英哉…page 45
5 リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(2)∼安部公房をより深く理
解するために∼:岩田英哉…page 54
6 連載物・単発物次回以降予定一覧…page 59
7 編集後記…page 61
8 次号予告…page 61

・本誌の主な献呈送付先…page62
・本誌の収蔵機関…page62
・編集方針…page 62
・前号の訂正箇所…page62

PDFの検索フィールドにページ数を入力して検索すると、恰もスバル運動具店で買ったジャンプ•
シューズを履いたかのように、あなたは『密会』の主人公となって、そのページにジャンプしま
す。そこであなたが迷い込んで見るのはカーニヴァルの前夜祭。

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もぐら通信 ページ 3

ニュース&記録&掲示板

1。 今月の安部公房ツイート BEST 10
e
ole
Priz 来月号を(来月からみれば過去である即ち)前月の号である、従ひ今月号ならざる
e nM
Gold 過去の未来号且つ未来の過去号を今月といふ有名月に発行するといふ超越論的な理由
により、該当tweet、なし。「いくら認めないつもりでも、明日の新聞に先を越さ
れ、ぼくは明日という過去の中で、なんども確実に死に続ける」といふあなたのため
の、純粋空間の中に存在する第57号。
ole
M
er
Silv

同上

1。今月の安部公房本
文芸だいすき @kenzieub 4月2日
価格863円∼ 歪んだ時間 冒険の森へ 傑作小説大全8 船戸与一 小松左京 芥川龍之介 北杜夫 北方謙三
山田正紀 集英社 式貴士 安部公房 大沢在昌 吉行淳之介 浅田次郎 原田宗典 矢野徹 星新一 清水義範
筒井康隆 夢枕獏… http://dlvr.it/NnRXhg

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2。今月の卒論
Kazuyuki YAMAZAKI @yama_nyo 4月2日
返信先: @ayumumumuさん
大学の演劇サークルでの初舞台が「友達」、卒論を安部公房で書いた俺だよ。

3。今月の愛読者
有川オレガ @orega2061 4月2日
安部公房『牧草』読了。これまで10回以上読んで、今回やっと読んだという気になれた。初めこれは
医学的に理論分析された詩であると思ったが(非常に唐突的に死ぬほどカツ丼が食いたい!)よく読む
と、極めて映画的映像的であるし、虚を突く意外で唐突なオチが、グッと世界観を広げた風が吹き抜
ける。

4。今月の言葉遊び
null @null_voll 4月2日
「ひと昔」というのを「人夢貸し」「人無化し」と書きちがえた途端、安部公房みたいな世界があふ
れだす。

5。今月の透明感覚
真悠信彦 @nukuteomika 4月1日
安部公房の『燃えつきた地図』だったか、主人公が電話ボックスの中でしゃがみこもうとしたら、誰
かがした大便が落ちているのを見つけてまた立ち上がった、というシーンがあったが、そういえばあ
れもガラス張りなわけないよな。考えたことなかったけど

[編集部註]
『便器にまたがった思想』を読むと、何故ガラス張りなのかが、藝術家の創造行為との関係で、論じ
てあります。全集第17巻、108ページ。

6。今月の映画
ほげほげ @hogehogedesu 4月1日
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映画「おとし穴」はストーリーの展開も面白いが、安部公房の脚本が良い
幽霊役の井川比佐志のセリフが笑えるが、特に炭鉱夫の幽霊との会話は爆笑モノだ
筑豊の鯰田鉱業所のシーンが多いから、その方面のマニアにもオススメ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ おとし穴_(映画)
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もぐら通信 ページ 5

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もぐら通信 ページ 6

『さまざまな父』の朝食は何故ドーナツと鶏の燻製と
ブラックコーヒーなのか?

もぐら通信主催で細々と続いてゐる安部公房のエッセイのみを読む読書会では、飛び飛びで
はありますが、恒例に従ひ、先日も安部公房の作品中の食卓を再現して会を始めました。
要するに、何かを口に入れながら安部公房を読まうといふのでありますから、結果として
は、安部公房の食卓の再現を言ひわけにして、ながら読書の弁解をしてゐるのかも知れない。

今回の安部公房の食卓は、『さまざまな父』の冒頭の、

「ドーナツに鶏の燻製の薄切りを添え、ブラックのままでコーヒーを飲みながら新聞を読
む。」(全集第29巻、252ページ)

といふのをやつてみました。

ドーナツと鶏の燻製は事務局が用意し、参加者各人はコンビニかどこかでブラックコーヒー
を用意するといふ算段。

蛇足ながら、この冒頭に出てくる上の引用にある新聞は、間違いなく「明日の新聞」です。
何故ならば、この作品は次のやうな冒頭の文章で始まるからです。即ち、父と息子の関係に
於いて超越論的に無時間の空間を最初に安部公房は設定してゐる。

「いつもどおり四時十分に学校から戻ると、父が先に帰宅していた。珍しいことだ。ふつう
父の帰宅は五時二十分にきまっている。」

即ち、未来の時間に起きる筈の出来事が既に過去の時間のこととして今起きてゐる。つま
り、『カンガルー・ノート』の第一行のやうに「いつもどおりの朝になるはずだった」を
もじれば、「いつもどおりの夕方になるはずだった」のですが、さうはならなかつた。

その席に当日の新聞があれば、戯曲『友達』の最後の場面のやうに、ドーナツと鶏の燻製
といふ超越論的な食べ物を食べてゐて、且つ「明日の新聞」を読む参加者は皆『密会』の主
人公のやうに、世界の果てにゐながらの読書会といふ事になつて、世界の果てで安部公房
のエッセイを読むといふ、誠に乙な会になつたことでせう。

1。何故ドーナツなのか?
ドーナツは、普通の人の論理では環があつて真ん中の穴が出来るといふ思考の順序ですが、
安部公房の「奉天の窓」の論理では、窓があるから建物が生まれる、即ち空白の、空虚が、
穴が、凹があるからこそ、それ故にドーナツの環が成り立つといふことですから、言つて見
れば、空白の論理の体現でもあるわけです。それで、ドーナツが朝の食卓に並んでゐる。
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もぐら通信 ページ 7
それから、やはりドーナツは、上記の事情もあつてメビウスの環であるから。つまり、ト
ポロジーの形象を現実に具体化し、物体化したものであるから。と、さう思ひます。
Topologyの動態的な動画あるのでご覧ください。ドーナツがコーヒーカップに、コーヒー
カップがドーナツになってゐます。:https://ja.wikipedia.org/wiki/位相幾何学

これならば、ドーナツを食べながら、カップでコーヒーを飲むといふのもドンピシャリ
で、topologicalな食卓といふことになります。

しかし、

2。何故ブラックのストレートコーヒーなのか?
それは、やはり、砂糖もミルクも入つてゐないので、純粋である物といふ意味ではないでせ
うか。これは論理の問題なので、安部公房がブラックのコーヒーを好んだかどうかとはま
た別かも、ひよつとすると、知れない。

安部公房が純粋と形容するものは、リルケの純粋空間[註1]、ナチスの純粋制服[註2]、
バロックの純粋音楽[註3]、哲学的な安部公房用語としてある純粋主観と純粋客観[註4]
といふやうに全集の中でも限られてゐて、いづれも結局は一言で言へば「公房好み」なので
すが、この趣味を論理立てていひますと、『詩と詩人(意識と無意識)』の根底にある論
理、即ちAでもなくZでもなく、両極端を否定して、その向かうへと際限のない次元展開の
果てに両極端を超越して詩人が眼にする自己の反照たる第三の客観、即ち存在といふわけ
ですから、このブラックコーヒーは、あれでもなくこれでもない、無際限のneither-norの
判断と選択の繰り返しの果ての選択だとすると、例へば、紅茶でもなく牛乳でもない、第
三の飲み物といふ事になる筈です。あるいは、野菜ジュースでもなくココアでもない第三の
飲み物。そして、さうなれば、先日の読書会は存在の読書会といふことになる。

[註1]
エッセイ『リルケ』をご覧ください。(全集第21巻、437ページ下段)

[註2]
『ミリタリィ・ルック』を参照ください。(全集第22巻、129∼130ページ)

[註3]
ドナルド・キーンさんとの対談『演劇と音楽とーバロック風にバロックを』安部公房はバロック音楽を純粋音
楽と呼んでゐる。(全集第25巻、351ページ)また、同じキーンさんとの対談『安部公房氏と音楽を語る』
と題した対談の冒頭で、安部公房は、創作のときに聴く音楽のほとんどがバロック音楽だと言っている。また、
キーンさんが安部公房に『ガイドブック』の結末にバロック音楽を使ったことを指摘している。(全集第25
巻、397ページ)

[註4]
『詩と詩人(意識と無意識)』に純粋主観と純粋客観といふ言葉がある。(全集第1巻、104ページ下段)
もぐら通信
もぐら通信 ページ 8

2。何故鶏の燻製なのか?
これは、鶏は暁闇に、つまり夜と朝の合間、この隙間の時間に、甲高い声をあげるから。
時間の差異の中で、あの人攫(さら)ひの救急車のサイレンのやうな、コケコッコーといふ
時の声をあげるからではないでせうか。

さうして、この存在へと連れ去る音が、燻製であれば永遠にそのままで封印されたやうにし
て留まり、時間の中を進行しない。全集第12巻の表表紙の裏にある雪の中のカラスの死
骸、それから第29巻の裏表紙の裏にある飛翔しながら静止してゐるやうに見えるカラス、
あるいは複数の詩の中に歌はれる化石するもののことを思ひ出せば、確かに燻製も、永遠
に飛翔しながら、しかし燻製となつてゐるので謂はば凍結されて永遠に動かない鶏の化石化
した姿かも知れないのです。他に、『箱男』に載つてゐる、タイヤのない自転車に全財産を
乗せて引いてゐる乞食や、万博の会場で車椅子といふ車輪のついた車に乗つてゐながら止ま
つて動かぬ足の悪い少女や、自動車といふ本来は常に移動する筈の乗り物が永遠に動かずに
ゐる廃車置き場に通ずる形象(イメージ)です。あるいは『方舟さくら丸』への入り口であ
る廃車スバル360。

いや、しかし、さうなつたら、私たちも、永遠に口をあんぐり開けたまま、この鶏の燻製
を食べることができないといふことになるのですが、しかし、時間の中で生きる私たちは
大いに食欲を満たしました。従ひ、幸か不幸か、存在の読書会にはならなかつたといふ次
第。
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もぐら通信 ページ 9

安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
(2)

岩田英哉

目次

I 安部公房の自筆年譜と『形象詩集』の関係について
II 「転身」といふ語について:「転身」とは何か
III 「転身」といふ語のある詩を読む(「①詩の世界での問題下降」期の詩)
1。転身といふ語のある詩
2。「①詩の世界での問題下降」の時期の詩
2。1 ユァキントゥスとS・カルマ氏の関係:かくして安部公房は詩人から小説家への
「転身」に成功した
2。2 安部公房はリルケから何を独自に学んだか
3。「②詩と散文統合の為の問題下降」の時期の詩
3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題
3。2 詩集『没我の地平』:1946年(転身:計4回):問題上昇(デジタル変換)に
よる詩集
3。3 詩集『無名詩集』:1947年5月(転身:計1回):問題下降(アナログ変換)
による詩集
IV 「転身」といふ語のある小説を読む(「②詩と散文統合の為の問題下降」期の小説)
V 『デンドロカカリヤA』(「②及び③の問題下降期の中間期の小説)
VI 「転身」といふ語は、詩文散文統合後に、どのやうに変形したか(「③散文の世界で
の問題下降」後の小説)

*****

II 「転身」といふ語について:「転身」とは何か

「転身」とは何かと問へば、それは、リルケが詩の中で使つたドイツ語、die Verwandlung
(ディ・フェアヴァンデゥルング)の日本語訳であるといふことになります。

それでは、ドイツ語のVerwandlung(フェアヴァンデゥルング)とは何かと問へば、言葉の
意味の世界のことですから、論理的に考へて、当然のことながら、次の二つに大きく分けて
ものを考へることになります。
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もぐら通信 ページ10

(1)一般
(2)個別

上記(1)の一般的な意味とは何かといへば、それはドイツ人が広く使ふ意味、即ち使ひ方
のことであり、上記(2)はと言へば、それはリルケが固有に独自に使ふ意味、即ちリルケ
の此の言葉の独自固有の使ひ方といふことになります。

論理学的な意味の在り方の話の中に立ち入らずに、これを話の整理のための方便として使つ
て、話を本題の訳語のことに戻します。

結論から言ひますと、先の戦争までのリルケの詩の訳語について言へば、リルケの翻訳詩集
の訳語を見ると、戦前はVerwandlung(フェアヴァンデゥルング)を転身と訳し、先の戦争
後は、転身を変身といふ訳語に変へて、ドイツ文学者たちは、Verwandlung(フェアヴァン
デゥルング)を訳してをります。

具体例を挙げますと、片山敏彦訳の訳による『リルケ詩集』(新潮社版、昭和二十一年)に
所収の『オルフォイスへのソネット』第二部第XII章では、転身の語が詩の中に次のやうに
3回出てきます。かうして見ますと、平俗に考へれば、訳詩にある「転生」(これも
Verwandlungの意訳)とは「転身」の結果、次の世に生まれ変はることを意味するのであ
りませう。一行目の「転身」の原語はVerwandlungではなく、類縁の語のWandlungです。
訳者は同義と解釈して、前者の訳と同じ訳語をあてがつてゐます。

『オルフォイスへのソネット』の各連は一篇の詩と呼んで良いものですが、どの篇も無題で
す。片山敏彦は一篇の最初の第一行を採用して、当該篇の詩の題名としてをります。

「轉身を欣求せよ

轉身を欣求せよ、おお 焔の爲に感激せよ、
その火の中で、轉生を仄めかす或るものが、君からすり拔けて過ぎる
焔のために感激せよ。
現世のものを統べてゐる、常に企ててゐるあの靈は
ものの姿の勇躍の中に唯 轉身の曲がり角だけを愛する。

(略)

君が轉身して風と成ることを望んでゐる。」(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信 ページ 11

「転身の曲がり角だけを愛する」といふ一行に、『カーブの向う』や『燃えつきた地図』の
主題と動機(モチーフ)を、また『箱男』に挿入されたカーブミラーの写真の主題と動機(モ
チーフ)を、そしてカーブミラーの立つてゐる存在の十字路を、容易に見てとることができま
す。何故なら、十字路といふ曲がり角にカーブミラーは立つてゐるからであり、角を曲がら
なくとも超越論的に「既にして」カーブの向うを知ることができるからです。

ちなみに「転身の曲がり角だけを愛する」といふ訳の「曲がり角だけを」の原文は、 nichts
wie den wendenden Punkt となつてゐて、この den wendenden Punkt といふドイツ語の
意味は其のまま訳せば、「転ずる点」、「転回する点」、もつと意味の判るように強調して
訳せば「転じ続ける点」「転回してゐる点」といふ意味で、その点は曲がつて其れ自身を転
じてゐる点といふ意味ですので、単なる其処にあるといふ「曲がり角」なのではなく、曲が
り角が移動する其の転じて行く曲がり角を本来意味してゐます。

また、「君が転身して風と成ることを望んでゐる。」といふ最後の行の風もまた、安部公房
がリルケに学んだ存在の風、即ち「転身」することのできる場所としての存在の風なのです。
風はどんな障害物があつても、その向かうでいつも一つに、即ち1に、従ひ存在になる。こ
の風は読者の記憶に応じて作品の中から吹いて来ることでせう。『第四間氷期』の最後に水
棲人間が憧れて死にゆくに際して吹いて来る風です。

さて、同じ訳者の同じリルケの作品から、「静かな友よ」で始まる第二部第XXIX章、即ち此
の作品の最後の連の一 を。

「静かな友よ

数々の遥かさに生きてゐる静かな友よ、感じたまへ
君の呼吸が 更に拡がりを増してゐるのを。
真暗な鐘楼の中全體に
音と成つて轟きたまへ。君を食ひほろぼすものが

一つの力と成るのだ―糧である君の上方(うえ)で。
出で入りたまへ、転身の道程を。
(略)」(傍線筆者)

「真暗な鐘楼の中全體に/音と成つて轟きたまへ。君を食ひほろぼすものが/(一行の余白)/
一つの力と成るのだ―糧である君の上方で。」とある三行を読みますと、安部公房の作品の
中では、いつも人攫(さら)ひの登場とともに鳴る救急車のサイレンの音を思ひ出すことが
できます。確かに、さうやつて攫はれた後の「転身の道程」は、『第四間氷期』であれ『密
会』であれ『カンガルー・ノート』[註1]であれ、一日の幕の開く前の夜明けに鳴り響いた
甲高い音の繰り返しの呪文の音の後には、地獄巡りの道程が始まる。
もぐら通信
もぐら通信 ページ12

[註1]
「しかしぼくは奇病で、しかも急患なんだ。ベルを鳴らして、特別診療を申し出る資格があるはずだ。
さっきから窓越しに人影が動くのを確認している。もう遠慮なんかしていられない。玄関のベルを押してみ
た。」(『カンガルー・ノート』全集第29巻、85ページ下段)

また、「数々の遥かさに生きてゐる静かな友よ」といふ此の一行は、安部公房の詩の中から
拾へば、次の詩に歌はれてをります。

(1)『秋でした』(全集第1巻、64ページ)
(2)『旅よ』(全集第1巻、76ページ)
(3)『静かに』(全集第1巻、124ページ)
(4)『詩人』(『没我の地平』全集第1巻、156ページ)
(5)『森番』(『没我の地平』全集第1巻、175ページ)
(6)『仮眠(まどろみ)』(『没我の地平』全集第1巻、177ページ)
(7)『防波堤』(『無名詩集』全集第1巻、228ページ)
(8)『孤独より』の中の「其の八」(『無名詩集』全集第1巻、234ページ)

次には先の戦争後の「転身」を見てみませう。著名なドイツ文学者富士川英郎の『リルケ詩
集』(新潮社文庫、昭和38年2月20日発行))の中の『オルフォイスへのソネット』第
一部最初の詩篇の第一連を。

「そこに一本の樹がのびた おお 純粋な乗り越えよ
ああ オルフォイスが歌う おお 耳のなかの高く聳えた樹よ
そしてすべては黙った だがその沈黙のなかにさえ
現れたのだ 新たな初まりと合図と変身が」
(傍線筆者)

何故同じドイツ語を片方は転身と訳し、他方は変身と訳したか。

カフカの『変身』といふ有名な小説があります。この題名の原語は、やはりドイツ語で、定
冠詞がついてdie Verwandlung(ディ・フェアヴァンデゥルング)といふのです。

先の戦後のカフカの流行が、ドイツ語の専門家たちに、転身ではなく変身を選ばせた理由か
も知れません。しかし、転身と変身では、今度は逆にドイツ語から日本語に訳し返されて見
ると日本語の世界では、日本語としては意味が異なりませう。前者は連続的・継続的な変身
の意味を言ひ表すことができてゐるのに対して、後者は変身の連続性の意味が薄いといふ違
ひがあります。リルケのオルフェウスは連続的に変身、即ち身を絶えず転じて変身するのに対
して、他方、グレゴール・ザムザは一回限りの転身をする。さうであれば、変身といふ方が、
もぐら通信
もぐら通信 ページ 13

変身の回数や連続性を問ひませんので、カフカの場合には此の訳語の選択が相応しいと思は
れます。

勿論しかし、蛇足ながら、後者の転身が一回限りとは言へ、それが時間の中の一回性の変身
で終はらないのは、冒頭の第一行にあるやうに、主人公の目覚めるのが特定の何年何月何日
といふ朝ではなく、神話的時間の「或る朝」であり、日常の現実的な時間ではないからです。

さて、以上は訳語の話でありましたが、今度は、リルケに深く学んだとはいへ、しかしリル
ケのドイツ語のままの世界なのではなく、日本人であり日本語の世界に生きる安部公房が独
自に概念化した「転身」といふ用語の概念について、問題下降の一つ一つの段階での作品を
読みながら、考へ、要所要所で、安部公房独自の其の概念をまとめて行くことにします。

理論 として手元に置いて必要に応じて参照するのは、勿論安部公房のOS(Operating
System)といふべき20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』です。それから、これも必
要に応じて、『詩人から小説家へ、詩人のままに』のチャート図(以下単に「チャート図」
と言ひます)を参照下さい。このチャート図のダウンロードは次のURLから:https://
ja.scribd.com/document/343689487/詩人から小説家へ-しかし詩人のままに-藝術家集団を
付記-v8

III 「転身」といふ語のある詩を読む
1。転身といふ語のある詩

期間>時期>区分といふ時間の長さの単位の名前を最初に命名して、次のやうに話を進めま
す。

転身といふ言葉のある詩と、転身といふ言葉を含む散文をすべて、以下に作品成立順に列挙
します。「詩人から小説家へ、しかし詩人のままに」のチャート図を参照しながらお読み下
さい。

チャート図によれば、「詩形式による「今後の問題の定立」=詩と散文の統合」の期間の前
半、即ち「①詩の世界での問題下降」の時期の詩集の時系列的な区分は、問題下降論の確立
の時期を受けて、次のやうになることが判ります。

(1)詩集『没我の地平』以前:1946年:22歳
(2)詩集『没我の地平』:1946年:22歳:問題上昇(デジタル変換)による詩集
(3)詩集『無名詩集』:1947年:23歳:問題下降(アナログ変換)による詩集
もぐら通信
もぐら通信 ページ14

2。「①詩の世界での問題下降」の時期の詩
(1)散文形式による創作理論(『問題下降』論)の確立:1942年∼1944年:18
歳∼20歳:チャート図では緑色の枠で示してゐます。

「散文形式による創作理論(『問題下降』論)の確立」の時期に同時並行して書かれた詩は
次の通りです。また、この時期に確立された「『問題下降』論」の理論篇は、20歳の論文
『詩と詩人(意識と無意識)』です。

従ひ、理論と実践といふ考へで、この二つをいつも往復する安部公房は、散文詩『ユァキン
トゥス』が20歳の理論篇の前に、またその後に二つの詩が、それも普通の謂はゆる詩と其
れから散文詩の二つが書かれてゐることから、理論と実作の双方を比較して、その前後の
『没我の地平』以前の詩の様子を見ることにしませう。( )の中の回数は「転身」といふ
言葉の出てくる回数です。

『没我の地平』以前の詩:1944年(転身:計5回)
(1)散文詩:『ユァキントゥス』:全集第1巻、103ページ(3回):1944.6.6
(2)論文:『詩と詩人(意識と無意識)』:全集第1巻、106ページ下段(1回):
1944.6.8
(3)詩:『嘆き』:「身をひるがへし」:全集第1巻、123ページ(1回):1944.6.2
(4)散文詩:『観る男』:全集第1巻、134ページ(1回):1944.7.28

論文『詩と詩人(意識と無意識)』については、ご自分で此の作品をお読み戴く以外にはあ
りませんが、しかし、もし楽をして其の概要を知る方便はないものかといふ怠惰な心をあな
たがお持ちであるならば、『18歳、19歳、20歳の安部公房』(もぐら通信創刊号から
第3号)が問題下降論確立時期を解説してをり(第3号は「20歳の安部公房」と副題して、
『詩と詩人(意識と無意識)』を文章に沿つて解説してゐる)、そして此の論文中にある「存
在象徴」といふ安部公房文学を理解するための重要なる鍵語(キーワード)については、『も
ぐら感覚4:触覚』(もぐら通信第2号)で一層深く論じてをりますので、これらの論考を
お読み下さい。問題下降論確立時期の安部公房にとつて何が問題であり、その問題を如何考
へて、どんな解決を導いたのかを知ることができます。勿論、上記の私の複数の論考の内容
で述べられてゐることは、この論考でも、理論篇『詩と詩人(意識と無意識)』の前後にあ
る実践篇たる下記の詩文を論ずる中で何度も言及することになります。

この西暦を見ると、安部公房は1944年6月と7月の二ヶ月間に集中的に、詩、散文詩、
そして論文の三つを精力的に書いたことが判ります。安部公房の20歳は、20歳と算用数
字で書くのではなく、やはり二十歳と日本語で書いて、はたちと読ませるほどに初々しくも、
生産的な一年でありました。上記の作品を読みますと、安部公房は、若さに頼ることなく論
理的に、身命を賭して考へ抜いた。安部公房の読者であるあなたの二十歳や如何に。
もぐら通信
もぐら通信 ページ15

理論篇の前後の詩から「転身」のある行を以下に抜き出して考察します。それによつて、安
部公房文学の基本的・基礎的な語彙を知つてもらひ、それらの概念同士の関係を知つてもら
ひ、つまりは、安部公房のものの考へ方を知つてもらひたい。これから論ずることは、小説
家に変貌した後の安部公房の諸作品にあつても、語彙に違ひはあれ、しかし其の言葉による
概念は変はらず、従ひ概念同士の関係、即ち作品の構造は不変だからです。

「転身」の関連用語一式を理解することが、安部公房文学を理解するための「安部公房とい
ふ缶詰」の蓋を、あなたが読者として自分自身のために自分自身の力で、安部公房の流儀に
従つて再帰的に開けるための「缶切り」です。[註2]それ位に初期安部公房の用語は重要で
す。

[註2]
『「安部公房」に缶切りを!∼安部ねり&加藤弘一 −トークライブ報告∼ 2013年2月20日紀伊國屋書店新宿
南店』(もぐら通信第6号。ホッタタカシ報告)より以下に引用して、この缶切りという隠喩(metaphor)の
由来をお伝えします。:

「「本当にウマの合った二人だった」と安部公房と三島由紀夫の幸福な交遊関係に触れ、安部公房の友達は右翼
が多かったな、とポロリ。さらに、「『終りし道の標べに』が出た時、推薦人は埴谷雄高、激賞の手紙を送って
きたのは石川淳、最初に批評を書いて褒めたのが三島由紀夫。『S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞をもらった時は、
川端康成が推してくれました。認めてくれるのは作家ばかりなんですよね、評論家じゃなくて」
と言うと、加藤さんもうなずき、
「評論家は鈍いですね。三島論にくらべると安部論はぜんぜん少ないし……」
なぜ少ないのかと問われて、
「缶切りが見つからないんだと思いますよ。安部公房の文学をどうやって蓋開けていいのか、わからないんです」

「みなさん、(缶切りを)見つけてください」
と、ねりさんの観客への呼びかけで1時間のトークライブは幕となった。」

(1)散文詩:『ユァキントゥス』:全集第1巻、103ページ(3回)
①「それに、別離が真の転身である為には、相手を本当に愛してゐなければならないの
ではないだらうか。自分が本当に手の中に持つてゐないのを、どうやつて手離す事等出来る
だらう。ユァキントゥスよ、だからこそ、私はお前の許を去つて行くのだ。その時にこそ愛
は永遠のものとなるだらう。」(傍線筆者)

②「ユァキントゥスよ、此の私の苦悶がお前に分るだらうか。此の苦悶を耐える為に、
私は各瞬間を転身して行かねばならないのだ。苦悶を耐える為に、更に大きな苦悶を引受け
る事……永遠の転身。それがエロスの復讐を受けた詩人の運命なのだ。
ユァキントゥスよ、愛は、行為を嫉妬するのだ。」(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信 ページ16

この詩から解ることは、次のことです。

『デンドロカカリヤA』の冒頭の最初の行は、「僕の中の「僕」」に話しかけるといふ安部
公房の独自の話法で始まります。この話法にあつては、安部公房はまづ独白に入り、次に自
問自答するのでした。[註3]

[註3]
「2。蒸留法

安部公房が詩人として世界を歌ふときには一つの特徴があります。それは、世界と其の中にある諸物諸事諸人に
対して、呼びかけるといふ事、そして次に自問自答するといふ事です。安部公房全集の中では、第1巻所収の
『〈今僕はこうやつて〉』といふ19歳の時のエッセイに其の最初の例を、私たちは見ることができます。(全
集第1巻、88∼89ページ)」(「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」(もぐら通信第54号)26∼27ペー
ジ)

同様に、この散文詩にあつても、最初の一行は、運命に話しかけることから始まります。即
ち、この運命とは、「僕の中の「僕」」なのであり、後者の鉤括弧の「僕」が運命なのです
し、この運命は、そのまま結局は鉤括弧のない最初の僕に帰つて来るのです。[註4]

[註4]
「ぼくらの病気はとりもなおさず、あのぼくとこのぼくが入れちがいになって、顔はあべこべの裏返しになり、
意識が絶えず顔の内側へおっこちてしまう……、それが植物になることさ。」

とある「あのぼく」と「このぼく」の関係は、

(1)「あのぼく」の中の「このぼく」なのか
(2)「このぼく」の中の「あのぼく」なのか

この二つの「ぼく」があつて、この関係そのものが既に最初から、交換関係を前提にし且つ「既にして」(超越
論的に)結果してゐることが判ります。このやうな関係にある「ぼく」には時間の先後は無いのです。従ひ、「あ
のぼく」が「このぼく」と入れ替わり、「このぼく」が「あのぼく」に入れ替わることは、時間の無い、幾何学
的な変形なのです。」(「『デンドロカカリヤ』論(後篇)」もぐら通信第54号)

最初の一行を読むと、「運命よ、私の心よ、お前は何を現実と云ふのか、何を夢と云ひ空想
と云ふのか。」となつてゐます。

一人称が呼びかけるもう一つの一人称に当たる運命を、ここで判るやうに「私の心」と、話
者は更に呼んでをります。「私の中の「私」」は、交換関係に於いては、運命であり、私の
もぐら通信
もぐら通信 ページ17

心であり、私の心(といふもう一人の私)に対して、何を現実と云ひ夢と云ふのかを問ふて
をります。

さうして、かう続けるのです。

「それは、お前の生に対する嫉妬ではないのか。お前の手の中から、そつとしのび出たたつ
た一つの小さな夢に対しても、恐ろしい詰問と復讐を忘れなかつた立法の女神よ、愛に対し
ても生に対しても、名前を与へて侘しい冬眠に追ひやらずに居られなかつたお前、到々私の
胸もねらはうと言ふのだね。」

この二行に読むことのできることは次のことです。

①「僕の中の「僕」」の二つ目の僕は女神であり、女性であること。さうして、
②この女性の神は、立法の権能を有してゐること。従ひ、
③この女神は、女神の手からしのび出た一つの小さな魂の持つ愛に対して、法廷を開き、詰
問と復讐を行ふこと。何故なら、それは自らの手から密かに謂はば逃亡した魂であるからで
あること。
④この女神の手は両手ではなく片手であり、この手からは、小さな魂が忍び出たこと。
安部公房の片手とは、両手とは意味が異なり、存在の手であり、従ひ運命の手です。[註5]
即ち、

[註5]
安部公房独自の両手と片手といふ手の違ひについては、『もぐら感覚6:手』(もぐら通信第4号)をご覧くだ
さい。片手の手は、運命の手として安部公房は考へてをります。

⑤この小さな愛する魂は、運命に従つて存在になることを受け容れた魂であり、従ひ其れは
何かになつて、即ち無名の何かになることの運命にある魂であるものを、社会を成り立たし
める立法の女神が、この、(存在として)現実の社会と其の時間の中を(未分化の実存とし
て)生きようとする魂に「名前を与へ」ること、そして、
⑥それによつて此の魂を「冬眠に追ひ」やること、この冬眠は、名付けられたことによる冬
眠であり、従ひ社会の中での冬眠であること、しかし、
⑦その魂のありかたから言つても、立法の女神の手から逃れた魂である以上、社会の中に名
前を呼ばれゐるといへども他に理解者はなく、従ひ其の冬眠は「侘しい」ものであり、孤独
であること。夏の盛期の状態にあるのではなく、逆に冬眠といふ不活発、即ち此の魂にとつ
ては社会は冬期にあつて、愛する小さな魂は恰も死者としてあるが如くである。そして、
⑧この女神は遂に「到々私の胸迄もねらはうと」してゐることこと。しかし、
⑨この「私の胸をねらはうと」してゐる女神とは、最初の一行で運命と呼ばれてゐる私の心
もぐら通信
もぐら通信 ページ18

であり、「僕の中の「僕」」といふ安部公房独自の話法の構造に戻れば、再度最初に回帰し
て、それは後者の僕である。そして、
⑩逃げ出した小さな魂だけが、「僕」といふ三人称としての女神の運命の手の中から逃げ出
したが故に、それは前者の僕でもなく、後者の僕でもなく、『詩と詩人(意識と無意識)』
に論ぜられてゐる第三の客観、即ち存在なのです。しかし、
⑪立法の女神は、その存在たる小さな魂、愛することを知つてゐる小さな魂に名前を付けて、
生命を固定化して、社会の中に引き戻して、「侘しい冬眠」の生活を強ひる。

このやうなことが、冒頭の第一段落からわかることです。

以上のことから、更に此の詩の最初の一行の疑問文に答へるならば、

⑫何を現実と云ひ、何を夢かと云へば、社会を立法して治めるお前にはわからぬだらうが、
それは此の第三の客観こそが、即ち現実でもなく夢でもない何ものか、即ち存在こそ、存在
であること、存在になることこそが、愛する小さな魂の運命なのであり、お前の手から逃れ
出て、逃亡することの価値なのだ。

この詩をこのやうに読み解きますと、散文詩『ユァキントゥス』には既に早や、『S・カルマ
氏の犯罪』が、詩となつて歌はれてゐることがわかります。

さて、安部公房は、第二段落の第一行で「お前は最初から私の敵だつた」と呼びかける此の
立法の女神(理解のために解り易く社会の支配者と言ひ換へても良いでせう)に対して、ユァ
キントゥスといふ古代ギリシャ神話の美しい未成年の男色者の若者を対置させて、この後の
詩行を織りなすのです。この詩は、そしてユァキントゥスは詩人の胸の中にゐる。勿論安部公
房にとつて、詩人とは人間の典型に外なりません。この人間の典型としての詩人が詳細に論
理的に論ぜられるのが『詩と詩人(意識と無意識)』です。さて、ユァキントゥスとは一体ど
のやうな人間なのでせうか。

ユァキントゥスは、花の名前では日本語のヒアシンスのことです。

「ヒュアキントス(古希: Ὑάκινθο , Hyakinthos)(またはヒヤキントスやヒアキン


トス)は、ギリシア神話に登場する男性神。

親については諸説があり、ギリシア神話において登場する最高神ゼウスと女性神レトの息子
として生誕し、月の女神アルテミスの双生児アポローンに愛された美青年である。

ヒュアキントスは、アポローンとの円盤投げの遊戯を行っていた際、円盤の跳ね返りを頭部
に受けて死したと記述されている。
もぐら通信
もぐら通信 19
ページ

ジャン・ブロック(Jean Broc)による
『ヒュアキントスの死』(The Death of Hyacinthos)

ヒュアキントスの頭部から流れる血から咲き始めた花は、ギリシア神話においてエポニムでヒヤ
シンスとして知られている。(略)

一説には、西風の神ゼピュロスもヒュアキントスを愛していたが、ヒュアキントスから拒絶され
てしまう。ある日、アポローンとヒュアキントスが、仲睦まじく円盤投げの遊戯を行っている様
子を見て、西風の神ゼピュロスは嫉妬に偏狂してしまい、アポローンの投げた円盤がヒュアキン
トスに当たる様に風を操った。ヒュアキントスは、ゼピュロスの操る風の影響により、ヒュアキ
ントスの頭部に向かって逸れてしまったアポローンの投げた円盤を受けて、逝去してしまったと
記述されている。」(https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒュアキントス)

この美しい神的な若者は、古代ギリシャの習俗としても、男色の対象となる若者であつた。これ
を自らの内部にある「僕の中の「僕」」の双方の一人称のいづれでもないといふ、僕と僕との間
から逃れて生まれた同性愛者である小さな魂として表し、安部公房の独自固有の話法の常として、
この美しい神的な若者に呼びかけたといふことになります。

2。1 ユァキントゥスとS・カルマ氏の関係:かくして安部公房は詩人から小説家への「転身」
に成功した

さて考へてみれば、ユァキントゥスど同様に、S・カルマ氏もまた「僕の中の「僕」」の物語です。
前者の僕と後者の僕が(本人と名刺の)交換関係にあつて、どちらがどちらであるのかわからな
くなる物語です。
もぐら通信
もぐら通信 20
ページ

そして『ユァキントゥス』のやうな性愛の視点から此の「僕の中の「僕」」の物語を眺めれば、
『S・カルマ氏の犯罪』も、同性愛にある男同士の物語と読むこともできます。しかし、S・カル
マ氏は最後には、体の半身が黒と白の隙間にある、境界線に在つて時間の中に生きる即ち未分化
の実存、即ちY子に手を引かれて(これは『方舟さくら丸』や『カンガルー・ノート』の最後で
も同じ)、『ユァキントゥス』の詩でいふ「立法の女神」による法廷と裁きの世界から、S・カ
ルマ氏の小さな魂が『ユァキントゥス』の第一段落に歌はれてゐる理由によつていつも必ず有罪
の判決を永遠に受け続ける犯罪者としての遁走を続ける、即ち砂漠の中に無時間の方向である垂
直方向に成長する壁といふ存在に化すのです。

これに対してユァキントゥスの場合には、一度別れた後に「もう一度」詩人が「お前(ユァキン
トゥスへの呼びかけ)の所へ帰つて行く時には」、話者である詩人の「私の胸の中で死ななけれ
ばなら」ず、このことはまた「各瞬間を転身」し続ける詩人の「永遠の転身」によつて、即ち転
身の苦しみに堪える詩人のユァキントゥスへの永遠の愛も、そして此の「永遠の転身」の中で、
永遠になる。何故ならば、苦しみを引き受ける詩人の「転身」と其れに伴ふ別離こそが、ユァキ
ントゥスへの詩人の愛の証であるからです。このやうに「永遠の転身」は永遠の別離であり、同
時に永遠の愛の証明なのです。従ひ、ユァキントゥスは詩人である「私の胸の中で死ななければ
ならない。」これが詩人安部公房のいふ愛の原型です。それ故に「弱者への愛には、いつも殺意
がこめられている̶」(『密会』全集第26巻、8ページ)

S・カルマ氏が、最後に自分自身の胸の中で、無時間である垂直方向に永遠に転身して行く壁にな
るのと同じ再帰的論理が、ここにあります。「僕の中の「僕」」といふ再帰的論理構造です。そ
して、前者の僕が詩人たる話者であれば、後者の「僕」はユァキントゥスであり、S・カルマ氏で
ある。

しかし、かうして考へてみると、ユァキントゥスといふ詩の中の神話的な若者と、S・カルマ氏と
いふ小説(散文)のなかの若者では、一つの違ひがあります。それは、前者は詩人の胸の中で死
ぬのに対して、即ち此の限りに於いて詩人とユァキントゥスの関係は固定してゐるのに対して、
後者は壁といふ存在を介して、詩人とは交換関係に在るといふことです。果てしなく「転身」す
る壁になつたのは、話者である詩人であり、また同時にS・カルマ氏でもあるのです。二つの作
品の最後の所を比較してみませう。このことがよくわかります。

『ユァキントゥス』(散文詩):
「ユァキントゥスよ、お前は私の胸の中で死ななければならない。(略)
愛は、行為を嫉妬するのだ。」

『S・カルマ氏の犯罪』(小説):
「首をもたげると、窓ガラスに自分の姿が映って見えました。もう人間の姿ではなく、四角な厚
手の板に手足と首がばらばらに、勝手な方向に向ってつき出されているのでした。

やがて、その手足や首もなめし板にはりつけられた兎の皮のようにひきのばされて、ついには
彼の全身が一枚の壁そのものに変形してしまっているのでした。
もぐら通信
もぐら通信 21
ページ

見渡すかぎりの曠野です。
その中でぼくは静かに果てしなく成長してゆく壁なのです。」

後者、即ち『S・カルマ氏の犯罪』(小説)では、★の前で話者の語る主人公は、安部公房の作
品の常で、リルケに学んだ透明感覚といふ内部と外部が交換されて生まれる感覚の後に主人公の
変形が書かれてをり、それも其の変形は、鏡といふ再帰的な対象に写影されてゐる。(後年の安
部公房は、この鏡を投影体と呼んでゐます。[註6]即ち安部公房のいふ投影体とは、一言で云へ
ば仮説を写す鏡のことであるといふことになります。)そして、★のあとでは、S・カルマ氏は、
話者たる一人称の「ぼく」に変じて、ここに三人称の「僕」たる私と、一人称の「僕」たる私が、
「僕の中の「僕」」の中で、即ち「私の中の「私」」が『ユァキントゥス』の散文詩のやうには
固定せずに、この小説では交換関係にあることになり、この交換関係を成りたたしめてゐるのが、
存在といふ媒介者または函数である「壁なのです」。即ち、

安部公房の詩人から小説家への「転身」の成功は、「僕の中の「僕」」といふ入籠構造または螺
旋構造にある二人の「僕」の固定してゐた関係を、存在といふ相対概念を表す形象と名前の創造
によつて交換関係にすることができたといふことにある。そして、これは此のまま、安部公房の、
(存在といふ概念を隠し持つた)直喩に満ちた此の作家独特の文体の創造と軌を一にしてゐる。
[註7]

と、このやうにいふことができます。

「僕の中の「僕」」といふ二人の僕の固定した関係を、存在といふ相対概念または関係概念の形
象化によつて、交換関係に変形できた最初の小説が、安部公房文学史上での画期的な、記念碑的
な小説であるといふことになります。その小説の名前は一体何でせうか?チャート図を見てみま
すと、『デンドロカカリヤA』が問題下降された次の作品といふ事になります。

(1)『赤い繭』:一人称の小説:「おれ」
(2)『魔法のチョーク』:三人称の小説:「アルゴン君」(君といふ所と語調にまだ詩人の、
即ち安部公房の固有独自の話法の呼びかけが僅かに残つてゐる)
(3)『S・カルマ氏の犯罪』:一人称(僕)と三人称(「僕の中の「僕」」)の交換、即ち『赤
い繭』と『魔法のチョーク』の話法の統合:S・カルマ氏と名刺の交換。結末部で★を間に置い
て、その前後で二つの人称が一つになる。即ち上の[註4]に註記した形式に従へば、

「あのぼく」と「このぼく」の関係は、
もぐら通信
もぐら通信 ページ22

(1)「あのぼく」の中の「このぼく」なのか
(2)「このぼく」の中の「あのぼく」なのか

といふことであれば、

(1)話者の「僕の中の「僕」」の、前者の僕は後者の僕であり、
(2)話者の「僕の中の「僕」」の、後者の「僕」は前者の僕である

といふことが、人称といふことに於いて、明確になつたといふことになります。[註8]

[註6]
このような「物」を、安部公房は「投影体」と呼び、箱、壁、砂をそのような例として挙げております(1985年
のインタビュー『方舟は発進せず』。全集第28巻、58ページ)。

「ぼくにとっての関心というのは、今を見る……ということ。それはぼくにとってのメビウスの輪ですよ。それを
「箱」とか「壁」とか「砂」とかに投影する。その、いい投影体を探すということです。今、ぼくが、この見ている
ことの感覚、言葉ではまだいえない感覚を、何に映す一番よくこの感覚が映るか、というその映すものを探すのが作
業で、それが小説を書く時に一番の楽しみですよ。あと、書くことってのは、まことに、よくこんなバカなことをや
るのかってくらいにシンドイけれど、投影体をみつけるとこだけはね、自分の喜びといえるかもしれないなあ。」

「投影体」とは、数学的には写像(map=地図)の問題であり、言語論的•文学的には、ある体系の中のすべての語
彙をどうやってもう一つの体系の語彙へとすべての対応関係(correspondence)を失うことなく変換するかという
翻訳の問題であり、また変形(transform、topology=位相幾何学)の問題でもあります。

[註7]
安部公房の多用する直喩といふ譬喩(ひゆ)が、存在といふ概念との関係で、一体何を意味してゐるかについては、
「安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼」(もぐら通信第54号)の「1。直喩といふ毒(修
辞の毒)」をご覧ください。

[註8]
この安部公房独自の話法にある再帰的一人称が、何故安部公房の世界で主人公が複数現れるのかの理由です。これは、
しかし話法だけの問題ではなく、同時に、時間及び「転身」との関係で論理的な理由があつて、主人公が複数登場す
るのです。これについては、「『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか」と題してお話します。父だけが
「さまざま」なのではなく、『複数のキンドル氏』然り、『人魚伝』然り、戯曲「『案内人』(GUIDE BOOK II)」
の案内人然り、その他の同類の場合に於いて然りです。

また『ユァキントゥス』といふ詩で判るやうに、「僕の中の「僕」」といふことから生まれる安
部公房の同性愛的な傾向は、そして私の観察によれば、此れは多かれ少なかれ再起的な男は誰も
が持つてゐる性向ですし、三島由紀夫や三島由紀自ら云ふ「古典主義の時代」に特に愛読したトー
もぐら通信
もぐら通信 23
ページ

マス・マンが此の種の典型的な人間なわけですが、やはり安部公房の場合も同様に、高校時代の
親しかつた友人に対する安部公房の愛情の発露の言葉として、中埜肇宛の手紙に此の性向が記録
されて残つてゐます。[註9]あるいは読者によつては、『燃えつきた地図』の男色者たちのゐる
夜の河原を思ひ出す方もゐるでせう。

[註9]
「 それからもう一つ。或る意味では旅行の直接的原因であり、且つ旅の其のものには一向に関係の無い事について
一言御話ししませう。きつと意外に思はれる事でせう。いや、若しかしたら、君の事ですからすつかり御存じだつた
かも知れませんね。でも、兎角僕の口から云ふのはきつと、これが始めてでせう。……それは高谷の事なのです。僕
は実は、今だから申し上げますけれど、彼に対しては興味と云ふよりは愛に近いものを感じて居たのです。それで僕
は彼の美を恐れて居ます。彼の存在は僕に取つてあらゆる意味で苦痛です。どうか、あの――若し、おぼへてゐられ
たら――伯父ワーニャのなかの医師・アーストロフの言葉を想出して見て下さい。
それで旅行に出る前に僕は彼に対して、ある意味で絶交を求める意味の手紙を出したのです。勿論歸つて来るや、
君の葉書と一緒に、彼の同じ様な意味での同意の手紙を受取りました。
………… 」
(『中埜肇宛書簡第5信』全集第1巻、92ページ下段)

(2)詩:『嘆き』:「身をひるがへし」:全集第1巻、123ページ(1回)
「身をひるがえし消え行くを
吾が宿命(さだめ)とは知れるなり
おゝされど 吾尚ほ君を愛すれば
吾尚ほ君を愛すれば」
(傍線筆者)

ちなみに、上の4行に続いて間断なく続いて此の詩の最後にある次の5行は、リルケの『オルフォ
イスへのソネット』の第二部第XII章からの引用と変奏によるものです。この5行のうちの最後の
2行は、安部公房がリルケから何を独自に学んだかを示してをります。さうして、「欣求」(ご
んぐ)といふ仏教用語の選択は、高校生の安部公房が上にも言及した片山敏彦訳の『オルフォイ
スへのソネット』を読んだことを示してをります。

「花ほころびてあふれしは
かの*外国(とつくに)の歌人の
嘆きに満ちし欣求の声ぞ
― 外(と)の面(も)にて 君にし遭はゞ嬉しきものを
君にし遭はゞ嬉しきものを

*……リルケの事。」

片山敏彦訳の『オルフォイスへのソネット』第二部第XII章の訳を再掲します。
もぐら通信
もぐら通信 ページ24

「轉身を欣求せよ

轉身を欣求せよ、おお 焔の爲に感激せよ、
その火の中で、轉生を仄めかす或るものが、君からすり拔けて過ぎる
焔のために感激せよ。
現世のものを統べてゐる、常に企ててゐるあの靈は
ものの姿の勇躍の中に唯 轉身の曲がり角だけを愛する。

(畧)

君が轉身して風と成ることを望んでゐる。」(傍線筆者)」

2。2 安部公房はリルケから何を独自に学んだか

上記二つの第二部第XII章の片山敏彦訳と安部公房独自の『嘆き』の最後の連の引用を比較すると
「安部公房がリルケから何を独自に学んだか」と問へば、次のことがわかるといふ答へになりま
す。

①悲しみ
「嘆きに満ちし欣求の声」とあるので、「転身」は人との別離であつて、この別離は悲しみであ
り、それ故の嘆きが生まれるといふこと。リルケの詩には、この嘆きはない。これが、安部公房
の小説の持つ哀愁、哀切な感じの源ではないだらうか。リルケはむしろ焔に歓喜を求めてゐる。
あるいはオルフォイスは焔に身を投じて、我が身を焼くのかも知れない。

②愛と別離
「転身」によつて詩人は愛する人と永遠に別離するのであるが、しかし、その別離の遥かな距離
が、その愛の証明であること。遥かな距離にあつても、詩人自身の意志する「転身」によつてた
とへ別れても、詩人は「吾尚ほ君を愛す」るのであり、いや「吾尚ほ君を愛すれば」こそ、別れ
るのであるといふこと。この愛すればこそ別れる、進んで別れて愛の証明とするといふ考へ、こ
の愛といふことに関する考へが、リルケにある愛は遥かな距離にあることに留まつて歌つてゐる
のに対して、安部公房の遥かな距離にあつては、別離と愛といふことのことの後者、即ち愛がよ
り一層強調され、強く別離の悲しみと分かち難く結びついてをります。そして、これは女性への
愛といふよりも、男性の友への愛である。[註10]これが安部公房の愛の特徴です。

[註10]
「贋月報」(安部公房全集第24巻)に安部公房スタジオの俳優であつた佐藤正文が、稽古場で安部公房の口にした
愛といふ言葉について、その驚きを次のやうに回想してしてゐる。後期20年の安部公房が、リルケの詩の世界と自
己の詩の世界への回帰だといふことの、これは証言といふ事がいへるでせう。そして、ここで安部公房が若い役者た
ちに伝へたかつた愛とは、存在と別離と自らの死と、即ち「転身」の事なのであること、これは存在の十字路にあつ
もぐら通信
もぐら通信 ページ25

て初めて愛は現実のものとなるのだ、この十字路に存在する事が、ニュートラルといふ言葉の意味なのだ。と伝へよ
うとしたのだといふ事が、よく解ります。

「 稽古の前の話でとくに印象に残っているのはね、最後は愛なんだっていう話になったことがあったんです。なに
かどうしても解決できないことがあって、どうしたらこれが解決できるだろうか、乗り越えられるだろうか、ってい
う時に、何だと思う、しつこくみんなに聞いて、わかんない、なにも答えがでなくって。愛なんだよって。あのとき
はびっくりしたな。理詰めにだーっと分析していってね。で、これどうするって話じゃないですか。突然これ解決す
るのは愛なんだって。愛しかないんだって。それから、付け足したんです。でも、最後は愛しかないんだよ、ってい
うふうに言うと、既成のある小説家の名前を挙げて、それと一緒にされるからけっして言わないけどね、って。それ
から覚えているのは、二十一世紀の大きなテーマとして弱者の救済っていうのがあったはずなのに、って。弱者の救
済、弱者への愛っていうのがテーマだって。そんな話をしてからですよね。「仔象は死んだ」をやったのは。」

さうして、ここで安部公房の語つた弱者の救済の弱者とは、例を挙げれば『没我の地平』の「主観と客観」の詩にあ
る「木の間 木の間」に蹲る、人知られずに無償の人生を存在の中で生きる何者か、時間的・空間的な差異(十字路)
に存在する無名の人間のことをいつてゐるのです。即ち「既成のある小説家」が恐らくは書いてゐたやうな通俗的な
弱者などでは全然ないのです。『仔象は死んだ』といふ戯曲は、やはり安部公房の理解をして自家薬籠中のものとし
たリルケが姿を変へて、存在の舞台として現れてゐるのです。

③外面
「外(と)の面(も)にて 君にし遭はゞ嬉しきものを」[註11]

これは、『他人の顔』の論理に通じてをりませう。予め喪はれた顔は、予め喪はれたものであり
ますから、従ひ案内人であり[註12]、また其の形状たる凹(窪み)は、『砂の女』の砂の穴の
凹(窪み)と同様に、存在であるか又は遥かな距離と時間といふ差異をゼロにすることによつて
存在になり得る、凹(窪み)といふ差異に存在する何かでありますから、この「外の面」と呼ば
れる外面もまた詩人が窪みをつけて、もぐらのやうに手で其の面を掻き出して、即ち書き出して
言語化して[註13]、この交換関係により動態的な境界が生まれる訳ですから、この場所で「君
にし遭はゞ嬉しきものを」と、安部公房は歌ふのです。

この場所とは、動態的な交換可能の関係、即ち動態的な接続関係のことであり、言ひ換へれば、
いふまでもなく、存在のことです。安部公房は、自ら意志する「転身」による愛する人との別離
によつて生まれる遥かな距離をゼロにするために、あるいは其れが成就したならば、存在の中で
再び「遭ふ」ことができると考へた。「会ふ」のではなく「遭ふ」のですから、日時を決めて会
ふのではない、日時など存在しない無時間の接続点で、何も図らずに出あふといふこと、これが
「遭ふ」といふことなのです。これが、安部公房の念じた無償の人生、箱男の人生です。勿論、
向かうから(主人公の意志とは無縁に)やつて来るのが、人さらひです。勿論人さらひがいつや
つて来るのか、主人公は知らない。従ひ凝つと待つ、機が熟するのを待つ以外にはない。これが
社会であれ思考論理であれ閉鎖空間から脱出する唯一の方法であり、同時に方法論である、即ち
「問題下降に依る肯定の批判」であり、『詩と詩人(意識と無意識)』に論理的に叙述されてゐ
る、無償の「転身」の果ての果てにやつて来る僥倖であり、遂に眼にする究極の反照、即ち存在、
もぐら通信
もぐら通信 ページ26

なのです。[註14]

[註11]
安部公房の「外の面」とは次のやうな外面です。『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』
(もぐら通信第55号)の「1。空白の論理といふ毒(詩の毒)」より以下に転載します。

「『僕は今こうやつて』といふやはり19歳のエッセイがあります(全集第1巻、88ページ)。そこに次の文章が
あります。この、言語表現することとの関係に在る禁忌(タブー)の意識が、この物事の半面しか言葉で表さないと
いふ安部公房の表現に対する考へかたの根底にある理由なのです。『もぐら感覚20:窪み』(もぐら通信第18号)
から、安部公房の言語と言語表現に関する内面の禁忌(タブー)の意識と論理を再掲致します。

「さて最後に、また再び、『〈僕は今こうやって〉』に展開される安部公房の論理を、全く純粋に論理の問題として
論じて、この考察の掉尾を飾ることに致しましょう。

純粋に論理の問題としてとは、経験や知識に一切拠る事無く、言語と思考の問題として、10代の安部公房の論理と心
理(こころの内)を解析するということです。

冒頭引用した『〈僕は今こうやつて〉』の文章に戻ります。これを読むと、安部公房の展開する論理は、

「「僕が其の内面について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事なのだ。努力して外面を見
詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。そして特に、僕達が為し得る事は、
そして為さねばならぬ事は、その外面を区別し見る事を学ぶと云う事ではないだろうか。」

とある通りですが、この箇所を読むと、これは本当に安部公房らしい。何故ならば、普通の人間とは思考が全く倒立
しているからです。

普通の人間ならば、内面を論じているのですから、内面を外面と区別すると考え、そう書くでしょう。しかし、安部
公房は、内面をではなく、外面を区別すると考え、そう書くのです。

(意識する対象、問題とする対象を動詞の目的語にするのではなく、そうではない、それではない物事を目的語にして、
当の物事について考えようというのです。この思考の形式、この思考の方法は、10代から晩年に至る迄、安部公房に
特徴的なものです。)

そうして区別された筈の内面については、一切触れないという態度を堅持します。

この論理からわかることは、安部公房の言う内部とは、外部ではないという否定(negation)でいわれる外部で すか
ら、それは、裏返された内部だとわかります。そうして、すなわち、それは、そのまま、裏返された外部で あること
になることも、おわかりでしょう。

これが、いつもの、最晩年に至るまでの、安部公房の論理展開の骨格なのです。小説の地の文章でも、その中の会話
でも、戯曲の科白でも、エッセイの論旨の展開でも、対談でも、座談でもどのような文章においてでも、です。

さて、こうして、生の本質、生の秘密は、言葉にされることがなく、言葉によって表現されないことによつて、 否定
の論理(negation)、陰画の論理によって護られるというのが、安部公房の論理です。」

[註12]
『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(もぐら通信第33号)から
もぐら通信
もぐら通信 ページ27

再掲します。

「さて、前期20年の案内人は、次の通りです。
(1)手記(実は存在しない):『終りし道の標べに』
(2)名刺(失われた名前の書いてある):『S・カルマ氏の犯罪』
(3)とらぬ狸(存在しない):『バベルの塔の狸』
(4)ニワハンミョウ(一度取り逃がして失った):『砂の女』
(5)損傷した顔(失われた):『他人の顔』
(6)依頼人の夫(失踪した):『燃えつきた地図』

後期20年の案内人は、次のようになるでしょう。

(1)箱男(失踪した男)の書いた箱の製法のマニュアル:『箱男』
(2)救急車に誘拐された妻(失踪した女):『密会』
(3)ユープケッチャ(無時間ー永遠ーに棲息する=存在しない):『方舟さくら丸』
(4)カイワレ大根(脚に生える=存在しない):『カンガルー・ノート』

これらの案内人をみると、みな予(あらかじ)め失われたものと一言でいうことができることに気づきます。

この「予め失われたもの」は、空間の中では上記の名前で、予め失われたものとして登場しますが、時間の中では、
予め失われた未来として「明日の新聞」と(最後に登場してそう)呼ばれ(戯曲『友達』、『密会』その他)、『第
四間氷期』では、予言機械の予言となり、その予言は物語の最後に目に見えない暗殺者の足音と化してやって来て登
場し、『砂の女』や『箱男』や『カンガルー・ノート』の最後に失踪や死亡を告げる一枚の紙として登場するのです。
そうして、勿論これらの紙の媒体は、次の次元への案内人又は案内書として、その上位接続点(積算値、即ち奉天の
窓)、即ち十字路の交差点に立つ方向標識板なのです。」

[註13]
『今僕はこうやつて』から引用します。ここに、魂と愛の力について語つてゐる箇所があります。
この外面を外面ではない何か、即ち言語に変換するに際して愛が語られるのです。そして、これが外面ではない何か、
即ち存在である以上、それは言語で表される事がなく、沈黙と余白の中に置かれてゐるのです。

「「僕が其の内面について言える事は唯だ次の事丈なのだ。つまり面の接触を見極める事なのだ。努力して外面を見
詰め、区別し、そしてそれを魂と愛の力でゆっくりと削り落として行く事なのだ。そして特に、僕達が為し得る事は、
そして為さねばならぬ事は、その外面を区別し見る事を学ぶと云う事ではないだろうか。」

愛と魂の論理といふべき論理は上の[註11]と此の註の通りですが、更にもつと詳細に安部公房の文学との関係で
は『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「1。空白の論理と
いふ毒(詩の毒)」をお読み下さい。

[註14]
この事は、二つの最初の論文では次のやうに書かれてゐる。

1。『問題下降に依る肯定の批判』
「此処に於いて更に新しい座標――より抽象的な――が現れる。そして此の事は無限に繰り返されて行く。では此の
事――心理の認識――は不可能なのだ廊下。しかし此処に新しい問題下降――一体座標なくして判断は有り得ないも
のだろうか。これこそ雲間より漏れ来る一条の光なのである。」(全集第1巻、12ページ上段)
もぐら通信
もぐら通信 ページ28

あと、長いので引用を控えるが、同じ第1巻の13ページ下段から14ページの上段にかけて同じ問題が別の言葉で
論じられてあり、そこでは「一種の高次的問題下降」といふ、『詩と詩人(意識と無意識)』で次元展開と呼ばれて、
詩人の態度に於いて成し遂げられるべき「転身」に関わる言葉が書かれてゐる。

2。『詩と詩人(意識と無意識)』
「第二に、肯定の場合として、一瞬の問題が想起される。吾等は絶えざる別離と出発、即ち転身によって、あらゆる
日常的なものの中に流れる自我の生を、展開されたものとして主観・客観を超越した宇宙的なものの中に求める事が
要求されるのだ。」(全集第1巻、106ページ下段)

「では此の主観のつもり行く次元展開の究極は、一体何を意味するのであろうか。(略)そして此の、永遠の距離を
以てはるかへだたっている究極を、吾等は第三の客観として定義する事は出来ぬものであろうか。」(全集第1巻、
107ページ上段)

「第三の客観とは、正しき主観の上昇的次元展開の極限であった。そして此処には一種の詩的体験が必要なのであ
る。」(全集第1巻、110ページ下段)

「吾等は原因と結果の逆行に陥入らぬ様批判しつつ論理をすすめて行かねばならぬ。
その為には先ず態度と言う事が顧慮されねばならぬ。以上述べ来った事からも明らかな如く、かかる問題に対して
いる批判者は常に絶えざる展開の運動飛躍の最中に身を投げ入れつつ、そのともすれば見失われがちな次元段階の究
極の反照を心の裡に保ち続けなければいけないのだ。」(全集第1巻、111ページ上段)

「しかしより高次の人間の在り方である展開は自ら次元を上へ上へと乗り越えて、限り無き円を回転し続けるのだ。
世界内=在にも世界=内在にも留まる事無しに、交互に素速く点滅する光の中を無言の儘に行きすぎるのだ。
夜も世界も、展開に於いて次元から次元へと転身する行為に於いて、その行為者のみが触れ得るものなのである。
静止するものは一つとて無い。総ては巡る。そして其の回転自体も固定した観念としては消滅する。総ての流れは不
連続な点の列である。」(全集第1巻、117ページ上段)

上記①から③のことは、確かに安部公房の詩の中に、「転身」といふ言葉と一緒になつて、頻出
する言葉であり、考へ方であり、論理です。

さて、この比較の最後に、リルケと安部公房の詩に共通する十字路について述べて、比較の終は
りとします。

④カーブの向かう、即ち存在の十字路
安部公房もまたオルフォイスのやうに「轉身の曲がり角だけを愛する」。

「轉身の曲がり角」と日本語で訳されますと、何か曲がり角が転身のために其処に静止してある
やうに読めますが、しかし、さうではなく、ドイツ語ではder wendende Punkt(デア・ヴェン
デンデ プンクト)、即ち英語でいふthe turning pointでありまして、英語の原義に戻つて考へる
とドイツ語の普通に意味する所になります。即ち、文字通りに此の点が動いて方向を変へてゐる、
そのやうな移動して止まない点が、the turning pointである「轉身の曲がり角」といふ意味なの
もぐら通信
もぐら通信 ページ29

です。「転身」は連続的な変身の意味であることを思ひ出して下さい。この論理は、安部公房に
於いては、徹底されてをります。もし此の「轉身の曲がり角」が静止してある曲がり角であれば、
ドイツ語では、der Wendepunkt(デア・ヴェンデプンクト)と言ひます。リルケはさう書いて
はゐない。常に動態的に移動する上位接続点、そこは「転身」といふ変形の成就する接続と変形
の交差点なのです。

従ひ、『燃えつきた地図』の、あの高台にある団地へ向う坂道にある「カーブの向う」のder
wendende Punkt(デア・ヴェンデンデ プンクト)、即ち「轉身の曲がり角」は、初めと終はり
では、この十字路が移動してゐる以上、そこには差異が生まれ、ズレが生じてゐて、同じカーブ
の道ではなく、安部公房の無意識の意識の中では其の勾配もまた異なつてゐて且つ異なつてゐな
いのは当然のことなのです[註15]。これが、存在の十字路です。

[註15]
安部公房は、1968年の『三田文学』誌上で、秋山駿のインタビューによる質問に答えて、次のように、満洲は奉
天で子供時代に見た窓について語っています(全集第22巻、45ページ)。傍線筆者。

「秋山 「燃えつきた地図」の調査員の人、レモン色のカーテンのところにいる女の人が 好きなのですね。


安部 女というより、場所みたいなものですね。
秋山 安部さんのあの小説を読んでいますと、非常に精巧な機械みたいなものを感ずるのですが、女の人が実に
生々しく感じられるものですから。
安部 それはうれしい。あれも満州育ちのせいですね。日本でも最近は団地などで窓が目立って来たけど。
秋山 窓を。普通はあまり意識しませんね。
安部 僕には、非常に強い意味をもっているのですね。
秋山 あちらは、窓というのは。
安部 非常に重要なんですよ。
秋山 そうだもう一つお聞きしようと思っていて、この小説は、坂道を上っていく最初の場面がもう一度最後のと
ころで現れるわけですね。あそこの道の描写にその難しい性質が現れているように思うのです。一番最初に出てくる
ときは「急勾配の切石の擁壁」ですが、二番目ですとそれが「わずかな勾配」ということになっているものですから。

安部 あれ、文章は同じなのです。
秋山 文章は同じなんですか......。いや、同じではないと思いますが。
安部 なるほど「急勾配」と「わずかな勾配」か……サインとタンジェントのちがいだな……ぼくとしては、同じ
つもりで......はじめは水平の視線で、あとは垂直の視線なんですね。」(『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼
安部公房の数学的能力について∼(前篇)』もぐら通信第32号)

その坂道の曲がり角は、存在の十字路であるが故に、探偵が自動車で登る道は、オルフォイスへ
のソネット第一部第一連の第一行にあるやうに、

「ほら、そこに、一本の木がのぼった。ああ、純粋に、限界を超えてどんどんのぼって行くこと
よ。おや、オルフェウスが歌っているよ。ああ、耳の中に亭々たる木があるよ。そうして、すべ
てが沈黙していた。しかし、この秘密にされ、隠されている中にあっても、あらたな始まり、即
もぐら通信
もぐら通信 30
ページ

ち合図と変化が、前進したのだ。」(拙訳)

とあるやうに、その道の「右手は」「ほとんど垂直に近い崖になっている」のであり、この探偵
たる主人公は、時間の存在しない垂直の方向に、オルフェウスのやうに登つて行くのです。時間
が存在しない道、即ちtopology(位相幾何学)の道[註16]ですから、垂直に登つて行く途中で
「ローラースケートを尻にしいた少年が」超越論的に「とつぜんカーブの向うから現れ」るので
す。(傍線筆者)

[註16]
この位相幾何学の道は、既に18歳の論文『問題下降に依る肯定の批判』の中で「遊歩場」と呼ばれ、次のやうに記
述されてゐます。私は此の箇所の最初の一文を読むたびに、既に此処で晩年の安部公房のクレオール論を読むやうな
気持ちが、いつもします。

「遊歩場が始めに有ったのではなく、遊歩場は二次的に結果として生じたものなのである。交錯した家々、巨大な建
築、奥深い工場、その間をぬって此遊歩場は無ければいけないのである。それは一つの必要である。そして此の道は
他の道とははっきりと区別されて居なければいけない。第一に此の遊歩場はその沿傍に総ての建物を持っていなけれ
ばならなぬ。つまり一定の巾とか、長さ等があってはいけないのだ。それは一つの具体的な形をもつと同時に或る混
沌たる抽象概念でなければならぬ。第二に、郊外地区を通らずに直接市外の森や湖に出る事が出来る事が必要だ。或
る場合には、森や湖の畔に住まう人々が、遊歩場を訪れる事があるからだ。遊歩場は、都会に住む人々の休息所とな
ると同時に、或種の交易場ともなるのだ。」(全集第1巻、13ページ上段)

この箇所を読んで、あるいは、メビウスの環やクラインの壷を思ひ出す読者もゐることでせう。

さうして、この後に登り切つた高台の団地の風景の中へと入る前には、「《許可なく団地内に車
の乗入れを禁ず》といふ禁止命令の「大きな看板」があるわけですが、主人公は此れを破つて、
オルフェウスのやうに「ああ、純粋に、限界を超えてどんどんのぼって行く」のです。さて、限界
を超えて登つて見れば、やはり時間のないことが明瞭であることに、次のやうな一行で新しい段
落が始まってゐます。

「するとたちまち、風景が一変した」(全集第21巻、117ページ上段)(傍線筆者)

そして、この団地の風景は、白と緑の色を使ひ分けてゐることで「幾何学的な特徴をきわだたせ
ている」、従ひ時間の存在しない幾何学的な団地の風景となつてゐて、この団地は、主人公の自
動車のゐる「この通りを軸に、団地は大きく両翼をひろげ、奥行きよりもむしろ幅のほうが広い
らしいのだが、たがい違いにずらして建ててあるので、左右の見透しは、ただ乳色の天蓋を支え
る、白い壁面があるだけだ。」(傍線筆者)とあるやうに、

①団地を平面図を描いてみると、topologicalな道を軸に十字形になつてゐること。
②団地の建物は「たがい違いにずらして建ててある」ので、そこに差異があり、従ひ、団地の個々
の建物が差異を生み、且つ其れ自体が差異である建物になつてゐること。従ひ、
もぐら通信
もぐら通信 ページ31
③この団地が存在である以上、『方舟さくら丸』の結末の情景と同様に、景色は透明であるから
には、左右を「見通す」のではなく、左右を「見透す」のであるといふこと。

このやうなことになるでせう。

そして、安部公房の常で、topologicalに物語の結末は冒頭に照応してをりますから、小説の結末
で探偵は「逃げ去った町の正体を見とどけてやろうと、息をこらして待ちうけながら……」、次
の新しい段落で高台に登り、団地の景色を再び眼にします。勿論、町が「逃げ去った」のは、オ
ルフォイスの詩にある通りに、「「転身」の曲がり角」といふ連続的に常に方向を変へる動態的
な上位接続点が、この「向う」に接続する「カーブ」だからです。

このやうに考へて来ますと、遅くとも此の小説の時には、安部公房の意識にリルケの詩の世界、
それも『オルフォイスへのソネット』が思ひ出されてゐることがわかります。さうであれば、1
970年を境界線の指標として、後期20年が詩への回帰だといふ事は納得が行きます。

「四階建ての住宅群が、高台のくせに、暗い谷底に沈み、規則正しい光の格子をくりひろげてい
る。まさか、こんな風景が現れようとは、想像もしていなかった。だが、その想像もしていなかっ
たところが、問題なのだ。町は、空間的には、まぎれもなく存在していたが、時間的には、なん
ら真空と変わらない。存在しているのに、存在していないというのは、なんと恐ろしいことだろ
う。四つの車輪は、確実に地面についてまわり、ぼくの体はその震動を、疑いもなく受けとめ感
じている。にもかかわらず、ぼくの町は消えてしまったのだ。やはりあのカーブは、超えるべき
ではなかったのかもしれない。カーブの向うに辿り着くことは、これで永久に不可能になってし
まったのだ。白い水銀燈の遠近法。ひと足ごとに透明になっていく、帰りを急ぐ人々の群……」

「四階建ての住宅群」の窓といふ窓が、「規則正しい光の格子」となつて奉天の窓[註17]にな
つてゐる。時刻は、やはり昼と夜の隙間の時間、即ち『赤い繭』と同じ、夕方。それ故に、存在
の窓である「規則正しい光の格子」の窓が、夜の中に浮かんで光輝き、対して昼の高台は、「高
台のくせに、暗い谷底に沈み」、団地は「存在しているのに、存在していない」といふことにな
る。「カーブの向う」といふ「転身」の曲がり角は、「既にして」(超越論的に)立ち去つて移
動してしまひ、時間の中で「カーブの向うに辿り着くことは、これで永久に不可能になってしまっ
た」のです。それ故に、いつも物語の最後に現れる(リルケに学んだ)透明感覚が現れて、景色
が、『方舟さくら丸』の最後のやうに、「透明になっていく」、存在になつて行く。最後の
「……」は、勿論これも、「空白の論理」[註18]を表してゐることは、いふまでもありませ
ん。このあと、主人公は、次の「転身」のために、自己の記憶を失い、自己を喪失する。即ち、
存在としてある無名の何かとして、この世の時間の中を生きる人間、即ち未分化の実存として生
きる決心をするのです。

[註17]
奉天の窓については、『安部公房の奉天の窓の暗号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(もぐ
ら通信第33号)をご覧ください。
[註18]
「空白の論理」については、『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55
号)の「2。空白の論理といふ毒(詩の毒)」をご覧ください。
もぐら通信
もぐら通信 ページ32

物語の最後に主人公の独白の中で挙げられてゐる場所の名前は、みなオルフォイスの詩に歌はれ
てゐる「転身」のための動態的な移動する上位接続点です。曰く、「坂のカーブの手前」、「地
下鉄の駅」(田代君の手書きの地図を見るとtopologicalなエッシャーの騙し絵のやうな2階層を
一筆で接続し、また外部と内部までも交換して一筆で全体を一筆で接続できるメビウスの環にな
つてゐる)、「コーヒー店」。それから更に私が読者として付け加へれば、「コーヒー店」の二
義的な地位にある「駐車場」。これらの接続点は必ず差異の中に在り[註19]、そこでは、団地
がさうであるやうに、存在の十字路なのです。

[註19]
田中裕之著『安部公房文学の研究』の「第十一章 安部公房作品における不整合」に、前期20年の「失踪三部作」
にある時間的、空間的、話法的な、それから価値に関する差異が、詳細に列挙され、論ぜられてゐます。ここに挙げ
られてゐる差異は、私の此の論考でも又その他の論考でも縷々述べて参りました通りに、安部公房が意図的に置いた
超越論的な差異なのです。何故なら、存在は差異に存在するからです。もつと言へば、存在は差異に再帰的に存在す
るからです。差異がなければ、主人公は存在と化して、再帰的に何度も繰り返して存在に帰つて来ることはないので
すから。この言語論的な現実として在る事実が、安部公房の言語機能論と裏腹であるのです。存在と言語の関係で
す。

従ひ、著者が指摘する「不整合」は超越論的な、バロック的な差異のことなのであり、従ひ、著者による此の章の最
後の次の一行は、「失踪三部作」のみならず、領域を問はぬ安部公房の全ての作品に適用することができて、そして、
正しいのです。

「また、少なくとも『砂の女』『他人の顔』という二作品における作品完成までの安部の努力が、作品内の、あるい
は作品の内と外の、時間的な整合性を保つ方向に向けられていなかったとすれば、それは安部公房の小説の特質、並
びに安部の小説観に迫る一つの視座を提供することになるのではないか、と考えもするのである。」(同著、220
ページ)(傍線筆者)

(3)散文詩:『観る男』:全集第1巻、134ページ(1回)

「……転身が過去の扉を閉した時、今もう一度出発が……今は忘却も一つの才能ではないでせう
か。君については僕は一言も云ふますまい。」

この詩を全集でお読みになれば、これが安部公房の言葉論であることがわかります。「僕の中の
「僕」」と言葉と存在の関係を散文詩にしてゐるのです。そして、これらの関係を「かく見ゆる
事」として為す詩人のあり方を題名としたのです。そして、第3連の最後に、「未来の日記」と
いふ、小説の中では「明日の新聞」と呼ばれるやうになる、時間を書きつけられ記録される同様
の媒体としての記録媒体たる日記の名前が、そのやうに呼ばれてをります。かうして考へてみま
すと、この「未来の日記」は、このまま後年小説家になつてからの安部公房のドキュメンタリー
または「記録藝術」に関する深い関心の深い源なのです。安部公房はやはり、ドキュメンタリー
もまた超越論で考へ論じた。至つて見れば、当然の事だと思はれます。この詩を以つて、安部公
房の「記録藝術」に関するエッセイなり論考なりを理解することができることでせう。これもま
た稿を改めて論じたい。
もぐら通信
もぐら通信 ページ33

さて本題に戻りますと、この詩に歌はれてゐるのは、木や雲といふ自然の生命、友と愛、気分と
概念、思想と魂、これら全ての間、即ち「……」を以つて示した余白に一人称の僕がゐると歌つ
てゐます。話者たる僕は既に存在の中にゐるので、「(静かに!黙つて!)」と存在の( )の
中で無言の発声をするのです。そして( )の前で、木や雲を始めとしてものの名前を挙げるこ
とが、既に存在を呼び出すための呪文となつてゐるのです。古代からの大和言葉で言へば、もの
尽くしであり、言挙げするシャーマン安部公房がゐるといふことになります。

これらの言挙げの後に、「転身」といふ言葉のある上の引用の最後の行がやつて来ます。

転身して永遠の別離を友とすると、新たな出発が始まり、「……」といふ余白のある以上、存在
を求めて、または存在の中では、自己を喪失し、過去の友との交友と自己の其のやうな記憶を失
ふ。「僕の中の「僕」」である「君については僕は一言も」云ふまでもないといふのです。そし
て、安部公房は「僕の中の「僕」」も忘れてしまふ。

さて、次の時期の詩に移ります。

3。 「②詩と散文統合の為の問題下降」の時期の詩
(2)詩と散文の統合:詩形式による「今後の問題の定立」(『無名詩集』):1946年∼1949年:
22歳∼25歳:チャート図では青い色の枠で示してゐます。

(1)詩集『没我の地平』:1946年(転身:計4回):問題上昇(デジタル変換)による詩

①[詩:『詩人』:「限り無い変容」:全集第1巻、157ページ]
②『理性の倦怠』:「昼の転身(みがへ)」:全集第1巻、158ページ
③『没落』:転身:全集第1巻、159ページ
④『別離』:転身:全集第1巻、181ページ
⑤『誓ひ』:「転身(みがへ)」: 全集第1巻、183ページ

(2)詩集『無名詩集』:1947年5月(計1回):問題下降(アナログ変換)による詩集
驚いたことに、あんなに大事だった「転身」といふ言葉が、『無名詩集』の詩の中には一つもな
く、散文詩の『ソドムの死(散文詩)』に1度登場するのみです(全集第1巻、254ページ)

この時に、既に安部公房は詩文から散文に移行することを考へてゐたことの証左だと私は考へま
す。即ち散文、特に小説の中で、この「転身」といふ概念を生かさうとした。これが定立した問
題のうちの一つでせう。以下に『無名詩集』で安部公房が定立しようとし、定立した問題を列挙
します。[註20]
もぐら通信
もぐら通信 ページ34

[註20]
『安部公房と共産主義』(もぐら通信第29号)の[註3]より抜粋します。

「詩については、『第一の手紙∼第四の手紙』で「詩以前」を論じています(全集第1巻、191ページ下段)。こ
の散文を書いた1947年、安部公房23歳の時には、既に詩人安部公房にとっての危機と転機の時期が訪れていた
のです。前年1946年には満洲から引き揚げて来て、日本に帰国した翌年のことです。このときの危機は、詩人と
しての危機でした。

この危機をこのように『第一の手紙∼第四の手紙』で存在論的に思考して考え抜いて乗り越えて同じ歳に出版したと
いうことが『無名詩集』の持つ、それまでの10代の「一応是迄の自分に解答を与へ、今後の問題を定立し得た様に
思つて居ります」(『中埜肇宛書簡第9信』。全集第1巻、268ページ)と10代の哲学談義をした親しき友中埜
肇に書いた『無名詩集』の持つ、安部公房の人生にとっての素晴らしい価値であり、安部公房の人生に持つ『無名詩
集』の意義なのです。」

これを読むと、『第一の手紙∼第四の手紙』もまた、エッセイ『様々な光を巡って』と同じ1947年1月に書かれ
た、小説としての中間項であることがわかります。」(「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号、
61ページ)

3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題

(1)詩の世界での問題下降を実現すると云ふ問題
『没我の地平』と云ふ謂はば「概念詩集」または「問題上昇詩集」を問題下降して、(見かけ上)
日常の言葉で書かれた、即ち理論篇『詩と詩人(意識と無意識)』で用ゐた哲学用語を文字とし
て消して、『無名詩集』と云ふ詩集を編むこと。そして、この詩集が下記(3)のやうに詩文か
ら散文の連続的な移行を実現すること。即ち、詩人のままに小説家になること。

(2)余白と沈黙の中に存在(exist:Sein)して、現実の時間の中を未分化の実存(existential:
Dasein)として生きると云ふ問題
『没我の地平』の「実存ー幼き日」と『無名詩集』の「それ故か」を比較して明らかなやうに、
前者の第三連を後者の第三連では余白と沈黙の中に置いて、大人として現実の時間の中を存在の
ままに、即ち時間の中では未分化の実存として生きることの決心といふ問題。通俗的な世間では、
子供から大人になることと云はれてゐることの問題、大人であること即ち沈黙に堪えて時間の中
を生きること、即ち安部公房の言葉で云へば、消しゴムで書くこと。[註21]

[註21]
この問題の詳細については、『安部公房文学の毒について∼安部公房の読者のための解毒剤∼』の「2。空白の論理
といふ毒(詩の毒)」(もぐら通信第55号の25∼27ページ)をご覧ください。

(3)「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に則つて、転身といふ概念と関連用語一式を詩文
から散文に展開すると云ふ問題
もぐら通信
もぐら通信 ページ 35

転身といふ概念を、詩文から散文(小説)に移植すること、または移植といふやうに非連続的に
土壌を変へるのではなく、前者から後者へと「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に則つて、
詩文散文の同質を実現して、これを連続的に展開すること。即ち、詩人のままに小説家になるこ
と。

上の3つの問題をもつと簡略にすると、次のやうになります。

(1)詩の世界での問題下降(現実に対するに際しての、詩の世界の統一)
(2)未分化の実存として生きると云ふこと(余白と沈黙の中に存在を体現して時間の中を生き
ること)
(3)詩文散文の連続性を保持すると云ふこと(「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に則つ
て、詩人のままに散文家になること)

これらの問題の解決は、次のやうな変遷を見て『無名詩集』で何が実現したかを見ると、よくわ
かります。

①理論篇:『詩と詩人(意識と無意識)』(安部公房のOS(Operating System))
②実践篇:
詩文→ (散文詩=詩的散文)→ 散文
詩集『没我の地平』以前 散文詩:「ユァキントゥス」 (エッセイはない)
詩集『没我の地平』 (散文詩はない) (エッセイはない)
詩集『無名詩集』 散文詩:「ソドムの死」 エッセイ「詩の運命」

ここで繰り返せば、「驚いたことに、あんなに大事だった「転身」といふ言葉が、『無名詩集』
の詩の中には一つもなく、散文詩の『ソドムの死(散文詩)』に一度登場するのみです(全集第
1巻、254ページ)。」「転身」といふ言葉が初めて散文詩、即ち詩的散文の中に、それも一
回だけ現れる。ここに、私は、安部公房の「転身」の散文化への明確な意図を感じます。そして、
ここから転身といふ言葉の現れる小説(散文)までもう少しです。その最初の小説が、金山時夫
の訃報に接して書かれた小説『終りし道の標べに』であることは、いふまでもありません。この
小説は「IV「転身」といふ語のある小説を読む」で論じます。

さて、以上のことを念頭に置いて、『没我の地平』と『無名詩集』の詩を、「転身」といふ言葉
を中心に見てみませう。

3。2 詩集『没我の地平』:1946年(転身:計4回):問題上昇(デジタル変換)による
詩集
もぐら通信
もぐら通信 36
ページ

問題上昇(デジタル変換)による詩集であるにも拘らず、転身の言葉のある詩が、哲学的用語が
題名となつてゐる詩の中にはないこと。ただ『理性の倦怠』の理性のみが哲学用語であるといふ
こと。といふことは、転身と関連する言葉は、詩人、没落、別離、誓ひであり、また視点を哲学
の視点に切り替へれば、「理性の倦怠」、即ち理性といふ感情とは無関係な人間の論理的な認識
能力と、倦怠といふ飽き飽きしたといふ人間の日常的な感情といふ相反する言葉の接続に、転身
は関係してゐることが読み取られます。この相反する言葉の間、差異に、転身があるといふこと
になりますが、果たして詩は実際にはどうなつてゐるのでせうか。

(1)[詩:『詩人』:「限り無い変容」:全集第1巻、157ページ]
「見つめ給へ
此の様々な現象(あらはれ)を
何事もないさゝやきを
口から口を交わす時
それでも私達は其の中に
限り無い変容を成し遂げる
此の小さな言葉の窪みにも
けれど大きな存在の空虚が
ひそみあふれてゐはしないか」
(第3連)(傍線筆者)

変容といふ言葉は、転身といふ言葉とは別の意味を持たせて、安部公房はゐます。相関用語なの
で、即ち変容は変身を含む概念だと考へられますので、ここにいれました。『没我の地平』に「人
間」と題した次の詩があります。

「森の路標(しるべ)の十の字に
光つた露のゆらぎから
あんな遠くの天の歩みが

此の突然の変容に
叱られた子供さながら
おびえてゐるのは僕だけか

それとも皆んな僕と同じに
あはてゝ孤独をつくろつて
すまして途を歩いてゐるのか」
(全集第1巻、161ページ)

森とは何かは、今ここでは問はないでをきます。しかしいづれにせよ、道に迷ふかも知れない森
の中に十字路がある。そこには道標べが立つてゐる。その路標(しるべ)は、十字形をしてゐる、
もぐら通信
もぐら通信 ページ 37

または十字路に立つてゐるのが、その路標(しるべ)である。これを「路標(しるべ)の十の字」
と言つてゐる。標べのある十字路か、十字路が標べであるといふ両義性を備へた、安部公房らし
い表現です。

さて、この十字路に、小さな露に揺らぎといふ、歪んだ真珠(バロック)のやうな差異が生まれ
たとみるや、「あんなに遠く」にあつたと思はれた「天の歩み」が、突然、あつといふ間に、そ
の十字路に現れてゐる。十字路が超越論的に(時間とは無関係に)、変容してゐる。これが、「
此の突然の変容」です。

この話者の一人称の僕は、この変容した十字路、天の存在する存在の十字路にゐて孤独である。

この存在の十字路で自己の外部が変化し変形したことを、安部公房は変容と言つてゐます。しか
し、そこで孤独を受け容れ、友と別れて真性の愛の存在証明をするために、一人称の僕は「転身」
するのです。この詩には、そこまでは書かれてをりませんけれども。

同じ詩集の「仮眠(まどろみ)」といふ詩に、この事情を伺はせる第一連があります。

「変容の波ひたひたと
打ち返へす深夜のしゞま
果(はか)ない石碑(いしぶみ)の諦観か
遠い共に想ひをはせる」
(全集第1巻、177ページ)(傍線筆者)

これらの詩に歌はれてゐることは、20歳の論文『詩と詩人(意識と無意識)』に次のやうに散
文的に書かれてゐます。ここで言はれてゐる部屋とは、いふまでもなく、安部公房の作品に出て
来る存在の部屋[註22]です。この部屋は、形象としては凹の形として幾らでも変形して、壺
や、砂の窪地や凹んだ顔や、予め失はれた陰画の地図(や実際に作中で安部公房の描いた凹形の
地形)や、箱や病院(窪地に連続的に接続してゐて『燃えつきた地図』の地図と同じ位置にあ
る)や地下の洞窟と便器やら、また最後の作品の有袋類の袋や、処女作の冒頭と結末に書かれた
「背広みたいな袋」と「袋のような茶色の背広」になつたりするわけです。

「 しかし今迄吾等の思考の対象は外界の形象だつたのだ。だが外界は単に形象としてのみ現れ
ているのではない。吾等の部屋を離れて外に在る継承は今は消滅し去ったけれども、形象に伴っ
て示す外界の意味はどうであろうか。
勿論形象自体が一種の意味である事は確かである。しかしその意味は、形象がかく現れたもの
として夜の示した意味なのであって、今吾等が問題として取上げた価値性の意味とはまるで異っ
た見地にある。私の述べようとしているのは一種の判断を意味するのである。形象に対する内容
である。それは或る場合には行為的であるとも言えるであろう。
これを深く深くみつめた時、実は吾等の魂に、あの心の部屋に、云う可からざる急激な転身が
もぐら通信
もぐら通信 ページ38

突如として始まるのだ。ふと気付いて見れば、常に形象に伴ってのみ現れるものと思われていた
彼の意味・内容が、何時か一人形象を離れて無限の空間の中に漂っている。それはもう自分達の
手のとどかない遠くの空へ、星の中に混って混沌の中へ沈んでいる。」
(全集第1巻、115ページ上段)(傍線筆者)

[註22]
安部公房の存在の部屋については、『もぐら感覚18:部屋』(もぐら通信第16号)と『安部公房の奉天の窓の暗
号を解読する∼安部公房の数学的能力について∼(後篇)』(もぐら通信第33号)をご覧ください。

(2)詩:『理性の倦怠』:「昼の転身(みがへ)」:全集第1巻、158ページ
この詩の第3連に、この言葉が出てきます。

「八つの手をもて織りなせる
七つに光る魔の網よ
吾が怖るゝは汝が綾の
無形の夢の誘ひにあらず

沈黙して待てる恐怖の墓
面つゝむ美貌の面紗(きぬ)よ
夕べ渇きに湖辺に走る
吾が獣群を拒むのは誰

おゝ此の涯なしの死の巣ごもり
受動の傷に此の血失せ
昼の転身(みがへ)に果つる迄
天の没我に息絶ゆる迄」
(傍線筆者)

この詩の詳細な考察は横に置いてをいて、いま「転身」についてわかる事は、これは「天の没我」
と一式になつてゐる事、対語になつてゐる事です。このことから、何故詩集の題名が『没我の地
平』と安部公房が命名したのかがわかります。[註23]

[註23]
同じ詩集の中の「言葉の孤独」第2連にも「没我」といふ言葉が出てきてゐて、「言の葉」が「没我」を歌ふと歌は
れてゐます。

「人間」といふ詩では、天が存在の十字路に超越論的に突然現れるのでした。そして、そこで自
もぐら通信
もぐら通信 39
ページ

分自身も転身する。即ち、ほとんど死に等しい生を此の世で生きる決心をする。かうしてみると
「天の没我」とは、「人間」といふ詩に歌はれたやうに、「あんなに遠」い距離にある天が、そ
の距離を突然に詰めて、存在の十字路で没我するといふことになります。そして、一人称の吾も
また其処にある天の中で没我して、「転身」する。

安部公房の思想は、自己の内部(吾)と自己の外部(天)が、存在の十字路で一致して、共に「果
て」且つ「息絶ゆる」ところで、存在が現れるといふ思想です。そして、この場所で、部屋は「何
時の間にか四方の壁は消え失せて自分は何んの足場もない暗黒な宙に一人漂っていたの」です。
勿論、自覚なく無意識のうちに「いつの間にか」(超越論的に)。勿論「暗黒の宙」である夜と
闇は「どこからともなく」(超越論的に)、ふと気がつくと、既にやつて来てゐる。

(3)詩:『没落』:転身:全集第1巻、159ページ
「愛がこんなにむつかしいものだと
もつと早くから知つてゐたなら

けれど恐らくは其の為に
愛がどれ程むつかしいかを
永遠(とは)に知らず済しただらう

数々の誤ちに思ひまどつて
畢(つひ)に嘆きに砕けた時
やつと思ひ掛けない転身を
死の身に受ける僕等だ

さあこれ以上何も言ふまい
悲しみ 駆り 或いは歌つて
生の花粉を吸ひ込まう」
(傍線筆者)

人間の典型としてある詩人が生の中で、人を愛すると言ふことに関して様々な間違ひを犯して、
嘆き苦しんだ其の極限に、詩人の身に「転身」は「思ひ掛けなく」も生じる。これを論理的に『詩
と詩人(意識と無意識)』では、次元展開と呼んでゐます。

この次元展開、即ち「転身」が、無時間の中で行はれ、従ひ超越論的変身であり変形である事、
また同時にこの所、この転身の地点では、時間が消滅する故に物事が断面・断層(斜面)に幾つ
もあることがみて取られることを、次の詩で歌つてゐます。これが、何故『複数のキンドル氏』
ではキンドル氏が複数存在するのか、『人魚伝』の最後に主人公が複数に分裂するのか、何故『さ
まざまな父』といふ題名になるのか、また其の外の複数の自己の存在する根拠であり、実際に其
もぐら通信
もぐら通信 40
ページ

やうな形象となつてゐます。この、断層や断面に、そのやうに複数の次元が現れ見えるといふ安
部公房の認識の形式については、稿を改めて論じます。さて、それ故に、

暁といふ隙間(時間の差異)の時間と、断面・断層(斜面)と、時間の消失と、転身と、従ひ別
離と愛と孤独を歌つた次の詩をよむ事にしませう。

(4)詩:『別離』:転身:全集第1巻、181ページ
「君はあの暁を知つてゐるか?
嘗て無かつた輝きが
天の斜面に光り出て
過去から未来と消えた想ひを
不意に現(うつつ)に呼び返す

暁とは郷愁の転身する兆(しるし)
夕べに生まれたまたゝきを
消し去る陽差(ひざし)の予感にあつて
尚ほ滑石(ためいし)の肌さらす
別離とも呼ぶ孤独の惑星

其の下には侘ぶる惑星
睡る都会を表に宿して
色あせやつれたむくろをさらす
夜の酒宴のつひえる時
君は此の暁に目覚めてゐたか?
私と共に独り悦びに慄き乍ら
あの明星を見詰めてゐたか?」
(傍線は原文傍点)

第1連の斜面とは、断層または断面のことです。ここに複数の次元が現れてゐる。即ち、人間の
生きてゐる日常の時間は一つしかないと、普通我々は思つて生きてをりますが、安部公房によれ
ばさうではない。この時間を切断し、裁断すると、その断面には、丁度崖といふ斜面の断面がさ
うであるやうに、複数の層があつて、その層に一つ一つの時間が存在してをり、従ひ人間その人
も其処に複数存在し、生きてゐるのです。即ち、

暁といふ夜と朝の隙間(差異)に在る時間に、まだ暁闇だといふのに「嘗て無かつた輝きが/
天の斜面に光り出て」、即ち此の斜面には、「人間」と題した詩でみたやうに「天」が「不意に」
現れて、といふことは存在の十字路に現れて、過去ですらない無時間の記憶の中から、従ひ超越
論的に「過去から未来と消えた想ひを」「現(うつつ)に呼び返す」といふのです。
もぐら通信
もぐら通信 41
ページ

第2連を読みますと、安部公房が世に出てから故郷といふ言葉との関係でよく論じられた郷愁は、
昨日の夕べと今日のこれから予感される「陽差(ひざし)」の現れる前の隙間といふ暁の時間に
あつて、郷愁または郷愁を覚える話者は、この隙間で「転身」して、親しい友と別れて、「孤独
の惑星」ともいふべき別離に堪え、また実際に其の「孤独の惑星」の住人となる。

滑石といふ言葉を巡る解釈は、考へやうによつては二つあり。一つは、

(1)別離して住む「孤独の惑星」が、滑石の肌のやうに柔らかな優しい肌であるのか、また、
(2)「尚ほ滑石の肌さらす」のは、別離なのであり(これは隠喩です)、別離の肌が滑石のや
うに柔和で傷つきやすい

といふことであるのか、この二つの解釈です。

「夕べに生まれたまたゝき」と呼ばれた昨日といふ過去の時間の最後、即ち夜の来る前に生まれ
る一瞬の「またゝき」といふ流れぬ小さな、暁までの此の時間は、朝の太陽が登れば「陽差(ひ
ざし)」が「消し去」ってしまふ。

第3連の「其の下」とは何を指すのかといへば、最後の行に出てくる「あの明星」、即ち明けの
明星、つまり金星、Venusのことです。これが「下」といふ位置を示す言葉に対する此の「孤独
の惑星」の位置を示してゐる。金星は「孤独の惑星」に「変身」して謂はば転生して住み替へて
も、やはり変はらずに私を暁に照らし、見る事ができるといふのです。暁にあつて「消し去る陽
差(ひざし)の予感にあつて」、しかし金星といふ明けの明星は消えることなく、時間の周期性
の外にあつて、変はることなく暁といふ時間の隙間に輝いてゐる。

しかし、この金星の下に位置してゐて、地上の人間たちの営みのある「都会」を其の「表に宿し
て」ゐる地球といふ星の上では人々は未だ夜明け前であるので「夜の酒宴はつひえ」「睡」つて
ゐて、酔い潰れた「色あせたむくろをさら」してゐる。「色あせた」とは、昨日といふ時間の中
での生活に疲れた人々の姿をいつてゐるのでありませうし、それを「むくろ」といふ死体だと隠
喩で言つてゐるのです。

さあ、しかし、友よ、「君は此の暁に目覚めてゐたか?」と話者は問ふ。「私と共に独り悦びに
慄き乍ら/あの明星を見詰めてゐたか?」と。即ち、呼びかけられた友もまた、この時間ある地上
を離れて「転身」を行ひ、一人其の人の「孤独の惑星」にゐて、「あの明星を見詰めてゐたか?」
と問ふて、この詩は終はつてゐます。この友が、安部公房独自の再帰的話法の「僕の中の「僕」」
の後者の鉤括弧の中の「僕」であると読むことも十分にできます。さうであれば、第1連の「天
の斜面」とは、断層または断面のことです。ここに複数の次元が現れてゐる。「孤独の惑星」は、
それぞれの次元、即ち複数の断層のある斜面といふ面の上に幾つもあるのです。安部公房がニュー
トラルの概念を「この、ゼロのニュートラルを基点にして、無数のニュートラルの変形が存在す
る。」「ニュートラルというのは、要するに、存在自体が表現として成立つための、基本条件な
のである。」と説明してゐるのと同じ意味なのです(『再び肉体表現における、ニュートラルな
ものの持つ意味について。̶̶周辺飛行18』全集第24巻、146∼147ページ))。
もぐら通信
もぐら通信 42
ページ

(5)詩:『誓ひ』:「転身(みがへ)」: 全集第1巻、183ページ
この詩もまた詳しく論じたいところですが、ここでは転身と誓ひといふ二語に焦点を当てて見る
ことにします。

「誓ひを君の掟とは
誰が呼ばうか此の涯無しの
凍る己の国内(くぬち)に在つて
血循る君の想ひに在つて

転身(みがへ)に過ぎた遠い想ひを
生無き生に夢む明日を
時にはそれが生なる如く
時にはそれが死である事の
標を凋む花辯(はなびら)に読め

過去の日の為 今日の日を
君の宿命(さだめ)とする事は
誠の夢に疲れた薔薇の
七重の衣に泣く姿

おゝ見よ胸を涙に濡れた
待つあくがれの永遠を

明日の為に息する事も
死せるが故に死を果たし得ぬ
絶望の鎖のいきれ
君が迷ひの路の幻
あの遠い光の端に
星の都を読む疲れ

溢れ出た血が大地ににじみ
君が面にうべなひの
笑みもて花を画くこそ
秋枯れの野に落つ木の実
君が誓ひを融かす風
此の時にこそ永遠(とは)あれかしと
此の時にこそ永遠(とは)あれかしと
いざ今日の日を頌め行かむ」
(傍線筆者)
もぐら通信
もぐら通信 43
ページ

第1連と最後の連に、互ひに照応して誓ひといふ言葉が出てきます。

第1連の誓ひは、君と呼ぶ友が誓ひといふ約束をみづからの掟としてゐると歌はれてゐます。こ
れに対して、最後の連では、「君が誓ひを融かす風」が吹いてくる。風はリルケに学んだ存在の
形象ですから、友の此の世での自分の掟とした誓ひといふ約束を、この風が吹けば其れは融けて
なくなり、「此の時にこそ永遠(とは)あれかしと/此の時にこそ永遠(とは)あれかしと」と「い
ざ今日の日を頌め行かむ」となる訳です。

第1連を読みますと、この話者の友は「血循る君」でありますから、生きてゐる人間であり、第
2連を読みますと、話者は既に「転身」を繰り返してゐて、この生者である友を記憶と回想の中
に想つてゐる。

第2連では、これに対して、話者は「転身」の果てに生者ではもはやなく、「生無き生に夢」を
みてゐる者であつて、その「夢む明日」とは「時にはそれが生なる如く/時にはそれが死である事」
である。そして、第2連が明日の事ならば、第3連は、過去と今日の事を歌ひ、君と呼びかけら
れる友は、「あの遠い光の端(はし)に/星の都」にゐるのだといふ。

最後の連の最初の行では「溢れ出た血が大地ににじみ」とありますから、話者は血を流して死ぬ
のでありませう。その命と引き換へにして、友である「君の面にうべなひの/笑み」が浮かぶ事に
なる。『没我の地平』の此の詩の笑みと『無名詩集』の最初の詩「笑い」の笑みとを比較する事
で、安部公房が前者を問題下降して後者を書く事によつて、上の列挙した問題の定立以外の定立
された問題が明らかになるのではないでせうか。これは後日の課題とします。

さて、以上が『没我の地平』までの転身の様子です。次に『無名詩集』に参ります。

3。3 詩集『無名詩集』:1947年5月(計1回):問題下降(アナログ変換)による詩集

『ソドムの死(散文詩)』:全集第1巻、254ページ

この詩は長い散文詩ですので、転身の語の出てくる当該箇所のみを引用します。

「二人の友の想出を巡つて、流れ落ちる氷の滴、それさへ耐へて転身の日々を、変容の日々を、
しのび重ねて行つた。」

この詩は、3人の愛し合ふ詩人の一人が、他の二人同様にソドムの町を後にして遍歴を重ね、ほ
かの二人の友を思ふところです。詩人、愛、別離(旅に出る事)といふ主題が明らかですし、ま
た、ここにある転身と変容も、以上述べたところに従ひ、その意味するところも明らかです。「し
のび重ねて行つた」とある通りに、これは人に知られてはならぬ無償の行為なのです。
もぐら通信
もぐら通信 ページ44

上の引用の後に「けれど存在の嘆きと夜の絶望に研ぎ澄まされて、こぼれ出た涙はまるで斧の様
に時を截り断つた。彼が見たのは時の断面だつたのだ。上下を囲む凍結の半球の間に、満ちた無
限の空間だつたのだ。此の有様を古寺の壁にはこんなに書いてあると言ふ。」とあつて、断面・
断層(斜面)についての言及があり、その後に「時の断面」に関する詩が書かれてゐます(全集
第1巻、254ページ)。斜面といふ言葉と形象もまた、安部公房がリルケに教はつたものです
が、これについては稿を改めて論じます。論理的な側面では、勿論これは安部公房の独創です。

さて、次の章では、小説の中の「転身」を、相関用語と一緒に通覧します。この変貌の時期に安
部公房が「転身」の類語を用ゐて歌つてゐる詩についても併せて検討します。
もぐら通信
もぐら通信 ページ45

処女作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カンガルー・
ノート』の結末継承と作品継承について

岩田英哉

安部公房は、19歳の処女作からの結末継承を考へて、生前『カンガルー・ノート』といふ
有袋類の名前の付いた小説の題名と其の最初の出だしを考へました。

何故なら、これによつて、安部公房の全作品が、メビウスの環となつて一巡するからです。
恐らくは、安部公房は自分の健康から考へても、これが最後の作品だと思つたのではないで
せうか。

そして、安部公房は本当に自分の言語藝術家の人生を用意周到に考へました。自分の命は、
この世にではなくて、言語構造化された諸作品の中に、そして何よりも其の作品相互の接続
関係の中にこそ、安部公房の命が宿つてゐるからであり、そのやうに全ての作品の関係を創
造したからです。接続関係、これが冒頭共有・結末共有と結末継承です。[註1]これらの立
体的なネットワークの接続関係の中に、言葉の命のままに、言霊と共に、関係概念である存
在が宿つてゐて、安部公房といふ人間が今でも脈々と日本語といふ言葉の中に生きてゐる。

[註1]
冒頭共有・結末共有と結末継承については、「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」(もぐら通信第53号)をご
らんください。

最初の小説『(霊媒の話より)題未定』の袋を見てみませう。冒頭に次の箇所があります。

主人公である少年が「田舎町や村々を巡って歩く曲馬団から逃げ出して来たのだそうだ。古
ぼけた茶色のつぎはぎだらけの背広みたいな袋に身をくるんで、一日どこかの草原の上か橋
の下でぼんやり、その物問いたげな目を宙に浮かせてねころんで居た。ねえ、僕は考えるの
だがこいつは一寸研究に値すると思うのだ。何故浮浪人が橋の下を好むかと云う事について
ね。若しかしたら伝統的な郷愁なのかも知れないね。だがまあこんな事はその道の専門家に
任せて先へ進もう。」(全集第1巻、20ページ上段)

今この箇所を引き写して気づきましたが、ここには『カンガルー・ノート』の最後に書かれて
もぐら通信
もぐら通信 46
ページ

ゐる詩の中の、存在の交差点である橋が、既に此処にも言及されてをります。この無名の主
人公の少年は、既に此の小説でも、箱男になつてゐる。[註2]

[註2]
この橋の下の存在の交差点に住む箱男になることを、18歳の安部公房は『問題下降に依る肯定の批判』の中で
推奨してゐます。

「私は諸君に――諸君総てにとは云わないが――此の(筆者中:遊歩道といふtopologicalな
交流交易の場所の)沿傍に居を移す様に忠告する。これは私の強烈な犠牲心と同情心とから
だ。」(全集第1巻、13ページ上段)

次に、この小説の最後を見てみませう。終りに次の箇所があります。

地主の夫婦が二階に忍足で上がつて来て「そうっと襖を開いて」見ると、「蒲団はぺちゃん
こになって居て誰も居ないのである。二人共信じられなかった。多分便所へでも行って居る
んだろう。だが悲しいかな、例の袋の様な茶色の背広が、元あった場所から消え失せて居
た。」(全集第1巻、62ページ下段)

今上の文章を引き写して気づきましたが、ここにもまた安部公房らしく既に便所が出てきま
す。人間の失踪や消滅と便所は、安部公房の世界にあつては、既に此の時には、縁語なのです。

この小説の最初は「背広みたいな袋」であり、最後は「袋の様な茶色の背広」である。

ここに既に背広と袋のtopological(位相幾何学的)な交換がなされてゐて、小説の最初と最
後が袋といふ、文学的にはリルケに習つた壺の形象を、topologicalに変形すれば同じ形象で
ある袋を、

(1)背広は袋である。
(2)袋は背広である。

といふ等価交換の形式で一つに結んでゐます。しかし、もつと正確に云へば、既に『安部公
房文学の毒について∼安部公房読者のための解毒剤∼』の「1。直喩といふ毒(修辞の毒)」
で詳しく具体的に修辞との関係で述べたやうに、上の二つの文は隠喩でありますので、これ
を安部公房の愛用する直喩に直しますと、

(1)背広は袋のやうである。
(2)袋は背広のやうである。
もぐら通信
もぐら通信 47
ページ

といふ安部公房好みの直喩の文になります。

やはり、直喩を使つて差異に存在を招来するといふ此の直喩の持つ存在感覚に、安部公房は
もぐらの触覚を感じるのでありませう。[註3]

[註3]
安部公房の直喩と存在感覚と存在の論理の関係については、『安部公房文学の毒について∼
安部公房の読者のための解毒剤∼』(もぐら通信第55号)の「1。直喩の毒(修辞の毒)」
をご覧ください。

かうしてみますと、背広も袋のやうな凹であり、袋も背広のやうな凹であるといふ、呪文に
よつて存在の招来されて宿る存在の場所といふ概念になります。この処女作では、袋であり
背広でありますが、素材は布であるといふことを捨象して(此れもtopologicalに)形象の類
似性を抽象すれば、これまで諸所で論じたやうに、背広も袋も壺も箱も、砂の穴も、凹形の
顔も、便器も、その後の小説の(安部公房のいふ)投影体は全て凹といふ陰画の形象に収斂
されます。そして、投影体は、安部公房の仮説を映す鏡なのでありました。

さて、背広と袋のtopologicalな交換関係に話を戻します。これによつて、この小説そのもの
がメビウスの環やクラインの壺になつたといふところまでは、良いでせう。さうして、この
小説そのものが、一回限りで完結することなく、さういふ意味では完結してゐながらしかし
未完のままに、リルケの詩が内部と外部の交換によつて常にさうであるやうに、外部に対し
て開かれた小説になつてゐます。これが、安部公房の小説です。

この安部公房の思考形式からいつて、安部公房は『カンガルー・ノート』を執筆するに当た
つて、印刷されることのなかつた処女作の原稿を読み返したに違ひないといふのが、私の仮
説です。

何故ならば、それは結末継承といふ全作品の存在化を徹底的に追求した安部公房であれば、
前の作品を振り返へつて、その結末なりとも読まぬわけはなかつたであらうからです。いや、
そんなことはないと安部公房自身が言つたとしても、百歩譲つたとして、少なくとも作品の
結末の記憶はあつたであらうといふことです。『夢の逃亡』といふ初期安部公房の作品集を
後年上梓したときに、安部公房の後書きによれば、中には自分で記憶にない作品もあると書
いてゐますが、「空白の論理」によれば、その忘れられた作品にこそ安部公房の藝術の大切
な何かがあるでせう。勿論安部公房のことですから、同じ論理に従つて、本当に忘れてゐる
のかも知れないのですし、それは其れとして、其の真偽を問ふことは読者としては余り意味
がないやうに思はれます。

さて、今度は『カンガルー・ノート』を見てみませう。
もぐら通信
もぐら通信 48
ページ

処女作は、袋で始まり袋で終はりましたが、最後の作品は、箱で始まり箱で終はつてゐます。
さうして、それも、後者の箱を「《提案箱》」といふ小箱に仕立てて、その箱の中に「《カ
ンガルー・ノート》」といふ有袋類の袋の提案書を主人公に入れさせるといふ趣向まで凝ら
してゐます。とすれば、最後は逆に、袋の中から大きな箱が出てくるといふ論理になる筈で
す。そして確かにさうなつてゐる。凹の形象である存在の記号( )の中から、次のやうな
呪文が聞こえて来るのです。

(オタスケ オタスケ オタスケヨ オネガイダカラ タスケテヨ)

この存在の袋からは、今度は小さな「《提案箱》」ではなく、逆に「大型冷蔵庫でも入りそ
うな、ダンボール箱」が運ばれて来る。といふ事になるのです。

さうして、何故『カンガルー・ノート』といふ題名にしたのかといふ答へは、小説の冒頭の
主人公と上司の会話の中にあるのです。

結論を言へば、有袋類の系統樹上の在り方が一対の鏡に映る動物同士の類縁関係になつてゐ
て左右対称であるといふところに、ノート・ブックの両開きの帳面の其の左右対称性に通じ
てゐるので、この小説の題名は『カンガルー・ノート』なのです。

「ぼくはただ、カンガルーの生態学的特徴に関心をもっただけなんです」
「で、君の提案の真意は……要約すると、ノートの何処がカンガルー的なの?」
「何処と言われても……」
「何処かに袋がついているんだろ?」
「つい先週、週刊誌に『有袋類の涙』という記事が載っていて……」
「そう言えば、コアラも有袋類だったっけ。待てよ、そう言えばうちの息子が履いていた靴、
たしかワラビーとか言っていたっけ。ワラビーもカンガルーの一種だね?どこか愛嬌があるん
だよ。有袋類ってやつは」
「その『有袋類の涙』という記事によると……」
「とにかく、週末までに、ラフ・スケッチでいいから……もちろん部外秘……採用に決まれ
ば、賞与はもちろん、昇給の可能性だってあるんだ……期待していますよ」
「でも有袋類って、観察すればするほどみじめなんです。ご存じとは思いますけど、真獣類も
有袋類も、鏡に映したみたいにそれぞれに対応する進化の枝をもっていますね。ネコとフク
ロネコ、ハイエナとタスマニア・デビル、オオカミとフクロ・オオカミ、クマとコアラ、ウサ
ギとフクロウサギ……すみません、つい脱線してしまいました」

『有袋類の涙』といふ名前は、10代で溺れるやうに読みふけつたリルケの詩の一つで愛読
した『涙の壺』のパロディー(Parodie)でありませう。壺は袋と同じ凹の形象ですから、『涙
の壺』を『涙の袋』に変形して、それから壺と袋を交換関係に於いて『袋の涙』、即ち『有
袋類の涙』としたものでせう。これは、読者には知られぬ作者の密かな愉楽といふものです。
もぐら通信
もぐら通信 49
ページ

話が逸脱しますが、上に引用した会話と此の会話に続く主人公による提案理由の説明の科白
を読みますと、私の疑問の一つであつた「一体何故安部公房の小説の中の猫はいつも殺され
るのか?」といふ問ひ対する回答が隠れてゐるのに気がつきました。これはこれで面白い事
実ですので、稿を改めて『一体何故安部公房の小説の中の猫はいつも殺されるのか?』[註
4]といふ文章を書くことにします。

[註4]
処女作『(霊媒の話より)題未定』、『燃えつきた地図』、『方舟さくら丸』で猫は殺され
てゐます。処女作では最初のところで老婆に棍棒で殴られて、後の二作ではトラックに轢か
れて煎餅みたいになつて。

さて、19歳の処女作の小説の結末が、67歳の最後の作品の冒頭に継承されてゐるといふ
ところまでは良いでせう。

私のもう一つの推論は、凹形の提案箱や有袋類の袋といふ存在に関する形象だけの結末継承
ではなく、最初の一行も作品としての結末継承なのではないのかといふことなのです。何故な
らば、処女作の最後の段落から二つ目の段落は、次のやうな一行で段落が始まつてゐるから
です。

「そして其の日の夕食には、地主さんの夫婦とそれに、悲しい沈黙とがある丈だった。
其の後村中でパー公の噂を聞いた者は一人も居ない。奥さんの意見では彼の元の曲馬団に
帰ったのだろうと云うし、地主さんは多分自殺でもしたのだろうと云って居る。だが二人共
彼の居なくなった理由については何も知らないのだ。」(全集第1巻、63ページ)

主人公の少年の失踪の日の夕食で終はる結末を、今度は48年の時間を超えて最後の作品に
接続する。それ故に、『カンガルー・ノート』の最初の一行は、次の一行となつた。

「いつも通りの朝になるはずだった。」

確かに『(霊媒の話より)題未定』の結末では、翌日の朝食は、いつも通りの朝にならなかっ
たことでありませう。

そして、『カンガルー・ノート』の終はりは、いつもの安部公房の小説らしく、失踪で終は
る。

更に『カンガルー・ノート』と『さまざまな父』の結末継承が、郵便箱といふ箱であること
は、既に「『デンドロカカリヤ』論(前篇)」でお伝へした通りです。『カンガルー・ノー
ト』の次に『さまざまな父』の完成を、安部公房は考へてゐたのでありませう。
もぐら通信
もぐら通信 ページ50

また、『カンガルー・ノート』の冒頭共有と結末共有については云ふまでもありません。

『(霊媒の話より)題未定』では前者、即ち冒頭共有は、最初の一行に時間の差異を設け
(「そう、もう十年以上も昔になるかね。」)、次の段落の第一行に空間の差異を設け(「僕
の国の村の近くにね、山の上なんだが(略)」(地上と山上の高低の差異)、さうして後者、
即ち結末共有については、透明感覚である『魔法のチョーク』のコモン君と同じ涙が、愛と
いふ言葉とともに語られてゐます。(全集第1巻、61ページ上段)

さうして、安部公房の小説作法通り、即ち「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に則り、
存在といふ言葉は文字にはなつてをりませんが、主人公は存在になつて失踪し、『(霊媒の
話より)題未定』といふシャーマンの物語は、背広と袋の交換の最初と最後の接続によつて、
メビウスの環として、開かれたままに終はるのです。

この写実的な小説に於いても、既に安部公房の此の秘儀の様式は確立してゐるといふことが、
これで判ります。19歳の小説で此の様式が確立してゐたならば、19歳の詩に於いても確立
してゐるでせう。さう思つて全集所収の19歳の詩『秋でした』を読みますと、やはり既に
此の様式は完成してをり、小説と同じ様式に則つて、この詩が書かれてをります。

これが、この論考で得た大切な成果の二つ目といふことになります。

この様式の秩序を、安部公房は16歳で成城高校に入つてから考へたものか。私には、さう
は思はれない。「奉天の窓」に満ちたあの満洲帝国の幾何学的なバロック様式の都会は、安
部公房にとつての確かに故郷なのではないでせうか。「奉天の窓」そのものが「空白の論理」
ですから、安部公房はついに一言も此の様式を余白と沈黙の中に置いて、生涯語らなかつた。

先だつての三島由紀夫の読者の世界での事件、即ち三島由紀夫の『花ざかりの森』の原稿の
発見された其の発見者である三島由紀夫研究家西法太郎氏のご教示によれば、安部公房とは
一歳しか年齢の違はぬ三島由紀の、遥子夫人の編んだ蔵書目録のリルケに関する蔵書の名前
は、次のやうになつてをります。

「「神様の話」
谷友幸訳 白水社 S15・10・25

「神について」
大山定一訳 養徳社 S24・10・25

「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」
塩谷太郎訳 昭森社 S16・4・30
もぐら通信
もぐら通信 51
ページ

「最後の人々」
高安国世訳 甲文社 S21/7/15

「ドイノの悲歌」
芳賀檀訳 ぐろりあ・そさえて S15・3・10

「薔薇ーリルケ詩集」
堀辰雄・富士川英郎・山崎栄治暇由紀夫訳 人文書院 S28・11・15

「マルテの手記」
大山定一訳 白水社 S15・2・10

「マルテの手記」
大山定一訳 養徳社 S25・4・5

「リルケ書簡集」
全5巻 矢内原伊作・高安国世・谷友幸・富士川英郎訳 養徳社 S24・12・30∼S2
6・2・1

「若き詩人への手紙」
佐藤晃一訳 地平社 S21/3/25」

三島由紀夫の此の蔵書目録が、当時の文学を愛する少年達の文学的な教養の水準であるとす
ると、同様に安部公房もまた、昭和15年、即ち西暦1940年、満年齢で16歳、数へで
15歳の時に、大山定一訳の『マルテの手記』と(同年2月10日刊)と芳賀檀訳の『ドイ
ノの悲歌』(同年3月10日刊)を買つて読んだであらうといふことです。

成城高等学校への入学は同年の4月でありませうから、年齢の数へ方によらず、いづれにせ
よ、理屈を言へば、これら2冊のリルケは奉天で購入したといふ事になります。いや、しか
し、大陸と日本の間には輸送といふ時差がありますから、やはり東京に来て成城高校に入学
してから、リルケを読んだのだといふ此の推理もまた十分に有り得る事だと思ひます。さて、
4月入学までの2ヶ月の間に此の2冊を読んだかどうかといふ、実に微妙な時機(タイミン
グ)の2冊のリルケの出版です。もし此の時期以前にリルケとの出遭ひがあり得るとしたら、
奉天第二中学校時代に読んだ『世界文学全集』(新潮社版)[ 5]にリルケが入つてゐた
か、それから此の種の文学全集の常で小説ばかりの収録でありませうから、特に『マルテの
手記』が入つてゐたのかどうかといふところを調べて見るといふ事になりませう。

[ 5]
『新潮日本文学アルバム 安部公房』(新潮社)の「略年譜」による。
もぐら通信 ページ 52
もぐら通信

本題に戻ります。

この『秋でした』といふは詩は、全部で6つの連から成つてゐます。と、このやうに此の詩
の構成をみて見ますと、何故安部公房は詩の形式に惹かれたかといふ理由が判ります。それ
は、時系列的な話の筋の連続ではなく、時間を捨象して、空間的な構造的な配列に6つの連
を配置して一つの世界を創造することができるからです。

この詩では第1連で早や失踪が行はれ、最後の第6連で透明感覚の涙が歌はれて、存在に生
きようと決心する一人称たる僕の「救ひに両手を差しのべる/大きな歪んだレンズ」たる当の
僕の姿が印象的に歌はれて終つてをります。このレンズは小説家になつてからの『燃えつきた
地図』のカーブミラーであり、『箱男』の中の写真のカーブミラーといふ、ともに存在の十
字路に立つ超越論的な「既にして」角を曲がる「以前に」(これが安部公房が超越論で考へ
る時の言葉)カーブの向かうが観える鏡であること、即ち安部公房のいふ「投影体」である
ことは、これまで諸処で論じた通りです。

この、安部公房の詩には時間が、形式から言つても存在しないといふ事、この形式に関する
現実的な言語上の実現性に関する信頼が、安部公房が詩といふ形式に強く惹かれた主要な理
由の一つです。

リルケに学んだ、内部と外部の交換によつて生まれる無時間の差異に存在が存在するといふ
超越論的な詩の構造化論理に拠って書かれた詩文を、時間の中で読まれる小説として一体ど
のやうな順序を以つて其の小説形式化を独自に実現するか、これが初期安部公房[註6]の課
題、即ち解答すべき問題、即ち『無名詩集』によつて定立すべき、詩文の世界の必要から答
へるべき問題でありました。何故ならば、小説の世界では、安部公房の数学的な論理能力に
よつて誠に散文的に問題の定立と解決は既に処女作に於いて最初から完成してゐたからです。

これは、この論考で得た大切な成果の三つ目といふことになりませう。

[註6]
初期安部公房の定義は、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2)』(もぐら通信第5
6号)の冒頭で定義した通りですので、この定義をご覧ください。また、『詩人から小説家へ、しかし詩人のま
まに』を次のURLでダンロードすることができます:https://ja.scribd.com/document/343689487/詩人から小
説家へ-しかし詩人のままに-藝術家集団を付記-v8

『無名詩集』によつて定立すべき問題は、『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ
語について(2)』の「3。1 『無名詩集』で安部公房が定立した問題」(もぐら通信第
57号)によれば、次の通りです。
もぐら通信 ページ53
もぐら通信

「(1)詩の世界での問題下降を実現すると云ふ問題
『没我の地平』と云ふ謂はば「概念詩集」または「問題上昇詩集」を問題下降して、(見か
け上)日常の言葉で書かれた、即ち理論篇『詩と詩人(意識と無意識)』で用ゐた哲学用語
を文字として消して、『無名詩集』と云ふ詩集を編むこと。そして、この詩集が下記(3)の
やうに詩文から散文の連続的な移行を実現すること。即ち、詩人のままに小説家になること。

(2)余白と沈黙の中に存在(exist:Sein)して、現実の時間の中を未分化の実存
(existential:Dasein)として生きると云ふ問題
『没我の地平』の「実存ー幼き日」と『無名詩集』の「それ故か」を比較して明らかなやう
に、前者の第三連を後者の第三連では余白と沈黙の中に置いて、大人として現実の時間の中
を存在のままに、即ち時間の中では未分化の実存として生きることの決心といふ問題。通俗
的な世間では、子供から大人になることと云はれてゐることの問題、大人であること即ち沈
黙に堪えて生きること、即ち安部公房の言葉で云へば、消しゴムで書くこと。この問題につ
いては「2。空白の論理といふ毒(詩の毒)」(『安部公房文学の毒について∼安部公房の
読者のための解毒剤∼』もぐら通信第55号の25∼27ページ)を参照下さい。

(3)「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に則つて、転身といふ概念と関連用語一式を
詩文から散文に展開すると云ふ問題
転身といふ概念を、詩文から散文(小説)に移植すること、または移植といふやうに非連続
的に土壌を変へるのではなく、前者から後者へと「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に
則つて、詩文散文の同質を実現して、これを連続的に展開すること。即ち、詩人のままに小
説家になること。

上の3つの問題をもつと簡略にすると、次のやうになります。

(1)詩の世界での問題下降(現実に対するに際しての、詩の世界の統一)
(2)未分化の実存として生きると云ふこと(存在を体現して時間の中を生きること)
(3)詩文散文の連続性を保持すると云ふこと(「シャーマン安部公房の秘儀の式次第」に
則つて、詩人のままに散文家になること)」

この論考の方面か見ても、上の問題定立に関する課題は、上記(3)といふことになります。

これが、この論考で得た大切な成果の四つ目といふことになりませう。
もぐら通信
もぐら通信 54
ページ

リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(2)

∼安部公房のをより深く理解するために∼

岩田英哉
II

UND fast ein Mädchen wars und ging hervor


aus diesem einigen Glück von Sang und Leier
und glänzte klar durch ihre Frühlingsschleier
und machte sich ein Bett in meinem Ohr.

Und schlief in mir. Und alles war ihr Schlaf.


Die Bäume, die ich je bewundert, diese
fühlbare Ferne, die gefühlte Wiese
und jedes Staunen, das mich selbst betraf.

Sie schlief die Welt. Singender Gott, wie hast


du sie vollendet, daß sie nicht begehrte,
erst wach zu sein? Sieh, sie erstand und schlief.

Wo ist ihr Tod? O, wirst du dies Motiv


erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte? ―
Wo sinkt sie hin aus mir?... Ein Mädchen fast...

【散文訳】

そうして、ほとんど娘といっていいある娘がいたのであり、そして、歌と七弦琴のこのいくばく
かの幸せかの中から外へと出てきたのであるが、この娘は、その春のヴェールを通して清らかに
光かがやいており、わたしの耳の中で、自分の寝床をしつらえたのである。

そうして、(その娘は)わたしの中で眠った。そして、すべては彼女の眠りであった。
木々、わたしがいつも驚嘆している木々が、この感じることのできる距離が、感じている草原
が、それから、わたし自身を打った驚きのひとつひとつが。
もぐら通信
もぐら通信 ページ55

娘は、世界を眠った。歌っている神よ、お前はどのようにして、さあ起きよう、目覚めよ
うと願わないように、娘を完成したのだ?見よ、娘は立って、そうして眠っていた。

娘の死は、どこにあるのだ?ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、こ
のモチーフをまだ発明することになるのだろうか? 娘は、わたしの中から外へと出て、
どこに沈んでゆくのだろうか? ほとんど娘であるものが…..

【解釈と鑑賞】

最初のUND、ウント、英語でいうANDの意味はいかなるものであろうか。その次に、fast
ein Mädchen wars、ほとんど娘である娘がいた、とは、これは何をいっているのだろうか。

最初のそうしてとは、昔々あるところにお爺さんとお婆さんがいましたというときの、
once upon a timeであろうか。ほとんど強引に、リルケのこの詩の語り手は、Undといっ
てから、突然、今度は、前のソネットとは脈絡なく(ここまで時系列で読んでくるとそう
思われるが)、この、ある娘を登場させる。この娘もしかし、ある娘ではあるが、しかし
ほとんど娘である、ある娘なのである。これは一体いかならむというのがわたしの問いで
ある。

上の原詩の引用の3行目に、ihre Frühlingsschleier、彼女の春のヴェールとあるので、この
女性によって春を暗示してもいることから、この女性は、子供から少女へ、乙女といって
よい年齢の女性をいっていると思われる。性未分化の子供から、女性という性へと分化し
た人間の、ある年齢の女性ということではないだろうか。この彼女の春のヴェールを通じ
て、この娘は光かがやいているのであるが、その輝きようは、klar、クラール、清澄だといっ
ている。これは、動物たちの棲む森と同じ形容であるから、この娘は、どこか、なにかし
ら、森の動物たちのように、沈黙、静けさ、静寂に関係しているのではないかと考えるこ
とができるし、実際に、そうである。とりあえず、まづこの第1連を散文訳すると、

そうして、ほとんど娘といっていいある娘がいたのであり、そして、歌と七弦琴のこのい
くばくかの幸せかの中から外へと出てきたのであるが、この娘は、その春のヴェールを通
して清らかに光かがやいており、わたしの耳の中で、自分の寝床をしつらえたのである。

ということになるだろう。

リルケというひとは、わたしの悲歌の論の中でも論じたように、言葉を空間と考えている
ので、いやもっと正確にいうと、言葉の意味するところをひとつの空間と考えているので、
もぐら通信
もぐら通信 56
ページ

耳の中でも、何事でも起こるといった塩梅なのだ。ここでは、多分美しいと思しき女性が、
自分のための寝床をこしらえて、寝てしまうのだ。わたしも、こういう語り手になりたい。

ところで、このうらやましい語り手とは、いかなる者であろうか。リルケではなく、オル
フェウスではない。リルケの詩の中に登場する、リルケがこのソネットを歌い始めるやす
ぐ間髪を入れず登場する語り手である。これに名前をつけることがむつかしい。しかし、
どの民族のどの言語であっても、この語り手が同じように登場するのは、何故であろうか。

これは、よくよく考えるべきことであると、わたしは思う。

II-2連から4連

残りの2連から4連を読んでみる。各連づつ、散文訳をつけてみる。

Und schlief in mir. Und alles war ihr Schlaf.


Die Bäume, die ich je bewundert, diese
fühlbare Ferne, die gefühlte Wiese
und jedes Staunen, das mich selbst betraf.

そうして、(その娘は)わたしの中で眠った。そして、すべては彼女の眠りであった。
木々、わたしがいつも驚嘆している木々が、この感じることのできる距離が、感じている
草原が、それから、わたし自身を打った驚きのひとつひとつが。

Sie schlief die Welt. Singender Gott, wie hast


du sie vollendet, daß sie nicht begehrte,
erst wach zu sein? Sieh, sie erstand und schlief.

娘は、世界を眠った。歌っている神よ、お前はどのようにして、さあ起きよう、目覚めよ
うと願わないように、娘を完成したのだ?見よ、娘は立って、そうして眠っていた。

Wo ist ihr Tod? O, wirst du dies Motiv


erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte? ―
Wo sinkt sie hin aus mir?... Ein Mädchen fast...

娘の死は、どこにあるのだ?ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、こ
のモチーフをまだ発明することになるのだろうか? 娘は、わたしの中から外へと出て、
どこに沈んでゆくのだろうか? ほとんど娘であるものが……
もぐら通信
もぐら通信 57
ページ

2連から見てみよう。この語り手の中に娘が眠っている。すべては娘の眠りだったという文
をドイツ語では書けるのだ。日本語で書いても、やはり同様に意味があるのだろうか。こ
の意味は、解釈すると、娘が世界を夢見るという文ならわかるが、世界を眠るというので
あるから、娘が世界を眠らせたという意味なのか、そうして眠らせた結果世界が眠ってい
るのか、実はよく、うまく言えない。しかし、この文は何か深いことをいっているように
思うのだが。

木々や距離や草原の例を列挙していることから感じ考えると、世界は娘の眠りであるとは、
わたしたちの廻りに現実に存在するものがすべて、眠りそのものからなっているという意
味に解釈することができる。娘が眠っているから(夢ではない)、ものとして存在してい
る、眠りであるものたち。

娘は世界を眠っている。神が娘をこのように眠らせていることがわかる。しかも、立って
眠っていたとは。

時間、時制、tenseの話をすると、2連と3連の時間は、過去である。過去の事実として語り
手は述べている。

4連に来ると、時間は、現在形に戻る。と、こう考えて来ると、語り手は、時間の中を自由
に行ったり来たりして話しをしているようだ、いや歌っているようだ。

4連目でわからないのは、語り手であるわたしの中から娘が出て行くと、沈んでいくという
ことである。何故沈んでいくのだろうか。この問いの答えは、また後のソネットの中に出
てくるのであろうか。

そうして、やはり、最後にも出てくる、ほとんど娘である娘という表現、これは何を言い
たいのかということである。上では、性の分化した後の乙女に近づけて読んだが、あるい
は逆に少女、子供としての女の子に近づけで読むべきなのだろうか。どちらの解釈もあり
得るだろう。リルケは何を言いたいのか。

それから、文法的なことを言えば、娘というドイツ語、Mädchen、メートヘェンは、中性
名詞であるのにもかかわらず、リルケは、それを彼女、sie、ズィーで受けているというこ
とである。中性名詞ならば、es、それが、で受けたり、所有代名詞ならば、sein、彼の、
で受けるのではないかと思うが。こういうことがあるのだという例であろうか。

それから、もうひとつ、文法的におもしろいのは、3連の

O, wirst du dies Motiv


erfinden noch, eh sich dein Lied verzehrte?
もぐら通信
もぐら通信 ページ 58

ああ、お前は、お前の歌がみづからを食い尽くさぬ前に、このモチーフをまだ発明するこ
とになるのだろうか?

というところである。従属文の動詞が過去形で、主文の動詞が未来形(あるいは現在形)
になるのだろうかということである。これは、書いていく順序が前から書いていくわけで
あるから、意識がそのように動く、変化するということなのであろう。わたしたちが日本
語で書いていても、ありそうである。

【安部公房の読者のためのコメント】

この連から読み取ることのできる、安部公房に通ずる名前、動機(モチーフ)、主題、形
象には、次のやうなものがあります。

(1)ほとんど娘といっていいある娘:私が「偏奇の少女」と呼ぶ女の子。つまり性が未
分化で、少し知恵の足りないやうな女の子。『終りし道の標べに』の料理人の娘、『他人
の顔』のアパートの管理人の娘、『密会』の溶骨症の少女、『カンガルー・ノート』の垂
れ目の少女。
(2)見よ、娘は立って、そうして眠っていた。:意識と無意識、現実と夢の境域に生き
ること。シャーマン(霊媒)のあり方。『詩と詩人(意識と無意識)』。エッセイ集『笑
う月』
(3)娘の死は、どこにあるのだ?(略) 娘は、わたしの中から外へと出て、どこに沈
んでゆくのだろうか? :問題下降と没落。詩人の中にゐる「僕の中の「僕」」の後者の
娘である「僕」。『問題下降に依る肯定の批判』『詩と詩人(意識と無意識)』
もぐら通信

もぐら通信 59
ページ

連載物・単発物次回以降予定一覧

(1)安部淺吉のエッセイ
(2)もぐら感覚23:概念の古塔と問題下降
(3)存在の中での師、石川淳
(4)安部公房と成城高等学校(連載第8回):成城高等学校の教授たち
(5)存在とは何か∼安部公房をより良く理解するために∼(連載第5回):安部公房
の汎神論的存在論
(6)安部公房文学サーカス論
(7)リルケの『形象詩集』を読む(連載第15回):『殉教の女たち』
(8)奉天の窓から日本の文化を眺める(6):折り紙
(9)言葉の眼11
(10)安部公房の読者のための村上春樹論(下)
(11)安部公房と寺山修司を論ずるための素描(4)
(12)安部公房の作品論(作品別の論考)
(13)安部公房のエッセイを読む(1)
(14)安部公房の生け花論
(15)奉天の窓から葛飾北斎の絵を眺める
(16)安部公房の象徴学:「新象徴主義哲学」(「再帰哲学」)入門
(17)安部公房の論理学∼冒頭共有と結末共有の論理について∼
(18)バロックとは何か∼安部公房をより良くより深く理解するために∼
(19)詩集『没我の地平』と詩集『無名詩集』∼安部公房の定立した問題とは何か∼
(20)安部公房の詩を読む
(21)「問題下降」論と新象徴主義哲学
(22)安部公房の書簡を読む
(23)安部公房の食卓
(24)安部公房の存在の部屋とライプニッツのモナド論:窓のある部屋と窓のない部

(25)安部公房の女性の読者のための超越論
(26)安部公房全集未収録作品(1)
(27)安部公房と本居宣長の言語機能論
(28)安部公房と源氏物語の物語論:仮説設定の文学
(29)安部公房と近松門左衛門:安部公房と浄瑠璃の道行き
(30)安部公房と古代の神々:伊弉冊伊弉諾の神と大国主命
もぐら通信

もぐら通信 ページ 60
(31)安部公房と世阿弥の演技論:ニュートラルといふ概念と『花鏡』の演技論
(32)リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む
(33)言語の再帰性とは何か∼安部公房をよりよく理解するために∼
(34)安部公房のハイデッガー理解はどのやうなものか
(35)安部公房のニーチェ理解はどのやうなものか
(36)安部公房のマルクス主義理解はどのやうなものか
(37)『さまざまな父』論∼何故父は「さまざま」なのか∼
(38)『箱男』論 II
(39)安部公房の超越論で禅の公案集『無門関』を解く
(40)語学が苦手だと自称し公言する安部公房が何故わざわざ翻訳したのか?:『写
真屋と哲学者』と『ダム・ウエィター』
(41)安部公房がリルケに学んだ「空白の論理」の日本語と日本文化上の意義につい
て:大国主命や源氏物語の雲隠の巻または隠れるといふことについて
(42)安部公房の超越論
(43)安部公房とバロック哲学
①安部公房とデカルト
②安部公房とライプニッツ:汎神論的存在論の日欧比較論
③安部公房とジャック・デリダ:郵便的(postal)意思疎通と差異
④安部公房とジル・ドゥルーズ:襞といふ差異
(44)安部公房と高橋虫麻呂
もぐら通信
もぐら通信 ページ61
【編集後記】

●来月の第57号(5月号)を前月の今月に来月の号として前月の今月に出すとい
ふ、今回の号はもぐら通信も超越論的な「明日の新聞」ならぬ「明日の月刊誌」
になりました。今月はもぐら通信は来月号を(来月から見たら過去の)今月に出
します。といふのは、できてしまつたから。今回はもぐら通信も世界の果てにあつ
て、昨日である明日である今日に配達されますので、あなたも読みながら斯くして
世界の果てにゐるのです。『密会』の主人公の最後の言葉でいへば、「いくら認め
ないつもりでも、明日の新聞に先を越され、ぼくは明日という過去の中で、なんど
も確実に死に続ける」あなただといふことなのです。溶骨症の少女を抱きしめなが
ら。
●『安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(2)』と『処女
作『(霊媒の話より)題未定』と最後の小説『カンガルー・ノート』の結末継承
と作品継承について』を書きながら、今回も新しい発見が幾つもありました。お
楽しみください。
●「リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む」は地味な仕事ですが、何故な
らば今はドイツ文学も廃(すた)れ、誰もリルケなど世の人は読まなくなりまし
たから、しかし、この詩篇の訳と註は地味ながらも、安部公房の読者であるあな
たの人生に益するところがある筈だと信じでゐます。小説から入つた読者に、安部
公房の最も読み耽つて誰にも語らなかつた詩に少しでも触れてもらひたい。さうし
て、安部公房といふ人間と其の目には見えない「転身」の人生を理解してもらひた
い。
●ではまた来月

差出人:
贋安部公房 次号の原稿締切は5月26
〒 1 8 2 -0 0 日(金)です。
03東京都
調布
市若葉町「
閉ざされた
無 次号の予告
限」 1。安部淺吉のエッセイ
2。安部公房の初期作品に頻出する「転身」といふ語について(3)
3。『デンドロカカリヤ』の中の花田清輝
4。「安部公房の写真」とは何か
5。リルケの『オルフェウスへのソネット』を読む(3)
6。言葉の眼11
7。その他のご寄稿と記事
もぐら通信
もぐら通信 62
ページ

【本誌の主な献呈送付先】 3.もぐら通信は、安部公房に関する新しい知
見の発見に努め、それを広く紹介し、その共有
本誌の趣旨を広く各界にご理解いただくため を喜びとするものです。
に、 安部公房縁りの方、有識者の方などに僭
越ながら 本誌をお届けしました。ご高覧いた 4.編集子自身が楽しんで、遊び心を以て、も
だけるとありがたく存じます。(順不同) ぐら通信の編集及び発行を行うものです。

安部ねり様、渡辺三子様、近藤一弥様、池田龍 【前号の訂正箇所】
雄様、ドナルド・キーン様、中田耕治様、宮西 もぐら通信第56号(第三版)の訂正。『安部公房
忠正様(新潮社)、北川幹雄様、冨澤祥郎様(新 の初期作品に頻出する「転身」といふ語について
潮社)、三浦雅士様、加藤弘一様、平野啓一郎 (1)∼安部公房をより深く理解するために∼』中
様、巽孝之様、鳥羽耕史様、友田義行様、内藤 に次の二つの訂正あり。

由直様、番場寛様、田中裕之様、中野和典様、
P35:
坂堅太様、ヤマザキマリ様、小島秀夫様、頭木
訂正前:
弘樹様、 高旗浩志様、島田雅彦様、円城塔様、
最後の呪文「オタスケ オタスケ オタスケヨ
藤沢美由紀様(毎日新聞社)、赤田康和様(朝 オネガイダカラ タスケテヨ」)
日新聞社)、富田武子様(岩波書店)、待田晋
哉様(読売新聞社)その他の方々 訂正後:
最後の呪文「(オタスケ オタスケ オタスケヨ
【もぐら通信の収蔵機関】 オネガイダカラ タスケテヨ)」

P39:
国立国会図書館 、日本近代文学館、
訂正前:
コロンビア大学東アジア図書館、「何處 「二つの『デンドロカカリヤ』に実際の詩集の名前
にも無い圖書館」 として2度出て来る以上」

【もぐら通信の編集方針】 訂正後:
「二つの『デンドロカカリヤ』に実際に2度の同じ
詩行の引用がある以上」
1.もぐら通信は、安部公房ファンの参集と交
歓の場を提供し、その手助けや下働きをするこ
とを通して、そこに喜びを見出すものです。

2.もぐら通信は、安部公房という人間とその
思想及びその作品の意義と価値を広く知っても
らうように努め、その共有を喜びとするもので
す。

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